転換迂回

 

序、火薬

 

マリーはアデリーをアトリエの二階に避難させると、自分に行使できる最大級の防御術を展開した。時間がかかるので、戦闘向きではない防御術だが、こういう時には役に立つ。最悪、二階にいるアデリーは死なずに済むだろう。

机の上にのせているのは、こぶし大の赤い岩だった。カノーネ岩という。一見山に幾らでも転がっているような石に見えるが、強い魔力と火の要素を含み、扱いには細心の注意が必要な代物だ。ちょっと油断すると、すぐに発火するため、置く場所には常に気を配らなければならない。

この岩を、マリーは、ザールブルグ北部に聳え立つヴィラント山から回収してきた。巨大な竜フラン=プファイルが住む、危険な山だ。フラン=プファイルは百年以上生きており、体の大きさは成人男子の二十倍強。エンシェントと呼ばれる最強クラスのドラゴンである。もっとも、それはドラゴンとして最強であるだけであり、騎士団の討伐隊が近づくとさっと身を隠す賢さを持っている。どんな生物も、人間にはかなわないのだ。

このカノーネ岩自体は竜が住む頂上付近ではなく、麓で採れたものだが、関係ない。ヴィラント山は全体に危険な生物が多数生息している。そのため、回収は困難を極めた。ヴィラント山にいけば幾らでも転がっているのに、アカデミーで購入するとびっくりするほどの高値がつくのは、その辺が原因だ。エルフィン洞窟などでも回収は出来るのだが、品質はぐっと落ちる。だからわざわざ此方から回収し直した。

まずこれを砕く。砕く際にも、焦ってはいけない。火花に引火したら、防御術を貫通するほどの爆発を起こす可能性がある。だから木槌を使って、少しずつ形を崩していく。細かく砕き終えたら、今度は乳鉢に入れる。そして、更に慎重に、粒子状になるまで潰していく。

これが終わると、次の過程。マリーは汗を拭うと、必要な道具や素材類を調合机の下から取り出した。危険なので、この作業中は分厚い机の下に置いてあるのだ。

次の過程では、エルフィン洞窟などで回収できる、黄金色の岩と呼ばれる物質を用いる。これ自体はただ臭いだけの代物なのだが、この赤い岩と混ぜ込むことによって、火力を最大級まで高める事が出来るのだ。ヴィラント山にもこの黄金色の岩はあるのだが、不思議とこれに関しては、エルフィン洞窟でとれるものの方が高品質だ。黄金色の岩は柔らかく、先を丸めた撹拌棒を使って、じっくりカノーネ岩の粉末と混ぜていくだけでいい。やがてマーブル模様の、臭い塊ができあがった。周囲には卵の腐敗したものに似た、何とも言えない臭いが漂う。後で風呂屋に行きたいなと、マリーは思った。

次に、カノーネ岩と黄金色の岩の混合物を土から作った中和剤に溶かし込んで、数日がかりで馴染ませる。それが終わったら乾燥させて、水分を飛ばす。そうして、ようやく火薬が完成する。

中和剤に溶かし込むと、頑丈な木箱にボウルを入れて、地下室へ。そして一階の床に更に防御術を掛ける。マリーは防御系統の術が苦手だ。能力にも関係しているのだが、使うつもりならじっくり詠唱を行って、時間を掛けなければならない。その上、他人が作った媒介用の道具が必要になるし、膨大な魔力を消耗するので、実戦向きではない。一応詠唱は覚えているが、こういう時にしか使い道がないので、普段は殆ど使用しない。ちなみに回復系の術は一切使えない。マリーが攻撃的な術しか戦闘時に使用しないのは、性格からくる行動ではない。それしか使用できないからなのだ。

一段落したところで、アデリーを呼ぶ。おっかなびっくり降りてきたアデリーは、作業がすっかり終わっていることを確認して、安堵の息を吐いた。

「マスター、もう作業は終わったのですか?」

「とりあえずはね。 これから数日間寝かせてから、加工するの」

起爆用の雷管はクラフトと同じ、加工した光石を用いる。これは既に作って、ストックを確保してある。また、ブララの実を外殻に用いて爆薬の成形を行うため、此方も確保済みだ。

何度も参考書に目を通して、理論はしっかり覚え込んだ。若干腑に落ちない点はあるが、それで火薬を作り出せることは実証できている。まずは検証を行って、全てはそれからだ。

「夕ご飯作ってくれる?」

「はい」

マリーが研究を行っていると、やっぱりアデリーは悲しそうだ。特に今回のように、殺戮を目的とした道具の場合はなおさらである。アデリーはかなり賢い。直接そうだと言わなくとも、無言で悟ってしまう。知ることは幸か不幸か、身近な例で悟らされる。

マリーにしてみれば、理解して貰おうとも、受け入れて貰おうとも思わない。否定さえしなければそれでいい。

疲れたので、机にしなだれかかる。指先も酷使して疲れたし、肩も痛い。甘いものを食べて、頭の活性化もしておきたい。アデリーの背中を見ると、手際よくブララの実を切り分けていた。実に気が利く良い子だ。

マリーは隣に積んでおいた教科書を捲る。そろそろ、三年の教科書は大体把握した。後はそれを応用していくだけだ。四年の教科書は桁違いに難しいので、しっかり地固めしておく必要がある。

ぼんやりと教科書を捲るマリー。アトリエに、小気味よい包丁の音が響き続けた。

 

錬金術が作り出したものの中で、内外でもっとも評価が分かれる存在。それこそが火薬である。

今までの人間文明でも、強力な発火効果を持つ物質は、幾つも開発されてきた。だが、それらには欠点が幾つもあり、戦場で大量投入されることは歴史上ついになかった。しかし、火薬は違う。火薬には様々な特性がある。

あくまで理論的な話ではあるが、大量生産が出来る。扱いがマニュアルに沿えば簡単で、しかも威力が高い。いや、高いのではなく、桁違いに高い。使用量によっては、上位の攻撃術並の破壊力を出すことも可能なのだ。今までに知られている発火物質とでは、力があまりにも違うのである。確実に今後の文明を左右するはずの軍事利用可能物質。それが火薬である。

しかし、現状ではクリアできない深刻な問題が幾つもある。

たとえば、現実的には製造技術が極めて高度なため、作ることが出来る人間が限られている。材料の均一性を計ることが出来ず、品質に大きなばらつきがある。完璧なマニュアルの整備に到っていない。

ヘルミーナ、イングリドをはじめとするアカデミーの精鋭達によって、ある程度の研究は行われているが、文明を変えるほどのものにはいまだ遠いというのが実情である。また、使用法にも制限が多い。その火力を使って炸裂弾を作ることくらいしか考案されていない。また、量産できると言っても、それには時間と熟練の技術が必要となってくる。

これらの理由から、軍での研究が行われていても、まだ実用段階には到らないのが、火薬の現実だ。

そもそも、人間には想像力の限界がある。「とても良く燃える」物質があるという事を言われても、それをどう活用するのか。しかもその物質は極めてハイリスクで、作るのに時間もかかってしまうのだ。

これらの問題をクリアしなければ、火薬は実用にはとても移す事が出来ない。それは、研究するマリーにとっても同じ事である。炸裂弾としては、大量生産できる腐敗ガス式のクラフトの方が火薬式のフラムよりも遙かに優秀と言うことになってしまう。しかし、火薬単体の火力をマリーは見たことがある。あの威力を生かさない手はない。研究者としてのマリーの血が騒ぐ。

数日後に、火薬が出来た。すっかり澄んでいる中和剤を捨て、取り出した固形物を乾燥させる。それを再び砕いて粉末状にすると完成だ。完成した時には、黄金色の岩の雰囲気は残っておらず、黒い粉末になっている。臭いもしない。これは非常に危険な物質であり、強く叩くだけで爆発する。

この物質はまだ研究が進んでいない。たとえば例のヘルミーナ先生は、これの兵器利用を考えているが、様々なバリエーションの殆どが炸裂弾だ。構造はよく考えられているが、どれも発展途上の感がぬぐえない。ヘルミーナ先生はホムンクルスの研究も進めているという話だし、仕方がないのだろう。イングリド先生は、この火薬の安定生産の研究を行っている。黄金色の岩との配合を考え出したのはイングリド先生だ。ただし、それによって威力は上がったが、却って安定性は落ちてしまうという皮肉な結果を生んでいる。

他の先輩錬金術師も、火薬については研究しているが、この双璧以上の成果を上げている人はいない。つまり、未開発の処女地が幾らでも広がっている分野なのだ。危険性も高いのだが、見返りも大きい。

頑丈な革手袋をはめる。気休めにしかならないが、無いよりはマシだ。アデリーの作ってくれた夕食が、机の端にある。まだ、食べるには早い。

机の上に広げておいた火薬は、見た名以上に質量があり、少しぐらい息がかかっても広がらない。細い棒で広げてみると、粒子がかなり粗い。広げてから、軽く叩いていると、ある時点で炸裂した。

発火などというレベルではない。顔は離していたが、髪の毛の辺りまで火が来た。棒は半ばから吹き飛んでしまい、危うく防御の壁を抜かれるところだった。

ごく少量の火薬であったのに。下手をすると指が飛ぶところであった。机にも僅かながら罅が入っている。ため息。寝間着に小さな体を包んでいるアデリーが目をこすりながら降りてきた。ぼんやりと、階段の所から部屋を覗いている。マリーが笑顔を向けると、かわいらしい動作で小さくあくびをした。

「マスター、どうしたのですか?」

「ちょっと実験に失敗しちゃっただけよ。 問題ないから、戻りなさい」

「はい」

夢遊病者のような足取りで、アデリーは二階へ戻っていく。スキンシップが出来るようになってから、接するのにも余裕が出来てきた。以前だったら跳ね起きて、下に駆け下りてきただろう。マリーを信頼しているから、反応にも鈍さが出てきているのだ。

アデリーが戻ったのを見計らい、参考書と教科書を開く。この完成度では、安定性に問題がありすぎる。たとえば、ブララの実の殻に詰め込んで持ち歩いている時、ちょっと揺らしただけで炸裂されたら、笑うに笑えない。しかもこの火薬の場合は、連鎖爆発を確実に誘引するのだ。とても戦闘に耐えられる代物ではない。

どうにかして、安定させないといけない。教科書にはヒントとなる記述はない。ヘルミーナ先生の参考書には、火力を上げる調合は載っていても、安定性を高めるものは載っていなかった。

イングリド先生の教科書には、何とか求めるものがあった。ただ、どれも入手が難しい。一番最初に目が行ったのは、珪藻土と呼ばれるものだ。海岸線地域で採れる土であり、諸説はあるが古代の藻が化石化したものだという説が参考書に載っていた。それで珪藻土と名付けられているのだという。これを混ぜ込むことによって、火薬は安定性を増す。火力そのものも上がる。ただし、雷管にはかなりの火力が要求されるようになり、場合によっては本末転倒だ。マリーの作った光石製の雷管が、役に立てばよいのだが。

珪藻土はそもそも入手も難しい。アカデミーで購入することが出来るほか、建材屋である程度は扱っている。だが採れる地域が極めて遠いため、殆ど趣味のレベルで持ち込まなければならず、その手間が上乗せされているため非常に高い。

白鹿竹のタケノコといい、錬金術の素材にはこういったものが多い。

イングリド先生のようなレベルの錬金術師であれば、ある程度金に糸目をつけず素材を回収できるのだが、マリーの立場でそれは無理だ。おそらく、ピローネも回収は無理だと言うだろう。パテットに少し相談してみるつもりだが、どちらにしてもダメ元だ。仮にオッケーが出たとしても、安定供給は難しいだろう。一番近い採掘地でも、一月は歩かなければいけないはずだ。

他の素材も吟味してみる。粘性の強い果実のエキスが紹介されていた。ただしこれは一定温度以下に冷やしておき、使用時は温めることが絶対条件だ。他にも何種類か紹介されているが、どれもマリーの財布や状況に合うものはない。

理論を分析してみる。難解だが、どれもかろうじて理解は出来る。しかし、それ以上のことは出来ない。言われてみればなるほどと思うのだが、ならばそれを応用して必要になる素材を分析するには到らないのだ。

確かに火薬の威力は強烈だ。だが今の段階では、とても使用には耐えない。しかし、何とか活用してみたい。

珪藻土と似た性質の土をリストアップしてみる。それらの中には、かなり安く購入できるものもあるし、中にはそのままそこら辺で掘り出すことが出来るものもある。ただし、そんなものをイングリド先生が試していない訳がない。

だが、イングリド先生は錬金術師であっても村人ではない。マリーの方が、細かい森の知識に関しては上だ。これを利用して、使ってもいなさそうな素材を用意できないものか。しばし考え込んでから、素材を吟味し、リストアップした。だが、どれにも大なり小なり欠点がある。戦略の練り込みは難航した。

気がつくと夜が明けていた。また極めて不健康な事をしてしまった。二階に上がると、アデリーが朝のランニングのため起き出すところだった。ランニングにだけつきあって、それから寝ようとマリーは思った。

火薬の製造は始まったばかりだ。今は現状の完成品に追いついただけでよしとするべきである。研究が被ってしまっては意味がないから、明日はアカデミーに顔を出す必要があるだろう。二階に上がると、アデリーは着替えを始めていた。この子には強い信頼感がある。まだ幼いのに、さぼる事を考えないし、嘘もまずつかない。

「おはよ」

「おはようございます」

「ん。 顔と歯洗ってきて。 今日は一緒に走ろっか」

「はい」

少し嬉しそうにアデリーが応えたので、マリーも笑顔が零れる。明日は幸せな日になりそうだった。

 

1,離

 

ザールブルグを埋め尽くす無数の建物は、石と煉瓦によって作り上げられている。当然のことながら、供給がある以上需要もある。石は幾つかの岩山から切り出して運ばれてくるし、特に粘土は貴重品として取引される。金属加工技術だけではなく、土石の加工技術こそが、巨大な石造都市を作り上げていったのだ。また、ザールブルグ発展の基礎となっている水路にも、豊富な石材が用いられ、注意深くメンテナンスが行われている。

もちろん、全てが石で出来ているわけではない。マリーの住んでいるアトリエなどは、土台こそ石であるが、煉瓦と木が主体の作りだ。ザールブルグ以外の都市には、木を主体として作り上げられたものもあると聞いている。ただ、そう言う場所でも、都市の外殻とも言うべき城壁は基本的に石で作られている。

だから、ザールブルグには建材屋も多い。マリーは最初、其処から当たることにした。森には詳しいマリーだが、土がどこで採れるかという事に関しては、知識が不足している。自分の住んでいた村周辺の森や、それに近い場所であれば問題はないのだが、岩山などの知識はあまりないのである。

土建屋にはたくましい男達が出入りし、四頭立ての巨大な馬車が土を運び込んでいた。奧の工房では大量の煙突が立ち並び、大量の煉瓦が生産されている。その煉瓦に関しても、様々な種類があった。店をのぞき込んでいたマリーは、がっしりした体格の大女に呼び止められた。マリーよりも頭一つ分大きい彼女は、坊主に髪を刈り込んでいる。

「なんだいあんた。 煉瓦が欲しいのかい?」

「あ、いえ。 土について、色々聞きたい事がありまして」

「へえ? 土に興味があるって、若いのに妙なことを言いなさるね。 ただね、見ての通り、この店は凄く忙しいんだ。 話は聞かせてあげたいが、手の空いている奴なんざいやしないよ」

確かに部外者であるマリーが見ても、店は忙しそうであった。少し考えれば分かるが、どこの同系店でも、状況は同じであろう。

煉瓦をほしがるのは、ザールブルグの住民だけではない。たとえば、街周辺の大穀倉地帯でも、屯田兵が住む家を造らなくてはいけない。組み立ての容易な家をそう言ったところでは使っているが、消耗品の煉瓦は幾らあっても足りない。また、衛星都市の数々では、豊富な経験と高いスキルを持つザールブルグの土建業者が作った煉瓦は必要とされる。新しい都市は今の時点では造られていないが、それでも慢性的に忙しい業界なのだ。土建材は全て自前で確保している地域もあるが、それは近所でよほどよい土が出る場合か、もしくは辺境だ。

