滝と星と血と汗

 

序、滝壺の怪物

 

古来より、川は人間文明にとっての生命線であった。人類が大文明を築くのには、巨大な川の助けが必要だった事からもよく分かる。

それを具体的に理解できない古代の人間達にとって、川は神となった。川は上流より豊かな土を運び、その体の中には魚をはじめとする多くの資源を有し、人間が交通するための道ともなり、命を支える水をも提供してくれた。まだ力弱く、自立できなかった人類は、川のおかげで、文明を築くことができたのである。だから崇拝された。その名残は世界中に残っている。魔術が発達し、様々な技術が進歩した今でも、である。

現在でも、川は人類の文明にとって重要な存在だ。数多くの人間を養うためには、食料以上に水が必要になる。手っ取り早く大量の水を安定提供してくれる存在は川しかない。だから、川は大事にされる。

シグザール王国王都ザールブルグを支えている大河ストルデルも、それについては同じだ。王都の人間約二十万、周辺の大耕地を管理する屯田兵五万。それらの生命線となっているのがストルデルの豊富な水量だ。シグザール王国による発展前から、ザールブルグは存在していた。その頃からストルデルは信仰されており、今でも祭などにその名残を見る事ができる。

人間の信仰によって、聖域が作られる。そしてそれは隙間を産む。隙間には何かが入り込む事が多い。それは人間社会のあぶれものであったり、人間によって淘汰されてきたりしたものだったりする。それは聖域の持つ力が薄れて行くにつれて、徐々にその姿を現していく。

そんな隠れていた存在の一つが今、ストルデル上流の滝壺に潜んでいた。

 

アトリエでマリーは今回の採集プランの、最終チェックを行っていた。荷物類、人員、移動経路。何度も確認したが、まだ確認したりなかった。

片道一週間。しかも、後半部分は相当に険しい道を通ることになる旅。今回、マリーが錬金術の素材確保のために立てたプランは、かなりの危険を伴うものであった。

準備は入念に行った。三週間分の保存食。更に、回収素材の持ち運びを楽にするために、荷車を購入した。のろしも一つ購入してある。遭難した時のための備えである。

これから向かうストルデル川上流の滝壺は、通称深奥の滝。シグザール王国がいまだ存在せず、肥沃なザールブルグ周辺を巡って複数の小国が争っていた頃、その中の一つが信仰の対象としていた土地である。現在、明確な形での信仰は失われているのだが、それでも土地の人間は何となく近づくことを避けたがる。周辺に広がる森も大きく、方角を間違えると危険である。その代わり、滝では様々な素材の回収が期待できる。

ただ、気になることもある。冬真っ盛りの今、熊は危険にカウントしなくても良いのだが、それ以上に問題な事がある。

ここ二年ほど、滝の周辺で行方不明事件が三件発生しているのだ。何度か冒険者ギルドが精鋭を派遣して調査しているのだが、何も発見できていない。錬金術アカデミーに問い合わせたところ、周辺を縄張りとする素材回収業者も特に怪しい痕跡は発見していないという。そうなると、非常に狡猾な何かしらが潜んでいる可能性がある。

人間の手から逃れ、闇に潜んでいる魔物は、手強いことが多い。人間という生物そのものには勝てないと理解しており、なおかつその隙を知り尽くしているからだ。人間を敵に回して逃げ延びているのには、それなりの理由があるのだ。ベテランの冒険者達数人と、そういった魔物と交戦したこともあるマリーだからよく知っている。強力な魔物が潜んでいる可能性がある場所に行く場合、準備は幾らしてもしすぎという事はないのである。

出発は明日。今までに回収してきた素材は、既にあらかた処分済み。アトリエの中はほとんどすっからかんだ。マリーが手に負えそうな調合の材料になるものはみんな加工して売り払ったし、そうでないものは薬草やアカデミーに売り払った。残ったのは、丁寧に作って今熟成しているミスティカの葉くらいである。だが乾燥させた葉の質量は小さく、地下室の隅でほとんど場所を取らず、熟成完了の時を待って静かに眠っている。

結局、様々な苦労をした結果、スキルは随分身についた。今までやったことがない調合をかなりこなしたし、精度も上げることができたからだ。偶然とはいえ、教科書に載っていない効果を持つ副産物を作ることもできた。一見役に立ちそうもない効果だが、使いようによっては充分有用だ。たとえば、自分の痕跡を綺麗に消すことができる。成果は決して小さくない。

そうして作った金銭の半分ほどを今回の探索で消費することになる。まだまだ安定した生活にはほど遠い。春が来れば再び栄養剤の生産ラインを復活させることができるのだが、今はそれも狸の皮算用だ。

「嫌な予感がする…」

思わずマリーはぼやいていた。準備は全て済んでいるのに。なんだか胸騒ぎがする。今回は奮発してベテランを一人雇っている程なのだが、まだ準備が足りないのだろうか。魔力が強いだけあって、マリーの勘は良く当たる。もう一つ二つ、出かける前に手を打っておいた方が良さそうだった。

出かけるのは明日早朝。早めに寝ておかないと体力も持たない。少し考えてから、マリーは冒険者相手に道具を売っている店に足を運んだ。切り札を揃えておく方が良いと考えたからである。それに、持って行く道具類も増やした。

結果、出かける前に更に貯蓄を使うことになったが、僅かながらの安心感を得ることができた。後はただ、出発するだけであった。

 

1,滝へ

 

秋がすっかり終わり、冬がやってきても、空は変わりなく様々な顔を見せる。ある日は晴れ、ある日は曇り、そしてある日は雪となる。ストルデル川上流へ向かおうというその日の空は、雲が三割と言うところであった。肌寒い空気が、コートを羽織ったマリーの肌を容赦なく圧迫してくる。

「さ、寒いよ、マリー」

「我慢しなさい、子供じゃないんだから」

「そんなこといったってええ」

「冬にだってお仕事はしなくちゃいけないの。 ほら、元気出しなさい」

待ち合わせは城門。最初に来ていたらしいミューは、がくがく震えっぱなしだった。彼女はかなり薄いコート一枚を羽織ったきりで、後は普段と変わらない格好だった。ひょっとしたら分厚いコートを買うお金がないのかとも思ったが、多分それはない。マリーも何回か雇って給料を払ったし、それで冒険者としての実績も上がったから仕事もあったはず。無計画にお金を使って、今困っているというのが正しいだろう。この子はアホだが、将来性は高い。しっかり鍛えてあげれば、かなり有能な冒険者になれる。

今回、シアは来ない。仕事が忙しいらしくて、手が回らないそうである。少しばかりこれは痛いが、補強用の戦力は揃えてある。

「ごめん、遅くなった」

「ううん、大丈夫よ」

少し遅れて、ルーウェンが来る。別に待ち合わせの時間まではまだ少しあるし、特に困ることはない。

旅慣れているらしいルーウェンは、多少くたびれてはいるがそれなりに立派なコートを羽織ってきている。背には新調したらしい長剣がある。今まで彼が使っていた剣はかなり痛んでいたので、新調は正解だろう。まあ、新米といっても冒険者である。剣に体を慣らすくらいの事はしているだろう。

後雇ったのは一人。ベテランである彼は、多分時間通りにくるはずだ。寒がりのミューは、その間に近くの出店に行き、暖かい飲み物を口にしていた。こういうちょっとした無駄遣いの連続が後に響いてくると、まだ分かっていないのだ。いずれ誰かが指摘しないと、最終的な大けがを招く。

城門は待ち合わせ場所として人気がある。ひょっとしてマリーが分からないのかもと思い、周囲を見回すと、不意に第三者の声がした。

「マルローネ君かね」

「あ、はい。 貴男がクーゲルさんですか?」

「応。 儂がクーゲルである。 どうやら、待ち合わせの時間には間に合ったようだな」

マリーの前にいたのは、彼女よりも頭一つ分大きい巨漢である。手には重厚な戦槍を持ち、身に纏う重鎧は騎士にのみ許されたブルー。ただし、階級章は外していることから、引退した身だと分かる。口元には長大な髭を備え、目には圧倒的な自律の光がある。髪には白いものが混じり始めているが、まだまだマリーでは手も足も出ないレベルの実力だと、ちょっとした動きを見るだけで分かる。全身の骨格はがっしりしていて、身体制御もほぼ完璧。この年まで戦いを商売に生きてきた肉体だと一目瞭然だ。

彼は元騎士の冒険者クーゲル=リヒター。騎士は既に引退したのだが、まだまだ血が騒いで仕方がないらしく、冒険者を続けているという難儀な人だ。事実、一度人を斬る楽しみを覚えると、それが快楽となって染みついてしまう者は少なくない。彼は重厚な実力者として知られているが、本能の部分では戦闘を好むタイプなのだろう。実力は言うまでもなく折り紙付き。シグザール王国でもトップ30に名を連ねる冒険者で、当然雇用費は高い。

先に来ていた二人に紹介する。というよりも、今回はクーゲルが引率で、残り三人はその技を見せてもらうという感じになるだろう。若手ばかりなのを見て、すぐに自分の役割を悟ったらしいクーゲルは、重厚に頷いた。

「よろしく頼む」

「はい。 お願いします」

「よろしくお願いしま、ふ。 はくしょんっ!」

ミューの様子にクーゲルは眉をひそめた。丁度いい。この機に教育してもらおうと、マリーは思った。

 

クーゲルは重鎧を着ているにもかかわらず、長距離を歩いてまるで疲れたそぶりを見せず、むしろかなり足が速いほうだった。荷車を引くのは順番制と決めており、クーゲルが最初に引いたのだが、全く歩くのと速度が落ちない。この様子だと、岩くらい軽々持ちあげるかもしれない。

優れた戦闘スキルを持つ騎士の中には、城壁を斬ったとか、城門を蹴り破ったとか、無茶な伝説を持つ者が居るが、それはそれ、これはこれである。クーゲルはあるいは、身体強化型の魔術を使う能力者なのかもしれない。多分、これでもかなり体が衰えているはずだ。彼が若い頃の戦闘能力を考えると、背筋に寒気が走る。

丸一日歩いて、ザールブルグ東の耕作地帯を抜け、街道に沿って歩く歩く。夕暮れに街道側の旅人用の宿泊空き地にキャンプして、翌日もまた歩く。ザールブルグから離れれば離れるほど、旅人の姿が減っていく。

三日目に入ると、街道と川が徐々に離れ始めた。それと同時に、街道で時々見かけた魚売りの姿が減る。干し肉をかじりながら、ミューが言う。

「いいの? 川から離れてるけど」

「いいの。 滝壺に行くには、河原をずっと上るより、五日目くらいから川に向けて曲がった方が早いの」

「どうして?」

「河原をこの荷車押していくわけ?」

河原には小さな石が無数に転がっている。最初の内は対して苦労しないが、目的地に近づけば近づくほど労力は大きくなるのだ。それに、上流に行くとストルデルは複雑に支流が絡んでいて、流れを逆にたどれば滝にたどり着けるという事はない。むしろ迷子になるだろう。それならば、最初は街道を行き、最短距離で一気に滝へ向かうのが一番である。ミューは納得してくれたようで、うんうんと頷いていた。

クーゲルは殆ど口をきかず、ただひたすら歩いている。時々ルーウェンが冒険についていろいろ聞いているようだが、必要な事だけ答えて、後は黙りである。ここは少しマリーとしては残念だった。

噂に聞いたのだが、クーゲルは個人武勇を戦場で振るうタイプで、指揮官には向いていないと自他共に認めているのだという。半信半疑だったのだが、悪い形でその噂は本当だったのだと、現実を見て確認することになってしまった。確かに彼は戦場の最重要地点に投入して、初めて猛威を振るうタイプであろう。もし指揮に長けるタイプの武人であれば、積極的に皆とコミュニケーションを図り、三日目の今はすっかりうち解けているはずだ。

だが、別に指揮官が必要なわけではないし、それでかまわない。それに、今回の採集では、五日目以降頻繁な戦闘が予想される。戦い慣れたタフなベテランの存在は絶対に必要なのだ。あるいは戦いを見せて、実地で若手を鍛えるつもりなのかも知れない。

四日目が過ぎると、街道の人通りは更に少なくなっていった。川からは完全に離れ、もう全く見えない。街道と川の間には深い森が横たわり、時々奇怪な鳴き声が聞こえた。この辺りの森は人間の領地であってもすみかではない。森の間を縫うようにして、時々石壁に囲まれた村がある。マリーの故郷グランベルと同じ雰囲気を持つところで、その独特の殺伐とした気配が、マリーには親近感を持たせてくれた。壁の厚さは様々で、中には戦火に焦げた跡が残るものもあった。それを見るルーウェンの目に、やりきれない光が宿るのを、マリーは見逃さなかった。

五日目。早朝、ついにメインの街道から外れる。道はどんどん細くなっていき、昼にはついに無くなった。後は後ろ以外の全てに、広大な森が広がるのみである。それに伴い、今後は野宿が必要になってくる。しかもヘーベル湖で行ってきたような、キャンプまがいのものではなく、一歩間違うと猛獣の縄張りで、だ。緊張感が走る中、最初に一歩を踏み出したのはクーゲルであった。流石に年長者である。

「ここからは儂が荷車を引こう」

「いいんですか?」

「何、儂には馬鹿力くらいしか取り柄がないでな。 気にするな」

「じゃあ、代わりに槍は持ちます」

「そうか。 なら頼もう」

杖を腰にくくりつけると、マリーは戦槍を受け取る。ずっしり腰に来る重さだ。多分歩き始めた子供くらいの重さはあるだろう。先端部は二股に分かれていて、斧としても扱える。ハルバードとか呼ぶ槍だ。陽を反射して、先端が輝く。持ち歩くのはできるが、マリーの腕力では、振り回して戦うのは少し難しい。命より大事な槍だろうに、あっさり手放した理由は、マリーには分かる。槍が無くても、そこいらの相手に遅れはとらないという、圧倒的な自信があるからだ。

森の中へ入り込む。さっと前に出たミューが、先頭に立って歩き出す。荷車を引っ張るクーゲルの左右に、マリーとルーウェンが固める形だ。木の根も柔らかい土もものともせず、クーゲルは進軍速度を落とさない。そういえば。何年か前のドムハイトとの大戦時、騎士団は山岳戦闘を豊富にこなし、敵を各地で撃破したという。難行軍は経験済みというわけか。

槍を全身で抱えるようにして運ぶマリーに、小走りで駆け寄ってきたルーウェンが言う。若いのに結構紳士的な奴だ。

「俺が持とうか?」

「いいってば。 戦闘時あたしは後衛だから、前衛ほど力は使わないし。 それに体もなまってたし、丁度いいわよ」

「そうか? なら、いいけどよ」

頷くと、マリーは最前列を進むミューを見た。彼女は危なげなく周囲を警戒しながら、皆を導くべく歩いている。

ミューにはここ数ヶ月で、森で注意すべき印や、猛獣の縄張りを示すサインはだいたい教えてきた。ミューは言動こそ緩いが、学習能力は高い。一度教えたことは簡単には忘れないし、今もきちんと周囲に気を配っている。

