宝石狂想曲

 

序、二つの国

 

丘の上で風に吹かれている男が一人。豪華な鞍をつけた黒馬にまたがり、ドムハイト軍の将校である事を示す新緑の鎧を着て、腰には長大な二振りの剣。兜には鷲をあしらった飾りが付いていて、視線には憂いがあった。周囲には、十数名の兵士達が展開し、厳しく警戒していた。

彼の名は、バフォート=クリムゾン。ドムハイト最強の剣士であり、剣豪と呼ばれ周辺各国から恐れられる存在でもある。

バフォートはドムハイト王国の英雄である。年齢は三十九歳。前回のドムハイトとシグザールでの戦役での英雄であり、能力者でもないのにこの国最強の使い手と呼ばれた。一騎打ちで倒したシグザール王国軍騎士は三十人を越えると言われており、その中には団長すらも含まれている。他にも、戦場で野菜のように斬った兵士の数は六百を超えるとさえ言われている。

その圧倒的な戦歴から、人外の巨漢だと思われがちなバフォートだが、それは間違っている。本人はいたって温厚な小男であり、背丈は平均よりも随分低い。顔の造作はお世辞にも整っているとは言えず、ドムハイトの理想とは逆に目は糸のように細く、眉は少し太すぎる。体つきも華奢で、しかも吃音癖の持ち主であるため、口数も少ない。それどころか、剣の才能すらもない。圧倒的な武力は、本人の血がにじむような努力の結果身についたものだ。英雄物語に登場するような、神に愛された天才というような人種とは別の存在なのである。

ドムハイト最強の軍団を率いている彼は、世間の評判とは裏腹に、平和主義者でもある。彼は国内の主戦論に憂いを抱いており、いつも苦悩していた。やっと訪れた平和は、戦いで傷ついた彼の心を癒してくれたが、それが脆いこともよく知っていた。主戦派から、いざというときは最大戦力として期待されていることも不安だった。どうにかならないかと思ったところで、政治的な駆け引きが苦手な彼には、為す術がなかった。政治的な駆け引きを任せることが出来る部下もいなかった。ただ、シグザール王国という巨大な敵がいるために、彼は生かされているに過ぎない。

「ここにおりましたか」

穏やかで、ゆっくりした声が掛けられる。振り向いたバフォートは馬上で一礼。周囲の兵士達は一斉に馬から下りて最敬礼した。バフォートの視線の先には、この国のVIPの一人、アルマン王女がいた。たどたどしい口調で、バフォートは言った。

「王女様には、ご機嫌、うるわしゅう」

栗毛の馬にまたがった王女は武装し、周囲に四人の侍女を連れていた。この国では、男女関係無しに武人は少なくない。王女は穏やかな人柄で知られているが、武人としても一応の訓練を受けている。だが、本人は園芸の方がより好きだと言われており、小さなバラ園はいつもよく手入れされているという。

アルマンは手入れ整った黄金の髪を風に任せながら、ゆっくり愛馬をバフォートに寄せる。白皙の肌を持ち小柄で美しい王女は、王宮の白バラと言われているらしいと、バフォートは聞いたことがあった。宦官共のくだらない批評に興味はないが、これだけは的確だと思った。

「今日も視察ですか、バフォート」

「はい。 いま情勢は、とても危険、ですので」

「そうですか」

アルマンは眉をひそめ、悲しそうに返した。彼女に、シグザール王国から政略結婚の話が来ていることは、誰もが知っている。それに本人が乗り気だと言うことは、逆にほとんど誰も知らない。その数少ない例外が、バフォートだった。

今、国内は主戦論に傾いている。だから、意図的に情報も封鎖さえされている。ドムハイトを支配しているのは、半軍閥化している貴族達と、王宮に住み着いた宦官達だ。王家の力が弱体化して久しい。それは平和が長く続いたことも意味したが、国政の停滞化も同時に意味していた。

王家には現在の国王も含めて、ろくな人間がいない。アルマンの兄たちは見栄えばかりがよいでくの坊達だし、弟や妹も似たようなものだ。優生結婚を繰り返してデータ的には美しく聡明な人間が揃っているドムハイト王家だが、その内情はシロアリに喰われた大木に等しい。だから投機的な戦争を望む声が大きい。そんな中、戦を望まないバフォートやアルマンは、自分の声を押し殺さなければ、生きてはいけなかった。国政を動かせるようなコネクションが無かったからだ。

「国境の要塞跡は、どうでしたか?」

「分かりま、せん。 人間の仕業だと、言うこと以外、見当もつきません」

もう四十近いというのに、娘のような年の女性に対してさえあがってしどろもどろになっているこの情けない男が比類無い使い手なのだ。世の中は分からないものである。アルマンは憂いを称えた笑みをそれに返しながら、言った。

「王宮では、さらに主戦派が力を強めています。 下手をすると、今回の一件をシグザールの仕業と決めつけ、出兵させるかもしれないと言うことです。 そのときには、貴方が先頭に立つことになるでしょう」

「悲しい話ですね」

そういって、バフォートは空を見た。美しい春の空だ。それだというのに、人間共は、なんと醜いのだろうか。

もし戦いになったら、さっさと負けて死んでしまいたい。バフォートはそうとさえ思うようになり始めていた。どのみち、相手はシグザール王国。圧倒的な勝利など、竜軍を動かしたところで得られはしない。ならば派手に負けてしまった方が、自分たちは強いと思いこんでいる愚かな者どもに煮え湯を飲ませることになるではないか。そうなれば、少しは溜飲が下がる。どのみち、バフォートは自分の命を惜しいなどとは思っていなかった。

バフォートは仮にも軍の最高幹部の一人であり、多くの情報が集まってくる。だが、優秀なことで知られるドムハイトの密偵達は必死に動き回っているにもかかわらず、何も掴んでいない。シグザール王国軍は嘘ではなく、ほとんど動いていないと、判断せざるをえない。そうなると、シグザール王国が犯人だとしても、軍が組織的に関与している可能性は低いと言わざるをえないわけだ。しかし、他にどんな組織が、あのような鮮やかな行動を見せたというのか。何が起こっているのか全く分からず、バフォートはため息ばかりつく。その背中を、心配そうにアルマン姫が見つめていた。

 

バフォートは直属の精鋭と幕僚達を引き連れて、ここ数ヶ月視察を行い続けていた。今日もアルマン姫と別れてから、幾つかの村を直接見て回った。

英雄バフォートの名前を知らないドムハイト人はいない。一口にドムハイト人と言っても、十以上の民族が混ざり合っているのだが、その全てでバフォートは人気を得ている。無口なところが神秘性を高め、強いところが民衆の支持を受けやすいからだ。実際に喋るのも、殆どは副官が行っている。

その日訪れた村も、貧しかった。

村の周囲を覆う城壁は整備が怠られ、所々苔が生えていた。土はやせており、農民達には気力が無く、昼間から酒を飲んでいる者までいる。この地方では、祭りではない時期まで酒を飲む風習があり、それが良い方向に作用しているとは言い難い。近くをバフォートが通ると、流石に道ばたで頭を下げるが、その時だけだ。だが、責めるわけにも行かない。税金が高すぎるから、仕事をしても殆ど無駄になってしまうのだ。

村全体に気力がない。村を治めている豪族の家は逆にきらびやかであり、バフォートを出迎えた村長もでっぷり太っていた。豪奢な口ひげを振るわせながら歓迎の声を上げる村長に、バフォートは税金を下げるように提案してみた。だが村長はたくみに話を逸らし、聞かない振りをした。知っているのだ。バフォートは高級軍人だが、そのような権限を持ってはいないことを。

この国は腐っていると、バフォートは思った。宴の用意があると村長は言ったが、バフォートはそんなものを味わう気には、とてもなれなかった。

政治的にも良くないが、軍事的にも緩みきっている。この辺りは充分に戦争になる可能性があり、シグザール軍の特殊部隊が進入してくる可能性だってある。それなのに二十年近く続いた平和のせいで、皆だらけきってしまっている。

村から出る途中に、物見櫓を見上げた。ここしばらく使われた雰囲気さえなかった。腐敗は必ず上から始まる。たった一世代の間に、それが末端にまで浸透してしまったのだ。この辺りでは、ドラゴンなどの人間に害をなし得る生物が存在しない。それがさらなる気のゆるみを招聘しているのかも知れなかった。

どちらにしても、手など打ちようもない。国家中央に意見を上げたところで、無視されるに決まっている。事実無視され続けてきたし、場合によっては越権行為だと罵られさえした。気が滅入ったバフォートは早めに視察を切り上げ、軍駐屯地へ引き上げた。何も期待していなかったが、予想通り、新しい情報は一つもなかった。

 

シグザール王国とドムハイト王国は、大陸の勢力を二分する、巨大国家である。現在は冷戦状態が続いているが、その仲の悪さは類を見ず、今でも隙さえあれば戦いを仕掛けたいと考えている軍人政治家は、双方の国に掃いて捨てるほどにいる。

武のドムハイト、文化のシグザールなどと言われるが、総合的に見ればどちらも同じ程度に血が好きだし、文化的に片方が劣るものではない。皮肉なことに、大陸を二分するこの国々は、共に中程度の歴史を持つ。総合的な勢力は6対4ほどでシグザールが有利だが、軍の強さだけであればドムハイトの方が上だ。他にも、様々な要素で両国は拮抗しており、戦になれば双方が焦土と化すのは見えきっていた。

双方の国には、似たところも多い。小規模国家を徐々に糾合して、成長していった国家という点では完全に共通している。経済基盤に貿易があるということや、強力な軍を持っているという点でも同じだ。双方の国家内には、かって吸収した小国の文化や風習がいまだに残っていて、それが様々な形で人々の営みに関わっている。

双方で、違う点も多い。貴族が世襲制であるかそうではないかが、最大の相違点であろう。その歴史の黎明期から、軍の主力が半農の屯田兵であるシグザール王国は、相当数の常備兵を抱えており、しかもその質は総合的に高い。国家直属の屯田兵が主力であるという性質が、拡大の過程で貴族の極端な権力搾取を招かず、比較的清潔な政治形態を産んだのである。世襲制ではないため、貴族の質は基本的に高く、治世も安定している。その反面、有能な人材が国家上層で強権を振るうという機会もあまりない。同時に、国王がある程度無能でもサポートが出来る。更に、身分格差は小さく、力量さえあれば平民の出世は難しくない。

それに対して、ドムハイトは典型的な土着豪族の寄り合い所帯である。このため、王家は「豪族達の代表」に過ぎず、有力貴族達の議会で決定したことを覆すような力をもってはいない。逆に、王の力量が低いと、国の方向性を旨くコントロールできずに迷走を招くことになる。兵のばらつきも多い。なぜなら、戦の際はそれぞれ豪族達が己の子飼い達を引き連れて、戦場にはせ参じるからだ。屯田制に比べて劣るようにも思えるが、このやり方だと総力戦に対応しやすい。シグザール軍が騎士団と屯田兵を動員し尽くすと後は殆ど実戦経験がない民間戦力を引っ張り出すしかないのに対し、ドムハイト軍はそれこそ国家ぐるみで戦争を行うことが出来るわけだ。

ただ、国の腐敗に関してだけは、ドムハイトの方が早かった。貴族の完全な世襲制、身分格差の大きさ、硬直化した施政など、有能な人材さえ揃えば短期的には有利なその全てがマイナスに作用していた。シグザールという経済的に豊かで、新陳代謝も優れている国と戦うために敷いた政治体制が、戦争が終わると諸悪の根源と化してしまったのだ。軍も腐敗が進んでおり、ついにシグザール軍に作戦展開能力で劣り始めたという噂もある。

ただし、それでも大陸最強の軍事国家である事には疑いない。人口は五百十万ほどだが、もし総力戦になれば三十万余の兵力を動員できると言われており、それはシグザール全軍を遙かにしのいでいる。しかも中核となる竜軍五万は、ひょっとすると世界最強の精鋭かも知れないのだ。

弱体化した政治体制に、アンマッチな強大な精鋭軍。それがドムハイトの平衡感覚を揺らがせ、判断力を鈍らせているのは間違いなかった。

なお、戦を望んでいるのは、貴族ばかりではない。各地の貿易商もそうだし、豪族達もあらかたそうだ。皆、新たな収入源が欲しいのである。貿易商達は、戦争が始まれば単純にもうかる。土豪達も、新たな領地を得れば、収入が増える。さらには、出世の機会をうかがう平民達も多くいた。平民が戦を厭うなどと言うのは、安定した時代に作られた真っ赤な嘘だ。略奪によって富を、そして奴隷を簡単に得られる戦争は、多くの庶民にとっても丁度いい小遣い稼ぎなのである。平和な時代だろうが、戦乱の時代だろうが、それが人間の真実である。

一種の歴史のうねりまでもが、ドムハイトを破滅的な方向へ動かしつつある。そして、それを利用しようとするものがいる。人間の愚かな営みは、またしても、膨大な血を必要としていた。

 

1,宝石ギルドの斜陽

 

飛翔亭の戸を開けて、マリーは外の空気を吸い込みながら、少し疲れた足取りで歩き出した。膨大な量の研磨剤を納入したマリーは、流石に手が疲れたので、しばらくは何も乳鉢で砕きたくはないと思った。一緒についてきたアデリーも同感のようだが、なにか握ること自体は嫌ではないらしく、愛用のワキザシをずっと腰に差している。外では、小雨が降り始めていた。天気だから、すぐに止むだろう。だから、別に歩調を早めはしない。

一歩遅れてマリーの後ろを歩いているアデリーは、マリーを時々もの凄く悲しそうな瞳で見つめる。大人の体になり始めているアデリーの顔からは丸みが少しずつ消え始めていて、時々はっとするような美しさの片鱗を見せる。

「マスター、お仕事は終わりですか?」

「ん? うん、そうよ。 今日はもう休んで、明日からまた頑張ろうね」

頭を撫でると、少し寂しそうに微笑む辺り、アデリーはまだ子供だ。昨日、短期で雇っていたルルクがいなくなったから、寂しいのかも知れない。ルルクは良い腕をしていて、マリーが教えたことはすぐに覚えた。アデリーとも仲が良かったが、これは営業行動の一環なのか、本心からかは分からない。次も雇うかも知れないと言うと、珍しく凄く嬉しそうにアデリーが笑ったのが、印象に残っている。

夕食の話をしながら、市場へ。ここしばらく、経済面で困ったことは無い。だが、それは今まで元手が掛からない道具ばかり作っていたからだ。市場に向かったのは、夕食を探すのと同時に、ジャンクに紛れてルビーが見つかるかも知れないと思ったからだ。事実怪しげな宝石屋やアクセサリ屋は、幾らでも路地裏に軒を並べている。そう言う店では、たまに掘り出し物が見つかるが、客も偽物であると承知の上で買う場合が殆どだ。

「まずは夕食の買い物ね」

「はい」

「今日は任せる。 予算はこれだけ、好きなように買いなさい」

そういって、アデリーの手の上に銀貨を何枚か落とす。頷くと、アデリーはぱたぱたと駆けていく。人は多いが、気配が独特なので、マリーくらいの使い手ならまず見失うことはない。

肉類は冬の間に作った燻製がまだまだあるからいらない。アデリーもそれは分かっているらしく、春になって、露骨に緑味が増した市場を非常に手際よく彷徨きながら、葉野菜の類を何種か購入していく。

アデリーはもう任せていても、充分立派に買い物が出来る。というよりも、露天のおじさんおばさん達にもの凄くかわいがられていて、見ているとおまけまでもらっていた。保護意欲を刺激されるのは、どうもマリーだけではないらしい。もっとも、アデリーが覚醒暴走型能力者だと知ったら、その殆どが態度を変えるだろうが。それに、アデリーの気配を深く探っていくと、はっとするような凄惨な闇を感じる。今は外に出てこないだけで、単純な魔力量なら、もうマリーをしのいでいるかも知れない。

買い物はすぐに終わった。マリーは街路の隅で腕組みをして、その背中を眺めているだけで良かった。走り寄ってくるアデリーは、落ち着いた笑顔を浮かべていた。

「お待たせしました」

「もっと待たせても良いのに」

苦笑しながら、買い物籠を受け取る。そのまま、アデリーを連れてザールブルグの暗部へ。二つほど路地の裏にはいると、露骨に空気が悪くなる。煉瓦の類も湿気っているし、道ばたにも汚物が目立つ。目つきの悪い男女が時々いたが、マリーが視線とちょっぴりの殺気を向けるだけでその大半は逃げ散った。賢明な行動である。

