辿り着いた天井

 

序、錬金術の果て

 

錬金術アカデミーの事実上の指導者であるイングリドは図書館に足を運び、ドルニエ校長の書斎を訪れた。いつもそうだが、今日もドルニエは老眼鏡を何度かずらしながら、微細な調合を続けていた。試験管とフラスコが、周囲に林立している。時々独り言を呟きながら校長はメモを取る。イングリドには殆ど興味を見せない。

錬金術に全てを捧げた人生。研究をするために産まれてきたような男。人間としては嫌いだが、研究者としては至高の存在と認める相手。今回は、この人に許可を得なければならないのが、少し面倒ではあった。

「ドルニエ校長」

「何かね、イングリド先生」

「あの本を貸し出す許可を頂きたいのです」

ドルニエは手を止め、顔を上げる。珍しい光景だ。この人物が、研究を中断することは滅多にない。寝るのも食事も体力回復のためで、後の時間はことごとく錬金術のためだけに本気でつぎ込んでいる人物だ。着替えでさえ煩わしいようで、そのための使用人を雇いたいと独り言をつぶやいている所を見た事さえある。一度、ヘルミーナに身の回りの世話をするためのホムンクルスを作ってくれと頼んだ事もあった。全ては錬金術の研究のため。そのドルニエが。地震の時でさえ手を止めなかった校長が。しげしげと小さな目で、イングリドを見つめてくる。

「本気かね」

「本気です。 もはや、マルローネは充分な実力を身につけていると、私は考えています」

「そうかね。 ふうむ」

校長は腕組みをして考え込んでいたが、やがて自分に言い聞かせるように頷く。

「私には、錬金術以外のことはわからん。 だが、君が錬金術を愛しているのはよく知っているつもりだ」

「光栄です」

「盗難されないように、重々気をつけるように、念を押して貸し出すようにな」

校長は腰を重そうに上げると、部屋の奥にある本に囲まれた小さな机をどけた。そして窓の側にある何の変哲もない壁に触り、何度か押す。そうすると、音もなくゆっくり床が沈んでいく。そして、四角い穴が出来た。幅はどうにか人が入れる程度。階段などという洒落たものはついていないので、隠してある縄ばしごで降りるのだ。

もちろん、穴にはランプもない。校長はついてこない。イングリドは自ら穴に入り込み、ゆっくり降りていく。それは、まさに奈落の底。校長室の更に奧にある、秘中の秘。創立時にはなかったものを、イングリドが改装した場所。アカデミーの深奥である、様々な知識を保管していく倉庫である。

この中には、何人もの錬金術師が命を賭けて守った秘密の調合表や、奇跡的な確率をくぐり抜けて作り出された道具が眠っている。最近納めたものには、ヘルミーナが解析したクリーチャーウェポンの製造秘法の一部などがある。真っ暗な穴をゆっくり降りていき、地面に足がついたところで、首からぶら下げていたランプに点火。真四角な、石造りの部屋が照らし出される。

地下は湿気が完璧にコントロールされ、環境は異常なまでに安定している。イングリドは棚の一つの前で腰をかがめると、引き出しを開けて、油紙に念入りに包まれた本を取り出した。油紙を開く。ひんやりとした感触が心地よい分厚い本が姿を現した。ずっしりとした質感が、手に心地よい。表紙はシンプルな青一色で、「ウロボロス」と一言だけだけ書かれている。己の尾をくわえた蛇のことで、世界の循環を意味する。

これぞ、ドルニエ校長がエル・バドールより持ち出した、究極の秘本。錬金術をエル・バドールに広めたという、伝説の「旅の人」が記したといわれる、賢者の石の製造技術解説書だ。写本ではあるが、それでも世界に三冊しか存在しない。もちろんイングリドは完璧に内容を覚えている。そして、この本を読んだことで、イングリドは旅の人についての決定的な事実も知ったのだ。そして、この世界そのものの、断片的な情報も。

再び油紙に本を包むと、イングリドはランプを消し、首に掛けた。真っ暗な空間で縄ばしごを掴み、今度はゆっくりあがっていく。今度は、見上げれば灯りが見えるので、多少は気分が楽だ。足を踏み外さないように、慎重に登りあがっていく。

やがて、穴から身を乗り出すと、イングリドは流石に嘆息した。まだまだ全盛期の実力をほぼ完璧に維持しているとは言っても、狭い穴を何処までも降りていくのは流石に気が滅入る。穴から這いだし、埃を払うと、穴を閉じる。ドルニエ校長は特に何も言うことはなく、机を元に戻すと、また黙々と実験を始めた。

既に季節は晩秋である。マルローネは四年と少しという短期間で、驚くべき成長を遂げた。学生としては異質な育ち上がり方ではあるが、力がついたのは誰の目にも明らかな事実。無学な人間を育てるには、こういうやり方もあるのだと、イングリドは再確認させられていた。いずれ貧困層をターゲットにした特別入学枠を設ける必要もあるだろう。

この国の民達のエネルギッシュな活動こそが、錬金術の進歩を加速させる。ゼクス=ファーレンやクリーチャーウェポンを作った錬金術師共も、そう言う意味では世界に貢献した。特にマルローネは、錬金術のパラダイムシフトを起こしてくれると、イングリドに確信さえさせてくれる。実に素晴らしい。

図書館から外に出る。既に肌寒くなりつつある。通り過ぎる学生達に礼を返しながら、外に。この本を学生に任せるのは初めてだが、この街でマルローネに喧嘩を売るような馬鹿な泥棒はいない。心配する必要はないだろう。

アトリエには、マルローネの気配があった。この間の戦いで薬剤類を放出しきったため、ここのところ忙しく在庫を増やしているのだそうだ。煙突から煙があがっている。裏庭の方では、素振りをする音が響いていた。かなり豪快な音で、若さを感じさせる。正式に子にしたという、アデリーが修練しているのだろう。

戸をノックする。とっくに接近に気付いているはずなのに、白々しい誰何。イングリドは表情を動かさずにアトリエに入る。中は心地よい薬品臭に満ちている。

勧められるまま席に着いた。丁度傷薬の調合をしていたマルローネは、キノコと薬草をすりつぶしていた乳鉢と、中和剤を湛えたフラスコを片付けていた。油紙が幾つかひろげられており、其処にはまだ加工していない素材類が並んでいた。あわただしく片付けをしている内に、アデリーが入ってきて、丁寧に礼。茶を淹れてくれる。この子の茶はとても美味しいので、毎回来るのが楽しみだ。

茶を出すと、アデリーは再び裏庭に戻った。豪快な素振りの音が響き始める。前回の戦いでも、見事にマルローネの前衛を果たし、詠唱中の彼女を守りきったという。実力は既に並の騎士を凌いでおり、このまま順調に育ちあがれば、来年には聖騎士の試験を受けられるほどになると、マルローネは言っていた。子供が育つのは、傍目にも楽しいことだ。

裏庭に続く戸を見ていたイングリドに、マルローネは多少恐縮した様子で言う。

「イングリド先生、今日は何でしょうか」

「マルローネ。 貴方に、約束のものを届けに来ました」

「約束というと、賢者の石の貴重な文献ですか?」

「本当に貴重な本だから、絶対に盗難されないように。 出来るだけ早く読んで、メモも金庫に入れるようにしなさい。 後、汚さないように」

油紙をひろげると、自らの手でマルローネに渡す。マルローネは目を輝かせて受け取った。この娘がクリーチャーウェポン関連の情報を欲しがっていたことを、イングリドは知っている。だがこの本はそんな気を吹き飛ばしてしまうだろう。それほどまでにこの本に記された情報は凄いのだ。そして今のマルローネなら、内容を確実に理解できる。安心して託すことが出来る。

茶が美味しい。

これからは、しばらく楽しみな時期が続くだろう。この本を読んだマルローネが、いかなる変革を作り出すのか。考えるだけで少女だった時のように心が躍る。ひょっとすると、自分のたどり着けなかった境地まで、飛翔できるかも知れない。そうなれば錬金術は、さらなる飛躍の刻に突入できる。

アカデミーを出ると、イングリドは眉をひそめた。視線を感じたのだ。しかも、ここしばらく感じるものである。不愉快なのは、露骨な敵意と観察心が視線に混じっていることだ。距離は現在二百七十歩ほど。百歩ほど離れれば気付かれないと思っているらしく、時々あきれるほど無防備になっていることがある。此方が見逃してやっていればいい気になる、典型的な愚者だ。少し鬱陶しい。良い気分が台無しである。処分する事をイングリドは決めた。

アカデミーには帰らず、イングリドは裏路地へ向かった。気配はついてくる。更に薄暗い細道へはいる。視界から消えたイングリドに、追跡者は慌てた。気配を消す。追跡者は更に動揺し、路地に飛び込んできた。

その時には既に、イングリドは湿気った煉瓦で建てられた、路地裏の小さな家の屋根に上がり、片膝をついて様子を見守っていた。

飛び込んできたのは、特徴のない顔の男であった。もう中年にさしかかっていて、腹が見事に出ている。一見して個性のない中年男性だが、この人物が見かけと違うことをイングリドは知っている。普通の男はイングリドを一定距離を置いて追跡したりしない。そもそも、他の人間の気配と見分けられない。そして、此処で気配を消したことにも気付かない。この冴えない中年男が、実は相当な訓練を受けているのは明らかだ。イングリドを相手にするには力不足だが。

既に詠唱は済んでいる。男が舌打ちすると同時に、術を開放。指先に淡い光が集まり、球になる。爪の先ほどの小さなそれが、音もなく男の耳元に飛んでいく。飛行軌道も虫のように定まらず、音も熱もない。イングリドは指を鳴らす。同時に、光球が炸裂した。

男が白目をむき、前のめりに地面に倒れる。

イングリドが発生させたのは、リトルバーストという術だ。指向性の強い大音響を発生させるものであり、炸裂の瞬間まで相手に気付かれにくい。耳元で炸裂させると、この通り大の男でも簡単に気絶させることが出来る。

小屋から降りると、生きている縄を袖から引っ張り出し、男を縛り上げさせる。本縄だから、抜けるのは無理だ。更にボディチェックも縄にやらせる。そうすると、小型のナイフを始め、様々な護身用具が出てきた。

小屋の影に男を移すと、アカデミーに戻る。警備員を呼んで、すぐに男を回収させる。小屋の影に転がした時少し触ったが、男は相当に鍛えている。間違ってもカタギではない。まあ、関係のないことだ。真実は男の体に聞く。場合によっては、実験素材としてヘルミーナにくれてやっても良い。もちろん使えそうなら自分の研究材料にする。

アカデミーの人間に喧嘩を売ることがどういう意味を持っているか、世に示しておく必要がある。そう言う意味ではイングリドに容赦というものはなく、冷徹さは圧倒的だ。警備兵から、男を地下牢に放り込んだという報告を聞くと、イングリドは自室に戻った。肩を叩きながら、研究成果をチェック。それから、男に加える拷問のことを吟味する。

何事も、達成するには犠牲がいる。賢者の石ほどのものとなってくれば、その犠牲は当然膨大なものとなる。伝説の存在となっている旅の人とて、賢者の石の理論を完成させるために、膨大な犠牲を払ったのだ。何故今回だけそれが例外となろうか。

イングリドは犠牲が出ることを忌んではいない。それが、凡人と彼女の、決定的な違いだった。

やがて、拷問に使うべき道具を見繕い終えたイングリドは、それらを持って、地下室に降りた。男の悲鳴が響き始めたのは、まもなくのことであった。

 

1,それぞれの天井

 

裏庭に置いてある大きな岩に座り、瞑想を終えたマリーは、ゆっくり目を開いた。ついにこの刻が来た。思ったよりも遅かったが、それでもついに到達してしまったのである。

全身を流れる魔力を制御しながら、ゆっくり立ち上がる。憂鬱だ。側にある棒を手に取ると、何度か振り回す。不快感がこみ上げてきた。イングリド先生の持ってきた本を読んでせっかく良い気分になっていたのに、台無しである。

マリーの不機嫌の理由は他でもない。魔力が完全に上昇を止めたのだ。己の才能の極限まで魔力を鍛え上げたことを、マリーは悟った。手を見る。肉体面では、まだまだ錬磨の余地がある。だが結局マリーは遠距離支援型の能力者だ。身体能力は補助の役割しか果たさない。ある程度の接近戦をこなせることはもちろん必要だが、今更シアやエンデルクと近距離でやり合おうとは絶対に思わない。

胃液が沸騰するような不快感。気晴らしに近くの森で何か殺してこようかと思ったマリーは、愛用の杖を手に外に出かける。そして思い出す。今、近くの森はくだんの魔人との戦いで、荒れ果ててしまっているのだ。魔人が蹂躙した木々のこともそうだが、奴がばらまいたクリーチャーウェポンの虫がかなり植物を食い荒らしてしまっている。マリーも参加した駆除作戦はもうだいたい終了しているが、生態系のことを考えると、余剰の動物を楽しく殺すのは望ましくない。しばらくは出来るだけ人間の手を入れないようにして放置しないと、森の状態は元に戻らないだろう。感情が沸騰して抑えられない時を除いて、近くの森で殺戮は行わない方が良い。今は我慢の時だ。

杖を机に立てかけると、小さくため息。ずっと本ばかり読むのも飽きる。せっかく素晴らしく面白い本なのだから、そんな読み方をしてはもったいない。アデリーがクーゲルの所に修練に出ている今、話し相手もいない。しばらく机を指先で叩いていたマリーは、やはり外に出ることにした。気分転換には、外出が一番だ。ただし、森の方へは行かない。城壁にも登らない。適当に辺りをぶらつくだけにする。

アトリエから外に出ると、もう夏の暑さはすっかりどこかへ消えており、代わりに心地よい晩秋の空気がある。試験の最終年に突入したのは先月のことだ。そろそろ、ザールブルグにも冬がやってくるだろう。

何処へともなく歩きながら、漠然とマリーは思考を進めていた。それでもきちんと通行人を避けて歩くのは、たゆまぬ努力のたまものだ。最終年に入ったとは言っても、まだかなり時間はある。現時点でも充分卒業できる自信もある。だが、マリーの人生が此処で終わるわけではない。ドナースターク家の事を考えると、まだまだ今の内に力をつけておきたい。テクノクラートとして大成するには、もう少し広域の知識と技術を手にしておいた方がよいと、マリーは思う。ただでさえ天井に手が着いてしまったのだ。これからは魔力以外の能力を拡大していかなければならない。

アカデミーは独立した錬金術師にもある程度の支援をしてくれる。卒業したからといって、研究できなくなるわけではない。シアだって激務をこなしながらも、きちんと修練を積んでいるのだ。ただし、ドナースターク家のテクノクラートとなると、研究に全力投球するのは難しくなるだろう。賢者の石はもちろんのこととして、時間が掛かる研究は、今の内にやっておくのが一番であった。

ゲルハルトの店の前に、いつの間にか来ていた。店からはリズミカルな鍛冶の音が響き続けている。そういえば、アデリーのサスマタを修理に出していた。この間の戦いで酷使したので、特に柄が痛んでいたのだ。今アデリーが使っているのは代用品である。マリーの杖もそろそろメンテが必要な時期であるし、覗いておいて損はない。店に入り、奧に向けて声を掛ける。

「こんちわ、おやっさん」

「おお、ちょっと待っててくれや」

奧から威勢がよいゲルハルトの声が返ってきた。マリーは来客用の椅子に腰掛けると、店の隅にある、新調したばかりの案山子を見た。まだ誰も試し切りをしていないらしく、新品同様だ。丁度何か殴り殺したい気分だったし、杖のメンテをしたら叩きつぶして行こうと、マリーは思った。

「おう、待たせたな」

「いいえ。 アデリーのサスマタ、どんな状況ですか」

「おお、すまんな。 まだ手をつけてねえ」

本当にすまなそうにゲルハルトが言う。彼にしては仕事が遅いが、まあ、今回ばかりは仕方がないかとマリーは思った。

戦争の前後に、一番忙しくなるのが鍛冶屋だ。戦争の前は武具を納品しなければならない。後は修理を必要とする武具が大量に入ってくる。もちろん、使い物にならなくなった武具を引き取って欲しいという依頼もある。鍛冶屋にとって、今は一番忙しい時期だろう。ましてや、彼のように腕が良い鍛冶屋はなおさらだ。

全身に汗を掻いていたゲルハルトは、カウンターを挟んでマリーと向かい合うように座った。手ぬぐいで首筋の汗を拭く。仕事で流した汗の強い臭気が漂ってくる。当然のことながら、頭髪は一本もない。上半身は半裸で、皮膚の下に格納された強靱な筋肉が浮いている。

「分かると思うが、何しろ手が足りなくてな。 この間の戦いで、未熟な奴が武具を無駄に壊すような使い方しやがって、余計な手間ばかり増えやがった」

「お疲れです。 今日は様子を見に来ただけです。 この杖のメンテもお願いしたい所だったんですけれど」

「すまねえが、一月くらいは待ってくれ。 あ、それと、アデリー嬢ちゃんのサスマタだが、それほど酷い状態じゃねえ。 腕を上げたって聞いてたが、本当なんだな」

腕が上がると、武具を壊さないよう、きちんと使いこなせるようになる。あれほどの速さで撃ち出されたクリーチャーウェポンを、アデリーは武器に無理させることなく凌いで見せた。親として鼻が高い。

アデリーはマリーの側に居たいというのだから好きなようにさせているが、この分だとシグザールでもドムハイトでも、武官としてやっていけるだろう。しかもアデリーはまだ十代半ばだ。成長途上にあり、最終的な剣腕がどれほどになるのかは分からない。上手く立ち回れば騎士団長も夢ではない。小国であれば、頂点を取れるかも知れない。ただ、アデリーには下手をすると己を焼いてしまうような強烈な野心がない。だから、そんな道は選ばないだろう。実に惜しい。

奧からは金属を叩く音が響き続けている。弟子達が作業をしているのだろう。ゲルハルトに腕の良い弟子がいるという話は聞いていないから、苦労はしているはずだが、それでも一人よりはずっと作業が早いはずだ。二三雑談をして笑い合った後、ゲルハルトは身を乗り出した。

