幻想郷の食事事情

 

序、食の宴

 

幻想郷。それは外の世界から隔離された理想郷。

妖怪は人を襲い。

人は妖怪を恐れ。

そして勇気をふるって妖怪を退治する。

そんないにしえのルールが残っている最後の楽園の一つ。

だが其処でも畜産業は行われているし。

大半の妖怪は人間を本当に喰らう事は無いとはいえ。

動物から妖怪になったばかりの者は本当に人間を襲って喰らったりするし(その後専門家に退治されるが)。

昔は人間を本当に喰らっていた妖怪も存在している。

幻想郷で一番危険なのは。悪戯の加減が分かっていない人格をもった自然現象である妖精と。妖怪に成り立てで幻想郷のルールを理解していない最下等の者達。それに、知能を持たず習性のまま害を為す妖怪だ。

その認識は、ほぼ間違っていない。つまるところ、人型を取る事が出来。知能を持っているような妖怪は、人を食うことは実際にはまず無い。

だが、それでも。

喰う喰われるの関係が存在しているのは事実なのだ。

多数の生き物がいる以上。

食物連鎖は存在している。

人間と妖怪はその食物連鎖には普通は組み込まれていない。

名目上人間を喰らう妖怪が存在している事にはなっているが。

あくまでそれは名目上。

だが、たまにはそれに反する事例が起こったりもする。

幻想郷の管理者階級である「賢者」と呼ばれる妖怪の一人。八雲紫は、今日も念入りに幻想郷を見回り。

ルールを犯す者がいないかをしっかりチェックしている。

幻想郷はもし争いになったら勝ち目が無い外の神々からも監視されているし。

何より均衡が崩れるとあっという間に瓦解してしまう悲しい場所でもあるのだ。

かといって平和すぎると乗っ取られる可能性もあり。

以前実際に吸血鬼異変という大惨事で乗っ取りが起こり掛けた事もあって。

今では、複数の勢力が睨みを利かせあい。

かといって、全面衝突もしない。

そういう風に、紫は誘導していかなければならないのだ。

それでいながら、自身は得体が知れない大妖怪を装うために、あらゆる小道具をフル活用しなければならないので。

紫の負担は尋常では無かった。

今日は紫は、珍しく自身の目でパトロールするべく、ふよふよと空を飛んでいる。

管理者階級の妖怪と言っても、必ずしも絶対的最強では無い。

単純な戦闘力で言えば上の存在は何体もいるし。

他の賢者も仕事をしないとは言え、いざ動き出すと非常に面倒くさい事になる。

それらを考慮しなければならないため。

よそ行きの仏頂面で浮いていながらも。

面倒くさい。

嫌だなあ。

早く帰って寝たい。

などといった思考が、紫の脳内を絶え間なく駆け巡り。そして思考の大半を支配していた。

脳の処理能力が人間の比では無いので、それでも問題は無いのだけれども。

ふと気付く。

そして、ひょいと避けた。

もの凄い勢いで、必死な顔の妖怪が、文字通り脇目もふらずに飛んでいった。

「狭い幻想郷、そんなに急いでどこに行く……」

ぼそりと呟くと、紫は周囲を見回す。

今の妖怪は、ミスティア=ローレライ。

夜雀と呼ばれる種族の妖怪で、人間を狂わせる歌を歌い。また人間を鳥目にする能力を持っている。見かけは背中に翼がある以外は、鳥をあしらった服を着ている人間の女の子、くらいにしか見えない。

それら要素を活用すれば人間を殺傷することは容易だが。

実際には人間を襲った場合確実に仕置きされるし、喰らった場合は下手すると封印される。悪質な場合は幻想郷のスラムとも呼ばれる地底送りで二度と幻想郷には戻っては来られなくなる。ましてやミスティアは能力の危険度から目をつけられており、博麗の巫女も時々影から監視している。馬鹿な事はやりようがない。

勿論それでも危険な能力を持っている事には代わりは無いので。

人間の里では凶悪妖怪扱いされているミスティアだが。

実際には生活費を捻出するためにうなぎ屋の屋台を引っ張ってお金を稼いでかつかつの生活をしており。

更に強豪妖怪達が面白がって屋台に来るため、毎日の仕事でストレスをため込んでいるらしく。

色々と気の毒になる。

さてそのミスティアが全速力で逃げていった。それも屋台も放置して、となると。

余程の相手が来たと言うことか。

気付くと、ふよふよとマイペースに飛んでくる人影。

冥界の姫君。西行寺幽々子である。

幻想郷とも近い場所にある、死者が向かう先の世界、冥界。

其処の管理を任されている存在だ。

パジャマのようなゆったりとした服を着た、穏やかそうな女性で。手には扇を持ち、髪の毛は美しい桃色である。

種族としては、実体をもった霊的存在である「亡霊」であり。触ることも出来るが、死者である事に代わりは無い。幻想郷では幽霊と亡霊は別物なのだ。

非常に古い存在で、亡霊としても千年以上の時を経ている。そして生前の幽々子は紫の親友でもあった。

つまり幻想郷が出来る前からの紫の親友であり。

古くからの盟友でもある。

亡霊になると生前の記憶が失われる場合があり、幽々子はそのケースなのだが。

それでも今でも仲良くやっている。

なお、亡霊は相手を死に近づけるという危険な能力を持っているため、滅多に人里には近付かない。幽々子もそれは例外では無い。自分が死んだ自覚が無い亡霊は希にいて、性質上害を為すため、発見次第即座にあの世に送られる。

幽々子はたまに博麗神社などの要所に姿を見せることはあるが、滅多に冥界から出る事がない。これは幽々子の能力が亡霊の中でも特に強力で、相手を任意で即座に死に至らしめる、からである。

なおマイペースな反面相当に頭が切れる存在で、紫とはツーカーの仲である。この辺り、生前から相性がとても良かったのだろう。

たまに二人きりになると、紫は幽々子に愚痴を言ったりするのだが。

それが出来る相手、という事でもある。

ある意味、紫には珍しい相手という訳でもある。基本的に、紫は他人に素顔を見せる事はないのだが。

幽々子は数少ない例外だ。

「あらー、紫。 こんばんは」

「こんばんは。 冥界の姫君がどうしたの、幻想郷に直接来るなんて」

「美味しそうな小鳥を見つけたから、追いかけてきたのだけれど、見なかったかしら」

「ああ、そういう……」

それで全てを察した。

幽々子は常識外の健啖家として知られていて。彼女が住まう屋敷である白玉楼のエンゲル係数が70%を下回ることが無いという。それも高級品ばかり食べているわけでは無く、ごく当たり前の食材ばかりなのに、だ。

そして今幽々子が言っていた美味しそうな小鳥というのは。

前から美味しそうと言って追い回している、あのミスティア=ローレライに間違いない。

以前月の民が関わった異変の時に、幽々子が「食べ損ねた」らしく。

それ以降、執拗に狙っている様子だ。

妖怪は肉体を破損しても死なない。

精神が死なない限りは蘇る。

だが流石に、食われるのは怖いしいやなのだろう。

たまに姿を見せる幽々子を、ミスティアは心底怖れているようだった。

「あまり虐めないようにしなさい。 頭は少し足りないけれど、あれでも人を死なないよう注意深く襲って、幻想郷のルールを守っている妖怪なのだから」

「そうねえ。 でも美味しそうなのよねえ。 あのもも肉なんて、焼いたらとても香ばしそうだわ」

「人型なのに?」

「関係無いわー」

ああそう。

流石によだれを拭う幽々子を見ていると、実は幻想郷でも上位に食い込んでくる知略の持ち主だとはとても思えないが。

鋭い直感と洞察力で、様々な事件で活躍している実績の持ち主である事は間違いないので。

紫としても、やり過ぎないように釘を刺すだけで良かった。まあ冗談以上の事はしないだろう。

ふよふよ飛んでいく幽々子を見送ると。

適当にパトロールに戻る。

吸血鬼達が住まう紅魔館の側にある湖に出ると、和服を着込んだ人魚がぱしゃぱしゃと遊んでいるのが見えた。

淡水棲の人魚。

わかさぎ姫である。

人魚は不老不死伝説などに絡んでくるメジャーな妖怪だが。わかさぎ姫自身は妖怪としては最弱の部類に属する存在で、何より戦闘が大の苦手。幻想郷の妖怪の義務であるから人間を襲おうといつも四苦八苦しているのだが、殆ど上手く行っている様子が無い。仕方が無いので、人里で噂を此方から手を回して流して、畏怖が集まるように工夫している。

何しろ文字通り虫も殺せないような性格なので。

多少の悪意をもって、死なない程度に人間を襲うと言う事が出来ないのである。そればかりか、知らない人間には怖がって近寄らない有様。

名前と性格は真逆になる事が多いのだが。

わかさぎ姫の場合は、性格通りの名前、と言って良いだろう。いや、実際のわかさぎよりも弱々しく、極めて平和的な性格と言えるかも知れない。良い意味でも悪い意味でも。

紫に気付くと、わかさぎ姫は恐縮した様子で一礼して。大事そうに石を抱えて水底に潜って行った。

石集めが趣味だと聞いているが。

此処まで無害だと、本当に幻想郷で暮らしていくのは難儀だろう。

幻想郷の妖怪達は、存在を保つために人間を畏怖させなければならない。

ちょっとした噂が立つだけで、種族まるごと壊滅、などという事態が簡単に起こってしまうのが幻想郷なのである。

紫も弱い妖怪が消滅しないように手を回してはいるのだが。

最近は弱者妖怪救済に力を入れている命蓮寺の存在で、だいぶ手間が減って助かってはいる。

もっとも命蓮寺は人妖平等という思想も掲げているので。

手放しで存在を歓迎できないのも事実だ。

幻想郷の思想に反するものでもあり。

これがあまりにも拡がりすぎると、幻想郷の維持に支障が出かねない。

流石にその場合はどうにかしなければならないが。

今の時点では、弱い妖怪が助けを求める相手として非常に有用である事と。

人間を、「襲撃」をやり過ぎてしまう妖怪から守るという点でも有益である事からも。

命蓮寺に手を出すつもりはない。

わかさぎ姫の場合は、気弱な性格と「人魚」という性質からも。

食いしん坊な妖怪達に狙われないか、それが心配なくらいだ。

他の場所も様子を見に行く。

人里から少し離れて、ふらふらと歩いている窶れた人影。

今は夜。

妖怪の時間だ。

外の世界では、夜も昼も関係無く人間は活動しているが。

幻想郷においては、夜は妖怪の時間。昼が人間の時間である。

此処は人里から離れているし。

妖怪から襲われても文句は言えない。

そして、人間を襲う「手加減」を理解している妖怪ならば良いのだけれども。獣から成り立ての妖怪や。現象がそのまま妖怪になり、システムのまま人間を襲うような妖怪に遭遇した場合。

命を落とすこともある。

人間だったら注意し、人里に戻さなければならないが。

幸いにもというべきか。

それは遠目から分かるほどにも、強烈な負のオーラを放っていて。

人間ではあり得なかった。

近くに降り立つと。

粗末な服に。差し押さえだの、請求書だの、督促状だの、散々色々と貼り付けているその姿がよく分かった。

貧相な体つきに、背中を丸めて歩いている様子。

何より虚ろな目に、裸足。手にしているのは、物乞いがもつような器。

貧乏神、依神紫苑である。

紫苑は疫病神である妹の女苑と二人で、昔ちょっとした異変を起こした事があるのだが。今は博麗神社で貧乏神としての力を押さえ込む修練をした結果、ある程度力をコントロール出来るようになっている。

