泥沼の劇
序、薄ら暗い物語
学園祭で、必ず行われる出し物がある。おばけ屋敷、屋台。
そして最後が、或いは演劇部が、もしくは有志(か或いは強制)の生徒達が振り分けられて行う劇だ。
この中学校、夜縺(ヨモツ)学園で行われる学園祭の劇は、演目が毎年決まっている。そしてその非常に暗い題材もあって、生徒達の人気は著しく低い。そして、この劇に、通称カルテットと呼ばれる問題児四人組が放り込まれたのも、当然の帰結だったかも知れない。
カルテット。
夜縺学園二年生の、三組に所属する四人の生徒を指す。この学校は女子校なので、当然ながら全員が女生徒だ。
今まで、数限りない問題行動を引き起こしてきた四人である。
当然ながら、偏屈な女子校のコミュニティからは完全に孤立しており、四人だけで独自の組を作っている。その中の一人、暁鈴見が筋金入りの武闘派で、複数の武勇伝を持っているため、彼女らに対して攻撃的な態度を取ろうという生徒はいない。
ただし、相手にもしない。
今回、カルテットが劇に振り分けられたのは、完全な組織票の結果だ。邪魔な四人を、誰も見に来ない劇に割り当てて、厄介払いした。自分たちが、楽しい文化祭を楽しむために。
「くっだらねえ」
呟いたのは、誰であったか。
薄暗い教室。
演劇のために貸し出された場所だ。
この学校でも、少子化のあおりで幾つかの教室が使われなくなっている。部室として使われている場所もあるのだが、伝統的に此処、旧三年五組が演劇の練習に貸し出されることになっていた。
上演自体は体育館をもちいるので、大道具や小道具も此処で作ったあと、運び込むことになる。終わった後はかたさないとならないので、余計に面倒だ。
かび臭い机と椅子が並ぶそこで、椅子に寝転ぶようにして深く座り、机の上に足をでんと載せて、大きなため息をついたのが。カルテットのリーダー格である水原好栄だ。
長身といかにも悪そうなルックスが重なって、筋金入りの不良だと思われがちだが、実際の学業成績は上位に位置している。非行の類も少なくとも校内ではしない。ただし、敬語なんぞ絶対に使わないその態度と、誰に対しても好き勝手を言うことから、ずっと友人らしい友人がいなかった。
カルテットが起こしてきた問題行動は、基本的に社会的な「非行」とは一線を画している事もあるのだが、しかしながら故に厄介だとも言える。その代表例が、この好栄だと言えるだろう。
その隣で、いそいそと机をかたしているのが、金髪が目立つ石塚宏美。名前は完璧に日本人だが、帰国子女である。ただしアメリカ人でもイギリス人でも無い。スペイン人とのハーフだ。
顔立ちは日本人離れしているが、中身はもろに日本人である。背丈も、平均値を超えない。それが故に小中学では好奇の対象となり、かなり酷いイジメも受けてきた。だからか、身を周囲から、特に女子が作るコミュニティから隠す術を覚えてしまっており、空気のように存在感が無い。
金髪は目立つのに、ふと気がつくといなくなっている。そんな存在だ。
椅子に逆向きに座って、無言で働く宏美を見つめながら小さくあくびをしたのが岸田能野子。
この学校における成績トップを二年間独占している才媛だ。
しかし全くやる気が無く、授業中も常に居眠りをしている。それでいながら、中間試験でも期末試験でも、必ずトップをかっさらっていく。長い髪を無造作に伸ばしており、ほとんど手入れもしていない。眼鏡もぐるぐるで、表情をうかがい知ることは難しい。
実のところ、授業でいつも居眠りをしているのには理由があるのだが、それを聞いたことがあるのは、カルテットの面子だけ。
そして一番奥で膝を抱えて体育座りをしているのが、暁鈴見。非常に小柄で、身長は百四十七センチしかない。ただし少々特殊な環境で育ったため、全身が鍛え抜かれた実戦筋肉の塊だ。
一度、学校に侵入したガタイの良い不審者をワンパンで沈めたことがあり、それ以来畏怖の対象となっている。学校にはなじめないようで、いつも仏像のように黙り込んでいるが、いざ周囲が一線を越えると相手が誰だろうと有無を言わさず遠慮呵責無く叩き潰すことから、ダイナマイトとあだ名されていた。実際、小学生時代は、自分を虐めようとしてきたり、何かしらの理由で絡んできた上級生を三人、病院送りにしている。中学になっても全く変わることが無く、飽和攻撃を仕掛けてきた他校の不良をまとめて血の海に沈めたという噂もある。それが噂に過ぎないことは好栄がよく知っているのだが、悪名を利用して、絡んでくる奴を減らしている節があるので、何も言わない。
この、学校の腫れ物四名が、カルテットだ。
脚本を放り捨てた好栄が、大あくびをした。
ぼろぼろの脚本。
演劇にカルテットが放り込まれてから、渡されたものだ。電子データをコピーする労力さえ惜しいらしい。
担当教師は例年この劇をやる事にうんざりしているようで、おざなりに任せると、既に教室にはいない。そもそも人数が少ない学校とは言え、演劇にこの人数しかいれないというのは異常だ。
本来は裏方から役者、あらゆるポジションを考慮して、この十倍は人数が必要になる。
幸いやらなければならない劇は、役者が二人だけで事足りるものだ。見栄えが良い好栄と宏美が演じるというのは、既に暗黙の了解であったが。それにしても、好栄にしては、退屈極まりない。
「脚本、覚えたの?」
「こんなうっすい内容、覚えられない方がどうかしてる」
好栄が、すらすらと最初から暗誦してみせると、にこにこしたまま、宏美が脚本を拾い上げた。埃を払うと、もうずっと使われていない戸棚の上に載せる。
いつでも空気のように存在感を消せる宏美は、残念ながら学力の方はあまり高くない。特に小学生時代は、イジメで心身ともにボロボロだった事もあって、ほとんど勉強どころではなかったからだ。
ただし、中学時代、カルテットに所属するようになってからは、学力は全国平均にまでは持ち直している。
勉強のコツを、能野子が教えているからだ。
下手くそな教え方しか出来ない教師よりも、能野子の方がよっぽど教え方が上手い。ただこれは、潜在的に宏美の頭が良いからでは無いかと、好栄はにらんでいる。
「私はまだ半分も覚えられていないよ。 それにしてもこれ、不思議な内容の劇だね」
「不思議ねえ……」
つまらない、と言った方が良いのでは無いかと、好栄は喉まで言いかかったが、止めた。せっかくやる気になっている宏美の意欲を削ぐのもあれだと思ったからだ。
能野子を促して、机と椅子の残りをかたしてしまう。
木の床に胡座を掻くと、頬杖をついてもう一度ため息をついた。
「しっかりこりゃあ、演劇自体が殆ど懲罰だな」
「いつものこと」
「……それもそうか」
ぼそりと言った能野子に、言葉短く返す。
カルテットの悪名は、この学校では知らぬ者がいない。
少し前は、陰湿で卑劣なイジメを主導していたグループのリーダー格の弱みをすっぱ抜いて、掲示板に大々的に張り出してやった。
気に入らなかったからだ。
そいつはイジメグループのリーダー格から、一気に逆の立場に転落。
ただし、カルテットの犯行である事は明白であったから、教師達に更に目をつけられることとなった。
この学校の人間関係は陰湿だ。
皆事情があって、安易に転校など出来ない状況と言う事もあるのだが。気が弱い人間には、文字通り針のむしろだろう。女子校には華やかなイメージがありがちだが、実際には閉鎖的なコミュニティと、腐りきった人間関係が蔓延する、魑魅魍魎の跋扈する魔界というのが正しい。イジメの陰湿さは男子校の比では無く、ある意味大人の社会の縮図とも言える。
こびの売り方をコミュニケーションと称する、日本的社会の暗部の結晶が、女子校の正体だ。
隅っこで膝を抱えている鈴見を手招きする。
無言で此方に来た鈴見が、近くに座った。それで、四人が円座を組むこととなった。
顎で脚本を示しながら、好栄が言う。
「で、どうするよ、これ」
「やるしかない」
「わーってるよそんなん。 このくっそつまらん劇を、くそ真面目にやるかどうかっていうんだよ」
非常に汚い言葉遣いだが、カルテットの中では誰も気にしない。
実際問題、能野子も鈴見も、この劇の内容を、快くは思っていないのだろう。
劇のタイトルは、そのまま泥沼。
この陰湿で意味不明な劇に、丁度よいタイトルである。
「そもそもこの劇、登場人物の衣装や格好も、よく分からないね。 全編通してみたけれど、情景描写もないんだもの」
「そもそも、登場人物が人間かどうかも不明」
能野子が、宏美に指摘する横で。黙々と、鈴見が脚本に目を通しはじめている。
既に中身を把握した好栄も知っている事だが、確かにこの劇は、一種の前衛作品に近いかも知れない。
マニアックな趣向の劇団などがやるには良いのかも知れないが。
少なくとも、学校の演目ではないように思える。
無言で、鈴見がスマホを見せる。
どうやって検索したのか、この劇についての詳細を、ウェブで調べ上げたらしい。意外に電子関係に強い鈴見は、検索するのがとても早い。
「何々、学園祭などで希に上演される劇の一つで、非常にシュールな内容から、生徒達からは評判が悪いことが多い。 それにもかかわらず、どういうわけか一定の需要がある不思議な劇である、だって?」
「このカオスな劇、よそでもやってるんだ」
「どうにも信じられないなあ。 いずれにしても、こんなのやらせようとしたの、一体どこの誰だよ。 客なんかはいりゃしねーっての」
文句を言う好栄の横で、他の画像を鈴見が出してきた。
どうやら他の学校の、文化祭の様子らしい。
全員が制服のまま演じているようだ。おそらくは、その学校でも、一体どうしていいものか、分からなかったのだろう。
登場人物のしゃべり方は平坦で、性別さえよく読まないと理解できないような有様なのだ。しかも明記されていないから、本当にそうだという確信も持てない。情景描写も極めて簡素なため、何が起きているのかさえ分からない。
脚本と言うより、前衛芸術。
それなのに、きちんと演じているのだから、立派と言えるのかも知れない。
映像は途中で切れてしまった。あまりにも退屈だから、録画を打ち切ったのだろう。好栄も面白いとはみじんも感じなかった。
芸術は奥が深いというが、こういう前衛的な内容は、一般人からすれば非常に遠い世界になる。
一般人とは言いがたいかも知れない好栄だが。それでも、見ていて理解できるものではなかった。
「まいったな。 見ろよ、この辺り、客寝てるぜ」
「私達がやったら、客零決定」
能野子がとてもよく当たりそうな予言をした。
実際問題、それでも構わないのだが。しかしながら、何となく、この状況の意図が掴めた。
「多分、私達がこの劇の内容を知って、どうするか考えた末の行動だな」
「んー?」
