江夏の憤怒

 

序、黄祖

 

漢王朝が乱れに乱れていた、初平三年のこと。江夏城の木の上で、惰眠を貪っていた私の耳に、とても機嫌が悪そうな声が飛び込んできたのでした。このだみ声は、嫌と言うほど聞き覚えがあります。この城の主に最近就任した、黄祖将軍です。

将軍はここのところ、極めて不機嫌です。専属の教師から、息子さんの頭が極めてよろしくないことを聞かされた事もあるのですが、他にも色々と理由があるようです。細作(しのび)である私の知ったことではありませんが、多分襄陽にいる蔡瑁将軍と上手くいっていないことが大きいのでしょう。ここのところ、口を開けば彼の悪口ばかり言っているようですから。

とにかく、政務のことは、私には関係がありません。欠伸をして、もう一眠りしようとしましたが。そうはさせてくれないようです。

「林! 林はおらぬか!」

私の名前が呼ばれました。将軍つきの細作である以上、さっさと出向かなければなりません。面倒なことです。

ひょいと枝から下りて着地。女官の格好は崩していません。

此処はお城の、しかも政庁の中ですから、地面は埃一つ無く掃き清められています。白い壁と、適度に配置された木の組み合わせが美しい、とても良く掃除された場所です。周囲に兵がいないことを確認すると、さっさと塀を乗り越えて、物陰に隠れながら最短距離で黄祖将軍の元へ。この城の兵士くらいの練度なら、気づかれません。

いました。黄祖将軍です。既にお年は四十を超えていて、たっぷりとお腹が出ています。顔も脂ぎっていて、髭だらけです。ちなみにこういうお姿を、美しいと言うのです。将軍なので、鎧を着ていますが、脂肪で留め金が外れそうな所がより「美しい」将軍なのでした。

茂みの中から、声を掛けます。気づいてはいるとは思うのですが、これが細作のやり方です。

「お呼びでしょうか、黄将軍」

「何処で怠けておったか、こののろまめが!」

「申し訳ございません。 それで、何用でございましょう」

「長沙の孫堅が、この荊州に攻めてくる計画を建てていると報告があった!」

知っています。だって、それを探ってきたのは、この私なのですから。現在、私は荊州を統治している劉表様の指示で黄祖将軍の配下になっています。そういう事情もあるのか、或いは元から面倒くさがり屋さんなのか、部下の具体的な役割は、あまり把握されていないようです。

さすがは黄祖将軍。部下達から、がさつ将軍とあだ名を付けられるだけのことはあります。歴戦の勇者らしい、貫禄のあるあだ名です。私は深々と頭を下げながら、恐れ入って答えるのでした。

「はい」

「情報を集めて参れ! このままでは、勝てる戦いも勝てなくなる!」

二重の意味で、変な命令です。

まず、孫堅将軍の保有戦力、主要な旗本などの情報は、既に黄祖将軍に手渡しています。継戦能力の期限や、具体的な戦闘能力も、其処から割り出せるはずです。更に言えば、劉表将軍からは、防衛戦の具体的な指示も来ているはず。私でさえ知っていることですから、黄祖将軍が理解していないとは思えません。

がさつ将軍などと言われても、この人は指揮能力でも実戦経験でも充分に円熟していて、不足がないから重要拠点の江夏を任されているのです。事実、黄巾賊が相手の戦いでも、黄祖将軍が遅れを取ったことはありません。

「いいか、今あるものよりもっと詳細な情報を集めてくるのだ! 分かったな!」

「分かりました」

反論しても、寿命が縮むだけです。黄巾の乱を生き抜いてきた生粋の武人である黄祖将軍は、多少がさつではあっても、剣の腕もしっかりしていて、とても勘も鋭いのです。下手な受け答えをすれば、すぐに首が飛んでしまうのです。

細作とは面倒な仕事で、日頃から鍛えなくてはいけないし、陽の下には出られません。物陰を伝って、城の外に出ます。内部の城をすっぽり覆う煉瓦の城壁の外には街が広がっていて、更にその外には外壁があるのです。この街は、前線要塞と言うこともあって、外壁の外には更にもう一枚外壁があって、堀も引かれています。焼け野原になってしまった洛陽では更に頑強な防衛施設があったと聞いていますが、生憎私は見たことがありません。

一応、いざというときに備えて女官の格好をしているので、確保してある拠点の一つである廃屋に潜り込んで、さっさと着替えます。細作が黒装束に鎖帷子などと言うのは、どっかの世界の創作です。普段は、一般人と変わりない姿をするものなのです。

さっさと町娘の姿に着替えた私は、大通りに出ます。自分で言うのも何ですが、私は何処にでもいるような顔をしているので、目立ちません。そしてちみっこいので、男性の視線も買いません。行き交う人々は、流石に荊州だけあって多いのですが、皆不安そうな顔をしています。漢王朝を壊滅に追い込んだ黄巾の乱と、生じた統治能力の低下による大戦乱から逃げてきた人たちの吹きだまりである、此処荊州。誰もが戦の恐怖に怯えるのは、仕方がないのかも知れません。

彼らを吸収することで、この荊州はとても大きく、豊かになりました。しかし同時に、戦いを忌む気持ちも、上下構わず浸透しつつあります。それは立派な考えですが、乱世では却って足かせになる事を、私は知っています。

質素な町娘の格好をして、大通りを歩いているうちに、後ろに気配。部下のものです。何人かがすぐに集まってきたので、一緒に歩いていると悟られないように距離を取りながら、城外に。

城の外では、早くも農民達が避難を始めていました。もう情報が伝わり始めているようです。荒れた畑と、整備されていない街道。草は伸び放題で、折角敷いた石畳も台無しです。この豊かな荊州でもこの有様だと言うことが、この国の状況をよく示しています。街道に幾つか置かれている屯所の中には、殺気だった兵士が詰めているのが見えました。

城外に出てからは、街道を外れて、山の中を走ります。三回、つけている者がいないか確認しました。まだまだ修行中の身ですが、何とか大丈夫ではありました。この辺りは、長江のほとりと言うこともあって、山にも木々が豊富です。身を隠すには、うってつけの場所なのです。

周囲に浮かび上がる、複数の気配。父から受け継いだ部下達です。私のような鼻垂れの小娘が、自力で細作の組織など立ち上げられる訳がありません。

ある者は、肉屋の気が良い店主です。ある者は、子持ちのおばちゃんです。ある者は、気が弱い商人です。またある者は、一家で手妻(手品)をして暮らしている流れ者です。いずれも、私の部下達です。彼らは何処にでもいて、どこからでも現れるのです。特徴のない顔をしていて、気配を消す術も心得ています。

それが、細作というものです。戦うことではなく、探り出すことが仕事なのです。

「頭、お呼びでしょうか」

「黄祖将軍のご命令だ。 もっと詳しく、長沙を探るようにとの事だ」

これは公式の会合なので、もちろん私はよそ行きの言葉遣いを使います。そうしないと、部下達に舐められてしまうのです。これは仲間ごっこではなく、人の命をモノのように扱う仕事なのです。

「これは異な事を。 必要な情報は、あらかた渡しているはずですが」

「そのはずなのだが、黄祖将軍は、どうも満足為されていないようだ。 そこで、此方としては、重点的にあるものを探る」

部下達が、顔を見合わせる。不満と不安が、ありありと顔に表れています。彼らは誇り高い細作ですから、命がけで得てきた情報がいい加減だと言われて、頭に来ない訳がありません。それに、黄祖将軍の命令は、何とも理不尽に思えます。

何よりも、私がどんな命令を出すのか、全く見当が着かないのが、不安なのでありましょう。

「今回の戦だが、劉表様の動きから言って、孫堅の首を取るおつもりだろう」

「あの、孫堅将軍の、御首をですか!?」

「そこで我々は、孫堅の居場所を特定する。 場合によっては、我らでその首を上げることを考る。 無理そうならば、黄祖将軍に情報を飛ばして、恩を売っておく。」

さらりと私が言ったので、部下達は皆唖然としたのでした。

私は平凡な人間です。身体能力は鍛えることで高めました。でも、それでは細作としては大成できません。こんな乱世だから、私も出世はしたいのです。天下を取りたいのです。

だから、私は書物を読みました。必死に取り組んだせいか、多くの軍学が、私の頭の中に入っています。

劉表様の作戦を読むことが出来たのも、その修行が故です。今はまだ、群雄合いはむこの時代。必ずや成り上がってやろうと、私は思っています。不遜だと、思う人もいるでしょう。しかし、昔反乱を起こしたある農民が言ったものです。

王侯将相いずくんぞ種あらんや。

その農民は失敗しました。でも、私は失敗しません。今回孫堅の首を取ることで、必ずや出世の糸口を掴んで見せましょう。

「それでは、散れ」

手を横に振ると、部下達はさっといなくなりました。さて、自身はどうするか。しばし考えた後。私は乱の原因である、名門袁家の一人。南陽に本拠を構える、袁術将軍の元へ出向くことにしたのでした。

 

1,この国の大乱

 

南陽、寿春。この国を主に三分する大勢力の一つ、袁術将軍の本拠地となっている場所です。三方を大河に囲まれ、水運の便が開けた要所です。旅人は大体、長江から支流に入り、船で訪れることになります。私もその一人なのです。

黄巾の乱から続き、皇帝の崩御、宦官の専横、そして暴臣董卓による蹂躙。その結果の、首都洛陽焼失。欲望によって結びついた、諸侯による董卓討伐軍の自壊。様々な大事件に起因する大乱世のまっただ中にあるこの漢王朝ですが、それを代表しているような場所です。とにかくあらゆる雑多な勢力の人間が集まり、情報を交換し合っています。腐敗した漢王朝のありがたい気風がもっとも強く残っている勢力で、役人に賄賂さえ渡せば何でも出来てしまう所なのです。私も面倒くさいので、賄賂を使って官職を一つ買っています。

寿春の街の中も、水路が縦横に走っています。豊かな街ですが、別に袁術将軍が築き上げた訳ではありません。私と同じく、親の七光りです。財産も、人材も、そして地盤も。当の袁術将軍はあまり良い噂は聞きません。ますます乱世が加速していくのは確実だと思われる現在、此処に骨を埋めようと思っている人は殆どいやしません。

妾腹ながら有能なことで知られる、袁術将軍の兄である袁紹将軍や、悪行で知られながらも日の出の勢いである董卓将軍の所へ行く人が多いようで、私も何度か斡旋を頼まれたものです。

ただでさえ治安が悪い昨今です。油断すると、子供のような姿をしている私は、すぐ裏路地に引きずり込まれて死体にされてしまうのです。時々、私を狙っている視線を念入りに確認しながら、目的の場所へ急ぎます。裏路地にはいると、気配を完全に消して、足早に。やがて、場末の酒場の裏にある、小さな店にたどり着きました。

辺りには何かの死臭が漂っていて、粗末な服を着た乞食が転がっています。家の土壁も、どことなく不潔です。死臭に混じっているのは、質が低い酒の臭いでしょう。木戸を三回叩くと、内側から、どすが効いた声がしました。

「白具」

「公孫」

合い言葉を答えると、戸が開きます。禿頭の、如何にも強そうな男が現れて、私を上から下まで品定めしました。あまり好意的な視線ではありません。当然の話で、彼は別に部下でも友好組織の人間でもありません。

「謝々」

笑顔で感謝の言葉を言いますが、完全に無視です。腹立たしい奴です。後で消すことにしました。

奥には、既に数人の目つきが鋭い男女が屯していました。一人は、私と同じように細作の組織をまとめる人物。かなりいい年をした老人で、父と何度か渡り合ったこともある存在です。羊という名前です。彼の左右にいる、私の親くらいの年に見える男女は、同じように別の細作の組織から来ている、幹部です。彼らより格が劣る組織の幹部や長も、何人かいます。私が一番若いのですが、最も小さな組織の長も、かなり若い男です。

形通りの抱拳礼をすると、円卓に着きます。

この国では、昔から情報戦がとても重視されています。かの偉大なる孫子先生も言っておられるとおり、己を知り敵を知れば百戦危うからずや、なのです。そのため、どの時代の英傑も、細作を大事にしてきました。それに答えて、細作も質の向上に、力を注いできたのです。

もちろん、細作にも勝ち組と負け組があります。組織にも、国に雇われている者と、そうではない者がいます。組織は、裏でつながりを持っているのが普通で、今その会合を行っている訳です。なお、落ちぶれた細作の中には、犯罪組織の一員にまで身を落とす者もいます。そういう連中を狩るのも、会合で集まった細作達の仕事になるのです。これは実に楽しい仕事なのですが、あまり同意は得られません。

最年長の羊老人が、ぐっと酒瓶を傾けました。一見飲んだくれの小柄なおじいさんですが、私の倍ほども規模がある、強力な組織を納めています。故に、最初に口を開いたのは、彼でした。

「さっそくじゃが、袁術将軍の今回の侵攻策は、失敗しそうじゃの」

「そうなのか? 相手はあの孫堅ですぞ。 劉表は有能な男ですが、戦の才に関しては、孫堅に及ばぬと思っていたのですが」

私がしゃあしゃあとよそ行きの言葉で答えると、羊老人は鼻を鳴らします。分かりきっていることをと、つぶやいているかのようです。流石に、まだ役者は羊老人の方が上のようなのです。

「俺も林大人に賛成だ。 今回は孫堅が勝つと思うのだが」

「いや、孫堅は負ける。 それも、壊滅的な敗北を被るだろうよ」

羊老人が自信満々に答えるので、別組織の幹部である中年男性は、鼻白んだようでした。彼は、別に私に媚びを売っている訳ではありません。極普通の意見に基づいた発言をしているだけなのです。

現在、この国で最も勇猛で鳴らした将軍と言えば、間違いなく孫堅でしょう。孫子の子孫などと称してはいますが、賊の出身であることは誰もが知っています。荒々しい男で、袁術将軍の麾下として董卓と戦い続け、勝ち続けた荒武者です。やり方は兎に角残虐非道で、劉表様の前任である荊州太守を滅茶苦茶なやり方で殺したのも、記憶に新しい事です。

