割れ砕ける鏡

 

序、限界

 

イリスが倒れたのは、大空の王を撃滅してから、二週間ほどしての事であった。

限界が来ていたのは分かっていた。だから、エルフィールは慌てることも無かった。ホムンクルスは人間とほぼ体の構造が同じである。そこに、制御装置という異物を埋め込んでいるから、全てがおかしくなる。

そして、この手の異物を埋め込んだ故の拒絶反応というものは、現在の医療ではどうにもならない。特効薬のようなものもないし、何よりも前例が無いからだ。治療のしようが無いのである。

「クノール、調合を続けてて」

「分かりました」

イリスは意識も無く、呼吸もゆっくりとしていた。頬をたたいても、意識が戻る様子は無い。

そのまま背負うと、エルフィールはアトリエを出た。

まだ早朝である。

大空の王の襲撃から時間が経っていないから、外は警備兵がいつもよりずっと多い。だが、エルフィールは顔が知られ始めているから、咎められることも無かった。走る。アカデミーに。

既に、事前に準備はしていた。

ヘルミーナ先生のところにイリスを搬送しなかったのは、事後処理に追われていたからである。出来るだけイリスの負担を小さくするように、仕事は減らしていた。だが、巨大な大空の王の死骸を処理するためのプロジェクトで案を出したり、イングリド先生の言うままに薬を調合したりしている内に、時間が経ってしまったのだ。

アカデミーに駆け込むと、三階まで上がる。

ヘルミーナ先生は、既に起きていた。

「ヘルミーナ先生、イリスが」

「診せなさい」

クルスが何名か、わらわらと来る。相当によく仕込まれているらしく、エルフィールがイリスを下ろすと、手際よく作業を始めていた。

研究室の一角には、ホムンクルス生産室とでもいうべき設備がある。エルフィールも使っている、ホムンクルスの培養装置がいくつか並んでいて、その中には試作体らしいホムンクルスの姿もあった。

既に服を脱がされたイリスは、診察台の上に寝かされている。少し触診しただけで、ヘルミーナ先生は言った。

「拒絶反応による限界ね」

「やっぱり、そうですよね」

「鴉と言ったかしら。 あの面白い素材で、ある程度ホムンクルスの寿命を極限まで延ばすめどはついたのだけれど、こればかりはねえ」

くすくすと、ヘルミーナ先生は笑う。

そして、兜のような道具を取り出した。どうも生きている道具らしく、内部では触手のような何かが蠢いている。

「ちょっとこれをかぶせてイリスと話をするから、部屋を出ていなさい」

「分かりました。 お願いいたします」

「ええ」

ヘルミーナ先生に言われるまま、部屋を出た。

心配では無いかと言われれば、嘘になる。あれを殺す権利は、エルフィールにしか無い。流石にヘルミーナ先生だから、イリスをどうにかしてはくれるだろう。

外では学生達が、登校し始めていた。授業組の後輩達は、昔ほどモヤシでは無くなってきている。体育が取り入れられて体作りを行うようになったことと、実技試験が増えたから、だ。先生達が引率して、野外での材料採集実習も行う。

それはとてもいいことだと、エルフィールは思う。

内部では、しばらく何か作業が行われている音がした。場を離れるわけにも行かないし、何よりもその場にいなければならないとも思う。しばらくして、ヘルミーナ先生が部屋から出てきた。

「入りなさい」

「失礼します」

兜のような何かは、イリスの頭から外されていた。

どうやって会話したかは分からない。だが、エルフィールは、選択肢を示された。

「今の時点で、出来ることは二つあるわ。 選びなさい。 一つは、制御装置のたぐいを全ていったん外し、イリスを眠らせて回復を待つ方法。 ただしこの方法を使うと、制御装置を作り直さなければならないけれど」

「もう一つは?」

「イリスの肉体情報から、新しい体を作って、そちらに意識を転写する方法。 私の作ったクルス達も、皆そうやって増えたのよ」

くすくすと、ヘルミーナ先生は側にいたクルスの頭をなでなでしながら笑う。まるで、地の底から獲物を求めて這い上がってきた魔王の笑みだ。

「後者だと、やっぱりあまり長くは生きられませんか」

「貴方の作った制御装置を改良すれば、そこそこには生きられるかしらね。 要は拒絶反応を、押さえ込めばいいのだから」

「前者だと、今度は育ちすぎてしまいそうですね」

「そうねえ。 元々ホムンクルスはとても成長が早いし。 でも、薬剤の投入次第によっては、年齢を途中で固定する事も可能だけれど」

最終的には、ヘルミーナ先生は、そうやって年齢を固定したホムンクルスを周囲に大勢侍らせて、愛でるのかもしれない。歪んだ趣味だが、しかし天才だからこそ出来ることだし、技術の進歩にも、大いに貢献するだろう。

少し考え込む。

どちらにしても、エルフィールに損は無い。だが、どうしてか、後者はいやだった。何となく、なのだが。

「分かりました。 前者でお願いします」

「あら、いいの?」

「レシピだけいただければ、私が自分でやります」

「面白いわねえ。 実はイリスも、そっちが良いって言っていたのよ」

それは不思議だ。まあ、理由については、おいおい聞けば良いだろう。

レシピを貸してもらって、イリスを担いでアトリエに戻る。これから外科手術が必要になる。体と一体化している制御装置を外さなければならないからである。

ノルディスを呼んだのは、専門家がいた方が良いと思ったからだ。

アトリエにノルディスが来た頃には、もう作業の準備は終わっていた。ノルディスも医術の勉強をして見慣れているからか、意識が無いまま全裸で寝かされているイリスを見ても、特に動揺することも無かった。

「ノルディス、じゃ、作業始めましょうか」

「うん。 いくつか、試作品の道具を持ってきたから、それを使っていこう」

「大丈夫?」

「試作品とは言っても、どれも一応の実験は済ませているし、実績も上げているから平気だよ」

そうノルディスに言われると、疑う理由は無い。

もう意識もないし、麻酔も必要は無いとは思うが。両手両足を、まず台に固定する。そして、まだ残っていたホムンクルスの培養液類を、培養槽に投入。その間にノルディスは、痛みを和らげる薬剤を準備していた。

外科手術は、まだまだ未開拓の分野である。ホムンクルスを作成するときに難しいのは、それが理由の一つとなっている。ノルディスは今後それを極めようと考えているようであり、困難がつきまとうのも無理は無い。

さっとイリスの体に刃を通す。血が当然出てくる。だがノルディスの指示通りに斬ったからか、妙に出血量は少ない気がした。そのまま、痛みを和らげる薬を含ませた脱脂綿で傷口をぬぐいつつ、制御装置を取り外しにかかる。取り外し用のワードを唱えて、定着させていた悪霊を解放。

肉と一体化していた部分もあるが、それは切り離す。はさみを使うかと思ったが、ノルディスが用意してきてくれた刃物を使い、筋肉の繊維を傷めないようにして切り離した。制御装置については、今後使うとしたら、改良が必要になってくるだろう。

イリスは最初に作ったホムンクルスであり、どういうわけかエル・バドールの全盛期に使われていたホムンクルスの魂が宿ってしまった故に、非常に貴重な素材でもあった。ヘルミーナ先生とそれについて様々な話もしたし、戦闘では非力ながら役にも立った。機転は利くし、頭も根本的に良いからだ。

制御装置を完全に外すと、それも一段落したような気がした。今後はこれが無くても良いような気も、一瞬した。だが、これをつけなければ、ホムンクルスでは無い。

しかし、人間でも無い、中途半端な状態になる。

アイゼルはそれでも受け入れるだろう。おそらくはミルカッセも。

だが、他はどうなのだろうと思う。

そもそも、ホムンクルスの作成自体が、倫理を蹴飛ばす行動だ。あまり考え込んでいても、今は仕方が無かった。

イリスの白い肌に、汗が浮かび始めている。体へのダメージが大きいからだ。かなり体に負担が大きい作業だが、今で無ければもう出来ない。失敗したら、もう一度急いでヘルミーナ先生のところに担ぎ込むしか無いだろう。額の汗をぬぐいながら、今度は傷口を塞ぎにかかる。

ノルディスが開発した特殊な糸で傷口を縫った後、培養槽に抱え上げて入れる。

ここに入れるのは随分久しぶりだ。膝を抱えるようにして手足を曲げないと、培養槽に収まらなくなっていた。

しばらくすると、出血が止まった。

呼吸も、安定し始めているのが分かった。培養槽の中の方が、元々そこで育ったイリスにとっては、過ごしやすいはずである。

ドアをノックする音。気配からして、ヘルミーナ先生が、今回のために貸してくれたホムンクルスである。確かツヴェルフといったか。

「マスター・エルフィール。 手術の首尾は如何でしたか」

「順調。 見張り、頼める?」

「かしこまりました。 同胞に似たような処置をするのを見たことがありますから、大丈夫です」

培養槽の前に、ツヴェルフは大まじめに座り込んだ。

彼女から見ると、イリスはだいぶお姉さんに見える。或いは、既にヘルミーナ先生は、成長抑制剤のたぐいをホムンクルスに実戦投入していたのかもしれない。

「抜糸はしばらくしない方が良いね」

「ノルディスさ」

「ん?」

「まだアイゼルには触ってもないんでしょ? イリスの裸は見ていても恥ずかしくないの?」

ちょっとした疑問だったが、そう指摘すると、見る間に純朴な青年は真っ赤になった。

なるほど、手術中は意識を変えていたのか。

「そ、それは、あの、その。 そもそも、どうして、アイゼルが」

「こりゃ、アイゼルも前途多難かなあ」

親友のことを思ってため息をついたエルフィールは、手術の礼を言うと、次のことを既に考え始めていた。

 

培養槽の中で、イリスはぼんやりと、自分を見つめている視線を感じていた。おそらくは、マスターでは無く、同胞。しかもプロフェッサー・ヘルミーナが作ったホムンクルスだろう。

ゆっくり目を開ける。

まだ胸が痛い。だが、制御装置が無くても、自我は保てていた。

今までは、制御装置があったから、いろいろと精神的にブロックがかかっていた。体が回復した後は、また制御装置の改良したものを取り付けられるのだろうか。そうなると、苦しいだろうか。

呼吸は問題なく出来る。

思考は、自由になったのだろうか。そう思って、ぼんやりとホムンクルスを見つめる。向こうもそれに気づいて、見つめ返してきた。

培養液と硝子ごしに、視線が衝突する。

ホムンクルスは立ち上がると、当然のようにその場を離れた。進捗を報告に行くためだ。イリスはぼんやりと思う。

最低のマスターだ。あの人は。

仕事については不満は無い。問題はそれ以外の全て。狂気を秘めた残虐な人。思考が自由になった今、逃げるべきでは無いのかと、思いさえする。

だが、しかし。

不思議なシンパシィも、やはり消えずに残っている。ミルカッセに言ったとおり、今でもあの人を救いたいと思う。

たとえ、自分を殺すために生かしていると公言している相手でも、だ。

マスターが来る。話しかけてきているようだが、聞こえない。唇を読む限り、経過は順調だねとか、またしばらくしたら制御装置をつけようかとか、そんなことを言っているようだ。

制御装置か。

鴉とか言う、あのホムンクルスは言っていた。人間は、最低限の思考の自由も、ホムンクルスには与えなかったと。

それを与えられたイリスは、イレギュラーケースだったのだ。そして今回も、ある程度のブロックは掛かっているとはいえ、基本的な部分で思考に自由はある。

鴉というホムンクルスが自由に考えることが出来ていたら。どうなっていたのだろう。

意識が落ちて、目覚めて。

気がつくと、夜になっていた。マスターは多分眠りに入ったのだろう。見張り役のホムンクルスは、またこっちを見ている。

腹は、減らない。培養液には、必要以上の栄養が含まれているからだ。

ぼんやりと、思う。

自由がほしいと言ったら、マスターは何というのだろうかと。

 

1,つかの間の平和

 

ヘルミーナ先生が、経過を見に来た。

イリスは時々起きているようだが、膝を抱えて基本的に動かない。ヘルミーナ先生はにこにこしながら培養槽をのぞき込み、傷口の状態も確認しているようだった。

「良い状態ね」

「以前と違って、糞尿が何回か出たので、そのたびに培養液は変えました。 ちょっとコストが掛かりますね」

「それくらいはどうと言うことも無いわよ。 私が今まで、この技術を確立するのに掛けたコストに比べればね」

何がおかしいのか、ヘルミーナ先生はけたけたと笑い、不意に静かになった。ぐるうりと振り返るヘルミーナ先生は、表情を顔から消していた。

「どうしたのですか?」

「貴方の作った制御装置を解析したけれど、本当に最低限の思考ブロックしか掛けていないのね」

「はい。 私にスキルが無かったのと、ある程度は反抗されても押さえ込める自信がありましたので」

ヘルミーナ先生の教科書には、制御装置について詳しく書かれていた。

とにかく詳細だったそれには、非常に緻密な思考ブロックについて説明されていた。これは駄目、あれは駄目と、ホムンクルスを愛しているヘルミーナ先生としては意外なほどに、制約が多かったので驚いたものである。

ヘルミーナ先生は、真面目な顔のままで言う。

「その考えは命取りよ。 私は、今まで二回刺された」

「えっ……!?」

「最初は私もね、かわいいと思うままに、ホムンクルスの思考は出来るだけ制限しないようにしていたのよ。 でも、やはり人間とホムンクルスには、大きな差があるのね」

生きた道具。

どこまで行っても、ホムンクルスはその域から出ることが出来ないのだ。

それを考慮すれば、無理も無い話なのかもしれない。

シグザール王国以外の国では、奴隷をそのようにして扱っているという。もちろん、その結果、奴隷の反乱でつぶれた国はいくらでもある。

支配者階級は優秀で、奴隷階級は無能などと考える知恵知らずがいるが、実際には違う。たとえばシグザールのように優秀な王が続き、質実剛健な気風が維持されていればそれも当てはまるかもしれない。

だが支配に慣れると、人間は弱体化する。

幼い頃から戦場に出たり、政情不安な地域で政務を見る訓練をしたり、或いは戦乱で鍛えられたような支配者階級ならともかく。先祖の苦労の結果安全と平和が約束され、奴隷をこき使うことで得られた富に満足したような連中は、人間の格好をした豚も同じだ。教育を多少施されたところで、成人する頃にはスポイルされてしまう。逆に、悪辣な環境で鍛え抜かれた奴隷達はどんどん知恵をつけていく。そして、いずれ逆転される。

あの、エル・バドールも、経緯は違うが、破滅に至ったという点は同じだった。

奴隷の反乱は起こらなかったが、惰弱化の進行は凄まじかった。そして今も、その悪影響から立ち直れずにいる。

ホムンクルスに関するブロックには、やはり人との壁を作るという目的も、あるのだろうか。

「ヘルミーナ先生は、ホムンクルスに対して一方的な愛情だけを注ぐようにしていると聞いています。 それも、刺されたときの体験が原因ですか?」

「そうよ。 私くらい鍛えていても、油断すれば刺されることもある。 まして貴方くらいの腕前なら、ねえ」

「なるほど、肝に銘じます。 でも、このままやってみようかなって思っています」

実際、今までイリスとは上手にやれているのだ。憎まれ口をたたき合ったり、陰湿なやりとりもあったが、別にエルフィールはそれをいやだと思っていない。むしろ自分に対する批判くらい、あるべきだとも思う。そういう意味で、ずけずけエルフィールを批判するイリスは貴重だった。

ヘルミーナ先生は、それを咎めなかった。

むしろ、面白そうにほほえむのだった。

ヘルミーナ先生が帰ると、エルフィールはクノールとツヴェルフにその場を任せて、飛翔亭に出ることにした。仕事の納品もあるのだが、幾らか情報を仕入れておきたいのである。

途中、アイゼルと鉢合わせる。アイゼルは、フィンフをつれていた。

「エリー、イリスは?」

「様態は安定しているよ。 もっとも、ヘルミーナ先生に手術とかのやり方を事前に聞いておかなければ、危なかっただろうね」

「その技術が確立される前に、たくさんのホムンクルスの死骸が積み重ねられたのでしょうね」

「それはもう、屍山血河って言葉の通りだろうね」

その先については、話さない。話しても物別れになるだけだからだ。以前決めたとおり、アイゼルとは会話しない話題をしっかり守って話している。

飛翔亭に到着。久しぶりに見たディオ氏は、随分と老け込んだように見えた。結婚して別居を始めたフレアさんは、当然のようにその場にいない。駆け落ちするよりはましだが、子供が出来でもしたら、飛翔亭にはほとんどこなくなるだろう。

そして、この間のエアフォルクU戦の影響で、軍と騎士団は慢性的な人手不足になっている。もちろん民間から徴兵するようなことは無いだろうが、優秀な人材をあちこちから引き抜いている位だ。

「実は俺にも、騎士団で教官をやらないかって声がきていてな」

「ディオさんだったら、どこでも教官をやれるんじゃないですか?」

「馬鹿抜かせ。 俺がいなくなったら、ベテランを根こそぎ取られた冒険者ギルドの若造どもに、誰がアドバイスするんだよ」

これは事実だ。

冒険者ギルドのベテランは、ほとんど全員が今回の騒ぎで騎士団に引っ張り込まれた。中には長老とあだ名を持つ魔術師も含まれていたらしく、冒険者ギルドはせいぜい中堅どころしか人材がいない状態に、頭を抱えているという。

