掘り進む謎
序、謎の塔
最初、地震かと思った。
ドムハイトともほど近い辺境の砦を警備しているカーランド中佐が慌てて部屋の外に飛び出したのは、真夜中の事である。慌ててスリッパを履き、廊下に出て気付く。激しい地面の揺れを感じたカーランドは、寝間着のまま飛び出してしまっていた。しかし戻って着替えている暇など無い。だから、既に外で臨戦態勢を取って駆け回っていた兵士達のひんしゅくを買った。
元々騎士として出世し、剣腕よりもその特殊能力を買われて、最終的に軍に指揮官として入ったカーランドである。ベットにはいつもお気に入りの熊さんのぬいぐるみを侍らせており、寝間着も星のマークが一杯浮かんだとても可愛らしいものであった。
既に、揺れは収まっている。
司令官としてはカーランドがいるが、実質上兵士達の指揮を執っているのはクレイモアという実直な中年男性だ。まだ若い娘であるカーランドは、その特殊能力だけを期待されており、兵士達もそれを知っている。
二百人しかいない小さな砦の中庭に出ると、既に鎧を着込んだクレイモア少佐が、てきぱきと指示を出している所であった。特殊能力以外のあらゆる全てで、カーランドが勝てない相手である。
逆に言うと、それだけカーランドの特殊能力が、高く評価されているという事でもあった。
最初は随分対立したが、今では棲み分けをすることでどうにか互いを認めることが出来た。まあ、見るからに「しかくいおっさん」であり、口ひげをいかめしく蓄えた「生粋の軍人」でもあるクレイモア少佐にしてみれば、こんな小娘が上役なんて冗談ではないという所だろう。だが、カーランドが何度か能力を発揮して事件を解決してから、その評価はそれなりに上がったようだ。酷い扱いについては、あまり変わっていないが。
「ようやくお目覚めですかな、中佐どの」
「クレイモア少佐、これは一体?」
地震とは思えない。最初のドカンという大きな揺れが、全く持続しなかったのもおかしな話である。
既に兵士達はとっくに警戒態勢に入っており、櫓にも松明を持った者達が上がっていた。繋ぎ狼煙の準備も始まっている。はっきりいって、カーランドにすることなど一つもない状態である。ちょっと寂しい。
寒いので、寝間着をかき寄せる。呆れた少佐がマントを掛けてくれた。
「はっくしょん! ふいー、何だか冷えますね」
「槍を」
「ええー?」
無視されたので、更に凹む。
カーランドは騎士をやっていたが、剣はさっぱりだった。その代わり、槍については、並の兵士数人を纏めて相手できる程度には習得している。槍を渡されたのは、いざというときには身くらい守ってくれと言う訳だ。
「砦の中、異常なし!」
「外の巡回開始。 シリル村にも兵を出せ。 状況を確認後、報告せよ。 何かあった場合は、狼煙を使え」
「直ちに第三小隊を派遣します」
殺気だった兵士達が走り回る中、落ち着いてきたカーランドは渡された槍を左手に持ったまま、右手で印を組む。呪文詠唱も、同時に始めていた。
クレイモア少佐は櫓に上がると、兵士達に指示を飛ばしていた。周囲に異変がないか調べ、それに危険があるかどうかも確認する。場合によっては、近くにある大きな街の軍に救援を求めなければならない。
ほどなくして、詠唱完了。
印を切って、術式を発動した。
淡い光を放つ魔力に、全身が包まれる。カーランドは集中し、周囲の様子を立体的に把握していく。
その距離、実に三里四方。
空間の立体把握。それこそが、カーランドの持つ能力だ。騎士団で徹底的に鍛え抜かれたため、その精度も以前からは考えられないほどに上昇した。
三里四方の探索が終了するまで、呼吸二つ分。
術が終わる頃を見計らい、クレイモア少佐も降りてきた。
「何か異変は?」
「東のほうに、何かとても大きなものがあります。 シリル村の近く……いや、南に半里ほど離れています。 今の時点では動きはありませんが……」
雰囲気としては、塔に近い。
しかし、さほど巨大なものでもなかった。塔としては四階建てくらいだろうか。十中八九、この塔のようなものが、さっきの揺れの正体だ。
「分かりました。 第二小隊、私に続け。 すぐに偵察に向かう」
「明るくなってからでも遅くはないように思えるんですが」
「異変の正体が確認できるまでは、油断は禁物です。 ドムハイトの秘密兵器か何かだったらどうするのですか」
そう言われると、返す言葉もなかった。
此処は最前線ではないが、前線に近いし、油断しては絶対にいけない拠点である。実際二十年前の大戦でも、油断から敗戦に到った例は掃いて捨てるほどあるのだ。どんなに暇でも、油断だけはするな。それが兵士達に教訓として語り継がれている事だった。
カーランドも、油断をしないようにする訓練を受けている。騎士として修行していた時、サバイバル訓練でそういう科目があった。油断した者から、聖騎士に叩かれるのである。聖騎士は何処に潜んでいるか分からず、いつ叩かれるか分からない恐怖の中、昼なお暗い森の中を行軍させられた。
あの時のことを思い出して、マントをかき寄せる。いつの間にか訓練のことを忘れて、油断することも多くなっていた。気を引き締めなければならない。
もう一度偵察をしようかと思った時だった。また、一つ大きな揺れが起こった。
踏みとどまって、転倒を避ける。兵士達が周囲に集まってきた。頼りないが、仕方がないという風情である。
「カーランド中佐、如何しますか」
「まず、砦の中を探索。 私は、周囲の様子を調べます」
「分かりました。 すぐに取りかかります」
兵士達が、ばたばたと砦の中に戻っていく。
二回連続で能力を使うのは少し骨だが、仕方がない。周囲に、能力を展開。
三里四方までを隅々まで調べて、それが終わった時。カーランドは愕然としていた。
ほどなく、呆然としているカーランドの所に、クレイモアが戻ってきた。魔物に摘まれたような顔をしていた。
「塔とか仰っていましたが……孔ですな」
「二回目の揺れが収まった時には、既に消えていました」
「……」
腕組みして、クレイモアが考え込む。
兵士達が不安を抱えて互いの顔を見合わせる中、クレイモアは言った。
「ザールブルグに伝令を飛ばしましょう。 ドムハイト側の何らかの攻撃という可能性は低いでしょうが、ここのところ訳が分からない事が連続して起こっています。 ザールブルグの方では、何か監視している事に関係しているかも知れません」
「そうですね。 私も同意します」
「伝令だ。 手紙については、早朝までに用意する。 ザールブルグまでの早馬便」
今回は、狼煙は使わず、早馬にて対処する。クレイモアはそうてきぱき決めていた。
またくしゃみをしたカーランドに向けて、副司令官は冷たいことを言った。
「もう結構ですので、お休みになってください」
「ひ、ひどい」
「何を言われます。 貴方は貴方の役割を果たしたし、何ら恥じることはありません」
言っていることは正論だが、もう邪魔だから寝ていろと言われたも同然である。
考えれば。パジャマの上にマントというとても寒い格好のままだった。泣く泣く自室に引き上げたカーランドは、結局あの塔は何だったのだろうと思い、布団に潜り込んだ。
そして、半刻もしないうちに、また夢の世界に誘われていたのだった。
1、炎上
その森は昼なお暗い。人間の手が入っておらず、集落どころか、路さえもが無いからである。
薄暗い森の中には、人間を恐れる必要がないため、無数の魔物が潜んでいる。いずれもが人間に追われて、此処に逃げ込んできた者達ばかりだ。途中非常に険しい地形が幾つかあり、それが人間の侵入を防いでいる点でも、此処は魔物にとって都合がよい棲息地域であった。
シグザール王国の、中南部にある森。
南ドムハイトとも近い場所だが、領土としては無価値であるために、どちらの勢力も見向きもしてない。
それが故に、今回の会合に使うには、丁度良い場所であった。
黒い影が行く。
魔物達が、それを見るとさっと身を隠すか、或いは傅いた。自分たちにとって上位の存在であると、知っているからだ。
行く影の名前は、椋鳥。
正式な名前ではない。主が、名前があった方が都合がよいと言うことで、付けた名前だ。
しばらく前まで、エル・バドールの方で工作を担当していた。しかし、主の呼び出しで、シグザールまでわざわざ来たのだ。もっとも、エル・バドールは放って置いてもしばらくは安定しているだろうから、椋鳥が手を出すまでもないが。
森の中、ひときわ高い木の下に到着。
既に、他の影達は集まっていた。
「椋鳥よ、来たか」
「鴉は?」
声を掛けてきた梟に、そう応える。
シグザール王国での工作を担当していた鴉の姿がない。それだけではない。他にも何名か、影の姿が見あたらなかった。
何か大きな事が起きたのは、ほぼ間違いない。
「揃ったようだな」
荘厳な声が響く。
木の中からだ。この木が主というわけではない。世界には、主が意識を転写できる存在が、幾つか存在している。石だったり木だったり、殆どは身動きが出来ぬものだ。ごく希に生物の事もある。
共通しているのは、いつも出現が突然だと言うこと。
椋鳥は、いつも主の趣向には驚かされていた。
「何名か、影がいないようですが」
「鴉に関しては、影の鏡の起動に向かっている」
「大空の王に続いて、影の鏡も動かすのですか」
「そうだ。 鴉の提案であるが、理にかなうと判断したが故に」
それが主の意志だというのなら、従うしかない。他の影達も、一様に納得する様子である。
しかし、この場にいない他の影達は、どうしたというのか。
釈然としないものがあるので、挙手する。主は、無言で発言を促した。
「主よ、鴉については分かりました。 しかし他の影達はどうしたのですか」
「台座に向かわせた」
「台座……」
台座。それは。
もしや、主は。影の鏡と一緒に、あれを動かすつもりなのだろうか。
もしもそうだとすると、時が近いと言うことになる。喜ばしいと同時に、主の意図がどうも計りかねた。
そのまま、解散になる。
一旦エル・バドールに戻り、今後の戦略について考えよう。そう、椋鳥は思った。
森を出る。そのまま影と一体化して、大陸を西に。さて、今回はどうやって海を越えるか。鳥を使うか、或いはドラゴンでも調達するか。大空の王は今作戦に向けて待機中だから、流石に持ち出すのはまずい。
元々無機的な椋鳥ら影にとって、楽しみは少ない。
こういう、個人の裁量が許される事は、数少ない例外であった。
街道に、一瞬だけ出る。そして、また森の中に入ろうとした瞬間。
殺気とともに、巨大な剣が飛んできた。
爆音。
激しい揺れと共に、街道の一部にクレーターが出来た。
人体よりも更に巨大な斬龍剣を投擲したエリアレッテは、土煙が収まるのを待って動き出す。地面に突き刺さっている愛剣を抜くと、初めて捕捉することに成功した影を見上げる。
敵は、空に浮いていた。
姿形は人間に良く似ている。しかしながら黒いフードで全身を隠していて、人相は分からない。背丈は僅かにエリアレッテより高い程度か。
それほど大柄ではない。
だが、今まで牙の精鋭の探索を逃れ、姿さえ見せなかったほどの相手だ。大きさなどに関係なく、力量は未知数として判断する他無かった。
「貴様が、歴史の闇で蠢いていた影か」
返事はない。
斬龍剣を担ぎ上げたエリアレッテは、相手の出方を見る。相手は相手で、エリアレッテを静かに観察している様子であった。
クーゲル師は、少し遠い所にいる。駆けつけてはくれるだろうが、まだ少し時間が掛かると見て良い。
そもそもこの奇襲自体が、殆ど奇跡的な確率で成功した。いくらかの探査術を組み合わせて、どうにか得られた相手の行動パターンから、向かっている先を割り出す。気が遠くなるような回数それを繰り返して、やっと得た一筋の糸。
執念の結果であり、ある意味妄執と言っても良い行動の結果、ついに捕捉した相手。
敵だとは、まだ分からない。
だが、危険な存在であることは間違いない。そして、今まで多くの人間を殺していることも確実だった。
「貴様らは何者か。 こたえよ」
「驚いた。 まさか人間が、我の行動を読み切り、奇襲を仕掛けてくるとは」
やっと返答があった。
影が地面に降りてくる。フードの中は全く見えない。人間がどうのと言ったということは。
やはりこの者は人間ではないと言うことか。
聖騎士にまで上り詰めたエリアレッテが、全く相手の力の程が読めない。予備動作の類もないし、それどころか気配さえも感じない。本当に目の前にいるのか、疑わしくなってくる。
互いに全く身動きしない状況が、どれだけ続いただろう。
風が吹く。
一瞬だけ、フードの中が見えた。目があった。人間の目に、少しだけ似ているように思えた。
動く。
刃を交えた。エリアレッテが振り返る。頬に一筋の傷。
相手は、フードの端が僅かに切れたのみ。振り返り様に、横薙ぎ一閃。空気をも蹴散らした一撃を、だが影のような存在は、まるで綿毛が風にもてあそばれるように、非人間的な動きでかわしていた。
距離が開く。
剣を担ぎ上げる。これは、必殺の一撃を仕掛けるしかないか。
「一つ、聞きたい。 貴様は我を捕らえてどうするつもりか」
「私はシグザール王国の聖騎士だ。 それだけで理由は充分だろう」
「いや、違うな。 お前はただ強きものとの立ち会いを求めているように見える」
くつくつと、笑い声が漏れた。
それが自分の口から漏れていると、エリアレッテは気付く。それは大いに結構な事だ。相手も分かっているのであれば、躊躇無く叩きつぶすことが出来る。何、殺してしまっても問題はない。
解析は錬金術師どもにでもやらせればいいのである。
不意に、鉄の網が影の上から降り注いだ。近くに展開していた牙の連中が駆けつけたか。舌打ち。影は横に転がって網をかわすが、その先には既にエリアレッテが回り込んでいた。
本来の目的は、この影の捕捉。
一対一でいる間に殺しておけば良かったと本気で後悔しながら、無言でエリアレッテは足を振り抜いていた。
全力での蹴りが、フードの影に入る。
見事に食い込んだ。蹴りを貰って吹っ飛ぶ影に、クナイと、それに結びついていた縄が一斉に襲いかかる。
