長い長い試験の始まり

 

序、村人

 

夜空を飛ぶ巨大な影一つ。人間の百五十倍に達する体重を誇る小型の竜である。空を飛び、口から炎の息を吐き散らし、鋭い爪でいかなる獣をも切り伏せる。翼は大きく、全身は古代に滅びた超大型は虫類を思わせる。鱗は赤黒く、一つ一つが鉄のような強度を誇る。腹を空かせた竜は獲物を探して、我が物顔に空を飛び回る。彼を屠る事ができる存在など、ほとんどいないのだから当然だ。まだ若い竜である彼は知らない。この世でもっとも恐るべき存在のことを。

やがて森の外れ、草原に彼は着地した。豊かな森には、獲物の気配がする。ちょっとした腹ごしらえのつもりで、彼は最初の一歩を踏み出し、異変に気づく。しかし、気づいたときにはもう遅い。

着地する前に、よく確認するべきだったのだ。その周囲に、何か異常がなかったか。年老いた竜であれば、そうしていただろう。しかし、若く無謀な彼は怠った。

踏み出した足が、地面に沈み込む。巨体がバランスを崩し、傾く。同時に、周囲に無数の細かな気配が浮かび上がる。頑丈な網がかぶせられる。炎の息を吐こうと構えた彼の目に映ったのは、怒り狂った牛のように突撃してくる、巨大な木の杭だった。

木の杭が、鱗を貫き、肌に食い込み、骨に刺さり、筋肉をえぐり去った。

悲鳴が上がる。更に巨大な木の杭が次々に飛んでくる。そのうち一つが、雄々しく角の生えた頭部へ直撃した。意識が飛び、それは二度と戻らない。大きな命が一つ、可能性を絶たれ、闇へ消えた。

 

断末魔の咆吼をあげる竜。周囲に群がる細かな者どもは、言うまでもない。すぐそばの村に住む人間達である。数日前から若い竜が飛んでいるのを見た彼らは、格好の獲物に手ぐすねを引き、着地しやすい場所をわざわざ作って、罠を張って待っていたのだ。

ドラゴンだろうが悪魔だろうが何だろうが、人間の知恵にはかなわない。少なくともこの世界ではそうである。もし違えば、地上は竜なり悪魔なりの世界になっていただろう。

たとえ強大な竜でも、網をかぶせかけて、車輪をつけた杭を叩き込んでやればひとたまりもない。竜をしとめると、すぐに男達は村へ女手を呼びに戻る。解体は早いほうがいいからだ。

女達が、合い口をうまく使って、鱗をはがしていく。硬度の高い竜鱗は、金属よりも希少価値がある。武具の材料にもなるし、日用品としても非常に完成度が高いものへと生まれ変わる。口を開けてつっかえ棒をくわえさせると、歯を砕いて抜く。これも貴重な道具になり、都会へ持って行くと高く売れる。舌も切り取って薬にする。竜の肉は臭いが、これも薬になる。もちろん内臓や血もだ。骨も残らない。頑丈な竜の骨は、家屋の建材にもなるし、都会にも売ることができる。

殺した竜は、体のありとあらゆる部品が、全く無駄にならないのだ。

働いている女達は、何も大人ばかりではない。まだあどけなさが残る子供らも、手を顔を体を返り血で真っ赤にしながら、談笑しつつ解体に参加している。慣れているのだ。その中に、美しい金髪と大きなブルーの瞳を持つ少女がいた。頬に飛んだ竜の返り血を手の甲でぬぐう彼女は、大人顔負けの手際で、竜を解体していく。

「マリー。 そろそろ内臓を出すぞ。 手伝ってくれ」

「はーい、父さん」

父親に声をかけられ、のこぎりを受け取りながら、マリーと呼ばれた少女が頷く。本名マルローネ、村の住人の一人である。解体は時間との勝負だ。遠くでさもしそうに様子をうかがっている狼達などは敵ではない。鱗は殺してすぐでないと剥ぎづらくなるし、血も固まってしまう。的確に死体を分解するには、手際と時間が最重要項目となるのだ。

マリーと父の二人がかりでのこぎりを動かし、鱗をすっかり剥がれた竜の腹を割くと、人間の体よりも太い腸が零れ出る。そこへ手かぎをつっこむ。

「へええい、よおっ!」

「へえええい、おおっ!」

気合いを入れて、皆で内臓を引っ張り出す。消化器の処置は後だ。小柄な子供や女性は、切り裂いた竜の腹に潜り込み、何人かがかりで内臓を切り裂き、引っ張り出す。

すっかり消化器を外に引っ張り出すと、マリーが腰にぶら下げていた大ぶりのナイフを取り出し、側を駆け抜けるようにして真横一文字に切り裂く。糞便同然の中身を出してしまい、早く洗わないと薬としての価値が落ちる。

腐臭に眉をひそめながらも、皆で消化器を転がし、中身を出す。本体も手際よく解体していく。肉はあらかた終わり、後は骨組からばらしていかねばならない。頭蓋骨はもう外してある。脳は特に貴重な薬になるので、丁寧に扱わなければならない。

カンテラで照らして地面にぶち撒いた消化器の中身を見る。えさになった者の内、宝石などを持った旅人などがいたらもうけものだからだ。だが、人間らしい残骸は無い。価値のある残骸もなし。マリーの父が肩をすくめて首を横に振ると、皆散って、本体の解体組と仕分け組に言われなくても分かれていった。

数刻もした頃には、地面に残った血と、消化器の中身以外、痕跡は何もなくなっていた。大収穫である。後はある程度を首都ザールブルグなり近くの町なりに運んで売れば、年貢の半分ほどの収入を一気に得ることができるだろう。得た収入は村の発展に用いる。

大人と一緒に働いていたマリーは、真っ赤になった手を桶で洗いながら、一息ついていた。背丈もまだ伸びておらず、体もまだまだふくらみが足りないが、それでも働きは大人達に引けをとらない。彼女に手ぬぐいが差し出される。マリーよりもかなり小柄な、肌の白い細い少女であった。丁寧な三つ編みを下げた髪はブラウンで、あちこちにたかれているたき火を反射して美しく輝いている。粗野な木綿製のマリーの服に比べ、少女のは明らかに仕立てがよく、要所には絹さえ使われている。

「お疲れ様、マリー」

「ありがとう、シア」

二人の少女は笑いあう。シアは手際よく体中を赤く染めている人たちにタオルを配り、その後暖かいホットミルクを配っていた。大仕事の後の、和やかな雰囲気。後は片付けをして、それから流れ解散となった。皆、我が家であるグランベル村へ戻っていく。戦利品は働きに応じて平等に配られる。シアの父親、村の顔役は非常に有能な人間で、彼に任せておけば大丈夫だと村の皆が信頼している。きっと彼なら、誰もが納得いくように、今夜の時ならぬ収穫を分けることであろう。

人間が全世界に完全な支配権を確立しておらず、なおかつ統一的な秩序もない時代。人間の住む最小集落である村は、その勢力圏の隅々に散らばっている。様々な村があるが、どれにも共通していることがある。

村に住む者達は愚かでもなければ、弱くもないと言うことだ。

森には数々の人ならぬ者がいたが、いずれも竜の解体を間近に見ながら、手を出すことすらできなかった。彼らは知っているのである。

人間が地上最強の存在であり、それが故に不完全とはいえ覇権を手にしていると言うことを。

シグザール王国辺境、グランベル村。小さな村落であるが、ほかの村に引けをとらない、そんな最強の生物の集落であった。人間の世界は、それが集まって形作られている。

それは、人間の数に関係のない、この世の理であった。

 

1、最初の朝

 

どんな巨大な街でも、等しく朝はやってくる。グランベル村でも、そしてこのザールブルグでも。

今日は九月一日。秋の始まり。居候していたおばさんの家を離れて、一日たった今も、やはり朝はやってきた。

起きなければいけないのだが、それも煩わしい。布団の中に潜り込んで、眠りを貪っていたマリーは、高くなってくる気温の中、身じろぎした。ドアを叩く音がする。舌打ち。布団からのそのそとはい出す。

今日からマリーが暮らすことになったアトリエの二階。まだ分からないものが多いから気をつけなければ、足の小指をどこかにぶつけてしまうかもしれない。

凹凸がはっきりした豊満な体を簡易着に包み、階段を下りる。寝室にしている屋根裏と違い、一階は広い。部屋の中央には、人間を丸ごと煮ることもできるほどの巨大な鍋。それに火を入れるための地面に設置された竈と煙突。その側の床には、下に薪や石炭を入れるための金戸がついている。壁には多くの引き出しがついたタンスが寄り添い、窓のガラスはよく磨かれ、朝日を通している。麻のごわごわしたスリッパを履くと、目をこすりながら戸を開ける。

「おはよー、シア」

「おはよう、マリー」

髪も乱れ、着衣もきちんとしていないマリーに対して、玄関の外に立っている娘は、非常に整った着衣に身を包んでいた。シルクの生地に、細かい小物の配置が美しいロングスカート。長袖の上着には女の子がいかにも好みそうなひらひらがあちこちについている。木靴も多分獣皮を敷いた上物だ。ブラウンの髪は美しく整えられ、三つ編みにされてぶら下がっている。細い腕にはバスケットがかけられ、そこには焼きたてのパンが三つ入っていた。

大あくびをして壁にもたれかかるマリーに対して、シアは清楚なほほえみを見せる。上物の仕立てに対し、体の凹凸は貧弱だが、それが清楚さを不思議な形で後押ししていた。

「起きられていないんじゃないかって思ったのだけれど、正解だったわね。 来てよかったわ」

「そりゃあどうも。 そんなに熱心に監視に来なくてもいいのに」

「ううん、それもあるんだけれど、私個人としてもマリーが心配なの」

あーとかうーとかいいながら、マリーは髪をかき上げる。シアは帝王教育を受けながらも、こういう純な優しさを持つ子だ。こういう飾らない優しさは、やはり嬉しい。

故郷グランベル村をマリーが離れてから四年。ザールブルグの錬金術アカデミーを、昨日卒業し損ねた。そして不思議な再試験を与えられ、このアトリエに越してきた。

故郷を離れたとき十五歳だったマリーは今や十九歳。体つきはすっかり大人のものとなり、首筋からも腰の括れからも本人が歓迎しない色気が漂っている。それに対して表情はまるで子供のそれで、喜怒哀楽がきわめて激しい。大きな目や筋の通った鼻、綺麗な卵形の顎といい、顔の造作はそれなりに優れているのだが、表情とのギャップがきわめて大きく、そこに不思議な魅力を感じる男は少なくないらしい。というのも、マリー自身にはほとんど実感がない。極端に鈍感なのだ。シアはそれなりに恋愛には敏感なので、その辺り会話がかみ合わないことが多い。

シアを屋根裏の自室に招き入れて、昨日埃を丁寧に取った机を出す。向かい合って座り、パンをナイフで切り分けて、新鮮なバターを塗って食べる。昨日野菜屋で買い求めたキュウリに貴重な塩を慎重にかけながら食べる。あまり品質がよくない植物塩だから、若干苦いが仕方がない。海から運んできた海水塩や、各地で収穫した岩塩は、庶民の食卓にはなかなか上らない貴重品なのだ。マリーがドナースターク家から支給されていた生活費では、それを手にするのは難しい。

新しいパンの切り身にバターを塗りながら、マリーは問う。

「それで、やっぱりおじさん、怒ってる?」

「そうね。 ヘーゼルやファーマットに比べて成果が上がらないっていうのは事実だけれど、私が見たとこ、お父様はそれほど怒っていないわ。 むしろ、噂ではアカデミーの上層部の人たちの意見が割れているそうなの」

確かに前代未聞の試験である。複雑な人間関係がややこしいアカデミーでは、騒動の種になるだろう。マリーの半分ほどの量で満腹してしまうシアは、さっきと同じ清楚な笑みを浮かべながら、場に爆弾を放る。

「でも、それも限界があるわ。 流石にこの再試験に落ちたら、お父様も黙ってはいないでしょうね。 私も取りなしては見るけれど、どっちにしてもグランベルに戻って、その上二度と逆らえなくなるわよ。 お父様にしても、それなら損もないでしょうし」

「うっ…分かってるわよ」

「でも、マリーの能力だったら、何もこんな頭を使う「採取活動」なんて選ばなくても、ほかにいろいろ選択肢があったでしょうに。 村師の座だって、その気になれば狙えたんじゃないの?」

シアの言うことももっともだ。だがマリーにも思惑がある。そしてシアは、マリーのそういった思惑を、無言で察してくれる。最後のパンをマリーが胃袋に納めると、そのときにはすでに、シアは片付けを終えていた。相変わらず、顔役のお嬢とは思えない手際の良さだ。いい奥さんになるだろう。

「とにかく、がんばってね」

「分かってますって。 おじさんによろしくって伝えておいて」

シアが手を振って出て行くのを見送ると、もう一度伸びをして、マリーは思い出す。この四年間、アカデミーの日々、そして昨日師に命じられた再試験の事を。

 

