戦乱の先触れ

 

序、奇襲

 

恰幅の良い中年男性であるフーディン将軍は退屈していた。口ひげをゆがめ、あくびをかみ殺しながら、執務室より外を見る。殺風景な山が連なり、機嫌が悪そうに川が流れている。何の変化もないそれらから視線を外すと、秘書官が見ていない隙を見計らい、あくびを一つした。

二日連続して、何もすることがない。だらけきった体をもてあましていたフーディンは、馬を引けと周囲に命じる。軽く周囲を見回り、少しでも暇を紛らわせようとしたのである。フーディンは乗馬の名手である。事実見事に悍馬を乗りこなした。だが、従官を連れて城の前に広がる平原を走り回ると、それでまた何もすることが無くなってしまった。しかも、彼はまがりなりにもこの城の主である。昼寝をするわけにも行かない。最近では、毎日が拷問に等しくなりつつあった。

ドムハイト王国西方、シグザール王国との境界地域。背後に険しいディルディリート山、前面に豊かなハイゼンバーク川を控える、理想的な地形に建てられた要塞がある。背後の山の名を取り、ディルディリート要塞と呼ばれている。

城下町を有さない完全な防御施設であり、常駐兵力は千三百。他に、使用人や文官など合計二百人が暮らしている。三重の城壁に守られた堅固な要塞であり、七つの小城が有機的に結合した連携施設でもある。戦時には五千の兵が三年間立てこもることが出来、シグザール王国の鼻先に突きつけられた刃として機能する。水軍を用いればシグザール王国南部に一気に大軍を送り込むことが出来るし、五万の兵に包囲されても一年は耐えることが可能だ。周辺には無数の砦が建築されており、その防備は鉄壁を自称するにふさわしい。

難攻不落をそのまま現実化したのが、この要塞だ。事実戦争時には、シグザール王国軍三万を相手にして一歩も引かず、結局撤兵に追い込んでいる。逆に言うと、この要塞の西の地域は、全てシグザール軍に制圧されてしまった。いつかそれを取りもどさんと、牙を研いでいるドムハイト軍にとって、重要な拠点なのである。

此処に配置される兵士達は最精鋭として知られ、国を代表する猛者達が常時目を光らせている。しかし、その鋭気も、平和が長く続いていくとどうしても薄れてしまう。どんな強者も、平和の中では腕と緊張感をさび付かせる。そして、それは上から下へどんどん伝染していくのである。

現在この要塞の司令官であるフーディン将軍は、47歳。内乱の鎮圧などで功績のある人物で、中央の人脈からは遠いものの、まず一流といって間違いない指揮手腕を持つ。ただし、この要塞に配備されてからは実戦より遠のき、退屈の中で緩みゆくばかりであった。

何しろ、仕事がない。兵士達の調練は欠かしていないが、それでも彼自身がやることは想像以上に少ない。様々な書類を作ったり、見回りはいつもしている。何しろ、他にやることが殆ど無いからだ。だから、本来は気合いを入れて望むべきそれらの仕事が、暇つぶしになってしまい、ミスも目立つようになってきていた。

倦怠感が、若い頃は戦でならした彼の体をむしばんでいた。速く陽が落ちないかと念じるうちに、ようやく夜がやってくる。夕食が運ばれてきて、それを食べてしまうと、やることは完璧になくなった。書斎から何冊か本を持ってくるが、どれも何度も読んだものばかりだ。内容は完璧に暗記してしまっている。退屈が全身を包んで、早く寝ろと促す。

ベットでは一人だ。要塞には基本配偶者を連れ込めないという事情もあるが、それ以上に重要な理由がある。彼の息子は既に成人しており、故郷で本家を切り盛りしている。つまり、である。子孫を残すことですら、仕事では無くなっているのだ。今ではたまに近くの街へ出かけていき、女を買うくらいだ。

ベットに潜り込んでも寝られない。体力が有り余っているからだ。

この要塞に来た当初は、こうではなかった。毎日きびきびと動き、体を徹底的に鍛え上げ、兵士達を激励して回った。世代を超えた憎悪を叩き込まれたシグザール王国への警戒もあったし、将としての責任感もあった。だが、それもこう平和な日々が無意味に続きすぎれば、失われてしまう。一年や二年の退屈であれば、耐えることは出来ただろう。だが彼が直面したのは、十年に達する退屈だったのだ。

将の倦怠感は兵士達にもろに伝染する。兵士達の中には、国境をひっそり越え、豊かなシグザール王国側に入っては、女を買ったり酒を飲んだりする者までいる。当然下っ端の兵士達が思いつくことではない。最近では中級将校クラスにまで、そういった行動をとる人間が出始めていた。誰もそれをとがめもしない。フーディンですらもだ。

だから、出かけたまま帰らない兵士が出ても、怪しむ者は一人も居なかった。良くあることだったからだ。報告は一応フーディンまであがった。だが、ようやく眠くなってきていたフーディンは、部下を一喝して下がらせ、灯りを消して眠りに入ろうとした。手元のランプに手を伸ばし、火を調節して灯りを弱くする。

それが、彼の最後の生体活動になった。

彼の上半身が、跡形もなく消えたのは、その瞬間だった。

 

「攻撃開始」

むしろ、あまりにもあっさりと、その命令は発せられた。

命令を受けると、シグザール王国聖騎士カミラの周囲に展開していた無数の影が、組織的に動き出す。ヤクトウォルフ達と、それとほぼ同数のテンペストモア達だ。冬空の下、それらは緩みきっている要塞へ、音もなく躍りかかった。

開けっ放しになっている城門が、瞬く間に蹂躙される。兵士達がのど笛をかみ切られ、頭を噛みつぶされ、地面に打ち倒された。組織的な抵抗など発生しない。事前に襲撃者達には、要塞の内部の構造が徹底的に叩き込まれている。その上、最初に忍び込ませた連中が、今頃要塞の指揮系統を粉砕している。

影のようにクリーチャーウェポン達は進み、手当たり次第に敵を打ち倒していく。低い城壁はヤクトウォルフが土台になり、連携して飛び越え、うなり声一つあげない。兵士以外も関係ない。証言を残しうるものは、侍女だろうが僧だろうが皆殺しだ。

カミラの周囲には、第四師団から派遣されたごく少数のお目付役以外誰もいない。遠めがねをのぞき込む。冬の明け方に行われる殺戮が、生々しくそこには写り込む。

ようやく悲鳴が城内であがり始めた。遅い、とカミラは思った。かってドムハイトと言えば武でならした国であったのに、この体たらくはどうだ。常に激しい実戦を行ってきた騎士団と、屯田で体を鍛え抜いてきた兵士達を有するシグザールは、今や兵士の質でもドムハイトに勝っていると感じる。

城から飛び出すように逃げ出した兵士の上半身がかき消える。鮮血が吹き出し、透明な襲撃者の姿を一瞬だけ露出させる。ステルスリザード。常時光学迷彩能力を持つ、カミラが作らせた量産型クリーチャーウェポンの最高傑作だ。一人だって逃がすつもりはない。組織的に逃げ出す余力はないし、退路にはステルスリザードが数体、手ぐすね引いて待ちかまえているのだ。更にその先には、殺しがしたくてうずうずしているクーゲルが槍をしごいて待っている。万が一にも、逃げる事は不可能だ。

甲高い女の悲鳴が上がり、途中でとぎれる。パニックになった兵士が、城壁から飛び降りて転落死するのが見えた。殺戮は、空が白み始める前には終わった。

嘆息する。もし敵が油断せず、なおかつ組織的に抵抗していたら、とてもこの要塞を落とすことは出来なかっただろう。タイタスビースト改を投入する事さえなかった。あれは城門を破るために準備していたのだが、肝心のそれは開きっぱなしで、僅かな兵士の護衛がついているだけであった。ステルスリザードと有能な諜報部隊を動かして事前に徹底的な調査を行ったとはいえ、いくら何でも脆すぎる。武人としての心情を理解しないでもないカミラは、あまりの不甲斐なさにむしろ憤慨していた。

クリーチャーウェポン達が、獲物を城内から引きずり出し始める。仕上げだ。死体は身につけたものごと、近くの渓谷に放り込む。刀傷が残っている僅かなものだけは、クリーチャーウェポン達のエサとして、骨も残さず処理する。他はどうせ殺害方法を特定できないので、放っておいてかまわない。

事前に調べたとおりの数、死体はあった。子供や非戦闘員のものもあるが、軍事施設に入り込んで働いていた以上、死を覚悟しているのは当たり前だ。だから、別に同情しない。というか、知ったことではない。他の死体と同じように処分させる。右手を挙げると、頷いた周囲の数人が動き出す。声を掛け、控えていた錬金術師達を呼ぶ。そして、手早く火薬をセットしていった。実戦にはまだまだ使えるレベルではないが、火力だけは充分なものが仕上がっている。

やがて、すさまじい轟音が起こり、要塞が根本から崩れていく。ドムハイト側の都市から見物人がやってきた頃には、全てが終わっていた。

ドムハイト王国のもっとも重要な前線戦略拠点の一つは、誰も知らぬ間に。駐留していた兵士達ごと、この世から消えたのである。

それは強行に戦闘再開を望んでいたドムハイト軍部を一気に平和共存へ傾かせる、事件の始まりでもあった。

 

1,親子の形

 

ミューは根城にしている宿のベットで身を起こす。冬だというのに、うっすら汗を掻いていた。また昔の夢を見た。南の街で暮らしていた頃の、何の実もなかった、ただ豊かだったころの。

冒険者の中にはパートナーと組んでいる者もいる。男女で組んでいる場合は、恋仲に発展する場合もある。そんな場合は、宿で同じ部屋を取って、二人で代金を折半することもある。だが、ミューに今のところその気配はない。ミュー自身も、自分が誰かに好かれているとは思ってはいない。だから、部屋ではいつも一人だった。

上着を身につけて、鎧を着込む。剣と小振りな盾を身につけると、もう立派な冒険者のできあがりだ。黒い肌に合わせて、鎧も剣の鞘も白で統一している。こういった洒落を理解する行動が、客足を呼ぶ事を、ミューは肌で知っている。事実、死と隣り合わせの日常を送る冒険者には、精神的な余裕がない。ある程度の実績がある上に、余裕を見せている人間は、それだけでベテランの貫禄を漂わせる。

部屋を出ると、そこは一直線に伸びる廊下。西に窓がずらりと並び、東には部屋が整然と並ぶ。冬の乾いた冷たい空気が、一斉に襲いかかってきた。慣れては来たが、やはりまだ寒いと思う。体調を崩すようなことはないが、それでもこの寒さは苦手だ。宿は二階建てになっていて、食堂は一階。三人が並ぶと精一杯な、少し狭い階段を下りていくと、もう眠気は取れていた。しっかり体調管理を行うのは、冒険者の基本。たかが風邪でも、体力や集中力を著しく奪う。そんなことで殺されては、死んでも死にきれない。

百人ほど収納可能な食堂には、同じような冒険者達が集まっていた。木張りの床が暖かい雰囲気のところで、ミューには心地よい。

ここは冒険者用の宿としてはそこそこに人気のある店で、冒険者もベテランから駆け出しまで様々なレベルの人間が入り混ざっている。炒り卵とベーコンを注文すると、ミューはお気に入りの窓際に座り、木のフォークで料理を口に運んだ。その際に、辺りをしっかり見回しておく。そんなことをするのには理由がある。情報収集のためだ。

似たような実力の冒険者とは顔を合わせやすく、食堂でも話をすることが多い。それは貴重な情報源となる。特に食事時は人間の気が緩みやすく、とても重要な情報がぽろりとこぼれ落ちたりもする。だが、それは望めない。知人は見たところ誰もいないからだ。

寂しいなとミューは思った。情報が無くても、友達が一人でもいれば、ご飯の味は全然違う。

この街に来てから、ミューは友達をたくさん作った。ちょっと怖い相手だが、マリーもその一人だし、シアとも仲は悪くない。怖いマスターの下で、びくびくしながらも健気に頑張っているアデリーなどは、友達と言うよりも妹のように可愛い。

同業者の中にも友達はいる。ルーウェンもその一人だ。彼とは、マリーの依頼で、良く一緒になる。悪い印象を受けない青年で、背中を預ける相手としても充分だ。だがよく見かけるルーウェンはおろか、他の顔見知り冒険者も周囲にはいない。大きな仕事でもあったのかと思いながら、ミューはさっと料理を胃に掻き込んだ。

ミューは基本的に気まぐれだ。その日の行動を気分で決めることが多い。お金はまだ余っているし、今日は働きたい気分ではない。だから働かない。こう言う時には無理をせずに、その辺を散歩するか、ゆっくり寝ていることに決めている。訓練をするなら夜だ。

厳しいミッションをこなし続けた結果、ベテランの仲間入りをしているミューだが、こう言うところでは信じられないほどにアバウトだ。それが故にまだまだ「一流」にはなれないだろうとも噂されている。本人にしてみればどうでも良いことだ。なぜなら、意図的にそうしているのだから。

ミューは異常なほどにマイペースな性格だが、これには理由がある。出世への嫌悪感、名声への不信感がそれだ。そう言ったものを得たいとも思わないし、いらないとも感じない。根無し草である冒険者は、名声や栄光に憧れるのが普通だが、ミューはそう言ったところから離れている。ある意味、冒険者の中でも変わり種であった。

宿から外に出ると、やはり寒かった。マリーとアデリーの所にでも行こうかと、ふらりと足を運ぶ。冬でも人通り絶えない、ザールブルグの賑わいが、少しだけ心地よかった。

 

ミューがザールブルグの大通りに出ると、早朝だというのにどこもかしこも喧噪に溢れていた。適当に握り拳大の果物を買うと、皮もむかずに豪快にかぶりつく。歩きながら、ふと視線が移る。貿易商の看板が、通りの店の一つに掛かっていた。不快になったので、すぐに視線を外して、行く。

ミュー=セクスタンスはシグザール王国最南端の大都市、ユーベリットの出身である。巨大な港を抱えるシグザール王国でも屈指の都市であり、人口も実に十万に達する。豊富な水産資源はもちろんのことだが、この港には交易による巨大な利益が常に落ちており、それに伴う成功と失敗の物語が産まれ続ける場所でもあった。

ミューの父親であるハイマンも、そんな物語の主人公であった。ミューは使用人から聞かされて、その半生を自分のことのように把握している。そして、忘れたくとも忘れられない。この世で一番嫌いな相手のことだからだ。

ユーベリットである程度の志を持つ人間は、必ず貿易商になると言われている。貿易商は巨大な利益を産み、権力への階段に直結した職業だからだ。事実、貿易商出身の貴族は幾らでもいる。

ハイマンは三十代半ばまで、そんな貿易商家の一つで、下働きをしていた男だった。能力は決して高いとは言えず、機転が利くわけでもなく、勇気もなかった。ただ、実直だった事が幸いし、長年掛けて信頼を受け、四十歳になると同時に貿易商家の秘書となった。彼の主は、ハイマンに能力などは期待しておらず、ただ実直な仕事だけを要求した。

そうこうしているうちに、人生の転機が訪れる。ハイマンの主が、勝負に出たのである。丁度その頃ザールブルグでは真珠が空前のブームとなっており、異大陸からもたらされる大粒の真珠の価値が高騰していた。ハイマンの主君は、主立った部下と家族をあらかた連れて、自ら異大陸へ赴いた。ハイマンは実直さを買われ、後に残された。時々あることで、ハイマンは特に何も思わなかった。自分が能力面では全く評価されていないと言うことも、身にしみて知っていた。

やがて、一報が届く。ハイマンの主が、異大陸から帰還する途中、大嵐に見舞われ、船は難破、ほぼ全員が死んだというのだ。会社は瞬く間に解散。残った資産の奪い合いが始まった。

天運と言うべきか、行幸と言うべきか。混乱の中、もっとも速く動いたのは、実直さを買われ、情報を一手に握っていたハイマンだった。他にろくな人物が留守にいなかったことも、彼に有利に働いた。彼は利益の出る部分だけを自分の膝下に吸収すると、さっさと新しい会社を立ち上げた。ただ実直だというだけで、何も評価されてこなかった男だったが、逆にそれが武器になった。交易ルートもあらかた知り尽くしているハイマンは、手堅い利益を上げ続け、五十代になって貴族の仲間入りを果たしたのである。

いわゆる成金貴族であった。姓はヴォールケントというものを与えられた。

それからハイマンは結婚した。相手は没落貴族セクスタンス家の娘で、娘どころか孫のような年であった。

ハイマンは決して優しい夫ではなかった。昔は実直でならしていたが、しかしそれはそうしなければ仕事さえもらえないと本能的に悟っていたからである。むしろ自分が評価されるようになってくると、鎌首をもたげてきたのは冷酷さであった。

今まで自分を「実直なだけの無能者」と嘲ってきた周囲に復讐することが、ハイマンの密かな楽しみとなっていた。この結婚もその一環であったのだ。貴族を没落させたのは、ハイマン自身だった。交易ルートに裏から手を回し、会社を殆ど踏みにじるようにして潰したのである。昔のハイマンはこうではなかった。確かに掛け値なしの実直さも持っていた。彼を変えてしまったのは、周囲の愚かな人間全てだった。

