海底の祭祀

 

序、デトリタスに埋もれて

 

海面からの光は届かない。それなのに、其処には光がある。

体から光を放つ生き物がいるからだ。ある者は、全身を発光させる。またある者は、頭部から突き出た器官を光らせる。

肉食の者は獰猛だ。獲物が珍しいから、数少ない機会を逃してはいけないからだ。だが、比較的おとなしい者もいる。

海上から降り注ぐマリンスノーに半ば埋もれるようにして、その巨体はゆっくり蠢いていた。

流線型を描く甲殻質の体は、ダイオウグソクムシによく似ている。ただし、周囲を蠢く、全長四十センチに迫るダイオウグソクムシが子供のように見える巨体の主。全長はおよそ四メートルにも達する。

口はシャベルのようになっていて、辺りのデトリタスをかき集める。口に入れたデトリタスは、そのまま消化器官へ。栄養分を残らず吸い取って、排泄する。デトリタスを食べることに特化したその巨体は、何処までも広がる砂漠のような深海の底を、静かに蠢き続けていた。

遠くで音がする。マッコウクジラが来て、ダイオウイカを襲っているのだ。どちらも、関係のない相手だ。長くて感度の高い触角を揺らして、豊富なデトリタスがある方へ向かう。もし、死骸が落ちてきたら、それは御馳走の素だ。ダイオウグソクムシが瞬く間に集って、食べ尽くしてしまう。そうして分解されてからが、食べ時だ。

デトリタスは、多くの死骸や排泄物が混じり合った、栄養の宝庫。

多くの生き物を支える、基幹となる栄養なのだ。

頭部には、立派な複眼がある。闇の中では、臭いと、僅かな光が、食料を探す助けとなる。分厚い甲を破れる者は、そうそうはいない。だから、ただ静かに、海底を行く。百を超える、節のある足をゆっくり動かして、巨体を運んでいく。新しい獲物を探して。

巨体の主は、レテと、勝手に自分を呼んでいた。

レテは、いつからこうして生きているか、分からない。幼生であった頃は、プランクトンに紛れて、獲物が少ない深海を、小さな無数の足を動かして必死に蠢いていた。魚やらヒトデやらに運良く食われなかったから、何度かの変態を経て、海底に定着した。今の姿になってから、四十回以上脱皮して、そのたびに生の危険を冒しはしたが、幸い今でも生きている。

ただ、長く生きすぎたのかも知れない。レテと同じ大きさの同胞には、未だ出会ったことがない。そればかりか、同胞さえ、最近は見かけることがなくなった。

デトリタスを口に入れながら、レテは海底を這う。

ふと、足を止める。縄張りの辺縁に来たことを思い出したからだ。

昔、とても恐ろしい相手だった、底棲性の甲殻食の鮫がいる辺りだ。奴らはどんなに分厚い甲羅を保つ蟹でも海老でも平気で噛み砕いて、餌にする。今のレテが食われるとは思わないが、一応、何の意味もないのに近寄りたい場所ではない。

レテは足を止めると、念入りに体の五分の一ほども長さがある触角を動かして、辺りを探る。危険がないと判断してから、向きを変えて、縄張りの中へ戻る。体の向きを変えるのには、時間が掛かる。だから慎重に動かないと、危ないのだ。

マリンスノーが、今日は豊富だ。口を動かして、体の中に取り込む。ただ静かな食事が、延々と続く。

何処までも豊富な、深海のデトリタス。静かなこの世界で、もはやレテを脅かす者はいない。

だが、死の危険は何処にでもある。巨体が災いして、今ではあまり巧みに泳ぐことが出来ない。だから海溝に落ちると、身動きが出来なくなる可能性が高い。大型のサメ類も比較的に危険な存在だ。奴らの顎は強靱で、此方を傷つける可能性がある。特に軟らかい尾を痛められると、修復に時間が掛かってしまう。

ダンゴムシのように、強固なキチン質に守られた体。だが、所詮は生き物なのだ。だから、危険は避ける。恐怖には、逆らわない。

縄張りを一巡して、戻ってきた。妙な臭いを、触角が感知した。闇の中、所々舞うように輝いている光。発光性の魚が、活発に泳ぎ回っているのだ。何かあったのかも知れない。心なしか、興奮しているように思えたからだ。

ふと、気付く。

眼前に、巨大な死骸がある。

それは、今までレテが見たことのないものであった。

 

1,不思議な死骸

 

既に、死骸にはスカベンジャー達が集り始めていた。

死骸の全長は、レテの体よりも更に大きい。触角で触れながら、周囲をゆっくり回ってみる。体には殻があり、少なくとも十を超える体節があるようだった。しかも、その体節の一つずつが、レテよりも更に大きい。触角は非常に長く、体の前部には、巨大な一対のハサミがあった。驚くのは、体の半ばが、大きくえぐり取られていることである。腹部には無数の足がある。海老と同じような特徴にも見えたが、違う点も多い。特に口は、魚のように鋭い歯が生えていて、マッコウクジラを一呑みに出来そうだった。

発光する生物に照らされている死骸は、全体的に青みが掛かっている。殻はごつごつしていて、非常に長い棘が彼方此方から生えていた。目は魚などと同じ軟らかいものらしく、頭部に三十以上がついていたが、いずれも真っ先に食べられてしまっていた。口は縦に長く裂けており、長い舌が出ている。舌は非常に頑丈で、まだ原型を残していた。肉もかなり少ないようである。

傷口からは、嗅いだこともない臭いがした。触角を引っ込めて、慎重にもう一度距離を取る。スカベンジャー達はせっせと死骸の分解を続けているが、レテはあまり近付く気になれなかった。

レテの出番は、あくまで死骸が分解されてから、なのだ。

小型のものばかりではなく、大型のスカベンジャーも集い始める。何しろこのサイズの死骸である。食べきれるものではない。魚たちも、肉を目当てに集まり始める。そして小魚を目当てに、大型の捕食者も集い始めていた。

夢中になって死肉を啄む小魚を、後ろからオンデンザメが丸呑みにした。レテは少し距離を置いて、じっと様子を見守る。死骸の周囲は、まるで祭りだ。時ならぬ天からの贈り物に、舌鼓を打つ者達と、それを喰らう者達が狂喜乱舞している。食料でもあるデトリタスに、少しずつ体を埋め始めたのは、巻き添えを食いたくないからだ。興奮した他の動物どもに足や尾を食いちぎられでもしたら、損だ。

全長七メートル近いオンデンザメが、ゆっくりレテの上を泳いでいく。小魚の体から離れた鱗が、辺りに舞っていた。

泥の上に触角の先端だけ出して、レテは待つ。どうせ周囲は食料だらけなのだ。別に慌てて動かなくても、生命活動に支障はない。

オンデンザメは小魚を食うのに飽きたらしく、自身も死骸の傷口に顔を突っ込み始めた。殻の間にも、既に小さなスカベンジャーが潜り込んで、肉をむしり始めている。蟹や海老も多数が集まり始め、辺りに散った肉をせっせと口へ運ぶ。