何本かのクナイは突き刺さり、或いは体に縄を巻き付けた。
よろめく影に、更に踵落としを浴びせる。しばらく立ちつくしていた影は、その場に倒れ伏す。
しかし、妙に手応えが薄い。本当に倒したのか。
ふと気付く。
上に、影がいた。今倒した影は、それこそ痕跡も残さず無くなっている。一体、何が起こったのだ。
「見事な攻撃だ。 だが、我らとはそもそも存在が異なる。 残念だが、お前に私を倒すことは出来ぬ」
「……」
影が、かき消える。
何も、最初から其処にはいなかったかのように。
牙の者達が、森の中から出てくる。探査系の能力者もいるようだが、首を横に振った。
「駄目です。 影も形も見あたりません」
「一体、今の彼奴は何者だ」
牙の指揮官の一人が、転がっているクナイを拾う。確かに敵に突き刺さった。突き刺さる音もしたし、手応えだってあった。それなのに、今転がっているクナイは、新品同様に磨き抜かれていて、血糊どころか汚れ一つ無かった。
切り札である、斬龍剣の一撃を浴びせれば倒せたのか。
否としか、結論は出てこない。
「クナイの解析を。 無駄かも知れないが」
「周囲も調べろ。 何か痕跡があるかも知れん」
すぐに牙の者達が散り、辺りを調べ始める。しかし、痕跡が出てくるとは、とてもエリアレッテには思えなかった。
ほどなく、捜索は打ち切られた。クーゲルが戻ってくる。途中影を見掛けて二里ほど追跡したそうだが、消えてしまったのだという。クーゲルほどの手練れでそうなのだ。エリアレッテがいても、結果は同じだっただろう。
一度砦に戻り、エリアレッテは探索班の主要メンバーを集める。皆、殆どが何が起こったか分からないと顔に書いていた。腕組みしたクーゲルが、低い声を絞り出した。
「戦闘の展開を見ていた者は」
何名かが手を挙げる。
いずれもが、同じ展開であったことを証言した。最後にエリアレッテが状況を説明するが、見ていた牙の全員がそれで間違っていないと証言する。エリアレッテも、実際に踵を浴びせた感触が足に残っているのである。
それなのに、奴は消えた。
あれだけの攻撃を浴びて、どうして無事だったのか。いや、無事かどうかは分からない。まるで途中から、事実が変わってしまったかのような有様であった。或いは、本当にそうなのかも知れない。
クーゲルが咳払いをした後、皆を見回した。
「今回の件は、敵と接触をもてただけで良しとする。 気を入れ替えて、また探索に掛かれ」
「はい。 すぐにでも」
「問題は恐らく、少人数で狭い空間への攻撃を行った事だ。 より完璧に敵を捕捉し、より立体的な攻撃を仕掛ける。 爆発物などを試すのも良いだろう。 何かしらの手段で敵が回避したとしても、それで打撃を与えることが出来る」
クーゲルが幾つかの指示を出した後、会議は解散となる。指示の内容は的確で、エリアレッテにも口を挟む余地はなかった。
ぐったりしたエリアレッテは、自室に引き上げると、甘い蜂蜜入りの酒を飲んだ。ぼんやりしているうちに、本当にさっきの戦いはあったのだろうかと思えてくる。全員で夢でも見ていて、その結果を会議で真面目に話し合っていたのではないか。そんな気分さえしてきた。
鈍っている。
そう感じて、跳ね起きる。そして、部屋を出た。
クーゲルはまだ会議室にいた。ちびちびと飲んでいる師に、敬礼する。
「クーゲル師。 東の紛争地域に行ってきたいのですが」
「急にどうした」
東の紛争地域とは、北ドムハイトとの国境地帯である。ドムハイト兵が侵入してきているのではなく、経済不安になったドムハイトから逃げてきた民が山賊化して、彼方此方で集落を作っている。
しかも彼らは上手に国境線を利用して身を隠しており、少なくとも今のドムハイト軍に対処できないのを良いことに暴れ回っている。最近国境地帯から難民になってくる民が多いのは、こういった残虐な賊による被害から、国が守ってくれないことが原因の一つになっていた。
当然のことながら、極めて危険な地域であるため、賊の侵入を警戒して国境警備隊も相当神経を尖らせている。有能な騎士も何名も其処にいて、賊の動向に注目している状態だ。残虐な犯罪も日常茶飯事に起こっており、この地域にだけは近付きたくないという裏業界の人間も少なくない。
元々ドムハイトとの国境は、国情が安定してきてからも様々なトラブルの要因になっていたが、近年ドムハイトが半ば崩壊してからは悲惨さに拍車が掛かってきている。逆に言えば。
此処ほどエリアレッテにとって都合がよい無法地帯は、他になかった。
説明すると、クーゲルは大きく頷く。
「分かった。 良いだろう。 存分に殺してこい」
「はい。 目標としては、集落を二つ、百人殺してきます」
「うむ。 お前のあだ名である人食い薔薇が大陸の果てまで響き渡るほどに、ただ血を浴びて来るがいい」
師のお墨付きも貰った。どうせこの辺りに住んでいるのは、どうしようもない賊ばかりである。生活のためにと言い訳して、他の人間の生活を踏みにじり、いつの間にか凶賊になったような連中ばかりだ。
エリアレッテにとっては、殺して勘を取り戻す以外には、何ら価値のない存在である。
それに、騎士団も時々掃討作戦を行い、特に質が悪い賊の集落は潰してもいるのだ。それを多少派手にやるだけで、今までと比べて変わったことをするわけでもないのだ。
その晩の内に、エリアレッテは師に全てを任せて、砦を後にした。
また奴を捕捉できるまでに、しばらく時間が掛かる。
それならば、時間があるうちに。エリアレッテは己についた錆を、出来るだけ効率よく落とさなければならなかった。
クーゲルがエルフィールのアトリエを訪れたのは、そろそろ秋になろうかという頃であった。
二つの大きな研究を同時に進めているエルフィールは多忙で、時々生活のためにこなしている依頼も、キルキやアイゼル、ノルディスと一緒にやっている有様であった。それくらい、時間がなかったのである。
ノルディスは材料を揃えては、エリキシル剤の調合に没頭している。既に相当量が作られており、余った分は市場に流通している様子だ。恐らくはアカデミーにとっても、それなりの収入につながっている事だろう。
アイゼルはそのエリキシル剤をマイナスに転換する作業を行っている。元々非常に微細なバランスの上に成り立っている奇跡的な薬剤である。少しバランスを崩すだけで、あっという間に効果はなくなってしまう。だから、効果を逆転させるなどと言うのは、至難の業であることは想像に難くない。
だが、アイゼルは頑張っている。既に、それなりの成果があがり始めている様子であった。
ただし、今の時点では強力すぎる毒物を作ることには成功しても、効果を真逆にする所までは行っていないらしい。まあ、その辺りは仕方がないだろう。
キルキはと言うと、秘密だと言いながら、どうやら酒を造る技術を応用して、何かをしているらしい。恐らくは薬剤を調合しているのだろうとエルフィールは思っているが、その正体が見えてこない。
そして、エルフィールだ。
まず最初に、テラフラムである。既存のフラムの完成度が高すぎるので、なかなかこれについては巧く行かない。火薬を改良する他無いという結論には達しているのだが、その火薬の材料候補がなかなか見つからないのである。
既に三百種を越える素材を試してみたのだが、今までのレシピが如何に優れているかを、証明するだけに終わっていた。
そしてもう一つ。
国に依頼されたホムンクルスもどきの作成についても、エルフィールは進めている。
既に受け取った情報から、素体になる情報は抽出し終えた。培養器には、既に肉の塊が育ち始めている。間もなく人の姿を取り始めるはずだ。
情報からして、肉の塊は女性らしい。まあ、ホムンクルスは基本的に女性の方が作りやすいという話も、エル・バドールの資料には載っていた。妥当な所であるだろう。
此方が軌道に乗った今、エルフィールは毎日テラフラムの作成に全力投球していた。だが、アトリエを直接訪れるほどの上客を、無碍にも出来ない。ましてやクーゲルには、色々な方向から世話になっているのだ。
「邪魔をする」
「いらっしゃいませ。 イリス、お茶を」
「分かりました」
作業中だったイリスが乳鉢を置いて立ち上がり、すぐに茶を淹れに掛かる。クーゲルには席を勧めて、座って貰った。
すぐに茶を出して、エルフィールもそれを飲む。
なかなかの仕上がりだ。ここのところ、ミスティカ茶に香草類やハーブを入れる事を始めているのだが、それが巧く行っている。とても薫り高く、クーゲルは満足してくれた様子である。
「ほほう、これは面白い茶だな」
「繊細ですけれど、それでも味は良くなっている自信もあります」
「うむ……」
しばらく無言で、茶を啜る。茶菓子をイリスが用意している間に、クーゲルは茶を飲み干して、切り出していた。
「早速だが、テラフラムはどうなっている」
「おかげさまで、開発はそれなりに進んでいます。 ただ、どうしても火薬に適切な素材が見つからなくて」
「そうか。 予定通りに行きそうか」
「今の時点では何とも」
言葉を濁すのを聞いて、クーゲルは多分実際の進捗について気付いたのだろう。
イリスがチーズケーキを持ってきた。最近更に二種類品目を増やしたのだが、そのうちの一つである。
クーゲルはしばしチーズケーキに舌鼓を打っていたが、それも終わると、ビジネスの話に戻る。
「実は他でもない。 試作品が出来たら、まず此方に廻して欲しいのだが」
「試作品を、ですか?」
「そうだ。 今、此方でも面倒な相手と戦っていてな。 被害は出ていないのだが、なかなか捕らえるまでには到っていない」
それを聞いて、エルフィールはぴんと来る。
多分、あの監視者の事だろう。クーゲルが総力を挙げて捕らえられないとなると、他の誰にも無理なような気がする。それにしても、テラフラムとは。点での攻撃で捕捉できなかったので、特大威力の面への攻撃に切り替えると言うことか。
クーゲルが二杯目の茶を所望。今度は少し趣向が違うものを出す。
茶そのものに、甘みを加えた品種だ。ミスティカの品種改良をキルキが行っていて、その成果物の一つである。分けて貰った葉を、ミスティカ茶に加工したのだ。クーゲルはしばし甘みの強い茶を楽しんでいたが、やがてそれも飲み終えた。
「それで、頼めるかな」
「はい。 でき次第、納品します」
「そうか」
「やはり、クーゲルさんでも、手強いですか」
手強いなと、クーゲルは言いながら立ち上がる。それで、エルフィールは確信した。外に出て行くクーゲルを見送った後、背伸びをする。
イリスが、呆れたように呟いた。
「良くあんな熊より凶暴そうな人と、平気で交渉できますね。 そうか、類友だからですか?」
「衰えてきてる」
「えっ?」
「クーゲルさんも、いくら何でも年なんだよ。 だから、アプローチの手段が変わってきてる」
類友云々の話ではない。
年を取れば弱くなる、と言うようなこともない。
エルフィールの棒術の師であるクライドなどは、既に老人になっているが、なかなかどうして。シグザール王国の聖騎士達にも劣らない猛者である。クーゲルも、年を取ってきたからと言って、弱くなったわけではない。
しかし、単純な、物理的なパワーはどうしても衰えてくる。
だから、クーゲルは、それを補うために、知恵を身につけ始めている。それはいわゆる老獪という奴であり、圧倒的な武力に決して引けを取らない非常に強力な武器になりうる存在だ。
いずれにしても、エルフィールにとっては都合がいい話である。いきなり実戦で試すよりも、欠点や弱点が見つけやすい。しかしながらクライアントが増えたという意味もあり、楽観視は出来なかった。
気分転換のために、外に出る。
火薬を改良するしかないという結論は恐らく揺るがない。しかし、どうもその素材に思い当たる節がないのである。
しばらく、無心に歩いていると、イングリド先生が作ってくれた防爆研究施設に到着した。無人同然であり、エルフィールが作った生きている縄を辺り中に仕掛けているから、侵入も簡単ではない。
周囲には鉄柵。中にはぽつんと四角い灰色の建物一つ。窓も無く、ドアは鉄製。草が絡みついた柵の入り口で、生きている縄達に来たことを告げる。門扉が独りでに開いた。否、生きている縄達が開けたのだ。
この施設のために、更に十三本の生きている縄を生産した。いずれも、快適な研究をするためと、もう一つは欲求を満たすためだ。生きている道具類を作っていると、楽しい。だから、エルフィールは執拗に生きている道具類を作り、性能を上げる。
そして、それらの合間に、火薬の研究もする。
鉄のドアを開けて、中に。カンテラの中に入れているのは、ヒカリゴケだ。極限まで火気を排除したこの暗い空間が、テラフラムの研究施設である。危険なので、エルフィール以外の者は入れていない。下手に触らせると、危険だという意味である。
今までに試した組み合わせについて、調べたレポートをチェック。やはり、配分を変えてもこれ以上の向上は見込めない。素材を少しずつ試してもいるのだが、どれもこれもが帯に短し襷に長し。例え高級な素材であっても、結局カノーネ岩以上の効果を発揮できない。
しかも今使われているフラムは、腐敗したガスの爆発補助効果も最大限に生かしている、非常に完成度の高いものだ。素材を下手に変えてしまうと、現状の威力を逆にすり減らしてしまう可能性もある。
しばらく色々と研究を進めてみたが、結論としては進展無し、であった。
肩を落として、研究施設を出る。生きている縄達に警備をしっかりするように命じてから、帰宅。既に陽は落ちていた。
家に戻ると、キルキが来ていた。たくさん参考書を持ってきてくれている。
そういえば、頼んでいたものもある。いずれもが、調合の仕方を記したものではない。素材について、各地の特性や種類等について触れた大百科事典だ。比較的新しい辞典であり、ヘルミーナ先生が作ったものであるらしい。それが真実であることは、中を見れば一目で分かる。美しいイラストの横には、論旨が右往左往して常人なら呼んだ途端に狂気を発しそうな文章が踊り狂っていた。
