火竜死す
序、つなぎ狼煙
シグザール王国首都、ザールブルグ。二十万の人口を抱える大陸屈指の巨大都市。その南部に広がる森の中、佇立する塔あり。エアフォルクと名付けられた其処に、深夜忍び寄る影があった。
いずれも目立たないように、春になって芽吹き始めた森と同じ緑と茶の迷彩色を施した服を着込み、肌を隠している。ドムハイトが、シグザールとの大戦時から脈々と受け継いでいるスパイ網を担う者達だ。今回の潜入参加者は六名。いずれもスパイ網構成員の中では精鋭であり、能力者も二人混じっている。本国の最精鋭諜報員ほどではないが、かなりの腕前の者達だ。新月の闇の中、六人は風のように走る。やがて、塔の姿が至近に見えてきた。
塔の背はそれほど高くない。石造りのその塔は五階建てで、人間の十数倍程度の高さしかない。一階の広さもそう大したことはない。百歩もすれば周囲を回りきれる程度だ。こんな塔に、ドムハイト王国が精鋭を投入する理由は一つ。此処に、竜軍を壊滅させた謎がある可能性が高いからである。
以前は手練れが油断無く周囲を見回っていたが、最近隙ができはじめている。それが故に、こんな距離まで接近できたのだ。六人はさっと散ると、塔の探索に掛かる。
彼らのリーダーを務めている黒づくめの小男は、本来は名前を持たず、コードナンバーで呼ばれている。彼は赤子の時に奴隷として売られ、後は国営の施設で間諜として育て上げられた。その時に自我も奪われ、感情を消す訓練も受けた。シグザール王国では、普段ジョンという名前を使っていて、軍牧場で働いている。数年がかりで潜り込んだだけあり、情報収集には良い場所だ。なにしろ軍の牧場だけあり、戦の際には動きがもろに見えるのである。だが今回の竜軍壊滅において、牧場には全く動きが見えず、異変を国に知らせることができなかった。それをジョンはずっと悔やんでいた。そう。悔やんでいたのである。感情が無いはずなのに。
茂みの中を這いながら、ついに塔の至近に出る。流石に其処には騎士が見張りに着いており、油断無く周囲を警戒していた。まだ若い騎士であり、ジョンよりは若干実力が落ちるようだが、それでも中には入れそうもない。茂みの中で息を殺し、機会をうかがう。狙うなら、交代の瞬間だ。油断無く塔の周囲を回って、地形を把握していく。紙に書き留めていく。次に来た時に、すぐに潜り込めるように、だ。
小さな悲鳴が聞こえた時、一気にジョンの全神経は緊張した。悲鳴は、連れてきた部下の一人が上げたものだ。つまり、何者かに見つかり、殺されたと言うことである。
茂みの中を後退し、一定まで離れたところで、逃げに掛かる。立ち上がり、低姿勢のまま、全力で走る。また一つ、小さな悲鳴が上がった。生きた心地がしない。まさか、おびき寄せるために、わざと隙を見せていたというのか。
また一つ。悲鳴があがり、すぐにかき消える。今までにない近くで、だ。殺気すら感じなかった。もう皆逃げ始めているはずだ。後は個人の裁量で、逃げてもらうしかない。
合流地点や、生き残った時の対処法は既に告げてある。もう他に構っている余裕はない。死ぬ時はただ消えるのみ。それが訓練を終え、地獄の国境地帯を抜けてシグザールに潜り込んだ時に、決まった運命だ。それで納得してきた。だが、普通の人間として生活しているうちに、どうしても情は湧いてくる。それが恐怖や逡巡を招き、結果命を落とす間諜は少なくない。ジョンも今、牧場の側に住んでいる、若く美しい屯田兵の娘の事を思い出していた。雑念が、ほんの一瞬だけ、動きを鈍らせる。
見た。闇に浮かび上がる影一つ。星空を背に、跳躍する巨影。
狼だ。しかも、とんでもなくでかい。それが、最後の思考となった。ジョンは音もなく地面に押しつけられ、首を食いちぎられていた。
エアフォルクの塔探査を行っていたドムハイト王国の諜報員は、六名だけではない。潜入班は六名だが、他に支援部隊が動いていたのである。
ジョンが命を落としたことを、外部で状況を確認していた能力者エルミィは敏感に悟っていた。長身の彼女はすぐに目を閉じ、最後に感じ取ったイメージを脳裏にて再生する。他の五人と見たものはほぼ同じだ。巨大な鳥を最後に見たのが二人、狼が四人。森に潜入した諜報員達はいずれも、もう生きていない。茂みの中に、箱を抱えて伏せていたエルミィは、目を閉じて命を落とした同志の冥福を祈る。普段はザールブルグのアルテナ教会で仕事をしている彼女は、資格を持つ歴とした下級の宗教指導者、司祭だ。かっては形だけの信仰だったが、十年以上もこの国で暮らすうちに、それは本物に変わっていた。だから深い罪悪感に常に苛まれ、今日の任務も本当はいやだった。
エルミィは一種の精神感応者であり、百歩以内の近くで命を落とした人間のイメージを、正確に脳裏に再生することが出来る。ただし、ついさっき死んだ人間の思考でなければ、読み取ることが出来ない。制約が多い能力だが、一番の魅力は、そのイメージを他の生物にも伝達できると言うことだ。
よく似た能力を持つ妹とのコンビネーションで、これは非常に強力な情報伝達効果を発揮する。すぐに箱の中に入れていた伝書鳩を取り出す。白い鳩の胸を額に押しつけ、今六人が見たものを植え付ける。羽ばたく鳩を、空へ逃がす。夜空に飛んでいった鳩を見送るのと、背中から突き込まれた槍が体を貫通するのは同時だった。胸から突き出した冗談のように大きい槍の穂先を見ながら、エルミィは血を吐いた。
「運がなかったな」
背中から、初老の男の声が聞こえてくる。地獄から響いてくるような威圧感。聞き覚えがある。引退後も軍に請われて時々仕事をしている戦闘狂。圧倒的な実力を誇る殺戮者。人間破城槌、クーゲル=リヒターだ。意識が急速に薄れていく。周囲に、複数の気配が集まってきた。いずれも、エルミィなどでは及びもつかない、バケモノのような使い手ばかりだ。悟る。どのみち、この場からは誰も逃げることは出来なかったのだ。
クーゲルは静かに言う。あまりにも的確な奴の状況判断力が、薄れいく意識を絶望一色に塗り込めていく。
「鳩を追え。 多分何かしらの能力で情報を伝達したはずだ。 逃がさず殺せ。 鳩が接触した人間も余さず殺せ」
「はっ!」
気配が散る。やはりこの塔は何か深い秘密を秘めていたのだと、エルミィは知った。胸から下げていたネックレスが、千切れて地面に転がっているのが見えた。拾おうと手を伸ばす。だが、そこまで意識が持たなかった。
背中をクーゲルが踏んだ。槍が一気に引き抜かれる。体の前後から大量の血が噴出し、同時に意識も落ちる。エルミィは、神の御許へは行けないなと思った。神のシンボルの上に倒れ落ちたエルミィは、ただ妹の無事を祈りながら、逝った。
ドムハイトとの国境近く。地方アルテナ教会の見習い司祭(最下位の宗教指導者)をしているシュティーリアは、白い鳩が小屋に舞い降りてきたのを見て顔色を変えた。掃除中だった彼女は、あわただしく箒を片付けると、伝書鳩の小屋に走る。自分が仕事をする時だと分かったからだ。
案の定飛んできた鳩を確認すると、諜報員同士の合図である、白い糸が足に結びつけてある。この鳩は、姉が任務のために連れて行った。それが帰ってきたと言うことは。重要なイメージが鳩に託されている。
早速小屋に潜り込んだ鳩を掴み、額に当てる。ああと、思わず嘆いてしまう。姉が死んだ事を悟ったからだ。死のイメージが封入されていたわけではない。姉妹だから、分かってしまうのだ。姉の命が尽きたという、冷厳な事実が。
涙がこぼれる。どうしてだろうと、シュティーリアは目を擦る。涙はあふれ出して止まらなかった。感情を消す訓練を受けてきたのに。何故、今更に涙がこぼれるのだろう。平和で穏やかな修道院での生活で、いつしか本物の感情が芽生えていたとでもいうのか。感情など、作り物のはずだ。そう、何に変えてでも、任務を果たさなければならないのだ。
別の茶色い鳩を取り出すと、額をつける。今受け取ったイメージを、この鳩に移し替えるのだ。後はドムハイトにいる諜報部隊の長が、情報を受け取ってくれる。鳩の足にはダミーの手紙が結わえ付けてある。それが終わり、鳩を空に放す。
振り返ると、そこには年老いた女がいた。院長先生だ。この地方アルテナ教会の責任者であり、村の皆からも尊敬されている名士である。悲しそうにシュティーリアを見ている。シュティーリアは、身動き一つ出来ないまま、胸に短剣を突き刺されていた。ナイフは肋骨の間を滑り込み、心臓を一突きにしていた。
「私は、貴方に人としての喜びを教えたはずです」
「あ……」
「哀れな。 ドムハイトを捨てれば、一生ここで安楽な生活を送らせてあげたのに。 貴方のようなひよっこが、私から気配を隠せると思っていたのですか」
「いん、ちょ、う、せん、せ…」
そのまま、シュティーリアは地面に崩れ落ちた。もうそれ以降は言葉にならなかった。だが、シュティーリアは、確かに最後まで言うことが出来た。
「ごめんなさい」
院長先生は泣いていた。理由は分かっていた。この人が何故、自分に優しくしていてくれたのかも。同じように間諜で、もしくはそうだった時期があり、立場を理解できたからなのだ。ドムハイトの間諜を辞めた人間なのか、そうではないのかは分からない。分かっているのは、シュティーリアは今、己の理解者を最悪の形で裏切ってしまった事であった。
薄れゆく意識の中、自分は地獄に堕ちるのだろうなと、シュティーリアは思った。やがて、何もかもが消える。何もなかったかのように。
死とは、そういうものであった。
ドムハイトの国内。腰の曲がった小さな老人が、飛んできた鳩を捕まえる。そして、目を閉じた。彼はじいとだけ呼ばれている。ドムハイトの間諜を束ねる長である。じいは知った。シグザール王国内にうごめく、巨大なる動物たちの姿を。
多くの間諜が、この情報をもたらすために命を落としたのは明らかだ。僅かに隙が出来たと言っても、シグザール王国の情報網はそれほど甘くない。それに、知ると証拠を掴むの間には、非常に大きな隔たりがある。
まずはアルマン王女に事態を報告。シグザール王国は、巨大な動物を意のままに操る技術を身につけたと考えられる。十中八九、竜軍を屠ったのはその技を用いてでのことであろう。動物共は、巨大なだけではなく戦闘能力も相当なものだ。訓練を受けた間諜六人が、殆ど手も足も出せず仕留められたのだから。
シグザール王国の目的が何かは、じいにはまだ分からない。それを分析し、判断するのは国家上層の仕事だ。そして今まともな能力を持つ王族はアルマンしかいない。だから、思考は彼女に委託する。
命のつなぎ狼煙によって届けられた情報、無駄にするわけにはいかない。じいは衰えが目立つ体をせかし、アルマンの元へ急いだのだった。
1,戦竜序曲
エンデルクがアトリエを訪れた時、マリーはやはり来たなと思った。その時マリーは、この間製作したアロママテリアに、耐薬品実験をしているところであった。重ねた海綿の上にアロママテリアを置き、ガラス棒につけた強酸をたらす。殆ど反応はしない。本当に強固な物質で、マリーとしてはため息が出るほどに面白い。強酸を落とし終えると、マリーは玄関の外で立ったままのエンデルクに、声を掛ける。随分前から、気配で分かっていた。
「いらっしゃいませ。 中に入っても良いですよ」
「邪魔する」
ドアを開けて、長身のエンデルクが入ってくる。普段着とはいえ、整った顔立ちの彼は目立つ。事実、ドアを開けた時、此方を見ている複数の視線を感じた。羨望と嫉妬を含む視線だ。椅子に座るように促す。今はアデリーが外出中なので、マリー自身が茶を入れる。多少危なっかしい手つきだが、どうにかこぼさずに淹れることが出来た。
「今日のご用は何ですか? 騎士団長」
「うむ。 すまないが、依頼をしたい」
エンデルクは少し申し訳なさそうだったが、瞳の奧には、この間と違い強い覇気が燃え始めている。自信が戻り、それに伴って精気が溢れ始めているのが、マリーには分かった。何があったのかはよく分からないが、大陸最強の男が、それにふさわしい自負を持つのは当然のことだ。活力の溢れた状態こそ、エンデルクの自然体であろう。ならば、今の状態こそが正しいのである。
アロママテリアを片付けると、マリーはエンデルクの向かいに座る。黒い塊はまだ半分以上も残っている。当分はありとあらゆる実験で痛めつけることが出来るので、肌の艶が落ちることはなさそうだ。
「依頼というのは、他でもない。 君に、ヴィラント山に同行して欲しいのだ」
「どういった目的ですか?」
「いうまでもないだろう。 あの火竜、フラン・プファイルを仕留める」
やはりそう来たか。予想が的中したことをマリーは悟ったが、わざと驚いたふりをして、話の続きを促す。エンデルクも、マリーがとっくに目的を見透かしていたことには、気付いているかも知れない。この辺りは、大人の駆け引きだ。相手に隙を見せると、それだけ不利になる。本当に信頼した相手以外には、腹の内は絶対に見せない。そうすることによって、意図しない状況が来た時に対応できる手札を増やすのだ。
「どうして、在野の人間であるあたしに?」
「それは国家機密だからいえん」
「そう言われてしまうと、元も子もないですけれど。 専門職の冒険者で、あたしより腕が立つ人間もいますよ?」
「腕そのものは立つかも知れないが、私は知らない。 君の実力は、私から見ても確かで、しかもサバイバルのスキルもかなり高い次元にある。 あの険しいヴィラント山で、しかも少人数で火竜と戦うには、君の力が必要なのだ」
エンデルクは低姿勢を貫いている。騎士団に入れとか、そういう無理難題を押しつけられているわけではないし、此処は相手の報酬次第か。マリーとしては、今すぐではないが、入手しておきたいものもある。
「分かりました。 金銭以外で、飲んでいただきたい条件が一つあります」
「何かな?」
「戦利品の分配条件です。 斃した火竜の内臓一式をいただきましょう。 特に牙と心臓、膵臓は譲れません」
いずれも最高級の武具や薬の材料となるものばかりだ。エンデルクは特に執着無く頷いた。
「私は構わない。 目的は火竜を斃すことだけだ。 ただ」
「ただ、なんですか?」
「金銭的な報酬は後で交渉するとして、戦利品の分配は、助力を頼むもう一人と相談して欲しい。 君もよく知る相手だ」
予想は出来ていた。ドナースターク家は騎士団と接触を強めており、以前関係者であるマリーもエンデルクと会食したことがあるほどだ。つまり、助力を頼むのは、トール氏か、シア。そして今回で言えば、衰えが目立ち始めたトール氏ではなく、若く力を伸ばしつつあるシアであろう。
「分かりました。 ドナースターク家にこれから向かいましょうか」
「そうか、知っていたのか」
「いえ、状況証拠から推理しただけです」
エンデルクはマリーを油断無く見ていた。こういう油断すれば即座に喉を掻き斬られるような緊張感が、マリーにはむしろ心地よい。戸締まりをして、外に出る。看板をひっくり返して、外出中の文字を露出させる。
外の空気は暖かである。水路は静かな音を立て、魚がゆっくり泳ぎ回っていた。麗らかな日差しの中、赤い羽根の蝶までが飛んでいる。薬効成分のある品種だ。だが、都会の蝶は生命力が弱いので、あまり使い物にはならない。
エンデルクは以前より饒舌になっていて、頻繁に話しかけてくる。頭半分高いところから声が来るので、少し首が疲れる。
「あの娘、アデリーといったか。 クーゲルの所か?」
「ええ。 うちの子なら今日もクーゲルさんに鍛えてもらってます」
「うちの子?」
「この間、正式にあたしの子にしました」
奴隷を示す黄リボンを取ったのは、半月前のことだ。その時、アデリーに二択を示した。独立するか。マリーの正式な子供になるか。アデリーはためらいなく後者を選んだ。マリーは少しだけ嬉しかった。独立を選んでも最大限の支援をするつもりだったが、やはり本音では子供になって欲しかったのだ。
頭を掻きながら、マリーはのろけ話を披露する。もちろん、エンデルクとの社交だと言うことは覚えている。幸せについて触れることは、立派な対人コミュニケーション技術なのだ。
「まだまだ母さんって呼んではくれませんけどね」
「それはそうだ。 君の所に随分長くいたのだと聞いている。 いきなりそうは呼んではくれないだろう」
笑いあうと、もうドナースターク家が至近に見えてきた。マリーには分かる。元々エンデルクは武力以上に謀略で事を成すタイプだ。低姿勢なのに油断すると、瞬く間に尻の毛まで抜かれることであろう。だから今回はシアと連携して、油断せず事に当たる。
ドナースターク家の玄関で掃除をしていたマルルは、呆然とエンデルクの長身を見上げ、それから大あわてで屋敷に駆け込んでいった。すぐにセイラが出てきて、落ち着いた物腰で中に案内してくれる。
セイラについて廊下を歩く。以前よりも更に内部が整った印象だ。貴族の屋敷としては非常に質素な作りだが、調度品はいずれも高価である。さほど長くもない距離を歩いた後、良くくつろげる家庭的な居間に通される。すぐにセイラ自身が茶を入れてくれた。茶が入ってから家主が出るのが貴族の接待マナーの一つである。
略装のシアが出てくる。動きにくいごてごてした装飾の着いたドレスではなく、野外で戦うことを考慮した頑丈なものだ。所々には金属の糸を織り込んであり、耐久性も高い。まず主賓のエンデルクが机の右脇に、上座にシアが。最後にマリーが下座につく。下座はシアの正面となる。
「急な訪問申し訳ない。 シア殿」
「いえ、此方こそ、大したもてなしは出来ませんが、お許しください。 エンデルク様」
マリーは今のところ、することがない。こういう場合、接待は家主か、その代理人の仕事だ。だから、マリーが下手に口出しするのは失礼に当たるのだ。
今日はトール氏が外出しているはずで、シアがこの場を取り仕切る。雑談をしているうちに、エンデルクに見えないようにシアが机の下で指を一つ鳴らす。すぐにメイドが一人飛んでいって、茶菓子を持ってきた。絶妙のタイミングである。
高級な焼き物の小皿に乗せられて並べられたのは、蜂蜜入りの茶色い焼き菓子だ。甘い香りが鼻腔をくすぐる。出された食べ物を見ても、すぐに手を伸ばしてはいけない。こう言う時は客が最初に食べ、それから家主と順番が決まっているのだ。また、皿の価値も順番が決まっていて、一番良いものを家主が使う。こういった順番は接待の基本であり、マリーもザールブルグに出てきてから覚えた。
