幸せと不在の合間
序、亡命申請
最近はまったくぐずることもなくなってきたコットンだが。それでも、寝かしつけるまでは、責任を持って見ていなければならなかった。
元々かなり賢い子供のようで、生まれが生まれなら相当ないたずらっ子になっていたかも知れない。
だから、交代で見張りをしている半魚人の戦士の一人。アルマエラレルは、コットンが眠ったのを見て、ため息をついた。
自分たちにとっても。
何より、神々の主である存在でもあるアザトースにとっても、最大の恩人であるスペランカーの養子だ。何かあったら、それこそ申し訳が立たない。
部屋を出て、階段を下りる。
丁度来ていたらしい鼠の警官、マッピーが、敬礼をしてきた。
「おつとめ、お疲れ様であります」
「これは警視総監殿」
「そのような呼び方は堅苦しくて苦手なのであります。 それに警官はまだ百名ほどしかいないので、虚名も良いところなのであります」
感情を持ったAIを搭載したロボットであるマッピーは、とてもまじめで善良な警官として、この出来たばかりの国では強い信頼を集めている。
善人ばかりでは国は回らないことは、誰もが知っているが。
彼のように責任があり、汚職を絶対にしてはならない立場の存在が善良である事は、大きな意味がある。
その気になれば、マッピーは様々な権力を得て、多くの利潤を自分だけに集めることも出来る立場にある。
創設されたばかりの警官隊をまとめるのは、それでは駄目だ。
一応精鋭部隊の所属であるアルマエラレルは彼と何度か話した事があるが。下手な人間よりも、ずっと好感が持てる男だ。
それに誰に対しても敬語で喋るので、雰囲気が優しい。
今回も、警備を見るついでに、スペランカーの家に見回りに来てくれていた。この辺りのフットワークの軽さも、彼の武器の一つだ。
「コットン嬢は、小学校に上がっている年だと聞きましたが」
「そのような制度がよその国にある事は聞いておりますが、まだまだ教師となる人材も、教育の仕組みも整っておりませんし、何より我らと普通の人間には、今だ大きな壁があるのが実情です。 一応、他の子供達と混じって、学問はしているのですが」
「なるほど。 この国はまだ出来たばかりで若々しい反面、何もかもが整っていないという面もあるのでありますな」
人間と、邪神が作った奉仕種族。
スペランカーという例外的に優秀で慈悲のある存在が今は上にいるからいい。だが、それがなくなったら、どうなるのだろう。
今でさえ、アトランティスに来る人間は、増え続けている。
その中には犯罪を目的としてきている者や、一山当てて好き勝手をすることをもくろむ輩もいる。
凶悪な武装勢力が入り込もうとしたこともある。この国の中枢を乗っ取ることで、好き勝手にしようとしたのだ。
マッピーがこの間先頭になって摘発した集団は、この国に麻薬を持ち込もうとしていた。
一網打尽に逮捕できたのは、奉仕種族達の魔術師が、マッピーと、配下である警官隊と綺麗な連携が取れたから。
だが、魔術師達も。スペランカーが協力するようにと言わなければ。人間の警官隊と、積極的に協力しようなどとはしないだろう。
今の時点で、脅威は撃退できている。
この国には優れたフィールド探索者も多数いる。スペランカーが桁外れの人徳の持ち主であり、彼女を慕って集まってきた者も少なくない。
軍も新興国にしては強力だ。
半魚人だけではなく、ミイラや骸骨の戦士達も、皆強い。最近は、他の奉仕種族も、此処で暮らしたいと集まってきている。今まで重異形化フィールドや地底などで、独自の進化を遂げてきた種族も少なくない。
彼らは魔術が使えることも多い。
それに加えて、優れたフィールド探索者だ。彼らは下手をすると単独で一個師団に匹敵する戦力になる。生半可な武装勢力くらいでは、この国は落とせない。
だが、人間は、伝承に残る悪魔などよりも。現実にこの星を襲い続けた異星の邪神達よりも。遙かに凶悪だ。
今後も、油断など出来る暇は無いだろう。
不意に、マッピーの携帯が鳴る。
ロボットである彼は電波受信くらい出来るのだろうが、部下に併せて、わざわざ携帯を使っているらしいのだ。
マッピーが話している。会話はかなり長い。
嫌な予感がしたアルマエラレルだが。それはすぐに現実のものとなった。
コートを羽織るマッピー。
「申し訳ないのですが、すぐに出るのであります」
「何か大事ですか。 何なら、我らの精鋭にも声を掛けますが」
「いえ、武力が必要な案件ではないのであります。 むしろ法律の専門家が必要なのであります」
法については、コンピュータを内蔵しているマッピーは強いはずだが。
しかし、マッピーは付け加えてくれる。
「人間の世界では、法は解釈が重要なのであります。 本官は知識はあっても、人間らしい解釈というものが、苦手なのであります」
「わかりました。 それならば、顧問弁護士に連絡を取っておきましょう。 しかし、何があったのです」
「亡命申請だそうです」
「はあ?」
いずれにしても、アルマエラレルは此処に残るしかない。交代の監視チームが来るまで、まだ時間がある。
スペランカーはこの国の事実上の統治者であり、コットンは人質にする価値がある存在。である以上、護衛は必ず付けなければならないのだ。
家の中にいる骸骨の戦士と、外にいるミイラの戦士三名に、声を掛けておく。
あくまで、念のためだ。
「警戒レベルを一つあげろ。 防御結界も一応精度を上げておこう」
「わかりました」
ミイラの一人が虚空に円を描くと、神殿の側に立つ家の周囲が、淡い力のフィールドで包まれた。
これで、ロケットランチャーくらいではびくともしない。
隣にある神殿から、話を聞きつけたらしい護衛が来る。ギリシャ時代の神殿に近いが、中に祀られているのは、アザトースが産み出し、この星に来た邪神達。多くがスペランカーに敗れ。生き残った者は屈した。何よりアザトースが此処でスペランカーの庇護を受けている。邪神達は、もう人間に対して、害をなせない。アザトースがそう命じているのだから。
神殿でも、警戒レベルが上がった。
とはいっても、辺りは元々、放たれている攻勢生物の巣。彼らに襲われると石になってしまう事もあり、生半可な戦力では近づけない。それでも、万が一に備えるのが、アルマエラレルの仕事だ。
マッピーは準備を終えて、家の外に出てきた。既に妻にも、連絡を終えたようだった。この様子だと、今夜は徹夜になるだろう。責任がある立場とは言え、気の毒な話だ。ロボットだから、多少の身体負荷は問題にしないだろうけれど。
「それでは、港まで行くのであります。 警備隊に話を聞いて、それから場合によっては増援を頼むのであります」
「此方も、顧問弁護士と連絡が取れました。 既に港に向かわせています」
「感謝するのであります」
やれやれと、4WDに乗って出て行くマッピーを見送る。
マッピーはお土産を置いていった。
コットン向けに、J国で書かれた絵本である。朝、起きたときに渡せば、さぞ喜んでくれるだろう。
元々、痛々しい悲惨な運命に翻弄されたコットンは、目だって明るくなってきている。
皆、スペランカーの血がつながっていない娘が、喜ぶ様子を見るのは大好きだった。
ただ、一つ問題がある。
年老いた半魚人族である長老が来た。頭に、邪神の一柱である、アトラクナクアを乗せている。半魚人族の長である彼は、スペランカーがいないとき。事実上、この大陸を仕切っている。
そして今が。
その時だ。
スペランカーは仕事で、この大陸を離れているのである。彼女は現役の、常人では入れば生還が叶わない異境「フィールド」を潰すことを仕事としている、フィールド探索者なのだ。
「なにやら、騒ぎだそうじゃな」
「はい。 既に警視総監が、様子を見に向かいました。 顧問弁護士も動いています」
「スペランカー様がいない時を見計らったかのようじゃなあ」
「その通りだとすると、面倒事が大きくなる可能性が大きいな」
長老の頭の上で。
以前スペランカーに敗れ、掌大の蜘蛛の姿にまで縮んだアトラクナクアが、前足二本をあげて言う。
いつもはコットンと一緒に行動しているアトラクナクアだが。今はもうコットンが眠っているし、長老と行動しているのだ。
「今の時点では出動は必要ないだろうが、フィールド探索者の方々に、声も掛けておくとしよう。 後、アザトース様の警戒を強くした方が良いな」
「そのようで」
あまり騒がしくすると、コットンが起き出すかも知れない。
起こしてしまうと気の毒だなと思いながら。アルマエラレルは、長老と一緒に、善後策を詰めていった。
「スペランカー様は、まだご帰還には」
「今回はかなり厄介らしくてなあ。 海腹川背様が同行しているとはいえ、おそらく数日は帰っては来られぬだろう」
「連絡も取れませんか」
「難しいな」
あの切れ者が一緒にいるのなら、帰還そのものは問題ないだろう。海腹川背は非常に優秀な戦士で、なおかつ頭も切れる。しかもスペランカーに絶対的な信頼を寄せていて、息もぴったりだ。スペランカーと彼女が組むのなら、大概のフィールドは問題なく潰すことが出来るだろう。
しかし、嫌な予感がする。
今は、スペランカーがこの島にいない。そのこと自体が、大きな問題を孕むように、思えてならなかった。
1、亡命者達の姿
最初にその船を見つけたのは、沿岸警備隊だったという。
船自体は、特に珍しくもない、中型の貨物船。しかし事前に申請があった船ではなかったため、その場で拿捕。
最初に警備隊の長は密猟を疑ったらしいのだけれども。
実際に船を調べて見ると、出てきたのは粗末な格好をした男女が、数十名ほどだった。彼らはいずれも黒い布状の襤褸切れを被っており、殆ど金も食糧も持ってはいなかった。
しかも亡命申請。
警備隊は困り果てた末に、拿捕した貨物船を、この国に新しく作られたばかりの港へ曳航。
長老と、警視総監であるマッピーに連絡を入れたという経緯だそうだ。
マッピーは、資料に目を通していく。
その隣で鼻を鳴らしたのは。
たまたまここに来ていたフィールド探索者の一人。E国出身のフィールド探索者、アリスである。
風が強い。
港は殺風景で、あまり大きな船も泊まっていない。幾つかあるクレーンは稼働しているようだけれど。それほど多くの貨物は、行き交っていない様子だ。
しかも此処は、倉庫から少し離れた、貨物の検査をしたり、入国審査をするスペース。本来はビルの中でするべきなのだろうが、まだそんなビルさえ建っていないのだ。
新興国の悲しさである。
結果、亡命者とやらは、むき出しの土の上に座ったまま此方の対応を待ち。
マッピーは顧問弁護士とともに、潮風に吹かれながら善後策の協議をしているのだった。しかも、徹夜で。弁護士は何人か来て、今は三人目に状況の引き継ぎをしているところだった。
アリスはバルーンクラッシャーと呼ばれる能力者で、特定条件を満たすと能力を発動できる。
その能力とは、重力子の操作。
ただし操作には制限があって、触れたものにしか作用できない。
右手は常に風船を持っていなければならず、帽子も被らなければならない。制約が色々と多い能力だ。
その代わり、戦闘時のメリットはとても大きい。
「それで、その亡命者とやらが、彼処の者達と」
「そうなるのであります」
いけすかない。
そう、アリスは思った。
スペランカーには散々以前世話になったこともある。だから、彼女のためになる事は、積極的にしていきたいとも考えている。
しかし、アリスは。フィールド探索者としては一人前でも、社会的に見ればまだまだ子供だ。
出来ない事も多い。
どれだけ大人びていても、それはあくまで子供として、なのだ。
今も、顧問弁護士とマッピーが話しているのを横目に、荒事になった場合に備えていることしか出来ない。
一応、法知識はある。
これでも、没落だが英国貴族の娘なのだ。複雑な思いがある親からも、ノブリスオブリージュについて、散々叩き込まれている。
しかし此処はアリスの領土ではない。
他人の領土で好き勝手に振る舞うことは、貴族以前に人間として、褒められた行動とは言いがたい。
亡命者とやらの一団が、此方を見ている。
アリスはまだ子供で、しかも背が低い。大人が小さい見かけのアリスを舐めて掛かってくることは、珍しくもない。
だが、彼らの視線は、それとは少し違うように思えてもいた。
顧問弁護士は狐のような風貌の男で、マッピーの披露する法知識に対して、解釈を色々と述べている。
アリスが聞く限り、問題は無さそうなのだけれど。
あの集団から感じる妙ちくりんな違和感と言い。
どうもこの事件、簡単には終わりそうもないと、アリスは感じていた。
いずれにしても、だ。
スペランカーが戻るまで数日、此処で出来る事はしておきたい。荒事になるのなら、勿論最前線で戦う。
