平和の礎は処刑台

 

序、竜に忍び寄る者

 

大陸中枢部にある山岳地帯。その麓にある小さな道には、今人馬が充ち満ちていた。緑色の鎧を着た上級騎士達も数多く見える。翻る旗にはドラゴンが刺繍されており、兵士達の鎧は赤に統一されていた。盆地を埋め尽くすほどの数。三列縦隊で進む彼らは、一糸乱れぬ行動を見せ、呼吸まで合っているかのようである。山上からは、一頭の赤い大蛇に見えた。

彼らこそが、ドムハイト王国軍を支える最強の精鋭部隊。竜軍六個師団。大陸最強を噂される、ドムハイト王国の切り札である。

総兵力はおよそ五万。各地の兵から選りすぐられた精鋭部隊である。ドムハイトの英雄である剣豪バフォートが指揮する中軍が一万。他の五個師団はそれぞれ八千ずつで編成されている。ドラゴンをあしらった旗を印にしていることでは共通しているのだが、各隊ごとに色を変えている。たとえば中軍では黄色く染め抜いているし、常に前衛先鋒を任される第三竜軍師団は兵士達の鎧と合わせた赤だ。また、鎧や兜も最新の型式が配備されており、士気も低くない。

やがて巨大な大蛇は、広大な盆地に展開を開始する。山の麓、長い道の先にあるメルトラード盆地。土地の条件が悪いとかで荒野になっている其処に、無数の人間が入り込んでいく。

最初に陣を組んだのは、バフォートの指揮する精鋭達であった。見る間に陣屋が組まれ、天幕が張られる。兵士達に護衛されてきた馬車から材料が降ろされる。柵が、馬止めが、見る間に作り上げられていく。兵士は到着する横から規律を守って作業に加わり、文句を言う者一人居ない。中軍簡易野戦陣地の何カ所かに櫓が建てられ始めた頃、他の部隊も到着。それに会わせて、櫓の上に部隊指揮用の太鼓が引き上げられる。

太鼓が引き上げ終わると、作業を行った兵士達が櫓を降りる。代わりに、上半身裸のひときわたくましい兵士が、丸木で組まれた武骨な櫓に猿のように登る。梯子など使わない。頂点部分は、四方を矢避けの板で囲っただけの簡単なもので、其処から眺める周囲の光景は非常に恐ろしいはずなのだが、兵士に恐れる様子はない。ほどなく、力強く太鼓が打ち鳴らされ始める。

底響きする太鼓の音が、盆地全体に広がっていく。同時に、中軍に遅れて到着した他の部隊も、展開開始。見る間に野戦陣地をくみ上げる。

殆ど動作を迷う人間はいない。最初に野戦陣地を組んだ中軍の周囲に、見る間に五つの師団の陣が作られていく。

やがて、盆地に巨大な五星形が出現していた。頂点をそれぞれ方陣が作り上げており、中枢部に中軍の重厚な陣がある。中軍の陣地は既に完成に近づいており、櫓には火除けの泥が塗られ、兵士達はもう巡回を開始していた。

やがて、急あしらえにしては随分立派な門が開き、五人の師団長が本陣を訪れる。バフォートと軍幹部達が、それを出迎えた。貧弱で気弱な若造にしか見えないバフォートに対し、師団長達は皆貫禄たっぷりで、見るからに強そうだ。

一番長身で、もっとも冷酷そうな第一師団長エシェルシが口を最初に開いたのは、彼がドムハイト王国内でもっとも強大な力を持つ豪族の一員だからだ。緑色の鎧を着た彼は、国内でも三十位に入る剣の達人になった事もある。最近は体が鈍りきっていて、彼方此方ゆるみ始めているが。

「流石に見事な指揮ですな、剣豪殿」

「いや、エシェルシ師団長の方こそ。 此方も、文句のつけようがありませんでしたよ」

女に対しては相手が小娘であっても吃音気味のバフォートだが、流石に同性に対しては普通に喋ることが出来る。情けない癖だが、壮年になった現在も直る気配はない。

バフォートの言葉は嘘ではない。事実、エシェルシの部隊は、見事な動きをしていた。冷酷非情な男だが、指揮能力は確かであり、一度も他の部隊の足を引っ張ったことはない。ただ、部下には好かれてはいない。特権階級特有の歪んだ権力意識の塊である彼は、庶民を毛虫のように見下しており、使い捨てすることが日常茶飯事だからだ。

エシェルシはバフォートに代わる指揮官を竜軍に据えて、ドムハイトを牛耳りたいと目論む貴族達に期待されており、かなり広いコネを持っている。面と向かってバフォートに逆らうようなことはないが、足下を掘り崩す工作には余念が無く、油断できない存在だった。事実、第四、第五師団長は、ほとんど彼の部下のような有様だ。ここ一年ほどで、入念な根回しが政治的な面から行われた結果らしいと、バフォートは知っている。

エシェルシがバフォートを超える能力を持つのなら、それでも構わないと壮年の剣豪は考えていた。だが実際にはエシェルシの背後には、バフォートの存在を快く思っていない複数の豪族と貴族がいて、彼らが糸を引いている。特に貴族達には主体的な長期戦略も無ければ、国を動かしていく手腕もない。あるのは、身勝手な権力欲だけである。彼らにドムハイトを牛耳らせたら、未来は暗雲に閉ざされるだろう。

竜軍までもを、豪族達の政治的争いの材料にしてはならない。そうバフォートは考えていた。だからこそに、今の座を、当面は譲る気がない。エシェルシもまだバフォートに存在価値を見いだしているようで、本格的な造反行為を始めてはいないのが、せめてもの救いだった。それに兵士達にバフォートは不思議な人望がある。何故兵士達に敬愛されるのか、バフォートには良く分からない。

師団長達の中で、一番若いキーニヒトが続けて発言した。一説にはドムハイト王国よりも古い歴史を持つという豪族デルファイル家の長男であり、エシェルシの黒幕達と対立している貴族達に期待されている男だ。ただし、父親との仲は致命的に悪く、他の家族とも似たような状況である。そのため、あまり積極的にエシェルシと争おうとはしておらず、それが危ういバランスを保つ一要因となっていた。第二師団を任されている彼は痩躯の青年で、剣の腕前はたいしたことがないが、その代わり魔力の強さでは国内でも二十番に入ると言われている。

「それにしても、剣豪殿。 どうしてこのような場所で軍事演習を?」

「というと?」

「主力決戦を行うには、あまりにも狭すぎます。 部隊も展開しにくいし、何よりも補給が難しい」

確かにその通りだと、バフォートは思った。しかし、何故こんなところで演習をするかという点については、こっちが聞きたいくらいなのだ。

竜軍は質を保つために、豊富な調練を行っている。ただし、常に全軍同時というわけにはいかない。五万もの常備兵を養うだけでも、国庫に対する負担は大きいのだ。それを全部まとめて何度も軍事行動させれば、ただでさえ経済的に豊かとはいえないドムハイトは、シグザール王国軍との決戦が始まった時にスタミナ切れを起こしてしまうだろう。

そこで常時は多くても一個師団だけを敵味方に分けて軍事演習をする。ただし、そういう状況であっても、今回のように全軍が一同に揃う大演習は年に二回ほど行われる。そしてその実行には、王の勅命が必要だ。しかしながら、王の権力は、実質的にはほとんどない。

つまり、王が判断しているのではなく、豪族達と、彼らに支えられた貴族達の政治的パワーゲームの結果、今回の演習が組まれたのだ。場所や規模、それに演習の内容までもが、この国を実質支配する有力豪族達の政治的闘争の結果なのである。貴族共はそれの尻馬に乗っているに過ぎない。バフォートはその経緯を知りたいとも思わないし、知ったところで嘆息するばかりだ。

かって武の国と言われたドムハイトも、これほどまでに腐ったのだ。シグザール王国との決戦から二十年と経っていないのに。

「我々は軍人です。 そして、竜軍は王の直属精鋭でもあります」

「はあ、それはそうですが」

「王が決めたことです。 我らは王の剣、王の盾として、竜軍を動かしていく義務があります。 劣悪な条件での戦闘経験も、王の剣なればこそ。 我らこそが、兵士達の先頭に立ち、敵との交戦を行うべきなのです。 様々な経験は、積んでおいても無駄にはならないでしょう」

バフォートの苦しい心内を察してか、キーニヒトはそれ以上の追求をしなかった。

竜軍六個師団は、豪族達の権力が強いドムハイトにおいて、数少ない王室の直属部隊である。逆に言うと、この部隊の存在が芯となって、ドムハイトをまとめているのだ。軍事国家としての中枢であると同時に、限界でもある。

ドムハイトは結局の所、軍事力を中心にしてまとまっている国家だ。そして、平和になれば、もっとも腐敗に晒されやすいという欠点を持っている。今はまだ国内でも有数の精鋭達が集まっているが、そのうち実戦経験がない豪族の息子が師団長として赴任してくるのではないかと、食事時などに兵士達は噂していた。国が腐る時には、基本的には上からだと相場は決まっているのだ。

軽く雑談が済むと、準備が済んだことを知らせに来た副官によって全員が天幕に招かれ、長い机を挟んで座った。一番奥の最上座にはバフォートがつき、その左右には参謀達が立つ。今回の調練では、シグザール王国軍との主力決戦を想定し、様々な動きをする予定だ。温かいスープが全員に配られる。戦場では贅沢な食べ物だが、体を温めることが目的であり、あまり美味しいものではない。事実、飽食気味の師団長の中には、露骨に顔をしかめている者もいた。

嘆かわしいことだが、今気を配るべきはそれではない。

会議が終わると、バフォートは自分専用の天幕に引き上げる。小さな個室空間だが、あるだけ兵士達よりはましである。木製の小さなベットに横たわると、物陰から声がする。極秘で動かしている特殊部隊の長だ。

「既に戦闘偵察隊の配備は終えております」

「よし。 絶対に油断するな。 徹底的に周囲を警戒し、蟻一匹逃さないように偵察を続けよ」

「はっ……」

気配が消える。

バフォートは、嫌な予感を消すことが出来なかった。シグザール側のおかしな動きの影には、何か必殺の存在がある。それがどのような兵器なのか、或いは恐るべき新戦術なのかはまだわからない。此処はドムハイト領奥深くであるし、それを持ち込んだシグザール軍が大挙進入してくると言う事態も考えにくい。

だが、この地形が気がかりなのだ。此処はまるで陸の孤島である。道は狭く、補給は困難。もし戦力に勝る敵に襲われた場合、逃れるには周囲の山岳地帯を越えるしかない。道はふさがれたらおしまいだからだ。演習前の段階として、目立つ被害を出している猛獣や魔物は処理しておいたが、地形は複雑で、もし追撃戦を行われたら退却は困難を極める。また、敵の接近も許しやすい。戦術家としての腕には自信があるバフォートだが、この状況はいくら何でも劣悪すぎる。もし未知の力を持つ敵に襲われた場合、被害を小さくする自信はなかった。

だから高度なレンジャー訓練を施した特殊部隊を二個中隊編成し、彼らに周辺の警戒を行わせている。高い山岳森林戦闘能力をもつ彼らを周辺に配備して、奇襲の可能性を減らすしかない。演習を行う兵士達にも、警戒を徹底させる。

最悪の場合、バフォートは捨て駒になって死んでも良い。一人でも兵士を逃れさせることが出来れば、どのような恐ろしい兵器を使われたとしても、抵抗能力を作ることが出来る。軍事力に関しては、まだドムハイト王国の方が上だ。いざとなれば、巻き返しだって出来るはずだ。特殊部隊にも、抵抗が無理そうなら王都に逃げろと告げてある。とにかく、最悪の状況でも、誰かが逃げ延びればいいのである。

努めて平静を装うように、バフォートはしていた。指揮官の動揺は兵士達の戦意を著しく削ぐ。どんな戦場でも平静であることが、指揮官としての、最低限の条件だ。

朝が来ても、何も目立った事態は起こらなかった。予定通り軍が二つに分かれ、実践演習が開始される。盆地の東に展開した中軍師団と、第二、第三師団。西に展開したのは、残りの三個師団だ。まずは大体同じ数で戦ってみて、動きを見る。ただし、万が一の事態に備え、半数は自陣で様子を見守っている。

兵士達が持っているのは訓練用に刃を潰して殺傷力を無くしたものだが、それでも油断すれば怪我もするし死ぬこともある。太鼓が打ち鳴らされ始め、兵士達が動きだす。

やがて、左右に分かれた部隊が接触し、激しい模擬戦闘が始まった。どちらも良い動きをしている。バフォートはとりあえず安心すると、直属精鋭を動かし、敵の中枢を粉砕するべく指揮剣を振るった。

 

山上で小さな塔のような形をした遠めがねを覗き込んでいたカミラは、展開している特務部隊に合図を送る。攻撃開始準備に入るようにというものだ。

流石に剣豪バフォート。奇襲の可能性を予見して、相当に厳重な警戒網を敷いている。高度なレンジャー訓練を受けた特殊部隊が周囲の山を監視しており、蟻一匹通れないように見える。事実、偵察を行っている特務部隊も、極めて隙は小さいと報告してきていた。

だから、昨晩は彼らの行動スケジュールを分析することに全力を注いだ。今晩が勝負になる。調練の様子から言って、夕刻には一端切り上げ、夜は二もしくは三交代で兵士達を休ませるはずだ。レンジャー部隊も同じであろう。行軍の後にそれだ。兵士達の疲労はピークに達している。其処を討つのが、兵法の常道である。

バフォートのいる中軍は流石に隙が無く、ステルスリザードをもってしても幹部の暗殺は不可能。だが、幹部以外や、他の陣は違う。特に第二陣はかなり警戒が緩んでいて、崩すのは容易だ。ドムハイト最強の精鋭を自他共に認める竜軍六個師団だが、完璧ではない。もうほころびが出始めている。二十年の空白は大きい。

それは、シグザール王国軍も同じだ。騎士団は絶え間ない魔物討伐などの実戦で腕を磨き続けているが、屯田兵達は違う。中には、実戦経験が無い若者もいる。それを考慮すると、対岸の火事だと笑ってはいられない。

遠めがねを降ろすと、洞窟の中からエンデルクが出てきた。今回の作戦の指揮陣地が、この洞窟だ。中は三十人程が入れる手狭な空間だが、それでも首脳部と作戦参加する主力騎士は全員寝泊まりすることが出来る。連れてきている特務部隊は四カ所に分散して仮設陣地を作っているが、どれも発見されにくいように毎日場所を変えている。

エンデルクは血が騒いで仕方がないようで、昨晩から四度目になる質問を口にする。剣腕は文句なしの超一流なのだが、象徴となるには良くとも、具体的に指揮するにはあまり向かない男だ。本人もそれを自覚しているのが、シグザール王国にとってもカミラにとっても幸いである。もし戦術レベルでの指揮に出しゃばられたら、上級将校達は大いに迷惑していただろう。この点では、バフォートの方がエンデルクより確実に優れている。

「攻撃は今夜か?」

「はい。 明け方少し前には攻撃開始し、二刻以内に勝負をつけます」

それ以上時間を掛けると、敵に援軍が駆けつける可能性がある。エンデルクには何度もそう説明したが、また同じ質問だ。まあ、戦場で状況は毎秒ごとに変わる。何度も同じ質問をして、毎回答えが変わらない保証は無い。実際には、様々な事情からほぼ丸一日の余裕があるのだが、それは黙っておく。

クーゲルは木立の影で、愛用の大槍を片手に、じっと調練している敵部隊を見つめていた。今回クーゲルは、思う存分暴れて良いとエンデルクに認められている。そのためか、むしろ今は静かだった。危険なのは戦場だ。殺気に酔って暴れ始めたクーゲルは、敵味方関係無しに巻き込んで荒れ狂うだろう。騎士達は事前に上手く配置して、クーゲルとかち合わないようにする。問題はクリーチャーウェポン達だが、これも事前に調整を済ませ、運用が容易にしてある。クーゲルの動きを見ながら、それを緩やかに包囲するようにすれば問題ない。

後は攻撃のタイミングだ。レンジャー部隊の処理から敵師団の攻撃まで、対応する暇を与えてはならない。

洞窟の中から、あくびをし、ウェーブの掛かった栗毛を掻き上げながら、細い女騎士が出てきた。垂れ目と泣き黒子が色っぽい、白い肌を持つ美しい女だ。

彼女は、騎士団が抱える透視能力者。特定条件を揃えることで、およそ十六里先までの光景を正確に把握することが出来る。条件さえ揃えばいかなる能力でも妨害できないため、騎士団でも重宝している。大陸にもそうそうはいないレア能力者だ。

彼女の剣の腕や術の腕は共に並程度だが、それでも騎士待遇を受けているのは、その極めて珍しい能力のおかげである。現在二十七才になるこの娘は、能力展開の代償として非常に多くの睡眠時間を必要とするため、普段はむしろ寝ていることを周囲に要求されている。今回も、ドムハイト王国内を隠密移動中、ずっと騎士の一人が寝ている彼女を担いでいたのだ。

「おはようございます、聖騎士カミラ」

「おはよう、ジェニス。 寝ていないと駄目でしょう」

「流石に二日連続で寝るのは無理ですよう」

「無理でも寝てなさい。 今晩からは、徹底的に働いてもらうことになるのだから。 今睡眠薬を出すから、それを飲んで夜まで寝ていなさい。 クリシュナ! ジェニスを奧に!」

