欠けていく櫛
序、そして一年
SFのクローンとは違う。結局子供を作る技術であって、都合良く同一人物を作る技術ではない。
今、六人の自分の面倒を見。
ついでに井田とサリーのクローンを同時に面倒を見ながら、奈木はそれを実感していた。
ある程度は保育器がサポートはしてくれる。
親と認識している奈木の声を聞かせたり。
或いは絵本を読んだりしている。
ちなみにもうバイリンガルになっている奈木だが、英語で教育することに決めた。日本語は後で覚えさせれば良い。
自分が英語で喋っているのを見るのは、今でも不思議な光景だが。
まだ乳幼児だから、たどたどしい。
クローンが保育器から出て一年。
ヘイメル基地で迎える二年度目だ。
奈木は日本にいたなら高校に入っていたか。高校でもどうせクソみたいなスクールカーストで揉まれて。ブラック部活で滅茶苦茶にされて。そしてその後に待っているのはどうせブラック企業だ。
今は間違いなく最悪だが。
それでも、正直な話。
あのままゾンビパンデミックが起きなくても、奈木の人生は最悪だっただろう。
子供はまったく可愛いと思えないが。
世話はきちんとする。
笑顔を無理矢理作る方法は覚えたが、子供はかなり敏感だ。やっぱり奈木の笑顔を怖がって泣く事もあった。
自分に泣かれるとは。
色々複雑な気分である。
井田のクローンはサポート器具を使って、下半身のハンデを克服しているし。目がほとんど駄目というハンデも殆ど苦にしていない。
サリーのクローンは、若干足が不自由そうだが。
喋るのはとても早かった。奈木のクローンのだれよりも早いと思う。
サリーが来たので、子守り交代。
勉強に移る。
たくさんの子供の面倒を見るのはとても大変だ。更に、去年基地にジャガーが侵入した事もある。
あの後対策は徹底的にしたが。
結局警備体制を見直すことにし。
在庫のセントリーガンを出して最重要施設であるクローンの育成に使っている棟の周囲に配置した。
どうしてもいつも誰もが此処にいるわけにはいかない。
だから、こうやって、機械に頼るほかないのだ。
ブライアンがかなり体調を悪くしていて。
授業の殆どは、ブライアン以外から受けていた。
医学については、既に現時点で院卒レベル。普通に開業医ならやれるという話も聞かされた。
ただし、今後行うのは。
世界トップレベルの医者達が、どうにもできなかった難病の解明である。
それができない限り。
人間はコールドスリープ装置から出られないのである。
クローンでの自己増殖には限界がある。ましてや奈木も井田もサリーも、生殖能力を持たない。
二十五万の眠った人間をどうにか治療するのは悲願。
故に、どうにかしなければならないのだ。
なおヘイメル基地にも、コールドスリープしている人間がかなりいる。治療法を確立できれば、軍人中心の彼らをまず起こして。
各地のコールドスリープしている人類を起こしていく、という流れになるだろう。
約束は守る。
カルネは実際に提供する島について情報もくれた。
それについては確認したし。余生を送るのには丁度良さそうでもある。人間と一切関わらず、のんびり最後まで過ごせるなら、今の苦境を乗り切る意味もある。
一通り勉強が終わった後は、泳ぐ。
タイムをカルネが計ってくれているが。
どんどん上がっているという。
この間、ジャガーに襲われてから、更に鍛える必要があると感じたのである。ジャガーのスピードは、想像以上だった。
世界が終わる前。
世界最速のスプリンターが、短距離の瞬間速度で精々40q代だが。ジャガーはそれを軽々超えていた。
チーターのように100qオーバーまではいかないだろうが。
最低でも60qは出ていたと思う。
同じ短距離ランナーでも、人間より遙かに俊敏で。しかも初速もパワーからしても比べものにならない。
最悪の場合。
身は自分で守らなければならないのだ。
だから、最近はいつもM16を抱えて側に置いている。
マガジンも毎日確認して、弾が入っているのを確認してから行動するようにしていた。
射撃の練習も、頼んで増やしている。
中々やはり上達しないのだが。
それでも、高速で動く的に当てる事は出来ている。
当てるだけは。
少なくとも相手を怯ませて、至近からとどめを叩き込むという戦闘スタイルは何とか確立出来そうだが。
はてさて、それが役に立つのか。
プールから上がって、シャワーを浴びて。寝る前に復習。幾つか疑問点があったので、メモをしておく。
聞く相手も決めておいた。
カルネの話によると、今なら世界のどの大学にでも入れるとか。
十代前半で博士号をとり、教鞭まで執っていたカルネのお墨付きだ。多分事実なのだろうけれど。
まったく嬉しくない。
奈木がいた世界ですらクソだったのだ。
金持ちが回していた社会の上層がどれだけのカスかなんか、見なくても分かるし。実際にろくでもない話を幾つも直接所属していた人間達から聞いている。
本当に、奈木は。
人間社会と関わる事そのものに、向いていないのだろう。
眠って、そして起きる。起きてからするのは、点呼。皆の無事を確認すること。
この間のジャガーの件から、奈木はかなり神経質になっている。
井田とサリーとは、顔は合わせなくとも、ちゃんと遠隔で点呼はするようにしているし。クローン達はちゃんと全員無事かを確認する。
そしてカルネ達起きている人間も、全員連絡を入れて、無事かどうかを確認し。
それらが済んでから、朝の作業を開始。
知識を身につける前に、まずは基地の周辺をアンジュと一緒に見回る。
アンジュには徹底的にジャガーの臭い、後は近くで見つけて撃ち殺した鰐の臭いを覚えさせた。
アメリカに住んでいるワニは、イリエワニやナイルワニと比べると一回り小さいらしいけれど。
それでも危険な事に変わりはない。
腕ぐらい簡単に食い千切る力を持っている。
基地の周辺を駆け足で回る。
運動不足でガリガリだったアンジュだけれども、毎日徹底的に走り回ったおかげで。室内犬だったとは思えない程マッシブになっているが。
しかしながら、元々一度かなり体が弱ったからか。
体力の伸びには限界もあるようだ。
カルネから聞かされているが、やっと輸送の予定の余裕が出てきたらしく。まだ生き残っていた軍用犬を何匹か、此処に回してくれるという。
勿論交配させることも視野に入れているそうだ。
人間は交配できる状態ではなくなったが。
犬にはゾンビ化は起きないし、関係がない。
ともかく、犬は人間に唯一寄り添ってくれた生物である。
今後も大事にしていかなければならないだろう。
セントリーガンなどの監視システムも、カルネが組んでくれたので、全てチェック。
システムオールグリーンという奴だ。
それを確認できない限り、皆の安全を確保出来たとはいえない。
もっとも重点的に守らなければならないクローンの寮に、アンジュの犬小屋を移した。
朝の一時間半ほどでこれをやらなければならない。
下手をすると、此処でいつも訓練していた兵士達より、奈木の方が動いているかも知れないが。
人間が事実上絶滅した状態だ。
それも仕方が無いだろう。
なお髪なんかかまっている暇が無くなったので、いちいちバリカンで剃ることも止めた。
適当なタイミングで適当に切れば良い。
どんどん身繕いに興味が無くなってきているのが分かる。
元々興味が薄かったが。
だが、見かねたのか。
エカテリーナが奈木には色々とこれこれこういう服を着ろと指示をしてくるので。面倒だし従ってはいた。
授業を受ける。
まだ乳児に等しいクローン達にはまだ勉強は早い。保育器が、絵本を奈木の声で読み聞かせているくらいだ。
もう少しするとハイハイ始めたりするし、喋るようになりはじめる。
そうなると、専門のロボットが相手にする事になるが。
円筒形のロボットは、身の回りの世話は出来ても親にはなれない。
どうしても第一世代のクローンは、ある程度奈木やサリー、井田で面倒を見なければならない。
勉強の時間を割かなければならない。
一番心配なのは、奈木がコールドスリープに入ってから、ある程度クローン達が仕上がるまでの空白期間だが。
しかしながら、下手をすると数千年に達する時間の研究が必要とされる現状。
どうしても、奈木は最盛期の細胞を維持しなければならず。
面倒を見られないのは、色々と口惜しかった。
子供は産めない身だし。
子供を可愛いとも思わないが。
責任は感じる。
自分の周囲には、責任を感じる人間は殆どいなかった。他人に暴力を振るおうが、自分は正しいから何をやっても良いと考えている人間ばかりだった。それと一緒にはなりたくないから、責任は果たす。
最初はそれだったし。今も根では変わっていないと思うが。
それでも、今は責任を果たさなければならないと感じているし。
約束だって守るつもりだ。
医学関連の勉強をどんどん進める。
向こうが用意したカリキュラムを、数割増しで受けていく。これは、向こう側にもノウハウを確立させるため。
最悪、授業をそのままクローン達に見せて、覚えさせると言う事が必要になるかも知れない。
何しろ、教える側全員が限界状態でゾンビ化を免れているのだ。
いつ死んでもおかしくない。
事実ブライアン医師は、かなり体の状態が危ない。
他の皆だって、それに変わりはない。
黙々と授業を受け。予定よりかなり進めて、午前分の勉強を切り上げると。
一時間ほど、黙々と泳ぐ。
水泳が奈木の趣味で良かったと、カルネは言っていた。
全身運動だから、とにかく体を効率よく動かす事が出来る、ということである。事実軍でも、水泳は必須科目として履修させるケースが多いらしい。他にもダンスなどが全身運動としてあるのだが。水泳は水に落ちたときに生き残るとか、或いは川を経由して陸上に上がるとか。
色々と実用性があるらしい。
黙々とバタフライをこなして、食事を済ませた後。
水泳で、戦闘訓練を兼ねた授業を受ける。
汚い川で消耗を減らして泳ぐ方法。
相手の背後をとって、喉を掻ききる方法。
ついでに相手を沈めて黙らせる方法。
順番に、現役軍人のバズに教わる。まだ若い兵士だが、一応一通りマニュアルで教わってはいるらしい。
というか奈木は見抜いているが、バズはどうもマニュアルをそのまま読み上げて勉強している様子だ。
それをこなしている奈木を見て、内心怖れている様子なので。
面白がっているカルネやエカテリーナと明確に差が出ている。
向こうのことはあまり好きでは無いが。
ただ、知識が増えるのは歓迎したい。
学校にいた頃は勉強は苦痛でしかなかったが。
今は何もかもが必要だ。
プールから上がって、着替えて、午後の授業を行う。
市川が咳をしている。
やはり体調が良くないらしい。一人でいるらしいから心配だが。それをいうなら、このヘイメルでまともに動けるのは今奈木だけ。
最悪の場合、コールドスリープ装置に入るらしいが。
その最悪が起きたとき。
コールドスリープ装置にたどり着けるかどうか。
少し、心配だった。