そうでなくても、アリスに出来る事は多い。それほど多くはないが、相応の財産もある。今のうちに、出来る事を吟味しておきたい。
半魚人の戦士が、何名か此方に来た。
マッピーと敬礼をかわすと、話を始める。
「確認を取れました。 彼らは思想団体、フリーエフォート。 主に先進国を中心に賛同者を増やしている集団のようです」
「どういう集団なのです」
「何でも、努力を否定する集団だとか。 資料によると、ええと。 人間社会は努力という苦痛を伴う行為を強要する「世界観」によって縛られ、人間の自由と尊厳が汚されている。 だから一切努力をしないことを目的とするとか」
「はあ?」
思わず呆れてしまったのは、アリスだ。
アリスもVIP扱いなので、話に加わる事は出来る。半魚人の戦士達も、困惑した様子で、アリスに肩をすくめた。
何となく、見えてきた。
ひょっとして此奴らは。現在、世界に存在している中で、最強の肉体を持った神。アザトースとの接触をもくろんでいるのではあるまいか。
しかも、アザトースは。
スペランカーと共闘したとき、どういう性格かは聞いている。自己犠牲を一切怖れないどころか、積極的に自分の身を捧げて、他の者を救うという存在だ。だから宇宙史上最悪の国家犯罪の犠牲になった。
しかも、今でも根本的に性格は変わっていない。
彼女は聖人と言い切ってよい精神の持ち主だ。
タチが悪いことに、極めて万能に近い聖人と言っても良い。
はっきりいって、瞬時に穀潰しと論破できるこの亡命者達が。アザトースに、我らを努力から解放して欲しいとか言いだした場合。
何が起きるか、アリスには想像が出来なかった。
アザトースはこんな阿呆共にも、おそらく慈愛を注ぐ。そしてそれが何を招くか。薄ら寒いものを感じる。
咳払いして、声を低く落とす。
「アザトースに会わせろなどと、言っているのではないでしょうね」
「その通りであります。 どうして分かったのでありますか」
「それで揉めていたっていうわけですのね……」
道理で、亡命申請が受け入れられるわけでもなく、そのまま突っ返すわけでもなく。此処で、話が進まなかったというわけだ。
引き継ぎは、既に終わっているという。
問題は、スペランカーがいないときの現在の対応。奉仕種族達は、スペランカーがいない場合、彼女の意思を仰ぐことになっている。しかし緊急性が高い場合は長老が判断するし。
しかも今回は、アザトースへの意思疎通が求められている。
アザトースが、彼らを連れてこいと言ったら。
最上位存在に対して、奉仕種族は逆らえない。
これは、予想以上にまずいかも知れない。
法知識は兎も角。政治闘争は、寄宿舎学校に通っていた頃から、アリスも散々目にしているし、知識もある。
「まずいですわよ。 この話がアザトースの所まで通った場合、あのお人好しは必ず首を縦に振るでしょうね。 そうなりでもすれば、私やマッピーはともあれ、奉仕種族の方々は逆らえないでしょう」
「よく分かりませんが、それほどアザトースという方の影響力は絶対だと?」
小首をかしげながら、弁護士が聞いてくるが。
視線で一瞥だけして、話を進める。此奴は法の専門家かも知れないが、法則の専門家ではない。
奉仕種族達が、神に逆らえないという法則の。
「もしも彼奴らをアザトースの所まで通しでもした場合、何が起きるか想像も出来ませんわよ」
「まさか、暗殺でありますか?」
「いや、アザトースが、努力から解放されたいって連中に、どのような「幸福」を提供するか、想像がつかないということですわ」
アザトース自身は善意の塊だ。
今急いで携帯端末から、フリーエフォートとやらの情報を調べているが。要するに怠けることを正当化している集団で、努力から解放されるためならどんなことでもするという、早い話が穀潰しのプロだ。
この二つが混じり合ったとき。SF映画に出てくるような、ディストピアが出現するとしか思えない。
「本官には、未だに人間が考える幸福というのは、価値観が多様すぎて量りかねる所があるのであります」
「問題は、何かが起きたとき。 それが外部に流出して、この国のイメージが、著しく傷つけられる事ですのよ」
飯が食いたいと、亡命者達が騒ぎ出している。
ため息をつくと、マッピーが、食事を運ばせた。
案の定。文句は更に加速する。
「まずいんだよ! もっとうまいものくわせろよ!」
好き勝手なことをほざき出す輩もいた。
救いがたい穀潰しだなと、アリスは思った。
とにかく、スペランカーが戻るまで、此奴らをアザトースと接触させる訳にはいかない。一番良いのは、閉じ込めておくことなのだが。
国際法に準拠して考えると、亡命申請をして来ている以上、無碍にも扱えないのだ。しかもどこだかの国のマスコミがかぎつけてきているらしい。下手な対応をすると、国際問題になりかねない。
三人の弁護士に、法的解釈を相談させている間に。
アリスは、長老の所に、車で向かう。港には警備の部隊と一緒にマッピーがいるから、問題は無いだろう。
最初、アリスは跳んでいくと言ったのだけれど。
しかし半魚人達が、車で送ると言って聞かなかったのである。最初どうしてかわからなかったが、何となく車で行くうちにわかってきた。
彼らは不安なのだ。
アトランティスの事実上の支配者であるスペランカーの事は、彼らは絶対的に信頼している。
だがそれ以外の人間については違う。
アリスも、スペランカーの仲間と言うだけで、彼らにとっては異邦人である事に違いはないのだ。
そんな異邦人が、かってに話を進めて行くのが、怖いのである。
それだけではない。
今、亡命申請をしてきているフリーエフォートの連中についても、訳が分からないと感じているのだろう。
自分たちが、蚊帳の外にいる間に、状況が進展されては困る。
それが、半魚人達の本音なのだ。
少し悩んだ末、アリスは所属しているN社の営業に連絡。フリーエフォートについて調査して欲しいと依頼。
アリスは第一線で活躍を続けているフィールド探索者だ。
そのくらいの我が儘は、すぐに受け入れて貰える。
営業が動く。
他にも連絡を入れておく。E国最強を誇るフィールド探索者、アーサーにも話を聞いておいた方が良いだろう。
半魚人達も、携帯電話を使って、仲間と連絡を取り合っている様子だ。
混乱が加速していくのがわかる。
そして、アリスは悟る。
スペランカーがいないだけで。こんな問題にも対処できないほど、アトランティスはカオスな状態に陥るのかと。
アトランティス中枢の神殿に到着。
長老をはじめとする、アトランティスの幹部達が、額をつきあわせて、既に会議を始めていた。
アリスが来ると、彼らは咳払いする。
「うぉほん、よく来てくれましたな」
「まあ、其処に座りな」
面倒くさそうに、アトラクナクアが言う
うんざりしているのが、一目でわかった。
見たところ、この会議は利権も絡んでいないし、権力のパワーゲームも起きていない。長老を中心に、皆もまとまっている様子だ。
それなのに、結論が出ない。
何しろ、彼らの社会では、あり得ない事だからだ。
そもそも、彼らに人権という概念そのものが、元々なかった。骸骨の戦士達もミイラ達も、見ての通り生物と言うよりは、魔術によって造り出されたスレイブとでも言うべき者達だ。
人権は、後から与えられたもの。
それを必死に皆で磨いて、高めあう段階で、苦労しているのだ。
人権は、彼らにとって宝であり。
努力して、守って行くものなのである。
彼らは知らない。
先進国の人間が、人権を生まれながらに持っている事を。そして人権があるのが当たり前であり、その上で好き勝手をほざいているという事を。
勿論、昔は先進国でも、人権はなかった。
奴隷制度は当然のように存在し、搾取する側とされる側に、完全な断絶があった。勿論今でもその構造は部分的に残っている。絶対的な人権などと言うものは、先進国でも実現は出来ていない。
しかし、フリーエフォートの連中は、違う。
努力しないで、人権を得たのが、当たり前だと考えている者達だ。
既にアリスは伝えている。
此奴らと、善性の塊であるアザトースを接触させることが、どれだけ危険かと言う事は。長老達も、それを理解している。
だからこそに、彼らは困っているのだ。
「スペランカー様の指示があれば、すぐに船にでも詰め込んで、送り返してしまうのですが」
「しかしアザトース様は、全ての存在に慈悲を注ぎなさいと言っておられる」
困り果てたようにいうのは。長老の次に年老いている半魚人の魔術師だ。
彼らは、アザトースの指示で、今では明確にスペランカーの配下として活動しているのだが。
スペランカーがいないとき。
アザトースの存在が、ぐっとのしかかってくる。
要するに、自分で考えることが、まだ出来ないのだ。
意志薄弱というよりも、そもそも自律自活という思考そのものが、存在しうる環境に生まれてこなかった。
奴隷として造り出され、消耗品として消費されてきた種族だからだ。
「彼らはどうしていますの」
「アザトース様に会わせろと、何度も声を張り上げています」
「……それは面倒ですわね」
アザトースは、今神殿の奥の奥。
アトランティスの最深部にある神殿で、静かに時を過ごしているという。
普通だったら、何の懸念もないのだが。
彼女は、一星系をまるごと覆い尽くすほどの神に。いや、宇宙の法則を切り替えるほどの存在に、一度はなったのだ。
そして今でも、彼女は人では無い。神としての力も普通に備えている。何しろ、彼女が一声掛けただけで、星系そのものを覆い尽くしていたほどの邪神の群れが傅いたほどなのである。
どれだけの超常的な力を備えていてもおかしくない。
本当に、冗談抜きに、声が届いてしまうかも知れないのだ。万能の存在というものがあるとしたら、アザトースこそがそれに一番近いのだ。何体かの近衛の邪神が側についているけれど。はっきりいって、そもそもが人間が殺せる存在かも疑わしい。スペランカーがブラスターを叩き込めば殺せるだろうが、それ以外には手段があるかどうか。
このままフリーエフォートの連中が騒ぎ続ければ、アザトースの耳に届く可能性がある。
そうなれば、出てくるだろう。
そして彼らの声を聞いてあげなさいとでもいったら。半魚人達は、従わざるをえない。
テレビ電話に、マッピーが映り込んだ。
敬礼する彼に、半魚人の長老が、身を乗り出す。
「どうしましたのです」
「由々しき事態であります。 フリーエフォートの者達が、アザトース殿に会わせないのであれば、集団自殺すると言っております」
「なんと」
テレビ電話の向こうから、声が聞こえてくる。
半魚人達が押さえ込んでいるが、フリーエフォートの連中は、かなり殺気だっているようだった。
「早く神様に会わせろよ! 化け物共は引っ込んでろ!」
「俺たちは窮屈な世界から、やっとの思いで逃げ出してきたんだぞ! てめーらだけで神様を独占してないで、俺たちにも分けろ!」
「早くしないと、全員で舌を噛むからな!」
ぎゃいぎゃいと、騒いでいる様子が、テレビカメラに写っている。これでは、助けを求めてなどいない。
完全な恫喝だ。
「なんと身勝手な……」
あきれ果てた様子で、長老が椅子に懐く。
アリスも、流石に苛立ちが募ってきた。
最悪なことに、おもしろがったマスコミが、様子を撮影さえしている。
フィールド探索者であるスペランカーが、事実上国を指導しているという事を、面白く思っていない人間は少なからずいる。
そういった連中をターゲットにして、記事を書くマスコミはいる。
事実中傷記事の類は、幾つも見てきている。アリスでさえがそうだ。スペランカーの母国であるJ国では、なおさらだろう。
実際、今集っているマスコミは。
非常識なことで知られる、J国のマスコミだった。
「眠らせる魔術の類はありませんの?」
「使えますが、強制的に眠らせると、体に大きな負担がかかります。 いつまでも眠らせてはいられないでしょう」
「人間主導の国際社会に加わる以上、今後もこの手の輩を相手にしていかなければならないのか」
まだ若い半魚人が、忌々しげに言う。
アリスは、自分の事のように。それを聞いて、恥ずかしく思った。
2、続く混乱
とにかく、時間を稼ぐことが肝要。
そう判断した半魚人の長老は、部下を何名か派遣。わいわいと騒いでいる「亡命者」達を、魔術を使って眠らせた。
あれほど騒いでいたのに、ころんと眠っていく様子は、アリスから見ても何というか、壮絶だった。
元々邪神の一族は、様々な魔術を使いこなす。
その奉仕種族も同様だとはわかっていたが。条件さえ整えば、これほど凄まじい効果を示すのか。
マスコミ関係者が、話が通じそうなマッピーに詰め寄っている。