生き急いでいた。誰もが。リスクを冒しても、時ならぬ収穫に舌鼓を打っている。互いに喰らい合うことも厭わない。食物が少ない深海では、肉を喰らう者の競争はとても激しいのだ。

しばらく様子を見ていたレテだが、やがてゆっくりその場を離れ始めた。この分だと、静かになるまではまだ時間が掛かる。縄張りの他の場所に異変がないか、見て回って方が良い。

細長く白い深海魚が、満腹した様子で、レテの隣を泳ぎ去っていった。ひょっとするとこの栄養を元に、産卵するつもりかも知れない。レテにはあまり関係がない話だ。ゆっくり、海底を巡回していく。

縄張りを一回りし終えた後、少し眠った。デトリタスに深く潜って、触角の先だけを泥の上に出す。背中も出ているが、一番装甲が厚いから、特に気にしなくても大丈夫だ。まだ、遠くの喧噪は収まっていない様子だ。しばらくは、気が違った宴会が続くことであろう。

やはり静かが良い。

泥の中に埋もれて、レテはつかの間の平穏を貪った。

 

つかの間の眠りから覚めたレテは、ゆっくり動き始めた。食事と排泄を一緒にこなしながら、デトリタス層を踏んで歩き始める。せっせと口にデトリタスを集めながらも、辺りをうかがうことは忘れない。そうやって慎重であったから、今まで生きることが出来たのだ。

縄張りを、隅からじっくり見回る。触角を頻繁に動かして、慎重に辺りを探る。殆ど明かりがないからこそ、何と出くわすか分からないのだ。

強い腐臭を感じた。相変わらず、強い光が瞬き続けている。おそらく、あの死骸と、それに集る無数の深海生物だろう。巨大な死骸は、まだ食い尽くされていない可能性が高い。スカベンジャー達がせっせと食べた後に、レテの仕事がやってくる。今は放っておこう。そう思って、ゆっくり縄張りの隅を回っていく。

ふと、奇妙なものが複眼に写り込んだ。

滅茶苦茶に発光している、ホウネンエソだ。

ホウネンエソは発光機能を持つ魚である。レテに比べれば小さいが、それでもかなりの体長を持つ。眠る前にも、死骸の周囲で見かけた。悠々と獲物を貪るオンデンザメを器用に避けながら、死骸を啄んでいたはずなのだが。

ホウネンエソの光におびき寄せられたように、オンデンザメが現れる。昨日見たものほどではないが、それでもレテよりも大きい。血の臭いにおびき寄せられたのだろう。ホウネンエソは気付いているのかいないのか、関係ないと言った風情で発光し続けていた。最初面食らった様子だったオンデンザメだが、しかし深海の生き物は貪欲だ。おもむろに、ホウネンエソにかぶりつく。

真横から鮫の強大な顎に捕らえられて、しばしホウネンエソはもがいていたが、ふた噛みで真っ二つにされてしまった。鱗が辺りに飛び散る中、ぺろりと獲物を平らげるオンデンザメ。頭部は千切れて、泥の中に落ちてきた。蟹や海老が、落ちてきた鱗や肉片を啄む。そういえば、此奴らも随分眠る前に比べて数が増えている。

一通り縄張りを見回ってから、死骸を見に行く。

巨大な死骸は、もはや原型をとどめなくなりつつあった、強いて言うならば、残骸というのが相応しい。あまり近付くと、興奮したスカベンジャーに食いつかれて面倒なことになるかも知れないので、距離を取って様子を見守る。

滅茶苦茶に発光している動物が多い。発光能力を持つ深海生物は多いのだが、皆何かを忘れたかのように、ちかちかと瞬いている。レテの側を、ゆっくり泳ぎ去っていくのは、昨日のオンデンザメだ。腹が膨らんでいて、しかも動きが鈍い。さぞや多くの獲物を口に入れたのだろう。

普通、満腹している鮫は危険な存在ではない。だが、レテの本能は警鐘を鳴らしっぱなしであった。絶対にあれに近付くな。本能の警告に従う。無関心なふりをして、側を急いで通り過ぎた。

死骸の肉には、多くのダイオウグソクムシが群がっていた。スカベンジャーの中でも特に貪欲な彼らは、一心不乱に死骸を貪り喰らっている。一部では、死骸をまるまる覆い尽くすほどの数が集まっていて、他の動物が肉をついばめないほどだ。これほどの数を見たのは、レテの長い生の中でも初めてだ。

ダイオウグソクムシ達は、尖った長い触角をふりふり、鋭い大顎を動かして、肉を囓っていた。何だか、彼らも少し様子がおかしいなと、レテは思った。獲物に対する貪欲さは、いつもと同じだ。だが、何か違和感があるのだ。

やはり、危険だ。ゆっくり体の向きを変えて、巨大な死骸から遠ざかる。死骸の周囲には、おこぼれに預かろうとする小動物が山ほど集まってきていて、動きにくいことこの上なかった。蟹が多いが、貝類や、海老もかなりの数がいる。時々他の生物が放つ光に照らされる彼らは、皆とても白かった。

デトリタスを口に入れながら歩く時、彼らの一部も一緒に食べてしまったが、別にどうでも良い。元々強靱な消化器官だし、少しくらいのナマモノは喰らっても平気だ。ゆっくり、距離を取っていく。海水に溶けていた濃厚な血の臭いも、離れるとそれに従って薄れてきた。

ようやく一息が付けると思った。しかしその思いは、残念な話なのだが、かなわなかった。

遠くで、何か激しい水の流れがあった。それに気がついたのは、死骸から離れて少ししての事であった。

先ほどの死骸から流れ来ていたものと、同じ血の臭いがする。また、同じ生き物が深海に沈んできたのだろうか。だとすると、迷惑な話だ。あまりに死骸が多いと、処理能力を超えてしまう。そうすれば腐敗によって、水質が汚染される。水が濁ると、デトリタスの味が悪くなる。

マリンスノーが激しくなってきた。また、少し深く潜ることで、辺りの喧噪を避ける。マリンスノーも、いつもより随分多い気がする。近くに、何かが落ちてきて刺さった。三角形の、鋭い物体だ。触角で調べてみたが、すぐに引っ込める。あまりにも鋭いので、触ると体を痛めそうだからだ。

何かが起こり始めているのかも知れない。レテはそう思った。場合によっては、縄張りを変える必要がある。どうせ、つがいになるような相手もいなければ、獲物の競合も無い。この辺りの海底が安定しているという理由で、縄張りにしていたのだ。ずっと海底を動き回り、縄張りを安定させなかった時期だってある。それを考えれば、今更移動することなど、何でもない。

以前、いた辺りに戻ってみようかと、レテは考えた。クレバスを避けながら移動していた時、見つけた平坦な場所があったのだ。デトリタスは今いるところに比べると、若干質が落ちるものだったが、それでも食物に困らないことに変わりはない。今更危険を冒してまで新しい場所へ行こうとは思わない。かって知ったる場所の方が良い。

