エリキシル

 

序、上に立つものの背中

 

運命のその日、その時。シアは眠っていた。それは、本当に、何の前触れもなく始まった。

最初に揺れが来て、目が覚めた。続けて、途轍もない炸裂音が、鼓膜を叩いた。ばらばらと棚に置いてあるものや、書類が落ちてくる。飛び起きたシアは、異常事態だとすぐに判断した。寝間着のまま、部屋を飛び出す。メイド達が右往左往していた。何か重い物が落ちてきて、悲鳴が上がる。

こんな現象は知らない。だから、まずは確認だ。シアはマニュアル通りに動いた。窓から外を見ると、ヴェルスピレオ山が火を噴いていた。空は赤々と燃え上がる。まずい。戦いで鍛えた判断力が、すぐに意識を覚醒させる。山は近くだ。あの炎は、確実にこのダンケテスレア村にも押し寄せてくる。

それだけではない。シアは行商人から聞いたことがある。噴火の時に恐ろしいのは、溶岩よりもむしろガスだと。高熱の毒ガスに飲まれ、島ごと滅びた事さえあるという。事は一刻を争う。

シアにつけられている武官はエネルト。三十を少し過ぎたばかりの男だ。シアの父トールが選んだだけあり、若くして実に落ち着いた雰囲気を持っている。現に今も、既に武装してシアの前に跪いていた。造作に関しては気の毒なほど不器量な男で、顔は丸く疣だらけで一種の両生類のようであり、しかも体臭が酷い。毛深く、脂足で、彼の衣服の洗濯をいやがるメイドも多い。だが判断力は確かであり、機転も回る。現に武官としての能力にけちをつける者はいない。彼を見いだし高位に就けているトールはやはり切れ者だ。

同じく三十を少し過ぎたばかりのメイド長セイラも、彼に続いて跪く。彼女はすらりと細い人物で、赤くてきめが細かい髪をショートに切りそろえている。顔や目だけではなく何もかもが細長い印象を周囲に与えるが、結構図太く粘り強い動きをする。この二人が、シアにつけられている腹心達だ。

他の武官やメイド達も、おいおいそれに従う。揺れは微弱なものにかわったが、収まることなくずっと続いている。

「ご命令を、シア様」

「エネルトは半数を連れて、すぐに外へ。 一度点呼をとり、村人を西のプラトス山に案内しなさい」

エネルトは即座に反応する。そして、それは必ずしも全面的な肯定ではない。ドナースターク家での良き風潮だ。

「はっ。 避難だけなら、少し南のクルーン盆地の方が近いと思われますが」

「噴火の時に恐ろしいのは、溶岩よりも火山から吹き出すガスだそうよ。 ガスが流れてくるなら、盆地に降りるのは却って危ないわ。 山を越えていった方が、生存率は高くなるはずよ」

「ははっ。 ご明察、恐れ入ります」

エネルトは先鋒だ。まず道を開く人間として、熟練の指揮者が必要になる。エネルトはトールが育てた家臣の中でも、実戦経験豊富で、シアの補助にふさわしいと判断されたほどの男である。混乱する村人達をまとめ、安全な場所へ的確に導くだろう。推測でしかないが、今は信じるしかない。

「後の武官達は点呼で足りない人間がいた場合、二人一組になって、村を回り、家をチェック。 残された者がいないか確認しなさい。 要救助者を発見し、手が足りない時には、私の所へ連絡をよこしなさい。 村の若手も、手伝わせてかまわないわ。 体力がない老人と女性は、エネルトの組にすぐに回すこと」

「ははっ!」

武官達がすぐに散る。メイド達を見回すと、シアは更に指示を飛ばした。

「寝間着のままでは動きが取れないから、まずは着替え。 それから、形見の品と貴重品、それに医療品と保存食をもって表に集合。 これから大勢の怪我人が出ることが予想されるから、医療品はたとえかさばっても持ち出すように。 一人当たり、一部屋ずつチェック! 散りなさい!」

シアが手を振ると、良く訓練されたメイド達はすぐに散った。ドナースターク家で鍛えた者達を中核に、彼方此方から集めた人材である。優秀な人間が多いが、別にシアがドナースターク家のVIPの重臣の中で特別に優遇されているわけではない。保有人材が単純に多いのだ。

シアは自身素早く着替えると、家宝である石「精霊のなみだ」を懐に入れ、愛用の「はたき」を壁からとった。名前こそかわいらしいが、一種の変形棍である。はたきのように、或いは脱穀棒のように、先端から何本か可動式の棒が鎖につながれ伸びている構造である。力が無いシアの戦闘能力を最大限に引き出す、文字通りの相棒だ。もちろん、戦場では、今まで幾多の血を啜ってきた。

シアが外に出ると、もうメイド達は揃っていた。愛用のものの多くは放棄され、金目の物だけがある。何故金目のものを持ち出すかというと、再建に必要となるからだ。家財道具の内、王室から下賜されたタンスだけが荷車に載せられていた。それでも、荷車は四台にもなる。

「エネルトと共に、山へ急ぎなさい」

「はい!」

がらがらと荷車を押していくメイド達を、シアは見送る。セイラだけが残っていた。シアはすぐに村の広場にでる。エネルトはすでに避難を始めさせており、この場にはいない。代わりに武官の一人が走り寄ってきて、敬礼する。

「シア村管理官!」

「状況は?」

「現在、十五名の村人が、点呼に応じておりません。 南部の何軒かが倒壊、そこに取り残されている模様です。 後、考えたくはないのですが、まだシア様の統治に反対しているものもいるのかも知れません」

「半数は私に続きなさい。 残りは、今いる村人を急いで山の上に! 一人、角材を持ってきなさい!」

シアの決断は早かった。シアが印を切り、短い詠唱を終えると、術が発動する。シアは自分の身体強化術を、ただ単純に「翼」と呼んでいる。幼い頃、夢は空を飛ぶことだった。それを極限定的とはいえ、かなえてくれるこの能力こそ、シアにとっては翼だった。マリーと一緒に戦えるのも、この翼のおかげ。シアは、この能力を、本当に気に入っているのである。もっとも、自分で能力をなんと呼んでいるかを、他人に知らせたことはない。

ばらばらと小石が降り始めていた。小さな粒でも、当たると熱い。セイラがどこからか頭巾を調達してきて、シアに手渡す。頷くと頭巾を被り、シアは現場に急いだ。

何軒かの家が倒壊していた。シアは六名三組の武官を飛ばし、他の家々を順番に見回らせた。自身は角材を使って、てこの原理で点呼に応じていない人間が住んでいた家のがれきをどかしにかかる。呻き声。つぶれた家の下から、重傷者を発見。すぐに引きずり出して、マリーが以前作った薬を飲ませる。予断を許さない状況だが、どうにか命に別状がない。更に奧からもう一人発見。此方も重傷だったが、どうにか息がある。まだ助かるだろう。

人海戦術で、つぶれている家を一つずつ調べ上げていく。行方不明者が次々に見つかる。燃え始めている家の中から助け上げた少女は、あと少し遅れていたら丸焼けになっていた。まさに間一髪。この辺りの家が、藁葺きで良かった。瓦葺きだったら、死者が確実に多数出ていただろう。

降り注ぐ小石が、少しずつ大きくなっている。かなり危険な状況だ。更に二人が発見され、これで十五人の内十一人が見つかった。

兵隊長を任せている武官が、駆け寄ってきて敬礼。その時シアは、つぶれている家の探索を終え、半数をさっき散った六人の手伝いに回した所だった。

「報告します!」

「なに?」

「ヒドル家に、何名か立てこもっています。 外に出ようとしません」

つまり、此方では把握していない人間が二人いたと言うことか。更に報告が飛び込んでくる。他の家にも、閉じこめられていた人間が二人見つかったという。やはりか。確認させておいて正解だった。

この村は、トールがわざわざ切り札であるシアを投入したほどの場所だ。辺境に近い事もあり、違法人身売買も跳梁跋扈している。シグザール王国への反抗意識も強く、皆の信頼を得るまでシアも苦労した。シアの部下達と、村人達との摩擦も何度となく起こった。四ヶ月がかりで距離を縮め、今では殆ど抵抗派もいなくなったと思って安心していたのだが、やはりまだ全面的に信頼するのは危険だ。

「連れ出せる人間は、力づくで対処しなさい。 暴れるようなら気絶させて、縄で縛ってでもつれていくのよ」

「はっ!」

兵隊長に何人かつけて、他の家の探索に戻させる。シアは五人を連れて、すぐにヒドル家に向かう。

ヒドル家はシグザール王国へ抵抗を続けていた一族で、シアも手なずけるのに随分苦労した。空から降り来る石が、徐々に大きくなってきている。近くの民家の屋根が激しい音を立てて砕けた。見れば、こぶし大の石が突き刺さっていた。焼け石に水だが、出来るだけ頭を低くするように周囲に指示しながら、シアは走る。こんな時にマリーがいてくれれば、幾分か楽なのだが。

ヒドル家は村はずれの、石壁のすぐ側にある。というよりも、半円形の家で、石壁の一部と一体化している。

何処の小さな村も石壁に覆われているが、質にはかなり差がある。

たとえば、この村のように貧しいと、外壁は必ずしも全箇所で連続しておらず、何カ所かは川や堀で補われている。そういう戦略上の弱点には柵が設置され、そして有力な武人の家が側に置かれて、対処を任される。そうやって、防御力を補うのである。ヒドル家もそんな有力武人の一人である。だから、独立心も強い。

今の当主ブルノーは頑固親父という言葉がそのまましっくり来る禿頭の大男で、もの凄い髭を反り返らせて、いつも傲然と村を歩き回っている。まだ若いのだが、その形容がしっくりくる外見言動だ。シアにたてついた事も一度や二度ではない。二回ほどシアは武術でたたきのめしてやったのだが、それでもまだ楯を突く、あきらめの悪い男だ。

この男は決して善良な存在ではなく、黒い噂が幾らでもあった。軍事が物を言う時代には、強い人間はかなり好き勝手な行動を許される。彼は先祖から武力だけではなく、そういった傲慢さをより強く引き継いでしまったのである。ブルノーはある意味運が悪いとも言える。二十年前に青年期を迎えていれば、今頃ザールブルグで小隊長くらいはしていたかもしれない。あくまで、可能性の話だが。

シアが部下達と近づくと、家の中から怒鳴り声が飛んできた。シアは気配を探りながら、慎重にはたきを構えて近づく。すぐ近くに小石が落ちてきて、地面を焦がしながら転がった。石の落ちてくる頻度が、かなり高くなってきている。危険だ。シアが近づくと、再び怒鳴り声が聞こえてくる。

「帰れ!」

「そんな家にいても、助かりません。 早く出てきなさい」

「うるさい、知ったことか! 早く帰れ!」

皿が飛んできたので、シアは無言ではたきを振るい、たたき落とす。その時、一瞬だけブルノーが見えた。怯えきってしまっていた。

家の中の気配は六つ。若い娘が二人。ブルノーに娘やメイドはいないから、これは多分、近くの街から娼婦を連れ込んだのだろう。後は年老いた人間が二人。それと、子供が一人。五年ほど前に妻に逃げられたブルノーだが、情が薄いわけではなく、息子を溺愛している。多分、気配は彼だろう。

「突入準備。 全員確保し次第、すぐに脱出に掛かる」

「はっ!」

小声でシアが伝える。武官達も、飛んでくる石にかなり神経をすり減らしている。下手な指示を出すと、パニックになる。慎重に動かなければならない。飛石で怪我をした武官の一人を、セイラが冷静に手当てする。手慣れていて、非常にこの場でも役立っている。

ふと火山を見ると、頂上部分から、確実に赤い部分が麓に広がり続けている。急がないと、全員ガスに巻き込まれて死ぬ。待っている時間はない。

「チャージ!」

「はっ!」

「突撃! 突貫っ!」

シアが短く吠える。一丸となった武官達が、鎧をがちゃがちゃ言わせながら、密集隊形で突入した。シアは両手を地面に突き、右膝を地面すれすれに、左膝を胸に引きつけて、目を閉じる。どしん、どしんという音は、武官達がドアに体当たりしている音だ。やがて、ドアが破れた。シアが、目を開ける。

翼よ、我を空へ導け。

それが、シアが能力を全開にする時、心の中でつぶやく言葉だ。

マリーと一緒にグランベルにいた頃からの、幼い頃からの、決まりである。マリーと一緒に戦いたいと思っていただけの頃から、心に決めていた言葉である。

関節部分に、シアの少ない魔力が集中。極限まで強化する。跳躍。残像さえ作りながら、シアはジグザグに走る。ドアの向こうにバリケードをはり、剣を振り回して抵抗していたブルノーとの距離を見る間にゼロに。そして対応どころか気付きもしなかったブルノーの顔面に蹴りを叩き込み、部屋の奥へと吹っ飛ばした。

壁に叩きつけられたブルノーが、動かなくなる。すぐに武官達がシアに続けて突入し、他の人間を確保する。わめきながら暴れていたブルノーの息子の延髄に、シアが手刀を叩き込んで黙らせる。娼婦らしい若いけばけばしい化粧をした女達は、むしろ助かったという顔をしていた。

ブルノーは体格が優れているだけあり重い。縛り上げた後、家の裏にあった荷車に乗せて、一気に運ぶ。ブルノーの息子はアレックスと言ったか。アレックスは屈強な武官の一人が背負い、走る。

他の家を調べていた者達から、気になる報告があがってくる。どうもこの村にいる理由が分からない人間が、少し混じっているというのだ。ひょっとすると非合法奴隷かも知れない。この村はザールブルグからかなり離れており、強力な法も及ばないことがある。もう少し国境近くに行くと、盗賊団まででるという。撤退時には気をつけなければならない。

武官達が合流。何とか家々の捜索が終了。盾を使って飛石から身を守りながら、撤退にはいる。その時、ひときわ大きな爆発音が。いよいよ、本格的に火山が炎を天に吹き上げ始めたのである。

「急いで撤退を!」

シアの言葉に、セイラが頷き、武官達を先導。盾で身を守りながら、必死の撤退に入る。シアは跳躍、燃えながら飛んでくる溶岩を、右に左にたたき落とす。手に掛かる衝撃が凄まじい。石の飛来音は凄まじく、恐怖からへっぴり腰になる武官もいた。セイラの鋭い叱責が聞こえる。

シアの耳が、何かを捕らえる。悲鳴だ。飛石をたたき落としながら、シアは皆に先に行くように叫ぶ。セイラが残ろうとするが、武官の一人がその腕をとる。既に村の出口にまで来ているのに。目を閉じる。方向確認。距離確認。

地響きの音。山が崩れ始めたのか。

「走れっ!」

シアは一つ叱責し、部下達が山に向けて走るのを見ながら、覚悟を決める。上に立つと言うことの意味。それが背負う覚悟。

幼い日の誓い。それは自分に対する誓いであったが、今でも忘れてはいない。決めたのだ。だから、絶対に破りはしない。

部下達と逆に村へと走り出す。セイラの悲鳴が聞こえた。苦痛からではないから、シアを呼んでの事だろう。もちろん、死ぬ気はない。だが、命を賭ける気はあった。

降り注ぐ燃える石を払いのけながら、シアは能力を全開にし、走る。恐怖と緊張はある。だがその中に、初めて能力を展開できた時のような喜びがある。使命感と論理性が、心の中で均衡を保っていた。

飛び込んだのは、ブルノーとは別の武人の家。家の隅に、粗末な身なりの子供がいた。まだ幼子と言っていいほどの年だ。泣きじゃくる彼は、シアを見ると悲鳴を上げる。

「此方に来なさい。 もう時間がないわ」

「やっ! 来ないで!」

金切り声を上げて、子供は身を縮める。嘆息すると、シアは再び残像を作りながら距離を詰め、子供の鳩尾に拳を叩き込んで気絶させた。子供を背負うと、外に飛び出す。ヴェルスピレオ山が、赤く染まり始めていた。バキバキという凄い音が聞こえてくる。森が根こそぎ焼き尽くされる音だろうか。

もう皆避難している。シアは走る。子供一人分の重みが、背中に掛かる。今は子供の素性を詮索している暇がない。走る走る走る。

何度か飛石が体を掠める。凄まじい勢いで、何かが後ろから迫ってくる。おそらく、くだんのガスだろう。巻き込まれたら、死ぬ。振り返っていたら、逃げ切れない。村を出る。城門は開いたままだが、閉めたところで結果は同じだろう。

急な上り坂に掛かった。此処を登り切れば、多分ガスは届かない。能力を全開に、跳ぶ。もう魔力は少なくなり掛かっているが、それでもかまわない。飛石が右肩を直撃。地面に叩きつけられる。更に左足のふくらはぎを打たれる。思わず苦痛の声が漏れる。

「くうっ!」

立ち上がる。すぐ耳元を飛石が掠めた。この山を越えれば、山そのものが盾になって、飛石はだいぶ減るはずだ。子供を背負い直す。

「あ、ああああああ、あああっ!」

目が覚めたらしい子供が、背中で悲鳴を上げた。シアも釣られて振り返る。見た。ガスが、恐ろしい勢いで迫ってきていた。

リミッターを解除する。命の次に大事なはたきを、腰にくくりつける。体の負担が怖くて普段は使えないが、今こそ投入する時だった。

「しっかり掴まって、私の背中だけを見ていなさい!」

鋭い声に、背中の子供が押し黙る。飛石がすぐ近くの木を粉砕。態勢を低くして、次の瞬間、シアの全身に獰猛なまでのGが掛かった。

 

