黒輝の塊
序、解隊
ドムハイト王国最精鋭竜軍六個師団を、恐るべき潜入奇襲作戦で全滅させたシグザール王国軍クリーチャーウェポン部隊。彼らは出撃前の十分の一以下に戦力を落とし、誰にも知られることなく「凱旋」していた。部隊の主要戦力であるクリーチャーウェポン達は、「エアフォルクの塔」と呼ばれるザールブルグ近辺の研究施設に収容され、作戦に参加した主要責任者のみが王の元に出頭していた。
具体的には、この作戦の立案者であるカミラと、それに便乗して作戦の総指揮を形式上執ったエンデルクである。だが、二人とも、顔色は良くなかった。何しろ、帰還してすぐに出頭したのではない。二人とも数ヶ月にわたって自宅で待たされ、今ようやく呼び出されたのである。不安を煽られたのは当然のことであっただろう。
二人は、王の寝室の側にある、控え室で待たされた。カミラが見たところ、エンデルクは今まで培ってきた自信を、完全に打ち砕かれていた。バフォートの凄まじい戦いぶりはカミラから見ても驚嘆する程で、自分の必勝パターンを崩されたエンデルクは、何処か心の根本を砕かれてしまったのである。
エンデルクはまがりなりにもこの大陸最強の男となったわけであるし、これでは困る。もちろんこの若さで、シグザール王国の騎士団長に上り詰めるほどであるから、自力で立ち直ることくらい出来るはずだ。しかし、それには時間も掛かるだろう。
その間に、ドムハイトとの関係が急変する可能性も少ないながらある。もしドムハイトが事態を正確に把握したら、半狂乱になって総力戦を挑んでくる可能性がある。そうなったら、エンデルクが使い物にならないではすまない。もちろん軍団の指揮は、熟練した手腕を持つ名将達が行うが、それでも最強の男が前線にいるといないでは兵士の士気が違ってくるのだ。
カミラは思考を進めて愕然とする。ヴィント王の根本的国家戦略が覆された場合、蜥蜴の尻尾切りに近い形で、カミラは責任をとらされるだろう。もちろん、それは可能性的には極小だ。だが、あのバフォートも、その低確率をかいくぐり、カミラの作り上げたクリーチャーウェポン部隊に大打撃を与え、エンデルクを敗退寸前まで追い込んだのではなかったか。
背中が寂しい。砕かれてしまった愛用のバトルアックスは、今国お抱えの鍛冶師の所に回してある。だから、手元には不慣れな聖騎士支給の剣しかない。使いやすい名剣だが、それでも愛用の武具には遠く及ばない。それに、カミラの私兵に等しいクリーチャーウェポン達も、既に全滅状態だ。急激かつ強烈な不安感が、カミラの心臓を鷲掴みにした。深刻かつ原始的な恐怖が、カミラの思考を曇らせていた。
「聖騎士カミラよ」
呼ばれて顔を上げると、ヴァルクレーア大臣だった。エンデルクは呼ばれていない。つまり、王はカミラにだけ用があると言うことだ。最大級の不安に全身を掴まれたカミラは、言葉を失った。
王の周辺には、あの「牙」が控えている。カミラが抵抗しても、逃げることも斃すことも出来ないだろう。ましてや、愛用の武器を失ってしまっている今はなおさらである。仮に外に逃げることが出来たとしても、シグザール王国騎士団から逃れることなど出来るわけがない。彼らの実力は、長年一緒に働いてきたカミラが一番よく知っている。武具を失っている今、もしクーゲルが追っ手にでも差し向けられたら、確実に死ぬ。バトルアックスを持たず、クーゲルと戦い生き残る自信など、無い。
「早く立て。 王がお呼びだ」
「はい」
大臣に促されて、カミラは立ち上がる。めまぐるしく計算するカミラの頭脳は、確実にその働きを鈍らせていた。あの滅茶苦茶な被害が、確実に冷厳な聖騎士の思考を曇らせていた。
王の寝室にはいる。老いた王はベットの端に腰掛けていた。たらいにお湯を満たして足を入れ、侍女に足を揉ませている。そして当然のように、周囲には牙数名が使用人のふりをして控えていた。
「聖騎士カミラ、出頭いたしました」
「うむ。 面をあげい」
王に促されるまま、跪いたカミラは顔を上げる。王は無表情だった。カミラは我知らず怯えきっていたかも知れない。久方ぶりだった。全身に震えが来るのを自覚するのは。
「任務、ご苦労であったな」
「いえ、王の支援のたまものにございます」
「ヴァルクレーア。 近況をカミラに説明してやれ」
「はっ」
太った血色の良いヴァルクレーアが、カミラに向けて紙を広げる。息を呑むカミラには、それが死刑執行の命令書にさえ見えた。
そういえば、カミラも最近50000に達する人間を殺したのではなかったか。因果応報という言葉が、脳裏に響く。頭が良く回るが故に、カミラは分かる。自分が絶体絶命の窮地に陥っているという事が。
「ドムハイト王国は混乱の極地に陥っています。 主戦派は完全に政治の主役から転落し、複数の貴族が勢力争いを展開。 彼らの後ろには、複数の有力豪族がついています。 最悪の事態として想定された、ドムハイトが一丸となって我が国に宣戦布告するという事態は、恐らくないでしょう」
「そう、ですか」
「既に何名かの豪族は、我らによしみを通じようとしてきています。 彼らを上手く籠絡しつつ、ドムハイト領内で反乱を誘発していく予定です。 そうやって敵国の力を削いで、最終的に我が国の経済的膝下に納める。 必要時間はおよそ百年と推定されていますが、作戦はつつがなく遂行できそうです」
カミラは胸をなで下ろした。最高とはいかないが、それでも想定していた幾つかの状況の内、かなり良いものになるからだ。
安心していたところに、不意にヴィント王が口を開く。その言葉に、氷点下の感情が含まれていることを、カミラは敏感に感じ取る。
「それで、今後のお前の処遇となるが」
「はっ……」
「今回の功績はかなり大きい。 故に地位を持って報いなければなるまいな」
嫌な予感がする。その予感は、すぐに現実のものとなった。ヴィント王の沈黙が、永遠にさえ思えた。音を立てて唾を飲み込んでしまい、カミラはうろたえた。そのタイミングを計ったかのように、王は言う。
「汝を、大教騎士に任ずる。 以後、良く励むように」
声が、出せなくなった。
大教騎士。若手の騎士達の教育係である。国でももっとも優れた武と知を併せ持つ者だけが、その地位に就くことが出来る。当然のことながら、この地位に就くことは、最高の栄誉とされる。国でももっとも知勇のバランスが取れた武人だと言う事実を、公認されたと同義だからだ。
だが、実質的な権力はゼロだ。配下は誰もおらず、金も私的に動かすことは出来ない。教科書も武具も国が指定したものを用い、偏重した思想を将来の国を支える騎士達に吹き込まないように監視さえされる。
経済的な面では、相当な厚遇が為される。一人、もしくは夫婦と子供達で暮らすには申し分ないほどの時間と給料が支給されるのだ。だが、それは所詮一公務員に対する給料の域を超えない。大事を為すには、あまりにも足りない額だ。
大教騎士は、騎士団長と並ぶ最高の名誉職だ。そう、名誉職なのである。今後、カミラは何があっても政治にも軍事にも関与できない。それが意味していることは、つまり。王は、最初からこうするつもりだったのだ。
用済みとなったから、処理された。
意識が落ちかけた。床に手をついてしまう。精神的に打撃を受けていたところに、この王の追い打ちだ。カミラは精神崩壊の一歩手前に追い込まれていた。眼鏡がずり落ちそうになっている。屈みすぎて、髪が顔に掛かりそうだ。
「あ、ありが、たき、しあわせ、に、ご、ざい、ます」
脳裏にフラッシュバックする。カミラが殺したも同然のバフォートは、非常に初な男で、妙齢の女に対して酷い吃音癖があったという。死した剣豪に取り憑かれたように、蒼白になったカミラは、自分でも意味を理解できない言葉をたどたどしく発した。
それから、どうやって家に帰ったか、カミラは覚えていない。ただ分かっているのは。既に、力を振るう機会は、永遠に失われたと言うことだけだった。クーデターを起こすという選択肢も、作戦前にはあった。だがそれももう無い。彼女の麾下の部隊は、壊滅してしまった。もう組織的に動かすことは出来ないし、したところで手の内を知っているシグザール軍を打ち負かすことは不可能だ。更に、クーデターには、内部に多数の協力者が必要不可欠なのに、それも期待できない。
カミラの出世街道は、崖にさしかかった。前にはただ荒涼とした闇のみがあった。ただ立ちつくすカミラの頬を、絶望という風が撫でていった。
さながら夢遊病者のように出て行ったカミラを見送ると、ヴィントはまずは息子を、次にエンデルクを呼ぶようにヴァルクレーアに命じる。大臣は愛想良く頷くと、太った体を揺らして寝室を出て行った。最近奴は機嫌が良い。妻に子が出来たからだという。
困惑した表情で、人畜無害を噂されるプレドルフ王子が、寝室に入ってくる。中肉中背のプレドルフは品のいい青年で、整った顔立ちと母譲りのクリーム色の髪を持つ、柔和な人物である。
プレドルフは本当に噂通りの性格を持つ青年で、裏表が無い。頭は悪くないのだが、国政には決定的に向いていない。
ヴィントは自分の寿命を冷静に考えている。だから、この王子に可能な限りの事を教え込もうとしていた。無駄だと分かっていつつも。
「何故、カミラを大教騎士にしたか分かるか?」
「分かりません」
「…理由は二つある。 一つは、今の状態では、とてもではないが、あ奴はお前には使いこなせないからだ」
はっきり言い放つと、ヴィントは寝台に横になり、侍女に腰を揉むように言った。すぐに足が柔らかい布で拭かれる。手慣れた動作で、武芸の心得も持つ侍女が、老王の腰を揉み始めた。うっとりと目を細めながら、王は言う。
「あれは頭が良いし腕も立つ。 使い方を間違えなければ、国を一挙に繁栄させ、悠久の豊穣を生み出すだろう。 だが、トラウマから来る野心が強すぎる。 特にお前のように隙の多い主君の下につくと、最悪の奸臣に化けることだろう。 だから、今の内に羽をもいでおく」
「羽を、ですか」
「そうだ、羽をもぐのだ。 ううむ、うむうむ」
腰を揉まれて、ヴィントは思わず声を漏らす。実に気持ちよい。今腰を揉んでいるこの侍女は顔立ちこそいまいちだが、マッサージのスキルに関しては卓絶している。もちろんマッサージだけで地位を与えてやるほどヴィントは愚かではない。ただ、侍女を引退する時には、余生をバックアップしてやろうとは考えている。「王を唸らせたマッサージ」等という事実が喧伝されれば、恐らく引退後の余生は楽になるだろう。
「あ奴はな、本来はその辺の一般人で終わるような者だ。 あれほどまでに強烈な野心を持つようになったのには、トラウマが関係している。 そのトラウマは、なんだと思う」
「申し訳ありません、父上。 プレドルフには分かりません」
「人間の心を推理する癖をつけろ、息子よ。 あの娘はな、評価されないことに深い痛みを抱えているのだ」
その推理は、ヴィントにはたやすいことであった。伊達に今まで六十年以上も、海千山千の者達と駆け引きを繰り返してきていない。ヴィントにとって見れば、優れた頭脳を持つカミラも、可愛い子猫程度に過ぎない。それほどにまで、経験の差が大きいのだ。
「恐らく、生まれつき恵まれなかった背丈が原因だろう。 幼い頃から背丈のことを揶揄され続け、奮起してそれを撤回しようと何度も試みたのだろうよ。 だがな、人間は一度バカにした相手はまず認めぬ。 努力すればするほどにますます揶揄が酷くなったのだろうな。 そのうち、己を認めさせるには、社会的に偉くなるしかないと考え始めたのだろう。 運が悪いことに、あ奴には才能があった。 だから、死ぬような努力を繰り返す内に、こんな所にまで来てしまった」
プレドルフが悲しそうに目を伏せている。カミラに感情移入しているのだろうか。それでは困る。分析した相手を利用することを考えなければいけない。それが社会の上に立つと言うことなのだ。
「今はショックを受けているが、自分が国中から尊敬を受ける存在となったと気付けば、あの性格も多少なりと丸くなるだろう。 その時にこそ、お前にもつかいこなすチャンスが出てくる。 あれを使いこなせば、この国は繁栄できる。 お前の双肩にかかるものは重いぞ」
「私は、私は…」
父上のようになれませんと、プレドルフは悲しそうに言う。人の心をもてあそんでいるように見えるのだろうか。
社会を統率すると言うことは、人間の心を分析し、それを操作していく事を意味している。群衆であれ個人であれ同じ事だ。
「もう一つの理由は、まだお前には早い。 いずれ余の跡を継ぐ時に、ヴァルクレーアから話させる」
無言でプレドルフは頭を垂れる。
現在、ドムハイトと軍事的な折衝を行う時期は終了している。今後は経済的な折衝と、陰謀合戦が主流となる。すなわち、過剰な軍事力を維持することに血道を注ぐより、やることが幾らでもある。
竜軍との戦いでクリーチャーウェポンが多大な被害を受けることはわかりきっていた。まさか九割もの被害を出すとは思っていなかったが、しかしそれでいいのだ。今後は強力な兵器よりも、人間を動かすことが重要となる。むしろ、ドムハイト側の団結を避けるためにも、使い終わった兵器は早急に処分する必要があるのだ。
ドムハイトはあの戦いの原因と経過を知らないから混乱している。彼らが真相を知り、主戦派を中心にまとまれば、まだシグザールと戦える。クリーチャーウェポンは奇襲には向いているが、制圧統治に使えるものではない。つまり全面的な戦闘になった時、シグザールは必勝を約束されてはいないのだ。その事実を、悟らせてはならない。
最悪の状況、そうなった場合には、役に立つのはカミラよりもむしろ各地で軍を整備している将軍達だ。彼らと騎士団をフル活用して事に当たる必要がある。その時にはカミラにも前線に出てもらう必要性が生じるかも知れないが、今の時点では可能性は低い。だから、名誉職に追いやっても殺すまでのことはせず、むしろ将来に向けて調整しておくのだ。そして調整が終わった時には、カミラは利己的な存在ではなく、この国のためになる人材に生まれ変わっているだろう。
この事情を、プレドルフに告げても、残念ながら今の能力では理解できない。だから、まだ告げない。知るのは後で良い。退出を許すと、優しい青年は、悲しげに眉をひそめたまま、寝室を出て行った。
王子と入れ違いに、エンデルクが部屋に入ってくる。この男も、将来はこの国を支える存在となる。とりあえず、ドムハイトとの決戦が終わった今、シグザールは未来を考える上での正念場を迎える。この人材を暴走させたり、眠らせておく訳にはいかない。あの愚直で善良な息子にも使えるように、調整しておかなければならないのだ。
エンデルクもまた、調整が容易な人材だ。基本的に精神に大きな欠陥を抱えている人間ほど、操りやすい。長い人生という戦いの中で磨き抜いた人心操作術を用い、ヴィントは将来の平和のために全てを動かす。
極限のリアリズムに裏付けされた頭脳が、将来のためにフル活動していた。
1,アロママテリア
既に季節は冬。いつもより一枚多く重ね着したマリーは、錬金術アカデミーへ向け、足早に急いでいた。
今回は資料集めもそうなのだが、イングリド先生に作れと言われた「アロママテリア」の現物を見に行くのが主目的である。あれから散々調べて、どうにか作り方は分かってきたのだが、やはりモチベーションが上がらない。使い道がないものを作るのは、やはり気が進まないのである。
マリーは現実主義者だ。錬金術を学んでいるのも、ドナースターク家のためである。錬金術の作り出す新世代の技術と道具が、マリーには好ましい。それは非常に有用だからだ。それが故に、全く使い道が分からないものは、作るのに躊躇してしまう。
実際に現物を見れば、少しは参考になるかも知れない。そう思って、マリーは今急いでいる。生活費捻出のための仕事をしながら数ヶ月間研究を続けたが、どうしても身に入らない。この状況を打開するのは、少しでも早いほうが良かった。
アカデミーの敷地に入る。普段は図書館に直行するのだが、今日は寮に向かう。イングリド先生は、研究室にいる場合が多い。生徒達の寮の上部にかの人の研究室はあり、必然的に同じ建物に入る事になる。石造りの建物は頑丈で、階段もずっしりとした感触がある。よく見ると、隅々まで随分良く掃除されている。通っていた時にはあまり意識していなかったが、この建物は本当に作り手に愛されているのだ。
途中、何度か生徒とすれ違う。意外なことに、畏怖を籠めてきちんと会釈していく者が出始めていた。昔は嘲りを含んだひそひそ笑いばかりだったのだが、どういう変化なのだろうか。まあ、マリーにはどうでも良いことだ。
イングリド先生の研究室に到着。相変わらず、研究室までもが定規で測ったかのような規律と威圧感に満たされている。ヘルミーナ先生とは本当に対極的な人なのだなと、マリーは思った。ノックするも、返事はない。ノブを回してみると、金属音と共に強い抵抗。研究室には、鍵が掛かっていた。
少しがっかりしたが、どのみち駄目もとで来たのだ。イングリド先生が忙しい人だというのは分かっているし、現物を見せてもらえる保証だって無い。小さく嘆息すると、帰ろうと身を翻す。そして、嫌みな声に足を止める。接近は感じていたが、ピンポイントに話しかけてくるとは思わなかったのだ。
「これはマルローネさん。 珍しいところでお会いしましたね」
「何か用?」
「それはご挨拶ですね」
クライスは苦笑した。そういえば、此奴はイングリド先生の弟子の一人であった。初期に感じたような敵意はもう残っていないし、多少は気楽だ。数瞬考えてから、マリーは聞いてみる。
「ねえ、クライス。 あんた、アロママテリアって知ってる?」
「知っていますが、まさかもうあれを作る技術を身につけたのですか? 信じがたい話ですねえ」
「何だかひっかかる言い方ねえ。 あたしが何もしないで腕を上げてるとでも思ってるの?」
「いや、貴方の凄まじい仕事ぶりは伺っていますよ。 それなら多少不器用でも、腕は上がるだろうとは思っていましたが。 そうですか、アロママテリアですか。 もうあれを作ることが出来るとは」
クライスが珍しく深刻に考え込んでいる。
確かにアロママテリアは、相当に高度な調合技術力を必要とする道具だ。その割に作り出す旨味が見られないから、マリーは苦悩しているのである。確かに技術力はつくが、それだけでは。労力に見合う結果があれば、少しは身にはいるのだが。
「分かりました。 此処まで来てもらったのに、手ぶらで帰すのは気が引けます。 貴方の足を引っ張らないようにイングリド先生にも言われていますし。 僕が現物を持っています。 お見せしましょう」
「へえ? さすがはマイスターランク随一の俊英ね」
「え? ええ、ありがとうございます。 それにしても、僕を貴方がほめるなんて、どういう風の吹き回しですか」
「それは欲しいものが見られるんだし、多少の感謝くらいはするわよ。 変なのはあんたの方でしょう」
様子がおかしいクライスに言い放つと、案内するように促す。クライスは何を言って良いものか分からないのか、しばし困り果てていたが、やがて歩き出す。一端地階まで降りてから、倉庫の方へ行く。
