二重の滅び

 

序、不可思議なる死

 

北ドムハイト軍の精鋭諜報部隊が其処に踏み込んだ時、既に惨劇は終わっていた。小さな街の小さな廃屋の地下は、血の海と化していたのである。

南ドムハイトの諜報員達は、喉を食いちぎられ、首を半ば千切れさせて即死していた。左腕を無くしている諜報員にて、部隊の長でもある「偉父」は、異様さに思わず目を閉じていた。

もちろん、こういう残酷な殺し方に縁がある仕事である。敵を見せしめに惨殺したことなど何度だってある。中には、無意識で敵を手伝っていただけで、本人には何ら自覚も落ち度もない場合もあった。

だからこそ、分かる。これは素人の仕業ではないと。内紛でもない。誰かが、意図的にやったのだ。この殺しには、感情が介在していない。ただ必要だから、文字通り部品を組み立てるかのように、殺しが行われたのである。

部下を呼び込むと、偉父は衆目がないことを確認し、死体に油を掛けた。状況を保存する者が仕事を終えるのを確認すると同時に火をつける。

これで、ただの火事として判断される。死体も出ない。廃屋は国が買い上げて、しばらくは立ち入り禁止としての処分が続くだろう。アルマン王女には直接報告する。何しろ、これで七件目だからだ。

一旦散開してから、王宮の特定の部屋に集まる。部下達も、当惑した表情を並べていた。

「これで七件目、ですか」

「我らにとってはありがたい話だと考える他無い。 手が足りなくなるのは困りものだが」

「しかし、我らが突き止めた途端にこうなるのはいかがなものか。 いつか我らに巻き添えで死人が出ないか、不安でならぬ」

一度、諜報部隊は消滅した。シグザールで、偉大なる首領「じい」が戦死した後、激しい消耗を繰り返して、ついに存在を維持できなくなったのだ。

偉父を始めとする数人が、苦労の中少しずつ再建している。だが、それもまだ途中なのである。

だから、少しの犠牲も、出来れば出したくない状況だ。此処にいる諜報員達も、腕利きとは言い難いとはいえ、貴重な戦力に代わりはないのだから。

ただの愛国者だった青年もいれば、兵士から引き抜いた者もいる。いずれにしても、偉父が面倒を見て、少しでも腕を上げていかなければならない。此処で失うわけにはいかないのだ。

「いずれにしても、南ドムハイトの諜報組織は、これで大きな打撃を受けた。 今はそれを良しとして、一般諜報任務に戻る」

「しかし、長」

「これについては、私が直接調べる。 王女への報告も行っておく」

気配を消した部下達が、方々に散る。最後に、メイドをしている一番最近入った者が部屋を出て行くのを確認すると、偉父は天井裏に潜り込んだ。闇の中を這い、アルマン王女の元へ急ぐ。途中、刺客が潜んでいないかも、しっかり確認する。

アルマン王女には、敵が多い。

南北に分裂したドムハイトは、昨年から激しい刃を交えている。独立した南ドムハイトは、リューネなる王女を掲げて、「簒奪者」アルマン王女を正統後継者ではないとしていた。南ドムハイトがあっさり独立に成功したのも、急激すぎるアルマン王女に対する反発が根強かったからという理由もある。

それ以上に、シグザール王国の工作もあるのは疑いのない所であったが。

アルマン王女は、相変わらず自室で、椅子にへばりつくようにしてデスクワークを続けていた。凄まじい集中力を発揮して、一つ一つの書類にしっかり目を通している。やり方は乱暴かも知れないが、ここ数十年でもっとも有能な王族であることに間違いない。シグザールとの戦争で英雄と呼ばれた獅子王よりも、遙かに有能だと、じいも良く言っていた事を思い出す。

最近偉父は、それを認めた。

だから、少し前まではアルマンの右腕であるタレス大臣しか使っていなかった尊称を用いることにしていた。

「女王陛下」

「その声は、偉父ですか。 何かありましたか」

「失礼いたします」

天井裏から、板を一つ外して降りる。アルマン王女は全く此方に見向きもせず、執務を続けていた。

諜報部隊を嫌い抜いているレオン将軍が来ると五月蠅いから、早めに用件を済ませておく必要がある。レオン将軍はタレスと同じく、王女に口うるさく諫言しなければならない役割だ。

「国内に侵入していた南ドムハイトの諜報員達は、全滅しました」

「その口調で言うと、貴方の作業ではないと?」

「はい。 またしても、勝手に消されていました。 手際と言い、我らの比ではありません」

「そうなると、シグザールしか考えられませんね」

王女が、判子を押した。

書類を右に避けながら、王女は顔を上げずに言う。彼女は仕事にある程度集中しながら、会話も出来るようになってきていた。

「貴方にはまだ教えていませんでしたが、シグザールから何度か密使が来ています」

「何……。 本当ですか」

「嘘を言って何か意味がありますか」

「いえ」

王女の苦労を増やさないように、反論は避けた。アルマンは幾つかの書類に判子を押しながら続ける。

その様子は、いずれ民から鉄の女王と呼ばれるようになること、疑いのない姿であった。親しみを持たれることは、多分無いだろう。本来は、平和と穏やかな生活を愛する、とても優しい女性であるのに。

剣豪バフォートの死が、彼女の未来を全て奪ってしまったのだ。

「シグザールも、困惑しているようです」

「は。 そうなると、やはり話に聞く第三勢力ですか」

「恐らくは。 今回の暗殺については、少しでも状況をコントロールしようという、彼らの行動の結果でしょう」

腹立たしい話だ。それに、アルマン王女も、良くそれを受け容れて黙ってくれた。

彼女にしてみれば、何もかもを奪ったにくい相手だ。バフォートと懇意にしていたことや、恐らくは恋心を抱いていたことも、偉父は知っている。つまり愛しい人の仇でもある存在なのに、表向きは黙って行動を受け容れていることになる。

どれほどの苦悩が、その体には詰まっていることだろう。

「分かりました。 私が、ある程度調査を進めておきます」

「無理はしないように。 今は少しでも、人材を育てなければなりません」

「御意……」

頷くと、天井裏に戻り、偉父はその部屋を後にした。

王宮を出ると、雨が降り始めた。最初は小雨だったが、やがて本降りになる。ドムハイト王都では、滅多にない気候だ。焼けただれて再建がならぬ地域に住んでいる民には、さぞや辛い雨になるだろう。