冬の森は枯れていて、猛獣は少ないが、それでも危険はある。冬眠しないタイプの肉食獣、特に野犬には注意を払う必要がある。縄張りの奧へ進入してしまった時には、狼にも注意を払わなければならない。冬は草食獣も気が立っている。まして彼らは狩りのターゲットなのだから、人間には敵意を抱いていて当然だ。

マリー自身も周囲に気を配っているが、今のところ猛獣の縄張りや糞などの痕跡はない。時々キクラゲの類が木に張り付いているのを見かけて、引きはがしては集めているが、さてさて持って帰って役に立つかどうか。キャンプを確保したら、そこで教科書と照らし合わせ、必要なら荷車に積んでいく。不要なら捨てる。

傾斜が出てきた。少し上り坂になっていて、ゆるやかに植生も変わってきている。徐々に太陽も傾き始めていて、そろそろキャンプ地を探した方が良いかもしれない。

「ちょっと休憩」

「ほんと! わーい!」

「木に登るから、これ、一時返します」

八重歯をむき出しに無邪気に喜ぶミューには答えず、マリーはクーゲルに槍を返す。かなり重い槍だったが、片手で老騎士は軽々扱っている。これで引退済みだというのだから、シグザール王宮騎士団の戦闘能力は推察がつく。周辺各国に恐れられるのも無理はない。

油断無く周囲を見回し、倒木に腰掛けるクーゲルに対し、気が明らかに抜けたミューはその辺の地べたに座って、実に幸せそうに干し肉をかじり始めている。ルーウェンは少しためらってから、木に背中を預けて座り込む。まだまだベテランと若手の力の差は明らかだ。マリーもクーゲルには見習いたいことが多い。

木を登る。邪魔な葉がないので、かなり楽だ。やがてマリーの背丈の六倍くらいまで登りあがると、木の幹に足を絡ませて、周囲を見回す。緩やかな傾斜の先に、ストルデルの小さな支流があった。おあつらえ向きに河原もある。キャンプするならあそこだろう。ただ、周囲の見回しが若干悪い。夜間の見張りは少し苦労することになるだろう。

木から下りてそれをクーゲルに伝えると、老騎士は少し考え込んでから頷いた。多分自分で足りない部分はカバーするつもりだろう。さっきから見ていたが、老騎士の感覚の鋭さはまだまだマリーの比ではない。充分に頼りになる。しかし。

「あの、負担がかなり大きくなってしまいますけれど、いいんですか?」

「かまわぬ。 もともと儂の望みは戦いだ。 何かに襲われればむしろ幸いよ。 だいたい老いたとはいえ、少々の徹夜くらい、まだまだ何ともないわ」

「そうですか。 それなら…」

本当に血が騒いで仕方がないんだなと、マリーは思った。ひょっとして若い頃には、キリングマニアとして戦場の死神と化していたのかもしれない。それでこの年まで長生きしているのだから、運と実力を兼ね備えている証拠だ。

見かけた河原まで行く。川幅は成人男子を四五人横に並べた程度。水流も穏やかで、丁度いい感じだ。周囲も暗くなり始めていて、この辺りが休み所であった。皆慣れてきたし、このメンバーで冒険に行くことも多くなっていたので、てきぱきとキャンプを張る。松明を一つ地面に突き立てて、火をつける。煙が少なく、灯りが長持ちする良い松明だ。松ヤニを入れるのがコツらしいが、マリーは詳しい作り方を知らない。

しっかり松明を固定すると、見張りの順番を決める。一番危険な時間帯を見張るとクーゲルが言い出したので、後は他それぞれが順番制である。今回は森の中でのキャンプと言うこともあり、危険なので見張りは二人一組で。順番が決まると、マリーは川をのぞき込む。ひょっとしたら魚を採れるかと思ったのだが、どうやら無理そうであった。餌もない。川に手を入れてみると、とても冷たい。これでは、魚の食いつきも良くないだろう。

ストルデルの支流は複雑に絡み合っている。源流がどこにあるかは分かっていないが、それでもシグザール王国の領土のどこかだろう、とは言われている。今回はそこまでいかないが、これから傾斜は更に厳しくなっていく。帰りは様子を見て、河原を下っていった方が早いかもしれない。場合に寄るが。

キャンプを張り終えるのを確認すると、また近くの木に登る。今度は遠くを見通すためだから、さっきよりも高くに。途中、鳥の巣があったが無視。巣のサイズから言って、かなり大型の鳥で、木登りの最中に攻撃されると面倒だ。食べるのなら、夜になってからだ。それに卵もかなり大きくて、抱えて降りるのは骨であるし。

木の上から遠くを見回す。落ちかけた太陽が、冬の寂しい森を赤く染め上げている。遠くには険しい山脈が見え、何筋かストルデルの支流が走っていた。きらきらと輝く川が、森の中で一点の美を演出している。詩人ではないマリーだが、それでもこの川がシグザール王国内で宝石と呼ばれる理由がよく分かる。

滝はまだ見えない。山の麓、どこまでも広がる原野ばかりが見える。これからの苦労が思いやられて、マリーは一つため息をついた。シアが居てくれれば、少しは不安も解消されるだろうに。

木から下りると、手際よくクーゲルがたき火を熾していた。格子状に組んだ薪の周囲には、簡易竈の役割を果たす川石を積み上げる。そして木の枝に干し肉を刺して炙り始める。クーゲルは懐から塩を取りだし、肉に振りかけて食べていた。香ばしい肉の臭いに食欲を刺激されたらしいミューも渡しておいた今日の分の肉を取り出してあぶり出す。炎を目立つように配置しているのは、周囲に動物を近づけないためである。

ルーウェンは相変わらずクーゲルにいろいろ話を聞いては、大げさに頷いている。それに対してミューはあくまでマイペースに、炙った肉を口に入れている。この辺り、二人の性格差が出ていて面白い。ルーウェンが強さをどん欲に求めているのは、マリーもよく知っている。その理由も分かっているが、触れない方が良いだろう。先に寝ることを告げると、マリーはさっさと寝袋に潜り込んだ。

 

夜はかなり冷えた。寒がりらしいミューはたき火のそばに張り付きっぱなしで、小さく震えながら寝袋にくるまっていた。見かねたマリーが毛布を取り出して掛けてやると、ようやく落ち着いたようだった。

それにしても。寝ている姿も、起きている時の言動も。随分幼い性格の娘だ。辺境の村出身だと、だいたい十五六で精神的には成熟し、大人として扱われるのが普通だ。結婚は更に早いことが多い。マリーの従姉妹などは、十三で子供を産んだ。以前いろいろとミューの過去について詮索したが、謎が謎を呼ぶばかりである。一体この娘は、どこでどのようにして育ったのであろうか。妙に寂しがりやな所も気になる。

夜空を見上げる。無数の星が光っている。グランベル出身のマリーは、世界は広いといつも思う。マリーをはじめとして、過酷な環境で鍛え抜かれたグランベルの村人達は、世界のどこに出ても恥ずかしくない人材のはずだが、それは必ずしも知識が充分であることを意味しない。今のマリーには、まだまだミューの事は分からない。他にも分からないことは、幾らでもある。

「交代の時間だぜ」

「ん、うん。 ありがとう」

夜半、ルーウェンと交代する。周囲を見回せる位置に立ち、クーゲルは魔神の像がごとく微動だにせず周囲を見回していた。睡眠も四時間ほどで良いというのだから、大した体力である。彼はむろん、起き出してきたマリーにも一顧だにしなかった。彼は戦いを求めている。体を燃やすような、強敵を求めて立っている。それがゆえに、却って敵は寄ってこない。リスクが高すぎるからだ。彼のようなタイプの人間には、ジレンマだろう。

ざっと図鑑を開いて、昼間に集めたキクラゲを調べる。毒性はない種類だが、錬金術の素材としては残念ながらあまり適していない。明日の朝に食べてしまおうとマリーは決めた。

あくびを殺しながら、マリーは杖を取り出す。試験開始から既に五ヶ月が経過して、体もかなり鍛え直され始めている。重さも少し調整した。目を覚ましすぎると、見張りから交代した時に眠れなくなってしまうから、ほどほどにしておかなければならないが、それでもやって置いた方がよい。

素振りを始める。上段から、中段から、下段から、杖を振るう。風を切る音が、前よりだいぶ良くなってきている。だが、まだまだ最盛期の力にはほど遠い。それに、それをも超えていきたいマリーとしては、まだまだ先は長い。

一通り素振りを終えると、軽く浮いた汗を拭う。クーゲルはそれを横目で見ていたが、マリーに意見を求められると、少し考え込んでから言う。

「そうだな。 儂から言うことはあまりないな。 昔ある程度の境地にまで到達したようだし、まずそこへ戻るというのは良いことだろう」

「ありがとうございます」

流石に古豪である。マリーの動きを少し見ただけで、其処まで悟るか。素直に感心しているマリーに、老騎士はなお言う。

「戦士として一人前の精神的境地に達している貴女は、多分戦闘面では意見など必要としないはずだ」

「…そう、ですよね」

「貴女は錬金術師を目指していると聞くが、それは他者のためか? 今の動きを見る限り、貴女の特性はやはり戦闘職業にあるような気がする。 もう少し身体能力を取り戻せば、後方からの強力な火力支援を可能とし、近接戦闘もある程度こなせるだろうし。 だから、そうだとしか思えぬのだが」

「鋭いですね、その通りです。 まあ、いろいろとありまして」

クーゲルは口数こそ少ないが、深みがある。視線にも、言葉にも、何もかもにだ。年老いた人間と言うよりも、古豪としての重みである。似た重みを持つ者を、マリーは何人か知っている。身近なところだと、アカデミーのイングリド先生がそうだ。飛翔亭のディオ氏も、武器屋のゲルハルトもである。

「後悔だけは、しないように生きたいんですけれど、難しいですね」

「それはそうだ。 儂など、この年になっても後悔が絶えぬ」

この熟練した老戦士がする後悔というと。多分人間関係か、家庭の問題なのだろうなと、マリーは思った。

後は何も口をきかず、肌寒い冬空の下、時間だけが過ぎていった。毛布にくるまって寝ているミューを起こすと、マリーは寝袋にくるまる。明日も早いし、まだまだこなさなければいけないことは幾らでもある。

時間は、幾らでもほしかった。

 

翌日からは、傾斜が本格的になり、山にさしかかり始めた。思ったよりも随分歩きやすかったが、問題が一つある。マリーは森には詳しいが、山にはさほどでもないのである。

今回ベテランに声をかけた理由の一つは此処にある。山と森にはさほど差があるようには思えないが、自分のテリトリーではないことを敏感に悟っているマリーは緊張していた。いつもより、周囲を見回す数が多い。子犬を隣家から借りてくると、しばらくはじっと静かにしたまま耳目を動かして周囲の状況を探るが、それに近い有様である。

暢気なのはミューで、普段と全く様子が変わらない。時々かなりきつい傾斜もあったが、クーゲルは全く問題なく荷車を引き続けている。だが、平和であったのは、昼過ぎまでであった。

予兆から、急転まで、さほど時間は掛からなかった。

丁度曲がりくねった坂道を登り切り、小川のせせらぎが聞こえてきた時。周囲が僅かに平らになり、一息つけるかと思ったのだが、それ自体が心理的なトラップであった。

「! 気をつけて!」

「マリー、どうしたの?」

暢気なミューに対して、クーゲルは即座にマリーから槍を受け取り、荷車を木に寄せる。大きな獣の糞が、マリーの視線の先、木の陰に転がっていた。臭いがきついと言うよりも、そのサイズが危険だった。しかも複数である。本能的に危機を悟ったマリーは、防御円陣を組むように言い捨てると、すぐに近くの木を登り、周囲を確認した。そして悟る。既に手遅れであったことを。

「まずい! 来るよ!」

木を滑り降りたマリーが見たのは、前後から同時に現れた、大型肉食獣の姿であった。淡い赤にかがやく瞳は、獲物を決して逃がさぬ強烈な殺意に彩られている。知っているのだ。こういう少人数独立行動をしている場合、人間は絶対者ではなく、手頃な獲物である事が多いと言うことを。

全長は成人男子の二倍ほど。体重は五倍を超えるだろう。スリムな体だが、黄色地に黒の縞模様を持つ毛皮は分厚く頑丈で、体の中は鍛え抜かれたしなやかな筋肉の塊だ。尾は長く強く、ゆっくりと揺らしながら攻撃の機会をうかがっている。太く長い足の先には、鋭い爪が見え隠れしていた。おそらく、此処を餌場として確保していたのだろう。地形は狩りに絶好だし、心理的なトラップとしても申し分ない。かなり手強い相手だ。

グランベルの方言ではフォレストタイガー。シグザール公用語では、バルトティーゲル。つがいで行動する事が多い大型肉食獣で、人間の比較的近くに住む危険な猛獣だ。人間の集落には近づかないが、森や山を抜ける時には、下手な魔物よりも驚異となる存在である。周囲を回りながら間合いを計る大虎二匹。隙は、微塵もない。マリーも緊張する。二度ほど倒したことがある相手だが、そのときは強力な冒険者や、グランベル村の者達が一緒で、しかも事前に準備していた。この虎どもは身体能力が非常に高い上、簡単な魔術まで使いこなすのだ。入念な準備がない場合、勝てないとは言わないが、死人が出る覚悟はしなければならない相手だ。

「一頭は儂が相手をする」

「お願いします」

「すぐに片付ける」

緊張で声も出ないミューとルーウェンを横目に、静かなまでにクーゲルは冷静だった。マリーは素早く周囲の地形を頭に入れながら、戦術を検討していく。戦略面では、前衛で時間を稼いで、大威力の術で一気に片付ける以外の道はない。

「時間稼いで。 絶対に真っ正面から戦ってはだめよ」

「わ、分かった」

「事前に言っておくけど、逃げても絶対に助からないからね。 こいつらは人間の三倍は足が速いわ」

「わ、分かってる」

ちょっとミューのその発言が気になったが、詮索している余裕はない。虎が戦闘態勢に入ったからだ。体勢を低くした肉食動物は、圧倒的な殺気を放つ。素早く構えを取るミューとルーウェンだが、さて何秒保つか。

マリーが現在実用に使える戦闘用の術は七つほどだが、虎を仕留められる高性能な大威力術となると、一つしかない。以前ぷにぷにの群れとの戦闘で用いた、サンダー・ロードヴァイパーだ。

この術は高度な操作性を持つ強力な雷撃を撃ち放つ術であり、詠唱に時間が掛かるが、タイミングさえ合えばたとえ虎でも一撃で仕留める自信はある。ただし、魔力の大半を一発で消費してしまうため、二発は撃てない。これを撃ってもし外してしまうと、あとは時間稼ぎして、クーゲルに頼るくらいしか道が無くなってしまう。

クーゲルがたかがフォレストタイガーごときに後れを取るとは思えないが、マリー達は次元の幾つか低い世界にいるため、その程度の相手に全力で挑まなければいけないところが少々つらい。現実とは、常に厳しいものだ。

「しっ! しっ!」

声を出して必死に虎を威嚇するミューに対して、相手は悠々とこちらの出方をうかがっている。その背後では、クーゲルが隆々と槍を振り回し、既に雄の方の虎と激しい戦いを演じていた。マリーも小声で詠唱を始めているが、まだまだ時間は掛かる。虎が様子見をしてくれればくれるほど、有利になるのだが。そうは問屋が卸してはくれない。

クーゲルを攻め切れていない雄の様子を見た雌が、雄叫びを上げたのである。

ゴアアアアアアアアアアアアアッ!

