開かずの扉

 

1、此処は何処?

 

其処は暗い暗い空間だった。

「あいたたた……」

痛む頭を押さえながら、うつぶせに倒れていた私は顔を上げた。無言のまま手を開閉してみるが、普通に動く。埃を払って立ち上がり、周囲を見回すも、見事なまでに何もなかった。何処までも高く延びている、階段を除けば。目を細め、口を尖らせて、私は呟いた。

「此処は、何処だ?」

ショートパンツにトレーニングシャツ。履き心地の良いスポーツシューズ。短く切りそろえた髪の毛。いつも通りの自分。……いつも通り?

その単語が頭の中を通り過ぎて、私は気づいた。そして、口から驚愕と困惑が漏れた。

「はて……私は……一体誰だ?」

どうしてもそれを、思い出す事は出来なかった。

 

じっと手を見る。違和感はない。少し小さな手だ。じっと足を見る。違和感はない。白くて細くて、見るからに貧弱そうな足だ。頭の中で、無数の単語を反芻してみる。殆ど、理解出来ない単語は湧いてこない。ただし、記憶だけがすっぽり抜け落ちている。更には、こんな訳が分からない所にいる理由も分からない。

今立っている空間は、半径十メートルくらいの真円で、その一端から階段が上へ上へと延びている。円の外側は、何もないとしか表現出来ない空間だ。恐る恐る縁まで行って、下をのぞき込んでみた。何もない空間が、何処までも何処までも続いていた。まあ、どうひいき目に見ても、落ちたら死ぬだろう。背筋に寒気が走り、私は数歩さがって座った。

階段は幅二メートルほど、段差は二十センチほどだ。各段は奥行きがかなり広く、高さの二倍以上はある。手すりはついていない。段数は見当もつかないほどで、何処までも延々と続いている。途中一カ所で曲がっている事だけは確認できたが、そのほかはどんなに目を凝らしても、先に何があるのかはさっぱり分からない。

そういえば、特に光が差し込んでいる様子もない。周囲の温度は低くも高くもない。この暗い上に訳が分からない空間で、周囲が見える理由もよく分からない。照度はそれほど高くないが、今立っている所の縁や、階段の端が何処にあるかはよく分かる。まあ、足を踏み外して落ちる可能性は、それほど高くないだろう。足場が、頑丈であれば。

何にしても、訳が分からないのが、今の情況だ。周囲をうろうろ歩き回って見たが、考えれば考えるほど分からない。とにかく、この空間が現実の物だとはとても思えない。階段は支えも無しに、延々と遠くに延びているし、光源もないのに周囲が見える。そもそも私は、どうやってこんな訳が分からない所に来たのだ。

「あいたっ」

頬をつねってみたが、痛いだけだった。ちっ、夢じゃなかったか。しばし沈黙した後、私は地面を蹴っていた。乾いた音が、水面に水滴を落としたかのように、周囲に広がっていく。

「何なんだ、此処はっ! 何がどうなってるんだっ!」

頬を膨らませて、私はふてくされた。そのまま胡座をかいて、暫くいじけてみせる。だが、当然、何も状況に変化は起こらなかった。

此処で腹でも減り始めたら最悪だったが、どういう訳か喉も渇かず、腹も減らない。更には、眠くもならない。トイレにも行きたくならない。これで何故夢でないのか、ますます意味が分からない。私は階段を見て、ついと視線を逸らした。だって、此処まで露骨に誘われてると、却って行きたくなくなるってのが心って物だ。

時間を確認する術が無いから、どれだけ時間が経ったか分からなかった。何も音がない上に、何も変化がない環境は拷問に等しい。やがて私は、地面を蹴った。

「ああもう、登れば良いんだろ、階段!」

ぶつぶつ口の中で文句を言いながら、私は恐る恐る階段の一段目に足をかけた。体重を掛けてみると、愉快な音がした。ちっちゃな子が履いてる靴が立てる、あの音だ。

自然と、口の端がつり上がっていた。全部の体重を掛けても、階段は崩れない。乗ってみて分かったが、階段は多少透けていて、下が見えた。あまり精神衛生上良くないけど、落ちたくなければ下は見なければならない。階段の幅、それほど広くないのだ。

