死体が歩く

 

序、終焉の始まり

 

米国ルイジアナ州。米国南部に存在し、たびたびハリケーンに襲われる土地である。米国の中では特に豊かな州ではなく、治安も決して良い訳ではない。人口三十万を超えるニューオリンズの外れで。

それが始まった。

2022年2月の事である。

理由は誰にも分からない。

最初、それを見た者達は、仮装かと思った。あからさまに腐敗した死体が、歩いて来るのを見たからだ。

数人の市民達は、それを見て良く出来た仮装だと思い、スマホで写真を撮り、動画も撮影してSNSに流した。そして、いけている仮装だと声を掛けようとして、気付く。

腐臭が、本物である事に。

だが、ハロウィンでは、ゾンビや惨殺死体のオブジェを飾ったり、扮装するマニアもいる。中には本格的すぎて、通報されるケースさえある。

おいおい、ハロウィンはまだ先だぜ。

腐敗し、太った白人男性の死体の扮装に思えるその何かに近付いた一人の市民が、悲鳴を上げる。

噛みつかれたからである。

慌てて取り押さえようとする彼らは、麻薬のことを思い出す。

確かロシアで出回っているタチが悪い麻薬に、人間をゾンビのように変えてしまうものがあった筈。

SNS等で話題になり。

そして実際に人間を食い千切った例まで出ていた。

そんな輩ではないかと思ったのだ。

腐敗死体の仮装をしたように思える者は、脆くも取り押さえられ、そして一人が警察を呼ぶ。

時刻は現地時間で21時27分。

取り押さえた瞬間。

市民の一人が、悲鳴を上げた。

腕が。

腐敗した死体らしき仮装をした変人の腕が、もげ落ちたからである。

「おい、やべーぞ! そんなに力入れてねーぞ!」

「どうなってるんだよオイ!」

噛まれた者も、冷や汗を流しながらもがく腐敗死体を取り押さえていたが。やがて警察が来る。

警察も半信半疑だったが、死体?のおぞましい姿を見て、一人が瞬時に吐いた。

そして、どうにか取り押さえて警察署に運んだ。

それが、全ての終わりだとも知らずに。

事情聴取など出来る筈も無く、取り押さえた状態で医者が派遣され。診察した医者は、即座に死んでいると断言。

しかしながら、確実に動いているし暴れている。

その内からだが無理に抑えたからか、彼方此方崩れ、腐汁が飛び散り。おぞましい死体は、やがて四肢を失ってもがくことしか出来なくなった。

更に、翌日。

同じような「歩く死体」が、ルイジアナの何カ所かで観測され。そして、その数は爆発的に増えていった。

二日後にはFBIが動いたが、その時にはニューオリンズで同様の事件が40件、周囲の都市でも80件に渡る「動く死体」が確認。

警察による強行制圧が許可されるまで更に半日。

捕らえられた「動く死体」は、刑務所に入れられたが、それら全てが、終焉までの道を舗装したのだ。

爆発的に増え続ける動く死体。

州軍の出動まで一週間。

やがてルイジアナに緊急事態宣言が出され、大統領が現地に視察に訪れる。その時には合衆国陸軍も動き始めていた。

そして、最初の動く死体が発見されてから10日後。

突如として。

最初の発見者全員。

更にその場に駆けつけた警官。尋問をした警官。更には、その死体を診察した医者、医療関係者。

全てが動く死体となり、同僚に襲いかかったのである。

既にルイジアナでの封じ込めは不可能になった。

メキシコでも同様の事例が即座に発生。治安が壊滅しているメキシコでは、もはや手の打ちようがなくなった。

現場に出ていたルイジアナの警官。

更に州軍。

FBIの捜査官。

悉くが動く死体と化していき。

爆発的に合衆国全域が、動く死体によって制圧されていった。

そんな中、「数十年ぶりのまともな大統領」と皮肉混じりにいわれていた大統領が、緊急事態宣言の演説中、テレビカメラの前で「動く死体」に変わるという恐怖の事態が発生。

そして、動く死体は。

北米だけでは無く、南米、ユーラシア、アフリカ、オーストラリア、各大陸へと爆発的に拡がっていった。

島国にも容赦なく上陸。

世界は二ヶ月を待たずして。

地獄と化した。

 

気密服を着た部隊が、軍による「動く死体」の駆除を行っている。それをモニタで感染しながら、元副大統領、現合衆国最高指導者アーノルド=バークスは鼻を鳴らしていた。

文字通り草でも刈るかのようだ。

どう考えてもあの「動く死体」はゾンビだ。まあもうそれはいい。映画の世界における最も売れっ子とも言えるヒール。様々な映画のある意味主役となり、多くの映画世界を滅ぼしてきたヒールオブヒール。地球に意味もなく攻めてくるエイリアンよりも、むしろ人気があるかも知れない。

動く死体ははっきりいって弱い。

今も戦車隊が情け容赦なく踏みつぶしているし、火炎放射器でもアサルトライフルでもあっさり制圧出来る。

問題はその後だと、報告が来ていた。

「気密服は絶対に脱ぐな!」

現場の指揮官が叫んでいる。文字通りゴミのように刈り取ったゾンビ共は、もう一匹も動いていない。

走らない。武器を使わない。進化するわけでもない。壊せば動かなくなる。

ゲームに出てくるゾンビではない。此奴らは、鈍重なだけの動く腐った死体だ。武装さえしていれば大した脅威では無い。

事実、黒焦げにしてしまえばそれで終わり。

関節を砕けば、それ以上はもがくことしか出来なくなる。

顎の力が強くなっているとか。リミッターが外れて筋力が上がっているとか、そういう事も無い。

兵士の報告によると、大して生前と力は変わっていないし。

むしろ弱くなっているという。

そう、だから軍なら簡単に制圧出来る。警察でも制圧そのものは難しくは無い。問題はその後なのだ。

消毒班が来て、気密服のまま、徹底的に辺りを消毒している。

だが、それでも、である。

しばらく軍の兵士達を、隔離しなければならない。

そして、隔離した兵士達が、どうしても発症するのである。

数日後、何の兆候も無かったのに。

戦場では気密服を着ていたし。

その気密服だって、散々消毒してから脱いだはずの兵士達が。

隔離されていた軍基地で、ゾンビ化する映像が、目の前にて流される。アーノルドは、独房でゾンビ化して喚きながらドアを叩き始める兵士の成れの果てを見て、首を振っていた。

「それで、調査は」

「分かりません。 現時点では、空爆を行った兵士に同じような事態は起きていないのですが、そもそもゾンビがまったく発生していなかった孤島などで、いきなりゾンビが発生するケースも報告されており……」

「解剖などの結果は」

「ゾンビの脳内に奇妙な物質が大量に発見されていますが、それ以外は何も。 現在調査中ですが、極めて危険で、やはり気密服を着ていた筈なのにゾンビ化する例が後を絶たず……」

兵士達の間では、これは審判の日が来たのだという噂が流れているという。

まあそれもそうだ。

西欧の文明は、とうとう一神教からあらゆる意味で逃れられなかった。ローマ帝国を一神教が乗っ取った後。結局文明そのものが一神教に染まり。その負の面の強い影響を受けながら、世界中に自分の価値観を押しつけていった。

もっとも、そも一神教の前には蛮族そのものだったゲルマンやその系譜の欧州人に、何とか秩序を与えたという功はあるにはある。

だがそれ以上に。

こう言うときには、迷信が流行るものなのだ。

審判の日。

一神教における、終末の時。

それまでの死者全てを神が蘇らせ。

天国に行けるか地獄に落とすか選別する。

この審判の日のために、西欧文化圏では死体を棺桶に入れて今でも保存するのである。衛生など信仰の前には無力なのだ。

そしてアンチ一神教思想も多数蔓延った。

その中の一つが、審判の日を皮肉ったことで一躍有名になったゾンビ映画。そして、モロにキリスト教の思想をベースにすることで、西欧の人間には凶悪な恐怖を与える事に成功したクトゥルフ神話だろう。

いずれにしても、フィクションである。

審判の日なんて、今時余程のアホでもない限り信じてはいない。

だが、世界中にゾンビが拡がり。

対応が仕様が無い現状。

こうして、隔離された施設で指揮を執り続けるのは。

アーノルドの義務でもあった。

まさか大統領があのような事になるとは。

現場の視察をした時だって、念入りに注意していたし。勿論ゾンビに触れる事などなかったと聞いている。

国民の前で大統領がゾンビ化する。

それが、パニックというものに、完全に火をつけてしまった。

もはや誇り高き世界最強の米軍も、右往左往するだけの羊に過ぎないし。

各国の軍隊は更に状況が酷い。

米国の地図を見るが。

既に全土が真っ赤。

ゾンビが出現してからそれほど時間も経っていないのに。既に文明は崩壊しつつあった。

「何か対策は」

「……ゾンビが制圧した地域では、ゾンビは基本的に何でも肉を喰らうようです。 スーパーマーケットなどは真っ先に襲われていますが、知能が失われているようで、臭いが漏れないレトルトや缶詰にゾンビは興味を示しません。 また、家畜に襲いかかって返り討ちにされる画像も確認されています」

「そんなものに我々は負けているのか」

「はあ、まあ……」

歯切れの悪い科学者。これでもマサチューセッツ工科大学を主席で突破している学者なのだが。

逆に言うと、それでもさっぱり分からない、と言う事なのだろう。

溜息をつくと、現在分かっている事をまとめさせる。

「現状、もはやゾンビに近付いただけで確実に感染すると考えた方がよろしいかと思います。 気密服を含めてあらゆる手段を講じましたが、ゾンビを制圧しにいった部隊は基本的に誰も生還出来ていません。 生還は出来ますが、廻りごと発症します」

「病気では無く、我々が知り得ない呪術のようなものだとでもいうのか」

「いえ、それであるならば、空爆した戦闘機の乗組員が無事な理由に説明がつきません」

「……ともかく、感染の詳しい仕組みを調べろ。 このままだと人類は近いうちに絶滅するぞ」

アーノルドは声を荒げるが。

内心は冷や汗をずっと掻いていた。

当たり前だ。

離島の人間がいきなりゾンビ化する状態である。

此処は、米軍が保有している離島であり。

しかも核戦争を想定したシェルターの中だ。

それでも、こんな状態では。

いつゾンビ化が起きても不思議では無いのだから。

科学者の中で、一番若い者が、挙手。

飛び級で大学に入った学者の一人である。

「このゾンビは恐らく病気の一種として考えるべきです。 問題は感染と発症までのタイムラグと、どうすれば感染するか、です。 飛沫感染にしては強力すぎる上に、気密服も貫通してきている上、殺菌も通じていません」