そんな状況で得た妻であったから、ハイマンにとっては性欲の解消材料に過ぎなかった。気だての良い優しい娘だったのだが、精神を病むのに二年と掛からなかった。精神を病んでしまった妻を蹂躙するのが、ハイマンの楽しみの一つだったからである。妻は既に子育てが出来る状態ではなかった。五人の子供が生まれたが、皆使用人が育てた。ミューもその一人である。

ミューは父を憎んでいた。心を病んでしまったとはいえ、母がとても優しい人であることは知っていた。その母をなぶり者にすることが、父の暗い快楽だと言うことを、幼い頃から悟っていた。反発は暗い怒りに変わっていったが、元が陽気なミューは、それで爆発することもなかった。ただ悶々とするばかりで、何をどうして良いのか分からなかった。

兄弟達は性別関係無しに母よりもむしろ父に性格が似ており、陰湿な権力闘争を幼い頃から繰り返していた。ミューはそれに対して権力欲が少なく、代わりにある程度の名声欲があった。似て非なる兄弟達は、幼い頃から自然と距離を置いていた。父の持つ巨大な財産を目当てに、日夜暗闘を繰り返す兄弟達と、漠然と名声に焦がれるミューの間には、どうしても埋めがたい溝があった。

ミューは決して孤独だった訳ではない。ヴォールケント家の使用人達の中には、将来の事を考えて、兄弟達と派閥作りにいそしむ者も多かったが、決してそればかりではなかった。そういった醜い争いをむしろ嫌う一派の中では、ミューが却って人気があった。それが、彼女の人生を良い方向へ向けた。

東方から入ってきた習慣に、食客を抱える、というものがある。食客というのは、金持ちや権力者に顧問として雇われている人間を指す。主に流れ者である事が多く、武術の心得があれば用心棒、知識があれば学者や技術者として活用できるため、金持ちは積極的に食客を抱える。その代わり、食客はその全力を挙げて、雇い主のために働くのである。

東方ではこの食客を主人が「先生」と敬うという特殊な風習があるが、ユーベリット辺りではそこまで極端ではない。ただ、ハイマンは食客を抱えることに熱心だった。自身に能力が足りないことを知っていたのだろう。ブレインを何名か抱えるほか、用心棒を常に身辺に置いていた。その一人が、ミューの師匠になってくれた。

ハイマンが妙な仏心を発揮したのも、追い風になった。ただ、ハイマン自身は子供達が自分を愛していないことくらいは悟っていて、特にミューのことを特別視していなかったという事情もある。様々な幸運が重なり、ミューはとても良い師匠に就くことが出来た。茫洋とした雰囲気の大男だったが、子供は好きだったらしく、ミューの初恋は彼が相手だったような気がする。年頃の少女は、あまりにも男をむき出しにした相手に嫌悪を感じることが多いが、ミューはその辺り全く平気だった。その名残か、今でも男を容姿で選ぼうとは思わない。年頃の娘としては非常に珍しいことだ。

ミュー自身に優れた戦いの才能があったことも幸いし、見る間に力は伸びた。のんびりした深窓の令嬢がある程度の戦いの心得を得るまで、さほど時間は掛からなかった。優れた能力を持つ体は、スキルを得ると実に生き生きと動き回った。剣の使い方を一通り教えると、師匠はヴォールケント家を去っていった。

母が死んだのは、その直後。精神的な疲弊が限界に来ていたのだろう。彼女は自室で、意味を成さない遺書を残して、首を吊ったのである。

葬式には兄弟の誰一人として出ようとしなかった。父も「忙しい」という理由で出なかった。自分に同情的な僅かな使用人達と葬儀を済ませると、ミューは役所に足を運び、ヴォールケントの名を捨てた。そして母の旧姓であるセクスタンスを名乗ることにした。ついでに、自由に出来る金をありったけ持ち出すと、冒険者ギルドに行って登録し、ユーベリットを離れたのである。一連の作業に二日と掛からなかった。

もう全てまっぴらだった。兄弟達とは関わり合いたくなかったし、父など顔も見たくなかった。母が死んだ以上、この腐った街にいる意味はなかったし、いたくもなかった。自分がそれによってこの年まで育つことが出来たという点では忸怩たるものがあったが、自由への渇望はそれ以上に大きかった。

自分の手で、何でも出来る。ただし、責任も全て負わなければならない。そんな生活が始まった。

陽気で楽天的なミューだが、それからは何度もくじけそうになった。ザールブルグに流れてくるまでに何度も死にそうになったし、戦いに敗れたこともあった。そのときは必死に逃げて命を拾った。ミッションをしくじって怒られたこともあった。街から街へと流れながら、だがそれでも楽しかった。

そのままだと、ミューは結局三流から這い上がることが出来なかっただろう。ミューは元々根が陽気な反面のんびり屋で、創意工夫で自己向上を行うというタイプではない。ただ漠然と流れながら、どこかでのたれ死にしていたかも知れない。

だが、ヒュージ・スクイッドを不注意から怒らせてしまい、襲われている所をマリーに救われてから、状況は好転した。完全に格上の使い手であるマリーやシアから様々な事を教わりながら、冒険者としての評価と実力を一日ごとに伸ばしていった。

だが、同時に、ミューは触れることになった。強さというものがもつ、強大な闇にも。光には必ず闇が伴う。マリーがそうであり、クーゲルがそうだ。見たことはないが、シアも多分そうだろう。高度な力量を持つ使い手ほど、精神面の破綻や、巨大な闇を抱えているのだと、ミューは最近知るようになった。普通の人間である以上、普通の使い手にしかなれないのだとも。どこか一線を越えるためには、精神的にも何かしらの破滅を経験しなくてはならないのだとも。

だから、ミューは怖い。力が伸びるに従って、今までは見えなかった心の中に住む獣が、徐々に這い上がってくるのが分かり始めたからだ。このまま冒険者としての人生を登りあがっていくと、おそらくミューもマリーやクーゲルのいる場所へ足を踏み入れることになる。そのとき、自分は自分でいられるのか。あまりミューには自信がない。

マリーのアトリエに向かうミューは、土産を用意しようかと、車引きを物色。マリーは基本的に何でも喜んで食べるが、問題はアデリーだ。マリーが育てているとは思えないほど繊細な子で、無理に作る笑顔がいつも痛々しい。マリーの長年の努力で、やっと少しずつ精神が安定しだした所らしく、まだまだ見ていて危なっかしい。労って上げたいとミューは思うのだが、具体的にどうしたら良いのか分からない。だから、せめて好きなものでも買っていってあげたいのだが、辛いものが好きだという以外、アデリーの嗜好は知らない。冒険にでも連れ出して一緒に寝泊まりすれば、随分色々分かりそうなのだが。

アトリエに到着。休業中の札が掛かっていた。出かけているという話は聞いていないから、疲れて寝ているのか。ドアをノックするが、返事は無し。マリーは最近忙しいという話だが、アデリーまでこの時間にいないのは珍しい。

どこかに出かけたのかと思い、辺りを探してみる。途中、赤いソースが食欲を誘うニネという小麦粉料理を扱う車引きを見つけたので、三人分購入。ニネは肉をベースにしたソースを、パン状に加工した小麦粉で包み焼いた料理で、持ち運びに便利だ。南方から入ってきた料理で、ミューの故郷でも人気があった。宿から持ってきた布袋に入れて貰い、周囲を彷徨いているうちに、目的の人物を見つけた。

アデリーである。いつものように使用人の制服であるエプロンを身につけ、奴隷階級の証である黄色いリボンを翻らせて、大通りをおろおろしながら歩いている。ダークブラウンの髪が伸び始めていて、リボンは首の後ろでそれをポニーテールに縛るために用いている。かなりのお洒落さんだが、自らの容姿を誇る雰囲気はなく、ひっきりなしに周囲に視線を向け、所在なさげな表情を浮かべていた。

迷子になったわけではないはずだ。それに案外しっかりしていて、周囲の人間からは距離をきちんととり、通行人にぶつかることもない。周囲の人間も見ているし、危ないところには近づかない。この町に人買いはほとんどいないが、いたとしてもこれならドジは踏まないだろう。

妙な話だ。アデリーには確実に隙は無くなってきているのに、ああも自信がなさそうで、とても弱々しく見える。何がアデリーの足かせになっているのだろうか。悲惨な過去か。マリーの獰猛な本性か。ミューには分からない。

ともあれ、見ていても仕方がない。足早に歩み寄り、声を掛ける。肩を叩こうと思ったが、アデリーは覚醒暴走型の能力者で、下手に触ると大爆発を起こす可能性があると聞いていたので、やめる。

「おはよー。 何してるの?」

きゃっ、と可愛い悲鳴をアデリーは上げた。通行人が何人か振り返る。邪魔になると行けないので、近くの公園に連れて行った。ベンチに座らせると、アデリーは少し上目遣いに、控えめな抗議の言葉を投げかけてくる。

「お、お、脅かさないでください。 ミューさん、何でしょうか」

以前はミュー様と呼ばれていたのだが、何ヶ月かかけて、それはやめて貰った。故郷のことを思い出して辛いのだ。

「いや、みんなでご飯にしようかと思ってアトリエに行ったら誰もいないからさ、探してたの。 で、見つけたから、声を掛けたわけ」

くどいほどにわかりやすく説明すると、アデリーは少し視線を彷徨わせて、唇を噛んだ。マリーはと聞くと、少し身を縮める。そうなると、マリーに関連することか。

「マリーがどうかしたの?」

「どこかに、行ってしまったんです。 あの、マスター、時々どこかに行ってしまうんですけれど」

アデリーは言う。

ここのところ、マリーは何かの研究を熱心にしていたのだという。時々爆発音がして、髪を焦がしたり、火傷をしたり、傷が絶えなかったそうだ。そして、独り言や含み笑いも増え始めていた。考えをまとめるためか、腕組みして、アトリエの一階を延々と歩き回ったりもしていた。

そして今日。実験成果らしいものを持って、早朝から外に出かけていったのだという。非常に嫌な予感がしたので、追いかけたのだが、見失ってしまったのだとか。

そう言われて、ミューにはぴんと来るものがあった。思い出したくもない、あのときのことだ。盗賊団を討伐に行った時。初めてミューが人を殺した時。マリーが盗賊団を追い込んで、皆殺しにする時に使った兵器があった。クラフトとか言ったか。

「ひょっとして、それって、クラフト?」

「違うって、言っていました。 アデリーは気にするなとも、言ってくれました」

アデリーは目を伏せる。長いまつげが、僅かに涙で濡れている。この子は将来、かなりの美人になる。今でもその予兆はある。多分、それを更に高めているのが、この子がいつもたたえている痛々しいまでの憂いだ。

それは、時々ミューを苛立たせる。

「どうして、そんなに悲しそうなの?」

「えっ?」

「マリー、アデリーによくしてくれるでしょ? 酷い事なんて絶対しないし、アデリーが将来生きていけるように、色々な事も教えてくれるよね」

それが、ミューには少しねたましい。マリーは戦闘時には獰猛きわまりないし、残酷で冷酷だが、それでもアデリーには絶対に理不尽な暴力を振るわない。なぜなら、「親」だからだ。血縁など関係無しに、マリーが自分はアデリーの親だと考えていると、ミューには分かる。親が存在しない環境で育ったミューにとって、マリーという親がいるアデリーは、羨望とわずかな妬みの対象であった。もちろん可愛い妹のような存在でもあるが、負の感情は誰に対してだって抱く。

「マリーは確かに怖い所もあるけど、それがアデリーに向くことは無いでしょ? マリーは力を制御する事を知ってるし、自分の狂気とも上手くつきあってる。 後は、アデリー次第なんじゃないかな」

「私は、いいんです。 私はマスターが好きです。 マスターが必要だと思うのなら、ばらばらにされたって、実験材料にされたっていい。 でも」

意外な答えが返ってきた。そういえば、マリーはアデリーに触ることが出来るようになったと言っていた。マリーに対しての絶対的な信頼は、もうアデリーに生じているのかも知れない。買ってきたニネを渡すと、アデリーは食べながら言う。

「マスター、私にはとても優しいです。 ミューさんやナタリエさんにも、お店に来る人にも優しいです。 でも、それ以外の相手には、特に動物さんには、とても酷いことを平気でするんです。 この間も、可愛い子犬や子猫に、凄く酷いことを」

そうだ、そうだった。失念していた。この子はとても優しいのだと言うことを。マリーが行う実験で、傷つく者がいるのが辛いのだろう。これだけは、ミューにはフォローできなかった。

「マスターの実験が、とても大事なものだって事は理解しています。 マスターの作ったお薬で命が助かったって人にも会ったことがありますし、マスターにお仕事を依頼しに来る人がいつも満足しているのも分かっています。 マスターがしていることは、みんなに必要とされていて、良いことのはずです。 でも、マスターは、酷いことをためらわないんです。 だから、私どうしたら良いか分からなくて。 それで、それで」

「マリーを追ってきたと」

こくりとアデリーは頷く。

この子は思ったよりも大人なのかも知れないと、ミューは思った。少なくとも、子供の時、ミューはそんな風に考えることが出来なかった。父を恨み、母を哀れむことで精一杯だった。

アデリーの悩みは、とても難しいことだ。心を許した人が、いつも血の臭いをさせていることが悲しい。自分を大事にしてくれるのに、他の存在にはとても冷酷なのが辛い。でも、それも意味あっての冷酷さだと分かっているから、どうにも出来なくて、心が虚空を彷徨っている。

マリーの実験を止めることは、人類の発展を自分の都合で止める事になってしまわないか。そういう難しい選択なのだ。

ミューにだって分かる。わざわざクラフトを例に出すまでもなく、マリーが開発した兵器は、恐ろしく優秀だ。いずれマリーが基礎を築いた兵器産業が、世界を席巻し、人類の歴史を塗り替えるかも知れない。それは大勢を不幸にする可能性がある一方、世界の仕組みをより豊かにより強力に書き換えていくことだろう。

変化に犠牲が伴うのは当たり前だ。ミューは冒険者を始めて、知った。生きるためには敵を殺さなければならないのだと。人類の発展の影には、泣いている大勢の存在がいるのだと。

マリーはその影の一部を背負っている。そして重要なのだが、本人がそれによって全く苦しんでいない。

すり切れず、押しつぶされることがない以上、変化の担い手としては、最高の人材。いずれ人類の至宝と呼ばれる時が来るのかも知れない存在だ。時の巨人といっても良い。そして、アデリーは、それに日を遮られ、食事の時に飛び散る鮮血を浴び、苦しんでいるわけだ。

マリーに悪気はないだろうし、むしろ狂気をよく抑えて頑張っている。誰も悪くないのに、苦しむ者が大勢でる。そんな醜悪な喜劇が、此処にはあった。巨人と小人が一緒に暮らすのは難しい。

「ごめんね。 勝手な事ばかり言って」

ミューは何度かためらった後、頭を撫でた。アデリーは小さく頷くと、静かに泣いた。誰にも相談できずに、辛かっただろう。シアはマリーの同類だし、奴隷である以上同年代の子供に友人はいまい。

アデリーが落ち着くまで、側にいてあげよう。ミューはそう決意した。自分の不幸などたかが知れたものであったのだと、今更ながらに思い知りながら、少女の慟哭を聞いていた。

ミューの優れた聴覚が、遙か遠くで生じた獰猛な爆発音を捕らえたのは、そのときであった。周囲の人間は気付いていないが、ミューは敏感に方向、距離も捕らえていた。場所はおそらく近くの森、ただし最深部。アデリーは気付いていない。気付かない方が良いだろう。

ミューに出来るのは、ただ側にいてあげること。とても比較は出来ないが、不幸な過去を背負い、苦しむ気持ちは少しくらいは分かる。不幸なことに、アデリーは頭が良かった。ミューのように頭が悪ければ、どれだけ楽だっただろう。無軌道に両親やマリーを恨んで暮らせば良いのだから。恨みは心に指向性をもたらし、整合性も作る。ミュー自身がそうだったから、よく分かる。

もう一つ、爆発音。アデリーが気がつかないよう、そっとハンカチで涙を拭ってやりながら、ミューは思った。

人間って、どうしてこうも業が深いのだろうと。

 

2,神の炎

 

内側からほとばしり出てくる欲求で、マリーは体が焼けそうだった。ザールブルグを小走りで出る。道行く途中、通行人共は青ざめて避けていった。よほど獰猛な笑顔を浮かべていたか。別にどうでも良い。

南門を出て、近くの森に入り込む。抱えている籠には、ブララの実を加工した、炸裂弾が二つ。クラフトではない。フラムという。ザールブルグ近辺の方言で、火を意味する。

このフラムの完成によって、火薬が完璧なものとなった。ついにやったのだ。

とはいっても、簡単にできたわけではない。ヴィルベルを叩き殺した後ストルデル滝の奧で見た丸い砂粒がヒントにはなったが、それから理論を実現するのに数ヶ月かかった。試行錯誤を繰り返しながら調薬し、火薬の品質も根本から見直し、何度となく危険なヴィラント山に足を運び、やっと出来たのだ。