急ぐ。

途中、貧しい身なりの民が、身を寄せ合っているのを何度も見た。だが、放っておくことしか、偉父には出来なかった。

だが、幾ら無力でも、鼠だって成長するし数も増える。アルマン王女の必死の努力により、治安を確保した北東部では活気が戻り始めているし、国境線の守りも今の時点では鉄壁だ。ティセラ将軍やフォード将軍は小競り合いで五分以上の戦績を残しているし、兵士達の訓練をしているレオン将軍やユーリス将軍も成果を上げている。後は経済状況だが、これも北東部の耕作地帯がある程度の実りを付けているから、少しは緩和されるだろう。

状況は、少しずつ改善している。

今に見ていろ。いつまでも、貴様らの掌の上で転がされていると思うな。

そう、偉父は毒づいていた。

 

1、闇と光の歴史

 

三つの遺跡を短時間で探索し、調査を繰り返したマリーは、聖騎士ジュストの前でその成果を発表していた。エルフィールを連れてきているのは、めざましい実績があったのと、極端なリアリストである点に感じるものがあったからである。

錚々たる騎士達が並ぶ中で、マリーは自説を披露していく。

「ふむ、そうなると、ホムンクルスに対する暴力での粛正はなかった、というのが結論かね」

「はい。 結果としては同じですが」

マリーが調べた所によると、遺跡から出てきたホムンクルスの死体は、殆ど同じ死因であった。

餓死、である。

しかも、食料があるにもかかわらず、餓死している死骸もかなりあったのである。これは、ある結論を想起させる。

「ホムンクルスには、二つの特徴があります。 一つは、人間には逆らえない。 もう一つは、与えようと考えない限り、欲望を持たないと言うことです」

「便利なようにも思えるが」

「はい。 あたしは、こう考えました。 まずホムンクルスは、その特性が故に、自主的に増殖することがありません。 欲望がありませんから、そもそも生殖衝動を持たないのです」

娼婦のまねごとをさせる事はあったという。

しかし、文献を見ると、面白いことが分かる。その場合、「発情しろ」と命令したり、特殊な薬品を投与していたらしいのだ。

人間に対してさえ、それだ。ホムンクルスが同族に性愛を抱くことはなかったというのが事実なのだろう。

「更に言えば、欲望がないと言うことは、己を完璧にコントロールしていると言うことでもあります。 これは良い意味でも悪い意味でもで、つまり主人となる人間が「食事をするな」と命令すれば、一切食べなくなるのです」

「何……!? そんな馬鹿な」

「事実です。 少し実験してみましたが、フィンフに同じ事を試すと、二日以上食事を一切取ろうという欲求を見せませんでした」

アイゼルは泣いていたが、これも過去を確認するためだ。ちなみにイリスも、ぶーぶー不満を言いながらも、命令にはしっかり従った。

生物として、ホムンクルスは極めて不完全。

だから、滅ぼすことも、容易だったのだ。

マリーの仮説は、だいたい以下のようものだ。

錬金術師の中に、ホムンクルスに対する「非人道的」な扱いに反発する一派が現れた。彼らは少数派であったが、意見は無視できるほど小さくもなかった。平和になりつつある三百五十年前のエル・バドールでは、軍縮をすべきだという声や、対外進出に対する反対意見も強くなり始めていた。

民も戦は望んでいなかった。今の平和で豊かな生活を、どうして戦争でわざわざ崩さなければならないのか。戦場に赴かなければならないのか。

当然の理屈である。そして、若干腐敗していたとは言え、民の不満がないからどうにか回っていたこの国である。反乱が収束していったのも、民がおおむね生活に満足していたからだ。

状況を危惧した主流派は、こう考えたのである。

ホムンクルスに対する技術を一旦凍結することで、破滅を避けようと。

「それにしては、随分大規模すぎる削減になってしまったようだが」

「今回のエル・バドールの反応を見ていただけると分かるように、この国ではどうも現実感覚に欠ける部分があります。 多分、今に始まったことでは無かったのでしょう」

マリーの指摘に、ジュストはなるほどと呟いた。

恐らく、主流派の提案したホムンクルスの凍結案が、あまりにも大規模に取り入れられてしまったのだろう。ひょっとすると、主流派もこんな筈ではなかったと思ったのかも知れない。

ホムンクルスそのものが、瞬く間に大陸から消えた。

積極的な虐殺は行われなかったかも知れないが、人間がいないと増えることさえ出来ない存在である。食事を絶てと言うだけで全滅するような脆い者達なのだ。例え身体能力が高かったり、知能が優れていても、本能に掛けられたプロテクトが完璧だったという時点で、ホムンクルス達に未来はなかったのだ。

マリーが吟味したいくらかの資料から類推するに、ホムンクルスはわずか十年ほどで、エル・バドールから消えてしまった。

少数は残ったが、それも使われ方が今までとは根本的に違っていた。そして社会そのものが一気に縮小し、支えられなくなった大規模な軍は規模を減らした。こうして、他所の大陸へ進出するなどと言う計画は、水の泡と消えたのである。

主流派達は、夢を見ている気分だったかも知れない。

大量のホムンクルスを消費することで成り立っていた黄金時代が、瞬く間に崩壊したのだから。

人口もその時期くらいから減り始めている。これについても、或いはホムンクルスを使うことである程度人口増加を補っていた部分が、消えたかも知れない。どうやってホムンクルスを使って人口を増加させていたかは分からないが、まあろくでもない方法だったのは間違いないだろう。

軍の縮小に伴い、クリーチャーウェポンも現状維持以上のことは出来なくなった。そして此方も規模を減らし、各地の軍基地で戦力を維持する最小限だけが飼われるようになった。

それが、大まかな、マリーの想像する三百五十年前に起きたマイナスのパラダイムシフトである。

「如何でしょうか、聖騎士ジュスト」

「ふむ。 そして、我々がこれを防ぐには、どうしたら良いと思うかね」

「まず第一に、ホムンクルスをこれほどまでに大々的に使う事を、避けた方が良いかと思われます」

ホムンクルスは便利だ。ある程度の知能を持っている上、人間の命令を何でも聞くという点で、兎に角利便性に優れている。

ヘルミーナ先生が技術を完成させた後、大量生産の方法を確立させたら、間違いなくシグザール王国には黄金期が来る。しかしその黄金期は、結局砂上の楼閣に過ぎない。多少足下を堀崩すだけで、瞬く間に壊滅してしまうだろう。

