日食の闇

 

序、地中に住む者

 

それは、地中に潜んでいる。

土の中で、全てをまかなう。栄養も、水も。二酸化炭素や酸素さえも、地中でまかなう。光はいらない。冷たい安定した土の中で、時が来るのを待つ。ただ、それだけが仕事。そのためだけに存在している。

それは、触手を一本、土の上に延ばしている。植物の茎と見分けがつかない、細くて特徴のない触手だ。これが、来るべき時を察知する重要な端末である。これがないと、時が来た時に、任務を果たすことが出来ない。だから失われた場合は、すぐに次の触手を土の上に延ばす。可動性はなく、ただ成長させることしかできない。本体以外は、殆どまともに動かないのだ。他の触手は、ずっと細くて脆弱。それらは土の中に、縦横に張り巡らせている。

仕事は、安定した土の中に潜み、張り巡らせた触手を使って、あらゆる情報を収集すること。あらゆる生物の生息数。気候の変動。何より、人類の活動状況がどうなっているかが、最も重要な情報となる。集めておいた情報を、来るべきその時に、主に送信する。それだけが、成すべき事であった。

静かで、ただ安定した時間の中にいる。必要なのは情報を得て、それを送信することだけ。危険な時には、本体を更に深く潜らせることで対処する。静かで、安定した生活だ。だが、恐ろしく退屈な生活でもある。天敵など存在しない。同時に、捕食すべき相手もいない。ただ、世界から忘れ去られたように、闇の中に鎮座している。

それの名前は、ドンケルハイト。世界を知る端末の一種である。

同種の端末は世界中にいる。悪魔達もそうだ。魔物達もそうである。様々な角度から、この世界を観察し、情報を収集し、送信することが、皆の仕事。方法は違うが、皆している事は同じだ。周辺には、仲間のドンケルハイトが集まっている。この周辺は、有数のドンケルハイト集中地帯なのだ。ドンケルハイト達は地下の深くで身を寄せ合って、ただ情報だけを集める、闇の中の日々。単純で、それが故に何もない。普段は身動きさえもしない。だから、異変には却って敏感だ。

側にいる仲間が、身じろぎした。土を通じて、それが伝わる。何故身じろぎしたのか、すぐに分かった。時が近いのだ。

「オオオオオオオオオオ。 オオオオオオオオオオオオ」

唄う。体内を振動させて、音を発する。それは土を僅かにふるわせて、土の中で穏やかな曲を奏で上げる。喜びの時だ。唯一の仕事を果たせる日が近い。どのドンケルハイトも、喜ばない訳がない。

栄養を茎に送る。情報送信媒体を、有機的に作らなければならない。土の中の栄養を貪欲に取り込む。体内に蓄えている菌類に、更に効率の良いエネルギーに変えさせる。それを使って、更に茎へ栄養を送る。

花によく似た情報送信媒体は、咲けば0.7秒で全情報を送信しきる。たまに人間の生息重要地点が代わり、形状を変えて土の中をゆっくり移動するほかには、何もすることがないこの現状。このときこそが、生きていることを感じることが出来る、最高の時間だ。だから、皆喜びの唄を奏でながら、栄養を作る。栄養を送る。

情報収集用の触手は細く長く、脆いが何処にでも伸びている。聞くことしかできないが、ゆっくり着実に土の中を浸透する。この大陸最大の都市の一つであるザールブルグの下には、網の目のように細い触手が張り巡らされている。人間達の会話のいくらかはそれで拾われ、情報として送信されるのだ。

ドンケルハイトはあくまで無力。この世界で最強の存在は、人間だ。だがその人間も知らないものは、確かにある。最強の存在であっても、何もかもを知り尽くしているわけではないのだ。

唄う。ドンケルハイトは、地中で唄う。退屈な時を紛らわせてくれる、その時が来ることを祝って。

複数のドンケルハイト達が呼吸を合わせて、地中を震わす。やがてそれは重厚な合奏となって、土の中を賑やかにした。ドンケルハイトと一口に言っても、その奏でる音はそれぞれ異なるのだ。だから、重なりあう音は美しい。ミミズやモグラも、地中では音を発している。彼らもドンケルハイトの大合唱に呼応してうごめく。それがまた素晴らしい。

情報が何処に行くかなど知らない。知りたいとも思わない。この世界の情報を集めることが、ドンケルハイトの仕事。

そして、ただ一つの、生き甲斐であった。

 

1,疑念

 

マリーは大きくあくびをすると、机の上に寝そべらせている長細い物体に視線を移した。赤黒いそれは、この間の戦利品。火竜の舌である。正確には、その舌を燻製にし、切り出した肉の一部だ。特に何の気もなく、つまんで持ち上げてみる。確かな質感がある。死してなお、火竜の存在感を伝える肉片は、指先にじんわりと蓄えている膨大な魔力を伝えてきた。

流石に巨大な火竜だけあり、舌は太く、なおかつ長大。生のままではすぐに傷んでしまうので、じっくり燻製にする必要があった。燻製にすると肉は少し縮むが、それでも抱えるほどの大きさであることに変わりはない。だから、作業に適切なサイズに加工する。机の上に置いてある肉片は、切り出したその小片である。

ぼんやり肉片を見ていたマリーだが、すぐに飽きた。竈で煮ているキノコ類をちらりと見るが、変化はない。百回以上も繰り返してきた薬剤調合だ。ミスすることはまず無い。ますます退屈を感じたマリーは、初夏の麗らかな気候もあって、気力を維持するのを苦痛にさえ感じていた。

ここ数日、アロママテリアでの性能実験をあらかた試してしまったため、マリーは今までにないほどの退屈を感じていた。仕事なら幾らでもある。だが、やはり日々の活力になるのは、創造的な営みだ。アカデミーの図書館に足を運んでは、興味を刺激される本がないか物色もしているのだが、なかなか巡り会えない。だから、自分で手元にある道具を使って、何かできないかと試行錯誤しているのだ。だがこれが恐ろしく退屈な作業である。火竜の舌は強い魔力を含有しているが、それでもただの肉である事に変わりはない。食べると美味しいが、今重要なのはそれではない。

一応、やってみたいことはある。今までに漠然と感じていた、錬金術の基本に対する疑問。世界を五つの要素に分割し、それを調合の大原則とする。それに長年疑念を抱いてきたマリーとしては、この辺りでそれを打ち破る実験をしてみたいのだ。してはみたいのだが。

ため息一つ。現状、具体的に何をするべきかよく分からない。様々な図鑑類を見てヒントがないかは調べている途中だが、どうもしっくり来ないのだ。

基礎理論がどこかで間違っていることは、マリーにも分かっている。しかし、属性的に相反している素材を組み合わせて作るような道具であっても、何かしら「論理的」な説明がされているのが事実だ。つまり、後付の論理で殆どのことは説明できてしまう。学会に激震を起こすのであれば、何か反論不能な、文句のつけようがない結果を提示するしかない。

文句をつけられないようにするには、対抗できるような高度な理論が必要になってくる。しかも、それを結果で実証するしかない。理論を先に立て、それを結果で示せれば、流石に誰もが納得するはずだ。マリーは元々、大量の実験を体力でカバーするタイプだ。現在、かなり高度な錬金術論を理解はしているが、自分で組み立てるのは難しい。

せめて、錬金術にある程度知識のある人間のサポートがあれば。

そのサポートも、せめて仮説なり実験結果なりがあってこそ、はじめて生きてくる。今の段階では、それさえも期待できない。だから、修行をする時間ばかりが増えていた。一種の現実逃避だ。強くなることは現実に有用だが、錬金術にはあまり関係がない。

とにかくアイデアがない。アイデアがないから、気力も湧かない。いつも陥る悪循環である。魔力も成長限界に来ているし、技を練り上げるのにも果てはある。修行ばかりしていても、それは最終的な解決とは結びつかない。一種の現実逃避に過ぎないのだ。

しばらく火竜の舌をつついていたマリーは、呻いて頭をかき回した。こう言う時は、もう悩んでいてもどうにもならない。舌を地下にしまってくる。王立図書館には、まだ目を通していない本が山ほどある。足を運んでみようと、マリーは思った。

そろそろ、試験四年目も終わりだ。秋から、試験最終年に突入する。長い試験だったが、成し遂げることが出来た事は多かった。だが、まだ足りないとマリーは感じる。だからこそに、退屈に身を任せて寝ていない。外出しようと腰を浮かせかけたマリーは、近づいてくる人間に気付く。

意外な人物だった。クライスである。頭はそれなりに切れる男だが、戦闘能力は低く、気配の消し方も知らない。だからかなり距離があるうちから分かった。居留守でも使おうかと思ったが、わざわざ足を運んできたのだ。それにこの間、アロママテリアを触らせてくれたこともある。無碍に追い返すのは気の毒だった。

やがて、アトリエの前に来たクライスは、何故か随分ためらった後、ドアをノックした。訳の分からない奴だと思いながら、マリーは出来るだけ友好的な声を出す。こう言う時、女は便利だ。気分次第で声のトーンをかなり変えることが出来る。

「はーい。 どなたー?」

「僕ですよ。 クライスです。 少しお話があります。 立ち話も何ですし、入ってもよろしいですか」

「ああ、あんたか。 入っても良いわよ」

頬杖したまま、声のトーンを若干落とす。白々しい行動だが、客になる可能性もある人間だ。演技に手は抜かない。得てして、人は全て見透かされると、苛立ちを覚えるものなのだ。

ドアを開けて入ってきたクライスは、少し緊張しているようだった。周囲を見回して、アデリーがいないことを確認すると、更に緊張を高めている。ますますよく分からない奴だ。

「使用人の子はどうしました?」

「あんたには言ってなかったっけ? アデリーはもううちの子よ。 この間奴隷労働を完遂したから、正式に養子縁組したの」

「え? あ、ああ、そうでしたか」

「アデリーなら、今は修行に出かけてるわ。 今日はキルエリッヒさんの所かな。 あの子、手足が伸びきる頃にはかなり強くなるわよ。 今から楽しみだわ」

座るように促すと、マリーは茶を淹れた。何度やっても上手くならないので腹立たしいが、クライスはあまり気にせず飲んでいる。此奴は豪商のボンボンであるし、舌は肥えているはずだ。マリーの茶がまずいことなど分かっているだろう。そうなると、クライスにも此方を尊重する気はあると言うわけだ。

「で、何の話?」

「はい。 用件は二つです。 一つ目は、この間のアロママテリアです」

マリーはアロママテリアを三つ作った。一つは耐久実験で粉みじんになるまで使い切った。一つは手元にある。最後の一つは、アカデミーに納品した。この間アカデミーで、イングリド先生は随分ほめてくれたから、品質はかなり良かったのだろうと、マリーは安心していた。若干の警戒を抱いたマリーに、クライスは言う。

「喜んでください。 貴方のアロママテリアは、かなりの高純度で、アカデミーも貴方に対する評価を高めています」

「そう。 それは嬉しいわ」

子供の使いではあるまいし、そんなことをわざわざ言いに来たわけではあるまい。笑顔を作りながらも、冷めた思考を進めるマリーに、クライスはなおも言った。こいつはイングリド先生のスポークスマンだ。話を聞く価値はある。それに、まだまだ明らかにマリーより強いイングリド先生と直接話すより、此奴を仲介した方が、ある程度気分的に楽でもある。

「それで、実はアロママテリアを作ってもらうことがあるかも知れません。 試験の後に正式な依頼が行く可能性がありますので、認識願います」

「あたしに? ふうん、嬉しいけど、どういう目的で?」

マリーは当然疑念を抱く。イングリド先生であれば、高品質のアロママテリアを作ることくらい造作もないはずだ。素材ももっと良いものを集められるだろう。中和剤だって、あの人の魔力を媒介にすれば更に強力なものを作れるはずだ。優秀な学生は幾らでもマイスターランクにいるだろうし、アカデミーが世に送り出したプロフェッショナルの錬金術師だってそれなりの数がいる。その中で、何故わざわざマリーに作らせる。

それを説明すると、クライスは眼鏡を外し、丁寧に拭いた。そして目を瞬かせながら、言う。

「貴方の作ったアロママテリアの品質は、さっきも言ったとおりかなりの水準に達しています。 並の錬金術師では、材料と時間を渡したところで、あれほどのものは作れませんよ。 それに、錬金術の究極的な目標は、知っていますよね」

「黄金の生産でしょ?」

即答。若干退屈を含んで、マリーは声のトーンを落とした。

書いて字のごとくである。錬金術とは、本来卑金属を貴金属に変化させる目的で発展してきた学問だ。今のところ、マリーはその副産物で生計を立てている。そして殆どの錬金術師が、マリーと同じようなやり方をとっているはずだ。

現状、錬金術の有用性は、結局の所それら副産物にあるとも言える。薬品類の製造に始まり、様々な業界に革新的な技術を持ち込み、利益を強奪してきている。宝石ギルドや茶ギルドとの確執は有名だが、それらも高度な技術が生み出した鬼子とも言える副産物だ。錬金術という言葉の意味の微妙なずれからも、主従の逆転現象が起こっていることがよく分かる。

このため、錬金術師といえば、「高度な技術を持つ人間」と世間では考えられがちだ。しかし、錬金術師の本来の最終的目標は、黄金の製造なのだ。マリーは今まで現状の意味での錬金術にしか興味がなかったが、もし高みを目指すのであれば、思考の重点を移す必要があるかも知れない。

考えてみれば、黄金の製造に成功すれば、マリーの名声はさらに上がる。そうなってくれば、学会での発表や、ドナースターク家の人間としての取引もやりやすくなってくるはずだ。実利以上に、研究して損がない事ではある。

「此処だけの話ですが、イングリド先生も、ドルニエ校長も、その点では変わりがありません。 経営上の駆け引きや政治的折衝の合間、イングリド先生は様々な研究をしていますが、その中には黄金の製造も含まれています」

「それで?」

「アロママテリアは、賢者の石の最も重要な素材になりうるといえば、分かりますか?」

目を細めてクライスを見ていたマリーは、頬杖をやめて、身を乗り出す。黄金を作り出す媒介となる賢者の石の事は、マリーにも興味がある。

「それで、あたしのアロママテリアが欲しいってこと」

「そう言うことです。 何しろ、多忙な方ですから」

賢者の石の素材にアロママテリアがなると言うのは、確かに興味深い。イングリド先生の多忙ぶりから考えて、中間素材を自前で作る余裕がないという事も分かる。だが、幾つか腑に落ちない点もあった。ただ、それは今回は飲み込んでおく。最終的には、マリー自身でも賢者の石は作りたいし、この話を飲むことは損ではない。イングリド先生が、かなり本気で賢者の石の製造に取り組んでいるという事が分かっただけでも、充分だ。マリーも興味が湧いてきた。それに、あのイングリド先生がマリーの生産物を認めて、わざわざ将来的には利用したいと考えてくれているだけでも、嬉しいではないか。

名を売り、力をつけ、大きく成長した今でも、まだまだイングリド先生は、マリーの先にそびえる壁だ。

「分かったわ。 他ならぬイングリド先生の依頼だしね」

「有難うございます。 では、もう一つの話ですが」

もったいぶってクライスはわざと言葉を句切った。此奴は商家の出身だと聞いたことがある。交渉は本来お家芸のはずだ。こういうわざとらしいが確実な手は侮れない。クライスは、戦闘能力が低い人間が生き残るスキルを、着実に身につけている存在だとも言える。今はまだ未熟でも、将来はどうなるかわからない。

「実は、賢者の石の製造に貴方も取り組んで欲しいと、イングリド先生は考えておられます」

「へ? あたしが?」

「さっきも説明しましたが、貴方が以前納品されたアロママテリアは、相当な高純度でした。 これなら、貴方にも賢者の石の研究を行う実力がそろそろ備わってきたはずだと、イングリド先生はおっしゃっていましてね。 真剣に研究をすることを考えておいてもらえないでしょうか」

「……そう、ね。 考えておくわ」

急に、その言葉を受け止めることは出来なかった。

実感が湧かないというのが、その理由だ。アロママテリアを作れとイングリド先生に言われ、次は賢者の石か。今、試験中の学生に、何故イングリド先生はそんな事をするように命じる。

そういえば、そもそもこの試験からして、最初から変だった。ここのところすっかり忘れてはいたが、ただの卒業試験にしては様々な点がおかしすぎるのだ。このアトリエの提供や、長すぎる時間。一体イングリド先生は、何を考えている。クライスは恐らく表面的なことしか知らないだろう。問いただしても無駄だし、そもそも筋が違う。

アカデミー内部で展開している全てを、マリーは知らない。教授達の名前や力関係はある程度分かるが、全部にはとても届かない。アカデミーの上層は国家的プロジェクトにも深く関わっているし、最近では大臣クラスと会合を持つことが多い。それらの内容を知る事が出来るほど、マリーには力がないのだ。

ただ、状況を分析していて、分かることもある。たとえばイングリド先生は、明らかにマリーに本来の目的以上の、何か大事なことをさせたがっている。賢者の石の作成がそれなのだろうか。いや、それならば、他に方法はあったはずだ。何かを見落としているような気がする。