ふあいと気のない返事を返すと、半眼で周囲を見回していたジェニスは、護衛にカミラがつけているクリシュナという無口で筋肉質な女騎士に伴われて、寝床に戻っていった。カミラは二人の背中を見送ると、手を叩いて連れてきた錬金術師を呼び、以前用意した睡眠薬をジェニスに投与するように命じる。

ジェニスは今回の作戦における、タイタス・ビースト改と並ぶ切り札だ。いざというときに稼働できないのでは困る。

錬金術師が持ってきた睡眠薬の瓶を見て、おやとカミラは思った。最近出回っている、マルローネ製を示すラベルが貼ってある。いわゆるマリーブランドだ。値は他に比べて張ることがあるが、とにかく良く効くので、騎士団でも重宝している。マルローネ自身とは様々な形で何度か関わっているが、こう言うところでも名前を見るようになると、多少は複雑である。

とりあえず、今晩夜半が勝負になる。自分も決戦前に少し寝ておこうと考えたカミラは、二刻したら起こすように部下達に命じる。そして、あくびをかみ殺しながら洞窟の中に足を踏み入れる。カミラ自身も、ここ三日ほど不眠不休だったのだ。これから様子を見て、出来るのならもう二刻くらいは寝ておきたい。

薄暗い其処は、温度湿度共に安定していて、過ごしやすい。虎の巣穴だったのだが、元の主は行きがけの駄賃代わりにエンデルクが斬り伏せた。カミラでさえ及ばないような早業であった。全身を強化する能力者のカミラが、流石だと感心させられたほどである。能力者が幾らでもいるこの世界で、大陸最強を噂されるだけのことはある。

カミラの寝床は、入り口の側にある。いざというときを考慮して、大きな岩の影に作ってある。寝台を持ち込むのは無理だから、兵士達と同じ粗末な寝袋だ。流石に少し寒いが、昔味わった艱難辛苦に比べれば、こんなものは何でもない。寝ると決めれば、すぐ眠れるように訓練もしているから、すぐに意識は落ちる。

決戦前、様々な思惑が交錯しながら、時が過ぎていく。

恐るべき陰謀の立役者であるカミラでさえも、寝顔は安らかだ。決戦までの僅かな時間で、少しでも体力を回復するべく、カミラは睡眠をどん欲に貪っていた。

 

1,決戦の幕開け

 

激しい演習が終わった後も、誰もが休むことが出来る訳ではない。陣地では既に今日の疲れを落とすべく、ささやかな宴が開かれていたが、これからがむしろ仕事が本番となる者達もいる。

薄暗い森の中。フクロウの鳴き声だけが響いていた。闇夜に紛れて動く兵士達は、息を、足音を、気配をも殺して、無音の世界の中歩き回る。フクロウが枝で羽を繕う至近距離を、兵士達が通り過ぎる。

ドムハイト王国竜軍所属中軍第七特務機動部隊の面々は、フォーマンセル(四人一組)で森の中に散開し、警戒を続けていた。それぞれが優れたレンジャー技能を有する者達であり、殆ど周囲に気配を漏らしていない。鎧も革製の軽いもので、周囲の緑と同じ色に塗装し、フルフェイスの兜には草をあしらった模様までもを刻み込んでいる。肌は目を除いて、一点たりとて外気に晒してはいない。外観のレベルから、周囲から浮かないように工夫を凝らしているのだ。

レンジャーは、森林や山岳でゲリラ戦や偵察をおこなうために必須の部隊だ。ドムハイト王国のレンジャー部隊は、他国に展開する密偵部隊と並んで精鋭で知られ、大戦時にはシグザール王国軍の兵士を多く人知れぬ森の中屠り去ってきた。だが、それも今では、かなり質の低下が目立っている。竜軍直属のこの部隊でさえ、腐敗の足音は容赦なく忍び寄っていた。事実、この演習の前にバフォートが直接鍛えなければ、使い物にならない兵士も複数混じっていたのだ。

第七機動部隊の構成人員は百名。同じ任務を受けている第八遊撃中隊の面々と交代しながら、この地味にも程がある任務を続けていた。

空を見上げて、星の位置から時刻を確認。ドムハイト王国で英雄珠と呼ばれる、ひときわ明るい赤い星が天頂にさしかかっていた。後一刻ほどで夜が明ける。つまりは交代時間だ。同時にフクロウが気配に気付いて飛び去る。隊長に睨まれて、気配を漏らしてしまった顔にニキビのあるまだ若い兵士が、首をすくめた。

これから何回かに分けて、第七機動部隊と、第八遊撃中隊は交代する。それぞれの兵士は、メルトラード盆地の周囲にある幾つかの森の中で宿営する。訓練中の部隊には知らせていないから、下手をすると勘違いされて攻撃される可能性もあるので、兵士達は寝る時もうかうかしてはいられない。その緊張感が、質の高い偵察行動を可能とする。

交代の順番は、事前に決められている。休憩に入る第七機動部隊第十一分隊が後退を開始し、それをサポートするように第八遊撃中隊第三分隊が前進を開始。無言で森の中をすれ違う。後退する者達には僅かな安堵が、これから前進する部隊には緊張が見て取れる。

次の瞬間だった。

また気配を漏らしそうになった若い兵士を睨もうとした、第十一分隊のコマンダーの上半身がかき消えた。鮮血が吹き出すよりも早く、森の中から突如躍りかかった巨大な白い狼が、残りの兵士達を組み伏せ、間をおかず首を食いちぎる。顔にニキビのある若い兵士は、真っ先に餌食になった。悲鳴など、あがる余地もない。八人の兵士が、瞬く間に命を落とした。狼たちは食いちぎった首を地面に押しつけ、鮮血が吹き出す音さえも殺していた。

やがて完全に抵抗が止む。気配だけではなく、音すらもが無くなる。

無数の狼が、気配を消したまま、メルトラード盆地に向け、包囲を縮めていく。その途中にいたレンジャー部隊の兵士達は、恐怖の外敵の接近さえ把握できないうちに命を落としていった。それはまさに、一方的な虐殺。レンジャー部隊に油断はなかった。相手が悪すぎたのである。全く未知の能力を持つ相手が、組織的に襲ってきて、対応できる者などほとんどいない。

バフォートが組織したレンジャー部隊は、見る間に半減。更に殆ど時をおかず、四半減しつつあった。

第七機動部隊の長は、コンドウ小佐。バフォートが手塩に掛けた武人であり、今年四十七才になる。自分より一回り年下の主君に心からの忠誠を尽くしている人物であり、巌のような小柄な体を、軽めの鱗鎧で包んでいる。緑色に塗装したそれは、竜鱗を要所に使った重厚なものであり、それだけでこの男の重厚な戦歴を伺わせる。事実この男は大佐に昇格していてもおかしくない軍功の持ち主であり、バフォートはそれにふさわしい評価をしていた。顔中赤い髭だらけにしている彼は、最近結婚した妻がこの三月に第二子を出産し、少し性格がまるくなったと噂されていた。だがフルフェイスの兜を被っている今は、どんな表情をしているのかは、周囲からは見えない。

戦場では、コンドウは鬼の上官として兵士達に恐れられている。コンドウは自分にも他人にも厳しい男であった。一番自分に厳しいのだが、それを兵士達は理解できない。だから、コンドウの姿を見るだけで、誰もが緊張する。それが軍の綱紀を引き締める、ほどよいスパイスとして作用する。

今も、コンドウは兵士達の様子に気を配っていた。視線の先の若い兵士達が萎縮するが、別に構わない。上官を侮る兵士は、ろくな死に方をしないからだ。交代中と言うこともあり、特に状況に注意していたコンドウは、野戦陣地の中で異変に気付いた。山の方をじっと見つめていたコンドウが、不意に飛び退く。草が揺れる。

「隊長?」

声を上げかけた若い兵士に、虎ほども体格がある白い狼が、突如躍りかかる。闇の中から突然現れたかのようなその姿に驚いている暇はない。狼は疾風のようにコンドウの脇を駆け抜けると、野戦陣地の中に突入。見張りに着いていた兵士が悲鳴を上げる前に組み伏せ、首をたやすく食いちぎった。声を上げようとするコンドウに、再びほんの僅かな殺気が襲いかかる。素早く抜刀したコンドウの右手が止まる。気付いたのだ。此処にいてはいけない男の気配に。

そいつの姿を、二十年前、コンドウは戦場で何度も見た。そのたびに味方がミンチにされ、悲鳴を上げながら潰された。まだ若かったコンドウは、身動き一つ出来なかった。その恐るべき存在が、槍を手にして眼前にいる。

自分を殺すべく、狙っている。

まずい。逃げなくては。知らせなくては。いや、兵士達を一人でも救わなくては。

一瞬の思考の混乱が、全ての終わりを招いた。

コンドウの、剣を握った右腕がかき消える。そして、藪の中から、その男が躍り出る。反応が後れたコンドウの胸を、巨大な戦槍が貫いた。鎧の隙間を縫った、憎たらしいまでに完璧な一撃だった。声など出せない。うめきだけが漏れる。口の中が血で一杯になる。視界が赤く染まっていく。槍でコンドウをいとも簡単に貫いた「奴」が、ぎりぎり聞こえる小声で言う。

「衰えたな、コンドウ。 昔のお前なら、悲鳴くらいは上げられただろうに」

槍が持ち上がり、コンドウの足が地面から離れた。奴は、殺しの感触を楽しんでいる。二十年前と同じだ。

赤い悪魔。人間破城槌。悪鬼。クーゲル=リヒターが、コンドウの前で笑っていた。

急速に体から力が抜けていく。せめて、敬愛する上司に、この異変を伝えなくてはならない。さっき消えた右腕が、地面に落ちていた。目に見えない何者かに食いちぎられ、吐き捨てられたのだと、他人事のように理解した。これでは、家に戻っても、二人の子供を抱き上げることが出来ない。

バフォートに、知らせなければ。どうすればいいか。落ち行く意識の中で、コンドウは気付く。最後の力を振り絞り、ぐっとクーゲルをにらみ付ける。残った殺気の全てを叩きつける。

クーゲルは表情一つ変えず、つまり笑みを揺るがさず。槍に力を込め、更に深くコンドウを貫いた。

残っていた意識が、この瞬間消し飛んだ。

最後の瞬間、コンドウの脳裏には、まだ若い妻と、幼い子供達の姿が映っていた。最後にコンドウが考えたのは、彼女らへの、謝罪だった。

帰れなくて、すまない。

その思考は、誰にも伝わることなく。夜の闇の中、泡のように消えた。

 

天幕の中目を覚ましたバフォートは、周囲を見回す。殺気を感じたのだ。微弱ではあったが、それは確かに殺気だった。

盆地周辺の森は、レンジャー部隊が展開しているはずだ。処理し損なった猛獣と交戦した可能性もあるが、どうも嫌な胸騒ぎがする。彼処にはバフォートが信頼するコンドウ少佐を配置してある。バフォートが鍛え上げた精鋭部隊もいる。何かあったとしても、すぐにはやられないはずだ。

それでも、常に最悪の事態を想定するのが、指揮官のつとめだ。

天幕を出ると、こんな真夜中にも関わらず、護衛の兵士達は眠い雰囲気も見せず佇立していた。彼らに敬礼してから、伝令役を呼び出す。全軍に警戒態勢を取らせた方が良い。それと、特殊部隊の長であるゲンメイ大佐を呼び出す。影のように気配が薄い彼に、森に展開しているレンジャー部隊と連絡を取るように指示。少しして、幹部達が集まってきた。一番年かさの参謀長ニッチェが言う。長い白髭が目立つ、細目の老人だ。

「何事ですか、剣豪バフォート」

「何か周囲の森で異変が生じた可能性があります。 全軍に警戒態勢を取らせた方が良いと思うのですが、どうでしょうか」

「確かに、夜襲をするには最適の時間帯ですが」

夜襲は明け方に行うものだ。かの時間こそは兵士達の疲労と油断がピークに達しているからである。兵学の初歩だが、だから故に有効だ。しかしながら、ニッチェの言葉には、皮肉がありありとにじみ出ていた。重度の警戒網を敷くこの作戦行動はバフォートの独断に近く、他の師団に情報も知らせていない。最近では中軍の士官も、中央でうごめく貴族や豪族達に抱き込まれ始めており、ニッチェもその一人なのだ。ニッチェは最初からこの作戦行動に反対していた。他の師団長達に阿ってのことである。

「しかし、周囲は貴方の指示で、レンジャー部隊が警戒しているはずです。 もちろん、何かあったら知らせてくるでしょう。 そうでなければ全滅したと言うことでしょうが、高度なレンジャー訓練を受けた彼らが、手もなく破れるとは考えられません」

「もちろんその言葉は正しいです。 だが、私は確かにあの森で僅かな殺気が漏れるのを感じました。 演習中で兵士が殺気立っていたり、或いは処理し損ねた猛獣と交戦した可能性もありますが、放置はしておけないでしょう」

困惑した顔を見合わせる参謀達。バフォートは強引に伝令兵達に事態を伝え、出立させた。伝令兵達は、皆歴戦の猛者から選抜されたエリートだ。知勇共に優れた彼らは戦術判断能力を持ち、かなりの精度で情報を伝達する事が出来る。冷めた笑顔を浮かべているニッチェの意図はバフォートには読める。この独断行動を、いざというときにバフォートをおとしめるための材料とするつもりなのだろう。

今は権力のバランスと敵であるシグザール王国の存在で、どうにか立っているバフォートである。いざとなったら、簡単に引きずり下ろされてしまう自分の地位の危うさが、バフォートには恨めしくもあり、気楽でもある。もう何もかも投げ出したいと、時々は思う。

一端幹部達を己の宿舎に戻すと、バフォートは早朝でまだ寒いにも関わらず、持ち運び式のテーブルに着き、自分で火に掛けたお湯を飲み始めた。剣の才能は無かったが、体力だけは若い頃から自信がある。厳しい修行に耐え抜くことが出来たのも、人並み外れた体力があっての事だ。若い頃に比べると流石に衰えも出始めたが、今ではスキルと経験でカバーできる。体力を消耗しないように過ごす方法は、実は幾らでもあるのだ。

お湯をもう一口飲もうとしたところで、再び殺気を感じた。それはほんの一瞬のことであったが、バフォートの手を止めるには充分だった。慌ててお湯を飲み干すと、物見櫓に走る。ぎしぎし鳴る木製の梯子を一気に登り上がると、殺気がした方、第三師団と中軍の丁度中間地点ほどを見る。

馬が倒れている。伝令兵も、その側に転がっていた。

どうやら最悪の予想が的中したらしいと、バフォートは知った。

「総員戦闘準備! 敵の奇襲です!」

鋭くバフォートが叫ぶ。困惑する兵士達の中で、ベテランの中級指揮官クラスが、血相を変えて己の担当部署に駆けだしていく。一気に陣が殺気立ち、バフォートは鎧の状態を再確認すると、物見櫓を出来る限りの速度で降りる。

慌てて再び集まってきた幹部達に、バフォートは殺気だった目を向ける。ニッチェなどは露骨に不審の視線を向けてきており、それが戦場に慣れたバフォートの神経を悪い意味で刺激したのだ。

「遅い! これは実戦です。 あなたたちが兵士達より早く反応しなくてどうしますか!」

「は、はあ。 しかし、戦闘準備といっても、敵は誰で、一体どこ…」

ニッチェは言い終えることが出来なかった。彼も気付いたのだ。

周囲に展開している五個師団全てから、殆ど同時に殺気が吹き上がり、悲鳴と怒号が沸き上がったことに。絶句するニッチェに、バフォートは言う。

「敵は恐らく、シグザール王国軍騎士団! しかも奴らは、途方も無い新戦術を用意し、我らに襲いかかってきている可能性が高い! すぐに総力戦を準備してください!」

「す、すぐ周囲の師団に援軍を派遣しますか!?」

「それでは兵力の逐次投入になります。 まずは偵察兵を派遣し、様子を見てください」

本当はバフォートが大物見に出たいほどなのだが、状況がそれを許さない。奇襲をしのぐには、指揮官の冷静沈着な行動が必要不可欠だ。相手の戦力と攻撃方向を探り、場合によっては突破戦力を編成しなければならない。

森の方から感じた殺気は、コンドウが最後の力を振り絞って、自分に向けてくれたメッセージだったのだ。それを悟ったバフォートは、己の不甲斐なさに歯がみしていた。

やがて、陣の防衛体制が整う。バフォートは愛馬に乗って素早く門の近くにまで出る。状況を見極め次第、すぐに援軍に出るためだ。偵察に出した熟練の兵士達が、遠目にもばたばたと倒されていくのが見えた。しかも、敵は全く見えない。兵士達が蒼白になっている。何が起こっているのか、彼らにも理解できないのだろう。

「状況探査系の能力者は!?」

「今起こして、探らせています!」

ばりばりという凄まじい音。中軍司令部の方にあるテントがつぶれ、兵士達が悲鳴を上げる。まずい。パニックの一歩手前だ。

びっこを引きながら、兵士が一人バフォートの前に。情報収集能力者であるキルティアにつけていた、腕利きの一人だ。左腕があらぬ方向にへし折れ、鎧には大量の鮮血を被っていた。戦友に支えられた彼は、無念そうにバフォートの前に膝を突く。

「報告! 情報収集能力者キルティア様、何者かに殺害されました!」

「状況を。 どうやって殺されたのですか?」

「は、はい! いきなりキルティア様の上半身が、その、なくなりました! 血が吹き上げた時、何かが一瞬見えたようなのですが、正体はよく分かりません! 護衛の兵士達もそれに続いて吹き飛ばされ、私だけどうにか」