「何が言いたい」

「ウィルス性のものではないという事です」

「……続けてくれ」

頷くと、学者はプレゼン資料を出してくる。

此処で一番下っ端だから、ずっと会議の間黙っているしか無かったのだろう。

欧米で能力主義が取り入れられているなんて大嘘だ。

スクールカーストはどこの国よりも苛烈だし。

米国ではスクールカーストのストレスによって、毎年学生による銃の乱射事件が発生していた。

今後は起こりそうにないが。

それでも、社会には矛盾だらけだ。

幸い、金さえ握らせれば嘘でも何でも書く操りやすいマスコミを操作して、印象宣伝は容易だったが。

そのせいで、マスコミに対する信頼性は地に落ちた。

胡麻擂りが何よりも大事な状態は、欧米でも同じで。

それに色々名前をつけて、格好良く呼んでいるだけ。

飛び級で此処にいるような天才児でも、いやだからこそに。その悪しき風習からは逃れられていない。

「仮説ですが、潜伏期間はかなりの可変性があると見て良さそうです。 今までの鎮圧にあたった兵士達の様子を見る限り、三日から二週間ほどと、かなり個人個人によって差があります。 そして感染した場合は、その直後から何かしらの原因をばらまき散らしているようです。 周囲の兵士達の感染する様子から見ても、それは明らかです」

「ドローンなどによる駆除は」

「一定の効果は上げてはいますが。そのドローンを回収した人間が、どれだけ丁寧に消毒しても感染するケースが出ています」

「ドローンは相応に値が張る。 全て使い捨てにしろと言うことか」

しばし黙っていたが。

やがて、若い学者は口を開く。

「天然痘は、かさぶたが一年以上感染能力を保持したという話があります。 現在は幸い世界から根絶されている病気ですが。 このゾンビ化という病気の原因は、空気中に漂い、あらゆる消毒を受けつけず、しかも一度ばらまかれると風に乗って地球上の何処にでも行き、そして感染するのかも知れません。 人間の免疫能力を軽々と貫通して……」

「要するにアレか。 空気感染する上に何をしても消毒さえできないエイズのようなものか」

「致命的な事を考えるとむしろエボラの方が近いかも知れません」

「対策は」

苛立ってアーノルドが学者達を見回す。

こうなると完全に軍人は蚊帳の外。

口をつぐんで、黙っているしかない。

「ともかく、感染のシステムを調べ上げるのが先です。 それと、もはや空気そのものが敵だと考えるしか無いでしょう」

「この施設そのものを、外界から完全隔離するということか」

「そういう事になります。 可能な限り、まだ生きている軍施設や発電所などでも、同じ処置をしてください」

「分かった。 手配はする」

一応、空気が入り込めないようにする仕組みは存在している。気圧を操作すればいいのである。

ただしその場合、内部から外部に向けて、空気が際限なく出て行く事を意味もしている。やがて待っているのは窒息死だ。

地下シェルターでさえ、何らかの方法で空気を外と入れ換える仕組みが完備されているほどであり。

当面は、酸素や二酸化炭素の濃度を調整しつつ。施設を完全気密に置いて凌ぐしかない。

それが如何に困難かは。

アーノルドだけではなく。

無学なものでさえ理解出来るだろう。

会議を終えると、即座に軍人達は指示を出す。

アーノルドは苦虫を噛み潰していたが。

もう一度、筆頭の学者に聞く。

「まだ、抗体を持った者は見つかりそうにもないか」

「厳しいでしょう。 これは従来の病気とは一線を画するものかと思います。 もしも抗体を持つ者がいたとしても、億に一どころか、兆に一という確率……いやもっと低いかと推察されます」

「分かった。 調査を続けろ」

「はい」

アーノルド自身、自室に戻ると。

まだ生きている軍基地からの報告を順番に受けている。

気密服は、着ているときのストレスが凄まじく、数時間連続で着ることは不可能だ。いま生きている基地は、殆ど人里離れた場所にあるものばかり。

市民を救えと出撃していった者達や。

ゾンビなど薙ぎ払ってやると意気揚々だった者達は。

とっくに全てゾンビの仲間入りしている。

幸い、海上に空母と、ある程度の航空戦力、更には空母打撃群が幾つか無事で存在しているが。

それも、離島でゾンビが出ていることを考えると。

いつまでも無事とは言えないし。

何より空母は凄まじい大食いだ。

原子力空母でもそれは同じ。戦闘機の燃料まで原子力でまかなえる訳では無いのである。大体空母は兎も角、周囲の艦船はそうもいかないのだ。

「これより、ニューヨークの空爆作戦を実施します」

「分かった。 やってくれ」

「ニューヨークを米軍が空爆することになるとはな……」

「もはやニューヨークに生存者はおりません。 地下施設などに生きているものはいるかも知れませんが、それも……」

分かっている。

もはや、手段はない。

まもなく。米国の誇る海軍が。自国領への空爆という、正気ではない行動に出た。それを大統領の後を継いだ最高指導者が容認した。

この世界の終わりは。

間近に近付いていた。

 

1、生存者

 

瞬く間に世界が滅茶苦茶になった。アメリカでゾンビが出た、という話を聞いたときは、誰もがバカじゃねーのとか、フェイクニュースだろとか、SNSで気楽に話していたのに。それが一週間もしない内に恐怖とパニックに変わり。そして世界中にゾンビが出始めると、逃れられない悪夢へと変わった。

日本では、沖縄、九州からゾンビパニックが開始。

だが、突然東京でゾンビが出現すると。数日もしないうちに北海道でもゾンビが出て。国が鎮圧に乗り出すも。やはり他の国と同じように、鎮圧に出た自衛隊や警察が、まるごとゾンビになってしまう状況が続いた。

自衛隊の装備は優秀だと聞いていたのだけれど。

それでもどうにもならない、というのが事実であったらしい。

そして、何とか皆が逃げ回っている内に、インフラは動かなくなり。

今では、山の中に逃げ込んだ数十人ほどは。

バリケードを築いてどうにか道路を封鎖し。

麓の街で、うごめく生きた屍の群れが闊歩しているのを、固唾を飲んで眺めやるしか無かった。

その中の一人。

広中奈木は、手をかざして、木の枝の上からじっと街の様子を見ている。

中学二年になったばかりの奈木は、勉強はさっぱりだったが、体を動かすのは得意だった。

一年の頃は水泳部のレギュラーで、そこそこ実力のある選手として活躍もして。来年出る県大会での好成績は間違いないともいわれていた。残念ながら二年になった直後に学校が閉鎖されてしまったので、今はもうそれどころではないが。

木登りが得意で、昔は男子と間違われることも多く。

髪の毛もベリーショートにしている事もあって、猿がスカートを履いているなんて揶揄される事もあった。

街にゾンビが出た、と聞いて。

慌てて山の中に家族と一緒に疎開したが。

その時には何もかもが遅く。

途中で両親はゾンビ化。

もはやおいて逃げるしか無かった。

山の中では、平然と鹿が草を食っている。この辺りは、幸い熊は出ないものの。かといって狩猟免許を持った人も、生き残りにはいない。

鹿を狩る事なんて、出来そうにも無かった。

「奈木ー。 どんな様子ー?」

「今のところ、生き残りを探そうとか、そんな動きはしていないね」

「そうー」

木の下から声を掛けて来たのは、体が弱い猪野晴菜。病院から何とか逃げ出してきたらしいのを、一緒に逃げてきた。

病院から来た、というだけで殺される可能性があるから。それについては黙っている。

急いで逃げてきたので、パジャマだったという風に誤魔化して。

逃げる途中で入った洋服店から、適当にくすねてきた服を着て貰っている。

一歳年上らしいのだが、何しろ病弱でずっと入院していたのだ。背は奈木より低いし、まともに走る事も出来ない。

完全に足手まといだが。

しかし、奈木は知っている。

既にゾンビが彷徨いていた病院で、晴菜は無事でいた。

何でも、今世界中を覆い尽くそうとしているゾンビ達は、噛まれなくても感染するらしいと聞いている。

晴菜は或いは、何かしらの可能性があるのかも知れない。

偉い人が助けに来たときにでも、それは伝えるつもりだ。

いずれにしても籠城を開始してから三週間。

ゾンビ化する人は幸い出ていない。

木からひょういと飛び降りる。

学校の制服を途中まで着ていたのだが。避難してきた者の中には、破落戸同然の奴もいる。

今は肌の露出を可能な限り減らした服を着込んでいて。

少しでも自衛のために努力はしていた。

それにしても、困ったときには協力し合うというのはなんだったのか。

この集落に元からいた人間達は、かろうじて街から逃げ込んできた者達と、口も利こうとしないし。

破落戸は破落戸で、いつものを盗むか。若い女をどうするか。そういったぎらついた眼で周囲を常に見ている。

当然奈木も下心丸出しの輩につけられたし。

晴菜なんて、危なくて連中の前には出せない。

何をされるか分からないからだ。

結局、数十人の生き残りは。

それぞれめいめい勝手に村の中に散り。

そして、今は互いに警戒しながら、生き残りを模索している状態だった。

市役所のスピーカーが、何やら言っている。

目を閉じて耳を澄ますが。スピーカーが骨董品だからだろうか。何を言っているか、さっぱり分からない。

「奈木、今の聞こえた?」

「全然」

「そうだよね。 スピーカーくらい、新しくすればいいのに」

「……」

難しいだろう。

もっとも有事で大事だろう自衛隊でさえ、予算をけちっているような状況なのだ。市役所のスピーカーなんかに、この国が金を落としたとは思えない。

とはいっても、もうこの国どころか、世界中でもう国なんて存在していないだろう。

時々飛行機は飛んでいるけれど。

全部が軍用のものだ。

生き残りがいないか探しているようではあるけれど。

ゾンビの性質は、SNSで流されていた。

何でも噛まなくても感染する。

近くにいただけでゾンビになった。

動かなくなっても、近付くとアウト。

離島にいた人間がいきなりゾンビ化した。

この国が瓦解する過程で、それらの噂が恐らく本当だという事は、奈木も悟った。

不安そうな晴菜と一緒に、村の様子を見に行く。

何人か、明らかにいわゆる半グレがいるので、気を付けなければならない。村の畑から我が物顔で野菜を奪ったり、夜中に大音量で音楽を流したりと、正気ではない。ゾンビ映画だったら真っ先に殺されている連中だが。生きていると言う事は、そういう事なのだろう。

