パラダイムシフト

 

序、観察するもの

 

世界を観察している者がいた。

元からあった世界に、僅かだけ手を加えて、後は一歩退いてただ観察するだけの存在である。干渉もしなければ、手助けもしない。自分がばらまいた情報取得端末の調整は行うが、基本的に世界の営みには手を出さない。

ただ観察するだけのその存在は、それ以外の目的を持たない。上位存在の要求に応じて情報を集め、整理して納品するだけである。それで全てに満足する。快楽すらその過程で得る。そう作られたからだ。

辺りには無数の光点。絶え間なく点滅しており、全てが情報を示していた。高密度で情報が飛び交っているのだ。照度は高く、空間の隅から隅まで見回す事が出来る。情報は多岐にわたる。存在する国家の名称から、特産物の情報もある。人口密度などもグラフ化されている。青く点滅しているのが、人間の密集地域。赤く点滅しているのが、情報取得端末の配布地域だ。最近、赤い点滅が消える事があまりにも多かった。増産が決定されているが、一定以上の数には増やさない。今後は人間に攻撃されにくい情報取得端末に移行する事となるだろう。

今観察者が担当しているのは、興味深い世界だった。常に観察する世界にはパターンがあって、人間という生物が生息するものに限られる。この世界の人間は、遺伝子的に他と差別化が図られている。繁殖率がかなり低めである一方、個体の戦闘能力が高い。その結果、世界がどのように動いていくか。興味深いデータが集まっている。最初に手を少しだけ加えた後は、以降を見守るという上位存在の行動は一切変わっていない。観察者もそれに疑問を抱いてはいなかった。

人間の面白いところは、時に現れる個体によって、大変革が生じる事である。大陸全土で殺戮の嵐が吹き荒れたかと思ったら、宗教思想が燎原の火のように広まる事もある。巨大なうねりを起こすのは、ごく少数の個体である事が多い。観察者の密かな楽しみは、そういった存在の誕生を見守る事であった。

今、シグザール王国にいるマルローネという個体が、その大変革誘因者である事を、観察者は確信していた。様々な情報から、それはほぼ疑いがない。後はいつ大変革を起こすのかが楽しみだった。その後、世界がどのように揺れ動くかも。

観察者の時間感覚から言えば、ほんの僅かな時間を生きる者。だが、その生きるエネルギーは、とてもまばゆい。全ての個体の能力が基本的に高い事も相まって、この世界はとてもエキサイティングで、見ていて面白い。

今、マルローネは苦悩の中にいる。だが、それを乗り越えた時こそ、巨大な変革が巻き起こるはずだ。観察者は、マルローネに関する情報の取得が、とても楽しみだった。これからもずっと観察者は、外側から見守る事だけが仕事だ。干渉は出来ないし、しても意味がない。観察者の目的はただシミュレーションを行う事で、それ以上でも以下でもないからである。

緩やかな時間の中にいる観察者は、マルローネを羨ましいと思っていた。変革をもたらす事が出来る能力を持ち、フル活用して生きている。ためらいは殆ど無く、対立者を潰す事を厭わない。そう作られなかった観察者には、永遠に到達できない相手だった。

また、マルローネに関する情報が入ってくる。いつ大変革が起こるのだろうと、観察者は期待しながら、情報を取得した。

 

1,最後の壁

 

マリーは今までになく不機嫌になっていた。賢者の石の生成に取りかかってから、そろそろ六ヶ月が経とうとしているのがその原因だ。最近は営業スマイルを作るのが難しくなってきている。そろそろ抜本的な対策を行わないと、感情が爆発する危険があった。

予定では、賢者の石は三ヶ月強で完成するはずだった。これほどまでに日数を大幅オーバーしているのには、理由がある。

どうしても最後の工程が、上手くいかないのである。

賢者の石は、アロママテリアを主要素材として作る。複雑な調合をした薬品の中につけ込み、様々な温度で熱す。このためにマリーは錬金術ギルドからグライルフを借りてきて、アドバイスを受けて炉を強化したのだ。今のアトリエの炉は、金属加工できるほど強靱に仕上がっている。その強化炉で時には鉄が溶けるほどに熱し、薬品を付け加え、取り出し延ばす。それからまた温度を変える。そうやって加工していくうちに、何度かの変化が生じる。アロママテリアだった正八面体はすっかり丸くなり、途中の行程では無数の細かいとげが生える。かと思うと、今度は板状に伸びもする。色は徐々に抜けていって、最終的には完全に白くなる。これが賢者の石の一歩手前の段階で、「白い石」と呼称される。問題は、此処からだ。

白い石は想像を絶するほどに安定した物質であり、非常に頑強だ。アロママテリアの比ではない。その上、途轍もなく重い。今も地下室に置いているのだが、拳程度のサイズなのに、マリーが全力を籠めてようやく持ち上がるほどだ。一階に置くと床が抜けるおそれがあるので、地下に置いている。この物質、火をつけようが酸を浴びせようがびくともしない。一度などはマリーが全力でロードヴァイパーを叩き込んだにもかかわらず、傷一つ付かなかった。アロママテリアも途轍もない硬度であったが、それを明らかに凌いでいる。

この白い石を、何種かの薬品を混合した液体につけると、賢者の石が完成するとある。だが、何度浸けても賢者の石にならない。指定の日数をだいぶオーバーした時に、マリーはどうやら何かがおかしいと気付いた。

何度もイングリド先生に貸してもらった本を確認した。ヒントが載っていないかどうか、調べた。他にも山ほど文献を漁っては、情報収集に努めた。だが、どうしても最後の一押しが上手くいかないのである。

スケジュール表は、最後の一工程で止まってしまっている。これだけの為に、三ヶ月以上の遅延を生じさせてしまうとは。白い石に関しては、完璧なものだという自信がある。だが白い石は単に硬くて重いだけのものであって、何の役にも立たない。城の礎石くらいなら使えるかも知れないが、そんなものはそこら辺に幾らでも転がっている。

これだけ苦労して、コストもつぎ込んで出来たものが、頑丈で重いだけの石では洒落にならない。錬金術的には価値があるものかも知れないが、マリーは嫌だ。

何十種類もあれから薬品を作った。混合比率を変えてみたり、素材を変えてみたりもした。だが何をやっても駄目だった。白い石は酸だろうがマリーの雷撃だろうが平気で跳ね返す存在である。やり方が間違っていては駄目なのだ。何か、鍵になるような液体と反応させる事で、やっと完成するはずだ。

賢者の石に関する文書は、もう四十冊以上読んだ。その殆どが伝承に触れているだけであり、しかもほんの数行だった。今までマリーは独自のアイテムを幾つも作っているし、様々な調合の比率なども頭に入っている。しかし、それらをどう動員しても、賢者の石は完成してくれないのだ。

流石に頭が煮詰まって、マリーは机をがりがりとひっかいた。爪の間に木くずが入り込んでくる。鬱陶しい。拳を振り落としてぶち割ってしまおうかと思ったが、経済的な損失を考えてやめておく。修行をしても、やはり全く魔力が伸びない事が、苛立ちに拍車を掛けていた。

しかも森の生態系はいまだ回復しきっておらず、ストレス発散に殺戮も出来ない。冒険者ギルドを何度か覗いてみたが、国境ならともかく近場で盗賊団討伐や猛獣退治の依頼は入っていない。八方ふさがりの状態なのだ。

すねていても仕方がないから、爪に食い込んだ木くずを取り出すと、手を洗う。春になったから、もう水は冷たくない。丁寧に手と顔を洗い、アデリーが洗濯した布で顔を拭く。それで多少はさっぱりした。顔を洗うのは基本的な日常行動だが、リフレッシュには非常に効果的だ。

頭を切り換えてから、調査に戻る。シアにも相談はした。核心の部分の写しも見せた。だが、首を横に振るばかりだった。何かしら文章にトラップが仕掛けてあるとしても、シアにもそれは見抜けなかったのだ。専門家ではないので、仕方がない。だが、シアの事だから、多少の文章的トラップは見抜くはず。何か専門的な用語を利用した引っかけでもあるのだろうか。

今まで、アカデミーでも賢者の石の完成品を作り上げた人間は殆どいないと聞いている。まさかこの本の不完全さがその要因か。そう思ったマリーだが、違うと思い直す。もしそうなら、イングリド先生がこの本を貸してくれるわけはない。アカデミーでも、確か純度が低いものや、未完成品は作られているはずだ。つまり、この白い石の段階までは、賢者の石製造に携わった殆どの人間が到達しているのである。

気分を入れ替えて、地下に降りる。もう一度、ウロボロスの本を引っ張り出す。触る時に手袋をするのは、著者に対する敬意からだ。賢者の石の項に移る。他のページもあらかた目は通したが、今必要な情報はない。無いはずであった。

ページを捲り、問題の項に移る。もう何十度読み返したが分からないが、文頭から丁寧に辿っていく。しばしして、マリーはため息を一つ付いた。やはり目新しい発見はない。このページに何か仕掛けがあるのではないかと思って、様々な方向から調査もした。あぶり出しの場合は、特殊なインクや染料が使われるから、臭いで分かる。ページが糊か何かで二重構造になっている可能性は低い。それらの可能性は多角的に分析したが、何も発見はなかった。

賢者の石の解説をしている、最初の項に戻る。其処には、こう書かれている。口に出して読んでみる。

「卑金属を貴金属に変えるそれは、賢者の石と呼ばれる錬金術の最高秘宝である。 錆を生じ腐敗する卑金属を、永遠なる黄金に変える。 それは不死の創造であり、魂の練成でもある。 賢者の石の生成と共に作り手の魂は昇華し、高みへと到達するであろう」

哲学的な文章である。錬金術の極みに到達する事を、魂の練成と称しているのであろうと、マリーは解釈していた。

ページを捲りかけて、手を止める。

今まで、実利面はあらゆる方向から試してみた。もし、この文章を哲学的にではなく、そのままの意味で解釈したらどうなるのか。あまりにも荒唐無稽だと考えていたから、それについては興味を感じなかった。だが、もしも、荒唐無稽ではないとすると。

三ヶ月もかかって、やっと出てきたヒント。今まで浪費した時間を嘆いている暇はない。考えてみれば、今まで無数の錬金術師が老境にはいるまで賢者の石を製造できなかったのは、この文章を哲学的だと捉えてしまったからではないのか。もしも本当にこの文章通りの事だとすると、マリーには心当たりがあった。

ページを急いで捲る。ウロボロスの本のかなり最初の方に、その方法についての記述がある。少し前から、興味を覚えてはいた。成長を止めた魔力。その天井を、打ち破る事が出来るかも知れないからだ。製造は、今の実力ではさほど難しくない。材料も、揃える事は出来る。ただし、かなり値が張る。もし失敗したら、再度の実験を行う金銭的な余裕はないだろう。今まで蓄えてきた金を、七割ほども消耗してしまう。材料に、多くの宝石類を用いるからだ。ドナースターク家のコネクションを用いて値引きするとしても、そのくらいのコストは掛かる。だから、賢者の石を作るのを終えてから手を出そうと考えていた。その予定を繰り上げるべきかも知れない。

しばし考え込んだ後、必要素材のリストを作る。四大元素を代表する宝石、しかも特定以上の大きさである事が条件。具体的には、ルビー、アクアマリン、トパーズ、それにダイヤモンドである。それぞれ炎、水、風、土を示している。幸いなのは、使い終わった後に無くならない事だろうか。これらはあくまで製造過程の触媒として用いるのだ。だから、作業が終わったら売り飛ばせばいい。場合によっては黒字にさえなるだろう。他にもある程度の薬品が必要になる。作り方は書いていないが、理論は分かる。自分でレシピを組む事が出来る。

アデリーが帰ってきた。体の傷が増えている。この間一人でヴィラント山に入って、生還してきた。この間じいをマリーが殺してから、アデリーの修練は凄みを増している。もう実力は聖騎士並かも知れない。採集に連れて行った時見る事が出来るだろう。その時が楽しみだ。

「ただいま帰りました、マスター」

「ん、お帰り。 修行の調子は」

「順調です」

食事は車引きで済ませたと伝えると、アデリーはそのほかの家事をてきぱきとこなして、すぐに裏庭に出た。サスマタを振るう音が、アトリエの中まで聞こえてくる。妙に落ち着く。戦の音は、マリーにとっては心地よい。

順調に調査が進む。数ヶ月ぶりの進捗だから、今までの遅れを取り戻すような勢いだ。アデリーが修練を終え、二階に上がった。明日辺り二人で風呂に行きたいところだ。

外に出てみて、既に夜中になっている事に気付く。今更だが、すっかり時間の感覚が狂っていた。ここ十日ほどは苛々し通しの上、殆ど不眠不休で研究に当たっていたからだ。どうやらまず最初にすべきは、一休みする事らしかった。

パジャマに着替えて、二階に上がる。既にアデリーは眠っていて、静かな寝息を立てていた。ベッドに潜り込むと、あくび一つ。目を閉じて、無理矢理研究の事を頭から閉め出す。

残り期間は半年を切っている。だが、焦れば逆効果だ。せっかくの機会を無駄にしてはならない。明日は朝から宝石ギルドに足を運んで、それから、それから。いかん。研究の事は、今は考えない。

訓練をしているマリーは、目を閉じるとすぐに眠る事が出来る。普段はそうだ。だが、今日はいつになく興奮していた。だから眠れなかった。こう言う時は何か殺してくるとすっきりする。どうしても抑えられない時はメディアの森などの生態系がダメージを受けていない地域に行って殺戮を楽しんでいるから、今のところ暴発には到っていない。だが、近々また殺しがしたいところだった。

気がつくと、朝になっている。さわやかな空気が、やる気を刺激する。隣で寝ていたアデリーを起こすと、マリーは一階に降り、昨日の調査の続きを始めた。

 

宝石ギルドで注文を済ませてから、アトリエに帰宅したマリーは、ドアをノックする音に気付いた。気配から言ってパテットだ。ドアを開けると、やはり完璧な営業スマイルを浮かべたパテットだった。

「おはようございます」

「おはよう。 集金はまだ先じゃなかったっけ?」

「はい、今日は集金ではありません。 お手紙を届けに参りました」

そういえば、アデリーに頼まれて、そういうサービスを注文していたのだったと、マリーは思いだした。

妖精族は各地にネットワークを築いている。今キルエリッヒが赴任している街にも最近妖精族が様々な営業を行っていて、キルエリッヒが保護政策を行っているそうである。誠実な上に仕事が丁寧な妖精族は重宝されていて、元からの敵意を削ぐ特性もあって、じりじりと営業利益を伸ばしているのだそうだ。その過程で、手紙を配達するサービスを始めた妖精族に、キルエリッヒが手紙を託し、アデリーに届けさせたのが切っ掛けだった。アデリーは随分手紙を喜んで、マリーに頼んだのである。

マリーとしても、キルエリッヒとのコネクションを維持する事に異存はない。それにアデリーが何かを欲しがる事は殆ど無い。アデリーは最近、騎士団に頼まれて兵士の訓練を始めている。それでそれなりに稼いでいるので、料金は心配しなくても良い。そして、配達サービスの、最初の稼働が今日だった。

「此方はマルローネさんへ。 此方はアデリーさんへ」

「ありがと。 お、流石は領主様。 良い紙使ってるなあ」

紙は真っ白で、しかもすべすべである。領主の蝋印までもが押されていた。場合によってはドナースターク家に対応を相談するような情報も入っていそうだ。アデリーの手紙は手をつけないで、ちゃんと倉庫にしまっておく。

ナイフで蝋を切って手紙を取り出す。キルエリッヒらしい非常に几帳面な字で、様々な事が書かれていた。何度か肩を並べて戦場を駆けた者の手紙は嬉しかったとか、領主としての仕事が予想以上に退屈だとか、腐りきっていた文官達を根こそぎ降格して、農民達と一緒に働かせて反省を促しているとか、色々ある。几帳面な性格らしく、不正は絶対に許せないのだろう。

これは恩を売る好機である。杓子定規なやり方では、政務は回せない。更に言えば、国から文官を貸してもらってはいるだろうが、現地の人間を完全に無視していてはボイコットを起こされる可能性もある。キルエリッヒは腕が立つし人格的にも優れているが、政治家としての手腕には少し疑問が残る。いざというときのために、ドナースターク家に派遣人員の手配をしておく必要があるかも知れない。ほくそ笑みながら読み進めると、気になる記述があった。

裏付けが欲しい。もしそれが本当だとすると、錬金術の根幹を成す理論をまた一つ崩す事が出来る。賢者の石さえ完成させれば、文句なしの実績が生じる。その上でなら、丁度いい楔になるだろう。すぐに手紙をしたためて、パテットに渡す。後でドナースターク家に行って、派遣する人材についての話し合いを進めておかなければならない。少し忙しい。

「それでは、僕はこれで」

「アデリーも返事を書くと思うから、数日後にはまた受け取りに来てね」

「はい。 手紙を運搬する人員は僕ではありませんから、この辺りにしばらく滞在しています。 だから数日後と言わず、明日にも受け取りに来られますよ。 明日、また来ましょうか」

「そう、ならそれでお願い」

パテットを帰すと、マリーはひとまず今後の戦略を昼以降に考える事として、「魂の練成」を行う準備を進める。宝石類が届くのは四日先だ。たまたま在庫があったらしく、隣の町から馬車で急いで来てもらうのだという。もちろん護衛などもつけなければいけないから、運搬コストもかなり掛かる。割高になる事を覚悟しなければならない。もう、無駄にしている時間はない。宝石が到着したら、即座に調合を開始できるように準備を進めなければならない。

裏庭に魔法陣を作る。今回必要になってくる魔法陣は、中和剤を充填する地下のものとは構造が全く違う。普段薬剤調合でも中和剤を必要とする現状、地下のものを書き換えるわけにはいかない。だから、別の所に作らなければならない。

ウロボロスの本を見て、魔法陣の理論は覚えた。まず雑草を取り除く。蒸し焼き用の竈や、修練用のスペースを考えると、空いている場所は驚くほど少ない。だから、雑草むしりにはさほど時間も掛からなかった。