適当に返事をして、クライスを帰す。賢者の石に興味が湧いてきたのは良かったのだが、同時に様々な疑念を抱えてしまった。とりあえず、言われた以上は、本気で作業に取りかかる必要がある。アカデミーのものにしろ、王立のものにしろ、図書館にしばらくは通い詰めとなるだろう。錬金術師にとっては、そもそも生涯を掛けて取り組むような研究なのだ。あまりもたもたはしていられない。

午前中をかけて、図書館で資料をかき集めてくる。三回にわたって往復して、四十冊の参考文献を借りてきた。分厚い本ばかりで、読むだけで数日が掛かりそうだ。しかも、多分これだけでは足りないだろう。一端これらの本で知識をつけてから、次の本に取りかかる必要がある。何事も、最初の一歩からだ。一歩を踏み出さないことには、何も始まりはしない。

一気に集中。読書にかかる。最初はイングリド先生が書いた高度な解説書から。この人の書く本は杓子定規なまでに適切かつ几帳面に書かれているから、最初に読むにはうってつけだ。自分の知識と、現在の学会の状況を比べていく。

流石に賢者の石の製造理論は難しい。現在の実力でも、すぐに理解するのは不可能だった。読み返しては戻り、何度もそれを繰り返し、じっくり理屈を頭に入れていく。頭に入れた後は理解する過程に移り、それから次の本に手を伸ばす。

イングリド先生の本を数冊読んだところで、今度はドルニエ校長の本に入る。当代最高と言われる錬金術師である校長の本は、若干読みにくい。相手が高い知識を持っていることを前提として書かれているからだ。天才なのだというのは、少し読めばすぐに分かる。だが、天才の書く本が、理解しやすいわけではない。

数日掛けて二人の本を読みながら、そのほかの参考書に目を通して、いよいよ最後にヘルミーナ先生の本にはいる。

この人こそ、才能面では、現在アカデミーが誇る錬金術師の中でもトップであろう。しかし、著書の読みにくさもトップクラスである。自分の好き勝手に文字を書くため、助手達が苦労しながら翻訳しなければならないのだ。良く手紙をやりとりしているマリーはよく分かる。しかし、この人の頭脳の混沌の中には、希望のダイヤモンドがごまんと埋もれているのだ。

時々仮眠を取りながら、一気に本を読み進める。頭が飽和状態になると、外に出て、森の中を疾走した。己を極限までとぎすまし、一つの戦闘兵器となって駆け回ることで、頭はぐっとすっきりする。その過程で見つけた動物を何匹かひねり殺して、次の日の食事にする。無駄に殺すのではなく、きちんと食べることで活かすのだ。首をへし折った狼をすぐに森の中で捌いて、肉を燻製にして、持ち帰る。そして本を読みながら、頭脳を活性化させるべく、その肉を囓る。

最初の本の山を読み終えるまで、一週間ほど。すぐに次を持ち込み、一気に頭に入れていく。面白いと言うよりも、先を知りたい。そのためには、必要な行為だった。

しばらくは読書ばかりになるなと、マリーは思った。気がつくと深夜になっていた。ランプの明かりを調整し直すと、頬を叩いて、次の本に取りかかる。

まだまだ、得なければならない知識は、山とあった。賢者の石は遠い。

 

2,淫売と呼ばれた娘

 

マリーが賢者の石の研究をしてアトリエに籠もっていても、外側から様々な圧力はある。名が売れてきた今ではなおさらだ。薬を直接頼みに来る者もいるし、冒険者や騎士団の知り合いが訪ねてくる事もある。特にフラン・プファイルを仕留めてからは、中堅の冒険者が戦術について聞きに来ることが増え始めていた。

今日も何かあるかも知れないとマリーが思っていると、予感は的中した。夕方少し前に、アデリーが修練から帰ってきた。髪が少し焦げていた。こう言う時、何故怪我をしたのか問いただし、相手先に怒鳴り込むようでは親失格だ。むしろ名誉の負傷をほめてあげなければならない。

「マスター。 ただいま帰りました」

「お帰り。 今日大変だった?」

「いえ。 騎士団の若い人たちと、共同で訓練でしたので、それほどでも」

アデリーは見たところ、まだ体力的に余裕がある。視線の動きもしっかりしているし、筋肉の緊張状態も適当だ。キルエリッヒが甘いということは無いだろうから、単純に体力が増してきているのだ。

「その髪は?」

「あ、キルエリッヒさんが放った炎を避け損ねました。 未熟な私が悪いんです」

「ん、そうやって未熟を知ることが強さにつながるからね。 今日はよく頑張ったね」

笑顔を浮かべると、アデリーは少し憂いを湛えた笑みを浮かべた。

キルエリッヒはかなりまじめにアデリーを鍛えてくれているので、好感が持てる。元々とてもまじめな人なのだろう。マリーが嬉しいのは、アデリーの周囲に人材が揃っていることだ。同年代の友達はあまりいないようだが、大人に囲まれて育てば、早く成長する。しかも、アデリーは周囲に愛される天性のものに恵まれている。

アデリーは最近若い騎士や騎士見習いにまじって訓練をしている。見に行かなくても、ミューやクーゲルが教えてくれるので、状況は手に取るように分かる。アデリーはまじめなため飲み込みが早く、しかも周囲から愛されているという。そのほかにも、思わぬところで、アデリーは人脈を築いているかも知れない。実に良いことだ。

騎士団の若手は、将来的にこの国を担う人材になる。そうなれば、アデリーの仕事も様々につぶしがきく。マリーは積極的にそれを後押ししており、クーゲルもキルエリッヒも二つ返事で意思を汲んで、アデリーを厳しく鍛えてくれている。マリーがわざわざ手を出すことは、これ以上何もない。

「マスター、あの。 お願いがあります」

「ん? 何? 虎の肉が食べたい?」

「え? ち、違います。 実は、最近懇意にさせていただいている女の子がいます。 ミルカッセというんですが、彼女のお父さんが難病にかかってしまって」

「お医者さんはなんて言っているの?」

まずはそこからだ。マリーの仕事は薬剤調合であって診療ではない。見立てはプロに任せ、マリーはその依頼を受けて薬を作る。もちろん評判を築くためには、ある程度の無理を聞く必要性もある。だが、最初から出来ないことや、他に適任がいる場合は断るのがプロの基本だ。自分を万能だと考えているような人間は、かならずどこかで躓く。

「それが、重い内臓の病だと言うことで。 …もうもたないそうです」

マリーは無言で、続きを言うように促した。以前、マリーはエリキシル剤を作り、シアを救ったことがある。だがあれは、全財産を投入し、あらゆる事をそちらに優先し、その上で様々な条件が整ったから、事を成すことが出来た。いつでも同じ事が出来るわけではない。病状次第でも、結果は変わってくる。

当然、アデリーもそれは知っている。その上この子は、マリーに対して大きな引け目を感じている。それがわざわざ頼むと言うことは、相当な事情があると見ていい。案の定、アデリーは少しうつむくと、長い話を始めた。

 

ミルカッセとアデリーが出会ったのは、ザールブルグの東部にあるフローベル教会の前での事であった。

アデリーはマリーと一緒に出かけている時や、特別な事情がある場合を除き、早朝の走り込みを欠かしたことがない。様々な理由で街の中を歩き回りもするので、ある程度の地理も理解している。己を鍛えるためにどういうコースで走るのが丁度良いのか、知識から導き出し、常に試行錯誤している。

フローベル教会の前を通るようになったのは、三ヶ月ほど前から。アトリエを出てからフローベル教会の前を通ると、長い上り坂を二つ抜けることになり、鍛錬としては実に良い事に気付いてからだ。そしてそのコースで走り始めてからすぐに、朝同じ時間に、ある娘と顔を必ず合わせるようになった。

その娘は、鴉の羽のように黒い髪と瞳を持っていた。肌は若干黄味が掛かっていて、この国の人間とは少し人種が違うようだった。顔立ちは整っていて、特に大きな目がとても愛らしい。年はアデリーと同じ程度。いつも清潔そうな白い服を身につけて、肌を殆ど大気に露出させず、丁寧な物腰で動いていた。

アデリーが走り抜けるだけなのに対し、その娘はいつも教会の前を掃除をしていた。最初はサスマタの穂先を直上に立てて走るアデリーに、向こうがぺこりと挨拶をしてくるだけだった。アデリーもそれに合わせて頭を下げていたが、やがて向こうが声を掛けてきた。

「おはようございます」

「おはようございます」

挨拶してきた相手に、アデリーが返事をする。それが二人のなれそめのはじめであった。足を止めたアデリーに、娘は言った。

「いつも精が出ますね。 騎士団の方ですか? それとも、冒険者か屯田兵?」

「いえ。 どれも違います」

「そうですか。 私は、ミルカッセ=フローベルといいます。 この教会で、父の手伝いをしています」

「アデリーです。 マスターのお手伝いをさせていただいています」

喋ってみると、随分おっとりした娘であった。最初会った時はそれだけ話して離れたが、翌日からも少しずつ話すようになっていった。アデリーは、ミルカッセの浮かべる幸せそうな笑顔と、此方のことを尊重してくれる態度が好きだった。そして数日後に、ミルカッセがいない日があって、驚いた。いつのまにか、朝、彼女と話すことを、とても楽しみにしていたのだ。結局自分が同世代の友達に飢えていたのかも知れないと気付いて、アデリーは憮然としてしまった。騎士団見習いの若手との合同訓練中にそう気付いたので、隣にいたニニアさんに心配させてしまったほどだ。翌日、ミルカッセがいるのを見て、ほっとしてしまった。風邪を引いていたのだと聞いて、心底安心さえした。

人なつっこいミルカッセは、アデリーのことを何でも知りたがった。どう見ても戦いを知らない彼女は、そもそも日常的に鍛錬すること自体が珍しくて仕方がない様子だった。腕力も貧弱で、サスマタを持ち上げることさえ出来なかった。ただ、定時に様々な行動をすることには慣れているらしく、朝は必ず同じ時間に、掃除をしていた。掃除のやり方はとても丁寧で、アデリーも見習うところが多かった。

話してみて知ったが、アデリーとミルカッセは(恐らくではあるが)同じ年であった。同じ年と言っても、異性のダグラスとは随分接しやすさが違った。そのうち、朝以外にも会うようになり始め、交友は日を追うごとに深まっていった。マスターには聞かれなかったので話さなかった。最初は互いにさんをつけて呼んでいたのだが、すぐに呼び捨てにすることで同意した。そうすることで、さらに友達としての仲が深まった気がした。

最初は分からなかったのだが、会ってから二週間ほどすると、色々と妙なことがあるのに気付いた。たとえば、掃除をしているミルカッセに、周囲の人たちは目を合わせない。アデリーにはいつも良くしてくれるおばさん達が、ミルカッセに挨拶されても無視して通り過ぎていく事が珍しくない。アデリーが一緒に挨拶した時は、いつものような笑顔で返事をしてくれるのに、その時もミルカッセには視線を向けない。

更に不思議な事もあった。ミルカッセの両親を、一度も見たことがなかったのだ。こういう宗教施設は、もともとアデリーにはトラウマの元だ。だいぶ精神的な落ち着きを手に入れた現在では、見るだけで嫌だと言うことはないが、それでも積極的に近寄りたいとは思わない。だからミルカッセ以外の人間が見あたらないことに不信感を覚えたことはなかったのだが、それも状況がすぐに変わった。

ミルカッセと最初に出会ってから、一月と少しした頃。修練の帰り際に、いつもお世話になっている、野菜を露天で売っているおばさんに呼び止められたのだ。路地裏に一緒に入ると、おばさんは周囲を気にしながら、声を潜めた。髪が焦げていることに、おばさんは気付かなかった。

「アデリーちゃん、あのフローベル教会の娘と、仲良くするのはおやめ」

「どうしてですか? 気だての良い優しい子ですよ」

「それはただの演技なのよ。 あの子はね」

悪意をアデリーは感じた。いつも優しいおばさんが、本気であのミルカッセを憎んでいる。悪意の根源となっているのは、おそらく敵意と、それ以上の嫉妬だ。おばさんをこれほどまでに憎ませる事を、あのミルカッセが行ったというのか。それは何かの誤解ではないのだろうか。

「あの子はね、淫売なのよ」

「淫売、ですか?」

「そうなのよ」

おばさんは言う。

何でも、ミルカッセの両親は、今のフローベル教会の持ち主ではないのだそうだ。というよりも、そもそもミルカッセは教会の前に捨てられていた子供なのだという。しかし、それが誰の子なのかは、周知の事実なのだそうだ。

戦争がまだ行われていた頃。総力戦体制にあるザールブルグは、全体的にぴりぴりしていた。強力なドムハイト軍との戦いで死者が多く出て、毎日のように町中で訃報があったという。屯田兵の墓が毎日増えていき、その殆どには死骸が入っていなかった。多くの騎士も命を落とし、街の若者達も男女問わず多くが義勇兵として出征していったのだそうだ。彼らの多くが、死闘の中亡くなっていった。大事な者達を守るために。

騎士達に話を聞いたことのある、悲惨な戦争の話。それとは違う方向からの視点による、悪夢の時代。おばさんは悲しそうにその歴史を語ると、声に悪意を含ませる。

「誰もが苦労していて、街に残った人たちがみんな悲しんでいた時代。 あの女は、出征した恋人を待つ男や、娘を亡くして悲しむ父親の心の隙につけ込んで、毎晩のように違う相手と腰を振っていたのさ」

病気だと、おばさんは吐き捨てた。異常なその浮気癖は抑制が利かず、男と見れば片っ端から声を掛けて、心の隙につけ込んで好きなようにしていたのだという。

悪意は目を曇らせる。戦時中で、皆がぴりぴりしていたという事情もあるだろう。それがどこまで本当なのかは分からないが、何か大きな事があったのは間違いない。

おばさんの話は続いた。そのうち戦争が終わると、街に活気が戻り始めた。そして「あの女」は、徐々に居場所が無くなっていったのだと言う。もう若くは無かったと言うこともあるのだろう。やがて、何処の相手とも知れぬ男の子供をはらんでいたその女は、にっちもさっちもいかなくなった。闇医者のところで子供を産んだその女は、夜闇に紛れて教会の前に行き。恥を知らない事に、赤子を捨てたのだそうだ。

「それがミルカッセ、なんですか?」

「そうなんだよ。 あの女が無責任に子供を教会に捨てていくところを、見た人が何人もいるんだ。 それきり女は失踪して、帰ってきてもいないよ。 どうせ今頃金持ちの愛人でも作って、よろしくやっているんだろうさ」

「でも、その人が本当に悪い人だったとして、ミルカッセまでもがそうだとは」

「それがね、まだ話は続くんだ」

アデリーを諭すように、おばさんは言う。あふれ出てくる悪意。何だか悲しかった。いつも優しいおばさんの心の奥底に、こんなに激しい悪意の炎がともっているのが分かってしまったのだから。マスターのことで既に分かっているつもりだった。いつも自分に対してはとても優しいマスターが、心の中にあのような凶暴な獣を飼っているのは、特別なことではないのだと。知っているつもりだったのに、他の人もそうなのだという実例を見ると、心は軋んでしまう。

「あの娘が小さい頃は、それは周囲もみんな優しくしていたもんさ。 アルテナ教会のフローベル司祭はいい人だし、あの人の手を煩わせているような事もなかったからね。 だけど、あの子が七歳の時だ」

一緒に遊んでいた男の子二人が、ミルカッセを取り合って喧嘩になり、片方が腕をへし折られるという事態が起こったのだそうだ。

「それだけなら、良くあることさ。 子供の喧嘩で、本気で腹を立てるほど、誰も偏狭じゃない。 だがね、それだけじゃあ終わらなかった」

ミルカッセの友達になる子供は、誰も彼もが片っ端から不幸になったのだという。特にミルカッセを取り合って喧嘩をして、大けがをする子供が耐えなかった。やがて、噂が立つようになった。あの娘は、淫売の血を強く受け継いでいるのだと。やがて、誰もミルカッセに近寄らないようになった。

「そうしたら、今度はフローベル司祭が、あんな事になってしまって」

「あんな事、とは」

「倒れて、明日をも知れない様態なんだってさ。 医療の神様の司祭がだよ? あんなにお優しい司祭がだよ? おかしいとは思わないかい? きっと淫売が悪魔と契約するか何かして、司祭の神の加護を消し去ってしまったのさ」

さも恐ろしそうにおばさんが言う。悪魔の実物を見たことがあるアデリーは、その言葉を素直に受け入れることが出来なかった。適当に話を切り上げると、アデリーは小走りで、アルテナ教会に向かった。

今の話は偏見まみれであったが、その幾つかは本当のはずだ。特に彼女の育ての親であるフローベル司祭が難病だというのは事実だろう。それも明日をも知れない容態だとは。そんな状態なのに、笑顔を絶やさずいたミルカッセ。考えられる可能性は二つ。本当に何か悪事をフローベル司祭にして、成就して喜んでいるか。それとも、悲しみを必死に押し殺して、笑顔を作っているのか。