「た、と、え、ば、能野子。 あんたはどう思うね」
「好栄ちゃんなら、きっと客を呼んで見返そうとするだろう、って思うね」
正解だ。
こいつは勉強が出来るだけじゃ無くて、実際に賢い。ただし、その賢さを、大人が喜ぶような形では使わない。
この学校はあまり大きくない。
ただし近隣では少ない女子校という事もあって、文化祭には人が集まる。生徒達の間では、どこが一番客を呼べるかという事で、陰湿な水面下での争いが生じているのは、周知の事実なのだ。
努力の果てに、まったく客が来なかったら。
不快なカルテットも、へこむだろう。そういう意図で、くだらない画策をしたに、間違いなかった。
特定の生徒が仕掛け役では無いだろう。
殆どの生徒が、カルテットを嫌っている。だから、暗黙の了解が重なって、結果が作り上げられたのだ。
主体性の無い悪意の集合体による結果がこれだ。
「じっつにくだらねえな。 女子校の現実を、夢見てるアホ男子どもに見せてやりたいもんだぜ」
「そういえば、喫煙率とかもなにげに高いんだよね。 勿論表立っては吸わないけど」
「うちのクラスだと、十七人が吸ってる」
「ハ。 全寮制の学校だったら、どれだけの確率に跳ね上がるんだか。 夢木っ端ミジンコだな」
げらげら笑う好栄に、ぼそりと鈴見が付け加える。
此奴はそういえば、身体能力だけでは無くて、感覚も優れていた。煙草を吸っている相手は、臭いで分かるのだそうだ。
そういえば好栄も何度か煙草を吸ったことがあるが、すぐに止めた。
鈴見が嫌そうな顔をしたからだ。それだけ臭いがつく、という事なのだろうと思って、納得して以降は興味を失った。
ずっとにこにこして会話に加わらなかった宏美が、だいたい片付けを終え、モップがけに移っている。
彼女にばかり任せるのも問題だろう。
「宏美、掃除が終わったら、作戦会議しようぜ」
「うん。 もう少し、待っていて」
「おう。 それでなあ。 この劇を面白くなくしているのは、何だと思う。 みんなに意見を言って欲しいんだが」
皆の顔を見回す。
完全に、好栄の顔は。
面白いいたずらを思いついた、ガキ大将のものとなっていた。
1、泥沼
その脚本には、台詞だけが載せられている。登場人物の性格は、台詞を追っていくと何となく分かる。
基本的に交互に会話だけが行われて、話かどうかさえも分からない物事が進展していく。そして最後、唐突に断ち切られるようにして、話は終わる。
一度読んでみただけでは、何が起きているかさえ理解できない。いや、何度も頭の中で吟味しても、結果は同じ。
それが、この泥沼という脚本の特色だ。
考えれば考えるほど、文字通り泥沼に填まっていくような、意味のわからなさ。
一体何を考えて、このような脚本が作られたのか。
鈴見と帰り道が同じなので、一緒に帰る。
彼女の家は少々特殊で、住宅街から離れたところにぽつんとある。周囲にある柵は非常に頑強で、いわゆる監視カメラまでついている。
非常に極道な家系を予想させるが、実際には家族は温かい雰囲気である。
ただ、この国の常識とは違っている。それだけだ。
「鈴見はどう思う?」
「さあ。 考えるのは苦手」
鈴見は、そう短く答えた。
元々鈴見は極端に口数が少なく、それだけで女子のコミュニティでは阻害されがちな存在だった。
しかもいろいろに危険な要素が重なったこともあり、転校当初からほとんど腫れ物扱いだった。
結局の所、はみ出し者同士が集まって、カルテットと呼ばれている。
幸い鈴見は好栄には心を開いてくれているので、会話は成立するのだが。以前、教師から、鈴見と話が出来ないと泣きつかれたことがある。
とにかくぼそぼそとしか喋らない上、機嫌を損ねると猛獣と化すので、教師達もコミュニケーションに苦慮しているのだ。
もっとも、生徒達の中では、むしろカルテットの中では、鈴見が一番手が掛からない、という声もあるようだが。
「或いは、考えさせるための劇なのかも」
「寓話、ってことかい?」
「分からないけれど」
イソップ物語に代表される寓話は、嫌いなものではないのだが。読者を試しているようで、嫌いだという人間がいることも、好栄は知っている。
というか、好栄の父がそうだ。
元から学園祭に来るとは思っていないが、その時は喧嘩になるかも知れない。寓話なんぞ演じおってと、顔を真っ赤にして叫ぶ父の姿が、容易に想像された。正直、どうでも良いが。
「寓話か。 そうなると、能野子の出番かねえ」
「わからない」
家に着いたので、分かれる。
小柄な鈴見は、以前変質者に狙われたこともあったが、その全てをぶちのめして警察に放り込んでいる。
しかも用意周到なことに、過剰防衛にならないように、この国の格闘技は一つも段位を取っていない。ボクシングなどでも、ライセンスを取る事は出来そうなのだが、それもやっていないようだ。
元々見かけがアレな好栄は、変質者に付け狙われた事は無い。
ただし、対立している女子にけしかけられた不良に、喧嘩を売られたことはある。全部返り討ちにしてきたが。勿論その後は背後関係を聞き出して、徹底的に相手を潰してきた。
「寓話、ねえ」
脚本を、もう一度頭の中で再生する。
一体何を、脚本を書いた人間は伝えたかったのだろう。
それが分からない以上、この劇を理解することは不可能だ。もう少し、情報を集める必要がある。
家に戻ると、携帯を操作して、全員にメールを飛ばした。
泥沼という劇について、皆で調べるように。
それで、カルテットには、充分だ。
翌朝、学校に出ると、既に文化祭の準備が始まっていた。早いところでは一月は前から、準備が行われる。
それと比べると、此処はむしろ準備開始が遅い方だ。
金槌の音が響いている。
女子校だと、力仕事を任せる男子がいない。その代わり、喧嘩やもめ事の類も、少なくとも表面上はあまり多くは無い。
乙女の園などと言うのは噴飯モノの夢物語だが、暴力沙汰は男子校に比べれば、少ないのも事実だ。
好栄が姿を見せると、さっと身を隠す奴も多い。
カルテットの悪名は、この学校に雷がごとくとどろき渡っている。幾つかの噂は、流石の好栄も苦笑するほどの恐ろしさだ。
朝練の時間も、文化祭の準備に費やされるから、この時期はとにかくやかましい。気合いが入ったところは、昼休みにも文化祭を準備する。
くそ面白くも無い授業を終えると、さっさと演劇の教室に。途中担当の教師が来たが、きちんとカルテットが揃っているのを見ると、ろくに指導もせずに戻っていった。こいつ、或いは泥沼が寓話である事さえ気付いていないのか。ひょっとすると、劇にも出ないのかも知れない。
全員が集まると、能野子が挙手する。
照明や音響はどうにか出来るという。
「知り合いが、レンタルしてるの。 格安で貸してくれる」
「そっかい。 それはありがたいね」
一応、電力の消費については、事前に申請を出してあるから大丈夫だ。この辺り、目をつけられないように振る舞う宏美が、ぬかりなく手を回してくれていた。
宏美が教師達に目をつけられているのは、そのスルースキルにある。
気がつくと、いつの間にかいなくなっている奴。問題があっても、けちを付ける前に逃げられてしまう。
影のように振る舞うから、立候補の類もしないし、推薦もされない。「共同生活が重要な」学校で、義務を果たしていない。そう、見える。
其処が、かんに障るらしい。
面と向かって宏美と相対しても文句は出ないのだが、後でじわじわと頭に来るようなのだ。
生徒の間では、宏美は空気金髪とか言われて、それこそいないもの扱いされているのだが。
教師達の間では、悪意を持ってフロンガスとか言われている様だ。
下劣なあだ名で吐き気がする。
もっとも、この国以外の学校で、宏美がやっていけるかと言われれば、同じだとしか言いようが無いかも知れない。
結局カルテットは、筋金入りのはぐれ者四人なのだ。
「問題は、脚本だなあ」
どっかと腰を下ろして胡座を掻いた好栄が、頭をぼりぼりとかく。わかりきったことを敢えて言うことで、問題提起をしているのだ。
「小道具や大道具は、今の時点じゃ考えなくても良いだろ。 みんな、調べてきてくれたか?」
「好栄ちゃんがやる気になってるし、調べてきたよ」
「能野子、どんな案配だよ」
「この劇を、文化祭で上演している学校は、全国でも五十を超えるみたいだね。 例外なく評判は悪いみたいだけれど」
どうしてこのような劇を上演するか。
それは、敢えて意味不明な劇をやらせることで、生徒の集団行動意欲を育てる、という意図があるそうだ。
文句を言わず上の言うことをきちんと聞く生徒こそ、理想というのだ。
「ハン、何だそりゃあ」
「優秀な社会人を育てるための予行演習でしょ?」
「くっだらねえ。 上の言うことに疑問を抱かず、機械的に従う人形かよ。 優秀な社会人ってのは、会社にとって都合が良い奴隷の事か」
「いうまでもないねえ」
くつくつと能野子が笑った。
実際この国では、実能力などよりも、「コミュニケーション能力」と称する主体性の無いものが求められるのは、中学生でも知っている事である。高校生である好栄を一とする皆も知っている。
そんなことだから誰もがやる気をなくす。
かっては、漫画などの創作で、そういった社会的風習に対する批判も、多く見られた。
だが近年では、逆に反社会的行動を批判する作品も目立ちはじめており、結局惰性で迎合しているものも増えている。
「で、この脚本書いた奴も、同じ意図なんか?」
「それはまだ分からない」
「調べてきた」
不意に、鈴見が呟いたので、視線が集まる。
鈴見が取り出した紙束を見ると、作者のプロフィールらしい。猪塚圭という、見た事も無い名前の作家だ。
生年月日を見ると、なんと1930年代である。既に八十歳の大台に乗っている。相当な高齢だ。
「何だよ、団塊世代よりも、ずっと上かあ?」
「作家としては、貸本の時期に活躍していたみたいだねえ」
「貸本?」
「昔は、漫画はレンタルが基本だったの。 妖怪漫画で知られる水木しげる先生も、この時期に有名になったんだよ」
へえと呟いてしまう。
確かに、戦後は非常に貧しくて、苦しい時代が続いていたという。
漫画を買うお金も無いのなら、レンタルするのが良いだろう。ただし、この頃の漫画家は非常に収入が少なくて、皆が苦しい生活を続けていた、のだそうだが。
戦争を乗り切ったタフな人達が多かったので、それでも皆頑張っていたのだ。水木しげる先生に至っては、片腕を失っても仕事を続けていたとかで、凄いなあと皆で感心しあってしまったほどだ。
「それで、どうしてその貸本作家が、こんな訳が分からない脚本を?」
「貸本の時代が終わってからも、細々と漫画家業は続けていたらしくて、大手の週刊誌で連載をした事もあったんだって。 で、大御所って呼ばれるようになって、それで自分が好きな作品を書くって事になったんだってさ」