二段目に足をかけてみる。体重を掛けると、少しだけ違う、だけどまたちっちゃな子の靴が立てる可愛い音がした。さっき歩いても音はしなかったから、これは正真正銘階段が立てている音だ。一段目をまた踏んでみて、二段目と比べてみると、やっぱり少しだけ音が違う。二段目の方が半音だけ高いのだ。ようやくこの意味不明空間に、楽しみと呼べる物が出た。単純ではあったが、それでもいい。

最初の不平満々とはうってかわって、私は少しどきどきしながら階段を上り始めた。

「きゅっ、きゅっ、きゅっ、きゅっ……」

音が半音ずつ上がっていく。私は少しずつ大胆になって、歩調を早めた。鳴る音が間隔を狭めていき、やがて一定のリズムで安定した。小走りと早歩きの中間点で、私は階段を上がっていく。暫くして振り返ると、最初にいた所が、もう見えなくなっていた。

無言で視線を前に戻すと、最初の折り返し地点が大分近くなり始めていた。五メートル四方ほどの広さがある踊り場を挟んで、三十度ぐらいの曲がり角で階段の向きが変わっている。近くなってきたとはいえ、まだまだ踊り場までは遠い。

暫く歩いていくと、不意に音が低くなった。気になったので、今度はカウントを取りながら階段を上っていく。すると、面白い事が分かった。六オクターブ音が高くなると、リセットされて一番下まで音が戻るのだ。つまり72段ごとに、音が低くなる。それが分かった頃、少し疲れ始めたので、私は階段に腰掛けた。下は見えないほど遠くになっていた。この階段は、見た目よりずっと危険だった。あまり急いで登ろうとするのは無謀だ。

お腹はすかないのに、喉も渇かないのに、疲れる。妙な話だったけど、事実は事実だ。しばらく休憩した後、私はまた階段を登り始める。三回ほど音がリセットされた後、私はようやく最初の曲がり角にたどり着いていた。

 

最初にいた所より少し狭い安全地帯で、私は大の字になって上を見た。見事に何もない。先を見てみると遙か遠くまで、少なくとも視界の限界の先まで、階段は伸び続けている。少し精神的に疲れたので、目を閉じたけど、やはり眠くならない。欠伸を無理矢理してみたけど、結果は同じだった。

暫く無駄な努力を続けた結果、私は諦めて上り階段に足をかけた。すると、さっきとは全然異質な音がした。木琴を叩くような、そんな音だ。

「ぽんっ……」

よく分からないが、これはこの変な場所に来た者を楽しませる工夫なのだろうか。まあ、何にしても、これは多少面白くなってきた。曲がり角の度に音が変われば、次にどんな音が来るのか、多少は興味が湧くという物だ。

疲労は何処かへ飛び去ったので、私はまた階段を上り始めた。音の法則はさっきと同じ。一段で半音上がり、六オクターブでリセットされる。まだ全く先の展望は見えなかったけど、それでも良かった。私は前向きな気持ちで、階段を上がり続けていった。

 

2,私は誰?

 

三つ目の曲がり角を通り過ぎて、七回ほど音をリセットさせた時、展望が見えた。ずっと先に、今までとは明らかに違う物が見え始めたのだ。まだ豆粒のようで、何か正体は特定出来なかったが、それでも良かった。多少歩調が乱れたので、私は慌ててリズムを一定にした。

今いる階段は、アルトリコーダーの音がしていた。アルトリコーダーの音だとは分かっているのに、それを何処で吹いたか聞いたかはさっぱり分からない。まあ、それを言うならちっちゃい子の靴音だって、木琴の音だって、一つ前のピアノの音だって同じ事だ。

それにしても、私は案外健脚だ。これだけの段数を登っているのに、時々休むだけで難なく進んでいけるのだ。軽快に響くピアノの音も、それを多少なりと後押ししてくれていた。私はひょっとすると、音楽に関わる事が多かったのかもしれない。それにしても、こう細くて軟弱そうな足なのに、見かけにはよらないものだ。

やがて、距離が詰まっていくと、見えていた物の正体が分かり始めた。最初それは、鏡にも思えた。でも近づけば近づくほど、ただの鏡じゃない事がはっきりし始めた。

それは、扉だった。

 

階段を登りきった私は、取り合えず呼吸を整えながら、扉を見上げた。それは前面が鏡になっている扉で、幅三メートル、高さ五メートルほどもある大きな物だった。鏡になっているから、当然私も映っている。まだ二次性徴が出たかでないかと言った年頃の、私の姿も。……はて。妙な違和感があるけど、まあいいか。