小石も全部取り除いて、地面を掘り返して柔らかくした後、大型のコンパスを持ってきて素早く円を描く。書いた後は石膏を流し込んで溝を固定。更に特殊な粉末を撒いて、地面を若干固くする。これは錬金術の産物でも何でもなく、街道を整備する時などに昔から使われている粉末だ。屋外で魔法陣を書く時には必須である。ただし、いつも持ち歩いているわけではなく、今回は外で買ってきた。

地面を固定した後は、先端を丸めた棒で叩いて、均す。何刻か待つうちに、地面はしっかり固まった。固まったといっても、思い切り踏みつければ崩れる。ただ、そっと器具類を乗せる分には問題ない。

入念に魔法陣をチェック。それぞれ宝石を埋め込む溝を指先で地面に穴を開け、作る。後は、アトリエの影の具合だ。魂の練成は魔法陣を使う事からも分かるように、非常に術としての要素が強い。作業を行う時、影に入ってはいけないとウロボロスの本にある。ならば、それに従わなければならない。

念入りにチェックし、影が出来ない時間帯を割り出す。結論として、昼過ぎから夕方少し前までは大丈夫だと分かった。胸をなで下ろしている暇など無い。何かまずい要素がないか、ウロボロスの本を調べる。

術としての理論は、本を読んでいれば分かる。これでも術に関しては、マリーは十代の前半から専門家であったのだ。結論から言うと、水晶に関連したものがよろしくない。それらを魔法陣の側から排除する必要がある。もっとも、今の状況では、それを魔法陣から排除するのではなく、近づけなければ良い。

準備は、これで整った。考えが正しければ、これで上手くいくはずだ。

魂の練成。口に出してみる。言葉にすると簡単ではあるが、実際にそれで起こる事はとても強烈な負荷を体に掛けるはずだ。

術の破壊力は魔法陣の構造や宝石を使う点から大体想像がつくから、負荷もほぼ計算できる。一般人なら、恐らく耐えても後遺症が残る。体が弱ければ、心臓が止まる可能性が高い。マリーはたまたま普通の人間よりも体が頑丈だから、耐える事は出来るだろう。後遺症も残らない自信はある。だが、それで良いのだろうか。

錬金術の究極的な目標は、誰にでも出来るという点にあるはずだ。その究極の産物である賢者の石が、結局身体的に頑強なものにしか作り出せないというのは、問題だ。だが結局の所、今現在、賢者の石を完成させてさえいないのである。

武器は誰にでも使える。ただし、厳しい鍛錬を乗り越えた先でなければ無理だ。最初は、誰にでも出来るものでなくとも良いのかも知れない。賢者の石を作り出す事が出来たら、それから改良を行っていけばいい。

アデリーが帰ってきた。裏庭に呼んで、魔法陣の説明をする。絶対に壊さないようにと言うと、無言で頷いた。いい子だ。昔ならともかく、今のアデリーは達人に近い身体制御が出来る。勢い余って魔法陣を壊すような事はまず考えられない。雨が降っても大丈夫なように固めたのだ。人為的な破壊さえ防げれば問題ない。

準備は整った。これで、賢者の石生成作業は一段落である。

後は、宝石が届くまで、シアと話をしておかなければならない。幸いな事に、今日は幹部会議がある。マリーは出席権を持っているし、出ない手はない。今までは色々忙しくて時間が合わなかったが、今回は好機だ。

しばらく前から聞かされていた重要案件がある。実は、来年辺りトール氏が隠居するという話が出てきている。若い頃の激務が祟り、最近体力的な限界を感じているらしいのだ。

頭脳だけ使ってくれれば良いという意見は浅はかだ。体力面でピークを過ぎると、どうしても思考の回転も速度が落ちる。老いは頭から来るとさえ言われているのである。

トール氏の場合は、良くできた娘の存在が、老いに拍車を掛けてしまっているとも言える。もちろんシアには何の責任もないが、村を一手に引き受け続けたトール氏は、やはり無理をしすぎたのだ。だから、どこかで栓が抜けてしまった。あの噴火の時かも知れない。

ドナースターク家は、業績を評価され、公爵になる事が決まっている。だが、トール氏は公爵と呼ばれる事はないだろう。ドナースターク家で最初に公爵と呼ばれるのは、恐らくシアになるはずだ。家臣も増えてきている。噴火の時に、シアはかけがえのない忠臣達も手に入れた。彼らはシアのためなら命だって喜んで投げ出す。ドナースターク家にとってはまさに宝だ。

その中で、マリーはどういう働きをするのか。テクノクラートとしてやっていく自信はある。技術開発の前線指揮官だって務めてみせる。全ては、シアの考え次第だ。

不思議な気分である。常にシアの役割は参謀だった。実業家としてはトール氏の参謀。戦場ではマリーの参謀。それなのに、シアに従う事が、何の違和感もなく頭に入り込んでくる。

せっかく出来た時間だ。それに今までの煮詰まっていた状況とは違い、先が見えてきている。多少は楽に、話し合いをする事が出来そうだった。

ウロボロスの本を金庫にしまい、コートを羽織る。防寒用ではない。ドナースターク家の幹部会議に出席する資格を示すものだ。首からはシアからもらった宝石をかける。もう賢者の石用中和剤の製造工程は終わっているから魔法陣に埋め込まなくても大丈夫なのだ。服装は錬金術師のまま。これが、現状のマリーの正装である。

「出かけてくる。 夜までには帰るわ」

「行ってらっしゃいませ、マスター」

「ん。 夕食は車引きで買ってこようか?」

「大丈夫です。 作って待っています」

兵士達の調練をしたというのに、アデリーは体力に余裕がある。さすがは成長期だ。正面から格闘戦限定で喧嘩したらもう勝てない。手段を選ばなければまだまだ負ける気はしないが、それでも油断すれば危ないだろう。最近は小遣いも渡していない。自分でお金を稼げるようになってきたからだ。

歩きながら、シアと相談する事を決める。給料面については、あまり興味がない。経済的に困窮して首が回らないような状況が来なければ、多少安くても構わない。何回か軽く話したが、シアはマリーにドナースターク家の管理する村の長を任せる気はないらしい。そうなると、手元でテクノクラートとして活用するつもりだろうか。聞いてみないと分からない。

後は、アデリーにもこの先の道を自分で決めさせなければならない。選ぶのはアデリーだが、ドナースターク家に来た時のために、ポストを用意しておく必要がある。これだけしっかり鍛えて、しかも社会上層の人間とコネクションも作らせたのだ。多方向に使える人材として重宝するはずだ。本人のやる気次第では、だが。

考えているうちに、もうドナースターク家に着いていた。すぐにセイラが出てきて一礼。彼女にコートを預ける。幹部会議を行う部屋の外にコート掛けがあり、何着かのコートが既に掛かっていた。会議室に入ろうとするが、止められる。

「マルローネ様、化粧が乱れています。 直した方がよろしいかと」

「え? ほんと?」

鏡を見せられる。確かに少し化粧が乱れていた。見苦しいレベルではないが、公式の場にはあまり相応しくない。洗面室に案内してもらい、マルルに手伝ってもらって化粧をし直す。マリーは化粧もあまり得意ではない。こう言うところでは、才能の偏りを強く感じる。

会議室は質素だが、温度も湿度も適切で、良く掃除されていた。勧められるままマリーは席に着く。すぐに茶が出てきた。

見回すと、最上席にはトール氏が、その隣にはシアがいる。マリーは幹部候補という扱いなので、末席に座る。今来ているのは各地の村の長や、その代理の人間達である。半数ほどはグランベル出身の者達で、残りも殆どはトール氏が育て上げた人材だ。マリーの両親もいるかと思ったのだが、二人とも赴任先で仕事をしているらしく、代理が来ていた。シアの後ろには、以前シアが命を賭けて救ったという武官エネルトが無言のまま佇立していた。何かがあれば、相手が誰であろうと斬り伏せる態勢だ。

ここまで本格的な会議にマリーが出席するのは初めての事である。朝のうちに風呂に入ってきたから不快感を感じさせる事はないだろうが、流石に少し緊張する。ふと最上席を見る。トール氏の白髪が、また増えていた。もう一人の父といっても良いトール氏の老いは、マリーには悲しい。

マリーの次に入ってきた人物が、最後の出席者だった。時間になり、会議が開始される。シアの秘書の役割をしているセイラが、てきぱきと作業をこなす。最近子供っぽさが消えつつあるマルルも、的確に助手の仕事を果たしていた。

資料が配られ、素早く目を通す。シアから聞いているとおりの業績が上がっていた。噴火で受けた打撃の傷跡はもう無い。宝石ギルドも職人達の意見を聞きながら上手く運営が為されており、利益も上々だ。幾つか経済的な不満を抱えている村があったのだが、それらはシアが直接経営を見たり、或いは重点的に人材を派遣して、状況好転をほぼ達成している。プラスの材料についてはそのくらいだ。

マイナスの材料としては、南部の非常に経営が悪化している村の管理を任されるというものがあった。その上、絹を生産し大きな経済効果をあげていたフツラツ村を取り上げられる。これはドナースターク家の権力拡大を防ぐための措置であって、仕方のない事である。フツラツ村は直轄地になる事が決定しているとも資料にあった。国にとっては大きな財源の誕生である。

ドナースターク家としては、グランベル村の次に重要な拠点を奪われてしまうので面白くないが、巨大化しすぎた組織は警戒の対象になる。それに、経営好転の仕掛け人としてドナースターク家が期待されているという意味もある。

ドナースターク家の名声を高めるにも良い機会である。マリーは面白い状況だと思った。ただ、何人かの幹部はそれが分かっていないようで、特にフツラツ村を任されている幹部は面白くなさそうだった。マリーの父の従兄弟である彼は、どちらかと言えば武人気質の人間で、村人達から反感を買っていると聞いている。つまり村を「占領地」のように考えてしまうため、住民との温度差が大きくなりがちなのだ。トール氏に何度か釘を刺されているようだが、懲りていない。ただ、無能な人物ではないので、能力を考慮した配置換えが行われるかも知れない。

一通り報告が終わったところで、マリーは挙手。キルエリッヒの件を広報する。最近辺境の領主として赴任した聖騎士キルエリッヒとマリーがコネクションを持っている事は、この場では周知の事実だ。だから、有益な情報として皆が認識してくれた。その途中、マリーは気付いた。トール氏が居眠りしかけて、シアが肘で小突いて起こしたのだ。もちろん気付かれないようにあったが、マリーはショックだった。

トール氏の衰えは加速する一方だ。気付かれないようにそのままトーンを変えずに読み終える。トール氏は頷くと、シアに一任した。それは、シアを育てる為ではない。多分、もう自分の判断力に自信が持てないのだ。此処にいる幹部には、トール氏が育ててきた者が多い。目頭を押さえている人がいるのに、マリーは気付いた。誰も、それを見ないふりをしていた。

流れ星が落ちる。そんな光景を、マリーは目の当たりにしていた。奥歯を噛んで、必死に表情を維持する。多分、シアも同じだろう。

「ケイテ村長。 貴方の部下に、確か適任がいましたね」

「はい。 彼を外に出すのは惜しいですが、ドナースターク家の最終的な利益を考えると、合理的な判断だと私も思います」

「いつでも貸し出せるようにしておいてください。 他に報告がある方は?」

トール氏の衰えに反比例して、シアの眼光は鋭い。百戦錬磨の大人達に混じって腕を上げてきたのだから当然だ。マリーもシアの親友として鼻が高い。誰も発言しないのを確認すると、シアは会議を締めた。

「それでは、今日の会議はこの辺りで終わりとします」

全員立ち上がって、敬礼。それからめいめい皆が帰っていく。肩を叩きながらもう一度席に着くマリーに、シアが歩み寄ってきた。すっかり化粧が上手になっている。一応勉強したのに、さっぱり上手くならないマリーとは対照的だ。それにしても綺麗である。もうどこから見ても淑女そのものだ。立ち上がるように促しながら、シアは言う。

「奧で話しましょう」

「うん。 トールさん、酷い状態だね」

「お父様も自分の衰えには悲しんでいるわ。 私も努力はしているけど、まだお父様の代わりを務められるほどの手腕はないの。 早く、貴方に本格的にドナースターク家の幹部になって欲しいところなのだけれど」

歩きながらシアの言葉の続きを待つマリー。居間に通される。人払いをしたシアの動作を見て、セイラが他の使用人を連れて外に出て行った。

「実はね、国から依頼が来ているの」

「ん? あたしに関係ある事?」

「ええ。 あなたがこの間、ドムハイトの諜報部隊の殲滅作戦に参加したでしょう。 その時彼らをおびき寄せる餌として、ちょっとした小道具が使われたらしいの」

重要な国家機密に関わる話だ。シアはマリーに話しても大丈夫だと考えて、今情報を伝達してくれている。期待を裏切るわけにはいかない。

「それで、小道具って何?」

「エル・バドール大陸との交易よ。 交易によってドムハイトを経済的に圧迫すると思わせて、それを探るために現れた諜報部隊を捕捉、皆殺しにしたの」

「なるほどね。 あれほどの熟練の間諜となると、やはり追うよりもおびき寄せた方が効率がよいものね」

「そうなるわね。 そこで、ここからが重要なのだけれど」

シアは声を落として、周囲の気配を伺いながら話してくれた。なるほど、それは確かにマリーに適任だ。アカデミーにも、ドナースターク家にも太いパイプをつないでおり、その上騎士団を介して国とも密接に関わっているマリーだからこそ出来るとも言える。そして、その役割を果たすには、賢者の石の完成が不可欠だ。

これはますます賢者の石を完成させなければならなくなった。今回の案が成功する事を祈るしかない。更に言えば、シアがマリーに村長を任せる気がないと言った理由も分かった。村長を兼任している暇はなくなるのだ。

「私に手伝える事があったら、何でも遠慮無く言って頂戴。 うちとしては、貴方をあまり長時間遊ばせておきたくないの」

「分かったわ。 あたしとしても、異存はない。 でも、一つ気になるのはアデリーなのよね」

自分に着いてきたいというのなら問題はない。此方に残りたいというのなら、シアに面倒を見てもらいたいところだ。何だかんだ言っても、アデリーはまだ子供だ。マリーが思っているよりは大人であるかも知れないが、それでもまだ不安が残る。

「その時は任せておいて。 でも、もうあの子は独立できるかも知れないわよ」

「本当? シアがそう言うのなら、安心できる……かな」

「結構子煩悩ね、貴方も。 私も子供が出来たら、そうなるのかしら」

「どうかな。 ただ部下達の様子を見る限り、あまり変わらないかも知れないわよ」

笑いあい、手を叩いて人払いを解除。セイラにコートを持ってきてもらう。セイラが来る間に、賢者の石の作成状況を説明。ようやく発想の転換と、現実的な案が出てきた事を告げると、シアは喜んでくれた。

外に出ると、雨が降り始めた。アトリエに小走りで帰る。何だかんだ言っても、マイペースで物事を進めることが出来た今までとは違い、今後は社会的な行動が必要不可欠になってくる。別に初の事ではない。採集や探索の時には、いつもやってきた事だ。ただ、毎日がそれだと少し疲れるかも知れない。

アトリエに着く。コートをしまってから、頭を拭く。化粧も落とすと、ようやくいつものペースが戻ってきた。裏庭に出てみる。雨にも魔法陣はびくともしないが、念のためにござをかぶせておく。

その後は、宝石が届く日までに、トラブルシューティングを詰めておかなければならない。最後の賭と言っても良い行動なのだ。自分のミスで失敗したら死んでも死にきれない。シアから聞いた言葉により、ますます失敗するわけにはいかなくなり、肩に掛かる重荷は増した。疲労は蓄積しているが、やっておく事は幾らでもある。

雨は止まない。以前買ってきておいた焼き菓子を頬張り、頭を活性化させる。

まだまだ、晴れ間は見えそうにない。だが、全ては一点に収束しようとしている。

此処さえ越えれば、全てが得られる。マリーは焼き菓子を大胆に口に放り込みながら、ほくそ笑んでいた。

 

2,賢者の石

 

宝石ギルドに足を運んだマリーは、地下室に通された。以前もアデリーの魔力制御具を作った時、ダイヤモンドを見せられた場所である。緊張した面持ちでマリーに宝石を提示するギルド長。彼の捧げ持つ柔らかい布には、四つの宝石が乗せられていた。

提示された宝石を念入りに見比べる。重さ、大きさは大体指定通り。透度もほぼ問題がない。気になるのはルビーだ。少し不純物が混じっている。装飾用としては問題がないのだが、魔力を流してみないとどうなるか分からない。

「魔力、通してみても良い?」

「構いませんが、あまり無体なまねは避けてください」

「別に壊したりはしないわよ。 あたしを誰だと思ってるの?」

アカデミーの一学生ではあっても、マリーは既にドナースターク家の準幹部だ。しかも将来シアの腹心の座は約束されている。以前以上にギルド長が緊張しているのは、それが原因であろう。

つまみ上げたルビーに、魔力を通してみる。少しずついかづちの火力を上げていく。薄暗い廊下に、激しい稲光が走った。じっくりいかづちを通してみて、マリーは舌打ちした。やはり僅かに癖がある。他の宝石に比べると、置き方に工夫が必要そうだ。

「他のルビーはある?」

「ありますが、そのサイズになってくると、すぐには用意できません。 申し訳ありませんが、お値段も割高になってしまいます。 急ぎの馬車を走らせても、時間もかなり掛かってしまいます」

「それならいいわ。 これを貰っていくわね」

事実、そんな資金も時間もない。宝石類を受け取った後、アトリエに戻る。素材は揃った。だがこれでまたほぼスッカラカンになってしまった。

生活をしていく資金ならある。売っていない薬類も、その材料もある。だが、高額の素材を手に入れるには足りない。何か大きな事も出来ない。つまりは、後がないという事だ。魂の練成が正解である事を、マリーは信じ切れないでいる。だが、もう退路はこれで断たれてしまった。

やるしかない。どのみち既に両肩にはビッグプロジェクトが乗っている。もっと厳しい状況だった事は、今までに何度もあった。シアを救うためにエリキシル剤を作った時などは、今の比ではなかった。あのときの事を思い出して、マリーは気合いを入れるべく、頬を叩く。今などまだ楽な方だ。