「これはどのようなことなのですか! 彼らを無理矢理に眠らせたように見えたのですが」
「彼らは自らの命を盾に恫喝をしているのであります。 興奮を収めるためにも、今は緊急処置が必要なのであります」
「これは人権侵害だ!」
そうだそうだと、騒ぐ声。
思わずアリスが前に出ようとしたが、近衛の半魚人の一人に止められた。
「落ち着いてください、アリス殿」
「あのような破落戸共に、好き勝手に言わせていて構いませんの?」
「彼らに手を出すと、スペランカー様に迷惑がかかります。 我々には、それが一番悲しいのです」
唇を噛む。
確かにそれは、アリスとしても避けたいことだ。アリスにとっても、スペランカーは肉親がいない今、誰よりも慕っている相手なのだ。
「せめて川背殿がいてくれれば」
半魚人達が嘆く。川背は今、スペランカーと一緒に、難所と言っても良いフィールドに行ったまま、帰ってこない。
スペランカーの無二の友であり、参謀でもある川背は。アトランティスにとって、ブレインとも言って良い存在だ。
彼女は元は兎も角、スペランカーのためにと行動するようになってから、とにかく頭が切れるようになっていった。
アリスは口惜しく思う。
知識があっても、活用できない。
せめて川背の半分でも頭が働けば、この事態に対して、有効な措置がとれるかも知れないのに。
子供である事が、これほど腹立たしいと思ったのは。
報われない戦いを続けていた頃以来かも知れない。
とにかく、眠らせたフリーエフォートの連中は、それぞればらばらに運んでいく。港の一角に、建設中の倉庫が幾つかある。其処を利用して、収容する。
集団心理が働かなければ、少しはおとなしくなるかも知れないと、判断しての事だ。
「野蛮なアトランティスの論理で、救済を求める人々が、無理矢理に眠らされ、運ばれて行きます! これは正に蛮行! 残虐な彼らの理論では、人権は存在しないのでしょう!」
あおり立てるアナウンサー。
テレビカメラが回り続けている所を見ると、生放送なのだろう。
まずい。
このまま話が大げさな方向に進んでいくと。
国際問題にもなりかねない。
眠らせる魔術の効果は、長くて一日半。
短い場合は、一日程度しか保たない。
というのも、あまり長く眠らせていると、人体に悪影響があり、最悪半魚人へと変わって行ってしまうのだ。
それを避けているだけでも、半魚人達が、どれだけスペランカーを慕い、好き勝手なことをほざいている亡命者達に配慮しているかは、明らかなのだが。
マスコミにそんな事は通じない。
彼らは、自分にとって都合の良い事実しか見ないからだ。
マスコミの押さえは、マッピーに一任された。彼は了解でありますと応えると、半魚人の戦士や骸骨の戦士達を連れて、撮影させろと騒ぐマスコミ達を抑えるべく、様々な措置を執り始めていた。
騎士アーサーと連絡がついたのは、丁度その頃である。
アーサーも重要な仕事の最中だったらしいが、ニュースがかなり大きくなっているらしく、ホットラインで慌てて連絡を入れてきた。
アーサーは事情を聞くと、腕組みする。
会議室では、アトランティスの幹部達が困惑した顔を並べているが。アーサーは、直接手助けは出来ない、といった。
「何故です」
「今、状況は極めて難しい方向へ進んでいる。 我が輩にも、助言以上の事はできん」
テレビ会議の向こうで、アーサーが言う。
何でも、元々アトランティスを良く想っていなかったマスコミが、今回のことを各国で大々的に報道。
自由を求めて渡航してきた亡命者達を、野蛮な暴力で蹂躙するアトランティスとして、非難を開始しているというのだ。
アーサーは、叙任も受けている、本物の騎士である。
しかもE国最強のフィールド探索者として、社会的地位もある。そのような存在が今荷担すれば、マスコミはますます勢いづくだけだというのだ。今、電話をしている事を知られるだけで、かなりまずいという。
「政治的な問題に、話をすり替える輩まで現れるだろう」
「なんてこと」
元々、アトランティスは新興国。
みずみずしい力に満ちていると同時に、様々な部分が足りない。
代表であるスペランカーがいる間はいい。彼女はカリスマといって良い指導者であり、更に無私の忠誠を捧げてくれる川背というブレインもいる。
しかし、今は本人にその気は無いとしても、火種として最大級の存在であるアザトースを抱えてしまっている上、事実上のナンバーツーとしてこの国を取り仕切っている半魚人の長老は。見ての通り、あまりにも頼りない。
以前は絶対者として、異星の邪神がこの浮遊大陸に君臨していた。
だから、半魚人達は、自律自活など必要なかったのだ。何しろ、消耗品としてだけ考えられていたのだから。
増やすのもおそらく、邪神の魔術によるもの。
道具扱いされながら、それでも生き残ることが出来たから。長老は敬愛されて、今でもナンバーツーの座についているのだろう。
いかに戦士として優れていて、近代兵器並の戦闘力を持っているとしても。彼らには、人間社会の闇と戦う力は、ない。
アーサーが困惑するアトランティスの者達の前で、もう一度咳払いした。
「アリス殿」
「何ですの」
「まずは、背後関係を洗うのが良いだろう。 フリーエフォートという集団については、我が輩も先ほど調べたが、どうもきなくさい。 それに映像を見る限り、どう考えても純粋な「志」だけで構成された集団ではないだろう」
「怠けるのを正当化するのが志、ね……」
呆れてしまうが、だが確かにその通りだ。
N社の営業は、今調査をどれほど進めているのだろう。連絡を取ってみる価値はありそうだ。
「マスコミによる攻撃を崩すには、此方もマスコミを利用する事だな。 C社まで介入すると、更に問題がこんがらがる可能性がある。 アリス殿がN社に働きかけるなら、其処を起点にすると良いだろう。 今までも、フィールド探索者を差別する記事や事件は、いくらでも起きて来た。 最大手のN社であれば、対応も手慣れているはずだ」
「ただ、それではN社に借りを作ることになりませんの?」
「この際は仕方があるまい。 もしも、上手く状況をコントロール出来そうとなったら、我が輩も助力して、C社を動かそう」
頷くと、早速アリスは部屋を出て、N社の担当営業に連絡を取った。
部屋の中では、アーサーが半魚人の長老をはじめとする面々に、アドバイスを続けている。
だが。
事態はここに来て、さらなる悪化を見せる。
半魚人の、近衛の戦士が飛び込んできた。アリスは部屋の入り口で、それを目撃した。
「緊急事態です!」
「何事か」
「フリーエフォートのメンバーを満載した船が、沖合に出現! 今度は数百人規模の人員を乗せている模様! 亡命申請を出してきています!」
最悪だ。
最初に来た数十人は、それこそ先遣隊に過ぎなかったという事か。
それにしても、マスコミの動きがあまりにも早すぎる。
これは、何か大きな陰謀か何かが、裏にあるのではないのだろうか。
連絡が取れたアリスの担当営業Jは、相変わらず相手を馬鹿にしたような口調で、まくし立てる。
はっきり言って不愉快だが、我慢するしかない。
「ハハハ、今回は災難だな。 しかしまあ、あんたには関わりも無いんだし、引き上げても良いんじゃないか?」
「そうは行きませんわよ。 スペランカーは私の恩人ですわ」
「恩人、ねえ」
「それにマスコミがバッシングしているのは、「フィールド探索者がトップに居座っている国」ですのよ。 他人事だとは思えませんけれど」
Jが口をつぐむ。
ひょっとしてこれは。N社も、事態の重さは理解している上で、アトランティスを切り捨てにかかっているのか。
アトランティスはフィールド探索者にとっても、重要な土地だ。これを切り捨てるというのは、あまりにも尋常な話ではない。
何か、裏に大きな陰謀でもあるのか。
「それで、何かわかりましたの?」
「ああ、とりあえず資料はそっちに電子ファイルで送るわ。 ただ、まだN社としては、正式に関与を表明できない。 飛び火されると面倒なんでな」
「水面下での協力で構いませんわ」
「マスコミがおそらくあんたにも食いついてくる。 ちゃんといなさないと、飛び火は彼方此方に拡大するぜ」
電話が切れる。
携帯電話に、メールが着信していた。ファイルが添付されている。
開いて確認すると、フリーエフォートの資料だった。
まず、人員規模。
公称の登録数は、全世界で五万。
大手の宗教に比べると小粒だが、それでもかなりの人員がいる。
問題はこの連中に対して、特にネットユーザーなどで賛同者が多いらしいという事。
確かに、ストレスフルな現在社会では、何もせずに怠けて良いという思想が現れれば、喜んで飛びつく連中は出てくるだろう。
社会の中で怠けると言う事は、周囲が造り出した利潤を吸い上げながら、自分だけ楽をするという意味だ。つまり家族や兄弟、知らない人達が汗水垂らして稼いできたお金を、それこそ無能な皇帝のように、吸い上げて浪費しているという事である。
これを堂々と行っている恥知らずもいるが。
しかし、正当化したいと思っている者もいる。
ましてや、今では社会のレールから外れた人間に、厳しい風潮も出来てきている。一度ニートやスネップに落ちてしまうと、復帰が難しい。彼らがこのような思想にすがりたくなる心理も、確かにあるのかも知れない。
他も情報を引き出してみる。
調べて見ると、思想団体と銘打っているが。発祥地であるJ国では、宗教法人として登録しているらしい。
なるほど、さもありなん。
あれは一種の宗教だ。彼らは現在社会の人間を努力崇拝者などと呼んでいるらしいが、彼らはいうならば怠け病信者だろうから。それに、J国では宗教法人が優遇されているとも聞いている。
問題は、資金源だ。
これだけの団体となると、何かしらの収入がある筈。
見ると、出版物が幾つかある。
現在社会への批判思想が綴られた本が主体だ。中身に目を通している時間はない。
本だけで、どうにかなるとは思えない。
何しろ、穀潰し達を集めた団体だ。彼らは努力しないことを目標に掲げているほどで、本来このような団体を作り上げること自体が、思想に反しているだろう。
やはり、団体員から喜捨の類をさせているようだ。
一応会員費という名目だが。
これは、かなり深い裏があるとみて良いだろう。
ざっと資料をまとめたところで、部屋に入る。
案の定、部屋の方では、深刻な話し合いが続いていた。
「フリーエフォートとやらの人員がどれほどかはわからないが、このまま押し寄せられると、すぐに飽和してしまう」
「如何に人員が足りなかったとは言え、流入してくる人間がこれでは……」
「長老、如何いたしましょう」
「とはいわれても、困るのう」
本当に困り果てている長老。
情けないが、しかし。アリスだって、これといった案を提出できるわけではないのだ。とりあえず、今来た資料をすぐに印刷して、皆に配る。
これで、少しは状況を緩和できるかどうか。
戦士の一人が戻ってきた。
骸骨の戦士なのだけれど。状況を意識してか、迷彩服を着ているので、ちょっと滑稽だ。
「スペランカー様の状況について、続報です」
「うむ、どうなっておる」
「現在、フィールド内での交戦中としか、現地の国連軍も把握していないようです。 今回のフィールドは重異形化フィールドで、とてもではないが簡単に攻略できるものではないとか」
「普段であればスペランカー様を信頼して心配などしないのだが。 このような状況ではな……」
肩を落とした様子で、ミイラ男の戦士が嘆く。
港からの続報が入ってきた。
今の時点で、迫っているフリーエフォートの船は足止めをしていると言う。しかし、亡命申請を受け入れないと、全員で海に投身自殺するとか言っているらしく、しかもマスコミの船が張り付いてきているという。
海軍もお手上げの様子だ。
アトランティス近海には、警備のために魔術で作られた獰猛な生物も放たれている。海軍は勿論制御しているが、海で待ち伏せている彼らが、飛び込んできた人間を救助する筈もない。
何人か喰われでもしたら、それこそマスコミが火でもついたように騒ぎ出すだろう。
「なんと言うことだ。 これでは、命を盾に恫喝しているも同然ではないか」
「彼奴らは、死ぬ覚悟があるのだろうか。 我々が本当にマスコミが言うように野蛮で、此方の法を押しつける態度に出たら、それこそひとたまりもない。 あのような貧弱な連中など、草でも刈るように殺せるのに」
「覚悟なんて、あるわけないでしょうに」
「アリス殿……それはもはや、我らの理解が及ばぬ世界だ」
単純で羨ましいと、アリスがぼやく。
歴戦の勇士達でも、人間社会の仕組みはわかっていない。
かって、奴隷制度が横行した人間社会では、労働者が権利を勝ち取るための長い長い闘争をした。
