終末のゆりかご
序、滅びの摩天楼
鈍っていた体は、嫌でも鍛え直される。
ビルの階段を黙々と上がる。時々電子錠があるが、蹴り破るか、ドローンで焼き切って貰う。
室内犬だったからか。アンジュがとにかく頼りない。ただ、それでも懐いてくれてはいるし。臭いで何かを見つけることも多い。体力はないし、すぐにエサを欲しがる。だが、それも多分虐待されていたし。何より室内で運動する機会も少なかったんだろうと思うと、奈木はあまり多くを求められなかった。
ビルの二十八階。
どうせろくでもない企業が入っていただろうテナントを確認。内部は散乱していて、ゾンビパンデミックの際に起きた混乱が分かる。菓子類が入っている棚もあった。幸い殆ど手をつけられていない。
菓子はいずれもが優れた保存食だ。リュックに詰め込む。この様子だと、しばらくは良い思いが出来るかもしれない。
「ちょっといいかい」
ドローンから、カルネでは無い声がした。
中年女性の声だ。
「アタシはエカテリーナ。 よろしくな」
「奈木です。 よろしく」
「無愛想な子だね。 まあいい。 アタシはロシアで最後に動いている人間だから、挨拶だけしておこうと思ってね。 まああんまり話す事もないだろうが、覚えておいてくれると助かるよ」
そうか。
ロシアの女性は、ティーンズの頃は文字通り妖精のような美貌を誇るが、それから徐々に逞しくなりすぎる印象がある。
声からして、このエカテリーナという人もそうだったのかも知れない。
黙々と周囲を探す。
アンジュがわんわん吠えたので、すぐに出向く。どうやら、此処でゾンビ化した者がいたらしい。
即座にドローンが前に出て、火炎放射器で、崩れた肉塊を焼ききる。
火災報知器は動かない。
電源が死んでいるのだから、まあ当然だろうか。
ゾンビを駆除し終えると、彼方此方を探して回る。デスクの下などもしっかり見て回る。時々、カルネにこれがほしいアレがほしいと言われるので、リュックに入れていく。セーフハウスに戻る度に、指定のボックスに入れているのだけれど。多分今後、奈木一人が動く事になった世界で必要になるのだろう。
言われたままPCを分解して、HDDを取りだす。
サーバールームは真っ暗で、あかりを使わなければならなかった。
やがて、指定の階を探し終える。
問題は此処で確認されていた熱源だが。
ドローンから、カルネが指示を出してきた。
「見つけた。 移動した痕跡だ。 上に上がってくれる?」
「……」
頷くと、そのまま移動。
カルネが、話をしてくれる。
「うちの基地でも、既に二割がコールドスリープを始めたよ。 現在生きている人間は、全世界で三十五万弱。 今急ピッチでコールドスリープ装置を手配しているけれど、このうち八割を救えたら最高、くらいの感じかな……」
「そうなると、二十七万くらい?」
「まあ、それくらい」
「……八十億もいたのにね」
今まで史上最悪の死者を出した病気というと、コレラとかペストとか、近年だとインフルエンザとかエイズとからしいけれど。
それがこの有様。
史上最悪なんて、生ぬるかったと言う事だ。
ゾンビそのものは、正直其所までの脅威では無いけれど。
晴菜をゾンビ化したことは許せないし。
ゾンビはそのまま根絶やしになれば良い。
後は、一人で静かに最後まで暮らしたいのだけれど。
どうもそれも、簡単にはいかない様子だ。
「奈木はさ、二十歳くらいでコールドスリープ装置に入ってほしいんだよ」
「それはどういうこと?」
「クローンってのは早い話が劣化コピーだからね。 奈木自身オリジナルの細胞がどうしても必要になる。 そして細胞ってのは、二十歳以降は劣化する一方なんだ。 だから全盛期の状態で、オリジナルを残したい」
それは聞いた事があるが。
まさか二十歳か。
そうなると、六〜七歳の子供達に、研究を任せると言う事になるのか。
それについては、カルネが咳払いする。
「第一世代のクローンについては、その後はボクがどうにか教育するよ」
「でも、ゾンビ化はどうするつもり?」
「エイズウィルスを体にぶち込む」
「は……」
カルネは言う。
現在エイズは対処法が確立されているらしく、昔のような絶対に死ぬ病気ではないという。
ただし、症状を軽くすれば多分ゾンビ化する。
ギリギリのラインを攻めながら、免疫力を落とし。無菌室から活動を続けるつもりだそうだ。
無茶苦茶だな。
そう思ったが、それなら確かにエイズとそれによる免疫疾患と相談しながら、何とかやっていけるか。
ただしそんな無茶が出来るのは精々数人。
さっき話をしてきたエカテリーナという女医はもうやっているらしい。そもそもカルテを見たのだが、エカテリーナという女医は体内も病巣だらけで、これだけやればまずゾンビ化はしないらしい。ただ恐らく激痛の中で地獄を見ながらこれから作業をする事になるだろうことは疑いないらしいが。
凄惨な話である。
カルネももう少し現状のまま頑張った後、無菌室を確保して貰って、其所で同じように処置をするつもりだそうだ。
「そっちのことわざにあるとおり、毒を食らわば皿まで、だよ」
「……其処までして、何か良いことでもあるの?」
「何にも。 そうだね、君のクローン達の第一世代が、手が掛からなくなるくらいまではなんとしてでも踏ん張らなければならないけれど、君はそもそも高IQだ。 バカ教師の教育で芽が出なかっただけで、ボクが教えればすぐにちゃんと動けるようになる可能性が高いから……十五年か六年くらいは我慢すれば、どうにかなるかな」
十六年も、エイズでギリギリを攻めながら生きるつもりなのか。
溜息が零れる。
勿論その後はある程度体を治して、コールドスリープに入るのだろうが。
いずれにしても、カルネも相応に覚悟は決めていると言う事だ。
奈木の周囲にはクズしかいなかった。だが、こんな奴もいるんだな。そう少し見直した。カルネ自身も嘘をついてはいないだろう。カルネが嘘をつかないかどうかは分からないけれど。
この状況で、こんな嘘をつく理由が無いし。
何よりメリットがない。
直前になって怖くなるかも知れないが。
その程度はねじ伏せられる精神力を、カルネは持っている筈だ。
そうでなければ。
奈木が一度は遅れを取ったことを、許せるものではない。
スクールカーストで好き勝手やっていたクズ共や、それを容認していたアホ教師。それに腐れ果てていた社会。
それらに対しては完全に軽蔑する。
だが、今カルネがやろうとしていることは。
真似してはいけないし。
本人の覚悟で実施していることだからこそ、認めることは出来るが。
いずれにしても、ならば此方もやれることをやるしかないだろう。
話を終えると、品川の探索を続ける。
殆どの場合、ビルの中の熱源を調査する感じだが。
カルネの方でもかなりノウハウの蓄積が進んでいる様子で、探索する場所は絞られてきていた。
今度は病院である。
こう言う場所は真っ先にゾンビパンデミックでやられてしまっているのだけれど。まだ可能性があるかも知れない。
奥の方に、固く閉ざされた扉があった。
ドローンが焼き切って、アンジュと一緒に入る。
内部には、気密室があって。その手前で、ゾンビが溶けて果てていた。腐り果てた服からして、看護師だったのか医師だったのか。
ゾンビパンデミックの初期に、何処の病院も壊滅的な打撃を受けてしまったが。
此処も同じなようで、此処まで来るまで、滅茶苦茶だった。
最深部に、一つベッドがある。
熱源は其所だ。
呻きながら、干物のように干涸らびた老人が、ベッドで苦しんでいる。とはいっても、微かな反応だが。
頷くと、すぐに回収用の車とドローンを回して貰う。
ストレッチャーに載せ替えて、老人を運ぶ。
どうやら、栄養などを自動で切り替えるシステムが作られている病院だったらしく、それが故に命を拾えた。
すぐに軍施設のコールドスリープ装置に送る。もう、診察をしている余裕さえ無いが。それでも軽く遠隔で医療班が診察したところ、ほぼ間違いなくステージ4の癌だそうである。
多分放置していたら、後数日もたなかっただろう、と言う事だった。
麻酔を打ったからか、多少は苦しみが薄れたようだけれど。
ここしばらく、奈木は末期の癌患者を何人か見た。
いずれも地獄の苦しみの中にいた。
日本で最も人が死ぬのは癌だ。少なくともゾンビパンデミックが到来するまではそうだった。
人生の終わりはあのような地獄なのか。
そう思うと、やりきれない部分がある。
勿論金持ちだろうが何だろうがそれは同じ。癌は治るといっても、それは初期に発見できた場合だけ。
それに治っても、年を取ればまた何かしら癌が出る。
どんな金持ちだろうが、絶対に死ぬのだ。
溜息を零す。
「ありがとう。 迅速にやってくれて助かった。 ドローンで回っていたら、今の人も助けられなかった」
「サンプルのため?」
「未来のため」
即答してくるカルネ。
サンプルではある。だが、ああいうゾンビ化しなかった人のデータを徹底的に洗って、そしてゾンビ化の仕組みを解明。そして防ぐための方法を作り出す。
現在米国で用意してくれている軍基地内部の施設で、可能な限りの長期間、研究を行い。
そしてゾンビに打ち克つ。
その後、コールドスリープしていた人々を起こし。
世界を復興する。
その復興の段階に、奈木は興味は無い。
英雄と持ち上げられるつもりもないし、そもそも人間と関わり合いになるのはゴメンである。
奈木を虐げた連中はみんな死んだが。
どうせ文明が復興すれば、また人間は奈木を虐げ始める。
それは確定事項だ。
だから、もう関わらないと決めている。
「未来は良いけれど、次は」
「其所からそっちの路地裏に入って、見えてくるでかいビルの二十三階」
「また随分と高いね……」
「ドローンで探索できるところは、ボクがどうにかしてる。 昨日も中華で一人生き残りを見つけた」
そうか、それは何よりだ。
この病気の恐ろしい所は、健康体の人間ほど何の役にも立たないという事で。
その生き残りも、奈木のような人間の出来損ないか。
或いは何かの病気だったのだろう。
まあ健康なんてクソくらえだが。
ただ楽しく泳いでいられればそれで良かったのに。
どうしてそれを苦行に変える。
代理戦争の材料にする。
人間とはとことん度し難い。
ビルの階段を黙々と上がる。警備システムは全て死んでいる。電気が品川全域にもう来ていない。
そして告げられる。
次で最後、だと。
品川の後は、東京を何カ所か回った後、横浜に出る。
ただ、その東京の調査は、既にカルネでかなり進めているらしく、何カ所かはスキップするかも知れない、と言う事だ。
ならばどうしてもたもたしているかというと、横浜に、米国行きの船が来るまで時間が掛かるらしく。
その時間を有効活用したいから、とのことだった。