しかし何より貧乏神である。

当然祀る人もいないし(一応外には貧乏神を祀る神社もあるのだが、紫苑は其処の祭神では無いし、幻想郷では少なくとも紫苑に人が近寄らない)、近付くだけで災いが起こると思って、人間が避けて通る。

前の異変以降、姉妹で一緒にいると問題が起こりやすいという判断もあってか、紫がそれぞれ違う方向で修行して、力を押さえ込んで制御出来るようにと仕向けた結果。

今では二人は殆ど一緒に生活しておらず。

たまに紫苑は不良天人と一緒に遊んでいるようだが。

それくらいで、天人がとにかく気まぐれなため、ふらふらと彼方此方を歩いている事が多かった。

幸い貧乏神という凶悪な存在であるから、幻想郷では畏怖をたっぷり集めてはいるものの。

しかしながら物理的な食事は殆どする事が出来ないので。

いつもひもじそうにしている。

関わるだけで貧乏になるという事もあって(だいぶ能力は制御出来るようになったとはいえ)。

やはり鼻つまみもの扱いされているのは、仕方が無かった。

紫苑の前に降り立つと、ひもじそうな目で見られる。

そんな目で見られると困る。異変の時に戦った相手とは言え、今は無害な存在で。つまり受け入れなければならない相手なのだから。

「幻想郷の賢者……」

「今日は天人と一緒ではないの?」

「天子は気まぐれだから。 それに少し前に、お目付役に連れて帰られた」

「そう……」

孤独な天人である比那名居天子は家族にも疎まれていて、幻想郷にたまに遊びに来ているが。

其処でも問題ばかり起こしている。

ただ、それがそもそもいびつな理由で人間から無理矢理天人にさせられ、人間の感性のまま明らかに異質な場所で暮らさせられ。しかも周囲からは不良天人呼ばわり。反発、家族からも腫れ物扱い、という負の連鎖になっているので。

如何に幻想郷の問題児であっても、あまり強く排除しようと思えない。

この辺り、紫は一つの世界の管理者としては、まだ甘いのだろう。

また、天子には家族とは別にお目付役がいて。

非常に良心的で真面目で。

天子の境遇も知って気を揉んでいるため。天子もそのお目付役の言う事だけはきちんと聞く。

まあ今回は、それが故に紫苑はひもじい思いをしている、というわけだが。

天子と一緒ならば、少なくとも食いっぱぐれる事は無いのだから。

「しばらく何も食べていないのではないの」

「雑草しか食べてない」

「雑草……」

「前に博麗神社で雑草を料理して食べさせてくれてから、癖になった」

頭が痛い話だ。

一応神様相手に、何を食べさせているのかあの脳筋巫女は。

ともあれ、少し食事を恵んでやる。

夜にも開いている店、それも妖怪対象のお店はあるので、其処に行く。

屋台を開いていた妖怪は、紫苑を見て露骨に嫌そうな顔をしたが。紫が連れてきたのだから文句も言えない。

金はと聞くが、勿論持っている筈も無かったので。紫が払う。

黙々とおでんを食べ始める紫苑に、幾つかアドバイスする。

「不良天人がいないときは、博麗神社にでも行きなさい。 あの子はなんだかんだで頼ってきた相手を無碍にはしないから、悪くはしないはずよ」

「でも、凄く働かされる……」

「それくらいは我慢しなさい。 ひもじいよりは良いでしょう」

「うん……」

こんな気弱な紫苑だが。

実のところ、本気で力を発揮すると、相当な武闘派である。

以前も異変を起こしたとき。

女苑の策略で多くの相手を返り討ちにして来たのだが。その策略が破れた後。真の切り札として紫苑が力を解放。

その圧倒的な実力で、博麗の巫女をあわやの所まで追い込んだ。

もっとも、常に力を発揮できる訳では無く。

普段から「厄」をため込み、それを爆発させることで、圧倒的な力を展開出来るらしいのだが。

その辺の仕組みは、まあ良いだろう。いつも出来る訳では無いので、危険度は低い。

もっと危険度が高い妖怪はいくらでも幻想郷にいる。制御出来るのだから大丈夫だ。

空腹な様子から、がつがつ食うかと思っていたのだが。

そこまでがっつくことも無く。

二皿程度を食べると、ありがとうと礼を言って、ふらりと闇に消えた。

塩を撒く妖怪の店主。紫は嘆息した。

「貴方も妖怪、つまり幻想郷の外では暮らしていけない者よ。 相手は神ではあるけれども、立場は似たようなもの。 そう邪険にしたものではないわ」

「はい、それは分かっていますが……。 しかし本当にあの方が来ると、翌日の売り上げに大きな影響が出るものでして」

「力は押さえ込めている筈なのにね」

「その辺りは何とも……」

少し割り増しで料金を渡すと、紫は家に戻る。

さて、パトロールは終わった。

問題児だらけの幻想郷だが、今晩は比較的穏やかな方で。特にこれと言ってやばい事も無かった。

普段からストレスで睡眠障害を起こしているほどの目にあっている紫である。

今日くらいの面倒事なら、それこそゲームで言う「ボーナスステージ」に等しい。

後は帰って、藍から報告でも聞いて、余裕があったらお酒でも久々に嗜んで、寝るだけである。

「隙間」を通って帰宅。

家に戻ると、藍が食事を作ってくれていた。

軽く報告を受けながら、食事にする。食いだめをする訳では無いが、まあさっきのおでんくらいなら別に太る事もあるまい。

人間ほど簡単に体重は増減しない。

「珍しく問題も起きていないわね。 こんな日が続くと良いのだけれど」

「かといって平和すぎると、また吸血鬼異変のような事が起きかねません。 難しい所ですね」

「妖怪の山は」

「今の時点では、何とか危うい所で均衡が取れています」

頷くと、後は任せて休む事にする。

軽く酒を飲んだ後、静かに眠る。

悪夢ばかり見るけれど。

眠る事が出来る事だけは、ある意味幸せであったかも知れない。

ストレスが酷くなりすぎると、睡眠さえまともに取る事が出来なくなる。

外の世界の人間達の実情を。

紫は知っていた。

 

1、恐怖!桃色の捕食者

 

寝苦しい状態から目が覚めると。

情け容赦なく縛られていた。

それも後ろ手にきつく縛られ。

猿ぐつわを噛まされ。足もしっかり縛られて。文字通りの完全拘束状態。その上で地面に転がされていた。

眠気は当然一瞬で消し飛んだ。

もがくが、どうしても外れようにもない。多分呪術か何かによって強烈な封印が施されている縄だ。

縛られている者。ミスティア=ローレライは、少しずつ状況を思い出す。

というか。見えている光景から、何が起きたのかは、ほぼ大体確実に分かっていた。

此処は白玉楼。

冥界の姫君の住居である。

妖怪夜雀であるミスティアを「美味しそうな小鳥」と称して追いかけ回す、恐怖の権化。死を司る霊達の姫。

西行寺幽々子の住まう場所だ。

以前、ある事件の時、竹林で交戦したときは、本当に命からがら逃げ出すことが出来た。本当に生きた心地がしなかった。

だけれど、それ以降何度も何度も追いかけ回されて。

一度などは、巨大なフォークをもって追いかけてきた。

殺意があまりにも高すぎて、おしっこをちびりそうになった。相手が本当に此方を食べようとしているのが、確実だったからだ。

そして昨晩、屋台を片付けて、これから寝ようと思った時に。

現れたのだ。

桃色の魔姫が。

無言で全力で逃げた。屋台をかまう余裕さえ無かった。

だが。相手はふよふよと笑みを浮かべて追ってきているにもかかわらず、どうしても振り切ることが出来なかった。

どこだ。

どこにいる。

でてきなさい。美味しそうな小鳥。

痛くないように食べてあげるわ。いや、思い切り美味しく食べてあげる。

そんな声が、後ろからずっとしていて。ミスティアは生きた心地がせず、それこそ縄張りでは無い場所にも必死に逃げ込んで、がたがた震えていたのだが。

いつのまにか気が遠くなった。

疲れ果てて眠ったのでは無く、多分冥界の姫に捕まって、恐怖で失神してしまったのだろう。

もがいて何とか拘束を外そうとするが。

そんな程度で外れてくれる拘束を、幻想郷の関係者の中でも屈指の強者であるあの冥界の姫がするはずもない。

奴の恐ろしさは有名で。

一瞬で命を奪う能力を持ち、その気になれば相手を一瞬で抹殺する事が出来る。

妖怪もしかり。

おいしそうと口にしたら最後。

どんな妖怪も食べられてしまう。

そして目をつけられていた以上。もうおしまいなのかも知れなかった。

さめざめと涙が溢れる。

もう逃げられっこない。

もう一度山彦の幽谷響子と一緒に、バンドをしたかった。

命蓮寺の住職がお膳立てをしてくれて、バンドをしても博麗の巫女に殴られないようにしてくれたのだ。

怖い客ばかりくる屋台でのストレスを、やっと発散できる楽しい夢が出来たのに。

でも、それももうかないそうに無い。

これから本当に食べられてしまうんだ。

恐怖と哀しみで動けないミスティアの前に。

絶望の権化が姿を見せたのは、その直後だった。

おお神よ。

何の神でもいいから助けて欲しい。

冥界の姫君と。その従者だ。やはり間違いない。捕まってしまったのだ。

冥界の姫君はうっきうきの様子で、鉄網を運んでいる。一方従者は、無表情で炭入れを運んでいた。

何という恐ろしい。

あの鉄網でこれからミスティアを焼くつもりなのだろうか。生きたまま。そう、きっと生きたままだ。

怖くて恐ろしくて震えているミスティアの前で、きゃっきゃっと組み立てを始める西行寺幽々子。

悪食で知られ、エンゲル係数が70%とか80%とか言われる幽々子である。

きっと服と拘束ごとミスティアを焼いて。

頭から囓って丸ごと食べてしまうに違いない。

今までの出来事が走馬燈のように頭の中を巡る中。

幽々子の従者である、魂魄妖夢。白玉楼の庭師であり、剣術師範(まだ半人前らしいが)でもある娘が、大きな包丁を持ってきた。

ああ。

生きたまま焼くのでは無く、あれで解体するのだろうか。

むしろその方が楽だ。

妖怪は死んでも生き返るとは言え。

地獄の業火で焼かれて蘇ったら、きっと心に大きな傷がついて。それが妖怪としての死につながり兼ねない。

ましてや食べられる記憶がそのまま残ったりしたら。

ずっと恐怖で体が竦んで、きっともう何もできなくなってしまうだろう。

むしろあの包丁は。

慈悲。

しかし、なんということか。

神は何処で昼寝をしているのだろう。

哀れな夜雀の前で、山のように積み上げられ始めたのは。

首を失い、羽根をむしられた。

鶏たちの亡骸ではないか。

何という非道。

鳥の妖怪の前で、なんという悪逆を行うのか。

人間の前で人間を食べるようなものだ。抗議の声を上げようとしてもがくが、幽々子はミスティアの方を見ると、によによととらえどころの無い笑みを浮かべるばかりだった。

「まあ、元気で美味しそう」

「幽々子様、その……まだ生きていますし……」

「分かっているわ。 メインディッシュは最後に取っておくものですしね」

「は、はあ……」

冥界の庭師はとても恐がりだと聞いているが。

流石に料理を切り盛りしているとなると、鳥を解体するのを怖がるようなことは今更無いだろう。

ああ、なんということだ。

目の前で、哀れな鳥の亡骸達が、解体されていく。腹を割かれ、関節を切られる。

内臓すらもが並べられ。

骨だけが綺麗に取り除かれていく。

否。

骨も焼いて食べる様子だ。

何一つ残さず食べるというのか。

残忍な。あまりにも残酷すぎる。

串に内臓や皮が突き刺され。肉もネギなどと一緒に突き刺されていく。あまりにも鳥的にむごい光景から視線をそらすことも出来ず、ミスティアは怒りと哀しみにもがくが、何もできなかった。

「そ、それで幽々子様。 どうしてこんな見せつけるような真似を……」

「それはねえ。 恐怖をたっぷりため込むと、お肉はとても美味しくなるのよ」

「はあ……」

「うふふ、妖夢ちゃんもいずれ分かるようになるわ」

そんな。

つまり怖がらせて、やはり美味しく食べるつもりなのか。なんという残酷!何という非道!