キルティアは戦闘能力が低い、探索特化型の能力者だ。周囲二十里ほどの情報を、特定条件が揃えば確認することが出来る。大陸でも珍しいレアスキルの持ち主であるが、シグザール王国にも似たような存在がいると聞いたことがある。それよりも、問題はキルティアには腕利きを複数つけていたことだ。ニッチェが震える声を絞り出す。

「どうやって吹き飛ばされた! 術か?」

「いえ、その気配はありませんでした。 おそらくは、物理的な攻撃かと……!」

「! そうなると、考えられる事は」

気配が異常に薄い相手だと言うことは、第八機動部隊と第九遊撃中隊が手もなく全滅した事から分かる。しかし、誰も何も見なかったというのはどういう事だ。考え込むバフォートは、その可能性に思いついた。

「見えない、或いは姿を隠す能力を持つ、大型の生物か」

「そ、そんな怪物がいるのですか!?」

「それしか考えられません。 すぐに各指揮官達を私の周囲に! 或いは、上級の騎士と一緒に行動させるようにしてください!」

先手を取られっぱなしだ。どうにかして、此処で巻き返さなければならない。物見櫓に登っていた士官が、降りてきて敬礼。中隊長クラスの待遇を受けている情報士官だ。当然戦術眼を備えていて、報告の信頼性は高い。

「報告します! 第三師団陣地にて、敵影確認!」

「どのような相手ですか?」

「はっ! そ、それが! 巨大な狼が、およそ200! 全身銀毛で、牛のような大きさです! それと同時に、モアに似た大型の鳥がおよそ100! それらが、考えられないのですが、組織的に第三師団陣地で暴れ回っています! 第三師団は支離滅裂の状況で、恐れながら、既に首脳部は全滅状態かと思われます」

絶望的な報告だった。他の師団も、似たような状況であることが、容易に推察される。

動物を兵器として活用する技術は、バフォートも知っているし、日常的に触ってもいる。伝書鳩がそうだし、軍用犬や馬もそうだ。世界は広い。牛のようなサイズの狼や、組織的に動き回ることが出来る鳥もいるかも知れない。だが、それが自然に群れを成し、ピンポイントでこの軍を狙ってくることはあり得ない。やはり、敵はシグザール王国騎士団に間違いない。

この辺りの山は天敵が多いため、最初から伝書鳩は連れてきていなかった。それを歯がみする。もっとも、伝書鳩がいたところで、この状況下役に立ったかは分からない。敵も当然対策をしてきていただろう。

「総員出撃準備! 突破を計ります!」

あわただしく馬に乗る下級指揮官達。一兵卒達はあわただしく駆け回り、その中で秩序が整えられていく。すぐに回復技能を持つ能力者達が待機に入り、戦闘開始に備える。既に詠唱を始めている攻撃向き能力者もいた。キルティアを暗殺した相手が気になるが、今は構っていられない。少なくとも、混乱を鎮める方が先だ。混乱を防ぐには、指揮官が冷静である事と、それに付随して一方向的な命令を出すのが最適である。

野戦陣地の門が開く。指揮剣を振り上げようとしたバフォートの耳に、「それ」が届いたのは、次の瞬間だった。

 

遠めがねで戦況を覗いていたカミラは、思わずほくそ笑んでいた。

完璧に計画通りだ。ヤクトウォルフは森の中では最高の機動性能を発揮し、良く訓練されたレンジャー部隊に接近を悟らせなかった。更に念のために行ってもらったクーゲルも、指揮官の暗殺に失敗したステルスリザードのミスを即座にカバー。敵機動偵察部隊を完全に殲滅せしめた。

彼らの使っていた野戦陣地に既に司令部は移している。この時点で、味方の損害は無し。殺しがしたくてうずうずしているエンデルクと、今殺したばかりで満足げなクーゲルを左右に、カミラは伝令兵に命令を下す。

「特務第一中隊は死体の処理開始。 クリーチャーウェポン五個大隊を、予定通りの攻撃行動に移せ! ステルスリザード部隊に命令! 暗殺を実行せよ!」

「はっ!」

伝令兵が敬礼し、独自の成分をしみこませた薪をすぐに盆地の風上からくべる。人間にはかぎ取れない上、透明な煙を出す。お抱えの錬金術師達に開発させた軍用物資である。少々値は張るが、軍をまともに動かすのに比べれば微々たる額だ。

今回作戦行動に参加させているステルスリザードは150。そのうち100を、昨日演習が終わってすぐに、敵陣近くに潜り込ませている。残り50は予備戦力だ。

彼らには事前に命令を幾つか与えてある。一部隊はバフォートのいる中軍師団周囲に展開。10頭ほどは盆地に潜り込ませてある。それらは中軍陣地周辺で展開、伝令を見かけ次第殺す。もう10頭は、中軍陣地に潜入。バフォートおよび上級騎士級の達人には近づかないように気をつけながら、太鼓を叩く兵士を制圧。それと同時に、情報収集系能力者のキルティアを暗殺する。

キルティアはシグザール王国騎士団にいるジェニスの異母姉妹であり、能力も似ている。本人はその事実を知らない。もちろん、カミラにそれを知らせる気はなかった。

他のステルスリザード隊合計80は、分散して他の五個師団に潜り込ませる。既に上級騎士やそれに匹敵する実力者の顔はここ数年の綿密な調査で割れているので、そいつらには近寄らせず、全師団同時に首脳部を潰させる。その後はステルス性にものを言わせて、中級、下級指揮官を潰しながら、特に伝令、および情報伝達用の太鼓を破砕する。

側に来ていたジェニスが、少し青ざめながらも言う。

「第一、第二師団、司令部に近づけません。 上級騎士が護衛に付いています」

「ほう。 流石に腐敗はしていても武の国だな」

エンデルクが口の端をつり上げる。少しは障害があった方が面白いというのであろう。

「第四師団、ステルスリザードが師団長暗殺に成功! 同時に護衛六名、副官、副司令官、参謀長に攻撃! 全滅させることに成功しました」

「第四師団に向け、攻撃開始! 第四クリーチャーウェポン大隊、突入せよ!」

寝そべって茂みの中に伏せていたおよそ200のヤクトウォルフと、100のテンペストモアが立ち上がる。そして音もなく、疾風のように敵陣へ襲いかかった。状況を確認すべく、カミラは遠めがねを覗き込む。空が白み始めていた。第三師団、第五師団、それに第四師団でもほぼ同じ情報が報告される。全く同じ命令がくだされ、クリーチャーウェポン部隊が動き出す。第一、第二師団にも攻撃を開始する。

ヤクトウォルフが走る。そして、馬防柵をいとも簡単に跳び越え、何事かと驚く兵士達の中に割り込むと、容赦なく手近な兵士の首を食いちぎる。もちろん指揮官からだ。わっと散る兵士達を追うようにして、次々とヤクトウォルフが柵を跳び越える。そのうち数体が、柵を内側から噛み、引き倒した。他の個体は柵周辺の兵士を殲滅開始。空いた柵から、テンペストモアが低い体勢で、どっとなだれ込む。

必死に矢を放つ兵士だが、ヤクトウォルフは残像を残して伏せ、一瞬後に飛びつく。次の瞬間には、兵士の首は食いちぎられ、その辺に転がっていた。ヤクトウォルフが展開したのは、フォレストタイガーなどが持つ瞬間身体強化能力、いわゆるオーヴァードライブだ。ヤクトウォルフの場合、瞬間的な筋力強化を特に重視している。ただでさえ虎よりも強いヤクトウォルフが、頑強な肉体をさらに強化する時、その破壊力は人知を越える。クーゲルでさえ、初見では手こずらされたのだ。

もちろん、大陸最強の軍の一角である竜軍である。抵抗も激しい。能力者も多くいる。簡単に制圧というわけにはいかない。それにこれが緒戦でなければ、突破は難しかっただろう。

「ほう、これはこれは」

遠めがねを覗き込んでいるカミラの横で、エンデルクが笑う。裸眼で見えているらしい。カミラもこの男とは直接刃を交えたくないなと思う。ただ、戦況については笑みを殺すのが難しかった。

カミラの見ている先で、炎を操る能力者が、巨大な火球をヤクトウォルフに叩きつける。だが、一瞬早く地面を横滑りするようにして割り込んだテンペストモアが神の祝福を展開。薄い魔力の膜に、炎は弾き散らされた。防御するのではなく、直撃を逸らすタイプの能力だから、ノーダメージとは行かない。だが巨体を誇るテンペストモアの前には、多少の術攻撃など問題にはならない。それは実戦で証明されている。事実、テンペストモアの羽毛が多少焦げただけで、火球は四散する。

自慢の術を打ち破られ、呆然とする能力者に、数頭のヤクトウォルフが飛びつき、見る間にミンチにしてしまった。当然の結果だ。

攻撃と防御の完全なるコンビネーション。全く別種の動物がそれを行っているのだ。兵士達の動揺は一瞬ごとに大きくなる。それを立て直す暇など無い。

まだ抵抗する部隊も多い。だが、矢も、術も、即座にテンペストモアが反応。神の祝福を使って弾き散らしてしまう。もちろんいくらかは有効打を示す。防御をかいくぐって突き刺さる矢もあるし、炸裂するいかづちもある。だが、テンペストモアは己の傷をまるで顧みず、そのまま口から頑強な舌を超高速で繰り出し、目の前の能力者や兵士を串刺しにした。もちろん、肉には見向きもしない。その非生物的な行動が、さらなる恐怖を敵に与える。

組織的な抵抗を試み、兵士達を叱咤していた指揮官の首がいきなりかき消える。同時に、弓に矢をつがえようとしていた兵士達が、まとめて数人吹っ飛ばされた。指揮官を潰し終えたステルスリザードが、攻撃に参加し始めたのだ。

ステルスリザードは姿と気配を消すことに特化したクリーチャーウェポンだ。他に大した能力はないが、とにかく体が大きいので、分厚い筋肉の束である尻尾による一撃も、顎による噛みつきも、人間には充分に致命傷となる。何よりも、何もない空間からいきなり攻撃されるという恐怖がもたらす心理的圧迫感が大きい。混乱は極に達する。それを、クリーチャーウェポン達は見逃さない。

後は、殆どただの虐殺だ。抵抗が潰えるまで、わずか半刻。

クーゲルが第三師団陣地に乗り込む。他の何人かの騎士もだ。臭いを既にクリーチャーウェポン達に覚えさせているので、彼らが味方から攻撃を受けることはない。それに、仮に受けても対処できるレベルの能力者が揃っている。

騎士達が出かけた理由は簡単だ。敵陣の中で抵抗している上級騎士などの、クリーチャーウェポンには手に余る能力者を屠るためである。そのまま抵抗を許すと、兵士達が彼らを軸に固まり、組織的抵抗に発展する可能性がある。それは看過できない。

既に厄介な相手には遠巻きにクリーチャーウェポンがまとわりついている。テンペストモアが一定距離を保ちながら包囲し、他への手出しをさせない。もちろん、隙を見ては舌を使ってのヒットアンドアウェイ攻撃を仕掛けている。

歯がみする長髪の青年が、剣を振るって吠えている。その体は既に傷だらけで、周囲は死体の山だ。カミラはその男を知っていた。若くしてドムハイト軍騎士団の上位に上り詰めた天才剣士だ。彼の眼前に飛び出したクーゲルの、途轍もなく嬉しそうな笑顔を、カミラは遠めがね越しに見た。

青年は、かなりの、いや相当な腕だ。決してクーゲルに劣る使い手ではない。だが疲労と混乱が、彼の力を落としていた。クーゲルが吠え、その全身が真っ赤なオーラに包まれる。一斉にクリーチャーウェポン達が退く。剣を構えようとする長髪の剣士。突撃するクーゲル。振り下ろされた剣が、強烈な風圧と魔力を伴ってクーゲルの槍を止める。だが、それも一瞬だった。

剣が砕けた。

殆ど間をおかず、青年の体に槍が食い込む。断末魔はない。そのまま赤い破城槌と化したクーゲルが、敵の体を木っ端微塵にしてしまったからだ。クーゲルはその長大な体躯の五十倍ほども殺意に任せて直進し、その途上にいた敵兵士を皆ミンチにした。千切れた腕や首が、辺りに飛び散り、転がる。

クーゲルが吠え猛る。赤い悪鬼。人間破城槌。その言葉の通りの姿であった。殺したりない。まだ殺したい。そうクーゲルの殺気は主張している。槍を振り回して手当たり次第に周囲の兵士を殺戮するクーゲルの目は爛々と輝き、口元は最上の笑みを浮かべている。青い鎧は、既に返り血で真っ赤だ。クリーチャーウェポン達は、事前にしっかり教育しているので、クーゲルの周囲には絶対に近づかない。

脇で戦況を見ている若い騎士に、カミラは言う。この若い騎士には、まだクリーチャーウェポン達と同じ教育をしていなかったからだ。

「戦闘中のクーゲル先生には、絶対に近づかないように」

「はいっ! ぜ、ぜ、絶対に近づきません!」

吐きそうな顔のその騎士は、まだ若い。若いと言ってもカミラよりは年上のはずなのだが、こればかりは仕方がないだろう。

ほどなく、残敵が逃げ始める。同時に命令を切り替える。違う薪がくべられ、敵第四師団の方へ、風向きを計算しながら煙が流し込まれる。また、何人かの兵士が掌に収まるサイズの犬笛を吹く。金属製のそれは、闇の中、たき火を反射して鈍く輝いていた。テンペストモアとヤクトウォルフを遠隔操作するための道具だ。金型で量産したものだが、内部に特別な溝が掘ってあり、音を再現することはまずできない。逃げ始める兵士を中軍師団の方へと追い込む。他の方へ逃げようとする兵士は皆殺しだ。このためにも、ステルスリザードを周辺に配している。

クーゲルは戦闘が掃討戦に移ったのを見ると、まだ抵抗を続けている第二師団の方へ駆け出す。まだまだ殺したり無いのだろう。カミラが見たところ、もう五十人は殺しているはずだが。

「敵第四師団、支離滅裂! 抵抗は完全に沈黙しました!」

「敵第五師団、第五クリーチャーウェポン大隊突入開始。 抵抗を排除しつつあり」

「敵第三師団、抵抗沈黙! 敗残兵を、竜軍中軍師団に追い込みます!」

命令が次々に飛び込んでくる。此処までは順調だ。第一師団と第二師団はまだ頑強に抵抗している。現時点でヤクトウォルフ10頭、テンペストモア7頭が倒されているが、その殆どが両師団による被害だ。制圧した師団の陣には掃討および防衛線構築用の戦力を僅かに残し、第一、第二師団にクリーチャーウェポンが大挙して向かう。

手近にはまだ若干クリーチャーウェポンが残っているが、これは中軍が突破にかけて動き出した時に用いる。

やがて、予想通り。状況を見極めたバフォートが、突破に向けて動き出すのが見えた。迅速に騎馬隊が用意され、能力者達が準備をしている。既にキルティアを潰しているのは確認済みなので、多少は気が楽だ。カミラが片手を上げると、茂みに伏せていたタイタス・ビースト改が巨体を持ち上げ、立ち上がる。人間の数十倍の体重を誇る巨大なそのクリーチャーウェポンは、対バフォート用の切り札。目も口も長い毛に覆われて殆ど外からは見えない。口元から覗く一対の長い牙は、微動だにしない。感情に類するものは一切与えていないのだ。

エンデルクは殺戮劇を見るのが楽しいらしく、カミラに向けて指示を出すように視線で合図してきた。カミラは頷くと、力強い声で部下達に呼びかける。

「まずは狂馬の唄! 長距離遠隔放出攻撃、用意!」

タイタス・ビーストが四肢で地面に踏ん張り、大きく口を開ける。長い牙と裏腹に、口の中にあるのは臼歯ばかりだ。また、毛に隠れていた青い目は丸く、そして大きい。観測手が何度か方角と、攻撃範囲を調整。観測手が、カミラに向けて、攻撃準備完了の合図を出す。カミラが、振り上げた手を下ろした。

「撃て!」

人間の耳では感じることも、聞き取ることも出来ない音波の暴力が、バフォートの陣に向け放たれた。

 

バフォートが違和感を感じるのと、陣が乱れるのは同時だった。

馬が竿立ちになり、なだめようとする兵士を踏みつぶす。いきなり走り出した黒馬が、柵に頭から激突して串刺しになった。振り落とされた騎士が、別の馬に踏みつぶされて息絶える。バフォートは優れた身体能力を駆使して愛馬から飛び降りると、必死に周囲の状況を把握に掛かった。

馬たちは怯えている。それが、狂乱の原因だ。

馬は元々臆病な生物で、未知の音、動物に対しては著しい恐怖を抱く。戦闘用に訓練した馬は、戦場の音に慣れてはいる。だが、そのほかの音に対して抵抗力があるわけではない。軍馬が暴れ出して飼育係をけり殺した例など、幾らでもある。

「くっ! これも敵は予想済みというわけですか!」

「剣豪殿っ!」

どうにか馬から下りることが出来たらしい参謀長が駆けてくる。その体が、いきなり真横に吹っ飛んだ。くの字にへし折れて即死だ。剣を抜いたバフォートは、何もないように見える空間に向けて跳躍。轟音と共に剣を振り下ろす。地面が砕け、そして大量の鮮血が飛び散った。

徐々に、真っ二つにされたそれが姿を現す。

全長は人間の五倍、いや六倍はあろうか。超大型のトカゲだ。頭には五本の角が放射状に生えており、口には鋭い牙もある。舌先は二またに分かれており、目にはまぶたがあった。瞳は濃い青で、いざ姿を見せると、全身は濃緑色であった。四本の指先は吸盤が着いていた。しっぽは太くたくましい。これで殴られれば、人間などひとたまりもない。