これこそ、ヘルミーナ先生の本だ。
「エリー、苦戦中?」
「うん。 でも今年中には、何とかしてみせるよ」
「期待してる」
キルキが、イリスに茶を淹れさせる。
まだ彼女が何をしているのかは分からない。しかし、エルフィールもアイゼルもノルディスも、いずれもが敵を屠るために研究を進めている。彼女も恐らくそれに変わりはないだろう。
「キルキの研究は進んでる?」
「ぼちぼち。 ちょっと詰まってるから、明日イングリド先生に相談する」
「いいなあ、それでどうにかなるんでしょ?」
「エリーのは一番難しい。 でも、エリーが突破力が一番高いから、一番難しいのを任されてる」
キルキにそう言われると、エルフィールもまんざらではなかった。
参考書を明日いっぱい掛けて読んでみよう。これはマイスターランクの学生の中でも、特に力量のある人物しか閲覧を許されていない秘中の秘。しかも、ヘルミーナ先生の著書である。
さぞや裏技的な、或いは秘中の秘である情報が書き記されている事であろう。
キルキが帰るのと入れ替わりに、クノールが来た。今日は珍しく、別の妖精も連れている。確かパテットだったか。
「エリーさん。 僕の上司が、話があると言うことです」
どうやら、この忙しいのに、次々と仕事が舞い込んでくる時は来るものらしい。
しかし、妖精族は物資の補給という点で非常に重要な存在だ。此処で多少の恩を売っておけば、きっと後で役に立つ。
どうやらエルフィールの周辺では、少しずつ埋め火がその存在を主張し始めている様子であった。
2、塔を巡って
出来るだけ、姿は見せないように。
砦に常駐している騎士に、エリアレッテは言われた。聖騎士であっても、戦い慣れた村人達に囲まれると、面倒なことになると。確かに、地の利を味方に付け、追いはぎを生業にしているような村は存在する。そう言った連中は、相当に戦い慣れていて、厄介だ。
この近辺はドナースターク家の領地だが、軍とドナースターク家は共同態勢を取り、手練れを多く配置することで、国境線の内側に関してはどうにか治安を保っている。だがそれでも、月に二度か三度、凶悪犯が国境線を越えて潜り込んでくると言う。
探査能力を持つ騎士はその度に大わらわである。
大陸を二分する国境線だ。どうしても隙間は多く出てきてしまう。そしてその隙間を使って、様々な違法商売が跋扈する。
山賊村や盗賊村を潤しているのは、そんな人の業であった。
だが、今回エリアレッテが目的にしているのは、業に触れることではない。
業を利用して、己の感覚を極限までとぎすますことであった。
クーゲル師は、恐らく全盛期であれば、逃げる影を捕らえることが出来たはずだ。エリアレッテも、その段階にまで、自分を絞り上げたい。今まで多く敵は殺してきた。だが、手応えのある相手と、ぎりぎりの駆け引きをしてきた経験は、やはり師に比べればずっと劣ってしまう。
格下の相手ばかりをしてきて、結果鈍った。
だから、敵に逃げられたのだ。
小さな砦を出て、東に。既に集落は三里も離れてしまっている。この辺りは兵士達でさえ、単独では出歩かないように言われている危険地帯だ。国境哨戒の際は、それぞれが縄で結び合ったりして、一人が孤立しないように気をつけながら行う。
魔物などよりも、人間の方がずっと恐ろしい。
その生きた実例が、此処にある。
牙の面々も、時々体を鍛えるために、この近辺の村に侵入して警備兵を殺すのだという。確かにそれは非常に良い訓練になるだろう。何しろこの近辺は、治安の悪さが尋常ではないからだ。
国境線を、音もなく越える。
気配を完全に消して、森の中にとけ込んだ。
周囲を確認して、理解する。此処は人外の土地だ。森の中はトラップだらけであり、迂闊に踏み込めば三秒で串刺しになる。地面近くに罠が集中しているというようなこともなく、玄人が引っかかるような罠ばかりが、厳選して張り巡らされていた。
ドムハイトは人材が減ったという話だが、こういう場所にはまだまだ大勢残っている。ただし、能力の使い方を、ことごとく間違っていると断言できるが。
このような辺境の森を、煉獄がごとき人外の土地にすることに精力を傾けて、何の意味があるのか。
それならば、まだドムハイトのために働くとか、或いは独立国を作るとか、そういう建設的な行動をすればいいのである。この周辺に住んでいる連中は、ことごとくが己の利権のことのみ考えている。それは別に構わないのだが、その利権があまりにもせせこましい。だから、こんなちぐはぐな結果が残ってしまっている。
森の中を、行く。
如何に狭い欲望の発露だと言っても、罠に掛かれば面白くない。エリアレッテだって聖騎士とはいえ人間だ。串刺しにされれば死ぬし、毒を受ければ苦しい。
しばらく、森の中を行く。
トラップはことごとくかわし、或いは潰した。いずれにも多大な労力が必要だった。この周辺には入られたくない。そんな暗い情熱が、森の中に闇そのものを作り上げている。猛獣さえ見掛けない。
そういえば、エル・バドールの森も、こんな風に殺風景だった。
皮肉な話である。人間のエゴが暴走すると、多くの動物は生存できなくなるらしい。そんな事になれば、いずれ人間を待っているのは衰退と破滅だ。それはエル・バドールを見ていれば明らかなのに、何処でも人間は同じミスを繰り返すものらしい。
闇の中、森を抜けた。月光が降り注ぐ村が見えてきた。
村はまるで砦で、見張り用の櫓があり、とげとげしい柵が周囲を覆い、堀には水が引かれている。実際、軍人崩れが構築に関わっているのかも知れない。実戦を知っている人間が作っているのは一目で分かる。
さて、今日はこの集落にするか。
そうエリアレッテは呟くと、木から滑り降りる。見張りの数、それに手際を確認していく。
見張りは全部で七人。ただし常時七人になるように交代を繰り返している。
見ると鳴子が張り巡らされている他、畑等の生存ラインは村の内側に作られている構造だ。村の人口は、家の数などを考慮すると大体二百弱という所か。しかし、その割には若干せせこましい。
或いは、軍人崩れなどが村を支配している形式かも知れない。つまり元からある村を武力で制圧して、以降は自分が好きなようにしているパターンである。こういった寄生型の山賊村が、やがて本物の山賊に成り果てていくのは良くあることだ。人間は一度感覚が麻痺すると、殺しだろうが盗みだろうが躊躇しなくなっていく。
村の周囲を回って観察。
わざと村の周囲の森は、木を伐採して視界を良くしている。しかも要所に限って、見張り台から見やすいように木を切り落としていた。
非常に面倒な相手だ。
そして、悪い意味ではあるが、相手の力量を認めざるを得ない。今日中に攻略するのは難しいかも知れない。無理をすれば、死ぬことになるだろう。
そう思った所で、苦笑。
何のために此処に来たのか、思い出したからだ。
中に入り込んで、全員を殺すことは多分無理だろう。偵察隊を全滅させることは可能だが、それでも簡単ではないはずだ。
見張り台にいるのは、かなり手だれていることが一目で分かる山賊である。しばらく、森の中に潜んで、様子を見る。
村の仰々しい、棘だらけの扉が開いて、出てきた。馬に乗った山賊が何名か。雑多な装備だが、相当に使い込んでいる。下手な兵士よりも強いだろう。全員が矢筒を背負い、手には大振りの弓を手にしている。
森の中にある小さな路を、巡回し始める賊。
談笑している者もいるが、基本的に相当手慣れている。数は六人。互いに死角をカバーし合って、相当に広い索敵範囲を確保していた。偵察は手練れがやるものだが、なかなかどうして。
ドムハイトの軍にでも入れば、少しは世の中の役に立てるだろうに。愚かしい話であった。
だが、別に感情は動かない。
既に、殺戮に関する欲求以外では、滅多なことで感情が動くことがないように、訓練を済ませていた。
師の訓練は完璧だった。
しかも、自主的にそれをこなしたのだ。
どうしても意識してしまうアデリーの存在も、最近は気にならなくなっている。以前はどうしても越えるべき壁だとして認識していたのだが。今ではすっかり、自分のために強くなることが先に立つようになっていた。
馬が悪路を疾走する。馬術もなかなか大したものだ。
ふと見ると、鷹が飛んでいる。能力者による探知に利用しているかも知れない。やるとしたら、あれからだ。
石を拾う。
投石は、戦闘技術として非常に有効だ。獣を狩るのにも便利だし、何より何処にでも落ちている石で、充分な殺傷力を得ることが出来る。ある程度の力量の騎士は皆身につけているし、兵士達も当然訓練を受ける。
エリアレッテも、今ではすっかり投石の名手であった。
手が一閃すると、鷹が落ちる。森の中に墜落する鷹を見て、偵察隊が足を止めた。何か小声で話し合っている。
すぐに臨戦態勢を取る連中が、しかし笛を吹き鳴らす前に。
森の中から、エリアレッテは飛び出していた。
戦闘は、すぐに終わった。
砦の中に放り込んだ首は六つ。内二つは原型をとどめないほどぐちゃぐちゃに顔面を破壊していた。
斬龍剣で木っ端微塵にしたのだから当然である。流石に手だれていても、奇襲から斬龍剣の一撃を受けてしまえばひとたまりもない。
敵が警戒を強めているのは一目で分かった。だから、同じようにして、目を付けておいたもう一つの集落でも、偵察隊を皆殺しにした。
殺す度に、腕についていた錆が落ちていくのが分かる。
鮮血の中で、磨き抜かれていく感覚。そうだ、これだ。一瞬でも判断をミスすれば、己の死につながる恐怖。
師との立ち会いの中で感じた死の臭いが、全身を包んでいる。そして、それが、全身の感覚を鋭敏にしていた。
今の時点で十三人を殺し、更に守りを固めている敵の中にこれから斬り込むつもりである。森の中から見ていると、敵は見張りの人数を増やし、偵察隊の人数を増やすつもりのようだった。
狼煙が上がっている。
なかなか本格的だ。多分近くの集落と、連絡を取っているのだろう。
連携して対処に当たって来るのも早い。ゲスはゲスどうし、横で連携をしっかり取っているという事か。
一度、砦まで後退する。もしも追撃のために人数を出してきたら、その場で返り討ちにするためだ。
もちろん、森の中のトラップは、見掛け次第ことごとく潰した。相手を挑発するためである。
一度、自国領の砦まで戻る。最前線の城に行かなかったのは、そちらではしっかり警戒をしているから、逆に敵に察知されやすいと思ったからである。山賊どもは面子を潰されたと思い、これから全力でエリアレッテを殺しに来るだろう。それでいい。
だが、姿を捕捉させるわけにはいかない。影から敵を殺しまくる。それが、今回の目的であるからだ。
砦にはいると、不思議と臨戦態勢を整えていた。最前線ではないのだが何かあったのかも知れない。兵士達が敬礼する中、執務室に。急な聖騎士の訪問に、指揮官は驚いた様子で出迎えてきた。
元騎士らしいが、ひ弱でぼんやりとした女である。敬礼する彼女に、エリアレッテは告げる。
「カーランド中佐、国境地帯の賊どもを十人ほど殺してきた。 しばらくは偵察を念入りにするように」
「分かりました、聖騎士様」
「様はいらない。 貴方の方が年上のようだし」
「それでは、聖騎士殿。 何故にそのような非道を?」
面白いことを言う元騎士である。隣にいる中年の男の方が、あらゆる意味で優れているように見える。多分能力者で、それだけを期待されて指揮官になっているのだろう。
「今、途轍もなく強力な敵との戦闘中だ。 私自身腕を磨き直す必要があると感じたから、山賊どもを相手に交戦している」
「そうでしたか。 そうなると、塔の件では無いのですね」
「塔?」
「ザールブルグに早馬を送ったのですが、この近辺に少し前、謎の塔が一瞬だけ出現したのです。 その調査のために来られたのかと思いました」
初耳だ。当然ザールブルグには情報が行っているはずだが、エリアレッテの耳には届いていない。
腕組みして少し考え込む。
今、大空の王と影の鏡に備えて、騎士団は最大級の警戒をしいている。牙との連携も欠かしてはいないはずだ。
情報が届いていないというのは考えにくいから、何か理由があると判断するべきだろう。いずれにしても、エリアレッテとしても、無視できない話であった。
「そうか。 ならば山賊どもの掃討を少し早めて、調査をする」
「分かりました。 我々としては、どのような支援をすればよろしいでしょうか」
「陽動での機動をしてほしい。 当然山賊どもは、何かしらの手段で此方の動きを察知しているだろう。 それを混乱させたい」
「分かりました。 クレイモア少佐、お願いします」
寡黙そうな副司令官が頷くと、手練れを連れて外に出て行った。
エリアレッテは、塔について詳しく先に聞いておく。
何か、いやな予感がしていた。
エルフィールは防爆研究室の中で、腕組みして小首を捻っていた。
百科事典の中で、有望な素材を幾つか見つけた。その中の一つ。青い水と呼ばれる素材を取り寄せたのだが、どうも思ったような火力が出ないのである。
青い水は、大陸の西の方で産出される幾つかの素材を調合して造り出す。非常にデリケートな液体であり、少しでも空気に触れさせるとあっという間に変質してしまう。それだけではない。下手をすると、少し揺らしただけで爆発するほど、危険性が高い液体なのだ。そのため、学生には調合手段どころか、存在さえもが秘されている。エルフィールも、つい最近まで知らなかった程だ。
問題はその火力である。カノーネ岩で作る火薬に比べて、同質量で圧倒的に大きなわけでもないのである。
かといって、研究するにはリスクが大きすぎる。下手に揺らしただけで大けがをするような物質なのに、調べても実入りが少ない。それが、この液体の可能性についての調査を、誰もが嫌がってきた理由であった。
それだけではない。
何度か繰り返してみた爆発実験では、参考資料ほどの爆発力が、どうしても出せなかったのである。
これでは研究以前の問題だ。そもそも品質に問題があるのか、或いは保存方法が間違っているのか。参考書の記述もあまり多くないので、全てを自分で考えなければならなかった。