マイスターランクの学生の中には、相当に高度な研究をしている者もいる。成果物も多い。そういった成果物の類は、図書館とはアカデミーの本館を挟んだ逆側に作られた倉庫に収められている。
倉庫といっても、壁は白磁で美しく、煉瓦はきめ細かい。白い息を吐きながら、マリーはまだ足を踏み入れたことのない倉庫を見上げた。屋根は雪を下ろすように斜めに作られていて、側にあるアカデミー本館と並べると、図形的に美しい。それだけではなく、火事に強い石材を利用しているほか、様々な工夫が凝らされている。建物を様々な角度から眺めるマリーに、クライスが咳払いした。
「マルローネさん、一体何をなさっているんですか」
「初めて入る建物だし、ちょっとね」
「子供じゃないんですから」
何を言っていると、マリーは思った。此処で戦闘があった場合、どのようにして攻めるか、或いは守るか。そう言うことを考えていたのだ。物珍しくて、様々な角度から眺めていたわけではない。
この倉庫は防御施設としてよく考えられている。あのイングリド先生が監修しているだけのことはある。分厚い鉄製の扉で守られている入り口は頑強で、破城槌を叩き込んでも二三回では埒があかないだろう。
壁にも工夫が為されている。いざとなったら狙撃用の窓として使える、内側から開けるタイプの引き戸が、マリーの背の三倍ほどの高さに規則的に並んでいる。周囲は敢えて遮蔽物となる樹木が存在せず、しかも倉庫に向け緩やかな上り坂になっている。此処に誰かが籠もった場合、下手に近づくと蜂の巣にされるだろう。
入り口には守衛が何人か立っていて、クライスが手続きをすると、扉を開けてくれた。二人がかりで開いた扉は、内側に大きなかんぬきが二つもつけられていて、もの凄く分厚い。殆ど砦の城門並だ。気配を読む限り、守衛もかなりの腕利きである。入り口からして、此処に盗賊が入るのは極めて難しいだろう。見れば見るほど、戦闘を意識した作りとなっている。
「此方です」
「うん」
倉庫に入りながら、それにしても命知らずな奴だと、マリーは思った。この男、ひょっとすると肝がかなり据わっているのかも知れない。宝石ギルドを潰した時も、此奴は他のマイスターランクのモヤシ学生達とは違って、随分冷静に己の作業をこなしていた。思ったよりも出来る奴かも知れない。
中にはいると、想像以上に広い。アカデミー本館よりも規模は小さいはずだが、なかなかどうして。倉庫としては桁違いに巨大な建物だ。
倉庫の中には魔法式のランプが多数壁に天井に規則的に設置されていて、辺りを照らしていた。中央部には、二抱えもある樽のように巨大なランプが設置されている。装飾がない非常に武骨な作りで、あらゆる意味で作りに遊びがない。この非常に実用的な構造から言って、イングリド先生が作ったのだろうか。後で本人に聞いてみたいところだ。灯りも非常に安定していて、ずっしりした印象を受ける。
奧へ歩く。図書館のように並べられた背の高い棚に、番号を振った無数の箱が納められている。箱には楕円形の白い木製タグがつけられていて、イングリドやヘルミーナという名前が散見できる。たまに校長の名が書かれたタグもあった。清掃員らしい巻き毛の学生とすれ違う。何度かみかけた、善良そうだがやたらとろい学生だ。噂に聞くと、もう一度留年を経験しているとかで、妙な親近感が湧く。向こうは此方のことを覚えていないようで、一礼すると不思議そうに小首を傾げていた。
薄暗くて音が無く、独特の雰囲気だ。最深部には登り階段が見える。さっきの内側から開けるタイプの窓は、二階にあるのだろう。階段を見上げてみると、二階の入り口に分厚い扉がついている。万が一の場合に備え、一階と遮断できる作りになっているわけだ。
上り階段の裏手に、小さな扉がある。ひっそりと隠されたそれには小さなのぞき窓がついていた。クライスが窓を開けると、中に守衛の気配。小声で合い言葉をかわしていたクライスだが、マリーは正確に全て聞き取っていた。戸が開く。鷹のように鋭い目つきをした守衛が、さっさと入るように顎をしゃくった。軍刑務所並みのセキュリティである。現在、この倉庫に入ることが出来る盗賊など存在しないだろう。
扉の奧には、地底につながるような下り階段があった。狭い階段であり、しかも灯りは最小限。足を踏み外すと大けがをしそうだ。手すりが欲しいなと、降りながらマリーは思った。音の逃げ場がないため、石の階段を踏む足音が嫌に響く。
緩やかに曲がって、地下へ螺旋状に降りていた階段が終わる。
地下部分は、洞窟を改装したらしい。今までのように完全な四角い空間ではなく、自然造型の、円を中心とした世界である。洞穴というのがふさわしい表現であり、その中に無数の棚が並べられていた。ただ、床がそもそも平坦ではないので、規則的というわけにはいかない。天井からは、一階にもあったあの巨大魔法ランプがつるされており、静かで威圧的な光を周囲に放っている。
隅にテーブルと椅子が並べられたスペースがあった。ランプが重点的に設置され、見た目よりもずっと快適な空間になっている。天井には換気用らしい空気穴があるが、何処につながっているのかはよく分からない。風はあるので、機能はしているのだろう。
「そちらに掛けていてください」
「ん」
クライスはそう言い残すと奥へ消え、マリーが退屈してあくびを一つした頃に戻ってきた。小さな箱を抱えている。箱には、クライスの名が書かれたタグがぶら下がっていた。この青年の方が、先にアロママテリアを作り出していたわけだ。アロママテリアの製造に成功したら、錬金術師としては追いついた事になるだろうか。自問自答してしまう。
鍵のついた白い箱を開けると、赤い布が現れる。色の強烈な対比が美しい。包んでいた布を取り去ると、図鑑で見たとおりの、正八面体の黒い結晶。光を全て吸い込むような、圧倒的な高級感がある。これがアロママテリアか。口笛を吹くと、マリーは持ち主に断りを入れる。
「触ってもいい?」
「いいですよ。 とても硬い物質なので、多少のことでは傷などつきませんし。 ハンマーで粉砕しようとしても、逆に傷がついてしまうほどですからね。 僕の作ったものは未熟故にそれほど優れた品質ではありませんが、それでも並の腕力では傷一つつけられませんよ」
「それは知ってる。 じゃ、遠慮無く」
持ち上げる。肌触りはとてもざらざらしていて、その上異様に冷たかった。質感は殆ど無く、羽の固まりを持っているようだ。それなのに、存在感は異様なほどに備わっており、手の中に熱源が出来たかのようだ。
凄まじい魔力が内在しているのが分かる。ただし、取り出すことが出来ない。上から下から透かし見ようと試みるが、出来ない。入り込むことを拒否するかのように、アロママテリアは鉄壁の存在感を保っていた。
様々な角度に傾けてみる。光らない。黒い物体でも、光を当てれば普通反射する。それなのにこのアロママテリアは、全く光を跳ね返そうとはしない。また、手の熱が移る気配もない。
本当に見たことのない性質を備える存在であった。少しだけマリーにも興味が湧いてくる。思わず、意味を成さない声が漏れてしまう。
「ふうん、へえ」
「何か分かりましたか? 作り方は教えるわけにはいきませんが、少しの質問くらいなら応えますよ」
「それはまだ後でいいや。 今はこれを調べさせて」
鼻を近づける。嗅いでみる。アロマというのは香りのことなのだが、完全に無臭だ。それならば、何故アロママテリアというのか。
一応、資料的な知識はある。これを砕いて燃すと、えもいわれぬ香りが立ち上るという。しかも条件次第で香りは様々に変わるとか。とある錬金術師が、したり顔でこれこそ全ての香りの根源であると説いた。それにより、アロママテリアという名が定着したという事である
その言葉が仮に正しいとすると、これは香りの結晶体と言うことになる。だが、どうもそうは思えない。
一口に香りと言っても、それには様々な種類がある。人間が多くの香りを感じるのは、それによって情報を得ることが出来るためだ。危険、安全、快感、警戒。それらの元になる存在は、もちろん千差万別。
それが、本当にこの結晶体に凝縮されているのだろうか。
自然の中で生き、育ってきたマリーは、過去の錬金術師達が唱えた理論を是と出来ない。無数の実験と結果に支えられた技術が先行し、それにたどたどしく理論が付け足されるのが今の錬金術。それならば、理論を鵜呑みにするのは愚の骨頂だ。もちろん無視するわけにも行かないから、参考にはしなくてはならないが、それ以上でも以下でもない。
マリーとしては、あらゆる事を試してみたい。ただし、これは自分で作ったアロママテリアではない。だから、クライスに聞いてみる。
「いかづち、叩き込んでもいい?」
「え? そ、そうですね。 流石に全力でやられると困りますが、多少であれば。 頑丈な道具ですし」
「……分かった。 それなら」
本当にクライスが困り果てて眉をひそめたので、流石にマリーも遠慮する。これを見ても分かるように、クライスの実力はなかなかのものだ。将来を考えると、コネクションを切ってしまうのはもったいない。何かの役に立つかも知れない。
まずは最初の一撃。掌に握り込んでいる黒い結晶に、そのまま生体魔力をいかづちに変えて叩き込む。一瞬、猛烈な光が地下空間に満ちる。クライスはさっと顔を庇っていた。この辺り、やはり要領が良い。
表面は傷一つ無い。この魔力量だと、大の男を昏倒させるくらいの威力は備えているのだが、アロママテリアはびくともしない。
目を細め、呼吸を整え、全身の魔力を高める。叩き込むいかづちの火力を上げるのだ。クライスの困惑が伝わってくるが、この程度ではフルパワーにはほど遠い。アデリーの魔力制御具を作った時には、この十倍近い魔力をロードヴァイパーに変換して叩き込んだのだ。今回は術ですらない、ただの生体魔力の放出である。
詠唱はせずに、生の魔力だけを練り上げる。全身を循環する魔力がスパークを放つ。薄暗い空間で、マリーの体は淡く輝いた。
アロママテリアを放り投げる。天井近くにまで到達したそれに、拳を突き出すようにして雷撃を叩き込んだ。激しいいかづちが大蛇のように荒れ狂い、黒い結晶を何度もたたきのめす。
やがて、マリーの手に落ちてきたアロママテリアは、僅かに焦げていた。マリーは内心で感嘆し、表面上は残念そうに言った。
「ごめんクライス。 火力上げすぎたかも」
「あ、いえ。 気にしなくても大丈夫ですよ。 丁度いい耐久力実験になりましたし、それに今の僕なら、作るのもそう難しくはありませんし」
クライスの眼鏡がずり落ちかけている。ひょっとすると、マリーの実力を見るのはこれが初めてなのかも知れない。焦げたところから、甘酸っぱい香りが漏れている。どうやら、燃すと香りが出るというのは本当らしい。
何度か指先ではじいてみる。強度はだいたい分かった。流石にダイヤモンドとまでは行かないが、下手をすると鉄より固い。鍛え抜いた鋼鉄と比べたらどうかは分からないが、それでも相当な強度だ。
後は酸をかけてみたいが、それは流石に問題がある。クライスにアロママテリアを返しながら、マリーは言う。
「ありがと。 参考になったわよ」
「お役に立てて光栄です」
「ん。 それにしても不思議な性質ねえ」
クライスは心配そうに焦げたところを撫でていた。慎重に布で焦げた箇所をぬぐい取ると、大事そうに箱に収める。奥に消えていくクライスの気配をしっかり読んで、どの辺の棚に収めたかを確認した。盗みに入ることは無いと思うが、場所を覚えておいて損はないだろう。
戻ってきたクライスは、マリーが正確に位置を把握していたことなど、気付いてもいないようであった。促して、一緒に倉庫を出る。一階では、あのとろそうな学生が、まだのたのた掃除をしていた。マスクを外してはたきを棚に掛け、咳き込んでいたのが面白い。シアのところで鍛えてもらった方が良いかもしれないと、マリーは思った。
倉庫を出たところでクライスと別れる。そのまま一度冒険者ギルドに寄ったのは、状況確認のためだ。
少し前に、ディオ氏の尽力の結果、ナタリエが冒険者ギルドに再登録されることとなった。そのため彼女は忙しくなり、今までのように毎度連れ出せるかどうかは分からなくなってきている。また、この間のドムハイトでの何かしらの事件の余波はいまだ消え去らず、冒険者は皆軒並み忙しい。つまり、マリーのように突発的に仕事が入る人間にとって、労働力を確保しづらい状況だ。
案の定、ギルドの受付に行くと、皆仕事が入っているようだった。驚いたのは、クーゲルの手が空いていることか。最近はミューもルーウェンも実力に応じて給料が高くなってきたし、クーゲル一人を雇った方が安いかも知れない。マリーは労働力に見合う賃金を払うことにためらいを覚えない人間であり、それが故に世間の畏怖と反してギルドからの評価も高い。これはマリー自身のポリシーに基づく行為なので、変える気はない。それが、今回は足かせになるわけだ。
或いは新人に声を掛けてみるという手もあるが、それは気が進まない。マリーは今までミューにしてもルーウェンにしても、新人を何人もベテランに育て上げてきた。自分のリハビリを兼ねてのことであったが、此処でまたいきなり新人を育てるのも気が引ける。しばし首を捻って考えていたマリーは、後ろからクーゲルが近づいてきたのに気付く。最近アデリーの世話を熱心に見てくれるので、必然的に顔を合わせることが多い。話題は殆どが物騒なものなのは、やはり二人の血が故か。
軽く挨拶をしてから、邪魔になってはいけないので、外に出る。今は冬だが、温かい場所など幾らでもある。歩いていく端から、露骨に真っ青になって避ける冒険者数名。マリーの見たところ、クーゲルの方がより畏怖されている感じだ。
「わざわざ外に出ると言うことは、久しぶりに儂を雇う気かね?」
「まあ、そうです。 というか、クーゲルさん、大仕事が終わった所では?」
「流石だな。 うちの娘にも、君くらいの勘が備わっていれば、騎士団に入れて鍛え上げてやったのだがな」
「有難うございます」
礼を言っている内に、適当な車引きを見つける。この時期は温かい食べ物を売る車引きが多い。当然彼らの車には発熱源が備わっているので、暖を求めるにはもってこいだ。体が強烈に温まるのは辛みの強いスープ類だが、意外なことにクーゲルは甘いものが好きらしいので、選ばない。今日選んだのは、甘辛く焼いた羊の肉を、薄く切ったパンに挟んで食べさせてくれる店であった。高級ではない素材を使っておいしさを工夫する店が、マリーのお気に入りだ。創意工夫の努力が見える店とその主人に、マリーは敬意を感じる。
車引きは幾つか椅子を用意していることが多い。具合が良いことに、今は客がいなかった。二人で並んで座り、四人前の料理を注文する。若い店長は威勢良く声を張り上げると、鉄板に肉を並べて焼き始めた。じゅうじゅうといい音がする。煙が香ばしい。食欲を刺激するこの音もこの店の売りの一つだ。以前話を聞いたが、熱源には良い炭を使っているらしく、かなりやりくりは厳しいのだという。
車の上部はまるまる鉄板になっていて、真ん中で肉を焼き、その間に隅でパンを温める。顎をさすりながら、クーゲルは言う。
「良い店だ。 しかも精がつきそうだな。 今度アデリーを連れてくると良いだろう」
「それがあの子、肉は食べるんですけど、そんなに好きじゃ無いらしくて。 まああたしがしょっちゅう獲物を持って帰ってくるからでしょうけど」
「わからんでもない。 儂も君くらいの年の頃は、その辺の通行人を片っ端から殺したくて仕方が無くてな。 衝動を抑えるのに随分苦労したものだ。 アデリーの性格から言って、人の持つ闇が悲しくて仕方がないのかも知れないな。 それが君の持ち帰る肉そのものに対する嫌悪という形で現れているのだろう。 お互い業が深いものよ」
笑いあう。最初のパンが出てきた。一人前という事もあり、掌を二つ横に並べたくらいの大きさがある。肉汁がパンにしみこんでいて、実に旨い。いつも頭脳と肉体をフルに酷使するマリーには、あらゆる栄養が貴重品だ。
しばし無言。なかなかの美味で、食事が優先になる。この店はそこそこに人気があるらしく、テイクアウトも行っている。ただ、かなり厳しい商売をしているようなので、固定の店を出すのは難しいかも知れない。
丁度一つ目を食べ終えたところで、二つ目が出てくる。指についた脂を用意されているナプキンで拭きながら、クーゲルが言う。マリーは口をナプキンで拭きながら応える。
「アデリーといえば、そろそろ黄リボンが取れる頃ではないのかな?」
「ええ。 あたしとしては正式に養子にしたいんですけど、こればかりは本人の意思に任せようと思っています。 独立したいっていうなら、あの子の好きにさせようと思ってますし。 あの子の実力なら、独立も難しくはないですしね」
「確かにな。 どうしても仕事がないようなら、騎士団に迎えてやろう。 あの若さであれだけ使えれば充分だ。 本当なら君こそ騎士団に欲しいのだが、その気はないのだろう?」
「あたしはあくまでドナースターク家の、グランベル村の人間ですから」
二つ目が出された。豪快に食べるクーゲルと、一応汚れに気を使うマリー。だが二人とも、食べる速度はあまり変わらない。クーゲルはこの店が気に入ったらしく、更に追加注文した。それも食べ終えてしまうと、二人とも満足した。別に口に出すまでもなく理解し合い、ほぼ同時に腰を上げる。
「それじゃあ、近々出かけるので、その時はお願いします。 アデリーも連れて行きますので、戦闘技術だけではなくサバイバルの方も見てやってください」
「君にそう言われてもな。 レンジャーのスキルは、多分君の方が上だろう」
「そうですか?」
「儂から見ても見事なものだ。 それにアデリーを普段鍛えているのは君だろう? あの子の基礎的な身体能力を見れば、それがどれだけ見事なものか一目瞭然だ。 もう少し自信を持って、あの子を鍛えてみてはどうだね」
身内のひいき目があるから、マリーはアデリーに厳しくなりきれるか自信がない。もちろん外では他の人間と同じに扱っているつもりだが、それもあくまで主観の話だ。ただ、クーゲルほどの使い手がいうのであれば、多少は自信を持って良いのかも知れない。
「分かりました。 それなら、あたしの方でももう少し積極的に鍛えてみます」
「うむ。 儂としても、殺しがいのある使い手を育てるのは実に楽しいからな。 あの子には期待しておる」
ひらひらと手を振って去るクーゲル。マリーも手を振り返すと、アトリエに急ぐ。アロママテリアを作る準備は、これで整った。元々宝石のように金の掛かる素材は必要ないし、後は調合にさえ気をつければ何とかなる。
アトリエに戻ると、殆ど同じタイミングでピローネが来る。この間から山蚕の糸を減らしてもらい、その代わり薬剤類の素材を増やしてもらっている。現在ホムンクルスを作る予定はないし、魔力制御具もあまりたくさんは作らないので、絹糸は最小限しか必要ないのである。
「いつもありがとう。 助かるわ」
「いえ、此方こそ有難うございます。 マルローネさんは支払いが滞ったこともありませんし、上客の一つです」
「そう? それは良かったわ」