突然現れた巨大な生物の死骸に、若い女の兵士が悲鳴を上げた。混乱を治めるのは中級指揮官に任せ、バフォートは状況を整理する。

「これが、暗殺を行っていた生物ですか」

「剣豪殿、これは、やはり」

副参謀長が、即死した上官のまぶたを閉じながら問うと、バフォートは慄然と言った。自分に否定的で、寝首を掻くことを狙っていた参謀長だったが、それでもこの死に様は悲惨だと思えたからだ。

「シグザール王国騎士団の攻撃に間違いありません。 全員、馬は捨てるように。 こうなったら、第一、第二師団と合流、一丸となって徒歩で突破します」

「陣を捨てるのですか? 援軍を待つ方が良いのでは?」

「仕方がありません。 見ての通り、奇襲とはいえ敵は300程度で一個師団を蹂躙するような相手です。 既存の防御陣地など、役には立たないでしょう。 援軍が来たところで、多少の兵力では返り討ちに遭うだけです。 今は一人でも多くの兵士を、故郷に逃がすのが先決です。 今回敵が使っているのは、いずれも奇襲的な戦術ばかり。 誰かが逃げ延びさえすれば、対抗策は後から幾らでも作ることが出来ます。 そうすれば、勝機はあります」

その言葉が終わらないうちに、第四、第五、それに第三師団の敗残兵達が、中軍師団になだれ込んできた。負傷兵ばかりである。バフォートは敵の狙いが分かり、慄然とする。此方の足を少しでも遅くして、逃れるのを困難にするつもりなのだ。此方は突破戦の時、負傷兵を内側に庇わざるをえないのだ。

太鼓台が倒される。悲鳴を上げながら兵士達が投げ出され、地面に叩きつけられ熟れた赤い果実のようにつぶれた。あのオオトカゲの仕業に間違いなかった。既存の戦術は、もう全て通用しないと考えるべきかも知れない。頭から血を流した情報士官が、バフォートに敬礼した。

「第二師団、陣を放棄し、中軍に向かっています。 師団長は逃げ延びた模様です。 残存戦力は、およそ四割程かと。 師団長と共に、此方へ向かっています」

「第一師団は?」

「第一師団も、何カ所かで防御柵が突破されました。 内部で敵が殲滅戦を展開しているようです。 既に抵抗を諦めた兵士達が中軍に逃げ始めています。 師団長は、護衛達に守られて、此方に向かっているようです。 どんなに楽観的に予想しても、まもなく、陣は落ちるでしょう」

どうやら、我らは完全に袋のネズミとなったようだと、バフォートは呻いた。敵は意図的に、中軍に戦力を追い込んでいる。急いで出動するべきだったのだろうかと、バフォートは自問自答する。そこで気付く。

敵は、バフォートの性格さえも、作戦に盛り込んでいたのではないか。着実に対処をする手腕が、全て逆手に取られているのは、そうだとしか考えられない。だとすると、無理に突破作戦を図ろうとするのも、予想の範囲内なのではないか。かといって、陣にとどまるのも、敵は予想している気がする。ひょっとすると、最初に拙速を尊んで強行突破を計っていれば、逃れることは出来たのかも知れない。唇を噛む。

このままだとじり貧だ。敵の出してきているカードに、味方は抵抗する術を持たない。だが、陣に逃げ込んできた者達は、皆敵の動きや、姿を見ている。ということは、今までよりは少しはましな状況だと言うことだ。敵が切っているカードはいずれも奇襲に属するもので、しのぎきれば勝てる可能性もある。まだ、諦めるのは早い。

混乱が静まってきている。馬は一カ所に集められ、柵に押し込まれた。兵士達はめいめい緊張を顔に湛え、不安を消しきれないまま、バフォートの指示を待っている。

「強行突破戦用意!」

バフォートが叫ぶと、兵士達は蒼白になった。もっとも過酷と言われる突破撤退戦が、これから今までにない厳しさで待ち受けていることを悟ったからだった。

 

敵陣を観察し続けていたジェニスが、ため息をつく。額にはびっしり汗が浮かんでいた。顔も青ざめている。

「第一、第二師団制圧。 敵敗走兵の追い込みほぼ完了。 敵の残存戦力は、17000強程度かと思われます」

「上出来だな、聖騎士カミラ。 確か貴官の予想では、この時点でまだ20000は残っているのではなかったか?」

ジェニスの言葉に、好戦的な笑みを浮かべながらエンデルクは言う。バフォートを殺す瞬間が楽しみで仕方がないらしい。カミラは冷静に状況を頭に入れながら応える。

「確かに予想よりもハイペースですが、味方の被害も大きいです。 油断は禁物でしょう」

既にクリーチャーウェポンの被害は、死傷80を超えている。半分程度は負傷だが、予想よりも遙かに大きい。

クーゲルが大量の返り血を浴びて真っ赤なまま、野戦陣地に戻ってきた。第二師団陣地で三人上級騎士を殺した後、まだ足りないとよそへ移動。今度は第一師団陣地に殴り込み、暴れ回っていた所まではカミラも確認していた。一般の兵士を含めると、合計で百五十名は殺しただろう。これでトータル殺戮数は550を超え、歴代の騎士団の記録でも上位に入る。冒険者として殺した数を含めると、600に達するかも知れない。

老いてもなお衰えないこの赤い悪鬼は、どっかと岩に腰掛けると、肉と水を部下に要求。顔中に掛かっている血や肉片を拭こうともしない。幼さを顔に残した女騎士が震えながら差し出した肉を、クーゲルは乱暴に受け取り、貪り食い、水を呷るようにして飲んだ。この女騎士も剣の腕を買われて騎士団に入った者で、普段は肝も据わっている。だが、それでもクーゲルの戦いぶりを見ると、平静ではいられないのだろう。

クーゲルも無傷というわけではなく、矢傷を二カ所に受けていた。回復系の術者がすぐに対応を始める。凄い血臭がカミラの元まで漂ってくる。回復系の術者は五人連れてきているが、いずれも補助の兵士達と組んで作業を行う。矢に触れて状態を確認してから、鎧を外し、一気に引き抜く。鏃が抜ける音がした。

鎧に阻まれて刺さり方は浅かった。一連の動作中、クーゲルは眉一つ動かさなかった。今回の処置は楽に済んだが、鏃が骨まで食い込んでいる場合もある。そう言う時は、骨を削って鏃を取り出すのだ。カミラも一度やったことがあるが、普通の人間ならまず気絶する。作業中に失禁する者さえいるほどだ。クーゲルは眉一つ動かさないような気がするが、それはいくら何でもカミラの買いかぶりすぎかも知れない。

おいおい他の聖騎士や上級騎士達も戻ってきて、戦果を報告。第一、第二師団にいた上級騎士以外は、あらかた討ち果たした様子であった。第一、第二師団の標的も、かなりの数を仕留めている。この戦いだけで、この大陸で名の知れた武人が、どれだけ命を落とすのか。ある意味、歴史的な事件となるだろう。それなのに真相は表に出ることがない。皮肉な話であった。

制圧した陣地では、念入りに掃討戦が行われている。カミラが遠めがねを覗き込むと、補給物資の藁に隠れていた兵士が、ヤクトウォルフに引っ張り出されて八つ裂きにされていた。もちろん聞こえないが、断末魔が響くような気がして、実に甘美である。ジェニスが言う。

「敵中軍、残存戦力をほぼ収容した模様です。 兵力の再編成を開始した模様」

「よし、作戦を次の段階に進める」

エンデルクが言ったのは、いよいよ自分の出番だからだ。第一師団、第二師団に群がっていたクリーチャーウェポン達が、再び周囲の防衛線に混じっていく。中軍の周囲に展開していたステルスリザード達は、逃げる途中で力尽きて倒れている兵士達に念入りにとどめを刺していた。懸念事項は、中軍陣地内に潜り込んだステルスリザードが何体か倒されていることだ。

錬金術師の指示を受けた特務部隊の手によって、違う薪が焚かれる。中軍に入り込んでいるステルスリザードを、包囲戦力に合流させるのだ。とりあえず一定の効果は示したし、今後は乱戦の中で猛威を振るってもらうことになる。バフォートのことだから、既に対抗策を見つけている可能性もあり、陣地の中に放置しておいても無駄に失うだけだ。

タイタス・ビースト改が再び音波攻撃射出体勢に入る。敵陣をまとめて吹き飛ばすような破壊術とは無縁だが、この巨大なクリーチャーウェポンの放つ音波攻撃は、いずれも侮れない効果を持つ。事実、バフォートは突破戦の主力となる騎馬隊を失い、かなりの時間を混乱回復に費やした。もっとも、近接戦闘の能力はそれほどでもない。たとえばあのマルローネなどであれば、一人で仕留めてみせるだろう。もちろんカミラにも可能だ。このクリーチャーウェポンの近接戦闘時の利用価値は、その先にある。

「包囲網、完成しました」

「よし、聖騎士カミラよ。 後方指揮は貴官に任せる。 後は私が、前線に出る」

ジェニスの言葉に、エンデルクは剣を抜くと歩き出す。エンデルクと、他にも何名かの聖騎士がそれに続いた。カミラは敬礼してその背中を見送ると、部下達に指示を飛ばした。ステルスリザード達を排除したのには、もう一つ理由がある。次に仕掛ける攻撃が、殆ど全ての動物に聞くと言うことだ。

カミラが右手を挙げる。同時にタイタス・ビースト改が、再び上体を起こす。全身の筋肉が緊張し、射撃体勢に入る巨大なクリーチャーウェポン。うつろな瞳は、やはり何も見てはいなかった。

「第二射は擦過の唄! 長距離遠隔放出攻撃、用意!」

「方角、距離修正! 修正完了! いつでも放出可能です」

「よし……!」

カミラが手を振り下ろす。同時に、タイタス・ビースト改の口から、強い魔力を含んだ極めてたちが悪い音が放出される。間近だと、やはり僅かに漏れたそれが耳に届く。とんでもない不快感だ。

単に人間および知的生物に不快感を催させる音。それが、擦過の唄と呼ばれる能力だ。本当は周辺全体に展開し、敵を追い払うのに用いる、タイタス・ビースト族の特殊技能である。それをピンポイントに射出可能な形に、改造したのだ。

音が止む。遠めがねを覗き込む。そこには、カミラの予想外の光景が広がっていた。舌打ちする。今回の作戦で、初めての非効果的打撃だ。残りのクリーチャーウェポン部隊を全て動員するべくカミラは命令を下し、タイタス・ビースト改をも前線に向ける。

逃がすわけにはいかない。全力で突破は阻止する。

カミラは鋭く号令を下し、数百のクリーチャーウェポンの先頭に立ち、激しい戦いを開始した前衛の後を追った。

 

2,猛反

 

バフォートの前に、片足を引きずりながら、エシェルシが歩み寄ってきた。頭から血を流していて、如何に過酷な追撃戦を経験したのか一目瞭然だ。左右には、同じように大けがをした護衛の兵士達が付き添っていた。

唖然としているエシェルシに、バフォートは冷厳な事実を告げる。

「これから、突破撤退戦を試みます」

「う、馬を」

「馬は使えません。 敵、シグザール王国騎士団が作り出した奇怪な新戦術によって封じられてしまいました」

蒼白になり、エシェルシはひゅう、ひゅうと息を吐いた。兜を失い、禿げ掛かった頭が剥き出しになっている。髪は汗に濡れ、恐怖で顔中が引きつっていた。

「ど、どうして、援軍を、出してくれなかったのですか」

「出そうとしたところで、敵の攻撃で騎馬隊が稼働不能に陥りました。 それに、出したところで、どうにかなると思えましたか?」

ぎりぎりとエシェルシが歯を噛む。完全に冷静さを失っていた。わめき出さなかっただけで上出来だろう。ぶつぶつと呪詛を口にしていたが、聞いてやる義理はなかった。誰に向けて言っている訳でもなかったからだ。エシェルシはもう駄目かも知れない。恐怖が人間を壊すことは良くあるのだ。

彼の配下はどうにか四割程度、中軍本陣に逃げ込むことが出来た。だが、その状況はまさに地獄。震えて怯えきっている者がいた。呻きながら傷口を押さえて転がっている者もいた。逃げ込んできた敗残兵の内、戦えそうなのは、どうにか二千という所か。全滅状態と言うにふさわしい。

第二師団の司令部も、どうにか無事に逃げ込んでくる。キーニヒトも生きていた。しかし彼の配下達は第一師団とほぼ同じ比率の損害を受けていた。

キーニヒトは、左腕を失っていた。追いすがったシグザール軍聖騎士に斬り飛ばされたのだという。どうにかその聖騎士からは逃げ切ったが、彼を逃がすために護衛の騎士が四人命を落としたのだとか。傷口を強く布で縛っており、顔面蒼白で、愛人と噂される美貌の副司令に支えられていた。副司令は強力な回復系の術者であり、指揮手腕の割に地位が高い。バフォートも竜軍の人事を好きに出来るわけではなく、どうして出世したのかよく分からない士官は結構いる。

キーニヒトは地面に横たえられ、副司令の回復術を受けながら、呆然と空を見ていた。既に布は血で黒くなっている。うつろな視線の彼に、エシェルシと同じ事を告げる。キーニヒトは若い分、第一師団の司令官よりもだいぶ反応がましだった。

「他の師団は?」

「第三、第四、第五竜軍師団司令部は全滅。 戦力もほぼ壊滅。 生存者は全軍でどうにか17000強。 戦えるのは、その中で13000程度でしょう」

この時点で、死者は約33000。口に出すと、その凄まじい損害がよく分かる。竜軍がシグザール王国軍に敗退した第二次バッケイリュート峡谷会戦でも、損害は8000を超えなかったのだ。

「あ、あの狼は、鳥は、見えない奴は、な、なんなんだ」

「シグザール王国騎士団が、作り出したのか、操っているのか。 見たでしょう。 王国軍騎士が、奴らに混じって襲いかかってきた所を」

ぼんやりと空を見るキーニヒト。バフォートは副司令を呼ぶ。敬礼した彼は、再編成がだいたい完了した事を告げた。

敵は待ってくれないだろう。恐らく、短期決戦で勝負をつけようとするはずだ。陣に籠もって生き残る自信はない。とにかく強行突破し、一人でも多くの人間を逃すことだ。

もしこの戦いに負けたらどうなるのだろうと、バフォートは思った。竜軍六個師団五万が全滅したら、この大陸の軍事的パワーバランスは大きく崩れることになる。ドムハイトは支柱を失い、下手をすれば内部分裂。シグザール王国はそれを目論んでいるにしても、その後どうするつもりなのか。シグザール王国軍が攻め込んできたら、それを機に却ってドムハイト国内がまとまる可能性もある。竜軍が全滅しても、ドムハイトは滅びない。それは分かっているはずだ。

政治的な話は、バフォートには分からない。今は、目の前の戦いに集中しなければならない。

敵を一点突破したら、後は散開してめいめい勝手に逃げるようにと、兵士達に伝える。突破戦で、全滅を避けるための逃げ方だ。この場合、指揮官の戦死率が跳ね上がるが、それは構わない。

バフォートは味方を逃がすため、戦死するつもりだった。悪いが、司令部にもそれにつきあってもらうしかない。この盆地から逃げ延びれば、此処はドムハイト国内だ。何処にでも行ける。何名かの兵士に、バフォートの書状をもたせる。彼らは、命に代えても手紙を持ち出すと誓ってくれた。

兵達を集め、その先頭に立つ。

「よし、出陣する!」

「ははっ!」

部隊は約3000ずつ六個に分ける。先頭はバフォートが指揮し、どんな手を使ってでも敵陣を突破する。二つが支援を行い、一つが殿軍。残り二つは、負傷兵の部隊だ。彼らを守りながら、突破を目指す。

先頭部隊は、当然万が一も逃れることは出来ない。もっとも楽観的な予想をしても、生存率は10%を超えないだろう。それを告げて、バフォートは決死隊を集めた。いずれもバフォートと拮抗するか、それに近い戦歴を持つ猛者達だ。副司令官に殿軍を任せる。此方も相当な被害が予想される。生きて帰るのは難しいだろう。現在の副司令官は寡黙な大男で、ユンという短い名を持つ。目が異常に細く、長くて太い眉毛が妙な組み合わせを作り出しており、その異相から特に女性兵士達からは人気がない。更に不器用なので、食事のマナーは最悪で、いつも地面や鎧を落としたスープの具で汚している。ただし、責任感と行動力は本物で、頼りになる。ユンは告げた無茶な作戦を、無言で受け入れてくれた。バフォートはすまないと一言だけ吐くと、他の者達にも策を告げて回った。

具体的な作戦はこうだ。まず、殿軍が突入。その逆側の門から、主力が負傷兵達を護衛しながら出撃する。その後、殿軍が陣の中を突破しつつ、前衛を追う。前衛はそのまま敵を突破、左右軍と連携しながら穴を広げ、負傷兵達を逃がしつつ前進。後は全軍散開し、山岳部を突破する。山岳部さえ突破できれば、兵一万を抱えるゲルファルト家の領地だ。その隣にはインキニス家の領地も広がっている。

其処まで誰かが逃げ切れば、勝ちだ。

全軍が一気に緊張する。そして、バフォートが指揮剣を振り下ろした。

最初に飛び出したのは、副司令官が指揮する殿軍だ。はじかれたように門から飛び出し、喚声を上げながら突進する。遠くに見える包囲網が、微動だにしない。前衛が接触する。激しい戦いが始まる。もし突破できるのなら、そのまま抜けて良いと指示はしてある。指示はしてあったが、無駄に終わった。隣に控えている副官が、無念そうに言った。

