最後の者達

 

序、データとしての人

 

無菌室でカルネが寝泊まりし始め、既に二ヶ月が経過した。夏は終わり行き、秋が来ようとしている。

世界各地で活動していたゾンビはあらかた駆除が完了。残っているのは、シェルターに逃げ込んだ連中が丸ごとゾンビ化したようなものだが。それらも、順次駆除して行く予定だ。

結局二十五万弱しか救えなかった。

世界中にて、まだ生き残りは探している。奈木のようにサバイバルしている者だっているかも知れない。

だが、見つからない。

衛星写真、ドローン、全てを駆使して調査を続けているが。

しかし、どうしようも無いのが事実だった。

奈木と井田、それにサリーは、それぞれ別れて勉強を教えている。サリーはかなり博識で、英語は最初から問題なく扱えたし、何より数学が凄い。インドは数学の本場だが、それにしても大したものだ。今は医学について、市川に教育を頼んでいる。

一方井田は、IQは高いのだけれど、殆ど目が見えないこともあって、英語の教育に苦労している様子だ。

勿論今後は試行錯誤していくが。

或いは、米国の企業が作っていた障害者用の補助装備。それらを研究して貰う事になるかもしれない。

理由は簡単だ。

ゾンビ化を克服するために、或いは人間は皆過酷な環境に自らを置かなければならなくなる可能性があるから。

そして井田は、下半身がそもそも全て駄目という重度の先天性の障害を持っている。もしも障害を持つ人間をサポートする道具を作るのであれば、殆ど完璧にこなしてみせるだろう。

高いIQがその時役に立ってくれる。

奈木は今、水着(競泳用)をつけて泳いでいるが。水泳の方でも、かなりの実力の様子だ。

元々筋肉量が多かった事は知っているが。

25メートルのタイムを見ても、米国の同年代のアスリートの平均を遙かに凌いでいる。日本人でこれは驚異的である。流石にオリンピッククラスではないが、本気で鍛えれば或いは将来的には狙える可能性もある。もっとも競う相手がいないので、現状での世界記録との戦いを一人でするだけになるだろうが。

本人の専門はバタフライのようで、それもあって兎に角速い。

ただ本人は、他人のコメントを受けるのが大嫌いな様子で。余程部活で色々あったのだろうなと、同情してしまう。

カルネは時々話をするが。

水泳をしていた時の話をすると、露骨に奈木は不機嫌になる。

これは恐らく奈木のパーソナルスペースで。

他人が触れるべき事では無いのだろう。

奈木が着替えて戻って来たので、ブライアン医師が勉強を教える。サリーに数学を教えていたカルネは、一息入れて、休憩。

バトンをエカテリーナに渡すと。

自身は各地の探索に戻った。

無菌室内の環境を色々二ヶ月で弄って、自分で扱いやすいように組み替えたが。それでもやはり限度がある。

このシェルターから出るのは文字通りの自殺行為。

この場にいる全員がかなり進行が進んだエイズ患者なのだ。

そうしなければ、ゾンビ化を防げなかったから。

逆に言えば、そうした事によって、免疫力は極限まで低下している。風邪の人間が近くを通っただけで感染は不可避。

勿論外の空気を思い切り吸うなんて自殺行為だ。

エイズは勿論治療できるが。

治療したら死ぬ。

チキンレースをしばらく続けなければならない。下手をすると、この状態でも、ゾンビ化の可能性があるのだから。

ドローンを操作して、各地を調べる。

輸送船を利用して、ユーラシアに米国製の遠隔操作自動車を複数輸送。ドローンとの連携で、今後に備える。

各地の基地の掃除と整備。

空きのコールドスリープ装置を常に用意しておく。燃料も。

奈木には今、急ピッチで勉強して貰っているから。

もう切り札として投入する余裕が無い。

そして、これだけ時間が過ぎても、まだ生存者は少しずつ出てくる。

リトアニアにて生存者を確認。

殆ど死んだように眠っていた患者で。病院が奇跡的にゾンビ化を免れた結果。非常動力の燃料で、かろうじて生きていた。

医者も看護師も既にその場にはいなかったし。

いわゆる植物状態だが。

多分目覚めれば、その時点で死んでしまっていただろう。

収容して、コールドスリープ装置に移す。

今後、こうやって生き延びてきた人達のデータ。

それに、此方で集めて来た、必死に研究したデータが、絶対に役に立つ。

医療班には色々不満もあったが。

彼らの努力を、カルネが認めていない訳では無い。

ただ、ブライアン医師は何も言わないが。

医療班のメンバーの大半は、カルネを多分認めていなかった。

まあ、その辺りはいくらでもあるすれ違いだ。カルネとしても、もう半分以上は諦めている。

黙々と作業を続け。

中華の生存可能性がある地域は、あらかた探り尽くした。

中華の病院は設備に問題があるケースが多く、眠るように死んでしまった遺骸をかなり見つけた。

いずれも回収して、データに回す。

ゾンビ化せず、最近まで生きていた人、というだけで大事なのだ。

未来のために。彼らの生と死を無駄にしない。

人口密度が高い地域の調査は、あらかた調べ終わっているが。それでも、まだまだ調査は続けなければならない。

衛星写真から、移動を続けている人間らしき影を確認。

即座に現地にドローンを飛ばすが、残念ながら人間では無かった。衛星写真では、どうしても限度がある。

ちなみに正体はラバである。

ゾンビ化した少数民族の所から逃げ出した結果の様子だ。かなり豪華に飾り立てられていた。

住んでいた場所は、ゾンビパンデミックで全滅したのだろう。途方に暮れた様子で、草を食んでは顔を上げていた。

それにしても。

衛星写真のクリアなこと。

大気汚染による衛星写真の阻害が前は酷かったのに。

たった半年と少し人間が動かなくなっただので、地球の自浄作用は此処まで働くのかと、感心してしまう。

勿論深海に落ち込んだ汚染などは、ゆっくり長い時間を掛けて処理されていくだろうし。

プラスチックなどは、簡単には分解されない。

それでも目に見えて汚染が収まってきている。

これは文明を再建する時には。

恐らくは、今までとはやり方を変えなければならないだろう。まずは文明を再建する事が先だが。

頭を掻き回して、データをまとめる。

また、回収した生存者のデータもまとめて、ヘイメル基地のメインサーバに送り。其所から共有化を掛ける。

しばらくは、奈木達は教育。

彼女と、正確には恐らく本命はクローンになるが。

研究を引き渡すのは、もう少し先である。

それまでは、教育をしつつ。

その合間に、研究をしていかなければならない。

やはり研究をすればするほど、体が弱いか、先天的に致命的な欠陥を抱えているか、重病を患っているほどゾンビ化しにくいという事が可視化される。

だが、その理由が分からない。

医療班の研究によると、何かしらの寄生虫か何かが介在しているという話なのだけれども。

思い当たる寄生虫は、顔ダニからケジラミまで全て調査しているが、いずれもおかしな処は無いのである。

勿論検査精度に問題がある可能性はある。

しかしもはや、カルネは無菌室から出られない身だ。ここにいる他の三人もそうである。

科学者であるモリソンは陰気な男で、前は兎に角あらゆる意味で浮いていたが。今は黙々と、データの整理と分析をしてくれている。

カルネもあまり着目していなかったが。

非常に仲が悪かった医療班のやりとりを丁寧に聞いて、それぞれの言う事をまとめ、資料を的確にまとめていたのはこのモリソンで。

教育には参加できそうにないが。

今までの成果は、まとめてくれそうだし。

最後まで残ってくれると、ぼそぼそいっていた。

どうやらモリソンも、昔はいわゆるナードだったらしく。相当苛烈な虐めに晒されていたらしい。

カルネも暴力を含む虐めでは無いが。受けていたからそのつらさは分かる。

見るからにひ弱な黒人男性のモリソンは、余計に虐めが酷かっただろう。米国の学校とはそういう場所だ。

世界を恨んでいてもおかしくないモリソンだが。

そんな事は一言も口にしない。

それが、カルネにとっては、今は有り難かった。

ブライアン医師はモリソンをあまり良くは想っていない様子だけれども。

それでも、覚悟を決めて残ったことは評価しているらしい。ぼそぼそ喋るモリソンに、声を荒げることもなかった。

軍人であるバズは、海兵隊にいた経験があるらしい。

今は残る事を決めたため、体にエイズウィルスを皆と同じようにぶち込んでいるが。毎日武器の手当を欠かしていない。

いつでも戦えるように。

非戦闘員の盾になるために。

此処に残ったのだ。

無菌室にいる今でも、その意思は堅く、変わっていない様子で。極限まで体をしぼりながらも、ゾンビを制圧する戦闘について、シミュレーションしながら訓練を欠かしていないし。

力仕事は手伝ってくれる。

どうして残ったのかと聞いてみると。

まだ若いバズ軍曹はいう。

天涯孤独の身だから、と。

元々孤児で、軍のプログラムに加入して軍人になり。資質を見いだされて海兵隊に入ったバズは。

学校もロクに知らないし。

親兄弟のことも良く分からないと言う。

だから軍が全て。

民間人を守る軍だけがバズの全て。

だからこそに、この機会に、軍のために全てを捧げたい。

そう考えている様子だった。

日本などでは、軍人をとにかく悪く書いたり、偏見を持つ人間が多い様子だが。米国では軍人は尊敬される。

バズは典型的な、尊敬される軍人になりたいのだろう。

その辺りはよく分かる。

色々と育つ過程でいびつな経験をしたバズにとっては。

軍は全てであり、家庭でもあり、そしてよりどころでもあるのだろう。それをどうこういう資格は、誰にも無い。

カルネは黙々と作業を進める。

衛星写真をチェックし、可能性がある場所にはドローンを直接飛ばす。

やはりエイズを体に撃ち込んで、身体能力をギリギリまで落としていることは、体に響いている。

毎日健康診断をして、治療も受けてギリギリのラインを攻めているが。

油断すると、多分一線を越えて治療不能になる。

そうなったら、多分身動きも出来なくなる。

それではまずいのだ。

稼働時間も減らすようにと、ブライアン医師にはいわれる。

そういうブライアン医師だって、体の中には元々病巣を抱えていたのだ。下手をすると、手術するようなことになるかも知れない。

年が年だ。

奈木に、ある程度の知識を伝えきってくれるまで、もてばいいのだけれど。

しかし、推定で16年くらいは頑張らなければならないことが分かっている。

怖じ気づいてコールドスリープしたあの若い医師。

あいつが起きていてくれればと思うが。

もはやそれについては、無いものねだり。

それに日本の市川、ロシアのエカテリーナ、マダガスカルのキザリ。

彼らは、一人で黙々と作業をしている状態だ。

倒れそうになったら、すぐにコールドスリープ装置に入ってほしいと指示はしているけれども。

それも何処までいけるかどうか。

何もかもが綱渡りである。

カルネはため息をつくと、また一箇所駄目だった生存者の可能性を消す。

奈木のように、先天性の欠陥を持っていても、元気に動ける例外が。このゾンビパンデミックの中、元気に生き残って逃げ回っている可能性もあるにはある。もしあった場合は、大きな戦力になる。

