降りしきる血の雨
序、鍛冶屋ゲルハルト
鍛冶屋の主であるゲルハルトは、未研磨の鉱物の塊を前に、小首をひねっていた。彼の店の常連であるマリーが持ち込んだものである。未研磨であるが、異様に丸く形が整えられていて、なおかつ不純物が少ない。レジェン石といってさほど強度や価値がある鉱物ではないが、強い魔力まで帯びている。他の金属と溶鉱炉で混ぜ合わせることにより、非常に強力な武具を作ることができそうだ。
禿頭の大男であるゲルハルトは、全身を鍛え抜いた筋肉で包んでいる。その外見から鉄のような意志を想像する人間も多いが、実際には常に陽気で若き心を忘れない、感受性の強い男である。彼は鉱石に素直に感動していた。錬金術によってこれは作られたと言うが、それでも凄い。それに錬金術師として、顔なじみのマリーが力をつけている事も分かる。色々な面からひとしきり感動したゲルハルトは、やがて鉱石を持って、店の奥へ行く。
仕事場は孤独な空間だ。弟子もいるが、それはあくまで補助要員に過ぎない。どうでもいい仕事の場合は彼らに任せもするが、基本は全てゲルハルトの手で行い、武具を作り上げる。これはゲルハルトが酷薄な性格だからではなく、鍛冶屋をはじめとする職人ギルドでは、師の技は盗むものだという不文律があるからだ。
丁度いい依頼が一つ入っている。古くなった大剣を鍛え直してほしいというもので、依頼主は騎士だ。しかも彼は引退が決まっていて、今度騎士になる息子のために仕事をしてほしいのだという。親としての思いは嫌と言うほど理解できる。義に厚いゲルハルトは、感動して困難な仕事を引き受けた。
感情で受けた仕事だが、ゲルハルトにはそれだけではなく職人としての顔もある。既に大剣は分解して鉄の塊に戻してある。いい加減な仕事は出来ない反面、創意工夫をそれで試してみたいという意欲も沸く。しばらく鉄の質を吟味してから、炭や、マリーのレジェン石を混ぜ込む。レジェン石は元々鉄と親和性が良く、しかもこれは普段では考えられないほどに馴染む。少し打っただけで、ゲルハルトは充分以上に満足し、子供のように興奮した。後は、灼熱の中、ひたすら打つ。かって彼は腕利きの冒険者だった。だから、見ただけで武具の善し悪しはある程度まで分かる。それが鍛冶屋としての腕に、さらなる強みをもたらしているのだ。
打てば打つほど、鉄の塊は形を整えていく。最初は長い棒に過ぎなかったものが、徐々に剣へと変貌していく。この課程を鋼との対話とする鍛冶師もいるが、ゲルハルトはそこまでの境地には至れていない。大剣は切れ味よりも重さで相手を倒す武器だ。だから、重要なのは鋭さではなく、武具としての丈夫さ。そして攻撃をたたきつけた時の補助効果だ。それを考えて、実戦で鍛え抜いた観察眼を用いて、形を整えていく。
剣が強い魔力を帯びていると、術を掛けやすくなる。補助能力系の術者に頼めば、この大剣は様々な顔を見せてくれるだろう。水で急激に冷やした後、再び熱し、また打つ。それを数日間繰り返した結果、大剣は出来た。
彼の史上最高傑作といっても良い出来であった。黒光りする刀身には強大な魔力がまとわりつき、刃はあくまで分厚く、堅牢な要塞を思わせる。ゲルハルトの背丈ほども長さはあり、対人用の武具の域を超えている。刀身の中央に掘られた溝が、構造の肝だ。これによって、堅牢なる大剣はさらに強度を増すのである。
依頼通り、いやそれ以上の出来であった。これなら、使い手の力量によっては小型のドラゴンでも仕留めることが出来るだろう。マリーの持ってきたレジェン石は、彼の心を揺るがせた。もしレジェン石ではなく、最高の鉄鉱石の一つとして知られるグラセンで同じものを作ることが出来たらどうなるだろうか。グラセンは決して手に入れられないものではない。いつか、マリーがそれを売りに来ないものか、今から楽しみだった。あの娘なら、きっとゲルハルトの期待通りの品物を作ってくれるような気がした。
ゲルハルトは井戸に入れて冷やしておいた葡萄酒を取り出し、口に入れる。大精力漢にしか見えぬ彼は外見に似合わず、滅多に酒をたしなまない。飲むのは、満足行く仕事が出来た時のみであった。酒が嫌いな訳ではなく、田舎の宗教的な風習である。子供の頃から、彼は酒は祝いの時にのみ飲むと仕込まれてきた。その習慣が、今でもこういう形で残っているのだ。
酒は滅多に飲まないが、アルコールには強い。非常に度数が高いワインでも、彼の正気を失わせるには到らない。ゲルハルトは酒の味よりも、酔いを愛する。あのレジェン石をまた頼もう。心地よい酩酊の中、ゲルハルトはそう考えていた。
数日後、できあがった大剣は、騎士に満足してもらえた。騎士はその素晴らしいできばえに感動し、息子の将来を確信して泣いた。感情が膨大なゲルハルトも一緒にもらい泣きした。真っ赤に泣きはらした騎士は報酬金を四割も上乗せしてくれた。ゲルハルトにとって、自分の技量が認められた瞬間である。金が得られたことよりも、感謝を得られたことの方が、数倍嬉しい。
彼の名は、これでまた少し上がった。騎士は、息子の剣を自慢するだろう。その息子も、ゲルハルトの名を出すだろう。また一つ、夢に近づいた。しかし、別の夢からは、少し遠ざかってしまったような気がする。
使用人達を早めに帰らせると、ゲルハルトは店じまいにした。奧に引っ込んで、妻の肖像が収まったロケットを取り出す。子供達は遠くで元気にしているだろうか。妻はきちんとやっているだろうか。一抹の寂しさの中、ゲルハルトはそう考えていた。
ザールブルグ有数の鍛冶屋であるゲルハルトには名前がない。正確には、ザールブルグに住む人間に、彼の名を知る者は一人も居ない。ゲルハルトというのは、便宜的に作った仮名に過ぎない。
これは彼の故郷の戒律によるものである。実は彼の故郷は非常に信仰心が強い山里であり、様々な制約を生活に課す場所であった。その窮屈さを嫌がって、都会に出る若者は少なくない。だがその殆どが都会人とは水があわず、結局村に戻ってきてしまう。それほどに、都会とゲルハルトの村は違う場所なのである。
なぜこれだけ窮屈な戒律が出来たのか、ゲルハルトは知らない。興味すらない。また、彼が村を出たのも、窮屈さを嫌ったからではない。彼は少なくとも幼い頃から青年期までは、細かいことにはこだわらない人格だった。窮屈なことも気にならなかった。不思議なことに、豪放磊落な事と戒律にうるさい事が、ゲルハルトの中では矛盾していなかったのである。彼が村を出たのは、単に人減らしのためだ。
元々体が大きな彼は、生産力に限界がある上、産業を見つける人材もない村にあっては、いると困る存在だったのである。村の中には、外に出てはいけないと決まっている一族も居て、その中の一人は、ゲルハルトの事をうらやましがった。今としては懐かしい思い出である。ゲルハルトも仕方がないことだと割り切っていたし、むしろ外に出ることを喜んだ。村出身の人間は、得てしてしたたかなものなのだ。戦闘力も高いし、精神も強靱なことが多い。事実、ゲルハルトは都会に出て、其処に住む人間達の軟弱なことを知って驚いたものである。
各地で冒険をして、彼は少年から青年になり、腕を上げていった。槍を使わせればまず一流という所まで上り詰めたが、結局騎士団には入らなかった。その当時、ドムハイトとシグザールの戦いは激しさを増しており、騎士団にはいると致死率が非常に高かったからだ。豪快なゲルハルトだが、戦に関してはどちらかといえば臆病者で、それが故に因果な商売をしながらも生き残ることが出来たのである。何度か傭兵もしたが、激戦区は意識して避けた。それでも命知らずの同輩が、何人も目の前で死んでいった。
青年期を脱して大人になってから、彼はザールブルグに居着いた。冒険者を廃業し、鍛冶師へ転向したのもこの頃だ。そして恋をして、子に恵まれた。男の子が一人、女の子が二人。皆、ゲルハルトの宝だ。
ただ、どの子とも一緒には暮らしていない。子供達は、皆母親と一緒に遠くの街に住んでいる。ただ、これは愛した人と別れたからではない。その人の事情と、ゲルハルトの事情がそれぞれにあったからだ。今では年に一二度会えるか会えないかという所である。
子供達も、たまに来てくれる。彼の妻は猛烈に忙しい人で、来てもすぐに帰ってしまうが、それは仕方がない。というよりも、婚約前からそんな感じであり、一時期は下手すると精神を病みそうな感じだった。だから、ゲルハルトも、その辺にはすっかり慣れっこだ。妻はゲルハルトに慰められることを何より心の支えにしたらしい。そうやって頼ってくれる人の存在が、ゲルハルトには心地よかった。だから、ゲルハルトは妻を今でも愛している。
妻が別の街へ行ってしまい、ザールブルグで指折りの鍛冶師になってから、彼の頭髪は減り始め、数年のうちにすっかり消えて無くなった。心労が一因にあったかも知れない。
豪放磊落なゲルハルトだったが、これには困り果てた。周囲の皆は慰めてくれたが、無くしてみて初めて分かる価値というのはある。ゲルハルトはすっかり落胆し、最後の髪が失われてから一月は立ち直ることが出来なかった。それから彼は失ったものを取り戻すように仕事に打ち込むようになり、数年のうちに、盤石の名声を確保することに成功した。冒険者時代の蓄えで、店も持つことに成功し、コネクションを使ってアカデミーともパイプを確保している。定期的な収入もあり、生活には全く問題がない。
そして今である。波瀾万丈と言うほどではないにしても、様々に起伏のある人生の中、ゲルハルトは生きている。彼の目下の野望は一つ。それは、失われた髪を復活させることだ。野望に対して夢は二つ。一つは妻子と一緒に暮らすことだが、これは向こうの事情が許さないと分かっているから、諦めている。もう一つの夢は、世界最高の鍛冶師となる事だ。これは今、全力で取り組んでいる所である。
ゲルハルトは愉快な男だが、決して愚鈍ではない、立派な大人だ。だからこそに、出来ることと出来ないことの分別は着いている。
大人になるというのは、自分の欲求を封じ込めてしまう事でもある。陽気なゲルハルトにも、そういう寂しい面が、確かにあるのだった。
1,最初の一段
薄暗く静かな図書館。音を立てることが罪悪に感じられるほどに、整った世界が其処にある。足を踏み入れたマリーは、迷わずに奧へ足を進め、本棚に手を伸ばす。
アカデミーの抱えるこの図書館には、世界レベルでも貴重な文献が多数あり、強固なセキュリティに守られている。まだ規模は小さいのだが、貴重な情報が手にはいることが多いので、マリーはよく足を運んでいた。
薄暗い図書館の中、貸し出されているランプを机に置き、マリーは棚から抜き出した本を開く。今日本棚から出したのは、イングリド先生の著書。現役学生の時は理解できなかったことの数々が、今では流れるように頭に入ってくる。ヘルミーナという人の本も多いのだが、此方は基本的に支離滅裂な文体が炸裂しているので、読むのに体力がいる。基礎力をつけるためにイングリド先生の本を読み、応用展開のためにヘルミーナ先生の本を読む。それが基本の姿勢となりつつあった。
魂の定着を成功させたことで、マリーは当面の目的に対して一歩前進した。要は恒常的にアデリーの魔力を安定させる道具を作ることが出来れば良いわけで、それには力の定着の技術が必要不可欠である。あれから数本の生きている縄を試作して、マリーは製造に自信を持った。今後は更に高度なスキルを選択的に身につけていき、順番にこなせるようにしていけばよい。
今日の目的は、その一環。ホムンクルスについての調査であった。
ホムンクルスはマリーも知っている。錬金術によって作られた人工生命であり、実物も見たことがある。アカデミー内で下働きをしている小柄な人影がそれだ。少し調べてみたのだが、ホムンクルスには究極といっても言いレベルでの魔力定着技術が使われており、不安定さをサポートする再生技術も用いられている。アデリーの力の暴走を抑える道具の作成には、どうしても研究は避けて通れない。
幾つか文献を調査した結果、マリーにもその基本姿勢が分かり始めていた。イングリド先生の本には、何度も丁寧にそれに触れた箇所があるからだ。
ホムンクルス作成の骨子は、以下のようなものである。
1、精神の中核となる魂の確保。これに関しては、浮遊霊を用いる場合と、魂を最初から作り出す場合がある。マリーが作り出した生きている縄には前者の技術を用いたわけだ。後者の場合は、核というものを作り出して、そこに魂を宿らせるのだという。
2、肉体を作り出す。これに関しても、技術はピンキリだ。魂のはいる器としての肉体を作り出す技術もあるというが、マリーには想像できないし、文献レベルでも確認してない。もし出来るとしても、アカデミーの機密レベルであろう。マリーが文献をざっと見たところ、死体を活用する場合もままあるようだ。いずれにしても、今のマリーには手が届かない。
3、肉体を保つ。これが最重要課題である。ホムンクルスの欠点は寿命が短いことであり、それの理由には二つある。一つは魂の長期的な定着が上手くいかないこと。もう一つは、肉体が自己崩壊してしまうこと。これを錬金術が長年培ってきた技術でどうにかするのが本題となる。
もともと命を作り出すという作業自体に、大きな無理があるのだ。それを人間の手で行ってしまうわけだから、二重に無理がある。理論と技術でそれを可能とするのが錬金術なのだが、それを持ってしても越えられない壁は確かにある。
しかし、無理だなどとは言っていられない。マリーは今のところホムンクルスの製造に興味を持っていないが、調べれば調べるほど、その技術は必要だと分かる。たとえば、魂の定着技術は、アデリーの魔力を吸収定着するために必要だ。肉体を作り出す技術に関しても、複雑な命令を出す道具には必要になってくる。更に、肉体を保つ技術に関しても、アデリーの不安定な魔力と肉体のバランスを保つためにも、知っておく必要がある。覚醒暴走型能力者の中には、メルトダウンを起こして周囲もろとも吹き飛んでしまうものもいる。時間は幾らあっても足りない。知識はどれだけあっても更に必要なのだ。
あくびをする。流石に精神力が限界近い。最近はかなり高度な理論も頭にはいるようになってきたが、それでも人間である以上限界はある。既に夕刻になっていた。時間に気付くと、腹が急に減ってくる。精神の束縛が無くなった肉体が、自己主張を始めたのだ。本をしまって席を立つ。とりあえず、次に試してみたい理論は見つけた。後は三年目辺りの教科書で細かい部分を詰めていけば、すぐ実行に移せる。
冬はそろそろ終わりだが、まだ外は肌寒い。コートを羽織ってアカデミーを出ると、息が白かった。帰り道でフレアとナタリエとすれ違う。ナタリエは冒険者としての装備を調えているようで、新品のマントを身につけていた。見たところ、そろそろ飛翔亭の斡旋で仕事を始めるのだろう。冒険者ギルドにはまだ許して貰っていないようだし、仲間を死なせてしまった精神的な痛手からは回復しきっていないようだが、単独での簡単な仕事ならこなせるはず。
戦ってみたからよく分かるが、彼女は身体能力も反射神経も、充分に一流の域に達している。戦士としての素質は充分で、良い師匠がつけば騎士にだってなれるだろう。問題は精神にかなり幼さが見えることか。この辺り、田舎出身の人間には珍しい。辺境都市の出身だからだろうか。
「こんちわー」
「あら、マリー。 帰り?」
「うん。 じゃね」
マリーが手を振ると、視線を背けながら軽く頷いた。可愛い奴だ。年も近いし、アデリーとは姉妹のような良い友達になれるかも知れない。フレアとは年が近いはずだが、見ていると殆ど親子のようだ。
適当な車引きがなかったので、市に寄って新鮮な野菜と魚を仕入れていく。アトリエに着いた頃には、すっかり夜になっていた。今日は夜まで出ると先に言っておいたので、アデリーは心配していないはずだ。