靴と上着を脱ぐ。裏庭に出る。いよいよだ。ついに決戦の時が来た。

雨は既に止んでいるが、裏庭の地面はだいぶ柔らかかった。歩いた後に、しっかり跡が残る。

ござをどけて、魔法陣の状態を確認。ござの下に逃げ込んでいた小虫たちが、緩慢に逃げていった。目もくれず、地下から白い石を出してくる。もの凄く重くて、運ぶのには苦労した。既に庭に用意しておいた金床に乗せる。それから、魔法陣の周囲に更に大きな円を描き、線を金床へと延ばす。その線に固定用の粉を撒いて、幾つか魔術的な意味を持つ模様を描く。こうして魔法陣と接続するのだ。

柔らかい地面だが、仕方がない。膝を突いて、全身に滾った魔力を、魔法陣に流し込んでいく。詠唱しながら、宝石類を魔法陣の四隅にはめ込む。魔力の流れが見える。宝石によって増幅され、魔法陣を周り、渦を作りながら中心に集まっていく。魔法陣に書き込んだ文字が光り、驚くほどの魔力が吸い上げられていく。

これで、魔法陣の第一段階は終了だ。今吸い上げたマリーの魔力が、回転しながら徐々に高まっていく。四半刻もすれば飽和状態になる。栄養剤を飲み干すと、地下から白い石を反応させるための薬品を出してくる。金床に海綿を敷き、その上に白い石を。無惨につぶれた海綿を、中央に液体が集まるように反り返らせる。

今日、アデリーは事情を告げてアトリエに残してある。いざというときに救護者を呼ぶためだ。マリーが調合を始めたのを見て、アデリーは手伝いを申し出たが、断った。危険な調合である。裏庭にいるのはマリーだけでよい。

魔法陣が光を一秒ごとに強めていく。本当なら屋内でやるべきなのだが、白い石の重さを考えると仕方がない。桶にため込んでおいた中和剤を頭から被る。服が濡れるが構わない。こうして己の肌を中和剤で濡らしておいて、魔力伝導率を良くするのだ。中和剤の材料は、ヘーベル湖の水に僅かな火竜の血を混ぜたものだ。だが、もう元の味はしない。

髪の先端から中和剤を滴らせながら、マリーは白い石に反応促進用の薬品を注ぐ。目に入ってきた中和剤が少し痛い。魔法陣の真ん中に歩み寄る。スパークが弾ける。魔法陣の中に、あらかじめ決めておいた立ち位置がある。マリーの事を拒んでいるようにさえ見えるほど、魔力の流れは激しかった。だが、関係ない。元は自分の魔力だ。

宝石が激しく発光する。辺りの放電は一秒ごとに激しくなってくる。此処で手に取った薬品を口に運ぶ。一気に飲み干す。実に苦い。外側に中和剤を塗り、内側からこの薬で魂の変化を促すのだ。今まで、様々な薬品を作ってきた。栄養剤を作り、それを強壮剤に昇華させた。解毒剤も、風邪薬も、様々な内臓を回復させる薬も作ってきた。究極の薬とされるエリキシル剤だって作り上げた。だから、この薬程度なら訳はない。

手足に痛み。スパークが体を這い上がってくる。裏庭の戸を開けて、アデリーが心配そうに此方を見ている。もう、何も喋らない。今はただ、この不思議な調合に全てを集中させるのだ。

手の皮が爆ぜた。腿に鋭い切り傷が出来る。恐ろしいほどの身体的負担である。だが、マリーが呻いたのは、そんな事が理由ではない。来る。内側から、確実に何かが弾けようとしている。

口から血が伝う。それでもマリーは詠唱を続けた。そして、見る。白い石が、徐々に色づき始めている。成功だ。やはり間違いない。マリーは奥歯をかみしめると、体中を飲み込むような倦怠感と、痛みと戦う。

魔力は竜巻のように渦を撒き、激しくスパークしながらマリーの全身を傷つける。傷口から入り込んでくる魔力は、自分のものとは思えないほどに熱かった。賢者の石は徐々に青くなり始めている。緑色まで行けば完成のはずだ。あと少し、あと少し。髪が一部発火したので、手で掴んで消す。じゅっと凄い音がしたが、もう肌からは正常な感覚がなくなりつつある。口に入ったのは中和剤か、それとも己の血か。

腹を貫くような痛み。嘔吐感が襲ってくる。何度か呼吸して新鮮な空気を吸い込む。喉の辺りにもスパークが突き刺さる。肺が伸縮して、必死に体中に空気を送る。体が燃えるようだ。傷口からは、血が噴き出し続ける。体の内側で、何かが暴れている。激しく踊り狂っている。

腰を少し落として、痛みに耐える姿勢を取る。アデリーが自分の名前を呼んでいる。笑みが零れた。どうしても相容れない思想の持ち主だが、やはり母として慕ってくれている。まだだ。まだ耐えられる。耐えられるが、血を少し失いすぎたかも知れない。意識が散漫になりつつある。どこかへ落ちていくような感覚の中、足の裏に触れている地面が不思議と冷たい。

爪が爆ぜて、剥げた。地面に跳んだ右手人差し指の爪を見て、マリーは数を数え始めていた。数えているのはその辺の砂粒。そう。立ったままで、砂粒を数える事が出来ている。徐々に、思考がクリアになりつつある。がくりと膝が落ちるが、即座に立て直す。

魔法陣は徐々に光を失いつつあったが、代わりに魔力は凝縮され、光の槍となってマリーに向いていた。既に体の中が、焼けるように熱いのを感じている。白い、いや既に青緑になりつつある石は、神々しい光を発し続けていた。後一歩。これが、最後だ。来い。命に代えてでも、受け止めてやる。光の槍に向けて、両の手を広げる。

アデリーが叫んだ。それは、今まで、どうしても呼んでくれなかった言葉。嬉しかった。踏ん張る。最後の痛みに備えて、そして己の昇華を夢み、マリーは叫んだ。

「来い!」

来た。

光の槍が、腹から背中に抜ける感触があった。内臓を貫かれた。だが、物理的にではない。不思議な感覚だった。光が弾ける。圧力が、全身を揺らす。深酒した時のように、平衡感覚がまともに働いていない。

ついに膝を突いてしまう。傷口から一層激しく出血した。魔法陣に膨大な赤が流れる。鉄さびの臭いが辺りに充満していた。

「来るんじゃない!」

再び叫ぶ。今度はアデリーに対してだ。まだ、魔法陣は崩す訳にはいかない。なりふり構わず誰かが走り寄ったら、雨で脆くなっている魔法陣はつぶれてしまう。それでは、駄目だ。まだ賢者の石を確認していないのだ。

額からしずくが落ちる。汗だ。汗だが、大量の血も混じっていた。首を上げるのだけで、膨大な努力が必要だった。かすむ目をこらす。不意に四軒先の家の壁が見えた。遠すぎる。視界の焦点もおかしい。今度は急に心配そうに此方を見ているアデリーの顔が大写しになる。おかしい。体が変だ。熱いと思ったら、寒い。押しつけられるように、地面に視界が向く。

再び、鉛のように重い首を上げて、見る。急激に近づいてくるそれの姿。分かる。白かった石が、緑色になっている。

成功したのだ。笑いが漏れる。零れていたそれは、やがて爆発するような歓声に変わった。

「はははははは、あは、はははははははははは、あははははははははははは!」

背中から大の字に倒れる。血だらけだが、実にすがすがしい気分だ。何だか目も見えなくなってきたが、関係ない。走り寄ったアデリーが、マリーを抱き起こす。心配そうに覗き込んでくる彼女は、もうすっかり身体的に大人になっている。

「母様! しっかり、しっかりしてください!」

「はは、ははははははは。 やった、やったわアデリー! ひひひ、ひははははははははははははは! 賢者の石よ、賢者の石だわ!」

アデリーは手早くマリーをアトリエに運び込む。自分は良いから賢者の石をと言うと、唇を噛んで持ってきてくれた。足音からして、石が随分軽くなっている。どういう事だ。質量まで変化したというのか。危険だから触らないように言うと、頷いて海綿できちんとくるみ、自身は手を洗う。それからすぐに、マリーの体を拭き始める。ひりひりする。

興奮が徐々に冷めてくると、痛みがそれに変わってくる。体中の傷が熱い。それ以上に、内臓や、それの更に奧にある何かが熱い。心臓以外の何かが脈動しているかのようだ。体が思うように動かない。濡らした布で、体を丁寧に拭いた後、傷薬を塗り始めるアデリー。肩を貸してもらって、二階に上がる。ベッドに寝ころぶと、応急処置を済ませて、包帯を巻き始めるアデリーに言う。さっきから辺りが見えないので、させるがままにしながら。

「ねえ、アデリー」

「何でしょうか」

「さっき、あたしを何て呼んでくれた?」

「……母様、です」

やはり嬉しい。布が血だらけかと聞くと、真っ赤ですと返事が。何故か面白くて、また少し笑った。

アデリーは泣いていない。じいが死んでから、この子は涙を無くしたのかも知れない。だが悲しいようで、マリーが感情のまま笑うと耳を塞いだ。体の中に熱源がある。研究が終わった時にうごめき出す、あの殺意よりももっと激しいものだ。爪が禿げた指先に、包帯が巻かれる感触がある。まだ、触感は正常ではないが、何処に何が触れているかはわかり始めていた。

ひょっとすると、とマリーは思う。イングリド先生も、ヘルミーナ先生も、この過程を経たのだろうか。今だから分かる事だが、あの二人の力は、人間の域を超えている。単純な戦闘能力ではもっと上の存在がいるが、それでも魔力だけなら人間の常識の外にあると言っても良い。賢者の石を作る過程で、魂の練成をしたのだとすると頷ける話だ。やはり魂の練成によって、人間の限界を超えたのだろう。

ウロボロスの本の一節を思い出す。錬金術とは、人間が神に近づく技でもあるのだと。エル・バドールで発展した錬金術は、その究極的利益が人間の欲望をかき立てた。膨大な金を得る事が出来る。それだけではなく、人を超越した存在になる事も出来る。

ウロボロスの本に具体的な賢者の石の生成法が書かれていない理由が、マリーには分かった気がした。

錬金術は誰にでも使える。だがその究極となると、誰もが使っては危険だというのであろう。ウロボロスの本の著者は、以前話にだけ聞いた「旅の人」なのだろう。その人物が真面目で責任感の強い性格だと、本を読んでいるうちから感じてはいた。それが裏付けられた気分である。

一階から良い香り。芋類を煮込んで、燻製肉で味をつけたスープをアデリーが作っているのだ。栄養が欲しい。舌なめずりしたマリーは、今後の事を考える。

既に、錬金術にパラダイムシフトを起こすべき理論は完成している。賢者の石の製造が停滞していた三ヶ月、マリーは何もしてこなかった訳ではない。生活資金を稼ぐために薬品類や兵器類をせっせと製造していたし、他にも近場での仕事は幾つかこなした。もちろん、錬金術の根幹に対して感じていた疑念を、しっかり文章化する作業も怠らなかった。その結実が、今ベッドの脇にある。

そして、手が届く。

今ならば、誰もを納得させる事が出来るだろう。近い。今までになく近い。マリーは喉の奥から笑いが沸き上がってくるのを止められなかった。

「まずは、体を回復させなくちゃ。 ふふ、ふふふふふ、あははははははははははははははははははは!」

二階に上がってくるアデリーが、足を止めた。悲しそうだ。いつもあの子は悲しそうだ。だが、もういい。いつか心の底から笑わせてみたい。こんな風に。笑いの定義さえ違うような気もするが、別に構わない。こうなったら、何もかも上手くいきそうだ。

錬金術のパラダイムシフトを成し遂げてから、それからの事は考える。その後は、たっぷり殺戮を楽しむとしよう。何処に出かけようか。ヴィラント山か。メディアの森か。今から楽しみすぎて、体が回復するのを待つのが煩わしかった。

 

翌日から、セイラがアデリーに言われて見舞いと看護に来た。少しずつ回復してきたマリーを見て、セイラは開口一番に言う。

「今度は何をやらかしたんですか」

「其処の石を作るのに、ちょっと怪我しただけよ」

ベッドの脇の賢者の石に触れながら、マリーは満面の笑みを浮かべた。ぼんやりとしか見えないセイラだが、呆れているのはそれでもよく分かった。シアの差し入れだという焼き菓子をベッドの脇に置いてくれる。マリーは昨日口述筆記させた手紙を、アデリーに届けるよう頼む。アデリーは頭を下げると、ぱたぱたとアトリエを出て行った。

不思議なもので、目が満足に見えない状態だと、他の感覚が冴えてくる。特に思索にはもってこいだった。一応組んではいた理論の幾つかを編み直して、より完成度が高いものへ変える。発表するべき論文に手を入れる箇所も思いついていた。

目は見えなくなったというわけではなく、急に遠くが鮮明に見えたり、近くのものが分からなくなったりする。そして、五感の殆どが似たような状況だった。気配から言って一里以上先のひそひそ声が聞こえてきたと思ったら、側でアデリーが喋っている言葉が分からなくなったりもする。痛みも同じような状況だ。不意に耐えきれないほどに痛みが走ると思うと、何事もなかったかのように静まる。無事なのは脳だけだ。

感覚的にだが、理解できる。マリーの中で何かが急速に崩壊し、再構成されている。これが魂の練成の結果なのかは、よく分からない。セイラが包帯を換えて、傷薬を塗ってくれる。あの四つの宝石を売り飛ばせばまだ数ヶ月は遊んで暮らす金になるが、一週間ほど寝たら現場に復帰したいところだ。包帯ににじんでいる血が思ったよりも少ない。もっと真っ黒になっているかと思ったのだが。

「傷の具合は?」

「回復は異常に早いです」

「でしょうね」

何カ所かの傷口はもうふさがっている。見なくても分かる。自分の体の事だからだ。感覚も安定しつつある。視力も戻る時間が徐々に長くなりつつある。そして、魔力は。あれだけ越えられなかった天井が、無かったかのように。今すぐ暴れ出したがっているかのように、体内で揺らめいていた。

成長は感じていない。ただし、底力が増えた気はする。やはり天井には到達したのだ。だがその天井そのものが、せり上がったような感触である。これが錬金術のもたらす力か。考えてみれば、シアはエリキシル剤を飲んだ時、一足先に味わっていたのかも知れない。ちょっと羨ましい。

この状態を乗り切った時、マリーはどうなるのか。今から楽しみだ。

「今日明日は寝ていてください。 マルルを手伝いに来させますから」

「お、あの子か。 助手として使えそうだから、連れてっていい?」

「駄目です。 シア様が既に目をつけていて、今度赴任される村に、副官として連れて行くそうです。 経験を積ませて、一人前に育てる気なのでしょう」

「流石だなあ、シアは。 で、お腹の子は何ヶ月目?」

てきぱきと動いていたセイラがぴたりと止まる。面白い反応だ。周囲に誰もいない事を確かめてから、セイラは声を落とす。

「いつ、気付かれました?」

「ん、今日来た時かな。 何だか目は見えないし耳もおかしいんだけど、感覚だけは異常に冴えててね。 相手はエネルトさん?」

「……はい。 今、二月です。 私達、三ヶ月前に婚約していまして、それで。 そろそろ発表しようと思っていたのですが」

結婚しても、必ずしも幸せになる事が出来る訳ではない。ただ、仕事一筋に今まで生きてきたセイラは、こういう形で多少の息抜きが必要なのかも知れなかった。それと、シアがマルルを育てに掛かっている理由が分かった。あと四ヶ月もすれば、セイラを全面的に活用できなくなるからだ。

セイラが帰ると、アトリエはまた静かになった。回復しつつある視力で、真緑に染まった賢者の石を見る。賢者の石には、銅を黄金に変える方法がある。しかも、消耗しないのだ。理論上は、無限に金を生み出す事が出来る。あくまで理論上は、である。

何事にも落とし穴があるもので、賢者の石は一度効力を発揮すると、二ヶ月ほど掛けて魔力を充填しないと使えるようにはならないのだ。金に変換する過程も難しい。しかも一度に金に変える事が出来る卑金属は、せいぜい子供の頭の半分程度の大きさである。更に問題点がある。金にはなるのだが、複数の不純物が混ざっており、取り除かないといけないのだそうだ。幸い、賢者の石は頑丈で、滅多な事では壊れない。

いずれもウロボロスの本にある記述である。「旅の人」とやらも、痛い思いをして作り出したはずの賢者の石だ。それこそ何十回と魔力を充填しては使い込み、しっかり効果を調べ上げたのだろう。ただ、旅の人の嘆きが巻末に載っている。かの人が作り出した賢者の石は純度が低かったらしく、いつも実験の結果が不確かだったのだそうだ。それは乾坤一擲の調合を果たした結果としては悲しかったであろう。

とにかく、今は動かない事だ。指先から電気が走り、スパークを発する。暴れたくて仕方がないのだが、我慢である。今は、賢者の石を作り上げた事で満足するべきなのだ。次の事は、しっかり休んでからで良い。

アデリーが帰ってきた。アカデミーと、ドナースターク家と、他にも何カ所かに手紙を届けさせた。ゲルハルトにはメンテして貰った杖を見たいという手紙。冒険者ギルドには、近場で良い仕事がないかという内容。アカデミーは言うまでもない。ドナースターク家は、この間シアと話し合った事が、どうにか実行できそうだというものである。

痛い思いをしただけの事はある。ついに壁を越える事が出来た。あと少し、あと少しだ。マリーはアデリーと一緒にセイラのお土産を頬張りながら、数日後に控えた最後の大仕事を考え、戦略を練る事に余念がなかった。

 

3,パラダイムシフトの刻

 

アカデミーには全生徒と教師が集まる事の出来るホールが存在する。一階の最奥にあるスペースで、百名以上の人員を収容できる中型のホールである。もちろん重要な研究発表が行われる事もあり、普段は生徒が近づける場所ではない。生徒が集まるのは、入学式の時くらいである。卒業はめいめいがそれぞれのタイミングで行うので、式は行わない。

