明暗迷走

 

序、妖精族

 

森の中、疾走する小さな影が一つ。何かを追うわけではない。何かから逃げるわけでもない。影は速い。殆ど物音を立てず、気配も残さず、影は走る。

途中、森がとぎれる。月明かりに照らされその姿があらわになる。

緑色の服を着ていて、一見人間の子供にも思える。顔立ちは丸く中性的で、造作は整い、特に大きな目は愛らしい。だが見る者によっては気付くだろう。「彼」が人間ではないことに。

妖精族。シグザール王国全域に生息する、人間に友好的な亜人種である。

成人しても背丈は人間の幼児程度にしかならない。能力によって階級を厳格に区別することで有名で、シグザール王国各地で人間の労働力補助を担っている。人間に半ば隷属する形で露命をつなぐ一族である。

性別は存在せず、故に生殖行為もしない。彼らは「長老の樹」と呼ばれる特殊な生殖樹に自らの分身を生み出させ、それを一族皆で育て上げる。成人まで平均十年。それから場合によっては三百年ほども生きる。条件が揃えば、五百年を超えることさえ可能だ。

今森の中を疾走している彼の名はパテット。妖精族としては壮年になる。百三十年という少々長い時を生きてきた彼は、かなり有能な営業屋だ。めぼしい人間を見つけては、妖精族のノウハウで作り上げた商品類を売り歩いている。そうして金銀を種族のために蓄え、人間との交渉の材料とするのだ。

妖精族は人間に隷属することで種族の命脈を保つことに成功した存在だ。人間ともし争うことになってしまったら、ひとたまりもなく滅ぼされてしまうことを、妖精族の誰もが知っている。だから人間の敵意を買わないこと、その社会のルールの隙間を利用して隷属することを戦略として、全力を傾け生き残りの戦いをしている。パテット達営業組は妖精族の中でもエリートである。緑の服は上級三位を意味し、最上位の紺妖精の麾下で戦略的に営業を行う。パテットが開発した顧客は今まで万を下らず、そのうちの百ほどが、まだ商業ラインを確保している。その中でも重要な二十七に彼自身が商業活動をしている。

今、パテットは、その内の一人、ザールブルグに住むマルローネ、通称マリーの元へ向かっている所であった。

森の中を走る。小柄な体とは思えないほどのスピードだ。岩を蹴って飛び上がり、枝を掴んで体を宙へ運び、枝をジグザグに蹴って森の中を走る。もはや飛ぶに近い。

この動き、決して彼だけの専売特許ではない。身体能力が貧弱な妖精族だが、この身軽さとすばしっこさだけは一級品だ。森の中であれば、猛獣に襲われても逃げ切る自信がパテットにはある。たまに人さらいに子供と間違われて捕まりそうになることもあるが、ドジを踏んだ同族はごく少数だ。

また、妖精族はもう一つの武器を持っている。ヘイトディスペルオーラというのがそれである。人間をはじめとする知的生物の悪意を受けないという特殊能力で、パテットは同族のなかでもこれが人一倍強い。優秀な営業マンである根源は、こういう身体的な長所にもある。ただし、強力な魔力を持つ相手にはこの特殊能力も通用しない。ヘイトディスペルオーラは相手の心を操る一種の魅了系術に近いらしく、それが効かない相手には鍛え上げた口八丁手八丁で勝負するしかない。

パテットはそういう手強い相手も、何人も落としてきた、熟練の営業マンだ。だから幼い顔とは裏腹に、強い自負心も持っている。彼は言葉と商品で勝負する戦士であり、交渉を作り上げる一流の職人なのである。

彼が抱えるバスケットには、商品が多量に入っている。マリーがほしがっている食品類に加えて、妖精族が上手い採り方を知っている薬草類やキノコ類、蜂の巣までもがある。全て売り上げても大した金額にはならないが、こういう積み重ねが非常に後々大きく響くと、パテットは知っている。マリーは時々自身出かけるため、その行動スケジュールを知ることも重要だ。そうでなければ、余った商品を必死に捌かなくてはいけなくなってしまうからだ。

そろそろ、朝が来る。早朝は避けなければいけない。マリーはかなり低血圧らしく、朝は機嫌が悪いからだ。人間、特に女は気まぐれ者が多い。ちょっとした事で機嫌を損ね、大事な顧客を失ってしまったことは、パテットにもある。

森を出たところで、朝日を確認。自分用にとって置いた虫を口に入れる。大型の蛾の幼虫で、彼の好物だ。ゆっくり咀嚼して味を楽しみながら、頭の中ではどうマリーと交渉をするか最終的な詰めに入っている。彼が一流のプロである証拠である。

振り仰いだ先には、赤く染まるザールブルグの長大な城壁。今日はマリーの所に顔を出した後、大事な顧客の一人であるイングリドの所にも行かなければならない。彼女は最近重要な研究をしているとかで、様々な希少素材を必要としているという。妖精族で探し出せるものであれば、一気に大金を稼ぐことができるかも知れない。

妖精族の当面の目標は、安定した政権であるシグザール王国に接近し、領土を買うことであった。領土などという大げさなものでなくてもいい。生存権利を認めさせることが重要であった。そのための交渉カードとして、今必死に人脈を築き、金を蓄えている。これは彼ら全員が生き残るための、武器無き戦いなのである。そのために、少しずつ拡大している事業もある。

労働力の供給が、それであった。

 

パテットは城門から堂々と入った。入り口の歩哨に笑顔で一礼すると、むっつりした様子ながらも、返礼してくれる。

ザールブルグは開かれた街で、規模の割には治安が極めて良い。為政者であるヴィント国王の能力の高さもそうなのだが、何より社会的な配置が上手くいっているのである。

社会的な脱落者にも、国が保護政策として屯田兵や農民への転身を斡旋しており、そういった方向での再出発ができるシステムが確立されている。だから街の規模に対してスラムは驚くほど小さい。一方で法は飴と鞭を上手く使い分けており、犯罪者への刑罰はそれなりに重い。税金は周辺各国ではもっとも安く、このため人が多く集まってくる。だから、妖精族としても、働きかけがいがある。

治安の悪い国の都市など、此処とは比べられない。路地裏に入ったら最後、生きて帰れないような場所だってある。それに比べると、このザールブルグはさながら理想都市だ。妖精族の情報網は広いが、この都市と拮抗する場所をさがすとなると、大陸でも一つ二つあるかどうか。だが、此処で暮らしている人間どもは、そんな事など知りもしないのだろう。

「あら、パテットちゃん。 おはよう。 今日も朝からお仕事?」

「おはようございます、ミランダさん。 今日も仕事です」

「そうなの、大変ね。 頑張ってね」

通りがかった、自分より遙かに年若い人間の雌に手を振り返して、愛想を振りまきながら、パテットは大通りを行く。今日の目的には、もう一つある。人間を使った低賃金労働力、すなわち奴隷の調査だ。

マリーにミルクと薬草類を売り、イングリドの所へ行く。交渉の時はかなり緊張した。マリーもイングリドもいずれ劣らぬ豪傑的存在で、一瞬の油断もできない。

昼過ぎ、街中央近くにある公園の木陰に入って、体をもみながら一息つく。手強い相手と話した後は、やはり疲れる。マリーに至っては、ほのかに血の臭いがしていた。本人のものではない。おそらく、出かけ先で仕留めた獣のものだろう。マリーは本質が戦士だ。イングリドは本質が研究者だが、戦士としても超一流の存在だ。どちらも、パテットに隙あれば尻の毛までむしりに来るだろう。まだまだ、若手にあれらの相手は任せられない。

持ってきたバスケットは綺麗に空。マリーは良い品であれば気前よくすっきり買い取ってくれる。この辺り、イングリドよりまだ若干御しやすい。これに対して、イングリドはどんな良い品でも、確実に欠点を見つけ出して次の改善を求めてくる。全てを聞くわけにはいかないが、それでも無視するわけには行かない。特にイングリドを相手にしている時は、ライバルの業者が幾らでもいる事を考えて、調査も交渉もいつも以上に気が抜けない。パテットは他にも何人か厄介な客を抱えている。しばらくは、新人の教育には回れないだろう。

物陰で転がり、少し昼寝をする。冬の少し肌寒い日差しが、むしろ彼には心地よい。体の構造上、そうなのだ。

うつらうつらしている時でも、パテットは仕事の事を考えている。妖精族の中で今検討されている幾つかの案件の中に、奴隷を何人か買い取って、用心棒に仕立て上げようというものがある。非常に逃げるのが上手く、相手に敵意を作らせない達人である妖精族も、本拠を賊が襲ってきたら対処が難しい。冒険者を雇うのが一番だが、彼らはあくまで雇う相手で、永続的に使うことができない。それなら人間社会で売買されている奴隷を買い取り、熟練の冒険者に鍛えてもらって、自分たち用の番犬に仕立てる方が効率も良いし安全だ。パテットもこの案に賛成している一人である。

ただ、人間は妙な仲間意識を持つ生物である。たとえば他の人間が奴隷を使っているのを平然と見ているくせに、妖精が人間の奴隷を使役しているのを見ると気分が悪くなるような。自分たちが世界の支配者だと考えているため、他の存在が同等の行動をすると不愉快になるのだ。この難題をクリアする方法には、結論がない。いまだ議論百出なのが現状だ。

一眠りして気分が良くなるのを感じたパテットは身を起こし、体についた汚れを払うと、街の隅にある奴隷市場へ向かった。

妖精はかわいらしい外見を持つが、同時に必死に生きている生物でもある。生物である以上、生きるためには何でもしなければならない。彼もその法則を守っているだけであった。

 

1,マリーとアデリー

 

夕方から、この日は雪になった。そろそろ冬が終わろうという時期だが、しぶとく寒さは残っていて、時々こういう形で自己主張する。

グランベル村では、冬には雪かきをしなければならなかった。だがザールブルグでは、雪かきをしなければならないほどの大雪は滅多にない。山一つ超えるだけでこれなのだから、天気というのは分からない。

雪は綺麗だが、あまり好きではない。マリーはうっすらつもり始めた雪を見て嘆息すると、今朝パテットが置いていった食材を地下室に運んだ。まだまだ保ちが長いのだけが、この事態下における唯一の救いであろう。

外から釜に薪を追加すると、毛布にくるまって暖を取る。床に小さく丸まって座ると、この間買ってきた作業用の小さなテーブルを置いて、その上でフェストを乳鉢にて砕く。数日前に、近くの河原で採取してきたものだ。滝とは違って流石に宝石の原石までは落ちていないが、フェストだけはそれなりの質のものがあって、小金稼ぎをすることができる。ミューが仕事先で見つけてきてくれた穴場だ。人脈は意外なところで役に立つ。

この間のコメート製作以降、マリーはいろいろ計算して労働力をどうしようかと考え続けていた。元手はあるから、雇おうと思えばすぐにでも雇える。この間までじっくり作り上げたミスティカの葉はかなり良い値で引き取ってもらうことができた。一部実験用のみを残しておいて、後は全て売り払い、かなりの収入を得ることができた。また、燻製にしたガッシュの木炭も、飛翔亭に持ち込んだところ買い取り手が着き、これもかなり良い値がついた。金は、それなりに潤沢だ。住み込む場所もある。屋根裏部屋はそれなりに広く、もう二人や三人なら寝泊まりできる。問題は、雇った人間のスキルが上がるまでに掛かる労力と、コストだ。

乳鉢をこつこつ叩きながら、マリーはいらだちを押さえられなかった。何をおいても、コスト、コスト、またコスト。結局何をやるにも世の中これだ。少し嫌になってくる。

仮に奴隷を買ってきたとしても、最低でも食事代はどうにかしなければならない。給料もだ。シグザール王国の奴隷雇用法では、奴隷はあくまで雇用形態の一つであって、所持品ではない。給金は払わなければならないし、非人道的な扱いをした場合はたとえ貴族でも処罰される。少なくとも、このザールブルグではそうだ。

数年前に、侯爵の地位を持つ貴族が、奴隷を惨殺して地位を二つ降格された事がある。そういうものなのだ。人さらいは捕まったら確実に死刑である。リスクがあまりにもあわないので、この国では人さらいは殆ど居ない。いても辺境にしかいない。この町の治安がいいのも、そこに一因がある。その代わり、正規の手続きを踏んで、余った子供を口減らしに売り飛ばす親は少なくない。

マリーとしては、奴隷でもそうでなくても良いから、簡単な作業くらいは代行してくれる相手がほしいのである。問題は、それによって短縮できる時間と、それにかかるコストが釣り合うかどうかだ。これがどう計算しても無理なのである。食事代に給料をあわせて考えると、赤字になってしまう。

針でつまんで不純物を捨てる。たまにレアな鉱石が含まれていることもあるが、文字通り砂粒程度の大きさでしかないし、集めておいても大した金にはならない。それでも集めておいて、後で分別する。フェストはまだまだかごに山盛り。肩がこる。

ドアがノックされた。叩き方から言って、シアだ。

「はーい、いるわよ」

「こんばんわ、マリー」

「! …シア、その子は?」

バスケットにパンやらなにやら詰めているいつものシアの後ろには、もう世界の終わりだとでも言った様子の、蒼白になった少女が居た。かなり小柄で、年は二桁に届くか届かないか、くらいだろう。むしろ病弱なほどに青白い、細い子だ。目は大きいが、そこに宿る感情は恐怖と悲しみしかない。ダークブラウンの髪は短いが、綺麗に整えられている。着衣は、シアのところで使っている家政婦のものだ。

ドナースターク家では、幼い子供の奴隷を買ってきては、一人前に育て上げて、望む者はそのまま働かせ、そうでないものには自由を与えるという事をしている。トール氏ができた人物だというのもあるのだが、それ以上に世間の評判を買うためでもあるだろう。田舎からのし上がった人間には、こういった評判の醸成は必要不可欠なのだ。

シアは基本的に優しい娘だが、それでも相手によって微妙に口調や言葉遣いは変える。基本的に態度は変わらない。

「アデリー、挨拶なさい」

「はい。 あ、アデリー、です」

「マルローネよ。 よろしくね」

返答して、マリーは視線でシアに促す。シアはアデリーに此処で待つように言うと、バスケットを抱えてそのまま二階へ。バスケットの中身が妙に多いので、マリーはもうすでに状況に気付いていた。

マリーがベットに、シアが来客用の小椅子に、向かい合って腰掛ける。丸テーブルにバスケットをのせながら、シアは言う。

「あの子を引き取ってもらえないかしら、マリー」

「わけを説明して?」

「あの子を父様が奴隷市で買ってきたのは、三週間前のことなのだけれど」

シアは手慣れた動作でバスケットからポットを取り出すと、まだ熱い紅茶を二人分のカップに注ぎながら話す。

奴隷市でアデリーをトール氏がみつけた時、彼女は膝を抱えて体をぎゅっと縮めていたそうだ。珍しくもない光景である。グランベルのような豊かでなく、産業を興すにもそれを実現する有能な人材もないような村の場合、子供を都会に売り飛ばすことが収入源になる事は多いのだ。奴隷の何割かは、そうやって売られた子供で、感情の整理がついていない者も多い。もし売り手がつかない場合は、国の保護施設に入って最終的には屯田兵になる。まれに其処から出世して、騎士になるものもいる。だがそれらは幸運な例で、辺境では娼館に売られてしまう事もある。そういった状況で奴隷に売り飛ばされた子供の中には、精神を病んでしまう者もいるのだ。哀れな話である。

奴隷の中には自らのスキルを見せて売り込もうとするタイプと、将来性で売り込むタイプが居る。前者は社会的に脱落してゼロからの再出発を目論む連中で、後者は十中八九親に売られた子供だ。トール氏はその中でも、子供ばかりを買う。そして育て上げて、将来のドナースターク家を支える人材にするわけだ。事実、ドナースターク家の若い家臣達の忠誠度の高さは有名である。トール氏も彼らをとても大事にしていて、絆は深い。

そうしていつものようにトール氏はアデリーを買ってきた。一通りの家事と仕事を、真綿を水が吸い込むようにアデリーは覚えたそうだ。必死なその学習姿勢は、痛々しいほどだった。シアもトール氏も有望な子が来たと喜んでいたのだが、問題が此処で起こる。

この子、マリーと同等か下手をするとそれ以上の魔力保有者だったのである。本来、それだけなら問題はない。だが一つ、致命的な問題がそれと併存して起こってしまっていたのだ。