焼き切ったドアを蹴破り、中に。
アンジュが吠える。
ドローンが火炎を吹き付け、呻きながら歩いて来ていたゾンビを瞬時に火だるまに変えた。
消火器を淡々と取りあげると、さっと消火。
これは電気に起因しないので、この薄ら暗いビルの中でも使える。
まだゾンビがかなりいる。
此処は薄暗い上に、ゾンビが保持される条件が整っていたのだろう。
更に言えば、ドアが全部閉じていたので、ゾンビが外に出られなかった、と言う事だ。
ドローンが火炎放射を続け、ゾンビを焼き払い。
奈木は黙々と消火。
これでは多分生存者は無理だなと判断するが。それでも、最後まで諦めずに調査を続ける。
ほどなくゾンビは全て片付いて。
フロアを見て回る。
このビルは五十階を超えていて。
一フロアごとがかなり巨大だった。
「こう言うビルも、殆ど作り直しだろうな……文明を再建する資源が、本当にぎりぎりになりそうだ」
「人類は手も足も出ずに絶滅、てのがほぼ確定だったでしょうに。 それを免れる可能性があるだけでマシでしょ」
「……そうだね。 奈木はそういう所ドライだな」
「私は人間の文明そのものが嫌いだから」
給湯室を除くが、完全に溶けた死体が床に散らばり、大量のハエが集っていた。
他のオフィスも見て行くが、いずれも人影はないか、身動きが取れないゾンビしかいない。
最深部に熱源があるという事だが。
やはりというか何というか。
調べて見ると、生存者ではなかった。
単にウォーターサーバに光が当たって、それが絶妙な角度で熱せられていただけだった。
この様子だと、レンズの役割を果たして、下手をすると火事になるのでは無いのかと、少し不安になったので。
窓からの位置を調整しておく。
あと、流石に常温に晒されていたのだ。
この水は飲まない方が良いだろう。
念のため、周囲を見て回った後。ビルを出る。その隣のビルは完全に燃え落ちてしまっていたが。
何らかの理由で、此方には引火しなかったらしい。
品川の街も酷い有様だが。
それでも、ビルは無事だったり壊れていたりで。
様々な様相を見せていた。
車が来ていた。
時々生存者を運ぶための大型車ではなく、移動に使う小型車だ。セーフハウスに蓄えた物資などを運び出す必要がある。
休憩も、車の中でするよりは、セーフハウスでする方が疲れが取れる。
休憩するべき時に休憩しないと身動き取れなくなるのは。
奈木が自分自身の体で知っていた。
助手席に座ると、自動で車が動き出す。巨大な墓所となった品川を後にして、セーフハウスに。
物資を積み込んでいると。
カルネが話しかけてくる。
「北欧は……殆ど駄目だな。 中華は何というか、調べて見たけれども、こっちもかなり厳しい」
「北欧って医療先進国ってイメージがあったけれど」
「そうでもないんだよ」
「……」
そうか。そういうものなのか。
同級生の間では、北欧を楽園のように話す声があったけれど。
考えてみれば、北欧と言えば歴史上最も残虐な海賊、ヴァイキングを排出した脳筋文化の根元だ。そんな都合が良い場所の筈が無い。
「先に話しておくけれど、奈木にはこれから救助した人達や、ゾンビ化する事前提のクローンを研究して貰って、それでゾンビ化を防ぐ方法を調べて貰う事になるから。 色々厳しいものを見る事になると思うけれど、覚悟はしておいて」
「覚悟だったら、晴菜が死んだときにもう決めた」
「そう、頼もしい。 ボクはそこまで強くはなれないよ」
初めてカルネが弱音らしいものを口にしたかも知れない。
そして、話を受ける。
奈木をサポートする人員だけれど、今話し合いの末に、六人が策定されているという。科学面技術ではカルネが。カルネはIT関連だけではなく、機械関連のノウハウについても徹底的に教えてくれるという。
医療関連については、エカテリーナというロシアの医者を始め、世界のスペシャリスト達が。
医大生も青ざめるようなスパルタで知識を叩き込んでくださるそうだ。
なお、奈木のクローン達に教育を済ませたら、ギリギリを攻め続ける六人も、コールドスリープに入るらしい。
後は、録画画像などで教育資料を残し。
教育を続ける事による知識の劣化を防ぐそうだ。
横浜で乗り込む船には、PCも積み込んでいるそうで。
それを使って、カルネがITのイロハを叩き込んでくれるらしい。
奈木もスマホは持っているが、あんなものはITを知る上では何の役にも立たないとカルネは断言した。
まあ奈木の世代は、家にPCがない事も多い。
色々と、基礎から勉強しなければならないのだろう。それに加えて医療の知識なども学ばなければならないと。
大変だ。
それに、英国についてからは、子育ても並行で行わなければならないという話だから、しんどすぎる。
まあある程度のオートサポートはつくそうだが。
現在科学で再現出来るクローンなんて知れていることは、正直奈木にも想像できる。
間もなく、積み込みが終わり、車が出る。
東京に入った。
品川も酷かったが、東京も凄惨な有様だ。
これから、此処で。
地獄の中、わずかな光を探して、黙々と歩き続けなければならない。
1、眠り行く者達
予想以上にゾンビパンデミックの進行が早い。
コールドスリープ装置の空輸を進めながら、各地の情報を聞いて、カルネはそう思い焦っていた。
まず燃料の確保。
コールドスリープ装置を設置する場所の用意。
これらを生き残った人々に告げている。
この計画を立てた時点で、生き延びて組織だって行動していた人間は三十五万ほど。だが、こうしている内にも、もう三十万を切ろうとしている。
コールドスリープ装置の増産は必要なさそうだな。
そう、カルネは内心で思ったが、口にはしない。
幸い、装置の配備と燃料の確保が間に合った場所もある。コールドスリープ装置は、そう言った所へガンガン投下していく。
千五百人が住んでいる孤島で、コールドスリープ装置の配備が間に合った。
それを聞いて、カルネは大きく嘆息した。
コールドスリープ装置に入れた人間は現在二万人ほど。
今、米国第三艦隊が帰港。
急いで船から下りた軍人達が、コールドスリープ装置に入り込んでいる。もたついていればゾンビ化は確定。
下級の軍人からコールドスリープ装置にはいるように。
副大統領が各部隊に厳命したが。
絶対に混乱は生じるはずだ。
英国用のコールドスリープ装置の配備が遅れている。具体的には、燃料の配備が間に合っていない。
英国はいわゆる先進国(今ではもう国自体が存在しないが)の中では珍しく石油を自給自足できている国で。
本来なら燃料は充分だった筈なのだが。
油田がゾンビパンデミックでやられてしまってからの混乱が酷く。
今、ドローンで油田の復旧を大急ぎで行っており。
ありったけの燃料を必死にかき集めている所である。
そうこうしているうちでも、山間部の生き残っていた小集落が壊滅的な被害を受けていると言う事で。
忸怩たる思いがある。
中東は一方で、既にコールドスリープ装置の手配が間に合った。
これはどういうことかというと、シェルターが既に全滅しており。砂漠のオアシスに点々としている集落しか、もう生き残りが確認できなかったから、である。
集落では地下空間を作って、そこにコールドスリープ装置を配備する準備を行い。空輸された燃料タンクと直結して、順番にコールドスリープを開始している。
中央アジアでも、生き残りがごく少ないという事が幸いし。何とかコールドスリープ装置は間に合った。
良かった、という声が上がる一方で。
容赦なく起きるゾンビパンデミックで、後一歩という所で、崩壊してしまうコロニーも多い。
この辺り、とても歯がゆいし。
悲しいとも思えた。
奈木に東京を探して貰っている間に。
カルネが仕事をしている離島のシェルターでも、どんどん人員がコールドスリープに移って貰っている。
オペレーターはもう残り二人だけ。
軍人は一人を残して全員。
医療班はムキになっていたが、エイズになるのを受容する人間は流石に限られており。シェルター内の人員規模が縮小するにつれて、一人、また一人とコールドスリープ装置に入っていき。
カルネ自身も既にエイズウィルスを体内にぶち込んだこともあって。
皆、青ざめていた。
狂ってやがる。
そう呟くのも聞いた。
だが、狂っているくらいでなければ、この先の未来を作る事なんて出来ない。要するに人類は、今まで積み重ねてきた凶行のツケを此処で全て払わさられているのだろうと、カルネは思う。
社会システムの問題を一切合切解決しようともせず。
弱肉強食などと言う、現実とは違う理屈で格差の拡大を正当化し続けた。
実際には、生物の世界を動かしているのは適者生存。
戦闘能力が高い生物が必ずしも生き残るわけでもないし。更には環境に適応する事は、必ずしも後から出てきた生物が優れている訳でも無い。
二億年近く姿が殆ど変わっていないワニや、その他多数の類例もある。
ワニはずっと最強の生物ではなく、最強の次くらいの生物の立ち位置を維持し続けて。その結果地球で繁栄し続けて来た。
弱肉強食論からすれば、ワニはとっくに破綻しているはずの生物だ。
それが恐竜すら絶滅した環境の激変を生き延びたのは。
それだけ汎用性が高く。
要するに、「環境適応」に優れていたからなのだ。
残念ながら、人間はそうではない。
あらゆる地域に進出し、暴力的に周囲の生物を排除したが。それは見境なく領土を広げたに過ぎず。
現に今、破滅的な環境の激変に対応出来ず。
ゾンビパンデミックで滅ぼうとしている。
この機会に、人間は社会のシステムを徹底的に組み直すべきだろう。
少なくとも、今までのように暴力性残虐性を貴ぶ文明システムは変えるべきだし。そもそも人間が三世代で生き、犬という生物と寄り添うようになってから他の生物からぬきんでた現実を思い出さなければならない。
カルネは思うのだ。
人間には、この時代を生き延びたら。
同じような歴史を繰り返すのでは無く。
新しい未来を作る義務があるのだと。それは、宗教だの思想だのではない。事実この状況にどうしようもできなかった人類が、教訓として己に課さなければならない事だ。
「英国の油田、制圧完了! 整備も順調です」
「英国艦隊は」
「一隻また脱落……現在は残り四隻です」
「整備と、十分な燃料確保を急げ」
米国の艦隊も状態が酷い。
今、第四艦隊は、既に残り三隻。ゾンビパンデミックが立て続けに起きて、自沈処理を採っているからである。
どうにか最も近い軍港にコールドスリープ装置を用意したが。
原子力空母アガルティナが既にゾンビパンデミックを起こして自沈処理をとったこともある。既に空母打撃群とは言えない状態になっている。
残った三隻に分乗した兵士達は四百五十人ほど。
この四百五十人だけでも、絶対に救わなければならない。