だが、そんな可能性は、ゾンビパンデミックの初期にあらかた消えてしまった。

奈木の他に、手を加えなくてもゾンビ化しなさそうな井田とサリーは、重度の障害持ちで、自分一人では歩くことも難しい状態だし。

この状況では、本当に奈木に頼るしかない。

それでも、負担を少しでも減らすために。

カルネは今日も、黙々と頑張る。

「カルネ、時間だ。 そろそろ休め」

「分かりました。 処方箋は」

「これだ。 間違わないように」

「OK」

自分で薬棚に行き、処方して薬を飲む。ブライアン医師の処方だ。まず間違うことはないだろうが。

念のためにチェックして、それから飲み下す。

エイズの特効薬はかなり安くなっていて、今では手に入れるのも簡単だが。それでも、生産設備があってよかったとしか言えない。

市川やエカテリーナ、キザリのいる場所も、そもそもそれぞれ対応出来る薬剤を生産できるというのが、残ってくれた要因なのだ。

そうでなければ、未来のためにも。

負担が増えることを承知で、ゾンビ化を避ける為、コールドスリープして貰わなければならなかった。

黙々と打鍵していると。

エカテリーナから連絡が来る。

「最初のクローン達、軌道に乗ったようだね。 この技術、民間に公開していても良かったんじゃないのかい」

「人権団体がどうのが五月蠅くて、それどころじゃなかったんですよ」

「黙らせれば良かったろうに」

脳筋そのものの台詞に頭を抱えたくなる。

計画を色々弄った結果、奈木のクローン六人、井田とサリーのクローンを一人ずつ。現在作ってもらっている。その面倒は、主に遠隔でエカテリーナが見てくれているが。データそのものを管理するのはカルネだ。

やはり先天的な異常であることは間違いない。

奈木の遺伝子を分類したところ、クローンにも生殖能力はない事が現時点でも分かるそうだ。

「医者が藪だったんだね。 これは調べれば分かる筈なんだが」

「誰もがいい医者にかかれるとは限らないんですよ。 ましてや今は世界で貧富の格差が拡大している……いや、いたし」

「それはそうだけれどね。 これくらいは医者なら誰だってねえ」

「……」

エカテリーナは、ロシアの中枢に食い込んでいた医者だ。

誰もが彼女の水準の医療技術を持っているわけでは無い。

日本の医療はかなり世界的に見ても高い水準にある。米国やドイツに比肩するだろう。簡単に医療を受けられるという点では世界でも屈指だ。

だが、それでも、医療は職人芸である。

AIによる診断はまだまだ世界的に見て、進展しているとは言い難い状態だったし。

奈木がいた産婦人科では。

やはり、その辺りを見破れなかったのだろう。

「ともかく、経過は順調だ。 教育については、プランをそっちと共有しておくから、目を通して置いてくれ」

「OK。 それで、奈木と井田とサリーで、それぞれ分担を変える方向に反対はしないと」

「正確には、専門分野をクローンごとに分けるレベルで良いだろうね。 奈木のIQからして、二年くらいで普通の医師レベルの知識と基礎技術はつくだろう。 後続のクローン達は十六までに仕上げたかったが、この分だと14くらいまでには専門の医師レベルの知識と技術まで持って行けるかも知れない」

此処でいっている医師というのは、大学で教鞭を執れる人間の事だ。

カルネも頷く。

先天的にない者は、それを補うように突出して優れているものを持つケースが多い。そうでない場合もあるが、今回は幸運にもそうだった。

奈木は上手く最初から教育できれば、確かに14くらい……今のカルネの年くらいには、大学教授レベルの知識と技能を得られても不思議では無い。飛び級を重ねる天才児という奴だ。

カルネもIQは204と、実の所奈木と大して変わらない。

最初からきちんとした教育を受け。途中学校で同級生達から嫌がらせを受けてモチベーションが下がったりしなければ。12で大学教授になれた可能性もある。

学校のことは思い出したくは無い。

カルネは奈木の境遇に同情するし。

何よりも、奈木のクローン達。今後は状況を見てどんどん増やす予定だが。クローン達に教育する際に、過去の自分が味わったような目にはあわせたくない。

そして、教育が早く済めば済むほど。

研究への移行。

更には、今無理している教育メンバーのコールドスリープが。早く開始できるという事になる。

ただ、カルネだけは、奈木達を見守るつもりだ。

一人くらいは。

クローンだけで構成された場所を、見守る必要があるだろう。そういう理由からだ。客観性を失ってしまうと、どれだけ知能が高くても駄目になる。それをカルネは、昔は切れ者だったボケ老人を何人も見て知っていた。

「ともかく、あんたも体には気を付けなよ。 転んだりするだけで致命的になりかねないからね」

「そちらこそ」

軽く話し終えると、通話を切る。

さて、此処からだ。

ブライアン医師がまた奈木に授業を始めているのを横目に、カルネは淡々と生存者の探索作業に戻る。

かなり大きな地下街があるので、其所にドローンを潜入させる。

だが、其所はゾンビの巣になっていた。

一旦ドローンを撤退させ。近場から、空輸したAI制御の装甲車を集結させる。

そして誘引電波で引っ張り出し。全て殲滅。残りは、ドローンで焼き払った。

これでは、生き残りはまずいまい。

半ば諦めながらも。

カルネは、ドローンを地下街へ突入させた。

 

1、孤独の軍基地

 

井田には、奈木はあった事がある。

東京で救出したのが奈木なのだから当然だ。当時は殆どコミュニケーションが取れなかったが。

話を聞く限り、英語をかなりの速度で覚えているという。

奈木ももう英語はだいたい理解出来るが、今は医療関係の専門用語を叩き込まれている状態で。

時々気分転換に泳ぎながら、覚えた単語を反芻している。

医療の世界は奥が深く。

そして未だに職人芸の世界だ。

AIによる知識蓄積は、結局の所上手く行っていない。たまにAIで難病が発見できるケースがあるが。それは逆に、珍しい例だからニュースになる訳で。やはり現場はまだまだ職人芸に頼りっきりなのが現実だという。

少し泳いで気分転換した後、エカテリーナからの授業を受ける。

ローテーションで教育のプログラムをこなしているのだが。

皆、奈木を褒めてくれる。

やれ文字の書き方がどうの。

計算の場合、数字の並べ方がどうの。

更に、計算式の途中経過をどう書かなければならないのと。

意味不明な事ばかりやっていた日本の学校とは根本的に違って、勉強そのものがとても今の奈木には楽しい。

とはいっても、今教えてくれているのは、世界でもトップクラスの教師達であって。

別に余所の国の学校が、日本の学校より優れていたかというと。カルネがスクールカーストのひどさを即座に理解していたように、多分同レベルで酷いのだろう。今教えてくれている教師達が例外だというだけだ。

英語と日本語を切り替えて話せるようにはなってきているが。

その一方で、やっぱり他人とは接触したくないという気持ちはある。

クローンはまだ人工子宮から外に出せるほど育っていないらしく。やはり普通の人間の赤ん坊と同じく、十月十日かかるらしい。

そうなると、本当に人間が産まないだけで。

人間と同じだ。

クローンではあるのだろうけれど。SFに出てくる、記憶を持った成人をぽんと生産するアレとは根本的に違う。

結局の所、この世界はまだそれほど進んでいない。

いずれにしても人類は万物の霊長では無いし。

そして見事にゾンビ化に負けた。

核で焼き払ってどうにかなるようなゾンビパンデミックだったら、どれだけ対処は楽だったのだろう。

人間の英知とやらは。

本気を出した自然の猛威の前には、もはや為す術もなかったのである。

プールから上がると、着替えて自室に戻る。

勉強は基本的にローテーション。

特にキザリ氏が厳しいが。

キザリ氏は自分にも非常に厳しいようで、教え方に問題があったと、自分で反省するのを何度も聞いている。

今日はキザリ氏から勉強を受ける。

数学と物理についてだが。

いずれもが、授業を受けていてとても面白かった。頭の中にすらすらと知識が入り込んでくるのが分かるのである。

「よし。 充分だ。 このご時世でなければ、国境無き医師団に来て欲しかったくらいの逸材だな」

「ありがとうございます」

「復習はしておいてくれ。 後は、分からない場所があったら、すぐに指摘するようにな」

授業を終えると、休憩時間。

窓から外を見ると、例の自動で動く車が来ていた。軍用仕様らしく、とにかくごっつい。

物資も自動で運び出している。

かなり重要な物資らしく。

梱包されているものを、幾つかの倉庫に運び込んでいるようだった。

休憩終わり。

今度はカルネの授業だ。サーバの構築作業について教わる。現在存在している主要なOSで、どう構築するか。それぞれを教わるのだが。

正直な話、待ち時間も多いし。

何よりも、覚えてしまえば難しいものではない。

問題は、構築したまっさらなOSに、どんな追加オプションを入れて行くか。

そしてそれらの機能。

単純にOSを構築するだけなら誰でも出来る。今は、いわゆるオープンソースのOSでさえそうなのだ。

だが其所からカスタマイズするのが問題で。

特に世界でもっともメジャーなOSは、カルネが知っているだけでも数十の致命的な不具合があるらしく。

今はハッカーがいないから使う事にしているが。

普段は使うのを勧めないと、はっきり言われてしまった。

授業時は、楽しそうなカルネの言葉に従って、黙々と作業をする事になる。

監視カメラや、リモートでの接続で、作業状態は見ているのだろう。カルネは兎に角色々楽しそうだ。

一通りITを教わる。

英語での構築作業にも慣れてきたし。英語はもうほぼ大丈夫だ。専門用語はその場で調べればいい、くらいになっている。カルネが倉庫から出してくれた辞典がとても役に立ってくれる。