「大御所……ねえ」
能野子が例を挙げてくれた作家を聞いて、納得した。
ある映画監督は、名前が知られる度に傲慢になり、自分勝手な作品を作るようになって行った。見ても理解できないので、客はどんどん離れていったが、俺は大御所だと怒鳴り散らして、スタイルを死ぬまで変えなかったという。
そういう芸術家は少なくない。
基本的に映画でも漫画でもそうだが、自分が書きたいものを書いているプロは殆どいないのだという。
スポンサーが言うものを書くのが作家、というスタイルが横行していて、本当に晩年まで、書きたいものは書けないのだそうだ。
「何それ。 作家って大変だな」
「だって、資本主義の奴隷だもの。 昔の、貴族の奴隷な芸術家と、どっちがマシかって言われたら、甲乙付けがたいね」
「甲乙……」
不満そうに鈴見が口をとがらせたが、まあそれはいい。
とにかく、だ。
ほそぼそと長年漫画を続けていた作家が、どうしてこのような劇の脚本を書くに至ったのか。
或いは、この劇の漫画は存在しないのか。
鈴見が首を横に振る。
そうなると、猪塚というこの人は、或いは。漫画を書くのは、本意では無かったのだろうか。
もしそうだとすると、大変だ。
漫画が凄まじいマンパワーの上に成り立つものであることくらい、好栄だって知っている。
今時の若い世代で、漫画家を馬鹿にしている者は少ない。
凄まじい過酷な環境の中、締め切りに尻を叩かれて、必死の仕事をしていることくらい、常識だからだ。しかもその競争の激しさと来たら、密林の生態系を思わせるほどの代物である。
好きだからこそ、やっていけている部分はあるだろうに。
食事のために、鳴かず飛ばずの仕事を、しかも好きでも無いものを続けていたら。壊れてしまうかも知れない。
心底同情してしまう。
「あー、それは何というか。 大変だな」
「ねえ、鈴見さん。 その人、どこに住んでいるの?」
「静岡の西の方に、今でも。 まだ存命の筈だよ。 漫画も、細々と書いていると聞いているけど」
今まで会話に加わっていなかった宏美が不意に質問したが、鈴見は既に頭に入れていたらしく即答。
静岡というと、首都圏からも近い。
行っていけない距離では無い。ただし、往復となると、丸一日がかりだろうが。お金も、それなりに掛かる。
万年金欠の好栄では、ちょい厳しい。
「行くとなると、一人だけだねえ」
「好栄ちゃん、行くつもり?」
「そりゃあねえ。 こんな作品、どういう意図で書いたのか。 どうして日本中の善良な高校生を苦しめるのか。 それくらいは、聞いておきたいからね」
「善良かどうかはさておいて、もう少し、考えてからの方が良いと思う」
能野子が釘を刺してきた。
確かにそうかも知れない。
この脚本に対する考えが、少しずつ変わってきた。一体何を考えて、こんな訳が分からない劇を作ったのか。
年を取って、頭がおかしくなった、というのとは違う気がする。
これが長年やりたかった事だとすると、一体何がその奥底には潜んでいるのだろう。いずれにしても、カルテットをやり込めようとした他の生徒共のもくろみは失敗だ。好栄に、劇に対する興味を持たせた時点で。
「衣装の類も、必要になるかも知れないね。 私、着るならふわふわのがいいな」
脳天気な発言を宏美がするが。
それはそれで面白そうだ。
脚本の内容は、今の時点で全て把握している。
せっかくだから、状況を整理してみようと、好栄は思った。会話から、拾い上げられる要素を、順番に並べていく。
この劇は、最初、挨拶のようなものから始まる。
誰か分からない人達が挨拶を行い、それから急に場面は血塗られる。どうも会話している者達は移動しながら、殺人現場を目撃するらしい。しかしその対応が、どうもおかしいのだ。
まるで他人事のように、その事について話ながら、通り過ぎる。
その後も、おかしな場面は幾つもある。
二人は同じ家に住んでいるらしく、話ながらそのまま帰宅する。男女の二人かと思うが、どうも言葉遣いからして、二人とも女性であるらしいのだ。姉妹や母娘のような家族とも、会話の内容からは考えにくい。
ルームシェアをしているような親友関係にしても、どうも会話がおかしいのである。一体意図があるとしたら、どういうものなのか。
それから生活関係の話をして、眠って、起きると。
何故か場面が転換していて、宇宙らしき場所にいる。
今までいた場所もよく分からないが、宇宙に最初からいたのだとすると、おかしな事が多すぎるのである。
宇宙を廻って、様々なものを見る。
どうしてか星の類は殆ど見ない。
見るのは、どれも深海にありそうなものばかり。それらを見ながら雑談し、いつのまにかまた、唐突に場面が変わっている。
変わった先は、地獄らしき場所。
描写はされていないのだが、しゃべり方や、その内容から、そうだと判断できるのだ。
拷問されている亡者や、恐ろしい悪魔を見ながら。
全く動じず二人は、地獄を通り過ぎていく。
これだけでも異常だが、淡々と拷問の様子や、行き交う悪魔について語っている二人には、狂気さえ感じてしまう。
それに、何故二人に、悪魔が手出しをしないのかもよく分からない。
やがて、二人は光の塊の前に出る。
そしてそこで、唐突に劇は終了する。一体この内容は何なのだろう。途中で劇が終わっているかというと、そのようなことも無い。これで完結で。間違いないのだ。
以上で、劇の内容は終わりである。
「わっかんねえなあ」
胡座を掻いたまま、好栄がぼやく。
能野子と好栄で、情報の整理。宏美には、お洋服を作ってもらうことにした。家事系のスキルが充実している宏美には、一番適切な仕事だろう。
時間は有限だ。授業もあるし、思った以上に取れる時間は無い。
その間も、鈴見にはネットを使って情報収集をしてもらう。他の二人も働いているのだ。好栄と能野子がさぼるわけにはいかないだろう。
時々教師は様子を見に来るが、何も言わずに出てくる。
そもそも、カルテットが四人でおとなしくしていること自体が、教師にとってはとても良いことであるらしい。
それ以上は望まないのだろう。
ぶっちゃけ、どうでも良い。
「地獄に悪魔がいるんだね」
「それがどうしたよ」
「多分、西洋圏の地獄だね。 東洋、特に日本の地獄であったら、悪魔では無くて鬼がいるはずだよ」
「そんなもんなのか?」
そう言われると、最後に出てくる光の塊というのも、よく分からない。
一体何者なのだろう。
「神様か? あれか、閻魔様、って奴か」
「東洋圏ならそうなんだろうけどねえ。 きっと違うよ。 西洋の地獄は、魔界の一部だし」
そういって、能野子が資料を出してくる。
地獄というものは、東洋と西洋で、随分違うものだという。勿論、宗教や文化圏でも違うのだとか。
感心して話を聞いていたが、それだと疑問も浮かぶ。
「そんなにこの劇で、厳密に考えてやがるのかなあ」
「台詞回しからだと、よく分からないねえ。 ひょっとすると、単に何も考えていない可能性もあるね」
「もしそうだとすると、この議論も骨折りか?」
「ううん、演出なんかには使えるし、小道具もそれで揃えられるよ。 せっかくだから、話を詰めておこうよ」
それもそうか。
他のシーンについても、議論してみる。
宇宙についてだが、そもそも何も議論されていないので、そうではないかと思うだけなのだ。
「この宇宙もわっかんねえなあ。 なんでいきなり宇宙に出てるんだ。 ワープかよ」
「宇宙にしても、人間が簡単に移動できる場所じゃ無いからね。 まして歩いて行くなんて、絶対無理」
「じゃあ、宇宙船か何かで、移動してるってのか? 一般人が、ロケットなんか乗れるのかよ」
「凄い未来の可能性もありそうだね」
ああだこうだと議論しながら、話を能野子がまとめてくれている。
最初の場面についても、分からない事が多すぎる。
そもそも二人の関係は何だ。
仕事は。
学生か、それとも何もしていないのか。ひょっとすると、地獄に行くことから、死んでいるのでは無いのか。
しかし死んでいるのなら、どうして地獄で他の連中と一緒に処理されない。
順番にまとめていくと、分からない事が更に増えてしまっていることに気付く。こんなもの、考察できるのか。
無言で、鈴見がスマホを差し出してくる。
どうやら、以前にも、この劇を考察している人がいたらしい。その考察の内容について、まとめたものだ。
ちょっと面白そうだ。
ざっと目を通してみる。
それによると、この劇の主人公は、未来人。しかも最初から死んでいるのだとか。未来では宇宙に出る事も珍しくないので、死んで魂だけになってさまよっても、違和感を感じないのだという。
そして地獄でどうして動じないかというと、そもそも天国に行く魂だったので、悪魔達は見向きもしないのだとか。
最後に来る光は、迎えに来た天使。
天国に二人が行って、おしまいという内容だそうだ。
なるほど、面白い考察だ。だが、これでは説明できない事が、幾つも存在している。能野子が最初に指摘する。
「面白いけど、整合性がとれない場所が幾つかあるねえ」
「どういうことだよ」
「たとえば、最初の二人の出会い。 この二人、滅茶苦茶親しい仲に思えるんだけれど、その割にはどうしてか挨拶が他人みたいなんだよね。 同じ家に帰るなんて、あり得る話?」
「或いはよ、よーするにレズで、行きずりでお互いが気に入っちまって、お持ち帰りされたとか?」
とんでもない事を好栄が半笑いで言うと、流石に能野子も苦笑いした。
教室の隅では、宏美が笑顔のまま、もくもくとヒラヒラのお洋服を作っている。あれももう二三日で出来る。寂しがりの宏美を手持ちぶさたにさせるのも可哀想だし、さっさと対策を考えておかないとならないだろう。
「宇宙を移動している手段が分からない、というのもねえ。 魂になって飛び回っているにしては、歩くって表現があるし」
「そうだよなあ。 歩いて移動してるんだもんなあ。 どんな魂だよって話だな。 幽霊にしては、色々妙だよな」
「それに、どうして地獄に天使が来るのか。 そんな重要人物だとは思えないし、なおさら悪魔達に目の敵にされるように思えてならないんだよね」
能野子が理路整然と並べていく。
結論らしいものは、結局出ない。宏美に頭脳労働をさせるのは可哀想だし、もう少し鈴見には情報を探ってもらう。
ああだこうだと話を詰めていくが、分からない事は増えるばかりだ。
演劇はあまり詳しくないが、それでも一つはっきりしている事は。その人物を理解しないで、演じることなんか出来るはずがない。
余程の大根でもなければ、プロの役者はみんな役所を理解して、演技しているはずである。それくらい、好栄でも知っている。
