希望の先の現実

 

序、ホムンクルス

 

ザールブルグ近郊の街、分厚い城壁に囲まれたシュテンハイデン。その東の一角、かって貴族の邸宅であったそこに、一人の女が住み込んでいた。

彼女は、幽霊が出るという噂がありずっと売り家になっていたこの屋敷を買い取ると、十数人の使用人達と移り住んできた。つれている使用人の数から言って、貴族か、それ並みの財力を持つことは間違いない。それで周囲の住民達は緊張したが、やがてそれは恐怖へと変わった。

使用人達の中には見目麗しい娘もいたが、殆どは得体が知れないフードを被った者達だったのである。彼らは一様に姿を見せようとせず、無言での作業を続けていた。住民達の間に不安が広がったが、領主はなぜか静観を決め込み、何も手を出そうとはしなかった。フードを被った者の目を偶然見た住民が、恐怖の体験を語る。まるで、死人のような目をしていたと。

噂はすぐに広がり、恐怖と憶測を伴いながら変化していった。新しい女主人は、邪悪な魔術を極めた魔女に違いないと。覚醒暴走型能力者で、国でも手出しが出来ない恐怖の存在だと。住民達は自分たちで勝手に作った噂に振り回され、震え上がった。

アカデミーの関係者が見たら頭を抱えたことだろう。なぜなら、この女主人こそ、アカデミーの双璧と呼ばれる超一流の錬金術師、ヘルミーナだからだ。

半断絶状態になった屋敷とその周辺。だが、ヘルミーナは気にしていなかった。いつものことだからである。理解を得ようとも思わないし、偏見と戦おうとも思わない。そもそも社会にほとんど興味がない。だから、直接的な害が無い限り、放っておくだけである。彼女はすぐれた錬金術師だが、人の目というものを全くといって良いほど気にしない。その結果生じる悪評も、どこ吹く風だった。

その恐ろしげな魔女こと、ヘルミーナが、自室でベルを鳴らす。彼女の部屋は黒をベースに調度品が置かれており、愛用のソファも、デスクも、実験器具類も、可能な限り皆黒だ。その黒い部屋の中、カーペットだけは血を吸ったかのように赤い。そのカーペットの上の安楽椅子に、ヘルミーナは腰掛けていた。さながら闇の女王のように。

「クルス!」

呼ぶ声は、案外柔らかい。程なく現れたのは、この屋敷で唯一フードを被って行動していない使用人であった。年の頃は十代半ば。顔立ちの整った、見目麗しい娘である。やや切れ長の目は涼やかでまつげが長く、肩口で切りそろえられた髪も美しい。肌はきめ細かく、唇は色づき始めた桜桃のようで、すれ違った男の半分以上が振り返るようなルックスだ。ただし、髪の色は緑。瞳の色は黄緑と、あまり一般的ではない色彩である。

「何でしょうか、ご主人様」

「メンテナンスの時間です。 服を脱ぎなさい」

「はい」

ぺこりと一礼すると、クルスと呼ばれた娘は使用人の衣服を脱ぎ捨て、ヘルミーナに背中を向けて座った。染み一つ無い美しい肌。だがその背中の一点に、異物が埋まっていた。背骨の一つが金属となり、せり上がっているような感じである。そしてその金属には、特殊なインクで、13と刻み込まれていた。

指を伸ばし、ヘルミーナは金属片に触れる。しばしいとおしそうに触れていたが、やがて魔力を注ぎ込み始める。クルスが僅かにうつむいて、喘いだ。ほどなく、充填は終わる。何事もなかったかのように、クルスは服を着る。てきぱきとした作業に、殆ど無駄はない。そして、彼女の表情の変化も、驚くほど小さかった。

ヘルミーナとクルスに、血縁関係は無い。だが実の娘に対するように、普段の彼女を知る人間が見たら腰を抜かすような優しい目で、ヘルミーナは語りかける。

「疲労が溜まっていない?」

「はい。 大丈夫です」

「そう。 ならいいのよ。 仕事に戻りなさい」

「分かりました。 失礼します」

クルスは丁寧に礼をすると、ヘルミーナの部屋を出て行った。いとおしそうに目を細めてその様子を見ていたヘルミーナが、ため息を一つついた。

「あの子も、後四年が限度ね。 初代のクルスに比べるとずっと長生きになったけれど」

その独り言は、誰の耳にも届かない。悲しい物語を秘めた、彼女の人生の指標は。

ホムンクルス。錬金術によって作り出された生命体であり、その傑作の一つとも言われている。複雑な薬品調合と魔力注入の結果作り出された「核」を媒体にして作り出すものであり、高度なものになると生物とほぼ変わらない肉体と、簡単な術を使うものまでいる。たとえば、クルスがその一人だ。クルスに関しては、人間と生殖して子供を作ることが可能な段階にまで進んでいる。

ただ、いずれにも共通している欠点がある。寿命が短いのだ。現在ホムンクルス研究の第一人者といえば、なんと言ってもアカデミーの双璧をなす錬金術師の一人、ヘルミーナだ。だが、その彼女をもってしてもホムンクルスの寿命を延ばすのは困難を極める。

クルスはヘルミーナが精魂込めて作り上げた傑作であり、代々同じ名を継いでいる。現在ヘルミーナの傍らにいるのは十三代目になるクルスだが、寿命はそれでも六年。更に、複数の派生型が今まで存在したため、系統的には六号機となる。今二歳のクルスは、あと何年か経てば、ただの肉塊となり、土に還るのである。人間と子供を作る事は可能だが、産まれた子は不幸な人生を間違いなく送ることになるだろう。次は十年、その次は三十年。最終的には不老の時を生きるホムンクルスを作りたいと、ヘルミーナは考えていた。それにはこのシュテンハイデンが拠点として最適なのである。

他の使用人の殆どは、研究用に作り出した簡易型のホムンクルス。後は、この間捕まえた、アカデミーの栄光に泥を塗ろうとした三流錬金術師や、その他いろいろな理由で捕獲して意識を奪った人間である。いずれも自我薄い連中で、周囲からは怖がられているが、知ったことではない。むしろヘルミーナから言わせると、自分と違う事を恐れ迫害するような連中こそおかしいのである。

シュテンハイデンはザールブルグの衛星都市の一つであり、戦時には強力な要塞としても機能する。人口は三万。比較的開けた平野を望む都市であり、背後には険しい山が、前にはストルデルの支流があり、防御能力も発展力も高い。平野にはザールブルグの主力である屯田兵およそ二千が駐屯している。そして、なにより。

此処の領主は、アカデミー創設者であるリリー先生の恋人候補だった元聖騎士だ。すでに武人としては引退しているが、それでも指揮官としてはいまだ現役で、重要な要害の地である此処を守っている。

彼は結局リリー先生と恋人になることは無かったらしいのだが、良き友人としてのつきあいは今でも続いていて、それはヘルミーナもよく知っている。美麗な外見と裏腹に武骨で古い倫理観念の持ち主だが、一皮むけばとても公平で優しい人である。幼い頃には、ヘルミーナも随分かわいがって貰った。彼には錬金術に対する蔑視も、ヘルミーナに対する偏見もない。此処でなら、人脈を生かしてある程度自由に動くことが出来る。軍の動きも掴みやすい。

ホムンクルスの研究と、軍の監視。二つの作業を同時に行うには、この地の別荘は最適であった。

黒ずくめの部屋で様々な薬剤の調合を行っていたヘルミーナは、不意に鈴を鳴らす。すぐにクルスが訪れる。

「お呼びでしょうか、ご主人様」

「冒険者ギルドに、この手紙を届けてちょうだい」

そういって、ヘルミーナは手紙を書き始めた。ヘルミーナは感情に流されやすい性格で、しかも気まぐれである。今の行動も、いきなり思いついたことを何の準備もなく開始したので、クルスを呼んでから手紙を書いているのだ。

案の定、書き上がった手紙は文脈が右往左往していたが、それでも意味はどうにか通っていた。要約すると、クルスをザールブルグまで護衛し、その後この町までつれ戻ってほしいという内容である。ただそれだけの内容なのだが、ヘルミーナの知人であるギルド長への挨拶やらイングリドへの悪口やらクルスの掃除の手際やらがゴチャゴチャに混ざり込んでいるため、文章が意味不明なまでに長くなり、文脈も理解しづらくなってしまっている。だがヘルミーナはその混沌とした手紙を読み直すと、満足して頷き、蝋で封印して自分の印鑑を押して、クルスに手渡した。彼女の感性では、これで正しい手紙なのである。

手紙を手渡されると、クルスは丁寧に一礼して、部屋を出て行った。指先でヘルミーナは落ち着きなくテーブルを叩く。必要なこととはいえ、愛娘に等しいクルスを街の外に出すのは緊張する。しばらくためらった後、ヘルミーナは久しぶりに自作のワインに手を伸ばした。良く熟成したにもかかわらず、それは妙に甘かった。

 

1,怪盗デアヒメル

 

その日、飛翔亭は朝から殺伐とした空気に包まれていた。丁度今年最後の栄養剤を納品しに来たマリーも、それを目の当たりにし、困り果てていた。他の客達も同様。普段は朝から酒を飲む客さえいるのに、当然それなりに陽気に騒いでいる人たちもいるのに。今日はまるで葬式のように静まりかえっていた。

理由は、店の奥、カウンターの中にあった。店主のディオと並んで、せかせかグラスを磨いているのは、彼の娘であるフレア=シェンク。二人とも一言も発せず、猛烈な怒りのオーラを全身から放っていた。

何も言葉が無くとも分かる。二人がけんかをした事くらいは。

娘に対して過保護なことで知られているディオ氏だが、マリーは知っている。年頃の娘であるフレアが、決してそれを喜んでいないと言うことを。都会の人間と田舎の人間では基本的に考え方が違う。それをここ数年でマリーは学習した。

フレアは前々から、カウンターに居る時、年が近いマリーにこぼしていた。門限が厳しいと。殆ど遊びに行くことも出来ないと。フレアはマリーから見ると、結構身がたい性格で、分別もしっかりしている。それなのに根本的なところで父に信頼されていないという事でストレスを感じているらしい。

そんな事情はマリーから言わせれば贅沢な悩みだが、しかし此処は辺境の村と社会的状況が根本的に異なる。彼女を責めるのは筋が違うだろう。かといって、ディオ氏が全面的に悪いというわけでもないだろうし。親子げんかにくちばしをつっこむのはあまり好ましいことではないが、しかしこのままでは仕事に支障が出る。困ったものであった。

どうしたものかと考えていたマリーだが、事態は彼女の思惑と別に動く。マリーの前に来ていた冒険者が、取引を済ませて、そそくさと帰って行ったのだ。気が重いが、次はマリーの番だ。栄養剤を持ってカウンターへいこうとした途端に、ディオ氏がバックヤードへ引っ込んでしまった。むっつりと不機嫌そうなフレアの元へ、仕方がないので足を運ぶ。

フレアはたまにしか店番に出てこないが、それでも酔客のあしらい方や、仕事のやり方は知っている。カクテル類を作る腕前は父以上ではないかとマリーは思っているほどだ。彼女は眉根を寄せたまま、マリーが納品した強化栄養剤の品質を確認していたが、やがて予定通りの料金を払ってくれた。これで帰れると思ったが、そうは問屋が卸してくれなかった。

視線を感じたので振り向いて、ぎょっとする。順番待ちをしていた同業者達が、皆マリーに意味ありげな視線を送ってきていたのだ。彼らの中には、マリーが仕事をする上でつきあいが欠かせない者だっている。ため息一つ。ここで貸しを作っておくのも悪くないし、無視して帰ると彼らの心証が悪くなる。

この飛翔亭のような、鉄壁の評判を持つ店とマリーは違う。この店は多少親子げんかがしたくらいでは、いやたとえ二年三年仕事が無くとも、びくともするような柔な店ではない。だが、マリーは仕事が無くなると今後の生活が立ちゆかない。声を落として、マリーはフレアにささやいた。

「親父さんと何かあったの?」

「……ええ」

「あたしで良ければ、話聞くよ? まあ、今はお仕事の最中だけれど、後でお昼ご飯の時にでも」

「ありがとう。 後で中央公園に来て。 そこで話すわ」

少しだけフレアの表情が和らいだので、マリーはほっとした。他の客達が、こっそり親指を立ててマリーを賞賛したのには、苦笑いするしかなかった。まあ、今店内の客の内、フレアと接点がある者はマリーしかいないわけだし、こればかりは仕方がない。

ただ、マリーとしては、決して納得している訳ではない。マリーとしても、フレアの事が心配だという気持ちはある。だがそれ以上に、親子の問題は親子で解決すべきだという意識の方が強いのだ。妙な話である。歴戦の冒険者であり、近辺の国では知らぬ者のないディオ=シェンクが、娘を育てるだけのことに手を焼いているのだから。

英雄が万能の存在ではないという事は分かっている。だが、ディオ氏ほどの人物であれば、広域に人脈が展開されているだろうに。アドバイスを頼む人間はいないのだろうかと、マリーは思ってしまうのである。

飛翔亭を出る。冬の切るような空気が、マリーの全身を撫でた。息が白い。早朝のトレーニングの時には既に分かっていたが、それでも短距離とはいえ厚着をしてきて正解だった。後でどうフレアと話すかは脇に置いておいて、一端意識を切り替える。マリー自身も、アデリーという問題を抱えているのだ。

帰り道、アデリーに何かおみやげでもと、車引きを物色。複数の「種」と一緒に練り上げた小麦粉を薄くのばして焼いて、間に野菜や調理肉類を挟んだクレープと呼ばれる料理があったので、買って行く。この料理は高度なスキルが必要で、車引きは珍しい。その分味も少し不安なのだが、一つ食べた分には問題がなかった。アデリーが少しでも喜ぶといいなと思いながら、帰路をたどる。その途中、気分が悪いものを見た。

ザールブルグに屋敷を構えている貴族の中には、絶大な力を持つ者が居る。ただし、必ずしもその存在は世襲制ではなく、そのため蓄財に躍起になるものもいるのである。その中の一つ。この間ついに公爵の地位を剥奪され、侯爵に落とされたヴェルシュ家の私兵が道を我が物顔に闊歩していた。連中は胸にヴェルシュ家の家紋をつけ、往来だというのに槍の穂先を陽光に当て、周囲を睥睨していた。彼らの後ろには、使用人らしいみすぼらしい者達が、荷車を引いていた。金になりそうもない家財道具ばかり乗っている。

ヴェルシュ家は高利貸しをしていると、最近噂になっている。多分債権者から取り立てたのだろう。胸くその悪くなる光景であった。マリーは不機嫌になり、足早にアトリエに戻る。

暗い顔で掃除をしていたアデリーは、クレープを見て少しだけ嬉しそうにした。

 

秋が終わり、冬の始まりであっても、陽が昇れば少しは暖かくなってくる。特に今日は典型的な小春日和で、却って肌に心地よい。

アデリーとマリーはクレープを向かい合って食べた。試食と同じ味で、マリーは安心した。悪質な車引きには、試食だけ美味しく作る者もいるのだ。アデリーはもくもくと食べているが、周囲を警戒していることがよく分かる。それはマリーに対する警戒ではない。もっと広義的なものだ。

マリーはアデリーの様子に気付いて、赤いソースを取り出した。数種の野菜を刻んで熟成させたもので、マリーの場合は近くの市場で手に入れる。これは唐辛子を少し多めに配分した特別製だ。普段は口が小さい陶器製の瓶に入れて管理している。

「はい。 使う?」

「ありがとうございます」

ぺこりと頭を下げたアデリーには、悪い意味で子供らしさが無い。もう食べ終えたマリーは、静かにもくもくと食べるアデリーを見つめていた。

此処数ヶ月間、マリーはアデリーを必死に観察した。もっと親密なコミュニケーションを取るためには、アデリーをより深く知ることが絶対だと思ったからである。そして気付いたことが一つある。この子は、欲求を、全く外に見せないのである。というよりも、欲求を出す方法を知らないし、それを恐れてもいるらしかった。

辛いものが好きだという事を知ることが出来たのも、今思えば奇跡に近かったとマリーは考えている。それは子供らしい隙から出た言葉であり、それが分かった後でも、アデリーは決してもっと辛い方が良いとか、要望を口に出すことがなかった。つまり、この子にとって、「何がしたいか」という事は、思考の外にあるのだ。好きだというのは、あくまで自分の手の届く範囲内であれば優先する事に過ぎず、他人にそれを理由に働きかけることは殆ど無い。

それは多分、何もかもが暴力に報われた数ヶ月前までの環境に起因しているのだろうと、マリーは分析を終えている。気の毒な子である。欲求を表に出すという事がそのまま暴力で報われるという異常な環境が、こんなにこの子を萎縮させてしまったのだ。