ぺこりと一礼すると、ピローネはぱたぱたと掛けていった。バスケットにはまだ荷が入っていた所からして、扱う客が増えたのだろう。身近な存在が出世するのは、見ていて嬉しいものだ。
アロママテリア製造に全力投球するためにも、多少なりとも雑念は払って置いた方がよい。そう思ったマリーは、陽の高さから時間を計ると、少し昼寝することにした。本番は夜からだ。
大きくあくびすると、マリーは二階に上がる。自分でアロママテリアを作れば、様々な実験を遠慮無く行うことが出来る。耐久力実験はもちろんのことだが、酸や他の劇薬に晒したりもできる。最終的には、「アロママテリア」等という不確定な仮説からつけられた名前を覆せるかも知れない。イングリド先生にしてみれば、恐らくそれが狙いだろう。マリーとしても、それに応えたいという気が起こってきていた。
布団に潜り込むと、集中して眠りに入る。アロママテリアで行う実験や、使い道を考えるのは後だ。それにこれは錬金術の力量を向上させる事にはつながるが、あくまで研究のレベルである。生計を立てながら行わなければならない。アデリーの魔力制御具を作り上げてから数ヶ月、巨大な出費とは無縁だが、それでもお金は出来るだけ蓄えておいて損はない。大けがした時に支えてくれたドナースターク家に、恩を返さなければならない時が、また来るかも知れないからだ。
目を覚ますと、もう夜中だった。裏庭でアデリーがサスマタを振っている。マリーが起きたことに気付いて、すぐにアトリエに入ってきた。実力がかなりついてきた証拠だ。それを確認してから、マリーは一階に下りる。既に夕食の準備が整っていた。
「おはようございます、マスター」
「ん。 今晩は徹夜で研究を詰めるから、先に寝ていてね」
すっとアデリーの眉に影が差したのを、マリーは見た。気付いたのだ。マリーが今研究しているものに、興味を覚えたことに。そして興味を覚えた以上、研究が完成した時に、何が起こるかも。
アデリーはどんどん鋭くなってきている。この年頃は成長が非常に早いから、当然のことだ。このまま育てば、かなり強くなる。実に楽しみだ。
アデリーは後ろ髪を引かれるような表情だったが、夕食を終えると、一人で二階に上がっていった。マリーは机を片付けると、ランプを置き、さっと資料を並べる。
始めるぞ。そう暗示を掛けると、一気に精神を集中する。
それからは、意識がとぎれるまで、研究がただひたすら続いた。
2,冬のひととき
白い息を吐きながら外に出たマリーは、手袋をした手で口元を覆った。寒いわけだ。外は一面の白だった。夜の内に降り出した雪が、かなり分厚く積もったのである。家々の屋根も、白で統一されていた。ザールブルグが、そのまま白に塗装されたような光景である。今年に限れば、珍しくもない事だ。
今年は去年を遙かに超える寒波が、ザールブルグを直撃していた。ザールブルグに来てから最悪の冬である。水路は何カ所か凍り付き、悪臭がし始めている。何度か雪下ろしもしたが、きりがない。最悪なのは、井戸が凍ることだ。雪は飲用には適さないので、どうにかして氷を溶かすしかない。
各人にそれぞれのやり方がある。マリーは豪快だ。魔力でいかづちを起こし、その熱で氷を溶かしている。結構重労働だが、修行になって丁度良い。今日は雪下ろしをするほどのつもり方ではないので、水桶を飲めるようにするだけでいい。
毎朝そうやってアトリエの前で桶の水を溶かしていたら、近所のおばさん達がみんな集まってきて、うちのも何とかして欲しいと言い出した。それから、ちょっとした小遣い稼ぎが始まった。マリーが水桶を掴んでいかづちで氷を溶かす。そうすると、食材をある程度分けてくれるのだ。食費が浮いて助かる。
良くしたもので、火炎を起こす術を持つ能力者も、みな似たようなことをして小遣いを稼いで回っているという。あのキルエリッヒも、友人達から頼まれて毎朝彼方此方を駆け回ることになり、朝に多少弱いので辟易しているそうだ。
今朝もためておいた水桶を持って外に出てきたのだが、やはり積もっている雪に、マリーは少しだけげんなりした。表に小さな椅子を出すと、腰掛けて膝の上に水桶をのせる。そして革手袋を外した。手に、悴むような寒さが伝わってくる。
目を閉じ、精神を集中。全身の魔力を練り上げ、高める。
桶に、魔力を流す。桶そのものではなく、凍っている水に重点的に流れるように、コントロールする。これが結構難しい。初心者は詠唱を行って高度な魔力制御を行わなければ無理だ。
やがて、目を開けた。
マリーが掴んでいた桶の水は、シャーベット状になっていた。火力を上げすぎると、桶が燃えてしまうので、これは結構難しい技だ。半液体になっている水は結構重い。アトリエの中に運び込むと、アデリーが目を擦りながら起きてきたところだった。まだ起きてすぐに精神を平常時に高め上げることは出来ないようだ。マリーもアデリーくらいの年には、其処までの身体制御は出来ていなかったし、これは構わない。
「おはよ。 それで顔洗いなよ」
「はい、マスター。 昨日も徹夜ですか?」
「うん。 だから、昼前に少し寝る。 出かける時は、戸締まりをしっかりね」
わいわいと近づいてくる声。近所のおばさん達が、マリーに水を溶かしてもらいに来たのだ。
隣のおばさんのこともある。以前はおばさん達の反応は本当におそるおそるだったのだが、マリーが敵対者以外にはまともな反応をすることが分かると、かなり気軽に話しかけてくるようになった。女の順応力は高い。
彼女らはアデリーのこともかわいがってくれるので、マリーとしては拒否する理由がない。中には騎士団に入っている息子を持つ人もいて、武術に理解があるのが嬉しい。今日はどんなものを持ってきてくれたのか、それを想像するのも楽しい。最近はアデリーの料理を手伝ってくれたり、色々技も教えてくれているので、有益な事はかなり多いのだ。
ドアがノックされる。おばさん達のリーダーであるケイトさんと言う人の声がした。恰幅のいい銀髪の人で、四人の子の母だ。
「おはよう、マリーちゃん。 今朝も氷溶かしてくれる?」
「はいはい、今開けますから、待ってください」
戸を開けると、わいわいとおばさん達がアトリエに入ってくる。家族を養っているだけあり、マリーの使っているよりも何倍も大きい桶を持っているおばさんも多い。今日は冬野菜の類を持ってきたようで、早速何人かがアデリーを促して奧で調理を始めた。さっそくケイトさんの桶から取りかかると、彼女のお友達の一人が、にこやかに笑みを浮かべながら言う。
「ちょっと、お薬も分けてもらえないかしら。 うちの子が熱を出しちゃって」
「そう言う場合は、まずはお医者さんに診せてください。 あたしの薬の出番は、その後ですね。 お医者さんに見てもらうだけで薬を別口にすると、随分安くなるんですよ」
「そうなの? じゃあそれでお願いできるかしら」
「いいですよ。 施寮院なら、話をすればそう処置してくれるでしょう。 処方箋を持ってきてくれれば、だいたいのは対応できます。 それに、いつもお世話になっていますし、少し割安にしておきますね」
にこやかに応えるマリー。身に染みて知っているからだ。こういうおばさん達の情報網は広く深く、侮ることは出来ないと。
冒険者として、或いは戦士としての畏怖を買うのはいっこうに構わない。恐れられてなんぼの商売であるからだ。だがマリーブランドと呼ばれ始めている薬品類の評判が落ちるのは困る。それに、ドナースターク家の名声を高めるためにも、マリーは畏怖を買う分敬愛も受けておく必要がある。
どちらの評判だけでも、人間は崩れるのが早い。悪評だけで成り立つ人間は、少し善行を積んだだけで侮られる。善行を重ねてきた人間が、ほんの少しの悪評で全てを失う事も多い。必要なのは、偏らない中道だ。
恐怖の的であると同時に、頼ることが出来る存在であるというのがマリーにとっては望ましい。だから、こういう貴重な存在には、ある程度のサービスもする。そうやって複雑な評判を作り上げておけば、ちょっとした事でがらがらと名声が崩れることはなくなる。今後は更に高い名声が必要になってくるので、隣のおばさんを起点にした噂で、全てが台無しになるような事態は避けなければならなかった。
冬の寒い道を帰るのだから、桶の氷も念入りに溶かしておく。じんわりと温かくなった桶を全部で七つ、持ち主達に返す。流石に少しは疲れた。丁度終わる頃に、朝ご飯が出来ているのが嬉しい。マリーにとっては、実質晩ご飯だが。
流石に長年家族を支えているだけあり、おばちゃん達の作る料理は美味い。アデリーも腕を上げてきているので、マリーには実に喜ばしいことであった。口々に礼を言いながら帰って行くおばちゃん達を見送ると、マリーは一つ嘆息。やはり年上の女性は少し苦手だ。疲れる。向こうも、此方が利用しようと思っているのを見抜いているかも知れないし、肩がこる。
テーブルに着く。美味しそうな朝食が湯気を立てていた。炒り卵に、ふかした芋類を添えたものだ。これと日持ちする堅焼きパンを一緒に食べる。今日の炒り卵は少し堅めだ。もう少し柔らかい場合は、パンに塗って食べると実においしい。
「食べようか、アデリー」
「はい。 マスター、その」
「ん?」
「今研究されている、そのアロママテリアって道具なんですが、後どれくらいで出来そうなんですか?」
妙な質問であったが、考えてみればすぐに意味は分かった。要は、自分の修行が間に合うかどうか、判断したいのだろう。この子の考えていることはマリーにはお見通しだ。マリーが道具を完成させて暴走状態になった時、血が流れるのを自分の体で止めるつもりだ。だから今回は間に合うか間に合わないか、判断しておきたいのだろう。
現実的な考え方が出来るようになってきたアデリーだが、根本的な芯は緩んでいない。これは実際には凄いことだ。幼い頃から曲がらない芯を心の中に持つと、人間は強くも脆くもなる。思想的行動的な柔軟性を失うのが欠点だが、同時に最強への道が開かれる意味もある。アデリーは、将来は相当に強くなれる。マリーとしては楽しみで仕方がない。笑みがこぼれそうになるが、そうとは悟らせないように、さらりと言う。
「作業だけなら、後半月という所かな。 でもお薬の材料を取りに行ったりするから、実際にはもう少しかかるわよ」
「そう、ですか」
「それよりも、修行は順調? クーゲルさん厳しいでしょ。 やっぱり辛い?」
「クーゲルさんは厳しい人ですけど、大丈夫です」
マリーは小さく頷くと、パンを口に入れた。アデリーは打たれ強い。とても悲しい人生を送り続けてきたからだが、そのおかげで、今後は大概の事に耐えられるだろう。耐えきれなくならないように、まだマリーが見ていなければならない部分もあるが、安心感はある。
クーゲルの修行に耐えている時点で、もうアデリーは子供ではない。今度の探索では積極的に前線に立たせてもよい頃かと、マリーは思った。
食事が終わる。満腹になったマリーは、食器を片付けると、早速研究に戻る。どんな実験をアロママテリアに行うか。耐久力実験も、耐薬品実験も、自分で作ったものなら好きなように出来る。今から楽しみでしょうがない。
今まで使い道が見つからなかった素材を、どうやって活用するのか。それを探し当てる楽しみが、今からマリーの胸の内に沸き上がっている。昨晩はほぼ徹夜に近い状態だったが、たいした疲労は感じない。伊達に今まで鍛え抜いていないのだ。
奧で着替えていたアデリーが、外出着になって出てきた。黄色いリボンでポニーテールにしている。手にしているサスマタは、すっかり馴染んできていた。
「修行に行ってきます」
「ん。 張り切りすぎたクーゲルさんに殺されないようにね」
寂しそうに笑ったアデリーは、一礼してアトリエを出て行った。マリーは資料のページを捲り、もう少し進めたら寝ようと思った。
夕方過ぎ。目が覚めて、眠気覚ましに裏庭で瞑想を丁度終えたくらいに、シアが来た。手にはバスケットを提げていて、其処には高級な麦粉だけで焼いたパンを入れている。基本的にシアが持ってくる料理は美味しいが、これはとくに楽しみな一つだった。シアはよく考えていて、持ってくる料理をいつも変えている。好きなものばかりでも飽きるからだ。美味しいものに飽きてしまうほど、寂しいことはない。
アトリエに招き入れて、向かい合って座る。ドナースターク家の近況をしばし話し合う。状況は好転を続けており、噴火による経済的なショックからはほぼ立ち直りを完了していた。今回持ってきたパンの質一つでも、それが言葉だけではないことが分かる。ただ、トール氏は白髪がかなり増えているという。理由は推察するまでもない。過労が祟ったのだ。戦闘能力の衰えも、見え始めているという。
元々、シアやトール氏のような、身体強化型の能力者は、様々な理由から消耗が早い。驚異的な生命力を持つトール氏でも、それは例外ではないわけだ。ましてやトール氏は、ここしばらくずっとマリーのフルタイム稼働時並の労苦を続けていたはずだ。消耗しないはずがない。
年を取ると、まず思考が、続いて回復力が衰える。トール氏にはまだまだドナースターク家を支えてもらわなければならないし、皆で補助していかなければならない。
「お父様も、そろそろ無理が利かなくなってきているわ」
「うーん、トールさんに何もかも任せすぎたのよね。 あたし達が、今後は何とかしていかないと」
「そうね。 ここのところは、お父様には休んでもらって、家臣達を育てるためにも若手に直接働いてもらっているのだけれど。 まだまだ経験が足りない者が多くて、管理には苦労するわ」
シアがパンを口に運ぶ。
最近気付いたのだが、トール氏が衰えるのに反比例して、シアの生命力が増しているような気がする。トール氏の力を吸い取っている等という事はないだろうが、何故であろうか。シアも同じように忙しいはずなのだが。
ひょっとすると、あのエリキシル剤の副作用だろうかとマリーが思考を進めた時、シアが立ち上がった。セイラの気配が近づいてきていた。気配が乱れていることから言って、何かあったのかも知れない。
「セイラのあの様子だと、また若い子が何か失敗したようね。 困ったものだわ」
「でも、ドナースターク家の人材は、他に比べて豊富だよ。 忠誠心も高いし、今は役に立たないからって切り捨てるのはもったいないわよ。 多少のことは我慢して、育てて行かなきゃ」
「そうね。 むしろ、私もしばらくは仕事量を減らしてみようかしら」
「それなら、あたしと一緒に来てくれると助かるなあ。 最近例のドムハイトの混乱の件で、冒険者がみんな出払っててね。 探索採集の時に手が足りないの」
シアは考えておくわと返す。同時にドアが開いて、セイラが入ってきた。シアもマリーもセイラが来ることを知っていた顔だったので、多少鼻白みながらも、セイラは呼吸を整える。
「シア様、ひょっとして私の接近に気付いていましたか?」
「四半里ほど前からね」
「そうですか。 お楽しみの所、申し訳ありません。 若手のミスでは無いのですが、少し困ったことが起こりまして。 家臣達には任せておけないので、シア様を呼びに参りました」
「困ったものね。 これではお父様がいつか倒れてしまうわ」
シアが嘆息しながら前髪を掻き上げる。広めの額が、暖炉の火を照り返していた。肌が実に健康的に艶を帯びている。マリーはドナースターク家の内政にまで関わる気はないので、笑顔で状況を見守る。
「それじゃ、お仕事頑張ってね」
「マリーもね」
シアは裏庭から外に出る。そのまま魔力を全開にして、アトリエの屋根に飛び移る。後は怪鳥のように家々の屋根を飛び渡りながら、直線距離で自宅に帰っていった。思い出したように、随分遅れてから雪が屋根から落ちる。ますます腕を上げている。大したものである。
セイラはシアの持ってきたバスケットを受け取ると、丁寧に礼をして出て行った。シアの副官は大変だろう。下手な鳥より速く動き回るシアを追いかけるだけで、常人では一苦労だ。
アデリーが帰ってくるまで、まだ少し時間がある。もう必要な素材のリスト、加工スケジュールは組んだので、後は集めて調合するだけだ。それを、もう一度入念にチェックする。
アロママテリアの素材には、一つを除いてそれほど高級な品はない。その一つは既に在庫があるので、考えなくて良い。他には三十種類ほどの金属類が必要になるが、ミスリルやアダマンタイトなどは必要としない。特性が少しずつ異なる錫、銅、鉄などを、それぞれ少量ずつ必要とする。
金属以外では、ヴィラント山で採取できる黄金色の岩なども必要となる。一番高い素材は純粋塩であろう。植物塩では駄目だという話なので、純度が高い岩塩を購入してくる必要がある。岩塩は日常生活用としてはかなりの高級品だ。といってもたかが知れた値段なので、入手に苦労はしない。問題は製造過程だが、相当なスキルが必要なだけで、障害は無い。作業工程は、既に頭に入れている。
問題があるとすれば、素材の幾つかが、手に入れづらいという事であろうか。
金属の何種類かがそれに該当する。どれもヴィラント山の麓およびエルフィン洞窟で入手できそうなのだが、マリーも見かけたことがないものが何種か混じっている。金属類の知識にはどうしても乏しいので、探すのに少しばかり時間が掛かるかも知れない。
時間は別に掛かっても良い。重要なのは、ヴィラント山で、少人数での探索を繰り返していると、あのフラン・プファイルに攻撃される可能性があるという事だ。流石にエンシェント級のドラゴンを少人数で相手にするのは厳しい。悪魔の一体や二体とは訳が違う相手だ。何かしらの対策を立てないといけないだろう。
この間ヘルミーナ先生に様々な金属の知識を教わったから、それを元に探索する手が無難であろう。ヘルミーナ先生の話と総合すると、エルフィン洞窟で素材は集まるはずだ。しかしそれは可能性の話。場合によっては、もっと広範囲に手を広げなければならないだろう。
足下の籠には、既に何種類かの素材金属の原石が入っている。幾つかは鍛冶ギルドで購入してきた。一回の採集で見つかるか分からないので、確実性を高めるためにこういう布石を打っておくのは当然のことだ。まして今回は鉱物素材が多いので、荷車が非常に重くなることが予想される。あまり現地で無駄な時間を費やす余裕はない。そのために、素材の特徴を、更に念入りに調べておく必要があるのだ。
出発前の作業が一段落して、マリーは大きく伸びをした。一応明後日にでる予定だ。今回はクーゲルに同行してもらう。彼一人で雇用賃はかなり取られるが、下手な新人を三人四人と雇うよりも遙かにいい。それだけの価値は充分にある。
ただ、クーゲルの他にもう一人欲しい。同行者が彼だけだと、アデリーも加えて三人で探査に向かうと言うことになる。もう少し手数が欲しいところだ。ルーウェンやハレッシュ、それにナタリエは仕事で出払っているし、在宅中のミューは今冒険者ギルドでかなり期待されている。人員が出払っている現在、重要な仕事以外で引っ張り出すのは難しいだろう。シアも今回は出られないという話であったし、キルエリッヒも引っ張り出すのは難しい。さて、そうなると、どうするか。
「ただいま戻りました」
「ん、お帰り」