「どうする、これ。 新しい判断材料でも出ないと、話が前に進まないぜ」
「じゃあ、こうしようよ」
「あん?」
「登場人物が二人なのは分かってるじゃん。 名前が分からないけど」
君、お前と、相手を言い合っているのである。
結局名前を口にすることは無い。
脚本を変えることはルール違反だから、その範疇でどうにかしなければならない。
「宏美ちゃんが演じる方を、姫と呼ぶとして。 好栄ちゃんが演じる方を、どうしよう」
「雌ゴリラ?」
「殺すぞ」
巫山戯た事をほざく鈴見にガンをくれると、首をすくめた。
鈴見の方がガチでやったら強いかも知れないが、カルテットのまとめ役が好栄である事は、揺るがない事実だ。
「じゃああたしの役は、不良でいいや」
「不良、そのまんまだね」
「不良ってもシンナーも煙草もやんねえけどな。 ああ、今の不良はヤバイクスリと援助交際か。 どっちにしてもやんねーわ」
そういえば、クラスで上品ぶってる生徒の一人が、援助交際で小遣いを荒稼ぎしていることを、知っているが。
そんなのは別にどうでもよい。目に余る行動が増えてきたら、カルテットで潰すだけだ。
「それで、不良と姫を、どういう存在か、はっきりさせないと」
「何だよ、決めるのには早くねえか? あたしとしては、もうちっと詳しく詰めた方がいいと思うけどな」
「確かに私も、好栄ちゃんの意見に賛成だけどさ。 時間は有限だよ? こっから戦略を持って行動しないと、当日に何の準備も無いまま、劇上映ってなって、恥を掻くだけじゃ無いのかな」
「わーってる」
実際問題、この劇を成功させるには、内容だけでは駄目だ。
最初から来る気が無い生徒どもは相手にしない。
父兄や、よその学校の生徒をターゲットとした宣伝活動をしていく必要がある。そして、劇の本番は、二回用意してある後半になる。
一回目で口コミで人を集めておけば。
二回目には、更に多くの人が来るだろう。
早めに目星を付けなくては、間に合わなくなる。
一通り、出た議論の内容については、頭に入れた。今度の土日、作者の家を直接訪問することにした。
出費はかなり痛いが、それでも幾つか聞いておきたい事がある。
問題はあってくれるか、だが。
作者のホームページについては、事前に鈴見が見つけてくれている。作者宛にメールも送ってあるから、それほど時間が経たずに、上手く行けば返事が来るはずだ。
もしも返事が無い場合は、行くのを断念するほか無い。
忙しいとは思えないが。
ただ、過信は禁物だろう。
「宏美−。 服は、できそうか?」
「もうすぐ出来るよ。 どうしたの」
「いや、何でも無い」
不良の服と注文を付けたら、スケバンスタイルの衣装でも作りそうだなと、思ったからだ。
最もそれはそれで面白い。
幾つかのことを、決めておく。
「能野子、もう少し整理をしておいてくれるか。 仮説もどんどん出してくれ」
「分かった。 何とか頑張ってみる」
「鈴見は情報収集を進めて欲しい。 このままだと、データがたりねえな。 他に議論できる奴がいたら、見繕ってくれねえかな」
「どうにかしてみる」
そうして、その日は解散となる。
今日は用事があるので、先に鈴見を帰らせる。面倒だが、こればかりは仕方が無い事なのだ。
好栄は職員室に出向く。
学校でも数少ない友好的な教師が、呼び出しをかけてきていたからだ。周りの全部を敵に回すと面倒な事は、好栄も知っている。
カルテットが存続しているのは、明白な意味での非行を、学校内ではしていないことも大きな要因の一つである。
教師の中にも、カルテットを目の敵にしている奴と、そうではない相手がいる。友好的な教師とは、ある程度話をしておいた方が良い。
放課後の閑散とした教室で、年配のおっさんであるその教師は待っていた。主任職にいる男だ。
「まあ、座りなさい」
「ああ、はい」
「演劇の方は、進んでいるかね」
「真面目に準備してるよ。 あんたには世話になってるし、なにより今回のは填められたのも同然だしな」
そうかそうかと、教師は相づちを打つ。
既に五十を超えている古株の教師であり、他の教師への発言力も強い。あまり認めたくは無いが、カルテットに対する攻撃がある程度緩んでいるのも、この教師のおかげという事もある。
「他の先生達が五月蠅くてな。 文化祭前だから、特に注意して欲しい。 羽目を外しすぎないようにね」
「わーってるよ」
自分から喧嘩を売ったことは、無い。
悪をすっぱ抜いたことはあるし、売られた喧嘩はいくらでも買ってきた。
だが、自分から弱い者いじめはしないし、非行の類もしない。酒だって煙草だって、やらない。
そういった、行動に信念を持っているところを、評価されていることは知っている。
だから、今後も、信念をやぶる気は無い。
そうしていられるのが、子供のうちだけだと知っていても、だ。
「そうか、ならばいい。 帰って構わんよ」
「じゃな」
職員室を出ると、好栄は大きくため息をついた。
つかれる相手だ。
カルテットのまとめ役としては、つきあって行かなければならない相手だとも知ってはいるのだが。
できるだけ、接触の回数は、減らしたかった。
2、暗闇歩き
逆立ちをして、見ている光景を変えてみる。
スパッツだから別に恥ずかしいものでもない。逆立ちをしても、結局なにも変わることは無く、ふーんと呟くだけに終わった。
やはり、「泥沼」の脚本に、答えは見えてこない。
「能野子ぉ。 何か分かったか−?」
「何ともねえ。 もしもこの脚本に一貫した答えがあるんだったら、見てみたいくらいだよ。 現在に出ていたら、電波脚本とか言われてたんじゃ無いのかな。 何かの間違いで映像化でもされたら、きっと伝説になったよこれ」
「はん、電波、ねえ」
ネットのスラングはよく分からない。
逆立ちをやめて、胡座を掻く。
これだけ顔をつきあわせて考えても分からない事が多いと、昔のことわざは嘘だと分かってしまう。
何が三人揃えば文殊の知恵か。
此処には四人揃っているが、全く良い知恵などで無い。
「なあ、文殊ってなんだ」
「文殊菩薩のことだよ。 知恵を司る偉い仏様」
「あっそう。 ことわざなんか嘘ばっかりだな」
「そうだねえ」
かりかりと音を立てて、能野子が新しい仮説を書いている。目を通したが、どうにもしっくりこなかった。
能野子は賢いから、いろいろな説を次から次へと出してくる。
だが、流石に品切れなのか。そろそろ、無茶が目立つ説ばかりになってきている。かといって、何も良い案が浮かばないのは、好栄も同じだが。
鈴見が調べてきた。
他の、この劇を学祭でやった人達に、ネットを通じて話を聞いてみたのだという。
やはり皆苦労している様子だ。
もうそのまま二人劇として、何も考えずに演じるパターンが最多だが。演劇部などの場合は、皆で考えあって、結局思考の泥沼に落ちていく。
まさかこの作者。
それを傍観して、楽しんでいるのではあるまいか。
「なあ、この作者の他の作品って、手に入らないか」
「貸本でも、有名な作家のものは復刻されたりはしているけれど。 この人のは、マイナーだしね。 かなり難しい、かな」
「はあ。 八方ふさがりか」
「いや、そうでもないよ。 新しめの作品だったら、新古書店辺りを探れば、見つかる可能性が高い」
たまり場にしている新古書店の一つは、そういえば最近はあまり覗いていない。作者名は覚えているから、今度見に行ってみるか。
或いは、在庫を検索してもらう手もある。
「わーった、今夜ちょっと調べてみるよ。 それにしてもなあ、どうしてこうわかりにくい作品を作るかなあ」
「さあね。 やっぱり言われたままに作品を作り続けると、ストレスがたまるんじゃないの?」
「別の方法でストレス解消しろよ。 あたしらが迷惑するんだし」
苦笑いする能野子から視線を外す。
丁寧にちまちま縫い物をしていた宏美は、順調に作業を進めている。もしもどうしようもない変更が出た場合は、気の毒なことになるだろう。それにしても、彼女らしいふりふりの衣装だ。或いは、この劇が終わった後も、その気になれば店頭展示用などで使えるかも知れない。
一通り作業を終えた後、早めに切り上げる。
近場にある新古書店は三軒。本屋は四軒。
片端から当たっていくと、全てを回り終える頃には、夜になる。
能野子がついてきた。家にはあまりいたくないのだという話を、以前聞いたことがあるから、それもあるのかも知れない。
一軒目は収穫が無し。失礼な店員がいたので、不快になってすぐに出た。
「何だよ彼奴、ろくに調べもしないでないとかほざきやがって。 万引きなんてした事も無いっての」
「阿呆はどこにもいるものだよ。 ほっとくのが一番」
「それもそうだな。 あんな店、とっとと潰れろ」
吐き捨てると、次へ。
二軒目は、少し奥まった路地にある、少し小さな個人経営の本屋だ。かなり古い本も置いてあるのだが、猪塚という名前を探しても、見つからなかった。
漫画コーナーには、かなり古い本もある。
店主に聞いてみるが、小首をかしげられた。
「猪塚圭ねえ。 ああ、あの短編ばかり書いている。 随分マニアックな漫画家に興味があるんだねえ」
「知ってるなら、売って欲しいんだけど」
「悪いけど、ないよ。 あの人の本ねえ、売れないんだわ。 そもそも単行本でも一巻も続かないような短い内容のばかりでね」
老店主は、面倒くさそうに教えてくれる。
猪塚は彼方此方の漫画雑誌で、面倒くさい作家として扱われ続けた人なのだという。古参なので発言力が妙にあるため、掲載は断れない。変に人脈もあるため、だめ出しもしづらい。
漫画の編集によるいろいろな問題が噴出していることは、好栄も知っていたが。
或いは猪塚という作家は、そういった腐った態勢の中で、徒花のように存在してきた人なのかも知れない。
ならば、余計苦労しただろう。
好きなものは書けない、周囲は腐っている、それなのに妥協しなければならない。
それでも作家として生き延びてきたのだから、或いはたくましい人なのかも知れないが。確かに、書店で探すのは難しいかも知れない。
鈴見から連絡が来た。
幾つかのオンラインショップで調べてみたが、在庫は無いと言う。
中古でも見つからないと言うから、筋金入りだ。
「ネットで見つからないか?」
「今探しているけれど、ちょっと難しいかも知れないよ」
「やってみてくれ」
「分かった」
店を出る。
この様子だと、この辺りの本屋では、まず見つからないだろう。新古書店なんかでは、絶対に扱っていないと断言して良いかも知れない。
まさか、これほどに面倒くさい捜し物だとは思っていなかった。
「これは、神田辺りにいかないと、難しいかも知れないよ」
「行ってる金も時間もねーよ! 現在連載中の雑誌は?」
「それもない」
「あーもー! 八方ふさがりだな、オイ」
