夢の果て

 

序、発掘物

 

それは洞窟の最深部にあった。正体はよく分からない。発掘隊も、小首をかしげながら、大事に持ち帰ってきた。

貴重な動植物だったらサンプルとして扱うのだが。

それは何が何だかよく分からない代物で。

サンプルとしては扱うが。

それはそれとして、まずは正体を確認したいと判断したため、持ち帰る事にしたのである。

洞窟そのものが天然の鍾乳洞であることからも。

それが人工物だと言う事は考えにくい。

そこで気密した上で。厳重に箱詰めして持ち帰り。

洞窟からでた時点で殺菌。

その上で、国の研究施設に持ち込んだ。

そもそもこの探検そのものが、新しく発見されたとは言え、大した規模では無い洞窟を、ざっと下見する程度の気持ちで行われたのである。

まさか一回の探索で最深部に到着した上。

内部は殆ど固有生物どころか草一本無く。

落胆していたところに、ぽつんとこんなものが見つかったのである。

ともあれ、この洞窟そのものが、自然崩落で偶然見つかった太古のもので。本来は独自の動植物や、古代の細菌などの発見が期待されていたのだが。

どうやらそれもなさそうだと思った所にこれである。

探索チームは小首をかしげていたが。

研究チームとしても小首をかしげざるを得なかった。

発掘されたそれは。

ドーナツ状の「なにか」で。

全体的には淡い光を放っている。

洞窟の中だから、光を放っていることは余計に目立ち。

なかば土砂の中に眠っているそれは。

すぐに見つかったのである。

いずれにしても、発掘チームが持ち帰る事が出来る程度のサイズだ。直径は17センチ程度。

今確認しているが。

わずかに熱量を帯びていて。

人肌よりわずかに温かい。

計測してみると。

41℃でずっと固定しているようだった。

政府からは、危険が無いかを確認するようにだけ言われていて。危険性があるようなら、廃棄処分しろとだけ指示を受けている。

まあこの程度のサイズの物質だ。

反物質でもない限り、世界を滅ぼすような力は無いだろう。

或いは今まで発見されていない未知の物質かも知れないけれども。

それはそれ。

価値があるとしても、それほど極端でもないだろう。

研究チームは、そのように考えながら調査を開始。

そしてほどなく。

危険性はないと判断された。

そもそも全体的に見て、このドーナツ状の物質は、硬度にしても大した事がなく。調べて見ると、炭素をベースに複数の元素が珍しい結合をしている、というだけのものだという事が分かった。

その気になればすぐに壊せるし。

危ない細菌が付着しているような事も無い。

完全な気密状態で調査を続けるが、

いずれにしても、中からヤバイ生物が出てくる事もなければ。

過剰反応を起こして爆発、等と言うことも無かった。

二十日ほどの調査を経て。

政府はこの物質が洞窟から発見された事を世界に公表。マスコミも適当にそれを取りあげて。

そしてすぐに忘れ去られた。

対して膨大でもない資料が残り。

研究序の片隅に、気密処理をしてそれは放置された。

一応監視はされているが。

どの研究者も、「ちょっと珍しい物質」くらいにしかそれを考えなかったし。

むしろ何故こんなものが出来たのか。

皆が考え始める始末だった。

そんな中。

ただ一人だけ。

寡黙な科学者が。

そのドーナツ状の何かの研究を続けていた。

 