目的の店は、路地の奧の奧、袋小路にある。犯罪組織は無く、犯罪者そのものもかなり少ないシグザールだが、それでもこういう地域はある。小汚いござと、ぼろ布の塊を見つけたマリーは、つかつかと近づいていった。マリーの気配に気付くと、ぼろ布が動いて、顔を上げる。ぼさぼさの髪に埋没するようにして、しわだらけの皮膚に囲まれた、丸い目が姿を現す。その目は、異質だった。なぜなら、この路地裏に入ってから初めて、マリーに対して恐怖を見せなかった目である。

「おや、マリー嬢ちゃんかい」

「へへ、スベイトばあちゃん、こんちわ」

隣で、アデリーが驚いた顔をしている。理由は大体見当が付く。マリーがこの人なつっこいしゃべり方をする相手は、ごくごく少数の、非常に親しい相手だけだからだ。少なくとも、アデリーはそう思っているはずである。正確には少し違うのだが、今は訂正する理由も必要もない。

マリーは腰を落とし、ござの上に並べられたものを一つずつ物色していく。この間から、宝石に対する徹底的な調査を行っているため、急速に目が肥えてきている。

昔も宝石を扱うことはあったから、イミテーションかそうでないか位は見分けることが出来る。だが、こういう店に来る場合、もっと高度な技術が必要になってくる。だから必然的に技は磨かれた。こういうアンダーグラウンドな店では、常連にさえ偽物を売りつけることがある。海千山千の駆け引きが必須なのだ。

「ふーん、だいたいは本物だけど、混ざりものやジャンクが多いかな。 今日は良いのがないね」

「この間までは、どっかのバカ公爵が手放した質流れ品がこっちまで来てたからね。 でも、それもあらかたさばけちまったからねえ」

老婆が口を開けると、殆ど歯は残っていない。だが、しゃべり方はしっかりしているし、隙もない。この老婆は、かなり強い魔力を持っていて、自身を充分に守れる。こんな風に、イミテーションばかりだとはいえ、宝石を路地裏で売ることが出来るゆえんである。彼女は独自のルートを持っていて、時々本当に凄い品を仕入れてくる。そのため、此処に足繁く通う常連も少なくない。マリーは何度か明らかに玄人である他の客とすれ違ったことがあり、噂を自分の目で確認している。

赤い石をマリーは手にする。小指の爪の四分の一ほどのルビーだ。このサイズなら、ものによっては目の玉が飛び出るような価格がつくが、これは純度が低く、しかも中央を横切るように筋が汚く入ってしまっている。宝石としては殆ど価値がない。だが、この場合はこれでいい。

「これちょうだい」

「はいよ。 ところで、そっちはあんたの子かい?」

「んー、そんなところかな。 お腹は痛めてないけどね」

マリーのような村出身の人間は、十代前半で子供を産むことが珍しくもない。だからさらりと返す。アデリーはみるみる真っ赤になり、目を潤ませて嬉しそうにうつむいたが、その辺はマリーには少し嬉しい。

腰を上げる。宝石を大事にポッケにしまうと、マリーは出来るだけ丁寧に笑顔を作った。

「じゃ、また来るね。 それまで死なないでよ」

「バカいえ。 嬢ちゃんが婆になるまでは死にやせんわ」

「そう願うよ」

アデリーを促して歩き出す。アデリーはよほど嬉しかったのか、若干注意散漫になり、夢心地な様子でマリーの後を着いてくる。店を離れる時、スベイト老に丁寧に礼をしていたほどだ。

帰りに、マリーはまだ寄るところがあった。王城の側まで大通りを行くと、成金趣味な、嫌な建物がある。高価な煉瓦を使い、けばけばしく壁を飾り立て、魚の鱗のような屋根には所々金箔さえ使っている。透明度の高いガラスを贅沢に使い、その内側にはむっつり黙り込んだ凄腕の警備員と、数々の宝石があった。赤や青や、様々な色に輝く宝石を、物欲しそうに見ている通行人を、警備員が視線で威圧していた。

ここが宝石ギルドだ。マリーが潰すべく、現在心血を注いでいる場所である。ちなみに、宝石類に値札はついていない。あくまで富裕層、しかも貴族だけを相手にしている場所だからだ。

マリーはアデリーを促して、身を翻し、アトリエに戻る。不快な建物だが、それが存在しているのも、もうそう長くはない。そう思うと、多少は気が晴れる。どちらにしても、彼処を潰さないと、経済的に研究が頭打ちになってしまう。計画には、念入りな準備が必要なのであった。

 

アトリエに戻ると、マリーは原石類の在庫のチェックを始めた。今回の目当てであるルビーの原石を始め、コメートの原石もいくらかある。この間から、せっせとストルデル滝に足を運び、良さそうな原石を集めてきたからだ。地下室で大体在庫のチェックが終わり、一階に上がると、もう夕食が出来ていた。野菜類を贅沢に使った塩スープと、パンに燻製肉をスライスして乗せたものである。栄養価的にも充分で、事実素朴ながらも美味しかった。

宝石ギルド壊滅作戦まで、まだ少し時間がある。それまでに、やることは全てやっておく。様々な薬品類などの作り方の復習を軽く行い、この間仕入れた山蚕の絹糸などの在庫チェックも行っておく。そして図書館でメモした資料類を整理しておく。

ルビーの作り方もアカデミーの書庫で調べたのだが、情報はなし。この間から入れてもらえるようになった校長先生の私室でも、良い資料は見つからなかった。在庫をチェックすると、コメートを作るのに充分な素材が余っていることが判明。在庫の中から、必要な分を整理し終えると、外はもう夜になっていた。どうも夢中になると、時間の経過が分からなくなっていけない。アデリーを先に休ませてから、マリーは宝石ギルド壊滅作戦の細部について、思惑をまとめた。敵を潰すには、敵を知る必要がある。だから、様々なつてから、徹底的に調べ上げたのだ。

コメートは星の名を冠する、虹色に輝く美しい宝石であり、シグザール王国の特産物でもある。この宝石を間に挟んで、長いこと王室と蜜月関係にあったのが、宝石ギルドだ。

ギルドというのは、そもそも職人達の集まりを意味する。多くの場合、それは様々な技術を持つ職人達が、己の技を伝えあって更に高めたり、或いは商売をやりやすくするために結成したものだ。だが、人間の組織というものは、どんなものでも、長く続いていくと、腐敗していく。その組織が、大金を扱うものである場合は、なおさらだ。ドムハイトで皮職人ギルドが長い間に変質、暗殺を請け負う組織になってしまった事は有名だが、似たような例はそれこそ幾らでもある。

元々宝石ギルドは、シグザール王国が出資して作られたものである。シグザール王国で産出するコメートは加工技術が難しく、かっては大変高価な代物であった。その上宝石職人達は横の連携を持たず、その経済的な効率は著しく悪かった。コメートの有用性にいち早く気付いたシグザール王国では、この産業を保護することにより膨大な利益を得ることを画策、出資してギルドを設立させ、量産体制を作らせた。そしてギルドの収益の何割かを回収することにより、双方は密な関係を作り上げ、途中までは理想的な交流を維持していた。

最初は宝石ギルドも腕の良い誇り高い職人達があつまり、己の技を競い合う場所だった。それがより高度な技術を作り出し、華麗な宝石細工が幾つも作り出された。事実、この時代に作り上げられた国宝石は多い。だが、宝石加工職人達に蜜月の時代は、残念ながら長続きしなかったのである。

やがて、宝石ギルドの収入が安定していくと、その利益に愚物共が群がり始めた。何人かの「経営のプロ」を自称する貴族が、ギルドの内部に食い込み、私物化を開始したのである。事実武骨な職人達は経済や経営には疎かったし、中には金を扱うことそのものを露骨に嫌悪する者までいたので、彼らの行動は自然に受け入れられてしまった。また、不幸なことに、貴族の介入によって、更に宝石ギルドの収益は増したのである。

こうして、宝石ギルドは、職人達の寄り合い所帯から、宝石を販売する利益を独占する公認経済組織へと、徐々に変貌していったのだ。やがて、利益を最重視する姿勢を取り始めると、変質は決定的なものとなった。

ギルドには徐々に高位の貴族が参加するようになり、それとともに国の中での発言権も増大。腐敗も加速度的に早くなっていった。職人達は経営から追われ、やがては奴隷的な労働を強制されるようになった。しかも彼らの有する技術は国家機密である。ギルドから逃げようとすることは、そのまま死を意味した。

こうして、職人の家系を「保護」しつつ、国家にある程度の収入をもたらすシステムが確立されたのである。当然内部は治外法権地帯となり、シグザール王国もしぶしぶそれを認めざるを得なくなった。

これが崩れたのが、アカデミーの手による、コメートの安価量産成功事件であった。イングリド先生が確立したこの技術によって、今まで停滞していた宝石産業にくさびが打ち込まれた。混乱の中、ギルドを脱出した職人も少数いたらしいのだが、その殆どが暗殺者によって消されたと言うから、悲しい話である。ともかく、安値の宝石という市場を改革したため、宝石ギルドの利益のいくらかはアカデミーが奪取。宝石ギルドは混乱しつつも高級化を更に進めている。

そして驚くべき事に。シグザール王国は、これに傍観態勢を見せているというのだ。

理由は幾つかあるらしいのだが、イングリド先生からマリーが聞いたところによると、宝石ギルドからの収益が上がらなくなってきたことが、その主要因らしい。中間で甘い汁を吸う貴族が増えすぎたため、国への納入利益がここしばらく下がる一方となってしまったのだ。しかも下手に政治的な権力が強くなってきたため、国としても辟易していたのだという。

動きの速いイングリド先生のことだ。ひょっとすると、アカデミーとシグザール王国は、既に宝石ギルドを潰す協定を、裏で結んでいるかも知れない。そうなると、マリーはそれを実行指揮する将軍となるわけだ。面白い。こういった形での戦の経験を、今の内に積んでおくのは悪くない。

戦いが終わったら、マリーの手から事態は離れる。後はアカデミー上層と、シグザール王国の交渉が行われるだろう。イングリド先生のことだから、多分利益は国家にある程度譲り、代わりに宝石加工技術の大半を手に入れるだろう。その辺りの交渉成果については、期待感がある。何しろ十代半ばから、ずっとアカデミーを切り盛りしてきた人である。

ランプの光量が落ちてきたので、油を足す。肩を叩いて、疲れをとりながら、もう少し作戦案を詰める。大まかな戦略は既に立ててあり、細かい戦術も決めているのだが、それでもまだ不安が少し残っている。

戦場では何があるか分からない。あらゆる可能性を想定するべきだ。ましてや、これはマリーも初経験の戦なのである。

如何にマリーといえども、初挑戦するタイプの戦いでは、大胆になれない。トール氏のナンバーツーとして、豊富な経験を積んでいるシアにアドバイスを受け、戦略と戦術の細かいチェックを何回か受けた。最初の案はやはりまだ甘さが残っており、シアと二人で協議して、少しずつ煮詰めていったのである。そして今の形ができあがっている。シアのアドバイスを受けたとはいえ、実戦で慣らしたマリーは作戦を完全に頭に入れており、だから後は自分で動ける。よほど酷いトラブルが起こらない限りは、これ以上シアにアドバイスを頼むこともない。

マリーは夜遅くまで、孤独な作業を続けた。

 

翌朝早く、マリーは机で寝ているところを、アデリーに起こされた。というよりも、アデリーが起きてきたので、気配で目が覚めた。

寝間着のままのアデリーは、これから朝練に出かけるところらしい。最近彼女はしっかり走って体力をつけ、素振りを行って型を身につけ、そしてミューに実戦訓練を受けている。これならば、一人である程度の強さまでは到達できる。ただ、そろそろ発育状態から言って、視線に対する防備を覚えた方が良いかも知れない。着替えを済ませたアデリーは寝ぼけたマリーに頭を撫でられると、少し悲しそうに眉をひそめた。

「おはよう。 朝練、頑張ってきなよ」

「はい。 私のことよりも、徹夜したんですか? マスター」

「ん、徹夜って程じゃないよ。 適当なところで切り上げたし。 だから大丈夫」

実際はほぼ徹夜に近かった。かなり眠いので、これからまた二階で眠るつもりだ。とりあえず、思いつく限りのトラブルシューティングは整備した。後は、今日の夕方くらいに、コネクション上の時限爆弾を炸裂させればいい。

そうすれば、全てが動き出す。それからは三日くらいは眠れないだろうから、今の内にしっかり寝ておかないといけない。アデリーを送り出すと、マリーは小さくあくびしながら、自室へ向かった。

 

夕方、アデリーが夕餉の準備を始めるのを見ながら、マリーは軽くトレーニングをすませ、それからアトリエを出た。向かう先は飛翔亭である。既にドナースターク家と、アカデミーには、作戦開始の日時を告げてある。歴戦の猛者であるから、直前までのうのうと寝ていられたのである。

ディオ氏は不機嫌そうにグラスを磨いていたが、マリーが来ると作戦発動の時期を悟ったようだった。カウンターに座ったマリーが、いつもは絶対に飲まない、度数が極めて強いアークオムを頼む。砂漠で採れるサボテン類から作る酒で、味はともかく極端な度数が受ける酒だ。今回の作戦開始の合図に、事前に打ち合わせしていた品である。

ディオ氏はフレアを呼ぶと、帳簿を書き換えさせる。数ヶ月間かかって作っておいた、ジシュルに対する研磨剤提供コネクションに、横線を引く。

地獄の扉が、此処で開いた。

カウンターに出されたアークオムは、琥珀色をしていた。香りはきつく、口に入れてみると、舌触りは意外と柔らかい。ただし、大量に飲むとやばいと、体がびりびり警告を発してくる。もうマリーが動かなくても事態は進むが、それでも飲み過ぎると危険だと判断、ペースを遅くして、状況を見守る。

しばらくして、口元を布で隠した、初老の男が飛翔亭に入ってきた。既に調べてある。あれがマリーがしばらく研磨剤を納入していた、ジシュルの執事である。時間に非常に正確な性格をしていて、いつも必ず同じ時間に飛翔亭を訪れる。彼はマリーが相手先の錬金術師だとも知らない。チーズをつまみにアークオムを呷るマリーを横目に、彼はカウンターに座ると、ディオ氏と話し始める。

「何だと!?」

「もう一度言う。 あの錬金術師は、この仕事から手を引くとよ。 何でも、他の研究が忙しくなったらしいぞ」

「こ、困る!」

男が露骨に動揺するのが分かる。こう言うところでは絶対にやってはいけない行動だ。相手につけ込む隙を与えるからである。多分、殆ど修羅場をくぐったことがないのだろう。彼が盛んに周囲を気にする過程で、マリーはちらりと顔を見て、覚えておいた。やせぎすで、大きな鼻が目立つ、特徴的な顔だ。口が大きいが、気は小さそうだった。

「どうにかならないのか! 今幾つも生産ラインが動いているんだぞ。 奴の研磨剤を当てにして、だ! どうしてくれるんだ!」

「無理をするからいけないんじゃないのか?」

「そう言う問題じゃない!」

男がカウンターを叩き、その大きな音で吃驚していた。自分を見失っている人間が、良く見せる行動である。客達は見向きもしない。たまに、ちらりと視線を送る者がいるくらいだ。もしトラブルになっても、ディオ氏ならあの程度の男、片手で放り出せるという事を知っているのである。

この愚かな男も、最初は注意深かった。幾つかの供給先から、慎重に研磨剤を購入していた。だが、マリーがずば抜けて高品質な研磨剤を納入し続けた結果、他の供給先を切り捨てて、一本化してきた。そして完璧にまで守られる納期が、「確実に高品質な研磨剤が納品される」と錯覚させた。マリーとしては、それを待っていたのだ。トラブルへの持ち込み方は、シアのアドバイスで途中から微調整したが、罠に掛けるという根本戦略は変えていない。

しばらく男とディオ氏は押し問答していたが、優劣は端から見ても明らか。終始冷静なディオ氏にたいし、男の狼狽は哀れなほどであった。困る困ると繰り返し、どうしたらいいとまで、仲介者のディオ氏に聞く始末であった。これも交渉の際に、絶対にやってはいけないことだ。混乱から完全に自分を見失い、良いように操ってくださいと言わんばかりの行動をとっている。眉をひそめるフレアに、つまみを追加注文しながら、マリーは様子を見守った。

失笑を押し殺すのに苦労したのは、本人に会わせろと男が言い出したことである。ディオ氏はぴしゃりと業務機密だから出来ないと言い、視線でマリーに釘を刺してきた。隣に座る娘が当の本人などと、男はもう残り短い生涯の終わりの時まで気付かないだろう。