エンデルクとシアが食べるのを見届けてから、マリーも皿に手を伸ばす。少し固めに焼いてあって、味はじっくり広がる感触だ。実に美味しい。高級感よりも、丁寧に作った事がよく分かる味だ。若干だが、味が以前食べた同種の茶菓子より、少しビターになっている。シアの好みが、少しずつ渋い方向に変わっていると、最近マリーは聞いた。もちろんそれもあるだろうが、大人の男であるエンデルクの嗜好に合わせたのであろう。案の定エンデルクは満足した様子で、頷きながら茶をすすっていた。
多分シアのことだから、エンデルクがマリーと来た時点で、用件を悟っているはずだ。元々シアは若い家臣達を育てるためにも、たまには自分が離れてみるのも良いとマリーにこぼしていた。今回の仕事については願ったりのはずである。だが物事には順序というものがある。シアはまず、相手の出方をうかがう。
「それでエンデルク様、今日はどのようなご用件ですか?」
「実は、このたび私はヴィラント山に在野の人材だけを確保して向かい、フラン・プファイルに挑む事になった。 そこで、是非名高い使い手である貴方に同行してもらいたいと思ってな」
「まあ。 それはそれは」
シアがマリーを見たので、目配せする。こういった場合は、返事をすぐにした方が、相手に対する好感を稼ぐことが出来る。この様子だと、シアはマリーが何を要求するかもほぼ読んでいたのだろう。流石である。ドナースターク家の次代は、シアが問題なく引っ張っていくことが出来る。マリーはその下で、心おきなく働くことが出来るだろう。
「分かりました。 日時を調整させていただきます」
「すまぬ。 それで、報酬なのだが、金額は後で相談させていただきたい。 戦利品については、全てそちらに譲渡する予定だ」
「分かりました。 後で細かい交渉を行う人員を派遣させていただきます」
「重ね重ね済まない。 それでは、当日よろしく頼む」
エンデルクが頭を下げたので、まずシアが。続いてマリーがそれに習う。最大級の礼儀を客が尽くしているのだから、家主が横柄であってはならないのだ。ましてや、エンデルクは今後も大事な客となる存在なのである。
色々迂遠な部分もあるが、こういうマナーは共通のルールを作ることにより、様々な利益がある。マナーを知っているという社交上の知識を計ることも出来る。また、相手に対する礼節をわかりやすい形で示すことが出来るという意味もある。ただし、マナーの複雑化が行きすぎると今度は新参者が社交界に入り込めなくなるので、その辺りは注意が必要だ。既得権益が絶対ではないシグザール王国だが、だからこそ体勢の硬直化には気をつけなければならない。シアもこれから、それに関与する立場になっていくのだ。
だから、この社交の場にも、シアらしい工夫を入れる。立ち上がりかけたエンデルクに、先ほどの茶菓子の詰め合わせを土産として渡す。小さな手編みのバスケットに入った菓子類には、柔らかい赤い布がかぶせられていた。シンプルだが、温かい心遣いだ。
「これはありがたい。 後でまた堪能し、残りは家の使用人達に振る舞うとしよう」
「ふふふ、またいらしてください」
手を二回叩くと、使用人達がざっと並んで、エンデルクを見送る。マリーは居間に残り、エンデルクの気配が騎士達の住む高級住宅街の方に消えてから、再び席に着いた。
「ふー。 疲れるわね」
「ふふ、貴方もだいぶ社交がさまになってきたわね」
首筋を手で仰ぐマリーに、シアは笑みを向けながら着席する。再びさっきの茶菓子が運ばれてくる。一つ二つ口に入れながら、マリーは言った。
「それで、雇用費以外の利益の分配の件だけど」
「こんなところでどうかしら」
シアが提示してきた条件に、マリーは菓子をつまみかけた手を急停止させる。グランベル村で何頭ものドラゴンを狩るところを見て、換金するのを手伝ってきたマリーは、現在の相場を熟知している。だから、大体の換金額がすぐに暗算で割り出せる。今シアが提示してきた条件だと、マリーとしては雇用費も入れて利益が出るかぎりぎりの所だ。しかし考えてみれば、ドナースターク家としても将来の希望であるシアがわざわざ戦地に赴くのである。これくらいの利益は当然だという事もあるのだろう。
考え込むが、やはりこの条件を呑むわけにはいかない。今後のことを考えると、少しでも資金は欲しいのだ。
「うーん、せめて牙はくれないかな」
「調合で使うの?」
「ん? いや、今のところ、その予定は無いわよ。 ただね、今後どんな実験をすることになるか分からないから、ある程度貯金はほしいの」
「それなら、こうしましょうか」
再びシアが条件を出してくる。牙を全部とまではいかないが、結構いい条件だ。それならばマリーも納得は出来た。ある程度の黒字も出る。シアが譲歩してくれたのだから、此方もある程度は合わせなければならない。調合では使い道のない部分を諦めることを申し出ると、シアもそれに合わせていくらかの譲歩をしてくれた。しばらく交渉を続けてから、マリーは納得する金額に行き当たった。
この辺りだろう。マリーは頷き、このささやかな交渉を締めた。もともと、取らぬイノシシの皮算用だ。あまり気合いを入れて詰めても仕方がない部分である。仕留めた時に、きちんと分配だけ出来ればいい。
「分かった。 それでいいわ」
「交渉成立ね。 後は実戦だけれど、大丈夫? 分かってると思うけれど、フラン・プファイルはかなり手強いわよ」
「分かってる。 準備はちゃんと済ませてあるわよ」
早速セイラがペンとインク壺を持ってきた。契約書にペンを走らせながら、マリーは言う。強がりではない。この間エンデルクと一緒にヴィラント山に行ってから、ずっと考え続けていたことだ。
きちんとあのドラゴンを斃すためのプランは練ってある。既に道具もほぼ揃え済みだ。後は、各人がいつも通りに動くことが出来れば問題ない。簡単にとはいかないが、あまりにも極端なイレギュラーが発生しない限り、勝つことは出来る。ただ、被害を抑えるためには、今後更に戦術を詰める必要がある。
その点、シアはマリーにとって理想的な相手だ。互いに手の内と能力を知り尽くしているから、無理をしない範囲での打ち合わせがしやすい。今回はわずか三人でエンシェント級のドラゴンを相手にするということもあるし、手段は選んでいられない。あのヘルミーナ先生は、若い頃に成し遂げたと言うが、現在のマリーはあの人ほどの力を持ってはいないのだ。実力の差は、今までの成果で埋めるしかない。もちろん、使えそうな道具は全て持っていくつもりだ。
互いの手の内を確認している内に、夕方が来ていた。まだ春も早いと言うことがあり、この時間になると流石に寒い。もう大体のプランは練ったし、後は現場で確認すればよいだろう。
「そろそろ切り上げる?」
「ん、そうね」
シアに頷いて、腰を上げた。アデリーが正式に自分の子になってから、多少外出に対する意識が変わってきた。出来るだけ家で子供の帰りを迎えてあげたいという、不思議な親心に近いものが生じてきたのである。シアもそれに気付いており、むしろ自分から背中を押してくれた。持つべきは親友である。
アデリーはアクセサリやら服やらは殆ど欲しがらないが、何しろ成長期なので、結局服代は掛かる。帰りに服屋に寄っていくと、昨日計っておいたサイズに合った良い服がないか見ておく。世話を焼いているのもあるのだが、別の目的もある。今後は嫌でも社交界に出る可能性があるので、その時に備えてよそ行きの服を揃えておく必要があるのだ。今までも一着を成長に合わせて直していたのだが、それもそろそろ限界が来ていたので、新しいのを奮発する気になったのである。なんだかんだ言っても、アデリーの小遣いではまだ服は買えない。マリーが経済的にサポートする必要がある。
ザールブルグで一番大きい服屋に入る。周囲には木の人型にかぶせられた服類がずらりと並んでいる。換気の工夫か空気は非常に心地が良く、店内にいるのが苦にならない。また、壁際に大きな窓を大胆に取り入れた作りもまた面白い。宝石ギルドほどの高級ガラスではないが、それでも透明度は高いので、外からでも目を引く。しばらく服を物色していると、中年の店員が寄ってきた。良くマニュアル化された感じがよい笑顔を向けてくる。同性を不快にさせない事を考慮した、筋肉のレベルまで工夫された笑顔だ。これだけでも結構な訓練を受けているのだと分かる。
「お客様、服をお探しですか?」
「今日は買いませんよ。 下見に来ただけです」
「お子さんの服ですか? まあお若い」
「はは、有難うございます」
苦笑すると、マリーはざっと店内を案内してもらった。最近人気だというデザインにはあまり興味がない。実用的なものにより目が行く。高級な服の中には、家が建つようなものもあるという話をマリーは聞いたことがあるが、少なくとも展示品の中にはないようだ。子供みたいな表情を浮かべているマリーが実際にはかなり手強いと判断した店員は、戦略を即座に変えてくる。流石に長年商売という名の戦闘をこなしてきていない。
「お客様は、若いのにしっかりしておられますね」
「そうですか?」
「ええ、そうですとも。 私の子供なんて、お客様と同じくらいの年になるのに、いまだにろくに家事もこなせないんですのよ。 ひょっとして、古い服をきちんと直して着ていらっしゃるとか?」
「はあ、まあ」
店員は言う。古い服を持ってくれば、格安で丈を直すという。デザインも変えてくれるそうだ。プロの技術であれば、確かによそ行きも直せるかも知れない。しかし上手い作戦だ。敢えて安く済む方法を提示することで、客の心を掴む。そうすれば最終的にはリピーターになってくれる。そうなれば、当初は損をしても、最終的には得になるのだ。
巧みな話術である。流石に自分よりずっと長生きしていない。実際、マリーも話を聞く内にそれも悪くないという気にさせられていた。店を見送られて出る。これも金を稼ぐためのテクニックだと、あのベテラン店員は考えていることだろう。実際マリーも乗せられているわけだが、今回に関しては構わない。マリーとしても利益があるからだ。もっとも、最終的にはアデリーを連れて行ってどうするか決めさせるが。
家に着く。まだアデリーは戻ってきていなかった。暗くなる前に、さっさと家事を済ませてしまう。働き主であるマリーが仕事をして、アデリーが大半の家事をするのは暗黙の了解だが、それも完全な線引きがされているわけではない。マリーも手が空いたら洗濯物くらい取り込むし、料理だって作る。
この間マリーが仕留めてきた熊肉を燻製棚から取り出すと、切り分ける。そのまま料理用のボウルに入れて、何種かの調味料につけ込む。本来はあまり味が良くない熊肉だが、しっかり煙で燻して熟成してあるので、今ではかなり美味しいはずだ。
ぐったり疲れ切って、アデリーが帰ってきたのは直後だった。最近クーゲルが張り切りすぎて、修練中に殺されそうになる事がたびたびだという。それだけアデリーの腕が上がってきたと言うことだ。実に良いことである。
「ただいま戻りました」
「お帰り。 下ごしらえはしておいたから、後はよろしく」
「はい」
サスマタを武器掛けに置くと、アデリーは手早く着替えてエプロンを着け、厨房に立つ。黄色いリボンは既に無く、代わりにライトブルーの髪紐を最近は使っている。少しずつお洒落に興味が出るように、何種類かの髪紐やリボンを買ってあげたのだが、殆ど無作為に使っているらしい。まあ、この辺りはマリーも同じだから、あまり多くは言えない。色気づくと、アデリーくらいの年頃の子は鏡の前で一時間唸ったりもするらしいと聞いたことがあるが、それは知識に過ぎなかった。実例をいまだ見たことがないからだ。
料理を始めるアデリーを尻目に、マリーは薬を作り始める。アロママテリアの耐久力実験に伴って、いくつかやりたい事ができはじめている。そのためには資金がいる。幸いマリーブランドの人気は増す一方なので、薬は作れば作るだけ金になる。ただ、エルフィン洞窟の資源や生態系回復力には限界があるので、それも見越して作らなければならない。最近では新しい穴場も探しているのだが、リスクが高すぎたりコストが掛かりすぎたりして、なかなか良い場所は見つからない。何事も上手くはいかないものだ。
料理が出来た。一品目は薄く切った肉を焼いて、野菜類を添えた簡単なものだ。簡単とはいえ、なかなかに侮れない料理である。じっくり燻製にした上に、十種を超えるスパイスを練り込んだ肉は旨味を極限まで引き出している。その上、他にもどろりとした芋スープがある。二品目のスープは見かけこそ若干悪いが、粘つくほど密度が濃く、舌触りも悪くなく、なかなかに美味しい。使っているのは最近北部の国々から入ってきた芋なのだが、荒れ地で良く育つため、早速屯田兵が栽培を始めているという。これも試験的に市場に回されたものかも知れない。此方は新しい料理だけに、工夫の余地がある。他にも様々な調味料をためしてみたいところだ。
どちらの料理もしっかり食べ終えて、体が芯から暖まった。今の時期は、まだ意識的に体を温めないと、風邪を引くおそれがある。風邪は日常生活にさえ大した影響を与えないが、戦闘時にはそうではない。この後そう時間をおかずにフラン・プファイルを討伐に向かう事を考えると、風邪を引くわけにはいかない。スープを吹いて冷ましながら、マリーは静かに食べるアデリーに語りかける。
「今日はクーゲルさんに鍛えてもらったの?」
「はい」
「クーゲルさん、最近生き生きしてるわねえ。 殺されないように気をつけなさいよ」
「今日は、二回殺されそうになりました」
苦笑したマリーに、アデリーはいつものように寂しそうに笑った。
食事が終わると、マリーは本格的に薬剤の調合にはいる。アデリーは自分の仕事をきちんとこなしながら、しっかり修行もしている。稼ぎ主であるマリーがぐうたらしている訳にはいかない。来年の試験終了後にも、どのみち忙しい日々が続くのだ。
薬類の仕込みが終わり、竈の火を調整してボウルを温めに掛けた時には、既に夜半になっていた。
朝の走り込みと瞑想を終えると、薬の状態を確認して、完成品から瓶詰めする。日持ちするものとそうではないものを分けると、すぐに時間は過ぎていく。中には乱暴にかき混ぜてはいけないものもあるので、作業はそれなりに慎重を要する。
液剤が終わると、固形の薬品に移る。最近少し増えてきたのだ。四角い黒い塊を出来るだけ丁寧に砕き、丹念に粉状にしていく。息が掛かってしまっては台無しだから、かなり気を使う作業だ。拳大の固まりを粉状にして、しっかり瓶詰めすると、かなり時間が過ぎてしまっていた。
マリーブランドの名は、今後のためにも更に広めておかなければならない。それを考えると、薬作りの手を抜くわけにはいかない。額に浮いてきた汗を拭う。作業が一段落し、十ほどの瓶を片付け終えると、椅子にもたれて小休止。何も考えずにぼんやりして、ただ天井の隅を見つめていた。
ぼんやりしていた視界が戻る。誰かがアトリエに向かっていることを感じ取ったのだ。頬を叩いて意識を戻す。すぐに気配の主は分かった。ピローネだ。
ドアのノック音が、マリーの腰ほどの高さから響く。開けて上げると、満面の笑顔でピローネが立っていた。
「マルローネさん、こんにちわ」
「こんにちわ。 早速素材見せてちょうだい」
「はい。 此方になります」
ピローネに茶を出すと、バックパックとバスケットから取り出された素材を、一つずつ確認していく。どれもかなりの品質である。特に鎮痛剤の基本素材となる白鈴蘭は、実に素晴らしい。裏庭に植え替えても、そのまま育ちそうなほどだ。開きかけのつぼみが食欲をそそるが、生憎そのままでは毒があるので食べられない。この毒を調合で薬効成分に変えるのだ。
「良い品質ね。 これなら文句はないわ」
「有難うございます。 マルローネさん」
地下に行って金庫から銀貨を出してくる。最近またセキュリティを強化した。ブランドの名前が知られてきたからだ。マリーの名を聞いてなおアトリエに入ろうという馬鹿な盗賊がそうそういるとも思えないが、念には念だ。合い言葉を言い、何カ所かに仕掛けてある生きている縄を沈黙させる。金庫はゲルハルトに作ってもらった特注で、複数のレバーが前面に着いている。これを順番に押したり引いたりしないと開かない作りだ。
金庫の右側についているレバーを二度回す。同じ形をしている中央にある別のレバーを下げる。下げることが出来るとは思えない形状なのも、トラップの一つだ。最後に、左についているレバーを押し込むと、かちりと音がして金庫が開く。その後、天井を見る。これもセキュリティ解除の動作の一つだ。これをやらないと、生きている縄に即座に縛り上げられる。
金庫の中を確認。だいぶ貯金が増え始めていた。薬によって稼いでいるし、そのほかでも着実な黒字を積み重ねているからだ。もっとも、これが一瞬で消え失せる事態を一度ならず経験しているマリーは慢心しない。必要なだけ銀貨を出すと、金庫を閉めて、一階に上がる。帰る途中に、七つほど仕掛けてある生きている縄の状態をチェックすることも、もちろん忘れない。
ピローネはもう茶を飲み干していた。喉が渇いていたと言うよりも、すぐに仕事の話をするためであろう。茶を残していては失礼になるし、妥当な判断だ。銀貨を渡すと、しっかり数えてから、おつりをよこす。傷がついている銀貨をおつりに混ぜる辺りは流石にちゃっかりしている。収入を腰のポーチに収めながら、ピローネは言う。
「他に御用の品はありませんか?」
「そうね。 今年もいつも通り、山ウズラの卵をもらえないかしら」
「山ウズラですか? ええと、少し割高になってしまいますが、よろしいですか?」
「何かあったの?」
普段ならピローネから提案してくる事なので、おかしいとは思っていた。案の定だったので、マリーは笑顔のまま原因を追及する。
黒い縞が表面に浮かんでいる山ウズラの卵は、小振りだがなかなかの珍味で、この時期の楽しみの一つだ。親鳥もなかなかの味だが、全体的な生息数が少ない。ただし卵はたくさん産む。そのため、卵を巣から一つ二つ取るのはいいが、親鳥を見かけても取らないようにするのが、知識のある人間達の、暗黙の了解となっている。
実は、この鳥の卵は孵りかけが一番美味しい。雛の形が出来ているものを、焼いて殻ごと食べるのが通のやり方だ。殻は柔らかいので焼くと丁度いい状態になり、抜群の歯ごたえと、何とも言えない雛の味がやみつきになる。
妖精族はこの鳥を養殖することに成功しているらしく、卵をたくさん手に入れてくる。だから春は楽しみにそれを食べるのだ。アシッドバードといい、難しい養殖を得意とする妖精族であるのに。それが割高とは、どういうことか。