ベースとなる火薬を生成する段階で軽石を粉砕して混ぜ入れ、更に何種かの薬品を混ぜ、特殊な粘土で成形。その後じっくり乾かす事により、それは出来た。全体に同時に発火させなければならないという難しい技術上の問題はあるが、破壊力がすさまじい。小指の爪ほどの塊で、旨くやれば家の大黒柱くらい簡単にへし折る。マリーも何度か、危うく指を飛ばしてしまう所だった。火傷くらいで済んだのは、幸運といえる。

森の奧へ奧へと入り込む。以前クラフトの実験を行った空き広場へ急ぐ。周囲が見えない。途中、何度か木の枝を踏みつぶした。一度ヒュージ・スクイッドと出くわすが、かあっと口を開いて威嚇するだけで逃げていった。殺気が抑えられない。全身が、燃えるように熱かった。

成形型の完成品については、ヘルミーナ先生が名付けていたとおり、フラムと命名した。ただし、本家のフラムよりも破壊力が遙かに大きい自信がある。安定性も高く、その辺の岩に投げつけたり、踏みつぶしたりしたくらいでは爆発しない。元の火薬と異なり、このフラムは、全体に同時に火が付かなければ炸裂しないのだ。状態次第では、たき火にそのまま放り込んでも平気だ。更に、湿気ることもない。今までの火薬の弱点を完璧に克服した、まさに必殺の兵器となるはずだ。

そしてこれは、マリーにとっては完全にオリジナルの作品ともなる。以前にも育毛剤竹林を自力で製作したが、あのときとは訳が違う。これほどに徹底した成形と、光石を利用したとはいえ全体に着火する技術に関しては、如何にイングリド先生やヘルミーナ先生でも即座にはコピーできないはずだ。錬金術師にとって、オリジナルの道具を作り上げることが、一人前の条件だと聞く。マリーは今こそ、一人前の錬金術師となろうとしていた。すくなくとも、自分で納得できるレベルで、である。

ようやく目的地に着く。マリーが来たことが分かると、さっと森の動物たちが消えた。マリーのことが知られていると言うよりも、全身から放つ剰りにも高密度の殺気と血の臭いがそうさせたのである。

籠からあわただしくフラムを取り出すと、いつも実験に使っている、一抱え半はある大きな切り株に乗せる。クラフトや試作フラムの実験でぼろぼろだが、何とか木の形を保っている。それも、おそらく今日で最後だ。

この切り株は、消えて無くなるからだ。

マリーも、この成形タイプの破壊力は推定でしか分からない。だが、切り株が消し飛ぶには充分なはずだ。この予測には自信がある。

中腰でフラムをセットしたマリーは、周囲を念入りに確認。予想される破壊力の範囲内に、人間の気配はない。動物実験くらいはしたいが、それはまた今度だ。物事には順序というものがある。今回は破壊力の実験であり、それ以上は求めない。

「爆裂せよ」

外殻であるブララの実の皮に触れて、一言。もちろん、光石の起動ワードだ。クラフトの時と変えたのには、特に理由はない。敢えて言うと、保安上の問題だ。今のところクラフトとフラムを同時に持ち歩くことは考えていないが、その場合にはワードが同じだと危険な事態が生じる。

走る。無数の針が突き刺さったり焦げ付いたりしている木立の間を走り抜ける。充分すぎるほどの距離を稼いでから、大木を背にして、こっそりのぞき込む。過剰なほどの距離をとったが、それでも肌にびりびりと威圧感が来る。フラムは破壊力の大きさも考慮して、光石の起爆時間は十秒後にセットしてある。そのカウントが、少しばかり恨めしい。

カウントが終了。その一瞬が、どれほど長く感じられたことか。

目が覚めると、マリーは大の字に転がっていた。一瞬、気絶していたらしい。立ち上がって振り向くと、背中にしていた大木は、綺麗に割れていた。

声が出ない。

辺りは更地になっていた。切り株周辺は黒い煤で汚れ、下草は全て消し飛んでいた。広場周辺の木も数本が消し飛び、マリーが隠れていた木にまで被害が及んでいた。凄い。これは凄すぎる。クラフトの比ではない。ただ、対人殺傷兵器には向かない。ドラゴンなどの超大型生物に対抗するためや、攻城戦兵器として活用すべきであろう。

笑いが漏れかける。まずい。此処で理性を失うわけにはいかない。もう一つフラムを取り出すと、前傾姿勢で爆心地まで走る。すぐにセットし、ある種の昆虫のように低い体勢で、さっきの倍の距離をとる。今度は爆発がどうなるか、しっかり見届けたい。

カウントダウンが終わる。今度は、一瞬が万年に感じられることもなかった。閃光が炸裂し、辺りを覆い尽くす。途轍もない爆音が襲いかかり、耳を塞がないと意識を持って行かれるところだった。見える。炎が、キノコの形に、空にふくれあがるところが。同時に、獰猛な熱風が吹き付けてきて、草を、木々を、容赦なく踏みにじった。

全てが終わった時、マリーは立ちつくしていた。せり上がってくる。凶暴な、もう一人の自分が。闇が。殺意が。破壊衝動が。素早く杖を腰にくくりつける。少しでも周囲の被害を抑えるためだ。

マリーは知っている。人間の中には、獣が住んでいることを。マリーのそれは、人一倍大きいことを。定期的にエサをやらなければ、爆発してしまうことを。そして、自分の場合は欲求と獣が直結していて、巨大な興奮が、それを抑えられないほど大きくすることを。

一歩、二歩、踏み出す。前傾姿勢のまま、歩き出す。

やがて、唐突に、理性が吹っ飛んだ。

が、ぐ、おお、おおおおおおおお、おおおおおおおおおおおおおっ!

全身が震える。せり上がってくる。全てを食らいつくす、狂気の刃が。

ごおおおおあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!

殺気が炸裂する。視界がぶれる。全身から、いかづちの魔力が零れ出る。

興奮しすぎると、魔力が制御できなくなる人間がたまにいる。マリーもその一人だ。そしてその状態では、身体能力が著しく向上する。

残像を残しながら、マリーが森の中を走る。足跡が焦げ付き、所々火花さえ散る。

何でも良い。殺したい。引きちぎりたい。八つ裂きにしたい。食いちぎりたい。前傾姿勢のままなのに、速い。速すぎる。意識のどこかで、冷静に状況を見ている自分もいる。せせら笑っている。同じように。走っている自分と同じように。口を開けて、狂気を湛えた笑顔のまま、走る。走り、そして走る。

木を蹴って、ジグザグに跳ぶ。一時的だが、ナタリエ並みの身体能力を発揮している。何か見つけた。殆ど他人事のように思考が動くよりも速く、木の枝を蹴って高々と跳躍。冬の森の中で、体を天へと躍り上がらせた。

見つけた。イノシシだ。人間よりも一回り大きな個体。だが、それがどうした。関係ない。

イノシシは立派な牙を持ち、優れた体躯を持っていた。森の中で生存競争を繰り広げているだけあり、動きに隙もない。しかし、それが何だというのだ。

イノシシは文字通り天から降ってきた災難に、驚き身を翻そうとしたが、そうはさせない。殺してやる。ばらばらにしてやる。喰ってやる。引きちぎってやる。無意味で残虐な言葉が流れ流れて、マリーの体を突き動かす。

躍りかかる。激しいいかづちを纏った拳が、イノシシの頬に突き刺さる。悲鳴が上がり、イノシシの巨体が揺らぐ。身を低くして突進の体勢に入ろうとするが、遅い。残像を残して飛び上がったマリーが、イノシシの頭上から、文字通り落雷のような拳を叩き込む。

「ギッ! ブギイイイッ!」

たまらず片足を折るイノシシが、口から泡を吐く。背中にまたがったマリーが、必死に振り下ろそうと走り出すイノシシの首筋に、連続して拳を叩き込む。いかづちを纏ったその拳は、分厚いイノシシの皮を抉り、毛を燃え上がらせ、骨を痛めつけ、ついに大量の血が噴き出した。

後ろ足で立ち上がり、頭を振り、涙を流しながらイノシシは苦痛の絶叫を上げる。傷口に手を入れたマリーが、力づくで皮を引き裂きに掛かる。イノシシが木に突進、マリーを幹に叩きつける。何度も、何度も、激しく。だが、ものともしない。舌なめずりしながら、めりめりと音を立てて、皮を生きたまま剥いでいく。この、恐ろしい襲撃者に、イノシシは必死の抵抗を試みるが、いかんせん相手が悪すぎた。

あ、あは、ははははは、ひあはは、ひひゃはははははははっ!

狂った笑い声が漏れる。イノシシの抵抗が楽しくて仕方がない。やがて、皮が盛大に剥がれ、目玉がそれに着いてきた。顔を半ばちぎり取られたイノシシは、顔面から大出血しながらももがいていたが、マリーが頭蓋骨に手を掛け、そのまま電流を叩き込むと、断末魔の悲鳴を上げて横倒しになり、おとなしくなった。もちろん、それに足を挟まれるようなドジは踏まない。残像さえ作りながら飛び退いたマリーは、すぐにまたイノシシに飛びつく。頭蓋骨の割れ目に手を掛けると、マリーは体から激しく放電しながら、力を込めて左右に引き裂いていく。

やがて、木が倒れるような音と共に、イノシシの頭蓋骨は左右に引きちぎられ、生焼けの脳みそが飛び散った。

勝利の雄叫び。全身を血に染めたマリーは、全身から魔力を垂れ流しながら、イノシシの皮を素手で剥ぎ、肉を引きちぎり、内臓を引っ張り出した。イノシシが原型をとどめなくなるまで、四半刻もかからない。

肉を素手で引きちぎると、手を介して電流を通し、そのまま焼く。皮にへばりついていたイノシシの眼球が、電流を浴びて爆ぜ割れた。ほどよく焼けた肉を口に運び、咀嚼して飲み込む。この状態のマリーを相手に、必死に抵抗したイノシシに、マリーは狂気の中でも敬意を払っていた。だから喰う。

肉を掴み千切っては、焼いて、食いちぎる。ぱっくり開いた腹の中に体を半ば突っ込むと、内側から電流を通し、一気に焼き上げる。香ばしい臭いが辺りに広がる。血だらけのマリーがイノシシの腹から顔を出した時には、その口にイノシシのよく焼けた肝臓が咥えられていた。もちろん、引きちぎり、咀嚼して、飲み込む。吠える。空に向け、殺気を叩きつける。辺りに、戦意をぶちまける。

徐々に、興奮が収まってくる。それと同時に、達成感と、脱力感が、全身を包んでいった。

吐き捨てたのは、さっき肉を食っている途中に、口に入ってしまった小骨であった。手に着いた肉汁と血を舐めながら、マリーはゆっくり大木のそばにまで歩いていって、座り込み、それに背中を預ける。

「ふふ、また、やっちゃったなあ。 ふ、ふふふふふ、うふふ」

巨大なイノシシの残骸を見ながら、マリーはどこかうつろなままつぶやいた。舌なめずりして、口の周りの血を舐めとる。自分のこの性癖を、マリーは決して嫌いではない。なぜなら。強さというのは、こういうものだからだ。強さの、飾らない現実の姿が、これだからだ。

興奮しすぎて、小便を漏らす人がいると、マリーは聞いたことがある。マリーの魔力漏出も、それと同じ現象だ。理性が吹っ飛ぶことで、いつもは抑えているものがこぼれ落ちる。小便の場合は筋肉が緩む。魔力が漏れるのも、それと似たような現象だ。身体能力があがるのは、それの副作用である。そして無理に外されたリミッターは、体に負担も掛ける。現に、今、全身が痛い。明日一日は寝ていた方がいいだろう。

非常に強力な戦闘力を得ることが出来る反面、不確実なので、技としては使えない。戦闘自体は好きだが、此処まで興奮することはない。結局の所、マリーは戦士としては一流を越えることが出来ない。術者としてなら高い次元にあるが、それも術のみに絞って力を伸ばしている天才にはかなわない。結局の所、中途半端なのだ。一人の使い手として、マリーを超える者は幾らでもいる。

イノシシは派手に散らかしてしまったが、美味しそうな部分はまだ多い。アデリーに持って帰るかと、マリーは決めた。目を離したらすぐに森の動物たちに荒らされるだろうから、何か工夫がいる。少し考えた後、マリーはナイフを取り出し、無事な毛皮ごと、美味しい部分の肉を切り取った。それを丸めることで、容易に持ち帰ることが出来る。後は森の動物たちへのプレゼントだ。一つの死は無数の生をはぐくむ。マリーの暴虐は決して無駄にはならない。

途中、小川によって、鮮血を落とした。まだ冬だから、川の水は冷たかったが、頭を冷やすには丁度良かった。口をゆすぐと、結構な量の血が出てきた。顔を洗うと、さっぱりして気持ちが良い。髪にも盛大に血が付いたので、下着だけになって、丁寧に洗い流した。フラムは完全に完成した。後はアカデミーに時期を見て申請することが必要になる。

爪の間にしつこく入り込んだ血を落としている内に、忍び寄ってきた者がいる。最初マリーは気付かないふりをしていたが、あまりしつこく此方を見ていたので、さっさと洗うのを切り上げ、服を着た。気配から言ってデバガメではないだろうが、気分が悪い。殺気はないが、用心に越したことはない。

火を熾して、髪を乾かす。すっかり冷えた体が温まる。まだ此方を覗いている奴は動こうとしない。イノシシの死骸を置いてきた辺りから、獣が争う声が聞こえた。声からして、狼だろう。群れ同士で、少ない食料を巡って争っていると言うところか。マリーは持ってきた一番良いところの肉を燻して燻製にしながら、小さくあくびをする。余裕から来る行動だが、油断はしていない。

まだ監視者は動こうとはしなかった。髪を乾かすついでに、燻製をじっくり焼き上げる。冒険に来たわけではないから、装備はさほど用意していないが、それでも燻製くらいならその辺のものをありあわせで作れる。アデリーは小食だが、燻製は長持ちするから、作っておいて損がない。余ってしまったら、売ってしまっても良い。

様子を見るために、マリーはたき火に薪を追加したまま、ごろりと河原に横になる。監視者は動かない。なかなかに粘り強い。魔力を使い果たしたマリーとしては、出来れば戦いは避けたいが、場合によってはアトリエまで着いてくる前に、仕留めて置いた方がよい。

場所を変えるが、かまわず監視者は着いてくる。ため息一つ。仕方がない、場合によっては殺るか。杖を腰から外すと、地面を軽く小突きながら、マリーは気配のする方へ、殺気を向けた。

「そろそろ、出てきたらどう?」

「……」

「出てこないのなら、こっちから行くよ?」

素直に、という訳ではないが、小柄な人影が出てきた。全身を覆う冬用のコートとマントを羽織っていて、革靴を履いている。見覚えがある。白皙の肌を持ち、緑色の髪の毛を肩口で切りそろえ、瞳は黄緑。顔立ちは作り物のように整っている。非常に美しい娘だが、感情の全く見えない無表情ぶりと、その異常な配色で覚えていた。ホムンクルスだろうと思っていたのだが、気配からして間違いなさそうだった。

「マルローネ様ですか? 私はクルスと言います」

礼の角度は完璧だ。下位者が上位者に向けての礼だから、此方は礼を返すことはない。返すと、却って失礼に当たると考えられている。マリーは相手への警戒も解いていないから、低い声で言う。

「ふうん、それで?」

「マスターから、貴方と接触しろと言われました」

「それで、どうしてずっと陰に隠れて見張ってた訳?」

「作業をなさっていたようですので、邪魔をしては悪いと思いましたから」

無表情のまま、面白いことを言う。この辺りは、所詮ホムンクルスか。まだ知能はそれほど高くないのだろう。戦闘態勢を解除すると、マリーは街道を歩き出す。少し遅れて着いてきたクルスの方を見ずに、マリーは聞く。

「で、その主君って、誰?」

「ヘルミーナ様です」

「! まさか、錬金術師のヘルミーナ先生?」

「はい。 マスターは貴方に興味を持っておられます」

「それは、光栄だわ」

そういえば、ヘルミーナ先生はホムンクルス研究の大家であった。そうなると、このクルスという娘はその作品だろう。嘘をついていると思えないし、観察した限り、仮に此方を油断させてから寝首を掻こうとしているとしても、充分に撃退できる。

ともかく、そうなってくると、こんなところで立ち話も悪い。アトリエに帰ろうと、クルスを伴って歩き出す。道すがら、色々聞いてみる。話を総合すると、クルスは食事を人間と同じようにとることが出来るし、それなりの判断力もある。計算は速いし、何かあった場合の反応もそこそこだ。常人を若干上回る程度の魔力は持っているが、ただし身体能力は低いし、戦闘経験も無い。

普通の人間とさほど代わりがないと、無理をすれば通すことも出来る。ただ、やはりまだ生物としてはいびつな感触も受ける。ただ、発展途上の存在であろうし、この辺が限界でもあろう。そう考えれば、充分な出来の作品である。