そういえば、もう秋だし。

ゾンビパンデミックが起きなければ、先輩達に散々嫌がらせを受けながら、今頃国体にでも出ていたのだろうか。

女子生徒達はビッチと奈木を罵っていたし。

男子生徒の中には、やらせろと露骨に言ってくる奴もいた。完全に無視すると、ゲラゲラ笑うのだった。

触ろうとした奴の腕を一度捻り上げてやったから、暴力を振るって来ることはなかったけれど。

はっきりいって。

国体だの、県大会だの。

でなくて良かったと、今授業を受けながら思う。

内申書に高得点がついたかも知れないが。どうせその後だって、碌な事が起きなかったのは目に見えている。

多分教師と寝て内申書に良い成績を貰ったとか、噂が流れただろう。

そもそも奈木には性欲そのものが無い事が最近自覚できてきたのだが。これは生まれつきの例の疾患が故。

そういう状態で、ビッチ呼ばわりまでされて。

なんで大会だとか言う、くだらない代物にでなければならなかったのか。

そしてカルネ達に教わって、如何に自分が受けていた教育がカスかよく分かった。みんなこのレベルの教育を受けられたら、不幸にはならないのではないかとさえ思う。

完成したサーバを一度電源を落とし。

カートで運んで、電算室に持っていき、接続する。

ケーブルの何処をどうつなぐかは、徹底的な指導を受けた。特にネットワークケーブルは、絶対に間違えないようにと念押しされた。

ダブルチェックして、間違っていない事を確認してから、サーバを再起動。

「此方からも接続を確認。 うん、VLANの暗号化もしっかり働いてる。 もう暗号化は必要ないと思うけれど、ばっちりだよ」

「それで、これからどうすればいいの」

「設定をボクが言う通りにやってちょうだい。 あと、他のサーバも幾つか弄って貰う事になるかな」

今日の授業は長引くな。

そう思いながら、黙々と言われた通りに作業を進める。

程なく、設定が終わり。

カルネがOKと言った。

このOKという言葉、現在は殆ど英語圏では利用しないらしいのだが。まあカルネは変わっているのだろう。

後は機材類を片付けた後、復習するようにと言われて、頷く。授業は終わりだ。

食事にする。

無事だった食品店などから、日本産のお菓子などがかなり持ち込まれている。元々菓子は非常にもちがいいので、こう言うときは便利なのだそうだ。冷蔵庫には、相当量の菓子が詰め込まれているという。

お気に入りだった菓子もあるので、それは有り難い。

しばし黙々と菓子を口にして、ブドウ糖を頭に入れると。

復習を淡々と進める。

復習のやり方についても、カルネや他の人達からアドバイスを受けている。皆とても頭がいい人達なので、効率的で独創的だが。奈木も実践することが出来たので、とても有り難い。

復習を済ませた頃には夕方。

アンジュを連れて、基地を散歩がてら見回る。アンジュには、ゾンビが出たらすぐに知らせるように教えているけれど。

さて何処まで理解しているか。

一応トイレはきちんと使うし。

何より、広大な基地を走り回るのがアンジュには楽しいらしい。

他にも何匹か犬を軍基地から集める予定らしいのだけれど。殆どの軍基地で、ゾンビパンデミックの際に殺処分をしてしまったらしく。どうするかは、今計画をカルネが策定中だそうだ。

散歩は、基地内の地形把握も兼ねている。

流石にこの状況で、奈木を殺そうとする人間がいるとは思えない。

だが何があるか分からないと、ゾンビパンデミックが起きてから、奈木は散々思い知らされることになった。

だから、いつ何が起きても良いように。

基地の構造を、隅から隅まで、徹底的に把握しなければならないのだ。

究極的には、奈木は自分自身すら信用しない。

それくらいでなければ、今後は生き残れないとさえ思っている。アンジュが時々不安そうに奈木を見上げるが。

目がとても冷たいから、だろうか。

井田やサリーがいる寮も確認。

サリーはとても勉強熱心らしく、かなり遅くまで勉強をしていることが多いそうだ。井田は体力がないので、勉強をするだけで精一杯。それ以外には殆ど、最低限の体を動かすことしか出来ないらしい。

だが、それでも。

補助の道具などを使い。

最終的には情報のやりとりをしながら、研究をしていく仲だ。

出来れば顔は合わせたくないが。

いずれにしても、いる場所くらいは把握しておいた方が良いだろう。

小さくあくびをすると。アンジュを連れて自分の寮に戻る。そして、横になって、指定の時間まで眠った。

軍基地だが、もう士官も兵卒もない。

だから、皆、高級士官用の寮を使わせて貰っている。

とはいっても、そこまで兵卒の部屋と差はないらしい。

日本からカルネが持ち込んだゲームを一瞥。

遊ぶ気には、なれなかった。

 

昼過ぎから、医療の授業を受ける。体の構造について、かなり細かくエカテリーナに教わった。

エカテリーナは外科医だったらしく。

資料を見ながら、奈木は内臓の名前と性質を覚え。どういう状態が良くないのか。どうすれば改善できるのかを、一つずつ覚えていく。

「気持ちいいくらい覚えが良いね。 アタシの授業で、このくらい出来が良い生徒が多かったら、鬼ババアなんて呼ばれなかっただろうにね」

「……」

「相変わらず無愛想な子だね。 次行くよ」

ロシア人だが、エカテリーナは英語ぺらぺらだ。ドイツ語も出来るらしい。

これは医療の最先端がドイツにあったから。

そして残念ながら、ドイツでは医師はもう生きていない。

ゾンビパンデミックの際に、もっとも頼られたのは、医療における世界最先端、ドイツだった。

だからドイツの医師は最前線に出向き、最後の一人までが助からなかったのだ。

今はドイツの大学病院などから資料を回収して、カルネがまとめてくれているらしいけれども。

ドイツ人の優れた医師が一人でも残っていればと、医師達は、皆口を揃えて言うのだった。

「それにしても化粧っ気のかけらも無いね。 そのくらいの年だと、彼氏くらいいても不思議じゃないんだがね」

「男も女も大嫌いです」

「ああ、学校で同年代の人間の嫌なところばかり見ていたんだっけ」

「エカテリーナさんはどうだったんですか」

鼻で笑うと。

エカテリーナは言う。

元々エカテリーナは、ロシア式のエリート教育にかなり早い段階から関わっていたらしい。

裕福な家の出だったらしく。

学校に行くよりは、家庭教師に教わることの方が多かったそうだ。

ロシアの次世代の首脳部に入る事を期待されていたらしいが。

その首脳部に入るか入らないかのタイミングで、ゾンビパンデミックが起きてしまったのだとか。

それは残念だなと奈木は思ったが。

エカテリーナは笑い飛ばす。

「どこの国も、今の時代は上層部が腐りきっていてね。 アタシの国もそれは同じだったよ。 派閥抗争に、自分だけで金を独占しようと考える連中。 都合が良い事を並べ立てて、兵士を死地に送り込んで平然としている腐れ酔っ払いども。 街の中にはマフィアがうようよ。 更にタチが悪いのが幾つかある非公式の諜報組織でね」

ロシアの内情について、色々話してくれる。

まあロシアも何も、何処にも国なんて存在しないし。金持ちという存在自体がいないのだから、まあ良いのだろうか。

「まあそんな国だから、別に今は惜しいとも思わないね。 潰れてくれてせいせいしたってのが本音だよ。 あんたもそうだろう?」

「まあ、そうですね。 私の国も、どうしようもない学校で散々心身を痛めつけられた後は、待っているのはブラック企業でしたから」

「どこの国も今は労働者をすり潰していたからねえ。 あんたの国では、「先進国」ではまともな労働が為されているとか言う噂が力を持っていたんだって?」

「信じているのはアホだけでしたけどね」

エカテリーナがげらげら笑う。

奈木は一切笑わない。

というか、実の所。

もう笑い方が分からないのである。

家でも学校でも、ずっと口を引き結んで、寡黙に振る舞ってきた。暴力を加えられたときだけ反撃したけれど。男子がどんどん力が強くなっていたから、その内強姦まがいの行為くらいされていた可能性もある。

底辺校だったわけではない。

今は何処の学校もそうだ。

部活で散々痛めつけられて、笑顔は忘れた。家でも成績を上げろと言われ続けたし。何より晴菜が死んだ事が決定打になったのだろう。今では、笑おうにも、笑うこと自体が出来ないし。

何よりも、楽しいと言う事が分からなくなっている。

「さて、続けるよ。 今度は71ページ」

授業を続ける。

エカテリーナは、授業で脱線も多いが、一番楽しそうに授業をする。ブライアンも楽しそうだけれども、あの人は何というか、奈木の覚えが良いことを楽しんでいる雰囲気である。エカテリーナは、自分が楽しんでいるのが伝わってくる。

内臓関連の授業が終わり、休憩が入った。

プールで水泳をしばし黙々と行う。ちなみに、これも体を動かしているので、授業の一端と考えて良いそうだ。

復習を脳裏に浮かべながら、黙々とバタフライで泳ぐ。

25メートルを二十周ほどした所で、自ら上がり。筋肉の仕上がりを確認。まあ充分な仕上がりだ。

アンジュは水が怖いようで、プールには絶対に入らない。

まあ、別に犬が泳げなくても困る事はないだろう。なお着衣泳の訓練も最初少しやったのだけれども。

すぐにマスターしたので。授業は切り上げられた。

プールの後は、市川の授業。

唯一日本語の授業である。

最初は色々基礎的な事を教わっていたのだが、今は市川には戦闘技術について教わっている。

当然基地なので射撃場はある。

市川は下士官らしく、軍事訓練の担当に丁度良いと判断されたらしい。なお軍人もカルネの側にいるらしいのだけれど。

その人は、教えられるほどの技術が無いと口にしているそうだ。

銃の構え方から撃ち方まで、順番に教わる。

絶対にやってはいけない事も教わった。

特に銃がジャムった時、銃口は絶対に覗き込んではいけないそうである。これは誰もがやるそうで。

何度も念押しされて、その度にはいと応えた。

なお、奈木は銃撃の才能はあまりないらしく。

淡々と的を撃ち抜いていたが、真ん中にあたる事は殆ど無かった。

途中から銃を切り替えて、アサルトライフルにする。

多数の的を順番に始末していく訓練だが。

こっちの方は、むしろ筋が良いそうで。

移動しながら、アサルトライフルで次々にでてくる的に射撃する事は。精度はともかく、かなり出来ると言う。

時々出てくる非戦闘員に対する誤射率もほぼゼロ。

これは頭がしっかり働いていて、一瞬の判断力が優れているから、だとか。

だが、的はどれも頭にも腹にも、当てるように言われている場所に着弾していない。

精密射撃には、課題が大きい様子だ。

「他の二人は戦う事が出来ない。 AI制御の兵器達が基地の周囲を固めているが、いざという時は君が二人を守る事になる。 クローン達が生まれてきたら、その子達を守るのも君だ。 保育は保育器が自動で行ってはくれるが、当面は君は戦えなければならないことを忘れるな」