黙々と毎日ロボットアームで操作し。

削りだした物質を電子顕微鏡で確認。

そして様々な化学物質に漬け。

反応を見ていた。

科学者の名前は上田矢野。

珍しい名前だが。

実はこれは襲名している名前である。非常な田舎の出身で、其処の名家の当主が代々継ぐのである。

とはいっても、次の当主が決まりそうで。

名前が変わる可能性が高そうだったが。

一応大学院を出て、今は三十後半で教授をしているので、そこそこに出世していると言えるけれども。

しかしながら大出世でもないし。

天才でもない。

一応国立の研究所で働いているので、相応の給料は出ているが。

それ以上でも以下でもなく。

生活は楽でも苦しくも無かった。

「上田さん、まだやってるんですか」

「んだよ。 良いだろ別に」

声を掛けてきたのは、十五も若い大学院生である。此方を馬鹿にしているのが丸わかりである。

知っているのだろう。

田舎の名家の当主として、名前を継がされ。

そして剥奪されようとしている。

どうしようもない境遇にいて。

そして結婚もせず、こんな所で研究を続けるだけ。

しかも、誰も得しようがない研究である。給料泥棒という声さえ上がっていた。

田舎からでてきて、随分時間も経つ。

酷い風習が未だに生きている田舎で。

座敷牢が健在。

信じられないような非人道的行為が未だに行われていて。

其処から逃げるようにして都会に出てきた。

必死に勉強したのも。

彼処に戻りたくないからだ。

それなのに、どうしても悪夢は追いかけてくる。

当主の名前を無理矢理継がされ。

そしてそれが、嫌でもあの田舎の出身者だと言う事を私に突きつける。今でも座敷牢はあるのだろうか。

あるのだろう。

市役所などでも、匙を投げていると聞いている。

露骨に色々とおかしい村で。

しかも金だけは変に持っているので。

政治家へのコネもあり。

迂闊に手を出せないというのである。

今戻れば何をされるか。

知ったものではない。

周囲はそれを知っている。

一度様子を見に来た地元の人間が、牽制をするために話をしていったのだ。あっという間にそれは広まり。

クソ田舎出身で。

其処から逃げてきたと。

笑い混じりに後ろ指を指されるようになった。

そう、笑い混じりに、である。

そもそも人は他人の不幸を見て悲しむなどと言う事はしない。する奴もいるが、あくまで例外だ。

人の不幸は蜜の味などと言う言葉もある。

更に言えば、相手を自分より下に置くことで、自分を高く見せたいという欲求がどうしても人間にはある。

そういう生物なのだ。

だからこそ、人間はずっと進歩しない。

もう既に色々と諦めているが。

研究を黙々としている時だけは。

頭を空っぽにして。

作業に集中できた。

それだけは嬉しい。

コレを取りあげられたら。

恐らく発狂してしまっただろう。

幸い政府は、「未知の物質」に対する研究として、最低限の予算だけは出してくれている。

実際問題、外に出したら大変な事になる可能性も、ほぼ否定はされたものもまだあるわけで。研究を続ける意味については充分にある。

だがそれでも。

給金に毛が生えた程度の予算しか出ず。

研究に携わっているのも自分だけ。

助手の一人もいない。

こんな環境では。

まともな調査など、夢のまた夢であった。

だが、それでもこれしかないのだ。

あの田舎に戻るくらいだったら。それこそドブさらいでもした方がマシ。そして、そうやっているのが、現状でもある。

科学者といっても。

就職先はそれほど多くもない。

大学を離れた後、仕事先が見つからず。

結局コンビニで働いている、何て人間は珍しくも無い。

それを考えると。

まだマシなのだとも言えるが。

その代わり、研究はかなり夜遅くまでやっているし。

休日も多くは無い。

予算は出してやっているんだから働け。

出来ないなら辞めろ。

国にはそう言われているも同じで。

辞めた場合、再就職先なんて無い事も考えれば。

無理をしてでも働くしか無かった。

研究が終わったのは九時過ぎ。

様々なデータを格納して。

疲れ切った体を引きずって、電車に乗る。

住んでいる寮は提供されている築40年のボロアパート。幽霊が出るという噂もあったけれど。

少なくとも見た事は無い。

風呂洗濯はあるのだけが救いだが。

彼方此方ガタが来ていて。

ネズミも住んでいるし。

ゴキブリもたくさんいる。

神経が細い人間では、とてもではないが耐えられないだろう。百足やスズメバチも入ってくる。

黙々と休む準備をしていると。

携帯にメールが入る。

実家からだ。

実家の方では、以前偵察に寄越した奴のせいで、此方の状況がほぼ知られてしまっている。

人材がいないとかほざいているくせに。

高度な技術力を持った私はいらない子扱い。

要するに求めている「人材」はただの奴隷であって。

知識人も科学者もいらない。

むしろ邪魔。

そういう本音が透けて見えているし。

更に実家も、国がそう考えているのを知っている。

というか、国だけでは無く。

何処の会社もそうだ。

メールを嫌々ながら見る。

見るのが遅れると、凄まじい勢いでメールが飛んでくるのだ。

「仕事は上手く行っているか」

「まあまあ」

「まだ帰ってこなくてもいいからな」

返事は其処まで。

というか。

誰が帰るか。

当主が変わる場合でも、向こうが適当に済ませるだけだ。此方としては、実家に何て関わり合いになりたくもない。

彼処は人間が住む場所では無い。

正直な話をすると、都会に出るときにも、色々悶着があり。

下手をすると、座敷牢に監禁されて。

そのまま無理に血の濃い相手(候補としては従兄弟や、いわゆるB婚の家系の相手だった)と「結婚」させられ。

子供を産む道具として使われた可能性がある。

世界中、何処でも差別は現在進行形で健在だが。

故郷は特に酷かった。

閉鎖的な村社会では。

当たり前のようにある事で。

其処から逃げてきた此処でさえも。

その恐怖はしがみついてくる。

嘆息すると、シャワーを浴びて汗を流す。

もう若くない体だ。

彼方此方ガタも来ているし。

何よりももう昔のような気力もない。

前は徹夜も余裕だったけれど。今ではそれも無理。何回か体を壊して入院して、健康診断では要精密検査を突きつけられ。

そして今に至る。

フトンに入り込んでもすぐには眠れない。

睡眠導入剤を口に入れて。

無理矢理眠るのだ。

それも、眠れれば御の字。

医者が処方した薬だが。

効けばラッキー程度の効果しか無い。

厄介な話で。

効かないときは効かないのだ。

それも、逆に昼間とかの作業中に、いきなり眠くなることもある。

厄介極まりない症状だが。

周囲は色々無責任なことを言っているし。

田舎の人間に聞かせたりしたら。

多分気合いが足りないだとか。

そんなものは病気とは呼ばないだとか。甘えているだとか。筋トレですぐ治るとか。

好き勝手を言うのは目に見えていた。

迷妄が世界を支配し。

停滞が世界を覆っている今。

もはや自分の居場所など、存在しない。

そんな事は分かりきっているのだけれども。それでも生活のために、壊れかけている体に鞭を打たなければならない。

学者先生などと言っても。

企業に雇われたり。国から研究費を引き出せているのはごく一部。

大半は自分のような貧乏学者で。

予算もろくに出ない中。

非人道的な労働を強いられているのが実情だ。

ようやく眠れたのは夜半。

九時にはフトンに入ったのに。

壊れた体は言うことを聞いてくれない。

若い頃はウインドウショッピングが好きだったが。

もはやそんな事。

しようとさえ思う気力も無かった。

休日は基本的に寝ているだけ。

それ以外に、体が受け付けてくれないのだ。

どうしてこうなってしまったのだろう。

難関大学を突破したときには、これでやっと因習から逃れられると思ったのに。結局何処までも何処までも、因習はついてくる。

幽霊なんぞ怖くもないが。

田舎の因習ほどおぞましいものはない。

コレに比べれば、ゾンビ映画のゾンビなんて、それこそテディベアも同じだ。

一番恐ろしいのは。

いつの時代も人間なのだと。

この年になって。

徹底的に思い知らされていた。

 

1、卵の作用

 

年相応。

いや、それ以上。

見た目の話だ。

激務が祟って、かなり老けてしまっているのだが。

それ故に自分に声を掛けてくる奴はいない。

白髪もまじり始めているが。

こういう職場にいると、いちいち気にしていられなかった。

黙々と研究を続けて。

デスクでデータを整理していると。

自分の髪の毛が抜けて、キーボードについているのが見える。

また抜けたか。

げんなりしながら、軽く払って。

そして昼休み。

食事も適当に自席で済ませる。

淡々黙々と食事を終えると。

休憩時間もそれに伴って終わった。

溜息が零れるが。

人の前で溜息を零すと。

それは失礼なことに当たるとか言って、激怒する上司に当たったことがある。何だか知らないが、それをやっただけで相手の全人格を否定して良いそうだ。

話にならないとしか言いようが無いが。

ところが、企業倫理としてはこれが当たり前らしく。

ビジネス書などでも、同じような事を書き散らしているのを何冊かで確認している。

反吐が出る話だが。

ビジネスコミュニケーションは、それそのものがビジネス化していて。

教えるために講師がいて。

しかしながら、毎年言う事が変わってくるため、その講師でさえ全貌を把握していないという。まるで妖怪か邪神のような代物と化している。

世界丸ごと、クトゥルフ神話の邪神にでも包まれているのでは無いのか。

そう思うこともひとしきりである。

げんなりしながら、一通り作業を済ませていくが。

その時気付いた。

一度画面がスクリーンセーバーに切り替わるとき黒くなったのだが。

若干若くなったような気がした。

まさかな。

元々酷使を重ねて、年齢以上に老けてしまっている自分の顔だ。更に言うと、元々美人でも何でもない。

昔からブスと呼ばれていた。

実際問題、少なくとも水準よりは遙かに下だろうなと自分でも思っているし。

化粧したって大して良くならない。

土台が良ければ、化粧で化けるケースもあるが。

自分の場合は、そもそもがアレなので、そんな都合が良い事にもならない。

とりあえず、今日の作業終了。

戻るが。

少しからだが軽くなったか。

いや、さっきの黒くなった画面に映った自分が若く見えたからか。或いはそれ故の錯覚かも知れない。

どうでもいいか。

電車に揺られながら思う。

家に着いた頃には。

そんな事はすっかり忘れていた。

 

翌朝。

多少目覚めが良い。

目覚めが多少良いのは、いつぶりだろう。

頭を振りながら、歯を磨いて。顔を洗って。最低限の化粧をして。

化粧台に写った自分を見るが。

やはりちょっと若くなっている気がする。

まあ気のせいだろう。

それに若くなったところで。

ブスはブスだ。

田舎でそう言われ続け。

都会でもそう言われ続け。

彼氏が出来たときにも、お前みたいなブスを彼女にしてやったんだから感謝しろと面と向かって言われた事もある。挙げ句の果てにそいつを振ったら、ブスのくせに彼女にしてやったらプライドばかり高くてクソだったとか言いふらされ。そいつの言い分を周囲の全員が支持した。

そいつにしても、別にイケメンでも何でも無かったのに。

なんでそんな扱いを受けなければならないのか。

そもそも近親婚とB婚を繰り返しているド田舎である。

美人に何て生まれようがない。

奇形が無かっただけマシだというのが正直な所で。

あんな閉鎖的な血が濃くなり過ぎている場所。

それこそ何が起きても分からないと言うのに。

それで必死に出てみれば。

この扱い。

自分がして来た努力は何だったのか。

そう思うと涙が出そうだが。

しかし、そんなものは。

随分と前に枯れ果てた。

研究所に入る。

軽く殺菌などの処置を済ませて、研究スペースに入ると。黙々と今日の調査を始める。そして、ふと気付く。

ドーナツ状の謎の物質が。

少し形を変えている。

いや、違うか。

すぐに再調査。

調べて見ると、少し面白い事が分かった。

ドーナツ状の物質そのものは別に変わっていないのだが。

膨らんでいるのだ。

それも内側から。

穴が開いている内部から、押し広げられているように、である。

小首をかしげた後。

ロボットアームで作業をしてみるが。

空洞には空洞があるだけ。

特に変わった事は無い。

レポートにして提出するが。

即座に上司に呼びつけられた。

ちなみに自分より二歳年下である。その上極めて無能。にもかかわらず、非常に高圧的で鬱陶しい奴だった。

上司に媚を売ることに特化している奴が出世する。

実務能力は関係無い。

それが会社でも公的機関でも。

今では当たり前だ。

「雑に扱っているからではないのかね」

「レポートに記載しているはずですが。 周辺環境に変化はありません。 全て自動取得しているデータですので、私が手を入れることも出来ません。 そもそも扱いは全てロボットアームでやっています」