戸を開けると、竈に向かっているアデリーの後ろ姿が見えた。狭いアトリエだし、中に何があるかは戸を開けるとすぐに分かってしまう。振り向いたアデリーは、ぺこりと頭を下げながら言った。
「お帰りなさいませ、マスター」
「ただいま。 それ、晩ご飯かな?」
「はい。 シロテングダケを使って、シチューにしています」
「お、それはいいね。 楽しみだわ」
僅かに笑顔を浮かべているアデリーの頭を撫でると、マリーは地下室へ買ってきた食料品を運び込む。既に心地よいシチューの香りが、アトリエには充満し始めていた。
保ちが良い上美味しいシロテングダケは、エルフィン洞窟へ出かける時にたまに採取できる。アカアマテングダケに似ているが、傘の中央が突起状に飛び出している形状が特徴で、ほんのり甘い香りがする。岩壁に生えていることが多いのだが、周囲に密生している苔は有毒であるため、採取には注意が必要だ。注意が必要なだけあり、味は絶品で、栄養価も申し分ない。これを使って作るシチューが最近は楽しみで、アデリーの料理の腕が上がってきている現在、仕事の原動力の一つとなっていた。
アデリーはマリーに触られても平気になっている。この間の一件以来、距離はぐっと縮めることが出来た。感情も豊かになり始めていて、ここのところ笑顔まで見せてくれるようになっている。もう少し自己主張と欲求伝達が出来るようになったら、社会に順応も可能になるかも知れない。
図書館で取ってきたメモを開いて、教科書と対比しているうちに、シチューが出来た。木製のスプーンで口に入れると、やはり美味しい。材料こそは質素だが、工夫次第で幾らでも美味しい料理が出来るという実例が此処にあった。しばし舌鼓を打つ。美味しいので食事中無口になるのが唯一の欠点か。今晩も徹夜になるから、こういう精力がつく食べ物は実にありがたい。アデリーもマリーが徹夜など珍しくもない乱れがちな生活をしていると理解している。多分、精がつく食べ物を選んでくれているのも、その辺りからだろう。今まで本能的なおそれを抱いていたマリーに対して、こういう形で気を使うことが出来るようになったのだ。良い兆候である。
シチューを食べ終えると、食器を片付けて、すぐ勉強に入る。アデリーは寝室に適当なところで切り上げた。何だか少しずつ余裕も産まれているようで、以前のような痛々しさが減っており、安心感がある。だが、まだまだ油断は禁物だ。一番難しい年頃であるし、ようやく人並みになりかけているというのが実情なのだから。
今、調べているのは、肉体の制御方法。錬金術の思想によると、肉体は栄養によって支えられ、それには属性が大きく関係しているという。たとえば、火の属性を持つ竜族は、火の属性がある食物を取ることによって更に強大になる。水に住む魚は、同じように水に住むものを食べることによって、大きく成長する。ドラゴンは火山を好むし、魚は水からでない。
一見理にかなっているようにも思えるが、何だか腑に落ちない。グランベルでドラゴンをさんざんバラしたことがあるマリーは、連中の食性が実に豊富であることを知っている。奴らは特に若いうち、動物なら何でも食べるし、植物も同じくらい豊富に胃に入れる。エルダーとかエンシェントとか呼ばれる強力なクラスになると食事は減るが、そういった連中もまんべんなく色々胃に入れている事をバラして確認済みだ。多分植物は地の属性のはずだ。それなのに、関係なくたくましく育って居るではないか。
理論に疑問はあるものの、それが実証されているのも事実。イングリド先生が作り出した植物用成長剤は、多くの植物に有用なことが実証されている。成長後に出来る作物は害もなく、量産も効くため、すでに何カ所かの畑で実験的に用いられているほどだ。実現されている以上、マリーの疑問は空に流れてしまう。それに、マリーがこの栄養剤の作り方をマスターすれば、グランベルの農業生産力は更に増す。理論を事実に優先するわけにはいかない。それは低脳のやる事だ。
最近は難しい理論も、多少は理解出来るようになってきている。だから、うっすらとアデリーの力を抑える道具の作成理論も分かる。それを確実にするには、もっと知識が必要だ。
火が弱くなってきた。ランプに油をつぎだして、既に深夜である事に気付いたマリーは、外に出て気分転換に杖を振るった。そろそろ何か殴り殺してストレスを発散したいところだ。殺意がこもると、戦闘能力も技のキレも何段も増す。それが人間の現実。マリーが戦闘で知った事実である。野犬を殴り殺すイメージを持ちながら、杖を二百と八度振るった。軽く汗が浮いてきた頃、ストレスは消えていた。
息を吐いて、体内の魔力の流れを整える。全身の筋肉が殺戮を求めて疼いている。魔力が破壊を求めてさえずっている。暴れたいと要求する魔力を抑えるのが難しい。周囲の空間に、何度かいかづちが走った。マリーはそれを力づくで押さえ込むと、舌なめずりした。
だいぶ力が戻ってきた。身体能力は最盛期の七割。魔力は六割強という所か。杖ももう少し重さを増やした方が良いか。どちらにしても、そろそろ昔の遺産ではなく、新しい技を仕入れていくべき時期だ。マリーはまだ若い。力はまだまだ伸びる。
アトリエに戻ると、今まで殺しの技術を磨いていたことを忘れ、再び勉学に没頭する。獰猛なまでの集中力が、マリーの頭の恐るべき速さでの切り替えを可能としている。ほどなく、マリーはあるものの実験を開始することを決意していた。
翌朝早く、ギルドに人員募集の知らせを出してきた。今回はメディアの森に出かける。普段はピローネに行って貰っている場所だが、今回は大量の採取が必要になる上、かなりの奥地まで行かなければならない。それは契約外であり、そもそもピローネが生きて帰れなければ意味がない。そのため、マリーが直接行く必要がある。もう一つ問題がある。図鑑に載っている素材がかなり複雑な採取手段を必要とするため、ピローネには任せることが出来ないのである。
メディアの森は奥深く、魔物の存在も確認されている。それなりに強力なメンバーを連れて行きたいところだが、クーゲルはここのところ忙しいらしく、他のベテランも知っている人間には皆ふられてしまった。それなら人数で補うしかない。
最近は資金でもだいぶ潤沢になってきているが、失敗は最小限度に抑えたい。マリー自身の力も戻ってきているとはいえ、今回は三人以上連れて行きたい所だ。上手く人が集まると良いのだがと思いながら、マリーは武器屋に帰りによる。昼前だが、ゲルハルトは店を開いていて、マリーを上機嫌で迎えてくれた。上手い具合に、他の客はいない。
「おお、来たか」
「えへへへ、おっちゃん、こんちわ」
「その様子だと、そろそろ重さが物足りないか?」
「ええ。 ちょっと調整してもらえます?」
手渡した杖は、やはり軽かった。体の中の筋肉が、更に殺傷力が高い武具を求めている。しばし杖を上から下から見ていたゲルハルトは、言う。
「よく使ってるな。 もうかなり殺しただろ」
「あまり人間は殺ってませんけど、ね」
「武人の性ってのは、かって俺もそうだったからよく分かる。 しかし、それが大事な人との溝とならなければよいのだけどな」
「そうですね」
クーゲルの顔が思い浮かぶ。少し前に、危険な北部の山岳地帯に同行して貰った時に、聞いた。教えてくれたのだ。彼が道を究め上げるきっかけとなった物語を。血塗られた半生の記憶を。
おそらく同類として、武人として、クーゲルはマリーを認めてくれている。だからこそに他愛ない事として話してくれたのだろう。道を究め上げるというのがどういう事か知ったルーウェンは、案の定というべきか、真っ青になっていた。普通の人間の反応である。マリーの反応とは違う。だが、もし今後も戦いの道で身を立てていくつもりであれば、普通の人間の考え方では、やっていけなくなる。
マリーはそう言う意味では、理想的な武人の資質を備えている。いざとなれば人間だろうが何だろうが容赦なく頭をたたき割れる。殺しに嫌悪は感じないし、血に染まった手を厭うこともない。だが、武人としての、戦闘を極めしものとしての人生を送り続けたクーゲルの道は、マリーに嫌な未来を予感させる。
子供はいつか親元を巣立つものだ。いつかは自分でものを考えるようになり、親の手助けなしに決断できるようになる。アデリーは殺しどころか、戦いに根本的に向いていない優しい子だ。アデリーが大人になった時、マリーとの間には、巨大な溝が生じていないだろうか。
どちらにしても、未来の話だ。マリーとしては、アデリーがきちんと育てばそれでかまわない。自分と袂を分かったとしても、それはそれでいい。
ゲルハルトは幾つか奧から材料を出してきた。薄い鉄の板も混じっている。右手に杖を持ち、左手の板の重さと比べながら、ゲルハルトは言う。
「鉄片で補強する。 少し高いけど、いいか?」
「資金は潤沢ですから」
「お、腹が太いじゃねえか。 おし、まかせとけ。 すぐに仕上げてやるからな」
ゲルハルトの手際を見るのは、マリーの楽しみの一つだ。実に効率よく、杖に鉄片を巻いていく。だが、今日だけは、それを楽しく見ることは出来なかった。
マリーの体内でうごめいている破壊的な本能は、生まれついてのもの。抑えきれなくなる衝動も同じだ。こればかりは一般人で言う性欲や食欲と同じく、精神論で克服できるものではない。武術によって得た精神制御で抑制は出来ても、根絶は出来ない。人間とはその程度の生き物だ。マリーはそれを、己の体で知っている。
杖はほぼ完璧な重さに調整されていた。破壊力は充分。手応えもしっかりしている。これで、戦いに行く準備は整った。後は帰り道に、保存食や旅行用の道具の換えを買っていくだけでいい。幾つか前回の採取で駄目になってしまったものがあるのだ。
「おっちゃん、いつもありがとございます」
「こっちこそ、毎度ひいきにして貰ってすまねえな」
「…ところで、相談があるんだけど、いいすか?」
「何だ? もったいつけねえで言ってみな」
マリーは知っている。豪放磊落なゲルハルトの弱点を。そして今回の実験に、それが最適だということを。
昨日偶然市で手に入れた材料を用いて試験的に作った薬品の効果は想像以上だった。残念ながら材料がいつも手にはいるようなものではないこと、ごく少量だけしか手に入らなかったことから、試験的にしか作れなかった。だからこそ、メディアの森に根本的な素材を取りに行くのである。
早く試してみたいと、全身が疼いて仕方がない。マリーの右腕が、少し早く手入れされているのが、その実験の結果である。しかし、人体実験を行う時には、相手に断るのが筋というもの。だから、マリーはゲルハルトに打ち明けたわけだ。
ゲルハルトの顔色は、みるみる変わった。しばし腕組みして考えていた彼は、マリーの予想通り歓喜していた。
「そんなものが本当に作れるのなら、是非頼む。 期限はとわねえ」
「害があるものにはならないように良く調整しますけど、もし失敗したらごめんなさい」
「良いって事よ。 じゃあ、出来たらすぐにでも持ってきてくれ。 頼む、な」
ゲルハルトはよほど嬉しかったらしく、玄関まで見送ってくれた。これで同意は取れた。マリーはスキップしながらアトリエに帰る。今から、メディアの森に行くのが楽しみで仕方がなかった。
アデリーがマリーの悪癖を敏感に悟ったか、少し悲しそうな顔をした。アデリーの頭を撫でて、しばらく出かけることを告げると、体力を養うべく、マリーは早めに寝室に向かう。こんな時でも、冷静に頭は動く。
戦士としての本能が、マリーの中には常にあった。
2,密林の戦い
荷車を引いていたマリーは、眼前に広がる絶景に思わず目を細めていた。まさに緑の絨毯。春だというのに、あふれるばかりの生命力が充ち満ちた大地が、そこには広がっていた。
「絶景かな絶景かな」
「はいはいそうだな。 どうでもいいけど、早く進んでくれよ」
「分かってるってば。 んー、いい風」
文句をたれるのは、後ろから押しているナタリエだ。急な話だったとはいえ、ギルドでは結局二人しか応募がなかったので、飛翔亭に話して彼女を回して貰ったのである。ナタリエはあまり嬉しそうではなかったが、文句も表だっては言わなかった。この子がフレアの言うことには絶対服従だし、マリーのこともそう嫌っては居ないという事は、既に分かっている。
それにしても、とマリーは思った。丘の頂上から、これから降って森に入っていかなければならない。中にはいると、絶景を楽しむどころか、周囲に警戒しながら動かなければならず、余裕はなくなる。だから今絶景を楽しんでいたのだが。まだまだ、この辺りナタリエは子供である。
脳天気な笑顔でやりとりを見守っていたハレッシュが、手をかざして遠くを見ながら言う。当然のことながら、危機感も緊張感もない。
「それにしても凄い森だな。 どうしてまたこんな所に?」
「色々とほしい材料があるのよ」
「厄介だな、錬金術ってのも。 その辺で落ちてるようなもので作れないものなのか」
ぼやいたのはルーウェンである。今回はミューが居ないせいか、少し不機嫌さが表に出ていた。わかりやすい奴である。
雑談をしていても意味がない。マリーが動き出すと、他の三人も進み始める。今日でザールブルグを出て三日目。いよいよ、ここからが本番だ。
メディアの森。シグザール王都ザールブルグ北部にある、広大な森林地帯である。豊富な植生を誇る原始林で、内部には山岳地帯から流れてきた川や湖もある。一部は最終的にストルデルに合流し、王都の重要な水源の一つとなっている。
メディアは文字通り昼なお暗い森であり、様々な猛獣が日々互いの肉を食らい合い、獲物の肉を奪い合っている。ドラゴンこそ居ないが、それ以外の猛獣はあらかた存在が確認されているほどだ。
その中でも数が多く厄介なのが、フォレストタイガーとアークベアである。特に後者は人間の十倍以上に達する重さを誇るものが確認されており、秋口と春先は危険度は高い。また、少数ながら蛇と人間がハイブリットしたような魔物も現れる。蛇女と呼ばれるそれは、簡単な術を使いこなす、危険な存在だ。
また、この森の最深部には、エルフ族の集落もある。もちろん、そこに人間が入ることは極めて難しい。あらゆる意味で危険が多いメディアの森だが、中にある湖の周辺に、幾つか小さな集落がある。最近では森の周辺に集落を作る者も出始めており、シグザール王国では監視を強めている。あまりにも無作為な開発は望ましくないからだ。
この森の有用性を最初に認めたのは生物学者だが、社会的な活用の可能性を見いだしたのはやはり錬金術アカデミーである。今ではアカデミーの依頼を受けた素材回収チームが、此処で物資の採集を定期的に行っている。ただ、それでは当然のことながら割高になる。マリーは最近経済的にだいぶ楽になってきているが、無駄遣いは避けたい。それにレアリティの高い素材はアカデミーに優先的に納入されてしまう。だから、そういったものが欲しい場合は、自分で取りに行くしかないのだ。
森に入ると、途端に荷車が重くなる。道がないし、木の根は多いし、何より地面が柔らかいからだ。入った途端、今までもぶちぶち文句をたれていたナタリエが不満の声を上げた。
「重い! 何だよこれっ!」
「代わりな。 俺が押す」
ハレッシュがナタリエと交代すると、ぐいぐい押してくれるようになり、木の根も草も何のその、一気に効率が良くなった。周囲から無数の殺気を感じる。縄張りに入ってこられて、警戒している猛獣たちのものだろう。草食獣の中にも危険なものは少なくない。ここからは、一瞬たりとも気は抜けない。
まず北上して、川を目指す。其処から上流に沿うようにして進んでいき、途中の村を中継地点として、最終的には森の最深部を目指す。問題は最深部に集落を作っているエルフ族だが、これに関してはピローネに居場所を聞いており、多分鉢合わせることは無いだろう。それよりも、虎や熊に警戒する方が先だ。
