深紅と金剛石

 

序、戦乱の傷跡

 

馬車の窓から見えるのは、石畳が整備された綺麗な街。水路が通っていて、街路樹が植えられた、美しいところ。大人達はみな出払っていて、幼いルーウェンはひとりぼっちだった。お腹はすいていない。服だって目立って粗末なわけではない。だが、ただひたすらに寂しかった。

子供の声がする。複数。窓から顔を出して周囲を見回す。小さな公園で、子供達が鞠を投げ合って遊んでいる。ルーウェンと同じ年頃の子供達だ。一緒に遊ぼうと思って外に出ようとした彼を、トラウマが止める。

以前立ち寄った、辺境の街。国名は確かサーシュエントだったか。北の方の小さな独立国の首都だった。ルーウェンが声を掛けたら、子供達はさっと表情を変えた。そして、無視した。子供達と遊べたこともある。だが親が出てくると、犬のように追い払われた。

知っている。ルーウェンの格好が周囲と違ったからだ。だから子供も大人も警戒した。見れば、公園で遊んでいる子供達は、皆仕立てがいい服を着ている。いつものように追い払われるのが落ちだ。

馬車に戻って耳を塞ぐ。大人達が帰ってきたのはそれからほどなくの事。筋骨たくましい大男が、ルーウェンの頭を撫でて、よく我慢したなとほめてくれた。

仕事は上手くいったらしい。買ってきてくれた食事は、いつものよりも高級だった。それなのに、涙の味がした。

また違う人が入ってきている事に気付いた。一人が「財を為して」独立できたのだという。はやくルーウェンも財を為して独立したい。膝を抱えて、まだ幼い彼は、そうなる日を強く夢見ていた。

 

質が決して良くないベットから身を起こしたルーウェンは、今日もその頃の夢を見たことに気付いて、ため息一つ。冒険者ギルドと提携するこの宿泊施設が、もう何年もルーウェンの拠点となっていた。隣の部屋にはミューが寝泊まりしている。朝飯に誘おうと思ったのだが、残念ながらもう出かけていた。多分、マリーの使用人であるアデリーの所だろう。二人は馬が合うらしく、特に最近はいつも稽古をつけている。その様子を何回か見たが、仲の良い姉妹のようで、邪魔するのには罪悪感さえ覚えた。

初めて会った時にはまだ幼さを残していたミューは、もうすっかり大人の女性になっている。言動も落ち着いてきていて、置いて行かれたような気がして、ルーウェンは悔しい。ギルドでの評価はどうにか五分だが、劣等感は高まるばかりだった。愛の告白に踏み切れないのも、その辺が原因である。

一階に下りて食堂に出ると、既にそこは喧噪に包まれていた。ハレッシュを見つけたので、隣の席に。一言二言話しながら、ふわふわにふくらんだ卵料理を食べる。質が悪い植物塩を使っているのだが、卵の品質が良いので、殆ど気にならない。ベットの質はいまいちだが、此処の食堂はなかなかよい。ただ、美味しい食事を取っても、気分はさえない日もある。ギルドに足を運ぶことにしたが、どうも気が進まなかった。

ルーウェン=フィルニールに、家の記憶は無い。

物心ついた頃には、既に旅を続けていた。住む場所はテントであり、幌馬車であった。街の人間は別の生物であり、自分たちとは異なる存在だった。食事の時間は決まっておらず、一カ所に長くとどまることもない。夏は暑く、冬は寒く。自然は過酷なものであり、親しみを覚えたことはない。

一緒に旅をしていた大人はそれなりに優しかったが、親ではなかった。ルーウェンの他にも子供は何人もいたが、彼らには皆親がいた。食事はいつも出来たし、生命の危険にさらされることは少なかったが、それでも心の奥底に溜まっていく闇はどうすることも出来なかった。

待遇に不満があったわけではない。ただ、妬ましかったのだ。

荒れることはなかった。そんな余裕はなかったし、意味のなさも頭でも体でも理解していた。だから、必死に自立のための技を磨いた。

ルーウェンが属していたのは故郷を持たない冒険者達の集団であり、彼方此方の町や村で荒事を引き受けていた。ルーウェンは子供達が怖がるそれに積極的に参加し、剣の腕や、戦闘に関する知識を学んだ。その頃だっただろう。自分がどういう人間か、何故根無し草なのか、知ったのは。

ルーウェンは戦災孤児だ。ドムハイトとシグザールの長く続いた戦乱で、焼き払われた街や村は幾つもある。その中の一つが、ルーウェンの故郷だったのだ。両親がどうなったかは分からない。分かっているのは、もう故郷の何もかもが灰になってしまっているという事だけだ。

やがて体がしっかり固まると、ルーウェンは独立した。独立すれば、何もかも変わると信じていた。いつかは家を持って、妻を迎えて、社会的な大人になりたいと思っていた。それなのに、何も状況は変わらない。同期のミューはどんどん先に行っているように思えるし、孤独感は増すばかりだ。

剣の腕は上がってきた。後輩から尊敬される仕事だってしている。後輩達を率いて、猛獣や魔物の退治もして、実績も上げた。マリーの所の仕事で基礎的な力をつけたのは自覚しているが、それ以降は自分で強くなったはずだ。それなのに。

この虚無感は何なのだろうと、ルーウェンは思う。

いつからか両親を探し始めたのも、その闇を埋める為なのだと、ルーウェンは自己分析している。戦争難民は各地で既に落ち着いている場合が多く、生きている可能性は低くない。だが、様々な理由から名前を変えていることも多いし、何しろ十年以上も前の話なのだ。見つかる可能性は低い。

あきらめがルーウェンの心を覆い始めており、それがさらなる虚無を産んでいた。

気は進まなかったが、結局朝食後にハレッシュに連れられて、冒険者ギルドに赴く。めぼしい仕事はない。あのドムハイト軍要塞消滅事件の前後はかなり仕事があったのだが、最近は落ち着いたものだ。小遣い稼ぎに、適当な猛獣退治の仕事を引き受けようと思ったルーウェンの所に、まだ若い冒険者が血相変えて駆けてきた。栗色の髪の、背の低い少女だ。ローブを着ていて、腰には小さな短剣をつけている。風を操る能力の持ち主だが、いかんせん経験も魔力も足りないので、まだまだひよっこの域を出ない。何だかルーウェンと同じ仕事で顔を合わせることが多いので、良く覚えている。

「ルーウェンセンパイ!」

「どうしたんだ、フローラ」

「大変です。 「あの」マルローネさんが、表で騎士見習いらしい人ともめてて!」

周囲の空気が一気に冷え込んだのをルーウェンは悟った。マリーは勇名と同時に悪名も多量に振りまいている。多分畏怖の度合いでは、クーゲルといい勝負のはずだ。ハレッシュは奧で仕事の手続きをしているので、自分が出るしかない。

ルーウェンはかけ足で表に出る。マリーが心配なのではない。相手の騎士見習いが殺される可能性があるからだ。

ギルドの建物から出ると、まるで冬のような凍てついた空気がルーウェンを襲った。違う。それは空気ではない。超高密度の殺気だ。悲鳴を上げて、後ろでフローラが竦んでしまう。マリーは突っかかってきたらしい少年の方へ手を伸ばし、その非礼を静かに詰っている。ちとやり過ぎだと思ったルーウェンは、凄まじい殺気の中をかいくぐり、マリーの方へ近づく。

幸い、マリーはルーウェンが肩に手を置き、説得すると、分かってくれた。気当たりを掛けて騎士見習いの少年を気絶させたが、それだけで許してくれた。あのマリーとしては驚異的な機嫌の良さである。

失禁して倒れた少年を担ぐ。ギルドの奧に医務室があるので、其処を借りた。しばらく蒼白になっていた少年は、やがて不意に跳ね起きる。

「気がついたか?」

真っ青なまま、少年はうつむいた。騎士見習いは有望な若者を集めていると言うが、いくら何でもあれは無茶だ。自殺行為に等しい。マリーの名は騎士団でもとどろいているはずで、少年の行動の意味が、ルーウェンには分からなかった。

「一体どうしたんだ。 マリーに喧嘩を売るなんて、正気の沙汰じゃないぞ。 今のお前じゃ、逆立ちしても勝てる相手じゃないってのは、分かっているんだろう?」

「……」

少年は応えない。フローラがお湯に浸したタオルを持ってきてくれたので、渡して部屋を出る。漏らした分の処置くらい自分で出来るだろうと言うと、少年は悔しそうに頷いた。マリーの殺気をもろに浴びたのだ。しばらくは立ち直れないだろう。部外者が根掘り葉掘り聞くのも失礼かと思ったルーウェンは、ベットの白カーテンを閉め、外に出る。そこで、しばらく少年の様子を見る。

しばらく待つと、少年は話し始める。ルーウェンに口を開くと言うことは、多分、誰にも相談できなかったのだろう。

「あんた、マリーって女の知り合いか? だったら知ってると思うけど、あの女の所に、アデリーって子がいるだろ?」

「ああ、使用人の子だな」

「あいつ、酷い修行ばかりさせられてるんだ。 強いけどちょっとおかしいクーゲルさんと手合わせしてるし、毎日俺たちでもしないような距離を走り込んでる。 殆どお洒落とかにも興味見せないし、女の子らしいことをほとんどしてない。 あの女が元凶だと思うと、許せないんだ」

「ああ、マリーがそれを強要しているんなら、な」

少年が唇を噛む。ルーウェンは静かに、諭すように言う。

「俺はある程度の事情を知っているが、あの子が望んでしていることだ。 あまり事情は言えないが、あの子はマリーに、もの凄く大きな恩があるんだ」

「だ、だからって! あんな修行してたら、絶対におかしくなっちまうよ!」

「マリーは心の方に大きな欠陥を抱えてる。 達人には良くある事なんだけどな。 騎士団の上の方の人間には、珍しくないだろ」

ルーウェンの言葉に、少年は声を呑む。彼は見ているはずだ。達人と呼ばれるレベルになると、心のどこかが壊れるという現実を。

「アデリーは、その欠陥を、自分なりに塞ぎたいと思っているんだよ。 しかも、それはアデリーにしかできないことなんだ。 必死に誰かが頑張っているのを、自分の理屈で否定するほど、君の正義は矮小なものなのか?」

それ以上、少年は反論しなかった。男が泣くところを見るのは趣味が悪いとルーウェンは考える。だから、後は医者に任せて、部屋を出る。ギルドや騎士団で使われる薬にも、マリーが作ったものがかなりあるとあの少年が知ったら、どんな顔をするだろうとルーウェンは思った。

外に出ると、フローラが駆け寄ってくる。目をきらきら輝かせながら言った。

「センパイ、凄いです!」

「何が?」

「あのマルローネさんを説得できるなんて凄いです! あの人が殺気を放ってから、周りの人は殆ど身動きも出来なかったのに!」

「凄くないよ。 ただ、慣れてるだけだ」

感動するフローラに、ルーウェンは苦笑していた。適当に話を切り上げてカウンターの方に出ると、ハレッシュが仕事を取ってくれていた。ミッションには、フローラも参加するらしい。割の良い仕事だ。ルーウェンも参加させられていたが、別に断る理由もない。受けることにする。

憂鬱な時は、仕事で気晴らしするに限る。ルーウェンは戦友と並んで、仕事場へ向けて歩き出した。あの少年の言葉にも、一理はある。だが、世の中の正義は、それだけではないのだ。

ルーウェン自身、誇れる人生を送ってきていない。たいしたことをしたわけでもなければ、己を確立できている訳でもない。己の道を造り、それを驀進するマリーを羨ましいとさえ思う。そして、マリーのために全てをかけるアデリーも凄いと思う。同じ年の頃、ルーウェンは寂しがるばかりだったような気がする。己の道を行くことなど、とてもではないが出来なかった。

マリーは凄い奴だと、ルーウェンは思う。だが、その存在はやはり巨大なのだ。その周囲にいる者達は、皆ダイナミックな改革と変革に振り回されることとなる。あの少年もそう。そして、マリーによって数年でベテランの道を駆け上がったルーウェンもそうだろう。

戦災に巻き込まれなかったら、どうなっていたのだろうと、ルーウェンは思った。幸せだったのだろうかと、自問する。そして、分からないとしか、結論できなかった。

 

1、鍔迫り合い

 

荷車を引いて、ザールブルグの大通りを行く。マリーは肩を回して、痛みを緩和していた。ため息が漏れる。飛翔亭の帰りである。日差しが暑い。夏のぎらぎらした日光が、肌を焼く。荷車にはござを積んでいるが、これは直射日光を防ぐためのものだ。薬剤類の中には、直射日光で品質劣化を起こすものがある。今回熱冷まし用の薬を納入したのだが、それなどは特にそうだった。

飛翔亭に持ち込んだ薬剤類は、どれもマリーの言い値で売れた。確実に効果があるのだから当然だ。当然なのだが、マリーの表情は決して明るいものではない。まだ、予定額に届かないのだ。

タイムリミットは着実に近づいている。完全に第二次性徴期に入ったアデリーの体は、どんどん大人のものへ変わってきているからだ。マリーがしっかり食べさせていることもあり、アデリーの発育はよい。そろそろ言い寄る男が出始める頃だ。別に色恋沙汰にのめり込もうが構わないが、それは全てが片付いてからである。この時期は色々と面倒で、体は大人だが、心はまだ子供である。本人の意思を尊重しつつも、しっかり親が見ていなければいけない。

此処を越えれば、一人前、つまり大人になれる。後少しなのだ。アデリーの場合は体質的な問題もあるし、手は掛かるが、仕方がない。子供に手を焼くのは親の仕事だからだ。

マリーは荷車を引きながら、飛翔亭でもらったメモを通す。やはり薬剤類の人気が高く、幾らでも作って欲しいという依頼が多い。特に強壮剤と栄養剤は、マリーブランドという言葉が作られ始めているらしく、評価額も前より上がっている。ただし、それでもたかが栄養剤だ。

少し前に、シアに頼んで入手してもらったレインボーダイヤモンドは、その圧倒的な輝きにふさわしいレアリティを持つ。それこそ、貴族の邸宅が買えるような価値が付いているのだ。マリーの予想を更に超える価格であり、まだ購入額はたまらない。宝石類の加工も行っているのだが、まだ少し届かない。宝石類の加工を剰り大々的に行わないようにと、シアから釘を刺されていることもある。今や新生宝石ギルドの大スポンサーであるドナースターク家は、この間の痛手から完全に立ち直ってはいない。そんな状況であるし、身内に足下を掬われる訳にはいかないのだ。

しかし、マリーとしても、アデリーの魔力を制御する道具の中核にどうしてもレインボーダイヤモンドが欲しいのである。

石畳の上を、荷車の車輪が抵抗なく回る。荷車の軸の調子はすこぶるいい。地震による被害は、もう完全に復旧している。石材加工ギルドや、大工ギルドが全力で働いた結果だ。地方都市も復旧がほぼ完了しているという。帰り際に、冒険者ギルドを覗いてみる。これといった依頼は来ていなかった。高額で短期というものとなると、やはり難しい。これが他の大都市なら、犯罪組織か何かの殲滅作戦にでも参加して趣味と実益を共に満たすところなのだが。残念ながら、ザールブルグに大規模な犯罪組織はもとよりない。

肩を落としてギルドから出たマリーを、にらみ付けている視線一つ。少し前からついてきていたのには、気付いていた。だが、どうやらマリーに直接もの申す気になったらしい。荷車に手を掛けたマリーに、大股に歩み寄ってくる。周囲の冒険者達が、さっと退いた。理由は簡単。鬼のような形相の少年を恐れたのではない。のほほんとしているマリーが切れて、巻き添えを食う事態を恐れたのだ。

「おい、あんた! 鮮血のマルローネだな!」

「鮮血のは余計かなあ」

「どうでもいい! 話がある! こっちに来い!」

見たところ、少年は騎士見習いだ。声変わりしきっておらず、それが彼の幼さを良く示している。ただし、かなり戦闘のセンスはあると見た。今日は非番らしく、鎧は着ていない。着ていたところで、脅威のきの字も無いが。

マリーの服を掴もうとしたので、すっとマリーは目を細めた。瞬間、場を超高密度の殺気が蹂躙する。若手の冒険者の中には、そそくさとその場を逃げ出す者もいた。少年は今までの気配が不意に変わったことに気付き、蒼白になった。手を伸ばしたままの格好で、その場で立ちつくす。

「あのさ、騎士見習いだったら、社会のルールはわきまえた方がいいよ? あたしは付いていくとも話を聞くとも言っていないけれど?」

「う、あう」

「君、ダグラスだったっけ? クーゲルさんから話は聞いているよ。 才能はあるけれど、ちょっと甘ったれているらしいね。 いい機会だ。 あたしが社会のルールを教えてあげよう。 体でね」

すっと手を伸ばし、ダグラスの胸の中央に当てる。彼は身動き一つ出来ない。殺そうと思えば、即座に出来る。そして、マリーはそれをためらわない。自分がいかなる相手に洒落臭い口を叩いたのか、じっくり身の程知らずに思い知らせていく。ダグラスは滝のように汗を流しながら、ただ立ちつくしていた。ついでなので、首に手を掛けてつり上げてやろうと思ったところで、マリーの肩を誰かが叩く。ルーウェンだった。

「その辺にしておけよ、マリー。 可哀想に、固まってるじゃないか」

「ん、ルーウェン。 別に本気じゃないんだけれどなあ」

「虎が遊ぶつもりでじゃれついても、普通の人間は怪我するんだよ。 知らないあんたじゃないだろうに。 もう勘弁してやれ」

マリーはしばし黙っていたが、やがて致死には達しないレベルで、ダグラスに気当たりを叩き込む。ダグラスは一度びくりと痙攣すると白目をむき、失禁しながら倒れ込んだ。近接格闘技術は超一流とは言えないマリーだが、戦闘経験は並の人間などとは比較にもならない。ダグラスのようなひよっこが相手なら、この程度は軽いものだ。もちろん、仮に不意を打たれても、絶対に負けない。

泡を吹いて気絶しているダグラスを放っておいて、マリーはアトリエに戻る。ダグラスは今後、マリーに対する本能的な恐怖にさいなまれるだろう。それで駄目になるようなら、騎士としては元々通用しなかったと言うことだ。もし恐怖を克服できるようなら、聖騎士くらいにはなれるかも知れない。

ルーウェンはダグラスを介抱していた。無駄なことをとマリーは思った。あの手の子供は、感情を体験しないと理解できない。恐怖を理解させるには、徹底的に恐ろしい目に遭わせる必要があるのだ。そうしないと、将来的に結局損をする。

