黒い影の人

 

序、追ってくる者

 

昔から、不思議な気配を感じていた。まるい何かが、いつも此方を見ているような気がするのだ。

振り返るけれど、其処には誰もいない。

だけれど、確かに見られている。

それははっきり分かる。

どうしてだろう。何故其処には誰もいないのだろう。不思議で仕方が無いけれど。気になってもどうにも出来なかった。

大学に入って二年。

そろそろ授業のサボり方や。周囲との接し方も慣れてきた。

大学は気楽だ。

高校に比べると、ずっと人間関係が薄い。同じクラスでずっとすし詰め、というような事もない。

高校時代は、兎に角他とあわせなければならなかった。

女子のグループ関係の繊細さは、この身でよくよく知っている。それは良くも悪くも、である。

大学になってからは。

サークルにも所属せず。

ぼんやりと授業を受けながら、平穏に過ごすことが出来ていた。

家から通っている大学は。

片道三十五分。

遠くも近くも無い。

そして、この移動中も。

ずっと視線を感じなければ、とても快適だっただろう。

だけれども、今も。いつでも。視線を感じている。じっと誰かが見ている。電車の席に座って、ぼんやり過ごしているけれど。

背後から感じる視線は、ずっとついてきているように思える。

窓を背中にしているのに、だ。

どうやって。

電車についてきて、どうやって此方を見ている。

あり得るはずが無い。

ため息をつくと、腰近くまであるから、手入れが面倒な髪を掻き上げる。茶色にでもしようかと一時期思ったが。

そうすると、とにかく面倒くさい。

別に海外の血が混じっているわけでもないし、地毛だ。

いっそのことショートにでもしようかと思った事もあるが。髪が綺麗というのだけが取り柄と言われたりもしていたし。

結局髪は長いまま。

中学くらいからスポーツもしていない。

だから、髪は適当に束ねているだけで良かった。

アナウンスが電車の中に響く。

もうすぐ自宅近くの駅だ。

今は大学からの帰り。

今日の授業は朝一から二つだけ。それも、どっちもしっかりノートは取ってある。あまりにも簡単だったし。

今はどんな大学でも入れる時代だ。

一応四年制大学だが。

大学生は減る一方だとか。

それはそうだ。今はみんなお金がない時代である。大学に子供を行かせるお金なんてない。

うちだって、かなり苦しい中でやりくりしている。

兄がもう仕事をしていて、給金を少し入れてくれているようなのだけれど。兄は毎日深夜に帰宅。帰ってこない日も多い。

死人のような顔色である。

今はどこの会社もこんな有様らしいけれど。

兄がいつ過労死してもおかしくない。

父母はもう年金暮らしだが。

それも、父は認知症が始まっていて。

介護をどうするか、家族で青い顔をつきあわせて考えている最中だ。

家に着く。

兄は昨日帰ってこなかった。

だが今日は帰っていて。

自室で死んだように寝こけていた。

母は父を病院に連れて行く。

認知症が始まると、暴れる老人も多い。父は幸いそうはならなかったけれど、時々精神の枷が外れるのか、騒いだり喚いたりもする。

最近は認知症の治療も進んできているけれど。

私が今後どうすればいいのか、よく分からない。

母は結局、夕方近くに家に戻ってきた。

病院は、今はどこも混む。

特に心療内科は酷い。

予約を入れておかないと、診療は極めて難しい。その場で慌てて駆け込んでも、門前払いされるケースが多いのだ。

「琴美、父さん今日は入院するからね」

「分かった」

母は仕方が無い様子で、疲れ切っていて。父は結局今日は病院か。

入院と言っても、保険は利くし。今回が初めてじゃない。一応うちにはやりくりは厳しいとは言え、それなりの、要するに私が大学に行けるくらいの金がある。兄が体を切り売りするようにして稼いでいる金もあるし、父母がためた金もある。

大きな声では言えないが、父母の生命保険もそれなりにある。

どちらにしても、無駄には出来ないが。

今後どうなるのだろう。

あの兄の様子では、いつ倒れてしまってもおかしくないだろう。

自室に入ると、ベッドに転がってぼんやりする。

これといった趣味も無い私は、家では寝ているくらいしか出来ない。高校時代の「友人」達は、もう連絡もしてこない。

まあ、高校時代の人間関係を押しつけられても迷惑なだけだし。

ぼんやりと天井を見ていると。

今後、自分も兄のような仕事をして、縊り殺されていくのかと、おぞましい妄念がわき上がってくる。

努力が少しでも報われる社会になれば、少しはやる気も出るけれど。

今は世界中どこもがこんなだという。

怪しいカルトの類はどこも大人気。

それはそうだ。

こんな状態では、嘘だと分かっていても、自分を全肯定してくれる場所に逃げ込みたくもなる。

今日も、カルトの勧誘が来たが。

門前払い。

またベッドに戻ると、鬱陶しいと思いながらも、天井をぼんやり見つめ。そして、こんな状態でも思うのだ。

やっぱり後ろから見られていると。

ベッドに張り付いて、背中を預けているのに。

どうして背中から見られるのか。

そいつは平面なのか。

冷静に考えてみればおかしいと分かるはずなのに。どうしてか、異常な事に自分自身で気づけない。

いや、分かっている筈なのに。

どうしても、見られているという感覚が抜けないのだ。

これはずっと幼い頃から。

神社仏閣で粗相をしたか。

いや、そんな筈は無い。

面白半分に心霊スポットにでもいったか。

いや、そんな事はしていない。

オカルトではないとすると。

単なる妄念か。

しかし、それにしてはおかしい。

私は感覚が鋭い方で、目を閉じていても、誰かに見られていると気づく。実際そうやって、授業中に誰かに視線を向けられると、即時に反応する。

それで驚かれる事も多いのだけれど。

私自身は。

背中からの視線をどうにかしてくれと言いたい。

これがある限り。

私はずっと、監視されているのも同然だ。

今まで恋人を作った事は無い。

というよりも、今の時代はあまり誰も恋愛に熱心ではないし。そもそも結婚に考えている人も、相手にハードルを山ほど作ったりして、自分から遠ざけてしまう傾向が強いのである。

男子も面倒だと感じるのか。

女性とあまり接しようとしない。

前は、クラスで何組もカップルがいる時代があったらしいが。

今はそれもない。

一時期は、女子が殆ど全員彼氏を持っている、と言う時代もあったそうだが。

今から考えれば、嘘としか思えない。

口だけは彼氏を持っているという奴はいるけれど。

大体は空気彼氏だ。

確率は八割を超えるとみている。

それに加えて。

私はこうして、一人でいるときも、見られていると感じ続けている。いや、実際何者かに見られているのだ。

盗聴器か。

それとも監視カメラか。

いや、どっちもあり得ない。

私は一体。

此処で何をしているのだろう。

そうとさえ思う事もある。

だけれども、この視線を感じる、というのは本当だ。勿論誰かに相談したことも無い。

昔の事だが。

小学校で、友人だと思っている相手に些細な事で相談をしたら。クラス中にその話をばらまかれて。

笑いものにされた事がある。

知っているだろうか。

クラス中から笑いものにされる恐怖を。

それ以降、人形のように静かにクラスでは過ごし。女子のグループ内でももの凄く大人しく過ごしていたが。

それでも基本的には、あの時の恐怖は忘れていない。

だから私は。

基本的に誰かに相談して、物事が解決するとは思っていないのだ。

悶々としていると。

不意にスマホが鳴る。

登録している奴は殆どいない。電話番号は家族のものと、わずかなつきあいがある人間だけで。

それも滅多に電話など掛かってこない。

また何かの業者か。

そう思って電話に出るが。

違った。

しばらく、無言が続く。

悪戯かと思ったが、その後ぞっとする事を言われたのだ。

「背後から、見られていると思いませんか?」

「誰あんた。 宗教の勧誘?」

「だるまさんがころんだ」

「え……」

電話が切れる。

そして、非通知の文字が、スマホには表示され続けていた。

正直ぞっとしたけれど。

思い当たる節がありすぎる。

背後からの視線。

そうか。

ひょっとしてこれは、だるまさんを転んだを、常時やっているようなものなのか。確かに、あれはそういう遊びだ。

じっと相手の背中を観察し。

そして触ることを目的とする。

触れば勝ち。

動いている所を見られたら負け。

動いている所を見られるというのは、どういうことか。

私は今まで、視線の主を何度も何度も探した。だが、それを見つけることはついに出来ていない。

幼い頃から、大学の今まで、である。

それなのに見つからないのに、どういうことか。

待て。

落ち着け。

そもそも、今の電話は、ただの悪戯だった可能性も大きい。

そんなものに、既に年齢的には大人と同じ私が、振り回されてどうする。頭をかきむしる。後で手入れが面倒なのに。

しばらく悶々としていたが。

やがてスマホの電源を落として。

ベッドに寝転がった。

ぼんやりして、天井を見上げる。

私の背中を見ている奴がいる。

今この瞬間もそれを感じ取ることが出来る。

昔、鏡を使ってそいつを見つけようとしたこともあった。実際問題、その時は良い考えだと思った。

だが、である。

結局の所、そんな奴は見つからなかったし。

最終的には、どうして鏡で自分を見ないで、後ろばっかり見ているのかと、周囲に馬鹿にされた。

勿論その時は、クラス中から笑いものにされた後。

その事については教師も見ていたにもかかわらず、フォローなど入れるはずも無く。そればかりか、普通にイジメを見て自分も嗤っていた。

相談はできない。

兄はあんなだし。

親もあんなだ。

ましてや、「友人」など。

加湿器のスイッチを入れると、フトンに潜り込む。そうすると、フトンの中で、誰かが此方を見ているような気がして、おぞましい。

昔はそれで、フトンを放り出して、風邪を引いたこともあった。

勿論病院に行ったが。

どうしてフトンを放り出したのかについては、最後まで絶対に口にしなかった。

口にしてなるものか。

あの時の記憶は。

まだ私の心に。

強い強い影を落としている。

 