やがて、男は、予想通りの行動に出た。

「ほ、他に、あの品質の研磨剤を購入できそうな相手はいないのか?」

「いるにはいるが、リスクは高いぞ」

「どういう事だ」

ディオ氏はマリーにちらりと視線をやってから、全く表情を動かさずに続けた。

「そいつは錬金術師崩れでな。  腕は良いんだが、騎士団にも目をつけられているような奴だ。 そいつなら研磨剤くらい軽いだろうが、いつしょっ引かれてもおかしくないような奴だぞ」

「そんな奴を紹介するつもりか!」

「そんな奴だから、リスクは高いといったんだ。 それに、そう言う奴だからこそ、宝石ギルドの仕事を受けるんだよ」

ディオ氏の言葉に、男は二の句が継げず、やがて嘆息した。以前の注文先に分散注文すると言う手もあるのだが、それではマリーがこなしてきたような正確な納期に間に合うか分からないし、研磨剤の品質にも不安があるのだろう。ディオ氏はその辺りの信頼度も事前に告げていたらしい。つまり、この執事は、取引的には完全にディオ氏に依存しきってしまっている。

「分かった。 それでいい。 それから、以前の取引相手にも、次からまた仕事を回すように手配してくれ」

「分かった。 これが先方の地図だ」

「地図、だと」

「直接行け。 やばい仕事ばかりする奴だが、用心深くてな。 依頼人の顔を見ないと、仕事の話をしないんだよ」

男は青ざめていたが、やがて思い出したように情報量代わりのワインを注文。それを一気に呷ると、むせながら外に出て行った。マリーもアークオムを飲み終えると、次の段階に移る。

「ディオさん、それじゃ」

「あいつのことを忘れるなよ。 愚かだが、哀れな男だ」

「……ええ」

ディオ氏の言葉には、重みがあった。マリーはしっかりと頷き、それ以上は無言のまま、飛翔亭を後にした。

外に出ると、事前の打ち合わせ通り、ドナースターク家の使用人が来ていた。シア子飼いの部下だ。彼女とすれ違いざまに、合い言葉をかわす。両者の足が止まる。マリーはささやく。

「ヒバリは鳥かごに入ったわ」

「分かりました」

頷くと、彼女とマリーは別々の方向へ歩き出す。

何、別段たいしたことはしない。彼女は事前の予定通り、騎士団に、犯罪行為に手を染めている錬金術師がいると通報しに行くだけである。その錬金術師とは、さっきディオ氏が執事に勧めていた相手。

アカデミーの卒業生だが、生活苦から様々な犯罪行為に手を染めている相手であった。この機に、アカデミーでもゴミ掃除をするつもりになったらしい。哀れといえば哀れだが、男は元々ギャンブルや酒に生活資金をつぎ込むような破滅的性格で、アカデミーでもついに匙を投げたという状況である。男の行状については、マリーも聞いている。何しろ、アカデミーの金に手をつけて追放されたという武勇伝の持ち主である。腕はそこそこらしいのだが、新しいものを作り出すような独創性には欠けているそうで、もう助けようがない。まあ、アカデミーのために死ぬのが、男の最後の利用価値だと言うことだろう。

雨が降り出す。マリーは酔い覚ましに、鼻歌を交えながら、アトリエへと歩き始めた。

 

朝早く、マリーはアデリーを伴い、アトリエを出た。近くの水路で、人が集まっている。ちらりとのぞきに行くと、あの男だった。滅多刺しされて、水路に浮いていたらしい。今はござにくるまれていて、精気のない顔だけが見えた。顔は恐怖と絶望に染まったまま、硬直していた。肌の色も、既に土気色になっている。アデリーが口を押さえて涙をこぼす。

野次馬達が、色々話し合っている。宝石ギルドという単語も、時々聞こえた。周囲は警備兵達が丁寧に固めており、まだ若い騎士が現場検証を行っていた。

予定通りの状況だ。

見物人の中にシアがいた。マリーが小声で挨拶すると、青ざめているアデリーに、アトリエに戻るように促した。アデリーは一礼すると、調練を切り上げてアトリエに戻る。マリーとシアは、二人連れ添って路地裏に。周囲に誰もいないことを確認してから、出来るだけ主語を出さずに話す。

「状況は?」

「予定通りよ」

シアは言う。あの後、ドナースターク家から通報を受けた騎士団は、錬金術師の家を急襲。一緒にいたあの執事と一緒に、錬金術師を抑えたという。アカデミーからも捕縛依頼がでていたらしく、騎士団は錬金術師を引っ張り、執事も任意同行、絞り上げた。

その結果、何が起こったか。言うまでもないことだ。愚かなジシュルの行動が、騎士団の任意同行の結果、宝石ギルドの中で、一気に広まってしまったのである。宝石ギルドにとって、錬金術師は不倶戴天の敵。それを通じているという行為が、閉鎖的なギルドの中で、どういう風に受け止められるか。言うまでもない。起こるのは、凄惨なリンチだ。執事はすぐに釈放されるだろうが、釈放された彼は、すぐに掴まり、見せしめに殺されただろう。

以上は推測に過ぎないが、それが事実だと言うことは、あの死体が雄弁に語っている。昨晩の内に、執事は消された。予想よりもかなり早いが、それでも計画を前倒しするだけだ。ジシュル自身も行方が知れないという。おそらくは殺されていないだろうが、ギルドの深部で、拷問でも受けているのは間違いないだろう。

騎士団はすぐに動き出す。というのも、これらも既に幾つか予想されていた状況の一つだからだ。既にマニュアルは整備されていて、マリーは今の時点では、一つもミスをしていない。

これから起こるのは、騎士団による、宝石ギルドの全施設への強制査察開始。今まで何名かの貴族の後ろ盾で存続していた宝石ギルドも、騎士団の動きが速すぎて対応できないだろう。

「後は見ているだけでいいけれど、油断だけはしないようにね」

「分かってる」

「貴方は大丈夫だろうけど、あの子の事はきっちり見ていないと駄目よ」

シアはわざわざ念を押した。もちろん宝石ギルドの関係者に素性がばれるようなヘマはしていないが、それでも用心に越したことはない。マリーは頷くと、足早にアトリエに戻る。

まだマリーにはすることがある。これ以降は、マリーが直接動かなくても、勝手に事態は進む。そもそもマリーが提案はしたが、今ではアカデミーが総力で動く大型プロジェクトになっているからだ。だが、マリーとしても、引き金を引いた責任がある。状況を放置しておく訳にはいかない。見届ける義務がある。

アトリエに一度戻って、アデリーが裏庭でミューと戦闘訓練を始めているのを見届けると、マリーは外へ。お気に入りの場所へ向かう。

階段を上って、城壁にあがる。普段街の外を眺める場所ではなく、少し城壁の上を走って、城門近くまで行く。そこからなら、大通りをはじめとして、ザールブルグの中が良く見える。普段は外を見るための行動だが、たまには中を見るのも良いだろう。

おそらく、ギルドへの強制捜査が開始されるのは、昼以降、夕方くらいだろうか。マリーとしては、それを見届けたいのである。

見れば、各所の塔からは、狼煙を既に上げ始めている。いわゆるつなぎ狼煙という奴で、馬よりも早く情報を伝達することが出来る。この国では、狼煙を許可無く使うことは禁止されている。堂々と狼煙を使うことが出来るのは、特別な許可を得ている偵察精鋭兵と、騎士団だけだ。つまり、今使っているのは騎士団。しかも、よほど火急の用でもないと、騎士団は狼煙を使わない。ドムハイト軍が一大侵攻を掛けてきたという可能性もあるが、それだったらザールブルグから情報が伝達されるのではなく、ザールブルグへ情報を伝達されるだろう。

騎士団は必ず動く。騎士団としては、突入のタイミングを計り損ねて、自暴自棄になった宝石ギルドが凶行に走る事が怖いのではないか。たとえば、今にらみ合いが続いているドムハイトを、何らかの形で手引きするような。それが、事前にシアに指摘された事であった。確かに、その通りであろう。

ついでに言えば、ジシュルの錬金術師との取引発覚の方法に騎士団を使うことを提案したのも、シアである。恐ろしいほどにシビアな政治感覚の持ち主だ。この方法を使うと、マリーとの取引を知っている(といっても、名前は知らせていないが)執事を、自らの手を汚さず宝石ギルド側に始末させることが出来る。そして、ディオ氏の能力から言って、宝石ギルドがそれ以上マリーをチェイスすることは不可能だ。邪魔者を、敵の手によって取り除く事が出来る。何というか、悪魔的なまでの策謀である。

狩りというものも、悪魔的な策謀を駆使する作業である。だがトール氏の下で経験を積み続けたシアは、それを政治的に活用するという術を既に身につけている。この辺り、マリーでは勝てない。権力を望もうとは思うが、シアと競合しようとは思わない。マリーはあくまで、テクノクラートとしての高官で充分だ。

一度降りて、車引きで適当な軽食を物色。それを口に運びながら、再び城壁の上から行き交う人々を眺める。特に不審な動きをしている者達はいない。ただ、警備兵の数が、いつもより多い。それを警戒してか、いつもは必ず起こる小さな諍いや喧嘩も、今日は全く見られなかった。

騎士団が動き出したのは、昼過ぎである。警備兵二個小隊を連れた騎士団三名が、実戦さながらの動きで、一気に宝石ギルドを包囲。突入を開始した。突入部隊には、青い鎧を着た聖騎士が混じっている。遠目だから確認は出来ないが、どうもエンデルクらしい。ドナースターク家が粉を掛けたのだとすると、本気で動いていることが推察できる。多分、他の主要都市でも一斉に同じ事が行われていることだろう。この作戦以外にも騎士団は動いているらしく、彼らの指揮下にある警備兵達がせわしなく動き回っていた。

当然群衆には不安が広がっていたが、いつもより何割も多く出てきている警備兵達が目を光らせており、致命的な激発には到っていない。

バスケットに手を突っ込み、もう一つ軽食をとろうとしたマリーが、気配に気付いて顔を上げる。マリーの方を冷たい瞳で睨んでいるのは、まだ年若い青年だった。マントを羽織った旅装で、浅黄色のベルトが目立つ。顔は角張り気味で顎が四角く、散切りにしている髪はカラスの羽のように黒い。目は鷹のように鋭く、一見して堅気ではないと分かる。彼は城壁の上で、マリーに駆け足で近づいてくる。

城壁の上はさほど広くないが、戦うには充分な幅がある。いざというときに備えて杖も持ってきている。いまだ相手に殺気はないが、無警戒にやり過ごすわけにはいかない。口に入れた食べ物を、咀嚼して飲み込みながら、マリーは激突の瞬間に備えた。

 

2,それぞれの闇

 

見つけた。あいつだ。ゼクスは城壁の上に佇む黄金の髪の女を見つけた時、確信していた。一般人にしては隙が無く、的確に状況を探っている。しかも佇んでいる位置は、狙撃を非常に受けにくい、考えつくした場所だ。仕留めるには、接近戦を挑むしかない。

足早に間を詰めながら、右手に毒を塗ったシミターを、左手に毒針を何本か引き抜く。これが何ももたらしはしない行動だと言うことは分かっている。だが、彼の雇い主を破滅に追い込んだ相手を仕留めるのは、人生の絶対命題であった。だから殺さなければならない。

彼は生まれて初めて、自主的な意思で人を殺そうとしていた。

跳躍。たかだかと舞い上がり、数本の毒針を投げつける。かすっただけで体内に入り、数時間もすれば命を奪う猛毒だ。女は軽く下がりながら全て身の丈以上もある長大な杖ではじきつつ、詠唱を開始する。させはしない。

「シャアッ!」

着地と同時に、低い弾道から飛びかかる。シミターで切り上げ、更に下がってかわす女に、勢いと遠心力をそのまま乗せた回し蹴りを放つ。風を抉り、繰り出される足が、頭を低くした女の髪を数本散らす。着地。反射的に、右腕を上げる。

もの凄い金属音がして、女が半回転して、杖を叩きつけてきた事に気付く。本能的に腕を上げなければ、頭を砕かれていたところだった。一瞬の均衡状態から、ゼクスははねとばされ、女も城壁に転がるように叩きつけられる。立ち上がるのは女が先だ。杖の先端を此方に向けたまま、するすると縄を取り出す。

何を企んでいるか分からないが、逃がしはしない。今の軽い攻防で、力量は分かった。術者としてどうだかは分からないが、近接戦闘でなら勝てる。叫びを上げながら、ゼクスは再び女に躍りかかった。

 

ゼクスは宝石ギルドに雇われた暗殺者だ。正確には、宝石ギルドの役員の一人が養っている存在で、私兵に近い。腕はかなりのもので、今まで任務に失敗したことは殆ど無い。かといって、殺しが好きなわけではなく、寡黙で任務を淡々とこなすだけが生き甲斐だった。

ゼクスは暗殺者だが博識である。宝石ギルドの内部人員構成は把握しているし、幾つかの宝石については作り方を完璧に覚えている。暗殺者には必要ない知識を多数持っているのには、理由がある。彼を養っている貴族オルランドゥ伯は、失った子供の代わりのようにゼクスを考えているようで、様々な教育を施してくれたからだ。

ゼクスは彼女から、この国の歴史と、自分たちの存在意義を、何度となく聞かされ続けてきた。

この国はこれまでドムハイトとあらゆる面で熾烈な争いを繰り広げてきた。大戦時はそれが武力に限定された感があるが、それ以前では経済面でも激しい争いが行われたのである。

現在でこそ、ドムハイトは武力以外でシグザールと争う気を無くしている。だが、シグザール側としては、ドムハイトをはじめとする、ありとあらゆる敵を想定しなければならなかった。これは、総合的強者の余裕から来る行動である。

こうして、宝石ギルドを作る時に、シグザール王国はその特殊護衛部隊を設立した。それが長い時が過ぎる内に、いつのまにか暗殺部隊に変わっていった。宝石ギルドに都合が悪い事をする貿易商を暗殺したりもしたし、アカデミーに進入してイングリドを狙ったのもこの部隊である。もっとも、アカデミーに三度にわたって侵入した暗殺部隊はそのたびにほぼ全滅。生き残ったのはゼクス他二人しかいなかった。

最近では国が人員面での支援をしてくれることもなくなりつつあり、兵員の補充がままならなくなってきていた。その分ゼクスの負担も大きくなり、色々なことも今まで以上に知るようになってきた。宝石ギルドの体制が腐りきっていることや、内外から恨みを買っていること、それにどう頑張っても、もう長くは保たないこともである。それに抗うために、ゼクスの親代わりの貴族は、必死に働いていた。ゼクスも、それに殉じるつもりだった。なぜなら、オルランドゥ伯に、全てを捧げると決めていたからである。

 

間合いを詰める。勝てるとは分かったが、ゼクスにとってもあまり状況は有利とは言えない。ここに来る途中で、警備兵を一人斬った。そのため、いつ騒ぎになってもおかしくないし、そうなったらアウトだ。この女は倒せるかも知れないが、彼も生きて此処を抜けられはしないだろう。

女が縄を城壁上に投げ捨てた。何をするつもりか分からないが、この女はかなりの使い手で、無駄なことをしているとは思えない。ひょっとすると、仲間に何かしらの合図をしているのかも知れない。

再び躍りかかる。女が壁に寄った。壁に身を寄せたことで、女が攻撃を受ける範囲が狭くなるが、その程度は関係ない。再び毒針を投げつけ、杖を回して防ぐのを見ながら、真横に跳躍。壁を蹴り、人体より高く躍り上がりながら、続けて毒針を投げつける。たまらず女は横っ飛びに転がって逃げる。針が数本掠めるが、肌を傷つけることはない。なかなかやる。城壁の上で、針が火花を散らし、跳ね返った。

着地と同時に、次の毒針を取り出しながら駆ける。女は杖を持っていることから言っても、多分能力者だ。戦いが長引くとまずい。

一気に、城壁の真ん中で立ち上がろうとする女に間合いを詰め、上段からシミターを叩きつける。女が右手を突き出し、気合いと共に雷撃を放ってくるが、攻撃のタイミングを見切り、横っ飛びにかわす。そのまま兎に躍りかかる豹のように跳躍し、女のガードの上から跳び回し蹴りを叩き込む。ガードごと吹き飛ばし、女を壁に叩きつけた。くぐもった悲鳴を上げる女に、更に毒針を投げつけ、必死に杖で防ぐところに、更に上から両手でシミターでの一撃を叩き込む。

女が片膝を着いたまま、杖を横にして、刃を防ぐ。背後は壁。つまりは詰みだ。そのまま体をのけぞらせ、口から含み針を叩きつける動作に入る。指ほどしか長さがないが、訓練を受けているゼクスなら、一撃で失明まで追い込むことが出来る。この距離なら、脳まで針を通すことも出来る。杖で防ぐことも出来ない。今まで重ねてきたように、今回もゼクスの勝利が確定した。そのはずだった。