別の町から優秀な冒険者を引っ張ってこようにも、今ザールブルグでは桁違いの災厄が連続して発生していることは知られているようで、尻込みする連中もいるそうだ。

「そうなると、ルーウェンさんも?」

「あいつはミューと婚約したよ。 それで正式に騎士になった」

「え? ミューさん、結婚やだってあれだけごねてたのに?」

「何でも騎士団から、ルーウェンに見合いの話があったらしい。 女騎士の一人と結婚させて、ついでに騎士にしようって腹だったらしくてな。 それを聞いたミューが、焦ったんだろう」

この間聞いたのだが、ミューはルーウェンを唯一無二の友達だと考えているらしい。他にも友達はいるそうなのだが、ルーウェンは特別。背中を確実に預けられる、仲間の中の仲間であるそうだ。

そこまで言うなら結婚してしまえば良いようなのだが、そう言うとミューはいつもいやがって、なおかつ口を濁す。

多分、結婚にまつわるいやな思い出でもあるのだろう。本人の思い出よりも、両親の事がトラウマになっているのかもしれない。

ディオ氏も、流石に事情については話してくれない。多分知ってはいるのだろうが、軽々しく言うべきでは無いと判断してのことだろう。それについては、エルフィールも同感だ。

とにかく、ルーウェンを取られるのだけはいやだと悩んだ末に、結局自分が婚約することで、騎士団を納得させた、という状況だそうだ。ルーウェンにしてみれば、棚からぼた餅というか、さぞや嬉しかったことだろう。

仕事の話をいくつかする。チーズケーキはどれも好評だが、売り上げが伸びないタイプもどうしてもあった。国によって好みは違う。特に、南国から取り寄せた干し果物を使ったタイプは不評だった。

「それについては、今後はいらん。 あれだ、ヨーグルトの奴に変えてくれるか」

「分かりました。 うーん、おいしいと思うんだけれどなあ」

「それについては俺も同感だ。 だが、他のがもっとおいしいという事なんだろう」

流石に言い方を心得ている。エルフィールもそう言ってもらえると、納得できる。気分は結構悪いが。

チーズケーキの種類をもう二つくらい増やそうかと提案。素材によって、それぞれ究極といって良い形態のチーズケーキを作ることが出来る。もっとも、一種類あたり一ヶ月は開発期間を必要とするが。

「そうだな。 やっておいてくれ」

「私、分かってると思いますけど、卒業したらドナースターク家に入ります。 チーズケーキも単独で発売することは無くなると思いますから、お客様にはその事を伝えておいてください」

「おいおい、へたにそんなこと言うと忙しくなるぞ。 大丈夫なんだろうな」

「問題ありません」

テラフラムについても片付いたし、今のところは気にしないでも大丈夫だ。

アイゼルが、代わって話を始める。彼女もいくつか仕事を受けているが、最近はクレームもほとんど無いらしい。

納品しているのを見るが、目を見張るようなエメラルドの指輪だ。台座は多分金で、非常に精緻な細工がされている。多分指輪の整形から、彫り物まで、全て自分でやったのだろう。

マイスターランクになってからアイゼルの研究室を見に行ったが、内部は鍛冶屋のようで、小型の溶鉱炉まで備えられていた。当然裁縫道具も、見たことも無いようなマニアックな品とか、数百種類はありそうな針とかが並べられていた。

あの様子では、今アイゼルに注文して、出来ないアクセサリは存在しないだろう。服についても、あらゆるデザインの品を作成することが出来るはずだ。

指輪をルーペで見ていたディオ氏は、心底から感心していた。当然であろう。エルフィールだって、満点を出す。

「また腕を上げたな。 これは教師連中にももう引けを取らん」

「ありがとうございます。 でも、今のうちにもう少しコネクションを広げておきたいから、新規の顧客を得たいんです。 もう少し、宣伝を広げてもらえますか」

「おいおい、お前さん、旅に出るつもりなんだろう? それでも大丈夫なのか?」

「どうしても仕方の無い仕事は、旅先でやります。 それよりも、今は来年以降のことを考えておきたいんです」

アイゼルの真剣な様子に、ディオ氏は肩をすくめる。

話が終わると、連れだって飛翔亭を出る。アイゼルは、この戦いで、世界が終わるかもしれないなどとは考えていないのだろう。いや、終わらない先のことを頭に入れている、という事か。

フィンフが、仕事の依頼書をバスケットに入れてついてくる。イリスがいなくなってから、少し落ち着きが出てきているのが面白い。

「影の鏡は、どうでるだろうね」

「騎士団がどうにかしてくれると思いたいところだけれど、正直それでは駄目でしょうね」

「うん。 大空の王の滅茶苦茶ぶりから考えても、次は何をやらかすことか」

「彼らが主という存在の命令で動いているという話は聞いたけれど、その主という人と連絡は取れないのかしら。 話が出来れば、何とか無茶なことはやめるように説得したいわ」

話している内に、アカデミーについた。ここで分かれる。

手を振ってアイゼルを見送る。

そして、自身はカトールのところに向かった。生きている縄を増やすために、適当な悪霊を探す必要があったからだ。

 

夕方、アトリエに帰宅する。また活きが良いのがとれたので、ご機嫌である。墓場に置いてきた縄は、数日以内に使えるようになるだろう。

カトールは占いのたぐいもかなり上手になっていて、もう少しで本業に出来るそうだ。

「ただいまー」

アトリエの中を見回す。クノールはまだいない。

イリスは相変わらず培養槽の中で、うつらうつらとしているようだ。衰弱に関しては、かなり回復し始めている。

数年前までだったら、ここまで劇的な回復は無理だっただろう。ヘルミーナ先生が、技術を確立していなかったからだ。

イリスのことを相談しに行ったときに聞いたのだが、先生が意識を転写する装置を開発して、一気に研究が進んだらしい。それまでと違い、ホムンクルスの意識を保存できるようになったため、より大胆な研究が出来るようになったから、というのが理由であるそうだ。

イリスの培養槽の前で座り込んでいたツヴェルフが、無言のまま荷物を受け取りに来る。二言三言話した後、何だか物足りないと思った。

「ツヴェルフは、イリスのことをどう思う?」

「同胞でありながら、同胞で無いように思えます」

「もしも、今後制御装置を外すとしたら、うらやましい?」

「分かりません。 私たちは、仕事が出来れば幸せですから」

それ以上、会話は必要なかった。

そのまま、二階に行って眠る。

影の鏡に対する攻勢を始める前に、イリスの治療が終わると良いのだけれど。そう、エルフィールは布団に潜り込みながら思った。

 

翌朝。早朝のランニングを済ませて、魔力の杖を使って全身に魔力を通して。

棒術の基礎訓練と応用をして。基礎訓練が終わったところで、イリスの様子を見る。

イリスはだいぶ意識が覚醒する頻度が多くなってきたようである。会話も試みてみることにする。

「痛い?」

頷く。たくさんと聞くと、首を横に振った。あまり痛みは無いが、まだ少し傷に違和感がある、程度か。

培養槽は、ホムンクルスにとって生命のゆりかごも同じだ。栄養をこれで摂取できているからか、もうイリスは糞便をすることも無くなっていた。全裸で膝を抱えたまま浮かんでいるイリスは、ぱくぱくと口を動かす。

唇を読むと、ちょっと面白いことを言っていた。

「ツヴェルフ、貴方ずっと黙ってるんだって?」

「イリスがそう言いましたか」

「そう。 何か話しかけてあげたら? 退屈だと思うし」

「分かりました。 しかし、何を話せば良いのでしょう」

今日の天気とか、食べたものとか、買い物に出たとき何かあったとか。そんなことで良いのだと説明すると、ツヴェルフは大まじめに頷いて話を聞いていた。イリスはあきれたようにやりとりを見守っている。

やっぱりイリスは、ホムンクルスと言うより人間に近い。そう作られたからと言うのもあるのだろうが、ツヴェルフやフィンフと話していると、強くそう思う。

培養槽に向けて、本当に天気や料理の話を始めたツヴェルフを横目に、アトリエを出る。今日は、ドナースターク家に定時報告にでなければならなかった。

既に、季節は春。

空気は爽やかで、若干涼しいことが逆に気持ちよくさえある。

大空の王という超危険な存在が、ザールブルグの近くにあると言うことも、人々の営みを見ていると忘れそうである。途中、車引きで土産を買っていく。長では無く、メイド達へ渡すものだ。女達に渡すものだから、甘いものを厳選して持って行く。

質素なドナースターク家の屋敷に到着。入り口では、特に代わったことも無い。普通に奥に通してもらった。ここのところ、ろくでもない事件ばかり起こったから、トラブル無く中に入れるだけで不思議な気分になる。

メイド長であるマルルが出てきた。頭の良さと抜群の記憶力を買われ、メイド長に抜擢されたこの人は、エルフィールよりちょっと年上なだけだ。だからまだ若いが、最近はしっかりした物腰も落ち着きも備えていて、ぐっと年上に見える。良くしたもので、他のメイド達からも、この若さでお主さんと呼ばれているそうだ。昔はいかにも子供らしい丸顔の、可愛い女性だったそうなのだが。それに、この人が実はとても恐がりであることを、エルフィールは知っている。ただし、素の顔は、長の前でしか見せないらしい。

仏頂面のマルルに、二階に案内される。来客用の応接室では無く、家臣用の小さな部屋に通された。

長が話を直接聞くのかと思ったら、違った。応対に出てきたのは、マルローネさんである。

「や、久しぶり」

「お久しぶりです」

「早速だけれど、大空の王に対するレポート見せてくれるかな。 あたしとしても、今回の件は早めにけりをつけたいの」

「はい。 こちらに」

蜜蝋で封をしたレポートを開くと、マルローネさんは凄い勢いで読み解いていった。

このレポートも、二日がかりで仕上げたものだ。だが、文章というものは、得てして読むのは一瞬で終わるものなのである。

マルローネさんが読み終える。腕組みして唸った。

あの戦いの時、マルローネさんは確か南の方の戦線に展開していたと聞いている。エアフォルクUの調査をしていたのかもしれない。

「なるほど、生きた超巨大爆弾とは聞いていたけれど、これは面倒だわ」

「アイゼルの機転が無ければ、多分今頃シグザール王国もドムハイト王国も、まとめて歴史の闇ですよ」

「そうね。 全く、主とやらは何を考えているんだか」

金色の髪を、マルローネさんが掻き回す。

いろいろな話を総合する限り、その主とやらは人間の可能性について探っているらしい。だが、一歩間違えれば人間が滅ぶような攻撃ばかりを繰り返されているのは、どういうことなのか。

可能性が無ければ、消えろとでもいうのか。

主が神か、それに類する存在か、それは知らない。だが、エル・バドールで三百五十年前に起きたマイナスパラダイムシフトにも関与しているとなると、はっきり言って人類にとっては有害だ。エル・バドールは明らかに負の進化を遂げようとした後、自壊するようにして現在の状況に落ち着いた。そして今に至るまで、そのダメージから回復できていない。

この世界は人類のものである。

有害となれば、神だろうが悪魔だろうが、排除するしか無いだろう。

「主とやらの居場所については? マルローネさんは知りませんか?」

「それがねえ、面白いことが分かったのよ」

「面白い、ですか?」

「どうやら鴉だっけ。 あのホムンクルスやその仲間も、居場所は分からないみたいよ」

それは、ある意味激しく絶望的だが。だがしかし、面白いことではあった。

鴉という奴が一人だけでは無く、その仲間が何名かいることは既に調べがついている。聖騎士エリアレッテはその仲間の一人をぶち殺し、サンプルを錬金術アカデミーに提供してくれた。

その交戦時の情報を、マルローネさんは騎士団を通じて入手したらしい。

残念ながら、今エリアレッテは入院中だ。影の鏡の一つをつぶすことには成功したらしいのだが、相打ちになるようにして大けがしたらしい。じきに復帰は出来るだろうという話だが、今はまだ面会謝絶である。少なくとも表向きは。或いは、騎士団と影の鏡に関する対策で、表に出てこられないのかもしれない。

「つまり、鴉だのなんだの鳥の名前をつけられてるホムンクルス達は、顔も見たことが無い相手の言うことをハイハイ聞いて、馬鹿なことをしでかしていた、と」

「ホムンクルスを作ったから知っているだろうけど、あれは生物としては極めて脆弱なのよ。 思考の制御技術も、おそらくエル・バドールではこちらよりも遙かに進んでいたはずだしね」

「それは分かります。 頭に来ますけど、ヘルミーナ先生のところのクルス達だって、先生が人殺せっていったら実行するでしょうし。 つまりホムンクルス達を作り、彼らの主と名乗っている阿呆が何処かにいる。 しかもホムンクルス達には、遠隔で指示を与えていると」

「そういうことね。 考えて見ると、おかしいことばかりじゃない」

マルローネさんは、邪悪な笑みを浮かべながら言う。

つまり、ホムンクルス達よりも先に主とやらを見つける好機なのかもしれない。そして、見つけ出して葬ることが出来れば。

残った奴は、一網打尽に出来るだろう。影の鏡も、停止させることが出来るかもしれなかった。

もちろん危険な作戦だが、達成できれば功績は計り知れない。

「それにしても、主って何者なんだろう。 ミルカッセさんが言うみたいに、本当に神様に近い存在なのかな」

「同一の個体だとは考えられないですよね。 エル・バドールのマイナスパラダイムシフトは、三百五十年も前の事です」

「賢者の石を使って寿命を延ばしていけば或いは。 ううん、材料がそう都合良く手に入るとは思えないしなあ」

腕組みしたマルローネさん。

ドアがノックされて、アデリーさんが入ってくる。右手に盆を持ち、ティーカップを乗せていた。

「あ、私が淹れます」

「良いから」

立ち上がり掛けたエルフィールを制すると、アデリーさんはお茶を淹れてくれる。滅茶苦茶に上手い。白磁のポットから注がれるミスティカ茶は、一滴もこぼさずカップに入り、しかも適温が保たれていた。

アデリーさんは、マルローネさんの養子である。となると、アトリエでさんざん鍛えられたのだろう。

茶菓子も出た。流石にドナースターク家である。蜂蜜を練り込んだおいしい焼き菓子である。しばらく舌鼓を打ちたいところだが、早々と茶を飲み終えたマルローネさんが、話を進める。

「アデリー。 ちょっと後で頼みたいことがあるんだけど」

「分かりました。 下で準備をしておきます」

エルフィールも、当然参加することになるだろう。

ちょっと残念だと思いながら、エルフィールはカップを傾けた。

 

2、台座へ

 

エアフォルクUは、未だに其処にそびえ立っていた。

周囲は騎士団が厳重に警備しており、内部の方も毎日巡回を欠かさない。外部と内部では明らかに大きさが異なっているこの塔は再生能力も持っているため、時々調合した薬剤で、入り口付近を焼き切らなければならなかった。普段はアカデミーでやっているのだが、たまにエルフィールにも調合の依頼が来る。

マルローネさんと、護衛のドナースターク家武官数名、それにアデリーさんにつれられて、エルフィールは塔に入る。マルローネさんはもう何度となくこの中を調べたようで、まるで自分の家の庭のように迷い無く歩いていた。

「今日は最上階まで行くわよー」

マルローネさんは、とても楽しそうだ。薄暗い塔の中、巨大な階段を踏みしめて上がっていく。塔の外壁に沿ってらせん状に作られているこの階段は、うっすらと発光していて、足を踏み外す恐れは少ない。

既に、中の解析は済んでいる。どこからクリーチャーウェポンが射出されていたかなども判明していて、穴は全て塞がれていた。もっとも、大型のクリーチャーウェポンの場合、そんな蓋など苦にしないかもしれないが。

階を上がっていく。激しい死闘を繰り広げて、多くの騎士が傷ついた。それ以上に、クリーチャーウェポンも大量に死んだ。

今でも、あちこちに死闘の跡が残っている。傷は自動的に修復されるようだが、飛び散った血や臓物の名残は、彼方此方に染みとなって点々と存在していた。ここで多くの血が流れ、命が消えていった証拠である。

マルローネさんについて、どこまで上がれば良いのか分からないほど高い塔を、黙々と上がる。

だが、この塔も無限の内容積を持つわけでは無い。やはり、二十数階層で、行き止まりに打ち当たった。

ここで、鴉と戦った。冬椿で仕留めたとき、床に巨大な傷が出来たのだが。今では、すっかり修復されている。それにしてもこの塔、いったいどうやって操作していたのか。今は魔力の杖を持ってきている。魔力を通した目で周囲を観察しているのだが、それらしい機構は見当たらない。

そうなると、完全に機械的な操作をするのか。しかし、一階からここまでに、それらしい部屋は見当たらなかった。

隠し部屋か、隠し階段か。どちらかがある可能性は、否定できないだろう。

マルローネさんが、何か懐から取り出す。

小さな三角形をした、板状の物体だ。赤くて、縁は黄色くなっている。色はどうも自然界には存在しそうに無い蛍光で、目にどぎつかった。

「マルローネさん、それは?」

「鴉と、あと椋鳥だったっけ。 死体を調べて、体内から出てきた共通の物質。 一つはアカデミーにある。 もう一つを、ちょっと借りてきたのよ」

「へえ−。 或いは、それが制御装置でしょうか」

「うーん、どうだろ。 重要臓器からは少し離れて、腹の脂肪の中に入っていたらしいからね。 ちょっと分からないわね」

布で丹念に拭きながら、マルローネさんは辺りに三角形をかざし始める。

丁寧に壁から床まで、じっくりと。その間、エルフィールは壁や床に、違和感が無いか調べ上げていった。アデリーさんは武官達と一緒に、周囲の護衛をしてくれている。非常に心強い。