全ては、その病気の司祭に会ってからだ。ミルカッセは最初名乗ったように、司祭の養子となっている可能性が極めて高い。あの優しい娘に、一体何があったのだろうか。

悪人は産まれた時から性質が決まっているなどと言う俗説を、アデリーは信じたくない。ミルカッセが悪人だなどと、考えたくない。決めつけてしまってはおしまいだ。クーゲルさんにも言われたではないか。憶測で物事を決めつけるなと。それはとても危険なことであり、いつも柔軟に事実を理解する者が、生き残ることが出来るのだと。あの人の言うことを全て受け入れる気にはとてもなれないが、これは納得できる。

必死に走って、フローベル教会に。苦手などと言っていられない。いつも丁寧に掃除されている教会の庭を走り、粗末な礼拝堂へ。ミルカッセはいない。奧へ回ると、礼拝堂よりももっと小さな家がある。入るのは初めてだ。気配は二つ。家の中に、ミルカッセと、もう一人居る。

ドアを叩く。返ってくるのはミルカッセの声だ。

「どなたですか?」

「私です。 アデリーです」

戸が開くと、短く切りそろえた髪のミルカッセが、顔を出す。綺麗な髪だ。黒くて、良く夕日の光を反射する艶がある。ただし、顔には疲労の色があった。考えてみれば、いつも疲労を少し残していた気がする。どうして、今まで気付くことが出来なかったと、アデリーは自分を責めた。

「アデリー、どうしました? 珍しいですね、この時間に寄ってくれるのは」

「話があります」

アデリーの表情を見て、ミルカッセはすぐに緊迫した状況を悟ったようだった。司祭の病気の話をすると、さっと青ざめる。母の話をすると、うつむいて唇をかみしめる。

「ミルカッセ、私は」

「帰ってください」

ドアを閉めようとするミルカッセだが、アデリーは眉一つ動かさず、ドアを片手で固定した。力の差は最初から明らかだ。アデリーが軽く押さえているだけで、ミルカッセはもう戸を閉めることは出来ない。サスマタを持って毎日走り回っている上、この国の精鋭騎士に鍛えられているアデリーと、日常生活しかしていないミルカッセでは筋肉の質が違いすぎるのだ。戸を閉められないと分かったミルカッセは、壮絶な表情でアデリーを睨んだ。分かる。これは、絶望だ。鏡で見たことがあるから、知っている。マスターと出会う前の、全てを信じられなかった自分と同じ。

「帰って、帰って!」

ミルカッセは涙をこぼしながら、玄関にへたり込んでしまった。話を聞いてみなければ分からない。この子が信じていたとおりの存在なのか、それとも「淫売」なのか。だからアデリーは、強引だと思いながらも、必死に食い下がった。

「私のマスターは、錬金術師です。 ひょっとしたら、司祭様の病を治せるかも知れません」

「……」

「それに、私は、ミルカッセを信じたい。 おばさん達の間で広がっているお話は、あくまで不幸な事実からの憶測でしかありません。 だから、中に入れてください。 そして、話を聞かせてください」

ミルカッセは顔を上げた。涙に濡れている。痛々しくて、アデリーは心が軋む音を聞いた。

「私の噂を聞いた後でも、本気でそういう事を言えるんですか?」

「言えます」

即答したアデリーに、ミルカッセはしばしためらった後、家に入れてくれた。

歩きながら乱暴に涙を擦るミルカッセは、いつもとは別人に見えた。行動にことごとく余裕が無い。焦りと、悲しみと、疲労に全身が包まれている。やはり、本当の姿は見せてくれていなかったのだ。

アデリーはこのとき、やっと分かった。どうしてこの子とすんなり仲良くなることが出来たのか。

自分と、同類だからだ。

狭い家だが、一応は二階建てであった。一階にキッチンと居間があり、粗末な毛布が隅に置かれている。二階は饐えた臭いが籠もっていて、眉をひそめた。その意味は、入ってみて分かった。狭い階段を上る過程で、何か変な音が聞こえ始めていた。二階の戸をミルカッセが開けた時に、その正体が分かった。

ベッドに寝かされている人が、うなり続けている。それは呪詛。強い呪いの言葉。仮にも人を救うはずの聖職者が、強烈な闇を、辺りに発していた。

「感染性の病気ではありません。 お医者様の話では、内臓の病なのだそうです」

酷い状況だった。シアさんが火山の噴火で大けがをした時も、酷い様子だったとマスターに聞いた。だがこれは、それ以上なのだろうなと、アデリーは思った。確実な死が、すぐ側に迫っている顔だった。

ベッドに寝かされているのは、生きているのが不思議なような老人である。顔は完全に土気色。髪は一本残らず抜け落ち、頭部は洞窟でマスターが取ってくるキノコのように白い。目は落ちくぼんで、頭蓋骨の形状が露骨に分かるほどだった。のど仏が上下しながら、ひゅう、ひゅうと息を吐き出し続けている。濁った眼球には憎悪が宿り、口から漏れているのは、意味を成さないうなり声だった。歯も、殆ど残っていなかった。口の中では、紫色に染まった舌が、前後に揺れている。

床は綺麗にされていた。布団もだ。患者の体も、比較的清潔である。ミルカッセの血を吐くような苦労が伺われる。

「毎日、憎悪と呪いの言葉をはき続けています。 痛くて辛くて、仕方がないのだそうです。 あんなに優しい司祭様だったのに、今では体を拭く時も暴れます。 私の体に触ろうともします」

ミルカッセは両手で顔を覆った。アデリーにはかける言葉が見つからなかった。分かる。これは、恐らくどうにもならない。神様でも連れてこない限り、助けることは出来ないだろう。

「お、お前が、お前が、来て、きてから」

司祭が唸る。口から呪詛が漏れて、ミルカッセの全身に絡みつく。アデリーは止めることも出来ず、唖然とするしかなかった。

「あ、あんな淫売の、娘、引き取るのでは、無かった。 恩を仇で、あ、仇でかえす、かえすしか、でき、できでき、ない、ばけもの、め! いん、ば、い、め! う、ぐがぎいいっ! ひいいいいいいいっ!」

苦痛からだろう。司祭は喉を絞り上げるように絶叫した。ベッドの上で、枯木のように衰えた肉体がもがく。

この司祭は、恐らく高潔な人物だったはずだ。表で善人を装い、裏で悪事を働くような連中は、どうしても底の浅さがある。騎士団の重厚な猛者達を見てきたアデリーは、見ればその人物の底が大体分かる。この司祭が取り憑かれているのは、痛みと絶望から来る狂気だ。骨が浮いた手が、辺りをまさぐる。老人の口から卑猥な言葉が漏れ、アデリーは目を背けた。見るに堪えない。あまりにも、哀れすぎる。

ミルカッセがアデリーと仲良くしようとした訳が、これで良く理解できた。もう限界だったのだろう。外に出て行けばいじめを受けることが目に見えているのに、それでも誰かと話さなければいられないほどに、人恋しかったのだ。多分、声を掛けたのはアデリーだけではなかったはずだ。たまたま、事情を知らないアデリーだけが、友達になったという事が、真相だったのだ。

老人が排便したらしく、異臭が更に強くなった。これは、人がどうにか出来る環境ではない。老人はうめき、叫きながら、呪いの言葉をはき続けていた。部屋に充満しているのは、目前の死と、それ以上の狂気だった。

ミルカッセの手を引いて、アデリーは部屋を出た。そして、泣いている彼女をなだめながら、背中をさすった。

「施寮院には、もう行きましたか?」

「駄目なんです。 アルテナ神は医療を司る存在です。 その神の加護を受けた人間が、このような難病に冒されたなどと、知られるわけにはいかないんです。 もともと、この国の信仰はそれほど篤いものではありません。 だから、脆弱な基盤は、ちょっとしたことで壊れてしまうんです。 それでも、司祭様が眠っているうちに、お医者様に見てはもらいました」

そう言って、ミルカッセはカルテを出してきた。難しい単語が並んでいて、全部理解することは出来なかった。マスターなら分かるかも知れない。

「助けると、約束は出来ません。 でも、私のマスターは、腕の良い錬金術師です。 方法が、見つかるかも知れません」

「……」

「待っていてください。 すぐに、マスターを呼んで来ます」

アデリーは粗末な家を飛び出すと、全力で走る。マスターがいるはずの、アトリエへ。思考が巡る。

ひょっとしたら、どうにかなるかも知れない。いや、どうにもなるわけがない。マスターは利益優先で動く人だ。助けられない場合は、はっきりそう言うに決まっている。ミルカッセを更に傷つけるかも知れない。だが、やるしかない。

分かる。あの子は、言われているような鬼子ではない。繊細で心優しい、穏やかな娘だ。アデリーの事を利用しようとして近づいてきたとか、周囲の男を手玉にとって食い物にしようとか、そんなことは考えていない。ただ、自分の状況に苦しんでいるだけだ。散々いじめられて、それでも唯一の救いを求めてアデリーに声を掛けてきたのだ。あの、家に入ろうとした時の絶望が、全てを物語っている。

できるのなら、助けるべきだ。それが出来るのはマスターしかいない。だから、アデリーは走る。

マスターには、返しきれない恩を受けてきた。また、恩を上乗せしてしまうことになる。そして、マスターが薬を作る時には。きっと多くの命が犠牲になる。生きると言うことの、負の側面を、アデリーは見続けてきた。あれほどの枯れ果てた命を救うには、どれほどの犠牲が出るのか、想像も出来ない。

走りながら、悩みを振り払う。アトリエが見えてきた。呼吸を整える。

マスターに、話さなければならない。全てを、最初から、なにもかも。嘘をついても、確実に見抜かれる。

アデリーは必死に精神を落ち着かせながら、ドアに手を掛けた。

 

アデリーの話を聞き終えると、マリーは腰を上げた。まだ賢者の石の研究は六割程度と言うところだが、技術的には大体のことが分かってきている。つまり、一段落はしているのだ。現状であれば、思考も働くし、他にある程度の力を裂くことが出来る。

素早く薬の在庫を確認する。以前エルフィン洞窟から取ってきたエルフィンケイブホワイトガーデンハーブを用いた何種かの薬は、まだ少し在庫があった。苦労して持ち帰っただけあり、高く売れる薬だが、念のために何個か用意してある。後は実際に状況を見てからだが。

竈に向かうと、何種類かの薬を入れる。想定される病状から、必要とされるものばかりだ。腰を上げると、アデリーはもう表情を切り替えて、いつでも出られるように準備をしていた。

「アデリー」

「施寮院ですか?」

「お、よく分かったね。 カルテは見てきたね」

「はい。 先生の名前も覚えています」

アデリーが言った医師の名前は、マリーも知っていた。時々薬の発注をしてくる人物で、何度か顔も会わせた。偏屈な老人だが、腕は確かだ。

「早速だけど、先生呼んできて。 もちろんこっそり裏口から入ってもらうように。 あたしは先にフローベル教会に行っているからね」

「分かりました」

「それと、分かってると思うけど。 助けられる可能性は、高くないわよ」

それでも構わないと、アデリーは言った。このままだと、司祭だけではなく、ミルカッセの状況が危険だとも。こういう冷静な考えが出来るようになってきたので、マリーは嬉しい。現実問題として、何でも捨てないようにと考えていると、誰も助けられなくなるのだ。

すぐにアトリエを出る。こう言うのはスピード勝負だ。

元々この国では、アルテナ教会をはじめとして、宗教的な権力はさほど強くない。各地で素朴な土着信仰は脈々と息づいているが、生け贄は禁止されているし、公権力への介入もまたしかり。アルテナ教会はそういった土着勢力の支援さえない組織である。一部の村では顔役になっている関係者もいるようだが、それは例外だ。

そういうアルテナ教会でも、底力を侮ってはいけない。出来るだけ彼らのメンツを潰さないように、全力で恩を売るのが大事だ。

フローベル教会なら、場所を熟知している。すぐにたどり着く。確かに、礼拝堂の裏手にある小さな住居からは、濃厚な死と狂気の臭いが漂い来ていた。アデリーにはまだ察知できないだろうが、これはもう後数日ともたないだろう。こんな状態になるまで放っておいたと言うよりも、多分医師でもどうにも出来ないタイプの病ではないのか。

内臓のもっとも厄介な病気として、「塊」とだけ呼んでいるものがある。内臓に妙な塊が出来て、それが体の機能を奪っていくというものだ。しかもこの塊、取り除いてもいつのまにか別の内臓に取り憑いていたりもする。これを転移といい、今の医学ではプロセスが解明されていない。魔力は感じないので、呪術的なものではないとは分かっているのだが、それだけだ。

体を切り開いて内臓を弄るような治療は回復系の術者が関わらなければならない上に、非常に成功例が少ない。しかもこの塊は、それでも助からないという、とんでもなく厄介な病気だ。マリーも知っているくらいだから、多分医師なら誰でも知っているだろう。施寮院の優秀なスタッフが、それに気付かないはずがない。発症率はかなり低いのだが、今は不運を嘆いている暇がない。

ドアをノック。泣きはらした目の、小柄な女の子が出てきた。確かにアデリーと年は同じくらいだ。

冷静に観察する。一見おとなしそうだが、世間に対する強い不信感を持っている娘だ。髪も顔立ちも綺麗だが、目の奧にはどうしようもない世間への敵意と憎悪と悲しみが宿っている。アデリーの言葉通り、相当に追い詰められているのだろう。大変な時代、自分の欲望に任せて好き勝手なことをしていた人間に対する悪意。それが今頃になって、この娘を襲っている。かなり強い潜在魔力の持ち主であり、ひょっとすると周囲で起こっていた事は、それに何か関係しているかも知れない。

「どなた、ですか?」

「アデリーのかあさんです」

さらりと言うと、ミルカッセとアデリーが呼んでいた少女は、視線をついと背けた。恐らく年上の女性にトラウマを持っているのだろう。少女の目からは、敵意と言うよりも、恐怖を感じた。

住居の中にはいる。二回からは、呻き声がずっと響き続けていた。カルテを見せてもらう。やはり、予想通りの事態だった。塊だ。しかも、転移箇所が凄まじい。主要臓器はもう、あらかた使い物にならない。

これは、多分数日しかもたないだろう。治療などと言うのは論外だ。マリーに出来ることがあるとすれば。

念のため、まず患者を確認する。思ったより環境は良い。うめき続けている枯れ果てた老司祭の魔力の流れを見て、大体カルテの記述が合っていることを確認。気付くと、司祭が此方を見ていた。助けを求めるような目だった。マリーはよそ行き用の笑顔を浮かべると、出来るだけ柔らかく言う。

「正気に戻りたいですか?」

一瞬だけ、司祭が停止する。答えは、喉の奥から漏れる空気音だった。もう手には力が入らないらしく、ベッドを掴んでいても、それはとても弱々しい。

一階に下りる。アデリーが来たのは、直後だった。全速力だったのだろう。無理を言って、施療院のゼークト先生を連れてきてくれていた。山羊のように長い髭を蓄えた先生は、マリーを見て、神経質そうに目を細める。長身痩躯のこの老医師は、決してマリーと仲が良くない。だが、今日はいがみ合っている場合ではない。ミルカッセに聞こえないように、外に出る。

「やはりあんたか。 カルテと患者はもう見たか?」

「見ました。 塊、ですね」

「そうじゃ。 儂が見た時には、もう手遅れであったわ。 もっとも、塊は初期であればどうにか出来る可能性がある、という程度で、しかもそれを発見できる可能性も極めて低い。 司祭殿の運が悪かっただけ、だな。 しかも儂が診る前に、素人が投薬したせいで、さらに状況が悪化しておるわ。 腹立たしい」

それに関しては全面的に同意だ。

仮に、今エリキシル剤の持ち合わせがあったとしても、あの司祭殿を救うことは出来ないだろう。内臓機能を強化すると言うことは、それに取り憑いている塊もまた元気になるということだ。

ゼークト先生は、マリーを技術者としては認めていない。錬金術もだ。ただし、マリーが錬金術で作る薬は認めてくれている。不愉快な偏屈老人だが、医師としては、マリーも認めている。妙な認知関係である。ただ、ある程度熟練した職人同士の関係というのは、こういう不思議な形状になることが多い。

「で、錬金術でどうにか出来るのかね」

「残念ながら、あたしの知る限り、錬金術でも命を救うことは出来ません。 出来るのは、正気に戻すこと、くらいですね」

「ほう? それは興味深い」

白衣の内ポケットにしまっていた紙を取り出すと、ゼークトはメモの準備をする。マリーの説明を受けて頷いていた老人は、やがて小さく唸った。

「なるほど、出来るかも知れぬな」

「あの司祭殿が、ミルカッセちゃんが信じるような聖人だったとしたら、確実に成功するでしょう」

「どのみち、あと数日しか保たない状況。 それならば、というわけか」

「判断は、二人に任せることにします」

あまり倫理的にほめられた行動ではないと、マリー自身も分かっている。だから、強制はしない。

「よし、医師としてはグレーゾーンだが、今のまま逝って皆不幸になるよりはマシだとみたぞ。 何日でいける?」

「調合だけなら、二日もあれば。 材料は良い品質のものが揃っています。 しかもおあつらえ向きなことに、最高品質材料の一つが、明日手に入りますから」

「分かった。 儂も泊まり込みで、司祭殿を一週間保たせて見せよう。 ミルカッセちゃんの負担も、その間は儂が肩代わりする」

「お願いします」

この薬を投与して、司祭が元に戻るとしても。恐らく平常を過ごすことが出来るのは、数日だけだろう。延命だけを考えた治療薬なら、後一月くらいは保たせることが出来る自信はある。だがその時は、ミルカッセもボロボロになってしまうだろう。今ですら、かなり精神的な限界に近い状態なのだ。