しかしながら、ホムンクルスを使う事自体は悪くないかも知れないと、マリー自身は思っている。

要は、こういった暴走的使用方法を避けることが重要なのではないのか。

ジュストが他の騎士達にも意見を求める。夢物語のよう話だがと、付け加えた上で、聖騎士コルテールが発言する。年齢もジュストに近い彼は、軍事面で言うと今回の作戦におけるナンバーツーである。

「しかし、現実に様々な証拠が君の説を裏付けている。 笑い飛ばすことは出来ないだろうな」

「俺には、ゲス過ぎて吐き気がする」

堂々と言い放ったのはダグラスである。挙手しての正式な発言ではなかったが、同意する騎士も少なくない様子だ。比較的控えめな発言をすることが多い聖騎士ローラも、今回はダグラスに同意していた。

「頭の中身が少し違うと言うだけで、ホムンクルスは人と代わりがないと聞いていますが、それでは社会に歪みが出るのは当然です。 便利だからと言って、大々的に使うような、ましてや消耗品扱いするようなモラルのない行動は、避けないと人類のためにならないかと」

「まあ、今回はそれをどう避けるべきかという話し合いだ。 今、憤っても仕方がないだろう」

温厚なことで知られる文官が取りなしたので、ダグラスもローラも怒りの矛先を抑えた。マリーは頷くと、二つ提案する。

「まず第一に、ヴィント王にこの研究成果を提出していただきたく」

「分かった。 それに関しては賛成だ。 英明なヴィント王であれば、二の轍を踏まないように色々と手を打ってくれるだろう」

「今ひとつは、シグザールに戻った後あたしがヘルミーナ先生達にこの件を話します」

ヘルミーナ先生は怒るかも知れないが、しかし必要なことだ。ホムンクルスにとっても、多分このエル・バドールでの破滅は、大事な教訓になっている。同じ事を繰り返してはならないのだ。

それにしても、本当に気になるのは、全ての起点である旅の人の存在だ。

奴は何を考えて、錬金術などと言う超テクノロジーを人類に授けた。奴が人間ではないことはほぼ確実だろうとマリーは考えているが、しかしその意図が読めない。暴走の果てに滅亡していく人間の有様を楽しもうとしていたのか、或いは。

「分かった。 それらの提案については、此方としても問題はない」

「後は、長老派の処理について、だが」

コルテールの発言を受けて、文官の長が立ち上がる。

資料が配られた。マリーが目を通した所、非常に無機質な文面である。恐らくはシュワルベの手によるものだろう。

「既に長老派は支離滅裂で、エル・バドール王の命じた調査によって彼らの犯罪も暴かれています。 意味が分からなかったこの間の暗殺が、エル・バドールの闇を洗い出すことに成功したようでして」

「何だか釈然としないが、此方としてはもうやることが無くなったと言うことか」

「はい。 もう責任を取らせる相手もいませんし、これ以上は藪蛇になるでしょう。 長老派によるクリーチャーウェポンによる攻撃は、もはや警戒しなくても良い段階かと思います。 この辺が、手の打ちどころかと考えますが、如何でしょうか。 エル・バドール王が謝罪してきたらそれを受け容れて、撤退すべきです」

それについては同意だ。

しかし、幾つか同意しかねる部分もある。

クリーチャーウェポンを使う勢力が、他にもある。フラウ・シュトライトは長老派が出してきた事は間違いない。だがこの間遺跡で襲撃してきた鳥と狼は、完全に未知の存在だった。

あの後セルレンにも確認したが、聞いたこともない品種だという。

つまり、得体が知れない何かが、まだこの大陸には潜んでいるのだ。しかもそれは、シグザール王国でも暗躍している可能性がある。それを示唆する情報が、幾つもマリーの所には上がってきていた。

「では、兵力の半数を帰還させるとしよう。 残りも随時戻させることとする」

「半数だけ、ですか」

ダグラスが怪訝そうに眉をひそめた。ジュストが苦笑する。

「まだ、調べなければならないことと、纏めなければならないことがある。 そうだろう、マルローネ君」

「はい。 まだ安全だと胸を張って言えないのが現実です」

謎の存在ドッペルゲンガーや、他にも分かっていないことが幾つもある。聖騎士ジュストも、闇の正体についてしっかり見極めたいのだろう。この大陸の影で、一体何が蠢いているのか。

それを見極めるまでは、戻るわけにはいかなかった。

エルフィールを始めとする研究チームは、全員を残すことが了承された。また、密かに入手することに成功したエル・バドールの武具類も、早めに本国に送って解析させる。技術が違いすぎるから量産化も実用化もすぐには出来ないだろうが、今後は大きな武力に変わること疑いなかった。

マリーはエルフィールを連れて、一旦他の錬金術師達の所に戻る。巨大な旅館の、司令部にしている一つ下の階に、アトリエ代わりに部屋を一つ確保しているのだ。倉庫代わりに使っている部屋らしく、余計なものが入っていないのが実に好ましく、格安で借りた。

部屋を覗くと、ノルディスとアイゼルが、この間遺跡で見つけてきたホムンクルスの亡骸について、色々と調べている所であった。

「マルローネさん」

「どう?」

「はい。 新しい発見は出てきませんが、やはり既存の説については地固めが確実にされていく状態です」

このホムンクルスは、恐らく人間で言うと十代半ば。どうやって生き延びたかは分からないが、闇の中で餓死した様子だという。外傷は一つもなく、激しい運動をした形跡もない。

虐待を受けていたような情報も、骨からは出てこなかったという。

「むしろ、栄養状態は良好だったと思われます。 骨の断面などを見る限り、かなり構造がしっかりしていますから」

「これ以上、調べることはないかと思います。 だから、その。 早く、埋葬して上げたいのですが」

アイゼルが、悲しそうに言う。

だが、マリーは許可を出さない。まだ、情報を引き出せる可能性があるからだ。

キルキが部屋に来た。クノールと一緒に、買い物に出ていたらしい。妖精は両手にバスケットを抱えて、ちょっと危なっかしく歩いていた。

バスケットの中身は、錬金術の素材が多数。流石に錬金術で立国している場所だけあり、素材は店で大量に入手できる。マリーもこの点だけは、この国がとても良いと思っている程だ。

「アイゼル、ノルディス、解析続行。 イリス、フィンフ、あたしと一緒に調合」

エルフィールとキルキには、新しく見つけた遺跡に調査に行ってもらう。といっても、此方で「存在を認識した」だけの事であって、エル・バドール人としては周知の場所であるが。