神は昼寝しているに違いない。絶対にそうだ。

炭に火が入る。

串刺しにされた哀れな鳥のパーツ達が鉄網で焼かれ始める。

その悲劇の臭いが、ミスティアの所まで漂って来る。もがいて必死に目をつぶるが、どうしても臭いは止められない。

「んー! んーんー!」

「あら、ひょっとして食べたいのかしら」

「いや、幽々子様、その……」

「だーめ。 あげない」

何だか得体が知れない黒い液体を、鳥の哀れな亡骸に塗りたくる幽々子。

あれは。おおあれは。遠くからも正体が分かってしまう。

焼き鳥のたれだ!

何というおぞましい液体を使うのか。鳥を美味しく食べる事に、これほど残虐な振る舞いをするなんて。

ぱたぱたと焼いている肉片を扇で仰ぎ始める冥界の姫。忠告する庭師。

「鳥は寄生虫が危ないので、しっかり火を通さないといけません。 幽々子様、つまみ食いはなりませんよ」

「あらー、心配してくれるの? 可愛いわ妖夢ちゃん」

「いえ、その……幽々子様、ナマでも平気で食べそうなので」

「大丈夫、一番美味しく食べられるタイミングくらいまでは待てるわ」

すっと、視線がミスティアの方を向く。

いつでも殺せるぞ。

そう視線には意思が籠もっているように見えた。

もう恐怖が全身に染み渡って、どうにもならない。

そして目の前で。

おおなんという事か。

冥界の姫君は、串に刺された哀れな肉塊に火が通ったと確認し、食べ始める。それも凄まじい勢いだ。

皮が。

内臓が。

肉が。

悉く、幽々子の腹に収まっていく。

ああ、あんな調子で、頭から囓られてしまうんだ。それを思うと、ミスティアは涙が止まらなかった。

怖い。怖すぎて、もし拘束が解けても、逃げられそうに無い。

何羽分もあった焼き鳥が、桃色の悪魔の腹の中に、冗談のように消えていく。

目の前にいるのは、暴食の権化だ。

あれはきっと、七つの大罪の一つに違いない。七つの大罪の内容はうろ覚えだけれど、たしか人間が邪悪と判断している七つの悪しきもの。

幽々子こそ暴食の権化。

暴食の悪魔だ。

呼吸が荒くなってくる。がたがたと体がずっと震えている。

そしておお。

なんということか。

石を積み上げて作られるそれは、竈では無いか。

即席の竈を手慣れた様子で作っていく妖夢を尻目に、幽々子が来る。そして、ミスティアの頬をなで上げた。

夜雀の全身に恐怖が、稲妻のように走った。

「とても美味しそう。 服ごとしっかり火を通して、頭から丸ごと囓ってあげましょうねえ。 夜雀は小骨が多いのがちょっと問題だけれど、しっかり火を通せば骨ごと食べられるしね」

「んー! んー!」

「え、最高においしく食べて欲しいって? 分かっているわ、うふふ」

違う。

そんな事は言っていない。頼むから助けて。逃がして。死にたくない。

首を振ろうにも、冥界の姫君の力は見た目よりずっと強く、首を動かすことも出来なかった。

「幽々子様、そろそろ丸焼きを始めますよ」

「はいはい、分かっているわ」

ああ、丸焼きにされてしまうのか。

そう思ったミスティアの前で、なんということだろうか。首を落とし羽根だけむしった鶏の亡骸が。

火が入った竈に入れられるでは無いか。

何たる残虐!殺伐たる光景!

「わあ、とても美味しそう」

「時々レモンをこうして塗って……中までしっかり火を通すためには、じっくり焼きます」

竈から出して、時々処置をしているが。

死体蹴りも良い所だ。

ああ、ああ。

身動きが出来ない。

恐怖で体中が竦んでもう何もできそうに無い。あの可哀想な鶏と同じように、丸焼きにされてしまうんだ。

恐怖と絶望で、ミスティアはもう動く事も出来なかった。

程なく、香ばしい死の臭いと共に、竈から「一つ目」の丸焼きが出される。

手際よく二つ目の鶏の亡骸を丸焼きにし始める冥界の庭師。

満面の笑みで、手慣れた様子で丸焼きを食べ始める幽々子。

ああ。

ばりばりという音が此処まで聞こえる。

というか、本当に骨まで食べている。

地獄の餓鬼でも彼処までするだろうか。骨をばりばりかみ砕いている様子は、恐ろしすぎて言葉も出ない。

更に、丸焼きの合間に。

今まで焼き鳥にした哀れな鳥たちの骨に、火をじっくり通していく妖夢。

それにより、その骨達も、幽々子にとってはごちそうになるようだった。

「鶏肋鶏肋」

「魏武の言葉でしたっけ」

「そうよー。 美味しいけれど食べる所が無いって事ね。 でも、工夫次第で食べる事が出来るのよ。 妖夢ちゃんのおかげね」

魏武。

何だろう。

そう思っていると、妖夢がいつの間にか側にいて、こっそり耳打ちしてくれた。

「三国志に出てくる曹操のことですよ。 魏王朝にとって武帝に当たるので、魏武と呼ばれています。 生前に武帝と名乗ったことは無いんですが、魏武という呼び名が後世に浸透したんですよ」

「……?」

「もう少し待ってください。 大丈夫、逃がしてあげますから」

そうやって、希望を持たせて、更に落とすつもりか。

騙されないぞ。

でも、魏武はちょっと勉強になった。

ミスティアは自覚しているが、あまり頭が良くない。

ちょっと勉強になる事を知ることが出来たのは、少しだけ嬉しくて、恐怖はちょっとだけ紛れた。

だが、それも一瞬で台無しになる。

本当に骨をバリバリ食べている幽々子を見ると。

全身がすくみ上がるようだった。

これはもはや、悪鬼の宴だ。

昔妖怪の山を支配していた鬼達も、こんな感じで人間を襲い、喰らっていたのだろうか。

人間を襲って鳥目にして、喰ってやるぞと耳元で囁いたことはある。

それで恐怖を植え付けて、ミスティアは幻想郷の妖怪としての、「存在税」とでもいうべきものを払った。

妖怪は人を襲い。

畏怖を集めなければならない。

勿論仕返しに退治される事もあるけれど。

それは仕方が無い事。

そうして、人間とのちょっと変わった互助関係があってこそ。幻想郷は成り立つのだから。

だけれども。少しずつ、思えてくることもある。

もしも、手加減を間違えると。

ミスティアが人間に対して、こういうことをしているのと同じになっていたのだろうか。

もがくのは少し前から諦めている。この凶悪な拘束、とてもミスティアにふりほどけるものではない。

また哀れな鶏の亡骸が丸焼きになり。

それを平然と平らげ始める幽々子。

そして、更に恐ろしい道具が場に登場した。

あれは。おおなんということか。

油を中に入れて。揚げ物をする鍋だ。

ミスティアも屋台をやっているから使用するけれど、あれを使うと言うことは。

おお。おお。何という残忍な光景。まるで地獄絵図。いや地獄絵図そのものだ。

鳥たちの亡骸が切り分けられ。

小麦粉と卵とパン粉をまぶされ。

熱してぐつぐつの油の中に、放り込まれて行くではないか。

神よ。どこで昼寝をしているのか。というかさっさと起きてくれ。

目を閉じて、油がぐつぐつばちばちいう音を、必死に堪えるミスティアだが。臭いも音も、この状態ではどうにもならない。

ほどなく、「ちきんかつ」になった哀れな鳥たちの肉が、幽々子の前に並べられる。

ぱたぱたと扇で仰いでいるのは、少し冷まして食べやすくするためだろうか。

「まあ美味しそう」

「ソースと醤油どちらにしますか、幽々子様」

「そうねえ。 今日はソースにしようかしら」

「分かりました」

妖夢が、犬が書かれた容器に入れられた黒い液体をもってくる。

これは確か。見覚えがある。

外の世界で流通しているという、謎の犬のソース。

材料が犬だとか言う噂も聞くが。

料理店では美味しいため非常によく使われていて。どういうルートでかは分からないが、幻想郷に持ち込まれると、あっという間に売り切れてしまうと言う。

なおミスティアも使った事はあるが。

確かにあれはおいしい。

しかも色々な用途ごとにあるのだ。

犬をどうやってあのソースにしているのかは分からないが。

実は犬は入っていないという噂もある。

ごくりと生唾を飲み込む。

たまに他の妖怪の屋台で夜食にするのだけれど。

とんかつをあのソースで食べると絶品だったりするのだ。

でも、豚の妖怪が同じように目の前で豚を料理されたのなら。

今のミスティアのように悲しいのだろうか。

ふと、それで思い当たる。

人間を襲う時。

視界を奪った上で生かして帰さないと耳元で囁いて、人間に畏怖を植え付けるけれど。

今、ひょっとして。

ミスティアは幽々子に「襲われている」のではないのだろうか。

揚げられた鳥たちの肉をむっしゃむっしゃとご飯と一緒に食べる冥界の姫。凄い量のご飯が、みるみる無くなっていく。確か五合くらい炊いていたように見えたのだが、一体どういう食欲なのか。まるで、生きたブラックホールだ。どれだけの食糧でも平然と食べ尽くしてしまう悪魔そのものだ。