密林といっても、そこら中ブッシュだらけというわけでもない。ただ、彼方此方にはやはり歩きにくい植生があるので、そういったものは鉈で切り払っていかなければならない。偵察要員がいると更に行動が楽になるのだが、其処までは望めない。シアも今回はトール氏の仕事のサポートでザールブルグを離れているため手伝ってもらえなかったし、森にこの中で一番詳しいマリーが皆を先導するしかない。ベテランの手も借りられず、経験が浅い冒険者ばかりを集めて未知の土地に踏み込むのだから、やはり緊張する。
森を進む。所々樹幹の間から差し込んでくる光が、マリーや荷車に当たる。分厚い落ち葉が足下にはあり、時々巨大な糞便も落ちている。それをした奴が近くに居ることは間違いない。得体の知れない咆吼は、しょっちゅう聞こえた。マリーが正体を分析できない声もあった。
「春なのに、なんだか蒸し暑いな」
「この辺りは、どういう訳か気温が安定してるらしくてね。 それでこんな巨大な森が出来たんだって」
「何だよそれ」
「詳しくは分からないわよ。 ただね、それが悲劇の元にもなったらしいわ」
ルーウェンの疑念に、マリーは荷車をひきつつ返す。アカデミーの図書館で得た知識だが、知っておいて損はないものであった。
シグザール王国がこの周辺を統一する前のことだ。この辺りにはベルゼンブルグという城を拠点にするメディア王国があった。その王国では、常に密林が保たれるこの森を神聖な場所として、崇拝の対象としていた。最初はただそれだけであったが、失政と敗退が続き、更に疫病にも襲われたメディア王国では、徐々に信仰が先鋭化していったのである。
最初は家畜が生け贄に捧げられた。だが状況はいっこうに好転せず、人間が捧げられるようになるのに時間はかからなかった。
それでも事態は良くならない。幾つかの国から圧迫され続けたメディア王国では、生け贄の数を増やして、神の加護を買おうとした。だがそれは国力のさらなる疲弊を招き、信仰への疑念を産む母体となっていった。
やがて内外の圧力から、メディア王国は崩壊。王家の者達は処刑されたが、生き残った僅かな者達はこの森の奧へ逃げ込み、消息を絶った。皮肉な話である。彼らが森の生け贄になったのは、間違いなかっただろうから。メディアの森は、さながら地獄の魔王がごとく、人間を無差別に食らい続け、メディア王国を崩壊に追い込んでしまったのである。
だから、この森では人骨が見つかることが珍しくもない。悪霊の類もかなり多いとマリーは聞いていて、今回は対策用の道具を幾つか持ってきている。信仰は必ずしも悪ではないが、それがもたらす悲劇の結実として、この森で起こったことは後世に伝えていかなければならないだろう。
それにしても、この森の恒温性はどこから来ているのだろうか。確かにルーウェンが言うとおり、春とは思えないほど蒸し暑くなってきている。掌ほどもあるバッタが、大きな羽音を立てながら飛んでいった。噂によると、人間よりも大きいバッタもいるという。そして、草食だとは限らないとか。
周囲警戒組に回ったナタリエは、二の腕ほどもある大振りの戦闘用ナイフを抜いて、辺りに油断無く警戒の目を向けていた。知識はなくとも、身体能力は充分に高い。後、切り札であるメタモルフォーゼの事も気になる。戦闘時にどういう活用が出来るのか、今から遭遇戦が楽しみであった。それに、この間の戦いで使っていたナイフは腰に差したままだ。あの切れ味は思い出すと心躍る。戦闘で活用するところを是非見てみたい。
半日も行かないうちに、周囲は完全に人里と隔離した空間になった。とても登り切ることが出来ないほどに木の背も高い。樹冠まで昇るのにも、相当な苦労を要した。まず、川岸にまで出ないと、キャンプの計画すら立てられない。そもそも河原があるかどうかも不安だし、広い空間があるかどうかはもっと不安だ。川に近すぎると、大型のワニに襲われる可能性があるのだ。しかも最悪なのは、今まで進んできて、拠点に出来そうな場所が一つもなかったということだろうか。
方角は把握しているが、状況は良くない。ミューが着いてきていたら、この辺でぶちぶち愚痴をこぼしただろう。マリーだっていい加減愚痴りたくなってきている。
ふと足を止めて、手近な枝を折って木の幹に不自然に突き刺した。目印だ。木の幹には赤黒いキノコが密生している。ヤドクダケと呼ばれる猛毒の品種で、ピローネに回収してきて貰う素材の一つだ。帰り際に荷車が空いているようなら持ち帰る候補である。情報通りの村にたどり着くには、まだ二日は歩く必要がある。この辺りの川は滝が多くて船で行くのは難しいので、ただひたすら歩くしかない。ハレッシュとルーウェンが交代し、汗を拭うナタリエを横目に、マリーは更に荷車を引く。
木を登ってみて分かったが、暑いのには理由がある。気温が高いのではなく、湿度が高いのだ。その証拠に、樹冠の辺りはもの凄く涼しかった。不思議な森である。踏んでみて感じるのだが、土は非常に豊かだ。この森は切り開いてしまうにはもったいない。あくまで保持して、時々入って森の幸を持ち帰るのが利口な活用方法であろう。悲劇の地ではああるが、それは人間の都合の結果だ。こういうものを見ると、如何に利用するかとマリーはついつい考えてしまう。
大きなアーチ状の倒木が、行く手に立ちふさがった。鉈で切り開くのは難しく、迂回するにも時間がかかる。驚くべきは、倒れたばかりだというのに、もう苔むしているという事であろう。更に、周囲には小さな木が生え茂り、空を目指して伸び上がっている。ハレッシュの槍もルーウェンの剣も、これを崩すには向いていない。荷車を脇に寄せると、マリーは背負っていた杖を構える。
「どいて。 あたしがやる」
「あんたがどうやってやるんだよ」
「ん? 確か君、マリーと交戦したんだろ? だったら分からないか? マリーが一番適任だよ」
苛立ち紛れに噛みついてくるナタリエに、ハレッシュが脳天気な指摘を入れる。そういえば、ナタリエはマリーが大魔法を使うところも見ていないのであったか。ならば、この辺で驚かせておくのも悪くないだろう。
「邪魔が入らないように護衛よろしく」
「わーってるよ」
ルーウェンが剣を抜き、辺りに目を光らせる。流石に成長期。少しずつ頼もしくなってきている。
「何だよ、訳が分からないなあ」
「見てれば分かるって」
口を尖らせるナタリエの肩をハレッシュが叩いた。ナタリエは真っ青になり、大げさかと思えるほどの動作でハレッシュから飛び退く。ひょっとするとこの子、極端な人見知りなのか、或いは男性恐怖症なのかも知れない。
詠唱し、魔力を一気に高める。底力が上がっているから、以前よりぐっと早く術を完成させることが出来る。気合いと共に、マリーは魔力を練り上げ、いかづちに変え、撃ち放つ。
「サンダー・ロードヴァイパー!」
巨大な電気の大蛇がマリーの掌から躍り出て、倒木にかぶりつき、貫通する。衝撃波は周囲を痛打し、マリー自身も身長の半分ほど反動で下がる。吹っ飛んだ木片が降り注ぐ中、マリーは額の汗を拭った。ロードヴァイパーの火力もかなり最盛期のものに近づきつつある。この分であれば、今年中には力を取りもどせるだろう。
呆然と立ちつくしているナタリエは、ナイフを取り落としそうだった。或いは攻撃系の魔法を使いこなす術者をはじめて見たのかも知れない。マリーは決して最強の術者などではなく、世界には幾らでも上が居るのだが。
マリーが造った道を、足早に四人は進む。最後尾についたナタリエは極端に口数が少なくなり、逆に隣を歩きながらハレッシュが語りかけてくる。
「また威力が上がったみたいだな。 流石だ」
「まだまだ。 これでやっと四年前に近い水準だね。 鍛えていけば多分この倍はあがるよ」
「恐ろしい話だぜ。 それでも世の中には、際限なく上が居るんだよな」
「あたしじゃ、到底追いつけないほどの相手がね」
言って思わず笑みがこぼれてしまう。面白いではないか。それでこそ、生きていく価値があるというものだ。
川に出たのは、その日の夕刻。かなり広い河原があり、キャンプが出来る条件が整っていた。川の幅は思ったよりずっと狭い。扁平で大きな不思議な魚が、近くの水面下で微動だにしない。菱形のその体からは、長いしっぽが出ていた。ハレッシュが言う。
「エイだな。 一度汽水域で見たことがある。 川にも住んでいるってのは知らなかったが」
「へえ、あれが」
マリーも噂には聞いたことがある。最大級のものになると、家ほどもサイズがある個体がいるという。確かしっぽには鋭い毒針があるはずで、うかつに近づかない方がよいだろう。ただでさえ水は濁っていて、中に何が居るか分からない。下手に近づくのは自殺行為だ。
水は濾過してもまだ濁りが取れず、三回丁寧に濾過してようやく澄んだ状態になった。それを煮沸して、飲み水を作る。ナタリエが近くで兎を仕留めてきた。兎と言っても、その辺の野原にいる奴よりも二倍も大きく、抱えるようなサイズだった。肉も大量に取れた。
森に入って、様々な巨大生物を見た。かといって、全ての動物が大きいというわけでもない。先ほど飛んでいった叫喚鳥はザールブルグ近辺にいるものと殆ど同じサイズだし、河原に出る寸前に見かけた胴長蛇は、むしろ小さいほどだった。アークベアが巨大だという話は聞いているが、フォレストタイガーが大型化しているという話はない。要するに、生態が根本的に違うと考えるべきなのであろう。
ストルデルの支流によって、区切られたこの不思議な森。決して広大無辺とはいえず、人間の足でも一週間もあれば横断が可能なレベルだ。広がることもなければ、消滅することもない。文献に寄れば数百年も前からこの状況は変わっていないという。一体この森は何だ。
いつもより交代を多めにして、少し長めに休憩を取る。シアもクーゲルも連れてこられなかったのは失敗だったとマリーは寝床に潜り込みながら思った。この森は予想以上に危険な場所だ。流域にあるという村にたどり着いたら、改めて情報を仕入れたいと、マリーは星空を見ながら考えていた。
異変は、翌朝早くから始まった。
キャンプ地の目印を確保して、川の上流へ進み始めてすぐの事。猛烈な血の臭いを感じて、マリーは顔を上げた。しばし足を止めて考えていたマリーは、やがて決断した。
「ハレッシュ、ポジション交代」
「お、そうか」
マリーが押す側に入り、ハレッシュが荷車を引く。ハレッシュ以外の全員が一気に緊張する。事前に伝えてあるからだ。戦闘が予想される場合には、この隊形で行くと。ルーウェンも血の臭いに気付いた。
「迂回するか?」
「それが賢明だわ」
どうせすぐ手前に滝があり、正面から突破するのは難しいところだったのだ。嶮岨な地形を避けるように回り込む。その途中、木々の間から、マリーは遠目に見た。蠅が集る、小山のような巨体を。あの灰色の毛皮、間違いなくアークベアだ。縄張り争いをするにしても、殺し合うほどの闘争は殆どしないはず。かといってフォレストタイガーに殺られたとしたら、死体の形状が整いすぎている。喉を一撃で食い破られたような印象だ。しかも、死体は放置している。
野生の動物は、殆どの場合、無意味な殺しをしない。
ハレッシュが眉根を寄せる。彼も異常さに気付いたらしい。
「何に殺られたんだ、あの熊」
「さてね。 魔物にしても様子がおかしいし、近づいて調べるのも危険だし。 早く行きましょう」
あんな殺し方をするのは、多分人間だ。そうなってくると、獣より厄介な可能性がある。先を急いだ方が良いと思った、矢先だった。
ハレッシュが足を止める。マリーが杖を構える。左は川、右は密林、背後は嶮岨で逃げづらい。最悪の状況だ。ナタリエもルーウェンもめいめい構えるのを確認して、マリーは叫ぶ。
「出てきなさい!」
荷車を蹴って横にして、バリケードにする。いざというときはこれを放棄して、盾にして逃げるのである。殆ど役には立たないだろうが、それでもやらないよりはマシだ。茂みが揺れ、小柄な人影が出てくる。尖った耳、人形のように整った顔立ち、憎悪の視線。緑の衣服に手にした血染めの弓。
エルフ族であった。肩に酷い傷を受けていて、びっこを引いている。そのまま、荷車の少し前で、倒れてしまった。息づかいも荒い。放っておいたら死ぬだろう。
ナタリエが飛び出すと、寝かせて手際よく手当を始める。着衣の一部を裂いて傷口に当て、縛って出血を止める。真っ青になっているエルフは、まだ若い。顔立ちが異様に整っていて、却って非人間的なものを感じてしまう。肌も白皙で、きめ細かい。美しい種族だと言われるが、それも間近で見るとよく分かる。体つきも貧弱で、触ってみるまで性別も分からなかった。
荷物の中から傷薬と栄養剤を取り出す。ルーウェンが少し不思議そうに見ていたが、やがて手伝いに加わった。ハレッシュは槍を構えて、第一級臨戦体勢を敷いている。
「他の仲間は?」
「誰が、いうもの、か。 侵略者、どもめ。 あの、ばけも、のは、おまえ達が、放ったの、だろう」
「あいにくだけれど、何のことだか分からないわね。 あたしはこれでも辺境の村出身だから、エルフ族が森を豊かにする一族だってのは理解しているし、それによって得られる恩恵も知ってる。 積極的に仲良くしようとも思わないけれど、無闇に殺そうとも思わない。 仲間は? エルフ族は、確かスリーマンセル(三人一組)かフォーマンセル(四人一組)で行動するはずでしょ」
「だまさ、れる、もの、か」
ひゅっと息を吐き出すと、年若いエルフは気絶した。マリーは嘆息すると、荷車に彼女を乗せて、後退を指示する。一端キャンプまで戻り、状況を確認するのが最善だからだ。あの熊を殺った奴が、犯人である可能性は極めて高い。出来れば森を出たいところだが、そうもいかない。気配を探っていたハレッシュが、絶望的な事を言った。
「生きている奴は近くにいないぞ」
「でしょうね」
マリーは目を細めた。もし生き残りが近くにいれば、マリー達を攻撃して、仲間を取り戻そうとするはずだ。そもそも傷ついた仲間を、人間の方へなどいかせはしないだろうし、接触を避けるはずだ。彼女が所属していた偵察チームは、何者かに全滅させられたのだ。そしてそれをやった奴は、すぐ近くにいる。
急いでキャンプまで後退した。どこに何が潜んでいるか分からない。まさに最悪の状況である。どこかで虎の悲鳴が聞こえた。今のところ此方に殺気は向いていないが、それもいつ過去形になるか知れたものではない。
最大級の警戒態勢を敷きつつ、このエルフから殺戮者の情報を得るしかない。それが此方に攻撃を仕掛けてくるようであれば、倒すか、逃げるかしなければ、全滅することになるからだ。正体が知れない敵は、流石にマリーでも怖い。此方に敵意を向けてこないような相手であればよいのだが、難しいだろう。
幸い、エルフの女は、致命傷ではない。一時的に激しく失血したが、処置が早かったので助かる。意識が戻るまで三刻という所か。それまでに、何者かが攻撃を目論まないように、祈るしかなかった。
キャンプの周囲に石を積んでバリケードを組む。薪を集めて、松明の材料を揃えておく。周囲を観察狙撃しやすいように、少し小高い石段を組んでおいた。作業を指示しながら、もう二人くらい冒険者を連れてくるべきだったと、マリーは後悔していた。
彼は命令を受けていた。全てを捧げなければならない主君から、絶対的な命令を受けていた。
その一つは、熊を殺すこと。次は、鰐を殺すこと。次は虎を殺すこと。次は狼の四頭以上の群れを全滅させること。そして最後が、エルフの四体以上の群れを見つけて、全滅させることだった。
主君がどうしてそのような命令を出したかなど、彼にはどうでも良いことだった。命じられたことを一つ果たすごとに、脳に絶対的な快楽をもたらす液が分泌されるからだ。同時に逆らえば、体中を引きちぎるような痛みが駆けめぐる。逆らう意志はそもそもない。ただ忠実に、ただ闇雲に、命令を果たすことだけが、彼の全てだった。そう、作り上げられたのだ。