人格と強さは一致しないと、彼を見ていると思い知らされます。数だけ多くてまとまりがなかった董卓追討軍が、首都洛陽から董卓を追い払うことが出来たのも、彼の活躍があったからなのです。

でも、彼のやり方では、爆発的な勢力拡大には到りません。あくまで袁術将軍という強大な後ろ盾があってこそ、組織を維持することが出来ているのです。

そして、今回の荊州侵攻は。

袁術将軍と、袁紹将軍による、代理戦争に過ぎません。袁紹派の最大勢力の一つである劉表様を、袁術将軍が叩こうとしているに過ぎません。開戦の理由もお粗末な内容で、恫喝同然に兵糧を奪おうとしたところを、はねつけられたからなのです。まさに居直り強盗。心ある者が、袁術将軍のありがたいお膝元から離れていくのも、仕方がないのかも知れませんね。

「ふむ、それで羊大人は、今後は劉表殿が躍進するとお考えか」

「いや、それはないだろう」

「私も同感です。 劉表様はとても保守的なお方で、勢力を豊かにすることが出来ても、拡大することは出来ないでしょう」

劉表様は、黄巾賊討伐で功績を挙げた、八俊と呼ばれる英傑の一人です。混乱状態にあった荊州を短期間でまとめ上げ、地盤を作り上げた政治手腕は卓越したものがあります。しかし、欲がないのが最大の欠点です。兎に角拡大志向がない人で、今の状況に満足しきってしまっています。

「かといって、孫堅も覇を唱える器ではないようじゃしなあ。 あやつはただの戦争屋に過ぎぬ。 袁術の元から独立する野心もあるようじゃが、上手くいっても後ろから刺されてコロリだろうよ」

「そうなると、羊大人は、誰が有望とお考えか」

「今の時点では、やはり袁紹殿かな。 袁紹殿は決断が早く、部下に優れた者も多い」

「……」

確かに、今の時点で、袁紹将軍は天下取りの最有力候補です。しかし、どうも天下の器には不足しているように思えて成りません。黄河以北において圧倒的な勢力を誇る袁紹将軍ですが、今はまだしも、老いてからの判断力に不安が残るように思えてならないのです。

ちなみに私は、情報を集めるのに丁度いいから、襄陽に住み着いているに過ぎません。劉表様は細作をある程度大事にはしてくれていますが、此処にいては出世できないのも明らかなのです。

「林大人は、如何にお考えか」

「有力候補であった劉焉将軍は、漢の高祖皇帝を習って、蜀に逃げ込んだまま出てくる様子もない。 そうなると、中原にいる誰かであろうかな。 しかし、今は頭一つぬきんでた存在がいない。 敢えて有望株を上げるとすれば、曹操か」

中原にて、徐々に人材と力を蓄えつつある風雲児の名を、私は挙げました。風雲児と言っても、既に中年にさしかかってはいます。しかしその活力と生命力。何よりも、圧倒的なまでの能力は、細作の間で噂になってはいました。

今はまだ、袁紹将軍配下の、小さな半独立勢力に過ぎません。私も、劉表様のところである程度見切りを付けたら、そちらに顔を出してみようかなと思っています。もっとも、有能な人間にしか見向きもしないと聞いているので、相手もされないのではないかという不安はあるのですが。

「曹操、ですか。 しかしまだあまりにも脆弱な勢力でありましょう。 群雄の中でも、特に大きな力を持っている訳でもありますまい」

「しかし、林大人の言うことも一理ある。 やり方が厳しすぎるのが難点ではあるが、部下達の忠誠は篤く、特に直属の配下達は命をなげうつことも厭わぬと言うの」

「羊大人も、曹操を高く買っているのですな」

「いや、儂は袁紹の方が今は有望だと思うておる。 何しろ、自力が違うからの」

袁一族の自力は、三大勢力の内二つまでを占めていることでも分かります。漢王朝で高位の官吏を頻出しているのには、それなりの理由があるのです。それから、しばらくは情報のやりとりが続きました。全員が、話を一段落させたところで、持ちかけます。

「ところで、先ほどの話を聞いていて方針を決めた。 今回の荊州攻略戦で、孫堅に死んで貰おうと思っている」

「林大人、それはどうしてだ」

「細作としての実績を上げるためだ。 先ほどの話で上げたとおり、劉表様には未来がない。 だから、今の内に実績を作っておいて、細作全体の未来を作っておく」

「それだけの理由で、あの大器を殺すのか」

細作の中には、孫家を買っている者も多いのです。話に聞くと、孫堅の息子である孫策と、その義兄弟である周瑜は、父をも凌ぐ大器であるというからです。私も遠目で見ましたが、まあ確かにほれぼれするような若武者ではありました。痩せていて筋肉質の孫策はとても強そうでしたし、ぶてっと脂肪がついた周瑜は、とても美しい姿でした。ですが、結局の所、現在の孫家は混乱を加速させるだけの存在に過ぎないのです。

この国は、戦乱の時代になると、悲惨な状態に陥ります。とにかく、内陸部が非常に深いので、食料が足りなくなるのです。大量の流民が食料を求めて移動し、蝗のように何もかもを食い尽くしていくのです。黄巾の乱の一因も、其処にあります。そして、こういった混乱の時代には。民の数は、数分の一にも減ってしまうのです。多少の美しい若者なんぞ、かまっている暇はありません。

一刻も早く、地獄の戦乱は収めなければなりません。心ある武将は、皆そう考えているものです。我ら細作の中には、現実的に出世の好機だと考える勢力と、理想を掲げて統一を目指す者達がいます。ちなみに、私は前者ですが、後者を装っているのです。

「なるほど。 しかし、林大人。 直接手を下すには、孫堅の周辺は守りが堅いぞ」

「分かっている。 だから、居場所だけを特定する。 その後、打撃を増すために、周囲の臣や旗本を削り取る。 そのために、力を貸してくれる組織を見繕いたい」

何人かが腕組みをしました。その中の一人。長江の南に勢力を持つ組織の幹部が、挙手をしました。

「林大人、その前に、孫堅を此方で説得してみたい」

「というと、何か宛てがあるのか」

「孫堅は、豊かな荊州に近視眼的に捕らわれているところがある。 だがむしろ私は、江東(長江の南東部)の、いわゆる四家を押さえ込むことが出来れば、孫一族は大勢力に成長できる可能性があると考えている」

「なるほど、確かに四家を抑えることが出来れば、力を付けることが出来るかも知れないな」

江東では、四家と呼ばれる強大な土豪が力を持っています。確かに彼らと孫家の軍事力が結びつけば、盤石の地盤が築かれる可能性は高いでしょう。つまり、今孫堅が進出すべきは、西ではなく東という訳です。手っ取り早く経済力を得られる荊州ではなく、時間は掛かるが手堅い地盤が得られる江東の方が、長期的には得という訳ですね。理にかなった意見ではあります。

ただし、東進は強烈な抵抗が予想されます。無数の小勢力が群居している上に、孫家の支配を由としないことが予想されるからです。ただし、安定した地盤を持つ大勢力の登場は、統一への大きな足がかりになることは間違いないでしょう。

我ら細作にとっても、とても美味しい話であることは間違いありません。しかし、元々軍事能力しか期待できない孫堅に、それが理解できるのかどうか。彼にとって経済とは、奪うものでしかないはずです。袁術将軍に焚きつけられたとはいえ、手早く食える荊州を後回しにする度量があるとは思えません。

それに、袁術将軍の後ろ盾があって、初めて立っていられる孫堅勢力です。所詮は半独立勢力の悲しさで、それを覆せるほどの器量はないと、私は判断しています。だから、考え込んだふりをしてから、条件を出しました

「分かった。 もし宛てがあるのなら、私も反対はしない。 しかし、孫堅は武によって名を上げ、身を立ててきた男だ。 そのような説得に耳を貸すとは思えぬが」

「その時は、我らも孫堅を消すことに協力しよう。 彼の息子と、幕僚には優秀な人材が揃っている。 今、早めに彼を消すのは不安ではあるが、下手に長生きされた方が、害が大きい気もする」

同意を取り付けて、私は内心ほくそ笑みました。仮に孫策が生き残ったとしても、再起には五年はかかるでしょう。

今回孫堅は総力戦で荊州に挑むつもりです。私は孫堅を完膚無きまでに潰すつもりなので、荊州には殆どの情報を流しています。多分、半独立さえ維持できなくなるのは、目に見えています。もしその状態から再起してくるとしたら、孫策の力量は本物だと言うことです。その場合には、協力するのは吝かではありませんが。

他にも二つの勢力が、協力を申し出ました。湯をすすりながら、一番協力が欲しい羊大人は、言います。

「悪いが、儂は今回傍観させて貰うぞ」

「そうか、残念だが、羊大人には思うところあっての事だろう」

「ああ。 儂はしばらく、袁紹将軍の覇道に協力することとする」

凄くがっかりですが、全組織から反対されるよりはましです。以上で、会合は終了しました。ぱらぱらと解散してい各組織の重鎮達。私は無造作に懐剣を取り出すと、入り口に向けて投擲。刃は軟らかい子山羊の肉でも切るように、さっき無礼な態度を取った見張りの眉間と喉を貫通しました。

鮮血が噴き出し、声もなく崩れ落ちる見張り。蒼白になる、私のより遙かに小さな組織の幹部。今日の会合は、彼の責任で開かれていたのです。もちろん、今消したのは、彼の配下なのです。

「部下の躾は、しっかりしておけ。 次にやったら、お前の組織を潰すことになる」

「林大人、申し訳ない。 次は必ず、躾が行き届いた部下を見張りに立てることにするから、このたびだけは許して欲しい」

親の七光りで組織を継いだ以上、舐められるのは致命的です。ですから、冷徹非常だと思われるぐらいで良いのです。情けないのは、これも両親の入れ知恵だと言うことでしょうか。

水の町である、寿春に出ました。帰り際に、出店で売っていた揚げ餅を一つ買っておきます。

なかなか美味しい揚げ餅です。良い油を使っているようで、この寿春にものが集まっている事がよく分かります。

それにしても、河北から江南まで、様々な地域の人間がいます。細作の組織も様々なものがありますが、既に色々な勢力に所属して、専門の行動をしている連中もいます。一時期は宦官が雇った細作だらけだったのですが、今は違います。漢王朝の重臣であり、権力闘争で敗れた何進将軍、およびその重臣であった袁紹や董卓とのごたごたで宦官が一掃されてしまい、もう見かけません。宦官と相打ちになった何進将軍の後釜に滑り込んだ事で権力を握った董卓が放った細作もちらほら見かけますが、今では昔ほどの勢いはありません。その昔というのが、ほんの数年前なのが、恐ろしいです。もちろん、孫堅直属の組織もあるのです。彼らが此処にいることは、まず規定の事と考えた方がよいでしょう。

人数がいるのなら、彼らのことも探っておきたいところなのですが。今回は手伝いを見繕うための仕事に過ぎません。まだ修行中とはいえ、細作としては一応の腕前がある自信はありますが、この業界、強い者など幾らでもいます。油断すれば一瞬後には殺されるのが、この世界の真実です。だから、油断しないで、交易船に乗りました。

この交易船も、いつまで出ているか分かりません。その場合は、徒歩や、漁船を経由して帰るしかありません。色々と面倒な話ではありますが、仕方がないのも事実です。此処は、中国。

どの国よりも文明が発展しているから、人間は多すぎるのです。

そしてそのこと自体が、この国の悲劇を、たびたび招いているのでした。

 

江夏に戻ってくると、状況は更に加速していました。車を引いて、街道を急ぎ足で行く親子連れが目立ちます。車輪が乾いた地面を踏む音が、虚しいまでに辺りを埋め尽くしているのでした。

誰も、他人に構う様子は見えません。軍は事実上黙認状態です。

彼らは流民。戦や飢饉を避けて、豊かだとされる土地に移動する人々なのです。蟻のように、いや蟻よりも多い人々が、家財道具の一切を抱えて逃げていく様子は、人間も動物に過ぎないのだと言うことを、思い知らせてくれます。

畑は元々荒れ放題でしたが、今では雑草を生やすために耕されたような状況です。人々の群れを、山の上からしばし眺めると、組織の拠点にしている廃屋へ。既に部下達は集まっていました。

先代、つまり父母の代から組織に仕えている、一番の部下である毛が抱拳礼をしました。鷹揚に頷きながら、席に着きます。長沙へ派遣している部下達は、まだ姿が見えません。調査中という所でしょう。

「頭、お帰りなさいませ」

「うむ。 此方は、寿春で四つの組織を応援に誘ってきた。 羊大人の組織は、残念ながら誘いには乗らなかったが。 会合場所、参加可能な人数については、後で竹簡にまとめておく」

「さすがはお頭。 それにしても羊大人の組織は、袁紹将軍のお着きになるつもりでしょうか」

「あのしたたかな老人のことだ、恐らくは袁紹将軍が一番有力だと考えてのことだろう」

羊大人の組織が、かっては宦官の手足となっていたことは、誰もが知っている事なのです。宦官そのものは何進将軍との権力争いで皆殺しにされましたが、その絶大な影響は、未だにこうして形を残しているのです。

羊大人も、袁紹将軍が見込みがないと考えれば、すぐ他へ乗り換えることでしょう。あの老人は、そう言う存在です。というよりも、今の世の中自体が、そんな状況なのです。武人も、主君を何度も変えるのが、当たり前になってきています。

「忌々しい妖怪めが」

「滅多なことを口にするでない。 噂は風が運ぶし、天も地も見ているのだぞ」

「分かっておりますが、しかし戦乱の要因である宦官共に与しておいて、未だにのうのうとしているのは許し難いとは思いませんか」

熱っぽく言うのは、ちょっと学問を囓った若い男です。私は湯を啜りながら、聞き流して、次の手を考えていました。

この国の惨状が、宦官だけに起因する訳がありません。長くに渡って続いた宦官と皇帝の家族(外戚)による暗闘、政治の腐敗、官僚の堕落、それに飢饉。この国は、とっくに寿命を使い尽くしているのです。今後、更に人口が半分以下になるのは、目に見えています。そう簡単なことでは、この大乱が収まることはないでしょう。