それにしても自分だというのに、さっぱり見覚えのない顔だ。どっちかというと大人びた顔立ちだが、所詮は子供、まだまだ丸っこくて、綺麗と言うより可愛いに分類される。まだ手足は伸びきってないし、色気が出るには多少早い。身長だって、むしろ低めだ。まあ、それなりに整った顔立ちだから、別に良いか。あまりがつがつ甘い物を喰ってないらしく、肌にはニキビが一つも浮いていない。まあこれだけ肌が瑞々しいと、多少ニキビを潰しても跡の一つも残らないだろう。

取っ手は三カ所についていた。一番上の取っ手は四メートル以上もの高さがあり、どうあがいても届かない。一方で、一番下の取っ手は、腰をかがめないと回すのがしんどい。そして回しても、扉は開く気配もなかった。

「あ、あれっ?」

鍵がかかっている形跡はない。でも、扉は開かない。真ん中の取っ手は、二メートル半ほどの高さにあって、飛びついても届かなかった。しばし考え込んだ後、私は扉の横に回って、向こうがどうなっているのかをのぞき込んでみた。扉の向こうには、見事に何にもなかった。階段さえも。つまり、この扉が終点と言う事になる。

周囲は六メートル四方ほどの広さがあって、今までの階段の踊り場よりも心なしか広かった。腰を落として胡座をかくと、私は思考を練り始めた。道具の類があれば良かったのだが、生憎身一つである。私の頭では、靴や服で何か出来るほど応用は利かないし……。

はて。何でそんな風に思う?そういえば、音の正体を知っていたり、多少なりと私について推理出来る材料はある。少し整理してみようか。

鏡に映った姿や、肌の感じからして、私は恐らく十代前半。下手すると小学生、どんなに無理しても高校生には届かない。多分身長は百四十センチ前後だ。貧弱そうな手足なのに、結構健脚で、この途方もない段数の階段を登りきった。ただ、お腹がすかないとか眠くならないとか不審な情況だから、これについては判断材料にならない可能性もある。一応見た目に分かる疾患はない。今のところ、呼吸器や消化器系も正常だ。……うーむ、腹が減らないわけだから、これに関しても微妙か。

音については、それなりに知識がある。そして、靴やら服やらを利用して、情況を打破出来るほど応用力がない。ふうむ?他に思い出せる事と言えば……。

頭をかき回してみる。短く切りそろえたこの髪型も、正直見覚えがない。我ながらそれなりに似合ってはいるが、もう少し延ばしてツインテールにでもしてみたい所だ。にしても、中坊にしては難しい単語を知りすぎているような気がする。ちょっと思いついた事があったので、私は扉に息を吹き付けると、指を素早く動かしてみた。結果は案の定だった。

薔薇に醤油に葵に猩々、麒麟に獅子に蟒蛇に蝦蟇。難しい漢字がすらすら書ける。もう一つ思いついた私は、素早く指を動かして、何度か息を吹き足しながら、無茶苦茶に数式を書き殴ってみた。そして息を吹き足してみてから、暗算してみた。ものの二秒で、簡単に出来てしまった。勿論その後、ちゃんと筆算もしてみたが、結果は同じだった。

……一体、私は何者だ?

 

無音に耐えられなくなってきたので、私は扉をいじり始めた。全身の筋肉(と言っても、大した分量はない)を総動員して、力の限りに取っ手を引っ張る。残念ながら、びくともしない。流石に跳び蹴りをかますほどの勇気はないから、軽く蹴ってみる。鏡は乾いた音を立てたけど、罅一つはいらない。暫く悩んだ末に、私は意を決し、数歩助走をつけてショルダータックルをかけてみた。結果は、思いっきり跳ね返されて、降り階段の手前まで転がった。あ、危ない……。それにしてもこれ、転がり落ちると高確率で死ぬな。