急いで受け入れの作業をしている内に。
米国第一艦隊で、またゾンビパンデミックを起こした艦が発生。自沈処置を執らなければならなかった。
悲しい話だが、他に手段が無い。
第一艦隊の司令官が、悲鳴に近い声を上げてきている。
「もう艦内の状態は限界だ! 兵士達もパニック寸前! どうにかならないか!」
「軍港にはコールドスリープ装置が揃ったが、しかし燃料がまだ足りていない。 予定通りのスケジュールで軍港に向かってほしい」
「早く! どうにかしろ!」
「最大限の速度でやっている! 民間人にも生き残りがいる事を忘れるな! 軍人は何のためにいる!」
そういうと、すまなかったと第一艦隊の司令官は帽子を下げた。
カルネも、無人の車両をフルに動かして、必死に燃料を運んでいる。輸送機も、限界をとっくに越える稼働時間の中で、コールドスリープ装置を運んでいる。
一日が過ぎる。
カルネが確認すると、手際よく指定した場所を奈木が探してくれている。東京はあれでかなり広いのだが。
自転車をフル活用し。
筋力が戻って来たアンジュを従えて廃墟と化した街を爆走し。
ゾンビが出現すれば声を掛けてともに焼き払い。
そして三人の生存者を既に救出している。いずれもが重篤な病気の持ち主か、先天性の障害の持ち主だったが。
全員が、今後必要な存在だ。
一人は、内臓関連で重大な疾患を持っていたが、知能に関してはかなり高いものを持っている事を確認。
かなり弱っているが、ひょっとすると奈木同様ゾンビ化しないかもしれない。
遺伝子データを取った後、先に横浜に移動して貰う。其所で経過を観察しながら、場合によっては奈木と一緒に、或いは先に、米国に渡って貰う。
彼、というべきなのか。
かろうじて男性ではあるのだが、生まれつき両足がなく。内臓も生殖器を含めて大半が稼働していない彼は。井田達也という。
井田は現在十一歳だが。自分が持っていないものを補うように高いIQを持っていて。境遇を哀れんだ親から、それなりの教育を受けていた。
頭には髪の毛一本もなく、左目も動いていない。言葉も発する事はできないが、かろうじて動かせる右手だけで文字は書けるし。筆談で意思疎通も出来る。
弱肉強食論では、達也は文字通り駆除の対象になってしまう存在だが。
恐らく、今後彼は奈木と同様、人類の希望の一つになる。
もう一人、インドで重度の障害を持ち、カルトに生き神様扱いされていた女性が発見されている。
同じように大量の先天性障害を持っているが、かなりの高IQの持ち主だ。多くを持たずに生まれた人間は、それを補う何かを得ている事が多い。無い場合も勿論あるが、この場合は運が良かったというべきか。
サリーとだけ呼ばれている彼女は、今インドの軍港から、既に米国のヘイメル基地……今後奈木達が最終的に向かう場所へと出立している。
なお彼女が見つかったカルト教団は、教祖以下全員がゾンビ化していたことも確認されている。
そんな中ゾンビ化せず生き残っていたのだ。
ほぼ確実に、奈木と同じと判断して言いだろう。
ただ、井田達也もサリーも消耗が激しく、まともに動けるようになるには二ヶ月は療養が必要、という判断が出ている。
今後は治療をしつつ、コネを進めて。奈木と一緒に働いて貰う必要が生じてくる。
呼吸を整えながら、周囲を見る。
既に半分残っていないか。
順次引き継ぎを済ませ次第、コールドスリープ装置に入っている。若い医者が、青ざめながら、エイズウィルスの入った注射器をずっと見つめていた。覚悟を決めるべきだと分かっているのだろうが。
どうしても、カルネのようにはやれないというのだ。
情けないと、彼を責めることは出来るだろうか。
カルネにそのつもりはない。
カルネは自分でも分かっているが、はっきりいって普通の範疇を逸脱している。エイズを入れる事にも、殆ど躊躇はなかった。
だが、常人に同じ事が出来ることは、最初から欠片も期待していない。出来ないだろうし、出来たらそれは凄い事なのだろうとも思う。
だが、もしもこのままだと。
ゾンビ化の運命が待っている。
「留めはしない。 だが勇気が出ないなら、コールドスリープ装置に入るんだ」
「しかし……」
「此処は俺とカルネだけで充分だ。 あのガキに何もかもやらせるわけにはいかないだろう」
「……」
若い医者は、唇をずっと噛んでいた。
明日までに決めろと、老医師がいう。
医療班の中には、露骨にカルネに反発している者も多かったし。手を上げようとしたものまでいた。
そんな中、この老医師は、ずっと寡黙なまま、自分の仕事を続けていた。
今も続けている。
カルネが集めたデータを検証し、できる限りの実験もしている。奈木の負担を減らすために、である。
なお、ステージ2の癌だったのだが、抗がん剤を抑える事で、ステージ3まで上げるつもりのようだ。
ゾンビ化を防ぐためだろう。
だが、それは地獄の苦しみも意味する。
奈木の後継が育つまでは持たせてみせる。そう老医師、ブライアンは言っていたが。あの若い(とは言ってもカルネより年上だが)の医者が覚悟を決めてくれれば、その負担も半減するのに。
ため息をつくと、三時間ほど休むと告げて、ハンカチを被って横になる。
何かあったら叩き起こされるのだ。
眠る事自体は、別に罪にはならない筈だし。更に言うと、今後は長期戦になるのが確実だ。
一眠りして。
少しだけ回復してから、シャワーを浴びてくる。レーションを囓りながら、作業を続行。
その内無菌室から作業をしなければならなくなる。
無菌室でもゾンビ化は起こるので、エイズウィルスがいなければ死ぬという悪夢のような状態だが。
それでも、ギリギリの所でもたせては見せる。
奈木と、それほどではないにしても高IQのゾンビ化しにくい人材を二人確保出来たのは大きい。
普通だったら、親に疎まれ周囲に差別され病院から出して貰えなかっただろう二人は。
今後、人類を背負うことになる。
救世主になる。
カルネでも出来なかった事が、彼らには出来るのだから。
通信が入る。
宇宙ステーションからだ。
「三時間後に、実験成果を全て持って、地上に降下する。 着陸地点の近くにあるのが、米軍のコーカサス陸軍基地だ。 出来れば着地地点までに迅速に車を寄越してほしい」
「OK。 データについては、どのような形で持ち帰る」
「全てを媒体に収めて回収していく予定だ。 着地地点がずれたときに備えて、万全の準備を頼む」
「任せてほしい」
カルネは頷くと、すぐにコーカサス基地の周辺にAI制御の軍用自動車を配備。二時間以内に到着できるように処置する。
宇宙から帰還したばかりの宇宙飛行士は、体が弱り切っている。つまりそれだけゾンビ化しにくい。
だが、それでもかなり危ない橋を渡らせることになる。
ゾンビ化は始まるとあっと言う間なのだ。六人全員、別の車で移動して貰った方が良いだろう。
手配を終えつつ、奈木と話す。
マーカーの内、七割を処理したと言うことで、此方からもチェック。
流石だ。手際がどんどん良くなっているし、作業のログを見ても文句のつけようがない。残念ながら生存者は少ないが、一箇所では六人の生存者が確認できた。恐らく今までで、最大の生存者集団だ。
全員に、既に用意してある横須賀基地のコールドスリープ装置に全力で向かって貰う。
彼らは全員高齢者で、運良く養護施設に立てこもる事に成功。
皆重度の病気を持っていて、支えながら生き延びる事に成功したらしい。
車に乗ってもらい、コールドスリープ装置に移動して貰う。
彼らから得られたデータも。
また、人類を支える未来のためになるのだ。
心苦しい。
まだ世界を探れば、同じように知られず生きている人間がいる可能性が高いが。今後は人類全ての生き残りを模索しなければならない。そのためには、どうしても、生き残れる可能性が高い人間に、コールドスリープ装置に入って貰わなければならない。その分手数も減る。
何もかもがチキンレースに近いが。
それでもやっていかなければならないのだ。
手配を済ませながら、一緒に食事も済ませる。どうやら若い医師は、恐怖に耐えきれなかった様子で、コールドスリープ装置に入る事を選んだようだ。責める事は出来ない。誰だって怖い。
老医師ブライアンは情けないとぼやいていたが。
カルネに責めるつもりは無かった。
頭のねじが外れているカルネみたいなタイプは、こういう有事にだけ活躍出来ればいいのであって。
ああいう貧弱な青年は、こういう事態では役に立てないのも仕方が無い。
だから、責めてもどうしようもない。
作業を進めつつ、確認する。
「ブライアン医師、、現在残った医師は」
「わしを含めて全世界で四人」
「……」
此処では、町医者などは含めていない。大学教授が出来るレベルの医師をカウントしている。
此処にいるブライアン医師は、米国の名門大学病院で二十五年教鞭を執り続けた医師であり。多数のオペにも関わってきている。
ロシアのエカテリーナは、優れた実績を持つ老医師で、多少豪快すぎるが、知識も確かだ。
このほかに。自衛隊の軍医で、大学病院で教鞭を執った経験がある市川三尉。少尉と同じ意味らしいが。
つくづく自衛隊の階級はわかりにくい。
この人物はドイツでたびたび論文を出している実績のある人物で、少なくとも他の生き残り達に劣らない。
現在、最終的な作業をして生き残りをコールドスリープ装置に入れている自衛官達に混じって、日本とその近辺の生き残りに対して、指示を出している様子だ。いずれ奈木の教育と、研究に参加して貰う事になるが。どうやってゾンビ化を凌ぐつもりなのかは、まだ確認していない。
最後はアフリカで国境無き医師団の一人として活躍していた人物で。
今はマダガスカルにいる。
正確にはマダガスカルの離島だが、其所に三百人ほどの人間と一緒に逃げ延びていた人物である。
この手の立派な医師は、殆どゾンビパンデミックの最前線に立ち、命を落としてしまったのだが。
彼は同僚達から、ノウハウを残してほしいと懇願され。
涙を呑んでここに来ている。
カナダ系との混血で。
出身はケニア。
現在は、コロニーの人達の治療をしながら、指示通り奈木のサポートに回る準備をしている。
ただこのキザリ氏。かなり気むずかしい人物で、沸点も低い。
元々対人折衝が大嫌いな奈木と衝突する可能性が高そうで、少しカルネも心配だ。その場合は、カルネが緩衝材になって間に入らなければならないだろう。
マダガスカルにはもう燃料が届いていて、コールドスリープ装置も間もなく届く。此方もどうにかなる筈だ。
連絡が来る。
米国第五艦隊が、ほぼ無事なまま軍港に到着。着実にコールドスリープ装置に入り始めているらしい。
朗報、といえるだろう。
艦の整備は今後ドローンで行う。
原子力空母が無事なのは大きい。