「今日は相対論と宇宙について。 現在も、衛星軌道上には各国が浮かべた望遠鏡があって、宇宙のデータを取得し続けている。 これらのデータを解析して……」
宇宙論か。
話を聞きながらメモを取っていく。
何故この学問をという話は既に聞いている。
ゾンビパンデミックの克服がかなったら、人類はまず集まるという。各地に物資を集積したので、まずは其所へ。準備が整ったら、米国に一旦全員を集めるとか。今では旧米国と言うべきだが。
それから人口を増やしつつ、政体を一つに統一。
地球の資源は枯渇しかけているので、宇宙への進出を狙うという。
奈木には協力を期待はしていないが。
そのクローン達は違う。
奈木がどれくらい学習できるかを今のうちにしっかり調べておいて。復興時には、主力として活躍して貰う目的だそうだ。
勿論井田やサリーについても、それは同じだそうである。
宇宙進出か。
宇宙船の中でゾンビが出たら最悪だろうなと、奈木は考えてしまったが。それを克服するための研究だ。
このシステムだって、無限に稼働できる訳では無いだろう。
研究が進まなかったら、動かなくなるコールドスリープ装置もあるかも知れないし。それは入っている人間の死を意味する。
奈木だって、ずっと本当にゾンビ化しないかわからないし。
大体、ゾンビ化が何によってどう引き起こされているかさっぱり分からないが。
下手をすると犬や猫、他の動物でもゾンビ化が始まるかも知れない。
そうなったら、地球は終わりだ。
研究には最も楽観的な予測で百年かかると聞いているが。
そうなると、奈木のクローン千人くらい、その十分の一くらいの井田とサリーのクローンで回していくことになるのだろう。
奈木がどれだけ出来るか調べる。
そのためにも、学習は必須なのだ。
宇宙論を予定よりかなり進めて覚える。
休憩時間を貰ったので、甘いものを入れる。ブドウ糖を補給して、脳細胞を多少でも活発化させるのだ。
しばし目を閉じて休憩する。
横になる事はなく。
壁に背中を預けて、M16を抱えて休憩することが多くなっていた。
休憩をした後は、キザリに勉強を教えて貰う。
全員で一番厳しいが。
それが奈木の限界を見極めようとしているらしいことは分かっていたし。
何よりどれだけの消耗があるかを冷静に見極めて、授業についても丁寧にカリキュラムを組んでいることが分かるので、奈木はキザリを嫌ってはいなかった。
単に練習量だけをこなさせ。
何も考えずに泳がせ。
生徒間の問題を解決しようともせず。
大会で成果だけ上げさせようとしていた部活の顧問や。
悲惨な状態になっているスクールカーストを完全に放置し。
ホワイトボードに向かって授業だけしていた教師とは偉い違いである。
奈木が理解出来る範囲をしっかり見極めた上で、丁寧に授業をするキザリは、根本的にそいつらとは違う。
勿論キザリと同じように真面目に授業をしてくれようとしていた教師もいた。
だが、今の。過剰ストレスが掛かる上に、あらゆる悪徳が放置されている学校では。誰も耐えられなかった。
辞めていったのは、みんな責任感のある立派な教師達ばかりだった。
胡麻擂りが上手だったり。
自分さえ良ければどうでもいいと考えるような連中ばかりが残る。
学校だけでは無いだろう。
会社に出てからも同じだった筈だ。
奈木はそういう意味では。
今は、まともな授業が受けられるだけ、マシなのかも知れない。
「よし、今日はここまでだ」
「まだもう少し余力がありますが」
「その余力は、クローンの子供達と遊ぶためにとっておきなさい。 今のうちに、少しでも信頼関係を構築しておくように」
「……はい」
既に夕刻。
かなり専門的な難病について教わって。そして終わった。
軽く走りながら、クローンのいる棟に。アンジュは丸くなっていたが、奈木を見て尻尾を振る。
エサはちゃんと自動で与えられている。
それを確認した後、棟に入って子供達を確認。
そろってぐっすり眠っている。
今、此処に。
他の人達のクローンを混ぜたら。そのクローンはみなゾンビ化してしまう。そういう状況がどうしてもある。
第二弾のクローン達はもう製造を開始している。二十人以上が次は一度に生まれてくる。第三弾は様子を見て、数を決めるそうだ。
流石にまだ幼すぎて、まずは文字を覚えるところから。
日本語を教える必要はないから、その分を勉強に費やせる。全員を同じように教育する必要はないから、負担も減らせる。
奈木が眠った後、恐らく最後まで残れるのはカルネだ。カルネも恐らくは、今必死に他の生き残りの知識や技術を吸収しているはず。多大な負担を掛ける事になるだろうし、何というか気の毒だなと思う。
もう、追い回されたことは恨んではいない。
学校で、くだらないスクールカーストで散々いびってきた連中はどうでもいい。地獄に落ちてせいせいした。
だが、今人類のために努力をしているわずかな人々は。
今嫌いではないし。今後も嫌いにはなりきれないと思う。
子供達の状態と、保育器の状況を確認。新しく第二弾の子供達が入る保育器の状態もチェック。どうやらサリーが丁寧に処置をしたらしく、埃一つついていなかった。
ため息をつくと、自分の寮に戻る。
目を閉じて、ゆっくり深呼吸。時間は、刻一刻と、迫ってきていた。
1、要塞の完成
ブライアン医師が、限界と言う事で、コールドスリープ装置に入った。カルネの前で、ずっと悔しいとぼやいていたが。
予想通り三年。
これ以上はもう無理だ。
エイズの治療もしてやれない。
癌の進行だけは抑えているが。これはそうしなければ確実に死んでいたからだ。何度も大きめの手術をした。
最も責任感が強かった合衆国の医師。
死ぬわけでは無い。
だが、死ぬのとあまり変わりはない。
コールドスリープ装置に入る前にも、最後の引き継ぎをカルネにずっとしていて。まだ後一時間は起きていたいと、何度も呟いていた。
責任感が強い人だった。
起きた後は、まずは治療をして。余生を健康に過ごしてほしい。
敬礼して、コールドスリープ装置に入るのを見送る。これでこのシェルターに残ったのは三人になった。
そしてそもそもカルネは本職が医師ではないのだが。
散々引き継ぎを受けた結果、大学病院で教えられるとブライアンに太鼓判を押される状態になった。
最悪の場合。
奈木のクローン達が仕上がるまで、後十年以上。
カルネだけでも、踏ん張らなければならないだろう。
負担が一人分増える。
幸い、生徒達は皆優秀だ。
奈木は言う間でもない。サリーに至っては、高等数学を非常に高いレベルでマスターしている。
数学者として食っていけるレベルだと、キザリが太鼓判を押していた。モリソンはいつもおどおどしていたが、サリーと話すのは大丈夫らしい。授業が楽しいと、ぼそぼそ小声で言うのだった。
一方バズは、カルネと相談しながら、マニュアルをまとめている。
米軍の部外秘であるマニュアルだが。
全て今はサーバから閲覧できるようになっている。
奈木がもう勝手に見て自習すれば良いのではないかと、自信を無くしたバズは時々呟くのだが。
カルネはそれを諭す。
どんな天才でもミスはする。
あのアインシュタインでさえも、簡単な計算ミスから、相対論を諦めかけていた時期がある。
教える事が難しいとしても。
一緒にマニュアルの内容を見て、そして何かミスをしていないか、客観的に確認することはとても大事だと。
そう説明すると、バズは納得はしてくれる。
だがそもそも奈木は、そろそろ背も伸びきる時期。
恐らく現状の実力は、特殊部隊の隊員と大差ないだろう。もう一二年で、シールズに入れるかも知れない。
もっとも、ゾンビどころか、相手がいるとしたら野獣。
人間との戦闘を想定する必要はないし。ゾンビは世界中で既に駆除が終わっている。「ゾンビそのもの」は、だが。
対人戦よりも、獣を駆除する方法にシフトした方が良いのではないかとバズとは時々相談していて。
それについては、カルネも思うところがあり。
マニュアルに、手を加えたりはしていた。
軍のマニュアルにも、隠密作業中に獣に襲われた場合の対処法はあるにはある。
かなり古いマニュアルも多く。
動物学者を招いて、授業をしていたケースもある様子だが。
しかしながらだ。
研究が上手く行って、人々をコールドスリープ装置から出した後。またゾンビ化が始まったらどうするか、という話もある。
結局両方教えるしかないという結論に至る。
幸い、クローンはそれなりの人数がいる。
IQが高く、運動の適性も高い奈木が多数いれば。多少の相手なんて、それこそ問題にもならないだろう。
一通り作業を終えると。
カルネはくらくらする頭を抑えて、ベッドに潜り込む。
エイズはギリギリの所で抑えているが。免疫力は極限まで低下している。風邪なんて引いたら、訳が分からない病気のように稼働し始めて。あっと言う間に体中がメタメタになるだろう。
内臓もかなり機能が低下している。
死なないようにギリギリのラインを攻めてはいるけれども。
それはそれだ。
そもそも死の境を攻め続ける事によって、ゾンビ化を免れているだけで。これは生きていると言えるのだろうか。
健康神話は木っ端みじんに砕け散った。
だがそれにしても、この体は不自由で仕方が無い。
それとカルネは、奈木と違って運動神経についてはこんがらがって彼方此方断線しているようなものだ。
ゲームなどは相応にこなせる。ドローンの操作も恐らく世界一「だった」自信もある。
かといって体を動かせと言われたら、無理だ。
良くもナード扱いされずに、学校で苛烈な虐めを受けなかったなと思うが。
そもそも飛び級をバンバンしているカルネは、はっきりいって周囲から人間だと思われていなかった。
故に虐めを受けなかっただけだろう。
虐めは受けなかったが、孤独だったし。
あまり学校は思い出したくない。
それなのに、如何に教えるかを今は四苦八苦しているのだから、何とも奇妙な話である。
しばし眠って、起きだす。
起きると同時に、点呼。
奈木は若々しい(カルネと同年代の筈だが、身体能力が違いすぎて色々真顔になる)体力をフル活用して。太陽が出ると同時に起きだし、点呼を取ってくる。そして基地の周囲をアンジュを引きずって走り周り、危険がないかを徹底的に確認している。
前にジャガーの侵入を許してからずっとこうだ。
カルネもAIの組み直しをして、もう猛獣が入り込めないように徹底的に手を入れたつもりだが。
それでも、何度か侵入未遂はあった。
M16を担いで、狭いとはとても言えないヘイメル基地を走り回る奈木の姿は、頑強屈強を絵に描いたようなエカテリーナが「若くて羨ましい」というほどで。
本来だったら人間をリードして走る犬が、逆に引っ張り回される程である。
奈木の最初の授業はモリソンが。市川がサリーと井田の授業を一緒に見る。
その間にカルネは、輸送計画を進めていく。
各地の「拠点」に自動の清掃装置を配備。
施設の老朽化を防ぐ。
物資の生産設備も整備。