「ひいっ!」

「ひるまないで!」

思わず悲鳴を上げたミューに、虎が躍りかかる。巨大な体躯がしなり、うなりを上げて前足を振るう。必死に回避するも、一撃で盾が吹き飛ばされ、ミュー自身も吹っ飛ばされて木に背中からたたきつけられる。そのまま躍りかかろうとする虎に、ルーウェンが割ってはいる。剣を振り下ろして頭を狙うが、するりと回避し、信じられないほどの柔軟性でステップ、前足を振るった。ルーウェンは剣で受けるのが精一杯である。その剣も、一撃でゆがんでしまう。新品なのに。

「うあっ!」

「ガアッ!」

たたらを踏むルーウェンに、飛びかかろうとする虎の眼前に、ミューがナイフを投げつける。虎はそれをよけもせず、前足で弾きもせず、ちょっと頭を下げるだけだった。毛皮にぶつかったナイフが、嫌な金属音とともに、毛皮で滑ってはじかれる。

「う、うっそ!」

あまりに絶望的な力の差。ミューの声に恐怖が混じり始める。自暴自棄の成分も、である。

時間稼いでよ。マリーは心中でつぶやきながら、必死に詠唱をくみ上げる。まだ、まだまだ時間は掛かる。全身を冷や汗が伝う。詠唱、詠唱、詠唱!前衛の仕事は後衛を攻撃から守ることにある。それをきちんとこなしているルーウェンとミューを信頼し、ただひたすら詠唱する。

盾を拾って立ち上がったミューが、ルーウェンと呼吸を合わせて、必死に虎に斬りかかるが、役者が違う。振り下ろした剣の一撃はやすやす回避され、最初のタックルでミューが、次の前足の一撃でルーウェンがはじき飛ばされる。ルーウェンの剣は無惨に曲がり、ミューは背中から地面にたたきつけられて身動きができない。口の端からは血も伝っている。障害が無くなった虎は、マリーに視線を向けてくる。万事休すか。そう思った瞬間、虎の尾をルーウェンが抱えるようにして掴む。

「いかせるかよっ!」

ルーウェンの全身から淡いオーラが立ち上っている。短く詠唱していたようだが、これが奥の手か。多分瞬間的に身体能力を強化する術だろう。

虎は吠えながらルーウェンを振り払おうとするが、彼は必死に虎の尾にしがみついたままだ。相当な身体強化が行われているのは間違いないが、普段からの格差から言って、そう長くは保たないだろう。杖を構え直し、詠唱を続ける。業を煮やした虎は、ルーウェンをぶら下げたままマリーに突進しようとするが、その瞬間倒れていたミューが目を開け、気合いの声とともに虎の脇の下に剣を突き込む。鋭い刃が、虎の毛皮を初めて貫通、派手に血をぶち撒いた。

ゴギャアアアアアッ!

「ど、どうだっ!」

「馬鹿っ! 離れてっ!」

マリーの叱責より、逆上した虎の行動の方が早い。体ごとしっぽを力強く振り回してルーウェンを振り払う。力尽きた青年は人間の背丈の倍ほどもとばされ、地面に激しくたたきつけられ、動かなくなる。更に起き上がれないミューに虎は頭突きを浴びせ、悲鳴を上げた彼女にかぶりつく。必死に盾で防いだミューだが、その盾にかぶりついた虎の牙が食い込んでいくのが、遠目からもはっきり見えた。みしみしという音、絶望に彩られていくミューの表情が痛々しい。木に押しつけられ、圧殺されようとするミュー。まだ詠唱は終わっていないが、仕方がない。

足下のこぶし大の石を掴み上げると、マリーは虎の後頭部にたたきつけた。直撃。振り返った虎に、マリーはこぶしを突きつける動作をする。おまえを殺すという、シグザール王国に広く伝わるストレートな宣戦布告の動作だ。

あと七秒。虎はマリーの挑戦を悟ったらしく、再び頭突きをミューに叩き込むと、後は彼女に一顧だにせず、全力で突進してきた。盾が砕け、心身ともに限界に来ていたミューは気絶した様子だ。トラウマにならなければいいが。虎は恐ろしく速い。すさまじい殺気をまき散らしながら、全力で突進してくる。加速する虎が、距離の半分を詰め終える。五秒、四秒。間に合うか。

走る虎の全身が、高密度の赤い魔力を纏い燃え上がる。フォレストタイガーは身体強化系の術を使うのだが、間違いなくそれだ。マリーの詠唱が完成に近いことを悟り、自らの肉体を強化し、いざというときに備えようというのだろう。

3,2,1。もう、虎の毛の一本一本が見えるほどに近い。ジグザグにはね飛んで迫ってきた虎の爪が、マリーの眼前に迫った瞬間、詠唱が完成した。

「サンダー…!」

グルアアアアアアアアアアアアアアアアッ!

よけている暇も余裕もない。そのまま虎に触れるようにして、術を発動する。

「ロードヴァイパーっ!」

千雷が直撃したような音と光が、山にとどろき渡った。

 

クーゲルは全身を包む高揚の中、虎と対峙していた。虎ごときで体が高揚してしまうのだから、老いたというほかないが、それでも別にかまわない。体の中から燃え上がるこの血潮の感覚は本物で、それがクーゲルに生を実感させてくれる。

昔から、そうだったのだ。

クーゲルの兄は優れた戦士で、世界中を旅して回る冒険者であった。昔は仲の良い兄弟だったのだが、年を経れば分からなくても良いことが分かるようになってくるものである。クーゲルの場合、それは素質の差だった。

兄とクーゲルで、それほど戦闘能力の差は無かった。しかし決定的に違っている部分が一つあった。それが探究に関する素質である。

兄は何にでも本気で興味を示すことができた。知らない国、知らないもの、知らない土地、知らない物語。クーゲルはそれほど未知に興味を示すことができなかった。だから兄の熱っぽい未知へのあこがれに対しては、いつもどこかさめていた。クーゲルはひょっとすると、未知のものが怖かったのかもしれない。それが溝の原因であったのかもしれない。だが、それでも兄は尊敬していた。

年を経るとともに、どんどん歪みは大きくなっていった。兄が冒険者などという根無し草になった時は若干の失望を覚えた。だが兄が世界各地を渡り、どんどん知らない事を知るようになり、どんどん知らない交友関係を築いていく内に、それは劣等感へと変わっていった。兄と自分は違うと考え、クーゲルは騎士団に入り、そこで優れた業績を上げた。だが、どうしても、クーゲルは自分の方が優れている部分を見つけることができなかったのである。

戦闘能力に関して、クーゲルと兄は互角だった。だがそれ以外の全てに関して、兄はクーゲルに勝っていたのである。クーゲルはそう考えていた。やがて劣等感は心理的な壁へと変化していき、兄弟の仲は疎遠になっていった。クーゲルが片思いしていた女性が、兄と熱烈な恋の末結婚した時、溝は決定的なものとなった。別に女に未練はなかった。「取り上げられた」事に憎悪が取り憑いたのである。それでも表面的には仲がよい兄弟だったが、内面的に既に絆は断ち切れていた。クーゲルは兄を憎むようになっていたのである。

戦いに打ち込む末に、どす黒い感情がわき上がってきたのはその頃からだ。クーゲルは戦鬼と呼ばれるようになっていた。情け容赦なく敵を殺し踏みにじり、返り血を浴びてなお戦う姿からそう呼ばれたのである。騎士団の中でもクーゲルは指折りの使い手であったが、恐怖を感じる人間は居ても尊敬を抱く人間など一人もいなかった。だがクーゲルには、そんなことなどどうでも良かった。

いつしか、感じるようになっていたからだ。敵を殺し、肉を引き裂き、たたきつぶし、内蔵をえぐり出す時に。圧倒的なる高揚を。圧倒的なる自己の存在を。

クーゲルは戦場で二百五十を超える人間を殺した。これほどの撃破数を稼いだ騎士は、騎士団の歴代でもそうそうはいない。

ドムハイト戦役で大きな功績をあげたクーゲルは、むろんそれにふさわしいポストを用意されたが、一戦士であることにこだわった。地位だけ上がっても、クーゲルは最前線で槍を振るい続けた。いつしか彼は、赤い魔神と呼ばれるようになっていた。

そして、兄との物理的な意味でも決定的な溝が産まれる。口論のきっかけはなんだったか。確かワインの味であったように思える。最初はそうだったのだが、すぐに今まで鬱屈していた言葉が溶岩のように吹き出した。口論が殴り合いに、武器を持っての殺し合いになるのに、そう時間は掛からなかった。感情や悪意は伝染する。よくしたもので、兄もそのときにはクーゲルを憎んでいたようである。ザールブルグ近郊の森での死闘は三日三晩に渡り、結局決着はつかなかった。

それから数年。クーゲルは名字まで変えて、兄との距離を保った。妻をめとったのも、心境の変化からかもしれない。体が弱い女だった。優しい女だったから、クーゲルが悪鬼夜叉のごとく戦うのを見て、喜ぶことはなかった。子を産んで、すぐに死んだ。子も嫁に行ったから、クーゲルは一人だ。家には最小限の使用人しかおいていない。

蓄えは腐るほどある。だから騎士を引退して冒険者をやっているのは、完全に道楽だ。クーゲルはただ自分を確認したいのである。戦いこそが生き甲斐であり、戦いの中にだけ見つけることができる、己の姿を。今でも。

下段に構えたクーゲルは、傷一つ受けていない。虎は周囲をゆっくり回りながら、攻め掛かるチャンスを狙っているが、踏み込むことができない。当たり前だ。こんなものは事前のウォーミングアップで、隙を一切見せていないのだから。

そろそろ遊ぶか。クーゲルは口の端をつり上げた。殺気は外に漏らさない。わざと、隙を作ってみせる。虎が間髪入れずに飛びかかってくる。

馬鹿が。所詮は畜生よ。クーゲルは心中でつぶやいていた。

虎は何が起こったか、理解できただろうか。雷光のごとく振り向いたクーゲルが、振り向きざまに槍で殴り伏せたのである。吹っ飛んだ虎は空中で体制を立て直し、再び躍りかかってくる。理解できていない。自分が何を相手にしているのか。

上段から叩き伏せる。前足を払う。脇腹を殴りつける。徐々にテンションがあがってくる。血の臭いが、否応なしに筋肉を興奮させる。突く、薙ぐ、抉る、刺す、斬る、打つ、振り回して、振り下ろす。

「ハアッ!」

容赦なく繰り出されるクーゲルの槍の前に、虎の肉が砕け、毛皮が破れ、骨が折れる。逃げ腰になった虎の足をつぶして退路を絶つ。後方で激しい爆発音。あのマリーとか言う小娘がやったか。どうでもいい。むしろ、負けて食われてしまっていてもかまわない。

そちらも、クーゲルが殺す事ができるのだから。

ようやく自分が相手にしている存在に気づいた虎は、必死に逃れに掛かる。つぶされた後足を引きずり、悲鳴を上げながら。しかし、気づくのが遅い。クーゲルは、頑丈な相手が大好きだ。長い時間いたぶることができるから。戦闘時のクーゲルは、普段の重厚な老騎士とは別人である。

生ける破壊本能だ。

ドムハイト兵は、戦場でクーゲルをこう呼んだ。人間破城槌。その呼び名には、もちろん理由がある。

身を低く伏せたクーゲルは、頬に飛んできた血をひとなめすると、詠唱を開始した。彼は身体能力強化系の術者だが、その能力の全てをチャージに用いるという特異なタイプの使い手である。全身をバネにしたように、力を充填させていく。つがいがどうなったかを見ようともせず、無様に逃げる虎の後ろ姿。ヒイヒイ、ヒイヒイと情けない悲鳴を上げるその尻に向けて。

「おおおおおおおおおおおっ…!」

膨大な魔力がふくれあがる。虎が必死に遠ざかっていく。全身のパワーを全て推進力に代えて、クーゲルが突撃する。

ハアアアアアアアアアアアッ!