また、アデリーは甘え方も知らない。子供なのだから、仕事の他では思いっきり甘えてかまわないし、マリーもそれに文句を言わない。生きていて迷惑を掛けて良いし、泣いたって怒ったって悪戯したって程度次第なら良いのだ。それなのに、この子の産まれた環境では、それらの感情を表に出すことが、直接的な暴力を招いた。だから誰にでも出来る感情の発露さえ、この子には出来なくなってしまっている。要するに、育成環境によって、アデリーは子供らしさを全て奪い尽くされてしまったのである。

同情する事など誰にだって出来る。だからマリーはこの子をどう助けるかだけを考える。

クラフトの作成によって、そのキーとなる光石の研究はかなり進んだ。自分特製のノートには、かなりの情報が既に書き込まれている。だが、まだまだ加工については未熟であるといわざるを得ない。今後は更に高度な技術と知識が必要になってくるだろう。

それに並行して、どうにかこの子の心を開く手段を考えなければいけない。アデリーを救うためには体質面の問題解決と、精神面の問題解決を同時に行わなければいけないのは、何度も確認した事実だ。そのために、わざわざ長時間をかけて観察を続けてきた。

何度かくじけそうにもなった。壁の厚さに、感情が沸騰しそうになったこともあった。だが、どうにか乗り越えて、今がある。今後もくじけるわけにはいかない。そう決めたのだから。

クレープが無くなると、アデリーは言われないでも片付け始める。まだ井戸水は冷たいのだが、文句一つ言わない。少し手荒れが出てきたのが見えるので、今度塗るタイプの傷薬を研究しようとマリーは考えていた。

アデリーは多分、捨てられたくないと考えているはずだ。せかせか働くその背中を見て、マリーはまたその認識が正しいと確信する。ただ、それだとマリーの行動になぜ悲しんでいるのか分からない。食器を洗い終えて、洗濯をするべく衣類かごを持ち上げたアデリーに、マリーは言う。

「今日のお昼、外で人に会ってくるわ」

「はい」

「アデリーも行く? きっとご飯くらいならおごってくれるわよ」

「マスターがよろしければ」

大きなかごを持ち上げて、ちょっとよろめきそうになったので、逆側から支えてあげる。一緒に裏庭に出ると、日差しが少し暖かかった。裏庭の狭いスペースは、今や機能的に、幾つかに区切られている。南の端は洗濯物を干す場所。アトリエの影になる辺りは、薪の置き場。すぐ側に釜があるからだ。そして真ん中当たりは、マリーが研究のために使うスペースである。南の端に一緒にかごを運び終えると、マリーは手をはたいて埃を落としながら言う。

「だいぶ力がついてきたね」

「はい。 マスターのおかげです」

しゃべりながらも、アデリーは手際よく、薪の隣から水を張ったたらいを持ってくる。洗濯板を入れたままだが、器用に落とさず運び終えると、小さな手で一つずつ洗い始めた。

アデリーを雇う前には、マリーが自身でやっていたからよく分かる。この作業は重労働だ。手荒れもかなり出る。

早く薬を作ってあげようと、マリーは思った。

仕事を取られると、アデリーはすごく悲しそうにする。だから、必要な範囲内でしかマリーは手伝わない。緊急時ならそんな事は言っていられないが、アデリーは極端にミスが少ない子で、致命的な失敗をする可能性は極めて低い。だが、だからこそ心配なのだ。こまめに見ていないと、倒れるまで働きかねない。仕事量を増やさないように、最近マリーは影で心がけている。

伸びをして、あくびをしながらアトリエに戻って、教科書を開く。傷薬などの、副作用が生じてくる可能性がある薬品に関しては、二年以降、下手をすると三年以降のレベルになってくる。民間療法や薬草の類ならマリーにも知識はあるが、何度か試した錬金術製の薬に比べてしまうと、文字通り効果は雲泥の差。ただ、効果が高い傷薬になればなるほど配合の比率が非常に微妙で、調整が難しい。今ならどうにか手が届くか、という代物も少なくない。

少しずつ手をつけていくしかない。焦ったところで、何一つ解決などしないのだ。

時間はあっという間に過ぎていき、太陽は空を駆け上がった。研究をしていると顕著だが、すぐに昼になる。適当なところで作ることが出来そうな傷薬の物色を終えると、アデリーが作ったお弁当を持って、二人で出かける。並んで歩きたいのだが、こういう時、アデリーは絶対にマリーの少し後ろを着いて歩く。おそらくこれも、無意識レベルで、マリーからの圧力を警戒しているのだろう。

公園では、丸木椅子に腰掛けて、フレアが待っていた。酒場の制服にもなっている清楚なワンピースドレスに身を包んで、静かに座っている。表情には、怒りはなく、代わりに少しだけ影が差していた。

「フレアさん、おまたせー」

「いいえ、今来た所よ」

フレアは立ち上がり、どんな花にたとえたら良いのか分からない、洗練された笑みを浮かべた。立ち上がるとよく分かるのだが、彼女は父親似で背が高い。マリーよりも若干高く、ルーウェンよりも少し低い位である。ウェーブが掛かったクリームピンクの髪の毛は美しく、整った顔の造作もあって、男の視線を釘付けにしがちだ。どういう訳か色気は薄いのだが、美しさという点では、この町の女性の中でもトップクラスに入るだろう。

彼女は容姿通りの性格をしている。心優しく穏やかで、滅多に怒ることはない。今日のような事態は極めてまれなのだ。マリーもこの娘が怒ったところは、殆ど見たことがない。こういう性格になったのは、適度に満たされた人生を送ってきたからだろう。がつがつほしがらなくても良い環境が、競争力は低いが誰にも愛される人格を築き上げたのだ。

仕事の上とはいえ、マリーも年頃の娘。ゴシップはそれなりに好きだし、フレアの事は悪く思っていない。近くの木製テーブルに移動すると、向かい合って座った。アデリーに一緒に座るように促して、マリーはフレアに向き直る。

「この子が前に話した、うちのアデリーよ」

「可愛い子ね。 よろしくね、アデリーちゃん」

「よろしくお願いします」

恥ずかしがったりはにかんだりするのではなく、アデリーは少し寂しそうに笑って言った。一瞬だけ眉をひそめたフレアだったが、すぐに表情を戻して、話し始める。アデリーが作った塩ハムのパンサンドは、パテットが売ってくれたバターを贅沢に使っており、実に美味しい。しばらくは他愛のない話に花を咲かせる。フレアは物静かだが一度口を開くとかなり話し上手だった。いや、おそらく会話そのものに飢えているのだろう。アデリーにも適度に話を振ってくれるので、マリーは嬉しかった。

しばらく無駄に近況を話し合ったところで、マリーが切り出す。本格的にこの試験に取り組み始めてから、マリーは少しだけ、時間の使い方に神経質になっていた。

「それで、何が原因でディオさんと喧嘩したの?」

「それがね。 お父さんってば、いつまでたっても私を大人と認めてくれないのよ」

「今に始まった事じゃないでしょ、それ」

「そうなの。 でもね、ちょっと今回は酷かったのよ」

頬に手を当てて、フレアがため息をついた。こういう些細な動作まで絵になるのだから、美形という奴は羨ましいとマリーは思う。

フレアの話によると、ディオ氏との喧嘩の理由は比較なのだという。飛翔亭には様々な客が来るのだが、その中には騎士団の人間もいる。そして最上位の騎士である「聖騎士」も、客には含まれるのだ。

能力者が幾らでもいるこの世界、女性の騎士は別に珍しくもなんともない。聖騎士にも女性はいる。社会的に自立している女性であるわけで、フレアとしては羨ましいとも思う反面、自分の裁量で何でも出来る状況に嫉妬も感じるのだという。

そこに、今回の事件の火種があった。

喧嘩の原因は些細な事であった。友人達と近場に遊びに行こうという話が持ち上がったのだ。多少遠くだが、冒険者も雇って護衛を頼むし、危険は少ない。マリーが見ても、その旅には大した危険など無い。だが、ディオ氏は首を縦には振らなかったのである。ディオ氏は前述の女聖騎士を例に挙げて、言った。

「お前のようなひよっこが、そんな判断をするのは十年早い、ですって。 失礼しちゃうわ。 私が今幾つだと思っているのかしら」

「はは、まあ、何というか」

苦笑いしたマリーだが、実のところディオ氏の事情も分からないでもない。

ディオ氏は話に聞くだけでも、相当な修羅場をくぐり続けてきた人物だ。そういう人物が、二代目を苦況にさらさないように過剰に風雨から守るのは良くある。その結果、ほとんど経験を積まないまま成人してしまい、スポイルされてしまう二代目は珍しくないと、マリーは聞いている。確かシグザール王国の初代も子供を甘やかし、二代目以降数十年が混乱の時代になったとか、アカデミーの書庫で見つけた歴史書で読んだ。

フレアの場合はそれとは若干事情が違うが、しかし彼女が実戦経験もろくに無いのは動きだけを見ていても分かる。酒場の業務で対人経験はそれなりに積んでいるだろうが、歴戦の勇者であるディオ氏から見れば、フレアが戦闘に巻き込まれるかも知れないという状況は悪夢に等しいのだろうとマリーには推察できる。もちろん、其処には我が子かわいさの、親の目もあるだろう。

だが、フレアの言うことも、マリーには分かる。ただはっきりしているのは、もしディオ氏に一人前だと認めさせるには、手段は決まっているということだ。一人でももう平気だということを、実績でもって見せるしかない。

「どうしたらいいのかしら」

脳天気にフレアが言うので、マリーはしばらく考えてから切り返す。

「そうね。 やはり何か実績を作るしか無いでしょうね」

「あの頑固者が、ちょっとやそっとの事で、納得するかしら」

「本人の能力が高すぎるから、確かに難しそうね。 でも、もし何かやり遂げることが出来たら、きっとフレアさんの行動に口を出さなくなると思うわよ」

そしてそれは、何も戦闘に限定しなくても良いはずだ。たとえば料理。たとえば服飾。ただ、ディオ氏は識見が広い人物でもあるし、かなりの頑固者でもある。生半可な実績では納得しないだろう。

そう付け加えたマリーに、フレアはしばらく考え込んでいた。家事の類が苦手なマリーと違い、フレアは本職である。それに母も早くになくしているから、家事関係は並のスキルでは無いはずだ。しかし、それでも考え込むのだから、ディオ氏の要求基準は、マリーの予想を更に超えて、相当に高いのだろう。

「もし荒事関係だったらあたしも手を貸すけれど、家事関係だったら何も出来ないからね」

「そう。 分かったわ、考えてみる。 今日はありがとう、助かったわ」

「あたしこそ。 楽しい昼食だったわよ」

何割かはいつもお世話になっているディオ氏の身内だからというのもあるが、残りは親切心からの行動である。丁度パンも無くなったことだし、時間的にもだいぶ押していた。マリーも、最近余裕が無くなってきている。時間が有限であると、一秒ごとに思い知らされている気がする。

手を振ってフレアと別れると、自宅へ。フレアがどういう結論を出すかはまだ分からないが、マリーがそれに手を貸すことになるかは未定だし、やることは幾らでもある。やっぱりアデリーは一歩遅れて着いてきていて、並んで歩こうとはしなかった。多分命令すればそうするだろうが、それでは意味がない。

フレアに何かヒントの一つでも貰えば良かったと、マリーは帰路の途中で、後悔するように考えていた。対人経験の豊富なフレアは、何か的確なアドバイスを出来るかも知れないからだ。

途中、不思議な髪の色の娘とすれ違う。旅装で、冒険者の護衛数人と一緒だったから、どこかの貴族の使用人だろうか。グリーンという非常に珍しい髪色だったので目を引かれてしまった。だが、アトリエに帰り着いた時には、もう忘れ去っていた。

 

フレアから再度相談があったのは、翌日。もう陽が沈みかけた時のことであった。アトリエを彼女が訪れたので、狭いところですがと社交辞令を言いながら奧へ通す。アデリーはもう掃除を終えて、庭で洗濯物を取り込みに掛かっていた。ランプに火を入れながら、マリーは言う。急いで机の上を片付けたので、辺りには分厚い本が積み重なっている。

「何か決まったの?」

「ええ。 説得してみようと思うの」

「誰を?」

「怪盗デアヒメルさん」

さらりとフレアが口にした名前に、マリーは驚愕を抑えることが出来なかった。

「はあっ!?」

「本気よ」

「ちょ、ちょっと待ってね。 頭を整理するから」

珍しく本気で動揺したマリーの前で、フレアはにこにこと笑みを浮かべている。シアのような洗練されたものではなく、庶民的な優しげな微笑みだ。確かにこれを成功させれば、ディオ氏は納得するだろう。しかし、尋常な苦労では出来そうにない。

そもそも怪盗デアヒメルとは何者か。それは、ザールブルグの夜を騒がす有名人である。本名はおろか性別すら分からない謎の人物だ。

デアヒメルは怪盗の名にふさわしく、闇に紛れて貴族の邸宅に忍び込んでは、宝物を盗み出すことで知られている。最初は悪名高い連中からだけ盗んでいたので、義賊だと騒がれた。だが、いつの世でもそうだが、夢は長続きしない。その後デアヒメルは善良な者からも金持ちであるというだけで無差別に盗むようになり、急速に人気が冷めていった。人気は落ちつつあるのだが、今でも存在は健在。有能なザールブルグ騎士団の追求をかわし続けており、一週間に一回はその名前が瓦版に昇る。

言うまでもないことだが、これは尋常な手際ではない。騎士団にはレアな能力の持ち主が珍しくもない。噂によると、わずかな残留品だけで犯人を特定できる能力の持ち主までもがいるとか。さらにザールブルグだけではなく、近隣随一とも言われるほどに戦闘力が高い。その騎士団に、しっぽ一つ掴ませていない相手だ。マリーでも、準備もなく手に負える相手ではない。ましてやフレアでは、仮に至近に迫ることが出来ても、絶対に捕らえられないだろう。

それを説得すると、フレアは言うのである。

「ちょっと、待ってね、フレアさん。 いい、その説得をどうやるかは分からないけれど、幾つかハードルがあるのは分かるわよね」

「ハードル?」

「関門といってもいいかな。 まず第一に、デアヒメルに会う。 第二に、その動きを止める。 第三に、その心を動かす。 説得で第三の関門を越える手があるとしても。 騎士団さえ動きがつかめない相手に、どう会うつもり? それに此奴、話に聞く手際だと、あたしとシアが二人がかりでも動きを止められるか分からないよ」

デアヒメルは恐ろしく身が軽いらしいというのが、一番信頼性の高い噂である。というのも、城壁のような塀を乗り越えて貴族の屋敷に忍び込んだ事が一度や二度ではないからだ。攻城用の道具を揃えれば城壁を越えることは素人にも可能だが、しかし時間はそれなりにかかる。そういう行動を行って、今まで目撃されていないのである。相当な手際か、それとも異常に身が軽いか。軍の特殊部隊出身者ではないかなどという噂まである。

マリーの仮説は、デアヒメルがブースト系の能力者であるというものだ。シアやルーウェンのように、魔力の低さを補うべく、身体能力の強化につぎ込む能力者は少なくない。この方式は魔力の消費が少ない上に扱いが簡単で、魔力の少ない体質の者にはうってつけだ。しかし、そうなると、どうやって騎士団の追求をかわしているかが気になる。ブースト系は数が多い分対策も練られていて、騎士団にも捕縛マニュアルが整備されているはずだ。二つ以上の能力を持っている可能性もあるが、それは超レアタイプの能力者であり、多分違うだろう。

マリーとしては、別にデアヒメルに悪印象はない。盗みはするが殺生はしないとも聞いているし、盗まれて窮地に陥った者もいないという。相手の力量が予想以上であれば、生死不問でとらえに行くしかないが、それでは気の毒だ。

「説得は私がしてみるわ。 だから、マリー、お願い」

「……ふむ。 そうねえ」

そういえば、以前イングリド先生に言われるまま、魔力を注ぎ込んだ道具があった。あれを上手く使えば、捕縛は可能かも知れない。

マリーの悪い癖は、何か作り出すと、それを絶対に試したくなることだ。クラフトの時はそれが非常に顕著だった。今回は実戦で試験できるわけで、一石二鳥である。ただし、でき次第では絞め殺してしまう可能性もあるから、調整は入念に行うべきであろう。