本当にどうしてゾンビになるのかの仕組みが誰にも分からないのである。

今、世界中の生き残った科学者が総力を挙げて調べているだろうけれど。本当にどうにか出来るのだろうか。

何処かの国の細菌兵器という噂もあったけれど。

奈木には、そんな噂が本当だとは、とても思えなかった。

それに細菌兵器だったとしても。

この有様では、ばらまいた国もとても無事ではいられないだろう。

炎が上がる。

口を押さえた晴菜を背後に庇った。

悲鳴を上げながら、半グレの一人らしいのが、よろよろと倒れ。そして、距離を取って、周囲がそれを見ていた。

離れろ。

叫んでいるのは、中年太りの男性である。

農家をやっている人で。

色々末期的なことに、この村の一番若い世代らしい。

「てめえ、コージに何しやがる!」

「此奴はゾンビ化しはじめていた! それに近付いただけでゾンビ化する! 俺はもう駄目だ! お前達も早く逃げ……」

「うるせえデブ!」

太ったおじさんに、キレた半グレが殴りかかり、もみ合っている内に二人とも火だるまになる。

半グレがつれていた、いかにもな女が金切り声を上げるが。それでいて助けようと近付くことは無い。

まあ、それはそうだよなと、しらけた眼で距離を取りながら見る。

やがてもつれ合っていた二人は、そのまま燃え尽きる。

そうか、ついに村内でもゾンビ化する者が出てしまったか。

近くにいただけで感染する。

その噂が本当なら。

この小さな村も、もうおしまいだという事だ。

咳き込む晴菜。

青ざめていて。心配になる。

ともかく、此処に逃げてくる途中で使った自転車に乗り込む。野菜は幾つか拝借していく。今はもう、盗む云々を言っている状態じゃない。

「逃げるよ」

「まって、逃げるって、どこに」

「もっと山奥」

「そんな。 此処でもこんなに危ないんだよ」

晴菜のいう事は正論だが、しかしながらゾンビ化の話を聞けば聞くほど、実例を見ればみるほど。

此処はもう駄目だと言う事がわかる。

ゾンビは積極的に人間に襲いかからない。それは近付けば噛みついてくるが、動かない肉がいればそっちを優先する。逃げる途中見た。スーパーに群がり、陳列されている肉を貪り喰うゾンビ達の姿を。

あれは恐らくだけれど。

別にわざわざ襲わなくても、ゾンビ化出来るからだ。

自転車の後部座席に晴菜を乗せると、山道を立ちこぎで行く。

更に山奥に、完全に廃棄された村があると、さっきの集落で話は聞いている。そういった場所には、県によっては熊とか猪とか出たり、或いはホームレスとか住み着いたり、とても危険だと聞いているけれど。

今は、それでもまだマシだ。

この辺りは幸い熊はいないけれど。

そうなると野犬だろうか。

中型犬は群れになると無理。大型犬は、相手が本気になったら、絶対に人間じゃあ勝てない。

何処かで聞かされた話だ。

遭遇しないように祈るしかない。

そのまま山道を無理矢理進む。車道がなくなり、獣道になる。首都圏からそれほど遠くないはずだけれど。こんな道があるもんなんだな。驚きながら、兎に角坂を上がって行く。途中、いきなり視界が開けた。

見ると、住んでいた街が一望できる。

完全に火の海になっていた。

嫌な予感がする。

煙が流れてこない方に行くべきだろう。幸い此処は風上だから大丈夫だとは思うけれど。

「病院が……」

悲しそうに晴菜が言う。

可哀想だけれど。

あそこにいた人に、助かる可能性はなかった。

そもそも晴菜と合流できたのも、奇蹟に等しかったのだ。今は、兎に角逃げるしか無い。

男子が一人でもいたら、と思ったが。

今はスクールカーストが極めて厳しい上に、ある程度運動が出来る男子にはいわゆるカースト上位の女子が必ずくっついていて。近付くことは文字通り社会的な死を意味する状況だ。

奈木に男子の友人はいないし。

多分今後も出来るとは思わない。

だいたい、こんな状況では、ゾンビの次くらいに人間が危険だ。出来れば人間にも遭遇したくない。

山の中に逃げ込む。

多少は空気が美味しいけれど。それはそれとして。ともかく、しばらく過ごすための施設を探さなければならない。

いつ、誰が。

勿論自分も。

ゾンビになってもおかしくないのである。

何か、しておきたい事はあったかな。

そう思いながら、何とか自転車を走らせる。鍛えている体でも、流石にかなり疲れてきたけれど。

それでも何とか、山道を走りきった。

一旦自転車を止め、ぼんやりと見やる。

草ボウボウ。とてもではないが、住めそうにもない家。一応ガスはあるようだけれど。何がゾンビ化につながるか分からない今、とてもでは無いけれど、水道水は使えないだろう。

雨が降り始めたので、随分前に放棄されたらしい家の軒下に入る。

何も中には使えそうなものはない。

こういった廃村は、住む人がいなくなったから廃村になるらしくて。基本的に、家にあったものは持ち出してしまうし。何よりも、家には持ち主自体はいるのが普通らしい。だからひょっとしたら、そういう人がこまめに手入れしている事も想定はしたのだけれども。この様子では、それも望み薄か。

雨漏りも酷い。

幽霊でもでそうだけれど、我慢して貰う。

幸い、ボロ布が結構見つかったので、それを被って寒さを凌ぐ。今は確かもう夏になろうとしているはずだけれども。

ここ最近、明らかに気候がおかしい。

夏場に雹が降ったり。

冬に夏日が来たり。

そういえば何年か前には、正月に台風が発生したりしたっけ。

更に、世界中で訳が分からない病気が立て続けに流行って、何もかもがしっちゃかめっちゃかになったりもした。

雨が止むまで丸一日。

その間、雨漏りは酷くなるばかりで。いつ此処にゾンビが踏み込んできたらと思うと、生きた心地がしなかった。

疲れ果てた晴菜は隣で眠っている。

一歳年上らしいが。

既に天涯孤独の身の上に、自分より一回りも小さい。環境次第で、こんなに人間は小さくなるものなんだなと、溜息が零れる。

バリバリの体育会系だった奈木は、食べる量も多かったし、それをまとめて筋肉に変えていた。

世の中には。

食べて運動するのさえできない人もいる。

そう思うと、色々やりきれなかった。

 

朝近くに、ようやく雨は止んだ。

鍛えている体でも、これは風邪を引くかも知れない。真冬並みの寒さだと思う。強烈に冷え込んで来る中、眠っている晴菜から離れすぎないようにして、周囲を見て回る。

奈木は小賢しいと言われて、良く先輩から虐めにあっていた。

目立たないように髪だって切っていたし。

「わかり易いように」努力だってしていた。

先輩達がゲラゲラ笑いながら、何処の男子がキモイだの、どこの女子が誰とヤっただの話している間に、黙々と泳ぎ続けて。結果として成果を出して。その上で生意気とか言われたのだからたまったものじゃない。

肌を焼いていると遊んでいるように見えるとか言われて。

親に無茶苦茶な説教もされた。

クラスでは、先輩方がスクールカースト上位の女子に好き勝手を吹き込んだせいで孤立していたし。

変な噂が流れたせいで、タチが悪い男に絡まれる事だってあった。

逃げ足だけは速かったので、逃げるのは難しく無かったが。

それでもろくな思い出が学校には無い。

黙々と、自分には水泳がある。水泳で県大会で好成績を残すとだけ、言い聞かせながら頑張って来たが。

何もかも壊れてしまった今となっては。

はっきりいって、出来る事はないし。

あるとしても、頭があまり元々良くないから、限られている。

桶に水が溜まっていた。

汚い桶だが、此処から水を家の中で見つけた埃だらけのボウルに移して。何とか動くガス機器で湧かす。

はっきりいって普段だったら触りたくもない水だけれど。

湧かせば飲むくらいは出来る筈だ。

SNSで、ミネラルウォーター飲んだ奴がゾンビ化したという話があった。それを思い出すと、雨水でも飲むしかない。

水が湧いたので、外にある桶の水を、汚い風呂桶に移しておく。

古い機械だけれど、どうにかフロは動いてくれた。

体を洗えば、多少は気分も変わるだろう。

晴菜は何度か咳き込んでいたが。

どうにか起きだしてくれたようだった。

「大丈夫、怠くない?」

「平気……」

「あんまりおいしくないと思うけれど、水だけでも飲んで。 お風呂は私が先に入っておくから」

「うん……」

もう、この世界はとっくに駄目だったのかな。

そんな気がする。

クラスの女子も、スクールカーストを肯定する者が殆どだった。どれだけ邪悪か何て、ちょっと考えれば分かる事なのに。

反ワクチン運動とか言う、小学生でも分かるようなインチキに親がはまっている女子もいたし。

教師は過重労働で眼をいつも血走らせ。

奈木が知っているだけで、三人。体か心のどっちかを病んで、学校を止めていった。みんな二十代の若い先生だった。

そんな若い先生が壊れるような学校。

それに、どうしようもないスクールカーストが蔓延している生徒達。

クズみたいな学校だけれど。

どこも今は似たようなものだと聞いている。

流石にゾンビが出る事はなかったけれど。

それでもいくら何でも、これはあんまりな結末だと思う。

だけれども、県大会で仮に良い成績を残したとする。その時、奈木に何か良いことがあっただろうか。

先輩の嫌がらせは既に相当に酷い段階に到達していたし。そんなところに行く意味、あったのだろうか。

晴菜は学校に行って見たかった。友達を作りたかったと、時々呟いているが。

あんな所に夢を持たせるのは、あまり良い気分では無い。

フロは一度流してから貯めた雨水を湧かしたけれど。

やはりあまり良い気分では無い。

ぼんやりとフロに入っている内に、ふと思う。

何だかフワフワする。

最近はフロに入っていなかったから、だろうか。

体を拭くのが精一杯だったから、か。

いや、何か違う。

嫌な予感がするので、すぐにフロから出た。そして、急いでうがいをする。着替えもしたいが、残念ながら服の替えなんてない。下着だって、ロクに変えられていないのである。元の服をそのまま着込む。

「晴菜?」

ぐったりしている晴菜に気付く。

熱が出ている。

嫌な予感が、最頂点に達した。

直後、晴菜の目が、ぐるんと裏返った。

 