そしてしばしして。

満足そうに恐ろしい桃色の悪鬼は言うのだった。

「前菜はこんなところねー。 じゃあメインディッシュまで、少し休むとするわ」

「はい。 後片付けはしておきます」

「よろしくねー」

ふよふよと微妙に浮きながら館に戻っていく幽々子。

震えあがっているミスティアに歩み寄ってくると。

妖夢は無言で拘束を解いてくれた。

「あまり時間はありません。 早く逃げてください」

「で、でも、酷い目にあわされるんじゃあ」

「私は大丈夫ですよ。 ほら、幽々子様も気付いたら追いかけると思いますから、急いで」

「……っ」

ぺこりと妖夢に一礼すると。

全速力で冥界を抜け出す。

実は以前も危うく食われそうになった事があって、その時逃げ道については覚えたのだ。

白玉楼の門を飛び出し、長い階段を急いで下って。

その先にある空間の歪みに飛び込む。

幻想郷に出たが、それでも油断は出来ない。

全力で。

翼が千切れるほどに飛んで、必死に迷いの竹林に逃げ込んだ。

此処なら。

住んでいる者達以外は、簡単には見つけられないはずだ。

呼吸を整えて。

ようやく、手足に残った拘束の跡に気付く。どれだけ手足に強烈に食い込んでいたのか、今更に思い知らされていた。

竹を背にへたり込むと。

屋台をいつ回収しよう。それと何処へ逃げ込もう。

必死に考える。

あまり頭が良くないミスティアだ。だからすぐに見つかって、捕まってしまったのだろうけれど。

それでも、もうあんな怖い目にはあいたくない。

必死に頭を巡らせて。

そして考えたあげくに、藤原妹紅の所に逃げ込むことにした。

人間の里で自警団をやっている妹紅は、幻想郷の人間の中でも最強に近い実力を持ち、更には基本的に非常に厳しい態度を妖怪に取るが。その一方で、頼られると出来るだけの事をしてくれるとも聞いている。妖怪を見敵必殺するような事もない。……人間を襲った妖怪には容赦もしないが。

多分殴られるくらいの覚悟はした方が良いけれど。

命には替えられない。

丁度、今日は竹林に来ているタイミングの筈だ。

少し探すと、妹紅はいた。

竹林の隅で、生活用の竹を切っていた。

そういえば、妹紅はたまに気が向くと焼き鳥屋をやっていたはず。これは仲間への裏切りになるのでは無いのか。

ぐっと恐怖をかみ殺して。

もうこっちに気付いて、鋭い視線を向けてきている妹紅に歩み寄る。もう飛ぶ力も残っていない。

へなへなと腰砕けになると、流れるようにミスティアは土下座した。

「た、助けて……」

「何やったんだお前は」

「冥界の姫に追われていて、危うく食べられそうになった処を逃げてきたの」

「はあ。 ……助けてやっても良いが、条件がある」

顔を上げる。

いつの間にか、音も無く至近にいた妹紅は、ミスティアに対して、非常に冷たい目を向けていた。

背筋が凍り付く。

今までミスティアを捕食しようとしていた冥界の姫と、その目の冷たさは殆ど変わることがなかった。

むしろ冥界の姫の方が。

目に遊びが浮かんでいたような気さえする。

妹紅は本気だ。まったく目が笑っていない。もしも返答を間違ったら、多分この場で肉体を消されるどころか。妖怪として殺されると見て良い。

体の芯から震えが来る。

強い奴が幾らでもいる幻想郷だ。ミスティアも自分では絶対に勝てない相手とは幾らでも遭遇している。その中でも妹紅は上位に入ってくる実力者。

そして、此処まで高濃度の殺気を浴びたのは、いつぶりだっただろう。

「幻想郷を維持するために、妖怪が人間に畏怖されるのは当然のことだ。 だが、お前は少しばかりやり過ぎる傾向がある。 目潰しされた人間が致命的な怪我をする可能性くらいは考えろ。 今回は助けてやるが、もしまた問題を起こしたら次は無い」

「……分かりました」

「なら、其処に隠れてろ。 冥界の姫君は死なない私が苦手らしいからな。 私には近付かないだろう」

無言でもう一度頭を下げると、言われた岩陰に隠れる。

どうやら、返答は間違っていなかったらしい。心臓がばくばく言っているのが分かる。下手をしたら、もう今生きていなかった。そう思うだけで、失神しそうだった。少しちびったのは秘密だ。

良くしたもので、幽々子が見えた。どうやらミスティアを探しているらしい。

だが妹紅が視界に入ると、手をヒラヒラと振って、そして飛び去っていった。

嘆息。そして考える。

自分もひょっとして、幽々子と同じ事をしていたのではないのか。

あまり記憶力が良くないし、頭も良くないミスティアだけれど。

今回は、しっかり考えておこうと、思うのだった。

約束通り妹紅は匿ってくれた。

非常に厳しいこの人だ。約束をミスティアが破ったら、本当に容赦しないだろう。

次から人間を襲うときは、気を付けよう。

そう思いながらミスティアは、妹紅と一緒に、昨日うち捨てて逃げた屋台を回収しに戻ったのだった。

 

2、人魚受難

 

幻想郷には草の根妖怪ネットワークというものがある。

幻想郷における、戦闘力という点で最下層の妖怪。或いは、戦闘そのものが大嫌いな妖怪が、互助のために組んでいる同盟である。とはいっても仲良しグループのようなもので、本格的な活動はほぼしていない。

わかさぎ姫はその草の根妖怪ネットワークの一員で。

何人かの妖怪とは友人だったが、かといって何が出来るというわけでも無い。

空を飛べるのがほぼ当たり前の幻想郷の妖怪の中でも。

わかさぎ姫は雨の時しか空を飛べないし。

これといった強い妖力なんて持っていない。

妖怪社会でのヒエラルキーが低い妖怪は、どんな妖怪でも妖精でさえも対等に戦える決闘方、スペルカードルールの技量を磨くことが多い。

そうしないと、無茶苦茶な事を言われても。

逆らう事さえ出来ない。そんな理不尽がままあるからだ。

近年は命蓮寺という勢力が出来て。

人妖平等を掲げる教義の下、虐げられている弱者妖怪を助けてくれるという事で評判になっているが。

勢力のトップである聖白蓮は元人間。しかも千年の時を経ている超実力者。幻想郷の強豪妖怪達とも拳一つで互角以上に渡り合う武闘派だ。

そんな元人間とはとても信じられない相手である。何より人見知りであるから、知らない相手なんて、怖くて近づけなかった。

幸い、親もおらず子もおらずとも。

幻想郷の妖怪は、ほぼ寿命も無く生きて行ける。

わかさぎ姫は綺麗な石を集めたり、お歌を唄ったりしながら日々を過ごし。

強い妖怪や、好戦的な妖怪が現れたらさっさと水面の下に逃げてしまい。

自分自身を守ることだけで精一杯だった。

時々、賢者が来ていう。

人間を襲うように、と。

勿論殺すのは御法度。

妖怪としての力を見せつけるだけでも良い。

例えば、妖怪としての圧倒的な力を見せれば、それだけで人間は怖れてくれる。

その恐怖が、幻想郷を支える。

貴方も幻想郷に住まうものの一人なら。

ルールに従って、人間を可能な限り怖れさせるように。

どこからでも好きなように現れる事が出来る賢者からは流石に逃げられない。

だからわかさぎ姫も、怖いと思いながら、その言葉を聞くしか無かった。

賢者は色々とアドバイスはしてくれる。

草の根妖怪ネットワークなんてものを組んでいるなら、他の妖怪と組んで、何か考えて見てはどうか、とか。

弱い妖怪を助けてくれる命蓮寺に行って、アドバイスを受けてはどうか、とか。

分かってはいるのだけれど。

怖くて出来ない。

今日もわかさぎ姫は、憂鬱な気分を抱えたまま、川を泳いでいた。

幻想郷の川はとても綺麗だ。

お魚もみんなころころと太って、脂が乗っている。

外の世界では、絶滅してしまった虫やお魚もいるという。

わかさぎ姫の主な食べ物は、これらお魚を一とする川の生き物。

人間には迷惑を掛けたことはないし。

ましてや殺した事なんて一度もない。

脅せと言われても、どうすればいいのか。

ふと、衝撃が来た。

そして、意識を失った。

 

気がつくとわかさぎ姫は、吊されていた。

水から出てもちょっとやそっとでは干涸らびたりはしないけれど。此処は違う。震えあがるに充分な場所だった。

見覚えがある。

博麗神社だ。

吊されている上にしばられている事に気付いたわかさぎ姫は。

みるみる血の気が引くのを感じていた。

ここに住んでいる博麗の巫女は、幻想郷最強の人間と名高く。単純な戦闘力でもスペルカードルールの技量でも卓絶している。

何しろ強豪妖怪達が面白がって遊びに来る程で。詰まるところ人間とは根本的に身体能力が違う強豪妖怪達と、まともに「遊べる」ほどの実力者と言う事だ。

妖怪が悪さをすれば音速で飛んでいき。

有無を言わさず殴る。

そして異変と呼ばれる大規模問題が発生したときは仕事モードに変化。

仕事モードの博麗の巫女は目に入った相手を知り合いだろうが何だろうが情け容赦なく見敵必殺するため、人間ですら近付かないと言われる。

文字通り幻想郷最強の武闘派は。

非常に恐ろしい存在として妖怪達に怖れられている。特に弱い妖怪は、博麗の巫女の名を聞いただけで泣いて土下座する程だ。

以前、ある異変でハイになっていたわかさぎ姫は、半ば無理矢理博麗の巫女と戦った(戦わされた)事があるが。

勿論手も足も出ず。

気がつくと、体中痛いので、なんでか分からずさめざめと泣いていた記憶がある。

ただ、目を赤く輝かせた博麗の巫女に。

恐ろしいオーバーキルされた気はするが。

それしか覚えていない。

だがそれは恐怖となって。

わかさぎ姫の身に刻みついていた。

「やっと起きたか」

「ひいっ!」

後ろから恐怖の声。聞き覚えがある。博麗の巫女だ。

振り返ろうとするが、下半身は魚のわかさぎ姫である。

しかも今は雨も降っていない。その上縛られて吊されている。

出来るのはぱたぱたもがくだけである。

後ろから近づいて来た博麗の巫女は、退屈そうに、恐怖で引きつっているわかさぎ姫の横を通り過ぎ。

前に出ると、ぽんぽんと大幣で肩を叩いてみせる。

この大幣が、どれだけの妖怪の頭をかち割り。

血を吸ってきたか分からないとさえ言われている。

妖怪にとっては、人間が妖刀と怖れるものより、遙かに怖い代物だ。

しかも博麗の巫女は、この大幣を使って空間さえ斬り。

別の場所に移動する、何て芸当まで見せるという。

妖怪から見ても、異次元の実力者。

それが博麗の巫女。博麗霊夢なのである。

今日も赤を基調とした巫女服を着て、大きなリボンをつけている博麗の巫女は。

品定めするように、じっとわかさぎ姫を見つめてから。

何があったのか、説明してくれた。

魚取りをしていたという。

川に拳を叩き込み。

衝撃波で気絶したり死んだりした魚を集めて、昼ご飯用にしていたらしい。

そういえば、時々水面が爆発するような音がしていたが。

それは博麗の巫女が魚取りをしていたからだったのか。

戦慄が背筋を駆け巡る。

つまり。そのダイナミックな「漁」にわかさぎ姫は巻き込まれてしまったのか。

「魚を捕る鳥が、急降下して獲物を狙うでしょう。 あれは魚が逃げてしまうから、なのよね。 だから私も、上空から急降下して、拳を叩き込むようにしているの。 魚が逃げると効率も悪いし、何度も無駄な殺生をしたくも無いし」