アデリーが帰ってきた。今日も派手にしごかれたらしく、全身汗まみれだ。順調に実力がついているのが分かり、マリーは笑みをかみ殺すのに苦労する。
「明後日から、採集に行くわよ」
「はい」
「今回からはあんたも最前線に立ってもらうからね。 ワキザシとサスマタはきちんと磨いておきなさい」
「……はい」
もう一枚二枚と資料を捲り、情報を整理しながら、マリーは言う。
「今回はクーゲルさんに来てもらうから、実地で彼の戦いぶりがみられるわよ。 良い勉強になるから、しっかり目に焼き付けておきなさい」
「クーゲルさんが、来られるのですか?」
「ん。 最近まで掛かりっきりだったお仕事が終わったみたいだから、手が空いてるらしいわ。 あたしとしても実に心強いわねえ」
くすくすとマリーが笑う。アデリーはやはり悲しげに沈黙したままだった。
その夜、マリーも予想だにしない人物が、アトリエの戸を叩いた。そして、そのまま翌々日の採集任務に同行することになる。
3,最強の影
呆然とその人物を見上げているアデリーの肩を叩く。マリーだって驚いたのだし無理はないが、あまりにも露骨に感情を示すと失礼だ。肩を叩かれたアデリーはマリーを見上げると、物珍しく眺めるのが失礼だと気付いたらしく、襟を正す。
ザールブルグの南門を通り過ぎる人々は、荷車の隣に佇んでいるその男を見て、十中八九振り返っていた。無理もない話である。咳払いしたマリーは、目の前の人物に問う。同じ問いを発するのは、実は二度目だ。
「繰り返して聞きますが、本当に良いんですか?」
「構わない」
黒く長い髪を持つその人物とは、初めて会うわけではない。直接話すのは今回で三回目になる。だが、違和感もある。以前秘めていた覇気を根本から失っているように見えた。着込んだ鎧が重そうにさえ見える。腰には王室支給の聖騎士の剣。それも、騎士団長専用の特注品。確か名前も存在している、王家の紋章が刻まれた、国宝級の剣だ。鎧は聖騎士用のものではないが、それでもかなり高価な素材をふんだんに使ったプレストプレートであり、常人では身動きさえままならぬだろう。腹に傷を最近受けたことを、マリーは見抜いたが、それでも動きは常人の域を超えていることが疑いない。
長身のその男は、無言で腕組みし、荷車の側に立ちつくしている。まだクーゲルは来ていないので、待っているのである。マリーとしてもどう話しかけていいのか分からないので、困惑して右往左往しているアデリーをなだめるくらいしか、することがなかった。
その人物は、騎士団長エンデルクであった。
昨晩、エンデルクが単身アトリエを訪れた時は、マリーも驚いた。何しろドムハイトのバフォートが竜軍もろとも失踪したという噂が流れる今、大陸最強の名も高い人物である。今後アデリーの稽古をつけてもらおうとも考えていたが、それももう少しドナースターク家と騎士団のコネクションが密接になってからだと考えていた。こんな形で、向こうから接触してくるとは、考えてもいなかったのである。
エンデルクの目的は、ヴィラント山に行くことだという。少人数では歴戦の冒険者でも行きたがらない彼処へ、麓とはいえ熱心に足を運んでいるというマリーの話をクーゲル経由で聞いたのだそうだ。それで「同行させて欲しい」のだと言った。
そう、「同行させろ」ではない。あのエンデルクが下手に出た。大陸最強の騎士団長が言葉の上とはいえ頭を下げたのだ。
マリーとしては丁度手が足りないと感じていた所であったし、フラン・プファイルに対する人材の選定に困っていたこともある。申し出は願ったりかなったりであった。ただ、給金の方が心配である。能力に応じた給金を払うのが、マリーのポリシーだからだ。
今回の探索では、アロママテリア以外にも貴重な鉱物類を探してくる予定である。それらはよほどレアリティの高いものを除いて売って換金するつもりだが、それでも赤字になってしまう。だが、ドナースターク家と騎士団の今後のコネクションを考えると、此処でエンデルクに恩を売るのは悪くない。それに、アデリーが暴走状態になり、マリーが大けがをした時に助けてもらった分の借りを、ドナースターク家に返すことも出来る。
だから、今日出立前に、アデリーに手紙を持たせて、ドナースターク家にひとっ走りさせてきたのだ。シアはすぐにオッケーを出してくれた。給金はクーゲルの五割り増しで交渉し、エンデルクは即答で是としてくれた。少し安いかも知れないが、最終的に払う給金は、活躍次第で決める。いくら何でもシグザール王国の騎士団長が名声だけの人物だとはマリーも思っていないので、給金がこれ以上安くなるとは考えていない。
今回の探索では、エンデルクもいることだし、エルフィン洞窟を回った後、ヴィラント山の中腹まで行ってみようと考えている。問題はフラン・プファイルだが、奴の縄張りの範囲は大体把握している。中腹くらいなら、よほど此方が弱いと侮られない限り、仕掛けては来ないだろう。ただし、それは予想に過ぎない。ドラゴンを狩ることはあっても、育てたことはない。普通の野生動物と同じような考え方をするとは限らないし、油断はしない方がいい。
クーゲルが歩いてきた。鎧の上から、毛皮のコートを羽織っている。くすんだその毛皮は、フォレストタイガーのものであった。手には使い込んだ戦槍がある。
「待たせたな」
「いえ、我々も、今来たところです」
「そうか」
クーゲルはエンデルクを一瞥したが、何も言わなかった。打ち合わせ済みだったのかも知れない。
アデリーは多少居心地が悪そうにしている。今回は本当の意味で、全くと言っていいほど気心の通じる相手がいないのだから当然だろう。親代わりのマリーに、世代も性別も違う大人が二人。これでは、気苦労を分かち合う相手がいない。もっとも、アデリーはミューにさえ、なかなか悩みを打ち明けない子だ。マリーの心配は杞憂かも知れない。
揃ったところで、今回の採集任務を確認。今回は片道五日、往復で十一日を予定している。最初の二日でエルフィン洞窟を探査し、残りの三日でヴィラント山に登る。三日間だから中腹までしか行けないが、今回はそれでいい。
城門を出る。それにしても間近で見ると、やはりエンデルクの顔立ちは整っている。大人の落ち着きが鋭角に整った顔に湛えられていて、圧倒的な存在感がある。若い娘達に人気があるというが、それも当然であろう。グランベルでは顔よりも能力のある男の方がもてたが、此奴の場合は関係ないだろう。この容姿で、剣の腕も優れているのだから反則だ。覇気が感じられないが、それも「憂いを秘めている」という風にも見える。若い娘は容姿で相手を判断しがちだから、美化して更に盛り上がるかも知れない。マリーにとってはどうでもいい。雇った護衛の一人だ。
出る前に決めた。今回の採集では、クーゲルとエンデルク、それにマリーが、交代で荷車を引く。最初はクーゲルで、次がマリー。最後がエンデルクの順番になる。だから、今はクーゲルが荷車を引いていた。クーゲルは荷車を引きながら、隣を歩くマリーに語りかけてくる。時々、荷馬車が通り過ぎる。
「マルローネ君。 ヴィラント山の中腹まで行くと聞いたが、フラン・プファイルに対する備えはしているのかね?」
「今回は中腹までですから、奴の縄張りには踏み込みません。 ただ、襲ってきた場合に備えて、逃げる時間を稼ぐ道具は用意してきていますよ」
「噂の爆弾かな?」
「それもあります。 後は、後ろに積んでるあれですね」
マリーが一瞥した先には、大蛇のように太く長い縄が丸まっている。生きている縄を強化した道具で、そのまま「生きている綱」という。同じサイズの大蛇以上のパワーを出すことが出来る。巨大すぎて普段ではあまり使い道がないが、フラン・プファイルの気を引くくらいは出来るだろう。
マリーが一から作った道具ではない。ドナースターク家の倉庫から、古くていらなくなった綱をもらってきて、それを多少作り直し、悪霊を封じ込んだのだ。作業には半日程度しか掛からなかった。少し重いが、エンシェント級ドラゴンの危険性を考えると、積んでいく価値はある。
今回は山に本格的に登ると言うこともあり、荷車も強化を施している。少し前にゲルハルトの店に頼んで、車軸を強化してある。以前エリキシル剤を作った時に、強行軍で荷車を駄目にしてしまった事があったが、その時の反省をふまえてのことだ。今回はフラン・プファイルから全力で逃げることになるかも知れないので、それを考慮してある。
クーゲルの足は速い。アデリーは危なげなくついてきているが、普通の女の子であればもう音を上げて荷車に乗っていただろう。厳しいトレーニングを数年も続け、その結果充分に備わった基礎体力がものを言っている。もっと幼い頃から徹底的に鍛えていれば更に強くなっていただろう。それを考えると惜しいが、諦めるほか無い。何事も、世の中は思うように運びはしないものなのだ。
マリーは道すがら、エンデルクに話しかけてみる。嫌に無口なこの騎士を、少しでも知っておかなければならないからだ。
「失礼だとは思いますが、今回はどうして一錬金術師であるあたしに同行を?」
覇気のない様子で、エンデルクは此方を見る。強いのは動きを見ていれば分かるのだが、やはりマリーは、この男に魅力を感じない。戦乱もなくこの若さで騎士団長になるほどの男なら、もっとぎらぎらした覇気を湛えていると思うのだ。以前会った時には、確かに底知れない覇気を備えていたような気もするのだが、今ではそれもない。何かあったのだろうか。あったとすると、やはりドムハイトの謎の事件に関係していそうだ。
それを露骨に指摘するとやぶ蛇になるだろうから、言わない。コミュニケーションをある程度取っておかないと、今後の行動に支障が出る。だから、嫌がられても、ある程度は食いついていかなければならない。
最初から期待していないが、クーゲルは助け船を出してくれそうもない。どう話しかけようかと思っていた時に、意外な方向から声が飛んできた。しばらく躊躇していたアデリーが声を絞り出したのだ。
「あ、あの、エンデルク様」
「なんだ」
「この国で、最強の人は貴方だって聞きました。 どうやったら、強くなれるんですか?」
「私は強くなど無い。 そう、強くなど、ないさ」
やはり何かあったのだと、マリーは直感した。声に含まれる強い自嘲。それに、マリーに同行を願うという異常行動。そしてドムハイトでの竜軍失踪事件。おそらく、それらは全て線で結びついているだろう。
「それでも、私よりはずっと強いです」
「さあ、どうだろうな」
話しかける事を拒否するようなエンデルクの態度に、マリーは同情を覚えるが、多少の不快感も感じる。アデリーは困惑し通しで、それが余計に苛立ちを加速する。
「エンデルク様、前から考えていたんですが、アデリーに稽古をつけて欲しいなって思っていたんですよ」
「そう、か」
「何か自信をなくすようなことがあったのなら、後進を育成してみるのも手ですよ。 キャンプを張ったら、少しその子の稽古を見てやってもらえませんか?」
「私が見て役に立つかは分からないが、いいだろう。 連れて行ってもらえるのだから、贅沢はいえん」
随分あっさり了承が出た。
何だか、げんなりする。この男にアデリーの稽古をつけてもらったら最高だろうと少し前までマリーは本気で考えていた。それが薄い失望を帯びつつある。クーゲルは騎士団の不祥事に対して口を開くような事はないだろうし、詮索も出来ない。他人に踏み込まない自分のポリシーが邪魔になる。本当なら、この間ドムハイトでフラムをどう使ったのか聞いてみたいところなのだが、それは余計に無理だ。残念な話である。
こう言う時はハレッシュやミューがいてくれると助かるのだが、今回彼らは別の場所で仕事の真っ最中だ。此方を立てれば彼方が立たず。限定条件下での戦略は、いちいちと考えることが多い。
街道を外れて森に入り込む。エルフィン洞窟に入る際、何度となく通って来た道だ。森に入っても全く行軍速度が落ちないクーゲルには脱帽気味である。
冬の霜柱が降りた地面を踏みしめながら、枯れ果てた森の奧へ奧へ。エンデルクは相変わらず、周囲の森と同化したかのように押し黙っていた。
アデリーが低く腰溜めして構える。サスマタの先端はエンデルクの胸に、正確に向いていた。エンデルクは細くて柔らかそうな木の棒を持ったまま、微動だにしない。
確かに素晴らしい実力だと、キャンプをくみ上げ、捕まえてきた野ウサギを焼きながらマリーは思った。四匹ほど捕まえてきた野ウサギはどれもやせていて、この人数の腹を満たすだけで肉が無くなってしまう。先ほど木に登って周囲を確認し、明日には鹿の縄張りを通ることが分かった。翌日からは鹿が食べられると思って、我慢するほか無い。クーゲルは竈の側に座って、石組みを見ている。
「やはり、レンジャーとしての技能は君の方が上だな。 素晴らしい石組みだ。 文句をつけるところが見あたらん」
「有難うございます。 騎士団のレンジャー訓練は相当に厳しいって聞いてますのに、あたしなんかがそんな風に言われると、恐縮です」
「君は生まれ育った環境に恵まれているからな。 あの子も、君の影響を受けて、あの年には不釣り合いなほど良く育っておる」
エンデルクが顎でしゃくると同時に、アデリーがエンデルクに突きかかった。充分にスピードの乗った、良い突きだ。だがエンデルクは、軽く身を逸らすだけで鋭鋒をかわし、そればかりか木の枝をアデリーの額に突きつける。まるで本気を出していないが、マリーでも勝てる気がしない。とんでもない使い手だ。
「もう一回」
「はい」
アデリーは距離を取って構え直す。
良い動きだが、まだ気配を上手く読めていない。それが、こうも簡単にあしらわれる原因だ。エンデルクはちらりちらりと隙を見せているが、それは攻撃を誘うためのフェイクである。時々本物の隙を混ぜているが、それは巧妙に隠されている。本当の隙がない相手に突きかかっていくから返り討ちに遭う。だが、口を出すことはしない。エンデルクの手並みを拝見しているところだからだ。
兎が良く焼けてきた。最初に首を切って血を抜き、皮を剥いで、消化器を捨てる。大きな骨だけを取って、後は丸ごと食べる。肉汁の臭いがいい。焼けた兎を火から離し、鍋の様子を見る。野草類が良く煮えていた。兎の脂が中に落ちるように傾けていたので、良い按配になっている。実に美味しそうだ。
もう一度、アデリーが突きかかった。動きはやはり申し分ないが、エンデルクの隙はまたしてもフェイクだった。風のように動いたエンデルクが、アデリーが対応するよりも速く、額に剣を突きつける。三十三回突きかかって、結局アデリーは全くエンデルクにつけいることが出来なかった。
「夕食にしましょう」
「分かった。 食後に続きだ」
「はい」
エンデルクは腰をどっかと下ろすと、マリーが差し出した椀と、棒に刺した兎を受け取る。そのまま豪快にかぶりつく辺りは、やはり歴戦の勇士である。アデリーは疲労が酷く、汗を額にたっぷり浮かべていたが、食事の動作が鈍るようなことはなかった。
稽古を見ていて分かったが、エンデルクはやはり強い。確かに騎士団で最強の座を保持しているだけのことはある。この男より強い人間を、いまだマリーは見たことがない。イングリド先生でも一歩及ばないだろう。だが、どうしてか覇気は無い。そして、分かる。この男の剣は、とても合理的で、孤独なものだ。だからクーゲルと馬が合うのかも知れない。
兎はやせていたが、それでも脂は皮膚の下に蓄えていた。良く焼けた肉に脂がしみこんで美味しい。それに冬の気候に耐えているたくましい野草類のスープを一緒に食べて精をつける。雪が降ってきたが、気にならないほど体が火照っている。
食後、雪が降る中、アデリーとエンデルクは再び稽古を始めた。クーゲルもキャンプから離れると、槍を振り始める。血が騒ぐのだろう。マリーもテントの中にはいると、集中し、瞑想を始めた。血が騒ぐからだ。
一刻ほど瞑想をし、魔力を体の隅々まで行き渡らせる。目を開けると、アデリーがテントに入ってくる所だった。疲れ切っているようで、テントに入った途端に、がくりと腰を落としてしまう。
「汗は拭いてから寝なさい。 風邪を引くわよ」
「はい」
テントの入り口を閉めながらマリーが言う。アデリーはよろよろと服を脱ぐと、冷たいぬれタオルで全身を丹念に拭いていった。
体を綺麗にして寝袋に潜り込んだアデリーに続いて、マリーもその隣でごろんと横になる。今回の見張りは、マリーが最後だ。アデリーはエンデルクと一緒に二番目である。
すぐに寝息を立て始めたアデリーと対照的に、マリーは眠れなかった。様々な雑念が入り込んでくる。明日からの事があるのに、こんな事ではいけない。戦いを好む己の業が、こう言う時は疎ましい。小さくあくびをすると、寝袋に潜り込んで、強引に眠りに掛かる。
やがて、静かな眠りの時が訪れた。
夕刻、エルフィン洞窟を出たマリーは、収穫の少なさに苛立ちを隠せなかった。
洞窟最深部で光石は良く取れた。薬草とキノコ類の収穫も悪くなかった。だが目当てにしていた多様な鉱物類は、半分も取れなかった。
一応収穫を予定していた種類は、揃えることが出来た。問題は量である。予想以上に見つけるのが難しく、極小さな鉱石ばかりしか拾えなかったのだ。この分だと、時間を掛けても同じであろうと、見切りをつけて洞窟を出たのだ。つまり、明日からのヴィラント山の状況次第と言うことになる。場合によっては、フラン・プファイルの攻撃を受ける危険性が増すのを覚悟の上で、滞在を延ばさなければならなくなるだろう。
一度山麓のキャンプに戻る。荷車が少し重くなっている。本来はもっと重くなっているはずだったのにと思うと、余計に苛立ちが酷くなった。
「その様子だと、収穫は芳しくないようだな」
「ええ、残念ながら」
「儂としてはそれでも構わないがな。 場合によってはあのフラン・プファイルと戦えるだろうしな」
「冗談、いくら何でもこの戦力で戦いを挑むのは危ないでしょう」
それで思い出す。そういえば、フラン・プファイルはこの近辺に住む単体としては最強の生物だ。一人で挑めば、エンデルクでも勝ち目はないだろう。ひょっとしてエンデルクは、フラン・プファイルと戦いたいから、此処に来ているのだろうか。
だが、エンデルクは別に今の話に興味を見せた様子がなかった。どちらにしても、フラン・プファイルと殺りあうつもりなら準備がいる。元々村ぐるみで罠を仕掛けて戦うような相手だ。正面から少人数で挑むのは根本的に間違っている。
「何時かは戦いたい相手なのだがな」
「気持ちは分かりますけどね。 ただ、今回は準備もしていませんし、勘弁してもらえませんか」
「そういうのなら仕方がない。 今回は我慢しよう。 儂も君の護衛をしていれば、強者と戦える可能性が高い以上、言うことをむげにも出来ぬからな」
「はは。 それにしても」
やはり分からないのはエンデルクの行動だ。ふと気になったので、マリーはクーゲルに聞いてみる。
「軍事機密かも知れませんけど、聞かせてもらえます? 騎士団って、この山には魔物狩りに来るんですか?」
「別に隠すようなことではないから言うが、毎年来るとも。 そのたびにフラン・プファイルは逃げてしまうがな」
「エンデルク様は、それに参加してるんですか?」