家から飛び出す。

そして、木に拳を叩き付けていた。

家の戸の内側で、力なく、もがいている音が聞こえる。

両親が死んだ後だ。

成り行きで何とか助けたとは言え。元々病院にいたのである。いつこうなってもおかしくないことくらいは分かっていた。

それでも、涙が溢れてくる。

見てしまった。

人がゾンビになる瞬間を。

かろうじて食いつかれるのは避けたけれど。もうあれでは、助けようがないだろう。うめき声が聞こえる。

もう、晴菜は此処に残していくしかない。

物資も殆ど駄目だ。自転車はある。着替えもある程度。

しかし、どういうことだろう。

どうして自分はゾンビ化していない。

それに、晴菜はなんでゾンビ化したのか。

何もかもがまったく分からない。

それとも、これから晴菜や両親の後を追ってゾンビ化するのだろうか。どっちにしても、嫌だ。

反吐が出る。

むしろ、ゾンビになってしまった方が楽なのだろうか。

社会人になった人は、みんな吐きそうになりながら働いていた。ブラック企業と呼ばれる会社が何処にでも蔓延し。どんな業種もブラックと言われるようになっている社会だ。社会に出ても良い事などないし、働く事がそもそも命を削ることである事も理解は出来ていた。

いずれにしても。

どうしてこんなことになったのか。

ゾンビは今まで見た感じでは、別になったから力が強くなったりもしない。あの弱々しい晴菜では、ボロの扉だって破る事は出来ないだろう。

しばらくうめき声を扉越しに聞いていたが。

首を振ると。

奈木は呟いていた。

「ごめん。 おいていくね」

自転車に跨がると、その場を後にする。一つ、気になる事がある。どうして奈木はゾンビ化しない。

晴菜よりも、ゾンビに接近していたはず。

両親がゾンビ化したときには、振り払うことさえした。

それらを考えると、真っ先にゾンビ化しているはずだ。

しばらく自転車を走らせていると。

脱出した、あの村に出ていた。

慌てて自転車を止めて、様子を見る。嗚呼。分かりきっていたが。其所はもう、地獄になっていた。

うめき声を上げながら、のたりのたりと彷徨くゾンビ達。

鴉が群がり、そのゾンビから目玉をえぐり出し、肌を引き裂いて喰らっている。

そういえば鴉がゾンビ化する様子は無い。どうしてなのだろう。

ゾンビも、鴉を振り払おうとしない。呻きながら、彼方此方を彷徨くばかりである。破落戸達も、それについてきていたいかにもな女も。村にいた老人達も、みんなゾンビになってしまっていた。

廃村に戻る。

閉じ込めた晴菜のうめき声が聞こえるが、放置しておけばその内静かになるだろう。そのまま通り過ぎて、更に山の中に。

どこか、洞窟か何かないだろうか。

ゾンビに食われるのは嫌だ。

しかし、ゾンビにならないのは何故か。それはしっかり自分で確認をしておきたい。これからゾンビになってしまうのなら、それは仕方が無い。何回か見たが、ゾンビになる時は一瞬だ。

眼がぐるんと裏返って。

一瞬で肌が腐敗し。

そして死者になる。

瞬時に体が腐り、腐臭が周囲に漂い。そして、何か食べられるものをと、周囲に襲いかかる。

優先的に人間を襲うわけでは無いが。襲わない、と言う事も無い。

洞窟を見つけた。

小さな洞窟だ。中には多分何もいないだろう。大きな洞窟だと、蝙蝠とかの巣になっていて、入り口は糞で埋め尽くされているらしいけれど、そんな事もない。

洞窟の中に入ると。

つんとした臭いがした。

この臭いには覚えがある。

死臭だ。

ゾンビかと一瞬身構えたが、違う。どうやら、野生の動物の死体らしい。酷く蛆が湧いていて、思わず眉をひそめていた。

鹿か何かだろうか。

死骸を避けて、奥に行く。

奥の方も手狭だったけれど、水は一応ある。

腐汁は流れ込んでいないようだが。

流石にこのまま飲む事は出来ない。赤痢にでもなるのがオチだ。

洞窟の壁に背中を預けて、ぼんやりする。

孤独である事は別に苦にはならないけれど。

結局、何の解決にもならなかった。

世界の滅びに立ち会っている。その実感は、ますます強くなる一方だった。

晴菜は途中で話を聞いたが、ずっと病院暮らしだったと聞く。

ろくでもない学校にあこがれを抱き。

友達がほしいと思っていたらしい。

馬鹿馬鹿しい。

今の学校はスクールカーストでガチガチに階層が固定され、虐めを肯定するような連中が過半を占める上、過酷な部活で疲弊しきった地獄だ。

運動部だったからかも知れないが、いずれにしてもあんな場所、子供が出来ても行かせたいとは思えない。

知らなければ、良いように思えたのかも知れないけれど。

むしろ晴菜は知らないまま死ねて幸せだったのか。

ハアと、溜息が零れる。

あんな姿になって幸せもクソもあるものか。

スクールカーストでガチガチに拘束され、陰湿な女子グループ同士の争いに、あんな何も知らないような子を放り込むのも酷い話だが。

いずれにしても、もう何も言うことはできない。

ともかく、晴菜は死んだ。

死ぬときに苦しまなかった事を祈るしかない。

今は、ともかく思考を閉じる。

何も、まともに考えられそうに無かった。

 

2、燃え落ちる

 

二日ほど、洞窟で過ごした。

水はどうにかなったので、かろうじて持ち出せていたライターなどを使って湧かして飲んだ。ライターを持ち出せていたのは本当に幸運で。最低限持ち出せた荷物の中に、偶然混じっていたのだ。

後でこっそり村に探しに行こうかとさえ思っていたので、溜息がもれた。

服などずっと変えていないが。

正直これは仕方が無い。

奈木は黙々と、生きる事を続けているが。

場合によっては、どうやって楽に死ぬかも考える必要がある。もしもゾンビになるなと思った場合は。

誰にも迷惑を掛けないように、崖から飛び降りるか。

それとも。

ライターを見る。

此奴を使って焼身自殺でもするか。

苦しいとは思うけれど。それでも、他の人に襲いかかるよりはマシだろう。

両親と別れて。

そして晴菜をかろうじて助けて。

また一人になってしまった。

孤独は別に大丈夫だ。

水泳をやっていて思うのは、周囲の応援など何の役にも立たないという事。良く水泳部がやっているわいわい応援する奴なんて、はっきりいって煩わしいだけだ。静かに泳がせろと、何度泳いでいるときに思ったか分からない。

集中するのに周囲は邪魔。

或いは、あの応援という奴、明らかに選手の成績を落とすために誰かが悪意を持って考え出したのではあるまいか。

ライターをしまうと。

自転車に荷物をくくりつける。

晴菜の体重が無くなったから、自転車での機動が楽になったのは、文字通り皮肉と言うほか無い。

しばらく周囲を走り周り。

山を抜けるルートを探し回る。

この自転車にしても。

本来はこんな風に使うものじゃない。

本格的な、悪路を踏破するために作られたバイクではないので、いつパンクしてもおかしくない。

ましてや自転車は、一時期以降海外産の粗悪品が大量に入り込んで来ていると聞いている。

この自転車が、そうではないと言い切れない。

山の上まででる。

方角の見方は、何かの図鑑で知ったが。

それにしても、周囲を見回して、思わずぎょっとなる。

気付いてしまったからだ。

燃えている。

街が、まるごと、である。

明らかに燃え方がおかしい。

火事が延焼した、というような燃え方では無い。あからさまに、燃やされた感じの燃え方である。

火事場泥棒やら、破落戸やらが面白がってやったのだろうか。

いや、あのゾンビまみれの状況で、そんな事をやっている余裕は無いはず。

そもそも鎮圧に出た警官隊が、片っ端からゾンビになるという話も聞いていた。

まさか、だが。

噂に聞く、爆撃という奴だろうか。

此処は日本だぞ。

思わずぼやく。

木に登って、もう少しよく見る。

そうすると、やはり燃え方がかなりおかしい。

大地震の後とかに、大きめの火事が起きたりという事があったらしいけれど、それとも違う。

火事が起きて、それを誰も消火しなかったから拡大した、という雰囲気ではないのである。

目を細めて、じっと見る。

やはり、建物が消し飛んでいるように見える。

結論せざるを得ない。

空爆が行われたのだ。

「滅茶苦茶だな……」

殆ど皆無だったとは言え、生き残りがいた可能性だってあっただろうに。

あんな風に燃やし尽くして。

その後再建でもするつもりか。

再建なんて出来るとはとても思えない。

年々世界の経済がメタメタになっている事なんて、奈木でさえ知っている。体育会系で、頭なんて良くない奈木でもだ。マスコミは色々馬鹿な事を言っているけれど。新聞なんて信用できないことくらい、今は小学生でも知っている。ワイドショーも新聞も、頭が老人の人間が読むものだ。