取り寄せたのが不味いのかも知れない。
そう思ったエルフィールは、調合手順を見る。相当に難しい。少なくとも、普通の学生にはまず無理だろう。
しかし、手詰まりの状態を打開するには、もう手段が残されていないのも事実なのだ。考えれば考えるほど、構造面では問題がないのである。
悩んでいても仕方がない。
エルフィールは、二日掛けて素材をかき集めた。国から支援が出ているから、素材類を集めるのは、さほど難しくない。殆どが鉱物ばかりで、ほんの一部だけ、植物も混じっていた。
素材類は、どれもあまり高価ではないのが救いだ。幾ら今回は予算を気にしなくて良いと言っても、限度があるからだ。
調合は、まず濾過から始まる。
西の火山地帯に生えるカタクリヤシ。一見すると南に生えている椰子類に似ているので、この名が付いた植物だ。しかし種類などは恐らく違うだろう。それで、この実を割る。
椰子の実に非常に良く似ていて、毛深い実である。大きさも子供の頭ほどある。色はどす黒く、食べると危険だと一目で分かる所が案外優しい。ナイフを実に差し込んで、何度か突き動かしていく内に、実が綺麗に左右に割れた。
中にはどす黒いタール状の液体が入っている。
非常に危険で、毒性も強い。そして、火をつけるとかなりの勢いで燃え上がる。
これこそが、青い水のベースとなる液体である。
まずは、竈を使って茹でる。と言っても、人肌より少し熱いくらいの温度で、じっくり温めていくのだ。
そうして、液体に上澄みが出てくるのを待つ。この上澄みが酷い匂いであり、使わないので廃棄する。ただし毒物としては使えるかも知れないと、エルフィールは思う。いずれ廃棄した分を使って、ちょっと調合をしてみるのも悪くないかも知れなかった。
上澄みを何度か捨てている内に、タール状の液体は、粘度が上がってくる。
此処に、先に砕いておいた幾つかの鉱石を粉末状にして加える。この時の変化は劇的で、どす黒かった液体が、一気に透明になっていく。
どういう変化をしているのかは分からない。
分かっているのは、作業時に火を止めること。そうしないと、際限なく熱量を吸い込んで、爆発してしまうのだ。
釜の中が、透明で、だが危険な液体に満たされた所で、大体一日が終わった。
部屋の外に出る。肺が汚染されたかのようだ。これは出る気体を吸わないように、工夫をする必要がある。
キルキの作る炭酸飲料でも飲むかと思って、無言で歩く。あの状態になると、次の作業までしばらく寝かさなければならない。どうもあの液体は、非常に熱をしぶとく蓄えるらしく、何日か掛けないと熱が抜けないのである。熱が抜けてから、次の調合にはいることになる。
何しろ、迂闊に指を突っ込むわけにはいかないし、硝子の温度計でも乱暴に入れると爆発しかねない。それくらい危険な液体なのである。わざわざ小型の釜を使っているのだが、カノーネ岩の火薬に火力が劣ると言っても、全部一遍に爆発させればエルフィール位は木っ端微塵だろう。
アトリエに着いた。ドアを開けると、イリスが奥の方で乳鉢と格闘し続けていた。そういえば、今回かなり硬い鉱石の粉砕を任せたのだ。時間が掛かるのも仕方がないことである。
「イリス、まだ終わらない?」
「はい。 まだ掛かります」
「終わったら銭湯行こうか。 キルキも誘って」
「あの、それなのですが」
机の上に、手紙があるのを発見。来客があったと言うことか。
これ以上仕事が増えると、流石に手が回らなくなる。クノールの他にもう一人妖精を頼むか、ホムンクルスを作ろうと思っていたくらいなのである。ちょっと苛立ちながら手紙を開く。
中には、ちょっと意外な文面が踊っていた。
「驚いた。 猶予が出来たよ」
「猶予、ですか?」
「騎士団の方で、どうも手間取っているらしくてね」
エル・バドールの兵士達の質から鑑みるに、恐らく世界最強のシグザール王国騎士団が、今だ歴史の闇で蠢く影を捕捉できていない様子なのである。これはエルフィールの見る所、人間の力が及ぶ所ではない相手なのかも知れない。
しかしながら、それでもどうにかしなければ行けないのが、厄介な所だ。
エル・バドールの状況が一瞬で変わるのを、エルフィールは実際に目撃している。あんな事を、シグザールでされてはたまったものではない。
エルフィールは現実主義者であり、それでアイゼルとたびたび対立もしてきた。ただ、これだけは譲れない点はある。
この世界は、人間のものである、という事だ。
エルフィールの過去については、まだよく分からない。人為的に操作されたのかも知れないし、自分で封印したのかも知れない。
だが、それも人の手であるべきだ。
人間社会がろくでもない要素もあることは、重々承知している。だが、多くの人間の営みであるのであれば、仕方のない部分もある。他所からの巨大な力で一方的に好き勝手されるというのは、やはり容認できるものではなかった。
猶予は二ヶ月。今年中だとかなり厳しいかと思っていた所だから、わずかに余裕が出来たと言うことになる。
それならば、今の内に済ませてしまうべき事も、さっさと片付けるべきであった。
「まずはホムンクルスの方かなあ」
「あの、眼鏡の聖騎士の依頼ですか」
「そうそう。 そっちは猶予が出来た訳じゃないからね」
もっとも、そっちの方は別に苦労もしていない。研究施設でもう一体予備のホムンクルスも作っているくらいであり、経過を見て後幾つかの手順を踏めば完成だ。実は、イリスを連れて行って、最後の仕上げを近々しようと思っていたくらいなのである。
全体的に見れば、あまり良いニュースでは無いのかも知れない。
しかし、エルフィールにとっては、追い風であった。
ドアをノックする音。
噂をすれば、である。イリスが眼鏡の聖騎士と呼ぶ、カミラである。
「どうぞー?」
「邪魔します」
カミラは白々しいやりとりだと顔に書きながら、アトリエに入ってきた。開封された手紙を見て、小さく頷く。
話が早いという事だろう。
イリスは一旦乳鉢を床に置くと、茶の準備を始める。エルフィールも、地下の倉庫から前回とは違うチーズケーキを出してきた。こっちは長の結婚式で出したものではない。それ以降に作った新作だ。
「ほう。 これは」
「どうぞ。 既に飛翔亭にも出してはいますが、カミラ様に出すのは初めてだったと思います」
「いただきましょう」
ヨーグルトを贅沢に生地に織り込んだチーズケーキであり、柔らかい食感とチーズの旨味を最大限に引き出した品である。どのチーズケーキも気に入っているのだが、その中でも特に注文が多い品だ。
カミラの表情が食べた瞬間和らぐのを、エルフィールはしっかり見た。舌も肥えているだろうに、それだけ美味しいと感じてくれていると言うことだ。女性には甘味が一番だが、カミラにもそれは例外ではなかったと言うことだろう。アデリーさんはからいのが好きなようだが、それはそれで甘いものも嫌いではないようだし、今後はもっとうんと甘いチーズケーキを検討しても良いかも知れない。
しばらく無言で、茶を飲んでいたカミラは、やっと本題にはいる。
「既に手紙を見たと思いますが、騎士団の方で敵の探索に難儀しています。 まだ敵の姿を捉えることしか出来ていない状態ですので、少し工期を延長します」
「良いんですか?」
「敵は強大な上に、どのようにして我らの監視網をくぐり抜けているかも分かっていない状態です。 急いで作っても、手を打たれては意味がない。 じっくり取り組んで、ゆっくり敵を追い詰めていくしかないのです」
カミラの言うとおりだ。
エルフィールが騎士団にいても、同じ事をしただろう。しかし、解せないのは、どうしてカミラがわざわざ来たか、と言うことだ。
何かいやな予感がする。
「それで、カミラ様がわざわざこられたと言うことは、何か御用事が?」
「少し、調査して欲しいものが出てきました」
そう来たか。
時間が空いたと思ったらこれである。もっとも、騎士団はエルフィールの苦労など知るわけもない。
「何か不都合でも?」
「いえ、元々考える時間をくれただけでもありがたいですから」
「そうですか。 今回は調査と言っても、下調べだけで大丈夫です。 本調査は、貴方の上役でもある、鮮血のマルローネに一任するつもりです」
それは面白い。エル・バドールで組んでみて、非常に楽しい人だと思ったし、仕事にやりがいもあった。
ただ、今回は、意外な人物を同行させるようにとも言われた。
カミラが帰っていくのを見送ると、エルフィールは肩を叩く。ちょっと肩が凝った。
「おもみしましょうか?」
「あら、気が利く」
「いつもだって気を利かせているつもりです」
ちょっと拗ねたようにイリスが言った。
調査するべきポイントは、ザールブルグから東に四日ほど行った所にある、小さな砦の側である。この近辺は非常に中途半端な地域で、ザールブルグなどの主要都市からは遠く、国境線などの最辺境からもまた遠い、空白地帯に近い場所なのである。故に手つかずの広大な原野があったり、大森林があったりと、エルフィールにとっては素材などの探しがいがある土地であった。
幸いと言うべきか、土地の起伏も抑えめで、街道もしっかり整備されているので、荷車を引いての移動は非常に快適であった。四日の行程であったが、三日を切ることが出来るかも知れないと、思ったほどである。
ただし、今回は旅慣れていない同行者がいるので、そうもいかなかったが。
「ミルカッセさん、足は大丈夫ですか?」
「平気です」
にこりと笑みを浮かべるミルカッセ。だが、子供達に向けるものとは、若干色彩が違っているのは、気のせいではないだろう。
護衛としてついてきているのはルーウェンである。ハレッシュは少し前についにフレアと結婚して、今南の方に新婚旅行の最中だ。その話をするとルーウェンは非常に機嫌が悪そうになるので、多分此方は巧く行っていないのだろう。
起伏が少ないといっても、多少の坂はある。
左右に畑も少なくなってきて、休憩所に見える人数も減り始めた頃。小規模な丘にさしかかった。ルーウェンに荷車を引いて貰い、エルフィールが後ろから押す。イリスには、槍を携えて周囲を哨戒して貰った。
ミルカッセは、歯を食いしばってついてくる。前にも遠出をしたことはあるが、今回は彼女のペースに合わせていない。だから結構厳しいはずだが、エルフィールの前で余程弱みを見せたくないのだろう。
彼女にとって、エルフィールは救わなければならない対象であるらしい。である以上、当然の行動なのかも知れなかった。
ルーウェンが気を利かせて時々休憩を提案するが、それもミルカッセはやんわりと断る。父の形見だという剣を腰に帯びたまま、彼女は歩く。時々風が吹いてベールを抑える姿は、妙に艶っぽかった。
「この丘を越えると、目的のハイマン平原だ。 野営所もあるから、其処で一旦休もうか、シスター」
「私は平気です」
「そうじゃなくて、もう目的地だってんだよ。 一度休憩を入れながら、探索の戦略を練るんだよ」
ルーウェンが若干の苛立ちを声に含ませると、はっとしてミルカッセが顔を上げた。そして、小さくあたまを下げて、謝罪する。
ルーウェンは一度忌々しそうにエルフィールを見たが、それ以上は何も言わなかった。気付いているのかも知れない。二人の確執の理由について。まあ、エルフィールとしばらく一緒に仕事をしたのだ。ミルカッセの人となりを知っているのなら、大体確執の原因くらいは判断できるだろう。
丘を越える。
平原と言っても、木が全く生えていないわけではない。何筋か平原を貫いている小川の左右には、灌木がそれなりに生えている。平原を貫く街道の左右には、時々野営所があり、物見櫓も設置されていた。兵士達もある程度常駐している様子だ。
如何にもやる気が無さそうな見張りの兵士達が、煙草を吹かしている。まあ、この辺りでは、狼煙を見るくらいしか仕事がないだろう。この平原には人間に害をなせるような猛獣もあまり数が多くない。ぷにぷには水がない限りあまり姿を見せないし、魔物は積極的に人間に近付こうとしないし、狼はもう少し離れた森まで行かないと、あまり遭遇しない。熊や虎も同じである。たまに毒蛇が出る様子だが、それも気をつけていれば一般人が十分に対処できる。
兵士達からの情報収集はイリスに任せて、まず天幕を張る。ミルカッセには、ルーウェンと一緒に竈を組んで貰った。多少手つきは危なっかしいが、それでもミルカッセはきちんと竈を組むことが出来た。
ルーウェンが幾つか細かい指導をしている。熱心に首を傾けているミルカッセ。次はもっと上手に竈を作ることが出来るだろう。熱意がしっかり感じられるし、何よりも石組みのセンスもある様子だからだ。
天幕をちょちょいと張り終えると、手の埃を落とす。
そして、イリスが戻ってくるのを待ってから、バックパックから地図を取りだした。この平原の地図だ。
カミラから聞いた地点には、×印を付けてある。ルーウェンが頭を掻きながら、地図を覗き込んできた。
「なんだそれ。 宝でも埋まってるのか」
「いや、こんな平原に宝を埋める物好きはいないでしょう」
「それもそうだ」
この平原には、特に由来も曰くもない。シグザール王国に滅ぼされた小国があったとか、そんな事もない。まあ、そういったいわくの無さを利用して、宝を埋める物好きももしかしたらいるかも知れないが、それは多分地図も出回らないだろう。
イリスが竈の側に座る。其処で、やっと話をする態勢が整った。
「イリス、情報は」
「数日前に、やはり地震があった様子です。 二回、短時間で」
「やはりここで起こったか」
「まて、ザールブルグじゃ揺れなんか感じなかったぞ」
その通りだ。エルフィールも、揺れなどは一切感じなかった。
カミラによると、少し前から謎の塔が、小規模な地震と一緒に移動し続けているのだという。
その塔は最初国境付近に国境付近に出現した。探索系の能力者が一瞬だけ姿を捕捉したらしいのだが、忽然として消えてしまったという。地面に揺れが発生したと言うことから、恐らくは地面に潜ったのではないかと推察された。