血の臭いが強くなってくる。オンデンザメが困惑したように、巨体をくねらせて泳ぎ去っていった。あんな巨大な死骸が沈んでくれば、それは辺りも騒がしくなる。だが、すこしばかりこれは異常だ。異常な物事には、あまり関わらない方が良い。

縄張りを出ることを、レテは決めた。

体を引きずって、レテは動き始めた。

この辺りのデトリタスも食べ納めだなと思うと、少し動きが鈍くなった。出来るだけたくさん食べておこうと思って、熱心に口を動かす。海底に密着している口は、今まで考えたこともなかったが、思えばとても便利な構造だ。動くだけで、新しい食物を口に入れることが出来る。

触角が、また長く鋭い何かに触れる。無数に、同じものが落ちてきていた。とても迷惑な話だと、蠢きながらレテは思った。

 

2,歪み

 

レテのすぐ眼前には、巨大なハサミが落ちていた。また、あの生物の亡骸だ。部品を含めると、これで七度目である。ハサミだけなのに、レテの全身よりも大きい。そして既に、スカベンジャー達の宴会場と化していた。

とても迷惑な話だと、レテは思った。旺盛な食欲でハサミの切り口の肉に群がっているダイオウグソクムシ達は、レテのことなど気にもせずに、食事に熱中していた。すぐ側を、チョウチンアンコウが漂っている。かなり大きいからメスだろう。レテを気にもせず漂うアンコウは、満腹した様子であった。巨大な口で、死骸に寄ってきた小魚を、何匹も丸呑みにしたのだろう。

チョウチンアンコウも、特徴的な額から伸びた発光器官を、滅茶苦茶に点滅させている。求愛行動とも、獲物を狙っているとも思えない。やはり変だ。この死骸を間接的に食べたことで、何か異変が起こっているのかも知れない。

嫌な臭いだと、レテは思った。少し後退して、距離を取ってから、また動き出す。かっての縄張りを順番に回っているのだが、どこでもこの死骸が散らばっていた。中には、もっと大きなものさえあった。

レテの本能が、危険を警告してくる。実際、この肉を食べた者達は、何処か少しずつおかしくなっている。

ある程度下がってから、向きを変えて前進。もっと昔の縄張りに行くしかない。少しずつ暮らすには不便な場所になってきているのだが、それでも仕方がない。メガマウスザメが、巨大な口を半開きにしたまま、側を泳ぎ去っていく。巨大な頭部が特徴の奴だが、体格的にもオンデンザメに劣らない。ふと彼は、いきなり頭を下にして、海底に顔を突っ込んだ。そのままゆっくり回転し始める。あまりにもあり得ない行動に、レテは度肝を抜かれた。甲殻類を主に食べるネコザメやトラザメを見たことがあるが、彼らでさえこんな行動は取らなかった。

珍奇と言うよりも、むしろ異様である。さっさと距離を取ったのは、本能に従ったためだ。あれはどこかがおかしくなっている。異常行動を取ると言うことは、危険な動きをすると言うことでもある。サメが本気で噛みついてきたら、背中の甲は平気だとしても、触角や複眼を痛めるかも知れないのだ。

泥の中に顔を突っ込んでかき回していたメガマウスは、しばらくそのままだったが、やがて呆けたように顔を上げて、泳ぎ去っていった。メガマウスが何を掘り返していたかの興味よりも、危険に対する本能的な警告の方が先に立つ。奴が掘り返していた辺りには、近付こうとも思わなかった。

激しい音。思わずぎゅっと体節を縮めて、防御態勢を取る。斜め右前から、泥を蹴散らすようにして、何かが泳いでくる。見ると、リュウグウノツカイだ。発光する無数の生物に照らされて、長大な魚体が泳ぎ寄ってくる。

どちらかと言えばデリケートなリュウグウノツカイが、何でこのような行動を取るのか。わざわざ体を傷つけているように思える。事実、鱗は彼方此方が剥がれ、肉まで露出していた。

ゆっくり足を動かして、体を運んでいく。リュウグウノツカイは、頭の側にぶつかって、体をすりつけるようにして通り過ぎていった。此方は頑丈だから平気だが、相手は違う。ぶつかった時に、ぐちゃりと音がした。あの様子だと致命傷だろう。何が起こっているのか、やはり分からない。

だいぶ動くと、やっと血の臭いが薄れてきた。どうやら死骸が、この辺りにはあまりないらしい。やっと落ち着けると思ったのもつかの間、とんでもないものが沈んできた。動いて逃れようとしたが、落ちてくる方が早かった。背中の甲に、重い感触が伝わる。破れたり欠けたりするほどではないが、ずっしりとしていた。

ダイオウイカだ。そして、オンデンザメだ。オンデンザメはダイオウイカの胴にかぶりつき、ダイオウイカはオンデンザメを締め上げて。互いに息絶えていた。

戦うことのリスクが高い相手とは、基本的に牙をかわさない。それがある程度知能のある動物同士のやりとりだ。レテだってその理屈に基づいて動いているし、基本的にどんな肉食動物だって同じの筈。

それなのに、この光景はどうしたことか。

触角で触れてみる。二匹とも、さっきまで生きていたからか、まだ体が軟らかい。だが、お互い異様な角度に体を曲げていて、戦う前に死んでいたのではないかと錯覚させるほどに、おかしな雰囲気を醸し出していた。特に、ダイオウイカの喰腕はだらりと投げ出されていたのだが。吸盤が激しくそぎ取られていて、それらは戦いの結果だとはとても思えなかった。自分で傷つけたとしか考えられない。

折角安息の地に来られたと思ったのに。

しばらく動いていくと、大きな岩が見えてきた。砂漠のような深海底にも、岩は転がっているし、山だってある。しばらく前には、危うく海底火山の噴火に巻き込まれるところで、あの時は必死に這って逃げたものである。

あの岩の影で休むことにしよう。そう思って、レテはゆっくり這っていく。ああいう岩は、小動物が隠れる格好の住処で、底棲性の鮫が潜んでいることもある。だが、攻撃しなければ、噛みついては来ないはずだ。

だが、その予想も、簡単に裏切られることになった。

岩の側で、無数の足を止める。本能が、危険を告げてくる。

岩の影に、何かおかしなものがいる。いや、違う。おかしな行動を取っている、見慣れているはずのものがいる。

ゆっくり下がって、距離を取る。近付いてはいけない。

ちかちかと、岩の影でまたたいているもの。それは、普段だったら絶対に群れることがない深海魚だった。それが千匹単位で、泥に顔を突っ込んで、うぞうぞと蠢いている。泥の中に、彼らの食物があるとは思えない。一体何が起こっているのか。

力尽きたらしい一匹が、腹を上に向けて浮いていく。口の中にはたっぷり泥が詰まっていて、浮きながらぼろぼろとこぼれていった。あり得ない。あまりにもあり得ない。デトリタス食は、専門の消化器官が必要だ。肉食草食などという軟弱な食性の連中には、とても到達できない域なのだ。それなのに、何故魚が、あんな事をしているのだ。