自沈処理する場合、色々と問題が大きいからだ。流石に炉を暴走させて核爆発を起こさせるよりはマシとは言え。
それでも、あまり褒められた行動ではない。
原子力空母には多数のF35も搭載されており。更に旗艦には多くの戦車や装甲車も搭載されている。
文明復興の際には。
強力な抑止力として活躍してくれるだろう。
悲報もある中。
一つの強力な朗報である。
カルネは汗を拭うと、奈木と連絡。
これから一緒に活動して貰う医師達を紹介。ネットワークを通じて、挨拶して貰った。エカテリーナとは既に話をしていたか。他の三人とも話をして貰うが、奈木の愛想はあまり良くない。
医師も本職だ。
奈木の反応を聞いて、色々思うところがあったのかも知れない。
カルネに個別の通信を回してきたのはキザリである。
「あの子供は高いIQの持ち主のようだが、学校で迫害でもされていたのか」
「その通りですよ」
「そうか。 難民キャンプでも、頭が良い子は周囲から迫害されることが多いからな」
「……」
難民キャンプのような場所でもそんな事が起きるのか。
何というか情けないというか。
人間の業は、こう言う極限状態で人間の本性を見ている人からしても、度し難いのだろう。
この人はかなり厳しいと聞いているが。
それは極限状態に置かれた人間を見続けてきたことで、色々とすり切れているからなのかも知れない。
「コールドスリープ装置が来た。 順番に入って貰う」
「品質に問題は」
「大丈夫そうだ。 空輸の割りにはこれだけの品質を確保出来るのは、流石米軍の空軍だな」
「今はもう米軍も何もありませんよ」
或いは、よくSFに出てくる統一政府とか、国連軍とかが、今後は現実味を帯びてくるかも知れない。
ゾンビパンデミックの前くらいには、もう国連は利権に食い荒らされて無能者の集まりと化していたが。
それも復興後は、状況を変えられるかも知れない。
なお、キザリ氏に話を聞いたところ。
結構とんでも無い事を聞かされた。
「何種類かのホルモンを強めに注射した。 どれも有害なものばかりだ。 これで私の内臓機能はもう半分程度しか働かない」
「また思い切ったことをしましたね」
「エイズウィルスを直接摂取するよりはマシだ。 君はまだ十代半ばだろう。 人生の四分の一もいっていないじゃないか」
「何、このゾンビパンデミックでは、もうそんな事も言っていられませんよ」
かくして半死人の医者が四人確保出来た。その全員が、分野は違うが、それぞれがスペシャリストだ。
そして、決定的な体の欠陥があればゾンビ化しにくいという確定情報が得られたことで。
この人材を確保出来た、とも言える。
通信が切れた。
一時間ほどして、通信が入る。
「ゾンビ化の兆候が見られた者がいたので、優先度を上げてコールドスリープ装置に入れていた。 心配を掛けたな」
「本当に、ギリギリでしたね……」
「ああ。 各地から集まって来ていた生き残り達だ。 貴重な文化を保持している者もいる。 死なせる訳にはいかない」
「……」
実は、カルネは日本で見つけたゲームショップから。こっそりドローンを使って、大量のゲームソフトを確保している。
もうゲーム会社が存在しないのだから、それくらいはいいだろう。レアなゲームも多数存在している。
もしも、この後生き残れたら。カルネは思う存分ゲームさせて貰う。
勿論ゲームハードも確保してある。
生き残れたら、の話だが。
文化の保全という意味では、カルネもやっている。ゲームも立派な文化だ。
それにしても。
今の時点で、奈木はほぼゾンビ化に対する完全耐性を持っているとみて良い。後はゾンビに殺されたり、事故で死ぬことだけを考慮すれば大丈夫だ。特に自動操作の船で、米国に行く間が一番危ないが。
まあ何とかして見せる。
如何にムービーやゲームに出てくるゾンビに比べると弱いといっても。
それでも奈木は、それらのヒーローとは比べられない。
高IQの持ち主で、優れた状況判断能力を持っているといっても人間だ。
薬を塗ればすぐに動けるようになったり。
体力だって、ちょっと休めばすぐに回復したり。
不衛生な相手に噛みつかれても、何のダメージにもならないような存在とは違うのである。
今後も、奈木の動向と安全には気を付けなければならない。
世界が眠りに落ちていく様子を、カルネはサポートしながら、順番に手伝っていく。最後のオペレータも、コールドスリープ装置に入って貰った。多分だが、此処もかなりギリギリの筈だ。
十万ほどがコールドスリープ装置に入る事が出来た。
まだ二十万弱がコールドスリープ装置を待っている。輸送機を飛ばしているが、その輸送機のパイロットさえ、ゾンビ化せずやり遂げられるかは怪しい。勿論彼らは決死隊であり。
志願して貰っている。
志願する兵は思ったより多かった。
或いは、リアルでヒーローになりたかったのかも知れない。
だが、こうしている間にも、ゾンビ化は進んでいる。悲痛な声も何度も聞いた。タッチの差でコールドスリープ装置が間に合わないケースや。燃料が上手く集まらないうちに、ゾンビ化が起きてしまった状況も何度も起きた。
更に一日。
十万がコールドスリープ装置に入る間に。
五万人が命を落としていた。
2、眠った世界の果て
宇宙ステーションから帰還した六名を、基地に届け。コールドスリープするまでを見届ける。
文字通りはげ上がりそうだ。
最後に残った少数で、ネットワーク環境を無菌室に作ってもらう。カルネはもう忙しすぎて、それを手伝えない。不備があれば、後で自分で直す。
データの分析をしながら、輸送機の誘導を続ける。
三十万弱を救えれば万々歳と思っていたが。
多分救える人数は、二十五万くらいになりそうだと、冷静に計算を続ける。
米国の海軍は半数を救えるか否かという所だ。
第一から第七までの艦隊の内、相当数の船がやられた。自沈処理を採らなければならない船も多かった。
パニックを起こして、自殺する兵士も多かったし。
精神を病んで、自室に閉じこもってしまう兵士もいた。
世界が壊れる前に。
精神が壊れてしまう。
そんなケースを、嫌と言うほどカルネは間近で見せられていた。
奈木から連絡が入る。
東京各地での探索をスムーズに進めている様子だ。生存者をまた一人発見。あまり大きくない市民病院だが。
その奥の無菌室で、眠るようにしていたという。
栄養の点滴は残っていたが。
いずれにしても、重度の病気で、動けそうに無い様子だ。
どうやら複数の重度の病気を併発している様子で。
本来なら絶対安静だという。
コールドスリープ装置を、軍基地から手配。もうこの病院内に配置することにする。細かい作業は、奈木に指示してやってもらう。
流石にこの状態の患者を、ドローンによる遠隔操作で、コールドスリープ装置に移す自信はない。
また、一つ離島が壊滅したという連絡が入る。
輸送機を転進させる。
全ての任務が終わった輸送機は、近くの軍基地に着陸させ。コールドスリープ装置を使わせ、パイロットには眠りについて貰う。
きっと何とかなる。
そう言い聞かせはした。
だが、何とかなるとは限らない。
それが分かっているのが歯がゆい。
何とかなるとしても、起こしてやれるのは一体何年後になる事か。
カルネ達にしても、奈木のクローン達への引き継ぎが終わったら、コールドスリープ装置に入るつもりだが。
もたない可能性も決して低くは無い。
ゾンビ化を、重度のエイズでどれだけ緩和できるか。
それが分からない。
こう言うとき、完全に解明できていないという事実が哀しみを生む。
どうしようもない場合は。
もう、諦めるほか無いだろう。
壊滅の情報を聞く。
悲鳴が轟く中、また多数の人命がゾンビ化に飲み込まれた。
救う方法は、無かった。
そのまま、輸送機を飛ばし、まだ無事な場所へコールドスリープ装置を届ける。そして、最後の最後まで残っていたカルネの周囲の人達にも、コールドスリープ装置へ入って貰った。
大きな溜息が漏れる。
何とか、最後の無事な集落に、コールドスリープ装置を届けた。燃料もあわせて届けることが出来た。
だが、その直後。
一番最後まで頑張ってくれた輸送機のパイロットが発症してしまった。副パイロットが、冷静に通信を入れてくる。
「パイロットがゾンビ化した。 俺も間もなくだろう。 近くに軍基地は」
「フランスの航空基地がある。 ナビをする」
「ありがとう」
パンと音がしたのは。
パイロットを射殺した音だろう。
そのまま、輸送機が、空軍基地に強行突入。かなり乱暴だが、着陸には成功した。本当に有り難い。
その直後、敬礼の言葉を述べてくる相手に。
カルネは祈りの言葉で返した。
相手は満足したのか、自分で銃を咥えて、引き金を引いたようだった。それも、コクピットを密閉した上で。
偉大なる空の勇者だったな。
何も戦闘機で戦うだけが勇者では無い。
無茶苦茶になっていく世界に、自分で出来る範囲での事を最後の最後までやってくれた。こんな人にこそ、生き残ってほしかったのだが。
多分ゾンビ化の兆候を感じていたのだろう。
コールドスリープ装置までたどり着けないと判断していたのだ。
諦める諦めないの精神論ではなく。
どうしようもない状態だと冷静に判断した結果だ。
やるせない。
そして、これで人類は。ごく一部のサポートスタッフと、奈木と他二人の、今後ヘイメル基地での研究要員。それに培養を進めているクローン以外は、全員が世界から一旦いなくなった。
まだ奈木が生存者を見つけるかも知れない。
カルネが調べている地域でも、生存者を探せるかも知れない。
だがそれらも、いずれにしても例外事例になる。
そして仮にゾンビ化に打ち克つ方法が発見できたとしても、もう同じ規模の文明は作る事が出来ない。
幸いなのは、技術保全が上手く行きそうなことで。
もしもゾンビ化を克服できた場合。
生き残りを集めて、宇宙進出を全力で考える事が出来るかも知れない、ということだけだった。
「カルネ、環境の作成が完了した。 無菌室に移ってくれ」
「ん」
言われるまま、無菌室に移動。
内部にサーバ環境があるが、そもそも即席のものだ。酷い出来である。
消毒などを済ませてから無菌室に移動。これからしばらくは、この中で生活する事になる。
食糧なども味気ない最低限のもの。
奈木のクローンなどを教育するシステムを整えるとして。
十六年くらいは此処に閉じこもることになるだろう。
此処に残ったスタッフは四人だけ。
カルネと医師のブライアン。それに、最後まで護衛をすると残った責任感が強い若い軍人と。科学者が一人。
十六年、この四人でやっていく事になる。
そして、今動いている米軍は。
この四人で最後だ。
世界最強の米軍が、この様子とは何とも情けない。