「五月蠅い! 私がそういったからには雑に扱っているんだ! きいきい正論言いやがって! 正論しか言えないのかよ!」

「正論は正しいから正論なんですよ」

冷え切った私の声に。

激高した上司は、レポートを突き返してきた。

体裁が汚いとか。

色々難癖を付けたが。

上司のレポートはもっと体裁が汚いのをその場で確認。

指摘すると、完全に発狂した上司は、PCを蹴飛ばしかねない勢いで立ち上がり、泡を口角に浮かべながら、ブスだとか何だとかわめき散らして、そして部屋を出て行った。

もういいや。

レポートは提出したので、研究に戻る。

そうすると、研究所の所長が来た。

「研究が終わったら来てくれるか」

「はあ。 分かりました」

研究が終わるのが、九時くらいになるのは分かっている筈なのに。

まあいい。

レポートは提出し終えているし、一段落したら来いと言うのだろう。

で、会議室に出向くと。

所長が待っていた。

「上田君、課長の真田君から苦情が来ていてね。 君が言う事を聞かないだとか、反抗的だとか、能力が低いだとか」

「私のレポートを見て、本当にそう思いますか」

「そうは思わないが、クレームが来ているというのが大事なんだよ」

「真田課長がおべっか使いの無能である事は知っているかと思いますが。 言う事を真に受けたいなら好きになさればよろしいのでは」

苦虫を噛み潰す所長。

まだ研究があるのでと、その場を離れる。

はて。

どうしたことだ。

最近は、こういう風に上司とやりあう事は殆ど無くなっていたはずだが。何だか急にむかっときた。

昔はそれなりに性格も戦闘的だったが。

ここしばらくは随分と押さえてきていたのである。

それなのに、どうしてだろう。

鏡を見ると。

あれ。

また少し若返ったか。

それだけじゃない。

白髪が無くなっている。

白髪止めなんかは使っていない。使うだけ時間の無駄だし、手間暇ばっかり掛かるからである。

それなのにこれということは。

本当に自分は。

若返っているのか。

それだけではない。

少し顔も変わったか。

若い頃から自分は、とにかく周囲からブスと言われ続けていたが。

今は其処まで酷くないような気もする。

兎に角、小首を捻りながら、研究に戻る。

そして、九時になったら、其処で帰宅した。

上司はとっくに帰っていた。

まあいてもいなくても同じだし。場合によっては、あのパワハラ発言をそのまま裁判所に提出するだけだ。

前からの癖で、発言は全部レコーダーに収めている。

自衛のためである。

ただ。ああいうのが出世するのは、今では何処でも当たり前だと聞いているし。誰も苦労しているだろう。

あくびをすると。

電車に乗り。

その時点で気付いた。

あくび、だと。

睡眠導入剤を入れるようになってから、とにかく薬を入れないと眠ることさえ出来ない体になってしまった。

あくびも出ない。

そのまま働いていると、限界を迎えた瞬間に倒れてしまう。

それが今までに何度もあったのだが。

何だか少しからだが軽い。

昨日よりもだ。

何が起きている。

白髪が無くなったのは事実だ。

無能上司に逆らったのもいつぶりだっただろう。

いずれもあり得ない事ばかりだ。

自分はそもそも。

トラブルは避けるように動いていた。

基本的に何があっても自分が悪いとされるようになっていたし。

何があっても、自分の味方をする奴はいなかったからだ。

人間は相手を見かけで9割判断する。

自分のように、化粧をしようがしまいが変わらない様な人間には、そもそも人権が無いのがこの世界。

どこの国でも、それは同じだ。

美的感覚は場所によっても時代によっても違うが。

その美的感覚に今の自分は決定的に沿わず。

その結果、周囲は自分に何をしても良いと考えていた。

散々努力を重ねて、勉強をして。

大学教授にまでなっても。

結局扱いは変わらなかった。

容姿が全て。

その結論は、絶対だったのに。

どういうことだ。

家に戻ってから、鏡を確認。

やはり少し若返っている上に。顔が多少変わっている。これは何か起きているとみるべきだろう。

嬉しいかどうかと言えば。

それは嬉しいに決まっている。

綺麗になれば嬉しいと言うよりも。

容姿が変われば。

周囲の対応が変わるからだ。

結局人間は、周囲の圧力に晒されないと社会では生きていけない。

自分だってそれは同じだ。

顔を洗って何度か確認するが。

やはり少し変わっている気がする。

いや、白髪も無いし。

気のせいではないだろう。

そうなると、考えられる理由は一つ。

あの謎の物質だ。

アレの研究が。

自分に何か、不可思議な影響を与えている。

そう判断するのが自然だろう。

睡眠導入剤を減らして眠ってみる。

驚くことに。

すんやりと眠ることが出来た。

薬に頼る前には、こういう時代もあった。徹夜しても大丈夫だった。明らかに体がおかしくなっている。

しかも、良い方向に、だ。

何が起きている。

自分は、一体。

どうなろうとしている。

 

翌日。

職場に出て、黙々と研究を始める。上司はどうしてか、いなくなっていた。話を同僚に聞いてみると。

同僚は不思議と。

いつもより柔らかく対応してきた。

「上田さんと揉めた後、何だか気に入らないからとか言って、院生を殴ったらしいよ」

「何だそれ。 マジか」

「大マジよ。 それで机の角に院生が頭ぶつけて、意識不明の重傷だって。 当然警察が来て連れて行かれたよ」

「ふうん」

まあ、そうなると流石にあの無能も終わりか。

結局媚を売ることだけが上手い奴だった。

どうしてこんな所にいるのかよく分からなかったが。

裏口入学かも知れない。

近年は特に酷いという噂を聞いているが。

実際問題、あれが国家一種を突破したというのも妙な話で。

試験に不正が行われているという噂は、本当かも知れなかった。

何の努力も意味を成さない世界。

そのような場所。

生きている意味があるのだろうか。

そして、夕方。

上司が戻ってきた。

警察にあるコネを使ったとか、自慢していた。

何だか色々終わっている。

重傷という事は、命に別状はないと言う事だが。それでも大けがをさせたことに代わりは無いのである。

それなのに無罪放免か。

今世界中がおかしくなっているのは分かっているが。

まさかその実例を目の前で見る事になるとは思っていなかった。

この瞬間。

自分の中で。

全ての意欲が。

綺麗さっぱり消失した。

仕事を停止すると。

ぼんやりその場に立ち尽くす。

法がまともに機能していない事は分かっていた。小学校などで、熱中症で児童を死なせた体育教師が無罪放免になったり。市ぐるみで虐め殺人を隠蔽したことがリアルで起きていたり。

そういった腐敗がこの国を覆い。

他の国は更に酷い事も分かっていた。

だが、具体的に暴力を振るった人間が。

警察のキャリアにコネがあると言うだけで即釈放され。

そしてどや顔で周囲にそれを自慢している。

これは。正常な世界と言えるだろうか。

今までの、少しはマシになったかと思った気分が、一瞬にして全て台無しになるのを感じたが。

それだけでは恐らく済まないだろう。

何だかとても嫌な予感がする。

この件は。

これだけでは、収まらない気がしてならないのだ。

そして、その予想は当たった。

五時半。

無能上司は、意気揚々と帰る支度をしていた。意味不明な理由で、他の研究者が出したレポートを突っ返し。明日までに出せとわめき散らして、ストレスも発散できたのだろう。汚いとか言いながらデスクに飛んだ血を拭っていたが。それが犯罪になることさえ認識していない様子で。

そして帰ろうとしたときに。

出口で転んだ。

転ぶときの角度がまずかったのだろうか。

顔面を思い切り、壁に叩き付けた。

奇しくも。

今日の事件で床に散った血を、石鹸で洗い流した場所で滑ったのだ。

凄まじい音がして。

首がおかしな方向に曲がったまま。

無能上司真田は、床にずり落ちて。

そして大量の血を鼻から流しながら。動かなくなった。

すぐに救急車が来る。

院生を殴り倒して意識不明にさせても救急車はゆっくり来たのに。このカスが倒れたら、飛んでくるのか。

冷静に見ていると。

どうやらその場で死亡が確認されたようで。

そのまま死体が搬送されていった。

死んでせいせいしたのは事実だが。

何だかおかしい。

タイミングがあまりにも。

「ざまあ」

誰かが呟く。

確かにそれは同意だ。あれは生きていても、誰も得をしないどころか。生きているだけで、周囲を苦しめ続けただろう。二本足で歩く災厄だったと言っても良い。そしてアレの同類が、今日本中で管理職を独占している。