熊を殺した。他愛もなかった。自分よりも大きかったが、戦いのために作り上げられた肉体の前に、生存のために作り上げられた肉体など、敵ではないのだ。鰐も殺した。狼も殺した。脳を蕩かせる快楽の前に、彼は失神しそうだった。しばし休んで、次の獲物を物色していた彼の前に、エルフどもが現れた。
何かきいきいわめいていたが、そんなことはどうでもいい。一匹を殺し、二匹目を貫いた。残り二匹は逃げようとしたが、簡単に追いついた。一匹の頭を掴んで握りつぶした。もう一匹はその間に逃げたが、傷は負わせてやった。後は血の臭いを追っていけば、簡単に殺すことが出来る。
逃がしてしまったエルフを探す前に、のこのこ血の臭いに誘われて現れた虎を殺した。今までの中で一番手応えがあった。あと少し、あと少しで命令は完遂される。他の生物は出来るだけ殺してはいけない。だから殺さないように、彼は森の中を慎重に二本の足で歩いた。兎が居たので、踏みつぶさないようによけた。蜘蛛が巣を張っていたので、破らないようにして踏み越えた。足下を蛇が通り抜けていく。怖がらせないように、慎重に足を運んだ。川を渡ろうとして、魚を一匹爪に掛けてしまった。魚は死んでしまった。悲しくて、彼は一声天に向け、泣いた。
悲しい失敗だったが、自分を責めるより先に、主君の命令を完遂しなければならない。命令遂行を邪魔する相手は殺して良いと言われている。さらに、命令を果たすまで、エサを食べてはいけないとも言われている。だから、どんなにお腹がすいても、エサは我慢しなければならなかった。
長い首を巡らせる。彼は獲物を見つけた。獲物の臭いに追いついたのだ。しかし、もっとも危険な臭いも一緒に混じっていた。出来るだけ殺してはいけない相手の中で、もっとも上位に位置する存在。主君と同じ生物、人間の臭いだった。命令が出ていない時には、絶対に近づいてはいけない相手だ。彼の脳の中にて、今までの快楽を忘れてしまうほどの、強烈な危険信号が点滅した。
慎重に動かなければならない。頭の中に、すぐに対応マニュアルと優先順位が羅列される。
まず、第一に、交戦を避ける場合はできるだけ姿を見せないようにしなければならない。第二に、相手の数と戦力を把握しなければならない。第三に、任務続行可能かを判断しなければならない。第四に、可能であれば獲物だけを仕留めなければならない。人間を殺さなければならない場合は、速やかに、かつ徹底的にやらなければならない。
エルフ族の居場所は、臭いから正確に把握することが出来た。しかし、人間は狙撃しづらいように壁を作り、その内側から周囲を見やすいように地形を工夫していた。攻めるのは非常に難しい。諦めるか。他のエルフを探すという手もある。しかし、一チームが全滅した以上、次は更に強大な戦力で来る可能性は高い。かなりの長い時間、潜伏しなければならない。そうすれば主君はきっと悲しむだろう。
自分の身を保存しなければならないという感覚はない。任務達成と同時に命を落とすのであれば、それは望むところだった。彼は身を潜め、気配を消し、好機を待った。
空に響き渡った鋭い声。思わず耳を塞いだナタリエを横目に、マリーは声の出所を探したが、大きな影がさっと森に入り込む所までしか見ることが出来なかった。
おそらく、奴が殺戮者だろう。川を大きな鰐の死体が、腹を向けながら流れてくる。顎の下を、何かで貫通されて即死している。真っ青になったナタリエが、音を立てて生唾を飲み込んだ。マリーは狙撃台の上に立ち、周囲を見回し続ける。ハレッシュは武器を構えたまま、バリケードの隙間から外をうかがっていた。
「なあ、マリー。 今の声、ひょっとして」
「おそらくは鳥ね」
「鳥、だって?」
「火喰い鳥の声に似ているわね。 ただ、興奮して上げた声とは違う。 何だか妙な雰囲気だわ」
ハレッシュに応えると、マリーは杖を構え直す。詠唱開始。いつ襲ってきても、即座にロードヴァイパーを撃てるようにしておく。集中力はごりごり削られるが、それも仕方がない。相手は最低でも虎よりも強い。クーゲルがいれば、さぞ大喜びした事だろう。
火喰い鳥は元々攻撃性が強い鳥で、戦闘能力はかなり高い。空を飛ぶことが出来ない鳥なのだが、足の力は強く、爪は鋭く、狼やヒョウが蹴り殺される事も珍しくない。しかし、いくら何でも熊や鰐や虎を殺せるほどの戦闘能力はないはずだ。突然変異か何かか。それにしては、引っかかるものがある。
まさか、この間のウォー・マンティスと、同一の存在ではあるまいか。
気配の移動が消えた。近くに潜んでいると考えた方がよい。いつのまにか、夕刻になっていた。陽が地平の向こうに沈んでいく。ナタリエが、下から小声で呼んできた。
「マリー、マリー!」
「何?」
「エルフが目をさましたみたいだ」
「ハレッシュ、ルーウェン、見張りよろしく。 ちょっと話聞いてみる」
狙撃台から降りると、テントの中に入る。今、ナタリエがエルフの額を布で拭いている所だった。出血は止まったようだが、相変わらず顔は青い。マリーを見ると、エルフは露骨な敵意を向けてきた。
「人間、め!」
「だから敵意も害意も無いわよ」
「信じられるものか」
「……もしあたしに害意があったら、治療なんかしないで、バラして肉とか内臓とかに分別してるわよ。 娼館に売り飛ばすより、その方が遙かに金になるからね」
さらりとマリーが言ったので、流石に唖然とした様子でナタリエが手を止める。この子は辺境は辺境でも、エルフ族との確執がない地域に産まれたのだろう。だからエルフ族に対して、「珍しい人達」くらいの感覚で接している。地域によっては、エルフ族の治療など絶対に断るという者だっているだろう。即座に殺して換金素材により分ける者だっているだろう。人間とは、そういう生き物だ。
うつむいたエルフ族の隣に腰をかがめると、マリーは言う。
「村まで送ってあげるわよ。 ただし、交換条件飲んだらだけど」
「強欲者め」
「金をよこせなんて言ってないでしょう? あんた達を壊滅させたのは何だったのか聞かせてちょうだい。 どうもこのキャンプを奴が伺っているみたいでね。 情報は少しでも欲しいのよ。 一刻でも惜しい位なの。 何か知っているなら、早く教えてくれる?」
「……」
エルフはしばし唇を噛んでいたが、マリーの方を見ないまま、言った。
「鳥、だ。 火喰い鳥かと思ったが、違う。 とんでもなくでかい。 モアよりも更に大きいのではないかと思う」
「モアよりも!」
モアといえば、人間の倍ほども背丈のある、飛べない鳥だ。非常に珍しい鳥だが、大陸の北部寒冷地帯を除くあらゆる平原に生息していて、かなりの長距離を移動する。マリーも見たことがあるが、狩りの対象にはしない。警戒心が強い上に足が速く、その上肉がまずくて臭くて食べられたものではないからだ。モアもモアで、性格は臆病でおとなしく、人間を襲うことなどまずない。ただしその足は太く力は強く、虎でも蹴られると無事では済まないという。更にエルフは、とんでもないことを言う。
「ただ大きいだけの鳥なら、我らが不覚を取ることなど無い。 奴は体に強い魔力を纏っていて、明らかに知性を持っていた。 何か不可思議な攻撃で、遙か遠くから我らの同胞を貫いた。 魔力性のものではない。 肩の傷も、それにやられた。 矢を射かけたが、それもはじかれてしまった」
「魔物じゃないわよね」
「違う。 魔物はとは根本的に違う。 自然の法則をおまえ達人間が弄り、作り上げたものに違いない」
となると、やはりあのウォー・マンティスと同一の存在か。軍が作ったのか、或いは。
「とりあえず寝てなさい。 もし襲ってくるようなら、あたし達でなんとかする」
「森を熟知した我らでも不覚をとったほどの敵だぞ。 おまえ達人間がどうにかできる相手なものか」
「そんな事はやってみないと分からないわよ。 第一、もっとも邪悪で乱暴で、戦に長けた種族である私たち人間に対処できない生物なんて、少なくともこの世界には存在しないわ」
「そうだったな。 貴様らは血と鉄と背徳にまみれた生き物だったな」
自嘲的にエルフが言う。おそらく、そんな生き物に頼らなければ生きることが出来ない今の状況に絶望しているのだろう。
狼煙を上げようかとマリーは思ったが、こんな所に来ている冒険者は少ないだろう。それに、今回はそれなりの戦力が揃っている。撤退を考えるのは、軽く戦ってみてからでも遅くない。もし手も足も出ず、全滅するようであれば、そのときはそのとき。敵がそんな戦闘力を備えている場合は、どのみち逃げられなどしないだろう。
テントから出ると、ハレッシュが顎をしゃくった。マリーはすばやくバリケードに背中をつけ、向こうを伺う。どうやら、エルフの言ったことは本当であったらしい。
いる。薄闇の中、巨体が浮かび上がっている。
鋭く長いくちばしを持った鳥であった。ただ、くちばしには鉄製のガードがつけられている。足の部分だけでマリーの肩程まで高さがありそうだ。足のかかとにはもの凄いかぎ爪がついていて、アレを食らったら即死だと一目で分かる。しかも指先はかなり柔軟に動くようで、足下の石を掴んでは動かしていた。何の意味があるのかはよく分からない。また、首は長く、自在に動いており、ゆらゆらと振りながら此方を伺っている。詳しい配色まではよく分からないが、多分かなり地味だ。
茂みから出てきたのは、どういう訳か。人間を怖がっていないのは動作から分かるが、なぜわざわざ姿をさらした。可能性は幾つかあるが、どれもろくな結論には結びつかない。ナタリエを手招きし、敵の姿を見せておく。マリーは詠唱を開始し、動きに備えた。
「オレ、少し安心したよ」
この状況下で、ナタリエが妙なことを言った。
「あんたのこと、もっと冷血な人間だと思ってた。 でも、困ってる人を助けるくらいの度量はあるんだな」
残念ながら、状況次第だ。マリーは心の中でつぶやいた。今回エルフを助けたのは、彼らが森を豊かにする存在だからだ。グランベルで生まれ育ったマリーは、森の大切さをよく知っている。だから、エルフを助けた。まあ、そんな真相を敢えて伝えることもないだろう。詠唱が終わる。印を切り終え、マリーは激突の瞬間に備えた。鳥は無意味な動きばかりしているように見えて、確実に距離を詰めてくる。奴は、わざと隙を作って見せて、攻撃を誘っているのだ。近づいてきたから、マリーには分かる。奴が殺る気になっていることが。
隣で腰をかがめていたナタリエが、生唾を飲み込んだ瞬間。
奴が、天高く躍り上がった。
月を覆い隠すほどの威圧感を誇る影。そのまま急降下してくる。巨大な爪が、バリケードの一つを、いとも簡単に蹴り砕いた。飛び退く四人の間に立った鳥が、口を大きく開ける。反応は、ハレッシュが一番早かった。
「やらせるかっ!」
踏み込み、振り上げられた槍が、鳥の下嘴をかすめた。残像が空に浮かび上がる。驚くべき筋肉のバネで首を戻した鳥は、さらなる第二撃、反対側から躍りかかったルーウェンに対しても、同じ動きを見せる。下がりながら、赤い何かが空を走る。反射的にルーウェンが引くが、その顔を横切るようにして、鋭い傷が走った。
今の攻防の隙に、マリーとナタリエが、それぞれ鳥の後ろに回り込む。低い剣筋から、鳥の足を狙うナタリエ。詠唱が終わったマリーが、飛び退く。ナタリエがナイフを振り抜く。抉ったのは残像。
跳躍した鳥が、口を開ける。赤い何かが、連続してナタリエの周囲に降り注ぐ。河原の小石が、はじけ飛んだ。一つが、ナタリエの顔に。もう一つが、腹に。股にも一つ。直撃を避けたナタリエだが、全身に傷が浮かぶ。たまらず悲鳴を上げる彼女だが、先に動いた者がいる。この機を待っていた、マリーである。奴は鳥だが、あの翼は飛ぶためのものではない。
「ライジング……!」
鋭い勢いで、地面に手を突く。全身の魔力を、一点に集中。撃ち放つ。
「ライトニングヴァイパー!」
マリーのすぐ先、鳥の真下の地面を吹き飛ばすようにして、天にいかづちの蛇が躍り上がる。それは確かに、鳥を直撃、した。
鳥の周囲に、いかづちが散る。傷つけはした。だが、致命どころか、少し火傷させた程度だ。
驚愕の表情を隠せない冒険者達の間で、マリーは一人動く。ナタリエをしたたか傷つけた赤い何かが、マリーの側にも降り注ぐ。一度、二度、三度、四度目でマリーの右二の腕をかすめる。鳥が着地する。ハレッシュとルーウェンが、好機に気付くのが一瞬遅れる。その隙に、鳥がバックステップ、距離を取り直す。ルーウェンが恐怖の叫びを上げた。
「な、なんて奴だ!」
とんでもない動きであった。全身しなやかな筋肉の塊である虎でも、此処までの動きは出来ない。それよりも、絶望的な事がある。右二の腕をぱっくり切り裂かれたマリーが痛みに眉をひそめながら、その正体を暴露した。
「間違いない。 神の祝福、だわ」
「な、なんだよ、それ!」
「いわゆる絶対防御。 ありとあらゆる攻撃を緩和する、究極の防御能力の一つよ」
これは本当にまずいかも知れないと、マリーは思った。ルーウェンの声がうわずっている。ハレッシュも全身に冷や汗を掻いているようだった。
神の祝福。非常にレアな防御能力であり、あらゆる攻撃を緩和する。防ぐのではなく緩和するのだが、この効果は大きい。剣を振っても動きも重さもおかしくなるし、術も拡散してしまってほとんど届かなくなる。完全に防ぐタイプの術なら撃ち抜けばおしまいだが、このタイプの能力は、相手が死ぬまで発動は続くのである。
しかも鳥は、体勢を立て直す時間など与えてはくれなかった。再び、予備動作も予兆さえもなく、奴は動く。残像を多量に残し、河原の石を巻き上げながら、足を振り上げて叩きつけてくる。太く、鋭い死への誘い。必死に飛び退いたナタリエだが、爆圧に吹き飛ばされる。踏み込んだハレッシュが繰り出した槍を、あろう事かくわえて受け止め、振り下ろされたルーウェンの剣を、首を器用に曲げてかわしつつ、羽を急速に広げてはじき飛ばした。
「ケエエエエエッ!」
鳥が一声上げる。空気が振動するような、とんでもない威圧感を声は含んでいた。
「うぉおおおおおっ!?」
ハレッシュの体が浮く。槍ごと、鳥が首の力だけで持ち上げたのだ。マリーの2倍はありそうな体重をもつハレッシュをである。そのまま地面にたたきつける。詠唱しながらじりじり下がるマリーに、今度は鳥が首を向けてくる。そのとき、ナタリエが飛びつき、目にも留まらぬ速さで刃を突き立てた。
「ナタリエ!」
逃げろという暇など無い。首を振り回した鳥によって、傷だらけのナタリエは吹っ飛び、河原にしたたか叩きつけられる。この隙にオーヴァードライブを展開したルーウェンが、燃えるようなオーラを纏って躍りかかるが、鳥は全力で迎撃。そうなると、ルーウェンでは対処できない。繰り出された蹴りはかわしたものの、空中に躍り上がったところを嘴に剣を挟まれ、そのまま振り回されて投げ飛ばされる。
どうにか詠唱は終わった。だが、今の状況、当てる自信はないし、当てたところで倒せるとも思えない。少し刃を交えただけで分かったが、こいつの戦闘能力はドラゴン級。虎や熊程度で対処出来ないのも当然だ。この人数でどうにか出来る相手ではない。さっきの仕込みが上手くいけば、ひょっとしたら。動きの方は、もうある程度は見切った。後問題になるのは、さっきから飛ばしてきている何かよく分からない攻撃だ。あれの正体はまだよく分からないが、はっきりしている事はある。口から、出していると言うことだ。ならば、仕込みと一緒に、何とか出来るかも知れない。
「うっ…」
倒れているナタリエが、頭から血を流している。呻く彼女に見向きもせず、鳥はゆっくりテントへ向かって歩いていく。マリーが攻撃の機会をうかがっていて、すぐには仕掛けてこないこと、ハレッシュもルーウェンもナタリエも行動不能状態であることを見抜き、最初の目的を果たそうとしているのだろう。奴の目的がエルフの女である事は間違いない。マリー達を殺すことが主目的であれば、もっと他の手を打ってきたはず。マリーは目を閉じ、詠唱を継続。更に魔力を上げていく。