その結果、特に西欧では権利と自由が、労働者達に認められるようになった。
だがそれが、権利や自由を盾にして、暗躍する集団を生んでしまった。
J国ではプロ市民や人権屋などと言う連中が、これに相当するらしいと話は聞いているが。アリスの母国であるE国にも、こういう連中がいる。
かって、酷い扱いを受けていた労働者達は、自由を勝ち取るために文字通り命を賭けて戦ったのだが。
今、自由を標榜する人々の中には。蛇蝎にも劣る外道共が、多数混じり込んでしまっているのだ。
連中が欲しいのは、金と権利だけ。
本当の意味で虐げられている人々など、どうなろうと知ったことではない。勿論自分の命だって、かけているはずもない。
戦って、味方を守って、死ぬ。
そんな簡単な理屈で生きているアトランティスの戦士達は、ある意味幸せだ。
「今は時間を稼ぐしかあるまい」
「しかし、そうこうしているうちに、アザトース様が気付いてしまわれるかもしれぬ」
「その場合は私が説得しますわ」
此奴らは、アザトースの言う事には従うしかない。
何しろ、奉仕種族だ。どうしようもないのだ。
上位存在には逆らえないように、作られてしまっているのだから。
「ああ、ちょっといいかい」
今まで黙り込んでいたアトラクナクアが、不意に発言する。
もう一人。
いつの間にか、場には退屈そうな顔をして、話を聞いているコットンがいた。アトラクナクアはしばらく会議から席を外していたようだが。今は定位置である、コットンの頭の上に戻っている。
「二つ、悪いニュースがある」
「更にですか」
「ああ。 さっきこの浮遊大陸の中枢に行ってきたんだがね。 其処のレーダーでわかったんだが、更に一隻、フリーエフォートのらしい船が近づいている。 今度も数百人は乗せているようだね」
「もう手に負えん……」
骸骨の戦士の中で、一番えらい男が、まるで巨大なドラゴンでも相手にしているかのように嘆いた。
ある意味、ドラゴンを相手にしている方が、まだ彼らには幸せかも知れない。魔術も武術も、通じるのだから。
「もう一つは、アザトースが気付いたようだよ」
全員が、その場で固まる。
ため息をつくと、アリスは彼らを見回した。
「私が時間を稼ぎます。 皆さんは、善後策を」
「アーサー殿と相談しながら、対応を協議していくしかあるまい」
無力を全身に漂わせながら、長老が嘆いた。
アリスも、アトランティスの最深部に足を運ぶのは初めてだ。
何処までも続く緑の平原。
空は雲一つない、澄み切った青。
ただ、草原は、見かけ通りの場所ではない。
見張りらしい黄金の人型が、所々に見られる。彼らは「宇宙の中心」と呼ばれた星系から、アザトースの護衛のためにとついてきて、説得にも応じず残った邪神達だ。いずれもが以前非常な苦戦の末に倒した四元素神に匹敵する実力を持つ。人型ではあるが、目も鼻も無いのっぺりした姿で、近づいてみると非常に不気味な造形である事がよく分かる。
ただ、アザトースが厳命していることもあって、彼らは人に危害を加えない。アザトースに対する攻撃を、防御するためだけにいる。
彼らの実力は、単独でそれぞれが熱核攻撃さえ防ぎきるほどのものであり。
存在そのものが、強力な軍事抑止力となっていた。
草原に見える此処も、生えているのは全てが攻性防御のためのトラップ生物。触ると石になる草や、獲物を捕らえて固めてしまう蜂などが多数いる。魔術的な処理を施すための性能が、どの生物にも備わっているのだ。
その最深部の中央に。
ぽつんと、ギリシャ式の神殿が建っている。
或いは、ギリシャ建築そのものが、遙か昔にこの星に影響を及ぼした、邪神達によるものなのかも知れない。
神殿は石造りだが、大理石でも御影石でもない。未知の石だ。近づいてみると、虹色に見える。離れると、灰色に見える。不思議な石で、触ってみるとじんわりと温かい。強い魔力も感じる。
神殿に控えている多数の金色の邪神達は、アリスをじっと見つめている。ただ、彼らには、人間で言う目がついていないから、気配でそう感じ取るだけだが。
神殿は元からあったものなのだが。
此処で、アザトースを世話しているのは、彼ら。奉仕種族でさえ、彼らは近づくことを好まない。
今では人では無くなってしまっているアザトースは。
神殿の入り口まで、アリスを出迎えてくれた。
彼女は食事も睡眠も必要としない。
栄養もいらないし、休憩も不要。
人では無い存在だが。端から見ると、どう見ても、ただの人。アリスより少し年上の、はかなさを感じさせる、優しげな女性だ。
セミロングの髪は遠くから見ると黒いのだが。近くで見ると、黒ではなくて、もっと深い色だとわかる。
瞳は金色。
纏っているのは、トーガのような、ローブのような、不思議な服だ。
この服についても、アザトースが自分で造り出したものらしい。
彼女は口を動かして喋るようなことはしない。
意思を、そのまま此方に跳ばしてくる。アリスも、考えるだけで、相手に伝わるはずだが。一応礼儀として、口を動かして喋ることにしていた。
「よく来てくれましたね、この星の戦士」
「初めまして、レディ、アザトース」
名乗ると、優しげな微笑みを返してくれる。
接してわかる。
この人は、今でも変わっていない。宇宙史上最悪の国家犯罪によって、その全てを蹂躙された悲劇の存在は。
あらゆる尊厳を踏みにじられたにもかかわらず。
今でも、周囲の全てを愛している。
自分を不幸にして、相手を幸せにすることを厭わない。
「早速なのですが、既にこの浮遊大陸に押し寄せている不埒者達について、ご存じかと思います。 彼らの前に出るのを、少し控えていただきたいのです」
「何故でしょう。 彼らは救いを求めているようなのですが。 私に出来る事は、してあげたいと感じます」
「彼らに邪なものを感じませんか」
「人はその心に、少なからず邪なものを抱えているものです。 その全てを受け入れてこそ、だと思います。 私にはその力もある。 救える存在は、救っていきたいのです」
これは、噂以上だ。
この人は、本物の聖者。だからこそに、かって宇宙史上最悪の国家犯罪の餌食にされてしまった。
「彼らは、真面目に働いている他の人達を見下し、社会構造そのものを批判するフリをしているだけで、実際にはただ怠惰を貪っているだけの寄生虫です。 この大陸に来たのも、貴方の力に寄生するためにすぎません」
「悲しい人達ですね」
「彼らについては、この大陸を守ってきた戦士達に、対応をお任せいただけませんか」
「しかし、対応できていないのではありませんか」
それを言われると痛い。
アリスだって、正直どうすれば良いのか、よく分からないのだ。アザトースは、それを敏感に感じ取っている様子だ。
「私を永劫の地獄から救ってくれたスペランカーさんの帰還を待っているようですね」
「この大陸の戦士達は、奉仕種族に過ぎません。 彼らは、貴方が動いてしまうと、その命令に従わざるを得ないのです。 あの悲劇が繰り返されてしまう可能性があります」
「そうなのですか。 しかし……」
「お願いです。 少しだけ、待ってください」
頭を下げる。
これでも、貴族としての帝王教育を受けてきたアリスだ。
頭を下げることは、非常な屈辱。
だが、今は恩人のためだ。
手段を選んではいられなかった。
しばしして、頭を上げると。アザトースは、相変わらずの笑みを、浮かべ続けていた。
「わかりました。 貴方の意思を尊重しましょう。 ただし、誰か死者が出るようであれば、その時は。 介入します」
もう一度頭を下げると、アリスはその場を後にする。
これで、時間は稼ぐことが出来た。後は、何か有効な策を打つ事が出来れば。
それにしても、だ。
本当にこれは、突発的な事件なのだろうか。
何もかもが、此方の対応を見透かした上に思えてくる。もしもそうだとすれば。背後にいるのは、何かとんでも無い存在では無いのか。
邪神さえも手玉に取る存在というと、思い当たるのは。
ぞくりとくる。
もしも奴が背後にいるのだとすれば。
急いでスペランカーに戻ってきてもらわなければ、対応が出来ない可能性が、高かった。
後ろから、声がかかる。
後光のような光を背負ったアザトースが、中空に浮いていた。
あの光は、浮遊する能力をそのまま付加しているらしい。強力な、多分原理さえ理解できない魔術の一種だろう。風などが吹いてもまるで揺れる様子がない事からも、その術がどれだけ桁外れか、想像できる。
「皆を苦しめてはいけません。 私も、介入はしないにしても、会議には加わらせてもらおうと思います」
「え……」
「お願いします」
笑顔のまま。
あくまで悪意もなく。
アザトースは、そう笑うのだった。
3、加速する絶望
会議室に戻る。
アザトースは、事態が急変しない限りは介入しないことを告げてはくれた。ほっとする皆を前に。
だが、何かを不意にはじめる。
皆が見ている前で、アザトースが術式をくみ上げていく。
さすがは、宇宙の中心とまで呼ばれた邪神だ。詠唱を必要としないどころか、思考するだけで物事を実現できるらしい。しかも、周囲に分かり易いよう、ゆっくりやっているというのが、恐れ入る。
アリスも、よくもまあ此奴を説得できたなと、スペランカーの凄まじさを改めて思い知らされていた。
光の柱が立ち上り、粒子が収束していく。
出現したのは、硝子シリンダーのような容器だ。
魔術で動いているらしい。中に満たされている液体は、正体がよく分からない。そもそも、素材が硝子なのかシリコンなのか、それさえもわからなかった。
半魚人の長老が、皆を代表して言う。
「これは、何なのですか。 我が神アザトースよ」
「彼らの願いを叶え、皆を幸せにする道具です。 遠くから、既に彼らの主張と願いについては、解析を終えていました。 これを用いれば、全員が幸せになる事が出来るでしょう」
何でも出来る超人か此奴か。
アリスは呆れたが。
しかし、考えて見れば。この世で最も大きな力を持ち、一神教で言う神にもっとも近い存在だ。
それくらいは出来て当然なのだろう。
ただし、その認識は。
人間とは、完全に違っている。
アザトースが、説明をしてくれる。相変わらず喋ることはなく、その意思を直接、頭の中に届けてくる。
ぞっとした。
善の塊が考える事は。時に、こうもおぞましいものを造り出すのか。
半魚人達も、皆青ざめている。これは、本格的にまずい。
はっきりアリスは悟った。
アザトースの介入を招いたら終わりだ。マスコミ共がこぞって騒ぎだて、下手をすると大炎上しかねない。
この浮遊大陸は、非常にデリケートな存在だ。フィールド探索者が事実上の国家元首で、なおかつ住民の大半は人間ではない。最悪の事態を招く可能性さえある。
アザトースの側に控えている金色の邪神達二体。彼らだけで、生半可なフィールド探索者はまとめて片付けるだけの実力がある。四元素神と直接戦ったアリスは、高位の邪神がどれだけ凄まじい力を秘めているか、身に染みて知っている。
ただ、それが余計にまずい。
あまりにも強力な戦力が、今のアトランティスには備わっている。もしも小火が発生したら、大火災に一気に発展しかねないのだ。
半魚人達は、アザトースには逆らえない。
だから、アリスが言うしか無い。テレビ会議の向こうで、アーサーも咳払いしてくれた。
「アザトース殿。 やはり、介入はぎりぎりまで待っていただけぬか」
「この道具なら、誰もが幸せになれますよ」
「問題は、周辺の人々なのですわ」
「その通りだ。 特に今、周囲で蠢いているマスコミにとって、その道具は格好の餌食になるだろう。 我が輩からも頼む。 もうしばし待っていただけるか」
残念そうにアザトースは頷くと。用意されている席の一つに座った。
半魚人達が、いそいそと茶を淹れる。
アザトースは必要ないと言うと。代わりに側に控えている金色の邪神の右側の方が、顔の真ん中辺りから触手のような器官を延ばし、ストローのようにして茶を一瞬で飲み干した。
「美味」
「喋れましたの!?」
「当然だ」
だが。それ以降、金色の邪神が口を利くことはなかった。
青ざめている半魚人の長老達を、会議室から連れ出す。一人には、テレビ会議のシステムも持ってきて貰った。
「予想以上にまずいですわ」
「同感だ。 とにかく、此方でも情報収集を進める。 今の時点で我が輩が入手し解析している事は、既に其方に送信した。 戦略的対応に役立てて欲しい」
アーサーが、一度連絡を切る。
アリスは自分が無力な子供である事が、これほど腹立たしいと思ったのは、いつ以来だろう。
戦士として、一線級で戦って来た。
邪神ともやりあった。四元素神とさえもだ。それらの戦いで、大きな功績を残してきたのに。