護衛としてはアデリーとミューを付ける。今回の遺跡はちょっと遠い上に、山の中にある事も考慮して、二人には護衛対象から目を離さないように注意。長老派は既に此方に対する攻撃を諦めているが、謎の存在についてはまだ分からないからだ。

「分かりました。 今度は西ですね」

「ん。 西の山中、歩いて四日って所。 まだ時間はあるから、しっかり調査してきてね」

「了解しました!」

エルフィールがキルキを連れて、元気いっぱいに出て行く。

普段はどちらかというと邪悪な部分も秘めているエルフィールだが、こういう可愛らしい部分もある。歪な人格だが、それが故に多面性があるのだとも言える。

アデリーは、ただしエルフィールのこういう成長を喜んでいない。彼女にしてみれば、愛情をもっと注ぐべきだったのではないかと、後悔することばかりらしい。まあ、あの年になってしまうと、今更性格も変わらない。

「クノール、買い物。 またで悪いけど、この紙に書いたもの揃えてきて」

「直ちに」

少し多めに銀貨を渡したので、喜んでクノールは出かけていった。現金なことである。それくらい逞しくなければ、人間社会の下位構成要員として、逞しく生きてはいけないのだが。

後は、フィンフとイリスと、調合に没頭する。

ボウルやフラスコを火に掛け、微細な調合を繰り返して、解析用の薬を作り上げていく。アイゼルとノルディスが汗水垂らしながら髑髏の解析を続けている所に、次々支援用の薬品を渡す。

時々二人が仕上げるレポートに目を通す。

イングリド先生とヘルミーナ先生は学生の教育方針を変えたと言うが、流石だ。二人とも応用力が抜群で、発想も豊かである。

フィンフが少し鈍くなってきたので、休ませる。イリスは見ていて疲れが分かりやすいのだが、フィンフは「まともな」ホムンクルスだから、命令があったら息を止めて死ぬことだってやりかねない。放っておくと死ぬまで調合を続けるので、適当なところで休ませないと、損耗が大きくなる。

頭蓋骨の内側を調べていたノルディスが、小さな発見をした。

「マルローネさん、これを」

「ん? 宝石?」

「はい。 非常に小粒ですが。 どうみても、生前から頭蓋骨の内側に埋め込まれていた状況です。 多分これが、ホムンクルスの制御機構の一部でしょう」

「ふうん。 生体装置で制御していたんじゃないかと思っていたのだけれど。 宝石を使っていたのか。 なるほどね」

そうなると、どうやって拒絶反応を抑えたのかが気になる。

ヘルミーナ先生も、苦労しているのは其処なのだ。どんなに頑強な肉体で作っても、体の中に異物を入れると、長年を掛けてそれは牙を剥く。体は徐々に蝕まれ、確実に寿命は縮まっていくのだ。

或いは、寿命については最初から短めに設定していたのかも知れない。

だが、それはあくまで想像だ。実際にどうだったのかは、確固たる証拠を割り出さないと何とも言えないだろう。

とにかく、研究の手綱を取ることに没頭できるのは素晴らしい。基本的にマリーにとって研究は自分でやるものだった。だから、指揮の方も以前からやってみたいと思っていたのだ。

現地にはエルフィールを行かせる事で、ある程度資料は集められる。二度ほど少人数で行かせたが、どちらもマリーの満足する結果を、エルフィールは残した。これならば仕事の何割かを任せることも出来るだろう。

今度はアイゼルが発見をする。

骨の状態から、このホムンクルスは恐らく十三年ほど生きていたという。その期間、成長を止めて、子供のままの姿だったのだろう。

「十三年か。 微妙な所ね」

「ヘルミーナ先生の作るホムンクルス達も、既にそれくらいは生きられると聞いています」

「うん。 これはちぃっと振り出しに戻ったかな。 研究を続けて。 パラダイムシフトの原因をまだ掴めないとは限らないからね」

だが、まだ諦めるわけにはいかない。

部分的な骨ではなく、完全な状態で、しかも非常に興味深い状況で見つかった研究素材だ。

徹底的に、文字通り骨の髄までしゃぶり尽くす。その意気で、研究しないと損であった。

 

エルフィールは街道を急ぐ。時々馬車が通り過ぎるのだが、中には馬が引いていないものまであった。どうやって動いているのかはさっぱり分からない。煙をもくもくと出しているのが、動力に関係しているのかも知れない。

「エリー、車、気になる?」

「うん。 シグザールでも、いずれあれが走るようになるのかなって思うと、無関心じゃいられない」

「でも、きっと多分最初は戦争に使われる。 それはやだ」

キルキの発言ももっともであり、荷車を引いているミューが頷いていた。アデリーさんはというと、話を聞いてはいるが、それ以上に周囲の様子に気を張っているようである。護衛をしっかりしてくれているということだろう。

アデリーさんが、今のエルフィールのことを嬉しくは思っていないこと位は、分かっている。彼女は基本的にいつもクールだが、たまーに嬉しそうな表情を見せることもあったのだ。

最近で言うと、エルフィールの顔を見た時、一瞬だけ嬉しそうにしてくれた。

しかし、それも一瞬でしかなかった。エルフィールがどういう人生を送ってきて、腕を上げてきたか、一目瞭然だったからだろう。というよりも、やりとりしてきた手紙の文面が全部本当だったと分かって、それでガッカリしたのかも知れない。

他にも、何度かアデリーさんが嬉しそうにしているのを見たことはある。

幼い女の子が、アデリーさんのために花飾りを一生懸命作ってくれた時とか。アデリーさんと古いつきあいだというドナースターク家のメイド長が、辛口の料理を作ってきてくれた時とか。子供達が、微笑ましい遊びをしているのを見た時とか。

いずれにしても、一瞬しか表情を見せてくれはしなかったが。

良くしたもので、騎士達の間でも、アデリーさんは氷の戦士とか言われているそうである。

「やはり、何か気配がありますか」

「非常に微少だけれど、本当に遠くから伺っている気配が一つ。 この間からずっと付けてきているから、恐らく襲撃者の正体です」

「こっちは私が見ているから、叩いてきたら?」

ミューさんが言うと、もう何度もやってみたとアデリーさんは返した。時々荷車の側を離れていたのは、多分叩きに行っていたのだろう。

しかし、聖騎士の中でも屈指の腕前であるアデリーさんでさえ、そいつは捕らえられなかった。いずれにしても、ただ者ではない。はっきりしているのは、長老派が飼っている諜報員などでは断じてないと言うことであった。