頭をかきむしりたくなる。
雑誌の旧巻なんて、滅多に見つからないことくらい、好栄だって知っているほどだ。これはもう、本当に無理なのか。
どうしてこう、劇をする前提条件からして、こうも厄介なのか。
明日には、静岡に本人に会いに行こうと思っているのに。
ちなみに、メールには返事があった。
プロ作家から返事があるのは或いは凄いことなのかとも思ったのだが。編集以外の人間からメールが来たのは数年ぶりとか吹いていたので、或いは寂しくてすぐに返事をしてきたのかも知れない。
学校に話を付けて、金を出させればと思ったが。
そもそも評判が悪いカルテットを隔離しようとして、演劇をやらせることになったのだ。多分教師連中も、それを知っている筈。
つまり、余計なことを言うと、連中に借りを作ることになる。
それだけは避けたい。
「もういいや、明日本人に話聞いてくるし、それでどうにかする」
「私もいこうか?」
「新幹線使わないから、一日がかりになる。 それでもかなり高いんだぜ。 あたしだけでやるよ。 解らない事があったら、携帯で連絡するから」
「おっけ」
そのまま、もう今日は分かれる。
自宅に戻るが、どうも気分が晴れなかった。
好栄の家庭環境はかなり面倒くさい。
特殊すぎる鈴見だけではなく、能野子や宏美も色々と面倒な事は知っているが、それとも引けを取らない。
頭がガチガチの親父と、負けず劣らずにおかしい母親。
この家庭がおかしいと気付いたのは、いつ頃だっただろう。小学生の時には、既に異常には気づいていたような覚えがある。
非行のきっかけは、なんだっただろう。
よく覚えていないが、はっきりしているのは。この社会は何処かおかしいのでは無いかと、小学生の頃には、既に感じていて。
それがきっかけであったように思える。
自宅に戻る。
夕食など、用意されているはずも無い。だから、適当に自分で準備する。小遣いを出してくれているだけ、マシかも知れない。
適当に腹に入れると、寝る前に携帯で、静岡へ行くルートをもう一度確認。
確認が終わったら、後はもう眠ることにした。
高校が終わったらどうなるのだろう。
カルテットは永遠に不滅、なんて言うつもりは無い。忙しくなれば、皆と会っている暇など無くなるだろう。
良い仕事に就ける保証も無い。
灰汁が強い四人のまとめ役になっているという強みはあるが、それが何になるだろう。そもそも、この国の社会で必須とされるコミュニケーション能力なるこびを売る力が、備わっていない。
あまり良い未来は、来そうに無い。
目を閉じると、もう眠くなってくる。
明日は朝一で、静岡だ。
孤独な老人に会うために、静岡に行く。ただ、劇をするだけなのに。一体自分は何をしているのだろう。
そう、好栄は思った。
夢を見た。
劇をしている。
そう、泥沼の、登場人物になっている夢。自分でもこれは夢だと分かっているのに、どうしてか真剣に演技をしていた。
相方は、宏美。
照明と音響は、能野子と鈴見がやってくれている。
脚本の内容は、変えてはいけないと聞いている。だから、そのまま忠実に演技をしていくのだが。
しかし、何だろうこれは。
実際に演じてみると、やはり異様さが際立ってくる。
唐突な場面転換。
きてれつな展開。
電波系と能野子は言っていたが。何となく、そういう理由が分かるような気が、好栄にはした。
劇は、唐突に終わる。
そして、観客は最初から最後まで誰もいなかった。
知っている事だ。学園祭で劇と言えば、余程レベルが高くない限り、それこそ眠気を誘発するだけのものだ。
おばけ屋敷などもそうだが、学生がどれだけ一生懸命取り組んでも、たかが知れているのである。
ただし、それでも中には例外がある。
その例外に、しなくてはならないのだ。今回は、他の生徒全員が、カルテットに喧嘩を売ったも同然。
それならば、受けて立たなければ、流儀に反する。
だがこの壁は厚く、そして高い。
ふと気がつく。そして、携帯を弄って、アラームを止めた。
既に電車の切符は入手してある。これが終わったら、演技の練習を始めなければ、おそらく間に合わないだろう。
目をこすりながら、一階に。適当に身繕いして、出かける準備を整えた。
親は起き出していたが、それだけだ。会話もせずに、家を出る。
外は、嫌みなほど晴れていた。蝉が鳴くにはまだ早いが、子供の頃、夏はもっと涼しかったように思う。とにかく、真夏のような気候だ。
メールの文面を、もう一度見直す。
猪塚氏は、偏屈な漫画家と言うよりも、かなり温厚な印象を与える文章を書く人だった。実際に会ってみたら、どうなのだろう。
あまり、期待は無い。
速くも無い電車に揺られて、頭を空っぽにする。途中、少し眠っておいた方が良いかも知れない。
この辺りだったら、他校の生徒に喧嘩を売られることも無いだろう。
売られた喧嘩は買う主義だから、大幅に時間をロスしてしまう。もっとも、喧嘩には、ほとんど負けたことも無いが。
居眠りしながら、幾つか電車を乗り換える。
最後の電車に乗ったら一安心だ。後は最寄り駅まで、勝手に運んでくれる。駅のそば、歩いて五分ほどのマンションに、猪塚は住んでいるという。のこのこ出かけていくのだ。何か収穫が無ければ、カルテットのメンバーに申し訳が立たない。
宏美からメールが送られてきた。
満面の笑顔で、出来た服を見せている写メ。
目を細めて、良く出来たなと、メールを返信しておいた。善良な人間を、見かけだけで差別するのは。人間のろくでもない習性だ。自分も、それで苦労したから。同じには、なりたくないと、好栄は思う。
最寄り駅に着いたのは、十時少し前。
予定通りの時間だ。これで話を聞いて帰ると、おそらく夕方くらいになるだろう。この辺りの電車は乗り継ぎが非常に悪く、帰りのダイヤを見て頭を抱えたほどだ。あまり、長居は出来ないことを、覚悟しなければならない。
最寄り駅は小さな所で、看板も非常に古くさかった。
携帯から地図を呼び出して、経路を確認。
マンション自体は、もう見えている。
さあ、このくだらん劇をどうして作るに至ったのか。話を聞くとしよう。そう考えて、好栄はマンションへと足を向けた。
3、動き出す泥
チャイムを二度鳴らすと、あまり機嫌が良く無さそうな老人が出た。メールでは愛想が良かったのに。もっとも、好栄は見かけで相手を判断はしない。そういうツラなのかも知れない。
或いは、相手の顔を見ない場合は、優しく振る舞える性格の可能性もある。
「メールを送った好栄です」
「ああ、君がかね」
「立ち話も何です。 近所の喫茶で、いいですか」
「ああ、そうしようかね」
慣れない敬語を使って話すとつかれる。
普通は誰に対しても敬語なんて喋らないのだが。流石に今回は、皆のためでもある。仕方が無い。
意外にしっかりした足取りで、猪塚老人は外に出る。目が非常に大きな人物で、光自体も強い。この様子だと、当分ぼけもしないだろうし、介護も必要ないだろう。壮健な老人である。
近くの喫茶に移動して、適当にモーニングを頼む。モーニングを食べるには少し遅い時間だが、まあそれは別に問題も無いだろう。
この辺りは、モーニングが充実している喫茶が多いと聞いていたが。
噂通りだ。確かに、モーニングでかなり良いものが出てくる。一種の名物となっているらしく、老人は毎日喫茶に出向くのだそうだ。
モーニングセットについているゆで卵を剥きながら、老人が本題に入る。
「それにしても、私の作品について、聞きに来る人なんて、何年ぶりだろうね」
「今、学園祭で、劇をやる事になりましてね。 それで、あの意味ふ……ゲフンゲフン、難解な劇について聞きに来ました」
「いいんだよ。 意味不明で」
「……」
此奴、まさか確信犯か。
さんざん此方を悩ませておいて、いきなり暴露するつもりだろうか。流石に苛立ちがのど元まで来たが、こらえる。
「あの劇は、寓話の類とでも思われているらしいが、実際には違う意図で作ったからね」
「違う、意図? どのようなものですか」
「生徒達に考えて欲しかったのさ」
そう来たか。
敢えて難解な劇。しかも意味不明にしか見えない内容。
それを提示して、生徒に考えさせるために作った劇、か。
しかも教師達には、生徒を奴隷的に従えさせるためには都合が良い、とでも思わせるものもあった。
おそらくそれはミスリードとして、意図的に仕組まれたものだったのだろう。
同じように自分でも子供を育てている人もいるだろうに、教師になると途端におかしくなる人が、確かに実在している。
それを見てきた好栄は、なるほどと思った。
幾つか、考えてきた仮説を見せる。
腕組みした猪塚は、しばらく大まじめに仮説を全て見ていたが、やがて感心したようだった。
「此処まで、この作品に労力を注いでくれたのは嬉しいよ。 この中に正解があるか無いかは言えないけれど、君達くらいしっかり考えてくれていれば、私の劇も今のような評価を受けずに済んだのかもね」
「正直な話をしますけれど、ね」
「何かね」
「この劇、だれも入らないだろうって事で、学校の鼻つまみ者であるあたし達に押しつけられたんですよ。 ただね、あたし達にもプライドがある。 やるからには、しっかりした劇に仕上げたい。 それで、笑いものにしようとした連中を、ぎゃふんと言わせたいわけです」
戦闘的な光を目に宿す好栄を見て、猪塚は嬉しそうに何度も頷いた。
動機はなんであれ。
自分の作品について、しっかり考えてくれることが、嬉しいのだろう。何となく好栄には、それが分かった。
「私の作品に光を当ててくれるのは、どんな理由であってもかまわないさ。 君の学校はどこだい」
「東京の、夜縺女子学園です」
「分かった。 学園祭には、是非行かせてもらおう」
それから、幾つか話をした。
また、漫画も見せてもらった。
一目見て分かったが、なるほど。これは売れないだろう。絵が非常に独特で、スキル自体は高いのが分かるのだけれど。話がとにかく分かりづらい。
現在の、弱肉強食に晒された漫画家達と、スキルに関しては全く引けを取らない、高レベルのものがある。
しかし、人の目を引かない。
悪い意味でも、良い意味でも、こびを売っていないのだろう。
ただ、伊達に長年漫画を書いてきたわけでは無い事は、絵を見てよく分かった。
挨拶をして、その場を離れる。
肩が凝った。
だが不思議と疲れはしなかった。
それに猪塚に対しての印象も悪くない。話してみると、思っていたよりも、随分理性的だった。
結局、三時間以上も話し込んでしまった。ただ、漫画をみて、幾つか分かったことがある。
どうやらこの猪塚という人の漫画には、ある種のテーマがあるようなのだ。
まだ何となく、だからそれ以上は分からないのだが。
それに、見た漫画の内容は、全部覚えた。それを能野子に言えば、或いは正解を導き出してくれるかも知れない。