いつの間にか眠っていた。まだ朝の三時だが、もう眠気は覚めてしまっている。

だから、ベッドから這い出す。

兄はいない。

あの後出社して。今も仕事をしているのだろう。あんな病人同然の顔色で、何を働くのだろうと思うのだけれど。

今はそういう時代。

人材を育てもしないで、よそから引っ張ってくることだけ注力。

なんでもできて奴隷同然の待遇で満足してくれる、いもしない人間を求めて。企業が人材がいないと嘆き。そして新聞が深刻な人材不足だとか書いて恥ずかしげも無く売り物にする時代だ。

私もいずれそうなる。

会社に殺される。

いや、社会に殺されると言うべきだろうか。

当然今の時点で結婚も諦めているし。

子供だって出来ないだろうと思っている。

それが現実なのだから仕方が無い。

やることもないので、壁に背中を預ける。私は兎に角、隙を作ることだけは絶対にしないようにとあの時から決めた。

運動音痴だから武術とかはできていないが。

今の時代は、「何か好きなものがある」というのが隙になる。

何かが好きというのはオタクとされて。

異常者として扱われるのだ。

好きと言うことを公共の場で表明するだけで、異常者のできあがりである。それが現実なのだ。

だから私はなにも趣味を持たないと決めている。

故にこういうときは、何もしないで、壁に背中を預ける。

それなのに、どうしてだろう。

やはり背中から見られている。

壁と背中の間には何も無い。

隙間に入り込まれて見られる、という可能性も考慮して。私は背中をぴったり壁につける術を学んだけれど。

それでもだ。

ああ。

思わず壁に拳を叩き付けようかと思ったけれど。

止めた。

手が痛いだけだ。

それに一軒家とはいえ、母はまだ眠っているだろう。起こしてしまうかも知れない。それが故にやめておく。

ため息をつくと。

空虚な生活を送るべく。

私は壁を背中に。相変わらずずっと見ている何かを感じながら。

朝を待った。

そういえば、今日は大学の講義はなかったっけ。

そうなると、下手をすると一日こうか。

口元が、笑みに歪む。

勿論、私を誰かが見たら、すっ飛んで逃げるだろう笑みだったはずだ。

くらい。

この世は、あまりにも。

 

1、ついてくる影

 

後ろには何かがいる。

それは確実だ。

だが、それを調べるには、どうしたらいいだろう。

スマホはあれ以来、電源をずっと落としたままだ。気味が悪い電話が掛かってくるようなデバイスはいらない。

大学で黙々と授業を受けた後。

大学の図書館に出向く。

流石にそこそこの大学だけあって、図書館は相応に充実している。読み応えのある本も、それなりにある。

だけれど、私が調べるのは。

基本的に視線について、だ。

視線というのは奥が深い。

実際には、ただの強迫観念だというケースも多いようだ。実際問題、視線を感じているとずっと恐怖を感じていた人が。

単にそう錯覚していた、というケースもあるらしい。

ところが、である。

私はなぜだか、下級生に非常に怖れられているらしい。

運動音痴の私をどうして怖れるのか分からないけれど。

とにかく以前、下級生の一人を適当に捕まえて。私の背後に立たせ。自分の任意のタイミングで向こうを向くように、と指示したのだ。

そして私は目を閉じた。

そうしたら、である。

相手が向きを変えたタイミングと。

視線を感じなくなったタイミングが。

ぴったりと一致したのである。

ストップウォッチまで用意して、実験をしたのだが。それはつまり、完全に視線を私は察知している、という事を意味している。

一度なら、それも偶然で片付けられたかも知れない。

だが、何度もやらせて。

その結果が同じだった。

つまり、私は。

視線をしっかり、感じ取っているという事だ。

それにもかかわらず、である。ベッドに張り付いていようが壁に張り付いていようが。同じように背後から視線を感じるのは、どういうわけなのか。

これは何というか。

理不尽にもほどがある。

私が何をしたというのか。

本を色々読みながら、視線について調べていく。

不意に、側を通った同級生が、私に気付いて小さな悲鳴を漏らした。視線を向けると、平謝りしてから、こける寸前で逃げていく。

何だ一体。

私が何をしたというのか。

ぺっと唾を吐き捨てたい気分だが。

此処は図書館。

床を汚すのも良くないだろう。

そのまま、読書を続ける。

不意に、聞こえてきた。

同級生達の声だ。

「平橋琴美さんっているでしょ」

「ああ、あの目つきがなんというか、ブラックホールの」

「そうそう。 この間下級生捕まえて、脅して何かしていたらしいよ。 ストップウォッチまで持たせて。 下級生泣きそうになって、サークルの先輩達に相談しに言ったら、みんな震えあがって、しばらく学校に来ない方が良いってアドバイスしたって」

「ああ、それは災難だよね……」

向こうは気付いていないが。

何だブラックホールって。

私の視線は何でも吸い込むとでも言うのか。

アホらしい。

まあ興味も無いので放置して、読書を続けるが。話をして移動をしていた二人が、私に気付く。

そして、悲鳴を上げた。

五月蠅い。

視線を向けて、言う。

「図書館ではお静かに」

「ご、ごごご、ごめんなさい!」

「こ、ころさないで! ころさないで!」

「……」

何だ殺さないでって。

私は料理以外で殺生なんてしたこと無いんだが。

黙っていると、また転がるようにして二人逃げていく。

そして、そいつらが話したからか。

図書館から、人の気配がなくなった。

今あの人が図書館にいる。

絶対近づくな。

そうとでも口にしたらしい。正直どうでもいいのだけれど、はっきり言ってうんざりなので、放っておく。

しばらく黙々と読書を続けて。

視線について調査する。

そういえば、さっきも。

誰かが此方に気付いたときは。視線を此方から向けるまでもなく、相手が見ている、という事に即座に気付いた。

つまり、いつも後ろから見ている何か以外が。

私を見れば、即座に気付く。

やはり参考にならないな。

背が高いことだけはいい。本棚の高い所にある本にも、手が簡単に届くのだから。

別の本を見る。

私はオカルトには一切興味が無いので、そういう関係の本はまったく手にしないのだけれど。

どうも自分の思い込みとか、勘違いとかでは。

どうしてもこの事象は説明できない。

だけれども、お祓いだの何だのに行っても、実際には嫌な顔をされるか、もしくはカモにされるだけだ。

何かしらのマニュアルが悪徳宗教関係者には出回っているらしく。

こういうときはこう言えと、指示があるらしい。

どうせ背後霊だの、先祖の因縁がどうのとか、言われるのは目に見えている。しかも取って欲しければ法外な金を払えと言われるのも。

下手をすると、定期的に金を持ってこいとか。

或いはなんかの宗教団体に入れとか言われるかも知れない。

文字通り唾棄すべき連中だ。

精神学系の本も読んだが。

オカルトに片足を突っ込んでいる本も多い。

精神学をやっていると、どうしても人間の精神の深淵に足を突っ込むことになるので。本人も精神を病みやすいのだ。

深淵を覗けば、当然深遠にも覗き返される。

純文学もそう。

人間の深淵を書こうとすればそれだけ病む。

創作における人間がリアルと違うのは。

それは当然、リアルに近づければ近づけれるほど、深淵にも近くなるからだ。人間は本能的に深淵の恐ろしさを知っている。

私はそう見ている。

今日も収穫無し、か。

今読んでいる本も外れだ。

本棚に戻しながら。

どうするか考える。

講義には全部出ているし。試験関連ではいつも満点を取っている。大学そのものはそれほど良い大学でもないけれど。

それくらいは出来る。

運動音痴でも、その程度の頭はあるということだ。

だからこそに。

ちゃんと頭を使って、この視線の正体に気付きたいのである。

それをしっかり解明しないと。

私は安眠も出来ない。

というよりも、ずっと監視されている状態では。

男と寝ることも気持ち悪くてできないだろう。

監視カメラで見られている状態で、男と寝られるか。応えはノーだ。まあ今の時点では正直興味がある男も好きな男もいないけれど。

将来のことを考えると。

このおぞましい視線は、どうにかして取り去らなければならない。

また適当に本を見繕うが。

しかし、既に夕方を過ぎていた。

カウンターで本を借りる。

私を見て、カウンターの人間は青ざめて。

どうしてか素人みたいな手つきで、慌てながら貸し出しの手続きを済ませた。私は鞄に本を突っ込むと、大学の図書館を出る。

家に着くまでに、適当に一冊。

家に着いてから、残りもさっさと読んでしまう。

夏休みの宿題は、最初の一週間でしっかり終わらせていた派である。何かを残しておくのが、気持ち悪くて仕方が無いのだ。

 