「詰みよ」

「!?」

女の不可解な言葉と同時に、体ががくんと後ろに引っ張られた。首に、顔に、腕に、足に、不自然な力が掛かっている。含み針を吹き付けるどころか、体勢を崩してしまう。女ははじかれたように立ち上がると、ゼクスの顔を左手で掴んで、顎に飛び膝蹴りを叩き込んできた。脳天に火花が散り、激しく横転するゼクスを、縄が独りでに縛り上げていった。しかも、俗に言う本縄である。呻き声を上げるも、逃げられない。取り落としてしまったシミターが遠くに蹴飛ばされる。城壁の上に、毒が何カ所か飛び散った。

女が掌を向け、容赦なく雷撃を叩き込んできた。全身に走る痛みに、ゼクスはくぐもった悲鳴を上げた。更に一撃、もう一撃、容赦なく続けて一撃。女の容赦ない連続電撃に、完全に抵抗能力を失った。

女は髪をかき上げながら、呼吸を整えていく。喧嘩慣れしているなどと言うレベルではない。ベテランの冒険者並みか、それ以上だ。手加減していたとは思えないが、最初から冷静にこのチャンスをうかがっていたのは間違いない。しかも、ゼクスに気付かれないようにだ。やはり此奴が宝石ギルドを罠にはめた犯人で間違いない。ゼクスの目の奧は、憎悪で真っ赤になった。

「皆殺しにした盗賊の生き残りかな?」

「……」

黙っていると、いきなり女は鳩尾に蹴りを叩き込んできた。体重が乗った、重い蹴りだった。胃を潰さないように手加減しながらも、最大限の痛みを打ち込んでくる。

「もう一度聞く。 殺し合いを挑んできた理由は、貴方が、あたしが皆殺しにした盗賊の生き残りだからかな?」

再び黙っていると、女が詠唱を始めた。正当防衛だと理由をつけて、殺すつもりだろう。手の中に毒針を一本仕込んである。投げることは無理だが、縄を斬ることだけなら。

だが、勝手に縄が動いて、更に厳重に手首を絞り上げる。針を取り落としてしまう。

複数の足音が響く。警備兵どもが来たのだろう。万事休すだ。せめて含み針をと思ったが、女は立ち位置を工夫して、絶対に針が届かない位置に陣取っている。さっきの動作だけで、切り札が含み針だと読まれたに違いない。殺されることを覚悟し、ゼクスは目を閉じた。女が詠唱をやめ、近くで立ち止まった警備兵共に状況の説明を始める。と同時に、何の前触れもなく頭に蹴りを叩き込んできた。ゼクスは、意識が落ちるのを感じた。

 

ゼクスには、慈母の思い出がない。専業暗殺者は、ほとんどろくな人生を送ってこなかった者達だが、彼もその例に漏れない。彼は辺境の出身で、実の両親に、人買いに売られた。ザールブルグ周辺ではまずない事態。だがドムハイトとの取引があるような辺境では、人買いは跳梁跋扈している。そんな悲劇の主人公になった理由はよく分からない。ただ、売られた時には、それほど悲しくなかったような気がする。子供の頃から、実の両親とは全ての意味で馬が合わなかったのかも知れない。

ドムハイトに売り飛ばされた彼は、でっぷり太った地主の元で、奴隷としての労働に酷使された。ドムハイト人は元々シグザール人を同格の存在などとは思っておらず、彼を如何に酷く扱うかが、「ドムハイト人の誇り」につながるとさえ信じていた節がある。食物は家畜の餌と同じで、同年代の子供達は見つけ次第石を投げてきた。役立たず、屑と毎日のようになじられ、感情が徐々に無くなっていった。

体力が残っている内に脱走を決意したのは、凄惨な事件が発生してからだ。同じように奴隷労働をしていた子供が、空腹に耐えかねて保存食に手を出した。彼はその夜の内になぶり殺しの目に遭い、死体が豚小屋に捨てられた。役人さえ、それをとがめなかった。豚は雑食性で、基本的にどんな餌でも食う。もちろん、人肉もだ。死体は腹を減らせた豚によって、見る間に食い散らかされていった。シグザール王国出身と言うだけで、同じ目に近いうちにあうと悟ったゼクスは、何人かの同じシグザール出身奴隷達と逃げ出した。リーダーシップをとったのは何歳か年上の少女で、彼女に導かれて、ゼクス達は闇夜を逃げた。

血相を変えて大人達は追ってきた。一人掴まり、二人掴まり、魔物に殺されもして、やがてゼクスと少女だけが生き残った。彼方此方逃げ回る内に、峡谷に入り込み、夜明けを迎えた。

ゼクスは見た。大人達が、鬼のような形相で、得物を構えて追ってきた。しかもその武具には、血がこびりついていた。逃げ遅れた者達がどうなったのかは、明らかだった。自分も怖いだろうに、岩陰に隠れたキリーという名の少女は、必死にゼクスを抱きしめてくれた。

「どこだ! どこに隠れた!」

殺意を含んだ声。声を張り上げるのは、ずっとキリーを虐待していた男だった。当時は分からなかったが、今思えば、どうも性的な虐待も加えていたらしい節がある。手には分厚い血塗られた鉈が握られている。太陽も、決してゼクスの味方にはなってくれなかった。神も、ゼクスを見捨てた、

味方になってくれたのは。人間だった。

大人達の息づかいが、間近に聞こえてくる。もうすぐ側を歩いている。農作業で日焼けした手が、近くの岩に掛かる。もう駄目かと、観念した瞬間であった。

おびえの声が走る。太陽光を浴びて、佇む無数の騎兵。その先頭に立っているのは、青い鎧を着た、背の高い女だった。

女が剣を振り上げると、騎兵達が一斉に槍を構える。大人達が、武具を捨てて我先に逃げ出す。激しい馬蹄の響き。

助かったのだと、このとき、ゼクスは知った。そして、彼を虐待していた大人達が、如何にあっさり死ぬのかも。恐ろしくて逆らえなかった相手も、みな騎兵の槍で一突きだった。

二人は騎士の家に引き取られた。少女は騎士に憧れたらしく、同じ道を志すべく、屯田兵になると熱っぽく語っていた。ゼクスはシグザール軍に救われたと言うことが複雑で、騎士にも結局なつかなかった。少女には騎士がヒーローのように見えていたらしいのだが、ゼクスにはそう楽観的に考えられなかった。ただ、恩そのものは感じていたから、騎士の家ではおとなしくしていた。

やがて騎士は任務で命を落とした。既に屯田兵見習いとして働き始めている少女が葬式で涙を流すのを横目に、ゼクスは家を後にした。騎士が自己満足したいというのは分かっていた。義理は果たしたと思った。だから養子という話を蹴って家を出たのだ。ひょっとすると、ゼクスは生まれつき愛情を感じることが出来ない体質だったのかも知れない。それで、実の両親に放り捨てられたのかも知れない。

自分に対する憎悪で、体がやけそうだった。幼くして、ゼクスは自分を世界でもっとも憎んでいた。自殺しようとまで思ったが、結局空腹には勝てず、どんな汚い仕事でもするようになった。そう気付くと、腸が煮えくりかえるような激情が、ゼクスの全身を包んでいた。

それから色々な所を渡り歩き、最終的にはオルランドゥ伯の家に落ち着いた。何でも良いから雇って欲しいというと、目元に小じわが刻まれ始めているオルランドゥ伯は、快諾してくれた。

オルランドゥ伯は、宝石ギルドの顔役だった。シグザール王国で、もっとも黒い噂が絶えない場所の顔役である。これで闇にどっぷり浸かることが出来ると思って、ゼクスは安心した。此処なら多分、すぐに死ぬことが出来る。

だが、彼の望みと裏腹に。待っていたのは、あの騎士の時以上に、温かい世界だった。

オルランドゥ伯は、長い間じっくり時間を掛けて、ゼクスを理解してくれた。愛情を押しつけるのではなく、理解を主体に、ゼクスを一人の人格として認めてくれたのである。それは本当に温かかった。毛布に包まれているようで、いつしか心の闇が揺らぐのを、ゼクスは感じていた。

いつのまにか、ゼクスはオルランドゥ伯に、恩義以上のものを感じるようになっていた。大人になった頃には、この人のためになら、死んでも良いと思い始めていた。子を病気でなくしたというオルランドゥ伯も、そのゼクスの感情を喜んでくれているようで、嬉しかった。

不意に顔に冷たい感触。目が覚めて、視界がクリアになってくる。

牢だった。下着だけの姿にされて、両手を万歳するような形で、壁の手錠につながれている。両足もだ。目の前には、椅子に座った男がいる。見たことがある。ザールブルグの警備隊を統括する隊長だ。階級は確か大佐だったか。その隣には、髪の長い、嫌に童顔で小柄な女騎士がいた。女騎士は、ばかでかいバトルアックスを背負っている。

「あのマリーに、一人で戦いを挑むとはねえ。 バカな奴ね」

「マリー、だと? あの噂の、鮮血のマルローネか」

聞いたことがある。アカデミーから期待されている新鋭の錬金術師。辺境のグランベル村出身で、同村から成り上がったドナースターク家とも太いパイプを持っている女。天才とも言われているが、同時に獰猛なまでの狂気を内包しており、実験のために人を殺す事に何のためらいもないという。盗賊団を自作の殺戮兵器で皆殺しにしたことが実際にある他、恐るべき逸話は枚挙にいとまが無い。ザールブルグの闇に関わる人間なら、誰もがその名を聞いて震え上がる。ドナースターク家発祥の地であるグランベル村も恐ろしい使い手が揃っているとかで、報復のために近づこうという者は一人も居ないという。

だが、奴はあくまで錬金術師であり、他の分野ではさほど積極的ではないと聞く。それなのに、何故宝石ギルドを罠に掛け、潰すような行動をとった。絶望を一度経験したからか、却ってゼクスの思考はクリアになっていた。警備隊長が、ちらちら此方に視線を向けながら、女騎士に言う。

「聖騎士カミラ様、此奴は宝石ギルドトップの暗殺者、どんな隠し弾を持っているか分かりません。 お気をつけください」

「だから面白いんじゃないの」

意識がクリアになってきて、状況が分かってくる。

全身は手ひどく痛めつけられていて、すぐに動けそうにはない。さっきの電撃はかなり手加減されていたのだろうが、それでも体の自由は当分効かない。それに、目の前のこの童女のような騎士も、マリー以上の使い手だ。だてに聖騎士と呼ばれていない。しかも近接戦闘タイプ。戦いになったら、一瞬で首をはねられるだろう。

さっきのマリーは、まだ遠距離支援型だったから、戦いようがあった。だが、近接戦闘型はゼクスがもっとも苦手なタイプで、戦っても万が一にも勝てはしない。ゼクスの苦悩を敏感に感じ取ったらしく、女は甘ったるい声で言う。

「宝石ギルドがどうなっているか、教えてあげましょうか?」

「……!」

「たとえば、オルランドゥ伯だけれども、どうなったか知りたくないの?」

女は此方の反応を見ながら、面白そうに状況を話し始める。猫がネズミをいたぶるような感覚で、此方をもてあそんで楽しんでいるのだ。多分、ゼクスのことは事前に調べが付いていたのだろう。

「昼過ぎ、全ギルド施設に、騎士団一斉突入。 丁度貴方が包囲網を抜けた直後ね」

ぐっと歯を噛んで抑えるゼクスに、カミラとか言う聖騎士は続ける。ギルドの全幹部はその場で拘束。すぐに騎士団の詰め所に連行された。爵位を盾に抵抗しようとする者もいたが、何しろ踏み込んできたのは騎士団長エンデルクである。後ろにヴィント国王がいるのは明白。すぐに、抵抗は止んだ。

抑えられたギルドの中には、犯罪行為の証拠が山と残っており、騎士達を唖然とさせた。宝石を作らされていた職人達は、いずれも餓鬼のようにやせこけ、手足に鎖をつけられて、囚人以下の扱いを強いられていた。また、地下牢には拷問を受けた人間が何名も放り込まれており、中には死体が積まれた部屋さえもあった。「仕事部屋」では糞尿が垂れ流しにされていて、ネズミが白昼彷徨き回り、油虫が壁を這い、食事は腐臭をたてていた。見つかった書類の中には、禁止されている人身売買の証拠や、ギルドに都合が悪い人間を消すように指令したものまでもがあった。

騎士団はすぐにそれを発表。ギルド幹部は複合重犯罪の実行指示犯として全員が爵位を剥奪。それぞれが別の牢に入れられ、現在尋問の最中だという。中にはドムハイトの宝石ギルドと情報交換していた証拠書類もあり、今後はますます取り調べが厳しくなるのは間違いないという。

それらは全て事実だと、ゼクスは知っている。だが、ゼクスにも、言い返したいことがあった。

オルランドゥ伯はずっと苦悩していた。元々彼女は国に対する忠誠心が篤く、まじめだった。嫌々ながらもダーティワークに手を染め続けたのも、それがシグザール王国のためになると考えたからだ。彼女は常々言っていた。ドムハイトとの戦いは、止んだようでもいつ再開されるか分からない。戦いがまた始まる時に備えて、経済面でも出来るだけ差をつけておかねばならない。

だが、そんな彼女も、ギルドが腐りきっていることは分かっていた。だから出来るだけ内部から改革しようと、苦労に苦労を重ねていたのだ。それは孤独な作業だった。それを十何年も続けた、彼女の全てが否定されるのが、ゼクスには許せなかった。たとえ、改革者としては、伯爵が無能であったとしても。

オルランドゥ伯は、破滅が近いことを知っていた。騎士団がギルドを包囲した時、すぐに彼女は、ゼクスに逃げるように言った。ゼクスは彼女を連れて逃げようとしたが、拒否された。誰か責任をとらなければならないと、彼女は言った。だから外に出たゼクスは、この一連の事件の統率者を捜すべく、街を駆けた。そいつを倒さなければ、オルランドゥ伯は助からないと、ゼクスは思ったのだ。

闇に半身を浸してきたゼクスは知っている。こういった大規模な事件の黒幕は、必ず一連の動きを見届けたがるのだと。忍び込むのが難しい城は後回しに、まずは見晴らしが良い尖塔や城壁を探った。そして、あの女、鮮血のマルローネを見つけたのだ。

「オルランドゥ伯に心酔しているのね。 ふふふ」

ゼクスは応えない。だが、相手に対して、始めて感情を見せてしまった。最悪の失敗だった。多分、憎悪がこもった視線を向けてしまったのだろう。カミラの瞳に、ゼクスでさえ息を呑む高密度の闇が宿った。

「おおこわ。 怖いから、お仕置き」

ずぶりと、いやな音がした。下を見て、知る。立ち上がったカミラが人差し指をゼクスの体に刺し込んだことを。まるで抵抗なく、指は皮を裂いて心臓の下、肋骨の間に潜り込み、動脈の間近で止まっていた。

その気になれば、即座に殺すことが出来る。カミラの表情は、それを物語っていた。更にもう一本の指を並べて差し込むと、万力のような力で、肋骨を上下に開き始める。たまらず絶叫するゼクスに、カミラは言う。怒りからか、口調までもが変わっていた。

「まず第一に、今後私に逆らうことはゆるさん。 私に口答えしたら、オルランドゥ伯が、これと同じ目に遭うと思え」

めりめりと、肋骨が上下に広げられていく感触。しかも抵抗どころか身動き一つ出来ないのだ。恐怖と絶望で、ゼクスは、小便を漏らしそうだった。恐怖に屈しそうになるが、訓練を受けているゼクスは、必死に耐え抜く。どうせ屈すれば、伯爵も同じ目に遭うのだ。

暗殺者として、ゼクスは二流だと何度もオルランドゥ伯に言われた。だが、それは人間らしさを残しているからだとも言われた。そして伯爵は、そんな自分を家族として受け入れてくれた。伯爵を死なせるわけにはいかない。だから、拷問には屈しない。カミラはそんな決意を踏みにじるように、更に力を込めて肋骨を押し広げながら言う。

「第二に、マリーへの手出しは許さん。 あいつは競合相手とはいえ、今後我々の有力な技術供給源となりうる相手だ」

ごきりと嫌な音がして、上下に圧迫されていた肋骨が、二本同時に折れた。傷ついた血管から鮮血が吹き出す。力尽きたゼクスは、声もなく、ぐったり頭を下げる。蒼白になっている警備隊長に、カミラは言った。

「例の薬を投与しなさい。 小さじ四杯」

「ち、致死量ですが、いいのですか?」

「かまわない。 こいつはそれなりの訓練を受けているし、一般人の致死量くらいなら耐えられるでしょうしね。  それにどのみち、此奴は死刑になるはずの男よ。 人体実験にくらい役立って貰わなければ、無駄になってしまうでしょう」