どうにか山越えを果たしたエネルトは、点呼をとっていた。近くの自然洞窟に怪我人を収容し、メイド達を看護に当たらせる。山の頂上まで戻って、エネルトは思わず呻いていた。村があったところは、もはや跡形もない。シアの言ったとおりだった。超高熱のガスが、根こそぎ焼き払ってしまったのだ。村どころか、辺り一帯が焼け野原である。村の外壁までもが崩れていて、残骸が散らばっていた。

もうもうたる煙が、辺りを包んでいる。咳き込む村人も少なくない。だいぶ飛んでくる石は減ってきたが、まだまだ油断は出来ない。何しろ、山が爆発するという異常事態である。何が起こってもおかしくない。現に今は、灰が降り注いでいる。こんな現象、聞いたこともない。

村人達が、ひそひそと会話している。今後どうなるのかという話題が一番多いようだった。エネルトは舌打ちする。そんなことは、彼こそ聞きたかったからだ。

エネルトは幼い頃から醜かった。「蛙のようだ」と言われて、石を投げられたこともあった。彼の醜さは周囲からも際だっていて、実の両親ですらも毛嫌いしていた。兄弟は多かったが、誰もがエネルトをバカにしていた。

当然、エネルトは荒れた。背が伸びきる頃には立派なごろつきになっていた。そんな彼を拾い、認め、救ってくれたのが、トール氏である。そのトール氏の愛娘であるシアを守るように、彼は言われていた。

だがシアは、支配者としての責務を全うし、最後まで残った。エネルトはもっとも大事な先鋒を任され、道を切り開き、逃げてきた者達をまとめ上げた。シアの状況が分からないのに、混乱も生じていないのは、エネルトが必死に皆を統率したからだ。だが、未来があるとは、どうしても思えない。

あのとき、シアの言うまま先鋒を務めたことを、エネルトは煙に沈んだ村を見つめながら後悔していた。こういった余計な計算が働いてしまうところが、エネルトの長所であり、短所でもあった。更に、致命的な短所があることも、エネルトは自覚している。こんな状況なのに、恩人であるトールの娘を、どこかで心配できていないのだ。人間的な感情の希薄さは、今に始まったことではない。社会から廃絶されていたころからの事だ。だが、相手は恩人の娘だ。大恩ある相手の、次代を担う人物の生死がかかっているのに。それだというのに、保身の事を先に考えてしまっている。

エネルトは自分が嫌いだ。何もかもが嫌いだ。だから、せめて、今は任された仕事をこなすしかない。そう言い聞かせて、指揮に戻ろうと、身を翻す。

「シア様は?」

「まだ姿は見えない」

セイラが来たので、そうぶっきらぼうに応える。怪我をした人間は少なくない。セイラもその一人だ。此処に来た時点では全身に火傷を負っていた。如何に飛石が激しかったのかよく分かる。彼方此方の、手当の跡が痛々しい。

「捜索隊を出せませんか?」

「村の辺りはガスの海だ。 行けば行くだけ死人が増える」

「シア様が亡くなられたと、そう言うのですか?」

「そうとしか考えられない。 何処へ行く!」

「離して! 離してください!」

セイラが村へ走り出そうとしたので、慌てて腕をとる。パニックを起こしたセイラを羽交い締めにしながら、エネルトは自分に言い聞かせるように叫ぶ。

「あのガスの勢いを見ただろう! シア様の素早い判断が無ければ、俺たちも今頃一人残らず消し炭になって、村で転がってただろうよ! 村人達だってそうだ! 俺たちはそろいもそろって、シア様のおかげで助かったんだ! その貰った命を、どぶに捨ててどうする!」

「どうしてあなたはそう冷酷なんですか! まだシア様は生きているかも知れないのに!」

いつも物静かで鋭い印象さえ受けるセイラなのに、取り乱すとこんなに激しい表情を見せるとは。苛立ちを刺激されたエネルトは、セイラを地面に取り押さえると、部下達に連れて行くように命令した。

村人達に混じっていた、非合法奴隷かも知れない人間の詮索は後回しだ。今はここから生きて帰ることだけを考えなければならない。熱ガスはどうにかしのいだが、山の麓には得体の知れないガスが充満している。問題はこれをどうするかだ。今のところ、どうにも出来ない。食料と、治安をまず優先しなくてはならない。

セイラにあれほど言い聞かせたというのに、エネルトはずっと村の方を見ていた。シアは優秀な能力者であり、少ない魔力を卓絶したスキルで補う一流の戦士だ。今の時点で並の騎士以上の戦闘力はあると太鼓判を押されていたほどで、事実手合わせしたエネルトも勝てる気がしなかった。

だが、そのシアでも、あのガスに対しては無力だろう。セイラのように無力ではないと信じたい人間もいるようだが、それは無責任な楽観論に過ぎない。エネルトは自身の冷酷さに嫌気が差しそうだったが、こう言う時こそ、冷静に頭を動かせる人間が必要なのだ。

どよめきが起こる。

はっと顔を上げたエネルトは、部下達が指す方を見た。

そして、自身でも確認する。

ゆっくり山道を登ってくる影一つ。全身傷だらけ。服は破れ、彼方此方から痛々しい火傷跡が覗いている。髪は乱れ、それだというのに、小さな影を背負っている。歩みは危なっかしいが、だが、確実だった。

「し、し、シア様! シア様あっ!」

一番最初に叫んだのが、自分だった。その事実に、エネルト自身が驚いていた。部下達が駆け寄る。シアの目は焦点があっていない。ひょっとして、噂の切り札を使ったのか。能力をフルに開放する技だと聞いていたが、だがそれだとしても、あのガス流から良くも逃げ切れたものだ。

背中の子供は意識がなかったが、生きていた。粗末な身なりだ。多分、この子も非合法奴隷だろう。詮索は跡だ。すぐに医療チーム化しているメイド達を呼ぶ。メイドの中には泣き出すものもいて、何人かの武官もそれに釣られてもらい泣きしていた。

シアの口元が動いている。すぐにエネルトは耳を寄せた。

「すぐに食料の確保を。 山の食物は豊富といっても、限度がある。 ガスが引くまで、配給制にして管理しなさい。 いざというときは、木の根や草も食料にカウントするのよ」

「は、はいっ!」

「それと、ガスが引き次第、偵察隊を派遣しなさい。 すぐにシグザール王国から軍が派遣されてくるはずだから、ガスさえ引けば先が見えるわ」

声は小さく、聞き取りづらかった。多分シアは、もう意識がない。意識を失いながらも、己の責務を果たすべく体を動かしているのだ。

何という人物だ。エネルトは素直に負けたと思った。そしてこの人を、なんとしても救おうとも。

「薬品類は大事に使いなさい。 助かりそうもない人間には使う必要はないわ。 そしてそれは、私も例外ではない」

「シア様! 後は私とセイラがどうにかします! だから、せめて今はお休みください!」

人垣が出来ている。いつのまにか村人達が集まっていた。彼らの中には涙を流している者も多かった。

彼らは知ったのだ。真に上に立つべきものの姿を。その覚悟を。シアに対してことあるごとにたてついていたブルノー一家さえ、頭を垂れて涙を流している。シアはまだしばらく口を動かしていたが、やがて動かなくなった。マリーという言葉が含まれていた気がするが、聞き取れなかった。シアは何とか生きてはいる。だが、それだけだ。

「死なせてなるものか!」

エネルトが立ち上がる。おおと武官達がそれに唱和する。

「皆聞け! これからは苦境になる! だが、シア様がくださった命だ! なんとしても生き残るぞ! そして今度は、我らがシア様をお救いするのだ!」

叫びが山にこだまする。エネルトの中にあった何か知らない要素が、生まれ出ようとしていた。

そして三日後に救援部隊が到着するまで、彼らは一人も欠けずに耐え抜いたのである。

 

1,友情は何よりも深く

 

マリーはすっかり肩を落としていた。自慢の黄金の髪は乱れ気味で、精神を落ち着けることも出来ず、ずっと指先で小刻みに作業机を叩いていた。木製のスプーンを囓っては、その柄で机を叩き続ける。まるで無意味な行動だが、それにさえ気がつけなかった。

シアの無事が分かった時はあれほど嬉しかったというのに。怪我をしていると聞いた時は不安だったが、シアのことだから大丈夫だと自分を無理矢理納得させていた。

だが、現実は非情であった。続けて来た報告は、シアが瀕死の重傷を負っているというものだった。更に、今はどうにか薬で延命させている状態で、いつ命の炎が消えてもおかしくないという。

シアはマリーの親友だ。離れることはあっても、ずっと心は通じていた。幼い頃からの無二の友である。だから、マリーが受けたショックは小さくなかった。もし、これが戦いで命を落としたのなら、根っからの戦闘好きのマリーは納得できたかも知れない。だが、シアを襲ったのは、シグザール王国全体でも何十年に一度起こるか起こらないかというレベルの自然災害などという、巫山戯たものである。村人達を守るために、全ての力を使い尽くした事が、疲弊に拍車を掛けているとも言う。

流石にこれにはリアリストのマリーもこたえていた。今は憔悴しきって、アトリエでぼんやりしているだけであった。マリーが極度のリアリストといっても、ものには限度がある。今はマリーは、他の何も考えられなかった。

食事は出来るし、生活には問題がない。思考も出来るし、外にも出られる。だが、今ザールブルグの屋敷に運ばれているシアが到着するまでは、何も出来そうになかった。シアはマリーのアキレス腱だったのだと、いまさら気付く。それで再びマリーは落ち込んでいた。

昔のことばかり思い出される。リアリストであるマリーは、どこかへ行ってしまったようだった。

不意にマリーは立ち上がる。

「ちょっと、出かけてくる。 すぐ帰る」

「はい」

杖を手にアトリエを出る。街を歩く。因縁でもつけてくるバカがいたら電撃浴びせたあと殴り殺してやろうかと思っていたのに、誰も近づいてこないので不快だ。

ふらりと近くの森に出かけて、杖をふるって見かけた動物を殴り殺した。相手は狼のようだったが、見えていなかった。そのまま八つ裂きにして、火で炙って肉を食らった。良い気分だ。だが一時的に気分を高揚させることは出来ても、どうしても全身を覆う倦怠感を打ち払うことが出来なかった。

口の側に着いた脂を乱暴に拭う。旅人でも襲って八つ裂きにしようかと一瞬本気で考えたが、やめる。そんな気力さえ無くなっていた。どうせやるなら、冒険者ギルドで合法的に殺しが出来る仕事を探したほうがいいのだが、それすら気乗りしない。

街道に出て、ぼんやり空を眺める。流れていく雲の白さが腹立たしい。アトリエに戻る。

アデリーはどうしたのかと、ふと顔を上げる。彼女は無理に笑っていた。リンゴを器用に剥きながら言う。

「マスター、おやつにしましょう」

「…ああ、そうね」

髪をかき上げて、マリーは鏡を見る。黄金の髪の彼方此方に、点々と血の跡がついていた。そういえばさっき狼を殴り殺してきたのだと、それを見て思い出した。アデリーは敢えて何も言わない。マリーがそれほどに落ち込んでいると、理解しているからなのだろう。

リンゴを囓る。どうすればいいか分からない。ただ。マリーは本能に流されるまま、生きていた。

どうしてもグランベルの事を思い出してしまう。今や一人で全てを切り盛りしているマリーだが、心が弱る時はある。机にもたれたまま、昔を懐かしんでしまう。

マリーの記憶とともにあるグランベルは、最初から豊かな村だったわけではない。後天的に豊かになっていった村なのだ。

大きな森の側にある、小さな村。傑出した人材がいるわけでもなく、特に優れた作物があるわけでもなく。どこの村でもやっているような事をしながら生活している、珍しくもない場所であった。ドラゴンを狩ったり魔物を狩ったりはしていたが、撃退するのは簡単でも捕らえて解体し売るのはそうではない。何処の村でも同じである。そんな相対的多数の、どこにでもある村だったのだ。潜在能力は高かったとしても、それは何処の村も同じ事。引き出せなければ意味など無い。人間は世界最強の生物だが、その力を真に発揮するのは、旨く引き出した時なのだ。

言うまでもなくこの村が飛躍するきっかけとなったのが、傑出したリーダーの存在である。トール=フォン=ドナースタークがそうだ。彼の尽力によって、村人は集団戦に異常なほどに習熟。グランベルの収入は鰻登りに上昇。やがて、王都進出の足がかりを作るに到った。

その成長の過程を生きた人間達は、誰もがトール氏を尊敬している。同年代の人間もそうだし、その子孫達ならなおさらだ。小さな村では、指導者の手腕というものは身にしみて分かる。社会の規模が小さいからである。トール氏を嫌う人物もいるにはいるのだが、それでも能力を認めている。老人達でさえ、トール氏には絶対の信頼を置いており、中には敬語を使う者もいる。

政治に対して近いというのは、責任が大きいことも意味している。マリーは身近でトール氏の能力を感じながら育ち、一緒に戦うような形で大人になっていった。同じように育った人間は何人もいて、ザールブルグで技術採集任務に当たっている。そして、皆忠誠度は高かった。

ドナースターク家はグランベル村そのものだ。そして、マリーはその一員であることを、誇りに思っていた。

 

今はもうおぼろげになっている幼い頃の記憶の中。その頃からマリーはシアと仲良しだった。

「シア、シア! こっちこっち!」

他愛のない追いかけっこ。泥だらけのマリーが全身を使って手を振ると、シアが必死に追いついてくる。シアは体力はないが、何度引き離しても絶対に着いてくる。シアのそんなところが、マリーは好きだった。

「もう、はやいわよ、マリー」

「へへ。 ほら、はやく逃げないと、鬼に掴まっちゃうよ」

二歳年上の鬼役の男の子はまだまだ遠くだ。シアの手を引いて、マリーは走り出す。シアも必死に着いてきて、泥を蹴立てて畑道を走った。

追いつ追われつ鬼ごっこは続く。だが、マリーの巧みな駆け引きに、終始鬼は振り回されどうしだった。やがて、鬼ごっこは終わり、皆で蛙を捕まえて、串に刺して炙って食べる。手と顔中を脂だらけにして食べ終えた頃、向こうから口ひげを整えた立派な紳士が歩いてくる。トール氏だ。歓声を上げて、子供達はトール氏に群がる。

「お父様、お帰りなさい」

「おお、シア、ただいま。 皆も元気に遊んでいたか?」

「はいっ!」

喜色満面に子供達が応える。こう言う時、シアは子供達の先頭に、自然に立っている。そしてそれには誰も逆らえない、不思議なオーラがあった。

シアはトール氏にとって大事な一粒種だ。幼い頃から体を動かすのが好きではないようで、暇さえあれば本ばかり読んでいた。良家の娘に許される特権行動である。本は田舎の小村では貴重品だ。シアは幼い頃から読み書きを習い、トール氏から英才教育を受けていた。だが過度な教育ではなく、マリーや他の友人達と遊ぶことも出来た。

田舎の子供達は泥だらけになって駆け回るものだと相場は決まっているが、マリーやシアも例外ではなかった。子供達の中で一番活動的だったマリーに引っ張られる形で、子供達は安全な村の内部領域を駆け回り、泥だらけになって毎日体力の限界まで遊んだ。当然腹が減る。果物などを得られればすぐにむさぼり食ったし、小動物は貴重なタンパク源だった。だから、幼い頃から動物の捌き方は実践的に覚えていった。マリーが鮮やかな手並みで動物を捌くのは、この頃散々鍛えたからである。

やがて、それなりに体が出来てくると、遊びは卒業する。子供を遊ばせておく余裕が村にはないからだ。というよりも、幼い頃に積極的に遊ばせるのは、将来の事を考えた体作りのためである。最初は遊びの延長として、だが徐々に大人の行動に加えられていく。それが村の子供達の成長だ。

マリーは同年代の子供達の中では、一番最初に大人達の狩りの手伝いをした。狩りの出来が良ければ美味しいものを食べられるという事が、子供達を自然と体を鍛える方向へ向かわせる。マリーが、自分で仕留めたご褒美に美味しい鹿のもも肉を食べているのを見て、他の子供達が奮起したこともあった。懐かしいその事を、今でもマリーは良く覚えている。

そういう子供達を、トール氏は身近において、積極的に様々な技を教え込んでくれた。戦闘スキルに始まって、戦闘のやり方、罠の張り方、敵の殺し方。覚えの悪い子もいたし、頭が良すぎる子もいた。だがトール氏は丁寧かつ差別なく仕込んでくれた。こうして子供達は、骨が固まる頃には、男女問わず立派な戦士になっていた。トール氏という傑出したリーダーがいなければ、マリーは今のような戦闘能力を得ていなかっただろう。

子供は大人をよく観察している。それは本能から来る行動であり、将来の道を切り開くためでもある。子供の目は冷酷で、客観的で、実利的だ。信頼できないと思えば実の親だろうがバカにするし、信用しない。逆に言えば、明らかに優れた能力を持つ大人には、積極的に身をゆだねていく。