「ところで、だ。 少し真面目な話をしたい」

「何ですか、改まって」

「アデリー嬢ちゃんの事だ。 自覚は無いかも知れないが、このままだとあの子は、あんたに人生を確定されちまうぞ」

「へ? うーん、そうなんですか?」

苦笑するマリーだが、ゲルハルトは表情を崩さなかった。雰囲気的に、冗談では済まないことだと、マリーは表情を引き締める。

アデリーがマリーの暴力衝動を抑えることに人生を注ごうとしていることは知っている。それがあの子の考えている恩返しなのだと言うことも。ただ、考えてみれば、それはあまり建設的な夢とは言えない。マリーはアデリーを何処でも生きていけるように育て上げた。だが、それはマリーを抑えさせるためではない。アデリーが好きに世界を歩けるようにするためだ。

マリーとしては、アデリーの意思を尊重したいのである。自分の利益に反しない範囲であれば、何をやっても別に文句はない。本音ではドナースターク家の次代を支える人材となって欲しいが、それを強制はしない。

「あの子が可愛いのは分かるが、このままだとあの子、一本の道しか選べなくなる。 早めに、何か手を打ってやりな」

「あたしとしても、そう思って様々なスキルを身につけさせたんですけど」

「そうじゃない、そうじゃないんだ。 精神的な面で、何かしらの導きをする必要があるんじゃないのか、て事だよ」

奧から、ゲルハルトを呼ぶ声。ゲルハルトは腰を上げた。今の会話も、貴重な休憩だったはずだ。相当に疲れているだろうに、仕事が嫌そうには見えない。本当に鍛冶が好きなのだと、この事だけでも分かる。だからこそに、これほどの鍛冶屋になることが出来たのだろう。

「俺は不器用で、頭も悪いから、上手く言えないんだが。 あんたは物事を教える親としては、とても優秀だと思う。 だけど、もう少し己の道の歩き方って奴を教えてやってもいいと思うんだ」

「あたしは、人生の戦略は何でも自分で決めてきました。 ドナースターク家の為に戦うことも、錬金術師を目指すことも、この試験での方針も。 それでこそ、人は強くなれるんだと思いますけれど。 アデリーにもそうさせてやりたいだけです」

「その通りだ。 俺だって冒険者だったんだ。 あんたの言葉が正しいって事くらいは、肌で知ってる。 だがな、それが出来る人ばかりでは無いような気がする。 あくまで俺には、だがな」

腕組みして小首を捻るマリーを残して、ゲルハルトは店の奥に引っ込んだ。この分だと杖のメンテを頼めるのはしばらく先だろう。それ自体は別に構わない。まだまだ、杖の痛みは目立つほどではないからだ。

マリーは外に出ると、空を仰ぐ。雲一つ無く、実に美しい。

人間が世界の覇権を握ることが出来たのは、強かったからだ。他の動物の生存圏を侵略し、食らいつくしてきたのは、相対的な能力が勝っていたからである。個体では勝てない相手もいるが、十八番である集団戦を行って人間を凌ぐ存在などいない。逆に言えば、人間よりも勝る生物が出てくれば、たちまちに駆逐されてしまうだろう。それが世の理と言うものだ。だから、常に最強でなければならない。

今後は人間同士の争いがますます激しくなると、マリーは考えている。今でさえ弱肉強食の状況であり、敗者には悲惨な末路が待っている。社会的な復活を果たせたナタリエは運がよい方である。あの塔の魔人のような目に遭う人間だって、少なくはないのである。動物の世界のように、敗北が即座に死につながるわけでは無いとはいえ、苛烈な事に変わりはない。

だから、アデリーには強くなって欲しいのだ。強くなり、勝者となり、社会で生き抜いて欲しい。弱者なりに生きる方法もあるが、それは妖精族のようなものとなる。強者の奴隷となり、最大限に知恵を働かせながら、己の居場所を確保していく事になるだろう。アデリーは才能はあるが、器用ではない。とてもそんな事は出来ないだろう。

だが、アデリーの反発を感じているのも事実だ。あの子が嬉しそうにしている所なんて、しばらく見たことがない。可愛い娘には、幸せそうにしていて欲しいという希望も、マリーにはある。

頭をかき回す。何だか、賢者の石を完成させても、どうにもならないことが世の中には多そうだ。ゲルハルトは歴戦の冒険者であり、マリーの同類とも言えるリアリストだったと聞いている。そのゲルハルトが言うことだ。無碍には出来ない。

ストレスを発散するどころか、新しい問題を抱えてしまったマリーは、大きくため息をつく。目に凶暴な光が宿る。口の端をつり上げたのは、少し前から自分をつけてくる相手に気付いていたからだ。丁度いい。憂さ晴らしに半殺しにしていくか。決めると、マリーはわざと人気のない路地裏に入り込んだ。

 

朝の走り込みを終えたアデリーがアトリエ側の公園でストレッチをしていると、複数の気配が近づいてきた。誰だかはすぐに分かった。騎士団の若手達だ。最近まとわりついてくることが多いので、気配まで覚えてしまった。困ったと思ったが、悪いことをしたわけではないので、逃げる気にもなれない。やがて、三人の騎士達は公園に入ってきた。騎士団支給の鎧を着て、きちんと剣を帯びている。実戦装備だ。

騎士達は三人とも女性で、リーダー格はアデリーより五歳くらい年上である。一応名前は知っている。物腰は上品で、貴族の子息だと、クーゲルさんにこの前聞いた。恵まれた生活をしている貴族の子息と言っても、実力はなかなかのもので、騎士団でも期待されている若手の一人だそうだ。とはいっても、言動や気配を見ている限り、どうも実感がない。若手の双璧といわれていたキルエリッヒさんと比べると、実力的な差が激しすぎる。

クーゲルさんのところで修練している時に顔を合わせたのが腐れ縁のはじめである。それ以来、ことあるごとに騎士団に勧誘しようとするので、アデリーは正直辟易していた。ただ、クーゲルさんの話によると、この間の戦いで有能な騎士が多く鬼籍に入ったため、補充要員になりそうな人間には、積極的にスカウトが行われているのだそうだ。アデリーはエンデルク騎士団長に直接鍛えてもらったこともあり、変に名前が知られてしまっている。騎士団では最重要マーク人物の一人となっているらしく、この人以外にも、例えばニニアさんにも誘われたことがある。もっとも、ニニアさんの場合は、気心の知れた同僚が欲しいというのが本音であったようだ。

「こんにちわ、アデリーさん。 今日も熱心ね」

「おはようございます。 エリアレッテさん」

上品な笑顔を向けてくる髪の長い騎士に、アデリーはストレッチをしながら応える。エリアレッテさんの金髪はカールが掛かっていて、実に綺麗だ。

実戦を意識した鍛錬をするようになると、どうしてもお洒落は蔑ろになりがちだ。マスターくらいの実力になってくるとそれでも多少は身繕いをする余裕は出てくるが、ベテランに足を踏み入れる位までは、文字通り性別関係無しの状態になることが多いとアデリーは聞いている。短髪にする女性戦士が珍しくないのはそのためだ。だが、この人は周囲に多くのサポートを抱えているのか、いつも身綺麗である。後ろの二人は置物のように黙っていて、やりとりに口出ししようとはしない。同格の騎士で、実力も大差ないはずなのだが、不思議な上下関係が世の中では生じるものである。

「今日こそ、色よい返事を聞かせてもらえないかしら」

「何度も申し上げたはずです。 私は、騎士団に入る気はありません」

「貴方の実力なら、すぐに騎士になれるわ。 もったいないと思いませんの?」

思うわよねえと、エリアレッテさんは後ろの二人に話を振る。さながら事前に打ち合わせていたように、二人は思いますと声まで合わせて応えた。双子らしいのだが、何も此処までしなくても良いような気がするのにと、アデリーはいつも思う。二人は肩当ての色を変えているのだが、それは周囲が見分けられないからだそうだ。つまり、二人が入れ替わっても、誰も気付けない。ある意味、極めて便利な特性である。

困り果てているアデリーだが、この人は食いついたら離してくれない。下手をするとアトリエにまで押しかけてきそうな勢いである。マスターと鉢合わせしたらどんな惨劇が起こるか分からないので、いつも戦々恐々としている。だが本人はそんなアデリーの危惧など知らぬ顔で、どんどん踏み込んでくる。

この間は通りがかったルーウェンさんが助けてくれた。ミルカッセが気を利かせて助けてくれたこともあった。だが今回、周囲に彼らの気配はない。自分で何とかしなければならない。

「とにかく、すみません。 修練の途中ですから」

「そんなに己を鍛え上げて、どうするんですの? 日常生活を送るには、貴方の実力は過剰すぎるのではなくて?」

「どうしてもやりたいことがあるんです」

「それは騎士としての責務とは、並行して行えないのかしら」

無理だとアデリーは応え、座ったまま上体を捻って背筋を延ばした。筋肉をほぐしながらも、油断無く周囲に気を配る。

丁度エリアレッテさん達が来た頃から、どうもちりちりと嫌な気配を感じる。ミルカッセを悪く言っていたおばさんが放っていた、あの憎悪と同じ雰囲気だ。エリアレッテさんからではない。位置までは特定できないのだが、あまり良い気分はしなかった。

気配は、明らかにアデリーを観察していた。エリアレッテ達も、場合によっては巻き込まれる。仮にもシグザール王国の騎士が、その辺の相手に絡まれたくらいでどうにかなるはずもないが、トラブルは避けた方が良い。特に、自分のトラブルに他人を巻き込むのは最悪だ。困り果てていたアデリーは、仕方がないと目をつぶった。本気で彼女らを追い払わないといけないだろう。

「分かりました。 エリアレッテさんが私に勝てたら、騎士団に入ります」

「あら? そんな易しい条件でいいんですの? 剣を!」

エリアレッテさんが嬉々として言うと、右にいた取り巻きその一から剣を受け取る。豪奢な装飾が施された、如何にも良く切れそうな剣だ。実際に良く鍛えられている剣で、刀身に曇りもない。

頭が悪そうな言動とは裏腹に、エリアレッテさんは当然夏に行われた巨大怪物との戦いに参戦しているはずで、実力は騎士として恥ずかしくないはずだ。ストレッチを終えたアデリーも、サスマタを手に取り、中段にじっくり腰を落として構えた。ゲルハルトさんに借りた、愛用品の代わりだ。油断したら負ける。最初から全力で行かせてもらう。

この構えは、クーゲルさんがいつも取っているものを、自分風にアレンジした。実際にやってみると、実に理にかなった構えであり、攻防共に展開が早い。逆に言えば実戦的すぎて、技を試してみたくなる自分がいることに気付き、少し怖くもなる。そしてこの構えを完成させたのを見て、クーゲルさんはとても喜んでいた。それも少し怖かった。

「死んでも恨みっこ無しですわよ」

「当然です」

いつから、戦いには命を賭けることが当たり前になったのだろう。マスターの戦いを、ずっと至近で見てきた。マスターに敗れた動物は、確実に殺され、そして喰われた。マスターは自分の観念内で必要な戦いしかしなかったが、逆に狙った獲物は絶対に逃がさなかった。それがどんな相手でも同じだ。そういう人なのだ。

クーゲルさんとは別の意味で、戦いをするために産まれてきたような人。それがマスターなのだと、アデリーは考えている。そんなマスターを止めたいと考えている自分の無謀さ加減が、時々ばかばかしくもなる。だが、決めたのだ。マスターを止めると。だから、退かない。

ある程度以上の使い手同士が武器を持って向き合うと、気迫のぶつかり合いが起こる。当然、今もそれが発生した。流石に現役の騎士だけあり、エリアレッテさんの気迫は凄まじい。右手に刺突剣を構え、左手を体に半ば隠すように構えを取っており、いつでも攻撃に移行できる体勢だ。アデリーのように腰だめするのではなく、左右に軽快なステップをしており、その足音が聴覚を惑わす。

間合いの計り合いは、すぐに終わった。

右斜め前にステップして回り込んだエリアレッテさんが、体がぶれて見える程の速度で、刺突を繰り出してきた。体の軸をずらして、刺突の軌道上から体を外す。だがエリアレッテさんは体勢を崩すこともなく、そのまま追撃するように斬り上げてくる。サスマタを軽く持ち上げて弾く。飛び退くエリアレッテさん。再び左右にステップを始める。それが、徐々に速くなっていく。

再び踏み込んできた。四回、連続で刺突が飛んでくる。一瞬でも油断したら大けがをする。攻撃のタイミングを、殺気を読むことで察知して、僅かに体を動かしてかわしていく。古いサスマタとはいえ、借り物を壊す訳にはいかない。攻撃を弾く時には、アデリーは細心の注意を払った。

エリアレッテさんの息が上がってくる。攻撃は鋭いが、風船のような怪物から撃ち出されてきた虫ほどではない。殺気も強力だが、修練で立ち会うクーゲルさんと比べると、殆ど大人と子供だ。攻撃もほぼ見切った。

「はああああっ!」

業を煮やしたエリアレッテさんが絶叫した。顔にはありありと焦りが浮かんでいた。分かる。この人は、騎士団以外で負けたことがなかったのだろう。言動からも、アデリーに勝てるという自信を読み取ることが出来た。エリアレッテさんの全身から、膨大な魔力が吹き上がる。後ろの二人が、数歩下がった。

跳躍したエリアレッテさんが、剣先に魔力を集中させる。チャージ系の術だ。強度的に問題がある刺突剣でこの系統の術を使う人間は珍しいはずだが、エリアレッテさんはその一人というわけだ。詠唱無しの術だから、威力はたかが知れているが、それでもチャージの破壊力は凄まじい。受けたら命に関わる。アデリーは目を閉じると、サスマタを構え直す。周囲の雑音が消えていく。遠くで此方を伺う気配と、至近の騎士三人だけが、闇の中浮かび上がってくる。怒気と殺気をまき散らし、突撃してくるエリアレッテさん。

悪いが、隙だらけだ。

アデリーは目を開けると、能動的に動いた。突撃してくるエリアレッテさんに、逆に此方から仕掛ける。もの凄い気迫がこもった剣先を跳ね上げる。気迫が籠もっていると言っても、クーゲルさんの鉄拳に比べれば軽い。キルエリッヒさんの火力に比べれば生ぬるい。剣は見事にエリアレッテさんの手から離れ、回転しながら空を舞う。驚愕するエリアレッテさんの懐に飛び込むと、鳩尾に膝を叩き込む。膝一点に全力を集中しての一撃だ。内臓は潰さないように加減したが、この人の腹筋では、今の一撃で意識は保てないだろう。

地面に、エリアレッテさんの剣が突き刺さる。案の定、しばし立ちつくしていたエリアレッテさんは、白目をむいて脱力した。もたれかかって来る彼女を、地面に横たえる。じっと戦いを見守っていた騎士二人が、駆け寄ってきた。

「エリアレッテ様!」

「大丈夫です。 内臓に傷はつけていません」

横たえるのを手伝う。詫びもそこそこに、アデリーは公園を走り出て、アトリエに急いだ。双子が不可思議そうにその背中を見送る。

マスターが多数のトラップを仕掛けている彼処なら、多少手強い相手であっても迎撃は容易だ。内部構造は知り尽くしているし、戦いやすい。昼間と言うこともあり、通行人は多い。避けながら走るのは、なかなか難しかった。それなのに、気配はしっかり距離を保ってついてくる。

アトリエにマスターはいなかった。ドナースターク家に逃げ込む方が良かったかと、アデリーは一瞬後悔した。彼処なら腕の良い武官も駐留しているはずだし、高い確率でマスターに劣らぬ使い手であるシアさんがいる。だが、今更そんなことを考えても仕方がない。アデリーがアトリエに入るのに気付くと、気配はぴたりと足を止めた。そのまま距離を保ったまま、うろうろし始める。攻城戦を気取るつもりだろうか。戦ったら負けるとは思わないが、出来れば無為な殺し合いは避けたい。出来るだけ気配を薄くして、壁に背中を預け、相手の出方を伺う。外の通りを行き交う人々の足音が、嫌に良く聞こえた。

どれほど経った頃だろうか。不意に気配が遠ざかり、アデリーの探知範囲から消えた。気配を消して、隠密行動をしている可能性も考えたが、一刻ほど周囲を念入りに探るも、違うと判断できた。ため息をついて、床に座り込む。怖くはなかったが、少し疲れた。

マスターが帰ってきたのは、丁度その時だった。戸を開けたマスターの手から、血の臭いがした。アデリーが顔を上げると、マスターは妙にすっきりした顔で言う。何かあったと、瞬時にアデリーは悟った。マスターが動物を虐殺してきた時と、同じ状況だからだ。

「ただいま。 珍しいね、先に帰ってるのは」

「お帰りなさい。 夕食にしますか?」

「ん? ああ、そうね。 すぐ作ってくれる?」

マスターは、アデリーが血の臭いに気付いたと、瞬間的に察知していた。何が起こったのかは分からない。ただはっきりしているのは、この血は人間のものだと言うことだ。それも、体の深部から出てきているものである。マスターは席に着くと、料理を始めたアデリーの背中を見ながら、にこやかに言う。

「アデリー、あんた誰かにつけられなかった?」

「つけられました。 アトリエに逃げ込んでしばらく気配を探っていました。 そうしたら、さっき遠ざかって、それきり近づいてきません」

「受動的だなあ。 自分から近づいて、半殺しにしてやればいいでしょ」

「マスターは、殺してしまったんですか?」

流石に料理の手を止めて振り返ると、マスターは笑っていた。

マスターは言う。しばらく前から、つけてきている奴がいたと。今日はそれの一人を、あまりにしつこかったから処分したのだそうだ。路地裏に誘い込んだ後、雷撃の術を容赦なく浴びせて意識を奪った。廃屋に引きずり込んだ後、生きている縄で縛り上げ、頭を蹴ってたたき起こした。痛みを増幅させる薬を飲ませてから、爪を剥いだり、気絶しない程度の痛みを浴びせながら尋問。必要な情報を全部引きずり出してから、騎士団に突きだしたそうである。

「覚えておくと便利だから、聞いておきなさい。 尋問ていうのはね。 身体的な暴力だけじゃ、なかなか必要な情報を引き出せないの。 今日のはなかなか手強そうだったから、縛った後、気絶ギリギリの痛みを雷撃で一刻ほど与え続けて、その後は」

「もう、やめてくださいっ!」

アデリーは思わず耳を押さえてしまった。駄目だ。やはりこの人は、自分が止めなければならない。意味のない暴力ではなく、合理的な行動だと言うことは分かっている。でも、やはり足りない。何が足りないのかはよく分からない。多分、心とか、道徳倫理とか、皆が言っているものだろう。

マスターが強いことはよく分かる。何かを生み出すのには、マスターのやり方が最適なのもよく分かる。だが、その残虐さは、絶対に間違っている。アデリーは最近その考え方に、自信を持てるようになってきていた。だが、マスターは、言葉では絶対に揺るがないという確証もある。この人は、徹底的に乾いた現実の中で生きているのだから。