家に入る。看護疲労で限界だったらしいミルカッセはずっと泣いていて、アデリーが背中をさすってなだめ続けていた。アデリーをさがらせると、ミルカッセの手を引いて外に出る。そして、説明した。蒼白になっていたミルカッセは、何も応えられないようだった。

「いい? たとえ何をやっても、医療の神アルテナ様が此処にいたとしても、絶対に司祭様の命は助けられないわ。 でも、司祭様を、昔の優しい人に、数日間戻してあげることはできる」

「……」

「司祭様が、好き?」

ミルカッセはしばしためらったが、それでも頷いた。目の奧に光る闇。そして、マリーは理解した。この娘、司祭を親以上に慕っていたのだと。それは、非常に歪んだ形の愛情。だが、己の中で揉み潰すことが出来る。マリーのように、条件次第では制御が利かなくなる存在とは別物のはずだ。

多分、淫売と罵られて傷ついていたのも、それが理由だろう。自分の中でうごめいている醜悪な性欲に気付いていたから、悪口を回避しきれなかったのだ。この年頃の娘は、それが誰にでもあることなのだと、気付かない事が多い。

愛情のプロセスは、マリーにはよく分からない。母性愛については、アデリーに対するもので体感的なレベルに限定すれば分かる気はする。だがこういった歪んだ親子愛については経験がないから、何とも言えない。ただ、想像することは出来る。このミルカッセの場合は、自分が養子だと言うことも、その愛情の醸成に一役買ってしまったのだろうか。そうだとすると、気の毒な娘である。

「なら、それでいい?」

「はい」

「そう。 今まで、よく頑張ったね。 しばらく休んでいて良いわ」

アデリーを呼ぶ。同時に、ミルカッセは腰が抜けてしまい、意識も手放してしまった。後は司祭だ。ゼークトと二人で二階に上がる。呻いている死を目前とした老人の耳元に、アデリーはささやく。さっきと同じ質問を。

また、司祭は一瞬だけ静止した。その目から、涙がこぼれ落ちる。マリーは、ゼークトと頷きあった。

「決まり、ですね」

「そうだな」

「アデリーは貸します。 医療スタッフとして、こき使ってやってください」

「すまぬな。 状況から言って、看護士を連れてくるわけにはいかなかったからな。 助かるぞ」

これで、それぞれの役割分担は決まった。マリーは持ってきた医薬品の内一つ二つをゼークトに渡し、すぐに外に出て、アトリエに走る。

今回はそれほど予算をつぎ込まなくても出来る仕事だ。調合自体もそれほど難しくはない。問題は手が足りないことである。

今回の素材で、一つだけある事が望ましいものがある。この時期、シグザール王国は毎年必ず日食になるのだが、その際に採取できる花があるのだ。どういう仕組みになっているのかはよく分からないが、いつのまにか生えてきていて、日食が終わると落ちてしまう不思議な花。名をドンケルハイトと言う。途轍もない凝縮魔力を含んでいる花であるが、食用には適さない。此処までは以前から知っていた。日食の花と言えば、田舎の人間なら誰でも知っている。

しかしながら、マリーでも最近まで知らなかったこともある。このドンケルハイト、中和剤として最適の素材の一つなのだという。しかもドライフラワーにしても性質が変わらない。今年の冬それらの事情を知ったのだが、思わず天を仰いだことを良く覚えている。もっと早くに知っていれば、幾らでも使い道があったからだ。

今回の調合の肝はスピードだが、マリー自身が取りに行っていては、致命的な時間ロスにつながる。二日で調合まで終わらせ、この薬を投与する。その場合、司祭の残り時間は半分以下になると見ていい。一流の医師がつきっきりで治療していて、残り七日の命だ。元に戻った司祭とミルカッセは、一緒の時間を過ごしたいだろう。それが親子としてなのか、それとも恋人同士としてか、敬愛する師と弟子であるのか、今はどうでもいい。どちらにしても、元に戻るのは、ベストの条件を満たして、せいぜい数日だ。その後、司祭は死ぬ。安らかに逝けるかは、マリーには分からない。二人次第だろう。

だが、これは無駄な仕事にはならない。料金的な面でも、アルテナ教会からある程度はふんだくれる見込みがある。もちろんふっかけることはない。恩を売るためにも、ぎりぎりの採算が取れる仕事をするつもりだ。今回はあくまで恩を売るための仕事なのである。権力はなくとも広く根を張っているアルテナ教会は、マリーにとっては、ドナースターク家にとっても、良い情報源になる。確固たる恩を売ることで、それは更に盤石となるだろう。

アトリエにつく直前。良い案が思いついた。すぐにアトリエに駆け込むと、素材を地下から持ち出す。出かけるタイミングは、調合が一段落してからで構わないだろう。

竈に火を入れて、調整する。湿気が多いので、薪の火力が上がるまで、すこしばかり時間が掛かる。秒刻みでスケジュールをこなさなければならない緊張感が、今は逆に心地よかった。

 

3,日食の闇の中で

 

竜軍が消滅してから、混迷を極めているドムハイトの内部情勢に、好転する気配はない。確実に滅びが蝕み来る中、武骨な作りのドムハイト王宮は、静かな時が流れていた。信じがたい話だが、表面上は政治的なよその世界のことのように静かであった。

アルマン王女は執務室で羽根ペンを忙しく動かし、様々な陳情書を処理していた。王がまともに仕事をしないので、政務の一部代行を申し出たのだ。遊びたくて仕方がない王は、快く了承してくれた。それ以降、彼女の負担は大きくなる一方だった。今まで仕事をしていた王は、貴族達が持ってきた書類に考え無しに印を押していたのだ。

甲高い笑い声が響いたので、窓から外を見てみると、アルマンの兄が侍女達をつれて、ゆさゆさと音を立てながら歩いていた。二歳しか違わない兄なのだが、樽のように太った体は脂肪の塊で、言うまでもなくたるみきっている。これから遊びに行くところだ。嘆息すると、アルマンは政務に戻る。王さえも政務をほぼ放棄してしまっているこの現状、誰かがやらなければならない事だった。

加速する貴族達の権力闘争などどこ吹く風で、王族達はめいめい勝手に趣味を満喫し、中には慰安旅行と称し、妻とは違う愛人を連れて別荘に出かける者までいた。それらの別荘は、かってのドムハイト王達が見たら嘆くような豪奢な作りで、千人以上の奴隷を働かせている場所もあった。豪華な料理はどれも舌がとろけるような味であり、くつろぐ王族達は皆豚のように太り、中には若くして自力歩行が困難になり始めている者までいる。アルマン王女の兄、キルルク王子もその一人であった。顎は二重どころか三重になり、腹は六つもの段を作っている。そして既にこの年にして、百を超える女性と関係したとさえ言われている。乱脈という言葉の、生ける実例がここにあるのだ。

本来王族をたしなめなければならないはずの貴族達は、この異常な状況をむしろ加速していた。愚劣な貴族にとっては王族が無力である方が好ましいからだ。自分たちも豪族の操り人形である事に気付いていないこの愚物どもは、砂上の楼閣で狂った喜劇を繰り広げることに余念がなかった。異常な豪華さを誇る別荘には、貴族も多くが招かれ、酒池肉林の乱痴気騒ぎが日々繰り広げられている。どの王族をどう喜ばせるかが、「政治」だと思っているのだ。

現在王位継承権を持つ者は十二人。現王の子がアルマンを含めて四人、兄弟が三人、甥と姪が合わせて五人となる。その殆どが盆暗である事は、王族達のこの有様で明らかであった。殆どの王族が、現状を理解できていない。竜軍を「野蛮人の集まり」などと称していた者までいるほどだ。この国は、二十年の平和で、頂上を腐らせ切ってしまったのだ。

一見平和で豊かに見えるが、もはやこの国は破滅の一歩手前にあった。軍閥化した豪族達が、争いを始めるのも、時間の問題であった。

安楽の中惰眠を貪る王族達。責任を持たず、義務も果たさない。その中で、唯一強い危機意識を持ち、精力的に活動しているのが、アルマン王女である。極めて嘆かわしい話であった。ペンをせわしなく走らせるアルマンは、額の汗を絹のハンカチで拭うと、山積された書類に疲労の色を濃くした。

ドムハイト国内で、きちんとした危機意識を持っている人間は少ない。アルマン王女の他には、諜報部隊、それに豪族達くらいである。豪族達は自分の領地を守ることを最優先に考えるから、殆どが頼りにならない。それに、頭は決して悪くないアルマン王女だが、百戦錬磨の豪族達を相手に、毎度自力で交渉や説得を成功させる自信はない。本来それは王の仕事のはずだが、それでもやらなければならなかった。

この状況は、自分で招いたものだ。シグザール王国による働きかけは、きっかけに過ぎない。竜軍が滅び去る前から、この状況は継続していた。滅びに向かうこの流れを、シグザール王国はただ後押ししただけだ。若い娘であるのに、肩が凝って仕方がない。ストレスを発散するため、自分の護衛達と、剣の訓練をすることが増えていた。

バフォートが取り憑いたという噂があることを、アルマンは知っていた。笑止の極みというほかない。どんどん考え方が苛烈になっていることに、アルマンは気付いていた。だが、その流れを止める気はなかった。

「我が君」

どこからか声がする。じいだ。先月くらいから、じいはアルマンを我が君と呼ぶようになっていた。それが、諜報部隊達が王族の長に対して使う呼び名であることを、アルマンは知っていた。

「なんですか?」

「近況をお伝えいたします」

じいの声はどこからともなく来て、だが確実にアルマンの耳に響く。

「シグザール王国内での計画は、着実に進行中です。 ドムハイト王国内での計画も、現在進行しております」

「分かりました」

短く答えると、じいの声は消えた。

どちらも多くの流血を伴う。だが、最小限の被害で済むように、気を配るつもりであった。数が少ないとはいえ、この国の最精鋭諜報員達は、シグザールの牙にも劣らない力を持っている。まだまだ、底力ではかの豊かな国に劣らないのだ。

また、この国の内部での作戦計画も、少しずつ進んでいる。こんな腐敗した国でも、様々な意味での「愛国者」はいる。それは殆どが狂信的な連中ではあるが、中には違う者もいる。その者達を、少しずつ組織して、アルマンの思うように動かせるようにしていくのだ。困難な仕事ではあるが、今、アルマンはそれが出来る状況にある。事実、今まで滞っていた政務がスムーズに進んでいる事は、アルマンの手によるものだと、知られ始めている。ただ、アルマンは努力家であっても、天才ではない。毎回成功するわけではない。そのたびに王女は、バフォートのことを思って心を静めるのだった。

故人を思うばかりの貧弱な小娘が、諜報員達を使ってこの国を変えようとしている。それは事実だった。貴族達は役に立たない。後は民間人の中に味方のネットワークを作り、有力な豪族達を抱き込んでいくしかない。最悪の場合、この国は内部分裂する。そうすれば、シグザール王国は高笑いだろう。複数の勢力を手玉に取りながら、自らの触手を伸ばしていけばよいのだから。

ふと、空を見る。明日は日食だった。日食は地獄が地上に顕現する現象だとドムハイトでは考えられている。多くの人を欺き、操っている自分はおそらく地獄に堕ちるのだろうと、アルマンは思った。そうすれば、またバフォートに会えるかも知れない。

不思議だった。そうすれば、地獄に堕ちるかも知れないという暗い気持ちが、少しは晴れるのだから。

 

夜遅くまで調合を続けていたマリーは、アトリエの窓を開けて、空を見上げた。

来た。この日が。

空は真っ黒。辺りもさながら夜のような状況。日食が来たのである。この数百年、日食は必ず六月の中旬に起こって来た。ごくたまに日単位のずれがあったという話をマリーは聞いたことがある。だから心配もしていたのだが、どうにか予定通りに来てくれた。そして、この現象は、丸一日続く。この日ばかりは洗濯物も乾きづらく、外出もしづらい。反面、猛獣は活発に活動する。だからこの日を題材にしたおとぎ話は、かなりの数存在している。中には大まじめに伝説として語られているものもあるほどだ。

今回は二種類の薬をベースにした調合を行う。薬の中には混ざると劇毒になるものがあるが、今回作るのもその一種だ。だから毒の効果を抑える調合もする必要がある。そして、これは貴重な人体実験の記録となる。

毒性については、当然事前に下調べをする。裏庭で丸まっている野良犬に使ってみるつもりだ。昨日のうちに捕まえておいた。用事が済んだら逃がしてやるつもりだが、死んだらそれは仕方がない。アデリーは悲しむかも知れないが、人体実験ばかりするわけにはいかないのである。人体実験の前には、必ず動物で効果を試す。薬品開発の基本だ。

ドアをノックする音。気配は複数。ドアを開けると、ミューとルーウェンが立っていた。後ろには、更に何人かいる。

「おはよう、マリー」

「予定通りの時間に来たわね。 後ろの子達は?」

「ギルドから借りてきた若手達だよ。 何で俺がこんな事をしなきゃいけないんだ」

だるそうにルーウェンがごねる。そうなのだ。この男も、今ではもう押しも押されぬベテランだ。マリーがある程度鍛えたのだし、実力的には充分だと言うこともある。それにしても、ごねているのに機嫌が良さそうなのはちょっと微妙だ。ミューと一緒だからといって、ここまで露骨だと、見ていて苛々してくる。アデリーがこの間指摘したら露骨に動揺していたらしいが、この様子ではいまだ体の関係どころか、恋人にもなっていないだろう。戦闘での思い切りが信じられないほどに奥手な男だ。

ざっと連れてきた者達を見回す。新人は三人。一人は以前ルーウェンが連れているのを見たことがある。術者らしい少女だ。もう二人は近接戦闘系らしく、皮鎧を窮屈そうに着込んで、腰から剣をぶら下げていた。一人は髪の長い男で、そこそこにマスクは甘いが、腕はからっきしなのが一目で分かる。もう一人は寡黙そうな短髪の娘で、長髪の男よりは多少ましな程度のひよっこだ。

日食の時は、猛獣が凶暴になる。この三人を森に行かせては生還できないだろう。ルーウェンとミューが一緒について行って、初めて戦力的には丁度良くなる。

「戦力的には問題ないわね」

「後は目的のものだな」

「そう。 ドンケルハイトって言って、あなたたちには分かるかしら?」

マリーを目の前にして萎縮している新人達に言うと、皆困惑して顔を見合わせる。結構。全員ザールブルグか、もしくは都会の出身者ということだ。これも今回のミッションの一部なのだ。知っている人間がいたら、却って困る。

奧から図鑑を出してきて、手渡す。今回、ルーウェンとミューは後見役だ。あくまで仕事をするのはひよっこ三人。彼らが手に負えない相手が出てきた時に、二人が相手をすることになる。

冒険者ギルドに提案したのだ。新人の訓練をするから、雇用費を折半しようと。そうしたら、見事に話に乗ってきた。マリーとしては充分な結果だ。実際問題、若手にコネを作っておきたいという事情もある。知人達が充分に力をつけてきた現在、安く雇えるひよっこも何人か知っておきたいのだ。

「その図鑑は持っていって良いから、最低でも十二株持ってきなさい。 花は触るとすぐに落ちてしまうから、乾燥剤を詰めたこの瓶に入れて持ち帰ること。 花はとっても良いけれど、その代わり絶対茎は傷つけないこと」

「はい」

「良い返事ね。 それじゃあ、時間制限は四刻よ。 四刻で調べて帰ってこられる距離にあるから、必ず見つけてきなさい」

「はい!」

マリーは新人達に片手では持ちきれない大きな真鍮瓶を渡すと、ミューとルーウェンに視線を移し替えた。

「分かってると思うけど、人の命が掛かってるのよ。 三刻経っても見通しも立たなかったら、あんた達がひよっこ達に介入して、仕事を果たしてね」

「おう。 まかせとけ」

「それにしても、ドンケルハイトだっけ。 何に使うの?」

「要するに複数の薬を混ぜ合わせる中和剤にするのよ。 今回はそこそこに強い効果が必要だから、中和剤の中ではドンケルハイトが適任なの。 ドラゴンの血を使っても良かったんだけど、せっかく時期だったからね」

「よく分からないけど、マリーが作る薬の効果は確かだからね。 信頼してるよ」

何だかよく分からないが、ミューの何気ないその一言が、どうしてか嬉しかった。この子は時々、マリーを良い意味で驚かせてくれる。その辺りが、マリーとの交友が長続きしている原因かも知れない。

もう一度よろしく頼むと言い残すと、二人はランプもろくにつけられずに難儀している新人達をせかして、アトリエから離れていった。新人だけなら心配だが、マリーが鍛え上げたあの二人と一緒なら、安心できる。最悪の場合は、説明した通りドラゴンの血を使う。もちろんその場合は、アルテナ教会への請求額を割高にするしかない。