「そもそもあんた何者だい。 見たところかなりの使い手みたいだが、冒険者は土なんかほしがらないだろうし、騎士だってそうだ」

「ああ、あたしは錬金術師です。 手の空いた時にでも、話を聞かせていただけませんでしょうか」

「錬金術師……かい。 そういえば、同じようなことをこの間来た綺麗な女の人が言っていたねえ」

多分イングリド先生のことだろうと、マリーは思った。あの人は研究が大詰めになると、様々な素材を試すという。場合によっては、素材に詳しい人間に直接話を聞きにいくとも言う。

こういう時は、何か買うのが聞く時の筋であろう。マリーは予備の煉瓦を買うことを申し出て、腕組みしていた女は、頷いた。

「まあいいだろう。 奧の工房に、テパって爺さんがいる。 今では力もすっかり衰えて、竈の火を見るしか仕事がないんでね、多少なら時間もあるだろう」

「ありがとうございます」

「それにしても、土なんかどうするんだい」

「えへへへへ、秘密です」

まさか大量虐殺を行える兵器を作るなどとは言えない。マリーは頭を掻きながら笑顔で誤魔化した。

汗まみれの屈強な男達が行き交う中を、マリーはさっさとすすみ、奧の工房へたどり着く。巨大な煙突は下から見ると迫力が違った。

中にはいると、マリーは眉を思わずひそめていた。今は夏。元々決して涼しくはないが、それでもこの蒸し暑さはどうだ。錬金術の実験中にも、竈を炊きっぱなしにするため、アトリエが蒸し暑くなることはある。しかしそれは常時の事ではないし、逃げ場所は幾らでもある。

だが、此処にはそれがない。汗だくの巨漢が、巨大なスコップを使って、竈に煉瓦を出し入れしている。窓はなく、灯りは天井からつるされている魔法ランプと、入り口からの光のみ。そんな中、パイプを口にくわえて、上半身裸で隅に座っている老人がいた。彼がテパであろう。

枯木のような老人であった。髪の毛は半分以上なくなり白くなり、口元には山羊のような髭がだらしなくぶら下がり、落ちくぼんだ目にはもう力が無い。筋肉も骨格も衰えきっており、巨大な体積を持つ男達に触れたら、それだけでばらばらになってしまいそうだ。体も煤にまみれていて、いつ洗ったのかも分からない。貧弱で、脆弱で、今にも折れそうな老人。

だが彼の手には、重要な鐘が握られている。マリーが見ている中で、不意にそれが振られ、鳴らされる。最初に二度、続けて四度。同時に2番と書かれた竈が開けられ、素人目から見ても、完璧に焼き上がった煉瓦が取り出される。独特の、土が焼ける香ばしい臭いが、周囲に満ちた。

テパは無感動に、完璧な仕事をしたことを喜ぶでもなく、取り出される煉瓦を眺めていた。マリーが声を掛けた時も、殆ど反応がない。男達も、テパ老人に関しては、殆ど注意を払っている様子がない。いながらにしていない、必要にして必要ではない、不思議な老人であった。

三回呼びかけると、テパはマリーを見た。目の奧は闇が溜まっているようで、底知れない。光がないのに、常人では却って引きずり込まれそうだ。声もしわがれてはいるが、しっかりした土台があった。おそらく、長年の経験からくる、自信に起因したものだろう。こういう一見枯木にも似た老人が侮れないことを、マリーはよく知っている。

「何用かね」

「はじめまして。 あたしは錬金術師のマルローネ。 テパさんですね」

「そうじゃ。 マルローネさんといったか、こんな枯木に何のようだね」

「今、ちょっと特殊な条件を満たす土を探しています。 そこで、意見を聞きたいと思いまして。 ただとは言いませんので、話を聞かせてもらえませんか?」

そういって、アデリーが作った塩ハムを挟んだパンを渡す。テパ老人はもらうのが当たり前という顔をしながら、歯が残っている口に運び、くっちゃくっちゃと音を豪快に立てて食べ始めた。マリーは邪魔にならないように老人の隣に座りながら、聞いてみる。

「珪藻土って知ってますよね」

「おう、おうおう。 保温剤として優秀なあれじゃな。 加工もしやすいが、脆い。 高級な濾過剤の役割も果たすが、それがどうかしたかね」

「あれの代用品になる土や、性質が近い土は知りませんか?」

「そうさな。 保温剤としてならば動物の糞便が優秀だのう。 北部の一部地域では、山羊の糞を乾燥させて床材の下に敷き、保温剤に用いておる。 牛の糞も外壁に塗っておくと、冬暖かくて過ごしやすくなる。 臭いのが最大の難点だが、それも乾いてしまえば気にならなくなるしな。 濾過剤としてはその辺の砂を焼くだけで充分だ」

流石に詳しい。保温剤としては、動物の糞が有効だというのに関しては、マリーも知らなかった。グランベルには無かったが、他の寒さが厳しい小村では使っているかも知れない技術だ。まだまだ、世の中には知らないことが多い。他にも、動物の糞便は乾燥させると燃料にも役立つのだという。

「似た性質のものとして考えると、そうさな。 何種類かの川砂が近い。 粒子が細かいものになればなるほどいいだろうな。 後は軽石を砕くと、性質が近いものを作ることが出来るかも知れぬな」

「なるほど、そうですか」

「見れば分かるが、軽石は非常に細かい穴が無数に開いておる。 その点で珪藻土と同じ性質を持っているから、ひょっとすると似た結果を作るかも知れぬ。 ただし、確証は無いがな」

「いえ、参考になりました。 ありがとうございます」

「あんた、マルローネさんといったか。 心に鬼を宿しておるの」

不意にテパが話を変える。マリーは笑顔を保ったままである。それなりに鋭い人間であれば、マリーの本質くらいは見抜く。子供であるアデリーにさえ分かるのだ。ましてや、豊富な人生経験を持つ老人ならばなおさらだ。テパはパイプから、ゆっくり煙を吐き出しながら言う。

「何にそれを用いるかは知らんが、帰りを待つ人を泣かせるような事はするなよ。 強大な力は、強大な凶器だ」

「それは分かってます」

「分かった上での事か。 ならば、仕方がないか」

もう一つ、老人は煙を吐き出した。それはリングとなって、工房の上の方へと飛んでいった。マリーは頭を下げると、戦場に等しい忙しさの中にある、工房を後にした。背後から、テパの鐘の音が聞こえた。

足早に歩を進めながら、マリーは感心していた。流石に本職である。マリーが事前にリストアップしたものよりも、遙かに多くの実例を挙げてくれた。実に有意義な時間であった。

帰り際に、約束通り煉瓦を購入していく。ついでに軽石もあるかと聞くと、隅の方に転がされているという答えが返ってくる。見れば、確かに大小様々な軽石があった。粉砕してから様々な用途で用いるのだという。たいして価値のない岩だが、流石にまたヴィラント山に行くのはしんどいので、金を払って購入。ただ、此方はただ同然で必要量を買うことが出来た。軽石は建材としても価値が薄く、入手難度も低いからだ。

煉瓦と軽石を籠に入れてすぐに家に戻ると、アデリーが掃除していた。危ないので完成品の火薬は地下に移してある。というよりも、おそらくもう役に立たないだろう。

何度か検証して分かったのだが、マリーが製造した火薬は、一度乾燥させてしまうと、あっという間にしけって使い物にならなくなる。乾燥しないような工夫をすればいいのだが、マリーの手元には、そんな便利な機材もなければ道具もない。これを克服する必要もある。

「マスター、それも実験の素材ですか?」

「そうだよ。 ちょっと外に出てくるわね」

「はい」

籠を一端机に置くと、ばらばらと汚れが落ちた。アデリーが眉をひそめる。そういえば、この子が怒るところはまだ見たことがない。たとえば目の前でマリーが惨殺されたら、多分悲しんで泣くのではないか。

それでは困る。マリーはそう思った。そう言う時には、もっと暴力的になって良いのだ。怒りにまかせて全てを焼き払うくらいでなければ、覚醒暴走型に偏見を抱く人間共の中で生きていくのは難しい。

「ごめんねー。 ちょっと汚れちゃったわ」

「大丈夫です。 お掃除しておきます」

「よろしく。 それでね、これからの実験はまだしばらく危ないから。 いざというときには、分かってるね」

マリーは実験で自分が死んだ場合のことを、アデリーに話してある。一月ほど前、コミュニケーションを更に親密に出来るようになってきた時の事だ。アデリーの未来のためにも重要なので、このときを待っていたのだ。

アデリーが再び孤児になった場合、ドナースターク家で預かって貰うことになっている。その場合の雇用権と親権はシアに委譲。まあ、シアならば旨くやってくれるだろう。当のシアにももちろん許可は取ってある。

だが、シアは約束をした時に、不意に笑顔を消して、言ったものである。

「そのときはアデリーを引き取るけれど、あの子がきちんと大人になれるかどうか、保証は出来ないわよ」

同感である。二度も親を悲劇的に失えば、性格が致命的に歪むのは当然のことだ。破壊の権化が誕生してもおかしくはない。

アデリーはマリーの言葉を悲しそうに聞く。こういう時にこそ、怒ってもいいのにとマリーは思うのだが、そこまでは望めないだろう。まだ、この子の感情は普通の人間のレベルに達していない。声を上げて泣くことだってなかなか出来ないのだ。

アデリーの頭を撫でてから、裏庭に出る。乳鉢は既に蒸留水で洗って乾かし済みだ。ハンマーで軽石を砕いて、細かく乳鉢ですりつぶす。

軽石は名前の通り、とても質量が小さい。色は黒かったり赤かったり様々だが、表面は無数の穴に覆われており、それで軽いのだと自然に分かる。砕くのも容易だ。しばし粉末を作ったところで小休止。質量が軽い粉末で、風が吹いたら粉が飛んでいってしまいそうだ。この辺、火薬の粉末と対照的な性質である。

一端地下室に降りて、とってある火薬を出す。殆ど湿気ってしまっていて、役に立ちそうにない。火を当てたり温めすぎると小爆発を連鎖させるので、陽に当てながら乳鉢でかき混ぜ、気長に湿気を飛ばす。というよりも、中和剤漬けにしてある在庫を乾かすよりも、この方が早い。

ずっしりと重量感がある火薬から湿気が無くなってくるのを見計らって、細かくした軽石を混ぜてみる。どうせ駄目元だ。全く期待しないまま混ぜ終えると、あまり手応えはなかった。

やはり珪藻土でないと駄目か。そう考えながら、乳鉢から丁寧に落として、野外実験用机の上に少量を出してみる。面倒くさいので、いかづちを飛ばして、発火させることにする。此処に出している机は、丸太を使った頑丈なものなので、多分壊れることはないだろう。両手を火薬の左右に広げて、間に電流を飛ばす。電撃の枝が、つもった火薬に触れ、発火、急激に炸裂した。

マリーの魔力防御を貫通することさえ無かったが、火薬は炎を上げて、激しい爆音をまき散らした。威力はそう変わっていない。やはり駄目かと、マリーは嘆息一つ。どちらにしても実験は他にも山ほどこなさなければならない。一つや二つの失敗で、へこたれているわけにはいかないのだ。

それから数日間、マリーはとにかく色々な素材を試した。

他にも見繕ってきた素材を、一つずつ使ってみる。山羊の糞を乾燥させたものを用意して、砕いて混ぜてみたが、大して威力は変わらない。汚いだけだ。牛の糞も同じ。一つずつ試しては見るが、その分失敗例だけが増えていく。焼いた川砂も駄目。複数種類の川砂は全部意味が無く、赤土や乾燥させた川底砂も駄目だった。

一種類の素材が駄目だと気付いた後、マリーは今まで有望だった素材を、複数ずつ組み合わせて混ぜ込んでみた。だが、どれもこれも結果は同じである。

火薬にだけかまけているわけにはいかない。資金源である栄養剤を作るために、ヘーベル湖やエルフィン洞窟へ出かけなければならないし、他の勉強も放置するわけにはいかない。その課程でありとあらゆる素材を集めてきたが、どれも火薬の威力を上げるには到らなかった。

苛立ちが募る。

こういう時、戦闘時のマリーの凶暴性は増す。更に質が悪いことに、マリーの身体能力も魔力も、もうほぼ全盛期のレベルに到達している。すなわち、それは凶器だ。其処に優れた技術と経験が加わるのである。ついでに言えば、経験と技術に関しては、最盛期の頃から蓄積され、更に強力になっているのだ。

当然、帰宅した時に、マリーの体からは濃い血の臭いがするようになった。

アデリーは眉をひそめて悲しんだが、マリーはそれに気付きながらも、どうすることもできなかった。

 

アカデミーに足を運ぶ。火薬の研究を見せて貰う。図書館にある資料には、大体目を通したが、満足行くものはなかった。

研究の分野が広すぎるイングリド先生。ホムンクルスの研究に興味を移してしまっているヘルミーナ先生。今回は、どちらも頼れない。

イングリド先生はいざ研究するとなると、理論的に一気に穴を埋めるそうだが、彼女は今ホムンクルスに力を注いでいるらしく、マリーが研究のおこぼれを貰うことは難しい。

ヘルミーナ先生は極めて気まぐれで、研究も気分次第。それでいて一級の業績を上げているのだから、天才という人種は腹立たしい。おそらく風評の影で相当な努力をしているのだとは思うが、今のマリーには何の意味もないことは確かだ。

アカデミーにリラクゼーション施設のようなものはない。と言うよりもマリーが見たところ、そんなものを作っている余裕がなかったのだろう。学ぶことだけを考えて面積や採光のレベルから建造されていて、それ以外のことは全て外でやるようになっている。学生は基本的に買い食いだ。休む場所など、この中にはない。寮に関しても、併設するように作られているし、学生用の食堂もない。これは学生が裕福な場合が多いからだ。そうでない学生のための設備は、今はまだ作られていないのである。

だから、図書館を出たマリーは、一直線に外へ出た。イングリド先生の研究室に顔を出そうかと思ったが、時間的にまずいと思ってやめた。現役学生の時には、丁度このくらいの時間に、授業を良く行った。授業がない時も、先生は研究室に閉じこもり、眉根を寄せて研究をしていたものだ。

あれからもう二年近くになる。マリーはもう三年の教科書をほぼマスターし、四年の教科書をものにし始めている。もっと難しい教科書に目を通すこともある。だが、壁はいつでもある。今回の壁も厚く、そして手強かった。

「おや、こんなところで貴方に会うとは」

「ん、何か用?」

敵意むき出しでマリーが振り返った先には、めがねを嫌みったらしく直すクライスがいた。アカデミーの出口近くである。受付のお姉さんが、もの凄く嫌そうにやりとりを見守っている。

「まさかアカデミー史上最悪の問題児の貴方が、勉強のためにアカデミーを自主的に訪れるなんて。 明日はきっと雹が降ることでしょう」

「今は機嫌が悪いの。 くだらないことほざいてると、殺すよ?」

マリーの体から溢れた獰猛な殺気が、雷撃を伴ってアカデミー入り口ホール全体を蹂躙した。気の弱そうな学生が悲鳴を上げ、防御術を展開しようとする錬金術師もいる。マリーは落第生だったが、その戦闘能力に関しては、今ではどういう訳か知られている。

だが、クライスも同じいかづちの魔力の持ち主である。絶対量はマリーよりもだいぶ少ないし、実戦になれば負ける気はしないが、それでもこれくらいは防いでみせる。肩をすくめながら、これ以上もないほどクライスは憎々しげに言う。

「おお、怖い。 これだから野蛮な人は」

「……帰る」

発作的に杖に手を掛けたマリーだったが、結局やめた。こんな奴のために、全てを無駄にするのはあまりにもったいない。

月と星の杖の存在が、マリーの魔力を底上げしている。それによって出来るようになったことは幾つもある。それなのに一番最初で躓いた挙げ句、要領の悪い勉強をしてクライスに嫌みを言われている。腹の底が焼け付くような怒りがわき上がってくるのと同時に、情けなくてため息が漏れそうになる。こんな事では、いつになったら故郷に錦を飾ることが出来るのだか、分かったものではない。