ザールブルグが見えてきた。城門に兵士達が集まり、先ほどの爆発について話し合っているようだ。これから調査隊を派遣するつもりかも知れない。

「先ほどの爆発は、貴方の仕業ですか?」

「ん? ええ、内緒ね」

「火薬兵器ですか?」

「そうよ。 これからアカデミーに作り方を報告して、あたしのオリジナルアイテムとして登録して貰うつもり」

兵士達が、一瞬だけマリーとクルスに視線を向けるが、すぐに外す。忙しいようで、ばたばたと駆け回っては、調査隊の編成を行っている。マリーが城門を通りすぎる時に、まだ若い騎士とすれ違う。妙だなと思う。この程度の事件で騎士まで出てくるというのは、警戒態勢のレベルが相当に高いと言うことだ。何かあったのかも知れない。

「ちょっと寄り道しても良い?」

「どうぞ」

「先にあたしの家に行ってくれてもいいんだけど、どうする?」

「お供させていただきます。 お邪魔はしません」

そういって、クルスはフードを被った。好きにしろと言い残して、マリーはさっさと冒険者ギルドへ。そういえば、以前見かけた時には、冒険者の護衛が付いていたような気もする。そうなると、此処には足を運んでいるはずだ。

ギルドの手前には、仕事が多い時に出される大型の看板が出ていた。看板の周囲には冒険者達が群がっている。その中には、見覚えのある人間も多い。現にその一人であるハレッシュもいた。彼は脳天気な笑顔を作りながら振り向いた。

「お、マリーか。 久しぶりだな」

「久しぶり。 何かあったの?」

「それが、な。 どうもドムハイト国境の要塞が、全滅したらしい。 シグザール王国の白鷲要塞ではなくて、ドムハイトのディルディリート要塞だ」

「軍が動いているって話は聞いていないけど、何が起こったの?」

「まだ分からない。 ともかく、聞いた話じゃ、一晩で要塞は全滅、原形を残さないまでに破壊されていたって話だ。 要塞にいた人間は全員殺されて、死体は近くの峡谷に捨てられていたらしい」

ディルディリート要塞と言えば、ドムハイトの前線基地として有名な存在だ。常時千以上の兵士が駐屯し、その防御力は前線要塞としては屈指のものとなる。熟練した将軍が常に司令官として赴任しており、一晩で落とすのは相当に難しいはずだ。大戦時に、シグザール王国軍も、ついに攻略することが出来なかったほどなのだ。

「それで、何が起こったか調べるために、大動員が掛かったって訳だ。 考えられないが、魔物の仕業って噂もある。 エンシェント級以上のとんでもなく巨大なドラゴンや、すさまじい高位の悪魔が現れたんじゃないかって話もあるくらいだ」

「考えにくいなあ」

即座に断言、小首を捻る。

マリーは思う。そういうドラゴンや魔物や悪魔が実在するとして、わざわざ防御力の高い要塞なんぞ襲うだろうか。どう考えても、相対的に見て戦力の低い村や町に襲いかかる。それでも、かなりの抵抗を覚悟しなければならないだろう。仮にそれで勝てたとしても、生き残りや目撃者は少なからずでるはずだ。ましてや、前線近辺の村や町はナタリエを例に出すまでもなく優れた使い手が多く、戦い慣れしている。グランベルくらいの戦闘力を有する村がごろごろしているとも噂に聞いている。ドラゴンくらいなら、エルダー級だろうがエンシェント級だろうが、それ以上だろうが、実力で撃退してみせるだろう。

また、人間では全く手も足も出ない程の悪魔が出現したと仮定しても、分からない点が出てくる。なぜわざわざ辺境の砦なんぞをこっそり襲う。仮に人間世界に混乱と恐怖をもたらすのが目的だとすれば、ザールブルグや他の主要都市を襲うだろう。しかも、これ以上もないほど派手に、見せつけるようにだ。

以上から、結論。犯人は人間だ。

マリーはこう言う時、相手になった気分で考えてみる。正体不明の強大な存在になったとして、腹が減っていて、人間を喰いたいとする。それなら安定したドムハイト内陸や、ザールブルグ近辺の平和ぼけした村を襲う。痕跡を残さないようにだ。人さらいの仕業に見せかけることが出来れば上々である。だいたい、死体をわざわざ捨てたというのが解せない。人肉はかなりまずいと聞いたことがあるが、それにしても、ドラゴンやら魔物やらが、そんなことをするとは考えられない。

マリーはそれらを説明するが、ハレッシュは理解しているか微妙だった。ただにこにこしながら、それでも眉の辺りに緊張を称えたまま、言う。

「ドムハイトでも冒険者や軍を派遣してきているらしくて、小競り合いが起こってるみたいだ。 だから、今回の仕事はベテラン以上にしか声が掛かっていない」

「一番恐ろしいのは、いつでも人間だしね」

「そうなんだろうな。 今回の事件も、ひょっとするとマリーが言うように人間の仕業なのかも知れないな」

その通りだと、マリーは頷いた。ハレッシュは鈍いが、素直に誘導に乗るので、こう言う時は扱いやすい。

人間が犯人だという結論は間違いない。だが、問題はどんな人間が犯人だと言うことだ。数百人を捨て身の技で葬ることが出来る能力者はいる。歴史上にも実在が確認されている。しかし、千以上の精鋭を相手にして、瞬時に勝負を決めることが出来る能力者はいまだ確認されていない。覚醒暴走型能力者でも無理だろう。マリーでは、奇襲に持ち込めば、訓練を受けていない三十人くらいになら勝てるかも知れないという程度だ。

そうなってくると、組織的な戦力が動いたはずだが、それならばドムハイト軍もむざむざ奇襲されてはいないだろう。ドムハイトは諜報力に優れていて、シグザール王国内にもスパイを大勢飼っているのだ。師団レベルの動きをすれば、民間人にさえばれる。ドムハイト軍がそれを察知しないわけがない。噂によると、ドムハイト軍は大戦時、シグザール軍の中隊長以上の士官を、名前と経歴、配置や能力のレベルから全て把握していたという。今でもスパイ網はある程度健在のはずだ。

マリーとしては、いかなる手品を使ったのかが気になる。もし種が分かるのなら、今後利用していきたいからだ。

ハレッシュはルーウェンやミューを誘って調査に向かうと言い残すと、再び掲示板の前に戻った。この分だと、しばらくは素材集めにベテラン冒険者の支援を期待できない。ナタリエは連れ出せそうだが、そうなってくると残りはシアくらいか。シアは頼りになるが、忙しくて毎回出られるわけではないし、計画の見直しが必要になってくるかも知れない。いつもいつも、素材に関してはぎりぎり一杯なのだ。

「ギルドには入らないのですか?」

「ん、情報は入ったからいいや」

クルスの冷静な言葉に、ひらひらと手を振って返す。気がつけば、既に陽は傾き始めている。今日は帰ったらデータをまとめなければならない。アカデミーに行くのは明日になるだろう。クルスを促すと、マリーはアトリエに足を向ける。

何だか、もの凄く嫌な予感がしていた。

 

3,一つの決意

 

マリーが帰り着くと、アトリエでは、ミューとアデリーが待っていた。ミューは一瞬だけ抗議の視線をマリーに向けてきたが、すぐに目を伏せる。理由は分からないが、何かあったのかも知れない。アデリーはかちゃかちゃと音を立ててキッチンの掃除をしていたが、マリーの帰還に気付くとぱたぱたと駆けて出迎えに来る。最近は成長が著しく、以前は届かなかった棚にあるものを、踏み台無しでとることが出来るようになっている。ひょっとすると、成長期が終わる頃には、マリーの背を追い越しているかも知れない。

「お帰りなさいませ、マスター」

「ただいま。 それで、ミューはいつ来たの?」

アデリーにマントと一抱えもある燻製肉を預けながら、マリーはアトリエの中を見回す。アデリーが露骨な血の臭いに、悲しそうに眉をひそめたのが一瞬だけ見えた。ミューはちょっと不機嫌そうに頬杖をつきながら、応える。

「途中でアデリーにあったから、一緒に来たんだ。 で、その子は?」

「私の先輩に当たる人が作ったホムンクルス。 クルスちゃん」

「クルスです」

「ホムンクルスって言うと」

ミューには以前説明した。ホムンクルスは人工生命体であり、錬金術が作り出した傑作の一つであると。ただし寿命が短く、実用にまでは到っていないとも。極めて無表情なクルスを見て、ミューは複雑な様子だ。どう接して良いのか、分からないのかも知れない。オープンで差別とは無縁なミューでさえこれだ。一般人の反応は推して知るべきである。

アデリーは若干びくびくしていたが、これは人見知りするからだ。それでもきちんと来客用の椅子を並べ、茶と用意してある干しブララの実を出す。むしろそれで困惑したのは、クルスの方だった。始めて表情らしいものを浮かべて、しばし躊躇していたが、やがて向かいに座ったマリーとミューに言う。

「先ほども言いましたが、今日は、パイプを確保させていただくために来ました」

「本当だったら光栄だけれど、しかし何故」

「貴方の噂は、イングリド様を通じて聞かされています。 マイマスターは大変に強く興味を持っておられます」

「へ、へえ……」

実感はない。だが、このホムンクルスには、嘘をつけるほどの知能があるようにも見えない。

「マイマスターヘルミーナについて、どれほどご存じでしょうか」

「イングリド先生と双璧を為すアカデミーの精鋭。 ただし対立も激しく、喧嘩も絶えず、今では独立行動を起こして、一種の分派活動に到っているとか」

「それは表向きの事です。 他言無用に願いたいのですが」

クルスは驚くべき事を言う。

ヘルミーナ先生とイングリド先生は、個人的な仲こそ決して良くないものの、ある人を媒介として強い絆に結ばれているのだという。二人の共通の師匠で親でもあるその人の夢であったアカデミーを守るために、いかなる事でもする。それが二人の意思なのだそうだ。二十年近くもその分業は続いていて、会議での仲違いや、派閥争いなども、裏では全て示し合わせた上での行動だそうだ。

具体的には、内側からアカデミーを支配するのが、イングリド先生の仕事。そして外側からアカデミーを見て、邪魔になるものを処分するのが、ヘルミーナ先生の仕事なのだという。

だから、クルスは手紙の運び役として、二人の間を頻繁に往復している。そして今回、マリーと接触したのも、その一環なのだそうだ。

「貴方の作り出す薬品や宝石、更に兵器類は、お二人も高く評価なされています。 特に今回の火薬兵器は、マイマスターを喜ばせるはずです」

「嬉しいね、それは。 サンプルが余ってるから、持って帰っていいよ。 作り方については、アカデミーに申請するから、そっちに問い合わせて」

「ありがとうございます。 此方からも、近いうちにお礼をさせていただくことになると思います」

ぺこりとクルスは頭を下げた。使用人としてはよく仕込まれている。アデリーも覚えがよい子だが、此処までしっかり躾けるのは難しいだろう。

もしこのクルスが嘘をついているとしても、マリーが作ったフラムは、簡単に解析できるような代物ではない。どうせアカデミーに行くのだし、そのときにイングリド先生に真偽は問い合わせておく。もしそれで嘘だと分かったら、地の果てまででも追いかけて叩き殺す。

フラムを受け取ったクルスがアトリエを出て行く。入り口に最近つけたベルがからんからんと可愛い音を奏でた。それで緊張がとぎれる。色々なことが周囲で一遍に起こったせいで、さしものマリーも少し疲れた。小さくあくびをして、今日は寝ると言い残して、二階に上がる。風呂は翌朝にでも入りに行くとして、体は拭いておきたい。布を水桶につけて固く絞り、体を拭く。

ミューはさっきマリーに対して反発している様子だったが、それでも信頼感はある。アデリーが娘だとすると、ミューは妹のようなものであるからだ。アデリーは正直まじめでおとなしすぎるので、親の知らないところで誰かと結託するぐらいのことをしてもいいのである。無論、反抗期に突入したってかまわない。もちろん、ミューがアデリーに余計な事を吹き込むのも大歓迎だ。温室栽培の子供など、社会では生きていけない。子供をぐれさせては駄目だが、一方で泥まみれになって遊ぶようにけしかけるくらいでないといけないのだ。グランベルで学んだ子育て術である。

アデリーとは心が通じたという自信がある。だから、こんな風に考えることが出来るのかも知れない。マリーは体を拭き終えると、ベットに転がり、静かに寝息を立て始めた。

イノシシを丸ごと一頭食い散らかしたとはいえ、明日はさぞ腹が減るだろう。今日、魔力の殆どを無駄遣いしたのだから。

 

マリーがいなくなると、アデリーは涙を拭っていた。テーブルの上には、一抱えもある燻製のお肉がある。毛皮がまだ残っていて、生々しい切断の跡もあった。マリーがお土産として持ってきたこの肉が、何だかは分からない。だが、今日、マリーが殺したのは間違いない。そしてマリーは、血を浴びながら、眉一つ動かさなかっただろう。いや、むしろ、嬉々としていたかも知れない。

食べなければ死ぬ。その摂理は、アデリーにだって分かっている。だが、どうしても苦しいのだった。ミューに独白したように、アデリーはマリーが好きだ。親のぬくもりを教えてくれた人。生きるための術も教えてくれようとしている。実験の時、アデリーに被害が及ばないように、工夫してくれている事だって知っている。夏など、寝ている時に、ずっと扇いでくれていたことだって、知っている。子供みたいな表情を浮かべる一方、悪魔みたいに冷静な人でもある。

マリーの行為を間違っているなどと断言できたら、どんなに楽だろう。マリーの実験がどれほど巨大な価値を持つものなのか、成果物を見る周囲の大人達の反応で知っている。しかし、許してはいけないこともあるはずだった。

マリーはアデリーに色々な物をくれた。一人にされるのが怖くて、ずっと震えていたアデリーに、傷つくのも恐れず、手をさしのべてくれた。だが、貰ってばかりでよいのか。守られるだけでよいのか。泣いているだけでよいというのか。マリーはわがままを言って良いと、アデリーに告げてくれた。だが、これ以上貰う事なんて、出来はしない。

すぐに強くなどなれない。だが、このままではいけないはずだ。マリーは本当に粘り強く、アデリーを守って、心を溶かしてくれた。今度は自分が、その恩に報いる番だ。聞いたことがある。本当の忠義というのは、相手に盲目的に従うことを意味しないと。唇を噛んで、アデリーは決意する。幼い胸に、強い炎が燃え上がり始める。

ミューはアデリーの視界の隅で、先ほどからふて腐れていた。包丁を取り出し、燻製肉を切り分ける。さぞ苦しかっただろうと思うと、また涙が一筋こぼれた。だが、炎は更に力を増していく。

「ミューさん」

「うん?」

「マスターは、どうしてこんな酷いことをするんですか? 確かに食べなければ死ぬというのは分かります。 でも、この肉の主を殺したのは、多分それとは関係ないはずです」

「……断言は、できないけど。 武術を極めていくと分かるんだけど、人の心の中には獣が住んでいるんだ。 暴力が大好きで、血を見るのが楽しくて、殺しが面白くて、目に付く相手を八つ裂きにしたくてたまらない、そんなおっかない奴が。 私が思うに、その獣が、マリーの場合はとんでもなく大きくて、強いんだよ」

「ごめんなさい。 もっと詳しく、お願いできますか」

天井からぶら下がっている鍵に、燻製肉を引っかけていく。こうやって、料理の時に出る煙で更に燻すことによって、味の深みとこくが増すのである。犠牲になった動物を哀れみながらも、ほとんど本能的に仕事をこなしているアデリー。マスターが喜ぶ事をしたいという切実な願いが、こういうスキルを体に染みつかせた。

「うーん、どう説明したらいいのか、分からないけれど。 たとえば、アデリーも、感情が高まると泣いたり怒ったりするでしょ?」

「はい」

最近までは泣くことさえ出来なかったが、マスターの努力で、可能になった。喜ぶべき事なのに、喜ぶより泣くことの方が多いような気がする。怒ることに関しては、まだ経験がない。ミューは考え込みながら、何度か修正しつつ言う。

「強力な使い手や、一部の特殊な嗜好の人間になってくると、そういうののなかに、「暴力を振るいたい」っていう、おっかないのが加わってくるんだ。 感情が高ぶると暴力に直結する事は普遍的な感情だけど、そんなのとは訳が違う。 目に付いた相手を八つ裂きにしないと気が済まないような、もの凄くやばい奴なんだよ、これは。 それで、ここからが重要なんだけど……。 人間の感情は、生きている限り永遠にわき出してくるものなんだ。 だから、時々動かしてあげないと、そのまま固まっちゃったり、腐ったり、動きたいって暴れ出すんだよ」

「わかりません。 そんな恐ろしい心が、人にあるなんて、想像できないです」

暴れるというのは、アデリーには理解できなかったが、固まるというのは少し分かった。少し前まで、自分も固まっていたのだから。少しずつ、マリーの中の怪物が、アデリーにもわかり始める。今までは漠然と悲しむだけだった、マリーが振るう殺戮の構造が、直視することを決めたアデリーの前に晒されていく。

「多分自分で感じないと、理解は出来ないと思う。 私もね、最近新しい技を身につけると、試してみたいって思うようになってきたもん。 マリーの場合は、獣を普段武術で培った精神力で押さえつけてるんだと思う。 でも、一度そのたがが外れると」