彼らが行くのを見送ると、マリーは自分の勝負をするべく、調合を始めた。薬剤の内、一つはもう出来ている。もう一つはこれからが勝負だ。少し多めに作るのは当然の話で、それをドンケルハイトの中和剤を使って混ぜ合わせる箇所が勝負になる。

昨晩から徹夜モードに入っているから、疲労も蓄積している。今回の薬剤は、中和剤につけ込んで二刻ほどで完成する。それまでは眠れないと考えて良いだろう。いつもの事ながら、この緊張感は楽しい。そして、作業が終わった後の開放感と来たら。

素材となるキノコをすりつぶしながら、マリーはほくそ笑む。その瞬間は、近づいてきているのだ。あと少し、あと少し。念じながら、マリーは手を動かした。

 

新人達の後ろを歩きながら、ルーウェンは嘆息していた。久しぶりに此方での仕事が来たと思ったら、これだ。ドムハイト国境付近の危険地帯では、人さらいも出るし、山賊村なども実在している。一度ナタリエと組んだ仕事では、危うく一緒にいた五人もろとも、殺されて身ぐるみ剥がれるところだった。ナタリエがマリーにメタモルフォーゼして雷撃を周囲にぶっ放し、その隙に逃げることが出来たが、そうでなければ今頃どうなっていた事か。

「ねえねえ、どうするの?」

「知らねーよ。 そもそも、あんた、字読める?」

「読めない」

前で脳天気な会話を繰り広げる新人達。頭が痛い。前から時々面倒を見ているフローラ。術者としてはなかなかに優秀だが、いかんせん経験も度胸も足りない。髪の長い青年はジャックという。北方人らしい白い肌とひょろりと伸びた体躯が目立つが、剣はまだまだである。無口な娘はフルフだ。背は少し低いが敏捷で、しかしやはり実力が足りない。皆冒険者になって間がない者達で、最低限の常識をどうにか身につけたレベルの連中だ。マリーの言葉通り、完全なひよっこである。

経験が浅いのだから、弱いのは仕方がない。ただ、どうも成長が遅いような気がする。マリーのところで激しい実戦とぎりぎりの駆け引きを学んできたルーウェンは、自分が彼らくらいの時には、もっと成長していたような記憶がある。今時の若者は等と言うつもりはないのだが、やはりもっと厳しい方が良いのかも知れないと思うこともある。しかし、マリーのやり方をそのまま見習うつもりはない。あれはマリーという異才がいてこそ、はじめてなせることだ。ルーウェンには、とても同じ事は出来そうにない。

自分は運が良いのだなと、ルーウェンは思うことがある。そういえば、結婚していてもおかしくない年になって、随分時も経つ。ミューに結婚を申し込もうと思ったことも何度もある。だが、やはり今でも、踏み込むことが出来なかった。

何か機会があればと思うのだが、なかなか難しい。ミューは元々あの通りなので、ルーウェンの気持ちになど気付いてもいないだろう。下手をすると別の奴に取られてしまうかも知れない。それだけは絶対に嫌だが、どうすれば防げるのか、よく分からなかった。先に口説けばいいのだろうか。だが歯が浮く寝言なんか、ミューは喜ばない気がする。下手に長く組んでいるから、余計に分からないことも増えてしまう。

悩みながら新人達を見ると、話を進めていた。遅々と、だが。

「とりあえず、明るいところへ行こうよ。 ランプ代ももったいないし」

「飛翔亭に行く?」

「却下」

二人の会話に、ミューが割り込んだ。ルーウェンは口を出すまでもないと思ったので、後ろで黙っていた。不満そうにフローラが頬をふくらませる。そう言えばこの娘、ミューに反抗をすることが珍しくない。理由はよく分からない。

「ミューさん、どうしてですか?」

「飛翔亭に行ったら、食事もするでしょ? そうしたら、あっというまに一刻くらいすぎるんだから。 それに、食べながらじゃ調査も進まないよ」

ミューの言葉に、フルフが呆然と言う。ちゃんと自分たちのミスを認められるのだから、この娘は伸びるかも知れない。

「それなら、どうしたらいいんだろう」

「自分達で考えなさい」

突き放したミューに、フローラもジャックも不満そうだが、それでもこれが訓練だと言うことは分かっているらしく、相談に戻る。ルーウェンから言わせれば、ちゃんと先輩冒険者を目当てにするなどで飛翔亭に行くのならセーフだ。だが彼らはそんな事を考えていないだろう。

「まず、字が読める人が必要だよね」

「ベテランの魔術師や冒険者か、或いは学者か。 あ、そうだ。 さっきのマルローネって人も読めそうだな」

「馬鹿。 死にたいの?」

フルフの言葉に、二人が押し黙る。思い出したのだろう。マリーの評判を。フルフは寡黙だが、反面かなり頭の回転が速い。この分だと、三人の中では一番有望かも知れない。マリーにしてみても、さっきのルーキー共が戻ってきて図鑑を読んでくれなどとほざいたらきれるだろう。その時は、ルーウェンやミューまでとばっちりを喰いかねない。それをしっかり理解してさっきの発言をしたとしたら、本格的に将来が楽しみだ。

ああだこうだと相談している三人から少し距離を置いているミューの側による。ミューはいつもよりぐっと厳しい表情で、三人の会話に注意を傾けていた。地獄のドムハイト国境で散々経験を積んだというのに、まだこの娘の方が上のような気がする。マリーと一緒に行動する機会が、ミューの方が多かったからだろうか。

「いけそうか?」

「うん。 まあ、同胞のネットワークを使うことを思いつけば近いけどね。 個人的には、フルフが何か思いつくんじゃないかって、ちょっと見てるんだ」

「やっぱり、ミューから見ても、あの子が一番出来そうか?」

「うん。 ただ、寡黙な子って考えていることが読みづらいから、まだ判断は保留だけどね」

ミューはそう言って、ギルドから渡された低質紙のメモに、携帯用のペンで書き込んでいた。いつのまにか読み書きを身につけたのか。此方にいる間だろうか。そういえば、時間はある程度あったはずだ。身につけたといっても日常会話レベルだろうが、それにしても羨ましい。

この娘は、多分あと数年もすれば、冒険者ギルドを背負って立つ人材になるだろう。頭が悪くて、脳天気だったミューは、成長と共にどこかに消えてしまったのだろうか。いや、芽が出て、完全に脱皮したのだ。誰だって、いつまでも子供ではない。特に女性は大人になるのが早い。分かっていたはずなのに。

隙が多いミューが好きだったというわけではない。だが、確実に成長し飛翔するミューを見ていると、置いて行かれたようで気分が悪いのは確かだ。ため息をつきそうになる。ミューが見上げていたので、吃驚した。

「な、なんだよ」

無言でミューが促したので、気付く。フルフが一端冒険者ギルドに戻ろうと言い出したのだ。判断的には間違っていない。あそこなら、能力の高い冒険者がいる可能性も高い。様々な人から情報を集めることは、今回のミッションでは禁止されていない。というよりも、情報収集は重要な仕事の一部だ。

ギルドに歩く三人に着いていく。気になっていたのだが、最近ミューは腰にカタナをぶら下げていて、愛剣を背負っている。カタナは武骨な作りのもので、しかしかなりの大振りだ。使いこなすのがかなり難しいカタナなのに、そんな大きい奴で大丈夫なのか、心配になる。

「なあ、ミュー」

「うん?」

「そのカタナ、どうしたんだ?」

「ああ、これね。 少し前から練習してるんだけど、最近ようやくものになってきたんだよ。 だから、今日から実戦に持ち出してみるの」

ルーウェンは愕然とする。そういえば、ベテランになってから、これほど貪欲に新しいものに挑戦しただろうか。何と返して良いか分からないルーウェンに、ミューは昔の片鱗を残した笑みを浮かべる。

「別に私が頑張り屋さんなわけじゃないよ。 アデリーに触発されてるだけ」

「あの子に?」

「そう。 追いかければ追いかけるほど遠くなるマリーの背中なのに、必死に歯を食いしばって、追いつくべく腕を磨いてる。 あの子の姿を見てたら、私も負けてられないって思っただけ。 それでいろいろやっているうちに、いつの間にか腕が上がった、って状況かな」

少し安心した。ミューを強くしているのは、本人の素質ではなく、周囲の環境なのか。ならば、ルーウェンも置いて行かれずに済むかも知れない。ただし、それには努力がいる。ルーウェンはミューを見習って、少し努力を増やそうと思った。

冒険者ギルドに着く。新人達はわいわい話しながら、ベテランの姿を探していた。ハレッシュが手を振ってきたので、頷き返す。事前に訓練だと伝えてあるので、此方に下手な干渉はしてこないだろうが、それでも釘はこうやって刺しておく。

三人がベテランの魔術師を見つけたのは、直後のことだ。白い髭が胸まで伸びた、如何にも風情を湛えた老人であり、仲間内でもよく知られている。現役最年長の冒険者ではないかとも言われており、グランパのあだ名を持つ人物だ。ルーウェンも何度か組んだが、実力は実にしっかりしていて、いるだけで安心感がある。冒険者ギルドに籍を置く人物としては、能力者としてマリーと対抗できる数少ない存在である。

三人は祖父に集る孫のように魔術師に近づくと、わいわい言いながら解読をせがむ。魔術師が少し困った様子で視線を此方に向けてきたので、ルーウェンは黙礼した。それで事情を悟ったのだろう。老魔術師は三人を伴って隅のスペースに移り、図鑑を開いて読み聞かせる。大した量の記述ではないので、すぐに終わった。

「以上だ。 何か質問はあるかな?」

「ええと、モーロックさんは、この花について何か知っていますか?」

「知っているも何も、日食の花ドンケルハイトと言えば、田舎出身の人間なら誰でも知っているさな。 こんな図鑑を持ち出さずとも、田舎出身の人間に聞いてみると良いだろうのう」

多少しらけた様子で、モーロックはもう少し詳しい説明をしてあげる。細かく噛み砕いた、わかりやすい説明だ。ただ単調なしゃべり方のため、非常に眠気を誘われやすい。モーロックが人望を集めきれない理由が此処にある。

ルーウェンやミューは慣れているから平気だが、若手はそうもいかない。特にジャックがかなり退屈そうだった。あくびをかみ殺しているのが、遠目にもよく分かる。情報収集をしている時には絶対にやってはならない事だが、腹は不思議とあまり立たない。数年前には、ルーウェンもああだった。ミューもである。ミューは苦笑いしながら、ルーウェンを肘で小突いた。

「はは、何年か前の私達がいるね」

「ああ、そうだな」

「何年かすれば、きっと並んで歩けるね」

前向きにミューが笑うので、ルーウェンは少し困った。相談が終わったらしく、三人が此方に来る。フローラが満面の笑みで、ルーウェンに言う。

「ありそうな場所がどうにか分かりました。 これから近くの森に行きます。 よろしいですか?」

「ああ、良いぜ」

「良かった。 さ、いきましょ」

元気いっぱいに、フローラが駆け出す。もちろん、ルーウェンもミューも、事前にドンケルハイトの情報を知らされている。だから、異存はなかった。

時刻を知らせる鐘が鳴る。もう既に一刻が経過していた。あまり脳天気に過ごしている暇はない。近くの森と言っても広大無辺で、奧まで行くと間に合わなくなる。ミューとルーウェンだけなら一刻で往復できる自信があるが、新人達を抱えているとそれも難しい。それに、ルーウェンもミューも、今回のミッションで手に入れるドンケルハイトが何に使われるか、事前に聞いている。特にルーウェンは、フローベル司祭に何度か世話になったことがある。絶対にこの任務を失敗するわけにはいかないのだ。

ザールブルグの南門を出る時、槍を持って警戒している衛兵に注意される。周囲は夜のように暗いし、その上日食時は猛獣が凶暴化するからだ。虎や熊も、かなり街の近くまで近づいてくる。日食の時、南門で虎が衛兵に襲いかかり、激しい戦いの末肉団子にされたのは、去年の話だ。ベテランの冒険者でも、日食時の外出は避ける者がいる。

案の定、門を出て、街道から少し森の中に踏み込んだだけで、雰囲気が露骨に変わった。辺り中が、殺気に充ち満ちている。大型の猛獣が獲物を求めて徘徊し、小型の動物たちもそのおこぼれをかっさらおうと、虎視眈々と機をうかがっている。これは、知識のない人間が踏み込んだら、瞬く間に動物たちの餌だ。ルーウェンはびりびり伝わってくる殺気に眉根を寄せ、いつでも剣に手を伸ばせるようにしていた。ルーキー達は恐らく、殺気の接近にも気付けないだろう。いざというときには、ベテランが盾になって彼らを逃がさなければならない。

ドラゴンや悪魔といった超大物は、こう言う時にはむしろあまり警戒しなくても良い。そう言う連中は、冷静で頭が回る普段の方が始末が悪い。問題になってくるのは、常時は攻撃性が低い毒蛇や、臆病な大型の草食獣である。他にも、普段は人間からは距離を置いている猛獣類も、こう言う時には積極的に近づいてくる。それを察知し逃すと、一瞬後の死が待っている。

ずんずん森の中を進んでいく新人達は、周囲の状況に気付いていない。ミューが反射的に剣に手を掛けた。背後、六十歩ほどの距離まで、フォレストタイガーが近づいてきている。更に前二百五十歩ほどに、アークベアの大物がいる。アークベアは鹿の群れを狙っているようで、今のところ此方には注意を向けていない。反面フォレストタイガーは、此方の隙を見たら即座に襲いかかってくるだろう。だがそんなことには気付かないルーキー達は、挑発するかのように熊にまっすぐ向かっている。一度丘に出て、周囲を見回そうと言うのだろう。判断自体は間違っていない。ただし、辺りの気配を読める最低限の実力が備わっていれば、だ。

熊が足を止めた。無遠慮に近づいてくる此方に、苛立ちを覚えたのだろう。ミューが小声で、ルーウェンにささやく。

「フォレストタイガー、一人で仕留められる?」

「あのサイズの奴なら、どうにかな。 もう昔の俺じゃない」

「私は、いざというときには前の熊をどうにかする。 後は、あの新人達が、散らばって逃げたりしなければ何とかなりそうだけど」

新人達は脳天気に、わいわい木に登ったりしている。がさがさ木が揺れて、鳥がけたたましい声を上げて逃げていった。此方の居場所を回りじゅうに教えているようなものだ。思わず天を仰いでしまった。都会育ちのルーキーを、激しい実戦で鍛えに鍛えられたマリーや、天才の膝下で確固たる意思を持って努力を続けているアデリーと比べるのがそもそも間違っているのは分かっている。だが、それにしてももう少しどうにかならないものか。案の定、周囲の殺気が増えた。虎や熊やサラマンダーなどの猛獣だけではなく、中型の肉食獣まで、此方に注意を向け始めている。

クーゲルやマリーくらい獰猛な殺気を放っていると、動物たちはさっと逃げ散ってしまう。人間は世界最強の生物なのだ。それは日食時でも同じこと。だが、知識も経験も無く、組織行動も満足にこなせない人間は、極めて脆弱だ。ルーウェンもあまり新人達を責められない。マリーに連れられて冒険に出始めた頃は、あのルーキー達と大差ない実力だったのだから。

ミューが大きくため息をついた。何をするつもりなのかは、すぐに分かった。やりたくはないが、他に方法がない。

「ちょっと周囲の動物減らしてくる」

「仕方がないな。 あまり無駄に殺すなよ」

「分かってる。 一匹だけ派手にばらしてくる。 新人達から目を離さないでね。 散られたら、流石に助からないよ」

悔しいが、現段階の実力ではミューの方が上だ。こう言う時は、ルーウェンが新人達のお守りをするしかない。

自分たちが置かれている状況も知らず、脳天気にああだこうだと図鑑を囲んで言い合っている新人達に釘を刺そうと、ルーウェンが歩き出した瞬間。足が止まる。殆ど反射的に、全身が緊張していた。

それの、気配に気付いたのだ。

闇の中から浮かび上がるように、その気配がゆっくり近づいてくる。出がけのミューも、蒼白になって、足を止めていた。ルーウェンも腰を落として剣に触る。まずい。もの凄い使い手の気配だ。正体は分からない。数は一つだが、此方に敵意を向けてきた場合、戦わざるをえない。

新人達が、ぴたりと喋るのをやめた。流石に気付いたのだろうか。ミューと一緒に、駆け寄る。気配は百歩ほどの距離を保ったまま、じっと此方を伺っている。もし仕掛けてくるつもりであれば、即座に襲いかかってくるだろう。気配に向けて、ミューが剣を抜く。腰にぶら下げているカタナには手を掛けない。新人達は地面にうずくまってじっとしていた。ルーウェンも愛用の剣を引き抜くと、出来るだけ声のトーンを落として言った。

「気をつけろ。 何かいるぞ」

「……けた」

「ん?」

「やった! 見つけたっ!」

突然フローラが歓声を上げたので、ルーウェンは驚いて、一瞬構えを崩しかけた。新人達はまたわいわい騒ぎ出す。フローラが、満面の笑顔で、唖然としているルーウェンに差し出してきたのは、ランプに照らされた小さな花。