木も、岩も、何もかも蹴散らして。空気すらもを蹴散らしながら、クーゲルは走る、いや飛ぶ。虎の姿が見る間に大きくなってくる。恐怖に引きつって、虎が振り返る。必死に足を引きずって逃れようとする。

クーゲルとその槍が、虎の五体を木っ端微塵に吹き飛ばしたのは、その直後だった。

 

意識が数秒飛んでいた事に、マリーは気づいた。指先を動かす。動く。足を動かしてみる。動く。全身、あちこち痛いが。

目を開ける。ぼやけた視界がクリアになるまで、数秒。激しく吹き飛ばされて、木にたたきつけられ、それをへし折って横に倒れたのだと、マリーは気づいた。両者接触の瞬間、放ったサンダー・ロードヴァイパーが、マリー自身にもこんな形で危害を加えたわけだ。虎の一撃を受けていたらまず間違いなく死んでいるから、それ以外に可能性はない。こんな時も本能的に受け身を取っているのだから、習慣とは恐ろしい。

生きていると言うことは、虎は死んだか、相当なダメージを受けたか、という事だ。視界の隅に、倒れて起き上がれないミューの姿。ルーウェンもいる。見たところ、多分致命傷は受けていないだろう。

背中が痛い。足も痛い。腕も痛い。とりあえず折れては居ないが、痛い。虎を探す。杖を掴んでいるのは、まだ虎が生きているという、最悪の事態に備えてのことだ。

うなり声。舌打ちして振り返る。

炭の塊のようになり、それでなお死にきれない虎の姿が、其処にあった。目ばかりが輝いており、もはやそれは生き物の残骸に過ぎない。 

「いいよ、今殺してあげる」

もう一発、ロードヴァイパーを放つ魔力はない。名前の通り蛇の王がごときこの術は、魔力が豊富なマリーですら、それほどに激しく消耗するのだ。だが、もうそれは必要ない。一目で分かる。虎はもう、生物的には死んでいる。マリーはこれから攻撃してとどめを刺すが、これは戦士に対する花束だ。震える体を無理に立ち上がらせ、びっこを引きながら歩み寄る。詠唱。虎は気力だけで立っている。立ったまま、死なせてやりたい。

それが戦士である相手に対する最大の賛辞だ。

クーゲルは既に雄を仕留めたらしい。視界の隅で、全身朱に染めた彼が、勝ち誇った雄叫びを上げているのが見えた。

「ウウ、グウウ、グルルルル…」

「旦那さんと同じ所に、送ってあげるわよ」

マリーの右手に光が宿る。スパークを繰り返す。光球を一発だけ繰り出す術だ。威力は凝縮しているため、かなり光球は小さいが、人間の子供くらいなら一発で感電死する。掌を向ける。虎が、緩慢な動きで、飛びかかる体勢を作ろうとした。

それにしても。皮肉な事態に、マリーは口の端をつり上げていた。

これは村のために行う狩りではなく、個人的な私闘だ。だから幾らでも敬意が入る余地が出てくる。狩りだったら、マリーは幾らでも卑劣な手を使って、残虐非道にかつ効率よく殺していただろう。しかしこれは私闘であり、心の余裕がある。だから、偉大なる戦士に敬意を払いながら、マリーは詠唱の最後の一節を紡ぐ。

「砕き散らせ。 ヘル・ライトニング!」

マリーの掌から打ち出された光球が、虎を直撃した。

 

死なせてやることと、その後の処置はまた別の問題である。死体からは、可能な限りいろいろな素材を回収しておきたい所だ。さっきまでは趣味の余地が入る所。ここからはお仕事の時間である。

クーゲルが強いのはわかりきっていたが、まさか粉々にしてしまうとは思わなかったので、それは残念だった。気絶していたミューを引きずり起こし、ルーウェンに栄養剤を渡して休ませると、虎の焦げ焦げの死体の解体に入る。ミューはさっきまで気絶していたが、切り札の術を投入したルーウェンに比べると消耗は若干小さく、充分に動くことができた。意外なことに、さっきの事態の後だというのに、精神的にはすでに平常を取り戻している。思ったより強い子だ。

周囲の警戒にはクーゲルが当たる。彼はまだ獲物をなぶり足りないらしい。素振りを繰り返しているその目には、鋭い殺気が宿り続けていた。

分厚い毛皮の殆どは炭化していたが、切り出せばいくらかは使い物になりそうだった。虎の毛皮はかなり良い値で売れる。小遣い稼ぎになるだろう。内臓や肉も同じである。

虎をバラしたのは初めてではない。さくさくとマリーは死体を切り分けていった。血の臭いがすごい。シアが居てくれたら、仕事後に冷たいタオルと、おいしいお茶を差し入れしてくれる所なのだが。

「手慣れてるねー」

「まあ、ドラゴンや魔物に比べれば、バラすのも簡単だから」

ドラゴンとなると、戦うのも解体するのも村ぐるみだ。クーゲルは想像以上の実力だったが、それでも相手にするには厳しいだろう。

それにしても、ミューの作業の手際は悪い。教えていないからだが、気になる。南部には虎がかなり多いはずで、当然戦闘や解体は日常的に見ていたはず。

「ねえ、ミューって、どこの出身?」

「え? 南だって、言わなかったっけ」

「ふーん。 そうなると、ひょっとして、お嬢か都会の出身?」

マリーが切り分けた内臓を運んでいたミューの動きが止まる。図星か。そうなると、こんな仕事をしている理由は。かなりろくでもない過去があるのだろう。思い出させるのは気の毒だ。

「まあいいや。 話したくなったら教えてくれればいいわよ」

「う、うん…」

仕分けが終わったら、さっきのキャンプに戻って、さっさと血抜きした肉類と内臓類を燻製にする。思わぬ収入である。多分、クーゲルの給料はこれで捻出できる。本当はそれでおつりが来るほどなのだが、半分は木っ端微塵、更に半分は消し炭だ。使える分だけ拾い集めて、どうにか給料分くらいなのが少し悲しい。

「盾、壊れちゃったなあ」

「今回は少し給料をおまけしてあげるから。 この機会に計画的に貯金する習慣を身につけなさい」

「はーい」

「ん」

なんだかんだ言って、マリーも消耗が大きい。手間が増えてしまうが、今日はキャンプに戻り、じっくり休んだ方が良いだろう。長旅にハプニングはつきものだ。無理は死を招く。ここは腰を据えて行くしかない。回復系の術者が居ればもう少し楽なのだが、其処まで望むのは欲張りであろう。

この間から、薬草を使って傷薬を作る調合にも挑戦している。薬草を煎じただけというようなものは、アカデミーに入る前から作ったことがあったが、理論的に作る錬金術産物の薬は、やはり作るのが難しい。失敗も多く、材料も少なかったため、量産はできなかったが、試作品は一応の効果を示している。ただ、教科書に載っている上級の薬になってくると、まだまだ作業が複雑で、とても手が出ない。しかし、軽く手当をするくらいの役には充分立つ。

一端河原に引き上げて、キャンプを張り直す。竈を積み直して虎の肉と内臓を燻製にする。後はまだ陽が落ちる前から、順番に交代を立てて眠りに入った。クーゲルはまだ血が騒ぐのか、しばらく一人で素振りをしていた。

 

2,忍び寄る影

 

翌日は特に猛獣にも魔物にも会う事はなく、すんなり進むことができた。傾斜は厳しくなる一方だったが、クーゲルは苦労する様子もなく、荷車を引いていた。

何度かストルデルの支流を横切る。どの流れもとても幅が狭く、渡るのは容易だった。ただ、石が多く、転ぶと怪我をしそうだ。充分に注意を払う必要があった。更に、水は身を切るように冷たい。もし川の中で戦闘する事になると、すさまじい勢いで体力を消耗するだろう。

傷薬は思ったよりずっと良く効き、ルーウェンもミューももう動きに問題ない。ルーウェンは折れた剣を後生大事にバックパックに入れていた。予備の非常に古い剣を腰にぶら下げているが、切れ味は傍目から見ても不安だ。ただ、様子からして折れた剣は非常に大事なものなのだろう。口を出すと士気に関わる可能性があるから、放っておく。

厳しい行軍だったが、どうにか乗り切れたのは、その後は大した障害が無かったから、だともいえる。結局虎も狼も魔物も大型の肉食動物も姿を見せず、翌日の昼少し前に、目的地にたどり着くことができた。

 

かなり川幅が広めのストルデル支流にたどり着いたマリーは、ついに目的地側まで来たと確信した。情報通りの特徴を備えていたからである。まず河原に耳を着けて、滝がどちらにあるのかを探る。下流にあると見当をつけて、すぐに下流へ。冬だというのに植生が豊富で、特に独特の臭気を放つ木の姿が目立った。これがガッシュと呼ばれる植物であろう。冬なのにくすんだ茶色の尖った葉を茂らせている、黒い樹皮が目立つ低木である。それが川の両側に、密生していた。

下流へ進むと、すぐに滝の音が聞こえ始める。ビンゴだ。同時に霧のような蒸気も出始めており、心なしか気温も下がり始めていた。一端河原から離れて、森の中へ入り、迂回して下る。急に傾斜がきつくなってきており、クーゲルを手伝って皆で荷車をおろしていった。

既に滝の音が、すぐ側にまで近づいている。強烈な臭気を放つガッシュの茂みをかき分けて、四人で進む。必然的に、皆口数が少なくなる。そして、茂みを出ると、それはあった。

圧倒的な自然が作り出す造形美というものは、やはり人間の感性を強く打つ。噂に聞くストルデルの滝を目撃したマリーは、強くそう思った。

滝の高さは成人男子十五六人分程度であろう。ほぼ垂直にそそり立った険しい崖から、透明度の高い水が降り注いでいる。水量は実に豊富で、周囲に立ちこめる乳白色の霧が、幻想的な光景を更に後押ししていた。響くのはただ水の音ばかりであり、それも耳障りではないほどに力強い。左右は緩やかな崖となっていて、其処には種々の植物が密生していた。山の中、此処だけが巨大なスプーンで削り取られたような光景だ。

滝壺は小さな池ほども広く、霧に浄化されたか、清らかな空気が辺りに満ちている。水面に広がり続ける波紋は規則的で、足下の水際で静かに跳ね返り続けている。崖の壁面では何カ所か滝の水が跳ね返り続けており、それも霧の中でかき消えている。

ただただ絶景なるその場所は、かって宗教的聖地だったのも頷けるほどに、実に圧倒的であった。周囲に生い茂る木々が、緑の輪となって、滝の美しさを飾り立てている。

「うっわー! すごいね!」

「確かにすごいな」

口々にミューとルーウェンが感動している。マリーもこの圧倒的な光景には驚かされた。スケールはさほどでもないが、美しさが段違いである。これほど心を打たれたのは、ザールブルグの城壁に初めて登った時以来ではないか。

「なかなかすばらしいが、何が居るか分からぬ。 マルローネ君、儂は周囲を見回ってくる」

「あ、お願いします」

こんな時でも冷静なクーゲルが、皆に背中を向けて、偵察に出かけていった。流石にベテランである。感動している間に何かに襲われたら、泣くに泣けない。良い判断であろう。ただ、彼の場合は、多分いかにして敵を殺せるかが、全ての感覚に優先している部分もあるだろう。ある意味極端な快楽主義者なのかもしれないし、それによって自己発見をしているのかもしれない。

周囲に散らばっている石の中には、純度の高いフェストが多数混じっていた。フェストは灰色の結晶体で、だいたい楕円から菱形に近い形状で、所々川石に混じって散らばっている。触った感触が非常にざらざらしているのと、他の鉱物と混じっていることが少ないのが特色だ。

また、レジェン石と呼ばれる鉱物も、辺りには豊富に散らばっている。鈍く灰色に光るそれは、硬度はたいしたことがないのだが、非常に優秀な魔力蓄積媒体で、高度な中和剤の材料になるほか、様々なマジックアイテムの素材にもなる。ただこれは普段、大きな結晶が単体で転がっていると言うことはない。石とマーブル状に混ざっていたり、岩を砕くと中にちょっとだけ入っていたりと、取り出すのにも集めるのにも労力が居るものだ。だから、アカデミーでたまに見たことのある大きな結晶になると、かなりの値がついたりする。

だが、この滝壺では、あちらこちらに鈍い光が見える。かなり、効率よく集めることができる可能性が高い。ハンマーは持ってきているが、必要ないかもしれない。

脳天気に笑いながら、ミューが言う。

「夏だったら、水浴びしたいねー」

「やめといた方が良いと思うけど」

「どして?」

「こういう所って、だいたい主って呼ばれる大きな魚とか魔物とかがいるんだよ。 丸呑みにされたくなければ、下手に水際には近寄らない方がいいだろうね。 それに夏だと、この近辺には熊もたくさん出るはずよ」

固まるミューを置いて、マリーはキャンプを張るのに丁度良い場所を物色する。まあ、そんなのがいると、クーゲルが張り切って余計な戦いまでしなければならなそうで、ちょっと面倒くさい。

滝壺から少し下ってみると、丁度良いキャンプ場所が見つかる。周囲の見晴らしが良く、適度な広さがあって、休むにはもってこいだ。周囲には猛獣の痕跡もないし、魔物の気配も無い。

この滝壺、非常に美しいのだが、無防備にうろついていて良い場所だとは思えないし、汚してしまっても悪い。マリーはそちらにキャンプを張ることを決めると、皆を呼び集める。ミューは滝壺でキャンプしたいとだだをこねたが、駄目と一言で拒絶。彼女には悪いが、彼処には採集以外で立ち寄りたくない。

なんだか、胸騒ぎがする。数日前の虎とは比較にならない嫌な予感が、じりじりと胸を焦がしている。出かける前に抱いたのと同じ感触だ。アカデミーの回収業者はだいたい二十人編成の探索チームで採集地を回るという話だが、今マリーの周囲には彼女も含めて四人しかいない。しかもそのうち二人は半分素人で、もう一人は経験と魔力はそれなりだが身体能力が低い。何か、藪をつついて蛇を出すような結果にならなければ良いのだが。

「大物の気配がする」

戻ってきたクーゲルは、ただそれだけ言った。少し嬉しそうだった。嫌な予感が確信に変わったのは、そのときであった。

 

夜になっても、当然滝の音は聞こえ続けていた。寝袋にくるまったマリーは、ぼんやりと星空を見上げながら、考え事をしていた。ヒュン、ヒュンと近くで定期的に響いているのは、クーゲルの素振りの音だ。あのご老体、大した体力である。

数日前から、マリーは少し眠るのが難しくなってきていた。落ち着かないのだ。森は自分の庭だと考えるマリーだが、それにも限界がある。幾ら野生と接する事が多い環境で生まれ育ったとはいえ、自然そのものがテリトリーではないのである。森は得意だが、山は殆ど知らない。たとえば、ビバークという行為については聞いたことがあるが、あまり詳しくない。山で遭難した時手際よく行えるかどうかと聞かれたら、ノーと答えるほかない。

ストルデルの滝と呼ばれるこの場所は、山岳地帯に属しており、麓の森林地帯とは様々な事が違っている。生態系はもっとも重要な一つであり、それには猛獣や魔物の生態も絡んでくる。知識の不足は破滅へとつながりかねないのである。だから、マリーはクーゲルを当てにしている。それは、彼の嗜好を目にした今でも変わらない。

彼が殆ど殺戮に自らのアイデンティティを置いていることは、少し話して、虎との戦いを見て理解した。だが、それは別によい。たとえば、苦戦している時に支援が遅れるかもしれないという怖さはあるが、それも冒険者としての名声に響くから、おそらくは大丈夫だ。危険度は無視できるほどに小さい。しかし、彼が思わずよだれを垂らすほどの強敵が近くに潜んでいる可能性があるとなると、話は別だ。

人間は誰もが猟奇的な部分を持っている。どんな清楚な美人でも解体したら血まみれの肉塊になるのと同じで、心の中にはほの暗い闇を飼っているものだ。ザールブルグでマリーのアトリエの側にある肉屋の主人は心優しい紳士だが、奥さんに聞いて知っている。彼は異常なまでに肉を切る感触が好きで、豚を捌いている時などはこの世のものとは思えない笑顔を浮かべているという。誰でもそうだ。