「せっかく周囲が静かになったと思ったのに」

「まだ襲撃があるかも知れません。 気を抜かないように」

「分かってます」

アデリーさんに、ちょっと不機嫌に返した。戦い自体は嫌いではないが、そのせいでアデリーさんがぴりぴりしているのはちょっといやだった。キルキはと言うと、完全にマイペースに、とてとてと歩いている。

街道の左右には草原や森があるが、あまり興味は沸かない。

エル・バドールでは、自然素材に殆ど期待できない。人間が一度有害種を完全に駆逐してしまったため、森も林も元気がないのだ。兎も狩って食べてみたが、肉に歯ごたえが無く、美味しくなかった。

自然を如何にして保全するか、いつもアデリーさんに教えられた。その意味が、この大陸では目に見える形で分かる。

宿場町に着いた。軽く休んで、すぐに出発。土産物も売っていたが、興味は沸かなかった。帰りにちょっと食料を買っていけばいいだろう。皆、その意見については共通している。ミューも最初の頃は宿場町でショッピングを楽しんでいたようだが、良い品が無いことが多いので、最近は素通りしていた。

夜中もせかせかと歩く。

戦力の削減が決まって、残りの時間が無くなっていることがはっきりしてきた。この大陸の自然や人間にはあまり価値がないにしても、技術や過去には大いに学ぶものがある。マルローネさんがいう遺跡にも、それが眠っていると思うと、あまりのんびりはしていられなかった。

四日の行程を、二日半でクリア。

遺跡に到着した。

今回の遺跡は、小さな城のようだった。規模はとても小さく、周囲に堀と塀がある。ただし堀には水もなく、塀は殺風景なただの壁だった。実際の砦にある塀には、外を覗く為の孔が開けられていたり、登りにくいように返しが付けられていたりするのだが、そういった工夫もない。

多分、そんな工夫を思いつかないくらい、平和だったのだろうか。

あるいは、技術力だけで敵を撃退できるので、細かい工夫など必要もなかったのかも知れない。

中に入ってみる。多分取り壊されなかったのは、壊すのが面倒だったから、なのだろう。風化は殆どしていなかった。ただし、内部の生活空間は綺麗さっぱり無くなっていた。

「使われたのかな、この砦」

「戦闘の痕跡はありません。 国家膨張の過程で作られはしたものの、多分使う必要性が生じなかったのでしょう」

「ふうん。 それで結局無駄になって、放棄された、と。 無駄になっちゃって、良かった、のかな」

ミューさんが感慨深げに辺りを見回した。

エルフィールも見回す。砂は以前からよく見掛ける、水を一切吸わない特殊なものだ。だから雑草も生えない。塀にもおなじ素材が使われている。だから、内部に生命の気配は一切無かった。蜘蛛さえ巣を張っていない。

しかし、構造がある程度複雑なので、調べてみると結構面白い。エルフィールはアデリーさんと、キルキはミューと組んで、別れて探索することにした。東の方をキルキが探索することにしたので、エルフィールは西に足を運ぶ。

西区には、恐らく強力な兵器を据え付けていただろう大きな台座があった。兵器は残っていない。流石に撤去したのだろう。

車輪が通る溝らしいものや、何かを置くべき凹みらしいものがある。形状などをメモ。アデリーさんはじっと一点を見つめていた。視線の先に、くだんの監視者がいるのかも知れない。

「アデリーさん、例の輩はまだこっちを見ているんですか?」

「ええ。 ずっと」

「何だか気味が悪いですね」

「視線自体には、悪意を感じません。 むしろ此方を計ろうという上からの意志を感じます」

親か何かが、子供の成長を確かめようとしている。そんな視線だと、アデリーさんは言う。だとしたら、ちょっと迷惑な親だった。親なら、アデリーさんみたいな人が良いとエルフィールは思う。

意識を切り替え、調査に集中する。

砦の上に。建物の外側に階段があり、其処から容易に上がることが出来た。守りをあまり真剣に考えていないとしか思えない。案の定、真上からは砦の全容を見ることが出来た。実際の戦争になった時、この砦は塀さえ突破してしまえば、容易に制圧することが出来ただろう。

当然の話だが、籠城は数に劣り、援軍が期待できる場合に行う。つまり砦も城も、防御施設の構造は、内部からは丸見え、外部からは全く把握できない、が基本となる。そして内側の人間は敵を容易に包囲することが出来、外部の人間は分散させられる。そうすることで、数の不利を補うのだ。

しかし、この砦には、そんな工夫が感じられない。

錬金術師達が、圧倒的な技術力で大陸を制圧した。主力としては、恐ろしい兵器の数々。何よりもクリーチャーウェポンの圧倒的戦闘力がものを言った。だから、人間である軍人達はあまり地位が高くなかったのかも知れない。

そうなると、彼らは肩身が狭かっただろう。大陸統一直後に多く起こった反乱は、或いは錬金術師に反発した軍人達の手によるものだったのかも知れない。

実際、砦の建造に専門家が関わった形跡がない。そして、関わる必要もなく、大陸は統一されてしまった、と言うわけだ。

技術力だけで統一などは出来ない。普通は当たり前の話だ。

だが、この大陸では、どうしてか出来てしまった。そして、その歪さが、こういう砦の遺跡にも現れてしまっている。

一旦、アデリーとミューと合流。

中庭になっている場所で、座り込んで話をする。

「特に何もない」

「キルキ、この構造自体が歪でおかしな当時の状態を表していると、私は思うよ」

「エリー、鋭い。 私あまり軍事には詳しくないけれど、やはりおかしい?」

「うん。 軍事学的にはあり得ない構造で、まるで子供が作った積み木の玩具みたいな砦だね。 こんなものを作った連中が天下統一を果たしたなんて、私にはとても信じられないよ」

キルキはじっと聞いていたが、ほどなくメモを取り始めた。メモ用に使っている紙の質に関しては、シグザール製とは比較にもならない。インクが滲むこともないし、耐久性も非常に高かった。

また別れて、アデリーさんと砦の中を歩く。広すぎることも狭すぎることもなく、しかし居心地が悪い。

砦の中をざっと調べていく。

生気が全くない砦の中には、人が暮らしていたとは思えない。或いは、人などいなかったのかも知れない。

労働力として使い捨てていたホムンクルスが砦を作り、警備も全て請け負っていたのだとしたら。

もしそうなると、クリーチャーウェポンの補給中継地点として活用していた可能性もある。そういった証拠も、割り出しておいた方が良さそうだった。

しばらく調べている内に、夕刻が来た。

呼び声。緊迫感はない。キルキが、何かを見つけた声だ。アデリーさんと小走りで行く。赤い夕日砦の窓から差し込んでおり、これだけは何処の大陸でも同じなのだと悟らされる。おかしな話であった。