周囲を見回すが。

空爆をした飛行機は見当たらない。

そうなると、見えないくらいの高さから空爆したのだろうか。

ゾンビが出始めた頃は、まだヘリが飛んでいるのが見えたりしたのだけれども。

それが助けに来る事はなかった。

日本でもゾンビが出た。

そういう話が出始めた頃は、自衛隊が出ていくのが見えたりしたのだけれども。それもすぐになくなった。

こんな大火事、日本中から消防車が来ても良さそうなのに。

それもないという事は、本当にもう世界は駄目なのだろう。

スマホはもうとっくに無用の長物。

SNSは黙りこくったまま。

昔は、ちょっと目を離すと、あっと言う間に話題がすっ飛んでいっていたものだけれども。

今では、ぴたりと止まったままである。

幾つかのSNSを見ているが。

数百人のフォロワーがいるSNSでも、ぴたりととまったままで。たまに更新されると思ったら、広告だったりしてがっかりである。

というか、そもそも電波が非常に届きづらくなってきている。

最近は山の中でも結構スマホの電波は届くものなのだが。

それもかなり怪しかった。

多分基地局がやられてるんだなと思いながら、じっと燃える街を見る。もう、彼処には戻れそうにない。

山の逆側にも街はあるが。

そっちはそっちで酷い有様だ。

やはり彼方此方で火の手が上がっているが、目に見えて分かるのだ。

ゾンビが徘徊している。

彼処に出向くのは自殺行為である。

まだ空爆されたらしい街に行く方が、物資を得られる可能性がある。

だが、解せないことも多い。

なんで奈木は無事なのか。

晴菜はゾンビ化したが、噛まれてもいないし、ゾンビに近付いてもいない。

奈木はゾンビ化した親を振り払ったりと、接触までした。

それなのに、どうして晴菜だけがゾンビ化した。

それに兆候もなかった。

ゾンビ化するときは、殆ど一瞬だった。

米国の大統領がゾンビ化する衝撃映像も見たが、それも本当に一瞬でゾンビ化していたのを覚えている。

パニックになる報道陣と、取り押さえようとするSP達の混乱ぶりが伝わる動画だったが。

今なら何となく、あの場にいた人間はもう誰も生きていないなと、分かるのだ。

ならば何故。

しかしながら、奈木が特別だと考えるのも、早計に過ぎるだろう。

何か理由があるとして。

単に免疫力が強いからとか。

或いは運が良いとか。

そういう理由の可能性が高いと見て良い。

清潔、というとそれは違う。

爪なんか見るとかなり汚れている。

水泳部だから、これでも爪は短く切っているのだけれども。それでも汚れているくらいだ。

ネイルアートなんて勿論やっていない。

しかし、体を洗うどころか、濡れたタオルで拭うのが精一杯のこの状況。

清潔にはほど遠い。

しばらく、此処で様子見をするしかないか。

ヘリ一つ飛んでいない状況だ。今更どうしようもない、というのが事実である。

東京はかなり早い段階でやられた。最初の頃はSNSがパニックになっていて、すっ飛ぶようにしてログが流れていた。

いつも奈木を目の敵にしていた先輩からのメッセージが、ちゃんと変換できていない状況で飛んできたり。

余程慌ててるんだなと思いながらも、どうしようも出来なかった。

目を擦って顔を上げると。

木から滑り降りる。

人の気配だ。それも、多分生きた人間ではないだろう。

すぐに自転車に飛び乗ると、距離を取って隠れる。木陰で様子を見ていると、やはりゾンビだった。

こんな山頂近くまで上がって来ているのか。

ゾンビになると、もう知能そのものが失せる。呻きながらその辺りを歩き回っていたゾンビだが。

やがて、木の枝に噛みつくと、がりがりやり始めた。

肉と勘違いでもしたのだろうか。

ぼろぼろと歯が取れているのが見える。

人によってはゲラゲラ笑ったかも知れないが。

奈木はあの人が元は人間で。

もう取り返しがつかない事を思うと。

とてもそんな気分にはなれなかった。

しばらくぼろぼろの口で木をがりがりしていて、それで満足でもしたのか。ゾンビが山を下りていく。

はっきりしたことがある。

此処はもはや、安全とはほど遠い、と言う事だ。そうなると、少し無理をしてでも、あの燃えている街の方に戻ってみるか。あの様子だと、空爆したのなら、それこそ容赦なくゾンビを焼いたことだろう。

今のゾンビも、或いは街から追い立てられてきたのかも知れない。

また晴菜を閉じ込めた家の前を通るのは嫌だ。

道路を見て、場所を確認。

蛇行した道を発見したので、それをくだる事にする。

ただ、今は動かない。

まだ派手に火災が続いている状況だ。彼処に突っ込むのは、得策だとはとても思えないからである。

木の上に上がると、良さそうな枝を見つけて、其所に座る。

少し尻が痛いが、そのくらいは我慢。

程なくだが、別のゾンビが来る。

かなり太った、恰幅の良い男性だが。体が半ば焦げていて、右腕は無くなっていた。それをまったく苦にもしていない事からも。もはや生きていない人である事は一目で分かる。指一本脱臼しただけで、人間は身動き取れなくなるのだ。あんな風な状態になって、平然と動き回っている時点で。

この世の人ではあり得ない。

ゾンビはしばらく呻きながら辺りをうろつき回っていて。

やがて、消えたが。

すぐに次が来る。

参ったな。

奈木は言葉を殺して、心中で呟いた。

多分あの火に追われたのだろうけれど。それにしてもこれは失敗だったかも知れない。ゾンビが次々と姿を見せては、何にも関心がないように消えていく。

見た感じ、ゾンビ共は自転車を見ていても。周囲に誰かいる事に気付くことも無い様子である。

本当に知能が無くなっているんだな、と思う。

鼻もきかない様子だ。

何度か自分の臭いを嗅いでみたのだが、どうしても汗臭さが取れない。こればかりは、もう仕方が無い。フロに入れる状況では無いのだし。この間やっと入った風呂も、速攻で出たのだから。

もしもゾンビ達の鼻が鋭敏なのであれば、奈木に気付く筈だ。

今度は数人が一気に来た。

女性数人と、いかにももてそうにない男性だが。

もうこうなってしまうと、男性も女性もないし。

そもそも群れているという感覚すらないのだろう。

呻きながら、ゾンビは右往左往して、肉を探しているが。それもやがて、散らばるようにして去って行く。

本当に集団行動も何も無いんだな。

そう見ていて感じる。

軍隊のように集団行動を叩き込まれるのが日本人だ。徹底的にそれは身についていて、余程問題のあるものでもない限り、列に割り込んだりはしない。

それが、このバラバラっぷり。

まったく持って、意味が分からないなあというのが素直な所である。

ゾンビ映画だと、ゾンビは生前の習慣をある程度残したりするものなのだけれど。

その様子が一切無い。

夜まで待つが。

どうやらゾンビ化すると、もう視界もロクに関係無いらしく。

呻きながら、場合によっては鳥やらハエやらに集られながら、うろうろとしている。トイレに行きたいが、それどころではない。尻を拭く紙もない。そしてこんな状況、不衛生で病気にでもなったらおしまいだ。

やがて、街の方にて燃えさかっていた炎が、だいぶ静かになってきた。

そろそろ、あっちに逃れるか。

もう一度、道を確認。ゾンビの数も減っているし、そもそも彼奴ら、余程の事がない限り、襲いかかってくる事はない。

近付いても、即座に反応するほど鋭くないし。

腐敗速度はあまり早くない様子だが、目玉や耳を鴉に抉られても、手で緩慢に払うだけ。逃げ延びる自信はある。

木から下りると。

自転車に飛び乗り、一気に蛇行した坂道を下る。途中、気付いたらしいゾンビが、数体緩慢に振り返ったが、完全に無視。

一気に坂を下りきった。

 

燃え落ちた街の中、燃え滓の人間がゴロゴロ散らばっていた。

中には、現在進行形で燃えている死体もある。

病院の辺りは特に念入りに燃やされている様子で。

彼方此方、明らかにおかしな燃え方をした場所もあった。

街の目印になっていた大きなガスタンクなんかは、綺麗に消し飛んでいる。

やっぱり空爆が行われたのだろう。

色々逃げ回っている間にそれが起きて。

気付く暇も無かった、と言う事か。

とにかく、物資だ。

思ったより安全だなと、周囲を見ていて思う。

電線が所々でバチバチやっているが、それさえ注意すれば、多分事故死の可能性はないと思う。

問題は野犬だが。

この辺りは、野犬による被害が出たという話も滅多に聞かない。

自転車が正直少し不安だが、まだ頑張ってくれている。自転車が見つかれば良いのだけれど、最近は専門店を殆ど見かけない。都合良く自転車屋があれば良いのだけれど。

盗むことになってしまって申し訳ないのだけれど。

お金も持っていない。

こんな時は、盗む以外に生きる方法がない。

それにしても、だ。

この街も、江戸時代から続いて。

少しずつ近代化していって。

そして此処までの形に、ずっと時間を掛けてなっていったものだというのに。燃え尽きるのはこんな一瞬なのか。

学校の方も行って見る。

晴菜は憧れていたが。

実態は地獄だった学校も。

今はもう丸焼き。

何も残っていない。

そういえばいつも偉そうにしていた水泳部の顧問。

彼奴は、確か真っ先に逃げ出したっけ。普段は教職員としての責任がとか偉そうに口にして。心身を壊してやめていった先生を散々「自覚がない」とか「惰弱」とか罵っていたくせに。

多分、やめていった先生の方が、余程自覚も責任感もあったんだと思う。

そんな人を優先的に潰して、クズを残すようなシステムを続けていたから。

こうも脆くも崩壊してしまったのでは無いかと、ぼんやり思った。

辺りを歩き回るが、まともな形をしたゾンビにはほぼ遭遇しない。まだぴくぴく動いている黒焦げの人型はあったが。それくらいだ。

一度、空爆で吹っ飛ばされたのか。

生首の状態で、転がっていて。

それでも口をぱくぱくしているゾンビを見て、流石に閉口はしたが。それくらいである。

ただ、この状態だと、近いうちに野犬が出始めるだろうと思う。

今は派手に火が焚かれているからいいものの、野犬が出るとかなり危ないだろう。

今は野犬に食い殺される例は殆ど無いと聞いているが。

保健所が機能しなくなった今、熊が出ないこの辺りで、一番危険な動物は多分野犬だと思う。

野犬が如何に危ないかは、奈木だって知っている。

流石にいきなり狂犬病、と言う事は無いだろうが。

それでも犬は本気になると人間じゃ勝てない。自転車で全力で漕いでも、振り切れるかどうか。

自転車も、条件が揃えば200キロ以上の速度が出るらしいが。

それはあくまで特殊な自転車を、特殊な条件で漕いだ場合。

こんないつ壊れるか分からないママチャリもどきでは、そんな速度、出しようが無いのは自明の理だ。

病院も駄目。

警察署は。特に念入りに爆破されていて、何も残っていない。

家は。

皮肉な話だけれど、実家は半壊しつつも残っていた。

仲が良い両親だったとは言えないけれど。これでは、もうゾンビは丸焼けだろう。或いは今頃、山の中を餌を探して彷徨いているかも知れない。

ホラー映画のゾンビは、人間を求めて走ったり鋭敏な知覚を発揮したりしていたけれども。

幸い今奈木が遭遇しているゾンビ達は、何から何まで鈍重で。

ゾンビというもの自体の脅威度は低い。

家の中を漁って、物資を鞄に詰め込む。

半壊してしまっているけれど、トイレは使えたので使う。紙で尻を拭けたのは、実は久しぶりかも知れない。

ただ水は流せない。

汚物をそのままにして、去るしか無かった。

もう、此処に戻る事は無いだろう。

ゾンビがいなくなった場所を探して、少しでも生存者がいる事を期待し、進むしかない。

自転車を漕ぐ。

何度もバチバチやっている電線を見かけて。

その度に足を止めなければならなかった。

 

3、見えぬ霧の先

 

生き延びた米国政府は、シェルターの中から生き残りと連絡を取りつつ、必死に情報収集をしていた。

研究チーム最年少のカルネ=バーキンは。

軍基地の無人機を無線で動かして、情報を集めている。

既に、いつ何処でゾンビ化が始まってもおかしくない状態である。いつ誰がゾンビになっても大丈夫なように備えておけ。

そういうお達しも出ている。

実際、ゾンビ化が始まると、瞬く間に基地も何もなく壊滅していく。

出動した軍は例外なくゾンビを駆逐してきたが。

その後に例外なくゾンビ化している。

ゾンビを撃滅したときに気密服を着ていようがいまいが関係無い。

空軍以外に生き残りはいない。

このシェルターでも、兵士達はまことしやかに囁いている。あれは本当に審判の日で、神が起こしているのでは無いのか、と。

馬鹿馬鹿しいとカルネは思う。

大学を飛び級で出て。大学院を13で突破したカルネは、イタリア系のアメリカ人だ。祖父がギャングだったらしいが、父の時代に縁を切って。それから苦労してかなり遅くにカルネが生まれた。