クライスは着いてきた。足早に行くが、それでも着いてくる。軟弱な坊ちゃんにしては大した根性だ。

「どうしたんですか。 そんな、鹿に逃げられた虎みたいな顔をして」

「鹿に逃げられた虎だからよ」

身も蓋もない返答をする。事実とそれは大差がないからだ。今のマリーは、鹿を探して森をうろついている、飢えた虎だ。

「なるほど、そう言うことですか。 アカデミーに来ていたと言うことは、研究が上手くいっていないんですね」

「大きなお世話よ」

「其処まで苛々しているということは、先人の研究にも参考になるものがなかったという所ですか」

流石に優等生様だ。状況から、マリーの苦境を的確に分析してくる。マリーは足を止めると、振り向く。

「何か打開策があるっての?」

「考え方を変えてみてはどうですか? 詰まっている研究はしばらく置いておいて、他の作業を進めてみるとか」

「……離、か」

「そう、離です」

古代の話。昔話としてグランベルにも伝わっている有名な物語がある。それは、離の教訓と呼ばれている。

昔々のこと。天才と呼ばれたシグザール王国初代国王の軍師が、どうしても攻略できない要塞に突き当たってしまった。どんな戦術で攻めても、どんなに兵力をつぎ込んでも、落とすことが出来なかった。要塞はまるで鉄壁で、どれだけの兵士が命を落としても、小揺るぎさえしなかった。

元々天才とうたわれていた軍師は、プライドも高かった。頭に血が上った彼は、周囲が見えなくなってしまい、徒に兵力を消耗してしまった。見かねた王が軍師を諭した。要塞にこだわりすぎるな。要塞を力で落とそうとして駄目なら、他の方法を試してみよ。そなたならそれが思いつくはずだ。

それを聞いた軍師は、憑き物が落ちたような感覚に包まれた。そうだ。この要塞を力で攻略するだけが道ではなかったのだ。彼は要塞を無力化するべく戦略的な手を打つと、もうそれは放っておいて、他の地域の攻略に着手した。やがて、落とした都市の一つで、手に入った情報から、あっさり要塞は陥落した。幾万の兵士の命を吸い上げた要塞であったというのに。

火薬の研究に取りかかって、およそ二ヶ月。金銭面での問題はないが、時間の浪費でマリーは少なからず焦っていた。アデリーの体の成長は著しい。体つきは丸くなりつつあり、胸もふくらみ始めている。栄養状態が良くなったため、一気に成長しているのだ。個体差はあるが、育ちの良い子供だと十代前に初潮を迎えることもあるという。研究を早めに進めないと、致命的な暴発が止められないかも知れない。

「わーったわよ。 離ね、離」

「役に立てましたか?」

「悔しいけどね。 他にも調べておきたいことは山ほどあったことを忘れてたし、丁度いい機会だわ」

むっつりしたままマリーが言うと、何故かクライスは安堵したように、一瞬だけ表情をゆるめた。意味が分からなかった。

「では僕はこれで」

「ありがと。 悔しいけど、助かったわ」

何気なく言った言葉に、クライスは数秒間硬直していた。マリーにはますます意味が分からなかった。

 

アトリエに戻ると、頭も冷えていた。確かに言われたとおり、こだわりすぎると見えるものも見えなくなってくる。

実験用のデータは重要だが、とりあえず後回しだ。いつでも実験再開できるように、加工前の素材を保存する。カノーネ岩は油紙に包んで地下室の奧へしまい、湿気った実験後の火薬は全部処分。その途中で、一つ、妙なものを見つけた。

あの、軽石を混ぜ込んだ火薬だ。全く湿気っていない。裏庭に出して、火をつけてみる。若干威力は落ちているものの、火薬として充分活用可能だった。嘆息。こんな身近な成功例さえ見逃していたのだ。いつもの状態ならあり得ない。

「く、くくっ、くくくく、あははははははははははははははははは! あっはははははははははははははははは! 畜生、負けた! あたしの負けだ!」

天を仰いで、マリーは笑った。負けた負けた。今回はマリーの負けだ。完全にクライスにしてやられた。此処まで綺麗に負けると、却って気分が良い。思う存分笑った後、マリーはすっきりした顔で、壁を一つ蹴りつけた。同じ失敗は二度としない。次は、もう負けはしない。

頭がクリアになってくると、状況はまるで違ってくる。手早く何度か実験を行ってみるが、軽石の効果は充分だった。これが何かしらの理由で、水分を吸着して、火薬の保存に役立つのは理解できる。だが、それ以上の結果は、今の段階では出せないだろう。頭を切り換えて、今は別の研究をするべきだった。

これで火薬の保全には問題が無くなった。後はどうやって安定させるかだ。この二つが成り立った時、火薬は最強の兵器として完成する。その時こそ、マリーは満足のいく結果を出すことが出来るだろう。

一階に上がると、アデリーがお茶を入れる準備をしていた。マリーの様子が露骨に変わったことに気付いたのだろう。マリーは頭を掻きながら、言った。

「しばらくね、火薬の研究は後回しにするわ」

「ほ、本当ですか!?」

「今の段階では手詰まりだからね。 しばらく、新しい知識の研究と、別の分野の調査が優先かな」

「……お茶、入れます」

アデリーは喜んでいる。うきうきしているのが、背中を見ているだけで分かった。マリーの研究は悲しみも産む。研究をやめたらアデリーは多分喜ぶだろう。だが、それでは駄目だ。結局、破滅する時間を先送りにするだけなのだから。保護者は、時に被保護者が悲しんでも、何かをしなければならないのである。

前回に作り上げた育毛剤竹林で、生命の成長に関する研究は大きく進んだ。以前の光石による雷管の研究、それに生きている縄で、魔力の定着についてもかなり研究が進んでいる。今回の火薬は、実験というものの難しさを知るという意味で大きな価値があった。今度は方向を変えてみるか。

アデリーの力を抑える道具については、もうほぼ設計図が出来ている。後必要なのは技術だ。魔力を普段から抑え、いざというときには放出することが出来、爆発的に高まった時には力づくでも押さえ込まなければならない。その全てをクリアするには、幾らでも知識がいる。それには、火薬だけに手間取るわけにはいかないのだ。

茶が運ばれてくる。それで、思い出す。以前、断念したものがあったのだ。それはミスティカ茶。ミスティカの乾燥技術はもうものにしているし、そろそろ製造を行ってみても良いだろう。香りといい、味と言い、文句のつけようがないできばえの茶を一啜りすると、マリーは決めた。たまには平和的な研究も良いか。

「もっと美味しいお茶、飲みたくない?」

「はい、ええと。 私はこれでも充分ですけれど」

「駄目よ、もっと野心的にならなくちゃ。 若者よ、野望に身を焦がせって、昔の偉い人も言っているくらいよ」

「そ、そうなのですか?」

昔は技術と戦力が足りなくて断念したミスティカ茶の生成、今なら出来るはずだ。既にマリーは、そちらへ頭を切り換え、具体的な計画を建て始めていた。

 

2,再び滝へ

 

テーブルに茶が運ばれてくる。今日のは奮発して蜂蜜を入れている。頭の働きを良くするためだ。茶葉は安いが、アデリーの入れ方が上手いから、味は悪くない。香りは綺麗に残っているし、何より温度が絶妙で、舌触りが素晴らしい。

教科書を捲ると、ミスティカ茶の詳細が書かれている。マリーは何か新しいものを作る時には、まずその根本面から調べることにしているので、この辺りは貴重な資料だ。

ミスティカ茶の歴史はさほど古くない。発生はおよそ二百年ほど前のことである。本来雑草でしかないはずのミスティカを、一気に庶民から貴族までなじみ深い存在にしたもの。それこそがミスティカ茶だ。ドムハイトで開発されたそれは、瞬く間に大陸中に伝わり、一時期はブームによって茶ギルドの幹部が何人も貴族になるほどの事態になった。現在では落ち着いているが、それでも茶ギルドの看板商品であることは疑いない。

そして、この状況に革命をもたらしたのが、錬金術ギルドだ。ギルドは錬金術の高度な理論を用いて、本来熟成に一年以上かかる上、複雑な技術を要する加工を、超短縮することに成功した。ただ、それは高度な技術を作り手が持っている事が絶対条件となる。それほどに難しいのだ。どちらにしても、その技術の完成で、ミスティカ茶の値段は一気に暴落。様々な事態が発生したのは周知の事実だ。コメートだけではなく、ミスティカ葉でも、アカデミーは既存の権益を浸食しているのである。

原料になる乾燥ミスティカ葉は簡単に作ることが出来る。此方はそれなりに時間がかかるが、作ること自体は決して難しくない。ただ、その先に問題がある。

ミスティカ茶の売りは、その複雑かつ芳醇な香りと、上品で飽きの来ない味にある。長時間の熟成発酵によって味と香りを作り出すのだが、錬金術ではそれを超短時間で実行する。当然自然の行程では不可能なことを、錬金術の理論によって編み出した方法を用い、強引に行うのである。当然のことながら様々な面で無理がある。だから、味はどうしても本家には及ばないのである。アカデミーと茶ギルドの権益が食い合いながらも、どうにか落ち着いたのは、品質による棲み分けが一番大きかった。

このミスティカ茶には、高度な魔力が含まれていることが分かっている。アカデミーで技術開発した者達の間では、熟成の際に茶ギルドは床に魔法陣を書いて魔力を葉に蓄積させているのではないかという噂がささやかれたと、マリーが見た教科書には載っていた。もちろん、茶ギルドはコメントをしていない。沈静化した後は言え茶ギルドはアカデミーと権益の面で食い合っており、暗殺者がイングリド先生の元に送られたことがあるという噂まであるのだ。下手なコメントが破滅に通じると分かっているのだろう。

一通りの事情を復習したマリーは、ページを先に進める。茶は既に三杯目だ。マリーは集中すると時間の経過を忘れる方だが、食物の摂取は忘れない。そのため、へたをすると太る。グランベルに産まれず、武術や魔術鍛錬の習慣を身につけていなかったら、かなり太っていたかも知れない。

ミスティカ茶の錬金術製造には、幾つか重要なものがある。まず、錬金術で短期生成した乾燥ミスティカ葉である。これは材料だから当然だ。続いて品質の高い水。これは複数回蒸留したヘーベル湖の水で代用できるだろう。

問題は、ガッシュの木炭である。そもそも、茶の製造に強烈な臭いを出すガッシュの木炭を何故用いるのか。それは、本来ミスティカの葉には強い臭いがあり、それを上手く発酵によって消した結果、皆を唸らせる芳醇な香りが生まれ出てくるからだ。錬金術では、それを理論と技術で短期化する。この課程で、強い臭いを出す物質が必要になってくるのだ。ガッシュの木炭の他にも、幾つか植物性の強い臭いを出す物質がリストアップされているが、どれもこの近辺では採取が難しい。

ガッシュの木は、ストルデル川流域の、広い地域で見つけることが出来る。ただし、水が澄んでいる上流に行けば行くほど品質が良くなる。ザールブルグ近辺のものでは、ミスティカ茶を製造するのには、少しばかり品質が足りないだろう。かといって、たかがガッシュの枝と言っても、アカデミーで購入するとなるとそれなりに値は張る。アカデミーにとっても、ミスティカ茶は大切な財源であり、余剰物資はあまりないのだ。

というわけで、回収にはストルデル上流が最適である。一番良いのは、以前訪れたストルデルの滝だ。ただし、以前遭遇した魔物が退治されたという情報はない。更に言えば、確実に勝てる大人数を連れて行く資金はないし、物資もない。もし向かえば、厳しい戦力で激突すること必至であろう。今回は正面から戦って撃破するつもりだが、それには準備が必要となる。

まず保有戦力はどうか。幸いなことに、これはかなり増大している。ミューもルーウェンも、以前とは比較にならないほど成長しているからだ。マリーと一緒に厳しい探索を何度も行ってきたし、その過程で豊富な実戦を経験したからだ。マリー自身も星と月の杖を入手したことにより、魔力がかなり底上げされている。だが、魔物は以前見た分だとかなり強い。気配を消して奇襲を仕掛け、一気に仕留めないと危険だろう。シアを連れて行くことが出来ればかなり話は早いのだが、最近躍進を続けているトール氏共々彼女は忙しい。一週間以上もの時間を、上手く確保できるかどうか。

ミスティカの葉から作り出した消臭剤は必須として、他にも幾つか必要な物資がある。何しろ往路復路ともに虎が出る。音を出して追い払えれば良いのだが、あの辺りに住むフォレストタイガーは凶暴で戦闘能力も高い。以前も手こずったし、今の実力でも楽には勝たせてもらえないだろう。切り札として、クラフト弾を一つ二つ用意しておく必要がある。幸いにも、今は時期的にも丁度良い。

ギルドに人員募集をかけ、手元にある素材を加工して戦闘用物資を揃えるまで、一週間ほど。同じ手が通用しない場合のことを考慮して、幾つか予備用の道具も持って行く。まだ寿命が切れていない生きている縄も念のために持って行く。

準備をしているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。そして出発の当日が来た。

 

ザールブルグ東門には、既に皆集まっていた。がらがら音を立てて荷車を引きながらマリーが歩み寄ると、ミューが早速手を振って来た。

「マリー! おはよー!」

「おはよう。 みんないるみたいね」

「またあの滝へ行くんだって? クーゲルの旦那がいないみたいだけど、戦力は大丈夫なのか?」

ルーウェンが文句を言う。彼は以前の探索で、虎に危うく喰い殺されそうになったわけだし、無理もない話だ。一人少しだけ離れて、城門に背中を預けているナタリエは、会話に加わろうとしない。ハレッシュは今回、南の街へ仕事に行っていて、不在だ。

結局シアは今回も不参加である。トール氏の右腕としてかなり忙しい日々を過ごしているためだ。近場ならまだ時間を作れるらしいのだが、一週間以上もかかる今回の探索場所は、正直厳しい。

また、前回用心棒として連れて行ったクーゲルは、今回不参加となる。その代わり、皆の戦力は著しく向上しているし、マリーも魔力をほぼ全盛期のレベルにまで取り戻している。総合的な戦力はほぼ変わらない。それに加えて、今回は広域殲滅兵器のクラフトを持ってきている。虎くらいなら追い払うことは難しくない。後は、如何にあの魔物を退けるかだ。

以前は、クーゲルと魔物の戦いに巻き込まれることを想定し、戦いを避けなければならなかった。だが今回は皆が成長している上、マリーが全盛期の力をほぼ回復している。戦うことが出来る条件は整っているのだ。

「あの魔物と戦うの? かなり手強いんじゃないのかな」

「手強いだろうね。 ただし、今回は以前と皆の力が違うし、奴が存在することも分かってる。 決して勝てない戦いじゃないはずよ」

「大丈夫かなあ」

不安そうに眉をひそめるミュー。最近少しずつ言動が落ち着いてきているのは、やはり成長の痕跡であろう。冒険者としての名声が上がってきたためか、装備も目に見えて向上している。皮鎧も質が良くなっているし、彼女が腰からぶら下げているのは、若干魔力を帯びた長剣である。前回のヘーベル湖への護衛で見せて貰ったが、かなり良い剣だ。何もミューの剣に限ったことではなく、皆力も装備も充分向上してきている。後は、自信がつけば化けるはずだ。

「さ、行くよ」

雇い主が声を掛けたなら、行かなければならないのが冒険者だ。皆不安を抱えながらも歩き出す。

最初は不安だらけだった彼らも、少し行くと落ち着きを取り戻し始めた。マリーと一緒に冒険に出て、死者が出たことがないというのが、その理由の根源であろう。

ザールブルグの城門を出ると、すぐに穀倉地帯だ。麦は陽を浴びて青く背を伸ばし、秋の収穫に向けてせっせと屯田兵達が手入れをしている。青臭い葉と肥料の臭いが混じり合い、何とも言えない臭いを作り出している。五万の兵が手入れする巨大な穀倉地帯は、地平の彼方まで広がり、陽が落ちると赤く幻想的に染まる。

穀倉地帯を割るようにして整備されている街道を、四人は行く。ナタリエは最初会話に加わらなかったが、人なつっこいミューに引っ張られるようにして、徐々に感化されていった。一日目が終わり、旅人用の宿泊地にたどり着いた頃には、すっかりミューとうち解けていたほどである。

見たところ、ナタリエは他人に対する警戒心が強いだけで、上手く心に滑り込んでくる相手に対する時はむしろ情が深い。フレアもそうだし、この間の傷ついたエルフの娘ティエリもそうだ。本来ナタリエは、とても人なつっこいのかも知れない。何故こうも悪い意味で警戒心が強い性格になってしまったのか。やはり、上京してからのつらい出来事が、彼女の心をゆがめてしまったのだろう。ただ、ザールブルグでの社会的な転落だけではなく、もう一枚何か噛んでいそうな雰囲気を感じるのも、事実だった。