研究が終わった時。現在ヘイメルにいる軍事兵器達が、人類が盛り返すための最初の嚆矢になるのだが。
それらが動かないようでは話にならない。
バズにはマニュアルを渡して、そろそろ艦船の操作方法を奈木に仕込んで貰う。
カルネはその間、世界中の縮小したとは言え複雑なネットワークを自動化し。人類が起きたときのために備える作業をしているのだ。
衛星写真が発見。
移動している人間らしき影。
調べて見ると、それなりの数がいる。即座にドローンを飛ばして確認。
どうやら、かなり温度が低い地下街に潜んでいたゾンビ達が。今更になって何かしらの理由で地下街が崩壊したか開いたかして表に出てきて。
誘引電波に引き寄せられているらしい。
すぐに複数のドローンを稼働させる。
いずれも整備は万全。
そして、全容を確認。
ゾンビは数百体ほど。地下街に逃げ込んだ人々が、まとめてゾンビ化してしまったものなのだろう。
なお、一種の病気ではあるが。
ゾンビ化してしまった場合、体内の構造などがほぼ壊死。脳細胞などもほぼ死滅状態になる事が分かっており。
ゾンビから人間に戻す事は不可能である。
殺すしかないのだ。
誘引電波に集まるゾンビだが。
ゾンビパンデミックが始まってから、既に三年。
もはや形は殆ど崩れている。
ドローンで焼き払い、全て片付ける。
地下街の方も、全て消毒。
腐敗した人肉に群がっていた野獣も、あらかた片付けきった。
溜息。
三年しても、まだこういう作業は時々出てくる。衛星画像のチェックも行っている。生存者がいるかも知れないからだ。
もう流石にほぼ0だろうとも思ってはいる。
それでも、もし生き延びている者がいれば。
人類のために、必ず役立てるはず。
一つ、作業を進める。
やっと、ある軍基地から、軍用犬十二頭を輸送する目処がついたのだ。
ドーベルマンばかりだが、別に奈木の所にいるアンジュと交配できないわけではないし。何よりも、そもそもヘイメル基地なら、軍用犬の千頭や二千頭養える物資はある。ただ無節操に増えられても困るので、繁殖はコントロールしなければならない。奈木には犬の去勢手術も覚えて貰わなければならないが。
まあその辺りは、おいおい相談だ。
車に乗せて、軍用犬の輸送を開始。
軍用犬は本当に戦闘のためだけに鍛え抜かれた生物だ。
もはや愛玩犬のような愛くるしさはほぼなく。
犬を可愛がる欧州系の人間でさえ、たまに無機質で怖いと口にするほどである。
ただ所詮犬は犬。
一部の愛犬家が口にするような、人間の事を大体分かっているとか。主がバカだと従わないとか、そういう事はなく。
基本的に余程馬鹿な育て方をしなければ。
きちんと主になつき、従う。
それが犬の生存戦略であるからだ。
疲れ切ったモリソンからバトンを受け取る。授業開始。市川はエカテリーナとバトンタッチ。授業に入った様子だ。
奈木に、授業前に、犬が増える話をする。
他の軍用基地にいる軍用犬も、ヘイメルに集約するつもりである。子供達を守る必要もあるし、最終的には数十頭はいるだろう。今回用意する十二頭は第一陣だ。
遅れに遅れたけれど。
それは他の物資の集約を疎かに出来なかったため。
犬を放っておかなければならなかったのは悲しい事だけれども。
人類が再起するために必要な物資の蓄積、保全。
生産設備の保全、確保。
発電所などの自動整備。
いずれもが、優先順位が高かった。
勿論最優先事項は、コールドスリープ装置の保全なのだが。
それについては、別に説明しなくても奈木ならば分かるという安心感と信頼感があるので、わざわざ口にはしない。
今日はかなり専門的なITの話をする。
OSの中枢部分、カーネルの具体的な動作と、それをどう操れば良いか。主要なOSの欠点と、何故そういった問題が生じているのか。近代の電子戦とはどういうものなのか。それらについての授業を行っていく。
奈木からの質問もあるが。
いずれも鋭い。
こんな生徒ばかりだったらなあと思うし。
逆にこういう生徒を育成できなくなりつつあった飛び級制度についても、色々悲しく思ってしまう。
現在基地を動かしているサーバなどの専門的な情報も、もう奈木はほぼ把握してくれているし。
障害発生時は、自動で対応するシステムが動いてはいるが。
それがきちんと対応出来ているか、確認もしてくれる。
昔はモニタの前にオペレータを24時間体制で貼り付かせるという意味不明な行動をしていたらしいが。
流石にこのヘイメル基地のシステムは、カルネも手を入れているし、そんな必要はない。
人材をすり潰すだけのシステムなど。
今後は必要ないのだ。
軽く休憩を挟んだ後、授業を続ける。
咳が出た。
あまり体の様子が良くない。
バズが気付いて、声を掛けて来る。
「代わろうか」
「いや、少し休んでから授業を続けますので」
「しかし、その顔色……」
「ギリギリを攻めているのは皆も同じ。 ボクは皆の中で一番若いんだし、そうも言っていられない」
そもそも、人間社会に非好意的な奈木が、大まじめに約束を守る方向で動いてくれているのだ。
第七艦隊でクーデター未遂を起こしたあの阿呆よりも、奈木の方が遙かにまともで、人間としても立派である。
そんな人材を手放せない。
多少の無理はしなければならない。
休憩時間が不自然だったことから、奈木もカルネの不調に気付いた様子だが。黙々と授業を受けてくれる。
そして、授業が終わった後、水泳に行った。
バズがぼやく。
「状況が分かっているだろうに、気遣いの一つも言わないなあの子……」
「それだけ人間への不信感が強いって事ですよ。 それでも人間社会の再建に協力してくれているんだから、頭を下げるのはボク達の方」
「……納得いかない」
「納得いかなくても、ああいう風にねじ曲げたのは人間社会の方なんだから、それは理解しておいて」
エカテリーナの診察を受けて。
投薬し、ベッドで休む。
奈木はプールでガンガン泳いでいる。既に普通にオリンピック級のタイムをたたき出しているようだが。
本人はどうでも良いようで、何の興味も無い様子だ。
ただ頭を空っぽにし、気分転換をするために泳いでいる。
それだけらしい。
途中からタイムさえ聞かなくなった。
オリンピック云々という話が出るのが、嫌になったのだろう。前より速いか遅いか、それだけを聞かれる。
殆どの場合、現状維持か、更に速い、とだけ応える。
それで、奈木も満足している様子だ。
泳いだ後、既にロボットが面倒を見ている子供達の様子を、奈木が見に行く。
サリーのコールドスリープ装置入りが一年半後。
一番遅くまで起きていられる井田も五年後。
奈木も三年後にはコールドスリープ装置入りである。
三歳児と二歳児は、ある程度元気に寮でロボットに見張られながら動き回っているが、殆どが奈木と同一遺伝子の子供。各世代に一人、十人以上いる場合は一割ずつ合計二割がサリーと井田の同一遺伝子の子供である。
歩くのに補助がいる井田のクローンを、助けるようにして奈木のクローンがいつも動いているが。
生来はこういう、周囲を気遣える性格だったのだろう。
サリーのクローンもあまり足が良くはないのだが。
多分此処にいるクローン達は、状況についてある程度把握している。
故に文句も言わず。
幼稚園に上がる前の年頃から、互いに助け合うようにして行動していた。
もう少し大きくなったら、基地の中を連れ歩いて、近付いては行けない場所などを教えると奈木は言っていた。
移動時には、自動で監視するためのドローンもつけるが。
それでも損耗が出るかも知れない。
最悪に備えて、常に動くように。
そう奈木には伝えてある。
子供達には、まずは年齢別に分かれて貰い、少しずつ教育プログラム通りに教えてはいるけれど。
やはり元々高IQの奈木そのものだ。
覚えは早く、同年代の子供よりも、数段飲み込みが早い。
軍では育児プログラムは存在していないのだけれども。幸いにも、幾つかのまだ生きているサーバから、そこそこまともな育児プログラムを引っ張り出すことが出来た。これにそって教えていく。
それはそうとして。
奈木を親として子供達が慕っているのは分かるし。
奈木は無表情ながら、子供達にしっかり目を配って、世話もしている。ロボットよりも、やはり奈木が来る事を子供達は喜んでいる様子だ。
名前も一応一人ずつ付けているが、そのままだと見分けがつかない。
そのため、基本的に全員違う服を着せるようにしていた。ロボットで監視は出来るので、フロなどで服を変えたときに入れ替わる、と言う事もない。今後も、違う服を着せることで幼児期は見分け。
それ以降は、本人達に状況を説明して。
名前などを偽らないようにと、言い聞かせるようにする予定だ。
奈木が子供達の寮を出る。
少し時間をオーバーしていたが、元々学習効率が早すぎるくらいだ。カリキュラムをどんどん前倒しでこなしているので、それほど気にする事もない。
午後からキザリの授業を受けて貰い。
最後にまたカルネが授業をする。
夕刻過ぎに授業が終わる。二年以上この生活が続いているが。ブライアンの次はエカテリーナが危ない。
市川も少しずつガタが来ている。
エカテリーナは、あと八年はもたせてみせると豪語しているが。
本当に言葉通りやれるかどうか。
授業が終わるまでの時間が、長く感じる。
自分が一番最後まで残らなければならないのだ。
それを言い聞かせる。
何度も言い聞かせる。
一番若いのはカルネだ。
だから、最後の最後まで。少なくとも、ヘイメルにいる奈木のクローン達が、自立してやっていけるようになるまで。
そういえば、奈木を最初に捕獲したとき、まだミドルハイスクールの二年生だった筈である。ミドルハイスクールがやっていれば、だが。
上手く行けば、クローンがそのくらいの年になるまで持てば。
いや、それもまた厳しいか。
教育をある程度早めても、身体能力の方にはどうしても限界がある。あまり幼い頃から知識を詰め込みすぎても、上手く行かない可能性だってある。
授業が終わってから、大きくため息をつき。
ベッドで横になって、その状態から、タブレットを使って操作をする。現状、予定通りに輸送プログラムは動いている。
明日の朝。
軍用犬たちが、ヘイメルに到着するはずだ。
朝。
ヘイメルに輸送車が到着。軍用犬十二頭が届いた。
野犬との交雑、狂犬病の伝染などは起きていない。勿論事前にしっかり確認してある。
奈木を見て、軍用犬は最初少し警戒したが。
軍用犬には、指定の人間に従うように、訓練をしてある。
今回連れてきた軍用犬は、どれもゾンビパンデミックの前から現役だった犬ばかりで。五歳前後のものばかり。
犬は一年で性成熟し、小型犬や中型犬が一番長生きする。大型犬は十年もてば良い方なので。
この犬たちは、奈木がコールドスリープに入るまでは、ヘイメルを守ってくれるが。
それ以降はちょっと保証が出来ない。