アトリエに着くと、荷車を奧に片付ける。必要な素材のリストを作り、紙に書き下ろす。そして作業図を作り上げた頃に、戸を叩く音がした。気配から言って、妖精族だ。

戸を開けると、ピローネだった。頼んでいた素材類を持ってきてくれたのだ。今回は量が多かったが、それでもバックパックに詰めている。彼らは小さい分機動力が高い。つまり、機動力を殺す荷車などは使わない。採集先で危険にさらされた場合、逃げ切れない可能性が高いからだ。そうピローネは言っていた。後は、いかにして素材を新鮮なまま届けるかが重要になってくる。

ピローネが取り出した素材類は、どれも品質が良く、マリーは文句のつけようがなかった。特にこの間から大量に納入してもらっている山蚕の糸が素晴らしい。そろそろ昇格ではないのかと聞いたら、静かに笑って首を振る。妖精族の生体サイクルは人間とは根本的に異なるし、時間の感覚もそうなのだろう。

ピローネが帰って、素材を整理している内に、裏庭でサスマタを振っていたアデリーがアトリエに戻ってくる。ダグラスが喧嘩を振ってきたことを告げると、眉をひそめる。だが、それだけだった。根本的に関心がないらしい。そろそろ恋愛沙汰に興味を強く持ち始める年頃なのだが、平均に比べて随分淡泊な子だ。あのシアでさえ、今のアデリーくらいの年頃には、恋愛沙汰に興味津々だったのだが。やはり、屈折しているのかも知れない。だが、そんなことは関係なく、育て上げるのが親の仕事だ。夕食を作り始めるアデリーの後ろ姿を見ながら、マリーは研究用の資料を開く。王立図書館から借りてきたものだ。

今までに繰り返した実験の数々で、既に理論は確立している。後はトラブルシューティングを徹底的に詰めるだけである。それには、様々な角度から資料を整備する必要がある。本当なら同等レベルの錬金術師に精査を願いたいところなのだが、そんな贅沢は言っていられない。

暇な時間など一秒すら無い。研究の後は鍛錬もあるし、頭は常にフル回転だ。だからこそに、ダグラスのような若造に突っかかれると頭に来る。憂さ晴らしに、今度の冒険ではちょっとばかり派手に獲物に八つ当たりしようとか考えながら、マリーは資料を捲る。忙しいが、面白い。実際に着手に掛かる時が楽しみだった。

ふと気付く。食器を片付けていたアデリーに、マリーは言った。

「そろそろ、もう少し大きめの下着がいるね」

「え? そうですか?」

アデリーは将来かなり胸が大きくなると、マリーは見ている。今もその片鱗を感じさせるほどに、発育がよい。元々無防備な行動が多いアデリーのことだから、早めに性を意識させるためにも、こういう事は言っておく必要がある。

性は気恥ずかしいものではなく、将来に血を継ぐ大事なものだ。だから、辺境の村では早い内から性教育を施す場所もある。また、早めに知識を身につけておくことは、将来の自立後に重要な結果をもたらす。何かしらの手は、他にも打っておく必要があるかも知れないと、マリーは思った。

美味しい夕食の後、アデリーが寝たのを見計らい、気分転換代わりに外出。外は暑いが、それでも風は心地よい。軽く外を走ってきた後、魔力を練る作業に入る。裏庭の洗濯岩に乗って胡座を組み、深呼吸を行って目を閉じ、極度の集中状態を作る。そうしてから雑念を断ち、全身の魔力を循環させる。

魔力の練り上げに関しては、各人にそれぞれ独自の方法がある。マリーは四つの手段を持っている。どの方法も用いるが、ここ最近は、ついこの間試行錯誤の末作り上げた独自形状の胡座を組むことが多い。これはクーゲルから又聞きで教わったものだ。クーゲルは東方から来た武芸者に、やり方を聞いたのだという。それを三ヶ月ほど掛けてマリー流のやり方に組み替え、確立したのだ。

右足を上に、左足を下に胡座を組む。両手は左右に伸ばし、掌を上に向けて、腰の高さで固定する。このとき、僅かに右手を上にする。左手は卵を握るように柔らかく丸め、逆に右手は指を伸ばす。この状態で身動きせず、己の全てを内側に流し込んでいく。

完全に呼吸を制御すると、体内の音が聞こえてくる。最初は心音から。やがて筋肉の動く音や、果てには血が流れる音までも。その状態になってから、全身の魔力をゆっくり循環させ、隅々まで行き渡らせる。それと同時に、練り上げた全身の筋肉を適度に緊張させ、親和性を高めていく。やがて、肉と魔力とが一体となり、更に互いを高め合う。この過程で、さながら媚薬を使ったような恍惚を獲る人間もいるらしいが、マリーはそんな感触を味わったことはない。ただ、強くなることは単純に楽しい。

一刻ほど魔力を練り上げると、小さくため息。着実に魔力は増えているのだが、どうも最近、限界点が今までにないほど鮮明に見えてきた気がする。今まではなんだかんだ言ってもじりじり力は上がっていたのに、どうやらやはり人間である以上、能力の天井はあるらしい。容量がいっぱいになったら、後は技を磨いて実力を伸ばす作業に移行するわけだが、それもまた楽しい作業であろう。ましてやマリーには、錬金術という外付けの攻撃手段がある。

術を使う遠距離戦闘系の能力者も、身体強化を行う近接戦闘系の能力者も、最終的には似たような修行を行う。そして、それによって己の負が克服されることはない。マリーもそうだし、クーゲルもそうだ。キルエリッヒやエンデルクも恐らくそうだろう。なぜなら、人間はどれだけ己を鍛え上げても、神にはなれないからだ。マリーが思うに、人間である以上、神となるのは不可能だ。それ以上の存在になりたいと欲するのであれば、人間としての殆どを捨てなければ無理だろう。

整え上げた魔力の感触を楽しみながら、しばらく杖を素振り。丁度良い感じまで疲労したところで、今晩の修練終了。寝床に潜り込む。床に敷いた布団では、アデリーが安らかな寝息を立てている。来たばかりの頃、アデリーは毎晩悪夢を見ていたが、最近は静かなものだ。あくびをしてから、目を閉じて思惑を巡らせる。

あと少し、資金が足りない。今注文されている薬類を仕上げても足りない。コメートを二三個作り上げて売り払ってもまだ足りない。しかし、遺跡を探索して、換金出来るようなものを見つけるのは難しい。この間は幸運だったと割り切って、別の手段を考えるしかない。

一番手っ取り早そうなのは、高級素材の回収だ。たとえばストルデル滝に出かけていって、ドナースターク家に直接宝石の原石を納入する。宝石の価格は一気に下がったが、その分流通量が増え、輸出産業としても活性化し始めている。だから原石もそれなりの数を持っていかなければ、大きな収入は得づらい。ドナースターク家が力を回復しつつあるのは嬉しいのだが、このことに関してだけは少しばかり悲しい。

宝石以外の高価な換金素材というと、大型の猛獣の内臓や、魔物や悪魔の体などだが、此方は遭遇に相当な運が要求される。出かけていけば狩れるというようなものではない。虎くらいなら数頭まとめて倒してくる自信はあるが、生態系への打撃も大きいし、あまり気が進まない。メディアの森の奥地には、白鹿竹などの錬金術アカデミーで高額換金できる素材もあるが、時間が掛かりすぎる。気が乗らない。最後の手段として、この間手に入れた宝剣リヒト・ヘルツを売り払うというものもあるが、これはそれ以上に気が進まない。

寝返りを打ちながら、マリーは何かいい手はないものか、考える。ギャンブル的なこの間の探索は成功した。だが、幸運は何度も続かない。しかし、アデリーの健やかな成長を見ていると、いつ初潮が来てもおかしくない。地道に薬を作っていっても、近いうちに予定金額は一応たまる。だが、不安はぬぐえない。嫌な予感がしてならないのだ。

魔力が強い人間にとって、予感は馬鹿に出来る存在ではない。マリーのような遠距離支援型についてはなおさらだ。人生に魔力が密着している存在にとっては、予感は身近にある危険を知らせる重要なものなのだ。

静かに眠っているアデリーの髪を撫でる。だいぶ長くなってきている。柔らかくて、いじりがいのある良い髪だ。今はポニーテールに縛っているが、他の髪型もいいかもしれない。よく日焼けしている肌もきめ細かい。一緒に風呂に行くたびに見るが、もう実の両親につけられた傷の殆どは消えている。手首に残っていた傷も、もう目立たないほどになっている。肌のきめ細かさは、マリーとしても羨ましい。ただ、これは肉体の若さが大きく関係している。

アデリーはマリーが頬を撫でても目を覚まさない。この時期は、生物的な本能から反抗期が顕在化するものだが、アデリーに関してはその方法が他の子供と違う。マリーとしても扱いやすい。それにしても、これだけ露骨に気配を出しているのだし、そろそろ気付いて欲しいものだ。

しばらくアデリーの髪を撫でたり頬をつついていたマリーだが、飽きてベットに潜り込む。明後日からエルフィン洞窟に出かけて、素材を回収に行かなければならない。強壮剤、栄養剤、熱冷まし、胃調剤、傷薬。マリーに求められている薬剤は多い。そして、それが救ってきた人間も。だが、それが今は、アデリーを救ってくれない。

子供が健やかに育つことは嬉しいはずなのに。マリーの脳裏には、焦りばかりが先行していた。

 

朝、アデリーをアトリエから送り出すと、入れ替わりにナタリエが訪れた。この間の地震で受けた怪我はもう完治しており、いつでも仕事に復帰できる。アデリーの修練につきあうことも最近は多く、様々な相手を想定した訓練を行っている。三つ編みを揺らしながら、ナタリエは言う。

「ディオさんが、急でやって欲しい仕事があるんだと」

「内容次第かな。 あたしも、明日から出かけなくちゃいけないしね」

「ついでで出来る仕事らしい」

「急の仕事なのに?」

苦笑したマリーが、熱い茶を呷る。ナタリエが差し出した手紙には、ご丁寧に蜜蝋で封がされていた。ナイフで切って封筒を開けると、中からディオ氏の筆致らしい重厚な文字が躍る手紙が出てくる。ざっと目を通す。ナタリエも最近はかなり仕事に対する自覚が出てきており、手紙を覗こうともしない。

「ふうん、なるほどね」

「どんな様子? いけそう?」

「いけそう。 ディオさんも、色々悩みが深いんだなあ」

マリーは手紙を懐にしまう。ディオは今まで人間的な面で、マリーに仕事を頼んできたことはない。今回が初めてだ。マリーが相当に信頼されたという事であり、同時に失敗は絶対に許されない。素材の回収は難しくない。だが、その後の調合は少し難しいかも知れない。薬剤を作りながら、資料集めに奔走することになるだろう。しかも、かなり限られた時間で、だ。

今まで積み上げてきた信頼が、こういう形で生きてくるとは。報酬額もかなりいい金額だ。ひょっとすると、行けるかも知れない。マリーはほくそ笑むと、ナタリエに返す。

「ナタリエもそろそろどう? 今回は簡単な近場の素材回収護衛ミッションだし、出てみる?」

「そうだな。 オレもいつまでもいじけてられないしな」

「いいんだよ。 トラウマって結構馬鹿に出来ないものだし、無理しなくても」

「だからこそ、オレは頑張るんだよ。 行くよ明日から。 幸い、他に仕事も入っていないしな」

ナタリエはそう言って、茶を一気に呷り、熱さに噎せていた。今回は近場と言うこともあり、護衛の人数は最小限にしようと思っていた。ナタリエが加わることがほぼ確定となった今、人員はあと一人もいれば充分だ。というのも、まだまだ半人前のアデリーを今回も連れて行くつもりなので、彼女を守るためにももう一人が必要なのだ。

シアを連れて行ければいいのだが、今回は少しスケジュール的に厳しいだろう。ルーウェンとハレッシュは少し前から出かけている。

「後一人は、誰に声かけようかなあ」

「この間一緒に行ったっていう、キルエリッヒって騎士は?」

「あの人は無理。 お仕事も忙しいし、何より適切な報酬がバカ高いからね。 こんな近場のミッションで、連れて行ける人員じゃないよ」

同じ意味で、クーゲルも連れて行くのは難しい。クーゲルは最近少し余裕があるようだが、やはり報酬は桁違いに高いし、連れて行くとせっかくの黒字が大幅に削られてしまう。そうなると、消去法で後一人はミューか。安定した戦力として、ミューには期待できる。アデリーのことも妹のようにかわいがっているし、同行人員としては悪くない。

「アデリーは、今回一緒に行くのか?」

「そのつもりだよ。 もっと豊富に実戦を経験させたいしね。 基礎的な訓練は充分だから、後は実戦で勘を磨けば、一人前になれる」

「何だか大変だな」

「今の時期頑張っておけば、後が楽になるんだよ。 ナタリエにも、覚えがあるんじゃないの?」

軽く揶揄してみたのだが、ナタリエはまじめに考え込んでしまったので、マリーは逆にちょっと驚いてしまった。噂をすれば影が差すという奴で、そうこうしているうちに、アデリーが帰ってくる。ミューも一緒だった。アデリーは走り込みの帰りで、健康的に汗をかいて、呼吸を乱していた。だが復帰はかなり早い。井戸で冷やした冷たいタオルを渡すと、汗を拭きながら、すぐに呼吸を整える。

ミューはエルフィン洞窟の探索には異存がないらしく、これで戦力が揃った。マリーは頭の中で素早く数字を計算する。今回イレギュラーの収入が入ったこともあり、あと少しで予定額に届きそうだ。もし魔物やら悪魔やらを捕獲し、素材を回収することが出来れば、金額に確実に届く。ピローネに頼んでいる分の素材類も上手く加工が成功すれば、更に状況には余裕が出るだろう。

しかし、嫌な予感は消えない。何故なのだろうと分析を進めてみるが、やはり分からない。アデリーはぱたぱたと台所に走ってエプロンを身につけると、手慣れた動作で朝食の準備に掛かる。

「朝ご飯作ります」

「ありがとー! アデリー、いいお嫁さんになるよ」

ミューが言うと、アデリーは少し寂しげに微笑んだ。嬉しそうと言うよりも、少し悲しそうだった。

 

早朝。太陽が出ると同時に、エルフィン洞窟へ向かう。今回のスケジュールは一週間だが、トラブルがなければ四日で往復可能だ。三日間余裕を見ているのは、曲がりなりにもヴィラント山の麓に行くことと、近くの森とはいえかなり奧に入るからだ。余裕はあるが、油断してはいけない。そういう場所へ赴くのである。

今回は女の子ばかりということもあり、多少気楽である。ミューはこの間から剣を新調している。要所にミスリルを使った高級品で、切れ味が素晴らしい。鎧も彼方此方補強しているらしく、歩いている時の音が違った。ナタリエもこの間の地震で被害を受けてから、気分を変える気になったらしく、バンダナや皮鎧に多少の差異が出ていた。ただ、見ると、配色が違っているだけで、ものは変わっていない。こちらは完全な気分転換なのだろう。気分転換は馬鹿に出来ない。雰囲気を変えただけで、結構強くなる場合がある。

「だいぶ鎧になれてきたね」

「有難うございます」

ミューがにこにこしながら、アデリーと和やかな会話をしている。マリーは最初は自分が荷車を引くことを決め、後衛にナタリエをつけ、遊撃にミューを入れる。アデリーは補助だ。まだまだ、戦闘要員としてはカウントできない。スキルはいいのだが、優しすぎて、戦闘時には足を引っ張りかねない。

しばらく街道を行く。右手の遙か先に見えるヴィラント山の上で、エンシェント級のドラゴンであるフラン・プファイルが旋回していた。人間が縄張りに入ってこないか見張っているのだ。いざというときには、すぐに逃げるために。老獪なドラゴンは人間が多数で入ってこられない場所に巣を構える。そして、人間が来るとすぐに逃げる。そうやって命脈を保つのだ。

フラン・プファイルは雌だとマリーは知っている。雌としての身体的特徴が遠目にも確認できるのだ。噂によると、奴は毎年秋頃に数匹の子を産むらしい。しかし、その殆どが産まれた年を越せないだろう。若いドラゴンは人間にとって格好の獲物だ。母の半分も狡猾さがあれば、人間の手が及びにくい土地に住むことを考えるだろうが、そこまでの知恵を育てる余裕があるかどうか。

何度か旅人とすれ違う。幌馬車が行く。ザールブルグが遙か背後になってから、マリーは森へと入り込む。此処からは重労働だ。荷車が一気に重くなり、場合によっては全員がかりで押さなければならなくなる。こう言う時ばかりは、男手が欲しい。

夏の森の中は蒸し暑い。虫が大きな声で鳴き、さらに暑さを後押しする。木の根を踏む度に、ごとん、ごとんと荷車が揺れる。近くに大きな気配や殺気は無いが、あまりいい気分はしない。

陽が傾き始める。この辺りの地理は知り尽くしているから、無理はしない。小川の側にある開けた場所に出ると、すぐにキャンプを張る。テントを張り終えて、竈を作り終えた頃には、陽が山の向こうに消えていた。マリーは何度か途中木に登っては辺りを見回していたが、特に危険な動物はいない。というか、近寄ってこない。動物の方が、人間よりも相手の強さには敏感だ。一度狼のテリトリーの中を通ったのだが、威嚇さえしてこなかった。

「おーい、マリー!」

下から無神経な声。ナタリエだ。するすると木を降りると、マリーも呼ばれた理由を視認する。接近には気付いていたが、危険性も無かったし、周辺監視を優先していたのだ。

「お久しぶりです」

「ああ、久しぶりだね、クルス」

「知り合い?」

ナタリエは、異様に顔立ちが整った緑の髪を持つ少女と、マリーを交互に見ながら言った。クルスはフードを被っていたが、その柔らかそうな髪は少しはみ出している。彼女の護衛はよりにもよってルーウェンで、ばつが悪そうに頭をかいていた。側にはハレッシュと、知らないひよっこ冒険者の姿もある。何でか知らないが、マリーを見てびくびくしているようだ。

「気配を感じたので、ご挨拶しようと思いまして。 丁度いいので、此方をどうぞ」

「ん、ありがと。 帰ってから読むよ」

手渡されるのは、いつも通りヘルミーナの手紙だ。この人の手紙は解読するのに、本当に骨が折れる。帰ってから本腰を入れなければ無理なので、こういう返事をする。軽く頷くと、身を翻そうとするクルスに、マリーは言った。

「ところで、どうして森の中に?」

「マスターがお呼びですので」

「へ? ヘルミーナ先生がこんな近くに来ているの?」

「はい。 此処しばらくは、ザールブルグの近辺で活動しておられます」

眉をひそめるが、ホムンクルスがこういう事を言うのは、主君に許可をもらっているのだろうと思い当たる。竈の火を調整していたアデリーが、ぱたぱたと駆けてきて、クルスに気付く。ぺこりと一礼するアデリーに、クルスは同じように礼をした。