キャンプを済ませた後、川を無理矢理上るか、密林を行くか、相談する。

密林を行く方法は、以前も試したとおり、危険性が大きい反面時間が短縮できる。川を上る方法は、とにかく時間がかかるが、多少は安全だ。ただ、此方は時間だけでなく、相当な体力も消耗する。おそらくは、決戦前に丸一日くらいは休憩を取らねばならないため、その間に奇襲される危険が増える。そして、あのレベルの魔物に奇襲されたら、確実に死人が出るだろう。

結局相談の末、密林を行くことに決定。総合的なリスクは此方の方が小さいと、皆が揃って結論を出したからだ。

街道を北上し、途中から道を外れて密林を突き進む。以前足を踏み入れたメディアの森ほどではないが、深くて危険な森だ。周囲には猛獣の気配が常につきまとい、時々断末魔の悲鳴も聞こえる。此処は強力なフォレストタイガーの巣窟だ。少しでも油断すれば、すぐに襲いかかってくるだろう。

今回の強みは、以前来たことがあるため、キャンプを行える場所がある程度分かっていると言うことだ。そのため、無理のない行動計画が建てられる。虎よけの鐘をがらんがらん振りながら、四人は進む。

そして、三日目。マリーの発言を、皆が実感する出来事が起こった。

 

キャンプからはい出してすぐの事であった。マリーが引いていた荷車を素早く旋回させて、自らの前へ向ける。体勢を低くするミューとナタリエ。抜剣し、上段に構えをとるルーウェン、以前ここに来た時と比べると、別人かと思えるほどに隙がない。

無言で茂みを威圧する四人。奇襲は無理だと判断したか、ゆっくり姿を見せる巨大な影二つ。フォレストタイガーだ。二頭はゆっくり四人の周囲を回りながら、仕掛ける隙を狙っている。この状況下、もう鐘は役に立たない。

「さて、どうする?」

「セオリー通りにいこうかな。 ルーウェン、一匹抑えられる?」

「そう長くは出来ないが、やってみる」

「そんなに長くは待たせないわよ。 ミュー! ナタリエ!」

鋭い一喝。マリーが星と月の杖を構えるのと同時に、二人が躍り出る。同時にルーウェンがオーヴァードライブの能力を開放、雄叫びと共に虎の一頭へ躍りかかった。二頭の虎が、それぞれ別方向へ飛び離れる。

密林の複雑な地形、縫うようにしてミューが跳ぶ。複数の木を蹴りながら、ジグザグに躍飛、虎の反応速度を超えて頭上に出る。そして大上段に構えた剣を、一息に振り下ろす。

「てあっ!」

「ガアアアアッ!」

横っ飛びに離れる虎の、鼻先をミューの剣が掠める。激しくまだ青い落ち葉を吹き上げながら、ミューがブレーキを掛け、反転跳躍。殆ど同時、ナタリエが虎の斜め後ろに回り込む。どちらも身体能力は相当なものだ。反応しきれない虎の後ろ足に、容赦なくナタリエがアーミーナイフを叩き込む。気合いと共に突き込まれたナイフが、虎の毛皮を貫通、肉に突き刺さった。

ナタリエに振り返り、前足を叩き込もうとする虎だが、そうはいかない。初撃を外したミューが踏み込み、抉りあげるように剣を振るう。慌てて回避に入る虎が、浅く顔の毛皮を裂かれつつもどうにか飛び退く。ミューは全く恐れることなく虎が下がった分だけつっこみ、二度、三度と剣撃を浴びせる。虎は左右にステップしながら反撃の隙をうかがうが、うまくいかない。彼の真横の木が、大きな音を立てる。木を蹴って、ナタリエが高々と跳躍した。しかもナタリエは高々度を確保、片手で木に捕まり、頭上から虎にナイフを投げつけた。

ナイフが虎の左前足に突き刺さる。竿立ちになる虎。怒りの咆吼が轟き渡る。マリーがハンドサインを飛ばし、ナタリエが頷く。

完全に頭に血が上った虎は、剣を構えたミューになりふり構わず渾身のタックルを浴びせる。ミューは冷静に盾で直撃を受け止めつつ、バックステップして衝突の威力を最小限にまで殺す。背中から木にたたきつけられるが、それでもまだ余裕がある。

猛り狂った虎は何も見えておらず、戦況も把握していない。怒りにまかせ、今度はナタリエが掴まっている木に頭からタックル。更に前足をかけ、太い幹を一息に噛み砕いた。万力で廃材を押しつぶすような、木の断末魔の軋りが響く。空へ伸びていた構造上の安定が崩され、ドドドドドッと雪崩のような音を立てて、巨木が倒れた。

虎が天に向け吠える。酷使している後ろ足からも前足からも、鮮血が吹き出している。地面に叩きつけられたナタリエが短い悲鳴を上げた。

「うあっ!」

地面に叩きつけられたナタリエは、数度バウンド。落ち葉の山の中につっこみ、派手に巻き上げる。好機と虎が突撃し、跳躍して前足を振り上げる。腰を落としたマリーが、詠唱を終えたのはその瞬間。同時に、ナタリエがはじかれたように飛び退き、虎の眼前にナイフを放る。至近からの思わぬ反撃に、大げさな反転をしてバランスを崩し、動きを一瞬止めてしまうフォレストタイガー。この時のために、マリーはさっきナタリエに、わざと隙を作るようにハンドサインをしたのだ。ナタリエも落ちた時には、綺麗に受け身をとっていた。飛び込んだミューが、ナタリエをかばうように盾を構える。危険を悟った虎が、必至に身を翻そうとした瞬間。

マリーの右手から放たれた巨大な雷の蛇が、虎の体を直撃していた。

ギャアアアアアアアアアアアアッ!

絶叫。はじき飛ばされた虎が、枯葉積もる地面につっこみ、数度横転する。全身から煙を上げる虎が、それでもまだ顔を上げようとするが、躍りかかったナタリエが、首筋にナイフを叩き込み、頸動脈を掻き斬っていた。

鮮血が吹き上がり、ナタリエの全身が真っ赤に染まる。最後の力を振り絞った虎が、飛び離れようとしたナタリエに前足の一撃を浴びせる。もし万全の状態であれば、それだけでナタリエは即死していたかも知れない。だが、ナタリエは大きくはじき飛ばされて、背中から木に叩きつけられるだけで済んだ。ただ、二の腕には鋭い傷が三本走っていた。

虎の目から、急速に光が失われていく。マリーは詠唱を再開。横倒しに倒れた虎は、ひくひくとしばらく痙攣していた。盾に大きなへこみを作ったミューは、大きな負担を受けたらしい左手を振りながら、倒れているナタリエに手を貸して立ち上がらせる。

「大丈夫?」

「ああ、大丈夫だ。 ありがとな」

「いいって。 ナタリエ、前戦った時にも思ったけど、良い動きするね。 後は、あっちか」

語尾が衝突音にかき消される。赤いオーラを纏ったルーウェンの剣を、青いオーラを纏った虎が毛皮で受け止めた所であった。フォレストタイガーが例外なく使いこなす、身体強化の術だ。虎が前足を繰り出し、ルーウェンが剣で牽制しながら下がる。二撃目を、体を捻ってかわす。落ち葉が巻き上がる中、虎が飛びつこうとする。ルーウェンが後ろに跳ぶ。不意に前に出る。交錯。虎の右前足と、ルーウェンの肩から、同時に血がしぶく。すぐに振り返り、刃を振るう。虎が身を翻し、爪を振るう。豁然、火花散り、再び激しい攻防が続く。

オーヴァードライブを展開したルーウェンと、能力強化を展開したフォレストタイガーが、ミューの視線の先で、一進一退の攻防を繰り広げ続ける。流石に五分とまでは行かないが、ルーウェンは虎相手にかなり良い勝負をしている。

この時点で、勝敗は決している。虎は戦力の過半を失っているのに対し、マリーとその勢力はほぼ戦力を温存しているからだ。だが、まだ油断は出来ない。マリーはすぐに攻撃するようにハンドサインを送る。ミューは虎を見据えた。

「戦える?」

「まだ平気だ」

「よし、じゃあ、いくよっ!」

ほぼ余力を温存しているミューが、一直線に虎との間合いを詰める。全身の毛を逆立て、ルーウェンと交戦していた虎は、露骨に動揺。其処を、ルーウェンの剣が襲う。振り下ろした剣が、虎の頭を直撃した。

「ギャアオオオオッ!」

「っ! 堅っ!」

頭から鮮血をまき散らす虎。だが頭蓋骨を砕くまでには到らなかった。虎は頭を低くして、口から泡を吹きながらも、ルーウェンに頭突きを浴びせ、吹き飛ばす。落ち葉積もる地面に転がされたルーウェンを、殺気だった虎が前足で押さえつける。

「ミュー! 虎どかして!」

「任せて!」

剣を抱えるようにして構えたミューが、渾身のチャージ。虎はよける暇無く、魔力を帯びた剣が、肩を直撃。一気に切り裂いた。更に倒されていたルーウェンが、手にしていた剣で虎の喉を突き刺す。直撃こそしないが、気道のすぐ脇の毛皮が大きく切り裂かれた。そして、虎の動きが止まった一瞬を狙い、横っ飛びして難を逃れる。

ルーウェンと殆ど間をおかず、ミューも逃れようとするが、今度は虎が早い。密着状態だったのを利用して、ショルダータックルを浴びせたのだ。予備動作距離が小さかったのが幸いして、ミューははじき飛ばされるくらいで済んだ。だが、下手をすると骨をまとめてへし折られ、死んでいたかも知れない。打撃は深刻、枯葉の山の中に倒れ込むミュー。全身から多量の血を流しながら、前足を振り上げる虎が、ふとマリーの方を見る。その掌に、大量の雷が、既に蓄積していた。

「サンダー……!」

「ォオオオオオオオオオオオオオオオンッ!」

虎が全身の毛を逆立て、全身の防御を最大限に強化。さあ来いとばかりの、虎の咆吼一つ。同時に、マリーが術を撃ち放つ。

「ロードヴァイパー!」

繰り出された巨大な雷の蛇が、直線的に空間を蹂躙。鋭い牙をむき出しに大きく口を開け、虎を真正面から直撃した。虎の体を覆うオーラが、それを迎撃。一瞬の均衡。だが、それも長くない。

負けたのは、虎だった。

吹っ飛んだ虎は、悲鳴を上げながら、枯葉の中を転げ回る。だが、致命傷ではない。虎がよろめきながらも立ち上がり、肩で息をついているマリーを見やる。虎の目に、勝利の酔いが浮かんだ、その瞬間。

「サンダー・ロードヴァイパー!」

頭上から飛んできた雷の蛇が、無防備な頭を直撃。

断末魔は、無かった。

何が起こったかも分からぬまま、虎は息絶え、どうと音を立てて横倒しになった。

 

木の枝を股で挟み、虎を見下ろしていたナタリエの全身を、淡い紫のオーラが覆っていた。黄金のロングヘアが、元の黒のショートヘアに戻っていく。瞳の色も、ブルーから焦げ茶へ戻っていった。

これがナタリエの能力、メタモルフォーゼである。彼女の場合、特定の条件が揃った相手の能力容姿を衣服のレベルからコピーすることが出来る。ただし、体力や、魔力、経験まではコピーできない。それはあくまで生のナタリエのものと同じだ。

ナタリエが今化けたのは、もちろんマリーである。以前鳥の怪物と戦った時には、ミューの高速反射能力をメタモルフォーゼした。それで一瞬だけ超速度で動くことが出来たのだ。そして今回である。マリーはナタリエの能力から、彼女を自分の副砲として使えると判断していた。そこでナタリエはマリーからここ数日の間に詠唱を習い、ロードヴァイパーを身につけていたのだ。それで、こういった奇襲を行うことが出来た。仕込みにはそれなりに時間はかかったが、実戦で使えることは証明されたのである。

揺らいで、ナタリエは木から落ちそうになった。必死に木の枝にしがみつく。メタモルフォーゼは確かに便利で強力な能力だが、消耗は非常に大きいし、変身可能な時間も限られている。更にナタリエは魔力自体が少ないので、ロードヴァイパーのような大技を放つと、消耗が大きい。

一方で、マリーはもう呼吸を平常時に戻している。今回マリーは意図的にロードヴァイパーの威力を抑えた。虎の毛皮を傷つけたくなかったし、魔力の無駄な消耗も避けたかったからだ。それにいざというときは、切り札の術も投入したかった。肩で息をついていたのは、連続して術を投入したからである。

ミューが木の上を見上げて、声を掛ける。自分もそれなりに傷ついているのに、随分しっかりした冒険者に成長してきたものだ。マリーの名を呼びながら、ひよこのようにくっついてきた時期が、遙か過去に思える。これなら、そろそろ一人前の冒険者として、ギルドにも認められるだろう。

「ナタリエ! 大丈夫!?」

「大丈夫」

「無理しないで! ゆっくり降りてきて!」

「分かってる」

木から何とか下りたナタリエを、ミューが気遣う。すぐに包帯を取り出して、腕の傷の手当てを始めた。それを横目に、マリーは牛刀を取り出して虎の解体を開始。手持ちぶさたにしているルーウェンも、それに加わろうとしたが、マリーは拒否。見張りに立って貰う。まだ虎がいる可能性は否定できない。それに解体はデリケートな作業だ。ものによっては、ちょっとしたミスですぐに売り物にならなくなる。

ミューがかいがいしくナタリエに栄養剤を飲ませていた。端から見ると仲の良い姉妹のようである。アデリーを思い出して、マリーは虎の解体を行う手を早めた。周囲に濃厚な血の臭いが漂っていく。

半刻もかからず、解体は終了。売り物になる主要な内臓と肉、それに一部の骨と毛皮を外して終了。虎の肉はまずいのだが、これは薬になる。内臓類もそうだ。そして今回、殆ど傷のないまま毛皮をとることが出来た。売ればそれなりの金になるだろう。

前回の探索で使ったキャンプの地形は、以前のまま残っていた。生ものを煙でいぶしつつ、翌日の戦略をマリーは練った。虎に圧勝したことで、皆に自信がついているのが、傍目にも分かる。ルーウェンもミューも、以前戦った時は手も足も出なかった虎に彼処まで戦えたことで、力の高まりを実感していた。これでいい。それに、ナタリエのメタモルフォーゼを副砲として用いることが出来るとも、実戦で証明できた。

眠る前にハンドサインを確認し直す。急げば、明日中に滝にたどり着くことが出来る。滝に住む魔物は、虎二匹よりも更に手強いだろう。持ってきた幾つかの道具を確認。どれも状態は万全だ。

後は、如何に突発的な事件に対応できるかが重要になってくる。戦場で、「こうなるはずだ」という仮定を立てるのは、極めて危険なことだ。様々な事態を想定はするが、事実は更にその上を行くと考えた方がよい。そうやって、マリーはいくつもの厳しい戦いを生き残ってきた。

見張りを決める。マリーは後の組になった。同じく後になったナタリエと一緒に、寝袋に潜り込む。

決戦は、間近に迫っていた。

 

3,ヴィルベル

 

滝に住む魔物は、自我を持っていた。遙か過去から、人間社会の隙間を選んで生き抜いてきた彼女には、明確な人格と呼べるものが備わっていた。人間によく似た姿を持つだけではなく、精神面もそれに近いのだ。

彼女は、創造主に自分がヴィルベルと名付けられたことを、知っていた。だから、機会がある時には、ヴィルベルと名乗るようにしていた。その名前を気に入ってもいたし、自分の一部だとも思っていた。

本当の名前は違う。もっと無機質なものだ。「環境適正化試験人造生物風能力V型」という。ただし、この世界に放された時から、その名前は意味が無くなっている。名乗る必要もないものであった。

ヴィルベルの目的は、ただ存在すること。創造主から命令が来た時、増えることが出来るが、それにはあまり興味がない。この特殊調整された自然社会の中で、どう存在し続けるか。どう人間の攻撃をかわしていくか。それが与えられた至上命題であり、絶対に遵守しなければならない法であった。ヴィルベルは実験動物である。環境下で生き残る力を試すための存在が彼女なのだ。そして彼女のデータを元にして、創造主は世界の再生と構築を行う。だから、絶対に生きなければならなかった。