朝、起き出すと。

久しぶりに兄と顔を合わせた。

目の下には隈を作っていて。無精髭だらけ。髪の毛もぼさぼさだ。それでもそもそと、スーツを着込んでいる。

「兄貴、髭ぐらいそったら」

「……」

じっと、落ちくぼんだ目で見られた。

完全に死人の目だ。

だけれど、言われた事には従うつもりになったのか、髭を剃りに行く。シェーバーの音が此処まで聞こえてくる。

私も歯磨きを済ませると。

適当に食事を取る。

ちなみに食事は近くのスーパーで買ってきて、自炊している。母は今後介護で掛かりっきりだろうから、である。

自立神話というのか。

ある程度の年になると、家を出るのが当たり前、という風潮が昔はあったが。

今はもうそんな時代では無い。

収入があまりにも低く。

金持ちは搾取を当然としている。

その結果、1%の人間が、99%の富を独占している、とまで言われる時代なのである。つまり、アパートだのを借りて、バカみたいな家賃を払うくらいなら。家から会社に通う方が良い。

幸いこの国は、前の世代がこぞって家を買うだけの資産を蓄えていたので。

家だけはある、という人間も多い。

家賃を払わなくてもいいなら。

生活はかなり楽になる。

自炊をすればもっと楽になる。

だけれども、正直な話。

今後会社勤めをした時。

自炊なんてしている余裕があるかどうか。

勿論腕次第で、短時間で作れるレシピはあるだろうけれど。今の兄の様子を見ていると、毎日家に帰ってくることが出来るかどうかも怪しい。

それでは、コンビニ頼りになるのも当然か。

兄は髭だけはそったが、死人同然の足取りで会社に出かけていく。

そんな会社止めろとは言えない。

今は何処の会社でも同じだ。

一部の異常に給料が高い会社については、学閥だの何だのが独占している状態。普通の人間に入る余地は無い。

何処の企業も人材育成を行わず。

人材だけを欲しがる。

そして無茶苦茶なノルマを課して。

人材を使い潰して行く。

リアルタイムで使い潰されている兄を見ると、私は、このままでは死ぬだろうと思うのだけれど。

それでも兄は会社に向かう。

ワーカーホリックという言葉が昔はあったが。

今もその意味そのものは健在だ。

そしてその労働地獄は。

今は世界中に拡大しつつある。

兄を止められないのは悲しいが。正直な所、私もいつああなるか分からないし。兄の収入が無いと家が厳しい。

それを考えると。

もはやどうこうとは言っていられないのだ。

何より私の場合。

背中から見ている何かよく分からないものの存在がある。本当に何がいるのかまったく分からない。

風呂場で時々鏡をチェックするのだけれど。

ユーレイが映るようなことも無く。

もちろん何か得体が知れない存在がいるようなこともない。

ならば一体。

私を見ているのは、何者なのか。

舌打ちすると、私は着替えと身繕いを済ませる。

学校に出るときは。

基本的に黒系統の服を着ていくことが多い。面倒くさいので、黒や薄黒い系統の服がいい。

ただし汚れが目立つので。

学食で食べるときには、メニューが限定されるが。

学校に出向く。

途中、すれ違った子供が、悲鳴を上げて逃げていった。

知るか。

どうでもいい。

そして、歩いている間も、やっぱり背後から視線を感じ続けている。この視線、一体誰のものだ。

私は苛立ちを押さえ込みきれない。

この苛立ちを。

何処にぶつければ良い。

大学に出て、講義に出る。

寝ている奴も多い中、黙々とノートを取る。今やっているのは高等数学だけれども、所詮は高校時代にやった数学の延長線上だ。

大した内容では無い。

淡々とノートを取って。

ルールに従って解いていくだけ。

たまに小テストがある。

どれでも基本100点を取るが。

希にケアレスミスで100点を落とすこともある。

だけれども、それは仕方が無い事だ。

人間である以上、ミスはある。

私も人間だから。

ミスはどうしてもするのだ。

講義を終えると、また図書館に行く。通りすがる人間は、基本私を見ると、足早に離れていく。

疫病神か何かか私は。

どうでもいいので、図書館に。

いずれにしても、侮られなければそれでいい。

その後は、黙々と。

視線に関する本を読み続けた。

大学にある専門書でも、やはりどうにも説明がつかない。

色々な譫妄が世の中にはあるようで。中には皮膚の下を虫が這い回っている、というものもあるようだが。

私の場合、幾つかの実験をして、それがない事は確認している。

だとすると。

この、今も感じている視線は何だ。

不意に振り返る。

何もいない。

それがまた、腹立たしい事この上なかった。

 

2、護身

 

大学二年の中旬。

私は突然思い立って、格闘技を始めた。

合気道が良いだろうと思ったので、合気道のサークルを見に行ったが。実際にはただ遊んでいる連中だけしかいなかったので、その場で抜けた。というか私が見るだけで真っ青になって後ずさるような連中じゃあ、教わるようなことなんて何一つ無い。