其処に、朝から続々と内外の錬金術師達が集まっていた。イングリド閥の錬金術師達はもちろんの事、ヘルミーナ派の者達も。驚くべき事に、何年かぶりにヘルミーナ自身までもが顔を出している。イングリドとは目さえ合わせようとはしなかった彼女だが、ドルニエ校長にはきちんと挨拶しに行ったし、周囲の子分共の礼にも応えていた。他にも、名士が複数来ている。軍からは大教騎士カミラが。最近怪我が完全に治り、現場に復帰した彼女は、数名の部下達と共にこの場に来ていた。ヴァルクレーア大臣も、護衛と共に足を運んでいる。他にもドナースターク家のトール氏もいるし、何名かの国賓達も招待されている。

ホールの最奥には一段高い壇があり、此処で発表を行う。最初はドルニエ校長が挨拶をするのだが、この人はこんな時にまで調合にうつつを抜かしており、放っておけば此処まで実験器具を持ち込みかねない勢いだ。

イングリドは壇上で、拡声器の様子を確認していた。単に漏斗の形状をした籐製の物体なのだが、内部に音を良く反響させる工夫を様々に凝らしている。ヘルミーナの発明品であり、実に使える事から、最近では軍の採用も決定されている。何度か傾けて音の拡散を調整すると、イングリドは集まって来ている名士達に向けて手を叩いた。同時に、ヘルミーナが壇に上がり、ドルニエ校長の隣に座る。イングリドは司会進行だ。他何名かの教師も壇上に上がり終えると、イングリドは声を張り上げる。教師をしているだけあり、流石に遠くまで良く届く。

「静粛に」

少し前から、声を発する者はいない。いつもイングリドに対して反抗的な態度を取るヘルミーナでさえもが静粛にしているのだ。ただ、もし此処でヘルミーナがブーイングをしても、面と向かってイングリドに逆らう勇気のある人員は殆どいないだろう。

「皆様は本日、錬金術の奇跡を見る事になるかと思います。 我がリリー錬金術アカデミーでは四例目となる賢者の石が完成したのです。 しかも今回はクオリティがかなり高く、期待が出来ます」

おお、と声が上がる。ドルニエ校長ですら身を乗り出している。それらを満足げに見回すと、イングリドは声を張り上げて、マルローネを呼んだ。

 

まだ少し手足にしびれが残っているが、動く事には何ら問題がない。感覚もほぼ正常に戻りつつあるし、充分に事前の準備も済ませてある。マリーは行くぞと心中で自分に言い聞かせると、台車を押して壇の袖から出た。そのまま、壇の中央に歩を進める。

ホールに集まっているのは、内外の錚々たる名士達である。流石のマリーも息を呑む。緊張しないと言ったら嘘になる。だが、すぐに落ち着きを取り戻すと、賢者の石にかぶせていた布を取り払う。

緑色の、何の変哲もない石。これが賢者の石だ。マリーはそれを、壇上に用意されたガラスの容器に入れた。

イングリド先生に聞いたのだが、アカデミーでの製造例はこれで四回目だという。やはりイングリド先生もヘルミーナ先生も、賢者の石を製造していたのだ。もう一つは創設者のリリー先生が作り上げたのだとか。三つのうち、一つはリリー先生が持って行ってしまったそうで、二つだけが現存している。ただし、どちらも材料が良くなかったためあまり品質がよろしくない。生成できる金も品質がかなり低いそうで、イングリド先生もヘルミーナ先生も、完成品ではないと判断しているのだそうだ。創設者のリリー先生が作ったものも条件は同じだが、此方は品質が低い反面ぶれが極めて大きく、途轍もない高品質の金が一度できたという。プラティーンと呼ばれるそれは、王水以外のありとあらゆる酸に耐え抜く、究極の金属だという事だ。以降、二度とプラティーンの製造には成功していない。これについては、エル・バドール大陸でも例がほぼ無いのだそうだ。

マリーは今回、極めて品質がよい材料を賢者の石製造に使った。近隣でも最高の力を持っていた竜の舌。国宝並の価値を持つ、純度が高い宝石を使った魔法陣。最高の中和剤となりうるドンケルハイト。それに膨大な魔力によって作り上げた、最高品質のアロママテリア。この中で、特に揃えるのが難しいものが、竜の舌と宝石だ。

ある程度年を取って知恵を身につけたドラゴンになると、のこのこ人里の側に出てくるような事は無くなるし、強者が近づくと逃げてしまう。だから捕まえるのは難しい。宝石はある程度以上の品質のものとなると、途端に数が少なくなる。どちらも揃える事が出来たマリーは、とても運が良かったのだ。事実イングリド先生達は竜の素材を集める事が出来ず、代用品を用いたために、賢者の石の品質を著しく落とす事となった。これはこのアカデミーで最初に生成された賢者の石も同じである。

「賢者の石といえば、金を製造する事が可能だという存在です。 今回あたしが生成したこの賢者の石で、それが伝説ではない事を証明して見せましょう」

台車の隅には銅が乗っている。呼ばれて引率の騎士達と進み出てきたカミラが、天秤を使って、銅を計る。側で見ると、本当に小さい娘だ。戦闘能力はこの国でもトップクラスに入るという事だが、己の身体的特徴を気に病んでいて、それが出世の切っ掛けであったという。大教騎士となるだけあり、知性は相当なもので、話していて全くストレスは感じないと、一緒に戦った事のあるシアが言っていた。事実銅の体積と重さの関係を完璧に把握していて、素早く天秤で計って銅に混じりものが無いと判断する手腕は見事なものであった。精神面の弱ささえ克服できれば、何処ででも平然と生きていけるに違いない。

何故彼女のようなVIPにこんな事をして貰うかというと、インチキがない事を部外者に確認して貰う必要があるからだ。事前に聞いたのだが、カミラは部下達の教育のために此処に来ている。騎士とはいえ、完全な外交音痴では困る。大教騎士として、部下達をあらゆる方向から鍛える為に来ているのだ。事実、カミラは理論を説明して、部下達にも重さを量らせる。いずれも問題の無い事が確認される。騎士達が下がると、マリーは一礼し、続きに入った。

「賢者の石を使って金を生成するには、幾つかの手順が必要になります。 まずは、酸を使って卑金属を溶かす。 気をつけてください。 掛かると危ないですよ」

前列の何人かが下がるのを促すように、マリーはガラス瓶に入れている酸を揺らして見せた。ガラス容器の中に銅を入れる。ガラス棒を使って伝わらせ、静かに酸を注ぐ。見る間に銅が溶け始めた。かなり強い酸だ。これについても、マリーは幾つか不思議な発見をしているのだが、それは今説明する事ではない。全ては金を生成してからだ。

適量の酸を注ぐと、ガラス棒を使ってかき混ぜる。賢者の石はびくともしないが、見る間に銅は形を無くしていった。続いて、別種の酸を注ぐ。そうすると、賢者の石の表面に、見る間に黒い塊が付着していく。この途中で、様々な説明をしていく。客を飽きさせないために必要な工夫である。手袋をしているが、酸のしぶきはどうしても飛んでくる。出来るだけ呼吸は減らさないと危険だった。後でしっかり体を洗う必要もある。

高位の錬金術師の中には、恐らくこの過程までは見ている者がいるだろう。既に酸は無害化しているはずだ。この種の酸は何度か扱った。調合に使った以上、性質は熟知している。触れても大丈夫なはずだが、それでもぞっとしない。

一刻もしないうちに、賢者の石は真っ黒になった。ガラスの中の液体もほぼ澄んだ。さあ、最後の仕上げだ。

此処から賢者の石の能力を起動する方法は、実はものによって違ってくる。素材に使った魔力性質によって変わるのだ。例えば、炎の要素が強い魔力を素材にすると、火をつける事で反応が始まるという。旅の人が作り上げた賢者の石が、このタイプだった。マリーの場合は、言うまでもなく雷撃が引き金になる。詠唱開始。マリーの身から、黄金の魔力が吹き上がる。

「騎士団の方、障壁を張ってください」

「シレア、クロード、全力で障壁を展開。 分かっていると思うけれど、手を抜いたらたとえ余波でも貫通されます」

「はい!」

若い男女の騎士が、前に出て詠唱開始。印を組んで、杖を取り出し構え、防御系の術を展開する。女の方が魔力は強いようで、杖だけで術を展開していた。それに対し男は、ずっと腰に巻いているベルトの一端に触れている。それで魔力を増幅し、術を展開しているのだ。どちらにしても、防御系の術は、神の祝福のようなレアスキルを除くと展開に著しく時間が掛かる。だからマリーも、最初から全力ではいかない。術の完成を見ながら、徐々に出力を上げていく。後ろについては心配していない。何しろ、そっちにいるのはあの恐ろしい先生達だ。

ハンカチを出して、額の汗を拭う。徐々に激しくなるいかづちが、ガラス容器をなで回す。ぼこぼこと液体が沸騰し、賢者の石の周囲で突沸が起こる。無害化していなければ大怪我する。緊張の瞬間だ。やがて、その時が来る。何度も肌にしずくが跳ぶ。大丈夫。きちんと無害化はしていた。

詠唱完了。全力のロードヴァイパーでも壊れない賢者の石だから心配はしていないが、それでも怖い。これを作るのに、この一年の半分近くを費やしてきたのだ。その上、この晴れ舞台での出来事だ。大恥どころでは済まない。ドナースターク家から放り出されるとまでは思わないが、しばらく表を恥ずかしくて歩けない。経済的にもどん底を這いずる事になるだろう。

だが、やるしかない。今こそ、全ての決着をつける時なのだ。

詠唱の、最後の一節。この日のために組んだ、超近距離用の雷撃術。発動させる。同時に、壇上がまばゆい光に包まれる。爆音。思わず伏せる何人かの錬金術師。腕組みしているカミラは微動だにしない。流石だ。

程なく、激しい反応は止んだ。騎士達が障壁を解除。女騎士の方ががくりと腰を落とし掛けて、カミラに支えられた。マリーは説明を再開しながら、海綿を取り出し、液体を吸い込ませて、側の桶に捨てる。やがて、ガラス容器の真ん中に、薄黒い塊が残った。

緊張の一瞬だ。表面の黒い部分は、反応しきれなかった銅の残骸だと思いたい。思いたいが、やはり緊張する。生唾を飲み込むと、壇上のナイフを手に取り、表面を剥がしにかかる。一度目は、黒い屑が零れただけだった。落胆の声が上がり掛かる。だが、マリーは飛び上がりたいのを必死に抑えていた。

分かったのだ。表面を軽く削った事で。間違いない。この質量は、銅のものではない。丁寧に黒い塊を拭く。そして見やすいように持ち上げて、ゆっくり、もう少し深く削る。やがて、零れ出てきた。その、美しい光が。

「金だ!」

叫んだのはマリーではなく、最前列の錬金術師だった。白い髭が胸まで垂れている、年配の男だ。老人らしい落ち着きをどこかに忘れ去ったように、目をむいて、泡を吹かんばかりに興奮している。他の錬金術師達も、興奮の囁きを漏らしていた。大胆にナイフを動かしてみる。ぼろぼろと金の塊が落ちた。純度は申し分ない。流石にフラン・プファイルを材料にしただけはある。素晴らしい品質だ。

やがて、金の殻をむき終える。真ん中には、力を使い果たした、真っ白な石が残っていた。これはマリーの宝だ。アカデミーに預ける事はあっても、マリーが生み出したという事に代わりはない。しばらく魔力を充填すれば、また金を作り出す事が出来る。側に寄ってきた錬金術師達に、金を触らせる。重み、感触、金に間違いない。

カミラが眼鏡を直しながら言う。

「これは素晴らしい。 錬金術とはよく言ったものですね」

「有難うございます」

「ますます興味が湧きました。 今後、関わる事は無いでしょうが」

そう言いつつ、カミラは少し寂しそうな表情を湛えていた。シアから大体の事情は聞いている。この娘は、錬金術をずっと側から見てきたのだ。自分が手を下す事さえなかったが、それでも錬金術は身近な存在だったのだろう。

「良くやってくれた」

すぐ側に来ていたトール氏が、優しい笑顔で言ってくれた。何よりも嬉しかった。マリーにとってこの人は第二の父だ。だから、本当に嬉しい。涙がこぼれそうになるが、抑える。此処で泣いては締まらない。

しばらく、興奮の宴が続いた。何人かの錬金術師が握手を求めてくる。政府の高官が、詳しい理論を聞きたがった。いい加減困惑してきたところに、場を納めてくれたのは、イングリド先生だった。

「静粛に」

それだけで、人垣がさっと静まるのだから凄い。壇上に戻ったマリーは、賢者の石を懐に大事にしまうと、金を脇の台車に片付けた。金は貴重なものだが、賢者の石に比べる事は出来ない。

さあ、ここからが本番だ。後ろのイングリド先生も、ヘルミーナ先生も、目を爛々と輝かせている。恐らく二人は、金が出来る事は確信していたのだろう。金などより、その後に、マリーがする事を、楽しみにしていたのだ。

今まで戦ってきたのはマリーだ。素材も集めた。苦難にも耐えた。金策もした。だが、先生達が最大限の情報支援をしてくれたから、今のマリーが存在している。だから、期待には全力で応える。

「さて、今、私は告げようと思います。 既存の錬金術で常識とされていた事に、大きな間違いがあるという事を」

慎重に、一語ずつ紡いでいく。興奮冷めやらぬ様子の錬金術師達に、マリーは言論の爆弾を投じた。

「地水火風の「要素」によって、世界は成り立っていません。 錬金術も、その法則からは外れません」

意外と反応は静かだった。賢者の石を完成させた人間の言葉だからだろう。そうでなければ、完全に無視されていたに違いない。

「知っての通り、錬金術は実験結果が先に立ち、理論は後付されている学問です。 地水火風の要素を基幹とする理論も、同じです。 それなのに、どういう訳かいつの間にか主流である事が絶対になりつつあります。 確かに、それぞれの属性を持った魔力は実在しています。 しかし、それ以外の、説明がつかないものは実に多いのです。 あたしのいかづちの魔力も、その一つです。 魔力でさえそうなのに、それ以外のものに、どうしてこの理論が適用されましょうか」

レポートを捲る。この日のために、準備してきた分厚い紙束だ。内容は一字一句に到るまで記憶している。

まずは実例から説明していく。賢者の石の製造の時、属性理論ではあまりにも不可解な現象が起こる事。今まで実際に手がけてきた調合の中で、あまりにも後付理論に無理があるもの。他にも、様々な事例がある。キルエリッヒが手紙で教えてくれた、燃える水の話。黒いタール状のものはよく知られているが、そうではなく、水と見分けがつかないという。水にいかづちを通した後、爆発が起こる事も確認している。油だってそう言う意味では不可解な存在だ。他にも、錬金術の実験中に見た現在の理論では説明不能な結果は幾らでもある。幾つかの実例を挙げ終えると、マリーは仮説にはいる。

「そうして、あたしは結論しました。 世の中の存在は、無数の個によって構成されている。 仮に元素と名付けますが、それらの組み合わせや融合によって、世の中の全てが作られているのではないかと、考えています」

反応はない。今までの基幹理論の否定、新理論の創造。もっと抵抗があるとマリーは思っていたのだが。ブーイングを受ける事さえ予想していた。手応えがないわけではない。だが、異常な静かさは却って不気味であった。

幾つかの元素を提示する。水などはその一つ。だが、水そのものが複数元素の組み合わせという説も同時に提示しておく。火は元素ではない。土はあまりにも種類が多い元素の組み合わせであるため、一概にまとめる事は出来ない。風は元素ではなく、むしろ空気を複数元素の組み合わせであると判断すべきである。それら元素を割り出すためには、膨大な例を収集し、連立方程式から割り出していくしかないという結論でまとめた。発表を終える。包帯を巻いたままの手が少し痛む。

静寂がある。興味深げに此方を見ているカミラやトール氏。他の高官達は話が高度すぎて見えていない様子だ。問題は錬金術師達だ。錬金術師達は、どう反応している。見回す。不安げに顔を見合わせている者達が大半だ。マリーの背中を冷や汗が流れた。このまま、ただの珍説として流されてしまうのだろうか。今までの苦労は、全て無駄になるのではないか。恐怖感が、腹の中をせり上がってくる。

不意に、何かが響く。拍手の音だ。イングリド先生が、拍手をしてくれている。少し遅れて、ヘルミーナ先生も。ドルニエ校長も。他の錬金術師達も拍手を始めてくれた。ホールが拍手に包まれる。

イングリド先生が歩み寄ってきて、拡声器を手に取る。

「皆さん、今の理論を聞きましたでしょうか。 錬金術は、袋小路に来ていました。 後付の要素理論に限界がある事は誰もが心の奥底で分かっていたというのに、それを否定する材料がなかったからです。 やはり、理論無き実践世界では限界があります。 今、マルローネが提唱した元素理論は、錬金術の新しい世界を開くものとなるでしょう。 彼女の理論の正しさは、我らが積み重ねてきた実験結果が証明しています。 今まで要素理論にこだわるあまり、我らは後付に何もかもを考えすぎていた。 この理論が完全に正しいものかは分かりません。 しかし、思考の転換を図るためにも、この新たな理論を受け入れてみようではありませんか」

既存の実験結果を否定するものではない新理論。イングリド先生が激賞してくれたのは、地に足が着いたその考えが原因だと、マリーは思った。

元素理論を使うと、今まで分からなかった様々な事象に説明がつく。だが、説明できないものも新たに生じてくる。魔力がそうだ。賢者の石もである。賢者の石の、金を作り出すという特性などは、元素そのものが入れ替わるという異常すぎる現象によって支えられる。

それらにも、何かしらの元素が関わっている可能性は高い。或いは元素の中に更に無数の要素があるのかも知れない。どちらにしても、それはマリーの手が届く世界ではない。元素理論が確立した後の世界で、生み出して貰う他無い。

拍手の中で、マリーは一礼した。大盛況の中、マリーの発表は終わった。成し遂げたという充足感がある。これで、錬金術の世界に革命が起こる。今までどうしても無理だった方向から、様々な発見がある事だろう。

