水七変
序、もっとも大事な素材
錬金術において、水はもっとも重要な資源の一つである。錬金術の思想にある五つの属性の一つをしめる存在であるからだ。水は非常にわかりやすい根幹物質で、なおかつ利用もしやすい。だから、錬金術の実験を行っていると、水はいくらでも必要になってくる。
純度の高い水は、錬金術でもきわめて貴重な存在とされる。純粋であればあるほどに様々な利用方法があるからだ。だが、そんな水がどこにでもあるわけも無く、殆どの場合人工的に作り出すこととなる。
だから、ザールブルグのアカデミーにおいても、最初に教えるのは、一番簡単に作ることができる高純度水、蒸留水だ。そしてある程度の品質を持つ蒸留水は、アカデミーでも重宝され、錬金術師であればそれなりの値段をつけて引き取る。基礎は力であり、全ての元である。
水は純粋化する他にも、使い道がある。様々な素材を洗う時にも用いるし、冷やす場合にも用いる。そして魔力を加える事により、中和剤として他の属性の素材とも組み合わせる媒体になる。
凍らせることによっても水は役に立つ。凍らせることで水は想像を絶する破壊力をもたらす場合がある。また、逆に熱することによっても水は大きな破壊力を生み出す。巨大化する体積が、様々な用途を期待されているのは有名な事実である。また、極度に熱した物質を水に投げ込むことにより、巨大な爆発が起こることも分かっている。
錬金術だけではなく、今後の人類社会に、水は巨大な貢献をする。それは錬金術師だけではなく、知識をある程度以上蓄えた人間達には、半ば常識となりつつある。
錬金術では、更に踏み込んだ事も行う。ホムンクルスと言われる人工生命の創造には、純度の高い水が必要不可欠だ。驚くべき事に、ホムンクルスの中には、自らが産まれた水の中から出ることができないものまでいる。
水、水、水水水。錬金術と水は切っても切ることができない。錬金術師の端くれである以上、マルローネもそれは同じであった。
1,栄養剤と水と水
仮眠をしていたマリーが目を覚ますと、もう太陽は地平の彼方に沈んだ後であった。目をこすりながら部屋の様子を見回す。ランプにはまだ火が残っていた。
ことことと音を立てて、水が沸騰している。部屋の中央の竈。大釜が外されて、小さな手鍋がセットされて、其処には水が入れられている。水は熱されて湯気を生み出し、少し上に固定された蓋からはまだ熱い湯がしたたり落ちている。落ちた先には広口のビーカー。時々ランプですかして、蒸留水のできばえを見る。透明度からいっても、かなりの出来だ。マリーが作った錬金術の素材で、一番良い出来かもしれない。ちょっとマリーは嬉しかった。
数時間に一度は蓋と鍋の様子を見て、洗わなければならない。どんなに純度が高いヘーベル湖の水でも、煮ていれば不純物が出てくるものなのだ。純粋さが命となる蒸留水は、汚れてしまったら台無しである。マリーが聞いた噂によると、かなり高度な錬金術のアイテムになってくると、何度も蒸留して徹底的に純度を上げた水を用いるという。恐ろしい手間がかかることは想像に難くない。
台所に行くと、キノコを煮た鍋がすっかり冷えていた。よく刻んで煮込んで煮込んで、どろどろになるまでキノコを崩した。かなり濃厚なエキスが抽出できているはずである。薪が足りなくなってきている。明日の朝にでも、西の森に行って集めてこなければならないだろう。オニワライタケも、アカアマテングダケも、見たところあと一日ほど寝かせれば十分に良い感じになる。
完成した分の蒸留水を瓶に移して蓋をする。上はそのまま時間に任せてしまっていいだろう。問題は、地下室の中和剤だ。
短い階段の先に、冷たい地下室がある。その低い気温を利用して保管庫としても用いているのだが、今は違う用途でも使っている。ランプで闇を照らすと、其処には不思議な光景が浮かび上がってくる。
地下室には複雑な模様の魔法円がチョークで書いてあり、その中央に小さな鍋がおいてある。マリーには見える。大気中の魔力が、鍋に流れ込み、その中の水へと入り込んでいるところが。スプーンを差し込み、水を軽く持ち上げてみると、さらさらと零れる。そのときに、マリーには見える。薄水色の光が。凝縮された魔力だ。
まだ少し魔力が足りない。少し面倒な話である。
魔術と同じく、錬金術でも魔力は用いる。魔力は空気と同じく存在しているものであり、それである以上錬金術の大事な素材の一つとなるのである。
ただし、魔術とは決定的に用い方が違っている。体内に流れる魔力や、大気中の魔力を制御して、一気に炸裂させるのが魔術における使い方だ。それに対して、錬金術の方は、どこにでもある魔力を徐々にゆっくり流し込んでいって、最終的に素材と一体化させる。かなり上手な錬金術師なら、水に魔力を流し込んで、中和剤を作ってみせるとも言う。ただしマリーの力量で同じ事をすると、水が瞬間的に沸騰、爆発する。技量よりも、こればかりは特性の問題に近い。だから、こうやって大気中の魔力を集めて、ゆっくり中和剤を作っていくしかない。
部屋の隅には、瓶が並んでいる。中和剤もこうして完成分は瓶に移してあるが、まだまだとてもではないが、売るほどの量はない。栄養剤の素材となるキノコは、後少し寝かせておかないと駄目だから、栄養剤も作れない。
作業開始より三日目。まだ栄養剤はさじ一杯分もできてはいなかった。
少し仮眠をとったのだが、状況に変化はなし。ちょっとできた蒸留水を瓶詰めし、薪を釜に足してしまえばやることもなし。今は深夜で、朝まで時間がある。中和剤ができるのにも蒸留水が仕上がるにもまだまだ時間がかかる。もちろん、キノコのエキスが熟成されるまでも、だ。寝ていてもいいが、マリーとしてはできれば時間を有効活用したいところであった。そもそもまだまだマリーには知識が足りないのだ。
錬金術の教科書は、非常にわかりやすいタイトルを与えられている。たとえば一年目に用いる分厚い教科書は、「初級錬金術」。二年目には「中級錬金術」、三年目には「上級錬金術」。そして最後の年には、「錬金術応用奥義」という教科書を用いる。初級錬金術に載っている技術はあらかた使えるようにはなっている。しかし、中級錬金術の内容はまだまだ手探りだ。今の内に、予習しておくべきであろう。噂によると、エリート学生のみが行くことができるマイスターランクでは、これらより更に上位の教科書を一年目に用い、二年目ではそれぞれが独自の理論を練り上げて研究に励むのだという。
ベットに寝転がるとランプを寄せ、毛布を被ってページをめくる。腹と腰を冷やさないようにと、シアに時々説教されるので、いつの間にか着崩していても布団は被る癖ができていた。全く授業について行けなかった昔と違い、今では学ぶことをマイペースで体験できるようになっているので、少し勉強が楽しい。
それに、調合を始めると完全に時間の感覚がなくなるので、いざ時間ができてしまうと、こういう事をして調整するしかない。焦っても何ができる訳でもないので、こうやって丁寧に後のための手を打っておくのが吉である。
無心に教科書のページを捲る。
二年目からは「こうすれば何ができる」という実践に加えて、「なぜこうするとこうなるのか」という理論構築が教科書に多く出てくるようになる。ただし、これらはいずれも「思想」の域を出ておらず、実際にどうなのかは分からない部分も多いと、イングリド先生が言っているのを、マリーは何度か聞いている。
錬金術は無数の実験と成果に支えられた学問だ。だが残念ながら、今の段階では「こうすれば何ができる」の現実構築が先に行きすぎてしまっていて、「なぜそうなるか」が全く追いつけていないのだという。背景にある事情はマリーにも分かる。金を作ろうという人間のどす黒い純粋な欲望と、軍事に役立てようという国家レベルでの政治的圧力があるからだろう。
田舎娘だから政治は分からないなどと言うのは大きな間違いだ。マリーは戦闘面での素質があったために、幼い頃から一人前扱いではないにしろ大人の会話に混ぜてもらい、何度か意見が採用されたこともある。小さな村では、社会の構成人数が少ない分政治が個人個人に与える影響もより大きく、その仕組みには敏感になる。卓越した力量の人間が、全体に与える影響もより大きく、わかりやすい。都会に来てからも、マリーは社会の土台が大きくなったとは感じたが、全く分からない世界だとは思わない。
ページを捲る。更に学習を進める。
様々な知識を今はがむしゃらな勢いで詰め込むべきである。あるいは間違っている理論もあるのかもしれないが、少なくとも実践面で、この教科書に載っている事は正しい。それに間違っている理論であっても、思想の存在を知ることは決してマイナスにはならないはずだ。
どちらにしても、この教科書に載っていることを実践するにはまだ素材も技術も足りない。先のために把握だけはしておくのである。
一刻ほど教科書に目を通し続けると、屋根裏部屋の天窓から見える空が白み始めてきた。丁度集中力も切れたところである。薪を拾いに行く前に、素振りと鍛錬でもしておく。身体能力の再構築は始まったばかりだ。素材の採集先で遭難した時の事も考えて、今の内に取り戻せるだけ取り戻しておかねばならなかった。
アトリエの裏庭には、都合がいいことに、小さな庭がある。こぢんまりとした庭なのだが、最初に来た時に古めかしい子供のおもちゃらしい木彫りの人形が埋められているのを見つけた。風雨にさらされ、墓が崩れてしまったのだ。残念ながら人形は殆ど崩れてしまっていたが、前にどんな人が住んでいたのか、マリーは少しだけ気になった。もちろん、人形は丁寧に埋め直し、踏んだりしないように目印に小さな木の苗を植えた。
ゲルハルトの店で買った杖を構える。重さ、リーチ、硬度、いずれも申し分ない。構え、呼吸を落ち着かせ、神経をとぎすませていく。目を開いた時には、其処には戦鬼が立ちつくしていた。
「ひゅううううう…」
腰を低く落としたマリーは、大げさすぎるほどの音を立てて呼吸した。そして磨いだ精神を、更に尖らせていく。徐々に視界がせばまり、ある一点で、不意に、動く。
振るい、薙ぎ、蹴り上げる。ひゅうひゅう、ひゅうひゅうと杖が鳴く。突き込み、抉りあげ、そして振り落とす。風の音がどんどん鋭くなる。振り返りざまに胴を払いあげ、前蹴りを叩き込んで締め。頭の中で仮想敵を五回ほど殺したが、まだまだ体は動きが鈍い。というよりも、意識が燃え上がらない。
基本的にイメージトレーニングの時には、マリーは自分よりも強い相手を想定する。具体的に強い人間なり魔物なりを想定する。そうして、どう戦うか考える。だから、何度も何度もイメージの中で殺される。だが、それで戦術をうまく駆使して勝てた時、想像を絶する達成感がある。
それが実戦とは違うことは分かっている。しかし、あえてそういう一種自虐的なトレーニングを行うことで、マリーは強くなってきた。少なくとも、アカデミーに入るまではそうだった。だが、当時と今は状況が違う。しばらくの間、マリーの周囲に戦闘面で強大な存在がイングリド先生くらいしかおらず、想像がやりづらくなっていたのである。彼女では今のマリーが逆立ちしたところで勝てっこない。かといって、手頃な相手もいなかった。久しぶりにイメージトレーニングをしてみたところ、マリーはそれに気づいて、愕然としたのである。
単に体を鍛えても、身体能力は戻らない。体を強くするのはなんと言っても実戦だ。実戦ができない時はその代用品であるイメージトレーニングを行うしかない。今相手にしていたのは、以前戦ったことがある村の近辺に生息するオオムカデだが、どうしてもその能力の細部が再現できない。五回も都合良く勝てたのはそのせいだ。
やはりもっと実戦を積み直したい。そう思った時、玄関を叩く音がした。
「マリー、もう起きているの?」
「シア、こっちこっち」
親友に答えると、マリーは庭の隅の切り株に腰掛けて、ハンカチで額を拭った。裏口を開けて庭に入ってきたシアが、マリーを見て手に提げたバスケットを少し持ち上げた。
「焼き菓子があるのだけれど、たべる?」
「うん。 だけど、どうして?」
「父さんが昨日泊まりがけで交渉をしていた相手に、お裾分けしてもらったの。 かなり朝早くだったけれど、最近マリーの家が夜遅くまで不規則に灯りがついているのを見ていたから、ひょっとして起きているかもと思ったのよ。 これ、蜂蜜が練り込んである、とてもおいしいお菓子よ」
「へえー。 なんだか不思議な形だね。 ずいぶん堅いし」
「クッキーというらしいわ」
茶色い固まりを一つつまんで口に入れる。崩れる不思議な食感と甘さが何ともいえない。ただ、これだと少しのどが渇くかもしれないと、贅沢な悩みをマリーは抱いた。
「ん、おいしいね」
「とても甘いわ」
「うん。 甘い」
菓子は必ずしも甘いとは限らない。糖分そのものが貴重だからだ。更に言うと、グランベルなどの村の子供達にとって、おやつとは基本的に動物や木の実のことになる。蛙や蛇や小鳥の雛などは、捕まえたらすぐに捌いて焼いて食べるのだ。更に固い殻に守られた木の実を、工夫して食べる。それでようやく足りない栄養分を補える。このほか、村祭りの時や、ドラゴンをしとめた時などにも、蜂蜜や果実を使った甘い菓子が出た。これは子供達だけではなく、大人達も楽しみにしていた。