そこで、プロがやっている護身術が良いと思って。

いわゆるフルコンタクト空手の道場に出向いてみる。

幾つか流派があるのだけれど。

実戦にもっとも近いやり方を取っているものだ。

運動音痴の私がいきなり格闘技を始めたのには理由がある。

まず、何かしら後ろから見ている奴が、私に害を加えようとしたとき、制圧するため、というのが一つ。

もしも制圧できない場合は。

身を守る事がもう一つだ。

基本的に、誰にも背後からの視線について、話すつもりは無い。

話したところで意味がないからだ。

故に自分の身は自分で守らなければならない。

柔道も良いかもしれないが。

とりあえず、色々試してみよう。

そう思って、体験入学の場に、足を運んでみた。

まず第一に。

動きを教わる。

運動音痴の私には、すぐには再現できなかったけれど。意外にも、きちんと手順を踏んで動くように指導してくれて。

理論はすぐに飲み込むことが出来た。

屈強な師範が、順番にやり方を説明してくれる。突きのやり方、蹴りのやり方。防御のやり方。

一つずつ、こなしていく。

最後に、女性の師範と組み手をして見るが。

動きはほぼ完璧にトレースできるが、体力とパワーが足りなさすぎると言われた。

まあそうだろう。

礼をして、今日は終了。

最後に、聞いてみる。

「後ろからナイフで襲われたらどう対処すれば良いでしょうか」

「その場合は、基本的に素手では立ち向かわないでください。 基本的に武器を持った相手に、素人では勝てません」

すっぱり断言される。

なるほど、確か剣道三倍段とかいう話があるとか聞いたが、それだろう。

リーチの長さは、それだけ武器になる、ということか。

少し考えた後。

次は薙刀道場に出向いてみる。

ならばリーチだ。

日本の戦国時代でも、メインウェポンはまず飛び道具。

歩兵同士がぶつかり合う状況になると、まずは槍。

これについては、古代でも同じだった。

槍こそ近接兵器の王道。

流石に飛び道具が非常に凶悪な今の時代、槍の出番は無いが。薙刀は、長い棒だったら何でも応用が利く。

そう思って、私は。

薙刀道場に出向いた。

薙刀道場は、高校生くらいから普通の社会人まで、かなりの人数が来ていた。まあ一応人気がある道場を調べて足を運んだので、当然だろう。

軽く教えて貰う。

動きについては、すぐに理解出来た。

実践もしてみる。

師範が、とても筋が良いと褒めてくれたけれど。

この腕力では、相手に致命傷を与えるのは不可能だろうとも自分で思うので、話半分に聞いておく。

とりあえず、何をすれば良いのかは分かった。

基本の動きも、である。

奥義とかを繰り出すレベルの達人になってくると、それはまた違うのだろうけれど。

まずは運動音痴の解消からか。

後ろにいる何かを、どうしても察知できないけれど。

いずれにしても、長物を一とする武器の方が、私には相性が良さそうだ。

続いて、居合いの道場も見に行ってみる。

居合いは兎に角初撃が速いことが有名だけれど。

実際はニの太刀が本命。

しかも、基本的に鎧を相手が着ていないことが前提となる武術だ。ただし、その速さについては、非常に興味を引かれた。

速いものが見えれば。

それは早い話が。

後ろにいる奴が、どんなに速く隠れても。

追うことが出来るかも知れない、という事を意味しているからだ。

一通り、此処でも習う。

習ったことはすぐに覚えたが。

師範に言われる。

「貴方にはこれ以上教えられない」

「何故ですか」

「貴方の目は殺し屋の目だ」

「はあ」

殺し屋の目、か。

よく分からないけれどそうなのか。周囲の、此方を見る目も、恐怖に満ちている。師範は更に言う。

貴方に剣術を教えれば、容易に人を斬るだろう、とも。

まあ最終的には。

後ろから見ている奴から自衛するため、なのだが。

私としては、それこそどうでもいい。

それに基本は全て見て覚えた。

応用については、今後色々試してみれば良い。

頭を下げて、礼を言う。

「分かりました。 今日はここまで教えていただければ結構です」

「……くれぐれも、暴悪を振るう事無かれ」

「分かっていますよ」

私が笑みを浮かべると。

師範代は蒼白になる。

なんだ、よく分からないが。

そんなに怖いのか。

 

一通り必要そうなものを見てから、家に戻る。

古いパソコンがあるので起動。

昔兄が使っていたものだが、一部のフォルダにはパスが掛かっている。まあエロ動画でもいれているのだろう。

そういうプライバシーには触れないのがマナーだ。

私も兄の性癖なんか興味ないので、触らない。元々兄とはそれほど仲が良いわけでもないし、悪いわけでもない。

弱みを握るような真似をしても仕方が無い。

何よりあんなに弱っている兄の弱みを今更握ってどうだというのか。

ちなみに兄も、パソコンそのものにはパスも掛けていないし、私に使って良いとも言っている。

信頼してくれていると言うよりも。

もうパソコンを使っている余裕も無いのだ。

それに職場でパソコンをうんざりするほど触っていることもあって。

此処で使う気にはなれないのだろう。

家に戻ってから。

表計算ソフトを立ち上げ。

順番に作業をしていく。

これからのトレーニングについてだ。

今まで調べていて、私は結論した。

このままだと埒があかない。

私自身が身体能力を高めて、後ろにいる奴を取り押さえるしか無い。そのままでは、運動音痴のままでは駄目だ。

まずは体を鍛え。

色々な武術を応用して強くなり。

場合によっては、小学校の頃から私を見てきた何者かをぶちのめす。

殺してしまってもいいだろう。

電車に乗って座席に背中を預けていても、後ろからこっちを見ているような奴だ。多分人間ではないだろうし。

人間だとしたら相当な偏執狂だ。

ならば叩き潰すに容赦無用。

即斬である。

計画を立てた後は。

順番に作業を始める。

まずは体を鍛え始める。鍛える方法についても、事前に調べてあるので、計画的にやる。これでも、計画的に動く事には自信がある。

少しずつ、順番に体を動かして。

やることをやっていく。

一月ほどで、もう少しはましになる筈だろう。

それから、見て覚えた事を、順番にこなして行く。

やはり背後にいる奴を一刀両断にするには、速さこそが重要だ。居合いはそういう意味では、大変にマッチしている。

体を動かすには、各種格闘技の知識もいるし。

逃げられたときのことも考えて、長物の使い方も覚えておく方が良いだろう。

貯金はあるので。

模造とはいえ、レプリカの日本刀を買ってくる。

ちょっとお値段は張ったけれど。

刃物なんかついていなくても、刀は相手を両断できる。

スイカなどで試してみれば分かるけれど。

一刀両断である。

人間の頭はスイカと同じ程度の強度しかない。

つまり私の後ろで、じっと私を見ている奴も。

一撃で戦闘不能に陥れられる筈だ。

もしそれが人間では無かったら。

いや、恐らく人間の可能性は極めて低い、とみるべきだろう。

だけれど、まずは試してみる。

コレが駄目なら、何か他の方法を探してみるといいのであって。まずはこれからやってみる。

そう決めたのだから、私は黙々淡々と動く。

体作りから始める。

朝は寒いのを我慢してジョギングを開始。

体力をつけて。

その後は筋トレをする。

運動音痴だから、基礎体力は無い。

だから、瞬発力を持つ筋肉で、全てを構成していく。

蛇などもそうなのだけれど。

体の中を瞬発力に特化した白筋だけで構成する事によって、充分に獲物を捕らえることは可能だ。

様々な本を読んで、私は確信した。

見られている。

ならば見ている奴を。

これ以上私のプライバシーを侵させないためにも。

ぶちのめすだけだ。

大学に通いながら、順番に作業。

大学でも、少しずつ筋トレをする。

元々私を怖れていた同級生や下級生達は。

私を見て、更に距離を置くようになったけれど、そんなものはそれこそどうでもいい。例え壁に背中をつけていても後ろから見られているこの不快感を取り除ければ。私は悪魔にだって魔女にだってなる。

模造刀も持ち歩く。

警察に職質もされたので、刃がついていない事は説明。

理路整然と説明したのだが。

実際に抜いてみて、刃物がついていない事を試して貰ったので。これで問題ないのである。

警察の方も不審がっていたけれど。

刀をいつも抱えて歩いている、という事で、不審者の通報があったらしい。

そういえば、最近は気持ちが悪い人間がいると言うだけで通報するケースがあるとか聞いているが。

まさか私がそれの餌食になるとは思わなかった。

気持ちが悪い、なんてのは主観だろうに。

どうしてそこまで、他人の存在を否定出来るのか、よく分からない。

予定通りのスピードで。

体力がついていく。

運動音痴だから、基礎体力はどうしても少ないけれど。

その分を一瞬に賭ければ良い。

居合いについても、実践して色々やってみると。

筋力はむしろそれほどいらず。

呼吸とタイミングが必要だと言うことが良く分かってきた。ようするに、やはり白筋の生かし方だ。

最初は小さな木の棒から。

模造刀だから、最初はがいんと鋭い手応えがあったけれど。

何度かやっている内に、綺麗にすっぱり斬れるようになった。

やはり刃なんてついていなくても、この通り。

木刀の殺傷力は、日本刀とあまり変わらないときいていたけれど。

実際に鉄の棒なら、この通り。

木の棒でさえ、堅い素材なら、日本刀並みに殺せるのだ。剣道の有段者ならなお楽だろう。

続いて、竹に挑戦。

近くのヤブに竹があるので。

それを一刀両断してみる。

最初はやはり、上手く行かない。

小さな木の棒とは流石にレベルが違うか。下手をすると、模造刀が曲がってしまいそうだけれども。

ゆっくり、丁寧に。

確実に技を確認していく。

私が見に行った道場の技を、寸分違わず再現すれば出来る。

そして私は。

それを覚えている。

ならば出来るようになる筈だ。

踏み込みや、抜いたときの手順。

更に呼吸と。

白筋の生かし方。

これらを順番に、なおかつ完璧に行かせるようにしていく。

同時に体もしっかり鍛えこんでいく。

通学用の鞄は敢えて重くし。

しかも背負わず、手にぶら下げて持っていくようにするのだ。

それだけではない。

体力と筋力についても、様々なトレーニングを、独自に実施していく。瞬発的に動かすと、やっぱりダメージがある程度ある事は実感できるからだ。

一つずつ、こなしていって。

最終的に、後ろから見ている奴を、排除できればいい。

今も、見られている。

そして、体を鍛え初めて。

どの辺の距離から見られているのかが、何となく分かり始めた。

大体五メートルほどの距離を置いて見られている。

これは不思議な事に。

壁を背中にしている時も同じだ。

どうやって壁越しに私を見ているのかはよく分からないけれど。兎に角そいつはじっと背後から見ている。

近づいてくる気配はない。

気配としては人間と同じなのだが。

いずれにしても、その視線には感情が一切なく。ただ私を見ている、という以外に、形容が出来ない。

これについては検証した。

気配が読めるようになって来てから。

後輩を適当に連れてきて。

ストップウォッチを持たせて、視線が実際に飛んできているかを確認。

更に、どれくらいの距離から見ているかも確認する。

メジャーとストップウォッチで、意味が分からない検証作業を延々とさせられて、後輩は泣きそうになっていたが。

どうでもいいので放置。

さっそく私が何かまた訳が分からないことをしていると言う噂が流れているらしいが、それもどうでもいい。

ちなみに噂については。

直接流れている現場に立ち会った。

武術の鍛錬をするようになってから、私は気配を消して動けるようになったため。相手が見ていなければ。音無く背後に回れるようになった。

そのまま、その気になれば。

頭をたたき割ることも可能である。

木刀でも出来るのだ。

鉄。それも錆びないようにした合金製の模造刀である。重さは鉄製のよりあるし、より頑丈だ。

今の技術で降り下ろしたら。

頭を真っ二つにして。

喉くらいまで食い込むだろう。

私に、真後ろで話を聞かれていたと悟った同級生二人は、真っ青になって。それから腰を抜かして小便を漏らしたが。

がくがくしながら、必死に涙を流して謝罪する二人を見て。

此奴らを本気でブッ殺してやろうかと思ったけれど。

止めておく。

何の利も意味もないからだ。

そのまま、帰る。

そういえば、不思議な事だが。

最近、授業で私がかならず座るようにしている三列目の席。

周囲から人がいなくなっている。

理由は正直な所。

よく分からない。

 