「お久しぶりです。 クルス様」

「此方こそ。 アデリー様も、御健勝な様子で何よりです」

「有難うございます」

互いを様と呼び合う妙な二人であったが、気は合うらしく、クルスもアデリーも楽しそうだ。二言三言話した後、アデリーが此処に泊まっていかないかと勧める。テントが足りないのだが、それは増やせばどうにでもなる。見ればルーウェンも荷車を引いていて、キャンプ用具もきちんと積んでいる。

「何だか、別のチームって気がしないよな」

「まあ、たまにはこういう事もあるでしょ。 守秘義務があると思うから聞かないけど、今回は戦闘が想定されるの?」

「いや、俺たちはあの子の護衛だ。 多分、戦闘に関しては大丈夫なんじゃないのかな」

ヘルミーナがクルスを溺愛しているのはマリーにも一目で分かる。多分子供に対する愛情の注ぎ方とは微妙に違うはずだが、それでもその生命維持には万全の態勢で臨んでいるはずだ。この過剰な護衛が、その推理を裏付けている。

だが、気になる事もある。何故ヘルミーナが、わざわざこんな所に来ているかと言うことだ。手紙を見るだけでも、ヘルミーナは相当な偏屈者だと言うことが分かる。必要がなければ、研究を行う屋敷からは絶対に出てこないはずだ。つまり、何かしら重要な用事があると判断して良いのだろう。

この間のメディアの森の遺跡の時も、悪魔が不可解な動きをしていた。やはりこの件でも、嫌な予感がする。今回は軽めの探索だが、気は抜かない方が良さそうだと、マリーは思った。

竈を使って、持ち寄った干し肉を焼く。元々そのままでも食べられるものだし、火加減さえ気をつければ何の問題もない。腕の振るいがいが無いので、アデリーは少し手持ちぶたさの様子であったが、それでもてきぱきと動いて皆に皿や食器を配る。戦闘面ではまだまだ役に立たないと言うことを自覚して、こう言うところで働くのは立派だ。

肉が焼ける良い臭いが辺りに立ちこめる。此処で何か獲物を仕留めていれば、内臓や骨髄を煮込んで鍋にする所なのだが、今日は残念ながら獲物がない。まあ、干し肉には複数種の調味料を振り、煙で燻してじっくり味付けをしているので、夕食としては充分だ。

後は食べられる野草を行きがけに少し摘んできたので、丁寧に洗って湯がいた後に、皆に分配する。多少味気ないが、おかずとしては悪くない。特にホロ草と呼ばれる、小さな丸い実が枝の左右に無数についている草は、味がない代わりに食感が良く、口の中でぷちぷちとつぶれる。この感触がかなり面白い。この実は味付け次第では珍味となるのだが、残念ながら日持ちしない上に数が少ない。今回は手に入って幸運だと割り切って、マリーは手に入った分全てを食べきった。

戦力人員を六名として、三交代で見張りをすることにする。戦力を均等に割り切った後、アデリーは最初の組に割り振る。マリーが順番を決めたが、自身は一番きつい二番目を選んだので、誰も不平は漏らさない。こういう場所では、経験者が仕切るのが暗黙のルールだ。

マリーと一緒に見張りをすることに決めたナタリエと一緒に、さっさと寝床に潜り込む。最後の見張りをするはずのひよっこちゃんは、そんなマリーの様子を見て驚いていた。こう言うところでは、眠れる時に寝ておかなければ、動けなくなるものだ。何日か野外行動をしている内に、それを思い知ることになる。

まだまだ慣れていないなと思いながら、さっさと目を閉じる。やはり、嫌な予感が晴れない。それでもきちんと眠れるのが、マリーがベテランであるが故だ。

マリーが目を覚ましたのは、夜半過ぎ。交代時間より少し早い。目を覚ました理由は決まっている。

遠くで、巨大な殺気がぶつかり合うのに気付いたからである。

 

2,闇の錬金術師

 

既に深夜であったが、寝床に入っていたヘルミーナは、迅速に反応した。飛び起きると、すぐにマントを羽織る。大股で外に出る。外は森。夜の闇に包まれ、人間が住む場所ではないはずの場所である。

ここしばらく、ヘルミーナは騎士団の動向を単独で探っていた。一応戦闘補助用にホムンクルスを何体か連れてきているが、それはあくまで補助要員である。実戦で役に立つとは、ヘルミーナも思っていない。

ザールブルグ近くの森の中に、拠点として小型のラボを作った。ラボといっても、小さな山小屋に過ぎない。相違点といえば、温度が安定した地下室がある程度のものである。ヘルミーナは難儀な体質で、研究をしていないと禁断症状が出る。だから、単なる休憩用の拠点でも、こういった研究設備が必要となるのだ。ヘルミーナが寝床にしていたのは、そんなラボだった。

ラボは暗い森の中で、遙か昔から其処にあったように立ちつくしている。ぱっと見では気付かない。元々暗い雰囲気が好きなヘルミーナは、迷彩まで施して、ラボを目立たないように改装しているのだ。屋敷の外装などは知ったことではないのに、こう言うところでは趣味に走る辺りが、ヘルミーナの屈折した趣味を良く表している。

ヘルミーナは目を細めて、接近する殺気をカウントする。四、五、六。まだ増える。やがて、闇から抜け出るようにして、小柄な女が姿を見せる。騎士団の鎧を着込んだそいつには、見覚えがあった。

確か、名前はカミラ=ブランシェ。精鋭揃いのシグザール王国騎士団の中でも、若手のホープといわれる人材だ。何度か遠巻きには見たことがあったが、至近で顔を合わせるのは初めてである。ヘルミーナはこの娘に獰猛な要素を感じ取っていたが、それは間違いではなかったということになる。ヘルミーナの身長の七倍ほどの距離を取り、両者は相対した。カミラはバトルアックスを背負っているが、抜く気配はない。ヘルミーナも、腕組みしたまま、微笑を絶やさず相手の出方をうかがっている。

周囲の殺気は姿を見せない。かなり巧妙に隠密行動を取っているが、気配から言って動物だ。良く鍛えたと言うよりも、戦闘目的で種族レベルの改造を施したのだろう。興味深いと、ヘルミーナは思った。彼女のホムンクルス技術の大成に、ひょっとすると役立つ技術が使われているかも知れないからだ。

カミラは軍式の敬礼をすると、多少皮肉混じりに言う。眼鏡の奥の瞳が、獲物を伺う獣のそれと同じだった。

「お初にお目に掛かります。 ミス、ヘルミーナ」

「こちらこそ、ミス、カミラ。 フフフフフ」

「何がおかしいのですか?」

「いや、貴方ほどの使い手でも、狡い手を使って相手を威圧するのだなと思っただけよ」

ヘルミーナの後ろで思い思いに槍や剣を構えているホムンクルス達は気付いてもいない。森の中にいる、強大な捕食者の存在を。それほど上手く彼らは気配を消している。ヘルミーナでさえ、数を特定するのには、少し時間が掛かったほどだ。

「何だ、気付かれていましたか。 もう少し鍛えないといけませんね」

カミラが指笛を吹く。同時に、殺気が消え、巨大な影が姿を見せる。

狼だった。銀色に輝く毛並みの、巨大な狼。人間より二回り以上も大きい。しかも、筋肉の鍛え方が尋常ではない上、強い魔力を全身から感じる。これは、一体一体が虎よりも強いのではないか。

しばらく騎士団の動向を探っていたヘルミーナも、彼らが開発しているクリーチャーウェポンに此処まで接近したのは初めてだった。恐らくこの狼たちは、何かしらの均一な能力を持っているはずだ。

狼たちの目には感情が一切見えず、単純にカミラの次の指示を待っている。彼らは知っているはずだ。ヘルミーナが、自分よりも明らかに強いことを。それでも、攻撃を命令されたら実行をためらわないだろう。それが、兵器としての訓練を受けた存在というものだ。狂信的な思想や薬物で人間を縛るのは比較的簡単だ。動物も、やりようによっては出来るだろう。

「それで、何のようかしら? 小さな騎士さん」

「…っ! 私を、小さいと言わないでもらいましょうか」

「これは失礼。 それで、用件は?」

不意にカミラから今までにないほど原始的で濃厚な殺気が迸ったので、ヘルミーナは意外に思いながら挑発の刃を引っ込めた。

ヘルミーナも調査でこの赤い小さな騎士の事は知っている。というよりも、カミラのことを知らない裏側の人間は、この国では潜りである。

カミラは恐るべき娘だ。騎士団の中に独自の勢力を作り上げ、軍の一部もたらし込み、今や王すらもスポンサーにつけて、野望のために動く女。本人の実力もかなりのものだと聞いてはいるが、それ以上に策謀家としての力量を、アカデミーでも警戒していた。だが、ヘルミーナの見たところ、カミラは案外純粋な娘なのかも知れない。純粋な娘がトラウマに突き飛ばされ、負けじと必死に背伸びしたら、元々の素質が悪い方向へ作用し、とんでもない所に手が届いてしまった。そんな印象を受ける。必死に平静を装いながら、カミラは眼鏡をずりなおし、言う。

「今日は会談に来ました」

「会談? へえ」

話術でも、武力でも、財力でも良い。話し合いの時に、交渉の素材として、様々なカードを用意するのが大人のやり方だ。カミラが連れてきたクリーチャーウェポン達もその一つというわけだ。そのカードを如何に冷静にやりとりするかで、勝負が決まってくる。言葉を使う戦い。熾烈さで、それは武器を使った殺し合いに劣らない。

「我々は、今貴方やミス・イングリドと争うのは得策ではないと考えています。 この国、いや大陸でも十の指に入るだろう使い手である貴方達を敵に回したら、せっかく巨費を投じて開発したクリーチャーウェポンが多く失われるでしょう。 また、シグザール王国も、せっかくの旧宝石ギルドの利権が安定した今の状況、あなたたちと事を構えることは喜ばないでしょう。 そこで、取引をしたいのです」

「取引、ねえ」

相手の出してきたカードを、じっくりヘルミーナは吟味する。

ヘルミーナの基準はこの世に一つしかない。リリー先生が作り上げたアカデミーをいかなる手段を用いてでも守ることだけだ。その基準は、己の命をはじめとして、他の全てに優先する。

己の欲望のまま好き勝手に生きているようにも見えるヘルミーナだが、根本的な部分で、その芯は極めて硬い。ある意味超が付くほどに偏屈な正義漢であるヘルミーナは、その不思議な思想を基準に全てを判断するのだ。掛け値無しに危険な存在であり、既存の倫理や常識は、彼女の前では意味を持たない。

「あなた達の目的については、私は興味がないわ。 だから詮索するような真似はしないけれど」

ヘルミーナの視線が向いたのは、銀色の狼たちだ。歯をむき出すこともなく、唸ることもなく。彼らは彫像のように、闇の中、四足で立ちつくしている。金色に光る目が、計八対。恐らく、訓練を受けた兵士一個中隊を凌駕する戦力だ。ただ、狼特有の強い誇りは、まるで感じ取られない。

「私の興味はそれなのよねえ」

「生きた標本を譲るわけにはいきませんが、資料を少し見せるくらいならば構いませんよ」

「それもいいのだけれど。 安全性にはどういう工夫を施しているの?」

「快楽中枢と思考回路に細工しています。 基本的に、私をはじめとする数名には逆らえません。 攻撃行動も、特定の指示を与えない限りは絶対に行いません」

そう言って、カミラは狼の口に、その小さな手を突っ込んで見せた。狼は表情一つかえず、ただじっとしている。

「どうです? アカデミーから独立した二流三流の錬金術師達に研究させた技術とはいえ、数が揃えばそれなりのものが出来るのですよ。 この技術を回収することは、アカデミーにも、悪くない話だと思いますが?」

「…ふむ。 やはり、生きた標本が欲しいわねえ。 それと、鳥と、後目に見えない大きいのがいるでしょう。 あれをそれぞれ二体ずつ。 それで、しばらくは外部監査活動をストップして上げてもいいわよ」

「いくら何でも、それは欲が深すぎるでしょう。 此方が払う対価が、剰りにも大きすぎる。 対等の交渉をする気が無いようにしか見えませんが」

「対等? 笑わせるわ。 あなたたち、今ドムハイトに対する何かしらの大がかりな軍事作戦を目論んでいるでしょう。 それを邪魔されることに比べたら、安いものではなくて?」

会話は、そこで止まった。カミラが、バトルアックスを引き抜いたからだ。ヘルミーナは素手だが、口の端を既につり上げている。戦っても、この場を切り抜ける自信があるからだ。

「殺る? 殺りあう? 別に私は構わないけれど?」

「少し余計な事を知りすぎているようですね。 いいでしょう。 少しばかり此方を侮りすぎていると、思い知らせてさしあげますよ」

「ウフフフフフフ。 丁度いいわ。 久しぶりに人間の実験素材が欲しかったところだし、それが超一流の能力者なら言うことはない。 ただ、先に言っておくけれど。 興ざめは嫌だから、簡単に壊れないでちょうだい?」

「どこまでも私を馬鹿にしてくれますね…! 其方こそ、原型とどめたまま死ねると思わないでもらいましょうか!」

常人であれば、間に入っただけで心臓麻痺を起こすほどの濃密な殺気が、渦を巻きながらぶつかり合う。じりじりと間合いを計るカミラは、クリーチャーウェポン達に攻撃命令を出さない。主君だけが戦闘態勢に入っているその光景は、一種異様だった。ヘルミーナは腕組みさえ解いたが、無形のまま身動きしない。

仕掛けるのは、双方同時だった。

その瞬間、絶対的な興奮が、ヘルミーナの感覚を極限まで跳ね上げる。

カミラが真横に跳躍する。足場にされた巨木の幹に足跡が残る。ヘルミーナが右掌を肩の高さまで上げるのと、残像を二つ残したカミラが振りかぶったバトルアックスを叩きつけるのは同時。静かな夜の闇の中、獰猛な殺気が炸裂する。隕石が森を直撃するような轟音が響き渡る。

弾き散らされた空気が、周囲を爆風という形で雪崩打った。

双方無事。一撃が逸らされ、着地したカミラが、地面を抉りながらブレーキを掛け、振り返る。バトルアックスが帯電している。ヘルミーナの右手には、夜の闇よりも冥い魔力がまとわりついていた。驚くべき光景だ。ヘルミーナは、素手でバトルアックスをはじいたのである。闇の錬金術師が、ドラゴンもかくやという、凶悪な笑みを浮かべる。顎で狼たちをしゃくりながら言う。無言で後退するホムンクルス達。もともと戦闘タイプではないのだから、当然だ。

「その子達も、下げた方がいいわよ?」

「余計な…、事を、ほざくなっ!」

ジグザグに走りながら距離を詰めたカミラが、直前で跳躍。真上から振りかぶった一撃を叩きつける。ヘルミーナが軽く右手を振り、再び鋭い激突音が巻き起こる。木々が揺れ、地面が悲鳴を上げる。数十キロに達するバトルアックスを片手で弾きながら、ヘルミーナは殆ど立ち位置を変えていない。ヘルミーナは戦況を楽観視していない。カミラは圧倒されているかというとそうでもなく、殆ど本気を出していない。

ただ、殺気だけは本物だ。

「はあっ!」

「けあああっ!」

横殴りの一撃。胴を払うそれを、押さえ込むようにヘルミーナの手が上から迎撃。掌が吸い付くように触れると同時に、ぴたりとバトルアックスが止まる。巨大な槌を振り下ろしたように、両者の周囲の地面が、クレーター状に抉れる。飛び退いたカミラが、目を細める。ヘルミーナは孤を書いて右手を振るう。

再び何の前触れもなく、両者がぶつかる。三合、四合、激しい火花が散る。爆風のような圧力が地面を叩きつぶし、或いは衝撃波が巨木をへし折る。殆ど立ち位置を変えないヘルミーナに対し、カミラは辺りの地形をフルに活用し、前から上から後ろから間断無い攻撃を叩き込んでくる。面白い。

あくまで右手でしか防御しないヘルミーナに対し、全身の力と遠心力をフル活用してぶつかるカミラ。カミラだけが激しく動き回っているように見えるが、実は違う。ヘルミーナの右手には、膨大な魔力が籠もっており、瞬間的に動きを超加速しているのだ。だからこそに、身体強化系の能力者であるカミラの一撃を、こうやすやすと防いでいる。ぶつかり合う時に、轟音が響いている。

「てえええぁあああっ!」

地面すれすれの低い弾道から、カミラが突貫を仕掛けてきた。ヘルミーナはさながら獲物を狙う山猫のように自らも低く伏せる。激突の直前。カミラがバトルアックスの石突きを地面に振り下ろす。吹き上がる山の柔らかい土。ヘルミーナが右手を振り上げたのは、その土を煙幕に、更に言えばヘルミーナの位置からは見えないがバトルアックスの柄を軸にして、回し蹴りを叩き込んできたからだ。

グリーブ(臑当て)で武装したカミラの蹴りを、ヘルミーナの右手が受け止める。初めて、ヘルミーナが左手を動かす。その手には、右手以上の密度の、漆黒の魔力が収束している。ふっと右手に掛かる圧力が弱まる。カミラがバトルアックスを軸に、強引に体を引き戻したのだ。ヘルミーナとしても、動きを止める理由はない。

「ネーベル……!」

「ふうううっ!」

降り注いでいた土が止む。両者が至近で顔を合わせる。ヘルミーナはためていた最小限の魔力を叩き込みにかかる。カミラは無理矢理立て直した体を地面に叩きつけると、そのまま流れるような正拳突きを撃ち込んでくる。時間が粘り着き、空気が火花を散らすような速さ。素晴らしい。この肉体を実験に使うことを夢想し、ヘルミーナは瞬間的に絶頂すら覚えた。

「ディイック!」

「ぜええああああああっ!」

ヘルミーナの魔力と、カミラの拳が真っ正面から激突。炸裂。

閃光、そして凶暴な爆圧の蹂躙。そして沈黙。

ヘルミーナがまだ煙が上がっている左手で、己の薄紫の髪を掻き上げる。視線の先には、今の一撃を腕力だけで相殺し、しかし四十歩ほどの距離を吹っ飛び、しかしながら無惨に腰を打たず片膝を突いているカミラの姿があった。彼女の前の地面は、さながら破城槌でも叩き込んだように直線的に抉れている。そしてそれはヘルミーナの直前を横切る深い亀裂と直角に、綺麗な十字架を作っていた。カミラは右手を何度か振る。ヘルミーナの左手同様、煙が上がっていた。

ヘルミーナの周辺は、隕石が複数落下したかのような有様だ。辺りにはクレーターが無数に出来、木々は砕け、或いは抉れ、無惨な骸を地面に晒している。ただし、どちらも汗一つかいていない状況。まだまだ前哨戦。パワーそのものはフルに活用しているが、どちらも単純な駆け引きに終始し、得意とする戦術もほとんど見せていない。言うならば、じゃれ合いの段階だ。だがこれから本番という所に、不意に水を差す要素が現れる。