「突破、出来ません」

見れば分かる。殆ど大人と子供の戦いだ。良いように踏みにじられるのを、どうにか避けている状況である。敵の組織的行動は殆ど異常で、突破しようとする部分を的確に補強しつつ、他の戦術的機動にもしっかり対応している。何か仕掛けがあるはずだが、今は分からない。

許せと口中で呟きながら、バフォートは続けて指揮剣を振り下ろす。前衛部隊が、バフォートを先頭に陣を飛び出す。左軍、右軍がそれに続き、殿が反転して陣に戻り、負傷兵の部隊と同時に飛び出そうとした、その瞬間だった。

耳触りな音が、バフォートの鼓膜を叩く。振り返っている暇はない。前に横に後ろに展開していた包囲網が、同時に一気に間合いを詰めてきたことが分かった。

「此処が正念場だ! 世界最強の、ドムハイト竜軍の誇りを見せてやれ!」

絶叫したバフォートに、左右の友軍達が歓声を上げる。

分厚い包囲網に向け、雄叫びを上げながら、バフォートは突入した。

 

一端陣地に引き返したユンは、あまりの損害に慄然としていた。彼と共に突入した殿軍3000の内、わずかな時間の戦いで200以上が失われていたのだ。分厚く布陣した鳥の群れを突破することも出来ず、恐ろしい勢いで襲いかかる狼をはねのけることも出来なかった。何より恐ろしいのは目に見えないオオトカゲで、奴の振り回す尻尾に不意を突かれて多くの兵がなぎ倒されたのだ。倒した敵は、果たして四体か、五体か。

前衛のバフォートが飛び出すのに合わせて陣に戻ったから、もう左軍も右軍も、陣地を飛び出した後だった。負傷兵の半数ほどと、殿軍だけが残っている。物資も馬も置いていくしかない。急いで陣を出るように指示するユンの耳に、それが直撃する。

ガラスをひっかくような、そんな不快な音を、何十倍にも増幅したかのような代物であった。

「ぎゃあああああああっ!」

側にいた兵が絶叫し、耳を押さえてうずくまった。馬たちも悲痛な悲鳴を上げ、押し込められた厩舎の中で竿立ちになる。ユンも耳を押さえ、片膝を着く。彼の剣は、さっき倒した鳥の血で、束まで染まっていた。

これと同一の攻撃が馬を狂わせたのだと、ユンは知った。もがく兵士達。耳を押さえて、それでもユンは立ち上がり、見る。分厚い壁を作りながら、悠然と近づいてくる狼と鳥たちの姿を。

奇怪な音が止む。ほとんど同時に、奴らが陣に躍り込んできた。防御柵を跳び越えた狼が、一声吠える。感情が高揚したからではなく、単なる戦術的合図だろうと、ユンは思った。倒れている兵や、剣をとろうとした騎士が、為す術無く首をねじ切られた。即応した何人かの能力者が、炎や氷塊を発生させて叩きつけるも、殆どはかわされ、見る間に柵が内側から引き倒される。鳥と、他の狼の大群が、陣に躍り込んできた。

「ひるむな! 負傷兵を庇いながら、後退しろ!」

そう言いながら、自分は真っ先に敵に躍りかかる。ユンは短時間身体強化系の能力者、オーヴァードライブ使いだ。このタイプの能力者はドムハイトに多く、彼もその一人。しかも、国内でもトップレベルの実力者だ。雄叫びを上げながら躍りかかり、先頭の狼を頭から真っ二つに切り下げた。更に横からかぶりついてきたもう一頭に、横殴りの一撃を見舞う。右耳を落とされたそいつは飛び退る。悲鳴一つあがらない。

気色の悪い奴らだと思いながら、ユンは更に一振り、二振り。敵を少しでも自分に引きつけるべく、剣を振り回す。大量の返り血を浴びながら、悪鬼のように荒れ狂う。三体の狼を屠り、一頭の鳥の首を跳ね飛ばし、更に透明なオオトカゲの気配を読み切って、首筋に剣を叩き込む。

息が切れてきた。すぐに敵は戦法を切り替え、遠巻きに此方を囲みつつ、他の兵士達を殲滅に掛かる。歯ぎしり。此奴らは、感情が無いとしか思えない。一体これは何だ。感情を消す訓練を受けた精鋭部隊と戦っているかのようだ。

オーヴァードライブが切れる。同時に、距離を詰めてきた鳥が、舌で串刺しにしようと乱射してきた。四回の刺突。横っ飛びに、三度目までは避けきる。だが最後はかわしきれない。脇腹に直撃。鎧が貫通され、肉に深々と槍のような舌が突き刺さる感触。

くぐもった悲鳴が漏れる。ここぞと飛び掛かってきたのは、さっき耳を落とした狼だった。顔を上げ、にらみ付けるのが精一杯である。狼の側頭部を、直線的に槍が貫いたのは、その瞬間だった。槍の持ち主が、勢いを失った狼を、地面に組み伏せる。大量の土埃と血煙が舞い上がった。

へし折れた槍を捨て、剣を抜いて立ち上がったのは、同じ能力強化型のフィーナという若い騎士。ユンの弟子の一人である。栗毛の髪を短く切りそろえている彼女は、小柄ながらも良い腕をしていて、庶民出身にも関わらず来年には緑の鎧を着ることが出来ると言われていた。あまり顔立ちは整っていないが、何事にもひたむきな姿勢が、周囲の好感を呼ぶ娘であった。

「ユン様!」

「馬鹿者が! どうして逃げなかった!」

「もう、無理です。 ユン様と同じように、敵を引きつけて切り伏せていたら、逃げ遅れました」

「愚か者が」

脇腹を押さえながら、ユンは立ち上がる。確かに、もう逃走も抵抗も無理だった。見れば、周囲は十重二十重に取り囲まれている。狼たちも、それに鳥たちも、一斉攻撃の機会を狙っていた。殿軍の味方はもう壊滅状態だ。ユンはフィーナと背中合わせに立つ。そして気付く。フィーナも深手を負っていることに。

出来るだけ呼吸を整えながら、ユンは問う。自分の肺から漏れたとは思えない音がしていた。

「負傷兵達は、どれだけ逃がすことが出来た?」

「残念ながら、四半数程度かと思います。 キーニヒト様が、護衛達と一緒に、狼の群れに八つ裂きにされるところは見ました。 エシェルシ様は、上級の騎士達に守られながら、どうにか陣の外に逃れたようです」

「お前にも、逃れて欲しかったのだがな」

「私、ユン様の事、好きでした。 だから」

フィーナが羞恥にうつむくのが、気配で分かった。天を仰ぐ。どうにか守りたい者が出来たというのに、それはかなわない夢だった。どのみち、もう長くは保たない。内臓が傷ついているのが、ユンには分かっていた。声や呼吸の乱れから言って、多分フィーナも似たような状況だろう。

狼の群れを割って、人影が現れる。全身朱に染まった巨漢だ。ユンにも見覚えがある。シグザール王国軍騎士。クーゲル=リヒター。もはや、運命は決まった。クーゲルが手を振ると、狼も鳥も、おそらくはあのオオトカゲたちさえも退き、殲滅戦に戻る。

ユンが絶望的な嘆息をしたのは、その右手にぶら下がっているものを見たからだ。エシェルシ師団長の生首。無念そうに目を見開いたそれは、クーゲルが護衛の騎士もろとも第一師団の司令部を全滅させた事実を示していた。しかも傷口が非常に乱雑である。恐らく、チャージを浴びせ、吹っ飛んだ肉塊の中から首だけを拾ってきたのであろう。ユンは静かな恐怖と、同時に強い怒りを覚えた。

クーゲルは生首を投げ捨てると、ユンとフィーナに向けて、口の端をつり上げる。実に楽しそうだ。

「ほう、つがいのようだな。 情けだ。 儂が二人揃って、地獄に送ってやろう」

「後ろの娘はまだ若い。 見逃してはもらえぬか、クーゲル=リヒターよ」

「それはならぬな。 武門に入ったからには、戦場で死ぬことは覚悟の内のはずだ。 それには、老若男女の区別など無い」

「悪鬼め。 貴様の言うことは確かに正しいが、人間らしい優しさも思いやりも存在しないのだな」

吐き捨てると、クーゲルはもの凄く嬉しそうに笑う。そして、体勢を低くし、全身から赤いオーラを吹き上げた。殺る気だ。ドムハイトでも有名な奴の能力は、もちろんユンも知っている。能力を極限まで瞬間的に高め上げ、チャージを行う。単純な能力だが、それ故に対応策がない。何しろ、破城槌のあだ名を持つほどなのだ。生半可な矢など、突撃の最中にはじかれてしまう。

二人で、奴に向き合う。他の味方を逃がすためにも、せめて一矢は報いたい。

「私が一瞬だけでも、奴のチャージを食い止める。 その隙に、一撃で良いから入れるんだ。 お前なら出来る」

「はい。 あの」

「何だ」

「地獄で、また会いましょう。 その時は」

多分勇気の全てを振り絞っただろうフィーナの言葉に、力強く頷く。二人が飛び離れる。

クーゲルが突撃してきた。空気すらをも蹴散らし、真っ赤な一つの固まりと化して。怖い。だが、部下達を一人でも救うためなら、ユンは命を捨てることが出来る。

「おおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

恐怖を打ち消すために、絶叫。深々と腰を落とし、槍を体で受け止める。鎧を薄紙か何かのように貫通した槍が内臓を吹き飛ばしながら背中にまで抜けるのを感じた。わずかに、クーゲルの勢いが鈍る。その瞬間、脇に回り込んだフィーナが、クーゲルの首筋めがけて、剣を振り下ろす。

クーゲルが無理矢理体勢を変え、防御に掛かる。さては此方の狙いを読み、チャージの勢いを最初から落としていたか。剣が奴の鎧のショルダーガードを叩く。駄目か。だが、フィーナもオーヴァードライブを使いこなす能力者だ。そのまま、渾身の一撃が、ショルダーガードを半ばまで粉砕した。

「言っただろう? 二人まとめて地獄に送ってやると」

クーゲルが皮肉混じりに言い、向きを変える。凄まじいパワーで旋回動作を行ったので、フィーナの剣が天高くはじかれる。フィーナが、背中に来る。クーゲルが、再び跳んだ。至近で、悪鬼のもの凄く楽しそうな笑みを見る。

腹に埋まった槍に、もう一つ肉を貫く感触。二人揃って串刺しにされたのだと、ユンは悟った。そのまま百歩分もクーゲルは火花散らしながら突進、止まった。

その時には、もう視界は暗闇になっていた。槍が抜かれ、地面に捨てられる。掌に、温かい感触。きっとフィーナの手なのだろうと、ユンは思った。

多くの敵を殺したユンは、自分が天国へ行けるなどとは思っていない。部下達を守る事が出来なかった悔いもあった。

最後に一つだけ感覚が残る。その手が、ただ温かかった。

 

包囲網が詰まる。最前線でその様子を見ていたエンデルクは、敵の怒濤の猛反撃に舌を巻いていた。

カミラが作り上げたクリーチャーウェポン達は良い仕事をしている。包囲網を作る個体と、その内部を攻撃する者が、綺麗に分担している。手強い相手は遠巻きにして隙を見、雑魚から殲滅していく。時々敵陣に無理に割り込んでは、弓矢をつがえる兵士をなぎ払うステルスリザードの尾。空に跳ね上げられた兵士は、地面に叩きつけられた時には絶命している。

敵は一秒ごとに陣を縮小している。だが、味方の被害が、大きい。

特に凄まじいのが、バフォートだった。

ただ、単純に強い。ヤクトウォルフの首が跳ね飛ばし、テンペストモアの刺突を切り払い、ステルスリザードを気配だけで見つけ出しては切り伏せる。一刀ごとに旋風が巻き起こり、地面が抉れる。必死にそれと連携しようとする左軍、右軍も、猛烈な抵抗を見せていた。

戦況は此方に有利だ。だが、この損害率はどうだ。特にバフォートは、既に開戦から五十体以上のクリーチャーウェポンを仕留めているのではないか。聖騎士達の負傷者も出始めている。あのクーゲルが手傷を負わされて、後方に一度下がったほどだ。ショルダーガードを完全に砕かれていたという。もうこの戦いでは、前線に復帰しないかも知れない。

バフォートは強い。だが勝てないとは、エンデルクは思わない。所詮今の剣豪は手負いの獣だ。狩るには、それなりのやり方がある。

「最終段階に移行するか」

「は、しかし、まだ敵の損害が、予想のレベルに達していないようですが」

「私もその案に賛成です」

エンデルクが振り向くと、増援を連れたカミラが側まで来ていた。既に中軍師団の陣は落とし、荒れ狂うバフォート麾下の軍をいなしながら、包囲網は徐々に東へ、東へと動いている。包囲網を崩さず、敵を逃がさないようにするには、囲みながら徐々に下がるしかない。その過程で敵を相当数削ってはいるが、バフォートはまだまだ倒れそうもない。武門の国家であるドムハイトで最強を謳われるだけのことはある。

カミラが増援を投入。疲労が少ない戦力が割って入り、敵右軍を左右に切り裂く。そのまま敵の連携を崩し、潰しに掛かった。戦意が潰えたらしい右軍は、一気に蹂躙され、指揮官を守っていた上級騎士達が次々に物量の海に飲み込まれた。だが、それでも抵抗は止まない。上級騎士達は最後の意地を見せ、自分の道連れにと、クリーチャーウェポンを何体も倒して息絶えていく。

既に百体を超えるクリーチャーウェポンが屠られていた。更に、百五十に近づきつつある。バフォートの何かが取り憑いたような暴れぶりに、クリーチャーウェポン達は得意の集団戦術をなかなかとれず、それが被害を拡大していた。右軍は左軍と合流、負傷兵達もがバフォートの猛気に煽られ、それぞれの手段で反撃を始めていた。

ついに損害が二百体を超える。敵も既に八千を割り込んでいるが、それでも味方の被害が大きすぎる。このままでは、バフォート一人が更に百体以上斬りかねない。あまりの損害に舌打ちし、カミラが言う。

「エンデルク様、万が一の事態も考えられます。 決断を」

「うむ」

エンデルクは剣を振り上げる。

この瞬間、この酸鼻なる血の宴が、最終段階に入った。

 

荒野の乾いた土を蹴り、バフォートが跳躍。空に孤を描き、下がろうとした白銀の狼との間合いを一気に詰めた。そのまま振り下ろした愛剣が、逃れる暇もない狼の頭を、一撃で断ち割った。音が斬撃の後から追いついてくる。声もなく崩れる狼が、思い出したように血を吹き上げた。そのまま立ち止まることなく、味方の騎士に躍りかかっていた狼に躍りかかる。間に割って入った鳥を、跳躍してかわす。

体が軽い。久しぶりの実戦を、全身の筋肉が喜んでいる。

着地と同時に、背後の鳥が崩れ落ちる。信じがたい話だが、この鳥はそろいも揃ってレア能力である神の祝福を保有している。だが、それも頭を一撃で斬り割れば即死だ。逃げようとする狼に、その暇を与えない。駆け寄ってくる鳥共が撃ち出してくる舌の刺突を全て紙一重でかわし、下がりかけた狼の顎を切り上げ、頭ごと断ち割った。下がろうとする鳥に変わって、瞬間的に能力強化を展開した狼が突貫してくる。すれ違いざまに切り伏せ、返り血を浴びた。

ただ数をこなし、経験を積み上げた結果の剣。

才能に恵まれなかったバフォートは、圧倒的な努力を重ねることで、頂点に上り詰めた。鍛え上げたと言うよりも、作り上げたといった方がよいその強さは、疲れを知らず、衰えも知らず。ただ殺すことのみを求め、剣を振るい、跳躍し、そして斬る。

味方の数が、どんどん少なくなってきている。敵は包囲陣を巧みにずらしながら、バフォートをいなしつつ後方の味方を確実に削っている。殿軍が全滅したことは、さっき報告で聞いた。右軍の司令部も全滅し、今は前衛と左軍が奮闘している状態だ。敵の分厚い壁は破れない。

バフォートも、流石に全身傷だらけだ。今の交錯でも、鎧を狼の爪が掠めていた。既に戦場は完全な乱戦のるつぼと化しており、安全地帯は何処にもない。視界の隅で、兵士が吹っ飛ばされ、地面に叩きつけられて息絶える。あの見えないトカゲだろう。恐らく、もう回復技能を持つ能力者は一人も生きていない。これだけ入念な襲撃を計画した者が、補給線を最初に断たないわけがないのだ。

味方の騎士が駆け寄ってくる。頭から血を流し、片足を引きずっていた。

「剣豪殿っ!」

「何ですか!」

「巨大な影を見ました! ひょっとすると、あいつが、全ての元凶かも知れません! 北東の、方、です!」

ぜいぜいと苦しそうに息をしていたその騎士は、前のめりに倒れると、そのまま息絶えた。血だまりが広がっていく。感傷に浸っている暇はない。情報を最大限に生かすべく、考えなくてはならない。それがバフォートの仕事なのだ。

罠の可能性は高い。だが、これだけ統率されていても、獣はしょせん獣のはずだ。頭を潰せば、ひょっとすれば逃げ出すかも知れない。それに、シグザール王国軍の首脳部も、頭の側にいる可能性がある。