そして、少しずつ現れる地点が、南へ移動しているという。
「ザールブルグに近付くんじゃなくて、南に移動しているのか?」
「うん。 それがよく分からないんですよね」
もしも歴史の影で蠢いているという輩が、攻撃を目論んでいるのなら。なぜザールブルグに近付いてこないのか。それも謎である。
もう少し大きな縮尺の地図を出して、出現地点を示す。確かに南へと、出現地点は移動しつつあった。出現日時を見る限り、速度も一定している様子だ。
そして、カミラの予想が正しければ、数日前に此処に姿を現していたはずだったのだが。予想は的中していた、と言うわけだ。
「なるほどな、それで今回はそれを調査するって訳か」
「私達はあくまで一時調査ですけどね」
もちろん、騎士団の方でも調査はしている。しかしながら、あまり成果は上がらなかったのだという。
そこで錬金術師に、霊的な力の強いミルカッセも加えて、別方向から一次調査を再度やり直す、という方針になったそうである。そして軽くエルフィールが調べた後、マルローネさんが作業を引き継ぐという話だそうだ。
エルフィールとマルローネさんの力量、経験の差から言っても、当然の人選だ。もちろんエルフィールしか人材がいないのではなく、大きな実績を上げているマルローネさんのコネクションがものを言ったのだろう。
ただ、幾つかこの土地の警備兵のことで、気に入らないことがある。
イリスの話によると、兵士達は何処に塔が出現したかなどは調べていないらしい。地震が起こったと言うことだけを察知し、収まったから問題ないだろうと考えて放置していた様子だ。
呆れた職務怠慢ぶりである。
「シグザール王国軍は精鋭だと思っていたが、そんな奴らもいるんだな」
「位置が問題なんでしょう」
「そうだな。 猛獣の脅威も少ないし、首都からも国境線からも微妙に遠い。 旅人の護衛くらいしか仕事がないとなると、やっぱりだらけるな」
煙草を吹かしながら談笑している警備兵を横目に、ルーウェンが言った。確かに屯田兵と言えば屈強で気性も荒いというイメージがあるが、此処に駐屯している連中は到って腑抜けで、戦闘ではあまり役に立ちそうにない。実際、奇襲でなくても、エルフィール一人で皆殺しに出来るだろう。
まあ、こういう場所があっても良いのだろうとも、エルフィールは思う。ただし、こういう場所だらけになったら、シグザールはエル・バドールのようになるだろうが。
しばらく地図を見ながら、探索地点について協議する。ミルカッセは霊的な探索をすると言うことで、色々とそれらしい道具を持ち出してきていた。彼女の強力な浄化能力を身をもって知っているエルフィールは、ちょっとだけそれらの道具を嫌だなと思った。
「それ、何?」
「此方はアルテナ神のシンボルです。 此方は加護を受けた聖なる布。 そしてこれが……」
「あんたの力については聞いているから疑うようなことはしないが、調査に役立つのか?」
「分かりません。 私もこういう事は初めてですから、何が役に立つのかはよく分からなくて、何でもかんでも持ってきてしまいました」
ちょっと呆れた。だが、ミルカッセは悪びれる様子もなく、色々と道具を並べている。逆に、イリスは興味津々だ。
神がいるかどうかも分からないのに、実際に力を発揮している道具類。本当に神とやらの力なのか、他の力が作用した結果なのか。確かめてみたり、調べてみる価値はあると言える。
「見せてくれますか」
「はい、イリスちゃん」
満面の笑みで、ミルカッセが渡したのは、不思議な形をした木の塊だ。多分女神を象っているのだろうが、芸術的な美しさよりも、呪術的な性能の方を優先しているのだろう。少なくとも、美しいとは思えない。
上から下から眺めているイリスは、とても無邪気な表情である。笑顔というのではないのだが、世界に向き合っている子供のようだ。
「魔力がそれほど強く篭もっているようには見えないのですが。 ミルカッセさんは、実際にこれを使って、奇跡を起こせるんですね」
「それほど大したものではありませんが、光の力を神に借りることは出来ます」
「……」
イリスは眼を細めて、ミルカッセの説明を聞いている。納得はしていないが、実例は見たいという表情だ。さっきまでの無邪気な表情は失せていて、まるで未知の物質をはじめて見た錬金術師そのものだ。
エルフィールもそれについては同意である。
話がまとまった所で、全員で野営を畳む。荷車に天幕を積み直すと、一旦野営所を出た。兵士達はまるで無関心である。夜でもある程度は安心だと思っているのだろう。本当に職務怠慢も良い所であった。
「俺の好きな奴が騎士やってるんだが、此処のことたれ込んでやろうかな。 流石に彼処まで無気力だと、本当に苛々する」
「そういう真面目すぎる所が、好きな人に振られる原因だったりして」
「エルフィールさん!」
ミルカッセの叱責を浴び、立ったまま固まっているルーウェンを見てエルフィールはしまったと思ったが、時既に遅い。
ミルカッセは頬を膨らませて、じっと此方を見ている。どうしてルーウェンが傷ついたのかはよく分からないが、この青年、意外に純情なのかも知れない。まあ、相手には嫌われているようには見えなかったが。
「好きな奴? マスター、知っておられるんですか?」
「そりゃあね。 この間エル・バドールで一緒にいた銀髪黒い肌の女騎士。 あの人でしょ」
「ああ、そういえば」
イリスも納得いったようだった。
しばらくすると、流石に無言のまま、ルーウェンが追いついてくる。ミルカッセはぶちぶちと小言をエルフィールに言ったが、やはりどうして怒られているのかは理解できなかった。
感情は欲しいと思う。
しかし、それに振り回されるのも、難儀でならない。
夕刻の少し前には、目的の場所に着く。平原を見渡せる少し小高い場所で、周囲を見回せるので防御にも適している。
再び、野営の準備。枯れ木や石を積み上げて、周囲に簡単な防御施設を作った。元々高い戦闘力を持つルーウェンと、戦闘をそれなりに経験しているエルフィールが揃っているのである。野犬やぷにぷに程度なら、比較的容易に撃退できる。
そして、今日は一旦此処に泊まり、探索は明日からだ。
たき火を起こして、星明かりの下、エルフィールは地図を拡げる。探索のプランの確認は、夜中まで続いた。
3、闇の底から
兵士達のいい加減な情報は当てにならなかった。だから、結局足で稼いだ。
エルフィールが大きな孔を見つけたのは、調査開始の二日後である。平原の西の端に、それは空いていた。
巨大な孔である。ほぼ正円形で、直径はエルフィールの背丈と比べて十倍から十二倍という所か。生きている縄で計測してみると、ちょうど11.5倍であった。
周囲を調べてみる。
特に地盤が緩いと言うこともなく、どうしてこの孔が出来たのかは、事前情報がなければ分からなかっただろう。
塔が出来たのだ。一瞬だけ。
そして、かき消えた。
孔はさほど深くない。全員を集めた後、野営地を孔の側に移し、詳しい調査を開始。周囲を確認し始めると、色々とおかしな事が出てきた。
「イリス、ちょっと来て」
「何ですか」
ミルカッセの霊的な調査につきあっていたイリスを呼び戻す。アイゼルが作ったひらひらの服に風を孕ませて、ぱたぱた走ってくる様子は実に可愛らしい。実際、外を歩いていると、男の子の視線を集めることが多いという。
地面に這い蹲って調べていたエルフィールは、手招きする。
それを、一緒に覗き込んだ。
「溶けた硝子、でしょうか」
「硝子を溶かすの? わざわざこんなところで?」
「そんなわけはありませんよね」
「そう。 こういうのが、周囲に転々としてる。 泥にまみれて殆ど分からないけれどね」
それも変な所なのだ。
この平原に小川は幾つも流れているが、しかしこの孔からはだいぶ遠い。それなのに、湿った土が、辺りに大量に放出された形跡があるのだ。
塔のような何かが、いきなり出現したとする。
その時、泥と、溶けた硝子のようなものが、辺りに大量にぶちまけられた。これの意味する所が、よく分からない。
腕組みしているエルフィールの向こうで、ミルカッセがひたすらアルテナ神に祈っている。何をしているのかはよく分からないが、多分霊的な何かに干渉しているのだろう。馬鹿にしたものではない。例えばマルローネさんの雷撃術にしても、ルーウェンのオーヴァードライヴにしても、原理は未だによく分かっていないのだ。魔術というカテゴリでくくってはいるが、それが何かと言われて、応えられる人間はどれだけいるのか。
イングリド先生もヘルミーナ先生も、錬金術と同時に魔術の達人でもある。しかし彼女らでも、魔術が何かと言われて、応えるのは難しいだろう。
ルーウェンが、周囲を見てくると言って、孔の側を離れた。イリスは無心に溶けた硝子を集めて、周囲の地面を調べている。エルフィールはと言うと、成果物を拾い集めて、ルーペで観察した。
観察してみると、溶けた硝子のようなものは透明度が低く、しかも表面に無数の穴が空いている。
これは空気が抜けた跡だろう。幾つかの調合で、似たような結果を見たことがある。硝子を作る技術がエルフィールの学んだ中にもあるが、慌てて冷やすとこうなりやすい。その知識から類推すると、これは空気が抜けきる暇もなく、固まったと言う結論になる。
しかし矛盾するのが、泥だ。
塔が例えば、土の中を高熱を発しながら進んでいたとする。そして飛び出してきた時、大量の溶けた何かが放出されて、辺りに散らばった。そこまではいい。
ならば、なぜ泥がある。
腕組みして考えていると、ミルカッセがいつの間にか側に立っていた。厳しい表情をしている。
「どうしたの? ミルカッセさん」
「これは、人の踏み込んで良い領域ではないと思います」
「え?」
「神的存在の気配を感じます。 貴方が塔と呼んでいる存在は、或いは神々の乗り物かも知れません」
笑おうとして、失敗した。いつものように、へらへらとした笑顔を作れない。
ミルカッセの口が、あまりにも真剣に、への字に結ばれていたからだ。
イリスも軽口を叩けない様子で、固唾を呑んで状況を見守っている。
元々ミルカッセは造作が整っている。普段は子供達を慈しむ優しい司祭様だが、一方で覚悟を決めると何にも一歩も引かない強さも見せる。
エルフィールはそれを知っていた。だから、馬鹿にもしていなかった。
しかし、もしもだ。彼女がいう事が正しくて。
なおかつ、騎士団の懸念が正しいとなると。
或いは。
エルフィールは、いやこの国は。
神を、相手にしようとしているというのだろうか。
「調査の終了を。 神の怒りに触れたくなければ」
「神、ね」
ルーウェンが戻ってくる。険悪な雰囲気が生じかけているのを見て、肩をすくめた。
ミルカッセは、なおも言った。
「見たところ、邪悪な神ではないと思います。 アルテナ様でもないようですが。 しかし、もしも怒りを買えば、どのような災害がシグザール王国に降りかかることか」
「何だか、大きな話になって来やがったな」
「じゃ、さ。 ミルカッセさん、聞きたいんだけど。 その神様が、人間に好き勝手に干渉して、場合によっては人も殺している、ってなってたらどうする?」
ミルカッセの目に怒りの炎が宿る。
エルフィールも、一歩も引く気はない。この塔が、神の御業とかによる、無害な存在だったら良い。
だがその存在が、人間に害を為す者であったとしたら。騎士団と一緒に排除しなければならないだろう。
エル・バドールでの一件や、フラウ・シュトライト、それに空を飛ぶ巨大なドラゴンの事を鑑みるに、明らかに他人事で済まされる範囲を超えているからだ。対処できる力がある以上、エルフィールも動かなければならないのは自明の理であった。
「神は、そのようなことをなさりません」
「もしも今回の件が、巨大な海竜やエル・バドールでの陰謀劇と別件だったら構わないんだけれどね。 そう判断するには、タイミングが悪すぎる。 もしも神が人間に干渉して、国をしっちゃかめっちゃかにするのを是とする判断をしたら、どうするの?」
「あり得ません」
「いいや、あり得る」
互いに一歩も引かないまま、膠着状態は続いた。
ルーウェンが頭を掻きながら、割って入ってくる。
「分かったけど、喧嘩は後でやれや。 今までも、エリーは訳が分からない敵に一度ならず襲撃を喰らっていてな。 それだけじゃない。 エル・バドールでは、本当に訳が分からない事件も何度も起きていたんだ」
「ルーウェンさんまで、そんな事を」
「事実なんだよ。 だから、この塔が神さんの御業で、害がないって言うならそれはそれでいいんだ。 だったら、それを証明するべく、建設的に調査した方がいいんじゃないのかなって俺は思うんだが」
ミルカッセはまだ納得できていない様子だが、渋々怒りの矛先を納めてくれた。
エルフィールも笑顔を維持できなくなっていたが、それを取り戻す。それにしても、神的存在の気配とは。
或いは、ミルカッセらが力を借りていた相手が、今回の敵と言うことなのか。いや、だったとしたら。もっとシグザール内で、宗教系の勢力を強くしていて、国政に関与させているはずだ。その方が何より楽だからである。盲目的に教義を信じ、場合によっては自分の死をもってしてでも人を殺す信徒は、これ以上もないほど便利な道具の筈だ。シグザール王国は今まで丁寧に宗教組織の勢力を削いできたが、もしも神とやらが人間社会に干渉しているのであれば、その動きそのものを掣肘していたはず。
色々と仮説が泡のように浮き上がってくる。
だが、結局の所、今回の目的は一次調査だ。そして今ひとつはっきりしている事としては、どうも塔は地中を何かしらの方法で移動している。それくらいだろう。
夕刻、サンプルを集めて、一旦調査を打ち切る。
キャンプで、サンプルを吟味。イリスにも調べさせたが、彼女の意見はなかなかに面白い。
「硝子状の物質は、土が高温で溶けたものではないでしょうか」
「土が溶けるほどの高温? それは凄いね」
「ただ、そうなると泥がなんなのかは気になります。 ひょっとすると、高温を冷やすために、同時に水を大量に放出しながら、土の中を進んでいるのかも」