戦場の勇者も、サロンでは必ずしもそうではない。
帝王教育を受けて、知っていたはずの事なのに。口惜しくてならない。
港では、既に事態が抑えられなくなってきていた。
マスコミが更に多数、詰めかけてきていたのである。アトランティスの軍部隊も出てきているが、何しろ数が多すぎる。
中には破落戸同然の連中も混じっていた。
アトランティスはやっと外貨獲得の方法を、幾つか手に入れはじめたところである。観光客は重要な外貨獲得手段であり、出来ればリピーターを多数確保したい。しかし、このような事態が続けば、彼らも離れてしまう。
海上にいた「難民」も、とりあえず港に上陸させたが。
既に五百人を超えた「難民」は、好き勝手な要求をし始めており、監視に当たっている人員を憤慨させていた。
「何もしないが、食糧と生活保障と権利は寄越せというのは、どういうことだ。 一体此奴らがいた国では、何が起きていたんだ!」
ぷんぷんと怒っている半魚人を、さっと記者達が囲む。
手を出せないと、知っての行動だ。
「インタビューに答えてください!」
「自由を求めて亡命してきた難民を、これから皆殺しにしようという計画が持ち上がっていると聞いています。 本当ですか?」
「そんな事はしない!」
「その恐ろしい槍からは、稲妻がでると聞いています! 或いは、人間を醜い半魚人へ変えてしまうとも!」
アリスが地面を蹴りつけると。
記者達が一斉に尻餅をついた。重力操作で、軽く撫でてやったのだ。
半魚人に顎をしゃくって、行くように促す。半魚人は辟易しきっていたらしく、一礼するとさっさとその場を離れた。
「差別だ何だと騒ぎ立てて置いて、自分たちは平然と差別とは、神経を疑いますわ。 今の発言、差別ですわよね? 此処にいる皆さんは、人権が認められている存在ですわよ」
ボイスレコーダーをかざしてみせると。
記者達は不満そうにしながらも、散っていった。これでは、きりがない。
N社営業からは散発的に連絡が来る。
来たファイルは、半魚人達の状況対策チームに送信して、戦略的対応に役立ててもらう。しかし、だ。
今の時点では、そもそも後手に回りっぱなし。
しかも、アザトースが介入をはじめたら終わりだ。マスコミが何を言い出すか、全く見当がつかない。
事実、騒ぎは拡大しているようで、観光客は著しく減っているようだ。
港に来たのはハリー。
以前色々あって、戦ったこともある相手だ。今はベテランカメラマンとして、アトランティスの新聞社で働いてくれている。
髭を蓄えたダンディなおじさまであるハリーは、今は円熟味も増して、撮る写真も世界的に有名になってきている。
アトランティスの名所を写真に撮って販売している事もあり、以前は何処にもなかった居場所を、得ることにも成功していた。
帽子を取って挨拶してきたハリーに、アリスも同じようにして返す。
ハリーも既に、騒動については、聞いているようだった。
「マスコミ関係者として、何か対応策はわかりませんの?」
「私はあくまでカメラマンだから、マスコミ関係者と言われても、畑が違ってしまっているのだ。 許して欲しい」
「そう、ですわね」
「ただ、カメラマンとしての仕事はしたい。 護衛の戦士を、一人二人付けて貰えないだろうか」
頷くと、増援として送られてきた戦士を一人、ハリーに付ける。アリスには正直護衛は必要ない。鉄砲を持った暴漢程度にどうにかされるような、柔な鍛え方はしていないからだ。
ハリー自身特殊能力の持ち主だが、今は港に有象無象の輩が集まりすぎている。ハリーは能力者としては強い方では無いし、護衛はいた方が良いだろう。
一緒に、周囲を見て廻る。
観光客にまで、マスコミはインタビューをしているようだ。アトランティスで、観光が出来る場所は極めて限られている。最近は風光明媚な内部の土地も、観光ツアーを行っているのだけれど。護衛の戦士がいないと、とてもではないが観光などはさせられない状態だ。
取材をしているマスコミを、ハリーが撮影して廻る。
観光客に絡んでいる連中もいたので、その度に追い払った。アリスを見ても鼻で笑う輩もいたが、屈強なミイラや半魚人の戦士を見ると、黙って引き下がる場合も多い。騒ぎ立てる輩は、力尽くでつまみ出した。
「はやくなんとかしないと、これでは営業妨害ですな」
ハリーが忌々しげにシャッターを切る。
彼のカメラマンとしての技量は達人級だ。賞などは取れなかったが、はっきりいって誰の目から見ても美しい、立派な写真を撮る。目が肥えているアリスから見ても、充分に美しい写真が多い。
此処で、マスコミの蛮行について、収めておくのも良いだろう。
布石になる。
そう信じて、アリスは作業を進めていく。
戦士が数人、急いだ様子で駆けていった。アリスに気付いた一人が、敬礼してくる。ミイラ男の、中年男性だ。
「アリス殿、丁度良かった! 向こうで喧嘩が起きています。 マスコミ同士の喧嘩のようです!」
「わかりましたわ」
すぐに現場に急行する。
子供で、分からない事はいくらでもある。
だが、武力は振るえるのだ。出来る事がある以上、やれることをやっていきたい。
案の定、対立するマスコミだろう。十人単位での乱闘が起きていた。半魚人の戦士達が間に入って、力尽くで止めていく。
パワーは人間よりずっと上なのだ。マスコミ関係者が雇った用心棒なのか、屈強な奴が多かったが、それでも力では叶わない。半魚人の戦士達に投げ飛ばされて、次々制圧されていく。
だが、そのまま終わりはしなかった。
拳銃を抜いた奴がいたので、アリスが即応。地面を踏み砕く。
重力の力にあがなえず、地面に叩き付けれたそいつを、駆けつけた警官達が捕縛し、連れて行った。
拳銃を抜いた様子は、ハリーが写真にばっちり収めていた。
乱闘していた連中も騒いでいたが、警官が連れて行く。彼らの聞き苦しい罵声についても、ボイスレコーダーに収める。
「少なくとも、これらは武器になりますな」
「ええ。 とにかく、時間を稼がないと」
だんだん、話がこじれてきている。半魚人達も、きっと有効な対策は打ち出せていないだろう。
そろそろ、最初に眠らせた連中の魔術もきれるはず。
不眠不休の作業が、まだ続きそうだ。
港の方で、更に騒ぎが起きたらしいと、連絡が来る。
此処は半魚人の戦士達に任せて、倉庫の方へ急行。案の定、フリーエフォートの難民達が、暴れ出したようだった。
「自由を! 自由を!」
「亡命者に対する虐待は止めろ! この悪魔ども!」
ぎゃあぎゃあと、騒ぎ立てる、粗末な格好の者達。
半魚人達が押さえ込んでいるが、これはまずい。
完全に群集心理が働いている。
自分たちは正しいと信じ込んでいる上に、このままだとノリで何をし出すかわからない。騒いでいるのは、第二上陸集団だ。
制圧は容易。アリス一人でも、瞬時に黙らせることが出来る。しかしそれをするわけにはいかない。
戦場だったら、むしろ簡単なのに。
アリスは歯がみしてしまう。
マッピーが来た。
「手に負えないのであります。 押さえ込むのは簡単なのでありますが」
「眠らせるしかないですわ」
「そう、でありますな」
マッピーが、やむを得ないという様子で、指示。
半魚人の魔術師達が、一斉に魔術を展開。騒いでいる数百人が、一斉にばたばたと倒れ、その場で眠りだした。
すぐにマスコミが飛びついてきて、写真を取り出す。
「大量虐殺だ! 半魚人共が、無抵抗な亡命者達に暴力を振るった! すぐに本国にスクープ情報を送れ!」
騒いでいるのは、タブロイド紙の記者だろうか。
マッピーが悲しげに頭を振る。
このままだと、力による衝突も、時間の問題だろう。
しかも、問題がもう一つある。
安全に彼らをばらばらに収容する場所がない。アトランティスは広いが、開発が進んでいる地域は、それほど多くないのである。神殿などはあるし、空き地はいくらでもあるのだが。五百人に達する「亡命者」を、どこに格納するのか。
ビルなどもあるにはあるが、数が足りなさすぎる。
港周辺などは開発が始まっているけれど、今はさほどの規模でも無い。まだ街としてはごく小さい程度の存在でしか無く、五百人を分けて収容するには、小さすぎるのだ。
しかも、飽和攻撃でもするつもりなのか、更に良くない情報が飛び込んできた。
「また一隻、フリーエフォートの船が、姿を見せたそうです!」
「ああもう!」
今度の船は、百人程度の人員しか乗せていないと言う事だが。
この一斉行動は、明らかに事前に示し合わせているとしか思えない。マスコミの行動も、不審すぎる。
手に負えない。
心が折れそうになるのを、必死に支える。
様々な写真を、それでもハリーが収め続けてくれている。戦闘タイプのアリスが、こんな事で挫けてどうするのか。
ふと、連絡が入る。
半魚人の、長老からだった。
「どうしましたの?」
「ようやく、朗報ですぞ。 スペランカー様と川背様が、フィールドを攻略! これより緊急で帰還するそうです!」
ようやくだ。
一気に状況が楽になった。
彼女たちなら、どうにかしてくれる。
圧倒的な信頼感が、アリスの心と体にかかっていた負荷を、軽くしてくれた。
戦いはこれからだ。
「指示が来次第、此方に回してください」
「わかりました。 アザトース様も、スペランカー様の帰還を聞いて、彼女に従うといってくださっています!」
「良かった」
時間稼ぎが実を結んだのだ。
アザトースが造り出したあの装置を使い出したら、一体何が起きたか。想像するのも恐ろしい。
周りの喧噪が、むしろ雑音にしか聞こえなくなりはじめていた。
それだけ、気が楽になったという事だ。
後は、この大陸の主が戻るまで、時間を稼げば、それでいい。
半魚人の長老に、再度連絡を入れる。
やっておくべきことがあった。
「記者会見の準備を」
「帰還したばかりのスペランカー様に?」
「いえ、見栄えが良いハリーさんにやっていただきますわ」
苦笑いするハリーだが。
確かに、それが一番良いだろうと、納得してくれた。実際問題、彼はアトランティスにいる人間の中では有名人で、なおかつマスコミの関係者でもあるのだ。
もう一つ、帰る前に、やっておくべき事がある。
こういった事態が起きたときの、マニュアルの作成だ。半魚人達に、ビデオカメラを廻してもらう。
マスコミ関係者の狂態を、少しでも多く、記録に残す必要が、今はあった。
4、変わる流れ
国連軍の輸送機で、スペランカーが此方に到着するまで、一日半。
ただし、その間。ホットラインをつないで、川背とスペランカーが、此方に指示を出してくれることに決まった。
会議室に出ると、既にスペランカーが、テレビ会議の向こうに顔を出している。
無骨な輸送機の内装を背景に、彼女は疲れ切っている様子ながらも、笑顔を浮かべていた。
驚くべき事がある。
半魚人達が。ミイラ男や骸骨達も。
全員が、落ち着きを取り戻しているのだ。
あれほど殺気立ち、驚き困惑していたのに。
これが、カリスマだと、アリスは思った。いるだけで、場の空気を変える力だ。
「アリスちゃん、手伝ってくれたんだね。 ありがとう」
スペランカーが、アリスに気付いたらしい。
礼を言われると、何というか。どう答えて良いか、わからない。子供でしかなかった。殆ど、何の役にも立てなかったからだ。
咳払いすると、川背が言う。
「まずは、具体的な対策について。 ざっと状況を見ましたが、フリーエフォートのメンバーの中には、明らかにアジテーターが混ぜられています。 彼らを隔離しましょう」
「なるほど」
確かに、そうだ。
半魚人達に、軽く説明する。
「要するに、フリーエフォートのメンバーは、見ている限りただの穀潰しのあつまりで、本来は気力も意欲もありませんわ。 彼らの行動に指向性を持たせるには、行動に指針を持たせ、操作する人間を混ぜる必要がありますわ」
「つまり、リーダーと」
「ええ。 彼らさえ取り除いてしまえば、他は集めていても平気でしょう」
「よし、映像解析だ。 すぐに、騒ぎを扇動しているものをピックアップしろ! 後は、音声収集魔術を展開。 周囲に指示を出しているものを洗い出せ!」
ミイラ男の戦士が指示。
すぐに半魚人達が動き出した。
記者会見についても、川背は賛同してくれた。
「僕が記者会見に出たいくらいですが、ハリーさんなら見栄えでも落ち着きでも申し分ないでしょう。 内容については……」
すらすらと、川背が案を出してくる。
アリスとしては反対する要素もない。アトラクナクアが、足を上げて、意見を出してきた。
川背が頷く。
会話に入り込む余地がなかった。
たった二人が加わるだけで。完全に場の流れが変わった。
スペランカーが全体を掌握して、川背が具体案を出してくる。
アーサーも、立場さえ違えば、川背のように動いてくれたのだろうけれど。しかし、それでもだ。