「お恥ずかしい話ですけど、入手ネットワークが一度切れてしまいまして」
「何が原因? 盗賊か猛獣が原因なら格安で皆殺しにしてきてあげるわよ」
妖精族は人里離れた所に住んでいる。治安の良いシグザール王国でも、そう言う場所には何がいてもおかしくない。笑顔のまま言うマリーに、ピローネも笑顔で返答する。
「あ、いえ、違います。 山ウズラの養殖を少し前まで担当してくれていた老人がこの間なくなりまして。 一人暮らしをしていた方でしたので、遺族もいませんで、技術が絶えてしまいました。 良い機会ですので、我々で養殖を出来るように工夫していたところです。 最近どうにか成功はしたのですが、まだコスト面では厳しい状況でして」
「なら、あたしが支援してあげるわ。 割高でも良いから、次から持ってきてね」
「有難うございます。 恩に着ます」
頭を下げると、ピローネは帰る。マリーはざっと今回の支出を計算すると、次の作業に掛かった。自分も昼食を取るのである。
アロママテリアの強度実験は様々な方法を試してきたが、まだまだ物足りない。底が知れない強度を見せるアロママテリアに、どんな攻撃を浴びせるか考えるのも、今後の楽しみの一つだ。その思考を進めるには、食事で栄養を取る必要がある。腹が減っては戦も出来ないし、創造も難しいのだ。
外で車引きに行き、適当な料理を物色。この間クーゲルと一緒に食べた肉の鉄板焼きをパンで挟んだものがあったので、少し並んで食べてくる。相変わらずの味で、しかも安いので、マリーとしては大満足である。歩きながら、実験のプランを作る。アトリエにたどり着いた時には、いくつもの魅力的な案が練りあがっていた。
ためすのが楽しみだ。含み笑いを一つすると、すぐに頭を切り換える。やっておかなければならないことは、まだまだたくさんある。混乱を避けるためにも、こなせるものから一つずつ、仕事を処理していかなければならないのだ。
それが、マリーの歩む、錬金術の基本。日々の生活を送るための知恵であった。
2,組曲、峻岳への道筋
地下の倉庫から、以前斃した巨大な鳥から採取した、鋼のような舌を取り出してくる。これが今回のフラン・プファイル戦での切り札となる。
あれからエンデルクとシアを交えて何度か会談したが、討伐日まで既に一月を切っている。作業は急がなければならなかった。エンデルクも騎士団長の任務に優先してこの討伐をこなさなければならないらしく、相当神経質に日程を詰めている。今更間に合わないでは通用しない。頭を下げられているとはいえ、向こうはこの国のVIPである。不義理はもろに評判に影響してくる。
引っ張り出してきた長い舌は、相変わらずの強度だった。下手な金属素材より頑丈であり、はじくと鋭い音がする。それでいて、硬直しているわけではなく、柔軟性も保有しているのだ。不思議な素材である。
長い時間が経ったので、肉の部分は根こそぎ無くなっている。だから腐敗は気にしなくても良い。大きなヤスリを取り出してくると、形を整えていく。かなり長い舌なので、成形も大変だ。ヤスリがけも、体全体でヤスリを動かし、無駄な部分をこそぎ落としていかなければならない。
舌の加工が一段落すると、再び額の汗を拭う。既に夕刻近くになっていた。そろそろ、納品しなければならない薬類がある。そちらも放っておく訳にはいかない。一端舌の作業は切り上げて、そちらを片付けなければならない。もっとも、薬品類を在庫から出して飛翔亭に持っていくだけだから、格段に楽ではある。伊達に毎日遅くまで調合していないのだ。
できあがった薬類を瓶詰めしている内に、アデリーが戻ってくる。頬に痣が出来ていた。今日はクーゲルのところで修行をしていたはず。形状から言って、殴られたのではなく、転んでぶつけたのだろうと、マリーは判断した。
クーゲルは殺戮衝動の塊のような存在だ。だが不思議と、弟子や部下を殴るところが想像できない。目下に対して非常に強烈な威圧感を含んでいるし、怒鳴ることもあるのは知っている。しかし、よほどのことがない限り、自分の手で鍛えている相手を無意味に殴るような事はないだろう。そうマリーは、クーゲルという老鬼を判断している。
だからこそに、素直でまじめなアデリーが、クーゲルに殴られる所は全く想像できない。反面、容易に想像できるのは、勢い余って殺されそうになることだ。それについてはアデリーは毎日のように経験しているだろう。ぎりぎりの駆け引きは、著しく経験を蓄積させる。加速度的に腕を上げる要因となるはずだ。だからこそに、マリーはこの状況を歓迎すべきだと判断した。ただ、一応念のために確認はしておく。頭部への怪我は、致命傷に発展しやすいからだ。
「ただいま戻りました」
「ん。 ちょっと見せてみなさい」
「え? 大丈夫です、これくらい」
「いいから」
手を止めて、マリーはアデリーに跪かせる。顔を近づけてじっくり痣を確認するが、跡にはならないだろう。念のため打ち身の薬を塗っておく。
もうそろそろ、アデリーは近接戦闘に関してマリーより上手くなるだろう。これは修行の方向性の違いだ。アデリーは近接戦闘の専門職を念頭に置いた修行をしている。対し、マリーは遠距離からの火力支援を主眼に置いた鍛錬をしている。だから、マリーから格闘戦に関してアドバイスする事はあまりない。せっかくクーゲルをはじめとする騎士団やその引退者とコネクションをつなげ、技を学んでいるのだ。マリーのような遠距離支援型が下手に口を出すと、却って良くない。だから、別の方向から聞いてみる。
「失敗したの?」
「はい。 クーゲルさんの一撃を避け損なって、地面にもろに顔から突っ込んでしまいました」
「それは痛かったわね。 他にもぶつけたところがあったら、痣にならないように念入りにマッサージしておくのよ」
「はい」
ぶつけた箇所から考えて、恐らく命に別状はないだろう。マリーは安心した。アデリーがぺこりと頭を下げて、厨房に走るのを見届けてから、薬類を荷車に積む。今回もアデリーに交渉を任せようかと思ったが、やめておく。特に理由はない。ただの気紛れだ。
飛翔亭に行って、薬を納品。少しふっかけようかと思ったが、ディオ氏が提示してくる金額は極めて妥当だったので、やめる。妥当な交渉にけちをつけるのは、やはり気分が悪い。給料に対するポリシーと同じだ。こう言うところで、妙にまじめな自分が時々歯がゆくなる。少し重くなった財布を腰にぶら下げ、凝った肩を揉みながら帰宅すると、もう夕食が出来ていた。
まだ対火竜を見込んで、用意するべき道具は幾つもある。手早く食事をかっ込むと、マリーは再び舌の加工に移る。地道で静かな作業は、深夜まで続いた。
朝、アデリーが布団の中で目を覚ますと、もうマスターは作業をしていた。あまり響かないように、ハンマーで何かを叩いて伸ばしている。もぞもぞと体を動かして、少しずつ脳を覚醒させていく。
錬金術の手伝いをすることは、アデリーにも多い。だから何をすればどうなるのかは、ある程度漠然とした知識がある。しかし、どうしてそうなるのかは、全く分からない。妙な話で、マスターもそれも同じなのだという。だから、ひょっとして、どうして何かをハンマーで叩いて伸ばさなければならないのかは、マスターも分かっていないのかも知れない。そう思うと、少しおかしかった。
黄色いリボンが取れて、マスターの子供になってからしばらく経つ。だがどうしても、マスターを「ママ」とか、「母さん」とか、呼ぶ気にはなれなかった。恐らく、心の中で、どこか期待していたのだ。自分が子供になったら、少しはマスターが優しい人になってくれると。
今でも、昔も、マスターはアデリーに対してはとても優しい。実の両親の所にいた頃を考えると、殆ど天国にいるような気分だ。不調にもすぐ気がついてくれる。この間の、初潮が来た時に起こしてしまった事件の時の対応を考えると、今でも胸が熱くなる。仕事が忙しい時も、きちんとアデリーのことを考えてくれる。同じ状況で、子供のことを考えることが出来る親が殆どいないという話も、彼方此方で聞く。
マスターはとても優しい人なのだと、アデリーは思う。それなのに、どうしてマスターの中のけだものは、ああも凶暴なのだろう。それだけが辛かった。犠牲になるのは動物たちだけではない。場合によっては人間に対しても凶暴な牙が向くことを、アデリーは知っている。泣くだけではなにも解決しないと、幼い頃にいやと言うほど学んだ。だから、必死に腕を磨いている。
おそらくは、残虐性に対する反発もある。それが無意識に、呼び方を変えることを妨げているのだろうと、冷静にアデリーは分析していた。ここ最近の修行で、異常に自分が冷静になっていることを、アデリーは知っている。クーゲルさんに何度となく殺され掛けても、平然としていることがその証だという。普通の人間なら、一度殺されそうになったら、数日は立ち直れないのだそうだ。心が強靱になってきているのであろう。それが良いことなのかどうかは、アデリーには分からない。
布団から抜け出す。まだ、ハンマーの音は響き続けている。一階に出ると、マスターは机の上に小さな金床を置いて、ハンマーで小さな黒い物体を延ばしていた。
「おはよう」
「おはようございます、マスター。 徹夜ですか?」
「徹夜よ。 だからこれから少し寝るわ」
これからというのが、今の調合が終わってからだと、アデリーは知っている。つまり、まだマスターは眠らない。だからまず朝食を作る。昨晩の内に下ごしらえしておいた子羊の肉を、竈の火でじっくり焼く。考えてみれば、肉を食べると言うことは、生き物を殺すと言うことだ。だから、肉を食べる時、アデリーはいつも憂鬱になる。いつもすぐそばに死があり、その悲しみをよく知っているから、なおさら精神的な打撃は大きい。
朝食が終わると、マスターはあくびをしながら二階に上がっていった。アデリーは準備を終えると、丈夫な普段着に着替えて、クーゲルさんの所に出向く。
途中はもちろん体を鍛えがてらにランニングだ。緩やかで延々と続く上り坂を走りきるのは、最近は随分楽になった。
騎士団の人たちが多く住む高級住宅街に入ると、辺りは静かで厳格な空気に包まれる。強くなればなるほど、この辺りにどれだけ凄い使い手が集まっているのか、分かるようになってきた。自分がこんな所に来て良いのか、時々不安にさえなる。
今日はクーゲルさんのところで修行をするのだが、一人ではない。見習いの騎士達と一緒だ。見習いといっても、髭も生えていないような男の子から、貫禄を湛えたベテランの戦士まで様々だ。鬼のような厳しさを持つクーゲルさんだが、不思議と訓練で死人は出ないとも聞く。危ないことが最初から分かっているからではないかと、アデリーは思っている。
クーゲルさんの家の前では、アデリーより少し年上の鎧を着込んだ女の子が、右往左往していた。黒のロングヘアーの彼女は、何度か顔を合わせた、騎士見習いだ。年が近く性格が似ているからか、向こうから積極的に仲良くしてくれる。アデリーより少し背が高いその人は、童顔で、胸が薄いことを気にしている可愛らしい人だ。そんな平和な悩みを持てるところが、アデリーから見れば羨ましい。今日は実戦さながらに、彼方此方金属で補強した革製の鎧を着て来ている。
「あ、アデリーちゃん」
「おはようございます、ニニアさん」
「おはよう。 あの、ね」
「一緒に入りましょう」
ほっとした様子で頷くニニアさん。この人は優しい人なので、クーゲルさんを心の底から恐れている。アデリーも恐れていないわけではないが、自分に対して害がないと分かっている以上、あまり気にはしていない。
ニニアさんは容姿と性格と裏腹に、かなり優れた剣の使い手だ。借金を押しつけて蒸発した父のせいで、幼くして屯田兵になり、泣きながら今まで頑張ってきたそうである。国によっては性奴隷にされるか娼館に売り飛ばされていただろうと思えば、多少は幸運であったのかも知れない。そして、鍛えられている内に剣の才能を開花させ、今ではクーゲルさんに有望な見習いとして訓練の手ほどきを受けているという話だ。聞いてもいないのに、食事時に教えてくれた。多分相当友達に飢えているのだろう。アデリーも自分の話をしたが、そうしたら泣き出してしまって随分困った。
二人で並んで、クーゲルさんの屋敷の裏庭に行く。ミューさんが来ていて、驚いた。白い鎧を着ている彼女は、アデリーにとっては姉のような人だ。最近は遠くに行けないと言うことで、こういう短期の仕事を集中的に入れている。ただし、かち合うことは滅多にない。
「あ、アデリー。 おはよう」
「おはようございます」
「お、おはようございます」
少し慌てた様子でニニアさんが頭を下げた。もうすっかりベテラン冒険者となったミューさんは、騎士達の間でも有名だ。
他の見習いの人たちも、既にだいたい集まっていた。十人前後いる彼らは、年も性別も見かけも肌の色も様々だ。一番年上に見える長身の男性は、焦げ茶色の肌と縮れた髪を持っていた。ミューさんの話だと、この大陸の最南端に住んでいる一族の出身者だそうである。全身がしなやかな筋肉の塊で、もの凄く強い。年齢的にも三十過ぎと一番上だが、多分騎士になるのも間近だろうと噂されている。以前良くまとわりついてきたダグラス少年は、もう騎士になっているという話も、最近噂で聞いた。
クーゲルさんが、騎士団の鎧に身を包んで出てくると、全員が一斉に緊張した。引退騎士とはいえ、その実力は圧倒的。今でも騎士団と一緒に行動することが多いと、アデリーは何度も噂で聞いている。
左右に並んでいる全員の顔に、恐怖を混ぜた緊張が浮かんでいる。噂によると、騎士に昇格してからも、しばらくは大教騎士という人からの教えを受けるという。最近新しい人が就任したらしいのだが、若くして騎士団でもトップクラスの実力と教養を持つそうで、もの凄く怖い人らしい。クーゲルさんよりもっと怖い人から教わる様子を想像して、騎士も大変だなと、アデリーは思った。
クーゲルさんはミューさんの隣に並ぶと、全員を鋭い視線で見回す。軽く頷く。挨拶をしろという合図だ。一斉に全員で声を張り上げる。クーゲルさんの恐ろしさは、此処にいる全員の共通認識だから、自然声にも気合いが入る。
「おはようございます!」
「おはよう」
ここに来るまでに、各自基礎鍛錬はこなすことが暗黙の了解となっている。朝から体を動かさなければいけないので大変だが、その代わり終了時間も早い。昼頃から始まって、大体夕方までには終わる。理由は簡単で、この訓練は体力作りよりも、戦闘訓練が中心だからである。クーゲルさんは毎度明言している。殺し合いの時に必要となる直感を、この訓練で養うと。
だから、訓練も実戦形式が多い。以前マンツーマンで教えてもらっていた時と殆ど同じなので、アデリーは平気だが、ニニアさんは随分苦労していた。
ミューさんが、各人に訓練用の武器を配る。手際が素晴らしく良い。
「よし、各自それぞれ一対一で組め。 実戦訓練一本開始」
「はいっ!」
庭はそれほど広くないので、二組ずつ順番に行っていく。アデリーは最初に動いて、焦げ茶肌のおじさんと組む。ボロロという名の彼は寡黙で実直な戦士で、アデリーとしては好感を持てる人だ。ボロロさんはパワーにふさわしい重量武具使いで、訓練の時にも巨大な木剣を振り回す。実戦武器としては、グレートソードを使っているそうだ。アデリーは愛用のサスマタを壁際に置いてきているので、今は訓練用の槍を手にしている。
武器のリーチはほぼ同じだ。だが、相手の方が背が頭一つ半高い上に、武器の重さが倍以上もある。大上段に剣を構え上げるボロロさんに対して、アデリーは腰を落として中段に構え、槍の穂先を相手の胸の中央に向けた。大上段に構えたグレートソードの間合いは半端なものではない。ましてや、ボロロさんは相当な長身で、その一撃はほとんど真上から降ってくるような代物だ。手など、絶対に抜けない。
呼吸を整え、じりじりと間合いを計る。ボロロさんは、何度か訓練で一緒になった。最初はアデリーを侮っている様子が露骨に見えていたが、最近は随分認めてくれるようになってきた。侮られていた時に、何度か負かしたからだろう。そう思えば、あまり好きではない戦いも色々と意味を持っている事が分かる。
「はっ!」
気合いと共に、ボロロさんが踏み込んでくる。うなりを上げながら振り下ろされた剣が、アデリーの鼻先を掠めた。槍を狙ってきた一撃だ。そのまま腕を返し、強引に切り上げに掛かる。軽く飛び下がって交わし、ステップして左に回り込む。訓練剣といえども、一度でも喰らったら確実に気絶する。
大振りだが、ボロロさんの動きは速い。アデリーが素早く左に回り込んだのを感じ取り、そのまま身を捻って強引に剣を振り下ろしに掛かってくる。アデリーは体を軽く引きながら槍を振り上げて迎撃、剣の軌道を逸らす。激しくぶつかり合った剣と槍が、鈍い音を立てた。パワーが違うから、あまり正面からぶつかるのは得策ではない。長期戦も不利だ。だから、すぐに決める。
「てえっ!」
気合いとともに、今度は此方から出る。はじかれた剣をもう一度振り下ろそうとするボロロさんの正面から、足の間に踏み込む。そして槍を回し、石突きをボロロさんの鳩尾に体ごとぶつかるようにして叩き込んだ。
突撃の瞬間、ふわりと浮いた髪が、肩に掛かる。蹈鞴を踏んで数歩下がったボロロさんは初めて表情を見せた。苦悶だった。
「強い、な。 どんどん、強くなっている」
「ありがとう、ございます」
「どうした、誇れ。 お前、強いのだ」
ボロロさんが寡黙なのは、この国の言葉を上手く操れないからだと、アデリーは知っている。それなのに、一生懸命喋ってくれたと言うことは、アデリーをしっかり認めてくれたと言うことだ。誇り高い生粋の戦士が、である。それなのに。強いと言われて、素直に喜ぶことは出来なかった。心が痛む。
ともあれ、一本だ。離れて、互いに礼。
すぐに次の組み手が始まる。
ニニアさんは見事な剣捌きを見せて、危なげなく同年代の男の子を下した。スキルはアデリーよりも上だと思う。ただ、何とも脆さの目立つ剣だ。ニニアさんの精神的な脆さが、一撃を入れる時の弱さに出てしまっている。鎧を着た相手に通じるのか、見ていて疑問だ。冷静に、アデリーは実戦では苦労しそうだなと思った。
「よし、そこまで。 続いて、見稽古」
「はい!」