「あいたたたた……」

肩を押さえながら、私は立ち上がった。同時に、変化が起こった。

ギュイイイイイイイイイイイイイイイ

妙な音が響き始め、扉が動き始めた。開くのではない。そのまま滑るように、斜め上に移動していくのだ。何もない空間を、さながらレールに乗っているかのように、直線的に。呆然とする私の前で、扉は徐々に速度を上げ、やがて遠くへ消え、見えなくなった。更に、今まで扉があった所にも変化が起こった。階段が発生し、延び、物凄い勢いで扉を追いかけていったのである。あまりに凄まじい速さだったので、私が乗っているこの場所ごと、下に滑り降りているのではないかと錯覚したほどだ。しばし硬直していた私が、我に返ったのは、階段がもう延びなくなり、音もしなくなった頃だった。

「う……うわああああああああああ!」

何か物凄く悔しくなってきて、私は頭を抱えてへたり込んだ。ええい、これは一体どういう事だ!巫山戯た空間だとは思っていたが、まさか此処までとは!思いっきりやる気を喪失した私は、床にへばると、しばしいじける事にした。

 

3,そもそも、何が起こっている?

 

かなり長い事いじけていたが、再び無音の環境が辛くなってきた。私はふてくされつつも立ち上がり、周囲の環境を確認する事にした。

降り階段は相変わらず健在で、遙か下まで直線的に延びている。もう目を凝らしても、下の曲がり角もそれに付随した踊り場も見えない。上り階段は安定していて、もう動く様子もなく、また次の曲がり角も見えなかった。

しばし生えてきた上り階段に触れたり足を乗せたりしてみたが、今まで登ってきた階段同様安定していて、しかも同じように音が鳴る。あろう事か、今度はピアニカだ。この様子だと、次は恐らくハーモニカかソプラノリコーダーだろう。階段の幅は今までとほぼ同じで、登る分には特に問題はなかった。だけど、あまり登る気が起こらなかったのも事実だった。冗談のように遠ざかっていくあの扉、何もない所から凄い勢いで生えた階段。完全に私をバカにしているし、非常に不愉快だ。私という名の檻から、やる気という名の鳩共が、勢いよく逃げ出していく。今はそんな情況だ。

それにしても、このままの情況だと流石に気が狂う。憂さ晴らしに寝る事も出来ないし、腹も減らないってのは、案外精神的に厳しいものだ。下がどうなっているかも少し気になったが、どうせなら上に登ってみるかという気も起こり始めた。というよりも、あの階段を下りるのは、もううんざりだ。上に行けば少なくとも未知の情況があるわけだし、もしまた扉があればひっついて離さないでいてやる。そう思うと、少しだけやる気が復活してきた。

それでも、階段を登り始めるまでは、なかなか至らなかった。何度か周囲をうろうろ回って、地面を蹴飛ばした後、私は上り階段を見据えた。その先にあるであろう、扉を。右手を挙げ、ずっと先にあるはずの奴を指さす。

「今度は、捕まえてやるからな」

それは私の宣戦布告だった。誰よりも、まず自分に気合いを入れるための、宣戦布告だった。

 

再び階段を登り始める。先ほどの法則は健在で、六オクターブごとに音がリセットされる。時々周囲を見回してみたが、相変わらず闇が何処までも広がっていて、光一つ見えなかった。勿論、今向いている方角なんて、わかりっこない。一応影は出来ているのだが、そもそも今何時かも分からないから、方角を算定する手段なんて無い。

階段の幅も延々と同じで、細くも太くもならない。普通に登っていれば大丈夫だが、少し油断すると足を踏み外しかねない。時々気を引き締めながら、私は登り続ける。音が四回リセットされ、更に次の半分ほど迄進んだ時、踊り場と、三十度ほど角度を変えている階段が見え始めた。

これだけ登ったのだから、たまには下り階段が来ても良いかなとも思うのだが、頑ななまでに法則は変わらない。踊り場から延びる階段の数が増える事もない。音に多少の変動があるとはいえ、流石に飽きてきた。一度休憩する事にして、私は途中の段に腰を落とすと、小さく嘆息した。煙草が欲しい所だ。

煙草?私には煙草を吸う習慣があったのか?試しに煙草を吸う動作をしてみたが、あまりしっくり来ない。ライターをつける動作もしてみたが、これと言って心に来るものがない。でも、煙草が欲しいなどと言う思考が湧いてきた以上、何かありそうだ。私は一体、どんな奴なのだろうか。それに、一体此処は……本当に何処なんだろうか。

兎に角。今はやる事をやるしか、他に方法がない。休憩を終えると、私は再び歩き出し、上を目指した。

 