小屋に、組織の下の方にいる若い男が飛び込んできました。背中から矢を生やしています。頭からも、血を流していました。

「ご注進! 孫堅軍が、動き出しました!」

「規模は」

「は! 林大人の予想通り、約15000! 孫堅軍の、ほぼ総兵力です!」

矢の手当は、報告が終わってからとなります。他の部下達にも、この様子では犠牲が出ていることでしょう。黄祖将軍はなにしろがさつ将軍なので何も思ってはいないでしょうが、こう言う時には細作をしていることがやりきれなくなります。私のような冷血動物でも、部下が死ねば頭にも来るのです。

孫堅は確実にぶちころそう。もう一度、頭の中で決めました。ついでに、もう一つ。説得を試みる組織は失敗したと言うことです。連中の戦力も、味方として計算できます。

「地図を。 敵の進軍経路は」

「まっすぐ、全軍で江夏を目指しています」

「ふむ、最初から総力戦を挑むつもりのようだな」

自信の固まりである孫堅将軍らしい行動です。もちろんこれは、予想の範囲内に最初からありました。戦争慣れした董卓軍と血みどろの戦いを繰り返してきた孫堅将軍からしてみれば、実戦経験が少ない荊州の兵など、恐れるに足らないという訳です。

「参加している旗本は」

「主要な旗本は、ほぼ全員。 長沙を空にしています。 跡継ぎの内、孫策は一緒に出陣しているのを確認しております。 孫権は長沙に残っているようです」

「なるほど。 孫堅将軍は本気だな」

だが、逆に読みやすくもなりました。他にも幾つか重要なことを聞き終えると、治療に入らせます。

矢というのは面倒な武具で、鏃はちょっと気を抜くと体の中に残ってしまいます。そうなると、抜くのはとても大変な作業になるのです。男は上半身裸にされて、口には竹を噛まされました。何人かが背中を踏みつけ、一気に矢を引き抜きます。何とか、鏃が一緒に抜けました。

肩で荒く呼吸をしている男に、竹簡に資料をまとめながら、聞いてみます。

「一緒に行った者達は」

「私と一緒に戻ってこられたのは四名のみ。 五人が殺され、二人が捕らえられた後自害しました」

「そうか。 仇は取ってやるからな」

所詮我々は細作。戦の影で、誰も知らぬまま命を落としていく、哀れな弱者に過ぎません。しかしそんな安い命にも、それなりの誇りがあることを、見せて差し上げましょう。ただ、内心で苦笑は隠せません。そう考えていること自体が、私が子供だという良い証拠なのでしょうから。

でも、関係ありません。

西へ西へ、流民が行きます。基本的にこの時代、殺気だった兵士はどの生物よりも凶暴な存在です。出会ったら最後、何もかもも奪われてしまいます。虎など彼らに比べたら可愛い子猫ちゃんです。だから、兵士を避けて流民は行きます。

部下達に指示をまとめて出すと、私は江夏城に向かうことにしました。江夏城は、劉表軍の最前線基地として、約25000の兵力が詰めています。本来なら籠城だけで凌ぎきることが出来るでしょう。しかし相手は江東の虎と言われる孫堅将軍。戦闘経験が少ない荊州軍では、凌ぎきれるか微妙なところです。

城では、苛立った様子で、黄祖将軍がうろうろしていました。護衛の兵士達が、困惑した様子でそれを見守っています。黄祖将軍は機嫌が悪い時は理不尽に暴力を振るうので、兵士達は嫌がっているのです。でも、何処の将軍も似たようなもので、お酒を飲んで部下を斬るような人だっています。黄祖将軍は「美しい」分、まだ少しはましだと言えましょう。

「黄祖将軍、林にございます」

「ようやく来たか」

「此方、敵のより詳細な報告書になります」

「もう少し遅れたら、全てが無駄になるところであったわ。 敵は既に侵攻を開始しておる。 国境の砦が既に、二つ落とされた」

流石は孫堅将軍。迅速な行動です。弱兵と腐敗で有名な袁術将軍の兵士達が、彼に指揮されると途端に精鋭に生まれ変わってしまうのだから、不思議です。黄祖将軍の部下もそれなりに実戦経験を積んでいるはずだというのに。

私が茂みから差し出した竹簡を奪い取ると、黄祖将軍は髭だらけの顔で、うんうんと頷きながら目を通していきます。部下達の命がしみこんだ竹簡だというのに。随分簡単に読むものです。

このうっかり将軍の所にいるのも、そう長くはないだろうなと、私は思いました。確かに戦の才はありますが、世を動かせる人物ではありません。時代が移り変わる際に、勝手に滅ぶ存在です。

「……そうか。 惜しい、惜しいな」

黄祖将軍はそれだけいうと、本当に悔しそうに空を見つめたのでした。何が悔しかったのは、大体見当がついています。

荊州の中心地である襄陽にも、部下は何名か潜り込んでいます。

現在、この荊州の軍事を握っているのは、蔡瑁将軍。土地の土豪で、劉表様に懐柔されて部下になった人物です。兎に角陰湿な頭の切れ方をする人物で、周囲からは凄く嫌われています。

その陰湿将軍は、大まかな作戦を決めたそうです。その作戦は、大体言われずとも分かります。そして、今の黄祖将軍の反応から言って、何をするように要求されたのかも。黄祖将軍は、所詮中間管理職。江夏の防衛権を任されている一将軍に過ぎません。蔡瑁将軍に逆らったら、やっていけないのです。

考えてみれば、最近の苛立ちも。息子さんのアホさ加減に苛立っていると言うよりも。武人としての誇りを踏みにじられた事によるものだったのでしょう。戦いによって立ち、剣を振るうことで生き残ってきた黄祖将軍のことです。今までの人生を全否定されるようなことになれば、しかも否定した相手に逆らえないとなれば。さぞや心は傷つくことでしょう。

でっぷりしたお腹を揺らしながらしばらく黄祖将軍は考え込んでいましたが、やがて兵士達を集め始めました。どうやら、覚悟を決めたようです。私はと言うと、下がるように言われたので。もちろん気配を消して、聞き耳だけ立てることにしました。

私の目論みに気づいてか気づかずか、主要な部下を集めると、黄祖将軍は会議を行う部屋に入りました。机に地図を拡げて、指をその上に走らせています。ごきぶりのように建物地下に潜り込んだ私は、時々監視に使っている穴の下に移動して、様子を伺いました。此処は逃げるのにも都合が良く、床が厚いので槍も届きません。ただし、黄祖将軍が本気になったら、剣の一撃で屠られてしまうでしょう。

「呂公は第三陣。 揚生は第二陣。 第一陣は、私が率いる。 配置は、此処に呂公、此処に揚生、そして私が此処だ」

「これは、蔡瑁将軍の指示通り、撤退戦を行うと言うことですか?」

「そうだ。 正直な話、私は江夏城で孫堅を食い止めたいのだが、それでは決定的な打撃を与えるには到らないと言うことだ。 だから、此方の被害は大きくなっても、確実に敵に致命傷を与えるとの事だ」

「……なるほど、民の避難する時間を稼ぐための、防衛線を敷くと言うことですか」

呂公将軍が唸っています。まだ若い彼は、荊州の名族の出身で、私と同じく親の七光りで力を手に入れた人物です。その隣で腕組みをしている揚生将軍は、逆にたたき上げの典型的な軍人です。目じわの深い皺を更に増やしながら、揚生将軍は白いあごひげをしごくのでした。山羊みたいです。

結構どきどきするのは、黄祖将軍も揚生将軍も、なかなかの使い手だからです。ちょっと油断すると首が飛んでしまう、この緊張感がたまりません。ちょっとその辺の石とか蹴飛ばしたくなる衝動を抑えて、息を殺します。

「揚生は余った兵を指揮して、避難民を江陵に誘導しろ。 湖賊の類が出る辺りには近付かせるな。 孫堅の軍は、襄陽を直撃する程度しかおらん。 守りが堅い上に、兵が多い江陵にまで兵を回そうとは考えぬだろう」

「分かりました。 しかし、孫堅が不審に思うのではありませんか? 奴は歴戦の名将です。 此方の狙いを読まれると、後が面倒なことになりますぞ」

「それは、俺が派手に負けてみせれば済むことだ。 腹立たしい話だがな」

これは驚きました。呂公将軍も、驚いて黄祖将軍を見ています。うっかり将軍が、こんなに責任感のある人物だとは、思っていなかったのでしょう。

会議室に、誰か入ってきました。蔡瑁将軍の指揮下にある、王威将軍です。親の七光りで何とか将軍にいる程度の人物で、得に目立つところもない平凡な若者なのです。むしろ後ろにいる、長い髭を蓄えた用心棒に目が行きます。確かあれは、最近劉表様に使えたという、凄腕の食客です。名は確か、黄忠と言いましたか。

部屋に入ってきた王威将軍は抱拳礼をすると、席に着きました。蔡瑁将軍に言われて着いてきた、軍監というわけでしょう。黄忠が、こっちを見ました。確実に気づかれています。どきどきしましたが、私など相手にもされていないようでした。孫堅将軍の細作でないと看過しているのかも知れません。それはそれで腹が立ちます。

軽く挨拶をすると、兵力の配置について話し始めます。蔡瑁将軍だけではなく、他の主要な指揮官はあらかた出るようです。

「早速ですが、王威殿。 孫堅軍がまた二つ砦を落としたようです。 明日の朝方には、ほぼ確実に江夏城に殺到してくるでしょう」

「それで、此方が備えと言うことになるのですか」

「そうです。 私が時間を稼いで、流民を江陵に避難させます。 それから派手に負けて見せて、孫堅を荊州の奥へ引きずり込みます」

「計画通りですね。 私に何か手伝うことはありますか」

まだ若い王威将軍は、責任感ある顔で黄祖将軍に寄ります。疑うことを知らない目です。将軍としては、あまり大成できそうにありません。気の毒な話ですが。というよりも、今の時代、嘘を見抜けない人間はどの仕事をしても生き残れません。

「兵を連れてきているのなら、江陵への誘導を手伝っていただきたい。 それと、この地点に伏兵するのは勧められませんな。 孫堅に気づかれたら、包囲網を根本から破られまするぞ。 三里は下げた方が良いでしょうな。 この平原に、気をつけて布陣するのがよろしいでしょう。 間違っても旗など立てること無きように」

「分かりました。 進言しておきます」

礼をすると、王威将軍は出て行きました。全てに充実していて、歩くのにも活力が満ちています。いやだなあと私は思いました。同じワカモノだというのに、同じ親の七光りだというのに。私はこう湿った床下をはい回り、あれは希望と信頼に顔を輝かせているのです。

いつか機会を見て、ぶっ殺そうと、私は思いました。部下達全員の命が掛かっている孫堅抹殺計画と違って、これはもちろん逆恨みです。逆恨みだと分かっていながら、ぶっ殺す計画を建てるのが、楽しいのです。当然部下に話せることではないですから、いざとなったら、私自身で殺るのです。あの失礼な歩哨のように。

あまりに楽しみで、ぞくぞくしました。

会議が終わると、黄祖将軍は別人のように鋭い目をして、城壁に登りました。どうやらこの人は、戦になると雰囲気が変わるようです。

でも、それでも。将軍として有能ではあっても。

英雄と呼ぶにはほど遠い存在だと、私は思いました。

 

2、孫軍上陸

 

孫堅軍15000が江夏の東に上陸して、幾つかの砦を陥落させている様子は、部下から逐一報告されていました。小さな港が既に軍事基地に改造され、ぞくぞくと兵糧が運び込まれている様子も分かります。

私は部下四人と共に、近くの山頂から、様子を見守っていました。遠くを見る訓練は受けていますが、それでも人は蟻くらいにしか見えません。腕の良い細作になると、数里離れても相手を判別できるとか言う話を聞きます。実に羨ましい事です。

さて、孫堅ですが。

事前に、特徴は聞いています。孫堅は、南部に多くいる山越族や、西から来た異邦人の血を濃く引いている人物です。背は高く、体格は良く、顔は四角くて、見るからに逞しい人物です。

戦場では、目立つ人間は討ち取られやすくなります。しかしその一方で、頻繁に繰り広げられる一騎打ちで、敵将を倒せる者は尊敬を集めやすくなります。殆どの一騎打ちは、華々しく騎乗で行われるのですが、孫堅はこれの名手で、多くの華々しい戦績を残しているのです。

目を凝らしますが、将軍級になってくると、流石に簡単には見つかりません。隣にいる部下は、父の代からの熟練者なのですが、それでもなかなか。片膝を着いて、頬を叩いて集中。

一人一人に、意識を集中していきます。以前、両親に連れられて、官軍と黄巾賊との戦いを見たことがあります。あの時も、言われるままに神経を絞って、黄巾賊の、万を束ねる指揮官である大方を探しました。そして、官軍の朱将軍が黄巾賊を撃破した後、大方の首をちょん切って、官軍の陣地に放り込んだものです。

私は修行が足りないと、いつも言われていました。今でも足りないと、自分で思います。でも、それでも、出来ることをしなければならないのです。

私は細作ですから。

ほどなく、見つけました。

赤い兜を被った、大柄な将軍です。鎧はきらきらと遠くから光を反射しています。鉄片をふんだんに使って、防御能力を上げているのでしょう。長沙の技術で作れるものとも思えませんから、洛陽に突入した時に、略奪したものでしょう。あ、彼らの感覚では戦利品というのでしたっけ。盗賊と軍勢の区別って、曖昧ですね。孫武先生の血も、安くなったものです。

何にしても、簡単に仕留められる相手ではありません。動きから見て、とんでもない使い手だと分かります。この間見た黄忠と、ほぼ互角の領域でしょうか。筋肉の使い方も、まるで無駄がありません。周囲への気配りも、相当なものがあります。狙撃するのも難しいでしょう。