トール氏とずっと過ごしていけば、いやでもその能力の高さが分かってくる。マリーは骨の髄からトール氏の能力の高さを味あわされ、能力を一気に開花させられた。基礎を築いた後は大人に混じって村師の元で能力修練を行った。結果、十代前半で既に大人の能力者並みの戦闘力を発揮するまでに成長したマリー。絶え間なく繰り返される実戦が、更にその力量を押し上げていった。それに対してシアは、頭こそ良かったが、戦闘面ではあまり目立つところのない子供だった。

シアが一気に成長を始めたのは、独立心が強くなる、いわゆる反抗期の頃からである。マリーと一緒に戦いたいと、しきりに言っていたのを覚えている。そんなある日のこと。シアは、ついに能力を自分のものとした。

十五歳のその日、シアはマリーを村はずれの訓練場に呼び出した。周囲を柵に囲まれた円形の空間で、普段はたくさん案山子が植えてある。今は何もなく、ただ柵に囲まれた何もない広場。ただ静かな戦気だけが、そこに充満していた。

マリーは既にザールブルグ行きが決まっていたし、シアもトール氏とともにそちらに住み込むことが決定していた。だから、グランベルでの、最後の手合わせとなる。短めの訓練棍を手にしたシアは、長めの訓練杖を手にしたマリーに、ほほえみかけてくる。

「本気でやりましょう。 マリー」

「もちろん、最初からそのつもりよ」

じりじりと間合いを計る。その段階で、相手の力量は分かった。マリーはシアの体から放たれる高密度の戦気に舌を巻いていた。長足の進歩というのはこれのことだろう。

「どういう風の吹き回し? シア」

「何が?」

「戦闘スキルの習得には、それほど熱心じゃなかったのに」

「ちょっと、思うところがあったのよ」

会話は、それで終わった。

シアが横に飛ぶ。残像すら作られる。マリーの利き手側ではない左に潜り込んだシアが、頭上から棍の一撃を叩き込んでくる。一撃は殆ど閃光。訓練棍でも、防がねば死に至るかも知れない。背筋を戦慄が這い上がってくる。杖を振り上げてマリーがはじくのと同時に飛びずさったシアが、更に横に飛び、今度は右から突き込んできた。詠唱する暇など無い。食らう覚悟で押さえ込もうとしたが、シアは即座にマリーの狙いを読み、反射的に棍を引いて回し蹴りを叩き込んできた。ガードが間に合わない。直撃が側頭部に入る。

吹っ飛んだマリーが、受け身をし、即座に起き上がる。シアの体の、特に関節を、強い魔力が包んでいた。身体強化系の能力だと、一目で分かった。トール氏と同じ能力だ。再びシアが像を残して、横の動きを基本に、マリーへと迫る。速い。抉り込むように右から左から繰り出される一撃を捌きつつ、徐々に下がる。仕掛ける隙がない。

ギャラリーが集まり始めていた。子供だけではなく、大人達も見に来ている。

「はああっ!」

「せああっ!」

シアの突撃にあわせて、カウンターの横降りを叩き込む。マリーの寸前まで来た棍が空に軌跡を残しながら引き、たたき落とすようにマリーの杖を防ぐ様には興奮した。とんでもない速さだ。僅かな拮抗が崩れ、両者弾きあう。手がしびれる。シアは左右にステップしていたが、まるで息を乱していない。それに対し、マリーは既に汗をうっすらかき始めていた。

シアの力は凄まじい。マリーは舌を巻いていた。シア自身が体を鍛えていたのも知っていたし、様々な戦の技を習っていたのも知っていた。だが、やはりどこかで侮っていた。これほどまでとは想像できなかった。

容赦なく頭上から降ってきた棍を、杖で防ぎつつ、はじいて着地したシアに足払いを掛ける。ふくらはぎに入り、シアが転ぶ。飛び起きたマリーは押さえ込みに掛かろうとしたが、シアは再び像を残して飛び退く。速い。ざざざと、凄まじい勢いで地を蹴る音だけが確認できた。遅れて砂埃がシアの後を追う。この戦闘スタイル、何度か見せて貰ったトール氏のそれにそっくりだ。貧弱な能力を優れたスキルと頭脳で補うトール氏は、常に相手の先の先を読んで動く。シアはまだ未熟だが、駆け引きはそれに近いものだ。

「しゃっ!」

再び死角に回り込んだシアが、今度は下段から蹴りを入れてくる。マリーは振り返りざまに踏み込み、杖を地面に突き立てるようにしてガードし蹴りを迎撃。だが、とっさの反転では威力を殺しきれない。体勢が崩れたところに、シアがマリーの両足の間に踏み込むと同時に肘撃ちを叩き込んできた。

鳩尾に、直撃一つ。

シアが舌打ちした。その時、マリーが簡易詠唱を終え、シアの首筋に触れていたからだ。実戦だったら双方死んでいただろう。かろうじて引き分け。訓練の結果、分かったことがある。体術では完全にシアがマリーを超えた。ただし、個人戦闘の駆け引きでは、まだまだ超えたとは言えない。これに関しては、マリーのキャリアが相当なものなのだから、仕方がないだろう。

拍手が沸き上がる。格上の使い手であるマリーの両親や、トール氏も温かい拍手をくれていた。

二人が、ゆっくり離れる。凄まじい進歩だ。負けたとマリーは思った。悔しかったが、同時に嬉しかった。シアは休憩小屋に行くと、井戸水で冷やしたタオルを持ってきてくれた。二人で、村の外壁に登る。当時からマリーは高いところが好きだった。村の周囲に広がる豊かな森を見つめながら、マリーは首筋を手で仰いだ。

「はあ、きっつう」

「幾らマリーが若手一番の使い手って言っても、接近戦でまで一番は譲らないわ」

「どうしたの、シア。 そんなにやる気になっちゃって」

「ふふ、秘密よ」

シアの笑顔はまぶしかった。シアは頭の良い子で、いつもマリー以上に論理的に物事を考えていた。だが、こんな掛け値無しの笑顔も時々見せてくれる。マリーはそういう風な器用な切り替えが出来ない。子供みたいな表情の変化は出来ても、こういう大人な身体制御が出来ないのだ。多分、一生そうだろう。

シアは料理も得意だ。マリーは外で動物をかっ捌いて丸焼きにするような事は得意だが、家庭的な事は殆ど出来ない。これに関しては、天才とうたわれたマリーは常人以下だ。思えば、周囲の子供達の内、平均的な力しかなかった者達は、殆どが既に家庭を持っている。道を究めれば究めるほど、普通からどんどん離れていくのに。シアはきちんと普通の部分を残しつつ、道を究めてもいる。

嫉妬と羨望を同時に感じる。マリーと違い、シアは調整しなくても、一般社会で生きていける人種だ。シアは風に美しい三つ編みの髪をなびかせながら言う。

「これで、もうマリーには負けないわ」

「ほえ?」

「ずっと今までマリーの背中ばかり見ていたけど、これからはそうじゃないって事よ」

意外だった。シアがそんなことを考えていたなんて。

グランベルの両翼といえば、将来を期待されたマリーとシアのことだ。だが、それは周囲が考えているのとは、微妙に違う関係を築いていたことになる。マリーは髪の毛を掻き上げると、言った。

「あたしも、負けないよ」

「指切りしようか」

頷くと、二人は指を切る。

文のシア、武のマリーと思われていた関係が、この日を境に一変する。トール氏はシアを戦士としても評価し直し、マリーに対してテクノクラートとしての期待を抱くようになったのである。

この日、シアは本当の意味で羽ばたいたのかも知れない。

 

マリーが顔を上げると、もう夜中になっていた。毛布が掛けられている。どうやら、机に突っ伏していじけている内に眠ってしまったらしい。

文字通り竹馬の友であるシアが大変な事になっているというのに。この体たらくは何だ。グランベルを旅立ったあの日のことを思い出したことで、マリーは気持ちが少しずつ晴れていくのを感じていた。同時に、体の中が熱くなってくる。喰らった狼の力が、暴れているかのようだった。

まだシアの状況は分からない。だがやることは幾らでもあるではないか。出来ることなど、幾らでも転がっているではないか。

いざ体が動くようになれば、後はもう時間など関係ない。

頬を叩いて、マリーは活動を開始した。

地下室に降りて、薬草の在庫を確認。シアを治療することになるかも知れないから、素材は幾らでもあった方が良い。この間まで薬剤を大量生産していたせいで、貴重な薬草ほど量が無くなっている。近くの森で調達できそうなものは、これから取りに行くとして、問題は貴重品だ。それはどうするか。もうこの時間だと市場は終わっているだろうから、それは流石に明日でよい。

回転を始める頭脳をそのままに任せて、マリーは戸締まりをすると、夜の街に荷車を引いて飛び出す。

出来ることから片付ける。そのためには、行動しなくてはならなかった。

 

2,強行軍

 

シアがザールブルグに着いたのは、五月の中旬であった。出来るだけ揺らさないように馬車で運ばれてきたシア。マリーはすぐにドナースターク家を訪問。シアの様子を見に行った。

シアは自室で寝かされていた。驚いたことに、意識はあった。これで、最低最悪の事態は避けられたことになる。ただし、その姿は、剰りにも無惨だった。

ベットに寝かされているシアは、体中を包帯で包まれていた。髪の毛は乱れ、頬はこけ、目には光がない。ゆっくりではあったがはっきりしていた言葉も、随分聞き取りにくくなっている。更に、何かの毒物が体に入っているのか、顔色が異常に悪くなっていた。

咳き込みながら、シアはマリーを見た。

「マリー、来てくれたの、ね」

「体の具合は?」

「聞くまでも無いでしょう?」

再びシアが咳き込んだ。側に控えていた医者が眉をひそめ、薬を飲むように促す。いかにも苦そうな薬を飲み干すシアに、医師は回復術らしいものをかけた。少しは気分が良さそうにはなったが、その場凌ぎにしかならないと分かる。

マリーは自分で積んできた黄色い花を、窓際の花瓶に植えた。自分で思いついたことではない。フレアに言われて摘んできたのだ。

「お見舞い」

「貴方の思いついた事じゃないでしょう?」

「その通りだけど、いいでしょこれ」

「そうね。 少し気が利いているわ」

トール氏が部屋に入ってきて、マリーに目配せする。トール氏もかなりやつれている様子で、痛々しかった。

居間に通される。シアの補助をしていたという、メイド長のセイラが紅茶を運んできた。紅茶に口をつけながら、トール氏は人払いの動作を見せる。セイラは頷くと、他のメイド達を促して、部屋を出て行った。

「君に、頼みたいことがある」

「なんなりと。 あたしに出来ることなら何でもします」

「そうか」

トール氏は弱々しく微笑む。あのトール氏の消沈しきった姿に、マリーは心を痛めたが、仕方のないことなのだとも思った。トール氏はシアを溺愛はしていなかった。村の子供達に比べて特別ひいきはしなかった。英才教育を施していたのも見込みがあったからだ。その証拠に、全く血縁関係がないマリーも、戦闘面でのエリート教育を、トール氏の手ほどきで受けている。

だが、人並みに、親子の情愛はあるのだ。今回の事で、マリーはそれを改めて知ることとなった。崇拝をしていた相手は超人ではないと知っていた。乗り物には酷く酔うし、家庭的な事は苦手だし、欠点は他に幾らでもある。だが、こんなに脆い部分もあったとは。トール氏の知らなかった側面を見て、マリーは身が引き締まる思いだった。多分そう言う側面を、アデリーはマリーに対して見ているのだろうし、期待もしているのだろうから。

「現在、ドナースターク家は、苦境に立たされている」

「はい」

それはマリーにも分かる。というよりも、グランベルから此処に来ている人間は、誰もが知っていることだ。

宝石ギルドの経営安定までの資金投入だけなら問題はなかった。だが、今回の噴火により、ダンケテスレア村は文字通り壊滅。人的被害は幸い最小限に済んだが、問題はその後だった。

百を超える人間が、生産不可能な状態に陥ったのである。しかも蓄えていた金銭が一気に消滅してしまった事もある。今のところ、村の者達は近くのベルピレオール村近くの荒れ地にキャンプを張り、其処を開拓に掛かっている。だが、それも畑が安定した作物を作り出せるようになるには、しばらく時間が掛かる。ヴェルスピレオ火山はいまだに断続的に火を吹き上げており、村に戻ることは出来ない。彼らを養うためにドナースターク家は膨大な食料などの生活物資を用意しなければならないのだ。それが領主の役目だから。

シグザール王国は無論支援を申し出てくれたが、それにも限界がある。いうならば村が一個いきなり引っ越しをしたようなもので、それを丸ごとドナースターク家が肩代わりしたのだ。宝石ギルドの件とあわせると、今までの蓄えなど吹き飛ぶほどの損害だ。

「それで、だ」

トール氏は、目に隠しきれない疲労を浮かべながら言った。

「シアの薬が買えない」

「それを、あたしに作れと?」

「そう言うことになる」

シアは村人達を火山から吹き出したガスから救うために、その身を犠牲にしたのだと、マリーは昨日追加の報告で聞いた。幸いというか何というか、その圧倒的な姿に心を打たれた村人達はドナースターク家の武官達と協力し、一致団結して開拓作業に当たっているという。それに関してシアの行動は無駄ではなかったというのが救いだが、それだけでは意味がない。

シアは難しい状況なのだという。体は衰弱しきっている上に、火山から噴出されたガスには、様々な毒物が含まれていた。それが体に残留し、内臓類を痛めつけているのだという。腎臓が特に酷い状況で、医療魔法も受け付けない。何でもアカデミーより入手した情報によると、最新の研究では腎臓には体の中の毒物を外に出す機能があると分かっているそうだ。それが弱り切ってしまっているため、体の中の毒が外に出て行かないらしい。

今は医者の回復魔法と投薬で命をつないでいるが、それも時間の問題だという。今のまま手を打たないと、保って二十日だと言うことだ。

だが、どうにかシアを救える可能性のある薬があるという。

「君の師であるイングリド殿に聞いた。 錬金術の産物に、エリキシル剤というものがあるそうだ」

「エリキシル剤、ですか?」

「そうだ、エリキシル剤だ。 錬金術の粋を集めた強力な薬であり、アルテナの聖水を遙かにしのぐ回復効果を持っているそうだ。 それを使えば、シアが助かる可能性は高いという。 だが、値段が問題でな」

マリーはその値段を聞いて、唖然とした。確かに、今のドナースターク家が、どうにか出来る額ではない。普段ならひねり出すことも可能だっただろうが、噴火と宝石ギルドで打撃を受けている今、ドナースターク家に余剰資金は無いはずだ。村人達全員の事と、シア一人の事を考えた時。シアを優先するわけにはいかないのが、上に立つ人間の悲しさなのである。アカデミーとしても、今後の政治的判断を加味しても、その薬を譲るわけにはいかないだろう。それほどに高価なのだ。

平和な都会に暮らす者なら、たかが金と思うかも知れない。しかしそれは違う。ドナースターク家の資金も、アカデミーの財産も、いずれも努力と血と汗の結晶だ。文字通り、血がにじんだ金なのだ。

「今の君ならば、作れるかも知れないと、イングリド殿は言っておられた。 今、頼ることが出来るのは、君しかいないのだ」

「……」

「この通りだ、頼む」

トール氏は頭を下げた。その頭には、白い物が混じり始めていた。以前見た時よりもずっと多い。急速に老け込んでいるその頭を見て、マリーは言う。決意は既に決まっている。

「頭を上げてください、トール村長」

「……」

「大丈夫です、村長。 あたしはグランベル村の一員であり、貴方の部下であり、シアの親友でもあります。 それに、そんな伝説の薬剤を作ることが出来れば、あたしの力は今よりも更に高まるのは確実。 あたしにとっても、悪い話じゃありません。 その仕事、受けさせていただきます」

「そうか」

トール氏は大きく嘆息した。マリーは将来のポストを約束して欲しいと付け加えると、苦笑しながらいいだろうとも言う。

イングリド先生が救える可能性があるというのなら、多分大丈夫だ。光が見えた。最初シアを見た時、これは駄目かとも思ったのだ。だが、今は違う。

ドナースターク家を後にする。その足で、アカデミーへ。無駄な時間など、一秒とて無い。イングリド先生に会って、参考書類を聞くと、図書館と校長先生の書斎で集める。何冊か無かったものもあったが、今は後回しだ。

その足で冒険者ギルドにも顔を出す。ハレッシュ、ルーウェン、ミューの様子を伺う。要塞壊滅事件の混乱が一段落した今、彼らの仕事は開いていた。幸運だ。二ヶ月契約で、いつでもでられるように仕事を頼む。六割り増しの料金で契約を締結。実際には二十日という期限があるが、万が一の事を考えての契約だ。かなり可変的な仕事内容になるし、相手の時間も拘束するので、これくらいの料金を払うのが筋である。なお、仕事が終わり次第すぐに解約できるようにもする。当然その場合も、二ヶ月働いた分の料金は払う。クーゲルは最近ギルドに顔を出していないそうで、諦めるしかなかった。

飛翔亭にも向かい、ナタリエの様子を見る。怪我をしていたナタリエだが、今はもう回復して、仕事に精を出していた。同じように二ヶ月契約。ナタリエはシアの話を聞くと、分かったと一言だけ応えた。