マスターは、声のトーンを落とした。アデリーだって、マスターの言葉が正しいのは分かっている。だから聞く。

「……聞きなさい。 そいつ、ドムハイトの諜報員だったわ。 どうやらあたしと、アカデミー関係者をドムハイトの諜報組織がマークしているらしくてね。 貴方もターゲットに入っているそうよ。 だから本当ならもう少し念入りに尋問して徹底的にぶっ壊すところを、半殺しで勘弁してやって、騎士団に突き出すだけで急いで帰ってきたの」

「私、私……。 自分の身くらいなら、守れます」

「大概の相手ならね。 でもね、アデリー。 この世で最強の生物は人間なの。 悪魔だって、猛獣だって、人間にはかなわない。 そして人間を効率よく殺す術を知っているのはね、他ならぬ人間そのものよ。 だから、人間を相手にする時は、いつもにもまして油断してはいけないの。 仮にあんたが、もう並の騎士を凌ぐ力を持っているとしてもね」

マスターが心配してくれているのは嬉しい。だが、その諜報員という人が、どんな目に遭わされたかを考えると、とても心が痛んだ。

しばらくは気をつけて行動するようにと言われて、アデリーは頷くしかなかった。天を仰ぐ。まだ、追いかけるべきものは、とても遠かった。

 

自宅の庭で、殺気だった目のままクーゲルは立ちつくしていた。ここ数日、仕事は全て断っている。とてもそんな気にはなれなかったのだ。天を見る。非常に近くそれを感じてしまう。

何度槍をしごいて振るっても、気力が湧いてこなかった。メディアの森に行って、目につく動物を十頭ほど八つ裂きにしてきたが、それでも気が晴れなかった。クーゲルは今までにない虚無感を味わっていた。原因は、この間の、巨大なクリーチャーウェポンとの戦闘だ。

あの時、クーゲルは言うまでもなく能力から考えられる最高の働きをした。キルエリッヒが敵前線を突破するための最後の盾となり、騎士団長と、ジュストと、マルローネが作り上げた機会を完璧に生かした。その活躍もあり、騎士団は被害を最小限に抑えて勝つことが出来た。単純に客観的な事実だ。

問題は、戦いが終わって、熱が冷めてからだった。

気付いてしまったのだ。完全に自分の実力が、兄を凌いでいることに。戦えば、確実に相手を殺すことが出来るのだと。

考えてみれば当然だ。この年になっても体を鍛えることを厭わず、最前線で敵を殺し、駆け引きを続けてきたクーゲル。体を鍛えていたかも知れないが、前線から離れ、後進の育成ばかりしていた兄。力に差が生じるのは自然の成り行きだ。かっては勝てないと思っていた。事実、喧嘩別れに終わった時に演じた殺し合いでは、完全に互角の展開だった。三日三晩戦っても決着がつかなかった。

それなのに、こんな形で勝負がついてしまうとは。クーゲルは目的を失ってしまった。いきなり足下を掬われたようだ。闇を深くしていた、心の炎が吹き消されてしまった。自分が強くなったのではなく、兄貴が弱くなったのだと言い聞かせるが、どうしても納得できなかった。

もう一つ、腹立たしい事がある。自分の後継者になりうると考えていたカミラが、どんどんおかしな方向へ向かっていることだ。

左遷された時は仕方がないと思っていた。凱旋した将軍がそのまま死刑になることは珍しくないからだ。だからカミラらしく振る舞い、復権に努めてくれれば面白かった。だが、カミラは後輩達が自分を尊敬していることに気付いてしまった。

カミラは、周囲全てが自分を軽蔑しているという歪んだ視点から、その圧倒的な強さを生み出していた。憎悪こそが、クーゲルが考える最強の戦士への道のはずだった。だが、カミラは憎悪を捨て、不器用な愛情へ道を移そうとしている。それは困る。困るが、ヴィント王の意思である以上、逆らうことも出来ない。カミラの後輩共を皆殺しにすると言う選択肢もあったのだが、それはしてはならない事だ。クーゲルは騎士団に深い愛着を持っており、それは殺戮本能と同居している。己のためだけに、騎士団に多大な被害を与えることは望ましくない。

他にも圧倒的な逸材であるマルローネは錬金術師をやめる気がさらさらなさそうだし、期待大だったアデリーも似たような状況だ。後継者が欲しいと、クーゲルは思う。そのためなら自分が死んでも構わない。衝動のまま殺戮の刃を振るう、最強の戦士。その完成型に、結局クーゲルはなることが出来なかった。自分ではそう思っている。娘には何だかんだで不器用な愛情を注いでしまったし、騎士団には忠誠心も感じている。結局それら様々なしがらみから逃れることが出来なかった。

何もかもを捨てて、殺戮にのみ傾倒できるような人材が欲しい。だが、そうなりうる人物が、みんなドロップアウトしてしまった。

失望が、クーゲルの全身を覆っていた。

それは、己の血統を後世に伝えたいと考える、遺伝的な欲求と似ていたかも知れない。クーゲルは己の戦闘技術よりも、理念を後世に伝えたかった。殺戮本能こそが、最強の戦士を作り出す。その思想はクーゲルの人生そのものであった。だからこそ、誰かにそれを伝えたかったのである。そうすることで、己を世界に残したかった。死は怖くない。だが、己という存在が歴史から黙殺されるのは我慢できなかった。

騎士団に適当な人材はいない。若手はもちろん全員見ているが、いずれも駄目だった。素質的には優れた者達が多い。ダグラスを始め、才能面ではクーゲルを凌ぐ者もいる。だが、殺しがしたくてぎらついた目を持つ人材は少ない。憎悪に胸を焦がし、全てを擲っても力をつけたいと思う輩は今いない。クーゲルが育てたくなる人材は、皆無だ。

もちろん、戦闘技術を教えることはやぶさかではない。戦闘に出ている内に、殺しの楽しさを覚える人間もいる。だから騎士団の依頼を受けて、若手をしごき上げてきた。己の後継者が現れるのではないかという淡い期待が、確かにあった。しかし、それらを待っている内に、老いてしまいそうだった。クーゲルの全身を、虚無感と同時に焦りが蝕んでいた。もう、彼は決して若くはないのである。

今はいい。まだまだ、クーゲルはエンデルクには劣るものの、この大陸でも最上位層に食い込む実力者だ。だが、体の衰えは、これから確実に体を蝕んで行く。経験と知識でそれをカバーは出来るが、限界はある。あと十年もすれば、完全に引退しなければならなくなると、クーゲルは考えていた。

時間がない。人材が欲しい。身体能力の上昇が止まってからは、技と経験を鍛え上げることで、さらなる強さを求めた。だが、最強が欲しくなくなった今。己が築いてきたものを、誰かに伝えたいと強く思う。血を好み、全てを蹂躙する最強の戦士の誕生を見たい。だが、その願いが叶わないのではないかという一種の絶望を、どうしても払うことが出来なかった。

家の外に誰かの気配。鎧を着たまま槍を振るっていたクーゲルは、入るように促す。若手の騎士だ。確かエリアレッテと言ったか。老執事に言って、庭に通させる。エリアレッテは、鎧を着ていた。いつもは過剰なまでに身飾っているのに、今は何処か埃で汚れてさえいた。更に言えば、いつも連れている双子の姿がない。

「クーゲル様。 こんな時間に突然申し訳ありません」

「何かな。 今日儂は休みなのだが」

「それも分かっています。 ただ、どうしても、話を聞いていただきたいのです」

エリアレッテは、伯爵家の次女だ。故に身の回りのことは侍女達に全て任せていたし、何かを熱狂的に欲しがると言うことをしなかった。今でさえ、侍女達を騎士にして、世話をさせているほどだ。英才教育を受けているため、スキルはなかなか。だが、一目見ただけで、クーゲルは己の後継者に成り得ないと考えた。そういう人物だ。

「話とは何かな」

「私を、強くしてください。 出来る限り。 どんな手段を使ってでも。 どうしても、超えたい相手がいるのです」

エリアレッテの目に、炎があった。誰かにこっぴどく負けたのだと、クーゲルは知った。口の端をつり上げる。どうやら、運命とやらはまだクーゲルを見捨てていないらしい。完膚無きまでの敗北を知った人間は強くなる。貪欲なまでに、実力を求めるようになる。闇色の炎が、エリアレッテの心で燃え上がるのを、クーゲルは確かに見た。

「儂の修練は厳しいぞ」

「どんなに厳しくても構いません。 この屈辱を晴らすまでは、死ねませんわ」

「いいだろう。 儂が、徹底的に鍛えてやろう」

その日から、クーゲルは完全にやる気を取り戻した。そしてその活力が、後に人食い薔薇と呼ばれる怪物を誕生させることとなる。

人の思惑は混沌だ。何を生み出すかは、その瞬間まで誰にも分からない。無数の闇が、今日もザールブルグでは、飽くことなき営みを続けていた。

 

2,陰謀戦

 

ザールブルグの裏路地一角。ドムハイトの間諜達が作った拠点の一つがある。一見すると半地下に作られた寂れた居酒屋のように見える。事実、居酒屋としても機能している。だが、此処の店主はドムハイトの間諜であり、今は本国の精鋭達の拠点として活用されていた。

今、ドムハイトは二つの作戦を同時に進行させている。一つは、シグザール王国の辺境各地で、クリーチャーウェポンの研究を偽装、牙の主力部隊をその陽動に食いつかせること。もう一つはシグザールが進めようとしているエル・バドールとの交易について調査し、中心人物を監視すること。どちらも国内の再編成を進めるアルマン王女の支援行動だ。

路地から掘られた階段を降り、ごみがたまって異臭を放つ溝を横に少し歩くと、居酒屋に入ることが出来る。好々爺然としたドムハイト間諜の長、じいが店にはいると、中に集まっていた者達は一様に緊張した。じいは合い言葉をかわすと、社交儀礼無しに、いきなり本題に入った。

「状況はどうなっておる」

「良くありません。 陽動を担当しているジシスが殺られました。 配下の者達も殆ど生還できませんでした。 牙を相手にしているだけあり、陽動だけでもこの被害です。 とにかく人材が足りません。 本国から増援を送ってもらえませんか」

「無理を言うな。 本国の状況も大差がない。 反対派を抑えながら政権を構築する作業だけで手一杯だ。 此方は、元からシグザールに潜伏していた者達と、我ら最精鋭でどうにかするしかない」

じいも自分が無理を言っていることは、よく分かっている。

今やドムハイトとシグザールのマンパワーには差が大きすぎる。諜報部隊の質も、もはやシグザールの方が遙かに上だ。騎士団も精鋭揃いで、もしアジトに踏み込まれたらひとたまりもない。そんな状況で陰謀合戦の先手を取るには、犠牲を構わず攻めていくしかない。ドムハイトがまとまれば一息つくことが出来るが、それはいつのことか。

アルマン王女はじいが思っていた以上に有能で、今も凄まじい勢いで政権の再構築を行っている。だが、それもシグザールの干渉がなければの話だ。もしじい達諜報部隊が敗北すれば、シグザールは一気に陰謀攻勢を仕掛けることが出来る。もはや弱体化したドムハイトは、それに対抗できないだろう。一方的に国内を荒らされることとなる。

シグザール王国内での諜報部隊狩り出しは激しさを増しており、今は戦力の再編成に大わらわだった。平和な生活に慣れた諜報部隊員の中には、シグザール王国に膝を屈し、仲間を売る者も出始めている。元々奴隷として売り飛ばされた子供達を買い取っては非道な洗脳教育を行ってきたのはドムハイトだ。だからこそに、この健全な国に感化された彼らを責める資格はない。社会的な健全さから考えれば、どう考えてもシグザール王国の方が優れていることもあり、そういう行動を取る者が出ることも仕方がないとは言える。どんなに強固な洗脳を行っても、人間の心というものは脆く、揺らぐことは多いのだ。

幾つか報告を順番に聞いていく。アカデミー関係者には、二線級の諜報員達を張り付かせているが、生還率が低すぎる。特にアカデミーの事実上の支配者であるイングリドにちょっかいを出した諜報員は、今の所一人も生きて帰れていない。最近名前を売っている錬金術師マルローネも超危険人物で、先日もまた一人半殺しにされ、巧みな拷問で情報を殆ど引き出された挙げ句、騎士団に突き出された。じいは腕組みして唸った。エル・バドールとの大規模交易には、アカデミーが絡んでいるのは間違いない。しかしこれだけ防御が硬いとなると、情報を集めるのに骨が折れそうだった。

「分かった。 そちらに関しては、儂が動こう」

「危険です。 私が」

「いや、儂でないと無理だろう。 張り付いていた諜報部隊員の名を聞く限り、実力が劣弱なわけでもない。 単純に相手が悪すぎたのだ。 そういう輩に対抗するには、こちらもそれ相応の人材を用意しなければなるまい。 そして、今は儂しか、使える人材がいないというだけだ」

この酒場に集まる人数も、かなり減った。もはや手段を選んではいられない。

じいが右手を挙げると、すぐに酒場からは部下達の気配がほとんど消えた。残っているのは店主と、他数名のみである。悠然とカウンターに座ると、かなり強い酒を注文する。久しぶりに、非常に危険な人物と相対することとなる。難敵と戦う前に強い酒を飲むのは、自分なりの一種の儀式だった。じいは武者震いをしていた。嫌な予感もする。だが、此処で退くわけにはいかなかった。

やがて酒を飲み干すと、じいは外に出る。大通りに出ると、実に活気がある。人々は行き交い、多くの店が軒を並べ、それでいて治安も良い。いつかドムハイトもこういう国にしたいものだと、じいは思う。出店の一つでリンゴを買うと、それを囓りながら、じいはまず手始めに、マルローネとやらのアトリエに向かった。

 

マリーはフラスコを並べ、竈の火を調整し、着実に準備を整えていた。いよいよ、この日が来た。

賢者の石の製造方法は、イングリド先生から本を借りて、半月ほどの調査を行った結果、だいたい理解することが出来た。今までも調査はしていたが、それには幾つか不備がある事も分かった。知識を再編成し、自信がついたため、マリーは動き出したのだ。

調合は今まで作った道具の中で最高難易度を誇る。アロママテリアを四十種類ほどの素材を調合して作り出した薬剤につけ込み、其処から百日ほど様々な加熱行程を経ることによって、賢者の石が完成する。

問題は中和剤だ。元々膨大な魔力を蓄え込んでいるアロママテリアと、複数の薬剤を混合させるのだ。尋常な含有魔力では出来ないことであり、中和剤の素材にも工夫がいる。此処で、マリーはドンケルハイトを使うこととした。ドンケルハイトの中和剤は、以前フローベル司祭を救った時に、性能実験を行う事が出来た。以前の実験の結果を見る限り、確実に行けるだろう。

薬剤の殆どは今まで手に入れた事があるものばかりで、作成は容易とまではいかないが、既知のものだ。また、一番難しかった素材は、火竜の舌から製造できる事が分かっており、不安はない。一通り準備を整えた後、地下室に向かう。

地下の魔法陣には、既にドンケルハイトのドライフラワーをすりつぶした液体を、ボウルに入れて置いてある。魔力の充填は問題ない。更に、今回魔法陣には、一工夫してある。

魔法陣の中央部分に、精霊の涙をはめ込んである。シアからもらった将来の幹部確約手形のこの宝石は、強い魔力集積効果がある。今回は、以前フローベル司祭を救った時とは比較にならないほど強力な中和剤が必要になるので、こういう工夫をした。同時に、下手をすると充填されすぎた魔力が暴発しかねないので、扱いにも細心の注意が必要であった。しばらく中和剤からは目を離すことが出来ない。ドンケルハイトは凄まじい魔力吸収能力を持っているが、それが故に飽和状態になった時、どれほどの危険があるか想像も出来ない。

ランプを手元に置いて、マリーはしばし中和剤にたまっていく魔力を見つめ、メモした。魔力の蓄積量をしっかり観察して、魔法陣に掛けておく時間を見定めなければならない。入り口からいきなり躓いていては、とても賢者の石など作れはしない。故に最初の今こそ、気合いを入れなければならなかった。

額や首筋に汗が浮かぶ。もう晩秋なのだが、集中するとやはり汗は浮いてくる。持ってきておいた栄養剤を呷る。たゆまぬ努力による工夫の結果、昔に比べてずっと飲みやすくなっていて、得られる効果も高い。再び額の汗を拭うと、マリーは舌打ちした。何か近くにいる。しかも、百歩ほどの距離まで気付けなかった。相手はただ者ではない。

すぐに気配は離れた。多分、マリーが気付いたことを察知したのだ。今まで潰した雑魚とは違う。恐らく相当な腕利き諜報員だろう。マリーはどうにか対処できるが、アデリーが相手をするのは厳しい相手だ。早めに手を打つ必要がある。生半可なトラップでは、足止めにもならないだろう。さて、どうしたものか。

再び此方に接近する気配。今度は敵意がない上に、既知のものだ。聖騎士キルエリッヒである。アトリエにわざわざ出向いてくるとは、何かあったのか。騎士団からの依頼か、或いは彼女自身の用事か。どちらもしても、邪険にしていい相手ではない。

まだ中和剤の魔力が充填されるには、少し時間が掛かる。地下室から出て、一階へ。テーブルの上のフラスコを脇にどけて、客が座るスペースを作る。アデリーは今出かけているから、茶も入れなければならない。少し煩わしい。経済的にはもう十二分の余裕があるし、そろそろ追加の使用人を雇い入れようかと、マリーは思った。

ノック音。中に招き入れる。

キルエリッヒは浮かない顔だった。元々の造作が整っているだけに、愁いを帯びると、同性のマリーでもはっとするほどに美しい。キルエリッヒはアトリエの中を見回し、小さくため息をついた。

「アデリーは留守だったかしら」

「今日は修練で、聖騎士ジュストの所に行っています」

「そう。 あの人も変わらないわね」

キルエリッヒは苦笑した。小首を傾げるマリーに、騎士団上層の内幕を教えてくれる。何でもジュストはクーゲルと犬猿の仲であり、実力も伯仲していて、常にくだらないものから深刻なレベルまで様々な争いを繰り広げているのだという。ジュストは元々若手の育成にあまり熱心ではないのだが、クーゲルが鍛え上げたアデリーの話を聞いて、それなら自分の技も仕込んでやろうと考えているらしい。今日の話を聞く限り、それを実行に移したというわけだ。