「キルキ、どうしたの」

「見て」

「お。 これは価値がある」

砦の中。床と壁の間に、明らかに不自然な継ぎ目が繋いでいる場所がある。ざっと見て確認するが、これは明らかに後から増設した跡だ。そうなると、此処にどういう訳か、多分砦を放棄した跡に、何かを作ったと言うことになる。

二人で見て回るが、証拠は露骨すぎるほどだった。何カ所か誤魔化そうと上から何か塗っている場所もあったが、それが故に却って目立ってしまっている。偽装に使っている素材の技術力が、明らかに以前より劣っているのだ。

「ブラフという可能性もあるけれど……」

「そもそも、どうして壊していないか、気になる。 調べても損はないと思う」

「そうだね。 壊せない、という事はなかったと思うし」

事実、扉に関しては、マルローネさんが素で蹴り砕いているのだ。当時のスーパーテクノロジーで、どうにか出来なかったとはとても思えない。

一度、砦を出た。

外は真夜中になっていた。

宿場町に入り、宿へ。美味しくもない食事を適当に平らげる。ベットに転がると、筋肉の状態を確認。この間の戦闘で、白龍と冬椿を連続で使用したが、腕への負担は驚くほど小さかった。

何度も腕に無理をさせている内に、体が進化してきたのかも知れない。だとしたら嬉しい話である。

これなら、そろそろ夏草を使用できるかも知れない。

四人部屋の左右隅には、ミューとアデリーさん。真ん中にエルフィールとキルキという形でベットを取った。護衛の二人は一旦下に降りて、明日について話をするという。部屋に残ったキルキとエルフィールは、軽く打ち合わせをする。調査について話を終えたあと、キルキは言う。

「エリー。 この大陸について、どう思う?」

「歪だね」

「私もそう思う」

キルキの片言も、少しずつ滑らかになってきている。エル・バドールに来る前に、後輩達に指導することがあるという話をされてから、努力して直すようにしているらしい。ただ、キルキのような天才肌に、一般人への指導は少し難しいかも知れないと、エルフィールは密かに思ってはいる。

もしも教師として優れているとしたらアイゼルだろうと、エルフィールは思ってもいた。才覚は普通で、努力によって立身してきたからだ。普通の人間の気持ちがよく分かるだろうし、努力による成果の挙げ方だって骨身で知っている。後に天才錬金術師を育て上げるとしたら、多分ノルディスやキルキ、エルフィールではなく、アイゼルだろう。

そんなエルフィールの思考とは裏腹に、キルキは話を進める。

「砦を作ったのがホムンクルスだとしたら、何だか可哀想」

「そうだね。 でもマルローネさんの話を聞くと、そう考えた錬金術師が増えて、おかしくなったのかも知れないって言っていたね」

「確かに、ホムンクルスを使い捨てにする社会そのものがおかしくなったのかも知れないけれど。 でも私思う。 そんな社会、このエル・バドールの歪な状況よりも、もっとずっとおかしい」

キルキの言葉に迷いはない。

キルキにしても、アルコール中毒の両親から虐待を受けて育ったのだ。そう考えるのは不思議ではない。

幼い子供は、親に逆らえない。

そして、ホムンクルスは、幼い子供以上に、人間に逆らえないのだ。

しかし、ホムンクルス達が、人間に反旗を翻したようにも思えない。マルローネさんが言うように、ホムンクルスの使用を一斉に止めたとして、それで良く国が崩壊しなかったものだとも思う。

こっちを見ていた視線に限らず、この国には闇がまだまだ多い。

階段を上がってくる音。ちょっと早いかも知れない。何かあったかとベットの上で身を起こす。

ノック音。入って良いと告げると、意外な人が顔を見せた。

「此処にいたのか」

「あれ? ユーリカさん」

どちらかと言えば、ユーリカは今回の件では完全に専門外だ。彼女が得意なのは水練と水運であり、いうならば人間の運び屋である。確かエルフィール達が此方に来てから、安全になった海を何度か往復して、騎士団や関係者を輸送しているはずだが。

三つ編みにしている髪を弄りながら、彼女は床に座る。胡座をかいているのが、漁師出身らしい粗野なやり方だった。

「よく分からないんだが、調査ってのは進んでるのか?」

「うん。 ちょっと大きいのが見つかったよ」

「明日、本格的に調べる」

「そうか。 何よりだと言いたいんだが」

あと二日で切り上げて欲しいと、ユーリカは言う。

何かが起こった。そう、エルフィールは直感していた。

 

2、破滅呼ぶ存在

 

調査の結果、色々と面白いことが分かった。だが、それよりも。早めに切り上げて戻るようにと言う、マルローネさんの指示の方が気になった。多分気になっているのはエルフィールだけではないだろう。アデリーさんも、時々いつもよりぴりぴりしているのが分かった。

「アデリーさんも、気になりますか」

「母様は人命よりも自分の愉悦を優先する傾向があります。 その母様が、こんな指示を出してくるからには、何かあると考えるのが自然です」

もっともだ。ミューも、その言葉を聞いて、苦笑していた。

荷車を引いて街道を急ぐ。ユーリカも頑健な漁師らしく、なんら文句も言わず、疲れる様子も見せず、急ぐエルフィールに着いてきていた。護衛の騎士も連れずと言う事だったから、相当急いでいたのだと分かる。

ケントニスが見えてきた。

驚いたのは、船が来ていることだ。しかもシグザール王国の誇る最新鋭戦艦である。ひょっとすると、半数が引き上げるのではない。全員が、一気にエル・バドールを後にするのかも知れなかった。

宿に急ぐ。

其処は修羅場とかしていた。既にイリスやクノールが、荷物を纏め始めている。どうやら危惧は当たったらしい。

「エリーさん。 お帰りなさい」

「クノール、どういう事?」

「さあ、僕にはなんとも。 ただ、騎士の方々はもう全員引き上げる準備を始めているみたいですよ」

「全員、ね」

キルキと一緒に、上に。

マルローネさんから直接話を聞くことが出来れば良いのだが、この状況ではそれも出来るかどうか。

ふと、見慣れない騎士を見掛けた。赤い髪の持ち主で、眼鏡を掛けた小柄な女性である。あんな騎士はいなかったはずだ。青い鎧を着ていると言うことは聖騎士級の人物で、何かがあったと見るべきなのだろう。他の騎士達も敬意を払っている様子から、相当なVIPだと分かる。