最後に王立図書館へ。入り口でカードを見せて、奧へ。

石造りの巨大な建物は、全てが本棚で埋め尽くされていた。本棚の一つ一つも、梯子で登らないと行けないような巨大さだ。それが何十列も整然と並んでいる。想像を絶する光景であった。薄暗くほこりっぽいのが難点だが、今はかまっていられない。一刻ほどの探索の後、残り二冊の参考書を発見。

借りる手続きを済ませるまで一刻。アトリエにたどり着いた時は夕刻だった。アデリーは無言でマントを受け取り、夕食の準備を始める。ニンニクの臭いがする。栄養がつくような料理を作ってくれているのだろう。

今はアデリーに感謝している余裕がなかった。そのままマリーは、エリキシルの調査に没頭し始めた。

 

ランプの明かりで手元を照らしながら、順番に本を調べていく。最初にエリキシル剤を知らなければならない。だから、最初は本職である校長先生の著書から目を通す。狙い通り、其処には詳細にエリキシル剤の事が書かれていた。

エリキシルは、エリクサーとも言う。そもそもその名前は賢者の石を示すという。賢者の石とは、卑金属を貴金属へ変える存在。錬金術が求める、究極の物質だ。その賢者の石がごとく、半死人を一気に回復させることから、この名があるという。ややこしいので、アカデミーでは「エリキシル」と「賢者の石」とで、意味を変えている。

この薬の由来は古い。錬金術発祥の地であるエル・バドール大陸でもこの薬は作られていたそうだ。ただし、作るのにとんでもない魔力と技術が必要になってくる。素材もかなり貴重なものが多く、それが異常な高価格の要因となっているそうだ。ページを捲る。アデリーが、側にスープを保ってきてくれていた。ニンニクの味が強烈に効いたスープだ。精が付く。使われている肉は作っておいた燻製のものだろう。一番良い肉を惜しげ無く使っている。肉汁のうまみが、ニンニクの味と絶妙に合っていた。本にスープをこぼさないように気をつけながら、マリーはページを捲った。

エリキシルの効果は、毒消しではないという。人間の回復能力を本来のもの以上に高め上げる効果が一つ。その効果は凄まじく、死にかかっていた内臓を一気に活性化させるという。また、本来では体内では消すことが出来ない病気や毒も潰すことが出来るほどに、一時的ながら体の解毒機能が高まるのだそうだ。

更に、人間の生体寿命を伸ばす効果もあるという。ただし、これは活性効果によって縮む寿命を補うためのものであり、エリキシルは不老不死の薬とはならないのだそうだ。

もう一つの効果は、それら活性後に発揮される。体力の回復機能である。それも超回復というレベルだ。なるほど、今までの話を総合すると、一気にシアを直す事が出来る可能性がある。殆どの病気も克服できるだろう。

ただし、効果は短期間だとも言う。つまり短期間で一気に回復させ、後は通常の状態に戻すわけだ。更に言えば、この効果だと、老衰した人間を救うのも難しいだろう。あくまでも不慮の病や衰弱を治すための薬だと言うことだ。

副作用について調べてみる。調査の結果、面白いことが分かった。この薬には様々な副作用が言及されており、どれも致命的なものではないそうだ。様々な副作用があるのだが、中には髪の色が変わった、瞳の色が変わった、というようなものもある。ただ、今まで致命的な副作用は報告されていないらしく、それについては安心して良いようだ。

続けて材料を調べる。これがまた大変だ。

幾つかの薬草類はいい。別にいつでも手にはいる。持っているものも多い。だから、難易度の高いものから潰していく。

まず、水属性の超圧縮中和剤。これはこの間の、アルテナの聖水で作ったから大丈夫だ。ただし、今回は万が一を考え、あのストルデル滝奧の、最高級水で作る。あれを使って超圧縮中和剤を作ることにより、マリーのスキル不足をある程度補うことが出来るだろう。

続けて、アルテナの聖水。これは以前作ったが、非常に難しい薬剤だ。この間作ったばかりとはいえ、油断は出来ない。これの力を更に引き出す感じで、エリキシル剤を作り出すのだと言うから、仕方がないか。だがあの超微細な調合を考えると、今から気が滅入る。更に精度の高い天秤と遠心分離器が必要になってくるだろう。それだけでも出費は大きい。また、アルテナの聖水を直接混ぜるわけではなく、成分の一部が同じと言うだけで、調合方法が更に高度なものとなるという。

もっとも、今回は今まで蓄えた資金を全て吐き出す覚悟で事に当たる。出費については、どうこう言っていられない。

ガッシュの燻製枝も必要だが、これはストルデル滝に向かった時に、併せて材料をとってくればいい。ミスティカ茶がいるというのには驚いたが、これは別に在庫があるからかまわない。ただし、分量面から考えると、失敗は許されない。

後何種類かの薬剤が必要になってくるが、これらは何とか用意できる。最後の難関になるのが、アクアマリンだ。水の強い魔力を持つ宝石で、これを砕いて混ぜる必要があるそうだ。こればかりは、作っている訳にはいかないだろう。買ってくるしかない。

新宝石ギルドの経営はトール氏の尽力もあって、どうにか軌道に乗り始めている。話は聞いていないが、軌道に乗ってきたと言うことはアカデミー側の新技術開発が上手くいったのだろう。値段も安定し始めているようだ。屑石では心配だから、カラットは小さめでも、品質がいい石を買ってくる必要がある。

さて、この仕事が終わった時に、どれだけ資金が残っているか。薄ら寒い気もするが、どうにか乗り切るしかない。久しぶりに金銭面での不安を覚えたマリーは、一通りメモし終えた材料類を見て、嘆息した。

早速製作表を書き上げる。タイムリミットは二十日だが、実際には材料調達含め十日程度で仕上げないと間に合わないかも知れない。体が衰弱しきった状態では、神秘の力を持つエリキシル剤でも、シアを救えないかも知れないのだ。

表は長大なものとなった。薬草類の保ちなどを考えると、あまり余裕はない。何しろ今回のエリキシル剤は、素材が新鮮であることが重要なのだと明記されているほどである。

まず強行軍でストルデル滝に向かい、速攻で必要なものだけを集めて帰る。全力での強行軍でも、五日はかかるだろう。それから休み無しで調合を行うのは厳しいから、一日余裕を見るとして六日。それからの日は、全てが徹夜になるはずだ。

この間の大量薬品製作が遊びに思えるほどの厳しい戦いになる。今まで培ってきた技術を全て投入して当たるしかない。しかも、失敗はほぼ許されない。

シアはマリーの親友だ。そしてマリーの将来のためでもある。グランベル村の将来のためでもある。トール氏のドナースターク家のためでもある。そして、シアが命を賭けて守った者達のためでもある。

実利的な意味でも、精神的な意味でも、この戦いに負けるわけにはいかなかった。マリーは寝る前に出かけると、冒険者ギルドに声を掛けて、明日の早朝にでることを伝えた。今回はアデリーは留守番である。この強行軍に連れて行くわけにはいかない。代わりにアトリエに残り、素材の保全や収集に奔走して貰うこととなる。

アトリエに戻ると、アデリーの姿がない。裏庭にでると、彼女は一心不乱に訓練剣を振っていた。これなら、骨が固まる頃には立派な使い手になっているだろう。安心して、マリーは二階に向かい、寝床に潜り込んだ。

 

出撃するその日は最悪のコンディションとなった。夜半から雨が降り出し、早朝には本降りとなったからである。雨音で目覚めたマリーは、アトリエの二階から外を見て、流石に舌打ちした。一階に下りると、既にアデリーは早朝のランニングを済ませて、頭をタオルで拭いている所だった。濡れている肩や、ポニーテールにしている髪の先から滴っている雨粒が、外の様子を物語っている。

アデリーにこれからのスケジュールと、シアの様子を説明。流石に青ざめていたアデリーだが、この間から見せるようになった冷静さを発揮して、マリーを心配する余裕さえ見せる。

「マスター、本当に出かけるんですか?」

「出るしかないよ。 今でもシアは苦しんでる」

「気をつけてください。 マスターまで倒れたら、私、悲しいです」

「大丈夫だよ。 シアを助けるまで、死ぬものか。 ドナースターク家を救うまで、倒れるものか」

アデリーが差し出したタオルを受け取ると、バックパックに入れる。荷車を引っ張り出し、雨よけのござをかぶせた。強行軍になることは予想していたが、これは想像以上に酷いことになるかも知れない。車軸をチェックして、少し時間にロスが出ることを覚悟の上で、補強する。車軸に板を打ち付けて、いつもより更に頑丈にした。これで河原を疾走しても、帰りくらいまでならどうにか保つだろう。念のため、傘だけではなく、雨よけの簑を上から被る。靴も一番頑丈なものを用意した。手袋も頑丈な革製のものを出す。

寝床に入ってから軽く計算したのだが、今回の一件で、今まで蓄えた金がほぼ全部消える。だが悔いはない。足りるのだから良しとすべきだろう。それに、もともとドナースターク家や、トール氏には返しきれない恩がある。今回はそれを少しでも返す、丁度いい機会だと思えばよいのだ。

「任せて大丈夫だね?」

「はい」

まだ完全に読み書きが出来るわけではないアデリーだが、記憶力は悪くない。現にマリーが言ったことを、完全に復唱して見せた。これならピローネへの材料注文も出来そうだし、ルルクを呼ぶことも問題なさそうだ。アデリーは買っておく物もきちんと把握している。一番重要なアクアマリンはマリー自身が買う予定だが、これについてはドナースターク家にメモを渡して貰う。そうすれば、十日前後で用意できるだろう。アクアマリンは貴重な宝石だが、元々の宝石ギルドの組織はいまだ生きている。それなら入手は容易なはずだ。

外に出る。空は暗く、時々雷まで落ちていた。

傘を差して、片手で荷車を引きながら走る。やがて城門に、四人の影が見えてきた。ミュー、ナタリエ、ルーウェン、ハレッシュの四名だ。マリーの顔を見ると、まだ腕に包帯を巻いたままのナタリエが、最初に声を掛けてくる。

「マリー!」

「ごめん、遅くなった。 強行軍に備えて、荷車を補強してたから」

「話は聞いていたが、そんなにやばいのか?」

「ええ。 今回はちょっとばかり、全力を出して貰うよ」

マリーは指示を飛ばす。今までは街道を行く時には、荷車を交代で引いていたが、今回は方式を変える。ルーウェンとハレッシュが二人で押し、マリーとミューで引く。二人は片手だけを使い、開いている方の手で傘を差して、荷車への負担を少しでも減らす。

ナタリエは周囲の警戒だ。これだけ視界が悪い状況、こそ泥が出るかも知れないし、不届きな事を考える屯田兵に出くわすかも知れない。話を終えると、ルーウェンが申し出る。

「オーヴァードライブを使うか? 少しは楽になると思うんだが」

「いや、使わないで。 今回は殆ど休み無しに走ることになるかも知れないから。 能力はできるだけ温存して」

「! 本当に今回は厳しいんだな」

「シアを救うためよ」

マリーは出る前にもう一度備品をチェック。慎重に殺菌した、水を入れるための桶だが、これは現地でもう一度煮沸する必要があるかも知れない。その時にまだ雨が止んでいなければかなり不快なことになる。身を守るために保ってきた簑を、桶を守るために使うことになるかも知れない。

今回の採集目標を告げる。これ以外のものは必要ないとも。たとえダイヤモンドの原石を見つけても今回は放置すると言うと、皆が小さな呻き声を上げた。マリーがリアリストであると、此処の全員が必要以上に認識しているからだ。そして、今回の強行軍が、如何に厳しいものになるかと言うことも。皆を見回して、マリーは言った。

「ひょっとすると、もう一度滝まで行くかも知れない。 だから、二十日間の契約を結んだのよ。 覚悟して」

「おう。 大丈夫だ」

「後、アデリーの護衛をして、近くの森に行って貰うかも知れない。 それについても頼む可能性があるから、時間は空けておいてね」

ハレッシュの返答が心強い。後幾つかの細かい説明を終えた後、マリーは二度手を叩いた。雨音は、ますます強くなる一方だ。

「よし、行くよ!」

「応っ!」

四つの声が同時に唱和する。地獄の強行軍が開始された。

泥を蹴散らし、街道を走る。車輪が巻き上げる泥を浴びる後ろの二人には悪いが、かまってはいられない。それに、前の二人もかなり泥を浴びる。条件は殆ど代わりがない。

「ナタリエ!」

「何だよ!」

「荷車の上、泥が良く掛かる場所を見ておいて! 後で重点的に補強しなければならないから!」

「分かった!」

絶叫口調でやりとりしながら、マリーは走る。一日中走る必要性があるかも知れない。しかも、今はまだましな状況だ。これから荒れている可能性がある河原を逆走しなければならないのだ。しかも、全力疾走で、である。

流石に鍛え上げた冒険者達。殆ど文句も言わずに走る。時々屯田兵とすれ違うが、向こうは一様に驚いていた。旅人にすれ違いそうになったら、避けるように怒鳴る。吃驚するかも知れないが、泥をかけてしまうよりはマシだ。

しばらく行くと、ナタリエが泥のかかる場所を説明してくれた。その辺りにテントや生活雑貨を配置することにより、回収してきた素材を守る工夫を考えながら、マリーはなお走る。

普段なら丸一日かかる、森の側の休憩所に着いたのは、昼過ぎだった。雨は止む気配を見せない。一度軽く小休止する。全員に干し肉を配り、無言でがりがり囓るのを見ながら、マリーはナタリエを連れて櫓に登って、川の様子を見た。

想像以上に荒れている。川は吠えたけり、河原は半ば水没している。側の森を駆け上がるしかないが、その苦労は今までの比ではない。ぬかるんだでこぼこ道を、荷車を運びながら疾走しなければならないのだ。

「ちょっと、マリー。 一日くらい休んでから行くべきじゃないのか?」

「普段ならそうするべきところだけれど、今日は出来ない。 そのためにも、割高のお給金を払ってる」

「そ、それはそうだけどよ」

「ナタリエには、別に頼みたいことがある。 一人で先行して、先の様子を見てきて欲しいんだ」

マリーは油紙に包んでいた地図を広げると、さっと指を走らせる。何度か走らせて、ナタリエの顔を見た。

「このルート。 覚えた?」

「ああ、問題ないよ」

誇張ではない。ナタリエはマリーに連れられて、何度かあの滝に行っている。殆どは森を突っ切るコースだったが、川をさかのぼるコースも何度かあった。

「結構。 ナタリエはこの道を先に行って、偵察してきて。 この天気だから、多分虎はおとなしいとは思うけれど、何かいるようならすぐに戻ってきて知らせて」

「戦いを避けるの?」

「違う。 駆け引きをする暇を与えない。 初撃でたたきつぶす」

マリーの声に籠もった殺気に、流石にナタリエも青ざめる。ナタリエに強壮剤を渡すと、マリーは櫓を降り、雨よけ小屋で固まって休憩にいそしむ皆の元に戻った。雨は酷くなる一方。本来なら、こんな日に川の側を逆走するなど自殺行為だ。

マリーは用意してきた強壮剤を皆に配る。行きの分と帰りの分がかろうじてあるが、アトリエにもう在庫はない。今回は乾坤一擲の勝負だ。アトリエで長い長い卒業試験を始めた頃の、張り詰めるような緊張感が戻ってきたかのようだ。マリーの横で強壮剤を飲み干したミューが、舌を出して呻く。

「うえ、にが……!」

「確かに飲みにくいな」

ルーウェンがやんわりとマリーを非難に掛かったが、今はかまっている暇がない。一番効果が高い強壮剤をあるだけ持ってきた。いかにして有効活用するかだけが重要なのだ。

「じきに、体が内側から熱くなってくる。 滾って滾って、燃えるようになるよ」

何故か真っ赤になるルーウェンと、にへらにへらと笑い続けているハレッシュ。それにまだ苦そうに顔をしかめているミューを順番に見回すと、マリーは静かに告げた。

「せめてその気分だけでも楽しんでおいて。 帰りくらいが、一番辛いだろうからね」

「なあ、そんなに急いだら、帰ってから調合も出来ないんじゃないか?」

「それはご心配なく」

わざわざ四人も連れてきたのは、負荷分散をするためだ。マリー自身は全力を出さずに、他のメンツにその分の苦労を押しつけるつもりだ。酷い話にも思えるが、そのために金を払って雇っているのだ。それくらいは当然である。

マリーが立ち上がり、無言で休憩の終了を告げる。

再び、泥の中走り出す。森にはいると、行軍はいっそう厳しくなった。簑を容赦なく大粒の雨が打ち据える。簑を被っているのに、無いよりはマシだという程度だ。目に入った雨を擦り落としながら、マリーは皆を叱咤し、薄暗い森をいく。時々得体が知れない獣の声が聞こえた。雨音で、狼や虎の声が歪んで聞こえているのだ。

厳しい段差では、無理に荷車を走らせない。四人がかりで持ち上げる。行きはまだ良いのだが、帰りはこれに数人分の重みが加わる。だから、行きで出来るだけ時間を稼いでおかなければならない。