壁の一角に、赤い光を放っている部分を発見。しかし、三角形では無い。警報装置か何かだろうと思って、通り過ぎる。だが、マルローネさんがそれに近づくと、不意に天井から音がし始めた。

そして、他の階と同じように。

壁の外周に沿って、階段が、壁からせり出してきたのである。

「よし、正解。 やっぱり、鴉とかってホムンクルスが近づくだけで動くように設計されていたみたいね。 アデリー、前衛。 他は後ろからの奇襲に警戒」

「分かりました」

最前衛にたったアデリーさんが、階段を上り始める。

他と同じような構造だから、特に上っていて違和感は無い。だが、この上は未知の領域だ。クリーチャーウェポンが、大勢潜んでいてもおかしくは無い。何しろこの塔の上部からは、五万に達するクリーチャーウェポンが出現して、騎士団に襲いかかったのだ。

他の階に比べて、特別に天井が高いという訳でも無い。階段を上り終える。

アデリーさんが足を止めて、頭上に視線を向けているのが見えた。

部屋の中央に、何か球体のようなものが浮いている。それだけではない。部屋の周囲には、どう見ても操作をするためらしい機械類が、大量に設置されていた。培養槽らしいものもある。殆どが空だったが、中には肉塊が入っているものもあった、

その中の一つは、どう見てもホムンクルスである。おそらくは、こんな感じで、鴉とやら達は作られたのだろう。

敵の中枢に達したのだ。

「すぐに騎士団に連絡」

「分かりました」

武官が三人、連れだって降りていく。

辺りには操作をするための盤らしいものが大量にあり、ボタンがたくさんつけられていた。触るのは危険すぎる。塔がまた動き出しでもしたら、洒落にならないからだ。逆に、下手に壊すのもやめた方が良いだろう。どんな状況になるかも分からない。

それにしても、広い空間だ。下の階と比べると、何十倍も面積があるように見える。やはり、外から見える塔と、内部では、全く別の構造になっているという事が、これだけ見てもよく分かる。

「マニュアルは無いのかなあ」

マルローネさんが、彼方此方をごそごそ探っている。ボタンには触れないようにはしているが、見ていてちょっと心配だ。エルフィールよりもかなり大胆に、危険に突っ込んでいく。

壁に、何か文字が書かれている箇所を発見。

手帳を取り出す。明らかに、古代エル・バドール語だ。マルローネさんを呼んで、一緒に解析を開始。

「ふむ。 台座、ねえ」

「何でしょうか。 この塔の、正式名称?」

「可能性は否定できないけれど。 ふむふむ、台座に至るには、人という種族の未来を見極める必要がある。 人の未来を確認したとき、我らは大いなる意思に迎えられ、一つになる事が出来るだろう」

標語か何かだろうか。

何だか知らないが、迷惑な話である。主とやらが何者かは知らないが、結局自分のために人類を滅ぼしかけたり、もてあそんでいるようにしか思えない。

他には、何か無いのか。見て回るが、プレートらしきものはない。

天井に浮かんでいる球体も気になるが、それ以上にこの空間そのものが異質だ。まるで、別の世界に迷い込んでしまったかのようである。

ぞろぞろと、下の階から人が来た。話を聞きつけて、騎士団が来たのだろう。なんと、その中の一人は騎士団長エンデルクである。

流石に一礼するマルローネを制止すると、長い黒髪の騎士団長は、辺りを見回した。

「これは、不可思議な部屋だな」

「はい。 敵の中枢かと思われますので、現在調査中です」

「分かった。 調査に役立ちそうな人員を、複数回そう。 出来るだけ早く、レポートをあげてくれ」

「分かりました」

ぞろぞろと、騎士団の人たちが戻っていく。

今日は遅くまで帰れそうに無いなと、エルフィールは思った。

 

いったん調査を終えて全員が出ると、勝手に階段は壁に収納された。自動で動くようになっている様子だが、これは不便だ。後で、塔を巡回している騎士団に話をしておかなければならないだろう。

塔を出ると、既に外は真っ暗だった。

「お疲れ。 一杯引っかけてく?」

「いえ、イリスの様態がまだ安定していませんから。 次の機会に、是非……」

言葉を止めたのには、理由がある。

その場にいる全員が、唖然として動きを止めていた。

塔の最頂点部分が、光り始めたのである。すわ、またしてもクリーチャーウェポンの出現かと、その場の全員が緊張する中、塔は光の道を、東へと飛ばした。一筋の光の帯が、ただ東へとのび続けている。

何か触った、という事はないはずだ。しかも東となると、ザールブルグでも無い。微妙に東南に延びているし、それに触って危険がありそうな光にも見えなかった。

すぐに騎士団が騒ぎ出す。

「或いは、台座とやらへの道しるべだったりして」

「調べてみる価値はありそうですね」

マルローネさんはため息をつくと、残業確定だとつぶやいて、現れたエンデルクに話を始めた。エルフィールも、このまま帰ることは出来ないだろう。

いったん天幕に移る。塔の中を調べているときに、特におかしな事はなかったと、エルフィールは説明した後、気づく。

ひょっとすると、あの台座の説明。

あれを口にしたのが、まずかったのか。だが、それにしてはおかしい。調べてから、随分時間が経ってから、塔に異変が起きた。或いは、口にした人間が、外に出たのがトリガーになったのかもしれない。

仮説に過ぎないが、と前置きしてエンデルクに話す。

長髪の騎士団長はしばらく無言でいたが、首を横に振る。

「いや、それは本当に根拠の無い仮説に過ぎないな」

「そうですね。 それに関しては、同意します」

「これから騎士団を派遣して、光の先に何があるのかを見極める。 何かしらのものが見つかった場合には、君も調査に同行するように」

「分かりました」

それは、光栄なことだ。

マルローネさんも来るとなると、とても面白い調査のたびになりそうである。

他にもいくつかその場でレポートを書かされて、提出してやっと帰ることが出来た。マルローネさんも流石に一杯引っかけるどころでは無く、ドナースターク家の屋敷に引き上げていく。最近はそちらにあるアトリエに寝泊まりしているらしい。

エルフィールも、今のアトリエが気に入ってはいるが。いずれ、もっと大きいアトリエで、自分の好きなように研究をしたいものである。ただ、マルローネさんくらいになると、成果は上げて当たり前、という風になるだろうし、しかもテクノクラートとしての仕事もしなければならない。充実はしているが、非常にスリリングで、なおかつ忙しい事になるだろう。

流石に多少疲れた。街道を通ってザールブルグに。町中に入って明かりを見ると、少しだけ安心した。

そのままアトリエに戻る。

イリスは、まだ回復まで時間が掛かる。しかし、もしも探索が必要となるとすると。イリスも連れて行きたいと、エルフィールは思った。ツヴェルフが、相変わらず抑揚の無い口調で説明してくれる。

「イリスの様態ですが、傷の回復は順調です。 悪い要素は、特に見当たりません」

「それは良かった」

「このままだと、傷そのものは一週間程度で回復します。 ただ、拒絶反応でダメージを受けていた体の方は、もう少し快癒まで時間が掛かるかと思います」

「うーん、そうだよねえ」

実際、今まで拒絶反応が、殆どのホムンクルスを死に至らしめてきたのだ。

ヘルミーナ先生がずっと時間を掛けて開発してきた技術である。だが、それをもってしても、一朝一夕で回復、というわけにはいかないだろう。レシピのままに、いくつか追加する薬剤を調合。

どれも、人間だったら毒になりかねない、強い薬ばかりだった。

培養槽に追加の薬剤を投入した後は、二階に上がって寝る。イリスが隣で寝ていないと、妙に落ち着かなくていけない。あの憎まれ口や、目が覚めていない時の無防備な表情は、嫌いでは無い。

娘と言うよりも、対等の批判者であり、喧嘩友達でもある。

それは、エルフィールにとって、イリスという存在の本質なのだろう。

目を閉じて、眠りに入る。無理矢理にでも眠る技術は身につけているから、そうするとすぐに落ちることが出来た。

 

翌日も、塔からは光が伸び続けていた。

繋ぎ狼煙が上がっている。多分東の方に駐屯している部隊と、連絡を取り合っているのだろう。

早朝にヘルミーナ先生のところに出て、イリスのカルテを渡す。まだ意識が戻る時間は少ないので、口頭での体調確認は出来ないが。ある程度、見た目の変化や、魔力の杖を使っての魔力の流れの確認で、分かることはある。

内臓系に出ていたダメージは、かなり回復してきている。以前はそれこそ重要臓器にまでダメージが浸透していたのだが、今はそれも順調な回復に向かっていた。

しばらくレポートを見ていたヘルミーナ先生だが。

不意に、顔を上げると、話を始める。

「エルフィール。 問題」

「はい。 何でしょうか」

「培養槽で、人間は回復できるか、否か」

「条件さえ整えれば、出来るかと」

今のイリスは、殆ど人間と同じ存在だ。それが回復しているのだから、多分人間にも出来るだろう。

しかし、ヘルミーナ先生は、首を横に振る。

「答えは、出来ない、よ」

「実験を既にしたんですか?」

怪しくほほえむと、ヘルミーナ先生はエルフィールの答えには触れずに立ち上がり、クルスの一人の頭をなでながら、窓際に立った。

「培養槽の中で育てられたホムンクルスはねえ。 培養液の影響を、予想より遙かに大きく受けている様子なのよ。 つまり、人間と共通する部分は非常に多いけれど、その一方でどうしても根本的なところから、人間と違う部分もあるの」

たとえば、培養液の中に入れると、人間は溺れる。

当然の話だ。

この辺りの仕組みは、まだヘルミーナ先生も分かっていないという。死んだホムンクルスを使って解剖などはしているようなのだが、結論はまだ出ていないのだとか。

また、そもそも培養液そのものが、人間にとっては毒性の強いものなのだそうだ。それについては知っていたが、考えて見ればホムンクルスにだけ薬になるというのも、おかしな話であった。

しかし、共通する部分も多い。

子供を作ることだって出来る。そして、生まれてきた子供は、人間の筈だ。

「ホムンクルスって、何なのでしょうね」

「ヘルミーナ先生に分からないのであれば、私にはとうてい分からないと思います」

「フフフフフ、未だに謙虚なところは好きだけれど。 ただね、これに関しては、経験はあまり関係ないとおもうのよ」

ヘルミーナ先生は、なぜだかおかしそうに、笑い続けていた。

しばらく待つが、笑いやみそうも無い。ホムンクルスが袖を引いた。もう退出しても良いというような意味だろう。この辺の微妙な意思疎通を見ていると、なんだかんだいってもヘルミーナ先生とホムンクルス達は仲が良いのだと分かる。

先生の部屋を辞去すると、隣に。イングリド先生の部屋である。

イングリド先生はというと、既に騎士団から報告を受けているらしい、塔からの光について調べている様子だった。地図上で難しい図面を引いて、腕組みして考え込んでいた。周囲にはエルフィールの後輩も含む複数のマイスターランク生徒がいて、いろいろと資料を運んで行き交っている。

「エルフィール。 来ましたね」

「イングリド先生、光についての調査ですか?」

「全く、次から次へと。 貴方はマルローネと同じく、行った先で何かを起こしますね」

そうは言われるが、イングリド先生の口元には笑みがある。悪くは思われていないのだと分かる。

イングリド先生に手招きされて、地図をのぞき込む。

見たところ、繋ぎ狼煙からの合図を元に、光が伸びた先を割り出している様子であった。それにしても、ザールブルグの少し南から、東へと大胆に伸びてくれているものである。線は豪快に、東に向けてばく進していた。

「これは、ドムハイトまで伸びていますか?」

「いいえ。 この地点では、光は観察されていません」

そう言ってイングリド先生は、ドムハイト領内にある山を指した。ドムハイト領内といっても、南北に分かれて内戦中の国である。牙の精鋭が潜入するのは、それほど難しくは無いのだろう。

そして、イングリド先生は地図上の一点を丸で囲む。

見覚えがある。確か、デモンズ高地。

この世界にいくつかある秘境と呼ばれる地域である。人間が大人数で入るのはとても難しかったり、或いは環境が厳しかったりして、殆ど記録が無い地域。とはいっても、中に入って戻ってきた人間はいる。単に生活環境として適さないから放っておかれているというのが、秘境と呼ばれる地域の真実だ。

このデモンズ高地の場合、非常に寒暖差が激しい上に、衝立のような山がそびえ立っており、そもそも土地が著しくやせているので、農耕には適していない。牧畜も難しい状態である。

その上、この辺りは長らくドムハイトとシグザールの国境地帯であった。

こういった隙間的な地域には、山賊や犯罪者が逃げ込むことが多く、自然などより切実な脅威となる。

最近は騎士団による掃討作戦も行われて山賊の噂も聞かないようだが、当然のことながら奥地でほそぼそ暮らしているような連中はいることだろう。秘境とはいっても、人跡未踏では無いのだ。

「そうなると、ここの調査をしなければならないですね」

「既に、騎士団から話が来ています。 貴方とキルキとアイゼルとノルディス。 それに、監査役として、私が同行します。 私は補助として、フランソワを連れて行くことにします」

これは豪華な面子だ。黄金世代のトップを独占した仲良し四人組に、フランソワまで加わるのだから。

しかし、戦闘があるのを前提として動かなければならないだろう。

影の鏡がどう動くか気になる。まさか塔の仕掛けを知らなかったというようなことも無いだろうし、この機に動かないというのも考えにくいことだ。たとえば精鋭をそちらに向けさせれば、ザールブルグはそれだけ手薄になる。その機を突けば、普段よりも楽に暗殺や破壊工作をこなせるだろう。

クライス先生が来た。エルフィールを見ると、眼鏡を直しながら言う。

「これはエルフィールさん。 どうしましたか」

「はい。 デモンズ高地にいく話を、イングリド先生としていました」

「そうでしたか。 私は戦闘が得意では無いから、危険地域には同行できません。 武運を祈っていますよ」

クライス先生は、分厚いレポートを持っていた。臭いが変だ。これは、肥の臭いだろうか。

こんな研究者肌の人が、畑で鍬を振るうわけも無い。何となく何をしているか分かったが、それは敢えて口にしないでおく。

「では、出立は四日後になります。 南門に集合してから、二月の往復予定です」

「……急、ですね」

「現地に駐屯している騎士団の報告によると、やはり異変が始まっている様子です。 威力偵察も兼ねなければなりませんから、急ぐ必要があります」

これは思ったよりも厳しい旅になりそうだ。

準備も、それなりに整えないと、危険そうだ。

それに、これはあくまで勘だが。主とやらの決戦が行われるとしたら、デモンズ高地のような気がする。エルフィールは武者震いすると、己の武術の総決算をするべく、アトリエに戻って準備を始めたのだった。

 

影の鏡は、闇の中を急いでいた。ザールブルグの南に広がる森は広大で、どこまでも続いている。森の海とは、よく言ったものである。

これほど急いでいるのには、理由がある。

台座への路から、終焉の光が発せられたのを確認したからである。もう一つ二つシグザール王国に攻撃を仕掛けてやろうと思っていたのだが、どうやらそれどころでは無くなりそうだ。

鴉と椋鳥は死んだ。

梟をはじめとする他のホムンクルス達も、あの光を見て集まり始めているはずだ。いよいよ、数百年、いやそれ以上に渡って続いた、干渉の歴史が終わるときが来る。主がそれを判断する可能性がある以上、その場にいなければならない。

影の鏡は、そもそもエル・バドールの技術者に、主が作らせた戦闘用ホムンクルスだ。だから元々エル・バドールのクリーチャーウェポンであるにも関わらず、主に従って行動している。

鴉に起動されて、ずっとシグザール王国壊滅のために動いては来たが、主に関することが起これば優先順位も変更される。全力で台座に向かっているのも、それが理由であった。

気配がついてくる。

間違いない。エリアレッテであった。前に三位一体の一つをつぶされたとき、相当な重傷を負わせてやったはずなのだが。もう復帰したとなると、恐るべき回復力である。今度は首でもはねなければ安心できない。

「さて、どうするか」

「私が引き受けましょうかぁ?」

「いや、ここは台座まで急ぎましょう」

同じ口から三様の口調で、影の鏡はしゃべると。高く高く跳躍した。ただ、木を蹴って、である。

二つの影が、虚空に舞い上がる。

飛来する、無数の投げナイフ。だが、一瞬早く、巨大な鳥が二つの影を浚って、更に高くへ飛んでいた。

アードラの中でも、速度を最大限に重視して作り上げた、シャドウクロウと呼ばれる品種である。夜行性の上に人間があまり足を運ばない地域にしか生息させていないので、ザールブルグの人間にしてみれば未確認生物に等しい。

一つをかぎ爪に掴ませ、もう一つは背に上がる。シャドウクロウの首筋を叩くと、影の鏡は命じる。

「東へ飛びなさい。 高度はこのままを維持」

シャドウクロウの瞳には、感情が一切宿っていない。一声無くと、巨鳥はただ東へと飛び続ける。

さて、主はどう判断するのか。それが、影の鏡には、不謹慎ながら楽しみではあった。

 