ドンケルハイトだった。

「見つけましたよ、ルーウェンセンパイ!」

辺りには、そのドンケルハイトが無数に咲いていた。構えていたミューが、嘆息して剣を鞘にしまう。

あの巨大な気配は、いつのまにか消えていた。奴に驚いて、アークベアもフォレストタイガーも、もういなくなっていた。喜んでいる新人達と逆に、ミューもルーウェンも、表情が強張っている。あの気配の主は、相当な使い手であった。戦っていたら、確実に総力戦になっていただろう。勝てるかどうかさえも分からなかった。その時には、新人達を守る余裕はなかった。

「あの気配、何だったんだろうね」

「…分からないが、命拾いしたのは確かだよな」

「どうしたんですか? 私たち、やりましたよ!」

脳天気に宣うフローラ。考えてみれば、新人の頃は、マリーやクーゲルが気付いていた危機に、自分たちも似たような反応をしていたことがあったのかも知れない。

「帰ろうか」

ルーウェンはため息を一つ付く。強くはなったが、自分は新人を教えるという点でも、まだまだだと思い知らされた。今後、本格的に腕を磨く必要があるかも知れない。今のまま漠然と仕事を繰り返しているだけでは、いつまでもミューには追いつけない。

街道に出ると、多少は気が楽になった。ともかく、仕事は達成することが出来たのだ。新人達には後で森の危険性を説明する必要があるとして、フローベル司祭を救えない最悪の状況はどうにか避けることが出来た。

自分の仕事はこれで終わりだ。後はマリーが司祭を救ってくれることを祈るしかない。酒が欲しいなと、ルーウェンは漠然と思った。

 

森の中、カミラは目を細めて、遠ざかっていく五人を見送っていた。どうやら冒険者らしいと分かって、安心した。かなりの使い手が二人混じっていたので、警戒していたのだが、敵意はないと分かって距離を取った。後は、ただ見送るだけであった。

最近、妙な連中がこの辺りを彷徨いているという情報をカミラは得ていた。だから、警戒していたのだ。今日は特に網を念入りに張る必要があったので、過剰なまでの行動に出てしまった。まだ余裕がないなと、自嘲する。

今日は騎士団のサバイバル訓練だ。猛獣が凶暴化する日食は、普段より格段に危険なサバイバルを簡単に行うことが出来る。だから、一人前の騎士を育てる訓練にはもってこいなのだ。今日カミラは有望な六人の騎士を森に連れてきていた。いずれにもヒントは一切与えない。森から出ることも許さない。今まで教え込んだ技術で、この危機を突破してもらう。

気配を消すと、森の中を走る。この仕事はとても忙しい。

カミラの他にも教官が二人ついていたが、皆負担は大きい。一人あたり二人ずつ、何処に行くか分からない騎士達を見張らなければならないのだ。今回はダグラスという有望馬がいるのだが、奴は剣は得意だがサバイバルが苦手で、今も四苦八苦しながら一人で寝床を作っていた。

ダグラスの様子を見届けると、もう一人の騎士を見に行く。此方は去年騎士に昇格した人物だが、もういい年のおじさんである。冒険者出身で、相当なサバイバル技能の持ち主である。カミラの接近には気付けなかったが、それでも組んでいるキャンプは見事。建てる場所も問題がないし、奇襲を受けにくいように遮蔽物も工夫している。剣の才能には若干欠けるが、槍はかなり上手だし、若手の統率も上手い。小隊長などを任せると見事な手腕を見せるかも知れないとカミラは見ている。彼が竈に火を入れて、干し肉を焼き始めるのを見届けてから、その場を離れる。

今回連れてきている六人は、皆かなりの使い手だ。油断さえしなければ、猛獣も近づかない。一通り状況を確認すると、教官役の騎士達と木の枝の上で合流。この間聖騎士になったキルエリッヒと、もう一人。何度か特殊任務を一緒にこなしたことがある、老練な聖騎士ジュストと顔を合わせる。二人ともカミラより年上に見えるが、片方は違う。カミラとキルエリッヒとは同世代だ。ジュストは親どころか祖父のような年で、この国を代表する名騎士の一人である。クーゲルと犬猿の仲である事でも有名で、何度か殺し合い寸前の大げんかをしたことがあるという。それで生きているのだから、実力はよく分かる。

巨木の葉に隠れるようにして、三人は顔を合わせる。今回は訓練だし、情報を交換するのにもいちいちこんな大げさなやり方をしないといけない。若手の騎士達に、できるだけ余計な圧力を与えてはいけないのだ。

「状況は?」

「此方は特に何も。 順調に進んでいるわよ」

キルエリッヒは淡々と応えた。カミラにはないすらりとした肢体と美貌を併せ持ち、大人の雰囲気を放つこの女は、以前敵意の対象だった。此奴にだけは負けたくないと思って、必死に努力した。若手の双璧などと言われた事もあり、努力に拍車もかかった。だが今は、その時のような焦燥が、不思議と消え失せてしまっている。

余裕のない精神状態がもたらす敵意が消えてみて分かったのだが、キルエリッヒはこの容姿に似合わず極めてまじめでマイペースな女で、カミラをライバル視していた様子が殆ど無い。冷静になってみると、キルエリッヒの戦闘センスや頭脳が自分に及ばないことも分かるし、何故あんなに敵意を抱いていたのか不思議でさえある。

「此方も順調である。 ただ、私の管轄騎士は、やはりどちらも小粒だな」

ジュストが苦々しげに言った。確かにその言葉は正しい。カミラも教育を監督しているのだが、どちらも頂点に上り詰めるような才能もないし、覇気も持ち合わせていない。だが、こういうヒラが組織では地盤になる。だから、わざわざこの重要な訓練に連れてきているのだ。

本人の能力は凡庸かも知れないが、だからこそ次の世代に、確実に技を受け継ぐことが出来る。聖騎士にはなれなくとも、この国を支える人材には確実になる。だから、今回連れてきているのだ。その認識についても、この場の三人は一致している。事前に話し合ったことなので、今更議論するでもない。

「それよりも、感じた? 何かいるわよ」

「私も感じたな」

「私の担当地域では感じなかった。 何がいる?」

「そこまでは分からないけど。 かなりの使い手ね。 此方の警戒網を抜くように移動しているから、あまり友好的な相手とは思えないわ。 敵意もないし、騎士達には近づかなかったから、放置していたけど」

二人が口々に言う。カミラは一瞬例の冒険者達と思ったが、二人の口調から言って違う。カミラの担当地区は、ザールブルグに近い辺りだ。嫌な予感がする。

「予想移動経路は分かるか?」

「さっき、私の管轄地区を東に横切った。 まもなく大教騎士殿の管轄地区に入ってくるはずだ。 正体は良く分からないが、大きさから言って十中八九人間だろう」

「分かった。 警戒する」

頷きあうと、三人は再び散る。完全に目を離すには、まだまだルーキー達の実力は足りない。危なっかしい所も多い。

闇の中を駆け、再び担当地区に戻る。そろそろ、新人騎士達は眠りに入る頃だ。眠ると言っても、テントの中で高いびきという訳にはいかない。浅く眠りながら、日食が終わる朝まで警戒し続けるのである。その方法も各人で異なる。

体力にものを言わせて朝まで起きている奴もいれば、周囲にトラップを仕掛けて眠る者もいる。前者はあまり奨められない方法だが、サバイバルが下手で体力がある人間には選択肢の一つではある。ダグラスはこれを採用した。もう一人の騎士は、周囲にしっかりトラップを仕掛けている。近づこうとしたフォレストタイガーが、蜘蛛の巣のように張り巡らされた罠に気付いて、引き返していた。

カミラは二人の様子を見届けると、丁度中間地点にある大木の影に移動し、そこで座り込んだ。そして目を閉じ、周囲の様子を伺う。動物が移動し続けている。日食は、森の生き物たちにとっては宴に等しい。カミラの気配探知圏内で、狼が群れを成して動き回り、熊を襲っていた。普段はリスクが高すぎるから絶対にやらないのだが、今夜は凶暴性を増しているのだろう。無論熊も黙ってはいない。鋭い悲鳴が上がる。獰猛な殺気がぶつかり合い、狼が半分くらいに減ったところで、熊の気配が消えた。

小さくあくびをすると、カミラは二人が話していた相手の接近に気付く。静かに、さながら影のように、森の中を移動している。確かにサイズは人間程度。敵意もなければ、殺意もない。気配を消すのは驚異的に上手いが、カミラを相手にするにはまだまだだ。

他の二人は放置したようだが、カミラには見届ける義務がある。場合によっては、排除しなければならない。飛び起きると、気配を消したまま、森を走る。手は既にバトルアックスに掛かっている。

茂みを飛び越え、木の幹をジグザグに蹴って、森の中を行く。途中フォレストタイガーの側を通り過ぎるが、見向きもしない。虎は逆に、びっくりしてカミラを見送っていた。やがて、気配との相対距離がゼロになる。至近に着地したカミラに、その気配の主は取り乱すこともなく、冷静に飛び下がった。

猿のような老人であった。小柄でしわくちゃで、腰も曲がっている。だが歴戦の勇士であることは一目で分かる。雰囲気から言って、牙の一人か。或いは、ドムハイトの間諜か。バトルアックスに掛けた手は離さない。場合によっては、此処でミンチにする。

「何者だ」

「それは此方の台詞です。 こんなしわくちゃの爺めに、何のようですかな。 その恐ろしい武器で、何をしようというのですかな」

飄々と老人が言った。分かっているはずだ。返答次第では、カミラに斬り伏せられると言うことが。それなのにこう平然としていると言うことは、ただ者ではない。

「ドムハイトの間諜か? それとも牙か?」

「何のことか分かりませんのう」

カミラが戦斧を引き抜いたのを見ても、老人は顔色一つ変えなかった。やはりただ者ではない。カミラは今まで抑えていた殺気をじわりとにじませながら、声のトーンを一オクターブ落とした。

「最後だ。 貴様は敵か味方か」

「やれやれ、仕方がありませぬなあ」

老人が腰からナイフを抜く。カミラの視力は、その刃に何かが塗られていることを確かに捉えていた。刺されたらどうなるか分からない。だが、刺されなければどうということもない。

先に動いたのは老人だった。左手を側の木につけると、激しい破砕音が響いた。木に衝撃波を叩き込んだのだ。膨大な木の葉が降ってくる。気にせず間合いを詰めたカミラが上段からバトルアックスを振り落とす。老人が残像を残して飛び退くが、逃がしはしない。そのまま向きを変えて追いに掛かるカミラの目に、舞い散る落ち葉の死角から飛んでくる毒ナイフが映る。バトルアックスを盾にはじき返したカミラは、呆然とした。

ナイフが、分厚い斧の刃に、突き刺さっているのだ。

今度は、下がるのはカミラの番だった。連続してナイフが飛んでくる。狙いは正確で、避けられるような速度でもない。カミラは無言で踏み込み、横薙ぎに斧を振るい、風圧でたたき落とす。木の葉が落ちきり、辺りにはまた静寂が戻ってくる。

老人がいた所には、今の風圧で出来た溝がある。だが、老人自身の姿はなかった。逃げられたのだ。暗くて顔は殆ど見えなかったが、気配は覚えた。次に見つけた時は殺す。カミラは斧に刺さったナイフを見て、慄然とする。ナイフに塗られていたのは、毒ではなかったのだ。臭いで分かるが、これはただの蜜だ。つまりあの老人のナイフは、斧の分厚い刃をも貫通すると言うことだ。

信じがたい技量である。状況から言って奴はドムハイトの間諜だろうが、このような手練れがまだいたとは。もう国政に関わる力を持たない身が口惜しい。一応上層部に報告はするが、状況は想像以上に危険な気がする。

慄然としたカミラは、バトルアックスに突き刺さったナイフを抜き、革袋に入れた。後で調査班に回す。何か分かるかも知れない。穴が開いてしまったバトルアックスは、また鍛冶屋に出さなければならない。ため息一つ。やはり、まだまだ未熟だと自嘲する。

今の短い攻防に、新人達が気付いている様子はなかった。何度か見回るうちに、夜が明けてくる。

夜のように暗かったこの日が終わろうとしている。空が白み始め、森の雰囲気が変わっていく。日食の終わりだ。やがて山の稜線を超えて、太陽が天に昇ってきた。森が色づいてくる。

一端監督役の聖騎士達と集まる。多少皆疲れてはいたが、ただそれだけだ。騎士達は全員が試練を乗り越えた。この国の人材は、まだまだ豊富だ。後はこの風潮を崩さないようにして、実力を維持していけばよい。

不思議な老人のことは、二人にも報告した。後で騎士団で調査すると、二人は言っていた。気をつけるように念を押すと、カミラは自分の担当分の騎士達を起こしに行く。彼らを回収して、ザールブルグに戻ったら、後処理を済ませてから寝る。もう一日くらいは起きていても大丈夫だが、仕事そのものがもうないのだ。

ダグラスももう一人も、夜の間に起こった戦いには気付いていなかった。今はまだそれで良いと、カミラは思った。

 

ザールブルグにたどり着いたじいは、堂々と南門から入りながら、額の汗を拭っていた。乾き果てた体でも、汗は浮く。冷や汗は特に、だ。あれほどの使い手、ドムハイトにもなかなかいない。竜軍が健在だった時期でさえ、そう多くはいなかっただろう。

シグザール王国騎士団が厳しい訓練をしていることは知っていたが、わざわざ猛獣が凶暴になる日食をそれに組み込んでいるとは知らなかった。危険は多いが、確かにそれ以上に非常に高い訓練効果も得られる。これでは騎士団が強くなるわけである。

ドムハイトを再建するとしたら、これくらいの訓練は取り入れないといけないかも知れない。貴族や有力豪族の軟弱な子息は耐えられないだろうが、そんな連中が軍にいて大きな顔をしている方がそもそもおかしいのだ。しかも、監督役の聖騎士達は皆油断無く気を配り、一人などは自らの危険を考えず、此方に攻撃までしてきた。

環境が違う。意識が違う。もちろん、組織内部に様々な軋轢はあるようだが、それは健全な人間の本能がもたらす闘争であり、どちらの派閥が負けても国は小揺るぎもしないだろう。どの王族に取り入ることと、己の保身を計ることが政治だと思っているような貴族達。それらが有力豪族に操られて動かしているようなドムハイトとは、根本的に事情が違うのだ。

上が腐っているかそうではないか。ただそれだけの差なのに、人間の集団とは、こうも質が変わってきてしまうのか。じいは嘆息した。この年になっても、世界のことについては分からないことが多い。

逆に言うと、アルマン王女が全てを握れば、ドムハイトにも再生の余地はまだまだあると言うことだ。このシグザール王国も、長い歴史の間には、腐敗したり弱体化した時期が確かにあった。だが、現在はどうだ。最大のライバルだったドムハイトを、ほとんど軍を動かさずに奈落の底にたたき落とし、さらなる繁栄の時に飛翔しようとしている。今のシグザールには勝てないと、じいは思う。だが、未来には、どうなるか分からない。

気配を出来るだけ殺しながら、裏路地に。今ドムハイトの最精鋭諜報集団が、ザールブルグに潜り込んでいる。目的は王の暗殺でもテロでもない。もっと地味で、そして危険が大きい仕事だ。通行人がまばらになる。同じ裏路地でも、スラム化しているドムハイトのそれよりはぐっと明るい。だが、暗いことには変わりない。

半地下に作られた小さな店が、会合場所だ。背中を丸めて、煉瓦造りの不潔な階段を下りて、店にはいる。薄暗い店の中では、腐敗臭が立ちこめていた。ザールブルグにもこんな所がある。少しだけ、じいは安心した。

闇の中には六人いた。いずれもじいを見て、軽く一礼する。

「状況は」

「騎士団の締め付けが強くなってきています。 このアジトも、いつまで保つか分からない状況です」

「済まないが、耐えてくれ。 我らが耐えるほど、本来の作戦を成功させる可能性があがる」

じいの言葉に、六人が無言で頷く。

そう。皆の仕事は、陽動だ。いかに精鋭揃いのシグザール王国騎士団と牙といえど、ザールブルグの足下に、これだけ強力な敵国精鋭集団がいたら、目を離すことは出来ない。

本来、諜報員の仕事は極めて地味だ。誰にも知られないところで動き、そして死んでいく。アルマン王女の作った作戦が正しいと思ったからこそ、皆闇の中で死ぬ。誰も泣き言は言わない。誰も反逆などしない。闇の中でうごめく影。それがドムハイト諜報部隊の誇りだ。

「そちらの状況は」

「ドムハイト内での作戦遂行状況は順調だ。 後は王女の働き次第だな」

「信頼できるのですか」

「信頼できる。 少なくとも、アルマン王女以上の能力を持つ支配者層は、今ドムハイトに存在しない。 まだ若いが、経験が足りない分は、我らの力で補えばいい」

いかに精神的に超人的な存在といえど、長年働けば心にほころびが出来る。だから、じいはそれを誇りで引き締める。部下達にも、それを教え込む。それが故に、彼の直属の部下達は、皆誇り高い。