イタリア訛りといわれる英語を使っていた父だが。母が生粋のニューヨークっ子だった事もあって。カルネ自身は綺麗な米国英語(変な言葉ではあるが)を使うようになっている。

一応四カ国語を使えるが。

普段は英語で喋っていて。

必要時に切り替えるくらいだ。

なお他に使えるのは、スペイン語、ドイツ語、それに日本語である。

将来日本に行こうと思っていたのだが。

残念ながら、それどころではなくなった。

「……?」

カルネはしばし小首をかしげると、三十いる無人機の映像の一つを確認する。

生き残りがいるらしい。

どうも不自然な食い残しがある。

ドローンを幾つか集めて、周囲を探す。

生き残りはいるか。

ドローンから呼びかけるが、応答はない。

或いは知能があるゾンビか。

いや、その可能性は決して高くは無いだろう。今まで相当なサンプルを見て来たが、ゾンビは例外なく知能を失っている。

これには一つの例外も無い。

サンプルも遠隔で調査しているが。

ウィルスの類はまるで見つからないのが現状だ。

しばし根気よく周囲を調べてみるが。やはりゾンビもいなければ生き残りもいない。今ドローンを飛ばしているのは、初期にゾンビパニックで焼け野原になったルイジアナの片田舎だが。

此処で最近人間の痕跡があった、というのは興味深い。

何処かの国の特殊部隊が、生物兵器の取得を目的に入り込んだ、というのは夢がある話だけれども。

残念ながら、自称先進国は軒並み壊滅。

国力や経済力がある国もあらかた右に同じ。

今の時点で、世界の人口は億を切っているという噂があり。正直な所、特殊部隊なんて送り込んでいる暇が無い。

この間も、稼働していた軍基地でゾンビが出て、放棄が決まったが。

逃げ出した兵士が全部もれなくゾンビ化して、途中で連絡が取れなくなった。

いつ何がどうなってもおかしくない状況。

いち早く対策を打った国が存在したとは考えにくい。

何しろ、米国大統領がいきなり演説中にゾンビ化するという、とんでもない事態である。文字通り米国が国を挙げて対策を練っているのに、手も足も出ない状況なのである。

ゾンビそのものはてんで弱いというのが逆に頭に来る。

いずれにしても、ドローンは一度引き上げさせる。

軍基地は、今の時点で燃料補給と通信機能だけは生きている場所も多い。今使っている補給地点は、ルイジアナ州軍の駐屯地だ。州軍そのものはとっくに全滅してしまったが、ドローンの補給は自動で行える設備が幸い生きている。燃料もしばらくは大丈夫だろう。

軽くレポートをまとめて、上役に報告。

だから何だという顔をした上役だが。

ルイジアナで生存者の痕跡と聞くと、しばらくして顔を上げた。

これは相当に参っているなと、カルネは呆れた。

「よりにもよって爆心地でか」

「或いは、ひょっとすると、ですが。 ゾンビパニックの発生源かも知れません」

「そう、だな……」

周囲を見回す研究チームのリーダー。

もしも何かしらの未知の病原菌なりなんなりがこのパンデミックに関係しているとして。

最初の発生源は、体内に抗体を持っていても不思議では無い。

「少しボクの方で気合いを入れて探索をしたいのですが、よろしいですか?」

「ああ、かまわないが。 そのボクというのは」

「日本のアニメで好きなキャラが使っていた一人称ですよ。 アニメは言葉を覚えるのに最適ですので」

「……まあ好きにしなさい。 ともかく、確かにこれを見る限り比較的新しい生活痕跡に見える。 徹底的に調査してほしい」

お墨付きゲット。

では、本格的に漁るとするか。

ドローンを更に数機集める。

生活痕跡はずっと探してきた。軍用ドローンの精度は凄まじく、ゾンビパニックが起きた中で生き延びた人間を探すために、徹底的に活用してきた。

既に米国内でも何度も空爆が行われているが。

基本的に生活痕跡が無くなった、つまり生存者がいない事が確認できた場所でしか行っていない。

軍事衛星もフル稼働し。

まだ生きている他の国の組織(ぶっちゃけもう何でも良い)とも、あらゆる手段で連絡を取り合っている。

この状況、もう商売だの国家運営どころだのではない。

何もかもが終わるのを、どうにか食い止めるので精一杯なのだ。

ドローンを更に増員し、範囲を拡げて生活痕跡を探る。

そうすると、ゾンビが既に朽ちてしまったルイジアナの周辺に、やはり人間の痕跡が残っている。

仕組みが分からないが、空気感染がほぼ確実に起こるゾンビだ。

こんな中でもしも人間が生きているのなら。

それは抗体を持っている可能性が極めて高いと言える。

そして、そもそもにして、どうしてゾンビ化が起きるかさえもわからないこの状況である。

原因を突き止め。

対策を講じなければ、冗談抜きに人間は滅亡する。

空母打撃群の幾つかはまだ生きているが、補給はいつまでも続かない。

ずっと陸から離れっぱなしなのもつらいだろうし。

何よりも、故郷の街を空爆しろといわれて、はいそうですかと従う兵士はあまり多く無い。

現在もっとも生き残りで偉い米国人。

元副大統領も、毎度軍人達に説明をしている。

生存者はいないこと。

ゾンビをこれ以上増やさない拡げないこと。

それを目的として、まずは彼らが「形を保てる」期間を短くしなければならない。

そしてどんな風に感染するか分からない現状。

離島にさえいきなり飛び飛びで感染者が出る現在の状況を考えると。

ゾンビが出て、生存者がいない事を確認したら、焼くしか無いのだと。

此方も勿論総力を挙げて捜索はしているが。

極めて状況は厳しいと言える。

だからこそ、この痕跡の探索には意味がある。

ドローンを飛ばして、徹底的に解析。

足跡から分析して、恐らくは十代の人間だ。多分男性だろう。

歩き方からして、どうも病気か何かを煩っているらしい。

あり得る話だ。

何か得体が知れない病気が流行りだした場合。意外にも、体が弱い人間に抗体が生じる事はある。

多様性と言うのを確保するのは、様々な事態に対応するためである。

例えば恐竜は、生物史上間違いなく最強の生物だったが、環境の激変には耐える事ができなかった。

環境の激変というのは、それほどに凄まじいもので。

圧倒的な性能を持っている者が、あっさりやられてしまったりするのである。

そんな中、弱いと周囲にされていた者が生き残り。

子孫をつないで行く事がある。

哺乳類もその例だ。

恐竜と同時期に地球に発生した哺乳類は。恐竜が生きている間は、ずっと生態系の底辺で、隅っこでブルブル震えて生きている事しか出来ない脆弱な存在だった。小型恐竜の幼体を捕食した化石が見つかったと、大喜びした者がいたくらいである。

そんなもん、別に哺乳類でなくても鰐でも魚でも補食しただろう。

それだけ哺乳類は弱かったのだ。間違っても進化の頂点などでは断じてない。

だから、こう言うときには。

「屈強な肉体を持つ」という従来の価値観なんぞ、なんの役にも立たない事が珍しく無い。

「知能が高い」も同じく。

根本的な何かが別の場合に、生存を可能とするケースが生じる。

ましてやコミュニケーション能力など。

こんな場合には、何の役にも立たないのである。

黙々と痕跡を調べている内に、件の足跡の主は、半径数キロを活動範囲としている事が分かった。

そして、見つける。

お、と一瞬声が上がるが。

しかし、それはすぐに失望へと変わった。

既にそれは弱り切っていて。

もうゾンビ化していたのだ。

 

サンプルは捕獲して、可能な限り調べる。勿論、もはや直接調べると言う選択肢は絶対に存在しない。

よくあるパニックホラーで、研究所に持ち込んだモンスターなりゾンビなりが大暴れして研究所壊滅、というのは珍しくもないのだが。

国内でも最高の気密を誇る研究所にゾンビのサンプルが持ち込まれ。

その数日後に、研究所が全滅するケースが既に発生している。

映画は現実となってしまったのである。

今ではゾンビが呻きながら徘徊している研究所の一つに、ゾンビになったばかりの新米を入れて。

遠隔操作で、調査を行う。

此奴は、パンデミックの爆心地で、かなりの長時間ゾンビ化せずに生きていた希有な存在だ。

既にシェルターなどが何の役にも立たない事は証明されている。

金持ちなどはシェルターに真っ先に逃げ込んだが。

シェルターは既にゾンビの楽園である。

そも米国の医療は、近年崩壊していたが。

金持ちでさえも、医療を受けてもどうしようもないという状況に置かれた現状は。あまりにも厳しいものだった。

もがくゾンビは弱々しく。

何だか解剖するのが非常に心苦しいが。

何人かのスタッフと連携して、丁寧に遠隔操作で解剖する。

元研究員のゾンビが、監視カメラの中で徘徊しているが、完無視。

しばらく黙々と解剖を続けるが。

どうにも不可思議な結果しか出てこない。

「死んでから二日という所か。 腎臓にダメージがある。 片足も先天性の異常を持っていたようだ」

「ドローンが調べた所によると、このゾンビは生前、現地のミドルスクールの三年生、ジョナサン=ハーバー。 とはいっても、出席日数が足りていなかった。 理由は……おっと、出た。 医療機関のデータベースがまだ生きていて良かったよ」