ぴくりと右の眉を跳ね上げるヘルミーナ。僅かに遅れて、カミラもそちらに視線を向ける。近づいてくる気配在り。殺気はないが、少々面倒だ。一つは心配しているらしく、困惑と不安がだだ漏れである。他の気配が七つ、それを追っている。

カミラが鬱陶しげに頭上で三回手を振ると、クリーチャーウェポン達が下がる。闇にとけ込むようにして、気配が消える。カミラが戦意を消すのと、ヘルミーナが構えを解くのは殆ど同時だった。周囲を覆っていた、肌を裂くような殺気が消え失せる。

「仕方がないですね、今回は引き上げます。 あまり邪魔はしないように。 それだけ言っておきます」

「そうもいかないのよねえ。 あの子達の安全性が、私の懸念材料なの。 今の性能なら、暴走しても国が滅ぶことはないでしょうけれど。 組織的に抵抗されたら、かなり面倒なことになるわよ」

「ご心配なく。 此方でも、それは懸念しています。 だから、徹底的に作り上げたセーフティロックは完璧です」

「さて、それはどうかしらね」

ヘルミーナは更に反論しようとしたが、残念ながら時間切れだ。気配の中には、かなりの手練れも混じっている。これ以上の滞在交渉は無理だと、カミラは判断したらしい。沸騰した頭を、即座に平時に戻すことが出来るのは、相当な切れ者の証拠だ。メンタル面はともかく、この国を裏で派手に撹拌しているだけのことはある。この国の未来に関わる、貴重な人材の一人であることは間違いないだろう。

「また来ますよ」

言い残すと、カミラが姿を消す。とりあえず、今回は両者の意見が合致することはなかった。ヘルミーナは病的に白い指先を、顎に当てて考え込む。

まず第一に、ヘルミーナは感心していた。カミラは強い。全身の能力をフルに強化するタイプの能力者としては、相当な手練れである。もし本気で向かってきたら、周囲を気にする余裕がヘルミーナにも無くなるだろう。流石にシグザール王国騎士団の精鋭だけのことはある。今後のミッションは、更に厳しいものとなるだろう。ヘルミーナはカミラの実力を確かに認めた。挑発的な言動はいつもの癖であって、カミラを馬鹿にしてのものではないのだ。

第二に、ヘルミーナは心配していた。カミラのクリーチャーウェポンの安全性に対する発言に、である。あれほどの自信があるということは、かなりの実験を繰り返して、実績を積んだのだろう。だが、人間の作るものに完璧などあり得ない。確実にカミラの何倍もの実験を繰り返してきたヘルミーナは、それをよく知っている。カミラの言動を見て、危ういとヘルミーナは思っていた。

ヘルミーナはホムンクルス学の大家だ。この大陸では間違いなくトップで、錬金術の源泉であるエル・バドールでも五指には入る。全世界でも確実に十番以内に収まるだろう。そのヘルミーナの手をしても、心は上手く制御できない。今まで、ヘルミーナは、三回自らが創造したホムンクルスに反逆されている。複雑な機能を持たせようと思えば思うほど、心は言うことを聞かなくなってくる。二回はストレスから、一回は原因不明のエラーから。ホムンクルスは、ヘルミーナに襲いかかってきた。

最初にホムンクルスに反逆されたのは、彼女が十七歳の時だ。その頃、小遣い稼ぎに冒険者のまねごとをしながらシグザールの周辺国家を回っていたヘルミーナは、自信の塊だった。どんなことでも出来ると思っていた。どんな敵でも倒せると思っていた。過剰な自信は異常な実力に裏付けられていた。

事実、当時のヘルミーナは考えられない若さで独自のホムンクルス学を確立し、それの産物である三代目のクルスを側に侍らせていた。クルスは絶対にヘルミーナの思うとおりに動くはずだった。後の課題は寿命だけのはずだった。逆らえないように、何度も調整した。それなのに。一瞬の隙を突いて、クルスはナイフをヘルミーナの体に突き刺した。クルスは泣いていた。そんな機能は与えなかったのに。わびていた。自分で考えて行動したというのに。

粉々にする寸前の三代目クルスの顔は、今でも良く覚えている。優しい子にしようと思って、穏やかな顔にしたのだ。それなのに、彼女が最初の反逆者となった。脇腹には、その時の傷跡がまだ残っている。心の傷と一緒に。

後で分析してみて、クルスのストレスが凄まじいものであったのだと、ヘルミーナは知った。幾重にも植え付けたセーフティロックは、精神を恐ろしい勢いで蝕んでいったのだ。やがて、完璧なはずの防壁を、ストレスが内側から突き破った。その結果が、反逆だったのだ。

破滅の一歩手前だと、ヘルミーナは判断した。あのクリーチャーウェポン達は、確かに良くできている。よだれが出るほどだ。だが、それでも完璧ではない。更に言えば、完璧に仕上げたと思った相手に裏切られた時ほど、衝撃は大きいものなのだ。ついでにいうと、似たような作りのクリーチャーウェポンなら、全部が同時に反乱を起こす可能性も少なくはないのである。

三回もそんな経験をしたヘルミーナは、今ではすっかり慎重になっている。もちろん今のクルスにも厳重なセーフティロックを施しているが、それは念入りに慎重に作り上げた、芸術品と言っても構わないものである。そして、それが完璧だとは、ヘルミーナは思っていない。だから、油断もしない。

生物を兵器に加工するのはいいと、ヘルミーナは思う。人類が昔からやってきたことだ。犬がそうだし、馬がそうだ。何しろ、人類は同族ですら兵器に加工するような生物である。今更クリーチャーウェポンが倫理的にどうのこうのと言っても虚しいだけだ。問題は、それに何かを求めすぎること。「人間の言うことを絶対に聞く」という点はまだいい。「高度な判断を出来る」という点を付け加えてしまうのは、欲張りすぎるのだ。

ヘルミーナの情報網には、騎士団が近々巨大な軍事作戦を目論んでいるという事が引っかかっている。誰かから聞き出したのではない。忍び込んだ幾つかの研究所で、見聞きした情報を総合した結果だ。しかもこの作戦には、根本的なレベルからシグザール王国が絡んでいる可能性が極めて高い。王も、あのクリーチャーウェポンの性能には期待していると言うことだろう。英明の君だが、それが故に陥りやすい罠もあろう。心は、数字や理論通りには、動いてくれないのだ。

気配が間近まで近づいた。服に付いた埃を払う。誰かは分かっていたからだ。

「ご主人様! ご主人様っ!」

まるで産まれたばかりの子鹿のように、不安げに駆け寄ってきたのは、クルスだった。しばらく此処に滞在することになるから、身の回りの世話をさせようと思って呼んだのである。それがこんな結果をもたらすとは、やはり世の中とは分からない。よそではマスターと呼ぶように躾けているのに。頭が馬鹿になったらしい。

「何が、何があったのですか?」

「ちょっと若い子とじゃれただけよ。 怪我一つしていないわ。 それよりも、此処が外だって事を、忘れたの?」

「も、申し訳、ありません……」

「もういいわ。 ラボの中の掃除をしてちょうだい。 今の騒ぎで、かなり散らかってしまったはずよ」

ヘルミーナには展開整理能力がない。理論を作るのは得意だが、それを論理的にまとめるのが苦手なのである。言動だけではなく、物質的なものでもそれは同じだ。だから、掃除が下手なのだ。ゆえに、ホムンクルス達はみな掃除が上手くなる。無表情なりに困惑していたクルスは、得意分野を割り振られて安心したか、ラボの中に駆け込んでいった。下がらせていたホムンクルス達を呼び戻すと、彼女の手伝いをするように指示を回す。

「さて……」

ヘルミーナが頭を巡らせる先。クルスを追いかけてきた者の姿。それは、クルスを介してしばらくの間接触を取っていた相手でもある。

「貴方が、ヘルミーナ先生だったんですね」

「お久しぶりと言うべきなのかしらね。 フフフフフフフ」

凄惨な周囲の状況に唖然としている他の者達と違い、その娘だけは心に余裕を持っていた。

腰まである美しい黄金の髪を持つ錬金術師。ひょっとすると、ヘルミーナ以上のリアリストとなる素質を持つ存在。クルスを使って情報のやりとりを行い、ヘルミーナから数々のスキルを授けた相手。また、ヘルミーナも高度な火薬作成技術などで、非常に便利に使わせてもらっている。錬金術師としての素質は、イングリドやヘルミーナに劣るものの、元々の強大な生命力と魔力で不足分を補う娘。イングリドが、錬金術のパラダイムシフトの起爆剤として期待している者。マルローネ。

「だいぶ腕を上げたわねえ。 この間のエリキシル剤のレポート、興味深く読ませてもらったわよ」

「いえいえ、ヘルミーナ先生に比べればまだまだです」

「謙遜しなくてもいいのに。 そんなことよりも、此処では流石に少しばかり冷えるでしょう。 中にどうぞ。 そちらの皆も入りなさい」

ヘルミーナは言った。外と同じくらい中が確実に散らかっていることを忘れていた。ついでに言うと、この人数をまとめて収容するのは少し難しい。ついさっき外で戦っていたというのに、それらの事がもうヘルミーナの頭からは抜け落ちていた。興味がないからだ。

中にはいると、酷い有様だった。ラボは地盤から歪んでいた。壁は軋んでおり、機材類は散らばり、書類はばらけている。地下室は半壊してしまっているらしく、クルスがホムンクルス達と、必死に掃除をしている所だった。全く気にしないでヘルミーナは長いすに座ったが、マルローネは眉をひそめて苦笑した。

「何があったかは詮索しませんが、外で話しましょう。 これでは流石にちょっと話しにくいですし」

「そうねえ。 私は別に散らかっていようがどうでもよいのだけれど、話しにくいというのは少し困るわ。 貴方には話を聞きたいと思っていたところだし」

ヘルミーナは腰を上げた。ホムンクルス達に此処を任せると、ヘルミーナはクルスを伴ってマルローネ達のキャンプに移動する。量産品の無感情型ホムンクルスは別に失っても痛くもかゆくもないし、ラボは急あしらえなので別に思い入れもない。壊れても何とも思わない。その上ヘルミーナの気配探知内にある。危険が分かればすぐに分かる。だから、平然とラボにホムンクルス達を残して、ヘルミーナは行く。

無数のかりそめの命を作り出してきたヘルミーナの思考は、ドライを通り越して一種異常である。ヘルミーナ自身もそれを自覚している。しかしそもそも、ヘルミーナは「正常」自体に興味がないのだ。

正常がリリー先生を救ってくれたか。正常が錬金術の発展を促したか。正常がクルスの寿命を延ばしてくれたか。正常がアカデミーを守ったことがあったというのか。そんな主体性も具体性も無いものが、ヘルミーナの大事な人たちやもの達に、何かしてくれた事がただの一度でもあったというのか。少なくともそんなものは、ヘルミーナの記憶にはない。だから何の興味もない。

ヘルミーナが行く先には、屍の山しかない。そして、そここそが、ヘルミーナにとっては安住の地なのだ。

キャンプに着く。考え抜かれた場所にテントが張られ、竈はまだ温かい。流石に夜中にたたき起こされて、殆どの冒険者達はあくびをしながらテントに潜り込む。そんな中、マルローネとヘルミーナは向かい合って座る。ヘルミーナの後ろにはクルスが立つ。マルローネにくっついていた使用人らしい少女がいたが、その子はマルローネに言われて、肌の黒い女冒険者に連れられてテントに潜り込んだ。

すぐに静寂が戻ってくる。最初に口を開いたのは、ヘルミーナだった。

「こんなへんぴな森に来たのは、やはり素材採集が目的かしら?」

「ええ。 エルフィン洞窟に、お薬の材料を。 ヘルミーナ先生は、この森で何を?」

「あら、もう分かっているのじゃないの? ウフフフフフフ」

「まあ、激しい戦いがあったのは分かりましたが。 いや、貴方にはこんな戦闘、食後のデザート程度ですか」

「そんな所ね。 相手はかなりの使い手だったけれど、それほど面白い戦いでも無かったわ」

マルローネは表情こそ子供みたいなのに、なかなか考えていることを悟らせてくれない。おもちゃとしては実に面白い。しばらくヘルミーナはこの辺りの気候や植生、回収できる素材などの事を話していたが、マルローネは実に詳しい。グランベル村出身だとイングリドからクルス経由で聞いていたが、森に此処まで詳しいとは予想外だった。単純なスキルであれば、まだまだ負ける気はしないが、素材に関する知識であればどちらが上か分からない。

「ところで、ヘルミーナ先生」

「何かしら」

「そちらの子、ホムンクルスですよね。 製造法を教えてくださいなどとは言いませんが、コアについての情報がもう少し欲しいのですが」

「どうして? 貴方もホムンクルスを作りたいの?」

マルローネは頬を指先で掻いていたが、やがて恐縮した様子で眉を下げる。

「実はですねえ。 あたし、アデリーが可愛くて仕方がないんです」

「あの使用人の子? 確かに可愛い子ねえ」

 強い魔力を持っている子だ。ヘルミーナはそれを一目で見抜いていた。機会があれば、ばらばらに解体して調べてみたい。

「そうです。 あの子ってば、不幸なことに覚醒暴走型能力者でしてね。 今までも散々不幸な目に遭ってきましたし、今でも幸せとは言い難いです。 その上魔力がかなり強いもので、上手く制御できるようにならなければ、長生きできません。 特に、生理によって生体サイクルが不安定になるこれからが勝負になります」

ヘルミーナの思考を読んだことはないだろうが、それでもマルローネは寂しそうに言って、アデリーが入っていったテントを見る。

「利己的なあたしが言うのも変なんですけれどね。 あたしはあの子に長生きして欲しいんです。 そのために、魔力制御装置を作りたい。 技術はもう確立しました。 しかし、念のために、まだ少しトラブルシューティングを詰めておきたいんですよ」

「ウフフフフフフ。 へえ、なるほどねえ」

「ん? どうしました?」

「貴方ほどの使い手でも、おかしなことを言うものねえと思ったのよ」

笑止千万とまでは行かないが、これはヘルミーナには新鮮な発見だった。残虐さと獰猛さで恐れられるマリーが、こんな人の子としての心を持っているとは。ヘルミーナの他に誰が知っているだろう。

「人間なんてね、ことごとく利己的なものよ。 母性愛だの家族愛だのいうのもあるけれど、それも結局自己の「大切だ」と思うものを偏重しているにすぎないわ。 それは、誰でも同じ事。 もちろん、この私もね」

ヘルミーナは、クルスに命じる。自分の前に座るようにと。困惑しながら、愛すべきクルスはヘルミーナの前に座る。その頭を胸に抱き寄せると、少し力を入れながら、ぐりぐりと髪をかき回して言う。

「ああ、私の愛しいクルス。 貴方の次のクルスは、十二年は生かしてみせるからね」

「い、痛いです、苦しいです、ごしゅ、マスター!」

「クルス、愛しいホムンクルスの芸術品。 貴方は私のもの。 私が作る、屍の道の生き甲斐。 私の生きる世界の、私が作った灯火。 貴方の心も、体も、血も、魂までも、全て私のものよ。 だから私がどうしてもいいの。 ああ、とても可愛らしくて、そして愛しいわ。 ウフフフフフフ」

クルスが自分を愛しているかなど、ヘルミーナにはどうでもいい。問題は、ヘルミーナがクルスを、「自分なりに」愛していると言うことだ。

それが、今まで何人ものクルスを死なせてきて、多くの実験用ホムンクルスを使い捨てにしてきて、そのたびに後継機の寿命を延ばしてきた、ヘルミーナのたどり着いた境地である。

社会的な親和性など、何処の世界の話であろうか。ヘルミーナにはそんなものなどどうでもいい。ヘルミーナにはアカデミーと、クルスだけがあればいい。他はみんな道具だ。他はみんな生け贄だ。他はみな敵であり、そうでなければ踏み台だ。そうヘルミーナが言うと、マルローネは少し考え込んでから、ほろ苦い笑顔を作って言った。

「なるほど、貴方は強いですね、ヘルミーナ先生。 あたしは流石に、そこまで割り切れません」

「フフフ、この境地にまではまだ遠いでしょう。 でも、貴方ならば、やれるはずよ。 私はイングリドとは違う。 確かに錬金術のパラダイムシフトには興味があるけれど、私がそれ以上に見たいのは、更に発展したアカデミーよ。 期待しているわ」

クルスを離す。万力のようなヘルミーナの力から解放されたクルスはしばし咳き込んでいたが、やがてふらつきながらも、ヘルミーナの斜め後ろに立つ。ホムンクルスとは思えないほどに、動作が人間的だ。これを見ると、ヘルミーナは作品の完成度の高さが分かって、とても嬉しい。

ヘルミーナは、マルローネを自分のコピーにしようとは思わない。ただし、自分の境地にいずれ到達して欲しいとは思う。

後は明け方まで、錬金術の素材についての話をする。マルローネの話は興味深かったので、機嫌が良くなったヘルミーナは、己の持つ情報を幾つも提供する。中にはとっておきのものさえあった。マルローネは案の定生物系の素材には詳しかったが、特に鉱物系の素材の知識が不足していたので、喜んでいた。

話し込んでいる内に、陽が昇り始める。日の光を反射して、川がきらきらと輝いて、実に美しい。

明け方と同時に、クルスをラボに戻らせる。護衛に雇った冒険者達は文句を言っていたが、給料分の仕事はしてもらう。ヘルミーナ自身は、これからこの間見つけた騎士団の秘密研究施設の視察だ。正確には隠密探索だが、ヘルミーナは、勝手に、錬金術は自分たちで管理していると考えている。だから視察なのだ。

「さて、私は行くわ」

「事情は分かりませんが、気をつけてください。 ヘルミーナ先生」

「あら、意外な言葉だわ。 私を誰だと思っているの? エンシェント級のドラゴンを三人で仕留めたこともある私が、生半可な相手に敗れると思う?」

立ち上がる。黒い野外行動用ドレスは埃が目立ちやすいので、後でクルスに洗わせないといけないだろう。

有意義なひとときだった。マルローネの成長は、今後が更に楽しみである。朝靄に包まれた森を歩きながら、含み笑いを漏らす。ヘルミーナは自分でも意味不明な独り言をぶつぶつと呟きながら、目的地を目指して歩く。

今、ヘルミーナに出来ることは、今後想定される有事に備えて、出来る限りの情報を集めておくこと。帰ったら、クルスの作った美味しいご飯を食べて、たっぷりクルスをかわいがって、たっぷりクルスを研究しよう。そう楽しく空想しながら歩く。

次世代機のコアは、もう既に技術的に確立している。そろそろ、騎士団の調査と並行して素材集めをしなくてはならない。これからは更に忙しくなりそうだった。

 

3,洞窟の中の光

 