「分かった。 どうにか考えてみるわよ」

「ありがとう。 他に手が必要なら、私が手配しておくわ」

「じゃあ、そっちはお願い。 後は、デアヒメルの手口がどういうものなのか、情報がもっと欲しいわね」

興味がない相手だったという事もあり、マリーは噂レベルでしかデアヒメルを知らない。噂は当然のことながら、精度の高い情報ではない。これでは対策も立てづらい。出来れば騎士団に話を聞きたいところだ。クーゲル辺りなら、適当なコネクションを持っていそうなのだが。

そういうと、フレアは眉をひそめて、ちょっと考え込んだ。

「クーゲルおじさま?」

「ん? おじさま?」

クーゲルはザールブルグでは文句なしにトップクラスの冒険者であり、飛翔亭の関係者であるフレアが知らないわけがない。そう思ってマリーは名前を出したのだが、おじさまとはいかなる事か。

「ううん、何でもないわ。 クーゲルおじさまなら、私が話をつけておくわね」

「ん、そうしてくれると助かる。 じゃあ後は……」

話が一段落したところで、成功報酬の交渉に入る。これは当然のことながら、人助けの域を超えているから、仕事になる。フレアが提示した金額はマリーを充分満足させるものであったが、少し心配にもなった。幾ら裕福な飛翔亭の娘とはいえ、小遣いをだいぶ使い込んでしまっただろう。逆に言えば、そうまでしてでも、父に自分を認めさせたいに違いない。思ったよりも、親子の確執はずっと深いのかも知れない。

更に言えば、相談しても良いと持ちかけたのはマリーだが、この話を切り出したのはフレアである。フレアはマリーの能力を知っているはずで、そうなると飛翔亭で一定以上の信頼を受けている証とも判断できる。

逆にいうと、このミッションを失敗すると、飛翔亭での評判が危険な水準に落ち込む可能性もある。何しろ、ディオ氏が引退した後、あの店を切り盛りするのはフレアなのだ。フレアは能力的に問題があるわけでもないし、対人交渉能力も決して低くはない。人望だってある。

この報酬は、想像以上に重い。

「じゃあ、調査の方よろしくおねがいね」

フレアが外に出るのを見計らい、マリーは頬杖をついて手元の本を捲る。どうやら、またしばらくは忙しくなるのが確実であった。

そして、いよいよこれによって手を出すことになる。今まで理論が全く分からないし、技術的にも手が届かなかった存在。アカデミーの中でも授業で製造方法を教えることはない、高度な道具。

人工生命の製造に。

 

2,怪盗の横顔

 

貧富の格差が比較的小さいザールブルグでも、二十万を越える人間が生活している以上、そこにはどうやっても埋めがたいものが生じてくる。人間それぞれの総合能力にはさほど差がないのだが、得意とする分野はそれぞれが別種の生物といえるほどに異なっており、結果得意不得意が生じてくるからだ。それに、運という要素も働く。

リスクの低い生き方をしている人間はまだ良い。王都には幾らでも仕事があるし、リスクを我慢できるのなら屯田兵になれば良い。国家の生産力の中枢を担っている屯田兵は、いつでも人員を募集している。収入も比較的安定しているし、戦闘による死の危険にさえ目をつぶれば、安定した収入を得ることが出来る。

だが、そうやった逃げ道を用意してあっても、脱落者は必ず出てくる。商売をやっている人間などにも出やすいし、信用が売り物になる冒険者などでも出る。特に、田舎から出てきた若い人間が、冒険者になろうとして失敗するケースが多い。

ナタリエ=コーデリアも、そういう失敗者の一人であった。

今日も疲れ果てて、ナタリエは家に帰ってきた。体中傷だらけ。小さなものから大きなものまで、肌のあらゆる場所が傷によって埋め尽くされていた。心も重く沈み込んでいる。見上げると、そこは朽ち果てた我が家。荷物を背負って、戸を開ける。蝶番などという高級なものはないから、引き戸だ。

それは町外れの掘っ立て小屋。日の当たりも悪く、じめじめしたそこは、数年前から空き家になっている。だから、正確には不法侵入なのだが、誰も通報しない。それには理由がある。

前に住んでいたらしい老人は、死体が腐敗するまで見つけてもらえなかったらしく、ナタリエが住み着いた時には床に人型の染みが残っていた。そんな家に商品的価値があるわけもなく、地主も完全にもてあましていた。逆に言えば、そんなところにしか、ナタリエは住むことが出来なかったのである。

重い荷物を、老人の怨念が染みついた木の床におろし、ベットに倒れ込む。うっすらと、舞い上がる埃が見えた。ぐったりしていて、片付けをする気力もない。恨む気力すらもない。

最近仕事先の相手が手強くなってきた。見つかりそうになった事も一度や二度ではない。今日も危なく見つかりそうになり、バラの植え込みを強引に突っ切って逃げてきたのである。だから全身傷だらけ。一張羅もぼろぼろになってしまった。

三つ編みをほどく精神的な余裕さえない。年頃の娘だと言うのに、最低限の身繕いさえ出来ない。

ナタリエは十代半ばなのに、酒が無ければ過ごせないような有様になっていた。ぐったりした手を伸ばして、安酒を探す。うつろな意識の中、酒瓶に口をつける。頭の中が更に曇ってきて、ほどなくナタリエは眠りにつくことが出来た。

夢の中では、せめて幸せを。孤独なつぶやきは悪魔に届いたらしい。夢に見たのは、一番見たくない事。子供の頃の思い出であった。

辺境も辺境、二十年ほど前には、年に何度もザールブルグとドムハイトの間で所有権が入れ替わったような土地に、ナタリエは産まれた。

そこは非常に鋼臭い土地柄であり、周囲は軍の要塞だらけで他には何もない場所であった。森には「作戦上の必要性から」焼き払われた痕跡があり、街の城壁には血の跡がこびりついていた。墓には掘り返した跡が残っていて、どこに家にも矢の跡があり、刀傷を持つ人間など珍しくもなかった。ナタリエの父からして、左腕を戦災で無くしていたのである。立ち入り禁止の場所も多く、不自由で窮屈な幼少期をナタリエは送った。遊ぶ場所も少なく、街の外にも中にも居場所は殆ど無かった。

ナタリエの両親は善良な人たちだったが、この地域ではいつ戦になるかで町中が張り詰めていた。だから精神的な余裕はなく、いつも何かに怯えていた。ナタリエが後で聞いたところによると、二人ともドムハイト軍に家に火をつけられて、家族を惨殺されたことがあるのだという。それでもナタリエをしっかり育て上げてくれたのだから、立派な人たちだったのだ。

二人はナタリエが故郷を好いていないことを知っていた。だからお金を貯めて、ザールブルグ行きの資金を作ってくれた。驚喜したナタリエは、両親に愛しているとキスをして、ザールブルグに出てきた。そして冒険者ギルドに登録した。

目が覚める。というよりも、意識は覚醒と睡眠を繰り返し、薄い眠りの中、ナタリエはぼんやりと漂っていた。

ナタリエは必死だった。両親に仕送りもしてあげたいし、自由も掴みたかった。だから、信用を築く前に、大きな仕事にばかり手を出してしまった。典型的な、世間知らずで身の程知らずな新人冒険者が破滅するパターンだった。能力者であるナタリエは、自分の力を誇りにしていた。だがギルドには能力を持つ冒険者など幾らでも居たのである。

それでも、仕事を成功させているうちは良かった。疲労と焦りが、徐々にナタリエの仕事を上手くいかなくさせていった。一度失敗すると、後は雪崩のように、何をやっても失敗ばかりになってしまった。

そして、ついにナタリエのミスで、猛獣討伐の仕事で死者が出てしまった。それも大した相手ではなく、完全に焦りが産んだものだった。ギルドからの通告で、ナタリエは仕事を回してもらえなくなった。それまでもさんざん警告されていたのに、仕事の質が向上しなかったのだから、当然であろう。

どの面下げて家に帰ることが出来ようか。かといって、体を売るのはごめんだった。騎士団に入ろうと思って軍の人事部の戸を叩いても見たが、入団試験で落ちてしまった。ナタリエ程度のスキルの持ち主は幾らでもいるのだ。それを改めて思い知らされてしまった。屯田兵なら良いと言われたが、提示された給金は、仕送りをできるようなものではなかった。パニックになっていたナタリエは、出世していけば給金が上がって、仕送りも難しくないという事に気がつかなかった。能力者であれば、軍での待遇も良く、場合によっては騎士になるチャンスも再び巡ってくるということにも。

プライドがズタズタになっていくのに比例して、焦りが大きくなっていった。ナタリエは両親を心の底から愛していたから、心配させたくなかった。仕送りが切れたら二人がどんな風に思うことか。ただでさえ、ナタリエは故郷への手紙に、両親を心配させないように嘘ばかり書いていたのである。いろいろな仕事を必死に探してみたが、どこも上手くいかなかった。挙げ句の果てに、詐欺師にひっかかり、残り少ないお金を殆ど取り上げられてしまった。

ついに進退窮まったナタリエは、盗みに手を出した。

ただ、それでもまだ一抹のプライドは残っていた。だから高利貸しや、強欲貴族の屋敷から、悪趣味な芸術品ばかり狙って盗んだ。ナタリエの能力を使えば、魔法による追求からは比較的容易に逃れることが出来た。

しかし、質屋の類には既に手が回っており、とても換金などできなかった。金になりそうなものを選ぼうにも、どうしていいかさえナタリエには分からなかった。幼い頃に培った身体能力のおかげで、忍び込むにも逃げ出すにも不自由はしなかったが、何の解決にもならなかった。

虚名が無責任だと気付いたのも、それからすぐだった。換金できず生活費さえ捻出できなくなってきたナタリエは、普通の商人にも手を出すようになった。その途端、怪盗の名声は一気に地に落ちた。妙な話である。不意にナタリエは腹立たしくなった。だが、今更どうにも出来なかった。

床下には、盗んだ宝が殆ど手つかずで残っている。換金も出来ず、どうしていいかも分からない。ただ、無秩序に集められた金品の山は、ナタリエの心の混沌を表しているかのようだった。

 

気がつくと朝が来ていた。安い酒のせいで頭が痛い。体中痛い。布団には無数の血の跡があった。

こんな格好では風呂屋にもいけない。膝を抱えてナタリエは一人静かに泣いた。もう、どうしていいか分からなかった。実のところ、明日の生活費すらもう残っていない。サバイバルの知識がないナタリエは、どんな動植物が食べられるのかも知らない。お腹がすいたが、物乞いになるのは、プライドが許さなかった。しかしだからといって、荒事以外がナタリエに勤まるとも思えなかった。

空腹が、ナタリエの脳に霞をかける。怒りと悲しみが、それを更に助長する。

もう、方法はない。現金を盗むしかない。ナタリエの結論は、ついにそこへ行き着いてしまった。

騎士団が今まで大目に見てくれていたのも、現金に手を出していないからという事は分かっていた。だが、これからはそうも行かなくなるだろう。へたを打てば殺される。ただでさえ、最近は盗み先が冒険者を雇っていて、その中には殺す気で警戒網を敷いている者がいるのだ。

だが、動かなければ、もう数日でナタリエは死ぬだろう。食料だってもう備蓄はない。それに、このままでは仕送りも出来なくなる。自分はどうなっても良かったが、両親が悲しむのだけはどうにも我慢できなかった。

冥い目で、ナタリエは天井を見上げる。雨の日などは、そのまま濡れるよりはマシという程度にしか水を防いでくれない其処は、腐りきっていた。ナタリエは、社会の全てを恨んだ。恨みはやがて憎悪に変わり、殺意へと転化する。

「殺してやる」

誰に対してでもなく、ナタリエはそうぼやいた。

 

疲れ切った顔のピローネの頭を撫でながら、マリーは笑顔を浮かべた。これで材料は全て揃ったからだ。

「ありがと、ピローネ」

「仕事ですから。 でも、重かったです」

疲れ切った顔で、黒い服の妖精は言った。次の注文を受け取ると、彼はすぐに出かけていく。

ピローネにとって来て貰ったのは、竹である。それもメディアの森と呼ばれる、ヘーベル湖の北にある大森林地帯で確保した。もの凄い成長能力を持つ竹は、錬金術の素材としても価値が高い。今回はその幹の部分を、ピローネに切り取らせた。ただ、言うまでもなくこれは重い。しかもメディアの森は有名な猛獣の生息地帯で、蛇女と呼ばれる魔物も出没が確認されている。ピローネも疲れ切ってはいたが、マリーも三日ほど徹夜で調査した後だから、これはお互い様だ。

栄養剤の材料集めに行った時に、一緒に取ってきたぷにぷに玉と、複数の薬品を取り出す。それと、縄の材料になる何種類かの長くて丈夫な草。縄編みはマリーもやったことがあるので、手早く進めることが出来る。同時に、中和剤を作っておく。

縄の長さは、マリーの背丈の四倍ほどで大丈夫。今回はさほどの長さでなくとも良い。指先を動かして、充分に乾かした草の茎を編み込んでいく。そうやって作った紐を更に編み込むことによって、頑丈な縄が作られる。マリーはこれがさほど得手ではなかったが、それでもグランベルで教わったから、人並みに作ることは出来る。

アデリーが起き出してきた。目をこすりこすり、階段を下りてくる。マリーを見るとしばらくぼんやりしていたが、やがて気付いてぺこりと頭を下げる。マリーは生活時間帯が不規則になりがちなので、普通の家のように、使用人は主人より先に寝てはいけないとか、遅く起きてはいけないとか、そういうルールが存在しない。

「おはようございます、マスター」

「おはよ。 ちょっと其処にゴミが出てるから、片付けといてくれる?」

「すぐに対処します」

走り出そうとして、転びかける。寝間着だということも忘れていたようで、少しだけ右往左往していたが、マリーが一つ目の紐を結い終えた頃には、いつものしっかりもののアデリーに戻っていた。

徹夜三日目。自分で作った栄養剤を消費しながら、マリーは次の段階に入る。縄を結い上げたのは、その日の夜中。そこから調合に入る。

人造生命といってもいろいろな種類があるが、今回の調合で手がけるのは、単純な命令を与えたものである。しかも魂を生成するのではなく、よそから間借りする、もっとも難易度が低いものだ。つまり、浮遊している霊魂を定着させる。言い方を変えれば、一種のアンデットモンスターを作成するわけだ。

霊魂の定着という作業は、古くから魔法技術でも存在していた。有名ないわゆる「アンデッドモンスター」、もっともローコストな兵士である生ける屍。ゾンビやスケルトンなどがそうだ。

だがそれらの技術はあくまで能力者の手によって、一人一人違う方向で行われていた。ある程度のガイドラインは開発されていたが、それでも誰でも出来るわけではなかった。

しかし、錬金術はそれをマニュアル化する事に成功している。調合によって、浮遊する魂を呼び寄せやすい薬品を作り上げるのだ。そして魂を定着させることによって、最終的には簡単な命令をこなす生きた縄が完成する。これは使い手が誰であろうと、マニュアルさえ頭に入っていれば出来る。それが錬金術の強みだ。

縄をじっくり丁寧に仕上げる。比較的細い縄だが、グランベル村で直伝されたこれは、対人拘束用のものだ。強度は充分、人間の二倍くらいのものまでならつるすことも出来る上、非常に切りづらい。

この作業が終わったところで、小休止。裏庭に出て、肌寒い空気の中素振りする。ふとアデリーの訓練剣が目に入ったので手にしてみると、随分汗がしみこんでいた。あの子はなんだかんだ言っても随分忠実にトレーニングをこなしている。剣の上達は遅いが、今後の精神鍛錬の成果は期待できそうだった。ちゃんと食べている分、最近手足も随分良く伸びている。そろそろ新しい訓練剣が必要か。

ひとしきり体を動かして気分転換してから、アトリエに戻る。作業はまだまだ山ほど残っているのだ。

レジェン石を砕いて赤い中和剤の中に混ぜ込み、数日間熱しておいたものを取り出す。分銅と天秤を使って正確に重さを量りながら、塩と、粉末状の竹、それに何種類かの薬草を混ぜ込んだものを加える。元々鈍色であったレジェン石が、これが済んだ時には赤くなっている。その赤い液体に、更に直接マリーの魔力を流し込む。

どろりとしたこれを、縄にじっくりしみこませていく。少量を垂らしては天日に干し、また少量を垂らす。その間に竹を細長く刻んで、縄の何カ所かを縛り上げるようにして巻いていく。

やがてたっぷりと液体がしみこんだ縄ができあがる。後はこれを墓場にでも持って行って、適当な浮遊霊を定着させる。一見難しそうにも思えるが、浮遊霊などどこにでも居る。魔力のある程度以上ある人間なら苦もなく発見できるため、作業は決して難しくない。それに霊を定着させると言っても、それほど長い時間拘束するわけではない。

霊が入り込んだら、それで完成。生きている縄のできあがりである。

これが、今回のデアヒメル捕縛作戦の切り札であった。

 