3、追跡

 

大学は楽だ。

イジメも無いし、必死に気配を殺さなくても良い。

多分サークルとかの密集空間ではあるのだろうけれど。授業をそれぞれが勝手に受ける形式で。

同じ人間が一カ所にたくさん集まらず。

その時間が続かない、というのが大きいのだろう。

私は周囲から距離を出来るだけ取ってきたし。

女子のコミュニティでは、基本的に地蔵として過ごしてきた。面倒くさいから、というのがその理由。

あんなもの。

まともに追いかけていたら、精神を病む。

やれ流行りがどうの、やれ誰々が何をしたの。

そんなどうでも良いことばかりで、ちょっとでも足を踏み外せば即座にイジメに発展する。

男子のコミュニティも大して変わらない。

向こうは暴力がおおっぴらにまかり通っているだけ。

そして、如何に悪い事をしたかが。

ステータスになっているだけだ。

くっだらない。

昔からそれは思っていたが。それを口にすることは許されなかった。口にしたらどうなるか、知れていたからだ。

正義感が強い人間が。

こういうおぞましいコミュニティに滅茶苦茶にされていく様子は見たことがあるし。

それで精神を病んでしまったり。

挙げ句の果てに、イジメをした連中が、人の人生を台無しにしておいて。

それを笑いながら話している様子だって、散々見てきた。

これが人間なんだな。

幼い頃から私はそう思った。

ある程度適応はしていたつもりだったけれど。

大学になってから、周囲が私を何か人外の存在のように怖れるようになってから、小首をかしげた。

よく分からないけれど。

私はひょっとして。

昔から周囲に怖れられていたのではないのだろうか。

もしもそれでイジメに発展しなかったのなら。

それはそれで嬉しい。

あんな連中には最初から関わり合いにもなりたくないし。今でもその気持ちに変わりは無いからだ。

集団の正義が絶対。

その思想は。

この世界では絶対。

故に魔女狩りという悲劇を引き起こし。

世界中で似たような惨劇を引き起こしてきたのに。

人間はまったく。

それこそ、一ミリだって。

石器時代から進歩していないではないか。

私は、だからずっと誰にも相談できなかった。

確実に後ろから何かに見られているというこの事実を。

だから自分で検証しなければならなかった。

そして検証の結果。

それが正しいという事は良く分かった。

だからこそ、今自力で排除するという結論に至った。此処まで長かったけれど。それでもやれるのなら。

今やるべきだ。

トレーニングを続けて、筋肉もついてきた。

持久力も少しはついてきたけれど。

それ以上に大きいのは、やはり瞬発力を司る白筋が発達したことだろう。これによって、居合いの火力も格段に増した。

今はかなり太い竹でも、一刀両断に出来る。

勿論模造刀も傷つかない。

居合いを行う度にきちんと模造刀を手入れしているけれど。

そろそろ、巻藁に挑戦してみよう、と考えていた。

案山子のように作った人型に、藁を巻き付けたもので。剣術の試し切りなどでは、よく用いられていた、らしい。

今もやっているかは分からないが。

様々な文献で調べ上げて。

実際に再現したものを、庭に立てた。

服は、体を鍛えるようになってから。

前のスカートから、スパッツに替えた。

髪の毛も、出来るだけコンパクトに編み上げて。

頭の後ろだけに重心が掛かるようにした。

帽子を被ってしまうのも良いかもしれない。それだと、更に重さについて、あまり考えなくても良くなるからだ。

踏み込むと同時に。

一閃。

巻藁は、真っ二つになり。

斜めにずり落ち、そして地面でどさりと音を立てた。

真ん中には結構太めの材木を使ったのだけれど。

それでもこの通りである。

手には心地よい感触が残っている。何だかしらないが、私を化け物のように怖れている奴らを、こうやって斬ったら。

さぞや楽しいだろう。

だが、流石にそれは犯罪だ。

そして、問題は此処からである。

背後五メートル。

今も見ている。

そいつをどうするか。

捕捉さえ出来れば、即座に斬ることが出来る。

相手が人間かどうかは、それこそどうでもいい。

ずっと此方を見ている。

対して反撃する。

それが重要なのだ。

これについても、剣の腕を磨きながら、色々と考えを巡らせていた。

方法は幾つか思いついたが。

古流剣術の型を幾つか見て、なるほどと納得したものがある。

屋内戦での戦闘を想定した型や。

背後に回った敵に対応する型が。

幾つかある。

相手はじっと見ている。

定距離を保って。

そして、面白い事に、だが。

居合いなどで。一瞬だけ重心をずらして、移動する時。その移動について行けていない。

つまり、そういう事だ。

ある程度剣術を覚えたところで。

道場破りに出かける。

街の道場なんていっても仕方が無い。

今でも古流を教えている所に、道場破りに行くことにした。色々な歩法を試してみたいし。剣の腕についても確認しておきたいからだ。

何よりも。

動いているときに、視線の主が。

此方の動きに対応仕切れていないことを、しっかり確認しておかなければならない。

どうせ試合は一瞬だ。

それならば、人より体力が無い私でも、どうにでもなるだろう。

 

早速。そこそこ大きめの道場に出向いた。

江戸時代から続いている剣術、それも古流の道場である。流石に古い道場だけあって、中々大きな屋敷だ。

居合いは今は、上流階級のたしなみになっている。

剣道ではなくて、剣術もしかり。

私が道場破りに来たと告げると。

年に一二度は来ると、道場主は苦笑していた。

周囲はかなり広い。

床張りの道場は、素足で踏むと冷たくて、気持ちが良い。

なお、最近はずっと動きやすいスパッツ姿だ。上着も、動きやすさを重視して、殆ど飾り気が無い服を着ている。

私は女子としては長身だから、足に目が行く男も多いらしいが。

どうしてか声を掛けられた私が振り向くと。

目を見て即座に逃げていく。

中には土下座をして謝る奴までいるので。何かよく分からない。

髪も切ってしまおうかと何度か考えたが。

結局止めた。

まとめておけば、邪魔にはならないからと判断した故である。

「看板はいりません。 単純に色々試したいのです」

「面白いお嬢さんだ」

中年の道場主は、しっかりした佇まいで。精神修養をしっかりしているのがよく分かった。

必ずしもスポーツは精神修養とは結びつかないが。

少なくとも、精神力を鍛えることにはつながる。ただそれは、必ずしもスポーツで無ければいけないわけではない。

精神力を鍛えて。

それが精神修養につながるケースもある。

この人の場合。

そうなのだろう。

私は模造刀を持ち込んだが。

流石に今は古流でも竹刀が当たり前だ。

他流試合でもそれは同じ。

立ち会いには、相手の弟子を。

向かい合って礼。

それから、踏み込んで。

居合い一閃。

集中力や、身体能力の問題じゃあない。

さやがないと基本居合いはできないのだけれども。

私はそれを、最初指で押さえる、という形で克服している。似たようなやり方をする流派も、希にある。

いろんな本を読んで。

いろんな流派を調べた。

他流をやってきた此処の道場主も、この速度には流石に対応出来なかったのだろう。模造刀でも、多分真っ二つになっていた筈だ。

愕然とする道場主。

遅れて、胴一本の声が上がる。

「まだ良いですか」

「……良かろう」

此方が尋常では無いと悟ったからだろう。

道場主も、本気になったようだった。道場主自身が竹刀を手に取り、相手になってくれる。

それでいい。

そうでなければ、色々試せない。

というか、最初から本気で来て欲しかったのだけれど、それはもう良い。

さて、ここからが本番だ。

一時間ほど、散々色々な技を試す。実際に使って見ると、初見しか通用しないものや、初見でも通用しないもの。逆に、分かっていてもどうにもならない技も、色々と存在していた。