「ひょっとして、覚醒暴走型能力者?」

「その通り。 着替えさせる時に見たのだけれど、どうもあの子、実の両親に虐待されていたらしいわ。 皮鞭の跡が体中に残っていたの。 その上、下手をすると間引かれそうになっていた可能性もあるみたい。 虐待が発覚しかけて、あわてて奴隷に売り飛ばしたみたいね。 今でも何もかもが怖いみたいで、あの有様よ」

「あいた、それは…」

涼しい顔でシアが茶を一杯啜る。マリーは頭を抱えてため息一つ。

覚醒暴走型能力者。幼い頃に恐怖やトラウマで自分の力の蓋を開けてしまった者達である。例外なくすさまじい魔力を有していて、ある事件ではこのタイプの能力者が、自分を捕縛するべく訪れた百人を超える兵士を一撃で消し飛ばしたという。彼らがろくな生き方ができないというのは、この世界での常識であり、逸話が幾らでもある。マリーも有名なところだけで十や二十知っている。

この世界ではたくさんの術者がいるが、共通しているのは自身の魔力を使って何かしらの現象を起こすと言うこと。だから、魔力を豊富に持っていても、それを操れないと何が起こるか。言うまでもなく、事故が起こる。それも、大きな奴が、突然に。

つまり、彼らは歩く爆弾と同じなのである。そして巻き込まれるのは、何も関係ない一般人である事が多いのだ。アデリーの場合、掃除していた納屋で何かしらのトラブルが起こった次の瞬間、跡形もなく納屋が消し飛んでいたそうである。けが人は幸いでなかったそうだが、対策が当然早急に必要となった。

このタイプの能力者には、社会的な風当たりが強い。危険だからだ。覚醒暴走型は精神的にも非常に不安定な事が多い上、しかも恐怖を基幹として周囲の人間に接される事が多いので、社会に敵意を抱いてしまうことも少なくない。そのため、この二つが負のスパイラルを起こして、更に状況を悪化させる。ただ、こういう能力者の中にも数少ないながら成功者はいる。確か、この国の初代国王もその一人だったはずだ。そして、彼がなぜ成功できたかというと。

「強力な魔力を持つ人間が側にいて、幼い頃から力の使い方を丁寧に教え込めば、後天的に力の制御ができるようになる可能性がある。 どう? リハビリもかねて、あの子を育ててあげてほしいのだけれど。 うちに今強力な術者はいないし、貴方があの子をきちんと育てられる数少ない候補なの」

「んー、そうねえ。 丁度あたしとしても、サポート労働力がほしいところだったのだけれど。 それに人に教えながら自分の制御を取り戻していくのは悪くないけれど、どうしようかなあ」

「貴方が私にこれ以上借りを作りたくないと考えているのは知っているわ。 だから、彼女のことで私からの貸し借りを帳消しにしてほしいの」

「…なるほど、そういう考え方もあるか」

なんだかんだ言って、シアは良い子なのだなと、こういう時にマリーは思う。友情を大事に考えてくれるし、こういう貸し借りのきちんとしたけじめもつけてくれる。もちろん、マリーもそれには応えたい。心の内を読まれていることに関しては、頭の出来の違いだし、いつものことだから特に何とも思わない。立ち上がったマリーは、ウィンクしながら言う。

「分かった。 ただし、金銭面でも貸し借りは無しにしたいの。 あの子を買うのにかかった費用は、あたしから払うわ」

「ありがとう、マリー。 父様も母様も、あの子のことをとても心配していたのよ。 きっと喜ぶわ」

「そうでしょうね。 だからみんなあの夫婦を尊敬しているのよ」

それがたとえポーズだとしても、きちんと何をすべきか理解しているのだし、かまわない。集団組織の頭領というのは、そういうことを理解していなければならない。理解していなければ、ついて行く意味がないのだから。

さんざん悩んでいた通り、当分は赤字を覚悟しなければならないだろう。だがこういう形で後押しされてしまって、マリーは別に悪くないと思っていた。最近気付いたのだが、少し悩みすぎる悪癖がある。実際に行動してみると、綺麗に片付いてしまう事のなんと多いことか。もちろん、無謀や無思索が良いとも思わないが、後押ししてくれる人は貴重なのだと、つくづく思う。戦略的な不手際と、それは一致していない。要するに、マリーは考えるべきポイントが、重要地点とずれてしまっているのだろう。

一階に下りると、アデリーはうつむいたままだった。多分今、この子にとって世界の全てが怖いはずだ。この子の信頼を得るのは難しいだろう。それに、役だってもらうようになるには、もっと難しい。だが、いずれはやらなければならない事だったのだ。それが今になっただけである。

「おなかすいてる?」

「ええと、その…」

「遠慮しなくてもいいよ。 それに此処にいるからには仕事は覚えてもらうけど、ぶったりいじめたりはしないから」

しまった、とマリーが思った時には遅かった。ぶつという言葉だけで、この子は恐怖を刺激されてしまうらしい。

壁になついて、蒼白になって震えているアデリーに、言葉が聞こえているとは思えない。全身を強烈な、しかも不安定な魔力の光が覆っている。生き物のようにうごめくそれは、いつ爆発してもおかしくない。マリーも完璧な魔力制御にはほど遠いタイプだが、しかしこれは。本当に生きた爆弾だ。

何とかしてあげたい。魔力を押さえる道具でも作れればいいのだけれど。マリーはそう心底から思った。こういう時は触れない方が良いとマリーは知っている。抱きしめれば何でもかんでも解決するというのは、所詮創作の世界の話だ。

コメートを見事に作り上げたことで、マリーは自分の力を感じ始めている。ここのところ、少しずつ難しい調合も始めているのだ。ひょっとすると、手が届く範囲に、対処策があるかも知れない。

「ちょっと調べてみようかな」

ぼそりとつぶやくと、マリーは三年生の読む教科書を引っ張り出してきた。

 

観察力を鍛えろと、いつもイングリド先生は言っていた。戦場でも、観察力を鍛えなければ生きていけない。戦況の変化は、ちょっとした所から不意に現れるからだ。それをいち早く把握した方が、戦況をリードできるのは当然だ。

ぎゅっと丸まって震えているアデリーに時々視線を向けるが、可哀想に、まだパニックからは回復していないらしい。人間というのは簡単に壊れるものなのだと、思い知らされる。じっくり彼女と対話していかなければいけないが、それにはいろいろ準備がいる。今持っている図鑑類の他にも、王立図書館に足を運ばなければならないだろう。初代シグザール国王を育て上げた人がどんな手段を用いたのか、興味がある。

しばらく図鑑を捲っていたが、「つけた人間の魔力を押さえる」などという都合が良い道具類は載っていなかった。イングリド先生レベルの錬金術師であれば何か知っているかもしれないが、聞くのは最終手段にした方が良いだろう。

それにしても、この子の恐怖の引き金とは何だ。グランベル村にはトラウマ持ちはいなかったから人づてに聞いた話に過ぎないのだが、この手の恐怖発作というのは引き金によって起こるのだという。トラウマを誘発する引き金が何なのかが分かれば話は多少進展するのだが。

致命的な引き金になったのは、多分「ぶつ」という単語だ。体中に鞭の跡がある事もあり、相当な肉体的苦痛を日常的に浴びていたのだろう。それを浴びせていた人間は、「ぶつ」という言葉を暴力行為の枕詞にしていたに違いない。下手に触るのはまずい。

二方向から調べていく必要がありそうだ。一つはトラウマのトリガーとなっているものおよび事象。もう一つは暴発を押さえるための何か。

今回は完全に事前知識なしの勝負になる。それを考えると、マリーは少しだけ心が高揚するのを感じた。

少しアデリーが落ち着いてきたのは、深夜になってからだった。マリーは眠くなっていたが、そこまでじっくり待った。時間は余っていたので、フェストを砕く作業をしながら、である。

こっちを見ているのに気付いたので、寒いから一緒に火に当たろうと提案してみる。おずおずと頷くと、アデリーは何度かマリーの様子を伺いながら、側に座った。顔色をうかがう相手に嫌悪感を感じる人間はいるが、それはそうしないと生きられない状況で身についた場合が多い。近くで見ると、また随分細くて小さい。魔力が強い人間は、体が弱いことが多い。マリーやイングリド先生のようなタイプは例外なのだ。ただ、この子の場合は栄養状態が悪いこともあるだろう。

体に触らないように、慎重に毛布を掛けてあげる。それから二人でシアが持ってきた夕食を分けて食べた。今竈は暖を取る以外に用いていないので、食事を温めるのに使えるところが嬉しい。ただ、そろそろ春になる。栄養剤の生産ラインを復活させられる反面、調理具との併用は難しくなってくる。

相当に疲れているらしく、アデリーは毛布にくるまりながら、こくりこくりと眠り始めていた。完全に眠ったところを見計らい、抱き上げてベットに運んでやる。恐怖の無い寝顔は随分可愛いものだ。安らぐと同時に、怒りもふつふつとわいてくる。この子の両親もしくは育て親は、一体何をしていた。どこの村だか街だかの出身かしらないが、魔力の強い子供など、そう珍しいものでもないだろうに。この子を弱者にしてしまったのは、愚かな親なのだ。

難しい精神状態にある子だが、しっかり社会で生きていけるようにしてあげよう。アデリーの寝顔を見ながら、マリーはそう考えていた。それにはいろいろ準備が居る。それに、補助労働力としてもどうにか活用したい。多分外出しての作業は難しいだろう。簡単な調合類は何とか教え込みたい所だ。

いい加減、マリー自身も眠くなってきた。床のカーペットに外出時用の毛布を敷くと、布団にくるまって寝る。いろいろ考えているうちに、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。

 

朝日が顔に当たって目が覚める。昼夜逆転する事も多い錬金術作業だが、此処しばらくは世間一般と同じ生活スケジュールで動いている。まだアデリーは寝ていた。疲れが溜まっていたのだろうし、このまま寝かせておいてあげよう。マリーはそう思い、下へ降りて井戸水で顔を洗う。すっきりしたところで、壁に貼ってあるスケジュールに目を通した。一番近い締め切りは、四日後だった。

此処数ヶ月は研磨剤と、ヤスリの製作で生活費を稼いでいる。フェストを安定して入手できる場所が見つかったので、これが一番安心して稼げるのだ。しかし研磨剤は大した金にならない。時々ミューとルーウェンをつれて近場をうろついているのだが、それに代わる安定収入を得られそうなものも見つからず、貯金は増えもせず減りもしなかった。コメートのように一回でがつんと稼げるものは、探しに行くにもコストがでかい。確報が得られるまでは動きたくないのが実情だ。

安定収入の脇では、スキル錬磨になる調合も欠かしていない。パテットが持ってくる薬草類は決して量が多くはないが、様々な薬剤類の調合に挑戦できる。殆どは簡単な傷薬や強壮剤程度だが、それでも随分スキルは身についてきた。そろそろ次の段階に行きたいのも本音だが、しかし戦略がない。宝石類の原石はコメートを除いてあまりにも加工に手間がかかるので売り払ってしまったし、手詰まりの状態なのだ。

春になれば状況も変わる。しかし、それは以前と同じ水準に戻ると言うことであり、これ以上稼げるわけではない。むろん栄養剤の生産ラインは作っておきたい所だが、それで飛躍的に経済状況が良くなるわけではない。

「新しい本を買ってくるかな…」

つぶやく。マリーが持っているのは、あくまで基礎的な教科書だ。アカデミーには専門的な技術を乗せた書物類もあるし、それを集めた図書館もあると聞く。そろそろそれらを読んでみても良い頃だ。それに、火薬にも挑戦してみたいと思っていた所であった。火薬製作のイロハは教科書にも載っているが、実戦兵器の作り方はない。

伸びをして、充分にリラックスしてから、フェストをすりつぶす。まだフェストの在庫はある。逆に言えば、在庫がある内に、戦略を決めておかねばならなかった。いつも戦略が甘いとシアに怒られるのである。これは入念にやっておかなければならなかった。悩むべき場所は、此処なのだ。

上で気配。どうやらアデリーが起きたらしい。マリーはそういえば朝ご飯を作っていなかったなと、今更気付いた。上に声を掛ける。あわただしくアデリーが降りてくる。相変わらず顔色が悪い。

「おはよう、アデリー」

「おはようございます。 その、あの」

「いいのよ。 あたしは野外でのキャンプにも慣れてるし、屋根があるだけで随分リラックスできるの。 それより、着替えてきて。 二階の寝室使って良いから」

「はい」

ぱたぱたと上に駆けていく。アデリーの分の着替えは、昨日のうちにシアにもらった。奴隷一人分の代金と、着替えと、昨日の朝食の分。かなりの出費だが、取り返す自信はある。

見たところ、アデリーはトラウマさえ克服できれば素直な子だろう。性格がゆがむ前に引き取ることができて良かった。恐怖や悲しみが過剰に蓄積すると、やがてそれは憎悪や暴虐、それに邪悪へと化学変化を遂げていくのである。この間一緒に冒険したクーゲル氏などはその典型だろう。それが悪い事かどうかは分からないし、マリーとしては矯正にも干渉にも興味はないが、少なくともこの子にそれは合わない気がする。闇に染まるその前に、何とかして光の下に引っ張り出してあげなければならない。

着替えてきたアデリーが降りてくる。後は風呂だが、この子はきっと誰かと一緒に風呂にはいることをよしとしないだろう。ぬれタオルでまめに体を拭いて対応するしかない。髪が短いので、それを洗う手間が小さいのが救いか。

「お料理とお洗濯はできる?」

「はい。 教えてもらいました」

「よろしい。 じゃあ、裏庭に洗濯場があるから、其処を使って。 井戸は表。 使い方にはちょっとこつがいるから、最初はあたしを呼んでね。 それと」

まだマリーを警戒しているアデリーに、丁寧に説明していく。何に触ってはいけないか、どこへ入ってはいけないか。復唱させてみると、全部覚えていたので、マリーは少し驚いた。思ったより随分優秀な子だ。

炊事洗濯をする人間がいたり、その者が研磨剤を作ることができるようになるだけで、全然状況が違ってくる。いきなり任せっぱなしにするのも不安すぎるし、後ろから見ていたが、洗濯板を使っているアデリーの後ろ姿は随分手慣れていた。だが、楽しそうに見えない。実家では、家事の類を、全て押しつけられていたのかもしれない。

なんだか可哀想だ。一度偏見で目が曇ると、人間は何もかもを否定する。グランベル村に伝わることわざがある。村長が嫌いになると、その畑まで嫌いになるというものだ。この子は手つきといい動きといい同年代の子供より随分手際が良いが、それでも失敗をしないわけがない。そのたびに虐待を受けていたのだろう。なんだか気の毒に、マリーの視線が怖くて仕方がないようだった。

この子がきちんと仕事をこなしている間は問題がなさそうだ。失敗した時に、どうフォローを入れるかが課題だ。マリーはそう思った。

 

家事を一通り一緒に済ませて、後は口を出さずに見ていた。多少不安はあったのだが、結局アデリーはミスを一つもしなかった。シアが連れてきた理由が分かる気がする。この子はとても有能だ。だがその一方で、シアの家では育て上げるのに必要な駒が不足しているのだ。

マリーは家事がかなり下手な方だから、正直助かった。調合の補助も最終的にはしてもらいたいところだが、今は家事の補助だけで充分である。

アデリーの顔色をうかがうような視線はまだ消えていないが、これは仕方がないだろう。一日や二日で周囲の環境全てに対して抱いている不信感と恐怖感が消えるわけがない。グランベル村でも、行き倒れの旅人の子供を養子にした人がいたが、口をきいてもらうまで三ヶ月かかり、親だと認識してもらうまで二年半掛かったそうである。最初は絆なんか期待しない。使用人と主人で良い。関係を縮めていくのは、その関係が確立して、信頼を得てからで問題ない。

夕食は外で取る事にした。ザールブルグは二十万の人間が暮らしているだけあり、外食産業の類も発達している。貴族御用達の高級店もあるが、やはり人気なのは安くて美味しい庶民向けの大衆食堂である。ディオ氏の酒場でもそこそこ美味しい料理を食べることができるが、あっちはアデリーにはおっかない大人がたくさんいるし、中にはマリーを口説きに来る人間もいるので、避けた方が良いだろう。静かに食べることができるところが良い。