その後は、続けてもらう必要も無かった。手の甲で目をこすって、涙を落とす。つるし終わった燻製肉を見上げながら、アデリーは言った。

「マスターは、暴力が好きなんでしょうか」

「アデリーには悪いけど……多分、嫌いじゃないと思う。 こういう獣が暴れた後、普通の人だったら後悔する事が多いんだ。 私だったら一時は酔っても、その後に絶対落ち込んで、ご飯も食べられなくなると思う。 でも、マリーは違うんだ。 私、マリーと何度も冒険して、敵に暴力を振るい狂うのを見たことがある。 マリーってば、敵を八つ裂きにして血を浴びても、丸焼きにしても、けろりとしてて、後悔しているとはとても思えなかった。 それどころか、可哀想だって言う人を、冷め切った目で見てたことだってあるんだ。 多分、マリーが極端な現実主義者だからってのもあると思うんだけれど。 分かっているのは、マリーは獣と共存してるって事。 それで、獣を時々好きなように暴れさせることで、多分自分さえも楽しんでいるんだ」

「そんな…。 そんな、そんなのって」

「泣かないでよ。 私だって、仕方がないとは思うけど、悲しいんだから」

ミューの語尾にまで涙声が混じっていた。悲しみを共有してくれる人が側にいてくれるのは、とても嬉しかった。アデリーはマリー以外に、始めて心を共有できる相手を得たような気がした。

アデリーは決意する。するべき事は、一つだった。出来ないではない。出来るようにならなければいけない。

「ミューさん、私に、戦い方を教えてください」

「え?」

「マスターが暴力を無意味に振るいたくなった時。 私が、それを受け止めます。 私が体を張って、殺される相手を減らしたい。 通りがかりの可哀想な動物さんが殺されるのは、もういやです。 マスターを止められる人になりたい。 今は無理でも、いつかはそうなりたいんです」

「アデリー……」

アデリーはミューに振り返る。瞳には、強い決意の光が宿っていた。心の内に燃え上がった決意の炎が、強い意志力に変わってきたのだ。

「私、マスターに色々貰いました。 マスターの事が大好きです。 だから、他の人にも、マスターの優しさを分けて欲しいんです。 お薬や、道具だけではない、他の方法でも」

「辛いよ。 下手をすると、守ろうとした相手の代わりに、八つ裂きにされちゃうよ」

「それでもかまいません。 私は、マスターにだったら、何をされたって、殺されたって悔いはありません」

ミューは少し驚いているようだった。アデリーは、自分の中に沸き上がる不思議な感情に驚きながらも、自らの決意を鉄壁のものとしていた。

「分かった、一緒に頑張ろう」

「ありがとうございます」

「基礎訓練はマリーと一緒にやってるみたいだから、後は実戦訓練だね。 私もまだそう大した腕前じゃないけど、分かることは全部教えて上げる」

ミューが腰を上げる。外はもう暗くなり始めていたが、躊躇する意味も理由もなかった。

マリーに買ってもらったワキザシを構える。まだまだ、実戦には早すぎるとマスターは言っていたが、少しでも早く強くなりたいのだ。教えて貰った型を、一通りミューと並んでこなした後、向かい合って訓練剣を構える。

ミューが目を細めると、もの凄い圧迫感がアデリーを襲ってきた。これが戦気というものかと、アデリーは喉を鳴らしてつばを飲み込んだ。もの凄い迫力。もしマリーの放つ戦気に当てられたら、アデリーなど一瞬で意識を失ってしまいそうだ。心なしか、ミューの声も、いつもより低いように聞こえる。

「戦いの基本は、相手を殺すこと。 どんなきれい事を言っても、相手を殺すことが、戦いの目的になるんだ。 いい、相手を捕縛したり、攻撃をしのぎきるのは、殺すのの何倍も難しいんだよ。 ましてや、相手はマリーだ。 並の使い手じゃ、一発で捻り殺されるだけだからね」

「はい!」

「オッケー、良い返事! じゃ、まずは打ち込んで来て。 いい、型は全ての基本にして、先人の知恵だからね。 下手に工夫しようと思わないで、最初は型を忠実になぞって、打ち込んでくればいいんだ。 独自の技を生み出すのは、型をマスターしてからだよ」

「はい!」

踏み込み、気合いを入れて打ち込む。だが、ただの一合だけで、剣をはじき飛ばされる。上段からの何気ない一振りだったのに、もの凄い剣圧だ。大人と子供の差、体格の差もあるが、それ以上に大きな壁が存在しているような気がする。

ミューは剣を拾い直すまで待ってくれた。再び気合いの声を張り上げて、打ち込む。たたき落とされる。今までの剣の訓練をさぼったことはなかったのに、見る間に手が痛くなっていった。

「もう一度!」

「はい!」

十度、二十度、三十度、切り込んで、踏み込んで、そのたびに叩き伏せられる。だが、それでいい。修練をすることで、少しでも目的に近づきたい。力を伸ばして、目標へたどり着きたい。

素振りとは比較にならない疲弊度だが、何だかからだが燃えるようで、苦にならなかった。アデリーは願う。マスターが無闇に何も殺さないでくれることを。自分がその手助けをできるようになる事を。

一人の少女の戦いが、今始まったのである。

それは、強靱な決意と、切実な願いによって、支えられていた。

 

4,新たなる一歩

 

パテットは、マリーが告げた素材を聞いて、小首をかしげていた。マリーはテーブルの向かいに座った、自分の半分も背丈のない相手に対して、同じ言葉を繰り返す。

「山蚕の終齢幼虫。 生きたままで、一回に二ダース。 エサは此方で用意するわ」

「は、はあ。 確かに生きたままお届けできますけれど」

「じゃあ、指定した量だけ、お届けよろしく」

ミスティカティを一啜り。量産できるようになったこれは、殆ど売ってしまうのだが、一部はこうやって嗜好品や来客用としていつもとってある。一度茶葉に加工しておくと、湿度や温度を間違えない限りいつまででも保つので、経済的でもある。それに、最近は評判が口コミで広がり始めている。汚い店であっても、社会的地位の高い客が来た時には、それなりの物でもてなす必要があるから、当然の処置だ。

パテットはピローネの成績表に目を通していたが、やがて金額を要求してくる。いつもながら適正な料金で、マリーはアデリーに言われた分だけ持ってこさせる。腰につけているかわいらしいポシェットに金額を納めながら、パテットは言った。

「収入も増えているようですし、どうですか、そろそろ」

「いや、人手は今のところ大丈夫よ」

「分かりました。 気が変わりましたら、いつでもピローネに言ってください。 それでは」

ぱたぱたとパテットがアトリエを出て行った。綺麗に飲み干しているのは、アデリーの淹れるミスティカ茶が絶品だからだろう。マリーとしても、その辺は鼻が高い。

最近自主的に戦闘訓練をするようになり、手に細かい傷が目立つようになってきたアデリーだが、仕事を滞らせないのは見事。てきぱきとテーブルのカップ類とお茶菓子を片付けていく手際は、とてもではないががさつなマリーには真似できない。マリーはノートを取り出すと、素早く今回のことを書き留める。

山蚕は、ヴィラント山の向こう側、低木が目立つリドラ森林地帯に多く生息している蛾だ。メディアの森にも生息しているので、その気になれば年中採取することが出来る。小型で、マリーが親指と人差し指で輪を作ると、その間にすっぽり入ってしまうほどだ。幼虫成虫共に茶色い地味な目立たない存在で、特に害もない。幼虫も防衛用の毒毛を持たず、危険性はない。名前の通り、糸が取れるのだが、さほど美しくもなく強度も無いので、いまいち世間一般での評価は低い。

今回、マリーがこのような生物に着目したのは、ヘルミーナ先生に指定された素材だからだ。

クルスは約束を守った。ヘルミーナ先生は非常にフラムを気に入ってくれたようで、ホムンクルスの製造に関する極秘データを分けてくれたのだ。中には、マリーがアデリーの力を制御するために作ろうと思っていた道具の生成に必須のものも多くあった。その一つがこれ、「生命の糸」のデータである。

山蚕の糸には、理由はよく分からないのだが、情報を伝達する性質があるらしい。体の末端へ、考えたことを伝達するシステムが人体にもあるらしいのだが、それと同じ仕組みではないかと、ヘルミーナ先生は仮説を述べている。ホムンクルスには、初期の製造段階でこれを大量に用いるのだという。また、光石と組み合わせることで、様々な複雑な命令を出すことが出来るという。今までの光石とは比較にならないほどに、高度な指示が可能になるわけだ。光石と組み合わせるために、多少の加工が必要となるが、今のマリーには何でもない調合である。

ただ、噂通り、手紙はとても読みづらかった。文章が支離滅裂で、理論が彼方此方に飛び散っている上、時々意味不明な自慢やイングリド先生への悪口などが混ざるので、解読は大変だった。しかも文章の向きさえもが適当であり、横書きだと思ったらいきなり縦書きになったり、狭い場所にびっしり書き込んでいたりと、頭がくらくらする作りであった。一歩間違えれば、狂人の手紙である。

ともあれ、理論はよく分かった。後はいきなり最終目的に動くのではなく、実験的に幾つかの段階を経てからである。そのためには、何個かの道具を焦らずに順番に製作していく必要があるだろう。

最初に作るものは、もう決めてある。作り方も分かる。後は材料だが、一つ、厄介なものがある。

野外で採取できるものではない。今は経済的に裕福だが、それでも購入したら全財産が吹っ飛んでしまうだろう。

必要なのは、核になるルビー。しかも、最高純度のものだ。サイズはさほど大きくなくともよいのだが、これは厄介だった。各地に残っているシグザール王国以前の遺跡を当たる手もあるが、金目のものなど盗掘され尽くしている。ピンポイントで手に入れることなど、まず不可能であった。

 

アトリエをアデリーに任せて、マリーは飛翔亭に向かう。まだ昼だし、酒を飲む気分ではない。もちろん、仕事のために足を運ぶのだ。

以前マリーは、ストルデルの滝でルビーの原石を何度か採集したことがある。どれも純度が高い物であり、今もストックがある。材料自体はあるのだが、問題は加工方法だ。

言うまでもなく、コメートの問題を発端として、錬金術アカデミーと宝石ギルドは対立している。シグザール王国は錬金術の有益性をより強く認めているため、力関係では此方が上だ。ただし、アカデミーはシグザール王国に借りを作ることを由としておらず、「宝石ギルドが国の力を使って介入してくる事を防ぐ」くらいの事しかしていない。ちなみに、それを強引にやろうとした先代の宝石ギルド長は、「無惨な事故死」を遂げたという。

宝石ギルドは利権で食い合う錬金術アカデミーへの警戒感からか、最近は非常に高度な情報封鎖を行っており、宝石の加工技術については殆どよそには漏れてこない。アカデミーの図書館を漁ってみたが、とてもではないが、コメート以外の宝石の加工技術では、ギルドの足下にも及ばないのが現状である。ルビーもその一つであり、特にピジョンブラッド(鳩の血)と呼ばれる最高品質石に関しては、一子相伝で加工技術を伝えているのだとか。宝石ギルドへ行って教えてください等と暢気に宣おうものなら、その場で袋だたきにされて放り出されるのが落ちだ。かといって、コメートを例に出すまでもなく、宝石の加工は基本的にとても難しい。土の中にそのまま埋まっているなどと言う代物ではないのだ。

ルビーにしてもサファイヤにしてもダイヤモンドにしてもそうなのだが、原石というものは、基本的に醜い。その辺の岩のようにしか見えないものも多く、時間を掛けてじっくり宝石へと磨き上げていくのである。

今回必要なルビーは、炎の魔力と親和性がとても強い宝石である。今回作るものには、その特性が必要不可欠。更に、ルビーの原石もあるにはあるが、予備を確保しなければならないため、あの難所であるストルデル滝にもう一度足を運ばなければならないのが面倒くさい。

しかし、それも完成時の達成感から比べれば、やすいものだ。

宝石ギルドは社会上層部の人間と癒着しており、貧民を見下している。そこにつけいる隙があると、マリーは考えている。というよりも、実際は隙だらけだろう。何しろ、硬直化した組織だ。コメートの時も、「安く手に入る美しい宝石」というシェアによって、アカデミーに破れた反省を生かせていないのだ。

既に罠は張ってある。今回は、それの成果確認だ。

飛翔亭の入り口をくぐる。相変わらず良い香りが店内には立ちこめ、冒険者が既に何名か屯しながら、情報交換をいそいそと行っていた。カウンターの向こうでは、ディオ氏が不機嫌そうにコップを磨いている。まっすぐカウンターへ行くと、マリーはディオ氏の前に座り、チーズで煮込んだ羊肉を主体とした、軽めのランチを注文した。奧からフレアの声がする。程なく、不機嫌そうな店主よりも、更に不機嫌そうなナタリエが奧から出てきて、マリーの前に皿を並べた。

「ディオさん、お仕事入ってます?」

「ああ。 最近はあんたをご指名のものも増えてきたな。 見てみるか?」

言われたまま、マリーはリストを受け取る。膝の上にリストを載せると、右手で肉を切り分け口に運びながら、目を通していった。ぶきっちょなので、落とすことは最初から織り込み済み。左手は最初から資料の上に待機していて、何度かいかづちのように動いて、肉やチーズを受け止めた。

やがて、予想通りの名前が見つかる。ジシュル=フォン=プラーフ。三十七歳の貴族である。ここから西にある小さな村の領主をしている男だが、政治力は皆無に等しい。今までも村からは何度も直訴されているそうだ。その上、宝石ギルドとのコネクションを使って役員になり、その資産を食いつぶしていると悪評が高い。彼の父がギルドのお得意さんであったため、断ることが出来なかったらしい。正確には、依頼人はこの男の執事だが、同じ事である。

今回の狙いは、奴だ。

宝石ギルドについて、ディオ氏に調べて貰った。ギルドは現在外部には非常に過敏になっていて、宝石作りに必要な材料を、全て自前で確保している。言うまでもなく、あくまで宝石ギルドは宝石ギルドである。ギルドというのはもともと職人の連合組織。宝石を作る事には長じていても、それ以外では素人同然だ。

だから、専属として抱え込んだ業者は足元を見て売り叩きを行い、今宝石の製造コストが跳ね上がっているという。ロイヤリティを重視するために、今のところ目立った損害は出ていないが、近いうちに大きな破綻が生じる可能性があると、ディオ氏は言っていた。ディオ氏の情報網は広く、信頼できる。

此処でマリーが目をつけたのが、彼らの中でも、特に腐った輩である。

コメートでの権益争いが発生するまで、宝石ギルドはアカデミーの製造する優秀な研磨剤を大量に買い付けていた。今では仕方がないので自前で研磨剤を製造しているのだが、当然のことながらこれにはコストが掛かる。マリーにはよく分かる。研磨剤にもっとも適しているフェストでさえ、製品化するには相当な長時間単純労働をこなさなければならないのだ。しかも不純物を取り除く作業が大変だから、奴隷労働では無理。マリーが新しい労働力をほしがったのも、これが理由である。何でもかんでも内部作業で行うと、却って手間を増やしてしまうことが多いのだ。

今まで研磨剤生成のコストを考えなくても良かった宝石ギルド。だが、此処で新たな巨大コスト源を抱え込んでしまった。このコストを、落とすことが出来ないか。誰もがそう考える。そして、裏道を通ろうとするものが、その中にはいる。

そう、必ず出てくるのだ。怨敵であるはずのアカデミーもしくは錬金術師にすり寄り、安くて優秀な研磨剤を裏から購入したいと思う輩が。こっそり裏から安い研磨剤を購入すれば、その差額をそっくり懐に入れることが出来るからである。

フラムの一件で、マリーはイングリド先生にかなりほめられた。嬉しかった。ついでにマリーはこの宝石ギルドに対する政治的攻撃の件を提案、受け入れられたのである。更に、ドナースターク家にも既に声を掛けてある。トール氏もシアも乗り気で、後はバカを釣り上げるだけであった。

こういう仕事に利用すると、既にディオ氏には告げてある。というのも、下手をすると飛翔亭の評判を落とすことになりかねないからだ。だが、ディオ氏は意外にも、無言のままオッケーを出してくれた。宝石ギルドが気に入らないのは、彼も同じらしい。良くて黙認かと思っていたのだが、考えてみれば無理もないことなのだ。

宝石ギルドをよく思っている人間など殆どいない。強者にへつらい弱者を嘲り、独占した技術を抱え込むだけで、偉いと勘違いしてふんぞり返っている。内部は腐りきり、もはや再生の見込みもない。金に物を言わせて、ギルドの幹部達がどんなことをしているか、マリーも小耳に挟んでいるが、確かに一般人の反感を買うには充分だ。貴族ではないと言うだけで、恋人に宝石を買おうと店に来た人間を袋だたきにして放り出したという実話さえもある。