「北東へ向かう! 我に続けえっ!」

「おおっ! 剣豪殿に続けえっ!」

周囲で生き残っていた者達が、一斉に唱和した。バフォートは駆ける。阻もうとする相手は、全て右へ左へ切り倒した。その間も、次々に味方が倒されていく。ある者は力尽きて狼に首を食いちぎられ、ある者は鳥の蹴爪に掛けられ空に投げ上げられ、ある者は見えないオオトカゲに半身を噛み千切られる。構う余裕がない。助ける余力がない。歯を食いしばり、剣豪と呼ばれる男は駆ける。

悲鳴を上げて、兵士が飛んできた。そして地面に叩きつけられ、息絶える。下半身がぐちゃぐちゃにつぶれていた。バフォートは仰ぐようにして見る。

其処には、白く長い毛を持つ、巨大な獣がいた。目元は毛に隠れていてよく分からないが、感情がまるで感じられない。つまり、他の奇怪な動物共と同じ存在であろうと、バフォートは推測した。全体的に大型の類人猿と熊を足して二で割ったような姿をしている。手足は長く、四つんばいになって、此方を向いていた。今の兵士は握りつぶされたらしく、右手は鮮血に染まっていた。

その脇で、バトルアックスを構えているのは。赤い長い髪を持つ、眼鏡を掛けた小柄な女。いや、小柄と言うよりも、子供のような背格好だ。

報告書で似顔絵を見たことがある。シグザール王国軍聖騎士、カミラ=ブランシェ。今は相当な軍の高位に就いているはずの存在だ。実力も相当なものらしいが、それ以上に頭が恐ろしく回るらしい。戦闘スキルよりも、策謀を使って成り上がり、今ではシグザール王ヴィントにも目を掛けられているという。この間シグザール王国内で権益を貪っていた宝石ギルドが大規模な粛正を受けて人員が総入れ替えされたそうだが、その件にも深く関わっているという。

このとき、バフォートは悟る。この奇襲が、シグザール王国を上げて計画された事なのだと。そしてドムハイト王国内部でも、かなり深く触手が伸び、浸食が為されていることも。

この戦いは、異常なる動物共による奇襲だけで結実するものではない。もっとずっと根が深い。恐らく、相当数のドムハイト貴族や豪族も関わっているのだろう。つまり、両国にまたがった、果てしない闇を湛えているのだ。シグザール王国騎士団随一を唄われる切れ者が前線に出てきている事で、バフォートはそれを知った。

ひょっとすると、周辺の領地に属する豪族にも手が回っているかも知れない。だが、それは仮定の話に過ぎない。そんなことで絶望を抱くわけにはいかなかった。とにかく今は、どんな手を使ってでも、部下達を逃がさなければならないのだ。

「バフォート、随分たくさん私の作品を潰してくれましたね」

「作品、だと!?」

カミラに、若い騎士がくってかかる。バフォートよりも頭一つ大きい青年で、かなりの使い手だ。だが、分かる。カミラはこの青年よりも遙かに強い。事実、眼鏡を掛けた女騎士は相手にもしない。

「貴方の相手は、この子がします。 他の有象無象は、全部まとめて私が相手して上げましょう」

「が、ガキが! 舐めやがって!」

それが、若い騎士の、最後の言葉となった。目を細めたカミラが、残像が残るような速さで間合いを詰め、首を跳ね飛ばしたのだ。切り落とされた首から、血が噴き出していた。赤い噴水のようであった。

バフォートは、反応できた。だが、動けなかった。方向が違いすぎた。それに、眼前のこの巨大な生物が気になっていた。背後に回ったカミラへ、向き直れない。今までの動物共と大して実力的には変わらないように見える。それなのに、この不安感は何だ。

頭部を失った若い騎士が地面に倒れるのと同時に、カミラが口を開く。喉の奥から、言語化した呪詛が漏れ出していた。

「私の身体的特徴を嘲った奴は殺す。 たとえ相手が誰であろうとね」

「…っ!」

「バフォート、貴方の部下達の力、見せてもらいますよ。 貴方はどうぞご存分に、私の最高傑作の相手をどうぞ」

「すまない、皆。 その娘の相手を頼む。 気をつけろ、シグザール王国軍聖騎士の中でもトップクラスの実力者だ」

カミラは応えず、指を鳴らす。周囲で戦っていたクリーチャーウェポン達が距離を置き、他の兵士達を処理しに掛かる。冷酷な話であるが、これで隙が出来た。此処を突破できれば、後は一気に抜ける事が出来る。そのはずだ。

巨大な罠の奧に、バフォートは光を見た。

 

3,鮮血の宴

 

カミラの周囲を、数名のドムハイト軍騎士が囲む。いずれも良い腕をしている。だが疲労激しく、肉体の損傷もまた多い。左眼を失っている者もいれば、食いちぎられた右腕の傷口を乱暴に布で縛っているものもいる。腹に傷を受け、内臓を損じている者もいた。あれだけの数のクリーチャーウェポンから、組織的に攻撃を受けたのだから当然だ。対し、カミラは疲労もなく、鋭気充分。

此奴らの相手は、カミラ一人で充分だ。命を賭けている相手だから、油断は死を招く。だが、逆に言えば油断さえしなければいい。問題になってくるのは、バフォートと、タイタス・ビースト改と、ある程度距離を置く必要があるということ。

タイタス・ビースト改は、元々近接戦闘に優れた力を持っているわけではない。ただ、バフォートを倒すには、最適な存在なのである。正確には、その布石として、だが。確実に戦いで死ぬだろう。だが、それでも構わない。

道具は使いこなしてこそ意味がある。特に感傷はない。

「ドムハイト王国軍上級騎士、サウザン! 貴殿に勝負を挑む!」

口元に白い髭を蓄えた壮年の騎士が、足を揃えて直立不動の体勢をとり、胸元に拳を当てていった。正式に戦いを挑む時のやり方だ。それに続いて、他の騎士達も、次々に名乗りを上げる。これは此方も名乗り返すのが筋であろう。

カミラは腰を落とすと、右手でバトルアックスをサウザンに向け突き出し、肘を左手で下から掴んで言う。これがシグザール王国式の名乗りのやり方だ。さっきの非礼な騎士は八つ裂きにしてやりたいほど不快だったが、彼らは違う。こういう武骨な職業戦士を、カミラは嫌いではない。多分、師匠であるクーゲルの影響だろう。

「シグザール王国軍聖騎士、カミラ=ブランシェ。 貴公らの挑戦、確かに受ける! 全力でこられよ。 此方も全力で相手しよう!」

名乗る時は、語尾を強めに。これがシグザール式の敬意の表し方だ。儀式はそこで終了。後は、ただひたすらに続く、鮮血の宴だ。

敵は全部で六人。二人が後ろに、二人が左右に回り込む。正面に立ったサウザンともう一人がカミラの攻撃を受け止め、その隙に残り四人が躍り掛かる布陣である。此方が格上である事を分かっている。

シグザール王国にも、対達人用の戦術と言うものがある。あの「牙」等が習得している技術であり、これをやられるとたとえエンデルクであってもひとたまりもない。ただこれは村ぐるみでドラゴンや悪魔を狩るやり方に似ており、あまり騎士達の間では人気がない。純粋な組織戦で使うつもりはあっても、個人戦で用いる気にはなれないのも事実だ。カミラもこの局地戦で使おうとは思わない。

妙な話だが。これだけ残虐な策謀を巡らしているカミラであるのに、純粋なる一戦士であるという側面もあるのだ。人間には多くの顔がある。カミラの場合は、トラウマ持つ若い娘であり、冷徹きわまりない策謀家であり、エゴの怪物でもあり、同時に誇り高い聖騎士でもある。それらは互いに矛盾していない。

だから故にというべきか、カミラの歪みは大きい。それは成長期に受けたトラウマに起因しており、今でも晴れる気配はない。自分の身体的特徴を嘲弄する輩が、今でも本当に多いのには、腹の底から怒りを覚える。権力を得て、誰にも文句を言わせないようにするのがカミラの幼い頃からの夢。だが、自分を嘲弄しない相手には、カミラは誇り高い聖騎士でいられる。

要するに、カミラには余裕というものが存在しない。それが知勇優れるこの娘の、唯一にして最大の、致命的ですらある欠点だ。

間合いの計りあいが続く。詠唱が後ろから聞こえる。カミラは目を閉じると、全神経を集中。ありとあらゆる能力を、極限まで跳ね上げる。さながら四足獣のように低く伏せ、敵の攻撃を待つ。負傷しながらも大陸トップレベルの実力者に捨て身で掛かってくるドムハイト軍騎士達の勇気に敬意を表し、初手はくれてやるつもりなのだ。それを相手も悟ったか、詠唱が終わる。

閃光が弾ける。

カミラの立っていた位置を、巨大な火球が舐める。さすがはドムハイト軍騎士、凄まじい速さだ。火球が炸裂するより早く、前二人の騎士が同時に動き出す。そして、動きが一瞬止まる。風圧を受け、何が起こったか悟ったからだ。

真後ろから叩きつけられた火球を、カミラが振り向きざまに、バトルアックスで、つまり腕力だけで吹き飛ばしたのである。

勢いに任せ一回転したカミラは跳躍。遠心力をそのままに、火球の術を放った騎士に肉薄。まだ若い娘だが関係ない。そのまま、頭頂から股下まで正中線を一刀両断。鎧ごと粉砕された騎士は、綺麗に二つに分かたれるようなことはなく、瞬時に肉塊とかした。

そのままその隣で包囲網を形成していた騎士に躍り掛かる。大上段からの、戦斧の一撃。光の滝にも見える、高圧のそれが、かざされた盾の半ばにまで食い込む。カミラは眉をひそめた。盾をかざしていた腕をぐしゃぐしゃに砕きながらも、致命傷は与えられない。並の使い手なら、そのまま粉砕しているところだ。引きつけながら威力を最大限に殺したのである。流石と言うほか無い。

「おおおおおっ!」

カミラの動きに追いついてきた騎士が、雄叫びを上げながら、槍で突きかかってくる。同時に、逆側から棒先に鎖付きの鉄球を複数つなげたフレイルが振り下ろされ、更に盾を構えていた男が、残った右腕を使って雷撃の術を放ってくる。普通腕を砕かれると、瞬時に集中力が霧散してしまうのだが、それもないということか。惜しい。部下に欲しい。もったいない。

だが潰す。

盾を砕いた男に突進。雷撃の直撃をもろに浴びつつも、そのまま横殴りに一撃を浴びせる。今度は防ぎきれない。上半身を吹き飛ばされた男が、下半身だけで数歩蹈鞴を踏み、倒れる。内蔵が辺りに派手にぶちまけられる。

後ろから槍が、フレイルが追ってくる。槍の穂先が鎧の肩先を掠め、火花が散る。いい一撃だ。更に逆側から飛んできたフレイルが聖騎士の鎧の脇腹を叩き、わずかに拉げさせる。肉体への打撃を最小限に殺しつつ、槍を掴む。引っ張る。体が泳いだ騎士が、凄絶な表情を浮かべる。そのまま槍を放し、最大加速した抜き手を繰り出す。騎士の鎧を、カミラの小さな手が貫き、腹から背中に抜けた。

カミラの前に立っていたサウザンと、その隣にいた大柄な騎士が追いついてくる。大柄な騎士は左腕を失っていたが、右手に大きな戦槌を手にしていた。相手にとって不足はない。残り半分だが、緊張感はとぎれない。負傷と疲労がなければ、カミラに勝てていただろう六人だ。まだまだ楽しめる。

横殴りに叩きつけられたフレイル。避けきれない。脇腹に痛打。貫いている死体から手を引き抜き、代わりに腕を掴む。鈍器として用い、フレイルを叩きつけてきた赤毛の女騎士に真上から叩きつける。大きく目を見開いた騎士が、肉と鉄で出来たハンマーに叩きつぶされ、地面で肉塊になる。地面に罅が入る。その衝撃で、体が僅かに浮く。

死骸を離す。

残った二人が左右に分かれ、同時に躍り掛かってきた。サウザンは肩から脇下に抜ける袈裟に、いま一人は大上段から。斬りかかってくる。着地したカミラはバトルアックスを盾に、サウザンの斬撃を受け止める。もう一人の騎士が振り下ろしたバトルハンマーは、避ける手段がない。

だから、手甲のみで防ぐ。全身をばねに使う。打撃の瞬間、地面を猛烈に踏みしめる。

次の瞬間、大地の一部が悲鳴を上げる。土が多量に吹き上がり、正円形に地面がへこむ。半径はカミラの背丈の十倍ほどもあろうか。

「これを、受け止めるか……!」

大柄な騎士が、絶望と感嘆を同時に漏らす。両手だったら、カミラもこの程度の打撃では済まなかっただろう。

だが、これが戦だ。

防御に使っていた手甲は砕けていた。バトルアックスも、刃の半ばまでサウザンの剣がめり込んでいる。右手をバトルアックスの柄から離す。そのまま胸の前でクロスさせるように引くと、はじくように左右に。渾身の一撃で停止状態だった二人を、吹き飛ばす。クレーターの外側まで、騎士達は吹っ飛んだ。

バトルハンマーの一撃を受けた左腕のしびれが取れない。足への負担も大きく、痛みが酷い。バトルアックスも折れる寸前だ。さすがはドムハイトの騎士達。素晴らしい使い手だ。カミラは舌なめずりすると、跳躍して、クレーターの外へ。

バトルハンマーを持っていた隻腕の騎士は、既に事切れていた。吹き飛ばされた時に、圧力で背骨を複雑骨折したらしい。一撃が重い分、カミラのカウンターをかわしきれなかったのだ。対し、サウザンはふらつきながらも立ち上がってみせる。着地したカミラは、思わずつぶやいていた。

「お見事」

「これだけの腕を持ちながら、何故正々堂々と戦えない!」

意外な言葉が返ってくる。カミラは目を細める。

「弱体化が著しいですね、ドムハイトの武の思想も」

「なん、だと!?」

「戦場では正々堂々とが当然でしょう。 事実、私もあなた方を相手に全力で正々堂々と戦っています。 しかし、戦場の外では、勝つためにあらゆる布石を打つものです。 あなた方が大陸最強の武力に胡座をかいてのうのうとしている間、シグザールはあらゆる努力を続けていたのですよ」

サウザンは悔しそうにうつむく。腐敗したドムハイトの中で、どんな努力が出来たというのだとでも応えたいのだろうか。だがそれは無意味な反論だ。シグザールにも腐敗する危険性は幾らでもあった。もしそうなら、既にカミラが国内を私物化していたかも知れない。

だが、老いてもなお鋭いヴィント王の麾下で、各人が努力を続けた。その結果戦後の復興はスムーズに進み、経済は発展し、武力も維持され続けた。そしていま、この戦いが行われている。

「あなた方の死も、無駄にはなりませんよ。 ドムハイトはこれでシグザールへの侵攻計画を諦めざるをえません。 長期の平和が訪れるでしょう。 安心して仲間が待つ地獄へ行きなさい」

「貴方は優れた騎士だが、心にも無いことを言う癖があるようだな」

「はあ? どういう事ですか?」

「それだけが目的ではないはずだ。 恐らく、この計画の主要立案者は貴方だろう。 そしてその真の目的は、この大陸の支配ではないのか。 この戦によるパワーバランスの変動など、それの付加効果に過ぎないのだろう! 違うか!?」

それは飛躍しすぎだというものだ。だが、もし隙があれば、それを考えてもいい。カミラは艶然と微笑むと、もう答弁は終わりだと、罅の入ったバトルアックスを構える。サウザンも乱れた呼吸を整えながら、構えをとる。

「遺言は? 覚えておいてあげますよ」

「竜軍五万の恨みが、貴方を苛み続けるだろう」

またまた意外な言葉を聞いたカミラは、苦笑を漏らしていた。

「やれやれ、勝敗は武門の常。 騎士の言葉とは思えませんね」

「この戦いに関しては恨んではいない。 だが貴方によって殺された者達は、貴方を決して許しはしない。 人間だけではない。 あの生き物たちもそうだ。 貴方が背負った罪の重さがどれほどか、いずれ思い知る時が来る。 覚悟、しておくのだな」

「はいはい。 では、始めましょうか」

二つの影が交錯する。勝負は目に見えているのに、サウザンは向かってきた。だから、カミラも全力で応える。

一撃で、勝負は終わった。

上半身を失ったサウザンが、数歩それでも走り、倒れる。バトルアックスを振り抜いたカミラは、愛用の武具が半ばから砕けるのを見た。

立ち上がると、体中が痛む。左の手甲を失い、両腕、両足の負担も大きい。流石にドムハイトの騎士達だ。圧倒的な実力を持つカミラといえど、無傷で斃すことはかなわなかった。それにしても。やはり、完全に理解してくれる者はいないのだと、少し寂しくはあった。カミラは全てを利用してきた。そのカミラも、周囲に利用されているに過ぎないのだ。こんな時、カミラは強くそう思う。

振り向くと、タイタス・ビースト改が崩れ落ちるところだった。すべて、予定通り。ほくそ笑むカミラの眼前で、閃光が迸った。

 

状況を遠めがねで見ていた情報士官が、つばを飲み込んだ。エンデルクは裸眼でその様子を見ていたので、報告を聞く前から結果は分かっていた。

「バフォート、沈黙しました」

「よし、後は手はず通りだ」

エンデルクは策略通りに事が運んだことを確認すると、数名の聖騎士を残敵掃討に全て繰り出し、自身はバフォートの元へ向かう。このときのために、カミラのくだらぬ策略につきあってきたのだ。

カミラ自身は別に嫌いではない。むしろ武人としては認めている。だが彼女の巡らす陰謀に、エンデルクはあまり興味がない。興味があるのは、大陸最強の名声を得ることだけだ。