ハレッシュが立ち上がろうとするが、マリーがハンドサインを出して、その場で動かないように指示。鳥はバリケードの残骸を踏み越えると、テントを巨大な嘴で、一気にはぎ取った。
彼は驚愕した。人間共をかろうじて退けて身動きできないようにし、目的であるエルフを捕捉したと思った。少なくとも、臭いは此処にいると告げていた。それなのに。
隠れているのに用いていると思われる布きれをはぎ取った瞬間。其処にあったのは、エルフの血に染まった着衣だけ。全身を危険信号が駆けめぐる。おかしい。逃げる暇など無かったはず。それに、これは、一体。
「捕縛せよ!」
人間の声と同時に、何かが嘴に絡みついてきた。蛇かと思ったが、違う。何か長い、得体が知れない存在だ。首を振って必死に取ろうとするが、離れてくれない。足を使って刈り取ろうとしたその瞬間。
背後で、巨大なオーラが、ふくれあがった。
振り返る。槍を持っていた方の男だ。体中傷だらけで血だらけで、骨も何本か折ってやったというのに、突撃体勢を整えている。まずい、防ぐ手段が残っていない。嘴は閉じられてしまっていて、舌を撃ち出すことが出来ない。
「同胞の敵、食らえぇっ!」
聞き覚えのある声。そう、逃がした、あのエルフ。首筋に、細い矢が、浅く刺さる。神の祝福の防衛網が、軌道をずらしたから、直撃しなかったのだ。スローモーに流れていく時間の中、ゆっくり首を巡らせる。
いた。川の中。バリケードを挟んで死角になっていた場所。半裸のエルフが、弓を構えている。しかし、臭いがなかった。どうやって、どうやって彼処へ移動した。
混乱する思考を、突撃開始した槍の男の行動が遮る。奴はバリケードを蹴り、膨大なオーラと空気を摩擦させながら、躍りかかってくる。一筋の殺意と化したそれが、体を貫くべく迫り来る。飛ぼうとする。が、果たせない。今の瞬間に、逆側から回り込んでいたナイフの女が、今までとは段違いの速さで、通り抜けざまに足を斬り払ったからだ。更に、背中にしがみついてくるもう一人の男。行動が封じられた、その瞬間。
神の祝福の防衛網を、直線的に、槍が貫く。
槍が、心臓のすぐ脇に、突き刺さる。
致命傷は避けた。背中の男をふるい落とし、嘴に絡まっていた何か長いものをついに払いのけ、高速で動いた反動か、身動き取れなくなっている女に蹴りをくれてやる。突撃してきた男が盾になるようにして女を抱えながら飛び退く。その背中を爪が抉る。
最後に、彼が感じたのは、後悔。無意味に爪に掛けてしまった、哀れな魚のことだった。
「サンダー…」
振り向く。さっきの何倍も魔力をため込んでいたいかづちの術を使う女が、此方に掌を向けている。
「ロードヴァイパー!」
視界の全てが、漂白された。
ロードヴァイパーは拡散せず、槍に全て吸い込まれた。ついに入った直撃、しかも致命傷。鳥は全身から煙を上げながらもしばし仁王立ちしていたが、やがて横倒しに倒れる。一部の羽毛は発火していて、やはり地味だった全身の配色を闇の中浮かび上がらせていた。鳥の目から光が消える。
必殺の一撃を放ったマリー自身も、膝から倒れる。殆どの魔力を使い果たしてしまった。これほどの相手とこのような少人数で戦ったのは、いつぶりか。いや、おそらく、初めての経験だ。この鳥は高い知性に加えて、隙のない能力、ベテラン冒険者並の戦闘経験値を備えていた。並の冒険者であれば、十人がかりでなければ対処できなかっただろう。
エルフ族の女には、あのとき、着衣を残して貰い、バリケードの死角から川に出て貰った。全身には消臭剤の煙をかけた。鳥が臭いで獲物を追跡しているのは確実だったから、こういう事が出来たのだ。そして、女がいた所には、念のために生きている縄を仕込んでおいた。まだ当分寿命は切れないし、いざというときに奴に立つと思って持ってきておいて正解だった。
ハレッシュもルーウェンも傷だらけで、殆ど力を使い切ってしまっていた。ナタリエも打撲が酷く、立ち上がれないほどだ。マリーも肩の傷が痛む。死んでいる鳥の嘴をこじ開けてみると、恐ろしく長い舌が格納されていた。なるほど、これを高速で出し入れして、攻撃したわけだ。舌は触ってみると、まるで鉄のような強度だった。面白そうだったので、根本から切り取って、たき火の上で燻製にしておく。肉はこれから切り分けておいて、道中の食料にし、余った分は途中の村にでも売ってしまう。
たき火を増やして獣よけをすると、傷薬を配り、皆の手当を始める。マリー自身の傷は最後だ。最近はかなり効果が高い傷薬を作れるようになったのだが、それでも一晩で傷口がふさがるわけではない。包帯用の布は買ったばかりだったのだが、殆ど使い切ってしまった。川からあがってきたエルフの彼女も、無言で手伝ってくれる。ただ、あまりに開けっぴろげに下着しかない半裸の姿を晒しているので、男性陣は真っ赤になっていた。まあ、エルフにとって人間は性愛の対象などではないだろうし、これは仕方がないだろう。交配が出来ると言っても、それは生物的な話であって、観念的には難しいのだ。
どうにか手当が終わった頃には、夜中になっていた。キャンプの端で、エルフの女が鳥にくわえられた服を洗い、乾かしていた。近くで見ると、植物の繊維で編んだらしく、それで緑色なのであろう。グランベルでも縄を結う時には植物の繊維を用いるが、此処まで繊細には作れない。後で作り方を聞いておこうとマリーは思った。それにしても脆い布だ。少し力を入れるだけで、びりびり破れてしまうだろう。美しいが、人間の衣服には向かない。
鳥の肉は非常に固く、如何に鍛えられているかが触るだけでよく分かった。燻製に炙っておく。火を通すと意外に良い匂いがした。アシッドバードほどではないにしても、美味しく食べることが出来るかも知れない。
遠慮する必要はない。敗者が喰われるのは自然の摂理。だから敵だろうが人食いだろうが、倒せば喰って良いのだ。都会の人間が嫌悪感を示そうが、知ったことではない。これが生きると言うことである。
見張りの人数を増やすことで、取ることが出来る睡眠の量を増やす。どちらにしても、強敵を倒した後に、格下に油断して負けることだけは我慢がならなかった。
全て済ませた後、立て直したテントの寝床に潜り込む。エルフの女は人数外としてカウントしているから、勝手に休んで貰っていたのだが、まだ起きていた。まだ皆を警戒している様子のエルフの女に、マリーは隣の寝床から語りかける。
「名前、教えてくれる? あたしはマルローネ」
「……ティエリリーネ・フォルラロール・コヨネイール」
「んと、長い名前ね。 姓と名とミドルネーム?」
「最初が名で、二つ目が姓だ。 コヨネイールは半人前の狩人という意味で、幼名だ」
エルフ族は長命だと聞いている。まだ半人前だとしても、マリーよりも年上かも知れない。
「分かった、ならティエリって呼んで良い?」
「好きにしろ」
ぶっきらぼうに、ティエリは返してきた。
3,毒を制すもの。
丸二日を回復に費やし、どうにか動ける体勢を整えてから、探索に戻った。体力をつけるために、仕留めた鳥の肉を食べた。煙で良くいぶして燻製にした結果、苦みが渋みと混じり合って、非常に美味しい肉に化けていた。燻製が仕上がった翌日の昼にはとても素晴らしい食事を満喫することが出来た。
焼きたてではない保存食の燻製に仕上げてあるとはいえ、どっしりした歯ごたえが素晴らしく、噛むと広がる複雑な味が絶妙である。燻製にする時、最初に表面を強火でさっと焼いて肉汁を逃がさないようにする工夫も凝らしているのだが、肉そのものの質がよいのだ。口の中で筋肉繊維が解けて、実に旨い。調味料は植物塩だけだが、それが却って苦みを殺さずに、野性的な力強さを作り出している。
最初嫌がっていたナタリエも、うまいうまいと指先に着いた油を舐めながらマリー達が食べているのを見て、おそるおそる手を伸ばし、やがてがつがつ食べ始めた。ティエリだけが静かにそれを見ていた。彼女が口に入れたのは、野草を炒めたものばかりだった。
野草炒めはルーウェンが作ったものだが、サバイバルのスキルがあるマリーから見ても問題がないできばえである。ただ、多分ティエリには言わない方が良いだろう。炒めるのに使った油が、あの鳥からとったものだということは。ルーウェンもだいぶ一人前に近い冒険者に成長してきた。もう少しで、単独での仕事ができるようになるだろう。
それにしてもと、肉を食いちぎりながら、マリーは思う。あれほど苦労して打ち倒した相手である。肉が旨くあってほしいと願うのは人情だが、そんな例は殆ど無い。あの鳥に関しては、とても運が良かったと言うほか無い。それに、美味しい肉だが、この肉を得るため、あの鳥ともう一度戦うのはごめんこうむる。
傷薬と栄養剤で体を丁寧に回復させて、密林に挑んだのがその後。じっくり川をさかのぼっていこうかとマリーは考えていたのだが、ティエリがなんと抜け道を教えてくれると言い出した。本人が確実に帰るためだろうというのは推察できたが、かいがいしく世話を焼くナタリエに感化されたのかも知れない。つい最近の自分が非常に手厚く介護されて社会復帰出来たからか、ナタリエの献身的な手当は確かに心がこもっていた。道中も肩を貸して歩きながら、時々ぶっきらぼうな言葉で励ましていた。手当をしているうちに、ティエリが人間で言えば自分と同年代である事が分かり、より入れ込んでいるのかも知れない。
森は非常に進みやすくなった。流石にエルフの抜け道である。獣道や大型肉食獣の縄張りも旨く避けているらしく、虎とも熊とも出くわさなかった。二日森を往くと集落に出た。彼らは比較的エルフとは友好的なようであったが、それでもティエリを見ていい顔はしなかった。マリーは余った燻製肉をそこで全て売ってしまい、鳥のことを聞いたが、そんなものを知っている村人は一人も居なかった。
あらゆる状況証拠が、マリーの推測が正しいことを告げている。やはりあれは軍が関与している存在なのか。どこの国の軍か分からないが、その仮定が正しいとなると、あの戦いは性能実験のためだろう。ティエリは見ていると、非常にまじめで責任感の強い娘だ。とてもではないが、真相など伝えられない。人間を更に深く恨むだろうし、悲しみのあまり精神を病んでしまうかも知れない。それでは、エルフ族との関係がまずくなる。森のためにもそれでは良くない。
更に二日歩いて、ようやく森の最深部にたどり着く。これで片道というのだから、帰りの苦労が忍ばれる。
密林の奥深くは、静かだった。虎も熊もおらず、むしろ荘厳ですらある。
生き物はいる。だがいずれもが完全なる調和の中にいて、わずかに零れる光の中己の分を保ち、それを一歩も出ようとはしない。
ある意味、完全なる秩序の世界であった。無秩序に森が広がっているように見えて、全てが秩序の中で連動している。マリーは何かの完成系の一つだと思った。だが、人類がこうなった時、社会の発展も止まるだろうとも思った。こうなって良いのは、おそらく人類の社会が、発展する必要が無くなった時だろう。
静かな森にざわめきが走る。ナタリエに肩を借りていたティエリが顔を上げる。マリーもそれに釣られて視線を移動し、確認した。エルフ族達の姿を。一様に弓矢を向けている彼らに、前に出たマリーが手を広げて呼びかける。来る途中で、ティエリに聞いておいた、エルフ族同士の正式な呼びかけのやり方で。
「ここより遙か南のグランベル村よりいでしマルローネ、義により貴殿らの仲間を届けに来た。 そちらの群れの長よ、姿を見せるがよい」
「グランベル村のマルローネよ、汝が信用できる保証はない。 故に長老を表に出す訳にはいかない」
つれない言葉だが、いきなり矢が飛んでこないだけましだ。以前ザールブルグ近郊の森で、蜂蜜を採集した時。エルフ族の縄張り境界で味わった恐怖が、マリーの行動をより慎重にしている。相手は礼儀である名前と出身さえ言わなかったが、それは気にしないようにして、続ける。
「我らはこの娘を届けにきただけである。 汝らに情報以外の何一つとして要求はしない」
「グランベル村のマルローネよ、われわれ…」
「よい、サザルニニャーネ」
エルフ側の対応者の言葉が止まった。エルフ達が弓矢を一斉におろし、ひざまずいて左右に分かれる。ティエリもナタリエに小さく礼を言いながら、地面に跪いた。現れたのは、三重に緑色の貫頭衣を纏った、老いたエルフであった。白い髭が足下までたれており、手には節くれ立った木の杖がある。杖には葉っぱまでついていた。出来る限り自然な形で、枝から作り出したのだろう。
「ピリルニーネル村の長老、バッケス=ブライネーンヴォルトだ。 我らが幼き同胞を届けていただき、感謝している」
「どういう風の吹き回しよ? 場合によってはティエリをさえ突っ返す気だったんでしょうに」
マリーが急に口調をラフにしたのは、儀礼が終わったと判断したからだ。あまりの急変ぶりに、当のティエリがマリーに突っかかりそうな雰囲気を見せたが、バッケス長老が片手を上げて遮る。
「その娘が属する第二偵察隊が壊滅したのは此方でも把握していた。 そしてその娘が生きていると言うことは、襲撃者の情報をある程度知っているという事でもある。 我らの生存のためにも、貴殿らから情報を引き出した方が良いと判断したまでの事だ」
「話が早くて助かるわ。 こっちとしても、感情で動く相手より、利害が通じる相手の方が、交渉がしやすいしね」
「…ただ、疑念がある。 そもそも、このような所まで、貴殿は何しに来た」
「二つほどほしいものがあってね。 一つは「白鹿竹」のタケノコ。 もう一つは、ヤドクヤドリってキノコよ」
前者は肉体の成長にどうしても必要な素材。後者は試してみようと思っている、超強力な解毒剤の素材である。どちらもメディアの森最深部でしか手に入れることが出来ない素材であり、特に前者はこの時期にしか採れない。アカデミーでも余った分を販売はするのだが、銀貨1700枚という気が狂った値がついているのを目撃している。ちなみに一家四人が二月生活できる金額だ。
「それらを欲すると言うことは、貴殿は噂に聞く錬金術師か。 錬金術師の依頼を受けたという人間が、時々我らに交渉を持ちかけてきよるが。 そうか、貴殿が」
「ご名答。 もっとも、まだ見習いだけどね」
「ううむ。 ……貴殿の目には殺戮を望む鬼が宿っておる。 しかし、それはあくまで自己で設定した相手にのみ発揮する理性も感じる。 よかろう。 貴殿をエルフの同胞としてではなく、理性持つ悪鬼として信用する。 ティエリリーネ、此方へ来なさい」
「良かったな、ティエリ。 帰れるよ」
ナタリエの心底から嬉しそうな言葉に、ティエリは不器用に微笑んで見せた。エルフに笑顔を向けられた人間など殆どいないだろう。長老の後ろで控えている他のエルフ達は皆剣呑な顔であったが、これだけでも大いなる進歩といえる。
マリー達は其処から少し離れた場所へ通された。集落ではなく、小さな小屋であった。入り口だけで窓も無い掘っ立て小屋で、木のうろを利用して作られている。中はそこそこに広く、テーブルと椅子が完備されていた。周囲にエルフの戦士達が護衛につき、いざというときに備えているのが見える。悪鬼としては信用されても、人間としては信用されていないと言うことだ。ティエリはエルフの仲間達に連れて行かれた。ほぼ手当は終わっているので、後は向こうだけで処置も出来るだろう。
ハレッシュ達は小屋の外で待つ。ナタリエはまだティエリが心配なようで、無表情のまま立っているエルフの戦士に、大丈夫なのか問いかけて、無視されていた。小屋にはマリーだけが入る。長身の女エルフが茶を入れてくれた。マリーの分だけ。