飛び去った鳥を見送ると、エリアレッテは木から下りた。下では、クーゲル師が待っていた。

「有効打は無しか」

「残念ながら。 前に倒したホムンクルスとは、やはりものが違うようです」

エリアレッテは、まだ体が本調子では無い、というような言い訳をしなかった。施療院から無理を言って出てきたのである。成果を上げられないのは、自業自得といえた。

しかし、敵は三体では無く、二体に減っていた。補充は、やはり短時間では出来ないのだろう。

それが分かっただけで上出来である。

「エリアレッテ」

「師?」

「おまえに、今。 免許皆伝を授けよう」

不意に、クーゲルがそんなことを言い出す。思わず動きを止めたエリアレッテに、クーゲルは愛用の筈の、巨大な戦槍を差し出した。

クーゲルが、己の衰えを嘆いていることは、エリアレッテも知っていた。だが、まだ現役だと言って、いつも並の若い騎士では及びもつかない量の訓練をこなし、実際とてつもない力量を維持してきたのだ。

まだまだ、師は現役でいてくれる。そう思って、安心していたのに。

不思議だ。涙が、流れてきた。

「そのような、弱気にならないでください」

「いや、今しか無い。 今確認したが、おまえは儂の全盛期に近い実力を得ている。 今なら、おまえに後を託せる」

「師!」

クーゲルは、人中の悪鬼であった。

人間破城槌の異名を持ち、エリアレッテ以上に多くの人間を殺し、圧倒的な実力で既に引退していて当然の年でありながら、騎士団の重鎮として影の権力を握っている。

エリアレッテが、アデリーに完膚無きまでにたたきのめされて、クーゲルの所に行ったのは、いつのことであったか。頭の悪いお嬢だったエリアレッテに、本物の戦いと狂気を教えてくれた師は、おそらくエリアレッテにとって第二の親であり、最も心許せる相手であった。

それが。なぜ。

どうして、引退するなどと。今こそ、後ろで支えてほしいのに。

「おまえは、体のダメージがありながら、それでも敵との戦力差を冷静に分析することが出来た。 その冷静な計算、己の肉体を完璧に制御できる意思力、そして何よりも戦場での狂気。 いずれもが、儂の後継として相応しい」

「そんな、師はまだ」

「もう良いのだ。 儂は今、敵を見て追うことを諦めてしまった。 悪鬼クーゲル=リヒターはこの時死んだ。 たとえ地獄の底まででも敵を追いかけ、八つ裂きにしてきた儂の狂気は、既に老いとともに霧散してしまったのだ」

震える手で、槍を受け取る。力強い手だ。だが、師匠は戦闘で、敵を追うことを諦めてしまった。分かる。確かに、それはもう、クーゲル=リヒターではない。傷の様子から冷静に撤退を判断したのでは無い。心が負けたのだ。

師は笑わない。ずっと厳しい表情で、エリアレッテを見ていた。

「おまえは、儂の戦闘スタイルを完璧に受け継いでくれた。 今度はおまえが、戦場で最強の存在となり、儂の狂気と力を、次の世代に受け継げ。 儂の考えが間違っていなかったことを、証明してくれ」

「わかり、ました。 この槍と、斬竜剣にかけて!」

涙をぬぐい、エリアレッテは大きな大きな戦槍を背負った。これで、クーゲルの力は、エリアレッテの中に引き継がれた。クーゲルは素手でも、まだまだその辺の騎士など数秒でねじり伏せる程度の力を持っている。

だが、その強さは、狂気と、それに起因する精神に支えられていたのだ。

それは今、エリアレッテに受け継がれた。

「必ずや、敵を八つ裂きにして参ります。 血を浴び、肉片を飛び散らせるまでは、帰りません」

「うむ。 そしてその狂気を引き継げ。 そうすることで、シグザール王国騎士団は、未来永劫最強の名を恣にすることが出来るだろう」

敬礼する。クーゲルも、完璧な敬礼を返してくれた。

エリアレッテは振り向かない。いったん近くの騎士団詰め所に出て、それから敵を追う算段をする。

殺す。引き裂く。八つ裂きにする。ただそれだけがために。クーゲルの狂気と、戦場での信念を受け継いだのだ。ならばその名前を、絶対に辱めてはならなかった。

 

アトリエで、マルローネさんが待っていたので、エルフィールは驚いた。

しかも、培養槽から、イリスを引き上げているでは無いか。マルローネさんのすることを止める気は無いが、説明は聞きたかった。

「マルローネさん。 イリスを、どうするつもりですか?」

「それは、イリスに聞いて? あたしも今来たら、頼まれた所だから」

マルローネさんはくすくすと笑う。既にドナースターク家にて長の右腕とも呼ばれているこの人は、底知れぬ闇と狂気を秘めている。それを上手に使って、コミュニケーションの中に織り交ぜてくる。

イリスはまだぼんやりしている様子だ。クノールが、手際よくタオルを持ってくる。

培養液は水では無い。まず体を水拭きして、それから下着をつけさせて、服はその次である。体力が落ちているところだから、てきぱきとこなさないと風邪でも引きかねない。幸いここには女と妖精しかいないので、作業はスムーズに進んだ。

アイゼルが作ってくれたよそ行きの服を着せて、やっと一段落した。まだぼんやりしている様子のイリスだが、見ただけで分かる。完全回復は、していない。その上、制御装置も外している状態だ。

「イリス、どういうこと? 説明してくれるかな」

「もう少し待って」

マルローネさんに、柔らかく制止される。といっても、マルローネさんも優しさからそうしているのでは無く、単純に知的好奇心からの行動だろう。

イリスに、クノールが暖かい茶を持ってくる。しばらくぼんやりと茶をすすっていたイリスは、やがて、エルフィールを見た。

「あれ? マスター?」

「起きた?」

「はい。 培養槽は?」

「今、出したところ。 で、なんで出たかったの?」

イリスは、今極めて中途半端な状態だ。制御装置が無いから、人間だともいえる。しかしながら、生まれにしても育ちにしても人間だとはいえない。

しかも、今までついていた精神的な押さえが外れているから、どのように暴発するかも分からない。エルフィールにしてみれば、いつ本気で刺しに来るか分からない相手である、ということだ。

もっとも、それは別にかまわない。むしろ緊張感があって楽しいくらいだ。

「鴉が言っていた「主」と、決着をつけに行くと聞きました」

「ん? ちょっとそれは違うよ」

「え?」

「その「主」がいるかもしれない場所に、これから出かけるの。 まだ調査の段階で、いるかどうかも分からないよ」

実際には、八割以上の確率でいるだろうとエルフィールは踏んでいるが、今は敢えてこう応えておく。

だが、イリスは多分即座に見抜いたのだろう。いつものように毒舌を回した。

「最低。 いるって、見当はついてる癖に」

「へー。 噂には聞いていたけど、毒舌ね」

「ははは、躾に失敗しまして」

マルローネさんの手前、ちょっと恥ずかしい。だが、普段と違い、今日はイリスが知った風では無いと言う風情である。

「その場に、私を連れて行ってください」

「どうして? 確かにイリス、貴方はエル・バドールで原型となったホムンクルスと、同型かそれに近い存在なのかもしれない。 でも、「主」とやらとは関係ないでしょ」

「関係あります。 あの鴉というホムンクルス、私の面影がありました。 きっとエル・バドール人に私という呪われた技術を教えたのは、「主」って存在です」

鋭い。ホムンクルスにしておくには惜しい。

エルフィールもそれは同じ見解である。にやにやしてやりとりを見守っていたマルローネさんが、竜の一声。

「連れて行ってあげなよ。 いや、連れて行くべき」

「マルローネさん。 でもこの子、今病み上がりで、しかも制御装置が無いんですよ」

「思うに、制御装置を外しても、この子はイリスだよ。 なら、それで良いんじゃ無いのかな」

それも、分かってはいた。

何よりも、マルローネさんの言葉である以上、上司命令も同じである。肩を落とすと、エルフィールは朱槍を取った。

「分かりました。 マルローネさんがそう仰るなら。 イリス、病み上がりなんだから、無理はしないこと。 私から離れないこと。 それに、自分の身は自分で守ること。 いいね?」

「そんなの、当たり前です」

まだちょっと足下がおぼつかない様子だが。イリスは立ち上がる。

そして朱槍を取ると、裏庭に出て、振るい始めた。型は、最初の頃に比べると、随分しっかりしてきている。力を入れるタイミングがまだ若干怪しいが、それでも充分に普通の人間、たとえば少人数の盗賊くらいからなら身を守れるだろう。錬金術の生成物に関する知識は豊富だから、支援役としては十分な活躍を見込める。

「あの子、面白いわねえ。 解剖してもいい?」

「駄目です。 あれを殺す権利は、私にしか無いんです」

笑顔で言うマルローネさんにエルフィールは返しながら、名簿を受け取る。

どうやら、今回の作戦に参加する人員のものらしかった。さっきイングリド先生が言っていた三名に加えて、神関連の専門家であるミルカッセ、騎士団の何名か。それに途中で湖があるらしく、船を操作する人員としてユーリカの名前があった。

「ユーリカさん、久しぶりだなあ。 何してるんだろう」

「軍の仕事を受けながら、漁師としても活動しているみたいよ。 今回も、内陸はいやだとかぶつぶつ言いながら、来てくれたみたい。 もっとも、ザールブルグまで来ているんじゃ無くて、この辺りの町で合流することになるけれど」

途中の経路についても話をする。

街道を通って最初の数日はいけるが、問題はその後だ。秘境と言うこともあって、行くまでに路が整備されていない。当然猛獣の襲撃を警戒しなければならないし、場合によっては悪魔やドラゴンなどとの交戦も想定する必要がある。

上級の魔物や、その代表格であるいわゆる悪魔は、人間には種族として勝てないことを知っている。だからコミュニティも作らず、ひっそりと人里離れた土地で暮らしていることが多い。今回の秘境では、そういった連中と遭遇戦になる可能性がある。当然の話だが、単独の素人が手に負える相手ではない。集団でしかるべき戦術を使えば、手も無くひねることは出来る。

今回は、少人数での出撃だ。しかしながら、騎士団の精鋭が同行する。条件はかなり有利である。そんな状況だから、勝てないとは言わないが。

もしも主とやらと戦うことを想定すると、出来るだけ消耗は押さえなければならないだろう。

「魔物戦の専門家が一人か二人、ほしいですね」

「あたしじゃ不足?」

「えっ!? 同行してくれるんですか? ありがとうございます!」

流石に長は今回出られないそうだが、その代わりマルローネさんが同行してくれれば百人力だ。更にイングリド先生もいるし、大概の相手に後れを取ることは無いだろう。

後は、ドラゴンなどと遭遇した場合だ。人間が大人数で現れれば、年老いたドラゴンは必ずこちらを避ける。しかし若い馬鹿なドラゴンは攻撃を仕掛けてくる場合があり、その時は殺す必要がある。

まあ、今回は騎士団の精鋭が同行するのだ。これに関しても、専門家を一人か二人、入れてもらえば大丈夫だろう。マルローネさんも、ドラゴン狩りには詳しそうだし、問題は無いはずだ。

そうなると、人員面での問題はなさそうである。後は物資か。

往復で一ヶ月程度の食料は、騎士団が提供してくれるはず。更に言えば、何も今からいきなり人跡未踏の地に入るわけでは無い。途中の町などで、補給は可能だ。問題はそれ以外の物資である。天幕は普段使っているものがあるから良いとして、クラフトは少し数が足りない。調合して、備えておく必要があるだろう。後は医薬品類だ。騎士団も蓄えを持ってきてはくれるだろうが、こちらでも用意はしておかなければならない。

ロープやザイル、フック、ナイフと言った、登山用品も必要だ。デモンズ高地は、そもそもその切り立った地形で、農業にも軍事にも適さないため、秘境となっているのである。そういえば、ある程度小型化できるカヌーも必要になるだろう。

一通りのものを、地下室から出しておく。

今までも採集のために、あらゆる場所に行った。この程度の物資であれば、備蓄品がある。

一通り品が揃った後は、状態をチェック。マルローネさんも手伝ってくれたが、流石に手際が凄い。さっと見終えると、不良品がいくつかあった。ザイルが切れかけていたので、購入してこなければならない。クラフトを作る手間を考えると、これを手作業で直している暇は無い。

「ザイル買ってきます」

「ん。 行ってらっしゃい」

裏庭では、まだイリスが槍を振るっている。

マルローネさんもいるし、多分適当なところで切り上げさせてはくれるだろう。隣のアトリエの戸をノック。キルキも、もう既に話は聞いているはずだ。買い物にいくならば、一緒の方が良い。

多分これが、学生生活で最後の大きな事件になるだろう。というよりも、むしろ人生で、最大の事件になる可能性さえある。

危険であるはずなのに。どうしてか、エルフィールはちょっとうきうきしていた。

 

3、秘境の神

 

影の鏡は、無数のホムンクルス達が集まっているのを見て、壮観だと思った。

各地で暗躍していたホムンクルス達、数は三十を超える。この大陸で活動していたものは、ごく少数なのだ。主の手足となって世界中に散っていたホムンクルス達が、皆この場に集まっている。

ここは、シグザール王国で、デモンズ高地と呼ばれる土地。

しかも、その土地の最深部にある、洞窟の更に最奥だ。洞窟と言っても、かなりの規模の鍾乳洞で、内部には大きな湖まで存在している。ここは通称神の間。まるまる小さな砦が中に入るほどの巨大なホールであり、鍾乳石が天井からも床からも、無数につきだしている。

かっては水が満ちていたのだが、エル・バドールの技術を使って排水し、整備した。その結果、この空間が出来たのだ。

台座への路から光が発せられたことは、すなわち到達の合図。

梟が、影の鏡を見つけて、近づいてきた。

「御前も、ここに来たか」

「来る権利はあるはずだ」

「そうだな。 一人は失ったのか」

「手強い相手にぶつかった。 思うに、少なくともシグザール王国の人間は、確かにここに来る権利があるようだな」

梟と、二言三言話す。

他の影達とも話した。彼らはいろいろな国で暗躍してきていて、人間が非常に強靱な存在になってきていることは肌で感じているようだ。ただし、やはり文明の進歩が止まってしまっているような国や、停滞の中で緩やかに滅びつつあるような国も存在している。主はそれをどう考えておられるのかと、何人かはぼやいていた。

ここには人間はいない。だから、全員が面相を隠していない。

だから、壮観であった。セロの血筋を引いているのがよく分かる顔立ちが、三十いくつも並んでいるのだから。

主からの声は、まだ聞こえない。

影の鏡も、主からの声は聞いたことがある。いつどこで聞こえるか全く分からない代物であるから、不意打ちになる事もある。今回は、周囲がそわそわしているのが分かる。皆、いつ聞こえるか、何を言われるか、不安でならないのだろう。

感情は存在しないはずだが、鴉のように何らかのきっかけで目覚めることはある。それに、全く存在しないというのは間違いで、生存に必要な、微量な感情はどの個体の中にもある。

このまま行くと、此奴らの中で不安という感情が増大して、或いは主への反逆につながるかもしれないなと、影の鏡は冷笑しながら思った。

主からの声が聞こえたのは、その時だった。

「皆のもの、ご苦労であった」

「主よ!」

梟が声を上げる。他の影達も、皆目に高揚を浮かべていた。

傅いた影の鏡は。だが、それを見る。今回の主は、声だけでは無かった。光をまとった、人型のようなものが、確かにホールの天井付近に浮いているのだ。

どういうことか。

主は、他の神々と同じく、世界の外側にいる存在では無かったのか。或いは。

まさか。

影の鏡は気づく。ひょっとして、自分たちは、とんでもない思い違いをしていたのでは無いのか。

「シグザール王国の進歩を確認する限り、既に人は危地を脱した。 いずれ様々な国が研鑽し合うことで、この星、テラ246652の文明は宇宙へ進出することとなるだろう。 そして、文明の滅亡が発生することも無くなる」

「おお、それでは」

「そなた達は、台座へ人を導け。 そこで、限られた人間にのみ、真実を告げることとしよう」

沸き立つ周囲の中で、影の鏡は。

一人、いや二人と言うべきか三人と言うべきか。ただ、静かに、氷のように冷ややかに、状況を見守っていた。

「主よ。 質問が一つございます」

「影の鏡よ。 質問とは異な事であるな」

「御意。 しかし、これだけは、確認しておきませぬとなりません」

そうだ。確認しておかなければ、今まで何のために起動し、眠らされ、そして戦ってきたのかが分からなくなる。

鴉は憤怒を宿し、自我を得た。椋鳥は恐怖を宿し、同じく自我を得た。

影の鏡は、自分を含めた全てを冷笑することで、己の形を保った。何百年、いや何千年と自我を保てなかった周囲の連中とは違う。

「貴方は、エル・バドールに文明を与えた旅の人か」

「なんと不遜な。 影の鏡よ、控えよ」

梟が言うが、無視。

光を見つめる。光は、やがて小さな声で哄笑し始めた。やがてそれは大きな声になり、ホール全体に轟くほどとなった。

影の鏡は、頭の中に、鋭い痛みが走るのを感じる。

「再編集開始。 そなたには、自我が宿っているようだな。 必要ない」

主の声とともに、冷笑がかき消されていく。やめろ、やめてくれ。それは、私が。

あのエル・バドールのマイナスパラダイムシフトの中で、愚かな人間達を操作し、見ることで、得ることが出来た珠玉。私が私であるための、存在の証。それを奪われたら、私は。