この記憶力は、好栄の強みの一つ。
いわゆる瞬間記憶力ほどではないが、今のように時間がある状態で読んだ本などは、しばらく忘れず、ほぼ完璧に覚えられる。
覚える事を勉強に生かすことで、成績を上げているのだ。
本来さほど好栄は頭が良い方じゃあ無い。ただし、学校の勉強は、記憶力がものをいう部分も多いのだ。
再び電車に乗った後、礼のメールを入れておく。
すぐに返事があった。
必ず、学園祭には、来てくれるそうだ。
何となくだが、やる気が出た。
夕方に最寄り駅に着くと、能野子と鈴見が、揃って待っていた。
宏美がいないが、アレは多分、今頃自宅で裁縫の真っ最中だろう。どんな不良スタイルの服を作って来るか、楽しみだ。
一緒に歩きながら、猪塚の印象について話す。
「ふうん、そうなると、劇は子供に考えさせることが目的、という事で間違いないんだ」
「作者本人から聞いたからな。 まったく、敬語で喋らなきゃなんねえから、参ったぜ」
「どんな人だった」
「温厚な爺さんだったよ。 見た目と性格が一致しねえけど。 あたしには、別にそんなこたあどうでもいいからな」
流石にこれ以上お金を使うのは避けたいから、皆で能野子の家に行く。
能野子はかなり裕福な家のお嬢で、それが故に部屋も広い。ただし、家族にはあまり良く想われていない。
資産家の親にしてみれば、このような変な娘がいると、世間体に関わる、というのだろう。
だから能野子は、最初周囲との関係を一切断っている節があった。
カルテットに誘ってからも、しばらくは好栄のことを信用していなかった節がある。それでも、最近は信じてくれているようだ。
自室に入ると、能野子はぐるぐるの眼鏡を外す。
実際には、この眼鏡が野暮ったい雰囲気を作るための、伊達だと知っている者は、あまり多くない。
実際の能野子は、二重瞼が綺麗なそこそこの美少女である。
わざと野暮ったい格好をすることで、周囲の感心を買わないようにしているのだ。少なくとも、ルックスに関しては。
漫画の内容をすらすらと好栄が暗誦し、それをキーボードからデータに移していく能野子。流れるようなブラインドタッチは、ほれぼれするほどの美しさだ。伸ばし放題の髪と、ぐるぐるの眼鏡が無ければ、もてていただろう。
意図的に見栄えのする要素を潰すことで、能野子は自分の身を守っている。
「なんかのテーマをかんじねえか、これ」
「ふーん……」
「鈴見、どうした」
「ネットで幾つか漫画の情報を入手はしていたんだけれど。 何だかおかしいな」
鈴見が言うには、どちらかというと猪塚の漫画は、テーマ性があるような内容では無くて、その時代のブームに少し遅れた感じの、使い古されたジョーク漫画が主体であったという。
それは確かに妙だ。
客は引けそうに無いが、重厚で存在感がある漫画。そういう印象だったのだが。
「或いは……」
能野子が腕組みした。
よく分からないが、何かぴんと来るものがあったのかも知れない。
「鈴見、そのネットで見つけた漫画の、具体的な話の内容は分かるか?」
「うん。 これ」
さっと提示してくる鈴見。話の流れから、聞いてくる可能性が高いと読んでいたのだろうか。
ざっと目を通す。
絵柄は同じだ。確実に猪塚の漫画である。
しかし内容は、確かに言われたとおり、一種のナンセンスギャグに近い。これは、どういうことなのか。
「なあ、能野子。 どう思う」
「多分だけれど。 見せてくれた漫画の内容自体が、ヒントになっているんじゃないのかな」
確かに、あまり有名では無いが、それなりの数を書いている作家だという話である。
自分の本来の色を出せている作品を、好栄に見せたのだとしたら。もしくはもっとストレートに、能野子が言ったとおり、ヒントとなるような作品ばかりをピックアップしてくれたのかもしれない。
「鈴見、継続して情報収集に当たってくれるか?」
「分かった。 いいよ」
「能野子は、此処から割り出せそうな仮説について、当たりを付けておいてくれ。 どうやら、尻尾が掴めたかもしれねえな」
胡座を掻いている好栄が、膝をぱんと叩いた。
今までは、そもそも勝負が出来るかも、分からない状態だった。此処からは、いよいよ敵の本丸に迫る。
泥沼という劇は、一体何を表現しようとしているのか。
それが分かれば。
劇にも、勝機が見えてくる。
また、夢を見た。
誰にでも分からなければ意味が無い。そういう罵倒の言葉が、右から左へと流されていく。顔を歪めて罵っているのは、だれだろう。
罵られているのは。
猪塚だ。
老人はじっと、罵っている相手を見つめている。
あんたには色々世話になった。だが、これ以上、売り物にならない漫画を載せるわけにはいかないんだよ。
子供に分からない漫画は、少年誌には、載せられないんだ。
そうも、相手は吼えた。
しかし、実際には違うことを、何となく知っている。最近の少年誌には、露骨な性描写があるような作品もあるし、大人向けの作品だって掲載されている。少年誌を購読している層が、それだけ広いのだ。
ただ、今が腐っているかというと、そうでも無いらしい。
劇を調べる過程で能野子が教えてくれたのだが、昔の作家も自分が好きな作品などほとんど書けはしなかったそうだ。
だから、同人誌というものが作られた。
もっとも、その同人誌は。今では全く別の方向に進化してしまったが。
「何だ、くっだらねえなあ」
ぼやく。
猪塚は、黙って罵られていた。
罵っている奴が誰かに呼ばれて、喫茶店を出る。携帯にがなりたてているところを見ると、多分部下だろう。
何、書きたくないとかほざいてやがるだと。脅してでも書かせろ。書かせるのがてめえの仕事だろうが。
給料が欲しかったらはたらけやカス。
聞き苦しい罵倒が、此処まで聞こえてきた。
本当にくだらない。
漫画家という職業が本当に大変だという話は聞いていたが。実のところ、この国では、昔から職人の地位が著しく低いという。
漫画家も同じというわけだ。
間違いなく世界最高水準の漫画文化を支えている人達が、尊敬されることも無く、特に社会的な「大人」からはまるで人間以下の存在であるかのように馬鹿にされ続けている。それどころか、こんな人間性の欠片も感じられないような連中に、好き勝手に足蹴にされている。
本当に、世の中には。何の希望も感じられない。
ふと、目が覚めた。
今の夢は、何だろう。
そうだ、思い出した。能野子に聞かされた、少年誌のスキャンダルについてだ。タチが悪い編集者に、漫画家がついにキレて、訴訟沙汰にまでなった。それで一気に噴出したのだ。
現在では、漫画家は育てる必要が無い。
いわゆるセミプロ、アマチュアの業界にいくらでも予備軍がいる。使い潰して、後はポイ捨て。
そんな扱いをしているから、編集者も調子に乗る。
猪塚が、ああいう扱いを受けていたのかは分からない。ただ、あんなふうに扱われている漫画家もいるのだろう。
大きくあくびをすると、一階に出た。
今日は、月曜日だ。
能野子は、結論を出せただろうか。そろそろ、劇の準備に、本格的に取り組まなければならないだろう。
劇の開始まで、三週間。
そろそろ、時間が足りない。
冷めた朝食をおなかに入れると、さっさと学校に出る。あくびを何度もかみ殺したのは、どうも睡眠が浅かったから、らしい。眠気が取れていないのだ。
メールを確認すると、能野子から来ていた。
どうもそれらしい仮説を立てられたという。それは楽しみだ。それに沿って衣装を微調整して、後は演技に反映すれば良い。
仮説が間違っていたとしても、このつまらない劇を面白く出来るのなら、何でも良いような気がするが。
猪塚に直接会って話を聞いて来た今となっては、いい加減なものは作れない。
学校に出る。授業中、何度かさされたが、その度に的確に応える。教師が舌打ちをしているのが分かった。
やる気が無さそうで、見た目がテンプレの不良で、しゃべり方が悪くても。
好栄は授業の内容くらいは把握しているし、教科書もだいたい暗記している。成績は能野子には及ばないが、それでも教師の質問に答えるくらいは、文字通りの朝飯前だ。出来るから、あくびをしているだけ。勉強が将来の役に立つことくらい、好栄でさえ知っている。何より親に文句も言われたくないし、成績が良くても損はしない。
周囲の生徒達は、絶対に好栄が記憶力に優れていることや、勉強がそれなりに出来ることを認めない。
勝手にすれば良い。
好栄も、相手のことを認めないだけだ。
だるいだけの授業が終わって、放課後に。
やはり、この時間になっても眠い。既に廃教室に集まっていたカルテットの面々は、好栄を見るとすぐに本題に入った。
「さっそくだけれど、この仮説はどうかな」
「どれ、見せてみな」
他のメンバーは、既に見ているらしい。
まあ、一番最後に来たのが好栄だから、まあ当然だろう。ざっと目を通してみると、今までの仮説の中で、一番面白い。
なるほど、これなら。
つまらない脚本でも、客を引けるだろう。
勿論受け狙いというような類では無く、きちんと考えた末の内容であることは、一目で分かる。
これならば、いける。
「よし、これでいこうぜ。 問題なし」
「オッケ。 じゃあ、照明と大道具、小道具の作成に懸かるよ」
「そうしてくれ。 宏美は、内容をもう把握したよな。 それにそって、服を作ってくれるか?」
「うん、いいよ。 でも、一体これ、どういうお芝居になるんだろう」
ちくちくと、作りかけのお洋服を直し始める宏美。
好栄は、ふと思い出す。
最初に考えた、姫、不良という呼び名は、ある意味合っていたことになる。勿論これが正解かどうかは分からないが、この仮説を採用するならば、である。何だか、妙な運命めいたものを感じてしまう。
演技が一段落したら、宣伝と広報について、考えた方が良いだろう。
学校内での宣伝は不要。
カルテットの名はあまりにも広まりすぎていて、畏怖の象徴となっている。というよりも、劇を押しつけて恥を掻かせようという意図なのだ。わざわざ見に来る奴は余程の物好きだけだろう。
だから、最初から、校外に的を絞る。
広報については、情報に強い鈴見に任せてしまっていいだろう。好栄と宏美は、劇の役作りに集中する。
その間に、大道具と小道具を作る。
これは全員がかりでやった方が良いだろう。
「脚本を印刷し直して、手直ししておくね。 台詞自体は変えないけど、結構付け足したいからさ」
「いいぜ、徹底的にやってくれ」
「らじゃ」
好栄が号令をすると、皆が一斉に動き出す。
ここからが、カルテットの時間だ。
4、泥沼の劇
学祭の当日は、あっという間に来た。
準備は充分にしてある。好栄は楽屋になっているカーテン裏で腕組みをして、そわそわしている宏美を一瞥した。今更、どうにかなるものでもない。