七つの艦隊は、戦力を壊滅状態にしながらも、軍港に辿りつき。無事な人間はコールドスリープした。
彼らの中にも、最後まで残りたいという発言をしたものもいたが。
全て却下した。
その勇気と責任感は、ゾンビ化が克服された世界で使ってほしい。
そう告げるしか無かった。
そもそもヘイメル基地が、ゾンビ化に対する対策を一切していない場所で。一度ゾンビ達によって制圧され、それを駆除した場所なのである。
奈木のような耐性持ちでなければ。
まず助からない。
足を踏み入れただけで、即死はほぼ確定だ。
完全に眠った世界の中。
カルネは黙々と作業を続ける。
各地の生き残りについては、既にもう「コネをする」必要がなくなった。全員が死ぬか眠るかしたからだ。
此処からはドローンを飛ばして生き残りを探し。
物資を無人機を使って集約していき。
文明の再建に備え。
そして奈木に対する教育と。
クローン達の生産計画を、順番に立てていかなければならない。
一段落した所で、医者に診察して貰う。
無茶をしたなと言われたが。
苦笑いするしかない。
エイズを自分にぶち込むなんて正気の沙汰では無い。だが、こうでもしないと、ゾンビ化から逃れる方法がなかったのだ。
同じく残った二人にも、同じ処置をしてもらう。
戦う力は残したいと若い軍人はいったのだが。これは我慢してもらうしかない。ゾンビが此処に乱入してくる可能性は極小だが。
それでも銃器を扱える人間は必要なのだ。
コールドスリープ装置が、動物などに荒らされる事も避けなければならない。そのため、コールドスリープ装置を配ったあと、後追いで防衛用のシステムを構築していく。やはり大急ぎでコールドスリープ装置に入った人間が多く、コードなどが剥き出しになっている場所も珍しく無い。燃料が足りていない場所も何カ所かあった。これらには、無人機でサポートをしていく。
もう艦隊はいない。
だから、各地の軍事基地を経由して、ドローンや無人の遠隔操作で車を用いるしかないのだが。
ユーラシアにある無人自動車はかなり限られていて。
かなりギリギリの勝負になりそうだ。
オペレータをコールドスリープ装置に入れたのは。少しばかり早計だったかも知れない。しかし、流石にこのような非人道的行為、強要することはできない。
救えた人間は二十五万程度。
恐らく人類史における、病気による最大の被害だろう。
そしてこのまま人類史を終わらせないためにも。カルネは、無理をしていかなければならないのだ。
「少し休みます」
「食事は作っておく」
「お願いします」
無菌室の中で横になる。物資だけは、此処には豊富にあるのが救いだ。十六年どころか、四人で八百年は余裕で暮らせる。今コールドスリープしている面子を考えるとかなり物資は心許なかったのだが。
それも今は心配しなくても良い。
一眠りしてから起きるが。
出てきた食事は、案の定、恐ろしくまずかった。
分かってはいるが、今後はこういうものしか食べられない。精神の方がもつか、心配になってきた。
「奈木から連絡だ」
「分かっていますよ」
カルネが連絡に出ると。また生存者を発見した様子だ。流石は東京。何というか、色々と大したものである。
不思議な街だ。
数十年前、一度焼け野原になったとはとても思えない。
やはり生存者は重病の患者だったが。コールドスリープ装置は足りている。近くの軍基地へ手配。
後十箇所ほどか。
熱源を探って貰う。
日本の各地には、自衛隊がドローンを飛ばして探ってくれていたのだが。他は殆ど可能性が無い。
例の研究。
ゾンビを引きはがす研究が、ようやく開示されたのがつい最近なのだ。
世界中で、蠢いているゾンビの大半は駆除が完了しているが。それでもやはり、大規模都市の中には、ゾンビの物量に飲まれてしまった場所もある。
ゾンビそのものは焼き払うことが出来ても。
汚染まではどうしようもない。
神奈川はほぼ壊滅状態で。
横浜で先に発見している熱源は六箇所ほど。自分で探索できる場所はカルネ自身で調べているが。
駄目な場所ばかりだった。
横浜に、沖縄からの船が到着。
物資を横須賀の軍港から積み込みつつ。内部にまだ存在していたゾンビの痕跡を焼き払って駆除。
物資はあるだけ運んでいく。
今後、下手すると何千年も。
奈木ら三人のクローンだけで、研究を進めて貰わなければならなくなる。弾薬も燃料も、更にはPCの部品などをを生成する設備なども。
何もかもが必要だ。
無事だった工場などから、部品をどんどん運び込む。軍用の大型輸送船だけあって、流石に積載量が違う。工場なら、二つや三つ、軽く飲み込むことができる程だ。これに、米国のシリコンバレーからも、無事だった物資を輸送し、ヘイメル基地に蓄える。
第一次の奈木のクローン達が上手く行きそうなら。
第二次ですぐに二十人以上を生産するつもりだ。
何しろ遺伝子からして同じ人間である。
流石に同じ人間同士で、スクールカーストだのを作ったりはしないだろうし。
争うことはないだろう。
井田とサリーについても、ヘイメル基地に到着し次第遺伝子のサンプルを採って、クローンの作成を開始する。
二人は先に出港させているが。
定時連絡を取り。
安全を最大限に管理しつつ。ヘイメルに向かって貰っていた。
作業を複数並行で進める。
仕方が無いとは言え、もうこれらは全てカルネがやらなければならない。可能な限りの速度でキーボードを打鍵する。
此処でも、ゾンビ化しないという保証は無い。
だから、一秒でも早く。
出来る事は全てしなければならないのだ。
タスクの処理をこなしている内に、奈木からまた連絡。指定の箇所を全て回ったので、セーフハウスに戻るという。
東京も、これで全てチェック完了か。
横浜を後は少し奈木に調べて貰って。
日本を離れて貰う事になる。
指定地点に軽を廻し。
奈木とアンジュに乗り込んで貰う。アンジュはあまり戦闘向けの犬では無いが、そもそも各地の軍基地にいるドーベルマンなどの軍用犬については、混乱の初期に殺処分したり。或いは現在生き残りを防衛のために残している状態だ。
一度壊滅したヘイメルには犬がいない。
犬がいた方が良いだろう。
横浜に移動して貰う。
まるでスパゲッティコードのように絡み合っている首都高を移動して貰うが。クラッシュした車だらけで、ただでさえ複雑な経路が地獄絵図だった。途中で首都高を降りて、通常路を行って貰う。
奈木は東京をぼんやり見ながらぼやく。
「次に此処を見るとき、もうジャングルになってるのかな」
「人類が活動を停止したから、これから多分地球の温度は下がりはじめるよ。 ジャングル化はしないけれど……時間が掛かると、遺跡になるかもね。 できるだけ、再利用できる状態で、ゾンビ化を解明したいけれど」
「私と、私のクローン達がやるんだね」
「後二人いるけれど、その二人はどっちも重度の障害持ち。 作業の音頭は、奈木に取って貰う事になるね」
奈木はしばし黙り込んでいたが。
大きく嘆息した。
「他人とは、出来れば一緒に過ごしたくないな」
「ヘイメル基地は広いから、もしあわないようならそれぞれブロック化して、別々に研究をして貰う手もあるけれど」
「まあ、話だけはしてみる」
「そうしてくれるとボクとしても助かるよ」
横須賀の軍港にそのまま移動。
まだゾンビの残骸を片付けているところだ。海の方には近付かないように指示。ゾンビを引き寄せて、海に落とした。
まだ残骸が大量に浮かんでいる。
軍事基地は無人化しているので、宿舎をそのまま使って貰う。シャワーもトイレも使えるし。
何より此処のコールドスリープ装置に、奈木が助けた人員が何名か眠っている。
軽く、話をしておく。
もしもゾンビ化を解除できる方法が見つかったら、ヘイメル基地から輸送機を飛ばし、各地の生き残り達を順番に処置していくことになるだろう、と。
その場合、輸送機を操縦するのは。恐らく奈木か、奈木のクローン達だ。
他の二人は障害が重いので、研究は手伝ってくれるだろうが、多分軍用兵器の操縦は厳しい。
奈木は頷くが。
同時に軽く嘲笑もされた。
「それはまた、随分と皮算用だね。 そもそも病気かどうかもはっきりしていないのに」
「病気だよ」
「どうして断言できるの」
「もしも神の御技だとかそういうのだったら、生体活動を低下させる程度で、ゾンビ化の進行が止まるはずがない」
これは事実だ。
神が仮にいたとしても、この件に関与などしていない。カルネは無神論者でも一神教の信者でもない。
科学者らしく、神なんかいるかどうかは分からない。いるなら研究したいと思っているだけだ。
「いずれにしても、約束は守ってね」
「大丈夫。 それは任せておいて」
奈木も眠る事にするらしい。
まああれだけ歩き回り、ゾンビも場合によっては駆除して回ったのだ。さぞや大変だっただろう。
もはや、世界に動いている人間は十人程度しかいない。
この十人で。
世界をどうにかしなければならないという絶望的事実に変わりは無い。
ドローンで観測している各地の様子だが。
たった半年で。
世界は激変し始めていた。
まず人間の活動が完全に停止したことで、環境の汚染が激変。特に排気ガスなどは殆ど排出されなくなった事もあり、非常に空気中の二酸化炭素濃度が減ってきていた。
これにともない、年々激変していた気候も安定。
今年の夏は猛暑ではなく、ごく穏やかに気温が推移している。
勿論寒いと言うこと無く、ゾンビを誘引電波で引きずり出せば、炙り焼きに出来る程度の熱はある。
また南半球では既に冬が来ているが。
これも今までのような狂った寒さでは無い。
各地の動物園では、状況に応じて安楽死が選ばれた。これはもはや仕方が無いといえる。絶滅に向かっていた生物を救う事はできないだろう。
その一方で、密猟者に脅かされていた生物たちは安寧の時を取り戻した。
人間が今後鼠、犬猫などの致命的な外来種を持ち込む可能性もない。
各地の秘境は。今後も安寧の時を過ごすことは疑いない。
カルネも少しまとまった時間を眠る。
久々の気がする。
かなりの長時間眠った後。自分で起きる。
目覚ましの類は使ったことが無い。ブライアンは黙々と研究を続けていて。また、教育プランの作成を練っている様子だ。
起きだして、シャワーを浴びる。
無菌室だから、完全に沸騰し雑菌0にした湯を使ってシャワーにしているのだが。
この辺りの技術は色々と無駄なような気もする。
あくびをしながら、とにかくまずい食事をし。
そして、奈木と連絡。
奈木は連絡がない間は休んでいて良いと告げてあるので。もう既に起きて体操し体を動かしていた様子だが。
連絡が来たところで、切り上げたようだった。
「随分長く寝ていたね」
「ここんところ、不定期に仮眠しか取れていなかったからね」
「ああ、それで」