人間が地上の覇者となったのには理由がある。道具を非常にうまく使いこなすこと、どんな存在よりも巧みな集団戦をこなすこと。そして最後に、魔術の存在である。自然界に存在する魔力と、人体が生み出す魔力をそれぞれ用いて、最初に魔術を作り出したのが誰かは分からない。分かっているのは、生み出されるやいなやそれは人類に爆発的に広まり、世界中でその支配権を拡大させたと言うことである。

それまでドラゴンや様々な魔物、魔界の住人である悪魔が多い地域では、人間はそれほどの強力な支配権を確立できなかった。しかし魔術と、それを用いた戦闘技術の発達により、今や地上のあらゆる大陸と島に、人類は最強の存在として足跡を残している。魔術は国単位どころか、場合によっては村単位で独自の発達を遂げ、現在では「一村一師範」とまで呼ばれている。

村々で魔術を含めた戦闘技術を教える人間を村師という。彼らは例外なく尊敬を受け、村単位でそれぞれの技を磨き、結果おびただしい技術の蓄積を生んできた。それら村師の技術は国家魔術師によってまとめ上げられ、錬磨に錬磨を重ねられ、人類の実力を高めあげていった。

そんな中、人類同士の争いや、経済圏レベルでの衝突が発生するようになっていく。それに伴うように国家は巨大化し、巨大軍事力が出現し、乱世が生じるようになっていった。

シグザール王国も、そうやって生まれ出た国の一つだ。人口五百七十万。大陸中央部の雄であり、ほぼ同じ規模を持つ軍事国家ドムハイトと人類勢力を二分する存在である。二十万の人間を抱える首都ザールブルグを中心に、人口一万以上の都市だけで二十三、四つの大港を領内に持ち、異大陸の国家とまで交易を行っている。

グランベルはその領内中央やや西に位置する村で、人口七十名ほど。森と山に挟まれた地点にあり、農耕と牧畜とで生計を立てている、平凡な村だ。

マリーはそのグランベルで産まれた。

平和な時代でも、経済的な争いの発生は避けられない。グランベルも、そんな争いの中、虎視眈々と発展を狙う村であった。

グランベルの顔役であるトール=ドナースタークは、巧みな戦闘指揮で近くを通りがかるドラゴンや、換金可能な素材を体に持つ魔物や妖精をとらえる技術に優れたものを持っており、それで村全体の潜在能力を高めるのに成功した傑物である。シグザールでは、貴族という地位は特定以上の納税を行い、貴族になる事を望む人間に与えられる。ドナースターク家は貴族に昇格、首都ザールブルグに進出すると同時に、さらなるグランベルの発展をもくろんだ。

そこで、マリーをはじめとする、何名かの有望な若者がグランベル村の資金援助を受けて、首都に送り込まれた。彼らの目的は技術採集。グランベルをさらに発展させる突破口となる、新技術の獲得であった。

そうしてマリーはこの国に出現した新技術である「錬金術」を学ぶべく、王立アカデミーへ入学したのである。

それが四年前の事。マリーは十五歳であった。

マリーがそのような大任を受けたのには理由がある。元々非常に優れた潜在魔力を持ち、身体能力にも優れていた。十三歳の時に、村の側に住んでいた体長四メートルのオオムカデを一人でしとめたこともあるほどの力量で、特に遠距離射撃魔法戦の腕前は村師をうならせるほどであった。グランベルでは、錬金術は魔術の発展変化系だと考えられていたため、当然の人選であったのだ。

だがその人選は、残念ながら完全に失敗だったのである。錬金術の学習には、潜在的な魔力よりも、むしろ緻密な頭脳と器用な手先が必要だったのだ。

魔力の高さを見込まれて、マリーはアカデミーに入学することができた。しかしそこで待っていたのは、難解きわまる理論用語の数々と、針の穴を連続で通していくような微細なテクニック、そして複雑な人間関係に起因する混乱怪奇な授業体系だったのである。錬金術は、魔術に似てはいたが、根本的に違うものだったのだ。

元々強力な魔力を持っていた反面、ぶきっちょで、なおかつろくに文字も読めないようなマリーにとって、それは最悪の環境だった。今まで自分のパワーを制御することはやってきたし、知識もあったが、それは外にある知識や魔力をどうこうする事とは、決定的に違っていた。それに字が書けないし、用語を理解するのも大変だった。更に悪いことに、マリーは感覚的に魔力を扱うのは天才的でも、細かい体系立てた理論構築が苦手だったのである。

数ヶ月間、全く知らない世界で唖然としていたマリーだが、それでも何とか努力を始めた。「魔術」が得意でも、戦闘能力が高くても、ここでは何の役にも立たなかった。

元々プライドが高い方ではなかったが、それでも立ち直るには時間がかかった。立ち直ってからは、文字を読めるように必死に勉強し、ほかの人間よりも何十歩も遅れて一つずつ錬金術の基本を学習していった。粗雑な性格でそれをやるのはきわめて大変で、授業は苦痛以外のなにものでもなかった。授業中昼寝している事の多いマリーは、「昼寝姫」などと陰口をたたかれて、アカデミー中で笑い話の種にされていた。それでも、マリーは根気よく食らいついていった。

無駄な努力だと誰にも嘲られた。派手な容姿(本人には自覚がないが)がマリーを目立たせ、更に悪口を加速した。元々学習速度が遅い上に、基礎がほかの人間、特に貴族の子弟達に比べて決定的に劣っていたからだ。だが、それでもマリーは食らいついていった。

最終学年になって、ようやく初期学年程度の実力しか持っていなかったマリーは、いよいよ師であるイングリドの直接授業を受けるようになったが、それは地獄を意味していた。イングリドは世界でも指折りの錬金術師であったが、その授業を受けるのには、マリーはあまりにも未熟だったのである。必死に勉強はしたが、それでもどうにか文字を完全に理解し、錬金術の基礎理論を把握するのが精一杯だった。

そしてマリーは、卒業試験において、歴代最低最悪の結果を残した。当然のことであったし、マリーは仕方がないとあきらめた。イングリドの叱責だけは死ぬほど怖かったが、それもしょうがないのだと言い聞かせた。周囲の侮蔑と嘲りの視線が痛かった。人間という生き物が、基本的に自分より下の存在を設定して、それを嘲笑して精神的な衛生を保つことは知っていたが、それでもつらかった。

試験結果を見て肩を落としているマリーに、イングリドからの呼び出しがかかったのは、その日の午後であった。現在アカデミー内部では三つの派閥が存在している。イングリドはその一つのボスであり、実質上の権力は校長であるドルニエよりも大きい。全てが役割分担で成り立っている村の中で生きてきたマリーは、そういった権力階層や、力関係をよく知っている。それ以上に、マリーはイングリドが怖くて仕方がなかった。逆らっても勝てる気がしないからだ。

イングリドの部屋は、アカデミーの最上層にある。設備が素人同然のマリーでも分かるほど整っていて、その中の一ピースと言っていいほど、イングリドの存在感はしっくりくる。この先生は、文字通り錬金術の申し子なのだ。

マリーが部屋にはいると、色が違う両の瞳で、イングリドはにらみ付けてきた。鋭く尖った美貌の持ち主であり、このアカデミーの設立に十代の頃から関わって来たというこの人は、完璧に整えられた数式のような雰囲気を持っている。腕組みをした彼女は座るようにマリーに促すと、ゆっくり部屋を右手から左手に横切りながら、言った。

「マルローネ」

「は、はいっ!」

実戦経験者であり、戦闘に関してはその辺の男に全く引けをとらないマリーだが、この声を聞くとすくみ上がってしまう。勝てないと、体のどこかで分かっているのだ。

「あなたの成績は、アカデミー史上最低最悪です」

「はい、すみません…」

肩が落ちる。支援してくれたトールさんに申し訳がない。最近は学習効率も上がってきていたのだが、そんな事はいいわけにならない。こういう世界は、結果が全てなのだ。グランベルは今のところ豊かな村だが、その余裕の部分のいくらかを、マリーが食いつぶしてしまったのである。お金の価値を、ドラゴンや強力な魔物と戦うことで知ってきたマリーは、ただそれが悲しかった。故郷で父母がひもじい思いをしているのではないかと、つい考えてしまう。

「一日や二日勉強したところで、結果を覆すことは不可能。 貴方も、自身の実力はよく分かっているはずです」

「はい、その通りです」

「しかし、貴方自身は四年間よくやっていたと私は見ています。 文字を覚えるところから初めて、ほとんど独学で一年分程度の学習をこなして来た。 校長先生をはじめとして、私もひょっとしたら貴方はやり方次第では伸びるのではないかと考えています」

「へっ? そ、そう…なんですか?」

意外な言葉に顔を上げると、相変わらず怖い顔でイングリドはこちらをにらんでいた。また首をすくめて縮こまるマリーに、今度は部屋の左手から右手に横切りながら、イングリドは言う。

「五年の時を貴方に与えましょう。 今は使っていないアカデミーの設備が一つ、ザールブルグにあります。 ある程度の道具もそろっています。 そこに住み込んで、私が納得できるものを作ってきなさい」

落第生に五年?しかもわざわざ設備を貸し与える?

どういうことだ。マリーは意味が理解できず、小首をひねった。だが思考を進めるチャンスを、イングリドはくれなかった。

「私は貴方に期待しています。 しかし五年もかかって、くだらないものしか作れなかった時は…」

ごう、と風の音がした気がした。全身がすくみ上がるのを感じる。周囲の光度が落ちた気がした。身動きできない。前に立っているイングリドの目が、猛禽のように光っていた。魔力を見ることができるマリーには分かった。イングリドの全身から、想像を絶する密度の魔力が迸っている事が。

部屋そのものが振動していた。無生物である錬金術の実験器具達が、怯えているかのように震えていた。圧倒的な恐怖が、部屋に充満していた。イングリドは、生ける破壊神だった。

「分かって、いる、わね?」

「ひ、ひいいいいいいいいっ! 分かってます分かってます分かってます!」

「返事は一度で結構。 では、マルローネ。 五年後を、期待しています」

口元だけで笑って、イングリド先生は言った。下宿先の家に無事に帰されたマリーは、アカデミーが契約している引っ越し業者の馬車が来たのを見て、自身に選択権が無いことを悟ったのだった。

 

外出着に着替え、一階のアトリエに降りてきたマリーは、昨日整理した教科書類を調合机に並べた。四年間で使った教科書の、最初の一冊だけは何とか理解できるレベルにまで、現在は到達している。ゼロよりはマシ。というか、これが今のマリーの全てである。問題は、これからどうするか、という点だ。

腰まで届く綺麗な髪を弄りながらゆっくり状況をまとめていく。昨日のうちに、使える支援金は全て集めてある。更にこのアトリエにおいてあった古い設備の、半分以上はまだまだ使えそうである。一応、このままでもしばらくは生きていくことができる。

すでにドナースターク家には、これ以上の資金提供不要との連絡を入れてある。これは意地もあるが、家庭の問題もある。卒業試験で落第点をとった上に、これ以上の資金提供を受けているなどと言う話がグランベルに届いたら、両親は村八分にあいかねない。マリーの学習資金は、ドナースターク家が管理さえしているが、基本は村の皆が出してくれたお金なのだ。だから、これ以上はもらえない。お金は自前でどうにかする。そして成功した暁には、何倍にもして返すのだ。

方法としては、錬金術の生成物を換金するというものがある。この国に錬金術が伝わってまだ二十年程度。錬金術は珍しい存在であり、好事家だけではなく、場合によっては一般の人間にも販売しうる。更に言えば、そうやってスキルを磨いていけば、錬金術の腕前そのものもあがるはずだ。

実際、それ以外に方法はない。後は販売ルートだが、これは何でも屋である酒場に持ち込むしかないだろう。

戦闘能力を持つ根無し草、通称冒険者が重宝されるのが、現代の特徴である。ある時は傭兵として、ある時は邪魔な魔物を掃除するために、彼らは金で動く。一村一師の時代、様々な能力者がいるのが普通であり、その能力者達を必要とする人間に紹介するシステムが必要になってくる。それが、酒場だ。酒場には人が集まり、アルコールが入るためオープンな駆け引きもしやすい。それが長じて、今では半分以上の酒場では、何でも屋や仲介業の仕事をしている。

そこへ、変わった道具や、珍しいものをほしがっている人間がいないか持ち込んでみる。場合によっては荒事を引き受けるのもアリだ。マリーは実戦経験が豊富で、斬った張ったのやりとりなら、その辺の冒険者には負けない。小遣い稼ぎに、盗賊や魔物程度なら、退治してみせる。ただ、今は長い学生生活で身体能力がすっかり衰えてしまっているから、鍛え直す必要があるだろう。

最初は資金が目減りしていくのを指をくわえて見ているしかない。だが、じきに軌道に乗せてみせる。それにはまず、動くことだ。

後は、材料の仕入れ。錬金術は基本的に自然界の素材を材料とし、自然界にはあり得ない物質を作り上げていく技術。マリーは一番簡単な教科書を手に取り、ぱらぱらとめくる。それには書いてある。自然界の物質を属性ごとに分類し、それらを混ぜ合わせ、元とは違うものを作っていく課程を。共通しているのは、材料が豊富に必要だと言うこと。だが、それだけなら、マリーに不安はない。