全員が庭の脇にどき、そこで正座する。正座が苦手なニニアさんは、このときが一番辛そうだ。アデリーは何人からか視線を受けているのに気付いた。隣の、ニニアさんに負けた男の子が、小声で話しかけてくる。毛並みの良い彼は、どうやら貴族の子弟らしい。その証拠に、庶民であるボロロさんを時々呼び捨てにしていた。生来の傲慢さを持つ、典型的な二世エリートだ。ただ、悪意は無い。彼は剣の腕よりも、持って生まれたレアスキルを買われているらしいと、噂で聞いた。
「君、何者だ? あの大剣ボロロを相手に、石突きを入れるなんて。 あいつには、普通の屯田兵が三人束になっても勝てないんだぞ」
「え? そんな事言われても」
「っと、すまない。 後でゆっくり頼むよ」
小首を傾げるアデリーだが、すぐに視線を正面に戻す。ミューさんとクーゲルさんが、庭の中央で向き合ったからだ。クーゲルさんは訓練槍を、ミューさんは細刃の訓練剣を構える。二人とも、見ている連中とは根本的な実力が違う。高品質な戦いを観察することによって腕を上げることを、一般的には見稽古という。自然と、見る方にも気合いが入る。
ミューさんは右手で剣を腰に差すように、左手で刃に手を添え、構える。覚えがある。この間見せてもらった、居合いという技だ。かなり珍しい剣技で、鞘の中で刃を走らせて加速、一息に敵を切り伏せる。速さに関してなら、恐らくあらゆる剣技の中でトップクラスに入る。反面制御が難しく、しかも力が乗らない。だから鎧を着た相手にはほぼ通用しない。非常に使いどころが難しいため、珍しいカタナ使いの中でも、更に愛好者は少ないそうである。
ミューさんは居合いを、自分の超反射能力と組み合わせることを、この間から試行錯誤していた。今回は訓練と言うこともあり、実戦投入準備として丁度いいと考えたのだろう。そういえば、少し前からカタナを使うことを始めたらしい。何かヒントを掴んだのかも知れない。
ミューさんが地面に張り付くほどに低く体を落とす。吹き出しそうになる声。例の男の子だ。既存の型に収まらないミューさんの構えが滑稽に見えるのだろう。それに対して、クーゲルさんは槍の構えを変えた。左手に持ち替え、右手を空けたのだ。
戦略は、よそから見ていると明らかだ。クーゲルさんの動きを見ても、ミューさんは構えを変えない。どう対応するつもりなのだろう。間合いの計り合いが続く。自分の心音が聞こえるほどに、アデリーは状況に集中した。
クーゲルさんが一歩踏み出すのと、ミューさんが動くのは、同時だった。
ジグザグにステップしながら、稲妻のように間合いを詰めるミューさん。そのまま訓練剣を叩きつける。居合いだ。しかし、このためにクーゲルさんは槍を左手に持ち替えていたはず。それを、正面から行くとは、どういう狙いがあるのか。
激突の瞬間、剣が、高く伸び上がる。あっと思った時には、クーゲルさんが飛び退いていた。
アデリーは見ていた、ミューさんの一撃が、もし避けなかったら、クーゲルさんの槍を掴んでいる左手をもろに捕らえていたことを。振り抜いたミューさんに対し、槍を回しながら、クーゲルさんが上段から振りかぶる。槍での打撃は、実戦では充分に有効だ。そのまま叩きつぶされるかと思った瞬間、一回転したミューさんが、真横から剣を打ち当てて、槍の軌道を逸らす。更に繰り出された突きをいなしながら、間合いに飛び込む。空いていた右腕をクーゲルさんが使ったのは、その時だった。
慌ててミューさんが地面に飛び込まなければ、首が吹っ飛んでいたかも知れない。
豪腕一閃。真横から首をもぎ取りに行ったクーゲルさんの右手が、空気を抉ってもの凄い音を立てた。更に返す刀で、低い体勢で避けたままのミューさんを裏拳がはじき飛ばす。ガードはしたが、その上からでも充分だった。吹っ飛んだミューさんは、地面で素早く受け身を取ったが、勝負はついていた。どちらも構えを取る。額の汗を、ミューさんが拭った。
「その身体能力、反則ですよ。 あれをかわしきりますか」
「伊達に君の倍以上生きていないのでな」
苦笑しながら、ミューさんが立ち上がる。本気で戦ったら結果は違ってくるだろうが、それでもクーゲルさんには勝てないような気がする。それに、裏拳とはいえ、今のクーゲルさんの一撃を受けて怪我をしないミューさんも凄い。常人なら骨が折れていたはずだ。
勉強になる戦いだった。居合いの意外な使い方を知ることが出来た。刃を交える前から相手の技を見切り、即座に戦略を変える柔軟性も実際に見ることが出来た。それにしても、クーゲルさんは凄い。あの年であれだけ柔軟に考えられることが、戦場で生き残ることが出来た秘訣なのかも知れない。必殺のチャージがよく知られているようだが、それが無くてもクーゲルさんは充分に強い。それを間近で良く見せてもらった。
呆然としている隣の男の子を、肘で小突く。二人とも礼をして、見稽古が終わったからだ。これから一人ずつ、クーゲルさんとミューさんと手合わせして、実戦訓練を行う。此処からは基本的に何でもありのルールになるので、気を少しでも抜くと大けがだ。能力さえ展開して良いことになっている。逆に言うと、その位しないと、クーゲルさんやミューさんには触れることさえ出来ないと言うことだ。
一人ずつ、名前を呼ばれては前に出る。最初にニニアさんが呼ばれて、ミューさんの前に出た。ほっとした表情が引きつるのに、そう時間は掛からなかった。ミューさんも、今の見稽古の様子から見て、常人では抗しえない殺気を全身に纏って、クーゲルさんに対抗していた。それが向けられれば、どういう事になるか。
始まる前から、結果は見えていた。
一撃で、剣がたたき落とされる。技量も一撃の重さも、あまりにも違いすぎる。小手先の技が通じる相手ではない。呆然としているニニアさんに、ミューさんはいつものにへらにへらした様子からはかけ離れた、低く重い声を掛ける。
「もう一度」
「は、はいっ!」
引きつった声で、ニニアさんが剣を拾う。その後、三回剣をたたき落とされた。泣き出しそうになるニニアさんだが、必死にこらえる。立ち会いという名のしごきが終わって、返されたニニアさんは、涙ぐんでいた。ミューさんはマスターに似てきた。きっと強くなると、そうなるのだろうと思う。アデリーは少し悲しかった。
その後ボロロさんがクーゲルさんと立ち会ったが、殆ど何も出来ないまま二本取られる。更に、三本目は振りかぶった訓練剣を絶妙なタイミングで叩きつけたにも関わらず、無造作に振るった槍ではねのけられ、目にもとまらぬ早業で右手の掌底を鳩尾に叩き込まれていた。クーゲルさんの動きは一見スローだったが、その実とんでもない重さが加わっていたことを、アデリーはきちんと見ていた。ボロロさんが吹っ飛んだのは当然の結果であった。
「どうした。 さっき子供に敗れた時も、其処ががら空きだったぞ。 長身になると、腹や足下に隙が出来る。 腹もそうだが、特に足をやられると致命的だ。 しっかり意識しておけ」
「は、はい。 すみません」
「よし、次!」
隣の男の子が呼ばれる。すくみ上がってしまっていて、もう戦う前から結果は見えていた。気の毒に、この訓練に初めて出たのかも知れない。アデリーは彼の実戦訓練を見なくても、結果が分かっていたが、何も出来なかった。
怯えながら自分の前に出てきた男の子を、クーゲルさんは冷然と見ていたが、やがて殆ど表情を動かさずに言う。
「君は、トラスティール子爵の息子だったな」
「は? は、はい」
「君の父上は、私の弟子だった。 二代にわたって騎士を鍛えるというのは、なかなか興味深いものだな」
クーゲルさんは獲物を狙う猛獣そのものの目で、男の子を見ていた。男の子は、自分がどんな相手の前にいるのか、よく分かっていない。
「君の父上は、良い騎士だった。 貴族に転身してからは一線を退いたが、なかなかに才能のある使い手であったぞ。 もちろん、君も将来は近づけるだろう」
「ほ、本当ですか?」
「傲慢な態度が目立つと言われているようだが、本当は貴族の子息ではない自分を見て欲しいのだろう? 儂は君をただの一戦士としてみよう。 遠慮無く打ち込んできなさい」
「は、はいっ!」
すっかりやる気を引き出された男の子は、表情まで変えていた。一見いい話だが、アデリーには分かった。クーゲルさんは、ただ殺しがいのある相手を育てたいだけだ。長く戦場にいるクーゲルさんには、観察力が並ならぬレベルで備わっている。一瞬で男の子の内面を見抜き、それを自分のために利用したのだ。もっとも、単純に戦いのことにしか興味がないクーゲルさんは、誰にでも平等だ。殺す価値があるか無いかで、態度を変えるだけで。
嬉々として打ち込んでいた男の子は、何度もたたきのめされたのに、陶然として帰ってきた。多分彼は、良い戦士に成長するだろう。今後は戦いに対する意識が根本的に変わってくるはずだ。悪い意味での傲慢さも、消え失せるだろう。強烈な気に当てられておかしくなることは珍しくない。この男の子は、その一例だった。
何人かの実戦形式の立ち会いが行われる。火炎の術を展開しようとした青年が、瞬く間にミューさんにたたきのめされる。槍を使ってクーゲルさんと立ち会おうとしたお姉さんは、十歩以上の距離をはじき飛ばされ、地面に転がって気絶した。これで毎度怪我人が出ないのだから面白い。
アデリーが呼ばれたのは、最後だった。立ち会いの相手はミューさんとなった。緊張する。訓練槍を持って向かい合う。呼吸を整え、一気に神経を集中した。
ミューさんの姿がかき消える。
背筋に寒気が走った。速いなんてものじゃない。ステップして視界から姿を外しただけだというのに。巨大すぎる実力差が、背中に冷や汗の滝を作った。全身が恐怖をもって脳に警告を発する。右だ。体を引きながら、槍を短めに持ち変えつつ、飛んできた上段からの一撃を受け止める。
激しい激突音。一歩分ほど、圧力でずり下がる。
「お。 腕上げたね」
ミューさんの声が飛んでくる。今度は真後ろからだ。速すぎて対応できない。飛んでくる一撃を横っ飛びにかわすが、今度は真正面にステップして姿を見せたミューさんが、上段から一撃を叩き込んでくる。体勢を崩さないように、受けきるのがやっとだ。パワーもスピードも違いすぎる。
まて、ならば何故受けきれる。
それで、気付く。移動自体は、それほど速くない。問題は初速なのだ。超反射能力を生かして、異常な初速を出しているため、目が追いきれないのである。初速は凄まじいが、中途からはそうでもないから、対応できる。多分ミューさんはまだ本気ではないが、少しだけ対抗策が見えてきた。
この人をどうこう出来ないようでは、どのみち暴走状態のマスターを食い止めるなど不可能だ。あの状態のマスターの戦闘能力は、全力のクーゲルさんに匹敵するか或いはそれ以上。しかも獣のように勘が鋭く、的確すぎる殺戮と暴力を繰り返す。よく練られて高められた魔力が、そのまま物理的な破壊力にすり替わっているのだから無理もない。これ以上、被害を出したくない。それが、大いなる創造の代償だと知っても。マスターの事が好きだから、止めたいのだ。
ミューさんは訓練と言うこともあるから、手加減してくれている。それは分かっている。本来なら、既に二回三回と斬り伏せられているだろう。成長を促すための実戦稽古。此処は一本取ってみせるのが、恩返しだ。
目をつかの間、閉じる。動きではなく、殺気を読む。一撃、二撃、目を閉じたまま飛んでくる剣をかわす。やがて見開いた目には、映る。連続攻撃の隙間が。此処が勝機。僅かに下がろうとしたミューさんに、踏み込む。
「てえっ!」
気合いと共に繰り出した穂先が、ミューさんの肩を突いた。どよめきの声が上がる。一瞬の虚脱。空白の時間を切り破って、クーゲルさんが声を張り上げる。
「見事! 一本!」
全身の筋肉をフルに使った一撃であった。体中の筋肉が悲鳴を上げ、肺が空気を要求している。地面にへたり込み、肩で息をつくアデリーは、優しく手をさしのべているミューさんの笑顔を見た。涙がこぼれそうになる。
「見事。 気力と駆け引きに関しては、もう充分に一人前だね。 次はもう少しパワーを上げていこうかな」
「は、はい!」
手を取って、立ち上がる。もう足下ががくがくだが、それでも何度でも戦えそうな気がした。
結局その後は一本も取らせてもらえなかったが、この日、アデリーは何かを確実に踏み越えた。それは心の奥に小さな自信となり、やがて大きな財産となっていくのである。
マリーが秘密兵器をほぼ仕上げたのは夕刻であった。額の汗を拭う。これで、いつでも出かけることが出来る。フラムやクラフトも既に準備が終わっている。机の上にのせていたそれを、地下室に運ぶ。ひと作業だった。どうにか片付け終わると、汚れてしまった机を掃除して、茶にする。やはり何度ためしても、腕はいっこうに上がらない。
それにしても、三人で竜を斃さなければならないというのは、何とも面倒だ。基本的にドラゴンは強力な対術防御能力を持っているため、集団戦で網を掛けて動きを封じ、破城槌や攻城用クロスボウなどの強力な兵器でとどめを刺すのが基本となる。動き自体は鈍いが、パワーそのものはサイズに比例して尋常ではないから、少人数で仕留めるのは極めて難しい。剣や槍で戦うのは自殺行為だ。少人数で、しかもエンシェント級のドラゴンを仕留めた英雄達は、あくまで特殊な人種である。たとえばあのヘルミーナ先生のような異能種で、普通の人間と同じに分類する方が間違っている。
組織戦を行う時の人間は、無類の強さを発揮する。戦略さえ間違わなければ、凡人でもドラゴンを仕留めることが出来る。その証拠は、各地の村で見ることが出来る。戦闘能力が比較的低い村でも、虎や熊程度なら簡単に仕留めることが出来る。ドラゴンだって、斃すのにさえこだわらなければ、追い払えない相手ではない。もちろん、優れた指導者がいる村なら、仕留めるのはたやすい。街や城になってくれば、ドラゴンなど脅威にもならない。人間とは、集団戦に特化した生物なのである。
それを少人数で覆すのがどれほど難しいかは、この件だけでも明らかだ。ましてやフラン・プファイルは人間を侮っている若い愚かな竜とは違う。下手な距離まで近づくと、それだけで逃げられてしまう。
大勢が専用の道具を持って入りづらい上、すぐに逃げることが出来るヴィラント山に住んでいるからこそ、フラン・プファイルは現在まで命脈を保っているのだ。そうでなければ、エンシェント級だろうが何だろうが、とっくに解体されて骨も内臓も売り払われていただろう。
だから、色々と準備をした。それも完成したし、後は出かけてぶち殺すだけだ。騎士団長を助けてフラン・プファイルを斃せば、マリーブランドの名は更に上がる。そうすれば、最終的にはドナースターク家の利益につながり、グランベル村の発展にもつながるのだ。含み笑いが漏れる。この間のアロママテリアで、試験なら合格できるとマリーは判断した。これから考えるのは、それ以上の戦略。錬金術の究極への到達。今後のドナースターク家のさらなる発展における、自分の役割。そして、グランベルを発展させる根本戦略の構築。いずれにも、今回のドラゴン狩りは有効である。危険だが、充分に命を賭ける価値はある。どのみちこのくらいの試練を乗り越えられないようでは、マリーのこれ以上の栄達などないだろう。
ドアをノックする音。入ってきたのは、ミューだった。久しぶりにアトリエに来た事になる。満面の笑顔の上、手には新鮮な春野菜が満載されたバスケット。何か良いことがあったのだと、一目で分かる。それにしても、いまだに最初に嬉しいことを報告する相手がマリーなのは、少しばかり微妙だ。マリーとしては嬉しいが。
「マリー、今、時間ある?」
「ん? 何かあったの?」
「うん。 ちょっと嬉しいことがあったんだ」
ミューはマリーの向かいに座ると、バスケットを机の脇に置く。鼻歌交じりだ。此処まで機嫌が良いと、正直気味が悪い。
「あのね、マリー。 今日、私、クーゲルさんのところで助っ人の仕事してたんだけど」
「だけど?」
「アデリーの稽古見て上げることになってね。 パワーをだいぶ抑えてたんだけど、それでも一本取られちゃったよ! 途中で私は切り上げたんだけど、うん、すごく良い仕事だった!」
やはり此処まで育ちあがったか。マリーはただそう思った。茶を注ぐと、ミューに出す。自分にも注いで飲み干す。やはり茶の腕は全然上達しない。
「凄いね、あの年で、手加減してたとはいえ、今の私から一本だよ!」
「そうね。 もう実力はヒラの騎士並かな」
「嬉しくないの?」
「嬉しいけど、大体来年くらいには近接戦闘であたしを上回るだろうってのは、目に見えてたからね。 そろそろ手加減したあんたからなら、一本くらいは取れるでしょう」
アデリーは才能を努力でカバーするタイプの子だ。そして、大体マリーの予想通りのスピードで腕を上げている。あまりにも予定通りに行きすぎると、カタルシスは却ってないものだ。ミューの場合は其処まで頭が回らないから良い。マリーの場合は、分かってしまうため、あまり素直に喜ぶことが出来なかった。
「ところで、マリー。 今は何の仕事をしているの?」
「国家機密」
「へ? 国家機密?」
「うん。 後一月もしないうちに終わるけど、それまでは手が離せないんだ。 そっちの仕事はどんな調子?」
冒険者ギルドには行っているし、各地の情報筋からも話は仕入れている。しかし、情報は様々な入手先からのものを比較検討するのが基本だ。ミューは冒険者達と直に横のつながりを持っているわけで、マリーとは違う方向からの情報を仕入れているのは当たり前である。だから、活用する。
「ドムハイトの方はだいぶ静かになってきたみたいだよ。 ただ、国境の幾つかの州がきな臭いみたいで、何人かの豪族がシグザール王国への寝返りを画策しているって噂もあるんだって。 早速ガラが悪い奴らが暗躍してるみたいだね」
「ふーん。 まあ、竜軍がいきなりいなくなったんだから、当然か」
「よく分からないけど、戦争にならないといいね」
「ならないよ、多分。 「戦争」にはね」
マリーが思うに、仮に国境地帯で紛争が起こっても、シグザール王国側に軍が押し戻されることはないだろう。元々ドムハイト国内の腐敗はよく知られていた。中枢を担っていた軍が消えてしまった以上、政治的な状況も滅茶苦茶になったはずだ。ドムハイトの足並みは揃うはずもなく、一枚岩のシグザールには勝てない。ドムハイトに勝ち目があるとすれば、シグザール王国軍をゲリラ戦に引きずり込むことぐらいだ。ヴィント王が、そんな手に乗るとは思えない。