今、錬金術のパラダイムシフトが、このシグザール王国で起こった。やがて世界に波及していく事は間違いないだろう。世界を変える一瞬を、マリーは作り出した。この時を境に、世界を覆う要素理論はあくまで魔術に限定したものに変わるだろう。それに代わって、錬金術の世界では元素理論が台頭するはずだ。

マリーは今までにない充足感を感じていた。周囲での拍手はやがて止み、会食に移った。雇われたらしい料理人達が手際よくテーブルを並べ、立食パーティが開始された。錬金術師達は老若男女関係なく話しかけてきて、賢者の石を作成した時のことを聞きたがった。マリーは笑顔で応えながらも、心は徐々に余所に飛びはじめていた。美味しいはずの料理も、ほとんど味がしなくなりつつある。

もっと、血の味がする肉を食べたい。

それも、自分の力で引きちぎって、食べたい。

抑えられなくなりつつある。それも、今までで最大級の衝動だ。無理もない話である。数年の、集大成と言って良い研究が、ほぼ満足できる内容で完成したのだ。その上、此処しばらくは「絶食」気味だった。強烈な衝動が来るのも、無理はない話である。

それでもマリーは耐えた。今此処で、獲物を狩りに行くわけにはいかない。トール氏を始めとして、恩を受けた人たちがたくさんいるのだ。彼らに恥を掻かせるわけにはいかない。更には、この機に出来るだけ多くの政府高官と、高いスキルと実績を持つ錬金術師達とコネを作っておく必要がある。理論で欲望を抑えつけて、マリーは必死に耐えた。

まだ、体も本調子ではない。どうせ楽しい食事を楽しむなら、獲物はでかい方が良い。メディアの森に行って、大型の鰐か、アークベアを狩ってきたい所だ。その時の事を考えながら、マリーは笑顔を崩さず、どうにかパーティを乗り切った。乗り切る頃には、だいぶ衝動も落ち着いていた。ただ、体の表面から奧に移っただけだ。いつまでもは抑えておけない。早いうちに何か殺しに行きたいところだ。

夜更けになると、会食は流れ解散となった。錬金術師達はしたたかに酔い、皆マリーとの握手を喜んでいた。騎士団の若手達はすっかり酔いつぶれていて、カミラが不機嫌そうにため息をついていた。普段鍛えている分、こういう場での制御が聞かないのだろう。カミラと話すと、彼女はそれでもまんざらではなさそうだった。冷酷な現実主義者で、野心的だと聞いていたのだが、随分イメージが違う。経験が足りない若手達を鍛える事に、生き甲斐を感じているようだ。何があったのかは分からない。ともかく、カミラは闇から光に人生を切り替えたのだろう。ただ、光に言ったところで、今まで積み重ねてきた事が消えるわけではない。乗り越える事が出来るかは、彼女次第だろう。

そのカミラもかなり酔ったようで、若手を引きずって帰る。あの騎士達は、後で説教を受ける事だろう。

料理人達が料理を片付ける中、ヘルミーナ先生が近づいてくる。イングリド先生は、まだ残っている年配の錬金術師と、ドルニエ校長の話に加わっていた。

「おめでとう。 ウフフフフフ、私が色々な事を教えただけの事はあったわ」

「有難うございます、ヘルミーナ先生」

「もう話は聞いていると思うけれど、次の任務も大変よ。 だが貴方なら出来るでしょうね。 フフフフフフフ、私が行っても良いのだけれど、まだこの辺りを離れるわけにはいかなくてね。 あのうすのろのイングリドだけじゃ、アカデミーを守りきれないでしょうし。 あの女ったら、以前もこんな事があってね」

ヘルミーナ先生はイングリド先生の悪口を色々言っていたが、不意に話を変える。この人はいつもこうだから、別にマリーは気にならない。

「私も若い頃、仲間二人とアルテゲヴァルトっていうエンシェント級のドラゴンを仕留めた事があったのよ。 その時に手に入れた素材は、最高級のものだった。 でも、丁度手元に良い宝石が揃わなかったの。 あのときは、悔しかったわ。 結局、素材は仲間の錬金術師に譲ったわ。 その子は夢を叶える事が出来たのだけれど、今でも夢に見るのよねえ。 あのときの事は」

その悔しさが、マリーにはよく分かった。ヘルミーナ先生も、イングリド先生も、錬金術の才能はマリーを明らかに凌いでいる。マリーが高純度の賢者の石を作り出す事が出来たのには、様々な幸運が働いているのだ。

ドナースターク家の家臣であった事。宝石ギルドの壊滅に手を貸した事。騎士団と関係を持つ事が出来た事。妖精達が広範囲のネットワークを作り、それを有効利用できた事。

優秀なスタッフや友も重要だが、何より幸運だったのだ。それはマリーも自覚している。

ヘルミーナ先生はそれだけ愚痴ると、残っている料理を貪り食いにテーブルに戻った。あまり上品な食べ方をしない人だ。主賓であるマリーは帰るわけにも行かず、酒も勧められて、したたかに酔った。体が回復しきっていないところに多量の酒を飲んだのだ。結果はどうなるかわかりきっている。何よりも精神的な平衡が崩れる。

パーティが完全に終わった時、マリーは意識を保っているのがやっとの状態になっていた。一人で歩く事は充分に出来たが、時々記憶が飛んだ。アトリエに戻った時は、日付が変わっていた。ベッドに倒れ込んだマリーを見て、アデリーは何があったのか、これから何が起こるのか、正確に把握したようだ。笑いが漏れる。せいぜい無駄な努力をするが良い。酒のせいか、意地悪な思考が漏れた。今回も、アデリーに楽しみを阻止させる気はない。

「母様、お水を持ってきましょうか?」

「いらない。 明日は夕食もいらない。 外で食べてくる」

メディアの森に行こうと思っていたが、やめた。近くの森ですませる事にしよう。ヴィラント山の側まで行けば、戦いの影響も殆ど受けていない。

「また、何か殺すのですか?」

「そーよ。 ははは、だってね。 今日、歴史が代わるほどの出来事があったのよ。 これが、賢者の石の完成品である事を証明できたし。 そればかりか、錬金術の歴史が変わる発表もする事が出来たもの。 あたしの苦労が報われたわ。 あはははは、あとは自分にご褒美をあげなくちゃあねえ」

思考がぐらりと揺れた。時々、その辺の生き物なら何でも良くなりかける。殺戮の欲求不満が蓄積すると、こういう現象が起こる。マリーとしても、戦闘能力のない動物や、利害関係のない人間を意味無く殺すのはあまり後味が良くない。

「もう、させはしません。 明日、絶対に阻止します」

「やれるものならやってみなさい」

大の字に寝返りを打つと、マリーは天井を見た。妙な会話であった。ひとしきり笑うと、ぶつりと意識が切れる。後はただ、貪欲に眠りを貪り続けた。

 

4,母子相克

 

アデリーは早く起きると、鎧を着込んだ。慣れないうちは一人で着られなかったが、今では極めて短時間でこなせる。新兵に着付けを教える事も出来るようになっていた。クーゲルさんに言われて、新兵の訓練のアルバイトをしてみて、皆下手だったので驚いた。自分もそうだった事を思い出し、皆に丁寧に教えた。凄く感謝された。感謝されるのは、少しくすぐったくて、でも嬉しかった。

鎧だけではなく、他の準備もする。手甲をはめ、脚絆を着け、サスマタを手にし、腰にワキザシを差す。

完全に武装が済んだ後、髪を後ろで縛り上げた。最近は髪を長くする余裕が出てきたが、それでも総力戦の時は縛る必要がある。ましてや今日は、完全に格上の相手との交戦だ。準備はどれだけしても、足りないという事はない。

アトリエの外に出る。朝の空気がすがすがしい。だが、それもすぐに、緊迫感にかき消される。

手を見る。みな、母様に貰った。サスマタも。生きていく知恵も。この武具も。戦い方を仕込んでくれた師匠達も。この命さえも。人間らしい感情でさえそうだ。一人の子供となる事が出来た。そして大人になる事ができるのも、全て母様のおかげだ。

走る。南門で、警備兵に一礼。森に出る。それから、ヴィラント山に向けて全力で駆ける。

母様は凄い人だと、アデリーは思う。尊敬もしている。基本的に、母様は何も否定しない。ただ合理的に判断し、排除すべきを消すだけだ。だが、その心には、合理性を明らかに上回る闇が存在している。

母様の中でうごめく闇は、暴力と破壊を欲している。それを受けきる事が出来る相手が、今までは存在しなかった。だから、アデリーがその存在となる。それがせめてもの恩返しだ。ずっと前から抱いていた考えは変わっていない。傷つく事はもう平気だ。以前はあれほど怖かった暴力も、今は何でもない。

心が静かだ。これから死を覚悟しなければならないほどの相手と戦うというのに、まるで冬の湖のように、心は平らだった。走る。街道を走り、ある地点で森の中に。森の中を駆ける。もう街道を駆ける時と同じ速度で行ける。この森は、もう知り尽くしている。

殆どの恐怖は克服した。血統上の両親に対する恐怖は、もう無い。可哀想な人たちだったのだと、今は冷静に考える事が出来ていた。母様についても、それは同じだ。アデリーは、世の中が合理主義だけではないと思う。何人か出来た友達も、皆利害関係ではなく、それ以上の心のつながりがあると信じている。だからこそに、母様を止めなければならないと、強く思う。「森の生態系を乱さない範囲で」「合法的な範囲で」といった理由で、殺す事は許せない。体を張って阻止できるのなら、これ以上の喜びはない。社会的に迷惑を掛けていないからといっても、容認は出来ない。何かを殺さなければ生きていけない事は分かっている。でも母様の殺戮は、明らかにその範囲を超えている。母様が如何に社会に巨大な貢献をしているからと言って、黙認して良いはずがない。

母様が天才である事は知っている。どれだけ努力しても追いつける気がしないし、作り出す錬金術の道具も凄い。人間としての容量が違うのだと、素直に認める事が出来る。それでも、退く事は出来ない。母様が一種の精神的な病気だという事も分かっている。だからこそ、アデリーが全力でその暴力を受け止める。

愚痴を聞いてくれたミルカッセが、言ってくれた。何時かは母様も分かってくれると。死ぬ事も、視野に置いている。今日が人生最後となっても、もう惜しくはない。

森の中の動物たち。動きが手に取るように分かる。木に付いた爪痕、マーキング、それらを全て総合的に判断して、生態系の乱れが少ない方向へ。母様は多分、起きた頃には理性を喪失するはずだ。そして森に出て、生態系が乱れていない方向へ行き、殺戮に手を染めるだろう。今までの経験で分かる。だから、近辺でもっとも生態系の乱れが少ない辺りで待ち、阻止する。

適当な木の側にて、足を止める。木に背中をつけ、目を閉じて、集中する。感覚をとぎすまし、待つ。この日のために鍛え上げてきた。後一歩及ばず、何かを死なせてしまう悔しさも知った。だから、もう同じ轍は踏まない。

周囲の動物たちを刺激するような真似はしない。パニックになったら却って母様の思うつぼだからだ。その代わり、位置を把握していく。虎が居る。狼も。熊も。母様は大喜びで殴り殺しに掛かるだろう。動きを丁寧に把握する。いざというときは、割って入って守るために。

もし、母様を阻止できたらどうしよう。昔は時々それで悩みもした。だが、今では結論も出ている。母様の暴力は体質的なものであって、今回阻止できても、いずれまた発現するだろう。誰かが側にいて止めなければならない。だから、母様の側から離れる気はない。でも、自分の人生にも、最近少しずつ興味が出てきた。何をするのかと言われても、今は分からない。だが何かを成し遂げてみたいという気持ちは、確かにある。

陽が、徐々に高くなってくる。

完全に泥酔した母様が帰ってきた時刻を考えると、目覚めるのはそろそろのはずだ。昨日の時点で、既に様子がおかしくなり始めていた。禁断症状が現れていたのだと、考えるのが自然だ。何と因果な体質か。

天才という人種が、異常な歪みの中に浮かんでいる事を、アデリーは肌で感じている。社会を効率よく動かすには、如何に天才の優れた部分を引き出していくかと言う事が課題の一つとなっている事も分かっている。母様はその典型だ。だからといって、アデリーは看過できなかった。

大木に背中を預け、しばし待つ。その時は、すぐに来るはずだった。

 

二日酔いするような無様な飲み方はしなかった。だから、実にさわやかに目が覚めた。一階に下りて、顔を洗う。歯を磨いて、口をゆすぐ。

アデリーはいない。そればかりか、武装一式が無くなっている。思わず笑みがこぼれる。今回は本気で阻止しに来ると言うわけだ。面白い。今までは側で悲しむだけだったあの子も、この間じいを殺した時には必死に止めようとしてきた。今回は、最初から暴力的手段で、マリーの楽しみと正面からぶつかり合うつもりと言うわけだ。

杖を手に取ると、外に。アトリエの看板を裏返して、外出中の文字を露出させる。通りで何人かと挨拶しながら、南門へ向かう。正直な話、辺りの人間を片っ端から八つ裂きにしたくてうずうずしている。だが、我慢だ。

ドナースターク家のためにも、趣味はあくまで社会的に迷惑の掛からない範囲で行わなければならない。生態系の様子を見ながら、森で殺しをする。やり方を覚えたのは、十代前半の頃だ。当時は今ほど上手に暴力衝動をコントロールできなかったから、森では見かけた動物を片っ端から殺してしまった。それでは駄目なのだとすぐ気付いた。気付いて、やり方を変えた。当時はもう生態系の仕組みや、森の命の流れは理解していた。だから、さほど実行は難しくなかった。

南門を出る。街道を行くうちに、馬車とすれ違う。美味そうな馬だと思った。急に馬が怯えて嘶いたので、御者がなだめるのに苦労していた。苦笑しながら、マリーは行く。まずい。そろそろ、本格的に抑えられなくなってきている。ああいう馬は食べ物ではない。乗っている人間もだ。言い聞かせて、街道を外れる。

森の中の生態系は、まだまだ乱れが酷かった。生息数のぶれが酷く、まだ回復に数年は掛かるだろう。この辺りの森の動物も、食べてはいけない。森は社会的な財産だ。膨大な富を生み出し、社会を支える基幹ともなる。木々は保水効果を持ち、枯れた後は薪にもなる。だから、出来るだけ傷つけるわけにはいかない。

ああ、だが。この森をまとめて焼き払ったら、どれだけ気分が良いだろう。逃げまどう動物たちを八つ裂きにしたら、どんなに快感だろう。

思考が暴走し始めている。まずい。口を押さえる。これほど酷い禁断症状ははじめてだ。我慢する期間が長すぎたのだ。そこに、あれほど巨大な喜びがあったのだ。無理もない話である。呼吸が荒くなってくる。南へ、南へ。塔のクリーチャーウェポンと戦った辺りを通り過ぎ、更に南へ。ヴィラント山が近くなってくる。

ヴィラント山は大型の猛獣と、魔物の住処だ。ヴィラント山の生態系は安定していて、実に楽しく殺戮を楽しむ事も出来る。ただ彼処は危険すぎる。一通り暴れて、魔力が尽きた後の事を考えると望ましくない。だが、今すぐ何か八つ裂きにしたいのも事実だ。それも道具を使っての間接的な暴力では嫌だ。素手がいい。

魔力の制御が効かなくなってきた。体の調子が完全ではないという事情もあるが、予想以上に賢者の石生成でふくれあがった魔力は大きかったという事もある。魔力だけなら、既に先生達に並んでいるかも知れない。ただし、経験や身体能力で言うとまだまだ及ばない。

歩いているうちに、目眩がしてくる。徐々に歩調が早くなる。まだまだ生態系の乱れが大きい地域だ。暴れるには早い。だが体は正直で、小走りに移行する。全力疾走になるのにも、さほど時間は掛からなかった。

垂れ流しになっていた魔力が、急速に練り上げられていく。それと同時に、理性も希薄になっていく。まだ早い。まだだ、我慢しろ。我慢する方が、食べる時には美味しいのだ。だから我慢するのだ。

走るうちに、感覚がおかしくなってくる。視界がぼやけ、嗅覚も聴覚も様子が変だ。それなのに、転ぶ事も、木にぶつかる事もない。全力で森を駆け、跳躍。小高い木の幹を蹴り、更なる高所へ。森の中、ひときわ高いアドレの木の幹に張り付くと、一気に頂上まで登った。

風が吹き付けてくる。獣同然の眼光で、辺りを見回す。

この辺りの生態系は、あまりこの間の戦いの影響を受けていない。殺るならこの辺りが適当だろう。自分を抑えて走っているうちに、随分街から離れた所まで来ていたのだ。視界がぐらついているが、関係ない。辺りの気配は立体的に理解する事が出来るし、空間も問題なく把握している。後は、楽しく殺す相手を探すだけだ。

早く八つ裂きにしたい。だが、今やマリーの暴力に耐えられる猛獣など殆ど存在していない。人間の五倍ほどのサイズを誇るサラマンダーでさえ、暴走状態のマリーの攻撃にはひとたまりもなかった。虎でも熊でも同じ事だ。潰すなら大型猛獣の群れがいい。多少は楽しむ事が出来るだろう。

理性が吹っ飛びそうな状態なのに、そんな風に思考が働いている自分が居る。面白すぎる二律背反に、マリーはほくそ笑んでいた。人間とは面白い。これだからこそに面白い。やがて、適切な獲物が見つかる。マリーはすっとバランスを崩す。落ちる。いや、違う。地面に向けて加速、幹を何度か蹴って、爆音と共に着地。降り立つと、いかづちが恐れ入るほどの速さで、獲物に向けて走り始めた。

殺す殺す殺す殺す殺す殺す!マリーの思考は、殺意一色に塗りつぶされた。獲物をいかにして潰すかを全力で考え始めた。雄叫び一つ。すぐに、獲物が見えてきた。

 

イングリドの視線の先には、狼のプライドがあった。

森林狼は人間以上の体格を持つ優れたハンターであり、敵に回すとそれなりに厄介な相手である。個体の戦闘能力は虎や熊には遠く及ばないが、家族を思いやる優しさや、人間と距離を測る知性も持ち合わせている。組織戦を行わせると人間に次ぐ実力を持つ存在でもある。だからこそに、クリーチャーウェポンの素材としては最適であったわけだ。