何とか失敗もなく、縄は完成した。蛇のようにうごめくそれは、最初は少し動きが鈍かったのだが、それは憑依させる霊を増やすことで対応できた。今の時点で与えてある命令は、「縛れ」「離せ」「待機」「楽にしろ」だけ。命令をかけると、即座に間近にいる人間を縛り上げる。いずれ荷物を縛るためにも使えるように、調整をするつもりだが、当座はこれでいい。

アデリーは蛇のように動くこの縄が怖くて仕方がないようで、できるだけ目を合わせないようにしていた。しかし足下に這い寄ってきたのを見て、小さく悲鳴を上げてテーブルの影に逃げ込んでしまう。

「マスター、マスター! な、な、なんですか、なんですかそれ!」

「見ての通り、生きている縄よ」

「縄が生きて居るんですか?」

「正確には、生きているのと同じように動けるの。 見ててごらん」

待機、と命令すると、見る間に縄はとぐろを巻いた。こわごわ机の影から様子を見ていたアデリーは、また小さく可愛い悲鳴を上げて頭を引っ込めてしまう。ひょっとすると蛇が嫌いなタイプなのか。あれは焼くと結構美味しいのだが。

強度実験はすませた。実験の結果は流石に昔取った杵柄で、強度耐久力ともに充分である。ナイフでも簡単には切れない。また、縛り方も指導して、本縄のやり方も教えておいた。本縄に縛り上げることが成功すれば、あのクーゲルであろうとも、脱出は不可能。まあ、そんな可能性は無いだろうが。

後は、デアヒメルの情報だ。奴が現れるところに向かって、この縄とマリー自身で勝負を掛ける。アデリーにはいずれ実戦を経験して貰いたい所なのだが、今はまだ無理だろう。

ただ、縄が出来たからと言って、安心は出来ない。これはあくまで奇襲用の武器であり、一度しか通用しない。それに、奴が現れる箇所を正確に把握できなければ、そもそもの意味がない。

フレアの方は、情報収集が上手くいっているだろうか。今のところ、整っているのは戦力だけだ。

今回はシアとミューが参加してくれる事がすでに打診されている。ミューは仕事を選んでいられないだろうが、シアが参加してくれたのはなぜだろうか。そういえば、と思い出す。

ドナースターク家は複数の事業が軌道に乗っており、幾つかの村の管理も任されている富豪だ。それはグランベルの資本を基幹としているとしても、それはザールブルグの人間には関係がない。デアヒメルにとっても、もちろん知ったことではないだろう。今後のことを考えて、シアとしても一戦交えておくのは損ではないという考えなのであろう。もちろん家に被害が出る前に捕まえることが出来れば重畳至極と言うわけだ。

アトリエのドアがノックされる。こわごわと縄の方を伺っていたアデリーは、それでもすぐによそ行きの顔を作って、ドアを開けた。客人はフレア。丁度いいタイミングだった。

「おはよう、マリー」

「あ、おはよ。 丁度いいところに」

「何が丁度いいの?」

「出来たの。 秘密兵器」

フレアはお土産らしい何かの野菜が入ったバスケットをアデリーに渡す。アデリーはまだ縄が怖いようで、時々そっちを伺いながら、奧へ持って行った。マリーは縄にいろいろな命令を実行させて、縄は犬のような忠実さと蛇の可変性をもってそれに応えた。フレアも真っ青になっていたのは、やはり彼女も蛇が苦手なのか。

「す、すごいわね」

「でしょ。 これをすぐに試せるんだから、こんな嬉しい事はないわ」

「そ、そうなの」

「前に対人殺傷用の炸裂弾を作った時は大変だったしね。 合法的に人殺しできるギルドの仕事が偶然入って本当に助かったわ。 今度は殺さなくても良いけれど、やっぱり必死に逃げようとする相手じゃなければ、真の性能は試せないもの」

みるみる真っ青になっていくフレア。変なことを言っているつもりはないマリーだが、クライアントの機嫌を損ねてはまずい。

「で、デアヒメルの情報に、何か良いものはあった?」

「ええ。 クーゲルおじさまから、少し聞いたのだけれど」

話が切り替わってほっとしたのか、フレアは言う。

クーゲルの話によると、世間一般の噂と裏腹に、騎士団はそれほど本腰をいれていなかったという。一月ほど前までは、である。なぜなら、現金の被害がなかったし、被害を訴えている連中も悪徳貴族や高利貸しばかりで、わざわざ動くのも億劫だったからだ。つまり、初期には騎士団にもデアヒメルのシンパは多かったというわけだ。

しかし、今は状況が異なる。徐々にデアヒメルは現金に近いものを盗むようになってきており、手口も荒くなってきている。このままだとまずいと判断した騎士団は、本腰を入れての調査に乗り出しているという。その結果、幾つか分かってきたことがある。

まずデアヒメルは女性だと言うこと。かなりの高確率で十代だと言うこと。そして追跡型の能力者を攪乱する何かの力を持っていると言うこと。相当に身が軽く、おそらくこの町の一般人ではないということ。

目撃証言や様々な証拠から、これらは割り出されているという。つまり、である。もし騎士団が本腰を入れると、おそらく彼女は捕まる。この国の騎士団は非常に優秀だ。

もしデアヒメルが捕まるなら、それはそれで別にかまわない。生きている縄を試すのなら、他に幾らでも方法があるからだ。近くの森にでも出かけていって、猛獣か何かを襲って逃げるところを捕らえてみても良い。つまり、この状況、クライアントであるフレアの判断次第である。

そうフレアに告げると、彼女は少し意外そうな顔をした。理由は敢えて聞かない。マリーとしては、他人の嗜好に、あまり興味はない。アデリーがお茶を出してくれた。ありがとうとフレアが微笑む。マリーも微笑しながら、カップを持ち上げつつ言う。

「判断は出来るだけ早めにね」

「ええ。 今夜まで、待って貰ってもいい?」

「いいけれど、騎士団が出てくるとなると、遅くなれば遅くなるほどあたしたちでの捕縛には不利になるわよ」

うつむくフレア。多少お節介かと思ったが、マリーは付け加えた。

「フレアさん。 余計なお世話かも知れないけれど。 貴方、今まで、決断をするって経験が殆どなかったでしょ。 今回は良い機会よ。 親父さんに自分を認めて貰いたいなら、しっかり考えて、決断するべきよ」

「ええ……。 分かって、いるわ」

フレアは少し悲しそうだった、やはりお節介だったかと、マリーはちょっぴりだけ後悔した。

 

マリーに言われたことが、家に戻ってからもフレアの脳裏に響き続けていた。マリーが手を貸してくれたのは、半分は友情だが、半分は仕事だと分かっている。だからこそに、その言葉は響いた。

まだ、父との冷戦は続いている。今日は仕事の当番も入っていないし、自室に入ってベットに倒れ込む。早く決断しなければ。焦ってはいけないと言い聞かせるが、どうにもならない。

大人としてのフレアを認めて、マリーは諫言をくれた。だからこそ、フレアの心は重い。判断次第では、マリーに失礼な事になる。マリーはなんだかんだ言っても、ほとんど大人だ。フレアのような、背伸びだけしている小娘とは違う。へらへら笑っていても、心には鋭いカミソリを隠しているし、実戦経験も、人を殺したことだってある。フレアとは、根本的な部分から蓄積経験値が違うのだ。枕に顔を埋めて、フレアは深く息を吐いた。かわいらしいピンクのフリルに埋め尽くされた部屋は、深海に沈んだかのように暗くなった。

父とフレアの仲がおかしくなった理由は、はっきり覚えている。クーゲルおじさんとの大げんかだ。父はこの件だけは絶対に譲らなかった。普段むっつりしていても、フレアの言うことなら何でも聞いてくれた父が、だ。

フレアは父が好きだったし、クーゲルおじさんも好きだった。確かにクーゲルおじさんは強い相手と戦い、殺すのが大好きな怖い人だ。だが怖い人は幼い頃から見慣れていたから、それだけではクーゲルおじさんを嫌いにならなかった。父だって、フレアがまだ歩き始めた頃は、全身から血の臭いを放ちながら帰ってくる事が珍しくもなかった。それに、クーゲルおじさんの娘であるシェーネは、フレアの大事な従姉妹だ。もう結婚している彼女は保護意欲をかき立てられる優しい娘で、一緒に遊んだことが数え切れないほどだ。

だから、父とクーゲルおじさんが大げんかをした時は必死に止めた。

元々二人が仲が悪いことは知っていた。肉親だから時々店に来るが、クーゲルおじさんが父に営業スマイル以上の表情を見せたことは一度もなかった。二人の間には、いつも帯電したような空気があった。気の弱いシェーネなどは、後でこっそりフレアの前で泣くことがあった。

そして、致命的な激発が起こった。ワインの味がどうとか、本当にくだらない理由で、二人の溝は決定的なものになった。口げんかが殴り合いに発展するまで半刻も掛からず、さらに武器を使っての殺し合いになるのにはその半分も掛からなかった。

三日三晩にも渡って近くの森で二人が殺し合っている時、生きた心地がしなかった。どちらにも傷ついてほしくなかった。戦いが終わって、父はボロボロになって帰ってきたが、以降クーゲルおじさんの事は口にもしなくなった。フレアが何を言っても、聞く耳を持ってくれなかった。泣き落としも通用しなかった。

その関係と、今回の事件は少しだけ似ていた。それ以来、少しずつ蓄積していたフレアの不満が、父の大人げない発言で爆発したのだ。父がどうしても話を聞いてくれなかったのは、自分を大人だと思ってくれていないからだと思った瞬間、頭の中に電気が走っていた。

後は売り言葉に買い言葉。気がついた時には、引くに引けない状況になっていたのである。フレアはあのとき怒った。しかし、今になってみると、むしろ悲しかったのではないかと思えてしまう。

マリーは急げと言っていた。しかし、こんな自分証明のためなどに、他人を犠牲にして良いものなのだろうかと、フレアは思った。怪盗デアヒメルが捕まったら、どんな目に遭うのだろうか。今回マリーは殺さないと明言していた。その発言はフレアの目から見ても信頼できる。だが、捕まった後、デアヒメルがどうなるかは分からない。

エゴを他者の犠牲で充足させようとしてしまっていないだろうかと、フレアは自問自答した。不意に気付く。これが決断の苦しみなのだと。父は当然のこととして、マリーだって日常的にこれをしているのだと。多分苦しみの形は違うはずだ。だが、それでも、このような苦しみを誰もが味わっていることに違いはないはずだ。

マリーも父も、強くなるはずだった。そしてフレアが弱いのだという事実にも、納得できた。

枕から顔を上げたフレアは決断した。デアヒメルを捕まえよう。悪事はどのみち止めなければならないのだ。存在証明も一つにはあるが、それと同時に、社会的な義務もある。対処できる事には、対処するのが大人の行動だ。フレアは人脈という武器を利用して、デアヒメルと戦う。それでいいのだ。

部屋を出る。すれ違った父が、フレアを見て少しだけ驚いたようだった。すっきりした表情で、フレアはマリーのアトリエへ走った。

 

3,怪盗との戦い

 

ヴェルシュ家の屋敷には、既に十人を超す冒険者が、用心棒として集まっていた。巨大で悪趣味な正門を監視できる位置に一人。屋敷の屋根に張り付いて、塀を越えてくる人間を監視する者二人。宝物庫中に一人、外に二人。この、宝物庫組が、マリー達であった。後は屋敷内に適当に散らばっている。

屋根には高価な赤い瓦が使われており、汚い金で建てた家にもかかわらず、朝日や夕日を浴びると、白磁の壁とベストマッチし非常に美しい。窓には曇りが少ない高級なガラスが使われていて、庭には池が作られ、色とりどりの魚が泳いでいた。反面、庭木はとても手入れが荒い。ただし数だけは多く、遠目には美しく見えるのだった。

そんな豪奢な外見にもかかわらず、働いている使用人達の表情は暗く、中には体に傷がある者もいた。更に言うと、宝物庫の中身も乏しい。高利貸しで得た利益の殆どは無計画に使ってしまっているのだろう。しかも、宝物庫と言いながら、中身は現金ばかりだった。

銀貨や金貨が乱雑に散らばっている。宝物庫の中に入って貰ったシアの側には、鋭い目つきだが体はたるみきっている侯が張り付いていた。目は血走っており、下手なことを言えば噛みつかれそうだった。

この家にデアヒメルが目をつけたという確証はない。しかし、ここに来ている冒険者達は、皆情報を集めた結果、此処にたどり着いている。おそらく、今晩が勝負になる。無骨な鉄製の扉に守られている宝物庫の外で、退屈そうにしているミューと共に、マリーは気を引き締めた。

 

フレアがアトリエに来て、決意を表明してから数日。マリーはシアとミューと密に連絡を取りながら、対デアヒメル戦に備えて情報を集めた。結果、ヴェルシュ家が浮上したのである。

この家は要塞並みの防御能力を持つ。それはもう、さんざん大小の恨みを買っているのだから、当然のことだ。それに、デアヒメルの盗みの傾向が変化しており、最初は手をつけなかった金目のものに徐々にシフトしていることも分かっている。おそらく、デアヒメルは相当金銭的に苦しい状況になっている。なりふり構わず、そろそろ現金を狙ってくる頃だと、マリーは結論した。そして今まで彼女が手を出さなかった悪徳貴族の中から、現金を主体で持ち、なおかつ警備が堅い所を調べ上げ、そしてこの家だと結論した訳だ。

もっとも、マリーはむしろ後発組だった。ヴェルシュ家は既にギルドに傭兵の張り紙を出していたし、先に屋敷に入った冒険者の中にも、ベテランの顔がちらほら見られた。中には、何度かデアヒメルに逃げられて雪辱を晴らしたがっているという男の顔もあった。

本来なら彼らを統率するリーダーが必要になってくる所だが、ヴェルシュ家の臣達の中にそう名乗り出る者はおらず、侯爵自身も指揮を執ろうとしなかった。マリー達は勝手に集まってきた状態で、数グループに分かれており、実績や経験も横並びで、突出した人間がいない。結果、リーダーは選出されず、めいめい勝手に警備を行うことになった。

屋敷の見取り図がほしいとマリーは言ったのだが、拒否された。そのため、半日がかりで屋敷を自力で調べなければならず、それが大きな時間的浪費につながってしまった。今までの傾向では、デアヒメルは必ず夜に仕事をしている。だが彼女がなりふり構わず盗みを始めている現在、その法則はおそらくもう通用しない。だからシアとミューを宝物庫に残して、マリーは一人で屋敷の中を調べなければならず、それがさらなる時間の無駄を作ってしまった。

状況は決して有利とはいえない。すぐ側に足手まといである侯爵がいる上に、奴は錯乱して何をしでかすか分からない。ギルド関係者の話によると、例の阿漕な商売が上手くいっていないのだという。騎士団も強引な借金取り立ての苦情を受けて動き始めており、爵位剥奪の動きさえ出てきているという状況らしい。今は賄賂を必死にばらまいて便宜を図っているようだが、既に騎士団が周辺に目を光らせている現状、出来ることには限界もあるようだ。その上、どこから知ったのか、デアヒメルに狙われていると知ったのである。もともと気が弱い男だったらしく、完全に怯えきってしまっていた。

フレアと一緒に屋敷に入って、二日目。おそらく、デアヒメルは来る。だが既に四人ともかなり疲労が溜まってしまっていた。デアヒメルも相当焦っているはずで、状況は五分。此処は根比べであった。

屋敷の中にはガラが悪い連中もいる。借金の取り立てや、荒事の際に動く者達であろう。腕はたいしたことがないが、フレアなどは何をされるか分からないので、出来るだけ宝物庫の近くにいるようにと念は押してある。此奴らは主君である侯爵が完全におかしくなっている事に気付いていて、宝物庫に突入して逃げる機会を狙っているようだった。まるで古い船に住み着いたネズミ共だ。いざというときはぶちのめしていいとシアとミューには告げてある。

宝物庫の外で、マリーは壁に背中を預けて、来るべき時を待った。

 

怪盗デアヒメルことナタリエは、錯乱寸前だった。二日も何も食べていないし、まだ体中が痛い。栄養状態が悪いと、能力のキレも悪くなる。更に、今回狙ったヴェルシュ家の中には、手練れ共がうようよと待ちかまえて居るではないか。

どうしてこうなる。なんで盗みに入る場所が分かったのだ。

ナタリエは一度忍び込もうとして、すぐに断念、逃げ出した。それが昨晩のことである。それから、現在の状況がなぜ起こったのか、必死に考えた。どうしてばれた。どうして読まれた。誰にもしゃべっていない。誰にも明かしていない。誰だって信用などしていないし、会ってさえ居ないのに。