その浮いていく魚を、横から忍び寄ってきたチョウチンアンコウが丸呑みにした。止めておけばいいのにと、レテは思いながら、体を引きずってその場を離れる。

何だか、脇腹がむずがゆい。

何本かの足が、少ししびれているような気がした。

 

だいぶ浅いところまで来た。何処までも広がる砂漠のような海底を進み、その都度分厚く積もったデトリタスを口に入れて力にする。かなりの距離を来たにもかかわらず。相も変わらず。

レテの眼前には、例の死骸が転がり、無数の生物が群がっていた。

結局、レテが動き回った結果、三十をこす死骸に行き当たったことになる。今、レテの前に転がっている巨体は、もう大体解体され尽くして、殻の裏側に僅かに残った肉や、神経繊維の欠片を、小型のスカベンジャーが囓っている状態であった。このままもうしばらくすると、殻も分解されて、海底に散らばることになる。そして、それが微生物にほどよく分解されると、レテが美味しくいただける状態になるのだが。

正直なところ、もううんざりしていた。

幸いにも、この死骸の周囲には、あまり生物が多くない。特に大型の動物はほとんどいない。かなり浅い海まで上がってきたという事情もあるのだが、それ以外にも大きな理由がある。

死んでいるのだ。

ここに来る途中、数え切れないほどに大型生物の死骸を見た。小型の生物も、かなり死んでいるはずだ。ただ、連中は死骸が浮いてしまうので、海底に残っていないだけである。異常行動が、死の原因になっているのは明らか。更に言えば、その原因は、この眼前に横たわる、海老のような奇怪な生物の死骸にあることは間違いない。

オンデンザメが、腹を見せて、海底に沈んでいた。直径四メートルを超す大型の水蛸が、だらしなく足を伸ばして息絶えていた。岩に抱きついて、そのままかたくなっていたダイオウイカ。鯨類の内蔵らしきものも沈んでいた。

死骸の殆どが異常だった。メガマウスの死骸は口が裂けたようになっていたし、体が破裂しているヒトデの残骸もあった。他の動物などどうなろうと知ったことではないが、自分がそうなるかも知れないと思うとぞっとしない。絶対にあれの肉は口に入れない方がいいだろうと、レテは思う。

その気になれば、レテはほとんど動かずに過ごすことが出来る。体を維持するくらいのデトリタスなら、その辺に幾らでもある。ただ、この辺りはヤツデヒトデが多く、放っておくと奴らにみんなデトリタスを食われてしまうので、レテとしても珍しく忙しく動き回らなければならないのだが。かなり過ごしづらい。深海に比べると五月蠅いことこの上ないし、色々と不便なことも多かった。

このままだと、もっと浅い海に行かなければならないかも知れない。しかし、浅い海ほど生存競争は激しい。深海でももちろん競争は激しいが、浅い海の場合は、それに環境の激変が加わってくる。何度か浅い海で過ごしたことがあるのだが、何かと動きが鈍いレテには変動の激しさがかなりしんどいのである。

事実、この辺りは、海流が激しい。甲が削り取られるのではないかと、時々不安を感じてしまう。

この辺りは、地形が非常に入り組んでいて、崖のように切り立っている場所も多い。落ちたら一巻の終わりだから、移動には気をつけなければならない。魚どもが羨ましい。連中は、落ちることなど気にしなくても良いのだから。

激しい動きで、泳ぎ来る何かが、甲にぶつかった。比較的おとなしい鰯が二匹、互いの腹に食いついた形で、ぶつかってきたのだ。やがて二匹は、互いの腹を食い破ってしまい、内蔵をばらまきながら沈んでいった。その鰯の上では、ナポレオンフィッシュが真横になってゆったりと泳ぎ、その尻尾に長細いダツが噛みついて、引きずられるかのようにぶらりぶらりと揺れている。

逆さになって海底にへばりついているクラゲがいて、その触手に絡みついて死んでいる鰯。クラゲは鰯を食おうともせず、触手をだらりと拡げて、さあ食ってくださいと言わんばかりの格好である。触手の一本を、蟹が引っ張り、伸ばしていたが、食べる様子は無い。沈んできたのは、ウミガメだ。首が少なくとも二回複雑骨折した形跡があり、腐敗が酷かった。最初ウミガメの死骸は浮くのだが、腐敗した関係で沈んできたのだろう。

ウツボが、もがきながら眼前を泳いでいく。見れば、無数の色鮮やかなオトヒメエビが体中に食いつき、肉をむしっていた。その上大量の動物プランクトンが、えらと目を攻撃している。海の医者と言われるオトヒメエビが、あんな攻撃行動に出るなんて。ウツボも本能には逆らえないらしく、困惑しながら振り払おうとしているが、数が数だ。まるでオトヒメエビが泳いでいるかのような、カラフルな状態である。やがてウツボは力尽きたか海底に沈み、今度は大量に群がってきた蟹に、瞬く間に分解されてしまった。オトヒメエビが身を逸らす。逸らしすぎて真っ二つにへし折れてしまう。

ゆっくりバンドウイルカが泳いできた。だらしなく舌を出したイルカは、突如自分よりも大きいイタチサメに突進すると、滅茶苦茶に背びれを食いちぎった。鮫は鮫で、抵抗しようともせず、不自然なほどにだらしなく口を開けて泳いでおり、目は瞬膜で覆ってもいなかった。サメは攻撃行動に出る時、目を水流から守るために瞬膜というもので覆うのだが、そういうつもりも無いようだ。その口の中には無数の小魚が出入りしていた。鮫にはコバンザメがたくさんついていたのだが、そいつらに到っては、主君のえらの中に潜り込んで、肉を食いちぎっている様子だ。

狂気の見本市だ。どの動物も、狂っている。本来ではあり得ない行動が、海の中を覆い尽くしている。

今頃、深海も似たような状況になっているのだろう。

恐怖を感じる。

だが、それでも、動かない方が良いと思った。というのも、この様子では、何処に行っても同じだと思ったからだ。

レテは動かず、デトリタスに潜って、状況を伺い続けた。

程なく。骨だけになった、イルカが沈んできた。

その骨を、泳いできたネコザメが噛み砕いて、べっと吐き出した。その鮫も、尾びれが半分に引きちぎれていて、腸をぶら下げている。

恐れていた事態も、起こり始めた。歯が立たないのが分かりきっているのに、レテに噛みつくものが出始めたのである。泳いできた鯛が、いきなり背中の甲に噛みついてきた。しかも、顎が潰れて拉げ、死ぬまで離さなかった。

レテは、より深くデトリタスに潜ることにした。

まだ、狂気の宴は、終わりそうもないと、判断したからである。そればかりか。死骸の食うところが無くなっているのにもかかわらず、狂気は更に加速しつつある有様だ。レテにはどうにも出来ない。出来たところでどうにもならない。

いつのまにか、泳いできたイソギンチャクが、頭の側にくっついてきた。放っておこうと、レテは思った。

これは普通の行動だ。イソギンチャクは時に泳いで、生存に適した位置へ移動する。まともに行動する動物がいる事に、レテは安心していた。

だが、その安心も、見る間に打ち砕かれることになった。

イソギンチャクが、いきなり破裂したのである。

飛び散る破片を、寄ってきた魚たちが、凶暴に引き裂いた。レテはデトリタスの中に更に深く顔を沈めて、やり過ごすことにした。

 