「犬たちの信頼を得るところから始めて。 指示コードで命令は出せるけれども、この犬たちは生体戦闘兵器だから、基本的に指示を間違えると人間を躊躇なく食い殺す。 クローンに牙を剥くことがあってはならないから、信頼関係の構築が絶対に必要になる」
「分かった。 それでどうすればいい」
「散歩に連れて行く、エサを与える、怖がらない、自分の地位が上だと分からせる、運動を適宜させる」
「了解」
軍事用の犬訓練マニュアルもサーバに転送しておく。
軍用犬は人間の兵士よりもローコストだが。それでも相当な手間暇が育成に掛かる貴重な軍需物資だ。
非人道的ではあるけれど、軍事基地にいる以上軍需物資である。
だが、同時に人間に寄り添ってくれる生物で。
人間が身体能力では勝てない相手を牽制し、足止めしてくれる「壁役」でもある。
勿論暗殺作戦などで特殊な訓練を受けた最精鋭の軍用犬が活躍するケースもあるが。それも、爆薬などの臭いを察知したり、人間が何処にいるか鋭敏な感覚で察知して奇襲したりと。
人間以上の身体能力を持つ「兵器」としての運用が主である。
「この犬たち、泳げるの?」
「ちょっとまって……訓練はしてあるね」
「じゃあそれが一番早い」
犬たちを連れて、プールに行く奈木。
そして、一緒に泳ぐように指示。
アンジュもついでに泳がせる様子だ。バタフライでしばらく泳ぐ奈木。
軍用犬と言っても、飼い殺しにされていた状態だ。
泳ぐのは楽しい様子だが。
しかし、案の定すぐにへばった。へばった犬は抱えて、プールの上に上げて、待機を指示。なるほど。確かにこれは相手に実力をよく分からせることが出来る。
そのまま残った犬と、遠泳を続ける奈木。
なんぼでも泳げそうだな。
そう思って見ている。
犬もかなり巧みに泳ぐ。軍用犬ならなおさらだ。流石に軍事訓練は出来ていなかったが、それでも毎日軍のドローンで散歩はさせていたし、体力維持もさせていたが。奈木は単純にそれを上回っていた、と言う事だ。
アンジュは結構頑張ったが、途中で脱落。
最後まで残った犬が消耗しきった後、そのまま待てを指示し。奈木はずっと泳ぎ続けてみせる。たっぷり一時間以上も短距離泳並みの速度で泳いで見せた後、平然とプールから上がる奈木を見て、犬たちは少なくとも侮るのを止めた様子だ。
わかり安い。だが特に犬相手なら有効な方法だろう。
そのまま、一緒に基地の巡回を始める。かなりカリキュラムは前倒しにしているので、今日は重要な軍用犬の訓練に午前を使っても良いだろう。それにサリーと井田は、今市川が授業している。
全員の授業が後れるわけでは無い。
流石に陸上では軍用犬たちに分があるかと思ったが。あれだけ散々泳がされた後である。相当に参っている様子で。逆に余裕がある奈木がバケモノじみている。カルネは呆れて見ていたが。
これは確かに、犬に分からせるには丁度良い方法だろう。
完全にへばった犬たちに、奈木は休むように指示。
そして、軍用犬用に用意してあったスペースに犬たちを連れていって、エサと糞について指示。
訓練を受けている軍用犬だ。
その辺りは、しっかりすぐに覚えた。
カルネはこれだけこなしても平然としている奈木に呆れたが。奈木は何もコメントがないようで、黙々と午後の準備を始める。
既に話し合っていることがある。
ブライアンがコールドスリープを開始してしまった現状。
今後手数は減る一方だ。
クローン達が、まともに勉強が出来るようになるまで数年。カルネや今の奈木並みになるまでに、カルネが起きていられるかかなり怪しい。
其所で、少しでも時間を短縮するため。
奈木には、研究の内容を把握して貰う。
今までも、こつこつと集めたデータから、研究はほそぼそ継続していたのだが。
それでもやはり、そろそろ奈木にも。勿論サリーや井田にも。研究について、着手して貰いたい所だ。
幸い、軍用犬という子供達に対するガードは整った。
機械だけではまだどうしようもない穴を突いてくる獣を、更に確実に食い止めることが出来る。
奈木が珍しくサリーと井田を呼んできて、軍用犬を紹介。
軍用犬にも従うように、護衛をするように指示している。
その時も奈木は必要最小限しか喋らず。
軍用犬も、何だか萎縮しているようだった。
モリソンが怖がるのも分かる気がする。
確かに奈木は、いちいち目が猛獣のようだし。喋るときも、最小限しか喋らないのである。
軍用犬も、不満はある様子だが。奈木には逆らえないと判断したのだろう。群れの長が奈木だと考えたのかも知れない。
そのまま、指示通りに、規則正しく動き始めた。
皆に通信をカルネは入れる。
そして、今日から予定通り、少しずつ研究に関わらせたいという話もするが。市川が難色を示す。
「奈木の成長からして、クローンが十歳になった頃には、最初の研究を開始できると思うから、そこから最高効率でやったほうがいいのではあるまいか」
「そうは仰いますが。 ボクもキザリも、既に体にガタが来ています。 貴方も、ではないのですか」
「……カルネ。 焦るのは分かるが、無理をしても多分良い結果は出ないよ」
エカテリーナの言葉に、カルネはうむと呻く。
確かに焦りはある。
だがそれ以上に。
あらゆる手を先に打っておかなければ、危ないと思うのである。
本当に奈木はゾンビ化しないのか。
三年もった。
更に、クローンもゾンビ化せずにいる。
そういう実績はある。だから大丈夫だとは思う。しかしもし、今後イレギュラーが起きる場合は。
エカテリーナが、咳払いした。
「ともかく、今は焦っても仕方が無い。 研究については、我等が出来るだけ進めておけばいい。 奈木はあのまま、子供達にノウハウを伝えていく方向で動いて貰って、そして二十歳になったら予定通りコールドスリープして貰えばいいんだよ」
「……分かりました。 計画は予定通りと言う事で」
「ああ、それでいい」
キザリはずっと黙っていたが。
やがてぼそりと呟いた。
「奈木は信頼出来る。 だが危うくて仕方が無い」
「というと」
「約束を守るという点では、奈木はほぼ間違いないだろう。 人間不信を拗らせているのと同時に、恐らく周囲の人間が約束を守らない人間ばかりだったのだろう。 それに対する反発もあってか、約束を必ず守る性格ではあると思う。 だが、下手に能力が高いが故に、全てが終わった後、余計な事をしないかが不安だ」
余計な事、か。
だが、そもそももう、人類は絶滅の寸前。崖っぷちまで来てしまっている。この先、何をしても、昔の繁栄を取り戻す事は出来ない。
それであるならば。
もはややるべき事は、奈木を信頼し。サリーと井田と協力して貰って。下手をしたら数千年に達する研究を完遂して貰うべく、連携を取っていくだけだ。
だが不安なのだ。
キザリと同じように。
今キザリは、丁度カルネの不安を言い当ててくれたような気がする。
奈木を信頼しているかと言えば、それはイエスだ。
だが奈木が、カルネの思うとおりに動いてくれるかどうかとなると、それはまた別の問題だろう。
一旦話し合いを切り上げる。午後の授業があるからだ。
要塞は仕上がった。
しばらくは、人間という種族は、ヘイメル基地で安泰を保てる筈。
だが、それもどこまで信用できるか。
ゾンビパンデミックの前。ゾンビパンデミックが起きるなんて言っても、誰も信用などしなかっただろう。
それと同じ事だ。
幾つか、手を打っておく事にする。
最悪の事態は。
幾つ考えても、今は足りない位なのだから。
2、狭まる視界
授業を終えた後。
カルネは、立ちくらみを起こして、思わずベッドに突っ伏していた。呼吸を丁寧に整えていく。
様子を見ていたのだろうか。
エカテリーナが、すぐに声を掛けて来た。
「すぐに薬をのみな」
「……」
言われたまま、薬を口にする。
十年以上、もたせなければならない。
だから敢えて、かなりギリギリを常に攻めている。最近は立ちくらみを起こすことも増えていたが。
それでも、倒れかけたのは初めてだ。
今授業をしていたのはサリー相手だが、通信を切った後だから気付かれていないはず。奈木辺りはあの野獣じみた勘で気付いているかも知れないが。
それはそれだ。
もう奈木そのものを、止める事が出来ないだろう。
バズに指示を出して、午後の授業について、話を聞く。
ヘリの運転について。今日は海側に出て、海面スレスレを飛行する訓練をするらしい。今回使うヘリは訓練用の退役したコブラだが、その内アパッチにも触らせるそうだ。
アパッチは現在、ヘイメル基地に十三機が配備されている。
各地の軍事基地にあるアパッチも出来れば集約したい所なのだが。
現状は、輸送する優先度が落ちる。
人間を目覚めさせていく過程で、集約させればそれで良いからである。後は整備だけしておけばいい。
薬を飲んで、横になって。
しばらくぼんやりする。
内臓がかなりまずい状態になっているのが分かるが。それでも、ギリギリのラインに体を慣らし。
奈木のクローン達の授業を終わらせるまでは。
倒れるわけには行かない。
この状況のまま推移すると、多分次にエカテリーナが倒れる。後八年もたせると言っていたが、もつわけがない。
市川も危ない。
キザリもいつ倒れるか分からない。
カルネは何があっても残らなければならない。
そのためには、ギリギリで生きるラインを、どうやっても見極めなければならないのである。
呼吸を整えながら、ゆっくり体を落ち着かせていく。
無菌室での生活も三年。
もう慣れては来ているが。
まずくて仕方が無い食事だけは、どうしようもない。甘いのとか食べたい。だけれど、それも贅沢な夢だ。
奈木の方は、日本から輸送してきた日持ちするお菓子を食べているので。羨ましいけれど。
向こうは向こうで、気が張って毎日余裕も無さそうだ。
正直な所、奈木が羨ましいとは欠片も思わない。
少し休んで、多少楽になったので、半身を起こす。
バズの授業はもう終わって、モリソンが授業をおそるおそるやっていた。奈木の方も、モリソンの性格は把握しているのか。授業効率を恐らく上げるために、黙々淡々と授業を受けている。
既に夕方か。
元々体力のある方ではなかったが。
それでも少しばかり情けない。
診察をエカテリーナがやってくれたので、受ける。やはり、エイズの進行が少し早い様子だ。
「少し薬を増やしとくれ。 ゾンビ化の前にこのままだと死んじまうよ」
「……分かりました」
「アタシも何とか頑張ってはみるが、何しろ此処には一人しかいないからね。 最悪の事態には常に備えてくれ。 あんたがそれじゃあこまるんだ」
豪放なエカテリーナの言葉であるが。
カルネも、色々思うところはある。
兎も角指定通りの薬をしばらく飲んで、少しエイズの進行を遅らせるしかないだろう。正確に言うと、体をもう少し「生」に傾ける必要がある。
エイズは今は治る病気だ。
だが、それも進行させすぎると、流石に危なくなる。
無菌室にいる。
医療物資はいくらでもある。
とはいっても、それでも限度がある。
奈木のクローンも、サリーと井田のクローンも。