「面白い意見だ。 参考にするよ」
確かにイリスの意見はつじつまが合う。
しかしそうなると、そんな大量の水を何処から調達しているのだろうかとも思えてくる。また、地中で高温を発したりすれば、逃げ場がないようにも思える。それだけ強力な耐熱性を持っているのか、或いは進行方向の土だけを、器用に溶かして進んでいるのかも知れない。
どちらにしても、仮説の域を出ない。今回は一次調査と言うこともあるし、無理に真相を突き止めなくても良い。それだけが、救いではあった。戻ったら、テラフラムの原料についても、調査を進めなければならないのだ。
地図を拡げる。
現在、地震があったという地点を、線上で結んでみる。
確かに塔はまっすぐ南下していて、しかも都市を避けるように進んでいる。ザールブルグに関しても、ニアミスを起こすことはあっても、直撃はしない。ただし、もしも塔が自在に地中で方向転換できるとなると、難しい。
もしも、そんな灼熱を帯びた塔が、ザールブルグの街の真ん中にでも出現したら。被害は想像できないほどになるだろう。
「明日は、泥と溶けた硝子の飛散範囲を調べて、それで切り上げよう」
「もしも塔がザールブルグに出現した場合の、被害について調べるおつもりですか」
「その通りだよ。 その塔がミルカッセさんの言うとおり神様の乗り物だったとしても、こんな熱い物質をぶちまけられたら、人間なんてひとたまりもないだろうからね」
ミルカッセが不機嫌そうにしている中、エルフィールは遠慮無くそう言った。
ルーウェンが宥めるが、ミルカッセは当然機嫌を悪くしたままだ。イリスが見上げても、表情をなかなか和らげてくれない。
「ミルカッセさん、意見を伺いたいのだけれど」
「……お仕事ですものね」
だが、一応分はわきまえてくれている。それがエルフィールにはありがたい。ミルカッセは一度こうだと思ったら、変えない芯の強さを持っているのだろう。今回はそれが悪い方向に作用しているというわけだ。もっとも、仕事だと言うことは理解してくれているようだから、それ以上は何も言わない。
「もしも塔が神様の乗り物だったとして、目的はなんだと思う?」
「分かりません」
「神話で、そういうのはないの?」
アプローチを変えてみると、ミルカッセは情報を流してくれる。
神は一概に、全てが善良な存在ではない、という。中には邪悪な神もいて、そういう輩は神話の中で、様々な悪行をしている。
巨大な空飛ぶ船を扱う邪神もいるという。それは時々現れては、見掛けた人間に砲撃をして去っていく。
動物に化けて人間をたぶらかす神もいるという。目的は精気を吸い取ることであるのだとか。
ただし、そういった道を踏み外した神々には、独特の気配があるのだとか。
また、邪神の類には、魔物と同義とする説もあるそうだ。特に悪魔については、堕落した神のなれの果てという説が根強くあるという。
しかしながらこの説には賛否があり、アルテナ信者の中でも、意見が分かれているという。ミルカッセは否定派だと言う。彼女に言わせると、神々は自然そのものの意志という雰囲気の存在であり、もっと気配が希薄で、触れることが出来ないのだそうだ。一方で、向こうも此方にあまり強くは干渉できないという。だから、たぶらかすという事をする輩にしても、害を為す存在にしても、ごくごく限定的な場所にしか姿を見せることが出来ないのだとか。
更に言えば、人間を殺すような力などまず無いという。一方で、長期的な自然を操作するような、大掛かりな事は出来る場合もあるようだ。
「会ったことがあるみたいだね」
「気配だけならば、一度だけ」
「え?」
「以前、アルテナ教会に、退治の依頼が来たことがあります。 私は手練れの司祭様達と一緒に、対処に向かうことになりました」
初耳だ。まあ、ミルカッセは優秀な力を持つ司祭である。それくらいは、当然声が掛かるだろう。
幸い、それほど強大な邪神ではなかったという。しかしやはり希薄な存在であり、向こうからあまり強く干渉できない代わりに、此方からも出来ることは少ないという。アルテナ神に祈りを皆で捧げることで対処はしたが、滅ぼすことは出来ず、大人しくして貰うのが関の山であったとか。
つまり、神には神で対抗するしか方法はなく、しかも大したことは出来ない、という事になる。
「その時、闇に落ちた神の気配は感じました。 今回、塔の残り香から感じる力は、それとは完全に異質なものです」
「……なるほど、ね」
それから、神話的な存在で、合致しそうなものがないか、幾つか見繕って貰う。
しかし、どの神話的存在も、完全に一致するものは存在しない。どれもこれもに矛盾があるか、致命的に違う場所があるのだった。
一通り情報を纏めると、一旦話を打ち切る。
これ以上は話していても理がないし、情報を纏めておかなければならないからである。
「なあ、エリー。 その塔ってのがザールブルグに現れたとして、戦う可能性もある、のか?」
「エル・バドールで悪さをしていた連中の乗り物だとしたら、戦わなければならないでしょうね」
魔物と同義の存在であれば、滅ぼすことは難しくないだろう。
しかしミルカッセが言うような自然の意志やら世界の一部やらが相手の場合は、そうも行かなくなってくる。
人間に砲撃してくる空飛ぶ船、のような存在ならば、むしろ対処は楽だ。物理的な形があるのだから、叩きつぶすことも出来る。塔にしても、その場にいてくれれば、幾らでも潰しようがあるだろう。如何に頑丈だと言っても、騎士団にはレアスキルの持ち主がごろごろしている。確か特に珍しいケースでは、空間を切ることが出来るものまでいるそうである。
しかしながら、そうでない場合には。
熱心なアルテナ信者であるミルカッセなどは、戦うことを拒否するかも知れない。ザールブルグの街に実際に被害が出て、子供とかが丸焼きにされたりしたら話は変わってくるかも知れないが、そうでない場合は大変面倒なことになるだろう。特にミルカッセは意志が強く、嫌だと思ったら首を刎ねられても意見を変えないだろう。
まあ、それは意見の一つだ。
エルフィールとしては、物理的な対処方法を考えるしかない。
「此処から少し行った所に、もう一箇所、塔が出現したという場所があります。 其処も調べてから戻りましょう」
「まだ、調べるのですか?」
「うん。 統計っていってね、何かしらを調べる時には、数を揃えた方が、色々と正しい情報を導きやすいの。 今回のケースだけが全てではないという可能性もあるし、ね」
「確かにそれがよさそうだ。 なあシスター、俺は神様についてはよく分からないが、よく調べることでエリーと妥協点が見つかるかも知れないだろ? それなら、もう少し調べた方が良いかもしれないぜ」
「分かりました。 確かに貴方が言うことが正しいようです」
流石年の功。或いは、若者を纏め上げているからかも知れない。ルーウェンはカスターニェで、若い冒険者達の顔役のような存在だったと聞いている。それならば、話を纏めるのは得意の筈だ。
ちょっと依頼を越えた作業になるが、エルフィールとしても未知の存在には興味がある。幸い放って置いたからと言って、空気に触れさせない限り青い液体は品質劣化しない。むしろ良く熱を抜いておいた方が良い位なのだ。ホムンクルスもどきに関しても、しばらくは放置しておいて何ら問題は生じない。
野営地を畳むと、もう一箇所、カミラから説明を受けていた場所に向かう。
平原の北、湿地帯だ。
この近辺は結構強力な猛獣が出現し、たまに魔物が出ることもあるという。そのためか、街道の周囲には多めに砦が設置されていて、警備の兵士達も真剣な表情だった。さっきまでとは、まるで兵士の質が違う。
騎士の姿も、散見された。
イリスを行かせて、話を聞かせる。ネゴシエーションの訓練のためだ。最近イリスは、如何にも大人が喜びそうな笑顔を作る術を身につけてきていて、話を聞き出すのが上手になってきていた。
犬は飼い主に似ると言うが、ホムンクルスも作り手に似るのかも知れない。エルフィールもいつも作り笑顔を浮かべているが、それも人間との交渉がやりやすくなるからだ。
「此方は、騎士団で一度塔の出現地を調べているそうです。 調査に来たというと、あまり良い顔はされませんでした」
「ふうん。 まあ、湿地帯と言うこともあるし、前とは違う結果も出るかも知れないからね。 ちょっと頼み込んで調べてみようか」
エルフィールは躊躇無くカミラの名前を出し、念のために彼女が書いてくれた紹介状も見せた。
そうすると騎士は渋々、現地に案内してくれたのだった。
青黒い土が何処までも広がる沼地である。生えている植物も背丈があり、濁った水面には時々魚の影が見える。
クラフトでも放り込んだら、かなり効率的に狩りが出来そうだが、やらない。生態系に致命的なダメージを与えることになりかねないからだ。
案内してくれたのはまだ若い女性騎士で、かなり背が高い。剣術に自信がある様子で、鎧とは違い、剣だけは明らかにオーダーメイドの品であった。他はかなり使い古した道具類が多く、長い髪の毛の手入れなども若干おざなりである。
「この辺りです」
「どれどれ。 んー」
見ると、沼の岸の辺りに、ぽっかりと凹みが出来ている。正円形なので目立ち、泥水が既に溜まっていた。
なるほど、これは調査をしづらい。辺りには足跡もかなりの数が残っていた。
「何が出るか分かりません。 気をつけてください」
「分かりました。 すぐに調査しますので」
うさんくさそうに此方を見ている騎士。
エルフィールはイリスを促して、散開。周囲を調べる。
不思議と、あの硝子のようなものはほとんど見掛けない。代わりに、周囲とは色が違う土がかなりあった。サンプルとして入手してみる。
沼であるし、或いは水を大量に含んだ土が、塔の熱を効率よく吸収したのかも知れない。もし、そうだとすると。
「騎士さん」
「ライラです」
「ええと、騎士ライラ。 調査の際には、貴方も同行しましたか」
「ええ。 特に何もなかったので、すぐに引き返しましたが」
それはちょっと困る。ただし彼女も、若くして精鋭である騎士になっている程の人間だ。記憶力くらいは良いかもしれない。
駄目で元々だ。聞いてみる。
「調査時、周囲が熱くなっていたり、沼の水が温くなったりしていませんでしたか」
「そういえば、少し。 魚がかなりの数浮いていました。 異臭もあったような気がします」
後ろで、イリスがてきぱきとサンプルを格納している。ルーウェンがついているミルカッセは、また色々と道具を出して、周囲を見て回っている様子だ。しかし、ミルカッセは小首を傾げている。どうも確信していたのとは違う結果が出ているように見える。
此処は、長時間調査しても仕方がないだろう。本当はもう二箇所か三箇所見て回りたいのだが、それは流石に時間が掛かりすぎる。既にザールブルグからかなり離れているのだ。帰り道だけでも、相当な時間をロスするだろう。
調査終了したのは、夕刻である。
「ミルカッセさん、荷車に乗って。 イリスも、体力に自信がないなら」
「すぐに帰ると言うことですか」
「そう」
此処からは全速力で帰る。それで、帰り道を行きながら、結論を纏めればいい。幸い、街道のすぐ側だ。良く整備された街道を行けば、最短の時間でザールブルグまで戻れるだろう。
「ルーウェンさん、前で。 事故が起こりそうになったら、オーヴァードライヴで止めてください。 今回は貴重品も積んでいないので、人命を優先にお願いします」
「なんか引っかかるが、分かった。 手段は選ばないけど、いいよな」
「はい。 私は後ろから押しますので」
妥当な選択だ。生きている縄は可変性に優れているが、圧倒的な大質量を受け止めるのには向いていない。逆にルーウェンのオーヴァードライヴは、力任せにかなりの質量を受け止めることが出来る。
街道に出た。少しずつ、加速していく。エルフィールは生きている縄を水車のように回転させ、地面を激しく叩かせて加速の一助にした。ルーウェンは元々優れている身体能力を生かして、荷車を引きながらかなりのスピードで安定して走る。
程なく、馬車並みの速さで、荷車は走り始めた。走りながらエルフィールは思う。この様子だと、三刻はトップスピードで走れるだろう。休憩を途中で入れていくと、予定をかなり短縮して戻ることが出来る。
舵取りはルーウェンに任せて、エルフィールは凄い速さで走る荷車に青ざめるミルカッセに、話し掛ける。
「ミルカッセさん。 それで聞かせて欲しいんだけれど、さっきの沼地ではどんな調査結果が出たの?」
「実は、おかしな結果が出たのです」
「おかしな、というと?」
最初に調査した場所と同じく、神の気配を感じたのだという。だがしかし、別の神の気配だ、というのだ。
「つまり、どういう事?」
「分かりません。 しかも今度感じた神の気配は、どちらかというと邪悪なものでした」
「邪悪、ねえ」
最初は絶対攻撃するなと言うような気配だったというし、次は排除すべき邪悪だという。正直、分からないことが多すぎる。エルフィールはミルカッセとは根本的に住んでいる世界が違う人間だが、しかし類推は出来た。
「或いは、塔でその神様とかが移動しているんじゃないとしたら?」
「私には、分かりません」
「そう思考停止しないで。 例えば、よく分からないんだけど、その神様とかがいる所に、あの塔が来ているんじゃないの?」
ミルカッセは考え込む。或いは、その可能性があるのかも知れない。
いずれにしても、アルテナ教会が大反発する事態を避けるためにも、帰り道に色々と仮説を練っておかなければならなかった。
荷車の上で、イリスには調査を進めさせる。揺れて少し作業しにくいが、採取した土や集めた物資を確認させた。
「やはり沼地の方は、硝子のようなものが出ていません。 その代わりと言っては、ふあっ!」
石を踏んで、したたか荷車が揺れた。その瞬間、イリスは尻を強か床に打ち付けたらしい。涙目で尻を触っている。ミルカッセは手を組んで目をつぶり、ぶつぶつ呟いていた。生きて帰れますようにと、神に祈っているらしい。