3,発芽

 

腹が減ってきたので、レテはデトリタスの中をゆっくり進み始めた。すっかり分解された、例の死骸が見えたが、相手にしない。例え分解されていても、食べる気にはとてもなれない。

レテが動くと、深い溝がデトリタスに出来る。もともととても重いレテだから、これは仕方がないことだ。レテは強固な装甲を、速さと機動力を犠牲にすることによって生み出している。その結果、殆どの捕食者を恐れる必要が無い。

ふと、眼前を、奇妙なものが歩み去っていった。

それは魚のようであったのだが。体の左右から、確かに蟹の足が生えていた。足状に変形したひれを使って、海底を歩き回るホウボウという魚もいるが、それではない。どうみても鰯だ。鰯なのに、体の脇から足がたくさん生えている。しかも、目からは角状の突起が飛び出していて、先端に別の目がついていた。

その鰯らしき生物の前に、ヤツデヒトデがいた。鰯らしき生物は、口を裂けるほど開けると、何と其処から複数の節を持つ触手が伸びたのである。動かないヤツデヒトデを、先端にハサミがついた触手が捕らえ、見る間に引きちぎり、ばらばらにしてしまう。そして、鰯らしき生物は、触手を器用に使って、それを食べ始めた。

なんだ今のは。

大陸棚から深海まで行き来したこともあるレテだが、あのような性質を持つ生物は、見たこともない。

いや、どこかで見たことがあるような気がする。だが、思い出すことが出来なかった。

また、得体が知れないものが来た。

それは一見すると、美しい流線型の体を持つアオザメに見えた。違うのは、顔面を海底すれすれに向けて、海の中で直立していることだ。しかもその口から蛸のような触手を無数に伸ばしている。その触手を使って、海底を凄まじい速度で進んでいるのである。凄い勢いで向かってきた奴はレテの上をするりと飛び越えると、触手が残像を残すほどの速さで、海底を走り去っていった。

意味が分からない。どういうアオザメだ。そもそも何ゆえにアオザメが、あのような格好で、よりにもよって海底を進む必要があるのだ。

訳が分からない生物は、まだまだいた。逆さになって泳いでいるウミガメが見えた。その前を、コブシメが通り過ぎる。無警戒にも程があるイカに気付いたウミガメは、首を伸ばして、それを捕食した。よくある光景だが、異常すぎる。

ウミガメの首は、なんと十メートルも伸びたのだ。しかも、首には足状の器官が無数に生えていて、伸びる時にそれが蠢いていた。

どうやら元はナポレオンフィッシュだったらしい者が泳いでいる。その体からは、無数の禍々しい黒光りした棘が生えていて、しかも自由に動かすことが出来るようだった。

もう何を見ても驚かなくなりつつある。ただ、あの狂気の生物たちは、どこかで見たことがある。はっきり確信したのは、ナポレオンフィッシュを見た時だ。奴には、どこかで懐かしいものを感じた。

それと同時に、なにかとても強い思いが湧いてくる。

帰巣本能である。

どこだかは分からない。だが、レテは帰らなければならない。

巨体をゆっくり動かして、デトリタスを口に入れながら、レテはUターンした。まず目指すは、深海だ。いつも過ごしている、だがどこか遠くに感じる場所。だが、この体が深海に適応しているという、確信はある。

今いる辺りも、既に光は届かなくなりつつある空間だ。だが、来た道をそのまま帰ると、すぐに真っ暗になる。光は生物が放つものだけになり、目を持たない生物が増えてくる。触角はとても便利で、大事だ。これで辺りの空間を把握できる。音だけではなく、臭いも良く分かる。

無数の足を動かして、ゆっくり坂を下っていく。海底棚の先は、急激な下り坂になっていることが多いのだが、緩やかな場所もある。今、レテが歩いているところがそうだ。此処を下っていく事により、住み慣れた深海へ行くことが出来る。

元々あまり速度は出ないが、今は更にゆっくりと行く。此処は転げ落ちると危険だからだ。触角で地形を探りながら、じっくり下りていく。来る途中につけた轍は、彼方此方が消えていて、迷いそうになることもあった。だから、余計に慎重に行かなければならないのである。

海底に、ダツがささっていた。体の半分くらいが刺さっていて、体は彼方此方が食い荒らされている。何が目的で、こんな行動を取って死んだのか。

或いは、この辺りに、まだ新鮮なあの死骸があるのかも知れない。

せっせとデトリタスを口に入れ、排泄しながら進む。出来るだけ早くこの辺りは離れた方が良いはずだが、一度バランスを崩すと面倒だ。

デトリタスも、場所によって厚さに差がある。もちろん質もだ。砂ばかりで、とても味気ない所もある。

食べられる時に、いくらでも食べられるように、体は作られている。どうしてそう作られているのか、疑問を感じたことはない。ふと、眼前を、リュウグウノツカイが泳ぎ去った。気のせいだろうか。

頭部が、異様に肥大していた気がする。眼球が飛び出し、口は非常に大きく裂けていた。あれも、異常な生物の一つかも知れない。とにかく、もう泳ぎ去ってしまったので、分からない。

オウムガイが泳ぎ寄ってきた。

無視して進むと、ついてきた。

そして、水圧で潰れて死んでしまった。

 

安定した深海のデトリタス層につくと、レテは一番古い縄張りに向けて歩み始めた。古い時代のことはあまり覚えていない。だが、感覚として分かるのだ。最初、フナムシくらいの大きさだった頃。深海の何処のデトリタス層を食べていたのか。今でも、触角に臭いは染みついている。

その縄張りを離れたのは、海底火山が噴火したからだ。だが、現状はどうなっているか分からない。海底火山が未だ活発に動いていれば、水流や水温の変化で分かる。だが、あくまで慎重に行くに越したことはないなと、レテは思った。複眼を触角を動かしてお掃除する。触角の根元はブラシ状になっていて、気が向いた時には複眼を丁寧に掃除することが出来るのだ。もちろん、大顎も掃除することが出来る。一番前にある第一足を使っても同じ事が出来るのだが、レテは触角を使う方が好みなのだ。

何回か、巨大生物の死骸を見た。殆どは食い尽くされてしまっていたが、まだ身が残っているものも少しはあった。

後ろに、ついてきている者達がいる。ダイオウグソクムシだ。数百に達している。彼らはいずれも異形と化していた。触角が十本以上に増えたもの。甲が破れて、中から触手が出ているもの。ハサミが生えてきているもの。中には、泳いでついてきている者もいた。

何故、レテについてくるかはよく分からない。だが、追い払う気もなかった。ホウネンエソがいる。ゆっくり旋回していたそいつは、腹から腸がはみ出すようにして、長い長い触手が生えていた。そいつも、レテについてきた。