「それについてはノーコメントだ。 流石にそれは軍事機密に分類されるのでな」
まあ、そうだろう。だが、これが答えのような気がした。
エンデルクは、何かしらの理由で、気が進まない討伐をしようとしている。それも、少人数でだ。エンデルク自身は、この山に来たことがないのだろう。事実、ドラゴン一匹くらい、巨大国家シグザールにとってはなんの脅威でもない。その上近づくと逃げてしまう相手だ。わざわざ騎士団長を出して、万が一の事故を招く必要はないということか。まして、フラン・プファイルは周辺の住民に害を加えたことがない。無理をしてまで討伐する相手ではない。油断さえしなければ、何の危険もない存在なのだ。
それならば、何故今になって、少人数での討伐を目論む。しかも、エンデルク自身が戦力となって、だ。
理由は分からないが、エンデルクの様子から言って、今すぐフラン・プファイルに挑もうと考えてはいないようだ。そればかりか、山頂を見上げる視線には恐怖すら含んでいるように見える。
一体何が、この最強の男に起こったのだろうか。
不機嫌だったマリーだが、いつの間にか興味がそれにすり替わっていた。エンデルクの個人的事情に踏み込む気はないが、色々推理してみるのもまた面白そうであった。
「明日、早朝からヴィラント山に登りましょう」
「構わないが、奴は昼行性だぞ」
「大丈夫ですよ。 行動時間帯だからこそ、我々には正常に警戒します。 むしろ寝ているところをたたき起こした方が、危険は増すでしょう」
ヴィラント山の麓当たりまでなら、何度も何度も足を運んでいる。フラン・プファイルの様子を見ながら、出来るだけ高く登ったこともある。結果的に、奴は此方の気配に気付いていても、山頂寸前までは行動を起こさないと言うことが分かった。行動を起こす場合も、最初は警告から始める。むしろ殆どの人間よりも遙かに理性的な生物である。というよりも、人間の恐ろしさを身に染みて知っているのだろう。
エンデルクは山を見上げたまま、微動だにしない。困惑した様子でいるアデリーが気の毒になったマリーは、自分が率先して声を掛ける。
「エンデルク様」
「何だ」
「明日、山に登ります。 三日ほどで、中腹にまで到達できるでしょう。 分かっていると思いますが、フラン・プファイルとは戦いません。 今回は必要な装備も人員も整えてきておりませんから」
「そうか」
やはり間違いないとマリーは思った。エンデルクはそれを聞くと、僅かに安心したからだ。マリーはアデリーを促して、キャンプに戻る。どうやら、様々なことが、水面下で進行しつつあり、自分がそれに関わっているらしいと分かった。それだけで充分であった。
キャンプにつくと、つるしておいた鹿の血が良い感じで抜けていた。皮を剥いで、すぐに内蔵を取り出す。アデリーに手伝わせて食べやすい大きさに切り分け、焼き始める。半分は此処で食べ、残りは燻製にして後で食べる。肉切り包丁で、骨と肉を切り分ける感触が素晴らしい。生の肉を捌くのは、やはり楽しい。
煙で鹿肉を燻しながら、マリーは考える。フラン・プファイルを仕留めるにはどうしたら良いか。現有の火力だけでは難しいだろう。エンデルクと、マリーと、後シアがいれば心強い。フラムが切り札になるだろう。そのほかにも、逃げられないようにする工夫や、不意を突く必要もある。
作業が終わり、手を洗ってきたアデリーが、そばに座った。クーゲルは早めに休むといって、もうテントの中である。エンデルクは夕日を浴びながら、ずっと山頂を見上げ続けていた。
丁寧にサスマタを磨いていたアデリーが、マリーの横顔を見た。
「マスター」
「うん?」
「あの山の上にいるドラゴン、何か悪いことをしたんですか?」
「悪い事っていう定義が、そもそも人間によって違うからね。 そうだね、たとえばだけど。 あの山にフラン・プファイルがいる事で、鉱物資源の開発が遅れているのは事実だから、色々な方面から恨みは買っているだろうね。 ただ、あいつはあの山に住んでいるだけで、そういう意味ではちっとも悪くないけれど。 あたしとしては、あいつがいることで、この辺の森の生態系が保持されて、豊かな恵みがえられ続けるんだったらいてもいいと思うけど。 でも、どうして?」
しばし沈黙していたアデリーは、サスマタを磨く手を止める。静かな悲しみと非難が、言葉には籠もっている。
「また、殺すんですか?」
「分からないね、今の状況じゃ。 それに、悪いから殺す良いから仲良くするなんてのは、傲慢の極みだとあたしは思うけど。 それって自分の正義を他人に押しつけて、生命を肯定否定するってことだし」
だから、マリーは有益かそうではないかで決めている。色々な人間に会ってきたが、クーゲルのように殺しを至上の命題にしている人間にとって、「殺しが出来ない社会」は何より悪しきものであろう。それに社会的な善を司るはずの宗教関係者達が、アデリーに何をしたか。善悪の観念なんてそんな程度のものだ。だから、マリーにはどうでも良い。ただ、フラン・プファイルは今のところ、殺す理由がない。わざわざ危険を冒してまで戦う意味が無いのだ。
其処まで説明すると、アデリーは目を擦った。涙を拭っているらしい。どうして泣くのか、よく分からない。
「私、マスターのこと好きです。 でも、そう言う所は、やはり耐えられないです」
「ん、そう。 それで?」
「え……」
「何かを主張したいなら、しっかり根を詰めてからにしなさい。 あたしが感情的な説得で動くと思う? まあ、シアや家族の事でなら感情的になることもあるけれど、それはそれ、これはこれよ」
相変わらず心優しい子だなとマリーは思ったが、それだけである。早めに寝なさいと言うと、アデリーは無言で頷いて、テントに潜り込んだ。テントの中で泣いていたようで、マリーは仕方がない子だと思った。
まあ、親離れの時期など、こんなものだろう。世間一般ではもっと荒れる反抗期の子供もいる。
とりあえず、明日の方が大事だ。マリーは手近な岩の上に座ると、魔力を練り上げるべく、瞑想を始めた。
4,山の怪物
ヴィラント山。ザールブルグ南西部に広がる山であり、鉱物資源の宝庫である。首都と近隣にある資源地帯であるにも関わらず、非常に危険であるため、いまだ開発に到っていない珍しい場所だ。正確には四つの頂点を持つ山岳地帯をまとめてヴィラント山と呼んでおり、その中でもっとも山頂部が高いものに、かの赤竜フラン・プファイルが棲んでいる。
標高的にはそう大したものではないのだが、全体が岩石で構成されているため、傾斜は非常に厳しく、登るのには相当な苦労が必要となる。人間が殆ど入っていないため、斜面の整備がされていないのだ。それでも毎年騎士団は此処に入り、目についた猛獣や魔物の類を掃除し、近隣住民の害を排除している。これが厳しさで知られる騎士団レンジャー訓練の総仕上げとなる。例年怪我人が絶えない荒行である。ザールブルグの一般市民も知る、有名な事実だ。
こういう場所には犯罪者が逃げ込むことが多いのだが、ヴィラント山に関してはそれはない。環境が厳しすぎて、素人が逃げ込んで生き残れるような場所ではないからだ。
まず水がない。植物も数が少なく、しかも毒のあるものが多い。水と食物を獲ることだけで一苦労なのだ。更にこの山には、人間が入りづらいことを利用して、様々な猛獣が生息し、複雑な生態系と己の王国を築いている。彼らは人間を知り尽くしており、騎士団のような厄介な相手は避けるが、逃げ込んできた犯罪者のような素人は見逃さず襲う。ヴィラント山に素人が単独で入ることは、そのまま死を意味するのだ。
山の周辺に広がっている森も、環境が厳しい場所だ。大型の猛獣が多数生息しているし、特に冬場は知識がないと食糧の確保が難しい。だが、それもヴィラント山に比べると、天国のような環境である。
何も、巨大な竜が棲んでいるためだけに、この山は危険なのではない。ありとあらゆる全てが、人間を拒否しているのだ。
今日もヴィラント山は、ただ聳え立っている。頂上部分には、僅かながら雪も積もっていた。
荷車が重い。やはり岩だらけの場所を進むのは骨だ。マリーは自分の順番がタイミング悪く来たことを心中で罵りながら、ヴィラント山に足を踏み入れていた。周囲は赤茶けた岩だらけ。命の気配は極めて希薄。冬の森もくすんだ色合いだが、此処は別の世界のようにさえ思える。
ヴィラント山と言っても、麓の傾斜はさほど厳しくない。岩石が転がっているその辺りは、もう木々もなく、所々から異臭も漏れている。大きな岩を転がしてみると、黄金色の岩が異臭を放っていた。拾い上げてみる。サイズといい、質と良い、申し分ない。さっさと専用の袋に収め、袋の口を塞ぐ。かなり大きな固まりを手に入れることが出来たので、もうこれのことは考えなくて良い。
「そんなものが、役に立つのかね。 マルローネ君」
「ええ。 調合の過程で使います」
「そうか。 錬金術はやはりよく分からない学問だな」
クーゲルが言い、マリーは苦笑して荷車に詰め込んだ。これで今回採集予定の二十六種の素材の内、十四が揃った。後十二残っている。
ヴィラント山と言っても、しょっちゅう立ち入っている麓はもうマリーの庭と同じだ。いつもキャンプを張っている、少し開けた場所にテントを一端張る。枯れ木に登り、周囲を確認。とりあえず、近辺に大型の猛獣の巣はない。足跡も気配もない。あったら掃除しなければならないので、時間のロスが生じるわけで、その分今回は運が良かった。
「エンデルク様、留守番お願いします。 クーゲルさん、行きましょう」
「ああ、任せておけ」
此処からは、全滅と遭難を避けるために、一端別れて行動する。マリーとクーゲルとで偵察を行い、安全を確認してから進む。以前足を踏み入れたことがある場所だが、単独行動するのと、複数で中腹まで行くのとは訳が違う。奇襲を受けた時の対策や、荷車を運び込む時の経路もしっかり見極めなければならないからだ。
進めば進むほど、傾斜が加速度的に厳しくなっていく。時々岩をどかして、荷車が通りやすいように道を造っていくが、そんなものではとても足りない。二抱えもある岩を軽々どかして道を造るクーゲルを見て、マリーは額の汗を拭いながら聞いてみる。
「重くないですか、それ」
「何を言う。 能力の特性の違いだろう。 儂は、君の放ついかづちの凄まじさにいつも驚かされているぞ」
掌を払って埃を払うと、クーゲルは楽しそうに周囲を見回す。
無数の敵意が此方に向いている。正体は分からないが、猛獣がいる。しかもたくさん。此方の数が少ないのを見て、勝てるかどうか計っているのだろう。仕掛けてくるなら別に構わない。今回はただでさえ赤字覚悟の採集活動である。猛獣を仕留めて皮でも剥いで、少しでも雇用費の足しにしたい。此方は二人だけとはいえ、気配から感じる実力差を考えれば、負ける気はしない。
「片っ端から殺しても良いかな? 腕が疼いて仕方がないわ。 人間よりも随分潰しがいがありそうだしな」
「まあまあ、どのみちアデリーを連れてきたら、涎流して襲ってくるでしょう。 穴にいる奴を攻めるより、出てきたところを潰す方が楽です。 仕掛けてくるまでは放っておきましょう。 それよりも、もう少し先です」
こんなことを言うのも、アデリーを守りきる自信があるからだ。ついでに言えば、丁度いい実戦経験になるとも考えたからである。マリーが促すので、興味を刺激されたか、クーゲルが話に食いついてきた。
「ほう? 何かあるのかね」
「前に見つけた、キャンプに丁度いい洞穴があるんです。 ただ、先客がいるかも知れませんので、その時は処理するなり追い払うなりしましょう」
以前訪れた時は空だったのだが、何しろこんな環境だ。何が住み着いていてもおかしくはない。もちろん入り口は偽装してきたが、年月が経てばそれも無意味だ。
岩を這い上がるようにしてあがると、テーブル状の平地に出る。端の方は空中に突きだしており、下手に体重を掛けると崩れそうだ。マリーに続いてあがってきたクーゲルが左右を見回し、その絶景に目を細めた。
此処からは、ザールブルグが一望できる。城壁が見える。尖塔が見える。家々が見える。行き交う人々が、砂粒のように見える。
眼下には枯れ果てた森も広がっている。此処がヴィラント山でなければ、そして季節が冬以外ならば、観光の目玉になるかも知れない。しかしながら観光に来るにはあまりにも危険すぎるため、誰にも知られていない。ある程度の実力がなければ近づくことさえ出来ない、穴場の中の穴場だ。
戦場としては、あまり好ましい場所ではない。足下が不安定で、大型の猛獣などと立ち回るのは望ましくない。ただし、奇襲を受ける心配もない。テーブル状のこの大岩からは、周囲が見渡せる上に、いざというときは洞窟に籠城することも出来る。その上、今回此方には過剰なまでの戦力が整っている。エンデルクとクーゲルとマリーが揃っていて奇襲できるような存在がいたら、そいつは恐らく生物を超越し、地上世界最強の名を恣にしているだろう。
テーブル状の大地の上は、相変わらず厳しい斜面が続いている。此処を拠点に、上へ通じる道を探していくことになる。なんだかんだ言って、この辺りはアカデミーの業者も入り込んでいるし、レアな鉱物を探すのは難しい。貴重品を拾うとすれば、もっと上の方に行かないと難しい。
「戦う時は、少し上下に出た方が良いかも知れぬな」
「足を滑らせると、真っ逆さまですからね。 クーゲルさんにはかなり戦いにくそうですけれど、大丈夫ですか?」
「確かに狭いところでの戦いは苦手だが、対抗手段くらいは用意してある。 儂の武技は、多少の不利くらいで格下に敗れるような脆弱なものではないわ」
確かにこの人は、虎と真っ向からの力比べをしても勝てそうだと、マリーは思った。戦闘における純粋な力というものは、非常に重要なものなのだ。力があれば出来ることは多い。戦術の幅も広がるし、選べる武器も多くなる。チャージを必殺の技と化しているクーゲルだが、その気になれば様々な戦い方を工夫できるはずだ。普段使わないのは、それがあくまで二番手の威力しか持たないからであろう。
「それで、今日はどうするのかな? 此処で一休みするのか?」
「此処はあくまで拠点として整備するだけです。 一息ついたら、エンデルク様とアデリーを残して、もう少し上に行きましょう。 あたしとしては、鉱物を探しやすい適当な横穴が見つかればいいなと思うんですけど。 クーゲルさんは騎士団の仕事できた時に、見かけたことはありませんか?」
「そうさな。 残念ながら、ないな。 此処にこんな洞窟があると言うことさえ、今初めて知ったほどだからな」
二人で手分けして、入り口を覆っていた岩と草をどかす。穴の入り口は結構広い。高さはマリーの背丈ほど、横はその倍ほどだ。中はもう少し広がっていて、気温が安定している。何かの動物が巣穴として作ったのかも知れない。
中に足を踏み入れる。奥行きは百歩ほどあり、最深部には僅かながら水も溜まっている場所がある。濾過してから湧かさないととても飲めた代物ではないが、それでもこの山では貴重な水源だ。それらが変わっていないか、まず確認だ。
カンテラに火をともす。辺りには、点々と鈍い輝きがあった。以前此処に来た時は、ヘルミーナ先生に直接教えてもらう前であったから、鉱物の知識が少なかった。今ならひょっとするとレアな鉱物が見つかるかも知れない。何かが入った形跡はなく、地面にはうっすら埃が積もっていた。奥の方は空気がよどんでいて、水源は凍っていた。
天井近くから水がしみ出し、しずくとなってしたたり落ち、たまりを作っている。ため息一つ。貴重な水場。それなのに、染み出す水そのものが凍ってしまっている。水脈そのものは無事だろうから、温めれば水は出てくるはずだが、それにしても手間だ。
一度洞窟を出る。クーゲルが下を見つめていた。それで、マリーも気付く。
エンデルクとアデリーを残してきた辺りで、戦いが行われていた。
エンデルクの前に立ちつくす存在。それは、白く巨大な、熊と猿を足したような怪物であった。背丈は人間の倍以上あるだろう。体重は十数倍に達するはずだ。
見たことがある。これは、あいつだ。トラウマがよみがえる。手が、震える。震えが止まらない。うなり声を上げるそいつは、長い毛に隠された丸い目で、じっと此方を見ていた。口元から覗く長い牙は、血に汚れている。
タイタス・ビースト。竜軍六個師団を壊滅させるために開発した切り札の元となった生き物。バフォートを斃すために捨て石にしたクリーチャーウェポンの原型。そういえば、ヴィラント山に生息している在来種だと、エンデルクは聞いていた。
エンデルクの前で微動だにしないそいつの他に、周囲には二十以上の気配。人間より一回りくらい大きい同種が、此方の出方をうかがっている。恐らくこ奴の子であろう。エンデルクの背後では、アデリーが気丈にもサスマタを構えていた。
接近に気付かなかったわけではない。ただ、攻撃を仕掛けてくるとは思わなかったのだ。エンデルクとの実力差は分かっていたはずだ。それなのに、何故大挙して現れた。嫌な予感がする。まさかとは思うが。バフォートを斃した時のように、自爆して来ないだろうか。よく見れば、回りの獣共はどれもやせている。冷や汗が流れる。恐怖が、心臓を鷲掴みにする。
無数の手が、足を掴んでいるかのようだ。50000に達する人名を奪ったエンデルクとカミラは、相当な怨念を受けている。あのとき殺した連中の霊魂は無理矢理浄化した。だが、時間が足りなかったあの状況で、それが完璧だったとどうして言える。今はエアフォルクの塔に収容しているクリーチャーウェポン達だってそうだ。エンデルク達を内心恨んでいないとどうして言える。
「お腹がすいているみたいですね」
思ったよりずっと冷静なアデリーの声に、エンデルクは我に返る。そうだ。単に腹が減っているだけなのかも知れない。その可能性の方が高い。獅子も空腹に耐えかねて象を襲い、返り討ちになる事があるという。極限状態になると人間は何をするか分からないが、それは他の動物も同じだ。少しだけ落ち着いてきた。後は、上に行っている二人が戻ってくれば、アデリーを守りながら周囲を蹂躙するのに充分な戦力が揃うのだが。構えを取り直そうとするエンデルクは、再び恐怖が沸き上がってくるのを感じた。
巨大タイタス・ビーストが大きく口を開いたのである。
アデリーの襟首を掴み、横っ飛び。殆ど間をおかず、エンデルクとアデリーがいた場所を、暴力的な音波がなぎ払っていた。悲鳴を上げて耳を塞ぐアデリー。エンデルクは眉をひそめる。タイタス・ビースト改よりも、遙かに音波攻撃の発動が速い。その上、効果範囲がでたらめで、指向性がない。事実、今のを避け損ねた数匹が、耳から血を流して地面に転がっていた。巨大タイタス・ビーストが、雄叫びを上げた。
「ケアアアアアアアアアアアッ!」
それが合図となり、一斉に白い影が躍り掛かってくる。子タイタス・ビーストが総攻撃を開始したのである。上から横から前から後ろから、繰り出される無数の爪と牙。典型的な飽和攻撃だ。剛剣一閃、正面から襲いかかってきた相手を切り伏る。更に左から来た奴を無造作に掴むと、右から来た奴に叩きつける。ぐしゃりとつぶれた二匹には目もくれず、上から飛び掛かってきた奴に、拳を叩き込む。拉げて吹っ飛んだそれに目もくれず、振り返る。