「そ、それで私は、その」

「……前から思ってたんだけれど、あんたおいしそうねえ」

固まる。

博麗の巫女は、じっとわかさぎ姫の下半身。

そう、お魚になっている部分を見つめている。

食べると不老不死になれるとかいう噂のある人魚の肉だが。そんな効果は多分無いはずだ。

だとすると、ただ魚だから、食べたいと思っているのか。

「気絶して浮かんで来たから、ほっとくのも何だと思って吊しておいたんだけれど……仮にも妖怪だし、肉体を失っても死なないわよね?」

「や、やあああああっ! 許して! 痛い事しないで!」

「泣いたフリしても駄目よ。 ちょっとどうやって食べるか考えるわ。 流石に人間部分は食べる気にならないし、それにおなかすいてたし」

まずい。

このままだと、本当に食べられてしまう。

博麗の巫女は兎に角怖い。妖怪にとっては、恐怖そのものだ。

純粋な戦闘力は幻想郷の賢者である八雲紫以上とまで言われていて。

しかも空間を斬って移動する事まで出来るのだ。

今まで数多の強豪妖怪を片っ端から叩きのめしてきた実力は伊達では無い。

捕捉された以上。

もう逃げる事なんて、できっこない。

はらはらと涙が流れる。

妖怪は肉体を損壊しても死なない。

それは事実だ。

だけれど、自分の体を食べられるような恐怖を、目の前で見せつけられたらどうなるか。

妖怪は肉体が死んでも死なないが。

精神が死ぬと死ぬ。

わかさぎ姫の精神が、その時生き延びられるかは。

分からない。

どうしよう。

どうすればいいのだろう。

何しろ此処は博麗神社だ。

助けを求めたって、誰も来てくれないだろう。

腹を空かせた博麗の巫女なんて、猛り狂っている龍と同じだ。

ましてや博麗の巫女の機嫌を損ねたりしたら、何をされるか分からない。

勿論妖怪を殺す方法にも熟知しているだろうし。

助けてと泣いて叫んでも。

助けに来る妖怪なんている筈も無い。

仮に気付いても、ガタガタ震えながら、影から見守るくらいしか出来ないだろう。

終わりだ。

走馬燈が流れる。

ろくな思い出が無い。

不老不死の肉というと、高く売れる。

だから人間にも散々追い回された。

悪さなんて何もしていないのに。

幻想郷に逃げ込んでからは、わかさぎ姫を襲って食べようという人間は減ったようだけれども。

それでも今こうして。

昔の悪夢が蘇ろうとしている。

博麗の巫女は黙々と焚き火を起こし。

手慣れた様子で捕まえてきた川魚を串に刺すと、焼き始めた。内臓を出しもしない。

そしてしっかり火が通ったのを確認すると。

骨も何も関係無く。

頭からばりばりと食べ始める。

どれだけ強い顎をしているのか。

あの大きさの魚だと、普通骨ごとかみ砕いて食べるようなことはないのだけれど。博麗の巫女はまるで平気である。

恐怖を通り越して、もはや半笑いが浮かんでしまう。

一匹目を食べると、旺盛な食欲で二匹目を。三匹目も。

わかさぎ姫は別に魚に対して同族意識のようなものはもっていない。

主な食糧は別の魚だし。

そも生物から妖怪に変わったいわゆる「妖獣」と違って、元から人魚という妖怪なのである。

魚は魚。

人魚は人魚だ。

巫女は酒も入れ始めた。

幻想郷の外の世界では、未成年は酒は御法度だとか言う話だけれど。幻想郷では真面目な仏教徒でもない限り、誰もが酒を嗜む。

博麗の巫女は怪物並の酒豪として知られていて。

平然と酒を口にしていて、殆ど酔っている様子も無かった。

ああ、文字通りの酒の肴にされてしまうんだ。

わかさぎ姫はもう恐怖で動く事も出来ない。

そこに、空からもう一つの人影が。

小柄な、箒に乗った魔法使い然とした姿。

金髪の女の子である。

見た事がある。

魔法の森と呼ばれる危険地帯に一人住んでいる、里から外れた人間の一人。

妖怪退治の専門家を自認する中でも、かなりの腕利きで知られる霧雨魔理沙である。

若干中性的な言葉遣いをするが。

普段からかなりおしゃれに気を遣っていたり、几帳面な性格で知られていて。

耐久力という点でもあらゆる意味でも人外な博麗の巫女と違って。

だいぶ人間している、という噂だ。

「よお霊夢、魚か?」

「そうよ。 あげないわよ」

「いや、茸もってきた。 食える奴だぜ」

「気が利くじゃない」

にやりと笑う博麗の巫女は、うっすら酔いを瞳に浮かべたまま、吊されたわかさぎ姫を目の前に魔理沙と一緒に宴を始める。

魔理沙はちらりとわかさぎ姫の方を見たが。

博麗の巫女はコメントしない。

涙目で助けてと訴えかけるわかさぎ姫だが。

魔理沙は居心地が悪そうだった。

「で、何だアレ。 確かわかさぎ姫、だったよな」

「漁の途中で気絶して浮かんで来た」

「漁ってお前、あのダイナミック爆発漁?」

「そうよ。 ちょっと火力を上げすぎたみたい」

ちょっと。あれでちょっと。

強いとは聞いていたが、異次元過ぎる。わかさぎ姫のように底辺な相手に勝ったという実績では実感も湧かなかったが。

今の話を聞いただけで、恐怖が更に強くなった。

「で、どうするんだ。 半泣きだが」

「どうしようかしらね。 下半分は美味しそうなんだけれど」

「い、いやいやいや、流石にねーぜ。 私はいらないからな。 そりゃあ戦った時には刺身とか天ぷらとかいったが、それはあくまで冗談だしな」

「そう。 独り占めに出来て良いわ」

さらりと言い。串に焼いた茸を、そのまま冷ましもせずにばりばり食べる博麗の巫女。

すごい。

この巫女、何処ででも平然とサバイバルして生きていけるのではないのだろうか。

「あんたいずれ魔法使いになるんでしょう? 捨虫の術だっけ、そんなの使わなくても、アレを食べれば不老不死になれるんじゃない」

「いや、それ迷信だから」

「そうなの」

「それに幻想郷の人魚肉が、魔法の薬の材料になるとは聞いてねーな。 流石にいらねえよ」

ちらちらと視線を送ってくる魔理沙。

わかさぎ姫の運命を哀れんでいるのか。

でも、助けてと言っても。

流石に魔理沙でも、飢えた博麗の巫女の逆鱗に触れるような真似は避けるだろう。

結構面倒見が良い性格をしていると聞いているが。

それでも命知らずにも程がある事はしないはずだ。

「ふう、きのこごちそうさま。 今度何かあったら助けてあげるわよ」

「おう。 それで、アレ……なんだ。 逃がしてやれば?」

「どうしようかしらねえ」

腕組みする博麗の巫女。

一瞬だけ此方を見るが。

その目は上空から魚を狙う猛禽のそれだった。

博麗の巫女は、外の世界ではもう滅多に存在していないという、本物の戦士なのだ。

視線があっただけですくみ上がる。

幻想郷最強の人間、というだけでは大した事がないようにも思えるかも知れないが。

博麗の巫女の場合、幻想郷に限れば勝てる存在が殆どいないのだ。

妖怪や神を含めても、である。

勿論隙を突けば相手は人間、どうにかなるかも知れないが。

文字通り百戦錬磨の博麗の巫女。

わかさぎ姫程度が、隙なんか突けるわけも無い。

広域攻撃型の何か妖術をもっていれば、或いは少しくらいは動きを止められるかも知れないが。

それも対策されたら終わり。しかも初見殺し技を持っている相手との交戦経験も豊富だろうし、付け焼き刃の攻撃なんて効くわけが無い。

駄目だ。詰んだ。

せめて雨でも降ってくれれば。

わかさぎ姫の能力は、水の中では力が増す、というもので。

その力も大した伸び幅では無いけれど。

雨の中なら空を飛ぶ事も出来るようになるし。

この縄くらいなら、無理にちぎって逃げられるかも知れない。

縄はかなり強力な妖力封じをされているけれど。

雨さえ降ってくれれば。

願いも虚しく、魔理沙はそのまま帰ってしまい。

霊夢はちらりとわかさぎ姫を一瞥だけすると。神社に戻っていった。

ああ。

これから、きっと捌くためのすごい包丁か何かをもってくるに違いない。

そして体を半分こにされて。

まだうっすら意識があるわかさぎ姫の目の前で。

お魚の形をした下半身が、食べられてしまうのだ。

それだけじゃない。上半身も解体されて、食べられてしまうかも知れない。博麗の巫女ならやりかねない。

それを想像するだけで、気が弱いわかさぎ姫は失神しそうになる。もう、気を失ってしまった方がいっそ楽だったかも知れない。

これから起きる恐怖の数々を見る事もないだろうし。

何より死の痛みを感じることも無いのだろうから。

一部の動物は、絶体絶命の恐怖に陥ると、自ら心臓を止めてしまうと言う。

兎などはそうで。

肉食獣に襲われ恐怖が極限に達すると、その場で死んでしまうそうだ。

嗚呼。

いっそ、一度此処で死んでしまえば。生きたまま解体される恐怖も、感じなくて済むのだろうか。

だが、妖怪は意思を持った自然現象である妖精と違い。

死んでから復活するまで相応のタイムラグがある。

妖精は「一回休み」何て感覚で死んでも蘇生するらしいのだけれども。

妖怪は其処まで簡単じゃあ無い。

ふと気付く。雨の気配だ。

ああ、天の助けか。

空が曇っている様子は無い。

ならば、いわゆる狐の嫁入り、と言う奴だろう。

とにかく、狸の化かし合いでも狐の嫁入りでも何でも良い。早く降って欲しい。

雨が降り始める。

霧雨程度だが、それでも力がみなぎってくる。

意思も少しずつ強くなって行く。

食べられてたまるか。

弱気だった心に灯が点る。

必死に力を充填させて、一気に自分を拘束していた縄を引きちぎった。

腕が凄く痛い。

いわゆる本縄で拘束されていたのを、無理矢理力を充填させて引きちぎったのだから、当たり前である。

でも、今の大きな音。

すぐに博麗の巫女が戻ってくるはずだ。

逃げないと。

雨が少しずつ強くなりはじめる。

かなりおぼつかないが、それでも無理矢理体を浮かせて、近くの川を目指す。其処からなら、いつも住み着いている「霧の湖」への道も分かる。幻想郷の川は全て把握している。これでも人魚なのだ。

だが、川に逃げ込めなければ、ほぼ何もできないに等しいのも事実。

生きた心地がしない。

いつ目の前に、包丁を構えた博麗の巫女が姿を現してもおかしくないのである。

必死に逃げる。

川の中にさえ逃げ込めばどうにかなる。

最初から戦う事を全力で放棄して、必死に逃げに徹すれば。流石に地上の生き物に、水中で遅れを取る事はない。博麗の巫女にしても、たかが魚のために、其処まで執拗に追ってくる事はないはずだ。