近くの森の奥地にあり、ヴィラント山の膝元でもあるエルフィン洞窟は、今やマリーにとっては庭に等しい場所だ。どの時期にどんな植物が生えているのか、どうすれば光石を効率よく回収できるか、ほぼ完璧に把握している。そんなマリーであっても、簡単には手に入れることが出来ないものもある。

洞窟の半ばほど。天井が高くなっている場所がある。カンテラでそちらを照らしながら、マルローネはナタリエを手招きする。

「ナタリエ、あそこ。 横穴があるんだけど、分かる?」

「分かるけど、あそこに入るつもりなのか? いくら何でもあれは危ないぞ」

「分かってるけど、そのつもりよ。 あそこにしか、目当てのものが無いの。 さ、頑張って」

げんなりしきった様子で、ナタリエがマリーを見つめる。マリーがロープを渡すと、大きくため息をつく。

一種の鍾乳洞であるエルフィン洞窟は、本来は手がかりも多く、登りやすい地形だ。だが、此処は違う。壁はしめっていて、鍾乳石は脆く、つるつるしていて手がかりがない。その上横穴の辺りはそり返しに近い地形となっていて、簡単には近づくことが出来ない。横穴までは、マリーの背丈の三倍ほどの高さがある。

この横穴の存在を、マリーはつい最近まで知らなかった。この間の地震で広がったらしく、穴の縁はまだ新しい。

前回の探索であの横穴に入った時は、それは苦労した。十回以上も鈎縄を投げて、偶然引っかかった時に、一刻近く時間を掛けて登ったのだ。足場が崩れやすかったので、それだけ丁寧に登らないと危険だったのである。マリーほどの手練れでもそれだけ苦労したのだ。

あの横穴には、洞窟内でも更に限られた場所にしかないレアな植物がある事を確認している。他の場所にあるものは業者が回収を行っているらしい上、生息数が少ないので、手を出せない。

「アデリー、足場」

「はい」

荷車に走っていったアデリーが、ちいさな脚立を抱えて戻ってくる。この辺りは地面も湿っていて、脚立を固定するだけでも苦労する。しばらく四苦八苦していたが、地面から突きだしている岩を支えにして、どうにか固定する。その間、ミューは周囲の警戒を続けていた。

「ひゃっ!」

ナタリエが可愛い悲鳴をあげたので、みれば地面を真っ白なゴキブリが逃げていくところだった。オレなどという一人称を使い、必死に背伸びして周囲を威嚇しているナタリエだが、こう言うのを見るとやはり可愛い。

「何、ゴキブリ苦手?」

「あ、あんな虫、好きな訳がないだろ!」

「場所によっては、食べるんだけどなあ。 油でこう、「から」っと揚げてね。 食べたことあるけど、そんなに悪くないよ」

「あ、それ、旅の途中で見たよ。 へえ、結構美味しいんだ」

此方に視線を向けずに、ミューが返してくる。真っ青になったナタリエは、所在なさげに壁を見ていたが、アデリーの心配そうな視線を受けて咳払いする。流石に年下の子に心配されるというのは、自立していると自負するナタリエには我慢が出来ないことなのかも知れない。

気を取り直したナタリエが、丹念に洞窟の壁を観察する。身の軽いこの娘は、戦闘中でも身のこなしを駆使して敵を攪乱する事が多い。言うまでもなく、その作業には瞬間の的確な判断が必要である。つまり、それをじっくり時間を掛けて行えば、成功率は更に上がる。ナタリエもだいぶ手慣れてきた。マリーと一緒にかなりの数の実戦も経験したし、力量はもう充分に一人前だ。

壁を何度かノックしていたナタリエは、出っ張りの部分に触れて、なで回す。念入りな強度確認だと、マリーは思った。

「カンテラ、少し上に向けてくれよ」

「はいはい、これでいい?」

「いい感じだ」

目を細めて、ナタリエが洞窟の上の方を見ている。無数の鍾乳石がつららのように連なっている。グランベルの冬を思い出して、マリーは少し感慨深い。灯りを向けているのは横穴の入り口とは逆の方向なのだが、マリーには大体考えが読めた。アデリーは読めていなかった。おずおずという彼女を、マリーは静かに見つめる。

「あの、ナタリエさん」

「あん? なんだよ」

「その、シアさんにメタモルフォーゼして、彼処まで飛ぶってのは、駄目ですか?」

ナタリエは一件合理的なその考えに、動かされるほどの素人ではなかった。

「悪くなさそうに見えるけど、あの穴に入るには、シアの能力を展開してから、かなり計算して跳ばなきゃならない。 それだとコストが掛かりすぎる。 あの中に何かいた場合はどうする? 魔力が空でもう切り札のメタモルフォーゼは使えないってことになるんだぞ。 そうしたら、死ぬとは言わないけど、勝率は下がるよな。 オレは魔力が弱いから、無駄遣いできる量は殆ど無いんだ」

「あっ……。 ごめんなさい、考えが足りませんでした」

「いや、別にいいよ、そんなに謝らなくても。 こういうのは何だ、頭の出来よりも、慣れがものをいうからさ」

本当に申し訳なさそうなアデリーの顔を見て、必死になって取り消すナタリエ。慌てる様が実に可愛らしい。無理して背伸びしてワルぶってはいるが、根は善良だから、何とも言動が微笑ましくて面白い。この娘、子供が出来たら溺愛するのだろうなとマリーは思った。咳払いするナタリエの頬が少し赤い。

「で、跳べそう?」

「あ? うん。 多分行ける」

「前は何もいなかったけど、注意してよ。 まあ、この距離であたしに気配を悟らせないような奴が中にいたら、どうにもならないだろうけど」

「怖いこと言うなよ、もう。 確かにそんな奴がいたら、オレじゃ歯がたたないだろうけどさ」

脚立を抑えるようにナタリエは言い、すぐにアデリーが片膝を着いてしっかり固定する。この場合、警戒中のミューと、攻撃を受けた場合のカウンターを担当するマリーが手を塞ぐわけにはいかないから、アデリーが抑えるのが当然のことなのだ。別に子供に重労働をさせているわけではない。

しばらく屈伸運動をしていたナタリエは、薄明かりの中浮かび上がる鍾乳洞の壁を何度か見た後、おもむろに立ち上がる。そして、身長の二倍ほどの距離を脚立から取ると、跳んだ。

脚立を踏み台にして、まず壁に。壁の出っ張りを蹴り、更に高く。ジグザグに洞窟の内壁を蹴り、四回で横穴の高さに達した。だが、そこで僅かに軌道がずれる。それも計算尽くだったと、すぐに分かる。穴の縁に手を掛けて、ナタリエは止まった。しばしぽかんと口を開けて見ていたアデリーが、素直な感嘆の声を上げる。

「す、凄いです!」

「お、大げさだよ、ちょっと」

「それよりも、ロープ。 アデリー、こう言うところでは騒がない。 何かいたら、一方的に攻撃を受けることになる」

外では甘やかさないことに決めているマリーは、出来るだけ低い声で威圧的に言った。一気に場が冷めたようになるが、これはそれで構わない。こんなところで騒いでいる方がおかしいのだ。

ナタリエは何か言いたそうだったが、無言でロープを下ろしてくる。右手で引っ張って感触を確かめると、出来るだけ洞窟に傷をつけないように、慎重に登る。体重を掛ける度に、ロープがぐらぐら揺れる。重心を保つのが難しい。しっかりロープを全身で掴んで、屈伸運動をするようにして体を上に運んでいく。

不安そうに見上げているアデリーには、敢えて何も言わない。外にいる時は、戦士としての自覚を持ってもらいたいからだ。此処に来ているのは、殺し合いを前提とした護衛任務でだ。当然その場合は、相手も殺すつもりで襲ってくる。身体能力が五分の場合、精神力で劣ると負ける。負けると高い確率で死ぬ。だからこそに、気を強く持っておかなければならないのだ。

アデリーを戦力としてまだカウントしないのには、実力の不足以上に、優しさがもたらす弱さが大きい。腰にくくりつけたカンテラが揺れて、洞窟の中に幻想的な光の舞を作り出す。やがて横穴に到達。この奧には、マリーとナタリエで行く。戦力を分けることになるが、アデリーとミューには下で待機してもらうことになる。

鍾乳石の一つに、大きな傷が残っていた。この間、マリーが作ってしまったものだ。もったいない。少し心が痛む。ナタリエはかなり大きな出っ張りにロープを引っかけており、そこは丁度いい具合に乾燥していて、生半可なことでは傷一つ付きそうになかった。良いことだ。

カンテラの明かりを抑える。最小限の明かりで、奧へ。エルフィン洞窟は最深部の地底湖に向けて延々降っているが、この横穴は逆だ。徐々に登っている。マリーが目指すのは、その最深部である。

やがて、足下に僅かな水の流れができはじめる。ぬるぬるしていて、滑るので要注意だ。ナタリエは優れたバランス感覚を発揮して、転びそうもない。マリーは其処までの自信はないから、一歩一歩確認しながら、慎重に気配を探る。

以前一度だけだが、大型の猛獣であるサラマンダーがエルフィン洞窟に入り込んでいたことがあった。人間の倍近い大きさと四倍以上の重さをを誇る赤いトカゲである。攻撃性も強い。その上この洞窟に住むには向いていないから、生態系を致命的に破壊する可能性があった。もちろんぶち殺して皮を剥ぎ、肉や内臓を全部換金したが、同じ事態がまた起こらないとは言い切れない。天井にも油断無く気を配る。

「深いのか、この横穴」

「いや、もうすぐ」

傾斜が緩くなってくる。ナタリエはすり足で辺りをうかがっていたが、やがてカンテラが突き当たりを照らすと、小さく嘆息。

最深部は、小さなホールになっていた。

メインの洞穴の最深部ほどではないが、それでも十人でダンスパーティを行えるほどの広さはある。ほぼ完璧な円形。無数の鍾乳石が床から天井から突きだしており、獣のあぎとのようだ。

その中央に、非常に澄んだ水の湧く泉がある。大きさはマリーが十歩で横断できるほど。底は砂地になっていて、それを噴水のように湧き水が静かに跳ね上げ続けている。カンテラで照らすと、息を呑むほどに美しい光景だ。泉そのものは満月のように正円形で、水は恐ろしく澄んでいる。ストルデル滝の奧に比べると少し劣るが、それでも非常に品質が高い水だ。ただ、此処のは素材には適さない。生き物が住んでいるのだ。

泉の真ん中で、首を伸ばしてじっとカンテラを見つめている影一つ。他の所にも時々いる、真っ白い両生類だ。形状はサンショウウオに似ている。細長い体で警戒心が強く、普通は滅多に姿を見せない。目はとても小さくて、水に揺れるピンク色のえらが可愛らしい。ただ、この泉にいるやつは、他の場所のものよりも遙かに大きい。他の場所に住んでいる奴はマリーの掌に乗る程度のサイズだが、この「主」はマリーの二の腕ほども太さがある。その上ふてぶてしく、マリーが来ても逃げようとしない。

この泉の王が、どうやって此処に来たのかは分からない。ひょっとすると、湧き水の水脈を通ってきたのかも知れないが、確かめる術はない。エサもどうとっているのか分からない。

坂道を流れてくる水は、此処から溢れたものなのだ。泉からは、小さな小さな川が、幾筋も周囲に伸びている。ちろちろという細すぎる潺が、闇の中で響き続けていた。

「なあ、マリー。 綺麗なところだけどよ、ここで何を採取するんだ?」

「そこ、動かない」

「あん? ああ、これ、か。 あぶね、踏むとこだった」

不用意に泉に歩み寄りかけたナタリエを、マリーが制止。

泉の側には、真っ白い植物が生えている。マリーの小指ほどしかない小さな植物であり、双葉の間から弱々しい茎が伸びている。これが今回必要となる、強力な精神鎮静作用を持つ「エルフィンケイブホワイトガーデンハーブ」である。こういう隔離地域に生えているだけあり、当然のごとくもの凄く繁殖能力が弱いので、採取には細心の注意が必要となる。しかもこの草は、日持ちしない。回収後にすぐ加工としないといけないのだ。帰りは急ぐことになる。

「ええと、この間の生息数がこれで、採取料がこれだから、そうなると繁殖力は……このくらいか」

「小さな草だな。 何の役に立つんだ?」

「ん? ディオさんに頼まれていてね。 ちょっと調合に必要なんだ」

マリーは、保存料を詰めたビーカーに、慎重に草を詰め込む。問題は引き抜く時だ。この草は見かけ通り茎が非常に脆弱で、抜く時に折るとあっという間に痛んでしまう。弱い根を傷つけないように、茎を潰さないように慎重に引き抜く作業はコツがいる。茎を出来るだけ優しくつまみ、ある一点で不意に勢いよく引くと、綺麗に抜ける。芋掘りでこういう作業は経験があるが、ぐっと難しい。

蛾が飛んできた。「主」が動く。マリーが草を引き抜くのと同時に水音。蛾が消える。目を細めたマリーがカンテラを消す。

「主」の、頭頂の一部が光っている。なるほど、真の闇の中にあるこの洞窟で、そういう工夫をして獲物をおびき寄せているわけだ。口をもぐもぐと動かしている主が、闇の中で浮かび上がっている。実に興味深い光景だ。魔力を感じるから、術的な仕組みで光を出しているのだろう。

静かな洞窟にも、歴然とした生態系があるわけだ。ならば、それを利用するべく、保存するのが一番である。主には手を出さず、このまま生態系の管理をしてもらおう。標本を採って研究をしてはみたいが、この洞窟の素材を駄目にしては意味がない。マリーはナタリエを促し、最小限の灯りをつけて、帰り道を行く。ナタリエが帰り際に言う。

「なあ、マリー。 この間話してたヘルミーナって人いただろ」

「ヘルミーナ先生ね。 あの人がどうしたの?」

「何だか怖い人だったな」

「道を究めた人ってのは、だいたい怖いわよ」

マリーには、ナタリエの言葉の意味がよく分からなかった。たとえば「まっとうな」達人であるディオ氏でも、戦闘の狂気から逃れることは出来ない。常識的な考え方では、あくまで常識的なレベルでの業績しか残せないのは当然の話なのだ。実戦を通じてナタリエもそれを知っているはずなのだが。

「いや、それはそうなんだけどよ」

「何が言いたいの?」

「あのヘルミーナって人とクルスって子の関係、あんたとアデリーのそれに似ているかも知れないなって、思ったんだ」

「ふうん……」

なるほど、それは意外な指摘であった。ヘルミーナの考え方は、マリーとしても大いに参考になった。だが、元から似ていると言われるとは思わなかった。ナタリエは言葉を切って悩んだ末に、続ける。

「なあ、マリー。 あんたはこれからももっと上を目指すんだろ? 戦闘スキルにしても、錬金術にしても」

「無論よ」

「そうなると、アデリーはもっと悲しい思いをするんじゃないのか?」

「そうならないように努力するわよ。 おっと」

転びかけて、慌てて床を踏みしめる。この滑りやすい道、下りの方が却って危ない。ナタリエは悲しそうに、なおも言う。

「あんたの作る薬は良く効くし、道具は凄い効果があるとおもう。 あんたの戦闘での実力はこの国でもかなり上の方だし、頭だって凄くいい。 それなのに。 たった一人の子を幸せにしてあげる事は難しいんだな」

「人間はね。 生きなければ、幸せも何もないの。 それで、あの子が生きるには、もの凄く大変な努力が必要なの。 あたしはそれを親としての立場から補助してるだけよ」

ナタリエの言葉に思うところもあるが、マリーはそう言って会話を切った。

魔力制御装置の完成を急がなくてはならない。ヘルミーナに言ったことは本当だ。アデリーが幸せを求めるのは、自分の足で立つことが出来てからでいい。

それにしても皮肉な話であるが、そもそもマリーは、極めて慈善的な事をしているのだ。極論すれば、社会的な異物を排除したがるのは人間の本能である。本能のままアデリーを虐待した両親は「人間らしい」行動をとったわけだ。もっと田舎にアデリーが産まれていたら、危険だと言うことで、幼子の内に処分されていた可能性が極めて高い。それが人間の現実だ。

そんな運命からアデリーを救うために、マリーは全力を尽くしている。これを「慈善活動」と言わずになんと言おうか。これは「人間的な」愛情よりも、むしろ「道徳的な」愛情ではないのか。「社会的な」愛情とは外れる辺りが、少し難しいところではあるが。もちろん、マリーはそれを誇る気はない。ただ皮肉な現実だと思うだけだ。

横穴の出口に到達。まずマリーから降りる。降りる時は手の皮をすりむかないように気をつけなければならない。出来るだけ揺らさないように慎重に降りると、ミューが駆け寄ってくる。

「マリー、お薬の材料、上手く採れた?」

「ばっちり。 後は奧での収穫次第で、ひょっとすると今回で目標額に到達するかな」

「そう……なんだ」

「歯切れが悪いなあ。 あたしも腕を上げてきてるし、たぶん調合は失敗しないよ」

マリーに続けて、ナタリエがロープで下りてくる。最後はロープを回収して、荷車を引いて進む。後は最深部で、光石と、キノコ類を採集するだけだ。深部の地底湖周辺に生えるキノコ類はとても成長が早く、少し肥料を与えておくだけで一月もあれば充分すぎるほどに成長する。後は光石だが、多人数で乱獲でもしない限り、充分な量がある。

あと少しで、全ての準備が整う。

別に、アデリーに理解してもらわなくとも良い。他の人間達にもだ。近しい者達には、事情は告げてある。その上で反発する人間はそうすればいいし、それをマリーは否定しない。マリー自身は他者の正義にも理想にも興味がない。参考にする程度だ。

闇の奥底へ、マリーは行く。

人類の発展は、常に狂気によって支えられてきた。マリーはそれを知っている。反発されても、憎まれても。残念ながらそれが真実だ。その狂気は、闇の深奥より這い上がってくる。人の心という、ねじくれ曲がった洞窟の中にある。

踏みしめ行く先に。地底湖と、満天の星空のような、光石の灯りが広がっていた。マリーは此処が好きだ。まるで人間の心を物質化したようだから。

「さあて、集めますか。 ミュー、警戒よろしく」

「はいはい、任せておいて」

カンテラを床に置くと、マリーは周囲を見て回る。四半刻ほどで回収可能量を割り出す。にんまりと微笑んだのは、予定量をどうやらクリアできそうだからだ。ただし、調合でミスをしなければ、である。

アデリーがしっかり見張っている荷車に、採取したキノコ類や薬草類を詰めていく。緩衝材の干し草を何回か調整しながら、丁寧に詰め直す。素材の鮮度が良いほどに、出来る薬の品質は増す。