今頃アデリーは、ピローネに注文しているだろうか。激しい雨の中、泥まみれになって荷車を引っ張る。覆いは既に泥だらけだ。

「怪我しないように気をつけて! 下手すると破傷風になるわよ!」

「分かってるよっ!」

ミューが叫ぶ。怒鳴り声でないと会話が出来ないほどに、風雨が酷い。冷たい雨が、体力を容赦なく奪い去っていく。

ナタリエが戻ってきた。こんな天候でも、木々の間を飛び交って来る身体能力は流石だ。彼女も相当疲労が激しいらしく、言葉は最小限だった。

「とりあえず、危険そうな動物はいない」

「それは良かった」

「そうでもない。 この先に、小さな支流があるんだけど、氾濫してる」

「わたれそう?」

今はまだどうにかなりそうだというナタリエの言葉は、帰りは難しいという意味も含んでいた。だが、やるしかない。

「強行突破する」

森の中を行く内に、その小川が見えてきた。確かにいつもの穏やかな潺は見る影もなく、囂々と吠える暴れ川と化していた。だが、幅はそれほどでもない。確かに今ならまだわたれる。

「任せろ!」

ひときわ豊かな体格を持つハレッシュが槍を背負って飛び込む。かなりの水流だが、小揺るぎもしないのは流石だ。マリーが素早く激流を飛び越え、向こう側に残ったミューとルーウェンと協力し、荷車を渡す。ルーウェンがオーヴァードライブを展開、赤いオーラを全身に纏う。そして全身でハレッシュを引っ張り上げた。

流石に皆疲れ始めている。

普段なら五日以上かけて進む道を、二昼夜で行こうとしているのだ。無理が出るのは当たり前だ。マリーは声を張り上げる。

「採集はあたしがする。 滝に着けば休めるから、頑張って!」

 

滝壺はいつもと様相がだいぶ変わっていた。滝は普段と比較にならぬほど水流が激しく、滝壺もいつもより数倍ほども広い。雨は少しずつ弱まり始めているが、水流は激しくなる一方だった。

風を避けられる場所にキャンプを張ると、一息つく皆を横目に、マリーは採集用のリストを広げた。ガッシュの燻製枝は少しだけ在庫があるが、足りない。ガッシュの枝をある程度集めなければならないのだが、それも一苦労しそうだ。あれは川岸に生えていることが多く、普段の採集場所には近づけそうもない。何とか採れそうなものは、崖に生えているものばかりだ。

どうにか苦労しながらガッシュの枝を集める。作業が終わった頃には体中傷だらけになっていた。後何種類かの薬草を集め、キャンプに戻って一度手当をする。問題は次だ。荷車の中から桶をとりだし、再び煮沸消毒し、乾燥させる。これを滝の裏側の洞窟に持ち込んで、あの澄んだ水をくみ出さなければならない。

水は重い。マリーだけでは無理だろう。ハレッシュに手伝って貰うとして、問題は桶を運び込む時だ。今までも滝の裏のあの澄んだ水は何度かくみ出したが、その度に苦労した。ましてや、今はいつもより滝の水流が激しいのだ。

「どうするつもりだ?」

「そうだね。 蓋を使うしかないかな」

蓋も柄杓と一緒に殺菌しているのはそのためだ。簑も使う。これでどうにか邪魔な水が入ることを避けられる。

ただ、一番難しいのはそれではない。水平を出来るだけ保たなければならないと言うことだ。この桶全部の水を中和剤として使うわけではないが、それでも桶を水平に保たなければ、汚い水が混入する可能性が高い。そして、滝の勢いといい、石の並びといい、水平を保って持ち出す難易度を上げる条件が揃っている。更に言えば、水平を保つのは、帰路でも同じだ。あの森の中を、水平を出来るだけ保ったまま走らなければならないのである。

雨が止んできたのは救いであった。そうでなければ、帰りは三倍以上時間を掛けて行かなければならなかっただろう。マリーはその時のことも想定してはいたが、どうやらもう少し事態は楽になるかも知れなかった。

「ハレッシュ、ルーウェン、手伝って」

「よしきた」

「いいけどよ、少し休まなくて良いのか?」

「休みたいけれど、そんな時間無いからね。 あたしの分も頑張って貰わないといけないから、あんた達は休んでて」

ミューとナタリエを見回して言うと、マリーは滝の方を見て、冷静に疲労と耐久力を分析していた。

実戦と相次ぐ徹夜で鍛えられているとはいえ、マリーの体力も無限ではない。これほど条件が悪いとは当初の想定の外にあったし(今は修正をかけたが)、帰った後に一日くらい休憩を入れないとまともに動けないだろう。痛いロスだが、中和剤を魔法陣の中心に仕掛けて、ガッシュの木炭をルルクとアデリーに任せる所まで行けば、一日くらいの時間的余裕は出来る。其処までの辛抱だ。

桶と簑を持って、滝の裏側に回る。普段は美しい滝なのに、今に限っては泥水をそのままぶちまけているようで、実に汚らしかった。時々溺死したらしい動物の亡骸が流れてくる。足下も濁流が渦巻いていて、一歩間違えば彼らの仲間入りだ。

いつもと滝の様子が違うから、水が落ちてくる場所や、足場になる岩も違ってくる。簑をかぶせて桶を泥水から守りながら、滝の奧の洞窟へ。奧へ行くと、外の音が嘘のようだ。実に静かで、心が磨がれるようである。

「此処に、こんな所があったのか」

「良い雰囲気だな」

此処に足を踏み入れているのは、ロマンを理解せぬ三人。だが皆此処の気配には感動している。もちろんマリーも好きだ。この静寂は、ある意味どんな言葉よりも美しい。

「此処だけ別世界だな」

「今、その別世界にあたし達が土足で踏み込んでいることを忘れないで。 すぐに出るわよ」

「あ、ああ。 そうだな」

ルーウェンは多分ミューと一緒に来たいとでも思ったのだろう。だが、人間が触らない方が良い場所はある。此処などはそうだ。人間が来ないことで、高品質な水と、様々な素材が保存される。

「用がある時以外は、ここに来ない方が良いわ」

「それも、そうか」

ハレッシュは何だか分かったような顔をすると、奧へせっせと桶を運んでいった。

桶を開けると、二人は驚いたようだった。二重構造になっているのだ。これで、衝撃に耐える。ただ二つの大きさが違う桶を重ねただけだが、今回はこんな地道な工夫をしなければならないほど、帰りの予想路が厳しいのだ。

最奥に溜まっている水は、まさに神秘の透明度をたたえていた。充分に消毒して乾かしておいた柄杓で、まず桶を洗う。洗った水はわざわざ外まで捨てに行った。それから桶に水を満たし、充分に密閉する。

外側と内側の桶の間には、充分に乾燥させた藁が詰まっている。来る前に殺菌しておいたものだ。更に半固定するために、何カ所かに煮沸殺菌した石を入れてある。

今回思いついた工夫ではない。というよりも、マリーの発明ではない。以前イングリド先生が使っているのを見て、まねしてみたのだ。あの人は錬金術とからくりを組み合わせることに熱心で、昔からこういう細工を良くしていた。

かぶせる藁を洗い直すと、入り口近くで火をたき、乾かして殺菌する。煙が洞窟の中に入らないように注意深く乾かした。外に出ると、再び雨が強くなり始めている。休憩を二刻ほど取ったら、すぐに出発だ。

三人がかりで桶を泥水から守りながら、外に出る。滝の流れは変わっていないが、出る方が入るよりも遙かに難しかった。最初にハレッシュが飛び降りて土台になると、桶を宝のように守りながら外へ渡す。二人も分かっているのだろう。この奇跡の水が、これだけのことをするに足る、貴重な素材なのだと言うことを。

テントの中に桶を運び込む。本当だったら雨が弱まるまで待って、ゆっくり下山したいところだが、今回ばかりは別だ。荷車にガッシュの枝を積み込んで固定。薬草類もしっかり縛って藁にくるみ、荷車の下の方に。そして桶もがっしり固定して、緩衝材の藁で厳重にくるんだ。流石に外の藁は消毒したものではない。其処までする時間がなかったのだ。

それから見張りを二交代でたて、皆で死んだように眠った。わずか二刻の休みが、まるで天からのご褒美のようだった。まだ若干余裕があるマリーだったが、遠慮無く眠らせて貰う。そしてしっかり寝た分、体力を取り戻す。

起きても、まだ雨は降っていた。シアの体力は並の人間よりはあるとは思うが、それでもいつまで持ちこたえられるか分からない。テントから外を見ていたナタリエが、此方を見ずに言った。

「今回も偵察する?」

「よろしく。 焦ってるところに奇襲を受けたら、確実に全滅するからね」

「そうだろうね。 分かった。 任せといて」

不思議と、皆の息が合い始めている。

シアを救えるかも知れないと、マリーはこのとき、初めて実感を抱いた。

 

3,もう一つの戦い

 

ドナースターク家の大事な一粒種であるシアの顔色は、時間とともに悪くなる一方だった。皆が心配する中、父親のトールだけは変わらず精力的に働き続けている。娘のことなど何とも思っていないのだと、ここぞとばかりに下劣な中傷をする者もいた。

シアの耳に、それらはいちいち入っていた。バカな奴らだとシアは思った。ベットから離れられなくなってしまったシアは、そう思うことしか出来なくなっていた。以前は具体的な復讐が行えたのに。元気になったら復讐しようとか、寂しいことは考えない。むなしくなるだけだからだ。

ドナースターク家は、火が消えたように静かになっていた。トールの奔走で崩壊は免れていたが、それも時間の問題に思える。

自分が死んだらどうなるのか。シアは病床で、そんなことを考えてしまう。職業病だ。分かっている。結果は見えている。

トールは糸が切れたように倒れ、経済的に不安定になったドナースターク家は転落。グランベル村に戦略的撤退をするしか無くなるだろう。せっかくここまで這い上がったのに。せっかくここまでのしあがったのに。死ぬわけにはいかない。それなのに、それを自力で防ぐ手段がないのが口惜しい。

シアは唇を噛む。外ではただ雨が降り続いていた。

ドナースターク家にとってシアは華なのだろうか。いや、それは違う。シアはカリスマを武器にして、部下の崇拝を得るタイプではない。そうなるには容姿が足りなかった。シアの容姿は優れていたが、部下の信望を集める毅然としたものではなく、どちらかといえば儚げなものだ。こういう容姿はカリスマとは結びつかない。だから、幼い頃から実行者となろうと思った。そう思って努力してきた。

眼前に、マリーという最強の実行者がいたから、その思いは余計に強かったかも知れない。だからこそに、今の状況は悔しい。

トールがシアに告げたところによると、マリーが薬を作ってくれているという。マリーに対する圧倒的な信頼感と同時に、また遅れをとるのかという裏返しの不快感があった。助かるかも知れないという希望的観測。これでバカ共に復讐できるという暗い喜び。マリーに対する愛憎の入り交じり。複雑な感情が、シアの弱り切った体の中で渦巻いていた。

「シア様」

セイラに体を揺すられて、シアは気がついた。いつのまにか意識を手放していたらしい。考えることが出来る時間が減り始めている。セイラは新鮮なブララの実を持ってきてくれていた。もう満足に手を動かせないシアの口元に運んでくれる。親切が嬉しいのと同時に、そんな事も出来ない己の体が歯がゆかった。

「マリーさんが、今奔走されています。 もう少しの辛抱です」

「ありがとう。 マリーが動いているのなら、きっと大丈夫ね」

全身の血が、凝っているのが分かった。体中が酷く痛い。グランベル村で、熊を狩ったことがあった。まだ未熟だったシアは突出、必死の反撃を受けて、はじき飛ばされ、岩に背中から叩きつけられた。その時のように痛い。それが慢性的に続いている。

「うなされておりました」

「……」

また意識を手放していたらしい。どんどん頭が混濁してきている。助けを求めるのは簡単だが、それだけは絶対にしたくなかった。

マリーは今、必死に自分のための薬を作ってくれているはずだ。今泣き言を言ったら、足を引っ張ることになる。ただでさえ悔しいのに、そんなことになったら、死んでも死にきれない。

「シア様」

「なに?」

「シア様は名誉あるお怪我を為されました。 誰にも真似できない行動をして、誰にも救えない人を救ったのです。 その上での怪我です。 だから、今は助けを求めてもいいはずです」

セイラはそんなことを言った。そんなものかと、シアは思った。

窓を開けて貰う。いつのまにか、雨は止んでいた。

 

泥だらけになってマリーと走り回っていた頃から、シアは知っていた。マリーには、結局遅れをとり続けるのだと。本能的に分かっていたのだ。

体力的な素質は及ばない。魔力も向こうが上だ。頭はシアの方が良いが、マリーは何でもこなす量の桁が違う。だから経験で押し切られると、分かっていた。

それでもシアはマリーが好きだった。一番の親友であり、最高のパートナーだった。勝てないから悔しい。だが嫌いではない。矛盾した感情の奧に何があるのか。体で分かっていた事が、頭で分かるようになってくる頃から、全ておかしくなっていった。

シアはマリーの事を、心の奥底では嫌いだったのだ。いつも自分の前に立ちはだかり、経験と努力で、力尽くでシアの才を超えていく。おそらく、父も自分よりマリーに期待しているはずだ。もちろん、嫌いと同じくらい好きでもある。だが、敗北感と劣等感は、その嫌悪に生じるものなのだ。

シアには予感があった。いや、それは超自然的な未来予想ではなく、単なる決定事項だった。やがて、この優れた人材を多数有する村は、マリーを中心にまとまる。シアはきっと、大人になってからも、マリーの二番手に甘んじざるを得ないのだ。

思春期の頃には、随分その事実で苦しんだ。シアは不幸にも、それを笑い飛ばせたり、無視できたりするほど頭が悪くなかった。だから、その悔しさと憎悪を、修練につぎ込んだ。

幼い頃からシアは要所要所だけで力を注ぐことで、超短期的に周囲をしのいできた。体力的に劣り、頭脳で勝るという特性が、そういう行動を誘発してきた。だが、そのままでは、結局マリーには勝てない。永遠にだ。だから、マリーに絶対に勝てる何かを作り出すしかない。

幸い、最高にして最強の師がいた。父である。父もシアと似たような特性の持ち主だった。能力は貧弱で、魔力もさほどない。しかし経験と頭脳でそれらを補い、此処までのし上がり、今では傑物とまで呼ばれている。シアは父に徹底的なまでの修行を施して貰い、必死に腕を上げていった。

十五才のあの日。シアは今でも忘れない。近接戦闘で、あの日、シアは完全にマリーをしのいだ。

本当に嬉しかった。一人裏山に登って、絶叫した。何もかもを声に変えて吐き出し、空に叩きつけた。

それからだ。シアの心に、余裕が産まれたのは。

父の右腕として、ドナースターク家のナンバーツーにふさわしい行動が取れるようになったのは、その時からであった。今ではドナースターク家の跡取りとして、その経営のいくらかと、政治的判断の何割かを任されるようになった。確固たる地歩を築き、独立して動けるようになった。シアを無能だ等と思う人間など今では何処にもいない。ドナースターク家を敵視する人間でさえ、シアのことは悔し紛れに「有能な番犬」などと称しているほどだ。

やっと自分一人で空に行けた。自由に空を舞うことが出来た。それなのに。結局また、昔の関係に逆戻りしてしまった気がする。

熊狩りの時も、結局身を挺して助けてくれたのはマリーだった。今回も、マリーに全力で助けて貰うしかなさそうだ。身に染みついた劣等感が抜けない。敗北感が、毒と一緒に、体中に回っていた。

目を覚ますと、夜中だった。体がますます動かなくなってきている。喉に痰が絡んで、満足に息が出来ずに目覚めたのだ。側の痰壺に吐き捨てると、シアはゆっくり呼吸を整える。それだけのことに、膨大な努力が必要だった。

もう、あまり時間は残っていない。だが、生きたい。

このままで、終われはしない。マリーに今回は世話になる。だがいずれ、マリーにその礼をしなくてはならない。このまま死んでたまるか。このまま死んだら、永久に負け犬のままではないか。

側に冷めてしまった粥があった。胃に掻き込む。今は少しでも、長く生きる努力をする。それだけが、今のシアに唯一出来ることだった。

翼は確かに折れた。だが、また飛び立てばいい。そのためには、少しでも生き残る努力をしなければならなかった。

 

4,奇跡の薬

 

泥だらけになった五人がアトリエに着いたのは、出発より五日後。予定通りの時間だった。行きで稼いだ時間を、帰りで全て不意にしてしまったのだ。

濁流はますます酷くなっており、迂回しなければならなかったのがその要因である。渡ることは出来たが、桶を守る自信がなかったのだ。雨は徐々に収まっていったが、結局今まで止んでいない。雨が止むのを暢気に待っていたら、結局間に合わなかっただろう。

「手伝おうか?」

「いや、今回はいい。 すぐに風呂に行って泥を落としてきた方が良いわ」

「そうさせてもらうよ。 流石に疲れた」

ぐったりした様子で、ナタリエが言った。なんだかんだ言って、他の者達より多くの距離を走り回ったのだ。その場に倒れてもおかしくない。健康的な問題もある。はやく泥を流さないと、病気になる可能性があるのだ。

ミューだけが残った。ミューは無言で手伝ってくれるという意思を示してくれた。これはアデリーとの連携でもあるのかも知れないと、マリーは思った。もっとも、手伝って貰うと言っても、今は荷物を運び込み、軽い調合をするくらいだ。