もう最初に目が覚めてから結構な時間が経っていると思うのだが、やはり腹は減らないし、トイレにも行きたくならない。目も冴えっぱなしだ。さっきぶつけた肩はまだ多少痛かったが、それも収まりつつあった。

四つの曲がり角を経由して、私は肩で息をつきながら、階段の先を見上げていた。音に関しての予想は外れていた。ピアニカの後は、尺八、琴と来て、何故かオーボエになった。次の階段の一歩目を踏んでみたが、今度はよりにもよってバイオリンだ。よく分からないのだが、法則性があるとは思えない。頭文字をつなげてみても意味がある文章が出てくるわけでもないし、音を聞いても別に感慨はない。それに、ちっちゃな子の靴音があったのは、どういう事なのだ?

ふと思いついて、私は自分の手を見た。爪を切って丁寧に磨いている、手入れのいい手だ。ピンク色で、柔らかくて暖かい。流石に紅葉と言うには育ちすぎているが、にしても細い手だ。力仕事に晒された手ではない。良く言えば繊細な、悪く言えば惰弱な手だ。

顔をはたいて気合いを入れると、私はまた歩き出す。音が上がっていって、リセットされて、また上がっていって、リセットされる。そして、それが何度か繰り返された後、私は口の端をつり上げていた。見えてきたのだ、我が怨敵が。怨敵でありながら、見つけた時には心が躍った。あの扉の、小憎らしい銀色の姿は、私の視界の中にあった。

 

出来るだけ音を立てないように近づくと、私は取っ手を握り、口の端をつり上げた。今度こそは逃がすものか。右手で取っ手を握ったまま、私は左手で扉を触り、感触を確かめた。前と全く同じで、鏡になっているこの扉は、すべすべしていて冷たかった。

引いて駄目なら押して見ろという言葉があるが、私は引いたり押したりしてみた。やっぱり此奴はびくともしない。左手に取っ手を持ち替えて、私は裏側をのぞき込んで、側面や其方も触ってみた。やはり冷たいが、摩擦係数は微妙に違う。特に側面は、若干ざらざらしていた。暫く鏡に映った自分の顔とにらめっこしていて、私は呟いていた。

「やっぱり、見覚えが無いなあ……」

自然と苦笑が漏れていた。この体つきからして、最低でも十年以上は一緒に暮らしてきた顔のはずなのに。すっかり私は忘れている。この異常な環境の中で、私の顔くらいは旧知の存在であって欲しい物なのだが。しかし、私の顔に見覚えがあったとしても、少しは気が楽になったかどうか。その時はその時で、悩んでいただろう。人間なんて、勝手なものだ。……腹減らない事から考えて、私は人間じゃあ無いかも知れないけど。

ここに来る前、私はどんな奴だったんだろう。煙草をふかす不良だったのだろうか。それとも、勉強が出来る良家のお嬢だったのだろうか。音を聞いてすぐに楽器を判別出来る辺り、何かしら音楽に関わっていたのは確かだろう。不良だったとしても、それなりに勉強は出来たんだろう。今時、大学生だって、薔薇なんて即座に書ける奴はそうそういない。まして私は、どう見てもせいぜい中学生だ。

取っ手から手を離すと、私は扉に背中を預けた。もし扉がいきなり動き出したら危険だが、それより鏡に映った私に親近感が湧いたのだ。目をつぶって、私は鏡に問いかける。

「……なあ、私は誰なんだ?」

当然の事ながら、答えはなかった。

 

いつの間にか眠っていた。目を覚ましてその事実に気づいた時、私は愕然とし、そして嬉しくなった。何か、自分が人間であると、少し証明された気がしたからだ。あるべき欲求の一つである睡眠欲が復活した事は、自然に私に喜びを与えていた。

だが喜んでばかりもいられない。例えばこのまま欲求が復活していって、食欲も戻ってきたりしたら、はっきり言って地獄がやってくる。今まで軽く数十時間が過ぎたはずだが、何も食べていないにもかかわらず、体に変調は起こっていない。だがそれも過去形で語られる事になるだろう。

更に気づいた。寝起きにしては、眠気が残っていないのだ。ひょっとするとこれは、いつの間にか寝ていたのではなく、単に気絶していたのでは?その可能性に思い立つと、私の喜びは一気に鎮火し、逆にため息が漏れてきた。これこそ正にぬか喜びだ。私は相当追いつめられているようだ。何しろこんな事だけで、バカみたいに喜ぶ事が出来るのだから。