武器を使った争いだけが戦ではない。政治や経済の世界では、日夜激しい喰らい合いが続いている。それも、今はまだ本番ではないだろうとマリーは考えている。悪魔や竜など、全ての悪を都合良く押しつけることが出来る存在が全ていなくなった時こそ、人類社会が本当の地獄となるのではないか。暗い予想だが、多分それは絵空事ではなく、確実にある未来だろう。
どちらにしても、戦争をしていてもしてなくても、人類社会の惨状はそう変わらない。
「騎士見習いの人たち、いい人ばかりだったんだ。 戦争になったら、大勢死ぬと思うとやりきれないよ」
「そう、だね」
ミューは良い奴だ。だからこそ、多分これ以上の実力を身につけることは出来ないだろう。ある程度以上の段階に行くには、捨てなければならないものは多い。ミューには恐らく、それは出来ない。
アデリーが帰ってくる。ミューは太陽みたいな笑顔を向けると、夕食をとっていきたいと言った。今日くらいは良いだろうとマリーは思い、腰を上げる。ドナースターク家に、準備が全て整った旨を伝えてこなくてはならないからだ。
早ければ明日、遅くとも7日後には、フラン・プファイルとの戦いに出かけることとなる。無いとは思うが、最悪の場合これが今生の別れとなる。アデリーが壁を乗り越えたのは事実であるし、素直に祝えない自分よりも、ミューがほめて上げた方が良い。
合理的すぎる事に、ふとマリーは気付く。苦笑して、歩調を早める。どうやらそろそろ、精神が人間の域を超えつつあるようであった。敬愛する先生達のように。つまり、あの人達に少しは近づけたと言うことだ。
これは予想していなかった。だから嬉しい。シアには話しておきたい。ドナースターク家へ急ぎながら、マリーは快哉の声を上げたくなるのを、苦労して抑えなければならなかった。どうやら超えたのは、一瞬だけだったらしい。
今はまだ、それで良かった。
3,舞曲、静かなるその時
アトリエを出る。いよいよ、戦いの時が来たのだ。
今回の移動スケジュールは片道五日。予備二日。合計十二日の予定である。半月弱の時間が取られるわけで、その間の収入が無くなる。アデリーは慣れたもので、金がなくなった時の対処法や、いざというときの避難先などを、すらすらと反芻した。もう子供ではない。現在の扱いは間違っていないと、マリーは思った。問題なく留守を守ることが出来る。今回からは在庫の管理も任せた。あくまで緊急の客が来た時だが、幾つかの品については保存先を告げてある。
採集以外の目的で街の外に出るのは、マリーとしても久しぶりだ。以前アダマンタイト鉱山の露払いを行った時以来である。荷車には今回の戦いの焦点となる秘密兵器を積んである。もちろんテント類一式もある。
エンデルクは朝、完全に時間通りに来た。なんと正装である。聖騎士専用の青い鎧を着込み、堂々と歩いてきたので、マリーも流石に驚いた。少し前に一緒に来たマリーとシアは、当然のように旅装である。シアは服の下に鎖帷子を着込んでいるが、よそからは分からない。スピードと身軽さを武器とするシアには、これ以上の防御は無理なのだ。鎖帷子は最高級品だが、それがぎりぎりの妥協点なのである。
今回は、荷車の後ろに、二つ荷台をつけている。どちらも小さな車輪がついており、フラン・プファイルの内臓類を運搬する目的で増設した。ドナースターク家の倉庫から引っ張り出してきたものであり、容量はそれなり。荷車ほどではないが、結構容量がある。帰りはかなり大変になるだろう。三人がそれぞれ一つずつを引っ張ることになる。もちろん運搬はエンデルクにも手伝ってもらう。
護衛の騎士も来ていたが、城門までの見送りである。人だかりが出来ても面白くないので、すぐにザールブルグを出た。エンデルクはその間もマイペースに剣を抜いて状態を確認したり、自分用の荷物を積み込む部下の様子を眺めたりしていた。以前に比べると覇気が戻っているが、マイペースな所のある男だ。
ヴィラント山の方を見ると、フラン・プファイルが頂上付近を旋回している。人間が来ないか見回っているのだ。神経質な行動にも見えるが、あれくらいでないと長生きなど出来ないのだろう。
行きで体力を消耗しきってしまっても意味がないので、むしろゆっくり進む。その過程で、荷車を引いているエンデルクに作戦を説明する。攻城兵器を持ち込めない状況で、人数も揃わない状況で、火竜と戦うには様々な策がいる。最後にはエンデルクの剣腕が頼りになってくるが、それも正面から命のやりとりをするわけではない。
シアがはたきを取り出す。最近更に強化したと聞いている。ざっと見たところ、分銅部分に鉛を入れ、外部をミスリルで覆っている。今回のために強化をしたそうで、費用はドナースターク家の金庫から出したそうだ。これだけでもドナースターク家が今回の仕事にいかに力を入れているかが、よく分かる。ただ、高級品ということもあるのだろう。シアは歩きながら、ミスリルの部分を丁寧に磨いていた。
荷車から白リンゴを取り出して、そのままかじりつく。この時期の珍味だ。ブララの実でも良かったのだが、今回は単に白リンゴの気分だったので、此方にした。芯だけ綺麗に残して食べ終えると、舌なめずりしながらエンデルクに聞く。
「エンデルク様」
「何だ」
「どうですか? 自信は戻りましたか?」
「……恐ろしい女だな。 案ずるな、大体は大丈夫だ」
エンデルクはついと視線を背ける。前回のヴィラント山での出来事が、エンデルクを感化したのは疑いない。アデリーのひたむきな姿勢に感化でもされたのだろう。こんな事を堂々と話すと言うことは、おおらかと言うよりも余裕が戻ってきたと言うことである。
しばし沈黙が流れた。エンデルクは荷車を引きながら、今度は自分から話しかけてくる。この男、一度仲良くなると、急に距離が縮まるタイプかも知れないとこの間一緒に歩いた時に思ったが、どうやらそれは間違いがないらしい。
「マルローネ殿。 アデリーを、あの子を騎士にしてみないか? 知っての通り、実力はもう並の騎士に拮抗するだろう。 あと数年鍛えれば、聖騎士になることも夢ではないぞ」
「本人の気持ち次第ですねえ」
「ほう? これは意外だな」
「ふふ、あたしがもっと強引で勝手な性格だと思ってたでしょう」
エンデルクが頷いたので、シアがくすくす笑った。マイペースも此処まで来ると、良い性格だとマリーも思う。
「まあ、実際強引ですけどね。 そんなあたしにも色々ポリシーがあるんですよ」
「他人の意思を尊重することも、その一つか」
「あたしに影響が及ばない限りであれば、ですけどね。 あの子の進路は、本人が選ぶものです。 そう思って、何処でも生きていけるように鍛えてきたつもりです。 もっとも、ドナースターク家を支える人材の一人になって欲しいって、思っている人も多いんですけどね」
「ちなみに、私もその一人ですわ。 エンデルク様」
シアが口を横から挟んできたので、マリーが今度は笑った。エンデルクは本気なのか、冗談なのか、少し困った様子で言った。
「それは困ったな。 あの子は欲しいし、かといってシア殿を敵に回したくはないし」
「ただ、私も本人の気持ち次第だとは思っています。 あの子のドナースターク家に対するコネクションの強さを考えれば、騎士団で高みに上り詰める事も無意味ではありませんからね。 ただ、ドナースターク家は新興の貴族。 優秀な家臣は、幾らでも欲しい時期ですから、今後も積極的に働きかけますけど」
「そうか。 難しいところではあるな。 貴方の機嫌を損ねない程度に、今後交渉を検討してみるとしよう」
この間に比べると、更に騎士団長らしくなっている。何があったのかは結局分からないが、それでも立ち直りつつあるのは事実だ。これなら勝率は更に上がるだろうと、マリーは思った。
妙に長い荷車を引いていく姿は、どうしても目立つ。途中、行き交う荷馬車に乗る人間達が、視線を送ってきた。その一つに、ハレッシュが乗っていた。すれ違った大柄な知人に、手を振る。向こうも無防備な笑顔で振り返してくる。すぐにその後ろ姿は遠ざかっていった。
春の空気は心地よい。鋭い羽音を立てて、中型のバッタが街道の脇の茂みから飛んでいった。生があるということは、死もある。半分虫に食われた犬の亡骸が転がっていた。異臭がするが、別に埋めることもない。放っておいてもすぐに動物たちが分解してしまう。つまり、土に還る。骨でさえ無駄にはならない。
「食べますか?」
「いただこう」
犬の死骸の脇を通り過ぎながら、マリーが白リンゴを出すと、エンデルクは表情も変えずに受け取った。そのまま豪快にかぶりつく。手を殆ど汚さないで食べる様子は、かなり慣れている。
いつもよりも少し遅いペースで、街道からずれる。森の中を行くと、濃厚な生の臭いが辺り中からした。今は殆どの動物にとって、新たな生命の誕生を祝う時期だ。それらは未来ある次世代である。また別種の動物の子供であれば、この時期にしか食べることが出来ない珍味でもある。
夕刻、いつもキャンプしている河原に着く。一晩そこで過ごしてから、ヴィラント山に向かう。この時期はエルフィン洞窟でもそこそこ良い収穫が見込めるのだが、今回は無視だ。ただでさえぎりぎりの積載量で此処まで来ているのだ。戦利品を積み込んだら、余計なスペースは殆ど無い。場合によっては、テントなどは背負って帰ろうかと考えている状況である。
ヴィラント山に入ると、流石に緊張感が変わる。油断すると、マリーやシアでも怪我では済まない難所だ。慎重に歩を進め、赤茶けた山を登り往く。何カ所かの厳しい傾斜を、綱を使って荷車を引き上げる。既につなげていた三つの荷車は分解済みだ。それぞれを順番に段差の上に引き上げていく。
フラン・プファイルは、とっくに此方に気付いているはずだ。奴との勝負は、これからである。以前発見した、山頂近くの横穴に、二日がかりで到着。険しい山を、三つの荷車を引っ張って登るのは流石に骨だった。最近目立って頑丈になってきたシアも、流石に額に薄く汗を掻いている。清楚なシアの場合、それだけで色っぽいのだから得だ。
中腹の横穴より規模が小さい自然洞穴だが、中は休むに充分な広さがある。難点は水が無いことで、それが長期滞在を不可能としている。というよりも、こんな高所で水がある方が珍しい。フラン・プファイルも、水分は何カ所かの湖を回り、慎重に取るという話だ。もっとも、人間に見られると場所を変えてしまうそうで、湖で待ち伏せるのはほとんど不可能に近い。
入り口にトラップを張ると、奧にキャンプを作る。テントを立て、竈を作ると、地図を広げる。三人で円陣を作ると、マリーは説明に入った。
「状況から確認しましょうか」
「ああ。 頼む」
地図はそれほど精巧なものではない。元々此処は普通の人間が入るには危険すぎる場所なのだ。たとえば、この洞窟だってそうだ。外に出て五歩くらい歩くと、もう其処は空である。足を踏み外せば、人間の背丈の150倍ほど落ちて即死だ。それに負けず劣らずの崖を、荷車を引き上げながら登るのがどれほど大変であったか。
それでもまだ良いのは、マリーが以前此処に来たことがあると言うことであろう。もう少し先まで進んで、以前は引き返した。今回は、この先まで行かなければならない。
フラン・プファイルは既に警戒態勢に入っているはずで、少し刺激しただけで確実に逃げる。そして、此方の兵糧と水が尽きるまで、山には戻ってこないだろう。その間に辺りの地形を徹底的に調べ、その後にリベンジマッチを挑む手もある。だがこの山は元々かなり広い上に地形が複雑で、しかも猛獣が多い。いかに此処にいる三人がかなりの使い手であるといっても、疲れた上に不意を突かれればあまり面白くない。それに時間がない。だから、今回は、此処で仕留める。
奇襲は極めて難しい。仮に接近戦を挑めても、相手は巨大な火竜だ。この三人が力を合わせても、簡単には勝てない。それらを説明し終えると、マリーはエンデルクを見た。マリーは策を用意してきているが、エンデルクもそうかも知れないからだ。元々エンデルクは戦闘のプロであるし、聞かないのは失礼に当たる。
「何か騎士団長に策はありますか?」
「正直、何もない」
「そうですか」
「いや、対竜用の装備類や、能力を把握している騎士団の者達を連れてきていれば話は別だ。 だが、此処まで条件が限定されてしまうと、流石に私も何も思いつかない。 本来人数的にも装備的に火竜を倒せる状況ではない」
無念そうに言うかと思えば、かなり淡々とした口調だ。騎士団長の内面の変化が面白い。アデリーに後で聞かせてやるとしよう。マリーは続いてシアを見る。
「シアは、何かいい手ない?」
「そうね。 貴方のカイゼルヴァイパーを使う手が考えられるけど、効くかしら」
「ん、難しいでしょうね」
マリーのカイゼルヴァイパーは、現在では半里ほどの射程距離を誇る。此処からフラン・プファイルを狙い撃つことが可能だ。ただし、シアが言ったとおり、それで倒せるかはかなり微妙になる。何しろ、高い対術防御能力を持つドラゴンだ。彼らの鱗が高く売れるのは、並の金属では歯が立たないほどの強度もあるが、術を受け付けないその特性が大きいのだ。ただし、死んでドラゴンの体から離れると効果は半減してしまうので、術者が戦場で役立たずになることはない。
マリーの見たところ、多分翼を打ち抜くのでさえ無理だろう。攻城用クロスボウがあれば造作もなく撃ち抜けるのだが。シアは深刻な表情をしているエンデルクを見て将来的なコネクションを心配したか、笑顔のままプレッシャーを掛けてくる。
「策を用意してきているんでしょう? もったいぶらずに話しなさい」
「へへ、じゃあお披露目といこうかな」
マリーは立ち上がると、キャンプ用品の側のカバーを外し、今回のために作った秘密兵器を露出させる。作るのに随分時間が掛かった。今回の収入を考えれば充分におつりが来るはずだが、それも火竜を首尾良く仕留めることが出来た場合だ。逃がせば元も子もない。
全身を使って、引っ張り出す。それは巨大な黒々とした綱だ。以前の採集でも持ってきた、生きている縄を極限まで強化改装したものである。今回は、これを防御兵器としてではなく、攻撃に使う。
「それじゃ、作戦を説明するわ」
クラフトをエンデルクとシアにそれぞれ配りながら言う。フラムも持ってきてはいるが、これは作戦が失敗し、逆上したフラン・プファイルが追いかけてきた時に、一種の煙幕として用いる。
フラン・プファイルは強い。だが、奴は所詮生き物だ。それを利用する。充分に策を説明すると、三人は頷きあい、立ち上がる。これなら行けると、全員が納得したのだ。そのまま、それぞれ所定の位置に散ろうとした、その時だった。
湿気に顔を上げたマリーが空を見ると、急速に雲が出始めていた。瞬く間に雨が降り出す。まずい。この状況、クラフトの火力が半減する。奴を仕留めるには、想定以上の火力が必要になってくる。それに、初撃を入れる時にも、かなりの注意が必要になってくる。立ち止まったマリーを怪訝そうに見ていたエンデルクが、空を見て状況を悟ったようで、深刻な顔で舌打ちした。
元々、地の利が無いのだ。イレギュラーが発生することは、当然の予想に組み込んではいた。だがこれはどうしたものか。攻撃日を遅らせるか。いや、それは難しい。なぜなら、火竜は既に此方に気付いているからだ。時間を掛ければ、奴が危険を感じて、距離を置く確率が鰻登りに高くなる。
雨は一秒ごとに激しくなり、辺りは滝の中のような有様となった。まずい。この地形でこの天候だと、移動するのでさえ命がけになる。作戦を遂行する核の部分には問題がない。だが、それぞれの人員に対する危険度があまりにも大きすぎる。視線を逸らすと、洞窟の脇に小さな木が生えていた。葉を数え始める。落ち着くためには、これが一番だ。沈黙が流れる。葉を数え終えてしまった。
肩を叩いたのはシアだった。
「一度休みましょう。 この状況、貴方の作戦通りに事は運ばないわ」
「でも」
「無理に仕掛けたら、却って策が台無しよ。 それに、ほら」
簑をかぶせられる。外から、狙撃地点にしようとしていた岩の影にまで出る。そうすると、見えた。
フラン・プファイルは翼をたたみ、丸くなって休みに掛かっていた。雨宿りという感覚そのものが無いのかも知れない。嘆息。もちろん奴はまだ警戒を解いてはいないだろうが、どうにかなりそうだ。それにしても巨大な図体だ。
一端攻撃は中止。エンデルクは空を見上げたまま、ああとつぶやいた。雨はそれから半刻もしないうちに徐々に止み始めたが、小降りになったまま続いた。完全に雨が止んだのは夜半過ぎ。明け方近くには、空には星が瞬き始めていた。
ヴィラント山の赤茶けた岩が、雨に湿っていた。晴れたとはいえ、空気は湿度が高く、クラフトの火力はかなり落ちるだろう。状況は悪いが、もう時間がない。踏み出すと、湿った音がする。普段の乾いたヴィラント山の土を踏み慣れたマリーには、身の危険さえ覚える違和感だった。この違和感が悪い方向に作用しなければいいのだがと、マリーは不安を呟き掛けて、飲み込む。
頬を叩いて、意識を戻す。自分がしっかりしなくてどうする。作戦を立案し、説明した結果、二人は承諾してくれた。すなわち、命を預けてくれたと言うことだ。ならば、しっかり責任を果たさなければならない。それが大人というものだ。たとえ命を落とそうと、勝利へ皆を導く。それが、命を奪う事で生きる、今のマリーが行うべき事であった。
マリーは、死ぬ時は死ぬと考えている。相手を殺す以上、死にたくないなどというのは身勝手だ。殺す時には、自分も死ぬ覚悟をする。それが最低限の、戦での礼儀。マリーはそう割り切って考えている。今回も、それに変わりはない。
既にシアとエンデルクは所定の位置に着いたはずだ。後は、マリーが仕掛ければ、戦いは始まる。洞窟を出て、岩山を登りあがる。出来るだけ音を立てないようにしなければならない。これがかなり難しい。地面は湿っているし、何しろ雨の後だ。岩も崩れやすくなっている。途中、数頭の狼と出くわす。鬱陶しいので、視線で威圧して追い払った。殺気を出すわけにはいかないので、さっさと逃げ散ってくれて幸運だった。
どうにか狙撃地点に到達したマリーは、敵の存在を確認。射程距離内だ。腰を落として、杖を向ける。詠唱開始。
今回はカイゼルヴァイパーを、敵を倒すためではない目的で用いる。必殺術をこんな形で用いるのは初めてだ。あまり良い気分はしないが、自分で立てた作戦だ。遂行にはきちんと責任を持たなければならない。
魔力が高まり行く。フラン・プファイルが顔を上げた。此方に気付いたのだ。狙撃地点に着いてからなら、時間的に問題ない。