現時点では、普通の子供を遙かに凌ぐ速度で学習を進めている。幼児とは思えない程学習速度は早い。
それについては、皆が認めてはいるのだが。
かといって、油断など出来る状態ではない。
どれだけ客観的に見ても、まだ当面はエイズと折り合いをつけてやっていかなければならないし。
下手に治療を進めすぎると、ゾンビ化の可能性が極めて大きい。
ゾンビ化してしまったらもうどうにもならない。
それが分かっているから、色々と口惜しい。
今日はもうそのまま休む。少し薬の量を増やしたからか、多少は生に体が揺り戻されたが。
それはゾンビ化が近付くことも意味している。
翌日の午前中からは、授業に戻る。
オープンソースのデータを解析する方法を奈木に仕込む。奈木は覚えが良くて、既に相当なプロフェッショナルのIT技術者に並ぶ、いやそれ以上の実力を身につけている。その気になればハッキングも出来るだろう。
今教えているのは既に基礎ではなく、応用ばかり。
その応用も、普通だったら思いつかないような、一級のハッカーや技術者が編み出した「裏技」ばかりである。
カルネでさえなるほどと感心したテクニックばかりで。
今、もはや奈木には基礎を教える必要はない事を意味している。
このまま奈木を起こしておけるのなら、もう皆眠りにつくことを視野に入れ始めても良いのだけれども。
そうは流石に行かない。
奈木達三人のクローンはまだ幼児だ。
幼児に対しての教育をどんなに頑張っても、流石に一人前には出来ない。最低でも十代半ばくらいまでは。
咳き込んでいるのを聞いて、画面の向こうで奈木が手を止めた。
咳が止むのを待ってから、また作業を開始する。
気を遣っているのでは無い。
此方から効率よく情報を引き出すためだ。
変な話だが。
カルネは奈木に同情とかシンパシィは感じているが。友情の類は感じていない。奈木の方は、恐らくそれと同じだろう。
互いに利用し合う関係。
だが、それでいい。
此処に愛情とか友情とか持ち込んでも面倒なだけである。結局、論理的かつ効率的にやっていくしかない。
午前の授業が終わって、奈木がプールに行く。
市川から連絡。
バイタルが落ちているらしい。
「悪いが、少しキザリと君で授業を代わってほしい。 自分の治療を少し優先する」 「分かりました。 期間はどれくらいで」
「二ヶ月、というところだな」
「……はい」
此方も厳しいと言いたいが。
基本的に厳しい、と言う事は一切言い出さない市川の言葉だ。状態が相当にまずい事は、聞かれなくても容易に想像がつく。
カルネだってかなり厳しいのだが。
それは何というか、気合いで耐えるしかないか。
午後はモリソンに一時限目を担当して貰うが。
その間にカルネは、幾つか出ているアラートに対応する。
全自動でネットワークを維持し。各地の拠点を維持するための仕組みは作っているのだが。
それでも経年劣化などでトラブルは起きる。
アラートの全てに目を通し、遠隔で対応していく。
二時間ほどで全てのアラートを処理完了するが。
額を汗が伝っていた。
少し熱っぽい。
午後二から井田の授業を担当するが、井田は目が殆ど見えないため、音を中心に授業を進めていく。
理解力は高いから授業は極めて楽なのだが。
その一方で、此方の体調不良についても、正確に把握しているようだった。
「大丈夫ですか、カルネさん」
「平気。 君こそ体に不調は無い?」
「大丈夫ですよ。 奈木さんもサリーさんもとても良くしてくれますし、子供達も皆俺を慕ってくれます」
「そう。 それは良かった」
咳払いすると、授業を進め。
夕刻になると、少し発熱していた。
エカテリーナに言われる。
「もう今日は良いから、寝ていな」
「エカテリーナさんこそ、どうなんですか」
「この程度でどうにかなるほど柔じゃないよ。 とはいっても、無菌室でまずい飯ばかりなのは流石にうんざりしてきたけれどね」
「……」
まあ、ロシアの食事でも、無菌室で食べられるものには限度が色々あるだろう。
ともかく、言われた通りに休む。
この様子だと、予定通りに何て勉強を進められるかどうか。
呼吸を整える。
痛みはあまりないのだが。
体が浮くような、変な感触がある。
薬でエイズによる免疫低下、内臓機能低下は抑えてはいる。今、薬を増やして回復の方向で話を進めているので。
体内で、色々とややこしい事になっているのだろう。
市川は大丈夫だろうか。
カルネより多分状態が悪いだろうに。それでも無理をしていたのだから。相当滅茶苦茶になっていると思うのだが。
授業が終わったので。
後はアラートがあったら起こすように指示して、ぼんやりする。
薄暗い中、壁際に立って体力維持を兼ねて見張りをしているバズと。黙々と作業をしているモリソンのモニタから漏れる灯りが目立つ。
モリソンは今までの授業のデータもまとめてくれていて。
恐らく、奈木のクローン達に研究の引き継ぎを行い、授業のノウハウを仕込むときには、一番役に立ってくれる筈だ。
またどういうわけか。
モリソンもかなり重度のエイズになって此処に残っているのに。
他のだれよりも、体の不調を訴えない。
ゾンビ化の不安も少し頭をよぎるのだが。
しかしながら、健康診断をしてみると、相応にエイズで体が悪化しているのも事実。一番苦しい痛いとヒャンヒャン喚くと思ったのだが。
その様子も無い。
やがてモリソンも作業を切りあげ、監視ツールが動いているモニタだけが光を放つ状態になった。
小さくあくびをすると、ベッドの中で眠りにつく。
後、どれだけエカテリーナがもってくれるだろう。
市川も危ない。
キザリだって、口には出していないが、苦しいかも知れない。カルネは、不安ばかりが、胃の辺りを痛めつけるのを感じて、閉口するしか無かった。
市川はそれからどうにか回復。季節が幾つか過ぎて、更に一年が経過した。
それぞれが奥義とも呼べる技術を奈木に教え始め。クローンの第一陣には、奈木とサリーが中心になって、基礎勉強を教え始めている。皆覚えがとても良くて、小学生の二三年生くらいの理解力と知識は既についている。もっとも、早熟すぎると後々色々問題が起きるという話もあるし。
何よりも、人類を復興するときには、このマニュアルは使えない。
IQが180ある奈木やサリー、井田だからこそ。このマニュアルに沿って勉強を教えられるので。
他の子供には、流石に厳しすぎるだろう。
とはいっても、奈木から、日本の小学校における勉強の何が悪かったかは、既に聞き取りをしてある。
各国の学校についても、それぞれ目を通して。悪い場所は全て洗い出してある。
それらを総合的に加味して。
最終的に、一番良い学習マニュアルを作り出す予定だ。
当面人類は、一文化圏で生存を模索するしか方法がない。
共通言語としては、英語は少しばかり欠点が多すぎる。かといって、ロシア語や日本語がそれより優れているかというと、それはノーだ。
エスペラントを使うのも手かと思っているが。
それについては、もう少し考えて行きたい。
一年はどうにか乗り切った。
奈木がコールドスリープに入るまで後二年。
最後の半年に関しては、後進の育成と、自分の学んだ事をまとめる作業に注力してもらうつもりなので。
奈木に勉強を教えるのは、後一年半という所だ。
連絡が入る。
エカテリーナからだった。
「ちょい内臓の調子が悪いね。 自力でどうにかするから、午後の授業は頼めるかい」
「分かりました。 どうにかします」
「悪いね」
エカテリーナも不調で授業を休む頻度が増えてきていた。
表には出さないだけで、かなり無理をしているのは確実である。
ブライアンがいなくなっただけで、負担が激増したのだ。
かといって、コールドスリープしている人員を叩き起こしても無理。
いずれもが、エイズをぶち込んで、最後の教育を行う作業を拒否した者達である。モチベ云々以前に、絶対にまともにものにならない。
空いた時間を使い。
マニュアルを整備していく。
今まで奈木に教えた事もそうだが。
六歳から十二歳くらいまでの学習についてのマニュアルも、である。
奈木に勉強を教え始めたのは、彼女が十四歳くらいの頃からだが。
しかしながら奈木は、劣悪な学習によって、実際にはカルネの目算では十二歳くらいの学力しかなかった。
高IQでそこからバリバリ巻き返したが。
逆に言うと、クローン達も十二歳相当の学力から教えられるようにしておけば、多少の負担軽減が出来るかもしれない。
そして問題なのが、どうしても実際に人間がつかなければならない学習。
銃器などを使った戦闘訓練、等である。
これについては、基礎の基礎は奈木が教えると言っていたが。
それでも、やはり最初は人がついていないといけない。
バズを見る。
軍人らしく、背を伸ばして口を引き結んでいる青年。
責任感から、他の軍人達がコールドスリープに入る中、一人残り。
高IQの相手に勉強を教える劣等感と戦いながらも、折れずに今まで頑張ってくれている功労者の一人。
カルネと一緒に、最後まで残ってくれるだろうか。
軍事教練は、やっぱりバズに任せてしまいたい。
モリソンに声を掛けると、集めた資料を渡す。無言でモリソンが、その資料をまとめ始める。
まとめについては任せてしまって良いだろう。
モリソンのまとめた資料は、奈木もわかり易いといっていた。
これは権威になる存在が分かりやすいと言った事に意味があるのではなく。教えられる側の人間が、分かりやすいと言っている事に意味がある。
とはいってもこのまとめも。
これから下手をすると、数千年研究を続ける三人のクローン達のものであり。
普通の人間用には、別のまとめとマニュアルが必要になってくるだろう。
授業が始まる。
既に奥義を順番に教えているから、今までのように簡単にはいかない。奈木より頭のスペックがわずかに勝っていることを、カルネも奥義となるような知識を教え始めると、自覚する。
今までの基本、応用辺りでは、すらすらと勉強を進めていた奈木も、手が止まるようになりはじめていた。
既に何処の大学でも教鞭を執れるレベルにはなっているのだが。
それでも、である。
カルネは米国の大学で、周囲から白い目で見られながら教鞭を執っていた。周囲の教授達は皆、カルネを徹底的に嫌っていた。情報共有をしようともしなかったし。論文を出すと、口出しする隙が無い事に不愉快そうに口をつぐみ。裏ではガキがと悪口をいつも言っていた。
奈木でも理解出来ずに苦労していること、勉強が遅れている所を見ると、流石にその頃のことを思い出す。
良い気分はしないが。
それでも教えるしかない。
一つずつ、現代科学の深奥を教えていく。キザリとエカテリーナが医学の深奥を教えてくれるから、其方は其方で任せてしまう。
なお、奈木は今や米軍の最新兵器をあらかた動かせるようになっていて。
自分が四人いれば、M1エイブラムスを動かせると言っていた。
大言壮語は一切しない奈木なので。
恐らく事実なのだろう。