立ち上がって振り返ると、扉はあった。開けても向こうが、つまり何もない空間が見えるだけのような気もしたが、それでも開けたかった。もう一度、私は手を伸ばして、扉に触れた。扉は冷たく、相変わらず微動だにしなかった。

腰を落として、ドアノブをまた掴んでみる。左右にそれぞれ120°位ずつ回る。少し力を入れて、上から体重を掛けて踏みつけてみたが、びくともしない。細っこい首しているくせして、結構鍛えているじゃないか。手詰まりになって、何気なく、上を見た私は硬直した。私が、私を見下ろしていた。少しさびしそうな笑みを浮かべて。

弾かれたように立ち上がった私は、慌てて扉に触れてみた。しかし、鏡に映った私は、寂しそうに微笑むばかりで、同じ動作をしようとはしない。つまりこれは、鏡ではない……!?即ち、映っているのは、私ではない?

「お前は、何者だ……!?」

手を伸ばす私は、扉がさっきと同じように、遙か斜め上へすっ飛んでいくのを見た。間をおかず、階段が伸び始める。超高速で延びていく階段に飛び乗るのは、流石に気が引けた。弾かれたら、落ちて一巻の終わりだ。しばし混乱し続ける私の前で、階段は果てしなく高く延びていった。

 

4,お前は一体?

 

はっきりした事が一つある。あの扉は、やはりこの空間の根幹的な謎を解き明かす鍵だ。あれに映っていたのは、私と同じ姿をしていても、私ではない。何か別の存在だ。しばし混乱する思考をまとめると、私は小さく頷き、新しく現れた階段に足を乗せた。今度は、サックスの音だ。苦笑すると、私は歩き始めた。二度ある事は三度あるとも言うが、三度目の正直という言葉もある。今度こそ、結論にたどり着いてやる。

何度か休憩も挟みながら、私は遙か高みにある扉を目指す。法則は健在で、やはり六オクターブで音がリセットされる。それを何度も何度も果てしなく繰り返しながら、私は無限とも思える階段を登っていった。

途中私は、小休止しながら思いついた。奴の元へたどり着いてから、少し仕掛けをしてみようと思ったのだ。一旦トレーニングシャツを脱ぐと、四苦八苦しながら右手の袖を食いちぎる。上半身が下着だけだと少し寒いが、少しの我慢だ。そのまま引きちぎって、少し長めの紐を創った。トレーニングシャツは少し不格好になったが、仕方がない。

創った紐は、長さ的には申し分がない。左手の手首に巻き付けて、きっちり縛り、強度を確認する。思いっきり引っ張ると、少し痛い。結び方としては、これくらいで充分だろう。空中でぶらぶら揺れているもう一端を掴むと、口の端をつり上げる。さあ、今度こそ、逃がしはしないぞ。右の袖が少し短くなったトレーニングシャツを着直すと、また私は歩き始めた。

自然に歩調が早くなり、私は何度も戒めた。慣れは失敗の母だ。そして階段から落ちでもしたら死ぬ。何度か曲がり角を経由して、私は上へ上へと登り行く。サックスがフルートになり、トランペットになる。次に何が来るか、私は結構楽しみになり始めていた。しかし、その楽しみは裏切られた。音はそれっきり、止んでしまったのである。

黙々と無音の階段を登り続ける。今までは作業的でありながらも、多少の変化があったというのに、今度はそれすらない。正直、これは辛い。息が上がり始めたが、此処で休んだら恐らく気が狂う。這いずるように、無理をしながらでも、私は登り続けた。玉のような汗が垂れ落ち、トレーニングシャツがぐしゃぐしゃになっていく。寒くも熱くもない空間だというのに、汗は噴き出し続け、無意識のうちに私は糸の切れ端を強く強く握りしめていた。

目安もなければ、先も見えない。物凄く辛い行軍だった。今までの階段を全て会わせたよりもきつい気がする。その上、今までの階段に比べて、露骨なまでに長かった。音が鳴らない、ただそれだけで苦痛が十倍にも二十倍になるとは。精神が軋み、悲鳴を上げ始めている。呼吸の乱れは取れず、顔を上げても、全く展望は見えなかった。