若い頃から、エンデルクはそうだった。技術を磨いて強くなることよりも、それによって自分が崇拝されることに快感を覚えた。より強い快感を得るためには、更に強くなることを目指す必要があった。

戦闘時に獲る快楽も強いが、それも結果が見えているからだと、エンデルクは思っている。エンデルクはこういう難儀な体質に産まれた。だから北方の小国では我慢できず、将来性があるシグザール王国へ来た。そして、己の全ての技を、這い上がるためにぶつけてきた。

容姿がそこそこに恵まれていたことも幸いし、人脈を築くのにはさほど苦労せず。また、持ち前の強運から、手柄にも恵まれた。上司に憎まれない処世術は、商人だった父から学んだものである。結果、エンデルクは出世に困らなかった。圧倒的な実力を示せば示すほど、出世の道も開いた。若くして、大戦にも参加せずに、大陸最強の一角と言われるようにもなった。後は、バフォートを消せば、大陸最強の称号が転がり込んでくる。

父は、若い頃から言っていた。多くのことに色気を出すなと。これだと決めたものだけに、注力しろと。エンデルクは、名声を得ることだけに注力し、いまの実力と地位を得た。そして、更に高みへ登ろうとしている。

若い者に追いつかれるという恐怖は、いまだ感じたことがない。自身の才能と実力が、エンデルクの精神的な双翼となっていた。誰にでも勝てる。エンデルクは、真剣にそう考えている。

そして、勝つためには努力を怠ってはならないとも。

かって、数百年も前。大陸最強の名を恣にした達人がいた。剣王と呼ばれたその男は外道だった。勝つためにはどんなことでもした。名声を持つ武人の妻子を人質に取り、公開処刑的になぶり殺しにした。絶対に勝てる条件を整えてから、相手を屠殺するためだけに試合場に出た。しかし、実力の方でも、文句なしに最強だった。

何故堂々と戦わないと、何度も詰られたという。そのたびに、その男は哲学的な理屈を持ち出して、追求を煙に巻いた。その剣王の残した秘伝書が、エンデルクの家に伝わっていたのだ。

エンデルクはその中身を知っている。手記の中で、剣王は常に怯えていた。悪運が相手に宿ることを、である。

彼は知っていたのだ。とんでもない強運に守られた存在が、ごくたまに達人を打ち倒すことを。どんな努力も、一瞬の悪運で水泡に帰す事があると。戦の勝敗は兵家の常と呼ばれるゆえんだ。殆どの武人は、それを半ばあきらめと共に受け入れている。だが、剣王は耐えられなかった。そのおびえが、残虐性と下劣な策謀の発生源となり、最終的には歴史的な名声を彼にもたらしたのである。

歴史の真相などと言うのは、その程度のものだ。人間の根源などと言うのは、くだらないものなのだ。元々くだらないのだから、エンデルクには飾る気がない。ただ原色の名声だけを求め、己の道を行く。

ゆっくりと歩み寄っていく途上、カミラの姿があった。バトルアックスを半ばから失い、鎧は傷が多く、左の手甲は無くしていた。露出している小さな白い左手には、鮮血が伝っている。四肢にはかなりの負担が掛かっているらしいと、一目で分かる。そして側には、巨大なクレーターがある。

カミラは無傷とは言えなかった。バフォートの周囲を丸裸にするために、自分が体を張ったのだ。こういうところが、エンデルクがカミラを決して悪くは思わない要因である。下劣な策謀を巡らしても、最終的には自分が体を張ることをためらわないのだ。

「良くやった」

「後は貴方の仕事です、騎士団長」

「うむ」

カミラを残し、バフォートの元へ歩み寄る。手には既に抜き身の白刃。これは戦いではない。処刑だ。

バフォートが顔を上げる。側には崩れ落ちた、タイタス・ビースト改の亡骸。この怪物は、結局の所、隙を作るためだけに存在した生命であった。何種かの音波攻撃は、師団レベルの兵力の隙を作るため。そして、今は、バフォートの隙を作るため。

エンデルクは一部始終を見ていた。猛攻を仕掛けるバフォートに、辟易するように下がり続けるタイタス・ビースト改。不審に思ったバフォートが下がろうとしたところで、不意に駆け寄る。何度斬りつけられても構わず、奇怪な声を上げながら抱きつく。口を閉じる。

そして、爆発する。

魔力を利用しているとはいえ、一個師団を混乱に落とすほどの音を発する肺活量である。口を閉じて、無理矢理出力を全開にすればどうなるか。当然、体は木っ端微塵。しかも此奴の体液は猛毒である。事実、爆発と毒の直撃を受けたバフォートは、うずくまったまま呼吸を整えている有様だ。

タイタス・ビースト改は、その生の最後まで、使い捨ての存在だった。これを考え出したカミラは鬼畜といえだろうか。それは否だ。

人間は家畜という、食物になるための生き物を多数飼育している。それらは血統の段階から人間によって数千年以上も管理され続けいる。そればかりか最近では、金銭的に余裕のある人間の中で、「見栄えのよい」観賞用の動物などというものが、同じようにして作り出されているではないか。それと何が違う。カミラが鬼畜だという命題は成立しうる。だがその瞬間、人間の歴史は鬼畜の歴史となるのだ。皮肉な話である。

至近までエンデルクが歩み寄ると、バフォートは顔を上げる。既に兜を失っているその顔は、特に美男子でもない、平均的なものだった。

バフォートはもう目が見えないらしい。顔を上げていたが、瞳には力が残っていなかった。

「その気配、相当な強者ですね。 さては、名高い騎士団長エンデルクですか?」

「ご名答」

「その様子だと、貴方もこの計画に荷担していますね。 卑劣な手を使う。 貴方の実力なら、私に勝つことだって、夢ではないはずだ」

「そんなことは知らんな。 戦う前に、あらゆる努力をするのが、本物の軍人だ。 そして私は、それを怠らなかった。 それだけだ」

高笑いしたエンデルクは、周囲を見回す。先ほどの情報士官の話を聞く限り、既に敵は、五千を切っている。だが味方の被害も著しい。クリーチャーウェポン達は、既に300以上の損害を出しているようだ。予想の五倍を既に超えている。というよりも、敗北の域に達する損害率に、既に突入している。

「さて、死んでもらおうか」

「断る」

立ち上がったバフォートが剣を構える。確かに強い。というよりも、万全の状態ではエンデルクでも五分だっただろう。だが、全てがもう遅い。

上段に構えるエンデルクと、下段に構えるバフォートが、四歩半の距離を保ってにらみ合う。正確にはそうではない。バフォートは、エンデルクの気配だけを見ている。じりじりと間合いを計るエンデルクは、気付く。バフォートは、相打ちだけを狙っている。ならば、それを防ぐ工夫をすればいい。

一歩退く。そして、右へ、右へ、右へ、右へ。徐々に加速する。歩幅も違えば、踏み出す時間も違う。ただ、それがどんどん速くなっていく。やがて、常人では視認できない速度にまで到達してから、攻撃開始。

踏み出すと同時に石を蹴る。バフォートは振り向きざまに剣を振るい、石を断ち割った。見事だが、それがこの状況下、どれだけ体力を消耗するか。エンデルクは更に何度も石を立ちつくすバフォートに蹴り込む。そのたびに切り落とされる石。金属音が響く度に、石は両断され、転がる。

「体力を消耗させる気ですか? 手堅い戦術ですね」

「私は何でも確実にこなすことが信条なのでね」

「相当に危ない橋ばかりを渡ってきたようですね。 シグザール王国は腐敗もなく、実力が認められる所だと聞いていますが、それでも貴方の世代がよその国から来て騎士団長になるには、必要なことでしたか」

流石に見透かしている。大した奴だと、エンデルクは失笑する。余裕から来るものだ。踏み込み、背中から浅く切り込む。蹴石と軽めの斬撃を絶え間なく浴びせ、体力を更に削る目論みだ。それに対し、バフォートは激烈に反応した。自らの身を刃に当てながら、抉り込むように反転しながらの逆袈裟を、脇から肩に抜ける一撃を放ってきたのである。

さながら、それは人が作り出した竜巻であった。

エンデルクでなければ、この瞬間に勝負が付いていただろう。慌てて飛び退いたエンデルクの髪が数本切り散らされ、鮮血が飛ぶ。風圧だけで額を浅く切られたエンデルクは、ほうとつぶやいた。本来の剣が通るはずだった逆袈裟には、うっすら跡がついている。金属ですら、遠隔切断するほどの風圧だ。

「やるな。 だが」

「貴方の好きなように攻めてくるといい。 受けて立ちましょう。 卑劣な騎士団長よ」

「勝った方が常に正義だ。 卑劣だの陋劣だのは、負け犬の遠吠えに過ぎぬわ」

本腰を入れたエンデルクは、今の動きから更に距離を修正。もう少し外側を回りながら、次々にバフォートに向け石を蹴り込む。石の速度は徐々に上がり、やがて火花が散るほどになった。だが目が見えないにも関わらず、体中を毒に蝕まれているのに、バフォートは反応し続けた。

石を切り落としながら、バフォートは徐々に近づいてくる。ゆらりゆらりと不規則に高速回転しながら、エンデルクは眉をひそめる。この期に及んで、何を企んでいる。そう心中つぶやく。実戦をこなすことおよそ180回。エンデルクの経験は膨大だが、それでも不可解な動きを解析するのには時間が掛かる。

そろそろ戦術を変えるか。そうエンデルクが考えた瞬間、バフォートが動く。

速い。目も見えないのに、悪路だらけのこの状況で、身体強化型の能力者以上の速度をもってエンデルクとの間合いを正確に詰めてきた。

そのまま、上段からの一撃。エンデルクは横に滑るようにして避けながら、続けて襲いかかってきた胴を払う一撃を、剣を寝かせて受け止める。エンデルクの愛用する剣は薄刃の切れ味を上げたタイプだから、衝撃には弱い。だがそれでも伊達にアダマンタイトとミスリルを使った名剣ではない。バフォートの一撃を苦もなく受け返す。

逃れようと横に移動するが、バフォートは正確に着いてくる。気配を読む能力は、奴の方が上か。舌打ちするエンデルクは、五合、六合、猛烈な一撃を丁々発止と受け止める。一撃ごとに、もの凄い風圧が来る。エンデルクは、上段にバフォートが構えた瞬間当て身を試みたが、それすらもかわされる。

背筋に寒気が走る。振り向きざまに切り上げ、首筋を狙った一撃を受け止める。六歩分ほどはじき飛ばされる。エンデルクやバフォートくらいの身体能力となると、一撃がこうも重い。着地すると同時に、バフォートが眼前にいることに気付く。大上段からの一撃。同じように大上段からの一撃で迎撃。火花が散る。

激しい剣を捌き続ける。見る間に三十合を超え、六十合に達する。

「おおおおおっ!」

「ぬうんっ!」

横薙ぎの一撃を、上段から振り下ろしてはじき飛ばす。まずい戦いだと、エンデルクは舌打ちした。リスクが大きすぎる。バフォートは残る命の全てを燃やして斬りかかってきている。こんな相手と真っ向から戦うのは愚の骨頂。戦って迫り負けるとは思わないが、悪運の到来次第によっては結果が覆される。

戦いとは、確実に勝てるものでなければならない。そう考えたから、エンデルクは今生きているのだ。

まさか、押されてはいないか。そうエンデルクが戦慄した瞬間、バフォートが肩からの当て身を浴びせてきた。とっさに左腕でガードするが、しのぎきれず、もろに吹っ飛ぶ。同時に、エンデルクの頭の中で、何かが切れた。

「おおおおおおおっ!」

吠える。飛び起きる。そして、攻城用クロスボウボルトのように飛んできたバフォートの剣撃を受け止める。殺す、殺す殺す殺す!原始的な殺戮本能に火が付いたエンデルクは、バフォートに真っ向から斬りかかる。そして、それにバフォートも受けて立った。

もはや周囲には、誰一人近づける状況ではなくなっていた。一瞬だけ唖然としているカミラの顔が見えたが、関係ない。エンデルクはバフォートを殺すことだけを考えていた。

もはや、それは騎士団長と剣豪の戦いではなかった。正気を失った男と、己の最後を燃やし尽くそうと考える剣豪の、原始的なつぶし合いだった。

一合ごとに速さが増し、次の一撃を求めてからだが動く。火花散り、鮮血と汗が飛び散る。鎧の傷が一秒ごとに増え、そして吠え猛った二人の男が刃を打ち付け合う。周囲の地面が砕け、吹っ飛び、弾け散る。

三百合、丁度刃を交えた時。

袈裟の一撃を受け止めたバフォートの動きが僅かに鈍る。

首をはねに行くエンデルク。だが、その時、バフォートも残り全ての力を込めて、突きかかってきた。このとき、エンデルクの頭が、不意に冷静さを取り戻す。そうだ、此奴の目的は、最初から相打ちだったのだ。

剣を翻し、避けに掛かる。だが、それすらも、バフォートは読み切っていた。これは経験の差がもたらした結果か。或いは。

真横に反復するように踏み込んだバフォートが、逃れたエンデルクの腹に、正確に剣を突き込んでいた。

飛び散る鮮血。

唖然と、エンデルクは自分の腹に突き刺さった剣を見ていた。後四半寸刺さっていたら、肝臓に達していた。

バフォートが剣を抜く。そして、大上段に構える。

エンデルクは知っていた。自分が勝ったことを。そして、負けたことを。

大上段に構えたまま、毒が体に回りきり、バフォートは死んでいた。今の一撃を繰り出した時には、もう死んでいたはずだ。だから、刺し切らなかった。エンデルクは、カミラの策謀のおかげで、この一騎打ちに勝つことが出来た。そうでなければ、恐らく、経験の差で負けていただろう。

天に向け、エンデルクは絶叫する。同時に、戦場の全てから、魂の其処から絞り出すような絶叫が聞こえ始める。

「剣豪殿が! 剣豪殿が倒れられた!」

一兵士が吠える。騎士が絶叫する。彼らは目に凶熱を宿し、吠え猛った。誰もかもが、バフォートの亡霊が乗り移ったかのように、凄まじい反撃を開始する。駆け寄ってきた情報士官が、死んだバフォートと生きているエンデルクを見比べながら言う。両者共に、立ちつくすばかりだ。

「エンデルク様、戦況が一変しています! 指示を!」

「あ、ああ」

「既に損害が700を超えています! このままでは、敵が全滅する頃には、此方も全滅します!」

「そ、そうか」

猛り狂った竜軍兵士が、クリーチャーウェポン達に襲いかかる。それは襲いかかるといった方が良い光景だった。誰しもが目に炎を宿し、歯を食いしばり、尋常の表情ではなかった。一兵卒までもが、ヤクトウォルフを相打ちに命を落としていく。エンデルクが見たところ敵は既に3000を割り込んでいるというのに。全滅する頃には、どれほどの被害が出ているのか分からなかった。

「下手をすると突破されます! 騎士団長!」

「もういい」

歩み寄ってきたのはカミラだった。静かな怒りを目に宿している。

「今の戦いについては別にどうこう言いません。 結果が全てですから。 ただ、こんな時には動いてくださいませんか」

「そ、そう、だな」

嘆息すると、エンデルクは残る全戦力を投入するように指示。カミラは頷くと、弱点を補強しながら、残る敵の力を容赦なく削いでいった。赤い騎士の指示は的確を極め、包囲網は多大な損害を出しながらも、確実に縮まっていく。

バフォートが死んだことで、この戦いの決着は付いた。だが、それは敵の心に火をつけることも意味していたのだ。

指揮するカミラの目が据わっている。聖騎士の負傷者も多く出た。当初の予想を足蹴にする結果が出るのは目に見えていた。カミラは小さく嘆息した。エンデルクは言葉もなかった。今なら、一兵卒でもエンデルクを斃すことが出来たかも知れない。

ヴィント国王はなんと言うだろうか。名声が崩れる予感がして、エンデルクは蒼白になっていた。

 

昼過ぎ。およそ四刻に達する戦闘の決着がついた。徹底的な掃討戦を行ったので、余計長引いたのだ。

竜軍六個師団50000余、全滅。生存者無し。

シグザール王国軍配下クリーチャーウェポン部隊2150余、生存400弱。生存の全てが負傷していた。

敗者が全滅した戦いは人類史上幾つか存在している。しかし、勝者が実に八割を超す損害を出した戦いは存在しない。その上、クリーチャーウェポンの内まともに動けるのは200程度に過ぎず、残りは処分しなければならなかった。自裁するように命じながら、カミラは重くなる気分をどうにも出来なかった。

この周辺の豪族には、諜報部隊が鼻薬を嗅がせている。だから連中の兵が見に来ることはしばらくないが、一般人が目撃する可能性はある。当然の話だが、目撃したまま、帰してはならない。

すぐに生き残ったクリーチャーウェポンの内半数を周囲に回し、近づく人間を皆殺しにして死体を処理するように指示。特務中隊は手分けして敵味方の死体を集め、錬金術師達がこの日のために大量に作った火薬を用いて、焼く。敵味方の死体をばらばらに千切り、徹底的に炭にする。特にクリーチャーウェポンの骨や爪は、原型をとどめないまでに砕かなければならなかった。

同時に、近くの岩山に火薬を仕掛け、点火。此方の作業には、国お抱えの錬金術師達が作った火薬では威力が足りないため、マリーブランドのフラムを用いた。少し前に、大量に注文して作らせたのである。大量と言っても十玉に過ぎなかったから、マリーブランドの優秀さが今更ながらよく分かる。岩雪崩を人為的に起こし、死体を埋める。徹底的に死体の形状を無くしてから、ようやくカミラは一息つくことが出来た。能力者達が、死者の霊を念入りに浄化しているのを横目で見ながら、適当な岩に座って嘆息する。体中が痛かった。