「まだ体力があるからいいけれど、これからエイズが体を容赦なくむしばんでくる。 作業の引き継ぎはどんどんそっちに回していくから、覚悟しておいて」
冗談めかして言うが。
勿論手加減するつもりはない。
そもそも、奈木のように優れたIQ持ちの人材を腐らせていた前の世界に限界が来ていたのだとも思う。
凡人を死ぬまでこき使うのは問題だ。
多くの人間は凡人だからだ。
凡人をすり潰しながら使い潰して行く社会は、それはそれで大きく問題があると言える。
だが、優れた知能を持った人間を、周囲と違うと迫害する社会は、それ以上に問題だらけだ。
奈木に対する扱いは、現在社会の負の側面そのもの。
カルネも似たような目にあっていたからそれはよく分かる。
ただし、それでもだ。
この世界が滅びろとまでは思わない。
復興したいとも思うし。
復興したときは、よりよき形で復興したいと思う。
前の社会の問題だらけの状態を復興することはあってはならないとも思うのだけれども。
しかしながら、静かに滅びを受け入れるつもりも、またなかった。
横浜の調査をしてもらう。何カ所か、ドローンを入れるのは厳しい場所があった。其所を先に重点的に調べてもらう。
時間の無駄になるかも知れない。
だけれども、調べる事そのものは、決して無駄にはならない筈だ。
横浜の街は、東京に比べると若干雑多に感じる。
これは古くから港として使われ。
多くの文化が入ってきたから、だろうか。
奈木は淡々と移動して廻り。時々落ちている死体の残骸を見ても、もう眉一つ動かさない。
アンジュが吠える度に反応して、しっかりゾンビに備える。此方でも調べて、体が破損して動けないでいるゾンビなどを見つけた場合は、ドローンで焼き払う。
そうして、半日ほど調べたが。
残念ながら成果は無し。
どうやら、横浜は既に死の街ということで、間違いないらしい。
此処までだ。
後の熱源探知は、市川医師とカルネで連携して行う。自衛隊の駐屯地にいるドローンで各地を探索してくれている。
ちなみにとっくに日米地位協定は破棄していて。
それぞれの装備などは軍と駐屯地を行き来しているので、スムーズに動かせて良い。
また自衛隊は使える電波帯域に限りがあったのだが。
これも、地位協定の破棄によって改善しているため。
市川医師は、ドローンをかなり楽に扱えると喜んでいた。
奈木には、横須賀港に向かって貰う。
既に準備できていた小型輸送船でヘイメルに向かって貰った井田とは別に向かって貰うのだが。
これはリスク分散のために考え直したのだ。
今、奈木、井田、サリーの三人が同時に命を落としたら、文字通り人類の命脈は絶たれてしまう。
だから、此処でしっかり負荷分散をしておいて。
最悪の事態に備えておかなければならない。
なお奈木は、髪を伸ばすつもりは無い様子で。出航の準備が終わるまでの自由時間を上げると。
バリカンでまた髪を短くしていた。
「随分短く刈るね」
「泳ぐのに邪魔だから」
「へえ……。 泳ぐ事自体は好きなんだね」
「泳ぐ事そのものは別に好きでも嫌いでもない。 ただ水泳部ははっきりいって思い出したくも無い」
やはり集団行動に致命的に向いていないなあと思うが。
それを責めるつもりは無い。
奈木は出来る人間である。
そして今後は奈木に全てを託さなければならない。
奈木はもう人間と関わるのも嫌なようだから、それを尊重していかなければならないけれど。
いずれにしてもこれほどの人材を使いこなせなかったのは。
無能な人類の方だ。
カルネは黙々と船に物資の積み込みをしていく。
今後何回かに分けて、日本からヘイメル基地に物資を輸送するつもりだ。また、各地の図書館などにある貴重な文献も、安全な場所に移す予定である。幸い日本の国会図書館が無事なので、其所に集めてしまうつもりだ。
ゲームなどの文化や、技術などについても集約を行っている。
これらについては、データを全てヘイメル基地のサーバに集める一方で。各地にバックアップを取るつもりである。
ゲームソフトの現物については、残念ながら放棄せざるを得ないケースも出てくるだろう。
だが、娯楽は想像以上に重要だ。
息抜きが出来ない社会は色々な意味で破綻する。
特に黎明期のゲームは、あらゆる創意工夫が凝らされた、人類の文化の集約点と言っても良い。
各地の美術館などの貴重な芸術作品も可能なら保全したい。
都市の保全はその後だ。
原発の暴発は防がなければならないので、それについてはかなりの労力を今後も割いていくことになる。
マニュアルをどんどん作っていくが。
手分けしないと終わりそうにない。
程なく、積み込みが終了。
コンテナ数十を積み込んだ輸送船に、乗るように奈木に促す。内部の案内もする。
奈木は輸送船に入ると、目を細めて周囲を見回す。
「もっと無骨だと思ってた。 それと、コンテナはそれほど積み上げないんだね」
「実の所積載量を超えて積む事も出来る事は出来るんだけれど、事故る確率があがるんだよ。 今回は太平洋を越えなければならないし、何より奈木は絶対に無事にヘイメルまで届けなければならない。 積載量はこれしか入れられない。 何度か往復で、必要な物資は運ぶつもりだよ」
「……パスポートは?」
「もう国もないのに必要ないよ」
奈木の言葉に苦笑する。
そして、注意を幾つか。
輸送船といっても、基本的にこれは軍用の輸送船。コンテナを露天するような事も無い。奈木は基本的に事故を避けるためにも、船底にいて貰う事になる。
船底には必要な生活設備が揃っているが。
それでも何か問題が発生する可能性もある。
出航前に、先に確認をしておく。
ドローンを連れて、全ての場所をチェックして貰う。先に調べてはあるのだが、ゾンビが潜んでいる可能性は否定出来ないからだ。
床に残っている人型の染みを見て、奈木は嘆息。消毒はしてあると告げるが、そういう問題では無いと即答された。
まあそうだろう。
カルネには致命的な事だが、奈木には大丈夫だろうとも思うが。
トイレやフロも問題は無し。
本来はもう少し大人数で動かすのだが、今回はオート航行。そして一人だけ。だからフロも食堂も自由に使ってかまわない。
奈木は料理はあまり得意では無い様子だが、レンジが使えると言う事で喜んでいた。レトルトが食べられるからだろう。
確かに日本のレトルトは評判が良い。レーションに採用している場所もあると聞いている。
それと、カップラーメンをかなり持ち込んでいた様子だが。
ポットもあるのを見て、喜んでいた。
他にも全ての場所をチェックして貰う。トイレは日本のものほど高機能では無いが、最低限の衛生はきちんと保っている。
海上に出たら、甲板には出ないようにと注意。
甲板の開閉方法についても説明し。
実際にやってもらう。
最悪の場合、脱出艇に乗って貰う必要もあるので、出航前に説明をしておく。
他の二人は、そもそも体を満足に動かせないので、説明の必要はなかった。事故になったらおしまいだったからだ。
だが奈木の場合は、最悪の場合にもあがける。
だから、あがくための知識は仕込んでおく。
実はカルネもマニュアルを見ながらなのだが、順番に船の機能を教えていく。奈木は非常に覚えが良くて、聞き直すとほぼ完璧に復唱してみせる。こんな出来る奴を、どうして学校では迫害していたのか。
とはいっても、米国でも多分結果は同じだっただろう。
教育は、国の力を高める。
だが集団教育のシステムに、問題が来ていたのはどこの国も同じだ。エリート教育の本場であると自負していた米国でさえそうだった。
どの道、いつかは破滅が来ていた。
ゾンビパンデミックなんて想定外のものではなくても。
いつか、無理が極限に達していたのだろう。
程なく、奈木は全部のシステムを把握。
この様子だと、手動の航行についても教えても良いかなと思ったが。時間がない。先に、復習をする。
幾つかの事を聞いてみるが。
すらすらと応えてくる。
これなら教育のしがいがあると、ブライアン医師が喜ぶ。カルネは、その様子を見て、ため息をついていた。
「ちなみにブライアン。 貴方が教えた生徒の中で、奈木はどのくらい出来る方ですか?」
「医大に喜んで推薦するよ」
「……」
「まあたまたまわしの所には出来る生徒が集まったからな。 流石に一番、とは言えないさ」
まあそうだろう。
高IQといっても、アインシュタインやコンピュータ学の基礎と呼ばれたノイマンほどでもない。この間テストを受けて貰ったが、奈木のIQは180ほどだ。これは普通に人間を集めれば出てくるレベルである。
ただ、IQが180もあれば、その道の専門分野で活躍出来る。
このままゾンビパンデミックが起きなければ、日本はこんな人材を放り捨てていたのだろうと思うと。つくづく惜しい話だ。
「よし、それでは出港する。 航海中に、医療の基礎、それとITの基礎について勉強して貰うけれど、いいかな」
「別にかまわないけれど。 アンジュも乗せて大丈夫なわけ?」
「ヘイメル基地には犬が今いないからね。 軍用犬を見繕って輸送するつもりだけれど、それはまだ掛かる。 犬が一匹でもいると、生存率が爆上がりする事は、よく分かっていると思うけれど」
「……そうだね」
奈木はなんでこんな事を聞いて来たのか。
基本的に無口で、必要な事しか喋らないのだが。
何か嫌な予感がするが。
まあいい。
ともかく、順番に、基地に着くまで、あらゆる事を学んで貰わなければならない。今まで作っておいた学習マニュアルにそって、知識をつけて貰う。
ブライアン氏に先に医療の知識を叩き込んで貰い。
ITはその後だ。
その間に、カルネは作業を進め、全世界の生き残り捜索作業。更にはゾンビの駆除作業を進めておく。更に、各地のコールドスリープ装置の防御の万全化もである。
生き残り二十五万弱。
これ以上は、一人も死なせる訳にはいかない。
例え何が起きようとも。
絶対に、ここから先は、死守しなければならなかった。
3、嵐の海
不安そうにアンジュがうろうろしている中。奈木は基礎学習を急ピッチで進めていた。学校でやっていた勉強とはまるで内容が違う。英語も成績は余り良くなかったのだが。それは教え方が悪かったのだと、今更悟ることが出来た。すらすら勉強が進む。まずは英語をある程度マスターして、それから他の学問。最終的には医学。そしてITについての知識をつけていく。
先にアメリカの何とか基地に向かった二人は無事だろうか。たまにそうも考えたが、すぐに勉強に没頭することになったので。考える事は減っていった。
勉強を本格的に始めた分かったが。
日本の学校に比べるとスケジュールはかなり緩い。体を動かす余裕も持たせてくれるし。何より部活でガチガチに縛ろうとしない。
そもブライアンという医者は、元々大学で教鞭を執っていたらしい。