狼の群を、プライドと呼ぶ。今イングリドが見ているプライドは、七頭からなる小さなものであった。この時期は子育てに注力するため、多少危険性が増すが、それでも街道側には絶対に姿を見せない。狼たちは知っているのだ。人間がどれほど恐ろしい相手か。一人でも殺そうものなら、どれほどに恐ろしい報復が行われるか。狼が人間の家畜に手を出すのは、森が余程荒れて、獲物が獲れない時だけだ。それも、最後の手段としての狩りなのである。

トップの個体を、α体と呼ぶ。狼のプライドでは、基本的に同位の雄と雌が夫婦となり、子育てをする。しかし、あのプライドでは、今子育てをしているのはαの雄雌だけだ。しかも、子供は一匹だけである。流行病か何かで、運悪く子供達を失ってしまったのだろう。見たところ、かなり若い個体が集まったプライドのようだ。それならば、子育てが下手なのも頷ける。ただ、イングリドの目から見て、αの雄雌はなかなかに優れた個体のようである。

何故、イングリドがそんなものを見ているのか。それには、理由がある。イングリドが潜んでいるのは、小高い丘の上。そこには粗末な小屋があり、周囲から分からないように巧妙に偽装されていた。一見すると苔むした廃屋だが、中にはいると綺麗に整備されている。窓もあり、換気もされていて、実に快適な観測所だ。其処から遠めがねで見ている狼の群れは、今危機に瀕している。イングリドの側にいるヘルミーナが、退屈そうにあくびした。クルスが焼き菓子を運んで来て、無言でイングリドは一つ手に取った。

「ねえ、イングリド。 どうせまだマルローネは攻撃を仕掛けないでしょう? 何を今から熱心に見てるのよ」

「狼の戦闘能力を詳細に分析しているのよ。 マルローネが撃破するのにどれだけかかるか、レポートに記しておきたいから」

「はん、狼の群れなんぞ、今のあの子には案山子も同然でしょうに。 参考になんてならないわよ。 相変わらず迂遠な事してるのね。 魔力だけ測っておけばいいでしょうに」

「お黙りなさい。 緻密な調査をしているのよ」

この観察は、賢者の石がもたらす能力成長の記録として、非常に重要なものとなるだろう。だから、何一つとして見逃すわけにはいかない。そうイングリドは考えていた。

完成品に近い品質の、賢者の石の生成。沈滞していた錬金術のパラダイムシフト。この二つだけでも、マルローネが成し遂げた事は大きい。充分に満足できる事だ。事実元素理論は今までの常識を完全に覆すもので、早速でも本格的な研究を開始したいところなのだ。

だが、その前に。賢者の石を製造する時の魂の練成によって、どれだけ人の能力が上昇するのか。それをしっかり把握しなければ、研究は片手落ちになってしまう。イングリドもヘルミーナも、自分が作った時の能力上昇は詳細に記録し文章化している。だが、データが少なすぎるのだ。多くのデータがあってこそ、錬金術は今後も発展する。作り手に素質が要求される賢者の石などは、特にだ。高度な錬金術の産物になると、まだ不確定な部分が多い。マルローネはそれの幾つかを解明してくれた。実に素晴らしい。さらには今、貴重な賢者の石による成長データも提供してくれようとしている。まさに数十年に一人の逸材である。錬金術は今後も、彼女によって大きく変化していくだろう。

興奮して頭のねじが吹っ飛んだ状態のマルローネが何をするか、既に調べはついている。だから先回りして、マルローネが殺戮の場に選ぶであろう此処で待ち伏せしていたのだ。狼の群れには気の毒だが、この世界は人間のものだ。だから多少は心苦しいが、マルローネの餌食になって貰おう。

気になるのは、近くでずっと動かず居る娘の事だ。朝方から此処で待ち伏せしていたその娘は、聖騎士級の実力を持っている。確かマルローネの養子だ。アデリーと言ったか。何をするつもりなのかがよく分からない。しばし遠めがねを覗き込んでいたイングリドは、思わず口に出してしまう。

「マルローネが来たわ」

「いよいよね。 クルス、私達が言う事を、これから一字一句も逃さず記録しなさい」

「分かりました」

一礼すると、クルスが速記の体勢に入る。満足げに頷くと、イングリドは狼の群れの観察に戻った。

狼の群れは、遠くから獰猛な殺気を放ちつつ接近してくるマルローネに気付く。しかし、あまりにも遅すぎた。

マルローネの動きは、既に人間の領域を踏み越えていた。優れた魔力を、全て身体能力に回しているのだから当然だ。暴走状態のマルローネの恐ろしさは人づてに聞いていたが、確かにこれは噂になるのも無理はない。速さや瞬発力を、イングリドは遠目に分析して、即座に口に出す。

「身体能力、普段のおよそ3.7倍。 反射速度は、3.9倍」

「フフフフ、今なら身体能力だけであれば、この大陸最強かも知れないわね」

「……そうね」

素晴らしい才能だ。そして、今までのシステムでは、あの才能を埋もれさせてしまうところだったのだ。既にアカデミーの内部では、貧しいが才能のある人間を受け入れるシステムを実用段階に移している。さらには読み書きが出来ない人間に対応した教育システムも検討中だ。完成を急がなくてはならない。

歩哨に立っていた一頭が、最初の犠牲になった。咆吼しようとした瞬間、マルローネの拳が、頭蓋を割り砕いた。頭をあり得ない方向にへし曲げられた狼は、悲鳴を上げる暇もなく、地面に叩きつけられ、バウンドし、空中に跳ね上げられる。背骨まで折れたらしく、複雑に曲がった無惨な亡骸。あろうことかそれに空中で追いつくと、四つ、八つ、さらには十以上に、滅茶苦茶に引き裂く。内臓が飛び散る。肉がついたままの骨が地面に撒かれた。マルローネは呆然と立ちつくす二匹目に躍り掛かる。平手を頭上から叩きつける。クレーターが出来るほどの一撃。首の付け根から木っ端微塵に砕かれた狼の亡骸の上で、いかづちの魔力を殺気と共に放ちながら、マルローネが吠え猛る。辺りの獣たちが、悲鳴を上げながら逃げ散っていく。

α雄が、異変に気付いて遠吠え一つ。鋭く、誇り高い声だ。α雌に撤退を促すものであろう。マルローネは虫のように潰した狼の亡骸を地面から剥がすと、一息に半分つぶれた頭を左右に引きちぎり、そのままいかづちの魔力でほどよくウェルダンにまで焼き上げた。毛皮が燃えているが、気にしない。砕いた頭蓋の中に顔を突っ込み、脳みそを食べ始める。その獰猛な光景に、イングリドはへえとつぶやいた。ちょっと美味しそうだ。狼の躍り食いも、なかなか乙であろう。クルスは大まじめに、呟きまで記録している。微笑ましい。

「一体目、二体目撃破」

「流石ねえ。 おや? 狼側も反応が早い」

ヘルミーナもイングリドと同様、超一流の使い手である。気配の揺れで、何が起こっているかはこの距離からも正確に把握している。

「α雌が子供を連れて逃げ始めたわ。 α雄が防衛線を張って、体で止めようとするつもりのようね」

イングリドの視線の先で、α雌が子供をくわえて逃げ始める。歯をむいたα雄が、他の個体にも逃げるように促す。マリーが貪り食っていた一匹の頭蓋骨から顔を上げる。唇が動く。イングリドはそれを読んだ。

「馬鹿が。 逃がすか。 ですって。 フフフ、どうやら理性が残っているようね」

「そうなると、ますます危険ねえ。 理論的にあの暴力を振るうとなると、一体どれだけの被害が出る事やら」

「本人は己の制限に従って殺しをしているみたいだし、あまり極端な事にはならないでしょう。 三匹目撃破。 四匹目も」

三匹目、四匹目が、次々に捻り殺される。左右から連携して襲いかかった二匹に、あろう事かマルローネは今まで食べていた死骸を武器に振り回し、はじき飛ばしたのだ。一撃で背骨を複雑骨折した狼二頭は即死した。木に叩きつけられて、濡れた雑巾のように死骸が折れ曲がる。更に衝撃の余波で、木が左右に大きく揺れ、けたたましく鳴きながら鳥が逃げていった。近くにエルフ族の集落があるのだが、避難の準備を始めている事が気配で分かる。戦っても勝ち目がない事を魔力の放出だけで悟っているのだ。賢明な判断である。

態勢を低くして唸るα雄に、マルローネは指先でかかってくるように促す。α雄が伏せたままなのを見て、マルローネはこれ見よがしに仕留めた死骸をまた喰らい始めた。貪り喰う音が此処まで聞こえてくるかのようだ。

狼の誇りが、恐怖を凌駕する。一声上げると、α雄が飛び掛かった。マルローネが顔を上げると、血まみれの右手をちりちりと燃える毛皮から離した。

後は、解体ショーだった。

 

来た。そう思った時には、もうアデリーは立ち上がっていた。予想通り、母様が放っている殺気は獰猛だ。というよりも、想像を遙かに超える凄まじさだ。

以前よりも、確実に魔力量が大きくなっている。しかも段違いに、だ。暴走状態の母様は、その魔力をことごとく物理的な破壊力に変換している。つまり、アデリーが予想していたよりも、遙かに状況が悪い。

当然と言っては何だが、動きも以前より遙かに速かった。母様の行動範囲を予想し、その中心点で待っていたのが仇になった。全力で走る。間に合いそうもない。また、誰も救えそうにない。

だが、もう泣かない。泣いてたまるか。泣いて何か解決した事があったというのか。泣くくらいなら走れ。闇の中で、恐怖に震えていた時の自分ではない。両親の暴力に為す術無かった弱い自分ではない。母様に救われて、強くなった。だから、今度は母様に恩返しをする。

どのみち、母様に言葉は届かない。なぜなら、確固たる芯があるからだ。自分の芯を確立している人に、違う立場からの言葉は、参考以上の意味を持たない。その上、母様は自分が何をしているか、結果がどうなるか、全て分かった上で行動している。理論的にも、母様の中では間違っていない。あの人は大人で、アデリーは子供だ。会話するには、力を以てするしかない。

母様が、狼の群れに突っ込んだ。次々に気配が消えていく。二つ、場を離れた気配が、近づいてくる。

至近。茂みから、飛び出してきた。子供の狼を咥えた、母親らしい狼だ。野生の獣らしく、鋭い目でアデリーをにらみ付けてくる。アデリーはサスマタを降ろすと、横に手を振った。怯えている子狼の瞳が痛々しい。

「行ってください。 此処は、死守します」

狼は此方の行動を理解したようだ。だが、意図を測りかねている様子だった。無理もない話である。平和な生活をいきなり母様に踏みにじられてしまったのだから。

母様が作り出した新しい技術は、きっと世界に変革をもたらすのだろう。その結果、犠牲が生じている。狼の母子は、その一つだ。だからって、容認して良い訳がない。

遠くで、断末魔の悲鳴。母狼が、びくりと身を震わせた。母様は多分仕留めた獲物をすぐに食べ始めるはずだ。母様の暴力衝動が、獲物を喰らう事と一体になっている事は、今までの経験で掴んでいる。むごい話だが、ほんの少しであれば、それで時間が稼げるはず。アデリーは、もう一度横に手を振った。

「急いで! はやく! 安全なところまで逃げて!」

母狼は軽く頷いた、ように見えた。意図を察してくれたのだろう。そのまま、アデリーの脇を駆け抜けていく。これで、背中にまた一つ重みが加わった。絶対に、此処を抜かせる訳にはいかない。

目を閉じ、構えを取る。恐らく母様は、あの親子を殺して喰う事で、今日の大暴れの締めとするはずだ。今まで一緒に暮らしてきたのだから、それくらいは分かる。或いは戦士ではないという理由で子供は殺さないかも知れないが、その場合も結果は同じだ。森は弱肉強食の世界。狼の子が一人で生きていける訳がない。後ろに遠ざかっていく狼の親子の気配。逃げ延びてくれる事を祈りながら、アデリーは臨戦態勢で構えを取った。

気配が、近づいてくる。母様が、肉を食べ終えたのか。或いは、遠ざかる気配に勘づいたのか。背中がちりちりするほどの圧迫感。アデリーは呼吸を整えるのに苦労した。殺戮本能にスイッチが入ったクーゲルさんと立ち会いをした時と同じ、いやそれ以上か。やがて、むしろゆっくり、母様が茂みをかき分けて姿を現す。

手には無惨な毛皮の残骸を引きずっていた。ほどよく焼かれ、頭は左右に引き裂かれている。脳みそを食べたのだろう。砕かれた頭蓋骨の中には何も残っていなかった。狼の腹からは小腸が出ていて、引きずられていた。口の周りの血を手の甲で拭う母様の目は、殺気にぎらつき、爛々と光っていた。体に纏ういかづちが、時々スパークを発して、辺りを焼く。

「母様……!」

「ああぁああでリぃいいいい。 そんなところ、でえええええ、何を、しているかあああああ!」

本物の殺気。純粋なる怒気。思わず逃げ出したくなる。母様は、本気でアデリーに対して怒っている。

母様に拾われてから、怒られた事は何度もある。だが愛情の一貫としての憤怒であった事は、アデリー自身が一番良く分かっていた。だが、今のは違う。母様は、獲物を狩る事を邪魔しようとしているアデリーに対して、腹を立てている。それは、今までの憤怒とは違う。

昨晩、止めにはいる事は告げた。だから知っているはずだ。怒っているのは、知識よりも動物本能が勝っているからだろうか。どちらにしても、アデリーが浴びているのは、戦闘モードに入っている母様が敵にぶつけていたのと同じ、本物の殺気だ。瞬間でも油断すれば、即座に殺される。

「此処は、通しません」

「とおさない、いい、だとお? じぶんが、なにをいっているかあああ、わかっているんだろうなああああああ!」

母様は血だらけの毛皮にかぶりつくと、食いちぎった。そして、亡骸を放り捨てる。全身から放出されている魔力は尋常な量ではない。時間を稼げば稼ぐほど、暴走終了時間は早くなる。だから、何か時間を稼ぐためにも、喋ろうとした瞬間。

母様を、見失った。

上だと気付いた時には、拳が降ってきた。圧力だけで分かる。間合いも何も関係ない。こんなもの、まともに喰らったらひとたまりもない。全力で飛び退がる。衝撃波が、全身を叩く。見る。小型のクレーターが、今の一撃で穿たれた事を。下がりながら構えを取り直す。真っ正面から突っ込んでくる母様が、至近で残像を残して右にずれる。合わせて、サスマタを真横に振り抜く。

反応は、かろうじて間に合った。母様をサスマタが捉える。元々リーチが長い武器だ。暴漢を取り押さえるために特化した武具でもある。この時のために鍛えてきたのだ。押さえ込めば、如何に母様でも。聖騎士達に揉まれて育ったアデリーなら、どうにか出来るはず。

その甘い観測が、瞬時に打ち砕かれる。左腕一本でサスマタを受け止めた母様が、柄を握る。そのまま、サスマタごと振り回され、地面に叩きつけられる。全身の骨が鳴る。くぐもった悲鳴が上がる。更にもう一撃。容赦が全くない。だが、それで良い。完全に容赦無しに向かってきてくれていると分かるだけで、少しは気が楽だ。本気で母様と対話した事が、今まであっただろうか。今の母様は、本気でアデリーに向かってきている。それが、少しだけでも嬉しい。

振り上げられた瞬間、手をサスマタから離す。飛ばされる。遠心力を利用し、近くの木に掴まり、距離を取る。飛んできたのは、今まで身を守ってくれていたサスマタだ。掴まった木は二抱えもあるというのに、サスマタは幹の半ばまで突き刺さった。

サスマタに気が行った瞬間には、もう間合いが詰められていた。雷撃を纏った手が、獲物に襲いかかる毒蛇のように伸びてくる。直接掴まれたらもう終わりだ。幹から力づくでサスマタを引き抜く。いつの間にか、こんな事が出来るまでに身体能力が上がっていた。間に合う。母様の手を、幹から飛び降りながらサスマタで弾く。自由落下で地面に着地するまでが長く感じる。着地した時には、幹を逆さに這い降りてきた母様が、もう目の前に迫っていた。態勢を立て直すよりも、竜巻のように二回転した母様の回し蹴りの方が早い。サスマタに右手を添えてガードにかかる。だがガードの上から、母様の蹴りが、アデリーを吹き飛ばした。破壊力はクーゲルさんのチャージ並みか。重いなどと言うレベルではない。

地面で三度バウンドし、木に背中から叩きつけられる。呼吸が一瞬出来なくなる。それでも、気絶などしている暇はない。真上。肘で木を叩くようにして、横っ飛び。母様が振り下ろした拳が、地面を抉る。吹っ飛ぶ土。大木が、根本を瞬時に掘り崩されて傾く。

枯葉まみれになって飛び退くアデリーは、目に入ってくる汗を拭いながら、間髪入れずに飛んでくる母様の後ろ回し蹴りを、地面に半分伏せながらサスマタを斜めにして、どうにか受け止める。衝撃で、腕がしびれる。何度も受けているうちに、骨が砕けそうだ。一撃を受ける度、身長の何倍もずりさがる。動物たちは、こんな暴力衝動のはけ口にされていたのか。何という酷い事なのだ。唇を噛む。負けては居られない。

「てあああああっ!」

気合いを、声にして張り上げた。クーゲルさんのところで散々見てきた突きを真似て、渾身のチャージを仕掛ける。U字型に別れているサスマタの先端は棘だらけだ。だから如何に母様でも、直撃を貰えば面白くはないはず。はずだったのだが、母様の反応が早い。接触の瞬間、先端を垂直に蹴り上げられる。即座に頭を切り換え、至近から掌底を仕掛ける。まさか自分から接近戦を仕掛けてくるとは思わなかったのだろうか、母様にも隙が出来る。脇腹にクリーンヒット。僅かに下がる。やったと思ったが、慌てて頭を下げ、飛び退く。一瞬前まで頭があった地点を、肘が通過していた。避けるのが遅れていたら、首が飛んでいただろう。反応が遅れる。今度は竜巻のように襲い来た掌底を喰らって、こっちが吹っ飛ぶ番だった。