また、ギルド内の最下級層である、実際に宝石を加工する職人達も、今のギルドの体勢を良くは思っていないという話も、ディオ氏を通じて入っていた。これらの腐敗は、最近の閉鎖体質によって一気に加速したわけで、アカデミーもそう言う意味では一役買っている。反面教師に見立て、見習わないようにしなければならないだろう。ただでさえ、アカデミーは味方と同数敵を抱えているのだから。

もっとも、そんな感情など、マリーにはどうでもいい。マリーにとって重要なのは、研究のために技術を確保すること。ただそれだけであった。

料理を食べ終えると、ナプキンで口周りを拭く。そして表情を動かさないディオ氏に、ジシュルの名を指さしながら言った。

「この依頼、受けます」

「そうか。 先方も喜ぶだろう」

皮肉なのか、素で言っているのか。ディオ氏はそんなことを言った。

依頼の内容は、研磨剤の納入である。ただし、どういうわけか、ヤスリではなく、研磨剤そのままでの納入を要求してきている。量もかなり多いし、品質もかなり高精度での依頼だ。期限も少し厳しめである。

「分かっていると思うが、下手な動きはするな。 あんたはかなり評判が良いが、そんなものは一晩で崩れ去るからな」

「大丈夫、そんな下手は打ちません」

「まあ、そうだろうな」

これが血で血を洗う権力闘争を繰り広げてきた連中との戦いならともかく、相手は既得権益に浸かって緩み腐りきっているふぬけどもだ。そんな相手に、マリーが遅れをとる理由はない。ただ、そんな連中だからといって、手加減する気もさらさらない。ありとあらゆる手を駆使して、潰す。

此処まで過激な手を取る理由は、今後宝石が幾らでも入り用になるからだ。そのためには、宝石の価値をつり上げて技術を独占しているギルドは邪魔である。新しい道具を作るという知的好奇心もあるが、旨くするとドナースターク家をこの件に大規模介入させることも夢ではない。そうなれば、グランベルに新たなる産業の種を持ち込むことが出来るのだ。それは、マリーとしても嬉しい。それに、マリーは職人が嫌いではない。今のギルドに不満を持っている職人を此方に抱き込めれば、更に話はうまい具合に行く。

フレアがカウンターに出てきて、父と交代する。それを目当てにしたか、何人か男の客がカウンターに詰めてきた。彼らがマリーに威圧の視線を向けてくる。同時に、ナタリエが彼らに威圧のオーラを浴びせるのが面白い。もちろん、マリーはどこ吹く風だ。フレアは周囲の男達の嫌らしい視線を浴びながら、マリーに眉根を下げながら言った。

「マリー、後でお願いがあるの。 今のお仕事が終わったらで良いから、話を聞いてくれないかしら」

「ん、フレアさんには世話になってるし、いいわよ」

「ありがとう。 力仕事とかならともかく、錬金術師のお友達って、貴方しかいないから」

錬金術師の友達という事で、少し気にはなったが、笑顔で快諾する。まあ、話を聞くとは言ったが、仕事を受けるとは言っていない。ただ、それに関してはフレアも分かっているだろう。まがりなりにも、百戦錬磨の冒険者達を相手にする仕事をしているのだから。

後は一つ二つ世間話をすると、ナタリエを借りる約束をして、マリーは飛翔亭をでた。

店を出ると、風が冷たかった。吐く息が白い。マントをかき寄せて、体を寒気から守る。空はどんよりと曇っていて、今にも雪を落とし始めそうだった。道行く人々も、皆厚着をしている。

冬の寒さが本格的になりつつある。仕事のために高品質のフェストがいるが、それが採れる冬の河原は体の芯に響いてくるほどに寒いところだ。不安なのは、アデリーが同行したいと言い出したことだ。実戦経験を積みたいと言っているのだが、まだ少し不安である。暇を見てミューが鍛えているのは知っているが、実戦にはまだ早いと思う。しかも何を思ったか、長柄武器を覚えたいと言い出したのである。

アデリーがアトリエに来てから一年以上が経過している。今は十歳か十一歳くらいだろうか。背もかなり伸びたが、それでも長柄武器の扱いは難しい。槍をはじめとする長柄武器は、もっとも殺傷力が高い武器だが、その分必殺の気合いを扱いに必要とする。心優しいアデリーに、そんなことが出来るのか。

優しさは、実生活では重要な要素となる。だが、戦いでは邪魔なだけだ。実際、アデリーを戦場に連れて行った場合。マリーは必要とあれば、アデリーが怪我をするような判断を平気で行うだろう。ミューやナタリエが反発する、マリーの戦場での冷酷さは、こう言うところでも現れる。

マリーの冷酷さは、戦いが身近だったグランベルでの生活で、自然と訓練された物だ。ドラゴンを仕留めたら、すぐに解体しなければならない。他の動物も、殺したら即座にバラして売り物になる部品とそうでない部品を分けなければならない。躊躇している時間はないのだ。こういった現実との日常接点が、マリーの超現実的思考を鍛え上げた。だが、日常生活の担い手としては、マリーは未熟。だからこそ普段はがさつでおっちょこちょいで、表情が子供のように豊かになる。

そういう自分を知り尽くしているからこそ、マリーはアデリーを戦場へ連れて行きたくない。アデリーと心を通じているのは、普段の自分であり、戦場の自分ではない事を知っているからだ。そして、アデリーが苦しんでいるのも、その二つのギャップを、日常で感じているからだという事も。それでも、もし本人がどうしてもと望むのなら、仕方がないとは考えている。

ただし、戦場でのマリーは鬼だ。それを覚悟して貰わなければならない。おそらくアデリーは泣くだろう。だが、それを受け入れることが出来れば、彼女は更に先へ進むことが出来るはずだ。

思考がまたループしかけていることに気付き、マリーは頭を振る。今日はアデリーが料理しているはずだから、お土産はいらない。そのまま足早にアトリエに急ぐ。

どのみち、今回は仮に連れて行くとしても、戦力としてはカウントしない。戦力面では、マリーとナタリエだけで充分だ。ひょっとしたらシアが着いてきてくれるかも知れないが、それはあまり期待できない。アトリエについて、暖かいシチューをむさぼり食ってから、アデリーをドナースターク家にお使いさせて、そのときにでも聞かせるとしよう。さっきのランチはあくまでも軽めだったので、まだ小腹がすいていた。

帰り道、小走りに行くクルスとすれ違った。アカデミーから来たところらしい。護衛に少し経験が足りなそうな冒険者を四人連れていた。クルスはすれ違いざまに一礼し、マリーも片手を上げてそれに返す。今回のは最敬礼ではないから、返礼しても問題ないのだ。

帰り際、軽く冒険者ギルドを覗く。どうやら本格的に事態が動き始めているようで、ベテランはあらかた出払っている様子であった。そんな中、妙な情報も耳にはいる。ここ数ヶ月、クーゲルが仕事を受けていないという。

あのクーゲルが、数ヶ月も血を見ないで我慢できるはずがない。どこかで何かしていると考えるのが自然であろう。つまり、殺しを日常的に出来る仕事があるわけだ。少しばかり羨ましい話である。

気付くと、もうアトリエに着いていた。看板をひっくり返し、在宅中の文字を露わにする。

考えてみれば、しばらくはアデリーを身近に置いておいた方が良いかも知れない。そろそろ、色気も出てくる頃だ。自分の身くらい守れるように鍛えて置いた方が、安全といえば安全であった。そんなことを考えながら、アトリエの入り口をくぐる。

「ただいま」

「お帰りなさいませ、マスター」

「ん。 急だけど、明日からまた出かけるよ。 それで、ドナースターク家に、ちょっと手紙を届けて来て欲しいんだけれど」

「かしこまりました。 すぐに行ってきます」

動作もしゃべり方も、全てがきびきびし始めている。何かあったのは明白だ。多分、ミューが実戦訓練をつけ始めたのと、関係があるのだろう。アデリーは何も喋ろうとしないが、それでいい。

親に隠し事をするのは良い傾向だ。自立の第一歩である。マリーはうきうきしながら、筆ペンを取り、さらさらと紙に走らせ始めた。アデリーを連れて行くとすると、後は留守番役の選定だが、此方は必要とあればドナースターク家から使用人を巡回させて貰えばいい。アデリーが来る前は、留守の時は無人にしていたのだし、特に問題はない。防犯用に生きている縄でも仕掛けていけば完璧だ。

打つべき手は幾らでもある。手紙を書き終えると、アデリーに持たせて、外へ出す。自身はアカデミーの教科書を引っ張り出すと、目を通す。今ではもう、この教科書では、物足りなくなりつつあった。

 

翌日。城門では、ナタリエとシアが待っていた。今回、ミューはルーウェンに誘われて、例のドムハイト国境の調査に行っている。その代わりといっては何だが、シアが来てくれたのは嬉しい。まあ、短期間の探索だからという理由もある。

高品質のフェストとはいえ、ストルデル川を三日も上流に向かえば充分に採れる。問題は、その量が量だと言うこと。荷車は、いつもより頑強に補修を済ませた。

でる前に、パテットにピローネ経由で、短期で妖精を回して欲しいと頼んである。ギルドのアホ幹部には端金でも、マリーには大金だから、こういった措置も必要となる。最終的な罠を完全な物とするためにも、仕事には手を抜かないし、その気配も見せない。

ナタリエは、マリーの側にいるアデリーを見て、少し驚いたようだった。アデリーには、外出用の皮服を着せて、腰にはワキザシをつけさせている。軽めのプレストアーマー(胸部を覆う鎧)も買ってあげたが、まだぶかぶかだ。成長期だから、すぐに体に合うとは思うが。一歩ごとに、それががちゃがちゃ音を立てる。まあ、矢を防ぐくらいの役には立つだろう。

「マリー、いいのか?」

「いいの。 どうせあたしの側にいる限り、いずれ戦闘経験を積むんだから。 今回は、戦わせる気はないけどね」

心配そうに言うナタリエ。彼女はラフな格好と性格に反して、こういう心優しいところがある。その辺りが、マリーとしても好ましい。いざというときは、駒として扱いやすいからだ。

城門をでると、すぐに穀倉地帯。昨晩降った雪が、畑に薄く積もっている。口に手袋を当てて白い息を流しながら、シアが言う。

「お父様は乗り気よ。 元々権益がよどんでいる所だし、食い込む機会は狙っていたらしいわ。 マリーの作戦でアカデミーともより太いパイプが確保できるみたいだしね」

「それは心強い。 百人力って、こういう事をいうのねえ」

「だけど、いざというときはすぐに手を引くからね。 下手をうっては駄目よ」

「分かってますって。 弱敵だからって、あたしも油断はしない。 容赦なく全力でぶっつぶしにいくわ」

要点を外しながら、恐ろしい会話をマリーはシアと交わした。まあ、相手を罠にはめようとする以上、反撃を受ける覚悟をするのは当然のことだ。ナタリエは苦虫をかみつぶしたような顔を浮かべている。多分、ろくでもない相談をしていることだけは理解できているのだろう。アデリーは緊張しているのか、鎧が重いのか、終始無言だった。

荷車を引くのは今回も順番制である。最初はマリーが引いていたが、続いてアデリーの番が回ってくる。今回はフェストを積み込んで帰ることもあり、荷車の上に藁を敷き詰めた大きな木箱を搭載している。このため、普段より重くなっており、最初に気合いを入れないと動かせない。左右に霜が降りた畑が延々と続く街道の真ん中で、アデリーは小さな手に息を吹きかけると、荷車に手をかける。

「大丈夫? 手伝おうか?」

「大丈夫です」

助け船を出そうとしたナタリエに即答すると、アデリーは両手を突っ張って、気合いを入れた。荷車が動き始める。マリーは表情を動かさず、それをじっと見ていた。本人が強くなろうとしているのだ。それを邪魔するのは、戦士に対する侮辱である。

「ん、うっ!」

苦しそうに息を吐きながら、アデリーは荷車を引いた。やがてそれは一定速度で動き出す。力のかけ方や、バランス配分で、随分負担は減ってくる。帰りは流石に無理だが、行きくらいはアデリーの好きなようにやらせてやろうと、マリーは考えていた。

歩く内に、森が見えてくる。アデリーからナタリエに順番が回り、更にシアに移っていた。丸一日歩き続けなければならないのは、流石に幼いアデリーには辛いだろうとマリーは思っていたのだが、意外と頑張って着いてくる。意志の力は偉大だが、元から体の中に無いものはどうやったって捻り出せないし、場合によっては体そのものが破損する。無理をしすぎないように、慎重に見張る必要がある。

ほどなく、休憩所に到着。すぐにキャンプの準備に掛かる。ナタリエが途中からアデリーの側について心配していたが、意外にも此処まで一度も音をあげずに着いてきていた。ナタリエが、キャンプのやり方をアデリーに説明している横で、マリーは見張り台に登らせて貰い、天候の様子をチェック。

明日は雪が降りそうだった。しかも、量は少なめであろう。最悪だと、マリーはつぶやいた。

雪は綺麗なだけの代物ではない。こういう天候の時は、地面がぬかるみ、歩くのさえ大変になる。もちろん冷気は体力を奪うし、荷車も重くなる。見張り台を降りると、シアが笑顔のまま、アデリーを顎でしゃくった。

「どうするの? あの子にはまだ厳しいわ」

アトリエに帰らせるのなら今の内よ、ともシアは言った。だが、マリーは首を横に振る。

「いずれ、試練は受けるのよ。 子供はいつまでも子供じゃない。 ましてあの子はかなり発育が早いし」

「よく見ておかないと、大変なことになりかねないわよ」

「大丈夫。 これでも弟をきちんと一人前に育ててるんだから」

バックパックを開いて、マリーは幾つかの薬を取り出す。テントを張り終えた所を見計らい、アデリーを呼ぶ。手袋を外させると、案の定肉刺ができていた。

「戦いになる可能性は低いけど、そうなった時には響くから、痛い時はきちんと申告しなさい」

マリーのどす低い声に、さっとアデリーは青くなった。多分、アトリエにいる時のマリーとは別人だと悟ったのだろう。だが、はいと短く、明確に応えた。マリーが手ずから、薬を塗ってやる。それから、頭を撫でてやった。

「よく頑張ったわね。 明日も頑張るのよ」

叱ったら次はちゃんとほめる。マリーはしっかり子育ての要点を押さえると、軽く稽古をつけ、早めに眠りに就かせた。その晩、マリーは少し遅くまで起きて、ナタリエとシアと、戦術の確認を行った。

 

翌日は予想通り中途半端な雪が降り出し、街道はぬかるみになった。

シグザール王国では、馬車や荷車の車輪の幅を統一している。これによって、石畳が敷かれていない街道では、くっきりした轍が残る。これを使うと移動が早いため、如何に車輪を轍に乗せるかが、御者の腕とも言われている。

当然、荷車を押すのも一人ではきついので、前後に一人ずつついて動かすことになる。マリーが引き、ナタリエが押す。シアは周囲に目を配り続けながら、アデリーに気配の読み方の要点を教えていた。

この三人の中で、一番優れた近接戦闘系の能力者は、シアだ。ナタリエは身体能力が優れていても、決定的に経験が少ない。マリーは元々魔法戦専門で、身体能力は彼女らに比べればさほど高くなく、経験でそれを補う。興奮時はあくまで異常な状態であり、自分でコントロールも出来ないし敵を絞れもしないので、そもそも戦闘での活用は考えない。だから、近接戦闘を学びたいのなら、この中でシアに教わるのが一番である。普段はマリーか、手の空いているミューに教わるとしても、こういう機会を逃してはならない。

やがて、街道からの脇道へ。森を左手に見ながら、川の側をさかのぼっていく。もう少し行くと、道を外れて河原を直接行くことになる。普段はそれがかなり大変なのだが、ひょっとすると今回に限り、そっちの方が楽かも知れない。

ストルデル川を上流へ行くと、森を中心に、危険な猛獣が多数生息している。虎もその一種だが、他にも様々な種類がいる。ヒュージ・スクイッドは刺激さえしなければおとなしいし、熊は時季外れだから出くわす可能性が低いが、大型の魚類や小型のドラゴンには気をつける必要がある。頭が悪い若いドラゴンは、この辺では滅多に見かけないとはいえ、この人数と戦力では充分に脅威となる。

雪はやがて雨になり、更に道の状態を悪化させた。マリーはさっさと河原を行くことに決め、街道を離れる。車輪には泥がしっかり食い込んでおり、後でじっくり洗わないと落ちそうになかった。

無数の小石が散らばる河原は、普段なら街道よりも荷車を動かすのが大変だ。しかし今日はマリーの読み通り、だいぶ泥道よりも楽である。雨はやがて激しくなり、アデリーに体を冷やさないようにきちんと傘をさすように、マリーは何度か注意しなくてはならなかった。

今日分の行程を済ませて、岩陰にキャンプを張った時には、雨は霙になっていた。分厚い毛布を持ってきているから、暖に関しては心配ない。雨に強い竈をテントのすぐ近くに作り、主に炭を使って火を熾す。風向きを見て工夫しながら石を組むやり方を、マリーはじっくりアデリーに教え込む。戦闘面では覚えが悪いアデリーだが、こういう事に関してはすぐに覚える。試しに、完全に最初から組ませてみたが、きちんと言ったとおりにやることが出来た。学習速度はハレッシュよりもルーウェンよりもミューよりも早い。多分、必死だからだろう。