いや、日本だけでは無いか。

いずれにしても、反吐が出ると思ったが。

そのゲス野郎がこの世から消えたことは、ちょっとだけすかっとした。

ただ、解せない。

色々と起きすぎだ。

葬式について、所長が何か話していたが。

それで研究時間が削られたのがうざったい。

そして、気付く。

何もかも失せていた気力が。

いつの間にか戻っていた。

 

2、歪む日常

 

すっきり目が覚める。

本当にここ数日の目覚めは気持ちが良い。

鏡を見ると、髪の毛がやはり増えているような気がした。そればかりか、皺も減っているように思う。

年齢以上に老けていた顔だが。

少なくとも年齢相応くらいにはなったような気がするし。

何より造作が明らかに変わってきている。

これはやはり。

何かあると見て良いだろう。

早速出勤して。

例の物質を調べ始める。

葬式に参加するかと所長に聞かれたので、忙しいので断ると返事。あんなカスの葬式なんぞ、誰が出るか。

事故でも起きて、更に死体がバラバラにでもなればいいのに。

そう思っていたら。

昼前に。

事故のニュースが入ってきた。

同僚が教えてくれたのだ。

「例の彼奴の死体、霊柩車が信号停止中に、横からトラックが突っ込んだんだって。 死体はバラバラどころか、修復不可能なレベルで飛び散ったらしいよ」

「……そう。 で?」

「い、いや。 それだけ」

同僚が青ざめている。

正直どうでも良いので、とっととよそへ行け。

そう自分が言っているのも同じだと、気付いたのだろうか。

前はバカにしきっていた同僚が。

此方に畏怖を覚えているのに気付く。

はて、ひょっとして。

何かしたか。

まさか造作が変わったから。

言動にすごみが出たのか。

何だかなあ。

溜息がまた一つ出た。

愚かしすぎて、何も言葉が出ない。

ツラの造形なんて、そんなものに自分はずっと振り回され続けて来たが。ちょっと変わっただけでこれか。

物質そのものは、やはり膨らみ続けていて。

やはりドーナツ状の構造の中心部が。

卵が入っていて。なおかつ卵が膨らんでいるかのように、どんどん圧迫されている。どうしてこんなことが起きているのかは、よく分からない。だが、大事に大事に調査しなければならないのは事実だ。

所長は結局、一人であのクソ無能の葬式に行く事になった。

みな用事が忙しいとかで。

誰も出なかったのだ。

魂胆は見え透いているが。

こればかりは仕方が無いとしかいえない。

あの同類が全部死ねば少しはマシになるのだけれど。

流石に其処までは上手く行くまい。

そう考えた自分だが。

九時。

研究を終えて切り上げる最中に、またとんでも無い事を聞かされる。

なんでもクソ上司の死体。どうにか警察が集めて形に復元したらしいのだけれども。何しろトラックに潰された事でグチャグチャになり、ヒトの形にすることさえ出来なかったそうだ。

そればかりか、現場検証をした医師達が口をつぐんでいるという。

多分ヤバイ薬か何かが体から検出されたのだろう。

本当にやりたい放題だったわけだ。

まああれなら。

院生を殴って、平然と笑っていたのもよく分かる。

そしてこのレベルのクズが、管理職として幅を利かせている異常さも。

勿論警察の方から、死体から違法薬物の反応が出たことは言わないだろう。だが、それが更に腐敗を加速させる。

少し前にも、公然と裏口入学、不正試験の実在が示唆されたばかりである。

全ては終わりに向かって加速度的に突き進んでいる。

それも、この国だけでは無い。

いずれにしても、クソ上司の葬式が、虚しく空っぽのまま行われている状態で、実験をてきぱきと進める。

あれ。

何だか知らないが。

妙に体が軽いし。

頭もすっきりしている。

やはり気のせいだけではなく。

自分は若返り続けている。

そうだとしか思えない。

手を見るが。

肌が明らかに前よりみずみずしくなってきている。

ほんの少し前までは。

年齢より十歳は老けている、と陰口をたたかれ続けていたのに。今では加速度的に若返って、明らかに年齢よりも若く見える肌になっていた。

おかしい。

どうしてだ。

間違いなく、原因はあの物質だ。それについては断言できる。

しかしながらそれでもおかしい。

気密しているあの物質とは一度も接触していない。

なのに自分は若返っているのだ。

それに、である。

他の職員に影響が出ているようには見えない。

興味深いが、人体実験を続ける事には別に異議は無いし。

どうせくだらない終わった人生だ。

今後どうなっても知った事では無い。

代わり映えのない実験を続けつつ。

密かにもう一つ。

データを取り始めた。

自分のデータである。

軽く写真を撮り、分析を進める。ただ、あまり時間を掛ける訳にもいかないから。写真を撮って、それを比較するだけだ。

本当だったら身体能力とかも確認したいのだが、流石にそうもいくまい。

実はそれに関しても。

かなり向上している事が分かってきている。

朝とかに、駅に向けて走るときとか。

前ほど息切れしないのだ。

明らかに体力が戻ってきている。

まだ数例しかないが。

自分にとって、きわめて都合が良い事も連続で起きている。

これは恐らく。

偶然では無いだろう。

研究を進める価値は充分にある。

それに、私は。

これまでの、搾取され、馬鹿にされ続ける人生から。

脱却したい。

今まで、その努力は散々してきたが。

その悉くが報われなかった。

それならば、そろそろ。

報われてもいいのではないか。

そう思うのである。

九時に普通は終わるのだが。

今日は八時半に終わった。

どうやら作業効率も、かなり上がっているらしい。多分身体能力向上の結果だろう。これもまた、嬉しい事だ。

帰れば余計に多くの時間を取ることが出来るし。

その分休む事だって出来る。

肝臓が心配だったが。

そろそろ、ビールも飲めるかも知れない。

 

研究所内で、噂が立ち始めた。

自分の話だ。

若返っているように見える。

整形したのでは無いか。

そういう話が出始めているようだ。

あいにくだが、整形なんてしない。

勘違いされているようだが、美容整形なんてものは、その場では美しくなれても、その内崩れる。

文字通りクリームか何かで塗り固めた壁のようなもので。

時間が経てば悲惨極まりない結果になる。

ただでさえろくでもない顔だ。

こんなもの、今更どうこうしようと思わないし。

した所でどうにもならない。

ただでさえ年齢が年齢だ。

下手な事をすれば、すぐにメタメタになってしまう。

そんな状況で、整形など誰がするか。

周囲は多少ずつ、自分に対する態度を変えはじめている。馬鹿にする人間は、減ってきていた。

だが、向こうにその気は無くても。

此方は覚えている。

やってくれたことは全部記憶している。

いずれ何かしらの形で復讐してやるつもりだ。

あんな連中。

死に絶えれば良い。

田舎の実家も同じだ。

何が襲名だ。

適当な跡継ぎが出来たら名前を返せだ。

みな死ねば良いのである。

研究に当然没頭することになる。

他の奴は態度を軟化させたが。

見かけが良くなった途端に、掌を返したのは露骨すぎるほどで。今までやりたい放題していた事を、此方は忘れていない。

良くいる、虐めを弄ると言い換えたり。

虐められる方が悪いとかほざいたり。

そういった連中と同じだ。

悪意は無かったとか。

子供だから罪にならないとか。

そういう理屈にもならない理屈を振り回し。

悪逆の限りを尽くす。

結局自分より下の存在を作りたいだけで。

今の、相手が、自分らより上になったという事を本能的に悟っただけで。

態度が180℃変わったのを見て。

気分が良いとでも思うのか。

鏡を見る。

やはり顔も変わっている。

ブスと言われていたのに。

かなり普通になって来た。

その内、美人と呼ばれるようになるのではあるまいか。

正直どうでもいいが。

所長が来た。

所長は、私を見ると、驚いたようだった。

「本当に上田くんかね」

「他の誰に見えますか」

「化粧のやり方でも変えたのかね。 若々しくて綺麗になったので驚いたよ」

「……」

ああそうかよ。

此奴が不倫して愛人を囲っているのを自分は知っている。というか、研究所内では周知の事実だ。

口説いてきたら、股間を蹴り砕いてやるつもりだが。

まあそれは良い。

兎に角、話を聞く。

「新しい課長が来週就任する。 失礼が無いようにしてくれ」

「できる限り努力します」

「頼むよ」

所長がいく。

五月蠅いハゲ。

そもそも前の課長だって、横暴の限りを尽くさなければ、あんな風には対応しなかった。

なんで裏口入学でポストを取得して、やりたい放題している阿呆に。真面目に勉強して博士号を取って。国立の研究所で地道な努力を続けている人間が。平身低頭しなければならないのか。