このクッキーという甘い菓子も、そんな贅沢品によく似ていた。都会の金持ちや貴族は、流石にいいものを食べている。グランベルの子供達も、いつかこれをおなかいっぱいに食べられるようにしたい。いや、マリーがするのだ。
おいしいものはすぐに無くなる。二人でクッキーを食べ尽くしてしまうと、少し空虚な暇がやってきた。まったり過ごすには、二人とも忙しすぎる。シアは多分これからトールさんの手伝いで、誰かと政治的な駆け引きをしに行くはずだ。トール氏は、様々な事業を行い、その収益をグランベルの発展に回している。シアは若くして、その片腕となっているから、それなりに忙しいのである。出かける時に、事前に約束がいるのはそのためだ。
「じゃ、薪を集めに行ってくるわ」
「行ってらっしゃい。 気をつけてね」
「うん。 シアも」
玄関まで一緒に出ると、軽く手を振って、それぞれ別の方向へ歩き出す。街の西に広がる森は、殆ど手つかずだ。城門をくぐって外に出る。壁に沿うようにして点々とあった墓地が、城壁を抜けるとぴたりと消えて無くなる。籠城戦の時、そこに入っているものが最後の食料となるからだと、誰でも知っている。更に、腐敗させた後城壁内部に投石機で投げ込むことにより、疫病をはやらせることもできるので、外には出さない方がいいのである。何もわざわざ敵に兵器をくれてやることもないからだ。
門番に軽く挨拶して外に出る。時々森へ歩いている人間を見かける。皆薪拾いだろう。ただし、この辺の森は、木の実や動物がさほど捕れない。やはり貧乏人が取り尽くしてしまうのである。森の奥の方へ行けばそれらもあるが、ただし今度は狼や魔物、それに街から逃れ潜伏している犯罪者と出くわす可能性が高くなる。そうなると、戦闘力のない人間はまずアウトだ。マリーもあまり多くの狼と戦いたくはないから、街のすぐそばで薪を拾う。
しけった薪は役に立たないから、日当たりのいいところを歩くのだが、これにはちょっとしたこつがいる。マリーは幸いそれを知っているが、そうではない場合何倍も探索に時間がかかってしまう。それにしても、木々の痛みがひどい。生の木の枝を折りとるのは子供でも知っているマナー違反なのだが、それを守れない大人がいくらでもいるのは情けない話だ。太い枝が根本から折り取られているのを見て、マリーは深々とため息をついた。人間が増えすぎるのも考え物である。
効率よく薪を拾い集めていっても、それでも作業に半刻はかかった。その過程で薬草や木の実もついでに集めていったが、やはり効率が悪い。植生から見ると、ここは豊かな森のはずなのだが、ひどく痛んでしまっている。もしも本格的な採集をするのなら、ぐっと奥へ入らないといけないだろう。冒険者を雇う必要がありそうだった。
適当な大木を見つけたので、荷物を根元において、登ってみる。下の方の枝は殆ど駄目になってしまっていたので、腕力と体のバネを総動員して登らなければならず、骨が折れた。
木のてっぺん付近で泊まる。手をかざして周囲を見ると、城壁の上とはまた趣向が違う景色が見えた。森の中には、何筋か小川が流れている。蟹がいるかは分からないが、川貝や小魚くらいならいそうだ。ただ、街の汚水が流れ込んでいる可能性もあるから、水は飲まない方がいいし、動物を食べる時も糞はしっかり出させた方がいいだろう。
奥の方へ行くと、やはり木々が繁茂し、豊かな資源が眠っているようだった。無言で木を降りると、マリーは薪を担ぎ直して、アトリエに戻った。
オニワライタケがしっかり熟成されたのは、翌日の夕刻過ぎであった。
鍋を傾けると、どろりとした液体が揺れる。キノコの部分はもう殆ど溶けてしまっていた。
問題は臭いだ。腐っている訳ではないのだが、刺激臭が少し強すぎる。教科書によると、濾過器でキノコの身は濾した方が良いのだという。いろいろ試してみたいところだが、まずは教科書通りに作ってみるのが定石だ。
三角形の漏斗と、濾過紙を組み合わせた濾過器を用意する。蒸留水で何度か洗い、さらには火で炙ってあるため、殺菌も十分だ。それを同じようにして洗ったビーカーの上に固定する。
鍋のキノコを全部流し込んでしまったら、数日の苦労がパアになってしまう。かといって、時間がいくらでもあるわけではない。火を通しさえすればかなりの日数持つが、それでもいつかは絶対に腐る。慎重に濾過器に流し込むと、細かいキノコの身がずいぶんたくさん紙に引っかかっていた。少しもったいないなとマリーは思う。
土留め色の液体が、ぽたり、ぽたりとビーカーに落ち込んでいく。その間に、作りためておいた中和剤と、蒸留水を用意。教科書によると、蒸留水をベースに、中和剤を媒介に熟成したキノコの液体を加えるのだが、注意すべきは入れる順番だという。最初にキノコの液体を1。それに体積にして五倍の中和剤を加える。最後に二十倍の蒸留水で薄めるのだという。
全く同じビーカーと、定規を用意する。蒸留水を注ぎ込むのだが、これが難しい。手元が狂うと、すぐに必要量以上がビーカーに流し込まれてしまう。どうも難しいなと思ったマリーは、あきらめてスプーンを使って少しずつ入れることにする。ずいぶん時間はかかってしまったが、何とかなった。
もう一つ同じビーカーを用意し、中和剤を注ぐ。濃厚な魔力が注がれているだけあり、マリーから見るとうっすら発光している。あまりたくさん作れないのに、ビーカーをまず中和剤で洗わないといけないのがもったいない。じりじりしている内に、キノコのエキスがほぼ落ちきった。それにしても、土留め色の、気色が悪い液体だ。
昨日のうちに、飛翔亭に話を持って行ったところ、栄養剤の買い手はあるという。薬屋もそうだし、アカデミーでも引き取るそうである。ただし、ディオ氏がきちんと目を通すのだそうで、半端な代物を持って行ったらげんこつが飛んでくる。気は抜けない。舌なめずりして、乾いた唇をぬらすと、マリーは慎重に、まず中和剤を注ぎ込んでいった。
土留め色の液体が、淡く発光する水によって薄められる。意外なのは、注ぎ込んだとたんに、エキスが溶けるように拡散したことだ。スプーンか何かでしばらく撹拌しなければならないかと覚悟していたのだが、この分だとかなり時間を省略できる。そのまましばらく見るが、エキスが沈殿する気配はない。胸をなで下ろす。蒸留水を慎重に入れていくと、発光が薄まり、小さな泡がビーカーの底から浮かび上がっていった。臭気が強くなる。
教科書によると、この状態で半日ほど置かなければならないそうである。魔力がエキスと蒸留水の媒介となるためには時間がかかるそうであり、できれば静かな暗いところにおいておくのが良いという。
飛翔亭でもらった瓶を並べて、先に蒸留水で洗っておく。どれも一握りで包める程度の大きさであり、ざっと見たところ三十本ほどを作ることができる。十本ほどに詰めて飛翔亭に持って行き、もし受けが良ければすぐに三十本作って、更に量産にかかる。ざっと見たところ、瓶百三十本程度の栄養剤は作れそうである。
アカアマテングダケの方は熟成が遅れていて、まだうまくいくかも分からない。ビーカーをできるだけ揺らさないようにして地下室へ運び、ふーふー息を吹きかけて撫でる。
「上手くいってよ。 生活がかかってるんだからね」
知るかと言わんばかりに、ビーカーの底から臭い泡があがって、はじけて消えた。気難しい奴である。オニワライダケのエキスも、地下室に移しておく。もう秋とはいえ、日が当たる場所に置きっぱなしでは、熟成後の保ちが悪くなる。
ふと気づくと、半刻以上が過ぎていた。完成は翌朝だ。おなかがすいた。そろそろお金が尽きつつある。結構自分の状況が危険であることに、マリーはじりじりと胃が焼かれるような思いを味わっていた。
燻製の兎干し肉を地下室の一角から引っ張り出して、口に入れる。堅いが味は濃厚で、噛めば噛むほど美味しい。地下室の冷たい床に寝転がる。ぼんやりと天井を見る内に、意識がいつの間にか落ちていた。
暗くて静かな地下室であるというのが災いした。外に出ると、もう陽が昇り始めていた。もうできている頃だ。地下室に飛び込み、鍋の土留め色の液体を一匙掬う。教科書を見ると、完成時の特色を十分に備えている。問題は臭気。それに。
マリーは嫌な予感を覚えていた。口に入れてみる。訪れるのは、悪魔の嘲笑にも似た沈黙の時。
意識が吹っ飛ぶかと思った。
「うえっ! げほっ、ごほっ!」
咳き込む。激しく舌が拒絶反応を示している。まずいとか、苦いとか、そういう次元ではない。あわてて外に出て、井戸水を口に運ぶ。しばらくゆすがないと、異常な臭みがとれなかった。
まずい。マリーは思う。良薬口に苦しとは言うが、これは少し限度を超えている。今からでも味を調整するべきか。臭いをどうにかする必要もありそうだった。教科書を捲ってみるが、特に対策は書いていない。妙に体の底から力がわき上がってくる感触はあるものの、これは毒薬の一種だ。ディオ氏にこんなものを渡したら、げんこつくらいではすまないだろう。しかしそのままでも、餓死を待つばかりだ。
頭を抱える。必死に思考を巡らせる。この薬の味のまずさの原因は、異様な苦みと渋みだ。それは分かる。それに甘みや辛みが殆ど無いのもきつい。止めとなっているのが強烈すぎる臭いで、それらが混ざり合った結果、悪魔の火酒がごとき地獄の味を作り出してしまっているのだ。
なぜこうなったのだ。頭を抱える。原因は何だ。キノコが原因か。しかしキノコはよく蒸留したヘーベル湖の水で煮た。素材的にも相性がいいはずで、元のオニワライダケの味とも似ていない。そうなると、水か。蒸留水は原因になりようがない。そうなると、原因は中和剤か。
僅かに発光している中和剤を指で掬って、口に入れてみる。背筋に寒気が走った。原因は、これだ。
教科書を捲ってみる。勉強で必死になっていて、基礎的な調合で何かを見落としていないか。イングリド先生の研究室で下働き的に簡単な調合は結構こなしたが、時間がかかる調合にはあまり手をつけていなかった。それに、たかが中和剤という油断もあった。
必死に目を通す内に、原因らしいものを見つける。
「中和剤の魔力は、媒介としての力を強める。 しかし魔力の量を間違えると、とんでもなく強烈な親和効果を産んだり、相性が良い素材同士でも結びつけないこともある。 魔力が強すぎる場合、薬剤の効果が高くなりすぎることがある。 注意せよ」
「おっかしいなあ、どうしてだろ、どうしてだろ」
魔法陣は間違えていない。それに、日数だって間違えていない。なぜこうなった。なぜ、なぜ、なぜ。
自問自答しているうちに、マリーははたと気づく。
自分が原因であるという事に。
「あ、あっちゃあ…!」
頭を抱えて、床にへたり込んでしまう。そう、魔力には生体のものと自然のものとがあるのだ。そしてこのアトリエには、常人離れしたマリーの強烈な魔力が充ち満ちている。魔法陣は大気中のものだけではなく、マリーの魔力もせっせと水に注いでしまったのである。中和剤は強烈な魔力を適量以上に蓄えてしまい、キノコの薬効成分を過剰に引き出してしまったのである。
どうする、捨ててやりなおすか。マリーはうずくまったまま、鍋を見る。いや、そんな時間はない。これに手を加えて、どうにかするしかない。薬効成分そのものは、蒸留水で倍に薄めればどうにかなる。問題は、臭いと、味だ。
甘い強い香りがいい。そうなると蜜だが、簡単には手に入らない。蜂蜜はすぐに庶民の手に安くはいるようなものではない。この時期咲く花に、都合良く蜜を出すものはそうそうない。残る手は一つ、蜂蜜を、自前で確保する事だ。念のため教科書を見ると、味を調えるために蜂蜜を入れるのは問題ないとある。入れること自体は問題がないわけだが、しかし。
野生のミツバチはかなり性格があらく、毒も強く、捕まえるには準備がいる。下手に手を出すと全身刺されてあの世行きだ。そもそも森の中を探しても、簡単には見つからないだろう。だが、やるしかない。
余っている薪をいくつか。火打ち石を持ち出し、杖を手に取る。バックパックに道具類を詰め込むと、アトリエを勢いよく飛び出す。何事かとこちらを見る街の住人達は無視。一気に城門まで駆け抜ける。
冒険者を雇っている暇も金もない。一人で行くしかない。どうやらマリーの行く道は、基本的に茨で覆われているか、断崖絶壁で阻まれているようであった。
2,褐色と褐色
近くの森と呼ばれていても、その実情は広大な森林地帯である。というよりも、道と街を耕地と牧草地を除けば、基本的に大陸は森に包まれている。逆に言えば、だから人間がいかに強いのか、際だっているともいえる。人間に不利な地形が、大陸の殆どを覆い尽くしているからだ。
マリーは実戦経験を持ち、それなりの装備をしているが、それでも身体能力の低下もあり、現在の状況は少し痛い。道を外れ、しばらく歩いたところで、大木を見つけ、登る。