予想通りの反応である。舌なめずりすると、じっと此方を見ている火竜と相対する。にらみ返す。火竜はじっとしていたが、やがて翼を大きく広げる。もうシアとエンデルクには気付いているはず。危険が大きいから、待避しようと考えたのだろう。
勝った。マリーは口中でつぶやいた。
大きく翼を広げた火竜が、飛ぼうと何度か羽ばたく。体が浮きかけたその瞬間、巨体がぐらりと揺れた。
シアは他の二人から離れると、風のように駆け始めた。今回、俗に言う先陣をまかされている以上、最初に敵の側にたどり着かなければならない。元々身軽さには天性のものがある。悪路をものともせず、それこそ鳥のように、岩山の間を縫って駆ける。
体が軽い。あのエリキシル剤を飲んでからというもの、体が非常に頑丈になった。昔は体力のなさと身体能力の貧弱さを、スキルと頭脳で補っていた。だが、最近ではそれに体力が追いつき始めている。筋肉の問題と言うよりも、内臓が変わってきたのだ。心臓も肺も、以前よりぐっと強くなった。多少の運動ではまるで音を上げなくなった。心臓が力強く全身に血液を送り出してくれるのが分かる。乱れた呼吸も、すぐに平常に戻る。そんな心強い内臓に、筋肉達がサポートされているのだ。
父のトールは、既に自分を超えたかも知れないと、この間太鼓判を押してくれた。嬉しかった。ただし、父が衰えたのだとも、冷静にシアは考えている。全盛期の父にはまだまだ勝てないだろう。戦闘能力は仮に勝ったとしても、経営の知識や技術に関しては、まだ遠く及ばない。まだシアは学ぶことが多いのだ。
走る。雑念を払って、ただ走る。
今回の戦いは、良い機会だ。一歩間違えれば即死する状況。こういう紙一重の戦いは、大きく精神を成長させる。アデリーが短期間に強くなっているのも、危険すぎるクーゲルとの稽古をこなし続けているからだ。他人を巻き込む状況で、戦いが精神を成長させるなどと言う理由をばらまくのは論外だ。だが、これはシア個人の問題。シアは今回の戦いを、試金石にしようと思っていた。
小型の熊ほどもある大岩を蹴って跳躍、斜面を越える。まだまだ、敵までの距離はかなりある。地図は全て覚えたが、あまり役に立ちそうになかった。目視で作った地図だけあり、実際に歩いてみると全然違うのだ。視界の死角になる箇所が多いのだから仕方がないが、クレバスはあるわ、巨大な岩が立ちふさがっているわ、進むのは大変だった。
丁度鳥が枝に止まるように、頂上付近の大岩に着地。安定した地形に腰を下ろしている大岩だが、すぐ側は崖。バランスを崩したら、千尋の底へ真っ逆さまだ。埃がついたスカートを払う。スカートといっても、下着はスパッツ型で、靴は薄いミスリル片を含んでいる頑丈なものだ。それほどズボン類と防御能力は変わらない。腰につけているはたきを引き抜く。そろそろ、戦闘可能距離だ。額を手の甲で拭う。皮の丈夫な手袋を装着しているので、ひんやりと冷たかった。
フラン・プファイルは少し前から此方の接近に気付いている。シアが見ると、鎌首をもたげて、ぐっと威圧してきた。まだ此方の間合いの外だから、緊張する。まだ百歩くらいは離れているが、フラン・プファイルがどう出るか分からない以上、油断は出来ない。はたきを取り出して見せたのは、真の目的を悟らせないためだ。奴は頭がそれなりによい。だから、それを逆利用する。
見えた。エンデルクが、所定の位置についたのだ。
状況が動き始める。静かに構えを取ったまま、シアは全てを見守る。最初に仕掛けるのが自分である以上、全てを見極めないと行けない。
火竜が大きく翼を広げる。羽ばたく。冷や汗が流れる。逃げられたら全てがおしまいだ。唇を舐める。マリーが作った道具を信頼して、全てを任せたのだ。だが、どうしても緊張はする。自分の命を救ってくれたマリーのエリキシル剤。多くの人間を助けてきた、マリーブランドの薬剤類。珍重されている兵器群。実績は充分なのだ。信頼しろと、自身に言い聞かせる。
巨体が、ぐらりと、揺れた。
羽ばたき、舞い上がろうとした火竜の巨体が、冗談のように揺れる。いまだ。
シアは跳ぶ。能力は、まだ展開しない。だが、此処が勝負所だ。
走る。駆け上がる。岩を蹴り、地面を蹴り、火竜との距離を詰めていく。轟き渡る、火竜の絶叫。怒りに歪む顔。それが、至近に見えた。
エンデルクは無言のまま走った。作戦を立てる。或いは、それを監修する。此処しばらくは、ずっとその立場だった。個人戦のレベルでは作戦を練ったこともあった。だが小規模であっても、最近は作戦立案を他人に任せきりだった。
今回もそうだ。エンデルクは、作戦立案には関わっていない。
作戦を見る目には自信がある。事実、今までも大きな戦果を上げ続けてきたのだ。しかしながら、今回は違う。非常に危険が大きい作戦だ。戦力的にも、最初から無謀すぎる作戦。危険すぎる状況。普段であれば、却下と一言で切り捨てていただろう。だが、あのヴィント王の命令である。こなさなければならない。そして、エンデルクには、そもそも火竜を斃す方法自体が思いつかなかった。だから、マリーの作戦案を蹴ることが出来なかった。
いまはただ走る。成功率は決して高くはないが、ゼロではない。
シアが跳ぶように岩山を行くのが見えた。恐ろしい速さだ。マルローネもそうだが、騎士団でも上位に入る実力だ。クーゲルが騎士団に欲しがるわけである。あのような人材が入ったら、エンデルクの負担も少しは減るだろう。惜しい話だが、仕方がない。そしてこの者達が協力者であるからこそ、作戦に対しての危機感を抑えられる。優れた能力を持つこの者達を、現実主義者のエンデルクは信頼することが出来た。
険しい岩山を行く。エンデルクは大岩を踏み越えると、所定の位置に着く。雨に濡れたヴィラント山が一望できる。まさに絶景だった。遠くの岩に、シアが立っている。マリーは遙か後方で、狙撃の体勢に入っていた。
エンデルクの位置からは、全てが見えた。剣を抜く。タイミングを逃したら、全てが台無しだ。緊張する。もし此処で失敗したら、破滅だという静かな予感がある。エンデルクは大陸最強の名も高い。だが別に歴史上最強と言うわけでもない。エンデルクくらいの実力の人間なら、数年に一度は出現してくるかも知れない。ヴィント王も、その気になれば、すぐに代わりを連れてくることが出来るだろう。
だから、アピールしなければならない。己の代わりは何処にもいないと。誰よりも、王の剣となる事が出来ると。そのためには、ここで火竜を仕留めなければならなかった。だからこそ、エンデルクは命を賭ける。男エンデルク、一世一代の戦場が、此処であった。
時が来た。飛び立ちかけた火竜が、体勢を崩す。シアが走り出す。エンデルクは短く吠えると、一気に火竜との距離を詰めていく。抜いた剣が、ぎらぎらと光り、火竜の血を求めて風を切った。
全身を緊張感がなで回す。明らかに自分より強い相手に、これほど危険な戦いを挑むのはいつぶりか。確実に勝てる戦いを常に構築してきた。だからこそに、忘れていた。故に、バフォートに敗れそうにもなった。
今、エンデルクは思い出しかけている。駆け出しだった頃の、誰もが自分より強かった時の事を。どんなに策を巡らしても、あの頃はギリギリの戦いが多かった。そして、成長も早かった。厳しい戦いだったからこそ、急速に強くもなったのだ。今、エンデルクは精神的に進歩しなければならない。
火竜が怒りの咆吼をあげた。竦みそうになる筋肉を叱咤し、走る。乗り越えなければならないのだ。知性の皮を被った怯懦を。
戦いが、始まった。
4,狂想曲4番
それは、静かに忍び寄っていた。人間の接近に気付き、警戒するエンシェント級ドラゴン、フラン・プファイルの足下に。
それには命が無かった。だから気配は極小だった。熱はない。呼吸もしていない。だからこそ、熟練の戦士であるフラン・プファイルも、接近には気付けなかった。
それには無数の邪念が封じ込まれていた。それをコントロールし、稼働できるように調整されているのだ。黒く太いそれは、綱だ。綱だが、蛇のように動き、強力な方向性を思考に秘め、ただ一つの目的に向かって動いていた。
綱は、命令を与えられていた。それだけが、綱の全ての存在価値であった。大蛇のようにうねりながら、綱は進む。悪路などものともしない。どんな険路も、大岩も、綱には平気だ。重心が地面と同化している綱は、転倒の恐怖に怯える必要がない。移動速度さえ克服すれば、どんな道でも通り抜けることが出来る。垂直な壁以外は、どこでも綱は進むことが出来る。そして自分の体と同じ太ささえあれば、潜り込むことだって出来る。音も殆ど立てない。
命無き、強き大蛇。それが綱を的確に表す言葉だ。綱は自分が「生きている綱」と、そのままの名前で呼ばれていることを知っている。当然の話だ。作られた時から、ずっとそう呼ばれていたのだから。そんな簡単な名前なら、どうしても覚える。
自分の中にいた無数の個が、とろとろに混じり合って、一つの意思になった頃。創造主である人間は、生きている綱と自分を呼んだ。後は様々な薬や糸を織り込みながら、様々な命令を教え込んだ。体内には巨大な魔力が常に注がれ、空腹感を覚えた事は一度もない。創造主は丁寧に自分を作ってくれた。
この間、創造主が、自分を強化した。体の中に強靱な繊維を大量に織り込んだのだ。そして命令を出した。フラン・プファイルと呼ばれるドラゴンの動きを、一瞬でも良いから止めるように、と。
命令が与えられるだけで、何故か嬉しかった。地面の感触があるだけで、喜びを覚えた。這いずり、綱は鎌首をもたげている竜に近づく。ついに足のすぐ側にまで。巨大な四肢は地面を踏みしめている。竜の鋭い視線が向いている先には、創造主がいる。竜が翼を広げた。逃げる気だと、即座に理解できた。
同時に、どす黒い悪意が、浮かび上がってきた。
生きたまま、何故飛ぶことが出来る。どうして自由に、空を舞うことが出来るのに、地面に張り付いている。お前に、私たちの苦しみを、少しでも味あわせてやる。私たちとは、何だろう。私とは、そもそもなんだ。自分は生きている綱。そう呼ばれる存在。無数の意識集まる個。無数の思念が統一した方向へ向かう綱。
流れる思考の中で、もっとも強いものが悪意。この、地面の束縛をものともせず空を飛ぼうという下郎に、地べたにはいつくばる苦痛を味あわせてやりたい。死んでからは地面に触れることさえ出来なくなる恐怖と苦痛を感じさせてやりたい。誰かが笑った。げきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃ。下品だ。私は笑った。笑うのを下品だと思った。私の中の私が。私であるが故に。私のために。私以外をおとしめるために。
体が動く。手を伸ばすようにして、竜の巨大な足首を掴む。体のもう一方向を、近くの岩に何重にも巻き付ける。飛び上がろうとした竜が、がくりとバランスを崩し、怒りの雄叫びを上げる。
ひひひひひひ、ざまを見ろ。
竜は、すぐに此方に気付いた。矢を射るような、鋭い視線。恐怖は感じない。此奴を引きずり下ろせると思えば、壊れることなど何でもない。鋭い爪が、叩きつけられる。無事な方の足で蹴りつけてきたのだ。ついでに尻尾が叩きつけられる。太い尻尾だ。体中が、ばらばらになるような痛みだった。ドラゴンの口に、炎が宿る。焼き尽くそうというのだろうか。ひひひひひ、それがどうした。地獄の業火の味を知っているか。創造主が、今からお前にそれを教え込んでくれるだろう。
狂気が爆発するのと、光が炸裂するのは同時。
ドラゴンが、絶叫した。
無数の私が、笑い続けた。ひひひひひ、ひひひひひひひひ、ぎひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。全身が燃え上がる。気持ちいい。一緒に滅びるがいい。死など怖くない。私の中のオレタチハミンナケイケンシタコトダ。
無数の笑い声が、細くなりゆき、やがて消える。光が、最後の一瞬、見えた。
遠く。マリーが陣取った位置に、光の十字が出現。間をおかず、巨大ないかづちの蛇が、大口を開けて、空を驀進してきた。至近を抜けるそれを、シアは見送った。
長距離狙撃術、サンダー・カイゼルヴァイパー。マリーの切り札の一つ。マリーらしい豪快な術で、ピンポイントの破壊ではなく、小隊単位での殺傷を念頭に置かれた、強力な術だ。
フラン・プファイルに勝るとも劣らぬ巨大な蛇が、凶暴な速度で躍り掛かる。蛇に絡みつかれ、炸裂された火竜が、絶叫した。炸裂したいかづちの大蛇が、濛々たる爆炎を上げる。多量の粉塵が、辺りを覆い尽くす。
多分、それほど効いてはいないはずだ。奴の飛行能力を奪うのは、此処からである。体勢を低くしたまま、シアは走る。懐に手を入れる。煙の中に、突っ込んだ。不意に跳躍。暴れるドラゴンが、尻尾を振り回したのを、勘で察知したからだ。一瞬前まで自分がいた空間を、太く長い尾がなぎ払い、岩を蹴散らし吹き飛ばす。火竜の背を蹴り、もう一つ跳躍。
翼の間に、クラフトを落とす。しかも二つ。
最初の縄は、一瞬だけ動きを止めるため。二つ目のカイゼルヴァイパーは、煙幕のため。そしてこれが、本命の一撃だ。
着地したシアは、全力で能力を展開、岩陰に飛び込む。至近を振り回された巨大な尾が掠める。それは当たらなかったが、弾き散らされた岩の破片が飛んでくる。振り返りざまに、はたきで岩片を迎撃。拳大の三つを続けざまにはじき飛ばす。続いて飛んできた一抱えもある巨岩。避けきれる間合いではない。
目を閉じ、息を吸い込む。全神経を集中。
「おおおおおおおおおおっ!」
吠え、愛用の武器を振り落とす。渾身の一撃。手応え。ぐらりと、一直線に飛んできていた岩が。急角度に、地面に叩きつけられる。
シアは見た。濛々たる煙の中、宿るまがまがしい赤い光を。フラン・プファイルが、ブレスを放射する体勢に入っている。横っ飛び。巨大な火球が、至近で炸裂。シアは爆圧に身を任せ、勢いに逆らわないように飛ぶ。
心臓の鼓動二つ分ほどの時間浮遊した後、地面で受け身。何度か転がる。飛び起きる。飛ばされた衝撃よりも、至近で炸裂した火球の方がダメージが大きい。何カ所か火傷をし、肋骨に罅が入りかけている。髪を掻き上げ、見る。晴れつつある煙幕の中、まだ足を生きている綱に取られているドラゴンは、第二射を放とうと口を開ける。
再び、飛ぶ。真後ろに。ブレスを避ける下がり方ではない。ドラゴンが不可解な避け方に、一瞬動きを止める。シアは口の端をつり上げた。
次の瞬間、火竜の背に残してきた二つのクラフトが、炸裂した。
炸裂弾に仕込まれていた無数のとげが、辺りに飛び散る。巨大な火球が、ドラゴンの背を焼く。多すぎて聞き取れない擦過音。シアの側にも、数個のとげが飛んできていた。最近はガラス片や釘もふんだんに入れているらしいと聞いていたが、最初に見せてもらった時のものよりも、威力が格段に上がっていた。
火竜が悲鳴を上げる。無理もない。彼女自慢の翼は、ずたずたに傷ついていた。もう飛ぶことは出来ないだろう。第一段階、成功。これで、もう奴は逃げることが出来ない。
「グギャアアアアアアアアアッ!」
地面に横倒しになるフラン・プファイル。時ならぬ地震のように、山が揺れた。飛び出してきたのは、エンデルクである。此処からは、シアの仕事は支援になる。肋骨の罅が全身の疲労を誘いつつあるが、まだまだ平気だ。退がるシアに入れ替わって、エンデルクが飛び出した瞬間。
火竜は己の足に向けて、火球を一発撃ち放った。炸裂する炎。辺りを蹂躙する、まがまがしいまでの熱気。
シアは岩陰から、まだ炎が残る辺りを見回す。エンデルクは剣圧で炎を弾き散らして耐えたようだ。とっさに飛び退くのが遅れたら、巻き込まれていたかも知れない。火竜の行動は激烈を極めた。己の足をまだ掴んでいた忌々しいロープを、鱗ごと焼き払ったのだ。凄まじい覚悟の結果、ゆっくり立ち上がった火竜の左後ろ足は、焼けただれていた。
なるほど、伊達に長生きしてはいないと言うことか。岩陰から顔を出したシアは、血が騒ぐのを感じた。
此奴を今から八つ裂きに出来ると思うと、流石にたまらない。体の芯から、ぞくぞくと快感が沸き上がってくる。殺したくて、無意味に雄叫びを上げたくなる。こればかりは仕方がない。戦士の性だ。
シアは様々な顔を持っている。若い娘。上り坂にある事業家の子。貴族の跡取り。グランベル村の未来の希望。そして、貧弱な魔力をスキルで補う能力者。最後の要素が、シアの中ではやはりとても大きいのだ。火竜が天に向け、一つ雄叫びを上げた。宣戦布告だ。これは応えなければ失礼に当たる。やはり戦士であるシアは、己の存在意義を感じながら、ゆっくり岩陰から出た。
エンデルクが不思議そうに此方を見た。リスクの高い行動だと思ったのだろう。その時点で、此奴は生粋の戦士ではない。皮肉な話だが、世の中はそういうものだ。発見をするのはまじめな学者とは限らない。勝つのは誇り高い戦士とは限らない。あくまで精神的な話は、自己満足の部類に属する。実際の力と、信念が密接に関わっている例は、ほんの一握りでしかない。
猛り狂った火竜が、口から巨大な火球を発射する。連続で四つ。赤黒くまがまがしいそれらは、鳥より速く飛翔し、冬眠前のヒグマより殺意に満ちて突進してきた。
山頂付近で、激しい閃光が何度と無く炸裂した。同時に、地鳴りのような音が、此処まで届いてくる。マリーは腰を上げながら、口笛を一つ吹いた。フラン・プファイルが本気で戦うつもりなのだと、此処からでも分かったからだ。それはつまり、シアが巨竜の翼を打ち破ったという事でもある。
マリーの前には、十数歩分に達する、黒い帯が出来ていた。カイゼルヴァイパーは腰を落とした状態で放つ。反動は凄まじく、撃った後にはこういう痕跡が残るのだ。ちなみに、靴のすり減りも凄まじい。今回はかなり補強してきたのだが、それでも底の皮がかなり抉れていた。
いよいよ、ここからが本番だ。こうなった以上、火竜は全力で此方を排除しにかかってくる。それを、正面から受けて立たねばならない。喰うか、喰われるかの勝負。しかも相手は、名うてのエンシェント級ドラゴンだ。あまりにも面白すぎる状況。思わず含み笑いしてしまう。
武者震い。マリーは舌なめずりすると、ぐっと体勢を低くする。走る。二人に合流するべく、一気に岩山を駆け抜ける。遠くでは、ちかちかと光が瞬き、連続して爆音がとどろく。火竜は、シアとエンデルクを強敵と認めたわけだ。火力を惜しまず、全力での攻撃を展開していることが、この距離からも分かる。