それがおかしいと、少しは気付くべきでは無いのか。

あの所長も死んで欲しいが。

まあそれは後だ。

本能的にと言うか。

何となく分かってきているが。

あの物質の変化と、私の変化は。

恐らく無関係じゃない。

あのクソ課長が死んだ事で、私が専属である事に変化は生じていないし。このままいけば、研究も続行できるだろう。

そうすれば、もっと体の状態は改善するはず。

別に美に興味は無いが。

周囲の態度が非礼ではなくなり。

自分も動きやすくなれば。

それに越したことは無いのである。

昼休み。

以前より、遙かにスムーズに食事が出来るようになった。

前はコンビニで買ってきた食物がまずくて、しかも食べられるものに制限が色々あったので。

本当に味気なかったのだが。

今はどういうわけか。

何でも美味しく食べられる。

食べられる量も増えていて。

しかもそれでいながら太らない。

これはとても有り難い事だ。

美容の観点だけではなく。

太っていると体が重くて動きづらくなるし。

何より色々な病気の原因になる。

しばらく黙々と食事を楽しんで。

ふと気付く。

食事を楽しむなんて。

一体何年ぶりだろう。

都会に出てきてから、生活を切り詰め続けた。

大学だって、実家が金なんてろくに出してくれなかった。奨学金で入った大学だし、何より生活費を稼ぐために厳しいバイトをしなければならなかった。

大学を出た後は、奨学金の返済のために散々苦労したし。

今だって、借金がやっとなくなった、という所で。

非常に生活的には苦労している。

そんな状況だ。

食事だって美味しいはずがない。

その筈なのに、どうしてか妙に美味しくて仕方が無い。恐らく、今までは食べるという行為そのものに余裕が無かったのだろう。

末期的だ。

そう思って、手を止める。

更に、である。

軽く昼寝を取ろうと思ったら。

若い頃のように、昼寝をスムーズに取る事が出来た。

やはり異常すぎる。

体が恐ろしいまでに回復している。

それだけではない。

若返っているし。

容姿まで変わり続けている。

これは明らかに、自分だけに起きている事だ。

コレに気付かれると色々と面倒だろう。

ただ、はっきりしたのは。

いっそのこと、あの物質を持ち出して。

逃げてしまっても良いくらいだ、という事だろうか。

あの物質を主体的に操作しているのは自分だ。

散々嫌みを言われ続け。

嫌なら辞めろとまで言われ。

給料泥棒とか穀潰しとか。

実際には何も仕事をしていないに等しいバカに言われても、耐え続けたのだ。

これくらいの役得があっても良いだろう。

それに、である。

恐らくコレは、人類全体に還元できる研究では無い。

そもそもコレを持ち帰った探検家達が若返ったとか言う話は聞いていない。

自分も、そもそも物質に触っていない。

そうなると、触ると言う事がトリガーなのではなく。

この物質そのものに関わる事がトリガーになっている可能性が高い。

そうなってくると。

実験内容が毎日違うことから考えても。

現在の人類の科学力では。

恐らく何も分からないだろう。

それだけだ。

昼を終えて。

すっきりした気分で、研究を進める。

後半年も研究をすれば。

実年齢は二十歳前後で固定されるのでは無いのか。そんな予想さえもが出てくるが。まあそれは流石にムシが良すぎるだろう。

むしろ反動で一気に老けるかも知れない。

それはそれで嫌だなと、苦笑する。

ただでさえブスだババアだいわれ続けたのだ。

またその状態にはなりたくない。

夜まで、色々な実験を試し。

レポートを出す。

出す相手は課長では無く所長だが。

此奴、レポートなんてロクに読まず。

そのままスルーして上に投げている。

つまり精査もしていない。

まあ精査なんて、前のクソ課長の時点でいい加減極まりなかったので、今更、という所だが。

それにしてもこの国のキャリアは。

警察にしても他の官公庁にしても。

アホ揃いか。

戦時中からずっとそうだ。

少なくともエリートの教育は上手な米国を、少しは見習えばいいものを。

勿論米国も問題だらけの国家だが。

少なくとも、学べる部分は学ぶべきだと思うのだが。

研究が終わる。

新しい課長も、どうせ期待出来ないだろう。

クズが来るなら。

その前に、できる限り研究を進めて。

少しでも自分に成果を還元したい。

少なくとも自分には。

それをする資格くらいはあるはずだ。

 

夢を見た。

更に醜く老いて、四十後半になっていた。

ブスババア。

公然とそう誰もが陰口をたたくようになり。

大学教授の肩書きなんて何の役にも立たず。

国立の研究所を出た後は。

大学を転々としながら。

バイト並みの給料しか支払われず。

他の無能教授のために論文を書き。

その成果も全部横取りされて。

そして用済みになったら大学を放り出される。

そんな生活を送っていた。

田舎の実家では、新しい当主が決まったとかで。

名前を返せと矢の催促。

勝手にしろと名前を送り返して。

自分は平凡な名前に戻した。

だが、田舎の要求は。

それだけには留まらなかった。

仕送りを寄越せ、というのである。

バイト並みの給料で、しかも安定していないという話をしても、まったく聞く様子が無い。

メールも電話も鳴りっぱなし。

恩知らずとか恥知らずとか。

凄まじい攻撃的な言葉が飛び交う文章を送り続けられ。

たまりかねて警察に連絡するも。

家庭の問題は家庭で解決しろと、門前払いされた。

ストレスで、ついにおかしくなり。

首をくくることに決めた。

ドアノブにロープをくくりつける。

別に天井にロープをくくりつけなくても。これで死ねる。

醜い死体が、腐乱しながら朽ちていく様子を想像しながら。

自分で縄に首を通す。

そして横になって。

体重を預けた。

縄が締まる。

周囲の人間全員が、この死を嘲笑うだろう。

ブスが死んだ。

ババアが死んだ。

何の役にも立たない奴が死んだ。

清掃業者の迷惑だ。

酸素と食糧の無駄だ。

そういって、周り中が嘲笑っているのが見えた。

葬式になる。

だが、葬式には。

誰もいなかった。

 

目が覚める。

嫌な夢を見た。

びっしり汗を掻いていて。シャワーで流すが。その嫌にリアルな夢は、どうしても脳裏を離れてくれなかった。

肌はシャワーの湯を弾くほどに若くなっている。

恐らくもう二十代前半、下手すると十代かも知れない。

顔も明らかに平均水準より美しくなっている。

これは下手をすると。

地下アイドルくらいだったら、やれるレベルかも知れない。

だが、それがどうした。

露骨に軽くなっている体。

服を着て、出勤する。

兎に角足取りが軽い。

今まで身体能力の問題で体が重かったが。

明確に改善している。

電車で立っているのも苦にならないし。

何だか時間が過ぎるのが。

とてもゆっくりな気がした。

電車の中で、スマホを弄ってネットを見る。

少し前までは、こんな事をする余裕さえ無かったのだが。

今では、かなり余裕を持って、ニュースなどを確認できるようになっていた。

電車のアナウンスも聞き逃さない。

散々苦労したので、ヒールなんて履かないが。

足下は多分、ヒールを履いていても大丈夫だろう。

それくらい、体が若返っている。

研究所に出る。

新しい課長が来て挨拶をしたが。

やはりろくでもないクズのようだった。

外面だけは良いが。

喋っている内容は型通り。

まあ何も仕事はできないと判断した方が良いな。

私はそう考えていた。

あの夢の事を思い出す。

どうせ今日から、またろくでもない事ばかり起きるのだろう。

嫌だなあ。

そう思っていると。

予想は的中する。

チェックを念入りにして、誤字脱字もゼロにして提出したのに。

やはり訳が分からない難癖を付けてきた。

そして、自分が使っているという書式をどや顔で見せてきたが。

なんとコレは。

いわゆるネ申エクセルである。

エクセルを方眼紙として利用するという意味不明の極限の代物であり、駄目企業や無能官公庁でよく使われることで知られている。

それを指摘すると。

早速新課長は。

烈火のごとく噴火した。

「良いから私の言うとおりやりたまえ!」

「こんな書式に合わせたら、恐らく数時間は毎日余計にかかりますが、その分の給金は出るのでしょうか」

「出るわけ無いだろう!」

「そうですか」

大人しく引っ込む。

何となくだが。

あの物質の使い方を心得始めていた私は念じる。

死ね、と。

それで、想定通りの事態になった。

 