背中に大岩。叩きつけられる。岩に罅。前からは母様。軽くものを掴むように、指先を丸めている。知っている。手刀はあの形の方が、破壊力が大きい。必死に横に逃れる。

母様の手が、岩に突き刺さった。縦横無尽に亀裂が走る。岩が粉々に吹っ飛び、炸裂した。吹き飛ばされる。枯葉を蹴散らしながら、アデリーは立ち上がり、頬を掠めた岩の破片が作った傷から流れる血を拭った。

若干力が弱まったかと思ったが、考えが甘い。段違いに魔力が上がったのだ。持久力も増していると考えるのが自然であったのに。

煙を切り破り、頭上から踵落としを仕掛けてきた。だが、これは対応できる。伊達にエンデルク騎士団長に何度も稽古をつけて貰ってはいないのだ。体を捻って避け、殆ど間髪入れずに繰り出される追撃の回し蹴りもサスマタで受け止めてみせる。重いが、どうにか防げる。だが、嵐のような連続攻撃は熾烈を極めた。そこまでで終わる訳がなかった。足を引っ込めた母様が、即座に突きに切り替えてきたのだ。

一発目はどうにかサスマタを振り下ろして防ぐ。だが二発目が本命だった。鋭い一撃目に隠れて、ゆっくり伸びてきた左腕が、アデリーの手を掴んだ。しまったと思った時には、もう遅い。

全身をいかづちが駆け抜けていた。

飛んだ意識が戻る。首を掴んで、つり上げられていた。手にも足にも力が入らない。サスマタは遠くに転がされていた。意識が戻った瞬間、また雷撃を叩き込まれる。悲鳴も上がらない。全身が、引き裂かれるように痛い。更にもう一撃。今度は威力が若干低い。だから、却って今までの苦痛が、何倍にもなってぶり返してきた。悲鳴が上がる。

「ああああああああああっ!」

母様の魔力が少しずつ落ち始めている。だから、多少威力も弱めだった。だが、それでも尋常な破壊力ではない。散々今まで痛い思いをしてきたが、その中でもトップクラスであったかも知れない。

壊れた人形のように放り捨てられた。鎧を着て完全武装しているのに。枯葉の積もった地面の感触が、戦いで火照った肌を無理矢理冷やしていく。圧倒的すぎる。あまりにも強大だ。だが、不可思議でもある。

どうして、とどめを刺していかない。生きたまま八つ裂きにされるような痛みの中、アデリーは冷静だった。この冷静さは、ずっと培って来たものだ。遙か遠くまで、あの親子の狼が逃げ去ったのだろうか。逆に言えば、今からならまだ追いつけるという自信があるのだろう。獣のように唸って左右を見回していた母様は、やがて森の中を飛ぶように駆けていった。

まだだ、まだ負けていない。土を掴んで、体を起こそうとする。体中の筋肉がおかしい事が、すぐに分かる。少し動いただけで、体が壊れそうなほど痛い。半身を起こすだけで、膨大な努力が必要だった。指先が震える。力が、入らない。

側の木に掴まって、ゆっくり立ち上がる。呼吸を整えていく。目を閉じて、周囲の気配を伺う。めぼしい猛獣はもうあらかた逃げ散った様子だ。それならば、最悪の場合でもあの親子だけが犠牲になって終わるかも知れない。

そんな事を考えてしまった自分に気付いて、愕然とする。駄目だ。どうしてこう、目標をすぐに下げてしまう。サスマタを手に取る。優れた武具になると、使い手を選ぶとも言う。このサスマタは、ゲルハルトさんが丹誠込めて作ってくれたものだ。武具に選ばれないような使い手にだけは、なってはいけない。心を奮い立たせる。背負っていたものがあったではないか。少し傷ついたくらいで、母様の圧倒的な実力を見たくらいで、それを投げ出すのか。折れ掛けていた芯を、立て直す。だが、心は苦しい。

実力はもう聖騎士級だと、稽古をつけてくれたクーゲルさんが言っていた。努力を続けてきて、強くなれたはずなのだ。それなのに。

母様の破壊衝動は嫌いだ。もう一つ、嫌いなところがある。どれだけ走っても、背中に追いつく事が出来ないということだ。どうして、あんなに走るのが速い。どうして、声が届かない。

泣くな。言い聞かせて、目を擦る。まだ間に合うはずだ。さっき、もう母様の魔力は衰えが来始めていた。母様を殺す事ではなく、魔力を消耗させきる事が目的なのだ。あと少し、あと少しで目的はなる。

腰のワキザシに触れる。いざというときは、これも使う。

一歩、二歩、踏み出す。三歩目からは小走りで。後は一気に、全力疾走に移行した。痛いなどと言っていられない。アデリーが頑張れば、あの親子は助かるのだ。痛いのに耐えれば、死なずに済むのだ。

恐ろしく速い母様の足だが、だが確実に遅くなってきている。今の戦いで、相当な魔力を消耗したのだ。ひょっとしたら、行けるかも知れない。希望を胸に、アデリーは走った。徐々に、距離が詰まってくる。

母様を止める。それだけを考えていた。アデリーには、それしかなかった。それだけが、唯一出来る恩返しだからだ。

あと少し、あと少しだ。背中に追いつける。追いつけば、きっと願いは届く。自らに言い聞かせて、もつれ掛ける足を無理に動かして、アデリーは疾走した。

 

遠めがねを覗き込んでいたイングリドは、実に素晴らしいと何度もつぶやいてしまった。まさかあのアデリーが、あれほどまでに食い下がる事が出来るとは。その結果、マルローネに関する興味深いデータを山ほど採る事が出来た。

データをクルスに記録させながら、イングリドは興奮を抑えるのに苦労しなければならなかった。賢者の石の可能性はまだまだ幾らでも先がある。プラティーンの生成や、魔力の巨大化だけでは無いかも知れない。ひょっとすると、研究の先には、不老不死や超人化の実現があるかも知れない。マルローネは元々能力者としてトップクラスの素質の持ち主だが、不完全な賢者の石でも、あれだけの飛躍的強化を果たしている。一種の暴走状態だと言っても、実に素晴らしい。クリーチャーウェポンの製造技術と合わせ、更にマリーブランドの火薬を解析し終えれば、戦争そのもののあり方が完全に変わる可能性も高い。

錬金術はパラダイムシフトを果たした後、世界そのものを支配する学問になるかも知れないのだ。錬金術師として、興奮せずにいられようか。

「あら、珍しく興奮しているじゃない」

「これが興奮せずにいられますか。 素晴らしいわ」

ヘルミーナの嫌みに応じる気も起こらない。錬金術の宝は、無数に積み重ねられたデータだ。人類の持つ最大の宝こそ、蓄えられた経験である事を考えると、それは社会そのものとも大きくリンクしている。

「少し遅れてしまった。 すまぬな」

「いえ、これからが本番です」

イングリドがくすくすと笑いながら振り向いた先には、クーゲルと、ドルニエ校長の姿があった。クーゲルはマルローネの暴走に前から興味があったらしく、ドルニエ校長の護衛を頼んだら喜んできてくれた。更に彼は、騎士団側から派遣されている監視要員でもある。

「イングリド先生、データを見せてくれるかね」

「クルス、お見せしなさい」

「はい。 速記ですから、読みにくいですが」

「何、構わんよ」

ドルニエ校長は老眼鏡を直すと、恐ろしい速さでデータを把握していった。イングリドはそれを横目に、森をいかづちのように走り抜けるマリーの位置を追う。やはり最初に逃げ延びた狼の親子を追っている。子を守ろうとする母親をなぶり殺しにして喰らい、今日の締めとするつもりだろう。子供は殺すかどうか分からない。戦士だと認めたら、その場で捻り潰すかも知れない。

クーゲルは冥い目をした娘を一人連れていた。騎士らしいのだが、全身から常に獰猛な殺気を滾らせている。顔立ちは整っているが、髪は短く切りそろえており、腰には実用を第一にした刺突剣をぶら下げていた。最近クーゲルが見つけたという後継者だそうだ。実は、以前イングリドは一度だけ見た事がある。その時は実に頭が悪そうなお嬢だったのだが、今はこの通りである。一体何があったのか。クーゲルは遠めがねを借りると、マルローネの様子を見て、ほうと一言つぶやいた。

「暴走状態の奴を見るのは始めてだが、噂通り、いやそれ以上に素晴らしいな。 機会があれば是非戦ってみたい」

「もう力は落ち始めています。 多分、後半刻も持続しないでしょう」

「それでもなかなかだ。 エリアレッテ、見ておけ。 あれが鮮血のマルローネ。 お前が目標とすべき存在だ」

無言で頷くと、エリアレッテという娘も遠めがねを覗き込む。マルローネの気配から必死に逃げまどう虎や熊の姿が、何処か滑稽だった。マルローネはそれらに目もくれず、直線的に森を走る。

エリアレッテがぴくりと眉を動かした。クーゲルもそれにつられて、視線を動かす。マルローネの後ろから、必死の追跡を掛けている者がいる。アデリーだ。クーゲルは満足げに頷く。

「良く育ちあがった。 マルローネ君もろとも、騎士団の一員として活用したい。 マルローネ君については無理だと言う事は分かっているが、アデリーはどうにかしたいな」

「方法はあります。 既に騎士団には打診しておきました」

「あら、例の計画にあの子も巻き込むつもり? フフフフフ、相変わらず腹黒いわねえ」

「お黙り。 貴方に言われたくないわ」

けたけた笑うヘルミーナに鋭く返すと、イングリドはマルローネの方に注意を戻す。まだまだマルローネからは貴重なデータが取れる。そろそろ狼の親子に追いつく頃だ。

母狼は、逃げ切れないと悟ったのだろう。小狼を木の根の下に出来た穴に隠すと、自身は遠吠えを一つ。マルローネの思うつぼという訳だ。自身が母親だからこそ、相手の心理を洞察する事が出来る。動物でも同じだ。

「む?」

「クーゲル老、どうしました?」

「人間の娘がいる。 しかも一人で、だ。 気配から察するに、どう考えても戦闘訓練を受けている様子はないな」

「それはまずいですね」

失念していた。まさかこんな所に一般人が居るとは思っていなかったのだ。だから気配も読み取れなかった。この辺り、年の功というものの力がよく分かる。

多分、マルローネは今の状態でもカタギの人間を襲って喰らう事はないだろう。あの娘は、あくまで自分のルールの範囲内で殺戮を楽しんでいるからだ。だが、戦いに巻き込まれたら、戦闘経験のない小娘などそれこそひとたまりもない。自分が死んだ事さえ分からないかも知れない。

「迷子でしょうか」

「さあ? どのみち、こんな森の奧で彷徨いている方が悪いわ。 実験の邪魔になるし、いっそ処分してしまいましょうか? 私なら、この位置からピンポイントで狙撃できますが?」

「いやいや、ヘルミーナ先生、流石にそれは乱暴だろう。 クーゲル殿、悪いが保護してきてくれないかのう」

「いや、もう遅いようですな。 マルローネ君の進路に思い切り出てしまったようだ」

何処か楽しそうにクーゲルが言い、ドルニエ校長は残念そうに嘆息した。何事にもアクシデントは付き物だ。だが、それもまた、貴重な実験データの一つとなる。

イングリドは言葉とは裏腹に、状況を楽しみながら、静かに推移を見守っていた。

 

狼ごときの割には、楽しめた。マリーは走りながら、口の中に残った血肉の味をかみしめていた。舌なめずり。残るは親子。デザートは親子丼といこう。子供は食べても食べなくてもいい。向かってくるようなら、ぺろんと一呑みにしてやろう。

炸裂するような殺気に任せて走っていたマリーは、急に飛び出してきたそれを見て足を止める。それは土を巻き上げて走ってきたマリーを見て、悲鳴を上げてすっ転んだ。十代半ばの娘だ。仕立てのいい服を着ているから、多分貴族だろう。

泣いていたようで、頬に涙の跡がついている。頭を抱えてがたがた震えているそれに、構っている暇はない。身を翻して、今日のデザートを追撃にかかろうとしたマリーに、娘が声を掛けてくる。必死の様子だった。

「待ちなさい! い、いや、待って!」

ゆっくり振り返る。見たところ能力者らしいから、今マリーが身に纏っている魔力がどういう代物か分かっているはずだ。それなのに、何だ。鬱陶しい。首をへし折って黙らせるか。マリーが静かに殺意を滾らせる中、娘は必死にすがりついてくる。

「お、お願い! お父様が病気で、どうしてもお薬が必要で! お小遣いは用意できたんだけど、薬は無くて! 腕の良い錬金術師なら薬に変えてくれる薬草があるっていうから、森に来たの! でも、迷子になってしまって!」

「うっとうしい」

ばちんと音を立てて、娘を弾く。こんな所を護衛も無しにほっつき歩いている世間知らずの貴族娘の事情など知った事か。今はご飯だ。八つ裂きだ。血肉で、脳みそだ。ばらばらに引きちぎっていかづちで焼いて美味しく食べる時間だ。

だが、徐々に頭が冷え始めているマリーは、理性が少しずつ戻り始めてもいた。魔力の低下に伴って、興奮も収まりつつあるのだ。だから打算も働く。これは確保しておいて、後で恩を売った方が良いか。そう結論する。娘は軽く頬をはたかれただけで気絶し、地面に転がっていた。担いでいっても問題はないだろう。担いでいく。担いでいった後、食べる。いや食べてはいけない。食べるのは獲物だけだ。大体人肉はまずい。食べるには適さない。こんな柔らかい体では、引きちぎっても面白くないだろう。

辺りの気配を探る。聴覚を、嗅覚を全開にする。さっきの奴は何処に行った。気配が減っている。子供を落としたか。いや、違う。隠したか。

なるほど、自分を犠牲に、子供だけでも守ろうという訳だ。

そう言う時の母親は、考えられない力を発揮して抵抗してくる。そそる。今日という素晴らしい日に食べるデザートに相応しい。遠吠え一つ。傷ついた振りをして、狐を巣穴から遠ざける鳥が存在する。狼も似たようなことをするわけだ。実に面白い。

駆け出そうとした、その瞬間。至近を掠める光。娘っ子を抱えたまま飛び退く。木に突き刺さるワキザシ。態勢を低くして唸るマリーの前に現れる、アデリー。

全身傷だらけ。だが、この短時間で、此処まで追いついてきたとは。そして、今の一撃、殺気が籠もっていた。素晴らしい。口の端がつり上がる。

「あァああでりいいいい。 いま、なにをしタか、わかってイるんだろうねぇええエえ!」

「母様、もう理性が戻り始めているんですね。 だったら、もうやめてください! その人も、離してあげてください!」

アデリーの表情が痛々しい。というか、理性が戻り始めている事を、どうして見抜いた。感嘆と同時に苛立ちが募る。体の方は正直だ。まだ暴れたがっている。そしてしっかり暴れておかないと、また近日中に同じ事が起こる。しっかり発散しておかないと却って危険だという事は、体が知っている。

アデリーは相当傷ついているが、それでもかなり手強い。今のマリーが、本能的に手強いと認識するほどの実力に育ちあがっている。だからこそに鬱陶しい。早くデザートを食べたいというのに。立ちふさがるこの壁の、なんと大きな事か。いつの間にか、我が子はこうも大きくなっていた。邪魔だが、嬉しくもある。

腰を落として、サスマタを構え直すアデリー。命に代えても、此処でマリーの行動を止めるつもりだ。決意も覚悟も本物。この子は既に、一人前の戦士だ。仕方がない。もう一度、叩きのめして通るしかない。

担いでいた娘っ子を、アデリーに向けて放り投げる。意表を突かれたアデリー。反応が一瞬遅れる。側の枯れ木を引き抜き、頭上から叩きつける。

娘っ子を受け止めたアデリーは、とっさに背中で枯れ木の直撃を受け止めた。幹が砕け、くぐもった悲鳴が上がる。もう一撃。半ばから枯れ木がへし折れる。枯れ木を放り捨て、躍り掛かる。拳を叩き込むが、余裕を持ってサスマタで弾いてくる。動きがどんどん良くなっている。いや、此方の動きが悪くなってきているのだ。

「てあああああああっ!」

頭から鮮血を流しながら、アデリーが突き込んでくる。喉を狙った一撃。サスマタはもともと喉を押さえ込み、相手を制圧する武具。身をかがめ、懐に入ろうとしたマリーの至近に、膝。動きを読んでいたか。飛び退こうとするマリーに、真上からサスマタの一撃。棘が付いた先端部が、十字にクロスしたマリーの腕を直撃。上から押さえ込みにかかる。

一瞬の膠着。だが、それも長くは続かない。

強引に腕を弾いて、押さえ込みのサスマタを弾く。棘が腕の肉を裂く。鮮血がしぶく。大きく飛ばされたアデリーに、至近で踏み込み、掌底突きを叩き込む。後ろに飛んで威力を殺そうとするアデリーが、踏みとどまる。後ろに意識を失った娘っ子がいるからだ。直撃。アデリーが吐血したが、それでも踏みとどまる。腕を下げて、押さえ込むようにして今の突きの威力を殺したのは流石だ。

「かああああああっ!」

そのまま、蹴りを叩き込む。サスマタで受け止められる。徐々に、だが確実に。反応が的確になってきている。そしてマリーは着実に遅くなってきている。このままではじり貧だ。

繰り出されるサスマタを弾くと、懐に潜り込もうとする。掴んでしまえば勝ちだ。だが、そうはさせてくれない。サスマタを自らの体の一部のように扱い、弾き、防ぎ、受け止める。此方の手を急速に学習してきている。最強の敵は身内だと、誰かが言ったとか言わないとか。マリーは歯ぎしりすると、叫んだ。

「どけえええええええっ!」

「どきません!」

邪魔だ、邪魔だ邪魔だ邪魔だ。残っている魔力を、全てつぎ込む。体が燃え上がるように熱い。本調子ではない分、体への負担が大きい事が、本能的に分かる。目を回していた娘っ子が、意識を取り戻す。アデリーが、背中に庇いながら叫ぶ。