借りてきた猫のように周囲を警戒しつづけているアデリーは、怖くて不安で仕方がないようだった。捨てられるかも知れないという危惧を抱くかも知れないとマリーは思い、失敗だったかと悔やんだ。近場で食べれば問題ないだろう。丁度大通りに出てすぐの所に、車引き焼きパンの店が出ていた。

車引きというのは、手押しで動かせる店を使った、路上簡易食堂の事である。店を経済的な事情から持てない貧乏人でも開業できるのが売りであり、庶民の間でも人気があるので、よほどひどい場所で店を開かない限り警備の兵や騎士団も黙認する。安くて美味しい、庶民の味方だ。

焼きパン系の店はこの手の車引きではかなり人気があり、マリーの知っている限りでも人気店が四つ五つある。こういう店では、その場で食べるのがオーソドックスなスタイルだが、焼きパン系では例外的に買ったらすぐに帰るのがマナーである。混むからだ。

この店はマリーの知り合いの、ヨッフェンという老人がやっている。人気店ではないが、素朴で深い味わいがマリーの好みだ。車はかなり古く、特に車軸にがたが来ている。ゲルハルトの店で直してもらった方が良いと時々マリーは言うのだが、金が足りなくて直すに直せないらしい。じいちゃんと呼ぶと怒るヨッフェンだが、マリーは扱い方を心得ている。

「おっちゃん、ばんわー」

「おや、マリーか。 久しぶりだな。 その子は使用人かい?」

「ええ。 先日から雇うことになりまして。 何が残ってます?」

「今あるのはハムサンドだけだな。 他は売り切れちまった」

良いにおいがする。在庫が切れたので、あわてて焼いているところなのだろう。マリーは三人前のパンを買うと、すぐに引き上げる。おどおどしながらも、アデリーはヨッフェンに礼をして、あわてて小走りで追いついてきた。マリーの防寒用マントを小さな手で掴もうとして、引っ込める。マリーはそれに気付かないふりをして、買ってバスケットに入れてもらったパンをアデリーに持たせた。

怖がっているが、頼る相手がマリーしか居ないのだ。その痛々しい行動で、それが嫌と言うほど伝わってくる。だいたい分かった。この子のトラウマのトリガーは、一つに恐怖。そして根源的なもう一つこそ、捨てられる事だ。この子は見たところ、かなり賢い。賢い子ほど、扱いは難しい。今後も、細心の注意が必要であろう。

アトリエはすぐ其処である。今夜も、フェストを砕かないと間に合わない。三人分買ってきたのは、夜食用だ。

向かい合って食事机に座り、バスケットからパンを出す。屈強な大人の男の二の腕ほどもあるパンをぶつ切りにし、中央に切り込みを入れ、ハムと野菜類を挟んだ豪快なものだ。パンは焼きたてだし、野菜はきちんと洗った上で軽く火を通している。更に野菜はどういうやり方かは分からないが水を上手く切ってあって、パンのしっとり感を水分がつぶしていない。ハムを作るのに使ったのが植物塩なので少し苦いが、味は悪くない。この手の店は熾烈な競争をしているために、まずい店はすぐに廃れてしまう。そして美味しい店だけが生き残るのだ。この店のように。

二つ出したパンの内、一つを取る。アデリーの前にも一つ出してあげると、しばらくためらった後、食べ始めた。あれだけ家事は上手だったのに、食べるのはぶきっちょで、ぽろぽろパン粉や野菜の欠片をこぼしていた。ほほえましい。

年が近い弟とは、なんだか随分違う雰囲気だと、マリーは思った。アデリーを寝かせた後も、少し幸せな感触が残っている。毛布を被って釜の前に座り、フェストを砕く。いつもより随分はかどった。

夜食をとる頃には、すっかり遅れを取り戻し、フェストを砕き終えていた。後は膠で紙に貼り付けて、飛翔亭に持って行けば終わりである。背伸びしたマリーは、せっかくできた時間を有効活用しようと思い、教科書類に目を通し始めたのであった。

 

翌日。アデリーに留守番を頼んで、アカデミーへ。用事があるのは図書館だ。

アカデミーの図書館は本館の隣に設置されていて、二階建て。かなり新しい建物で、石の白さが美しい。今日はここで捜し物をする予定である。

シアにも様子を見に行くように頼んだし、研磨剤はもうまとめて手が届かないところにしまっておいたから、家は多分大丈夫。それでも念には念を入れて、昼までには一度帰る予定だ。

アカデミーに来ると、まだ「史上最低の落第生」として有名なマリーは嘲笑の視線を浴びるが、気にしない。まっすぐ図書館へ向かう。敷地を横切り、奧にある図書館へはいる。まだ新しい其処は、蔵書も少なく、空の本棚が目立った。錬金術アカデミーはまだまだ歴史が浅い。その弊害は、こういったところでも見ることができる。

一般の生徒が入れない区域もあるらしいが、まだマリーには関係がない。入り口付近には教科書の補助になるような簡単な本が並べられていて、ざっと目を通しても得られることは少なかった。秋に始まったこの試験だが、もう七ヶ月を過ぎようとしている。その間調合はさんざんやったし、教科書も理解できる範囲は飽きるほど目を通してきた。この辺りにおいてある本には、もうあまり用はない。

奧へはいると、流石に専門的な本が増えてきた。所々銭湯にあるものと同じ魔法のランプがおいてあり、幻想的な光を周囲にちりばめている。お上りさんのように周囲を見回しながら、マリーは念入りに辺りをチェック。火薬関連の知識が、今は必要であった。立ち入り禁止の札が下げられている扉の前で、マリーは戸棚を漁り、目当ての本を探し出す。そしてまとめて抱えると、机に運んで積み上げた。

火薬を専門に扱った書物は、数がとにかく少なかった。しかもそのうち半分ほどは、同じ著者のものである。その名はヘルミーナ。そういえば、イングリド先生の派閥と対抗する人たちのリーダーが、そういう名前だったはず。今アカデミーを離れていると聞いているが。興味を刺激されたマリーは、本を捲り、読み始める。

最初に抱いた印象は、ヘルミーナという人は、極めて繊細で反面粘着質らしいという事であった。ちょっと読んでいくだけで、マリーはそう分析した。字がとにかく細かくて、同じ事を執拗に抉るように説明している。情熱が非常に暗い方向へ進みがちなのも目についた。これはひょっとすると、イングリド先生との対立は、性格面から来ているのかも知れないと、マリーは思った。それに、文字自体には優しい筆致も見られる。見られるが、粘着質で根暗な書き方に隠れてしまっている。

ちょっとげんなりするような粘着質の文章であったが、書いてあることはわかりやすい。本の趣旨は、身近な素材を使って危険な物質を作るというものである。

魔力媒体で満たした球体の中にとげが鋭い「ウニの実」を詰め込み、炸裂させるクラフト弾の作り方には感心させられた。詰め込むのはウニのみではなく、釘やガラス片でも効果が大きいのだという。原理は理解できる。詳しく書き写して、家で早速実験してみようとマリーは思った。密集隊形を組んだ敵の中に放り込んだら、面白いようになぎ倒せそうだ。ウニの実など近所に幾らでも落ちている。作る価値は充分にある。

更に本格的な火薬を用いた炸裂兵器になると、材料が足りない。手近なところで言うと、フラン・プファイルの住むヴィラント山にいかないと、手に入らない素材がいくつも用いられていた。ただ、威力が低めの火薬ならば、身近で代用できそうな材料がいくつもある。これらもメモしておいて、戻ったら試してみたい。

面白いとマリーが思ったのは、このヘルミーナという人は、錬金術の属性に殆ど触れていない、という事であった。とにかく実験、実験、実験。実験最重視主義であり、実証できないことには仮説も立てないという主張らしいのだ。極端な気もするが、これはこれで間違っては居ないだろうとマリーは思う。イングリド先生も、錬金術の理論には怪しいものが少なくないと言っていた。おそらくこのヘルミーナさんは、イングリド先生よりも更に極端な実存主義なのだろう。

やはりアカデミーの先生達はすごいと思った。そして進めていくと、マリーは面白い記述に打ち当たった。

強力な魔力制御媒体の、製作方法である。

 

2,蟷螂

 

春が来ると、ザールブルグ周辺は様々な変化に包まれる。東の耕作地帯は青々とした作物の芽が吹き始め、西の大森林地帯は緑に色づく。南のストルデル川でさえ生き生きとしているように見え、北のヴィラント山も、麓までは緑に包まれるのだ。緑の季節、春。命が生まれ出る季節でもあり、一年の最初の関門でもある。

マリーは春が嫌いではない。ただし、好きでもない。

この時期、彼方此方の村では祭りを行って、一年の息災と豊作を祈願する。村によっては外部に隠して性的な儀式を伴う場所もあり、子供の生まれた時期が異常に重なっている所などはその確率が高い。グランベルでは開放的にはなるが、お酒を飲むだけで、わざわざ性行為を伴う儀式まではしなかった。酒好きのマリーが、この季節が好きではない理由は、いろいろある。最大の理由は、口説きに来るうっとうしい男が増えることだ。

荷物は揃えた。久しぶりの遠出である。アデリーを引き取ってから一週間後くらいから外出は始めていたが、今回は片道四日、全部で十日を見込んだ本格的な採集だ。もちろん、かなりのコストを掛けての作業だから、気は抜けない。バックパックの中身を整理しているマリーに、お掃除が一通り終わったアデリーが、ぺこりと頭を下げた。

「マスター、お掃除、終わりました」

「うん、ありがと。 じゃあ、少し休んでて」

「はい」

ぱたぱたと二階に駆けていくアデリー。少しずつマリーへの視線から恐怖が抜けてきているのが嬉しい。楽しそうにしていることはあるのだが、残念ながらまだ笑顔は見たことがない。まあ、まだ一月とちょっとだ。気長にやっていくしかない。

アデリーとはいろいろと話もした。今年で十歳になるというアデリーは、どちらかといえば甘いものより辛いものの方が好きだとか、鳥が好きだとか、他愛もない話ばかりだったが、それでも得られたものは大きい。「両親に虐待を受けて奴隷に売り飛ばされ、周囲の全てを恐怖するようになり、触るだけでトラウマが爆発しかねない」などという情報よりも、「今九歳」とか「辛党」とか「鳥好き」とかいった情報の方が、どれだけ貴重か。そういった情報は、本人の精神的な余裕を示しているのだから。

傷がついたのが幼い頃だというのも幸いしている。股の辺りをはい回っていた傷跡は少しずつ薄くなってきている。後二三年もすれば綺麗に消えて無くなるだろう。一度裸にして鞭の跡を確認しておきたいのだが、まだマリーを怖がっているあの子にそんな要求は酷だ。じっくり信頼関係を築いて、それからである。

玄関に出ると、脇に釘を打って引っかけてある看板をひっくり返す。この間ゲルハルトに作ってもらったのだ。裏側には外出中と書いてある。そして、もちろん、表側に書いてある文字など決まっている。

「マリーのアトリエ。 店主在中」

である。マリーもそろそろ、薬品をそれなりに作れるようになってきた。飛翔亭の客先での評判も上々。看板があっても、生意気ではないはずだ。

マリーは基本的にアデリーを使用人だと考えているから、優しくしてあげたいとは思っていても、最低限の躾は少しずつしている。自分をマスターと呼ばせるのもその一つ。後、二階の寝室では床に寝てもらっている。もちろん布団は敷いているから、これは虐待には当たらない。本来なら別室で寝てもらうのが一番だが、アデリーは悪夢にうなされている事が珍しくないので、流石に其処まではしたくない。この辺がマリーが考える、けじめとの妥協点だ。

荷物確認完了。裏庭から荷車を出してくる。今回は初めて向かう採取先なので、保存食を多めに用意してある。

「アデリー」

二階に向けて声を掛けると、すぐに降りてきた。勤勉な子だ。

「じゃあ、行ってくるわ」

「はい、マスター」

「生活費はそこの棚。 保存食で我慢ができなくなったら、以前連れて行ったお店で外食しなさい。 戸締まりはきちんとする事。 地下室には入らないこと。 もしあたしに用があるお客が来た時は、言づてだけお願いね。 絶対に入れては駄目よ。 シアに時々見に来てもらうように頼んではあるから、何かあったら言いなさい」

「はい、マスター」

幼いアデリーだけに任せるのは不安だが、シアも来てくれるし、多分大丈夫だろう。もう一人使用人を雇う余裕はないから、彼女に頑張ってもらうしかない。

この間二日間留守にした時も、アデリーはきちんとアトリエを守りきった。今回もできるはず。マリーは腰を落としてアデリーと視線を合わせると、目を細めた。

「頼りにしてるわよ」

「はい。 いってらっしゃいませ」

マリーの言葉を、まだ完全には信用してくれてはいないはず。だが、それでもアデリーの目から恐怖は薄れ始めている。

まだ初潮は来ていないから、アデリーの精神面に波は少ない。現に今まで暴発しかけたのも一回だけで、それも迷子になりかけた時だけだ。その時初めてマリーは意識のあるアデリーに触ったのだが、気の毒なほど筋肉が緊張していた。魔力もすさまじく、量だけならマリーに迫る。ただ、今の時点では、マリーが押さえられるレベルだったので、暴発は避けられたが。最悪でも十二歳になるまでには、きちんとした制御方法を身につけさせないと、悲劇に発展するだろう。

荷車を引いて西門へ。いつもと違う門なので、ミューが間違えていないか少し心配だったが、杞憂であった。ミューは厚手のマントを羽織っていて、少し寒そうにはしていたが、もう待っていた。

「あ、マリー! こっちこっち!」

「はいはい、分かってますってば」

ミューの隣には、角刈りの大柄な男性が立っている。今回はルーウェンが時間が合わないと言うことで、ギルドから別の人が派遣されてきているのだ。かなり緩そうな表情が若干不安だが、実績を積んでいる有能な冒険者である。とんでもないものぐさだという事前情報があるが、まあ何とかなるだろう。今回は以前の滝とは、危険度が比較にならないほど低いのだから。

「ハレッシュ=スレイマンだ。 よろしく」

「マルローネよ。 よろしくね」

握手。マリーより頭一つ半大きい。かなりの巨漢で、力もある。筋肉の付き方もすばらしい。独活の大木でないようにと、祈るしかない。

ハレッシュは大げさなプレートメイルを着込み、これまた大げさな槍を手にしていた。穂先が斧のように湾曲していて、馬上で用いるようなサイズの長柄武器だ。パワーによほどの自信があるのか。鎧は青ではないから、騎士団員ではない。しかし、このスタイルは思い切り騎士団員を意識している。そうなると、たまにいる、騎士団に受験しながら冒険者を続けるタイプだろう。

「それじゃあ行きましょうか」

「今日は確か、エルフィン洞窟、だったっけ?」

「うん。 じゃ、ハレッシュ、前衛を頼むわよ」

「おう、分かった」

陽気に歩き出すハレッシュ。ちょっと不安だったが、マリーはミューを促し、ついて歩き出した。

 

進めば進むほど、不安は倍加していった。ハレッシュは見たところ、動きは悪くない。多分かなり強い。マリーでは近接戦を挑んでも手も足も出ないだろう。だが、見れば見るほど、何も考えていないのだ。

たとえば、鎧や槍に、機能性というものが全くない。槍は使いこなしているのかと思っていたのだが、少し話してみると、とんでもないことを口走った。出先の街の武器屋で、(格好良かったから)購入したのだという。鎧も同じなのだそうだ。こっちは(格好良かったから)ではなく、(騎士団の鎧に似ているから)だそうだが。唖然とするマリー。そして脳天気に笑いながら隣を歩いているミュー。

ミューが二人になったようなものだと、マリーは心中深々ため息をつくが、まだまだこんなものではなかった。

冒険者なら常識のはずの薬草類や保存食の類のことも知らない。気候の読み方や、時間のはかり方も分かっていない。知識のレベルは殆どミューと同じだ。しかし、見たところ腕は立つ。マリーはこれでも修羅場を何度もくぐった使い手であり、体はまだ万全とはいえないが、かなりの経験を蓄積してきている。そのマリーから見て確かなのだから、ハレッシュの実力はしっかりしたものだ。しかし、こうも無知なのはなぜなのか。

今回は、街道を半日ほどいったら其処からもう北上し、小さな湖を一つ抜けて、最終的にヴィラント山の隣山に向かう。冬の間は寒い寒いとごねていたミューは、すっかり元気になっており、時々鎧の隙間を扇いだりしていた。無防備すぎる行動だが、ハレッシュはそれに気づきもしない。ミューもミューなら、ハレッシュもハレッシュで、二度頭が痛い。