どんな優しい人間でも、頭の中では何をしているか知れたものではないのである。クーゲルの場合は、それが更に常人からかけ離れているだけのこと。しかもそれをきちんと本人は社会外の部分で処理している。普段はそれでいい。しかし今回は、少しばかりまずい。

採集を急がなければならないと、マリーは判断した。今回、採集はマリーと、主力武器を失ったルーウェンで行う。がさつなミューはこういう細かい作業には向いていないし、盾は失ったものの剣はまだまだ使える状態なので、見張りに立ってもらう。手際良く、一気に採集を済ませてしまって、すぐに滝から離れる。

マリーが恐れているのは、いうまでもなく、クーゲルとこの滝に住む何かしらの存在との戦いに巻き込まれることだ。クーゲルの実力は確かに折り紙付きだが、マリーと、他の二人はそうではない。三人がかりでせいぜい虎と同じ程度である。それに対して、クーゲルは虎など五頭を同時に相手にして勝利してみせるだろう。そんな彼が、嬉々として本気でぶつかり合ったら。

多分、巻き添えを食っても死にはしないだろうと、マリーは思う。なぜなら、今まで調べた中で、クーゲルは味方に被害を与えるような戦歴を残していないからだ。だから、マリーをクーゲルが戦いの弾みに殺す可能性は低い。問題なのは、今回の目的である、錬金術のアイテムを採集するという行動に、極めて危険な形で横やりが入ることだ。もしそんなことになったら、採集どころではなくなってしまう。そしてそうなれば、生きて帰れたとしても、マリーはじり貧である。取り戻すのはかなり難しいだろう。

幸い、今回採集目的の道具類は劣化が殆ど心配ないものばかりだ。ただ、重い。植物やキノコなどと比べると、非常に重い。荷車を持ってきたのは、それらを回収するためだ。だから、早めに回収して、帰りは時間が掛かっても良いから、安全な道をさっさと行く。滝壺にとどまる時間は最低限にして、それ以外の場所で疲労を押さえながら帰ることを考える。次にここに来る時は、もう少し力をつけてからだ。虎が出ることは分かったし、もっとやばそうなのも潜んでいそうだし。この滝は、思った以上に危険な場所だった。

寝返りを打っても、滝の音はする。素振りの音もする。クーゲルは毎日二刻くらいしか寝ていないはずだが。この底なしの体力がどこから来るのか、少しだけ興味深かった。

戦略が甘いと、マリーは時々シアに怒られる。今回はいつもの反省をふまえて、弱点を補うべく人材を揃え、入念な下準備までして来た。それなのに、実際に作業をしてみると、ぼろぼろとあらが出てくる。隙だらけの思考は、現実に向かうとたちまちそのもろさを露呈してしまうものだ。いつも思い知らされる。いつも悲しい。

今は眠ろう。マリーはそう決めて、不毛な思考を打ち切った。空を鳥が飛んでいく所を想像する。落ち着く時には葉を数えるが、眠る時には鳥を数えるのだ。それも速度が遅い雁がいい。鳥が一羽、二羽、三羽、四羽、五羽、六羽…。

三百に達する前に、マリーは眠りについていた。眠った後も、ずっと素振りの音と、滝の音は、響き続けていた。

 

朝日が昇りきり、少しだけ寒さが緩和されてきた頃、マリーは動き出す。まず、最初にやるのは、図鑑を開いてのアイテムの確認だった。三人は護衛に周囲に展開してもらい、マリー自身が素早く周囲を調べ上げていく。

臭いがきつい樹木は、やはりガッシュだった。様々な使い道のある植物であり、加工がしやすいのも魅力である。枝はかなり豊富に落ちている。雨が降る前に集めておきたい所だ。

石類もかなりの種が集まっていた。研磨剤の材料になるフェストは豊富に転がっているし、鈍く光っているのはやはり間違いなくレジェン石だった。ただ、レジェン石はそれほど大きな塊がない。これは多分、アカデミーの業者もここに来ているからだろう。もし大きな塊があるとすれば。

マリーが見上げる。先にあるのは、美しい滝。

彼処にしかない。だが、水際に近づけば近づくほど危ないだろう。マリーの視線を理解したらしく、クーゲルが言う。

「儂は水中戦もこなせるぞ。 いざというときは助けてやる」

「あ、ははは。 ありがとうございます。 どうもご丁寧に」

戦いたいから、餌になれと言われているようで、マリーは複雑だった。流石にこればかりは、悪く考えすぎなのかも知れない。

ルビーの原石、コメートの原石、それに翡翠の原石。信じられないものまでマリーは見つけた。純度はどれも低いようだが、研磨の技術さえあれば宝の山に化ける可能性がある。ざっと全体を見て回る。珍しいキノコ類も物陰には生えていた。

キャンプに戻り、大まかな地図を書く。これらをいかに効率よく集めるかが、今回のもっとも重要な部分となる。その際、滝を見張りたがるクーゲルと、何かやばいものがぶつかり合うのをできるだけ避ける方法を考える必要があるのだが。

連れてきた面々を見て、マリーは心中ため息。

ミューは頭が悪すぎるし、ルーウェンは正直すぎる。相談するにはあまりにも不向きである。ここにシアが居てくれればと、マリーは心の底から思った。ミューもルーウェンも気のいい奴だし、雇い主と冒険者という関係よりも一歩友達に近づいているが、それとこれとは話が別。戦いの余波で荷車を壊されるような事があれば計画が全部パアだ。何か良い考えがないだろうか。

いっそ、全力で滝に住んでいる可能性がある「大物」を処理してから、採集を行うか。マリーは思考をそう転換してみたが、すぐ却下。今の戦力では、全力で戦っても死人が出ることを覚悟しなければならない。そしてクーゲルがもし欠けでもすれば、ここから生きて帰るのはぐんと難しくなる。その賭は、リスクが大きすぎる。

「ねえ、マリー」

「うん?」

図鑑を捲りながら、必死に思惑を巡らせるマリーの前に、いつのまにかミューが立っていた。成長速度はかなりのものだと思っていたが、末恐ろしい奴である。最終的な身体能力は、確実にマリーをしのぐだろう。

「なんだかさ、この滝すごく嫌な雰囲気なんだけど…。 他の場所で、採集ってできないの?」

「できない。 だから悩んでるのよ」

「クーゲルさんあんなに生き生きして、何か起こるのまってるし。 なんだか私怖いよ」

「だから、さっきからずっと悩んでるわけ。 いつ何が起こってもおかしくないから、少しでも休んで体力温存しておいて」

「はーい」

ぶすっとして、ミューは見張りに戻っていった。彼女の成長速度はかなりのものだが、それでもやはりまだまだリスクの高い賭をするには早い。しかも今回、最悪なことに、クーゲルが喜びそうな何かが、いつ現れてもおかしくないのだ。

採集作業決行は明日。地図はざっと作った。ルーウェンには後で採集のコツを詳しく説明しておくとして、採集が終わって撤退する時にクーゲルがぐずったらどうするか考えておかないとならない。多分無いだろうが、もし残るとか言い出した時にどう説得するか、一晩がかりでも考えておく必要があった。

滝は相変わらず、何も変わらず、音を立て続けている。バックパックの干し肉も減り始めている。堅い燻製干し肉をかじりながら、マリーは思惑を巡らせる。これも修行の一つ。独創性は鍛えられるものではないが、判断力は鍛えられる。すっかり衰えたものの中には、急場での判断力もある。今回は良い機会だった。

マリーの苦悩をあざ笑うように、滝は何も変わらない。どこかで、鳥の鳴き声が聞こえた。

 

3,滝の怪物

 

翌日は、朝から不穏な空気が流れていた。空気自体に微少な針が含まれているようで、本能が一刻も早くここから離れるようにと警告している。虎の比ではない。まずい、とマリーは思った。無理してでも、昨日中に撤退するべきだったかも知れない。そう、異常な気配に飛び起きたマリーは思った。

案の定クーゲルは生き生きしていて、じっと滝の方を見据えている。この人にとっては殺しあいが全てだ。その生き方は否定しない。しかし、まずい。クーゲルと見張りについていたミューはいい。ルーウェンをすぐにたたき起こし、手を叩いて皆へ告げる。

「キャンプたたんで。 はやく!」

「お、おう」

「分かった!」

「…見張りは儂がする」

マリーの表情から事態を感じ取ったか、ルーウェンとミューが素早く作業に入る。マリー自身も急いでキャンプをたたむ中、クーゲルは三人に背中を向けて、じっと滝を見つめていた。

今日は霧が濃い。霧は魔物と親和性が強く、こういう時には危険信号の役割も果たす。マリーの長い髪の毛が、ぴんぴんと跳ねていた。ドラゴン狩りの時、こんな風になることが多かった。ただし、ドラゴン狩りの時は、息があった村の人たちと連携することができたし、周辺地理は知り尽くしていた。しかし今回は、相手の庭で、しかも味方の質が決して良いとはいえないのである。

ロープを使って荷物をまとめ、背負い、荷車を動かせるようにする。荷車には麻の頑丈な大きな袋も一緒についていて、運ぶ時の手助けになるように工夫してある。此処に、素早く道具を放り込んで、回収次第撤退。それだけのことが、こうも難しいとは。夜なべで幾つか策は考えたが、どれもリスクが大きい。

村にいた頃は、指揮官はトール氏であり、そうでない場合でも分隊長格にはマリーの父母なり他の大人なり、幾らでも頼りになる人がいた。たかが数人を指揮するだけでこうも難しいのは、マリーの経験不足から来ることであり、自分の未熟を思い知らされて悲しいばかりである。

「マリー君」

「何ですか?」

「何を考えている。 ひょっとして、この好敵と戦わずに逃げるつもりかね」

「あたしの目的は、錬金術を行うのに必要な材料をこの滝で集めることです。 そのためには、此処で戦うことは良くありません。 お願いします。 できるだけ、戦意を押さえてもらえませんか?」

「ふむ…」

クーゲルに釘を刺す。ルーウェンもミューも荷を積み終わって、次の動作に備えている。腕を組んで考え込んだクーゲルは、思案していた。

「分かった。 こちらから挑発することはやめておこう。 君の現在の力量でこの滝にまで来たという事は、並々ならぬ事情があるということだ。 その覚悟、儂の存在意義と比べて良いものではないだろうからな」

「ありがとうございます」

「ただし、相手から仕掛けてきた時には、儂は遠慮無く全開で戦うぞ。 君たちを守るためにも、な」

「…分かっています」

分かっている。今のクーゲルの発言が正しいことは。つまり、最重要の課題は、その状況を如何に抑えるか、だ。

「ミュー、ついてきて」

「ん? うん。 いいけど? 何するの?」

「威力偵察。 クーゲルさん、ちょっと滝の様子見てきます」

クーゲルは不審げに眉をひそめたが、鷹揚に頷いた。多分、納得してくれたはずだ。まさか、マリーが滝にいる何かに仕掛けるだろうとは思っていないのだろう。指揮官自身による威力偵察というのは本来あり得ないが、それについても何か考えていると好意的に解釈してくれたに違いない。とりあえず、第一段階クリア。

今回、探索のためにいろいろと持ってきている。ミスティカの葉もいくらか持ってきているし、それの失敗作もある。これに、教科書にない使い道があることを発見したのは偶然だったが、今回はひょっとすると役に立つかも知れない。どちらかにしても、試す価値はある。

バックパックから取り出したのは、油紙に包んだ、黒ずんだミスティカの葉である。とてとてついてきたミューが、それを見て眉をひそめる。

「なあに、それ」

「ミスティカの葉を脱水剤で乾燥させて、それに黴を生やしたもの」

「カビ? そんなのゴミじゃないの?」

「それがね、これが結構強力な脱臭剤なのよ」

ミスティカの葉を加工する間、幾つか副産物ができた。このアイテム、思ったより作るのが遙かに難しく、途中でカビが生えてしまったり、腐ってしまったり、粉々に崩れてしまったり、いろいろ失敗した。脱水剤となるぷにぷにの体内から抽出した玉の配分と、湿度と温度がコツだと言うことが分かるまでに、かなりの素材を消耗した。だがその課程で、これができたのである。

脱臭剤だと気づいたのは、これが偶然腐ったネズミの死体に掛かってからだ。部屋に出たネズミを叩き殺して、地下室に放置していたのだが、ほんの少量これを間違えて掛けてしまった。そうしたら、死臭が綺麗に消えて無くなったのである。

再現は簡単だった。ミスティカも採集は簡単だった。こんなもの、近くの森の水場にも生えているのだ。だからミスティカを集めては実験し、かなり強力な消臭剤に仕上げることに成功したのだ。

指先を軽くなめて、風の方向を計る。そして、滝の風上に回り込む。ガッシュが周囲に生えていることが幸いした。ミューと一緒に、滝の方を伺う。

いた。

「うわ、なにあれ…!」

「静かに」

マリーが大声を上げかけたミューの口を押さえる。マリー自身も久しぶりに見る。

滝壺の水際近くに、それはいる。一見すると、竜巻のようにも見えるが、中には人影がある。辺りをはい回るようにして、動き回っている。全身からは、猛烈な魔力が迸っていた。かなり手強い。もし今の戦力で挑むとなると、やはり死人が出る覚悟をしなければならないだろう。

そいつらの起源はまだよく分かっていない。ただ、人類が文明を持ち、社会を拡大し始めた頃にはもういたことが知られている。人間よりも古い存在なのかも知れない。共通していることは、生殖によって数を増やさないと言うこと。分裂したり、子孫を術の類で作り出したりして増える。そして強力な魔力を例外なく持ち、解体して売ると良い金になる奴ら。

いわゆる、魔物である。

知能が高い者もいるが、文明を築いたり、国家を作ったりと言った社会活動は一切しない事が、人類にとっての助けになっている。殆どが単独行動するため仕留めやすく、今では大国家の領内には殆ど姿が見られない。だが辺境にはまだまだそれなりの数が居て、上級の魔物になると小さな村を壊滅させることもあるという。もっとも、そんな上級の魔物が出たという事実など、ここ百年以上無いというギルド関係者の話を、マリーは聞いたことがある。今では、人間社会の隙間を縫うようにして生きている連中なのである。

声量を絞る。ミューにも説明が必要だからだ。情報を幾つか分けていった後、戦うと死人がまず間違いなく出る上、今回の目的も果たせなくなる可能性が高いと説明する。

「じゃあ、どうするの?」

「あいつの動き、よく見て」

「うん。 なんだかはい回ってるみたいだね」

「体の周囲を見れば分かるんだけれど、あいつって風を纏ってるわよね。 多分そのまんま、風の力を司る魔物なんだと思う。 そして魔物である以上、人間ともだいぶ感覚の構造が違っていると思うんだ」

考えてみれば変な話である。あの魔物、昨日滝をうろついている間は全く仕掛けてくる気配がなかった。クーゲルを恐れたという事はないだろう。冒険者の調査班や、アカデミーの回収業者が遭遇したという話も聞いていない。