この誇りこそが、ドムハイトの最後の砦になると、じいは信じていた。

「歴史は我らが作る。 王女の手足である我らが闇の中で動くことにより、ドムハイトは救われ、シグザールの侵略は食い止められる。 繰り返す。 我らこそが、歴史の動かし手だ」

「分かりました。 じいよ、貴方も気をつけて」

六人の気配が消える。カウンターの上に残されていた報告書を受け取ると、じいもまた店から出る。これからまたドムハイトに戻り、様々な仕事をこなさなければならない。人を殺す任務もある。

店から出ると、もう陽が昇り始めていた。日食が終わったのだ。あの太陽のように、アルマンがドムハイトを照らしてくれると信じつつ、じいは再びドムハイトに向かう。己の中の誇りだけが、彼の理解者だった。

 

4,奇跡の対価

 

マリーのアトリエに届けられたドンケルハイトは、どれも良い品であった。数もマリーが考えていた以上で、新人達にしては良くやったと言えるだろう。マリーは玄関に立ったまま、品質を確認すると、頷いた。

「合格。 良くできたわね」

「あ、有難うございます」

少し青ざめている新人達に、マリーは予定の二割り増しの銀貨を渡した。彼らを帰した後、ミューとルーウェンをアトリエに招き入れる。ほぼ徹夜作業であったが、今回は作業の合間に二刻ほど寝る時間もあったし、まだ体力的には余裕がある。

薬類はもう出来ている。後はドンケルハイトから中和剤を作って、それらを混ぜ合わせるだけだ。本来中和剤を作るには、魔法陣を使っての充填作業が必要になる。ドンケルハイトでもそれは必要だが、時間は非常に短く済む。そのはずだ。駄目な場合は、以前に作っておいた中和剤を利用する。大した時間のロスにはならないだろう。赤字にはなるが。

二人がテーブルに着くと、マリーは茶を淹れながら、振り向きもせずに聞く。

「その様子だと、苦労したみたいだね」

「ああ。 でも、俺達がひよっこだった頃、あんたもおんなじくらい苦労してたんだなと思うと、怒る気にはなれなかったよ」

「ふうん。 ルーウェンもミューも、自分で思っているよりずっと才能に恵まれてると思うけどね。 あたしが教えたことすぐに吸収して自分のものにしたし、それに、何より強くなりたいって執念もあった。 そうでなければ、あたしに鍛えられるのに耐えられなかったんじゃないの?」

二人が顔を見合わせる。茶を出すと、マリーはドンケルハイトの半分を乾燥剤入りの瓶に入れたまま地下の倉庫に運び、残りの半分を乳鉢に出す。

ランプの光の元だと、ドンケルハイトの姿がよく分かる。掌より少し小さい花だ。赤い花びらは全部で五つ。赤いと言っても、桃が掛かった上品な色で、血を吸ったような雰囲気ではない。中央部分には無数のおしべとめしべが乱立していて、少し吹くだけで花粉が舞う。この花は茎とつぼみの接合部分が非常に脆く、特に咲いた後は少し触っただけでもげ落ちる。そして食べるともの凄く苦い。強い魔力を内蔵しているのは知ってはいたが、中和剤として非常に高い価値があるとは知らなかった。

ドンケルハイトは、乾燥剤を入れた瓶から出すと、すぐに萎れ始めた。乳鉢にヘーベル湖の水で作った蒸留水を注ぎ込みながら、棒を使ってすりつぶす。赤い花なのに、すりつぶすと水は黒く濁るのだから面白い。水面に浮いていた花粉も、じっくり混ぜていくうちに沈んでいく。腐った卵のような刺激臭が漂い始める。少し指先につけて舐めてみる。予想を超えて、恐ろしく苦い。

「これは、味を調えるのに、蜂蜜がいるかな」

「買ってこようか?」

「まだ朝早いけど、当てはあるの?」

「ああ。 というか、フローベル司祭を助けるには必要なんだろ」

ルーウェンが腰を浮かせ、外に出て行った。ミューは小さくあくびをすると、ドンケルハイトをすりつぶしていくマリーに言う。

「フローベル司祭、そんなに酷いの?」

「保って一週間って所かな」

「……私、あの人には何回か世話になったんだ。 ほら、アルテナ教会って、懺悔の聞き届けってやってるでしょ? 信者以外の話でも聞いてくれるから、ずいぶん楽になることが多くて。 ルーウェンも世話になってたみたいだけど、私もね」

ミューはうつむくと、目を擦った。

「あんなにいい人なのに」

どうやらこの実験は成功しそうだなと、マリーは思った。どうやらフローベル司祭は、「聖人」に極めて近しい人物らしい。それならば、きっと長時間の苦痛で増幅された狂気に、打ち克つことが出来るだろう。

「ねえ、マリーにとって、この仕事って何?」

「将来の布石」

「……そう、だよね。 でも、司祭様、助けてくれるよね」

「それが救いなのかは分からないけれど、本人と、ミルカッセちゃんが望むようにはしてあげられるよ」

ルーウェンが帰ってきた。確かに上質の蜂蜜を抱えている。少し赤字になるかも知れない。中和剤の元を作り終えたので、魔法陣に置いてくる。これでイングリド先生の書いた図鑑を信用するなら、三刻ほど待てば高純度の中和剤が完成する。驚異的な速さだ。レアな素材を用いるだけある。もっとも、これが手に入らなければ、火竜の血を使っただけの事。これも一種の実験であり、綱渡りではない。

綱渡りの状況を何度となくくぐってきているマリーだからこそ、普段はそういう危険な行動は取らない。ただし、いざとなったら、幾らでも捨て身になることが出来る。

二人が帰るのを見送ると、一端仮眠を取り、それから最後の仕上げにはいる。真っ黒に濁った中和剤を、ボウルに移す。火に掛けておいた二種類の薬剤を、注意深く其処へ注ぎ込んでいく。ゆっくり渦巻く中和剤を、木の棒でかき混ぜながら、色の変化を見る。どす黒かった中和剤が、見る間に透き通っていく。二種類目の薬剤を足したところで、今度は薄黄色に変わり始めた。

唇を舐める。ここからが本番だ。目標量の八割ほどを注いだところで、念入りに計量しながら、残りを注いでいく。そのまま入れるのではなく、棒を伝わらせて、慎重に落とすのだ。火力も下げて、蒸発する水分も減らす。

最後の一滴を落とし終えると、中和剤の色は消え、毒々しい黄緑色の粘性が強い液体が残っていた。此処に蜂蜜を溶いておしまいだ。予定よりかなり多めに作ってある。相手が重病人ということもあり、こぼすことを想定しての調合だ。

ほくそ笑むと、裏庭に出る。捕まえておいた野良犬が、マリーを見て、眼前に縄をつるされた死刑囚のような悲鳴を上げた。無造作に手を伸ばして首筋を掴むと、口をこじ開ける。もがいていた犬だが、マリーが殺気を叩き込むとぴたりと動かなくなった。そして予定の分量注ぎ込んだ後、口を無理矢理閉じて、しばし待った。

飲み込むのを喉の動きで確認した後、地面に放り出す。悲鳴を上げながら犬はくるくる回っていた。しばしそれを放っておく。やがて、犬の動きがおかしくなってくる。目がとろんとしてきて、足下がふらつく。首筋を掴んで押さえ、針を皮膚に浅く刺してみる。反応無し。

成功だ。注いだ量からして、五刻ほどで元に戻るはず。司祭に投与する薬剤の量としては、適切な分量が完成した。

額の汗を拭う。本当はもっと実験を重ねたいのだが、今回は時間がない。早速薬を瓶詰めすると、外に出た。

日食で町中暗かったのが嘘のように、さわやかな晴れだった。

戸締まりをして、フローベル教会に向かおうとして、ふとマリーが足を止める。強い気配を感じたのだ。殺気も敵意もないが、かなりの使い手らしい。距離は五百歩ほど。巧妙に隠しているが、マリーには分かった。気配の主は、マリーには関心を見せず、ザールブルグ南門へ向かっている。この町には、強い気配の持ち主が幾らでもいる。だが、何処か異質な気配に、マリーは少しだけ興味を覚えた。

やがて気配は消える。ずっと立ちつくしていても仕方がないので、再びマリーは歩き出す。フローベル教会に急いで向かう必要があるのだ。瓶を入れたバスケットには、黒い布をかぶせてある。直射日光を当てると劣化する薬なのである。

大通りを行くマリーを見て、友好的に手を振ってくる人間、恐れてさっと退く者、反応は両極端だ。名声というものは正負揃って初めて一人前。これでいい。これなら多少失敗しても、地盤が崩れることはない。

やがて、フローベル教会に到着した。

死の気配。それは確実にあった。医師としてのゼークトは信頼しているから、まだ平気だと信じる。信じることで、自らを落ち着かせる。流石にマリーでも、緊張する瞬間はある。ゆっくり、礼拝堂の裏手へ進む。

小さな家が見えてきた。ドアの前に、ミルカッセが立ちつくしていた。マリーが咳払いすると、顔を上げた。

「お待たせ。 覚悟は、もうしたわね」

「……はい」

「ならいいわ。 司祭様、元に戻してあげる」

脇を通り抜けざまに、頭を一撫で。

アデリーにとっては貴重な同年代の女友達。自分の不幸を慰めるために、アデリーと仲良くなったという人物。だがアデリーは、それでもこの子と司祭を救いたいのだという。正直よく分からない部分はある。不快感もある。だが、マリーはプロとして、仕事に全力を尽くす。

まだ試験中の学生だと言うことと、ドナースターク家の臣である事は別。マリーは後者の意味でプロだ。だから、それにふさわしい行動をする。

家に入る。近づいて分かったが、死の気配が若干緩やかになっていた。壁にもたれて、アデリーが眠っている。毛布にくるまって、静かに寝息を立てていた。つまり、寝る余裕があるということだ。ゼークトが降りてきた。手を清潔な布で拭きながら言う。神経質な老人だが、患者には何かの神のような優しい表情を見せる。

「時間通りだな」

「戦況は?」

「予定通りだ。 投薬は最小限に抑え、疲労と消耗を抑えてある」

「流石ですね。 じゃあ、これからこいつを投薬してもらえますか」

一緒に二階に上がる。アデリーが目を覚まして起きかけたので、頭を撫でて床に戻す。少しばかり此処から子供には刺激が強い状況になる。

「飲み薬かね」

「いや、それでも本来は大丈夫なんですが、粘膜吸収式でいきましょう」

「そうさな。 今回は患者が弱り切っている。 それが一番良いだろう」

部屋にはいる。呻いている老人が、此方を見た。マリーはあくまで静かに、重々しい光りを目に湛える。

「お待たせしました」

「お、おお、ううう、うおおお」

司祭が手を伸ばしてくる。目は救いを求める、哀れな墜ちた聖人のものであった。なだめながら、ゼークトが歩み寄った。マリーはきびすを返すと、一階に下りる。司祭の名誉を考えてのことだ。心配そうに此方を見上げているアデリーに、笑顔を向けた。

「あたしの仕事は終わったよ。 後はゼークト先生がどうにかしてくれる」

「……」

「どうしたの? 嬉しくないの」

「嬉しいです。 でも」

アデリーは少しためらったが、だがはっきり告げる。

「ゼークト先生の働く姿は、マスターそっくりでした。 鬼気迫っていて、他のものは何も見えていなくて。 凄い人だと思いました。 プロフェッショナルだと思いました」

「それで?」

「教えてください。 プロフェッショナルになるって言うことは、他の全てを捨てるって事なんですか?」

「そうねえ。 一面においては、その意見は間違っていないわね。 特に、ある程度の高みに登ろうというのなら、絶対に必要なことでもある」

ミルカッセも戻ってきていた。アデリーとマリーの会話を、側で立ちつくして聞いている。

「一般人と達人の違いはそこにあると言っても過言じゃない。 普通である限り、究極的な高みに登ることは絶対に出来ない。 あたしとゼークト先生は、方法が違うだけで、その点では同じだわ」

「でも、でもマスター。 私は」

「あんたはあんたのやり方を貫けばいい。 親のあたしは、それを見守り、手助けするだけよ。 ただし、さっきも言ったとおり。 何かの高みに登ろうと思うのなら、他の全てを捨てなさい」

マリーはアデリーとミルカッセを次いで見た。ミルカッセにも聞かせておきたい事だったからだ。二人とも無言だった。それで構わない。若い頃に悩めば悩むほど、大人になってから懐が深くなる。

「さて、もしもの事もあるから、此処で少し仮眠するわ。 ベッド貸してくれる?」

「そちらの奧です」

「ありがと」

あくびが出てきた。薬が効果を示すまで、少し時間があるだろう。それまでは、眠ることが出来るはずだった。

ベッドに転がると、すぐに眠気が襲ってきた。薬が効果を示すところを想像しながら、マリーは夢の世界に足を踏み入れた。

 

恐ろしい人だと、ミルカッセは眠り始めたマルローネを見て思った。アデリーから話は聞いていた。だが、間近で見ると、よく分かる。この人は、完全に常識の枠を超えている。巨大で、圧倒的だ。

きっとこの人は、目的のためなら、人を全く躊躇せずに殺すだろう。どんな相手でも関係ない。そしてもっと怖いのは、この人が語ったプロフェッショナルの条件に、納得してしまう事だった。

司祭様だって、そうだったのだから。

ミルカッセが知る限り、司祭様は聖人だ。だが、人々を救い、神に奉仕すること以外、何一つ考えていない方だった。高潔な思想は光そのもので、神も恐れ入るような人格者だった。だから凄いと思った。憧れた。実の親ではないという事は、幼い頃から既に肌で感じ取っていた。いつの間にか、親への憧憬以外の心が、混じり始めていた。自分の血がおぞましいと思え始めていた。

それが恋だったのかは、結局よく分からない。親子の情愛というものとは、少し違うという事だけが分かっていた。だから、淫売と罵られても反論できなかった。自分は下劣で醜いのだと、悩み苦しんだ。今でも半分以上、自分は汚れた存在だと思っている。

アデリーが肩を叩く。自分の下劣な魂胆を知った上で、それでも友達でいてくれると、体で示してくれた子だ。親が子に似るなんて嘘だと思う。だってあの司祭様の娘であるのに、ミルカッセは魂の底まで汚れきっている。鮮血のマルローネの娘であるというのに、アデリーはミルカッセから見て聖女のような印象さえ受ける。

「苦しまないで」

「ごめんなさい。 私、その」

「私だって、心の中に汚いものはたくさん抱えています。 マスターの暴力を止めたいと思うのだって、結局エゴに過ぎません。 私、分かっているんです。 マスターがこれだけ色々作り出せる、様々な方向で業績を残せる、その原動力が、噴火みたいな暴力衝動だって。 それなのに、もし私がそれを止める手段を手に入れてしまったら。 人類社会の発展自体に、大きな影響が出てしまうんじゃないかって、いや確実に出ます。 それなのに、私は、自分のエゴで、それをやろうとしている」

アデリーが涙を流している。

「無意味に何かが殺されるのは嫌だ。 それだけの事なんです。 生きるために多くの命を奪うのが人間の性だと言うことは分かっています。 私だって、そうやって生きています。 マスターの場合は、それが人より多いだけ。 なのに、私、私」

どうしてもマスターの行為が我慢できないと、アデリーは言った。

「ミルカッセ、自分をおとしめないでください。 思い出してください。 司祭様でさえ、長い苦しみに晒され続ければ、壊れてしまうんです。 貴方が決して汚いわけではありません」

「……」

「終わったぞ」

ゼークト先生が、側に立っていた。汚れた手袋をバケツに突っ込むと、マルローネの近くの寝床に転がり込む。少し寝るから後で起こしてくれと言い残して。この人も、いい年だというのに、ここ二日殆ど寝ていない。

凄い大人だと、ミルカッセは思った。そして、近づきたいとも。

少しずつ、抑圧されていた心が溶け始めている。天井を見上げる。司祭様が元に戻るというのは、今まで話半分にしか聞いていなかった。だが、今ではそれを信じようと思い始めていた。

 

フローベル司祭は目を覚ました。今までずっと起きていたはずなのに。不意に、目が覚めたのだ。

ゆっくり手を持ち上げて、見る。別人のようにやせ衰えた手。頭には毛がもう一本も残っていない。しばし手を見て、気付いた。分かったのだ。

痛みが、消えている。体中をはい回り、あらゆる箇所から心を傷つけていた痛みが、消えてしまっているのだ。それに心が途轍もなくさわやかだ。涙がこぼれてきた。

おぼろげに覚えている。獣のように鋭い目をした娘が言った。元に戻りたいかと。元に戻してくれた。悪魔よりも獰猛であろう、あの娘が。それはきっと、自分の利益のため。だが、神の導きでもあったのだ。

「おお、アルテナ神よ。 貴方のお導きに感謝します」

フローベルはつぶやいた。ミルカッセにかけてしまったおぞましい言葉の数々が、良心を苛む。心が壊れかけていたとはいえ、なんと愚かであったことか。だが、今はそれよりも大事なことがある。分かるのだ。時間がもう殆ど残っていないと言うことが。