夕刻過ぎて、小川を発見。丁度いい頃合いだと判断したマリーは、キャンプに掛かる。意外や意外、今度はハレッシュは見事な手際で、テントを張っていった。一通り作業が終わると、もう夜である。流石にまだ肌寒い。マントを被ってたき火に当たるマリーの隣で、横になろうとしているハレッシュ。マリーは言うべきことを言わなければならなかった。

「あの、悪いけど、見張りの順番決めよう?」

「ん? おっ、そうか。 そうだな」

「ギルドから太鼓判押されてる貴方の戦闘能力を疑う訳じゃないけれど、ひょっとして冒険者としては殆ど単独で仕事したことがない?」

「よく分かったな。 今まではだいたいベテランと一緒に動いてたよ」

「なるほど、ね。 じゃ、今回丁度いい機会だから、あたしがいろいろと教えてあげる」

なんだか最近、教えてばかりだと思いながら、マリーは言う。本来は彼女が教わる立場のはずなのだが。

話を聞いてみると、ハレッシュは今まで教えてもらったことについてはきちんと覚えているという。テントの張り方なども先輩から指導されて身につけたそうだ。ただ、戦闘スキルについては天然のものらしい。つまり、たまにいる天才タイプなわけだ。戦闘というのは現金な代物で、才能が常に努力をしのぐ。数万倍の努力でもしない限り、才能で差をつけられている相手にはかなわないものなのだ。彼は冒険では、基本的なスキルは期待されず、敵に対する戦闘能力だけを要求されていたのだろう。

ご機嫌な顔で干し肉を炙っているミューを横目に、マリーはいろいろと細かいことから教えていく。野外で得た水は絶対に煮沸すること。薬草類は知っているものだけを使い、自信がない場合は手を出さないこと。キノコには相当知識が無い限り手を出すな。食べられる野外の動物類。ハレッシュはいちいちうんうんと頷いていた。

最後に見張りの重要性について説明を終えると、もう夜がかなり深くなっていた。考えてみると、彼は不幸な冒険者なのかも知れない。こうやっていろいろ教えてくれる相手と組むことが無かったのだろうから。ミューは飽きたらしく、火によってきた蛾を楽しそうに見ていたが、やがてあくびを始めた。空には星も瞬いているし、そろそろ潮時だろう。

「じゃ、見張りの順番決めよう」

「それなら、俺が一番きついっていう二番目をやるよ」

「…じゃあ、お願いしようかな。 ミュー、今日はあたしが最後やるから。 最初お願いね」

「うん、分かった」

見張り順が決まると、ミューは小川に顔を洗いに行った。この辺り、何度もマリーが冒険に連れて行っただけあり、きちんと成長している。完全に見張りに立つ体制を整えたミューを見ると、マリーは安心して寝袋にくるまる。まだ、道は長い。冬と違い、虫の鳴き声が周囲から聞こえる。それが却って心地よかった。

 

マリーは別に、初心者冒険者は嫌いではない。頭が悪い人間もだ。たとえば、陽気なムードメーカーは、頭が悪い場合が少なくない。状況が分かっていない脳天気な奴が、沈んでいた場を一気に回復し、戦闘続行を可能にするようなことだってある。ムードメーカーは、どこの部隊でも職場でも珍重されると聞く。道化は、皆に愛されるのだ。

容姿が派手な反面性格が地味で堅実なマリーは、この辺りの要素が完璧に欠けている。シアもこれは同じだ。結構マリーは今まで脳天気なミューにいやされているのかも知れない。

そんな事をぼんやり考えているうちに、早朝がやってくる。まだ陽も昇っていない。ハレッシュに起こされて、伸びをして見張りに。街道から外れてはいるが、この辺りは周囲に大型肉食獣の縄張りもなく、危険度は低い。しかし、低いと言っても、油断は危険だ。

さっと近くの川で顔を洗い、目を覚まして周囲の警戒に当たる。朝方はやはり寒い。マントを被って周囲を見回るが、特に異常は無し。遠くで狼の遠吠えが聞こえるが、此方には関係がない。聞こえる方向と距離から言って、今日通る場所もおそらくは大丈夫だろう。まあ、こればかりは慎重に見極めを行わなければならないが。

猛獣の痕跡をチェックしてみる。熊が通った跡を見つけるが、数日前のもので、縄張りを示すマーキングもない。危険性は低いだろう。ただでさえ今の時期、熊は動きが鈍い。冬眠からさめたばかりで、殆どの場合まだ本調子ではないからだ。ただし、子連れの熊には気をつけなければいけない。必要以上に獰猛になっているためで、下手に手を出すと大けがをする。小熊は食べると普通に美味しいのだが、何事もリスクは伴うと言うことである。フォレストタイガーや、魔物にいたっては気配もない。この辺りは安全だと判断しても問題ないだろう。後は盗賊の類だが、ザールブルグにほど近いこの辺りで出るとは思えない。近くには確か正規兵の駐屯所もあるはず。出たとしても状況もわきまえぬ三流であろう。

木に登って、今日行く先をざっと見てみる。道は平坦であるが、森の中植物が春を謳歌し、争って背丈を伸ばしているから、進むのは少し面倒かも知れない。少し工夫して進む必要がありそうだ。その辺の判断力、ミューやハレッシュには期待できないから、マリーが手綱をしっかり取るしかない。

陽が昇ってきた。世界が急速に色彩を取り戻していく。

今日も、いい日になりそうだった。

 

道すがら、ミューが話しかけてくる。マリーは周囲を警戒しつつも、彼女への返答はしていた。ハレッシュは気配にいちいち反応している。頭が悪くとも、勘の方はしっかりしていると見て分かるし、ミューもその辺は力をつけてきたからだ。

「ねえねえ、マリー。 今回は何を作るの? 栄養剤?」

「今回は爆弾を作ろうと思ってるんだ」

「へえー。 ばくだん。 それって何?」

「火薬って言う、非常に爆発しやすい薬を使った戦闘用の道具」

不思議そうに問うミューに、マリーは解説する。これは復習のためでもある。

錬金術が作り出した最大の発明と称される火薬。火をつけると強力に爆発する物質である。本格的なものはかなりたくさんの素材が必要になってくるのだが、今回回収にいくものは、火薬ではなく爆弾の中枢となる部分だ。それを利用して、火薬を用いないタイプの炸裂弾を作るのが、今回の最終目標となる。

「その火薬ってのを詰めて、火をつけるだけじゃ駄目なの?」

「駄目なの。 まだあまり詳しくは知らないんだけれど」

図書館でいろいろな資料に目を通して結論は既に出ている。爆弾は構造が命なのである。どのように爆発するかは、火薬を如何に加工し如何に詰め込むかで決まってくる。ただ火薬を詰めて火をつけるだけでは、本来の力を発揮できない。そしてそれは中枢に配置する、起爆装置の性質でも変化してくる。起爆装置は基本的に魔力を使った発火体なのだが、これの調整が非常に難しい。魔力をため込むだけならレジェン石を少し弄るだけで良いのだが、言葉などで命令を下すと一定時間後に爆発するというようなものになってくると、途端に作成難易度があがる。

今回向かう先のエルフィン洞窟は、知名度が低い鍾乳洞である。奧には地底湖があるが、其処の水は毒で、飲むことができない。だが、此処へ向かう意義は充分にある。

レジェン石が採れる上、それを加工するのに必要な媒体が手にはいるからだ。以前手に入れたレジェン石は、ほとんど簡易加工を施して売り払ってしまった。今回はそれ以上に高度な加工を行い、より複雑な調合に挑戦できる。

マリーは少しずつ錬金術師としての技量に自信を持ち始めている。コメートを完成させる前であれば、とても今回の調合に挑戦しようとは思わなかっただろう。そういう意味で、あの腐れ忌々しいクライスは実に役に立ってくれた。今回も不安感より期待感が先に来ている。後はアデリーが早く一人前になってくれれば、錬金術作業の補助要因として期待できる。未来は、明るい。

「なんだか、どんどん難しい事に挑戦してるんだね」

「力がついてきたから、そうなるね」

「それなら、いつかとっても暖かくなる道具とか作ってほしいなあ」

「分かった。 考えておくわよ」

原理的には多分今でも思いつく。ただ、技量が追いついていない。作れると判断できた時に、今リクエストされたものは渡してあげたい所だ。

森が徐々に深くなっていく。全員あのクーゲルほどのパワーはないから、時々苦労しながら荷車を押していかなければならなかった。奇襲に備えるために、一人は周囲を警戒せねばならず、手が足りないと思う。流石にマリーも疲れてきた時。平穏な時が終わった。

「止まって」

マリーの言葉と同時に、ミューが抜剣して構えを取る。それに少し遅れて、ハレッシュも構えた。

木に、鋭く抉られた跡がある。大きさから言って、多分最終齢だろう。厄介な相手だ。持久力は無いが、そのパワーは下手をすると熊の首を一撃で刈り取る。

「何? 虎?」

「おそらく、ウォー・マンティスよ」

「何それ?」

周囲に油断無く気を配りながら、マリーは声を落として説明する。

ウォー・マンティス。成人男子の二倍に達する体長を持つ大型の蟷螂で、この周辺に生息する昆虫の中では最大最強を誇る。場合によってはヒグマをも打ち倒すほどの実力を持つ、非常に強力な捕食生物だ。当然のように肉食であり、グランベル村ではこれの卵が見つかると大騒ぎであった。マリーも駆除に参加し、成虫を仕留めたことがある。

弱点も多い。瞬発力が高い反面機動力や耐久力は低く、特に身体構造が若干脆いため、大人の戦士が数人いれば倒すことは難しくない。だが、長所はそれ以上に多い。すさまじいパワーを持つため、奇襲を受けると確実に死人が出る。特にその鎌で挟まれると、まず助からない。しかもこいつは気配を消すのが非常に上手く、簡単な術、それも攻撃系のものを使ってくる。

説明が終わると、ミューが眉をひそめて言う。どこか脳天気なところは相変わらずだ。

「うわ、強そう」

「気をつけて。 終齢幼虫になると、空も飛ぶわ」

「上も気をつけなければいけないって事か」

別人のように低く鋭い声で、ハレッシュが言う。結構。戦闘だけ役に立ってくれれば問題ない。

三人背中を合わせるようにして立ち、辺りを警戒する。ウォー・マンティスは待ち伏せ型の肉食獣であるが、獲物を見つけると積極的に躍りかかってくる活動的な面も持ち合わせている。しばしの沈黙。

突然の動に対する、ハレッシュの反応は、想像以上に早かった。

「せいっ!」

振り返りざまに、槍を振り下ろす。衝撃波と、彼の打ち込みがぶつかり合う。視線がそちらへ向いた瞬間を狙い、空から降ってくる影一つ。ミューとマリーが左右に飛び離れ、追撃に振り回された鎌を、それぞれ剣と杖で弾きしのぐ。三人の真ん中に降り立ったそいつは、全身鮮やかな緑色の甲殻に包んだ、巨大な蟷螂。ウォー・マンティスであった。戦闘ポーズは、小さな蟷螂と同じだが、その威圧感はむろん比較にならない。

「うわ、大きいね!」

「勝ち目がないって判断すれば逃げるはず。 無理はしないで」

予想以上の動きを見せてくれたミューに、慎重に周囲を取り囲んだまま、マリーは言う。この肉食獣は、基本的に単独で行動するため、他の個体が現れる可能性が低いのが救いであろう。しかし、何か違和感がある。説明できないのだが、肌がちりちりするのだ。

「俺が仕掛ける」

「気をつけてよ。 鎌に挟まれたら、まず助からないわよ」

「分かってる!」

力強い動作とともに、ハレッシュが槍を繰り出す。蟷螂の反応は実に鋭く、残像が残りそうな動きで後退、四本の足を器用に動かして後ろの木に飛びつく。安全圏に下がったマリーは詠唱を開始。印を少し組んだところで、危険の正体に気付いた。

「ミュー!」

「! きゃあっ!」

横殴りに飛んできた衝撃波に、ミューがガードを取り遅れ、ふっ飛ばされる。地面にたたきつけられ、身動きとれなくなる彼女に、二匹目の蟷螂が飛びかかろうとした。マリーは詠唱を途中で切り上げ、最低限の威力で術を開放。小石程度の威力しかないが、撃ち出された光球は蟷螂の顔面を直撃、派手に煙を上げ、ミューが逃げる隙を作った。

「た、たすかった! ありがとっ!」

「油断しないで。 どういう事、これ!?」

マリーの自問自答は空に流れる。新たに現れた蟷螂は少し小振りな四齢幼虫。だが、充分に人間を殺傷する実力を持っている。顔面を傷つけられた蟷螂は鎌で顔を拭うようにして汚れを落としながら、じりじりともう一匹と連携するようにして、間合いを計っていた。

普通、同種のウォー・マンティスでも、交尾期以外は距離を保つ。それはこの生物に社会性が無く、自分以外の生物は敵か餌でしかないからだ。こいつらが連携して動くなどと言うのは、マリーも初めて見た。茂みが動き、三体目が現れる。完全に囲まれた。

交戦不可能。現有の戦力で、なおかつ現状の戦況で、勝てる相手ではない。

「逃げるわよ」

「でも、どうやって?」

「一点突破。 ハレッシュ、殿軍よろしく。 ミュー、荷車よろしく。 あたしが道を開く」

「分かった!」

「よしっ! 続けえっ!」

杖を構え直し、突進する。突撃先にいるのは、戦闘態勢を取っている四齢幼虫。身体能力は向こうが上だが、代わりに相手は頭が悪い。つまり総合力ではマリーが上であり、ならば戦術で幾らでもカバーできる。

低い体勢から突撃したマリーに、蟷螂が飛びつくようにして迫ってくる。見る間に距離が縮まる。マリーが素早く小石を拾って投げつけ、蟷螂の動きを僅かに鈍らせる。前に踏み込んだマリーが跳躍、蟷螂の顔面を蹴って、それを足場に踏み越える。動きが止まる蟷螂の横をミューが駆け抜け、続いたハレッシュが首をはねとばした。鮮血が吹き出し、巨体が崩れる。それと同時に、残り二体が、マリー達を追うのではなく、同種の亡骸に飛びついた。

後ろから、ガッ、ガッとエサを貪る音がした。そのまま昨日のキャンプ地まで逃げ切る。マリーは今の交錯で切り裂かれた二の腕を押さえて、ため息をついた。左足の股にも鋭い傷が一筋。先ほどと同じ自問自答が漏れてしまう。マリー自身、困惑が押さえきれないのだ。

「どういう事よ、あれは」

「知らないよー。 マリーが分からないのに、私が分かるわけないじゃん」

「いやー、面白かったな。 スリル満点だったぜ」

「いいから黙れ」

脳天気にアホなことをほざくハレッシュを一言で黙らせると、マリーは自分とミューの怪我の手当を始める。幸い大した怪我はないが、問題は蟷螂の異常な行動だ。

春先で餌が不足していて、あのような行動に出たという仮説は安易に過ぎる。そもそもあんな数のウォー・マンティスが一カ所に居ることからしておかしいのだ。さっきも見せたように、彼らにとって他の動物は同種も含めて全部餌だ。知能も決して高くはなく、現に先ほども動きはことごとくが生物的反射行動に基づいていた。その中で、あの連携行動だけが、違和感の元であった。

分からない。ただ危険だけがある。ルートはもちろん変えなければならないが、嫌な予感がまだ去っていない。この先の森で、ウォー・マンティスが異常な形で大発生しているとすると、コトだ。帰ったらギルドに報告しないといけない。状況によっては、それどころではない。すぐに駐屯地の兵士達に知らせてこないといけない。下手をすると騎士団に出張ってもらって、一大駆除作業が行われるだろう。

包帯を巻き終わる。少し腕がしびれているが、詠唱には問題がない。ただし、格闘戦には充分差し障りがある。マリーの格闘戦闘能力は大した物では無いが、それでも敵と接近した時にあるとないとではだいぶ生存率が違う。傷薬がしみる。マリーは我慢して黙っていたが、ミューは痛い痛いと文句を言っていた。