アデリーは思ったより随分冷静だった。正面から襲ってきた一匹の喉にサスマタを引っかけると、そのまま気合いを入れて押し込む。ぎゃっと悲鳴を上げて下がるそいつを追撃しようとはせず、右から襲ってきた奴の爪を紙一重でかわすと、首筋に後ろからサスマタの柄で一撃。冷静に自分の立ち位置と攻撃してくる順番を読みながら、一匹、また一匹と処理している。
思ったよりずっと戦える子だと思ったエンデルクだが、次の瞬間、心臓が凍り付く。巨大タイタス・ビーストが、此方に向けて再び大きく口を開いているのを見たからだ。
馬鹿な。この状況、思い切り自分の子らも巻き込むではないか。それも、さっきの比ではない規模でだ。エンデルクの周囲には、無数の子タイタス・ビーストがまとわりついてきている。それらとアデリーは必死に戦い、なおかつ出来るだけ殺さず退けようとだけしている。アデリーを盾にして自分だけ逃げることは簡単だ。エンデルクの剣腕であれば、アデリーを見捨てて巨大タイタス・ビーストを即座に切り捨てることも難しくはない。この状況、どんな手を使ってもばれはしない。そうするべきだった。こんなガキの一人や二人、放っておくべきだった。
それなのに。
エンデルクの脳裏には、その瞬間、自分を負かしたあの男の事が鮮烈に浮かび上がっていた。生じる混乱。正体が知れない恐怖が足首を掴む。それが、彼の動きを、致命的なまでに鈍らせた。
巨大タイタス・ビーストの口から放たれた音波が、辺りを滅茶苦茶に破壊した。複雑な地形で乱反射し、二重三重に辺りを打ち据える。膨大な砂埃が舞い上がり、砕けた岩が崩れ落ちる。轟音が静まるまで、心臓八拍以上も掛かった。
地面に打ち倒されていたアデリーが顔を上げた。ゆっくり体の状態を確認しながら立ち上がる。そして、エンデルクを見て、息を呑んだ。見る間にその顔が真っ青になっていく。
「え、エンデルク様!」
「叫べると言うことは、無事なようだな」
「血! 怪我が! わ、私のせいで、私が弱いから」
「慌てるな。 私はこの程度で倒れるほど柔ではない」
巨大タイタス・ビーストに背中を向けていたエンデルクは、無表情であり、かろうじて剣を杖に立っていた。額の傷から血が流れ落ちてくる。それを拭う気力もなかった。腕も、足も、鎧に守られていない部分はどこも傷だらけ。常人なら十回は死んでいるだろう攻撃をまともに受けたのだ。避けられたのに。かわすことは、逃げることは造作もなかったのに。
アデリーを庇って、エンデルクはしたたかに傷ついたのである。
土煙が収まっていく。辺りは地獄絵図だった。子タイタス・ビーストは、ある者は肉塊となり、ある者は真っ二つになって転がっていた。悲鳴を上げているのは、まだ息のある個体だ。しかも、である。
兄弟であろう亡骸を、無事な奴が何体か掛かりで引っ張っていく。持って帰って食べるのだ。そういえば、口の中を見た時、臼歯ばかりが目立ったので不思議だった。此奴らは雑食なのだろう。つまり、食べられるものは何でも喰うと言うことだ。生きていなければ、それは兄弟家族でさえ例外ではない。
よほど腹を減らしているからか、腸を傷口からはみ出させた一匹が、肉塊をその場で貪り食っていた。今この地獄を作り上げた巨大タイタス・ビーストも、我が子の遺体を咀嚼している。口を押さえるアデリーを背中に庇い、エンデルクはどうにか構えを取り直す。
何故、そんな無駄なことをする。一体自分はどうしてしまったのだ。
エンデルクは混乱していた。あの剣豪との戦いが、確実に彼をおかしくしていた。口の周りを真っ赤にした巨大タイタス・ビーストが、再び天に向けて吠える。此奴の血は猛毒。今の状態だと、返り血を浴びずに斃す自信がない。
馬鹿な話だった。自分の信念に反する戦いをしたばかりに、あの剣豪と同じ死を迎えようとしている。奴にタイタス・ビースト改の血を大量に浴びせ、なぶり殺しにしたのはついこの間のことだというのに。こうも因果が回ってくるのは早いというのか。
にじり寄ってくる巨大タイタス・ビースト。右手には肉塊と化した己の子をぶら下げていた。荒い息が近づいてくる。鋭い爪の生えた手を、奴が振り上げた瞬間。
飛来した巨大ないかづちの蛇が、その体を真横から直撃していた。
狙撃に丁度いい岩を踏みつけ、ロードヴァイパーを浴びせた巨大タイタス・ビーストを見据えているマリーの瞳には、静かで獰猛な怒りが宿っていた。煙が上がっている指先を降ろすと、杖を構え直す。そして、跳躍した。
咆吼はあげない。斜面を駆け下りる。駆け下りながら、詠唱。解き放たれた猛牛がごとき勢いで突撃する殺気に振り返る小タイタス・ビーストの頭を叩き割り、更にもう一匹の首を横薙ぎにへし折る。此奴らの血は確か猛毒だが、関係ない。ぶち殺す。手当たり次第に潰す。
アデリーの側に着地。頬に飛んでいた獣の脳漿を乱暴に手の甲で拭う。エンデルクは傷だらけになって、アデリーを守ったようだった。これほどの男が、何故これだけ傷ついているのか。初見の技を対応し損ねたか、或いは何かしらの隙を突かれたのか。エンデルクは酷い有様だが、アデリーは殆ど怪我をしておらず、周囲の光景に青ざめているだけだ。それだけは救いだ。エンデルクは、なんだかんだ言って契約分の仕事をしてくれたのである。
「ありがとうございます、エンデルク様。 アデリーを守ってくださって」
「いや、礼を言うのは私の方だ。 到着が早くて助かる。 今、死を覚悟していたところだ」
「あんな程度の相手にですか? 貴方の実力なら、素で捻り殺せるでしょう」
空に稲妻を描くように、鋭く印を切る。悲鳴を上げてもがいていた巨大タイタス・ビーストが、憎悪を目に宿して起き上がろうとする。そちらに右手を向ける。掌に、膨大な魔力が集まっていく。
後ろでは、追いついてきたクーゲルが、楽しそうに笑いながら逃げまどう子タイタス・ビーストを虐殺しているようだった。心底愉快そうなクーゲルの咆吼と、恐怖に引きつった子タイタス・ビーストの悲鳴が連鎖している。
まだ生き残っている子タイタス・ビーストは逃げに転じている。だが、詠唱中、術の発動中に邪魔されると少し面倒だ。特に発動の瞬間は無防備になる。マリーは印をくみ上げながら、アデリーに叫ぶ。
「アデリー! ガード! 前衛の仕事をしなさい!」
「は、はいっ!」
エンデルクががくりと膝を突く。呼吸が荒い。あれだけの出血なら当然だ。それに変わって、サスマタを構えてアデリーが立ち上がった。飛び掛かってくる子タイタス・ビースト。小腸をぶら下げているそいつを、アデリーは冷静に正面から見据え、サスマタを顔面に引っかけて受け止めた。数歩分をずり下がりながら、気合いと共に地面に引きずり落とす。けたたましい悲鳴が上がった。
巨大タイタス・ビーストが口を開ける。口の奧にある臼歯がよく見えた。エンデルクが剣を投げる。虚空に光の糸を引いて飛んだ剣が、奴の胸に突き刺さる。同時に、マリーが詠唱の最後の一節を唱える。
「サンダー……!」
孤を描くように手を回し、呪文の仕上げだ。巨大タイタス・ビーストが破壊音波を口から放射する。だが、胸に剣が刺さった状態である。それは残念ながら周囲に拡散し、指向性を持たなかった。だが、それでも怨念が籠もっているからか、マリーの頬を、肩を、指先を、次々傷つける。前に出てマリーを庇おうとしたアデリーも、彼方此方傷つけられ、思わず転びかける。必死にガードを取るが、それでも相当に辛そうだ。鮮血がしぶく中、マリーは動じることなく、術の発動準備を終えた。
全身の魔力が、掌一点に収束する。それは蛇の形を為す。圧倒的な光が、マリーの全身を包み込む。円を描いた光が、マリーの掌を突き出す動作と共に、一直線に伸びる。
「ロードヴァイパー!」
再び撃ち放たれた光の大蛇が、空間を直進し、巨大タイタス・ビーストの体を直撃した。体に噛みついた光の蛇を振り払おうとしていたタイタス・ビーストは、やがて天を仰ぐように高々と両手を挙げ。
そして何かに叩きつけられるようにして、地面に崩れ伏した。
戦いが終わったことを見届けると、アデリーは呼吸を整える。全身に這い上がってくる震えを押さえ込む。さっきまで押さえ込んでいた小さな獣は、親の死を見て逃げ去った。どうにか生き延びて欲しいと、アデリーは思った。
マスターは大振りの牛刀を取り出すと、嬉々として巨大な獣の解体に掛かる。何度も見てきた光景だ。違うのは、今回は自分も手を汚したと言うこと。サスマタを振るい、直接襲いかかってきた相手を殴り、叩き伏せた。自分は殺していないなどいうのは、最悪の言い訳だ。
アデリーは分かっていた。自分が弱いから、エンデルク様もマスターも怪我をしたという事を。おそらく一対一なら怪我など絶対にしないような相手だったということを。
周囲に散らばる無数の肉塊は、己の罪を表している。天を仰いで、アデリーは嘆息した。悪いのは弱い自分だ。無力な己の武技だ。
「気をつけろ。 知っていると思うが、タイタス・ビーストの血液は猛毒だ」
「知ってますよ。 返り血浴びるような素人じゃありませんから、平気です」
マスターが、タイタス・ビーストと呼ばれた巨獣の目玉をえぐり出していた。鋸を使って、牙を切り落とす。頭蓋骨を割って脳みそを取り出す。軟骨を切り裂く音が、骨を筋肉から切り離す音が、生々しく届く。それらを、アデリーは目をそらさず見つめようと決めた。
本当なら、アデリーは責められてもおかしくないのだ。エンデルク様は、アデリーを助けるために、あれだけ傷ついたのである。この国の騎士団長がだ。罵られたり、その場で殴り倒されていても不思議ではない。だが、この場の誰も責めようとはしない。未熟だから仕方がないと、誰もが考えているのだ。
皮を剥ぎ終え、幾つかの内臓を分別して革袋に収めると、マスターはもう親タイタス・ビーストに目もくれなかった。周囲の肉塊を物色し、牙が無事な個体を見つけると、牛刀を振るっている。どうやら彼らの牙には何か薬効があるのか、或いは換金できるらしいと、アデリーは知った。
いつの間にか終わったらしい。ぼんやり立ちつくしていたアデリーは、クーゲルさんに肩を叩かれて我に返った。
そのまま、マスターが見つけたという洞窟へ移動。キャンプの準備を終えると、マスターは皆を座らせて、怪我の手当を始めた。クーゲルさんはまったく怪我をしておらず、エンデルク様も幸い大した怪我ではないようだった。続いてアデリーの番が来る。何カ所か、自分で思っていたよりもずっと深い傷があって、今更に驚いた。
その一つを、マスターはじっと見ていた。さっきエンデルク様が言ったことを思い出す。タイタス・ビーストの血には猛毒が含まれている。マスターは幾つかの薬を取り出すと、まず塗り薬を傷口にすりこむ。染みる。次いで、大量の水を飲むように言った。躊躇すると、どうしてなのか説明してくれる。
「何で水を飲むのかって言うと、体内の循環速度を上げて、さっさと毒を排出させるためよ。 猛毒が体に入ったって言っても、タイタス・ビーストのは砂漠青ガラガラ蛇なんかに比べるとだいぶ弱いから、この程度の量なら死なないわ。 だから、安心しなさい」
「……私を、責めないんですか?」
「何で? あんたは自分が出来る範囲内でのベストを尽くしていたわよ。 それならば、何も言うことはないわ。 むしろ良くやったじゃない」
マスターは笑っていた。困惑してしまう。責められた方が楽だ等と、甘えたことを考えているのではない。心底から責められるべきだと思っていたところに、ほめられたのが不思議なのだ。エンデルク様も、クーゲルさんも、同じように頷いた。どうして良いか分からなくて、アデリーはうつむいてしまった。
その夜は、見張りも免除してもらい、アデリーは罪悪感に包まれて寝た。自分の手で直接殴り殺したわけではない。だが、手に残った感触は、ずっと消えなかった。目を閉じると、肉塊の山が浮かんできた。鼻の中には、ずっと血の臭いが残っているかのようだった。眠れないかと思ったが、鍛えているためか、或いは疲れているのが原因か。眠ろうと思うと悔しいくらいに体が言うことを聞いた。すっと意識が落ち、後は泥沼の底のような闇が待っていた。
目が覚めると、朝。倦怠感は消えていた。
翌朝からは、更に高いところまで登って、鉱石を拾い集めるマスターを皆で護衛した。途中から地形は厳しくなる一方で、荷車をがけの上に皆で引き上げた時は特に苦しかった。ただ、予定の位置まではあがらなかった。途中の探索中に見つかった大きめの横穴に、予想以上に様々な鉱石があったらしく、マスターは大喜びしていた。調査が早く終わることは、アデリーにも嬉しい。翌日は特に仕掛けてくる相手もおらず、ぐっすり眠ることが出来た。
ただ、最後に、一つ悲しいことがあった。
登る途中で、死んでいる獣がいた。ぶら下げている小腸に見覚えがあった。アデリーが生き延びて欲しいと願った、あのタイタス・ビーストだった。蠅が集り始め、鴉が集まって肉をついばんでいた。
不思議と、もう涙は流れなかった。誰も何も言わなかった。マスターも牙を取ろうとはしなかった。
行きにあったその亡骸は、帰りには綺麗さっぱり消えて無くなっていた。世の中の厳しさを、アデリーはまた一つ知った。
5,究極の一つへ
荷車を、アトリエの前に横付けする。そして、看板をひっくり返す。外出中の文字が、在宅中に入れ替わる。
予定日よりも一日早くアトリエに帰り着いた。まだ時刻は昼過ぎである。森の中のキャンプ場を夜中の内に出たのだから、これくらいが妥当である。マリーはこった肩を揉みながら、アトリエの中に回収してきた素材を移す。帰りの荷車は非常に重かった。鉱石ばかりなので当然だ。
素材をアトリエの地下室に運び込む作業をクーゲルは手伝うが、エンデルクは何をするのか興味津々という様子で見ているだけだった。ひょっとすると、かなり良いところの出かも知れない。騎士としての訓練を受けているはずだが、こういうアバウトな仕事をするのはひょっとして初めてなのかなと、マリーは思った。
荷物を運び終わると、アデリーに茶を入れてもらう。シアの所のセイラに最近更に鍛えてもらっているので、腕はますます上がっている。エンデルクも文句を言う様子はなく、カップを呷って飲み干した。
奧の金庫から、雇用費を持ってくる。普段雇っている皆に比べてかなり割高だが、こればかりは仕方がない。今回は赤字を覚悟の上だ。エンデルクは銀貨の袋の重みを確かめていたが、無造作に懐に入れた。クーゲルは茶のおかわりを注文すると、もっと無造作に腰の袋に放り込んだ。確かにこの人は、金にあまり執着がなさそうだ。戦いさえ出来れば、掘っ立て小屋での生活でも平気で耐えそうである。
エンデルクは茶飲み話をするでもなく、頃合いを見計らって立ち上がる。マリーが作った傷薬を惜しみなく塗ったとはいえ、体の傷はすっかり癒えていた。この回復力は流石大陸最強をうたわれるだけのことはある。
「今回は世話になったな」
「いえ、こちらこそ」
「貴公の実力は充分に見せてもらった。 今度は私から仕事を頼むかも知れない。 その時も、協力して欲しい」
「それは、光栄なお言葉です」
心底からマリーはそう思った。そうでなくても、こう言っておくべきであった。何しろ相手は名高いシグザール王国の騎士団長である。名を売るにはもってこいの機会だ。
エンデルクが出て行くのを見送る。クーゲルは茶飲み話を少ししてから腰を上げた。クーゲルも帰ってしまうと、後は作業に取りかかるだけである。
作業のスケジュール表は既に用意してある。今回は睡眠も多めに取ることが出来るため、失敗さえなければだいぶ楽に進めそうであった。
外に出て、竈の具合を確かめる。今回はかなりの高熱を必要とするため、状態の確認は絶対に必要だ。煙突類は痛んでいない。上から下から念入りに確認して、作業前の準備は終了。
まずは中和剤を用意する。ヴィラント山で取ってきた赤土に魔力を封入すべく、地下室の魔法陣の上に置いてくる。今回非常に大量に中和剤が必要となるため、荷車が余計に重くなった。四つのボウルに赤土を詰めて魔法陣の上に並べた。魔力が充填されるまで、丸一日以上かかる。それを考慮すると、多少の余裕があるのが嬉しい。
更に、粉砕しておく必要がある鉱石類を選別しておき、ハンマーを出してくる。中にはとんでもなく硬いものがあり、それは机を傷めてしまうので、裏庭で砕く。失敗することも考慮して、多めに鉱石は回収してきたが、それも限度がある。何度も失敗していたら、またヴィラント山に行かなければならなくなる。そうなると、また赤字がかさんでしまう。その事態だけは、避けなければならない。
まずは柔らかい鉱石から。机の上に置くと、ハンマーで砕く。硬い木材の調合机だが、あまり硬い鉱石を砕くと激しく痛むので、気をつけなければならない。軽くハンマーを振り下ろして砕いた後、乳鉢ですり潰す。消毒した箱を用意し、種類ごとに準備していく。後は細かい欠片を分別する作業が残っているが、これは実際に調合する時でいい。どの鉱石も、それほどの量は使わないのだ。
順番に砕いていく内に、夕刻になる。この作業は見かけよりもずっと時間が掛かる。そろそろ硬い鉱石を処理しなければならなくなってきたが、それは夜中にはやらない方が良い。採集に行って疲れているので、今晩はしっかり休むつもりだ。
柔らかい鉱石を処理し終え、分別して箱詰めし終わると、夜中になっていた。アデリーはそれを待っていて、夕食の準備に取りかかる。作業をしている間に、市場に行っているのは知っていたが、手際が良くなったものだ。しかも下ごしらえはしてあったので、比較的すぐ夕食が出てきた。
今日のメイン料理は、川魚のムニエルであった。丁寧に骨が取ってあり、淡泊な白身に良く合っている。三枚におろすという東方から伝わってきた包丁技術を応用しているのだが、こうも見事に骨が処理されていると、食べていて実に心地よい。食というものは、一瞬の歓びのために膨大な苦労を必要とするのだと、実感する。
一緒に出てきた青菜のスープも、出汁が良く取ってあって味わい深い。これは鳥の骨か何かを出汁にしたか。出来の悪い料理だと、調味料の味しかないこともあるが、これに関してはそれもない。安い植物塩でも、料理の腕次第ではとても美味しくいただけるという良い見本だ。薄めのスープだが、それが逆に食べやすく、味を引き出す要因となっている。しゃくしゃくと音を立ててスープを食べ終える。食器を片付けながら、マリーはまだスプーンを動かしてスープを口に運んでいるアデリーに言った。
「今日は早めに休みなさい。 あたしも、明日の準備をしたら寝るつもりだから」
「はい。 マスターも、あまり遅くならないようにしてください」
「ん。 分かってる」
アデリーの言葉の裏には、マリーが今回の調合を終わらせた後の惨劇を、少しでも抑えようという必死な意思がにじみ出ている。出来るだけ疲れを減らしておけば、暴発の際の破壊も小さくなると考えているのだろう。
全くもって甘い考えだが、敢えて指摘はしない。