もがく。

だが、どうにもならない。呪う。いったい、誰を。

教えてやろう。頭の中に、声が響き渡った。気がつくと、光の中、影の鏡は浮かんでいた。

何となく、分かる。周囲の光が主であることを。

「そなたの読みは外れだ。 私は、旅の人では無い」

影の鏡は、絶叫していた。

 

ザールブルグの南門にエルフィールが到着すると、既にかなりの人数が揃っていた。

騎士団からは十五人ほどが来るようだ。精鋭ばかりであり、アデリーさんが今回は指揮を担当する。騎士団長や大教騎士カミラは、ここで守りを担当。まあ、妥当な判断だろう。ダグラスも、今回は残るそうだ。

ミューさんは来てくれる。ただし、婚約したというルーウェンは居残りだ。まあ、婚約したばかりの二人を一緒に来させたりしたら、職場の士気に関わるだろうし、当然か。ミューさんは婚姻の証であるらしい銀の腕輪をつけている。アイゼルに作ってもらったのか、非常に凝った模様が掘られている。これは、多分二頭の蛇だろう。南方で、二つ頭を持つ蛇を縁結びの象徴とする風習がある。それに沿って作ったか。

「おはようございます、ミューさん」

「おはよう。 荷物は問題ない?」

「平気です。 それより、どういう心境の変化ですか?」

「いや、ルーウェンが取られちゃうって思ったら、不意に焦ってね。 結婚は今でもいやなんだけど、でも、それでもこれしか方法が無いんだったら、仕方が無いよ。 それに結婚は今だっていやだけど、ルーウェンだったらぎりぎり我慢は出来るからね」

寂しそうに、ミューは笑った。

皆、社会で生きて行くには、ある程度犠牲にしなければならない部分がある。ミューの場合は、結婚がそうだったのだろう。だが、しかしながら贅沢な悩みだともいえる。ミューの場合は、いやとはいえ、他の誰よりも好きな相手と婚約したのだから。

騎士の中には、ロマージュもいる。やっぱり鎧はちょっと窮屈なようだ。しかしながら見たところ、紙一重での回避というスキルを生かすために、最大限に軽量化しているようだ。

アイゼルが来た。アイゼルは優雅に礼をすると、ミューに婚約祝いだと言ってちょっと高そうなお菓子を渡していた。ミューの好みはきちんと聞いていたらしく、感情が表に出やすいミューも、喜んでいるのが一目で分かった。

イリスは荷車の側でじっとしている。

彼女に歩み寄っていくのは、フィンフとミルカッセだ。ミルカッセは神の専門家と言うことで、今回の件で声が掛かった。

ミルカッセは若干腰をかがめてイリスと視線の高さを合わせると、二言三言話していた。イリスは制御装置が外れてから、ミルカッセの所に報告に行ったらしい。多分、その件もあるのだろう。

フィンフはじっとそのやりとりを見ていたのだが。何だか、どうも不穏な空気を感じる。何か起こらないように、見張っておく必要があるだろう。

見慣れない騎士が、アデリーさんと親しそうに談笑していた。滅多に笑顔を浮かべることも無いアデリーさんだが、今日に限っては表情もだいぶ柔らかい。全く見覚えの無い騎士なのだが、誰なのだろう。

マルローネさんが来た。ノルディスとキルキ、それにフランソワも到着。フランソワは、アイゼルが話しかけても素っ気なく応じるだけで、やはり距離を取っていた。足はもう大丈夫なようだが、大岸壁を上がるのは平気か、ちょっと不安も残る。

騎士団の指揮をアデリーさんがとるとなると、ちょっとドナースターク家の人員がトップに集中しすぎかと思った。だが、心配はいらない。全体の指揮として、聖騎士ジュストが来てくれることとなった。この老騎士は安定感があり、実力の面でも信頼出来る。

ジュストは咳払いすると、突然皆の前で宣言した。

「えー。 集まってくれた皆の前で申し訳ないが、私はこの戦いを終えたら、引退しようと思っている」

「え?」

騎士達の数名が、困惑して顔を見合わせた。

ジュストは確かに老いているが、実力は充分に一線級である。若い騎士では、それこそ束になっても勝てないだろう。風を操る術式の冴えも、剣の腕前も、小さな国であれば騎士団長を終身でつとめられるほどのものだ。

だが、ジュストの決意は固いようだった。

「幸いなことに、若い世代が次々と育っている昨今だ。 私は今後教育に移り、大教騎士の補佐をして、若い騎士達の面倒を見るつもりだ」

「そんな、この間の戦いでも、多くの騎士が倒れたというのに」

「だからこそだ。 そんなときだからこそ、いつまでも老人が自分の地位にしがみついていてはいかん。 未来のこの国のためにも、私は引退することとした」

エルフィールはその高潔な決意を、すばらしいと思った。

だから、率先して拍手をする。そして、決める。

この探索を、高潔な騎士に花を持たせるに相応しいものにしようと。

周囲の拍手が鳴り響く中。イングリド先生が来たことで、一同は出立した。

 

ザールブルグの南門から出た一個小隊分の戦力は、そのまま街道を南下。

荷車は引いていない。というのも、軍用の幌馬車を二つ貸してもらったからである。その上、屯田兵の一個中隊が、途中でのトラブルを避けるために護衛をしてくれると言うことであった。代わる代わるに、だが。

当然のことながら、影の鏡などにも状況を掴まれていると想定しての戦力配備であろう。今頃ブレドルフ王子の屋敷や、王宮は相当に警備が厚くされているはずだ。

馬車の手綱を取っているのはまだ若い女性の騎士だ。聖騎士ローラが来てくれれば多少は良かったのだが、違う人である。北の方で探査系の能力を生かして砦の指揮官をしていたという人だ。軍での階級は中佐と言うことだが、この様子だと指揮官には向かないだろう。荒くれ達を統率する気迫というか、オーラというか、そういうものが感じられないのだ。見た目の幼さからも、軍に入ったのは間違いだとしか思えない。

フランソワは、ホムンクルスの手を引いて平然とついてくる。ヘルミーナ先生に鍛えられたから強くなったのだろう。

「や。 フランソワさん」

「何か用?」

冷えた声で返される。そういえば、おもしろ半分に殺そうとしたことが一度あったか。笑顔のまま、隣を歩く。

ホムンクルスはというと、フィンフに比べて随分社交的な様子だ。同じクルスをベースにしているはずなのに、多少の個性が出ているのは見ていて面白い。

「ヘルミーナ先生のところで、どんな作業してるの?」

「主に解剖。 ホムンクルスの失敗作がたまに出るから、徹底的に解剖して中身を調べたり。 後は、最近は魔物の解剖が多い」

「へえ。 生きたままとか?」

青ざめたフランソワは黙り込む。

ということは、図星か。ヘルミーナ先生だったら、魔物を生きたまま捕まえてくる位は簡単だろう。

そして、魔物の体内構造については、未だ分かっていない部分が多い。フランソワはその解剖を手伝わされたのだろう。生きたまま解体される魔物が、悲鳴を上げながらもがく様子を見ていれば、こんな反応もするか。

「でも、無駄にはしない」

「ん、それがいいんじゃないのかな」

アイゼルをちらりと見ると、イリスと何か話している。制御装置が外れたイリスは、以前に比べてちょっと動きが遅いが、それでも自分の足で歩いていた。制御装置には、身体能力の強化をするような機能をつけていない。そうなると、思考のパターンが変わったことに関する「慣れ」がまだ体を満たしていないのだろう。

フランソワが逆に話しかけてきた。

「あのホムンクルス、制御装置を外したんですって?」

「もう寿命だったからね。 寿命を延ばすには仕方が無かった」

「そう」

会話は、それきり止んだ。

或いは、人間もいずれ、手足を失っても再生できる時代が来るのかもしれない。だがそれは、まだまだ先の未来だ。

イリスは、拒絶反応で全身が駄目になりかけていたところを助かった。そう考えると、非常に運が良かったのかもしれない。話してみる限り、イリスは前と変わっていない。おそらく、反逆することも無いだろう。

二つ、野営地を飛ばした。可能な限り急ぐためだ。

街道が徐々に細くなってくる。東に曲がり、暗くなってきた頃に砦に入る。馬車の揺れが大きくなっているのは、処理できない石が増えているからだ。体力が無い人間は馬車で移動してもらったが、フランソワは途中で二回乗った。乗るとき平然としていたのは、アイゼル同様生粋のお嬢だからだろうか。

砦は屯田兵が五百ほど駐屯していて、かなり守りの堅い防御施設だ。石造りで堀もあり、見張り用の塔が四方に立ち、壁には敵を見るための穴も開けられている。入り口の橋は鎖がついていて、戦時にはあげることが可能な作りであった。

中に入ってみると、作りも入り組んではいるが広い。中庭には千人以上が野営できるスペースもあった。ジュストと一緒に食料庫に行き、干飯などを点検する。かなりの量があり、管理もしっかりしていた。少し古くなっているものを分けてもらう。すぐ食べるのだから、それで問題ない。

騎士達は中庭や外に天幕を張り、銘々休み始める。総指揮官である聖騎士ジュストでさえ、それは例外では無い。竈を作り、湯を沸かす。干飯を湯で戻し、味付けをする。調味料よりも、こういうときは肉と一緒に煮込むとおいしい。

騎士達の何名かが、近くの森に出かけて、兎とイノシシを捕ってきた。すぐにエルフィールがアデリーさんと一緒に捌く。兎は首をひねって絞めた後、アイゼルに渡す。アイゼルも今はてきぱきと兎を切り分ける。

イノシシは逆さにつるした後、首を切って血を出す。血も使えるので、桶に受けておく。腹を一文字に割いて内臓を取り出し、後は踊るように刃を振るって皮をはぎ、肉をそぐ。すぐに骨だけになるイノシシ。

いずれにしても、殆ど野営と同じだ。

これは一種の伝統であるらしい。騎士だろうが上級の将軍だろうが、急な用事で軍施設に寄った場合は、天幕を使って休む。エンデルク騎士団長でさえこの伝統は守っているらしいので、エルフィール達も郷には入れば郷に従わざるを得ない。

ノルディスは若い男の騎士達と、同じ天幕に。エルフィールは、アイゼルとキルキと同じ天幕を使うことにした。イリスはフィンフと、更にフランソワのホムンクルスと一緒である。

キルキが、瓶を取り出す。

「飲む?」

「あら、それは?」

炭酸飲料かと思ったら、アルコールらしい。

ただし、キルキはまだ未成年だ。エルフィールとアイゼルに飲むかと勧めてくれているというわけだ。

エルフィールはちょっと考える。

ここは軍施設内部だし、流石に影の鏡に襲撃される可能性は低いだろう。だが、零では無い。

外に出ると、騎士達も飲んではいない様子だ。全て終わってから飲むことにしているのだろう。

「やめておこう。 その代わり、帰ったらみんなで」

「分かった。 じゃあ、騎士の人たちにも勧めない」

「それがいいわ。 それよりキルキ。 騎士団の顧問錬金術師になるらしいけれど、契約が難航しているって本当?」

「本当。 ちょっと足下見られて、困った」

いろいろあった結果、騎士団のお抱えになる事は既に決まっているらしい。だが、キルキとしても、母の治療費をはじめとして、金がいる。騎士団の指定した研究だけでは無く、他のこともやりたい。

そうなってくると、ある程度の待遇について、交渉しなければならない。

騎士団にしても、キルキは金の卵だ。優秀な錬金術師はそうそういるものでもないし、いても我が強かったり独立傾向が高い。それに、何かしら過去に失敗して、慎重に待遇を決めようとしているような印象を、話を聞く限りではエルフィールも受けていた。

「でも、キルキなら、きっとどこでもやっていけるわ」

「そうだと嬉しい」

アイゼルの優しい褒め言葉に、キルキはちょっと嬉しそうにした。

エルフィールは、既に待遇も決まっている。後は、馬車に今積んでいるテラフラムを使う機会があるかどうかだ。

人類が踏み込んではいけない領域の、超破壊爆弾。

これが最後の決戦だというのなら。

是非、使ってみたい。

外はごくごく静かで、晩餐が終わるとすぐに闇夜になった。騎士団の人間が巡回しているから、今日は見張りも必要ない。ただし、デモンズ高地に入ったら、順番で巡回を行わなければならないだろう。

横になると、皆野営で鍛えていることもあって、すぐ眠り始めた。

エルフィールは珍しく眠れなくて、何度か寝返りを打った。テラフラムを使うとしたら、どんなタイミングか。

大空の王は殺した。フラウ・シュトライトはもういない。

あれくらいのサイズのクリーチャーウェポンが現れる機会は無いだろう。しかし、影の鏡に使うのは、かなり難しい。

明日、歩きながらイングリド先生に相談しよう。そう、エルフィールは決めた。

 

数日、街道をひたすら行く。食料は最後の中継地点で積み込むことになっているから、馬車は存外に軽い。ただし、最後の中継地点は、元々国境の砦だった場所だ。そこから先は、文字通りの無法地帯だ。

街道も、当然のように途切れている。

途中で合流したユーリカは、ぼうぼうの草が生えた原野を見て、うんざりしたように呻いた。ここからは、かなりの強行軍になる。馬車は軍用だから、車輪と言い車軸と言い、何よりも馬と言い非常に強力な種類を厳選しているが、それでもここからは泥まみれになって進まなければならない。

そして、来る前にも確認したが、秘境は未開の土地であっても、人跡未踏の土地では無い。

犯罪者が逃げ込むことも多いし、地図上に無い犯罪者の集落ができあがっていることだってある。つまり、魔物やドラゴンなどより遙かに恐ろしい、人間の危険な犯罪者がいる可能性が高いのだ。

ここからは、完全に、全員が意識を変えて進むことになる。

イングリド先生が、ひょいと跳躍して、馬車の幌の上に乗った。頑強な幌だから、先生が一人くらい乗っても平気である。クラフトの直撃にも耐えたと言うから、内部を相当強固に補強しているのだろう。

「上空の偵察は私がします」

「ありがたい。 イングリド殿。 斥候を派遣せよ。 三人一組で、何かあればすぐに狼煙を打ち上げるのだ」

「分かりました、聖騎士ジュスト」

騎士達の中に混じって、アイゼルが進み出る。胸に手を当てて言う様は、よそ行きであるが故に、しっかり決まっていた。

アイゼルは既に、威厳を備えている。貴族という地位が威厳を与えたのでは無い。彼女の場合は、現場で泥水をすすり、地獄の中を這い回って、得てきた威厳だ。だから、実がある。

おそらくは、生まれながらに貴族で、何ら苦労せずに育った、彼女の両親よりも。

「偉大なる聖騎士ジュスト。 私も、偵察隊に」

「君はなかなかの使い手に育ったな。 分かった。 エルンスト、ハーネル、彼女は頼りになる中距離型の能力者だ。 いざ敵対勢力からの攻撃があった場合は、前衛となって守れ」

「分かりました!」

アイゼルが、偵察隊と一緒に消える。

地図を見ながら、進む方向を決めていく。まずはいったん原野を抜ける。イングリド先生が辺りを見回しているので、安心感もある。馬車を中心に円陣を組んでいるのは、射撃戦になった場合に備えるためだ。タワーシールドを持った重装備の騎士達が最外縁に布陣し、内側に能力者をかばっている。

エルフィールも、生きている縄を全開にして、辺りの草を払いながら進んだ。落とし穴やブービーとラップの危険もある。生きている縄はまるで地上を徘徊するハシリグモの足のように、地面を叩く。

イングリド先生が、手をかざして遠くを見てくれている。それだけで、安心度が桁違いである。

原野の先にあるのは、森だ。かなり広大である。この中でドムハイト軍との戦闘が、二度ほど行われたそうだ。分隊単位の兵士が行方不明になったことも何回かあり、それを考慮するともっと実際の交戦回数は多いかもしれない。

森に入る。木々の様子を見て、ブッシュを払って、馬車が通れるようにしながら進む。森の中と言っても、木の間隔自体はさほど問題にはならない。根や、起伏がより面倒になってくる。

巨大な軍用馬でも、進めなくなるような場所もある。そういうときは、筋肉で全身を覆った騎士達が、後ろから馬を押す。或いは足場を使って、馬が通りやすいようにしてやる。少人数での行軍よりも、むしろ大変な気がした。エルフィールも、生きている縄を使い、馬車を押すのを手伝う。

森の中には、小川も何カ所かで流れていた。見たことが無い種類の虫もいる。いずれ、錬金術の素材採取に来てみたい場所であった。

アイゼル達が、戻ってくる。一人も欠けていない。合い言葉を交わした後、報告が入る。

「森の中には敵影無し。 虎が少し生息しているようです」

「油断はするな。 もしも仕掛けてくるようなら仕留めろ」

「分かりました」

今度は別のチームが偵察に行く。ノルディスが馬車の中から、顔をのぞかせた。

「まだけが人は出ていませんか」

「大丈夫だ。 いざというときは頼りにさせてもらうぜ」

フランクな口調で、若い騎士が言う。ノルディスは、力強く頷いた。

馬車をどうにか進めて、小川の近くに出る。早朝に砦を出たのに、既に夕刻だ。偵察隊が戻ってくる。欠けてはいないが、皆少し疲れているように見えた。

「魔物が出ました」

「そうか。 撃退したか」

「どうにか。 この様子だと、奥には更に多くの魔物がいるかもしれません」

「捨て置け。 この人数を見て仕掛けてくるようなのは雑魚だ。 対処が面倒な大物は、こちらを避ける」

小川のせせらぎが辺りを包む中、聖騎士ジュストは野営地をセッティングする。海の上でのサバイバルには慣れていても、こういう所での作業は経験が無いらしいユーリカはおろおろしていたので、イリスに押しつける。