ヴィルベルは人間の知識を豊富に持っている。まともに戦ってはとても勝ち目がないこと。個々の能力は必ずしも高くはないこと。その社会には隙が大きく、乗じる好機は冷静であれば幾らでも見つけることが出来ること、などである。社会そのものの脆さを見込み、それに寄生して生き延びようとする同胞もいたが、それらはもう皆駆逐されてしまった。

人間は侮れない。彼らは絶対的な同族至高主義を持ち、自分たちのためにあらゆる行動を肯定し、また否定する、都合が良くて便利な頭を持っている。人間社会にとっての利益であれば、どんな行動でも許される。それを正義と呼ぶ。逆に人間社会にとっての害であれば、どんな行動でも否定する。それを悪と呼ぶ。脆い善悪を好き勝手に入れ替え、他の生物を思うままに蹂躙する生物。それがヴィルベルの見る人間であった。

その人間が世界の絶対最強者であり、ヴィルベルにとっての敵対者である以上、逃げなければならない。人間の手の及ばない場所など、地上にはもう存在しないから、目の届きにくい場所に逃げ込むしかない。様々な能力を持つことが多い人間は、悪として敵としてヴィルベルと同胞を狙う。人間社会の隙を突くことは一時的には難しくないが、長期的には不可能に近い。むしろ、長期的にはリスクの方が高い場合が殆どだ。だからヴィルベルは上手く距離をとりながら、手強い相手とは戦わないように、弱い相手は逃がさないように、必死に生き延びてきた。

今住んでいる滝は、ヴィルベルのお気に入りだった。静かで環境が安定しており、人間も滅多に来ない。たまにもの凄く手強いのが来るが、そうした時には能力をフル活用して気配を隠した。この滝が、かって人間にとって信仰の対象であったことは分かっている。だから、現地の人間はあまり警戒しなくて良いのも、安らぎの一つであった。

ヴィルベルは嗅覚を発達させており、それで周囲の状況を探る。現在の人類文明では、臭いを偽装するステルス技術は発達していないし、それで問題はなかった。

しかし、それも過去形になりつつあった。去年、妙な事件が起こったのである。臭いをかぎつけ出てみれば、何も発見できなかったのだ。確かに気配はあったのだが、それが綺麗に消されていた。人間が何かしらの消臭技術を手に入れたのだという可能性もあり、しばらくは警戒していたのだが、結局それからも何も起こらなかった。

ヴィルベルは勘が鋭い。この滝ももう安息の地ではないと、気づき始めていた。場合によっては移動しなければならない。人間の中には、彼女や同胞を狩ることに心血を注いでいる連中もいて、そいつらは実に手強いことも知っている。交戦は避けたい。どちらにしても、この滝は近いうちに離れなければならないだろう。問題は次に住み着くべきねぐらだ。移動の際が一番危険だと、ヴィルベルは知っている。これも慎重にならざるを得ない。

出かけては、調査を繰り返して、滝に戻る日々。単調な生活だが、生き残るためには仕方がないことだ。人間の集落は以前よりもぐっと増えており、遭遇により強く警戒しなければならなかった。

そして、今日である。森の中から、虎の血の臭いが流れ込んできた。しかも、二頭同時である。それと一緒に、人間の血の臭いも流れ込んできた。虎の血は致死量であるのに、人間の方はごく少量。つまり、勝ったのは人間だと言うことだ。

まずい。ヴィルベルはそう思った。たまに森で人間とそれに倒された動物の血の臭いがすることはあるが、如何に人間といえども、ここまで圧倒的な勝利を収めることはまれなのだ。十中八九、森に入ってきた連中はヴィルベルの脅威になる戦力を有している。ヴィルベルは警戒レベルを上げた。周囲の臭いを集め、情報収集に徹する。

だが、新しい情報が入ってこない。人間の臭いがしないのだ。ヴィルベルは混乱した。そして可能性に思い当たる。以前の事件と、同じ個体なのではないか。或いは同じ技術を使用しているのではないのか。

血の臭いは以前の記憶と違っていた。だが同じ技術を使っているとすれば、ヴィルベルに気付いて逃走しているか、或いは接近しているかだ。後者であれば戦闘を仕掛けに来ている可能性が高い。前者であれば増援を呼ばれる可能性がある。即急に対策を練らなければ危険だ。群れになった時の人間は強い。ヴィルベルは戦闘能力に自信があるが、それでも戦闘集団になった人間に勝てる自信はない。

そのとき、何カ所かから人間の臭いを感知した。どうやら滝を遠巻きに包囲しているらしい。一刻も早く動かなければならない。人間が臭いを消す技術を手に入れているとなれば、なおさらである。

ヴィルベルの焦りが、彼女を徐々に追い詰めていく。ほどなく、それは致命的な失敗に直結した。

 

ナタリエとミューがキャンプに戻ってきた。口布を外しながらミューは言う。

「お待たせー。 マリー、そっちの準備は終わった?」

「もう少し。 ミュー、ナタリエ、煙に当たっておいて」

「分かったよ。 いったい何なんだよ、この煙」

「一言で説明すると、臭いを消す煙よ」

マリーの足下には、たき火がある。ただし、くべているのは薪でもなく枯葉でもない。以前開発した、特殊なカビに包んだミスティカの葉。燻して用いる強力な消臭剤だ。ミスティカ自体は雑草であり、集めるのは容易。後はカビを生やすコツさえ掴めば量産できる。そしてそれを、マリーは一年前には既に掴んでいた。である以上、量産するのは文字通り袋の中のものを取り出すように簡単だ。

滝の魔物が臭いで周囲の動きを察知していることは、マリーには以前の経験から分かっていた。だから、こういう周到な狩りの準備を行った。

まず、全員が消臭煙を浴びて、人間の臭いを消す。それから消臭煙でいぶした口布をつけて、ミューとナタリエが先行。滝の周囲の適当に離れた木に、治療に用いた包帯を巻き付けてくる。これにより、滝の魔物はいきなり人間の臭いを見失う上、周囲全体から包囲されているような感触を覚えるはずだ。そうなれば、必ず行動を起こす。

現在、人間に勝てる魔物は存在していない。魔物はおそらく、マリー達の臭いが消えたおよび臭いを発生させた地点を避けて、包囲の穴となる場所を抜けようとするはずだ。その仮定が外れたとしても、おそらく滝にとどまり必死の抵抗を試みようとは考えない。というのも、滝に住み着いた魔物はかなりの強者で、年を経ている。そう言う連中は、人間の恐ろしさと、魔物の限界を知り尽くしている。生きるためには、滝にとどまるという選択肢はないのだ。

マリーにしてみれば、滝の魔物を仕留めて、腸やらをかっ捌ければ言うことがない。しかし最悪でも、滝からは追い払えれば良いと思っている。今回の主要目標は、このストルデル滝における採集の安全性を確保することだ。それは長期的な戦略の、重要な一環であった。

マリーは全員で円を組んで座ると、地図を広げる。詳細ではないが、充分に役に立つレベルだ。

「さて、じゃあ移動するよ。 今回の目的は滝の魔物の粉砕、或いは駆逐。 奴が現れる可能性が一番高い地点はね、この辺りかな。 だから見渡しが良く隠れやすいここで待ち伏せて、現れたら速攻で仕留める」

「おっそろしい奴だな、お前」

「何言ってるのかな、ルーウェン。 あたしに限った事じゃないよ。 悪知恵と殺し合いに特化してるから、人間は世界の支配者になってる」

「……反論できないのが、悔しいな」

もし人間に他種族との協調などという概念があったら、こうも無秩序な勢力拡大を行わないし、圧迫もしない。人間は暴力によって覇権を確保し、それを維持してきた。支配を受け入れるものは許したが、抵抗するものは皆殺しにしてきた。その結果、今の人間にとって豊かな社会が実現されているのだ。

いつか、より強力な存在が現れたら、人間はかって駆逐してきた者達のように、駆逐されてしまうかも知れない。ふとマリーはそう思った。だが、それも仕方がないことだ。人間という生物が、そもそも暴力によって他の種族を支配するという性質を持っているのだ。むしろ、他の存在との協調を唱えるものは、人間の中から迫害されてしまう。社会に有害だからだ。そして社会に有害な存在を、悪と呼称する。

マリーは善悪に殆ど興味がない。社会に有害な存在が悪というのなら、思い切り冷酷な考え方をすれば、アデリーもその一人になるだろう。だが、マリーは今後もアデリーを見捨てる気はないし、迫害する気ももちろん無い。悪だろうが何だろうが、マリーはアデリーを守る。それが、一人の子供を預かった保護者の義務だ。それは社会正義に、マリーの中では優先する。しかし、この考えを他者と共有する気がない点でも、マリーは変わっていると言えたかも知れない。

キャンプをたたむと、荷物全体に煙をかけて、移動開始。まだ充分ミスティカ葉のストックはある。素早く移動して、適当な茂みに伏兵。前には窪地があり、後ろは崖になっていて、伏せるには最適な地点だ。荷車は少し後ろに置いてきた。側にはたき火を残し、煙を団扇で皆にかけ続ける。

マリーの予想は当たった。前方から、不自然な風が吹いてくる。風を纏った人影が、滑るように此方へ向かってきた。それが視認できる程の大きさになる。間違いない。以前のままの姿だ。褐色の肌をした、半裸の女。美しい髪は薄紫で腰まであり、顔立ちは異様に整っている。枯葉を殆ど巻き上げず、少し宙に浮いたまま進むそいつが、眼前にさしかかった時。

「GO!」

立ち上がったマリーが叫んだ。同時に、ミューが飛び出し、ナタリエとルーウェンがそれに続いた。

 

しまった、待ち伏せされた。全て行動を読まれてしまった。最初に流れた思考は、それであった。

唯一の退路かと思われた地点を驀進していたヴィルベルは、愕然として、躍りかかってきた人間を見つけた。一瞬の硬直。敵は、待ってなどくれない。

「はあああああっ!」

肌の浅黒い女が、振りかぶった剣を、叩きつけてくる。そこで、ようやく反応できる。空気の流れを調節して逸らすが、剣は微弱ながら魔力を含んでおり、勢いまでは殺すことが出来ない。剣先が肌を掠める。更に二人目が突撃してくる。三人目が逆側から。風を操作し、空へ舞い上がる。人間の脚力では、到達できない地点まで。途中、ナイフが飛んでくるが、圧縮した風の壁ではじき返した。

襲撃者は四人。一人たりとて、臭いを発していない。やはり人間は臭学ステルスの技術を開発したのか。必死に頭を巡らす。人間共の動きは速い。それに対し、ヴィルベルが全力で逃げても、必ず追いつかれるだろう。

高度がゆっくり落ちてくる。風の力は万能ではない。体一つを丸ごと浮かせるというのは、大変な作業なのだ。

戦うしかない。戦って、ある程度の打撃を与えたところで、逃げる。おそらく連中の何人かは能力者だ。遠距離系の術者も混じっていないとは限らない。覚悟を決めたヴィルベルは、体勢を変え、頭上から猛禽のように人間共に襲いかかった。

 

頭上に滞空していた風の魔物が、うなりを上げて滑空してきた。速い。上から落ちてくるという状況もあるが、さながらハヤブサのように、マリーに躍りかかってきた。判断も悪くない。マリーが遠距離戦闘型だと、瞬時に見抜いたのであろう。怒りと戦意をたたえた瞳が、見る間に近づいてくる。暴風に嬲られて、マリーの髪がはためいた。

無言で、杖を構えたマリーと、魔物が交錯する。ぶつかり合いの瞬間、激しい火花が散った。手に風の刃を纏わせた魔物の一撃を、マリーの杖は防げなかった。マリーの魔力防壁を、風の刃は突破、肩口に傷を作っていた。思わず膝を折ってしまう。斬られたと言うよりは、肉をはじかれたというような傷だ。直るのに時間がかかるだろう。

護衛にと、ミューが飛び込んでくる。ナタリエとルーウェンは左右に展開。旋回していた魔物は、再び爆撃を仕掛けてくる体勢を見せていた。

「マリー!」

「腕そのものを狙って。 多分刃を受け止めることは出来ないわ」

傷の手当ては後回しだ。詠唱を続ける。多分、正面からのロードヴァイパーでは仕留めきれないだろう。仕留めることが出来るとしたら、手は一つ。それは、最初から考えていた手を実行するという事でもある。以前、滝で奴を見た時、マリーは様々な事を観察した。それが今生きている。

情報は、最強の武器なのだ。

「シャアアアアアアアアッ!」

奇声を上げて、魔物が急降下してきた。下半身は竜巻状の風で覆い、右手には腕の長さの二倍ほどもある巨大な刃を纏わせている。真空で作ったものを、魔力で制御しああいう形にしたのだろう。人間にも風を活用する術者はいるから、別に珍しいものではない。ただ、空を飛びながらあれを展開するものとなると、珍しいだろう。

マリーを守るように前に出たミューが、剣を低く構えて、体勢も低くする。周囲の植生から考えて、魔物の飛行ルートは大体限定できる。詠唱を続けながら、マリーは横っ飛びに跳ねる。魔物の一撃と、ミューの一閃が交錯、マリーと同じように斬られたミューが後ろに吹っ飛んだ。派手に地面につっこみ、大量の落ち葉を巻き上げる。

「うわっ!」

「ミュー!」

「いったあ……! 速すぎて捉えられないよ!」

肩を押さえながら立ち上がるミューを、ルーウェンが立ち上がらせる。ショルダーガードから僅かにはみ出た部分が、ぱっくりやられていた。ナタリエは冷静に相手の動きを見ながら、サイドステップを繰り返し、仕掛けるタイミングを計っている。良い判断だ。

三度、魔物が突撃してくる。今度はミューとルーウェンが並んで剣を構えた。マリーは詠唱を続けながら、戦況を見守る。

「接触の直前、注意して。 奴はどうも此方の動きを鈍らせてきているわ」

「分かった!」

二人が叫び、前に走り出ながら魔物に斬りつける。二人が跳ね上げながら走る落ち葉の動きが、ある高度から不意にゆっくりになるのを、マリーは見た。仮説は正しいと、これで証明できた。両腕に巨大な刃を纏わせた魔物が、それぞれの攻撃を高速でぶれながら紙一重で回避すると、ルーウェンに体を回転させながらの蹴りを、ミューに両腕揃えての斜め下からの斬撃を叩き込む。二人とも受け損ねて吹っ飛び、木に叩きつけられる。その瞬間、ナタリエが魔物の側頭部を狙ってナイフを投げ込む。タイミング、狙い、共に完璧。吸い込まれるように、ナイフは魔物の側頭部につき立つ。

「やった、か?」

無言でマリーが石を拾い、動きが止まっている魔物に投げつける。舌打ちした彼女は、風で止めていたナイフをそれに飛ばし、迎撃。再び上空へ飛んでいった。もし一瞬マリーの動きが遅かったら、ナイフはナタリエの眉間に投げ返されていただろう。

今の三回の攻防で、魔物の体には殆ど傷がない。それに対し、ミューは肩口と脇腹に深手を負い、身動きが難しそうだ。致命傷ではないだろうが、地面に転がり、脂汗を掻いて苦しそうにしている。ルーウェンは剣を構え、苦々しげに歯を噛んで届かぬ所を旋回する魔物を見ていた。

「マリー! どうにかならないのか!」

「ぼやかない! それよりも、相手の攻撃のタイミング、よく見て! この間の鳥と同じようなものだと思えば、少しはやりやすくなるわ!」

マリーが見たところ、奴は風を上手く利用し、此方の動きを制限しつつ、自分の動きを加速している。この間対戦した鳥の展開した神の祝福と近い効果だ。それにしても、予想通り味方の動きが悪い。たまには期待を良い意味で裏切ってほしいものだ。

マリーは舌なめずりする。大体掴んだ。前衛は半壊しているが、それでもまだ支えられる。そう思った瞬間、魔物が攻撃を切り替えてきた。頭上の奴が動きを止め、その魔力が不自然なまでにふくれあがる。気付いた時にはもう遅い。

「しまっ……!」

「マリー!」

木陰から飛び退いたマリーの至近を、巨大な風の刃が連続して掠める。地面を激しく打ち抜き、土を砕いた。瞬時にマリーが隠れていた木は丸坊主となり、抉られて爪楊枝になっていた。

そして、マリー自身の受けた損害も深刻である。飛び退くのが遅れ、ふくらはぎを大きく抉られていた。血が止まらない。そして、勝利を確信した魔物が、突進してくるのが見えた。