「はっ……」

カミラという女は、あのマリーと同じ臭いがした。自分とは比較にならないバケモノ達が、歴史の裏でうごめき始めている。ゼクスは戦慄した。

粥が運ばれてくる。抵抗しようとすると、鼻を掴まれた。こうすると、構造的に口に入れられたものを飲んでしまう。舌を噛もうとしたが、手慣れた様子で、頬を別の奴に挟まれて、防がれてしまう。

粥を注がれる。吐き出そうとするが、それも出来ない。絶望の中、ゼクスは全てを呪った。意識を奪われていく。脳が、虚無に浸食されていった。体に力が入らない。力が抜けて、全てが溶けていく。全身が水の中に沈み込み、全てが分解されていく。おぞましい感触にむしばまれながら、ゼクスは絶叫した。

ほどなく、ゼクスの意識は、消えた。

 

カミラが王宮の一室へ入ると、其処には今回の事件の責任者達が顔を揃えていた。ソファに腰掛けているのは、不機嫌そうな騎士団長エンデルク。向かい合って座っているのは、ヴァルクレーア大臣。対角線に座っているのは、アカデミーの実質上の支配者であるイングリド。そして、ドナースターク家の家長であるトール=フォン=ドナースタークである。四人の重要人物が、中央の四角いテーブルを挟んで、総対角に座っているわけだ。エンデルクの後ろにカミラが立つと、ヴァルクレーアは言う。

「これで、最初のゴミ掃除は終わったな」

「捕縛目標は全員抑えました。 ギルドが軟禁していた職人達も、ほぼ全員の救出に成功しています」

エンデルクが、自らの戦果を誇る。確かに彼の動きは見事だった。問題はこの後だが、それも整備してある。

宝石ギルドからの収益は、過剰な中間マージンの存在で落ち込んでいたとはいえ、販売部門など、活用できる部分は多い。その組織を全て無駄にしてしまうのはもったいない。誰か出資者が現れて、外側から肩代わりする必要がある。それを申し出たのが、近年著しい成長を見せているドナースターク家。

もちろん当初は完全に赤字決定だが、最終的な利益を考えれば、これは美味しい。スポンサーには、アカデミーも名乗り出ている。アカデミーは今回生け贄を提供してくれただけではなく、新生ギルド運営にある程度出資してくれることも決まっている。

そして、新ギルドの上納金額比率についても、既に取り決めがかわされていた。今回それを再確認するわけだが、アカデミーは元々宝石製造技術の錬金術応用にしか興味がないらしく、交渉はドナースターク家に一任されていた。トール=フォン=ドナースタークは今までの契約で問題ないと剛腹な所を見せ、即座に交渉は円満終了。握手するヴァルクレーア大臣とトール氏を見ながら、カミラは微笑んでいた。

また、これで野望に近づく。こいつらは誰もが簡単に操れるような愚物ではないが、それでも時間を掛けて傀儡化してやる。物事の中心には、常にカミラがいると、思い知らせてくれよう。

そしてヴィント王が死んだ時には。この国はカミラの物となっているのだ。

雑談に移る。元々トールと関係のあるエンデルクが、カミラに気になることを言った。

「それにしても、この作戦の提案を行ってきたのは、あのマルローネ君であったか」

「その通りです。 錬金術だけではなく、将来有望な子です」

自分の娘のことのように喜ぶトールに、ヴァルクレーアが横から口を突っ込む。

「何を言われる。 作戦の具体案を詰めたのは、貴方のご息女でありましょう」

「ははは。 よくご存じでしたな。 この年になって分かりますが、我がグランベル村を、ドナースターク家を将来両翼となって支える者達の成長は、自分の事のように嬉しいことなのですな」

トールが親ばかを前面に出して誤魔化すが、カミラは渋い表情をかみ潰さなければならなかった。あの無駄がない作戦案を出したのが、マルローネではなく同年代の娘だというのは、面白い事態だとは言えない。トール自らが考えたと思っていたのだが、違ったわけだ。奴と同等の政治的頭脳を持つ相手が一人控えていると考えなければならない。将来危険なライバルになる可能性もある。早めに目をつけて置いた方がよいだろう。

それにしても。カミラと同世代の天才が、これでまた一人「現れた」ことになる。この国は人間の数が多く、人材が取り立てられることもまた多い。天才が出現する条件は揃っているが、しかしこうも短期間に出てくるのはどういう訳か。そういえば、今涼しい顔でミスティカ茶を飲んでいるイングリドも、同世代に非常に強力なライバルを抱えていて、それで偉くなることが出来たのだという。天才という人種は、短期間同地域に集中するものなのかも知れない。

そのイングリドが、不意に挙手する。

「ところで、私から提案が」

「はあ、何ですかな」

「マルローネのことなのですが、本人は金銭的な報酬を望まないでしょう。 その代わりと言っては何ですが、王立図書館への出入りを認めていただきませんでしょうか」

「ほほう、なるほど。 確かに今回の功績を考えれば、王立図書館への出入りも必要になってくるかも知れませんな」

王立図書館は、言うまでもなく国が出資して作った巨大図書館だ。ザールブルグの名物の一つで、王宮の側に建造されている。入り口部分の、さほどレアリティの高くない本類は誰でも閲覧することが出来る。だが今此処で話題にしているのは、王家秘蔵の重要書類が収められた地下部分の閲覧権限だ。此方は重厚な魔術防御が施されていて、簡単には入れない。

ヴァルクレーアは太い指を顎に当てて考えていたが、やがて頷いた。考えていることは分かる。この男は将来の有事に備え、マルローネとパイプをつないで自分の戦力に加えようとしているのだ。カミラとしても、もう少しパイプを太くして置いた方が良さそうだ。トールの娘とも、連絡を取った方が良いかも知れない。

僅かばかりの会話にも、膨大な情報が含まれる政治闘争の場にカミラはいた。やがて会議はお開きになり、カミラはエンデルクと、宝石ギルドの幹部達の尋問に赴く。もうあらかた始末は済んでいるが、これから使える奴とそうでない奴を分別しなければならない。エンデルクに最高幹部は任せておいて、自分は地下牢に赴く。そこでは、オルランドゥ伯ファーレンが、しめった石造りの牢の中で神妙にしていた。両手両足が錠で壁に固定され、苦しそうである。

孤独な戦いを十年以上も続けてきた、宝石ギルドの暗部を司る人物が、彼女だ。そろそろ老境に掛かろうかという年だが、いまだ美しさは衰えていない。ただ、銀髪は乱れがちで、捕らえた時に着ていた執務服は彼方此方破れている。やせ気味の彼女の顔には、隠しきれない疲労が浮かんでいた。

「ご機嫌いかが、伯爵」

「最悪です」

伯爵は此方を見もしない。結構。それくらいの度胸でなければ、カミラとしても面白くない。

「ゼクスを捕らえました。 今痛めつけている最中です」

「あの子は何も喋らないでしょう。 私を拷問しても、結果は同じです」

「でしょうねえ。 ですから、お薬の力を借りることにしました」

カミラのサディズム溢れる言葉にも、伯爵は表向き心を動かされはしなかった。だが、カミラは敏感に悟っていた。彼女の心は揺らぎ始めている。こう言った時は、根比べだ。少しずつ精神的に痛めつけていき、やがて全てをゆだねるように持っていく。そして最終的には、シュワルベのように、手駒にする。

この女は使える。無能ぞろいだった宝石ギルドの幹部が、これだけ強固な闇の勢力を維持することが出来たのは、先人の遺産だけが要因ではない。皮肉なことに彼女のおかげだった。国を思い、経済的にこの国を強くしようと考えたこの女は、結果としてぐらついていた宝石ギルドの寿命を延ばしてしまった。逆に言えば、部下にすれば実に使える駒となる。ただ、使いこなすのは難しいだろう。また、改革者としては無能だから、他の方向で使うことを考えなければならない。

「貴方は何を望んでいるの? まるで子供のように」

不意にファーレンが言う。温厚そうな中年の婦人の瞳に、カミラではまだ知らない炎が宿る。

カミラは周囲には滅多に見せないが、本来は気が短い。昔はそうではなかったような記憶もあるのだが、最近は加速度的に精神が不安定になってきている。特に格下に侮られると、尋常ではないほどに精神の沸点が低くなる。カミラは冷静にファーレンの能力を分析していた。だから自分より格下であり、故に部下に使えると思っていた。それが、一丁前に、自分から口をきくとは。

口から漏れた言葉には、氷点下の殺気がこもっている。一緒に来た騎士が、小さな悲鳴を上げた。百戦錬磨の騎士のはずだったが、強い者ほど、異常な殺気には敏感だ。

「何だと?」

「子供だと言ったのです。 貴方は容姿だけではなく、その心まで、まるで子供のようだわ」

暴風が荒れ狂ったのは、直後のこと。牢の入り口となっていた鉄格子は一瞬遅れて木っ端微塵に吹っ飛び、今までずっとそうしていたかのように、バトルアックスをカミラが振り抜いていた。格下に洒落臭い口をきかれるだけではなく、子供子供と連呼された。殺意を抑える理由など、どこにもない。いつもは冷静な策略家が、数万の兵でも落とせなかったドムハイト軍の要塞を一夜にして滅ぼした悪魔の頭脳の持ち主が、一つの火の玉と化している。

だが、ファーレンは恐れない。百戦錬磨の猛者が、猛り狂っているのに、恐れない。何故だ。理解できぬからこそ、更に怒りが燃え上がる。

「殺すなら殺しなさい。 でも何度でも言わせて貰うわ。 貴方は子供よ。 たまたま優れた力と頭脳を手にしたかも知れないけれど、多くの人を操って、様々な恐ろしい災いをこの国に、いや世界に呼ぶかも知れないけれど。 でも、貴方が、貴方が望むような大人となる日は、来ない……」

ファーレンはカミラが何をしたのか分からなかっただろう。カミラは指先で、ファーレンの額をはじいただけだ。だがファーレンの頭は鉄棒で殴られたように激しく後ろの壁に叩きつけられ、瞬時に意識を失った。元々カミラは近接戦闘を得意とするタイプの能力者である。その能力は常時身体極限強化。常に魔力を消耗する燃費の悪い強化方式だが、全身をまんべんなく強化するために隙が無く、生み出すパワーと破壊力は比類無い。能力を完全に使いこなせるようになったのは数年前とキャリアは浅めだが、産まれ持った高い戦闘センスと、容赦のない性格が組み合わさる時、それは血の雨を降らせる。現に今も、一般人であるファーレンに全く手加減していない。

「水を掛けろ。 汚水でかまわん」

「は、はっ! しかし、相手は伯爵ですが」

「元伯爵だ元伯爵! 早くしないと、貴様をこの元伯爵の代わりに細切れにするぞ!」

それを本気で実行しかねないと悟った騎士は真っ青になり、すぐにバケツをとってきた。泥水を引っかけてやろうかと思ったカミラだが、より残虐な報復を思いつく。カミラの自意識は肥大化を続けている。巨大な作戦を実行する内に、いつか彼女はその心を子供のまま、巨大にふくれあがらせていた。それは思い上がりに似ているが、微妙に違うものであった。

言うならば、邪悪。

その日の内に、オルランドゥ伯ファーレンはどこかに護送された。そして彼女を見たものは、今後現れることがなかった。

 

3,紅玉

 

騎士団の事情聴取からマリーが開放されたのは、夕方であった。うかつであったとしか言いようがない。敵を舐めすぎていた。犯人が犯行現場に戻ってくると言うのは捜査の基本である。敵も人間である以上、それを読んで動く可能性があったのに、すっかり失念していた。帰ったらシアにお灸を据えられるかも知れない。マリーもまだまだ、修行が足りない。足下を掬われたも同然だった。反省しなければならないだろう。しばらくはアデリーの身辺に注意しなければならない。

アトリエには尋問の最中騎士団の精鋭を回して貰っていたが、最初から心配はしていなかった。暗殺者という人種は、世間一般で考えられているほど強くない。特にきちんと修練を積んだまともな戦士は、天敵といって良い。小手先の技は、戦で培った経験とパワーの前には塵芥に等しい。騎士を回して貰うまでもなく、アトリエにはミューもいるはずで、その点は全く心配していなかった。事実、アトリエに着くと、無事なアデリーがマリーを出迎えた。無事ではあったが、不安が露骨に顔に出ている。

「お帰りなさいませ、マスター」

「お帰り、マリー。 何だか大変だったんだって?」

「ただいま。 まあ、なんて言うか、疲れたわ」

マントをアデリーに預けながら、椅子に腰掛ける。まだ残っていてくれたミューは、アデリーの出した茶をすすりながら、言った。

「また、実験のために必要なことなの?」

「そ。 あたしとしてはそうだけど、国もアカデミーも利害が一致したから、一緒に動いただけ」

「何だかおっかないなあ」

「何を今更。 所詮は修羅の道よ」

言うまでもないことだが、新薬の開発には、膨大な被検体が必要になってくる。対人兵器だって同じ事である。生きている縄などは、今までに何度も実戦に投入することで、飛躍的に性能が向上している。それに対して、クラフトは実戦投入経験が少なく、当初の破壊力のままだ。結局の所、何か新しい力を得るためには、犠牲が必要なのである。今回はたまたま、それがどす暗い人類の罪業と重なっただけだ。

ともかく、今回の一件が片付いたことで、宝石の加工技術が手に入る。これでより高度な魔術的な要素を含む、錬金術アイテムを作ることが可能になり、更に作業の幅が広がる。手始めに、作ってみようと思っていたものがあった。

「ミュー」

「ん? 何?」

「体が温まる道具、欲しくない?」

マリーの言葉に、きょとんとしたミュー。隣で蒼白になるアデリー。勘が良い子だ。多分錬金術で作った道具の実験台にしようとしていることに気付いたのだろう。

「わ、私が」

「別に良いよ」

言いかけるアデリーに、ミューがさらりと返答する。

「マリーの道具って、効果は確かだし」

「よく分かってるわね。 まあ、体に害があるようなものは作らないわよ」

「期待してる」

立ち上がったミューは、アデリーの耳元に何かささやくと、アトリエを出て行った。流石にマリーも、唇は読み切れなかった。

 

マリーがアカデミーに呼ばれたのは、翌日のことだった。アカデミーに顔を出すと、イングリド先生の教室ではクライスを含む見習いの錬金術師が何人か集まり、小声で会話していた。見習いといっても、いずれもマイスターランクの生徒達である。かなりの素質を持つ者ばかりだ。

「良く来ました、マルローネ」

「はい。 それで、今日はなんですか?」

「薬を作ってきて欲しいのです」

「? は、はあ」

小首をかしげたマリーに、イングリド先生は言う。

宝石ギルド壊滅の結果、アカデミーの保護下に、百人を超える職人が保護された。彼らはやせこけ衰弱しきっており、施寮院にすぐに送られたが、何人かは今も危ない状態にあるという。また、ギルドの囲っていた暗殺者や私兵の抵抗により、兵士五名が死亡、十二人が怪我をした。彼らもまた施寮院に収容されている。

そこでアカデミーは先行投資をかねて、彼らの全面的なバックアップに乗り出したのだそうだ。

「分かっての通り、今私は事後処理で動けません。 さらに今はシグザール王国軍が戦に備えて薬剤や武具類を揃えているため、職人達を救うにも手が足りません。 そこで、貴方をはじめとする数人に、薬剤製造を行ってもらおうと思いましてね」

意味が分からずに小首をかしげていたマリーだが、受けないという手はない。というのも、イングリド先生が指を鳴らすと、痩躯の若者が、奥の部屋から出てきたからである。黒髪で小柄な彼は、ほお骨がでていて、目つき鋭く、口を開いたことがあるのか疑問なほどに音と無縁だった。

「代わりに、彼がギルドの技術の一部を提供してくれます。 グライルフ、挨拶しなさい」

「グライルフだ。 あんた達に助けて貰った恩は感じている。 親父はあと一日突入が遅れたら、死んでたと思う。 だから、俺の知っていることなら、何でも教える」

案の定、片言気味の言葉。すぐにマリーは協力を申し出、それに遅れじと他の錬金術師達も続いた。すぐに彼を中央に輪が出来、周辺から質問が飛ぶ。流石マイスターランク、質問のレベルはかなり高い。だが、グライルフは、少し困ったように言った。

「悪いが、俺に難しいことはわからねえ。 魔力ってものがあるのは分かるし、魔法陣の書き方だって知ってるが、理論なんかちんぷんかんぷんだぞ」

「あ、それは別にいいの」

露骨に軽蔑の表情を浮かべた他の錬金術師達と正反対に、目をどん欲に輝かせたのはマリーである。マリーに言わせれば、理論よりも実践である。何をすれば何が出来るという事実の蓄積によって得られた知識こそ、一番貴重なものなのだ。そしてこの青年は、過剰なほどの経験を積んでいること疑いなく、宝石加工の技術を身に染みつけていること疑いない。クライスは少し後ろで、様子を見守っている。