スペランカーがいなければ、こうも事態は容易く流れを変えることがなかっただろう。
アーサーと再び通信がつながった。
「おお、スペランカー殿! ようやくフィールド攻略が終わったか」
「今回はしんどかったです。 それでアーサーさんは、何か新しい情報ですか?」
「うむ。 幾つか、フリーエフォートの背後にあるきな臭い情報について、核心的なものを得られた。 すぐに転送する」
良いことは重なるものだ。
後は、港で暴れているマスコミ関係者さえ押さえ込めばいい。
「後は、アザトースさん」
「はい、何でしょう」
「貴方には、一つ奇跡を起こして欲しいのですが、よろしいですか?」
「私に出来る範囲なら、何でもいたしましょう」
相変わらずの神々しい笑顔。
有り難うございますと、スペランカーは、にこりとした。
一旦、スペランカーには休んでもらう。
話に聞くと、数日間ぶっ通しでの戦闘が行われるほど、激しい攻略だったそうなのだ。体力がないスペランカーには、さぞきつかったことだろう。
川背はホットラインを維持したまま、細かい指示を次々にくれる。
「アリスちゃんは、六時間ほど眠った後、港に出てくれる?」
「まだやれますわ」
「ううん、ここからが正念場だから、力を蓄えてほしいんだよ。 僕も何時間か、道中で仮眠を取るから」
そう言われると、従うほかない。
仮眠室があるので、其処を貸してもらう。ハリーは記者会見の準備を始めるとかで、港に戻った。
反撃開始だ。
そのためには、力がいる。
栄養剤を飲んで眠って。起き出して、戦闘準備を行う。
すでに記者会見が、始まっているようだった。
流石にマスコミは鼻が利く。記者会見を行うとなると、すぐに集まってきた。港にある大型スクリーンを使っての、野外記者会見だ。ハリーの周囲には、分厚く半魚人とミイラ男、骸骨の戦士達が、壁を作っている。
流石に騒ぐのが大好きな記者達も、これを突破する勇気はないようだった。
「すると、彼らは純粋な難民ではないというのですね」
「はい。 彼らは自分でも名乗っていますが、フリーエフォートと呼ばれるカルト的な思想を持つ集団です。 彼らは「努力」を憎悪し、「努力」から「自由」になることを目的とすると標榜していますが、実質上は単に社会的な義務である労働を放棄し、真面目に労働をする人間から利潤を吸い上げて、何もせずに生活をしようとしている集団に過ぎません」
「彼らに対して、著しい暴力が振るわれたという情報がありますが!」
「暴動を起こしかけた彼らに対して、睡眠誘発の魔術を実行しただけです。 この魔術は何度も掛けると体に異変を起こしますが、それが起こらないように、回数を制限してあります」
すらすらと、質問に対して答えていくハリー。
確かに見栄えが良いだけあって、絵になる記者会見であった。
アリスも準備を終える。
会議室に入ると、起き出したらしいスペランカーが、笑顔で話していた。相変わらず背景は、無骨な輸送機の内部だったが。
「わかった、フリーエフォートの人達は、私が説得するよ」
「助かります。 どう説得して良いのか、まったく見当もつかなかったものでして」
「要するに、彼らは社会のシステムからはじき出されてしまった、かなしい落伍者なんだと思う。 先進国ではどうしても、人間関係がストレスフルになりやすいんだよ。 だから心が弱い人達は、どうしてもおかしな思想に染まりやすくなるんだよね」
彼らを扇動している一部のものを摘出して、隔離。
その後、大半の人々については、幾つかの方針を示すのだという。
アリスにも異論はない。スペランカーなら、きっとやってくれるだろう。それに、アザトースが、一つ手を打つという。
二つが合わされば、どうにかなるはずだ。
「それにしても、困ったね。 多分この事件、背後にKさんがいるよ」
スペランカーが、スパンと核心を突く。
それについては、アリスも洞察していた。しかし、さすがはスペランカーだ。恐れる事もなく、一気に核心を踏み抜いた。
闇世界の帝王と言われる大魔王Kは以前から、たびたびアトランティスを狙っていた。
異星の邪神の脅威がなくなった今は、更にその要素が強くなっている。今回は、Kにしてみれば、軽いジャブのようなものなのだろう。
スペランカーが帰還するまで、まだ一日と少しある。
それまでに、アリスは、出来る事をやっておきたい。
アリスはすぐに港に出る事にした。
以前は港に向かう途上が憂鬱で成らなかったけれど。今はむしろ元気が出る。前線で暴れる事こそが、アリスに出来る事だからだ。
港に出ると、空気が変わっていた。
記者会見があったから、だろう。今までは明らかに無秩序が支配していた港に、ある程度の静寂が戻っている。
或いは、アトランティスが、あれほどしっかりした記者会見をするとは、誰も思っていなかったのかも知れない。
アーサーからもたらされた、フリーエフォートの背後情報についても、この沈静化の一助を担ったことは疑いない。今まで混沌を極めていた海外の報道も、この件で流れが変わったようだった。
フリーエフォートの背後には。
やはりというかなんというか、いわゆるプロ市民や急進的思想集団がいたのである。彼らの資金源の一つとなっている急進派は、先進国でもテロや社会問題にも大きくかかわっており、無抵抗な市民どころか、実際には命を盾にして揺すりたかりをする集団に等しい。フリーエフォートなどは、その急先鋒と言えるだろう。
事実、今まで上陸したフリーエフォートのメンバーに、急進派の一員として、名を連ねている者が何名もいた。その中には、国際指名手配を受けているものさえ混じっていた。
ICPOの警官が、マッピーと敬礼をかわしている。
引き渡されているのは、その指名手配犯だ。ぐったりした様子で、辺りを睥睨する元気もないようだ。
そして彼は。
扇動を主に担っていた一人であったらしい。
状況証拠から言って、真っ黒だ。
寝ている間に、川背が調査を進めさせて、すぐにICPO(国際刑事警察機構)から人員が派遣されてきたのだそうだ。ICPOは、以前は各国の警察組織の窓口的な存在であり、実質捜査官を持たない組織であったのだが。五年前から、捜査員を有するようになり、今では千人ほどが各国をまたに活躍しているという。
マッピーが情報をICPOと交換する様子である。
これで、更に穀潰しどもの中に混じっている異分子が、あぶり出されるだろう。
不意に、喚きながら暴れはじめるフリーエフォートの男。
アリスが至近に飛び込むと、男に向けて、重力子を叩き込む。地面に叩き付けられた男は、動かなくなった。
「有り難うございます、アリス殿。 助かりましたのであります」
「何か暴れられる場所はありませんの?」
「そうですね、それならば。 新たに上陸したフリーエフォートのメンバーを選別するのに、手こずっている様子なのであります。 彼らを静かにさせるのを、手伝って貰えませんでしょうか」
「お安い御用ですわ」
今までの鬱憤、十倍にして返してやる。マッピーも相当腹に据えかねていたらしく、アリスが暴れるのを止めなかった。
無力を武器に、己の命を盾にしていた連中が。実際は無辜の民などではなく。その背後にあるからくりもばれてしまった今。
容赦などしてやる必要は、みじんもなかった。
倉庫に入ると、ぎゃあぎゃあと騒いでいる連中。
最後に来た、百名ほどのフリーエフォートのメンバーだろう。睡眠の術式を展開しようか迷っていたらしい魔術師を制止。
そして、地面に。
重力を数倍にして、叩き込んだ。
一斉に、騒いでいた連中が黙り込む。
悲鳴を上げて、地面にへばりついているフリーエフォートの者達。既にマスコミは、あの記者会見で、此方への偏見報道をストップしている。
アリスは、蛙のように地面にへばりついている穀潰しの間を歩きながら、演説するように話す。
口調も、高圧的そのものだ。
「これから、貴方たちの中にいる、急進派、過激派から派遣されてきたアジテーターをあぶり出しますわ」
重力が穀潰し共を拘束する中。
ICPOのメンバーが、どやどやと入ってくる。
国際指名手配犯はその場で逮捕。百名ほどの中に、二人混じっていたそうである。
「法の保護を!」
無様に懇願しながら、連れて行かれる粗末な身なりの男。
彼はE国で爆弾テロを起こした、筋金入りの過激派だ。何が努力からの自由だ。呆れてものが言えない。
マッピーが来る。
彼は元々ロボットだ。ICPOからもらったデータを、既にインプット済み。
整形していても、即座に元の顔などを見抜くことも出来る。更にマッピーが一人を追加で発見。
明らかに、恐怖に包まれている群衆。
さっきまでの威勢の良さは、何処へ消えたのだろう。
「まだ扇動役が混じっているかも知れませんわ。 とりあえず、この一団はまだ隔離しておいた方が良さそうですわね」
「なるほど。 わかりました、しばらく様子を見ます」
半魚人達も、流れが変わったことは、敏感に悟っているようだ。
今までの困惑はなりをひそめて。今では、すっかり戦士としての風格を、取り戻していた。
一通り騒ぎが収まってきたところで、海外における今回の事件の報道をチェックしていく。
やはり、スペランカーが言うように。Kの手が回っているとしか思えない状況で、報道合戦が行われていた。
難民がアトランティス国に、多数押し寄せ。しかも、非人道的な扱いを受けて、多数の死者が出ている。
そう報道していたのは、J国の主要紙だ。特に左寄りの新聞は報道偏向が激しく、百人以上の死者が出たなどと、扇情的に記事を書いている。残虐なアトランティスの支配者達は、人肉を好んで喰うなどとも。
他の先進国の主要紙でも、この事件を取り上げている。
異星の邪神との戦いが一段落して、各地の紛争も収まりつつあり、情報に飢えていた、という事もあるのだろう。
だが、記者会見を境に、流れは変わった。
J国の左よりの新聞をはじめとして、それでも偏向報道を変えないものもあったが。多くが記者会見を取り上げ、同時にフリーエフォートを糾弾する記事を書く新聞も現れ始めていた。
しかし、である。
フリーエフォート側も反撃を開始している。
彼らはインターネット上にシンパが多く、主にSNSなどを利用して、情報拡散を開始。アトランティスに対する中傷や、飛ばし記事を多数展開、拡散することで、印象操作を狙っていた。
特に新聞をはじめとする主要メディアが信頼を失っている幾つかの先進国では、こういったネット上での活動が、大きな意味を持ってきている。
ただ、ネット上での記事が信頼度に欠けることは、この「祭」に参加している者達も承知している様子であった。
実際にアトランティスに上陸したフリーエフォートメンバーから、極左組織出身の人間が逮捕されているという情報が流れると、事態は沈静化に向かっていった。更にとどめとなったのは、展開された写真の数々。
蛮行の限りを尽くすマスコミ関係者と、実際に逮捕されたフリーエフォートの面々。インターネット上では、すぐに情報特定が行われる。完全に一致と、方々で声が上がった。騒ぐのが好きな連中も、こう確たる証拠を見せられると、黙り込むほかなかった。フリーエフォートは陰謀だと公式声明を発したが。極左出身のメンバーが数年前からフリーエフォート内で活動していたことが、今度はインターネット側から証拠写真として上がってくると、サイトをメンテナンスと称して凍結。
ハリーの写真が、此処で生きてきたのだ。
川背の指示で、半魚人達が必死にPCに向かっている。
アリスは半魚人達をサポートしながら、時々港に出向いて、暴れる輩を抑えるだけで良くなっていた。
スペランカーが到着するまで、後半日。
状況は好転したが、まだ敵がこの程度で諦めるとは思えない。
会議が行われるという事で、アリスも会議室に出向く。ハリーは激務をこなした後で、仮眠を取っていた。
川背も激務の筈だが、彼女の顔に疲れは見えない。数日間の死闘をこなした上に、その後これだけ頭を使って、よく判断力を落とさないものだ。
現在、戦闘タイプのフィールド探索者の中でも、上位に食い込んでくるとさえ言われる力量を得ているとは言え。それでも、限界はある。
川背はずっと先を行っている。
知略でも武力でも、今のアリスが及ぶ相手ではない。
アリスとしては、羨ましいと思うと同時に。
時に悔しいとも、感じさせられる相手だ。
「おそらく、そろそろ次の手を敵が打ってくると思います」
川背が、長老達に言う。
アリスも同意見だ。
Kが背後にいるのなら、この程度で屈するはずがない。
「しかし、相手の情報戦はひとまず封じましたしのう。 川背様は、どのように、相手が手を打ってくるとお考えで」