だが、負担は大きい様子で。
授業が終わると、奈木は最近、疲れが目立つようになっていた。
カルネもそれは同じだ。
何だか、変なシンパシィを感じてしまう。
夜になって、授業が終わる。
監視カメラには、奈木が子供達の。クローン達の面倒を見ている様子が移っている。
現在第三世代までクローンを作ってあるが。
第一世代の子供達には、既に第二世代以降の子供の面倒を見るように、奈木が仕込んでいる。育児を担当する円筒形のロボットだけではなく、人間が細かい所を見られるようにするべきだと判断したのだろう。
夜休むべき時間を削って教えているのは。
或いは日本人らしい真面目さと言うべきなのか。
何でも、第一世代のクローン達から話を聞いて、昔ロボットがしてくれなかった細かい事について。フォローが出来るようにと動いているらしい。
ロボットのプログラムは、その話を聞いて色々と改善したのだけれども。
幼児にとっては、やはり人間が側にいてくれる方が安心できるらしい。
奈木の事もお母さんお母さんと慕っているし(ある意味正しくはある)。子供の事はさっぱり可愛くないと公言していた奈木も、一応思うところはあるのかも知れない。
いずれにしても、もの凄く規律正しく育てられている様子は、さながらディストピアである。
三種類しか人間がおらず。
しかも生殖能力もない。
クローンによって己を増やしながら。
人類そのものが直面している破滅と戦うべく、研究をする準備をしている。
これらの話を聞いていると。
古式ゆかしいハードSFの、人類の末期的状況のようだ。
だがこれは現実である。
クローンが間に合わなければ、この状況にさえたどり着けなかったこと思うと。カルネは奈木をどうにかして手助けするしかない。
半身を起こして、奈木に呼びかける。
「ロボットのプログラムに手を入れるから、後で声を掛けてくれる」
「そっちも体ガタガタなんでしょ。 大丈夫なの?」
「ボクの腕は知ってるでしょ。 デバッグ込みで片手間にやるから平気」
「……分かった」
心にはどうしても大きな壁がある。
しかしながら、連携して動けているのも事実だ。
ベタベタくっついて生き残りを模索するだけが現実じゃあない。
相手はヘイメル基地にいて、此処とはかなり物理的な距離も離れているけれど。
それでも一緒に。
同じ災厄に対して、取り組んでいる。
奈木もやがて子供達の寮を出て行き。寮を守っている犬たちの頭を撫でると、自分の寮に戻っていった。
エカテリーナから、直後に連絡が入る。
「すまないね。 遅くにいいかい」
「何か起こりましたか」
「どうも遠隔での手術を頼む事になりそうだ。 クソッタレのがん細胞が、ちょっと元気になりすぎているようでね」
頭を抱えたくなる。
癌治療についても進んでいるが、エイズも入れているエカテリーナは色々と厳しい状況である。
最悪、もうコールドスリープ装置に入って貰うべきなのでは無いのか。
そうとさえ、思え始めていた。
「執刀は私がやる」
市川が言うが。
その市川だって、相当に厳しい状態の筈だ。遠隔でいけるのか。不安になったが、それについてはサポートするしかあるまい。
いずれにしても、数ヶ月はエカテリーナは動けないだろう。
皆が、体を故障し始めている。
覚悟を決めた方が良いかも知れない。
キザリが、先んじて言った。
「このままでは皆もたないだろう。 モニタなどを通じて、幼いクローン達に任せるか、それとも細胞の劣化を覚悟の上で、三人の誰かに起きていて貰うか、選ぶしかないかも知れない」
「クローン技術はただでさえ未熟で繊細です。 劣化が始まった細胞を使ってクローンを行った場合、次の世代のクローンは、恐らく更に苛烈な先天性障害を抱えて生まれてくることになる……。 これ以上負担は増やせませんよ」
「しかしカルネ。 君も相当無理をしているのだろう」
「もたせますよ……一番若いんですから」
凄絶な声だなと、自分でも思った。
そして決める。
こうなったら、死ぬ事を前提に動くしかないかも知れない。
現在最年長のクローン達は四歳相当。色々な裏技でかなり発育を早めているので、そのくらいだ。ただし今の奈木の水準まで育て上げるまでに、恐らく後最低でも十一年は掛かる。初期からの教育がしっかりしているから、底上げは出来るけれど。しかし今の奈木でも、科学の深奥、医学の深奥は理解に手間取っているのだ。
恐らく、ビデオを見ての学習だけ。本を読んでの学習だけでは足りないだろう。
それならば、やはり銃火器などの基礎訓練と同じで。どうしても、口頭で教えなければならない部分も出てくる。
IQをあげる事は出来ない。
流石に生まれ持ったIQは、ある程度錬磨は出来るけれど。どうしても限界がある。
覚悟を悟ったか。
キザリが咳払いした。
「情けない話だが、俺は後七年もたないと思う。 最悪の場合は、カルネ。 君に全てを託すことになるだろう」
「……大丈夫、任せてください」
「まったく、若いものに率先して犠牲を押しつけるなんて。 人間て生き物は、最後の最後まで情けないね……」
エカテリーナの言葉は。
大いに自嘲に塗れていた。
カルネはそれについては、どうとも思わない。
昔からの事だ。
幼い頃から、ずっと周囲とは壁があった。人間は愚かしいなと、幼い頃からずっと思っていた。
だから今更、である。
今周囲にいる人達は、カルネと同レベルの知能の持ち主ばかりだが。それでもどうにもできなかった病気。
人類を二十五万まで減らした究極の業病。
それと戦うためならば。
カルネの命の一つくらいは。仕方が無いだろう。
「カルネ、君の遺伝子細胞は保管してあるか」
「はあ、ありますけれど。 クローンにすれば、すぐにゾンビ化確定ですよ」
「分かっている。 ゾンビ化が克服された後、君の遺伝子細胞は世界の復興に絶対に必要になる」
それは、そうかも知れないが。
まあ、相応の遺伝子データがヘイメル基地には集められている。
人類復興の段階に入ったら、それらを掛け合わせて、足りない分の遺伝子プールを補うつもりだ。
数もそれほど増やすわけにはいかないだろう。
最低限の数を保ったまま、
宇宙進出を目指す。
それ以外にはない。
その時、今此処にいるメンバーのような高IQの人材は幾らでも必要になる。
「カルネ、君の全てはデータ化しておくべきだ。 そして、次の君に引き継ぐ準備をしておくべきだろう」
キザリの言葉は、人類全てを見据えてのもの。
国境無き医師団の一人として、最後までゾンビパンデミックに立ち向かった勇者の一人の言葉。
「分かりました。 それについても、考えておきます」
その夜から、手術を開始する。
執刀した市川は流石で、問題なく病巣を取り除く事に成功。またエカテリーナの体力も、年齢とは思えない程のもので。長時間の手術に良く耐えてくれた。
だが、それでも限界がある。
手術が終わった後、エカテリーナは三ヶ月絶対安静、エイズの治療も少し進展させることが決まる。
エカテリーナが動けなくなる分、他の皆の負担も増える。
ただし、今までのように急ピッチでの学習は必要なくなりつつあった。勉強が一段落した結果、深奥に辿りついた三人は。それぞれ、苦労しながら先人達が辿りついた深奥を解きほぐすべく必死になっていたからである。
その分、此方にも時間が出来たと言う事だ。
誤算だったのは、一つは奈木達三人の学習能力の高さ。これは、嬉しい誤算だった。
もう一つは、その高い知能にも限界があったこと。
やはり此処にいるスペシャリストには及ばなかった。
いずれにしても、はっきりしている事は。
此処からは引き継ぎが主体になる、と言う事だ。
カルネが維持しているネットワークの基礎部分も、実は既にヘイメルに移してある。此方からはリモートで接続して、システムを動かしている状態だ。
これも順次引き継ぐ準備をしていかなければならない。
そしてカルネは生き延びる。
何があってもだ。
キザリのさっきの言葉。
意味はよく分かっている。
例え死すとも、必ずしも残すものは残せ。
無為に死ぬことだけを考えるな。
そういう意味だ。
ゾンビパンデミック終了後にクローンを作り。それに自分の全てを移し替えれば、それは恐らくもう一人の自分になる。
何度か咳をした後。口を拭う。
カルネは多くの人を救えなかった。
地獄行きは確定だろう。地獄があれば、だが。
カルネは無神論者だ。神なんぞ信じていない。だが、人間がまだまだ分からない事もたくさんあることも分かっている。
だからこそ、自分の本来の寿命に満たず、力尽きるのであれば。
その時のためにも、自分のスペアを残しておきたい。
とはいっても、スペアに全てを背負わせるのは、それは業だろう。更に罪を重ねることは、避けたい。
ベッドの中で、重い体で寝返りをうつ。
いずれにしても、カルネの中にある知識は、人類にとっての福音になる。当面人類は戦争どころではなくなるし。資源を求めての宇宙進出に全力を注ぐ事になる。
皮肉な話で、地球は資源こそ失ったが、それはあくまで人間にとっての資源。
環境はこれからみるみる回復していくだろう。
事実、世界中で起きていた異常気象は、恐ろしい程の速度で回復している。年々上がっていた気温も、下がりはじめている。
各地で氷河が復活し始め。
南極北極でも、氷が増え始めていた。
この状態を維持したまま、宇宙を目指すには。確かに業を背負う必要もあるか。罪も被らなければならないか。
キザリの言葉通りだな。
カルネは苦笑する。
そして、もう今日は、考える事をやめた。
3、始まりの時
市川がコールドスリープ装置に入った。とうとう限界が来たのだ。かなり無理をしてくれたが、どう考えても客観的に今後活動するのは無理。一人で動いている事もあり、先にコールドスリープ装置に入るべきだという話になった。
市川は死ぬまで残ると言ってくれたが、彼はこの問題が解決した後、人類に必要な人材だ。
だから説得した。
説得の末に、やっとコールドスリープ装置に入ってくれたが。
それでもやはり悔しそうだった。
責任感の強い男だ。
今はどこの国にも、殆ど見られなくなった責任感の強い人間。真面目な人間ほど馬鹿を見るとか損をするとか言われるこのご時世に。それでも大まじめに活動してくれた本物の医師の心の持ち主。
コールドスリープをすると本人が納得してくれたときには、だいぶ弱ったカルネも。思わず、敬礼をしていた。
幸い、市川が減っても何とかなるほどに、皆の知識の集約は終わっていた。逆に言うと、市川に其所まで無理して貰うほどに、働いて貰っていたと言う事だ。
いわゆるブラック労働で、大量の自殺者が世界中で出ていた。
市川のような真面目な人間が、もっとも最初にエジキになった。
残るのは上司に都合良く媚を売り、自分の行動を正当化できるクズばかり。
真面目に仕事をやり。責任感があり。そして何より仕事がきちんと出来る人間から死んで行った。
戦争でもないのに。
結果がこれだ。