「ところでさ、これからどうするんだ?」

「慎重に進むの。 できるだけあいつらがいない場所を通ってね」

「そうか。 腕が鳴るぜ!」

「分かってると思うけど、戦いはできるだけ避けていくからね?」

笑顔を浮かべるマリーだが、もちろん目は笑っていない。分かってる分かってると笑いながらそれに答えるハレッシュは、結構な大物なのかもしれなかった。

 

太くて、ささくれだった樹皮を持つ木であった。傷に障らないように慎重に登ったが、それでも少し痛かった。手をかざして見回すも、敵影は無し。擬態が上手い蟷螂だが、探し方のコツさえ分かれば高確率で発見できる。事実、もう今日だけで七体を発見、交戦を避けるか、逆に奇襲を掛けて仕留め、消耗を押さえて来た。

蟷螂はかなり柔軟に体を動かすことができる。掌に載る普通のサイズの蟷螂を触ってみると分かるのだが、背中を掴んでも体を曲げて反撃してくるほどだ。更に、首をたたき落としてもしばらく動いているほど生命力が強い。だから、後ろから攻撃を仕掛けても、すぐに飛び離れないと危ない。そのため、奇襲を掛けるにしても、かなり入念な準備と計画が必要だった。

せっかく辺りを見回っても、ほとんど距離が稼げない。予想以上に進むのに時間が掛かりそうだ。洞穴に入ってしまえば、流石に蟷螂はいないと思うが、この状況何があってもおかしくない。この辺りの森一帯が、ウォー・マンティスに占拠されている感触だ。

「なんだか怖いねー」

「異常だとは、あたしも思うよ」

「そういうなって。 楽しんじまえばいいんだよ」

ハレッシュは相変わらずマイペースで脳天気だ。確かにこういう時、彼のような人材は貴重だ。山はまだまだ遠い。問題なのは、今日キャンプをどうするかと言うことだ。これだけの数の蟷螂がいるし、しかも異常行動の真っ最中だ。火を怖がるか分からないし、夜歩き回るのは危険すぎる。何とか安全な場所を見つけておきたい所だ。

木から下りたマリーは、荷車を引きながら、二人に進むよう促す。これは行きも帰りも、予想の倍以上時間が掛かるかも知れない。憂鬱なマリーに、ミューが無遠慮に問うてくる。

「ねえねえ、マリー」

「ん?」

「動物が、こういう異常な行動をするコトってあるの?」

「…知らない」

ミューが小首をかしげるが、これは本当のことだ。

マリーは現実に役立つ知識なら幾らでも知っている。それが絶対的に必要な環境で生まれ育ったからだ。錬金術に関する知識も一応はある。必死に勉強したからだ。魔物の類にも詳しい。それが、村の重要な収入源だからだ。森の知識は並の冒険者では歯が立たないほどだ。なぜなら、グランベル村の収入は、森と一緒にあったから。

だが、伝説の類となってくると、知らない事が多い。グランベルで得られた伝承なんてたかが知れているし、それはザールブルグに来てからも同じだ。結局こういった知識は、書物か人づてに得るか、どちらかしかない。そしてマリーは、その機会に恵まれなかった。

村レベルで伝わる伝承は幾らでもある。異常行動に関するものだってある。だが、それがなぜ引き起こされたのかは分からない。なぜなら、「論理的に物事を考える」という概念が、村にはないからだ。それを知ったのは、錬金術アカデミーに入ってから。今から、僅か五年弱ほど前の話である。

それに、マリーが知っている異常行動の例は、いずれも小動物ばかりなのだ。人間に害をなせるウォー・マンティスのような存在が異常行動を起こしたなどという話は聞いたこともない。少なくとも、グランベル近辺でそんな事は一度もなかったはずだ。

幸いなことに、この近くに村はない。だが、どの辺りの森まで、こうなっているか分からない。どこの村にも自衛能力はあるが、百を超えるウォー・マンティスが一斉に襲いかかりでもしたら、かなりの被害が出るだろう。ざっと状況を確認して、場合によっては素早く採集を済ませたら、すぐに駐屯地へ知らせるべきだとマリーは判断した。

「今回は、大赤字かも知れない」

「大丈夫大丈夫。 今までだって、何とかなったじゃん」

「ありがと。 その無責任な言葉が、今はすごく頼もしいわ」

痛烈な皮肉を言葉に混ぜながらも、マリーはミューに心底から感謝していた。

 

3,洞窟の星空

 

森は果てしなく深かった。蟷螂との交戦を避けながら進んだ結果、結局四日で到達する予定が六日かかってしまった。これは採集に時間を掛けていられない。十日以上時間が掛かる場合は、捜索隊を出すようにシアに頼んであるのだ。もたもたしていると、傷口に塩を塗り込むことになる。

蟷螂は増えも減りもせず、まんべんなく大量にいた。幸いにも待ち伏せ型のハンターである彼らは、積極的に動き回ろうという気がないらしく、一度要領を見切れば後は回避が比較的容易だった。この道程でマリーが見た蟷螂の数は八十を超えた。異常すぎるほどの数だ。当然彼らはエサを取るわけだから、森の生態系は今やズタズタだろう。一応、のろしは既に打ち上げてある。駐屯軍に対して、危険を通告するサインだ。多分軍ではもう調査を始めているはず。

彼方此方に獣の死骸が転がっていた。どれも部分ばかりだった。蟷螂の死骸も多数転がっていた。どれも部分ばかりだった。さもありなん。他にたべるものがないのだろう。中には、明らかに蟷螂以外の存在によって倒された死骸もあった。黒こげになっていたり、爆散したりしていたり。ひょっとすると、マリーより先に事態に気付いて、駆除に当たっている術者がいるのかもしれない。

どうにか山の麓までたどり着くと、ぱたりと蟷螂は姿を見せなくなった。何度慎重に確認しても、どこにも居ない。この辺りは別の猛獣や、小型の魔物の住処でもあるのだが、それらも見あたらない。不幸中の幸いである。

山に入ると、森が消え、岩肌が露出してくる。ざっと見回すだけで、岩の中に山ほどレジェン石が埋まっていた。この辺りを帰りにまさぐっていけば、レジェン石は充分確保できる。後は、エルフィン洞窟だが。行けばすぐに分かると言われていたので、苦労はないと思っていたのだが。見あたらない。指先をなめて風向きを調べてみるが、特に変な流れはない。

「マリー。 洞窟、どこー?」

「文句言ってないで、あんたも探す!」

「えー? 疲れたよー」

ミューが文句をたれていたが、ある方向を見た途端に、それが凍り付いた。マリーも言い返す労力が残っていなかった。

蟷螂の異常行動の理由が分かった。マリーは蟷螂どもを大きさで四齢幼虫や終齢幼虫と判断していたが、それは間違っていたのだ。ハレッシュも軽口を叩く予定がないらしく、それを呆然と見つめていた。

大きい、あまりにも巨大すぎる、ウォー・マンティスの卵嚢を。

家どころではない。高さだけで成人男子の四倍、直径は二倍という所だ。くすんだ卵嚢は穴だらけで、もう幼虫が出きってしまっている。真っ青になって震えているミューの肩を叩いて、マリーはあえて言葉を選びながら言った。

「大丈夫。 この辺に、もう、危険はないわ」

「で、でも、だ、だって、そ、その!」

「落ち着いて。 蟷螂はどんなサイズになっても、親が子供を守るって習性がない生物なの。 あの異常な卵を産んだ親はもういない。 高確率で死んでいるはずよ」

へたり込んだミューが、ゆっくり、言葉をかみしめるように、深呼吸して行く。マリーも気持ちを落ち着けるのに、随分努力しなければならなかった。

フォレストタイガーどころの騒ぎではない。この卵を産んだ蟷螂がいま生きていたら、軍でもつれてくるか、ドラゴン狩り並の武装と人数を整えてこないと対処できない。マリー達など手も足も出ないだろう。

ただ、ウォー・マンティスは成虫になると、雄は交尾の際に雌に食われてしまうし、雌も卵を産むと十中八九命を落とす。如何に体が大きいとは言っても、その性質はかなりの確率で受け継がれているはずだ。根拠は、今まで見た蟷螂どもの動きにある。一齢や二齢の幼虫は、群れることさえなくとも、それなりに密集して生活する。そのため同種の蟷螂に対する攻撃性が押さえられているのだ。あいつらはその動きをきちんとトレースしていた。後は成長に従って勝手に散っていくのだが。そうなると危険性はより大きい気もする。もしこの卵嚢からあの蟷螂たちが生まれ出ているのだとすると、それはより大きい。短期間で彼処まで成長した連中だ。最終的には一体どれほどにまで育つのか。

「ねえ、帰った方がいいんじゃない? ていうかもうやだ! 帰りたい!」

「…いや、駄目」

「ええっ! だって、だってっ!」

「駄目ったら駄目」

いつになく怯えきっているミューにマリーは否の意志を、冷徹なまでに静かな口調で示す。もちろん、理由はある。

状況は確認した。戻るには数日が掛かるし、軍が動き始めていたとしても、途中で合流できるかは分からない。それに、あわてて帰ったところで、帰り道には蟷螂どもがひしめいているだろう。それならば、採集して戻るのも同じ事だ。ただし、家ではシアやアデリーが待っている。特にアデリーは精神面が不安定で、マリーが捨てたと思ったら暴発する可能性もある。だから速攻で調査して、速攻で此処を離れる。

そう告げると、ミューは涙目になりながら、分かったと言った。単独では帰りようがないことを、流石に理解しているのだ。この状況、三人で協力しなければ、絶対に死ぬ。こういう時こそ、リーダーは冷静でなければならない。冷たくなければならない。そして、いざというときには、切り捨てる決断もしなければならないのだ。

ミューが嫌がった理由はもう一つある。巨大な卵嚢に隠れるようにして、くだんの洞窟があったからだ。まるで入り口に生み付けたかのように、それが山に空いた鍾乳洞を外部から隠していた。近づいてみると、何とか人は奧へ入れる。ギルドの情報では、それほど深い洞窟でもないという話だから、すぐにでも探索できるだろう。

松明に火をつけて、中へ。緊張でのどが鳴る。先頭に立ったハレッシュも警戒を強めていた。かなり反応速度が高いので、頼りになる。荷車を引きながら、マリーは肌寒い洞窟の中へと入り込んだ。

道は予想外に平らであった。鍾乳石がごつごつ飛び出しているというようなこともなく、動物の類も少ない。蝙蝠が生息しているとマリーは聞いていたのだが、天井にその姿はない。それに対して、乾き掛けた糞が大量に落ちていた。乾き掛けてはいるが、臭い。ゴキブリの姿も見えた。

「うえー、くさいー」

「我慢しなさい。 今日一日で帰るから」

「ほんとー?」

「確かにひでえ臭いだな」

ハレッシュまで愚痴る。マリーだって我慢している。だが、耐えられないほどではないし、此処は進むほか無い。

「注意を怠らないでね。 蟷螂に奇襲を受けたら全滅するわよ」

「分かってるよ」

「怖いこと言わないでよぉ」

「前も言ったでしょ? 常に最悪の状況を想定して行動すること」

たとえば、中に蟷螂どもが多数居て、それに前後左右から一斉に襲われる。マリーはそんなことまで想定していたが、口にはしない。嫌な予感がしていたからだ。口にしたら、それが現実になりそうであった。

洞窟は口が広く、傾斜は緩やかだった。ただ、此処は構造的に雨が降ると水が流れ込む。外は晴れていたが、マリーの読んだところ、翌日くらいから雨になる可能性があった。下手をするともっと早いかも知れない。聞いているエルフィン洞窟の深さから言って大丈夫だが、内部で何かしらのトラブルがあり、外に出られなくなると危険だ。

「!」

「ひっ! な、なにっ!?」

「静かに。 何か居る!」

無言のまま杖を構えるマリーも、気配を感じ取っていた。僅かな傾斜の先、生き物の気配が確かにある。松明には、まだ姿が照らし出されていないが、確かにいる。ミューも戦闘態勢に入る。ベストではないが、戦えるはずだ。しかも、傾斜から言って此方が有利。多少の実力差ならひっくり返せる。

慎重に相手の出方をうかがう。最前衛のハレッシュは、地面に向けてやや傾けた槍の穂先を、呼吸と合わせてゆっくり揺らしている。いざというときは踏み込みながら一気に突きを叩き込む体勢だ。

気配が近づいてくる。今のところ、敵意はない。近づくにつれて、相手の存在が分かってくる。大きさは人間大。気配は強い。異常なほどに。生唾を飲み込むミュー。喉の鳴る音が、マリーにも聞こえた。

やがて、松明にその姿が照らされる。

黒い、葬式に着るようなドレスを身につけた女だ。年はおそらく三十代前半。紫色の髪は緩くウェーブして腰の辺りにまで伸びている。顔の造作は整っているのだが、まるで冥府を覗いているかのような精気のない瞳と、紫色のルージュを塗った唇が、全てを負へ向けている。整った顔の方が、狂気や闇を纏った時に恐ろしいものなのだ。この女は、その容姿でそれを実証していた。

女はしばし此方を値踏みするように見ていた。魔物ではないらしい。やがて彼女は、肩を大げさにすくめて、不気味に笑う。

「武器をしまいなさい。 敵意はないわ。 それとも、丸腰の私が怖い?」

「…。 失礼した」

ハレッシュが槍を下げる。アホな奴だが、戦闘能力については一級品だし、礼儀も分かっている。それに、この反応から見て、多分戦士としてのプライドはかなり高い。咳払いすると、マリーは可能性を試してみる。一番大きな所から。

「貴方は、誰ですか? 外の蟷螂たちを、倒して回っている人ですか?」

「その通りよ。 フフフ」

背筋に寒気が走る。この恐怖、多分あのイングリド先生と同種のものだ。マリーとは根本的にレベルが違う。巨大すぎる存在が、今マリーを値踏みしている。逆らったら、ころ、さ、れ、る。

この女が蟷螂を倒して回っているのが本当だとしても、即座に味方だとは判断できない。しかし、武器を向けていいものか。戦ったら絶対に勝てないという予感がある。早鐘のように鳴る心臓を何とか落ち着けて、状況を観察。気圧されないように、言う。

「あ、あたし、達は、此処に錬金術の素材の回収に来ました。 貴方は、何を、此処で?」

「…私は忘れ物を取りに来たのよ。 でも、それも片付いたし、後は外にいる連中を掃除して、おしまい」

「軍を呼びました。 もう掃討作戦を開始しているかも知れません」

「それは手間が省けて助かるわ」

女は此方に来るように手招きした。躊躇するが、ミューの背中を押して、一緒に横へ回り込む。側で見ると、不気味さが際だっている。彼女は片手をゆっくり上げると、その掌に漆黒の魔力を集中させていく。思わず飛びずさるマリー達に見向きもせず、詠唱が続く。

「夜の黒、闇の色、地獄の底、破壊の宴。 死に呼ばれる最後の光、祈れ、踊れ、我が神サトゥルヌスの名の下に!」

空間が狭窄したかと思われるほどの、すさまじい吸引感。体勢を低くし、思わず腕を上げて顔をかばうマリー達に見向きもせず。豊富な髪を魔力波動に波打たせ、松明に照らし上げられた彼女は、詠唱を続ける。その全身を、黒い魔力が、蛇のようにはい上がり、手元へ集まっていく。

魔力には自信があるマリーだが、その魔力量さえをもしのいでいる。この女が、何者か考える精神的余裕もない。外に向けている女の掌に、超高圧の魔力球が出現した。狂気の笑みを浮かべた女が、歌い上げるように言った。

「むしばまれ、腐れはてよ! ネーベル・ディック!」

爆風が、マリーの全身を浮き上がらせ掛けた。洞窟の中を、時ならぬ嵐が蹂躙する。女の手から、漆黒の魔力弾が放たれたのはその時。音もなく外へ飛んだそれは、発射時と同じように。

音もなく炸裂した。

世界が黒だけになる。

何も聞こえなくなる。

ミューが壁にたたきつけられる。ハレッシュが槍を床に突き立て、マリーは鍾乳石に杖を引っかけ、この暴虐に耐える。マリーの心臓は止まりそうだった。怖い。怖いなんてものじゃない。本能からはい上がってくる恐怖が、心臓をわしづかみにして、容易に離してはくれなかった。

不意に明るくなる。洞窟の入り口を塞いでいた卵嚢が、木っ端微塵に消し飛んでいた。マリーのサンダー・ロードヴァイパーの、一体何倍の破壊力か。実戦で練りに練り上げられた、まさに破壊するための術だ。顔を上げたマリーは、逆光を浴びながら立ちつくす女を前に、動くことができなかった。