昨晩マリーが出した仮説はこうだ。あの魔物、五感の内、嗅覚だけが異常に発達していて、他はたいしたことがないのである。だから、昨日は仕掛けてこなかった。今日になって出てきたのは、こちらが残した人間の臭いが気になったからだろう。しかも、その数が少ないのを見て、どこかの隠れ家から出てきたのだ。これは仮説だが、あらゆる状況証拠が証明している極めて精度が高い信頼できる仮説である。ならば、打つ手は決まっている。

もう一度風向きを確認。奴が住んでいるからか、風はあらかた滝に流れ込んでいるらしい。奴にとって丁度いいが、今回はこっちにとってなお丁度いい。ミスティカ消臭薬を取り出して、できるだけ音を立てないように火打ち石で着火。薄白い煙を、滝壺へ流れ込むように団扇であおる。

煙は、ゆっくり、ゆっくり滝壺へ流れ込んでいく。

「だ、大丈夫!?」

「だ、い、じょ、う、ぶ」

舌なめずりしたマリーが言う。魔物は自然の掟の外にいる存在であり、そういう意味では人間と近縁種といえる。そしてそういった存在は、弱点を一端突かれると、際限なく脆くはかないものなのだ。あの風の魔物が何者かは知らないが、戦闘能力に関してならともかく、果たしてこういった搦め手の攻撃に耐えられるか。

素早く移動して、何カ所からか消臭煙を流し込んでいく。風の魔物の動きが、露骨に鈍くなっていく。なるほど、さては自分のいる場所も理解できなくなってきているな。心中つぶやきながら、マリーは懐から三包み目を取り出すと、着火。

煙は薄く薄く滝の中に満ちている。山の中、削り込まれたような滝は、霧と煙で更に乳白色が濃くなっていった。竜巻のようになっていた魔物の周囲の風が弱まる。ふっと息を吹き消して煙を消すと、マリーはミューの頭を押さえて下げさせ、気配を消した。

風が消えて中身が見えると、良く正体が分かる。相当に美しい女だ。肌は褐色、贅肉のかけらもないすらりとした長身で、薄紫の髪が足下まで伸びている。胸と腰を銀色の鎧で覆い、鋭い視線を矢のように周囲に射込んでいた。裸足で歩いているが、体が僅かに浮き上がっているのは、風の力によるものだろう。一対の手と足と、二つの目にプロポーションまで殆ど人間と変わらない。

これはこれは。思わずよだれが零れたので、手の甲で拭う。人間形態を取る魔物は希少種で、高級な薬品や道具の格好の素材である。力が戻ってきたら狩りに来ようと、マリーは思った。そのときはクーゲルを連れてこない方が良いだろう。木っ端微塵にしてしまったら元も子もないからだ。切断を得意とするような術者がいい。一年後か二年後か、ギルドに掛け合ってみるとしよう。

「ウフフフフフ♪ 戦力が整った時が楽しみだわ☆」

「ま、マリー、な、なんだか怖いこと考えてない?」

「ミューも早く強くならないとね♪」

「…う、うん。 頑張る」

オツムはアレだが勘だけは鋭いミューが、蒼白になって頷く。その頭を撫で撫ですると、マリーはそのまま茂みを下流へ。しばらく小首をひねりながら、風の魔物は考え込んでいたが、やがて再び風を纏うと、音もなく滝の裏側へ消えていった。

「よしっ!」

思わず快哉の拳を胸の前でたたき合わせる。見事な勝利だ。錬金術師としてのマリーと、戦士としてのマリーの力量が合わさって、初めてなしえたことである。優れた戦士は、戦うだけが能ではない。

風の魔物はクーゲルがじきに倒してしまうかも知れないが、そのときはそのとき。今回は策が上手くいったという事実、それだけが嬉しい。少しずつあらゆる意味での勘が戻り始めていることを感じて、マリーは嬉しかった。

皆を連れて滝壺へ戻ると、もうそこに魔物の気配は無し。立ちこめる霧の中、クーゲルは顎を撫でていたが、やがて採集活動中のマリーを見る。

「何をした、マリー君」

「秘密です」

「まあいい。 此処に面白そうな奴が居ることは分かった。 いずれ必ずや、儂の槍の錆としてくれる」

「ああ、その件なんですけれど。 あいつ、あたしも狙いますから、そのつもりで」

「ふむ、面白い。 どちらが先に仕留めるか、競争だな」

目を爛々と光らせたマリーと口の端をつり上げたクーゲルが一瞬だけにらみ合うが、すぐに採集活動へ戻る。事前に入念な下準備をしていたから、採集には一刻とかからない。撤収準備を始めた頃には、だいぶ煙が薄れてきていたが、関係ない。奴は鼻こそ優れているが、耳も目も良くない。帰るまでには保つ。

夕刻、キャンプを引き払う。多分、滝壺の魔物は知らないだろう。自分が想像を絶する危機に陥っていることなど。途方もない怪物どもに目をつけられてしまったことなど。

ただ滝は静かなままであった。後に訪れる、惨劇に怯えるかのように。

一週間後、同じルートをたどって帰還したマリーは、途中二度虎と交戦したが、無事にザールブルグにたどり着いた。短い旅であったが、これが彼女をより大きくしたのは、間違いのない事実であった。

アトリエに戻る。多少埃の臭いがするが、懐かしい我が家だ。積んできた様々な鉱石類を地下室に仕分けすると、腕まくりし、マリーは頭を切り換える。

もう一つの戦いが、ここから始まるのだから。

 

4,コメート

 

マリーは集めてきた鉱石類を整理し終えると、まずコメートの原石を取り出す。なかなか大きい、良い原石だ。大きさは握り拳二つ分ほどのものが一つ。拳より少し小さいものが四つ。机の上に並べていく。ランプの灯に照るこの中で、小さい原石の一つが、かなり品質が良さそうである。

コメートという名は、そのまま星を意味する。シグザール王国北部の特産物であり、非常に大きな結晶が時々見つかる事でも有名な、美しい宝の石である。良く研磨された人間の頭大のもので、小さな城一つと引き替えになる程の価値がある。現在も安定した量の採掘が見込める、シグザール王国の財源だ。有名なのはザールブルグの星と呼ばれる一石で、これなどは国宝に指定されており、玉座にて毎日輝きを放っている。

この石は特定の鉱山の他、幾つかの山から流れる川などで、原石がむき出しの状態で発見されることが多く、そうやって拾ったものについては自分の好きにして良いと決まっている。それで財をなした人間もいるという。しかし王国は法を変える気配がない。いちいち取り締まることは難しいし、それに鉱山では細かいことに目くじらを立てなくても良いほどに産出されるからだ。

しかし、この石には問題もある。加工が極めて難しいのである。

特色として、まず原石が柔らかい。その気になれば子供の力でもハンマーを使えば砕けてしまうほどで、それが逆に加工を難しくしている。筋に沿って力を入れるだけで、割れてしまうことさえあるのだ。

特殊な加工をすることによって、他の宝石と同じ程度の堅さを発生させることはできる。できるのだが、その技術は宝石ギルドと王室によって秘匿されている。庶民が持ち込んだコメートの加工料金を、ギルドが無法にかすめているという訴訟は、十年ほど前まではシグザール王国へ年何度かあがっていたと、マリーは聞いている。

しかし、この技術的なパワーバランスを崩す勢力が現れた。それが錬金術アカデミーである。

アカデミーはギルドと全く違う方法で原石を加工、若干硬度が勝る反面輝度が落ちるコメートを作り上げることに成功。今では、上級の錬金術師になると、複数の小さな原石を組み合わせて、一個の宝石を作る事ができると言われている。その技術により、コメートの生産量は一気に増え、逆に宝石ギルドの売り上げは減少した。ギルド側は輝度とブランドを武器にしているが、更に技術力を上げたアカデミーは最近輝度でも遜色がないコメートを作ることに成功しているとマリーはこの間アカデミーにて受付のお姉さんに聞いた。ただしかなり高度な技術がいるため、これについては量産がきかないそうである。

ところで、このコメート研磨技術を作ったのは、あのイングリド先生である。マリーも怖くて仕方がないあの先生の発明でもっとも有名なものの一つであり、今後触れるのにも少し勇気がいる。噂によると、この技術開発に憤った宝石ギルドが暗殺者を雇って送り込んだところ、ことごとく返り討ちにされ、無惨な死骸をギルド長の家に放り込まれて逆に震え上がってしまい、以降アカデミーに文句を言うことはなくなったのだとか。噂だと笑い飛ばせない話である。頼もしいを通り越して、恐ろしい先生である。

このコメートをいつか作ってみたい物だ。

だが、当面は、手に負える作業から順番にやっていく必要がある。集めてきた素材は、何もコメートを作るだけのものではない。他にも、小金稼ぎになりそうなものは幾らでも作れる。

まずは不揃いな多数のフェスト石を並べる。これを乳鉢で念入りに砕いて研磨剤を作るのだが、これがとにかく時間が掛かる。作業が作業だけにとても疲れる上に、他の作業との兼業もやりづらい。だが、文句は言っていられない。もうプランは作った。それに基づいて、資金稼ぎ開始だ。

ざらざらしたフェストを、最初はハンマーで適度な大きさに砕き割る。砕くと、割れ目から小石や砂利などの不純物が出てくることがあるので、これを取り除く。教科書を片手に、指先ほどの大きさにまで砕いていく。砕く時、粉状のものが散ってしまう事に気づく。二回目からは、下に羊皮紙を敷いて砕いた。失敗は成功の母だ。

そうして、かけらを小指の先くらいにまで砕いていく。砕く時、あまりいい音はしないし、とにかく緊張する。それほど力はいらないのだが、砕く数が数だ。滝壺でかご一杯分くらいフェストを集めたから、これを砕くだけで数日はかかる。

百ほどかけらを丁度いい大きさに砕いたところで小休止。裏庭に出る。そこには葉を落とし終えたガッシュの枝が石段の上に並べてある。最近は乾燥した天気が続いていたので、手にしてみると丁度いい感じに水分を失っていた。もう少しだろう。枝をひっくり返して、影になっていた部分を陽に当てると、続けて地下室に降りる。

熟成したミスティカの葉を見に行く。かごにいっぱい入れた葉を、棒でかき回すと、蚕が桑の葉を噛むように、小気味よいさくさくという音がした。こちらはもう少しでできあがりそうだ。シアに混ぜることだけを頼んでいたのだが、彼女は丁寧に仕事をしていてくれた。この辺りは、毒舌家でも仕事に手を抜かない彼女らしい。

砕いたフェストを別のかごへ移すと、すぐに次に掛かる。その課程で出た粉は、まとめて別にしておく。乳鉢で少しつぶすだけで、すぐ研磨剤として活用できそうだ。少しでも資源を無駄にしないように、考えて動く。今回の材料調達で使った金額を考えると、とても無駄は許されないのである。ほおを叩くと、次の作業へ。やることは、幾らでもあるのだ。

ただ、この粉を吸い込むと、健康には悪そうである。少し考えてから、マリーは料理用のマスクを買ってきてつけた。少なくともこれで、息をして粉を吹き上げる事態は避けられる。

様々な紆余曲折の末、丸三日がかりで適度な大きさに砕き終える。まずは第一段階、終了と言うところであった。

いよいよ、フェストを乳鉢ですりつぶす作業だ。大変なのは事前に分かりきっていたし、他とどうにか兼業したいと考えていた。だから、じっくり時間を掛けてプランを練ったのである。効率よく時間を使うために。

まず、最初に触るのは、充分に乾燥させたガッシュからだ。適当な大きさに切った枝を紐で縛り、庭に組んだ石竈に入れて吊し、蒸し焼きにする。竈には雨よけに傘をつけてある、そこそこに本格的な蒸し焼き竈だ。燻製肉はグランベルでもさんざん作ったし、これに関しては昔取った杵柄である。

アトリエ内にも竈はあるが、それを使わなかったのは、非常に嫌な予感がしたからである。図鑑にも臭いが強烈だと書いてあったし。アトリエ内がその強烈な臭いに汚染されたら、流石にアバウトでラフなマリーでも生活できない。

竈に灯がともったことを確認すると、上手く蒸し焼きになるように薪を調節して、アトリエに戻る。これで多少雪が降ったくらいでは蒸し焼きに支障はない。残りのガッシュの枝は地下室に運び込むと、縛って暗いところに置き、油紙で縛っておく。こういった紙類の出費がかなり馬鹿にならない。

ついでにミスティカの葉の状況を確認する。これもあと数日と言うところか。教科書の記述が正しければ、あと少しで充分に使える状態になる。最後にフェストを砕く作業に入る。

乳鉢にかけらを入れて、すりつぶす。最初に力を入れて形を崩し、後は円を描くようにして、粒を全てつぶしていく。つぶしていくと、小さな不純物や砂利が出てくることもある。そのたびに細い針二本を使って取り出し、捨てる。この作業が想像以上に面倒くさい。粒子が細かいので、金網に掛けても素通りしそうだし、なかなか大変だ。

乳鉢を優しく叩いて粉を寄せると、結構小さい粒が出てくる。このまま作業していくと、そう遠くない未来に乳鉢が傷む可能性が高い。乳鉢はきめ細かい粒子が命である。傷ついてしまうと使い物にならなくなる。これは、予備を早めに仕入れておく必要がありそうだ。

半日がかりで、乳鉢数杯分の研磨剤を作ることができた。額の汗を拭う。指先についていた白い粉を、できるだけ丁寧に落とす。

この作業、集中力がかなり必要になる。作った粉を入れたボウルに入れ、布をかぶせて拭き散らないようにすると、二階へ。指も腕も肩も痛い。分かってはいたが、かなりの重労働である。

この後、研磨剤を用途ごとに加工する事になる。たとえば鉱物や宝石を磨く時は、紙に薄く膠を塗って研磨剤をまんべんなく貼り付け、ヤスリを作ってそれでこする。半分ほどの研磨剤は、丁度依頼があるとかで、酒場に納品が決まっている。大した金にはならないが、それでも無いよりは良い。

二階のベットに寝転がると、じっと指先を見る。乳棒をしっかと掴んでいたので、赤くなっている。まだ力の加減がよく分かっていない証拠だ。このままだと、へたをすると肉刺ができるだろう。そうなると面倒だ。早めに処置して置いた方が良さそうだ。

玄関の方で気配がした。多分シアだろう。ノック音に返事して、玄関まで降りる。戸を開けると、案の状シアだったが、もう一人居た。

「シア、どうしたの?」

「お昼を食べようと思って。 それでこちらはクライスさん」

「おじゃましますよ、マルローネさん」

「何しに来た」

敵意むき出しのマリーに対して、クライスは涼しい顔である。状況をコントロールされているようで、余計に腹が立つ。クライスの奴、いつか後ろから刺されるぞと思いながら、マリーはシアを見る。