市川はそう厳しい事を言う。

分かってはいるが。

あまり良い気分はしない。

そもそも人間と関わらない事を協力の条件にしたのに。どうしてこんな事をしているのか、不愉快な点もある。

格闘技についても教わるが。

そもそも相手がいない状態で、格闘技も何も無い。

元々下手な男子より強かった奈木だけれど。中学になってからは、男子の力が強くなってきていて、勝てないと思い始めていたし。

軍用格闘技といっても、実際には武器を持った相手と素手で戦う事は出来ないとか、色々現実的な話を市川から聞くと、色々真顔になる。

勿論制圧する方法は色々あるらしいが。

特に体格が上の相手や、武器を持っている相手。猛獣が相手になった場合は、絶対に素手では戦わないようにと言う指示を受ける。

リーチが長いと言うだけで、まったく勝負が違ってくるそうだ。

銃を持っている人間が最強なのは、そのリーチが最強であるが故。

ともかく、黙々淡々と体を動かす。

水泳で鍛え上げた体だから、基礎は出来ているのだけれど。

格闘技をする際の鍛錬はそれともまた違っていて。

色々と頭が追いつかない事も多く。

苦労は多かった。

「そこまで。 今日は後は自分で復習しておくように」

「イエッサ」

格闘技の時は、そう返事するように言われた。

だからそうする。

実際の映像を見ながら、また体を同じように動かして見る。やはり何というか、人間相手の組み手でないと力は色々と発揮できない気がする。

少なくとも、試行錯誤は無理だし。

経験も積めないだろう。

カカシや空気相手に訓練しても、実際に出来るかは別の話。

水泳と同じように、実際に水に入ってみなければ、泳げるかどうかなんて分からないのである。

それでも、黙々と言われた事を反芻する。

体を動かすのは好きでも嫌いでも無い。

ただ、黙々とこなし。

それが終わった後、ブライアンの授業を受けた。

毎日徹底的に、あらゆる事を詰め込まれていく。

皆、必死だ。

いつどうなってもおかしくない。

ギリギリを攻めていても、それでもゾンビ化するかも知れない。そうなったら、おしまいなのだ。

更に言えば、奈木だって本当に絶対耐性を持っているかは分からない。これは考えないようにしている筈で、他の皆も分かっている筈だ。

皆、希望にすがっている。

それは分かっているが。

敢えて奈木は口にしない。黙々と、知識を毎日吸収していく。皆、命を削っているのが、授業を受けていても分かる。

そして、冬が来た。

 

2、そして冬が再来す

 

暦としては冬。11月末。

今いる軍事基地も、日本とあまり季節が変わらない場所にある。だから、同じように冬が来た。

雪が降り始める。

多分生存者はもう絶望的だろうなと奈木は思ったが。カルネは黙々とまだ生存者を探しているらしい。

奈木はどうとも思わない。

義務として出来る事をし。

そして研究が出来るようになった時のため、膨大なデータを集める。

いずれもが、人類を生存させるための努力。何もかもを無駄に出来ない。生存者が確保出来ればよし。

確保出来なくても。それは大きな一歩へとつながるのだから。

カルネがそう思ってやっていると言う事だ。奈木に何かを言うつもりは無い。そもそも奈木には、その全てに興味が無いし、否定するつもりもなかった。好きにすれば良い。

全てが終わった後の安寧と静寂。

奈木が求めるのはそれだけだ。

淡々と勉強を進めていく。医学の勉強も比重が増えてきたが。それ以外にも、数学、IT、プログラミングの授業も増えてきた。

プログラミングは専門校で学ぶレベルのものだと聞いていたが。

カルネは現役のハッカーとしても高いスキルを持っているらしく。かなり独自の我流で、色々と教わった。

自分のクローンも見にいったが。

まだまだ人工子宮の外に出せる状態では無さそうだ。

恐らく次の春に出せることになるらしいが。それでも、しばらくは保育器で育てるという話である。

子供の世話に関しては、ある程度奈木がやらなければならないが。

夜泣きなどの対策は、自動でやってはくれるらしい。

それは助かる。

子育ての負担は奈木も聞いていたし。

第二弾のクローンは二十人くらいという話だったから、とてもではないけれど手が回らない。

ちなみに奈木と井田、それにサリーの分しかクローンは作らないそうで。

まあ理由は当然ゾンビ化してしまうから、だ。

実際問題、乳幼児のゾンビ化も確認されているという話である。クローンとして育てている途中にゾンビ化されてはたまらない。

奈木は子供を産めない体だが。

子供そのものはあまり可愛いとは思えない。この辺り、奈木の歪みなのだろう。もっとも、自分の子供に愛情を抱けない親は珍しくもないとは聞いているが。

クローンを見に行った後、プールで泳ぐ。

流石に温水プールは贅沢だろうと思っていたのだが。

軍基地を動かす過程で相応の熱が出るらしく。その余剰熱で、温水プールは使えるようになっていた。

この辺りは、軍人に対する米国の考え方なのだろう。

奈木がいた日本では、軍人とさえ名乗れなかった自衛隊は、文字通り予算からも針のむしろに座らされられ。一部の思想の人間からは差別まで受けていた。高い練度をそれでも維持していたらしいから、尊敬に値するが。

こんな風に、福利厚生が充実していたら。

もっとやる気を出せていただろうに。

ただ、水泳は全身運動という事もあり。

これでがっつり鍛えることによって、身体能力の低下を防ぐ、という意味もある様子だ。

バタフライで25メートルを黙々と往復する。

好きでも嫌いでも無いが。

水泳部では無く水泳だからまだいい。

水泳部は二度と行きたくないし。

競技としての水泳だって絶対にやりたくないが。

ただ泳ぐだけなら、別にかまわない。またタイムが上がっているらしいが、それもどうでもいい。

いずれにしても、これだけ動けてゾンビ化しない。

ゾンビ化は、当面懸念しなくても良いだろう。

プールから上がると、着替えて、外に出る。基本的に外を歩くときは、アンジュを連れるようにしている。

犬も運動不足になる。

結局余所の基地からまだ犬は来ていない。

物資の輸送にカルネがリソースをずっと削ぎっぱなしで、犬を動かす所まで余裕が回らないらしい。

井田とサリーとも殆ど顔を合わせていない。

二人ともかなり勉強が進んでいる様子で。

奈木ももっと頑張るようにと、やんわりと言われたが。

知った事か、としか言えない。

そもそも後数年でコールドスリープする身だ。サリーに至っては更に早いと聞いている。

自分の分身であるクローン達に丸投げして眠るのは色々と忸怩たるものがあるが。

そもそも遺伝子は二十歳を過ぎると劣化する一方で。

今後研究に何千年掛かるか知れたものではないという話を聞くと。

それも仕方が無いと、納得する他ないのだった。

食堂に出向き。

適当に日本から持ち込んだレトルトをチンして食べる。二三回、軍用レンジの出力を見誤って、冷凍してパックしておいたご飯をカチカチにしてしまったり。レトルトをカチカチになるまで温めすぎてしまった。

いずれにしても、普通に料理するのにはあまり向いていないし。

おいしいレトルトが確保出来ているのだから、それでいい。

ただ、時々料理の練習もさせられる。

クローンが二三歳になった頃には、奈木が親代わりになって引率をする必要があると聞いている。

ならば、それも仕方が無いのだろう。

食事を終えた後は勉強だ。

どんどんディープな分野に踏み込んできている。

医療は分厚いマニュアルと、膨大なデータを見て、患者の状態と病気についての判断。治療法についてなどを、少しずつ教わるようになっている。

なお医療と言っても産婦人科は別で。

現状、この場で子供が生まれる可能性がないため、必要ないとカリキュラムから省かれている様子だ。

まあそれもそうだ。

此処に生きている三人。

他の場所にいる、過酷な環境での生き残りを選んだ人々。

子供を作るどころでは無いし。

重度のエイズになっている状況で、子供なんて産んでいられないだろうから。

勉強に関しても、かなりついていくのが難しくなってきているが。

それでも、恐らく奈木の能力をフルに引き出し。

クローン達に変わって眠りにつく頃には。

相応の事が出来るようにしておくようにするためには、準備がいると判断しているのだろう。

面倒を見るためのロボット……といっても人型では無く、円筒形のものも、準備が始まっている。

奈木が眠りにつくのは六年程度後。

その後、最年長でも六七歳のクローン達の面倒を見る存在が必要になる。

既に何機か運び込まれてきているが。

今後生産して、更に増やすらしい。

ただAI部分は未熟なので、これからカルネが一生懸命組むし。それに主にサリーが協力するとか。

色々大変だなと、奈木は勉強を教わりながら、淡々と思った。

英語はもう完璧だ。

まさかこれほどの短時間で、医療関連の用語も含めて、喋れるようになるとは思わなかった。

中学から高校まで六年掛けてもろくに覚えられないのに。

数ヶ月でほぼマスターというのは、奈木自身が正直信じられない。

これは恐らく、奈木の頭そのものよりも、教え方が良いのだろうけれども。

それにしても、いくら何でも元受けていた教育に問題がありすぎたのではあるまいか。

若干苦手な物理の授業を終えた後。

カルネが通信に出る。

ドローンも飛んできたので、ついていく。

外は雪がかなり降っていたが。

建物はオートで熱を発して雪を溶かしていたし。

道は自動で雪かきする装置が、オートで雪を海に落として処理していた。機械を不審がってアンジュが吠えるが。けらけらとカルネは笑う。

「犬は結構頭が良い生物なんだけれど、個体差が大きいねえ。 アンジュはどうしても頭が良くならない。 直接見なくてもその辺は分かる」

「それで、何処にいくの」

「オートで動いている兵器が、どれくらい感度が鋭いか、確認しておこうと思ってね」

「……」

なるほど、人体実験か。

基地の周囲に展開している無人の装甲車やセントリーガン。たまに銃撃音がするが、此奴らだろう。

猛獣やゾンビが出たとき。

対応しているのだ。

現在は、フルオートにはしておらず。

基本的に各種センサーで接近する存在を察知。

警告がカルネの所に行き。

問題があるようなら、カルネが発砲を許可しているらしい。

基地の外側には鉄条網があり。

あまり考えたくない汚れが彼方此方についていた。

その更に外側に、一定の距離を保って装甲車が。更に自動で動く小型の銃座、セントリーガンが展開している。

センサーが動いて、此方を捕捉したのが分かった。

セントリーガンが何機か、此方に銃口を向けてくる。

カルネが黙ったと言う事は、何かしていると言う事だろう。奈木は足を止めて、しらけた目で相手を見つめる。

「よし、登録完了、と。 今AIを制御しているクラウドシステムに奈木のパーソナルデータを登録した。 これからの成長分もあわせて、ね。 ボクの入力に問題があるかも知れないから、ちょっとこれから言う通りに動いて貰える?」

「蜂の巣にされないだろうね」

「今は非攻撃モードに設定しているから大丈夫。 ……まあ本当の所、大丈夫かどうかもこれで確認しておくんだけれど」

車いすで移動しなければならない井田やサリーも、雪がとけてから同じ実験をするつもりらしい。

確かに、何かしらの理由で、今後は基地の外縁に出なければならなくなる可能性も出てくる。

その時、これら自動兵器に穴だらけにされたら、笑い事にもならない。

アンジュは一旦リードを側の木にくくりつけ。

セントリーガンに言われたまま近付く。

セントリーガンはカルネが何かしたのか、すぐに銃口を外して、外側に向き直ったけれど。

しかしながら、センサーはずっと奈木を見ている。

それについては、別に説明されなくても、センサーの動きなどで分かった。

「ん、問題なし。 奈木を認識はしているけれど、排除対象としては考えていない。 装甲車も大丈夫」

「それで、これだけ?」

「いいや、触ってくれる?」

「……」

セントリーガンに触ってみるが、極めてごつい造りだ。近くで見ると分かるが、大型ライフル並みの口径である。これでは、撃たれれば熊でも一撃だろう。これを速射するのである。