クーゲルとジュストがどう因縁を持っているかなど関係ない。それでアデリーが強くなれば、マリーとしては何も文句はない。むしろ先を争って奥義を教えでもしてくれれば最高なのだが、二人とも流石に其処まで短絡的ではないだろう。キルエリッヒは少し熱いお茶を眉一つ動かさず飲み干すと、美しい深紅の髪を掻き上げた。

「直接伝えたかったのだけど、仕方がないわね。 伝言、頼まれてくれるかしら」

「喜んで。 何なりと承ります」

「ふふ。 私ね、今月を最後に、ザールブルグを離れるの。 アデリーには色々元気をもらったから、お礼を言っておきたくて。 有難うって言っておいて」

「そんな、滅相もない。 あの子が聞いたら、きっと泣いて喜びます」

二人笑い合う。だが、マリーは気付いていた。キルエリッヒが、とうの昔に、アトリエを伺っている微少な気配を察知していることに。

「……そう。 それは嬉しいわ。 せめて、別れの日までには、あのネズミを退治しておきたいところだけれど」

「気付きましたか。 流石ですね」

「私も聖騎士の端くれですからね。 恐らく、ネズミの正体はドムハイトの間諜ね。 シグザール王国の精鋭間諜部隊がせっせと狩りだしているのだけれど、なかなか数が減らないらしいわ」

「それにしても、どうしてうちに。 何か心当たりはありますか?」

マリーには、それがある。こんな質問をしたのは、騎士団サイドの情報が欲しいからだ。ネズミといっても、相手は実力的に聖騎士にも匹敵するだろう相手。マリーとしても、下調べ無しの戦いはしたくない。

キルエリッヒはくすりと笑うと、少し考え込んだ。彼女もマリーの魂胆は分かっているのだろう。シアがこの間の戦いで共同戦線を張ったという聖騎士カミラは恐ろしく頭が切れたそうだが、この人も若手の双璧と言われただけはあり、なかなかのものである。

「これは話して良いのか少し迷うところなのだけれど。 前回の戦いであれだけの活躍を見せ、勝利の決定的なきっかけを作った貴方は、今後国とも騎士団ともより多くのコネクションを築く事になるでしょうし、良いでしょう」

「はは、光栄です」

「恐らく、貴方のアトリエに張り付いているのは、ドムハイト諜報部隊の長よ。 じいと呼ばれていると聞いたことがあるわ。 彼は国家的な戦略の影にアカデミーがあると睨んで、貴方に目をつけた、らしいの」

マリーは緊張が背骨を這い上がるのを感じた。

じいと言えば、マリーも聞いたことがある。伝説的なドムハイトの間諜だ。その実力は圧倒的で、無数の警備兵が彷徨く城塞に潜入し、機密文書を盗み出したこともあるという。暗殺には向いていないが、影のように忍び込むことに関しては世界一という話だ。まさか、まだ現役であったとは。

そういえば、この間の巨大クリーチャーウェポンの暴走も、ドムハイトが絡んでいたとマリーは分析している。騎士団が警備する塔に忍び込み、あれだけの事をやってのけたのだ。じいの仕業であったとしたら、その実力は伝説通りだと考えるしか無いだろう。

マリー自身が怖いのではない。アデリーがアトリエにいる時に、奴が忍び込んできたらどうなるか。そう簡単には負けないとは思う。だが、勝ち目は薄いだろう。そして間諜という人種は、基本的に目的のためには手段を選ばない。アデリーを集中的に狙ってくる可能性も低くない。

早めに此方から仕掛けて潰す必要がある。マリーはそう結論した。それには、情報が足りない。奴らを深く知る存在と、強い連携を取る必要がある。幸い、マリーには騎士団との共同作戦での実績が少なからずある。話を通すのは難しくない。

「キルエリッヒさん、シグザール王国の精鋭諜報部隊と連絡を取れませんか」

「どうして?」

「共同戦線を張って、一気にじいを屠ります。 あたしとしても、今研究で重要なところに掛かっていて、あまり労力と時間を割けません。 早めに片付けて、研究に全力投球したいんです」

「本当の理由はそちらじゃなくて、アデリーの安全でしょ」

キルエリッヒはどうしてか少し寂しそうに目を伏せた。そう言えば、聞いた。この人はもう、天涯孤独の身なのだと。家族を欲しがっているのかも知れない。多少異常であっても、マリーとアデリーの関係が羨ましいのだろうか。

こう言う時は、相手の言葉を待つ方が望ましい。マリーは相手の心を読むと言うよりも、人間関係を円滑に進めるマニュアルを頭の中に蓄えているタイプだ。だから記憶の引き出しから、そう結論を引っ張り出した。

「分かったわ。 この街を去る最後の仕事として、連絡を取ってあげる。 あくまでアデリーの為よ。 貴方は何が相手でも自力で身を守れるでしょうけど、あの子はまだ無理でしょうし」

「有難うございます。 それで問題ありません」

「少し心配だわ。 あの子、将来はどうなるのかしら」

マリーは何も返さなかった。ゲルハルトに言われたこともある。アデリーに道を教えると言っても、どうして良いか分からなかった。

あれから考えたが、やはり分からないのだ。マリーは結局の所、自分で道を造り、選んでいくことが出来る人間だ。だが、全ての人間がそうではないのだと、少しずつ理解できてきた。だが、まだ実感はない。自分の鍛え上げたアデリーなら、大丈夫に違いないという固定観念もある。だが本当はどうなのか。

最初に会った頃のアデリーとのコミュニケーションは、本当に難しかった。今では心から親だと慕ってくれていると思う。それが事実だという自信もある。だが、アデリーの全てを知っているというわけではない。特に、何を考えているかは分からない。能力の極限や、夢や望みだって知らない。だから、アデリーが本当はマリーに何を望んでいるのかも、断言は出来ない。ある程度の確信はあるが、それは絶対ではない。

キルエリッヒを送る。背中が寂しそうだった。聖騎士をやめた後は、地方の領主として静かに暮らすつもりだという。何回か一緒に戦ったキルエリッヒは、マリーとしても親近感を覚える相手だ。穏やかな生活を送れるといいのだがと思った。

 

夕刻、フラスコにガラス棒を使って薬剤を注ぎ込んでいたマリーは、そいつが来たことに気付いた。影のように実体感がない気配だ。あのじいと思われる存在は、あれから一度も近づいてきていないから、別の人間である。

ほどなく、ノックの音。マリーは手を止めると、営業用の声を作った。

「はーい、どなたー?」

「俺だ」

声に聞き覚えがある。やはり間違いない。そういえば、以前公務員として働いているのを確認していた。なるほど、力を伸ばして、国の精鋭諜報員になっていたか。入るように促すと、戸が音もなく開いた。わざわざ蝶番が大きな音を立てるように油を差しているのに。

アトリエに足音も立てず入ってきたのは、以前マリーが皆殺しにした盗賊団の用心棒をしていた、シュワルベだった。アダマンタイト鉱山の探索で一緒に行動したが、それ以外では見かけることさえなかった男である。出世したんだなと、マリーは思う。相変わらず顔の半分以上を隠しており、腰には使い込んだシミターをぶら下げている。顔を隠した布から、髪が無造作にはみ出していた。以前より少し伸びたようだ。

裏庭で修練していたアデリーが、アトリエに入ってきた。シュワルベを見て驚いたようだが、それでも丁寧に一礼して、茶を淹れ始める。マリーもフラスコに薬剤を注ぎ終えると、机の脇に寄せ、反応を横目で確認しながら言った。

「貴方が援軍に来てくれたとはね。 世の中は不思議に満ちているわ」

「意味が分からない。 俺はただ、任務をこなすだけだ」

シュワルベは殆ど声に抑揚をつけずに言った。目もそうなのだが、声から以前一緒に探索した時以上に感情が失われている。諜報部隊となると、非人道的な仕事も多いことだろう。ストレスから身を守るために、感情抑制の訓練はするはずだ。それは一種の洗脳になる。アデリーは礼をすると、無言で二階に上がった。礼儀作法はもうしっかりドナースターク家で身につけさせた。どんな客にも、今まで失礼をしたことはない。失敗は何度かあるが、あの子は本番に強い。無類なほどにだ。だから接客を安心して任せる事が出来る。

フラスコ内の薬剤が突沸した。蓋はしてあるので心配ない。色が赤から黄色、黄色から緑へと、めまぐるしく変わっている。分量的には問題がないはずで、反応が一通り終われば無害な液体に変わる。一度試した調合であり、あまり不安はないが、それでも反応がめまぐるしいのでつい目が行ってしまう。

「今、俺が所属している国営組織は、じいを全力で追っている。 奴がアカデミー関係者の調査に入ったと聞いて、殺すために俺が派遣された。 貴様の実力は既に聖騎士並みかそれ以上だと聞いている。 見て、それが真実だと確認できた。 共同戦線を張れば、効率よく任務を達成することが出来るだろう」

「利害は一致するという訳ね」

「そう言うことだ。 是非力を借りたい」

「了解。 此方としては異存がないわ。 それでは、情報交換と行きましょうか」

シュワルベは無言で頷く。幽霊でももう少し気配を発しているだろうと、マリーは思った。それほどに実体感がない。本当に徹底的な訓練を受けたのだ。今なら、不意を突かれたら危ないかも知れない。

情報交換といっても、マリーが半殺しにした諜報員が持っていたものは、既に騎士団に譲渡した。後はさっきじいらしき人物が取った行動や、気配の特徴を伝えるくらいである。それに対してシュワルベは、幾つも具体的な情報を持っていた。

じいは猿のように小柄な老人であるが、変装の達人だという。腰の曲がった老人から、場合によっては化粧の技術を駆使して、若者に化けることもあるのだそうだ。メタモルフォーゼの使い手かと分析していた時期もあったのだが、今では単純に卓越した変装技術によるものだと様々な状況証拠から割り出しが済んでいるのだとか。

これは、シュワルベに協力して敵を屠るほかないだろう。どのみち、一個人に出来る事には限界がある。アデリーを守り、賢者の石を完成させ、ドナースターク家の重臣としてグランベルの柱石となりたい。まだまだ死ぬわけにはいかないマリーとしては、此処は協力する以外に道がないのだ。もちろんドナースターク家にも支援を要請する。シアの力があればさらに心強い。

「相手は老練な諜報員よ。 衰え始めているのなら力押しが効率的だけれど、そうでないのなら大規模な罠がいるわ」

「罠には餌がいる。 貴様の実力は、もう向こうも悟っているだろう。 アデリーと言ったか、貴様の娘を囮に使えないか」

さらりと大胆な提案をしてくるシュワルベに、マリーもまるで動じずに返す。どちらも熟練の戦士であり、策謀家だ。この程度の会話は爪を切るのと同じ程度の代物である。

「そうねえ。 あの子の今の実力なら問題はないけど。 ただあの子ってば、少し優しすぎるの。 老人をなぶり殺しにするから囮になれって言って、素直に了承するとは思えないのよ」

「子なのに、親には似ていないのだな」

「ほっときなさい」

ひらひらと右手を振って会話を一旦切ると、マリーは指先で数度机を叩いた。確かに名案だが、アデリーを囮にしたところで、あの気配の主が食いついてくるかどうか。あれくらいの使い手になってくると、先に仕掛けた方が不利になる。だが、老人は非常に粘り強く、気が長い。どんな長期戦でも、平気で耐え抜くだろう。愚策を仕掛ければ、確実に足下を掬いに来る。餌だけとられて罠は空という事態だけは避けなければならない。老練に対抗できるのは、単純なパワーだ。出来るだけ、確実に敵の尻尾を掴める策がほしい。一度捉えさえしてしまえば、後はパワーにものを言わせて八つ裂きにするだけだ。

「何か、弱点はないの?」

「そんなものがあったら既に我らで突いている」

「……ドムハイトの諜報員達の実力はどの程度?」

不意にマリーが話を変えたので、シュワルベは僅かに身じろぎした。口のある辺りの布を手で押さえ、考えこむ。思考を進めている時だけ、僅かに目に感情が宿るのを、マリーは見逃さなかった。

「そうだな。 戦闘能力で言えば、幹部が俺と同じ程度だ。 この間、作戦で俺が一人斃した。 その程度の奴が、今ザールブルグに四人来ている。 いずれも組織の精鋭が張り付いていて、簡単には動けないはずだ。 連中は自分ではあまり動かず、重要な作戦を除くと部下を使う。 此奴らは普通の兵士と実力的には大差がない。 貴様が斃した男も、その一人だ」

「末端の人員の数はどの程度?」

「この街には三十人ほど来ている。 月に十人ほど斃しているが、毎月補充されていることから見て、まだ敵には余剰人員がいると見て良いだろう。 五十人ほどは何人かでチームを組みながら、辺境で暗躍している。 此奴らには騎士団と辺境軍が対処に当たっているが、変幻自在の行動を見せていて、苦労しているようだな」

それらの情報から、マリーはある結論を出す。二階にいるアデリーを呼ぶと、すぐに手紙を持たせて、ドナースターク家に走らせた。シュワルベは、サスマタをつかんで外に飛び出していったアデリーの背中を見て、不思議そうにぼやく。

「いいのか」

「いいの。 考えても見なさい。 今のタイミングなら、罠じゃなくても手なんか出せないわ」

「確かに露骨すぎる誘いだ」

「仮にそこで出てきたら、すぐにぶっ潰すだけの事よ。 あの子の実力なら、もうじいが相手でも、あたしが駆けつけるまでなら耐えられるしね」

茶を注ぎながら、マリーは作戦案を説明した。シュワルベはやがて黒い瞳を光らせると、仲間達と連携を取るべく、アトリエを出て行った。

 

アデリーが帰ってきた時、マリーは丁度下ごしらえに当たるベースの薬品調合を終えたところだった。樽一杯ほども材料を使い、最終的に桶一杯ほどの薬品を作り出す作業で、退屈な上に少し間違えると大けがをする。目的の薬品はもちろんこれから活用するのだが、余剰分も様々な用途に使えるので捨てない。ただし、一部はかなり毒性が強い廃液となるので、水で五十倍ほどに希釈した後、海綿にしみこませ、固定薬で処置する。固めた後は海綿でくるんで土の中に埋めるのだが、埋める場所には気を使う。このアトリエにも、そう長くは住まないからだ。

地下から出してきたアロママテリアを、柔らかい上質の布で丁寧に磨く。マリーが全力で攻撃を叩き込んでも壊れないのに、別の存在に昇華させるためには繊細には磨かなければならないのだから不思議だ。アデリーはサスマタを壁に立てかけると、手紙を届けてきた事を報告してくれた。マリーは手を止めて、アデリーに向き直る。

「ねえ、アデリー」

「何でしょうか」

「自分を監視していた相手に気付いた?」

「はい。 ほんの少しだけですが」

アデリーは正直な子だ。まず嘘などつかない。小さく頷くと、マリーは続ける。

「彼らはドムハイトの諜報員よ。 いろいろあってね。 どうやらあたし達、目をつけられたらしいわ」

「そう、ですか」

「もちろん、そのまま座して滅亡を待つつもりなんか、あたしには無い。 色々守りたいものもあるし、成し遂げたいこともある。 だから」

叩きつぶす。マリーの言葉に、アデリーが体を強張らせる。

マリーはアロママテリアに息を吹きかけると、再び優しく拭きあげた。ぴかぴかになったアロママテリアだが、まだ足りない。ボウルに張った蒸留水を火に掛け、その中で茹でる。更にその後、弱めの酸で洗い、最後の仕上げとして、また綺麗な布で拭く。神経質なまでに丁寧に洗い上げるのだ。

蒸留水が沸騰し始めた。しばらくそのままアロママテリアを煮る。その間に、火竜の舌を刻んですりつぶす。中和剤も地下から出してくる。作業が終わったフラスコを片付ける。いつシュワルベが戻ってくるか分からないから、今のうちに出来ることは全部しておくのだ。

アデリーも言われた作業をてきぱき手伝う。最近妖精の手伝いを呼ばないのは、其処まで忙しくない事が最大の理由だ。だが、アデリーがマリーの助手として申し分のない手腕を発揮している事もある。ピローネも、それに対して文句の一つも言わない。ずっとマリーに対してはベテランと精鋭が張り付いていることからも、妖精族がどれだけマリーを警戒しているかがよく分かる。

マリーや妖精族の思惑とは全く関係なく。アデリーは妖精族の手伝いがいないことを、少し寂しがっているようだ。単純にアデリーが子供好きなのだと、マリーは知っている。変な能力を持って生まれてこなければ、この子は心身共に一般人として、幸せな一生を送ったのだろう。不憫だが、同情している暇はない。

使い終わったフラスコを、アロママテリアを煮ているのとは別のボウルで、汚れを落とす。作業が一段落して、アデリーが差し出したハンカチで額を拭う。ストレスは綺麗に消えている。諜報員を拷問して随分すっきりしたし、まだしばらくは頑張ることが出来そうだ。

作った薬剤を溜めてある大型の瓶を、地下の魔法陣へ移す。アロママテリアを作る時に使ったもの程ではないが、実に毒々しい色合いだ。大型の天秤で重さを量り、丁寧に中和剤を注ぐ。充填された濃厚な魔力がスパークを発し、マリーは何度もひやりとした。元々過剰な魔力を保有しているアロママテリア。そこに、更に強力な魔力を注ぎ込むのである。事故が起こる時には、それは想像を絶する規模になるだろう。ひょっとしたら、死んだことにさえ気付けないかも知れない。

瓶の中に、ペースト状にすりつぶした火竜の舌を流し込む。そうすると、危険なほどに張り詰めていた魔力が、不思議と落ち着いた。この奇妙な現象をメモしていく。錬金術の理論では、どう考えてもあり得ないような気がする。魔法陣では、シアからもらった宝石が、鈍く輝き続けていた。

作業が一段落したところで、気配。シュワルベではない。アデリーに応対するように地下から叫ぶと、魔法陣の上を丁寧に羽箒で払って、注意深く汚れを落とす。一階に通してもらっておいて、自身は魔法陣の上で薬剤の調整作業を行った。念入りにメモと見比べ、いくらか売らずに取っておいた火竜の肝を少し加えた方が良いと思い、棚から油紙に包んだそれを取り出す。完全に乾燥しているそれの表面を僅かに切り出し、計量して、すりつぶす。薬剤に注ぎ込むと、更に魔力が安定する。恐ろしいほどの魔力が充填されているのに、妙な話であった。