川が見えた。

あと少し。

後方から、恐ろしい気配が。

博麗の巫女に違いない。

幸い、もう少しで飛び込める川はかなり深い。水底近くまでもぐって、其処から全力で逃げれば。水中にはちょっとした洞窟も幾つかある。逃げ込めるかも知れない。

かも知れないばかりだけれども、それでも。

今はそれに賭ける。

川に、飛び込んだ。

後は一目散。

力がみなぎる。脇目もふらず、必死に自分がいつも住んでいる霧の湖へと全力で逃げる。

流石に、水の中にまで追ってくる気配はなく。

先のように、上空から爆撃を仕掛けてくる気配もなかった。

霧の湖の水底にまで達すると、こわごわ後ろを伺う。

もう、流石に。博麗の巫女も、追ってきてはいなかった。

 

ふんと鼻を鳴らすと、博麗の巫女は戻っていく。

それを神社側の空中で確認した多々良小傘は、隣で浮いている命蓮寺の住職聖白蓮に視線を送る。

唐傘お化けである多々良小傘は鍛冶を得意としているが、その応用でちょっとした水の妖術を使う事も出来る。

鍛冶には水の知識が不可欠で。

更には唐傘お化けと言えば、そのまま傘の付喪神だ。

普段はスペルカードルールに用いる水の妖術。広域に展開すると、霧雨にするのが精一杯だけれども。それでも雨には出来る。範囲を絞れば豪雨には出来るが、それはあまり長時間続かない。今は力がみなぎっているから、これくらいは容易い。

「住職、これでよかったんですか?」

「ええ、上出来です。 博麗の巫女も、最初から本気であの人魚を食べるつもりはなかったようですしね」

「どういうこと、なんですか?」

「博麗の巫女が妖怪を拘束するために作る縄、本来なら多少雨が降ったくらいで、わかさぎ姫さんに引きちぎれるような代物である筈がないのです」

もし本気で拘束するつもりなら。

それこそ、もっと強力な術を仕込んだ縄を使っただろう。

そう小傘を以前消滅の危機から救ってくれた千年を経る妖尼僧は言う。

そして博麗の巫女も。

此方には明らかに気付いていた。

多分これは、最初から何かしらの仕組まれた事だったのだと、白蓮は小傘に言う。

わかさぎ姫はあまりにも気が弱すぎる。

人間を襲うどころか、威を示そうとさえしない。

幻想郷では、妖怪は何らかの形で人間に威を示さなければならない。そうしなければ、容易くこの楽園のバランスは崩壊してしまう。

小傘は唇を引き結ぶ。

小傘はその威を示すことが以前は上手に出来ず、飢えに苦しんだし。

ちょっとした噂が流れただけで、善良で人なつっこい山彦の幽谷響子が、一族ごと滅び掛けた事も知っている。

他人事では無いのだ。

「飢えた博麗の巫女から逃げ切った。 その事実があれば。 わかさぎ姫さんも、少しは人間に対して威を示す事が出来る勇気を得られるでしょう」

「でも、誰がそんな事を仕組んだのか……」

「決まっていますよ」

誰もいない方を、白蓮が見る。

小傘もそれに釣られて其方を見たが。

少なくとも小傘には、其処に誰かがいるようには見えなかった。

だとすると。

きっと、妖怪の賢者だろう。

何だか随分回りくどいような気もしたけれど。もし考えが正しいとすれば。妖怪の賢者なりに、弱い妖怪に対して、手をさしのべているのかも知れなかった。

 

3、貧乏神の貧乏行脚

 

幽鬼のような足取りで、その影が姿を見せると。夕方の人里は一瞬だけざわつき、そして誰もいなくなる。

粗末な服に青い髪。

猫背に素足。

その存在は、既に人里で、ある意味恐怖の対象として知られていた。

貧乏神、依神紫苑。

関わると貧乏になる。

幾ら貧しい人が殆どいない幻想郷とはいえ、それでも貧しくなりたいと思う人間は、余程の変わり者しか存在していない。

昔は疫病神である妹の依神女苑と常に一緒に行動していたのだが。

妹は異変を起こして博麗の巫女にしばき倒された後、命蓮寺で無理矢理修行させられ。

そこで何か思うところがあったのか、最近は人里で稼ぎすぎている家に出向いては、富の調整をしている。

紫苑は天人の比那名居天子と遊ぶことが増えたのだが。

しかしながら天子は非常に気まぐれな上に何処に姿を現すかよく分からず。

最近は天の国に戻って、其方で何かしているらしく。

幻想郷には殆ど姿を見せない。

たまには雑草以外の何か良いものを食べたい。

そう思って人里に姿を見せた紫苑だが。

その特徴的な姿が知られてしまっていて。

視線を向けた先の店が、片っ端からパタンと戸を閉める有様である。

勿論お金なんか無い。

お金は紫苑の元から逃げていく。

貧乏神なのだ。そもそも貧乏を司る神なのである。こればかりはどうしようもない。

能力をある程度抑えられるようになったとは言え。

それでも、根本的な能力。

お金が逃げていく、という能力に関しては、変えようが無いのが事実だった。

妹と一緒にいた頃は、これが更に酷かった。

妹は取り憑いた相手に浪費させ。

紫苑はいるだけで相手を貧乏にさせる。

二人は存在そのものが災厄で。

悪気があろうとなかろうと関係無く、相手を不幸にして行く。

だからずっと嫌われ続けてきたし。

今後も好かれることは無いだろう。

陰気な紫苑はそもそも愛嬌もないので、誰かに好まれる要素が一つも無い。愛想笑いでも上手に浮かべられれば違ったのだろうが、妹のように要領よく出来なかった。

ただ、人里に姿を見せるだけで畏怖は集まるので。

存在が消滅する恐れだけは無かったが。

妖怪の中には、戦いが嫌で、人間を襲うのも嫌で。

結果消滅の危機を迎えそうになる者もいると聞いている。

神とて同様。そもそも信仰が現役の神々は、幻想郷になど来ない。

数限りない不幸をばらまいてきた紫苑と妹は、最終的に追われるようにして幻想郷に来て。

此処でも不幸をばらまき続けている。

貧乏にするというのが自分の存在だと言う事は理解しているから、それについては疑問も持たない。

だけれど、この能力は自身にも向く。

常にひもじい事に代わりは無い。

地獄の餓鬼達もいつも腹を減らしているという話だが。紫苑もそれは同じだ。

「おめぐみをー」

呟きながら人里を歩くが。

紫苑を見るなり脱兎と逃げるか、目の前で戸を閉められるか、どっちかである。

月の兎である玉兎(脱走兵である)が経営している団子屋にも来たが。此奴らは人間より勘が鋭いので。

紫苑が出向いた時には、もう暖簾がしまわれていた。中でぶるぶる震えているのが分かるが、流石に店を無理に開けさせるわけにもいかない。

おなかが鳴る。

勿論餓死することは無いが、空腹も覚える。

貧乏とはそういうものだからだ。

難儀な話で、「存在は維持される」反面、「自分の性質が故に苦しむ」事はどうにもならない。

人間と同じようにものを食べる事は出来る一方。

博麗神社である程度能力をコントロール出来るようになった今も、側にいる相手を不幸にするという根本的性質に代わりは無い。

しんどいなあ。そう心中で呟く。

仕方が無いけれど。

そう思いながら、人里を後にする。

自分の後ろで塩が撒かれているのに気付くが。それはむしろ、貧乏神として存在感を示した、と言う事なので。怒らずに受け入れなければならない。

それに対して腹を立てて、いちいち人を祟ったりしたら、また博麗の巫女に半殺しにされるだろうし。

下手をすると幻想郷から放り出されるかも知れない。

ある程度力のある神なら幻想郷に出入りも簡単だが。

紫苑にその力は無い。

ため込んだ力を爆発させれば、圧倒的な破壊力を産み出すことも可能だが。それも長続きはしない。

ましてや信仰が失われた外では紫苑の力は更に低下するし。

更に言えば、長生きだって出来ないだろう。文字通り、存在そのものが消滅してしまうのである。

人里を出ると、ふらふらと歩いて、だだっ広いのっぱらに出る。

其処で草を引っこ抜いて、そのまま口に入れる。

雑草はどうして雑草なのか。

勿論雑草という草は存在しないが。

基本的に、食用として知られていない草は。相応の理由がある。

多くの場合、まずいのだ。

毒がある場合もあるが。

流石に貧乏神が毒草を食べた程度で死ぬような事はない。むしろ好物なくらいである。

無言でむしゃむしゃと草を食べていると。

博麗神社で出された粗末な料理を思い出す。

料理どころか調理だったような気がするが。

ともかく、ちょっと油で炒めたり、火を入れたりするだけで、食べ物はかなりマシになるのである。

妹と一緒に人々を不幸にさせる行脚を続けていた頃は。

美味しいものを盗み食いしていたが。

それは兎に角虚しかった。妹も派手な格好でけらけら笑っていたが、内心は楽しんでいないのが丸わかりだった。

今が充実しているかと聞かれればそれは勿論ノーだが。

かといって、分かる。

今は貧乏神の業を押さえ込んで。誰も不幸にしていない。

不幸にさせる恐怖を叩き込んだから、もう不幸にする必要がないのである。充分に、幻想郷の住民としての税は払った。

そういう事だ。だからそれで良いし、納得もしなければならない。

腹一杯になるまで、手当たり次第に雑草を食べると。

そのまま横になる。

勿論地べたの上だから綺麗ではないけれど。

元々貧乏神というのはそういう存在だ。

外の世界で、神社に居着いている別の貧乏神と会ったことがあるが。

その貧乏神は、災い転じて福と成すの言葉通り。

信仰を得て、静かに暮らしていた。

妹は彼奴を不幸にしたいと言ったけれど。紫苑は止めた。

鼻つまみ者同士憎み合っても仕方が無い。

むしろ、鼻つまみ者から抜け出ることが出来たあの神様は、尊敬するべきだろう、と。

妹は享楽的で、陰気な紫苑とは性格が真逆だ。

紫苑の事もあまり尊敬はしていなかったが。

たまに真面目に諭すと。

そういうときは話をきちんときいた。表向きは不満そうにはしていたが。

その妹は、今は富の再分配という仕事を自分なりにきちんとやっていて。幻想郷の賢者の指示を(表向き嫌々ながら)やりつつも。相応に境遇を楽しんでいる様子だ。

姉の自分はどうだろう。

星空を見上げて、紫苑は思う。

野宿は当たり前。人も妖怪も見た瞬間避けて逃げていく。たまに妹に再会すると、おごってくれる事もあるが。妹に集るのも、あまり褒められた行為では無いし、やりたくはなかった。

それで良いと言う事は分かっていても。どこか心の底がちくちくする。

不良天人と気があったのも。鼻つまみ者同士という共通点があったからだろう。向こうも紫苑が同類だと、一目で気付いたのだ。

勿論プライドが高い天子はそんな事を口にはしなかったが。

それでも一緒に話していて楽しいのは事実だった。

 