野生のミツバチは、多くの場合木のうろに巣を作る。働き蜂を見つけることができればしめたものだ。後は追いかけて、巣に煙を流し込んでやるだけでいい。蜂は煙にきわめて弱く、簡単に気絶する。念入りに蜂を眠らせてしまえば、後は巣をごっそり奪える。そうすれば、街に持って行けばいい。幾つかの食料品店に行けば、巣ごと絞って、濃厚な蜂蜜を提供してくれる。グランベルでもそうだが、ザールブルグでも蜂蜜は巣に入ったさなぎや幼虫ごと絞る。それによって強烈なエキスが抽出できるため、栄養価や味も良くなるのである。
大木に登ったのは、花を探すためだ。花を見つけ出せば、後は蜂を待ち伏せるだけ。股で木の枝を挟んで、しばらく辺りを見回している内に、花を見つける。鮮やかな赤い花で、フローネルと呼ばれる品種だ。蜜が甘くて、蜂の好物である。まずは幸先がいい。問題は今は秋だと言うことで、蜂は少し活動が鈍い。さて、上手い具合に働き蜂を補足できるか。
木から滑り降りたマリーは、どう猛なうなり声と、土を踏みしだく音を聞いた。反射的に木陰に身を隠す。追われているらしい。
「あーもうっ! ごめんっていってるでしょ!」
悪態が聞こえた。声の主はマリーより少し年下の女性だろう。剣を振る音、何かを振り回す音、木がへし折れる音。結構重量級の何かが、女性を追いかけ回しているらしい。このうなり声からして、多分ヒュージ・スクイッドだろう。厄介な相手を怒らせたものだ。
マリーの目の前の茂みから、悪態の主が飛び出した。銀髪の女性で、白い皮鎧を身につけており、かなり大ぶりの剣を振り回している。肌はかなり濃い褐色で、多分シグザール王国の出身ではないだろう。彼女をおうようにして、人間の腕ほどもある喰腕が鞭のように躍りかかる。それを切り払う彼女。はじき飛ばされた喰腕の本体が、茂みからはい出す。予想通り、ヒュージ・スクイッドだ。
ヒュージ・スクイッドは陸生の大型頭足類で、姿はそのままイカだが、全身は濃い緑色である。頭部を槍のように立てて、十本の足で器用に歩く。獲物は長い二本の喰腕を使って捕らえ、足の下にある「トンビ」と呼ばれる強力なくちばしで噛み砕く。
大きなものはマリーの目の前にいる奴のように、全長三メートル前後にまで成長する。足はかなり速い。人間と同じくらいの速度は出るし、持久力もかなりのものだ。
噂によると、異大陸には全長十メートルを超す品種もいるという。そんなサイズになってくると、ドラゴン狩りと同じように村ぐるみで対処する事になるだろう。基本的に雑食であり、普段は植物性のえさを中心に食べているのだが、場合によっては肉も食べる汎用性が高い生物だ。
「シャアアアッ!」
「もう、しつこいなあ!」
繰り出された喰腕を剣ではじく女だが、猛烈なタックルを浴びてもろにはじき飛ばされる。木に背中からたたきつけられ、ずり落ちる彼女の首に、容赦なく喰腕が巻き付いた。このままにはしておけないだろう。
詠唱開始。ぐったりしている女に、ヒュージ・スクイッドがにじり寄っていく。烏賊の吸盤は非常に強力で、掴まれると簡単には取れない。飛びかかろうとしたヒュージ・スクイッド。だがその瞬間、目を見開いた女が、剣をトンビに抉り込んでいた。狙いは僅かにはずれたが、確かに刃は深々突き刺さる。一瞬の均衡状態が生じ、人間で言えば顔面を大きく切り裂かれたヒュージ・スクイッドは、半透明の体液をまき散らしながら悲鳴を上げた。
「ギシャアアアアアアアッ!」
「いったあ…。 もう、勘弁、してよっ…!」
飛びずさったヒュージ・スクイッドは、思わぬ奇襲に深手を負いつつも、戦意を捨てていない。それに対して女は、今の反撃が最後の力だったらしく、首を締め付ける喰腕を左手でつかみながら、苦しそうにあえぐばかりだ。完全に頭に血が上っている大烏賊は、再び咆吼しながら、女に躍りかかろうとする。瞬間、茂みから躍り出たマリーが、術を開放する。
「焼き尽くせ、光の雷土!」
六つの光球が空に躍り上がり、急角度で猛禽のように襲いかかる。そして何事かと振り向くヒュージ・スクイッドの周囲に直撃した。一つは奴の頭部に当たり、巨体をはじく。あわてたスクイッドは女の首に巻き付けていた喰腕を離し、形勢不利と見て逃走にかかる。まだ理性を残していてくれて助かった。
木陰であえいでいる女は、真っ赤に腫れた首を押さえながら言う。
「あ、ありがと、助かったよ」
「どういたしまして。 それよりも、聞きたいことがあるんだけど」
「いたたたっ! ちょっと、もう少し、優しく、あいたっ!」
朱く腫れた首には、ヒュージ・スクイッドの吸盤についているかぎ爪が幾つか食らいついたままだった。それを外していく。当然血も出る。手際よく外していきながら、マリーは言う。目が据わっている。
「まさかと思うけれど、あれの卵とか、盗もうとしてないよね?」
「へっ? え、ええと…美味しそうだったから、つい」
「自業自得じゃない。 助けるんじゃなかったかな」
「ご、ごめんなさい」
ぼそりとマリーはぼやき、女はまるで子供のようにしゅんとする。どこか自分とイングリド先生に立場が似ていると思って、マリーは肩をすくめた。
ヒュージ・スクイッドは縄張りがきわめて狭く、しかも本来であれば自分より体重で勝る相手に攻撃は仕掛けない。体長三メートルにもなる彼らも、水分が少ないせいか、体重的には人間の子供ほどしかない。体重の殆どの部分となる頭部は1.4mほどである事もあり、しかも筋肉は足に集中している。その上歩くことに力を注いでいるため、パワー自体さほどでもない。人間が襲われる例は極めてまれなのだ。襲われる場合は、よほど腹が減っているところに巣の前を頭の悪い子供が通りかかるか、あるいは彼らの縄張りの最深部にある、卵を奪おうとした時くらいである。しかも殺されることは少ないのである。さっき、マリーが軽く攻撃を仕掛けただけで逃げ出したのも、その辺りが原因だ。
ヒュージ・スクイッドは自重を支えられない柔らかい卵を木の枝に産み付けるのだが、それが色合いといい香りといい大きさといい、とても美味しそうなのだ。だが、これに手を触れてはいけないのは、ヒュージ・スクイッドが住む地域の人間には常識である。普段は人間との接触を避けるヒュージ・スクイッドが、目の色を変えて苛烈な攻撃を仕掛けてくるからだ。もちろん、これは冒険者の間でも常識のはず。この娘は格好から言って冒険者のはずだが、駆け出しの新人なのだろうか。
此処で気をつけるべきは、マリーがヒュージ・スクイッドを人間と対等の存在などと見なしていないことだ。ヒュージ・スクイッドはあくまで「危険性がある資源」なのである。その資源が森を豊かにする生態系の一翼を背負っているので、それにふさわしい対処をするのである。
首の手当を手際よくするマリーを、女はきらきら目を輝かせて見ている。なんだか勘違いしているようで、嫌な予感全開である。
「ね、ねえねえ、お姉さん、冒険者?」
「違うわよ。 貴方はどうなの?」
「わたしは冒険者だよ。 ミュー。 ミュー・セクスタンスってゆうの」
「マルローネよ。 マリーって呼んで」
聞いたことがない名前だと思いながら、マリーは手を貸してミューを立ち上がらせる。体はかなり頑丈なようで、思いっきりスクイッドのタックルを浴びて木にたたきつけられたのに、もうぴんぴんしている。
「冒険者でもないのに、戦い慣れしててすごいなあ」
「奇襲をしかけて追っ払っただけよ。 正面から戦ったら結構危なかったかもしれないわよ」
「それでもすごいよ。 冒険者じゃないなら、何してるの? 騎士?」
「まっさか。 ただの錬金術師よ」
この国で騎士階級といえば、千人以上の兵士から一人選ばれるか選ばれないかという、超エリート戦闘集団だ。当然戦闘能力が高い人間が集まっており、レアなスキルの持ち主も多い。現役時は各地の要所やザールブルグの王城に勤め、引退するとだいたいは小規模な領主として、地方の村や町で長を務めることになる。軍功を立てれば、最終的には将官クラスになる事もある。騎士団長にもなると、他国にも名が鳴り響くほどだ。そんなエリートの一人であれば、マリーはこんな苦労はしていない。
話を聞いていくと、ミューという女はマリーよりも二つ年下だった。あれもこれもといろいろ聞いてくるが、時間がない。困惑しているところを、ミューはめざとく感づく。
「あれ? ひょっとして、何か用事の途中だったの?」
「ひょっとして、じゃないわよ…。 そうじゃなかったら、どうして若い娘が森のこんな深いところで一人居るって言うの?」
「あははははは、そうだよねー。 それで、用事って何?」
「蜂蜜を探してるの。 巣ごと回収して、昼くらいまでには純度の高い蜜を手に入れておきたいのよ」
「分かった! 手伝う!」
そら来た。流石に口には出せず、マリーは心中でぼやいた。
「え、ええと、でも今お金ないし」
「命の恩人に、お金なんてもらえないよ! 今回は恩返しもかねて、ただで手伝わせて!」
嫌な予感が的中。更に事態が悪化していく。
ヒュージ・スクイッドの危険性を知っていて、卵に手を出したわけでもないだろう。単にこの子、冒険者としてやっていくには経験と知識が足りないのだ。出身国は肌の色や顔立ちから判断して南の国だろうが、ひょっとすると逃亡奴隷か水飲み百姓だったのかも、とマリーは思った。こちらで暮らしていて、何かのきっかけで冒険者に転身したのかもしれない。南の国から此処まで冒険してきたのなら、もう少ししっかりしていそうなものだ。
体がなまりきっているマリーとしては、渡りに船と言いたい所だ。しかしその船が、泥でできている可能性があるのが悲しい。しかし、今のままでは戦力が心許ないのも事実。駆け出しの冒険者であれば、経験さえ積めばものになるかもしれないし、今の内に投資しておくのもありか。
「分かった。 場合によっては報酬は出せないけど、いいのね?」
「うんうん。 よろしくおねがいね!」
まるで子犬のようにすり寄ってくるミューを見て、マリーは思う。この子はひょっとして、人恋しいのではないかと。師匠がいたとは思えない。我流で何もかも今までやってきたのではないか。そう思うと、同情も沸いてくる。少し面倒を見てあげようかなと、マリーは思った。
花を順番に探していく。見張りはミューに任せたまま、マリーは慎重に働き蜂を探したが、なかなか見つからない。樹液を出すタイプの木の幹も探してみるが、肉食で蜜を集めない雀蜂がいたりして、成果は思わしくない。
花が咲いている場所も、そうそうあちこちにあるわけではない。更に言えば、時間だってそうない。飛翔亭に指定してある日時は今日中である。ディオ氏が起きているのは朝から夜までだから、味の調整や熟成時間などを考えると、せめて昼までには蜂の巣を回収しておかないとまずい。
木に登って辺りを見回し、花がありそうな場所を順番に探していくが、なかなか上手くいかない。焦れば焦るほど上手くいかないのがこういう時の鉄則だ。マリーは深呼吸すると、目についた木の枝の葉を数え始める。こういう時は葉っぱを数える。自己流の、精神沈静化手段である。
「100,101,102,103…」
200まで数えると、心がずいぶん平らになった。落ち着いたところで、一端情報収集の基礎に立ち返る。
「ねえ、ミュー」
「はいはい、なに?」
「ここに来る途中で、働き蜂見なかった? ミツバチの奴」
「そういえば、見たような…」
「どこで?」
形がいいふっくらした唇に指先を当ててしばらくミューは考えていたが、やがて思い出した。
「あ、そうだ。 イカさんの卵をもらおうとしたちょっと前に、おなかがすいて花をむしゃむしゃ食べてたんだけど」
「食べてたんだけど?」
「うん、そのとき飛んでた。 道のすぐ側だったような気がするよ」
頭が痛くなる発言だが、スルーする。花は植物にとって大事な器官であり、無駄に摘んではいけない。まあ、確かに栄養価は高いし、非常食としては適している種もある。なんだか歩く台風のような気がしてきたミューに、その場所へ案内してもらう。そして、着いた時には、後悔していた。
「ここだよー」
得意満面の笑顔で、ミューが言った。むしられた痛々しい花が、さっきまでこの子が食事をしていたことを雄弁に告げている。ヒュージ・スクイッドの縄張りを示す丸い傷が木の幹に幾つか着いていることや、道から結構離れていることや、確かに働き蜂がそれなりの数いることや、狼の縄張りともどうやら重なっているらしいことも、どうでもいい。問題は別にある。
木の上の方に、矢の形をした印がつけられているのだ。
「まずい、この近くに、エルフの集落がある」
「ほへ?」
「ほへじゃない! もう、最悪だよ」
思わずマリーは天を仰いでいた。自分が乗ってしまった泥船が、沈んでいく音が、間近で聞こえた気がした。
エルフ族は森に住む人間に似た種族であり、人間よりも背が若干低く、耳の先端が尖っている。目はブルーからグレーが多く、全般的に弓が得意で、更に魔術の能力もかなり高い。
ただし、成人に育つまで五十年近くかかる上に、繁殖力が極めて低く、なおかつ森でなければ生きていけないので、個体個体の能力は高くとも、人類の敵にはなり得ない者達だ。彼らのように人間に近い存在を亜人種といい、中には人間と交配可能な種族もいるという。