「我らには戒律上の問題からそれを飲む習慣はないのでな。 もしまずかったら許してくれ」
「どれどれ。 ん、悪くないですよ」
「それは良かった。 では、話に入りましょうか」
時間は惜しい。家ではアデリーが待っているし、白鹿竹はそうたくさんあるものでもないのだ。
鳥の戦闘能力と、展開した能力の厄介さ。更に高い知性を備えていたこと。それらを順番に伝えていく。長老は腕組みしていたが、眉をひそめるばかりだった。
「鳥が、神の祝福を使ったと。 俄には信じがたい話だが……手練れが二人もいた第二偵察隊をあっさり壊滅させた実力からも、信じざるをえないか。 一体どのようにして自然の摂理を曲げたのか。 空恐ろしいことだ」
「神の祝福といっても、出力は決して高いとは言えませんでしたが。 それに、あれはエルフ族に恨みがあるという訳ではなく、単に性能実験のためではないかという気がします」
「人間への憎悪を貴殿に向けても仕方がないのは分かっているが、どうしてそう傲慢になることが出来るのだ。 世界最強であるというのは、そんなに偉いことだと思っているのか?」
エルフの長老はこれが人間の仕業だという前提のもとで話をしているが、マリーもそれは同感だ。こういう思考、こういう行動を起こす生物は、少なくともこの世界には、人間しかいない。思想面でも、能力面でもだ。
茶を一口すする。香りの高い茶だ。味が濃い反面単純で、野生の茶をそのまま使っているのがよく分かる。少し相手が落ち着いたのを確認してから、マリーは言った。
「そう思うのが人間という生物です。 正直な話、あたしはあなたたちに森を豊かにする存在としての価値を見ていますが、他の人間は必ずしもそうではありません。 中には、森の重要性を理解していないバカだっています。 あたしが見たところ、今後も、性能実験は行われる可能性がありますね。 偵察隊の戦力は強化して置いた方が良いでしょう」
「それがよさそうだ。 貴殿らの力は分かる。 それと比較すると、我らではおそらくフォーマンセルでは足りないだろう。 偵察の戦力を強化することにする」
「気をつけてください。 あの鳥が三十体以上攻めてきたら、多分あなたたちでは手に負えないでしょう。 いざというときは逃げることをおすすめします」
「そうならないことを、祈るしかないな。 村の防備も、強化しておこう」
長老は、白鹿竹の密生地と、ヤドクヤドリの取れる場所を教えてくれた。こういう風に、感情面ではなく利益面であれば、人間と他の種族は交流を図ることが出来る。人間が至上としている感情は、必ずしも最善の存在ではない。
エルフ族と別れると、ナタリエが言った。
「ティエリ、大丈夫かなあ」
「随分入れ込んでるわね」
「え? ああ。 何だか、放っておけなくてさ。 それにしても、冷徹なあんたが、あんな風に交渉をまとめられるなんてな。 何だか世の中って、嫌な事が多いぜ」
「交渉ってのはね。 冷徹で冷静なほどうまく運べるのよ。 感情的な人間ほど、交渉には向いていないわ。 誠意なんてね、命がかかった交渉を行う時には、料理のスパイスくらいの役にしか立たないの。 もっとも、二度目以降の交渉をするつもりなら、誠意は必須だけど」
静かな密林の奧。地面から白い円錐が無数に突きだしている。さすがはエルフ族だ。一つ調べてみたが、品質は全く問題ない。赤ん坊の産毛のような白い毛が密生したタケノコは、香りまでほんのり甘い。スコップを取り出すと、マリーは周囲に指示を出す。
「ハレッシュ、ルーウェン、念のため周囲の警戒よろしく。 ナタリエはあたしと一緒に採取。 土から頭を出したばかりの奴だけを採って」
「こんなタケノコ、どうすんだよ」
「これね、場合によっては銀貨千枚以上の価値があるのよ」
ナタリエの手が止まるが、マリーは気にしない。
「で、そんなお金払えないから、此処まで取りに来たわけ。 このタケノコがね、今回の実験に必要なの」
「何の実験?」
「生物をより早く強く育てる実験。 それにこのタケノコに含まれる成分が必要みたいでね」
「それって、まさかこの間の鳥みたいな?」
「やろうとおもえば出来るかも知れないけれど、あたしの目的は別よ」
ナタリエはしばし手を止めていたが、やがてタケノコを掘り出し始める。無理矢理自己を殺す、意志の光が目にあった。
「フレアさんがあんたを手伝えって言ってる以上、私に選択権はない」
「そんなに心配しなくても、あんなバケモノ作りはしないわよ」
「そう願うよ」
タケノコは取り出すと、すぐに表面を炙った。こうすることにより、組織の成長を止めるのである。後は持ってきた酒に漬けることで、ある程度状態を保存できる。塩に漬けるやり方もあるのだが、此方はコストがかかりすぎる。塩は貴重品なのだ。酒によって成分が変質しないことは確認されている。ただし、この酒は非常にまずい。あくまで保存用の酒なのだ。エルフ族の指示通りの数だけを取る。見るからに競争力がなさそうなこの竹を採りすぎれば、絶滅させてしまうだろうし、此処は従うのがベストであろう。郷には入れば郷に従うものだ。
つづけて、ヤドクヤドリを回収する。こちらはメディアの森の更に奥深く。複雑に木々が絡み合った先の洞窟にあった。洞窟といっても人が一人入れるか入れないかという程度だが、中にはびっしり猛毒のヤドクダケが密生していた。胞子を吸わないように口と鼻を布で覆って作業する。ヤドクダケも回収しながら、しなびたキノコから生えている赤緑のキノコを探す。見つけた。図鑑通りの、まがまがしい配色である。
ヤドクヤドリはキノコに寄生するタイプのキノコである。三つから四つの株を子供の指ほどの長さで天に向けて伸ばす。細さは針ほどだが、かなり堅い。猛毒を中和する物質を体内にため込んでいるキノコであり、食べることは出来ないが、解毒剤として珍重される。ただし、品質が高いものになると、こういう場所に取りに来なければ、見つけることが出来ない。もちろんあらゆる毒に効くわけではないが、かなり薬効性は高く、ザールブルグではかなりの値段がつく。
人間がゴキブリや蠅やネズミを根絶できないように、世の中上には上がいる。世界最強の人類とて、ピンポイントでは後れをとる相手が幾らでもいる。このヤドクヤドリは、ヤドクダケが存在しなければ生きていけない脆弱な種族だ。だが、比較での強さでは、殆どの生物を殺すヤドクダケをしのぐのだ。
ヤドクダケと、ヤドクヤドリを、それぞれ密閉した袋に詰め込む。更に薬草と竹をある程度刈り取って、採集終了。どれだけ採って良いかは既にエルフの長老と相談済みである。彼らは森を管理しており、無造作な繁殖をよしとしない。彼らでも間引いたり処分したりする植物はあるらしく、それを代行するという形で今回素材を譲り受けたのである。これはエルフ族とのギブアンドテイクが利害関係面だけでも成立したという意味で、非常に大きな進歩である。
荷車はだいぶ重くなっているが、ティエリに教わった道を行けば、帰りはかなり早い。問題になってくるのはあの鳥だが、能力が分かっている以上対策はある。複数が攻めてくるようなら、さっさと逃げるだけだ。
傷を治しながら、帰り道を急ぐ。少し余裕を見て出かけてきたが、帰りがスムーズだといっても、予備日ぎりぎりだ。それにエルフほど上手く森の中で気配を消せない。帰りの途中に、二度襲われた。一度は虎で、一度は蜂の群れであった。虎は一頭だけだったので、火と大きな音を立てることで追い払うことが出来た。森の入り口まで距離を置いてついてきたが、マリー達が森を出ると、諦めて縄張りに戻っていった。
結局帰りには鳥の襲撃は無し。街道に出ると、ルーウェンが肩を回しながら言った。
「疲れたー。 酷い仕事だったな」
「過去形じゃないでしょう。 最後まで気を抜いたら駄目よ」
「はっはっは、まるで引率の先生だな」
思わず苦言を呈するマリーに、ハレッシュが脳天気に宣う。言われてみればそうだ。というか、何故そうなる。本来マリーは守って貰うためだけに金を払っているのに、経験が足りない人間を育ててばかりだ。
この旅の最後の事件は、ヘーベル湖側の、旅人用のキャンプ地で起こった。街道側で警備の屯田兵も巡回していると言うこともあり、マリーはツーマンセルでの見張りをやめ、一人ずつに切り替えていた。マリーがナタリエに起こされて、あくびをしながら夜闇の下で見張りに立って、程なく。
そいつは、現れた。
気付かないふりをしてマリーが呪文詠唱を開始してすぐ。茂みを割って、大きな影が星空の下に姿を見せる。あの鳥だった。しかも、二頭である。舌打ち。マリーの偽装くらい、気付かない訳がないということか。
鳥は非常に躾が行き届いている。多分軍の作ったものだろうとマリーは当たりをつけていたが、それはこれで実証されたわけだ。このような所に、こんな生物を派遣する力を持っているのは、騎士団か軍。そしてこの間の事件で、不自然に動いていたのはその後者だ。いや、ひょっとすると、両方が関与しているかも知れない。
鳥には殺気がない。二頭の間に挟まれるようにして、随分背の低い女が歩を進めてきた。童顔のかわいらしい娘だが、目だけは異常な殺気を放っている。こいつはやばいと、マリーは思う。とんでもない使い手だと、動きを見るだけで分かる。間違いなくクーゲルと五分の境地であり、今のマリーでは、逆立ちしても勝てない相手だ。背中にバトルアックスを背負っているその小柄な女は、口元だけで笑みを浮かべる。マリーやクーゲルと同じ、頭のねじが何本か飛んでいる、快楽暴力者の笑みであった。
「はじめまして。 この間は、私の大事な実験体を潰してくれてありがとう」
「どうもはじめまして。 貴方は何者?」
「名乗る事は許されていないの。 ごめんなさい。 それにしても驚いたわ。 あんなルーキー同然の冒険者達を率いて、この子と同型の実験体を倒すなんて。 騎士団に欲しいくらいだわ」
女は顔だけでなく、声まで子供っぽかった。必死にマリーは状況を分析する。この女は騎士だ。鎧の形状もそうだが、足運びやしゃべり方の癖でも判別できる。騎士といっても必ずしも世間一般で言う「高潔な志」を持っている者達ではない。クーゲルがそうであるように、この国では、まず第一に、強い者達なのだ。隣に強大な軍事国家を抱えている現状、そうでなければ国が立ちゆかないのである。
「どうしてあたし達だと?」
「あの子の側にはね。 見たことを記憶して簡単な記号で伝える訓練を受けた小鳥がついていたのよ。 それで知らせて貰ったの。 ついでに軽く調べさせて貰ったけれど、貴方、錬金術師の見習いね。 グランベル村のマルローネさん」
本格的にまずい。マリーは相手に見せないように、だが背中に冷や汗の滝を作っていた。このようにして出てきていると言うことは、取引をしに来ている事は間違いない。だが、この場における戦力差では、一方的に要求をのまされる可能性が高い。交渉というのは、カードを切りながら行う。マリーの手元には、使える札が、ほぼ無い。
「それで、何をしに?」
「決まってるでしょう。 まず第一に、あの鳥のことは他言無用。 貴方が気付いているであろう正体をそこのルーキー君達に話したら、翌日には貴方ではなく彼らの首が無くなると思いなさい」
「最初からそのつもりよ」
「よろしい。 第二に、我々を詮索しない。 どのみちあなたには関係のない規模での話よ。 ただ、プロトタイプが迷惑を掛けた時には、今回のように火の粉を払ってもかまわないけれど。 基本的に私は、社会的に外れていない人間を実験材料には使わない」
意外と理性的な女だ。極端に「作品」に入れ込んでいる場合、敵討ちだのとほざく可能性もあった。もっとも、マリーと同類である場合、ちょっとしたツボの刺激で烈火のごとく怒りを炸裂させる可能性もある。無意味な刺激は避けた方が無難だ。
「分かったわ。 こちらも詮索しない代わりに、そちらも手出しはしないと。 それで良いかしら?」
「良くできました」
女が片手を上げると、鳥たちはさっと闇に消えた。恐ろしく高度に訓練されている。女は身を翻し、その後を追った。すぐに気配も姿も消える。術で戦う能力者ではなく、バリバリの近接戦闘型だと、あらゆる要素で教えていた。マリーの見たところ、あの女一人で、鳥二体より強かった。戦いを試みても、勝ち目はゼロ。それどころか、捨て身になっても他の三人を逃がすことさえ出来なかっただろう。
マリーは全身の力を抜くと、星空を見上げた。興味がないといえば嘘になるが、今は首をつっこむのにあまりに力が足りない。軍なり騎士団なりが何を考えているかは分からないが、探るのは自殺行為だ。もしも、最悪の状況が来た時には、イングリド先生にでも相談するしかないだろう。
何かをなすには、力がいる。毒を制するには、それ相応の薬品と調査が必要になってくる。
今はただ、力を蓄えようと、静かな敗北感の中マリーは思った。
翌朝。ザールブルグが見えてくると、ナタリエは歓声を上げた。全員傷だらけ。しかも帰り着く直前に全滅する可能性すらあったのだが、それはマリーだけが知っている。一日がかりで穀倉地帯を抜けてザールブルグにたどり着くと、後は給金を払って後に流れ解散となった。
ルーウェンは今回も着いてきてくれて、荷物の仕分けを手伝ってくれた。なんだかんだ言っても、いつもながら紳士的な奴だ。地下室にあらかた荷物を運び込んだところで、悲しそうな顔をしているアデリーに気付く。頭を撫でながら、マリーは出来る限りの笑顔を浮かべた。
「ひょっとして、寂しかった?」
「それもあります。 でも」
「ん?」
「また、マスターから血の臭いがします。 だから、悲しくて」
意外と敏感な子だ。この様子だと、今回に限らず、血の臭いがする時には気付いていたのかも知れない。そうなると、ずっと悲しかっただろう。腰を落として、マリーはアデリーを抱きしめた。
「ごめんね。 でも、どうしようもないの。 我慢して」
抱きしめられて少し幸せそうな表情をしたアデリーだが、やはりそれでも悲しそうだった。
マリーは結局、精神的には社会の外にいる存在である。だから、色々歪みを出しながらも、調整をしていかなければならない。それでもアデリーには幸せになって欲しいと願うのだから、自分でも勝手なものだと思う。
「何か美味しいもの作ってくれる?」
「はい、マスター」
アデリーが幸せを感じるのは、必要とされている時だと、マリーは既に知っている。台所に駆けていったアデリーの背中を、マリーは目を細めて見送った。
4,復活と消滅
短期間で何かを急速成長させるためには、決して方法がないわけではない。今までも術を使ってそれを促すタイプの能力者は存在が確認されていた。たとえば、植物を使って攻防に生かすタイプの能力者などが典型である。
これに対して、錬金術では、薬効成分を理論的に配合することで事を成す。
鍋で煮込んでいたタケノコが形を無くした事を確認したマリーは、鍋を傾けて漏斗に流し、固形分を濾しとった。濃厚なエキスには豊富な栄養が含まれているが、今回必要なのはその中のごく一部。成長を促す部分だけだ。
昔から、タケノコには様々な薬効成分があると言われている。成長を促す栄養もその一つで、タケノコが採れる時期になると、グランベルでも子供のためにみんなで一生懸命収穫した。かくいうマリーも、タケノコを食べて大きく強くなった一人である。
ただ、如何に成長を促すと言っても、そのまま塗ったり飲んだりしても、髪の毛が伸びるわけではない。この薬効成分を、頭皮にしみこませ、同時に人間に効くように調整していかなければならない。
地下室に降りる。魔法陣の中央にあるボウルに入れたヘーベル湖の水が、魔力の輝きを放っていた。指を入れて舐めてみる。中和剤の仕上がりは充分だ。
ボウルを引き上げ、地下で冷やしておいたもう一つの液体を見る。ハンドクリームなどにも用いる、薬草を刻んでエキスを馴染ませたものだ。これは人間の肌と親和性が強く、故に手荒れや皹を防ぐのに使われている。といっても、今作ってあるのは、薬効成分を入れていない、ベースのものだ。薬効成分は、これから中和剤を使って混ぜ込む。