高度な才能を持つ人間が、湖賊という修羅場をくぐりやすい環境に育ったことによって、力を此処まで高め揚げたと言うことでしょう。確かに人間としての能力は高い。それは認めますが、残念ながら董卓の所にいる、猛将呂布と同類の人材でしょう。乱世を拡大する事はあっても、集束することはない人間です。

すぐ後ろを着いて歩いているのは、自信が深そうな青年です。まだ元服したばかりでしょうか。逞しい体つきで、ただし若いからでしょうか、僅かに軽薄な雰囲気があります。多分あれは、嫡男の孫策でしょう。その孫策と一緒に歩いている「美しい」青年が、恐らくは義兄弟の周瑜でしょう。彼らの姿は以前も見たことがありますので、遠目からでも分かりました。

乱世を集束するのは、彼らの方が得意そうだなと、私は思いました。孫堅には死んで貰うとして、彼らは生き残った方が後が面白くなるかも知れません。まあ、どちらにしても、そこまで巧く戦況を制御できる自信はありません。場合によっては、死んで貰うしかないでしょう。残念ですが。私としては、このまましばらく乱世が続いてくれた方が、面白くもありますし。

港の外には、既に15000の兵士達が、勢揃いしていました。装備は雑多ですが、いずれも逞しく鍛えられ、良く統率されています。董卓率いる大軍と戦い続け、鍛えられただけの事はあります。

私は片手を上げると、部下を一人江夏城に走らせました。引き続き、私は隙をうかがうことにしました。

 

江夏城の守りとなる、最後の砦から、盛大に火が噴き出しています。孫堅軍は火矢をふんだんに使い、容赦なく攻め立てていました。彼我の国力差から考えて、短期決戦だと決めているからでしょう。抵抗を放棄した黄祖将軍の部下達が、砦から逃げ始めています。ここぞとばかりに、城壁に長い梯子である雲梯を掛け、孫堅軍の兵士達が登っていきます。梯子が倒されて、ばらばらと兵士達が落ちました。上の方にいた兵士は、もちろん地面に叩きつけられて即死です。その死骸を踏み越えて、また兵士達が登り始めています。

今回、孫堅をけしかけた袁術将軍は、非常にけちなことで知られています。この強烈な攻撃、恐らく兵糧が足りないのでしょう。部下をけしかけるだけけしかけて、後は放っておくのだから、袁術将軍の器が知れます。兵糧くらい支援してやればよいものを。

噂によると、袁術将軍の元を離れて、孫堅将軍の部下になりたがる兵士が多いと聞いています。今は実力に差がありすぎるので、問題は起こっていません。しかし何年か先には。状況はどうなるか、分からないでしょうね。

私の見ている先で、ついに城壁の一角が破られました。橋頭堡をわっと包み込む黄祖将軍の兵士達ですが、残念ながら戦闘能力が違いすぎます。瞬く間に斬り建てられ、其処を起点に兵士達が城壁を乗り越えていきます。

程なく、城門が内側から開けられました。人間の焼ける臭いが、此処まで漂ってきます。青い顔をしているのは、新人の部下です。荊州で拾った男で、地元の人間なので、戦闘経験も放浪経験もありません。

「慣れておけ。 これから、幾らでも嗅ぐことになる」

「はい。 すみません」

自分の半分程度の質量しかない小娘に諭されて、青年は何とか吐き気をこらえたようでした。

この砦が落ちたと言うことは、もう江夏城に孫堅は手が届きます。しばらくは砦で残敵の掃討をして、隊形を整えてから出陣でしょう。見る間に火が消されていきます。辺りに展開していた兵士達が陣形を整えていきました。

おっと。これはこれは。凄い速さで、長蛇のように縦列陣を組んでいきます。銅鑼を数度鳴らしただけで、見事なものです。董卓に抑えられている腐敗しきった官軍では、こうはいかないでしょう。十万をかるく超える兵を有している董卓が手こずる訳です。

動き始めました。残敵の掃討など捨て置いて、一気に江夏城を目指すようです。一斉に軍勢が動き始めました。軽装の足軽が先頭を走り、厳しく鎧を着込んだ騎兵が続きます。槍を捧げ持った兵士達が、穂先をまるで揺らさず駆ける様はほれぼれします。

部下を一人、走らせます。しかし大胆な。この砦を逆に落とされると、孫堅は退路を失ってしまうのですが。恐らく、退路を奪われる前に、襄陽を抜く自信があるのでしょう。

ただの粗暴な湖賊の親玉くらいにしか考えていませんでしたが、少し興味が出てきました。私は部下達を散開させると、もう少し孫堅に近付くことにしました。これは、ちょっと他に譲るにはもったいない。

多少困難であっても、私が、直接ぶっ殺すことに決めました。

もちろん、今仕掛ける訳にはいきません。動きの癖や、人格などを、しっかり側で見極めておく必要があります。軍を打ち破るのは、私の仕事ではないのです。それは黄祖将軍なり、蔡瑁将軍の仕事なのです。

私の仕事は、その後。後始末なのです。

軍勢は伏兵を警戒しつつも、恐ろしい速さで街道を驀進しています。目に着く建物は、手当たり次第に火矢を射掛けて、焼き尽くしています。これは伏兵や奇襲を警戒しての事です。何処の軍隊でも行います。だから、戦場は焼け野原になるのです。もちろん、見かけた人影は皆殺しです。逃げ遅れたらしい兵士達が、たちまち血祭りに上げられる様子を、私は影から揚げ餅を頬張りつつ見物しました。

まだ、油断はありません。程なく、孫堅軍が停止しました。

江夏城に到着したからです。

水も漏らさぬ布陣という言葉がありますが、実際に包囲戦では、そのような事はしません。わざと逃げ道を作ることによって、敵の心理的な動揺を誘います。逃げられるかも知れないと思わせることによって、抵抗力を削ぐのです。

孫堅も、その方式を採りました。北だけを開けて、江夏城を取り囲みます。

城壁の上に、黄祖将軍の姿が見えました。腕組みして、孫堅軍を眺めやっています。城内の兵士は12000という所でしょう。ただし、旗をかなり多く建てることによって、誤魔化しています。

孫堅は前に出てきています。矢が届かない、ぎりぎりの地点です。周囲を分厚く旗本が固めています。戦場を知り尽くしていなければ、取れない位置です。確かに彼処であれば、如何に強弓の使い手であっても、届かないでしょう。

孫堅が乗っている黒い馬は、微動だにしません。かなり体格が良い馬で、長身の孫堅でも、足がかなり地面から離れています。私は適当な山の上から、様子を見ていました。これでも訓練を受けています。一度見た相手を、忘れるようなことはありません。

ほんの僅かな時間が過ぎ去るまで、随分時が掛かったような気がしました。

孫堅が手を振ると、一斉に軍勢が動き出しました。同時に、城壁の上に陣取った兵士達が、弓を構えます。そして、一斉に放ちました。盾を構えた兵士達の上に降り注いだ矢が、喉を、眉間を貫いて行きます。盾でどうにか矢を凌いだ兵士達は、雲梯を壁に掛け、同時に城壁の上に弩を撃ち放ちます。バネ仕掛けの弩は、一度矢を充填するのに時間が掛かりますが、いざ撃つととても遠くまで届くのです。

「衝車!」

前線にいる孫堅軍の指揮官が叫ぶと、陣が割れて大きな車が現れました。巨大な丸太をつるした骨組みに、車を着けて運べるようにした攻城兵器です。衝車と言います。それを見た黄祖将軍は、黄色い旗を振らせます。すると、城壁の上に、釜が運ばれました。

がらがらと大地を揺らして、衝車が突入してきます。膨大な矢が降り注ぎますが、火に強い構造になっていて、びくともしません。兵士達はばたばたと倒れていきますが、すぐに代わりが現れて、衝車を押します。大量の出血に見舞われながらも、衝車は城門に激突。地面が吹っ飛ぶような轟音を立てました。

城門が拉げます。同時に、釜が落とされました。

なるほどと、私は感心しました。釜の中には、油が入っていたのです。兵士達がそれを悟って逃げ出しますが、もう遅い。

火矢が放たれ。紅蓮の炎が、天まで届けとばかりに燃え上がりました。かなり純度の濃い油だったらしく、衝車の側にいた兵士達は、瞬時に丸焼きです。炭なのです。火だるまになって、堀に飛び込んだ兵士は、二度と浮いてきませんでした。舌なめずりします。人間が焼ける臭い、実は私、好きなのです。

猛烈な矢が、下から射かけられます。かなり練度の高い兵士達で、矢の密度は凄まじい。確実に守りに穴を開けようと、集中して矢を浴びせています。城壁の上からも、兵士達が射返しますが、どうしても此方は練度が若干劣るようです。中には、盾にさえ当たらず、地面に刺さる矢もあります。

数刻に渡る激闘の末、かろうじて引き分けという形で、一度戦いは終わりました。孫堅軍は後退して、陣をくみ直します。それにしても、良く戦っているなと言うのが、素直な印象です。

城攻めは相手の三倍から五倍の兵力がいなければ、普通は成功しません。だというのに、孫堅軍は、城に立てこもったほぼ同数の敵兵力に対して、互角以上の戦いを挑んでいます。城側もせっせと守りを固めてはいますが、このまま攻め立てられれば、落ちるでしょう。黄祖将軍も、防衛戦に手を抜いているとは思えません。

確かに、蔡瑁将軍の防衛計画は正しいのだなと、思います。このまま江夏に戦力を増強したところで、城が落とされるのは避けられないでしょう。

陽が落ちると、あれほど派手に殺し合いをしていたとは思えないほど、周囲は静かになりました。ただし、殺気を含んだ静寂です。

夜の闇は、細作の味方です。私は抜き足差し足で、敵陣に忍び込みました。急あしらえの野戦陣地にしては、とても良くできています。柵の張り方は理にかなっていますし、兵士も夜襲を警戒して油断がありません。部下がいたので、背中を叩いて声を掛けます。

「黄祖将軍に、夜襲できる可能性を調べろと言われたか」

「はい。 しかしこの様子では、無理でしょうね」

「流石に油断がないな。 黄祖将軍には、夜襲は難しいと伝えておけ」

「頭領は、いかがなさいますか」

もう少し調べてから引くと、部下に伝えてから、私は陣営の死角をくぐって、奥へ潜り込みます。本陣は宿将の陣に囲まれるようにして配置されていて、警戒も厳重です。とてもではないですが、近づける状況ではありません。私の両親であっても、無理だったでしょう。

流石に何もしないで帰るのも腹が立つので、陣を出てから、歩哨を何匹か狩って帰る事にしました。四人一組で、彷徨いている歩哨を発見。全員、油断していません。舌なめずりすると、後ろからまずは一投。小刀が、首筋に突き刺さりました。悲鳴を上げる前に跳躍して、剣を抜きます。通り抜け様に、もう一人の首筋を切断。笛に手を掛けた一人の前で振り返ると、懐からもう一本、小刀を投げつけるのでした。

喉に小刀を生やした兵士が、声もなく崩れ伏す中、私は剣を構えなおします。残りの一人は、まだ若い小隊長でした。ただ顔に向かい傷があって、それなりの戦闘経験を積んでいることが分かります。

「黄祖の密偵か。 お、おい! まだ、子供じゃないか! 子供が、密偵なんかしてるのか!?」

「子供ではない。 もののけだ」

蒼白になった男の顔面に、無造作に剣を突き込みます。まともな剣技ではありません。言葉や表情までもをフェイントとして、相手を殺すための一撃を放つことだけを考えた技です。間一髪、剣を避けた男でしたが、残念。柳刀はしなります。

しなった剣が、頸動脈を切断。大量の血を撒きながら、男は横転。しばらく痙攣していましたが、動かなくなりました。

こんな剣は、所詮小手先のものです。一度二度見られたら、もう通用しません。後、ちゃんとした剣術を習っている相手にも、まず効かないと思った方がよいでしょう。兵卒だから、倒せただけです。

剣を振るって血を落とすと、私はさっと闇に溶けました。

そういえば、最後に殺した奴は、私を子供とか言っていたので、顔面を石で潰しておきました。

自業自得という奴なのです。

 

明け方。確保している山小屋で、集まってきた部下達と、状況の確認をしておきます。私が四人ほどぶっ殺してきたことを嬉々として言うと、部下達が苦虫をかみつぶしたような顔をしたのは内緒です。しかし、これも布石の内です。

武人でさえ主君を何度となく変えていくこのご時世、細作のように闇に生きる者は、上に立つ度量を常に部下達へ見せつけなければなりません。ましてや、私は年が若い上に、子供みたいな容姿だという枷があるのです。私が彼らの誰よりも強いことを常に見せておかなければ、部下達は着いてこないのです。

「孫堅は明け方の少し前から、また大規模な攻撃を開始した。 四刻ほどしか休んでいないのに、大した体力だ。 部下共も、文句の一つも言おうとしない」

「既に外門は落ちかけております。 この様子だと、昼過ぎには、外門は落ちましょう」

「噂に違わぬ武威。 流石は噂に名高い江東の虎よ。 黄祖将軍は、新しい指示を出しては来たか?」

「未だ」

黄祖将軍の集めさせた情報が、どう使われたのかが、気になる点です。恐らく、陣の組み方に生かしたのだとは思いますが。まさか、黄祖将軍に限って、孫堅を戦い半ばで仕留めるなどという絵空事を考えてはいないでしょう。

喚声が、此処まで聞こえてきます。地鳴りのような音。この世界でもっとも大きな力を持つ生き物が、人間だと言うことがよく分かります。まだ、江夏城陥落までは時間があるでしょう。