雨が降り始めたので、知っている洞窟に移動する。

先客がいた。彼女はぎょっとした様子で紫苑を見たが、流石に出て行けとは言えないのか。無言で膝を抱える。子供のような姿をしたその先客は、頭に角を生やしていた。

最近地上に出てくるのを許された妖怪。

鬼人正邪である。

以前幻想郷で特大規模の異変を起こし、幻想郷中の強者に袋だたきにされた上、地底送りになった天の邪鬼。

天の邪鬼は名前がそのまま性格を示す言葉に使われるほど有名な妖怪で。

下等なものから文字通り神の領域にいるものまで、多数存在している。

正邪は下等な方だが。

以前起こした異変の内容が問題だったことや。

何よりもやり口が外道にも程がありすぎたため、現在でも幻想郷中から嫌われている。

もっとも、好かれる方が天の邪鬼にはつらいらしいので。

このくらいが丁度良いのかも知れない。

また、正邪は天の邪鬼らしく、思っている事と逆の事しか言えないらしく。

それが相手との円滑なやりとりを大きく阻害しているようだった。

「歓迎するぜ、貧乏神」

「ごめん。 出ていくのは嫌」

「嬉しいな、私もだ」

実はぎすぎすしている会話だが。

正邪もこの雨の中、出ていく気にはならないのだろう。如何に肉体を損壊しても死なない妖怪とは言え。

精神的に多大なダメージを受けたばかりだ。

あまり良い気分はしないのだろう。

紫苑はその辺に生えているいかにも毒々しいキノコを適当にむしると、口にする。正邪は満面の笑みを浮かべた。文字通り、偽りの笑みである。

「美味しそうだな。 体に良さそうだ」

「食べる?」

「是非くれ」

勿論本当の意味は「絶対にいらない」である。

分かっているから、そのまま自分だけで黙々と食べる。

おなかの虫が鳴いた。

今食事中の紫苑ではない。

大体分かるが、正邪はあまり高いサバイバルスキルを持っていない。体も、貧乏に馴染んではいないのだろう。

天の邪鬼はかなりメジャーな妖怪だ。

幻想郷に来たのも、それほど昔ではないだろう。

そうなると、色々悪さをしながら主に地底で活動していたことは想像に難くは無く。

元気な内はそれで良かったのだろうけれど。

弱っている今は、多分賢者である紫に首輪つきでなんとか生かして貰っている状態。それも、他人に迷惑を掛けないように自活しろと言われているのは想像に難くない。

地底でさえ迷惑ものだったのだろう。

そうでなければ、もう地上に出てくることは無かったはずだ。

「満腹満腹」

「このキノコ、貧乏神である私だから食べられるけれど、止めた方が良いよ」

「そうなのか、知らなかった」

「ならいい」

相手も猛毒のキノコである事は分かっている。

正邪は能力こそあれだが、体の方はそれほど強くも無い。こんなキノコ食べたら、それこそひっくり返って一週間は身動きが取れないだろう。体が壊れるかも知れない。

黙々と食事をする紫苑に。

ぼそりと正邪は言った。

「羨ましい」

「!」

今の言葉は逆じゃ無いな。

何となくだが、貧乏神はそう思った。

如何に天の邪鬼といえど、余裕が無くなってくると本音がそのまま口から出てくる、という事だろうか。

最近まで精神崩壊も同然の状態で地底にいたと聞いている。

出てきたのも、自力では無いだろうし。回復だって同じ事の筈だ。

雨が止んできた。

手を掴んで立たせる。

一瞬不思議そうな顔をした正邪に、紫苑は言った。

「食事の宛てがあるからつれていってあげる」

「余計な事……」

「私達神だって、食事しないとひもじいよ。 妖怪は肉体が損壊しても死なないとはいっても、肉体が損壊し続ければ精神も傷つく。 今の貴方の状態で、餓死し続けたりしたら、多分本当に死ぬよ」

「ほ、本望だっ!」

やっぱり余裕が無くなってきている。

目が露骨に泳いでいるし。今の言葉も、本音がダダ漏れになって来ていた。

思っている事の反対のことばかり口にし。

相手が嫌がれば喜ぶ。

そういう妖怪であっても。

しかしながら、本能というものはあるわけで。

根幹的なそれには逆らえない。

何より腕力が違いすぎる。手を掴まれている正邪が本気で怯えているのはそれが故である。

紫苑は能力頼みの正邪と違って武闘派だ。細くて弱そうに見えるかも知れないが、これでも名の知れた神。博麗の巫女とガチンコで渡り合った経験もある。戦いは好きじゃあないけれど、特殊能力とスペルカードルールに頼って何とか逃げ延びることを主にする正邪とは立ち位置が違うのだ。基礎の身体能力からして違うのである。

その気になれば、弱い妖怪。例えば今の正邪のような存在から略奪だって出来る。

そういう余力もあるのが紫苑である。

ただ、それをやると、多分また賢者にドヤされるだろうし、やらない。

それだけ。

選択肢として最悪の一つとしてある。

そういうことだ。

正邪の場合は、その選択肢さえあるまい。

抵抗も虚しく引っ張り起こされ、雨に濡れた森に出る。正邪はもう何も言わず、そのままついてくる。

やはり、空を飛ぶ力も残っていないか。

前に何度か、こういう飢餓状態に陥った妖怪を見た事があるが。

酷い場合は、そのまま精神的にすり減って、やがて本当に死んでしまう。

肉体にあまりにも苛烈なダメージが続くと。

それは精神にも響く。

やがて死に到る。

当たり前の理屈だ。

「どこに行くんだよ」

「命蓮寺」

「ま、待って! 待って待ってっ!」

悲痛な声を上げる正邪。

それだけは絶対に勘弁してくれと言う、心の声がダダ漏れだ。

「彼処は毘沙門天の寺だろ! 絶対に止めてくれ! 本当にまずい!」

「?」

「あんたは日本系の神だから知らないかも知れないが、天部ってのは悪鬼調伏のエキスパートなんだよ! 武勇が強調される日本神話の神々と違って、悪鬼を倒すって事に重点を置かれてる連中なんだ! 鬼の上位存在である夜叉や羅刹でさえ軍勢として従えている連中なんだぞ! そんなのの信仰が満ちた場所に行って見ろ、私は文字通り消滅してしまう! 死ぬのは嫌だ!」

本当に涙目になっている正邪。

天の邪鬼としての力も性質も本当に弱体化している様子だ。

命蓮寺は妹も世話になった場所で。

妹も厳しい修行から最終的に逃げ出してはしまったが、今でも頭が上がらない様子なので。

妹が逃げた事に対するわびも兼ねて、働く代わりに食事を恵んで貰おうかと思ったのだが(ついでに正邪も)。

この怯えぶり。

本当に近付くことが出来ないのだろう。

普段だったら或いはある程度は大丈夫なのかも知れないが。弱り切っている今は無理、と言う事か。

本当に青ざめて震えあがっている様子からして。

今の正邪は天の邪鬼としての特殊能力さえ使えない、人間の子供と大差ない状態にまで弱っていると見て良い。

嘆息。

そういう状態の妖怪には、命蓮寺の住職が一番適切に対応してくれると思ったのだけれど。そうもいかないか。

「そう。 それなら、別の場所に行こうか」

「別の場所? ど、どこだよ」

「守矢神社」

「……え」

紫苑は知っている。

守矢神社は今幻想郷で最も勢力拡大に熱心で、どんな配下でも欲しがっている。他勢力の同盟よりも、妖怪として走狗に出来る存在を欲している印象だ。実は紫苑も声を掛けられたことがある。

強力な天津神と、土着神最強のタッグにより守られた守矢は、幻想郷の勢力の中でも上位に入る戦闘力を有しており。

更に勢力拡大を図っているため、問題視されていると聞いているが。

しかしその一方で。

勢力拡大を狙っている都合上、紫苑や正邪のような面白い能力の持ち主がコネを作りたいと申し出れば。

悪くはしないかもしれない。

もちろんある程度働くことが前提になるだろうし。

多分幻想郷の賢者の息が掛かっている正邪にとっては、文字通りの綱渡りになるだろうけれど。

それでも、餓死よりはマシなはずだ。

むしろ、幻想郷の賢者に対して、此処まで本当に困っているというアピールにもなるかも知れない。

妹と組んでいた頃は。頭脳戦は妹に任せっぱなしだったのだが。

今は紫苑も多少考えるようになっている。

「ほら、背中に乗って。 あまり速くは飛べないけれど、守矢くらいまでなら行けるから」

「お断りだ!」

「無理言ってると本当に死ぬよ。 地底でどんな目にあったかは大体想像がつくし」

「……っ」

露骨な程の恐怖が正邪の顔に浮かぶ。

幻想郷のスラムであり、荒くれ共が行き着く先が地底だ。

昔は妖怪の山の支配者階級だった鬼達も地底にいると聞いているし。

鬼もどきの正邪なんか、それこそ気分次第で徹底的に痛めつけられただろう。

それも手加減などする筈も無い。

地上にたまに出てくる鬼は、変わり者で気が良い奴ばかりだという話だが。

幻想郷にいる鬼は、仏教の鬼と、中華から伝わった鬼の概念がグチャグチャに混ざり合った、昔話に出てくる悪い鬼に近い。

文字通りの悪鬼である。彼らの所行がどんなものかは、見なくても想像がつく。

「ほら、背中に早く乗って」

「殆ど力が出ないんだ。 漏らしたって文句言うなよ」

「分かってる」

嫌と言うほど紫苑だって分かっている。

鼻つまみ者の悲しさを。

ましてや正邪にしてもそうだが、本能で鼻つまみ者にしかなりえない存在はいるのだ。

何でも受け入れるのが幻想郷だという話もあるが、

そんな場所でも受け入れられない可哀想な存在も、確かにいるのである。

ふよふよと浮きながら、守矢を目指す。

妖怪の山は、少し前までは天狗が我が物顔にしていたらしいが。

今は守矢がかなり制空権を握っていて、天狗がいない場所を狙うようにして移動していけば良い。

人間用のロープウェーもあるが。あれは有料なので、選択肢には入れられない。

途中、物珍しそうに紫苑を見る妖怪を何人か見たが、気にせず飛ぶ。

背中の気配が、兎に角弱々しい。

性質上弱音も吐けないだろうし、とても他人だとは思えなかった。

不幸にもと言うべきか幸いにもと言うべきか。

紫苑は頭を下げるのにも、足蹴にされるのにも慣れている。問答無用で守矢を追い出されたとしても、山だったら、それなりに食べられるものもあるだろう。行く意味はある。

ほどなく、守矢が見えてきた。

不意に、目の前に現れたのは。

小柄で、ラフな格好をして、目玉がついた不思議な帽子を被った子供のような姿をした神。

分かる。極めて強力な力を感じる。

日本神話のダークサイド。まつろわぬ神々。その最上位に位置するもの。

恐怖の祟り神ミジャグジを使役する最強の神の一人。

洩矢諏訪子だ。

凄まじい力をびりびり感じる。何しろ幻想郷でもトップクラスの実力を持ち、あの博麗の巫女とスペルカードルール抜きでガチンコ勝負出来る数少ない存在である。

正に圧倒的な実力。接近にさえ気づけなかった。同じ神でも桁が違う。今の紫苑ではとても勝ち目はないだろう。

「厄い気配がすると思ったら、いつぞや人里で暴れた貧乏神。 うちに何の用?」

「食事を恵んでほしい」

「ふうん。 その背中のも?」

「働くからお願い」

すっと地面にまで降りると、正邪を降ろして、土下座。

正邪は躊躇していたが、頭を掴んで無理矢理土下座させた。

空中からしばし見下ろしていた諏訪子だが。

やがて大きく嘆息した。

「少し其処で待ってろ。 神奈子と話をしてくる」

正座して待つ。

正邪は頭を上げると、恨み籠もった言葉を吐き捨てた。

「プライドは無いのかよ。 あんたも神様なんだろ」

「私達は存在するだけで他の人の尊厳もプライドも傷つけているって分かってる?」

「知るかよ」

「そう思うなら、神の域まで力を高めるか、それとも一人で生きていけるだけの知恵と力を手に入れなければいけない。 元々他力本願でそれをやろうとしたから、「そう」なったんでしょ」