かなり出来の良い子だと、マリーは思う。こういう面の才能に関しては、マリーよりも遙かに上だろう。変な能力を持って生まれてこなければ、裕福な家庭の心優しい娘として、マリーみたいな血を年中浴びているような人間とは関わり合わず、穏やかな一生を送ったに違いない。運命は残酷だ。だが、誰を恨んだところで、事態は好転などしない。

現実と戦い続ける奴だけが、世界をリードすることが出来る。だからマリーは、アデリーにもそれを叩き込むつもりだった。

 

霙は夜半止み、代わりに体を突き刺すような冷気がやってきた。昼間の疲れからか、死んだように眠っているアデリーに毛布を掛けなおすと、マリーはテントの外に出る。見張り交代の時間だ。

シアはマリーの気配には気付いたが、身動きしない。相手が分かっているのを承知の上で、後ろから声を掛ける。

「時間よ」

「あら、もうそんな時間?」

シアの視線の先にあるのは、降るような星空だった。さっきまであれほど降っていたのに、信じられない光景だ。

マントで体を寒気から守りながら、マリーは竈の側に座った。薪を追加して、暖を保つ。テントの方を見ると、ナタリエは無邪気に白河夜船の真っ最中だった。シアはずっと星を見つめている。

「そういえば、シアって、今度試験的に村を一つ任されるんだっけ?」

「ええ。 お父様の話では、そろそろ私にも出来るだろうって事よ」

「シアなら大丈夫でしょ」

「そうかしら。 結構これでも不安なのよ」

シアが苦笑する。カミソリのような切れ味を持つ頭脳と、柔らかい物腰を併せ持つこの娘は、マリーの親友であり、同時にライバルでもあった。

トール氏がマリーとシアを将来は両翼に据えて、グランベルの発展を図りたいと考えているのは、皆知っている。それに対抗しようと、技術採集に行っている若者達もいるが、彼らにマリーは脅威を感じない。マリーがテクノクラートになるとすると、シアが勤めるのはトール氏のナンバーツーである。これは特性の問題であり、将来的には、マリーはシアの部下になるわけだ。

だが、シアはナンバーツーという立場が好きらしく、戦闘時も基本的にイニシアチブをとろうとしない。本来想定される将来像とは立場が逆になる事が多く、トール氏がそれをどう思っているのか、マリーは分からない。

或いは、マリーをトール氏に見立てて、将来の訓練を行っているのかも知れない。シアの頭の出来は、確実にマリーより上だ。類推するしかない。

遠くで狼の遠吠えが聞こえる。とりあえず、此方に対する警戒の咆吼ではないから、気にしなくて良い。シアは小さくあくびをすると、テントに戻り、今までマリーが温めていた毛布に潜り込んだ。

「お休みなさい、マリー」

「お休み、シア」

濡れた川石が、星明かりに照らされて、幻想的な光景を作り出している。その一つを拾って、川に投げ込む。

何だか、嫌な予感が無くならない。ずっと心の奥底に、こびりついたままだ。今回の大規模な宝石ギルド殲滅作戦でへたを打つという暗示だろうか。そうは思えない。

もう一つ、石を投げる。石は綺麗に水を切りながら、対岸まで飛んでいった。

 

翌朝早く、マリーは荷車を引きながら、獲物の鳴き声を捕らえていた。足を急に止めたので、後ろでアデリーが荷車にぶつかって、きゃっと可愛い悲鳴を上げる。

「どうしたんだよ」

「鹿よ。 丁度いいから、仕留めていきましょう。 食費が浮くわ」

「何も此処で狩りなんかしなくたって良いじゃないか」

ナタリエが、素人考え丸出しのことを言ったので、マリーはため息一つ。荷車を河原から離れた森の中へ運びながら、応える。

「あのねえ。 今年の夏は比較的気候が穏やかだって事は覚えてるわよね?」

「ああ、それがどうしたんだよ」

「つまり、鹿も数が多いって事。 あまり数が多くなりすぎると、今度は人里に出てきて、畑や街路樹を荒らすの。 この辺りまで出てきているって事は、数がかなりまだ多いって事よ。 エサが仲間にとられて、出てきたんでしょう」

つまり、森を維持するためにも、周辺の農民のためにも、鹿を間引く必要があるのだ。単に殺すだけではもったいないから、自分たちで美味しく頂くのである。一石二鳥とはこのことだ。

流石に鹿も、人の気配があるところまでは姿を見せない。だが、今の鳴き声で、大体の位置は分かった。この辺りはストルデル滝に行き帰りする過程で、何度も通って地形は把握している。すぐにマリーは作戦を立てる。周辺の地図を広げて、指を走らせる。

「シアは此処、ナタリエは此処。 こう動いて、此処へ追い込んで、合流してここまで引っ張り出して。 あたしが仕留めるわ」

「……」

ナタリエが、ちらりとアデリーを見て、ばつが悪そうに頷いた。

以前、ヴィルベルの死体を埋葬した時にも思ったが、ナタリエはやはりまだ子供だ。マリーはアデリーに見せるためにも、狩りを決めたのだ。それを理解しているシアだけが、その場で微笑を保っていた。

作戦会議を終えて、二人がさっと森の奧へ入り込む。杖を構え、詠唱を開始しようとしたマリーの後ろから、アデリーが言った。

「あの、マスター」

「うん?」

「私は、どうしましょうか」

「とりあえずは、荷車の番。 何か猛獣が来たら、悲鳴を上げればいいわ」

まだ何かいいたそうだったので、マリーは冷たく一瞥する。戦場では、アデリーも甘やかしはしない。アデリーが小さく息を呑んだのは、マリーの目をまともに見てしまったからだろう。

「誰かがミスをすれば、獲物は逃げる。 今回は別に逃げられても大勢に影響はないけれど、場合によってはそれでその場の人間が全滅するわ。 戦場で無意味な逡巡は敗北の扉よ。 だから、言いたいことがあるなら、はっきりいいなさい」

「……マスターの言葉の意味は分かります。 でも」

「でも、何?」

「私にも、参加させてください」

意外な言葉が出てきた。マリーは少しだけ表情を崩すと、駄目だと言った。

「今回は見張りに徹しなさい。 何事も、順番に行っていくものよ。 それに、解体は手伝って貰うわ」

まずは血に慣れて貰う。料理の時も、魚などは血だしを行うが、その比ではない。

戦えるようになるには、血を見ても動じないことが絶対条件だ。青ざめるアデリーを促して荷車の方へ押しやり、マリーは完全に頭を切り換えた。

 

ナタリエはシアと組むのは初めてだった。だがその実力は、肌を通して感じていた。強い。以前も良い動きをするとは思ったが、味方になってみると、その恐ろしさがよく分かる。

ナタリエはまんべんなく身体能力が高く、それを駆使して木々の間を飛ぶように行く。それにシアが併走している。かなり本気で走っているのだが、まるで余裕だ。

見ると、シアは踏み込みの瞬間や、踏み出しの瞬間、魔力を関節や筋肉に集中、一気に力をブーストしている。使う魔力は最小限で、最大限の効果を引き出し、しかも体への負担も小さい。

地味な能力だが、効果は大きい。本人の接近戦闘スキル次第では、大化けする能力だ。そういえばシアの親も同じ能力で、超一流の使い手だという。スキルは親から受け継いだと言うことか。

「先に行くわよ」

「ん、ああ」

シアは加速、見る間に見えなくなった。ナタリエは速度を落とし、近くの藪に潜り込む。きちんと仕事はするつもりだが、反面気は進まない。

あのアデリーという子は、痛々しいまでに強い決意を秘めている。何を目的として、今回の探索に着いてきているかは分からないが、ナタリエとしては保護意識を刺激されてしかたがない。黄色いリボンで奴隷階級だと分かるが、マリーがどういうつもりであの子に接しているのかは、ナタリエにはよく分からない。子供のようにかわいがっているようにも見えるのだが、だったら何故こんな所に連れてくる。自分だったら、絶対にそんなことはさせないのに。そうナタリエは思った。

笛に息を無理矢理吹き込んだような音。鹿の悲鳴だ。シアの能力なら、追いついて仕留めることも出来そうな気がするが、多分運ぶ苦労を減らすためだろう。屠殺するため、鹿を死地へ走らせるわけだ。そしてナタリエはその手伝いをする。酷いろくでなしぶりに、乾いた笑いしか漏れてこない。

気配が近づいて来る。身を低くして、力を集中。メタモルフォーゼを駆使して、ミューに変化する。瞬発力では、ナタリエはミューに勝てる気がしない。だから、真似る。

茂みを飛び越えて、鹿が飛び出してきた。シアは斜め後ろについて、短く気合いを入れながら、鹿を追い立てていた。ナタリエも真横から躍りかかり、パニックになった鹿が脇目もふらずに逃げ出すのを、綺麗に追い込んでいく。

森の中を駆け、鹿を追う。木々を蹴ってジグザグに跳躍し、鹿の尾を見ながら、目的地へ微調整していく。昨晩の霙で濡れている森だが、どうにか足は滑らさずに済んでいる。だが油断したら、いつ失敗してもおかしくない。

「ピイイイッ!」

涙を流しながら、必死に逃げる牡鹿の悲鳴がつらい。マリーは多分一撃で殺すだろうが、それまでは恐怖に心臓を鷲掴みにされながら逃げ回るわけで、胸が痛む。鹿が逃げ切ることを、どこかでナタリエは期待する。だがシアの動きは的確を極めていて、そんな密かな願望は、絶対に叶いそうもなかった。シアはその手にした「はたき」で鹿の後ろの木を叩きながら、非常に精密に鹿の逃走経路を確定していく。その技に、ナタリエは見ほれてしまったほどであった。

やがて、不意に森がとぎれる。同時に、森を飛び出したナタリエの視界を、閃光が覆った。

鹿の断末魔がとどろく。河原の小石を蹴散らしながら着地したナタリエは、目を閉じ、鹿の冥福を祈った。

 

詠唱終了。マリーは右手を引き、左手を少し前に出し、弓を引くような態勢をとる。

「サンダー…」

マリーの全身を覆う凄まじいいかづちの魔力がふくれあがる。右手指先に、高密度の雷撃が集まり、光を放つ。後は鍵となる言葉を紡ぐだけで、術が発動する。

アデリーは恐怖で身動きできなかった。マリーの発する途轍もない殺気で、体がすくんでしまったのだ。マリーは巧妙に隠していたが、アデリーには分かった。それこそ、人間を大量虐殺してもおかしくない、途方もない密度の殺気を、マリーは内包していた。

森を破るようにして、鹿が飛び出す。人間とほとんど同じ大きさの牡鹿だ。小石を蹴散らし河原に出た鹿は、マリーを見て悲鳴を上げようとするが、その時間は、無かった。

「ロードヴァイパー!」

マリーが突きだした右手から、いかづちの大蛇が撃ち放たれる。それは瞬間的に空間を蹂躙、必死に逃げようとした鹿を直撃した。鹿はそれでも数歩走ろうとしたが、既に命は尽きていた。白目をむき、全身から煙を上げながら、河原に身を叩きつける。しばらく痙攣していたが、それもすぐに終わった。

だらりと鹿の体が弛緩する。口から、尻から、耳から、あらゆる場所から血が流れ出てきていた。

アデリーは思わず、口を手で押さえた。涙がこぼれてきた。

今まで、死は見てきた。買ってきたお魚にはとどめを刺したこともある。だが、こんなに大きな生き物が死ぬのは、始めて見た。マリーは腰に差していた牛刀を引き抜く。そして、アデリーの方に振り返った。

「解体するわよ。 手伝いなさい、アデリー」

「……はい」

頭を振って、涙を払う。少なくとも、今マリーがしていることは間違っていない。残酷だが、間違った行動をしているわけではないのだ。

これが、マリーの生きている世界。そして、マリーを止めるために、アデリーが踏み込もうとしている世界だ。

アデリーが荷車を必死に押して、皆に見える位置まででてから、ワキザシに手をかける。だが、それを抜くことはなかった。そのとき、マリーは既に解体を始めていた。

ナイフを使って、皮を丁寧に剥ぎ取る。首を牛刀でたたき落とすと、素早く鮮血をカップに受ける。血を流すままにしておき、ある程度のところで腹を割いた。ぼろりと腸が零れ出てくる。マリーは眉一つ動かさず、それを見る間に分類していった。アデリーが手を出す暇もない。

「これ、洗ってきて」

「はい」

マリーが差し出してきたのは、まだ温かい腸だった。血にまみれたそれの中には、糞が入っていた。冷たい川の水につけて、血と糞を洗い流す。眉をしかめたのは、糞の臭いや血の臭いよりも、手の中で見る間にぬくもりが失われる感触が辛かったからだ。

涙を拭うと、目尻に血の跡が付いた。生臭い。鼻に残ったそれは、ずっと取れそうもなかった。

ふと気付くと、すぐ側にシアが腰をかがめていた。いつ来たのか、全く分からなかった。

「つらい?」

「大丈夫です」

「そう。 自分で踏み込んだ道だから、きちんと自分で責任をとるのよ」

「はい」

言葉が極端に少なくなりつつある。

マリーは結局、鹿を短期間で解体してしまい、後には骨の一部以外何も残らなかった。骨でさえ、砕いて軟骨を取り出している。内臓は肛門以外殆ど取り出して分別し、肉と一緒に竈で燻製にしていた。皮はすぐになめして、その後は丸め、荷車に詰め込んでしまう。一連の動作は神業同然。殆ど時間は掛からなかった。

採集場所はこのすぐ側だという。だから小休止を得られることとなった。

アデリーは神を信じない。祈っても意味がない事は、よく知っているからだ。

だが骨を集めて埋めた時、自然と冥福を祈っていた。

何故だかは、自分にも分からない。鹿が倒され、しかしその死は全く無駄にならなかった。プロの狩人並みの手腕でマリーが解体したおかげで、肉の一片、内臓のひとかけらでさえも、新たな命へつながれたからだ。

人間社会では、多くの無駄がでる。アデリーだって、それを作ってきた。お魚を料理する時に、肉を無駄にしてしまったことはしょっちゅうだ。それが、此処には殆ど無かった。マリーは、自然の摂理と、人間の摂理の、中間点にいる。

そして、その二つを、居ながらにして体現していた。

これが喰うと言うこと。生きると言うこと。

今まで、マリーに守られて生きてきたアデリーは、それを部分的にしか知らなかったのだ。

血なまぐさい、これが生きると言うことなのだ。アデリーは、その中に生きるマリーを、人間の摂理で統制することが、如何に難しいか、改めて思い知らされた。だが、やらなければならない。そう決めたのだ。マリーが好きだから、絶対にやり遂げる。

その日、アデリーは夕食にでた鹿の肉を、可能な限り胃に収めた。そして今までにない気合いを入れて、実戦訓練を行った。シアには結局一度も打ち込むことが出来なかったが、充実していた。

この日、少女は最初の一歩を、踏み出したのである。

好きな人に、自分の出来る恩返しをするために。

 

5,激動の始まり

 

適量のフェストと、ある程度の薬草類、更に鉱物の類を採集して、マリーが帰還したのは、丁度予定通りの一週間後であった。

今回は鉱物類ばかりという事もあり、帰りの荷車はとにかく重かった。鹿革を売った後、燻製もある程度肉屋に卸して換金。そこそこに良い金になる。だが、今回は利益面では赤字だ。黒字は、これから回収したフェストを使って作る。だが、それでさえも、本当は赤字でかまわない。

フェストはあくまでエサだからだ。この後、より大きな獲物をつり上げるための。だから、短期的には赤字でいい。

アトリエには、予定通り妖精の増援が来ていた。黄色い服の彼は、階級的には緑の下だから、上から第四位。名前はルルク。短期労働要員としてはかなり優秀な人材を回して貰ったことになる。お得意様として、マリーが評価されているという事だろう。小生意気だが、マリーとしてはかまわない。こういう小生意気さを持っている相手の方が、むしろ信頼できる。

研磨剤の作り方を指示すると、流石に黄色服、すぐに取りかかる。動きが速く、無駄も少なく、手先も器用だ。ただ、顔はピローネやパテットと全く見分けが付かない。マリーには無理だが、アデリーは顔で見分けている節がある。多分、母性がマリーよりも強いのだろう。母親は双子でさえ見分ける事が出来ると聞いている。

採集に連れて行って、ふさぎがちになったアデリーだが、ルルクと一緒にいることで少しまた笑顔が見えるようになった。

マリーは安心した。だが、その安心を木っ端微塵にする事件が起こったのは、直後のことであった。

 

アトリエにミューが訪ねて来たのは、採集から帰ってきた翌日のことである。ドアの叩き方が少し乱暴だったので、マリーは不安をかられた。ミューの青ざめた表情が、それを加速した。