ずっ、ずっと音を立てて進む。そして、足を止めた。

海底の一部が、不自然に盛り上がっている。この辺りに、このような地形は無かったはずである。しばらく触角を動かして情報収集するが、やはりおかしい。変な生物の臭いもする。何だか分からないところが、余計に気味が悪い。

だから避ける。Uターンして、迂回することにした。水流もおかしくて、定期的に盛り上がりに入ったり出たりしている。ひょっとすると、何かの巣穴かも知れない。しかしもし巣穴だとすると、最低でもレテの二十倍はある生き物が、其処に住んでいることになる。そのような生物、聞いたこともない。

しばらく盛り上がりを迂回していくと、何かに突き当たった。

死骸では、ない。よく分からない性質の物体だ。以前、これに似たものが沈んできているのを、見たことがある。流線型をしていて、異様なカラーリングで。そして、有害な物質の固まりだ。

どうやらこの盛り上がりは、これが海の上から沈んできて、海底に突き刺さったからできたものらしい。

ダイオウグソクムシのいくらかは、物体の中に潜り込んでいった。餌を探すのだろう。構う必要も、意味もない。好きにしてくれればいい。血の臭いはしているから、餌そのものにはありつけるかも知れない。巨大な物体は、中央から減し曲がって、大量の有害物質を辺りにまき散らしていた。サイズはレテの五十倍はある。これならば、大きな盛り上がりが出来るのも道理である。それに、このサイズなら水の流れも大きく遮る。異常な流れが出来るのも、無理はない話である。

下がって距離を取ると、また迂回して進む。

ひょっとすると、だが。あの巨大生物と、これがぶつかるなり殺し合うなりして、結果たくさん沈んできたのかも知れない。もしそうだとすると、レテにはとても迷惑な話だ。不要な危険には散々さらされたし、今でも訳の分からない衝動に振り回されているではないか。

珊瑚を咥えたボウエンギョが、泳いでいくのが見えた。背びれが異様につき立っていて、まるで鮫かシャチだ。しかも目が可動式になっているらしく、レテをみてぐるりとつきだしている目が動いた。

そして、こいつも、レテについて泳ぎ始めた。

盛り上がりをすぎてしばらくした頃には。後ろにはダイオウグソクムシやら何やらのスカベンジャーどもが大集団を為し、無数の深海魚が寄り添って泳ぐようになっていた。此奴らの意図が分からない。或いはレテが何かしらの事故で死んだら、食うつもりなのだろうか。

かといって、今更逃げても、此奴らを振り切ることは不可能だ。レテは動きが遅いし、小回りも利かない。追っ手の中には魚まで混じっているから、いざ襲ってきたら、デトリタスに潜ってやり過ごすしかない。難儀な話だと、レテは嘆いた。

起伏が、少し激しくなってきた。この辺りから、なだらかな坂にかかる。坂と言っても、大陸棚に掛かるような、ついさっき上り下りしたものほど激しい勾配はない。海底火山と言っても、いわゆる熱水噴出口だ。それの規模が大きい奴である。

どうして、そんなところへ向かっているのか。

やはり、分からない。本能という奴は厄介だ。自分でも全く理解できない行動を強いることがある。時々触角を引きちぎって、新しいのを生やしたくなるのだが、アレは面倒だ。痛いし、辺りが分からなくなるし。それに再生のために、多くの食事をしなければならない。あの時だけは、肉食がしたくなる。蟹やら海老やらの中から、動きが遅いのを捕まえて、デトリタスと一緒に口に入れるのだ。

一応意味がある行為だとは分かる。時々、体から放出するフェロモンにしてもそうだ。異性を誘引するための物質だが、あれがなければ配偶者は探せない。だが、自分でも、とても臭くていやなのだ。

それに、配偶者となる異性など、もういないのではないかと思う。

そう言う意味では、自分が生きている意味が、よく分からなくもなる。生物は、一個体で成り立つものではない。様々な役割をする生物があつまり、生態系が作られて、はじめて自然の中で大きな意味を持つ存在になる。

だが、そのようなことを、何処で知ったのか。それもよく分からない。緩やかな坂を登っていく。後半分も登れば、坂は一端終わりだ。

此処からは、かなり危険な地形が多くなる。クレバスがあるのだ。魚には何でもない地形だが、レテには死への直行便である。出来るだけ近付きたくないが、仕方がない。どうせ、本能には逆らえないのだ。

岩が増えてきた。もちろん、食料になるデトリタスも、浅くしか積もっていない。速度を落とす。特に下り坂は危険だ。本当に慎重に進んでいかないと、すぐに真っ逆さまに落ちてしまうだろう。

体が大きいと、捕食される可能性は確かに減る。分厚い装甲はサメの攻撃にも耐え抜くし、免疫力そのものも高くなる。ちょっとやそっとの環境変化では、びくともしなくなるのだ。また、絶食にも強くなる。大量の栄養を一片に蓄えることが出来るし、危険にも対処しやすい。

だが、小回りは利かなくなって、色々不便だ。

何で、自分はこのような存在なのだろうと、ふと思う。其処まで考えて、はたと気付く。

一体、なんだこれは。

自分とはなんだ。

生態系とはなんだ。

そもそも、こんな豊富に、周囲を認識していたか。

どこから、これらの事を知った。形状だけを認識していた生物は幾らでもいた。性質についても、把握していた。だが、彼らの生態系での役割や、存在意義などを、どうやって知り得たのだ。

私の目は、どうして存在する。この光無き深海では、こんな高精度の複眼は、何ら意味がないものであるのに。触角の再生能力や、体内の免疫力も色々とおかしい。他の節足動物は、基本的に殻が破れればそれでアウトだ。時には同胞にさえ食い破られて、死ぬことになる。それなのに私は。もっと大きな傷を受けても、立ち直って生きているような気がする。

寄生虫にも異様に強い。大型の動物は、大体寄生虫に巣くられて、命を落とすことが多いというのに。今まで、不便をしたことがない。それどころか、寄生虫という認識さえ普通はないはずだ。

なんだ。私は、何者なのだ。

レテは煩悶とした。その感情さえもが、認識してみるとおかしい。感情とはなんだ。何故、そんなものが備わっている。危険察知をする能力は必要だとしても、感情など、この深海での生活に、どう役立つというのか。

そして、それに気付いてしまった自分は、一体何者なのだ。少なくとも、普通の生き物ではない。そもそも、他に同胞がいない理由が、分からない。

何かが、脳の中で弾けた気がした。

膨大な神経が寄り集まって出来ている、思考の中枢。比較的原始的な生物にも備わるそれが、異様な活動を開始している。体中がむずがゆい。急かされる。急がなくてはならない。生誕の地に。

思考を押しのけて、本能がせり上がってくる。大きくシャベル状の口を開けると、豪快にデトリタスを掻き込みながら、速度を上げる。触角の精度が、異様なほど高まっている。周囲数十メートルの地形と水流を完璧に把握できる。

何かが自分の中で目覚めたことを、レテは感じた。

そして今は、それが好ましくさえあった。感情に塗りつぶされた自己が、全てを認識している。

さあ、歩け。動け。命じるまでもなく、体は動く。それでいながら、本能に突き動かされる自分もまた面白い。

レテは、触角を振り振り、深海で歓喜に包まれた。

 