「負けるか……」

奥歯を噛みしめると、私は吐き捨て、階段を蹴りつけた。不思議と、楽になってしまおうという発想は浮かばなかった。少し脇にそれれば、確実に楽になれるのに。落ちている間に気を失ってしまい、地面とかその辺に叩き付けられる感覚も無く死ねるというのに。

相変わらず何もない周囲の空間。ただ伸び続ける階段。何度か力つきかけて、私は前のめりに倒れた。だがその度に立ち上がり、先を目指す。形ある私が取り込まれてたまるか。誰か分からなくても、名前さえ分からなくても、私は私だ。この空間ではなく、形ある存在だ。空間にとけ込んで、たまるか。

ついに、私は登りきった。

 

奴が見え始めてからは、少しだけ楽だった。五メートル四方ほどの空間で、私は膝をつくと、大きく息を吐き出した。そのまま蹌踉めきつつも扉に歩み寄り、汗でぐしゃぐしゃに濡れた紐を、取っ手に巻き付けていく。扉が急に動き出したら、多分左手ごと持ってかれるが、別に構わない。この場にずっといて気が狂うのと、失血死するのと、そう大差ないだろうし。

呼吸を少しずつ整えながら、私は扉に背中を預けていた。そして目をつぶったまま、言った。

「捕まえたぞ。 ざまあみろ」

返事はないが、別に構わない。うっすら目を開けると、やはり何もない空間だけが視界に入ってくる。だが、別にそれでも良かった。

「なあ、私は、それにお前は、一体誰なんだ?」

やはり返事はない。私は冷たい扉を撫でながら、静かに微笑んでいた。

「まあいいや。 ずっと一緒にいてやる。 だから、少しずつでも話してくれないかな」

「どうして、そんなに一生懸命になれるの?」

疲れ切り、鈍磨しかけていた精神が、不意に引き戻された。返事があったのだ。しかも、私の声とは微妙にトーンが異なる。

途中から気づいていたが、私の声は年にしてはトーンが低すぎる。何というか、大人の声に近い物がある。それに比べて、今聞こえてきた声はトーンが高く、丁度姿に相応な声だった。だが、声質はよく似ていた。まるで親子……いや、違う。年が違う自分自身だ。

声は、扉から響き始めていた。取っ手と手首を結んでしまったから、すぐには振り返られないが、別にそれでも良かった。扉に背中を預けたまま、私は言う。

「……他に、することもなかったしな」

「それだけなの?」

「いや、知りたかった。 こんな所に私を閉じこめた奴が何者か、そもそも此処は何処なのか、それに私は誰なのか。 全部投げ出す前に、知りたい事は幾らでもあった」

「それだけで、生きられるの?」

妙な事を言う奴だ。まあ、人の価値観など、人の数だけある。他人の価値観を間違っていると決めつけたり、あざ笑ったりするのは、流石に傍若無人と言う物だ。ましてや、自分の考えを押しつけるなど言語道断だ。私から見て妙だからって、別に悪い事でも何でもない。

「生きられるさ、私はな」

「そう……羨ましいな」

「……一緒にいてやるよ。 だから、泣くなって」

声が泣いている事に、私は気づいていた。

「ギリギリギリギリ……」

奇妙な音がし始めた。上からだ。少し体勢を崩して見上げてみると、一番上の取っ手が動いていた。それに続けて、真ん中の取っ手も動き始める。慌てて私は、結んでいた取っ手の紐を外した。それと殆ど同時に、一番下の取っ手も動き始めた。

「……ガチャン」

あまりにもわかりやすい音がした。三つ連続で。扉を改めて見ると、もう何も映ってはいなかった。ゆっくり扉は、開いていった。扉の向こうには、光が、ただそれだけがあった。光を手で遮りながら、私は足を踏み入れる。上下の感覚が喪失し、意識が飛んでいた。

 

5,この世界の果て

 

あの世界は、この子の内的世界だったのだ。それに、私は、並行世界のこの子だ。私は隣に倒れている、自分と同じ顔をした少女の頬を撫でながら、事実に気づいていた。

 

階段を踏んだ時、鳴ったのは、周囲にある楽器の音だ。周囲には、ピアニカやらアルトリコーダーやら、サックスやら、そう、階段を踏んだ時鳴った音源の楽器が全て揃っていて、逆にそれしかなかった。私が楽器名を知る事が出来たのは、この子の記憶と、精神的にリンクしていたからだろう。