ゾンビの群れを蹴散らした実績があるらしいが。

まあ当然だろう。

これをゾンビがどうにか出来るとは、とても思えない。

装甲車に乗るように指示されたので。

言われた通り、タラップから、装甲車の上部に。

装甲車はいわゆる無限軌道では無く車輪式で、何故車輪で動かせているかというと、装甲が薄いから、らしい。

この装甲車はストライカーというらしいが、車体には立派な戦車砲としか奈木には思えない大砲がついていて。それにくわえて機銃とグレネードで武装している。こんなものが出てきたら、ゾンビなんぞどれだけ襲ってきてもどうにもならない。銃弾が尽きても、燃料が尽きるまでそれこそ蹂躙を続けるだろう。

上にあるハッチを、指定の通りに動かして開ける。

内部に入ると、意外に広い空間がある。

戦車は装甲などの関係でギチギチらしいのだけれど。

装甲車は兵員輸送を仕事として行うらしく。

AI制御のこのバージョンは、乗せられる兵員が通常のストライカーよりもかなり少ないらしいのだけれども。

それでも五人ほどフル装備の兵士を輸送できるそうだ。

勿論手動操作もできる。

「アンジュは乗せないの?」

「発砲音していたでしょ。 アレなんでだと思う」

「まだゾンビがいる?」

「ここしばらくはこの基地にゾンビは近付いていないよ。 近付いているのは主に犬、たまに熊」

そういうことか。

奈木はゾンビ化に耐性は(多分)あるけれど、狂犬病についてはそうではない。

狂犬病は主に東南アジアで根絶が進んでいなかったと聞いているけれど。米国でも数十頭が毎年狂犬病と診察されているらしい。

狂犬病は言う間でも無く致死率100パーセントの恐ろしい病気だ。

特例としても、数例しか生還例がないらしい。

犬は基地の外側から近づけさせるわけには行かない。もしも近づけさせる場合は、AI制御の車に乗せて輸送する。

そういう事だそうだ。

「警告をしてにげるなら良し。 駄目なら撃ち殺すようにしてる。 可哀想だけれども、今は狂犬病がより脅威としては大きいからね」

「そうだね」

「じゃあ、手動で動かして見ようか」

「課外授業?」

咳き込んだ後。

カルネはそう、と言った。

エイズを体にぶち込んでから、あからさまに無理が利かなくなってきているらしい。今一杯喋ったから、咳が出たと言う事だろう。

頷くと、指示通りにストライカー装甲車を動かして見る。

操作については、今まで軍用訓練を受ける過程で、色々とマニュアルは読まされた。本来部外者には絶対に読めないようになっているものばかりなのだが。マニュアルの閲覧は無制限に許可され、英語をマスターした今は難しく無い。

むしろ米軍の軍用マニュアルはとてもわかり易い内容ばかりで。

今後は恐らくヘリなども操縦させられるだろう事は確実である。

基地内にはM1エイブラムス戦車も少しいるのだけれど。

いずれこの戦車も動かす事になるかも知れない。

「基礎は問題無さそうだね。 前進、後退、ゆっくりやってみて。 鉄条網には突っ込まないようにね」

「……」

「よしよし、他のストライカーは攻撃対象として認識していないね。 セントリーガンも問題なし……。 其所でストップ。 今度は砲塔を旋回。 360°旋回は出来るけれど、他のストライカーに向かないように注意はして」

流石にAI制御なので、砲塔を向けられるとアラートが鳴るという。解除には手間がかかるという事で、確かにそれは気を付けなければならない。

カルネはそれから、おおざっぱな指示だけだして、何かマイクの向こうで音が聞こえていた。

多分治療を受けているか。

それともお薬を飲んでいるのだろう。

何しろ、ギリギリまでエイズで体を痛めつけているのだ。

それこそ慎重に、慎重すぎるほどに。

あらゆる全てを、気を付けなければならないのだろう。

「次はグレネードの……お、言わなくても出来る」

「マニュアルは読んだから」

「いいね、流石だ。 ボクも教壇には立ったこと歩けれど、教えがいがあってはりきっちゃうよ。 これで体をこんなにしないといけないのは本当にやるせない」

「それで、特に問題はなさそう?」

奈木も自分の愛想がないことは分かっているが。

指示通りにやってみせても。

それがちゃんと出来ているかは、客観的に見てもらわないと分からない。

カルネはドローンを飛ばして外から、更にはネットワークでプログラムの機動を。ついでに装甲車自身の内部カメラなども確認している筈で。完全な意味で、客観的に操作をモニタできているはず。

続けて機銃の操作について。

弾は当然だが、撃たせて貰えないが。

操作は問題ない、と言う事だった。

「よし、OK。 じゃ、今日の課外授業は此処まで。 後はゆっくり休んで」

「装甲車の後ろ、開けないの」

「今は必要ないからね。 でも、マニュアルの全てを試したいという考えは良いね。 開けてみる?」

「機能は一通り試したい」

カルネが許可を出してくれたので、開けてみる。

確かに兵士が数人入れるだけのスペースがある装甲車の、後方装甲がせり上がり、内部に色々詰め込めるようになる。

兵士の装備は相当にかさばると聞いている。

このストライカーは、次世代用のAI制御車で、空挺も想定している仕様らしく。

故に、却って人を乗せるスペースには注意を強く払っているらしい。

重厚な動きで後ろの装甲が開くと、自動でスロープまで降りた。

頷くと、装甲を締め直す。

そして、ハッチから出て。ハッチを閉め直した。

アンジュのリードをほどくと、寮に戻る。まるでずっと最初からそうだったように。今まで指示通りに動いてくれたストライカー達は黙り込んでいた。雪の中、ずっと佇む様子は。

さながら死人の軍団だ。

最悪の場合、湯を掛けてハッチを開けなければならないらしいけれど。

この辺りの冬のピークは今らしく。

また、基本的にストライカーに乗ることは無い、と言う事なので。あくまで最悪の場合に限られる状況らしい。

カルネは多分、仕事で相当に参っているのだろう。

軽く話すと、喜んでいるのが分かった。

奈木は内心冷め切っているのだが。

それを分かった上で、話すのが楽しいのだろう。

カルネもあまり良い人生を送ってきていない。

それは、今まで話していて分かったが。それでも、こう言うときにそれが、現実の事なのだと突きつけられる。

「井田とサリーの状況は」

「どっちも覚えが良いよ。 井田は殆ど身動きが取れないから、ネットワーク関連のサポートで動いて貰う予定。 サリーはデスクワーク系の研究が中心になると思う。 奈木はフィールドワーク系と言うか、実際にサンプルを扱って貰う感じかな」

「もしも、数年以内に解決策が見つかったら?」

「ん、コールドスリープ予定の二十歳前って事?」

無言は肯定。

カルネは少し黙り込んだ後、嘆息する。

「この件で研究を続けていたメンバーは、奈木と同等か、それ以上のIQの持ち主で、皆世界的なスペシャリストばかりだよ。 サリーは奈木以上のIQの持ち主だけれども、君ら三人共通して、まだ素人だって事を忘れちゃいけない。 一番楽観的な計算で、100年は掛かるとみてる」

「100年……」

「ボクも他の皆も15年後くらいにはコールドスリープに入る。 ブライアン先生はそれまでに生きているか分からないなあ」

そうなると。

もしも奈木が、カルネ達がコールドスリープした後に起きだして。

他の全てを掌握。

そして廻りを皆殺しにして、誰もいない世界で自由に生きることを決めたら。文字通り誰にも止められない訳か。

勿論そんな事をするつもりはない。

約束は守る。

周囲にいた連中と同じにはなりたくないからだ。

奈木は実力で孤独を勝ち取り。

後はゆっくりと、誰にもかかわらず静かに暮らす。

ただ、今習っている事の全ては、奈木のためでもある。

最悪の場合。

例えば、人類が復興した後。奈木を殺しに掛かってくるようなら。全力で反撃をさせてもらう。

そのためにも、軍事教練は真面目に受けておいた方が良いだろう。

カルネがまた咳き込んで、通信にブライアンが割り込んできた。

「今日はカルネをもう休ませる。 君も休むように」

「はい」

「授業の進展速度は予想以上だ。 この様子だと、ひょっとすると我々も想定より早くコールドスリープに入れるかも知れないな」

そうかそうか。

楽観を振り回したいなら好きにすればいい。

シャワーを浴びて、風呂に入って。それから布団に潜り込む。ぶつぶつと呟きながら、今日の勉強範囲を復習。

寝るまで、復習をすることが、身についていた。

恐らく六年後。

眠りにつく前には、幼稚園を上がったばかりの子供同然の自分数名を、同年代の平均的な子供とは比べものにならない程に仕上げておかないとまずい。

今日カルネと話して分かったが、相当に無理をしている。

後15年くらい保たせるつもりのようだが。

多分無理だろう。

クローンによる自給自足が完成するまでに、皆もたない可能性が高い。学習効率を上げないと色々と厳しいだろう。

更に言えば。

何かの事故で、奈木やサリー、井田が死ぬ事だって考えられる。

事故でなくても、ゾンビ化が発生する可能性だって否定出来ない。

ならば、やることはしっかりやっておかなければならないか。

小さくあくびをすると。

もう今日は眠る事にする。

最近は、思考を英語と日本語で切り替えられるようになって来た。

いわゆるバイリンガルだ。

中学で、奈木を馬鹿にしていた連中は。完全にバイリンガルになった奈木を見て、地獄で悔しがっているだろうか。地獄があれば、連中は確実に地獄行きだろう。もしそうなら、確実に悔しがっているな。

そう思うと。

少しばかり、おかしかったし。

痛快でもあった。

 

更に二ヶ月が過ぎる。

カルネの言葉通り、11月が寒さのピークだったらしい。気候の問題とかなのだろう。いずれにしても、今は前より雪も少ない。除雪車も動いていない。

M1エイブラムスに乗せて貰い、操作をする。

基本的に四人乗りのエイブラムスは、一人で動かす事が出来ない。また、AI制御対応の車両も、実戦投入には間に合わなかったそうだ。研究は行われていたらしいのだが。いずれにしても、一人で一つずつ操作していくしかない。