マリーとしても、今日はそれほど無理はしないつもりである。後は、日常的に売ることが出来る薬品類の材料を火に掛けたら終わりだ。エルフィン洞窟から取ってきたキノコ類を刻み、分量を量りながらボウルに入れて、弱火に掛ける。竈は一つしかないから、今回は薬を少し多めに作っておく。薬類の在庫はまだまだあるのだが、今までの経験を生かす。エリキシル剤を作った時や、アデリーの魔力制御具を作った時のように、すっからかんになるまで在庫を放出すると、補充が大変なのである。だから、普段から余裕を持って蓄えておくのだ。
今回はヴィラント山のかなり上まで登った事もあり、普段手に入らない材料類がある。特にヴィラント山中腹の横穴で見つけた、ヒカリアオホタルダケは、加工次第で鎮痛剤として有用だと聞いている。もちろん鵜呑みには出来ず、検証作業が必要になるが、在庫の薬剤が増えるのは良いことだ。今まではそれほど効果の高い鎮痛剤を手元に置いていなかったのである。珍しいキノコだけに、強い薬効が期待できる。同時に強い副作用があるかも知れないので、取り扱いには細心の注意が必要だが。得てして、強力な薬には、リスクが付き物だ。
幾つかの文献を見ながら、ヒカリアオホタルダケをすりつぶす。結構大きなキノコなのだが、岩のような外観で、傘を開くタイプのものではない。名前の通り、暗闇で僅かに光るこれを、乳鉢で丹念にすりつぶす。見かけ通り硬いキノコだが、ある程度力を入れると後はすっとつぶれる。つぶれると水分が少ないためか、綺麗に粉になる。火で軽く炙った後、中和剤と一緒に地下の魔法陣の中に置いてくる。魔力を充填するのだ。後の加工は、他の薬剤類と変わらない。中和剤を使って混ぜ込み、原液を希釈すればおしまいだ。効果を見ながら、後は他の薬剤類と調合し、薬として実用化することとなる。
一通り作業が済むと、かなり時間が経っていた。だいぶ手際は良くなっているはずなのだが、やはり根本的にはぶきっちょなままだ。小さくあくびをしながら二階に上がる。最近はもう悪夢に殆どうなされなくなったアデリーをまたいでベットに入り、そのまま目を閉じる。明日からは、また長い調合に取り組まなければならない。今はただ、静かに眠りを貪るべきであった。
早朝。自分の想定した通りの時間に目を覚ますと、マリーはまだ眠っているアデリーをまたいで、一階におりた。
冷たい冬の朝である。水をいつものように作ると、手と顔を洗って気分を一新。素早く火の様子と薬剤類の出来を見て回る。特に何か失敗はしていない。一つ懸念材料があるとすれば、ヒカリアオホタルダケの魔力充填が思ったより進んでいないことだ。想像よりもずっと魔力の親和性が悪いキノコらしい。自分専用のメモ帳に書き加えると、中和剤を魔法陣から降ろす。
外に気配。いつものようにやってきたおばさん達を中に向かい入れ、水桶をすぐに溶かしてあげる。アデリーも起きてきたので、一緒に朝食を作ってもらう。何種かの処方箋を渡されたので、それに基づいて薬剤を格安で販売。今回の処方箋には、それほど難しい薬は書いていなかったので、在庫は充分に余剰があった。
おばさん達が引き上げると、後は本格的な調合開始だ。硬度の高い鉱石を裏庭に運び出し、一つずつ丁寧にハンマーで砕いていく。一口に砕くと言っても、感触も音も全く違う。鋭い音を立てて跳ね返ってくるものもあれば、鈍い音と共につぶれるものもある。それぞれ様子を見ながら力加減を変え、一つずつ潰しては、霜柱が降りている地面に散った破片を丁寧に拾い集め、箱に入れていく。鉱物破砕用のハンマーも、傷が多い。何度も修理してきたが、そのうち買い換えないといけない日が来るだろう。
アデリーがキルエリッヒの所に稽古をつけてもらいに出るのを横目に、鉱石を砕き続ける。作業を終えるのにほぼ半日。そして、柔らかい鉱石から順繰りに乳鉢ですりつぶし、粉を分別して純度を上げている内に夕方が来ていた。そこでやっと昼食を取る。この仕事をしていると、生活はどうしても不規則になる。じっくり煮込んでいる薬剤類の様子を見た後、硬度の高い鉱石片を分別開始。乳鉢ですりつぶすのも難儀だし、分別は更に大変だった。複数種の鉱物が混じった石もあり、中にはマリーが正体を知らないものも混じり込んでいた。それらは種類ごとに別の箱に入れていく。調査は後回しだ。また、ほんのごく少量ながら、純度の低いミスリル鉱石もあった。数粒だから加工は無理だが、調査をした近くに鉱脈があるのかも知れない。
作業が一段落した頃には、既に真夜中。外で瞑想し、魔力を練り上げる。それが終わると、一眠りする。此処まではほぼ予定通りである。
三刻ほど寝た後、起き出す。まだ夜は明けていない。腕まくりして、次の作業に取りかかった。
中和剤につけ込んで魔力をたっぷりしみこませた鉱石類を火から下ろす。ボウルはかなり熱くなっていて、分厚いミトンの上からでも火傷しそうであった。それもそうだ。特殊な薬品をしみこませた炭を惜しみなく使い、釜の火力を最大限に活用して熱したからだ。
じっくりそのボウルをさましながら、次を火に掛ける。予定表のラインを一つ潰す。ただし、まだ行程は半分以上残っている。
最初に火に掛けていたボウルは、一日がかりで冷ました。中和剤は水のように透き通っており、耐熱ボウルの底には分厚い鈍色の固まりが出来ている。それは火から下ろしたばかりの時は液体だったが、今は固形化していた。外に中和剤の残骸を捨て、ハンマーでボウルの底を叩いて取り出した固まりは、かなり重い。
固まりは何層かに別れている。参考書と自分で作ったメモを見て、必要な要素ごとにのみで砕く。どの部分も使うのだが、幸い綺麗に外れてくれた。切断面にはヤスリを掛け、余った屑は箱に入れておいて、後の作業で再利用する。
再びこの固まりを、別種のものと混ぜ、中和剤に入れて熱する。この行程を何度か繰り返していく。よく分からないのは、同じものを別の組み合わせと配分で、何回か熱せなければならないと言うことだ。料理でも調味料を入れる順番で品質が随分変わってくるが、それと同じようなものなのだろうか。額の汗を拭う。
今回はアデリーの手助けは必要ない。妖精も駆り出す必要はない。マリー一人で充分だ。というよりも、赤字がかさんでいるので、これ以上は支出を作りたくないのである。薬品類は仕上がったが、採集の際に消耗した機材類とエンデルクの雇用費くらいにしかならない。決して安くないクーゲルの雇用費はまるまる赤字になっている。今までの蓄えがあるからその程度では経済的にびくともしないが、これが繰り返されるとかなり厳しい。
既に夜中だが、釜はフル稼働だ。七つ用意した耐熱ボウルは、どれも順番待ちの状態であった。温めるのを待つ列が、冷まし中のものと並べてある。生産ラインが二つあればもう少しは早いのだが、贅沢は言えない。ラインが二つあると言うことはコストが倍かかる事を意味するのだ。
中和剤の消耗も早い。大量に確保してきた赤土が、見る間に減っていく。魔力を充填し終えた後の中和剤は無害なので裏庭に捨てているが、透明になった土は気持ちが良い存在ではない。魔力の充填も次々に行わなければならず、予想通りの忙しさである。用意されていた夜食のスープを素早く胃にかっ込むと、次の行程と、仕上がってきた金属の固まりをチェック。
最近図書館に入った書物で調べたのだが、このアロママテリアも、以前は不安定な釜で苦労しながら作ったのだという。この間宝石ギルドを潰して入手した安定した高熱炉の製造技術により、格段に製造成功率が増したのだとか。裏庭に回って、竈から突きだしている複数のパイプをチェック。パイプからは間断なしに高熱の煙が出続けている。周囲には柵を巡らせてあるが、事故がないように、この作業が終わったら取り替えなければならないかも知れない。
あくびをしながらアトリエに戻る。頬を叩いて意識を引き戻す。夜が明けてきた。徹夜がかさんでいる。後四つほど製造工程を潰せば、それで二刻ほど休むことが出来る。
釜からまた一つボウルを降ろし、次のボウルを入れる。今度のは今まで以上に強い火力で温めなければならないので、スコップで炭の固まりを少し多めに入れる。
熱のはかり方は、以前グライルフから聞いた方法を利用する。竈から指五本分の幅離れた場所に細いガラスの管を置き、その中に入れた氷が脈幾つで溶けるかを計る。夏場の場合は、水が脈幾つで蒸発するかで計算する。このガラス管は、グライルフにもらったものだ。透明度は殆ど無いが、底に小さな皿がついている。冬の場合は底に一定量の水がしみ出したところで丁度いいと判断する。夏の場合は上から湯気が出てくるかどうかで判断するのだ。
少し火力が強いなと思ったマリーは炭を一つだし、計り直す。丁度いい熱量になるまで、調整二回。短時間の集中加熱だが、それだけにデリケートな調整が必要なのだ。
ボウルの中に四種ほどの鉱物を入れて、熱する。ばちばちと凄い音がする。燃えさかる炎が釜の外に出ないように気をつける。何度かグライルフのアドバイスを受けながら小規模な改装を加えたとはいえ、物事に絶対はない。近づきすぎると自慢の髪が焦げそうなので、注意しないといけない。額に湧く汗をハンカチで拭いながら、マリーは中和剤の状態を見る。見る間に透明度が増していく。
「よしきた」
丁度いいラインに来たところで、竈にスコップを突っ込み、炭を一気に引きずり出す。凄い熱気だ。こうして火力を落とし、後はこの状態のまま、余熱でしばらく置く。これでようやく寝る時間が出来た。この作業の後、幾つかの鉱物類を加工し、最終的にはこれと同じくらいデリケートな調整をした釜で熱して、取り出した後薬品につけ、二日ほどおいて完成となる。取り出した炭類は流石にもう火力調整には使えないので、庭に置いて、今後暖を取る時に用いる。
既につけ込む薬品は出来ているのだが、これが非常に危険な代物で、いざというときのことを考えて地下に保管してある。何種かの薬品を調合して作るのだが、元の素材とは正反対の性質を備えている。人体にでも掛かったら大惨事なので、人が来るところには置いておけないのだ。他にも準備を整えている内に、アデリーが起きてきた。目を擦っているアデリーを笑顔で迎える。
「おはよう。 よく眠れた?」
「はい」
「ん、それは良かった」
引き継ぎ事項を伝達する。朝来るおばさん達には、昨日のうちに今朝は氷を溶かせない事を伝えてある。お薬も、昼過ぎに来てもらって渡すことになる。もっとも、今朝はそれほど冷え込みが厳しくない。彼女らも自分でどうにかするだろう。
予定通り二刻ほど眠る時間が出来た。今からなら、昼過ぎくらいまでは寝ることが出来るはずだ。もう一度生産工程とボウルに溜めてある鉱物類をチェック。どれも問題なし。
注意事項だけをアデリーに伝えると、マリーは二階へ。集中力が切れたため、もう眠くなり始めていた。
昼過ぎ。目を覚ましたマリーは、調合素材を手早くチェックしていて、手を止めた。一気に眠気が吹っ飛ぶ。思わず、絞め殺された鳥のような悲鳴を漏らしてしまう。
「ひああああああ!」
調合の一つが、失敗している。
ボウルに中和剤につけて溜めておいた一種の銀鉱石であるフランシュ鉱が、魔力を吸い込みすぎて、飽和状態になっているのである。しかも、吸収しているのは、よりにもよって極めて純度が高いマリーとアデリーの魔力。このまま調合に使えば、ボウルが吹っ飛ぶくらいではすまない。下手をすると他の鉱物類にも引火して、アトリエそのものが周辺1ブロックごと消し飛ぶだろう。もちろんマリーはそのままこの世とおさらばだ。
魔力飽和による失敗は、以前栄養剤で経験している。あのときも外に蜂蜜を探しに行って、それを加えることでどうにか事なきを得た。同じ失敗はしない。素早く思考を巡らせる。
これだけの高密度魔力を発散させるには、それこそ数ヶ月という時が必要になる。捨てることもないが、少なくとも今は使えない。幸い、換えが利く素材である。だから良かったが、そうでなければ大惨事になるところであった。
フランシュ鉱はあまり情報がない素材であり、他の銀類と一緒に扱ったのがまずかった。メモにしっかり書き加える。続けて、マリーは素早く今後のスケジュールを書き直す。あまり重要な素材ではないとはいえ、そこそこに厳しく組んでいるスケジュールなのだ。一つの組み間違えが、大事故の引き金になる可能性は、決して低くない。
案の定というか、翌朝からの一刻ほどの睡眠時間が、これで吹っ飛んだ。
自分のミスだから、誰も責めることが出来ない。中和剤を作り直し、余分に作ってあったフランシュ鉱を用意し直す。城で鳴らしている時刻報の鐘に合わせてセットして、それで本来の調合に戻る準備をする。まだまだこなさなければならない過程は多い。今後のことを考えて、強壮剤を一瓶飲み干す。
裏庭に出て、水で顔を洗う。冬の外気で凍りかけた水は、一気に精神を沈静化させてくれる。失敗した後血が上った頭を落ち着かせるには、これが一番だ。タオルで強めに顔を擦って拭く。頭を振って髪に着いた水を振り払う。
頭が冷えたところで、調合開始だ。冷ましておいた鉱物類をボウルから取り出し、状態を確認。何層かに別れているそれを砕いて分別する。今度のは非常に綺麗に剥がれたので、ヤスリを掛ける手間が最小限に済んで嬉しい。
作業をしていて確認したのだが、何度かの調合で非常に純度の高い銀が取れる。しかもそれらの銀は、この調合では廃棄物扱いで、再利用することがない。作業前にも知識としてはあったのだが、実際に効果が出てみると面白い。この調合ではゴミ扱いでも、世間一般ではそうではない。これだけ純度が高いと、かなりの値で捌ける。上手くすると、クーゲルの雇用費くらいは取り返せるかも知れない。
気持ちを切り替えると、此処で何種かの鉱物を、用意しておいた薬品につける。一種の酸なので、扱いが大変だ。ガラス製の容器に満たした酸は、分量を慎重に計算してある。其処に取り出した黒ずんだ固まりを落とす。此処の理論はよく分からないのだが、効果は何人もの先人が証明している。固まりから泡が出始めたのを確認すると、素早くガラスの薄板で蓋をし、固定。これに関しては時間制限が無く、溶けきるまで待てばいいので、多少は楽だ。
再び竈に炭を入れ、火力を調整。鉱石と中和剤を入れたボウルを突っ込んで、魔力の充填と鉱物の調整を開始する。まだまだ先は長い。此処で七割と言うところだ。着実に埋まっていく製造工程が嬉しい。
呼吸を整え、作業を一つずつ潰していく。一度の失敗がもたらすロスは想像以上に大きい。額の汗を拭うと、再び作業開始。まだまだ、気を抜くには早すぎる。
幾つかの鉱物加工をしている内に、アデリーが帰ってきた。気を利かせて、車引きで夕食を買ってきてくれた。しっかりした子であるし、そろそろ代理で飛翔亭への納品を任せてみたい。だが、もし独立したいというのなら話が別だ。アロママテリアが完成してから、その辺りの気持ちは聞いてみようと思っている。
少し集中力が落ちたので、食事にして一息入れる。時間が僅かながらに出来たので、使い道を考える。寝るには短すぎるので、飛翔亭に行って、薬品類の納品が妥当だ。ついでに帰りに一風呂浴びてくるつもりである。それを告げると、アデリーも一緒に行くと言った。時々飛翔亭には一緒に連れて行っていたが、そろそろ交渉をさせてみるのも手か。独立するにしても、まだマリーの所にいるにしても、交渉はスキルとしてあった方が良い。
火が少し心配なので、ひとっ走りドナースターク家へ。セイラは忙しそうだったので、マルルを借りてくる。最近は以前ほど殺気だった様子が無くなってきたので、シアが言っていたとおり経営の回復が進んでいるのであろう。良い傾向である。マルルを簡単に借りられるのも、その証拠だ。
何をさせられるか分からずに困惑していたマルルは、ただの火の元の番だと聞くと安心して、マリーを送り出してくれた。余裕のある時は一刻強。その間に交渉と風呂を済ませなければならない。アデリーと並んで歩きながら、マリーは気付く。
「アデリー。 あんた、また背伸びた?」
「え? は、はい。 少しだけ、伸びたみたいです」
「ふうん。 来年、いや再来年には抜かれるかな」
そういえば。いよいよこの長い試験も終了の時が近づいていた。来年この試験が終わる時、アデリーの背はマリーのそれに並んでいるのだろうか。
空は無数の星が瞬いている。
成長期をマリーと過ごし、様々な人がしっかり鍛え上げたから、アデリーは強い。現在でも充分に屯田兵としてやっていけるだけの戦闘能力がある。精神面の問題はあるが、これからしっかり体が固まる頃には、一流と呼べる使い手になるはずだ。
後は、強くなることを喜ぶ事さえ出来れば。
荷車を引っ張り、飛翔亭に着く。最近ゲルハルトに作ってもらった車止めを仕掛けて、鍵を掛ける。金属製の鎖と小さな鍵を組み合わせたもので、車輪に引っかけて使う。これがあるから、荷車を引いてそのまま風呂に行ける。
「交渉、今日はあんたがやりなさい」
荷車から降ろした袋を、アデリーに手渡す。多少の損は覚悟の上だ。今日はただ見ていようと、マリーは決めた。
ほんの僅かな安らぎの時間。戻れば、まだこなさなければならない行程があまた残っている。白い息を吐くと、マリーはアデリーの肩を押して、飛翔亭に入った。
アデリーは、マリーが思っていたよりも遙かに要領よく、最初の交渉をこなすことが出来た。満足したマリーは、ゆっくり風呂に浸かってリラックスし、その日の残りの仕事をこなすことが出来たのだった。
金床に、置いた金属をハンマーで打つ。二度、三度、そして四度。これがアロママテリア製造の、最後の一歩前の行程だ。上半身は下着だけになり、暖炉の熱を体に照り返しながら、マリーは鉱石粉砕用のハンマーを振るう。屋内で振るうため、ランプ類や机は脇にどけてある。
今日はいざというときに備えて、シアに来てもらっている。シアは脇に避けた机にティーセットを並べ、悠々とマリーの作業を見ていた。とはいえ、手元に「はたき」を置いているので、安心感がある。
「よっ!」
気合いと共に、最後の一撃。薄赤い拳大の固まりが、半分ほどの厚さにつぶれる。これで、三つあった固まりが、全て適度な厚さとなった。
調合の過程で作り出された鉱物の混ぜものを、こうやって伸ばす。そして冷やして、用意しておいた液体につける。それでアロママテリアが完成する。浸けると言ってもただ放り込むのでは駄目で、まだ熱いうちに入れて、ゆっくり二日掛けて冷やしていかなければならないというのだから難儀だ。
ペンチで潰した固まりを持ち、地下へ降りる。既に二つの固まりを入れた容器は、それぞれごぼごぼと音を立てていた。開いている最後の容器に、固まりをゆっくり差し入れる。並の酸より危険な液体だ。入れる時には、細心の注意がいる。
入った。すぐに反応が始まる。ガラスで作った蓋を閉じて、様子を見守る。ごぼごぼという凄まじい音が、周囲に零れ続けていた。下には分厚く藁を敷いてある。その下には海綿が置いてある。液体が零れても、簡単には周囲に広がらない工夫には、余念がない。
タオルで額や首筋を拭きながら、一階に上がる。シアは丁度新しい茶をマルルに注がせている所だった。あがってきたマリーを見て、にこやかな笑顔を一つくれる。
「お疲れ様。 終わった?」
「これで、あと二日ほどおいて終了よ」
「そう。 それならば、ゆっくり今の内に休んだ方が良いわね」