「続けて?」
「は、はい。 少し気になったのは、この土です」
青黒い土が広がっていた沼地で、それは妙に灰色っぽく、確かに目立っていた。イリスもきちんと目を付けていたと言うことか。
「もしも塔が土の中を進んでいるとしたら、別の地域の土が付着してもおかしくありません。 これはその証拠と言えないでしょうか」
「ふうん、なるほど。 同意できるけれど」
エルフィールとしては、もう一歩踏み込んだ調査結果が欲しい。
二度休憩を入れて、一気に平原を突破。夜が明けたが、まだまだ走れる。途中休憩を入れながら、エルフィールはルーウェンに荷車を引かせ、自分は押して、街道を爆走し続けた。
途中、こつが掴めてきたからか、馬車を二度追い越した。馬車の御者が唖然として、追い越していくエルフィールの背中を見ていたので、気分が良かった。雨が降り出すが、気にしない。当然、速度も落とさなかった。
走りながら、ミルカッセと、イリスと、色々と話をする。もちろん疲労は溜まるが、適度に休憩は入れながら走っているから大丈夫だ。睡眠時間も二刻半ほど確保している。エルフィールにとっては充分なくらいである。
ザールブルグに直通している街道に入ったのは、アトリエを出てから、丁度一週間後の夜であった。
アトリエの二階で、エルフィールは大きく伸びをした。朝日が天窓から差し込んでいて、とても気持ちが良い。
非常に気持ちの良い目覚めだ。隣ではミルカッセが死んだように寝ている。家に帰る余力も残っていなかったので、その場でばたんきゅうと寝転けてしまったのだ。うんうん唸っているのは、怖い夢でも見ているのだろう。宗教衣のフードが取れていて、美しい黒髪が露わになっていた。短く刈っているのはどうしてなのかよく分からないが、鴉の羽のように綺麗な黒である。
あられもない格好のミルカッセだが、隣に転がっているイリスも似たような有様である。こっちはパジャマに着替える余力もなく、アイゼルが作ってくれたよそ行きを着たままだ。
身動きできないイリスの頬を触ってみる。
赤い髪のホムンクルスは、少しずつ体温が下がってきている。これは、そろそろ寿命の尽きる傾向が出てきたか。
寿命を延ばすのだとすると、ヘルミーナ先生に相談する必要が出てくるだろう。イリスはエルフィールが好きな時に好きなように殺せるように、もっと長く生きていなければならないのである。
一階に下りる。クノールが、丁度買い物に出かける所だ。昨日帰ってきた時に、頼んでおいたのだ。帰ってきてから、余力があったのはエルフィールだけだった。
「おはようございます。 あれだけ大爆走したのに、起きるの早かったですね」
「鍛えてるからね、余裕だよ」
「いや、鍛えていると言っても、丸二日以上走るのはちょっと」
「騎士団の中には、もっと速く長距離を走れる人もいるみたいだよ。 私なんか、まだまだだね」
恐ろしすぎて想像できないというと、クノールはアトリエを出て行った。
裏庭で杖を振るい、瞑想して、それからジョギング。戻ってきてから、朝食を作り始める。朝食を作りながら、レポートの内容を頭の中で纏めていく。
今回の件は、一次調査の結果が早く出れば出るほど良いはずだ。報酬という面の話だけではなく、騎士団も迎撃態勢が整えやすくなる可能性が高い。
レポートの紙を用意して、筆を走らせる。紙は少し前から、エル・バドールの技術を利用して改良した。かなり水にも強くなったが、代わりに茶色がまして、少し見栄えは悪くなった。
だが今回は頑丈さを優先して、レポートを作る。
一刻半ほど無心に書き続けて、レポートが完成。軽く校正した後、隣のキルキの家に。キルキも既に起きだしていて、何やら調合をしていた。見ると妖精を四人も雇っている。面子は以前の二人に加えて、見習いらしい二人があくせくと働いていた。
「エリー、朝からどうしたの」
「レポートのチェックをお願いしたいなと思って」
「ん。 見せて」
レポートを渡すと、キルキは素早く目を通していく。しばらくしてから、小首を傾げた。
まあ、それが妥当な反応だろう。エルフィールもキルキがこのレポートを書いてきたら、多分笑顔のまま同じ反応をするはずだ。
「状況はよく分からないけれど、これは本当?」
「途中経過は全部本当。 仮説については、私も信じていないのが幾つか」
「そう。 とりあえず、レポートとしては問題ない。 読みやすい」
「ありがとう」
レポートを受け取ると、その足で騎士団の屯所に向かう。まだ早朝だが、この仕事に関しては、納入が早ければ早いほど良いはずだ。
質素な騎士団の屯所で、門番にカミラの手紙を見せて、中に。軍施設にはいるのは初めてではないが、少し緊張した。石造りの頑健な建物で、多少の攻撃ではびくともしそうにない。
カミラ本人はいないようだが、その時に備えて色々話はされている。奥の方に行くと、聖騎士ローラを見掛けた。カミラがいない時は、彼女が代理だ。
「聖騎士ローラ」
「あ、お久しぶりです」
ローラは相変わらず対応が丁寧だった。年齢もあまりエルフィールと変わらないこともあり、親近感があるのかも知れない。ただし、壁のようなものも感じる。エル・バドールでの何度かの仕事で、エルフィールの持つ闇に触れたからだろうか。
「これ、例の件についてのレポートです」
「分かりました。 すぐに大教騎士に渡します」
「お願いします」
ぺこりと一礼。報酬については、後でアトリエに届けさせると言うことだったので、そうして貰う。今大金を貰っても、仕方がないからだ。
屯所を出た後、まずホムンクルスもどきの様子を見に行く。
硝子容器の中で、彼女は既に十代前半くらいにまで育っていた。十代半ばくらいになったら出すとして、それからの教育係などを騎士団に選び出して貰う必要があるだろう。体の機能などに問題はないか、細かい部分をチェックしていく。
チェックが終わって、施設を出たら、今度は青い液体の様子を確認だ。防爆構造の建物の中で、青い液体は充分に冷えていた。これで、次の調合にはいることが出来る。少し取って実験してみるが、どういう訳か購入したものとは品質が段違いだ。これは、此処からの調合に更に気合いを入れなければならないだろう。
ただし、段違いと言っても、今の段階ではまだ現状のフラムを越えるほどではない。さて、此処からどうやってこれを使い、最大級の威力を引き出すか。
まだまだ、課題は多い。
エルフィールは腕まくりをすると、外のことは全て忘れて、調合と研究に集中した。
4、戦いの予兆
カミラが呼ばれるままにブレドルフ王子の元に出向くと、既に件のレポートが机の上に出されていた。
王子が目を通したことは間違いないだろう。
此処は王子が幾つか作らせた別邸の一つである。といっても他所の国の王族が遊び回るために作らせたような場所ではない。別邸と言っても二階建てで部屋数は七つと非常に小振りで、外は如何にして守りを固めるかに特化している。常に腕利きと牙が警備に当たっており、狭い事を利用して逆に細かい打ち合わせを盗聴させずに出来る事が強みだ。
狭いとは言っても、それでも庶民の家よりはずっと広い。王子は腕組みしながら、レポートを見つめていた。
レポートは二つ。
エルフィールによる一次調査と、その後のマルローネによる二次調査の結果だ。どちらもカミラは目を通したが、なかなかに興味深いことが書かれている。面白いのは、それぞれ仮説の中に、幾らか被る部分と、全く異なる箇所があるという事だろう。錬金術師でも、考え方に差は出るものなのだ。
「カミラ、来たか」
「はい。 レポートには目を通していただけましたでしょうか」
「うむ。 その件で今回は呼んだ」
やはり、王子も今回のレポートについては、色々と思う所があるのだろう。
カミラは向かいに座ると、王子の発言を待つ。ブレドルフは、まずエルフィールのレポートを手に取った。
「地中を移動する塔、か。 これについては、対象の名前をエアフォルクUと名付けて、今後監視対象としよう」
「はい。 了解いたしました」
エアフォルクUか。カミラは懐かしい名前に眼を細める。
それはかって、騎士団の飼っていた錬金術師達が暴走の果てに作り出してしまった怪物だった。戦いの果てに、優秀な騎士や冒険者、屯田兵が多く鬼籍に入った。研究にはカミラも関わっていて、戦いの原因の一端もある。
激しい戦いの中で、カミラはエアフォルクそのものと一体化した魔人ゼクス=ファーレンを護衛していたスキュラーを撃墜したが、ほぼ相打ちの結果に終わった。今生きているのは、なぜなのだろうとも思う。
単に運が良かったのか。或いは、運命的な話なのか。
いずれにしても、今は会話の最中だ。頭を切り換えて、王子に状況を話す。
「レポートによると、いつザールブルグ近辺に姿を見せてもおかしくない状態です。 迎撃作戦については、早めに策定した方がよろしいでしょう」
「うむ。 それにしても、この仮説は興味深いな」
塔は高熱を発し、土を溶かしながら地中を進んでいる。その際に大量の水を放出して、塔そのものおよび、周囲の温度を下げている。水を放出するのには、恐らく地盤を軟らかくする意味もある。
エルフィールのレポートにはそんな事が書かれていた。マルローネのレポートでも、その結論を正しいとして認めている。
一方で、その後の仮説が、食い違う。
「神的存在の気配、というのが気になるな。 この調査に同行したアルテナ教の司祭は、信頼できる人間と言うことだが」
「元々非常に能力者としての素質が高い人間で、強い信念を持っている娘です。 普段は優しく弱い部分もありますが、嘘をつけるような人間ではないかと」
「そうか」
「ヴィント陛下は、この件については」
ブレドルフ王子は、薄く笑うと、教えてくれる。
この国を纏めてきた老王は、特に感慨もなく言い放ったという。
「神だろうが何だろうが、対処など最初から決まっている。 重要なのはこの国にとって有益かどうかだ。 有益ならば利用するし、有害ならば排除する。 人間だろうが魔物だろうが神だろうが、それに関係など無い」
「流石は陛下……」
「私は、そこまで冷徹には考えられない。 だが、国政をみるには、父上のやり方が正しいことも理解している。 考えられないとしても、選択を出来るようにはなりたいと思っている」
と言うことは、この件に関して、作戦面での掣肘はないと言うことだ。
神に対する反逆、などと言っても、相手は自然界に直接的な干渉が出来るわけでもなく、戦いは恐ろしく地味になる可能性が高い。それに、仮説の中でも触れられているが、何も神と戦うと確定したわけでもない。
「ともかく、だ。 エアフォルクUがザールブルグの市内に現れた時の被害対策と、民間人の避難誘導、それに騎士団の対処について、まとめておいてくれ。 特殊な能力者が必要なようなら、手配は早めに頼む」
「分かりました。 すぐに作戦を立案します」
「うむ。 そして、此方のレポートだが」
ブレドルフが取り上げたのは、マルローネが書いてきた方の二次調査レポートであった。
「影の鏡という存在についてはまだ分からないとして、この塔と大空の王が同時にザールブルグに攻撃を仕掛けてきた場合の対処について、早めに策定をしておく必要があるだろうな」
「はい。 屯田兵達も動員しますが、損害は五千を超える可能性があります」
「五千、か」
剣豪バフォートと五万の兵を殺すことによって、ドムハイトを崩壊に追い込んだ元凶であるカミラがそう言うのもおかしな話である。しかし、今のカミラは、むしろ昔とは違う考え方を持つようになっている。
後悔は、ない。
だが、現在も同じ事をしようとは、考えないようにもなっていた。
「我が国の人口は四百万を少し超える程度であったな。 衛星国も含めると、五百万程度か」
「はい。 敵の実力が此方の予想を超える場合は、総力戦になる可能性もございましょう」
「出来れば、戦いたくはない相手だな。 一体何を企んでいるのか、それさえ分かれば、少しは対処のしようもあろうというものだが」
ブレドルフは大きく嘆息した。
相手が人間ではないだろう事は、既に暗黙の了解となっている。しかし、エリアレッテの交戦記録を聞く限り、限定的な条件さえつければ触ることも出来るし、触ることが出来るのであれば倒すことだって不可能ではないはずだ。
交戦記録についても、現在洗っている所である。エリアレッテと牙から上がってきた情報は密度が濃く、信頼するに値する。いざとなったら、あらゆる戦力を集中して、敵を屠る。
だが、手段は、以前のように選べなくなっていた。カミラの精神には枷が出来はじめている。それは今になって思うと、恐らくヴィント王の意図通りに。そして、それを不快だとは、カミラは思わなくなり始めていた。
後は少し会話を交わすと、王子は王宮へ戻っていった。
カミラは参謀だ。以前のように、陰謀の中心にて糸を引く化け蜘蛛ではない。だから、情報もブレドルフ王子がくれるだけしか得られない。檻に入れられたとも言える。
だが、カミラには。不思議と、檻が心地よかった。
外に出て、城壁に上がる。
東と北には穀倉地帯。五万の屯田兵が、ザールブルグの胃袋を支えている。そして美しいストルデルの大河が、無尽蔵とも言える水を供給してくれる。
南には森林地帯。西と北西には、山岳地帯。豊かな資源は、今や開封される時を待っているようにさえ思える。
だが、この時に。
ザールブルグには、民の知らない危機が迫っている。
小柄なカミラは、随分その民の間で馬鹿にされて育った。一念発起して、あらゆる努力を繰り返し、騎士になり、聖騎士に上り詰めた。
火遊びのやり方を覚えて、自分を馬鹿にした連中を見返すために頑張って、いつの間にか足を踏み外していた。邪悪に手を染め、全身を地に塗れさせて、いつの間にか王に摘み上げられていた。
そして精神の檻に入れられた。
だが、それが今はむしろ良かったのではないかと思える。自分は市井の中で暮らせる存在ではない。かといって、市井を操って好き勝手に生きるのも、何処か建設的ではないように、今は感じるのだ。