カルテを見る。

腎臓に疾患。片足も。

現在、金持ちしか事実上医療を受けられない米国では、こういう状態の子供が生きている時点で、実家がある程度金持ちだという事が分かる。

調べて見ると、入退院を繰り返していた体の弱い子供で(とはいってもカルネより年上なのだが)。

ゾンビパニックの時は、ベッドでずっと寝ていて。

両親も仕事中に職場でゾンビ化。

スマホを見て事態をさとり。

家に閉じこもっていたらしい。

勿論、閉じこもっていて回避できるゾンビ化では無い。何かしらの理由があって、二日前までもったのだ。

噛まれなくても、触らなくてもゾンビになるのである。

何がこの病弱な子供を、二日前まで持たせた。

気合いを入れて、徹底的に解剖する。

ゾンビの解剖は、実の所散々やっている。

というのも、ゾンビそのものは極めて貧弱なので、はっきりいって捕獲も解剖も難しくはないのである。

その後に執刀者がほぼ助からないというだけだ。

遠隔でやるようになってからは、感染を怖れる必要はなくなった。

今は、いきなり隣にいる奴が理由不明のゾンビ化をする事を怖れるだけでいい。てかその場合は、施設ごと焼くくらいしかもう手がないが。

「……特に変わったところは見当たらない。 普通の死体だ」

「動く時点でボクには普通ではないと感じられるけれど」

「皮肉を言っている場合か」

「へいへい」

生意気なガキと睨まれるが。

そういう視線は慣れている。

ただでさえチビだったせいで、学校では随分と虐められたし、周囲とも会話は成立しなかった。勉強を頑張れば頑張るほど「生意気」だといわれたし、虐めは加速した。陰気なジョックと罵られ、暴力が振るわれることだって多かった。勿論やっている側は、「からかっている」としか思っていなかった。なお男より女の方がやり口が陰湿だった。

何しろスクールカーストの本場。

飛び級で入ってきたチビガキ。

周囲と上手く行くわけが無い。

周囲の連中は性行為とファッションにしか興味が無く、大学の頃からうんざりしていた。大学院に入ると、流石に多少は大人しくなったが。それでもやはり周囲にはうんざりさせられることも多かった。

人権人権と口にし、創作物に配慮を求める割りには。こういった現場での差別には無関心。

そんなマスコミの腐敗にも、嫌気が差していた。

結局民主主義の総本山を自称していても、北欧から引き継がれた欧州的マッチョ文化で米国は動いている。

そう、飛び級をし続けたカルネは思うし。

それで良い思いをしたことは一度だってない。今だって周囲は、どうしてガキと自分が同列なのかと、露骨に此方のあら探しをしている。エリート教育の総本山とは何だったのか。

近年はとうとうパワーエリートどもの子息が裏口入学を堂々とやり始めていたし。

どの道駄目だったのだろう。

「ともかくデータを取りますよ。 後で他のゾンビの解剖結果と比べれば、何か分かるかも知れませんし」

「寄生虫の類は……」

「そんな安易なものだったら、とっくに見つかっています。 ……いるにはいるが、これは顔ダニか。 誰にもいるものだな」

「顔ダニじゃあなあ……」

顔ダニ。

人間の顔には必ずいる、無害なダニの仲間である。ダニというだけで拒否反応を示す奴もいるが、これは人間の顔に住み着いているだけで、何の危険も無いし。モデルだろうが美女だろうが普通に住んでいる。勿論チビガキのカルネの顔にもだ。

ともかく、解剖したゾンビのデータは全て回収。

データベースに放り込んでおく。

今までのデータと比較すれば、何か分かるかも知れない。

だがそれも、所詮は「かも知れない」に過ぎない話だ。

もっと優秀な学者は幾らでもいたが。

もう全てがゾンビになるか、腐り果てて動かなくなっている。

はっきり分かっている事が一つだけある。

それは、これが審判の日などではないこと。

一神教の審判の日に関しては、無責任かついい加減なカルト思想が多数流行したが。こんなものが審判の日だとしたら。

それは、一神教の神には悪意しかなく。

設定とは裏腹に人間的思考しかできないクトゥルフ神話の邪神など鼻で笑う本物の邪神だという事だ。

一旦研究が終わったので、自室で休む。

相当にストレスがたまっているのか、外で喧嘩をしている声が聞こえた。

こんな状況で、まだ喧嘩か。

文字通り、人類が滅ぶか生き残るかの瀬戸際だというのに。

本当にどうしようもないな。

そう、カルネは思った。

一眠りして、起きだすけれど。

何一つ状況は変わらない。

再びドローンを散らせて、各地を探索する。生きて動いているゾンビは、緩慢に此方に興味を示す事もあるけれど、全て無視だ。

本当に動きが鈍いからである。

ゾンビを襲って喰らう野生の動物も多数で始めている。

アメリカではアメリカクロクマやグリズリーが、ゾンビ化した市民を襲って喰らい始めているが。

そいつらがゾンビ化する様子は無い。

むしろ問題は、ある程度事態が沈静化した後の、人間の味を覚えた猛獣の駆除だなとカルネは思ったが。

いずれにしても、この状態から人間が復興するには、何百年も掛かるだろうし。

はっきりいってどうにもならないだろう。

カルネ自身は冷静にもう人類は駄目だなと諦めつつある。

もし、此処から逆転できたら。

その時は、人間は多少はマシになるのだろうか。

とてもそうとは思えない。

どうせまた散々無意味に殺し合った挙げ句。

資源を食い尽くして終わりだ。

虚無的かも知れないが。

今まで見てきた人間が、そんなに優れた生物だとは、とてもではないがカルネには思えなかった。

実際問題、地球にとっても。

人間はいなくなった方が良いだろう。

あくびをしている内に、急報が入る。

活動中の空母打撃群の一つで、ゾンビが発生したというのである。

「駆逐艦パルマスにてゾンビ発生! すぐに駆除しましたが……」

「パルマスは離脱。 他の艦船から距離を取れ」

「……了解」

「合衆国のためだ。 パルマスの乗務員は、遺書を書かせろ。 恐らく諦めるしかないだろう」

冷徹な指示が飛んでいるが。

それ自体は間違っていない。

現状。何をやっても感染を食い止められない以上、これはどうしようもない処置でもある。

実際、海上にいる空母打撃群でも、船同士での人員の移動は極力禁止させているのである。

離島に感染者が出るような状況だ。

焼け石に水だという事は分かりきっているが。

それでも少しでも、戦力を残しつつやっていくしかない。

大統領が、離脱する駆逐艦パルマスに、敬礼をしている。パルマスの艦長は、パニックを起こしている兵士達に、自殺するよう指示していた。このままだと確実にゾンビになる。ゾンビになって、戦友を食い殺すよりは、自分で死んだ方が良いと、年老いた艦長は部下達に諭していた。

青ざめた部下の一人が、死にたくないというと。

私もだよとパルマスの艦長は、孫娘達の写真を見せ。もうみんなゾンビになってしまったと、悲しげにいい。

最初に口に銃を咥えて、引き金を引いた。

後は、狂乱の宴が始まった。

淡々と口に銃を咥えて引き金を引く兵士と。

大丈夫だから助けてくれ、助けなければ裁判を起こしてやるとわめき散らす兵士。中には、味方の艦を裏切り者呼ばわりして、速射砲で攻撃しようとし始める者まで出た。だが、ゾンビが出たと言う事は、そういうことだ。

最初の兵士がゾンビ化してから十五時間。

まだ死なずに生き延びていた兵士が、揉めている間にその場でゾンビ化。阿鼻叫喚の地獄が始まり。

頭を振って十字を切ると。パルマスの艦内を監視していた一人が映像を切った。

なお、早々に離れたとは言え、そもそも離島にゾンビが出るのである。他の空母打撃群の艦も、いつゾンビが出てもおかしくない。

それは伝えてはあるが。

果たして伝わっているだろうか。

解析班が、絶望の声を上げる。

「駄目だ。 例の新しいゾンビと、古いゾンビの間に、差異が見当たらない。 少なくとも抗体の類は一切体内に確認できなかった。 他と違うような物質も無いし、強いていうならなんで動いているのか分からない死体以上でも以下でもない」

「もう一度解析を最初からやり直せ。 何かを絶対に見落としているはずだ」

「強いていうなら死体が新鮮だ、と言う事くらいだ! もはや、こんなもの、どうしようも……」

誰もが黙り込んだのは。

パルマスが火を噴いて轟沈したからである。

多分最後に生き残った者達が、火薬庫に火を投じて、自爆を選んだのだろう。ゾンビに喰われるくらいならと。船ごと爆破する道を選んだのだ。

船が残っていれば、後で回収も出来ただろうに。

もうそれも、後の祭り。

無理矢理他の船につけて、なだれ込むような真似をしなかっただけ、駆逐艦パルマスの船員は立派だ。

だが、それが何かの役に立ったかというと。

それもまた、厳しい話ではあったが。

大統領から通信が来る。

「空母打撃群の兵士達にも、動揺が広がっている。 皆の混乱を少しでも抑えるためにも、皆で研究を進めてほしい」

「分かっています……」

焦燥しきった大統領の顔は痛々しいが。

そもそも、何か解決の糸口はあるのだろうか。

そうとは、とても思えなかった。

 

4、漂流

 

早い内から、映画のゾンビとは違うと言う噂は流れていた。噛まれなくても感染する。どうしてゾンビになるか分からない。

色々な噂がSNSで飛び交った。

曰くアジア人はゾンビ化する、白人はゾンビ化する、色々。だが、それもあらゆる映像が、わかり安く否定してくれた。マスコミは何の役にも立たず、むしろパニックを煽るばかりだった。

そんな中、出航した船がある。

民間船であり。

一応クルーズ船である、サンジュペリ号である。

乗員はゾンビ化していない100名ほど。

一応、現時点でゾンビ化している者はいないし、その兆候がある者もいない。

船内には一応の自給自足の仕組みが整っていて、水も自前で得られる。問題は食糧だが、それは釣りでもして、ある程度補うしか無かった。

「みなさん、点呼をしてください」

朝の連絡が入る。

英語に続いて、スペイン語、中国語、ドイツ語、それに日本語。とはいっても、実際にはそのどれが通じるのかも分からない。

雑多に乗り込んだ100人ほどは、パニックの初期に港に殺到し、この船の持ち主が「好意的に」受け入れた者達だ。それ以降、ずっと海を彷徨っている。或いはシェルターに逃げ込んだ者よりは、まだ気が利くかも知れない。

シャーリー=モンドは、二十三歳。会社員である。

別に美人でもブスでもなく、会社では体重の増減で給金を減らされることに怯えながら、結局実務よりもご機嫌伺いが上手い奴が出生していく現実を見ているだけの、何処にでもいる会社員に過ぎなかった。

このゾンビパニックが始まらなければ、どうせ彼氏の誰かとでも結婚して。子供でも適当に作って。

文句を言いながら暮らしている内に豚のように太って。

歯の治療だけで何万ドルもかかるような現在の状況下に文句を言いながら、心臓病か何かで死んでいただろう。

スマホを操作して状況を確認するが。

もうテレビ局はどこも機能していないし。

SNSもまったく動いていない。

自室の外からノック。

船員が、生真面目に確認をしている。そして、アルコール消毒を勧めてきたので、頷いて消毒をした。

ちなみに船に乗る前には彼氏はいたが。

ゾンビ騒ぎの中で離ればなれになってそれっきり。

別に世間体のためにつきあっていたような彼氏だ。

マッチョ文化の中では、交際相手がいるか、結婚でもしていないとまともな人間とは見なされない。

これはどこの国でも同じだろうと、シャーリーは思っている。

いずれにしても、海に浮かんでいて、最初の頃は不安に思ったこともあったけれど。今はもう、何もかもどうでもよくなっていた。

彼氏は死んだだろう。

これについてはもうほぼ確定事項だ。

出航してからしばらくは、各国が破滅していく様子が、SNSで流れてきていた。わずかに稼働していたニュース番組も、その全てが破滅の生々しい様子を伝えていたが。やがていわゆる大本営発表に移った。