これを使って、人間と親和性が高い物質の中に、薬効成分を紛れ込ませる。そうすることで速やかに肌へ薬効をすり込み、混ぜ込んだ魔力もあって、一気に効果を高めることが出来るのだ。
多分中和剤を使わなくとも、この薬品であれば予定通りの効果を出すことが出来るだろう。
問題は配合比率だ。毒になる要素のほぼない薬だが、それでも最大限の安全配慮をしなければならない。アカデミーの記述にある、似たような薬品を参考に、何種類か試作品を作ってみる。問題は実験材料である。人間で実験するのが一番望ましいのだが、それは最後の手段にしたい。
理論的には、髪の毛の成長を促す薬品を1とすると、肌と親和性の高い薬品を5〜10という所だ。5,7,10の三種類で試作品を作ったが、7が無難だろう。男女で肌はだいぶ硬度が違うが、それを言ったら個人差だってかなりある。
意を決して、マリーは目立ちにくい耳の奧の髪の毛を少し剃りとると、自分で試してみた。一番効果が小さなそうな5から試してみる。幾分か髪の伸びが早いかという程度だ。続いて、10を試してみる。今度は少しひりひりする。その上、効果は5のものと大して代わりがない。最後に7を試してみると、いつもの三倍以上の速さで髪が伸び、翌朝にはかなりの長さにまで伸びていた。薬を絶つと、髪の伸び方は三日後に停止、通常通りに戻る。マリーの頭しか実験材料がないのが少し不安だが、まず満足できる結果だと言って良いだろう。
今回は別に量産する必要がないし、何より素材がとても少ない。酒に入れて保存していた白鹿竹のタケノコの剰りは、実験が成功したらアカデミーに売りつけるつもりだ。保ちが悪いので、後生大事に抱えていても腐ってしまうのだ。今回の薬が成功したその後は、別個で注文をとればいい。
念のために、動物実験も行う。野良犬を捕まえて毛を刈り取り、薬を試してみたが、毛が生えるのがかなり早くなった。猿でも同じ効果が得られた。猫でもだいたい満足できる結果が得られた。慎重すぎるかも知れないが、人の頭に塗る薬である。慎重に実験を繰り返すことの何が悪い。まあ、体の一部だけ妙に毛が伸びた犬や猿や猫には悪いことをしたが、仕方のない犠牲である。
実験の後、アデリーが涙目で動物共の毛を切りそろえていたようだが、知ったことではない。あの子は確かに優しいが、無駄なことをマリーはしない主義だ。それにそのような脆弱さでは、また迫害の対象になってしまうだろう。いずれ対策が必要かも知れない。
実験が成功したところで、ゲルハルトの元へ、完成品の薬を持って行く。名称はどうするかと、マリーは往路で考えた。育毛剤は当然として、その後はどうするか。タケノコが良いか。白鹿にしようか。いや、竹林にしようと考えついた時に、ゲルハルトの店が見えてきた。
中は相変わらず蒸し暑い。ゲルハルトは禿頭を汗に光らせながら、巨大なハンマーで鉄を打っていた。それが終わるまで待ってから、話しかける。
「おっちゃん、こんちわー」
「お、来たか。 今日は何の用だ?」
「ええとですね」
周囲に他の人間はいない。声を潜めて、マリーは言った。
「以前のあの薬、出来ました」
「あの薬……。 お、おおっ! ほ、ほ、本当か! 見せてくれっ! 早く!」
カウンターから巨体を乗り出しかねないゲルハルトの目の前に、小瓶を置く。育毛剤・竹林という名前を告げてから、使い方を説明する。
「頭に塗り込むようにして使ってください。 使用は三日に一度ほどで充分ですが、使った後は頭を洗わないように気をつけてください。 頭は使う前か、塗ってから一日以上してから洗ってください」
「おうおう、分かってる分かってる!」
聞こえていない様子なので、使い方を紙に書いてカウンターに置く。ゲルハルトはマリーの眼前でダンスさえしかねないほどに喜んでいた。髪がないことを気に病んでいるのは知っていたが、この様子だと本当につらかったのだろう。邪魔してしまっては悪いので、外に出る。
「ひゃっほーい!」
陽気な叫び声が店の中から聞こえた。男の人って、何歳になっても子供なのだなと、マリーは思った。
ゲルハルトに薬を納品してから数日後。余った白鹿竹をアカデミーに売って得られた収入はかなり大きく、今回の護衛費と諸経費をさっ引いてもかなりのおつりが来た。ずっしりしした銀貨の袋を手に、マリーは帰路につく。
アカデミーは、今月の末から、新入生用の新しい寮の建設に入っている。今までは富裕層の子弟や、社会的に地位を確保している魔術師ばかりが入学していたアカデミーだが、年々敷居は下がっており、マリーをはじめとする非富裕層の生徒にも視野が広がっているのは、端から見ていても理解できる。おそらく、マリーが今受けている試験に関しても、その一環であろう。
マリーはアデリーを連れて、街に出ていた。たまには外食も良いかと思ったからだ。マリーには心を許してくれたアデリーだが、他の人間に対してはそうではないし、外に出る訓練は積んでおいた方が良い。
幾つか車引きを物色したが、なかなかこれを食べたいという店がなかった。郊外の富裕層が出入りする外食店に向かってみたが、正直な話かなり高い。だいぶ裕福になってきたとはいえ、今後は簡単に手に入らないような素材をアカデミーから購入する可能性もあり、無駄遣いは出来るだけ避けなければならない。
何だか気が乗らないので、アデリーに話を回す。
「アデリー、何か食べたいものある?」
「え? はい、その……辛いものが食べたいです」
「あんまり辛いものばかり食べてると、味覚がおかしくなるわよ。 辛いものか、そうねえ」
辛いものといえば、寒い地方の料理だ。体を温めるためか、非常に辛い作りになっている料理が多い。ザールブルグでは寒冷地帯から来ている人間も多いので、対応した店も開かれている。
シグザール王国北部は、無数の群小国家群と境を接している地方だ。シグザール王国が手を伸ばさないのは、コストに見合う成果が上がらないからである。土地はやせている上に、住んでいる者達は自立意識ばかり強く、扱いが難しい。この地方に赴任する将軍は過労で倒れることが多く、国内最大の激務の一つと言われている。そんな地方の出身者は、南方の楽天的な者達と、何から何までが対照的だ。肌は白く気難しく、強い酒を浴びるように飲む。
ミューにはいつも良くして貰っていて、南方の人間とは日常的に接しているアデリーだが、北方の者達と接するのははじめてか、店に入ると非常に緊張していた。
南方の人間達が集まる店だと、オープンな雰囲気の中客同士が面識もないのに話し合ったり、陽気な音楽が常に流れたりしているものだが、此処は違う。店の中は非常に静かで、細面の気難しそうな大柄な人々が、ただ食事を黙々と行っている。机や椅子も非常に形が整えられていて、何から何までが秩序の中にあった。
少し居心地が悪いなとマリーは思ったが、考えてみればこれらは北方の人々から見れば理にかなった構成である。無駄にエネルギーを消費することを避け、寒い中必死に生きているわけだ。無言でウェイトレスがメニューを出す。シグザール公用語と、北部で使われているシェテールン語で、メニューが併記してある。知識はあまり無いが、幾つか知っている料理の名はあった。それらの中から辛いものをアデリー用に見繕い、自分用にはよく分からない名前の料理を選んだ。何が出てくるか分からない分わくわくするし、知識も増えるから申し分ない。
店のドアが開いて、別の客が入ってくる。ずば抜けた長身の男で、店員がへこへこしている所から見て、かなりのVIPだろう。髪は長く、顔立ちは異常に整っている。身のこなしから言って、多分騎士か。しかも、恐ろしく強い。あの店員の様子からして、最低でも聖騎士、下手をすると騎士長か騎士団長か。ふと、現在シグザールの若い娘達の間で人気があるという、騎士団長エンデルクの事をマリーは思い出した。容姿はそっくりだし、間違いないかも知れない。そういえばエンデルクも北方人だったはず。
「マスター」
「ん?」
「あの人、怖いです」
アデリーが悲しそうに目を伏せる。心を開いてくれたのだが、この子はまだ基本的に恐怖と悲しみの中にいる。少しずつ氷を溶かしていかなければならない。頭を撫でて大丈夫だと言っているうちに、エンデルクらしき人物は隣の席に座った。ドス重い声で、注文をしている。マリーと同じメニューであった。端正な顔立ちと裏腹に、声はまるで地獄から響いてくるかのようなバスであった。
足音が近づいてきて、その正体に気付いたマリーは、思わず立ち上がっていた。
「あら? マリー」
「おう、久しぶりだな」
「お久しぶりです、長」
来ていたのは、シアを連れたトール氏だった。あわててアデリーも頭を下げる。周囲の客の抗議を含んだ視線を受けて、四人はあわてて口をつぐむ。
水色のワンピースドレスのシアはもちろんとして、トール氏は質素ながら作りの細かい良い仕立ての服に身を包んでおり、上品な口ひげも丁寧に狩り揃えられている。よそ行きの格好だ。
一見線が細いのがドナースターク家の人間の特徴だが、このトール氏もその例に漏れない。若い頃は女装しても違和感がないほどの美貌を持ち、娘達に騒がれたという。ただ、本人は殆ど性に興味を見せず、結婚も遅かった。顔役の娘であるシアに兄弟がいないのも、その辺が理由だ。また、トール氏には、能力が高い反面欠点も多い。家事関係は壊滅的な腕前であるし、偏食も酷い。よそでは基本的にどんなものでも食べるが、家庭内では食べないものがリストアップされており、それを含んだ料理を出さないように、暗黙の了解が作られている程だ。また、車酔いが酷いことも有名で、馬車には乗らない。遠出の時は、必ず馬に乗って駆ける。
立ち話も何なので、マリーの席に座って貰おうとしたが、二人は顔を見合わせる。形の良い顎に指先を当てて考えていたトール氏は、咳払いして、むっつりと黙り込んでいるエンデルクらしき人物に声を掛ける。
「騎士団長閣下、お騒がせして申し訳ありません」
「む、そなたらがドナースターク家の者達であったか」
「今日は会食にお招きいただき、ありがとうございます」
「此方こそ、質素な店に招いてすまない。 旨い郷土料理を出す店がザールブルグには此処しかないのでな。 舌が肥えた貴族には少し厳しいかも知れないが、勘弁して欲しい」
やはりエンデルクだったか。と思う暇もない。あれよあれよというまに、エンデルクはマリー達の席に移ってきた。エンデルクとトール氏が向かい合って座り、マリーとシアが二人の左右を固める。アデリーは立とうとしたが、トール氏とエンデルクが一緒で良いと言ったので、居心地悪そうに隅に座る。
店員が湯気立つ料理を運んできた。アデリーの前には、ホルシテンと呼ばれる山羊肉をベースとした真っ赤なスープが来た。唐辛子をはじめとする香辛料を山ほど入れてある料理で、パンと一緒に食べる。小麦粉を練って火を通した「ケル」と呼ばれる固形分がスープの中に多量に浮かんでいて、これの歯ごたえが実に旨い料理だ。辛すぎるのが難点だが、アデリーにはこれでいいだろう。
マリーとエンデルクには一種の麺料理が来た。ミートソースをベースにしたものなのだが、赤い斑点が麺に無数に着いている。多分小麦粉から作った生地に、唐辛子を混ぜ込んだのだろう。寒い北の環境を耐え抜くには、これくらいが丁度良いのか。
シアとトール氏には、ぶつ切りの大きな湯気が立つ肉が来た。スパイスが良く効いていそうだ。どう見ても二人分には大きすぎるので、切り分けて皆で食べることになる。マリーは肉に関しては、野外で直に焼いて炙ったような豪快なのが好きだ。だが、こういう繊細な料理も決して嫌いではない。美味しく頂く。
肉にも何にも、唐辛子が必ず入っている。唐辛子は簡単に育つので、北の人々の生活に欠かせない。ただ、北で主流に使われるのは、味が落ちる代わりに実が大量にできる上、寒さに強い山唐辛子だという。他のスパイス類も、本来入っていないものなのだと、エンデルクが食べながら説明してくれた。
北は基本的に貧しい地域であるし、仕方がないかも知れない。物流が集まるザールブルグだからこそ、作ることの出来る、豪華な郷土料理なのだ。郷土では多分貴族クラスしか食べることが出来ないはず。それを庶民の収入で食べられる。それでは、ここに来ている者達が無言になるのも無理はない。料理を見て、マリーははじめてそれを悟った。
談笑しながらの食事が進む。エンデルクは料理を時々解説しながら、無表情で麺を器用に巻き取りながら頬張った。平気な顔をしているアデリーに対して、マリーもシアも時々ハンカチで額を拭いている。少し辛すぎるのだ。マリーは多少不器用にフォークで麺を巻き取りながら、アデリーの方を見た。粗相をする様子はなく、安心した。こういう経験を幼いうちから積んでおくのは、決して悪いことではない。
食事を進めながら、今回はあくまで交友を深めるための「会食」だと、マリーは判断した。周囲に不特定多数の人間がいる上、トール氏はリラックスしている。もし政治的な話なども入ってくる場合は、相手の屋敷か、自分の屋敷で行うだろう。
エンデルクが給仕を呼び止め、酒を注文する。マリーはアデリーがいるという状況も考慮して、辞退しようとしたが、結局一杯だけつきあわされた。ただし、その一杯が強烈だった。火酒というすさまじいアルコール濃度を誇る代物である。豪雪の中、これで体を温めることで、北の地の人々は乗り切るのだ。
口に少し入れてみたが、舌が焼けるかと思った。咳き込まないようにするので精一杯だった。味なんか分かるわけがない。さっきまで食べていた赤い麺が、まろやかに感じてしまうほどだ。アデリーが心配そうに見ているので、無理矢理笑顔を作って頭を撫でる。シアも殆ど同じ反応だったが、それでも上品な笑顔を浮かべている辺り、流石だ。こういう場に慣れている。憶測だが、常に美味しい料理が出るわけでもあるまいし、たまに刺激が強すぎるまずいものに耐える事もあるはずだ。今回は味自体は決して悪くないが、刺激が痛烈だ。
やがて、最後に運ばれてきたのは、良く冷やされたブララの実であった。真っ二つに切り分けられていて、芳香を放っている。一人頭半分として、丁度二個半用意されていた。これはどこでも美味しく頂ける御馳走である。時期は少し早いが、多分早馬で南から運んできたのだろう。
舌がおかしくなりそうだったマリーはあわてて手を伸ばそうとして、引っ込める。こういう時のマナーだ。トール氏が手を伸ばすまで我慢しなければならない。待つ時間は地獄であった。アデリーはというと、旺盛な食欲でスープをゆっくり確実に全部平らげ、まだ少し物足りなさそうな顔をしている。毎朝かなり長距離を走っているし、訓練を欠かさないのだから当然だ。育つ時には徹底的に食べるのが自然な事だ。今のうちからしっかり仕込めば、この子は誰にも負けない使い手になれる。覚醒暴走型の能力を使いこなせるようになれば、もしかしたら国を一つくらい取れるかも知れない。
やがて料理にトール氏が礼を言い、皆で店を後にする。偶然とはあるものだと思いながら、素直におごられる。エンデルクは一礼すると、迎えに来たらしい騎士達と、詰め所に戻っていった。
帰り道、途中までということで、ドナースターク親子と歩く。水入らずの状態だと、どうしても村の時の癖が出る。マリーはグランベルでは、皆と同じく、トール氏を長(おさ)と呼んでいた。
「騎士団長は、どうして長と?」
「よく分からないが、支援が欲しいそうだ」
「騎士として上り詰めたのに、ですか?」
「あの人はああ見えて、かなり名声欲が強い。 野心もだ。 多分、今以上に名声を得て、歴史に名を残したいのだろうな」