人間は、もうゾンビパンデミックの前から詰んでいたのだ。市川の悔しそうな様子を見て、カルネはそうやはり確信していた。
そして、来るべき時が来た。
ヘイメルにいたサリーが、コールドスリープ装置に入る事になったのである。
奈木も間もなくだ。
クローンには、全盛期の衰えていない細胞が必要だ。今後の地獄のような研究時間を考えると。
どうしても、必要な事なのである。
子供達は、既に五歳相当に。此処からは体の負担もあるので、普通に育って貰う。
奈木はゾンビパンデミック前なら、何処の大学でも三つ指突いて来て貰うレベルの人材に育っているが。
しかしながら、此処からだ。
奈木に何回か提案された。
残ろうか、と。
だが、駄目だとその度に言った。
奈木は今後、数千年にも達する研究の核になる。細胞の劣化は許されない。奈木のクローンが、ゾンビ化しない特性を生かして。この世界に満ちてしまったゾンビ化という脅威に立ち向かわなければならない。
本当だったら、現地に行きたかったけれど。
そうもいかない。
現地に辿りつく前にゾンビ化していただろうし。
何よりも、もはや無菌室から出られないこの状況では、どうしようもないというのが実情だった。
クローンを作っても、ゾンビ化してしまうのが確定。
幼児時代からエイズを体に入れることも考えたが、多分確実に保育器から出る前に死ぬだろう。
カルネはそれほど頑健では無いのだから。
サリーは元々カルトの教祖に担ぎ上げられていたからだろうか。
これから長い長い時間眠る事になる、と聞かされても。
驚く様子も、取り乱すことも無かった。
むしろ、後をお願いしますと、とても丁寧に言われたので。カルネの方が、色々と神経に来てしまった。
タチの悪い連中に囲まれて。そいつらから解放されて。先天的に幾つも欠陥を持っていたサリーは、別の意味で人間扱いされていなかった。今はむしろ、人間として扱われていると思っているらしく、幸せであると明言までしていた。
そんなサリーにも、今後クローンを作って、補助で作業を続けて貰う事になるのだ。そのためには、全盛期の肉体の保全が必要になる。
他の者達だって、そろそろである。
奈木はあと一年。
井田はもう更に一年。
いずれにしても、もはや奈木が眠ると。子供達を守れるのが、軍用犬と、AI制御のセントリーガンと装甲車だけになる。井田は戦闘力がないので、基本的に注意を促すくらいしか出来ないからだ。
移動も自動の車いすで行っているが。
子供達は、井田がとても賢いこと。まともに動かせる体の部分が多く無いことを、そも井田のクローンを見て当たり前に知っている等から、井田に対して失礼なことをする事は一切無かった。
或いは、普通の精神性の持ち主だったら。
井田を馬鹿にしてゲラゲラ笑ったのかも知れない。
ある意味、元から平均的な人間から乖離した者達の中だったから。
井田は人として認められていたのかも知れない。
井田も、この環境に不満を零すことは一切無かった。
五歳になった最初のクローン達は、既に井田の足りない部分を補うように動いていたし。奈木に話をして、自分達も出来る事はしたいと言い出していた。
奈木は寡黙にその話を聞くと。
順番に、やるべき事を仕込んでいき。
それを恐ろしい速さで、クローン達は学んでいった。
所詮五歳児。
出来る事には限界があるが。
それでも、後で負担になる事を、奈木は丁寧に潰してくれていたので。今後の負担は減りそうである。
軍用犬たちについても、集約を進めており。
現在は40頭がヘイメルにいて、繁殖も始めている。最終的には100頭にまで増やすつもりだが。
猛獣が出た場合の守りの要だ。
奈木はジャガーの侵入と。
何回かあった猛獣の侵入未遂の経路を全て頭に叩き込んでいて。隙を潰すように軍用犬を巡回させており。
また基地の外縁部は徹底的に確認して。
文字通り一部の隙もないように、徹底的な調査を済ませてくれていた。
有能だ。
間違いなく。
奈木は恐らく、ゾンビパンデミックが始まらなければ。駄目な教育システムで本来のスペックを潰され。
「コミュニケーション能力」と称される媚を売る能力の欠如から、あらゆる全てを否定され。
挙げ句の果てには、ブラック労働で使い潰されていただろう。
奈木自身は学校での経験や。大事な人を失って、完全に他人と心の壁を作ってしまっているが。
これだけ出来る子を見いだせなかった社会の罪は重いとカルネは思っている。
まあカルネも、正直な話、周囲からは孤立していた。
この事態が来なければ。
他の飛び級で博士号を取得した早熟の天才達のように。ロクな人生を送っていなかった可能性が高い。
今の人生もろくでもないが。
それ以上に酷かったことは確実だろう。
人間はどうしても、スペシャリストほど扱いが難しいという現実を、滅亡まで学ぶことが出来なかった。
相手に媚を売る能力を最優先し。
実務能力を軽視し続けた。
その結末がこの事態だと思うと。
何だか色々と思うところも多かった。
モリソンに声を掛ける。市川の研究などについては、全てまとめてくれていたので。カルネも目を通しておく。
把握まで二日ほど。
エイズのせいで成長も止まり気味で、五年前と殆ど背も変わっていない。奈木がぐっと背が伸びて、もう銃火器も過不足無く使えるようになっているのとは対照的だ。体を徹底的に痛めつけながら、無理矢理生きる事を選んだのだ。これくらいのペナルティは当然ではあるが。
しかし、それでも色々と厳しい。
エイズウィルスを完全に体から取り除いて治療を済ませるにしても。
カルネが眠れるのは、恐らくはまだずっと先だ。
その時エイズウィルスを完全治療しても。
今更体の成長など、起きる事はないだろう。
ただでさえ、同年代に比べて背も低く、身体能力も低かったのに。このままだというのは、少し悔しいが。
それでもこのまま、やっていくしかない。
研究内容を把握。
研究データをヘイメルに転送。
エカテリーナも、かなり体調が思わしくない。最近は、二ヶ月くらいの休養を取りながら、その間にも出来る事はしてくれている。
キザリは何も口にはしないが、それでもあまり体調が良くないことが分かっている。
恐らくエカテリーナも、奈木がコールドスリープするまでもたないだろう。
キザリも後二年、もつかどうか。
その時には、いよいよカルネとモリソン、バズだけがクローン達の面倒を見られる事になる。
バズは子供の世話が嫌いでは無い様子で。
今のうちから、どう幼児と向き合って、順番に教育をしていくかのカリキュラムを研究し。調べてくれている。
こんな状況で無ければ。
良い父親になれたかも知れない。
モリソンは子供相手にもおっかなびっくりだが。
それでも資料のまとめはがっちりやってくれている。
二人とも、激務ではなかった分、もう少し頑張ってくれるはずだ。
カルネも、二人に頼るしかない部分が大きい。
咳き込む。
午後の授業を行いながら、カルネは無理が出てきていることを悟る。少しずつ負担は減らしているが。
可能な限り引き継ぐ事は減らしたい。
現状の奈木は、時間さえ掛ければ、難しい論文も読めるレベルにまで成長してくれている。
だから、理想的な環境で教育した後継のクローン達も。
カルネが動けなくなる頃には、同じ状態になる事を期待したい。
授業を終えると。
奈木が提案してきた。
「とりあえず、今後どうしても実地で見ている事が必要な授業以外は行わなくても良いと思う」
「お、強気に出るね」
「私のオツムの出来くらいなら分かってる。 カルネには及ばないこともね。 だけれども、論文は読めば理解出来るようになったし、本当に難しい事以外は自習でどうにかなるよ。 後の授業は井田君に回してくれる。 私はクローン達の教育の比重を増やしておきたい。 可能な限り自習で済ませる」
奈木は基本的に極めて寡黙だが。
これは気を遣ってくれている、と言う事だろうか。
まあ、そういう風に好意的に考えても構わないか。苦笑すると、カルネは頷き。そしてもう一度咳払いした。
肺の方の調子がどうも良くない。
本当に墜落寸前で体を回しているのだ。
あらゆる意味で体に無理が出ている。
奈木は平然としているが。
その代わり、子供を産めないという強烈なペナルティがある。役割分担という点では、まあ仕方が無いのか。
「分かった。 ただ、どうしても説明しないと分からない、非常に難しい発展部分については授業を今後もするから。 間違って解釈されると困るから。 今後、其方には事実上視点は三つしかなくなる。 どうしても同じ遺伝子から出現した個体は、考え方も似てくる。 客観を確保出来ないと、間違って解釈したものごとから、とんでも無い失敗をしやすいんだよ」
「……分かってる」
「今回の件だってそうだ。 健康と高い免疫力があれば、あらゆる病気に対して有利になる。 そういう思い込みが、ゾンビパンデミックに対する対策を徹底的に後手後手にしてしまった。 他の対策も全てそうだ。 みんな成功体験からの思い込みが悲劇につながってしまった。 無菌室なら平気、気密服なら大丈夫の筈、シェルターに籠もれば、陽圧室なら……全て既存の思い込みが、あらゆる被害を拡大させた。 初期には、噛まれなければ大丈夫だろうって、誰もが先入観から思い込んでいた」
それが間違っていると分かったときには、何もかもが遅すぎたのだ。
バズに顎をしゃくられる。
今日はもう休め、と言う事だ。
見ると、アラームが点灯している。
キザリが、カルネの性格などから考慮して作ってくれたものである。これが点灯する場合は、問答無用で作業を切りあげさせろ。
そうキザリが、バズに指示を出し。
大まじめにバズがそれを聞いて毎日動いてくれている。
自分はただの軍人だ。
そう言って、昔は出来ない事の多さに苦しんでいたバズだが。
しかしながら今は、その少ない行動の中から、出来る事をきちんとやる事で。
自分の存在意義を見いだしていた。
「時間が来たようだから休むよ。 ヘイメルも、そろそろ冬がきつくなってくるころだから、気を付けて」
「分かった。 其方も」
通信を切ると。
ベッドで横になる。
バズは寡黙に機器類をチェックして、アラートが出ていないことを確認。既に構築した監視システムを、此方からも確認できるようにしている。現状はアラームは出ていない。
一眠りしてから、起きだす。
エカテリーナとも、話をしておいた。
「どうも体が上手く動かないね。 明日から復帰はするが……」
「奈木から提案がありました」
「……ふむ、そうかい」
「どうしますか」
どうもこうもないねと、エカテリーナは苦笑する。
本人も、それが正しいと判断したのだろう。以降の授業を減らし、自分の持っている知識の保全と、体力の可能な限りの温存に努めると言ってくれた。
授業の比重をキザリに移し。
カルネとエカテリーナは、次の一番大変な局面。
奈木がコールドスリープ装置に入るタイミングに備えて、作業を進めていく。
奈木自身の事も、時々チェック。