扉の取っ手の位置も、今は何となく判断が付く。恐怖と、隔離と、希望だ。一番上は、誰にも触れられたくない恐怖。真ん中は皆と隔離したい自分。一番下は、誰かに助けて欲しいという、希望。

私は周囲を見回した。少し広めの部屋だ。とても豪華な内装で、この子が良家のお嬢ちゃんだと一目瞭然である。だが、豪華なだけで、空虚な部屋だった。ついさっき手首を切った、このお嬢ちゃんの心を示すように。大丈夫、容態は安定している。死ぬ事はない。そもそも、傷が浅すぎて、多少血が出た程度だ。この分だと、傷も残らないだろう。この子が気を失ったのは、元々血が苦手だったのと、ショックが大きかったせいだ。

扉を開けた時、この子の記憶が私の頭の中に流れ込んできた。気が弱くて、学校で虐められて、両親にも相手にされなくて。一生懸命親の気を引こうと、楽器を色々やってみたり、勉強を不必要に頑張ってみたり。その孤独な過程が、あの長く長く続く階段だ。最初のちっちゃな子の靴音は、この子が最初に音楽に興味を持った媒体がそれだったから。楽器をやっている割りに手が荒れてなかったのは、もう楽器から離れて久しかったからだ。まあ、気持ちはよく分かる。どんなに頑張っても見向きもされないのでは、継続意欲も湧きようがない。たくさんある楽器は、興味を向けた途端親に押しつけられたものだった。この子は律儀にみんな使いこなせるまで習熟したが、それでも相手にしてもらえなかったのだ。この子の親は、物質だけでこの子が満足すると思いこんでいたのだ。最後の音が出なかった階段は、この子の絶望そのものだ。強いられた孤独な世界で、如何にこの子が孤独な人生を送っていたのか、よく分かった。可哀想に。純粋に私はそう思った。

……それにしても皮肉なものだ。死ぬ事なんて考えもしなかった私が死んで、死のうと思ったこの子は生きているんだから。

本当は、途中で気づいていた。私は、もう死人だと言う事に。私は、並行世界の自分とは言っても、この子ほど頭は良くなかったし、何より年代が違う。違和感が出たのも当然の話で、私はマラソンの最中トラックに跳ねられて死んだ時、高校生だった。ただ、何というか波長とか、そう言うのが良く合ったのだろう。だからこの子に引き寄せられ、心の中にリンクしてしまった。この子の肉体の姿をとって。まあ、別にそれでも良い。自分が誰だか分かってすっきりしたし、やり遂げる事は出来たのだから。

死んだのが分かって、悔しくないかと言われれば、勿論悔しい。だが死んだものはもう仕方がない。人生の余韻とやらを、これから楽しむとするさ。

煙草が欲しい所だ。生きている時、私は時々、本当に大事な時にだけ煙草を吸った。吸うと落ち着いたからだ。今は、丁度そんな気分だった。

 

流石に手首を切ったという事は、馬鹿な親共を慌てさせて、少しずつこの子の周囲は改善されていった。もう死んでる私は周囲には見えなかったし、気楽なもんだ。ただ、御菓子を食べたり、お洒落したり出来ないのは流石に少し寂しいが。

この子は姉のように、良く私を慕ってくれる。悪い気はしない。最近は少しずつ、笑顔を見せてくれるようにもなってきた。一緒にいるって私は約束した。いる事が出来るだけ、私は一緒にいてやろうじゃないか。

親と呼ぶに値しない親よりも、友達と呼ぶに値しない友達よりも。私を必要だとしてくれるんだから。

必要だとされていたからこそ、あの気が狂いそうな世界へ招待された。そう考えれば、多少は許せるというものじゃないか。

 

私はこの子へ、命を渡したのだ。

 

明るい空の下、今度はチェロに手を出したこの子が、笑顔で弦を動かしている。素晴らしい速度で上達していて、しかも継続している。そりゃあそうだ。私がいつも聞いて、褒めてあげてるんだから。私が褒めてあげると、少し恥ずかしそうにこの子は喜ぶ。少しずつ取り戻しつつある笑顔を、精一杯に振りまいて。心が、暖かくなる光景だった。

 

(終)