「ただいま」

「おかえりなさい、マスター」

アデリーはマリーとミューの様子を見ると、すぐにお湯を張った桶を出してくれた。奧で待っていたらしいルルクが、アデリーをよく手伝っている。ルルクが丸い椅子を出してきたので、桶を挟んで向かい合って座り、素足を洗った。タオルで首筋や顔を拭く。生き返った気分だ。

足を綺麗にした後は、手を突っ込み、爪の間の汚れを落とす。とりあえず一段落したところで、荷車の素材を運び込みに掛かる。此処で落としてしまっては意味がないから、桶は特に慎重に運んだ。

「お、これはいいな」

思わずつぶやいたのは、地下室でである。魔法陣の中央に設置された大型のボウルは、非常に丁寧に消毒されていたのだ。桶を側において、中に大事に守ってきた水を注ぎ込む。じっくり魔力を蓄えるには、丸二日と言ったところか。ミューは魔力が殆ど無いから、彼女の分はカウントしなくても大丈夫だろう。念入りに丁寧に注いだ後、埃避けの覆いをかぶせる。

外では言いつけておいたとおり、竈が出来ていた。この石の組み方は、多分ルルクだろう。体が小さい妖精族だけあり、良く几帳面に石を組んでいる。問題は雨だが、簑を使って傘を作れば問題ない。すぐにガッシュの枝を燻す。燻製枝もそう作るのに時間は掛からない。最近は火力を調整する工夫も覚えた。中和剤もこれも、十日目には多分必要量が揃うだろう。

問題は他の薬草類だが、今七割と言うところだった。あと少しピローネが持ってくることを待たなければならない。

木炭を配置して、火を入れる。ガッシュの枝を側でミューに適度な大きさへ砕き分けて貰った。後はアデリーとルルクに任せておけば大丈夫だ。もう十回以上も作っているから、火力の調整もお手の物だ。

やっとこれで眠れる。

流石にぐらりと来る。徹夜どころか、五日間殆ど休み無く走り回ったに等しい。アトリエに戻ると、アデリーに起こす時間も含めた最小限の事だけを告げて、ベットに倒れ込む。ミューも限界だったらしく、いつもアデリーが寝ている辺りに転がった。すぐに意識が落ちる。深い深い眠りが、マリーを闇の中へ誘っていった。

 

アデリーが手を触れる寸前に目が覚めた。まだ床で眠っているミューは白河夜船だ。触る前に目を覚ましたマリーに、アデリーは少し眉をひそめた。

「マスター、起きていたんですか?」

「ん、違う。 気配に気付いたから」

マリーの力は、かなり前から十五才の頃の最盛期をしのいでいる。気配もかなり鋭く読むことが出来るし、魔力も高い。サトゥルヌスヴァイパー以上の術も組んでみたいのだが、それはあくまで趣味の世界になってしまう。最近は対近接戦闘用の小技をもう少し充実させたいと思っている。

外は真夜中だった。アデリーはもう寝間着で、手にランプを持っていた。ガッシュの燻製は問題ない様子で、順調に仕上がっているという。また、中和剤にも充分に魔力が溜まり込んでいるそうだ。

マリーはベットを譲り、下に降りる。アデリーは困った顔をしていたが、やがて押されるようにしてベットに潜り込んだ。ミューは幸せそうに寝ている。今のところ起こす必要はない。

外に出ると、雨は止んでいた。竈は確かに理想的な状況で、ガッシュの燻製の仕上がりも悪くない。今までにアデリーが在庫から作ってくれた燻製もチェックしたが、いい仕上がりだ。地下に降りて、中和剤の確認。地下室の隅で、子供みたいに幸せそうな表情で、ルルクが毛布を被って寝ている。妖精族は隅っこや暗いところが結構好きらしい。彼らはひょっとすると、自分たちの村では竪穴式住居に住んでいるのかも知れない。或いは、大きな木のうろかも知れない。妖精族の村には流石にマリーも行った事がないので推測だが、実際にいつかは見てみたいものだ。毛布をかけ直してやるが、ルルクは目を覚まさなかった。

水の魔力は、想像以上に溜まるのが早い。かき混ぜるために使っている棒を引き上げ、しずくを指先に垂らして、口に入れてみる。かなり良い感じだ。この分だと予想より二刻くらい早く仕上がるかも知れない。苦労して持ち帰っただけの事はある。味もまた素晴らしい。この水だけで、簡単な病気くらいならば直りそうなほどだ。

開いている鍋を使って、既に集まっている薬草類を調整に掛かる。作業工程は複雑を極める。少しでも潰しておかないと、予定のタイムリミットに間に合わない。最悪の場合、タイムリミットオーバーも想定に入れなければならないが、シアの体が保つかどうか。一日でも遅くなれば、それだけシアの生存率は下がるのだ。かといって、行程を間違えば、それもまたシアの死につながる。

何種類かの薬草を刻んで、エキスを抽出していく。中には蒸留してエキスを抽出した後、冷やして遠心分離器に掛け、更に濾過して得られたエキスを使うなどと言うものまである。作業をしている内に、あっという間に朝が来る。小鳥の鳴き声とともに、ミューがあくびをしながら起きてきた。寝崩していると、この娘も随分艶っぽいので不思議だ。まあ、最近は初めて会った頃の脳天気さはどこかに消え去りつつあるし、色気が出てくるのも当然かも知れない。あさ黒い肌が色気を更に後押ししている。

「おはよ」

「おはよー。 順調?」

「順調よ」

工程表に線を引っ張る。確実に一つずつ項目を潰していく。アトリエの隅でごそごそ着替えるミューを見ずに、フラスコにエキスを注ぎながらマリーは言った。

「この間の地面の揺れ、どうして対策を知ってたの?」

「ああ、あれは地震っていう自然現象なの。 私が住んでた辺りだと、年に何回かは起きてたんだよ」

「へえ。 あれがそうだったんだ」

マリーも話だけなら聞いたことがある。言われてみれば、現象が一致する。確かにああいう現象の後は、火事が心配だ。倒壊家屋に燃え移った場合、水が無い場所だと大火事に発展する可能性が高い。

「ミューの故郷だと、あんなのが年何回も起こるわけ?」

「あれはまだ小さい方だよ。 羨ましいよ。 大きいのが来ると、山が崩れたりするんだから」

それは恐ろしい。あの火山の噴火の結果の地震だとすると、発生にはよほど大きなエネルギーが関わっているのだろう。

分厚い本を捲りながら、結果を確認。どうやらエキスは旨い具合に混ざり合ってくれた。これを人肌より少し熱いくらいの湯に入れて、四刻ほど加熱する。ことことと音を立て続ける鍋に、フラスコを入れた。火力を調整。宝石ギルドから強奪した技術で調整が非常にやりやすくなっているので、この辺りの作業が易しくて助かる。

鍋にフラスコをかけると、並行して別作業だ。こうやって何十種類もの薬草からエキスを抽出して、様々な手管で混ぜ合わせていく。何種類かの効果があるエリキシル剤だが、そのままずばり、複数の薬を混ぜ合わせたものだという。強力な特性がある薬を、それぞれの力を殺さないように混ぜるというのは、とても難しい作業だ。おそらく、完成するまでには、膨大な実験と、気が遠くなるような時間が費やされたのだろう。

アデリーとルルクが起きてくるのはほぼ同時。ミューと連れだって、アデリーは朝練に行った。いちいちマリーは口出ししない。自主的に走り込みの距離を増やしていることを知っているからだ。素振りの回数も、戦闘訓練を始めた頃よりもずっと多くなってきている。将来が実に楽しみだ。

ルルクがそばでマリーを見上げていた。人間の年頃の女性に、媚びを売る術をよく知っている。大した物だ。

「僕は何を手伝いましょうか」

「ガッシュの燻製に張り付いていてくれる?」

「分かりました」

ぱたぱたと裏庭に走っていくルルクを見送ると、マリーは自分の肩を揉みながら、次の作業に掛かった。

 

アクアマリンが届いたのは、注文してから九日目であった。流石にドナースターク家である。この厳しい状況にも関わらず、予想以上の速度で仕事をこなしてくれた。マリーもそれに応えなければならないだろう。

ルルクは給料分とはいえ、かなり良い動きを見せてくれている。アデリーは調合よりも家事を担当して、マリーを丁寧に後方支援してくれた。ミューも手伝ってくれたが、力仕事くらいしか任せられない。ただ、それでも黙々と働いてくれたのは嬉しい。

せっかく雇ったのだから、ナタリエ達にも動いて貰った。指定した薬草を近くの森でとってきて貰ったのだ。これで多少の失敗にも耐えられる。また、この作業が終わった後に、栄養剤でも作って、僅かな復活資金を作ることが出来るだろう。

時間を見ながら小休止を繰り返したが、今までにないほど疲労は蓄積していた。調合の難易度がいちいち洒落にならないレベルであり、しかも失敗が許されないものばかりなのだ。負荷分散をしているといっても、精神のすり減らし方は尋常ではない。

ミスティカ茶を含む十三種類のエキスを、中和剤を使って混ぜ合わせる。エキスの分量、中和剤の分量、いずれも恐ろしい精度を要求しており、息が詰まる思いだった。料理と同じで、単純に作る量を増やせば調整はやりやすくなるのだが、今はそんな金がないし、時間もない。アルテナの聖水をベースにしているという話だが、この時点で既に、難易度は比較にならない。

小粒のアクアマリンを粉々に砕くと、混ぜ合わせたエキスの中に注ぐ。もったいないが、仕方がない。そして、仕上げだ。ガッシュの燻製に火をつけ、その煙をこのエキスの中に通す。消毒した竹の筒を使う。筒の中に煙を入れ、液体の中にそれを吹き入れるのだ。かなりの量の煙を通す必要がある。通した上で、じっくり混ぜ合わせ、更に煙を通していく。これが最後の山場だ。

教科書での記述が曖昧で怖い。現在フラスコの中では、超圧縮中和剤によって強引に混ぜられたエキスが浅黄色になっている。これが美しいエメラルドグリーンに変わるという。

難しいのは、煙の通し方だ。竹を使ってフラスコの中に煙を流し込んでいるのだが、どうも旨く吸い込まれてくれない。消毒した蓋をつけて振ると、煙はどうにか液体と混じり合う。しかし、色が変わる様子は全く見えなかった。その上、下手に刺激を与え続けると、せっかく中和剤で安定しているエキスが分離しかねない。元々、かなり無理のあるバランスで調合をしているのだ。

調合の合間に参考書で見たのだが、元々このエリキシル剤、極めて体に吸収されにくい成分なのだという。それを主に行っている要素を、ガッシュの煙で取り除くのだそうだ。非常に複雑な公式が乗っていたが、それは今はどうでもいい。問題なのは、煙が旨く通らないと、せっかくの薬がシアの体に取り込まれないという事だ。

「参ったなあ……」

頭を抱えたマリーは、必死に思惑を巡らせる。エリキシル剤は一度完成さえすれば何年でも保つそうだが、エキス単体はそう長く保たない。手詰まりだった。

今からイングリド先生の元に走ってヒントを聞くか。いや、駄目だ。あの人はおそらく教えてはくれないだろう。

一階を歩き回る。今、この場にはマリーしかいない。一段落したという事で、アデリーは二階で寝息を立てているし、ミューは裏庭で訓練剣を振っている。ルルクは床を掃除して、片付けをてきぱき行っていた。ちなみに、現在は地下室を雑巾がけしている。

草の茎を使って、煙を吹き込むか。いや、それだと唾液が混入してしまう可能性が高い。エリキシル剤は完成するまでは極めてデリケートなのだ。温度差も、そう大きなものには耐えられない。

そもそも、何故煙を効率よく吸収しない。液体が煙と触れている面積が小さいからではないだろうか。それを大きくするには、液体を動かすしかない。更に、煙の密度も高くすることが出来れば。

はたと思いつく。

丁度エリキシル剤の水面部分まで、フラスコを布で巻く。保温措置だ。そして、一番温度が低い地下室へ降りる。ゆっくりかき混ぜながら、煙を注ぎ込む。

大成功だった。煙はひんやりした地下室で、フラスコの下へ下へ集まる。そしてかき混ぜることにより、実に効率よく吸収が始まったのである。

エキスの色が変わり始めた。冷やしすぎないように気をつけながら、ゆっくり煙を注ぎ込む。流し込む。溶かし込む。汗がフラスコの中に落ちないように気をつける。埃でさえ不安なのに、汗なんか入ったら多分一発アウトだからだ。

少し温度が下がりすぎたか。肌寒いと感じたマリーは、布をもう三重に巻いて、更に煙を落とし込む。浅黄色が徐々に黄緑になりつつあり、さらには緑色になり始めていた。液体はそれほど冷やさなくて良い。要は煙を冷やせば良かったのだ。

時間が過ぎていく。手が疲れたが、身動きは出来ない。じっくりかき回す内に、手応えがある。今までは僅かな粘りがあったのだが、それが消えたのだ。棒でかき混ぜると、さらさらと液体が流れるようである。あと僅かだ。煙を注ぎすぎると、駄目になるという予感がある。慎重に、慎重に、僅かずつ煙を注ぎ込んでいった。

いつのまにか夜中になっていた。アデリーがランプを持って地下室に降りてくる。あと僅かの調整に手間取っていた。ランプを当てると、実に美しい緑色になっている。あと少し煙を入れるべきか否か。マリーは迷っていた。

「マスター、大丈夫ですか?」

「上にある、紫色の本を持ってきてくれる?」

「あ、はい」

アデリーがドルニエ校長の本を持ってくる。ランプを寄せて貰い、フラスコを脇に置いて蓋をすると、さっと目を通す。最初から目を通せば、何か分かることがあるかも知れない。入れるべき煙の量や具体的な完成イメージが載っていなくても、ヒントだけでもあればいい。何か見落としてはいないか。何か忘れてはいないか。

ドルニエ校長の本はとにかく格調高く、文字までもが浮世離れした雰囲気を放っていた。逆に言うと、殆ど人間性が感じられない。錬金術に限れば、多分校長は「超人」に等しい存在なのだろう。地震が起こった時のある意味超然とした態度からも、それは伺える。その超人にとって、当たり前すぎて、省いてしまっているような事はないのか。

完成図を見て、マリーは気付く。何か違和感がある。そういえば少し前の説明にもそれは感じられた。イングリド先生が書いた本も持ってきて貰う。同じような共通項があるような気がしてならない。

時間は過ぎていく。多分、タイムリミットは近い。だが、此処で失敗したら、全てが台無しだ。焦らず、じっくり検証していく。やがて、イングリド先生の本を見ていて、マリーはあっと声を上げていた。

「そうか、そう言うことか!」

「分かったんですか?」

「うん。 これを見て」

マリーが指さす先。煙を通すという所なのだが、どちらも量は指定されていない。それなのに、微細な必要量をきちんと把握できている。つまりそれはどういう事かというと、露骨に変化が読み取れると言うことなのだ。

エメラルドグリーンに色が変わると終了とある。今もすでにそれに近い色に変わっている。どう変化を見分けるのか。イングリド先生の本では、調合の様子が書かれていた。フラスコを直に手でもって調合している。ということは、何かしらの変化が手に伝わるのだ。

フラスコに手で触れてみる。冷たいままだ。じかにエキスの入っている部分に触れないようにしながら、煙を再び注ぎ込み、混ぜ始める。眠っていたミューが起き出して来て、静かに様子を見守っていた。片付けがあらかた終わったルルクも、階段の上で様子を見ている。

やがて、マリーの手に変化が伝わった。エキスが不意に熱くなったのだ。煙を注ぐのをやめる。フラスコの底から泡が沸き上がり、白い煙が立ち上る。沸騰は激しくなり、フラスコの口近くまでエキスが跳ね上がってきた。それと同時に、エキスの色がめまぐるしく変わる。いきなり黄色になったと思うと、続いて赤くなり、徐々に黄緑に戻り、そしてある一点で不意に。

美しいエメラルドグリーンに変化したのだ。

声が出ない。見ていた全員が、悟ったはずだ。ついに、完成したのだと。

「やった!」

「やったね!」

「おめでとうございます!」

「マスター!」

全員の歓喜が爆発した。フラスコを落とさないように、急いで念入りに消毒しておいた薬瓶に移す。非常にさらさらの液体で、一滴も余さず綺麗に薬瓶に落ちる。後は検証作業だ。

昨日のうちに、ハレッシュに病気の犬を探して貰ってきていた。ハレッシュが連れてきたのは、彼の友達(といっても子供だが)が飼っている茶色の毛の中型犬だ。耳がたれていて、毛は短く、たれ目で愛らしい顔つきだ。この品種は性質がおとなしい愛玩犬である。かろうじて番犬になら使える程度で、とても猟犬にはならないし、いざ犯罪者が家に押し込んできた時には役にも立たない。単なるヒーリンググッズである。人間が生命の特性に何世代も掛けて手をかけ、作り出した生ける道具だ。そんな犬がいることだけでザールブルグの豊かさがよく分かる。

実験用に、必要量より少し多めにエリキシル剤を作った。その余剰分を犬に舐めさせる。アデリーが自分でそれを行った。犬は内臓をやられているらしく、毛づやも悪く、鳴き声もしわがれていた。異臭もするし、舌も変色していたが、アデリーは全く介せず、優しく抱きしめるようにして数滴のエリキシル剤を舐めさせる。本物の思いやりから出る行動であり、なかなか出来ることではない。