ジュスト達がいる部屋に到着。休憩など、している暇はなかった。

「エルフィール、今戻りました」

部屋にはいると、其処はがらんとしていた。戦略級の判断をするために地図などが拡げられていたのだが、それも片付けられている。ジュストも、もちろんいない。その代わり、聖騎士ローラがいた。

「貴方たち、随分早かったですね」

「急いで戻りましたから。 何があったのですか?」

「本国への帰還命令です。 それも、大急ぎで」

ローラは温厚な人柄だが、無駄なことは言わない。歴戦の聖騎士らしく、まだ若いのにとても落ち着いている。

片付けが行われる中、ぼんやりしていることもない。

エルフィールはキルキと一緒に、アトリエ代わりに使っていた部屋に急いだ。

アイゼルはどうやら外でフィンフと一緒に、帰還のための荷物整理をしているらしい。ノルディスは、いた。あの裏切り者として保護されていたセルレンと、何かを話し込んでいる。

「あ、エリー。 キルキも」

「ノルディス、何があったの?」

「彼女が、話してくれるよ」

セルレンが気難しそうに眼鏡をずり挙げた。この様子から言って、彼女もシグザール王国に来るのだろう。確かに、この大陸には、もう居場所などないだろうし、妥当な判断である。

アトリエはもうがらんとしていた。マルローネさんが、既に片付けさせたのだろう。保ちが悪そうな素材は加工して行くしかない。

「長老派が四分五裂して、色々と情報が流出してきた。 その中に最強のクリーチャーウェポン三体の情報があった」

「三体も?」

「そうだ。 一体は火山の主と呼ばれる存在で、これについてはエル・バドールの辺境に封じられているらしい。 眠りから覚める恐れはないから、今の時点では心配はしなくても良いそうだ」

火山の主と来たか。

ドナースターク家も、一度火山の噴火で凄まじい被害を受けたことがあるという。火山は自然の猛威そのものであり、人間が抵抗できる存在ではない。もしも火山並みの力を持つクリーチャーウェポンだとすると、とても手には負えないだろう。

「そうなると、残りの二体が問題?」

「そうだ。 どちらもが、君たちの大陸に封じられている」

「えっ!?」

「既に聞いていると思うが、三百年以上前、エル・バドールは君たちの大陸に対して、百万を越える遠征軍を派遣しようとしていた。 その時は軍勢だけかと思っていたのだが、内部からも壊滅させるために、先発隊が布石を打っていたのだな」

うち一つは、大空の王と呼ばれる存在だという。

ドラゴンの数倍の体躯を持つ巨大な怪物で、現在のドムハイトに眠っているという。従えるには特殊な手段が必要になってくると言うことで、今の時点ではドムハイトが動かせる可能性はないと言うことだが。

何事にも、絶対はない。

そしてもう一つ。それが、よく分からない。

「影の鏡とも言われているらしいのだが、よく分からない。 これについては、長老派も秘匿する以前に、正体をよく分かっていなかったようなのだ」

「影の鏡、ねえ」

「火山の主や大空の王に比べると、あまり強そうじゃない」

キルキはそう言うが、エルフィールは楽観的な思考をもてなかった。

マルローネさんに少し聞いたのだが、どうもドッペルゲンガーなる謎の存在が、三百五十年前のパラダイムシフトの際に活動していた可能性があるという。影とか鏡とかは、己の姿を模して現れるという、ドッペルゲンガーを彷彿とさせる。同じ存在だとはすぐには結論できないが、油断するには危険すぎる。

なるほど、確かにこれは帰還命令も出るはずだ。

一刻も早くその怪物どもを潰さなければ、現在の秩序が崩壊する可能性がある。

「それで、その影の鏡とやらが、何処に封じられているかも分からないの?」

「分かっていたら、苦労はない」

「此処にいたか」

ジュストが来た。一礼すると、セルレンはジュストと一緒にいた眼鏡の聖騎士の所に歩いていった。赤い髪の小柄な女性は、エルフィールを一瞥すると、セルレンを連れてその場を離れた。

聖騎士ジュストは、少し疲労が濃いようだった。無理もない話である。ようやくどうにかなると思った矢先、三百五十年前の最悪の遺産が姿を見せようとしているのだから。しかも当時のエル・バドールの技術水準から考えて、フラウ・シュトライトなど比較もならないとんでもない怪物である可能性が極めて高いのである。

「西の遺跡で、何か見つかったか」

「はい。 内容については、帰り道にでも」

「そう、だな」

聖騎士ジュストは、苦笑しながら言う。

此処には、牙の部隊と、交渉のための文官数名、それに護衛のために騎士を五人だけ残していくという。聖騎士は全員帰還。もちろんマルローネさんも、エルフィール達も全員帰還だ。

随分と慌ただしいが、話を聞く限り仕方がない。まさかこれほど巨大な爆弾を掘り当ててしまうとは。エル・バドールの責任問題がどうのと口にしても仕方がない。今は総力を結集して、未来を脅かす危険因子を排除しなければならなかった。

「すぐにでも帰る準備をして欲しい。 出来るか」

「はい。 いつでも戻れます」

「分かった。 日用品や身周りの品は、既に船に運ばせた。 此処で購入した道具類などを忘れないように、しっかり確認してから、船に乗るように」

出発は明日の朝だという。本当に急な話だが、むしろ英断だろう。エルフィールにしてみれば、置いて行かれなくて良かったと言う所だ。

アデリーさんは聖騎士ジュストと一緒に何処かに。多分軍事面での打ち合わせをするのだろう。ミューはルーウェンを探しに行った。エルフィールはキルキと一緒に、泊まり込んでいた部屋に。