そして、ニュースが黙り込んだ頃には。

SNSも重くなり。

動かなくなっていた。

地上がどうなったかは、わざわざ見なくても明白だ。

ゾンビそのものは弱い様子で、軍隊が蹴散らすのを何度も映像で見たが。

しかし、その後に作戦に参加した軍人がみんなゾンビ化してしまう。

それを思うと、もう駄目なんだなとしか思えなかった。

船の甲板に出る。

島は何処にも見えない。

燃料を節約するため、ずっと船は碇を降ろして停泊をしている。本来なら合衆国海軍が文句を言ってくるだろうが。

今はそれもない。

海軍ももう壊滅してしまっているのだろう。

そう、何処までも拡がる青空を見て、ぼんやりと思った。

ボートが流れてくる。

サイレンが船内に流れた。

「皆さん、船室にお戻りください。 船を移動させます」

「……」

シャーリーはそのまま自室に戻る。

荒らされている形跡は無い。一応神経質なまでに消毒はするが、どうせ無駄だろう。そんな程度でどうにか出来るのだったら、こんな状況にはなっていない。SNSで最後の方に入手した情報によると。

軍で調査したゾンビからは、ウィルスの類は一切出ていないという。

感染の原因すら分からない。

だからワクチンすら作れない。

そういう状況だから。

どうにもできない。

もうおしまいだ。

そう発狂気味に書き込んでいたアカウントは、多分軍の研究関連だったのだろう。たまたま稼働中のアカウントを探していて見つけたが、そうだろうなとしか、シャーリーにも思えなかった。

ブロンドの髪を掻き上げると。

顔でも洗うかと、洗面所に出向く。

一応のクルーザーだから、相応の設備は整っている。

ただ石鹸などの消耗品はどうにもならないし。

浄水が出来るとはいっても、限界がある。

可能な限り水は大事に使うようにと、船長からは通達もあった。それは分かっているが。それでも手や顔を洗うくらいは良いだろう。

しばらく黙々と顔を洗っていると。

また、船内に放送があった。

今日は多いなと思っていると、同時に船が動き出す。さっき甲板から見た船から、離れているという。

「先ほど漂流していた船が近づいて来ていましたが、船に不衛生なものが乗っているのが確認されました。 すぐに距離を取ります」

「不衛生、ねえ」

おおかたゾンビでも乗っていたのだろう。

船が加速しているのが分かる。

燃料が貴重だという話をしていたのに。それにしても、かなり急激な加速だ。船は動かすのに、燃料をどか食いする。戦車もそうだが、重いものは動かすためには、車なんかとは比較にならないエサがいるのだ。

しばらく船は加速を続けていたが、様子がおかしい。

まるで逃げているかのようだ。

まあ、しばらくはそのまま様子見をした方が良いだろう。

ドアを閉じたまま、顔を洗い終えると、適当に化粧をする。

なお気分を紛らわせるためである。

船に乗ってから新しく彼氏を作ってもいないし。

男と関係もしていない。

危険が迫ると性欲が強まるとかいう俗説もあるらしいが、シャーリーはそういう感触を覚えた事はなかった。

船はまだ進み続けている。

流石に妙だなと感じたのは、三時間ほどしてからだ。まだ船が動いているのが分かるのである。

わいわいと、騒いでいるのが聞こえる。

廊下に出てきた客と、船員が揉めているようだった。

「なんでずっと動き続けているんだよ!」

「お静かに。 お静かに!」

「何処へ行くつもりなんだ!」

「安全のためです!」

安全のため、ねえ。

甲板から見たボートは、それほど大きいようには見えなかった。あれが、このクルーザーの速力についてこられるとはとても思えない。

何か隠しているな。

それはすぐに分かったが。

それ以上は分からないし、黙ったまま、部屋の中で様子を見る。今は恐らく太平洋のど真ん中。

泳いで何処かに逃げられるような、甘っちょろい状況では無いだろう。

最悪の場合救命艇で逃げる事も考えなければならないが。

今までの情報を総合する限り。

最悪の事態……例えばこの船の内部でゾンビが発生した場合とかは、多分もう今更何をしても無駄だ。

だから、むしろ静かだった。

やがて船はやっと止まったが、同時に船内の電力が不安定になった。要するに燃料の大半を使い切った、と言う事だ。

しばらくソーラーのシステムを使って、電力を蓄えると船内放送があったが。

これは覚悟を決めた方が良いなと、シャーリーは思った。

 

三日後。

朝の点呼の様子が、どうにもおかしい。

「皆様、船旅はお楽しみでしょうか。 お楽しみください」

妙だ。

船室から出ない方が良いなと判断したが。すぐに考えを切り替えて、船室から出る。そして、救命艇の位置を確認した。

世界一有名なゾンビゲームでは、ゾンビになりかけている人間の言動がおかしくなっていく様子が、恐怖演出として盛り込まれていた。彼氏の家で一緒に遊んだことがある。

あれは遊んでいて楽しかったが。

実際にそれを間近で見ると、決して面白いものではない。

やはり様子がおかしい。

救命艇を探して、マニュアルを読んでおく。降ろし方などは分かった。一旦、自室に戻るか悩んでいる内に。

どぼんと、何か落ちる音。

金切り声が聞こえた。

嗚呼。

首を横に振る。

これは、多分始まってしまったと言う事だろう。

うめき声を上げながら、船室から出てくるのは、既に白目を剥いた船員だ。ゾンビ化している。

多分あの近づいて来ていた船にゾンビが乗っていて。

それが空気感染したのだ。

と言う事は、シャーリーも駄目だろう。

他人にかまっている暇は無い。

今は、生き残る可能性を、少しでも上げるしかない。救命艇を降ろすと、其所から何とか降りる。

鈍重な動きのゾンビは、そもそもシャーリーを見ていないようだ。

色々なゾンビパニックものでは、ゾンビは走ったり、聴覚や嗅覚が優れていたりするものだが。

現実に出たゾンビは、緩慢に動くタダの死体だ。

だが、ゾンビが出た時点で。

周囲が壊滅する事もほぼ確定してしまっている。

それがただ、恐ろしいのである。

船を必死にこいで、クルーザーから離れる。他にも救命艇を出した者はいたようだが、かまっている暇は無い。

急いでクルーザーから距離を取るが。どうせ無駄だろう。

それは、シャーリーにも分かっていた。クルーザーを見ると、気が利いたものは救命艇で逃げ出しているが。

数人まとまった上で逃げている者も見かける。

家族だろうか。

あれはまとめて死ぬな。

そう思ったが、何も言わない。

生きるか死ぬかの瀬戸際で、他人のやる事をおちょくるつもりもないし。どうせ多分悪あがきにすぎないのだ。

もし家族がいるのなら。

最後まで一緒にいれば良いとも、シャーリーは思う。

両親とも疎遠で。

彼氏は何人もいたが、ドラマに出てくるような燃える恋なんて味わったことなんかないし。

ましてやカートゥーンに出てくるプリンセスみたいな、強い女でもないシャーリーは。

幸いな事に。

覚悟だけは、既に決める事が出来ていた。

 

翌日。

晴れ渡った海面に出て、既にクルーザーも見えなくなっている。食糧もないけれど、それだけだ。

ゾンビ化した船員と直接接触したわけではないけれど、多分ゾンビには潜伏期間があると聞いている。

残る数日、どうするか。

食糧だって持ち出せていない。魚を捕まえて食べるにしても、この救命艇からどうやって。

一応救命艇にはまずい非常食もついていたが。

ただそれだけだ。

ふと、気付く。

視界が、一瞬歪んだ。

嗚呼。

多分来たっぽいな。

それとも、これから数日かけてゾンビになって行くのだろうか。

何もかも諦めていたからだろうか。今更、怖いとか、悲しいとか、思う事は殆ど無かった。

ただ、逃れ得ぬ死が側にあって。

自分がどうしようもなく醜い動く死体になる、という実感は存在していた。

存在していただけで、それ以上でも以下でもないが。

食事もせず、ぼんやりと過ごす。

最初の彼氏は暴力癖があり、二ヶ月で別れた。ベッドでも乱暴で、あまり良い気持ちにはなれなかった。

二人目の彼氏は体の相性は良かったが、ただそれだけ。人間としてはクズそのもので、半年で別れた。

三人目の彼氏は印象が薄い。

すぐに別れたことしか覚えていない。

しばらく間を開けて、四人目の彼氏が最後。

此奴も口だけは偉そうだったけれど。ゾンビパニックの時に離ればなれになって、それっきり。

別に心にも残っていないし、どうでも良かったのだろう。今になって見ると、世間体が怖かったのだ。

ハイスクールの頃には、米国に自由も平等も無い事なんて、はっきり分かっていた。

ジョックだと思われないように、ナードに目をつけられないよう、振る舞う技術ばかりが上がっていった。

その結果、地味な女といわれて。

声さえ掛ければヤレると勘違いしたナードの男に何度も声を掛けられた。最初の三人の彼氏はみんなそんなのだった。

オタク文化の本場でも、今はスクールカーストが酷いらしいが。

最悪なものを輸出してしまったと思うほかない。

いや、違うか。

どうせもう、あちらさんでも国なんて。

三日目になると、思考が定まらなくなってきた。

缶詰を開けて食べ。残っている飲料水を口にするが。どうしても口から食べ物がこぼれ落ちる。

幼児のようだなと思っている内に。

口からうめき声が零れているのに気付いた。

嘆息すると、シャーリーは。海に身を投げる。

着衣泳なんてやった事もないが。

ゾンビになって死ぬよりは。

まだこっちの方がマシだ。

サメか何かに食い千切られるのかなと思ったけれど。

意識が途切れる方が先だった。

多分、ゾンビになったのだろう。

以降のことは分からない。

きっと海底に沈みながら、もがく生きた死体になり。後は海の小魚や蟹や海老の餌になったのだろう。

だが。それでもう。

シャーリーには良かった。

誰かを食い殺すくらいなら。

海の生物の餌にでもなった方がマシだった。

 

                                (続)