歩法についても同じ。

相手を幻惑するような歩法も、そもそも実戦で使って見るとまるで駄目なものも結構ある。

こういうのは、古流と言っても、平和な時代を経る内にどうしても弱体化してしまうのだろう。ものによっては実戦の中で産み出されただろうに。そればかりは、仕方が無いのかも知れない。

結論としては。

やっぱりそこそこ使える相手とやってみるのが一番だった。

充分に満足して、礼。

私の一方的な勝ちだったわけでは無く。

道場主にも、何本か取られた。

別にそれで良い。

私は単純に。

身につけたものが使えるか、それを試してみたかっただけなのだから。

「何処の道場で、それだけ多彩な技を身につけたのだ」

「独学で」

「独学。 それで流派の色が見えないと思ったが……」

「今日は有難うございました。 何が使えて何が使えないか、貴方くらいの使い手が相手なら、よく分かりました」

心の底から感謝して、頭を下げる。

だが、待てと言われた。

相手は心なしか。

青ざめているような気がした。

「もしも今日、貴方がそこの模造刀を使っていたら、俺が真剣を使っていても勝ち目は無かっただろう。 その力は過剰だ。 一体何に使うつもりなのか。 場合によっては、差し違えてでも、此処で貴方を抑えなければならない」

弟子達も青ざめる。

今の立ち会いを見ていて。

もしも私が模造刀を持ち出した場合。

此処にいる二十人ほどの、半数以上が死ぬ。

そう判断したのだろう。

別にどうでも良い。

私も、本当のことを話すつもりは無い。三ヶ月程度で此処まで上達したことや。後ろから常に誰かが見ている事など、話したところで意味がないからだ。

信用されるわけもないし。

それに実のところ、体力がないので、かなり疲れた。

「貴方には話す必要のないことです」

「その技は凶刃になる。 もしも人に対して振るえば、十人単位で人が容易に死ぬ事になるだろう。 警察が発砲を考えるまでに、どれだけの血が流れることか」

「私が犯罪を犯すことを前提に考えているんですか」

「貴方の目は人殺しの目だ」

随分とまあ。

いつも言われるが。

しらける言葉だ。

鼻を鳴らす。

別に大量殺人をする意図はないことだけは伝えると、私は。模造刀を手にして、早々に道場を後にする。

今やった事は、全て頭の中に叩き込んだ。

次に、また別の有名な道場に出向いて。

同じようにして、試してみるとしよう。

 

数日掛けて、関東の有名どころの道場には大体足を運んだ。他流試合を受け付けてくれない所もあったし。

道場破りと聞いて凄く困った顔をされる所もあった。

道場主が大まじめに対応してくれる所もあったし。

弟子を全員ぶちのめすうちに、道場主が青ざめて、逃げ腰になってしまう場所もあった。何だか知らないが、私は三ヶ月で。

真面目に剣術をやっている人間よりも、強くなっていたらしかった。

計画的に体を鍛えてはいたが。

此処までおそれられる程になっていたのはちょっとばかり想定外である。まあ別に何も困らないので、それで構わないが。

いずれにしても、である。

立ち会った相手は、それなりに剣術で鍛えて。

上流階級の相手に、たしなみとして剣術を教えて、それで喰っている相手だろうに。

特に最初の相手で大体使える技と使えない技を試しきった後は、殆どが消化試合になった。

最後に足を運んだ道場主からは。

一本も取られなかった。

実のところ、一番この道場主が手応えがあったのだけれど。

それでも、である。

「有難うございました」

頭を下げて、道場を出て行く。

相手が項垂れているのが分かった。

何となく察したのかも知れない。

私が短期間で此処まで腕を上げて。

自分を追い抜いたことを。

別に私には、興味の無いことだ。私の興味は、後ろでずっと距離を保って、私を見ている奴。

そいつを如何にして斬るか。

それだけである。

家に戻る。

道場で手練れとやりあって分かった。

相手はかなり細かく一定距離を保ったまま、私の背中を見ているが。瞬発的に動くタイプの歩法を試した場合は、ついてこれていない。

距離も保ちきれていない。

つまり、である。

何か見えないものが五メートル後ろにいて。壁も何も関係無く私を見ているとしても、である。

手持ちの札を組み合わせれば。

必殺の間合いに届く。

家に着いた後、まずは模造刀を磨く。

刃物にはしない。

その間、パソコンをつけて、トレーニングのスケジュールを確認。SNSを確認していたら。どうやら謎の女が、各地の道場を片っ端から道場破りしているらしい、という噂が書き込まれていた。

この21世紀に道場破り、とか嗤う声もあったが。

実際にその動画が撮られていた。

流石に私の目は隠されていたが。

相手がコテンパンにされていく様子がしっかり撮られていて。その動画は、凄まじい勢いで拡散されていた。

同時に情報の性質も変わった。

「これ、女の方化け物だぞ。 この道場主知ってるけど、マジで無双ゲーに出られそうな奴なんだが。 剣だけじゃ無くて体術も出来るし、他にも色々武芸極めてる筈の奴が、こうも一方的に……」

「手玉に取ってるじゃねーか。 この居合いっぽい技、鞘無しで出してるけど、速すぎてみえねーよ」

「相手の動きを完璧に把握して一方的にフクロにしてるな。 道場主、看板いらないって言われたらしいけど、看板取られたら取り返す方法おもいつかねーわ」

「この女、ヤクザの事務所にカチコミしても無傷で出てくるぞ多分。 止めるつもりなら自衛隊がいるな」

何だか凄い言われようだが。

私は色々大まじめに研究して。

体を計画的に鍛えただけだ。

それに体力もあまり無いから、戦える範囲で戦っただけに過ぎない。

何より、である。

私が斬ろうとしているのは、ずっとずっと私を五メートル後ろから見続けていた何か得体がしれない奴。

此奴らじゃあない。

大学に出る。

最近は、鞄に模造刀を入れるのが普通になっていた。

それを見て、さっと生徒達が散る。

最近では、私を見ただけで、授業から人がいなくなる、という話もあった。或いは、教室の後ろの方に皆固まるか。

何だよく分からん。

私が此奴らに。

何かしたとでもいうのか。

黙々と面白くも無い授業を終えると、家に帰る。

そして予定通りに体を鍛えた。

後一週間ほど。

それで、予定の身体能力に達する。

既に手札は揃っている。

一週間で。

この狂った視線の主とは、おさらばだ。

 

4、つかまえた

 

別に、刃物がついていなくても。

日本刀は充分な殺傷力を持つ。

前にも検証したことだ。

充分に模造刀を手入れした後、家を出ようとするが。その時、目の下に隈を作った兄が、声を掛けてきた。

起きている兄と会話をするのは久しぶりだ。

「琴美、どこに行くんだ」

「別に……」

「前のお前とは別人みたいな格好だな」

「兄貴はそれより大丈夫。 死人みたいな顔色だけれど」

会社を代わることにした、と兄は言う。

どうやら健康診断で、体中病巣だらけだと言う事がわかったらしい。それでいながら、会社は「自己管理がなっていない」「ビジネスコミュニケーション能力が足りないからそうなる」「兄が全て悪い」という結論を出し。役員室で、二時間以上も罵倒を浴びせられたそうだ。

それでついに。

兄も堪忍袋の緒が切れた。

退職届を出して、家に。

その後は、ハローワークに通って、この間ついに新しい仕事場を見つけたらしいのだが。

どうせ次も似たような仕事状況に決まっている。

死人そのものの笑みを浮かべる兄。

「次の会社に出社するまで、ちょっとだけ家で休むよ。 お前は、どっかに遊びに行くのか?」

「いや、決着を付けに行く」

「そうか」

「……」

兄が家にいたことにさえ気付かなかった。

それくらい、兄は気配がなかった。

そうか、そうだったのか。

まあ気持ちは分かる。

今の時代、自己責任論があまりにも無責任に横行しすぎている。兄のように真面目な人間は、真っ先にその餌食だ。

ひとたまりも無く食い荒らされ。

そしてその先に待っているのは、死だ。

人材は使い捨てが当たり前の時代。

やがてどこにも人材はいなくなっていく。

当然の話だ。

次の会社でも、兄は消耗品として使われるだろう。

私は、何もできない。

次は私が。

同じような目にあう番だからだ。

社会そのものを変えるしか無いか。

もしくは死ぬか。

二択しかないこの世の中では、もはやどうにもできない。社会を変える場合には、おそらく全世界を変えなければならない。

どうにもできない。普通の人間には、それこそ、出来る事なんて、一つも無いのだ。

兄は知らない。

私が見られていることを。

しばらく、黙々と歩く。

今日は大学の授業も無い。

歩いて向かった先は、何も無い空き地。

昔だったら土管が積まれて、子供が野球をやっていたような場所。今はもう殆ど無い、荒れた土地。

此処を選んだのは。

遮蔽物が無いからだ。

遮蔽物がないと言う事は。

五メートル後ろから私を見ている奴も。隠れることが出来ない。見えようと見えまいと同じだ。

では、やるか。

模造刀を手にすると、荷物を放り捨てる。

足下を確認。

先ほどから足下については、嫌と言うほど調べてある。雑草の生え具合についても、である。

これは失敗しないように、足下をしっかり味方につけておく必要があるからだ。

邪魔にならないよう、髪は束ねてある。

ようやく此奴ともおさらば。

これが通じないようだったら。

別の手段を探す。

刀で駄目なら爆弾でもいいか。

今時爆弾の作り方なんて、ネットで簡単に調べられる。

爆弾で駄目だったら。

液体窒素か何かで凍らせてやる。

目に見えなくても。

殺す方法はいくらでもある。

そういうものだ。

腰を落とす。

模造刀に手を掛け、鯉口を切る。

今回は鞘有りの居合いだ。それも、歩法を駆使して、背後、五メートルという距離を瞬間的に蹂躙する。

間合いを潰し。

斬る。

そして相手の動きは既に分かっている。

動ける速度も。

要は初速だ。更に初速の時の慣性。

電車なども、初速はそれほど速いわけでは無い。だが、ある程度スピードがつくとついてくる事が出来る。だからついてこられた。飛行機などの時は、多分一緒に乗り込んできていた。