賢者の石の重要な材料は幾つかある。まずは純粋に密度の高い魔力。これはアロママテリアと、今調合したベースの薬剤でまかなう。問題は自然界に存在しないほどに濃い魔力を、暴発しないように集めないといけないことだ。これはアロママテリアを利用し、其処へ魔力を集積させる必要がある。此処で中和剤として極めて優秀な上、強い魔力を吸収できるドンケルハイトを利用する。ドンケルハイトに魔力を蓄えるために、非常に強力な魔力媒体と、複雑な魔法陣が必要になる。ここでシアからもらった宝石を最大限に活用する。

しかし、実際問題、それでも魔力は不安定になる。元々、マリーの生体保有量の数倍に達する魔力が、制御する存在もなく置かれているのだ。此処で竜の内臓が必要になってくる。何故竜の内臓なのかは分からない。先人が無数の実験を積み重ねた結果、それがもっとも望ましいという結論が導き出されたのだと言うことしか、マリーは知らない。ドラゴンの吐く炎は、強い魔力で制御されているという説がある。それを制御するために、内臓に特殊な薬の材料が蓄えられているのかも知れない。それなら筋が通る。だが、筋が通らない部分はもっと多い。

現在の属性要素を最重視する錬金術理論によると、これは極めて不安定な状態のはずだ。火、土、水、風の複数属性要素が、一種の中和剤で強引にまとめ上げられているのである。それなのに現実は違う。この状態、マリーが電撃を叩き込んでも、暴発は起こらないだろう。これはいい実験データだ。多角的に観察して、入念にメモを取る。錬金術の理論に変革を起こすには、これくらいの強烈な現実が必要だろう。何しろ、錬金術理論の究極とも言える賢者の石製造に、巨大きわまる矛盾があるのだ。賢者の石を完成させた人間がそれを学会に発表すれば、流石に誰もが黙らざるを得ないだろう。

そろそろアロママテリアが煮上がっただろうかと、マリーは見当をつけた。薄めた酸を入れた瓶を片手に、一階に上がる。席に既に着いていたのは、クルスだった。相変わらず表情は極めて希薄で、髪も瞳も、自然界にはあり得ない色彩だ。

「お久しぶりです、マルローネ様」

「久しぶりね、クルス。 ヘルミーナ先生は元気かしら?」

「はい。 今日はイングリド様との情報交換の帰りに寄りました。 イングリド様の手紙です。 此方はマスターのものです。 お納めください」

「ん、ありがと」

手紙を受け取ると、その場で開封。ざっと目を通す。

イングリド先生は、既に間諜を何人か捕らえ、アカデミーの地下に放り込んで念入りに拷問を行い、情報を引き出しているのだそうだ。その一部が手紙には書かれている。これはいい。いざ作戦を実行する時に、随分役に立つ。アカデミーを守らなければならない先生に対し、マリーは身軽に動ける。このアトリエも、近くにシアが居れば安心だし、賢者の石の生成も、これからしばらくさほど忙しくない時期に入る。

手紙をしまうマルローネは、机の上に置いてある鉢植えに視線をやる。生命力が強いアティルという植物だ。雑草らしく洗練された美はないが、水さえあれば荒れ地でもたくましく育つ。実は非常に小さい上にあくが強く、食べるのには適さない。ただ、あく抜きさえすればスパイスの一種として使い道がある。錬金術の素材としてはあまり適さず、こんなものをどうしてクルスが持ってきているのかよく分からない。

「あ、それは私にクルスさんが持ってきてくれたものです」

「うん? どういう事」

「アデリー様が、クリーチャーウェポンとの戦いの場に、ここ最近様々な草花を植えておりまして。 マスターに言われて、会った時にはこうして植物を手渡しております」

「へえ、あのヘルミーナ先生が」

社会生活が不可能なレベルの変人であると同時にマリー以上のリアリストであるヘルミーナ先生が、非合理的な事をするとは。マリーは素直に驚いた。それにしても、あの凶猛なクリーチャーウェポンに花を供えるというのは。普通の人間だったら恐怖におののくか、損害に歯ぎしりするところを、この子は許し悼むというのか。

この子は根本的に戦いに向いていないのかも知れない。それなのに才能はあるのだから、不憫だ。世の中には、どうしてもメンタル面と肉体が釣り合わない者がいる。それは、もっとも分かり易い、不幸の一つだ。

クルスに礼を言って帰らせる。アデリーは危ないからと言って、城門まで送ると言い出した。まあ、それくらいなら良いだろう。実は既にシュワルベには告げてある。アデリーはこれからも単独行動をさせると。今のアデリーなら、誰に襲われてもそう簡単には負けない。その間に察知して駆けつければ、却って効率的に敵を狩ることが出来る。

だが、上手くいかないだろうとも、マリーは思っている。マリーがじいなら、アデリーには手を出さない。敵を侮らないことが、弱肉強食の世界で生き残るこつだ。マリーはただ、作戦の開始を待つ。動くのは、それからでも遅くなかった。

 

民家の屋根に張り付き、完全に気配を消していたじいは、方針を決めた。

彼の視線の先には、不器用に笑顔を浮かべ、歩きながら話しているアデリーという少女がいる。アデリーが話しているフードを被った人物については知らない。多少魔力の流れがおかしいが、動きと言い気配探知能力といい、大した相手ではない。無視して構わないだろう。それよりも、アデリーだ。

アデリーは今、ドムハイト諜報部隊が重度のマークをつけている。あの鮮血のマルローネが飼っている「娘」だと、最初じいは部下達から報告を受けた。使用人から養子縁組したと言うが、ドムハイト諜報部隊では、もちろんそれが親切心からなどという腑抜けた分析はしていない。マルローネはあの娘を何かしらの目的の下飼育に近い形で側に置いているというのが、おおかたの分析結果だ。最初は、じいもそう考えていた。

だから、あの娘を捕らえることは、最初じいの重要な目的の一つだった。今は違う。大通りから死角になる位置に巧みに身を隠し、それでいて油断無く辺りに注意を払いながら、じいは懐から携帯食である干し飯を出して口に含み、唾液でゆっくり柔らかくして食べた。年を取って、気が長くなってから始めた食べ方だ。もの凄く時間が掛かるので、とても若い頃には出来なかっただろう。そしてこれが、長時間集中するには一番良いのである。

じいの見るところ、アデリーという娘、あの若さで既に相当な使い手に成長している。じいが本気で攻撃を仕掛けても、即座に斃すのは無理だろう。十代半ばでその実力に達するには、よほど才能に恵まれるか、もしくは環境が整っている必要がある。あの娘の場合、後者だろう。つまり冷酷なリアリストであるはずの鮮血のマルローネが、自分の腹を痛めたわけでもない娘に対して愛情を注ぎ、様々な師につけて技を磨かせたのだ。そして娘も、様々に考えはしただろうが、それに応え技を鍛えた。鍛錬は嘘をつかない。成長期の人間が、全力で武を学べばどうなるか。その生きた実例が、今のアデリーだと言うわけだ。

じいは、あの娘とマルローネが、血はつながってはいないが親子と言って良い関係だと考えている。普通の親子とは多少違うだろうが、それでも心はつながっていると見ている。そんなアデリーだから人質にも適している。だが、考えてみれば様々に変だ。遠くから気配を伺っただけで戦慄を覚えるほどの実力を誇るマルローネが、無策のまま愛娘を放置するわけがない。安直に手を出せば、逆に網に掛けられた小鳥のように仕留められてしまうだろう。

だから、アデリーにはしばらく手を出さない。じいはそう結論する。むしろ、マルローネほどの者が、愛娘を囮にするような見え透いた罠を作ることの方が気になる。それを先に割り出す方が良いかも知れない。

イングリドも遠くから姿を見たが、あちらもマルローネ以上の使い手だ。特に錬金術アカデミーに異常な人材が集中しているわけではなく、この街そのものに化け物じみた使い手が多くいる。一時期のドムハイト王都を思い出して、じいはふと懐かしさを感じた。シグザール王国と戦っていた二十年以上前には、貧しくはあったが、ドムハイト王都にも凄まじい使い手達が集まっていた。今のザールブルグよりも、ひょっとすると多かったかも知れない。豊かではなくとも質実で強い者達の国が、ドムハイトだった。

懐かしさを振り払い、じいは現実に集中する。連中には簡単に手を出すことができない。ただし、どんな使い手にも必ず隙はある。多くの使い手を屠ってきたじいは、それを知っている。

今回のミッションよりも遙かに大変だったのが、前回だ。エアフォルクの塔に潜入し、錬金術師達を暴走させるために、じいは一月以上掛けて徹底的な情報収集を行った。騎士達のローテーション、周囲を警戒するクリーチャーウェポンの能力と弱点。塔の内部構造も、偏執的なまでに洗った。それでようやく、あの作戦が成功した。

マリーが住み着いているあのアトリエも、決して攻略は不可能ではない。半月掛ければ、侵入した上で全てを調べ上げる事が出来る自信はある。だからこそに、じいは急がない。無理をしない。石像のように気配を出さず動かず待って、相手の隙を狙う。そうやって、じいは格上の相手を何度も仕留めてきたし、強大な護衛が居る屋敷から重要機密を盗み出してきた。

城門近くに達したアデリーは、待っていた数人の冒険者にフードの少女の護衛を引き継いで、手を振って帰っていった。百歩ほど離れた距離から、それを見送る。

マルローネは動きを見せない。周囲に牙の気配も無く、他の人間が此方を伺ってもいない。やはりこれは罠だと、じいは看破した。罠だとすると、狙いは何だ。一体鮮血のマルローネは、何を企んでいる。

やはり年かと、じいは自嘲した。頭が働かない。干し飯をもう一掴みして口に入れ、噛んでいるうちに気付いた。

そう言うことか。これは陽動作戦だ。何という奴だと、じいは素直に感嘆し、同時に戦慄を覚えていた。

じい自身は、その辺の相手には絶対に捕捉されない自信がある。だが下っ端の諜報員や、他の幹部達はどうか。まして下っ端の何人かはイングリドやマルローネにちょっかいを出して返り討ちにあい、様々な情報を漏らしてしまっているのだ。その過程で漏れた情報を考慮して、アジトは何度も変えているが、それでも割り出しは可能なはず。

更に言えば、じいが此方に引きつけられていることで、アジトはがら空きだ。此処からマルローネのアトリエは一里近く離れており、殺気や動きは感じ取れるが、気配でその存在を断定するのはじいでも無理だ。つまり、気配を薄くして入れ替わられると、見破る事が出来ない。マルローネは巣を誰か他の達人にでも任せて、好き勝手に行動することが出来る。長距離狙撃は奴の十八番であったはず。町中でどれほどの精度を出せるかは分からないが、諜報員達の気配探知圏外から、大威力の術を叩き込まれたら非常にまずい。混乱したら、少数のドムハイト諜報員達はもう最後だ。待っている運命は、文字通りの皆殺しである。

自分や愛娘が狙われている状況で、逆に効率よく敵を皆殺しにする策を平然とひねり出す。鮮血の二つ名は伊達ではなかったという事だ。常人に出来る発想ではない。血の海に浸かって、殺戮の世界を渡り歩いてきたからこそに出来ることだ。此処は一旦ザールブルグから退いて、体勢を立て直す方が良いかもしれない。

それにしても、藪をつついたらとんでもない大毒蛇が出てきてしまったものだ。作戦がすぐに開始されるとは思わないが、時間があり余っているわけでもあるまい。跳躍し、人々の視線の死角を縫って屋根を渡っていく。気配を消し、そよ風のようにザールブルグを疾走。民は誰一人として気付かない。だが、確実にじいは焦っていた。それが破滅的な事態を招く。立ちふさがった影複数。

「やはり出てきたか」

威圧的に言いながら正面に立ちふさがったのは、顔の半分ほどを布で隠した男。特徴からじいは即座に正体を割り出した。最近牙の一員に加えられたというシュワルベだ。実力はなかなかのもので、ジシスを屠ったという話を聞いている。他にも、牙の精鋭が数人。周囲に展開し、じいの退路を塞いだ。

敵の人員の豊富さを、じいは妬ましく思った。此奴らが出てきたと言うことは、既に何カ所かのアジトは総攻撃を受けているだろう。一体どれだけ生き残れるか。多くの苦闘をくぐり抜けてきたじいも、流石に今回はまずいと思った。ともかく、この場だけでも突破しなければならない。そして、気付く。焦りを誘い、じいを引きずり出すのも、奴の心理戦の一部であろうと。とんでもない化け物を相手にしていると気付いて、背中に冷や汗が伝う。

ナイフを抜く。牙の精鋭となると、対達人用の戦術も身につけており、尋常な手段では勝ち目がない。真っ正面からシュワルベが躍り掛かってきた。目に感情が全くなく、動きが読めない。しかも、奴が引き抜いたシミターには、毒が塗られていた。時間差をつけて、他の牙達も襲いかかってくる。

口に含んでいた干し飯を、いきなりシュワルベに吹き付ける。僅かに体勢を崩したところを突進。脇を抜ける。だが流石にシュワルベも即座に反応、シミターとナイフがぶつかり合い、火花が散った。包囲を抜けたが、牙達はそのまま追跡に掛かってくる。じいは身を翻して屋根を飛び降りる。大通りに出て、人混みに紛れ込む。人間という無数の障害物が行き交っているにもかかわらず、牙の一人は平然とナイフを投擲してきた。それが通行人の誰にも刺さることなく、じいにまっすぐ伸びるのだから凄まじい。部下に欲しいほどの逸材が、敵には多い。せめて先代ドムハイト王が、もう少し諜報部隊の育成に力を入れてくれていればと、じいは歯ぎしりした。ナイフを逆手に持ち、袖に隠して振るい、二本、三本とはじき返す。しかし、三本目の死角になっていた四本目は避けきれなかった。

脇腹に突き刺さる。それを投げたのはシュワルベだった。焼け付くような痛みが、脇に走る。だが、対毒用の訓練は受けているし、さっきシミターに塗っていたものと同じだとすれば、正体は知れている。動きは鈍るが、死ぬようなことはない。そのまま人混みに紛れて逃げる。ナイフは抜いて、捨てた。やはり毒はシミターのものと同じだった。

アジトにこの状況で戻るのは危険すぎる。緊急時の集合地点は事前に決めてあるので、そちらに向かう。ザールブルグの東門から出て、森の中を行ったところだ。走りながら傷の状態をチェックし、応急措置を済ませる。秘伝の薬と膠を獣皮に塗り、傷口に張り付ける。これで止血は出来た。後はじっくり休んで、体力の回復を待つしかない。森をかき分け、集合場所に到着。

数人、既に部下は到着していた。幹部も一人だけ居る。そして、多くが怪我をしていた。おいおい人数が集まってくるが、決して多くはない。一刻が経った頃、どうにか十人だけが集まった。残りは死んだか、或いは捕縛されたと見て良い。わかりきってはいるが、聞かなくてはならない。

「何があった」

「アジトが襲撃を受けました。 アルフレッドとケイティは」

二人とも優秀な諜報員だった。だが、同胞を失ったと言うよりも、今後の任務達成の困難さの方が、じいの心を打ちのめした。

「襲撃者は」

「能力から考えて、あの鮮血のマルローネと、後は牙数人です。 いきなり店内に大威力の雷撃と、よく分からない爆発物を投げ込まれました。 それで半分以上の人員が斃されたところを、牙の精鋭数人が乗り込んできました。 その後は、逃げることしかできませんでした」

店内には、およそ四半里の距離を探査できる能力者がいた。ドムハイトでも数少ない精鋭で、特別に今回の作戦のために借りていたのだ。もちろん、彼も助からなかった。幹部は悔しそうにうつむいていた。

有能な探査系能力者が鮮血のマルローネの攻撃を察知できなかった。探知できる以上の距離から狙撃されたからだ。恐らく背の高い建物の屋根から狙撃してきたのだろうが、理屈が分かってもどうにもならない。町中でそんな距離から、大威力の術を半地下の酒場に直撃させてくるような相手だ。能力者の中でも、自分の力を実戦の中で極め上げたような存在である事は間違いない。部下達に責任はない。どうしようもなかったのだ。

爆発物に関しても心当たりがある。それは騎士団がクラフトと呼んでいるものだろう。アカデミーが開発した爆発物で、俗にマリーブランドと呼ばれる鮮血のマルローネ製のものは特に強大な威力を誇るという。何人かの体には、ウニの実のとげや、ガラス片が深々と突き刺さっていた。全員が血だらけだ。怪我をしていない者など、一人も居ない。

怪我人を優先的に手当てさせるが、とても助からない者もいた。苦しそうに息をしていた者の瞳孔が開き、全身が弛緩する。胸に耳を当てると、心臓が止まっていた。諜報部隊の一人が、嘆息した。

「これから、どうするのですか?」

「そなた達は一旦国境に退き、態勢を立て直せ。 今、シグザール王国諜報部隊に、国内に侵入される訳にはいかん。 どうあってもシグザール王国内部に、戦いの場を固定しろ」

「は。 じいよ、貴方は」

「儂には、やらなければならないことがある」

そう言って、じいは目を光らせた。

敵側の作戦には、天晴れだと応える他無い。しかし、じいは看破した。これは、マルローネの立てた作戦ではない。

マルローネが多方に才能を持つ人間だと言うことは、既に調べがついている。常人に比べて著しく大きい魔力。豊富な体力が可能とする重厚な研究。獣以上の勘から導き出される、鋭い戦術。しかし、戦略面で総合的に糸を引くような才能までも備わっているとは聞いていないし、考えにくい。恐らくブレインがいるはずだ。そしてこれだけの戦果を上げた今、そのブレインが即座の反撃を考えているとは思えない。というのも、もしじいがそのブレインの立場であったら、ピンポイントでの反撃よりも、組織的な逃走を警戒するからだ。

今が、最高の好機なのだ。脇腹は痛むが、そのようなことに構っていられない。鮮血のマルローネと、アカデミーと、シグザール王国の陰謀の糸を絡め取り、アルマン王女に伝える。そうしなければ、後手に回ることになる。後手に回ってしまっては、もうドムハイトは終わりだ。今はどのような犠牲を払ってでも、先手を取っていかなければならないのだ。

「死ぬ気、ですね」

「おやめください。 貴方がいなければ、もうドムハイト諜報部隊は、牙に対抗できません。 今でさえ、戦線を維持するのだけでどれだけの犠牲を払っているとお思いですか」

部下達が口々に言う。しかし、この仕事は自分にしかできない。

「儂は死なぬ。 生きて、アルマン王女に陰謀の全容を伝えなければならぬからだ。 だが、もしもの時には。 ジュシュア。 お前が次のドムハイト諜報部隊の長だ。 生きて伝説となれ」