「よしっ!」

気合いのかけ声とともに立ち上がったマリーは、アトリエを飛び出した。長い黄金の髪を揺らして、大通りを一気に走り抜ける。そして城壁へ。三重の城壁と堀に守られた巨大都市の、内側の城壁の一部は市民に開放されている。少し狭い石階段を走りあがり、人間の十倍以上もある高さを上り抜く。そして、弓兵が身を隠しながら敵を撃てるように、侵入してきた敵と踏ん張って戦えるように、適度な広さが確保された城壁の上に立つ。

優しいと形容するには少し強めの風が、髪を跳ね上げる。大きく伸びをしたマリーは、周囲に広がる光景に目を細めた。

東にあるのは、青々とした巨大な耕地。いくつかの砦に守られたそこには、五万の農民が暮らし、ザールブルグの食料を生産する。もう少ししたら、秋が深まったら、耕地が見渡す限り黄金に染まる事になる。小遣い稼ぎにマリーも収穫に参加したことがある。うねうねと地平の果てまで続く耕地の間には、用水路が網の目のように走っている。所々見える茶色の地面は、休耕中の畑だ。

南には、大河ストルデル。船がないととても渡りきることはできない巨大なそこには、魔物はもちろんのこと、豊富な漁業資源がある。源流は当然上流の川であるから、探しどころによっては砥石になるフェストや、鉱物資源を収穫する事すらできる、まさに宝の川だ。もう少しすると、おいしい鮭が捕れる。鮭料理は、ザールブルグの名物である。

北には険しいヴィラント山が、峰を天に向け聳え立たせている。巨大な赤竜フラン・プファイルが生息する場所であり、奴を狙う冒険者は少なくない。もし奴を討つことができれば、村師になるには十分な実績が得られるからだ。そうすれば後は安定した人生を送ることができる。ただ、用心深いフラン・プファイルは相手が手強いとみるや絶対に姿を見せない。その辺り、若くて頭の悪い竜よりも遙かに手強い相手だ。そしてこの山、良質な鉱石が算出することでも知られており、王室では竜を退治して山の大掃除を行うことを検討しているという。だが、騎士団が討伐に出かけると竜は逃げてしまうので、そこをどうするのかが課題になっているらしい。

西には原生林が広がっている。広大な森は未開発の膨大な緑を秘め、様々な資源を内包した土地だ。元々、まだまだ世界のほとんどは森に覆われている。その中でも、ただ「近くの森」と呼称されるそこには、食用になる様々な動植物をはじめとして、錬金術師なら垂涎の資源が山積しているのだ。北東には、更に深い森もある。

このザールブルグは、宝の山の中にある街だ。マリーにしてみれば、どこへ行っても錬金術のヒントを得ることができるはずであった。

大きく息を吸い込むと、風が運んできたいろいろな香りがする。土の香り、川の香り、森の香り、草の香り、花の香り、そして荒々しい岩山の香りも少しだけ。

いい方向へ考えようと、マリーは思った。今までは学業で忙しくて、最低限の身体能力を維持するので精一杯だった。これからは全て自分の思うとおりにできる。元々、マリーはそうなりたいと思って、ザールブルグ行きを志願した。

小さな村では、それが基本則。誰もが認める功績を挙げて、初めて発言権と自由な行動が許されるのだ。マリーはずっと昔から欲しかった。全て自由に裁量できる権限を。そして今、限定的ながらも、それがかなっているのだ。後はそれを永続的なものにするだけ。

これから五年、厳しい日々が来る。だがそれは、ずっと願っていたものの、第一歩でもあった。

 

2、アカデミー

 

エル・バドール大陸より、およそ二十年ほど前、シグザール王国へ渡ってきた人間達がいる。それこそが錬金術師である。ドルニエという故郷でも高名な錬金術師に率いられた者達は、数年がかりで錬金術の可能性をシグザール王国に見せ、やがて国から巨大な補助金を引き出し学舎を建設する事に成功した。その学舎こそが、アカデミーである。正式名はリリー・錬金術アカデミー。エル・バドール大陸でも通用するほどの、近代的設備と有能な人材輩出歴を誇る、歴史は浅いながらも新鋭の名がふさわしい場所だ。

現在、このアカデミーには、設立関係者四人の内、半数が残っている。それがイングリドとドルニエである。そして案外知られていない事なのだが、アカデミー設立における最大功労者は、ドルニエではない。ドルニエは錬金術研究者としては超一流といっていい存在だが、経営者としては三流以下で、あきれた話だがこの国に渡ってからも政治的な駆け引きや経営的な判断は一切他人に任せきりであった。今このアカデミーがあるのは、名前にもあるリリーという女性の苦闘と、その弟子であるイングリドとヘルミーナの努力があったからなのだ。しかもアカデミーを建てた後、リリーは一人異国へ旅立ってしまった。自分の可能性を探したいのだとリリーは言っていたが、全ての経営努力を押しつけられた気苦労が理由の一つにあったのではないかと、今ではイングリドは疑っている。

だからイングリドこそ、十代半ばから大人達に混じって経営を行い、必死に政治的駆け引きを行い、ここまでアカデミーを育て上げた功労者なのである。生まれが違えば一国の王にでも軍師にでもなっていたかもしれない、筋金入りの傑物なのだ。しかし若い頃の苦労が祟り、三十になったばかりなのに、五歳は老けて見えるのが本人の悩みの種であった。

今日もイングリドは研究をそこそこに切り上げて、アカデミーの上層部の人間に、今回のマリーの試験について説明しなければならなかった。自分の傀儡であるドルニエはすでに納得させているし、そのまま案件をねじ込むことも可能だが、有能な錬金術師がそろっているヘルミーナ派の連中がそれでは納得しない。彼らの中にはシグザール王室のスパイもいるし、円滑な経営を進めるには、時間を割いて会議を行う必要があった。煩わしいと思いながらも、研究室の学生に後片付けを命じて、会議室に向かう。

うねうねと曲がる階段を上る。何度も増築が行われたアカデミーは複雑怪奇な構造になっているが、基本的にはわかりやすい。偉い人間の研究室ほど上にあり、最上階には会議室がある。最下層には職員室と一般生徒用の教室が、その上の階にはマイスターランクと呼ばれるエリート学生達の部屋がある。全部で六階建ての、小さな城のようなこの錬金術の学舎を作るのに、イングリドはずいぶん苦労した。

会議室に入ると、二十数名の錬金術師達が待っていた。いずれもこのアカデミーの教師であり、三割ほどはイングリドの教え子だ。年齢は様々。学舎といっても、ここに入る人間には様々な種類がある。純粋に栄達や可能性を求めて来る若者や、将来のポストを求める貴族の子弟が中心だが、新しい技術に興味を示すベテランの魔術師もいる。だからこの会議室も、教室も、老若男女入り乱れているのである。

「遅くなりました」

「いやいや、時間通りだよ。 さて、無駄話をするのももったいない。 早速始めてくれるかね」

好々爺としたドルニエが、しわだらけの顔を笑みに崩して言う。「時間がもったいない」という発言の裏に、自分の研究時間を削ぎたくないという意志がちらついている。悪い人間なのでも、自己中心的なのでもない。単に錬金術の事しか考えていない人なのだ。研究者としては、世界最高の人材の一人。イングリドも尊敬している。ただし、一人の人間としては、全く尊敬できない。幼い頃に焼き付けられた不信感は、まだ健在だ。ただし、自分も同じ穴の狢であることは自覚できているので、責める事もできない。

「では、史上最低の成績を記録したマルローネの特別試験について、説明を開始します」

「うむ」

資料を配る。全員の視線が集まる中、イングリドは解説を始めた。

 

そもそも、錬金術とは何か。イングリドはそこから解説を始める。眉をひそめたり、小首をかしげる錬金術師達もいるが、培って来た政治的手腕の中には、巧みな話術もある。すぐに皆、イングリドの説明に引き込まれていく。

その起源ははっきりしていない。エル・バドール大陸においても、実は分かっていないのである。エル・バドールに錬金術を広めたのは、「旅の人」という謎の存在であり、その性別すらが分かっていないのが現状だからだ。

錬金術そのものは、読んで字のごとく、金では無い物質から、金を作り出す技術の事を指す。正確にはそれによって派生した全ての技術を指す。そのため、今では火薬生成をはじめとする戦闘向けの技術から、研究室にこもって生命の神秘を探求するものまで幅広く分かれており、大家であるイングリドにさえ、何が錬金術かと答えるのは難しい。

ただ、存在そのものが有利なのが錬金術の特徴だ。人間の最大行動原理は欲望であり、ストレートに財産を作り出すその特性は、多くのスポンサーを作り出すのに十分であった。そうして、イングリドが産まれた頃には、エル・バドールにおいて錬金術は成熟の極みに達し、異国への進出の機運が産まれていた。

神童と言われていた天才イングリドは、同じように天才と呼ばれたヘルミーナという同年代の少女、錬金術師としては平均的な能力だが経営の才能を持つ姉がわりのリリー、エル・バドールでも三本の指に入る錬金術の知識と技量を持つドルニエらと、シグザールに渡ってきた訳である。

長年アカデミーの運営を続けてきた。しかし、今忘れられている事が、イングリドにはあるような気がする。

世界をいくつかの属性に分類分けし、それを様々な手法で組み合わせることにより、いろいろな何かを作り出していく。それが錬金術の基本だ。最大の基本にて絶対の法則。それが作り出す、という事。

「錬金術によって、様々な事が解明されてきています。 今まで漠然と現象としてだけ解明されてきた事に、理由を段階立てて説明できるようになってきたのです。 錬金術は、今後更に人類を強くしていくでしょう。 事実…」

わざとイングリドは言葉を切る。そうやって、更に自分の話術へ周囲を引き込んでいく。

「我らが故郷エル・バドールでは、誰にでも扱える能力としての錬金術が、人類の完全覇権を確立しています。 魔術はそれぞれが完全に自己流で、同じ能力の使い手はほとんどいません。 それに対して錬金術は、誰にも同じものとして扱うことができる。 それが、錬金術としての強みです」

「し、しかしだね、イングリド君」

「何でしょうか、ファゼル先生」

ファゼルと呼ばれたのは、長い白ひげが特徴的な、青い胴衣を纏った、でっぷり太った老錬金術師だ。ちなみにヘルミーナの弟子であり、錬金術歴は四年ほど。当然ヘルミーナ派で、実力はなかなかだ。ただ彼は錬金術師としてよりも、魔術師としての名声が名高く、更に半ば公然としたシグザール王国のスパイである。

「それがどうあの落第生の再試験、しかも五年もの時を費やす試験とつながるのかね」

「それはわしも疑問だ。 そのような落第生を強く育てるよりも、あのクライス君のような新鋭をより綿密に育て上げた方がよいのではないのかな?」

同調の声が上がる。ヘルミーナ派の人間だけではなく、無所属層の人間までそれに同意している。ただ、本格的な反対の意思を示しているわけではなく、イングリドの意志を計ろうとしての行動である。そうイングリドは判断した。

「いい質問です。 では、なぜ我々がこの大陸へ来たのか、もう一度説明しなくてはなりませんね」

「新しい技術の伝播のためだと聞いているが…」

「それは理由の一つに過ぎません。 主となる理由は別にあります」

イングリドの言葉は、確実に皆の心へと潜り込んでいく。十代半ばから、大人相手に交渉事を成立させてきた経営のプロフェッショナルには、この程度はたやすい。

「本当の理由、それは、人間の支配がまだ完全覇権のレベルに至っていないこの大陸に錬金術を持ち込むことにより、その潜在能力のさらなる開花を求めてのことなのです。 我々は期待しています。 この国のたくましい生命力に。 我々エル・バドール人が失ってしまった、他生物への強烈な競争支配意識に裏付けされた、若い力に」

「そ、それがあの落第生に無茶な試験を受けさせる理由だというのか」

「その通り。 そしてあの子の潜在的な能力の高さに関しては、これがよい証拠となるでしょう」

終始場をリードしながら、イングリドは余裕を崩さない。派閥のボスである上、同格の錬金術師であるヘルミーナが不在の今、状況をリードするのは簡単だ。だが油断すると、とんでもないミスを犯しかねない。ここにいるのは海千山千の、煮ても焼いても食えない奴らばかりなのだ。だから、最後まで気を抜かず、台本通りに進める。こういう場合、無派閥層のボスであるドルニエは置物に等しいので、気にしなくていい。

丈の長い錬金術の胴衣の裾から取り出したのは、「生きている縄」と呼ばれる錬金術の生成物であった。名前の通り、擬似的な生命を吹き込んだ縄であり、持ち主の意志に従って動く。犯罪者の確保や、荷物をまとめるのにきわめて便利な道具である。ただし、寿命が短いのが欠点である。この手の疑似生命の創造は錬金術のきわめて偉大な成果の一つであり、上級のものになると人間の形に似たものも作り出せるようになっている。ただし、知能や寿命の点で、現物の再現はまだまだ難しい。

「この生きている縄は皆さんもご存じの品物ですが、縄の部分の製造だけは私が担当し、魔力を注ぎ込む課程だけはあの子が担当しています。 結果、作ってから一年以上経っている今でも、十分に使用に耐えるものが仕上がっています」