車両の操作はそれぞれ専門の人間が分野ごとに行うらしい。

これについては、手動式のストライカーも同じらしく。

だから、M1エイブラムスをフルスピードで走らせながら射撃するとか、そういう真似は奈木にも出来ない。

移動と砲撃は別々に授業で習う。

いずれにしても、奈木のクローンが大勢育つようになったら。戦車を動かす事は、視野に入れるのかも知れない。

「これは兵士用の教育プログラムでは追いつかないかもしれないな。 今日中にエイブラムスの操縦を覚えそうな勢いだ」

「カルネにも出来る事でしょ?」

「うーん、ボクはガタイがね」

「そういうものなの」

まあ確かに、大きな体の大人用に作られているとしか思えない内部構造だ。体が小さいとカルネは前に言っていたことがある。多分カルネが使うには色々と厳しいだろう。

一通り戦車を動かした後、プールに。

泳いでさっぱりした後、次の授業に。

医学についても、人体模型などを用いて、より本格的な授業を行うようになって来ていた。

学校にあった人体模型のようなオモチャでは無い。

もっと本格的な奴だ。

軍基地である。

大きな怪我をして、運び込まれる患者も多かったのだろう。

軍病院も内部にあり。

其所へ入った後、色々な器具について説明を受け。使い方についても教わった。

順番にメモを取って、使い方を一つずつ把握していく。一つにつき本来は数ヶ月かかる場合もあるらしいのだけれど。

今の奈木はそれほど苦労はしない。

いずれ、自分のクローン同士で、この器具を使う可能性もあるのだ。

丁寧にメモを残す。

カルネ達だけに負担を掛ける訳にはいかない。

クローン達が保育器から出たら。

その時に、クローンが親と慕うのは奈木だ。

奈木の親は良い親とは言えなかった。

だが、奈木はそうはならない。

子供達の負担を減らすために。

可能な限り、学習で詰まったところや、わかりにくかったところ。難しかったところや、理解しにくかった所について、メモを残しておく。

相手は自分だ。

負担を減らす方法は良く分かっているつもりである。メモを時々見直して、加筆もしておく。

年を越した祝い事などは一切出来なかったが。

それについては、仕方が無い。

軍基地内にある機械類については、毎日一つずつ確実に視察して、機能などを把握していく。

その他の学習も、次々に頭にねじ込んでいく。

分かっている。

人間の英知を、残さず頭に叩き込まれていると言う事は。

殆どの人間では耐えられないと言う事も。

だが奈木には耐えるスペックがある。

そしてそれが必要なら、耐えるだけ。

正直な話、ゾンビに汚染された街の中でサバイバルするよりは、遙かに楽だ。この程度なら、何でも無い。

一日分の授業が終わった後。

カルネが連絡を入れてきた。

寝る前に連絡を入れてくるのは珍しい。何かあったのかと思ったら、案の定である。良くない知らせだ。

それも、数ヶ月ぶりの。

「ブライアンの調子が良くない」

「……治療に専念するの?」

「そうなるね。 ただ、健康にしすぎると恐らくはゾンビ化してしまうと思うから、まずはエイズを弱める事に専念する。 癌治療も必要だし、二ヶ月くらいは学習が遅れることになると思う」

「その分、理解を早めれば良い」

奈木がそう言うと。

大きくカルネはため息をついた。

哀しみの溜息では無い事は明らかだった。

「問題はもう一つあってね、ブライアンの執刀は多分ボクがやることになる。 エカテリーナや市川、キザリのサポートでね。 つまり授業を、不慣れな他の面子に代わって貰う事になる」

他の面子か。

モリソンという気弱そうな黒人男性。

科学者ではあるらしいのだけれど、授業の際に終始おどおどしている。奈木はいいのだけれども。

反抗期に入ったクローン達の方が心配だ。

軍事関連の訓練は、軍人だというバズという人に受ける事になるだろう。

この人は、使命感で最後まで残った一兵卒だと聞いている。

そうなると、カルネのようにヘリから艦船まで操縦を教えられる、というわけにはいかないだろう。

授業が遅れる、と言う事だ。

「ブライアンさ、元々内臓に幾つも重度の疾患持ってたんだよ。 それについては、エカテリーナも同じ。 うちはまだ四人此処にいるからいいけどね、市川にしても、一人だけで残っている人は非常に状況が難しいね」

「みな、まとまって行動するわけには」

「不慮の事態が起きたときに対応出来ないんだよ」

それもそうか。

それに何より、無菌室から出られない状態にまで追い詰められているのだ。

輸送機でこのヘイメル基地にまで来るとか。

或いは他の人が潜んでいるシェルターに行くとか。

そういう事は、無理だろう。

「ともかく、一月くらいは治療に全力で取り組むことになるから、基礎学習を自習して貰う事になると思う」

「最悪の場合に備えないといけないね」

「……ブライアンは、一応自分の知識を徹底的にまとめたマニュアルを作っていたけれど、とてもではないけれど完成には遠いとも言っていたね。 そうなると、恐らくブライアンが亡くなることは致命的になる。 絶対に、そうはさせない」

カルネは通信を切る。

冬が終わり、春が来ようとしている。

クローン達はそろそろ、人工子宮からでて保育器に移る。其所で英語を教わって。やがて奈木に引き渡される。

だけれども、予想されていた15年の教育体制は。

一年も経たずに崩壊を始めている。

外に出る。

多分今年最初の雪にして、また秋深くにならないと降らないだろう雪が。

ヘイメル基地に降り注いでいた。

 

3、リソースの枯渇

 

手術を黙々と行う。ヘッドホンをつけ、映像で指示を受けながら、カルネが執刀する。モリソンは血に弱いし、何よりどうしても動くのが遅いし鈍い。カルネがやるしかない。

黙々とメスを動かす。

その間に、奥でバズに授業をして貰う。

市川は、ただ淡々と指示を出してくる。

エカテリーナも今授業の最中だが。

市川の表情は、ずっと険しかった。

「カメラをもう少し上に」

「こうですか」

「……此処の血管がかなり危険な状態だ。 入れ替えないといけないかも知れない。 バイパス手術をする必要があるが、説明は」

「不要です。 此方でも可能性がある手術については全て目を通していますので」

頷くと、市川が指示を出してくるので。

動脈をバイパスし。

壊死し掛かっていた部分を切除する。

手術は四時間にも及び。

大量の輸血用血液を消費した。

腹を縫い合わせた後は、疲れ切ってしばらくカルネも動けなかった。このくらいの事を、奈木にも出来るようになってもらうのか。色々としんどいな。そう、カルネは思ったが。口にはしない。

やはりエイズをぶち込んでから、身体機能が目に見えて落ちている。

今回の手術だって、前なら二時間でいけただろう。今回はミスこそしなかったが、それも次は分からない。

今後、チキンレースを続けていく事になるのだ。

奈木が言ったとおり。

最悪の事態には、備えなければならないかも知れない。

ブライアンが目を覚ます。

何度か咳き込んだ後、すまないなとぼやく。熊のような老人なのに、しぼんだように頼りなかった。

「無理を精神力で克服はできない。 それはわしが一番長い医師としての経験で分かっていたはずだったのにな」

「医者の不養生と日本では言うそうですよ」

「コトワザか。 確かにまったくその通りだ」

自分にされている処置について、全て確認した後。完璧なようだなとぼやき。そして眠りにつくブライアン。

色々とまずい。

市川と話す。

「このままだとブライアンの体力が保たない。 恐らくだが、後四年……五年保てば奇蹟だろう」

「奈木が眠りに入る前、ですね」

「もしも治療を考えるなら、三年後にはコールドスリープに入って貰わないと駄目だろうな」

そうか。

市川も、相当なレベルの医者だ。

結局本職の言う事には従うしかない。

カルネだって、今は本職の真似事をしただけ。とはいっても、皆がまとまるわけにはいかない。

文字通り、最悪の事態が起きてしまう。

一網打尽、だけは避けなければならないのだ。

輸送船などを用いて、一箇所に集まることは理論上出来る。出来るのだが、出来ればやらない方が良い。

そしてロシア、日本、マダガスカル。

それぞれの場所では、一人がどうにかやっていくのが限界なのも現状なのだ。それくらい、厳しい状況でやりくりしているのである。

しばらく頭を抱えて考え込んだ後。

市川に相談する。

「この様子だと、ブライアンは休養期間後も無理はさせられませんね」

「他の皆もだ。 エカテリーナも危ない」

「分かっています」

「勿論君もだ。 若い分、エイズなんて体に入れた以上、癌などが出たらあっと言う間に大変な事になる」

それも分かっている。

多分奈木にはばれているが。

本当に、ぎりぎりのぎりぎりを攻めているのだ。

一旦話を切り上げると。

手術の後始末をして。

そして、自分がやってきた事をまとめようかと思い。とてもではないが、まとめられない事に気付く。

大体、である。

六年後には、奈木にコールドスリープに入って貰わなければならない。

DNAはどんどん劣化する。

二十歳を過ぎれば劣化は開始され、どんどん加速する。

今後の希望になる奈木は、劣化コピーを生産するわけにはいかない。奈木本人の細胞でクローンを作らないと、最も楽観的な観測で100年、最悪の場合数千年に達する研究に、耐えられない。

そして最悪の事態の場合。

コールドスリープしている人々だって、耐えられないかも知れない。

ヘイメル基地には、まだ物資の収束を続けているが。

それもそろそろ一度切り上げるべきだろうか。少し悩む。

生存者の捜索については。

既に可能性がありそうな場所は、あらかた探り尽くしている。そのため、もはや探す作業は殆どなくなった。

その作業に使っていた時間を教育に廻し。

更に、物資の集約について、計画を練り直せば、或いは。

少し考えた後。

物資の集約については、計画を遅らせることにする。腐ることがない物資については、そのままでいい。

早めの輸送が必要になる物資に関しては。

ヘイメル基地に集約する必要がある。

輸送船はフル活用しているが。この輸送船にしても、事故で損失する可能性があるのだ。何もかもが、トラブルなく上手く行くわけが無い。

世界の各地には、ゾンビを引き寄せるための電波発生装置を配置していて。

これによって、密閉空間などを除くと、もはやゾンビは存在しなくなった。

うずたかく積もっているゾンビだった死体は世界の各地に転々としている。それらは焼くか、それも無理な場合は毒物を掛けて、野獣のエジキにならないようにしている。人間の味を覚えられると困るからである。

それらの操作も一段落した今。

作業の比重を変えるべきか。

授業が終わったらしいモリソンが、泣きそうな顔で戻ってくる。

奈木が怖いそうだ。

倍も年下のカルネに、ぶちぶち文句を言う。

「あの子いったいなんだよ! まるで獲物を狙うジャガーだ! マジで殺気感じるんだけど! 本当にミドルハイスクールの生徒だったのかよ!」

「米軍のドローンから巧みに逃げ回っていた話は聞いているでしょう? ボクが出るまで捕まえられなかったんですよあの子。 訓練が進めば、多分特殊部隊の精鋭並みの実力になりますよ」