半刻ほどで、作業終了。帰りは少し強行軍になるし、その後は徹夜が何日か続くが、構わない。

あと少しだ。あと少しで金が貯まる。レインボーダイヤが手にはいる。既に魔力制御具の素材は揃っているから、これで作ることが出来るはずだ。荷車に最後に採集したキノコを詰め込む。含み笑いが漏れる。側でアデリーが不安そうに見上げていた。その頭を出来るだけ優しく撫でる。

「アデリー」

「何でしょうか、マスター」

「もう少しでいいものが出来るからね。 楽しみにしていなさい。 それに、お祝いもしないといけないね」

さっとアデリーが青ざめる。数秒して理由に気付く。マリーが凄いものを作り上げた時の、感情の突沸を予想したのだろう。だが、それは必要な犠牲という奴だ。

少女が初潮を迎えると、グランベル村では家の戸に稲の茎を輪に編んだものを飾る。それの準備もそろそろしておかなければならないだろう。そして、今回の収穫で、その前に制御具が出来る。

今までも勝算のない戦いではなかった。ミューで実験をしてきて、制御具の性能もある程度作製前に判断が出来る。

駆け抜けるようにして洞窟を抜ける。何から始める。何から片付ける。あがってきたテンションが、頭の働きを鋭敏にしていく。思考を加速させていく。舌なめずりして、一気にヴィラント山を駆け下りる。

赤い土を踏んで、がらがらと車輪が恐ろしい音を立てて高速回転する。緩衝材を敷いているとはいえ、荷車にも素材にも衝撃限界がある。力のいれ間違いをすると、軸だって痛む。ござが落ちないように周囲にもあわせないと行けない。もどかしい。

森を走る。走り抜ける。アデリーはしっかり着いてきていた。成長がこう言うところからも分かって嬉しい。洞窟に入ったのは昼少し前だったが、夕方前にはもう街道に出た。往復一週間、実質四日で判断していたが、三日と少しでいけそうだ。

「走り抜くわよ! はああっ!」

街道に出ると、障害物が少ない分、今までより更にスピードを上げることが出来る。マリーは一声吠えると、更に加速した。ミューが後ろに付き、荷車を押して速度を安定させる。ナタリエとアデリーは左右に付き、すれ違う相手や追い越す馬車に警告を発して通行をスムーズにした。

深夜に、ザールブルグに到着。王城の塔が点滅しているから、既に日付が変わった。鐘を鳴らす地域もあるのだが、ザールブルグでは大型のカンテラの明かりを調節して、市民に日付が変わったことを知らせる。惜しいところだが、昨日中には帰りきれなかった。

そのまま金庫に直行して、ナタリエとミューにお給金を払う。流石にくたびれ果てたアデリーは、呼吸の安定を取り戻せず、玄関でへたり込んでいた。

ミューは最後まで手伝ってくれた。素材類を仕分けて、荷車を収容する。アデリーは疲れから立ち直ると、火を熾して、皆にスープを振る舞うべく料理を始める。マリーが取ってきた剰り分の食用キノコを使ってのスープだ。温かくて美味しい上に精が付く。

荷車の素材を分別している内に、スープが温まり始める。マリーは早速大きな紙を広げて今後のスケジュールを書き込む。薬剤類の作製は、四種同時並行で問題ない。今まで散々やってきたことなので、方法は体が覚えている。問題は、ディオ氏の要求してきた薬だ。精神操作系の薬剤は製造経験が極めて少ない上に、今回は素材がデリケートだ。上手くいくか不安もある。

ただ、王立図書館は日中にしか開いていない。アカデミーの書庫も同じく。今は作り慣れた薬剤類の作製から始めなくてはならない。表を書き上げると、もうス−プが出来ていた。燻製チーズとキノコを煮込んだスープの香りが、アトリエ中に漂っていた。

「出来ました」

「ありがとー。 助かるよー」

「美味しそうだな。 いいヨメになれるよ、アデリー」

「そうだねえ。 とりあえず、頂こうか」

これから調合に使う長机に皆で座ると、器に盛ったスープを皆で食べ始める。木製のスプーンにて食べるスープは、チーズの乳味とキノコの苦みが適度に混じり合い、そこに燻製から漏れたうまみがしみこんで、形容しがたい味だ。もちろん、とても美味しいという意味である。良く煙をしみこませた燻製は、筋肉繊維が噛む度にほどけ、口の中に旨味を広げる。野菜がここに入れば完璧なのだが、生憎と今は入手できない。この程度で我慢するしかない。

「美味しいね」

ミューが本当に美味しそうに言うので、アデリーは頬を染めてちょっとうつむいた。和やかな空気。マリーも決して嫌いではない。

だが、そんな時間は長続きしない。すぐに終わってしまう。継続させるには、二つの条件が必須となってくる。一つは経済的な安定。もう一つは、生命的な安定だ。

スープの最後のひとしずくを胃に入れると、体が芯から温まる。体の興奮が冷めてきたナタリエは、大きくあくびをすると、目を擦る。ミューが送っていくというので、二人を玄関まで見送った。カラになったスープ鍋を片付ける。代わりに、調合鍋を火に掛ける。ストックしてある蒸留水を注ぎ込み、キノコ類をぶち込む。調合開始だ。

寝るのは、作業が一段落してから。アデリーは調理器具類を片付け掃除を終えてから寝ると言ったが、流石にもう限界なのが見て取れる。無理もない話である。周囲を警戒しながらいつもの調練の数倍の距離を走り込んだのだ。軽く食器類を洗っただけで、もううとうとしているから、見かねて半ば抱え上げて寝室に運ぶ。ベットに入れた時には、もうアデリーは寝息を立て始めていた。

さて、此処からが家長の仕事。前のエリキシル剤の製造に比べれば何でもない。頬を叩くと、マリーは全力で調合に打ち込み始めた。

 

5,努力、間に合わず

 

赤煉瓦の、四角い三階建ての上品な店。一階の外壁部の彼方此方にはガラスがはめ込まれ、美しい宝石類が通行人達の目を引く。旧宝石ギルドが保有していた販売店の一つ。今では貴族だけではなく、富裕商や、庶民も出入りしている其処を、マリーが訪れたのは昼過ぎであった。

店はかなり繁盛している。美しい宝石が彼方此方に展示され、その周囲には腕利きの警備兵達が目を光らせている。以前と違い、彼らは宝石ギルドの私兵ではなく、国から派遣された立派な兵士達だ。

販売されている宝石類は豊富で、エメラルドもルビーもサファイヤもある。何より一番多いのは、美しい輝きを見せるコメートだ。また、非常に小型の宝石を用いた装飾具類も扱い始めており、それらは庶民であってもどうにか手が届く。事実、マリーの眼前を、粗末な身なりの男が店員に見送られて通り過ぎていった。恋人に愛の告白をするために高価な宝石を買っていったのだろうか。

マリー自身は広い店の中を、奧へ奧へ行く。一階の一番奥へ進み、頑丈そうな戸の前に仏頂面で立ちつくす警備兵に名乗る。事前に話は通してあったから、警備兵は表情を全く動かさないまま、マリーを中に招き入れる。

中で待っていたのは、頭がはげ上がった小柄なやせた老爺。高価そうな絹服を着ているが、もう背は曲がっていて、杖をついて歩いている。およそ威圧感とは無縁の人物で、マリーも嫌いではない。この店の管理を任されている者で、旧宝石ギルドからの継続人員だ。旧ギルドの時代でも実直な経営を続けていた人物であり、それをドナースターク家が評価して残した。当然マリーも顔を知っている。老店長は深々と頭を下げると、地下へマリーを案内した。警備兵が二人着いてくる。

長い階段の左右には、魔法式のカンテラがつるされている。階段を下りきると、かって職人達を収監し、労働を強要していた部屋が廊下の右手にあった。今では職人達の労働条件が改善されており、それには場所も含まれる。今やこの多くの職人達の血と悲しみがしみこんだ部屋は、ただの倉庫になっている。

廊下を抜けると、分厚い鉄製の扉があった。強力な魔法による防御が施されている。マリーでもぶち抜くのは難しいだろう。老人は複数種の鍵を使って解錠しながら言う。

「貴重な宝石は、人類の宝です。 しかもこれからお渡しするレインボーダイヤモンドは、多くの職人が丹誠込めて仕上げた一品。 貴方の噂は存じておりますが、それでもあえて申し上げます。 出来ればすばらしい未来のために用いてくださいませ」

「大丈夫よ。 一人の女の子を助けるために使うんだから」

「そうでしたか。 それならば、このダイヤも喜ぶことでしょう」

宝石を擬人化した言葉にも、マリーは別に何も思わない。こういう度を超した慈しみが、この老人に実直な経営をさせていたのだと分かるからだ。一種狂的な価値判断が、優れた結果を生むことは、確かにあるのだ。

もの凄く重い音と共に、扉が開く。七つもの鍵を使っての作業だ。これを破るのは、相当な技量の泥棒でなければ無理だろう。

ここから先は、マリーも入れてもらえない。扉の奧すら見せてもらえなかった。しばらくして、扉の中に入っていた老人が出てくる。手には赤い包みがあった。柔らかい布に包んだ、小さな塊。マリーの握り拳の中にすっぽり入ってしまう程度のものだ。手にしてみると、じっとり重い。赤い布を開いてみると、其処には美しい輝きが広がっていた。

灯りを当てると、虹色の光が周囲に満ちる。触れてみると、吸い付くような感触が、指先に伝わってくる。思わず声が零れる。素晴らしい宝石だ。後でグライルフに確認させるが、多分ほぼ確実に本物だろう。

宝石に心奪われ、道を踏み外す者は珍しくないと、マリーは聞いている。確かにこの輝きに直接触れた後、精神を病む人間はいてもおかしくない。それほどに素晴らしい。好事家が小さな砦が立つほどの金を払うわけである。

布に包んでもらう。確かにこの宝石は美しい。しかしながら、この光を楽しむのではなく、レインボーダイヤそのものを今回は素材とする。削ったりはしないが、これが光を浴びる日は、当分来ないだろう。名残惜しいが、それが故にさっさとしまう。

警備兵達に見送られて、店を出る。料金はほぼ全財産である。バックパックに入れていくのは流石に危険なので、コートのポッケに入れて、それを掴んで歩く。帰り際に、飛翔亭による。今回ディオ氏の金払いが良かったから、どうにか目標金額を達成できたのだ。礼を言わなければならない。宝石に触れている指先から、魔力を流し込む。予想通り、殆ど無尽蔵の魔力を吸い込んでいく。

マリーのフルパワーでのロードヴァイパーでも、苦もなく吸い込むだろう。カイゼルヴァイパーでも多分行ける。素の状態でそれである。光石とホムンクルス製造技術の応用である疑似神経の絹糸を組み合わせた装置に組み込めば、アデリーの暴発魔力さえきっと押さえ込める。素晴らしい性能だ。全財産をつぎ込んだだけのことはある。

坂道を上り、飛翔亭に出ると、クーゲルに正面から出くわした。狭い道だから、ほとんど道をふさがれた格好だ。飛翔亭にクーゲルとは、どういう事であろうか。老鬼は口の端をつり上げると、マリーに向けて苦笑した。

「君もまた、余計なことをしてくれたな」

「! そう言うことでしたか。 何処か似ているとは思っていましたが」

クーゲルのその言葉だけで、マリーには事情が読み込めていた。クーゲルとディオ氏が兄弟なのだと、今日マリーは知った。二人が長いこと断絶状態にあったと言うことも。うすうすは気付いていたが、実際に知るとやはり気分が少し違う。

マリーが今回ディオ氏に渡したのは、精神を極端に沈静化させる薬である。もちろん憎悪や憤怒も押さえ込む。精神安定剤というよりも、精神平衡剤とでも呼ぶ方が正しい。どういう用途で使うかは分からなかったのだが、なるほど。ずっと喧嘩していた兄弟が、顔を合わせるために使ったわけだ。

多分クーゲルとディオは、フレアと、自分の娘に揃って抗議されたのだろう。二人はとても仲がよいと、マリーは聞いている。

「仲直り、したんですか?」

「しとらんよ。 数年ぶりに、口をきいただけだ。 近況を話し合って、それだけだよ」

「それでも、娘さん達は嬉しいと思いますよ」

「そうか。 儂にはよく分からんがな」

クーゲルとディオ氏では、戦闘スタイルに始まって、考え方が全く正反対だ。修羅の道を行くクーゲルと、光の道を行くディオ氏では、考えに妥協点を見つけるのはとても難しい。

クーゲルは難しそうな顔をしていたが、むしろ機嫌がいいことに、マリーは気付いていた。修羅の道を行き、戦闘のことしか考えていない人物でも、どこかに肉親への情愛はあるのかも知れない。ディオ氏と仲直りをすることが出来なくとも、娘に泣きつかれれば少しはこたえるのかも知れない。それが戦闘の快楽に優先するとも思えないが。或いは気紛れなのだろうか。

「しかし、君の薬は凄い効果だな」

「そうでしたか?」

「ああ、娘に茶に混ぜて飲まされたのだがな。 飛翔亭に行くと言われても、腹も立たなかった。 兄貴と会っても、殺そうという気が起こらなかった。 ただ自然に近況を話し合って、それで別れることが出来た。 精神の作用では無理でも、薬を使えば出来ることもあるのだな」

「そうでしたか。 実験はあたし自身で少し行ったんですが、ちゃんと効いて良かったです」

今回の薬は、捕まえてきた野良犬で動物実験を何回か行った後、マリー自身で試した。効果は驚くべきもので、何を見てもされても殆ど頭に来なかった。目立った副作用もなく、かなり強力な薬品だと言える。ただ、長期間にわたって服用すると、流石に何が起こるか分からないので、やめた方がいいだろうとも思う。それは既に依頼主であるディオ氏には伝えてある。

「余計なことをしてはくれたが、娘が喜んだのであれば、結果的には良かった。 礼は言っておく」

「いえいえ、うちの子の面倒を時々見てくれているわけですし。 少しでもそれを返せたらと思えば、あたしとしても充分です」

「そうか。 たまには薬を頼むかもしれん。 その時はよろしくな」

道をすれ違うと、クーゲルは自宅に引き上げていった。

飛翔亭に着くと、むっつり黙り込んだディオ氏がコップを磨いていた。カウンターで向かい合って話し合っているのは、薄桃色の髪のフレアと、黒髪のクーゲルの娘さん。それにしてもよく似ている。

「マリーか」

「おやっさん、お薬役に立ったみたいで」

「うむ……。 そう、だな」

ディオ氏が少し忌々しげに娘達を見た。娘達はくすくすと笑うばかりである。鬱陶しげにしているディオ氏だが、機嫌が悪いとはマリーには思えない。もうそろそろ薬は切れているはずで、それなのに不快な気を放っていないからだ。

「報酬分の役には立った。 お前さんは、ちゃんと目当てのものを買えたか?」

「ええ、ばっちりです。 これで研究は、一つの節目を迎えられそうです」

コートに突っ込んだ右手を動かして見せたので、ディオは少しだけ口の端をつり上げて笑った。

後は二三談笑し、少し強めの酒を一杯だけおごってもらって、帰路に就く。酔うほどの量は飲んでいないので、ひったくりに遭う心配もない。長い髪を揺らして、マリーはアトリエにたどり着いた。

いよいよ、節目だ。アデリーが作業の終わった机を片付けてくれていた。早速紙を広げて、今後の計画を書く。調合自体には、さほど時間が掛からないはずだ。長く見ても、一週間を越えないだろう。

その間の食費くらいならある。ディオ氏の金払いが、予想以上に良かったからだ。いざとなれば、地下室にこの間入手したリヒト・ヘルツもある。あの剣を売れば、二人で一年は暮らしていける。換金しなかったのは、本当に最後の手段として取っておきたかったからだ。

アデリー本人は、この時間帯、出かけていることが多い。家には防犯用のトラップが幾つか仕掛けてあり、それが故に留守にしても良いと言ってあるのだ。マリーは舌なめずりすると、土属性の中和剤をボウルに入れて、適切な量の光石を入れ、火に掛ける。外に出て、竈の様子を確認。火力を調節して、溶かしに掛かる。

しばらく何もすることがないので、素材を揃えた後、二階で仮眠だ。ここのところ徹夜が続いていたので、このくらいはいいだろう。レインボーダイヤは肌身離さず。ベットの中のぬくもりが心地よい。火の調整はしっかりやっておいたから、二刻くらいは眠れるだろう。

眠りに入った時、マリーはそう思っていた。

 

目が覚める。

何故目が覚める。自問自答が、流れゆく。

マリーは気付く。途轍もなくまがまがしい負の力に。しかも、とんでもなく不安定な力に。うごめいているそれは、確かに獲物を求めている。

そして、意識が覚醒する。

「しまった!」

寝癖をつけたまま、マリーは跳ね起きた。やはり遅かったか。やはり間に合わなかったか。歯ぎしりする。階段を駆け下りる。そして、見つけた。

アデリーは掃除の最中に倒れたようだった。箒を持ったまま、床に崩れ伏している。額にはびっしり汗を掻き、短く断続的な息をしていた。そしてその体の周囲には、悪魔でも怯えるような、濃厚な負の魔力。しかも、極めて不安定な。

これが、アデリーの死の力だ。

もともとアデリーの魔力は、周囲の死を呼ぶものである。生物であれば肉体を破壊し生命活動を停止させ、非生物であれば構造そのものを壊す。ただし、体から離れるまでは、効果を示さない。しかし自ら制御できずに、その魔力を周囲全てに解き放ってしまうと。無差別な破壊が、辺りを覆い尽くすのである。

目を閉じて、マリーは全魔力を集中。素早く詠唱して、魔力そのものの防御障壁を作る。ただ、元々マリーの本分は攻撃で、この手の防御術は道具を使わないと上手く効果を出せない。その上今回は急場だ。魔力が大きければ押さえ込むことが出来るが、果たして行けるか。

まだ制御具は出来ていない。だから、方法は二つ。マリーが押さえ込むか、宝石に吸収させるか。レインボーダイヤの力を使うのもいいが、マリーの見たところ、アデリーの魔力はその容量すらをもしのいでいるだろう。素では吸収し切れまい。だから、二面作戦で行く。

アデリーに触れる。それだけで、焼き付くような違和感が全身に走った。何カ所かの皮膚が内側から爆ぜた。舌なめずり。心を落ち着かせるためだ。最悪の予想が、現実になろうとしている。アデリーの魔力は、マリーを完全にしのいでいた。腰に増幅具の星と月の杖があるというのに、まるで追いつかない。ゆっくり首の後ろに手を入れて、抱き寄せる。アデリーが目を開けて、潤んだ目でマリーを見上げる。視線に力がない。

「ます、たー?」

「大丈夫、大丈夫だからね」

「おそう、じ、し、ない……と」

「いいから、黙ってなさい」

吸い取ることが出来る分は、ダイヤに吸収させた方がいい。目を閉じ、全魔力を集中して防御に当たるが、アデリーの凄まじい潜在魔力は、今荒れ狂っている。マリーの防御を何度も貫通するような一撃が来る。そして、一番痛んでいるのは、マリーの体ではなく、アデリーの体だ。