多分、マリーが至近に行くまでには、第二段階には到達できないだろうと思った。また、爆音が響く。それは確実に近くなってきている。かなり苦戦している様子だ。マリーが行かないと、じき押し負けるだろう。
黒こげになった岩が飛んできた。煙を上げるそれが、マリーの至近に着弾、転がる。脇目もふらず走るマリーだが、ふと顔を上げると、前の空が真っ赤になっていた。轟き渡る怒りの咆吼。前から来るプレッシャーは、尋常なものではない。炎を帯びた風が吹き付けてきたかと、マリーは幻視した。
これは想像以上に楽しめそうだ。マリーは更に加速し、岩を飛び越え、濡れた地面を蹴って走る。火の粉が降り始めていた。火事場に向かうようだと、前方の熱気を感じながら、マリーはつぶやいた。
山頂付近。少し平らになっているそこが、フラン・プファイルの巣である。今そこは、地獄の戦場と化していた。
火竜が長い首を巡らせ、火球を連続して放つ。放つ時に反動で僅かに後ろに下がる首を強靱な筋肉が支え、すぐに続いての一撃を放ってくる。炸裂した火球が、半径十歩ほどを瞬時に焼き尽くし、その十倍以上の距離を衝撃波が駆け抜ける。
エンデルクが走る。手には騎士団長専用の名剣。鋭くふるって剣圧を叩きつける。火球が空中で炸裂し、辺りに火の粉をまき散らす。その炸裂が、名高い騎士団長を押し戻した。シアは素早く左右にステップしながら、仕掛けるチャンスをうかがっている。エンデルクは振り向きもせずに、マリーに言う。
「近づけん! 支援を頼む!」
「シア、状況説明!」
「クラフト二発を背中に浴びせたわ」
「それであのダメージ? これはちょっと道具が足りないかも知れないわね」
マリーの視線の先には、消し炭になった生きている綱の残骸があった。立派に仕事を果たした道具に黙祷すると、マリーは顔を上げる。ドラゴンの背中は傷ついてはいるが、致命傷にはほど遠い。まるで鉄の塊だ。
専用の道具と人数があれば簡単に倒せる。だが、それは人間の叡智の結晶である。マリーが作り出してきた道具では、やはりまだそれには届かない。追いつくためには、戦術と頭脳が必要になってくる。
「分かった。 火力支援するから、シアはクラフトでの援護をお願いね」
「了解よ」
来る途中、既に適当な岩は見つけていた。少し下がって、そこから火力支援を行う。第二段階へ移行するまでは、基本的な戦術を駆使して、機会をうかがうのだ。
マリーが下がろうとした瞬間、此方に気付いた火竜が、火球を一つ撃ちはなってきた。冷静に小さめのいかづちを放ち、中途で迎撃。炸裂した炎の塊が、辺りに死と破壊をばらまく。マリーも吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
受け身は取った。立ち上がる。髪が何カ所か焦げていた。骨は折れていないが、結構痛い。だが、この痛みは前菜だ。これから喰うことが出来る、あのドラゴンの肉の。
シアがジグザグに走りながら、閃光のように火竜との間を詰めた。首を巡らせたフラン・プファイル。先ほどのクラフトの事を覚えているのだろう。鋭く尻尾を叩きつけながらも、シアから目を離さない。その間も、跳躍し剣を振るったエンデルクの一撃を、右前足を上げて爪で防ぐことも忘れない。
叩きつけられた尻尾が、火球で温められ脆くなった地面を、深々抉り込んだ。残像を残して飛んだシアだが、眉を跳ね上げるとはたきを振るう。ドラゴンが小型の火球を打ち込んできたのだ。充填時間を短縮すれば、小型の火球を放てると言うわけだ。弾き合う形で飛んだシアは、地面にしたたか叩きつけられ、数度バウンドして転がった。その間にエンデルクが吠え、火竜の爪をかいくぐって、至近から火竜の首筋に切りつけた。
流石に大陸最強の使い手。火竜の鱗に、剣が深々と食い込んだ。絶叫したフラン・プファイルは首を振り回して、その勢いでエンデルクを振り払った。その間にマリーは狙撃地点に到着。シアが跳ね起きると、地面に叩きつけられたエンデルクに火球を放とうとするフラン・プファイルに、クラフトを投げ込んだ。
同時に、マリーも唱えていた詠唱を完成させる。
完璧に息のあった連携に、火竜が一瞬躊躇する。だが流石に学習能力は高い。無数のとげが背骨に沿って生えている尻尾を器用にふるって、クラフトを空へとたたき上げる。だが、それこそがマリーの狙いだった。注意を一瞬だけでも、そちらに向けてくれれば良かったのである。
「サンダー……」
火竜は気付いただろう。マリーが、先ほどのカイゼルヴァイパーを放ったのだと言うことに。全身を覆ういかづちの魔力がふくれあがり、巨大な光りの蛇が、口を開けた。空を切って、孤を描くように最後の動作を終え、マリーが掌を火竜に向ける。
「ロードヴァイパー!」
放たれた光の蛇が、空を恐ろしい勢いで蛇行しながら躍り掛かり、火竜の首筋を直撃。エンデルクの作った傷口から、いかづちの帯が、先を争って体内へと潜り込む。吠えた火竜の頭上で、クラフトが炸裂。無数のとげが、辺りに鋭い音と共に降り注いだ。その幾つかは、容赦なく火竜の傷を抉る。
「ギャアアアアアオオオオオオオッ!」
叫びながらも、火竜は屈しない。続いてクラフトを放とうとするシアに、横殴りの尾の一撃。岩を蹴散らし迫るそれに、シアは舌打ちして飛びさがるしかなかった。岩の破片が、シアの頬を掠めるのが、マリーの位置からも見えた。すぐに次の詠唱に掛かる。魔力はまだまだ余裕があるが、戦況は、良くない。
シアを一時的に追い払った火竜は、エンデルクに首を向ける。騎士団長が体勢を立て直しきる前に、倒れ掛かりながら前足で潰しに掛かる。慌てて飛び退くエンデルクを、大口を開けて追撃。その口の中には、炎の朱が宿っていた。
強い。流石に正面から戦うと、並の相手ではない。詠唱を切り上げ、即座に雷撃を放つ。かなり威力は落ちているが、それでも火球を誘爆させるには充分だ。火竜は即応、口を閉じる。威力の落ちた雷撃が竜の顔を直撃したが、軽く鱗を焦がしただけだ。だが、その隙にエンデルクは飛び退き、安全圏に逃れようとする。少し遅れて、フラン・プファイルが、人間大の火球を撃ちはなった。
上段に構えたエンデルクが、気合いの声と共に剣を振り下ろす。一瞬止まった火球が、空中で炸裂した。至近である。エンデルクは炎の中に消えた。直撃は避けたが、今のはかなり効いたはずだ。マリーは次の詠唱を開始しているが、果たして間に合うか。
シアが躍り出る。火竜は尻尾を叩きつけつつ、右前足を上げて引きつける。無理に近づいてくれば、尻尾を避けたところで爪の一撃が飛んでくる。火竜の爪は、一つずつが人間の掌よりも大きいほどだ。喰らってしまえばひとたまりもない。硬度も鉄を軽くしのぐ。だからこそに、剥がせば高く売れる。
シアは後ろに下がらなかった。振り回され、叩きつけられた尻尾に、絶妙のタイミングで乗ったのだ。そのまま恐ろしい平衡感覚を駆使して立ち上がり、尻尾を背中に向けて駆け上がる。走りながらはたきを振り回し、尻尾を何度となく打ち据えることも忘れない。ドラゴンは体を捻って振り落としに掛かるが、シアは屈しなかった。たまらじとドラゴンは横倒しに飛び、体を地面に叩きつける。これにはシアも閉口、被害を受けないように飛び退くしかなかった。しかもドラゴンは倒れつつも、石を一つ、前足で払っていた。はたきを振り回して吹き飛ばすシアだが、勢いは殺しきれない。地面に叩きつけられる。
立ち上がったフラン・プファイルに、濛々たる煙を突き破ったエンデルクが迫る。体中に、少なからず傷が出来ている。シアに火球を叩きつけようとしてた竜が振り返ると、至近から火球を打ち落とした。真上から降ってきた巨大な死の手。エンデルクは避けきることが出来ず、思いっきり爆圧に吹き飛ばされる。地面に転がるエンデルク。
不意にフラン・プファイルが、マリーの方へ火球を放ってきた。慌てて逃げに掛かるが、間に合わない。急の行動だったから、直撃にはほど遠かったが、元の火力が違う。吹き飛ばされて、地面に叩きつけられる。受け身は取ることが出来たが、髪が焦げた。上体を起こしながらマリーは見る。立ち上がろうともがくエンデルク。どうにか立ち上がったシアが、額の汗を拭いながらぼやいた。
「強いわねえ。 予想よりもずっと」
既に全員傷だらけだ。フラン・プファイルもクラフトを二発至近から受け、一発を中距離から食らっているが、まだまだ元気。状況は加速度的に悪くなってきている。せめて、エンデルクが作戦を上手く実行できれば、第二段階を完了して、次に移れるのだが。此処まで条件が限定されると、流石に厳しいか。
弱音を吐きかける心を叱咤する。人類こそは、この世界でもっとも殺し合いに長けた種族だ。こんな貧弱なドラゴンに負けるような存在ではない。それに、この程度の相手を仕留めることが出来なければ、どのみちドナースターク家での大成もない。錬金術の高みに行くことも出来ないだろう。
誰でも使うことが出来る道具で此奴を仕留めてこそ未来があるのだ。
頭を叩いて、うなりを上げている三半規管を黙らせる。血の混じった唾を吐き捨てると、マリーは此処が踏ん張りどころだと、叫ぶ。
「騎士団長っ!」
「分かって、いる! 次で決める! 支援を頼むぞ!」
シアが印を切るのを、マリーは見た。マリーも頷くと、詠唱に取りかかる。第二段階から、第三段階へと移行した瞬間、一気に勝負をつける。そのための準備だ。さっきシアが失敗したが、今度こそ決めてくれると、自分に言い聞かせる。そんなことは信じていないが、それでも言い聞かせて、力に換える。
どのみち、もう余裕はない。次の攻防が勝負になる。マリーは覚悟を決めて、詠唱を続けた。
シアは印を切る。実戦投入するのは二回目になる、切り札中の切り札を発動させる。全身が、凍り付いていくようなこの独自の感覚。至近でドラゴンの咆吼。耳に蠅が飛び込んだように、わんわん、わんわんと唸る。
エンデルクを一瞥する。奴は神経を集中、次の一撃のために構えていた。覚悟があるなら良い。もし失敗したら、許しはしない。この私が、切り札まで投入しようとしているのだ。マリーに関しては絶対的な信頼感があるが、この男はそうではない。
若干の苛立ちが、シアの術の完成を僅かに遅らせたが、あまり関係はない。ドラゴンの口に、炎が宿る。ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり。
目を閉じる。急激な変化に耐えられるように。目を開ける。世界が変わる。術の発動キーとなる、最後の言葉を唱える。
「時の、石版!」
次の瞬間、世界が凍結した。
シア自身も、これほどの効果があるとは思わなかった。極限までピンポイントでの能力強化を行う術。以前火山の噴火から、村の子供を救うために使った術だ。今回はそれに改良を加え、頭にも魔力を集めて、思考の加速強化を行っている。実戦では訓練以上の力が出るとは思っていたが、まさかこれほどとは。
笑いたくなるが、こらえる。それは、火竜を叩き殺してからだ。
体が浮く。地面を蹴ったからだ。竜の尾が迫ってくる。剰りにも遅い。最小限の動きで飛び越えながら、その間に四回、はたきでの打撃を入れる。同じ場所に。鱗が拉げて、吹っ飛んだ。火竜が苦痛の表情を浮かべる間に、懐に潜り込む。
「おおおおおおっ……!」
好戦的な雄叫びが、喉の奥から噴出した。
飛び上がりざまに、掌底を顎に叩き込む。火竜の頭が、人間など一呑みに出来るほどの巨大なそれが、ぐらりと揺れる。勢いをそのまま殺さず、顎に手を引っかけて、体を空に運ぶ。眉間に着地。火竜がスローに、振り落とそうとする。遅い。遅い遅い、何もかも遅い。
「あああああああああああああああっ!」
振り下ろしたはたき。眉間を直撃。体そのものを旋回させ、躍動させ、撃つ打つ叩く。数える。何発浴びせたか、確実に把握する。それほど脳が加速稼働している。最終的には百七十九。ゆっくり、世界の動きが速くなってくる。竜巻のように動きながらシアははたきを叩き込んだが、舌打ちすると、最後に渾身の一撃。眉間の鱗は殆ど無くなっていた。露出した肉に、頭蓋骨を粉砕するために、最大の一撃だ。
同時に。時の動きが元に戻る。
火竜がなにやら音を口から発していたのには、シアも気付いていた。それを誘っていたのだから。まるで隕石のような一撃を、火竜の至近に出現した光の膜が、受け止める。神の祝福だ。これが火竜の真の切り札だろう。激しい一撃だが、威力を殺され、シアは致命傷に届かないことを悟った。今更、大量の鮮血が体に降りかかってくる。極限まで威力を殺された一撃で、血まみれの火竜の眉間をそれでも正確に貫くと、シアは、跳躍する騎士団長を視界の隅に捕らえながら、バックステップ。竜の口が開き、巨大な火球が姿を見せる。そうだ、それでいい。シアの仕事はここまでだ。
エンデルクが、ついに火竜の背に取りつく。そして、愛剣を、最初のクラフトの爆発で剥がれ飛んだ鱗の間に、突き刺した。
国宝級の剛剣である。剣は竜の強靱な筋肉を易々と貫き、鍔まで突き刺さる。更にエンデルクは剣に掴まったまま、懐からありったけのクラフトを詰め込んだ袋を取り出し、束にくくりつける。そして、ワードを唱える。
「炸裂せよ!」
暴れ馬のように跳ねたフラン・プファイル。その猛烈な勢いに、騎士団長がはじき飛ばされる。第二段階、これで成功。後は、マリーの仕上げを待つだけだ。火竜の背にくくりつけられた袋は今にも外れて飛ばされそうだが、それはないと、シアは確信していた。地面に叩きつけられたシアは、受け身を取り損ね、全身の骨が軋む音を聞いた。騎士団長も力尽きて、近くの岩に背中からぶつかり、投げつけられた人形のように落ちた。
マリーのいるところから、極限まで練り上げられた魔力が吹き上がる。地べたに無様にはいつくばったまま、シアは笑った。
勝った。終わりだ。
「サンダー……」
マリーの声が聞こえる。不意に空に膨れあがった暗雲に、フラン・プファイルは気付いただろうか。マリーの編み出した、最強の攻撃術。神の名を冠した、その名は。飽和状態になった電撃の球が、暗雲の中に出現。それが光の槍となる。
「サトゥルヌスヴァイパー!」
人為的に作り出された、神の槍。それが、暴れ狂うフラン・プファイルを真上から直撃。騎士団長の剣から、余すことなく火竜の体内に潜り込む。絶叫した火竜。悲鳴は、同時に炸裂したクラフトの爆音の中に消えた。
シアは耳を押さえることしかできなかった。体の何カ所かに、クラフトの針が突き刺さるのを感じた。予定ではもっと遠くまで逃げるつもりだったのだが、それが出来なかったのだから、自業自得だ。シアは静かに目を閉じると、満足だったとつぶやいた。
暗い。あのときほどではないが、真っ暗だ。いつの間にか、シアは闇の中にいた。感覚がない。感触もない。死んだのかも知れない。
もしそうなら、そこまでの人生であったということだ。ふと上を見る。無数の黒い何かが、闇の中にあった。闇の中なのに、それはどうしてか見えた。それらが手であり、巨大な何かに絡みついているのだと気付く。絡みつかれているのは、さっきまで戦っていた赤い竜だった。
怨嗟の声。憎悪の声。嫉妬の声。理不尽な無数の悪意が、フラン・プファイルに絡みついている。
「生意気だ。 生きている癖に、空を飛ぶな」
「生きているなら、地面にはいつくばれ」
「オレタチのように。 オレタチのように」
「けけけけけけけ。 オレタチと一緒になろうぜ。 けけけけけけけけけけ」
悲鳴を上げてもがく竜が、無数の手に絡みつかれて、闇の中に沈んでいく。死してなお、人間は結局最強なのだなと、シアは思った。あんなモノが見えると言うことは、本当に死んだのかも知れない。だが、あの戦いで命を落としたのなら、満足だった。
右手に感覚。冷たい。火竜は無数の黒に取り込まれて、いつのまにか消え去っていた。その黒達も、辺りにはもういない。あれは生きている綱に封じられていた悪霊だろう。地獄に行ったのか、はたまた天国へ行ったのか。アルテナ教会が言うような神の御許の楽園に行ったのか。それは分からない。もう辺りにいないことだけが、確かな事実だった。
感覚が全身に広がってくる。それと一緒に、鼓動が感じられ始める。指先まで熱が戻っていく。力強く動き出した内臓が、シアの世界を、黒一色から、有彩に変えていく。
臭いがある。とても良いにおいだ。そうか、火竜は死んだのか。そして、今マリーがそれを調理しているな。そう思うと、起きたくなってくる。あの火竜の肉は是非食べたい。食べて、力を自分のものとしたい。
同時に痛みも戻り始める。ゆっくり、意識を集中していく。
ある一点を超えた時。
闇が全てかき消え、シアは目を覚ました。
上半身を起こす。辺りを見回す。山頂だ。戦いの場であったところ。真ん中には、既に半分以上解体が終わった、フラン・プファイルの亡骸があった。腹を割くべく、せっせと亡骸の上で鋸を動かしていたマリーが、血だらけの顔で振り返る。
「ん、シア、起きた?」
「起きたわ。 全員無事?」
「無事よ。 て、この状態で無事って言うのも、変な話よね」
腕や足を見るが、どうやら刺さっていたとげは全て抜き取られたらしい。簡単な手当もしてあった。側に強壮剤も置いてある。瓶を開けると、ありがたく飲み干す。全身の力を絞り尽くすような戦いだったから、一度目覚めてからの飢えも凄まじい。
立ち上がろうとするが、まだ起き上がらない方が良いとマリーに言われる。辺りは腑分け場のような状況である。小型の樽には、火竜の新鮮な血がなみなみと湛えられていた。たき火が彼方此方でたかれ、保存出来ない内臓類を燻製にしている。頭部はもうあらかた解体され、脳みそは桶一つにまるまる入れられていた。どの桶にも保存剤が入れられているが、あまり長時間は持たない。速く持ち帰って加工しないと、価値が無くなる。商品価値がない内臓類や、傷ついた鱗は脇にどけてある。
エンデルクも手伝ってはいるが、やはり手際が悪い。こう言う時は、村出身のマリーがいかに生活力に長けているか実感できる。料理が下手などと言うのは問題にならない。ただ、やはり手数が足りない。
包帯の状態を確認すると、シアは立ち上がった。ゆっくり、体のダメージを確認しながら、歩いていく。かっては支援しか出来なかった、村の者達の仕事。シアも今では手伝えるのだ。だから、手伝いたい。やりたいのは、指導者としての仕事だけではない。一緒に体を動かすことで、シアはグランベルの皆が好きになった。グランベルのために働こうと思った。
「いいのに」
「いいのよ」