いずれにしても、視線の主は。

動くときに何か慣性的なものが働いている。

初動が遅いのだ。此方に一瞬遅れてついてくる。

其処をつく。

これについては、剣術の達人で実験をしながら、色々と試して確認したので、問題ない。

そして視線の主は。

何が起きようと、まったく関係無く、後ろからついてきている。

ならば。

この今も。

実際問題、今もいつもの距離で、此方を見ている。此方が隙を見せるその瞬間を待つかのように。

だが残念だったな。

貴様はこれで終わりだ。

終わりで無くても、絶対に殺してやる。

私を散々視姦した罪は、その体で償って貰う。

視線の位置は、高さ1.5メートル。

これについても、適当に捕まえた大学の後輩で、散々実験して調べた。名前も知らない後輩は、震えあがっていて、死にそうな顔色をしていて。実験が終わったら、脱兎のごとく逃げていった。

それはどうでもいいが。

私は実験の結果、視線の元の高さまで割り出せるようになっている。

今はそれで良い。

ぎり、と踏み込む。

瞬発の白筋に特化して鍛えて来たけれど。

同時に計画的に鍛えて来た結果、赤筋もそれなりに強くなっている。つまり持久力もついた、ということだ。

風呂の時も。

トイレの時も。

私をじっと見ていた奴に、仕置きをさせて貰う。

そのために、私は。

ついに一念発起した。

結婚については考えていないし、彼氏もいないけれど。

それでも相手と寝ているところまで此奴に見られ続けるかと思うと、おぞましくてそれどころじゃない。

人生を縛り付けてきたこいつへの。

報復の時だ。

そういえば、いつだったか、だるまさんが転んだがどうのと聞いた気がするが。それも此処まで。

そんなもの。

ルールからして壊してやる。

体を低く落とし。

そして、軽く右側にすり足で体の向きを変える。

視線の主が、慣性をつけて、ゆっくり動き出した瞬間。

私は、本命の動作に入った。

全力で、左旋回。

文字通り、飛び込むようにして、左側に廻りつつ。

三メートルほど飛ぶ。

一瞬だけなら。

人間の限界速度を超えたはずだ。

更に言うならば。

今の慣性をつけて動いた視線の主の、懐に。

今私は完全に飛び込んだ。

そして、万が一を外さないためにも。

相手の視線そのものの元へ。

横薙ぎの一撃を叩き込む。

踏み込み。

居合い一閃。

バンと凄い音がしたのは、空気を抉る刀身が立てたからだ。

私の手と、刀のリーチ。

あわせて二メートル弱。

それが、見事に。

慣性をつけて動き始めていたが故に、身動きできずにいた視線の主のいる空間を、両断していた。

全能力を動員した一撃。

例え剣豪だろうと今の一撃は避けられなかったはずだ。

更に、もう一撃、袈裟にとどめの一刀を叩き込む。

初見殺しの必殺。

これのために。

今、実戦から派生した古流を教えている道場に、殴り込みに散々行ったのである。そして使えると判断できた技だけを抽出し、我流で磨き抜いた。

振り抜いた手が、心地よい。

何かに、確かに手応えがあった。

どこかから、聞こえた。

「だるまさんが、ころんだ」

「捕まえたぞ、だるま……!」

「鬼が捕まえて、どうするんだ、よ……」

何を斬ったのかは分からない。

だけれども。

私の模造刀は。

あの速度で振るったのなら、間違いなく本物の日本刀と同等の切れ味を出していた筈だ。頭だろうがスイカだろうが真っ二つである。

いずれにしても、声が聞こえなくなると同時に。

視線は、消えた。

しばし、そのままの姿勢で動きを止める。

何だこの感覚は。

素晴らしい開放感ではないか。

やっとだ。

やっと、じっと私を見ている、不埒な視線から解放された。

風呂を覗かれて、キャーキャーいう漫画の女子じゃあるまいし。覗かれるという行為には、不快感しか無い。

羞恥では無い。

不快感だ。

それが今後は無くなる。

トイレや、他もそう。

この視線のせいで、私はずっと生活を陵辱され続けていた。

何の未来も無いと思っている私だが。

この視線は、未来どころか現在さえも奪い取っていたのだ。

それを破った今。

私には、もはや怖いものはない。

ゆっくりと、模造刀を鞘に収める。

そして残心。

呼吸を整えると。

すっくと、立ち上がった。居合いを振り抜いた状態から、直立不動へと。

通行人が此方を見ていた。

愕然としていた様子だ。

何をしていたのだろうと、思ったのだろうか。だが私が視線を向けると、悲鳴を上げて、転がるように逃げていった。

殺し屋の視線、か。

まあどうでもいい。

私は、ずっと背中から私を見ていた何者かに。

勝ったのだ。

自分の手で。

 

その日の風呂は、本当に気持ちが良かった。

何しろ、誰にも見られていないのである。普段はカラスの行水で済ませてしまうのだが(見られていて気持ちが悪いし)、その日に限っては丁寧に体を洗った後、ゆっくり湯船に浸かって、疲れを落とした。

実はこの後も、体を鍛えようと思っている。

本物の日本刀も買おうと考えていた。

仕事についても、少し真面目に考えている。

別に稼げる仕事で無くてもいい。

時間が得られる仕事だったらそれで良いし。

何よりこの国にいなくても良い。

別の国で稼げる仕事に何があるのかはよく分からないけれど。それでも、必要なのは。少なくとも、今兄がやらされているような、毎日命を削りながら、訳が分からないほど安い給料を渡されて、使い潰したら捨てられるような仕事じゃあない。