変化は劇的だった。

半刻もしないうちに、しょぼくれた様子でいた犬が、不意に活動的になった。エサと大量の水をほしがる。そしてがつがつと数日分のエサをむさぼり食うと、大量の排便をした。もの凄い色の便で、臭いも耐え難かった。ルルクが糞をした辺りの庭の土ごと、手際よくちり取りにとって捨てに行く。犬はそれから死んだように眠り、四刻ほどで目を覚ました。そしてまた大量の餌を食う。見て分かるほどに、犬の回復は凄まじかった。そして、もう完全に病気は消えて無くなっていた。

アデリーが体を洗ってやると、しっぽを元気よく振り、じゃれついていた。更に数刻観察して、副作用が出る気配がない事を確認。アデリーにもミューにもじゃれついた犬は、非常に健康な状態になっていた。

犬に効いたから人間に効くかというのは分からない。だが、もう時間的にはギリギリだ。既にシアがザールブルグに着いてから、十一日が経過している。それだけ、最後のエリキシル剤の調整に時間が掛かったのである。

外出の準備をする。何だかからだが寒い。極端な徹夜の繰り返しの結果、流石に頑丈なマリーも体をこわしたらしい。暴れようという猛気が沸き上がってこない。分厚い薬瓶に入れているとはいえ、落とすと割れてしまうだろう。他人には任せられない。

「ドナースターク家に行ってくる」

「ちょっと、マリー! 大丈夫!?」

犬の様子を見ながら、一刻ほど仮眠はした。だが、本格的に休むのは、シアを救ってからだ。ミューに手を振りかけて、やめる。

「悪い、着いてきてくれる?」

「マリー、本当に平気?」

「多分何とかなるわ。 ただ、転ぶかも知れないから、その時は抱き留めてくれる? これも給料分よ」

「給料なんかくれなくても、それくらいはするよ。 何かと世話になってるんだから」

ミューはアデリーに目配せすると、マリーに早く来るように促す。マリーが実験台にする前に、というか疲れ切っている今の内に、犬を返してこいと言う合図だろう。まあ、今回は別にかまわない。実験台など、わざわざ探さずとも何処にでもいるからだ。

ドナースターク家に歩く。流石にくたびれ果てた。足下がおぼつかない。精神の安定にも自信がない。行く途中ふと鏡を見ると、髪の毛は乱れ、なんと頬が痩けていた。そういえばここ数日は神経を徹底的にすり減らし続けていた。しかも、あの強行軍から間をおかずである。無理もないのかも知れない。

ドナースターク家は静まりかえっていた。そのまま、二階の窓際にあるシアの元へ通される。更に顔色が悪くなったシアだが、セイラの話では食事はきちんとしているそうだ。どうやら、必死に生き延びる努力をしていてくれたのだろう。ベットの上から、どんよりした目でシアはマリーを見た。分かる。体中に回った毒で、いつ命を落としてもおかしくない状況だ。

「マリー?」

「出来た、わよ」

息を呑んだセイラが、ばたばたと外に駆けていった。トール氏を呼びに行ったのかも知れない。目の下にくっきり隈を作ったシアが、弱々しい笑みを浮かべる。

「ごめんね、迷惑かけたわ」

「そんな事は言わないで。 シアがやったことは、何も間違っていない。 ドナースターク家のためにだってなるし、グランベル村の誇りだよ。 あの噴火で、ろくな予備知識もないのに死者を一人も出さなかったシアの手腕を、誰が疑う? 助けた子供はあんたに一生感謝するだろうしね。 忠誠度の高い家臣がもっと増えるし、最終的には絶対にプラスになるよ。 だから、早くこれを飲んで。 それで治って」

すぐに駆けつけた侍医が、マリーの説明を受けて息を呑む。反応を見て分かったが、彼らもエリキシル剤の事は知っている。そんな奇跡の薬が此処にあること、その効果を見ることが出来ることで、混乱と困惑の中にいるのだろう。

ミューとメイドがシアの背中を支える。傍目から見ても分かるほどに、シアは衰えきっていた。肌は黒ずんでいて、目は死人のようによどんでいる。だが、エリキシル剤は即効性だ。絶対に直るはずだ。

メイドが慎重に薬瓶をシアの口に持っていく。徐々に、だが確実に液体を喉に流し込んでいく。シアはすっかり細くなってしまった喉をゆっくり鳴らして、確実にエリキシル剤を飲んでいった。

「マリー君」

「あ、村長」

振り向くと、トール氏が来ていた。娘に負けないほどやつれていたが、だが目には安堵の光があった。

「疲れただろう。 寝室を用意させるから、休んでいってくれないか?」

「いえ、それには及びません。 アトリエに戻って、そっちで休みます」

「そうかね?」

「はい。 まだ、結果が出ていません。 あたしに感謝するのは早いです」

皆がシアの様子を見守る。シアはしばし荒く息をついていたが、やがてゆっくりベットに横になった。

寝息を立て始める。状況としては多分正しい。体が回復を行う時、眠りが優先的に選ばれる。そうなると、おそらく次に来るのは、大量の排泄か、食欲だ。峠を越すまでは、マリーもアトリエには戻れない。

在庫の最後の一つ。栄養剤を懐から取り出すと、一気に飲み干す。何度やっても、こういう強行軍にはなかなか慣れない。今回は間に休憩を挟んだとはいえ、ほぼ丸五日にわたる強行突撃の直後に、連続しての集中調合が重なったのだ。しかもその調合の難易度たるや、今までの経験の全てを上げてもどうにか対応できるかどうかと言う代物だった。マリーの体も悲鳴を上げている。アトリエに戻った後、ベットにたどり着けるか自信がない。

シアはあの犬よりも遙かに基礎体力があるはずだが、それでも油断は出来ない。シアの寝息だけが響く空間で、何度マリーは汗を拭っただろう。

その時は、不意に来た。

シアが目を見開くと、メイドに肩を貸せと短く言った。

 

不意に、混濁していた意識がしっかりした。いきなり背中につっかえ棒をされたような感触だ。眠気は一瞬で吹っ飛ぶ。同時に、体の中から、地鳴りのような活力が沸き上がってくる。

最初に来たのは、排泄欲求だった。すぐにメイドに言って、便所に運ばせる。体中が熱い。というよりも、飢えている。シアに肩を貸して運んでくれだのはセイラだったが、彼女は便所の中にまで着いてきそうな勢いだったので、断る代わりに言う。

「食物を用意して」

「では粥を」

「最初は粥。 次に肉と果物。 蜂蜜。 脂身、魚、パン。 何から何まで持ってきて」

驚くほどに体が動く。頭も働く。

ドナースターク家の便器はそれなりにスペースがあり、自動水洗式の高級なものだ。便座に腰掛けて下着を脱ぐ。すぐに便が大小ともに出た。小便などは真っ黒で、恐ろしいほどの毒素が混じっていると一目で分かった。大便も途轍もない臭気がした。しかも糞便の臭いと言うよりも、毒素の塊のような臭いだった。毒を持つ獣を殺し、体内の臓器を破ると、こんな臭いがすることがある。

その後も断続的に排泄欲が突き上げてきて、体の中の毒をそれに乗せて流し出してしまう。分かる。内臓が恐ろしいほどに活性化している。今まで寝ぼけていた臓器がフルパワーで、いや本来の機能を何倍も超えて動き出し、体中の毒を吐き出しに掛かっているのだ。同時に汗が大量に流れ出してくる。ハンカチを出して拭うと、これからも少し毒の臭いがした。

トイレを出る。まだ足下は一人では歩けないほどにおぼつかないが、しかし分かる。今喰わないと、却って状況が悪化する。セイラが慌てて肩を貸し、そのまま一階の客用寝室に運び込む。そして粥や肉が運ばれてきた。実に慎ましい量だ。シアは首を振ると、まるで肉の塊を与えられた犬のように、ぺろりと食べて、空の食器を唖然とするセイラに渡す。

「もっとよもっと! あるだけはやく。 冷めていても良いから、急いで!」

「は、はいっ!」

「良かった! 成功だわ!」

セイラが部屋を飛び出していく。屋敷が一気に活気づいた。マリーの言葉に、シアは小さく頷いた。今、体中が薬の力で活性し、ありとあらゆる手段で毒を追い出しに掛かっている。そのまま喰らい、飲み、そして貪る。ミューが何処かに飛んでいって、水を持ってきた。アトリエに保管している非常に質の良い水なのだと、マリーが教えてくれた。口にすると、確かにとんでもなく美味い。

下品だ等と言っていられない。来る食物を片っ端から平らげると、再びごろんと横になる。一刻もしないうちに目を覚ますと、再び便所へ。大量の尿を出す。まだ尿は色がおかしく、毒の臭いがした。

体の中から、毒が急速に抜けてきている。メイド達に言って、体を拭いたタオルは廃棄させる。多分今のシアの汗は猛毒だ。再び獰猛なまでの勢いで喰い、飲み、そして一刻ほど寝る。それを更に繰り返すこと二度。

薬の効果が切れてきた。いや、違う。別の効果が主体になってきた。運ばれてくる食物もそろそろ温かいものも出てくるようになったのに、もったいない話だった。胃袋は異常な勢いで食物を消化して、体中に栄養を届け続けていた。食べ続けなければ、却って傷んでしまっただろう。腐りきった体中の組織が、それで再生をし始めている。筋肉が超回復を開始しているのが、戦士として父譲りの力を持つシアにはよく分かった。

後は寝るだけだ。この分なら何日か何週間か寝ている内に、薬の効果は切れ、そして元の体が戻ってくるはずだ。体の機能が桁違いに向上したせいか、眠ろうとしてではなく、強制的に意識が落とされた。夢の中、原野にいた。夢だと分かる。そして、グランベル村の側だとも分かる。

翼があった。シアは斜面を僅かに助走して、飛んだ。翼が風を切る感覚の素晴らしい事よ。思うまま飛び回ってから下を見ると、なんと野牛の群れだ。実に美味そうである。はたきをふるって野牛に躍りかかり、首を一撃でへし折って打ち倒した。呼ぶとマリーや、トール氏や、グランベル村の皆が駆けてくる。そして、仕留めた牛を解体し始めた。その後は宴会だ。赤々とたかれた炎を囲み、皆に肉と、臓物を炒めたものが配られる。祝宴だから、酒も配られる。神を称える戦歌を誰かがだみ声で唄い、やんややんやと歓声が飛んだ。

目が覚める。手を動かしてみる。ちゃんと動く。体を起こす。侍医が驚いて、めがねを直しながらシアを見ていた。手鏡を覗く。嘘のように、肌の色が良くなっていた。

便所に一人で歩く。メイド達が驚きの声を上げ、或いは泣き出してしまう者までいた。毒素を流し出すための排泄ではなく、ただの食事の結果のそれ。随分、久しぶりに、それをした気がした。

便所から出てくると、じつに気分が晴れ晴れとしていた。はたと気付く。トールが、目の前に立っていた。

「シア!」

「おはようございます、お父様」

疲れ果てていた様子のトールは、涙を浮かべていた。シアも涙をこぼす。抱き合って、しばし短い間、泣いた。

そのまま朝食にする。

パンが美味しい。スープも美味しい。食事して、仕事して、眠る。ただそれだけの生きると言うことに、これだけまぶしい光を感じたのは一体いつぶりなのだろうか。まだダメージが残っている体だが、もう大丈夫だと肌で感じる。

この日、ドナースターク家は、完全に復活を遂げた。そして、マリーは、親友の命を守りきり、将来のポストを確立したのである。

 

5,光と闇

 

ヘルミーナはクルスの持ってきたイングリドの手紙を安楽椅子で読みながら、ほくそ笑んでいた。素晴らしい結果だ。というよりも、こうでなければ支援してやった意味がない。

マルローネは、資料だけであのエリキシル剤を作り上げたという。しかも十一日という超短期間で、である。本人が非常に高い戦闘能力を持つと言う事、材料を揃えやすい条件が揃っていた事、幸運に恵まれた事もあるだろう。だがそれにしても、マルローネが果たした事はあまりにも大きい。

神童と呼ばれたヘルミーナは、環境が整っていたから、十代前半でエリキシル剤を完成させた。だがそれでも、勉学した時間はマルローネよりもずっと長いはずだ。才能という奴か。或いは努力の量が多いのか。マルローネの出身地であるグランベル村は、イングリドの大好きな生命力溢れる村人が暮らす典型的な場所だ。それも関係しているのかも知れない。

意味のない事を呟きながら、しばしヘルミーナは自室を歩き回った。無意味な言葉の大群の中に、時々極めて重要な意思が混じる。やがて手を鳴らしてクルスを呼ぶと、ヘルミーナは言った。

「久しぶりにアカデミーに顔を出すことにしたわ。 貴方はそれをイングリドに伝えてきなさい。 首を洗って待っていろとね」

「はい。 分かりました」

「そうと決まれば準備をしなければね。 フフフフフフフフ、何を持っていこうかしら」

不気味な笑い声とともに、楽しい妄想に浸り始めたヘルミーナを置き去りに、一礼してクルスは部屋の外に。しばしヘルミーナは妄想に酔っていたが、やがて不意に正気に戻る。

今回のアカデミー行きは、何もイングリドに嫌がらせをするためだけのものではない。騎士団のクリーチャーウェポン開発の様子を見るためでもある。場合によっては交戦する可能性もある。騎士団ともなると、流石のヘルミーナでも簡単には勝てないような相手が揃っていることが予想される。ある程度の準備は必要だろう。

倉庫に赴くと、意識を奪っている奴隷や、失敗作のホムンクルス達に手伝わせて、幾つかの道具を取り出す。

どちらにしても、ヘルミーナにとって、やることは決まっている。

アカデミーの敵になりうる存在は、いかなる手段を用いても、叩き潰すだけだ。

 

カミラは冷静に状況を見ていた。

シグザール軍およそ二万が布陣するその先に、ドムハイト軍一万の姿があった。ざっと見たところ、装備は雑多だが、訓練はかなり行き届いている。

シグザール軍は緩やかな坂の上に緩やかなV字型の鶴翼に布陣しており、ドムハイト軍は荒野に張り付くようにして三角錐の突撃陣形を組んでいた。今回はたまたま兵力に余裕があるシグザール軍は、実に三重の鶴翼を組んでおり、いざ戦闘が開始されれば、強固な防御を保ちつつ、延翼運動を行うことが出来る。つまり、下手にドムハイト軍が突撃してくれば、即座に絡め取って包囲下に置くことが可能というわけだ。だからといって、ドムハイト軍の突破能力を侮ってはいけない。事実、有利な条件でドムハイト軍に敗れた例など幾らでもある。

ドムハイトの国土はシグザール同様に広く、兵の質は動員される土地によってまちまちだ。遠めがねをのぞき込み、確認した旗印を見る限り、国境付近の貴族達が主に動員されている。そうなると、かなり手強いのも当然だろう。彼らは皆、シグザール王国と境を接した緊張を保っている。鈍っているではあろうが、それでもなめてかかるのは危険だ。

シグザール王国軍三個師団を率いているのは、ヘイムット将軍である。温厚な老人で、最近はもう馬にも乗れず、輿を使っている。地味な輿の傍らに、最近第三軍団参謀長に出世したカミラが控え、何人かの騎士がその周囲に散らばっている。カミラの側に巨像のごとく立ちつくしているクーゲルは、退屈そうに目元にしわを作っていた。彼は悟っているのだ。これが結局戦いに発展しないと言うことを。

今回のドムハイト軍の出兵は、火山の噴火によるシグザール軍の混乱につけ込んで、少しでも領土をむしり取ろうというものだったと、内偵している人間から報告がカミラの元まで届いている。だが、シグザール軍の展開は早く、ドムハイト軍につけいる隙を与えなかった。最初はクリーチャーウェポンを使っての性能試験を目論んでいたカミラだったが、なんとクーゲルに反対された。

カミラは傍らの修羅を見上げる。クーゲルは軍を展開する前に言ったものだ。

「手の内はあまり晒すな」

その言葉に、結局逆らえなかった。

クーゲルは今でもカミラの師匠だ。戦い方を仕込まれたという以上に、多分カミラはどこかで彼を恐れている。自分以上に頭のねじが飛んでいる相手だからだという事情もあるだろうか。今ではクーゲルと五分の戦いが出来る自信はある。だが、それでもいざという時があっても絶対に戦いは避けたい。なぜなら、危険すぎるからだ。本能がそれを警告している。

ヘイムット将軍に、布陣前、カミラは戦闘の経過予測を告げている。それが、目の前で現実になりつつあった。

ドムハイト軍が退き始める。残念だが、敵にもまともな判断力を持つ人間が居ると言うことだ。急展開した此方の陣容を薄いと誤認して突撃してくる可能性もあったのだが、その時は二倍の戦力を生かして粉砕するだけだった。虎の子のクリーチャーウェポンを投入する必要さえない。あれは竜軍六個師団を滅ぼすために活用するものだ。

シグザール軍は追撃しない。地理は敵の方にあるし、何より隙がない。敵は最精鋭を後衛において、逆撃の態勢を整えたまま、軍を引き返させる。そして、ついには一兵も損じないまま、全軍が姿を消したのだった。