頭を抱えて物陰にうずくまる彼女を、通行人が怪訝そうに見た。ナタリエには、もう誰も目に入らなかった。困惑の中、むくむくと頭を上げてきたのは猜疑心。誰だ、誰が密告した。

飛び起きると、びっくりして通行人が逃げていった。ナタリエの頭の中で、光がはじけた。腰に手を伸ばすが、ナイフは無く、手は空を切った。追いかけて刺し殺してやろうと思ったが、それは出来ない。直線的につながってしまった思考が、実はおかしいと気付いたのは、このときだった。あんな見たこともないような男が、どうナタリエを売るというのだ。

深呼吸する。そうすることで、思考はだいぶ落ち着いた。危ないところだった。もう少しで、関係ない人間を無意味に殺してしまった。ナイフは、腰の逆側につけていた。

もう、どのみち、今日は仕事をする気にはなれなかった。逃げていく通行人は放っておいて、一端家に戻る。その途中、すぐ下を川が流れている小さな橋を渡る。ふと下を見ると、目の下に隈ができている、自分の殺気だった顔が写った。

ナタリエは驚いた。眉根は寄り、目は殺気を帯びて充血し、口は固く結ばれ、今から人殺しに行くような顔をしていた。やつれ方もひどい。髪は昔から綺麗な方ではなかったが、それでもこのほつれ方は何だ。はっとして、必死に笑顔を作ろうとするが、上手くいかない。怪訝そうに見ている通行人。視線が痛い。思わず駆けだして、家に飛び込み、ベットに倒れ込んだ。

涙が止まらない。どうしてこんな事になってしまったのだろう。ナタリエが何をしたというのだろう。腹が鳴った。盛大に栄養を要求してきた。でも、たべるものなんて、何も残っていない。

「うるさい! うるさいうるさいっ! 静かにしろおっ!」

自分の胃袋に怒鳴り、ナタリエはベットを何度も拳で殴りつけた。涙が止まらなかった。頭を抑えて、気付く。髪の毛が埃まみれだと言うことに。涙は、いつまでも、止まってくれなかった。

気がつくと眠ってしまっていた。随分長いこと眠っていたらしく、もう夜だった。これ以上空腹が酷くなると、身動きできなくなる。そう判断できたのは、流石に経験を積んだ怪盗だったからである。

最後のチャンスだ。仕事をするしかない。

不思議と、スリやかつあげをしようという事は思いつかなかった。ふらふらと、吸い寄せられるように歩き出す。目指すはヴェルシュ家。街でも有名な悪徳貴族だ。汚い金を蓄えまくっているに決まっている。盗むには絶好の相手だ。

夜中だけあり、人通りは少ない。家々の明かりには消えているものも多く、犬の遠吠えが良く聞こえた。石畳に舗装された道を歩く。体力が限界に近く、精神的にもそれは同じだった。何度も転びそうになる。何度も倒れそうになる。だが唇を血が出るほど噛んで、必死に精神を立て直した。やがて、角を曲がれば、ヴェルシュ家の門という所までたどり着く。

残った最後の力を使って、ナタリエは能力を展開した。

 

シアが宝物庫から出てきて、ミューと交代した。宝物庫の中では、膝を抱えた侯爵がずっとぶつぶつ呟き続けている。多分、既に正気は失っているだろう。げんなりした様子で、ミューが中に入っていった。

「ねえ、マリー」

「ん?」

「デアヒメルの能力に、見当はついているの?」

シアの発言に、マリーは頷いた。マリー自身、いろいろな情報を集めて、可能性を幾つか絞り込んでいる。当然、情報が集まった今、以前よりも精度の高い分析が出来ており、仮説の数も増えている。

その中で一番有力な可能性が、メタモルフォーゼだった。

メタモルフォーゼは、自分の対知覚を変化させる能力の総称である。要するにどういう風に他人が認識できるかという事実を能力によって強引に改変してしまうのだ。それは見え方だったり臭いだったり、場合によっては声だったりする。ザールブルグで四十年前に名を馳せた歌姫が、このメタモルフォーゼ系の能力者で、自分の声を何十倍も美化していたというのは有名な話である。

メタモルフォーゼ系の能力者には、自らを透明化するものもあるし、他にも様々なバリエーションが確認されている。研究者の話では、オーヴァードライブなどの身体能力強化系もこのメタモルフォーゼの一種ではないかというものもある。マリーは元々こっちの方が専門で、知識も深い。まだ学生レベルの錬金術とは基本的に違う。

「幾つか絞り込んでみたけれど、多分気配を消去するか、色彩を消去するか、或いは…」

「姿を変えるとか?」

「そうそう。 おそらくは、ね」

だからこそに厄介なのだ。屋敷に潜入する前に合い言葉は決めておいたが、何度も使っていては意味が無くなる。追い風になっているのは、デアヒメルが相当に焦って居るであろうということだ。

屋敷内の見取り図を検討した結果、もう生きている縄は仕掛けてある。上手く其処へ誘い込めば、デアヒメルは掌のうちだ。問題は、如何に相手を焦らせ、なおかつ其処へ追い込むか。

宝物庫周辺の床には小麦粉を撒いてある。これで足跡は一目で分かる。問題は宝物庫の裏側から、窓を破って入ってきた時だが、そのときは中にいる人間が気付くし、外の二人も即座になだれ込むことが出来る。問題は気配を消すタイプの場合だ。このタイプに備えるために、内外の交代は最小限に抑えなければならない。後、注意するべきだとしたら。

足音が近づいてくる。マリーはシアと殆ど同時に顔を上げた。

 

ナタリエは、進入前に、もちろん屋敷の下調べをしていた。いい加減なものではあったが、宝物庫の位置や、大まかな構造は掴んでいる。だからこそに、宝物庫の前に張り付いている手練れの実力には戦慄した。

そもそも、屋敷の此処までにも、手練れがうようよしていて、油断できる状況ではなかった。何とかそれらを振り切って此処までたどり着いたというのに、これはどういう事か。一体天はナタリエの何が気に入らないのだろうか。

物陰に隠れ込む。冷や汗が零れて止まらない。

ナタリエの両親は、天帝と呼ばれる神の熱心な信徒だった。父も母も、休日には教会にいって、ありがたい教えとやらを聞いて満ち足りた表情をしていた。神についてナタリエは疑問も多かったが、二人は幸せそうだったし、何も言わないことにしていた。ナタリエの幸せは、二人の幸せだったからだ。ナタリエ自身も、二人を幸せにしてくれるのならと、天帝とやらの存在を静かに受け入れていたし、祈りも欠かした事はなかった。

それなのに、なぜ。加護の一つも与えてくれない。信仰が足りないなどと言う風には考えられない。両親には悪いが、天帝とやらは無能だとしか思えない。何が神だ。神なら人を救ってみるがいい。

ナタリエの思考は暴走と迷走を繰り返していた。本人にもそれは分かっているのだが、どうにもできない。体中に黒い蛇が巻き付いているかのように、精神はしめつけられ、体も悲鳴を上げていた。

物陰から顔を出す。宝物庫の前にいる手練れに、誰かが話しかけていた。どす黒く隈に覆われた目に、光が宿る。

さっきまで呪っていた神に、ナタリエは感謝しなかった。両親の加護だと思った。宝物庫の外の手練れ二人に、話しかけている女は、多分戦闘経験がない。中にもおそらく一人ないし二人が潜んでいるだろうが、それも外の気配に気を取られて動けまい。

一度屋敷の屋根に上がり、そこから中庭に降りる。植え込みを無理矢理越えて壁に張り付く。ナタリエの背丈の三倍ほどある所に、採光用の窓がある。其処から潜り込む。ナタリエの残り少ない精神力が、見る間にすり減らされていく。何度も立ちくらみを起こしそうになった。

戻ったら、まず両親に送金する準備をして、お手紙を書いて、それから、ご飯をたべよう。自分に言い聞かせると、少しだけ力が出た。フックロープを屋根に引っかけると、一気に体を引き上げる。もう、ここからは、時間との戦い。先にナタリエが盗むか、監視している奴が駆けつけて来て捕まるかの勝負になる。こういう駆け引きは、ナタリエは嫌いではない。アドレナリンが脳を活性化して、ナタリエの残り少ない力を絞り出してくれる。

窓に張り付く。それが開くとは最初から思っていない。ヒュージ・スクイッドの吸盤を死後も動くように開発した、冒険者ギルドでも普通に売っている吸着具を窓にくっつけ、素早く愛用のナイフで窓を切り裂き、円形のガラスを取り外す。窓を慎重に開ける。体が入り込める隙間を作りながら、中を探る。宝物庫の中には二人。一人は背格好からして多分侯爵。もう一人は冒険者だろう。冒険者は宝物庫の外からする音に気を取られている。好機だ。

音もなく飛び降りる。そして、金貨が入っている袋に、手を伸ばした瞬間だった。振り返った侯爵が、金切り声を上げた。

「賊だ! 賊だああああああっ!」

一瞬反応が遅れる。雷光のように振り向いた冒険者が、回し蹴りを叩き込んできた。

普段なら何でもないはずの攻撃だったが、今のナタリエに、防ぎきるのは不可能だった。

 

マリーは最初心配していたのだが、フレアはこのならず者共の巣窟でも、想像以上に上手く仕事をしていた。考えてみれば普段から荒くれ共の集まる飛翔亭でマスター代行をしている訳だし、あしらい方くらいは心得ているのが当然であろうか。いや、むしろ飛翔亭の荒くれに比べれば、ここでうろついているチンピラなど、幼児も同然だろう。それに飛翔亭で面倒を見ている冒険者も大勢来ているのだ。当初マリーが思ったより、ずっとフレアにとって安全であったのかも知れない。

一日経った頃には、もうフレアはならず者共を手なづけ、使用人達と顔なじみになり、彼らから愚痴まで聞く仲になっていた。最初は獣じみた目でフレアの胸や尻ばかり見ていたならず者共は、誰が彼女を守るかで競争しかねないような有様にまで軟化していた。小耳に挟んだが、此処をやめて、心を入れ替えて、飛翔亭の仕事を受けながら生活をしようと考え始めている連中まで居るようだ。

「魔性ね」

シアはそう言った。マリーはそんなものかと思った。確かにグランベルでも異常にもてる奴は男女関係なしにいたが、それとは少し雰囲気が異なる。グランベルでもてた奴は、マリーの見たところ、「動物としての人間の魅力」が多い者だった。フレアの場合は、心を鷲掴みにして離さないタイプだ。

フレアは今や、彼女が来るまで麻痺状態だった屋敷の人員構成を把握し、働いている。組織的に掃除洗濯を行わせ、料理をさせて、みるまに滅茶苦茶だった屋敷の中を綺麗にしていった。これには彼女と顔なじみの冒険者達も、小声でひそひそと驚きをかわし合っていた。そして、今。彼女は徹夜になりそうなマリー達の元へ、夜食を持ってきてくれたのである。

お盆にのせられていたのは、食べやすい大きさに整えられたパンだった。丁度ハムと野菜類をサンドしてあり、上品なバターの臭いがしている。更に、黒い焼き菓子も、盆の端には乗せられていた。

「お疲れ様、マリー、シア」

「ありがとう」

「いただくわ」

二人で仲良く手を伸ばす。ならず者共はまるでフレアの親衛隊のごとく、彼女の側に張り付いていた。はっきり言って邪魔だが、こんな連中はもともと居ても居なくとも戦力的に影響はない。むしろ邪魔なので、まとまってくれていると助かる。パンは美味しくて、ついつい手を伸ばしてがっついてしまう。ミューの分は、別の使用人が盆にのせて持っていたので、遠慮する必要はない。

「デアヒメルは見つかりそう?」

「ほうね。 ひはほほうほうへはむふはひいは」

「そうね、今の状況では少し難しいわって、マリーは言っているわ」

シアの通訳は完璧だった。小さな壺を受け取って、良く冷やした煮沸井戸水を飲み干すと、焼き菓子を頬張る。歯触りが殆ど無くて、口の中で溶け広がった。甘い。砂糖を贅沢に使っている。以前食べた「クッキー」とやらより味が劣るが、同種の焼き菓子と見た。劣ると言っても、充分に美味しい。

上品に指先をハンカチで拭きながら、シアが品評する。

「クッキーの一種ね。 バニラとシナモンを使っているの?」

「そうなの。 台所で余っていたから、使わせて貰ったわ。 他の冒険者の方達も喜んでくれて、とても嬉しい」

「そう。 確かに美味しいわ」

シアは当たり障りのない答えをしているが、表情が物語っていた。これは弱者の血を絞り上げて作った味だ。素直には楽しめない。マリーも同感だ。確かに美味しいのだが。これを作る課程で、アデリーのような社会的弱者がさんざん泣かされていると思うと、少しいらだたしい。

宝物庫の中で、金切り声があがったのは、直後だった。

シアが先に飛び込む。マリーは外に展開するようにフレアの取り巻きに鋭く叫ぶと、ドアの隙間をくぐって中に躍り込んだ。

杖を上げて顔を防いだのは、反射行動に近い。だが、しめたばかりの戸に、激しくたたきつけられる。蹴りを叩き込んできたと言うよりも、ドアを蹴り開けようとしたところに、マリーが入ってきたというのが正しいだろう。背中を強打したマリーに、ナイフを振りかざした誰かが迫ってくる。多分デアヒメルだ。腕を上げてガードポーズを取るのと、後ろからシアが容赦なくはたきを振り下ろすのは同時。真横にデアヒメルが飛び退き、想像以上の身軽さで、壁を蹴って跳躍、ミューの頭上を飛び越えようとする。残像が残るほどの速さだ。

これはすごい。マリーは単純に息をのんで賞賛した。確かに怪盗と言われるだけのことはある。速さにおいてはマリーではとてもかなわないシアでも反応し切れていない。しかし、この場では、反応できる人間がいた。

「させない!」

「ああっ!」

反射速度であればミューは一流である。とっさに手を伸ばして足を掴み、バランスを崩したデアヒメルもろとも地面にたたきつけられる。派手に金貨がぶちまけられた。侯爵が這いずって悲鳴を上げながら逃げる。

デアヒメルの手には、中身が半減した、小さな金貨の袋が握られていた。彼女は使用人と同じ格好をしている。ということは、姿を変える、しかも着衣まで偽装するタイプの能力者か。騎士団の追求をかわしていたと言うことは、身体から発する魔力波動まで変化させるのかも知れない。金貨をかき集めようとしながらナイフを振り回したので、ミューが飛び退く。マリーは杖を構えなおしながら、背中の痛みに眉をひそめつつ言った。

「そんな少しのお金のために、命かけるつもり?」

「う、うるさいっ! うるさいっ!」

どたどたと足音がする。手練れの冒険者が近づいているのだ。窓の外を塞いでとマリーが叫び、心得たと返事。

デアヒメルは、華麗な怪盗のイメージを全く残していなかった。使用人のエプロン主体とした着衣から出ている手足には、無数の傷がついている。表情も全く余裕が無く、精神の均衡を失う寸前だった。がちがちと歯が鳴り、視線は安定せずにぶれ続け、眉は親の敵を前にしたように跳ね上がっている。元がどんな美少女でも、これでは悪鬼羅刹のごときに見えるだろう。

金貨の袋を取り落としたデアヒメルが、震える手でナイフを構える。呼吸が乱れ、興奮しているのがよく分かる。

この目は知っている。狩りの時によく見た。囲まれ、逃げられないと悟った猛獣が、見せるものだ。デアヒメルは、マリーが想像するより遙かに酷い環境で、追い詰められていたのだろう。そもそも、こんなリスクの高い場所に忍び込んできた時点でそれは明らかだったが、本人の顔を見ると確信できる。

いきなりナイフを振り回した。ミューがだいぶ手慣れてきた剣捌きで受け流し、シアが飛び退く。動きは鈍くなってきているが、これは危ない。正気を失っている。不意に、デアヒメルが吠え猛った。

「あああああああああああっ!」

マリーはとっさに、金貨の袋を抱きしめて隅で震えている侯爵を背中にかばった。ナイフを構えて、マリーに突貫してくる。デアヒメルは若干マリーより小柄だ。それを利用する。ナイフだけに集中し、それが突き出された瞬間、体をひねって致命傷だけは避けつつ、当て身を入れる。もともとバランスの悪い体勢で突入してきたデアヒメルは、脆くも吹っ飛び、金貨の山につっこんだ。

マリーの左二の腕が派手に切り裂かれ、鮮血がたれ落ちている。かなり切れ味の良いナイフだ。術がかかっているかもしれない。それに、デアヒメルが冷静だったら、今の攻防でマリーはおそらく死んでいただろう。手当は後だ。とにかく、デアヒメルを何とかしないといけない。