このとき、勝敗は、決した。

 

勝てる。ヴィルベルは確信した。

敵小集団の近接戦闘の能力はせいぜい並より少し上程度、遠距離戦専門かと最初思った相手も、魔力は強いが遠距離攻撃系能力を展開してこない。近接戦闘を仕掛けた時、かなり良い動きをしたから、多分近接戦闘タイプか、指揮官タイプだったのだろう。更に、複数回の波状攻撃で、前衛は半壊させた。

ただ、敵にはまだ余剰戦力が残っている可能性が高い。あれだけの広大な包囲網を築いたのである。時間を掛ければ続々と援軍が駆けつけてくるだろう。此処は一気に交戦中の敵を葬り去り、その後撤退するのが吉だ。

全身の魔力を絞り出し、練り上げる。狙いは木の陰で機会をうかがっている髪の長い雌。奴がリーダーなのは間違いないし、切り札を温存している可能性も高い。此処で一気に潰し、残りを、余勢を駆って粉砕する。そうすれば、逃げ延びることが出来るはず。そうすれば、またしばらくはしのぐことが出来るだろう。

生きることだけが、ヴィルベルの目的。生きることだけが、ヴィルベルの全てなのだ。

魔力を練り上げ、作り上げた六枚の風の刃。それを眼下の敵に、一気に僅かな時間差をつけて投擲。わき上がる土埃の中、血の臭いが漂い来る。奴は想定外の反応速度で逃れたものの、ふくらはぎにかなりの傷を負った。致命傷ではないが、敏捷に動くことは出来ない。これは好機。

投擲型の風の術は、連続して使えない。そういう設定にすることで、速射性と攻撃能力を実戦レベルにまで高めたからだ。再び腕に風を纏い、ヴィルベルは突撃する。前衛が寄ってくるが、ものの数ではないし間に合いもしない。倒れていた女が、こっちを見る。ブルーの瞳が、ヴィルベルを確認した。

途轍もなく、嫌な予感。奴は敗北感も恐怖も瞳に浮かべていない。死を覚悟した時に出る分泌物質の臭いもしない。

そういえば、そもそも此奴らは、何故此処で待ち伏せていた。それに、臭いを消す能力を持っているのなら、何故不自然に包囲網を形成して見せた。

まさか、全て罠ではないのだろうか。何もかもが、下手をすると、今苦戦して見せた事さえも。いや、そんなことは無い。そんなはずはない。だって、奴の部下は傷つき、倒れているではないか。斬った時に手応えはあった。そんなはずは、そんなはずは。

耳に、何かが届く。

「我が神サトゥルヌスよ、汝の御技、破壊のいかづちよ。 そは今集まらん。 そは今打ち砕かん。 そは今血を求め、そして現世に降臨す」

呪文詠唱。今始まったものではない。明らかに、超長時間にわたって唱えられたものの一節だ。つまり、それは、今までの戦闘は、全て、時間かせぎとなる。

思考がゆっくり流れていく。ふと振り返り、ヴィルベルは見てしまった。遙か頭上に、集まり往く電撃の球を。それが、既に飽和状態にある事を。

それが、自分に向けて、発動されようとしている事を。

う、あああ、あああああああああ、ひああああああああああっ!

悲鳴が零れた。それが、ヴィルベルの、最後の言語活動になった。

「サンダー……」

足下から、呪文詠唱の、最後の一節が聞こえた。

「サトゥルヌスヴァイパー!」

いかづちの束が、回避しようにも出来ないヴィルベルの全身を直撃。魔力による防壁は紙同然。真空による防壁を展開する暇は無し。

思考は、閃光の中、消し飛んだ。

後は、ただ無限の闇だけが広がっていた。

 

空から降り注いだ極大のいかづちが、魔物を直撃。断末魔の絶叫を上げていた魔物は、煙を上げながら地面に落ちた。

使おうと最初から考えていた術が、これである。いかづちを支配する神の名を冠してはいるが、原理はただ雷を落とすだけの事である。ただ、通常の空に雷を発生させること、それに指向性を持たせて狙い通りの所に落とすことが難しい。この点、自分の魔力をそのまま雷に変換するロードヴァイパーよりも遙かに厄介な術だ。それに加えて、燃費も悪い。その上、長時間の詠唱も必要になってくる。

ただし、絶対的な長所が一つある。それは、頭上からの一点精密射撃が出来ると言うことだ。殆どの動物は、頭上からの攻撃に全く対抗能力がない。あの魔物も同じであることは、以前滝で観察して知っていた。あの魔物は、嗅覚と視覚で周囲を確認していた。もし魔力的なものを探る感覚が優れていたのなら、以前、隠れていたマリーとミューに気付いていたはずだ。それらを総合する限り、天からの一撃を叩き込むサトゥルヌスヴァイパーは、必殺の威力を有すると、マリーは結論し、投入した。

魔力はほぼ空。魔力の使いすぎで意識が朦朧とする中、足を引きずりながら、マリーは今仕留めた獲物の側に寄った。結局クラフトも生きている縄も展開する必要がなかった。

戦闘開始時即座にくみ上げたマリーのプランは悪辣を極めていた。魔物に勝てそうだと錯覚させることが第一。増援が来ると思わせて、心理的な余裕を失わせることが第二。第一の条件は、前衛の戦力を考えれば、そのままでかまわない。そして、適当なところで勝利を確信させ、止めの急降下攻撃を行わせる。そのためには、今の自分の傷でさえ、マリーは利用した。あまりにも上手くいきすぎて、マリーは笑うのをこらえなければならないほどだった。

そこで、今の術。上空からのいかづちの一撃を浴びせて、おしまい。タイミングはマリーの方で調整する。もし気付くのが速いようなら、生きてる縄で動きを止める。隙がある状態なら、確実に時間は稼げる。そして術に耐え抜くようであれば、クラフトを投入する。だが、その必要もなかった。

白目をむいている魔物。名前も知らないそいつに、マリーは心の中で語りかけた。

誰と戦ったと思っている。誰に勝てると思ったのだ。お前が相手にしたのは、地上を暴力で支配し、恐怖で蹂躙し、覇道の理を敷いている、人間だ。

魔物の亡骸を、杖で転がす。背中の一点から、銀色の何かが流れ出ていた。魔物が死ぬと、この液体が必ず流れ出る。何故かはよく分からない。瓶を取り出して、それを納める。貴重な実験素材として、価値があるのだ。

「マリー、そいつ」

「もう死んだわ」

「そう……か」

ルーウェンが、マリーがナイフを取りだしたのを見て、目を背けた。これから何をするか悟ったからだろう。意外と線が細い男だ。

すぐに捌く。こういうのは時間との勝負だ。足が痛いとか言っていられない。

肉は焼けてしまっていて、殆ど価値はなくなっていた。内蔵の一部が焼けずに残っていて、血もある程度採ることが出来た。問題は髪だが、マリーの発生させた桁違いの雷を浴びて、ほとんど縮れてしまっていた。これでは使い物にならない。

売れそうなものを切り分けると、すぐに酒に漬ける。普通なら燻製にするのだが、魔物の場合だけは別。焼けてしまうと価値が無くなってしまう場合が多いのだ。塩漬けか、酒漬けにして持ち帰る。今回はそのために、わざわざ保存用のアルコール度数ばかり高いまずい酒を持ってきたのだ。

一通りの作業が終わり、血だらけの手で額の汗を拭うマリーに、ナタリエがおずおずと言った…

「な、なあ、マリー」

「うん?」

「そいつ、もういいんだろ? その、バラスの。 だから、その、オレ、埋めて……やりたいんだ」

「……」

ナタリエは悲しそうだった。敗者になることを知っているからこそ、抱ける悲しみなのかも知れない。マリーも挫折は一度ならず味わっているから、分かるとはいかなくとも、気持ちに同調は出来る。ただし、行動を理解しようとは思わない。

ナタリエはなおも言う。視線をマリーとあわせたり逸らしたりしながら。目には涙が浮かんでいた。

「虎だって、生きるためにオレらを襲ってきたんだし、埋葬してやりたかったんだ。 でも、あいつらは、オレがそうしたいって言う前に、あんたが形が無くなるくらいバラしちゃったから。 だから、形が残ってるそいつは、せめてそれだけでも、埋めてやりたい」

「……」

マリーは沈黙で返す。ナタリエの考えは、あくまで感傷に基づくものだ。マリーは全てを活用しないと生きていけない、人間社会の最前線的な場所で生まれ育った。おやつはその辺の動物であったし、危険なものは可愛くてもためらいなく殺してきた。そうしないと、生きては行けない所で育った。そして、これからも、そういう環境に育つ人間は多くいるのだ。

だが、否定する気にもなれないのは事実である。マリーは基本的に他人の思想を否定すると言うことに殆ど興味がない。それが自分に害さえ及ぼさなければ、どんなものでも「そこにある思想」として受け入れる。それは、生きるのに必要なものは全て利用するという、グランベル式生活術からきた思想であったかも知れない。

僅か数秒の沈黙の後、マリーは笑顔で言う。別に、元々認めたところで、何の損もないのだ。

「分かった。 いいわよ」

「悪いな。 あんたって冷徹だけど、話だけはちゃんと聞いてくれる。 そう言うところは、オレ好きだよ」

「そう」

マリーは側の切り株に腰掛けると、足の手当を始めた。妙なところを認められると思った。それに、必ずしもいつも話を聞いているわけではない。聞くことが出来る話だけ、聞いているだけだ。ただ最近は、致命的なものや、あまりに一方的でない限り、人の話は聞いているような気もした。

足の傷は深い。動脈はやられていないが、かなり痛い。皮が裂けて、筋肉が僅かに露出している。アルコールで消毒してから、傷薬を塗り込んで包帯を巻く。しっかり固定しておしまい。錬金術で作り上げた薬は良く効くが、それでも二日くらいは回復期間に当てた方がよいだろう。添え木は必要ない。骨はしっかりしている。肩の傷は、薬を塗り込んで包帯を巻くだけで終わり。消毒しておくだけでも大丈夫なほどだ。

ミューの手当も行う。肩の傷は浅いが、脇腹の傷は深い。一部肋骨が見えていたが、腹膜には到っていない。

「噛布、いる?」

「いらない。 やっちゃって」

良い覚悟だ。マリーは目を細めた。まず、マリーの足と同じようにアルコールで洗う。何度かマリーはミューを手当てしてきた。最初は痛い痛いと悲鳴を上げていたミューだが、最近はこらえられるようになってきていた。それでも、呻き声を短く上げる。ルーウェンが首をすくめていた。

何種か持ってきたもののうち、強い魔力を含んだ傷薬を塗り込んで、止血の後しっかり包帯を巻く。しばらく動かさない方が良いだろう。滝にキャンプをするまで、荷車でミューを運ぶ。揺らさないよう慎重にだ。

手当の最中、背中を向けていたルーウェンが言う。

「なあ、マリー」

「何?」

ルーウェンの声が少し震えている。今から言おうとしていることの無意味さを悟りながらも、納得できないからだろう。

「ひょっとして、全部分かった上で、戦ってたのか? 自分が怪我することや、ミューが怪我する事も」

「想定はしていたわよ。 というか、もっと状況が悪い時のことも考えてたかな」

「それなのに、怪我をさせることは、止められなかったのか?」

「残念ながら、ね」

マリーの苛烈なところは、自分が怪我をすることも厭わないという点にあるだろう。そして、ルーウェンは、マリーが自分より格上の冒険者である事を知っている。指揮官としての能力や、戦術展開能力に関しても、数段上だと言うことも。

そしてルーウェンは分かっている。状況次第なら、マリーと皆同じといわないにしても、それなりに苛烈な手は取ったと言うことを。誰なら怪我させずに勝てた、などという発言はまさに無意味。戦場を知らぬものの痴言に過ぎない。確かにミューは怪我をした。だがマリーはベストとも言えるほど、下手すれば全滅しかねない強敵相手に、被害を抑えて勝ったのだ。

「今回、ボーナスは出すわ。 このレベルの魔物の腸だとね、下手をすると小さな家が建つこともあるのよ」

「……ありがとな」

ルーウェンが吐き捨てた。マリーに対して彼は怒っているのではない。一人前になりきれない自分に、腹を立てているのだ。

戦場では情けは捨てろ。思い人であろうと、命がかかっている場合は優先順位を入れ替えるな。それが出来ない奴は、生き残る事が出来ない。そればかりか、味方をも致命的な危地に晒してしまう。

冒険者ギルドに伝わる、初歩の鉄則がそれだ。だが、初歩だからこそ、守るのは難しいのかも知れなかった。

 

ミューの怪我を気遣い、じっくり時間を掛けて滝壺に降りる。以前と違い、今回は滝壺に直接キャンプを張る。念のためにマリーが調べたが、周囲に魔物の気配はない。ごくごくまれに、魔物がこういう秘境にコミュニティを作っている事があるのだ。そんなものは、大体十年もしないうちに滅ぼされてしまうと相場が決まっているが。

驚くほど静かだった。滝の音だけが響き続けている。水面はあくまで青く、泳いでいる魚は良く太っていた。

この滝は、汚してはならない場所である。この森の生態系の中心となり、全ての指針ともなる。改めて美しい滝を見て、マリーはそう思った。

今回は時間があるから、じっくり採集が出来る。コメートの原石や、ルビーの原石が幾つか見つかる。品質の良いフェストも大量に散らばっていた。ルビーは売ってしまうとして、コメートは加工だ。今回はアデリーにも作業を手伝って貰おう。或いは、パテットに手伝いの人員を回して貰うのも良い。そうマリーは思った。何にしても、あれは一人で作ると時間がかかりすぎる。

周囲は見晴らしが良く、奇襲を受けることはまず無い。たき火は必要だが、炭はまとめて山の中に捨てようとマリーは思った。それほどに、この滝は美しい。美しいだけでなく、有用であった。

ガッシュの枝を集める。生きている木には手を出さず、枯れたものや、折れているものだけを集めていく。滝の周辺に生えているガッシュは充分な量がある。別にがつがつしなくても、それで充分に必要量が集まる。

ガッシュを集め、宝石類を集め、それに薬草類も調べた。かなりレアリティの高い薬草が生えていたが、後のことを考え、採取は最小限に抑える。森のことを考えると、僅かでも摘まない方が良いほどなのだ。

夜が来る前に、キャンプの準備と、一通りの素材集めは終わった。ミューの怪我のことを考えて、翌日は休んだ方が良いだろう。それを考慮して、薬草は明日摘む。時間が余ったので、マリーはナタリエを伴って、滝の方へ。滝の裏に洞窟がある事は、以前ここに来た時には分かっていたのだ。

包帯の上には皮のカバーを巻いているが、それでもぬらさないように気をつけて奧に。滝の真下は流石に苔が生えていて、片足跳びでは無理なので、ナタリエに肩を借りる。すぐ側まで近づくと、意外とはっきり洞窟が見えた。滝の上部の岩がせり出すような形になっており、逆に裏側が少しへこんでいる。それを周囲の地形が的確に隠し込んでいて、正面から見ると分からない。

へこみ込んだ部分は、坂状にせり上がっていて、苔に濡れている。その上の方に、洞窟があった。人の背丈の倍程度の高さがあり、奧は真っ暗だ。翌日探索しようと考えて、マリーはひとまずその場を離れた。

翌朝、早くからマリーはナタリエと共に洞窟へ。構造から言って大した規模ではないのは分かっているし、猛獣も住み着きようがないが、念には念である。足の怪我は回復したとまではいかないが、もう薄皮が張っていて、調子はすこぶる良い。魔力を強く含んだ傷薬は、効き目が強い。

マリーの魔力はかなり巨大になってきており、使い切ってしまうと一日では回復しきらない。今の実力だと、完全回復には丸二日といったところだ。幸いにも昨晩は、怪我人は見張りから外れていたので、今六割といったところである。

洞窟は小規模とはいえ鍾乳洞になっていて、所々水滴が落ちている。蝙蝠などが住み着いている場合、糞が溜まって大変なのだが、その気配は今のところ無い。分岐もしておらず、奥の方へ傾斜していて、そちらには水が溜まってしまっていた。歩いて四半刻も経っていないが、探索は其処までだ。水さえ溜まっていなければ、その奥はもっと広がっているかも知れない。