事態は明らかだ。わざわざ口にするまでもない。来たのだ、初潮が。

初潮の時苦しい思いをする少女は多い。マリーも結構苦労した口だ。だが、アデリーの場合はそれとは少し状況が違う。不安定になった精神が、魔力を暴走させ、それが体を蝕んでいるのだ。

痛みを緩和する薬をアデリーの口元に運んで、飲ませる。経血の処理をするのは後回しだ。今はそれどころではない。アデリーは意識朦朧としていて、酷い熱を出している。全身を何度も貫く痛みを、歯を食いしばって耐えながら、アデリーを裏庭に運ぶ。まずある程度消耗させてから、ダイヤに魔力を吸収させて、暴走を抑える。それしか、急場をしのぐ術はない。一歩が重い。一歩が遠い。ほんの三歩先が、メディアの森よりも遠く思える。

アトリエの戸が開く。其処にいるのは、マリーのもっとも頼れる盟友だ。多分、気配を察して駆けつけてくれたのだろう。

「マリー!」

「シア、丁度いいところに! 手伝って!」

「分かったわ。 魔力の強い能力者を、何人か呼んでくるから、それまで頑張って!」

シアは此方の言いたいことを、状況だけで察してくれる。走り去る彼女は、フルスピードで心当たりを集めてきてくれるだろう。実に頼もしい。

アデリーの不安定な魔力は、本体から離れようと、もがき暴れている。何度も平手打ちを喰らったような衝撃を、マリーは浴びる。脳そのものを揺らされながらも、マリーは踏みとどまる。

まず最初に、裏庭のスペースを活用して、魔法陣を書く。その中にアデリーを寝かせて、最低でも一晩掛けて、ゆっくり不安定な魔力を抜いていかなければならない。最悪にも、小雨が降り始めてきた。火照ったアデリーの肌を、雨が容赦なく打ち始める。最初にやらなければならない、魔法陣を書くことさえままならない。

バチンと鋭い音がして、マリーの右手の薬指の爪がはげた。痛いが、気絶などしてはいられない。頬に鋭い痛みが走る。髪が一房、爆ぜて吹っ飛んだ。耳たぶに鋭い痛み。鮮血がどこからか垂れ続けている。

マリーは知っている。アデリーと自分が似ていることを。

アデリーは己の中に、どうしようもない凶暴な力を飼っている。マリーは心の中に、どうしようもなく危険な獣を飼っている。凶暴な力を持っているのに、誰よりも心優しいアデリー。魔力の制御は上手いのに、誰よりも獰猛なマリー。何という運命の皮肉か。

アデリーは、腹さえ痛めていないが、マリーにとって子供と同じだ。だから、可能な限り、全力で守り抜く。

雨が強くなってくる。体中の傷口が染みる。周辺の住民を避難させる方がいいかもしれないと思い始めた時。戸が開いて、シアが入ってくる。周囲に、何人か、マリーもよく知る手練れを連れていた。

「遅れてごめんなさい!」

「いや、ベストタイミングよ! 悪いけど、今アデリーを離せないの。 その竈どけて、魔法陣書いてくれる? 魔封式じゃなくて、魔退式の奴!」

「それが適切でしょうね」

聞き覚えのある声が、アトリエからする。戸を開けてしずしずと現れたその人は。美しい紫の髪を持つ、左右で瞳の色が違う長身の女性。声に緊迫を称えながらも、あくまで優美な動作を崩さないその人は。

そう、イングリド先生だった。

その後ろには、白髪の老人である施寮院の先生の姿もある。短時間の間に、シアが能力をフル活用してどれだけの距離を走り回ってくれたのかがよく分かる。なんと心強いことか。雷が遠くに落ちる。だが、マリーにはそれが、勝利の祝砲に聞こえた。

「今少し我慢しなさい。 すぐに助けてあげるわ」

「お願いします」

頷くと、てきぱきとイングリド先生が周囲に指示を始める。雨避けの簡易テントを周囲に張り、その中に魔法陣を書く。マリーの全身は既に血まみれになっていた。よろよろと立ち上がると、テントの中へ。アデリーの呼吸は乱れたままで、まだ意識は戻っていない。

一緒にテントに入ってきた手練れが、何人かがかりでアデリーの魔力を抑えに掛かる。流石にシアが連れてきた手練れだけあり、皆マリーと同等かそれに近い魔力を持っていた。私服だが、シグザール王国騎士もいる。それが数人がかりなのだ。流石のアデリーの魔力も、暴走を抑えられ、周囲への破壊を行えなくなりつつある。

テントの頂点から、魔力が迸る。空に逃されるアデリーの魔力が、白い巨竜となり、天へ牙をむいているのだ。それに応えるように、再びいかづちが近くに落ちる。爆音。マリーは少し目を細めただけ。安心していたからだ。これで、周囲の一ブロックが消し飛ぶような事態は避けられた。いや、もしこのままマリーが死んでいたら、消し飛ぶのは一ブロック程度では済まなかっただろう。

一息ついたマリーに、イングリドが後ろから声を掛けてくる。

「貴方も治療が必要だわ。 外に出て」

「しかし、この子の状況はまだ不安定ですし」

「大丈夫。 シアさんが連れてきた皆を信頼しなさい」

唇を噛むマリーを、施療院の先生が抱えてテントから引っ張り出す。テントの上からはもの凄い密度の魔力が、天に向けて昇り続けていた。ひょっとすると雷は、この異変の影響なのかも知れないと、マリーは思った。

アトリエの中には、既に毛布が用意されている。自分で服を脱ごうとしたマリーだが、止められる。よく見ると、手も、足も、傷だらけだった。しかも一部の傷は、肉が爆ぜて大きく抉れているほどだ。右手の小指の第二関節などは、白い骨が見えていた。奥歯を噛んで、天を仰ぐ。シアに手伝ってもらって下着姿になると、施療院の先生が素早く傷を見ていった。イングリド先生はアトリエを使って、素早くなにやら調合している。もの凄い手際で、さながら超一流の料理人のフライパン捌きを見ているかのようだ。

激しい魔力消耗と、肉体ダメージが、意識を曖昧にさせていく。アデリーの力を押さえ込むのに、これほど消耗するとは思っていなかった。自分以上にはなっているだろうとマリーは思っていたが、此処までとは予想外だった。まだまだだなと自嘲する。

施療院の先生は流石に処置の手際がよい。傷薬は自前のがあると説明し、シアに出してもらう。施療院ではマリーの作った薬を使ったことが何度もあると言われて、少しだけ嬉しかった。人助けをしたことが、ではない。錬金術師としての評価を実感できて、である。

イングリド先生が鍋を火から下ろす。もう終わったのか。ある程度まで仕上げた素材を、持ち込んでいたのかも知れない。

「イングリド先生、それは?」

「精神安定剤と、生理痛の緩和剤と、解熱剤と、他に何種類かを加えたものよ」

「っ…。 すみません、うちの子が世話になります」

「いいのよ。 貴方のアカデミーに対する貢献度を考えれば、この程度は安いものだわ」

徐々に雨が収まりつつあるらしい。雨音が静かになりつつある。

今頃になって傷が痛み始める。剥がれた爪の分が少し辛い。痛みはいいのだが、一週間以上は杖が普段通りに持てないだろうし、調合のスピードも制限されるだろう。その状況下では、今までのようなてきぱきとした作業は難しい。いつもより時間がかかると考えなければならない。つまり、次のアデリーの生理日が一月先として、いつもよりも遙かに悪い条件下で、制御具を仕上げなければならない。かなりの強行軍となるだろう。生活費もかなり厳しそうだ。

「今は休んで、マリー」

「ごめん、シア」

「今度は私が貴方を助ける番よ。 食費とかは気にしないでも構わないから」

そういえば、そうだった。シアはそういう奴だった。現実主義者で合理主義者だが、確かにこういう面のある頼れる奴だった。マリーはその声を聞くと、不意に力が抜けるのを感じた。

 

どれだけ眠っていたのかは分からない。マリーが身を起こすと、朝の光が窓から差し込んでいた。

窓際の壁には、毛布にくるまってシアが寝ている。体中の痛みはだいぶ引いていたが、やはり爪ははげたままだった。出血も止まっているようだが、分かる。何カ所かの傷は、かなり深い。しばらくは、普段の戦闘能力を発揮できないだろう。

アデリーを探して辺りの気配を探る。いた。二階だ。

二階では、アデリーがベットに寝かされている。かなり状況が落ち着いたという事だろう。側には魔力を使い果たした様子で、昨日手伝ってくれた人たちが皆ばてていた。マリー自身も殆ど魔力を使い切ってしまっていたが、それは他の人たちも同じと言うことか。イングリド先生はもういなかった。昨日のうちに帰ったのだろうか。

下から、シアの声がする。マリーに匹敵する使い手だ。足音で目が覚めないはずがない。

「マリー? 起きたの?」

「ん、シア。 昨日はごめんね」

「いいのよ。 この間の借りに比べたら、これくらいは安いものだわ。 ただ、もうあまり長居は出来ないけれど」

シアは非常に忙しい毎日を送っている。今回奔走するのだって、ハードスケジュールの中で無理をして行ったはずだ。ドナースターク家に大きな貢献が出来たのにと、マリーは無念の思いを抱く。

ベットの脇に寝ていた施寮院の先生が起き出す。大きくあくびをすると、丸い顔にくっついたもじゃもじゃの白い口ひげを擦りながら、アデリーを触診する。

「ふむ、普段から鍛えているようじゃのう。 いい体じゃ。 もう回復し始めておる」

「それはまあ。 あたしが鍛えてますから」

「そうか。 だが、それでも何度も続くともたんぞ。 今回も、内蔵に大きな負担が掛かったようだしの。 どう鍛えても、内蔵はそれほど強くできんからな。 大事を取って数日は安静にさせておきなさい」

マリーは髪の毛をかき回すと、一度施寮院に帰る先生を見送った。シアも戻るという。手助けに来てくれた者達も、おいおい戻り始め、やがてアトリエにはマリーとアデリーだけが残った。

状況はかなり悪くなった。無一文に近い経済状態になり、精度の高い調合をしなければいけないというのに大事な指先は傷ついている。少なくとも、今日は指を休ませないと、これから戦い抜けなくなる。

本当なら一週間くらいは休んだ方がいい。だが、現状ではそうも言っていられない。手に負担が掛からない調合から、順番にこなしていくしかない。

光石を入れた中和剤は火から下ろされていた。最初からやり直しだ。火力を調整して、再び温め始める。この間火から下ろした時間を計算に入れて、温め直さなくてはならないので、普段より面倒だ。もう一度素材を集めに行っている時間はない。予備もそう多くはないし、あり合わせの材料を活用する他無い。時間が掛かる作業を行いながら、細かい手作業を同時並行でやるのが普段のやり方なのだが、今回ばかりはそうも行かない。しばらくはペースを落とすしかない。焦ったら却って損をする。

脇に避けられたスケジュール表に今の作業を書き加えていると、二階で物音。アデリーが起きた。そういえば、粥か何か、消化がいい物も食べさせないと行けない。流石に作るのは厳しいから、車引きで買ってくるしかないだろう。

アデリーは呆然としているようだった。何故自分が寝ているのかもよく分からないらしい。包帯まみれのマリーを見て、思考が混乱しているようだ。マリーは体を起こそうとするアデリーを寝かせ直すと、努めて優しく言う。

「おめでとう。 お祝いしないとね」

「お祝い、ですか? どうしてですか?」

「子供を産めるようになったんだから、お祝いをするのは当然でしょう? 今日から大人の仲間入りよ」

まだ頭がはっきりしないアデリーに布団を掛けると、出かけてくるとマリーは言う。体中痛いが、外を歩き回るくらいなら大丈夫だろう。気配を探る力や、魔力そのものは衰えていないのだ。念のためいつもより厳重にトラップを仕掛けると、アトリエを出る。

頭の働きが鈍くなっているという点では、結局マリーも同じだった。軽食が中心の車引きでは、消化に良い食べ物はあまり扱っていない。八つほど車引きを見て回ったが、結局いいものはなかった。仕方がないので市場まで足を運び、そこで薄く焼いた小麦粉に細かく砕いて肉と混ぜた米のペーストを挟んだ食べ物を見つける。西の海岸部の料理で、肉には魚から兎まで様々なものを用いる。味付けも幅があり、なかなかに奥が深い食べ物だ。出来るだけ味付けが薄いものを三食分ほど買うと、財布が更に軽くなった。このままだと、リヒト・ヘルツを手放さなければならないかも知れない。ため息一つ。ゲルハルトにもらった杖もそうだが、こういう宝具とも言うべき武具は、本当に貴重なものなのだ。手放すと、そう簡単には取り戻せはしない。だが、場合によっては、最後のカードとして切らざるをえないだろう。

アトリエに帰り着くまで、随分苦労した。筋肉痛ならまだ我慢できるのだが、体の中が彼方此方痛んでいるのは少し辛い。更に、アトリエに到着すると、そこでは眉をつり上げたセイラが、おろおろする若いメイドと一緒に待っていた。自分の代理に、シアが寄こしたらしい。

「マルローネ様! 何をしているんですか!」

「ふえ?」

「はやくアトリエに入ってください!」

アトリエに押し込まれると、説教される。怒鳴るわけではないのに、どうしてか逆らえない威圧感がある。セイラは蕩々と言う。自分も大けがをしているのを、自覚して欲しいと言うのだ。多分、シアが大けがをした時、自分が取り乱したことに懲りたのだろう。以前も硬い印象を周囲に撒いていた彼女は、今では鉄壁を思わせる。そのせいで、彼女の指揮下にあるメイド達からは更に恐れられているようだ。

冒険をする過程で今までも散々怪我をしてきた。だから、自分の限界がどれくらいかは承知している。だが今回ばかりはセイラの方が正しいだろう。だから、説教に甘んじる。

「シア様がおっしゃっていたはずです。 食費等はしばらくドナースターク家で支援しますから、出歩かなくても大丈夫です。 料理は私がしますし、食べたいものがあったら遠慮無くおっしゃってください」

「そういわれても、悪いよ」

「貴方がエリキシル剤を作るのにどれほどの資金と労力をつぎ込んだのか、既に我々でも調べは付いています。 一月分の食費など、それから比べれば安いものです。 今までの支援費用を差し引いてもおつりが来るほどなんですよ。 だから、気にしないでいいんです。 次に外を彷徨いていたら、鎖でベットに縛り付けますよ」

二階に連れて行かれて、無理矢理寝かされる。諦めたマリーは、中和剤が仕上がる日時を指定して、その時間になったら知らせて欲しいと説明。ベットに潜り込む。仕方がないので、これから必要な調合を記憶の中から再確認していく。アデリーが話しかけてきたのは、その時だった。声には深い罪悪感がある。

「マスター、その」

「ん?」

「そのお怪我、私のせい、ですか?」

「名誉の負傷よ。 アデリーが気にする事じゃないわ」

歩きながら確認したが、今回の怪我はかなり酷い。皮膚表面に生じた傷が三十二カ所。内臓は痛めていないが、骨に亀裂が入っているかも知れない場所が二カ所。筋肉にまでダメージが通っているのが七カ所ある。殆どは数日で直るが、特に重い七カ所は、回復に一月かかるだろう。

「思い出してきました。 何だかお腹が痛くなって、それで、体が熱くなって。 それで、私、マスターを酷く傷つけてしまって」

「いいのよ。 もたもたしていたあたしが悪いんだから。 何にしても、アデリーが悲しむ事じゃない」

「でも!」

「でもじゃない。 この怪我は、あたしのミスで、あたしが作ってしまったものなの」

アデリーは涙をこぼしていた。マリーとしても心が痛む。見当違いの罪悪感を抱いていることが、見ていて痛々しい。

「ほら、泣かない。 もうあんたの体は、大人になった。 だから次は、自力で社会に立てるようにならないとね」

「……マスターがずっと研究していた道具も、そのためのものなのですか?」

「そうよ。 本当なら、この日が来る前に完成させるはずだったんだけどね」

「そのために、多くの命を奪ってきたのですか? これからも?」

相変わらずくだらないことで悩む子だ。マリーは嘆息すると、言う。

「アデリー。 あたしは暴力も殺しも大好きだけど、それでも豊かな恵みをもたらす森を潰してしまうような、生態系を乱す無意味な量の殺しはしていないの。 過剰な資材の採取もしていないし、不要な動物実験もしていない。 つまり、適切な欲求充足と、資金回収と、研究の結果で生じている死なの」

「それなら、私を殺してくださいっ! 私のせいで、多くの命が失われて、多くの命が傷ついて。 それに、マスターまで! もう、もう私…」

「だからこそ、あんたは生きなきゃいけないの。 人間はどのみち、生きていく過程で多くの命を奪うのよ。 それに罪悪感を覚えるのは個人の自由だけど、命を粗末にするのはいただけないわ。 それこそ、あんたを助けるために死んだ多くの命を、無駄にすることになるのよ。 それに、今回の実験が成功したら、今後は覚醒暴走型の能力者が、限定条件下以外でも救われるようになるかも知れないの。 無駄なんて、何もないんだから」

アデリーは両手で顔を覆って泣くばかりだった。今はそっとしておく方が良いだろう。アデリーの慟哭を背に、マリーはベットの上で、最終的な設計を詰める。

全部発散させてみて分かったが、アデリーの体の魔力回復は遅い。たとえばマリーは、魔力を完全に使い切った状態からフルチャージにするまで、二日半ほどかかる。アデリーは回復力から言って、多分フルチャージまで一月半程度はかかる。

これを利用して、制御具を更に完璧に仕上げることが出来そうだ。

アデリーと殆ど年が変わらない使用人が二階に上がってくる。アデリーよりも更に小さい彼女は、美少女とはとても言えない。だが見る人を安心させる丸顔で、灰銀色の癖が強い髪をポニーテールにしている。その彼女が、米を柔らかく煮込んで、鶏卵で味付けした簡単な粥を、両手にすっぽり収まるほどの小さな器に入れて持ってきてくれた。分厚いミトンで器を持っている様子が可愛らしい。

もの凄く気が弱そうな彼女は、アデリーが泣いているのを見て吃驚し、料理を取り落としそうになる。同年代の子の前で弱みを見せたくないのか、アデリーは涙を拭くと、気丈にも大丈夫ですと言った。セイラが咳払いすると、使用人の子から粥を取り上げて、自分で盛りつける。自分の家なのに、もの凄く恐縮しながら、マリーは言った。