机の上に置かれた縄は、自ら動き出し、鎌首をもたげ、一礼した。どよめきの声が上がる。普通、生きている縄の寿命はせいぜい二ヶ月とされる。それが一年以上も保つとは。マリーという少女は、非常に不器用で飲み込みが悪いと言われているが、それを克服し、知識を得たらどうなるのか。それを即座にこの場の全員に想像させる。

「全ては錬金術の発展のためです。 そもそもあの子は、アカデミーに入ってから、文字を覚えることから始めたような子です。 貴族の子弟達や、最初から読み書きのできる大人の魔術師達とは、スタートラインが違ったのです。 それがほぼ独学で、世間一般でもっとも難解とされる学問である錬金術の、一年分前後の学習を終えている。 つまり、この後数年間を費やせば、怪物のような人材に化ける可能性がある」

「う、ううむ、なるほど…」

「確かに大器晩成型の人材の条件を揃えているようですな。 しかし、もし失敗した場合は、どうするのです? 金銭的にはたいした損害は無いでしょうが」

辛辣な意見を出したのは、イングリド派の一人で、最年長のベルケイルという男である。年齢的にはイングリドの親ほどになるのだが、髭も髪もまだ黒く、目にはぎらついた欲望が健在だ。イングリド派のナンバーツーを目されている男であり、将来的にはアカデミー校長の座を狙っている節がある。鷲鼻が目立つ風貌であり、そこから「荒鷲」とあだ名をつけられている。

ちなみに、この意見も台本通りである。場のイングリド派の人間には、全て事前打ち合わせが済んでいるのだ。野心的な男だが、イングリドに従うことが上策だと考えている間は、誰よりも信頼できる。そう考えるように誘導するだけでよいので、ある意味楽だ。

「もし失敗した場合には、マルローネのスポンサーとなっているドナースターク家から、グランベル村近辺の錬金術素材の割引買い付けの取引がすでに済んでいます。 あの周囲は良質な蛍石の算出地帯で、シルクもわずかながらとれる場所です」

「ふむ…そうなると、実験が仮に失敗したとしても、被害は最小限に済み、成功した場合は多大な研究成果が得られるという訳か。 さすがはイングリド先生。 いつも通り抜け目のない計画ですな」

軽い笑いが起こった。とりあえず、皆を納得させる事がこれでできたようだ。

世の中は、物質化した力である、金銭によって動く。社会が複雑化すればするほどその比率は強くなる。錬金術がもてはやされるのも、それが莫大な金を生むからであり、真理を探究するからではない。金銭は力の流れである。毛嫌いするのも、信仰するのも間違っている。正しい使用法通り、ただ利用すればいい。

マリーの実験が成功した後、錬金術アカデミーは識字能力の低い人間を一から育成するシステムの着手に入り、それが最終的に錬金術の世界を更に活性化させる事になるだろう。それがイングリドの出した計算の結果である。それが生み出す富は言うまでもなく膨大であり、それがこの場にいる人間達を納得させた。裏にいるシグザール王国には、もう少し話を詰める必要があるが、それもいつもやっていることだ。最重要課題でもないし、それほど作業に骨が折れることはないだろう。

以上を説明し終えると、場の雰囲気は完全に沈静化した。どうやら貴重な時間を割いて、わざわざ会議を行った意味はあった。後はいくつかの資料を配って、それを説明するだけで事足りた。成功に達成感はない。十代の半ばから、苦労を重ねてきたイングリドにとって、これくらいは朝飯前の仕事であった。

 

会議を終えて研究室に戻ってくると、現在もっとも優秀な学生の一人といわれる、クライス=キュールが待っていた。

クライスは銀髪の青年で、いつも度が強いめがねをかけている。体格は若干貧弱で、幼い頃はよく病気をしたのだという。豪商の息子でなければ、今の年まで生きてこられたかは微妙だと、時々本人が語っている。学生に成り立てだった頃は頬が無惨に痩けていたのだが、今はすっかり表向きは健康そうに見えるようになった。天才と言っていい素質の持ち主で、成績は文句なしにトップである。

彼は天才らしく難儀な性格の持ち主だ。非常に二面性の強い人間であり、好意を感じた相手に素直になれない不便な性格をしている。その上一般人への人当たりはきわめて悪く、口を開けば出てくるのは嫌みと皮肉ばかり。そのため、周囲の評判はきわめて悪い。それが「もっとも優秀な学生の一人」という評を作り出してしまっている。姉のアウラ=キュールも有能な錬金術師なのだが、こちらは弟と違ってきわめて周囲の人間的評判が高い。

彼にしてもそうなのだが、アカデミーに入学する人間のほとんどは富裕層だ。基礎的な識字を最初から身につけており、それがマリーとの巨大な差となった。マリーのようなタイプは最初にはじかれてしまうか、途中で必ず脱落してきた。それなのにあの子は最後まで残った。イングリドが実験を思い立ったのは、その辺りに、マリーの持つ根源的な生命力を感じ取ったからだ。

「イングリド先生、お呼びでしたか?」

「クライス=キュール。 そこにおかけなさい」

「はい」

用意しておいた椅子に腰掛けるクライスは、イングリドには非常に素直だ。尊敬の念を向けているからだと、イングリドは分析している。というよりも、絶対に勝てないのだと思わせているところも大きいだろう。自分の潜在的な力が大きいというのは、こういうときに便利だとイングリドは思う。かなりの素質を持つマリーでさえ、イングリドには及ばない。悪いが、年期が違う。

何もしてくれなかったドルニエ校長に代わり、リリー先生は何でも一人でやった。自身の錬金術の勉強に始まり、神童とはいえ所詮思春期の子供に過ぎなかった二人の親代わりと教育。錬金術の材料の確保のため、未開の地にまで足を運んだ。もちろん強力な魔物とも交戦した。そしてシグザール王国と交渉して支援金を引っ張り出し、土地を確保し、アカデミーを建てて見せた。

そのリリー先生を助けようと、仲が悪い根本的に性格が違うヘルミーナとさえ協力して、イングリドは必死にがんばった。年が二桁になったばかりの頃から、貴重な錬金術の素材を求めて強力な魔物と交戦した。死ぬような目にも何度もあった。遭難しかけて、泥水と雑草で生き延びた事だってあったのだ。

マリーは村の助けがあっただろう。クライスは書物に囲まれていただろう。

だが、イングリドとヘルミーナには、ぼろぼろになりながら頑張るリリー先生しかいなかったのだ。

だから、強くなった。何もかも一人でやらなければならず、支えてくれる大人も恋人も友達もおらず、作る暇さえなく、結果疲れ果てすり切れていくリリー先生を見て、二人で誓った。絶対に強くなろうと。そして、なったのだ。先生が壊れる前に、どうにか間に合ったのである。アカデミー創設の末期には、リリー先生は余裕が出始めて、恋愛ごっこや友情ごっこにうつつを抜かせるようにもなってきていたが、それが自分のことのように嬉しかった。ヘルミーナも涙を流して影で喜んでいた。

今でもヘルミーナは嫌いだが、この誓い、「リリー先生のためにも強くなろう」という言葉だけは彼女も終生破らないだろうという確信がある。自分とは違う方向であるのが少し気に入らないが。

「貴方には、これからアカデミー外での、重要な任務を命じます」

「はあ、外での仕事、ですか?」

優秀なマイスターランククラスの学生になってくると、卒業の前から各地で仕事が引っ張りだこなどというケースもある。クライスの姉のアウラなどがその典型例であった。一方人徳が壊滅しているクライスに、その手の話は来たためしがない。

「マルローネは知っていますね?」

「はい。 あの学校始まって以来の問題児ですよね」

クライスの表情がわずかにゆるむ。わかりやすい奴だ。有名人だし、見る機会は今まであったのだろう。確かに全く自分とタイプが異なる相手には、興味がそそられるものだ。様々な、形で。

「貴方には、あの子の監視を命じます」

「監視といいますと、噂の試験から逃げないように、ですか?」

まだ青い。天才だが、経験の差は大きい。

「そうではありません。 今回の実験の目的は、強大な生命力に裏打ちされた天才の覚醒と、それによる錬金術のパラダイムシフトの可能性を確認する事です。 それには余計なちょっかいが入るとまずい。 意味は、分かりますね?」

「つまり、マルローネさんの監視ではなく、マルローネさんに何か余計なことをしようとする人間を監視する事ですか?」

「そうです。 そしてマルローネがそれを返り討ちにする展開も、こちらとしては避けたい。 監視役としての貴方の技量は期待していません。 わかりやすい案山子としての価値を、期待しています」

案山子は、自らは一切働かない。ただ存在そのものが邪魔な相手を威嚇する。イングリドの秘蔵っ子であるクライスは、その役に適任だ。豪華な案山子だが、イングリドの見たところ、マルローネはそれくらいの価値はある素材だ。クライスはしばし腕組みしていたが、やがて頷く。まだ若いが、賢い子だ。気づいたのだろう。自分よりも、マルローネが長期的に評価されていることを。そして、マルローネに、今までとは別の感情を新たに抱き始めたことを。

「分かりました、受けましょう」

「代わりに、何か要求するものは?」

「そうですね。 それでは少し早いですが…アロママテリアについての講義を所望します」

イングリドは唇の片端をつり上げて、いいでしょうと答えた。錬金術の最高目標である、賢者の石の生成。それに一番近い段階であるアロママテリア。天才の要求物は知識であった。

イングリドがこの青年を案山子に選んだ理由がある。ドルニエと同類であるということだ。それに、この青年はマルローネに気がある。イングリドが組んだパズルのピースは複雑で、それぞれが密接に絡み合っている。

舞台は整った。後は五年間事態を動かし、結果を見るだけ。

錬金術の高みを見ることができるのなら、五年など、若さなど、どうでもいいものだ。本質的に錬金術師であるイングリドは、今後もたらされる結果と、それによって生じる錬金術のパラダイムシフトに、巨大な期待を寄せていた。

 

3、初仕事へ

 

悩んでいても仕方がない。まずは行動だ。

マリーは城壁から降りてくると、頭の中で反芻しながら、小走りで行く。大通りの側では下水道がさらさらと音を立てて流れている。ストルデルから引いた下水道のおかげで、このザールブルグには汚物処理用の豚がいない。最初見たときは、本当に驚いたものだ。小規模な城塞都市でさえ、豚の臭いとは切っても切ることができない関係が結ばれているというのに。

アトリエに帰る途中には、ザールブルグ城の尖塔がずっと見える。昨日確認したときには、徐々に尖塔が近づいてきて、半分くらい見えたところでアトリエに着く。それはなんだかすてきな光景で、マリーは一目で気に入ったのである。

だが、今日はまっすぐ帰らず道を途中で変える。用事があるからだ。目指す先は「飛翔亭」。この辺りでは一番大きい、何でも屋としての仕事を期待できる酒場である。ダーティなものからライトなものまで、幅広い仕事の取りそろえが魅力だ。小走りで大通りを走っていたマリーは、途中で裏路地に入り込む。家々の間を縫って、石階段がうねうねと曲がりくねり、来訪者を奥へ奥へと誘う。そこを半分くらい上ったところで、更に右へ曲がる。そうすると、飛翔亭が姿を見せる。途中冒険者らしい柄の悪い人間と、何回かすれ違った。

何でも屋という性質上、酒場は昼からでもやっている。飛翔亭くらいの規模になると、何人かで交代しながら業務を遂行するのが常であり、当然仕事の質が変わる。影の長さを見たマリーは、目当ての人物が今の時間はマスターをやっていると確信し、引き戸を開けて店に入った。

「ちわーっす」

「おう。 よく来たな」

歓迎しているとはとても思えない低い声で言ったのは、カウンターの向こうでグラスを磨く、中年の男であった。がっしりした体には微塵の隙もなく、眼光はえぐるように鋭い。口元に整えられた髭には優しさよりも厳しさがにじみ出ており、白いものが混じり始めた頭髪もよく整えられている。そして頬には目立つ巨大な向かい傷。

ディオ=シェンク。この飛翔亭のマスターにして、名物男である。ドラゴンを一人で倒したという伝説の持ち主であり、足を運んだ国は三十を越すという、筋金入りの冒険者だった男だ。今ではすっかり引退し、酒場のマスターとして斡旋業に力を入れている。厳しい人物だが、世の中の酸いも甘いも知り尽くしており、深い人情に裏付けられたその行動に美学を見る者は少なくない。マリーもその一人だ。結構世話になっている人であり、トール氏とも友人なので、頭が上がらない。

カウンターにつくと、躊躇無くワインを注文。ワインといっても度数が少ない品種であり、これを頼むことが仕事斡旋の際の、チップ代わりとなっている。冒険者ではなくとも誰もが知る、この町では暗黙のルールだ。一方で、酒場としての機能もあるので、ほかの酒を頼みとぐろを巻いて飲んだくれる事も可能だ。ただし、暴れたら半殺しの目に遭うが。引退したとはいえ、ディオの実力は並の冒険者とでは比較にならない。現在でもだ。

「仕事の依頼か。 学生業はどうしたんだ?」

「いえいえー、それが大変なことになってまして」

てへへと、頭をかきながら舌を出してみせる。尊敬できる大人の一人であるディオは、その後のマリーの説明をきちんと最後まで聞いてくれて、なおかつ真剣に考えてくれた。相手の言うことをきちんと聞けることが、尊敬できる人間の条件だと、マリーは考えている。