瓶に水をくむ。冷たくて透明度がよい。調べてみなければ分からないが、ひょっとするとヘーベル湖の水よりも純度が高いかも知れない。少し薬品を混ぜて調べてみるが、毒性はない。もしも飲めるとすると、これは宝のような水だ。決して汚してはいけない水である。

周囲に砂が散らばっていた。団子のように丸まっている。持ち上げてみると、水分を含んでいて、僅かに重みが指先に感じられる。力を入れると破裂した。

「!」

「どうしたの、マリー」

「ん。 ひょっとしたらと、思ってね」

今まで、マリーは火薬を、成分調整で安定させようとしてきた。だが、それは間違いだったのではないだろうか。火薬を、こういう形で成形してみてはどうだろうか。もちろん手でこねるのなどは論外だから、他に方法を考えなければならないが。

丸い砂粒は、他にも転がっていた。どうやって出来たのかは分からない。だが一様に丸く、しめっていて、持ち上げたくらいでは崩れなかった。安定が良いという事だ。そして力を入れると、破裂するようにして壊れる。

やはり、間違いない。これだ。試す価値は充分にある。何故此処に材料がないのかが悔やまれる。すぐに飛んで帰って調べたいほどだ。

ミューが歩けるようになったのは翌日のこと。非常に段差が多いストルデルを降るよりも、今回は密林を突破する方が安全だとマリーは判断。そちらから帰還した。途中、虎が一頭出たが、怪我をしているマリーと、ルーウェンとナタリエで充分に撃退可能だった。ただし、マリーがロードヴァイパーを叩き込む前に、形勢不利と見て逃げてしまったが。

街道に出た頃には、マリーの足はすっかり完治し、ミューも肩を貸さずに歩けるようになっていた。すれ違う人が、うずたかく戦利品が積まれた荷車を見て驚く。色々なものが荷車には乗っている。錬金術用の素材としても石材類に薬草類にガッシュの枝。換金用のものとしても、魔物の体の部品に虎の肉や内臓、毛皮。しかも毛皮は極めて状態がよい。売り払えば軽く一財産になる。

ザールブルグに戻ると、すぐにギルドへ。魔物の腸を売り払い、ストルデル滝の状況を伝える。どっちにしても、虎が頻繁に出る森の奧である。民俗学者とアカデミーの人間くらいしか近づかない。

虎の肉や毛皮も売り払ってしまうと、かなり金銭的に余裕が出来た。ミューにもナタリエにもルーウェンにも、今回は倍額払った。それでも充分以上のおつりが来る。

かって、マリーがグランベル村で暮らしていた頃。魔物が見つかると騒ぎになった。もちろん、絶対に逃がすなと言う意味でである。それだけ、良い金になるのだ。

ルビーの原石も売り払ってしまったから、アトリエに戻る頃には、荷車はだいぶかさを減らしていた。ナタリエは途中で帰ったが、ミューとルーウェンはいつも通り最後まで手伝ってくれた。

ルーウェンは最近気付いたのだが、距離をとりづらいアデリーが苦手らしく、出来るだけ近づこうとしない。ミューはアデリーにマリーがさわれるようになったと聞くと、次は自分だと言って、積極的に近づいて話しかけている。マリーから見ると、母性本能に押されて不意に抱きしめでもしないかと不安で仕方がない。結局の所、まだまだアデリーは生きた爆弾だ。

二人に荷物を地下へ運んで貰うと、ようやく作業終了。アデリーも緊張したようで、アトリエの隅に座って、額の汗を拭っていた。頭を撫でると、マリーの方を向く。アデリーの髪の毛は柔らかくて、触れていて気持ちがよい。

「ただいま。 遅くなってごめんね」

「おかえりなさいませ、マスター」

「遅くなったんだから、怒ったりしてもいいのに。 それと、ミューはもう大丈夫?」

アデリーはさっと目を伏せると、首を横に振った。ミューのことは嫌いではないようだが、だがまだ他人という意識があるのだろう。マリーの事を受け入れることが出来たら、今度はミュー、更に次はシア。少しずつ触られても平気な人間を増やしていくことで、精神の安定を高めていかねばならない。

ちゃんと鍛錬をしていたか、留守番が出来ていたか聞く。アデリーは細かいミスも良く覚えていて、一つも漏らさず報告した。正直で素直な子だ。本当なら、少しくらいは、嘘をついてもいいのだ。親の隙を突くくらいの子供が、最終的にはきちんと育つ。

「マスター、その」

「ん? どうしたの?」

「また、少し血の臭いが、しましたから」

「仕方がないよ。 殺し合いしたんだから。 殺さなければ殺されてたんだしね」

アデリーを抱きしめると、マリーはそう言った。アデリーは嘘をつかないのだから、マリーも出来るだけ嘘をつかないようにして上げるべきだと、この間シアに言われた。無言で、アデリーは目をぎゅっとつぶった。

 

4,高貴なる茶

 

稼働可能人員が増えるというのは、ただそれだけで強みになる。以前コメートを作った時にマリーは一人で大変な苦労を味わった。今は違う。アデリーは最初不安がっていたが、お茶を作るのだと聞いて手伝いを始めてくれた。

ミスティカの乾燥葉は既に確保してある。問題はこれからの作業である。ガッシュの枝の蒸し焼きのやり方をアデリーに教え込む。酷い臭いがするガッシュを燻製にする訳だから、決して楽な作業ではない。しかし、アデリーは武術と違い、此方では覚えが非常に速かった。何回か見本を見せるだけで、石の組み方も、枝の並べ方も、火の加減も覚えた。実に筋が良い。これだと、野外のキャンプでの竈組みもすぐに出来そうである。

最初の二回はマリーが一緒に立ち会ったが、どちらも全く問題なくアデリーは仕上げた。最初は流石に出来は微妙だったが、二回目はマリーから見ても悪い出来ではなかった。満足したマリーは、アデリーの頭を撫でる。

「上手いね。 後は任せるよ」

「ありがとうございます」

これで、僅かながら手は空いた。

ミスティカ葉を乾燥させる作業は、決して難しいものではない。以前作った分は適当なところで換金してしまっていたので、一から作り直しだが、材料は幾らでもある。ミスティカは所詮雑草だ。水が良いところで採れるものは品質が上がるが、その程度の差しかない。近場のヘーベル湖でなら幾らでも良いものが採れる。

ミスティカの葉を乾かしながら、研磨剤を作る。フェストを砕いて、乳鉢ですりつぶす。膠で紙に貼り付ける。ガッシュの枝が蒸し上がったら、今度はこれをアデリーに任せようかと思ったが、やめる。アデリーは料理や掃除を行っており、指先の疲労は激しい。これをやらせるのは少し気の毒だろう。

同時並行で中和剤を作る。コメート加工の手順がこれで整う。マリーの魔力がかなり強くなっているし、アデリーの分もあるので、中和剤の加工はかなり時間が短縮できる。それはありがたい。

色々試してみたのだが、土属性の中和剤は、火山灰土である赤土が一番適している。魔法陣からじっくり魔力を流し込むことで、飴状になる土。此処にコメートの原石を、丁寧に不純物を落としてから放り込む。以前作ったとはいえ、コメートはかなりの高級品だ。やはり作る時には、緊張する。

火に掛けて、じっくり成形する間に、研磨剤を仕上げておく。これが終わったら、火薬の実験だ。コメートの出来を左右するのは熱量の維持。いくつもの作業を同時並行で行うのは難しい。コメートの成形が終わるまで、火薬の実験はお預けだが、しかし準備だけはして置いた方がよいだろう。

中和剤だけは用意しておく。火薬の素材はまだまだ残っている。軽石もまだ少し余裕がある。だが、問題なのは、球状に成形するための素材だ。

球状に成形するには、何を使うべきか。マリーは鍋の火の状態を確認し、無意識でフェストを砕きながら考える。

湿度を出来るだけ与えず、固めるには何を使えばよいのか。火薬が水に弱いのは今までの作業で実証済みだ。ならば、水を与えず、成形しなければならない。成形するとなると、その中心部にあらかじめ起爆用の光石を埋め込まなければならない。つまり、コメートのように、中和剤に溶かし込んだ状態では成形しない方が良いわけだ。

水分が少なくて、流動性が高く、加工しやすい物質。粘土はどうだろうか。水分が残っているうちに、粘土と混ぜ合わせて加工し、もろともに乾燥させる。面白そうだ。ただ、乾燥の過程に気を使う必要があるし、手間もかかりそうだ。しかし、やってみる価値はある。それに乾燥後の硬度次第で、随分破壊力が変わるはずだ。

膠を塗り、研磨剤をまぶしたヤスリが乾くように、外にぶら下げる。今は夏であるし、乾くのはかなり速いはずだ。アデリーに言って、コメートの火の調整を説明。夜はマリー自身が火の様子を見るとして、昼間はアデリーに担当して貰えばだいぶ時間が作れる上、マリーも休むことが出来る。

寝る前に、テパ老人に会いに行く。こういうのは本職に聞くのが一番だからだ。

石畳の道を小走りに行く。帰りにアデリーに買っていくお土産のことも考えると、保ちが良い料理の方がよいだろう。道すがら、車引きと市を物色。スキップなどしながら、マリーは急ぐ。やはり、作業の目処がついている時は気分が良い。

完成したら、火薬がどれだけの威力と実用性を発揮するのか。想像するだけで胸が躍る。捕らぬドラゴンの皮算用というが、現状の不安定なものでさえ、あれだけの火力を持っているのだ。期待しない方がおかしい。

結局燻製チーズをマリーは買っていった。チーズはこの町では若干値が張る。巨大な牧場を抱える南部の要衝リインマルク市とザールブルグの距離が離れているからだ。だから入ってくるチーズは、こうやって燻製にしてあることが多い。もっとも、近場の村などで生産している普通のチーズもあるにはある。高いと言っても、庶民の手が出ないほどではないし、味も悪くない。もちろん、燻製チーズも充分に美味しい。味に癖があるが、好み次第だ。

テパ老人はチーズを喜んでくれた。うんうんと頷きながら、マリーが探しているものに一番近いのは、ヴィラント山で採れるアトルド岩を砕いて作る粘土だと教えてくれた。

アトルド岩はマリーも知っている。各地で比較的大量に採れる灰色の岩で、手でそのまま砕けるほど柔らかい。臭いはないが、半端に柔らかいので、保存が難しい。この辺だとヴィラント山でしか採れないが、遠くてよいのならばマリーも知っている採取場が幾つかある。

たとえば、グランベル村の側がそうだ。グランベル村は立身を果たすまで帰らないと決めているから、此処は却下。どちらにしても、建材になるようなものでもないし、アカデミーでも扱っていない。いずれ計画を建てて、どこかしらに取りに行かねばならない。

つまり、今は手が出せない。だが、はっきりと目標が建てられただけで充分だ。

アトリエに戻る。アデリーは辛いものが好きだが、チーズも嫌いではない。ただ、燻製チーズは、子供相手には少し渋すぎたかも知れなかった。夕食で、アデリーの笑顔が強張りがちなのを見て、マリーは次からはクリームチーズにしようと思った。

 

ぷにぷにの体内から抽出した玉を使っての、ミスティカ葉の乾燥作業が終了すると同時に、コメートの原石が仕上がった。数日間睡眠時間が減っているが、前よりもぐっと作業は楽になっている。ヤスリの製造も既に終わっており、コメートはいつでも作ることが出来る。

以前作った時、ボウルの跡がコメートに着いてしまい、それが残念だった。そのためマリーは、今回は最初にボウルの底に土で作った型を置いて、それで成形を試みた。これが予想外に上手くいき、以前よりずっとコメートは綺麗な形に仕上がっていた。

コメートを磨くのはいつでも出来る。此方は後回しだ。

アデリーが精魂込めて作ったガッシュの燻製枝は、先日に仕上がっている。元々黒い枝は、既に切断面まで真っ黒になっていた。親指ほどの大きさに折り分けてあるが、どれも良い出来である。これで、材料は揃った。

教科書をひもとく。ミスティカ茶の短縮製造に関する注意が幾つか載っている。カビ類に対するものが多い。ある程度の温度を保たなくてはならないので、カビは大敵なのだ。

竈を組み直す。アデリーは中腰で、心配そうに側で作業を見守っている。基本的に日常生活面ではがさつでアバウトなマリーだが、この手の生存作業に関しては蓄積経験量が違う。ほぼ完璧に、竈を組み直す。獣肉を燻製にする時用の、大型の竈だ。その辺の岩だけではなく、この間買ってきた煉瓦も材料に使った。風のはいる量を調整するのに、ぴったりだからだ。

一番下に薪を並べて、その上に金網を挟む。途中少し悩んでから、炭を加えた。金網の上には、均等にガッシュの燻製枝を少量並べる。そしてその少し上に、また金網をセット。そちらにミスティカ葉を並べる。

雨よけと鳥よけのカバーをかぶせて、薪に点火。火の具合は丁度良い。あとは、風の具合にあわせて、カバーを調整していけば良い。目が覚めるような臭いをガッシュの燻製枝が出し始める。火はあくまで少量でよい。火を強くするとガッシュの燻製枝が張り切りすぎて煙が増え、葉の香味までもが飛んでしまうのだ。

教科書を見る分では、この行程の目安は3日ほどだそうである。葉にまんべんなく煙がかかるように、何度か薪を調整する。アデリーがぺこりと頭を下げているのでなんだと思ったら、また隣のおばさんが覗いていた。マリーが気付くと、おばさんは窓をぴしゃりと閉めてしまう。アデリーには随分良くして貰っているので、あまりつんけんした態度は取れない。ただ、苦笑いする。

ミスティカの葉もガッシュの燻製枝も、充分に余剰在庫はある。いきなり全部を投入するわけがない。最初は失敗する可能性が高いからだ。じっくり煙で燻していくうちに、マリーは変色している葉があることに気付いた。

口に入れてみると、完全に駄目になってしまっている。熱を加えるとまずいらしいと、マリーは経験的に悟った。火からは充分に離したはずだが、まだ不十分だったと言うことか。一度火を止めて、もう少し高い位置にミスティカ葉をセットし直す。火力も落として、ミスティカ葉を再度燻す。

結局、二日目には、七割の葉が駄目になってしまっていた。熱の調整が想像以上に難しい。これは専門の竈を庭に作る必要があるかも知れない。じっくりそれでも燻製にしていくと、三日後には一割ほどが上手く臭いが消えた。次はこれを五割にしたいものだ。

最後の課程は、魔力を注ぎ込みつつ、乾燥させるものだ。ただ、この作業はさほど難しくない。

中和剤と同じ魔法陣で、二日がかりで魔力だけを注ぎ込めばいい。ただし、湿気らないように気をつけなければならない。時々うちわで扇いで風を送り、じっくり魔力を注いでいく。やがて、ほんの一握りだが、出来た。

口に含んでみると、何とも言えない上品な香りがする。アデリーに淹れて貰う。アデリーもこれだけ時間を掛けて作ったものだけあり、とても緊張していた。テーブルで完成を待っていると、少し震えながら、アデリーはカップを持ってきた。ポットから注ぐ。

「ん、いい香り」

魔力を含んだ、実に芳醇で豪勢な香りだ。茶ギルドが何年もかかって作るものほどではないだろうが、充分に素晴らしい。立ち上る湯気が含む香りは、甘みをベースに、優しく、鋭く、様々な要素を含んでいる。どこか、清浄な湖を思わせる香りだ。

「アデリー、貴方の分も注いで」

「そんな、私の分なんて、おそれおおいです」

「何言ってるの。 これはあたしと貴方で作ったものよ。 だから飲んで良いの」

少しためらってから、アデリーはカップに茶を注ぐ。再びアトリエに立ちこめる素晴らしい香り。ヘーベル湖で採れたミスティカだからだろうか。ヘーベル湖に今いるような気分を錯覚させる。

カップを傾けて、茶を口に含んでみる。実に素朴で、飽きが来ない味だ。蜜を僅かに加えたような、自然な甘みがまずあり、続いて茶そのものの味が味蕾に広がってくる。美味しい。ただ、完璧とはいかない。まだ僅かだけ、味の完成を邪魔する、ほんのりとしたえぐみがある。僅かに残っている生臭さが作った味だと、マリーは自然に理解していた。つまり、臭いをまだ飛ばし切れていなかったのだ。