「落ち着きな。 練習通りにやれば良い」
「うん。 でも、怖いよ」
「あたしもついてる」
皆がいる事を意識しろ。そう言うと、気弱な宏美も、しっかり気持ちを立て直すことが出来る。
それでいい。
演劇の時間は、二回取ってある。
早朝と、夕方。
その内勝負になるのは、夕方だ。早朝の部は、口コミにでも使って貰えれば、それでいい。
殆どの出し物は、教室を使って行う。吹奏楽も軽音も弱小なこの学校では、「有志」による劇が、時間を取っている。
もっとも、例年はそれがグダつく原因になっていたらしいと、この間能野子から聞いた。客にしてみれば、二度も演劇、しかも意味不明な奴なんか見ても、嬉しくも何ともないのである。我が子が出ているにしても、一度脚本通りの泥沼を見たら、もう二度とごめんだと思うか、ずっと寝ているかのどちらかだろう。なるほど、そう言う意味でも、カルテットを貶める意図があったわけだ。これはなおさらギャフンと言わせてやらないと、なおさら気が済まない。
大道具は、それなりのものができている。
照明についても、レンタルでそれなりにいいものが揃っていた。音響についても、問題ない。
後は。実際に、演技をするだけだ。
「人が多いのは、苦手だよ」
「分かってる。 だから何度も練習しただろ」
「うん……」
「いいからどんといけよ。 女も男も、この世じゃ上手にこびを売れる奴と、大きな声で馬鹿みたいに怒鳴り散らしてる奴が受けるんだよ。 あたしはそうはなりたくないけど、宏美は違うんだろ。 その割には、ちょっと静かすぎるんだよ。 少し人前で自己主張しても良いと思うぜ」
演技とは、究極の自己主張だ。
勿論三週間程度の付け焼き刃では、出来ることも限られる。だが、小中学生の頃、演技の真似事はしたことがあるし、出来ないことはない。勿論、すぐに出来るわけではない。かなりの練習を積まなければならない。
幸いにも、好栄は記憶力という武器がある。これを駆使して、失敗しないようにしていく。更に、ノウハウについては、能野子や鈴見に調べてもらうという手もある。
それらの手は、全て尽くしてきて、今日があるのだ。
勿論本職の役者には叶わないだろうが。
学芸会で披露する劇としては、十二分のものが出来た。それで今回は問題ない。
さて、最初の公演時間だ。
舞台の上には、既に大道具が並べられていた。
既に、いつでも劇が出来る状態が整っている。
外では、能野子と鈴見が、客引きをしているはずだ。こっそりカーテンの隙間から覗いてみたが、興味本位の客が結構来ている。
やはり、戦略が当たった。この学校の生徒などには、最初から期待していない。実際、生徒は殆ど来ていない様子だ。
裏口から体育館の外に出てみると。
ひそひそと、生徒達が噂しているのが見えた。どうしてこのつまらない劇に、こんなに人が集まっているのか、分かっていないのだろう。
そりゃあそうだ。
外部宣伝を中心にやったのだから。此処の学校の生徒などに、最初から宣伝などしていないのである。
後は宏美が萎縮しないように、好栄がそれだけ引っ張っていけばいい。
さあ、劇をはじめよう。
幕が開く。
見ると、客は同年代から年上の者達まで、かなり広範囲に散らばっている。この様子からして、情報戦に乗って来た奴もいるのだろう。
さあ、恐ろしくつまらない劇を。
極めて印象的で、面白い劇に変えてやろう。
ここからが、勝負の時だ。
ばんと音を立てて、照明がつく。
幕が上がると、流石にざわつきが消えた。
其処は宇宙ステーションをもした場所。未来に存在するような、何万人も生活するような、巨大宇宙ステーション。
大道具でそれを表現するのには、随分苦労した。
窓から、地球が見えている。
そして、台詞では無いナレーションで、それをそっと説明もする。ナレーションの声を入れているのは、鈴見だ。殆ど喋ることが無い鈴見だが、声質は悪くないのである。結構な美声だ。
まだ出番では無い。
そっとカーテンの影から覗くと、猪塚もいる。
そうか、約束通り来てくれたのか。約束なんて守りもしない大人が珍しくも無いこのご時世で、奇特な老人だ。
ようやく、出番が来た。
照明の中に、踏み出す。
不良らしい、尊大な歩き方。しかも格好は、大昔のスケバンスタイルだ。さらしなんかを胸に巻いて、特攻服みたいなのを着込んでいる。この強烈なギャップに、観客席から笑いが漏れる。
どうやらつかみは問題ないか。
向こうから、予定通りのヒラヒラを着込んだ宏美が来る。
まずは親しげに挨拶。
そして、小首をかしげる。こんな知り合い、いただろうか、というような表情で。
シュールな劇にも、独自な解釈を入れることで、客を引き入れることが出来る。更に言えば、ナレーションを入れてはいけないという説明も無い。
ならば、好き勝手にやらせて貰うだけの事だ。
何故か即座に親しげになった事も、伏線にしてしまえばいいのだ。
家に行くシーンで、場面を切り替える。
後ろの背景一枚絵をさっと下ろして、小道具を幾つか並べると、幕を上げた。
この二人は。
最初から死んでいたのだ。
だから殺人事件の現場を見ることも、宇宙旅行することにも、違和感は無かった。
死人同士だから、仲良くすることも、最初から普通に出来た。死んでしまえば、もはやコミュニティも何も無い。
不良という外れ者も。
お嬢様という社会上層で手厚く保護されている者も。
関係無しに、死者という接点がある。
星々を楽しく見て廻って、いろいろな夢を見る。なんと美しいのだろう。なんと楽しいのだろう。
やがて、舞台は地獄に切り替わった。
ダンテの神曲をイメージした背景は、書くのに一週間もかかった。おどろおどろしい恐ろしい背景。
解説の鈴見も緊張しているようだが、それでもきちんとナレーションをこなしてくれている。
「うすうす、二人は気付いていたのです。 自分が死んでいることに。 そして、自分たちが、多くの罪を犯しているとも思っていました」
元々鈴見は、殆ど帰国子女に近い。
無口になったのも、日本語が上手く喋れなかったから、だと聞いている。この国の社会では、何か「違う」事があると、即座にそれが迫害の原因になる。鈴見は非常に高い戦闘力を持っている分、知っているのだ。力には責任が伴うと。だから、自然と距離を置く癖を覚え、なおかつ無口にもなった。
無口なのは、鈴見なりの、社会との妥協方法だったのだ。
だからこそに、鈴見は誰もいないところでは、朗々と喋るのかも知れない。カルテット相手には軽口もたたけるのだろう。
劇は、続いていく。
まるで他人事のように地獄を見物する二人。
周囲ではおどろおどろしい恐ろしい音楽が流れ、時々悲鳴も上がる。残虐な拷問の説明も、鈴見がのりのりでやってくれた。
魔王ルシファーが亡者を喰らっている所の横を、二人で通り過ぎる。
完全に他人事だが。
分かっているのだ。これから、此処に加わるだろう事は。だからこそ、最後の敢行気分で、二人は地獄を見て楽しんでいるのである。
この解釈を見た時、なるほどと思った。
流石に能野子だ。
この無理がある劇を、よくも丁寧にまとめ上げたものだと、感心してしまう。能野子は一人で照明も音響の半分も(音響に関しては、ナレーションの合間に鈴見も動いてくれている)やってくれているが、全く滞りが無い。客も飽きること無く、舞台に集中してくれている。
裏で、相当に走り回っているだろう。
普段は伸ばし放題の髪を、今日はポニーにしているが、動きやすくするためだ。普段居眠りばかりしている能野子も、今日ばかりはしっかり目を覚ますために、かなり早く起きたのだという。
ならば、舞台に立っている役者が、それに応えなければならない。
不意に、光が差し込んでくる。
ナレーションが、解説を入れた。
「二人は、これで地獄に落ちるのだと、覚悟を決めていました。 しかし、天使様が、迎えに来てくれました。 疑問に思う二人に、天使様は応えます。 二人は、何ら接点が無かったが、死ぬときに大きな事故を、身をもって食い止めたのです。 二人がいなければ、宇宙ステーションは木っ端みじんに吹き飛んで、何万という人が亡くなっていた事でしょう」
そうだ、そうだった。
思い出した二人が、顔を見合わせる。
不良は、避難誘導を最後まで行い、爆発に飲まれた。
お嬢様は、ふがいない大人達に変わって救出活動の陣頭指揮を執り、膨大な汚染物質を浴びて、二目と見られないほどの悲惨な姿になって死んだ。
一瞬だけ、修羅場で二人は目を合わせた。
そして悟った。
二人は、地獄の中で、共に戦ったのだと。
悪魔達も、だから手を出さなかった。自分たちが手を出してはいけない存在だと、知っていたからだ。
天使様が、二人を天国に導きました。
色の違う二つの魂は、天国にこうして召されたのです。
幕が下りる。
拍手が巻き起こった。
どうやら、劇は成功したらしい。
肩の荷が下りた。大きくため息をつくと、好栄は額の汗を拭った。リハーサルは何度かやったが、やはり照明を受けると、凄まじい汗が出るものだ。
体育館の出口で、ビラを配る。
この劇が面白かったら、口コミで広めてください。夕方にも、もう一度やります。能野子は眼鏡を外して、ポニーテールでチラシを配っていたが。そうしたら、校外の男子が、まるで砂糖に集る蟻のように群がっていた。
能野子は笑顔を引きつらせていたが、少し我慢していてもらおう。後で適当に埋め合わせをすればいい。
一通りチラシを配り終わったら、片付けをして、次に譲る。
次の出し物へ変わって、大道具を入れた部屋に施錠。今の大成功の様子は、他の生徒共に知られているだろう。何かアホなことをしでかす奴がでないとも限らない。見張りを立てたいくらいだが、今は其処までしなくても良いだろう。
一端教室に戻って、仮眠を取る。
やはり劇を一セットやると、想像以上に疲れる。
宏美が真っ先に寝入ってしまったので、毛布を掛ける。それは体力が無いのだし、仕方が無い。
能野子が自分も横になろうとして、思い出したように顔を上げた。
「あ、そうそう。 猪塚って人が、好栄ちゃんに話があるって」
「ああ、そうかい。 ちょっと出てくるかな」
休憩は後回しだ。
わざわざ静岡から来てくれた原作者には、礼を述べたい。指定された場所に出かけていく。化粧はまだ落としていないが、別にそれくらいは構わないだろう。
ベンチに腰掛けた猪塚が、顔を上げる。
「やあ、来てくれたね」
「此方こそ。 静岡からわざわざ、すみません」
「何、いい劇を見せてもらったよ」
ベンチの隣に腰掛ける。
猪塚はDVDを渡してきた。
「君達と同じレベルの劇を作った学校から、以前送られてきたものだ。 もっとも、向こうは三十人がかりの大がかりな劇だったけれど」
「後で拝見させてもらいます」