山小屋に、部下が入ってきました。背中に矢を生やしています。脇からも、出血が酷いのです。

「ご注進。 間もなく、外門が陥落します。 黄祖将軍は、脱出の準備を進めています」

「ふむ、戦は次の局面に入ったか」

「いかがいたしますか」

「孫堅軍は、江夏を抜けば、そのまま襄陽に殺到するだろうな。 劉表様がどう動くか、だが」

部下の手当をさせながら、私は考え込みます。もっとも、私には大体、この後の局面が読めてはいましたが。

「兎に角、黄祖将軍が脱出するとなると、江夏はもう落ちる。 我らは、襄陽へ向けて、移動する」

「劉表様は、これで滅びてしまうのでしょうか」

「いや、恐らくそれはない」

強弩であっても、最後には魯地方に産出するとても薄い絹さえ貫けなくなるということわざがあります。兵糧は無し、兵の数も限られる。その上、黄祖将軍は、そんな相手と戦うための術を、全て打っている。これでは、孫堅将軍は勝てません。

もっとも、歴戦の勇士である孫堅将軍ですから、勝算はあるのでしょう。しかし今回は、相手が悪いと言わざるを得ません。

私は、指を地図上に走らせました。細い山道で、指先を止めます。

「私はこの地点で、四人を率いて待機する」

「其処は?」

「皆には、劉表様の布陣を調べて貰った。 更に、孫堅の進軍路を加味する。 そうなると、孫堅は敗走する時、此処を通る」

「孫堅が、敗走するのですか!?」

部下が驚いた声を上げました。その場で両目を抉り出したくなってきますが、我慢です。我慢我慢。

うん。我慢できました。私は我慢強い子です。此処で褒めてくれないと、後でまた誰か殺したくなりそうです。でも、褒めてくれません。頭に来たので、後で孫堅軍の兵士を適当にぶっ殺すことにします。

「残りの全員は、江夏城に潜め。 そして三日後まで静かにしていて、それ以降、徹底的に破壊工作を繰り返せ。 特に兵糧は、焼き尽くしてしまえ」

「は。 何故に三日後なのですか」

「孫堅が、黄祖将軍の防衛線を突破し、襄陽に辿り着くのがその辺りだからだ。 孫堅軍は、強大な襄陽の防御能力に阻まれて、攻勢を停止させる。 其処で、一気に補給線を遮断して、揺さぶりを掛ける。 もっとも、黄祖将軍からそうするようにと、多分指示があるだろう。 その時には、如何にも初めて聞いたように装え」

部下が頭を下げます。別に私が凄い訳ではありません。

「ご注進。 頭領が手配した手伝いの者達が、到着いたしました」

「よし、全員を補給線の遮断に回せ。 ただし、活動を開始するのは、三日後からだ」

黄祖将軍の命令を持った部下が戻ってきたのは、それから程なくのこと。三日後、補給線の遮断を開始しろと言う命令でした。

部下達の畏怖の目を浴びながら、私は平静を装っていました。でも裏ではとても気持ちが良くて、快適でした。

気持ちがとても良いので、早速その晩は孫堅の陣に忍び込んで、三人ほどぶっ殺して、首を柵に突き刺して並べておいたのでした。

 

3,強弩の末勢

 

喚声を上げながら、孫堅軍が揚生将軍の陣に襲いかかります。峠での攻防です。守りやすい場所に、良い陣地を敷いた揚生軍を、孫堅軍が攻め立てています。必死に入れ替わり立ち替わり防ごうとする揚生軍ですが、とても支えきれるものではありません。柵が引き倒され、槍を揃えた兵士達が突入すると、逃げに掛かります。その背中を、虎のように獰猛に追いすがった孫堅軍が、容赦なく打ち倒していきました。

孫堅が見えます。狭い山道で恐れることなく指揮を執っています。びゅんびゅん矢が飛び交っているというのに、大した勇気です。一刻も早く荊州軍を打ち崩さなければ勝機はないことを知っているでしょうに。

すぐ側には、腕利きが何人か着いていて、討ち取るのは困難です。少し距離を置こうかと思った時。孫堅の声が聞こえてきました。男臭い、野太い声です。よく見ると、すぐ後ろに、孫策と周瑜もいます。

「策。 お前はどう見る」

「やはり荊州の弱兵など、父上の育て上げた兵士達の敵ではありませんね」

「瑜。 お前はどう見る」

「私も伯府と同じ意見です。 やっぱり、兵士としての質には、歴然とした差があるのだと思います」

孫堅の顔が曇るのが、はっきり分かりました。あれは、分かります。有能だけれど、まだ若い息子に対して見せる顔です。私は娘ですけれど、同じような顔を父にされたことがあります。

そう思うと、腹が立ちます。また何人かぶっ殺しておこうと思いました。

しかしあの様子だと、孫堅はこれが無理のある戦いだと分かっているようです。それならば、何故強行したのでしょうか。勝てる見込みはあると思ってはいるのでしょうが。

「程普に、軍学は学んでおけ」

「はい。 父上の見立てを、教えていただけますか」

「敵は数の利を生かして、此方の戦力をそぎ落としに掛かっている。 我らが消耗しきるか、敵の壁を突き破るのが先か。 厳しい勝負になる」

「父上は、いつも厳しい戦いをしていると聞いています。 どうして、勝ち易きに行こうと思わないのですか?」

孫堅の大きな体が、不快そうに揺れました。愛馬が嘶いています。

「袁術殿の威光が無ければ、儂は立つことさえ出来ぬ。 このままでは、お前達にも、その苦労を味合わせることとなろう」

むしろ慌てたのは、周囲の護衛達です。周瑜も蒼白になっています。孫策だけが、分かっていない様子でした。

「俺は苦労など厭いません」

「お前の苦労ではない。 儂を信じて、着いてきた者達の事だ」

なるほど。それで、孫堅の真の狙いが、私にはわかりました。

孫堅は。戦略的に無理があることを承知の上で、袁術の言うままに、攻略作戦に参加したという訳なのでしょう。理由は、荊州を落とせば。一気に大きな力を手に入れることが出来るから。豊かな土地、多くの人間。そして、長江の半ばにあるという立地条件。開発も、劉表様の手腕で発展している。中原が争乱状態にある今、荊州こそが天賦の土地だと見ることが出来ます。

今の孫堅は、周囲に味方勢力が少ない、飛び地に本拠地を構えています。その上、戦乱は加速する一方です。このままでは袁術将軍に良いように使われて、部下達は犬死にしていくばかりです。焦っていたのでしょう。だから無理をおしても、荊州の攻略に打って出たという訳です。

そして荊州を完全に抑えることが出来れば。袁術将軍に対して、完全に対等な立場に成ることが出来ます。袁術将軍は良く言って暗愚、悪く言えばアホなので、それにも気づいていないという訳でしょう。

もちろん、息子達への愛情もあったに違いありません。それが、さっきの反応からも、分かりました。

ただ。それでもなお、孫堅はやはり大器ではないと判断できます。此処は、呉へ進むべきだったのです。そうすれば、後方に莫大な安全圏を抱くことが出来、兵を養うことが出来ます。

いや、袁術将軍との力の差を考えると、一気に大きな土地を抑えないと拙いと言うこともあったのかも知れません。そうしなければ、順番に土地を攻略していっても、圧倒的な軍事力にものを言わせて、袁術将軍に取り上げられてしまったかも知れませんから。

矛盾する結論が、泡のように湧いて出ます。しかし、しばし考え抜いた後、私は結論します。

孫堅には、自信が無くなり始めているのだと。

袁術将軍の一武将として董卓と渡り合っていた頃の孫堅は、覇気に満ちあふれていたと聞いています。しかし、今の孫堅は、子を思い、刃が鈍り始めている様子がありありと見えています。明らかに老い始めているのです。攻めの姿勢の裏には、守りに入ったら一息に滅ぼされてしまうと言う危惧があるのです。

確かに強いが、もう伸びしろは無い。つまり、思ったよりも仕留めるのは難しくないなと、私は結論しました。

揚生将軍の陣が、次々に破られていきます。ついに、最後の柵が抜かれました。孫堅が、息子の策をけしかけます。まだ少年の面影を残した若き猛虎は、火のような勢いで、揚生将軍の残兵に襲いかかりました。

無様な逃げっぷりです。しかし。

それが老練な揚生将軍の、巧みな演技なのだと、私は端から見ていて気がついていました。

 

呂公将軍の重厚な陣地も破られて、這々の体で黄祖将軍の部隊は襄陽に逃げ帰りました。ざっと見た所、被害は一割を超えています。まず壊滅と言って問題ないでしょう。黄祖将軍は、見事に言われたことを実施してのけたわけです。

私も敗残兵と敵軍の影を行ったり来たりしながら、情報を集めました。食べ物をくすねたり、気分転換に敵の首も取ったりしましたが、これは趣味の領域です。たまに、いるのです。仲間から離れたところに出てくる頭が悪い兵士が。首をちょん切ってくれと言っているような阿呆が。首を切り落とす時の感触と言ったら、他には代え難いものがあるのです。だから戦争をしているこう言う時に、思う存分楽しませて貰うのです。

江夏城攻略開始から、ほぼ二日半。孫堅軍の勢いは止まらず、ついに襄陽に辿り着いてしまいました。そして、彼らは城の外に布陣します。兵力は約13000。無理な強行軍が祟り、600程が既に戦死。その倍以上が脱落したか、負傷して後方の部隊に任されています。

強行軍故に、孫堅軍の屈強な兵士達にも、疲労の色が濃く見えています。それに対して劉表様の兵士達は、当初の目的通り集結を果たし、余裕を見せている状況です。黄祖将軍の兵士達は流石に疲労が酷いようですが、最初から予定していたことでもあり、医療班が走り回っていました。無事な兵士は半分程度しかいませんが、それでも総数では孫堅軍とほぼ同等です。

城壁の上に立っているのは、蔡瑁将軍です。若干小柄な人物で、目つきは刃のよう。孫堅とは別種の強さを持つ人間ですね。強いと言うよりも、粘り強い。何があっても生き残る、まるで家庭害虫のような存在です。しかも頭がとても良いので、どんな手を使うことも厭わない。

とても私好みの相手です。いつか首をちょん切ってみたいものです。王威将軍ともども。

そして蔡瑁将軍の少し後ろには、他の宿将達と並んで、黄祖将軍が控えていました。城壁の陰に隠れていた私は、おもしろ半分に唇を読んでみました。

「予定通りではあるな」

「は。 我が軍にも、多大な被害が出ましたが」

「良い。 兵士のなり手など、幾らでもいる。 それよりも、今は長沙の虎めを如何に狩り取るかだけを考えよ」

これはこれは。下々の事など、それこそ消耗品としか考えていない、素晴らしいお考えです。ある程度出世することはあっても、それ以上は行けない人間ですね。こういう乱世では、なおさらです。相性が良い君主に使えることが出来れば生き残ることが出来るかも知れませんが、それも難しいでしょう。君主になれる人材でもありません。劉表様のご子息には、少なくとも使いこなせないでしょうね。

ああ見えても、それなりに部下を大事に考えているらしい黄祖将軍は、それこそのど元に噛みつきそうな顔をしていましたが、黙っています。あの人はそれなりに頭が働くので、逆らったら大変なことになると、分かっているのです。理性と本能がせめぎ合って、結果動けない。小物なりの考えですね。もちろん、だから悪いと言うことはありません。むしろ、苦悩する人間は大好物です。

孫堅軍の、猛攻が始まりました。地面を揺らすほどの大規模攻撃です。運んできたらしい攻城兵器も、ことごとくつぎ込んでの攻撃です。しかし、私は見抜きました。兵士達は、流石に疲労の限度に来始めています。

孫堅将軍が、前に出てきました。自身を危険にさらすことで、兵士達を鼓舞するつもりです。

それを見て、兵士達も沸き立ちました。恐らくそうすることで、今までも何度となく混戦を勝ち抜いてきたのでしょう。文字通り泥まみれになりながら、命を捨てて、城壁にとりついていきます。危ないので、私も堀の影から離れて、戦場から距離を取ることにしました。

城壁の上に、あの男が現れたのは、その時です。

黄祖将軍。それに、黄忠。あ、まずいと思ったのは、黄祖将軍が本気で孫堅を殺すつもりだと気づいたからです。

あれは私の獲物です。

黄忠は弓の達人と聞いていますが、言葉通りだと、見て分かります。手にしている弓は、常識離れして大きいです。引き絞る音が、聞こえてくるかのようです。孫堅は、逃げようともしません。慌てた様子で、旗本の一人が、盾を構えて前に出ました。

黄忠が放った矢が、盾ごとその旗本を射貫きます。

噂通り、いやそれ以上の強弓です。盾ごと串刺しにされた旗本は、その場に声もなく崩れ付します。孫堅は気にもしない様子で、声をからし、部下達を叱咤します。黄忠の所にも矢が飛んでいきますが、此方も流石に気にしていません。時々、最小限の動きで、矢を避けてさえいます。

第二矢を、黄忠が引き絞ります。盾を構えた旗本達が、前に出ます。しかし、気にもせず、再び放たれた矢が、旗本を盾ごと撃ち抜きました。一矢一殺。孫堅と共に戦場を駆け抜けてきたらしい旗本達が、次々に撃ち抜かれて行きました。

衝車が突進していきます。城側は、別に慌てる様子もありません。多分、城門の分厚さに自信があるのでしょう。とりあえず、あの様子では、孫堅は死なないと判断。私はさっと戦場を離れる事としました。

途中、何度か流れ矢が飛んできました。避けるのは造作もありませんが、それはあくまで流れ矢だからです。私を本気で狙って高密度の斉射が行われていたら、まず助からないでしょう。

大規模攻撃は、まだ続いています。戦場を離れると、辺りの村や小集落は、皆無人になっていました。略奪の痕もあります。いわゆる火事場泥棒や、孫堅軍兵士によるものでしょう。事実、一匹兵士がいました。

無数に林立する廃屋の一つ。戦闘開始前から確保している一軒家にはいると、既に部下達が集まっていました。私が手にさっき見かけた兵士の首を掴んでいるのを見ると、何人かは蒼白になって目を背けました。首を机の上に置いて、席に着くと、それでもおずおずと声を掛けてきます。