「なるほど。 それで荒事か、何かしらの錬金術生成物をほしがる人間の斡旋か」

「はい。 あたしとしても、本腰入れて立ち向かいたいんです」

「分かった。 今は生憎手持ちがないが、仕事が入ったらお嬢ちゃんに回すように手配しておく」

「ありがとうございます」

深々と頭を下げる。今日は手を打つだけのつもりであったし、ワインを一気に飲み干すと、マリーは酒場を後にしようとした。しかし、腰を浮かせかけたところで、声がかかる。

「そうだ、お嬢ちゃん」

「はい?」

「実はな、錬金術系統の依頼ってのは厄介でな。 かなり抽象的なものを要求されることが多い。 創意工夫が必要になってくるわけだが、大丈夫か? お嬢ちゃん、ぶきっちょだろ」

「頑張ります。 で、というと、すでに前例があるんですか?」

「当然だ。 依頼が多くなって来始めたのは十年くらい前からだがな」

そういえば、この町には錬金術師が大勢いるはずで、その全てが定期的な収入を得ているわけでもないはずだ。そうして考えてみれば、確かに飛翔亭で錬金術がらみの仕事を受けていても不思議ではない。

「この業界、一度評判を落とすと取り戻すのが難しい。 客の要求を見極める判断力と、的確なものを作る技術力は何より大事になってくる。 無理な依頼は絶対に受けるなよ」

「分かりました。 忠告していただいて、ありがとうございます」

「ああ。 それと、今は焦らずスキルを磨け。 欲を出すのは力がついてきてからにするんだぞ」

親身な警告である。若い人間にはうっとうしいものなのかもしれないが、マリーには不快ではなかった。尊敬する人間の言葉は、どうしても頭の中に滑り込みやすい。何度も礼を言うと、マリーは酒場を出た。

 

階段を軽快に駆け下りると、次は大通りをアトリエ方向へ向かいながら、武器工房へ向かう。

今、マリーは最低限の護身用にしかならない、小振りのナイフと木製の杖しか持っていない。グランベルには愛用の強力な杖があったのだが、これは一種の質として、村に預けてある。身体能力が極限まで落ちており、腕がなまりきっている現状、このまま外に出るのは危険すぎる。人間が強いのは、武器を使いこなし、魔術を操り、集団戦を巧みにこなすからだ。単体としての人間ほどもろく弱い生物はいない。

だから、マリーは武具を見繕う。魔法媒体としての力がある杖が見つかればいいのだが、そううまくはいかないだろうから、最初はせめて杖術用に、頑丈なのがほしい。

この町には武器屋がいくつかある。王室御用達のは流石に一般人立ち入り禁止だが、庶民用や冒険者用に廉価な武具を売っている店ならある。ゲルハルトと呼ばれる男が店長をしているところで、アトリエからも近い。帰り際に寄ることができる。

店はすぐに見えてきた。鍛冶屋なので、大きな煙突がついている特徴的な店だ。昼頃にはだいたい鍛冶仕事をしているため、トンテカン、トンテカンと気持ちのいい金属音がしている。この音が、マリーは大好きだ。

ゲルハルトの鍛冶屋は、珍しい蝶番式の扉を採用している。これはかなりの技術がいるため、ゲルハルトの技術を実にわかりやすい形で見せていた。戸を引いて店にはいると、金属の臭いと、少しぬるい風がマリーを覆う。カウンターの向こうで頬杖をついているのが、目当ての人物だ。

「おっちゃん、おはよー!」

「おう、おはよう!」

威勢がいい声でマリーの来店を出迎えたのは、禿頭の大男であった。全身無駄なく鍛え抜かれた筋肉で覆われており、骨格のレベルで強そうだと分かる。彼がゲルハルトである。ディオと同じく元冒険者であり、グランベルの人間ともなじみの深い男だ。

わずかに口ひげはあるが、それと眉以外頭部に毛は一切無い。普段は陽気で気のいい男だが、それを非常に苦にしているらしく、様々な育毛剤のたぐいを試しているという。この男はアカデミー関係者にかなり品質がいい武具や錬金術の実験器具類を納入しており、その関係でもよく知られている。噂によると、アカデミーの創設者と、かなり恋仲に近かったという話もある。

ちなみにゲルハルトというのは偽名らしく、その偽名ですらもほとんど知られておらず、マリーの知る限り普通の人はただ「武器屋の親父」とだけ呼ぶことが多いようだ。

「こんな時間に来たって事は、例の試験がもう始まったのか?」

「はい、おかげさまで」

「あー、もう、健気なこった! 俺だったらしばらく落ち込んで、店閉じて、寝込んでたりするかもな! あんたは立派だ! 頑張れっ!」

「えへへへへー」

流石にアカデミー関係者。よくマリーのことを知っている。金属を打って鍛えられたその大きな堅い手が、マリーの頭を撫でた。別に嫌な気分はしない。

「で、相談なんですけれど」

「うん? 何だ?」

「実戦用に、頑丈な杖作ってもらえますか? 魔法媒体用の強力なのは、手持ちでは買えそうにありませんから、物理戦闘用の奴でかまわないんですけれど」

「おう、そうか。 ちょっと待ちな」

すぐに奥へ向かったゲルハルトは、十本以上の杖を抱えて持ってきた。明らかに場違いな高級品も混じっているが、どうせ練習用だ。安物の中には、そのまま売る気のものも混じっているかもしれない。

マリーの頭の辺りに手をかざして大きさを測っていたゲルハルトは、その中から更に三本を選び出した。どんなに格好がいい武器でも、自分に合わなければ宝の持ち腐れである。最初に持たされたのは、六角杖という角張った杖である。マリーの胸程まで長さがある。

「使ってみな」

試し切り用に、店の隅には案山子が置いてある。軽く振り回しながらその前に歩いていったマリーは、懐かしい実戦を思い出しながら、気合いとともに六角杖を一閃した。一撃必殺。案山子の首はあり得ない方向に折れ曲がり、ぐらりと揺れた。

感触は悪くない。威力も悪くはないが…。

長期戦には使えない。

「ちょっと…重いかな」

「そう、だな。 少し体を鍛え直せばあうんじゃねえかな」

「場合によっては前衛で戦わなければならないし、即戦力のがいいなあ」

「ん、そうか。 じゃあこっちはどうだ?」

そういって差し出されたのは、持ち手の部分だけが皮で包まれた、太さがずっと均等になっている杖であった。長さはさっきと同じくらいだが、手にしてみると、ぐっと軽い。数度振り回してみるが、リーチも悪くない感じだ。

案山子の前に立つ。軽い分、手数で稼がないと危ないだろう。踏み込みと同時に頭に叩き込み、振り返りざまに胴を一撃、更に回し蹴りを叩き込む。ついに首がちぎれて吹っ飛ぶ案山子だが、それを見た後も、マリーは若干不満であった。上げっぱなしだった足をおろしながら言う。やはり身体能力の衰えはすさまじい。もし荒事を想定するなら、本格的に鍛え直さないとまずい。

「今度は少し軽すぎるなあ」

「ならばキャップをかぶせて、それで調整するか。 リーチはどうだ?」

「ん、それは大丈夫です」

「よし、じゃあ重さはキャップと皮で弄るか。 それなら後で力がついてきてからも、カスタマイズが簡単で済むからな」

残りの杖を、ゲルハルトが片付けて、すぐにキャップをいくつか持ってくる。羊の頭をかたどったもの、竜の頭をかたどったもの、毒蛇の頭をかたどったもの。いずれも対戦相手に威圧感を与えるために、工夫された形だ。尖っているため、殴ると効果的に相手を傷つける事もできる。

ゲルハルトが仕事を始める。腰を下ろして、杖に竜のキャップをはめると、ハンマーで打ち込む。全体の重さを均等にするべく、皮を要所に巻き付けていく。恐ろしいほどの手際だ。完成まで四半刻とかからない。渡された杖は、重さもリーチもバランスも、今のマリーにぴったりだった。さすがはベテラン鍛冶師。いい仕事である。後は身体能力が戻るにつれて、重くしていけばいい。

「きっと気に入るぜ」

「えへー、ありがとー」

…要求された金額は流石に少し割高だったが、この杖の性能には代えられない。

後、寄るのは最後の一カ所である。武器屋を飛び出すと、マリーは買ったばかりの杖を大事に握りしめて、冒険者ギルドへ向かった。

 

冒険者とは、戦闘能力を持つ根無し草の事である。魔術や戦闘スキル、レンジャー技能などを持つことが多く、あちこちを旅しながら仕事をこなして食事にありつく。根っから旅が好きな人間もいるが、多くは年をとると稼いだ金で引退し、土地を買って農民になったり地主になったり、手堅い商売を始めたり、あるいは後方支援職に回って若手達を指導していくことになる。

その冒険者達が相互補助のために作った組織が、各地に点在しているギルドである。通称、冒険者ギルド。冒険者同士での情報交換、稼働可能人員の確認などを行う。酒場と一体化している場合もあるが、この町では、酒場とギルドはそれぞれ仕事面で別々に共存しあっている形だ。経済規模が大きいのでできることである。なお、ギルドは冒険者から一定の金銭を徴収し、それで経営をおこなっている。

当然のことながら、冒険者は労働災害に遭う確率が極めて高い。更に魔物よりも人間が危険な地域もある。人間による完全覇権が確立している地域では、旅人目当ての追いはぎを専門にしている村や、村ぐるみで山賊をしているような村もある。国家が腐っていて、通行の度に膨大な税を徴収したり、スパイと勘ぐられて投獄されるようなところもある。そういった情報を入手し、安全なルートで旅をするのにも、ギルドの存在は欠かせない。人間の方が魔物などよりも遙かに恐ろしい。冒険者の常識である。

ギルドは街のほぼ中心部にあり、支部が入り口近くに二つある。街道に面した東と西の城門付近にあるのがそれで、そこで入手した情報を、中心部のギルドで整理し、ふるいにかけるのだ。そのため、急ぎの時は支部に入り、そうではない時には更に精度が高い情報を求めて中心部の本部に入る。マリーは今回特に急いではいないので、後者を選ぶ。

ギルドはすぐにそれだと分かるように、どの街でも旗を抱えている。風と鳥をイメージしたデザインであり、色彩が鮮やかで遠くからでも目立つ。建物自体は横に平たく、だいたいは一階が客用のスペースで、二階が事務用のスペースになっている。一階のスペースはかなり広い。しかも深夜帯をのぞく全ての時間で営業しているので、不夜城の体をなしているのが普通だ。

今まだ昼過ぎである。ギルドの入り口は引き戸になっていて、この時間は開けっ放しになっている。中にはいると、百人くらいは座れそうなスペースと、受付が十人以上は並べそうな長大なカウンターが見えた。グランベルにいた頃、何度か世話になったことがあるので、緊張はしない。カウンターへ進むと、人が良さそうなおばあさんが対応に出てきた。十中八九元冒険者だろう。

「はいはい、何でしょうか?」

「冒険者を捜しています」

「おや、あんた確かマルローネさんだろ。 あんたが冒険者になるんじゃなくて、冒険者を雇いたいのかい」

「はい」

冒険者の顔を覚えるのは、こういう場所で、受付が最低限しなくてはならないことだ。マリーはアカデミーに入る前、冒険者と協力して何度か強力な魔物と交戦したことがあり、高い業績をあげた。それでいまだに名前が知られていたわけだ。

「分かったよ。 それで、誰か指名はあるかい?」

「いえ。 その代わり、条件の指定が少し細かくて」

「おやおや、そうなのかい?」

「はい」

出かける前に整理しておいた条件を、マリーは遠慮無く並べた。

まず、仕事は不定期。二日前ないし前日に出ると声をかけたら一緒に来てもらう。行動範囲はシグザール王国内部、ほぼザールブルグ周辺。実力は問わない。ただし力量にともなわない敵と交戦する可能性あり。要前衛職スキル。レンジャースキルがあるとなおよし。給金は一度につき銀貨三十枚から百枚。行動時間は最低数日から数ヶ月まで。

「それはまた、ずいぶん面倒くさい条件だねえ。 分かっていると思うけれど、駆け出しの新人くらいしか、そんな条件は飲まないよ」

「あたしがほしいのは、錬金術の材料を採集に外に出かける時、護衛、要は盾になってくれる人です。 あたし自身今お金がないし、技量の質は問いません。 場合によっては、一人で敵の中から逃げ延びる事だってしてもらうかもしれませんし、それはよく言っておいてください」

「そうかいそうかい。 まあ、張り紙は出しておくさな」

「ありがとうございます」

チップを渡すと、マリーは一礼してギルドを出る。

これで、準備は整った。そのはずだ。

マリー自身、危険のないザールブルグ内での生活、しかもアカデミー内での生活で、すっかり勘が鈍りきっているのは自覚している。まだ何か忘れてはいないか。腕組みして考え込みながら歩く内に、もうアトリエに戻ってきてしまっていた。戸をくぐりかけて、思い出す。