「仕事先で貴方の話題が出て、連れて行ってほしいって言われたのよ。 ひょっとして、知り合いだったのかしら」

「知り合いよ。 できればもう会いたくなかったのだけれど」

「そういわずに。 仕事を持ってきてあげたのですし」

こいつはアカデミーでの好成績者と言うだけではなく、良家のボンボンだ。服装だけではなく、掛けているめがねの品質、しゃべり方、それに歩き方などからも分かる。クライスは先ほどから、シアと同じようにできるだけ音を立てないように歩いているのだが、これは貴人は音を立てずに歩くべしと言うのがこの国の風習だからである。王族などは幼い頃から訓練され、影のように歩くという。一方、隣国のドムハイトでは貴人ほど大げさな床から跳ね返るような足音を立てて歩くそうだ。

頬をふくらませたまま、クライスを入れてやる。背に腹は代えられない。シアはいつものようにバスケットを手に提げていて、何種類かのパンが入っていた。ベーコンを挟み込んだものがかなり美味しい。空いているテーブルで食事を始めたマリーとシアに対して、クライスはアトリエの中を物珍しそうに見ていた。絡むのも気分が悪いので放っておくと、クライスからしゃべりかけてきた。

「思ったよりも物がありますね。 しかし雑然としすぎている」

「仕方がないでしょ、場所がないんだし、一人で全部やらなきゃならないんだから」

「錬金術のアイテムの属性によっては親和性が悪く、隣に置いているだけで傷んでしまうものもあるといいます。 気をつけた方がよろしいでしょう」

「ご忠告ありがとうございます。 それで、仕事は?」

クライスはめざとく研磨剤を見つけて、品質を確かめていた。マリーが知る限り、自画自賛ではなく高品質な出来である。マリーの腕が良いのではなく、滝で集めてきたフェストが良いのだ。加工次第では、アカデミーで見たヤスリよりもかなりきめが細かい、いいヤスリになるだろう。ボールに布をかぶせ直すと、クライスは言う。

「研磨済みのコメートを一つ頼みましょう。 材料は揃っているようですし、できないとは言わせませんよ」

「えっ!? ん…」

驚いた。まさか、こう来るとは。マリーは素早く思案するが、拒否する理由は無い。むしろ、これは良い機会だ。

「…やってみるけれど。 期限は? 報酬は?」

その後クライスが吐いた言葉は、マリーを思わずよろめかせるに充分だった。金額は桁違いに大きいが、期限が短すぎる。

「では、出来を期待しております」

「…はいはい、分かったわよ」

ここまで言われたら、やらないわけにはいかない。研磨剤にこれから全力投球して、ついでに紙と膠も買ってこないといけない。クライスがいやみったらしく無音で出て行くと、シアは頬杖をつきながら、彼の背中を見送った。

「不器用な人ねえ」

「へ? 何が?」

「ううん、何でもないわ。 それで、マリー。 できるの?」

「できる、じゃない。 何とかしてみるわよ。 それに、今回回収してきた素材をどう売るか、まだ具体的に考えていなかったんだし、丁度いいわ。 そういうわけだから、せっかく来てくれたのにごめんね。 これから全力で準備に取りかかるから」

「頑張って」

皆まで言わずとも分かってくれるところが嬉しい。シアは残った昼食を全部片付けると、ついでにゴミまで整理して持って行ってくれた。

さあ、ここからはマリーだけの戦いだ。

 

深夜まで乳鉢と向かい合ってフェストをつぶし続ける。自分でもこれほどの集中力があったとは、マリーも知らなかった。額の汗を拭うと、少しじゃりっとした。どんなに気をつけていても、やはり細かい粉が彼方此方についてしまう。此処までだろう。もう街の音は消えている。活動している人間は、著しく少なくなっている。

こんな時間でも、風呂屋はやっている。冒険者の類や、軍人が使うからだ。マリーのアトリエの近くにある大きな風呂屋は、一食分の食事とほぼ等価で石けんまで貸し出してくれる良いところである。

数十人が入れる湯船は、少し熱めのお湯が入れられている。天井で灯りを放っているのは、魔術によって永続的な光量を保たれているとか言うランプ。カメムシに似ていて、ずんぐりむっくりだが、どうしても必要な形状らしい。ランプの下端からは水滴が垂れ続け、水面への反響音が風呂屋でのいいアクセントになっている。どういう仕組みかは、よく知らない。前、ミューと此処で鉢合わせて、それについて説明したことがあった。

全身洗って風呂に入って汗を流すと、指先を良くほぐす。肉刺ができてしまうと翌日以降の効率が著しく落ちる。良くもんでいる内に、体中がゆだってくる。良い気持ちだ。生き返ったような気分とは、これのことを言うのだろう。

風呂屋を後にして、アトリエにたどり着く。距離は短いし、ザールブルグは深夜に騎士団が見回りをしているため、治安は極めて良い。少なくとも、この辺りの大通りは。

アトリエに入って鍵を掛けると、裏庭に出てガッシュの状況を確認し、地下室のミスティカの葉の状態を確認すると、ベットに潜り込む。眠りたいところだが、最後のチェックがある。教科書を開いて、コメートの供述を何度か読み直す。しっかり二回読み直して予習してから、布団に潜り込み直す。

「おやすみ」

必要な物はもう全部揃えてきた。後は作業するだけだ。

手元のランプを消す。風呂屋のものとは随分違う形で、ドラゴンを象った高級品である。以前冒険者ギルドの仕事でもらったもので、マリーの宝物の一つだ。

闇の中で身を縮めると、すぐに睡魔がやってくる。マリーは浅い睡眠を繰り返すタイプで、眠ってからもぼんやりと脳が起きている事が多い。だから、今日の出来事や、これからどうするかといった事の夢をよく見る。

その日、見たのは、膠を塗り、研磨剤をふりかけた紙を並べて、乾かしている夢だった。

 

夢と全く同じ事をしているというおかしさをマリーは覚えたが、目標が決まっているのだから無いよりはマシだ。ただ、その目標があの腐れ忌々しいクライスからもたらされたのだから、腹立たしい。時々かなりいらいらするが、作業の時は無心でやるように心がける。

膠は肉屋から購入して使う。固まるとかなり強固な接着力を持つので、固まる前に紙に薄く塗るのと、適量だけ買ってくるところが少し難しい。厚めの紙に塗ると、上から均等に研磨剤をふりかけて、余った箇所の分は均していく。独特の膠の臭いと、舞い上がった微細な研磨剤の粉が部屋中に充満して空気が悪い。しかし、窓を開けるわけにもいかないのがつらい。

健康を崩してしまっては元も子もないから、作業が一段落したところで裏庭に出る。ひどい空気だった。流石に頑丈なマリーも蒼白である。

「うえっぷ。 もー、ひっどい空気だなー」

中で吸った空気を肺から絞り出し、新鮮な外の冷たい空気と入れ替える。何度か深呼吸すると、やっと少し体調が戻ってきた。

石竈を見ると、ガッシュが適当な感じに燻製になっていた。この植物は、燻製にすることで己の強い臭いを内に閉じこめる。つまり、これを折ったり砕くと、猛烈な刺激臭が周囲に立ちこめるのである。強力な催眠妨害剤として有能な品物だ。随分時間は掛かったが、燻製の加減はこれで分かった。次からはもっと短時間でできるだろう。また、これ自体が更に上級の錬金術道具の素材にもなる。ミスティカ茶を生成する過程でも必要になるので、数を作っておく必要がある。まあ、燻製化した木なので、暗いところに置いておけば傷まないのが良いところだ。

ふと隣家の住人と目があった。さっと目をそらされる。そういえば異臭が立ちこめるような調合ばかり最近やっているような気がする。まあ、これは嫌われるのも、仕方がないだろう。

新鮮な空気を吸い込み直してから、屋内へ。膠が駄目になる前に、ヤスリを作っておかないといけない。あまりもたもたしている時間はなかった。

 

コメートの加工は非常に難しい。ルビーやサファイヤなどと違って、原石を磨いただけではどうしても美しい光沢や強度を実現できないのである。

それは長らく謎とされてきたが、アカデミーでは幾つかの見解を出しており、それは結果で半ば立証されている。

アカデミーの教科書によると、コメートは火の属性を持つ宝石であるらしい。内部に強い熱の要素を含んでおり、土の属性である研磨剤による研磨では、宝石としての美しさを引き出すことができないのだそうである。真偽はともかくとして、磨いただけでは駄目だという事実は、その説を否定しがたいものとしている。これに対し火の属性に見えるルビーはそれだけではなく、内部に土の属性を持っている。このため、土の属性を持つ研磨剤で充分に磨き立てることが可能なのだとか。ただし、どうやって土と火の属性が共存しているのかは、まだ分かっていないのだそうだ。

机の上に並べたコメートの原石。まずは土と石の部分を全て落とす。のみを振るってこの作業を行うわけだが、少し面白い記述がある。多少原石の部分が削れても気にしなくて良い、というものだ。理由は行程を進めていけば分かる。

金属をハンマーで叩く訳ではないから、作業で出る音は重厚だ。ガッ、ガッと音を立てて、のみが原石の周囲の不純物を落としていく。その間に火に掛けた鍋は、既にすっかり茹だっていた湯気が煙突から外に流れ続けている。充分に沸騰したところを見計らい、中敷きの小さなボウルと、その中に赤い液体を入れる。

「さーて、頑張ってよ」

マリーは無生物に話しかけていた。長時間を掛けて作ると、そういうものにも愛着がわくものだ。

この赤い液体は、近所の崖で集めてきた火山灰土に、魔法陣で魔力を注ぎ込んだものである。火山灰のなれの果てであるこの土に、魔力を注ぐことによって、火の属性に対する有用な中和剤となるのである。実際には火山岩を砕いた方が更に品質が高い中和剤になるそうだが、今はこれでいい。魔力を充分注ぎ込むと、土は飴状に溶ける。時々スパークしているそれは、充分な熱量を含んでおり、かなり熱い。湯を沸かしたのは、この熱を維持するためである。

頃合いを見計らって、不純物を落としたコメートの原石を、中和剤の中に沈める。溶岩に解けるようにして、原石が沈み込んでいく。欠片も混ぜてしまって良いという。

問題はここからだ。お湯を調節して、熱量を常に維持し続ける。中和剤による親和効果で、原石を固定するのだという。これを約三日続ける。今の時期、薪にも井戸水にも困らないが、それでもこれは結構大変な作業だ。蒸せばいいガッシュとはだいぶ状況が異なる。

中敷きのボウルに蓋をかぶせて、しばらく置いておく。その間に、研磨剤をもっと用意して置いた方が良い。問題なのは睡眠時だ。これから三日、睡眠時間を短くして、小刻みにし、対応するしかない。ボウルは頑丈な物を用意した。多分、耐える事はできるはずだ。

外に出て、薪の備蓄を確認。長持ちするように竈の中には積んであるが、それもこうやって事前に補給部隊が待機しているからできることだ。安心したマリーは、地下室に降りて、ミスティカの葉にカビが生えていないか確認。砕いたぷにぷに玉を加え直すと、ゆっくりかき混ぜて、良くなりつつある香を堪能した。

 

ヤスリを外の屋根の下に並べてフェストを砕き、更に研磨剤を生産してはヤスリに作り替える。火加減を確認しながらガッシュの枝を砕いて蒸し焼きに。ガッシュの枝の蒸し焼きは、順調に量産されている。時々地下室へ行ってはミスティカの葉を確認。一段落したら一刻か、更にもう一刻くらい寝る。起きるのはいつも急だ。最初に見るのはお湯の具合。一度などは火が消えかけていて、心臓が止まりかけた。

一日だけでかなり疲労が蓄積したが、二日目になるとそれも限界に近くなってきていた。睡眠回数を増やしたが、それでもどうにもならない。そういえばマリーの弟を産んだ母が、子育てと世話で一日中付きっきりになっていて、相当に鍛えているはずなのにへろへろにへばっていた。まだあのときは母のおなかくらいにまでしか届かない子供だったが、無限の体力を誇るかと思える母の疲弊ぶりに、小首をかしげたものである。

その気分の一端を、今マリーは味わっていた。

時々裏庭で素振りをしたのは、ストレスで頭がおかしくなりそうだったからである。これは正直、そろそろ一人の手では限界かも知れない。地団駄を踏んでも、八つ当たりに空想の中でクライスを何度虐殺しても、状況に変化は無い。あと一日、後たったの一日なのに。じっと何かに集中し続けなければならないと言うことが、これほどの疲弊を産むとは、正直想定外であった。緊張しながら外で冒険するのには慣れていたのに。それとは違う体力を使うのだろうか。よく分からない。

アトリエに戻ると、相変わらず鍋はことことと音を立て続けている。考えてみれば、滝から戻ってきてからまともな休養を取った記憶もない。それほど無計画に仕事を受けた気はないのだが、これはどういう事なのだろうか。

考えていても仕方がない。薪の状態をチェックすると、だいぶ減っていた。竈に追加して、手近な部分の灰を掻き出す。この灰が、後の作業で重要になってくるので、邪険にするわけにはいかない。昨日から竈に溜まった灰はかなりの量であり、庭に掘った穴に埋めると、それがいっぱいになった。炭の類は砕いてつぶすのだが、この踏む作業で僅かにストレスを発散することができた。

視線を感じたので振り向くと、隣家のおばさんが魔物でも見るような顔でマリーの行動を見ていた。マリーが振り返ると、そそくさと消える。そういえば、近所でマリーを肴にうわさ話をしているのを聞いたことがある。不快だ。

地面を何度かけりつけて、アトリエに入る。ストレスが抜けてくれない。というか、少し抜いたくらいでどうにかなる柔なストレスではないのだろう。

アトリエにはいると、無性に腹が立って、頭をかき回した。鍋をひっくり返したくなる衝動を抑える。回収してきたフェストはもうあらかたつぶし終えていたので、ヤスリにしない分を売り払おうと思って、袋に詰めた。袋の口を縛ると、昨日シアが置いていった干し肉にかぶりつく。

床には点々と研磨剤が落ちた白い染みがある。いらいらが溜まれば作業がはかどらなくなるのも当然で、失敗が増えるのもまたしかり。一度などは派手にぶち撒いてしまって、かなりの量を無駄にしてしまった。しかし、長時間寝てストレスを取ることができないのも今の状況である。腹立たしくて、言葉もない。

干し肉を全部食べてしまうと、砂時計を見る。あと半日といったところだ。仕事が終わったら、どこか思いっきりストレスをとばせる場所に行こうと、マリーは思い、ベットに突っ伏す。ふと鏡を見ると、目の下に隈ができていた。