人類と仲良くエルフが暮らしている土地もあるとかいう噂だが、シグザール王国でそれはない。王都ザールブルグ周辺の一大耕地を見るまでもなく、人間は森を切り開いて、自らの社会に都合がいいように自然を作り替えてきた。その過程で住処を追われた者達は決して少なくなく、エルフ族もその一種だ。その上、敵だと認識した相手に、人類は全く容赦しない。
エルフ族は土地を追われ、同胞をあまた殺され、場合によっては性奴隷として捕縛されては売り飛ばされて使い殺しにされた。マリーは噂でしか聞いたことがないが、その肉を食用として利用できないか研究していた者までいるという。血肉はドラゴンと同じく薬品になるとも言われている。その結果、何が起こったかは言うまでもないことだ。こうして激減したエルフ族は、人類に強い敵意を抱いたまま、今では身を守るために集落を統合し、森の奥で暮らしているのである。
現在、シグザール王国はエルフ族の排除を積極的に進めてはおらず、存在を黙認する形となっている。エルフ族も人間に対する積極的な反撃活動には出ていない。しかし、森の奥にある彼らの縄張りに足を踏み入れた場合、何が起こるかは言うまでもないことだ。弓の名手である彼らは、森の住人である利点を生かし、闇から全く気配を悟らせずに狙撃してくる。魔術までも使って、である。相手が子供だろうが大人だろうが、彼らは容赦しない。当然だ。人間がエルフ族を先に子供だろうが大人だろうが関係なく容赦なく大量虐殺したのだから。
エルフ族は森と親和性が高く、彼らが住む森はとても豊かになる。だからグランベルでは彼らの排除を考えず、黙認的共存を試みてきた。事実、エルフ族が住む森とそうでない森とでは、果物や動物の収穫量が根本から違っているのである。
豊かな周辺の森が生命線となっているグランベル村で暮らしたマリーは、その辺りの事情を幼い頃から叩き込まれてきた。グランベルの東に丁度エルフの森があったからだ。彼らを排除してしまえば、森からの収穫が減る。食べていくのも単純に苦しくなるし、そうなるとドラゴンや金になる魔物が通りかかる率も落ちるのだ。
それでは困る。だから、エルフ族の存在を排除にかからない。
好き嫌いで言えば、マリーもグランベル村の人間達も、皆エルフ族など好いていない。狩るにはコストが大きすぎるし、森に入れる領域だって狭くなる。だが、いないと森が枯れる。それでは周囲の人間達も迷惑する。
だが現在の状況として、蜂の巣がその境界ぎりぎりの場所にあるという問題がある。エルフ族と交戦したら、この戦力ではまず勝ち目がない。しかし蜂蜜を回収していかないと、マリーが干物になる。
エルフ族の危険性を、初心者であるミューに説明するだけで、時間が過ぎていく。太陽が容赦なく空を駆け上がっていく。まずい。最後の手段としては、エルフ族と交渉して蜂の巣を取らせてもらえないか頼むことだが。これも難しいだろう。殺人鬼が家にはいるのをよしとする者などいるわけがない。エルフ族と人間の善悪観念はずいぶん違っているが、これに関しては、彼らを擬人化して考えるほか無い。
エルフ族が喜ぶような引き出物でもあれば少しは話も違うのだが。仕方がない。どうにか彼らを刺激しないように歩き回って、蜂の巣が彼らの縄張りの外にあることを祈るしかない。
いまいち事態が分かっていないミューに、何度も頭を高くしないように念を押してから、ミツバチを観察する。働き蜂はかなりの数が花に群がっていて、動きを探るのは簡単だ。後は狼に気をつけて、じっくり巣を探すしかない。狼は人間に対して強い警戒心を持っていて、縄張りを侵したことに気づくと、必ず遠吠えで警告してくる。今のところ、狼たちが怒っている気配はない。
しばらく念入りにミツバチを観察しているうちに、彼らの飛行ルートが分かってきた。軍隊のように規則的に、幾つかのルートを選んでは往復を続けている。熱心に蜂を観察するマリーの後ろで、ミューが小さくあくびをしていた。マリー自身も今頃はあくびをしながら次に何をするかでも考えていたかったのに。世の中は上手くいかないものである。
何度か蜂はエルフ族の縄張りの中を飛行しつつも、最終的には外に出た。一安心できるほど状況は優しくない。やがて蜂の巣が見つかる。最悪なことに、エルフ族の縄張りから、ほんの少しはみ出ただけの位置にある木である。
すぐ薪を取り出して、古くなった布を巻き付け、着火の準備に入る。問題は投げ込むのに失敗した場合、その場で撃ち殺されかねないという事だ。エルフにしてみれば、火のついた松明を縄張りに放り込まれたらおもしろいわけがないだろうし、だいたいもう彼らはマリーに気づいているだろう。時々視線を感じる。強烈な警戒心と、敵意をびりびり感じた。マリーですら感じるくらいである。熟練の冒険者や騎士であったら、すぐにこの場を離れているだろう。
「退屈ー。 眠いー」
「やかましいっ! 静かにしてよもう」
「何ぴりぴりしてるの? 世はおしなべて事もなしっていうよー?」
多分頭の中に花畑が咲いて居るであろうミューがマリー以上に幼い緩い笑顔でのたまう。全身にマリーは脱力を覚えるが、此処は我慢だ。さっきのヒュージ・スクイッドとの戦いを見る限り、この子は頑丈だし剣の腕前は決して悪くない。マリーが使い方さえ間違えなければ有用なはずだ。そう言い聞かせて、じっくり木の周囲を観察する。疲労が集中を見事に阻害してくれるが、精神力でねじ伏せる。
木のうろにはおよそ数十の蜜蜂が飛び交っている。もちろんそれは見かけだけの数値であり、あのうろの中には最低でも三万以上の蜂がいることだろう。蜜蜂とは言っても、感づかれるとかなり危ない。熊のように分厚く強力な毛皮で武装しているのならともかく、人間の肌は蜂の針を防げるほどに強くないからだ。一匹に刺されるだけでもかなり痛い。それが万を超えるとなると。結果は想像したくない。
作戦は簡単。近づいて、火をつけた薪を投げ込む。そしてすぐに離れる。煙に当てられた蜂は気絶する。最初の薪は巣の木の下に立てて、次の本命を投げ込むことになる。革手袋をはめる。蜂の巣を取り出す時も、油断はできないからだ。蜂の巣を全部取り出してしまうのも可哀想だし、ある程度は残しておいてあげようと、マリーは思った。それに、薪をきちんと回収するのを忘れてはならない。森を火事にしてしまっては大変だ。
今回持ってきた古い布は、煙を派手に出すように、埃をたっぷり吸い込んだものをわざわざ選んできた。指先を一なめしてかざし、風向きを調べる。大丈夫、エルフ族のテリトリーには流れ込まない。
煙を起こす位置を調整。しばらく目分量で見積もっていたが、これは火を熾してから調整するしかないだろう。難儀なことだ。村にいた頃は、勘でほぼ完璧に調整ができたのに。体の衰えは、こんな所にも影を落としている。
火打ち石を叩いて、薪に着火。派手に煙を出すそれを、おもしろそうに見ていたミューに渡す。マリー自身は近くの木に登り、松明を木のうろに放り込むチャンスをうかがう。ミューは松明を持ち上げたり下げたりしていたが、やがて意図をきちんと理解したらしく、自分で細かく調整して、煙の流れを上手く誘導してくれた。
蜂の動きが鈍り始める。巣の側では、何事かと飛び出してきた蜂が、煙にやられてぽとぽとと落ち始めた。警戒に当たっていた蜂があらかた落ちてしまうと、マリーは枝の上を器用に渡って、薪を投げ込もうとして。足を止める。
目を、まともに見てしまった。
ごくりとつばを飲み込む。丁度蜜蜂の巣がある木を挟んで向かい側。弓をこちらに向けて構えたエルフが、よく磨いだ刀のような視線をマリーに射込んできていた。下手な動きをしたら、射込んでくるのは視線だけではすまない。純粋な憎悪と殺意で構成された視線が、妙なことをしたら撃つと、雄弁に告げている。こんな近くで見張っていたのだと、今更ながら思い知らされる。
「マリー、どうしたのー?」
脳天気なミューの声。ちょっと危機感のなさ加減が羨ましい。
ゆっくり、歩く。エルフが弓を構えているが、静かに知らない振りをする。枝の上だから、かなり安定が悪いが、我慢する。エルフは動かない。縄張りに入らなければ、多分撃たないはずだ。
「よっ…!」
冷や汗を流しながら、木の上でバランスを取る。体が硬い。蜂の動きは鈍くて、刺されることは多分無いが、マリーも自分の動きが堅くなっている事は感じる。ゆっくり動いて、うろに松明を放り込む。エルフは微動だにしない。
煙が木からあがり始める。蜂があらかた動かなくなる。しばらく飛び回っていた蜂たちも、ばたばた落ちていった。できるだけエルフと目を合わさないように、木に飛びつく。その過程で見てしまう。他にも何人かのエルフが、弓を構えてじっと見ている所を。
木にしがみついたのは、多分恐怖も手伝っていた。咳き込みながら、じりじりとにじりあがる。うろを覗くと、中の蜂はもう身動きができない様子であった。ナイフを取り出し、蜂の巣に差し込む。木くずが盛大に飛び散る中、マリーはナイフを動かし、巣をこそぎ取った。
中で寝ていた蜂をうろの中に落とし込んで、巣を回収。少し小さすぎる。もう一片、もう二片、ナイフを動かして、蜂の巣を壊していく。エルフ達のあの数と腕なら、その気になればほんの三秒でマリーもミューも仕留めてみせるだろう。生きた心地がしない。
袋に五つ目の巣の破片を放り込んだところで、うろの中に手を突っ込み、ナイフで中を探ってみる。だいたいこれで半分と言うところだ。松明を取り出し、うろの中に着火していないことを確認すると、可能な限りの速度で木を降りる。そして脳天気にぽてぽて駆け寄ってきたミューに、急いで此処を離れるように促した。
小首をかしげているミューを引きずるようにして、まだ煙が漂う木を離れる。三十メートルほど離れたところで、あわてて袋の口を縛り、全速力で街道へ走る。小首をかしげるミューに事情を説明するのは後だ。松明から派手に出る煙が、辺りの空気を薄白く塗装していた。
街道に出る。道に馬糞が落ちていて、人間の領域に来たのだと分かる。マリーは腰が砕けてしまい、へなへなと地面に崩れ伏していた。
「た、たすかったあ…」
「大げさだなー。 そんなに蜂が怖かったの?」
ミューの危機感がない言葉には返事をせず、松明の火を踏み消し、ザールブルグに向けて歩き出す。どうにか、最低限の目的は、達することができたようだった。
ザールブルグに着いた時には、もう袋の中では羽音がしていた。落とし損ねた蜂が目を覚ましたのである。可哀想だが、彼女らにも蜂蜜の材料になってもらうとする。
蜂蜜を作る業者は、マリーも幾つか知っている。一番マリーのアトリエに近い店では、愛想の無い老婆がやっている。彼女は基本的に極めて客に対して礼節を欠いているが、腕は確かなので、マリーとしては安心して収穫した巣を売ることができる。
店はいつものように寂れていた。周囲の店舗と比べても若干小さく、特に屋根は雨漏りしそうなほど痛んでいる。煙色に汚れた壁には、薄汚れた窓が一つだけ。いつもと同じたたずまいだ。
「ねえ、こんなのに入るの?」
「大丈夫。 腕は確かな人だから」
不安そうに言うミューをなだめて店にはいる。店の中は思ったより汚くなく、左右に展開されている棚には埃も無い。棚には蜂蜜だけではなく、無数の香辛料や薬剤類が陳列されていて、独特の香りを放っていた。その奧、店の最深部のカウンターに鎮座する浅黒い長衣を纏った老婆は殆ど水分が飛んでしまっているかのようにしなびている。若い頃は美人だったというが、時というのは残酷な存在だ。更に悪いことに、この目ばかりが異様に大きな老婆には、今日も愛想らしきものが全くない。彼女はもの凄く不機嫌そうだった。客が来たのを面倒くさがっているようにすら見える。これでいて腕前は確かなのだから、世の中は分からない。
「お婆ちゃん、こんちわー!」
「グランベルのマリーかい。 何しに来たんだ」
「蜂蜜作ってくれない? これで」
「見せてみな」
面倒くさそうに、老婆はマリーの手から蜂の巣が入った袋をひったくる。しわだらけの手だが、結構力は強い。老婆は袋の上から蜂の巣の感触を確かめるように触る。驚くべき事なのだが、彼女にはこれだけで蜂の巣の質が分かるらしい。経験がもたらす力は恐ろしいものだ。
「銀貨三十七枚ってところだね」
「今日は銀貨はいいから、取れた蜂蜜を半分くらい分けてほしいんだ」
「…まあいいだろう。 まってな。 すぐ作ってやるよ」
来るように促されるので、マリーはミューを連れて、店の奥へ入った。
店の奥には数々の調合器具が鎮座しており、一種独特の雰囲気を作り出している。薬草をすりつぶすための鉢や、薬を混ぜ合わせるための容器は、錬金術のそれに近い。
その最深部に、巨大な臼のような道具がある。目が粗い麻の袋を取り出すと、老婆はそれへ乱暴に蜂の巣を詰め込み直す。袋から飛び出してきた働き蜂も、目にも留まらぬ早業で押し込んでしまう。そして綿棒のような大きな棒を取り出すと、袋の上から巣を木っ端微塵に打ち砕いた。
蜂の羽音など、すぐに消えてしまった。