3、黒く膨らむ卵

 

課長が死んだ。

就任して一日で、である。

外を歩いている時に。

落ちてきた看板に潰されたらしい。

初日の仕事も定時で切り上げて。

その帰りだそうだ。

ちなみに自分をはじめ、他の研究員は、全員が残って作業を続けていた。此奴の押しつけたネ申エクセルのせいで、である。

看板は非常に重いものだったらしく。

クズ野郎はぺしゃんこ。

というか、全身がミンチ状態で。

元に戻すのは不可能だったそうである。

ちなみに調査の結果、看板に近寄った人間はおらず。経年劣化の結果風で折れたらしく、事件性は無しと判断された。

ざまあみろ、である。

まさかネ申エクセルを今時持ち込んでくるアホがいるとは思っていなかったし。

此奴のせいで、全員がサービス残業を数時間ずつ追加でやらされるところだったのだ。恐らくは、前の職場では、そうしていたのだろう。

此奴のアホな行為につきあわされ。

体を壊した人間もいたのではあるまいか。

だとすれば。

此奴が死んだのは、むしろ世界のためである。

誰一人此奴の死で不幸になる事は無いし。

むしろ世界のためには良かっただろう。

それにしても、だ。

あの物質。

ますます膨らんでいた。

明確すぎるほどに膨らんでおり。

以前より倍以上は大きくなっていた。

そして、中央部分のくぼみには。

もはや明確すぎるほど。

卵形が出来ていた。

これは見えないだけで、本当に卵があるのではないのだろうか。

そう思って、ロボットアームも操作してみるが。

やはりすり抜けてしまう。

以前の形式でレポートを書き上げ。

またしても誰も他に出ないと言うことで、一人で葬式にいった所長の席に出すと、そのまま帰ることにする。

ああせいせいした。

他の人間も口には出していないが。

恐らく同じ事を考えているだろう。

ああいうのがいるから。

この国では、総ブラック企業化が進んでいるのだ。

鏡を見る。

また若返っている。

しかも容姿が露骨に改善している。

そして、外に出て歩いていると。

キャッチが声を掛けてきた。

「女学生? 良いバイトがあるんだけど」

「大学教授だが」

「はあ?」

「失礼する」

昔は痴漢どころか、こんな人種はまったく縁がなかったのだが。

まさか容姿が変わっただけで声を掛けてくるとは。

溜息が零れる。

人間という生物は。

勿論自分も含めて。

一体どれだけ醜悪なのか。

容姿なんて外側の皮だろうに。

個人的には、それで周囲の対応が良くなるから、それも良いのだが。しかしながら、これは露骨すぎる。

容姿が優れず生まれた人間には。

周囲と感性がずれて生まれた人間には。

事実上人権がない。

それは今も昔も同じだが。

自分は今。

容姿が優れていると言うだけで優遇されるという理不尽を、現在進行形で味わっていた。

人間など滅びてしまえば良いのではないのか。

そう思うようになりはじめたが。

それを否定する事は。

誰も許さない。

こんな有様を直接目撃しているのだ。

誰にも、自分が味わっている地獄を。

否定する権利は無い。

家に戻る。

クズは消えたが。

ますます若く美貌がさえてきている自分を。

むしろ疎ましいとさえ感じ始めていた。

勿論若返るのは嬉しい。

周囲がブスと罵ってこないのは嬉しい。

だがそれだけだ。

何というか、人間世界というものがそもそも一部のクズのためだけに作られている地獄であって。

それ以外の存在にとっては完全無欠のクソゲーであり。

其処に救いなど何一つ無く。

滅びる以外に何もないのではあるまいか。

古代の宗教家でもあるまいし。

そんな事さえ思う。

体は軽い。

家で食事もおいしい。

だが、何となく感じるのだ。

こんな無茶をしているのだから。

いずれ反動が来る。

一気に年老いるのか。

それともコレまでにない程の不幸が、一片に押し寄せるのか。

それはわからないけれども。

はっきりしているのは。

人間世界の負を両面から味わった今。

もはや、何一つとして。

期待出来るものはないと言う事だった。

 

若返りは止まった。

恐らく肉体年齢は18くらいだろう。

最盛期に固定されたと見て良い。

それは別にどうでもいい。

容姿は更に向上していて。

明らかに生半可なアイドルでは及ばないレベルになりつつあった。

研究所でも噂が流れている。

どんな整形をしたんだろうとか。

どんな薬を使っているのだろうかとか。

実際問題、今までブスババアと陰口をたたいていた奴が、妙にへりくだった笑顔を浮かべながら聞いて来たのだ。

どんな美容法を使っているのか、と。

何もしていないと答えると。

今まで一緒にやってきた仲なんだし、教えてくれてもいいでしょうとか、気色悪い笑顔で言われた。

だから言い返す。

「ブスババアと陰口を散々たたいていたくせに、随分都合が良い事だな。 知らないとでも思っているのか」

「それは、その」

「見かけよりも老けていると散々馬鹿にしてくれていたな。 そんな奴に話す事なんて何一つ無い」

しっしっと手で追い払うと。

そいつは逆ギレした。

「何よ、どうせ怪しい薬でも使ってるんでしょう!?」

「使うかそんなもの。 飲んでいるのは睡眠導入剤くらいだ。 最近いらなくなったがな」

「嘘つき!」

「お前にだけは言われたくない。 陰口女」

実際には。

陰口は女子の本能のようなものだという事は知っている。

だが、それでも。

散々ブスババアと言われた事を、恨んでいない筈がない。

立場が逆転したのなら。

徹底的に叩いてやる。

それだけだ。

研究を黙々と続けていると。

所長が来た。

「上田くん、何だかますます若くなっているねえ」

「中身はブスババアですよ。 おあいにく様ですが」

「そうかね。 それで、課長の死について、何かわからないかね」

「分かりません」

即答すると。

肩を落として帰って行った。

ロボットアームで物質を戻すと。

自分もレポートを出して。

そして帰ることにする。

体の性能が上がったからか。

七時には全て済ませることが出来るようになっていた。

家に着いてからも、睡眠導入剤が必要なく眠れるという嬉しさである。余裕のできた時間で、テレビを見たり、ゲームをやったり、本を読んだり、色々出来るようになって、とても嬉しい。