子供達を率いて、基地の中を廻り、此処が何、此処が何だと教えている。
軍事訓練じみたことばかりではなく。
遊びもきっちりつきあっている様子だ。
育児用のロボットに全てを任せきりではなく。
ちゃんと奈木が関わる事で、相応に今後の負担を減らしたい、という気持ちがあるのだろう。
そして何度も告げている。
今はとても大変な時期だ。
今時々話す画面の向こうの人達は、体が滅茶苦茶になっているのに、それでも頑張ってくれている。
本当だったら、みんな笑って遊んでいられる年だけれど、それでも此方もその頑張りに応えなければならない。
他の人達は、体を無理に弱らせないと、ゾンビになって死んでしまう。
でも、自分達も、元々体に色々問題があって、それでゾンビにならないだけ。
互いに足りないものを補いあって。
この世界を生きるしかない。
何度も、幼児に分かり易い言葉で説明をしていた。
奈木の説明は、子供達も良く聞く。
ただ、奈木が本音でそう言っていないことは、カルネには分かる。約束だからしているだけ。
奈木自身は、人間なんぞ滅べと思っていてもおかしくない。
だが、それでも。
周囲にいたスクールカーストを人命より尊重するような連中と、一緒になりたくないから。きちんと約束を守ろうと動いているのだと言う事は。カルネにも分かるのだ。
時間が過ぎていく。
半年が容赦なく過ぎ。
子供達も、すくすくと育つ。
やはりクローンだからか、気持ちが悪いくらいに似ている。現状、子供の数は40人ほど。以降は二年ごとに、20人ずつ増やしていく予定らしい。
子供の役割分担も決まっていて。
三歳児までは一歳児の面倒を、育児用のロボットと見る。
最年長の子供達は、奈木と井田の補助。
そして軍用犬の世話。
更に、奈木が眠る直前に、銃器のさわり方も教えるつもりらしい。
流石に六歳児に銃器を持たせるのは色々と思うところもあるが。それでも、やはり現地で、実際に銃は触らないと危なすぎる。
奈木の判断は正しいのだろう。
ただ、デザートイーグルなどの軍用拳銃は、そもそも肩が抜けるほどの反動が来るものなのだ。
幼児に安易に触らせて良いものではない。
だから、ギリギリまで。
奈木は粘るつもりなのだろう。
そして、奈木自身も引き継ぎの準備を始めた。
自分が苦戦した場所。更には井田やサリーにも聞き取りをして、苦戦した場所を全てメモして、どうすれば効率よく解決できるか。画像を残し始める。
奈木の言葉なら、クローン達は良く聞く。
例え奈木が、内心では自分の事を良く想っていないとしても、だ。
子供の習性はそういうもので。
ある程度の年齢までは、子供は親を嫌う事が出来ない。
この辺りについては、奈木はエカテリーナから指導を受けていた。まあエカテリーナも既婚者で子供を育てた経験があり。更に、国家戦略としての育児と学校教育を学んでいたらしいので。
引き継ぎは比較的スムーズだった。
授業の量を減らしたことで。
カルネは、ネットワークの更なる強化。保全すべき物資の管理。兵器類の状態保全。各地拠点の監視体制。
それらの仕組みをより強固にくみ上げることが出来た。
また、流石にもう可能性はないだろうとは思っているが。
逆に可能性がないことを確認するためにも。
徹底的に衛星から写真を撮って各地を確認。
ドローンも飛ばして、生存者を探した。
生存者はいないが。
まだ希に動いているゾンビがいる。
六年がそろそろ経過しようとしているのに、しぶといものだ。
それらの動いているゾンビは、全て焼き払ってしまう。骨も残さず、である。
そうしなければ、野獣が人間の味を覚えてしまう。
それだけは、避けなければならないのだから。
そして。
その日が来た。
カルネは遠隔でその様子を見る。
クローンの子供達、一教室分。幼い子供達は、まだ保育器から出たばかりの子供達を背中に背負い。
一番年かさの、奈木そっくりの子供達が、心配そうに見守る中。
奈木は皆に唱和させる。
基地内を移動する時は、基本的にツーマンセル、軍用犬は必ず連れていく。
カリキュラム通り授業は受ける。画像でしか今後は会えなくなるけれども、今後は更に年下の子に、自分達で教えていくことになる。それになれてほしい。
今後も自分は此処にいる。
起こす方法は教えるが、それは研究が完成するまでやってはならない。
ゾンビはサンプルが存在するが、取り扱いには気を付けろ。
今までの研究データは全てまとめてある。それらを引き出すにはどうすれば良いかは、既に教えたとおり。一秒でも早く覚えろ。
そして、今二十五万人が、サリーと同じように眠って、助けを待っている事を忘れてはならない。
いつまでも眠っている彼らが生きていられるかは分からない。
だから、研究を必ず進めろ。
頷く最年長のクローン達。
皆、違う服を着せて区別している。
クローン達も、その意味を理解している。そして恐らく。学校と違って、スクールカーストがなかったからだろう。何より、皆が自分だから、だろう。
完全に拗らせて捻くれきっている奈木と違って。
皆驚くほど素直だった。
生まれ育った環境が違うだけで、人間はこうも代わるのか。奈木のクローン達はみんな水泳が大好きで。泳いでいるときはとても楽しそうだ。奈木は黙々と、自分のルーチンワークとして泳いでいたが。それとは決定的に違っている。
サリーや井田のクローンに対する補助も当たり前にやっているし。
二人のクローンも、得意分野で奈木のクローンを助けている。
サリーのクローンは計算がとても得意だし。
井田のクローンは、生きていない感覚が多い分、直感のようなものが人間離れしているし。論理的思考についても、極めて優れていた。
社会性が、此処では穏当に構築されている。
生物は群れの規模が大きくなると、ストレスが増え、イジメを行うようになる。イルカなどは有名だが、鶏、魚などでさえこれは起きる事象だ。
此処では、恐らくだが、たった三つ個性が存在しないから、それも起きない。
おかしな話だ。
ゾンビパンデミックの前、人間達は多様性を口にしながら、内心ではそれを徹底的に否定していた。表現規制などがその最たる例だろう。
だが、たったの三人しか事実上生きられない世界になり。その多様性が消滅した今現在。
表現規制を口にしていた連中は、この様子を見て喜ばない。断言しても良い。なぜなら、表現規制を口にしていた連中は、自分が相手にマウントをとり、自分の思想を暴力で押しつけたいと考えていただけだったのだから。
表現規制など必要ない世界が今後のクローン達だけの世界だが。これほどの皮肉はそうそうあるまい。
六年で、奈木は成人。
成人したからこそ、コールドスリープ装置にこれより入らなければならない。
そして、ここからが、カルネ達にとっては正念場だ。
「それじゃあ、頼むよ」
皆の頭を撫でると。
リネンに着替えた奈木は、何の躊躇も無く、コールドスリープ装置に入った。殆どの人間は、恐怖から逃げ込むようにしてコールドスリープ装置に入っていたけれど。しかし奈木の場合はまるで別。
自分の命になんら価値を感じていない。
そういう行動だった。
駄目なら駄目で一向にかまわん。
そう言っているようにカルネには見えてならなかった。
頭を掻き回す。
髪の毛が抜けるようなことはないが。それでもあらゆる意味でやりきれない。
クローン達は反応が二分された。
サリーと井田のクローンは悲しそうにしていたが。
奈木のクローン達は、皆泣くのを堪えていた。
車いすにのった井田が、皆に促す。そして、コールドスリープ装置の前から離れていった。
バズが嘆息する。
「大変な子だった。 クローン達はあんなに素直なのに」
「生まれ育った環境がゆえ、ですよ」
「銃の怖さを教えてくれておいてくれたのは助かったが……」
モリソンは無言で、自分の作業に没頭している。
此処からだ。
此処から、人類の反撃が開始される。
その反撃の第一歩を駄目にしないためにも。カルネは、残された子供達と、あと一年だけ子供達をまとめてくれる井田とともに。
人類復活に備えて。
準備を進めておかなければならない。
4、宵闇
自分がクローンと呼ばれる存在であることを、奈木01は知っていた。基本的に皆、名前の後ろに数字をつける事で管理されることになっている。これは皆同じ顔だし、いっそのこと数字で管理した方が良い、と言う事が理由だ。
なお、井田とサリーについてもそれは同じ。
番号は全員が違っていて。
そしてそれは全員のアイデンティティだった。
奈木01は、お母さんである奈木が眠ってから。自分と同じ年のクローン達と、改めて話し合う。
お母さんの言う事は、きちんときくという事をだ。
軍用犬の扱いは教えて貰っている。
軍用犬はとても怖いと言う事も分かっている。
年下の子達は、まだまだ甘えん坊だ。
しっかり育てていかなければならない。
授業の殆どは、モニタで見て、それで覚える。サリーと井田は、それぞれ別の授業を受ける。
そしてその内、それぞれで専門分野を決めて、別れる。
研究については、まだ難しくてよく分からないけれど。
今、この世界で普通に生きていられるのは、此処にいるクローン達だと言う事だけは奈木01も理解出来ている。
「01、これから05と一緒に、見張りしてくる」
「何かあったら、すぐにカルネさんに連絡ね、03」
「分かってるよ」
ちなみに05は井田のクローンである。子供用の車いすに乗った05と、01と同じ顔をした03が、手をつないで見張りに行く。
残りは、子供達の寮がきちんと回っているかを確認してから。
井田に連絡して、眠る事にする。
眠る事も立派な仕事だ。
そう教えられて来た。
眠ればきちんと育つ。
それが理由であるらしい。
最年長のクローン達は、軍用犬四頭を連れて見張りに行った二人の帰還を待つ。ほどなく、二人が戻ってきたが。
困惑していた。
「何だか様子がおかしいよ」
「詳しく」
「燃えてる」
すぐにカルネに連絡。自分達は寮の最上階に出て、「ぼうえんきょう」を覗き込んで確認。
そして、口をつぐんでいた。
向こうで燃えている。何が燃えているのかは分からない。基地よりずっと遠くだ。
カルネに話を聞くと、「山火事」だという。
「この時期には、たまにあるんだよね。 此処までは火は来ないから安心して」
「でも、街の跡が……」
「爆撃された街は、もうどうしようもないよ。 後は任せて、もう眠って」
頷くと、皆を促して、眠る。
もう少し皆が育ったら、カルネに任せっきりではなくなるはず。早くそうなりたい。
研究だって、教えられてばかりじゃなくて、自分達でどうにかしたい。
お母さんが眠ってしまった。
カルネもやがて眠ってしまうという。
寂しいなあと思いながら。
多くの子供達が雑魚寝している、厳重に守られた部屋で。奈木01は眠るのだった。
(続)
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