「まずは、隔離しているフリーエフォートメンバーに、本国からの情報が行かないようにする事が急務でしょう」
「何故にです」
「僕がKならば、自爆させます。 周囲のメンバーを巻き込めば、アトランティス側が大量虐殺をしたと彼らは騒ぎ立てるでしょう。 そして実際に多数の死者が出ることで、一気に事態は彼ら有利に傾く。 僕達は虐殺者扱いというわけです。 今、扇動者達と引き離したフリーエフォートの人達は、ひとかたまりにしていますが。 彼らが爆発に巻き込まれたら、敵の思うつぼになります」
一気に、周囲が緊迫した。
咳払いすると、川背が説明していく。
元々フリーエフォートメンバー、しかもアトランティスに来ている連中は、社会からはじき出され、ドロップアウトした者達だ。彼らに共通しているのは、現行社会への絶望と憎悪である。
目の前に死を突きつけられれば、怖れもする。
元々が、脆弱な精神なのだ。殆どの者達が、本来は人外の力を持つ半魚人やミイラ男、骸骨の戦士達を見ただけで、すくみ上がるだろう。
だが、こういった者達は、洗脳が極めて容易でもあるのだ。
彼らは一種のマインドコントロールで、こう仕込まれている。
努力をしなくても生きていける社会は、目の前にある。
神にすがれば、それがかなう。
かって、多くのカルトが、同じ手法で、信者を増やした。社会に対する不満が極限まで育ち、未来への希望が失われた国で。
カルトが勢力を伸ばすためには、それが最善だったのだ。そう、川背は告げた。
彼女の分析は実に優れている。そこまでアリスは分析できない。この人は、本当に料理人か。ただの戦士か。舌を巻く思いだ。
好きな人がいて。支えたいと思って。
それで、果てしない努力を積み重ねて。此処まで来たのはわかる。
アリスは努力で才覚の差を埋めてきたタイプだ。川背のこの成長は、同じように努力で為された。アリスも努力を欠かした覚えはないが、どうしてこれだけの差が生まれた。理由は、一つしか考えられない。おそらくモチベーションがあったからだろう。
彼女はスペランカーに出会うまで、極めて孤独な生き方をしていたと聞いている。だからこそに、はじめて出会った全幅の信頼を寄せられる相手のために。己の全てを、磨き上げることが出来たのだろう。
「爆発のタイミングは、おそらく外部からの指示で行うでしょうね」
「す、すぐに魔術で電波遮断を!」
長老が慌てて部下達に指示。
数名の部下が、会議室を飛び出していった。
問題は。
爆弾か何かを持ち込んでいるとして、それを起爆するタイミングだ。体内に爆弾を隠している場合が、一番厄介だろう。
誰が、爆弾を持っている。
その爆弾を、起爆する方法は。
魔術系なら、むしろ簡単だ。専門家達が、此処にはいくらでもいる。つまり、魔術系の爆弾を、体内に仕込んでいるとは考えにくい。
「私が行きますわ」
「かなり危険な任務になります。 気をつけてください」
「最悪の場合、爆発を最大出力の重力で、地面に押しつけますわよ」
ダイナマイト程度だったら、それで完封できる。
アリスも、異星の邪神と戦って来た能力者なのだ。
車を出してもらう。
途上で、アーサーに連絡。体内に隠せる爆弾を、ピックアップしてもらうつもりでの連絡だ。相談すると、彼はジョーを紹介してくれた。
ワンマンザアーミー、スーパージョー。
確かに彼なら、爆弾については、誰よりも習熟していそうだ。ただ少し苦手なのである。絵に描いたような軍人的な雰囲気で、堅物そうで。同じように堅物のノブリスオブリージュに染まったアリスとは、相性が悪そう。
だが、そうも言ってはいられない。
連絡を入れる。
何度かかけ直して、ジョーはようやく出た。電話に相手が出たとき、緊張した。だが、ジョーの方は、どうしてアリスが電話をして来たのか、悟っているようだった。
国際電話だから、電話代が高いが、文句は言っていられない。
用件を手短に伝えると。ジョーは、少しだけ考え込んだ後。爆弾を、リストアップしてくれた。
「体内に隠せる爆弾は多いが、周囲の人間を多数殺傷し、なおかつ任意のタイミングで爆発させるとなると、条件は限られてくる」
「と言うと?」
「おそらく、手術で埋め込むしかない。 話を聞く限り、船でアトランティスに出向く直前に、外科手術で埋め込んでいるはずだ。 体への拒否反応も大きいだろう。 そうなってくると、恐らくは相当念入りに洗脳を行っている人間に対して行っているだろうな」
なるほど。
扇動者達以外にも、忠誠度が高い駒を隠している、と言うわけだ。
礼を言って、電話を切る。
状況から考えて、一人だけに埋め込んでいるとは考えにくい。船に一つずつだとすると、最低でも四人は。爆弾を体に文字通り抱え込んだまま、アトランティスに来たと言うことか。
神殿の一つに到着。
今は、無人になっている、異星の邪神の神殿の一つだ。ギリシャ様式だが、地下に深く空洞があり、其処にフリーエフォートの者達を収容している。地下に六百人ほどがいるから、爆発が起きても、地上には影響が出ない。しかもこの神殿、ダイナマイトを仕掛けた程度ではびくともしない。
アトランティスの民を害さないための措置だ。
地下の空間に降りていくと。
今までとは打って変わって、しゅんとしているフリーエフォートの連中が、座り込んでいた。
既に電波を遮断する魔術防壁が展開されている。
もしも爆弾を爆破するなら、遠隔では駄目だ。
医師も来ている。
アトランティスに赴任したばかりの、若い黒人の男性医師だ。以前紛争地域で、スペランカーともう一羽、鳥のフィールド探索者の奮闘によって病院に医療物資が届けられたことがあるとかで。今は此方に働きに来てくれている。
診察をしていた彼を呼び止め、連れて行く。
爆弾の話をすると、彼は青ざめた。
「なんと非人道的な……!」
「体調を崩している人物は」
「三人、不自然な体調不良になっている人がいます。 危険物はあらかた取り上げてしまっているので、自殺の危険はないと踏んでいたのですが」
眠りの魔術は、もうかけられない。
人体への影響が大きすぎる。しかし、此方が妙な動きをすれば、爆弾を抱えている者達は、一気に行動を起こす可能性が高い。
扇動していた者達が連れて行かれたことで、別の生き物のようにおとなしくなっているのは救いか。
本当に、扇動する者がいないと、何も出来ないのか。
「おそらく、もう一人いますわ」
「わかりました。 全員の体調管理を徹底します」
それと、もう一つ、今のうちにやっておく。
さきに川背にアドバイスをもらったのだが。全員の顔写真をとり、経歴を洗い出す。その経歴が、既にデータベースに上がって来ている。
携帯からアクセスして、怪しそうなものをピックアップしていく。特にフリーエフォートに傾倒している年月が長い奴が怪しい。
更に、関係者とコンタクトが取れそうな者も探していく。
身体検査を進めていくと、一人。
妙な動きをしている者が見つかった。どうやら、四人目らしい。しかし、これは最低限の数値。
まだいる可能性は否定出来ない。
難しい作業だ。全部を特定した上に、一斉に抑えなければならないのだから。レントゲンを使えば一発なのだけれど。おそらくレントゲンにかけると言った瞬間、彼らは自爆をはかるだろう。
眠っている間にレントゲンに掛けておけば良かった。だが、それも後の祭りだ。
情報を精査して、もう二名を割り出すまで三時間かかった。
やはり四人以上が潜んでいたか。戦士達にも声を掛けておく。最悪の場合は、アリスが重力を全力で叩き込んで、周囲を巻き込んでの自爆だけは阻止する。しかしその場合も、自爆した人間が死ぬのは阻止できない。そもそも、自爆と同時に車に踏みつぶされた蛙のようになって即死だ。
合計六人を、どう同時に拘束、起爆させないようにして無力化制圧するか。
それが問題だが。
意外な方向から、解決案が出た。
半魚人の戦士達が、挙手する。
「我々が、動きを拘束する魔術を使えます。 眠らせることはないのですが、一瞬で硬直させ、そのまま停止させることが出来ます」
「そんな事が出来ましたの」
「石化の応用です。 二時間ほどしか使えませんが」
「頼みますわ」
タイミングを合わせる。
全員が散った。アリスは最悪の事態に備えて、何処でおかしな動きがあっても対応出来るように、能力展開の準備。
時計は全員で合わせてある。カウント開始。5、4、3、2、1。
停止。
一斉に、半魚人の戦士達が。爆弾を抱えている輩を取り押さえた。更に、アリスが周囲を睥睨している中、担架が運び込まれる。医師が、声を張り上げた。
「急病患者が出ました。 すぐに運び出すので、動かないで」
完全に硬直している自爆要員を連れ出す。
更に、他のフリーエフォートメンバーも、ボディチェックしていく。不自然な手術跡が必ずあるはず。
緊張の瞬間だ。
だが、どうにか、取りこぼしはなかったらしい。
後は外科手術で爆弾を取り除くだけ。アリスが睥睨している中、怯えきった「難民」が、声を掛けてきた。
だらしない体型をした、中年手前の男だ。
目には卑屈な光があった。
「な、なあ。 俺たちはどうなるんだ」
「扇動役がいなくなったとたんに、随分卑屈になりましたわね」
J国の言葉で聞かれたので、N社から支給されている電子手帳で返答してやる。困惑している様子の相手に、ため息をつく。
アリスの父親ほどの年なのに。この卑屈さは、むしろ気の毒になってくる。
「これから、この国の主が帰還します。 彼女に聞いてくださいまし」
「神様は……救ってくれないのかよ」
「さあ」
本当は。救おうとしたのだ。彼女なりのやりかたで。
だが、そのやり方を聞けば。まともな判断力を失っている此奴らは、飛びつきかねない。敵の狙いはそれだ。
スペランカーが言うように、今回の件には、背後にKの影がちらついている。
奴の目的は、アトランティスの致命的な国際イメージダウン。そうして国際社会から孤立させ、侵攻時の抵抗を容易に排除することが目的なのだろう。それは、Kが背後にいる時点でわかっていた。
スペランカーが戻るまで、あと少し。
外科手術と、爆弾の取り出しが成功したと、しばしして連絡があった。
さて、これでそろそろ攻防も大詰めだ。
アリスの不安感は。いつの間にか、綺麗に消え失せていた。
5、自発努力
国連軍の輸送機が空港に到着し、スペランカーが姿を見せると、アトランティスの者達は喚声を挙げた。
無理もない。アリスから見ても、ここしばらくの苦闘は、悲惨極まりなかったからである。戦闘が実際に行われたわけでもないのに、これほど追い詰められるなんて、誰が考えただろう。
国際的イメージの死守。
それがこうも大変だとは。
川背とスペランカーは、数日にわたる死闘を終えて、ほぼ休んでいないにもかかわらず、すぐに作業に取りかかってくれた。
もっとも、川背はリモートで遠隔ログインして自分用のPCを操作していたらしく、ほぼ状況を完璧に把握していたが。ヒアリングを受けたが、それもごくスムーズに完了した。
「爆弾を取り出す手術は、録画してありますね」
「ええ、勿論」
「すぐに全世界に公開してください」
「わかりました」
半魚人達が、作業に取りかかる。
川背はてきぱきと作業を進めていく。アリスはもうこうなると、やる事がないかも知れない。
スペランカーはと言うと、おそらく輸送機内で、どうするか入念な打ち合わせをして、終えていたのだろう。
まずはアザトースと話を始めていた。
「彼らが苦しんでいるのは事実です。 どうにか救ってあげて欲しいのですが」
「うん、それはどうにかしてみる」
「最悪の場合は、私が何でもしましょう」
「頼りにしているね」
アリスが手招きされる。
一緒にフリーエフォートの者達が収容されている神殿に向かうというのだ。骸骨の運転手が操る4WDに乗り込むと。
ようやく、スペランカーは疲れが残っていることを、見せてくれた。
「やはり、疲れていましたのね」
「うん。 今回のフィールド、とにかくきつかったんだもの」
スペランカーの話によると、恐ろしいモンスターがいるタイプではなく。とにかくトラップがたくさんあって、突破するのに神経をすり減らし、なおかつ時間が掛かってしまうものだったそうだ。
何回押し潰されて、ミンチにされたかわからない。
そう、スペランカーは苦笑いした。
彼女は貧弱な身体能力と頭脳でありながら、フィールド探索者としては絶対生還者の二つ名を持つ。
彼女の身を覆う、不老不死の呪いが、それをなしえている。死んだ場合は周囲から、悪意ある攻撃で体を欠損した場合は攻撃者から、自動的に損失部分を補填する。更に十代半ばの年齢固定。
その代わり、身体能力と頭脳が、著しく低下する。
本来のスペランカーは、非常に聡明で、身体能力も高かったのではないか。そう噂もされるけれど。