「そんな事は良いんだよ! 怖いんだよ!」

知るかと吐き捨てたくなるが。

科学者としてモリソンが有能なのは事実だ。それに、今は教師が一人でも必要なのである。

恐がりだろうが、憶病だろうが。

仕事が出来るのは事実で。

しかもモリソンがまとめてくれたデータは、カルネから見てもわかりやすい。研究を奈木達に引き継ぐとき。ぐっと研究の期間を縮めてくれるはずだ。

減点法は何も産まない。

良い所を伸ばしていかないと、人間はやっていけない。

今はそうなっている。

だからカルネはそうする。

適当にモリソンをなだめて、仕事に戻らせ。

そして自身は、教育用のプログラムを練る。

頭の働きも落ちてきている。今のうちに、出来る事は全てやっておかなければまずいかも知れない。

しかも下手に健康になればゾンビ化の恐怖が近付いてくる。

多分だが。

エイズをぶち込んでいなかったら、とっくにカルネはゾンビ化していたはずだ。

黙々と作業をしている内に。

バズがいつの間にか、授業を終えたようだった。

うんざりしている様子なので、話を聞いてみると。教える事がもう殆ど無い、と言う事だった。

「射撃の腕前くらいですよ、俺があの子に勝てるのは。 救助用のヘリを、山肌ギリギリに貼り付かせることくらい出来ますよあの子」

「幾つかマニュアルを用意しておきました。 それを使って授業をしてください」

「……俺の頭が良くないことを、思い切り見透かされているんですよね」

「それについては仕方が無い。 相手のIQは180だ。 そもそも貴方は、兵士として此処にいるのであって、教師として此処にいるわけじゃない。 苦手なことがあるのは仕方が無いですよ」

此方も、今では「腕の良い兵士」というだけで大いに存在する価値がある人だ。

カルネよりも当然強いし。

いざという時は、銃で戦ってもくれるはず。

エイズによる身体機能の低下も、出来るだけ抑えたい。

そうしなければ、いざという時に役に立てないという焦りも大いに分かる。だがゾンビ化されては元も子もないのだ。

眠る時間を上手に確保出来ない。

並行で幾つも作業をこなしていくが。どうしても、やはりカルネ自身の頭の働きが鈍くなってきている。

奈木の成長が想像以上に速いというのもあるのだけれども。

それを加味しても、カルネの体が弱っているのだ。

一段落した所で、エカテリーナに自分で健康診断した結果を渡す。前はブライアンがやってくれたのだが。

今は遠隔でエカテリーナに頼むしかない。

半死人どうしで診察し合わなければならないのだから、色々と世も末である。

「もう少し薬の量を増やした方が良いね。 処方は間違わないように気を付けるんだよ」

「分かりました。 其方の状態は」

「皆覚えが良い子だよ。 特に奈木は、アタシの国が全盛期だったら、KGBにほしいとか言い出していたかもね」

「ボクの国でも特殊部隊とかCIAで欲しがったかも知れませんね。 性格的に組織行動に致命的に向いていませんけど」

もう国そのものがないから言える冗談だ。

それに、生き残った二十五万を治して回れたとして。

再建するのは、国では無く。

地球という一つの政体になるだろう。

もはや資源的にも、多数の国が乱立する状況は作り出せない。人類は今回の件で、大きく文明の寿命を縮めた。

残る可能性は、政体を一つに集約し、宇宙への進出を図ること。

その時には、ゾンビパンデミックを引き起こした病気と思われる何かは。

克服されているか。

それとも、奈木達ですらどうにもならずに滅ぼされるか。

その二択だろう。

エカテリーナに、まず眠れと言われたので、素直に従う。

アラームが必要になって来ていた。

前はアラームなんで一切いらなかったのに。

精神力が落ちたのだろうか。

いずれにしても、思った時間に眠り、そして思った時間に起きるという行為が出来なくなって来ている。

これはカルネの体が弱っている、良い証拠だった。

かといって、健康になる訳にもいかない。

ほぼ確実に、健康になればゾンビ化する。

今まで見て来た多数の例が。

もう此処もゾンビ化の恐怖に包まれていることを告げている。迂闊なことは、一切出来ない。

ともかく無理にでも眠る。

最低ラインの「生」を保つために。

 

数日が過ぎて、黙々と奈木の研究を進める。市川から連絡があったので、話を聞くと。奈木が要求を口にしているという。

「気晴らしの合間に、今後約束の場所がどうなっているか知りたいそうだ」

「まだ流石に用意していませんよ」

「それも見透かされていた。 君が約束を守らないとは思っていない様子だが、念のため先に用意してほしいらしい」

「……」

頭を掻く。

髪がごっそり抜けそうで怖いが。今のところ、その恐れは無い。ただ、エイズをギリギリの状態で進行させていくと、体の負担が本当にギリギリになる。その内、髪がごっそり抜け落ちるのも、あり得る事だ。

また、余計な負担が増える。

「分かりました、此方で対応します」

「日本に土地を見繕うか。 此方では、無人化している過疎化の土地が幾つもある。 そういった場所なら、むしろ奈木の希望にも添うと思うのだが」

「いえ、此方で約束をしたので、責任は此方で取ります。 それに恐らくですが、奈木は人間の痕跡さえない場所で、一人で静かに暮らしたいようですので」

「……最低の学校にいたんだろうな。 色々と報われない話だ」

米国の学校にも、最低の場所はいくらでもある。

一時期はガードマンがマシンガンを手にしているような場所もあったし。

学校にギャングが入り込んで、薬物の類を持ち込んで売りさばいているようなケースもあった。

それが普通だったのだ。

ゾンビパンデミックが起きる前は、スクールカーストが社会問題化し。その苛烈なストレスで、毎年のように爆発した生徒が銃の乱射事件を起こして、多くの被害者を出していたし。

他の国では報道しなかったかも知れないが、暴動は大小規模様々なものが、毎年起きていた。

そういうものだ。

人権先進国が聞いて呆れる。むしろ先進国など、カルネが知る限り何処にも存在しなかったと思う。

「其方には、マシな学校はあったんですか?」

「君もろくでもない学校にいたくちか」

「ええ。 飛び級制度は其方で思っているほど良いものじゃありませんよ。 天才を抜擢とは言いますけどね。 飛び級制度で高学歴を得た人間は、ほぼろくでもない人生を送っています」

「話には聞いたことがあったが。 確かに周囲より露骨に出来る奴が疎まれるのは、何処でも同じなんだろうな」

市川も経験があるのかも知れない。

ある程度人間の性格は国や文化圏によって変わってくるのかも知れない。

だが、それでも共通しているのは。

「ずれている」人間が、暮らしづらいという現実である。

ともかく、奈木に対応するのは自分がやると話をまとめた後。市川との通信を切る。人数が少ないと、こういう打ち合わせもすぐに終わるのが楽だ。

奈木に連絡を入れる。

丁度水泳が終わった後らしい。

今、さっと調べた。何カ所か候補がある。

馬鹿な金持ちが島ごと買い占めて、自分の王国にしていたような場所が何カ所かある。その中の一つ。

最低限の生活スペースだけがある島。

それを提示した。

ちなみにここに住んでいた富豪は、所有する株式だけで日本円にして二十一兆円というとんでもない金持ちだったが。

ゾンビパンデミックには為す術も無く。

離島にいるから大丈夫だろうと余裕をこいていた所を、あっさりゾンビ化。死体は既に焼却処分済みである。

なお死体は家の外で発見された。

どうやらビーチで愛人とよろしくやっているところをもろともにゾンビ化したらしく。家の中にある腐りやすいものをドローンで運び出し廃棄し、消毒を済ませた今は、いつでも移り住める。

とはいっても、研究が終わるだろう数百年後。

この家が何処まで残っているかは分からないが。

いずれにしても、此処を提供すると提案すると。奈木はデータを見た後、条件をつけてくる。

「領空侵犯は禁止。 領海侵犯も禁止で」

「良いけれど、病気になったらどうするの?」

「言ったでしょう。 そもそも本来もう誰とも口も利きたくないっての」

「……分かった。 そうだったね」

筋金入りだな。

病気になったらそれまでと諦めるつもりか。

気持ちは大いに分かる。

そして、そんな彼女に、今は頼らなければならないと言う事も。

今日はこれからエカテリーナの授業を受けて貰うらしいので、話は切り上げる。ピックアップした島を、奈木が気に入ってくれたようで何よりである。

いずれにしても、もう金なんて何の意味もないし。

金持ちだったこと何て、それこそ何の役にも立たない。

奈木があの島を使う事で文句を言う人間もいないし。

それで困る者が誰もいないのだから。あげてしまうことに、何の問題も無い。

それにもう一つ。

奈木自身がもう把握しているだろうが。

彼女の遺伝子データは、保存させて貰う。

致命的な一点。生殖能力がない、という事を除けば、極めてハイスペックな遺伝子だ。知能と身体能力、いずれもバランスが極めて高い次元でまとまっている。

今後、何かの危機に。

また彼女の遺伝子が、何かの役に立ってくれるかも知れない。

さて、引き継ぎの作業に戻る。

幾らでも作業は残っている。

ブライアンと話のながら、引き継ぎのデータを受け取り。そして、まとめていく。打鍵の速度がかなり落ちていると感じるが。それでも、たまに打鍵速度に、画面の方がついていけなくなる事もある。

「相変わらず凄い速度でキーボードを叩いているな。 それでも衰えたというのだから凄いものだ」

「無理をすると手を動かせなくなるので冷や冷やですよ」

「そうかもな。 それで、次は……」

ブライアンも、恐らく悟っている。だから、矢継ぎ早に引き継ぎの情報を伝えてくる。

自分の体が、奈木がコールドスリープに入るまでもたないだろう事を。長期的に考えると、奈木がコールドスリープに入った前後が、一番厳しいのだ。劣化コピーのクローンを作らないためにも。どうしても奈木には全盛期の肉体を保存して貰わなければならないし。何よりそのタイミングでは、クローン達が最年長でも6歳前後。

高IQとはいえ子供だ。

どこまで奈木が仕込んでくれるか分からないが。

それでも相当に厳しい状態になるだろう。

更に言えば、最悪の事態も想定して動く。

今、奈木達三人に、人類の全ての英知を渡そうとしている面々が、全員ゾンビ化してしまった時。

そんなときには、どうすれば良いのか。

最悪の事態を常に想定しなければならない。

それもまた、辛かった。

引き継ぎが一段落した所で、疲れ果てたブライアンに眠って貰う。

その後、額の汗を拭いながら。

各地の物資輸送が上手く行っているかを確認。

現在無人の輸送船四隻を同時に動かして、ヘイメル基地に貴重な物資をどんどん運び込んでいる。

余裕が出来てきたら、失う事を免れた美術品なども収容したい所だが。

そこまで余裕が出来るかどうか。

アラートが鳴る。

眠れ、という指示だ。

ため息をつくと、カルネは尻を叩かれるようにして、ベッドに向かう。もうしばらく、まともな食事をしていなかった。

 