「逃げて! 早く!」

右往左往している様が鬱陶しい。戦いの邪魔だ。此方は腹が減っているのだ。早く肉を食いたいのだ。ひょっとして、腰を抜かしているのか。雄叫びを一つあげる。アデリーが飛びついてきたのは、その時だった。まさか体ごと飛びついてくるとは思わなかった。サスマタの間合いを考えていたので、どうしても一歩遅れる。そのまま押し倒され、マウントを取られる。この態勢に入ると、どんなに力が強くても簡単にはねのける事は出来ない。だが、今のマリーに近接戦闘を挑むのは、自殺行為だ。

そのまま、肩を押さえ込んでいる手を掴む。

残った魔力の殆どをいかづちにして、叩き込んでいた。それが故に、自分の意識も吹っ飛ぶ。

どうしてアデリーがこんな行動に出たかは、よく分からなかった。

 

理性が完全に戻ってくると、辺りはもう暗くなっていた。側には意識を失ったアデリーと、どこかの知らない娘が転がっている。魔力はほぼ使い切ってしまったが、実に良い気分だった。

また彼方此方に傷が出来ている。体の状態を確認しながら、ゆっくり立ち上がる。賢者の石を完成させて、成すべき事をして。すっかり羽目を外してしまった。良く覚えていないが、単に楽しかった。腹も八分目くらいには膨れている。

「かあ、さま?」

側で転がっているアデリーが呻いた。マリーに続いて意識を取り戻したのだ。そうか、此奴が全力でマリーを止めたのだった。アデリーは笑っている。手を貸して、半身を起こしてやる。何だか非常に不愉快だったのと同時に、面白かったような気がした。今回の暴走の事は、あまり良く覚えていない。ただ、一緒に帰ろうという気は起こらなかった。

「馬鹿な子だね、あんたは」

「母様だって」

「今日は、そっちで転がってるのを街まで届けてから帰るわ。 あんたは一人で帰りなさい」

貴族の娘だろう。こんな所に何をしに来たのかは知らないが、そんなものは帰りにでもおいおい聞けばいい。随分細くて軽い体だ。戦闘経験どころか、遠出さえした事がなさそうだ。肩に担いで身を翻しかけたマリーに、アデリーが後ろから言う。

「母様」

「ん?」

「私、何度だって止めますから」

「……勝手にしなさい」

娘の著しい成長は確かだった。

日が沈む。街道に出た時には、もう星が見え始めていた。街道の途中で目を覚ました娘はアイゼルという名前で、ワイマール伯爵家の一人娘。父の難病を治すため、薬の材料を探しに一人で来ていたのだという。何の事はない、マリーが何度も調合した事のある薬品だ。たまたまアカデミーには在庫がなかっただけで、別にそれほど難しい薬でもない。もちろん、手元にも在庫がある。

マリーの一挙一動に怯えきっている娘の両親からどれだけふんだくれるか考えながら、マリーは帰路を行く。傷口が染みる。だが、それは生の痛みだった。帰ったらアデリーの作る飯を食べたいなと、マリーは思った。

 

遠くで、狼の遠吠えが聞こえる。悲しい声だった。危機を乗り切った事は理解しているのだろう。アデリーは守れなかった者達に、静かにわびた。

最後、何故わざと電撃を浴びるような行動をしたのか。理由は簡単だ。最初にたたきのめされた時、母様は電撃をアデリーに直接叩き込んでから、露骨に動きが鈍くなった。母様は経験といい戦闘センスといい、アデリーの遙か上を行く。だから長期戦になったら不利だと分かっていた。

だから、最後の賭に出たのだ。

賭には勝った。自分が我慢すれば、周りの者達も救えた。次は、もっと多くの者達を助けたい。片足を引きずりながら、アデリーは街道に出た。体中が痛い。切ない。

振り向くと、夜闇の森の中、四つの光があった。狼二頭の目だ。獣らしく、闇夜で光っている。こんな道の側まで狼が出てくる事など滅多にない。光はしばらくアデリーを見ていたが、やがて森の奧へ駆け去っていった。たくましく生き延びてくれる事を祈る。街道を歩いて、ザールブルグへ向かう。

城門の側。意外な人が待っていた。ミルカッセだ。ミルカッセは無言でアデリーにぬれタオルを渡してくれる。タオルで顔を拭くと、見る間にこびりついていた血で真っ赤になった。手も、足も傷だらけ。鎧も補修が必要だろう。明日にでもゲルハルトさんに見て貰わないといけない。ここしばらく蓄えたお金は、みんな消えてしまいそうだ。

「お疲れ様です」

「うん。 有難う、ミルカッセ」

「救えましたか」

「少しだけ」

それ以上、ミルカッセは何も言わなかった。アトリエまで一緒に歩く。

星が綺麗だ。今回は、守る事が出来た。でも全部は守れなかった。次こそは、全部守りきる。アデリーは決意を新たにする。もう泣かずに済みそうだと、降るような星空の下で思った。

 

全てを見届けたイングリドは、貴重な資料の採取成功に満足していた。全く、あのマルローネは。何から何まで錬金術の発展に貢献してくれる。クルスに筆記を止めるように合図すると、イングリドはドルニエ校長に向き直った。

「校長先生。 以上で資料の採取は終了です」

「うむ。 素晴らしい」

貴重なデータの採取に、校長も喜んでいた。謎がいまだ多い賢者の石の生成に、マルローネは大きく貢献した。次に賢者の石を完成させる人間は、もっと楽に調合を進める事が出来るだろう。

錬金術は未完成の学問だ。「旅の人」がもたらした情報を元に、世界を変革するために錬金術師達は日々奮闘している。かの人が超越的存在であった以外、ほとんど何も分かっていない。ひょっとすると今でも、世界の何処かをふらついているのかも知れない。人となりは著書から分かるが、それだけだ。

まだまだ、錬金術は先に行く事が出来る。やがては世界を支配する技術となり、社会を動かすようになるだろう。だが、それは結局の所、天才的な人間のダイナミックな行動によって成し得るのかも知れない。全ての人間が出来る錬金術というのは、まだまだ遠い夢だ。

クーゲルはエリアレッテと校長を連れて、帰路についた。クーゲルは質が高い戦いを見る事が出来て満足そうだった。噂によると、彼は後進育成の面白さに目覚めたらしい。今後は更に効率の良い弟子の収集をするため、兄の店に顔を出す事を考えているそうだ。世の中色々である。

小屋には三人だけになった。ヘルミーナは珍しく深刻に考え込んでいる。揶揄する雰囲気ではなかった。

「どうしたの? 考え込んで」

「イングリド、私アカデミーに戻るわ。 常時滞在する訳にはいかないだろうけど、生徒も取ってみるつもりよ」

「どういうつもり? 貴方の仕事は」

「そちらもおろそかにする気はないわよ」

ヘルミーナは空を見た。瞬く星空は、誰の上にも平等に輝いている。当然、誰の目にも同じように見える訳ではいないだろう。

会話はそこで終わった。後はめいめい帰宅する。まだやる事は幾らでもある。ヘルミーナが何を考えているかは分からない。だが、イングリドは己の道を行くだけであった。

 

エピローグ・旅立ち

 

秋。試験の終了日が来た。

アカデミーの一室に呼ばれたマリーは、イングリド先生から資格証明書と、卒業証明書を渡された。卒業用に持っていったのは賢者の石。もちろん、合格には充分な代物であった。賢者の石は、そのままマリーが持っていて良い事となった。ただし、アトリエに貯蔵していた薬剤類は、あらかたアカデミーが市価で引き取る事となった。フラムとクラフトは、いざというときのため、マリーが持ってゆく。

資格証明書は、マイスターランクを出たのと同等の実力があるとアカデミーが認めた印である。この大陸ではあまり役に立たないが、エル・バドールでは充分に効果を発揮するはずだ。そのために、こんな紙切れが支給されたのである。

「それでは、マルローネ。 これから厳しい任務になると思いますが、しっかりやりなさい」

「はい。 イングリド先生」

「貴方の教師でいて、私は鼻が高いわ。 今後も歴史に大きな変革をもたらし続けなさい」

「有難うございます」

一礼。この人には、とても世話になった。これからも世話になり続ける。ドナースターク家を通じて、良いコネクションを築いていきたいものだ。

アトリエに向けて歩く。懐の賢者の石の重みが心地良い。大事に抱えた卒業証書が愛おしい。初秋の空気が肺に優しい。

五年越しの試験が終わって、何だか少し肩が軽くなった。アトリエも、今日引き払う。ドナースターク家が小さな屋敷を用意してくれたので、自費で手に入れた器具類や、生活用品はそちらに移した。今までドナースターク家に対して果たした功績と、今後の任務の厳しさを考えるとこれくらいは当然だとシアは言ってくれた。地下のスペースや、大型の竈を置く場所もある。器具類を洗うスペースも作ってもらった。ただ、しばらく使う事はない。だから管理をパテットに頼んで、格安で掃除と維持をしてもらう事となっている。パテットの事だから、しっかりした子を寄こしてくれるだろう。

アトリエに着く。既に看板は外してある。荷物も殆ど運び出したから、中はほぼすっからかんだ。昨晩此処で過ごした。最後の宿泊となった。中にはいると、がらんとしていた。此処で何もかもを作った。栄養剤を作った時は、本当に心臓が止まるかと思った。中和剤一つがあれほど奥が深いとは知らなかった。このアトリエには、錬金術師として腕を上げていく過程が染みついている。マリーの錬金術師としての歴史は、このアトリエと共にある。

これからは、更に世界が広がっていく。だから、このアトリエとは別れなければならない。また訪れるのは良いだろう。だが、此処にいる訳にはいかないのだ。

色々と話は聞いている。マリーのテストケースを母体として、無学な人間や、貧しいが才能のある者を、受け入れる態勢が整いつつあるのだという。このアトリエは、そう言った人間が住み込む場所の一つとなるそうだ。元々アカデミーの備品で、マリーの私物でも家でもないのだ。だが、此処は五年というかなりの長期にわたり、間違いなくマリーにとって帰るべき場所だった。

地下室に降りる。既に魔法陣は消してある。棚に置いていた貴重品や、金庫も既に回収済み。昨日のうちに何度かに分けて荷車に乗せ、屋敷に運んだ。幾つか本当に重要なものは、これから持ち歩く事になる。ウロボロスの本はもうアカデミーに返した。今度あれを手にする人が誰になるのかは、まだ先生達にも分からないという。

二階に上がる。ベッドももう運び出し、屋敷に移した。兎に角何事にもぬかりないシアは、先にアデリーに細かく備品を聞き、必要な家具だけを揃えてくれていた。だから、アデリーの分のベッドだけは新しく買ってある。きちんと養子にした後も、ベッドを買いに行く暇がなかったから、これは嬉しかった。

窓を開ける。調合が厳しい時は、朝も昼も関係ない。これからもそうだろう。だから、この窓から差し込んでくる日の光が、貴重な時報だった。城で鳴る鐘もそうなのだが、日の光は好きだ。綺麗だし、風情もある。

一階に下りる。釜は既に改造を外され、日常生活用に切り替わっている。改造部分は、使えそうなものに関しては「自宅」へ移した。作業用の机さえ持って行ってしまったから、本当に殺風景だ。

もう、何も用はない。だから、出なくてはならない。何度かドアに手を伸ばしたが、ノブを掴む事が出来なかった。

非合理的な話なのに。こんな気分になるのは初めてだ。たかが住居だというのに、こんなに思い入れが深かったとは思わなかった。四回目に伸ばした手が、ノブを掴む。何だか、ドアが途轍もなく重かった。振り返る。やはり、中にはもう何も残っていなかった。

「さよなら。 あたしのアトリエ」

返事はない。だが、この時確かに何かが終わった。

ドアを閉じる。ドアに背中を預けて、最後の余韻を楽しむと、マリーは自宅へ向かった。もう振り返らなかった。

 

自宅では、既にシアが待っていた。セイラはすっかりお腹が大きくなり、現在産休を取っているので、この間からマルルが代わりを務めている。覚えが良い上に、増長する事がないマルルは、秘書官として充分な仕事をしているようだ。今も小さな体でぱたぱたと走り回り、お茶の準備をしていた。居間の席に着くと、シアは顔を上げて笑顔を浮かべる。

「お疲れ様、マリー」

「ただいま。 アトリエとの別れ、しっかり済ませてきたよ」

「珍しいわね、あなたがそんな気分になるなんて」

「え? 分かる。 うん、少し寂しいかな」

笑いあうと、茶を飲み干す。セイラのものにはまだ及ばないが、なかなか美味しい。

このザールブルグからももう少しで離れなければならない。永遠に離れる訳ではないのだが、しかし不定期だ。しばらくは南にある港町のカスターニェを今後は拠点とする必要がある。既にドナースターク家で手を回して、小さな家を手に入れてくれている。

グランベル村を挟んで、ザールブルグと完全に反対の位置にあるカスターニェは、此処とは何もかもが違う。シグザール王国の領土だが、周辺の治安は完全に安定しておらず、特に街の外は半無法地帯だ。ただ、盗賊団が幾つか存在しているらしいので、爆発物の実験素材には困らない。皆殺しにして良いと言われているので、マリーとしては楽しい滞在にはなるだろう。

滞在の目的は、エル・バドールに渡る事。そして、其処の技術を可能な限り収集し、持ち帰る事だ。

爛熟した文明を持ち、すっかり停滞しているエル・バドール。一つの大型国家に支配され、錬金術もかなり発展している。だが、そこでも賢者の石の製造成功例はあまり無い。マリーはエル・バドールでも知られた錬金術師であるドルニエ校長のお墨付きを持っている上、向こうでも滅多に成功例のない賢者の石の現物を保有している。ここで使えそうな技術を集め、ドナースターク家と、シグザール王国に貢献する。もちろん、アカデミーにも必要な技術を引き渡す。そういう重要な任務なのだ。

アカデミー経由でドナースターク家に来たこの任務は、言うまでもなく国家的プロジェクトの一端だ。さらには、ドムハイト側の経済活動を監視する意味もある。万が一ドムハイトが本格的にエル・バドールとの交易を成功させそうな時には、一報を入れなくてはならない。

様々な意味で重要な任務だ。塔のクリーチャーウェポンとの戦いで大功を立てた。ドムハイト諜報部隊の壊滅に尽力した。他にも様々に大きな事を成し遂げたマリーだからこそ、任された仕事である。マリーとしても、興味のある仕事だ。社会や国が腐っていても技術は技術。更に火力の高い兵器を作り出せるかも知れない。

重要な任務だからこそ、護衛もつく。現地では国の諜報部隊員が数人待機している。マリーの命令通り動く訳ではないが、最大限の協力をしてくれるという。また、護衛もつく。

「こんにちは」

「ミュー、いらっしゃい」

その一人がミューだ。すっかり青い鎧が板についている。正式に騎士となった彼女だが、冒険者としての経験を生かして、今回はマリーの護衛としてカスターニェまで着いてくる。ルーウェンにとっては思わぬ行幸だろう。ただルーウェンの事だから、しっかり自信がつくまでは、ミューを避けるかも知れない。

そして、もう一人。

「ほら、アデリー。 入って」

「はい」

ミューに促され、少し恥ずかしそうに入ってきたのは、騎士団支給の青い鎧を着たアデリーだ。騎士団支給の剣と、一緒に愛用のワキザシを腰にぶら下げている。サスマタもきちんと背負っていた。

色々な提案があって、結局アデリーは騎士となった。ただし、今回の任務でマリーの護衛をする事、今後も周辺任務をする事が条件である。人材を少しでも多く欲しい上、ザールブルグに駐屯している優秀な人材を減らしたくない騎士団が出してきた奇策であった。もちろんマリーがエル・バドールでの活動を安定化させ、ザールブルグに戻ってきたら、騎士団員として活用するつもりなのだろう。

「似合いますか?」

「うん。 かっこいいよ」

娘の晴れ姿が嬉しくない母親は実在するだろう。だがマリーは違う。アデリーの晴れ姿は、まぶしかった。

これで準備は整った。

エル・バドールに渡り、根こそぎ使えそうな技術を回収してくる。それによって、グランベルはさらなる発展を遂げる事だろう。ドナースターク家の人間も当然何人か連れて行く。情報伝達要員として必要だからだ。現地は危険な事が予想されるので、腕が立つ人間をマリー自身が厳選した。

誰にとっても重要な仕事だ。失敗する訳にはいかない。

馬車が着いたようだ。荷車だけでは無理があるから、チャーターしたのだ。外に出てみると、注文通り屋根が着いた二頭立ての立派なものが来ていた。すぐに皆で荷物を積む。

馬車には貴重品と一緒に資金も積んでいく。賢者の石を作り上げてから数ヶ月で、金は稼げるだけ稼いだ。国からの支給金もあるが、それだけでは足りない事が予想されたからだ。最後の切り札であるリヒト・ヘルツも持っていく。荷物の最終チェックを終えると、マリーは腰を上げた。この自宅とも、しばらくはお別れだ。シアとは今まで以上に簡単には会えなくなるだろう。

馬車に乗り込む。辺りを見回す。此処は、間違いなくマリーの二つ目の故郷だった。見回す。結構多くの人たちが見送りに来てくれた。ドナースターク家の重臣達。両親の姿はないが、それでも構わない。村の人たちは、マリーの家族も同じだ。この街で知り合った人たち。ディオ氏とフレアさん。ナタリエ。ハレッシュ。ゲルハルトと、クーゲル。騎士団の任務という事もあり、何とあのエンデルクまで来てくれている。近所のおばさん達も、時間を見繕ってきてくれた。アデリーの友達であるミルカッセの姿もあった。

馬車が動き出す。これからも、マリーの人生は激動のものとなるだろう。その中でも、恐らくもっとも激しかったこの五年をくれたこの街が、マリーは好きだ。皆に手を振る。手を振り返される。

これから向かう場所の生活でも、きっと此処での事は大きな財産となる。マリーの栄達の道は、まだ始まったばかりなのだ。

街を離れる。エル・バドールの惰弱な連中を蹂躙するのが楽しみだ。

マリーは含み笑いを一つ漏らすと、空を仰ぐ。ただ静かな青の中に、雲が点々と浮かんでいた。

 

(暗黒!マリーのアトリエ 完)