「どうにか、無為に血が流れずに済んだか」

輿の上のヘイムット将軍が、好々爺然とした口調で言った。真っ白な口ひげを撫でながら、彼はなおも言う。

「指揮官はあの男であったろうし、この結果は分かっていたが。 事故が起こらなくて幸いだ」

「あの男? 諜報部隊は、敵将をティセラ将軍だと告げていましたが」

ティセラはドムハイト軍でも数少ない女性将軍だ。ただし美しい人物ではない。既に中年を過ぎており、まるで豚のように太り、馬にも乗れない。そのため、特注の、樽のような鎧に身を包んで、輿に乗って移動する。見苦しいことこの上なく、シグザール軍の兵士達からはそのまま雌豚将軍などと呼ばれているほどだ。ただし見かけと能力は一致しておらず、彼女はドムハイト軍指折りの猛将として名高い。今回は輿に乗った指揮官同士での戦いであった。そのティセラが、指揮を執っていると、カミラは聞いていたのだが。

「ティセラ? ああ、あのおばちゃんか。 あれは今回、ただの飾りだろう」

「誰か本当に指揮を執っていた者がいると?」

「用兵のやり方で分かる。 ティセラが指揮を執っていたのは、最後衛の一軍だけだろうな。 おそらく本当に指揮を執っていたのは」

「剣豪バフォートでしょうな」

隣にいたクーゲルが不意に言い、その通りだとヘイムットが頷く。カミラは驚きを押し殺すのに苦労しなければならなかった。

シグザール軍も撤退を開始する。白馬に揺られながら、カミラは舌打ちしていた。もしバフォートが混じっていたのだとすると、奴はこちら側の秘密兵器に気が付いたのかも知れない。赤馬に揺られていたとなりのクーゲルが、カミラに言う。

「お前の読み通りだろうな、カミラよ。 多分バフォートはこちらの手札に気付いたぞ」

「そうなると、今回のは、わざと手の内を晒させようとするおとり出兵ですか?」

「いや、其処までではないだろう。 欲の皮の突っ張ったバカ貴族共の出兵にかこつけて、かってから親交のあるティセラに頼んで部隊に潜り込み、様子を見たのだろうよ。 食えない男よ」

うかつだった。クリーチャーウェポンを使って仕掛けていたら、多分全てが台無しになっていただろう。

今回は四百ほどのクリーチャーウェポンを待機させていたが、タイタス・ビースト改は連れてきていないし、バフォートを討ち取る為の準備をしてきていない。ヤクトウォルフとテンペストモアだけでは、殆どの兵は討ち果たせただろうが、バフォートには逃げられた可能性が高い。危ないところだったのだ。そして基本的に、一度披露した兵器には、次から必ず対抗手段が登場してくる。そうなっていたら、竜軍六個師団壊滅作戦は、ほぼ間違いなくおじゃんになっただろう。

「分かってはいるだろうが」

「何でしょう」

「儂の目的は、あくまで強者と戦って殺すことだ。 バフォートはエンデルク団長に譲らなければならないだろうが、奴の配下の騎士は何人か寄こせ」

「もちろん分かっています。 ご安心を」

クーゲルの目的はそれしかない。今回の大規模な作戦が失敗しないように手助けしてくれたのも、手応えのある相手が殺したいからだ。その上、クーゲルの場合、相手の作戦を読んだのではないだろう。単に動物的な勘を働かせ、危険を避けたに違いない。もともと、クーゲルはそういう男だ。殺し合いにしか興味がない。だからこそに、恐ろしい相手なのだ。ある意味、国家中枢にも色気を出しているカミラより、或いはエンデルクよりも、純粋な人間だ。そして純粋であることは危険でもある。

「ところで、国王陛下はなんと言ってきている」

「このまま計画を続行せよ、だそうです」

「あの年にてまだ方向転換が図れるとは恐ろしい。 ただ、お前の作戦はあくまで計画の一端に過ぎぬだろう」

「直に接してみて、能力の高さがはっきり分かりますね」

確かに、カミラもヴィント国王には驚かされることが多い。というよりも、以前からの計画自体、彼の死後を睨んだものばかりだ。ヴィント国王の目が黒いうちは、この国は安泰だ。皮肉な話だが、野心家のカミラもそれは太鼓判を押すことが出来る。

どちらにしても、カードは多めに用意して損はない。戻ったら、早速研究の進展と、戦力の整備だ。この間確保したオルランドゥ伯と暗殺者を改良した護衛用クリーチャーウェポンの完成も急ぎたい。

まだまだ、カミラが求めるものは、遙か先にあった。

 

シアが完全復活して最初に向かったのは、もちろんマリーのアトリエである。体はもう全く以前と変わらず動く。瀕死の状態だったあの時から、僅か半月でこれだ。如何にエリキシル剤が伝説的な存在で、神格化されてもおかしくないのか、この一言だけでもよく分かる。

シアは一度死んだのだ。だがエリキシル剤によって第二の生を受けた。今の命が本来は存在しないものであると考えれば、これから怖いものなど何一つ無いとも言える。これは、シアだけの命なのだ。

戸を開けると、何かの調合にいそしんでいたらしいマリーの姿。マリーは振り向くと、相変わらず子供みたいな笑顔を浮かべた。

「シア!」

「マリー、ありがとう。 すっかり良くなったわ」

「良かった。 ずっと心配してたんだよ」

「いつも私を心配させているのだから、お返しよ」

二人でしばし笑いあう。中に入れて貰うと、アデリーが料理をしていた。丁寧に礼をする彼女に、お土産の高級茶葉とパンを渡すと、マリーと向かい合って机に座る。机の上には乳鉢と砕き途中のフェストが出ていたが、今回は食事をしに来たのではないからかまわない。

「ドナースターク家は、順調に立ち直っているわ」

「そりゃあ、トール村長に加えて、シアが復活したんだから当然よね」

「その通り。 とりあえず私のいない間に巫山戯た言動を繰り返してくれた貴族共には、近いうちに物理的なお礼をさせて貰うつもりよ」

「あはははは、バカな奴らね。 シアを怒らせるなんて」

楽しい会話で和みつつ、シアはアデリーが出してくれた茶をすする。体が弱り切っていた時には、殆ど臭いも分からなくなっていた。臭いが分かるだけで、はっきり言って幸せだ。

懐から取り出したのは、ドナースターク家の家宝である。精霊の涙という。アクアマリンが究極的な圧力を受けて変成したものなどと言われている、貴重な宝石である。澄んだ湖のような色合いで、そしてずっしりと重い。

「マリー、今回のお礼よ。 受け取って」

「これは、家宝の精霊の涙じゃないの? いいの? こんな貴重なものを」

「いいの。 マリーになら託せる。 それにこれは、将来うちの家でテクノクラートをしてもらうっていう確約手形よ。 だから、大事に使ってね」

「シア……」

珍しくマリーが感極まった様子で、目尻を拭った。シアも頷くと、後はくだらない四方山話をして、アトリエを後にした。

それから外出。馬をかり、護衛数人と友に、旧ダンケテスレア村住人が暮らしている荒野に向かう。十日がかりで街道を走り、荒野に着くと、既に灌漑作業は軌道に乗り始めていた。粗末な家だけではなく、城壁も作られ始めている。この分だと、この赤字物件が黒字に転換するのに、あと二年と掛からないかも知れない。ドナースターク家は充分に元手を回収できるはずだ。更に、シアが寝ている間にトールが奔走した結果、アカデミーの開発した新宝石開発技術が完成普及。宝石ギルドは以前以上の生産力を、職人の負担を軽減しながら発揮する目処がつき始めていた。

働いている武官達と元村人達は、既にすっかりうち解けていた。黒馬にまたがったシアが姿を見せると、彼らの間から歓声が上がる。

「シア様!」

「シア様が来られたぞ!」

「皆、お疲れ様。 話があるから、村長宅へ集まって」

「ははっ!」

あれほどシアを敵視していたブルノーでさえ、或いはその子供でさえ、シアに完全に心酔している。皆、あのガスに沈んだ村の様子を見たからだろう。満身創痍で子供を救ったシアの姿を見せたからでもある。エネルトが一声掛けると、すぐに村人達は指示通りの行動をする。

確かに、マリーの言うとおり、損のない行動だった。

村長宅には、瞬く間に皆が集まった。狭い掘っ立て小屋だが、中心人物が集まるには充分だ。無事を喜ぶ皆の前で、シアは言った。

「それでは、先に確認しておきましょうか。 私が知らない村人達は、一体何だったのですか?」

「はっ! いつかは聞かれると思っておりました。 包み隠さず申し上げます」

ブルノーが頭を下げると、シアに向けてとうとうと、隠さず己の恥を明かす。

「おそらくご明察ではありましょうが、彼らは違法奴隷です。 ドムハイト側の人買いが、こういう辺境には労働力を渡しに来るのです。 我ら金銭に余裕がある人間は、使い捨ての道具として、彼らを便利に使っておりました。 村の愚か者の代表として、罰はこのブルノーめが引き受けます。 いかようにもなさってくださいませ」

「なるほど、やはりそうですか。 辺境には辺境の現実とルールがあります。 しかし、もうこれ以上はその風習を続けることも無いでしょう。 来る途中に見ましたが、もう違法奴隷の者達も、すっかり村の者達とうち解けている様子でしたし」

シアは柔らかい雰囲気で、皆を見回す。そして言った。

「違法奴隷のことは不問とします。 同時に彼らはこれから戸籍を作り、村の一員として遇しなさい。 わざわざ合法奴隷化せずに、平民としての待遇で良いでしょう。 彼らを差別するような事があれば、この私が許しません」

「ははっ!」

皆が感動した声を上げる。そしてブルノーは、再び涙を流していた。これでいい。此処は辺境の利点を生かさせてもらう。違法奴隷が横行するように、中央とは違い、辺境ではやはり管理がしきれないのだ。その隙を突いて、彼らの戸籍を確保する。まあ、人買いを討伐して、彼らを救出したとでも言えば、何とでもなるだろう。

別に人道的な配慮からではない。この村はいずれドナースターク家の管理下にて、新たな重要拠点となってもらう。その時には、此処は辺境ではなくなっているだろう。つまり、辺境ではなくなった時の事を考え、今の内から備えておくのだ。

「私が口を出すまでもありませんでしたな」

「ふふ、そうですね」

エネルトだけはシアのもくろみに気付いているようだが、別にかまわない。エネルトはきちんとした計算が出来る人間だ。ドナースターク家に従うことで、彼の利益は保証される。だから忠誠心も揺るがない。

シアは外に出ると、いまだ荒れ果てた旧ダンケテスレア村を見上げる。まだまだ、当分は忙しく働く必要がありそうだった。

 

血相を変えたアデリーが、アトリエから飛び出す。アトリエに入ろうとしていたミューは、それに気付いて驚いた。

「ちょっと、アデリー! どうしたの!?」

「ミューさん! その、あの!」

「落ち着いて。 何があったの?」

アデリーの肩に手を置いてなだめながらも、ミューには事態が読めていた。全快したシアがアトリエを訪れたのは昨日のことだと聞いている。つまり、マリーがその効果を見たわけだ。

マリーの自制心は鉄壁だが、それゆえに崩れる時は文字通り吹っ飛ぶ。それをミューは何度も実例として見てきている。おそらく、あまりにも凄まじいエリキシル剤の効果を見て、マリーの頭のねじが吹っ飛んだのだろうと。

「マスターが、飛び出していったんです。 凄く、もの凄く怖い魔力を纏っていました」

「それで、アデリーは、素手で、鎧も無しで、武器も無しで、どうするつもり?」

はっとした様子で、アデリーは自分の姿を見た。そして冷静を取り戻す。この子の成長は著しい。すぐに己の愚を悟ったのだろう。

アデリーはすぐアトリエに戻って、前に買ってもらったプレストアーマーを身につける。ワキザシを手にして、腰につける。ミューがわざわざ手伝う必要もなく、手並みも鮮やかだった。ワキザシの鯉口を切って、何度か素振りする。以前とは違い、剣士の端くれくらいの腕前にはなっている。

「マリーを止めるつもり?」

「できるだけ、やってみようと思います」

「……分かった。 一度、見ておく必要があると思うから、側まで連れて行ってあげる」

ミューは止めようとは思わなかった。

見たかったからだ。アデリーが抱いた覚悟が、どれほどのものなのか。それに、アデリーの不安定な魔力が、マリーの狂気を見てどう反応するのかも、知っておきたかった。

ミューはアデリーのことを可愛いと思っている。だからマリーほどではないにしても、将来を幸せにして上げたいとも考えている。だからこそに、鉄は熱いうちに打っておく必要があった。痛みは早い内に共有しておきたかった。

「走るよ」

「はい!」

アデリーを促し、街の外へ。結構速めに走っていたのだが、アデリーはきちんと付いてきた。基礎訓練は嘘をつかない。アデリーは確実に身体能力を上げている。これなら後数年もすればと、ミューは一瞬だけ、錯覚してしまった。

そう、まさにそれは、一瞬でしかなかったのだ。

街道に出て、それから森の中へ。しばらく森の中を二人で走る。辺りを見回している内に、遠くの森の中で、光が迸った。ちかちかと、殴打音と共に瞬き続けている。何が起こっている。濃厚な死の臭いが、ミューの鼻をついた。駆け出しそうになるアデリーの片手をとる。本能が告げている。近づくのは危険すぎる。

「マスター! マスターッ!」

「駄目ッ!」

涙目で叫ぶアデリーを、必死に押しとどめる。駄目だ。いけない。殺される。近づいたら、八つ裂きにされる。断末魔が此処まで響いてくる。虎の声。フォレストタイガーか。背筋に寒気が走る。何かが地響き上げて倒れる音。

おそるおそる、断末魔が響いた方を見る。だが、まだちかちかと光が瞬いていた。それが収まった時、安心から一瞬手の力を緩めてしまう。アデリーが飛び出した。ミューは超反応を駆使して瞬間的に追いつくと、地面に押し倒すようにしてアデリーを止める。

自分の行動が矛盾していることに、ミューは気付いていた。アデリーに見せるつもりではなかったのか。必死に思考を巡らせる内に、気付く。マリーの発している狂気が、以前盗賊団を皆殺しにした時とは比較にならないほど激しいのではないかと。アデリーを抱き起こすと、落ち葉を払い落としながら、目をのぞき込んで言う。

「絶対に飛び出さないって、約束できる?」

「はい」

「いい、気をしっかり持って」

「はい」

二人こっそり伺うようにして、近づく。肉の焼ける香りがする。やがて、木々の間から、それは唐突に現れた。

アデリーが硬直した。ミューだって、全身に走るふるえを止められなかった。

虎が死んでいる。素手で殴り殺されている。それくらいのことが出来る能力者は別に幾らでもいる。問題は別にある。

その虎が、素手で八つ裂きにされている事。そして八つ裂きにした人間が、肉を今、電気の魔力を放出して焼きながら、貪り喰っているという事だ。

虎はもう原形をとどめず、マリーはかぶりつくようにして肉を喰らっていた。肉を食いちぎり、噛み砕き、飲み込む音が嫌に大きく聞こえてくる。ミューはアデリーの肩に手を置くと、言った。

「私に勝てるくらいでないと、止めようとしてはいけないって、マリーは言ったんでしょ?」

「はい」

「意味が分かった? 私でも、あの状態のマリーは止められない。 多分、アデリーと私が、二人がかりでもね」

アデリーが泣いているのが分かった。怒りの涙ではない。ミューは背中からアデリーを抱きしめながら、優しい子だなと思った。

アデリーは己の内なる獣に振り回されるマリーと、それの直撃を受けて命を落とした虎の双方に対して、涙を流しているのだ。抱きしめているミューの手を、アデリーが掴む。覚悟が、幼い手からは、伝わってきた。

やがてマリーは正気に戻る。特に悪びれる様子も無く、恥じる様子も無かった。ただ、静かに、こういった。

「また殺っちゃったなあ」

顔どころか、体中血だらけだった。亡骸に顔を突っ込んで食べていたのだから当然だ。最近鮮血のマルローネというあだ名があることを、ミューは聞いている。まさにそのままの姿であった。

マリーは近くの木に背中を預けて座り込むと、アデリーとミューに向けて言う。どこかぼんやりとした感じだった。一つはっきりしたのは、それに羞恥はない。単に力を消耗し尽くしただけだ。

「見てたの?」

「はい。 マスター」

「お土産に肉を持って帰るわ。 あたしは体を洗ってから帰るから、あなたたちは先に帰っていなさい」

アデリーはしばしマリーをこれ以上もないほど悲しそうな目で見つめていたが、やがてふいと体を翻す。小走りに行くアデリーに、ミューはすぐに追いついた。

「今はかなわなくとも。 いずれ、必ず止めます」

「いい意気だ。 その時は、私も力を貸すよ」

「有難うございます。 マスター、可哀想です。 マスターに殺された動物さんも可哀想です。 だから、私が強くなって。 どっちも可哀想ではないようにします」

アデリーは乱暴に涙を擦ると、アトリエに走り出した。ミューは見た。アデリーの体から放出されている魔力が、今までにないほどに安定している事を。

少女は確実に成長し続けている。うかうかしていると追い越されるかも知れないと、ミューはその小さな背中を見ながら思った。

 

(続)