 

井戸で顔を洗って、気分さっぱり。丁度シアが来てくれたのは幸運だった。留守番と、火の世話を任せてストレス解消作業だ。あと少しで時間になる。作業を始めるまでに、手元をしっかりした状態にしておきたい。

グランベルにいた頃は、体を全部水で丸洗いするのは一週間に一度くらいだった。それ以外はぬれタオルで体を拭いていたのである。風呂に頻繁に通うようになったのは、ザールブルグに来てからである。むろん、顔をこんな風に大量の水で洗うようになったのも、だ。

下水道と上水道、それに井戸水。ストルデルの豊かな水量がもたらした文化である。なんども顔を洗っている内に、意識がしっかり覚醒してくる。そして、冷やしておいたシャリオ山羊のミルクを一気飲みする。昨日、妖精のパテットが持ってきた物だ。シャリオ山羊という高山性の動物のミルクらしい。おいしい。

「ふはーっ。 生き返るなあ」

ハンカチで口の周りを拭うと、城壁に登る。そろそろ一般市民が立ち入り禁止になる時間帯だが、見張りの兵士は良くここに来るマリーを知っている。だから、声さえ掛ければ、半ば顔パスで通してくれる。

「すみませーん、登ります」

「ああ。 遅くならないようにな」

おじさんの兵士は釘だけ刺して、後は素直に通してくれた。あまり長居すると怒られるが、風に当たりたいだけなのでいい。此処の兵士に若い男が居て、どうもマリーに気があるらしいとシアに聞いたが、それは正直面倒なので、今日彼が居なくてマリーは安心していた。

城壁に登ると、冬の鋭く冷たい風が全身を撫でていった。冷たい水で顔を洗った後だから、少し肌寒いが、それで丁度いい。一気に意識がしっかりしてくる。ストレスは相変わらず体内で燻っているが、今押さえることができればそれでいい。まだ作業には何日かかかるが、今後お湯の面倒を見るような大変な物はない。ただし、労力は非常に掛かる。ストレスを押さえるのは、しっかりやっておかねばならないのだ。風に長い黄金の髪をなびかせて、ストレスを一緒に流していたマリーは、思わず視線を一点に移す。

「お。 へえー」

北の山向こう。ドラゴンが飛んでいる。ドラゴンは魔法でその巨体を浮かせているらしく、鳥やコウモリとは基本的な飛行スタイルが違うので、遠目でもよく分かる。噂に聞く、ヴィラント山に済むフラン・プファイルだろう。縄張りを見て回っているようで、飛び方もじつにゆったりしていた。

城壁を降りて、アトリエに戻ると。シアが小さな箒で床の掃除までしてくれていた。嬉しいけれど、そろそろレッドゾーンだろう。彼女に頼りすぎるのは、あまり良くない。

「ありがと、シア。 でも、後はもうあたしがやるよ」

「少しくらい頼ってもかまわないのに。 それに、そろそろもう手が足りないんじゃないの?」

「ま、まあ、そうだけれど」

「お金に余裕ができたら、使用人くらいは雇った方が良いわ。 自活って言っても限度があるし、だいたい貴方は器用な方じゃないのだから」

「分かってます。 そう、だね」

確かに、そろそろ使用人がほしいところだった。

街の北には、奴隷市場がある。農村で口減らしのために売られたり、いろいろな事情で親が居なくなったり、借金で生活できなくなったりした者達が奴隷として売られているのである。

この国での奴隷はそれなりに地位が高く、給金も払わなければならないし、法の保護も受けられるが、それでも限度がある。苦しい社会的立場なのに違いはない。だが、用いることは別に誰もおかしいとは思わない。確か、シアの家の使用人も、何人かは奴隷出身のはずだ。この社会では、補助労働力として奴隷を用いるのが普通のことである。奴隷といっても、お金を稼げばきちんとした仕事に戻ることもできるし、噂によると元奴隷の貴族もいるという。異国ではものをいう道具扱いらしいが、この国ではそれよりは若干ましな存在だ。もちろん、マリーにも雇って使うことに嫌悪感はない。

「考えておくよ」

「ええ。 それじゃあ、そろそろお暇しようかしら」

「いつもありがとう」

シアは優しい笑顔を浮かべて、アトリエを出て行った。

丁度今、砂時計の砂が落ちきる。コメートを巡る最後の作業が、始まる時であった。

 

5,宝石の誕生

 

「きめ細かく灰を砕いて、それを敷き詰めよ。 そして中央部にへこみをつくり、そこに中和剤に浸しておいたコメート原石を、まとめて流し込め、と。 おおっ?」

わざわざ口に出しながら、マリーは火を止めて、ボウルを鍋の中から取りだした。驚いたのは他でもない、ボウルの中が赤一色から、薄茶色へ変化していたからである。しかも場所によっては、所々透明になってさえいる。臭いも変わっていた。少し澄んだ感じの、ハーブを思わせる臭いになっている。

なんだかよく分からないが、苦労の成果が出たと言うことか。一応何でこうなるかの理論説明も教科書にはあったが、まだマリーには高度すぎて理解できなかった。もっとも、それが正しいかも微妙だが。

「これを灰の床へ流し込む、か」

再び確認するように言ってから、外に持ち出す。穴に敷き詰めた灰からは、丁寧に不純物を取り出してある。ボウルを傾けると、変質した中和剤はどろりと流れて、灰の中へ落ちていった。ボウルから綺麗に剥がれ落ちてくれるのが助かる。クリームなどのようになっていたらどうしようかと、マリーは思っていたのだ。

全て流し終えると、ここからが本番。しばらく見ている内に、赤い液体が灰の中に沈み込んでいった。そして、黒ずんだ不格好な球体が現れる。完全な球体ではなく、楕円形気味の不思議な物体だ。これがあのコメートの原石なのだろうか。原石の時は灰色で、所々光っていたのだが。

ひかき棒で時々ひっくり返して、完全に中和剤を落とす。マリーの目から見ても明らかなほどに、強力な魔力がコメートの原石には宿っていた。何欠片か入れたのに、全てまとまっているのも面白い。ただ、一部には露骨にボウルの跡が残っている。この辺は、工夫の余地がありそうだった。

ここからが本番である。別の鍋にためておいた蒸留水を持ってくる。井戸水でもいいという話なのだが、一応慎重を期したいので、作っておいたのだ。ヘーベル湖の水から作ったものと比べるとだいぶ質は落ちるが、それでも売り物にはなるレベルの出来だ。それを地下室で充分に冷やしておいた。此処に、コメートの原石を放り込む。

じゅっと、すごい音がした。

割れてしまわないか少し不安だったが、何とか大丈夫そうであった。コメートの原石の表面には大量の気泡が浮かび、ひっきりなしに水面にあがってきている。それが収まると、水から引き上げる。ここからは、素手で触っても大丈夫だ。それでも、手袋をしてつかみ、アトリエの中へ。

作業台に座ると、まずは、表面の黒い部分を布で丹念に撫でる。そうこうするうちに、まだ残っていた土や、中和剤の残骸が落ちる。丁寧に全部落とす。そして、ここからだ。できているヤスリを使って、丹念に表面を磨いていく。

それは恐ろしく地味で、大変な作業だった。

 

一週間して、ドアがノックされる。戸を開けると、あの腐れ忌々しいクライスだった。

「おはようございます、マルローネさん」

「なに?」

「何とはご挨拶ですね。 もちろん、依頼した品はできています、よね?」

わざと黙る。クライスが目の奧に嘲笑を浮かべかけた瞬間、懐から取り出してみせる。そして、奴の両手の上に置いてやった。

其処には、赤子の握り拳大の、美しい宝石があった。

楕円形の表面はつやつやと虹色に輝き、濡れ立つような絶対的な威圧感を放っている。重さは鉄より軽く、石よりなお軽い。表面はすべすべしていて、体温を吸い込むかのよう。指先ではじいてみると、その強度がよく分かる。文句のつけようがない出来だ。自画自賛の極みだが、初めて作ったものとしては、傑作といって良いレベルである。

残念ながら、このサイズのコメートは幾らでもある。だがこの美しさ、この輝き、誰が馬鹿にすることができようか。マリーはこれが仕上がった時、思わず涙がこぼれるのを感じたほどである。これは、彼女の作った、最初の傑作だ。

「ふむ…よろしいでしょう。 この出来なら充分です」

「そうでしょう」

「ただ、全体的に少し不格好なのが気になりますね。 サイズも輝きも申し分ないのに、そこが残念です」

「あら意外」

別に腹は立たない。自分でも分かっていた欠点だからだ。というよりも、その欠点を差し引いても、輝きと硬度で充分にカバーできると判断したのである。むしろ、クライスが下した非常に公正な評論に、マリーは驚いていた。

「何がです?」

「何でもない。 さ、料金払って」

「此方になります。 お確かめください」

渡されたのは、ずっしり重い小袋である。開けてみると、クライスの提示通りの金額が入っていた。一家五人が、三月暮らせる額。このサイズのコメートとしては妥当な所である。これで、命がけの滝への探索は報われた。充分な黒字になったからだ。それにスキルも上がった。綱渡り続きだったが、ひとまず一息つけそうだった。

この金だと、ゲルハルトにいろいろな道具を頼むこともできるし、アカデミーから珍しい素材を購入することもできそうだ。財布と慎重に相談しながら、だが。

「正直、驚いています。 この力なら、頼む価値はありそうですね。 時々、仕事を依頼させていただきますよ」

「…どういう風の吹き回し?」

「だから、何がです?」

「アカデミー主席の学生様が、何で落第生のあたしに、こんな事を頼んでるのって事」

「それは多分貴方と同じでしょう。 僕もね、手が足りないんですよ。 学生といっても、マイスターランク確実の私は、毎日勉強勉強で、自分で調合しようにも時間も手も足りません。 そこで、重要度が低い仕事は外注してしまった方が楽なわけです」

要は便利屋というわけだ。別にこれに関しては腹が立たない。自分の作品に対する正当な評価をこいつはしたし、このくらいは商売的な原理の範疇だ。むしろ、マリーは少しばかりクライスを見直していた。ほんの少しばかり、だが。

「あ、そ。 分かったわよ。 今後も、気が向いたら手伝ってあげる」

「期待していますよ」

クライスは相変わらず嫌みな笑みを浮かべると、出て行った。

そこで、集中力も、完全に切れた。

その後、マリーはどうやって寝室に歩いていったか覚えていない。気がつくと、金貨の袋を抱きしめたまま、毛布を被ってベットの中にいた。外では、鳥が鳴いていた。丸一日過ぎたらしいと気付いたのは、様子を見に来たシアに知らされてからであった。

 

マリーから買い取ったコメートを大事に懐にしまうと、クライスはそのままイングリドの元へ向かった。案山子としての仕事の定例報告があるし、今回の驚きについても伝えなければならないからだ。

研究室へ行くと、イングリドは薄暗い部屋の隅で、無数に並んだビーカーに、別のビーカーから液体を注いでいるところであった。ホムンクルスの核となる、生命の水の生成である。複数種類の薬草とレジェン石を中心とした粉末状の鉱石を溶かし、高度な魔力を詰め込んだ中和剤を媒介に混ぜ合わせ、特定条件で保存することによって、「生命の水」は生成される。イングリドがしているのは、その期間と条件を緩和する研究である。それは八割方成功し、今では室温でも生命の水が生成できる。ただし、それで作ったホムンクルスの寿命が短めのため、様々に実験を繰り返しているのである。

研究室には異臭が漂っている。それは死臭に似ていた。クライスが入っていくと、イングリドはすぐに気づき、鷹のような視線を射込んできた。ただし、手元は作業を続けている。

「クライス=キュール。 何用です」

「定例報告に参りました」

「伺いましょう」

器用に液体を注ぎきったイングリドは、生命の水の元になるらしい液体をしばし見つめていたが、やがて首を横に振る。彼女ほどの錬金術師でも、研究の過程は失敗の積み重ねだ。

「マルローネ先輩が、これを生成しました」

「ほう。 見せてご覧なさい」

「おそらく、ボウルを使って暖めたのでしょう。 その跡がついてしまっています。 しかし僕から見ても、かなりの品質。 本当に彼女、万年最下位の落ちこぼれですか?」

イングリドは上から下からコメートを眺めていたが、やがて嘆息する。それが失望のサインだと、クライスは知っていた。ただし絶望を伴う物ではなく、生成過程の物に対する失望だとも。

「まだまだ、ね」

「と、いいますと」

「これは彼女の並外れた魔力と、強靱な体力で作り上げたもの。 理論は教科書から間借りしているし、細緻な技術を用いているわけではないわ。 ただ力と時間のみをつぎ込んで作り上げた、要は力業の産物よ」

「しかし、その二つを兼ね備える錬金術師は、殆ど居ないのではないでしょうか」

いつになくムキになり始めるクライス。こいつは頭が良いが、しかし阿呆だ。だから扱いやすい。

「分かっていないわね。 その二つを兼ね備えたマルローネだからこそ、私はその上を望んでいるのです」

「! な、なるほど」

「うかうかしていると、すぐに追い抜かれますよ。 力業ばかりとはいえ、これはもう二年生修了のレベルのスキルを用いたコメート。 半年弱で、彼女は一年分のスキルを身につけた事になる。 しかも独学で、よ。 これは貴方以上の才ではないの?」

蒼白になったクライスが、更に青くなる。最初のには余裕があったが、今度は本気で、だ。今頃体で気付いたのだろう。イングリドがマルローネに錬金術のパラダイムシフトを期待している理由が。

クライスはしたたかな男だ。おおかたマルローネが巻き起こすパラダイムシフトのおこぼれに預かり、アカデミーをも出し抜いて立身を遂げようとでも考えているのだろう。だが今気付いたはずだ。マリーの起こすだろう学問的カタストロフは、そんな考えを許してくれる甘い物ではないだろうと。これでいい。クライスは本気で勉強すれば、もっと上を目指せる人材だ。場合によっては、自分がけ落とされてもかまわないとイングリドは考えている。重要なのは、さらなる叡智の探究。これが、救いがたい錬金術師の性だ。

様々な打算を必死に巡らせているらしいクライスを退出させると、イングリドは頭を切り換える。当面はこのホムンクルス改良が彼女の課題。長期的な課題については、今は放っておく。どうやら王室も動き出しているらしいが、今はまだ座視していてかまわないだろう。彼らにとっても、最終的には損がない話だと理解させればいいのだし、これは後回しでいい。

理論よりも、何をすれば何ができるかだ。来るべき時に備え、それを蓄積することがイングリドの義務。

先は、まだまだ長い。閉塞しつつある錬金術の道を、切り開く時まで、イングリドは耐えなければならなかった。

 

(続)