「頭領。 孫堅軍の様子は」

「そろそろ限界点だ。 予想通り、補給線から遮断する。 その後は、劉表様の軍が、一斉反撃に出るだろう」

そうです。蔡瑁将軍のもくろみは、最初からこれにあったのです。

最初に、孫堅軍を疲弊させて、懐にまで引きずり込みます。続けて補給線を切断します。そして最後に。

今まで伏せていた兵力をことごとく展開。全方向から攻撃を開始して、一気に敵を包囲殲滅するのです。

元々攻勢の限界点に来ている孫堅に、抗う術はありません。どんなに良く見積もっても、壊滅は避けられないところです。今日中に襄陽を落とせれば、まだ孫堅にも勝機はあったのですが。

恐らく蔡瑁は、江夏を捨て石にして、防備を徹底的に固めていたのでしょう。あれでは、如何に孫堅軍が精鋭であっても、勝ち目はありません。

「全員、出る準備を整えておけ。 恐らく、総反撃は今晩からだ」

「は。 すぐに出ます」

「予定通りの地点で私は待ち伏せる。 腕利きを回しておけ」

「五人で大丈夫ですか?」

全く問題ありません。というよりも、私が孫堅を殺すのを邪魔するつもりなのでしょうか。

「つなぎ狼煙をつかって、同盟軍にも連絡しろ。 この戦い、我らの勝利だ」

部下達が、応と叫んで立ち上がりました。

そして、生首だけを残して、散っていきました。私は最後に廃屋を出ると、孫堅の姿を思い出します。

明日あれを狩るのだと思うと、体の芯がぞくぞくしました。

 

4,崩壊

 

緑と茶のまだらに染めた服を着ているのは、森林での戦いを想定しているからです。此処は、予定していた伏兵場所。組織の中でも、特に腕利きの四人と一緒に、私は獲物の到来を待ち受けていました。

ここのところ、殆どまともに寝ていなかったので、少し休んでいました。大攻勢が始まる時間に大体当たりを付けて、船をこいでいました。もっとも、横になって寝る訳にも行かないので、木を背中にして、ですが。

夜が明け始めた頃。部下が来ました。大あくびをしながら、少しずつ目を覚ましていきます。

「ふぁい。 何?」

「劉表様の大攻勢が始まりました」

「来たか」

刺激の強い木の葉を口に含むと、ぺっと吐き捨てます。眠気覚ましのためです。部下達もおいおい、自分なりのやり方で目を覚ましていきます。腕を噛んだりする者や、指を弾いて鳴らしている者もいます。

「孫堅軍の武将は狩り放題だ。 江夏での破壊工作が終わった後は、すぐに黄祖将軍の部隊に、攻撃を引き継げ。 後は同盟軍と共に、落ち武者狩りに専念しろ。 一匹も生かして荊州から出すな」

「はっ!」

これは、別に孫堅軍に恨みがあるからではありません。たくさん孫堅軍の武将を狩っておけば、報償がたくさん得られるからです。それに、私の組織の名も上げる事が出来ます。一石二鳥ではないですか。それに第一、必死に抗う相手をぶち殺すのはとても楽しいことですし。

報告が、次々来ます。

孫堅軍は、城外に出た黄祖将軍の部隊に猛攻を受け、壊滅的な打撃を受けたとの事です。無理な攻撃が祟り、疲れ切っていたところに気力充分な攻撃を受けたのだから当然です。更に最高の機で、江夏城の兵糧が全て焼き払われたこと、襄陽の周囲から50000を超える軍勢が伏兵として沸き立ったことが伝わり、大混乱に陥りました。元々、劉表様の軍は70000を超える規模です。いざ全戦力が活用されてしまえば、孫堅に勝ち目はありません。

孫堅将軍の腹心である、程普が殿軍となって、必死の退却戦が開始されています。もっとも、疲れ切っている軍の動きは鈍く、戦いは一方的なものとなっているようですが。

「ご注進! 孫堅軍の中軍が、追いすがる黄祖将軍によって撃破されました! 中軍の旗本達は散り散りになって逃げています!」

「よし、落ち武者狩りを始めろ。 出来るだけ大物を狙え」

程普の部隊も、間もなく完全に打ち砕かれた事が伝わってきました。ただ、長く戦い続けた連中は色々と面倒です。もちろん百戦百勝という訳にはいかなかったでしょうから、敗戦時の逃げ方も心得ているはずです。

江夏方向には行かないだろうなと、私は見当を付けていました。むしろ江陵方向から逃げるだろうと。だから、この山道を伏兵することにしたのです。それからも、何人か伝令が来ました。孫堅軍の名高い将が、次々に命を落としていきます。流石に組織的な追撃を仕掛けているだけあり、黄祖将軍はとても効率よく狩りをしています。腹が立ちますが、こればかりは軍の力を実感してしまうのです。

茂みをかき分けて、若い兵士が現れました。背中から矢を生やしています。殆ど一瞬で、周囲にいた部下達が小刀を投げつけて、打ち倒しました。何が起こったかも分からない様子で、兵は地面に倒れます。

続けて現れたのは、部下を連れた呂公将軍でした。死骸を見てさっと身を引き締める呂公将軍。私達はさっと身を隠して、茂みの中から応じます。

「呂公将軍でございますね」

「貴様は!」

「黄祖将軍の細作、林にございます」

「そういえば、そういう細作がいると聞いている。 落ち武者狩りの最中か」

名家出身の若造だと思っていましたが、意外と頭が切れるようです。偶然にしては、できすぎています。

「孫堅の行方は分かりましたか」

「いや、まだだ。 殿軍を蹴散らしたまでは良かったが、殆どの敵将には逃げられてしまってな。 今、孫堅らしい奴が此方に逃げたと聞いて、追ってきたのだが」

名家の出身らしく、正直な奴です。旗本が半ば呆れた様子で、呂公将軍の言動を見守っています。私は素早く思案を巡らせると、出来るだけばれない適当な嘘をつくことにしました。

「さっき入った情報によりますと、敵は少し北の道を通るようです。 我々はそちらへ向かうところでした」

「そうか。 では我らは、そちらで待ち伏せることとしよう。 孫堅の首を取ったら、私に寄こせ。 褒美をくれてやろう」

「分かりました。 では、出来るだけ、お急ぎになられるよう」

呂公将軍はご機嫌な様子で、部下達を引き連れて北へ向かいます。私の部下が不安そうに言いました。

「良いのですか、あのようなことを言って」

「かまわん。 どうせ北の山道には、敵が逃げてくることが確実だ。 孫堅は行かないだろうが、そこそこの将は引っかかるだろう。 良い目くらましだ」

「南は大丈夫でしょうか」

「あっちは身を隠すことの出来ない荒野になっているから、通る可能性は低い。 もしもの時を考えて、一人新入りを置いてあるから、心配はしなくていい」

いちいち腹が立つ部下です。頭が悪いのだから、私の言うことを、ちゃんと聞いていれば良いのです。呂公将軍が行った後、また何匹か孫堅軍の兵士が来ました。片っ端からぶっ殺し、崖の下に捨てながら大物を待ちます。

やがて、その大物が来ました。

 

茂みをかき分けて、何人かの兵士が現れます。いずれも傷だらけで、複数の矢を受けている者もいました。彼らの中に、混じっている大柄な男。間違いありません。孫堅です。どうやら逃げるために、一般の兵士と同じ姿に扮したようです。常套手段ですが、流石という他ありません。

読みが完璧に当たったので、とても嬉しいです。後は、狩るだけですが。

「其処に隠れているな。 姿を見せよ」

どうやら、そう簡単にもいかないようです。孫堅が吐いた言葉で、その場が緊迫に包まれました。

それでこそ、孫堅です。先に姿を見せた部下達が、さっと短刀を投擲。護衛の兵士達を打ち倒します。しかし、流石に歴戦の精鋭。何人かは辛くも刀を避け、血みどろの肉弾戦を開始しました。私は乱戦の中を、孫堅の後ろに回り込みます。

しかし。ゆっくり剣を抜いた孫堅が、視線を此方に向けます。

「其処の女。 お前だな。 我が軍の周囲で、彷徨き回っていた奴は。 見張りや兵を随分殺してくれたようだが、仇は取らせて貰うぞ」

「……流石だな、江東の虎」

ぞくぞくします。孫堅本人が、本気で殺しに掛かって気配を殺している私に気づいていたとは驚きでした。まさか、これほどの使い手であったとは。さて、此奴をどう殺してやろうか。茂みから姿を現した私に、孫堅は眉をひそめたようでした。

「気配は感じていたが、やはりもののけの類か。 貴様、何を求めて、この乱世に漂っている!」

「他の人間と同じく。 私は影に潜む者。 影に潜むのであれば、影なりの栄達を果たしたい」

「故に、私の首を狙うか」

「それだけではない。 お前は滅びを招く者だ。 乱世を拡大させることがあっても、集束させることはない。 だから細作達の間で、消すことが決定していた」

その言葉に、孫堅は大きく眉を跳ね上げました。苦笑が漏れます。

「何だ、ひょっとして漢朝の忠臣でも気取っていたのか?」

「黙れ」

「お前が洛陽から何を持ち帰ったか、知らないとでも思っていたのか? この湖賊上がりの逆臣が」

そう、焼け落ちた洛陽から、彼が持ち帰ったもの。正確には、そう噂されているものがあるのです。あくまで細作達の間で、ですが。

それは玉爾。一言で説明すると、皇帝の使う判子です。公式の文書には、この玉爾が押されることになります。噂によると秦の始皇帝が作らせたものだとか。始皇帝と言えば暴君の代表として、特に儒者には蛇蝎のごとく嫌われているのに、その威徳は今でも健在なのだから面白いですね。

もちろん、孫堅を怒らせるための罠です。まともに戦って、勝てる相手ではありませんから。父母なら格上の相手を仕留めるような技術も持っていたでしょうが、何しろ未熟の身。相手が万全では勝てません。

激しく切り結ぶ周囲。ゆっくり剣を構え上げる孫堅に、私は無形のまま、更に言葉の暴力を投げかけます。怒らせるためです。怒らせるため。うふふふふふ。

「そういえば、昨日仕留めたお前の部下は面白かったな。 両足を抉って逃げられないようにしたら、孫堅様、助けてくださいとかほざきおったわ。 面白かったから、そのまま両目を抉ってみたら、ぴいぴい悲鳴を上げてな。 ついつい楽しくて、死なないように徹底的に痛めつけてから首をそぎ落として、お前の陣に放り込んでやった。 死体は焼いて食ったが、なかなか美味だったぞ」

「……っ! お、おのれっ! もののけめ、生かしておくと思うな!」

「お前の出来が悪い息子、孫策だったか。 やつも同じようにして殺してやる。 わははははははははは! そして死体は焼いて食ってやろう!」

孫堅の理性が切れるのが分かりました。こうなってしまうと、どんな達人も、ただの剣鬼にすぎません。

もちろん、普段ではこんな安い挑発、絶対に引っかからなかったでしょう。焦りが高じて敗戦を喫し、多くの部下を失い。そして見たところ、息子達ともはぐれてしまった。その状況が、彼の心を平静にはさせないのです。

「おおおおっ!」

気合いの声と共に、孫堅が斬りかかってきました。正中線を抜きに掛かる一撃を、ふわりと横に逃れます。跳ね上がった剣先が首筋を狙って追ってきますが、しゃがんでかわすのです。ははは、剣の軌跡がガタガタです。

しゃがみ際に、足下を軽く剣で薙いでやります。こういう相手は、まず足です。むっと呻いた孫堅が、それでも剣を振り下ろしてくるので、横っ飛びに。ころんと転がって避け、剣に残る手応えを楽しみながら跳躍。首をはねようと飛んできた剣の一撃を避け、幹を蹴って飛び上がり、枝に捕まります。

そのまま、遠心力を利用して、強烈な蹴りを顔面に叩き込んでやりました。私の体重は孫堅の半分ほどですが、呼吸と勢い次第でどうとでもなります。けけけけけ、楽しいです。実に面白いです。

怒りに我を忘れている相手は、こうして機動力を削ぐのが基本です。顔を押さえかけた孫堅の脇を通り過ぎながら、また腿に一刀。今度はかなり深く入りました。鮮血がしぶきます。頬に飛んだ血を舐めます。美味!