「は、ははっ!」

涙を流しながら、もっとも年配の男が頭を下げた。最後に生き残った幹部の彼は、左腕を既に失っていた。

じいは森の中をザールブルグに向け歩きながら、戦意を絞り上げていた。己の心に火をつけ、乾坤一擲の勝負に向けて全てを磨ぐ。鮮血のマルローネ、待っているが良い。ドムハイト諜報部隊の長である儂が、じきじきに貴様と戦ってやろう。達観の中に、恐怖と高揚が同時に生じる。不思議と、部下を大勢殺した敵に対する悪意はあまり沸き上がらなかった。

 

3,闇の中の戦い

 

じいは自分の年齢について、最近はよく考える。体の衰えは加速し、消しているはずの気配を察知され掛けたことも何度かあった。体が思い通りに動くのは、今回が最後だという確信がある。ならば、これが最後に味わえる、強敵との真っ向勝負であろう。

真っ正面からザールブルグに入り込む。入る前に少し変装して、見かけの年齢を二十才ほど落とす。怪我など悟らせるわけがない。結果、誰にもとがめられない。足を運ぶ先は、アカデミーだ。機密文書を見るわけではなく、会話を拾いに行くのである。アカデミーの建物を外から見る。いる。イングリドがいる。警備兵達の配置は、もう既に頭に叩き込んである。一瞬の隙をついて、塀を乗り越える。敷地内の、軟らかい土に着地。

それだけで、脇腹の傷に痛みが走った。

脇腹に無意識のまま手をやってしまう。想像以上にシュワルベがつけてくれたこの傷は深い。或いは、ほんの僅かでも、じいも知らない毒物が入っていたのかも知れない。敷地の茂みを素早く移りながら、建物に近づいていく。

途中、何度か生きている縄を見かけた。エアフォルクの塔の研究成果を何度か盗み見たことで、じいはその存在を知っていた。命令を与えておくと勝手に行動する縄で、錬金術の開発した技術である、魂の定着を用いた道具だという。あのマルローネはより戦闘的な生きている縄の使い方をするという情報も仕入れている。近づいて縛り上げられるのはごめんだ。それにしても、何と的確に配置されている事か。イングリドは十代の前半から激しい実戦をくぐり抜けてきた猛者だと聞いているが、それも頷ける。これは理論家と言うよりも、実戦を知り尽くした者による配置である。油断も隙もない。だが、その中に隙を見て、じいは行く。

学舎に、イングリドの気配がある。巨大な気配を敢えて示すことにより、侵入者を威圧しているのだ。素人はそもそも入り込むことは出来ないし、玄人も生きている縄には手も足も出ない。それ以上の使い手でも、この気配を感じたら尻尾を巻いて逃げ出す他無い。じいは舌なめずりすると、学舎に潜り込んだ。

じいの能力は、聴覚の極限強化だ。これによって、今まで様々な仕事を円滑にこなすことが出来た。敵の奇襲も察知できるし、建物の構造も、中を人間が彷徨きさえすれば外側から把握することが出来る。アカデミーの構造も、既に掴んでいる。既に夜だというのに、まだ多くの人間が彷徨いている中、じいは気配を漏らさずに歩く。

ふと、物陰に伏せる。護衛を連れた素人が近づいてくる。護衛はかなりの手練れだ。闇そのものとなって様子を伺う。重そうに体を揺すって歩いてくるそいつは、ヴァルクレーアだ。アカデミーとかなり親密だと聞いていたが、この時間に来るとはどういうことか。ヴァルクレーアは急ぎ足で、心臓もかなり速く鼓動を叩いていた。

やがて、奴はイングリドの研究室に入った。外には護衛の騎士が一人張り付いている。会話は小さい。石造りの建物で、しかも二階上の部屋だと言うこともある。距離はおよそ120歩。マルローネ以上の使い手であるイングリドが、部屋にいることもあるし、これ以上近づいたら、流石にじいでも気付かれてしまう。どうにか此処から会話を拾うしかない。

今まで困難は幾らでもこなしてきた。これくらいがなんだ。言い聞かせながら、埃っぽい倉庫の壁に張り付いて、じいは必死に耳を傾ける。会話の断片が、僅かずつ入ってくる。

「作戦は、順調……。 そ……状況……」

「マルローネ……だ、エル・バドールと……交易な……無理」

「承知の……だ。 それより、ドムハイト……」

素早く断片をメモしていく。速記術の為、書いてある字は自分でも即座には読み解くことが出来ない。後で解析しなければならないのだ。

会話が終わる。ヴァルクレーアはハンカチで健康的な肌を拭きながら、騎士を伴ってアカデミーを出て行った。じいもこっそりと、アカデミーを出る。イングリドの気配は相変わらず巨大で、この建物にいるだけで息が詰まりそうだった。塀を飛び越えたところで、一息つく。部下達にも教えていないアジトに足を運んで、さっきメモした会話を解析する。ノイズを排除し、重要な単語だけを拾い上げていく。何度も文章を直し、乾いた肌に浮かんだ汗を拭いながら、構築していく。

一刻ほどで、結論が出た。

シグザール王国によるエル・バドールとの交易計画は、そもそも国家事業ではない。一応計画としてはあるようなのだが、それはアカデミーが主体となっているもので、それほどの成果は見込んでいない。この計画の骨子は、シグザール内でうごめくドムハイト諜報部隊の狩り出しだ。エル・バドールは元々文化的には高度だが、異常にプライドが高く、他の文明圏を見下しているため交易はとても難しいのだという。シグザールも、そんな所と本気で交易してドムハイトを経済的に圧迫できるなどと考えてはいない。如何にもドムハイトを経済的に圧迫するかのような計画を立ち上げ、調査に来たドムハイト諜報部隊を効率よく狩ることがこの計画の目的だったのである。じいは部下達もろともまんまと罠に掛かってしまったのだ。この様子では、国境の部隊も総攻撃を受けている可能性が高い。

今更分かってももう遅い。ドムハイト諜報部隊は壊滅的な被害を受けてしまった。国境で暗躍している部隊と合流しても、何とか組織の体裁を保つのがやっとだ。それも、国境の部隊が無事だと仮定した場合のみだ。その上、補充人員はもう簡単には捻り出せない。ザールブルグ以外に飼っていた諜報員達は、今でも凄まじい狩り立てに遭っている。余剰人員など居はしない。敗残兵を再統合する形で今まではどうにかやってきたのだが、それももう無理だ。ドムハイトはいまだ再建途上にあり、人材の育成などとても及ばない状況にある。本国からの増援など、期待できない。

天を仰ぐ。どうやら、自分は敗北したらしい。しかもヴァルクレーアが来ていたと言うことは、恐らくシグザール王ヴィントの差し金だろう。悔しいが、流石だという他無い。まだまだ、あの王は充分に現役の頭脳を持っている。今頃奴は、してやったりと高笑いしていることだろう。

ただ、成果は決して小さくない。アカデミーの予想以上の強大さは分かった。あの鮮血のマルローネが、アカデミーにとって非常に重要な駒だと言うことも。まだ、勝機はある。何より、じいはまだ生きている。一矢は必ず報いてやる。

アトリエに向けて、まっすぐ歩く。アトリエの中から、三人の話し声。一人はアデリー。もう一人は、恐らくマルローネだろう。何食わぬ顔をして歩きながら、注意深く会話の内容を拾う。二百歩ほど離れた位置をゆっくり歩きながら、じいは注意深く気配を消して、相手の様子を探る。

気になるのは、もう一人だ。随分清楚な声で、線が細そうな印象がある。それなのに会話の内容は物騒で、しかも芯が座っていて、とても軟弱な貴族の娘とは思えない。となると、この声の主がマルローネのブレインか。

気配を探りながら歩いていると、大きな男が前から来る。しかも、此方を見てにやついていた。魂胆が見え見えだ。直前でわざとぶつかってきたので、すり抜けるようにしてよける。ぶつかりかけた大きな男が、じろりと睨んできた。ひょっとして、今やってみせた技の意味が分かっていないのか。長生きできないタイプである。だが、巡回している警備兵がこっちに向けて歩いてくるのを見て、こそこそと路地裏に逃げてしまう。大丈夫かと聞いてくるまだ年若い警備兵に、好々爺然とした笑顔を向けて、その場を去る。アトリエをぐるっと回り込むようにゆっくり歩きながら、会話の内容をじっくり拾い上げていった。ついでに、アトリエの構造も、声の反響から詳細解析していく。

どうやらあのアトリエには、地下があるらしい。異常な聴覚精度を持つじいにはそれが分かる。大量虐殺をした直後だというのに、マルローネの声はまるで緊張を湛えていない。殺し慣れているのだ。それに対して、アデリーはもの凄く沈鬱な様子で、親の行動に悲しんでいる様子である。心は通じているのに、溝が歴然としてある。よく分からない親子関係だなと、じいは思った。もっとも、じいは親子となる経験をした事がない。客観的に様々な事例は見てきたが、家族のぬくもりは知らなかった。

やがて、夜が更ける。アトリエの中には二人だけになる。じいは念のため、出てきた一人をつけた。マルローネのブレインかと思われるその娘は、ドナースターク家に入っていった。そうなると、あの娘は、噂のシア=ドナースタークであろう。超一流の能力者だった父の名を辱めない使い手だと聞いている。魔力はかなり低いようだが、頭脳と戦闘経験でそれを補っているわけだ。じいと同じ戦闘タイプである。少し親近感が湧いた。

再び、アトリエの近くに戻る。アデリーが食器を片付ける横で、マルローネは器具を弄り始めている様子だった。物陰に伏せて、隙をうかがう。調べはついている。マルローネは体力に自信がある分、肉体の限界まで心身を酷使するという。先に伏せていた時も、その期を狙っていた。今回は思ったよりも遙かに早く、その好機をつかめそうであった。

覚悟しろ。じいはそう呟き、戦闘態勢に入る。だが、アトリエに近づく前に邪魔が入った。微弱な殺気に振り向くと、さっきの大柄な男が居た。にやついている。辺りに警備兵が居ないこと、更にじいが逃げられそうもないことを見て取ったからだろう。

「爺、てめえ、運がなかったな」

拳をならす男。そのまま胸ぐらを掴もうとしてくる。どんな街にも屑は生息している。相手にするのも鬱陶しい。放っておくのも害悪にしかならない。ゆっくり人差し指を立て、喉に突き刺す。リーチの差など関係ない。速さの桁が違うのだ。

男は声も上げられず、己の喉を貫いた指を呆然と見ていた。引き抜く。前のめりに崩れる。そのまま死体を担いで、廃屋に。死体を横たえると、たばこを出して一服した。

マルローネの気配に変化はない。此処は根比べだ。死体に腰掛けると、紫煙をくゆらせながら、じいはマルローネが隙を見せる時を待った。

 

相変わらずシアは怖いなと、フラスコを振って中の薬剤を混ぜながらマリーは思った。

大まかな作戦案を立てたのはマリーだ。じいの性格、アデリーの能力、それに敵の組織的な性質などから、おとりを使った大規模な作戦案を作った。

ただし、それはあくまで陽動を利用した本拠急襲作戦に過ぎず、非常にオーソドックスなものである。肉付きも足りない。机上案など、ある程度戦を知っていれば誰にだって思いつく。問題は、それに細部のスケジュールなどを含む血肉をつけることなのだ。

シアはアデリーの手紙を読むとすぐに来てくれた。同僚達の協力を取り付けてくれたシュワルベと、三人で情報を出し合い、作戦を決定。パズルのピースが埋まるように、シアの案はぴたりと作戦に入り込み、実行可能なレベルに引き上げた。

アデリーがクルスと一緒に出て、しばししてから作戦開始。マリーはシアにアトリエを任せて、走った。敵には四半里という広範囲にわたって気配を察知する能力者が居るという話があり、それ以上の距離から狙撃しなければならなかった。だから宝石ギルドの本店に入り、シアの書状を見せて四階に駆け上がった。窓を開け、杖を構える。距離はおよそ半里。マリーに可能な狙撃最大距離である。

詠唱。全ての魔力を注ぎ込む。今回は奇襲を受ける可能性が低いので、多少は楽だった。だからといって手加減はしない。マリーは全力でカイゼルヴァイパーをぶっ放し、敵のアジトに直撃させた。

後は牙の面々が処理した。マリーの一撃で敵の戦力は半壊し、各所のアジトも一斉摘発したため、逃げ延びた人員は十名に達しなかったという。しかもその全員が重傷だとの話であった。殺したことに対して、全く感慨はない。必要だから殺しただけだ。放置すれば、いずれこっちが殺されていたのである。

カイゼルヴァイパーを叩き込んだ瞬間。沸き上がる轟音と、もうもうと半地下の店から吹き上がる砂塵を見て、楽しかったことは否定しない。人間とはそういう生物だ。鍛え上げた力を用いて行う、後腐れのない殺戮は楽しいものなのである。自分を殺そうと組織的に動いていた連中だ。悼んでやる理由など無い。

それからは戦果を確認し合い、掃討作戦に出たシュワルベと、引き上げると言って戻ったシアを見送り、自身は調合に入った。主要な薬剤は既に出来ている。アロママテリアをつけ込んで、丁度火をつけたところだ。これから火力を調節しながら、時々様々な薬剤を加えていくことになる。保ちが良いものは今のうちに作っておく。普段作っている薬とは調合難易度が桁違いなので、まだ余力があるうちにやっておくのだ。

アデリーはまた少し影を顔に張り付かせていた。自分を囮にした大規模な作戦が動き、結果二十人以上が死んだと聞いてから、ずっとそうだ。繊細な子である。フラスコを振ってじっくり混ぜ合わせた薬剤は、熱くなり始めていた。そこに煮沸した何種類かの石を入れる。泡立ち、溶けていく。ゴムでフラスコに蓋をすると、見る間に曇っていった。これを十刻ほどかけてじっくり冷ましていくのだ。実はこの作業、失敗が許されない。素材はどれも平凡なものばかりなのだが、混ぜ合わせるタイミング、入れる石の量、冷やす時間などを間違えると、すぐに駄目になってしまう。恐ろしくデリケートな薬品なのだ。ただし、完成するとそう滅多なことでは変質しない。

今日既に二回失敗した。一回目は混ぜすぎて固まってしまった。二回目は石を入れるタイミングが遅かった。今度は冷やす時間が短すぎないように気をつけなければならない。この薬剤を投入するのは三日ほど後だが、材料が幾らでもある訳でもないし、急ぐ必要がある。忙しいわけではないが、時間そのものは決して余っていない。

裏庭に出る。あらかじめ掘っておいた穴の底にフラスコを入れる。王宮から聞こえてくる鐘を目安に、大体の時間を計測。土で慎重に穴を埋めてフラスコを固定し、木板で蓋をした。土の保温効果を利用し、ゆっくり冷ますのだ。この土も参考書を見ながら選び、何度か検証して混ぜ合わせた。こういう労力も含め、賢者の石は製造に膨大な時間が掛かるのである。

肩を叩きながらアトリエに戻る。少し疲れた。

シアは言った。取り逃がしたじいが取る行動は、二種類考えられる。撤退して戦力の再編成を行い、反撃の機会をうかがう。もう一つは、傷を抱えたまま、捨て身の反撃を仕掛けてくる。前者の方が可能性は高い。なぜならじいは組織の長であり、ドムハイトは現状シグザールに対して著しい劣勢にあるからだ。組織的な反撃のみが唯一の対抗手段である、その頭脳であるじいの無謀な行動は戦線の全体的な崩壊を誘引する。ただし、そう相手が判断すると見越した上で、敢えて今反撃を掛けてくる可能性も僅かながらある。ただ、じいの性格からは考えにくい。もっと若い組織長ならあるかも知れないが、老練な人物は恐らくそんな結論を出さないだろう。

マリーも同じように感じた。一旦地下室におり、カンテラでアロママテリアをつけた薬剤を照らす。あれほどの攻撃を浴びせても壊れなかった漆黒の正八面体は、緩やかに変色しつつある。徐々に白くなり始めていて、形も崩れかけているようだ。一階に上がると、シアが持ってきてくれた焼き菓子を頬張る。何かが引っかかる。もしも疲れ果てている時にじいに襲われたら、多分死ぬ。気配から感じる実力を分析する限り、その結論を否定する材料がない。しかし、今後の調合は徐々に厳しくなってくる。可能性が極めて低い事態に備えているための余剰時間などはない。

一応、保険は掛けてある。だが絶対ではない。マリーはこれでも結構冷や冷やしているのだ。錬金術はマリーにとって将来への道をつなぐ命綱だ。だがアデリーも次代の村を支える最高の人材になりうる。どちらもマリーは捨てるわけにはいかない。ましてやアデリーは、腹を痛めていないとはいえ大事な子だ。どうしても一致しない人間的な相性の悪さがあるとはいえ、可愛い娘である事に代わりはない。

キルエリッヒの見送りに、アデリーは絶対に行くと言っていた。マリーももちろん行くつもりだ。ただし、調合はそれまでに一段落させておかなければならない。何でもかんでも選ぶことは出来ない。大人になるというのは、取捨選択すると言うことだからだ。

ドアがノックされる。保険が来た。

「おーっす、マリー、いるか?」

「いるわよ。 入ってきて」

入ってきたのは、ハレッシュとルーウェンだ。ルーウェンはどことなく落ち着かない様子であった。

話は聞いている。どうやら、活動拠点を南部のカスターニェという街に移すつもりらしい。詳しい話は、今晩にでも聞く話だ。キルエリッヒに続いて、また親しい人間が去ることになる。こう立て続けに親しい人間が去ると、寂しいものだ。

ザールブルグの冒険者ギルドもベテランの彼が去ることは困っているらしい。この間の戦いで有能なベテラン冒険者が10人も命を落とし、同数が負傷して療養中だ。騎士団からのスカウトも激しくなり、既に何人かの引き抜きも実施された。実は、此処にいるハレッシュもその一人だ。来年からは騎士として勤めることが決まっている。ミューも同じく騎士になると言われているが、まだ本人には確認していない。ナタリエも騎士にならないかと声が掛かっているそうだ。こちらの結果はまだ聞いていない。だが、ナタリエは恐らく断るだろうと、マリーは見ている。

ドムハイトほどの悲惨な状況ではないとはいえ、いつの時代にも、人材は幾らでも必要なものなのだ。ルーウェンが去る事になって惜しいと思うのは、この青年に若手を育てる術を本格的に仕込まなかったことだ。カスターニェの冒険者ギルドでは歓迎されるだろうが、若手の育成に関してはまだまだ素人だから、苦労することになるだろう。