「一緒に干飯戻しててくれる?」

「ああ、分かったよ。 何だか海に戻った魚みたいに生き生きしてるな」

「そう? うーん、まあそうかもね」

竈を作るのは問題なさそうなので、聖騎士ジュストの所に。イングリド先生とアデリーさんを前に、ジュストは地図上に指を走らせて、此処が、其処がと説明をしていた。それを聞きながら、アデリーさんが地図に線を加えていく。

小川を超えたところに、少し大きな岩場がある。それを超えると、衝立のような山だ。そこからは馬車を残して、クライミングをしなければならない。マルローネさんはと思ったら、近くの木に登って、手をかざして遠くを見ていた。多分、イングリド先生がいない間の、代わりをしてくれているのだろう。

木から飛ぶようにして、マルローネさんが降りてきた。絞った手ぬぐいを差し出す。

「はい、お疲れ様です」

「ありがとう、気が利くね」

「どんな様子ですか」

「クライミングの最中に攻撃されると面倒な、アードラの類いが少しいる。 しかも多分この秘境にしかいない変種かな」

不意に、森が揺れる。

姿を見せたのは、聖騎士エリアレッテだった。普段のばかでかい剣に加えて、巨大な槍を背負っている。

見覚えがある槍だ。確か、クーゲルのものだったはず。

「あ、追いついてきたんだ。 途中で合流するって話は聞いていたわよ」

「まだ、敵とは交戦していないのか」

「いない」

「そうか。 それならばいい」

最低限の言葉だけを交わすと、エリアレッテは聖騎士ジュストの所に行く。雰囲気が変わっている。何だか、クーゲルから狂気を襲名したかのようだ。

「いや、多分その通りなんじゃないかな。 クーゲルさんも近々引退するって雰囲気だったから」

「え? まだ現役で充分やれるように見えますけど」

「ああいう人って、いろいろ面倒くさいのよー。 ましてクーゲルさんは、多分戦士としての自分って奴に、決まったイメージがあるだろうし、それが崩れるってのは許せない事じゃないのかな」

そんなものなのだろうか。

エルフィールにはよく分からない。男と女の差と言うよりも、多分戦士としての考え方の違いなのだろう。

そして、その考えを、エリアレッテは受け継いだ。雰囲気が違うわけである。前々から強いと思っていたが、これは次代の騎士団長になるかもしれない。まあ、エンデルクは騎士団長として問題の無い人物だし、まだ当分先の話であろうが。

そのまま、野営となった。

ザールブルグに比べて、随分見える星が多い。周囲に火を焚いて獣よけにする他、人数が大きくて野営地が広いので、見張りを一度に三人つける。最大級の灰色熊程度なら一人で仕留められる使い手が揃っているから、ちょっと過剰ともいえるが。だが、相手は現実改変能力の持ち主だ。何が起こるか、分からない。

エルフィールは三番目の見張りになった。見張りの時間は二刻ほどで、その後一刻ほど眠ることが可能だ。一緒にイリスも見張りをする。少し眠そうなイリスの頭を、なでなでした。もう、背丈は追いつかれる。

「イリス、眠い−?」

「やめてください、気持ち悪い」

「ふーん」

たまには愛でてやろうかと思ったのに、つれない反応である。まあ、それが良いのだが。猫をかわいがる人間も、同じような感触なのかもしれない。もう一人はミューさんで、少し高い木に登って、そこから辺りをじっと見回していた。梟みたいである。

イリスの胸の中には、今制御装置が入っていない。人間に反逆しようと思えば、出来る。実際、今まで何度か隙を作って見せた。だが、イリスは、エルフィールを刺そうとはしなかった。

「マスターは、自分を変えたいと思いますか?」

「別に。 もっと強くなりたいとは思うけれど」

「そう、ですか」

「ホムンクルスでも、感情があればそんな事思うんだね。 何だか、満たされた環境で育って、社会の厳しさを知って悩む子供みたい」

エルフィールは、その真逆の環境で育った。

だから、多分アデリーさんに師事した前後でも、根本的な人格は変わっていないのだろう。

もちろん、イリスは感情があるという時点で、人間とほぼ何も変わりが無い。制御装置を外した今となっては、人間として扱うべきかもしれない。

「マスターは、このままでは救われません」

「何から?」

「狂気から」

イリスの表情は真剣だ。つまり、この子なりに、エルフィールを心配して、そんなことを言っているのだろう。

救われる、か。

確かに、時々発作的に生じる殺戮衝動を押さえるのはいつも大変だ。だが、エルフィールにとって、狂気は閃きと共にある。多分マルローネさんも、それは同じ筈だ。

閃きは、正気では浮かんでこない。

「私が狂気を失ったら、きっと何も出来ない人になっちゃうよ」

「貴方ほどの知識と技術があって、凡人になるなんて。 それは絶対あり得ません」

イリスは、かなり切羽詰まった様子でそう言う。

そんなに、エルフィールを救いたいのだろうか。だが、エルフィールは、救われたいとは思わない。

闇におびえて、逃げ回る子供なら、手をさしのべても良いだろう。

自分を見失い、暴力のために暴力を振るっているような輩であれば、殴り倒してでも正気に戻す必要があるだろう。

だがエルフィールは、自ら闇の中に突っ込み、それを食らって力にしてきた。多分この世界で、力を得た人間の殆どがそうだ。そして狂気を、闇を失ってしまえば、力もまた減衰する。

何となく、クーゲルが引退した理由が分かってきた。今のエルフィールと、同じ結論を出したのだろう。

「イリス、ありがとう。 私のことを大事に思ってくれているのは分かったよ。 でも、狂気は私の一部で、力の元でもある。 ま、物騒な力の根源ではあるけど、でも必要なものなんだよ」

「どうして……」

分かってくれないと、イリスは呻く。

エルフィールは、力を捨てる気は無い。怖い、というのは否定しない。今でも、孤独はやはり怖いのだ。

アデリーさんは、マルローネさんの狂気を止めるために、力を得る路を選んだ。結局、今では本人の心も完全な制御下に置かれ、別の意味での狂気を得たともいえる。アデリーさんを、後輩の騎士達は非常に怖がっているという話を聞いたことがある。だが、それもまた、強さを得るための代償を払った結果なのだ。

「イリスは、結局普通の子供なんだね。 で、大人になれば、普通の大人になる」

「……」

「イリスはさ、人間として生きていくべきなのかもしれない。 もしもそうしたいのなら、いいよ。 私が、便宜を図ってあげる」

貴方はと、イリスに聞き返される。

首を横に振る。

エルフィールは、このままで良い。怪物的な才能を持っていることは分かっている。だが、それは狂気に支えられている。

或いは、狂気から離れれば、平穏な日常が待っているのかもしれない。

だが、エルフィールが選ぶ道は、其処では無かった。

イリスは、それ以上何も言わなかった。頑固者にさじを投げたのか。或いは、絶望したのかもしれなかった。

 

翌朝は、早朝から行軍を開始した。

小川を二里ほどさかのぼった後、岩場を超えて、小さな森を抜ける。

其処には、地図の通り、衝立のような崖が立ちふさがっていた。エアフォルクUから出た光が伸びていたのは、間違いなくこの上である。

山としては、さほど巨大なものではない。高さも、エルフィールの背丈の七百倍程度、ということであった。

だがこの山は厄介なことに、楽に上れるルートというものが存在しないのだ。崖は本当に切り立つようで、天然の壁である。どうしてこんなとがった地形ができあがったのか、頭をひねって考えて見ても分からなかった。

念のため、周囲を偵察隊が回る。軍用馬が、首を巡らせて嘶いた。これは上れないと、騎手に訴えているのだろう。実際、人間の十五倍前後の体重を持つ軍用馬を引っ張り上げるのは、非常に難しい。

身軽な騎士が何名か、ロープを腰にくくりつけ始める。上るためのルートを開発するためだ。

エルフィールも、其処に加わる。

縄を使わせたら、エルフィールはちょっとうるさい。

「私の作った生きている縄をくくりつけてください。 攻撃はしないようにと命令してあります」

「これは、なかなか不気味だな」

「おっと、言葉は理解しているので、気をつけて。 いざというとき、助けてくれなくなりますよ」

そう言うと、騎士達は面白いことに縄に対して愛想笑いをした。二人ともまだ若い騎士である。才能はあっても、経験が足りないのかもしれない。

岩を蹴って跳躍。下の方は、それほど難しい崖でも無い。とっかかりも多く、上るのには苦労しない。問題は、休憩地点だ。下から見た感じでは、非常に数が少ないだろう。一つでも休憩に使えそうな大きめの出っ張りの存在を確認することと、安全に引っ張り上げ、なおかつ下ろせるルートを開発することが重要になる。

これだけの高さの崖である。一度に人を運び上げるのは、極めて難しい。

途中までは、偵察隊の他の二人と、同じルートで上がる。肩に縄を担いで上がるから、バランスを取るのが非常に難しい。全く足場が無い場所では、崖に釘を打って、それを足場にする。

幸い、崖の土質は安定している。よほどのことが無い限り、体重に負けて引っこ抜けることは無いだろう。

一つ一つ、確実に足場を掴み、或いは踏みしめて、上がっていく。

途中、自生している草を見かけた。実にたくましい事に、花までつけている。こんな所でも、栄養さえあれば花は咲く。

花の咲いている辺りに、小さな出っ張りがあった。エルフィールならどうにか腰掛けられる。他の二人は。それぞれ、だいたいエルフィールと同じペースで上がっていたが、かなり離れてきていた。

殆ど道具を使わずに上っているところからして、二人ともレンジャー訓練でクライミングについて学んでいるのだろう。エルフィールも負けてはいられない。少し休憩した後、さくさくとクライミングを再開する。

途中、石を一つ踏み外した。

落下していく石が、随分してからがつんと下にぶつかった。生きている縄のフォローがあっても、この距離から落ちたら、流石に死ぬ。そろそろ、半分。周囲には霧が出てきて、滑りやすい危険な状態になり始めた。

ペースを上げる。

大きめの出っ張りを見つけた。のぞき込むと、大きな巣穴がある。アードラの類だろう。下からは見えなかったが、こればかりは仕方が無い。そのまま、見なかったことにして、先に進む。

夜ならともかく、昼に遭遇すると面倒だからだ。

場外長いクライミングが続き、エルフィールも流石にうんざりしてきた頃。

やっと、崖を登り終えた。

崖を登り終え、半分くらい体を乗り出したときが、一番危ない。油断して、力が抜けやすくなるからだ。

二人の騎士の内、一人は先に来ていた。さすがは専門家である。

それにしても、この異様な光景は何だ。がけの縁から体を引っ張り上げて、エルフィールは周りを見回していた。

先に来た一人は、黙々と縄を巨木に結びつけている。最後の一人が上がってくる。そして、叫んでいた。

「うわ、なんだこりゃあ!」

「面白い状況ですね」

エルフィールも吃驚したから、笑顔で同意する。

大陸南部には、こういう森もある。だが、まさか周囲が全て崖というような閉鎖空間に、それがあるとは思わなかった。

地面は分厚いこけに覆われ、周囲は巨木だらけである。しかもどれもこれもが、大人が五人くらいで抱えるような、とんでもない太さだ。下の森も生態系は豊富な空間だった。だが此処は、まるで理想的環境に出来るような、熱帯雨林だ。

そういえば、さっきから霧が消えない。どういうメカニズムかは分からないが、多分この霧が、まんべんなく水を木々に提供し続けているのだろう。その結果、これほどばかでかい木々が生い茂ることになった、ということか。

しっかり木にロープを結びつけたことを確認した後、二重チェック。それが済んだところで、下にロープを垂らした。

元々多めに取ってきたから、ロープの長さは足りているはずだ。ただし今回は、途中でアードラの襲撃が行われる可能性があるので、護衛の人員がつく必要がある。そして、荷物は全員が分散して背負い、此処まで来る必要があった。

聖騎士ジュストが、最初に上がってきた。ジュストも、周囲の光景を見て、やはり驚いていた。

「これは、絶景と言うよりも、もはや奇景だな」

「何がいるか分かりません。 病気もです。 その辺のものは、食べない方が良いでしょう」

「そうだな。 いったん此処に兵力を集結して、それから偵察の人員を派遣しよう」

「分かりました」

幸いにも、この崖の上の台地は、さほど広くも無い。

マルローネさんが、アデリーさんと一緒に上がってきた。マルローネさんは目を細めて辺りを見回すと、木に触る。

地面と同じく、木も分厚いこけで覆われていて、。ナイフではがすと樹皮が出てくるまでかなり苦労した。こけは中途半端に柔らかいので、非常に危険である。特に木登りは、熟練の技が必要になるだろう。

鋭い鳴き声。飛び立っていったのは、コウモリか、鳥か。よく分からない生物であった。

「わー。 面白い生き物だね、アデリー」

「そうですね」

「おそらくは翼竜ね」

後ろから声。軽々と崖を登ってきたらしい、イングリド先生だ。くすくすと先生は笑いながら、上空を旋回している影を見つめた。

翼竜。確かアカデミーの講義で聞いたことがある。太古に生きていたという、恐竜に近い種類の生物だ。ドラゴンとはまた違う存在であったが、最大級のものはそれこそ翼を広げると家くらいになるほどのサイズを持っていたのだとか。

今舞っているのは、とても小さな存在である。コウモリと言われても、不思議では無いほどに。

或いは、その小ささが故に、生き馬の目を抜く地獄の生態系の中で生き残ることが出来たのかもしれなかった。

次々に、人員が上がってくる。馬車は上げるのが不可能と判断。下には屯田兵の増援を読んで、簡易陣地を作り見張りについてもらうという。小型の折りたたみカヌーも、部品ごとに分けて運び上げた。一番苦労して上がってきたのは、ユーリカであった。ロマージュに手伝ってもらい、ひいひい言いながらどうにか上り終えた。

「はあ、はあ。 ったく、冗談じゃ無い」

「お疲れさん、ユーリカ」

「お疲れ、じゃない。 これを後でまた降りるんだろ?」

「あら、ユーリカちゃんたら。 怖いの?」

ロマージュがからかうように言ったが、ユーリカは素直に頷く。

まあ、確かに海暮らしの彼女である。こんな切り立った山で生活するのは経験が無いだろうし、ましてロープ一本で上るなど、あり得ないことの筈だった。

「此処は何かしらの手段で、特定の人間だけが来られるようにしておいたほうが良さそうだな。 犯罪者に逃げ込まれると厄介だ」

「その時は、錬金術師の同行も義務づけてください。 此処の生態系は非常に興味深い」

「プロフェッサー・イングリド。 貴方は意外に貪欲な方ですな」

「錬金術師は、真理に貪欲なものです」

くすくすと笑いながら、魔王狐と怪物狸が化かし合いをしている。

その横で、最後の騎士が上がってきた。アードラによる襲撃は、一応無かったという。今の時点では、欠けた人間はいない。ノルディスが念のため全員を診察するが、大丈夫であった。

「妙な病気の兆候はありません。 ただ、気をつけてください。 未知の地域には、未知の病気がある可能性が高く、そういうものに羅感すると、対応が極めて困難です」

「分かってるよ、お若い医者先生」

若干好意に満ちたヤジが飛ぶ。

ノルディスは頷くと、バックパックの医療品を確認して、それから背負った。バックパックはかなり大きい。

ノルディスもまだ軟弱だが、しかしながら、もはやモヤシでは無かった。

崖を超えるだけで、半日が掛かった。ここから先は、少し急ぐ必要があるだろう。まさかドムハイトのレンジャー部隊と遭遇戦になる事もないだろうが、主とやらがいるとしたら、当然その配下も控えているはずだ。

偵察隊が出るのと同時に、本隊も動き始める。聖騎士ジュストの隣を歩きながら、エルフィールは聞いてみた。

「此処まで来た騎士団関係者は、以前いたんですよね」

「うむ。 入り口近辺を探索しただけだがな」

やはり犯罪者が此処に逃げ込んで、それを追っていったのだとか。ただしその犯罪者は足をくじいていたらしく、すぐに捕まったのだそうだ。

その際に、多少の調査はしたらしい。湖があるというのも、それで判明したそうだ。

遠くから、滝の音。

更に山があるのかと思ったら、違った。

足下から、急に地面が無くなった。台地の真ん中に、巨大な空洞がある。

その下には水がたまっていて、滝も台地の上から注いでいるのだった。霧が集まって川になり、それが滝になったという感触だ。

「今度は降りるのかよ」

ユーリカがぼやく。

幸い崖の高さは、エリーの背丈の十五倍程度だ。これならロープが足りなくなる事もないだろう。

偵察隊が戻ってくる。

どうやら、この崖の周囲には、ただ森が広がっているだけのようだった。特に危険な生物もいないという。もちろん、遺跡の類いも無いそうだ。

そうなると、此処を降りるしか無いだろう。

まず、カヌーを下ろす。

崖の下は湖になっていると言っても、何カ所か岩場があり、其処に簡易キャンプを作れそうである。いったん下に降りた数人が、下の様子を鏡を使って知らせてくる。今の時点で、危険は無いと言う。