老婆が袋を臼にセットし、全身を使って放射状に取っ手が着いたそれを回し始める。巨大な臼が、ごりごりと恐ろしい音を立てながら、袋をすりつぶしていく。すぐに麻袋は真っ黒になり、それから臼の下へ蜂蜜が零れ始めた。濃厚な蜜の臭いが周囲に漂う。蜜には当然、さなぎや幼虫のエキスも混入している。だから、精もつく。
老婆は手際よく容器を入れ替えながら臼を回していたが、やがてその一つを無言でマリーに差し出した。なみなみと蜜が満ちた容器は、思ったよりもずっと大きい。
「これで半分ってところだ。 持って行きな」
「わあ、おばあちゃん、ありがとっ!」
「商売で礼なんて言うもんじゃないよ」
そういいつつ、おばあちゃんはまんざらでもないらしく、少しだけ口の端をつり上げていた。
やっと準備が整った。準備を整えるだけで疲れ切ってしまった気もするが、それは仕方がない労働投資である。ミューにも世話になった。結局補助程度の役にしか立たなかったが、今回は十分だと考えるべきであろう。
アトリエに歩く。もう時刻は昼を過ぎてしまっている。戻ってからも、休んでいる余裕などは、無い。
「ありがとう、ミュー。 もう大丈夫だよ」
「そう? 分かった。 じゃあ、また仕事がある時には誘ってね」
「ええ。 手が足りない時は、声をかけさせてもらうわ」
あいている左手で握手すると、健康的な八重歯を見せて、ミューは笑った。冒険者として知識は足りていないし、オツムも良くないが、少なくとも邪気のない子だなとマリーは思った。
ミューを見送りながら、アトリエへ急ぐ。ここからが本番。
マリーは無意識に額の汗を拭うと、歩調を早めていた。
疲れ果てたマリーが、試作品の栄養剤を持って飛翔亭に向かったのは、夕刻であった。ディオはまだ仕事をしていて、マリーの持ってきた栄養剤を上から下から見回していたが、やがて一滴指先に垂らして口に運ぶ。腕組みし、しばらく唸っていたが、やがて頷いた。
「まあ、この出来なら合格だろう」
「ほんとっ!?」
「ああ。 だが、次からはもう少し余裕を持って仕事をするようにしな。 失敗することもカウントして仕事の期日を設定しないと、いずれひどい目を見ることになるぞ」
見抜かれていた。まあ、マリーの様子を見れば一目瞭然か。こればかりは、流石にディオがすごいわけではないだろう。
「それで、同じものをいくつ作れる?」
「そうですね。 この瓶で三十本ならすぐに用意できます。 今の素材の在庫で考えると全部で百三十本は作れます」
「そうか、それはいいことだ。 すぐに全部持ってきてほしい。 瓶が足りなければ、こちらで用意する。 ただし、疲れているからって、品質はばらつかせるな。 もし不良品が混ざっていたら、容赦なくクレームをつけるからな」
強めの釘を刺した後、ディオが提示してくれた金額は、予想以上のものであった。完全に赤字がこれで消えて、当分は生活することができる。ただ、金など使えばすぐになくなってしまう。今度はこの間以上に、計画的に使っていく必要があるだろう。
アトリエに戻って、追加の栄養剤を調整して。最後まで仕事が終わると、僅かに収穫して干しておいた薬草類を除いて、アトリエはほぼスッカラカンになった。熟成し切れていないアカアマテングダケの分が残っているが、全部を栄養剤に加工するには、水が足りない。またヘーベル湖に出かけてこなければならないだろう。アカアマテングダケはオニワライダケとは異なる素材であるし、調整は違う方式でやらなければならないだろう。だが、同じ失敗はもう繰り返さない。オニワライタケよりは楽に仕上げてみせる。
そこまで考えたところが限界であった。疲労のピークに達していたマリーは、その後の記憶がない。次に意識が戻ったのは、二階のベットの上。布団が掛かっていたと言うことは、誰かに運ばれたらしい。布団を押しのけて上体を起こすと、頭がまだぐらぐらしていた。体の節々も痛い。
ふと横を見ると、ベット脇の小さなテーブルの上に、パンの入ったバスケットがおいてあった。バスケットには手紙が載せてある。可愛い文字で、辛辣なことが書いてあった。
「マリーへ。 良かったら食べてください。 それと、いくら何でも床では寝ないこと」
「シアったら…もう」
いい親友を持ったなと、マリーは胸がいっぱいになるのを感じた。
同時に、まだまだ自分は自立し切れていないのだなとも思った。
大きく伸びをして、疲労しきった体を伸ばす。朝の光が心地いい。下に降りてみると、まだまだアカアマテングダケの熟成には時間が掛かりそうである。
此処しばらくの忙しい日々が、まるで嘘のようである。授業でやっていないし、教わっても居ない錬金術を初めて成功させたという事が、マリーに僅かながら自信を取り戻させていた。ディオは滅多なことでは人をほめない。栄養剤の対価として、彼が示してくれた金額は、マリーを認めてくれた証だった。
これから、徐々に難しい錬金術に挑戦していく自信がついた。マリーはガッツポーズを取ると、まだ僅かに残っている在庫を確認して、それからやっとパンに手を伸ばす。
親友のような、穏やかに見えて鋭い、そんな不思議な味だった。
3,上昇、下降、急旋回
秋も深まり、冬が訪れようとしているヘーベルの湖畔に、鋭く閃光が走った。続けざまに六つ。更にそれに併せて、剣戟の音が響く。
閃光を発生させた主は、杖を構え直して、呼吸を整える。マリーである。栄養剤の生産ラインを確保してから約三ヶ月。相変わらず苦しい資金のやりとりの中、必死に錬金術の勉学と実地学習と、それを可能にするための採集行動を行っているのだ。彼女の視線の先には、全身を焼け爛れさせながらも無数の触手をくねらせ、こちらを威嚇する生物の姿。全長約一メートル半。不定形の体を持つ、周辺住民には「ぷにぷに」と呼ばれる半透明の生物である。普段は川石のように半円状の姿をしている事が多い。
数は四。最初は六つだったが、今の一撃で一体を仕留め、もう一体は奇襲を仕掛けて最初にルーウェンが切り倒した。彼らは軟体生物だが、皮膚を破かれると案外脆く、マリーに肌を打ち抜かれた奴は煙を上げながら、破裂した木の実のように地面にだらしなく広がっていった。
数を減らしつつも、ぷにぷにの戦意は衰えない。元々名前とは裏腹にどう猛な生物であり、体中から伸ばすことができる筋肉の塊である触手を使って、敵をなぎ倒す。パワーはなかなかのもので、今マリー達が包囲攻撃を浴びせている連中くらいのサイズになると、当たり所が悪いと人間の骨をへし折る。特に先端部分は堅くて重く、分銅のような役割をするので要注意だ。
「もう一発行くよ。 ミュー、壁になってくれる?」
「オッケー! 任せといて!」
嬉々として前に出たミューが、広刃の剣を振るって、斜め下から連続して繰り出された触手をなぎ払い、受け止め、斜め上から回り込んできた一本を振り向きざまにはじき返す。結構な身体能力だ。ぷにぷには徐々に一カ所に固まりつつ、時々断続的に鋭い金属的な悲鳴を上げている。仲間を呼んでいるのだろう。だが、人間が四人で総攻撃を浴びせているこの状況、助けに来る同胞などいない。運が悪いと思って、あきらめてもらおう。
マリーも素早く後方に下がると、「はたき」を振り回して敵の退路を塞いでいるシアに一声かけ、詠唱を再開。三発目だが、今度は違う術である。豊富なマリーの魔力も、連続で術を使えばどうしても消耗する。六連光弾は、そう何度も続けては放てない。
ヘーベル湖畔の森で、ぷにぷにの群れを見つけて奇襲したのが、今回の戦いの始まりであった。今マリーが作ろうとしている錬金術の道具には、彼らの体内にある物質がどうしても必要なのである。元々ぷにぷには草食獣であるのだが、襲われればこのように、猛然と反撃してくる。
退路を塞いでいるシアは、得意の軽妙なステップを使ってひらりひらりと触手の一撃をかわしながら、はたきで容赦なくそれを打ち据え、巧妙に敵との間合いを詰めて行っている。左右を囲んだミューとルーウェンは、剣で敵の攻撃を切り払いながら、マリーの火力支援を待っている状況だ。一斉に獲物が逃げようとすればかなりまずいのだが、手練れのシアが退路を塞ぎ、上手くルーウェンとミューが息を合わせて敵を挑発しているため、今のところ上手くいっている。最初にルーウェンが敵のアルファ雄を仕留めたのも大きい。群れの統制が取れておらず、反撃は散発的だ。
逃がすわけにはいかない。三日間探してようやく補足した群れだ。此処で逃がしてしまっては、当分チャンスは来ない。仕留める。
「我は十字、光と雷土の合間に立ち、双方の手を結びあわせる者」
詠唱を続ける。マリーから迸る魔力を認識したか、興奮したぷにぷにが飛びついてくるが、ラウンドシールドを構えたミューがタックルを仕掛け、逆に押し返しつつ、蹴りを叩き込む。ミューはマリーより若干背が高く、足も少しだけ長い。鋭い一撃に、ひるんだぷにぷに。マリーは詠唱を続ける。目を閉じ、集中を高める。手に、足に、駆けめぐる魔力が、認識できるほどだ。
「雷土の名はギルシュ、光の名はメイルー、そは我の守りにて、我の契約にて、我の体にて、我の力にて、我の弓である」
「そおらっ!」
「駄目よ、ルーウェン! 下がって!」
バチンと鋭い音がした。音からして、突出したルーウェンが思わぬ反撃に遭い、よけきれず、それをかばったシアがはじかれたか。顔を上げると、マリーは右掌を突き出し、詠唱を完成させる。マリーの体そのものが、巨大な弓になったかのように、スパークしながら練り上げられた魔力が、一点へ集まる。音に気づいたミューが飛び退く。いい判断だ。
これで、躊躇無く撃つことができる。
「貫け、雷土の矢よ! サンダー・ロードヴァイパー!」
全身を駆けめぐる魔力が、雷に姿を変え、マリーの掌から打ち出される。猛烈な反動に、踏ん張っていたマリーも数歩分ほど弾き戻された。巨大な三角錐の雷光の矢が、大蛇のようにくねりながら、敵へ躍りかかる。それはミューの脇をかすめ、彼女が交戦していたぷにぷにを串刺しにし、貫通。肩を押さえて倒れているシアの前で触手を振り上げていたもう一匹を後ろから直撃。激しい熱と光が、瞬間的な痙攣の後、ぷにぷに達を内側から爆発させた。
爆音が消え去らぬうちに、残る二匹に、ミューとルーウェンが息を合わせ、剣を突き込む。断末魔の絶叫がとどろき、それが終わった時、戦いもまた決着していた。
後は焦げ臭いだけである。流石に全身の力を使い尽くしたマリーは、地面にへたり込み、杖で体を支えるのがやっとだった。相当量の魔力が集中した指先には、いまだ紫電がスパークを続けていた。
「はあ、はあ、はあ、はあ…。 シア、大丈夫?」
「ご、ごめん。 俺がとちっちまって」
「大丈夫、大した怪我じゃないわ。 手当てするから、ミューさん、手伝って?」
「う、うん。 ルーウェン、あっち向いてて」
ゆっくり体を起こす。魔力の大半を今の術で使い切ってしまった。体中がだるい。今日はおそらく、相当に腹が減るだろう。
シアはグランベルの出身だけあり、結構体中に傷が多い。はたきを使う戦闘術の訓練中についたものもあるし、魔物狩りやドラゴン狩りの時に受けた傷もある。懐から傷薬を取り出して歩み寄ると、触手がかすった肩口に青あざができていた。切り傷はない。出血もしていない。
「傷、それだけ?」
「ええ。 他に怪我はしていないわ」
「分かった。 ちょっとピウルシェールの葉探してくるわ。 ルーウェン、悪いけれど見張りお願い。 ミューはその辺の棒を使ってでもいいから、ぷにぷにの死体を広げておいて」
「ああ、分かった」
少し居心地が悪そうにしてるルーウェンを残して、マリーは森の中に駆け込む。ピウルシェールというのは、冷化効果がある薬草で、打ち身に貼っておくととてもよく効く。触るとひんやりするのだが、仕組みはよく分からない。錬金術の教科書にも、幾つかの薬剤の材料として載せられていた。それほど珍しい薬草ではなく、木陰を探せば数株ずつ群生している。ただ、シグザール王国周辺の特産らしく、他国では存在が非常に珍しいとも言う。
「お。 あったあった」
しばらく無心に探していたマリーは、目的のものを見つけた。三角形の緑地に青みが掛かった葉には産毛が生えていて、少し苦い香りがする。時期的には今がぎりぎりだ。もう少しすると、小さくて可愛い白い花が咲いて、一斉に枯れてしまう。
今回は葉っぱ数枚でいいだろう。腰をかがめると、さっきの戦いの余波か、立ちくらみを覚えてしまった。頭を振って意識を平常に戻すと。
目の前に、誰かが居た。
「うわっ!」
「きゃっ!」
同時に飛び退く。腐っても鯛、昔取った杵柄。飛びずさりながら構えを取るマリーに対して、その誰かは無様に尻餅をついていた。緑色の服を着て、緑色の帽子を被った、五歳くらいの男の子に見える何かだ。微妙に人間とは気配が違う。そうなると、何かしらの魔物の可能性がある。油断はできない。
子供のように見えるその何かは、大きなバスケットを持っていて、それにキノコやら薬草やらを山ほど詰め込んでいるようだった。白い襟の縁取りがある服はぶかぶかで、異常にかわいらしいが、其処が却ってくさい。
「ま、待って。 お姉さん」
「…」
おばちゃんと言わなかったことだけはほめてやると、マリーは思った。油断無く構えを取り、目を細めて周囲を伺うマリーに、子供らしい何かはなおも続ける。