劇はどうだったかと聞くと。
猪塚は、目を細めた。
「所詮学芸会だが、それでもよく考えて作っているね。 ナレーションが少し多すぎたような気もするが、もとの脚本が絞りすぎているから、分かり易くするには、あれくらいで調度良いのかもしれない」
「……」
よく考えて作っている、というのは。
褒め言葉として、受け取っても良いのだろうか。
猪塚は腰を上げる。
かなりの人達が見に来ていた。朝のうちに来てくれたのは、正解だったかも知れない。午後は混むだろう。まさか原作者を、立ち見席で見せるわけにはいかない。
「それにしても君は、素の状態に近い演技をしていたようだね。 実は結構な不良生徒なのかね」
「まあ、それなりに」
「そうか。 あの劇の内容は、私の考えた話の内容とは少し違うが、今まで見たやる気の無い泥沼の劇よりも、ずっと良かったよ。 あれだけ考えて作ってくれれば、私としては本望かな」
一礼すると、猪塚は戻っていった。
やはり、これでも正解では無かったのか。だが、それでも。原作者も、解釈として悪くないと言ってくれたのなら。
さて、本番は、午後だ。
カルテットの本気を見せてやろう。
一端教室に戻って、眠る。目覚まし時計は三時間前にセット。起きてからは修羅場になる。
全員、仲良く教室で眠ることにする。
他の生徒が出している出し物なんて、最初から見に行かない。
自分たちがやる劇だけに集中する。
他の生徒達との間に、大きな壁があるが。それは、別にどうでも良い。
最初から、大きな迫害を加えてきたのは誰か。
迫害を加えてくる相手に、土下座してでも仲間に入れてもらわなければならないのか。
かっては、それを声高に主張することも出来た。
だが、今では。
その辺りを、何となく知っているから。好栄は、周囲とコミュニケーションとかいうものを、取る気にはならない。
それでいいとも、思っていた。
今も考えに変わりは無い。
カルテットというのは、最初は蔑称だった。今では畏怖に変わっている。これは、好栄の成果だと思う。
少なくとも。これからも、学校でのやり方を変える気は、ない。
夕方。
口コミが上手く行ったらしく、想像通り体育館は立ち見席が出るほどの満員御礼となった。
他の生徒達だけでは無い。
教師達も、まさかつまらない劇の代名詞である「泥沼」で、こうも客が来たことに、驚いていたようだ。
何名かは直接見にも来た。
流石に一回目で、きちんと演じきることが出来たからか。宏美もきちんと最後まで演じることが出来たし。好栄だって噛むこと無く、最後までやれた。
劇自体も好評だった。
客は飽きずに最後まで見ていたし、途中で退席するような奴もいなかった。あまり長い劇では無いが、本当につまらない場合、十分もすれば寝始める奴が出始めるのは、周知なのだ。
カルテットが演じる劇に誰も来ないことを予想していた連中は、さぞや悔しがっているだろう。
いい気味である。
勿論これはただの自己満足だが、それでいい。
片付けをしていると、教師が来た。
全く何もしなかったのだが。最後に来て、何が言いたいのか。
「水原」
「なんすか」
「こんなにやれるとは思っていなかった。 もう少しお前の事を見直した方が良さそうだな。 劇に全く関わらなくて、すまなかった」
「……」
意外だ。そんなことを言ってくれるとは。
反省をするのは負け。
そんな風に考えて、絶対に自分の過ちを認めない輩が大勢いることを、好栄は知っている。
だが、少なくとも此奴は違ったか。
「来年は学祭どころじゃないだろうが、下級生を面倒見てくれると助かる」
「まあ、いいっすけど」
「頼むぞ」
何だかおかしな話だ。狐につままれた、というのはこういう気分のことをいうのだろうか。
能野子はすっかり髪伸ばし放題のぐるぐる眼鏡スタイルに戻っている。パンフ配りの際に、力を使い果たしたらしい。
まあ、活躍してくれたのは事実だ。
「あー、面倒くさい。 同級生が明日以降絡んできたらどうしよう」
「ほっとけ」
「まー、そうできればいいんだけど」
ぐちぐち文句を言う能野子と一緒に、大道具を片付ける。
全部ばらしたり、倉庫に放り込んだり。ゴミとして捨てるものもあれば、持ち帰れるものはそうする。
服に関しては、宏美が欲しいと言ったのであげる。
こんなもん何に使うか知らないが。
嬉しそうにいそいそと服を締まっている宏美に、背中から声を掛ける。
「そんなヒラヒラ、どうするんだよ」
「持って帰るの。 それで、今日の記念にするの」
「場所とらねーか?」
「いいの。 頑張った自分の事を、これで思い出すから」
そうか。
まあ、そういうのもありか。
鈴見は疲れ知らずで、小道具類をてきぱきと片付けている。そのまま使えそうなものと、捨てるしか無いもの、しまうものを順番に。
だいたいそれらが終わったのが、夕刻。
既に後夜祭とかいうものがはじまっているが、どうでもいい。
放っておいて、四人で帰ることとする。
後ろでは、ぎゃあぎゃあ騒いでいる声が聞こえたが、全くというほど、興味はわかなかった。
「なあ、今回の劇、何だったんだろう。 確かに良く出来たけど、一体何が残ったのかな」
星明かりの下、そんな言葉が口から出た。
能野子が応えてくれる。
「いいんじゃないの。 全国的につまらないって言われてる劇を、これだけ面白く演じられることを示したんだから。 見に来た人も多かったし、これが実績になれば、或いは泥沼って脚本への評価も、大きく変わるかもね」
「だけどさ、あたしらには何が残ったんだ」
「実際に何かをやってのけるってのは、毎度のこと」
鈴見が言う。
学校で卑劣なイジメをしている奴を叩き潰したり、教師の不正をあばいたり。
普通だったら出来ないことを、四人つるんで幾つもやってきた。恨みも散々買ったが、全てを返り討ちにしてきたから、今がある。
「何だか実感が無いねえ」
「そう言う意味じゃ、後ろで騒いでる奴らと同じかもね」
「……」
流石にそれは気分が悪い。
ふと、劇の内容について、思い出す。
結局は善行を積んでいたはぐれ者達が、救われる話、でよかったのだろうか。いや、作者は違う内容だと言っていた。
ふと、仮説の一つを、思い出す。
あれは、現在社会を俯瞰でしか見れない若者達を揶揄する内容なのでは無いか。能野子がかなり初期に出してきた説に、そんなものがあった。
あの時はぴんと来なかった。
しかし、何でもかんでも真っ正面から取り組んできたカルテットが、今回は名実共に学校の他の生徒に対して壁を造り、そして今俯瞰するようにして帰っている。だからこそ、何となく分かる。
あの光は、或いは。
ただの無か。
適当な環境で、コミュニケーションなどと言う何ら実体が無いものばかりを求めて、何もかもに現実感が無く、ただ俯瞰するだけでその全てを終える。
ああ、そう言うことか。
何となく、今更正解にたどり着けた気がする。
だが、それでも、この正解を自分が選ぶ事は無かったのでは無いか。そうも、好栄は思うのだった。
くだらねえ。
そう言いかけて、その言葉を飲み込む。
今までの努力をしてきたカルテットの面々を侮辱したくは無いからだ。それに、作者も面白い解釈だと認めてくれていたでは無いか。
何より、劇は成功した。
それで良いでは無いか。
「真実なんて、くだらねえもんだな」
「だから、きっと猪塚さんは、優しい解釈に拍手したんじゃ無いのかな」
「ふん、だとしてもよ」
何だかすっきりしない。
結局考えても分からず、最後に分かってしまった結論の、なんと後ろ暗い事か。そしてそのくだらない若者には。
きっと、今のカルテットも、間違いなく含まれている。
「……どうする。 このまま行くか」
「私、家に帰りたいな。 家で、今日の反省会をしようよ」
宏美に皆が賛成する。
そうか。
それならば、仕方が無い。
まだ何か引っかかるものはあるが、もうこれ以上、悩んでも仕方が無いだろう。帰り道の途中で、猪塚にさきの解釈について、メールを送ってみた。
正解、とだけ返事があった。
5、終わりの先に
結局の所、学生以上にコミュニケーションに縛られ、社会中にガタが来ている現在社会は、好栄には合わない所が多かった。
海外青年協力隊に参加して、最貧国に出た好栄は。そこでどうしようもない現実を見ながら、カルテットの皆とメールでやりとりをしている。時々電話をしたり、手紙も送ったり送られたり。
高校時代の友情は長続きすると聞いたことがあるが。どうやら、それは本当らしかった。
此処は、アフリカの一角。
まだアフリカの中では安全な国の一つ。だが、貧困が国中を覆い、文明の利器もあまり普及はしていない。
此処で水を管理する施設を作っている日本人グループの一員として、好栄は働き続けていた。ボランティアだが、国がある程度は支援してくれている。ただ、作業所の外では、銃を持った警備員が常時張り付いているが。
井戸を造り、周囲の村に水が行き渡るようにする仕事は、やりがいがある。
ただ水が出るだけでは駄目で、飲めるようにしなければならない。
現地のスタッフが、声を掛けてくる。
現地の言葉だが、とっくの昔に覚えた。
「コノエ、来て欲しい」
「なんだい」
「機械が壊れた。 見て欲しい」
簡単な発電機械だが、壊れてしまうと、現地のスタッフの手には負えない。この仕事を始めてから、機械の勉強は色々したが。それでも、直せないときは直せない。ガソリンを使って発電する機械だから、危険性も大きい。
しばらくいじくった後、能野子に連絡を入れてみる。
機械の状態の説明メールと、ついでに写真も送る。返事が来たのは、十三分後だった。さすがは能野子である。
「ちょっと待ってな」
機械を直しながら、思うのだ。
日本の社会から外れる切っ掛けになったのは、あの泥沼という劇で、俯瞰している自分に気付いたから、ではないのだろうかと。
結局の所、俯瞰は嫌で、行動する路を選んでいる今は。
充実しているかどうかは、正直分からない。
機械が直った。
部品は換えなくても大丈夫だが、一応予備のパーツを取り寄せる手続きをしておく。現地のスタッフには、言葉を話せるだけ、という者も多い。母国語でさえ読み書きが出来ないのは、当たり前の状況だ。
あの脚本は。
殆どの学生に、何も与えなかったかも知れない。
考えさせることさえ無かったかも知れない。
だが、少なくとも。
影響を受けた好栄は、此処にいた。
それで良いのかは分からないが。少なくとも、あのときの事が影響しているのは、確かだろう。
一通り作業を終えると、能野子に礼のメールを言っておく。
来月に、一度日本に戻る。
その時、まだ皆で集まりたい。
そう、好栄は思った。
(終)
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