「息子には、手出しをさせん!」

予想を遙かに超える、鋭い一撃。避け損ねて、頬を掠めました。玉のお肌が切り裂かれて、血がしぶきます。カチンと来ました。避けざまに、懐刀を投げつけてやります。腿に直撃。傷口を更に深く抉る一撃に、孫堅は呻いて、体勢を崩します。同時に間合いを詰めて、顎を平手で突き上げてやりました。歯が数本、砕けて吹っ飛びます。

横転した孫堅が、荒く息をついています。

万全の状態では、こうはいかないのが目に見えていました。度重なる戦いで疲れ果てて、精神も均衡を失って。更に奇襲を掛けて怒らせて。やっと私に勝ちの目が出てきているのです。

そして、今、勝敗は確定しました。

「遺言はー? 覚えておいてあげてもいいですよー?」

いけないいけない。つい地が出てしまいました。喋る時は重厚な感じにしようとしているのですが、興奮しすぎるとこうなるのは、昔から治りません。でも、ひひひひひひ。あまりにも楽しすぎるので!抑えきれないのです!孫堅の護衛を打ち倒した部下共が、引きつった顔で私を見ています。

「策、強く生きろ。 父のような、後ろめたさの残る男にはなるな。 偉大な覇王になれ」

「安心しろ。 孫策はお前よりも有望そうだから、生かしておいてやる。 乱世を集束する可能性があるのは、あの男だろう。 もっとも、今は袁紹将軍や曹操将軍のほうが、ずっと見込みがあるが、な」

それを聞いて、孫堅は安心したような、絶望したような、とてもそそる表情を浮かべました。

それでは、最後の時間です。

私はおもむろに、手にしている刀を振り下ろしました。

 

落ち武者狩りをしていた呂公将軍は、私が持っていった孫堅の首を見て、大喜びしました。切り落とす時の感触は、正直絶頂ものでした。だから、手放すのがとても惜しいです。煮込んで頭蓋骨を出した後に、磨いて磨いて、飾っておきたいくらいなのです。

「良くやった! これで私は、更に出世することが出来る!」

小躍りする呂公を見て、やっぱり、とても不快になりました。

呂公は砂金がたっぷり入った小袋を寄こしました。黄祖将軍から約束されている報償はこんなものではないのですが、まあいいです。それよりも、もっと大きな問題があります。

こんなアホに、孫堅のあたまを渡してやるのは惜しいのです。同じ名家の出身者でも、此奴には王威将軍と違って殺意さえ湧きません。

そういえば、さっき孫策の情報が入りましたっけ。部下が知らせてきたところによると、200ほどのまとまった兵力と共に、此方に敗走しているとか。

なら、孫策に、父の敵を討つ好機を与えてやってもいいですか。うん。そうしましょう。このアホに殺されるくらいなら、孫策もそこまでと言うことです。どうせ逃げ延びたって、器が足りなければ袁術将軍に飼い殺しです。今回の損害から言っても、長沙を維持するのは不可能でしょうし。

しかし、今呂公将軍が率いている兵は3000を超えています。いくら何でも、経験が足りない上に敗走兵を率いている孫策が仇を討つのは無理があります。しかも呂公将軍には油断もなく、部下達も敗残兵狩りで殺気立っていて、隙がありません。

そうだ。ちょっと残酷なことを思いつきました。うきうきします。お口直しに、ちょっと遊ぶことにします。

つい先ほど、敗残兵を狩っているときに、孫堅の飼っていた細作を一匹処分しました。それの言葉遣いや口調を思い出します。これでも、声の音域が広い女の子です。男の声くらいは真似できるのです。

数秒で声を変えました。呂公将軍の所から離れてから、部下共に、振り返ります。

「少し、外す。 お前達は散って、落ち武者狩りに専念せよ」

「は。 しかし頭領、もう充分に殺したのではありませんか」

「まだ序の口だ。 それに、これから向かう先では、殺すのではない」

もっと楽しいことをするのですが、それは部下には敢えて言いません。部下達が散るのを見届けると、私は北へ、気配を消しながら向かいました。

山が終わると、身を隠す場所が減ってきます。木に登って、周囲を確認。こう言う時は敵と誤認されるのが一番危険ですから、劉表軍にも姿を見せないようにしなければなりません。少し面倒ですが、細作の悲しいお仕事が故なのです。

見えてきました。孫策です。周瑜も側にいます。

どうやら巧みに敵のいる辺りを避けて来たようです。しかし此処は難所。山の中には私の部下達がいて、その北の山道には呂公将軍の率いる兵士達が堅陣を組んでいます。南の荒野は、誰もいない代わりに、身を隠す場所がありません。

しばらく騎乗して考え込んでいた孫策は、何と南へ足を向けました。これは意外です。全速力で、荒野を越えるつもりでしょう。なるほど、確かに前に伏せている兵はいないし、後ろだけを気にすればいいわけです。

孫策の力量は、父を超えているかも知れません。経験を積めば何処まで化ける事やら。楽しみな話ですね。

いずれにしても、走り出してからは全てが台無しです。身を隠しながら近付いて、廃屋の中から語りかけます。

「孫策殿下」

「父上の細作か」

「左様にございます。 残念ながら、孫堅様が、討ち取られました」

馬上で、孫策が止まりました。同じように馬に乗っていた周瑜が、何事かと馬を寄せます。わなわなと震えていた孫策は、口を必死に抑えて、呻きます。それは辛いことでしょう。

他人の苦悩は大好物です。それを引き出したのが、自分の腕だというのがまた素晴らしい。実力がないことに苦悩し続けた日々が、嘘のようです。ああ、修練で身につけた力を振るうのは、なんと快感なことか。

「見届けて参りました。 孫堅様を討ち取ったのは、呂公将軍です。 山道にさしかかったところを岩を落として。 流石の孫堅様も、武勇の発揮する間もなく」

「何と。 父上が、そのような、そのような!」

「細作、ご苦労であった。 好きなように落ち延びるがいい」

周瑜が、まだ幼さの残る声で、ぴしりと言い残します。これは、孫策よりも、此奴の方が手強いかも知れません。まあ、どっちにしても。もしこれから呂公将軍の軍勢に絶望的な突撃をかけるようなら、それまでの器です。

周瑜がむせび泣く孫策の隣に馬を寄せて、何かささやいています。聞き取ると、落ち延びるのだとか、今はこらえろとか、言っています。面白くない奴です。でも、手強い相手です。

此奴も私が勝手に作った抹殺帳に入れようかと思いましたが、ちょっと考え直します。抹殺帳には私より年上の相手しか入れないことにしているのです。此奴らはまだ嘴の黄色い小鳥に過ぎません。殺すのは、自分規約に反するのです。

「あの細作は信用するな。 何だか妙な雰囲気だった。 ぴりぴりするような悪意を感じたんだ」

「し、しかし、公瑾! 父の敵を討たずして、武人と言えようか!」

「伯符、兎に角、今は落ち延びるんだ。 程普殿もかろうじて生き残ったようだし、韓当殿も黄蓋殿も逃げ延びられた。 仲謀はまだ幼いし、お前だけが孫家の希望だ。 今は生き残る事のみを考えるんだ」

字(あざな)で呼び合っていることからも、二人がとても親しいことが分かります。字というのは、親しい相手だけが呼び合う第二の名前みたいなものです。ちなみに伯符が孫策、公瑾が周瑜です。二つの名前を一緒に呼ぶことは絶対にありません。

自分のことをけなされているのに、気分が良いのは何故でしょうか。若くて有望な者達が、育とうとしているからでしょうか。私は静かにその場を離れました。孫堅軍の大物はどうやら網を脱してしまったようですし、この場にとどまっていてもあまり兜首は取れそうにないからです。

何にしても、楽しい日です。生まれてこの方、こんなに楽しい日は初めてです。

ふと、振り返ると。孫策が無念に唇をかみしめながら、南の荒野を駆け抜けているのが見えました。どうやら奴はまだ生き延びるらしいと、私は思いました。

 

長い夜が始まって、そして明けて。完全に黄祖軍に奪還された江夏城側の拠点に戻ると、部下達が集結していました。

自席に着くと、まだ返り血を拭いていない部下が、抱拳礼をします。

「頭領、大勝利です」

「そうか」

「三人が死にました。 同盟軍と協力して、七の兜首を取りました。 旗本は二十七人を仕留めました」

「うむ、ご苦労」

確かに大戦果と言うべきでしょう。すぐに取った首を、黄祖将軍の所に送り届けるように指示します。もちろん、同盟軍にも働きに応じての礼金を出さなければなりません。それらの計算は私がすることにします。もちろん、黄祖将軍への報告も、私がしなければなりません。

「よし、それでは各々休め。 後は私がやっておく。 数名、首をまとめるのと、届けるために働いてくれればいい」

「は。 ありがたき幸せにございます」

残業がつくのも、頭領だからです。細作達は、普段からこんな仕事ばかりしている訳ではありません。普段は何の変哲もない農民であったり肉屋であったりするのです。そうして、戦乱の時には暗躍する。それが基本なのです。

今回のような仕事は、細作としては裏の裏。本当であれば、情報収集が基本となります。私は中小組織の頭領だから武術を磨いていますが、大手の組織になってくると、それさえ必要なくなってくる場合があります。

部下達が、荷車に首をまとめました。私は気配を消して、その後ろからついていきます。丸焼けになった城門の前で、見張りの兵士達がぎょっとしました。荷車に並べられた、札の着いた首の山を見れば当然のことでしょう。

黄祖将軍が、すぐに出てきました。そして首の山を見て呻くと、部下に首実検するように命じて、奥に引っ込んでしまいました。顔を隠していた部下が、抱拳礼をしてから帰路につくのを見届けて、私は黄祖将軍の後を追うことにします。もちろん。兵士達には、存在を気づかせません。

黄祖将軍は、裏庭に出ると、疲れたように歎息しました。

「林。 いるのだろう」

「此処におります」

「このたびの働き、ご苦労であったな」

「は。 ありがたき幸せにございます」

うっかり将軍らしくもない、しおらしい言葉です。流石の私も、ちょっとびっくりしました。

「林よ、そなたにも親はいるのか」

「これでも人間であります故。 ただ、もうこの世にはおりませぬが」

「そうか。 そなたが討ち取ったと言っていた孫堅だが、奴にも年若い息子達がいたそうだな。 あの無念の表情を見ていたら、何だか妙な気分になってきた。 江東の虎と恐れられた武人が、あのような表情を浮かべて果てるとはな」

その表情を浮かべた原因が、私にあるといったら、黄祖将軍はどんな顔をしたでしょうか。ちょっと興味がありましたが、今はまだお客様です。あまり驚かせると、後の仕事に影響が出る可能性があります。

「あれほど恐ろしい男であったのに。 孫堅も、人の子だと分かったら、何もかもが虚しくなってきた。 儂は、何のために武人になったのだろう。 今後も儂は、無能な息子に渡してやるために、江夏を守るのだろうか。 孫策に殺されてやるために、この首を守るのだろうか」

独白は続きました。武人としての黄祖将軍は、決して弱い男ではありません。それなのに。今彼は、闇に対して、全ての弱音をぶちまけていました。

「今後も、儂は無能な男として、蔑まれるだろう。 何だか、それも当然だと思えてきたわ」

「あまり思い詰めませぬよう」

黄祖将軍をいたぶっても、あまり面白くありません。元々ただの小物で、戦争屋だっただけの男です。それが、仇敵の首を見て、ただの男に戻った。それだけの事なのです。私にはあまり関係がありません。

「褒美は、後で届けておく。 もう、下がって良いぞ」

「は。 何かありましたら、またお呼びください」

凄く黄祖将軍は疲れ果てた顔をしていました。さっきの独白が気になります。出来が悪い自分の息子と、孫策を対比したのでしょうか。それとも同じく親であることを考えて、孫堅の死に様を儚んだのでしょうか。

部下に三交代でこの場を任せて、すぐに拠点に戻ります。後は書類と、報償の分配をしっかり済ませておかなければなりません。部下達の中には、もう眠っている者達がいます。昨晩中激しい戦いに身を置いていたのだから当然です。

私も疲れていますが、昨日があまりにも楽しかったので、どうせ興奮してしばらくは眠れません。せっせと竹簡に筆を走らせて、仕事を済ませます。こういう行動が、部下の忠誠心を刺激しやすいのだと、父母は言っていました。だから、せっせと得点を稼いでおくのです。

全ての仕事が終わった時には、夕刻になっていました。流石に少し眠くなってきたので、報償を同盟軍に分けると、拠点の隅にある寝床に潜り込んで、さっさと眠りにつきます。さっき黄祖将軍を任せてきた部下も、もう交代で休んでいるのを確認したので、これで最後です。

大きく欠伸をすると、ここ数日の楽しい仕事を思い浮かべながら、眠りにつくことにします。まだまだこの乱世では、楽しむことが出来そうだと、私は思いました。

 

5、流水

 

安寧の地として人々を集めた荊州。平穏の土地。文化が花開いた場所。

しかし時が加速したような乱世の中では、荊州も安泰とは行きませんでした。専守思想の劉表様が治めていても、それは同じ事です。

荊州侵攻が失敗した事で、孫堅軍は解体され、袁術将軍の軍勢に吸収されました。本拠地の長沙も維持できないほどの敗北を喫したからです。しかし数年後、孫堅の息子である孫策が、どういう方法でか袁術将軍から兵を借り、江東へ侵攻したのです。噂によると、孫堅が洛陽で獲得した玉爾が質草になったのだとか。あくまで、噂ですが。実際は袁術将軍の一将として孫策は動いていたので、領土欲を刺激したのでしょう。

旧孫堅軍幹部をことごとく従えた孫策軍は強く、腐敗していた上にまとまりも欠いた江東を瞬く間に制圧した、と表向きはなっています。ともかく江東を支配下に置いた孫策は、袁術将軍から独立すると、国力を蓄え、荊州への侵攻を開始したのです。

間隔は実に五年空いていました。孫策が国を立て直すのには、五年かかったのです。それほどの無惨な敗北だったと言うことになります。

復讐に燃える孫策と、呉の精鋭が、何度となく江夏に侵攻を行いました。

それから、後の歴史家の首を傾げさせる、不思議な戦いが始まりまったのです。

孫策軍は毎度毎度江夏に侵攻します。そして必ず勝つのですが、大きな被害を出し、江夏を確保も出来ずに撤退するのです。城を落としたと宣伝する戦いもあったのに、何食わぬ顔をして、黄祖将軍は城にいます。そればかりか、孫策軍の名だたる将が、何度も戦死しているのです。

それらの経緯と裏の真実を、私は全て知っています。しかし、今はもう関係のないことです。

中原で勢力を伸ばした曹操将軍に召し抱えられて、その直属の細作になったからです。組織の規模も大きくなりました。袁紹に召し抱えられていた羊大人が官渡の戦いで没落し、組織を立て直す前に老衰で死んでしまい。彼の部下達を吸収したと言うこともあるのですが。

今、私がいるのは、曹操将軍、いや曹丞相がいるギョウ都です。袁紹の残党達を滅ぼし尽くし、赤壁で大敗はしても揺るぎもしない大国家を築き上げた曹丞相に、ある日私は、不意に呼びかけられました。床下に隠れて、執務中の丞相を監視していた私は、きちんと反応しました。

「林よ、いるか」

「は、此処におります」

「今、呉から届けられた細作の報告書を読んでいた。 それで黄祖について気になることがあってな」

実は、曹丞相と黄祖将軍は、それなりに因縁のある相手です。曹丞相が友好のために派遣した外交官を、殺してしまったという経緯があるからです。非常に無礼な外交官だったという話ですが、あまりにも常識外れな行動です。既に膝元を離れていたので推測するしか無いのですが、黄祖将軍もあの時はどうかしていたに違いありません。ただ、それも見越しての外交官派遣であったらしく、曹丞相はむしろ結果にほくそ笑んでいました。