そうだ、この状況では、一つ足りないものがあるではないか。ただ、それには条件もある。今必ずしも必要だというわけではない。できればほしいという程度のものだが、いつかは手に入れておきたい。

アトリエのドアを見上げる。何もない。今は何もない。

いずれここに看板がほしいなと、マリーは思った。

 

4、最初の調合へ

 

アトリエに戻ってくると、もう夕方近くになっていた。

これから1800日強をここで過ごすことになる。ちょっと疲れたので、調合机に突っ伏すと、ぱらぱらと一年用の教科書をめくってみる。どうにかこれだけは理解した。もう三冊の教科書は、ほとんど手つかずだ。自力でどうにかしてこれを攻略していかねばならない。大変だが、仕方がない。

伸びをして、大あくびをする。少し寝ておきたいところだが、そうもいかないだろう。今日の内に、できることはできるだけやっておかねばならない。たとえば実験器具。以前使っていたらしいものはすでにまとめてあるが、分類はしていない。木製やガラス製のものなどもあり、早めにきちんと分類しておかないと、痛めてしまう可能性もある。それに、現在の最大優先事項は、自分に何が作れるのか確認する事である。

教科書を開く。錬金術の基礎が載っていた。

「錬金術の基礎は、世界の全てを分類分けし、混ぜ合わせ、時に様々な手管で融合させる事である。 そのためには、異なる分類同士を混ぜ合わせる、双方の要素を持つ媒介が必要になってくる。 これを中和剤という」

この概念の理解にも、ずいぶん苦労した。ぴんとこないからだ。確認のためにも、ページを戻す。

「世界の属性は五つに分けられる。 地水火風金がそれである。 このうち金の属性こそが最上位であり、ほかは下位属性となる。 しかしその下位属性の最上位のものを、己の魂とともに精錬した時にこそ、金の属性が現れる」

一年の最初の頃の授業で、口を酸っぱくして教師達が説明していた概念だ。当時は理解どころか、教科書に何が書いてあるかさえ分からなかった。実は、この概念に異を唱える一派もあるという。しかし、マリーにはまだまだ関係のない話だ。

少しページを進めてみる。辞典のようになっていて、金を除く各属性の簡単な生成道具類が載せられている。いくつかは授業で作ったことがある。そのときはアカデミー備え付きの調合道具が使えたが、今は自前でやらなければならない。見よう見まねで再現するしかないが、まあこれはどうにかなるだろう。根拠のない自信を持ち出し、自分を安心させながら、マリーはさらにページをめくる。細かい情報を詰めていく。

簡単に手に入りそうな素材を確認する。森と川にでかければ、どうにかなりそうなものを厳選していって、作れそうなものを絞り込む。指先で机をリズミカルに叩きながら、いつのまにかマリーは頬杖をついていた。その中から、換金できそうなものを選び出し、量産することが最初の目的だ。できれば安全性が高いものも選びたい。危険な調合になってくると、一歩間違うとこんなアトリエ程度など跡形もなく消し飛ぶようなものだってあるのだ。

まず、火の属性のアイテムはやめることにした。教科書レベルですら、火の属性のアイテム系は、「火薬」と呼ばれる高い発火性能を持つ物質を材料としたものが多く、ちょっと力加減を間違えると指が吹っ飛ぶようなものばかりだ。次に土の属性もパス。金属加工が多いので、時間も手間もかかりすぎる。これに対し、水や風のアイテム類はずいぶんおとなしいものが多い。最初に手を出すのはこっちだろう。更に、水属性のアイテムには薬類なども多くそろっていて、マリーが保有している知識を生かすこともできそうだ。

そうやって詰めていった結果、当初の目的が決定した。

水の属性だと言っても、医薬品のたぐいはパス。調合は簡単でも、調合後の使用に非常に大きな危険が出る可能性があるからだ。かといって、水を利用したアイテムといっても、錬金術で基本となる蒸留水だのアルカリ水だのが売り物になるとも思えない。

完全に自分のものとなった教科書に、マリーはしおりをつっこむ。そこに書かれているアイテムは、「栄養剤」。強壮効果を持つ薬剤であり、医薬品の範疇からはぎりぎり離れているため、危険性も低い。しかも材料は幅が広く、かなりオリジナルの要素を入れる余地がある。変な素材をつっこまなければ、多分大丈夫だ。しかも利用価値が高いことからも、比較的換金はしやすいはずだ。

ふと外を見ると、もう空には星が出ていた。今日は学生時代のいつよりも忙しかった気がする。明日早速ギルドに出撃時のサポート人員を用意してもらうとして、どの辺に材料を集めに行くか、寝間着に着替えながらマリーは考えていた。

布団に潜り込むと、何もかも忘れて、とてもよく眠ることができた。適度な心身の運動が、健康的な睡眠を招聘したのだった。

 

翌朝、朝早くにギルドに話をねじ込むと、受付のおばあさんは二つ返事で人員の用意を受け付けてくれた。やはり新人しか応募はなかったそうである。マリー自身の知名度が低いのも、それに関係しているだろう。最初は条件が悪いのも仕方がない。ここはあきらめて、劣悪な条件下でどうにかするしかない。

昨日のうちに、候補者を一人確保できたそうである。もう少し待てばあと一人くらい来るかもしれないとおばあさんは言っていたが、今回はこれでよいとマリーは断った。護衛が一人だというのは少し心細いが、今回は他に宛がある。

外に出る前に、やることはいくらでもある。まずはアカデミーの公認店に行き、道具を物色。栄養剤を作ると決めた時に、何が足りないかは確認済みである。それにしても、手持ちの金がすごい勢いで減っていく。道具を一通り揃えればある程度軽減できそうだが、それにしてももう手持ちの半分ほどが消えて無くなってしまった。

家に機材を担いで戻る途中で、もう一人の宛に話を通しておく。すんなりオッケーしてくれたので、ほっとした。彼女は穏やかで心優しいが、それ以上に計算高いところもあり、嫌だとなるとてこでも動かない。何かしらの計算があって護衛を受けてくれたのだろうと、マリーは思った。

昼過ぎから夜にかけて、後は機材のチェックと、素振りの繰り返し。戦闘スキルには錆がついてしまっているし、身体能力もかなり頼りないところにまで落ちている。最終的には護衛が必要ないところまで取り戻したい。体をめいいっぱい動かした後は、ご飯がとてもおいしかった。

 

次の日、ザールブルグ東門には、予定通りの人たちが待っていた。一人は旅装に身を包んだシアである。旅装といってもかなりの上物で、しかも動き回っても壊れにくいいい仕立てである。手には彼女が「はたき」と称している小型の変形棍がある。いくつか重りがついていて、そこが天井などを掃除する「はたき」に似ているのが名の由来らしい。それなりに重い変形棍であり、マリーも触らせてもらったことがあるが、扱いはきわめて難しい。

もう一人は、まだ若い男だ。美男子というわけではないが、切れ長の目には意志と活力がある。ブラウンの髪を散切りにしていて、バンダナでまとめている。こちらは知らない人間だが、素性は分かっている。マリーは挨拶しながら、まずは親友に駆け寄る。

「シアー! 待ったー?」

「ううん、今来たところよ」

「ちょっと危ないけれど、大丈夫?」

「大丈夫。 いざとなったら、マリーに治療費は払ってもらうから」

語尾にハートさえつけながら言うシアの言葉に嘘はない。だが、この子はこれで結構頼りになる。言葉の意味も、最低でも、生きて帰る自信は彼女にあると言うことだ。もう一人の男はやりとりの間、一歩下がって様子を見ていた。マリーがギルドから渡されている割り符を見せると、自分も同じものを取り出しながら言う。

「ルーウェンだ。 今日はよろしくな」

「よろしく。 あたしはマルローネ。 マリーって呼んでいいよ」

ルーウェンと名乗った青年は背中にブロードソードを背負っており、まだ皮の臭いがなまなましいレザーメイルを身につけていた。筋肉はかなりついていて、動きから言って一度や二度の実戦は経験しているらしい。それなりに体を作ってはいるが、まだまだ素人だ。一目で分かる。まあ、向こうも盾になるのが仕事だと分かっているはずだし、覚悟はできているだろう。

今回の目的は、広大な耕地を抜けた先にあるヘーベル湖。ストルデルの支流から派生した中規模の湖で、周囲に四つの村がある。ストルデルからだけではなく、山の湧き水も流れ込んでいるらしく、水は非常に透明度が高い。そこで事前に図鑑で調べておいた素材を収集する。一番重いのが水だというのが少し面倒くさい。そのほかに、なまものもある程度採集しなければならないので、採集は急いで行い、帰りは全速力でいかないとまずい。

予定行程は一週間。往復が四日、採集場所の物色が二日、採集自体に一日をかける予定だ。行程そのものにはかなり余裕を見て組んである。最低限の干し肉を除いて、食料は持って行かない。現地で調達すればいいし、いざというときには雑草でも食って我慢する。

なお、いい採集場所が見つからない場合は、一週間の予定が二週間にも一月にも伸びる可能性がある。

それを説明すると、シアは楽しそうとくすくす笑い、なぜかルーウェンは青ざめて一歩退いた。

「そ、そうか」

「うん? 何か不思議?」

「いや、その、なんだ。 俺って、狭い世界に生きてきたんだな、って思って。 その場合、寝泊まりはもちろん野宿、だよな」

「当然でしょ? 場合によっては虫除けに木の上を使ったりとか、洞窟を探したりとかはするけれど」

「そ、そうだよな。 あは、はははははははははは」

マリーにはその笑いの意味が分からなかった。ただ一緒に釣られて笑い、シアもそれに習った。

 

ヘーベル湖への道は、半ばまでは道が通じており、途中何度も農民と行き違った。鍬や鋤を担いだ彼らは、皆屈強だ。それもそのはず、彼らこそがシグザール王国の主力、屯田兵である。農業によって体を鍛えている彼らは高い戦闘能力を誇り、数年前のドムハイト王国との戦争でも大きな戦果を上げた。

兵士が暇な時、農業をさせるシステムを屯田という。これによって労働力を有効活用できるほか、農業生産力自体もあげることができる上、兵士達も鍛え上げることができる。欠点といえば、戦争になると荒れる畑が増えることだが、そのような総力戦はドムハイト紛争以来ないし、今のところ民に不満はあがっていない。

屈強な屯田兵達がうろつく穀倉地域は魔物にとってデッドゾーンに等しく、農道周辺は夜でなければ安全に女子供でも通行できる。逆に殺気だった屯田兵に襲われる可能性があるため、夜道に女性が一人行くのはやめた方がいい。ただし、それも数年前までの話。最近はシグザール王国で治安の強化に力を入れており、荒くれ揃いの屯田兵達も目立っておとなしくなっている。ザールブルグでの色町の繁盛が性犯罪の抑制に一役買っているという事実もある。

色が落ち始めている小麦の海の中、延々と続いていく農道。時々水路が横切っていく。水路にはアーチ型のしゃれた橋が架かっていて、上を歩く時の感触が楽しい。

ついてくるルーウェンは何でか浮かない顔だ。単に時々盾になるだけで銀貨百枚くらいは稼げるというのだ。しかもマリーもシアも非戦闘員ではない。ずいぶん楽な仕事だろうに。それほど経験が足りないようには見えないのだが、どうしてなのだろう。時々マリーは小首をひねりながら、背負っている籐製のかごを背負い直す。行きは軽くていいが、帰りは積んでいる革製の水筒がさぞ重くなるだろう。銀貨十枚くらい上乗せして、帰りはルーウェンに背負ってもらおうかとか考え始めた頃、道が狭くなってくる。

夕方になると、穀倉地帯もだいぶ幅が狭くなってきていた。ストルデル川もザールブルグも遠くになり、空を編隊を組んだ雁が飛んでいく。

森が見え始める。この辺り、旅人用の簡単な宿舎が転々と用意されている。この後も大通りに沿って進めば、だいたい一日歩くごとにお目にかかることができる。この周辺は練度と士気が高い兵士達が交代で番に着いている上、夜中に見回りに来るので、安心だと旅人が口を揃える。それによって人間の行き来を加速し、ザールブルグひいてはシグザール王国そのものが大きく得をしているのだ。

安全な道は、通る人間も多い。通る人間が多くなれば、それだけ流通も加速する。トールさんから以前聞いた話によると、ドムハイトにも似たような高速幹線道路があるという。こちらでは国が馬車を運営していて、賃金がとても安く抑えられており、それを利用して各地に一気に行くことができるそうだ。その代わり、戦争時にはそれが根こそぎ徴発されてしまうので、一気に不便になると言う。それに関してはシグザールも同じである。

「マリー、今日はこの辺りで休みましょう」

「そうね。 ルーウェン、表裏、どっち?」

「うん? ああ、裏で」

マリーがコインを放り投げ、杖で素早く地面にたたきつけ押さえ込んだので、ルーウェンは目を見張った。こんな程度で驚いてもらっては困る。四年前ならこの六倍は速い。杖をあげると、コインは表だった。