普段の彼女は、膨大な苦労を経て誰もがひれ伏すカリスマこそ得ているが。おっとりした、ごく優しい女性に過ぎない。頭も良いとは言えない。
ただ、誰ともコミュニケーションを試みる。
そして異星の邪神さえ、何柱も従えてきたのだ。不可能とさえ言われた、アザトースでさえ、その中に含まれている。
その偉業は、アリスでも脱帽するほかない。
神殿に到着。
アリスは、スペランカーの側について、一緒に神殿の中に入る。地下へと降りていくと、すっかり消沈しているフリーエフォートのメンバーが見えた。
彼らには、爆弾を抱えた連中が混ざっていたことを伝えてある。
その意図も。
利用されたのだと、此処にいる誰もが知っている。だが、どうしていいのか、わからないのだろう。
半魚人の戦士達が敬礼する中、スペランカーはスピーカーを受け取った。
少なくとも、大勢の前に出るときは。彼女は疲れを隠すことくらいは、できるらしい。
「あーあー。 スペランカーです」
一斉に、粗末な服を着ているフリーエフォートの者達が、スペランカーを見た。
彼らでさえ、知っているのだろう。
スペランカーがアトランティスの事実上の代表である事は。そればかりか、生殺与奪を握る存在である事も。
スペランカーがその気になれば。下手をすれば、人知れず、葬られてしまう可能性さえあることを。
「アトランティスへようこそといいたいですけれど、今のままのみなさんを歓迎することは出来ません。 亡命申請を出してもらっていますけれど、それでも同じです。 みなさんの身元は既に調べてあります。 送り返すことは、出来ます」
絶望の呻きが、フリーエフォートの者達から上がる。
スペランカーは、気にした様子も無く、続ける。
「ただし、フリーエフォートから脱退していただけるなら、話は別です」
アリスは、車中で用意していたプロジェクターを付ける。
薄暗い地下空間に、鮮やかな緑の草原が浮かび上がった。
「今、アトランティスは、多くの人手を必要としています。 努力すればするだけ、成果を実感できる場所です」
草原が、荒野に切り替わる。
毒沼にも。
「手つかずの荒れ地がたくさんあります。 戦いの果てに、荒野になってしまったり、毒の沼地になってしまったり。 少しずつ豊かな土地に変えていますけれど、それも今の人口では限界があります」
まだ、小さな建物しかない、港の周辺。
朽ちたままにされている神殿。
幾つも、人手が足りずに、放置されているものがある。
「努力を、してみませんか? 行き詰まった先進国の社会で、皆さんが苦しみ続けたのは、私も知っています。 私だって、先進国の生まれです。 親に虐待されて、ネグレクトの中で何度も何度も餓死しました。 皆さんの悲しみは、わかるつもりです。 だからこそ、皆さんに問います。 いいんですか、このままで。 努力をしないというのは、何一つ、自分で出来る事は無いと言うことです。 食べ物も住むところも、誰かの努力で得られたものを、横から分けてもらっているだけ。 それはきっと、皆さんが憎んだ、親の財産だけで好き勝手をしている先進国の支配者階級と、悪い意味で同じ事をしているだけですよ」
うめき声が聞こえた。
何もかもを否定された、心の痛みの声だ。
スペランカーは、なおも続けた。
「今、アトランティスには、人手が足りません。 スキルも学歴もいりません。 ただ、意欲さえあれば充分です。 半魚人やミイラや骸骨の戦士達は、みんな無骨ですけれど、少なくとも差別はしません。 みんな姿が違うからです。 ちょっと肌の色や喋る言葉が違うだけで、ましてや「コミュニケーション能力が不足」しているだけで差別された場所と、此処は違います」
困惑気味に、顔を見合わせるフリーエフォートのメンバー。
アリスは、彼らが帰る場所などない事は、知っている。
働かない。
家族や国に寄生するだけの生活。
そんな事をしていて、帰る場所なんて、ある筈がないのだ。
たとえば、自分の家族が。何も働かず、好き勝手な事をいって、自分の稼ぎを食い潰し続けて。良い思いをする者がいるだろうか。
子供の頃は、将来に備えて学問をするのが仕事。
それさえもせず、家で惰眠を貪るだけの者が、親に良く想って貰えるだろうか。
努力を強要する風潮は、確かに良くないかも知れない。
しかし努力を全否定することは。それ以上の害悪だと、子供であるアリスにさえ分かる事だ。
この人達は、何処で間違えてしまったのだろう。
ストレスフルな現在社会に苦しんでいたことは同情する。しかし、野生の獣が自分で何かをすることを怠れば、即時の死が待っている。社会性を持つ動物の一部には、怠けている個体がいるという話をアリスは聞いたことがあるけれど。それでも身を隠したり、周囲に警戒する最低限の行動を取らなければ、瞬く間に外敵に襲われて喰われてしまう。
彼らが生きてこられたのは。
人間社会に、手厚く保護されていたからなのだ。水も食べ物も着るものも、何もかも人間社会のインフラによって供与されている。それが顕著になるのは発展途上国だ。インフラが整っていない国の生活が如何に悲惨かは、アリスも知っている。
現在社会には矛盾だって多い。
特に先進国は、こんがらがった社会的構造のおかげで、身動きできなくなっている部分だって多いのだ。
スペランカーは、黙り込んでいる人達の前で、言った。
「一緒に荒野を耕しましょう。 手を動かして、何かを作っていきましょう。 ただそれだけで、アトランティスは、皆を受け入れます。 勿論作業をしている間は苦しいですけれど。 その先には、貴方たちの居場所がありますよ」
力仕事が出来なくても。
掃除、洗濯、炊事。何でも、人手が足りていない。
魔術で補うこともしているけれど、それも限界がある。
勿論、専門のスキルを使える人は、それだけで歓迎だ。
「インターネットでの、様々な情報収集が得意。 それだけでも充分です。 正直、無骨な半魚人の人達の中には、ネットに触るのはもういやだって言う人も多いんです。 彼らの代わりに、情報戦を担ってくれれば、喜ぶ人はたくさんいます」
生気を取り戻したように、顔を見合わせる人達もいた。
太っていたり、がりがりだったり。とても健康的な生活をしたとは、思えない人々だ。
「今すぐに、動けとはいいません。 次から、働きたい人を、募集します。 その時に、声を掛けてください」
「ま、待ってくれ!」
一人、目ばかりぎょろりと大きい男が、手を上げた。
吃音気味らしく、発音が少しおかしい。或いは、トラウマで後天的に吃音になったのかも知れない。
「お、俺は、今働きたい! い、家とか、くれるのか」
「ええ。 此処では家を作るのは格安ですから。 それに、労働も過酷には成らないよう、調整します」
「ほんとうか! お、おれ、軽食チェーン店の名ばかり店長してた! ブラック企業で、ひどい扱いされて、もう仕事は散々だった! い、いえくれて、めしもくえて、休めて、周りからも悪く言われないんだったら!」
「わ、わたし、掃除だったらできる!」
誰も、フリーエフォートを裏切るのかと、言い出さない。
わいわいと、仕事が欲しいと言い出す人が出ると、多くがそれに続いた。何も出来ないという人も、いた。
何も出来ないと言っても、それは先進国の基準だ。
たとえば荒れ地の石を取り除く。それを運ぶ。働いている人に食事を配る。洗濯をする。そういった作業でさえ、今は人が足りていない。
それにしても。
一瞬で空気を変えるスペランカーは、凄まじいとアリスは思った。
仕事を手配していく半魚人達が尊敬のまなざしで見ているのもわかる。多分同じ事をアリスが言っても、誰も話など聞きはしなかっただろう。
どうやら。
Kのもくろみは、完全に失敗したらしい。
そうアリスは、悟った。
アリスは結局あまり手伝うことは出来なかったけれど。事態は、これを機に解決した。
フリーエフォートの面々は、働き始めている。そして、アザトースが一つだけ、奇跡を起こしてくれていた。
食糧の大量生成である。
一カ所の畑の作物を、急速成長させたのだ。それによって、六百人が当分食うに困らないだけの食糧が確保できていた。
畑にあまり良い影響が出ないからこれきりという話だが。フリーエフォートだった者達は既に働き始めており、来年以降はそのマイナスを取り返すことも出来るだろう。
神殿に戻ったアリスは、紅茶を出されたので飲み干す。川背が淹れてくれたのかと思ったのだが。なんとコットンである。
「お母さんに飲んで欲しいと思って、練習していたの」
はにかんでそう言うコットンには、まだまだだとか、厳しいことは言えない。どうせ川背が滅茶苦茶厳しく仕込んでいるのは目に見えているのだ。美味しいとだけ言った。事実、そこそこの腕前で、決してまずくはなかった。もっと向上の余地はあるけれど、それは川背に聞けば良い。
紅茶を飲みながら、しばらくゆっくりする。心労の回復には、少し時間が掛かりそうだった。
完全に作戦を失敗したと悟ったらしいKは、それ以降手を打ってこなかった。しばらくして、アーサーからの情報で、フリーエフォートが潰れたと、アリスは聞いた。
複数の国で、同時に警察の手が入ったそうだ。
薬物の販売や洗脳、信者からの搾取。しかも今回の、Kの手先となっての暴虐。警察が手を入れるのは、充分な理由が揃っていた。
早く大人になりたい。
今回、アリスは特にそう思った。
自分に比べて、スペランカーは圧倒的に凄い。
学習能力も低い彼女が、彼処までカリスマを磨き抜いたのは、勿論備わっていた素質もあるのだろうけれど。凄まじい修羅場をくぐり抜け、絶望的な戦力差の相手とも屈せず戦い、己の力を磨き続けたからだ。
努力とは、トレーニングのみを指すのではない。
案の定、フリーエフォートを脱退した者達は、最初から意欲十全に働けたわけではなかったけれど。
スペランカーが、長い目で見てくれと、アトランティスの者達に指示を出している。中には、気力を取り戻した途端に、今までの怠惰を取り戻すように働き始めている者もいるらしいし、先は開けているのかも知れない。
結局アザトースは、またアトランティスの深部へと戻った。
ただ、今後はその凄まじい魔力を生かしてもらう時が来るかも知れないと、スペランカーは言っていた。
一瞥したのは。アザトースが造り出した、円筒状の機械。
彼女は、言った。何ら、表情を変えることもなく。
「この機械は、内部で栄養物質を自動で培養します。 また、特殊な波長の電磁波を内部に放出します。 これに、働きたくない、努力もしたくない人を収納します。 そうすると、収納された人は、何ら苦痛を感じることもなく、栄養で生体維持されながら、この世の快楽の全てを見ることが出来ます」
しかし、快楽には、人間それぞれに上限値があると言う。
その上限を振り切ってしまうと、或いは使い果たしてしまうと、人の心は死ぬ。そして体も。
アザトースがそう言う。ならば、きっとそうなのだろう。何しろ彼女は、本当の意味での神様なのだから。
「快楽を使い切った人は、そのまま命を落とします。 命を落とした人はその場で栄養物質に還元されて、大変に栄養価が高い肥料となります」
なんら社会に貢献しようとしない人でも。
これで、貢献することが出来る。
みんな幸せになれる。
社会の底辺で鬱屈している人は、圧倒的な快楽の世界で、死ぬまで夢を見続けることが出来る。
周辺の人は、彼らを養わずにすむ。何しろ、全自動で、生命維持と、死んだ後の処置を行ってくれるのだから。
アザトースはそう言った。
そして、彼女は断言した。これこそが、皆が幸せになれる方法だと。
頭を振る。
何ら苦痛のない解決方法が、このようなディストピアめいたものだなんて。SF作家達が知ったら、驚喜することは間違いない。
スペランカーと川背に挨拶したら、帰ろう。
そう決めて、席を立つ。
早く、大人になりたい。
大人になるには、努力を重ねる必要がある。勉学も、戦闘経験も。いくらでも積み上げる余地が、アリスには残っている。
今は及ばないことがはっきりした。
だが、いずれは。
輝くようなカリスマが、人々を導く様子を、アリスは確かに見たのだ。あの怠け者の穀潰しどもが、餌に吊られた部分はあったとは言え、自分から働くと言い出したのである。
いつか、アリスだって。あれに迫る偉業を成し遂げたい。
携帯電話が鳴った。
E国から。N社の営業が、新しい仕事が入ったから、戻ってこいと連絡を入れてきたのである。
アリスは帰ることにした。
今は、少しでも。未来に向けて歩くべき時。
世話になった人達に礼をして。そして、アトランティスを出る。
また、此処に戻ってこよう。
そう、アリスは、確かに心の中で誓っていた。
(終)
|