シアは血まみれの大鋸を受け取ると、マリーと一緒に解体を始める。楽しい作業だった。マリーと呼吸を合わせて、巨体をばらばらにしていく。一体感があって、嬉しい。結局自分はマリーのことが親友として大事なのだなと、シアは思った。
結局、ドラゴンの仕分けが終わったのは真夜中だった。
それから、持ち帰るべく、荷物を積み込む。やはり内臓類のかなりの量を廃棄することになった。ただ、舌だけは異常に強い魔力を秘めていたため、マリーが持ち帰ることを希望。食べずに残しておくことにした。骨は殆ど持ち帰ることが出来なかった。もったいないが、これは仕方がない。業者に情報を売って、それで少しでも廃棄分の価値を回収するしかない。
後は肉だ。これは焼く。そして食べる。美食になれているはずの騎士団長が、思わず呻く。
「うまいな」
「ええ、最高ですね」
血を抜いただけの肉なのに、何という美味さか。どうせ食べきることは出来ない。何度か交代で眠りながら、皆で肉を貪り食った。体の芯から力が湧いてくるのを感じる。脂がじゅうじゅう音を立てている火竜の肉は、少し甘くて、とろけるような食感が素晴らしかった。
たっぷり火竜の肉を堪能してから、下山する。皆、顔は晴れやかだった。荷車を降ろすのは大変だったが、それでもこの後の収入を考えると、気分は良かった。
換金が済んだのは、予定帰宅日を一日過ぎた昼のことであった。マリーのアトリエの前で解散することになる。全身傷だらけになっていたエンデルクは、マリーとシアを交互に見て、言った。
「有難う。 君たちがいなければ、私は今頃火竜に殺されていただろう」
「いえ、いえ。 ギリギリながらも勝てたのは、騎士団長のおかげですよ」
「これからもコネクションを維持していきましょう」
握手を交わす。エンデルクは、あの死闘で一皮むけたようだった。少し考え込んでから、言う。
「戦士というものが、少し私にも分かったような気がする。 私は確かに、戦う前に考えすぎてしまっていたかも知れない」
「騎士団長」
「君たちは、そう言う意味でも、私の恩人だ。 何かあった時には、力にならせてもらうぞ」
もう一度握手すると、解散となった。シアは帰ってから寝ると言って、自宅へと歩き出す。マリーも換金が終わって血の臭いと僅かな物資だけが残った荷車を引いて、裏庭に。後片付けも終わったので、さっさと寝ようとアトリエの戸を開けた。
良いにおいだ。アデリーが振り向くと、少し寂しそうに笑った。
「おかえりなさい、マスター」
「ん、ただいま」
寝るのは、この子の料理を食べてからにするか。そう思考を修正すると、マリーは荷物を地下へと運び込む。
勝った。それによって獲たものは大きかった。コネクションだけではない。他にもまた何か、一つ前進した気がする。ドラゴンの肉とはまた違うおいしさを誇るアデリーの料理を口に運びながら、マリーは何が前進したのだろうと考え込む。
戦いなら幾らでもこなしてきた。自分以上の実力を持つ相手を仕留めたことだって何度もある。だが、今回は特別であったような気がしてならない。一体何でだろうか。大陸最強の使い手と、コネクションを確立したことだろうか。誰も倒せなかった火竜を、仕留めたからだろうか。その肉を食ったからだろうか。
誰でも使える道具を主力に、火竜を斃したからだろうか。いや、それは今回の結果では何とも言えない。騎士団長の剣腕、シアの超強化、そしてマリーの魔力とあの道具類が合わさって、勝利を掴むことが出来たのだ。だから、錬金術の勝利だとは言い難い。
それでも魔力の強い人間の直感は、馬鹿に出来ない。マリーは頭を掻く。明日は起きてから風呂に行って、ゆっくり考えよう。ひょっとして、もっと何か違う事が、マリーの力となるのかも知れない。
いずれ分かるだろう。料理を食べ終えると、マリーは疲れているからと、さっさと寝床に潜り込んだ。そうなると、眠りにつくのもすぐだ。事実疲れていたのだから。ゆっくり眠り、後は明日考えよう。
まだ、時間はいくらでもあるのだから。
その時は、そう考えていた。
5,不協和音
塔の窓から外を見て、やせこけた中年男性、錬金術師バルカスは舌打ちした。彼は、やせこけた体を引きずって、今日も研究室に行く。そこしか行くところがないからだ。
厳重に周囲を警護されているエアフォルクの塔。少し前までは、クリーチャーウェポン研究の重要な一施設であり、此処に閉じこめられた錬金術師達も満足していた。創造的な研究を幾らでもさせてもらえたし、途中からは資金面での心配もしなくて良くなったからだ。
だが、作戦行動からクリーチャーウェポン部隊が帰ってきてからは、扱いが一変した。
予算は大幅に削られ、創造的な研究そのものが凍結させられてしまった。代わりに今まで作った者達の維持管理ばかりが仕事になり、著しく暇になった。仕事の緊張感は残っている。何しろこれは国家機密プロジェクトなのだ。だが、自由は完全に失われた。これでは飼い殺しではないか。
最強の護身用クリーチャーウェポン、ファーレンを完成させたい。バルカスは同僚にそう漏らすようになり始めていた。もちろん今まで作った連中の維持管理も重要な仕事だ。二百体以上いる彼らをきちんと管理することで、給金ももらえる。
だが、つまらないのだ。
元々彼は没落貴族の三男で、既に爵位も失っている。アカデミーで学んだ技術で生活していたが、それも素質に欠けていて、いつも苦しかった。状況が一変したのは数年前。カミラの引き抜きで集められた、似たような境遇の連中と研究を開始したのである。怖かったが、創造的な研究は、本当に楽しかった。それだというのに。
ひょっとして、秘密を知る自分たちは処分されるのではないかという恐怖が、胸の内にある。著しく退屈な生活。ろくに女も買えない不自由な日々。研究を進められない知識の牢獄。
昨日、同僚の一人が首をくくった。ため息しか出なかった。最近様子を見に来たクーゲルは此方を一瞥もせず、警備主任に二三匹クリーチャーウェポンを殺して良いかなどと聞いていた。いつ自分もそんな感じで屠殺されるのかも知れない。狂気を発しそうだった。頭をかきむしる。白い物が目立つ髪が、ばらばらと地面に落ちる。頭が、加速度的に薄くなっていく。老いも、恐怖の一要因だった。
「バルカス様ですな」
不意に声。振り返ると、研究室の片隅に、小柄な老人が控えていた。柔和な笑顔を浮かべているが、しかし蛙のような造型である。老人は手紙を一つ差し出すと、かき消えた。ふわりと、部屋の中を風がながれる。超スピードで視界から消えたのだと、気付くのに少し掛かった。
手紙を懐に入れると、自室に戻る。どうせ、研究室にいても、することなどない。布団を被って、ランプの明かりで手紙を読む。
そして、ぞくぞくした。
何度も独り言をつぶやいた。これは、こんな大きな事が動いていたのか。自分は何も知らず、ただ歯車として使われていただけだったのか。背筋に這い上がるスリルが、何年も肉体を若くするようであった。
悔しいと言うよりも、無念だった。せめて使い道を教えてくれれば、もっと創造的に動くことが出来たのに。歯ぎしりするバルカスは、その先の分を読んで、にやりと口の端をつり上げる。
まだ、彼は終わっていない。まだまだ、旗を揚げることは出来る。
手紙を念入りに燃やすと、バルカスは歩調さえ変わっていた。そのまま同僚の所に出向いて、話をする。同じように不満と恐怖を抱えている男だ。すぐにバルカスの話に乗ってきた。
見ているがよい。このまま飼い殺しになどされているものか。
バルカスは、創造的な事業に身を置いている快感に掴まれていた。
ヴァルクレーア大臣の報告を、ヴィント王はベットの上で侍女に腰を揉ませながら聞いていた。マッサージを行う侍女は、いつもと違う若い娘である。やはりというかなんというか、非常に下手であり、何度も眉を王はひそめていた。力が入りすぎていて、骨盤がぎしぎし鳴っている。
ただ、最初は誰でもマッサージが下手だ。別に我慢できないほどではないし、我慢しながら王は言う。
「ドムハイト王国の間諜ネットワークのかり出しは、確実に遂行しています。 現在、イットフルト市の諜報ネットワークの摘発を行っており、じきに片がつくでしょう」
「うむ。 このまま手をゆるめるな。 虫共を一匹のこらずあぶり出せ」
この機に、シグザールはドムハイトに対して完全な優位を確立する。そのためには、ラッキーヒットの要因となりうるものを完全に消し去っておかなければならないのだ。堅実に全てを運ぶことで、完璧な勝利が産まれる。エンデルクは見事に火竜を仕留めて国内での名声を更に不動のものとしたし、後は敵の内紛と破滅を外から煽っていくだけでよい。そのためには、かってドムハイトの強さを支えていた諜報網は邪魔だ。徹底的に潰し、永久に歴史の闇に葬り去る。
「それと、エアフォルクの塔に潜入しようとした連中の、連絡経路ははっきりしたか?」
「はい。 関わった間諜は全て葬りました。 しかしながら、クリーチャーウェポンの存在は、ドムハイトに伝わった可能性がたこうございます」
「ふん、いつかは漏れることだ。 証拠さえ掴まれなければ気にすることはない。 ただ」
ヴィントはベットの上で身を起こすと、侍女に肩を揉むように言った。意外や意外、こっちはずいぶんと上手で、肩が良くもみほぐされる。じつに気持ちいい。
「ドムハイトの王室を少し侮っていたな。 今後の障害になる可能性がある。 しっかりと情報を集めておけ。 場合によっては消せ」
「はっ」
ヴァルクレーアは頷くと、外に出て行った。
ヴィントはマッサージを終わらせると、昼寝するべくベットに潜り込む。随分長いこと女と肌を合わせていないが、ストレスはない。今更子供を作っても、後継者問題が発生するだけだし、それでいい。そればかりか、念入りに行っている健康管理が、ヴィントの寿命を確実に延ばしている。ベットの中で目をつぶり、考え込む。ドムハイトが反撃を行ってくるとすると、手は何か。軍事的な作戦をおこせるほど、連中の国内はもうまとまっていない。仮に侵攻軍が来ても、確実に追い返せる。もう奴らの中核である竜軍は存在しないのだから。
問題は、それ以外の事が行われた場合だ。VIPの暗殺については考えなくてもよい。シグザールの精鋭間諜集団「牙」は優秀だ。これに関しては安心感がある。経済的な攻撃についても、考えなくても良いだろう。
問題はそれ以外の事だ。騎士団に警戒させているエアフォルク周辺は本当に大丈夫か。騎士団も精鋭揃いとはいえ、流石に何も起こらない日々が続けば気が緩む。各地の街で、犯罪ネットワークは作られていないか。南方の都市群の首根っこは、きちんと捕まえてあるか。
様々な可能性を考慮に入れながら、ヴィントはベットの中で身じろぎした。これらをあのプレドルフに処理するのは不可能だ。はやく国を支える人材達の調整を終えなくてはならない。
年老いた王の中で、焦燥感が確実に育ちつつあった。
カミラは日だまりの中、目を開けた。もう陽が昇っているのだ。反射的に飛び起きそうになるが、すぐに動きを止める。
そうだ。もう、睡眠時間を三刻も取ることが出来るのだ。その気になれば四刻だって。
起き出すと、使用人達が食事の準備を始めていた。カミラが起きてきたことを確認すると、さっと着替えと洗顔の準備にはいる。あくびをしながら洗面所に入ったカミラに、迅速に湯の入ったたらいが差し出される。たらいを捧げ持っているのは、この間から使用人になった若い娘だ。幼いこともあり、カミラより背が低い。カミラがもの凄く怖い人間だと聞いていたらしく、最初はすくみ上がっていた。だが最近はだいぶ自然に動けるようになってきている。時々ひそひそ話をしているのが苛立つが、不満点はそれくらいだ。どうせ悪口でも言っているのだろうが、知ったことではない。
湯にタオルをつけて顔を洗い、髪も軽く洗って寝癖を落とす。着替えを済ませ、騎士団の正装である鎧に着替えて、眼鏡をかけた。そして、居間の自席に着く。すぐに食事が運ばれてきた。丁寧に骨を取った白身魚の揚げ物と、良く焼けたできたてのパン。そして新鮮な野菜類。
なんと、ゆったりした時間だろうと、カミラは思う。以前は一刻二刻と区切って寝て、それ以外は全て仕事の時間だった。それが今では、なんと仕事中に休憩するなどと言う事が出来てしまう。訓練もさほどの激務ではない。若手の騎士共の体力をつけるべく一緒に走り回ったり、学問を教えたりするくらいだ。簡単すぎて、気力が失せる。唯一楽しいのは組み手を含んだ戦闘訓練くらいだが、それも大した人材がいない今、失望することが多い。
食事をゆっくり取る。そうしないと時間が余るのだ。時間が余るというのは、今まで味わったことのない恐怖だった。人生が無駄になっているようで、途轍もなく恐ろしい。
家を出る。ゆっくり歩いて、道を行く。なんとあのフラン・プファイルが撃墜されたらしく、ヴィラント山の頂上を飛ぶ奴の姿が無い。ぼんやりと様々な事を考えながら、カミラは騎士団の詰め所に出た。若造達が何人か来ている。若造といっても、カミラより年上の者も多い。
研修室に出ると、少し年上の、騎士になったばかりの娘達が、カミラを見てひそひそ話をやめた。そうか、そんなに私の今の境遇がおかしいか。苛立つが、我慢する。すぐに授業を始める。騎士達も、若いとはいえ皆才能と剣腕でのし上がってきた者達だ。勉学よりも、戦闘訓練を喜ぶ者が多い。午前中は退屈そうにしていたが、昼過ぎから皆生き生きと動き始める。
鍛冶屋から返してもらったバトルアックスをふるって、一緒に素振り。体力に差があるから、騎士達の倍のノルマを同じ時間にこなす。それが終わったら、訓練剣に持ち替えて、軽く戦闘訓練だ。随分手加減しているのに、いまだ若造達から一本も取られたことがない。怒る気にもならないので、丁寧に良くない場所を一人ずつ諭していく。それで毎日皆確実に強くなっていくが、物足りなかった。
空虚な一日だと、カミラは思う。訓練が終わって、詰め所の自室に引き上げる。教科書の整備や、騎士達の評価表をつけても、まだ時間が大量に余る。退屈になったので外に出る。ふと、その声が耳に入った。自分の名前が聞こえてきたので、気配を消して物陰に隠れる。朝ひそひそ話をしていた若い女騎士達だ。
「それで、友達に聞いたんだけど、カミラ様って」
「それ本当!?」
どうせ悪口だろうと、カミラは嘆息した。どのみち、カミラは周囲の人間に馬鹿にされ続けて、此処まで這い上がってきたのだ。慣れている。がっかりはするが、幼い頃のように、いちいち傷つかない。
「毎日一〜二刻くらいしか寝ないで、ずっと訓練と仕事してたの? 私だったら、絶対耐えられないよ」
「あれだけ滅茶苦茶に強いのも頷けるわよね。 頭までいいんだからずるいって最初思ってたけど、努力の量が違いすぎるんだから、当然だったのよね」
「体力が凄いのかな。 どっちにしてもまねできないよ。 凄い人。 憧れちゃうよ」
「だよね。 いつも不機嫌そうだけど、どうしてなんだろう。 やっぱりお仕事が辛いのかな」
唖然とした。どうしてだ。こんな話を、何故している。その場を離れたカミラは、混乱する頭脳に、整合性を取り戻させることが出来なかった。憧れる?強い?なんだその単語は。そんなことを、何故私に向けて言っている。カミラは分からなかった。他人といえば、一言目にはカミラを侮り、二言目には尊厳を冒涜するものだったではないか。
詰め所の自室で頭を抱える。分からない。分からなくて、怖い。ふと外を見ると、若い騎士達が自主的に組み手をやっていた。見ていると、カミラが教えた基礎をきちんと守り、念入りに己を高めている。目を離さなくても、さぼっていない。カミラの教えたことなどどうせ鼻で笑い飛ばしているに決まっていると思っていた。だが、これはどういう事だ。
仕事はもう終わった。部下の文官達の雑務にも目を通して、誤字を全部取り除いた。部下がありがとうございますと頭を下げる。その声に、嘘は感じられない。何だ、一体何が起こっている。
外に出ると、訓練をしていた騎士達が此方を向き、敬礼する。
「大教騎士様!」
「ん」
「いつも有難うございます! お仕事、お疲れ様です!」
何だ、この視線は。カミラは感じたことがなかった。分からない。敬礼を返して、その場を離れる。どうした。世界は悪意に満ちていたはずだ。自分を排除しようといつも伺っていたはずだ。牙を研いでいたはずだ。
夜になる前に、自宅に戻る。日付が変わる前に、自宅に帰ることが出来る等という事が、毎日のように出来るのだ。軽く訓練して腕をさび付かせないように調整すると、夕食にする。これは一体何なのか、不安ばかりが募っていった。相談だって、誰にも出来るはずがない。
風呂に入って、布団を被ってからも、困惑は取れなかった。
何が自分の周囲で起こっているのか、カミラには理解できなかった。どうしたらいいかもよく分からない。
遠くでフクロウが鳴いた。まるで子供のように、カミラは布団の中で小さな身を縮める。もし、これが悪意ではないとしたら。あの女騎士達の言葉が、嘘ではないとしたのなら。嘘だとは考えられない。言葉の裏を見抜く力には自信があるからだ。そうなると、連中はカミラを、本気で尊敬していたことになる。
つまり、カミラは本心から尊敬されていたのだ。
今までの全ての経験が歪む。ありえない。ありえないはずだ。どいつもこいつも背丈のことを引き合いに、影ではあざ笑っていたはずだ。それが、どうして。何故、今更。なんで、もっと幼い頃に、少しでも認めてくれなかった。ひょっとすると、カミラを尊敬している者は、他にもいるのか。何か、自分は勘違いをしていたのか。していた部分があったのか。
「や、やめろ、やめてくれ」
思わずカミラは呻いていた。思考の暴走が止まらない。悪意に悪意を抱き、憎しみに憎しみを返していれば良かった。全てを欺き、その裏側にあるものを暴いていけばいいはずだ。全てはどうせ自分を嘲っているのだから、力で組み伏せていれば、未来は開けると思っていた。
左遷されて、これから使い殺しにされると思っていた。周りは、そんな私を、馬鹿にしきっていたのではないのか。
悪意に縁取られていた世界が、パラダイムシフトを起こしていく。頭が痛い。何が、どうすればいい。全く分からない。
カミラはベットの中で呻いた。何故か涙がこぼれてくる。
十年以上もこぼしたことがなかった涙を、カミラはその晩、枕に吸わせた。
(続)
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