「ミルカッセ」

呼びかける。階段を駆け上がる音。姿を見せた娘は、涙を流しながら抱きついてきた。

「司祭様! 司祭様っ!」

「おお、愛しい娘よ。 すまなかった。 迷惑を掛けた。 本当に愚かな父であった」

もう一人、ミルカッセと同じ年頃の娘が部屋に入ってくる。あの凶暴な娘と、どこかに似た空気がある。多分娘か、或いは養子か妹か。軽く頷いたので、意図を悟り、フローベルは甘えることにした。

「人を集めて欲しいのですが、よろしいですか。 時間差をつけて、最初はアルテナ教会の司祭達を。 次は、近所のおばさん達を」

「はい」

娘は俊敏に身を翻すと、部屋を出て行った。もうこのベッドから起き上がることは出来ないが、それでもやることは幾らでもある。医者のゼークト老が、部屋に入ってきた。昔からの腐れ縁だ。ゼークトは少し驚いた後、視線を背けた。誰でも年を取ると涙もろくなるらしい。

「本当に……正気に戻りおったか」

「ゼークト、すまなかった。 迷惑を掛けた」

「なんの。 人にはそれぞれ事情があるものだ。 愚かしい慣習だの立場だのと切り捨てるほど、儂も尻が青くはないでな。 お前さんはよくやった。 誰よりも立派な、アルテナ神の司祭だよ」

苦笑し合うと、ミルカッセに宗教衣を持ってこさせる。死の瞬間までは、司祭でいたい。その後地獄に堕ちるとしても、正気に戻してくれたあの娘に報いるためにも、全力で自分を保たなければならなかった。ミルカッセに手伝ってもらい、着替える。心身共に、臨戦態勢にはいる。

すぐにアルテナ教会の司祭達が集まってくる。アルテナ教会は横に広い組織であり、政治的に傑出した力を持つ長がいない。だから、何事も話し合いで決める。ミルカッセに茶を用意してもらい、すぐに話し合いにはいる。同格の司祭達が、口々に言う。

「おぬし、本当に正気に戻りおったか。 良かった、良かった」

「あの、噂の鮮血のマルローネの薬が原因らしいな。 恐ろしい力だ、錬金術とは」

「それもあるが、やはり神のお導きだろう。 アルテナ神が、愚かな私に機会をくださったのだ。 さあ、もう時間がない。 すぐにすませよう」

皆で神に拝礼する。愛用の錫と、紙とペンを持ってくるようにミルカッセに告げると、さっと青ざめながらも、すぐに部屋の外に走っていった。品物が運ばれてくると、震える手を渾身の力で動かしながら、紙に文字を丁寧に書いてゆく。

アルテナ教会を相続するには、儀式が必要だ。同格の司祭達に見守られながら、宣誓しなければならない。ミルカッセが涙を拭っている。出来るだけそちらを見ないようにして、フローベルは声を張り上げた。

「我は、今此処に誓う」

「我らは、今此処に認める」

声を張り上げる司祭達も、涙をこぼしていた。やはり、誰も年を取ると涙もろくなるのだ。

「ミルカッセ=フローベルに、この教会を相続することを」

「ミルカッセ=フローベルが、この教会を相続すると」

「アルテナ神に誓う。 我が全てのものを、この者に継ぐと」

「アルテナ神の御許で見届ける。 ギュンター=フローベルが、全てを継がせることを」

後は全員で声を張り上げ、神に感謝の言葉を唱えた。誓約書に全員でサインし、丸めてスクロールにする。そして自分の錫を開けると、空洞になっている其処へ、スクロールを押し込んだ。蓋を閉じて、ミルカッセに手渡す。跪いた娘が、床に涙をこぼしながら、受け取った。

「ミルカッセ、謹んで承ります」

「うむ。 もう泣くでない」

「はい」

司祭達は別れを惜しんだが、次は葬式で会おうと言って帰らせる。続いて近所のおばさん達が集まってきた。彼女らはやつれ果てたフローベルの姿を見て驚いた。心配の声と同時に、ミルカッセに露骨な敵意が突き刺さる。

そう。死ぬ前に、これを取り去らなければならないのだ。

ミルカッセは元々心優しい娘だ。このような状況になっているのは、外的な要因が大きい。一人で何もかもするのには限界がある。場合によっては、大人が手を貸してやらねばならない。地獄に堕ちる前に、フローベルは、娘のための道を造っておかねばならなかった。どんな優しい人間でも、悪意に晒され続ければ壊れる。ミルカッセは、その典型例だ。これ以上、地獄の人生を歩ませてはならない。

「司祭様、今までどうしていたのですか」

「病で伏せっておりました。 皆様にはご心配をおかけしましたな」

「そんな、私たちは」

「先に言っておきます。 この病の発端は、私の不養生と不信心が原因です。 この娘には、それに悪魔にも、何の関係もありません」

おばさん達に、とうとうと告げる。この娘は不幸な生い立ちなだけで、心は決して汚れていないと。子供達の事故は、皆不幸な偶然によるものなのだと。そしてこの娘に、今司祭の位を相続したことを。アルテナ教会の司祭達皆が認めた事なのだと。おばさん達のリーダー格が困惑しながら言う。

「司祭様が、そうおっしゃるのなら」

「私はもう長くありません。 だからこそに、娘のために道を開いておきたい。 皆様、私の娘をよろしくお願いします。 到らない所も多くありますが、皆様のお力添えで、どうか」

「し、司祭様!」

頭を下げたフローベルに、必死に取りなしの声をあげるおばさん達。どうにか説得できたと、司祭は安心した。

おばさん達も帰ると、辺りは静かになった。もう、そう長くは生きられないだろう。最後に、やっておくことがある。

「ミルカッセ」

「はい」

視界が暗くなってきた。終わりの時が来たと、フローベルは思った。多分、息そのものはまだ続くだろう。だが、心はもう死ぬ。自然の摂理だ。

「お前は私の自慢の娘だ。 だから、胸を張っていきなさい」

「司祭様」

「泣くんじゃない。 お前が、もう司祭なのだから。 ミルカッセ司祭」

力が抜けていく。ミルカッセの声が遠くなっていく。

最後の瞬間、フローベルは、感謝の言葉をつぶやいていた。

 

一階で背中に壁を預け、腕組みしていたマリーはつぶやいていた。上で、司祭の気配が消えたからだ。

「思ったより短かったわね」

司祭が元に戻ったのは、時間にして四刻ほどだった。正気に戻り、それを維持すると言うことが、相当な体力を消耗したのだろう。それがマリーの予想以上に寿命を縮めたのである。まだ生きてはいるようだが、もう死ぬまで昏睡状態から回復しないだろう。それも、そう長い時間ではない。

貴重な人体実験の成果であった。後でアカデミーに報告書を提出する必要性がある。マリーとしてもアルテナ教会に恩を売ることが出来たし、まず満足すべき結果であった。二階に上がってみる。フローベル司祭は、安らかな表情だった。大往生と言うにふさわしい。ミルカッセは不思議ともう泣いていなかった。それどころか、マリーに対して頭を丁寧に下げた。

「有難うございました。 父は感謝しておりました」

「ん。 支払いは考えなくて良いわよ。 その代わり、いざというときは力になってね」

「微力ですが。 この恩は忘れません」

冷静で落ち着いた対応に、マリーは心中で口笛を吹いていた。フローベル司祭の呼び方からでも分かるが、この娘は確実に一皮むけた。将来は傑物になるだろう。結構な話である。コネクションを築いたことが、必ず後になってドナースターク家の財産となる。料金も、後でアルテナ教会そのものに掛け合う。敢えてそれを伝えないことで、この娘には更に大きな恩を売っておくのだ。もっとも、現状でもそれほどふっかけるつもりはないが。

ゼークトも部屋に入ってきて、脈を取る。そして首を横に振った。それから一刻の後、フローベル司祭は息を引き取った。非常に安らかな死に顔で、それは聖人の逝き様にふさわしかった。

葬式の手配は、下の部屋に残っていた司祭の一人がしてくれるという。後はもう、マリーにすることは何もない。アデリーを伴ってアトリエに帰る。感情の爆発は、多分本格的に眠った後だろう。その時は楽しく何かをぶっ殺して喰うことにする。

帰り際、一緒に歩いていたゼークトが言った。

「やはり、あんたの薬は凄いな」

「有難うございます。 貴方の腕こそ、大したものです」

「この結果が良かったかは、儂にはわからん。 だが、周囲の人間達が皆不幸にならずに済んだのは事実だ。 多分社会が発展した未来でも、あんたの行動の是非は倫理という観点からは決着がつかないだろう。 だが、儂は、あんたに感謝するよ。 友を正気に戻してくれてありがとう」

「はは、照れくさいなあ。 先生こそ、完璧な投薬有難うございました」

手を振って別れる。アデリーはしばらく何か言いたそうにしていたが、結局無言で通した。

翌朝。マリーは近くの森で、身長の四倍半ほどあるサラマンダーを殴り殺し、喰った。困難な仕事を成し遂げた後の、ささやかな報酬。マリーの楽しい時間であった。

 

5,動き出す魔人

 

錬金術師バルカスは、エアフォルクの塔最上階にいそいそと向かっていた。同志達による研究が一段落し、ついにあれを完成させる時が来たのである。

バルカスに、何かに与しているとか、裏切ったとか、そういった感覚はない。ただ創造的な事業を行っているという快感のみがある。あのしわくちゃの小さな老人が持ってきた計画を実行に移すことが、己の全てとなっていた。それによる創造的な事業が、彼の心を奮い立たせてくれていた。

資金的な困難も、こうなると却ってプラスの材料となった。皆が一丸となることで、工夫しあい、あり合わせの材料から様々な事をすることが出来た。幸い、スペースは有り余っている。クリーチャーウェポン達が竜軍との戦いで壊滅してしまったから、余った培養槽や牢屋は幾らでもあったのだ。

そういった場所を有効活用し、既に二つのオーダーメイド型のクリーチャーウェポンを作り上げている。どちらも高い戦闘能力を持ち、自慢の一品と喧伝できる品だ。更に今。最上階で作っているクリーチャーウェポンが完成すれば。社会はバルカス達を歓喜の声で認めることだろう。シグザール王国も、破格の待遇で迎えてくれるのは間違いない。

長い石造りの螺旋階段をあがると、最上階に出る。天井部分から光が差し込んでいる其処の中央には、培養用の巨大なガラスタンクがある。その中では、奇怪な物体がうごめいている。騎士達には見せていない。すぐに隠せるように、色々な工夫をしてあるのだ。それでも隠し通すには無理があるから、突貫工事で仕上げたのだ。

部屋には既に複数の錬金術師達がいた。皆バルカスの同志達だ。彼らはバルカスの姿を認めると、実に嬉しそうに言った。

「おお、バルカスよ、来たか」

「どうだ、様子は」

「今90%と言うところだ。 肉体面では完全に構築が終了している。 後は操作用のワードを組み込めば終わりだ」

バルカスは大きく頷いた。満足を共有できるのが素晴らしい。

これぞ、以前カミラが作るように命じ、結局竜軍壊滅作戦には間に合わなかったクリーチャーウェポン。要人護衛用究極生体兵器。魔人ファーレンである。人間を材料にしていると言うこともあり、二つと作れる品ではない。

最強のクリーチャーウェポンにするようにと命令は受けていた。だから様々な事を試し、能力を付与した。ベースは人間だが、様々な動物の長所を取り込ませることで、能力を格段に跳ね上げた。拒絶反応も出たが、それらは薬品類で強引に押さえ込んだ。世代交代による根本的なバージョンアップが図れないので、作業は慎重を要した。

巨大な肉の塊。それがファーレンにふさわしい形容であった。肉塊からは無数の腕が前後左右に突きだし、最上部には山羊に似た頭部が据わっている。体の中央部には巨大な目があるが、それは頑丈なテグスで上下からまぶたを縫いつけてある。背中には巨大な翼があり、尻尾は最大のサラマンダーのものを利用した。他にも、体の彼方此方に、様々な内臓器官が異様な形で備わっている。

此処にいる誰もが、この異形を作り上げることに、倫理的な後ろめたさを感じていないのが面白い。命をいじくる仕事を続けてきたからかも知れない。この人間を好きにして良いとカミラに生け贄を渡されてから、出来なかった事は何一つ無い。錬金術の秘技を尽くして作り上げたこの魔人。必ずや、皆の悲願を果たしてくれるはずであった。

「さて、問題はこれをどうやってアピールするか、なのだが」

「少し前までなら、フラン・プファイルがいたからな。 あれと戦わせて、性能実験が出来たのだが」

「そう言っても仕方がないだろう。 ドムハイトの砦か何かを襲わせるか?」

「それはいいな。 まだ百体以上はクリーチャーウェポンも残っている。 砦の一つや二つなら楽勝だろう」

脳天気に皆で笑い合う。それが大勢の命を奪うことなどと、誰も考えてはいない。バルカスも笑いながら、培養槽に踏み出した。次の瞬間。

ファーレンの、体の中央の目が、痙攣した。テグスが引きちぎられていく。笑っていた錬金術師達が、引きつった。慌てて薬品を取りに走る何人かを尻目に、巨大な肉の塊が、蠕動し始める。

「な、なな、何が起こっている!」

「強制睡眠状態から回復できる機能はないはずだ! 実験のデータから言っても、あり得る状況ではない」

「今回復しているではないか! それどころではない! 早く眠らせろ! まだ命令コマンドは組み込んでいないのだろう!」

「分かっている!」

此奴が暴れ出したら、騎士団が総力でも上げない限り止めることは出来ない。自由に動くと思っていたからこそ、錬金術師達が余裕綽々だった。バルカスは右往左往しながら、こんな馬鹿な、こんな事がと呟き続けていた。

錬金術師達が、培養槽に強制睡眠用の劇薬を流し込む。量が多すぎるような気もするが、今は構っていられない。まだ命令コマンドをろくに覚えさせていない状態では、こいつは巨大な爆弾と同じだ。もう少しおおっぴらに作ることが出来ていれば、ある程度肉体が出来た時点で命令ワードを覚えさせることが出来たのだが。歯ぎしりする。しかも、此奴の力の根源は、身体中央部の目だ。これがこじ開けられるという事は、リミッターが吹き飛ぶのと同じである。

培養槽が泡立つ。肉体の蠕動が止まらない。悲鳴を上げた錬金術師。劇薬が効果を示さない。

やがて、テグスが全て千切られた。まぶたが開き、巨大な瞳が姿を表す。

「シネ」

バルカスは死の直前。確かにそう聞いた。

次の瞬間。エアフォルクの塔最上階にいた人間は、全て死んだ。

 

ドムハイトで待機していたじいの元に、その情報が伝書鳩を使って届けられたのは、夏に入ってすぐの事であった。手紙は暗号で書かれていたが、文意は単純であった。解読表を使うまでもなく即座に読み取ったじいは、アルマンの元へ急ぐ。

アルマンは連日の激務で疲弊しきっていて、自室で机に突っ伏していた。他の兄弟姉妹が遊びほうけているつけを細い体で全て受け止めているこの娘は、目の下に隈まで作っている。肩こりも酷いらしく、時々侍女に揉ませていた。部屋にはいるような無礼は出来ない。だから天井裏に潜り込み、其処から語りかける。

「我が君」

「じいよ、どうしました?」

僅かなタイムラグの後、アルマンは反応した。目を擦りながら、上半身を起こす。此処一月、満足に寝ていないはずだ。その成果は確実に上がっているのだが、それを全て伝えている時間がないのが口惜しい。

「シグザール王国での作戦、成功しました」

「そう、ですか」

「連中はしばし事態の隠蔽と打開に全力を挙げなければなりません。 その間に、此方の奸を取り除いてしまいましょう」

アルマンは罪悪感を顔中に湛えて頷いた。辛いだろう。だが、我慢してもらうしかない。自分で建てた策なのだから。

現在のドムハイトとシグザールが対等の交渉をする条件は二つ。一つは、ドムハイト側に、シグザール内に乱を起こす実力があると示すこと。交渉の基本は、カードの切り合いだ。今まではドムハイトに、切るカードが存在しなかった。正確にはシグザールの長年の計画の結果、いつの間にかカードを全て奪われてしまったのだが。ともかく、この作戦の成功によって、ドムハイトの実力をシグザールに見せることが出来た。交渉の材料にすることが出来る。

もう一つの条件は、この国が一枚岩であるということ。複数の権力派閥があり、それらが好き勝手なことをしている状況では、シグザールには対抗できない。誰かしら、強大なリーダーが必要となってくるのだ。

「ご命令を。 既に準備は整っております」

「閣僚名簿に目を通しましたが、財務大臣をケーニヒスからシェルテンに変えてください」

「は。 それ以外に変更は」

「ありません。 クーデターの実施を」

じいは闇の中頷くと、すぐに部下達の元へ向かった。既に戦力は整えてある。後は血税を貪ることしか能がない豚共を、地上から放逐するだけだ。

その日。シグザール王国首都、ザールブルグ近郊で恐怖が生まれてから数日遅れて。

ドムハイト王都でも、血の雨が降り注いだ。

 

(続)