えぐみはあるものの、香りと言い、味と言い、文句なしに最高級の茶である。なるほど、これではブームになるのもよく分かる。まあ、茶ギルドの作ったものは、これよりも更に旨いのだろうが、それは多分些細な違いに過ぎないだろう。

「美味しいね」

「美味しいです」

カップの茶はすぐに無くなる。茶葉は、もう残っていない。

今、第二陣の茶葉を燻しているところだ。当然のことながら、最初よりもずっと駄目になる茶葉は少ない。

この分なら、第四陣を始める頃には、成功率は八割を超えるだろう。苦労は必ず報われるものだ。ただ、しばらくは体に酷い臭いが染みつくかも知れない。

「アデリー。 作業が一段落したら、一緒に風呂屋に行こうね」

「……。 はい」

「ん。 じゃ、作業に戻ろうか」

アデリーを促し、作業に戻る。流石にミスティカ茶には手を焼かされる。しかし、苦労する価値があるだけのものだ。これならば、かなりの値段で捌けるだろう。更に高い含有魔力から言っても、他の使い道もあるかも知れない。そして、これが終わったら、コメートの作成と、メインディッシュの火薬作成が待っている。

技術は確実に付いてきている。未来は、思っていたよりも、遙かに明るい。

そう、マリーは思えるようになっていた。

 

5,激流へ

 

ヴィント国王は、その報告を聞くと、眉を急角度で跳ね上げていた。腰を揉ませていた侍女を下がらせる。彼女は一礼すると、不機嫌を顔中に沸き上がらせた王から逃げるようにして、部屋を後にした。

ヴァルクレーア大臣も恐縮したように身を縮めたが、それは演技だけだ。実際には、王が感情を制御するのを待っている。王はしばし苛立って臍を噛んでいたが、やがて大臣の期待に応え、感情を落ち着かせてくれた。

「具体的に聞かせよ、ヴァルクレーア」

「はい。 まだ詳しいことは分からないのですが、クリーチャーウェポン研究班の人間に、不穏な動きがあります。 確認できている所では、師団長が二人、聖騎士が一人、妙な動きをしています」

「愚かな……!」

大臣の報告はこうだ。内偵によると、せっかく戦争抑止力として作り上げたクリーチャーウェポンを私物化し、ドムハイトとの開戦を計っている輩がいる。しかも、高位の騎士か、軍人である可能性が高い。

軍功を立てたがる者は、いつの世にも絶えない。軍人にとって最高の立身の機会は実戦だからだ。実戦は、後世までも栄誉を伝えるからだ。末代までも伝えることが出来る領土を獲得できるからだ。

だが、それも勝つことが出来れば、である。ヴィント王の苛立ちも無理はない。ヴァルクレーアの見たところ、今ドムハイトとシグザールの力比は4対5。国力では勝っているが、軍事力ではわずかに負けている。ただし、戦争になれば、勝てる。生産力比やマンパワーの比率を考えれば、確実に勝てる。ただし、報告にあるクリーチャーウェポンの能力を考慮しても、総力戦になれば十年や二十年では復旧しきれない傷を負うことになる。先の大戦での傷が、ようやく癒えてきたというのにだ。

シグザール王国の豊かさは、一朝一夕で出来てきたものではない。今の時期に戦争などしたところで、それを揺らがせるだけだ。シグザール王国が存在しているのは、それを望む民が多いため。もし、充分な豊かさを供給できなくなってきたら。この国は、根本から崩れ去ってしまう可能性がある。

それを考慮し、国家百年の計として、平和攻勢と抑止兵器開発に力を入れているのだ。上層の人間はそれを皆理解し、納得していると思っていたのに。ヴァルクレーアですら怒りがこみ上げてくるほどだ。ヴィント王の怒りは、どれほどであろうか。

戦争抑止力を示すために、軍事的な使用も視野には入れていた。しかし、それにしても性急すぎる。やるとしたら、研究が満足な段階に入ってからだ。今の時期にドムハイトへの挑発行為を行うというのは、研究費を引き出すためのものである可能性が極めて高い。なおかつ、地位の向上もそれには含まれているだろう。

「すぐ愚か者を洗い出せ。 見つけ次第、儂の前に引っ立ててこい」

「はっ。 始末はしなくても、よろしいのですか?」

「儂自らが、仕置きを加えてくれる」

「は、ははーっ」

王は相当に怒っている。これは、事の黒幕になって動いている人間は、無事では済まないだろう。

すぐにヴァルクレーアは隣室に下がり、そこで手を四回打って影の行動部隊に招集を掛けた。どこの国にも暗殺や諜報を任務とする部隊はあるが、シグザール王国のそれは「牙」と呼ばれている。近隣で恐れられる牙の実力はいまだ健在。ドムハイトにも暗殺に赴き、今まで何度もVIPを仕留めてきているのだ。達人クラスの相手を倒す技術にも習熟している。

目立つ容姿の者は一人も居ないし、格好も統一されてはいない。殆ど時間を掛けずに集まった彼らは、ある者は平凡なメイドであり、ある者は平凡な護衛兵で、またある者は何の取り柄もない小役人に見えた。顔立ちも特徴が無く、というよりも印象が薄くて非常に覚えづらい者ばかりだ。だが彼らは例外なく諜報と暗殺のエキスパート。今までに、それぞれが十回以上ずつ困難な任務を達成している、プロフェッショナルだ。

ヴァルクレーアは緊張した。彼らは王の懐刀である。形式的にヴァルクレーアの麾下に入っているが、両者の命令が対立した時には王の命令を優先するように訓練されている。王に背くような命令を出した場合、即座に大臣は首をはねられるだろう。嘘を見破る訓練も受けているから、しゃべる時には気を使う。

王の命令を伝えると、彼らは風のようにいなくなる。ヴァルクレーアは自らも親指の爪を噛みながら、事態の打開策を練る。牙の者達は最高の仕事をしてくれるだろうが、油断するわけにはいかない。ありとあらゆる手を先に打っておく必要があるのだった。彼自身の直属部隊も動かす必要があるだろう。

ヴァルクレーアはこの国を愛している。せっかく此処まで築き上げた平和と繁栄を、砕かせるわけにはいかなかった。

 

牙が動き始めたことに、カミラは気付いていた。部下からの報告で、それが確実だとも分かった。舌打ちが漏れる。思ったよりも遙かに早い。さすがはヴィント王。或いはヴァルクレーア大臣の力かも知れない。

部下を下がらせると、洞窟の中を進む。護衛の兵士達に松明を持たせて。最後尾にはクーゲルが、その手前にはこの間彼が連れてきた男がいる。シュワルベとか言ったか。かなり良い筋を持っている男だ。少し鍛えるだけで、並の騎士くらいには使えるようになるだろう。死刑になりかかっていたところを、クーゲルが拾ってきたのだとか。使えるのならなんでもいい。

洞窟は緩やかに傾斜していて、奧が見えない。最深部から、巨大な獣の呼吸のような、奇怪な音が響き続けていた。力の存在を感じ取ったか、クーゲルが静かな殺気を声にたたえながら聞いてくる。

「なんだ此処は」

「第四師団の協力で作り上げた、クリーチャーウェポンの実験場です」

「ほう?」

クーゲルには、この下で作っている存在はまだ告げていない。だから彼を始め、今連れてきている信頼できる部下達には、初お披露目となる。というよりも、協力をしている幾つかの師団の人脈、更に保有秘密施設を全て把握しているのは、カミラだけである。殆どの協力者は、横のつながりを知らない。

汎用型の三種のクリーチャーウェポンは、だいたい研究が完成している。ステルスリザードも、そろそろ量産に乗せることが出来るだろう。ヤクトウォルフは最終的には1000、テンペストモアも同じく1000の生産を予定している。ステルスリザードはそれらより戦闘力やコストが高いこともあり、500の生産が予定されている。そしてこれらは、人間の戦力に換算して、七個師団分の能力を発揮すると試算されている。その上、維持生産コストはその五分の一以下だ。消耗した場合も再生産が楽で、しかも特殊部隊のように扱うことが出来るので、ドムハイトを内部から引っかき回すことが出来る。

これらはヴィント王から下された命令通りである。これについては忠実に作業を行っており、生産ラインにまで乗せたほどだから、しばらくカミラが疑われることはない。

だがカミラは、王の命令以上の生産をも行っている。余剰生産したヤクトウォルフ約50,テンペストモア30。これにステルスリザード10を加え、これから披露するものを加えて、計画を実行する。そして計画が実行されれば、王には選択肢はなくなる。

洞窟の最深部に着く。壁に魔法式のカンテラが掛けられていて、光度が徐々に上げられていた。床が平坦になり、ほどなく整備された道が現れる。

研究施設が、洞窟の中に埋め込まれるようにして、作られていた。四角い建物が、窮屈そうに洞窟の中で存在している。入り口の歩哨に敬礼すると、中に入る。

幾つかの牢には、幼生体のステルスリザードが入れられていた。研究が最終段階に入っているクリーチャーウェポンであり、あと少し癖を調整すれば終わりだ。牢越しに、幾つか命令を出してみる。きちんと、かつ丁寧に実行したので、カミラは笑顔で拍手した。クーゲルはにこりともしない。殺す価値もない相手には、彼は基本的にそうだ。

「こいつらなら以前にも見たことがあるな。 君が見せたいのは、これではあるまい?」

「ええ。 此方です」

カミラは率先して奧へ。左右に牢が並ぶ研究棟をすぎると、ただ通路だけが続く場所へ出る。通路はゆっくり上に向けて傾斜していて、それが延々と続いていた。等間隔で並ぶ魔法式カンテラ。薄明かりの中、通路の中を、足音だけが響く。行き止まりにドアがあり、開けると、巨大なホールになっていた。

そこでは、此処を任せている錬金術師が待っていた。老境に入っている男で、確かアカデミーでもかなりの成績を上げていた者だ。

「これはこれはカミラ様。 わざわざお越し頂き、光栄です」

「楽にしていいわ。 それよりも、これが例のものね」

「はい。 今調整は七割という所です。 冬までには完成できるでしょう」

「ほう……! これは、一体しかいないのか?」

「残念ながら」

以前ウォーマンティスで失敗はしたが、それも無駄にはしなかった。超大型のクリーチャーウェポンの研究は、着実に進んでいたのである。クーゲルの目が爛々と輝いている。戦ってみたいのだろう。

ホールの半ばは分厚い鉄柱を使った牢になっている。その中には、圧倒的な巨体があった。体重はカミラの百倍前後。背丈も四倍近くあるだろう。全体的な姿は、熊に似ている。体は全体的に丸く、口元から伸びている二本の牙が恐ろしく鋭い。白い毛皮に覆われたそのものは、身じろぎせず、ただ訪れた者達を見つめていた。毛は長く、特に手元のものは垂れ下がっていた。

「カミラ、こ奴の名前は?」

「タイタスビースト改。 以前ヴィラント山に住み着いていた動物の幼生体を捕獲し、それから数世代に渡って改良したものです」

「聞いたことがある。 アカデミーの創始者によって倒されたという奴だな。 まだ儂が若い頃の話であった。 丁度暇つぶしに殺しに行こうと思っていたところを、先を越されてかなり不快だった覚えがある。 くっくっくっくっく、量産に成功したら言え。 儂が性能試験をしてやろう」

「そのときは是非」

カミラも交戦の意欲を抑えるのに苦労する。結局の所、戦いが好きだという点で、カミラは師と同じであった。

計画の実行は冬。ドムハイトの主力部隊が動きづらい季節である。

そのときこそ、歴史が変わる瞬間。そしてカミラが歴史の表舞台に躍り出る時であった。

 

緑黄色の液体に満たされた試験管の中で、小さな金属の塊が、泡を立て続けていた。それを満足げに見やるヘルミーナ。彼女は今、クルスの後継機の核を調整している。それは、今までの研究成果もあり、かなりの結果を生んでいた。

次に作られるクルス七号機は、クルス六号機にとっては妹にも娘にも等しい。次も、生物的な安定度の高い雌を素体にしているのは変わらない。七号機の寿命は、今のところ十二年を見込んでいた。

ホムンクルスに関しては、意外なところからもオファーが来ている。その一つが、妖精族だ。妖精族は最近、社会的にあぶれた人間を用心棒代わりに集めている。それの一環か、戦闘用に使えるホムンクルスを作ることが出来ないかと、彼らの営業マンがヘルミーナに話を持ち込んできているのだ。これはヘルミーナが幼い頃に作ったクルス一号機の事を、覚えていた者がいるからだろう。あれは無性別の妖精族をモデルに作っていたし、覚えている者がいても不思議ではない。そしてそれが進化した現在、高性能ホムンクルスの量産化は無理な話ではなくなりつつある。ただ、あくまでまだ「なくなりつつある」段階に過ぎない。如何にヘルミーナといえど、未来のことは分からない。

ヘルミーナには悪い話ではない。ホムンクルスの進化を促せるのなら、いかなる状況も利用したいというのが本音だ。自らの娘とも思っているクルスをそのままクリーチャーウェポンにしようとは思わないが、それが進化につながるのなら選択肢にもなる。利用できるものであれば、どんなものでも使う。人間が作り上げた世界で、何かを成すのであれば、それは絶対条件だった。

ドアがノックされる。外にある気配は二つ。一つはクルスだが、もう一つは違う。入るように言うと、クルスに続いて若い男が入ってきた。線が細い青年で、丸いめがねを掛けている。銀髪で、身なりはよいが、疲労が見て取れた。

「クルス、そちらは?」

「クライス=キュール様です」

「へえ、貴方が。 イングリドの弟子の中では、そこそこに使えると聞いているわ」

「ありがとうございます、ヘルミーナ先生。 お会いできて光栄です」

この様子だと、良いところの坊ちゃんなのだろう。挨拶はしっかりしていたし、疲れていてもそれは崩していない。ヘルミーナは来客用の机に移ると、向かいに座るように促し、クルスに茶を持ってこさせる。ヘルミーナにとっては朝飯前に作れる、最高級のミスティカ茶だ。

「いい茶ですね。 茶ギルドのつくるものに近い品質だ」

「設備次第ではより優れたものも作れるわよ。 それで、イングリドは何故貴方をわざわざよこしたのかしら?」

「はい。 此方の研究成果を直に見てこいと言うのが一つ。 それと」

しばしクライスは報告していたが、そこにしばしば感情が交じるのを、ヘルミーナは感じていた。それ自体は別にどうでもいい。この青年が微生物を愛そうが悪魔に求婚されようが知ったことではない。だが、ヘルミーナはいつしか真剣に聞き入っていた。クライスが言った内容は、ヘルミーナにとっても興味をそそられるものであったからだ。有能な若手の成長は、ヘルミーナにとっても喜ばしい。

ヘルミーナは天才だが、複数人数による研究成果の共有が実に強力な結果をもたらすことは肌で知っている。実験による検証の時間も省くことが出来るし、違う視点からの研究もまた面白い。事実、ホムンクルスの研究にも、随分他者の実験検証を取り入れている。

「そのマルローネという子の発想は面白いわね。 以前会ったことがあるような気がするけれど。 ……そうか、あの子ね。 ふふふふふふふ、ふふふふふふ。 これは面白くなってきたわ。 イングリドが目を掛ける訳ね。 悪いけど、下がってちょうだい」

「は、はあ。 まあ、用件は伝えましたし、帰るとします」

邪魔者を追い出すようにして、ヘルミーナはクライスを下がらせる。事実ヘルミーナは邪魔者を追い出したつもりであった。来客にそんな非礼を働いた理由はただ一つ。一人で考え事をしたくなったからだ。気まぐれなヘルミーナにとって、思いついた時がすなわち実行する時である。

ヘルミーナは昔からそういう人物であった。以前アカデミーで研究を進めていた時にも、会議の最中にいきなり実験室に向かったり、来客中にいきなり研究を始めたりと言うことがあった。悪気はない。ただ社会性が極端に低いのだ。天才故の、大きな歪みが、此処にも現れている。非常に身勝手な行動が目立つ彼女だが、それが巨大な実績を上げているのは揺るぎない事実。利己性は集中指向に結びつき、それは巨大な結果へとつながる。その事実の生きた見本こそ、ヘルミーナなのだ。

「クルス! 此方へいらっしゃい」

ヘルミーナは愛するホムンクルスを呼ぶ。すぐに現れた彼女へ、命令を下す。その命令とはすなわち。

マルローネとの接触であった。

 

(続)