既に現在、荊州は滅び、幾つかの勢力によって分割統治されています。赤壁の戦いの際、既に劉表様は老衰死していました。荊州政権は曹丞相の圧倒的な大軍を支える術が無く、降伏を選びました。そして、荊州は滅びたのです。その後、赤壁の戦い後の混乱で、その勢力は分断されました。分断した一つは呉です。悲願がやっと叶ったのです。一度煮え湯を飲まされた相手と戦う為もあるでしょう。丞相は今、熱心に呉の戦歴を研究しているのです。

「江夏を巡る戦いの経緯が、おかしいように思えてな。 お前はかって、劉表に仕えていたと聞いている。 真相を話せ」

「真相と、言いますと」

「報告書では、ひたすらに黄祖を愚将呼ばわりし、戦えば負ける暗愚の者として書いておる。 それは本当か」

「嘘にございます」

個人的に、呉にはあまり興味がありません。せっかちに勢力拡大をした孫策が、軽率な粛正行動の果てにあっさり暗殺者に殺されてから、興味が失せました。殺ったのは私ではありません。だから余計腹が立ったというのもありますが。

ちなみに実行犯の黒幕は、私が唾を付けていた相手に手を出したことを、地獄で悔いているでしょう。それはもう、考えつく限りの残酷な殺し方を試しましたから。

何にしても、実際の呉成立には、「四家」と言われる強力な土豪の思惑が絡んでいます。孫権はその上に乗ったに過ぎません。孫策はそれを拒否したから殺されたのです。そして私が、四家の力を削ぎました。

どっちにしても、くだらん権力闘争の末に玉座を築いた今の呉には興味がないので、直接私は探りません。はっきり言ってどうでも良いので、適切な能力の部下を潜入させています。どうやら彼は、当たり障りのない、呉が「正当な歴史として考えている」ことばかりを情報として送ってきているようです。

「呉の荊州侵攻は、黄祖将軍が生きている間は、ただの一度たりとも成功はしませんでした。 毎度黄祖将軍によってはね除けられ、這々の体で逃げ帰ったというのが真相にございます」

「さもありなん。 もとより呉の者どもは己の戦果を過大に報告する悪癖があるが、これからはそれを加味して考えなければならぬな」

丞相が促すので、言わなければなりません。この人に逆らうことは、今や中華全てを敵に回すのと同じです。

「黄祖将軍は確かにうっかりと言われるような、粗雑な人物で、愚かな面も多々見られましたが。 どうやら孫堅の死によって、一皮剥けたようにございます」

「ほう」

「私めが討ち取った孫堅の顔を見て、息子を必死に守ろうとした姿に、感銘を覚えたようにございます。 将としての手腕は元々高かったのですが、それでなにやら重厚さが加わりました」

以降は鉄壁となって、黄祖将軍は江夏を守り続けました。最後に将軍を見たのは、建安11年。髪にも髭にも白い物が増えた将軍は、江夏城の城壁の上から、群がる呉軍を悠然と見下ろしておりました。

鍛え抜かれたと喧伝されている呉軍は、江夏に籠もる黄祖将軍の軍勢に、何度挑んでも歯が立ちませんでした。無能だ保守的だと言われていた劉表様と、その下で軍務を取り仕切った蔡瑁将軍と、それに前線で敵をはね除け続けた黄祖将軍が生きている間は、荊州の守りは鉄壁だったのです。

だから荊州は平和でした。

黄祖将軍の最期は、建安13年の事であったと聞いています。あの赤壁の戦いの、前年のことでした。何でも呉軍が撤退する時に乱戦になり、馮則なる騎兵の放った矢が当たった事による死だったと聞いています。ただ、これにはおかしな点が多くて、私は疑っています。

少し前から、黄祖将軍は肺を患っていました。劉表様の体調が悪いこともあり、更に息子は暗愚揃い。蔡瑁将軍と客将である劉備殿との争いは表面化。荊州は分裂の危機にありました。自分の愚かな息子と、呉軍の人材の豊富さ、北方の憂いが無くなり、いつでも大軍を動員できる曹操様。それらの状況から、如何に戦略的な識見が乏しくても、黄祖将軍は気づいていたのでしょう。もう荊州が長くはないことを。

黄祖将軍の死は、自殺に近かったのではないかと、私は睨んでいます。事実その後も江夏は陥落することなく、劉表様の長男が入ることによって、呉軍の侵攻を阻んでいたのですから。

結局、その後曹丞相が侵攻すると、荊州はあっさり陥落しました。蔡瑁が降伏を決めたからです。劉表様の幕僚達は曹丞相に召し抱えられ、黄祖将軍の家族も例外ではありませんでした。

黄祖将軍の息子は、今でも健在です。曹丞相の下で、下っ端の将軍として働いています。それ以上出世をすることもないでしょう。誰でも出来るような後方勤務をしているので、失敗もしないでしょう。

いずれにしても、其処までの厚遇を引き出せたのも、黄祖将軍が呉軍をはじき返していたからです。故に豊富な人材が保たれ、曹丞相も厚遇せざるを得なかったのです。事実蔡瑁将軍の他にも、曹丞相の部下として活躍している荊州出身者は少なくありません。

それらを説明すると、曹丞相は大きく呻きました。

「戦人としてはそこそこに出来る奴であったようだな。 だが、そのような男が、どうして儂の派遣した外交官を殺すような暴挙に出た」

「さあ、其処までは私には分かりませぬ」

「狂気であろうか」

曹操は歎息すると、筆を休めて窓から外を見ました。しとしとと雨が降り続けています。狂気。確かにそうかも知れないですね。

黄祖将軍は自殺同然の最期を遂げたことからも、精神を病んでいた可能性があります。元々、高いプライドと、酷い命令の間で苦しんだような、脆い心の持ち主であったのですから。長い子による圧迫と、孫堅の死による決定的な精神的打撃によって、どこかが壊れてもおかしくはありません。

そんな脆い奴だったからこそ、狩る気にはならなかったのも事実です。

曹丞相は再び竹簡の上で筆を動かし始めました。そして、私がいる方向を把握しているにもかかわらず、視線も向けずに言いました。この人は、こういう事を良くします。基本的に無駄なことは一切しないのです。非情にして冷酷。それが曹丞相の本質です。しかし、不思議なところで情がある事を、私は知っています。

「林よ」

「はい」

「恐らく、この乱世が終わる時、史書が編纂されることもあるだろう。 その時、呉の侵攻を阻み続けた黄祖は、下らぬ恨みから稀代の愚将として記されるだろう。 呉は安定した政権として、その根を大地に張り巡らせた。 それに対して、黄祖の事を知る者達は四散してしまったからな」

「恐らくは、丞相の仰せの通りであるかと」

恐らく私よりも何倍も冷酷なはずの丞相は、何の仏心を起こしたのか、言いました。

「お前だけは、覚えておいてやれ。 荊州を支え続けた黄祖の事を。 呉は、ついに奴を倒すことが出来なかったと言うことを」

「心得ました。 呉が、黄祖将軍のことを隠蔽しないように、少し手も回しておきましょう」

「それは好きにするが良い」

それきり、曹丞相は黄祖将軍に興味を失ったようでした。最近の荊州、益州の動向や、西涼の状況を聞かれます。それらに答えながら、私はふと思いついて、呉を経由して荊州に出かけることにしました。

 

暇つぶしに呉の首都である建業に侵入。宮に忍び込んで、呉の当主である孫権の息子を一人仕留めた私は、首をちょん切って持ってきました。此処は荊州江夏。今は孫堅の配下になっている、劉備の勢力下にある土地です。強力な水軍が整備され、有能な官吏達が政務を行うことで、安定した政権が実現しています。呉では大騒ぎになっていますが、此処は静かなものです。

その片隅に。誰も知らない、小さな墓があります。

黄祖将軍の息子は、紛れもなく軍人としては無能でしたが、友情には篤い良い男であったようです。また、一つだけ、良いことをしました。荊州政権が長くないことは予想していて、父の墓を目立たぬように作ったことです。山の中に分け入っていくと、名前も書かれていないほこらが見えてきました。

これが、黄祖将軍の墓です。

まるで辻堂の神様のように、何の霊験もないと、曹丞相の外交官に罵られた黄祖将軍。それが、本当に辻堂の神様として崇められるようになるのだろうと思うと、気分は複雑です。この何だか分からない祠のような墓が、いずれは信仰の対象になるのは目に見えています。

もはや黄祖将軍の息子である黄射将軍は、ここに来ることが出来ません。だから、これは私なりの心遣いです。

近くに穴を掘って、ちょん切ってきた首を埋めます。そのままだと腐るので、道中、適当に見つけた桶で煮込んで、肉も髪も脳も綺麗にそぎ落として、しゃれこうべにしてきました。だから埋めても、臭いが周囲に漏れることはありません。

どうせ乱世ですから、死骸なんぞそこら中に転がっています。ただし、まだ幼いしゃれこうべがこんな所に埋まっていると知ったら、さぞ孫権は憤激する事でしょう。それを想像すると笑いが止まりません。ちなみに体の方は、煮込んでからばらばらに切り刻んで長江に捨ててきました。今頃は魚の餌です。

「黄祖将軍。 林ですよー。 久しぶりに来ましたよー。 ああ、地を見せるのって、これが初めてでしたっけ」

今は子供もいる私ですが、たまに地に戻ったりもします。不思議なことに、子供がいるのに、子供を殺された親の気持ちなんか分かりません。というか、他人は今でも、命も心も含めて全部玩具です。

両親に叩き込まれたこの思想ですが、おかげで強くなることが出来ました。他者は全て玩具だと割り切ることで、それを楽しむことで。変に情が湧くこともありません。何が相手でも、情け容赦なく仕事をすることが出来ます。ただ、それでも時々思うところはあるのです。

「どんな気分ですか? 劉表様と、貴方と、蔡瑁将軍が連携できていた時は、呉は荊州に一切手出しできなかった。 それなのに、貴方が死んだのを皮切りに、全てが雪崩のように壊れていった」

祠の周囲を、掃いておきます。水を打って埃を落とすと、地元の住民らしいのが、不審そうに此方を見ながら通り過ぎていきました。江夏に住む平均的な女の格好をしているので、まさか細作だとは思われないでしょう。

「乱世はまだ終わる気配もないし、貴方の業績は今後、否定される一方でしょう。 貴方は今後、何を思って此処から荊州を見守るんでしょうね」

そうそう、流れ矢に当たって死んだのに、首を打たれたことになっているらしいですよと、苦笑しながら説明。私は死者が鬼になるなどと言う戯言は信じてはいません。しかし、黄祖将軍は此処にいるような気がしました。

見えてきます。黄祖将軍の姿が。祠の少し前で立ち、腕組みして、複雑な表情で呉をにらみ付けています。用兵の才は限定的で、視野も戦場に限定されていて。気は短く、中年になるまで芽が出ませんでした。この人が本領を発揮したのは、孫堅の死に顔を見て、意識が変わってから。それからほんの数年だけのことです。

決して有能な人とは言えませんでしたが。しかし、紛れもなく荊州の守護者は、この人だったのです。もしこの人がいなければ、呉はもっとずっと早く勢力を拡大していた可能性が高いのです。そうなれば、今の乱世は、もう少し違う様相を見せていたかも知れません。

巨大な才能を持つ英雄達の影に、こういう地味な男の、些細な人生がたくさん埋もれているものです。

それを摘んできた私は、知っています。歴史は、そういった影と埃が山ほど積み上げられて、出来たものなのだと。そして時に英雄でさえも、そういった小さな山に足を取られて、進めなくなるのだと言うことを。

私達細作が作る歴史など、所詮は限定的なものです。孫堅は私が殺さなくても、いずれ横死していたでしょう。それだけ大きな力が、あの戦いでは働いていたからです。孫堅はそれに押しつぶされたのです。

今の年になって、それが分かるようになってきました。彼の人生には、無理が来ていたのです。運命に抗うのが人間ですが、しかしどんな英傑でも、多くの者が積み重ねてきたものには逆らえないのです。

私は今まで、その隙間を縫うことで好き勝手をしてきました。しかし、はてさて。それもいつまで続くことか。まあ、滅びが来るなら、それはそれです。自分が死ぬことも、私にとっては楽しい遊びの一つです。

しばし無言でいた私ですが、帰ることにしました。仕事が待っているからです。帰ったら、丞相の言うままに、彼方此方で情報を集めたり、暗殺したりしなければなりません。中には、漢朝に心を寄せる善良な臣を殺すようなものもあります。楽しくてうきうきしてきます。

最後に、一つだけ告げることにしたので、振り返ります。

「あ、そうそう。 その首は土産です。 なんと、孫権の息子ですよー。 暇つぶしに呉の力を削いできました。 貴方の子供はもう此処に来られないでしょうから、せめてそれで寂しさを紛らわせてください」

黄祖将軍の幻が、不機嫌そうに、此方を見ました。最近、こういう現象が時々起こるようになりました。鬼などいないと信じているのに、不思議な話ですね。しっかり声まで聞こえてきます。

「林よ。 お前は、以前は怪物そのものだった。 だが今は、少しは人間らしくはなったのだな」

「ご冗談を。 私は今や、この中華最悪の細作ですよ」

「そうか。 だが儂には、人間らしく見えたものでな。 息子は、無能でどうしようもない男だが、そつなく生きることは出来るだろう。 出来れば、見守ってやってはくれまいか」

「いいでしょう。 何だかんだで、貴方には世話になりましたから」

抱拳礼されたので、私も返します。中年までは、父から継いだ力と、乏しい才能にしがみついたプライドだけで生きてきたようなこの人が。死んでから、ようやくこんな行動を取るようになったとは、驚きでした。

さて、帰ることにします。江夏の端にある港から、船に乗って、寿春に向かいます。そういえば、以前孫堅を殺す時。こんな風に船に乗って、寿春に向かったものでした。あの時とは何もかもが違っていますが。それでも長江の流れは変わらないものなのですね。

これからも私は闇に潜み、思うままに邪悪と殺戮をばらまき続けるでしょう。

しかし、この流れには逆らえそうもないだろうなと、思いました。

 

(終)