本来はクリーチャーウェポン部隊を使って複数の山に死体を搬送し、そちらで処分する予定だった。だがこの状況では、手が徹底的に足りない。鼻薬を嗅がせていると言っても、周囲の豪族達は事情を知らない。あまり長引けば、不審に思って出てくるだろう。

深夜、仕事が終了した。時間に関しても、予定を大幅に超過していた。生き残った200程のクリーチャーウェポンと共に、帰還時にベースとするべく確保していた山奥に移動。そこで、ようやく休むことが出来た。

エンデルクは呆けているようで、何を聞いても反応が鈍かった。自分たちと同数にまで減り込んだクリーチャーウェポン達を世話する特務中隊を横目に、カミラは自ら周辺を見て回る。警戒に回す人員が足りないのだ。予想以上の激しい戦闘のため、クリーチャーウェポン用の食物に余裕があるのが唯一の救いか。それ以外は、ありとあらゆる全てが失敗だった。人間の死者は出ず、シグザール王国軍騎士団の関与であるという証拠だけは消せたが、それだけだった。

数年がかりの計画であったのに。ドムハイト軍の猛反撃は予想を遙かに超えるものだった。恐怖は感じない。呪詛の言葉に対する感傷もない。だが、心のどこかには、確実に傷が付いていた。

特務中隊の間で騒ぎが起こる。見に行くと、ヤクトウォルフが一頭、座るように命じているのに立ちつくしたままだった。物資搬送にもクリーチャーウェポンは用いていたから、ただでさえ人手が足りないのに。こんな時に、どうしたというのか。

早足で歩み寄ったカミラに、兵士達が敬礼する。クーゲルも来ていた。カミラが見上げると、ヤクトウォルフは小刻みに震えていた。これはと、カミラは戦慄した。このヤクトウォルフは、恐怖にとらわれている。巨大な恐怖が頭の中を占め、命令を受け付けなくなっているのだ。

あり得ないことだ。何度も調整して、感情を徹底的に消した。感情を抱いたとしても、命令に逆らうなどとはあり得ない。様々な状況を想定して、実験もした。それなのに。

「潰すか?」

「いえ、持って帰って実験材料にしましょう」

カミラが小さな手を伸ばして、白銀の巨狼に触れる。体を大きく震わせてカミラの方を見たヤクトウォルフの目には、露骨な恐怖が宿っていた。これ以上感情が大きくなるとどういう行動をとるか分からない。一斉にクリーチャーウェポンが反抗したら、如何にカミラとエンデルクとクーゲルが揃っていると言っても危うい。激しい疲労に掴まれているのは、今や誰も同じなのだ。

「座れ」

カミラが直接命じて、ヤクトウォルフはやっと座った。小刻みに震えている狼の頭を、ゆっくりカミラは撫でる。

ヘルミーナの言葉を、今更ながらに思い出す。完璧などあり得ない。それは実証されてしまった。致命的な結果ではないが、それに近い。

兵士達の中にも、史上最悪に近い大量虐殺劇に参加し、蒼白になっている者が多かった。どこかで堤防が切れれば、混乱の土砂が辺りを覆い尽くすかも知れない。ようやく落ち着いてきたヤクトウォルフだが、呼吸はしばらく乱れたままだった。

カミラは思わず天を仰いでいた。エンデルクが精神的に立ち直っていない現状、自分が状況を牽引するしかない。

だが、その自信が、カミラからは薄れつつあった。

 

4,余波

 

ドムハイトとの国境。荒れ果てた山の上に立ちつくす影一つ。大陸でも十指に入る使い手と噂される人物。錬金術アカデミーの双璧、ヘルミーナである。

薄い紫色の髪を弄りながら、ヘルミーナは壊滅状態になって帰還しつつあるクリーチャーウェポンの群れを、確かに色が違う双瞳と第六感に捕らえていた。気配は極小だが、一度感じた以上忘れない。それに、今の奴らは、前よりかなり簡単に捕捉することが出来た。

微量だが、感情がある。それは恐らく、絶望的なまでの強者と、血みどろの戦いをした結果、生じたものだ。イングリドが分析したとおり、連中の狙いはバフォートと竜軍だったということだろう。流石に大陸の頂点に立つと言われる剣豪。まだ未熟な騎士団のクリーチャーウェポン製造技術だけでは屠るのは難しかったのだ。

やはり、そうなったか。ヘルミーナは口中でつぶやく。自分の正しさが証明されたことよりも、今後の複雑な様相がいらだたしい。場合によってはシグザール王国との全面戦争もあり得る。連中が錬金術を危険視したらの話だが、その場合は老王の首はヘルミーナの手でたたき落とす。今後は、そうならないように、イングリドと連携していかなければならない。面倒くさい話だ。

近づいてくる気配。クルスだ。数名の護衛を伴っている。この間雇ったルーウェンという青年をまた使ったのだが、間近で見るとなかなかいい。気も利くし、そこそこには腕も立つ。クルスの護衛には適任だった。

護衛達の実力では、ヘルミーナが感じている気配を読むことは出来ない。だから、山の上に浮かぶ月を背に、ヘルミーナは振り返るだけで良かった。

「マスター」

「クルス、手紙は?」

「此方になります」

恭しく手紙を差し出すクルスの頭を少し強めに撫でながら、ヘルミーナは手紙を片手だけで器用に開封した。中にはイングリドの丁寧かつ論理的な文字が整列している。さっと目を通すと、ヘルミーナは鼻を鳴らした。極めて不機嫌そうなヘルミーナの顔を見て、未熟な護衛の一人が息を飲み込んだ。

「あの定規女」

静かな殺気が漏れる。だが、それはすぐに収まった。後ろの未熟な能力者を庇おうと前に出たルーウェンが、小さく胸をなで下ろす。別に本気で不快がっていないと理解しているクルスだけが、動揺を見せなかった。

「返信はなさいますか?」

「それは帰ってから考えましょう」

久しぶりに、屋敷に戻ることをヘルミーナは決めた。イングリドの方は、アカデミーでついに試薬を完成させたのだという。これで最悪の事態は避けることが出来そうである。場合によっては、強引に避ける。

歓迎すべき事態だが、イングリドが先に成果を上げたことが気にくわない。此方はどんな風に情報を送るか。騎士団の状況や、ヴィント王の平和攻勢策は既にイングリドもつぶさに知っている。この大量虐殺劇が、大侵攻に転じようとしていたドムハイトを一気に守勢にたたき落とし、「長期的な平和」の礎となることも。場合によっては複数の州がシグザール王国に寝返る可能性もある。民衆の根深い敵意とは裏腹に、豊かなシグザール王国に色気を出すドムハイト豪族は多いのだ。

ならば、帰還してきた騎士団の特務部隊の状況と、クリーチャーウェポンの惨々たる有様を正確に伝えるべきであろう。しかし、それだけではおもしろみがない。おもしろみで任務を判断できるほど、今のヘルミーナの心理には余裕が生じていた。

 

昼過ぎ、注文の品を満載した荷車を引いて飛翔亭に出向いたマリーは、仕事の依頼票を見て八半瞬だけ動きを止めた。コップを磨いているディオ氏は、無言。客商売を配慮しての行動であろう。声の聞こえる範囲内に客はいない。いつも来ている赤ら顔の老人は、かなり遠くのテーブルで、手酌で静かに飲んでいた。冒険者の客も何名かいたが、今は奥の方のテーブルで歓談している。

「ディオさん、何だか内容が不意に変わったね」

「ああ。 守秘義務があるから言えないがな」

「この依頼料からして、相手は大口の客よねえ。 そうなってくると、ふふーん。 なるほど、ね」

マリーは安物のワインを注文すると、グラスを一息に煽る。飛翔亭のものだけあり、安物のワインでもそこそこに美味しい。唇についたワインを舐めとると、軽く思惑を巡らせる。

その大口の客とやらの正体が、マリーには見当が付いていた。注文の傾向から言って、シグザール王国騎士団だ。そして、内容の変化が実にわかりやすい。ここしばらく火薬を専門に注文してきていたのに、それが無くなった。代わりに医薬品を以前より二割り増しほど多くほしがっている。

騎士団といえば、思い当たる節も多い。あの変な鳥といい、幾つかの不可解な事件といい、何か大規模な計画を目論んでいたはずだ。それがこういう方針変換を行うと言うことは。

「作戦が終了したか、一段落したみたいね。 しかも、かなり大きい被害が出たな」

独り言をマリーはつぶやくと、羊肉の炒め物を注文。今日はアデリーがキルエリッヒのところで修練しているので、これが昼飯になる。

別に探ろうという気はない。騎士団の闇に深入りするには、マリーの実力では難しい。錬金術アカデミーとドナースターク家の総力バックアップがあれば可能だが、どちらも親騎士団の姿勢を崩していない。ドナースターク家に到っては、将来性のあるエンデルクと密接なコネを作ることを重視しているほどだ。つまり、どのみちマリーには関係ない話である。ただ、火薬の使用用途は気になる。フラムは対人用の戦術兵器としては威力が大きすぎる。戦略兵器として用いるのが自然だ。どう使ったのかは気になる。

マリーは自分の創造物がどう生かされるかに、深い関心を抱く。完成度が高いほど圧倒的な歓びを覚えるし、それによって頭のねじも派手に吹っ飛ぶ。平静を装ってワインを煽るマリーは、興味に全身がぞくぞく打ち震える感覚を覚えていた。

フレアが羊肉の炒め物を出してくる。秋に取れる根菜類と一緒に若羊の脂で炒めた料理である。掌サイズの大きな肉塊を薄くスライスしており、皿の上でまだじゅうじゅうと香ばしい音を立てている。アデリーはかなり料理の腕を上げたが、まだまだフレアにはかなうまい。早速肉を一切れ口に運ぶ。癖のない若羊の肉と、こくのある脂の味が絡まって、実に奥深い。適度な大きさに切り分けられた長細い根菜類にも味がしみこんでいて、しかも歯ごたえが最高だ。食が実にスムーズに運んだ。

ナプキンで口の周りを拭いてから、飛翔亭を出る。詮索する気はないが、今後の状況に影響する可能性もあるので、冒険者ギルドに顔を出す。そうすると、案の定だった。普段は怠けているような連中までもが顔を出しており、ギルドは大繁盛していた。ディオ氏の所に、客が少ないわけである。

人垣の外にミューがいた。彼女は指先で太陽の首飾りを弄っていたが、マリーにすぐ気付いて、向こうから声を掛けてきた。マリーを見て、さっと距離を置く輩が数人いるが、そんなのはどうでもいい。

「こんにちは、マリー」

「こんにちは。 どうしたの?」

「え? ああ、何だか知らないけれど、またドムハイトでなんかあったみたい。 国境の警備隊の動きがおかしいらしいよ」

なるほど、やはり騎士団の連中が、ドムハイトで何かしたのか。マリーはそう思った。空の荷車をミューに預けると、近づいて求人看板を見る。確かに国境調査系の依頼が山のように来ていた。しばらく冒険者達は仕事に困らないだろう。ハイリスクだが、基本的に冒険者は根無し草だ。稼げる時に稼ぐのが当たり前である。だが、ミューは一歩置いて群衆を見ていた。看板から戻ると、マリーは荷車を受け取りながら聞く。

「ミューはもう仕事を受けたの?」

「私はお留守番。 ギルドマスターに呼び出されてね。 この辺りからベテランが根こそぎいなくなると困るから、しばらく近場で仕事してくれって。 この間の要塞消滅事件の時も、ベテランの確保に苦労したらしくって、今回は何人かに事前に声を掛けてるんだってさ」

「お、信頼されてきた証拠だね」

「うん、そうだね。 マリーのおかげだよ」

そう言いつつも、ミューの表情は複雑だ。アデリーに対する態度からも分かるが、この娘はとても性根が優しい。何かとんでもない事件が起こり、それによって大勢の命が失われたであろう事を、敏感に悟っているのだ。

ミューと別れて、一端アトリエに戻る。机の上には資料が山積みだ。アカデミーや、王立図書館から集めてきた貴重な文献ばかりである。これらに、今日中に目を通しておかねばならない。

アデリーの魔力制御具が完成して、その調整もあらかた済んだ現在、マリーは次の目的に向けて動き出している。

既にマリーは自分の腕で画期的な道具を幾つか作り出したと言うことで、アカデミーからかなり注目されている。イングリド先生が昨日来て、それを告げてくれた。少しばかり嬉しかったのは事実だが、その後に気になることを言われたのだ。

イングリド先生は、その鋭い視線に、わずかな憂いを湛えていた。そして、言った。今の錬金術を、どう思う、と。

マリーは様々に思うところがある。黄金の卵を生み出す神話の鵞鳥であり、人類の発展を約束する新技術でもある。だが、イングリド先生は、それ以上の何かを求めているという気が、マリーにはした。

元々、錬金術には、マリーも疑問に思うところが多い。後付の理論の数々や、奇形的に発展している実存主義。何か分からないものを、手探りで使えるようになってきているのが、今の錬金術なのだ。それは非常に魅力的な一方、極めて不安定でもある。やがて社会を変えるにしても、今のままでは危険性も大きいだろう。

そう応えると、イングリド先生は大きく頷いた。その通りであると。そして、マリーに命じた。さらなる高みへ登るべく、一歩を踏み出すようにと。

まず作るようにと言われたのが、アロママテリアと呼ばれる結晶体だ。真っ黒な八面体であり、僅かに上下に長い形状をとる。土の属性を持つ最高位の道具だと言うことだが、それ自体が強烈な魔力を秘めている一方で、使い道がないのだとも言う。ざっと調べたところ、素材には、それほど金がかかるものはない。問題は、今までのもの以上のスキルが必要だと言うことだ。

あまりにも調合が難しいのに、作る意味があまり感じられない。マリーとしては手を出したくないが、そろそろ錬金術師として更に上の段階にも行ってみたいのが本音である。能力者としての実力を高めたいという欲求と同時に、それが確かに今のマリーには根付いていた。

集中して、分厚い本を次々に読破していく。アデリーは夕刻帰ってきた。最近は走る時に先端にカバーをかぶせたサスマタを手にするようにしている。もちろん穂先を上にして走るのだが、これが恐ろしく体力がいる。重心が高い位置に来るので安定させるのが難しいだけではなく、その状況で走るのだ。屯田兵が最初に直面する試練が、槍を持っての行軍訓練だが、それに近いものがある。

アデリーはそんなきつい走り込みをしただけではなく、同性のキルエリッヒに相当厳しくしごきぬかれたようで、全身汗水漬くだった。昨日生理日だったはずだが、魔力は極めて安定している。生理で崩れた体調のコントロールも、短期間で見事に身につけ始めている。実に素晴らしい。

マリーはその時、七割方の本を読み終えていた。予定より若干早い。後は夕食後で良いだろう。訓練用の外出着だったアデリーは呼吸を整えながら、若い肌に浮いている汗をタオルで拭う。良く焼けた肌が、実に健康的だ。この間少し短くした髪が、汗に濡れてまた艶っぽい。睫毛も長くなってきていた。すぐにエプロンを身につけ始めながら、アデリーは言う。

「マスター、お勉強ですか?」

「ん? うん。 ちょっと難しい道具の勉強をしている所よ」

「どんな道具ですか?」

「それがねえ。 イングリド先生に作るように言われたんだけれど、調べても調べても、使い道が分からないのよ。 とりあえず、名前はアロママテリア。 作るのばかりやたら難しい道具でね。 売り物にもならないだろうし、はてさてどうしたものか」

アデリーは最近いい顔になってきた。造作よりも、湛えている表情が大人のそれになりつつある。己の命がどう支えられているのか、理解した人間の表情。だから、マリーももう子供扱いはしない。そろそろ労働分から換算して、奴隷のリボンも取れる。その時どうするかは、アデリー本人に任せる。

アデリーは結局優しいままだ。優しいまま武を極めるのはとても難しいだろう。それなのに、己の姿勢を崩そうとしない。その頑固さは、やはりマリーに似たのかも知れない。少し休んで良いと言い残して、マリーは裏庭に出る。少し修練をしておきたい。魔力の天井が見えてきたと言っても、絶望するには早い。

半刻近く瞑想し、魔力を練りに練り上げる。その過程で肉体も徹底的に研磨した。少し気分が高揚したので、そのまま近くの森に走り出る。一刻ほど低い体勢で獣のように走り回り、見かけた兎を一匹、なで切りに杖で首をへし折った。首を切って血抜きをする。いくら何でも小さすぎるので、この場で捌いて燻製にはしない。これは明日の夕食だ。血を抜いて、いつでも食べられるようにだけしておく。土に埋めておいて、明日くらいに掘り出すとかなり美味しく食べることが出来るだろう。新鮮な肉も素晴らしいが、腐る直前の肉もまたいい。

そのまま、ザールブルグに戻る。お気に入りである城壁の上に出ると、陽が山の向こうに沈むところだった。黄金の大耕作地帯が、朱の彩りを受けて、実に美しい。兎をぶら下げている右手は血まみれである。乾き掛けている血を舐める。美味。素晴らしき光景を見ながら舐める血は、また格別であった。

そろそろ帰るかと、マリーは思った。まだまだやらねばならぬ事が山積している。風が涼しくて気持ちが良いが、いつまでも髪を嬲らせておくわけにもいかない。兎の血香を秋風に乗せながら、マリーは城壁を降り始めた。

 

(続)