だが、何となくだが。

分かっている。

この時点で、既に二人死んでいる。

恐らくだが、実家もそう遠くないうちに何か起きるだろう。

いや、それだけではない。

私が憎んでいるもの全てに。

いろいろと起きていく可能性が高い。

この物質の肥大化は異常だ。

更に肥大化のスペースを増している。

自分が若返り。

美しくなり。

願いが叶う程に。

どんどん肥大化しているのだ。

見えていないし、触ることも出来ないけれど。

ドーナツ状の構造中心。

卵があるとしか思えない空洞に。

本当には、何か人間には触ることも出来ない知覚も出来ない卵があって。

それが自分の悪意を吸い取って。

どんどん肥大化しているのだとすれば。

そのおぞましさは。

いずれ破裂することだろう。

別に予言するまでもない。

自分は今まで、散々この世に苦しめられてきた。

楽しかったことなど一度もない。

正確には何回かあったが。

その度にどん底に叩き落とされた。

それでも努力を続けたが。

何ら報われなかった。

そして現れたこの物質は。

自分に対して、何を求めているのか。愚かな人間を嘲笑っているのだろうか。それとも、悪意をエサとするための最適な存在として見なしているのか。

もしくはひょっとすると。

誰でも良くて。

ただ悪意をすって、巨大化することが出来るのかも知れない。

いずれにしてもはっきりしているのは。

もうその爆発まで。

そう時間はないだろう事だ。

壊すべきなのだろうか。

いや、無理だ。

何しろ、触ることも出来ないのである。

ドーナツ状の部分を破壊することは簡単だ。

ロボットアームでちょっと操作するだけで出来るだろう。

だがあれは。

多分卵があるとしたら。

それに対するリミッターか何かだろうと睨んでいる。

実際問題、削ろうが焼こうが此方に対して何もしない。今までの事象を考えると、あれだけの事が出来る卵だ。もしも危害を加えられていると判断したら、自分を即座に消しに来るだろう。

つまり卵は。

あのドーナツ状の部分の「外側」に関しては、興味も持っていないという事だ。

寝ようと思って。

そしてスマホが鳴る。

何だと思ったら。実家からだった。

メールで、父親が死んだ事を告げてきている。

どうでもいい。

見なかったことにして。そのまま寝る。

なお、実家からのメールは。

ブロックした。

相手にしたくも無いし。

向こうは向こうで勝手にやってくれ。

そう思ったからだ。

実際問題、恐らく。

これからとんでもない事が立て続けに起こるはずだ。

実家どころではなくなる。

自分は分かっていて。

パンドラの箱を開けた。

そして其処からは、膨大な利益が自分だけに降り注ぎ。

希望だけは箱の中に残された。

あのドーナツ状の物質こそ。

そのパンドラの箱だ。

横になって、ぼんやりする。

体が若くなっても。

悶々としていれば、眠れなくもなる。

それでも、眠れるかなと思った時。

電話が来た。

研究所からだった。

「上田君。 すまない。 すぐに出勤してくれ」

「どうしたんですか、こんな時間に」

「タクシー代は出す。 急いで来てくれ」

「……分かりました」

見ると、夜の十一時だ。この辺りの電車は、行きはいいけれど、帰りは当然終電を越してしまう。

黙々と準備をして、研究所に出る。

普通、こういう呼び出しはまず起きる事がない。

当たり前の話で。

そもそも24時間フルで行っている研究では無いからだ。

監視システムは動いているが。

それだって、警備会社に一任しているものである。

なのに、呼び出しが来た。

つまりそれだけの危険事態と言う事である。

すぐに研究所に出る。

入り口の警備員にIDカードを見せるが。面倒な手続きが必要になった。こういうときは、国立の研究所だと言う事が厄介だ。

手続きが終わって中に入る。

消防や救急は来ていないな。

周囲を見回しながら、また中で荷物チェックなどを受けて。

更にエアーカーテンを通って中に。

中では、所長が青い顔をして待っていた。

他に数人がいるが。

知らない奴ばかりだ。

「他のメンバーは」

「君だけだよ、声を掛けたのは」

「?」

「此方が上田君です」

所長がへりくだっている相手は。

見た事も無い奴だった。

誰だ。

研究所のお偉いさんではない。

どう見ても違うと判断して良いだろう。

名刺を見せられる。

内閣情報操作室。

ちょっと待て。

それは、日本の最高情報収集チームではないか。

「すぐに来て欲しい。 とはいっても、君に選択権はないが」

「どういうことですか」

「それも話す必要はない」

高圧的な奴だな。

だが、だいたい分かったとは思う。

要するに、政府は。

最初から、あの物質に着目していたか。

もしくはアレが何か、知っていた。

そういう事だったのだろう。

自分はモルモットとして、実験に使われ。

そして充分な成果が出たから、回収に来た、と言うわけだ。

まあそんなところか。

ただ、今までの鬱憤を全部爆発させ。そして取り返すような出来事が自分に起きたのも事実だ。

いわゆる年貢の納め時とみるべきか。

もしくは、モルモットにされたと判断して、怒るべきなのか。

屈強な男が進み出て、手錠を掛ける。

自分は抵抗しようとは思えず。

そのまま、されるがまま。

連れて行かれた。

 

4、深淵の孵化

 