「残念。 今日はルーウェンが後の見張りね」

「え、ええと?」

「ん、ひょっとして、こういう遠出の護衛任務は初めて?」

「あ、ああ。 冒険は今まで何度かこなしたし、魔物退治もやったことはあるんだけど」

不慣れなことを正直に白状したルーウェンに罪はない。マリーだって、ギルドに質は問わないとわざわざ言ったほどなのだし。

二人のやりとりを知ってか知らずか、シアはすでに休憩所を漁り、休めそうなスペースを確保して、シートを敷いている手際の良さだった。野外用の簡単な竈もおいてある。ただし、暖具のたぐいは各自で用意しないとならない。貸し出してはくれるが、有償だ。

今日はほかにここを利用している旅人も少ない。風よけの粗末な囲いに荷物を運びながら、マリーは説明する。

「ええと、見張りはね、一度寝て、起きてからの方がきついの。 特に一番きついのは明け方。 明け方は眠いし、何かが奇襲をするのもこの時間が一番多いんだよ」

「あ、それで、か」

「いくら何でも、きついタイミングの見張りを全部ルーウェンにやってもらおうとは思ってないよ。 ただ、今後この業界で生きて行くとなると、今後は軍務も出てくるんじゃない? これくらいは知っておかないと危ないよ」

「ああ、そうだよな。 ごめんな、俺の方が、こういうのは教えてあげる立場だよな」

軍という言葉が出た時に、ルーウェンが不快そうに眉をひそめたのを、マリーは見逃さなかった。この様子だと、多分戦災孤児だろう。冒険者は結局根無し草である。自立できる、能力が極めて高い一部の人間を除くと、単純な荒くれや、気の毒な境遇の人間がとても構成員には多いのだ。

「いいって。 あたしだってたまたま戦いを多めに経験するような村に産まれただけだし、ルーウェンに比べてどうこうってわけじゃないよ。 内陸の人間完全支配圏だと、結構平和ぼけした村とかだってあるんでしょ?」

「そうだよ」

そこでも、ルーウェンは少し悔しそうだった。マリーは、この青年の、気の毒な生い立ちがある程度分かった気がした。

シアは普通に動き回る分には問題がないが、体に爆弾を抱えている。だから体力を使う寝ずの番はさせられない。その代わり彼女は手際よく動いてくれて、食う寝る準備をほぼ整え終えてくれていた。火打ち石を使って、竈に火を入れる。手際よく三人で集めた薪に火をつけて、燻製肉と干しパンをあぶって食べた。シアが持ってきた食材はどれも品質がよくて、とてもおいしかった。

もう空には星が出ていた。学生の時には無理だった外泊。それをこんな形で実現できるとは。不思議な気分だった。空に散らばる無数の星。先に二人に休んでもらうと、マリーは適当な石に腰掛けて、ぼんやりと今後のプランを再チェックした。

 

翌朝早く。草に朝露が光っている内から、マリーはヘーベル湖へ向かう。湖の少し手前で、もう耕地は終わっていて、代わりに森がある。ここがかなり危険な可能性があると判断したので、ルーウェンを雇ったのである。そのルーウェンは後の見張りだったが、体力はあるらしく、眠そうではあったが意識ははっきりしていた。

森は光が届かない、人間がまだ完全に支配し切れていない場所だ。グランベルでも親の言いつけに背いて森にのこのこ足を踏み入れた子供が、何年かに一人は必ずいなくなった。そんな場合は子供が悪いとして村でも処理する。人間の完全支配が及んでいないそこでは、なにがあってもおかしくはない。犯罪者も当然潜んでいるし、強力な魔物だっている可能性があるのだ。

幸いヘーベル湖周辺の森はたいした規模ではなく、事前にギルドで調べた情報でも強力な魔物の情報はなかった。それでも、油断すれば命を落とす可能性もある。更にこの辺りの森では、人間に敵意を抱く亜人種が見かけられたという噂もある。

人間は、自分と中途半端に似ている存在に、そうでない存在以上に憎悪を抱く生き物だ。その上、人間に住処を奪われた上に、時には換金素材にまでされてしまう亜人種達は、当然人間をよく思っていない。集団戦の技量で劣る分、一体の戦闘能力は彼らの方が高いことが珍しくなく、油断できる相手ではない。

街道はこの森を避けるように伸びているので、獣道同然の、きわめて信頼性が低い道を通らなければならない。

一種野生児に近いマリーだが、だからこそに原野の恐ろしさを知り尽くしている。全身を耳にして周囲の情報を仕入れているマリーの少し後ろで、バスケットを左手にかけたシアが、「はたき」のチェックをしながら歩いていた。ルーウェンは最後尾で、背負っていた剣を腰に水平にくくりつけ直し、いつでも戦えるように臨戦態勢をとっていた。何があってもおかしくない。

ヘーベル湖の周辺まで行けば、村も点在しているし、開けていて危険度もぐっと下がる。だから皆自然と足が速くなった。緊張の時間であった。

森に入って一時間ほどであろうか。シアとマリーは軽く頷きあって、更に少し急ぐことにした。ルーウェンもきちんとついてくる。あの様子だと、気づいているかどうか。

つけられている。数は三ないし四。あるいは、離れてもっとたくさんいるかもしれない。体がなまりきっていて、こういった勘も鈍磨しきってしまっていた。これでは戦略を立てるのも難しい。久しぶりの実戦で命を落とすのは嫌だし、できるだけ有利な条件に持っていきたいし、そうでなければ戦いを避けたい。今のところ、追跡者はこちらの様子をうかがっている。攻撃を仕掛けにくいと判断すれば退くはずだ。組織的に追撃を仕掛けてきている以上、それくらいの判断力はあるはずだ。

森を抜けるまでまだかなり距離がある。そのうち、追撃者が更に数を増やしてきた。牽制と言うよりも、嫌がらせに近いだろう。雰囲気に嘲笑が感じられる。シアが笑顔を僅かに引きつらせたのを見て、マリーはまずいと思った。この子は平常心が一度崩れると、かなり怖いのだ。多分馬鹿にされていると、敏感に感じ取ったのだろう。

森の出口はまだ遠い。どうやら、相手にこちらを逃がすつもりはないようであった。大きな岩が見えてくる。三叉路の目印代わりに使われているらしく、丁度そこで道が分岐していた。背中に据えるには丁度いい。身体能力がすっかり衰えている現状、走って逃げ切る自信はない。戦うしかない。

「ルーウェン!」

「! やるか?」

「向こうはその気みたいだよ。 受けて立ってあげようじゃない?」

足を止め、大岩を背に杖を構える。ルーウェンも剣を抜いて、十近い追撃者に向けて構えをとった。シアも変形棍を構え直して、それぞれ互いの死角をカバーして立つ。急にこちらが足を止めたので、追撃者はとまどっているらしく、足を止める。

「来るなら来い! ぶっ殺してやる!」

いいタイミングで、ルーウェンが吠えた。動揺しているところに、こういう言葉を受けると、精神的に打撃を受けるものだ。マリーは杖を水平に構え直すと、目を閉じ、詠唱開始。シアも隣で印を組んでいた。

追撃者は距離を保ったままだ。それほど慣れていない連中らしい。臨戦態勢をこちらが整えてしまっている現状、追撃の有利はほぼ無いに等しい。一端距離をとって出直してくるか、姿を現して詠唱完成までに勝負をつけに来るか、あるいは長期戦に備えてプレッシャーをかけるための何かの手段に出るかすればいいのに。マリーはむしろ敵に同情してしまう。

「どうした! 来い!」

ルーウェンもかなり緊張しているようだが、その言葉に何も反応はない。マリーの詠唱は終了した。ゲルハルトに作ってもらったこの杖は魔法媒体とはなり得ないが、念入りな詠唱を行った結果、魔力は十分練られている。後はキーになる言葉を放つだけで、呪文は発動できる。

ただし、全力でもせいぜい全盛期の二割というところだろう。錬金術の勉強では、外部に出した魔力をコントロールする事は学んだが、逆に内部精神の錬磨は最低限の水準を維持することしかできなかった。結果、ため息が出るほど得意の爆撃術の威力は落ちてしまっている。

「妙だな…」

ルーウェンがつぶやく。マリーもおかしいとは思っているのだが、その違和感の正体がつかめない。もう少し気配をよくつかむことができれば、判断もできそうなのだが。たとえば、素人を装ったプロの盗賊が、こちらの軽挙妄動を狙っている、といった事実があった場合、こちらはひとたまりもなく全滅させられてしまう。こちらは判断ミスが許されるほどの力量を備えていない。慎重すぎるほどの行動を、常時行うべきであった。

にらみ合いが続く。汗が頬を伝って流れ落ちていく。

「ねえ、マリー」

「どうしたの?」

「…かなり、体なまってない?」

「うん。 その様子じゃ、相手の正体が特定できたの?」

「ええ。 突入するから、援護してくれない?」

その言葉だけで、マリーにもだいたい相手の正体が分かった。なるほど、これではシアも怒るはずだ。

杖を構えあげるのと、へろへろ矢が飛んでくるのは同時。シアが「はたき」をふるってたたき落とす。印を切り、詠唱を完了。

「焼き尽くせ、光の雷土!」

全身の力が吸い尽くされるような虚脱感とともに、マリーの頭上に六つの光球が出現する。指先をふるって指示すると、それらは天高く舞い上がり、急角度に追跡者達が隠れている茂みへと襲いかかった。炸裂、爆音。木が吹っ飛び、茂みが乱れ千切れ飛ぶ。ぎゃっと無様な悲鳴が上がり、転がりでたり、はじき飛ばされたりしたのは、どれもまだ少年少女といってよい子供達だった。ルーウェンよりももっと若い。

無言でシアが突進する。立ち上がれない彼らに、容赦なく一撃を叩き込み、地面に叩き伏せる。ルーウェンが手をだす暇もなかった。シアのはたきは小型の分銅をつけた変形棍であり、一撃にすさまじい重量感がある。本気で殴ると、簡単に頭蓋骨が陥没する。子供を行動不能にするくらい朝飯前だ。(もっとも、シアは体力的な問題で、そんなに何人も殴り殺せはしないが)

はたきを腰に差すと、シアはつかつかとリーダー格に歩み寄る。何とか立ち上がったリーダー格の顔面をつかむと、シアは全く表情を動かさないまま、みぞおちに膝蹴りを叩き込み、背中から木にたたきつける。そして胸ぐらをつかむと顔面に頭突きを叩き込み、地面に押し倒し、マウントポジションに移って、容赦なく右左と殴り始めた。血しぶきが飛ぶ。完全に戦意をなくした子供が悲鳴を上げてもやめない。

それほど鍛えてはいないし、体には爆弾を抱えているシアだが、グランベル村最強の使い手である父トール氏に戦闘術を習い、護身術も一通りこなしている。その上、この通り、切れると歯止めがきかなくなる。くそガキの歯が何本か折れ、ほお骨が砕ける音がした。まだ止める必要はないだろう。

武器を捨て、怯えてはいずって後ずさる子供らに、ルーウェンが剣を突きつけにらみ付けて身動きできないようにすると、マリーに言う。困惑がこもっている。

「あんたの友達、あれ殺しちまわないか?」

「自業自得よ。 放っときなさい」

ルーウェンが流石に青ざめた。悪ガキどもは小便を漏らしそうな顔をしている。もちろん、マリーには考えあっての事だ。

こいつらは近くの村の悪ガキどもだ。この森は多分彼らが遊び場にするほど、すでに人間の勢力圏と言ってよい場所になっているのだろう。そしてこいつらがやっているのは、旅人を脅かしての小遣い稼ぎである。この手慣れた行動といい、まず初犯ではないだろう。そしてこのまま味をしめていたら、高い確率で盗賊団や都会の犯罪組織と関係を持ち、奈落の底まで落ちていたに違いない。そのうち行動もエスカレートし、いずれは死者も出ていただろう。子供の定義は、自己制御ができないことだ。

村ぐるみの犯行という可能性も当初は考えられたが、今は違うと断言できる。村ぐるみでの犯行を行うには、この周辺地形は適していない。ザールブルグからも近すぎるし、何より手口がお粗末すぎる。そういった悪事を働く連中は、海千山千の悪党どもであり、獲物を逃がすようなへまはしない。もしそんな連中が相手だったら、もうマリーは死体になっていただろう。

どちらにしても、悪い芽は今の内に摘んでおく。だから、今、トラウマになるほどの恐怖を叩き込み、二度と悪いことはできないようにしておく。本当は、これは村の大人の仕事だ。だが同じシグザール内部でも、村には様々なものがある。村の周囲に魔物さえでなくなり、平和ぼけした村の中には、子供の教育もろくにできないようなところがあるのだろう。

仮定の話だが、マリーが前衛だったら、シアの代わりにガキどもを躾けていただろう。マリーの父母やトール氏の場合、シアのやり方がぬるま湯に見えるような躾をしていたに違いない。シアはグランベル村では、かなり甘い方だ。

「ひっ、ひいっ、ひーっ!」

無様にリーダー格が泣き始めても、シアは許さなかった。マリーは止めない。生死の境をさまようくらいの目に遭わせておかないと、この先変に逆恨みを抱く可能性がある。マリー達の足音を聞いただけで、物置に閉じこもって数日は出てこなくなる、くらいのトラウマを植え付けておくのがこの場での正解だ。中途半端で許してやると、却ってよくない。