4,深き底にて産まれるもの

 

認識が、一秒ごとに塗り変わっていく。変革が、体を溶かして、再構成していく。

レテは大量のデトリタスを体内に取り込みながら、甘美なる体験を味わっていた。自分の名前、レテ。そうだ。名前。種族の名前ではない。

個体としての名前。

今まで、その異様さを、どうして理解できなかった。そもそも、プランクトンであった頃からの記憶がおぼろにあることからしておかしすぎるのだ。どうして、名前などと言うものがある。理由は分かる。遙か昔に、必要だと思って、自分で作った。何故、そんな事を考えた。

名前など、深海で生活するには不要なものだ。自己認識など、する必要はない。必要なのは、三つのことだけ。食う。休む。増える。殆どの生物が、それだけに全てを注いでいる。余計な思考など、必要ないからだ。

むしろ、名前だとか、高度な認識だとか。そんな事に脳の能力を使うのは、無駄の極みではないか。

考えながらも、着実に足は進む。無数の足は今までになくスムーズに動いて、辺りの危険を的確に避けながらレテの体を運んでいた。

いつの間にか、岩だらけの地帯を抜け、なだらかな下り坂に掛かっていた。クレバスに通じているのではないかと不安になったのだが、そんな事もなく。どうやら、すり鉢状になっている地形らしい。

その底を目指しているのだと、ごく自然にレテは悟った。

触角で探知している後方は、かなり凄まじいことになってきていた。ついてきている生物が、山のようにいる。互いに喰らうこともなく。無心についてきている。遅れた者は、どうなっているのだろうか。踏みにじられたり、後から来たものの餌になっているのだろうか。それはよく分からない。

そもそも、最初のあの巨大な死骸。アレは一体何だったのか。

脳の活性化に伴って、分かることは。あのような生物は、生態系の中で存在し得ないと言うことだ。あのサイズ。形状。強すぎて、他の生物を皆喰らい尽くして終わってしまうだろう。多分、自重を支えることだって難しいはずだ。他にも、幾らでも、解決できない問題がある。

それなのに、あの生物は存在していた。

しかもなおかつ。殺されて、深海にまで沈んできていた。一体どうやって。病気や共食いではない。何かの力で、殺されたのだ。さっき、海底に刺さっていたものがその実行者かも知れない。

巨大生物を喰らった者達が、ことごとく異様な姿になったのも気になる。ひょっとすると、レテ自身も影響を受けているのかも知れない。あの近辺のデトリタスを喰らいながら移動していたのだから。

すぐ近くに海底火山があるのだが、それでも不安は感じない。ただ、本能が導く地へ、今は一刻も早く行きたかった。

大量の光が見えてきた。発光している深海生物が、集まっているのだろうか。そうだとすると、とんでもない数だ。深海なのに、淡く光に包まれて、大陸棚の上にある、浅くて激しい海のようだ。

口から膨大な触手を生やし、逆さに直立した鮫が、ゆっくり海底を歩いていた。レテと同じ所へ向かっているらしい。直径五メートル近いオウムガイもいる。見覚えがある。あいつは、あの棘だらけのナポレオンフィッシュではないか。

巨大な眼球が泳いでいる。よく見ると、異常に巨大化した目を持つコブシメだ。体の機能は、目に付随する形で、ようやく動いているという様子だ。蛇のように長く伸びた体で、貝殻を引きずっているシャコ貝もいた。

みな、一所に集まろうとしている。ただ、此奴らが知能とか知性とかを持っているとは思えない。ならば、この異様な生き物たちは、なんのために集まってきている。それがよく分からない。

もっとも、それはレテも同じだ。

無数の光が乱舞する、すり鉢の底に到着した。

膨大な死骸が積み重なっている。

どれもが、異形だった。異形は皆、此処に来て死ぬために、動いていたのだろうか。海水が変質している。得体の知れない物質が、大量に海水に溶け込んでいる。

そして、死骸には、スカベンジャーの一匹も、集ろうとはしていなかった。ただ、底にあるままに、腐っていた。

やはり、見覚えがある。この光景は。

以前、同じものに、立ち会ったことがある。だが、少し違う事もある。その時、私は、幼生だった。その時、死骸はもう原形をとどめていなかった。それに、此処まで異形は進んでいなかった。

ゆっくり、進む。

ついてきた者達は、レテを追い越して、死骸の山に登り始める。そして場合によっては、その場で自らの体をへし折り、息絶えていった。

凄まじい量の血だ。なのに、鮫の一匹も寄っては来ない。

そう。これは。

全て、私のために用意された舞台だ。

ゆっくり、進む。そして、死骸の山の中に、潜り込む。

考えられないほどに圧縮された、ljaskjdhfoweifgwyinが、レテを包み込む。そうだ、これだ。ずっとこれを求めていたのだ。

深海に住み着き、ただ一生物として存在しながら。不自然な知性や感情を持っていたのも。これだけを求めるためのものだったのだ。

異形。それは遺伝子的なエラーの結実。

存在そのもののエラーが、全て圧縮された、海底の墓標。更に重くなる、死骸の山の中で。レテは、巨体を振るって咆吼した。

殻が、内側から圧迫される。やがて、体の内から、この日を待っていた、無数の器官が、飛び出す。それぞれは触手であり、口がついている。死骸を、そしてそれから漏れ出す狂気の源泉であるljaskjdhfoweifgwyinを、貪欲に喰らい、体内に運び込んでくる。

体内に取り込まれたljaskjdhfoweifgwyinは、レテの内臓を、全て蝕んでいく。脳にも、知識という形で、流入してくる。大きく開いた大顎を突き破って、新たなる口が現れる。複眼も内側から砕かれて、新たなる、もっと高性能な複眼に置き換わる。異常な速度で、全身が置き換わっていく。

それは、待っていたもの。

ずっと、焦がれていたもの。

思い出す。やっと、思い出す。

何故、個体が一つであったのか。それは、必要なかったからだ。同胞は、全て喰らった。そうすることで、究極の一が産まれた。

フェロモンは、異性を呼ぶものではなかった。同胞を集めて、喰らうためのものだったのだ。

何故、デトリタスを喰らっていたのか。

それは、もっとも安定している、食物だったから。海底の熾烈な食物連鎖の結果産まれた、だがとても安定して得られる栄養であったからだ。

だが、もう必要はない。

大きく、大きく。ただ大きくなるレテ。自分自身。

そうだ。かって。海は考えた。

陸上から移入してくる、邪魔な要素を排除するのだと。海という一つの巨大な生物は、そう結論した。流入してくる危険な物質のせいで、このままでは海が死に絶えてしまうからだ。

だが、物質の作り手は巧妙で、しかも狡猾だ。対抗するには、手段が限られてくる。そうして、大いなる時間を掛けて、遠大な計画を練った。

そして、レテが、計算され尽くした進化とエラーと情報の果てに、生み出されたのである。

あの巨大生物は、海に流入した危険物質を、濃縮し、体内で作り替えるために存在した。地上にいる奴らは、その機構を認めず、殺した。そして沈んできた死骸の中で、狂気と進化の物質が完成したのだ。