金貨など目に入っていない様子で、血に染まったナイフを構えて、デアヒメルが立ち上がる。膝が笑っているのが見えた。窓から差し込む月明かりの下、顔がよりよく見える。

「あららら」

シアがつぶやく。無理もない話だ。デアヒメルはそこそこ顔の動作が整っている。いわゆる小作りなタイプで、多少勝ち気そうな雰囲気だが、美少女という言葉の隅っこくらいにはぶら下がるだろう。だが、台無しだ。目の周りは隈に覆われ、肌荒れも酷い。

困窮しているのは分かっていたが、ひょっとして、何日も食べていないのではないか。マリーは構えを保ったまま、怪盗と世間で呼ばれる人物に、静かに同情した。まあ、現実などこんなものだ。デアヒメルは、勝手に世間の人間達から夢を背負わされていたにすぎない。そういえば、デアヒメルというのも勝手につけられたあだ名で、本人が怪盗などと名乗った話は聞いていない。つくづく、哀れな者だった。

デアヒメルが叫ぶ。口の端から泡が跳んだ。

「殺してやる! 一人でも多く、道連れにしてやる!」

「待って!」

場に割り込んできた声一つ。ドアを開けて入ってきたのは、フレアだった。そちらを見ようとするデアヒメルの前に、シアが動く。身体能力が微妙なマリーならともかく、シアなら今のような不覚は取らないだろう。

「デアヒメルさん、話を聞いて」

「うるさい! 近づくなっ! 殺すぞっ!」

「私は丸腰よ。 それでも怖いの?」

「う、う、うるさいっ! だまされない、だまされないぞっ!」

ナイフを一閃させるデアヒメル。シアが投擲に備えて身を縮めたが、振っただけだった。今投げたら即座に取り押さえられると、気付いているのだろう。デアヒメルの、血を吐くような独白が続く。

「と、都会の人間は、みんなそうだっ! 笑顔で近づいてきて、自分たちのルールが分かっていないとゴミ扱いして! だ、だまして、むしり取ることしか考えてない! も、もうだまされない、だまされないからなっ!」

「可哀想に。 悲しい目に遭ってきたのね」

「う、うるさいっ! ど、同情なんか、同情なんか! 金が、金が足りない、金がないんだっ!」

身を翻すデアヒメル。意図を察したミューとシアが同時に動く。デアヒメルはどちらにも反応しない。或いは、興奮しすぎて、もう見えていないのかも知れない。ミューの手がデアヒメルの着衣を掴む。ボロボロの着衣が、その瞬間負荷に耐えきれず、千切れた。デアヒメルが跳ぶ。目指すは窓。同時に飛んでいたシアのはたきの一撃を左腕で受け止め、体勢を若干空中で崩す。が、それでも壁を蹴り、窓へ。マリーが開いている手で、雷撃を放ったのはその瞬間。だが、傷が響いて、僅かにそれる。だが、それでも電撃がかすめ、窓をくぐり開けていたデアヒメルは悲鳴を上げた。

「あああああっ!」

「待って、やめて! 乱暴しないで!」

どすんと、外で音がする。だが、音からして致命傷ではない。

「ミュー、シア、かねての予定通り追って! あたしが追いつく前に例の場所に入ったら、とらえよ! よ!」

「任せて!」

「フレアさん、マリーの怪我をお願いね」

二人が口々に言いながら、宝物庫を出て行った。マリーは思ったよりも深い傷にため息を一つこぼしながら、うつむいているフレアに言う。

「大丈夫、この分なら、生きて捕まえられるわよ。 それにあれだけ弱ってるし、抵抗してもたいして乱暴もしないで済むと思う」

「可哀想……あの人……」

「人間ってのは、弱者を嬲ることが大好きだからね。 都会に出てきた田舎者は、いつだってああいう目に遭うものだよ。 あたし達だって、さんざん苦労したんだから」

マリーの言葉に、自分のことでもないのに、フレアは涙をこぼしていた。なぜかは分からない。上京者の境遇に同情したのかも知れない。

 

もうメタモルフォーゼを展開する余力も残っていなかった。芝の上だったから何とか耐えられたが、左腕は完全に折れている。ぶらぶらと気味が悪い揺れ方をして、激痛どころか気を失いそうだった。

だが、何が利するか分からないのが世の中だ。折れている左手から、ぽろりと金貨がこぼれ落ちる。今の騒ぎで、一枚だけ確保したのだ。神の情けか、悪魔の施しか。思わず涙がこぼれるのを、ナタリエは感じた。

「いたぞっ!」

闖入者の声。すごい勢いで迫ってくる。金貨を懐に入れると、跳躍。すんでのところで塀の上に逃れた。さっき宝物庫の中で相手にした奴らほどの動きではない。そのまま左腕をぶらぶらさせたまま、ナタリエは走る。頭の中が回り、目の中がちかちかするようだった。

金貨だ、金貨だ、金貨だ!銀貨じゃない、金貨だ!

これがあれば、ご飯が食べられる。これがあれば、仕送りが出来る。これがあれば、きっと、何もかも、何もかも上手くいく。

肩に鈍痛。見ると、矢が突き刺さっていた。

続けて、連続で矢が飛んでくる。必死に逃げながら、屋根の上を走って、門へ向かう。逃げてやる、生き残ってやる!ナタリエは叫びながら、走る、跳ぶ、そして逃げる。

そして、外へ逃げるために、最後の橋頭堡となる。塀の前の、小さな小屋の上に乗った瞬間だった。

「捕らえよっ!」

宝物庫にいた、術者の声。躍りかかってくる細い何か。蛇か。かなりのスピードだが、ナタリエの方が一枚上手だ。そのまま直上に飛び上がり、からみついてくるそいつの頭を蹴り飛ばす。いや、頭はない。それは、縄だった。蛇のようにうごめく縄。

沸騰した頭では、その異常性に気がつかない。身を翻そうとして気付く。この縄を突破しないと、逃げられないのだ。じりじりと下がる。助走をつけて、飛び越してやる。矢が数本側をかすめた。そして一本がふくらはぎに突き刺さる。体勢を崩しそうになる。だが、ナタリエはそれでも跳んだ。飛び越えた。

逃げるんだ。ここから逃げ延びて、仕送りを。両親を安心させて、それで、それで。ナタリエの頭の中を、思考が通り過ぎる。願望が流れゆく。

ついに、ナタリエは塀を越える。着地の寸前、ナタリエは見た。

ヴェルシュ家の戸が開いており、下にはさっきのと別の縄が待機していたのだ。しかも、ナタリエを縛り上げようと、鎌首をもたげて。

もちろん、逃げることなどは出来はしない。ナタリエは翼を持っていないし、空中で動けるような術だってないのだから。絶望が、喉からほとばしり出る。

「あ、ああ、あああああああああっ!」

飛びついてきた縄に、空中で絡みつかれた。更に頭上から降ってきた縄に、二重に縛り上げられる。最後の力を総動員して逃れようとするが、縄はまるで獲物を飲み込もうとする大蛇のように、ナタリエを的確に縛り上げ締め付けていった。

「ち、ちくしょ、ちくしょう、ちきしょーっ! 離せ、はなせえええええっ!」

悲痛な悲鳴は誰にも届かない。

ナタリエは、神を恨んだ。

目の前が真っ白になる。最後に脳裏に浮かんだのは、一番見たかったもの。少し恥ずかしそうに寄り添いながら、笑みを浮かべている、幸せそうな両親の顔であった。

 

絶叫しながらもがいていたデアヒメルを、弱めの電撃の術で黙らせたマリーは、一息つけてほっとしていた。わらわらと警備に当たっていた冒険者達が集まってくる。そして、誰もが驚いていた。何度もデアヒメルに逃げられたという、例の冒険者が悲痛にうめいた。

「何だ、まだ子供じゃないか。 こんなにやせて、こんなに傷ついて。 お、俺は、こんな子にしてやられて、むきになって、追いかけ回していたのか……!」

気絶してメタモルフォーゼが解けたナタリエは、非常に質素な格好だった。冒険者崩れだろうというのは予想していたが、着衣はすり切れる寸前で、物乞いに近いレベルである。手にしているナイフは良く研がれていたが、本当に生活が苦しかったのだと、この衣服だけでもよく分かる。また、改めてみると非常に若い。十代だというのは予想していたが、この幼さが多分に残った顔。成長しきっていない身体。多分、十代半ばだろう。夢をいっぱい持って上京してきて、挫折した、哀れな少女の末路。それが、怪盗と持ち上げられた、デアヒメルの正体だったのだ。

此処にいる冒険者達にも、似た境遇の者は多いだろう。皆忸怩たる思いを抱いているようで、ばつが悪そうだった。マリーもである。

周囲を見回して、マリーは言う。

「回復の術、使える人いない?」

手を挙げる人間は居ない。少しまずいかも知れないと、マリーは思った。デアヒメルは弱り切っている。警備隊に突き出すにしても、この状態のままだと意識を取り戻さないまま衰弱死する可能性もある。身体の傷よりも、栄養状態が良くない。もしこの状態で病気になったら、高い確率で命を落とすだろう。

騒ぎを聞きつけて、警備兵が駆けつけてきた。同時に屋敷からフレアが出てくる。フレアは悲しそうにデアヒメルの脇に腰をかがめると、マリーを見上げた。

「苦しそうだわ。 マリー、縄を解いてあげて。 お願い」

「そう、ね。 どっちにしても、これじゃあ逃げられないか」

「それと、お薬を持っていないかしら。 持っているなら、私が買い取るわ」

母性を刺激されたのか、フレアは必死な様子だった。マリーとしても、盗みは行ったが殺しはしていない、弱者や非戦闘員に打撃を与えても居ないこの子をどうこうしようとは思わなかった。自分が傷つけられた事に関しては、戦いの中での事だし、気にはしていない。戦場では良くあることだ。

「分かった。 いいわよ」

「ありがとう。 この子を施寮院へ運びましょう。 誰か手伝って」

「ちょ、ちょっと待った。 そいつはデアヒメルだろう。 そのまま連れて行かせる訳にはいかない」

勝手に進んでいく話に、流石に警備兵が文句を言う。フレアは彼の顔を見上げる。警備兵はまだ若い男で、ちょっと顔を赤らめてうめいた。

「まず施寮院に入れるべきです。 取り調べはその後でも良いはずです!」

「どのみち、この状態ではしゃべれないわ。 好きなようにさせてあげてはどうかしら」

シアが言う。ドナースターク家のお嬢の発言もあるし、警備兵は困惑していたが、やがて見張りをつけることで同意した。女性兵士を呼んでくるように部下に命じる警備兵をさておき、フレアはてきぱきと指示を出した。担架が運ばれてくる。ちょっと前まで他人を痛めつけることと奪い取ることしか興味がなかったようなチンピラ共が、率先して人命救助をしているのは、妙な光景だった。

これはひょっとして、予想以上の怪物を目覚めさせたかも知れないと、その場を納めていくフレアを見て、マリーは思った。

 

光を感じたナタリエが目を覚ますと、清潔なベットの上だった。傷には的確な処置がされていて、気分も悪くない。お腹はすいていたが、何だか安らかだった。白衣に着替えさせられていて、身体も清潔になっていた。

身体の痛みも随分薄れている。天国ではないというのは確かだが、それ以上は何も分からなかった。人の気配に視線を移すと、ぼんやり顔が見えた。徐々に曖昧だった輪郭が解けていき、女の顔になる。

誰だっけ。随分優しそうな顔だ。

「目が覚めた?」

「うん……」

視力が回復してくる。差し出されたお椀には、水っぽい粥が入っていた。食欲が理性に勝り、意識がぼんやりしたままどんどん胃へ運ぶ。途中むせそうになったが、粥が随分薄く作られていたので、大事には至らなかった。

腕にも首にも、彼方此方に怪我を処置した跡があった。包帯が巻かれている場所も、回復術で傷を癒したところもあった。

数杯粥をおかわりした頃には、周囲が見えていた。部屋の隅には、腕組みした警備兵が一人。どう考えてもナタリエより格上の使い手だ。此処は警備兵の詰め所か。それとも刑務所病院か。どっちにしても、はっきりしているのは、ナタリエは逃げられなかったと言うことである。

何もかも終わったのだ。そう思うと、涙がこぼれてきた。人前で泣いた事なんて無かったのに。

もう両親には情報が伝わってしまっただろうか。二人はどんな顔をするだろうか。これからどうなるのだろうか。首をはねられるのだろうか。絶望的な予想ばかりが、零れては消えていく。

「大丈夫? どこか痛いの?」

「ほっといて!」

手をさしのべてくる女。振り払おうとしたが、力が入らず、それどころではなかった。声もろくに出なかった。なんという弱々しさだろう。それで二重に悲しくなる。一人上京し、何でもかんでも頑張ってきた気丈さは、もう欠片も残っていなかった。

「貴方は栄養失調と極度の肉体的なダメージで、三日も眠っていたのよ。 栄養剤は注射してあるけれど、無理をしてはいけないわ」

言われなくても分かっている。最後の仕事に出る時、ナタリエは何日も食事を口に入れていなかった。体中の傷は治る気配もなく、あざは青いまま。傷口はささくれだって何カ所も化膿していた。蠅が飛んできても、追い払う気力も残っていなかった。

あの仕事に出なければ、多分ナタリエはそのまま餓死していただろう。最後の気力を振り絞り、ナタリエは動いた。そして、完膚無きまでに負けたのだ。あの生きた縄を使う女が居なければ、逃げることは出来ていたかも知れない。しかし、次の仕事はどうだったか。その次は。

「う、ううっ、うう」

涙が落ちる。嗚咽が止まらない。もう分かっていた。悔しいが、わかりきっていた。どのみちナタリエは狩り立てられ、追い詰められ、殺されただろう。もう負けたのだ。あの女に負ける以前に、社会に負けていた。

後はどうされるのか。鉱山にでも送られて、死ぬまで働かされるのか。軍に放り込まれて、最前線で戦わされるのか。娼婦にでもされるのかも知れない。鎖でつながれて、脂ぎった中年親父に全身なめ回される様を想像して、ナタリエは気絶しそうになった。

「大丈夫。 貴方は保釈金だけ払えば、外に出られるわ」

「い、いやあっ! いやああっ! 触らないで、触らないでえっ!」

「大丈夫。 ほら、貴方を傷つける人なんて、此処には誰もいないわ」

女が抑えようと動く兵士を制止した。ナタリエは混乱しきっていて、最初の言葉をすっかり聞き逃していた。女は諭すように、ゆっくり言う。

「いい、聞いて。 貴方はそれほど重罪にならなかったの」

「え、え……?」

「貴方の素性やアジトはすぐに割れたわ。 騎士団には、そういう能力の持ち主が何人も居るの。 それで貴方が盗んだものは全て回収されたわ。 ナタリエさん。 全部持ち主の元へ返されたし、大した被害はない。 怪我を唯一したマリーも、貴方を許してくれるって言っているわ」

つまり、盗みを行ったことだけが、ナタリエの罪になる。シグザール王国の刑法では、盗みを行い、それをよそへ売り飛ばすと、一気に罪が重くなる。ナタリエの場合は、殆どの場合盗んだだけなので、そうはならないわけだ。つまり、運が良かったのである。もし換金できるようなものばかりを盗んでしまっていたら、どうなったことか。

ただ、罪が軽いと言っても、盗みは盗み。無罪放免とは行かない。殆どの場合は罰金刑が課され、それを払っていくことになる。だが、危険を承知で犯罪に手を染めるくらいであるから、大体は経済状態は最悪であり、一部の特殊な場合を除いて払えるわけがない。この場合、犯罪者には二通りの選択肢がある。鉱山労働、軍、もしくは騎士団の下働きを行い、危険を承知で短期間に稼ぐか。これは一種の刑務所労働に近い。或いは誰かに保釈金を肩代わりして貰い、その人物の監視下で借金返済を行うか。

シグザール王国が、犯罪に手を染めた貧民の救済策として、屯田兵としての活用をしているのは有名な話だ。人殺しなどの重罪に手を染めた場合は死刑になる場合が多い。だが軽犯罪に手を染める人間の中には、生活力がなかったり、金銭を稼ぐ手段を持っていない者が少なくない。そういった者達を救済しつつ、軍の力を居ながらにして強化する一石二鳥の策なのだ。軍ではしっかり犯罪者の精神的な更正も行うマニュアルが確立されており、一般社会への復帰率は極めて高い。