「マリー、ちょっといい?」

「二階に上がって。 アデリー、階段の入り口で、耳塞いで座ってなさい」

アデリーは言われたとおりにすぐする。ルルクは聞いていないという風情で、乳鉢を動かして、フェストを砕き続けていた。

二階のベットに腰掛ける。ミューは床に膝を抱えて座った。茶はいらないだろう。

「調べてきたんだ、例の要塞消滅事件の現場」

「それで?」

「まだ、誰にも話してないんだけど、凄く嫌な話を聞いたの」

ミューは周囲を伺うと、声のトーンを落とす。

「メディアの森でマリー達が交戦した、でかい鳥。 そいつにつけられたとしか思えない傷が、被害者の体に残されていたらしいんだ」

被害者の傷は主に三つ。体を食いちぎられたようなもの、鋭い爪で抉られたようなもの。そして、何かで一突きされた跡。ルーウェンから聞いたから間違いないという。

「他言無用よ、それ」

「一体どういう事?」

「予想はしていたけれど、多分、後ろにいるのは騎士団だわ。 下手に吹聴して回ろうものなら、騎士団の刺客が来るわよ。 騎士団の精鋭を相手にして、勝てる自信、ある?」

「分かった。 誰にも、喋らない」

マリーだって、そんな事態になったら生き残る自信はない。ミューだったら百パーセント殺されるだろう。

しかし、これはまずい。急いであのときのメンバーであるハレッシュとルーウェンにも口止めをかけないといけないだろう。あの戦いの後に、夜の街道で出会った女騎士の事を思い出す。奴は凄まじい使い手で、なおかつマリーと同類の臭いがした。そういえば、同じくマリーの同類である、クーゲルが最近冒険者としての仕事をしていないとか聞く。まさか、同じ任務に就いているのではないだろうか。可能性はゼロとは言えないだろう。

「すぐに、ルーウェンとハレッシュに口止めかけて。 理由は教えちゃ駄目よ。 特にハレッシュには、絶対に駄目」

ハレッシュは陽気な奴だが、残念ながら頭が悪い。嘘を突き通すことは出来ないだろう。真相を教えること自体が危険だ。顔を寄せていたミューは、小さく頷いた。

「分かった。 それで、マリーはどうするの」

「あたしは様子を見る。 騎士団にはドナースターク家がパイプを持ってるし、それを通じて、これから潰す宝石ギルドから流出する利権を流せば、何か見えてくるかも知れない」

「相変わらずおっかないことしてるんだね。 でも、分かった。 ただ、気をつけてよ」

「……近いうちに、戦争のやり方が変わるかも知れない」

全く関係ないことを不意にマリーが喋ったので、ミューは小首をかしげた。何でもないと言うと、マリーはミューの頭を撫でる。すぐに二人と連絡をとるように言って、返した。アデリーに外出すると言い残すと、飛翔亭に向かう。ナタリエにも、口を閉ざすように言っておく必要がある。一応以前に言ったことがあるが、それ以上に強固にだ。

それと、イングリド先生の耳には入れて置いた方がよいだろう。クルスにその旨を書いた手紙を渡すのは危険すぎるから、もしヘルミーナ先生に知らせるとすると、直接本人の元に出向いた方がよい。

めまぐるしく思考を回しながら、マリーは今後のために、一つずつ手を打っていく。これ以上今面倒を抱え込むわけにはいかないという理由もある。今は、研究を進めること。これ以上大きな政治的事件に関わるわけにはいかないし、その能力もない。ましてとばっちりで殺されたら本末転倒だ。

嫌な予感が当たったと、マリーは思った。多分、今後は更に大きな事件が、立て続けに起こることだろう。

それに完全に巻き込まれない自信は、流石に、マリーにもなかった。

 

アカデミーの一室で、イングリドは忙しく歩き回っていた。

どうやら例の要塞消滅事件が、錬金術の産物であるクリーチャーウェポンを用いたものだという事、火薬も使われた形跡があること、等は彼女でも掴んでいた。しかし、どうやら騎士団が直接的に関与しているらしいと言う事までは気付かなかった。

シグザール王国が、クリーチャーウェポンの研究をしていることは既に掴んでいた。泳がせてもいたし、技術関与面では様々な駆け引きもしてきたからである。だが、騎士団の一部が独走的にこの件に噛んでいるとなると、話が別になる。国家が抑止兵器として作っていると判断していたのだが、一部過激派がうごかしているとなると、予想よりもより積極的に用いる可能性が出てきたからだ。

国の関与もどうなのか気になる。本当に騎士団の一部が独走したのか、シグザール王国が公認での軍事作戦なのかの判断も難しい。独走したのだとすると、どれほどのレベルの士官が参加しているのか。今後はどうするつもりなのか。明確な戦略的目標があるのか、それともただの実験のつもりなのか。様々な事態が想定できるが、判断するには情報が少なすぎる。

既に国境では何度か小競り合いも起こっている。頑強な軍事拠点が一つ消滅したために、戦略的な見直しが行われているからだ。政治腐敗が始まっているドムハイトでは、シグザールへの侵攻論も浮上しているはずだ。当然シグザール王国もそれに備えているはずで、下手をすると大戦争へ発展する可能性もあり得る。

王宮に入れている何人かの錬金術師も、最大限の情報収集を行っているが、これといったものはいまだ入ってきていない。しかも、今は宝石ギルド壊滅作戦を走らせている所であり、余力は裂けない。

ベルが鳴らされて、部屋にクライスが入ってきた。クライスは青い顔で、イングリドに頭を下げた。

「今、マルローネさんの作った火薬兵器を実験してきました」

「結果は?」

「凄まじい破壊力です。 対人殺傷兵器としては、おそらく中隊レベル。 軍事兵器としては、攻城戦用としての使い道が実用的でしょう。 しかもマニュアルに沿えば量産が可能。 幾つかの欠点を解消さえ出来れば、この後の戦争は、やり方が変わる可能性もあります」

「ふふ、そう」

やはり、マリーは予想に応え、大きく育ち始めた。この火薬兵器フラムの完成度から言って、多分今の実力は既にマイスターランク級。しかも試験は、まだ三年弱残っている。

イングリドは、人類の戦争の歴史などには興味がない。興味があるのは、あくまで錬金術の発展だけだ。そしてマリーは今後、そのパラダイムシフトをおこせると確信した。期待から確信へと、マリーの評価が彼女の中で躍進したのである。クライスに下がるように言う。この男も優秀だが、独創性という点ではやはりマリーには一歩劣るか。

クライスを下がらせると、イングリドはドルニエの部屋へ。剰り知られていないが、ドルニエは殆どの場合自室にいない。研究のために書庫へ行くのでさえ煩わしいという事で、なんと図書館の一角に秘密の小部屋を作り、そこに研究室を作って引きこもっているのだ。本当に研究以外には興味がない、骨の髄からの錬金術師である。何しろ、必要ないなら、睡眠をする時間さえ惜しく、呼吸さえ面倒くさいとさえ公言するほどなのである。リリー先生が苦労したのも、無理もない話だ。

図書館の奧、目立ちにくい場所に隠しているスイッチを踏むと、上り階段がするすると降りてくる。ただし、天井には戸がついていて、カードを通さないと中には入ることが出来ない。かなり高度な錬金術の産物だが、実にくだらない用途で用いている。まあ、ドルニエは研究者としては今でも現役で、毎年錬金術に有用な貢献をしているから、よしとするべきだろうか。

二階に上がると、ドルニエがデスクにつき、試験管に様々な液体を注いでいた。今彼が研究しているのは、アロママテリアである。錬金術としては究極の生成物の一つであり、名前の通り全ての香りを作り出すことが出来るという存在だ。ただし、今まで作ることが出来たものは、密度が途轍もなく低い。試験管に液体を注ぎ終えたドルニエは、それをアルコールランプに掛けながら、視線も向けずに言う。

「何かな、イングリド先生」

「マルローネが作り出したフラム、いやギガフラムとでも言うべきですか、火薬兵器のデータには目を通してくださいましたか?」

「もちろんだ。 なかなか優秀な若手に育ってきているな。 君も鼻が高いだろう」

「そうですね。 ところで、彼女の将来性を見込み、提案があるのですが」

ドルニエは素早く研究資料にペンを走らせていたが、イングリドの言葉に顔を僅かに上げた。

「ふむ、そろそろ良い頃か。 実力はもうマイスターランク級なんだろう?」

「まだ一部特化で、ですが」

「それでも、まんべんなく浅く知っているが専門分野を一つも持たないような輩よりはましだね。 いいだろう、儂の邪魔をしないように念を押した上でなら、かまわないよ」

「快諾していただき、感謝します」

この校長が引きこもる空間には、あまたの貴重な資料が眠っている。イングリドが書き記したものや、ヘルミーナの弟子達が編纂したもの。また、十七年ほど前に、生成に成功した「プラティーン」と呼ばれる神秘的金属についても記録がある。

プラティーンは材料が手に入らないとはいえ、それから一度も生成に成功していない、まさに神秘の品だ。今でも現物は残っているが、王水以外のあらゆる酸に耐え抜く、まさに究極の金属である。あれをまた生成することが出来れば、少なくとも錬金術の究極に、追いつくことが出来る。

マリーなら、それが出来るかも知れない。

イングリドは含み笑いを隠せない。ドルニエの部屋を後にすると、自室で度の強いワインを開けて、一気に呷った。ヘルミーナはあらゆる意味で気に入らない相手だが、この喜びは分かち合うことが出来るだろう。

しばらくは酔いの中、喜びに浸ろうとイングリドは思った。目が覚めた後は、再び様々な政治的駆け引きと、戦いをしなければならない。ベットに潜り込むと、イングリドは甘い夢を見る。それは、錬金術の究極を、自分の目で見ることが出来るというものであった。

イングリドにとって、全ての喜びは、錬金術に起因していた。

 

非常に不機嫌なヴィント王の前で、特務諜報部隊「牙」達が頭を垂れている。彼らがもたらした情報は、王を不快にさせるには充分すぎる程だった。

王は謁見室ではなく、自室の寝台で侍女に背中を揉ませている。王の体は衰えきっているが、しわだらけの顔に埋没した目の光だけは健在である。それが、国一番の密偵達をぎらついた殺気と共に見つめていた。

「黒幕は、エンデルクだと?」

「今のところは、総指揮を執っているのが騎士団長だと言うことです。 ただ、状況をコントロールしているのは、聖騎士カミラ=ブランシェのようですが」

感情のこもらない声で、牙の首領は応える。

あのドムハイト要塞消滅事件で、ヴィントは自分が今まで築き上げてきた平和への布石が、全て砕かれてしまったような気がした。その直後、影達が持ち込んできた情報が、動いているのがエンデルクだというものであった。もう一度再調査を命じたが、結果は同じであった。

エンデルクは騎士団長である。それだけではなく、騎士団を統括する軍幹部の一人である。しかも、カミラといえば、抑止兵器開発プロジェクトを任せていた女だ。二人とも才能を愛し、目を掛けてやった者達だ。子飼いに手を噛まれたも同じの事実に、ヴィントは歯ぎしりさえ漏らしていた。

エンデルクは名声欲が強い。だからといって、まさかこんな愚かな行動に出るほど阿呆だとも思っていなかった。ヴィント王は苛々しながら、絹で作られた枕の一部をむしり取ると、床に捨てた。隣では、不安そうにヴァルクレーアが様子を見ている。

牙達の動きは決して悪くなかった。事実、事件の時には、もうエンデルクへの監視を始めていて、カミラの特定の一歩手前にまで到っていた。ヴァルクレーアも良く動いたが、後一歩、働きが及ばなかったのである。問題は、独走した騎士団の一部の動きが速すぎた。いくら何でも、あんな大胆な行動に出るとは思っても見なかった。完全に虚を突かれた形であった。

部屋に、近衛兵の一人が駆け込んでくる。彼は王に跪くと、胸に手を当てて、最敬礼をした。

「ヴィント陛下」

「なんだ」

「はっ。 聖騎士の一人、カミラ=ブランシェが面会を申し出ております」

「通せ」

牙の連中に、ヴィントは目配せした。場合によっては消せという意味だ。たとえエンデルクであっても、対達人用の戦闘に習熟した牙達を相手にするのは分が悪い。しかもこの部屋には、無数の魔術的な防御が施されている。

幼い、さながら童女のような容姿のカミラが鎧を着たまま部屋に入ってきたのは、その後すぐ。左右に近衛兵が付き添っている。王家の紋章が入ったバトルアックスを右隣の近衛兵に預けると、カミラはヴィントに跪いた。そして最敬礼しながら、甲高い少女然とした声で言う。

「陛下には、ご機嫌麗しゅう」

「良く言えたものだな。 それで、この独走行為の目的は何だ」

「私の出世のためと、もう一つはシグザール王国の平和攻勢を成功させるためです。 戦略的プランがあるのですが、聞いていただけませんでしょうか」

堂々としたものである。まだ二十歳そこそこのはずだが、肝は恐ろしく座っている。ヴィントはしばし不機嫌そうに枕を弄っていたが、やがて顎をしゃくった。

カミラは言う。ここしばらく続いたドムハイトとシグザールの平和には、すでに限界が近づいている。理由は、ドムハイト内部で起こっている、外部拡張論の拡大である。そして、侵攻をしかけて実がある相手は、シグザールしかない。

ドムハイトが此処まで強気に主戦論を唱えるには、幾つか理由がある。経済的な停滞感が、社会の不満を増大させていると言うこと。強大な軍を有しているが、その使い道がないと言うこと。その軍に、絶対的な自信を持っていると言うこと。

特に西のエンデルクと並び、大陸最強の武人といわれるドムハイトの剣豪バフォートが指揮する、竜軍六個師団およそ五万は、まさに大陸最強の部隊である。総合的に兵の質が高いシグザールだが、この五万を同数で崩せる部隊は無い。だが、此処に落とし穴がある。

「この五万を、この世から抹殺します。 バフォートもろとも、一兵も余さずに」

その場の空気が凍った気がした。カミラは薄笑いを浮かべると、なおも言う。

「軍はごく少数しか用いません。 エンデルク騎士団長と、後は騎士団から選抜したいくらかの精鋭だけです。 後はクリーチャーウェポンしか使いません」

「……」

「抑止兵器というものは、使ってこそ意味があります。 好戦的なドムハイトに、戦ったら絶対に勝てないと悟らせるには、完膚無きまでの絶望が必要なのです」

しばしの沈黙。やがて、ヴィントは、静かに言った。

「面白い。 詳しく話を聞こうか」

 

王への面会が終わったカミラは、自宅に戻ると、大きくため息をついた。危ないところだった。牙の手が間近に迫っていることは分かっていた。今回の行動は賭だった。確かに作戦の一端ではあったのだが、牙の動きがこうも速いとは思っていなかったのだ。一日判断が遅れたら、首を飛ばされていただろう。額の汗を拭う。カミラは大胆な面もあるが、人には見せないもののとても臆病な所もある。今回は胃が痛い展開であったのだ。

エンデルクには既に作戦を伝えてある。エンデルクは喜んでいた。戦争が出来るからだ。これでエンデルクは影における最高の名声を得ることになる。騎士団長としての地位は盤石となり、おそらく終身的なものとなるだろう。ただ、エンデルクは強欲な男だ。ひょっとすると、これでも満足しないかも知れない。

場合によっては、王にすりより、消す必要が生じる。そのときには、今のカミラの腕では無理だから、クーゲルと共同するか、或いは牙を動かさなければならないだろう。カミラは寝室へ歩きながら、そんな事を考えていた。

作戦は既に立ててある。パニックに陥ったドムハイト軍は、既に竜軍六個師団を動かし始めているという話がある。後はそれを誘き出し、非公式に消滅させるだけだ。

ただ、問題もある。抱えている錬金術師共よりも遙かに優れた火薬兵器を、どうやらアカデミーが開発したらしいのである。しかも開発者は、以前カミラのクリーチャーウェポンを潰してくれたあのマルローネ。抱えている錬金術師達は混乱していて、そこから何か情報がよそに漏れるかも知れない。

何だか面白い事になってきている。含み笑いが漏れる。ひょっとすると、今後の展開に影響があるかも知れないが、かまわない。実力でねじ伏せる。

「もう少し、もう少しだ」

鎧を脱ぎ、肌着だけになってベットに転がったカミラは、天井を見つめながらつぶやく。あと少し、あと少しで彼女の目的は完成する。最精鋭である五万の兵を、シグザール軍の損害無しにこの世から消せば、ドムハイトは平和に傾かざるを得なくなり、カミラの実力は正式に認められる。

軍の司令官でもいい。場合によっては宰相も狙える。出世としては、究極の所へ到達するのだ。

それからは何でも出来る。ヴィント王は厄介だが、跡継ぎであるプレドルフ王子は盆暗で、好きなように操作できる。人臣の極みに到達しても良いし、弱体化したドムハイトを滅ぼして天下統一を果たしても言い。

これで、カミラを背丈と体型でバカにする奴はこの世からいなくなる。

ふと、そんなことを考えてしまって、首を横に振る。カミラは目を閉じると、眠りに就く。まだ、目的は果たされていない。だから、今は体を休めなくてはならない。

無数の野望が蠢動し始める。その中に、確実に彼女もいた。やがて、その野望は、歴史を大きく動かしていくことだろう。

静かに、だが激しく。硬直した二国間の関係が、変わろうとしていた。

 

   (続)