「て、敵意はないよ。 だから、仲良くしようよ」
マリーは相手を観察しながら、ゆっくり周囲を伺う。敵影なし。奇襲を企んでいるのなら、最初の段階で何かアクションを起こしているはず。何度かわざと隙を作っても見せたが、仕掛けては来ない。
どうやら、信用して良さそうだった。
「貴方誰? こんな森の中で、一人で何の用事?」
「え、えっと。 僕は「妖精」のパテット。 リデルセン村に行く途中で、売り物を少し物色していたんだ」
「マルローネ。 錬金術師よ」
リデルセンといえば、ヘーベル湖畔にある小さな村だ。そして妖精族と言えば、人間に対して友好的な、数少ない亜人種である。
人間に対して友好的という定義は、それはあくまで人間から見てのことである。詰まるところ、「奴隷的な待遇を受け入れて、人間社会の最底辺で生きることを選んだ者達」や、「人間に有用な物資を集めて売りに来ることで、人間に媚びを売って、生存の道を模索した者達」や、「家畜化することで人間覇権社会での生存を実現した」者達となる。この中で、妖精種は二番目であり、一番気が利いた生き方をしている者達である。どうりで媚びの売り方や敵意の削ぎ方が上手いわけだ。
現在、人間と対等の関係を築いて、独立を保つことができている亜人種や、その国家など存在しない。この世界では、人間が正義であり法なのである。
妖精種はザールブルグ周辺だけではなく、シグザール王国には多数生存していて、噂によると「妖精の木」という植物を媒介にして繁殖するのだという。彼らはその木を中心にコミュニティを作っていて、人間に敵愾心を抱かせないように、森の幸を売りに行ったり、小さな体で行いやすい手伝いをして生きているのだとか。マリーは見たことがないが、ザールブルグの市民には既にそれなりの好評を博しているとも聞く。
また、魔物を避ける術を持っているらしく、いかにも非力な外見なのに、かなり長い旅を平気でこなす。マリーが聞いた話によると、成人でも人間の五歳児くらいの背にしかならないそうで、そうなるとこのパテットという妖精はもう大人なのかもしれない。
どうやら敵ではないし、敵対の意志もないらしいと判断したマリーは、さっさと薬草を確保し、葉の質を確かめる。ひんやりする蝕感は十分である。身を翻しかけたマリーに、パテットは小首をかしげてみせる。マリーの中の母性本能が鎌首をもたげるほど、かわいらしい動作であった。
「お姉さん、けが人でもいるの?」
「ん、ええ。 ちょっと打ち身でね」
「それなら、いいものを持っているんだけど、見ていかない?」
「悪いけれど、私の友達が苦しんでいるから。 後でね」
交渉に持ち込もうとしたパテットを強引に振り切って、皆の所に戻る。居心地が悪そうにしていたルーウェンは、藪をかき分けて出てきたマリーを見ると、心底から嘆息した。
「遅いよ。 どこまで行ってたんだ?」
「ちょっと変な子にまとわりつかれてね」
「その変な子って、そこの妖精か?」
「まあ、可愛い」
座り込んだままのシアが、マリーに着いてきてしまったらしいパテットを見て、花が咲くような笑顔を浮かべた。カミソリのようなその本性を知らなければ、くらっと来るような笑顔である。頭を振って雑念を追い払うと、マリーは妖精を無視して、シアの側にかがみ、手当を始める。あざができている箇所は、既に丁寧に拭いてある。其処に葉をおいて、上から包帯で巻く。シアの腕は細いが、触ってみるとそれなりに反発力がある。実戦で鍛えた筋肉が、それなりの量内蔵されているからだ。
手当はすぐに終わった。その間、じっとパテットはこっちを見ていた。振り返ってよく観察すると、体の割にずいぶん大きなバスケットだ。実はそれなりに力はあるのかもしれない。
「おねえさん、手際がすごくいいね。 元ベテラン冒険者?」
「残念。 違うわよ。 ただの元村娘です」
「あら、でも冒険者にならないかって、何度も誘われたじゃない」
「それはそれ、これはこれ。 ミュー、仕事しておいてくれた?」
「ん? うん。 しておいたけど、気持ち悪いなあ、こんなのどうするのさ」
液状化したぷにぷにの死体は、早くも異臭を放ち始めていた。破裂したそれを、ミューが既に広げて、探しやすいようにしてくれている。
マリーはバックパックから麻の布と火掻き棒を取り出すと、死体をつつきながら探す。やがて、粘つく棒の先端に手応え。火箸のようにして挟んで、丸いそれを拾い上げる。ぶつぶつが無数に着いた灰色の丸い石。これに間違いない。探っていくと、もう一つ。一匹から四つずつ採取することができた。
ぷにぷにというこの生物、体内に強力な脱水効果がある石のような物質を宿している。錬金術の教科書には、「ぷにぷに玉」と表記されているこれが彼らの体内でどういう働きをしているのかはよく分からないが、じかに触ると火傷のような症状を示すため、こうやって布で包み、ガラス容器に入れて保管する。ひょっとするとこれをどうにかして使って、餌を体内で溶かしているのかもしれない。
拾い集めた後は、火で炙って粘りけをとばす。一度コツが分かると後は簡単で、三体目、四体目からも拾い集めた。最後の六体目は、死体がひどく飛び散っていたからか、三つの玉石しか回収できなかった。こればかりは、自分が放った大技の結果なのだから、誰にも文句は言えない。
「ねーえー、はやく離れようよー。 汚いよー。 臭うよー」
「はいはい」
だだをこねるミューに促される形で、マリーはシアに手を貸して立ち上がらせて、湖畔へ歩く。シアはその間、パテットのバスケットの中身に興味津々の様子であった。
湖畔でキャンプを敷き直す。パテットは此処まで着いてきた。村に向かうという用事はどうなったのだろうか。それとも、こちらの方が金になると判断したのだろうか。
栄養剤の生産を問題なくできるようになってから、マリーはヘーベル湖に五回訪れている。いずれも主目的は水の回収だが、薬草や今回のような副産物の回収も目的となっている。栄養剤の次にマリーが目をつけたのは、「ミスティカの葉」と呼ばれる錬金術の生成物であり、それを作るために今回は殺生をした。ぷにぷには繁殖力が高く、こういった水際の地形でよく群れているが、それでもあまりたくさん殺すと生態系が乱れる。手に入れた道具は大事に使わなければならないだろう。
火がつくと、マリーは薪を並べながら、皆に順番に休憩に入って良いよと言う。これで、明日は帰れる。薬草を摘んで水をくむのは明日の早朝で十分だ。湖光の結晶も幾つか見つけてあるし、少しずつ経済的な状況は良くなっている。そろそろもう一人護衛を増やして、遠出をしてみようかと、マリーは考え始めていた。
何度か護衛を頼む内に気づいたのだが、ミューはきちんと教えさえすればかなり飲み込みが早い。戦闘のセンスもかなりなもので、良い師匠がつけば相当なレベルまでたやすく腕を上げるのではないかとマリーは思った。しかし頭が回らず応用が利かないので、側に誰かついていないと、危なくて一人での冒険は難しいだろう。
また、四回護衛をしてもらったルーウェンは、可もなく不可もない成長を見せており、努力次第では十年くらいで騎士にはなれそうであった。
たき火にかざして、麻布に包んでいたぷにぷに玉を炙る。水分と肉片を蒸発させてしまい、ガラス瓶に入れていく。側でパテットが見上げていた。
「おねえさん、夕食は用意しているの? 僕が木の実やパンを売ってあげようか?」
「値段次第かな。 あたし達、自給能力はあるから、ものと値段によっては買わないわよ」
「手厳しいなあ。 これならどう?」
「どれどれ、見せてご覧なさい」
いつの間にか側ではシアが、中腰で楽しそうにやりとりを見守っていた。旅の際、資金はマリーが提供することは決まっているのだが、それにしても楽しそうだ。
「岩塩入りのバターと、それにフォルモウルの実と、それにアシッドバードの肉。 どれも上物だよ」
「へえ。 良いもの売ってるじゃない」
素直にマリーは感心して、パテットが並べたものを見る。
小さな白い陶器の瓶には、肌色のきめ細かいバターがたっぷり入っている。牛ではなく、色合いからして多分山羊のものだろう。言うまでもなく岩塩のバターは高級品であり、多分味も相当に良いだろう。
フォルモウルの実はこぶし大で赤黒い。高地で採れる木の実であり、希少で、しかも美味しくて栄養価が高い。しかも保ちが非常に良いので、旅に出る時は必須の食物の一つだが、若干高価だ。
最後にアシッドバードだが、マリーの胸程まで背がある陸上性の鳥で、湾曲したくちばしと、鋭い爪のついた朱い足が特徴的だ。肉は美味しいのだが飼い慣らすのが難しく、家畜化に成功している村が財産を築いているほどである。ちなみに名前の由来は、興奮すると酸の唾液をはきかけて敵を撃退するからである。
バターは量が十分で、持って帰ってからもしばらく使えそうだ。フォルモウルの実も、アシッドバードの肉も、人数分はある。よくこれだけのものを持ち歩いて、襲われないものだ。ざっと見たところ、バスケットの中身をまるごとザールブルグで換金すれば、一家で一月は暮らせるくらいの金にはなるはずだ。しかもこんな非力そうな妖精が一人で持ち歩いているのである。この状況だと、愚かな人間にも狙われるはず。敵意を関知する能力でも持っているのだろうか。
「ねえ、シア、これって」
「貴方の思う通りよ、マリー。 私もこんなに安いのは見たことがないわ」
パテットが提示してきた金額は、相当に安い。相場の三割から四割は安いだろう。妖精達は、ひょっとするとこの木の実を簡単に収穫する術や、アシッドバードを飼い慣らす技を持っているのかもしれない。マリーとしても、この値段は魅力だと思った。
値切りするのは悪い。見てみる限り、品質には文句のつけようがないのである。味見してみるが、粗悪品が入っている様子もない。
「じゃ、頂こうかしら」
「毎度ありがとうございます」
「それと、もし良かったらだけど」
「他の商品の配達も行っておりますよ」
商売慣れた笑みをパテットが浮かべる。食えない奴であった。
アドレスを教えて、配達期間は二月に一度。錬金術で使えそうなものと、保ちが良い食材類を持ってきてほしいと注文すると、はいはいと的確にパテットはメモを取っていた。
「じゃあ、次もお願いします」
頭をぺこりと下げる。可愛い動作だが、多分計算ずくだろう。
手を振ってパテットを見送ると、夜を越すべく準備に入る。秋も深まって、だんだん野宿がきつくなってきている。採集に出かける時、毛布の重みがネックになりつつある。
そろそろ荷車がほしいところだ。そうすれば、仕事先でも簡単な調合をできるかもしれない。今回のぷにぷに玉のような単純なものだけではなく、腐らないようにする加工を可能とすれば、遠出にいける距離もずいぶん変わってくるはずだ。
非常に充実した夕食が行われ、それも終わると夜が来た。それにしてもすばらしい夕食だった。バターを少しかけたアシッドバードの肉は絶品で、ここしばらく食べたどんなものよりも美味しかった。特に僅かに効いている苦みがすばらしく、これなら高値で取引されるのにも頷ける。グランベルでも是非養殖法を確立したいものだ。
流石に何度も来ているだけあって、明日のスケジュールは皆分かっている。しかし今回は適当なぷにぷにの群れを見つけるためにかなり時間をロスしたため、皆疲れている。ミューなどはそれが顕著で、眠る前に水質を調べようとしていたマリーに、溶けかけたクラゲのようにしなだれかかってきた。
「マリー、疲れたー。 栄養剤、ちょうだいー」
「はいはい。 ただしこれは有料だけれど、いい?」
「いいー」
有料といっても、先行投資という意味もあり、半額程度だ。いろいろ試したのだが、結局一番効くのはアカアマテングダケだった。五百本ほど今まで生産したが、そのうち六割がアカアマテングダケで、今後もこの素材で行く予定である。ただ、よく効く分欠点も大きい。あまりたくさん飲み過ぎると、鼻血が出やすいのだ。
鞄を探ると、栄養剤は三つだけ残っていた。二つは遭難した時のための非常用だ。一つは、まあいいだろう。掌に収まる小さな瓶だが、量的には四回分である。
「はい。 一気しちゃ駄目だからね」
「ありがとー。 たすかるよー」
ミューが受け取ると、一気飲みしないように笑顔で見張るマリーの前で、丁寧に四分の一だけ傾けて飲み干した。噂によると、ミューはかなり疲れやすいらしく、マリーが作った栄養剤をかなりの量買い求めて消費しているのだという。飲み干す時に見たが、首の傷は綺麗に消えている。若いだけあって、すばらしい回復力だ。自分だってまだ二十歳になっていないのに、マリーはそんなことを考える。
ちゃんと飲んだミューが、二言三言雑談してから、布団に潜り込んで眠り始めた。マリーは寝ころんで星空を眺め、今後のことを思った。
今回作ろうと思い立った「ミスティカの葉」は、直接的に何かの役に立つ道具ではない。茶などの材料になるミスティカと呼ばれる香草の葉を特殊な方法で乾燥させたものであり、更に高度な錬金術アイテムの素材となる。つまり、ステップアップのための道具だ。