当然のシアの言葉に、マリーは疲れて首を横に振る。
「そうも行かないのよ。 非常に危険な薬品を使っているから、時々見ないと危ないの」
「それなら、余計にアデリーに任せなさい。 そろそろ、無理を通して仕事を完遂する癖を改め始めないと、十年後に大事故起こすわよ」
「そうね。 そういえば、そうだわ」
考えてみれば、この試験が終わっても、マリーの人生は終わらないのだ。基本的に、マリーは自分を支えてくれる人の存在を期待していない。だから、今の内に無理を自分の力で補正できるようにしておかないとならない。他人を頼るのは、本当に最後の手段だ。シアだって、リスク承知で若手を使うことを始めている。マリーも同じ事を今の内から覚えておくべきだ。
冬だから、汗が冷えるのも早い。アデリーに言って竈の火を落とし始める。炭を外に出すことで、竈は見る間に元気をなくしていった。マリーはタオルでまんべんなく汗を拭くと、上着を羽織る。今回は何度か風呂に行っているから、汗の臭いはそれほど酷くはないが、それでも後でまた一度行きたい。
アデリーに、危険事項を伝える。液体が漏れていたら、絶対に触ることは許さないこと。虹色の聖水と呼ばれるそれは、想像を絶するほどに危険な液体なのだ。
この液体は、複数の薬剤を調合した所に、ひとつまみのコメートを落とし、溶かすことで作り出す。その結果かは分からないが、液体そのものが毒々しい虹色を湛えている。何度か実験してみたが、一滴垂らすだけで肉には強烈な焦げ目がついた。しかも蒸発しやすく、吸い込むことで肺が爛れることは容易に想像できる。今回は以前作っておいたコメートの残骸から作り出した。残骸といっても、品質的には悪くない。成形する途中で出た屑の部分などを用いたのだ。世の中、何が役に立つか、本当に分からない。
虹色の聖水の性質を、アデリーはしっかり聞いて覚えた。三回聞かせた後復唱させるが、一字一句間違いなく応えてみせる。マルルはもっと記憶力が良く、一回で完璧に復唱してみせる。なかなかの逸材で、マリーは嬉しくなる。ドナースターク家の未来は明るい。
アロママテリアが出来ると、虹色の聖水が、完全に赤く染まるのだという。気色が悪いような気もするが、それで完成の合図となるのだとすればわかりやすい。寝る前に、地下室をもう一度覗いてみる。ごぼごぼと言う反応音が、いまだ響いていた。
さあ、後は待つだけだ。
マリーは二階に上がると、疲れた脳を一気に休息に向かわせる。ベットに倒れ込むと、後のことは何も分からなくなった。四刻ほど寝ようと、それだけ考えた。
6,創造と破壊
分かっていたこととはいえ、気色が悪かった。
かって不気味な虹色に輝いていた液体は、本当に真っ赤に染まっていた。どういうメカニズムでこうなるのかは分からない。この状態になると無害という話であったが、油断するのは危険だ。
ガラスの棒を使って、中をかき回す。手応え。棒でつまむようにして、引き上げてみる。出てきた。間違いない。クライスのところで見た、アロママテリアである。
形状は間違いなく正八面体。軽く、表面はざらざらしていた。血のような液体は、大気に触れると急速に色を失い、透明になっていった。側でランプを持って見ていたアデリーが言う。
「不思議な液体ですね」
「そうね。 まだまだ世の中には、知らないことがたくさんあるわね」
消毒した古い布の上にアロママテリアを置く。そのまま、二つ目、三つ目を引き上げた。品質に随分ばらつきがある。一番良くできたものは、全く欠けるところが無く、美しい艶を見せている。一番出来が悪いものは、八面体に鋭さが無く、角が丸くなっていた。どうしてこういう品質のばらつきが出るのかは、よく分からない。これから調べてみる必要がある。
一番良いものは保存用。これは研究が進んでから、念入りに調べる。一番出来が悪いものは、言うまでもなく実験用だ。これから散々色々ためす。普通の出来のものは、レポートと共にアカデミーに納品する。イングリド先生のコメントが楽しみだった。
念入りに確認。重さ、手触り、全て間違いない。クライスの作ったものとどちらが上かは分からないが、とにかく完成したのだ。
そう、出来た。
口の端がつり上がってしまう。丁寧に液体を拭き取ると、一階に上がる。握り込んでいるのは、一番出来が悪い一つだ。手に震えが来る。思考に、ノイズが混ざり込み始める。笑いが零れ始める。全身の魔力が、不安定になり始める。
ぐっと押しつけられるように、前傾姿勢に。
精神が、魔力につられて、非常に不安定になりつつある。ロードヴァイパーそのものの勢いのように、アトリエを飛び出す。
短い笑いをこぼし流しながら、走る。加速、加速加速加速加速。全身に金色の魔力を纏い、マリーは走る。城門を飛び出す。一瞬、自分を避ける門番の姿が見えた。
枯れ果てた森の中に飛び出す。もう、周囲は見えない。何も感じない。ただ感じるのは、周囲の気配のみ。危険か、安全か、潰せるか、そうではないか。舌なめずりし、巨木を蹴って空に躍り上がる。着地。走り寄る。
切り株を見つけた。
叩きつけるようにして、アロママテリアを置く。
何でこれほどに惹きつけられたのか。理由は簡単である。マリーの攻撃に、どれだけ耐えられるのかを見たかったからだ。以前作ったフラムは、その破壊力に魅了された。今度はこのアロママテリアの、究極的なまでの耐性に惹かれた。
まずは物理耐久力実験だ。思考は殆ど動いていない。体が勝手に何をするか判断し、筋肉が動いている。周囲の枯木をジグザグに蹴って跳躍。身長の五倍ほどの高さまで飛び上がる。そのまま全身に纏った魔力をフルに筋力に回し、怪鳥のような叫びと共に、切り株に置いたアロママテリアに、落ちつつ拳を叩き込んだ。
最初に吹き飛んだのは切り株だった。続いて地面が吹っ飛び、辺りの木の根がめくりあがる。続いて、二撃、三撃、四、六、十、二十一、三十五、五十七、九十、百三十。嵐のような拳打のラッシュを叩き込む。そのたびに周囲の地面が抉れ、枯木が倒れ込んでくる。鬱陶しいので片手ではねのけ、更に拳を叩き込む。
気がつくと、マリーの背丈の倍ほども、クレーターは深くなっていた。正円形に抉れた地面の底、アロママテリアが埋まり込んでいる。
ほとんど、傷がついていない。
素晴らしい!素晴らしい!あまりにも素晴らしい!
もどかしい。手を伸ばして、蛇が獲物に食らいつくようにして、アロママテリアを引っ掴む。絶叫する。金色の魔力が更に密度を上げ、殆ど白銀となる。全身いかづちの固まりと化したマリーは、空中にアロママテリアを投げ出す。空に一つの点が出来る。それが瞬きながら落ちてくるのに合わせて、跳躍。
光の竜が、昇天するような光景であった。
マリーの全魔力をパワーに変換した一撃が、正確に真下から、アロママテリアを打ち抜く。一点に凝縮された超エネルギーが、火花を散らしながら、アロママテリアを空へ叩き込む。
頭が冷えてくる。体が知っているのだ。此処からの実験は、頭が冷えていないと出来ないと言うことを。
正確に真上に打ち上げたアロママテリアが、脈拍を十五ほど数えてから落ちてくる。地面にめり込んだそれは、ほんの僅かだけ傷ついていた。クレーターの縁に座り、目を閉じて詠唱開始。笑いを抑えるのが大変だ。今の凄まじい消耗で魔力はだいぶ放出してしまったが、それでも最大級のロードヴァイパーを放つくらいの余裕はある。カイゼルヴァイパーはそもそも術の特性上近くの物体には放てない。他の術も単体に対する威力ではロードヴァイパーを著しく超える訳ではない。だから、マリーの基本にして最強の、燃費がよい汎用術を叩き込むのである。
近づいてくる気配。アデリーだ。警告はせず放っておく。今のマリーがどういう状態かは分かっているはずだ。不用意に近づく方が悪い。詠唱終了。柔らかくなったクレーターの壁の地面に突き刺す。飛び離れる。そのまま、印を切る。手に集約した魔力が、熊を一呑みにしそうな、巨大な光の蛇へ化していく。
咆吼と共に、ロードヴァイパーを撃ちはなった。
マリーの全力を費やしたいかづちの蛇が、獲物であるアロママテリアに向け、躍り掛かる。かぶりつく。そして、己の全てを叩きつける。
凄まじい圧力と光の洪水が、マリーを押した。クレーターの逆側の壁に叩きつけられてもなお、マリーは光の蛇を放出し続けていた。そればかりが、ぐっと体を起こす。歓喜の笑みを浮かべながら、マリーは尻尾の先まで、蛇を放出しきった。
煙が、晴れ始める。
クレーターの壁が、大きく抉れていた。アロママテリアは。まだ残っている。口を開いたマリーは、その素晴らしい硬度に歓喜を覚えていた。
「素晴らしい」
表面が四分の一ほど焦げていたが、それでも充分だ。様々な香りが混ざりながらマリーの所まで届く。実験のしがいがある。これからどんな実験をためすか、考えるだけでまた頭のねじが飛びそうであった。
クレーターから出ると、アデリーが立っていた。すれ違いざまに、肩を叩く。含み笑い。
「さあ、帰ろうか」
「……」
「嬉しくないの? 今回は殺しもしないし、喰ってもいないわよ」
アデリーは応えなかった。マリーはけたけたと笑うと、アトリエに戻る。まだ、狂気の余韻が、頭に残っていた。
エンデルクは屋敷の寝室で、頭を抱えていた。ヴィラント山に一度行ったはいいが、己を混乱させるばかりだったからだ。
彼を呼んだ王は言った。バフォートとの戦いで、極めて見苦しい有様だったらしいなと。カミラから聞いたのかは分からない。とにかく、王は知っていた。頭を垂れるしかないエンデルクに、なおも王は言う。
「そなたは、考えすぎる」
「は、はっ……」
「そこで、余が試練を与える」
その後に、王は命じた。四ヶ月以内に、ヴィラント山のフラン・プファイルを撃破するようにと。しかもそれには条件があった。
騎士団の人間を使わない。屯田兵ももちろん動員しない。人数は三人以下。
エンシェント級と呼ばれる、齢五百を超えたドラゴンを仕留めるには考えられない人数である。少人数でエンシェント級の撃破を成し遂げた者達は史上いる。だがそれはあくまで英雄伝記の中の話であり、現実的な思想の強いエンデルクには考えられない。
王の命令は絶対だ。ましてや、カミラの状況を見ているエンデルクにはなおさらだった。名誉職に追いやられたカミラを見た以上、同じ末路を辿りたくはない。エンデルクには分かっていた。今後が武力よりも陰謀を用いた戦いになることを。また、大局的な状況が多くなり、場合によっては軍団同士の衝突もありうることを。そうなると、やり方は汚くとも一騎当千の猛者よりも、多くの兵士達を鼓舞する英雄が必要になるのだ。
エンデルクは騎士団長として、本来の自分を殺し、英雄とならねばならないのだ。それには、今のやり方では決定的に難しい。だからこそに、英雄的な方法でフラン・プファイルを仕留めなければならないのだ。
それは分かる。しかし、怖くて仕方がないのだ。
あの山での戦いで、エンデルクは恐怖した。あのバフォートが、心の中でエンデルクを見ているかのようだった。同じような死に方をしそうになった。殺した無数の兵士達が、エンデルクの足を掴んでいるかのようだった。
今でも、恐怖は拭いきれない。
戦いは、悪いことだとは思っていない。バフォートを殺したことに関しても罪悪感はない。戦士は殺しあいをすることが仕事だからだ。だが、エンデルクは、周囲の騎士達より明らかに卑怯なやり方を使ってでも、勝ち残ってきた。それは彼の生き方そのものであった。それを否定するように、王に言われた今。何もかもが、怖くて仕方がなかったのだ。
エンデルクほど有名になると、歓楽街に気楽に行くことも出来ない。若い頃はストレスを夜の街で発散することも多かったが、今ではそう言うわけにも行かない。愛人も作ったことはない。情報が漏れるのを恐れたからだ。
そう、エンデルクは怖がりなのだ。
あのマルローネは、噂以上の使い手だった。多分気付いていたはずだ。エンデルクが恐怖の底におり、フラン・プファイルをどうして良いか分からないでいる事に。在野の人材で考えると、フラン・プファイルと共に戦えるのは奴くらいしかいない。クーゲルもカミラも連れて行けない現状、頼るのはあの娘しか存在しないのだ。
パイプをつないでいるドナースターク家の一人娘も相当な使い手だとエンデルクは知っている。そういえば、マルローネもドナースターク家の子飼いの一人だった。もしその三人で向かうことになると、ドナースターク家に大きな借りを作ることになる。将来を考えると、あまり望ましいことではない。しかしやるしかない。
怖い。ベットの脇にあるワインに手を伸ばす。もう三瓶を空けていた。恐怖をねじ伏せるにはアルコールしか方法がなかった。どうせ、明日からは現実的に考えなければならない。もうそれほど時間は残っていないのだ。あのヴィント王を敵に回して、生き残る自信など、エンデルクには無かった。あの老人は、それほどに恐ろしい相手なのだ。
もうグラスを使うのはまどろっこしく、瓶を口につけてそのまま飲んだ。現実逃避だというのはわかりきっている。わかりきっているからこそ、余計に大量のアルコールが必要なのだ。
ふと、マルローネが連れていた使用人の娘を思い出す。深い悲しみを瞳に湛えていた。どうにもならない悲しみを、どうにか克服しようともがいていた。あの年で、である。
あのような子供より情けない生き方をしていて良いのか。仮にも騎士団長ともあろうものが。エンデルクはワインを口から離した。己のプライドに、少しずつ火がついていくのを感じる。
目を閉じたエンデルクは、もう今晩は酒をやめようと思った。いきなり恐怖を克服することは出来そうにない。だが、プライドには、確実に火がついた。このまま負け犬になっている気はない。
頬を叩くと、エンデルクは頭を切り換える。あのドラゴンを斃すにはどういう手があるか。少しずつ、現実的で冷酷な、己のペースが戻り始めていた。
ドムハイト王国。その中枢部にある王宮は、混乱の極みにあった。
王族達も例外ではない。竜軍およそ五万がこの世から消滅。それに伴って、各勢力間のパワーバランスが完全に崩壊。今まで水面下で行われていた権力闘争に一気に火がついたのだ。いまだ竜軍再建の目処も立たず、軍の配置も決まってはいない。暗殺が横行し始めるのも、時間の問題だった。
武門の国らしく、要塞として作られた質素な王宮。その中をしずしずと、だが急いで行くのはアルマン王女。無能揃いの王族の中で、唯一切れ者との噂がある人物である。小柄で美しい彼女は、今情報をもっとも多く正確に把握している、ドムハイト王族の一人であった。
自室にたどり着くと、周囲を警戒して中にはいる。警備兵に聞くが、来た者はいないという。二人の警備兵は、アルマンの子飼いだ。二人とも絶対の忠誠を誓ってくれている、大事な部下達である。
ベットに腰掛けると、手を二回叩く。同時に、天井から小さな影が降りてきた。子供のようなその影は、しわくちゃの顔を上げる。異相であった。目ばかり巨大な老人である。髭は床に着いてしまうほど長い。彼は王族が代々飼ってきた精鋭の間諜だ。実力はシグザール王国の「牙」にも拮抗すると言われているが、しかし数が少ない。
「じい。 状況はどうなっていますか?」
「はっ。 まず政治的状況ですが、今回も、あまり良い情報はありません」
じいと呼ばれた男は、状況を丁寧に説明してくれる。豪族達の権力闘争は、ますます激化していること。今のところ和平派が圧倒的に有利で、主戦派は立場が悪くなり続けていること。まだ反乱を企んでいる者はいないが、このままではそれも時間の問題だということ。竜軍の新設も上手くいっておらず、私兵を供出しようという豪族は少ないと言うこと。実質的な私有武力を持たない貴族達は、右往左往するばかりだと言うこと。軍閥を気取っていても、貴族にたいしたことは出来ない。実質的に軍を握っている豪族達が、事実上のこの国の支配者なのだ。王族は貴族達の傀儡であるから、この国は二重の傀儡構造の上に立っている。
アルマンは嘆息した。平和が続いて、腐りきったこの国は、今や台風の中に突入しようとしている。
極論だが、シグザール王国が攻めてくれば、少しは状況もマシになる。王家が中心になって豪族達をまとめれば、まだ戦力はある。シグザール軍の屯田兵は勇猛であり、騎士団は精強だが、ドムハイトとて伊達に大陸最強の軍事力を抱えていないのだ。平和を愛するアルマンが、今や戦争を望んでいた。それに気付いて、聡明な王女は耐え難い悲しみに襲われることがある。
「分かりました。 竜軍の消滅原因の調査は進んでおりますか?」
「全滅したことは、ほぼ間違いないようです。 そして、遺体らしきものも、見つけました」
王女が体を乗り出すが、じいは冷酷に事実を告げた。
「完全に炭になるまで焼かれていて、見分けはつきません。 しかも岩雪崩の下敷きになっており、もはや何がなにやら」
「そう、ですか」
バフォートのことを思い、アルマンは睫毛を伏せた。木訥で、初で、実直だった剣豪は、アルマンの思い人だった。片思いだったが、死をじいから聞いた時には、数日間寝込んだ。今は悲しみに負けている時ではない。
「どうやって、シグザール王国軍は、あのバフォートを斃したのですか?」
「まだ、分かりません。 ただ、気になる報告が一つ。 戦場となったと思われる盆地で、このようなものを見つけました」
じいが恭しく差し出したそれは、陣屋の跡地に落ちていたのだという。巨大な鳥の尾羽の一部であった。剣で斬られた跡がある。
「彼らが、鳥を使ったというのですか? しかし、これはなんと巨大な」
「今、調査中です。 最近僅かに隙が出来、探る事が可能な状況になっております。 二月以内には、敵地の部下達が、情報を探り出してくることでしょう。 ただし、敵も有能な者達が揃っています。 絶対ではありませんので、その時はお許しを」
「分かりました。 急いでください。 あのバフォートを仕留めるほどの相手です。 この王宮が、急襲される可能性さえあります」
「御意」
じいは消えた。アルマンは一つため息をつく。
もはや、ドムハイトがまとまる方法は殆ど無い。シグザール王国軍が攻めてくれば話は別だが、あの老獪なヴィント王がそんなミスをするとは思えない。二十年の空白が、ドムハイトの巨体に空白を作り、その隙につけ込まれたのだ。
アルマンは税金で今まで育った。民衆を守るためにも、あらゆる手だてでこの国を維持する必要がある。そのためには、どのような手でも使わなければならない。シグザール王国は恐らく、今後はドムハイトの切り崩しと、経済的な圧迫に出てくるだろう。それを防ぐには、どのような手があるだろうか。
ある。たった一つだけだが、ある。
アルマンは、このとき、自分が生け贄になることを決めた。
警備兵を呼ぶ。恭しく戸を開けた忠実な部下に、アルマンは言う。
「カミソリを」
「はっ」
すぐに差し出された、黄金作りのカミソリを使い、アルマンは髪を切った。侍女を呼んで、黄金の髪を切りそろえさせる。
これが、アルマンの、決意の形であった。
(続)
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