ルーウェンは立ちこめる薬品臭に眉をひそめながら頭を掻く。ミューを強く意識するようになってから、少しずつお洒落に気を使うようになってきている彼は、前に比べて僅かながら小綺麗だ。

「今日は護衛だって? よりにもよって町中で、あんたに護衛が必要なのか?」

「あのねえ。 あたしだって疲れていれば、集中力も鈍るわよ。 そうすれば気配だって上手く読めなくなるし、寝ている時はもっと精度も落ちる。 あたしは万能じゃないし、最強の使い手でもない。 魔力だって有限、だしね」

無意識のうちに、有限と強く発言してしまっていた。内心舌打ちするマリーだが、表情は崩さない。

「ははは、それはそうだ。 でも、アデリーも今は俺達にそう劣らないくらい力をつけてるだろ。 それなのに、俺達が必要なんだな」

ハレッシュは頭が緩いままだが、それなりに鋭いところを突けるようになってきている。無言で頷き、護衛のシフトと計画は任せると言った。二人はああでもないこうでもないとしばし話し合っていたが、やがて二交代で屋根に張り付くと決めた。その間にも、マリーは薬剤の配合と今後のスケジュールをチェックする。製造におよそ百日を要すると言うこともあり、今までにマリーが経験した中では最大の計画表だ。チェックは何度しても足りると言うことがない。

「俺、二階に上がってくるわ」

「勝手にして頂戴。 報酬はきちんと払うから、その分の仕事はして」

「へいへい。 ルーウェン、下は任せるからな」

「分かった」

二階に上がるハレッシュ。ルーウェンはテーブルに着くと、フラスコに触らないよう注意しながら肘を突いた。マリーはスケジュールのチェックを続けながら聞いてみる。

「ナタリエは騎士団に入るの断った?」

「え? あ、ああ。 そうだけど、どうして知ってるんだ? 騎士団のコネからでも得た情報か?」

「いや、ナタリエの境遇から考えるとね。 まだあの子、罪滅ぼし代わりにしばらく冒険者続けるでしょ。 ワルぶってるけど、繊細で優しい子なのよ」

「まんまフレアさんと同じ事言ってるのに、あんたが言うと人間の業とか、そういうのを感じるんだよな。 どうしてだろ」

さりげなく失礼なことを言いながら考え込むルーウェン。マリーも怒る気はしないので、そのまま話を続ける。

「あんたも、南の街に行ってからどうするわけ? 好きな子がこっちにいるのに、一人でどっかに行っちゃっていいの?」

「色々理由はあるんだ。 今の俺じゃ、どのみちミューには釣り合わない。 だから、しっかり修行し直す。 それと、俺の両親の情報も、見つかるかも知れない」

「ふーん。 まあそう考えているなら良いけどね。 ミューはあんたが好きだって事に気付いてもいないし、しかも騎士団に入る可能性も高い。 騎士団に入れば、周囲は超一流の使い手ばかりよ。 それに比べて、あんたは実戦には恵まれるかも知れないけど、若手の育成に忙殺される可能性が高い。 腕を維持するのがやっとになるんじゃないのかしらね。 南に行ってるうちに、ますます釣り合わなくなるかもよ」

「それでも構わない。 何だか、近すぎてどうも距離が測れないんだ。 だから、一旦距離を置いてみる。 それだけの事なのさ」

スケジュールにミスがあったので、修正を掛ける。中期の段階のミスだったから、それ以降にしか影響が出ない。もし初期の段階でのミスの場合、後ろに行くほど影響が大きくなり、最終的には計画が破綻する可能性もある。

まあ、ルーウェンの考えについては、間違っているとは思わない。マリーは男女間の恋愛関係については極めて淡泊で、鈍感である事を自分でも分かっている。他人にその冷めた考えを強要しない。逆に押しつけられても迷惑な顔をするだけだ。

「あんたには世話になった。 いろいろあったけど、それでも俺が此処まで来られたのは、間違いなくあんたのおかげだ。 去る前に、最後の仕事を一緒に出来て良かった。 礼を言うよ」

「いっそのこと、ドナースターク家に来ない? 有能な家臣が増えるのは大歓迎だし、あたしの下につけば一生喰わせてあげるわよ」

「いや、もう決めたんだ」

「なら良いわ。 あんたはまだ力が伸びるでしょうし、コネを作っておいて損はないものね。 将来、名前が売れたら、またザールブルグに戻ってきなさい。 失敗した時も、助けてはあげるわよ」

スケジュールを書き記した紙を丸めると、地下に降りる。まだ、目だった変化はなかった。それもそうだ。このまま、十日ほどは反応するに任せるのだから。今から強烈に変化していたら、それこそ失敗の兆候である。

色々な雑念が入る。本当に賢者の石を完成できるのか、マリーは不安を覚えていた。

 

深夜、じいは動き出した。マルローネの気配が沈黙したのを感じたからだ。眠ったのだろう。だがあのくらいの使い手になってくると、寝ていても油断すると気付かれる。ただ、マルローネの気配は随分乱れていた。何かしらの悩みが、マルローネを蝕んでいるのだ。

脇腹は既に感覚がなくなりつつある。マルローネの不調と天秤に掛けてみると、心身でのハンデはほぼ無い。更に言えば、夜はじいにとって有利だ。

本当の名前が何であったか、じいは知らない。もう六十年以上も前に、ろくでなしの親に、奴隷として売り飛ばされた。その時からコードネームで呼ばれ続けてきた。地獄のようなミッションをくぐり抜けていくうちに、どんどん同じ年の諜報員が脱落していった。殆どが、シグザール王国との争いで死んでいったのだ。中には国内の暗闘で、どさくさに紛れて死んだ者もいた。

いつしか、部下を率いる立場になっていた。その頃には、名前は何十回と変わっていた。記号以外の意味を持たない名前に、愛着は当然なかった。今更本当の名前を知りたいとも思わなかった。

闇の中で生きてきて、いつか闇の中で死ぬ。それが今であっても構わない。たまたま運が良かったから、今まで生きてきた。生きる代わりに、多くの命を奪ってきた。だから、誰にも文句は言えない。自業自得なのだから。

腰を上げる。椅子代わりにしていた死体は、すっかり冷たくなっていた。こんな屑でも、使い道はあったのだ。肩を慣らすと、一飛びに民家の屋根に移る。後は気配を最大限にまで消し、走る。

気配から分かるが、マルローネは流石に甘くなかった。奴はかなりの腕利きを二人も雇い、周囲に配置している。更にアデリーもかなり遅くまで起きていて、裏庭で鍛錬していた。今はもう寝ているが。

都合四人、シグザール王国軍騎士と同等かそれ以上の使い手が、あのアトリエに集まっている。まさに死地と言って良い場所だ。

だが、それが逆に好機となる。こんな所に忍び込んでくるわけがないと、先入観を持ってしまうのが人間だ。そして連中は勘違いしているが、じいの目的は暗殺ではない。マルローネを殺せなくても、別に構わないのである。

アトリエのすぐ側に到着。屋根に座る人影一つ。かなりの使い手だ。瞬時に斃すのは不可能だろう。路地裏に降りる。寝静まった街の隙間を、じいは歩く。小さく枯れ果てた今だからこそ、出来る。

若い頃の戦い方と、今のそれでは、根本的に違う。そして、年を取る度に、じいは己の戦い方を模索し、変えてきた。ついに、裏庭の側にまで到着。緊張が全身を掴む。とっくの昔にマルローネの気配探知範囲に入り込んでいるのだ。察知されたら、即座に切り伏せられると考えて間違いない。

音でこの辺りの地形は全て立体把握している。何処に縄が仕込まれているかも、当然分かっている。ふわりと跳躍。塀を乗り越えて、裏庭に降り立つ。無数の足跡。アデリーが血のにじむような鍛錬を繰り返した場所だ。若さを憎む老人もいるが、微笑ましいと喜ぶ者もいる。じいは後者だった。

だが、それは関係がない。相手はターゲットだ。だから、微笑ましいと思った直後に、首を掻ききる事も出来る。そう言う鍛錬と密着した人生を、六十年以上続けてきた。

屋根の上にいる奴も、相当な使い手だ。下手をすると、息づかいでさえ気付かれる。音が届かないように、慎重に位置をずらしながら歩く。やがて、裏口に到着。張り付くようにして壁につき、戸を開ける。蝶番をわざと錆び付かせているが、これを開けるくらいはお手の物だ。

アトリエに、入った。完全に空気が違う。死地だ。

アデリーという娘に同情した。たまたま虎が、人間の子供を育てている状況なのだと、理解できた。虎は人間の子供を育てる事になっても、生態を変えていない。だから、齟齬が生じる。鮮血のマルローネとはよく言ったものだ。

壁際で、槍を抱えて座り込むようにして眠っている男が一人。見覚えがある。ハレッシュという男だ。かなり腕の立つ冒険者である。存在を気付かせはしない。もはや此処は虎の巣穴の中だ。足音も立てない。先からは、呼吸さえ最小限しかしていない。肺を丁寧に動かして、音を立てないように空気を取り込む。そして、この場から「いなく」なる。極限まで気配を薄くする。空気よりも存在感を無くす。

ある程度の使い手までなら、そのままダイレクトに見られたとしても、存在を感じさせない自信がある。ゆっくり、机に歩み寄る。錬金術アカデミーは、この娘に一体何をさせている。それを全て解析し、完全に出し抜けば、連中の足下を掘り崩す事が出来る。

クリーチャーウェポンの破壊力を見た時、じいは戦慄を覚えたものだ。だが、それにすら、アカデミーは積極的に関わっていなかったという。それなのに、この娘には裏から全力で手を回し、やりたいようにさせ、何かを作らせようとしている。

それは何だ。あのクリーチャーウェポンをも凌ぐ何かが、此処で作り出されようとしているのか。

錬金術アカデミーは恐ろしいほどに現実的な組織だ。非常に優れた組織運営を行い、経済的に様々な敵と渡り合い、打ち倒してきた。そのアカデミーが、無意味な事をするわけがない。巨人といっても良い多才のマルローネに、何をさせる。素早く辺りを見回し、資料を発見。ざっと目を通し、頭に叩き込んでいく。

地下に降りる。魔法陣があった。最奥にある金庫には触れない。触っただけで彼方此方に隠してある生きている縄に縛り上げられるだろう。金庫そのものは開ける事が出来る自信はあるが、縄に縛られない為の行動までは分からない。だから、手を出さない。

魔法陣の中央には、何かのガラス瓶があった。中には液体が満たされ、膨大な魔力が満ちている。下手に手を出したり動かせば爆発するだろう。その場を離れる。冷や汗が首筋を伝う。一階まであがると、心拍数の上昇を抑えきれなくなってきた。この空間のプレッシャーは尋常ではない。下手をすると、シグザール王宮をも凌ぐのではないか。

一階に戻ると、音を立てずに歩きながら、辺りを探る。重要機密書類を見繕う。分厚い錬金術の教科書を、配置を覚えながら流し見る。とても把握できる内容ではないが、しおりを挟んでいる部分や、何度も読み返している箇所は丁寧にチェックする。冷や汗が落ちそうになり、慌てて顎を上げた。呼吸が荒くなりかける。目を閉じ、集中。

何冊目かの本を取り出した時に気付く。しおり以外の何かが挟まっている。開けてみると、手紙だ。筆跡からは誰のものかは判別できない。イングリドではないだろう。滅茶苦茶に、四方八方に飛び散ったこの筆跡。好きな事を書きたいようにつづったこの傲慢きわまる内容。誰だ。

苦労しながら、手紙を解析する。かなり専門的な内容が半分ほど。残りはイングリドに対する悪口だった。その中の一つに、気になるものがあった。

ヴァルクレーアとイングリドの会話を反芻する。意味不明として切り捨てていたものの中に、不自然な部分はないか。あった。確か、一つだけあった。

分かる。確か、はっきりとではないが、言っていた。

そう、それは。イングリドが抱えているのは、不満だ。エル・バドールとの交易に、イングリドは懐疑的だった。その理由だ。良く聞き取れはしなかったが、進歩しすぎた技術がどうの、驕りがどうのと言っていた。

パズルのピースが埋まっていく。もしそれが本当だとすると、イングリドが鮮血のマルローネに期待しているのは。そして、それがもたらすものは。

成果は上々だ。解析は出来た。脇腹のしびれは、肋骨の辺りまで這い上がってきていた。はやく本格的な治療をしないと、まともに体が動かなくなる。外に出ようとして、気付く。

パジャマ姿の、十代半ばの娘。顔にはまだ幼さが残っており、伸ばした髪はまとめる事もなく、肩に背中に掛かっている。目はじっとじいを見つめていた。パジャマの下の、細い体のラインが、机の上のランプから放たれる光により見て取れる。

アデリーだ。どうして気付いた。いや、どうして降りてくるのに気付けなかった。

痛みを押し殺す事に精一杯で、気配を消しきる事が出来なかったか。いや、それはおかしい。この娘が気付くのなら、あの鮮血のマルローネが気付かないはずがない。更に言えば、アデリーは素手だ。だが、心身共に、既に戦闘態勢を取っていた。この娘の実力を考慮すると、素手でも正面から戦えば簡単には勝てない。声を出されたら、チェックメイトだ。

ゆっくり上段に構え上げる。アデリーは腰を落とすと、右手を前に伸ばし、左手を脇に引きつけた。どういうつもりだ。じいが上段に備えたのは、一撃必殺の攻撃に備えての事。アデリーが叫ぶようなら即座に裏口から逃げるつもりだった。逃げ切れないにしても、それしか手がない。アデリーが突きかかってきたら、それをいなしながら逃げるつもりだった。どちらにしても、アデリーが戦気を発している以上、すぐにでもマルローネは気付くだろう。

後は、外に出る機会だ。

「一つ、聞かせてください」

終わった。此処で出来る事はもう無い。外に出ようとして引きかけるじいに、アデリーはなおも言う。

「マスターを、殺しに来たんですか?」

「違う」

「そうですか。 なら。 此処での事は忘れて、帰ってください。 私も忘れますから」

アデリーが構えを解く。何と悲しい親に対する愛情か。不器用すぎる。様々な意図をくみ取り、じいは一瞬だけ、それに感嘆してしまった。

雷が直撃したのは、その瞬間。全てが終わったのも、その瞬間だった。

 

棒立ちになった老人を、飛びついたハレッシュが組み伏せる。

少し前から、マリーは天井にヤモリのように張り付いて、逆さに階段を下りてきていた。気付いたきっかけは、アデリーが小用に降りた時、足音が途中で止まった事だ。即座に体が反応した。パジャマのままベットを這いだし、壁にはりついて腕力と脚力で突っ張るようにして天井に張り付き。そのまま下から死角になる位置にまで降りた。

アデリーは老人と対峙していた。構えを見た瞬間に分かる。アデリーは、守る気はあっても殺すつもりはない。甘すぎる。相手は最強の間諜だと教えたはずだ。どうしてこの子はこうなのだ。苛立ちが募るが、気配は漏らさない。パジャマの裾を僅かに引っ張り、千切って糸玉にする。投げる。ハレッシュに当たる。

起きた。舌なめずりして、後はじいが隙を見せるのを待つだけだ。

それは意外に早かった。アデリーの言葉に眉をひそめていたじいが、ほんの一瞬だけ気を抜く。後は今まで発動を準備していた雷撃を叩き込み、ハレッシュが即座に取り押さえた。自分の前に飛び降りたマリーを見て、アデリーは蒼白になった。

「マスター!」

「さて、と。 どうしてやろうかしら」

「あまり乱暴な事はするなよ。 娘の前だぞ」

ハレッシュが珍しく苦言を呈してくるが、知った事か。何だか知らないが、非常に今は不愉快だ。殺す。こんな少しアトリエに入っただけで、人の事を知った風な行動をする奴には我慢ならない。何が年の功だ。

「……離しなさい」

「離しません!」

後ろからアデリーに抱きつかれ、マリーは思わず舌打ちしていた。次の瞬間、じいが反撃に出る。肩の関節を外すと、ハレッシュの拘束から脱出、しかも脇腹に掌底を入れたのだ。ハレッシュは横転しながらも、ただでは倒れされない。そのまま、じいが肩を外した右手を掴む。常人なら気絶するほどの苦痛のはずだが、それでもじいは悲鳴一つあげなかった。無理矢理引きはがし、飛び退く。

裏口から飛び出そうとするじいに、屋根から飛び降りたルーウェンが立ちふさがる。躊躇無く剣を抜くルーウェンに走り込むじい。アデリーを振り切ったマリーが、雷撃の二発目を用意する。じいが跳んだ。予想以上に高い。ルーウェンの頭上を飛び越える。そこへ、二発目の弱電撃が炸裂した。だが、即座にため込んだ魔力では威力もたかが知れている。すぐに飛び起きたじいは、振り向け様に斬りつけたルーウェンの刃で背中を斬られながらも、隣の家の屋根に飛び移った。すぐにパジャマのままのマリーが、マントだけ羽織って裏庭に飛び出す。まだ遠くには行っていない。僅かに遅れて、アデリーが飛び出してくる。

「逃がすと思ってるの? 生きたまま八つ裂きにしてやるわ」

「マスター! もうやめてください!」

「馬鹿ッ! あの老人を放置していたら、いずれ寝首を掻かれるわよ! そんな事も分からないの!? 部屋に戻って、頭を冷やしなさい! ハレッシュ、このままアトリエを守備。 ルーウェンは着いてきて!」

「あの人は、悪い人かも知れませんけど、でも! 老人で! 怪我をしていました! それでもマスターは殺すって言うんですか!」

マリーはその言葉に、即答する。

「関係ないわ。 老いても虎は虎。 ドラゴンはドラゴンだもの」

ルーウェンを連れて、マリーは塀を蹴って跳躍、屋根に飛び移った。老人が居た辺りに撒き菱と呼ばれる諜報員が使う道具がトラップとして仕掛けられていたが、そんなもの踏むわけがない。巧妙だが、マリーには無力だ。

アデリーは着いてきた。どうしても止める気らしい。もう知らない。マリーは走る。まだ、距離はそれほど離れていない。時々巧妙な足止めトラップがあるが、マリーの敵ではない。全力で走り、やがて見つける。