「あの、調合したいんだけど」

「駄目です」

「アイデアが浮かんできてね。 ちょっとでいいから、駄目?」

「駄目です。 アイデアだったら、そちらのマルルが口述筆記します」

ドナースターク家で働いていることから言って、多分合法奴隷だろう。それなのに、読み書きが出来るとは。珍しいタイプの人材だ。将来は重宝されるだろう。シアの意思も汲んであげたいと、マリーは思う。だから言った。

「じゃあ、お願いしようかな」

「少しは休むことを考えてください。 シア様と言い貴方と言い、ドナースターク家を将来支える大事な身です。 それなのに」

「まあまあ、お小言はそれくらいにして。 マルルっていったっけ。 おかゆを食べ終わったら、口述筆記頼めるかな」

「は、はい!」

マルルは相当に緊張しているらしく、語尾が裏返る。真っ赤になる彼女の頭を撫でると、マリーは木のスプーンを手に、どこから設計図を作るか考え始めていた。

 

6,封具

 

マリーはため息を一つ漏らしていた。あと少しだ。今日で、あの日から二十日。そろそろ、デットラインが近づいている。机の上には、小さな塊が一つある。細いチェーンを使ったネックレスに見えるが、もちろんただの飾りではない。今回の発明品だ。

まだ体の彼方此方が痛い。セイラが怖い目で見張っているので、あまり外出も出来ない。魔力錬成の胡座はやらせてもらえるし、リハビリ代わりに走り回る位は許してもらっているが、それも監視付きだ。息が詰まる。それも、封具が出来れば全て終わりだと言い聞かせて、マリーはラストスパートに掛かった。

封具は、レインボーダイヤをコアにしたマジックアイテムである。その周囲を光石で包み、それには山蚕の糸をふんだんに丁寧に混ぜ込んである。更にその周囲を山蚕の糸で丹念に包み、その上からなめした山羊の皮で包んだ。それをかなり前にゲルハルトに特注し作ってもらった頑丈なロケットに入れて、固定してある。

この外殻部分を作るだけなら簡単なのだが、問題は中身となる命令だ。この命令を入れるために、ここ数日、マリーは魔法陣を書いては消し、書いては消しを延々と繰り返していた。自分で手を動かそうとするとセイラが怖いので、マルルにやってもらう。マルルは見かけと裏腹にもの凄く頭と記憶力が良く、一度書いた魔法陣は絶対に忘れない。シアが此処に寄こすわけである。こう言う時まで、ちゃっかりした奴だ。マリー自身は、命令のインプットなど、大事なところだけを作業した。本来なら一週間で出来る作業なのに、二十日もかかって終わらないのは、それが原因だ。

アデリーは外出が多くなった。反抗期というのではない。悲しみと苦しみを振り切るために、今まで以上に熱心に修練を行っているのだろう。クーゲルが一度アトリエに来て、実に真剣に修行していると教えてくれた。しっかり育てた後、殺すのが楽しみだとも。もちろん、殺させはしないが。キルエリッヒも一度アトリエに来て、傷薬の残りを買っていった。彼女の所でも、アデリーは真剣に修行しているという。筋が良く、熱心で、将来が楽しみだそうだ。

良い傾向だ。マリーとしても嬉しい。

魔法陣から出たマリーは、フローチャート図を見ながら、席に着く。包帯はもう殆ど取れたが、体内の傷は回復しきっていない。時々、骨や筋肉が痛む。

封具に与える命令は二百三十七。その内の二百十九を既にこなしている。これほどに多数の命令が必要になってくるのには、理由がある。アデリーの魔力が、極めて不安定かつ危険だからだ。

封具に与えている基本命令は、普段から日常的にアデリーの魔力を吸収し、無害な状態に換えてから放出する事だ。だが、それも量次第では捌ききれなくなる。一度に大量の魔力が放出された場合は、それぞれに執る手段が変わってくるのだ。

たとえば、この間のような、爆発寸前の状態の時には、いちいち無害な力に換えていられない。その場合には、アデリーの体から半強制的に魔力を引っ張り出しつつ、空に向けて直線的に放出するようにという命令を与えてある。もっとも、生物がいない方向に放つように命令を出してあるので、武器にはならない。また、俯せに倒れ封具が下になった場合には、地面に向けて放出するように命令してある。

この間ほどではないにしても、危険領域に達する場合も想定される。その場合は何段階かに対処を分けてある。出来る限り吸収してから後で放出するパターンと、爆発寸前時と同じ対処を行う場合がある。

また、強すぎる魔力がアデリーの体に蓄えられた場合にも対処を行う。暴発の可能性が高くなるからだ。その場合には、アデリーの体からいつも以上のペースで魔力を吸収、放出を行う。

封具自体のメンテナンスも重要だ。ダイヤモンドの強度には不安を抱いていないが、問題はその周辺の光石である。交換時期が近づいてきたら、淡い光を発するようにという命令も与えてある。

それら複雑な命令に、優先順位を与える作業が大変だった。そのフローチャート図を作るのに、一週間近く掛かったほどだ。加工そのものよりも、これを作る頭脳労働が大変だった。理論は既に出来ていたとは言え、なかなかどうして。マリーはいつもいつも、実践段階で己の甘さを思い知らされる。今回もそうだった。

「マリー様」

「んー? 何?」

「そろそろお休みになってください。 もう一日半起き続けているのですよ」

「もうちょっとだけ勘弁してよ。 今、かなり良い所なんだって。 あと少しで、あと少しで仕上がるの」

今は真夜中である。アデリーもマルルも既に白河夜船だ。

マリーと一緒にずっと起きているセイラに言われると、流石に心苦しい。セイラは鍛えていると言っても、実戦経験があるわけではない。それなのに、実戦経験豊富なマリーに無理をさせないために、ずっと見張っているのだ。その苦労やいかほどだろうか。

セイラは硬いだけではなく、頭も良い。シアがメイド長にしているだけはある。話を聞いているだけで、フローチャート図の意味をしっかり理解していた。だからマリーがミスをしていると、しっかり指摘してくる。今もそうだ。

「今までのペースから言って、このまま通しで仕事を為されれば、最低でも四刻はかかります。 傷がまた開いてしまわれますよ」

「…そろそろ、またデッドラインが来る」

マリーがぼそりと言うと、セイラは眉を僅かに動かした。マリーが作業をしながら説明したから、彼女にも分かっているはずだ。

「アデリーは魔力がたまるのこそ遅いけど、自分で放出できないし、元の容量が桁違いに大きいわ。 今でもあたしの魔力をしのぐくらいの量を蓄えてるのよ。 封具がきちんと働いたとしても、それが生理日の二三日前じゃ間に合わない可能性もあるの」

実際、マリーは忸怩たる思いである。たとえば、今回の件では、元々のマリーの悪評で救われた。アトリエからはしょっちゅう爆発音が響いているし、異臭騒ぎは日常茶飯事だ。だから、今回の件もその延長と言うことで片付いた。だが、それも二度、三度と繰り返されれば話が変わる。次はドナースターク家に迷惑が掛かる。

「無理はいつものことなの。 ね、お願い。 もう少しだけ、やらせてくれないかな」

「分かりました。 条件があります」

「はい、はい。 何?」

「今回の仕事が終わったら、怪我をした時にはきちんと休むこと。 それと、私も最後までつきあいます」

マリーが笑顔で見上げるが、セイラは表情を動かさない。この人は嫌いじゃない。一番大事な人のためになりたいと、常に考えている。それが故の厳しさだと分かっているから、マリーも反発はしないのだ。

「じゃあ、ペースを上げるよ。 魔法陣、書いてくれる?」

「かしこまりました」

マルルほどではないが、セイラの記憶力もなかなかのものだ。あまり横から口を出さずとも、マリーが指示したとおりのものを書いてくれる。マリーも負けてはいられない。腕まくりすると、封具を掴み、もう片手に魔力増幅用の星と月の杖を掴んで、フローチャートで確認しながらしっかり命令を打ち込んでいく。命令を走らせるために、マリーは何度も大量の魔力を注ぎ込まねばならないので、増幅具があるとはいえ消耗も激しい。額の汗をセイラが拭ってくれる。この辺の気配りが実に嬉しい。もちろん、全ての命令をそれでは再現できない。幾つかの命令は、必要条件を緩和した状態で検証して、最終的に命令を修正する。この作業がじつに面倒くさい。

インプットした命令が二百三十五に達した時、夜明けが来る。これで二日おきっぱなしだ。マリーはまだ平気だが、セイラが辛そうである。フローチャート図に×をつける。×は終わった場所。もう机一杯に広がっている図の殆ど全てが、×で埋め尽くされている。

「さ、あと二つよ」

「分かりました。 魔法陣を仕上げましょう」

「大丈夫? 反応が鈍いわよ」

「きつい仕事は、あの噴火の時で慣れっこです。 平気ですから、早く済ませましょう」

マリーは舌なめずりすると、最後の仕上げをするべく、残る命令を連続でインプットする。最後の検証作業は、フルパワーのロードヴァイパーを叩き込むという荒っぽいものだ。命令をインプットし終えると、セイラが流石に崩れかける。マリーは支えて、裏庭に二人で出た。

火薬の実験などに使う丈夫な石床に、封具を置く。マリーは詠唱し、残っている全ての魔力を集中。印を組み替え、目を開ける。マリーの内からふくれあがる膨大な魔力に、黄金の髪が揺られはためく。激しいスパークが、マリーの全身を覆う。包む。足下から指先まで。其処にいるのは、黄金の大蛇。

「サンダー……!」

ゆっくり腕を回し、マリーがキーとなる言葉を叫んだ。高まった魔力が一気に収束。指向性を持って、指先に集まる。

「ロードヴァイパー!」

咆吼と共に撃ち放たれた光の大蛇が、牙をむいて封具に躍りかかった。辺りが昼になったような激しい放電の中、マリーはじりじり圧力に押され下がる。予定通り、封具は空に向けてもの凄い魔力を放出し続けている。やがて、気合いの声と共に、マリーは全ての魔力を放出しきった。

肩で息をつくマリーの前で、煙を上げながらも、封具は無事だ。予定通りの動きに、マリーは膝に左手を突き、右手でセイラに親指を上に立てて見せた。セイラはその時、初めて柔らかく笑ってくれた。

「もう、無理をしては駄目ですよ」

「はは、そう言わないでよ。 無理が利くのが、あたしの特性なんだから」

それからどうやって寝床に入ったのか、マリーは覚えていない。気付くと、夕方になっていた。

 

遠くで鳥が鳴いている。赤く染まった空。太陽からの光が柔らかい。

背伸びして寝床から起きたマリーは、アデリーだけがアトリエにいることに気付く。セイラが寝床に運んでくれたのか。しかも先に起きて帰るとは。なかなかやる。シアが腹心とする訳である。

まだまだ体の中は痛いが、それでも動くのに支障はない。それに、流石に今度ばかりは数日休んだ方が良いだろう。セイラに申し訳が立たない。

一階に下りると、アデリーが丁度包丁で魚を捌いていた所であった。振り向いた彼女の胸元には、封具が輝いている。ロードヴァイパーの魔力を逸らしきった、マリーの新たなる傑作が。

「マスター、お目覚めですか?」

「ん。 どう、苦しかったり、調子が悪かったりはしない?」

アデリーは首を横に振った。良かった。上手くいったのだと、マリーは嘆息する。改めて、稲の輪を玄関に飾らなければならない。アデリーの道は、此処から始まるのだ。もちろん、いきなり封具が完璧なものとして仕上がるとはマリーも思っていない。何度か改良をしていかなければならないだろう。

「マスター、その」

「うん?」

「私、生きてみようと思います。 精一杯頑張ってみます」

マリーは返す言葉を持たなかった。自分より頭一つ小さい少女を抱きしめると、何度か頷く。圧倒的な達成感と同時に、ただ自分の子供の成長を喜ぶ、一人の親としての感情がそこにはあった。

アデリーは泣いていた。どうしてかは分からない。だが、これでいい。これでいいのだと、マリーは思った。

 

7,進軍開始

 

今日は新月。明かりは星のみ。だが、それらは実に活発に動いていた。

膨大な数のヤクトウォルフが、星明かりの下、森の中を駆ける。小高い丘の上から、その一糸乱れぬ動きを見る影複数。そのうち一つは、この状況の立役者の一人、カミラである。ヤクトウォルフに続いて、テンペストモアの大集団が動く。最後に姿無き暗殺者であるステルスリザードが森を行く。今までの二種に輪を掛けて気配が薄く、何もいないようにしか見えない。事実、状況を知らされていない、近くの要塞にに駐屯するシグザール軍第九師団は気付いてさえいなかった。クリーチャーウェポン達の数は、合計して二千百五十。稼働可能な全ての個体を、今動かしているのだ。

「完璧だな」

カミラの側に立つエンデルクが満足げに頷く。クーゲルも嬉しそうに力強く頷いた。

ついに、決戦に必要な戦力の整備が終わったのである。

戦場は既に選んである。問題は、どうやって敵を其処におびき寄せるかだ。敵はネズミではない。下手をすると、罠ごと食い破られる可能性がある。そのため、今シグザール軍特務部隊が、ドムハイト国内でせっせと金と怪情報をばらまいている。複雑な政治的工作を仕組み、演習を行うように持っていくのだ。腐敗しきったドムハイト豪族達は、良いように踊らされている。工作終了までおよそ一月。年内にバフォートを仕留めるというエンデルクの、その裏で糸を引くヴィント王の計画は、成就に近づいていた。

「これで、私は最大の敵を闇に葬ることが出来る。 後は表の名声を得れば完璧だ」

「フラン・プファイルでも殺してみますか?」

「なかなか良いな。 討伐隊の人選は難しいだろうが、殺し自体は面白そうだ。 バフォートを殺した後もまだまだ楽しみが絶えることはなさそうだな」

カミラの冗談にも、真顔で応えてくるエンデルク。普段のクールな態度と甘いマスクからは考えられないほどに、今夜のエンデルクは己の名声欲をむき出しにしていた。気が緩んでいるのだろう。カミラはほくそ笑むと、完璧な動きを見せているクリーチャーウェポンの大集団を見やる。

ヘルミーナの言葉が気になる。可能な限り完璧に仕上げたセーフティロックが外れるなどと言う事があるのだろうか。ヘルミーナが嘘を言っているとは、どうしてもカミラには思えなかった。奴は、経験に基づいて喋っているような気がしたのだ。

「聖騎士カミラよ。 タイタスビースト改の調子はどうだ」

「上々です。 戦場では予想通りの活躍を見せてくれるでしょう」

「あまり暴れられても困るがな。 バフォートを、殺しやすくなる程度に痛めつけてくれればそれでいい」

エンデルクは血がたぎるようで、いとおしそうに剣を何度もなで回した。それを見ていても、カミラは不安になる。

何かを見落としているのではないか。何か計画に穴はないか。どこかで足下を掬われはしないだろうか。

疑心暗鬼が大きくなる。空に月は無く、瞬くは星のみ。

ため息を漏らしていることに気付いて、カミラは愕然とした。

だが、もう後戻りは出来ない。上機嫌のエンデルクに続いて、カミラは前祝いだという、ささやかな宴に顔を出すべく、丘を降りる。

空に瞬く星々は、あくまで静かだった。

 

大通りをランニングしていたアデリーは、ダグラスとすれ違った。ダグラスは騎士見習い用の鎧を着ていた。そのまま通り過ぎようかと思ったのだが、同じくランニングしていたらしいダグラスは、反転して併走してくる。

「よお、元気にしてたか?」

「見ての通りです」

アデリーの胸元には、封具が光っている。

これをもらってから、十日ほどが過ぎた。懸念していた生理日だったが、力の暴走は起こらず、マリーの実力をアデリーは改めて思い知ることとなった。アカデミーの偉い先生が、画期的な発明だとか素晴らしい功績だとか喜んでいた。ぼんやりとしか覚えていない。

アデリーは今、迷いを殺すのに必死だった。

今、マリーはアトリエにいない。ついさっき、とんでもない殺気を纏い、目をぎらつかせながら、近くの森に土煙を上げながら走っていった。何がこれから起こるのかは目に見えている。

今は、まだ何も出来ない。だから必死に力を磨いて、必死に腕を上げて、一日も早く止めるのだ。

マスターが命をくれたのだと、あの運命の日、アデリーはまたしても強く思い知った。今も一秒ごとに思い知らされている。決意は、一秒一日ごとに強くなっていった。併走するダグラスが、少しまじめな顔になって言う。

「あの、な。 ちょっと話を聞いて欲しいんだ」

「何でしょうか」

「俺、お前にまとわりついてたと思う。 興味を好意だと勘違いして、自分の気持ちを押しつけようと躍起になってた。 悪かった」

アデリーはなんと応えて良いのか、分からなかった。ダグラスのそれは、懺悔に近いのかも知れない。

「俺さ、お前のマスターに、抗議しようと思ったんだ。 それで、ハハ、情けないことに秒殺されちまってな。 それで医務室で、ルーウェンって人に諭された。 自分の正義を押しつけるなって。 それから、お前のこと、少し調べさせてもらったんだ」

「ええと……」

「お前、すごいよ。 俺だったら、同じ状況じゃ、絶対がんばれないと思う。 お前のマスターのことは今でも嫌いだし、認めることは出来ないし、理解だって出来ない。 それなのに、お前は自分なりに理解して、必死にがんばってる。 負けたって思った」

二人とも、走るのはやめない。アデリーは丁度クーゲルの屋敷に向かっているところだ。緩やかな上り坂が続いている。

「俺、今日限り、お前にまとわりつくのをやめる。 考え方を一方的に押しつけるのはやめる。 その代わり、どっちが先に自分の夢を叶えるかの、ライバルだと思いたい。 いけない、かな」

「それでしたら。 別に構いません」

「そうか。 なんだか、勝手な意思ばかり押しつけちまって悪かったな」

すっとダグラスに対する圧力が消えるのを感じた。一方的な好意は迷惑だと思っていたことに、アデリーは今気付く。手を振ると、ダグラスは元の道に戻っていった。ライバルだったら悪くない。

見上げれば、もうすぐ其処にクーゲルの家。最近は修行の後に、彼の娘さんが美味しいケーキを焼いてくれる。マスターは満腹で帰ってくるだろうが、ケーキは保ちが良いから、夜には食べてくれるだろう。

迷うな。余計なことを考えるな。今はただ強く。ただ強く生きることのみを考えろ。

自分に言い聞かせながら、アデリーは足を止める。呼吸を整えながら、戸を叩く。今はただ強く。どんな手を使っても強く。あの人を止められる日まで、走り続けるのだ。

クーゲルの巨体が、ドアを開けて現れる。口の端をつり上げると、彼は言った。

「吹っ切れたな。 いい顔になってきたぞ」

「有難うございます」

「よし、今日からもう少しましな稽古をつけてやろう。 君の成長は、実に楽しみだ」

虎どころか、ドラゴンが至近で笑っているかのようだ。だが、アデリーは構わない。強くなることだけが、今見なければならないことだった。

 

(続)