「言い忘れていたけれど、私も錬金術師よ。 精進しなさい」

目に狂気の光を宿し、マントを翻すと、彼女は入り口へ向かって歩き出す。それ以上のことを彼女に問いただす気力など、どこにも残っては居なかった。やがて、女は消えた。最初から洞窟にいなかったかのように。

 

呆けている余裕はなかった。倒れたまま震えているミューを抱き起こすと、立たせる。汚れを払ってやる。ショックが大きいらしく、ミューは泣きそうだった。実戦経験があり、死線を何度もくぐっているはずの戦士が、魂を抜かれたようだった。ハレッシュは平然としていて、むしろうきうきしている感がある。これは多分、強者を見た戦士としての高揚なのだろう。

世の中、上には際限なく上が居る。マリーはそれをよく知っていたつもりだが、改めてそれを思い知らされた。早く最盛期の力を取り戻したいとも、強く思う。

「おっかねえおばさんだったな」

ハレッシュが楽しそうに言ったので、我慢できなくなったらしいミューがしくしく泣き出す。マリーはため息一つつくと、松明を持ち直して、奧へ向かうよう促す。今回の目的は、あくまで錬金術に使う素材の回収なのだ。ミューはしばらくぐずっていたが、やがてマリーに背中を押されて歩き出した。

洞窟は同じペースで延々と下っており、時々左右に僅かずつ曲がっていたこともあり、ほどなく光が届かなくなった。巨大な洞窟になると、丸一日降っても底に着かないような場所もあると聞くが、此処は情報を聞く限り、さほどでもないだろう。

やがて、あれほど落ちていた蝙蝠の糞も見あたらなくなる。代わりに、肌が白い不思議なトカゲが、所々で見かけられるようになった。彼らは見つけると体をくねらせ、すぐに物陰へ走り込んでしまう。此方を見て警戒すると言うより、松明の光に反応して逃げていくような印象だ。洞窟の中で生きているから、光が苦手なのかも知れない。

床にはマリーが危惧したとおり、水が流れた跡があった。それもそう古いものではない。しかしあのトカゲの生態を見る限り、洞窟がまるまる水没する事はなさそうで、いざというときにも避難は可能かも知れない。

途中から、水音が聞こえ始めた。近いとマリーが思った時、天井から落ちてきた水滴が、ほおをぬらした。ハンカチで拭い、早く行くように二人に促す。松明で天井を照らすと、入り口付近とは打って変わって、針のような鍾乳石が無数に突きだしていた。これはひょっとすると、入り口付近とこの辺りでは、洞窟としての性質が全く違うのかも知れない。元々土の中にあった此処に、何かしらのきっかけで通路ができて、外界とつながったのではないだろうか。マリーはとっさにそんな仮説を構築していた。

面白い。実に面白い。マリーの中で育ちつつある研究者としての魂に火がつく。今回探しに来たのは別のものであり、此処は放っておいても逃げたりしない。だから調べるのは後日だとしても、また是非来てみたいと思う。それを言うと、ミューは何ともいえない困惑を浮かべて、話をそらした。まだ入り口での出来事が恐怖として残っているためだろう。

徐々に傾斜が緩やかになっていく。道すがらふと脇を見ると、丁度天然の洗面台のような地形があり、水が溜まっていた。

さほど大きな水たまりではない。両腕で抱えられる程度のサイズだ。二人を手招きしてのぞき込んでみると、得体が知れない白い生き物が泳いでいた。サンショウウオのようだが、体は完全に白一色で、目は無く、えらが体の左右に飛び出している。松明を近づけてみると、影に逃げ込んでしまう。水は臭いが酷くて、とても飲めそうにない。また、よく見ると水たまりの奧には穴が空いている。もっと大きな水源とつながっているのだろう。

先へ進む。床が濡れてくる。同時に周囲の色も、入り口付近の赤茶けた感じから、病的な白さへ代わっていった。ひょっとすると、地面も陽に当たらないと、こう生白くなってしまうのではないかと、マリーは思った。帰ったらアデリーに、身を守るための護衛戦闘術を教え込もうとも。あの子は多分、健康的に体を動かした方が、精神的な復帰につなげることができるはずだ。

傾斜が更に緩くなってくる。水が彼方此方から落ちてきていて、空気の湿度も露骨に上がり始めていた。蝙蝠の糞尿の臭いは無くなったが、その代わり金属の臭いがし始める。目当てのものが、そろそろあるはずだ。

傾斜が無くなったので、おかしいと思ったのだが、それも一瞬である。ハレッシュが照らした先には、驚くべき光景が広がっていた。

「おおっ!」

「うわ…!」

「…これは。 すごいわ」

三人が、口々に言う。無理もない話である。

洞窟の最深部には、地平の果てにまで届こうかという勢いで、静かな湖があったのである。もちろん閉鎖空間で、松明で照らしている範囲内しか見えないが、どこまでも続いていそうなその圧倒的な広さに、マリーは言葉をしばし失った。

最初に動いたのはマリーである。水際から何か飛び出してくるかも知れないから、それに警戒してほしいと二人に頼むと、波打ち際で腰をかがめる。しばし水を眺めた後、革の紐を少しつっこんでみる。しばし時を経ても、特に変化は起こらない。

「…有害では無いみたいね」

つぶやきながら、指をつっこんでみる。ひんやりした水だ。持ってきた陶器の器に入れてみる。松明を近づけてみると、細かい粒子が大量に浮かんで見えた。触っても大丈夫そうだが、しかし飲むのはやめた方が良さそうだ。

臭いは妙に酸っぱかった。念入りに指先を拭くと、持ってきた水筒の一つに地底湖の水を詰め込む。この距離なら、蟷螂さえ今回のように異常発生していなければ、多分危険無く来られるはずだ。今回は持って帰るだけ持って帰り、用があるようならまた汲みに来ればいい。

辺りを探し回って、素早く図鑑で確認してあるレアなキノコ類を採取する。どれも食用には全く適さないのだが、それぞれ希少な薬効を含んでいる上、形状が独特で見分けやすい。岩陰に密生していた真っ白なキノコは、大きな丈だと子供の背丈ほどもあった。根元付近の小さなものを、ナイフで切り取って袋に詰める。ミューには側で護衛についてもらい、ハレッシュは辺りを探ってもらった。危険な生物の気配は少ないが、念には念を入れた方が良い。

続けて周囲を探る。違和感に足を止めてよく見る。岩かと思ったら、大きなキノコの塊であった。図鑑を見ると、載っている。熱冷ましに効果のある種類だ。ナイフで削り取るが、堅くて適量を採取するのに苦労した。あまり取りすぎると絶滅してしまう恐れもあるし、あくまで最小限しか持ち帰れない。この地下空間はかなり広いが、所詮は閉鎖空間。外に比べればたかが知れている。あまり無茶なことはできない。

まだまだ、面白そうなものが見つかる。水際には黄金色の岩と言われるものもあった。黄色いグズグズの塊で、臭い。脆くて使い道はなさそうだが、実は火薬の中核的な材料になる。湿気を丁寧に拭き取ってから、他とは別の袋に詰め込む。額の汗を拭う。相当に忙しい。これから荷車を外まで引っ張り出さなければならないのだから、なおさら大変だ。これは点々とだが、かなりの量があった。地面と一体化しているものも少なくなく、ナイフの束でこそぎ落とす。

見たこともない虫が、足下を急いで逃げていった。長い体で、指ほども太さがある。ただし、見たところ硬度はそれほどでもない。ムカデの一種らしい。ミューはそういうのは平気らしく、すぐそばを通っても平然としていた。

ハレッシュが戻ってくる。危険な動物はいなかったという。お疲れ様と言ってから、マリーは肩を回して、疲れを確認した。

さて、次はいよいよメインの仕事だ。さっきマリーは驚いたが、その理由は他の二人とは違う。マリーは事前の知識で知っている。此処にすごいものがあると。それが二つあったので、驚いたのである。

「ハレッシュ、松明消してくれる?」

「おう? 大丈夫なのか、そんなコトして」

「貴方の戦闘能力は信用に値するわ。 勘もね。 周囲に危険はないと判断してのことよ」

「分かった、ありがとうな」

松明に、濡れたタオルを巻き付けて、火を消す。此処は洞窟の深奥。二人とも心配そうにしていたが、マリーを信頼してくれたのは嬉しいことだ。火を消せば、何が起こるか。訪れたのは、完全なる闇…ではなかった。

無数の淡い光が、周囲に出現していた。天井にも、遙か向こうの壁にも、地底湖の中にも、地面にすらも。

光っているのは、鉱物である。高貴なその光は、蛍のそれよりも強く、炎のそれよりは弱い。光石という。

ヘルミーナという人物の著書に記されていた、魔力制御にもっとも適した素材の一つである。本来は地下のかなり深いところにあるものが、何かしらのきっかけで地表に出てくるのではないかと、著書には分析されていた。

肌触りはとてもざらざらしていた。非常に軽い石で、かなりの量を持って行けそうだ。そのまま魔力をつぎ込むことも出来るし、熱で溶かして加工する事も出来るらしい。溶かしても光る性質は失わないらしく、今から楽しみだった。

これは魔力制御を行うための中枢核を作るために必要である。他の材料でもできるらしいと言うのは、マリーでも知っている。たとえばレジェン石でもできる。前、イングリド先生の授業では知らない素材をいろいろ使ったが、そのうちの半分以上はレジェン石だった。だが、この光石は、扱いが難しい分蓄えられる魔力の量が桁違いなのだという。更に、一度上手く安定すると不安定な性質が一変する。一転して非常に強固な安定を持つようになり、爆弾の中心核としても非常に優秀な性質を持つようになるそうだ。

光石はそれこそ売るほど落ちていた。地面の中にあるものを掘り出さなくても、拾うだけで幾らでも集められる。ハレッシュに見張りに立ってもらい、不思議な場所に出現した星の海で、マリーとミューは光石を拾い集める。疲労が吹っ飛ぶほどに、面白い作業だった。

これのために持ってきた皮の袋が、いっぱいになるのに、さほど時間は掛からなかった。

 

4,覚醒

 

壮絶な光景だった。帰り道は、蟷螂の死体であふれていたのである。

軍に狩られたらしいもの、あの女に吹き飛ばされたらしいもの。いずれも無惨な死体である。可哀想だが、狩らねばどんな被害が出るか知れたものではなかった。それにこれからが大変だ。この周辺の森は、生態系がズタズタになっている。元に戻るのに、一体どれだけの時間が必要なのか、マリーには見当もつかなかった。二年や三年では、とても無理だろう。

途中で軍の部隊にあった。騎士団は出てこなかったようだが、駐屯地の戦力はフルに出撃してきたらしい。その甲斐あってか、負傷者が出ただけで、死人は出さずに済んだそうだ。駐屯地に引っ張られて、三人揃ってみっちり事情聴取された。ギルドに提出する書類まで書かされたので、また帰りにも大幅に時間をロストしてしまった。

ぐったりしたが、後は街道を行くだけ。家までの足取りは軽かった。城門で分かれる。また用がある時は呼んでほしいと、ハレッシュは握手してくれた。想像通り、たくましい手であった。実に力強い。今後も難所に挑戦する時は、手伝ってもらいたいところだ。

ミューは最後まで着いてきてくれた。彼女はもうなじみだし、最近は自主的に仕分けを手伝ってくれる。ハレッシュはこういう事に気付かなかったのだろう。これは単に特性の問題だ。強制はできない。手伝ってくれるというのなら、好意を受けるというだけだ。

看板をひっくり返す。今日からアトリエでの調合作業、復帰だ。

「ただいま。 アデリー、帰ったよ」

ぱたぱたと二階から降りてくる音。アデリーは無事であった。安心したのは、マリーだけではなかった。

アデリーも、不安そうにしていたのである。それがマリーを見て、一気に晴れた。僅かに笑みに近い表情が浮かんだが、すぐに消えてしまった。だが眉が下がっていて、とても安心したのがそれだけでわかった。

「お帰りなさいませ、マスター」

「うん。 さっそく悪いんだけれど、ちょっと手伝って。 仕分けするから」

「はい!」

「よーし、私も手伝っちゃうぞー」

腕まくりしながらミューが言う。彼女も、アデリーには好意を抱いたようだった。二人には笑顔を向けて作業をしながら、マリーは考えていた。あの異常な事件を。一体何があれを引き起こしたのか。

なんだかとても嫌な予感が続いている。マリーの側に、破滅的な何かがあるような、そんな気がした。

 

今回の回収素材は鉱物ばかりということもあり、品質劣化するものは少ない。キノコ類も適度な湿気の下においておけば長時間保つのだ。唯一黄金色の岩だけは、油紙に包んで暗いところに置いておく必要がある。

まずは換金素材から作る。爆弾や魔力制御装置の研究はそれからだ。なぜなら、既に資金の残量がレッドゾーンに突入しているからである。

キノコ類を出してきて、干してある薬草類と調合する。白いキノコは驚くべき事に、回収した時よりも更に大きく成長していた。長い株などは、マリーの二の腕ほどもある。

包丁で細かく刻んだ後、煮るもの、砕くものに分ける。煮るものはそうすることで主にエキスを抽出し、砕くものは素材を摂取しやすい形へ分けるのである。春が来たと言うことで、生物性の素材は手に入りやすい。数冊の教科書を見比べながら、マリーは慎重に分量を見極め、薬剤を作る準備をしていった。それにしても肉厚のキノコだ。斬る時に、ざくり、ざくりと、ずっしりした手応えがあった。

今回は、火の世話をしている間、日常生活をアデリーに任せることができるのが嬉しい。手間がかなり軽減される他、作業が孤独ではなくなる。ご飯がどうだとか、天気がどうだとか、くだらない話でも随分気は紛れるものなのだ。

数日で中和剤が完成する。以前と同じ失敗はしない。マリーだけではなく、アデリーという強力な魔力放出媒体が居ることを考慮に入れて、魔法陣の中心においた水と土を素材にしたそれぞれの中和剤の出来を見る。思ったよりも随分早くできあがった。だが、楽観はできない。

最近出費がかさんだせいで、貯金がかなり少なくなってきているからだ。作業は急がなければならない。

鍋を釜にセット。今までの作業の腕前を見ている限り、火の世話もある程度アデリーに任せることができそうだ。もちろんずっと任せるわけにはいかないが、それでもマリー自身の負担はかなり小さくなる。鍋の中にボウルを入れて、刻んだキノコを入れ、中和剤で溶かし込む。そこへ、数種類の薬草を混ぜ込んでいく。

汗が額に浮かんでいたので、ハンカチで拭った。かなり怖い。

今回作っているのは解熱剤である。解熱効果があるキノコをベースに、複数種類の薬草を混ぜて、熱を出した人間の精力をつけつつ回復へ向かわせる。簡単な薬剤だが、配合する薬草の分量を間違えると毒になりかねない。人体実験をするわけにもいかないし、アカデミーの先人達が積み重ねた実験結果を信じるしかないのだが、それにしても緊張する。天秤で何度も計り直したが、不器用なマリーが上手く配合することができたのか、少し不安だ。できるまで、四日間同じ火力で煮込まなければならないというのも手間だ。いつもと同じように、まるで生き物のように火をかわいがりながら、じっくり作り上げていかなければならない。

中和剤とキノコと薬草類を混ぜ込み、火に掛けたところで、もう一つの薬剤を作りにかかる。岩状のキノコを砕いた粉末をベースに、中和剤で溶かし込み、此処に蜂蜜を入れてゆっくり溶かし合わせる。此方はオニワライタケやアカアマテングダケを使うよりも更に強力な栄養剤だ。むしろ強精剤というに近い。配合を間違えると、老人などは頭の血管を切ってしまうかも知れないほどだ。これは効き過ぎる事を考えて、薄める必要があるかもとマリーは考えたが、やめた。売る時に注意を促すことで、使う方に薄める判断をして貰った方が良いと考えたためだ。

此方の作業は地下室で行う。一定の温度下で、じっくり時間を掛けて混ぜ合わせないといけないからである。理論的にはぼんやりと理解できる。蜂蜜の栄養成分とキノコの栄養成分を壊さないようにするためなのだとか。解熱剤の方は、栄養成分ではなく薬効成分が必要なので、熱を一定に加える必要があるのだという。どちらにしても、手間が掛かることだ。