城門の側まで来ていた。予想以上に足が速い。走りながら詠唱はしていた。致死量の電撃を浴びせてくれる。アデリーは身体能力でもうマリーを凌いでいるが、まだまだ経験が致命的に足りない。だからルーウェンと並んで、まだ二つ遅れた家の屋根にいた。詠唱の最後に取りかかる。後ろの二人も、前の爺も、間に合いは、しない。

「サンダー……」

老雄への、最後の餞だ。虎をも仕留めるいかづちの蛇王を見せてやろう。その体で味わうが良い。マリーの心は、夜闇より冷え切っていた。

その時、老人が振り向く。此方にナイフを投擲してくる。洒落臭い。はじき返そうとして、気付く。慌てて身を翻し、杖を削りながら彼方に飛び去るナイフを見る。この老人、どういうナイフ投擲技術だ。構えは崩れたが、関係ない。城門へ走り上がり、森へ向けて飛び降りようとする老人の背に、掌を向ける。

「ロード……」

「マスター! やめて、やめてえええええええっ!」

「うあっ!?」

後ろから飛びついてきたアデリーが、バランスを崩させる。ロードヴァイパーは放たれはしたものの直撃はしなかった。だが、老人の背中をかすった。それだけで、致命傷だ。今の一撃は、虎を即死させるほどのものだ。元々身体能力で勝負するタイプではないあの老人が喰らえば、ひとたまりもない。二人もつれ、落ちかける。慌てて左手を伸ばし、屋根を掴んだ。右手はアデリーを抱えたままだ。杖も持っているのでのばせない。

追いついてきたルーウェンが、引っ張り上げてくれる。彼は少し疲れた表情で、マリーとアデリーを順番に見て、言った。

「もう、いいだろ。 これ以上は深追いじゃないのか」

「そうね。 あの老人、もうどのみち長くはないわ」

「っ……。 マスター、どうして、どうしてそんなに命を簡単に奪えるんですか? 私、私の命は、あんなに必死に救ってくれたのに」

「それはそれ、これはこれ。 人間て生き物は、基本的に利己的なものなのよ。 己が生き残るためには何でもするし、己の血族を守るためならどんな非道でも手を染める。 だから、あたしもそうしてこの世を渡っていく。 敗者を蹴落とし、勝者になるためにね」

パジャマが随分汚れてしまった。素足のままだから、足も拭かなければならない。人を今、殺したマリーは、もう帰ってからの事を考えていた。

アデリーが泣いている。この子はもう少し強くならなければならないなと、愛娘の様子を見てから、マリーは思った。

「知っていると思うけれど、数日中に、キルエリッヒさんがこの街を発つわ。 ルーウェンも、近々この街を去るそうよ。 準備をしておきなさい」

それだけ言い残すと、マリーはルーウェンにアデリーを任せて、アトリエに戻った。これがルーウェンにマリーが頼んだ最後の仕事になった。

どうして、分からない。マリーは口中でつぶやいた。マリーのやり方がアデリーを救った。そして、グランベル村を発展させてきたのも、現実主義だ。何故あの子はあれだけの虐待を受けたにもかかわらず、現実を客観的に見る事が出来ない。マリーの思考法を理解できない。

魔力だけではなく、此処でも壁を感じる。愛娘にどうしても理解してもらえないというのは、流石に気分が悪い。勝手な解釈をされるのも腹立たしいが、これはこれで苛立ちが募る。他人の思想に干渉はしない主義のマリーだが、こうも娘と対立すれば流石に腹も立つ。近くの森に行って何か殺してきたいところだが、今は駄目だ。森がこれ以上荒れると、取り返しがつかない事になる。

裏庭にたどり着く。幼い頃から裸足で走り回っていたマリーである。足の裏は丈夫だ。裏口からはいると、ハレッシュがお湯を沸かしておいてくれていた。足の裏を拭いた後、首筋や額も汗を拭う。ハレッシュは成長した。こういう気配りが出来るようになったのは立派な事だ。

「なあ、マリー」

「ん?」

「みんな、去っていくな。 ルーウェンが居なくなるのは、寂しいよ」

「あんた達仲良かったものね。 ルーウェンの奴、結局ミューには何も言えそうにないわね。 戦闘ではもう充分に一人前なのに」

ハレッシュは笑っていた。

ルーウェンとアデリーが一緒に帰ってくる。アデリーはもう泣きやんでいた。座らせて、足を洗ってやる。自分で洗うとアデリーは言ったが、半ば強引に座らせる。みずみずしい肌は洗うと良く水を弾いた。足の爪の間に泥が入り込んでいたので、それも丁寧に処置した。アデリーは足を洗う間、ずっと神妙な顔をしていた。

「マスターは、こんなに優しいのに」

「ん?」

「……何でも、ありません」

アデリーはその次の日、食事を抜いた。

だが翌日からは、またきちんと食べるようになった。彼女なりの反省の形であったらしいと、後で聞く事となった。

 

森の中、倒れていた自分に、じいは気付いた。もう長くはない。全身のダメージがあまりにも深刻で、まともに動く事さえ出来ない。それでも、此処まで歩いてきた。どうやって体が動いたのか、よく分からない。

背中にかすったマルローネの攻撃術が、脊髄を焼いたのだ。即死しなかっただけでも運が良いと思うしかない。城壁から落ちて、生きている事を奇跡だと感謝する。かっての仲間達に。

皆の気配が、周囲にある。何年も前に死んだ者。何十年も前にいなくなった男。皆、死人ばかりだ。迎えに来てくれたのだろう。楽になろうとする体。だが、頭はまだ必死に抵抗していた。駄目だ。まだ、逝くわけにはいかない。

手紙をしたためる。もう力が殆ど入らないから、取捨選択して書いていく。アカデミーは、本国を好ましく思っていない事。交易は恐らく本格的には実施できない事。シグザール王国とアカデミーの目的は違う事。結局の所、アカデミーは第三勢力であり、ドムハイトの敵ではないという事。マルローネは積極的にドムハイトの敵になる存在ではなく、距離さえ置いていれば危険はない事。アカデミーが奴に行わせようとしているのは、恐らく錬金術の大改革のきっかけである事。

それが、じいが見た情報から判断した全てだった。恐らく、命を賭ける価値はあったはずだ。自嘲の笑みが漏れる。これで、人生が終わりだ。今まで奪ってきた多くの命が、するりと地獄へ引きずり込んでくれるだろう。

全てを書き終えると、もう目の前がかすんできた。最後の力を振り絞って、指笛を吹く。羽音が一つ。じいが飼い慣らしている、フォレストイーグルと呼ばれる猛禽だ。飼い慣らすのが非常に難しく、ドムハイトでもこの技術は数人しか持っていない。

餌をねだる猛禽の足に手紙を結びつけると、懐から干し肉を引きずり出す。人血にまみれた肉を嫌がったか、誇り高い猛禽は顔を背け、手紙の感触を確認してから飛び立った。後は、部下達が生きていれば、情報は届くだろう。

仰向けに転がる。最後の力だ。空の月が美しい。涙がこぼれてくる。

安堵がある。最後の相手が、掛け値無しの強敵で良かった。戦士としては、満足だった。諜報員としても、悪くはなかった。拷問を受けずに済んだからだ。この年になっても、まだ拷問は怖い。こんな貧弱な老人が長であったと、部下達が知らずに済んだのは幸運だった。

空を舞っていた猛禽が、甲高く鳴きながら遙か遠くへ飛び去っていった。さあ、これで最後だ。地獄へ連れて行け。今まで殺した者達へ告げる。

消えゆく意識の中、温かい手の感触があった。笑みが零れた。最後の感情だった。

 

夜の森に薬草を採りに来て出くわした老人の死。全てを見届けたミルカッセは、握っていた小さな手の軽さに寂しさを覚えていた。老人は安らかに逝った。体中の傷から言っても、この人物がカタギでなかったのは明らかだ。だが、どんな人物でも、死は安らかに迎えるべきだとミルカッセは考えていた。自分が経験者だから、そう思える。安らかな死に様は、アルテナ神の慈悲だろうと、ミルカッセは思った。

護衛についてきていた新人の冒険者と、亡骸をフローベル教会に運ぶ。裏には無縁墓地がある。そこに葬った。年に何度か、教会の前に遺体が遺棄される事がある。葬式を上げる金が無い者や、訳ありの死骸ばかりだ。酷い死に様も多い。だが、司祭の死からしばし経った今は、いずれからも目を背けず、ミルカッセは平等に冥福を祈る事が出来るようになっていた。死体を葬り終えると、既に真夜中になっていた。護衛に帰ってもらい、薬草を調合する。司祭を安らかに逝かせてくれたあの人から教わって、最近細々と始めた。少しでも誰かを救えればと思い、必死に日々勉強しているが、ものになるにはまだしばらくは掛かりそうだった。

次の日の朝。アデリーが早いうちから教会を訪れた。懺悔をしに来たのだ。珍しい事もある。無神論者だと言っていた彼女は、ミルカッセに話を聞いて欲しいようだった。ついたての向こうで、ミルカッセは親友の独白を神妙に聞く。

「後一歩なのに、救えませんでした。 また、助けられませんでした。 マスターが殺さなければならなかったのは分かります。 でも、あのおじいさんは、マスターを殺そうとはしていなかった。 だから、命だけは助けてあげて欲しかったんです」

「貴方が悪いのではありません。 神は必ず、正しい行いをする者には、慈悲を掛けてくださいます。 いつかは貴方のマスターも、分かってくれるはずです」

「……ありがとう。 次は止める。 今回は、後一歩だったんですから。 もう泣きません。 次は、止めてマスターと笑うんです」

あのおじいさんというのは、間違いなく昨晩死を見届けた人物だろうと、ミルカッセは思った。アデリーは席を立つと、もう沈鬱な雰囲気を綺麗に振り払っていた。

「ミルカッセ、ごめんなさい。 愚痴を聞かせてしまって」

「神のご加護のあらん事を」

アデリーはどんどん強くなっていく。教会を出て行くその背を見送りながら、ミルカッセは思った。負けていてはいけない。

何時か追いついてやろうと、ミルカッセは思った。

 

4,別れ

 

気持ちよいほどの晴れであった。ザールブルグの南門には、ルーウェンの姿。周囲には冒険者ギルドの重鎮と、ハレッシュをはじめとする冒険者が何人かいて、それぞれに別れを惜しんでいた。

彼らが一通り別れの挨拶を済ませるのを待ってから、マリーはルーウェンに歩み寄った。アデリーは花束が良いと言ったのだが、旅の邪魔になるだけだからと却下。馬車でも一月以上かかる旅なのだ。ベルトが古くなっているようだったので、新品をゲルハルトに頼んで作ってもらった。初めて会った時に比べると、筋肉が随分ついて一回り大きくなったルーウェンに、マリーは綺麗にラッピングしてもらったベルトを手渡しながら言う。

「ミューは?」

「ああ、今日は朝から仕事が入ってるらしくてな。 昨日のうちに別れは済ませたよ」

「ふうん。 心残りは無いのね?」

「無い。 どのみち今の俺じゃ、あいつとは釣り合わねえよ」

ハレッシュがくれたというガントレットの感触を確かめながら、ルーウェンは頷く。武装が何カ所か新しくなっているのは、いずれも皆からプレゼントされての事だろう。

「その、カスターニェでも、頑張ってください」

「ああ。 アデリーもな」

南門から出て行くルーウェン。ハレッシュや、他の者達と共に手を振る。随分大きくなった背中だったが、それも街道の向こうに消えるまで、時間は掛からなかった。

「いっちまったな」

「何、彼は冒険者よ。 運が巡れば、また会う事もあるでしょう」

目を擦っているアデリーの背中を叩いて、今度は北門へ向かう。しばらく歩いて北門にたどり着くと、今度は騎士団の者達が、キルエリッヒを取り囲んでいた。

キルエリッヒはしっかり鎧を着込んでいた。これが騎士団の制服だからだ。腰には二振りの剣。騎士としてのものと、もう一つは王から支給された地方領主のものだ。長身の赤い女騎士は、若い後輩達に囲まれて、静かな笑みを浮かべていた。城門の外には、馬車が待っている。もうあまり時間はないだろうが、焦って雰囲気を壊しては台無しだ。しばらく待って、彼らが落ち着いてから、アデリーと一緒に歩み寄る。

「マルローネ、それにアデリーちゃん」

「キルエリッヒさん、長年の勤め、お疲れ様でした」

「有難う。 本当は騎士もやめたかったのだけれど、それは国が許してくれなかったわ」

マリーは他にも一言二言会話をすると、アデリーに向かって顎をしゃくる。四角い箱に入れてもらったプレゼントを渡させる。

ルーウェンに対しては実用的なベルトを渡したが、キルエリッヒに対しては違うものを用意した。大輪の薔薇をあしらった金のブローチだ。何カ所かに小さなルビーがはめ込んである。小さいが、かなりの値打ちものである。ただし、アデリーの面倒を見てくれた相手に対するプレゼントだから、これは金額的に妥当なものだ。

今後は領主として、様々な社交辞令の場に出なければならなくなる。ドレスを着る事もあるだろう。それを考慮し、用意したものだ。それなりに値は張るが、それ以上に心がこもったものを作ってもらった。宝石ギルドに話を回して作らせたが、もちろん金は自分できちんと出した。デザインは、何種かの中からアデリーが選んだ。

その場でプレゼントを開けたキルエリッヒは、優しげに目を細めた。アデリーに向けて、大人っぽい笑みを浮かべる。

「有難う、二人とも。 とても嬉しいわ」

「喜んでくれて良かったです。 ……もう、帰ってこないのですか」

「ごめんなさい。 自分で決めた事なの」

弟と、その母親に近い人物を自分の手に掛けた事で、キルエリッヒは罪悪感を感じているのだろう。この人は、マリーがその弟を半殺しにして騎士団に突きだした事を知っていた。だが、恨まなかった。最初に襲いかかったのは弟の方だったし、殺す気だったからだと、割り切って応えていた。出来た人なのだ。そんな優れた人格が故に、自責の念もまた、重かったのだろう。

若手の騎士達がさっと退いた。エンデルクだ。何人かの護衛を連れて、エンデルクが来た。クーゲルも、ジュストもいる。一礼するキルエリッヒに、エンデルクは本当にすまなそうに言う。

「キルエリッヒ、望みを叶えてやれず、すまない」

「いえ、騎士団長。 これだけの事をしてくれれば充分です」

「そうか。 騎士団はいつでも貴様の力を必要としている。 領主に飽いたら、いつでも戻ってきてくれ」

握手を交わす。それが済むと、キルエリッヒは馬車に乗り込み、北に向かって旅立った。黄金の穂が波打つ畑を、北上する馬車一つ。若い騎士達は、自分の行動に感動して涙を流し、手を振っていた。マリーも小さく手を振る。馬車は、すぐに見えなくなった。

「行ってしまったな」

「人材が欲しい。 キルエリッヒが抜けた穴は大きい」

エンデルクはそう言ってアデリーを見た。寂しそうに微笑むアデリー。それ以上、エンデルクは何も言わなかった。

「さあ、帰ろうか。 騎士団長、それでは、あたし達はこれで」

アデリーを促し、マリーはアトリエに帰る。まだまだ賢者の石の調合は始まったばかりだ。これから難しい場所が幾つもある。まだ涙を拭っているアデリーの頭を撫でながら、マリーは帰路を急ぐ。

たどり着かねばならぬ所は、まだまだ遠いのだ。

 

隻腕となった諜報員ジュシュアは、部下達の惨状を見て呆然としていた。予想通り、国境で暗躍していた部隊も、シグザール王国軍の掃討作戦で壊滅的な打撃を受けていたのだ。生き残りは、全てあわせて三十名ほどに過ぎない。しかも、その全員が負傷していた。もはや、戦線を維持する事は不可能だった。

既に、ジュシュアがじいの跡を継いだ事は広報済みだ。じいが最後に残してくれた言葉もである。今は、ジュシュアが全ての判断を任されている。全ての責任が、両の肩に乗っている。

かっての幹部で、生き残ったのは彼だけなのだ。それも致し方がない事だった。

「頭、ここは」

「分かっている。 此処は退くしかない。 雌伏の時だ」

じいなら、別の考えを進めたかも知れない。だが。ジュシュアは退く事を選んだ。

戦線を国内に移す。半数の諜報員を後方に回し、部下達の育成に努める。当面の戦いは、敵の浸透を防ぐものとなる。絶対に王都にまでは届かせてはならない。まだアルマン王女の治世は盤石ではないのだから。

そしてシグザールが傾いた時に反撃に出る。それがいつになるかは分からないが、待つ意外の選択肢はない。もはや自分の手でそれを引き寄せる事は出来なくなってしまった。

強力なドムハイト軍に苦労しながら、徐々に反撃していったシグザール軍。その苦闘が少し分かる気がする。今度は、此方が苦しい立場から這い上がる番だ。そして頂点に立ったその時には、必ずけ落としてやる。

部下達と共に、ジュシュアは国境を越えた。何度か振り返る。

どうしてか、敵地が少し懐かしかった。

 

アカデミーの自室で、イングリドは何通かの手紙に目を通していた。ここのところ新鮮な実験材料が続けざまに手に入ったため、実に研究が良く進んだため、こういう緩やかな時間が出来たのである。

ヘルミーナの手紙は相変わらず意味不明であったが、研究の内容は興味深く、イングリドをしても思わず唸らされるほどのものである。それに比べて、故郷であるエル・バドールからの手紙はどうだ。自分たちを神に近い存在だと錯覚し、文明的に劣ったシグザール王国を「蛮族の巣」呼ばわりしている。こんな事だから、リリー先生も愛想を尽かすのだ。一部の教授達が反発し、必死に国外に錬金術の未来を求めたのも当然である。腐りきった老大国には、今更興味が湧かない。

やはり錬金術のパラダイムシフトは、この国でこそ起こりうる。それに一番近いマルローネは、既に賢者の石の製造に取りかかった。後は待つだけだ。実に待ち遠しい。

既に国内外の有力な錬金術師を集めるべく、手紙を出している。何人かのエル・バドール出身者は予想通りの結果だった。だがこの大陸に散った有力な錬金術師達は、賢者の石と聞いて矢も楯もたまらず駆けつけてきている。彼らを集め、世界の変革を見る事が出来るのは、実に喜ばしい。

軽く昼寝をしてから、再び研究に取りかかる。若い者に負けてばかりではいられない。

錬金術にはまだまだ可能性がある。イングリドは少しでもその道を拡げていかなければならない立場なのだ。

歴史が動く日は近い。イングリドは人知れず、勝利を確信した笑みを浮かべていた。

 

(続)