「大教騎士!」
振り返ると、若い騎士がいた。
珍しい赤い瞳の持ち主で、随分馬鹿にされて育ったという女性騎士だ。カミラとどこか相通ずる所がある様子で、気が合う。カミラと同じく、戦闘面では極端なパワータイプであることも共通していた。
「此処におられましたか」
「エルゼベート、どうしましたか」
「はい。 エルフィールという錬金術師が、例のものを完成させたそうです。 出来るだけ早く伝えるようにと、聖騎士ローラから言づてを承りまして。 屋敷にいないなら、此処だろうと思って来ました」
よく分かっているじゃないか。カミラは内心苦笑したが、表情は動かさなかった。
「分かりました。 すぐにエルフィールの所に向かうとしましょう」
エリアレッテが森から出てきた。右手には、分身とも言える愛剣。左手には、大きな頭陀袋をぶら下げている。
袋には、大量の鮮血がこびりついていた。膨らんだ袋の底からは、生々しい臭気を放つ鮮血が、今もたれ落ち続けている。もちろんわざとやっているのだ。血の跡を追って付けてくる奴がいたら、その場で叩き殺すために。
事実、そうやって追いついてきた猟犬を二十頭ほど、今日は殺した。
砦に戻ると、あてがわれている部屋に。井戸から汲んだ水を満たした桶を貰った。水で浸した布で、髪や顔を拭う。
感じる。自分の感覚が、殺しをする度にとぎすまされている事を。師もこんな感じで、狂気を用いて己を強くしていったのだろう。全身に力が漲り、感覚が冴え渡る。クレイモア少佐が、此方に歩いてくる時も、筋肉の動きから緊張の度合いまで手に取るようにして理解できた。
今なら、斬龍剣も、その全ての力を発揮させることが出来るだろう。
「また、随分殺してきたようですな」
「十三人。 手配書にある奴も、四人。 ついでに犬を二十匹」
「分かりました。 すぐに確認します」
部屋の入り口にいるクレイモアに振り返りもせず、頭陀袋を渡す。兵士達が何人か来て、血が滴る袋を持っていった。
この辺りは国境線だ。シグザール王国にいられなくなった犯罪者の類が、多く逃げ込んでもいる。そう言う連中が山賊達と一緒になって、様々な悪逆の限りを尽くしていることも分かっていた。しかし国境線上という極めてデリケートな地帯である上に、難攻不落の地形が、シグザール王国の追求を阻んできたのだ。
エリアレッテは、今その溜まった膿を出しているとも言える。
山賊村には、奴隷として売られるべく、拐かされてきたらしい娘や若者も結構いた。辺境ではまだ違法奴隷が幾分かの需要があり、需要があると言うことは供給も求められる。いずれの捕虜も、作戦行動中に解放する予定だ。必要だから、そうするだけである。
「確認しました。 それにしても、見事な手際ですな。 傷口が、あまりにも美しすぎる」
「貴方も修練をすれば、これくらいは出来ますよ」
「ご冗談を」
手足の目立った部分も拭き終えると、エリアレッテは再び外に出る。兵士達が慌てて退いた。明らかな恐怖が、その目には宿っていた。それで良い。エリアレッテは親愛よりも、恐怖を受けるべきであった。
殺しのペースを上げる。あの影をぶち殺すには、まだまだ足りない。エリアレッテの実力は、これでもまだ師には届いていない。鮮血のマルローネやドナースターク家のシア、騎士団長エンデルクとは雲泥の実力差がある。聖騎士と言っても、まだまだその程度なのだ。だから、磨き抜く。
既に幾つかある集落は、完全に場所も構造も把握した。大混乱に陥っている連中は血眼になってエリアレッテを探しているが、未だに影一つも見せてはいない。中には逃げだそうとしている連中もいる様子だが、一人だって逃がしはしない。
皆殺しだ。
最初百人殺すつもりだったが、既に方針は変えている。近辺の山賊村にいる戦士を、一月ほどで皆殺しにする。非戦闘員や奴隷には手を掛けないが、これは刃の切れ味が鈍るのを防ぐためだ。
殺しそのものを楽しむのではない。強い相手を殺すことを、楽しむのだ。弱者を殺していると、抵抗できない相手での殺しに慣れる。それは腕を鈍らせる。師は、その状態を、刃の切れ味が鈍ると言っていた。
だから、この近辺にいる、戦いと殺しに慣れた山賊どもを殺しまくる。そうすることによって、エリアレッテは更に強くなる。ある種の山ごもりにも近い。
猛獣を殺すのも良いのだが、やはり今は対人戦をするべきだと本能が告げていた。あの影は、何処かで人間と共通する部分があった。だから、エリアレッテも、人間で訓練をするのである。
砦の隅に、塚。
首塚だ。エリアレッテが殺して持ち帰ってきた首を其処で纏めて供養している。最近は、アルテナ教の司祭も呼ばれて、供養を行ったようだ。エリアレッテには興味がない事である。
「聖騎士エリアレッテ」
「おや、騎士カーランド」
振り返ると、この砦の表向きの司令官がいた。心配そうに自分を見つめている。
この女は根本的に戦いに向いていない。ひ弱だとかそう言う問題ではなく、殺しによって傷を受けるような心の構造をしているからだ。戦士としては一応一人前の実力はある様子だが、殺したいと思えるような相手でもなかった。
「如何なさいましたか」
「偵察隊を連れて見てきたのですが、国境線で、何か嫌な動きがあります。 森の中のトラップも相当に増やされているようです」
「へえ」
「恐らくは、賊達が貴方を捕捉するべく、全力で迎撃態勢を整え始めたという事でしょうね。 能力者が連れてこられている可能性もあります」
恐らく、現在大陸でも最悪の暗黒地帯だ。この近辺に住んでいる連中は、それこそ闇の中の闇。裏世界では当然顔役になっている奴らもいるだろう。
ドムハイトでは、今優秀な軍人が減っている代わりに、人材がどんどん流出している。竜軍が消滅したとはいえ、外の部隊にいた者達までいなくなったわけではない。もちろん、闇に身を投じた者も少なくはないのだ。
そんな奴らが呼ばれて出てきている。
危険だといえる。だが、それでこそだと、エリアレッテは思った。強い敵を更に強いエリアレッテが叩き殺す。そうして腕を上げる。
「ご心配なく。 むしろ、好都合です」
「貴方の実力を疑うわけではありません。 しかし、気をつけて」
武者震いさえした。まだ百人以上は残っている賊が、総力でエリアレッテを殺しに掛かってきている。
今、人食い薔薇が花開こうとしている。連中の血を啜り取って、肉を栄養に変えて。
砦を出たエリアレッテは、歩きながら、くつくつと笑った。
フランソワは、ザールブルグの郊外に急いでいた。
財力は、貧乏貴族とは言え、それなりにある。錬金術師としての仕事もしているし、何よりマイスターランクにまで進学しているのである。今や上級貴族などからも仕事が来ることはあり、財布そのものは潤っていた。
だから、郊外に、廃屋を買うことくらいは難しくなかった。
墓場のすぐ側に廃屋があるというのも、皮肉な話である。かって人死にが出たらしく、買い手が全く付かなかったらしい所を、フランソワが入手した。格安で手に入れることが出来たが、内部は完全に駄目になっていたから、掃除が随分大変だった。
それはホムンクルスに全てやらせた。終わるまで半月ほど。
そして、今。其処はフランソワにとって、第二の研究施設になっていた。
廃屋にはいる。ホムンクルスが、箒を忙しく動かして、掃除を続けていた。フランソワが辺りを見回しながら廃屋にはいると、ホムンクルスは作り笑いをした。
「マスター、お帰りなさいませ」
「ん」
名前もあるが、フランソワはホムンクルスとしか呼ばない。どうしても嫌悪感があるのだ。
このホムンクルスを色々調べている内に、それは更に強くなってきていた。ヘルミーナ先生が天才だと言うことは認める。しかし、その狂気的な愛情の塊が、このホムンクルスだと思うと、どうしても可愛いとは思えない。
アイゼルは自分の娘か妹のように膨大な愛を注いでいるが、正直気が知れないとも思う。
「今日は調合ですか」
「いや、調査よ」
「私に手伝えることはありますか」
手伝えることと聞いて、静かな怒りが沸き上がる。お前のような人形が、何をほざくというのか。
だが、怒りはどうにかして飲み込む。
「廃屋の中は良いから、外を掃除して」
「分かりました。 直ちに取りかかります」
追い出すと、少しは気も晴れた。ホムンクルスは全く嫌そうな顔をしない。多分嫌でさえ無いはずだ。
人間ではない、そういった要素が、フランソワには嫌でならなかった。
机の上に、資材を並べる。そして研究を始める。
ホムンクルスにとって一番重要なのは制御装置だが、その次に大事なのが、拒絶反応を抑え込む方法だ。
体に埋め込んだ異物は、どうしても長期的には寿命を縮める。しかし、ヘルミーナ先生は、既にホムンクルスの寿命を二十年にまで延ばしているという。つまりあの忌々しい人形も、二十年は生きると言うことだ。
拒絶反応を抑えるために、だろう。制御装置の周囲には、ジェル状の何かが塗られていた。それが何かを調べることが出来れば、一気にヘルミーナ先生の研究成果を盗むことが出来る。
ヘルミーナ先生は割と研究を隠さない人で、マイスターランクが閲覧を許されている著書には、彼女がかなり最近完成させた研究についても書かれている。ただし、ホムンクルス関連は、除く。
だから、こうして、調べているのだ。
サンプルに様々な薬品を掛けたり、熱を加えたり。しばらく、無心に作業を進める。その間、ずっと外からは箒を動かす音がしていた。
健気だとは思わない。
むしろ、気味が悪いばかりであった。
やがて、フランソワは気付く。これが何かしらの複合体であることは分かっていた。その成分の大部分も。
しかし、一つだけ分からない要素があったのだ。
恐らくは拒絶反応を抑えるための、コアとなる物質。それが、何に由来しているか。
しかし、気付いてしまう。
拒絶反応を、確実に抑えることが出来るものが、一つだけある。
パズルのピースが埋まるように、全てが明らかになっていく。そういえば、おかしいとは思っていたのだ。
ホムンクルスがどれだけ好きだと言っても、どうして今回から型式をどれも同じにしたのか。以前は違う派生パターンをかなり作っていたというのに。
顔を上げる。
気配が、すぐ近くにあった。
身動きが出来ない。滝のように、全身から汗が流れ出していた。
「どうやら、気付いたようね」
ドアが開け放たれる。ホムンクルスの頭を撫で撫でしながら、ヘルミーナ先生が、其処に立っていた。
死んだ。
終わった。
フランソワは、そう思った。
「そう。 そのジェルは、出来損ないのホムンクルス達の脳髄から抽出したエキスを利用したものよ」
そうだ。拒絶反応を抑えるためには、同じ生体情報を用いるしかない。
そして、如何に天才と言えども、どうしても失敗はする。その失敗作を、ヘルミーナ先生は最大限に利用したのだ。ほかの個体を生かすために。
「少し前から泳がせていたのだけれど、意外ねえ。 まさか此処に到達できるとは思わなかったわ」
恐怖のあまり、フランソワは走馬燈さえ見ていた。
両親の死。
支えなければならない家。
必死に笑顔を作って、苦境の中働いていた家臣達。
彼らを守らなければならないと決意したフランソワは、アカデミーに入った。しかし事故に遭ってしまった。
見舞いに来てくれた家臣は多かった。しかし、誰もが、慈愛だけではない光を、目に宿していた。
見極めようとしていたのだ。フランソワが駄目になるようなら、見捨てて逃げるべきではないかと考えているのは、一目瞭然であった。
いつの間にか、至近にヘルミーナ先生がいた。そして、首を掴まれ、つり上げられる。息が詰まった。ばたばたと足が動く。空を切るばかりである。
「さあて、おしおきはどうしようかしらね」
いつの間にか、フランソワは失禁していた。こうなることは覚悟していたはずだというのに。
家臣達が、家を離れていく。恐怖の中で、フランソワは涙を流していた。
自分の価値は、結局此処までだったのか。家臣達が見捨てて去る程度の存在だったというのか。
不意に、首を締め付けていた力が緩む。
涙の向こうに、かすれて見えたのは。ヘルミーナ先生の袖にすがりつく、ホムンクルスだった。
「グランドマスター、おやめください」
「あら、どうして」
「マスター・フランソワは、私を殺しませんでした。 お仕事も与えてくれました。 嫌っていたのに、です」
知っていたのか、人形風情が。
不意に、ヘルミーナ先生が手を離す。思い切り尻餅をついたフランソワは、激しく咳き込みながら、恐怖そのものである師匠を見上げた。
「アイゼルの所も面白いことになっているけれど、ふうん。 まさか貴方のようなものが、この子を此処まで手なづけるとはね。 ……命拾いしたようね」
ホムンクルスが、抱きついてくる。呆然と座り込んだままのフランソワに、ヘルミーナ先生は、獲物を見るドラゴンそのものの表情で言った。
「明日、私の研究室に出頭するように。 出頭しなかったら殺す」
何をさせられるのだろうか。分からない。
だが、命を拾ったことだけは、確かだった。
ヘルミーナ先生は、いつの間にか其処にはいなかった。
「マスター、大丈夫ですか?」
ぼんやりと、自分を見上げているホムンクルスを見つめる。此奴は、どうして嫌っていると知っていて、自分を助けたのか。
分からない。
「どうして……助けたの」
「マスターが家臣と呼ぶ人達のために、必死に頑張っていることは知っていました。 時々この廃屋にも、その方々が来て、掃除を手伝ってくれたりしていましたから」
「彼奴らが……」
「その人達から、マスターのこと、色々聞きました。 それに、マスターは厳しいですけれど、誰にも平等でした。 嫌っている私にも」
どうしてか、涙が溢れて止まらなかった。
自分は少し、肩肘を張りすぎていたのではないのか。家臣達が、影でそんな風に、自分を支えてくれているとは、知らなかった。
ごめんなさい。
謝る。誰にでもなく。何度も、何度でも。
呟きは、空に流れ続けていた。
(続)
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