一番簡単な生成物がミスティカ茶。香りが高く味が上品で、上流階級に愛好される高級茶だ。このミスティカ茶、精製工程が難しい上に、通常だと製作に発酵や醸成で一年以上かかるのだが、錬金術を利用したこの手法だと数日で作ることができるのだ。問題は品質なのだが、これも既存品に劣らないと教科書に書いてある。ただし、それをマリーが実現できるかは話が別。上手くいくと良いのだが。これは二年生の授業の範疇になってくる。ミスティカ茶に至っては簡単といっても三年のレベルだ。
ここのところ、少し上手くいきすぎているのも不安材料だ。綱渡りだった栄養剤完成前後の出来事を思い出し直して、自分を戒めようと思うのだが、上手くいかない。今回の利益はミスティカの葉の分をカウントアウトして、栄養剤百本と見込んでいる。今の内にお金を貯めておくのは良いことだが、なんだか嫌な予感がする。
マリーは魔力が人並み外れて強い。だから、その「嫌な予感」は決して馬鹿にすることができない。
既にミスティカが群生している場所は調べ上げてある。明日の朝、回収して帰る。嫌な予感が、ずくずくと体の中を焼いている。錬金術に関係したものではないのかもしれない。布団を被って寝る。今日は二回目の見張りだから、早めに寝ておかないと体力的に厳しい。雑念を払って、マリーは寝た。
「マリー! マリー!」
自分を揺するシアの声。見張りはちゃんとしたし、まだ起き出す時間には早いような気がする。しかし、この珍しく動揺しきったシアの声。上半身を起こして、毛布を退けながら、シアを見る。
「大変よ、マリー!」
シアの隣には、寝ぼけ眼をこするミューの姿。最後の見張りは確かミューだったはずだから、今一番眠いところなのだろう。シアの隣で寝ぼけながらも立っているところを見ると、何かしらの獣や魔物に襲われたという事はないのだろう。だが、これはいったい何だろう。
「どしたの?」
「気づかない?」
数秒の半覚醒を経て、マリーは飛び起きる。周囲を見回す。
落ちてきている。白いものが。
それは、雪だ。
眠気が吹っ飛んだ。まずい。これは非常にまずい。ミスティカはいいのだが、キノコ類の中には寒さに非常に弱いものがある。アカアマテングダケも、オニワライダケも、その仲間だ。萎れるくらいなら良いのだが、変質してしまう。具体的には胞子を飛ばすために体の構造を代え始める。錬金術の教科書では、冬のオニワライダケは使わないようにと説明があるほどである。胞子がどんな影響を栄養剤にもたらすかは、全く見当がつかない。
嫌な予感の正体が分かった。考えてみれば、キノコは年がら年中安定して収穫できるわけではなかったのだ。
しかも、キノコは異常に成長変化が早い。あわてて目をつけておいた株に駆け寄ると、もう遅かった。色が変わり始めている。胞子を作って、中に蓄えているのだ。
作ろうと目論んでいた栄養剤百本が、全部パアになった。アトリエに戻ったら、新たなる換金手段を考えなければならない。不幸中の幸い、飛翔亭のディオに栄養剤を作る話は持って行っていない。ある程度の蓄えもある。だが、そんなものがすぐに消し飛ぶのは、三ヶ月前の出来事で証明済みだ。
頭を抱えて、マリーはへたり込んでいた。
「やり直しだ…」
「戦略に不備があったのだから仕方がないわ。 気を落とさないで」
「うっわ、きつっ!」
シアがさりげなく止めの一言を吐き、ミューがそれにつっこみを入れる。マリーはそれに対応する余力も残しては居なかった。
がっかりしたマリーが、集められるだけ薬草や透明度の高い水を集めて帰還したのは、二日後であった。保ちが良いものばかり厳選してきたが、気分は重い。一応ミスティカの葉の素材は揃っているが、肝心の換金素材を作れそうにないのが痛い。薬草類はそれなりに集めてきたが、はてさて、どれだけまともなものが作れるのか。
不測の事態や道具類の買い換えも考えると、生活費は二ヶ月くらいしかもたないだろう。これから二ヶ月後は、まさに冬まっただ中。自然の素材を多く使う錬金術では、一番難しい時期だ。今回の採集が上手くいっていたら、後一月はのばせた。そうすれば、もう少しじっくり吟味ができたのだが。
冬の間に集められる素材による、換金アイテムを吟味する。更に、自分の腕を上げる。今回収してきた素材を無駄にしないように、せめて力を伸ばせるよう新しい調合に挑戦する。
その全てを平行で行わなければならない。
力が抜けかける体を叱咤して、薬草類をすりつぶし、保存用に切り替えていく。ミスティカをまとめて、地下室に移した水を中和剤用と蒸留水用に分類して。考えている内に、もう夜が来てしまう。考えながらだから、何度も失敗をした。落としてしまったミスティカの株を踏んづけてしまったのは、特にショックだった。せっかく集めてきたのに。一株、無駄になってしまったのだから。踏んでしまった株は、茎はぐしゃぐしゃ、葉は全滅と、手の施しようがない状況だった。涙をのんで捨てることにする。
あんなに美味しいアシッドバードの肉を食べることができたと思ったらこれだ。世の中、本当に何があるか分からない。二ヶ月と見込んだ生活費保持期間だって、実際にはどうなることか。
やっと事前準備が終わったのは深夜だった。地下室魔法陣の中央に水をセット。更に、一階中央に蒸留水用の鍋をセットし、今日はここまで。火をつけるのは明日でもいい。憔悴しきったマリーが、溶けるように眠ったのは、それからまもなく。明日は良い日になるさと言い聞かせるまもなく、脳は眠りについてしまった。マリーは疲れ果てていた。どうにかして、明日からは、良い日を送りたかった。
だが残念なことに、そのささやかな祈りさえ、かなうことはなかったのである。
4,邂逅と奔流
疲れ切った体をどうにか引きずり起こして、ヘーベル湖から帰る途中に買ってきた塩辛い干し肉をかじりつつ、テーブルで錬金術の教科書をマリーがひもといている時。彼女は極めて不機嫌だった。
安物の干し肉は、堅くてまずかった。ヘーベル湖で食べたアシッドバードの肉があまりにも絶品だったのが、まずさに拍車をかけていた。だが、この肉だって、生き物の一部であったのだ。それを得るためには生態系の破壊と、それなりの苦労が行われているのである。あまり贅沢を言ってはいけない。資源は有効に利用しなければならない。
だが、いらだつものはいらだつ。それを押さえられず、しかも教科書からいい案も発見できず。マリーのストレスはかなりたまり込んでいた。蒸留水を作るために火にかけている鍋からぐつぐつ音がしているのだが、それにすらいらつく有様であった。
数日過ぎても、状況は変わらなかった。むしろ悪くなる一方だった。冬は本格的に訪れ、雪が周囲の家々を白く化粧していく。もはや生物類の採集は絶望的である。採れるとしたら、蟷螂の卵ぐらいだろう。
「あー、もうっ!」
髪の毛をぐしゃぐしゃとかきむしる。ものに当たるほど、流石にマリーは落ちていなかった。気分転換がしたいが、その前にせめて展望を見つけておきたい。薬草類から作れる薬剤を中心に調べているのだが、売り物になりそうなものほど高価な素材が必要で、それは手元にないし、危険すぎて取りに行けなかったり時季がはずれてしまっていたり。
此処はいっそ開き直って、金属加工に手を出してみるのもありかとマリーは思った。しかし、金属類を手に入れるには、ストルデル川をぐっと上流までさかのぼるか、大型のドラゴンが飛び回っているヴィラント山に登らなければならないのだ。後者は今動員できる戦力ではとうてい無理だから、年に何度か行われている騎士団の近隣地区巡回を待つしか手がない。前者は可能といえば可能だが、片道だけで一週間はかかる。つまり、食料や必要品だけで相当なコストが必要になるわけで、行くのであればかなりの覚悟が必要になるだろう。
何ページ教科書を捲っても展望は見えてこない。二年度の教科書もざっと目を通しているのだが、高度すぎて殆どの調合は実行できそうにない。いらだちがますます募る。それが集中力を鈍らせ、判断力を低下させていく。全く教科書の内容が頭に入ってこない。ため息が漏れる。
なんだか、窮地に陥ってばっかりだ。つい三ヶ月前も、綱渡りのような仕事をしたばかりだというのに。おっちょこちょいだなと、マリーは自嘲する。錬金術の知識と、村で培った知識を同時並行に使うことができていない。今回の失敗だって、よく考えていれば、簡単に回避できる類のものだったはずなのだ。戦闘時ほど頭が回らないのはどういうことなのだろう。
この試験が始まって、まだ百日も経ってはいないのに。何度窮地に陥れば済むのか。今回は幸い、時間的な余裕がある。しかしこの調子で、五年間綱渡りするのは流石につらい。この間の栄養剤事件の時だって、終わった後は胃が痛くて仕方がなかったというのに。
蒸留水の瓶を取り替える。蒸留水を入れていた瓶を再利用しているので、洗うのにもごく少量で良いのが救いだ。少しずつ状況は好転しているはずなのに。全くそれが感じられないのは、マリーのひがみであろうか。
ドアがノックされる。顔を上げたマリーは、シアかなと思ったが、違うと判断した。ノックの感じが微妙に違ったからだ。流石に幼い頃から今までの親友である。それくらいの判断はつく。
髪の毛をさっと整えて、着衣の乱れを直して。できるだけ笑顔を作りながら、ドアに手をかける。極小の可能性だが、飛翔亭での仕事の評判を聞いて、直接仕事を頼みに来た人かもしれないからだ。
「はーい、どなたー?」
「こんにちわ」
若い男の声だ。聞いたこともない。小首をかしげながらマリーが戸を開けると、其処に立っていたのは、ひょろっとした、銀髪の、めがねをかけた青年であった。眼光はそれなりにあるのだが、口元の嫌みな笑みが生理的な反発を招く。マリーが知る限り、グランベルはさほど閉鎖的な村ではないが、それでもよそ者を見た時、村の者達はまずこう思う。泥棒ではないかと。
「あの、何でしょうか」
「貴方がマルローネさんですね。 会うことができて光栄です。 僕はクライス=キュール。 アカデミーの学生をしております」
「は、はあ」
そうなると、後輩になるわけだ。ただし、アカデミーには老若男女様々な人が来るから、年齢は一概に判断できない。
「会うことができて光栄です。 伝説になりつつある、アカデミーの最低成績記録者であり、問題児の貴方と」
「…!」
な、なんだこの失礼ながきんちょは。語尾に音符かハートまでつけそうなほど楽しそうに言うクライスに、マリーの相手に対する印象は一気に地獄の底まで落ちた。アカデミーでは天才肌の人間を何度も見たし、そいつらはいずれも相当な変わり者ばかりであった。失礼な奴も大勢いたが、わざわざ此処まで押しかけて嫌みを言いに来るほどの奴は初めてであった。
いずれにしても、この男は明らかに金持ちで、である以上多分年下である。後輩である以上敬語を使う必要はない。というよりも、今使う気がしなくなった。笑顔を保つのが、もの凄く難しい。
「そ、それで、何のよう?」
「いえいえ、ただご尊顔を拝しに来ただけですよ。 今日は顔見せ程度です。 いずれ貴方は、この天才クライスの名を、脳裏に焼き付ける事になるでしょう。 それでは」
マリーの返事をまたずに、クライスは出て行った。しばらくわなわなと震えていたマリーであったが、発作的に杖を手に取ると、裏庭に飛び出す。
イメージする。あのクライスとか言うくそ生意気な後輩を。
イメージ完了。側で見たから分かる。ただのモヤシだと言うことが。それを。
ぶち殺す。
肉塊にしてやる。
ストレスで煮えくりかえっていたはらわたが、マリーの怒りを後押ししていた。全身が燃えるように熱い。杖を振り回し、振り下ろし、イメージの中でクライスを徹底的にぶちのめす。ぐちゃぐちゃの肉塊になった顔を踏みつけ、何度も杖をたたきつけている間に、頭蓋骨が砕けて、脳みそが飛び散った。灰色の塊はマリーの頬まで飛んできて、手の甲で拭うと、すごく魅力的な赤い染みになった。
無言のまま、更に杖を振り下ろす。無言だが、顔はゆるみっぱなしだ。殴打音と粉砕音が、肉がちぎれて骨が砕ける音とともに、脳裏に響き続ける。快感だ。爽快だ。舌なめずりしながら、マリーはもう一度、クライスの頭をぶち砕いていた。転がってきた眼球を踏みつぶすと、とてもすてきな音がした。落ちためがねを踏み砕く。感触がすばらしい。
その瞬間。腹の中でうごめき回っていた邪悪が、ついに口からほとばしり出た。
「は、あは、ははははははははははははははははははは!」
天を仰いで笑う。すごく、もの凄く気持ちが良い。呼吸が元に戻っていく。イメージトレーニングから、通常時に脳みそが戻っていく。もちろん、足下には何もない。今頃クライスは、満足げに鼻歌でもしながら帰宅している頃だろう。マリーの頭の中で何度も惨殺されたことなど知らないに違いない。
汗を拭う。もの凄く良い笑顔を浮かべながら。なんだか、とってもすがすがしい気分だ。綺麗にストレスが消えて無くなった。
「ああ、すっきりした☆ ふんふんふふーん♪」
鼻歌さえ交えて、アトリエに戻る。最高の気分であった。
世の中何が助けになるか分からないものである。頭の中でクライスを何度も惨殺してストレスを綺麗にはき出したマリーは集中力を完全に取り戻し、今までの無駄を完全に取り戻して、時間の浪費を抑えていった。