ボウルを抱えて、ゆっくり丁寧に混ぜ合わせていく。あまり混ぜる速度が過ぎると、空気が入り込みすぎる。遅すぎると、固まってしまう。かなりの重労働だが、これはいつもの栄養剤よりもかなり高値で売ることができるはずで、更に自分のスキルもつく。頑張れば報われる。この間のコメートのように。言い聞かせて、ボウルの中身を混ぜる。

アデリーの助力がこんな所でも効いてくる。上を任せることができるから、此方に全力投球できる。一人で仕事をしている時には、此処まで綺麗に同時並行作業を行えなかっただろう。

地下室にアデリーが降りてきた。手には買ってきてほしいと頼んだ夕食のグラタンが入ったバスケットがある。パン類と同じく、車引きで美味しいお店があるのだ。このタイプの店は陶器製の容器に入れたグラタンをごく少数売っていて、買う時に住所を告げなければならない。そして翌朝、店の方で売った相手の住所を回り、容器を取りに来る。生産数が少ない反面、暖かいうちはもの凄く美味しいので、御馳走の一つにマリーはカウントしている。今日は重労働だったので、残り少ない資金から奮発したのだ。

極端に他人との接触を怖がるアデリーだが、メモを渡してあげれば、それを使って買い物をきちんとしてくる。マリーが眉をひそめたのは、かなり顔色が悪いことだ。

考えて見れば当然である。アデリーはマリー以上の魔力素質の持ち主だが、能力者の性質に忠実で、魔力に反比例して体力がない。マリーの様子からして、「重要な仕事をしている」と判断、かなり気を張って任された仕事に向かっていたのだろう。(もう捨てられたくない)から。結果、疲労がピークに達しているのだ。

健気だと思う反面、わずかにまだ信頼されていないことに気付く。帰りが遅くなったのも、それに拍車を掛けてしまったのだろう。普段なら問題ないが、複雑な作業を中断されたことで、マリーの中に僅かな不協和音が生じていた。

「マスター、晩ご飯、買ってきました」

「ん、ありがと」

「はい」

「顔色が悪いわね。 食べたらもう休みなさい。 後はあたしがやっておくから」

アデリーがうつむく。マリーは少しかき混ぜる手を休めて、バスケットを受け取った。アデリーはどう見ても悲しそうだ。ちょっと口調がきつかったかと思い、言い直す。作業を続けると、どうしてもストレスが溜まってくる。しかしそれをアデリーにぶつけてしまってはいけない。人間である以上過ちは必ず犯す。だが回避できるレベルでは、努力はしなければならない。

「今日一日、頑張ってくれたから、美味しいものでもたべて休みましょう。 あたしはもう大人だし、体力もあるからまだ大丈夫なの。 あんたはまだ子供だし、無理に背伸びしなくて良いのよ」

「ごめんなさい、明日は頑張りますから、その」

「大丈夫。 怒っているわけではないから。 あたしを信じなさい。 ほら、美味しいよ」

頭を撫でようかと思ったが、今の精神状態でそれはまずいだろう。できるだけ笑顔を作って、自分から率先してグラタンを口に運ぶ。小麦粉の使い方が上手なのか、とても香ばしくて美味しい。肉汁も良くしみていて、舌を火傷しないように急いで食べるのが大変だった。二人、向かい合ってグラタンを食べる。食べている間、とても静かだった。

アデリーはこんなに美味しいものを食べたのに、子供らしい幸せそうな笑顔を浮かべなかった。仕方のないことだ。誰と比べて幸せだとか不幸だとか、そんな理論に今意味はない。

二階に連れて行って寝かしつける。遠慮していたアデリーだったが、やはり体力のない子供。すぐに寝息を立て始めた。それを見届けてから、降りて、本格的な仕事に取りかかるべく、ペースを上げる。家庭面での補助が出来る人材がいるのだから、マリーは研究調合に全力投球できるのである。

夜中、ようやく強精剤が完成。瓶詰めして、地下室の隅に置いておく。火の状態を確認。数時間は保つ。薪を追加して、更に火を安定させると大あくび。仮眠が取れそうだった。アデリーに仮眠と作業を繰り返す仕事をさせるわけにはいかない。気の毒だし、体力が保たないだろう。

二階に上がって、布団をよける。布団を被って寝てしまうと、そのまま寝入ってしまう可能性があるからだ。冬はそれでも布団を被らなければならなかったが、今はもう春。布団なしでも耐えられる。グランベルでの寒さは、こんなものではなかったのだ。

ベットの上で座り、壁に背中を預ける。この体勢だと熟睡が避けられるので、徹夜必至の時はこうやって寝る。ふと、アデリーに目がいくと、眠っている彼女は、悪夢にうなされているようだった。小声で何かつぶやいている。唇など読まなければ良かったのにと、一瞬後にマリーは思った。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ぶたないで、すてないで」

ひっ、と小さな声を漏らして、身を縮めるアデリー。鞭はいや鞭は怖いと、心に深い傷をもつ少女はつぶやきつづけている。虐待されている時の夢を見ているのだろう。それなのに、涙一筋流れない。両親だかなんだかの鬼畜外道は、この子から涙さえも奪ってしまったのだ。

この子が幸せな夢を見ることができるのは、いつなのだろう。マリーにはまだ心を許しきっていないようだし、いつ捨てられるのか怖くて仕方がないはずだ。触っても平気になったら、いっぱい抱きしめてあげよう。マリーはそう思った。

 

仕事というものに慣れた体は現金で、きっかり二刻ほどで目が覚める。アデリーはまだ寝ているが、夢は見ていないようだ。せめてもの幸いか。少し布団を押しのけてしまっているので、かけ直して、髪の毛を撫でる。可愛い子じゃないか。マリーはつぶやき、母性と憎悪を同時に感じた。奴隷に売った親は法的に情報を保護されるので、探し出すのは難しい。だが、もし見つける事ができたら最後、これ以上もないほどの恐怖を味合わせた後、八つ裂きにしてやる。地獄の最深部からはい上がってきた炎が、マリーの瞳の中で燃えていた。

目はさめたが、手元はまだ怪しいので、一度外に出て井戸水で顔を洗う。まだ殆どの家は白河夜船の中、マリーは活動し続ける。火の状態をチェック。少し小さくなっていたので、薪を足す。竈の中を念入りにチェックして、数時間保つことを確認してから、熱冷ましの状態を見る。透明度が増してきていた。良い感じで、キノコと薬草の栄養成分が混ざり合いつつある証拠だ。このまま火を保ちつつ、時々蒸留水を加えてじっくり煮立てていけば、じき完成である。

今日は昼頃に強精剤を納品に行く予定だ。初めて納品する品なので、どれほどの値がつくかは分からないが、それなりの報酬が期待できる。この状態から寝るには、少し時が必要だ。教科書を引っ張り出し、念入りに目を通していく。

二年生レベルの調合は、もうあらかたできる自信がある。今メインで行っているのは、三年レベルの調合。まだ此方は使いこなせては居ないが、自分で思ったよりも学習のペースが速い。確実に出来る事が随分増えてきている。様々な器具も、かなり手際よく使えるようになってきていた。やはり生活と金がかかると、人間は出せる力が大きくなるのだろう。ある程度勉強を進めた後、地下倉庫からレジェン石を出してきて、実験に移る。

手に息を掛けて暖めたあと、まだ余っている紙ヤスリをだす。手製のヤスリだが、その効果は充分満足できるものだ。比較的丸いレジェン石を、丁寧に磨いて角を取っていく。ここからが、いつもと違う。

いつもはつやが出るまで磨くと、土から作った中和剤を表面に塗る。そうして暗がりに放置しておくと、元々魔力を蓄えやすい性質が、更に高まるのである。そして電撃に親和性が高いマリーの魔力を蓄えてやると、衝撃を与えるだけで周囲に電撃を放出する、簡易魔法弾のできあがり。名付けて雨雲の石。もちろん鎧の上からも効果が大きく、子供くらいなら一撃で気絶させることができるし、大人だって無力化が可能だ。これがそこそこの値段で売れる。今までにも三十ほど納品した。冒険者達の間で好評だそうで、マリーには出来次第持ってきてほしいとディオ氏の言葉が掛かっているほどだ。

今回は、雨雲の石を作るのではない。だから、レジェン石に中和剤を塗らない。非常に強力な魔力媒体だと書かれていた光石の性能を試すために、同一の条件で比べてみるためだ。光石は中和剤を必要としない。磨く必要はあるが。

光石を地下室から出してくる。ランプの明かりの下では、ただの石だ。まずはレジェン石から。掴んで目を閉じ、精神を集中して魔力を注ぎ込む。数分間の作業で、かなりの疲労がマリーの全身を包んでいた。

無言のまま、額の汗を拭う。首筋もだ。やはり中和剤につけ込まないと、魔力を注ぐのにも労力が違う。中和剤につけ込んだ後だと、しみこむように魔力が入っていくのだが。疲労の大半は、魔力を吸われたためではない。注ぎ込むのに精神集中が必要だったからである。

続けて、光石。おもむろにヤスリで磨く。ざらざらしている表面を、すべすべにするまで、かなり時間が掛かった。ヤスリが駄目になってしまったので、嘆息。これも作るのには随分手間が掛かるのだが。資金繰りに火がついている今、実験での損失は最小限に抑えたい。素材も無限にあるわけではないのだ。

舌なめずりして、両掌で包み込んで、魔力を注ぎ込む。

「ん、うっ!?」

がくんと世界が揺れた気がした。すごい勢いで、魔力が吸い込まれる。油断していた。これほど吸収力が強いとは思っていなかったのだ。だが、終わりも早かった。ものの十秒ほどで、魔力の吸収が終わる。

呼吸を整えながら、並べて二つの石を置く。時間は掛かったのに、レジェン石は、光石の十分の一程度の魔力しか吸わなかった。

一度外に出る。流石にこれを家の中で砕く訳にはいかない。鉱石粉砕用の大型ハンマーを持ってきて、一撃を振り下ろす。最初は、レジェン石から。

「せいっ!」

鈍い音とともに、レジェン石がはじけた。手に僅かなしびれが来る。電気が此処まで伝わってきたのだ。ちゃんと加工すれば、殺傷力を持たせることも可能だが、純粋な魔力だけではできることにも限界がある。まあ、せいぜいこんなところが関の山だ。

続けて、光石。外ではうっすら光っていて、壊してしまうのがもったいない。これは起動方式が幾つかあるのだが、今回はその中でも最も簡単な、純粋な物理的破壊を試してみる。反動が大きいことは予測済み。充分に注意しながら、ハンマーを全身の反動とともに振り下ろす。

そして、マリーの意識は飛んだ。

 

「マスター! マスター!」

気がついた時、マリーは泣きそうな顔のアデリーに揺すられていた。ハンマーの柄は砕けてしまい、槌の部分もへこんでいる。何が起こったかは、一目瞭然だった。

体は無事だ。怪我はない。顔を撫でてみるが、無くなったパーツはない。運が良いというべきだろう。この規模の事故、死んでいてもおかしくはない。辺りを見回すと、隣家のおばさんがさっと窓を閉じた。それで気付く。今はもう朝ではないか。

思い出す。熱冷ましの薬は、まだできていないのだ。

「火、火! 火は大丈夫?」

「えっ? え…と。 大丈夫です」

「そんなことよりも、別の心配をしなさい!」

「ひあっ!」

頭に容赦なくフライパンが振り下ろされていた。頭を押さえながら見上げた先には、本気で怒っているシアが居た。全身から高密度の魔力が迸っている。彼女は怒らせると怖い。嫌と言うほど、身にしみて知っている。

シアはしばし眉を寄せてマリーをにらんでいたが、困惑しているアデリーを見かねてか、助け船を出してくれた。

「アデリー、火の様子を見てきなさい」

「は、はい。 その、マスターは、その」

「大丈夫。 この人は、ドラゴンに踏まれでもしない限り壊れないわ」

反論する資格がないのが痛い。しばらくおどおどしていたアデリーは、アトリエに引っ込んだ。後は、説教の時間だった。正座させられて、延々とである。陽が昇り、鶏が鳴いた頃、ようやくマリーは許してもらった。

シアは元々、今日アデリーの様子を見るのと、朝食をマリーと一緒に取るため来たのだという。そうしたら雷が落ちたような音が至近でした。アトリエに駆け込んでみればこの騒ぎである。それは怒るのも無理がないだろう。

最近徐々に高度な実験を行うようになっていたマリーに、シアはたびたび釘を刺していたのだ。危険な実験を行う時には、充分な防御準備をしろと。今回はそれを怠ってしまった以上、怒られるのは当然だった。こんな破壊力が出るとは、思っても見なかったのである。それがマリーの弱点だ。戦術面での判断力は問題がない。個人戦闘でもほぼミスはない。しかし戦略的大局的な判断が、いつもいつも甘すぎるのだ。

フライパンで叩かれた頭をさすりながら、真っ二つに折れたハンマーを調べてみる。不思議な折れ方だった。槌の部分を、真上に突き上げるようにして折れているのである。マリーの怪我が無かったのも、これが原因だ。転んでもただでは起きないのがマリーである。この失敗、絶対に無駄にはしない。だが、それを一枚上回る相手が居る。もちろんシアだ。彼女はマリーが何を考えているのか、即座に見抜いていた。

「朝食にしましょう。 それを考えるのは後よ」

「ふあい。 ごめん、シア」

「謝るのはあの子によ。 どんなに貴方を心配していたかと思ってるの」

返す言葉がない。これではあの子の愚かな両親と同じではないか。

悔悟と興味が同時にわき上がり、マリーの心を乱し続けていた。アデリーに謝って、朝食にする。神妙な気分ではあったが、どこか心が浮つく。

マリーはとらわれてしまったのである。光石が生み出した、圧倒的な破壊の力に。朝食を終え、シアにもう一度釘を刺される。今日は気分を変えて、朝から強壮剤を売る交渉に飛翔亭に向かおうと決めた。自分でも自信がなかったからである。今のままたがが外れると、何もかもを捨ててあの爆発の研究に没頭しそうであった。

胃の下から、じりじりと興味がわき上がってくる。心配そうに見ているアデリーに、平気だと笑顔で返す時も、それは消えなかった。なぜなのだろうか。マリーの心の中で、それは決して失われない。心の一部に、何かが入り込んでしまったかのようだ。

恋というのは、こういう感触なのではないかと、マリーは思った。思った直後に、何ともマリーらしい「恋」だと自嘲する。爆発物に対する恋など、普通ならよほどの変質者くらいしか抱かないだろうに。どこか上の空のまま、飛翔亭での交渉を済ませる。サンプルに持って行った強壮剤の品質には、ディオ氏も満足なようで、すぐに客を捜してくれると言っていた。言っていたが、彼もマリーの変調には気付いているようだった。交渉が終了して、帰ろうとしたマリーに、ディオ氏は言う。

「何か、変なものに入り込まれていないか?」

「え? そうですね、ちょっと面白いものを見つけまして。 その、不謹慎なんですけれど、心が燃え上がりそうです」

「何が不謹慎かはわからねえが…ものによっては修羅の道になるぞ。 それでもいいんだな?」

修羅の道に入ってしまった人を、知っているかのような口ぶりである。人生経験豊富なディオ氏の事だ。多分知っているのだろう。

「何とか制御してみようと思ってます。 助けてあげたい子もいますし」

「…難しいとは思うが、頑張ってみるんだな」

そういって、ディオ氏はおみやげに焼きたてのハムをくれた。滅多に店頭には出てこない彼の愛娘が焼いたものだ。マリーも何度かみかけたことがあるフレアさんという彼女は、少々過保護に育てられ気味で、非常にいい人らしいのだが生存力が足りなさそうである。多分若い頃から苦労してきたディオ氏の事だから、自分と同じ苦労を味合わせまいとして、逆に過保護になってしまっているのだろう。伝説的な冒険者にも、こういう辺り人間味があって面白い。

いろいろ考えるうちに、少し気分が楽になってきた。アデリーを助けてあげたいという気持ちが、光石の研究に没頭したいという気持ちと、良い感触で平衡を保ってきたのである。時間が経って、心が冷えてきたためだろう。戻ると、アデリーにハムを手渡して、スライスしてくれと頼む。アデリーはしばしマリーの顔を見上げていたが、こくりと頷いて作業に掛かった。怒っていると言うよりも悲しそうで、心が痛む。