今でも充分歴史に名は残ると思うのだがと、マリーはつぶやく。ドナースターク家はこの間更に四つの村の管理を任され、しかもその全てで業績を上げている。村人達の評判も良く、産業の振興と技術交流が活発に行われ、成長が著しい。これらの業績と人望からも、将来的には公爵になり、国家の重要ポジションに着くのではないかという噂もある。エンデルクは何かを目論み、スポンサーを必要としていると言うことか。
そうなると、エンデルクが何を企んでいるか、知る必要はありそうだ。好奇心の問題ではない。何しろ、トール氏の判断は、グランベルの状況にもろに影響する。マリーはどこまで行っても、当面の目標は結局の所、自分の力でグランベルを更に発展させる基盤を確保することだ。つまり、それだけ故郷を愛しているのである。
思惑を進める。エンデルクは何を願う。ザールブルグ軍の頂点に立ちたいのか、それとも文官に転身して宰相にでもなるつもりか。現在、王位継承の筆頭候補であるプレドルフ第一王子は、噂に聞く限りでは、よく言えばおっとりしていて、悪く言えば土の冷たさを知らない。ヴィント王も耄碌しているという噂を聞いているし、今宰相になれば、実質この国を支配することも可能かも知れない。
「どちらにしても、融資については少し考えるつもりだ」
「それが賢明でしょう。 長、気をつけてください」
「何か不利な情報を持っているの?」
「もう少し確証が得られたら話すわ」
マリーには、あの女騎士が単独で動いているとは考えられなかった。エンデルクには気をつけた方が良さそうだと、密かにマリーは思った。
夜道を歩く。アデリーに併せて少しスピードを落としながら。アデリーは少し表情がゆるんでいて、美味しく食べることが出来たのだと分かる。家まであと少し。アトリエが見えてきて、同時に入り口にたたずむ人影も見えた。
隣の家のおばさんが、さっと窓を閉じる。何事かと思えば、入り口に立っているのは印象的な、いやインパクトが強すぎる巨漢であった。筋肉質で、シャツ一枚というラフスタイル。その上長大な髪が腰まで伸びており、顔を半分ほど隠している。髪は美しいが、その異常すぎる長さが、恐怖を誘う。
アデリーが真っ青になって固まる中、マリーは小首をかしげる。やがて、脳内検索に、一つヒット。
「ま、ま、まさか! おっちゃん?」
「くくくくくく、はーっはっはっはっはっはっはっは! よく分かったな! 俺だよ!」
「おー、す、すごい効果だね。 ちょっと、予想の外、かも」
凄い髪の量に、歴戦のマリーですら少しばかり引きつっていた。予想の外どころか、大陸の端と端くらいまで離れている。マリーの魔力が、本来のタケノコの成長効果を増幅したのかも知れないが、少し凄すぎる。ほんの少し前まで、禿に悩んでいた人だと、誰も気付はしないだろう。
「がはははははははは! すげえだろ、すげえだろ! 見ろこの美しき髪! 男の誇りたる黒い髪!」
隣を見ると、アデリーが立ったまま失神していた。ゲルハルトはマッスルポージングを決めたりしながら、目を輝かせつつ言った。
「どうだ、俺、かっこいいか!? かっこいいだろ! 最高だろ!」
率直に言うと、むしろ怖い。確かに髪は欲しかったかも知れないが、物事には限度というものがある。これでは何かの妖怪だ。だがここは世話になっているゲルハルトのためにも、マリーは言わなければならなかった。
「か、か、かっこいいよ! 最高!」
「おおっ! くあーっ、あーもう、なんつーか、生きてて良かったぜ! 今日は人生最良、じゃねえな。 人生で二番目に幸せな日なり!」
胸を反らせて馬鹿笑いしながら、ゲルハルトは一本の杖を取り出した。打撃用のものではなく、魔力増幅用のものだ。
「ありがとうな。 こいつは礼だ。 受け取ってくれ」
「これは?」
先端部に大きな三日月を象った装飾があり、柄の半ば辺りには星を象った模様が刻まれている。触ってみると、分かる。相当に強力な増幅効果がある。
「星と月の杖。 俺が若い頃に集めた武具の一つよ。 昔の仲間が、子供の頃に使ってた武具で、そいつの力がしみこんでるからな。 かなりマリー嬢ちゃんの力を高めてくれるはずだぜ」
「ふふっ、ありがとう。 これは凄いわ」
風を切って少し振り回してみる。打撃武器としての有用性は低いが、それでも強度は充分だ。近接戦闘時は通常の杖を用い、後方支援戦闘の際には此方を使えばよい。短い杖なので、持ち運びにも苦労しない。
鬼に金棒とはこの事だ。これで、今まで危険すぎて足を運べなかった地域も、探索が強行できる。それだけではない。中和剤の魔力注入だって時間を短縮できるし、もっと強力な爆薬の製造だって実行に移せる。
錬金術は誰にでも使える技術だが、それでも個人の技量や魔力で、結果は変わる。アイテム類の製造時間も短縮できるし、それ以外にもメリットは多い。目に冥い輝きを宿すマリーの頭を一撫ですると、ゲルハルトは手を振ってその場を去っていった。
「じゃあな、ありがとよ」
「こっちこそ」
マリーには分かっていた。多分ゲルハルトにもだろう。あんな異常成長を遂げた髪の毛は、長続きしない。数日で元の禿頭に戻ってしまうはずだ。だが、一夜の夢という言葉もある。ゲルハルトはそれに救われたのだろう。それに、渡した育毛剤はまだ在庫がある。気分転換に、たまに塗ればいい。
その晩、マリーは興奮して眠れなかった。この杖で増幅した攻撃術の対人殺傷力は、おそらく全盛期をしのぐ。新しい火器類も作ってみたいし、それによる破壊力も試してみたい。思わず頬がゆるんでしまう。
アデリーは悪夢にうなされているようで、つらそうに呻いていた。時々布団をかけ直して上げながら、マリーは明日からの計画を練る。楽しみで仕方がない。血に飢えた筋肉が、早く試したいとせがんできていた。
眠れないので、裏庭で素振りをする。巨大な敗北感の後に味わった、圧倒的な高揚感。まだ先に行ける。まだ世界は閉塞していない。
天に向けて、マリーは咆吼した。
5,空虚と恐怖と甘美な夢と
山奥に築かれた、古い城塞を改造した軍の実験施設を数名の護衛兵士と見回りながら、カミラは満足していた。今のところ、順調に戦力が整っている。
かって牢屋になっていた場所は、ヤクトウォルフらの寝床になっている。カミラは時々見に来ては、いつもは寝転がっている彼らがきちんと命令を遂行するか、確認に来る。ヤクトウォルフは何カ所かでの量産が進み、既に三百体が稼働可能な状態になっている。これは草原、森林での殲滅戦が主目的のクリーチャーウェポンだ。この間開発した、城塞攻略用のステルスリザードは調整が遅れているが、他はおおむね順調。特に密林での戦闘を想定したテンペストモアは、最後に実戦で敗退したものの、充分な性能をたたき出していた。もうすぐ量産にかかることが出来る。
カミラは火薬式兵器の開発にも興味を持っている。だから、そちらの研究も時々覗いているが、どうも芳しくない様子だ。アカデミーは最低限の技術供与しかしてくれないため、軍で抱えている錬金術師が苦労しているのだ。この間も実験の失敗で、貴重な人材を失ってしまった。クリーチャーウェポンもリスクが高い代物だが、火薬式のリスクと来たらどうだ。だからカミラは此方を選んだのである。別に嗜好的な問題ではなく、カミラにとっては確実に自らの野望を満たせる素材が重要なのだ。
カミラは騎士といっても高位のポジションにあるから、コストやリスクを無視した行動は出来ない。まして彼女が抱いている野望の巨大さから考えるとなおさらだ。幸いにも、ヴィント王は使えるものであればどんなものでも使うというリアリストで、その点から言うと理解者にもなりうるし、利用もしやすい。
一通り研究施設を見て回る。砦を改装しただけあって、重厚で警備体制も悪くない。ただ、やはり人員をそう多くは割けず、それがネックになっていた。全体的に人が足りないのだ。マンパワーの不足は、思わぬ方向からの瓦解を招く弱点を作りやすい。カミラとしては、多くの人材を確保したいが、特に深部の研究になってくると難しい。エンデルクは協力を惜しまない体勢だし、他にも何人かの師団長を引き込んではいるが、彼らとて状況が悪くなればカミラに責任を押しつけて切り捨てかねない。
外に出る。既に待たせてあった馬車に乗り込み、警備兵達を下がらせる。腕組みして椅子に背中を預け、ぼんやりと思考を漂わせる。
カミラは孤独だ。貴族でもなく、富豪でもなく。中流階級の、花屋の次女として産まれたカミラは、身を立てるにはその能力を持ってしなければならなかった。花屋などという商売が成り立つのも、ザールブルグの豊かさを示しているが、それでも客は富裕層限定。彼方此方で店が開けるようなものでもない。店は長男が継ぐことは決まっているし、それ以外の兄弟は自分の才覚で身を立てなければならなかった。結婚を選ぶ手もあったが、カミラのようなちび(良くそう自嘲していた)を嫁に貰おうなどと言う酔狂者がいると、期待などしていなかった。
たまたま近接戦闘に便利な能力を持っていたから、軍に入り、騎士団へ昇格した。クーゲルという戦いにしか興味がない良い師匠に恵まれたおかげで、二十歳になったばかりで師団参謀という高位にも就いている。いつも周囲からは天才と呼ばれたが、実感はない。血を吐くような努力を続けたから、出来たことだとカミラは自分で思っている。他の者が遊んでいる間にカミラは勉学し、恋愛している間に鍛錬し、寝ている間に能力を磨いた。だから比較的早く力がついた。それだけだ。
望み通りの状況に、カミラは自力で這い上がった。だが、地位が上がればあがるほど、信頼できる人間は周囲にいなくなった。気軽に話せる友は昔からいなかった。単に運が悪かったのか、カミラの性格に問題があったのかは分からない。だが、今ではそれどころか、会話は政治の一部だ。寂しいとは思わないが、時々こういう虚脱感に襲われる。
立志伝の主人公や、傑物といわれた起業家が、とんでもなく簡単な詐欺に引っかかってしまうことがたまにあるとカミラは聞く。心の隙間に入り込まれると、人間はとにかく脆いのだそうだ。カミラの場合、この虚脱感がその隙間になるのだろう。最悪の弱点の一つであり、何とか克服したいとは思っているが、どうも上手くいかない。地位が得られたのだから恋人でも作れと言う同僚もいるが、忙しくてそんな暇はない。それに、今更恋愛に興味も持てなかった。
非常に高いスキルがある反面、空虚だと、カミラは自己分析している。若くして上り詰めるという事だけが人格になってしまっている。そのため、出世が快感になりつつあった。体が精神との均衡を、そんな形で保っているのかも知れない。
馬車が動き出す。思考が徐々にクリアになっていく。
このまま状況をコントロールし続ければ、やがて誰も気付かないうちに、この国はカミラのものとなる。そのときには、最高の快感が約束されるだろう。だが、何故か、空虚さが心の内の多くを占めつつある。
春なのに、どこかが寒いと、カミラは思った。
クライスの眼前には、空虚な瞳の女がいた。髪の毛も瞳も緑系の色と、通常の人間では考えがたい配色である。顔立ちも整いすぎていて、まるで人形だ。
イングリドの研究室に呼び出され、最近のマリーの様子を聞かれた後、この女が部屋に入ってきた。年はクライスと同年代か。体つきもメリハリがあり、その異常な無表情さえなければ、男達の視線を独占するかも知れない。正体さえ知らなければ。
「お邪魔でしたでしょうか」
「かまわないわ。 入りなさい」
「それでは、失礼いたします」
この女はホムンクルスだ。クライスは相手の正体を即座に見破っていた。しかし、これほど完成度が高い個体は見たことがない。これが噂に聞く、ヘルミーナブランドという奴なのか。
クライスも噂には聞いている。アカデミーから一時的に離れている、イングリドと双璧を成すヘルミーナという錬金術師。彼女は火薬類や生命創造に関してはアカデミー随一の腕を持ち、一部の技術は校長であるドルニエさえしのぐという。
「紹介するわ、クライス。 この子はクルス。 ヘルミーナ先生の作ったホムンクルスよ」
「はじめまして。 クライス=キュールです」
「はじめまして。 クルスです」
声も無機質で、クライスは内心この生き人形を侮蔑した。世界最高水準のホムンクルスでさえ、まだまだこの程度の完成度なのだ。それはこの分野の研究が進んでいないことを意味している。まだ、クライスにも、幾らでも追いつく余地はあるだろう。それにこの無機質さ、あまりにも滑稽だ。確かに完成度も高いし美しいが、所詮……。
クライスは、その先に何を続けようとしたのか、自分でも分からなかった。混乱する彼を尻目に、眼前では事態が展開していく。
クルスは小包を抱えていて、イングリドに手渡す。中から出てきたのは、油紙に包まれた何かの薬品だった。イングリドもホムンクルスの研究ではまず一流といって良いレベルであると、クライスは聞いている。情報交換をしているのかも知れない。
やがて、クルスは出て行った。イングリドはくすくすと笑いながら、クライスに向き直る。
「クライス=キュール」
「は、はい。 何でしょうか」
「面白い事になってきたわ」
イングリドは言う。軍と騎士団が、面白そうなものを作っているのだという。それは具体的には、既存の生物をホムンクルス製造の技術で強化し、軍用に用いようというものなのだとか。
しかも、それにはマリーが関わっているという。積極的に協力している訳ではないのだが、その軍用生物と何度か交戦しており、軍の方でも目をつけ始めているのだとか。
「良い成長用素材だわ。 このまま軍を刺激しすぎないように接触が続けば、あの子の成長は更に早くなり、錬金術のパラダイムシフトも近くなる」
心底嬉しそうにイングリドは言う。背筋に寒気が這い上がるのを、クライスは感じた。この人は思考回路の次元が違う。クライスが思っていたよりも、遙かにやばい。理論型天才のように見せながら、その実普通の人間がたどり着けない所へ、いとも簡単に潜り込む。そしてその結果を、きちんと出していく。
何が天才だ。クライスは、自らの惨めさに、歯がみしたくなった。
再び、名前を呼ばれる。クライスは必死に無表情を装って、顔を上げた。
「貴方は、軍とマルローネの距離が近くなりすぎず遠くなりすぎないように、調整を続けなさい。 もちろん、貴方の出来る範囲でかまわない」
「は、はい。 しかし、危険では無いでしょうか」
「どちらが?」
あまりにも恐ろしいその返答に、クライスはそれ以上追求できなかった。
どうやって家までたどり着いたのか、覚えていない。ベットに倒れ込んだクライスは、恐怖を殺すのに必死だった。自分の小ささ、イングリドの巨大さ、いずれも彼の理解できる範囲の外にあった。悩み、苦しむ時が来たのかも知れない。
周囲の巨大さに翻弄されるばかりで良いのか。その中で旨く立ち回り、最後に勝つつもりではなかったのか。あの不遜なまでの自信はどうした。全てを手に入れたいという野心は燃え尽きてしまったのか。
クライスは己の不甲斐なさに涙した。どうにかして、今の状況に追いつきたかった。だが、恐怖がそれを邪魔した。自分を明らかに上回る者達の見せる、甘美な夢にも似た恐怖が。
夜中、マリーはベットの中で、次に作るものを決めた。
火薬を用いた炸裂弾。クラフトを更にしのぐ破壊力を持ち、さらなる大量虐殺を可能とする恐るべき武器だ。今のスキルと、底上げされた魔力を用いれば、調合は可能なはず。確か「フラム」とか言ったか。
作るのが楽しみで仕方がない。そしてそれを使う事を考えると、マリーは一人笑い出しそうであった。
アデリーが身を縮めて隣で眠っている。その頭を撫でると、マリーは目を閉じる。その晩見た夢は、必死に逃げようとする一個小隊を、瞬時に灰にするものであった。
マリーは夢の中で、悦びの雄叫びを上げていた。
(続)
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