集めてきた素材類は、既に並べてある。一見雑然としているが、マリー自身にはどこに何があるか分かっているからかまわないのだ。
素材を吟味するのに半日ほど。結果分かったことだが、今手持ちの素材の中には、量産してお金を稼げるものはない。だから、此処はスキルを磨いておき、お金がある内にストルデル川上流へ向かう準備を整える。
冬は長い。調べてみたが、栄養剤の素材で冬にたくさん採れそうなものはない。そこで、此処は戦略を切り替える。栄養剤は春までお預けで、冬の間は加工に時間が掛かる鉱物類と、今まで敬遠していた火属性の錬金術アイテムの生成に着手する。今、目をつけているのは、レジェン石と呼ばれる鉱石の一種と、火薬と呼ばれる錬金術が生み出した最高傑作と呼ばれる危険な物質だ。特に後者は、戦争のやり方が変わるのではないかという噂が流れるほどの代物だという。そういえば授業でちょこっとだけ見せてもらったような気もするが、噂ほどの威力ではなかったような。
ストルデル川の上流には滝があり、豊富な漁業資源があるという。魚の類は保たないから持ち帰ることができないとして、研磨剤の材料となるフェストという鉱物や、特殊な香草の類が豊富だという。香草は期待できないが、その内の「ガッシュ」と呼ばれる植物は、枯木の状態で初めて錬金術素材としての力を発揮するとかで、ちょっと興味がある。ざっと教科書に目を通すが、幾つか換金できそうな道具が物色できた。良い感じだ。
腕まくりする。
ストルデル上流に行く前に、まだまだやることがいくらでもある。シアは確かにきついことを言ったが、それは決して間違いではない。戦略に問題があったから、こう何度も何度も窮地に陥るのだ。しっかり資金戦略を立てておけばいいのである。冬場に金を稼げるめどさえ立てば、後は一気にごり押しできる。
そうと決まれば、善は急げ。やることはいくらでもある。
まずは暗いところにおいて水をやっておいたミスティカの茎から、葉を丁寧にむしっていく。柔らかい植物だが、油断すれば指先を切る。植物の汁は苦い臭いがすることが多いが、ミスティカは流石に香草だけあり、こんな作業をしている時もなんだか甘酸っぱい香りがした。問題なのは、茎が異常に堅くて、葉が柔らかいと言うこと。油断すると、葉を半ばからぶちぶちとちぎってしまう。刃物を使うと駄目だというので、細心の注意が必要だ。
その作業が終わったら、乳鉢を取り出して、ぷにぷに玉を砕く。少量を乳鉢に入れて、全身の力で揉み込むようにして、砕いていく。手応えが良い。ちょっと油断すると乳鉢がずれてしまうのがおもしろい。これも意外とスキルがいる。今の内に慣れておいて損はないだろう。
乗ってきた。何もかもが面白い。頭の中にどんどん情報が入ってくる。
絶望から立ち直ったマリーは、希望に向けて、一気に駆けだしていた。
雪が降り出したザールブルグの大通りを歩いていたクライスは、思惑を巡らせていた。
彼が見たところ、マリーは天才肌の人間だ。だが、万能型の天才にはとても見えなかった。多分戦闘スキルや魔術に関する天才なのだろうと、クライスは思った。どうしてそう思ったのか。理由は簡単である。
同類だとは、思えなかったからだ。
「冬リンゴはいかがー? とれたばかりだよー」
「一ついただけますか?」
「はいはい、どうぞ」
荷車を押してリンゴを売っていた行商人から、一つもらう。この時期に採れるのは冬リンゴという品種であり、甘みが若干弱い代わりに、とても汁気が多くて、上品な味がする。ザールブルグ周辺ではかなりの高級品で、売りに来る行商は少ない。その代わり、夏に出回る甘い汁の少ない小振りなリンゴはとても一般的だ。色も対照的である。冬のは緑色で、夏のは血を吸ったように赤い。
豪商の息子である彼は、それをよく知っている。知識は武器だ。どんな知識でも、不要というものはない。
クライスが姉同様錬金術の道を選んだのは、それが金になると父がにらんだからだ。現状の商売は末の弟に任せて、より出来が良い姉と更に出来が良いクライスは、事業拡大を錬金術によって目論んでいるのである。誰もが現世では、栄達を望んでいる。それを望まない人間は、どんどん社会の中心から弾き落とされていく。
クライスは父ほどには野心的な人間ではないが、それでも将来的な望みはある。そのためには、今の状況はあまりいいものではない。マリーの案山子になることで、うっとうしい邪魔者の接近を阻止することだけに若い時間を過ごしてしまうのは何とももったいない。そんな程度の存在ではないという自負もある。マリーに近付くことによって、もっと大きな事をしたいと考えている。師匠のイングリドが言うように、彼女が錬金術のパラダイムシフトを起こせる人材であったのなら。
その側で、パラダイムシフトが起こす奔流の恩恵を受け、絶大なる力を得ることが望ましいではないか。
そしてパラダイムシフトが起こった暁には、もうマリーに用はない。そして、場合によっては、アカデミーですら必要ないだろう。
マリーに対する恋愛感情は確かにある。一方的な片思いだが。それとは全く別に、超がつくほど冷徹鋭利な思考を、クライスは内に育てている。それが商人という、金という武器が飛び交う戦場で生きている生物が持つ性であった。
雪や風と言った、どこにでもありすぎて、誰も利用しようとは考えないものまで、商人には武器になる。マリーの情報はクライスも徹底的に集めており、彼女が相当にいらいらしているだろう事は事前につかんでいた。そこでわざと怒らせるような態度を取り、彼女に自分を強烈に印象づける事に成功したのである。嫌われようがかまわない。今は、顔と名前を覚えさせるだけでいい。好感度など、後でいくらでも取り返せる。
リンゴをかじりながら、アカデミーに向かう。今クライスがやっておくべき事は、他の学生の誰にも負けないスキルと知識を身につけておくこと。マリーの手によるパラダイムシフトが起こった時に、生き残るのにそれは必須だからだ。頭が堅い人間から脱落していくだろう。知識のない人間からついて行けなくなるだろう。だから、クライスは、今の内に腕を磨いておくのだ。
クライスは気づいていなかった。自分が結局、イングリドの掌の上で踊っている事に。利用しているつもりで、利用されてしまっていることにも。天才の名を恣にしてきた彼は、さらなる天才の存在を知らない。
それが上にも下にもいるという事実も。
そして、彼自身が天才であるが故に、自分とはあまりにも違うタイプの人間の能力把握は、極めて苦手であると言うことも。
天才は却って視野が狭い。それにまだ、若いクライスは気づいていなかったのである。イングリドは尊敬していたが、どこか天才とは別の存在と考えてしまっていた。だから、自分の戦略に致命的な欠陥があることにも気づけなかった。
食べ終えたリンゴを下水道へ放り捨てると、クライスはアカデミーへ向かう。まだ彼は気づいていない。自分の限界と、世界の広さに。
ザールブルグのほぼ中央部に、王城はある。周囲に雑然と貴族の邸宅を配置し、その更に周囲には放射状に伸びた大通りと庶民の家。そしてまばらな騎士達の邸宅。平和な現在、一応入り口部分にまでなら、庶民に開放されている。しかし流石にVIPがいる奧へ立ち入ることは許されていない。
王城自体の規模は決して大きくない。城壁に囲まれたザールブルグそのものが城のようなものなので、その中に堅固な城塞を築く必要性がないのだ。というよりも、城壁を破られたら、その時点で負けである。まだ歴史上ただの一度もそのような事態になったことはないが。
城は美しいが、質素である。隣国ドムハイトとの大戦の時、その質素さが主なドムハイト兵達の嘲り言葉となった。だがシグザール王国軍は気にもとめなかった。城は確かに質素だが、その分皆の生活は豊かで、兵は強い。ザールブルグは見事に発展しているし、領土のどこもが美しい。王族が無為な贅沢をしようとしないから、この国の他の部分に富が集中しているのだ。それが余裕と発展を産んでいる。
この国の安定した体制は王下に直結した戦力が維持している。ザールブルグ駐屯軍だけで五万、全部で十万を超える強力な屯田兵団の戦力と、忠実かつ勇猛な騎士団によって支えられているのだ。屯田兵団の作り出す富も王家を支える一端だ。ザールブルグの街から入る収入も大きい。これらを上手く分配した結果、総合的多数の豊かな生活が実現している。早い話、政治が非常にしっかりしているのである。軍政が過剰気味なドムハイトではこうはいかない。かの国の王都は、ザールブルグとは比較にならないほどの小規模だ。
だが、これだけ豊かな国は、きれいごとでは動かないのも事実である。
シグザール王ヴィントは、かってはドムハイト戦の最前線で指揮を執った勇猛果敢な人物として知られ、今は若干平和ぼけ気味なところを庶民に愛されている好人物である。ただし、それはあくまで表向きの話だ。王は演出者であった。かっては兵達を奮い立たせるため、勇猛果敢な王を演じた。そして今は、平和な時代の民を安心し仕事に従事させるため、少しぼけた優しいお爺ちゃんを演じているに過ぎない。流石に年齢が年齢のため、衰えも出始めてはいるが、いまだこの国を作り上げてきたカミソリのような頭脳は健在である。その素顔を知る人間は、この国でもあまり多くはない。
謁見室から執務室に戻ってきたヴィントは、豪奢な椅子に腰掛けると、侍女に肩をもませる。そして腹心の一人である、ヴァルクレーア大臣を呼んだ。この侍女は騎士に劣らぬ高い戦闘スキルを持つ直属密偵の一人であり、話を聞かせても問題はない。大臣ははげ上がった大男で、非常に良く太っているが、頭自体はよく働く男だ。ピンク色の肌と気がよさそうな顔を持つよく肥えた彼はザールブルグの平和の象徴のように思われているが、実は王の命令で暗務をこなす闇の実行者でもある。出身はどうやら異国らしく、若い頃に王が拾ったらしいと周囲にはささやかれている。
太った体を揺すりながら執務室に彼が来ると、王は侍女になお肩をもませながら言った。
「よく来たな、ヴァルクレーア」
「ははっ」
「何か変わったことは無かろうな」
「錬金術ギルドが妙な動きをしている以外は、特に何もありませぬ」
謁見室にいる王とは別人のような鋭い声。ヴィントはまだまだ精神の張りを失っていないのである。大臣もいつもとは違い、腹の底から響くような低音でそれに応えている。
「例の計画か。 連中は自分で権力を得ようとは考えぬからな、動きが読みづらくて仕方がない」
「表だって危険なわけではないとはいえ、厄介ですな」
「密偵どもとは連絡を密に取り続けよ。 恐ろしいのは周囲で生じる余波だ。 それと、いまだ火薬式兵器の実戦配備は上手くいかぬか」
「こればかりは、なんとも。 もたらされたばかりの新しい技術ではありますし、軍下に錬金術師も少なく。 後数年はかかると覚悟してくださいまし」
「分かっておる。 だが少し遅れすぎているようで、気になってな」
髭を弄りながらヴィントは言う。ドムハイトはいまだこの国への侵攻をあきらめていない。軍備は平時であっても整えなければならず、またいざというときのために新しい軍事技術を整えておくのは当然のことであった。ドムハイトは古い国だが、軍事技術に関しては最新のものを取り入れており、幾つかの武具の性能はシグザール製のものを上回るのである。優れた将も多く、いざ戦いになると大きな犠牲が出るのは避けられない。それを少しでも減らすために、ヴィントは錬金術を切り札にすることを考えていた。
それに併せてヴィントは政治的な駆け引きも行っている。政略結婚によって戦争を避けようとも目論んでいるのだが、こちらはかなり難航しており、見通しが立たないのが現状だ。少なくとも、強硬路線で知られる今のドムハイト王が死ねば少しは状況も良くなるのだが。暗殺も何度か考えたが、警備が厳しいドムハイト王宮に、やすやすと忍び込める暗殺者などそうそういない。世間で思われているほど、暗殺者は人間離れした存在ではないのだ。
錬金術はヴィントにとって、制御の難しい大きな力である。アカデミーが権力を志向していないのが唯一の救いであるが、とにかく扱いが難しくて厄介だ。最終的にイングリドが目論んでいるのは、ドルニエと同じく知識の発達だと言うことは分かっている。分かってはいるが、どうにも理解できない。思考の原点と、理想とする到達点が違いすぎる場合、人間の相互理解はとても難しい。この年になってなお、ヴィントは思い知らされる。
単なる力を作り出そうとするものと、そこにある力を上手く使って国を平和に統治しようというもの。両者は相容れない存在であり、協力関係を作ることはできても、共存はいつも難しいのである。
「当分、アカデミーからは目を離すな」
「御意」
「さて、次の手だが…」
考え込み始めたヴィントに一礼して、大臣は出て行く。椅子から降り、寝台に横になったヴィントは侍女に腰をもませながら、更に先へ思惑を進めていた。
(続)
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