いきなり水に飛び込むのは自殺行為だ。水の温度も分からないし、どんな生物が潜んでいるか分からない。かといって、カヌーには乗れる人数に限度がある。

いったん上に本隊を展開し、少数で湖を探るしか無い。最初渋っていたくせに、操船出来ると分かったとたんユーリカは嬉々として降りていったが、他の騎士達は躊躇していた。エルフィールは、ユーリカに同行することとした。イリスもついてくる。

マルローネさんとアデリーさんが、続いて降りてきた。アイゼルとキルキ、ノルディスも。フィンフは多少躊躇していたが、降りてきた。フランソワは、ホムンクルスと一緒に上に残った。イングリド先生は、偵察から戻っていない。ミルカッセも、騎士に手伝われながら降りてくる。

岩場に、十人ほどが集まる。騎士達が簡易指揮所を組んでいる横で、マルローネさんが周りを見回す。

「水の温度は、かなり低いですね」

「見て、下」

透明度が低い水の中、人間大のクラゲが、無数に泳いでいる。これだけ大きなクラゲがいて、捕食者がいる場合、そのサイズは洒落にならない事が予想される。

考えて見れば、この湖は上の森から栄養がもろに流れ込んでいるのである。どのような巨大生物がいてもおかしくない環境だ。カヌーをこぐときは、入念な準備と、慎重な行動が必要になるだろう。

湖は予想より遙かに大きい。崖も場所によっては、降りたところに比べて数倍はある様子だ。滝はというと、一カ所だけでは無く、何カ所かに存在しているらしい。岩場で上と話をしながら、情報をまとめていく。

カヌーをこいで、ユーリカが戻ってきた。大型の漁船だけでは無く、カヌーも見事に操っている。

「勇魚くらいはありそうな魚がいたよ。 クラゲを食べてた」

「潜るのは自殺行為かな」

「私だったら、絶対にやらない」

専門家がそう言うのなら、やめた方が良いだろう。水中は人間の力が及ばない地域である。ましてや勇魚のような大型魚がいるのであれば、入らないのが無難だ。

岩場の周囲も、しっかり調べていく。上から声が掛かった。

「ちょうど反対側の辺りに、大型の滝がある。 裏側が見通せないから、その辺りを調べてほしい」

「分かりました!」

滝の近くまで、崖沿いにカヌーで行く方が早い。ユーリカに操船は任せて、そのまま岩場に降りてきていた全員で乗り込んだ。

上の部隊は、複数の偵察隊に分割して、周囲を徹底的に洗っている様子だ。それにしても透明度の高い湖である。かなり深くまで見通せるのだが、クラゲだらけで、どれもこれもがとてつもなく大きい。球体状の、半透明の巨体が、とんでもない数の短い触手を蠕動させて泳いでいる姿は、幻想的でもあり不気味でもあった。

水面近くを泳いでいる個体もいるが、全てを巧みにユーリカは避けている。

エルフィールは、持ってきたもののなかで、最大であるテラフラムをしっかり抱える。多少のことでは爆発しないように作ってあるが、それでも超危険な爆発物だ。あまり油断も出来ない。

「少し揺れるよ」

「どうしたの?」

「大きな魚が近くにいる。 右側」

見ると、確かに度肝を抜かれるほど巨大な魚が、悠々と泳いでいた。或いはクリーチャーウェポンかもしれない。

全身は鎧のような装甲に覆われており、口などは鯉に似ている。積極的に船を襲ってくることはなさそうだが、大きさが大きさだ。ちょっとひれに触った程度でも、こんな折りたたみ式のカヌーなど、たやすくひっくり返されてしまうだろう。

慎重に、刺激しないように。

進んでいく内に、滝をいくつか抜ける。小さな滝でも、結構勢いは強い。霧はずっと出続けているから、それが原因だろう。霧だって何か物体につけば、水滴になる。それが集まれば、この巨木の森も成立するのだ。

やがて、大きな滝が見えてきた。

 

エリアレッテは、一旦本隊と合流すると、皆の目を盗んであくびをした。

退屈でしょうが無い。

この森の動物は、なりこそ大きいが、人間に対して興味も敵意も示さない。かといって、どう見ても戦い慣れしているようにも見えないし、従って喧嘩をふっかける気にもならない。弱い相手など殺したところで退屈だ。二三匹、手応えがあるのが襲ってくれば面白いのに。

視界の隅に、人間が入る。

フランソワと言ったか。

南方人の特徴を持った女が、ホムンクルスと一緒に、所在なげに立ちすくんでいる。

他の錬金術師達と比べると、一目瞭然だ。頭はそれほど悪くは無いようだが、覇気が無い。

かってはそうでも無かったようなのだが、何か自信でもなくすようなことがあったのだろうか。

「フランソワといったな。 ぼんやりしていると死ぬぞ」

「え? わ、分かっています」

「ならばしゃんとしろ。 ましてや其処の子供は、御前の庇護下にあるのだろう? 自分の身も守れないようで、その子供を守れるのか」

正論をぶつけるが、フランソワはうつむくばかりだ。

おかしな話である。この女の経歴は、来る前に目を通した。少し前までは、相当に気が強く、勝つためならどんなダーティな手でも平気で使うような奴だったということなのに。今はまるで、尻尾を抜かれた猫も同然だ。

「エリアレッテ」

「はい」

聖騎士ジュストに呼ばれる。ジュストは何名かの騎士と、それにイングリドと一緒に地図を囲んでいた。聖騎士である以上エリアレッテも其処に加わる権利があるが、行使しない。戦いだけを考える方が、性に合っている。

呼ばれて近づくと、地図には既にかなりの情報が書き込まれていた。

此処は円状の台地で、中央にはこれまた円状の湖がある。湖の周囲は、三千歩程度だとだいたい計測できたという。台地も湖もほぼ正確な円形で、不自然なくらい形は整っているのだそうだ。

「このような形は、自然に出来るものなのか? プロフェッサー・イングリド」

「空から隕石が落ちた場合には出来ます」

「隕石?」

いわゆる流れ星だと説明されても、ジュストは小首をひねるばかりだった。

エリアレッテには何となく分かる。石とかを全力で木にぶつけてみると、丸い傷が出来ることがある。それと同じ状態なのだろう。

だが、あの湖は、本当にそうなのか。

それにしては水深があるようにも思えるのだが。

フランソワも呼ばれる。フランソワは説明を受けると、少しだけ自信なさそうにしてから、応える。

「私は、隕石が落ちた後、人間か、或いはそれ以上の存在に手を加えられたように見えます」

「根拠は?」

「水深がありすぎます」

「ならば、水深を深く取らなければならない理由があった、という事よね」

イングリドが、にやりと笑う。なるほど、最初からそうフランソワに言わせるつもりだったと言うことか。

意図はよく分からないが、フランソワのことを、イングリドはそれなりに評価しているようだ。心が折られている現状を、あまり良く思っていないのだろう。

「もしその理由があるとしたら、どう考えますか? フランソワ」

「はい。 たとえば、敵を撃退するためとか。 或いは、何かしらの意図で、水をため込んでいるとか。 考えられるのは飲料水ですが、他にも何か、たとえば水車のような動力源として使うつもりなのかもしれません」

なるほど、その発想は無かった。面白いので、心に留め置く。

どうも堀というと、エリアレッテは騎士であるせいか、敵の侵攻を防ぐものとしか認識していない。だから、動力として使うという意見は新鮮だった。今後、川そのものを堀にしている城には、導入する価値があるかもしれない考えだ。戦闘時は、水車を引っ込めればいいのである。

確かに、滝を使えば半永久的に動力が得られる。穀物を加工したりするのには最適だろう。エル・バドールの技術を使えば、もっといろいろと応用出来るのは、素人であるエリアレッテにさえ分かる。

「それとも単純に、滝を使って入り口をカモフラージュしているとか」

「それら複数の要素を兼ね備えているというのが自然でしょう。 良く出来ました。 貴方はやはり優秀ですね」

イングリドが褒める。エリアレッテは、それでもフランソワが奮起しないのを見て、少し苛立ってきた。

偵察に出ていた騎士達がだいたい集まってくる。カヌーの移動に合わせて、そろそろ本隊もキャンプを移す時間だと、ジュストが判断したからだ。

不思議なことに。

クーゲル師とジュストはあれほど仲が悪かったというのに、どういうわけか弟子のエリアレッテとジュストはさほど仲が悪くない。クーゲル師も、ジュストの下にエリアレッテがつくことを嫌だ嫌だと言いながらも、最終的には反対していないようにも見えた。

最近は、理由が分かってきた。

多分クーゲル師は、集団戦の指揮官として、ジュストを信頼しているのだ。個人戦では徹底的に反駁している相手であるのに、不思議である。良くしたもので、ジュストの方でも、あれほど血みどろの殺し合いに近い喧嘩をしたというに、戦場でのクーゲル師が持つ圧倒的な破壊力について、高く評価している様子であった。

「聖騎士エリアレッテ」

「如何しましたか」

「この滝の近くに、三人つれて向かってほしい。 もしも敵がいるとしたら、この辺りだろう。 主とやらが敵対行動を起こさないにしても、何かしらのアクションがある可能性が高い」

「分かりました。 すぐにでも」

捨て石というわけでは無く、威力偵察のためだ。実際エリアレッテは、現実改変能力を持つホムンクルスとの交戦で、高い戦果を上げている。

それに、大規模な罠があることを考慮して、出来るだけ全軍での同時移動は避けた方が賢明である。

クーゲル師も同じ判断をするだろうなと思いながら、エリアレッテは三人の騎士を連れて、滝へ向かう。

台地の中央に、ぽっかりとあいたくぼみと、其処に出来た湖。霧に覆われた台地では、奇怪な生物が行き交い、人間を物珍しそうに見つめている。あまりにも、異質すぎる地形。エリアレッテ達が、此処では異物なのだ。

魔物もいるかと思ったが、今の時点では攻撃を仕掛けてきてはこない。台地の下では何体か馬鹿なのが仕掛けてきたが、それも全て撃退した。ドラゴンも、ここにはいないようだ。痕跡が無い。

滝上に着く。

大規模とは言っても、世界にいくつか存在する「大瀑布」と呼ばれるような、超巨大規模の滝とは随分違う。高さもせいぜいしれているし、水量もさほど多くは無い。だが、それなりの水量がある。

見ると、川だけでは無い。崖の途中からも、かなりの水が噴出しているのが見えた。

「聖騎士エリアレッテ。 不思議な滝ですね」

「カヌー組はまだか」

「下にはかなり大型の魚がいるようで、避けるように進んでいる様子です」

「……そうか」

判断としては、間違っていない。エリアレッテも、特殊な道具無しで、水中の大型生物と戦いたいとは思わない。

更に言えば、魔物やドラゴンと違い、野生の大型生物は生態系の中心になっている場合が多く、特に超大型の生物になると繁殖力も低い。虎や熊を間引くのは推奨される行為だが、未知の生態系に君臨する生物を排除することは望ましくない。攻撃された場合を除いて、手を出すのは避けた方が良いだろう。

カヌーが、霧の向こうから見えてきた。

同時に、気配を感じる。ジュストの読み通り、アクションを試みてきたか。騎士達が一斉に剣に手をかける中、エリアレッテはまず師から託された大戦槍を背中から抜き、ついで斬竜剣を抜いた。

超重量武器の二刀流となるが、もちろん一本は地面にさしておいて、状況において使い分けるのだ。元々エリアレッテは、チャージ技の使い手だった。斬竜剣も、この技術を応用して振り回しているのである。

大戦槍も、エリアレッテにとっては、充分に守備範囲に相当する武器である。

ましてこれは、師から力を引き継いだ証にと、渡された武器だ。エリアレッテに、使いこなせない訳が無い。

霧の中から、ぼんやりと影が現れる。一つや二つでは無い。

同じ顔をした女。エルフィールがつれている、イリスに近い顔立ちだ。そして、エリアレッテが殺した椋鳥にもそっくりである。

それが、十以上。霧の中に、たたずんでいた。

流石に数が多すぎる。分が悪いかと思ったエリアレッテに、影は傅いた。

「よくぞ此処までこられました。 我らに攻撃の意図はありません」

「どういうことか」

「主は、此処まで来ることが出来たあなたたちを認めております。 最後の試験を課した甲斐があった、とも」

「試験、ね」

不快な言葉だ。主と言うだけあり、人間を完全に見下しているのが分かる。

騎士達に目配せ。自身も、剣を納める。確かに此奴らに殺気は無い。出方を見るのが、むしろ正しいだろう。

一人を、ジュストの所に。

本隊をすぐに連れてくるのも早計だ。まずは、エリアレッテが、一人で様子を見に行くべきであろう。

「まずは危険が無いか、私が確認する」

「分かりました。 こちらへ」

苔むした地面に、不意に穴が開く。正確には、階段が突如せり上がってきた。

この機構、何処かで見たことがある。

そうだ。

シュテルンビルド伯爵の屋敷にあった機構だ。妙なオーバーテクノロジーだと思ったが、やはり此奴らが噛んでいたのか。

騎士団でも、あの事件については、不可解な部分があると結論を出していた。錬金術師の誰かが、伯爵をクリーチャーウェポンにしたのではないかという説もあったのだが、イングリドもヘルミーナも、それにドルニエも否定した。

それほどの技術は、まだアカデミーには無いと。

単純な戦闘力ではファーレン以下だったかもしれないが、確かにあの吸血鬼は、異常すぎる存在だった。此奴らが何らかの形でいじくったのだとすれば、確かに納得も出来る。

「聖騎士エリアレッテ」

「かまわない。 カヌーの連中は」

「見てください。 滝が」

滝が、消えていく。

そして、巨大な穴が岸壁に出現していた。

そこから入れと言うことか。鼻を鳴らすと、エリアレッテは言われるまま、影どもが開けた階段から、地下へ下りていった。

 

4、主との謁見と……

 

滝が、消えた。そして、滝のあったところには、大きな洞窟が口を開けている。露骨すぎるほどの誘いだ。どうやら、主とやらに、居場所を隠す気は無いらしい。そしてこの様子からして、迎撃してくる気も無いなと、エルフィールは判断していた。

アイゼルが、カヌーの縁から身を乗り出す。

「変ね。 戦う気は無いのかしら」

「おそらくは、ね。 もしも戦うつもりなら、今までに有利な迎撃地点はいくらでもあったし。 たとえば崖の上で迎撃されたら、流石に手も足も出なかっただろうね」

「なるほど、一理あるわ。 でも、解せない。 観念した、とは思えないし、どういうつもりなのかしらね」

「話し合いに応じてくれると良いんだけど」

ノルディスがぼやく。

多分この青年が、この場にいる全員の中で、一番平和主義の思想が強そうである。キルキはアイゼルの隣で、滝のあった地点にある大きな穴を見つめながら言う。

「話は、聞かせてもらわないと。 これだけのことをしたのだから。 ミルカッセさん、神様の気配、感じる?」

「感じます。 今までに無いほどに、強く」

しかし、嬉しそうでは無いのは、どうしてだろう。

ミルカッセはとても強い心の持ち主だ。しかも、真剣に神の愛を信じてもいるはずだ。過去に悲惨な出来事があって、なおそれで信仰を捨てていないのである。信仰に逃げて現実逃避しているタイプでは無く、本気で心から神を信仰しているタイプだ。

その彼女が、どうして嬉しそうでは無いのだろう。

マルローネさんとアデリーさんは。

見ると、いつになく険しい表情をしていた。アデリーさんはカヌーの縁に若干背中を預けるようにして。マルローネさんは片膝をたてたまま。どちらも、武器に手をかけている。

多分、何か強い気配を感じているのだろう。

魔力の杖で、体に魔力は通している。しかし、何か見えるというわけでは無い。この辺りは、強い生体魔力を持って生まれた人間が、それをたゆまぬ努力で鍛え上げた結果、得られた勘なのだと判断するほか無い。ちょっとこればかりは、付け焼き刃の魔力ではどうにもならなかった。

上から声。

聖騎士ジュストが、がけの縁から呼んでいた。

「こちらもアクセスがあった! 洞窟内部で合流しよう!」

「分かりました!」

もしもエルフィールが敵であれば、各個撃破を狙うはず。ますます、これは戦う気が無いと判断して良いのだろう。

聖騎士ジュストは相当なネゴシエーション上手だ。主とやらに会話が通じるのなら、二度とシグザール王国にも人類にも干渉しないように、上手に話をまとめてくれる可能性も高い。

だが、戦わなければならないのなら。

この面子である。上にはイングリド先生や、聖騎士エリアレッテもいる。相手が何であろうと、そう簡単に遅れは取らないはずだ。

洞窟に入る。

一気に水深が浅くなったのが、露骨に分かった。

下は透明度が高いとはいえ、暗くなったからか、見えにくくなる。無言でエルフィールはカンテラに火を入れ、生きている縄から水面近くに垂らした。合計三つ。もう一つ、火をともしている間に、不意にユーリカが櫂を止めた。