少なくとも、納得できる仕事がしたい。

例えその先に死が待っている、としてもだ。

いずれにしても、体は鍛えるし。

この武術についても、もっと磨いていこう。

初見殺しだけじゃなくて。

多数に囲まれたときも、対応出来るようにして行くべきだと、私は考える。それが一番いいだろうから、だ。

だって、あの視線がまた現れて。

それが一つではなかった場合。

対応出来るのか。

複数の視線が現れた場合。

今度は真剣。

それも、名前がある人間が打ったような、人斬り包丁が良い。そういったもので、一切合切を両断してやらなければならないだろう。

風呂から上がると、髪を乾かしながら、まずは刀の取得免許について、考える。

結構面倒な審査が必要になるが。

更に、その後だ。

いっそのこと、道場でもはじめて見るか。

私は三ヶ月で、本職を凌ぐ実力を得た。

或いはそっちで行けるかも知れない。

だが、考えてみると。

多分私の教え方では、誰もついてこられないかもしれない。

私が自分に課していたトレーニングメニューは非常に過酷だったし。成長速度も尋常ではなかったからだ。

私は運動音痴だったが。

それも三ヶ月で克服している。

基礎体力がなかったのにも関わらず、である。

多分それは、誰にも真似できない事だろう。

そうなると、教える方はだめか。

ならば実践する方。

殺し屋、という言葉が浮かぶ。

それはつまるところ。

散々私を遠ざけてきた連中が言っていた、殺し屋の目、と言う奴だ。いっそのこと、本当にしてしまうのも良いだろう。

そうなると、飛び道具も使えるようにした方が良いか。

屋内戦を主体とするとして。

銃器も扱えるようになっておけば、やれることの幅が拡がる。

投げナイフはもっと簡単に扱えるだろう。

日本では需要が無いかも知れないが。

海外だったら、或いは。

いずれにしても、私は。

後ろにずっといた、人ならぬ者を消し去った。

それで、大きく自信を身につけていた。

これならば、きっと。

何もかもを無為にして来たあの視線を消し去ったように。私の邪魔をする全てを、無に帰す事も可能なはずだ。

くつくつと、笑いが漏れ。

やがてそれは爆笑へと代わった。

なんだ。

現在を取り戻したら、未来も手に入ったではないか。

いっそのこと、この国のブラック企業の社長を片っ端から殺して廻るか。社長だけじゃ駄目だな。幹部もみんな消して廻ろう。

どうせ社会を悪化されるだけのゴミだ。

殺したところで何の問題もない。

むしろブラック企業をやっていたから死んだ、という事が分かるようにすれば。恐怖でそんな事はやれなくなる。

司法は裁かない。

警察も捕まえない。

ならば、私がやってしまおう。

そうだな、だるまさんが転んだ、という風な書き置きでも残すか。

今なら、私は。

軽武装の警備員がいる程度の家屋だったら。

一瞬で蹂躙できるし。

逃走も、難しくない。

ブラック企業の社長が稼いだ金なんて、どのみち使い路など無いだろう。こき使われていた社員に、郵便書留か何かで送りつけてやるか。

順番に、これからやるべき事が、頭の中に。

枷が外れたかのように浮かんでくる。

どれをやろうかなあ。

私の思考も。

完全に枷が外れた。

私の背後から見ている視線。

それが無くなった今。

私を縛るものなど、何一つない。

 

5、斬る

 

呆然と立ち尽くす子供。

それ以外の人間は、全部血と臓物の海に沈んでいた。金庫については、真っ二つに切って。中に入っていた証券類は、全て運び出した。

子供を殺す気は無い。

私の事など、恐怖で思い出せないからだ。

それに、この子供は、生真面目に働いていた人間達から、搾取した金で育てられたのである。

これから地獄を見るのは、当然だろう。そう私は考えていた。

或いはその考えは間違っているのかも知れないが。

この子供自身に手を出すつもりは無いし。

何よりこの一家が使い殺してきた人間の数。それに奪い取ってきた未来と富の量。それを考えると。

誰かが地獄を見なければならない。

今回は、それがこの子供だった、というだけだ。

下調べは充分。

この家は、国内大手企業の会長一家。

会長は家に愛人を毎日連れ込んでいて。強力なセキュリティと、ボディーガード数人を常に連れていたが。

この国のガバガバセキュリティなんて、無効化は難しくない。

まずは家の外からハッキングして、完全に書き換えた後。

家の敷地に堂々と乗り込み。

外にいたドーベルマンを、音もなく皆殺しにすると。

窓硝子を外側から専用の道具で円形に斬り。

開けて中に侵入。

ボディーガードを全員(永遠に)眠らせた後。

愛人と楽しんでいた会長を、愛人ごと一刀両断。わざと苦しみが長引くように、動脈が収縮するよう一瞬で真っ二つにした。

声も出せず、数分苦しみ抜いて死ぬのを、冷め切った目で見下ろす。

70過ぎだというのによくやるものだ。

更に、その家族も、子供一人を除いて皆殺しにすると。

今、金を全て回収した。

金庫には有価証券も帳簿も入っていた。

これも全部換金した後。

この会社の社員に、搾取された分は給金として振り込んでやるつもりだ。私自身は、此奴の私財を必要分貰うが。残りは同じように処置する。

まあ貰った分の私財は、その内海外に豪邸でも建てるために使う。それくらいは良いだろう。

壁には、血を使って書き残す。

この者、社員の血を啜って金を蓄え、自分だけおぞましき悦楽の限りを尽くす。

法はブラック労働で死者が出ているにもかかわらずこの者を裁かず。

警察もこの者を捕らえなかった。

故に天誅を下す。

それだけである。

既に、似たような感じで、八十人ほど殺したが。現場に証拠など残していない。鼻を鳴らすと、部下に使っている連中に、物資を運び出させ終え。

そして、撤収しようとしたが。

その時。

子供が、私のスパッツを掴んだ。

私の太ももは、返り血で真っ赤だが。

怖くないのだろうか。

「待って」

「何だ。 死にたいのか」

「私、その人の子供じゃ無い」

はて。

家族構成は調べてあるが。

養子縁組だとかで、八歳の子供がいたはずで、顔も一致しているはずだが。

だが子供は言う。

「毎日ベッドで、裸にされて、何だか痛い事されてた。 児相とかいうのにも連絡してたけれど、誰も何もしてくれなかった」

「!」

ほう。

そういうことか。

金持ちの中には、養子縁組制度を利用して、そういう事をする輩もいるとは聞いていたけれど。

此奴もそうか。

養子縁組制度は、此奴みたいな悪用する奴が絶えないから、色々と手を入れられているらしいと聞いていたが。

それも金さえ握らせればどうにでもなる、ということだろう。

しかも年齢一桁の子供に。

なるほど、なるほど。

斬って正解だったな。生かしておく価値など此奴には無い。此奴を守り続けた法とは一体何だったのか。

壁に更に書き残す。

この者、幼き養子に対して性的暴行を連日加えた上、連絡を受けた児相も無視し、警察も動かず。

この怠慢、許しがたし。

なお、子供が嘘をついている可能性については、私は考えていない。

というか、嘘をついていたら分かる。

「では、連れて行ってやろう」

「……うん」

あまり綺麗な格好では無いし。

鬱屈した目をした子供は、頷く。

周囲の部下達は、全員元ブラック企業にいた者達。心身ともに使い潰されてきた過去を持つ者達だ。

我々は、仕事を実行後。

現場について、全てを動画サイトにアップしている。

その様子を見て、今社会は騒然としている。

警察は躍起になって此方を追っているが。

そもそもブラック企業の味方をして、現在進行形で使い潰されている人間を放置している司法に疑問の声を持つ社会の風当たりも強く。

更に此方が証拠一つ残さないこともあって。

警察は手に負えないと判断している様子だ。

いずれにしても。

警察が厳重に警備している中、とっととハイエースで移動。

車は毎回変えている。

「私財」は山ほどあるのだし。

別に困る事も無い。

なお、裏帳簿などをつけていた場合も、全てネット上に公開している。

この間取締役を皆殺しにした会社では。

その裏帳簿の内容が大炎上し。

一日で株価がゴミクズと化した。

「アジト21へ移動」

「了解」

手下達は私が徹底的に鍛えている。電子戦が出来る奴も、情報調達をしてくる奴も、みんなブラック企業に恨みがある人間だ。

だからモチベが違う。

私が一刀両断に皆殺しにして行くのをみて、心酔もしている。

もっとも、裏切るようなら斬るだけだが。

子供は異常に寡黙だ。

子供らしいはつらつさが皆無。

昔の私のようである。

それよりも、だ。

この子供、ひょっとして。

まあいい。

アジトについてから考えれば良い。これから更に、二十社ほどのブラック企業経営者を殺戮する。

予定は淡々と実行していく。

警察に嗅ぎつけられたら、その時は強行突破するだけだ。

部下達も、捕まったときは死刑になる覚悟はしている。

というか。

そもそも、会社に殺される所だったのだ。

全員が死刑など怖れていない。

むしろ捕まったら、死刑になるまでゆっくり自由にできると、全員が口を揃えている程である。

「日本での仕事が終わったら、今後は海外で同じ事をする」

そう、部下にも告げてある。

今の時代、世界の富の99%を、1%の人間が独占しているという異常な状態だ。この状態は長くは続かない。

世界が壊れる。

いずれにしても、私は間近でブラック企業の弊害を見ているし。

それを引き起こしている連中を生かしておくつもりもない。

せっかく才能があるのだから。

使わない理由は無い。

更に言えば。

私は斬るのが楽しくて仕方が無い。

一瞬で苦しまないように殺す事も。

長く苦しんで死ぬようにすることも。

今は自在だ。

警官隊に包囲されても、全部なで切りにする自信もある。まあキャリアは兎も角、末端は無能じゃ無いこの国の警察だ。

いずれ嗅ぎつけてくるだろうが。

その時はその時。

斬るだけだ。

アジトに到着。

子供の体を調べるが、やはりかなり酷い暴行の跡があった。病院にも連れて行かれなかっただろう。

これは酷い話だ。

しかも、恐らく海外から買ってきたのだろう。肌の色などから見て、恐らくはタイか。

まだ田舎では人間が簡単に買えると聞いているが。

部下の一人に、風呂に入れてやるように言うと。

自分は部屋に籠もる。

部屋で一人になると、正座を組んで、目を閉じ。じっと精神を集中する。

誰ももう見ていない。

視線は感じない。

それでいい。

体を洗う時も、今は武器を手放さない。

だが、それを私は後悔していない。

私はあの視線の主を斬ったとき。

恐らくこの世の理から外れた。

それでよかったのだ。

もはや、この世界に。何ら未練はなかったのだから。

 

(終)