「魔法陣の書き方は後で見せて貰うとして、研磨剤をどう使ってるの?」

「研磨剤?」

「そう。 研磨剤をあなたたちって直に買うでしょ? どう使ってるのかずっと興味があったのよ」

「変わったことを聞くんだな」

グライルフが、どっかと床に腰を下ろす。彼の足は不自然に曲がっていて、ずっと鎖をつけられていたらしい足首は変色していた。

「ろくろにまぶして使うんだ」

「! それで、それで?」

円盤状の形を、グライルフは描いた。細い軸の上に乗った、円盤。それの上に、ルビーの原石をあてがうのだという。研磨剤は、ろくろの上に少し湿気を加えて撒くそうだ。

「俺たちがやらされてきた宝石の原石加工ってのは、色々細かいところで違いはあるにはあるが、どれも基本は同じなんだ。 こうやって、足でろくろを回すんだ。 速すぎても、遅すぎても駄目だ。 同じ速さで、ずっとまわさなけりゃならねえ。 それで長いこと長いこと、ひたすら磨き続ける。 魔法陣の上でそれを続けると、やがて石に特徴が見えてくる。 それに沿って、ゆっくり丁寧に磨いていく」

「そうか、そうだったんだ!」

「何がだよ」

「ん、いや、原石にずっと安定した摩擦を与えられる理論がどうしても分からなかったのよ。 長年の疑問が氷解したわ。 なるほど、円運動を利用していたのね」

そして、それなら奴隷労働を強いなければならなかった訳も分かる。

つまり、宝石の製造の肝は、長時間の安定した研磨にあった。それは円盤状のろくろによってもたらされたが、それを調整する人間にも大きな負担を強いたのである。多分、製造する量次第では、さほど無理はなかったのかも知れない。だが成果主義が宝石製造を地獄へと変えた。職人達は奴隷同然に扱われ、精神と肉体をすり減らしながら、宝石に人生を捧げていったわけだ。

労働者の体力と耐久力を無視した極端な物量作戦が、宝石ギルドの抱えていた、加工技術の秘密。理屈が分かってみれば簡単なことであった。しかし、いつでも理屈というのはそんなものだ。なるほどと気付かされると、次の瞬間には、何でそんなことも分からなかったのかとあきれてしまう事がままある。

問題はここからだ。

在庫があること、中間マージンが消えたことで、とりあえず新宝石ギルドは当面ある程度の利潤を見込むことは出来る。優秀で忠誠度の高い家臣をたくさん抱えているトール氏の事だから、マリーの予想よりもずっと大きな利潤を上げることが出来るかも知れない。

しかし錬金術ギルドの総力を挙げて宝石加工技術を改良し、奴隷労働ではない方法を開発しないと、すぐに大変なことになる。今は宝石のストックがある程度あるが、時間はそう残っていない。最悪の事態になれば、ドナースターク家は倒壊、アカデミーもそれに巻き込まれるだろう。

「宝石加工技術の改良は、ヘルミーナ閥に属する、あなたたちと別のチームが行います」

マリーの考えを見越すように、イングリド先生が言う。流石に、頭の回転は、マリーよりずっと速い。彼女はなおも続けた。

「今回の仕事は急ぎなさい。 薬剤が足りない状況に代わりはありません。 遅れれば死人が出ることも考えられます」

イングリドが指を鳴らすと、奧から無表情な少女が出てきた。クルスだ。どうやらこの娘は根っからの仕事好きらしいと、マリーは知っている。

ヘルミーナ先生の手紙を持ってきた時などは、それがよく分かる。アデリーと一緒に掃除をしていったりもするし、料理も結構上手だ。頼まれることなくそういった仕事をこなし、礼を言うと無機質な表情の中に僅かに歓喜を浮かべる。彼女は出入りしているイングリド先生のところで、時々仕事を手伝っているらしい。有能なので、イングリド先生も重宝しているのだろう。クルスに手渡されたリストを、最大限の速度で作るとなると、かなり大変だ。今は手が空いているとはいえ、多分徹夜が連続するだろう。

「その代わり、技術確立の暁には、最優先で提供します。 また、ジャンク品の宝石も、いくらか報酬として用意してあります」

これは約束通りだ。多分イングリド先生のことだから、マリーには一歩踏み込んだ事も教えてくれるだろう。彼女は厳しい人だが、こういった約束は絶対に守る。それに関する信頼は篤い。

リストを見る。作ったことの無い薬もあるが、名前を知らないものは一つもない。作り方もどうにか分かる。材料もストックを吐き出し、薬草屋を当たり、ピローネに手配すれば間に合うだろう。

「分かりました。 何とか間に合わせます」

「急ぎなさい。 薬は幾らあっても、多すぎるという事はないわ」

頷くと、マリーはすぐに研究室を後にする。続いたのはクライスだけ。マイスターランク出の他の連中には、まだまごまごしている者もいた。理論は知っていても、体を動かすことに関しては未熟なのか。現場を知らないエリートの体たらくかと一瞬思ったマリーだが、いや、そんなものなのだろうと考え直す。

たとえば、マリーは現場で敵をたたき殺すのは得意だが、じっくりネゴシエーションして犯罪を思いとどまらせるようなことは出来ない。アデリーとは長い時間を掛けて信頼関係を築いたが、それはあの子にはマリーしかいないという特殊な事情があったからだ。誰にでも、得意分野というものはある。マリーは何か道具を作り出すことは得意でも、豊かな精神性で誰かを慈しむことには非常に不向きだ。アデリーだって、一人前に育てようと考えていても、多分それは他の年頃の娘の愛情とは違う。他の人間なら、たっぷりの愛情で包み込もうと考えるだろう。

それは優劣ではない。差異に過ぎないのだ。

だから、それをどう利用するか考える方が、建設的なのである。

「ところでクライス」

「はい?」

「あんた、あの子を軽蔑してた?」

「いや、全く。 多分貴方と同じく、興味しか感じていませんでしたね」

なるほど、多少は手強くなってきたか。最初は苛立ちしか覚えなかった相手だが、最近は妙な親近感も覚えるようになってきた。

「な、何を見てるんですか」

「ん? ああ、エリートの割には現実的にものを考えられるんだなってね」

「そ、そうでしたか」

クライスが何故どぎまぎしているのか、マリーにはよく分からなかった。

 

すぐにアトリエに戻ると、カレンダーを確認。ピローネは明日来るから、回収期間を入れて五日後には材料が全て揃う。時間の掛かる薬剤から、並行で処理していかなければならないだろう。

仕事机に座って、渡されたリストを見る。栄養剤もあるが、問題はアルテナの聖水と呼ばれる薬剤だ。医療の女神アルテナの名を冠するだけあって、非常に強力な薬剤である。身体の生命力を極限まで強化するのだが、使いどころが難しい。無理に体を活性化させるため、寿命が縮む場合もあるらしく、取り扱いには細心の注意が必要だ。作るのに膨大な魔力が必要で、圧縮した高濃度の中和剤がいる。かなり手間である。

ストックしてある栄養剤は、少し古くなってきている。これは今回の仕事用だ。てきぱきと準備をするマリーを見て、アデリーは心配そうにしている。今は猫の手も借りたいのが本音であり、当然アデリーも活用したい。もちろん、利用する。使用人としてのアデリーに、働いて貰うのだ。

「アデリー」

「はい」

「急な仕事よ。 大きな事故が起こって、たくさんの怪我人が出たわ。 怪我人の中には、衰弱しきっている人もたくさんいて、薬が必要なの」

もちろん、難しい調合をさせるつもりなど無い。ただ、家事の類は全部押しつけることになるし、簡単で時間が掛かる調合も手伝って貰う。アデリーは静かな目でマリーを見ていたが、やがて言った。

「分かりました。 全力で手伝います」

「ん、ありがと」

「でも、聞かせてください。 本当のことを。 私、マスターの言うことだったら何だって聞きます。 でも、出来れば本当のことが知りたいです」

アデリーの表情からは、以前には無いものが伺える。以前は殆どが悲しみでしめられていたのに、最近は冷静さが加わるようになってきていた。マリーは少し嬉しくなった。アデリーは冷静にマリーの嘘を見抜いたのだ。この間から、急にしっかりして来たと思ったら、これである。これはもう、頭を撫でたりしたら失礼かも知れない。

「んー、そうか。 困っている人を助けるって言うのは本当だし、まあいいか」

含み笑いを押し殺しながら、マリーは説明する。この国に巣くったガン細胞である宝石ギルドのこと。それを壊滅させるべく、かなり大規模な作戦が進行していたこと。そしてマリーの作っていた大量の研磨剤が、その作戦の重要な鍵であったこと。

そして、作戦は成功。宝石ギルドは滅び去ったと言うこと。

これが一種の権力闘争の結果であると、マリーは敢えて言わない。いきなり全部の真実を告げるのは早計に思えたからだ。アデリーがどれだけ理解できるのか、少しずつ見極めていかなければならない。

「この間の、帰りが遅くなったのも、それが原因ですか?」

「そ。 残党に襲われたから、半殺しにして騎士団に突きだしてきた」

拷問をしたとまでは言わない。それを聞いて、アデリーは冷静さを少し失い、悲しみを浮かべる。きっと、その残党がどういう目にあったのか、おぼろげに悟ったのだろう。そしてマリーがそうしなければ、逆に殺されたと言うことも。

宝石ギルドの奧に軟禁されていた職人達の事を告げると、アデリーは酷いですと、小さくつぶやいた。他人事ではないし、つらさはよく分かるのだろう。マリーには好ましい。人間性豊かな覚醒暴走型能力者は非常に珍しい。触るだけで大爆発を起こしかねなかった不安定な少女はもういない。もう少し武術を教え込んだら、能力の扱い方を教えても良いかもしれない。

旨くすると、生理が来た頃には、自力で己の能力を制御できるようになるかも知れない。まあ、流石にそれは望みすぎだ。今まで通り、計画は進めていく。

「で、本当のことは告げたけど?」

「分かっています。 マスター、私は何をすればいいですか?」

「よしきた」

笑顔でアデリーの頭を撫でると、少し嬉しそうにうつむく。それから二人がかりで膨大な量の中和剤を作る準備をして、必要な薬剤類を並べていく。今の時点で足りないものが結構あるが、近くの森に取りに行って揃うものも少なくない。どうしても手に入らなそうな何点かだけを、ピローネに注文する事になるだろう。

地下室の隅には、以前から少しずつ蓄えている山蚕の糸がある。これを使える日が近づいている。そう思うと仕事にも身が入るというものだ。徹夜なんてなんでもない。ドラゴンを待ち伏せて、藪に伏せる苦労に比べたら、それこそぬるま湯に浸かって鼻歌を奏でるくらい簡単だ。

腕まくりすると、まずはキノコ類を刻んで、鍋にかけてエキスの抽出にかかる。アデリーは水の入った鍋を、危なげなく運んでいた。落とすことはないだろう。最近は一緒に公共風呂に行くようになったのだが、裸を見る限り、同年代の少女より体は随分しっかり出来ている。あくまでザールブルグの子供と比較しての話だが、それでも充分だ。もう何年か鍛えると、前線に立つ戦士の体にすることもできる。まあ、それはアデリーの判断次第だが。

鍋の火を調整すると、並行して蒸留水の製造に掛かる。ストックもあるが、全く足りないのが目に見えているからだ。井戸水からも手間を掛ければ蒸留水が作れるのだが、味というか香りというか、口に入れた時にヘーベル湖の水のものとは微妙に違う。こればかりは力の弱いピローネの苦手分野なので、どうにもならない。半日だけ使って、近くの森の中にあるストルデル支流に足を運び、そこから水をくんでくるほか無い。何カ所か、かなり水質が良い場所があるのだ。

幾つかの作業を平行で稼働する時に、絶対忘れてはならないのは、スケジュール表だ。忙しい時には思考力が落ちるから、こういう形で外部記憶を作っておかなければ危険である。並行稼働する作業は線で表現するが、それが無数に伸びている。今までで一番多いかも知れない。ただし、アルテナの聖水を除けば大した難度のものはないので、それだけが救いか。

セットした蒸留装置が曇り始める。蒸留水ができはじめる。薪も少し足りなさそうなので、水をくみに行くついでに、これも回収してきた方が良いだろう。

蒸留水が仕上がったのは、真夜中であった。先にアデリーを眠らせると、彼女が仕事の合間に作った夜食を口に入れながら、栄養剤のエキスの出来を確認する。まだまだ、先は長い。伸びた線の一つがつぶれただけだ。

頬を叩いて気合いを入れ直すと、マリーは次の仕事に取りかかる。まだまだ片付けなければならないことは、幾らでもあった。

 

二階でぐったり眠っているアデリーのこともあるし、マリーは厳重に仕掛けたトラップを確認してから、荷車を引いてアトリエを出た。地下室ではルルクが力尽きてねこけている。留守番は事実上存在しないが、これに関しては大丈夫。

アトリエには防犯上の強化を散々してある。窓や裏口から強引に入ろうとすると、生きている縄によって捕縛される仕組みだ。他にも幾つかアデリーが逃げるには充分な時間を稼げる仕掛けが施してある。余った火薬も使ってある。

三回に分けて納品した薬品類も、これで最後だ。流石に最後のアルテナの聖水が大変だった。超圧縮した中和剤を使って、複数の薬草とキノコ類から抽出したエキスと混ぜ合わせ、破綻しないように仕上げなければならない。このバランスが難しく、失敗すると液体が成分ごとに分離してしまい、元には戻らない。二度失敗した後、何とか成功した。その過程で、疲れていたこともあり、三回火傷した。皮肉なことに、火傷を治すのに使ったのは、余った自作の傷薬だった。

納品時間まで、後殆ど無い。流石に連続した徹夜で頭がぐらついているが、アカデミーまで行くくらいなら何とかなるだろう。作業の途中でシアに雷を落とされたり、結構きついことが幾つかあったが、側で頑張っているアデリーを見ると自分を奮い立たせることが出来た。アデリーの無私の忠誠は、奮起を促してくれる。使用人にしておくのはもったいない。アデリーの判断次第だが、いずれ養子縁組を組んでも良いくらいだ。

アカデミーにつくと、荷車に積んだ瓶類ががちゃがちゃと音を立てた。入り口でへたり込んでいると、受付をしているアウラ=キュールが飛んでくる。彼女は長い黒髪を持つ美人で、大人の雰囲気を持っており、人気がある。受付としては非常に優秀で、今もマリーの仕事のことをきちんと把握しており、素早く薬品類をチェックをしていく。

「アウラさん、どうですか?」

「……ええ。 品質的にもまったく問題なし。 これで全て揃ったわ」

「はは、良かった」

「ちょっと、マリーさん! 大丈夫!?」

そのまま荷車に背中を預けて寝そうになるが、我慢である。報酬を受け取らなければ、仕事は終わらない。すぐに施寮院で働いているシスター達が、大事そうに薬品類を抱えていくのを横目に、マリーはイングリド先生の研究室に行こうとするが、アウラに止められる。

「待って。 もう報酬は私が受け取っているわ」

「そうなんですか。 それじゃあ後で」

頭がフリーズしかけているマリーは、アウラの言葉に気付かず、危うくそのままイングリドの部屋に行くところだった。アウラはマリーを必死に押しとどめると、一眠りしてからお風呂に行きなさいと、ゆっくりした艶っぽいしゃべり方でアドバイスしてくれる。彼女はあのクライスの姉だが、弟とは性格からして違う。ただ、噂によると、怒らせるとものすごく怖いそうだ。

一晩程度の徹夜なら大丈夫だが、10日以上断続的にそれが続くと、流石にきつい。コメートの時をしのぐ規模の連続徹夜と、気の抜けない作業の連続で、流石のマリーも疲弊しきっていた。報酬の銀貨の袋と、ルビーを確認。結構重い袋で、ざっと確認した分では、充分黒字になる。ただこの金は多分国から出ているはずで、税金が少し戻ってきただけだと思うと、複雑だった。ルビーはそれなりに大きいが、品質は良くない。まあ、こんなものだろう。後、紙切れと、カードが一枚。これは後で確認しよう。今は頭が動かない。