奈木に授業をするのも手慣れていて。
厳しそうな印象を最初に受けたのだけれども。授業の時は、むしろ今まで会った教師の中でかなりマシな方だという印象を受けた程だ。ただこれは、奈木が勉強についていけているから、なのだろう。
そうでなかったら、向こうは不機嫌になっていた可能性も高い。
それにしても、勉強は駄目だと思っていたのに。こうもすらすら問題が解けると不思議で仕方が無い。
逆にブライアン先生は、どうしてこれで成績が悪かったのかと、不思議がっていた。
勉強を進めていく内に、時間を見てアンジュの散歩をする。
輸送船は兎に角手広い。船底もまるでグラウンドのようだ。
船底はスペース的に余裕があるので、走り回るのにつきあうだけで、かなりアンジュは満足する様子だった。奈木自身も、軽く体を動かして、筋肉量を補っておく。水泳が出来れば一番良いのだが。何とか基地にはプールもあるらしいので、それまで我慢するとする。まあ、予想通りのプールかは分からないし。最悪裸で泳ぐ事になるだろうが。
流石に競泳水着なんて持って来ていない。
或いはカルネがもってきているかも知れないが、そんな事はいちいち聞いていない。
だいたい、現地に他に集まる二人も、生殖能力はないという話だ。
今更裸も何も無いだろう。
出港して三日。
嵐が来る、という連絡があった。
どうやら台風が接近したらしく、この輸送船が通過する海域を直撃するらしい。風速は四十メートルほどだそうだ。
大丈夫かと聞くが。大丈夫と返事を受ける。
その程度の台風でどうにかなるような柔な船ではないらしい。まあ軍船だしそんなものか。
スケジュールが詰められた。
かなり厳しいスケジュール内で勉強を続ける。
恐らく嵐が来ると、船が転覆はしないにしても、勉強どころではなくなるのだろう。
その予想は当たった。
先に言われる。
「基本的に甲板には出ないでほしいのだけれど、特に嵐が来ている間は絶対に出ないようにね」
「もしも脱出が必要な場合は」
「その時は指示する。 船にはダメージを表示する機能があって、更に一箇所や二箇所壁が破れても簡単に転覆はしない。 この船もそれは同じで、そもそも軍船だからミサイルでも直撃しない限りは一発転覆はしないよ」
そうなのか。
まあ、米海軍は太平洋も縄張りにしているし。太平洋では巨大な台風と遭遇する事もあるだろう。
その程度で被害を受けるような柔な造りをしていない、という点では。確かに納得も行く。
しばし黙々と詰め込んで勉強をするが。
詰め込みすぎると効率が落ちるな、と感じた。
恐らく教師二人もそれを察知したのだろう。
甘いものを食べて、歯を磨くようにと言われる。歯を磨く云々は色々と余計だが。船底に持ち込んだ荷物の中には、日本のお菓子が幾つもあった。
単純な質もあるのだが。
これは日本人である奈木の口に合うものを、という理由なのだろう。
しばしチョコを食べていると、また幾つか注意事項を言われる。
今接近している台風は、やり過ごすと米国本土への到着に一週間近く遅れが出る。現状、その遅れが致命的になりかねない。
台風の動きはある程度推察は出来るので、中心部分はある程度避ける。ギリギリの危険回避の結果である。
そのため、米国本土の基地、ヘイメルとか言うらしいが。そのヘイメル基地に到着するのは、予定より二日から二日半ほど遅れるそうで。
それについては、既に先行している二人に連絡済みだそうだ。
なお台風の瞬間最大風速は現時点で四十メートル。最大で八十メートルを超える事が想定されており。
恐らく海上で遭遇するときには、六十メートル前後だろうという話だった。
台風は巨大に成長するが。
確か沖縄辺りだと、年にその程度の台風は何度も来る、という話を聞いたことがある。
また、豆知識として。
台風といわゆるハリケーンは、発生する場所が違う事で分類すると説明を受けた。
なおヘイメル基地は、基本的に台風やハリケーンなどの大型低気圧が来ない位置にあるらしく。
それが色々な理由から、選定を受けた原因でもあるらしい。
確かに、台風だのハリケーンだのがばんばん来たら、今後のための研究どころではない。それは奈木も同意である。
勉強を切り上げた後。
何時でも場合によっては救助艇に移れるように、という指示を受けた。
コンテナについては、そもそも露天では無いし、ガチガチにワイヤーで固定されているらしく。風速九十メートルくらいまでは耐えられるらしい。
無言で、その時を待つ。
やがて、船がぎしぎし言い始め。
露骨に揺れ始めた。
アンジュが吠えるが、近くに来るように促して。座る。主人が平然としているのを見て、アンジュも落ち着いたのか。
側で丸まって、吠えるのを止めた。
先にトイレなどは済ませておくように、と言われたので。さっさと済ませておく。フロも入っておいた。
しばしして。
本格的に風の音がし始める。
船底だから、あまり外の音など聞こえないだろうに。それでも風の音が凄まじいという事は。
それだけ、異次元に強烈な風が外で吹き荒れている、という事である。
恐ろしいというかおぞましいというか。
台風は当然、奈木も何度も経験している。
近年は強烈な台風が、年に何度も上陸することが多く。そういったときは、如何に無茶な事ばかりさせる学校も、登校を控えさせていたが。それは人命の問題ではなく、生徒が死んだ場合学校の責任問題になって面倒だから、というのは目に見えていた。
一部の学校では、虐めによる自殺などを平然ともみ消していたし。
地域ぐるみでもみ消しを行うような事をしていたケースもあった。
日本だけではあるまい。
この世界は、とっくに寿命だったのだ。
船が揺れる。これほど巨大な船なのに。
船底に戻って、横になってぼんやり天井を見る。
運動も避けろと言われている。
船が揺れるので、転んだりすると怪我をするし。
怪我をして足を捻ったりしていると、脱出の時に支障が出るという理由からだった。
そこまで奈木はヤワではないけれど。
万一を考えてほしい、と言う事なのだろう。
台風は中心部に近付けば近付くほど、風速が凄まじい事になる。丁度中心部を逸れるようにして船を動かすらしいのだけれども。
それでもかなりこの船は揺れている。
揺れも、大きくなってきていた。
やがて船が傾くようになる。
大きな波がぶつかっていると聞かされて、その状態で海に救助艇で脱出して、助かるのかと聞いてみたが。
多分奈木しか助からないと言われて。口をつぐむ。
暴風雨は想像以上に凄まじいらしく。
想定を超える勢いで台風が巨大化している事が、奈木にも簡単に分かった。
船底だからある程度外からの空気は遮断しているはずだが。
それでも低気圧で耳の奥がきーんとする。
話を聞いてみると、現在人工衛星からの監視で、中心気圧は900hPa前後だという。確か、過去に日本に上陸して、最大規模の被害を出した台風が。上陸時にそのくらいの気圧だったはず。
普通日本に来た時点で大きいものでも950くらいだから、これが如何に巨大な台風なのかというのは、よく分かった。
現在、各基地で物資の格納作業を急いでいるという。
そもそも「民間人」が存在しなくなった状況だ。
各地の頑強な倉庫か、もしくは軍基地にて。
貴重な物資、更には金型など、文明を復興するために必要なものをどんどん集約しているそうだ。
奈木にこんな話をカルネがするという事は。
不安を紛らわせるためなのだろう。
奈木は別に不安など感じていないのだが。
或いはカルネ自身が、最後の希望とも思っている奈木を失いたくないのかも知れない。自分がして来た事が、全て無駄になるのが怖いから。
大きく、かなり大きく船が揺れた。
軋む音も船底まで届く。
大丈夫なのかこれ、と思ったが。
米国の艦隊の強力さは、奈木も聞いた事がある。多分大丈夫だろうと思って、横になったまま、傾いているなあと思う。
カルネの話によると、人を降ろした強襲揚陸艦を使いたかったと言う事だが。
残念ながら、遠隔操作に強襲揚陸艦は対応していないらしい。
強襲揚陸艦というと、空母打撃群の旗艦になっているあれか。
話を途中でカルネから聞かされた。
流石にそんなものは、遠隔操作しようがないのだろう。
もし出来てしまったら、敵にコントロールを乗っ取られて、戦闘中にとんでも無い事になりかねないからだ。
ぐっと左に揺れた後。
今度は右に揺れる。
これは酔う人は身動き取れなくなるなと、奈木は思いながら、揺れに身を任せる。
不安そうにしているアンジュは、丸まったままじっとしていて。
奈木があまり優しくない事を知っているからか。
甘えるそぶりは見せなかった。
奈木自身もアンジュを甘やかしてきたつもりはないし。
今後も過剰にベタベタするつもりもない。
犬は嫌いじゃない。
だが、他と同様、好きでもない。
それだけである。
勉強どころでは無いことは分かっているが。それでも、ある程度の事はしたいらしい。ブライアン先生が通信を入れて来て。今までの復習をする。即座に答えられるものもあるし。少し悩むものもあった。
だが、こうやって揺られている中、多少の会話をすることは、気晴らしにはなる。
時に坂くらいまで傾いている事もあるので、不安になるが。
この巨船が沈む場合。
如何に備えていても、多分助かる事はないだろう。
奈木は覚悟も決めているし。
何より、実際問題として。今までゾンビ化しなかっただけで、今後もゾンビ化しないという保証はないのだ。
死に対しては。
恐怖などはなかった。
「よーし、好成績だ。 その調子で、今までの勉強を基礎としてくれ。 今後はどんどん応用に入っていくぞ」
「分かりました」
「うむ。 では反復して復習しておくように」
通信が切れる。
というか、この嵐の中だ。
恐らく通信をするだけで、相当にエネルギーを使うのだろう。無言で半身を起こすと、丁度揺り戻しが来る所だった。
はあと溜息が出る。
ぼんやりと、勉強のことを考える。
嬉しいのは、国語で「作者がこの時何を考えていたか応えよ」というような、理不尽な事を言われないこと。
英語が思ったよりずっと楽な事だろうか。
小さくあくびをする。
奈木が余裕の様子を見せているからか。
群れとして上に奈木がいると判断しているらしいアンジュは、恐らくはそれで安心している。
小首をかしげたのは。
揺れが少し収まってきたからだ。
だが、やはり、またすぐに揺れが強くなる。
カルネのことだ。
下手を打っているとは思えないが。台風の中心に近付いているとか、そういう事は無いだろうな。
一瞬そう思ったが。
カルネと利害は一致している。
いずれにしても、わざとやっていると言うことはあるまい。また、床にべったり寝て。目をつぶると、復習をする。
既に高校の分野の勉強に入っている様子だが。