また、保証人が現れた場合も、そうやって回収した金品を被害者に分配した後でも、国には純利益が入る。どちらにしても損はない。

保証人は基本的に国から信頼されている人物でなければならない。犯罪者を野放しにしてしまうからだ。もし同じ人間がまた罪を犯して捕まった場合、監督不行届として、保証人も同罪とされるケースがある。それだけ保証人とは厳しい立場なのである。

うつむいて聞いているナタリエ。女は言う。

「私の父が、貴方の保証人を買って出てくれたわ」

「誰だよ、それ……」

「ディオ=シェンク。 飛翔亭のマスターよ」

思わずナタリエは咳き込んでいた。ディオといえば、ナタリエも知る立志伝中の人物ではないか。冒険者の中の冒険者であり、各国の王族クラスとも顔が利くとか言う。酒場のマスターをしているのは、後進の世話と仕事を斡旋するためであり、実際の資産はその辺の貴族を軽く凌駕するとか言う。

その伝説を聞いて、何度ナタリエは心躍らされたか。冒険者というヤクザな道を選んだのも、その伝説にあこがれた部分が少なからずあるからだ。

色々なことがいっぺんに起こりすぎて、混乱して、何が何だか分からない。女はそんなナタリエを慈しむように、背中を撫でてくれた。何だか、懐かしい感覚だ。こんな感覚、ザールブルグに出てくる前にしか、味わったことが無いような気がする。

警戒心がゆっくり解けていく。今までの異常な焦りが、嘘のように心の中で消えていった。

この人の言うことなら、聞くべきではないか。いや聞かなくてはならないだろう。そう心境が変化していく。途轍もない大恩を受けたことはよく分かった。それ以上の何か、絶対的な信頼が、ナタリエの中で、育ちつつあった。両親以外、他人にそれを感じるのは、生まれて初めてだった。

今は身体を直す事だけを考えなさい。フレアと名乗ったその人は、ナタリエをそう優しく諭すと、ベットに寝かせつけたのだった。

 

4,別のやり方

 

ナタリエはすっかりフレアに心を許し、退院後は飛翔亭の仕事をしながら借金を返すことにしたという。その話を聞いて、一番驚いたのはマリーであった。あの錯乱ぶり、混乱ぶりから言って、助けた恩を仇で返されるくらいの事はあるかも知れないと考えていたのだが。シアと茶にしながら、その話で盛り上がる。マリーの腕の傷はすっかり完治して、研究はよりいっそう進み始めている。

ナタリエが様々なミスの結果冒険者ギルドに追放宣告を突きつけられ、両親への仕送りのために必死に盗みをしていたという悲しい話は聞いた。マリーにとっても他人事では無い話だが、運良く現れた理解者によって、ナタリエは救われた。運が良い子である。このままずるずる闇の縁に落ちていくか、逃げるようにして故郷に帰るか、そういう選択をせざるを得ない上京者だって少なくないのだ。

変わったのはナタリエだけではないらしい。たとえばヴェルシュ侯爵は完全に精神的な現役引退を迎え、代替わりが発生した。非常にまともな性格の息子が跡を継ぎ、ヴェルシュ家はきちんとした事業に着手してやり直しを計っているという。また雇い入れていたならず者共は皆悪事から足を洗って、飛翔亭の仕事を受けながら人生のやり直しを進めているそうだ。

マリーから見ても、フレアの力は恐ろしい。まさに魔性の魅力と言って良い。色気だとか優しさだとか、そういう説明の外にある人間的魅力。フレアの中で眠っていたそれが、今回の件で開花したのだろう。戦闘能力はなくとも、これはひょっとすると父以上の逸材として、今後ザールブルグの名士になっていくのかも知れない。最低でも今後忠誠心の高い直属親衛隊が出来るのは間違いない。内外に及ぼす影響力も相当なものになるだろう。

シアが腰を上げる。丁度茶も、クッキーという茶菓子も無くなったところだ。

「そろそろ帰るわね」

「うん。 今日は楽しかったわ」

「こちらこそ。 アデリーが着実に腕を上げているようで、私としても嬉しいわ」

確かにアデリーの腕は上がっている。今日の茶は実に美味しかった。マリーのような味音痴でも分かるくらいだから、相当なものだろう。だが痛々しさも感じる。あっという間にならず者共を更正させたフレアが少し羨ましかった。

シアを外に送っていく。もうすっかり冬空だ。今晩は雪になるかも知れない。またエルフィン洞窟に行ってキノコ類や光石を取ってこなければならないが、その途中に雪が降ったら憂鬱だ。

今回の事件で、スキルはかなり上がった。新しい技術である魂の定着はものにしたし、今後はそれを足がかりに更に難しい調合に挑戦できる。裏庭に出ると、アデリーが洗濯物を取り込んでいた。足場の台がぐらぐらしている。多少危なっかしいが、それでもこの子が失敗をすることは滅多にない。

手伝ってあげながら、マリーは言う。

「ちょっとこれから出かけてくるわ」

「はい。 どちらへですか?」

「近所よ。 帰りに車引きで何か買ってくるわね」

事務的に話を済ませる。何とか距離を縮めようとしているのだが、無言で離れようとするアデリーを引き留めることも出来ず、最近は小康状態が続いていた。それに、今マリーは調子が悪い。何か新しいものを作って、それを実験した後は、だいたいこうだ。クラフトの時も同じだった。

アトリエの中では、生きている縄が丸まったまま、何か仕事がもらえないかとうごめいていた。一本はシアに譲ってしまったし(結構良い値で買い取ってくれた)、今のところ出番もない。荷物を縛る時には使うのだが、それもいつもあるわけではない。別に生前働き者だったわけでもないのだろうが、あまりにも暇だと、仕事が欲しくて仕方が無くなるのかも知れない。

恨めしそうにマリーを見送る縄を背中に、再び外に出る。予想よりも遙かに早く、雪が降り始めていた。

 

飛翔亭ではウェイトレスとしてナタリエが働いていた。昨日フレアに聞いた話だと、ナタリエは飛翔亭で仕事をしていけば、仕送りしつつ借金を返しながらだいたい四年ほどで保釈金を完済できるそうだ。ただ、本人のおしゃれやら贅沢やらはかなり後回しになってしまう。それでも良いとナタリエは言っているが、状況を見ながらフレアの方で調節するのだという。

エプロンドレスを着たナタリエは、ようやく本来の表情に戻ったようだった。シアと殆ど背丈が変わらない彼女は、少し肌が浅黒く、南方人の血が混じっているのかも知れない。顔の造作は優れているが、まだ幼さが残っており、身体的にも発展途上の部分が多い。成人するまでに、もう少し手足は伸びそうだ。空いている席に着いたマリーに気付いたナタリエが、うわっとわかりやすく驚く。

「はろー。 ナタリエちゃん」

「ちゃんづけするな。 ご、ご注文は何ですか、お客様」

途中からナタリエが口調を変えたのは、カウンターの向こうのディオさんに睨まれたからだ。ナタリエの、三つ編みに縛った焦げ茶の髪には、以前見た時とは違い艶が出ている。贅沢は出来ないという話だが、少なくとも髪を手入れする時間は手に入ったわけだ。マリーはチーズと度数が少ないワインを頼みながら、赤くなったり青くなったりするナタリエをからかう。

「笑顔が硬いなあ。 フレアさんに説教食らうわよ」

「勘弁してよ。 客商売なんて、初めてなんだから」

「あら意外」

都会に出てくる上京者は、それはそれは様々な苦労をするものだ。ナタリエの場合は、プライドが足かせになったタイプなのだろう。故郷でなら精鋭だが、こっちでは勝手が通じないという経験なら、マリーにもある。もっともマリーの場合、戦闘でなら、その辺の相手には引けを取りはしないが。ナタリエの場合も、身のこなしという点でなら、都会の人間の常識を遙かに超えているというわけだ。

手早く料理が運ばれてくる。ぺこりと頭を下げて厨房に戻るナタリエと入れ替えに、フレアが来た。料理を口に運びながら、マリーは問う。

「今度はあたしが相談に乗って貰ってもいいかな」

「ええ。 おそらく、あの子の、アデリーちゃんの事でしょう?」

「流石に鋭いね」

イングリド先生には暗示的な答えを貰ったが、まだマリーとしては不確定な部分が多すぎる。他にも色々な人からヒントを貰ってから、アデリーとの距離を縮めていきたい。フレアはこの後も仕事があるからと、ワインには手をつけない。というよりも、以前よりも遙かに仕事に出して貰っているということは、おそらく父とは和解がなったのだ。

マリーは今までに分かっていること、失敗の数々を説明する。事務的に話しても、説明が終わるまでに四半刻は優にかかった。料理をすっかり食べ終えたマリーに、フレアは難しい表情で言う。

「マリー、何か見落としていないかしら」

「何かって?」

「貴方の愛情が足りないって事は無いと思うわ。 貴方の発作的な暴力性があの子に向かないって事も、きちんと理解されてると思う」

「じゃあ、なんでアデリーは心を開いてくれないのかな」

マリーは別に問いただすような口調ではなかったが、若干不快になったのは事実だった。ただ、フレアは何か理解している。イングリド先生も、状況を理解している様子だった。なぜ、マリーにだけ分からない。

アデリーは何かを悲しんでいる。それは確かだ。だが、皆に分かって、マリーにだけ分からない事というのは、いったい何だ。

「これ、指摘した方が良いのかしら」

「本当は自分で気付いた方が良いって事くらいは分かってる。 だけど、あの子は覚醒暴走型の能力者よ。 初潮が来る前にはきちんとした精神制御を身につけておかないと、取り返しのつかないことになる。 それには、今よりぐっと深い信頼関係が必要なの」

「焦らないで。 まだ時間はあるわ」

「それは、そう、だけど……」

いつのまにか、そばに腕組みしてディオ氏が立っていた。流石にマリー程度では接近に気付けなかった。彼は難しい顔をして顎をしゃくると、フレアに言う。

「そろそろ仕事に戻れ」

「あ、娘さんをお借りして済みませんでした」

「……フレア、多少の事は仕方がないだろう。 マリーに少しくらいヒントをくれてやれ」

「ん…そう、ね」

机から立ち上がりながら、フレアは言った。

「ねえ、マリー。 あの子には、足りないものがあると思わない?」

「そうね。 いろいろあるわ」

「其処に戻って考えてみれば、すぐにわかるのではないかしら」

「むー。 分かった。 其処から考え直してみる」

カウンターの奧に戻るフレアを見送りながら、マリーはベイクドケーキを頼む。思考には、糖分が必要不可欠であった。

 

デザートまで綺麗に平らげて、アトリエに高楊枝で戻ろうとしたマリーを、店の外で引き留めたのはナタリエだった。騎士団の能力者は流石に質が高い。名前までもがあっさり割れてしまうのだから。うかうか悪さなど出来ない。

立ち上がってみると分かるが、やはりナタリエはかなり小さい。生意気そうなその顔立ちから言って、母性本能をくすぐられるタイプだ。両親のために必死になっていたという話だが、両親もこの娘を溺愛していたのではないだろうか。行動からいっても根は素直であることは間違いない。本来は、マリーと同じ世界にいる人間では無いのかも知れない。

「あ、あの、さ」

「何?」

「あんたの証言のおかげで、罪が軽くなったって聞いたよ。 だから、礼を言っておこうと思って。 ありがとう」

「良いって。 で、呼び止めたのって、それだけじゃあないでしょ」

小さくうめいて、ナタリエは居心地悪そうにつま先で地面を掻いた。この分だと、両親に溺愛されていたために、却って対人交渉能力が鈍くなってしまったタイプか。ぶっきらぼうな受け答えも、それが原因かも知れない。そのうち親みたいな年の人間に恋をするのではないかと、ふとマリーは下世話なことを考えてしまった。

「フレアさんに言われて。 これからあんたの手伝いをすることが多くなるかも知れない」

「へ? 別にあたしとしては歓迎するけど。 どうしてまた」

「恩返しもあるし、仕事の内容がオレに向いてるからって」

オレと来たか。男女の一人称があまり変わらない地域は確かにある。だがこの子の場合は、おそらく他人に対する威嚇行動の発露だろう。男を意識しているのではなく、異常な一人称で他者を言語威嚇しているのだ。随分かわいらしい威嚇だが。マリーは頭を撫でたくなったが、我慢して、出来るだけ笑顔を作る。

「分かったわよ。 じゃあ、手が空いている時にはよろしく」

「あ、ああ」

手を振って自宅に戻る。途中、車引きで肉クレープを買った。以前と同じ店だから、きっと美味しいはずだ。アトリエの灯りはついていて、マリーとしても戸をくぐるのが嬉しい。

何かが引っかかる。何か分かるような気がする。

アデリーに足りないものとはなんだ。推察するしかないところが悔しい。もう少し心を開いてくれなければ、あの子は過去の話などしてはくれないだろうし。クレープを渡すと、アデリーは無言で食べ始めた。マリー自身は仕事が一段落している事もあり、二階へ上がってベットに寝ころぶ。

フレアやイングリド先生の言葉を吟味してみる。複数の断片が漂い、上手くつながらなかったそれらが、互いに触手を伸ばし合っている。それは実感できるのだが、後一歩が足りないのだ。

窓から外を見ると、子供らが走り回っていた。元気なものだ。田舎の子供に比べるとハングリー精神が足りないが、それでも立派にすくすく成長している。親が迎えに来た。めいめい帰宅していく。その姿を見ていて、不意に気付く。此処では常識の光景だ。だが、それはグランベルでは。

「……! ちょっと、待って」

ひょっとして。まさかとは思うが。

唐突にひらめいた事柄から、順番に線がつながっていく。これはあくまで推測だが、仮説では片付けられない。一つずつ、推察を並べていく。慎重に、拾い上げていく。そして、結論を得る。

アデリーには、そもそも、乳児期を除いて、親と呼べる存在がいなかったのではないか。それが全ての原因となっているのではないだろうか。もしその仮説が正しいとすると。

「しまった、そういうことか!」

独り言が零れる。非常に基礎的な部分を失念していた。今までマリーがしてきたのは、大人としてのつきあいだ。だがアデリーは、大人になる云々以前に、おそらく子供にすらなっていないのだ。

親の愛情を全く受けずに育ったので、存在そのものを知らない。だからマリーが愛情を注いだところで、それを理解できない。そうなってしまうと、マリーがしてきたことは、あの子の目にどう映っていたのか。ちぐはぐな理解をされていたことは分かっていたが、これは恐ろしい。

マリーがアデリーを一人前に育てようとしている事は分かっていたはずだ。それがマリーなりの愛情表現であることは理解できていなかっただろう。そうなると、残るのは。さっさと育て上げて一人前にして、自活しろと放り出す事になりはしまいか。

アデリーの身体は、着実に大人になっている。それに対し、精神の方は、本来通過すべき点を幾つも逃し、異常な方向に彷徨ってしまっている。大人としての理解が出来る反面、愛情を知らないため迷走気味だ。マリーの最大の失敗は、それに気付いていながらも、なお「普通の子供に対して大人として接しようとした」事なのではないだろうか。

アデリーの正確な年は分からないが、もう十歳にはなっているだろう。そうなると、精神的には第二の重要な節目だ。第一の重要な節目で親の愛情を受けられなかったアデリーの精神は、ここで非常に巨大な歪みを抱える可能性がある。マリーやクーゲルのような、生まれついての巨大な精神的欠陥があるタイプはまだ制御がしやすい。もし、このままアデリーが育っていたら、怪物が産まれていたかも知れない。発作的に暴発を繰り返し、辺りを焦土に変えていく怪物が。

誰も教えてはくれないはずだ。これはマリーが自分で気付く事によって自覚が生じてくる。第一今アデリーの保護者になっているのはマリーで、あの子もそれを望んでいる。それには自信がある。だが、親の情を知らないから、マリーの行動がさっさと厄介払いしようとしているように見えるのだろう。直接的にはそう思っていないだろうが、直感的には感じてしまっているに違いない。

確かに、マリーは根本的な部分を見落としていた。どこかで分かっていたのに、気付いていなかったのだ。あの子には、そもそも親が一度たりともいたことがなかったという、哀れな事実に。マリーも、親としては一度として接しようとしなかったという事実にも。

しかし、そうなってくると、どうしたらいい。

アデリーは怖がりだ。それは何もかもが暴力に報われた幼き日の思い出に起因しているというのは確かである。マリーの行動にも無意識で警戒している。どう対処すれば、心を少しでも開いてくれるのか、それを知りたい。

多少のリスクは覚悟して、スキンシップを図るべきなのか。今のアデリーの魔力なら、まだマリーで充分に押さえ込むことが出来る。怖がっていたのはアデリーだけではなく、マリーもではないのか。