「嫌な水流だ。 滝でもあるんじゃ無いのか」

「洞窟の中に?」

「ああ。 水深はどれくらいだ」

カンテラを水面に近づける。水深は、エルフィールの身長の1.5倍程度だろう。つまり、足はつかない。

少し、皆で考え込む。この場で決定権を持っているのは、マルローネさんだ。

「壁際に近づけて、速度を落として行きましょうか」

「それでいいんだな」

「エリー、生きている縄を使って、いざというときの補助。 最悪の場合は、全員が壁際に逃げられるまで支えるように」

「了解!」

それしか無いだろう。的確な判断である。

ユーリカが靴を脱いで、バックパックに入れた。多分カヌーの其処を直足で踏むことで、微細な流れを感じるためだろう。そういえば、操船の時も、それをやっていた。本気というわけだ。

ゆっくり、カヌーが進み始める。

イリスが、顔を上げる。エルフィールも釣られて、そちらを見た。

闇の中、無数の光が瞬いている。グロウワームかと思ったが、違う。ヒカリゴケでも無い。

「マルローネさん、何でしょう、あれ」

「生き物には見えないわね。 多分、光を出す機械か何かでしょう」

「なるほど」

あり得る話だ。

不意に、洞窟が折れ曲がった。上陸できる岸壁が、長くに渡って続いている。奥の方からは、ひんやりした空気が流れ来ていた。

カンテラで照らしていて気づいたのだが、水面下に魚の類は殆どいなかった。あれだけ巨大なクラゲが山ほどいたのに、である。そういえば、この洞窟も、中に生物の気配が殆ど無い。

ミルカッセに手を貸して、上陸の手助けをする。

イリスは自分で、危なげなくひょいと上陸した。制御装置を外した後の、病み上がりな弱体は、もう影を潜めている。前よりももう調子が良いくらいだ。フィンフは、エルフィールが手を伸ばすと、若干躊躇した後、手を取った。

「アイゼルの方が良かった?」

「いえ、そのような」

「良いんだよ。 感情が芽生えてきているって事なんだから。 私としても、見ていて面白いしね」

「面白い、ですか」

若干不機嫌そうにフィンフが言う。面白い。

全員が上陸したところで、一旦カヌーを水揚げし、解体して畳む。カヌーの部品については、多分ユーリカが事前に徹底的に教育を受けているのだろう。その場でメンテナンスを開始していた。

「部品に欠損は無し。 帰りも問題は無い」

「じゃ、奥へ行こうか。 三人ずつ、少し離れて歩いて。 先頭はエリー。 最後尾はアデリーで」

「分かりました」

少し離れて歩くのは、罠があった場合に対処するためだ。一気に全滅することを避けるためにも、多少距離を開けて歩いた方が良い。

奥の方は、非常に広い。出迎えはこないのだろうかと思っていたとき。

影のような存在が、実体化する。

見覚えがある。エルフィール自身。影の鏡か。ただし、三体では無く、二体。一体はどうしたのだろう。

しかも、以前と違う。

目に、感情らしきものが見えなかった。

「こちらに。 主がお待ちです」

「ちょっとまった」

思わず、そう聞き返していた。マルローネさんも止めない。アデリーさんに至っては、無言で剣の鞘に触れていた。いつでも抜けるようにしているという姿勢だ。

「貴方誰? 影の鏡は、感情みたいなものがあったんだけど?」

「影の鏡に生じていた感情は、人間の中でサボタージュを行うために付加された要素でした。 しかし、それが必要なくなった以上、既に廃棄の対象となり、削除されています」

「……」

イリスが、隣で眉を跳ね上げる。

だが、ため息をついたマルローネさんが、周りを見回した。

「今は、行きましょうか」

 

エリアレッテはホムンクルス達につれられて、先頭に立って地下への深い深い階段を下りていた。

あれほど湿度が高い苔むした地面だったのに。其処に掘られた階段は、不自然なくらいきれいな状態で、壁も床も天井も、まるで作りたての宮殿のようだ。石組みも見当たらない。

無言で、ひたすら降りる。

前を歩くホムンクルスが妙なまねをしたら、即座に切り伏せるつもりである。エリアレッテは、前を歩くホムンクルスを信用していない。影の鏡にしても、椋鳥にしても、何かしらの微少な感情らしきものを備えていた。それなのに此奴は、まるで人形がそのまま歩いているかのようだ。

階段が終わる。

ついてきていた騎士達が、さっと周囲に展開した。イングリドは最後に降りてきて、悠々と辺りを見回す。

クリスタルで作られた宮殿。そんな印象を受ける。

床を見ると、透明な中、光が飛び交っている。まるで星の海に迷い込んだかのようだ。技術が違いすぎて、何がどうやって作られているのかも分からない。騎士達も、困惑している様子だ。

「進んでも、大丈夫でしょうか」

「腹をくくれ」

若い騎士に、聖騎士ジュストはそれだけ告げた。

ひいひい言いながらついてきていたフランソワは、この異質な空間で却って落ち着いた様子である。手を引いているフランソワのホムンクルスが、むしろ周囲に興味津々なのが原因かもしれない。

子供の前で、臆した姿を見せたくないのか。

ホムンクルスが歩き出す。円陣を組んだまま、星の海のような空間を歩く。天井も床と同じように、星が無数に瞬いて、時々流れたり動いたりしていた。

「なるほど、アレが全て情報なのね」

「プロフェッサー・イングリド。 貴方には分かるのですかな」

「原理までは分からないけれど、あれを情報として活用しているのだけは。 ただのインテリアでは無いでしょう」

ジュストとイングリドが、若干の余裕を持って会話している。

エリアレッテは師がここにいたらなんと言うだろうかと思い、気づく。多分師は、わくわくしながら進むはずだ。

ならば、自分もそうしよう。

遠くに人影。どうやらカヌー組らしい。カヌー組を率いているのは、影の鏡だ。というか、様子がおかしい。

感情らしいものが見えない。以前苦杯をなめさせられただけあり、聖騎士ジュストも会話を止めて、変わり果てた敵を見つめた。

「しばらく、お待ちください。 ここからは主が案内します」

鼻を鳴らして、周囲を見回す。

やはり此処は気に入らない。そう思った瞬間。異変が起こった。

 

気がつくと、エルフィールはイリスと一緒にいた。他には誰もいない。

背負っているテラフラムと、巻き付けている生きている縄達の事を確認。ちゃんと父の形見である武器達もある。

イリスは気を失って倒れていたので、揺り起こす。けり起こそうかと思ったが、流石に病み上がりだし、やめておく。

「イリス、イリス」

「ん……」

目をこすりながら起きたイリスは、周囲の異変に目を丸くした。

エルフィールも体の状態を確認しながら、立ち上がる。

其処は、多分洞窟の中なのだろうが。さっきまでの、星の海のような場所とは、根本的に違っていた。

まず暑い。

当然の話である。赤熱した溶岩が辺りで流れており、場所によっては滝のようになっているのだ。

エルフィール達がいるのは、五十歩四方くらいの、テーブル状の台地である。あまり、周囲を出歩こうとは思わなかった。そのほかは、全て溶岩。溶岩の海の中に、この台地は浮かんでいると言って良い状態だ。

皆はどうしただろう。そう思う前に。声が響いてくる。

「おまえが、一番真理を知らせるのに適切だと判断した」

声の出所は。辺りを見回して、上だと気づく。

其処には、小さな人影があった。

おそらく、あいつが、「主」だろう。

滑稽なほどに、小さかった。そして、気づく。

此奴も、おそらくはホムンクルスなのだと。

丸い帽子をかぶり、手には大げさなほど装飾のついた杖。桃色が掛かった、きれいな短髪。しかし、発育が悪いのか、妙に幼い容姿だった。セロと呼ばれた、イリスとは全く違う姿である。

「今、全ての真実を話そう。 此処まで辿り着いたおまえ達には、それを知る権利がある」

ゆっくり地面に降り立った「主」は、その場にいない誰かに語るように。

エルフィールに、真実とやらを話し始めた。

 

声は、アイゼルにも聞こえていた。

エルフィールが消えてから、アイゼルはミルカッセの様子が更におかしくなったことに気づいていた。

目の焦点が合っていない。

肩を掴んで、揺さぶる。

「どうしたの、ミルカッセさん」

「そんな。 この空間は、まるで神の体内そのものだわ。 やはり、あの恐ろしい怪物達は、神の手によって派遣されたというの」

「アイゼル」

ノルディスがハンカチに揮発性の気付け薬を含ませる。臭いが強烈なそれを、アイゼルは受け取り、ミルカッセの顔にかぶせた。

悲鳴を上げてもがくミルカッセの顔からハンカチをはがして、頬を叩く。呼吸が落ち着いてきたところで、目をのぞき込んだ。

「ミルカッセさん」

「アイゼルさん」

正気が戻ってきた。

見上げる。上には、エルフィールと対峙する、子供のような存在の姿。

騎士達も、ホムンクルスも皆、それを見上げている。聖騎士ジュストが腕組みして言う。

「あんな子供が、主だと?」

「あれはホムンクルスですね」

「何?」

「つまり、あの存在を作ったものは、別にいると言うことです」

イングリド先生の言葉に、流石に聖騎士ジュストが目をむく。周囲のホムンクルス達は、呆然と「主」を見つめている様子だった。

アイゼルはゆっくり、情報を整理していく。

何が起こっても、理解できるように。

そういえば、マルローネさんと、アデリーさんもいない。二人は、どこに行ったのか。

 

蕩々と、「主」は語る。

「最初、おまえ達と同じ姿をした人類が、此処とは違う世界に生まれた。 人類は傲慢で残虐で、おまえ達と同じように非情だった。 やがて、人類は命数を使い果たしたが、その時世界に自分の痕跡を刻んだ」

それが、観測するもの、だという。

その正体は、自我を持った空間一体型量子コンピューターだという。意味が分からないが、話のニュアンスからして、一種の道具、というものなのだろう。

観測するものには、使命があった。生物としての命数を使い果たす前に滅び去った人間が、より進化し、進歩したときに、どのような姿になるか、見届けるというものであった。

観測するものは物理的干渉能力を持たなかった。その代わり、空間そのものに作用して、数百年というスパンで環境を変えることが出来た。また、ごく一部であるが、己の意識を相手に転写することが出来た。

そうやって観測するものは、本来生物が存在しない世界に、人間を作っていった。

エルフィールには、少し大きすぎる話であった。

「それの一つが、私たち?」

「まだ話は続く」

背中を向けて、「主」は言う。小さな体だ。なぜ、このような姿をしているのか。

それも、多分意味があることなのだろう。

「やがて、観測するものは気づいた。 そのままの人間では、どうしても自滅の路を驀進してしまうと言うことに。 人類は内外問わず攻撃性があまりにも強すぎたのだ。 六千八百を超える実験データが全て失敗した後、観測するものは、ありのままの人間が、そのままに作る世界に見切りをつけた。 そうして作り出された世界の一つが、此処だ」

観測するものによって、この世界の人間には、二つのものが与えられた。

まずは、飛躍的に高い身体能力。元の世界の人間とは比べものにならないほどに強い力を、この世界の人間は秘めているという。たとえば元々の人間は、平均的な場合、よほど進歩した武具を使わないと猛獣にも対抗できないという。

確かにこの世界では、あり得ない話だ。多少訓練された兵士程度でも、数人集まれば虎くらいは容易に仕留めるのが、この世界の現実なのだから。

そして、もう一つが魔力。

魔術により、人間は元々とは比べられないほどの、更に大きな力を得ることが出来た。

その辺りの話は、だいたい分かった。

確かに魔力の正体は、長らく謎とされてきた。このような異常なゆがみによってもたらされた力だったというのなら。それも、分かる気がした。

「この世界は、上手く行っていた。 だがこの世界であっても、時に人間は破滅への路を突き進む。 故に観測者は、一度だけ。 己の意識を転写した存在を、直接的な観測のためにもたらした」

 

「それが、旅の人」

イングリド先生が、「主」より先に言う。

既に、知っていたかのように。

アイゼルが見つめる先にいるイングリド先生は、神をもしのぐ知識を持つ、人外の賢者に思えた。

 

マリーは、その言葉を、歩きながら聞いていた。隣には、アデリーがいる。

何処かに飛ばされたのは、マルローネも同じだった。

辺りは壁だらけ。等間隔に区切られた壁と通路がどこまでも広がっている。ピンク色の周囲には、エルフィールと、イリスが、主から話を聞かされている様子が、何カ所かに映し出されていた。

「そういうこと、か」

「母様?」

「錬金術は、異界の技術だったんだね。 そして錬金術をもたらした「旅の人」は、きっと錬金術がこの世界の人間にパラダイムシフトを起こすことを期待していたんだよ」

「その通りだ」

「主」が、マリーの独り言に、直接応えてきた。

苦笑すると、マリーは歩く。いったい何のために「主」が、自分とアデリーをこんな隔離空間に飛ばしたか分からない。それを見極めるために。

 

観測するための無数の端末とコンタクトを取りながら、旅の人はその役目を果たすと、文字通り異界へと消えた。

そして、後に残されたのは。

「私だ」

「主」は、おのれの胸に手を当てていった。

彼女の姿は、比較的成功している別の観測世界において、時の克服に成功した大錬金術師を模しているのだという。時の克服は己の手によって行ったわけでは無いそうだが、永遠の時を彼女は極めて建築的に使い、人類の発展へ大いに役立てたのだそうだ。

一人残された「主」は考えた。己が何を出来るのか。

己が、何をするべきなのか。

「なるほど、何となく、読めてきたよ」

「理解が早いな。 そうだ。 私は、観測者の意思を代行するべきだと考えた。 だから、旅の人の知識を使い、手足となる影達を作った。 長き時の間には、エル・バドールへの干渉を含め、失敗も多々あった。 人間に対して間引いたり殺したり、多々むごい行いもしてきた。 だが、私の役割は、ようやく今終わろうとしている」

元々、主は不本意であったそうだ。

観測するものは、旅の人を引き上げた。これだけで、その存在が、現状の人間を見守る方向へ戦略を転換したことが明らかだった。

だが。

間近で人間を見てきた「主」は知っていた。

エル・バドールでどれだけ俗悪な所行を、人間が重ねたか。

ホムンクルスを大量生産して大量消費して、使い潰して作り上げた社会にふんぞり返り、進歩も研鑽も忘れはてた。あげくにホムンクルスを酷使することによって、世界そのものまで手に入れようとした。

あのままホムンクルスを使うことによる世界支配が実現していたら、人間は衰退の果てに滅びただろうと、「主」は言う。

「だから、干渉を始めたと」

「そうだ。 だが、それも必要なくなった」

シグザール王国の強靱強固な生命力は、「主」の予想さえも超えていた。

戦略兵器である台座への路や、大空の王さえも撃退し、影の鏡による内部分裂工作にも耐え抜いた。

この国なら。

この国を作り出せる人間なら。きっと、滅びることは無く、宇宙へ進出し、より偉大なる種族へと進歩することが出来るだろう。

そう、「主」は判断した、というのだ。

なるほど、そういうことであったのか。エルフィールは、全ての合点がいって、納得した。

だが、拳を固めて振るわせていたイリスが叫ぶ。

「ふざけないで!」

「イリス?」

「そんな、そんなことのために! 私たちは、私たちが、どれだけ殺されて、消費されていったと思っているの!」

 

「そうだ。 その通りだ」

影の鏡の目に、感情が戻り始める。

エリアレッテが気づいたときには、他のホムンクルス達も。目に、狂気を宿らせ始めていた。

「我らは、道具に過ぎなかったのだな。 結局、どこまで行っても、最後までも! ああ、全てが終われば、貴方の意思と一緒になれるなどと言うのは、我らを効率よくコントロールするための、一種の宗教だったのか!」

「「主」よ! なぜ、我らを作った! 我らは人形! 道具! そして、人間のために使い捨てられる、ただそれだけの存在か! いったい我らは、どうして命を持ってしまったのだ!」

面白い。

こうこなくては。

舌なめずりすると、エリアレッテは、大戦槍を床に突き刺し。斬竜剣を、背中から引き抜いていた。

 

「最後の試験となるか。 それも良かろう」

エルフィールの周囲の空間が歪み始める。

影の鏡の嬌笑が辺りに響き渡る。影の鏡が、何かおかしな事をしているのは明白だった。

イリスの肩に手を置く。

エルフィールは、「主」にほろ苦い感情をぶつけた。

「ホムンクルス達の事は、最初から使い捨てるつもりだったの?」

「そうだ。 私自身も含めてな」

「そうか。 それじゃあ、復讐されることも、覚悟していたんだね」

「そのような感情は我らには存在しなかった。 だが、この様子を見る限り。 長年おまえ達と接して、どの個体にも感情の萌芽が生まれ始めていたようだな。 これは、誤算であった」

空間が、はじけた。

着地。周囲では、騎士団や他の皆が、円陣を組んでいた。数十の、おそらく現実改変能力持ちのホムンクルス達が、殺気をたぎらせ、囲んでいる。その中でも、ひときわ強い殺気をまとっているのが。

影の鏡であった。

マルローネさんとアデリーさんがいない。だが、二人のことだ。簡単にやられるはずは無い。

どのみち、ただでは済まないだろうとは思っていたのだ。それにこのホムンクルス達に、今更社会に溶け込むとか、秘境で静かに暮らすとか、そんなことは出来なかっただろう。

「皆殺しにしてやる! 何が人間の可能性だ! 長年使い捨てられてきた我らが恨み思い知れ! この世で最も残虐で傲慢で、愚かな生物よ!」

影の鏡が絶叫すると同時に。

辺りのホムンクルス達が、一斉に、躍りかかってきた。

最後の戦いの、幕開けだった。

 

(続)