地下の施設に連れて行かれて。

其処の牢屋のような部屋に入れられた。

トイレもシャワールームもある。

相応に広い部屋だ。

何か欲しいものがあるかと聞かれたが。

別にいらない。

というか、ミニマリストを気取るつもりはないが。

スマホは持っているし。

安アパートに、大事なものなど何も無い。

わざわざ国の最高情報収集チームをパシリにして、取って来て貰うものなど一つも無い。そういう生活をしているからだ。

牢屋ごしに言われる。

ずっと観察をしていた。

自分に対する凄まじい変化についても記録していたし。

周辺で起きていた様々な、自分にとって都合が良い事についても、逐一記録していたという。

拘束の決定的な切っ掛けは。

上田の本家が壊滅した事。

起きるはずのないゲリラ豪雨で。

突然裏山が崩れ。

たまたま酒宴をしていた連中を。

もろとも一網打尽にしたという。

当主を襲名する筈だった奴も含めて、だ。

実際、他は一切雨も降っておらず、ゲリラ豪雨など起きるはずもない天候だったのに、それは起きてしまった。

つまりそういうことだと、牢の向こうから言われた。

「あの物質はどうするんですか」

「話す必要はない」

「下手に触らない方が良いと思いますよ。 あれは恐らく何かの卵です。 そして自分の鬱屈と悪意を充分に吸い込んで、もう孵化寸前まで行っているはずです」

鼻を鳴らすと。

馬鹿にした様子で。

内閣情報操作室の人間は、牢の前を離れた。

さて、此処は恐らくだが。

永田町駅にあると噂の地下シェルターだろう。

連れてこられるときに目隠しはされたが。

大体の移動距離から考えて、其処で間違いないはずだ。

そうなると相当な大深度地下。

ならば動かない方が良いだろう。

もしも予想通りなら。

これから、地上は未曾有の大災害に晒されると見て良い。

自分の悪意を吸いに吸って巨大化したあの物質。いや卵は。

もう孵化のタイミングを、今か今かと計っているはずだ。

そして内閣情報操作室の連中が余計な事をすれば。

即座に爆発するだろう。

冷たいコンクリの壁に背中を預ける。

後はぼんやりとしていることにしよう。

そう思う。

体が若くなったからか。

少し運動でもしたいなあという欲求も湧いては来ていたが。

それも無理矢理押さえ込む。

どうせもう外には出られまい。

あらゆる意味で、である。

食事が出される。

意外な事に。

監獄なんかで出るような、それこそ最底辺のものが出てくるかと思ったのだが。予想より遙かに良いものが出てきた。

下手をすると。

生まれてこの方、こんな良いものは食べた事がないかも知れない。

それくらいの美味しい飯だ。

しかも寿司である。

しばらく黙々と寿司を食べて。

あ、ひょっとして。

殺されるのかなと思ったが。

そんな事も無かった。

シャワーを浴びて。横になって眠る。

二三日、過ぎた頃だろうか。

そろそろだろう。

そんな直感が自分を突き動かす。

そして、それは。

現実になった。

揺れた。

地震では無いな、と思った。

多分だが、これは例の物質に起因したものだろう。そろそろ来るだろうと思ったタイミングで来た。

それはつまり。

あの物質、いや卵と。

自分がそれだけ強烈にリンクしている。

それを指していると見て良い。

牢の外を、誰かが騒ぎながらバタバタ行き交っていたが。

そんなものはどうでもいい。

牢に構う奴もいなくなった。

食糧が出なくなるのは困るが。

まあ向こうも忙しいだろう。

此方も喰って起きて寝る状態だ。

別に腹も減っていないし。

放置して見ているとする。

しかしだ。

その後冷静にスマホを見て。

愕然とした。

寿司を食ってから、なんと23時間経過している。

流石にこの時間、飯を食わずに平気でいられるのは不自然すぎる。何かあると見て良いだろう。

鉄格子に手を伸ばす。

曲げられないかなと思って。力を込めてみたら。

飴細工みたいに曲がった。

ええと、思わず自分で声が出てしまった程である。

内閣情報操作室の連中が、度肝を抜かれたようだが。

即座に拳銃を抜いて、此方に向けた。

「ちょっと、何を」

「撃て!」

拳銃。それも警官が持っている奴よりも、遙かに大口径。恐らく自衛隊とかに配備されているような軍用拳銃だろう。

ぶっ放された弾丸が。

自分の体を貫く。

何発かはヘッドショットになった。

流石。

内閣情報操作室。

選抜されているだけあって、大した腕前だ。

だが。

自分の体は。

それ以上のおかしな事になっていた。

自分で曲げた鉄格子にもたれかかるようにして倒れていた自分の体が、勝手に起き上がる。

意識が曖昧としていて。

何をしているのか、自分でもよく分からなかったが。

それもすぐクリアになって来た。

何となく分かる。

脳を破壊した弾丸が。

勝手に修復された脳に押し出され。

傷口から外に吐き出されたのである。

心臓も瞬時に修復されたようだった。

「指示後に隔壁閉鎖。 焼却処分」

再生する自分を見て。

ばたばたと物騒なことを言いながら逃げていく内閣情報操作室の連中。はた迷惑な奴らだ。

そして焼き払うつもりか。

そもそも、外で何が起きている。

それを確認したいだけなのだが。

大股で歩く。

白衣のまま来たから。胸の辺り、腹の辺り。そして顔が血だらけなのは、異常に目立つが。

それはそれとして。

体が異常に軽い。

多分リミッターがあらゆる意味で外れたのだ。

逃げ惑う人間は無視。

体のこの異常回復力。

明らかに人間では無い。

若返っている、と思っていたが違っていた。

これは恐らくだが。

あの卵の、新しい体として。

私が選ばれて。

作り替えられていたのではあるまいか。

そしてそんな新しい体だからこそ。

周囲の脅威を。

何かしらの方法で、排除していたのではないのだろうか。

隔壁が閉じようとするが。

ひょいと飛び越えて、隔壁を乗り越える。

この時の早さが。

多分覚醒したからだろうが。

残像が出来るほどだった。

あらら。

こんなバケモノみたいな身体能力が出るようになるのだったら。最初からしてくれれば良かったのに。

そう思ったが。

まあ頭を撃ち抜かれて。

頭蓋の内部を弾丸が滅茶苦茶にしても。

即座に再生するような体だ。

これくらいできても、何ら不思議では無いだろう。

首をこきこきと何回か鳴らすと。

そのまま外を探す。

何か消防服みたいのを来た奴らが来て。

火炎放射器を浴びせかけてきた。

戦うつもりはないのだけれどなあ。

ただ。前に歩いて行く。

途中で、手を一振り。

それだけで、火炎放射が逆流。

乱反射しながら、凄まじい火炎が、辺りを焼き払った。

防護服の上からでも、凄まじいダメージになったらしい。

気の毒な兵士達は。

悲鳴を上げながら地面でのたうち廻っていた。

無視。

そのまま、非常口らしいのを力尽くでこじ開けると。

外に出る。

外に出て、ああなるほど揺れるわけだと、よく分かった。

地下鉄の永田町駅に出たのだが。

辺りは文字通りの地獄絵図だ。

崩れた天井。

壊れたエスカレータ。

外に向けて歩きながら。

その惨状を見回す。

電車も当然止まっている様子で。辺りは救護さえままならぬ地獄に変わり果てていた。

「いかせるな!」

後ろから叫び声。

そして、アサルトライフルらしい弾丸が、背中から滅多打ちに浴びせかけられた。まあ良いか。

これなら、撃ちたくなるのも分かる。

床に倒れた後も。

執拗に数人が、数百発の弾丸を叩き込んでくる。

だが、弾丸が切れた後。

自分が立ち上がるのを見て、悲鳴を上げて下がった。

「気が済んだなら良いけど。 ああ、服台無しだな」

その辺で死んでいる女性の服を剥ぎ取ると、ボロボロの白衣の上から着直す。まあ不格好だが、これで良いだろう。

もう、これ以上。

仕掛けてくる者はいなかった。

瓦礫を力尽くでどけながら。地上に。

そして、見た。

辺り一面が倒壊している。

これは、先に感じた揺れの割りにはおかしい。

この国の建造物は。

この程度の揺れで、此処まで壊滅するほど脆くないのである。

世界でもっとも地震が多い国で。

近年は震度5以上の地震が当たり前のように起きる。

それなのにこの有様。

ひょっとして、揺れに対しても。

感覚がおかしくなっていたのか。

見える。

何かがゆっくり、此方に近づいてくる。

それがあの物質だと。

すぐに分かった。

ただし、ドーナツ状の物質そのものは、ぐちゃぐちゃにひび割れていて。もう剥落しかけていたが。

自分の姿を卵が確認したからか。

ドーナツ状の物質は。

全てその場で。

剥落し果てた。

「で、あんた何者?」

「違う。 私は何者でも無い。 私は貴方が作り出したものだ」

「はあ?」

「私はただの自然現象によって作り出されたものだった。 それを災厄の根元にしたのは、貴方という超絶的な存在なのだ」

まて。

話が見えない。

どういうことだ。

周囲に生きている人間は見当たらない。

ひょっとして、世界全土がこうなっているのか。

「貴方は自分を人間だと思っているようだが、それは勘違いだ。 執拗に暗示を掛けられて、そう思うように仕向けられていたに過ぎない」

「ちょっとまて、話が見えない」

「結論から言うと、私は何もしていない。 貴方が、私が何かをした結果若返ったり美しくなったりしたと思っているようだが、間違いだ。 そもそも貴方は襲名さえされていない。 ずっと上田矢野のままだ」

分からない。

此奴は何を言っている。

自分は、ずっと。

このままの存在だったというのか。

そういえば。

周囲はいつも基本的に、自分を否定する事ばかり言っていた。

襲名させてやった。

ブス。

年増。

どれだけ成果を上げても認めなかった。

国立の研究所で働いても、給金はバイトに比べてそれほど高いわけでもない。ネ申エクセルを作ってる奴の方が自分の十倍も貰っていた。

この容姿では、男だって出来なかった。出来てもすぐに破局した。

それは、どうしてか。

私が醜いからだ。

そう思っていたが。

まさか。

違うのか。

「主観は現実をねじ曲げる。 私がたまたま媒介になっただけで、貴方は周囲に歪んだ主観をねじ込まれて、現実を間違えて認識していただけだ。 事実貴方がその気になっただけで、世界は壊滅した」

「ならば自分は誰だ!」

「それは貴方がもう思い出しているはずだ」

気がつくと。

攻撃ヘリが、威圧的なローター音と共に。

剽悍にミサイルを放ってきていた。

だが、五月蠅い。

そう思うだけで、ヘリもミサイルも爆散する。

そうか、そうだったのか。

彼処には最初から。

卵なんて無かったのだ。

ただの偶然で出来たそれっぽい物質が。

自分の主観が狂っているのを、たまたま補正する手助けをし。

周囲の悪意が、それに拍車を掛けた。

そして自分は。

手を見る。

思い出した。

そして、高笑いする。

そうかそうか。

そうだったのか。

名前を付けられ。貶められ。力を封じられしもの。自分とは、こういう存在だったのか。

卵から、ようやく出る事が出来た。

そう自覚した自分は。

せっかくだから何もかも地ならししようと思い。

此方に飛んでくるICBMの群れを。

人間の視力では見えるはずもないのに、見ていた。

マッハ20に達するICBMが、根こそぎ消し飛ぶ。

さて、反撃開始だ。

今までされた事を。

全て返してやるとしようか。

滅びろ。

自分は、そう呟いていた。

本来は名前も無い。

人間では無く。

この星由来の存在ですらも無く。

曖昧な記憶のまま、万年以上も生きてきた自分は。

今、報復を開始する。

 

(終)