裏庭に出る。ハンマー以外壊れたものはない。驚くべき事に、粉砕に使った石の上には、ひしゃげた光石がそのまま残っていた。レジェン石はこういう時、木っ端微塵になってしまうのだが、これも性質の差の表れだろう。アデリーに心配させてはいけないから、彼女が寝ている時に研究するべし。懐に入れてアトリエに戻る。あれだけの事があったのに、アデリーは熱冷ましの火をちゃんと保ち続けてくれていた。蒸留水を静かに足してかき混ぜながら、マリーはハムを切り分ける少女の背中を見る。

ほめてあげるべきなのか分からない。きっとあの子は、マリーに捨てられたくないから、悲しいのに頑張っているのだ。ほめるよりも、信頼を築く方が先のような気がしてならない。

同じ目線でものを見る。同じ事をしてみる。いろいろと思いつくが、何から試して良いかもよく分からない。それに今回の実験も、この子の不安定な魔力体質を改善するためという意味があったのに、完全に裏目に出てしまった。

苛立ちと精神的沈降を押さえるために、強精剤をもう一セット作り始める。まだまだ材料は余っているので、ディオ氏に指示された締め切りまでには、更にストックが増やせそうだ。これで最低でも採集費くらいは稼げる。後は雨雲の石用にフェストを砕いてヤスリを作り、レジェン石を研究用を残して売り払えば、充分に黒字になるだろう。熱冷ましも明日中にはできる。アデリーを引き取ることで焦げ付きかけた資金も、これで一息つける。

物理的な制御はもうすぐ着く。後は自分をどう制御していくかだ。

強大なものの蓋を、マリーは開けてしまったのだ。それは生理的な嗜好。それはマリーを栄達にも破滅にも向かわせるはず。そしてそのうねりは強大である。下手をすると、簡単にアデリーを巻き込んでしまう。

キノコを切り分けると、マリーはボウルに分量を間違えないように入れる。また一日がかりでかき混ぜないといけない。背中を向けて寂しそうにハムを切り分けていたアデリーが振り向く。せっかく消えかけていた不安が、その瞳には戻っていた。

「マスター」

「ごめんね、アデリー。 かなしい思いさせて」

「…っ」

「大丈夫よ。 まだ信じることはできないと思うけれど、あたしは貴方を絶対に捨てないからね。 さ、ご飯にしよう」

信じたいのに信じられない。アデリーの表情が、その複雑な心理を雄弁に語っていた。その日、結局アデリーは、寝るまで仕事以外の言葉を一切吐かなかった。せっかく築いた信頼も、また一から作り直しだ。錬金術的には大きな進歩があったのに。大きすぎる失敗をしてしまった気がする。

うずうずとわき上がる探求心を押さえて、マリーはボウルをかき混ぜた。これは彼女自身への罰。自制は人間にとって最大の美徳。その美徳を、今は実力行使で、身に纏わなければならない。

今は、まだ新しい研究に入るわけには行かなかった。アデリーは分かっている。なぜマリーが浮ついているのか。気絶していたのか。そして一歩間違えば、また彼女を結果的に捨てる人間が出たと言うことを。

これはアカデミーの図書館に持って行き、そこの蔵書を漁って念入りに念入りすぎるほどに調べる。全てはそれからだ。今回は徹底的に作業の外堀を埋める。同じ失敗を繰り返さないためにも。

マリーはいつのまにか、気の毒なアデリーに同情するだけではなく、自分のことと同じように考えるようになっていた。そしてそれは、彼女に大きな自制の力を与えていたのである。マリーは光石の失敗で二つのものを得た。一つは自制を持つ自覚。そして、今ひとつは。錬金術に対する、嗜好レベルでの興味であった。

 

5,アカデミーの光と闇

 

アカデミーの研究室で、イングリドは眉根を寄せて、手紙を読んでいた。ソファに深く腰掛けて、リラックスしているのにかかわらず、彼女の表情は暗い。手紙は今朝届いたものだ。真っ黒な紙に包まれた、奇怪な手紙であった。

イングリドには世界一嫌いな人間が居る。そいつは彼女と拮抗する力量を持つ。幼い頃からのライバルであり、同じ人を師と仰いだ。同じ人に親のぬくもりを教えて貰った。それなのに、二人は性格が正反対で、犬と猿よりも仲が悪かった。

研究のやりかたも異なる。堅実な研究を行うイングリドに対して、そいつは冒険的な研究を行う。性質が近い素材から試して少しずつ改善をはかるイングリドに対して、そいつはあまりにも突飛な素材を使いたがる。あくまで堅実に地歩を固めようとしたイングリドに対し、そいつは若い頃から世界を見て回り、あらゆる可能性を身につけていった。

力はいつまで経っても互角。戦闘スキルも、錬金術の知識も。生み出した理論の数も、編み出した技術も。そして才能までもが。一長一短と得意分野はあるが、それも目立つ程ではない。

イングリドを光と秩序とすれば、そいつは闇で混沌。いうまでもなく、そいつの名前はヘルミーナ。イングリドがもっとも嫌いな人間だ。

そして、手紙の出し主は、そのヘルミ−ナであった。

アカデミー内部で二大派閥を構築、争いを繰り広げていると思われている二人だが、実情は異なる。二人は互いを嫌い合っているが、本質的な部分では力拮抗するライバルとして認め合っているのだ。

本気で嫌い合っていた幼少時と違い、こういう精神的変化が生じているのには、共通の師であるリリー先生の存在がある。今でも誓いは健在だ。リリー先生のためにも、仲良くして見せようと。最初は振りだった。だが聡明な先生を安心させるためには、本気で仲良くならなければいけなかった。二人は必死に努力を重ね、やっと彼女たちなりの「仲良し」を完成させることが出来た。リリー先生が旅立つ時、二人を見て笑顔を浮かべていた事が今でも思い出される。

派閥を作ったのも、争いこそが的確な進歩を産むと判断したから。そして内外に分かれているのも、その方が錬金術の進歩をコントロールしやすいから。現在、ヘルミーナは遊撃的なポジションで、アカデミーに都合が悪いものをつぶして回っているのだ。

たとえば、中途半端に軍に協力している三流錬金術師が作った、出来損ないの生物兵器とかを。

手紙はいつものように嫌みから始まっていた。相変わらず肌の潤いがないだろう、この場にいなくても目に映るようだとか。見ても居ないのに見たかのような、しかも陰湿な枕詞から始まり、いきなり気まぐれに本題にはいる。彼女の行動は、いちいちが予測しづらい。

「どこかの馬鹿が作った生体兵器を根こそぎ潰しておいたわ。 ウォー・マンティスをベースに、生体成長促進剤を用いて急速に巨大化させたものの試作品ね。 軍の出動の迅速さからいっても、軍が製造に協力していることは間違いないでしょう。 おそらく敵国内部にばらまいて、治安を混乱させるのが目的でしょうね」

その後は生物兵器のスペックが書かれており、そして唐突に嫌みが書かれたり文面が右往左往したあげく、いきなり手紙は終わった。悪意があるわけでもなく、頭が悪いのでもない。ヘルミーナは単純にこういう人なのだ。

イングリドは手紙を丸めると火をつけ、燃やす。スペックは既に記憶済みだからだ。この手紙がよそに漏れるとまずい。イングリドとヘルミーナだけが知識を共有していればいい。ドルニエは肩書き的には校長だが、あれはあくまで「世界有数の優秀な研究者」である。この学校を切り盛りしているのは、ずっと昔からイングリドとヘルミーナなのだ。経営はイングリドが担当し、汚い仕事は全てヘルミーナが動かす。そうしてアカデミーは今まで成長してきた。

ヘルミーナが実働戦力をたたきつぶしたのだから、今度はイングリドが動かなくてはならない。今、シグザール王国と対立するのはまずい。かといって、シグザール王国に独立して動ける錬金術師の部隊が創設されるのはなおまずい。なぜなら、それだけの力量がある錬金術師がまだまだ足りないからである。中途半端な錬金術の知識とスキルを使って、大惨事でも起こされたらイングリドが迷惑する。現に、今回はそれが起こり掛けたのだ。

王国が火薬式兵器の実用化に向けて動いている事は知っているし、協力もしている。しかしその一方で、軍にパイプを持つ一部の上級貴族が、それ以外にも錬金術を用いた兵器を作り出せないかと動いている事については苦々しく思っていた。そして、今回の事件である。何かしらの対抗策を講じる必要がありそうだった。

しばし考え込んだ後、イングリドは王国中枢にパイプを持つ錬金術師を呼び出す。言うまでもなく、ヘルミーナ閥に属するファゼルだ。最近彼は少し動きが目立ちすぎるようになってきていた。この辺で釘も刺しておかねばならなかった。

老錬金術師は、体を揺すりながらイングリドの研究室までやってくる。老体らしく、長距離の移動が困難らしい。

「何ですかな、イングリド先生」

「遠いところお疲れ様です。 そちらにおかけください」

いぶかしげにソファに腰掛けるファゼル。イングリドは口の端をつり上げると、彼に様々な情報を一気に叩き込んだ。さながら、悪魔的な手腕で。研究室を退去した時、ファゼルは蒼白になっていた。すぐに王宮に駆け込んで、今叩き込んでやった情報を注進するだろう。それでいい。それだけで、馬鹿どもに対する充分な牽制になる。

アカデミーは、決して御しやすい犬ではない。錬金術の発展のためなら、どんなことでもする非情の組織だ。今、アカデミーを侮らせるわけにはいかない。将来のためにも。だから、王国を牽制しておく必要があるのだ。

ベルが鳴った。どうやら、研究のために注文しておいた資材が届いたらしい。いろいろとやらねばならぬ事が多くて、肩がこる。だが楽しいのだからよしとするべきなのだろう。届いた物資の品質を確認すると、イングリドは早速研究に取りかかった。

 

山奥の、寂れた小屋の前で。黒い長衣に身を包んだヘルミーナが右手を下げる。足下まで肌を隠したドレスも、手首まで隠した袖も、全てが黒い。紫色の彼女の髪と、全てがマッチしていた。

今彼女が発動した術により、鎌を振り上げていたウォー・マンティスは吹き飛び、其処には何も残っていなかった。彼女の左には、大樹の根元に腰を抜かして震えている初老の男一人。イングリドに師事したことがあり、今はシグザール王国の秘密研究員として、この間のバイオハザードを引き起こした、三流の錬金術師だ。

錬金術師は社会的な知名度が低いことも多く、必ずしも稼げる仕事ではない。腕が悪いと客もつかないし、研究テーマ次第ではスポンサーだってつかない。この初老の男は、そういう現実を知っていたから、自分の魂を闇に売った。イングリドは口を酸っぱくして教えているはずなのだが。

辺りの木は傷だらけ。出来損ないの生物兵器どもに、さんざん壊された森が、此処にもある。生態系が戻るまでどれほどの時が掛かるのか、想像できない。

「錬金術は、自然の産物を駆使して行う学問。 だから自然への敬意を忘れてはならない」

「ひ、ひいいっ!」

目に狂気をたたえたヘルミーナは、怯えきった初老の男を見据える。山奥だから安心して研究できるとでも思っていたのか。周囲には護衛用にこの男が放していた大型ウォー・マンティスの亡骸が点々としている。今までヘルミーナが掃除してきたものと、同一の種類だ。

「まあ、イングリドはそんな風に怒るでしょうけれど、私は違うわねえ。 こんな制御能力も戦闘能力も低い不良品を錬金術の産物として喧伝されたら困るのよ」

「す、すまなかった、すまなかった! ゆるして、ゆるしてくれっ!」

「許す? 何で?」

こいつの引き起こしたバイオハザードで死人が出ていたら、アカデミーに何が起こったか知れたものではない。こいつは唾棄すべき裏切り者で、くずで、許し難い罪人だ。ヘルミーナの目に、狂気と怒りが爛々とともっている。リリー先生が作り上げたアカデミーを汚す人間は、いかなる手段を用いてでも潰す。それが、ヘルミーナの正義だ。

懐から取り出した瓶。中には、土留め色に濁った液体が満たされていた。もはや大蛇ににらまれた蛙に等しい錬金術師の顔を掴むと、片腕でつり上げる。細い腕なのに、万力のような力であった。そして木の幹にたたきつけ、口に、無理矢理液体を流し込んだ。悲鳴を上げてもがいていた錬金術師は、やがて動かなくなる。目からは、知性の光が消えていた。

人間を無知性化する、ヘルミーナの調合した秘薬である。もちろん、彼女が独自に作り上げたものだ。しばらくこの男は、ヘルミーナの言葉に盲目的に従う一種の動く死体と化す。解毒剤はあるが、飲ませてなどやらない。こいつはヘルミーナの工房で下働きさせる。まあ、十年ぐらい無賃労働にこき使ったら、許してやっても良いだろう。

「最初の命令よ。 研究成果を書き記した資料を、全て持ってきなさい」

「あ、あい」

目の焦点が合っていない老錬金術師が、よたよたと紙たばを持ってくる。素早くそれに目を通したヘルミーナは、想像以上に酷い内容にがっかりした。彼女だったら、この百倍は上手くやることが出来るのに。才能の差は残酷だ。

こんなくず資料を消去するのに、わざわざ火を熾すまでもない。最小威力のネーベルディックを発動。手の上で燃やし尽くしてしまう。そしてヘルミーナには小屋にも掌を向け、粉々に吹き飛ばした。後には何の痕跡も残らない。

老錬金術師を連れ、ヘルミーナはその場を後にした。一つの事件が、誰も知らぬまま、終わりを告げた。

 

注文されていた資材類をバスケットに詰めたパテットがマリーの家を訪ねたのは昼過ぎである。ノックと同時に、マリーとは違う声がした。さては使用人を雇ったなと判断したパテットは、相手が妖精だと気付かない可能性を配慮し。数歩下がる。ドアが開いて、気が弱そうな細身の少女が現れた。予想通り、使用人だ。待遇はかなり良いらしく、服は良く洗濯はされている。だが使用人を示す黄色いリボンが服についている。この辺りは、マリーらしいけじめなのだろう。

パテットは敵意を抱かれないように、なおかつ丁寧に言う。

「マリーさんは居ますか? パテットだと言えば分かります」

「は、はい。 ただいま」

使用人、それも子供には、心に傷を負っているものが少なくない。パテットが買い取った何人かもそうだった。ぱたぱたと駆けていく音が消えると、今度は戦い慣れた大人の足音が近づいてくる。マリーのものだ。

ドアを開けたマリーの服は、随分汚れていた。最近彼女は錬金術師を示す長衣や冒険に出かける時に着る外出着ではなく、実験用に白衣を身につけている事が多い。今日も白衣を着ていたが、もうそれは「白衣」とは言い難い。得体の知れない染みが多数出来ていて、臭いもする。

あの使用人の子に、マリーは不満を持っていないとパテットは見た。しかし、現実問題、まだ生活に不満が感じられる。そしてマリーはここのところ、稼ぐ金額が明らかに大きくなっている。それらを即座に見抜いたパテットは、反射的に悟る。これは商売のチャンスだ。

「あ、パテット。 予定通りの時間ね」

「はい。 鮮度が命ですから」

「どれどれ。 …注文通りね。 はい、ありがと」

「毎度です。 ところで、マリーさん」

小さな手で料金を受け取りながら、パテットは相手に警戒心を抱かれないように、計算し尽くして笑顔を作る。

「使用人は一人で足りていますか?」

「ん? そうね、足りてるわよ。 足りなくなったら頼むかも知れないけれど」

「家事洗濯はともかくとして、そろそろ専門で素材を集めてくる使用人がほしくありませんか? 我々妖精族はその道のプロです。 決して損はさせませんよ」

「…詳しく聞かせて貰いましょうか」

商売のコツは、嘘をつかないことだとパテットは考えている。口八丁で一時の利益を得ても、長期的には損をしてしまうのだ。そこで、口八丁で契約を取り付けつつ、相手にも満足して貰う。そうすれば、商売は継続的に行えるのだ。

アトリエに入れて貰う。思ったより遙かに片付いているが、多分これは、まだ手が足りていない。生活面では足りているようだが、研究面では厳しいのだろう。茶を出してくれたアデリーに一礼すると、使用人の追加の件について、パテットは話を始める。

マリーは魔術と戦闘スキルをもって戦うが、パテットは舌を使って戦う。どちらにも、さほど苛烈さに代わりはないのであった。

 

(続)