荷車を引いて、そのまま大通りに出る。目がしょぼしょぼだ。後ろから追いついてきた青年一人。そのまま、荷車を押しに掛かる。

「大丈夫か? 押すよ」

「あー? えーと、誰だっけ」

「グライルフだよ」

よく見ると、確かにグライルフだった。宝石ギルドで「職人」としてとらわれていた、気の毒な青年である。ただ、この間よりぐっと健康状態が良くなっている。奴隷労働から解放され、栄養状態が向上したからだろうか。肌の色も良くなっているし、髪も綺麗に整えられ、服も清潔だ。マリーは疲労のため右往左往する思考の中で、そんなことを考えながら、応対する。

「ああ、そうだったそうだった。 ありがと。 押してくれなくて良いから、人にぶつからないように誘導してくれる?」

「おいおい、大丈夫か? 何日寝てないんだよ」

「四日くらいかな。 あなたたちも、似たようなことをずっと続けてたんでしょ?」

「いや、流石にそれはねえ。 二日くらい連続で働くこともあったが、その後は交代してぐったりだったよ。 ただ、それは職人同士でカバーしながら、だったけどな。 流石に冒険者としても名高いだけあって、体力あるんだな」

空になったとはいえ、疲れ切った頭では、荷車の軌道も多少ぐらついている。こう言う時、マリーは普段よりも更に凶暴になる。もし肩でも触れて、因縁をつけられでもしたら、その場で相手を八つ裂きにしかねない。だから、ぶつからないように誘導して欲しいと言ったのだ。

グライルフはそれを汲んでか、アトリエまできちんとマリーを誘導してくれた。ただ、みていると、たまに通りかかったチンピラはマリーを見ると真っ青になって避けていたので、それは杞憂であった。

アトリエについて、荷車を裏庭に収納する。最後までグライルフは手伝ってくれたので、お茶でも出そうかと言うと、謝絶された。

「いや、あんたには散々恩を受けたからな。 これくらいでは返せないって分かってるけど、少しは役に立てて良かった。 これからも、手伝いが必要ならいつでも言ってくれ」

「ん、ありがと」

流石にもう寝るから帰ってくれとは言い難かったが、ちゃんとその辺りは理解してくれたようで、頭を下げるとグライルフは帰って行った。

今は疲れ切っている。きちんと戸締まりをすると、二階に這い上がる。アデリーはすっかりねこけていて、刺されても気付きそうにない。眠っている少女をまたいで寝台にはいると、そのまま意識が落ちた。

虚空を漂う夢が流れすぎると、リズミカルな包丁の音で目が覚める。外出着のまま寝込んでいたのだとマリーは気付いて、外を見ると、もう夜だった。

下に降りると、綺麗に片付いていた。最近は錬金術器具の扱い方も分かってきているから、変な風に動かさないし、マリーとしては安心して掃除を任せておける。目をこすりながら一階に下りると、アデリーはさっぱりした顔で、料理していた。獣脂を使って野菜を炒めているらしく、独特の香りが漂ってくる。

「おはようございます、マスター」

「おはよう。 お薬の納品は終わったよ」

「職人さんたち、助かるでしょうか」

「さて、ね。 ただ、施寮院に薬はきちんと納品されたし、品質にも自信はある。 あたし達に出来ることは、全てやったわ」

テーブルに着くと、ルルクが既に茶を頂いていた。人間と種族の違う妖精は皆同じ顔に見えるのだが、性格面では微妙な違いがある事は分かる。ルルクの話によると、妖精の中でも、人間ほど激しくはないが、派閥闘争はあるそうだ。今パテットの推進するプロジェクトに反対する一派が動いており、双方でにらみ合いが続いているという。

「おはようございます、マルローネさん」

「おはよう。 ご苦労様。 今、報酬出すわ」

幾つかのトラップを仕掛けてある金庫を開けると、報酬を渡す。今回はボーナスに二割上乗せしてある。人件費も材料費も余裕があるので、これくらいは当然である。ましてルルクは、マリーと一緒に徹夜を繰り返して、体力をすり減らしたのだから。第一、今回は労働期日が短かったため、予定の報酬自体大した金額ではない。

ルルクは銀貨の重みを確認すると、腰のポーチに収める。彼は年齢的にマリーと殆ど変わらないらしく、妖精族の中では期待の新鋭だそうだ。それだけに随分しっかりしていて、動作には無駄が少ない。

「ありがとうございます。 それでは、失礼させていただきます」

「助かったわ。 次も頼むわね」

「光栄です」

妖精は人間とは食性が違う。アデリーはルルクの分も作っていたらしいのだが、それはすげなく拒絶されてしまった事になる。少しアデリーは悲しそうだったが、結局引き留めることもなく、入り口でルルクを見送った。

それから、報酬をもう一度チェックする。銀貨は予定通りの数で、マリーとしても満足すべき結果だった。それよりも、ルビーの報酬が美味しい。小さなルビーだが、これは充分に予定通りの作業を可能とする。品質はいまいちだが、これから作ろうとするものの性質を考えれば、大した問題はない。

それにしても。如何に堅く美しいとは言っても、こんなもののために、大勢の人間が血を流してきたというのは不思議な感覚だ。人間の集団の中では、刻にとんでもなく愚かなことがまかり通る。これもその実例の一つであろうと、マリーは思った。

最後に、紙片を取り出す。イングリド先生の字である。ざっと目を通したマリーは、思わず小さな奇声を上げていた。

「ひおっ!?」

「ま、マスター? 何ですか?」

「何でもない」

アデリーに応えながら、カードを引っ張り出す。それは王立図書館へ入るための、許可証であった。王立魔術師の魔術が掛かっている、強力なキーカードだ。これは楽しみである。

ルビーの具体的な加工方法については、明日アカデミーに足を運ぶとして。今晩の内に、ルビーを使ってミューに「体が温まる道具」を作ってあげる計画を建てよう。そう決めると、マリーはアデリーが作った美味しい野菜炒めを素早く腹に掻き込み、地下から素材を出してくる。光石をいくらかと、山蚕の糸。それに、ハンマーなどの加工用具。中和剤も、この前までの徹夜で作り上げたものが残っている。

「おっと」

思わず声に出してしまった。並べていた光石を、不注意で一つはじいてしまったのだ。この間までの徹夜がきつかったせいか、少し指先が危なっかしい。マリーはボウルに中和剤を落として、必要量の光石を落としてから、外に出る。少し体を動かして、その後に気分転換をしようと思った。或いは、もう少し眠ってから作業をするのも良いかもしれない。

「お出かけですか?」

「ん、そうだよ。 ちょっと気分転換しようかと思ってね」

「私も行きます」

エプロンを脱いでたたみ出すアデリー。親についてきたがるというよりも、自分で考えた末での行動だと分かって微笑ましい。

「よし。 じゃあ近くの森を少し走るかな」

「この時間に、森を、ですか?」

「はぐれたら死ぬよ?」

「が、頑張ります」

やはり微笑ましい。外に出ると、もう星が瞬いている。

技能を持たない人間は、自分達で作った社会の外では無力だ。魔術という形で、能力者が世界中に溢れてからというもの、その法則は崩れた。だが、人間の能力に限界があるという事実は変わっていない。

街の外に出てから、森の中を走る。春の涼しい空気が心地よい。アデリーは必死に着いてくる。まだ手加減をしているが、やはり着いてくるのがやっとだ。

森の中を二刻ほど走ると、頭の中がすっきりしていた。以前イノシシをバラして喰った側の小川にでる。マリーは殆ど汗を掻いていないが、アデリーは既にグロッキーになっていた。星を掴むにはまだまだだ。河原に座り込んで、呼吸を整えているアデリーの側で、マリーは石に腰掛けて、空を見上げる。

騎士団のおかしな動きもあるが、今回の件が終わったことで、宝石の安定供給が可能になる。そうすれば、更に先に進むことが出来る。ドナースターク家は今のところ統治を旨く進めているが、まだ根幹産業というものをもっていない。ドナースターク家および、グランベルに出来るマリーの最大の忠誠こそ、根幹産業を確立すること。それには、まだまだスキルが足りない。

空に一つ、凶星が輝いていた。一月ほど前から赤々と輝いている異様な星で、何かの前触れではないかと噂されている。なんだかルビーみたいだなとマリーは思った。

「そろそろ帰ろうか?」

「は、はい。 が、頑張ります」

アデリーの肩を叩くと、マリーは先に歩き出す。

嫌な予感は消えない。そればかりか、むしろ強くなる一方だ。何かが起こるのは間違いない。その時に備え、少しでもアデリーを鍛えておかなければならないと、このとき思った。

 

4,一つの成功と一つの凶兆

 

マリーがつまみ上げた、成形した親指の爪ほどの光石には、たっぷりと山蚕の糸が混ぜ込んである。これを成功させるまでが、大変だった。何しろ、糸は非常に繊細だ。少しでも熱を間違えると、すぐに駄目になってしまう。かといって、熱が足りないと、光石の成形は出来ない。今まで以上に緻密な火力調整が必要となった。

それに活躍したのが、宝石ギルドから得られたという、火力調整システムである。

要は釜にちょっとした工夫を凝らすだけなのだが、これが面白い。吹き込む空気の量を調節するパイプを何本か外に出し、更に使う炭は必ず細かく砕く。これによって、火力を今まで以上に緻密にコントロールできるのだ。事実効果は絶大だった。アカデミーの方でも、この新型釜の導入で、研究が一気に進むことだろう。

マリー自身も研究が進んだ。四回の失敗を経て、どうにか今マリーが手にしている、光石が完成したのだ。

今まで、光石には単純な命令しか与えることが出来なかった。だが、これからは違う。生きている縄のように、浮遊霊を憑依させているタイプの道具は、誰にでも作れる訳ではないし、使えるわけでもない。しかし、この光石の結晶体に関しては話が別だ。やり方さえ間違わなければ、誰にだって作ることが出来る。

作業机に着いていたマリーは、光石をひっくり返す。中には、ルビーが一つ埋め込んである。外には見えないようにだが、それが光石の核となっているのだ。これが今回の発明の味噌である。宝石の特色から、ルビーは光石とは比較にならないほど膨大な魔力をため込むことが出来る。しかも、常時自然界の炎の魔力を吸収もしている。

今回の発明は、その特色を最大限に利用したものなのだ。

後は意匠部分である。これだけでは、ただの地味な扁平な石である。闇の中でなら光るが、その使い方は邪道である。まずは彩色。鮮やかな色を出す絵の具をちょっと買ってきた。それをまんべんなく塗る。塗りおえた後、アクセントが欲しいと思って、赤い筋でストライプを作った。後はつるす部分と、外枠があればいい。それは、アデリーに買い出しに行かせている。

「今帰りました、マスター」

「ただいま、どうだった?」

「はい、これでいいですか?」

アデリーが買い物袋から出したのは、丈夫で細い革紐である。それと、銀色に輝く半円状の薄い金属片。後は小さなねじが何本か。

光石を、金属片で左右から挟む。大きさは充分だと分かった。そして、金属片をハンマーで叩いて、細い卵の殻のように整形する。何度か光石に併せて調整し直す。がさつなマリーはこういう作業が決して得意ではない。何度も指を叩いてしまう。だが、何とか形になる。ねじで固定。革紐を通す。

出来た。これで完成だ。理論的には間違っていないが、後は実験が必要になる。躊躇無くマリーは、自分でその首飾りをかける。首飾りが、魔力を微量ずつ吸っているのが分かる。しばらくは吸われるだけであったが、茶を飲んでゆっくりしている内に、首飾りが温かくなってきて、それに伴い体全体が暖まってきた。

完成だ。ほくそ笑んだマリーは首飾りを外す。名付けて、太陽の首飾り。自分の魔力を利用して、体を少しだけ温めるという、実用的だか実用的ではないのか、よく分からない代物だ。そしてこれは、アデリーの力を制御する錬金術道具の、プロトタイプの最初の一つである。

原理は簡単だ。この首飾りは光石の性質を利用し、周囲の魔力を無差別に吸い込み、中央部分のルビーに格納する。そしてルビーの魔力が一定量に達すると、ルビーの力を受けて炎の要素を得た魔力を、周囲に放出するのである。このため、首飾りをかけている人間は、体が温まるのを感じるのだ。

これは見かけより遙かに高度な道具だ。使っているのがルビーだという事もあるのだが、吸い込む魔力の量や、放出を始めるタイミングなどのプログラミングは、とても従来の光石にインプットできるものではなかった。この程度のものを作るのにひいこら言っているのだ。膨大なプログラムが施されているという、ホムンクルスの核がどれほど高度な存在なのか、身にしみて思い知らされる。

どちらにしても、この試作品を足がかりに、アデリーの力を制御する道具の研究は飛躍的に進む。要は扱う魔力量が極端に大きくなるだけだ。携帯用に便利なサイズ、衝撃に強い耐久力、それに魔力吸収の即効性さえ実現できれば、完成する。二ヶ月くらいミューにつけて貰って、それで結果をモニターすれば完璧である。

トラブルシューティングも整備してある。光石に直接触れないように、外部にはカバーもつけてある。また、光石のプログラミングには、周囲の魔力が少ない時には、吸収を中止するようにというものもある。また、大気中の魔力と、人体の魔力とでは、大気中のものを優先するようにも、プログラムしてある。後は使って貰いながら、クレームを上げて貰えば、その都度対応するつもりだ。

「それがミューさんにあげる首飾りですか?」

「そうだよ。 名付けて、太陽の首飾り」

「私が、先に実験材料になりましょうか」

マリーはまじまじとアデリーを見る。少女は本気だった。

なるほど、そう言うことだったのか。ミューとそう言う意味で結託していたのか。その決意は辛かっただろう。だが、アデリーが選んだ以上、止める気はない。そしてマリーも、体質改善をしようとは思わない。

なぜなら、今でもせき止めるのは限界に近いからだ。無理にこれ以上己の獣を抑えに掛かれば、日常的な突発沸騰現象が起こる。日常的に殺戮衝動が沸き上がり、その辺の人間を無差別に殺して回る、サイコキラーの誕生である。それはいくらなんでもまずい。制御できる範囲内で、狂気とつきあうのが、賢いやり方なのだ。

「いや、大丈夫。 有害な要素は全て排除してあるからね。 後はモニターに使って貰って、少しずつ欠点を修正するだけだよ」

「そう、ですか」

少し落ち着かない様子で、アデリーは視線を彷徨わせた。ひょっとするとと思って、マリーは言う。

「動物を殺しに行くんじゃないかって、心配してる?」

「! いえ、その」

「大丈夫。 この程度の発明なら、理性は飛ばないわよ。 でもね」

少し勘違いしているようだから、釘は刺して置いた方がよい。マリーはそう結論した。マリーは目を細め、表情を消すと、出来るだけ怜悧な魔力を放ちながら、アデリーの頭を撫でながら顔をのぞき込む。アデリーには、周囲の空気が一気に氷結したように感じたはずだ。

「もしそんな時、あたしを止めようっていうのんなら。 そうね、最低でも今のミューと互角以上に戦えるようになるまで、絶対にやっちゃあ駄目よ」

「……」

「まあ、暴走状態のあたしでも、理性は少し残ってるから。 あんたを喰ったりはしないと思うけど、命の保証はできないからね」

からんからんとアトリエのドアが鳴った。気配から言って、噂のミューだろう。入って貰うと、やはりミューだった。太陽の首飾りを渡すと、彼女は少し複雑な顔をした。何だか、最近この子は、急速に大人になってきている。以前はバカみたいな笑顔を浮かべてばかりだったのだが。マリーが鍛えたからだけではなく、本人も努力したのだろう。若手達の指導役になる日も近いかも知れない。

「ありがとう、嬉しいよ。 でも、これって、どうやって作ったの?」

「全部説明しようか? 長いけど」

「あ、そうじゃないよ。 そうじゃなくて」

ミューもアデリーと同じか。マリーは笑いをかみ殺しながら応える。

「…宝石ギルドを潰したから、技術を得ることが出来てね。 それは知ってるんじゃないの?」

「ん、そうだね。 なら、いいよ」

マリーは決して不快だと思っていない。というよりも、二人で結託しているのは良いことだ。次はどんな風に結託して抵抗してくるのかが楽しみだ。それだけしたたかになるということなのだから。

ミューから規定量の報酬を受け取る。小さな積み重ねだが、結構経済的には裕福になって来ている。ミュー達の雇用料金も、冒険者ギルドの評価向上によって跳ね上がってきているが、それでも問題ない。もう少し遠出をしても良い頃だ。幾つかの岩山に登って、今までは得られなかったレアな鉱石類を探してみるのも良い。

「アデリー、稽古つけてあげる」

「はい。 お願いします」

考え事を始めたマリーを見て、二人が裏庭にでる。マリーも外に走り込みに行こうと腰を上げて、そして異変に気付いた。

 