ゾンビパンデミックが起きてから一年。

もはや諦めていた生存者が見つかった。恐らく、最後に見つかる生存者だろうと、カルネは思った。

やはり植物状態のまま、病院の非常電源で生きていた人物で。

もう二十年も眠ったままだ。

二十年前に交通事故にあい、そのままずっと病院に。

家族は介護を放棄して病院に全てを押しつけ。

病院も明らかに世話を持て余していた。

ドローンを使って、コールドスリープ装置に身柄を移す。なお病院はゾンビが徘徊した跡があったが。

誘引電波で全て引っ張り出すか。崩れ果てて動かなくなっていた。

流石に一年だ。

腐り果てた死体は、もう動ける状態には無い。

なおゾンビは、凍り付いてしまうと、その時点でアウトなようで。

寒冷地帯に出現したゾンビは、氷が溶けても、ただの死体に戻るだけ。

意外に脆いのだなと、カルネはそれらのデータを採って、蓄積していた。

ブライアンは動けない日の方が多く。

主にバズが話を聞いて、それをレコーダーで採ってくれている。カルネが授業をしている時に目を覚ましたりするので、ずっと関わっているわけにはいかないのだ。

バズも自分が役に立てないと気に病んでいるようだったので。

良い気晴らしだろう。

こんな真面目で責任感のある医師が、こんな状態になっても世界のために動こうとしているのに。

先にさっさとコールドスリープ装置に入った人間には思うところもあるが。

それについては、流石に責めるのは筋違いだ。

カルネだって、言いたいことはあるが、口にはしない。

奈木への授業を終える。

もう高校レベルの授業はあらかた完了。

大学レベルの授業に移行している。

勿論大変なのは此処からだ。

高等数学などの専門分野については、資料だけを残しておく。サリーに自習して貰うつもりだ。

勿論サリーのクローン達にも、である。

他にも専門学問はいくらでもある。

自習して貰う事は増えそうだなと、カルネは自分の体調が思わしくないこと、精神がもたないかも知れない事を思いながら、自重していた。

十五年もたせるつもりが。

一年ももたずに、此処まで弱気になるとは。

情けない。

エイズを治療する事は出来る。内臓機能を回復させることだって。

だけれど、それはゾンビ化を意味する。

健康は失ってみて、初めてその価値を理解出来るとは知っていたが。此処まで心身への負担が大きいとは、思っても見なかった。

我ながら情けない。

十代前半で大学教授になった「天才児」が、実際にはこんな初歩で躓いているのだからお笑いぐさだ。

内心で散々自分を罵った上で。

気分を切り替えて、現実のために動く。

ゾンビは世界から殆どいなくなったが。ゾンビ化させる恐怖の何かは、もはや世界の何処にいても逃げられない。

ふと、市川から連絡がある。

「ロシアの原発の一つが異常動作をしている」

「……了解、対応します」

「最悪の場合は、被害を最小限に。 幾つかマニュアルがあると思うから、それにそって動いてくれれば大丈夫だ」

「分かっていますよ」

嘆息すると。

対応に入る。

この様子だと、原発の動かし方のマニュアルについても、しっかり叩き込んでおかないといけないだろう。

奈木なら出来るだろうが。

しかし、リソースをどこまで費やせるか。

ブライアンが激しく咳き込んでいるのが聞こえた。三年。そういう話だったが。もう保たないかも知れないな。

そう何処かで、カルネは諦めかけていた。

 

4、究極の自給自足

 

クローンが人工子宮から出て、保育器に移った。幸い、奈木のクローン六人と、井田とサリーのクローン一人ずつ。合計八人、皆ゾンビ化することも無い。

ただし奈木のクローンは、皆同じように生殖能力がなく。

井田のクローンもサリーのクローンも、同じように重篤な先天性の疾患を抱えたまま生まれてきている。

井田のクローンに至っては、殆ど泣き声さえ上げないので、心配になった。

今、第二陣二十人のクローンを育成開始している。

流石に生まれて一年くらいは、何もできない。ただ、時々世話をするようにとは言われている。

機械を親として認識するようでは困るからだ。

とはいっても、世話の大半を保育器に任せてしまうのも、少し罪悪感があった。

元々これは、軍用クローンを作るための装置。

過渡期のシステム。

本来は「優秀な」人材を量産するための仕組みだったらしい。結局「欠陥が致命的な」人間を量産する事になってしまっているのは皮肉だが。

車いすの音がした。

井田が来たのだ。

滅多に顔を合わせることは無い。口も殆ど効かない。井田もほぼ喋る事が出来ないし、ものもほぼ見る事ができないので、それは仕方が無い。

軽く会釈すると、子供を保育器に戻して、自身は戻る。

サリーも時々ここに来ているようだが。

いずれにしても、この子らがまだ幼い内に、コールドスリープ装置に入らなければならないのは、色々と心苦しい。

研究が最低でも100年。

それも、もっとも楽観的な予想で100年掛かる。

だから、全盛期の遺伝子が幾らでもいる。

それは理解しているから、コールドスリープについては仕方が無い。

だが、この幼子達の負担を減らすためにも。

奈木自身が徹底的に知識を吸収し。

還元できるようにしておかなければならなかった。

今日の授業を受ける。

大学レベルの授業になって来ているが、難しいとは感じない。ゾンビパンデミックが起きていなければ、もう中三か。

そういう意味では、四年間飛び級して勉強しているようなものか。

ブライアンの授業が露骨に減ってきている。

もの凄く調子が悪そうだから、無理もない。

話を聞く限りだと、無理なようならコールドスリープ装置に入って貰うそうだ。元々かなり年老いているという話だし。荒療治でゾンビ化を無理に防いだ結果、体がボロボロになっている。

授業は黙々と聞き、聞かれたことだけを応える。

ブライアンは、多分年老いて丸くなったタイプだが。

若い頃は相当に激しい性格だったんだろうなと、話を聞いていて思った。

「よし、今日の授業は此処までだ。 医療関係は、奈木に全てを任せてしまっても良さそうだな……」

「まだ大学一年程度の知識でしょう?」

「大学と言っても医大だ。 実際には、そろそろ研修医として彼方此方の病院に出向いて貰って大丈夫なレベルだよ」

「……」

研修医か。

日本では最低の制度と化していたらしいが。

米国ではどうだったのだろう。

ブライアンの気晴らしになるかと思ったので。

その後、垂れ流される昔話を軽く聞いた。

出来の悪い生徒だと思っていた子が。

いざ医者になって見たら、もの凄く大きな成果を立て続けに上げて、驚かれた。

この子は凄い医者になると思っていた子が。

実際には、初のオペで大失敗して、患者を死なせてしまった。

大学病院で教鞭を執ってみて、実際に出来る子と、スペック上出来る子には大きな差があることを思い知った。

実際には協調性なんて、オペの場では何の役にも立たない事。

変わっているからと言って、無能と決めつけることは最悪の手だと言う事。

それらを長い年月の間、少しずつブライアンは理解していったという。

「先生になってからも覚える事ばかりだった。 奈木には、わしの全てを伝えたかったが……それも限界かも知れないな」

「教えて貰った分は頭に叩き込んであります。 実際にも活用して見せますよ」

「それが驕りでは無いのが素晴らしい。 頼むぞ……」

通信が切れる。

勉強した分の復習をした後。

次の授業に移る。

覚える事は別に難しく無い。

体を動かすことも。

バズに教わって、軍隊用格闘技について色々教わるが。ナイフも警棒も扱えるが、しかし銃だけは駄目だ。

当てるのは当てられるが。

それだけ。

近代の銃撃戦は、移動しながらの射撃が基本になるらしく。移動しながらの射撃でも当てるには当てられるが、どうしてもヘッドショットや足や腹などを撃っての相手の無力化が上手く行かない。

何度練習しても上手く行かないので。

流石にバズも匙を投げる。

「君は何でも飲み込みが早いのに、こればっかりは駄目だな」

「ごめんなさい」

「相手の制圧は恐らく現状でも出来ると思う。 普通、弾が擦っただけで動けなくなるからね。 ただ、猛獣が相手になってくるとそうもいかない。 外に並べている無人機達を突破された場合、君が井田とサリー、それにクローンの子供達を守るんだ」

分かっている。

だが、どうしても上手くならないものはならないのだ。

「銃撃以外で、身を守る手段は」

「正直厳しい。 この辺りにはグリズリーはでないが、その代わりもっと厄介なジャガーが出る。 彼奴らは身軽にどこからでも忍び込んでくるし、子供を殺す事もある。 海側から、ワニが回り込んでくるかも知れない」

確かにそういう本物の猛獣が相手になってくると、スプリンターとして優秀、くらいでは手も足も出ない。

特に大型猫科猛獣の危険度は群を抜いていると何度も教育を受けた。

例えばシベリアでは、500sはあるヒグマを、シベリア虎がカモにしているという話である。

シベリア虎の体重は最大でも300s程度。

更に、猫科は体重三倍の犬と互角以上に戦うという。

体重が同じ程度の犬に、人間が絶対に勝てない事を考えると、色々とその差が分かるというものだ。

「此方でカルネと相談してみる。 誰にも苦手なものはある。 最悪は一人で操縦できる兵器に乗ってもらうしか無いかも知れないな。 大型の重火器なら、流石に猛獣が相手でもどうにもなるだろう」

「分かりました。 教育お願いします。 最悪マニュアルだけでもくれれば読んでおきます」

「君ならマニュアルだけで使いこなしそうだな」

苦笑いしたバズが通信を切る。

授業で使った銃器を片付けた後、自室に戻る。

ふと、嫌な予感がした。

すぐに飛び出し、走る。

そして、目があった。

あまり大きくは無いが、ジャガーだ。どうやって入り込んで来た。井田が気付かず、子供達の世話をしている。

まずい。生かして返すわけには行かない。

ゆっくり下がりながら、銃器までの距離を測る。

ジャガーはじっと此方を見ていたが。やがて、舌なめずりしながら、此方に来る。悠々と、である。

それはそうだ。

確実に勝てると知っているのだろう。

まずいのは、クローンや井田に近付かれた場合。

カルネ。

呼ぶが、何か作業中か、眠っているか。

ドローンがいれば、対応出来るだろうが。しかし、ゾンビパンデミックで人があまりにもいない今。

こういうことは、いつか起きていたのだ。

わざと視線をそらすと、一目散に逃げる。

当然、習性を喚起するため。

獲物と認識したジャガーが追ってくる。

軍の演習場に飛びこみ、M16を掴む。マガジンをセット。顔を上げる。至近に、爪を振り上げ、飛びかかろうとしているジャガー。

思ったより躊躇無く。

安全装置を外し、引き金を引いていた。

流石にゼロ距離だ。

外すことは無い。

滅多打ちになったジャガーが、吹っ飛び、血だらけの肉塊になって転がる。

呼吸を整えながら、カルネをもう一度呼ぶ。

異常に気づいたらしく、バズが通信を入れてくる。そして、カルネを無理矢理叩き起こしてくれた。

しばらく基地で過ごして、此処が安全だと錯覚していた。

まだAI制御の無人兵器が発展途上も良い所だと、カルネも言っていたのに。

カルネが起きだし、そして事態を知って絶句。

恐らく更に彼女の負担を増やす事になるだろう。

警備の見直しが必要になるからだ。

挽肉になったジャガーを見据えると、奈木はもう一度ため息をついた。

やはり、何が何でも銃火器の扱いを覚えなければならない。

そしてしばらくは。

移動時、井田やサリーには、付き添わなければならなかった。

 

(続)