紫苑の言葉に、反論も出来ないようで、正邪は口をつぐんで黙り込む。

まあぐうの音も出ない正論を突きつけられたのだ。

当然と言えば当然だろう。

実際天の邪鬼の中には、神々の座に加わって、月の都に住んでいる者もいると聞いている。

実力も正邪とは桁外れで、当然神としての扱いも受けている。

正邪は他人を陥れる事によって、力を得ようとした。

その報いがこれなのだとしたら。

今更反発しても、もう遅い。

ほどなく、八坂神奈子が来る。

諏訪子と真逆に、背が高く、かなりしっかりした格好をしている。

この神社のもう一人の祭神。れっきとした日本神話における支配者階級、つまり天津神である。感じる実力は諏訪子と同等かそれ以上だ。

なお諏訪子はもう仕事は終わったと判断したのか、姿は見えなかった。

「珍しいのが二人も来たね。 まあ恩を売っておけば面白いか」

「仕事はするから、恵んで」

「……っ」

また正邪の頭を掴んで、無理矢理土下座させる。

それを見て、多分事情を悟ったのだろう。

何しろ古い古い神だ。

海千山千どころか、人間の戦いの歴史をずっと見てきているような存在である。

それくらい即座に理解出来なければ、今までやっていけていない。

「神社に入れるのも何だから、参道の掃除でもして貰おうか。 ほら、箒。 終わったら、食事を早苗に作らせるよ」

「ありがとう」

目の前に二人分の箒が置かれていた。

そして、既に神奈子は姿を消していた。

 

守矢神社の参道は、主に人間では無く妖怪が使っている。

人間はロープウェーで直接来るためだ。

山の妖怪の信仰を得るために、守矢は様々な手を打っており。普段ぐうたらしている博麗の巫女と裏腹に。守矢の巫女(正確には風祝というらしいが)である早苗は、忙しそうにいつも飛び回っている。

幻想郷に来てから短時間で相当に強くなったらしい早苗だが。

色々な経験を、忙しい中で積んでいるから、なのだろう。

参道のゴミを箒で集めて、一箇所に。

ほどなく、早苗がお弁当をもってやってきた。

能力の影響か、髪が翠色になっている早苗は。

人間ではあるが、半分神でもあり。

奇蹟を行使するだけあって、色々な意味で人間離れしている。勿論当然のように空も飛ぶ。

「お疲れ様です。 此方をどうぞ」

「ありがとう」

「……」

「ほら」

正邪に促す。

流石にちゃんとした食べ物を久しぶりに口にするのだ。あまりこれ以上意地を張る余裕も無いのだろう。

ありがとうございますと口には出来なかったが。

それでも正邪は頭を下げた。

お弁当箱を開けると。

早苗の手作りらしい、かなりちゃんとしたお弁当が入っている。それも結構な量だ。

紫苑も正邪も黙々と食べる。

久しぶりのごちそうだ。

その間に早苗は、集めたゴミに術で火を掛けて、処分していた。一旦灰にした後は、堆肥にするのだという。

多分守矢の二柱の指導の故だろうが、何をするにも抜かりが無い。

ビジネスもしっかりこなしている辺り、怠け者の博麗の巫女に戦闘力で一枚劣ったとしても。巫女としての手腕は此方の方が上だろう。

「参道はまだまだありますよ。 まだ働いてくれるなら、また食事をもってきますが、どうしますか?」

「お願い」

「……頼む」

「分かりました。 綺麗に食べてくれると、作る側としても嬉しいです」

早苗が米粒一つ残っていない弁当箱を回収すると、神社に戻っていく。

作業をいい加減にやっていたら、多分こんな言葉は掛けてくれなかっただろう。紫苑は正邪を促して、もう一仕事する。

やはりちゃんとした食事の誘惑には勝てなかったのか。

正邪も以降は、何の文句も言わず、しかもきちんと丁寧に掃除をした。

夜になって、早苗がまた来て。

夕食ももってきてくれた。

約束通りにご飯をくれるのはとても嬉しい。

早苗は此方を嫌がる様子も無い。

不思議になって、話を聞いてみると。

早苗は苦笑いした。

「そもそもうちの神社が、どちらかと言えばダークサイドの塊です。 信仰は二重三重に塗り固められているし、何より日本の神様でもトップクラスに危険なミジャグジ様の総本山。 貧乏神くらい、何ともありませんよ」

「けっ。 だったらなんでお行儀良くしてるんだよ」

「だからこそ、です」

正邪は分からないと顔に書いていたが。

いずれにしても、きちんとした食べ物を腹に入れて、少しは体も回復したらしい。弁当箱を早苗に返すと。

珍しく、自主的に言った。

「ありがとう。 うまかったよ。 私は天の邪鬼だが、あんたの所じゃ悪さはしない」

「大丈夫。 本当のこと言ってる」

「ふふ、二人ともまだ仕事をしていきますか?」

「いや、もう私はこれでいい。 正邪はどうする?」

正邪はふてくされたように、むくれて視線を背ける。

どうやら、これで妙なコンビは解消のようだ。

手を振って、紫苑はその場を飛んで離れる。正邪も力が戻ったら、妖怪の山を離れて、賢者の指示があるまでは、適当に過ごすのだろう。

さて、久々に妹の所にでも行こうか。

多分前回と前々回だけは、妹より良いものを食べる事が出来たはずだ。

ちょっとだけ、気分も良かった。

 

4、賢者の掌の上

 

屋敷に戻った紫は、自分の式神である藍から報告を受ける。

連日苛烈なストレスに晒されている紫は、如何にして仕事を効率化するかばかり考えているが。

今日もそれに代わりは無かった。

「ミスティア=ローレライが、命蓮寺の住職の力を借りて、山彦の幽谷響子と一緒に、人間相手にライブをやる事を決めたようです。 人間を脅かして畏怖を集めるのでは無く、むしろ共存の方向性をはかろうとしているようですね。 音楽で畏怖を集めるという点では、プリズムリバー三姉妹という例もありますし、何より幻想郷では新しい音楽ですので、少なくとも耳目は集めるでしょう」

「この間幽々子に灸を据えられたのがそれほど利いたのかしら」

「さあ、なんとも。 それに幽々子様も、本気であの夜雀を食べようとしていたようにも見えましたが……」

「その辺りは全て計算尽くよ。 庭師が見かねて助けるのも、夜雀が蓬莱人の所に逃げ込むのも、ね。 幽々子は下手すると私よりも頭が切れるし、本気だったらあの夜雀が逃げられる訳が無いわ」

くつくつと笑う紫に。

少しだけ藍は引いたようだったが。

まあいい。

次の報告に入らせる。

「霧の湖に住んでいる人魚のわかさぎ姫ですが、釣り人にもの凄く大きな魚がいるかのように見せて驚かせたようです。 拾ってきた石と、水の中で力が増す能力を利用して、大きな魚が向かってくるように誤認させたようですね。 釣り人は吃驚して、霧の湖に大きな魚がいると騒ぎになったとか」

「無害だけれど上手なやり方ね。 あの子は人間を襲う気が無いようで色々心配していたのだけれど。 霊夢にちょっかいを出させて正解だったかしら」

「本人は相変わらず綺麗な石を集めて歌うだけで満足しているようなので、義務としてやってみただけでしょう。 それにしても思い切ったことをさせましたね……」

「幻想郷を維持するには仕方が無いわ。 妖怪も人間も「税」を払って貰わないといけないのだから」

頷くと、藍は次の報告に入る。

少し前に、紫は地底に行き、精神崩壊していた鬼人正邪を引っ張って来た。

文字通りなぶり者にされていた正邪に言い含めて、今後自分の走狗として問題を任意に起こせるよう調整するためだった。

勿論正気に戻してやった後正邪は反発したが。

スペルカードルールならともかく、実力勝負では幻想郷でも最下位層に位置する正邪が、賢者に目をつけられて勝てる訳も無い。

しぶしぶという感じで従っていたが。

多分反発があったのだろう。

ふらりと洞窟に入ると。

其処で膝を抱えてずっといじけていた。

しばらく様子見していたのだが。

良い感じで貧乏神の依神紫苑と接触。

貧しさや、人を存在するだけで苦しめることの意味を知っている紫苑と接することで、良い影響があるかも知れないと思ったのだが。

どうやらその効果はあったようで。

藍の所に、正邪が来て。仕事を寄越せと言ってきたそうである。

しばらくは食事を与えて置くように、とだけ指示。

近々博麗神社で花火大会をする予定なので。

その時に正邪に暴れさせるつもりだ。

なお、藍は抜かりが無い。

既に以前の異変で正邪が騙し、徹底的に利用した小人、少名針妙丸ともきっちり会わせているようで。

針妙丸と顔を会わせると。

真顔になった針妙丸に対し、素直に正邪は謝ったそうである。

針妙丸も、多分正邪の事情は知っていたのだろう。

それで許したそうだ。

小人の一族は色々あって、あまり良い歴史を送ってきていない。

悲しい生を辿る者の気持ちは、理解出来たのだ。

ともかく、幻想郷には適度に刺激が必要である。

平和呆けしすぎないように、時々問題が発生する必要があるのだ。

かといって、強力すぎる妖怪が暴れると、大問題になってしまう。

制御可能な手駒である正邪は、今後貴重な手札として、活躍してくれるはずだった。

「それで貧乏神は」

「時々ふらりと人里に現れては、恐怖を振りまいているようですね。 ただ実害は与えていないようですが。 食事についても、命蓮寺に行ったり、博麗神社に行ったり、雑草を食べたりしているようです」

「あまりにも状況が厳しいようなら支援が必要だけれど……」

「思ったよりしっかりやっているようですね。 あれで妹よりしっかりしているのではないでしょうか」

そういえば。

正邪があれほど素直になったのも。

多分境遇が近い紫苑と接して、色々と思うところがあったから、なのだろう。

紫苑も博麗神社で力の制御を覚えて、良い影響を得ているようだし。

ここのところの大問題ばかりだった時期に比べると。

多少落ち着いた状況が到来しているかも知れない。

報告を聞き終えると、食事にする。

今日は豚カツだ。

外の世界で流通している犬のマークが書かれたソースを使うが。これは大変美味しいので気に入っている。

なんだかんだで外に行った時には、必ずたくさん入手してきて。

幻想郷でも幾つかのルートから流通させている。

美味しいご飯は力の源だ。

そしてご飯は時に恐怖の対象にもなる。

しばし藍の作った美味しい豚カツに舌鼓を打つと。

疲れも溜まっているので。

それを持ち越さないように、早めに眠る事にする。

紫は思った。

今回は随分と上手く行った。

だが、次が上手く行くとは限らない。

眠れるときに眠っておこう。

幻想郷は混沌の土地。

いつどんな致命的問題が起こるか、分からないのだから。

 

(終)