アデリーが責任を人並みに負うようになるには、まだ先で良い。今はまだまだマリーが彼女の責任を代行する立場でかまわない。人を育てるというのは、そういう事だ。多少怪我をしたってかまわない。それくらいは、安いものだ。噂に聞くナタリエの父君などは、片腕を失っているにもかかわらず、娘のために上京資金を調えたと言うではないか。

アデリーが自立を考えるのは、更にその先、まだまだずっと未来で良い。それもマリーが自立戦略を練るのではなく、本人が自発的に考えればいい。親の愛情をそもそも知らないアデリーが自立することを前提として、今まで動いてきてしまったのがまずかったのだ。

どうしてそんな当たり前の事が思いつかなかったのか。理由は簡単。常識が異なるからだ。

マリーが生まれ育ったグランベル村では、子供の自立が異常に早かった。マリーなどは十代前半で既に大人としての自覚があったし、行動の責任の重要性はもっと前から理解していた。自責という点では、アデリーくらいの頃には感覚的に知っていた。なぜなら、戦いが非常に身近であったからだ。

グランベル村では、こういう当たり前の事を身につけていかなければ、死が待っていた。ドラゴンは皆で息を合わせて連携しなければ、狩ることなど出来なかった。

生きるために、子供は早く成熟する必要があったのだ。そして、そうさせる環境もあった。子供達は外で走り回って身体を鍛え抜き、若い頃から武術や魔法を習って精神を磨き、ドラゴンや魔物との実戦を介して現実の厳しさを知り、手足が伸びきる前に大人になっていったのだ。それがグランベルでの常識であった。

だが、このザールブルグでその常識は通用しない。おそらく、平和で安定した村なら此処と常識は大差ないだろう。そしてそれは悪いことでも良いことでもない。単に、そういう現実のみがある。

自身に言い聞かせる。今のアデリーよりも更に幼い頃の自分を思い出せ。親は何をしてくれた。マリーが本当に困っている時に、どうしてくれた。

目を閉じて、魔力を集中する。いざというときのために備える。半身を起こして、深呼吸。一階に下りると、アデリーは寡黙に皿を洗っていた。寂しい背中である。いつか、この子が笑う姿を見てみたい。

「アデリー、ちょっといい?」

「はい、なんでしょうか」

警戒しながら振り返るアデリー。皿洗いが終わったら、座るように言うと、素直に頷いた。此処では警戒はあっても恐怖はない。マリーがアデリーに暴力を振るわないという信頼は、得てきたと言うことだ。他の部分での信頼は失いつつあるが。

調合机を間に、向かい合って座る。マリーが苦しかった時、両親がしてくれた事は。

そう。怖がらず、マリー自身と向かい合うことだった。

「アデリー。 あたしの所に来る前に、何があったのか、教えて」

「っ!」

「大丈夫。 此処にはあたしがいる。 悪魔だろうが何だろうが、アデリーには指一本触れさせない。 アデリーの力が暴発したって、あたしが押さえ込む。 大丈夫だから、話してごらん」

「で、できま、せん!」

真っ青になったアデリーがうつむく。彼女の周囲の空間の魔力が、不安定に揺れている。マリーは暴発時に備えながら、叫んだ。

「アデリー!」

「ひっ!」

アデリーの悲鳴と同時に、赤いスパークが走り、マリーの身体を何カ所か切り裂いた。大した傷ではないが、しかし予想以上の切れ味だ。マリーは魔力の密度を上げて、続いて跳んできた赤い死をはじき返す。

苦労しながら、僅かに、表情と口調をゆるめる。そして言う。伝える。

「大丈夫、あたしを信じて。 あたしの強さを。 あたしはアデリーが少し暴れたくらいじゃ、壊れない。 アデリーの力が暴発したって、いなくならないよ」

マリーは逃げない。たとえこのアトリエが、爆発したとしても。アデリーを守るためであれば。

必要だったのは、この覚悟だ。アデリーの持つ危険性に立ち向かう、この覚悟だったのだ。

そっと手を伸ばす。アデリーの頭に手を置く。周囲の空気がますます激しくスパークに蹂躙されて、アデリーの不安定な精神を写しているかのようだった。電流が魔力の壁を貫通し、指先を貫く。痛くないと言えば嘘になるが、だが耐える。それが覚悟というものだ。

アデリーの頭を撫でた。それを境に、限界に来たらしいアデリーが、ついに大声で泣き出した。ようやく、壁を越えることが出来た。まだ不安定な空気の中、マリーは目を細めて、自分をさらけ出してくれたアデリーを、いとおしく見つめた。

 

アデリーに布団を掛けてあげながら、マリーはどうにか壁を越えることが出来た達成感と、暴発を二度にわたって抑えた疲労感に包まれていた。アデリーはもう、マリーが触れても大丈夫だ。半年以上かかった。やっと、これでこの子との距離は、家族に対するものと変わらなくなった。

アデリーの口から聞かされた過去は、あまりにも悲惨なものであった。聖職者の家族として産まれてしまったために、却って背負った業。社会的な地位から、自分の存在を見失い、アデリーの虐待に到ってしまった両親の存在。彼らにもつらい事情があったとはいえ、許せることではない。アデリーが走った破滅への道。結末は、精神的な奈落への転落だった。

マリーは繰り返し言い聞かせた。アデリーの存在は悪ではないと。アデリーの行為は、今後暴力によって報われはしないのだと。不安定なアデリーの能力は、二回にわたって暴発しかけた。だが、どちらも、マリーが食い止めた。

力を使い果たし、泣き疲れて眠ってしまったアデリーを、今寝室に運んだところだ。安らかな寝顔。今度、髪を結ってあげたい。

不思議な話である。マリーは自分の中の怪物と向き合うことを恐れない。正確には、怪物がいようがいまいが関係ないし、共生すらしている。他人に対しても、決してその態度は変わらなかった。クーゲルなどは良い例である。普通の精神の持ち主であれば、クーゲルの殺戮衝動や破壊的な言動を見たら、少なからず嫌悪感を示す。マリーはそれが気にならない。自分の中にも似たような要素があるからだ。

だが、どうしてかアデリーの中でうごめいている怪物との対決は避けてしまっていた。理論的な理由もそれにはあった。だが、結局避けていたことに代わりはない。双方ぶっ壊れるのを覚悟の上で、踏み込むべきだったのだ。

全身の鈍痛が酷い。魔力もかなり消費したし、その壁をも貫通してかなり肉体にダメージもいった。数日は筋肉痛が取れないだろう。寝る前に、夜風を浴びておきたいとマリーは思った。今は冬だが、それでも先ほどの戦いで、身体は溶鉱炉のように熱を持ってしまっている。冷やさなければならない。

音を立てないように一階に下りる。裏庭に出ようと思ったが、気分を変えて表から。アトリエの看板の角度を少し直してから、大あくび。すでにすっかり真夜中だ。天蓋を覆う星がなんと美しいことか。

良い気分で周囲を見回していたマリーは、ふと気付く。フードを被った人影が、早足で街の門へ歩いている。護衛にはルーウェンとハレッシュがついていた。マリーに気付いたハレッシュが脳天気に手を振ってきたので、振り返す。ルーウェンも気付いて、軽く会釈してきた。

護衛されているのは、小柄な女か。見覚えがある。以前一瞬だけすれ違った、緑色の髪をした、不思議な人物だ。彼女は大事そうにバスケットを抱えている。マリーは眉をひそめた。魔物ではないと思うのだが、妙な女であった。歩き方はまるで見本のように無駄が無く、少し非人間的でさえある。何より、気になったのは。魔力を外に一切放出していないことであった。この間は一瞬のことだったので気がつかなかったが、今はその異常さがよく分かる。

人間は生きている限り、必ず魔力を放出している。マリーくらいの魔力素質があると、それを視認できる。訓練すれば放出して無駄にする魔力を減らすことが出来るが、しかしそれにも絶対はない。どんなに魔力が弱い人間でも、この法則は絶対であり、放出していない人間などいない。だが、通り過ぎていくあの女には、それがない。一体何者だ。

やがて、三人は闇の向こうへ消えた。身体が充分さめてきたし、追っても詮索しても意味がない。だが、背格好や歩き方の特徴は覚えた。今後のために、記憶しておいても損はないだろう。それに、あの二人が護衛をしていたということは、ギルドの関係者。仮にあの女が魔物だとしても、能力者の巣窟である冒険者ギルドに見破られない訳がない。魔物とは、そう大した存在ではないのだ。

身体も充分冷えたので、寝室に戻る。アデリーは安らかに寝息を立てていた。今後、少しでも悪夢を見なくて済めばよいのだがと、マリーは思った。

 

5,血を望むもの

 

シグザール王国は巨大な国家であり、故に暗部も数多く存在する。その一つ。ザールブルグ近郊の森の奥深くにある洞窟を改造した軍事基地が、今錬金術を利用したクリーチャーウェポンの研究施設となっていた。

警備は厳重である。軍の精鋭が常時交代制の警戒態勢を敷き、騎士団からも何名かが貸し出されている。洞窟の奧から、何者かが現れる。兵士達が一斉に緊張の面持ちで敬礼した。彼こそが現在シグザール王国最強をうたわれる聖騎士。騎士団長エンデルク=ヤードであった。

エンデルクは白い息を吐きながら、冬空を見上げ、そして馬にまたがる。青い聖騎士の鎧が、陽光を反射して輝いた。何人かの騎士がそれに従う。その中には、カミラの姿もあった。今日、エンデルクは此処を視察に来た。対ドムハイト戦略兵器開発の指揮をしているのはカミラだが、軍司令官の一人として、エンデルクも大きく関与している。また、彼はヴィント王直属の部下であり、その目の役割も果たすのだ。

「ハッ!」

気合いの声と共に、手綱一閃。馬が走り出す。森の中、馬は道と変わりないように疾走した。風に、長い髪がなびく。

エンデルクは長身の、まだ若い男だ。三十路にはいまだ到達しておらず、その良く研いだ刃を思わせる澄んだ美貌と、黒い髪が女達の視線を釘付けにする。剣の腕は文句なしにシグザール王国最強といわれているが、意外なことに能力者ではない。ただ剣腕のみにて、のし上がった男なのである。その必殺剣「アインツェルカンプ」はいまだ見切られたこと無しと噂されており、大陸でも最強の使い手なのではないかとすら言われている。事実、実力は人外の域と噂されるドムハイトの剣豪バフォートと、名声を二分する存在だ。

名声の割に知られていない事なのだが、エンデルクはシグザールの出身ではない。この平和な時代、異国出身、武功が立てにくい状況、この若さで騎士団長の座を得るのは並大抵の事ではない。最強の剣腕を持っていて、騎士団が実力主義の社会であっても、だ。彼には黒い噂が常につきまとっている。ただし、実力を認めないものは、誰もいない。妙な男であった。

隣にカミラが馬を寄せる。小柄すぎるほどの体格であるが、この娘も聖騎士の一人。馬術は一級品である。騎士達の中で、さらなる精鋭として選抜されるのが聖騎士。その称号に恥じない実力だ。カミラは全く危なげなく左腕だけで馬を操りながら、舌も噛まずに言う。

「団長、どうですか?」

「悪くない。 量産化が進めば、我が国の戦力は一段と強化されるだろう。 それに、ずいぶんと風紀が引き締まったようだな」

「反抗的なのを何匹かクーゲルさんに痛めつけさせました。 線の細い錬金術師なんて、そうすればイチコロです」

「相変わらず悪辣な奴よ」

表情も変えずにエンデルクは言った。実のところ、彼は不機嫌だった。

エンデルクの見たところ、あの狼他のクリーチャーウェポン共は確かに強い。エンデルクが認める数少ない使い手のクーゲルが激賞するだけの事はある。量産が成功すれば、一気にシグザール軍は強化され、ドムハイトは軍拡後の侵攻を諦めざるを得ないだろう。

だが、それでは困る。エンデルクとしては、ドムハイトとの大戦争こそが、望む未来であった。そうでなければ、武勲を立てることが出来ない。エンデルクの最終目標は、この国だけではなく、世界の歴史に名を残す剣豪となること。そのためには、大戦争こそが必要なのである。

この若さで這い上がった理由の一つが、涼しげな顔をしていながら、異常なまでの名声欲を保持していたということである。この研究が進むこと自体はかまわない。しかし、どうにかして、ドムハイトにはシグザールに戦争を仕掛けて貰いたいのである。そうでなければ、武勲を立てようがない。

ザールブルグへの街道に出る。騎士達は一列に走る。すぐ後ろを走るカミラが、他の人間には聞こえないような小声でつぶやく。エンデルクの優れた聴覚は、それを余さず拾い集めていた。

「騎士団長は、戦争をお望みですか?」

すぐには応えない。カミラは外見こそ子供同然であり色気の欠片もないが、中身は得体が知れない存在で、その野心は巨大だ。だから、部下とはいえ油断できない。勝手にカミラは続ける。エンデルクに聞こえていると、分かっているのだ。

「ならば、私に妙案があります。 連中が、戦争を仕掛けてこざるを得ない状況にする」

エンデルクはなおも応えない。もしカミラが王のスパイだった場合、誘いに乗ることは破滅を意味するからだ。如何に剣豪とあだ名されようが、国内最強と噂されようが、シグザール王国を敵に回して生き残れると考えるほど、エンデルクは愚かではない。

「そのときをお待ちくださいませ。 好戦の騎士団長閣下」

「貴様、何を望む」

「己の野心の成就」

カミラの言葉に、エンデルクは背筋が焼け付くような高揚を味わった。

面白い。実に面白い。

前から思っていたが、この女はエンデルクの同類だ。己の欲望を満たすためなら、どんな殺生でも人道を外れた行為でも平気でする。だからこそに理解しやすく、制御しやすい。もちろん、カミラの方でも、エンデルクを制御にかかるだろう。そういった駆け引きは嫌いではない。

カミラが少し離れ、馬列が長く伸びた。ザールブルグは、もうすぐそこであった。

 

シュテンハイデンの屋敷で、安楽椅子に揺られながら、ヘルミーナはクルスが持ち帰った手紙に目を通していた。イングリドの書いたその手紙は、非常に几帳面な文字で用件のみがつづられており、ヘルミーナのそれとは対照的だ。おもしろみのない手紙だと悪態をつきながら、ヘルミーナはクルスを下がらせた。一礼すると、クルスは影のように消えた。

手紙には並の錬金術師が見たら、驚きで失禁するような情報が山と盛り込まれていた。ホムンクルス精製用の高度な調合についての実験結果が主なものであったが、中には軍の研究についてイングリド側から調べたものが盛り込まれている。イングリド側からの調査によると、ウォー・マンティスの他にも妙な改造を施された生物が確認されているという。ただ、人が襲われたという報告はないそうだし、欠陥品というほど出来は悪くないそうだ。

また、アカデミー側にもアクセスがあったという。ただし、火薬兵器の製造技術についての問い合わせに限定されていたらしいのだが。軍の目的はいまだはっきりしないと、イングリドは言う。

ヘルミーナの考えははっきりしている。もし軍がクリーチャーウェポンの研究を進めるなら、それはそれでかまわない。ヘルミーナがつぶしに行くとしたら、錬金術を汚し、アカデミーの品位を落とすような時。たとえば、あまりにも完成度が低いものを作って実戦投入しようとしたり、人間にはとても扱えないような代物を嬉々として運用しようとした場合だ。それ以外であれば、命をもてあそぼうが、倫理を踏みにじろうが、知ったことではない。興味もわかない。

幼い頃から、ヘルミーナはそういう思想の娘だった。最初に作った初代クルスと悲しい別れをしてからも、性格は基本的に変わっていない。一生このままだろう。幼い頃にはあったかわいげが無くなったため、外面的には恐ろしげな性格に変化したが、ヘルミーナの内面世界は何も変わっていないのである。

とりあえず、軍に、今のところ欠陥兵器を作ろうという気はないと判断できる。多方面からの調査の結果、かなり強力なクリーチャーウェポンを製造しているらしいと言うのは分かっているが、その正確な質はいまだ未知数だ。後は、それを軍がきちんと制御できるかというところが不安であるが。

イングリドが土産に持たせてくれた実験資料を並べると、ヘルミーナは良いことを思いついた。いつでもこの人物の思いつきは唐突である。彼女はクルスを再度呼ぶと、自分で開発して作り上げた採血器を使う。ボウルに浅く溜まった血を見て、ヘルミーナは満足した。

「戻りなさい。 料理長に言って、今日はレバーを多めに入れて貰うこと」

「はい」

少し青ざめながらも、しっかりした足取りで、クルスは部屋を出て行く。ビーカーや試験管を並べ、ヘルミーナは今採取したばかりの新鮮な血を使い、実験を開始する。

やがて彼女の黒々とした部屋は、薄気味の悪い、紫色の煙に覆われ始めたのであった。

 

(続)