それは、駆り立てた。進化を、爆発的な実験へ。そして、膨大なエラーを生み出し、それに匹敵する有益な、勝ち抜くための情報を作り上げた。

海がしたことが、それであった。

体が、内側からふくれあがっていく。もはや死骸の山を、そのまま喰らいながら、レテは大きくなっていく。際限なく大きくなることが出来た。もう、個体形状など関係ない。大きくなる度に、エラーの中にある実験的情報を利用して、新しく再構成すればいいのだ。さあ、大きくなれ。大きくなるのだ自分よ。レテよ。

死骸の山を食い尽くしてしまった。チョウチンアンコウの五百倍ほどある口を拡げて、続々とやってくる異形どもを迎え入れる。

此奴らは、にえだ。レテという、海が作り出した、排除機構を完成させるための。知識が、積み上がってくる。全てが分かる。何もかもが。あらゆる経験が、レテの力を強くしていく。

触手を伸ばす。振るわせて、音を立てる。

異形では無い生物までもが、レテに集まる。そして、自ら口に飛び込んできた。列を成す異形達は、今やレテの長大な触手にかき集められて、腹の中にて雑多に消化されて、そして溶けて消えていくのだ。レテの体を、強くするためだけに。

やがて、レテは三十の、節ある足を使って立ち上がった。

全長は既に500メートルを超えていた。尾を入れれば、1000メートルをも超えている。

体中から生えた触手は、それぞれが100から400メートルほどもあり、先端に口がついている。体内は複雑に発達した骨格が縦横に走り、内蔵と血管を支えている。外殻はチタン合金でもかなわぬほどに厚く、そして強い。海の生物たちの強所を、全てかき集めて作り上げたのだから当然だ。

自分は、最強の生物だ。そうレテは思った。

四十に増えた複眼は、360度全てをカバーする。七本に増えた触角は、周囲数百キロを完璧に知覚する。そして口は、あらゆる種類の毒を吐くことが可能。なおかつあらゆる生物を喰らい、己の糧にする。

吠える。

海の生物たちが、レテの誕生を祝福した。狂気のまま泳ぎ回り、レテの周囲に集まってくる。

その全てを、レテは大きな口を開けて、喰らった。

 

レテは泳いだ。

深海を一気に抜けて、海面へ。

そして、水の力及ばぬ、海上へと出た。

体がむずがゆい。そうか。海の外とは、このような場所か。海の底から見ていた光の根源が、遠くで浮いている。何故落ちてこないのだろうか。気色が悪い。早く、全ての元凶を滅ぼしに向かうとしよう。その後で、あれは解析すればいい。

触手を振り立て、動き始める。

何か、集まってきた。生物とは違う。鉄や、石油の加工物や、そんなものの集まりだ。これが、元凶だと、すぐに分かった。触手を振るって、粉砕する。時々何か飛んでくるが、痛くもかゆくもない。触手で、なぎ払う。爆発したりもした。関係ない。甲には傷一つ付かない。

陸に、上がった。

撒く。ljaskjdhfoweifgwyinを。ただし、少し成分は変えてある。爆発的な進化など促さない。ただレテに食われるために近寄り、それが不可能な場合は死ぬようにした。小さな生き物が一杯、集まってきた。口を開けたまま、二本の足を交互に動かして、歩く。みんな、勝手に口の中に入ってくる。食って、解かして、栄養にする。

短時間で、地上の構造は把握した。水の代わりに空気が流れている。その空気に、ljaskjdhfoweifgwyinを混ぜ込んでやる。気化させるのは簡単だ。己の体内で、数百℃に熱してやればいい。

時々、とても熱い熱と光を放つ棒が飛んできた。

それも、レテが体を丸めれば、耐え抜くことが出来た。地下にも、たっぷりljaskjdhfoweifgwyinをしみこませる。途中、これがしみこみにくい物質を見つけた。だから、体内で改良して、ばらまきなおした。あるいはその物質を粉砕して、ljaskjdhfoweifgwyinを直接流し込んだ。

掃除!掃除!掃除!掃除!

己の本能が叫ぶ。それを為せと、吠え猛る。

やがて、効率を増すために、レテは多くの分身を作った。自分よりは小さいが、機能は同じだ。

自分の仕事は、掃除をすること。それが終われば、自分の用事も終わる。後は繰り返されないように、監視をするだけでいい。

我は海の意思。それ以外の何者でもない。我は海の総意。

そう、我こそは。海の代理である。

レテは、燃え上がる地上の中で、すっくと立ち上がり、天をも貫く雄叫びを上げた。我はレテである!我こそはレテである!聞くがよい!

我こそが!レテだ!

 

昼夜が、四百ほど入れ替わった時には。

 

レテは、全ての仕事を終えていた。

 

終、全ての結実

 

春が過ぎて、暑くなってきた。陰部と胸部だけを隠すショルトの布が、風物詩となる時期だ。

カルラは、狩りに出る前に、礼拝に向かうことにした。村の者達は、誰もが狩りの前に、礼拝を行う。もちろん、カルラもそれは同じだ。弓を肩に掛けて、槍を掴む。槍の穂先は礼拝の対象である、レテ様の聖なる殻から作り出すものなのだ。

木と珊瑚で作った、ドーム状の家を出る。二本の足でぱたぱたと走る。今日から大人の仲間入りだ。大人たちは皆、既に礼拝に向かっていた。彼らのやり方を見て、礼拝の方法は覚えている。最初は、狩りの手伝いから。やがて、獲物を追い込む役や、捌く仕事を任されるようになる。カルラはメスだから、やがて子供を育てる方へ回るかも知れないが、それはそれだ。婚姻の話もないし、好きな相手もいない。今は狩りに集中する。

村の外れに、それはある。

大きな大きな、レテ様のお体。無数の木が生えていて、その存在は、下手な山よりも威圧感がある。足下に跪いて、何度も頭を下げる。長老は、正面に開いているレテ様のお口の中に、獲物を奉納することが出来る。

レテ様への拝礼を終えると、今度は海に向く。遠くに広がる海は、汚してはならないものだ。かって、海を汚した者達がいた。レテ様は、容赦のない罰を与えた。それはおぞましいことに、カルラたちのご先祖だという。

そして、また海を汚す時。レテ様はよみがえられて、全てに罰を与えるのだそうだ。

拝礼が終わる。

40いる狩り手たちは、仕事に出る。カルラは彼らの最後について歩く。今日は何が採れるだろうか。採れたら、海に感謝しなければならない。獲物の多くは、レテ様に捧げる。そうすることで、レテ様は満足為される。

事実、獲物を奉納する事を怠ると、レテ様は周囲の森を枯らしてしまうのだ。

赤い髪の毛をかき回すと、カルラは気を張った。

今日もレテ様のために狩りをする。それが、カルラの全てであった。

 

(終)