結局制裁は半刻ほども続き、シアはリーダー格が気絶しては水をかけて無理矢理たたき起こし、殴り倒し、半死半生になってからようやく手を止めた。リーダーを引きずって、ガキどもは転がるように逃げていった。当分悪いことをしようとは考えないだろう。悪事には制裁を。今まで制裁を受けずに来たような人間には、まとめて下されるのが当然だ。子供だからといって特別扱いすると、絶対に将来良くない結果が生まれる。

森を抜けるべく歩きながら、マリーはそれらをルーウェンに説明した。ルーウェンは何事もなかったかのように歩いているシアを見て、マリーを見直して、大きくため息をついた。

「まだまだ、俺って駆け出し、なんだな」

「私だって錬金術師としては駆け出しの駆け出しだよ。 時間かけて強くなっていけばいいんだって」

軽く肩を叩くと、マリーは視線を道の先に戻し、見た。森が終わり、地平の果てまで広がる美しい湖が姿を現すところを。

 

ヘーベルは雄大な湖であった。湖の縁には波打ち際があり、非常に透明度の高い湖水が風に揺られて行ったり来たりを繰り返している。魚の数も多い。ギルドの情報によると、それほど大きな魚はいないはずで、もう少し交通の便が開けたら、観光地としてもやっていけるかもしれない。

湖の縁に沿って歩いていくと、小さな橋が架かった川を見つけた。川の方向から言って、湖から流れ出た水の一部が、ストルデルに流れ込んでいるらしい。川の周囲はさらさらした砂が美しい河原になっていて、キャンプにはもってこいだった。

「この辺に泊まるの?」

「そうね。 ほかに選択肢はないでしょうし」

「やれやれ、野宿よりは少しはましそうだな」

ルーウェンも河原が気に入ったようだった。

湖の周辺はこの河原に限ったことではなく、密度の高い砂が美しい。砂の原には、森とは違う植生が広がっていた。小型の動物も見かけられる。この分だと、雑草を食べなくても、食料は十分に確保できそうである。

湖の周囲を歩いてみる。村が点在していて、話を聞くとこの周辺はとにかく安全だという答えばかりが返ってくる。笑止千万だが、それはどうでもいい。マリーの目的はこの周辺の植生と、収穫できそうな素材の確認だ。

夕方頃には、ある程度の下調べが終了。後は植生をチェックしてから、明日にでも収穫に移ればいい。夕日が湖の向こうへ沈んでいく。朱い太陽が、湖に反射して、幻想的な光景を作り上げる。

「わあ、綺麗ね」

「うん」

無邪気にシアが言うので、マリーも思わず嬉しくなって、子供みたいな笑顔で頷いた。少し後ろでそれを見ていたルーウェンは、複雑な表情だった。

夜になる前に、やることはやっておく。荷物の中からガラス器具を取り出す。水を回収するためのものではなく、水質検査用の試験管だ。水平器具で地面の様子を計り、慎重に台を固定する。そこへ、何カ所か目をつけた位置での、水を入れていく。これは結構な高級品で、アトリエに使い古しの奴があったので本当に助かった。

今回必要なのは、純度の高い水である。持ち帰ってからも処置はいろいろとするのだが、その手間を減らすことができる。

対流が多すぎず少なすぎず、透明度が高くて温度が適当な場所の水を、いくつか見繕って試験管に入れていく。野営の準備は二人に頼んで、マリーは猛烈に集中して作業に取りかかっていた。実験室の作業よりも、やはり外での作業の方が、遙かに性に合っている。

試験管に入れてしばらく様子を見ると、やはり沈殿物が出てくる場所があった。最終的にはどこで採取した水でも沈殿物が出るとしても、早すぎたり量が多すぎるとやはりアウトだ。

日が沈んだ後、図鑑を見ながら、時々たき火にすかして様子を見ていたが、ヘーベル湖の水の綺麗さは想像以上で、予想よりも遙かに沈殿物が少なかった。駄目だった二カ所を除くと、どこも十分にマリーとしては満足できる結果が出ていた。ただ、蒸留水をそれほど作り慣れている訳でもないし、ヘーベル湖の水で蒸留するのは初めてになるので、アトリエで作業した時にはどうなるか分からない。

ただ、とても幸先がよくて、マリーは気分がよかった。

 

アカデミーで使っている教科書は分厚い。重い反面辞典としても非常に有用で、今回マリーは我慢して持ってきている。すでに眠りに入っているシアの横顔を時々見ながら、今回の目標である栄養剤のページを、マリーは繰り返し読み込んでいた。不思議なものである。授業でも漠然と触れたはずなのに、自分で生活がかかった調合を行うとなると、全然気合いの入り方が違うのだから。

栄養剤を作るには、基本は二つの材料が必要になる。一つは純度の高い水であり、これを最終的には二方向へ加工して、混ぜ合わせる事になる。どちらもそれなりに時間がかかる作業なので、今回できるだけ多くの水を持って帰り、アトリエの地下にでも保存しておいて大事に使っていかねばならない。

今ひとつの材料は、教科書では主にキノコ類が紹介されている媒体で、これが栄養剤の主役となる。様々な品種の素材が載せられているが、その半分ほどは気候や季節が異なるために採取が不可能であり、更に半分ほどが入手困難である。残る候補は五つほどだが、そのいずれもがキノコ類。これが少しばかり厄介だ。

キノコ類は突然変異が起こりやすい存在で、プロでも見分けづらい品種が非常に多い。薬用キノコのように見える毒キノコなど珍しくもなく、軍のレンジャー訓練で最初に教えるサバイバル知識は、キノコを絶対に口にしてはならないと言うものだ。これは軍経験者の知人から聞いた。アカデミーの場合は、かなり高品質な回収業者を用いているが、それでも不安は残る。

そうやって、出る前に五つの候補をより分けた。そのうち二つは、マリーがあまり見たことのないキノコなので候補から外した。非常に危険だからだ。もう一つは非常によく似た毒キノコがあるので、これもパス。もう二つが候補に残っている。

一つはオニワライタケ。これはグランベルの周辺にも生えているキノコであり、どこの森でも木陰を探せば見つかるような品種で、簡単に数が揃う。その上似た品種の毒キノコが存在しておらず、外れを引く可能性が少ない。サイズがとても大きいのも特徴で、加工次第でかなりの量の栄養剤を一つのキノコから抽出できるだろう。ちなみに、これは食用ではない。まずくてたべられたものではないからだ。

もう一つが、水場によく見かけられるアカアマテングダケ。ヘーベル湖周辺でもおそらく見られると思って、マリーはそれを今回期待している。

水場で見られるキノコという珍しい品種であり、競合種が少なく、毒キノコも引きにくい品種である。母体となる株から、芽が無数に出るタイプのキノコであり、一つ一つが真っ赤で毒々しいのだが、危険性は無い。ただし、食べてもおいしくないどころか、渋くてとても口に入れられない。これが栄養剤の素材として優秀だと書いてあった時には、マリーは少なからず驚いた。

栄養剤として加工する時は、多分渋みをどうにかして抜く工夫が必要になるだろう。周囲の村で話を聞いてみようかとも思っているが、はてさて、良い情報が手にはいるかどうか。マリーはフィールドワークに楽しさを感じ始めているが、こういったところでいまだに臆病さが備わっている自分を見つけてしまう事があり、時々少し気分が沈む。

いっそオニワライタケに絞ってしまえば楽なのだが、それ以外に工夫をしてみたいと思うのが人情である。もちろん最初はオニワライタケで作ってみるつもりだが、それをこなせたらアカアマテングダケも試してみたい。ほかにも、いろいろ、いろいろ、もっともいろいろ…。

「おい、起きろ」

「んあっ!? あ、寝てた?」

「寝てた。 じゃあ、俺はもう寝るよ。 後はよろしく」

いろいろ考えているうちに、うつらうつらと寝痩けてしまっていたのだ。大あくびしながら、ルーウェンが寝床に潜り込む。マリーは立ち上がると、湖の冷たい水で顔を洗って、波打ち際に座った。

白みかけた空が美しい。夢を追うことを、どこかで激励してくれているかのようだった。

「今日も一日、頑張るか」

一人つぶやく。誰に聞かせるためでもなく、肝に命じるために。

 

5、戦闘開始

 

収穫は好調だった。最初こそ目当てのアカアマテングダケは見つからなかったのだが、昼過ぎから群生地が何カ所かで見つかり、順調に量を稼ぐことができた。オニワライタケは森でいくらでも見つけることができたし、錬金術に必要な草類もかなりの数見つけることができた。かなり有意義な時間であった。

収穫に夢中になる間、ルーウェンには周囲の監視をお願いした。まだこういう収穫作業は不慣れだし、油断して何かの接近に気づかない可能性が高い。それを防ぐためにも、ルーウェンは重要な人材だった。彼は説明をすると二つ返事で頷いて、後は料金分以上の仕事をしてくれた。見事な護衛ぶりであった。

必要なキノコ類と水を十分に採取して、アトリエについたのは翌々日の夕方。予定よりもかなり早い行程で、マリー自身も驚いている。なんだかんだ言って、文句の一つも言わずに作業をしてくれたルーウェンが、この事態の最大功労者だろう。ついでに言うと、かなり重い水をしっかり背負って帰ってきてくれたので、ずいぶん助かった。その分疲弊しきっていたが。

帰りでは森でも何事もなかった。農道に出た後は、治安的にもしっかりした場所なので、それほど気を遣うこともなかった。シアも気分転換ができたと喜んでいたし、湖のそばでたべた魚の丸焼きはとてもおいしかった。腹に入っていたちょっと苦い卵が特に良かった。行きと同じく、森近くの旅人宿舎に泊まって、それから帰還した訳だが、疲れが溜まることも殆ど無かった。

とりあえず、城門で解散するかと話をしたが、ルーウェンは最後まで手伝ってくれると言ってくれた。言葉に甘えて、アトリエまで荷物を全部運び込んでもらう。賃金を上乗せする手管を知り尽くしているのだから、この辺はしっかりしている。こういう風に手伝っておけば、雇い主であるマリーも悪い気分はしないし、今後も手伝ってもらおうかなという気分になる。それに、財布の紐も緩くなりがちだ。

地下室の戸を開けて、重い水を運び込む。よくしたもので、ここを前使っていた人間も、同じように此処を保管庫に使っていた節がある。隅に革袋を全て置くと、額の汗を拭いながらルーウェンは言った。

「じゃ、また仕事がある時は、声をかけてくれよな」

「ありがと、たすかったよ」

好感触だ。ルーウェンは駆け出しだが、まじめだし、学習態度も真摯で好感が持てる。玄関まで送ると、賃金をいくらか上乗せして渡しておく。今後もルーウェンには護衛をしてもらいたいところだ。

手を振って駆け出し冒険者を見送ると、マリーは現状整理。錬金術の素材はあらかた揃った。その代わり、経済状態はかなり厳しい状況にもなった。もう、あまり猶予はない。というよりも、ほぼすってんてんである。急いで動かないと、遠からずアトリエで若い娘の干物が一つできあがることになる。

荷物を整理しているマリーの横で、てきぱきと掃除をしてくれたシアが、ほほえみかけてくる。彼女は護衛費をいらないと言ってくれたが、それは将来に向けての投資に違いないので、マリーとしてはあまり無邪気に喜べないのが本音だ。

「それで、マリー。 どうにかやっていけそう?」

「うん。 素材はどれも質がいいし、いくつか換金できそうな道具もあったし。 どうにかしてみせるわよ」

事実素材は品質が良いものばかりであった。更に、湖光の結晶と呼ばれる貴重な物質も三粒手に入れることができた。波打ち際で拾った、水晶のように美しく輝くこれは、教科書を見る限り、アカデミーの公式見解で「水が特殊な条件下で結晶化したもの」となっている。だがマリーの見たところ、湖の深部から何十年もかけて流されてきた形跡があり、もう二つ三つ秘密がありそうだ。これはシアの話では、宝石としての価値もあるはずで、小遣い稼ぎ程度にはなるはず。ただし、いざというときの切り札代わりにとっておきたいところだ。

「そう。 それなら、私は退散するわ。 頑張ってね」

「うん!」

腕まくりし、必要な器具類を並べながらマリーは親友に答えた。

もう一歩は踏み出したのだ。もう引き返す選択肢はない。自分の人生を切り開くためにも、ここで立ち止まるわけにはいかない。すでに陽が落ちる時間だが、今夜は徹夜だ。寝ている暇などは、無い。

学生時代には一度もなかったほどの集中である。今後の人生が懸かった行動が、マリーの全てを一点へ集めきった。

一度集中すると、シアがいつ出て行ったのかも分からなくなった。調合開始。天秤を使って素材の重さを量る。フラスコをセットし、火を入れて、水を蒸留し始める。くつくつと湯が沸く音がし始める中、マリーはすでにキノコを切り始めていた。周囲など、とうの昔に見えなくなっている。

マリーの戦いが、今始まったのだ。

フラスコが曇り、蒸留された水が溜まり始める。切り終えたキノコに、教科書通り処置をしなければならない。部屋の温度が徐々に上がっていく。空気そのものも張り詰めていく。

アトリエは戦場と化した。そしてこれから五年間、その状態は維持されることとなる。

 

(続)