最初、何が起こったのか分からなかった。

大地が揺れている。最初は微震だったが、やがて激しい振動に変わった。アデリーは転びそうになり、必死にミューが抱えて机の下に逃げ込む。マリーもそれに習った。

激しい揺れはしばし続く。やがて収まった時には、辺りはかなり散らかっていた。呆然としているアデリーを抱きしめながら、ミューが叫ぶ。

「火の元確認して!」

「分かった!」

普段とは逆の立場だが、この未知の自然現象を、明らかにミューは知っている。すぐに釜に回り、火が回っていないことを確認。念のために消す。そして外に出ると、驚きにマリーは立ちつくしていた。心が凍り付く。

空が燃えている。いや、違う。遙か東の空、山が空に向けて、火を吐いているのだ。

あれはシアが任されたという、ダンケテスレア村の方だ。アトリエを飛び出してきたミューが、マリーの腕を引いた。

「今の地震、かなり大きかった! 倒壊している建物はないみたいだけど、大火事になる可能性があるから、すぐに避難の準備して!」

「地震っていうの、今の」

「何呆けてるの!」

「シア……!」

マリーは、赤々とした炎を吹き上げ続ける山を見て、立ちつくすばかりだった。やがて山は、それ自体が赤く染まり始める。膨大な煙が、空に吐き出され始めていた。悲鳴を上げるようなことも、うずくまることもない。ただ立ちつくしていた。頭は冷静に動く。今から向かっても間に合いなどしないと分かる。シアならきっと無事に切り抜けてくれると思いこむことで、平静を保つ。

「シアが、あっちにいるの?」

「うん」

「シアならきっと大丈夫よ。 接近戦限定なら、マリーより強いんでしょ?」

「うん」

何だか、魂が抜けてしまったようだった。ミューの言葉にも、機械的に応えるばかりである。ふと気付くと、アデリーが抱きついていた。彼女の頭を撫でながら、マリーは周囲を見回した。

所々、煙が上がっている。けたたましく鐘が打ち鳴らされ、騎士達や、警備兵達が走り回っていた。もし延焼すれば、アトリエが灰になってしまう。

「マスター! マスター! しっかりしてください!」

「大丈夫。 あたしは、冷静だよ」

不愉快な出来事だ。少しずつ心が動き出す。見たところ、一番煙が多く出ているのは、西の方だった。

「あの火事の規模だと、避難は必要ないかな」

「え? あ、そうか」

此処はザールブルグ。ストルデル川から引いた水路を使って、上下水に役立てている都だ。一種水上都市的な雰囲気もある此処は、火事には強い。むしろ、火事場泥棒に気をつけなければ危ない。

「アデリーは留守番。 あたしとミューは、知人の様子を確認しながら、火事の処置に当たってくる。 近所にいるのは、ナタリエね。 ディオさんとフレアさんは多分心配ないから、後はルーウェンとハレッシュかな。 クーゲルさんも多分問題はないと思うから、後回しで良いかな」

「じゃあ、私が、ルーウェンとハレッシュの様子を見てくる!」

「じゃああたしがナタリエだね」

今は、シアのことは考えない。すぐにミューとは逆方向に桶を持って散る。

ナタリエは今飛翔亭の近くの襤褸屋に住み込んでいる。自立行動の一環だそうだ。飛翔亭の保有財産の一つで、襤褸といっても人が暮らすには問題ない。だが、襤褸屋だと言うことが心配だ。今の揺れで、崩れている可能性が高い。

途中、煙が出ている家を発見。すぐに突入して、広がり始めた火を発見。すぐに近くの水路から桶に水を汲み、ぶっかける。何度かそれを繰り返し、火が弱くなったところで、竈にシャベルを突っ込み、灰をかけて止め。中の人間は既に避難したらしく、無人だった。少し無責任な家主で、苛立ちが募った。

すぐに家を飛び出し、ナタリエの住処へ。多分問題はないと思うが、急ぐのに越したことはない。周囲のパニックは収まりつつある。煙も徐々に減り始めていた。流石騎士団だ。大きな火事から、順番に潰していったらしい。街の人間達も、旨く初期消火を成功させた者が多いのだろう。

飛翔亭前の狭い階段を駆け上がる。途中、上から落ちてきた植木鉢がつぶれていた。いやな暗示を受けたマリーは、更に速度を上げた。身体能力をフル活用して、飛ぶように走る。そして、路地を駆け抜け、狭い三叉路を曲がった。

ナタリエの家は、案の定つぶれていた。

家の前には、ナタリエが呆然とへたり込んでいる。体中傷だらけな所を見ると、多分必死にはい出したのだろう。何度見ても、生傷が絶えない娘だ。他にもこの辺りには襤褸屋があるが、ナタリエの家だけつぶれている。不幸というか幸運というか。何だかよく分からない娘である。

「ナタリエ、大丈夫?」

「マリー?」

ナタリエが振り返る。体についた埃を払ってやる。さっきのマリー以上に呆然としていたが、やがてしくしく泣き出した。痛いから泣いている等と言うことはないだろう。

「お酒、高いの買ったのに。 父さんと母さんに送ろうと思ってたのに」

「ナタリエが死んだ方が、悲しむんじゃない?」

「……ばかっ! ばかあああっ! うあああああああああっ!」

膝に顔を埋めて、本格的に泣き始めるナタリエ。本当は、相当怖かったのだろう。恐怖には色々な種類がある。実戦を豊富に積んだ人間が、怪談話を怖がることは珍しくない。ナタリエは未知の恐怖に極端に弱いタイプなのだと、マリーは今知った。

飛翔亭から、フレアが駆けて来るのが見えた。フレアはナタリエとマリーを見ると、胸をなで下ろす。

「無事?」

「何とかね。 ディオさんは?」

「父さんだったら平気よ。 秘蔵のワインが幾つか割れて、怒ってたくらいだわ」

これでノルマ分の身内は一安心か。後はドナースターク家に行った後、アカデミーを見てくるべきであろうか。ナタリエの体を見ると、無理にはい出した時に出来たらしい切り傷が殆どで、打ち身は意外と少ない。家自体の重量が小さいのも、要因の一つか。かなり粗末な襤褸屋であるし。

「だから、もっと良い家を紹介してあげるっていったのに」

「? ナタリエが望んでこの家に?」

「そうよ。 罪滅ぼしの一環だって。 父さんも私も反対したのに、この子、妙に頑固で」

「はあ、仕方がないなあ。 フレアさん、此処は任せても大丈夫?」

フレアは頷いた。見れば、もう殆どの火事は収束したようだった。テロ攻撃に対する訓練は、屯田兵も騎士団も積んでいるはずで、それが早期の解決につながったのだろう。

大通りに出ると、早くも後片付けが始まっている。綺麗な石畳の何カ所かに亀裂が走っていた。水路が割れて、水が噴き出している場所もある。修復には時間が掛かるだろう。

ドナースターク家は、留守居役のトール氏の家臣がまとめていた。奴隷出身のまだ若い男だが、非常に有能で、すでに片付けも殆ど終わっていた。マリーに気があるらしく、色目を使ってくる事があるのだが、迷惑だ。無事を確認すると、アカデミーへ。アカデミーの建物は頑強で、罅一つ入っていなかったが、流石に中はかなり散らかっていた。

てきぱきと指示をするイングリド先生の姿。ドルニエ校長は本の山の中、何事もなかったかのように実験に興じている。信じがたい神経だが、真の天才というのはああいうものなのかも知れない。

マリーを見つけると、イングリド先生は近づいてきた。髪飾りが曲がっている。流石の先生も、動揺すると身だしなみに乱れがでるわけだ。

「マルローネ、無事でしたか」

「はい、どうにか」

「これからしばらくは復旧が大変でしょう。 それと、貴方の友達の、シアさん」

閉じていた思考に、イングリド先生は容赦なく割り込んできた。

「軍がすぐに救援部隊を派遣するはずです。 治安確保と救援のために、四個師団25000人が動くという話が入っています」

「…そう、ですか」

「今はアトリエで待ちなさい。 この噴火は貴方のせいではないし、焦ってもシアさんの情報は入ってこないわ」

ついとイングリド先生は顔を背けると、指示に戻った。再びマリーは糸が切れたように、そこに立ちつくしていた。

 

5,災厄の目覚め

 

4/17。シグザール王国東北部、ヴェルスピレオ火山で噴火発生。近隣の町や村では中程度の地震が観測された。幸い、死者は出ず、負傷者が重軽傷含め三十名ほど出るにとどまった。一つの村を除いて。

唯一人的被害状況が確認できないのは、ダンケテスレア村。ヴェルスピレオ火山麓にある、人口百名ほどの小村である。牧畜を主体にしている村であり、今までろくな統治官が派遣されなかったために民衆の反シグザール感情が強く、ドナースターク家が押しつけられた土地だ。統治は困難を予想されたが、新たに統治官として赴任してきたシア=ドナースタークは見事な手腕で短期間に村人達の心を掴み、急激に反抗意欲を削いでいった。そんな矢先での噴火である。宝石ギルド吸収の直後と言うこともあり、追い風吹いていたドナースターク家には、痛恨の一事であった。

すぐに治安確保のために大戦力が動き、混乱は収束していった。だが火山の麓にあったダンケテスレアは溶岩に飲み込まれ、住民の安否はいまだ分からない。レンジャー部隊が向かったが、毒ガスが周囲には蔓延していて、探索は遅々として進まなかった。

トール=ドナースタークをはじめとし、グランベル村の精鋭数名がすぐに探索に向かった。だが、いまだ彼らの未来の光である、シア=ドナースタークの行方は知れない。

 

地震が収まった。あの大地震の後も、時々火山の噴火の影響らしい余震が続いている。天井を見ていたカミラはほくそ笑むと、すぐに作業を再開するように、錬金術師達に命令した。

ザールブルグ南東部の森の中、軍の秘密施設で、一つの新たな生物が誕生しようとしていた。蒼白な錬金術師達は、残忍な笑みを浮かべているカミラの前で、必死に作業をしていた。さぼれば殺される。今のカミラは、それをしかねない恐ろしさがあった。

彼らは僅かな知識を必死にかき集め、より高度な知能を持つクリーチャーウェポンの製造に携わっていた。もちろん、カミラも、彼らの能力の程度はわきまえている。噂に聞く「黒衣の魔女」ヘルミーナのように、いきなり無から生命を作れるとは思っていない。だから、カミラは貴重な材料を提供した。

一つは自我を奪った暗殺者。傷だらけだが、まだ生きている。もう一つはまだ息がある中年の女。どちらも死刑になる所を、カミラが持ってきた。錬金術師達は喜んだが、同時に背徳の行為に手を染めようとしている事にも気付いていた。だが、今更やめることは出来ない。

ただ、他の生物のように、交配の過程で変異体を作りだし、兵器化していくという事は出来ない。人間のままいかに兵器にするかという研究だ。タイタス・ビースト改に続き、これでまた切り札が増える。切り札は何枚あってもいい。

別に独創的な研究ではない。暗殺者の創造などは、心理学に基づいた兵器開発であることが多い。軍の訓練もその一種だろう。カミラはただ、それに錬金術を使っているだけだ。それすらも、初めてではない。噂によると、アカデミーでも人間を木偶と化す効果を持つ薬品が試作され、実際に持ち歩いている者もいるそうだ。

「死刑囚の死体ってね、処理が大変なのよ」

錬金術師達を働かせながら、カミラは言う。幼い造作の顔に浮かんでいるのは、邪悪で、とんでもなく酷薄な笑みだ。本人もそれは自覚している。

「首を切り落とせば血が大量に出る。 時期に寄るけど、死体はすぐに腐る。 腐るとこれがまた臭くてね。 鼻が曲がりそうになるくらいよ。 埋葬するにも、引き取ってくれるのは城壁側の無縁墓地くらいだからね」

おそらく、人間の死体が、他の動物のそれよりも臭気が強いという事はないはずだ。人間としての本能が、危険を知らせるために、より強い反応を示させるのだろう。そして、攻城戦の時には、状況次第でそれを食べなければならなくなる。

「でも、この実験が上手くいけば、そういう手間もなくなる。 自我は徹底的に奪っておきなさい。 人間を元にする以上、一番危惧されるのは反抗ですからね」

「わ、分かっております」

「分かれば結構」

最近では、口答えの一つもカミラは許さない。成功に次ぐ成功を続けているのに。理由はカミラにもよく分からない。怖いのかも知れない。普段は全く恐怖など感じないのに。苛立つ。それがますます、心から余裕を失わせていく。

二体の「死刑囚」は既に衣服をはぎ取られ、薬品がつまった瓶に浮かんでいる。人間を素材にしたクリーチャーウェポンを作っていることは、まだエンデルクにも国王にも知られていない。牙の連中にも、嗅ぎつかれてはいない。これは軍用としては使わない。あくまで自身の護衛用に開発したものだ。

全く皮肉な話だ。完全にバカにした相手の護衛を、体が朽ち果てるまで続けなければならないのだから。哀れだ。実に哀れ。笑みを抑えきれない。殺しきれない。

哀れだといえば、ゼクスという暗殺者の経歴だ。

強力な自白剤の投与で、ゼクスは己の全てを吐いた。ただし、それでもオルランドゥ伯に不利なことは一つも言わなかった。ゼクスは、実の両親に奴隷として売られ、ドムハイトの辺境村で虐待を受け、そこから逃げてきたと思っている。悲劇的な話だが、実はもう少し深い事情があったことを、カミラは王室書庫の記録と、オルランドゥ伯の調査記録から知っていた。

ゼクスは元々富有農家の私生児であった。愛人が流行病で死んで、「実の子供」もいるので邪魔だから売り払ったのだ。別に、彼の親から愛情が失われたとか、愛情表現が下手な人間に生まれついたとか、そう言うことはない。

彼の親にしてみれば、単に性欲解消用の相手と交わっていたら出来てしまった子供だったのである。だから愛情など、最初から無かったのだ。

そうして彼が売り飛ばされたのは、宝石ギルドがドムハイト側の協力者達の間に作らせていた、「職人選別用」の村だったのである。だから、異国の奴隷を買い集めるなどと言う無駄なことをしていたのだ。

そこで行われていたのは、将来の無感情奴隷を作り出すための、意図的な虐待。村人達には、特にサディスティックな者達が集められていたのだという。ちなみに、宝石ギルドは、幾つかのルートを通じて、ドムハイト王家ともパイプを持っていた。過去形である。それは十年ほど前に、今培養槽に浮かんでいるオルランドゥ伯ファーレンが断ち切った。そして、ゼクスを助けたという騎士達も、オルランドゥ伯の協力者だった。宝石ギルドの暗闘は、そんな時代から続けられていたのだ。そして騎士は、それの報復として殺された。

宝石ギルドの力が削がれたのも、この頃からである。騎士が死んだことで、事態を重く見た王室が、宝石ギルドに対して報復的な暗殺を実行。力を削ぐと同時に示威したのだ。それから、内外の圧力で、徐々に宝石ギルドは弱体化していった。今回こうもスムーズに事態が進んだのは、ずっとシグザール王家が宝石ギルドを潰す機会をうかがっていたからである。マリーの嗅覚は凄まじい。そして、その直感だけの行動に、血肉を与えたシア=ドナースタークも、恐るべき存在だ。

伝令が来た。言われるまま施設の外に出ると、クーゲルが来ていた。隣には、シュワルベの姿もある。この場所は、彼ら二人にしか教えていない。滅多なことでは来ないようにと言ってあるので、よほどの何かがあったということだろう。

「どうしたのですか? クーゲル先生」

「ドムハイト軍が国境まで来たそうだ。 規模は一万。 多分威力偵察行動だろうが、臨戦態勢をとるように指示が出ている。 お前の部隊にも、動けと言う通達があった」

「そうですか。 すぐに準備します」

愚かな奴らだ。おとなしく国内に引っ込んでいれば、死なずにすんだものを。まあ、引き返すようなら見逃してやるが、場合によっては皆殺しにして、森の肥やしにしてくれる。

凶暴な笑みを炸裂させると、カミラは馬に飛び乗った。部下達に指示を飛ばすと、クーゲルと共に司令部に向かう。クーゲルはカミラの横顔を見て、口の端をつり上げた。

「何ですか?」

「いい顔になってきたな、カミラよ。 儂のような修羅になる時も近いな」

「! そうですか、ありがとうございます」

言われてみて気付く。今、カミラは、クーゲルがたどった闇への道を転がり落ちている。待っているのは、臓物と、鮮血と、死と、滅びばかり。思わず笑いが零れてきた。面白いではないか。それも一興だ。権力の階段を飾るためには、多くの華がある方が良い。それは赤くてもかまわないのだ。

遠くには、赤々と空を照らす火山の姿。自分にそっくりで、カミラは今度は声を立てて笑った。クーゲルがほくそ笑みながら、ずっと隣を併走していた。

 

(続)