こんなのは序の口だ。
今後は、医学の深奥まで勉強しなければならないのだ。それにカルネは、おない年で米国のトップまで上り詰めていると聞く。
むしろ奈木は、遅れている方なのだろう。
高IQらしいが。
今でもそれについてはあまり自覚は無い。
少なくともカルネの方が上だろう。
実際ドローンを使っての追いかけっこでは、とうとう奈木が遅れを取る事になったのだから。
かといって、カルネがゾンビ化の研究の最前線に立つわけにもいかない。
面倒な話だ。
人類なんてどうなってもいい人間が、そんな研究をしなければならないのだ。
いずれにしても、報酬はきっちり払って貰う。
そこら辺を考えると。
今後は、あらゆる知識を身につける必要があるなと、奈木は思っていた。
船がまた揺り戻す。
床で寝ているが、滑りそうになる。これだけ派手に揺れていると、風速はどれほどなのか見当もつかない。
聞くと藪蛇になりそうだから、やめておくけれど。
多分五十メートル程度では済まないはずだ。
荷物は無事だろうか。
貴重な物資を、山のように積み込んでいると聞いているが。海の藻屑となったら、損失は計り知れない。
外に出たら、一瞬で吹っ飛ばされるだろうな。
そう思うと、やはり目を閉じて、勉強でも復習するしかない。そうこうしている内に。船に揺られている疲れが出てきたのか。
うとうとと、船を自分でこぎ始めているのが分かった。
あくびをすると、毛布を出してくる。
ある程度カメラか何かで観察しているのか、カルネが呆れたように声を掛けて来た。
「まさか寝るつもり? この状態で?」
「今更どうしようも無いからね。 それにこのくらいの状況、逃げ回っているときに散々味わったし」
「……そっか。 ボクより奈木の方が精神的なタフさは上のようだ」
「その年で大学教授なんでしょ。 嫌みにしか聞こえないよ」
毛布にくるまると、転がらないように大の字になって、そのまま目を閉じて眠る事にする。
睡眠時間はどうせ不安定なのだ。
眠れるときに、少しでも眠っておくべきである。
奈木の様子を見て、アンジュは安心できると判断したのか、もっと先に眠りこけ始めた。
大した図太さだ。
犬は主人に似ると聞いているけれど。
恐らくは、アンジュもそうなのだろう。
しばらく、無心に眠りを貪る。
そして、起きたときには。
船の揺れは収まっていた。
甲板のチェックをしてほしい。そう言われたので、指定通りの動作で、船の甲板への蓋を外し。
そして外に出る。
いわゆる台風一過という奴で、凄まじい青空が拡がっていた。
ただまだ波が高い。
この蓋を外して出た場所は、まだ構造物の内部なのだけれども。其所から出ないようにと言われた。
カメラが何カ所かに配置されていて、荷物を写している。
それが崩れていないか、カメラが駄目になっていないか、確認してほしい。そう言われたので、映っている映像を全てチェックする。
大丈夫と応えると。カルネは、問題なしと返答してきた。
これもテストだったのか。
ため息をつくと、船底に戻る。蓋についても、閉じ直した。
それから、また黙々と勉強を進める。カルネの方が、ブライアン先生よりもかなり教え方が厳しいかも知れない。
兎に角出してくる問題がひっかけだらけだし。
基本をしっかり理解していないと、解けない応用問題ばかりだ。
そして間違える度に。
丁寧に解説をしてくれる。
黙々と勉強を進めるが。何となく分かる。カルネもブライアン先生も。米国本土に上陸したら、代わる代わる専門分野を教わるだろう他の人も。自分の全てを奈木に叩き込もうとしているのだろうと。
何だか、遺言を託されている気分だなと奈木は思ったが。
それを、直接相手に告げることはなかった。
船はどうにか難局を乗り切る。
台風は現在二つ同時に発生し。一つは日本に勢力を保ったまま近付いている様子だけれども。
もう奈木には関係がない。
研究には下手をすると数百年掛かると言う話もある。
いずれにしても、奈木が東京に戻ることがあっても。
その時には、東京は廃墟だろう。
ましてや自宅など。
欠片も残っていないはずだ。
貴重な物資は集積している。それだけで、我慢するしかない。それに奈木の家は、大規模な火災に巻き込まれていたはず。
強いていうなら、晴菜の骨くらいは拾いたいけれど。
それだって、どうせ野獣が食い荒らして、残っている可能性は少ないだろう。
もう、失って惜しいものは、近くにはない。
勉強を続ける。
ヘイメル基地とやらについたら、更に忙しくなる事は確実だ。
今のうちに。
少しでも、先の負担を減らさなければならない。
4、最後の砦へ
ヘイメル基地は米国西海岸に幾つかある軍事基地の一つで、いわゆる軍港という奴であるらしい。
事前にどういう基地なのかは聞いていたが。
遠くに見えてくると、その巨大さに驚かされた。
奈木にも分かる。
如何に強力な施設か、と言う事が。
まず基地周辺には、多数の防壁が設置されており。多数の対空戦闘用の装備が配置されている。
港湾基地が空襲を受けた場合に備えているのだろう。
滑走路もある。
空港も兼ねているらしく。
戦闘機が多数並んでいたが。それらは、順番に牽引されて、地下の格納庫に運ばれている様子だった。
恐らくは、いざという時、いつでも使えるようにするためなのだろう。
世界最強の戦闘機と名高いF22も配備されているらしい。
F22については奈木でさえ聞いた事がある、世界史上最強の戦闘機。此処に集めてあるという事は。
つまりそういう事なのだろう。
船もかなりの数が停まっている。何でも、七つある米軍の艦隊の一つ。その一つの生き残りが、丸々全て此処に集結し。船員は全てコールドスリープしているらしい。これも人類がゾンビ化を克服したとき、再起しやすくするためなのだろう。
まもなく、輸送船が港に到着。
スロープが降ろされる。
奈木はアンジュを促して、米国の港に降り立つ。何もかもが大きな造りで。巨大なドッグもあった。
戦闘で損傷した船を修理する用途もあるのだろう。
文字通り、巨大な一大軍事拠点だ。
横須賀の基地よりも更に何倍も大きい。
それに、基地の外側には、前にちらっと見かけたセントリーガンや無人の装甲車が、凄まじい数展開している。
恐らくは、これらも人類がゾンビ化を克服した後。
いや、克服するための作業の最中に。
事故が起きるのを防ぐため、なのだろう。
猛獣は米国にもかなりの種類が棲息していると聞いている。人間が絶滅危惧種に成り下がった今、猛獣は大いに脅威になる。
それらを悉く退けるために。
圧倒的な威圧感が必要なのだ。
あれらの操作方法も、学ばなければならないだろう。
促されて、基地の奥に。
港湾設備の中に、自動車が待っていた。日本でも利用した、自動操縦の軽である。此処からは、車で移動する、と言う事だった。
今日は案内だけで終わるだろう。
そうカルネは言っていた。
それだけ、この基地は広いと言う事だ。
地下に降りる。
膨大な敷地の研究施設が拡がっている。此処でも多分、ゾンビ化を防ぐための研究はしていたのだろう。
だが間に合わなかった。
カルネ達がいるのは、別の基地らしいので。そこも米国らしく、同じ規格で作られているのかも知れないが。
いずれにしても、何というか全体的にごつい。
米国の映画に出てくるような、スタイリッシュなデータセンターとはほど遠い。非常に無骨で。
更には、ファンの音も凄まじい。
熱が凄いと聞いていたが。サーバは熱で簡単にやられてしまうため。こうやってファンで風を起こして。徹底的に熱を排除しているのだろう。
燃料がたくさんいるわけだ。
なおこの施設だけなら、千年は余裕で動かせるし。何より今も現在進行形で燃料を集めているらしいので。
燃料切れについては、気にしなくても良いそうだ。
問題はサーバの耐用年数で。
此方については、早めに知識を得る必要があるとか。
特にデータ保存用のHDDは耐用年数に問題があるケースが多く。
この規模のサーバルームだと、毎月必ずこわれるHDDが出るため。それを修理しなければいけないらしい。
そういうものかと思いながら、奥へ。
研究施設があるが、まだ入るのは早いという。専門家以外は、触れないものも多いそうだ。
外から見るだけだが。
無菌状態で、色々と研究するための設備が整っている。
確かに彼処は、素人が入ってはいけない場所だ。
ただ、設備自体は動いている。
恐らくは奈木のクローンを作っているのだろう。噂に聞いていたクローンをである。他の二人についても、既にクローンを造っているのかも知れない。
ゾンビ化しない人間は。
結局三人しか確保出来なかった。
他の人達は、それこそ命を極限まで削りながら、状況に応じて動いていくしかない。そういう世界が来てしまった。
だから、これからの勉強は。
身を立てるためではない。
ただ、奈木が今後人類社会と関わり合いになりたくないというのもまた事実だ。それについては譲れない。
幾つかの施設を案内された後。
他の二人がいる、生活施設に移動する。
もう下士官も一兵卒もない。
この状況だ。
一番状態が良い士官用の寮を用いるそうである。とはいっても、其所まで目に見えて豪華な訳では無い様子だが。
車が止まる。
なお、他の二人とは、奈木の性格上基本的に顔を合わせて、緊密に接するわけでは無いらしい。
別にそれでかまわない。
向こうは最大限奈木を尊重してくれている。
それが分かるので、それだけでいい。
荷物を移す。
その後、輸送船から荷物を降ろして、自動で運び込んでいる様子を見やる。
全自動でやるんだなと、少し感心した。
あの輸送船は、今後無人のまま、世界中を行き来して、物資を運ぶのだろう。人類がいなくなっても、再興を計るために。物資を無事な内に集約させなければならないのだから。
「半日だけ休んで。 その後は、早速勉強漬けになるからね」
「……分かった」
アンジュは室内に入れて良いかと聞くと、止めた方が良いと言われた。
外にはそれなりに立派な犬小屋がある。それに、アンジュには基地を覚えさせた方が良いとも。
なるほど、その通りだ。
頷くと、犬小屋の周囲にアンジュ用のスペースを作る。日本の犬小屋よりかなり立派である。
米国人は犬を大事にするらしいが。
それが伝わる犬小屋だ。
さて、背伸びをすると。眠る事にする。
これからは、またいつ眠れるか分からない日々が続く。プールについてもさっき見せてもらったが、25メートルのしっかりしたプールだ。水着もきちんとある。ただ、日本の競泳水着とはだいぶ造りが違ったが。
準備は整った。
これから、奈木は契約に従って。
人類の反撃に荷担する。
(続)
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