中は確かに、綺麗さっぱり片付いていた。

「こりゃ、何もすること無さそうだね」

「船に行く。 あっちで、荷物確認する」

「それがいいか」

ロマージュは、そういえばどうしているのだろう。ショッピングがしたいと言っていたが、今頃街でせかせか買い物をしているのだろうか。

外に出る。ダグラスを見掛けた。非常に不機嫌そうだった。

「どうしたの?」

「どうもこうもねえよ。 平和のためにと思っていやいやながら来たのに、何だよこれ」

「いずれにしても、この国に怒りをぶつけても仕方がないでしょ? 馬鹿やった連中は、もうみんな墓の下なんだから」

もちろん、最大限の技術的協力はさせるべきだろう。

だが、軍事面でこの国がまるで役に立たないのは最初から分かりきっていることだ。今更それを嘆いてもぼやいても仕方がない。

大きくダグラスが溜息をついた。

「なあ、エルフィール。 お前は戦いがある方が嬉しいのか」

「そりゃあ、出世の糸口にもなるし。 ダグラスだって、シグザールじゃなきゃ出世も出来なかったし、故郷に仕送りだって出来なかったんじゃないの」

「それを言われると、確かに弱ええよ。 妹だって、家族だって、養えなかったからな」

だが、それでも。ダグラスは釈然としない様子だった。

港に急ぐ。途中、奇異の視線をいつも以上に集めているように思った。

振り返る。

群衆の中に、黒いフードを被った影を見掛けたのだ。それはとても人間とは思えなかった。

或いは、アデリーさんが言っていた、監視者かも知れない。だとしたら、あれが親のように此方を見守っているという、はた迷惑な奴か。はた迷惑なだけではなく、大変鬱陶しい姿だと、エルフィールは思った。

港に。

騎士達は迎えに来た戦艦に乗り込んでいる。荷物は次々に引き上げられていた。

先に港に来ていたキルキは、作ったお酒を漁師達に振る舞っていた。持ち帰っても仕方がないという判断なのだろう。酒の素材になるようなものは、こっちでは著しく品質が劣るものしか手に入らなかったという事情もある。だが、それでもキルキの作る酒は絶品だ。漁師達は喜んでいた。

船の上で、アイゼルが手を振っている。ユーリカも一足先に戻っていた。

「エリー。 急いで」

「どうしたの? 出発はまだ先でしょ」

「そうだけれど、船の上でやることが幾つか出来たから。 早めに打ち合わせをしておきましょう」

多分、遺跡についての研究のことだろう。船上はどうしても揺れるから、確かに早めに打ち合わせをした方が良い。

船に上がる。ノルディスも追いついてきた。マルローネさんはというと、旗艦で帰路についての話をしているらしい。つまり、若手の錬金術師だけで、早めに計画を立案しておかなければならないのだ。

キルキが戻ってきた。漁師達が喜んでいたと、彼女はちょっと誇らしげだった。当然、アルコールに工夫を加え、悪酔いしないようにしているのだろう。

船室の一つで、四人が顔をつきあわせる。少し手狭だが、仕方がないことだ。

最初に口を開いたのは、ノルディスだった。

「エリー、それで遺跡には何があったの?」

「実はね。 どうやら巨大なクリーチャーウェポンを搬送する中継地点だったらしくて、埋められてはいたけどかなり巨大なプールがあったの。 恐らくは餌を入れていたか、休ませるための施設だったのだと思うけれど」

「まさか、それが今回の相手?」

「多分、それはない」

キルキがアイゼルの危惧を一蹴した。エルフィールもそれには同意だ。

ただ、問題が幾つか生じている。

「プールの大きさから見て、陸上の生物としては考えられないサイズのクリーチャーウェポンが、実戦に投入されたと見て良いと思う。 つまり当時のエル・バドール人は、巨大生物で敵を虐殺することに、なんらためらいがなかったと言うことだね」

「それは、現在の人間も同じじゃ」

「うん。 つまり、現代人と同じく、人間を殺すための最大限の工夫を凝らした兵器を作っていたと考えて良いと思う」

早い話が、それだけ投入されてくるクリーチャーウェポンが危険だと言うことだ。シグザール王国に、もし影の鏡とやらが埋伏させられていた場合、駆除は一苦労する事になるだろう。

もちろんクリーチャーウェポンだから、弱点も多々あるだろう。

だがそれを発見するまでに、一体どれだけの死人が出るのか。あまり考えたくはない事であった。

埋められていたプールを掘り返している時間はなかったが、周囲の土などのサンプルは入手して、持ち帰ってきている。危険がないことは既に確認した上で、火を通している。それでも、場合によっては更に念入りな処置をする必要があるだろう。

他にも、幾つか発見はあった。だが、それらはマルローネさんに直接話しておきたい。

「そっちは、何かあった?」

「何かも……」

アイゼルが視線を泳がせる。

これは、余程のことがあったか。ノルディスが見かねて助け船を出した。

「アイゼル、僕が話すよ。 エル・バドール国王が、今回の件での長老派の介入を認め、正式に謝罪の文書を出してきたんだ。 例の謎の暗殺で長老派は壊滅しているし、騎士団としてはそれで満足して、此処は一旦引くみたい」

「ふうん、それは何よりだね」

元々、この辺りで手を打つ話だったのである。向こうが譲歩してきたのだから、当然の行動である。

そもそも、エル・バドールはシグザールから遠すぎる。現在は大型船での交易程度が関の山の相手であり、戦おうにも互いに兵士を送り込めないという状況の国家なのだ。騎士団の精鋭を投入すれば、王宮、或いはケントニスを制圧することは出来るだろうが、それ以上に領土を拡げるのは極めて難しい。

それに、三十五万いる兵士の練度はともかくとして、彼らが持っている武器の性能が問題である。色々調べてみた所、恐ろしい射程距離と破壊力を持ち、使い方次第で歴戦の騎士を簡単に葬ることが出来るほどの性能だと判明した。

つまり、損耗率が極めて大きくなることが予想されるのである。

騎士団としても、戦っても美味しい相手ではない。むしろ、何もかも損にしかならない。

エル・バドールにとっても、シグザールは敵としては全く意味がない相手だ。味方としても意味はないが、敵にすると更に面倒である。今の秩序を簡単に崩壊させうる存在として、これ以上に厄介な相手はいないからだ。

かくして、戦争は未然に防ぐことが出来た。謎の暗殺が巧く作用したことについては否定できないが、それを差し引いても、どちらにも得の欠片もない争いは回避できたのである。

「問題はその後なんだ。 友好の印として、幾つかの書物をくれたのだけれど」

その中に、ホムンクルスに関する技術書があったらしい。どうも文官達が倉庫に案内され、価値がありそうなものを幾つか見繕って来たようなのだが。内容があまりにもショッキングであったらしく、アイゼルは話したくないそうだ。

タイミング悪く、イリスとフィンフが船室に。茶を淹れてくれたらしい。

手慣れた手つきで、茶を並べていく二人。エルフィールは二人のいる所で話を聞きたいと思ったのだが、アイゼルが珍しくノルディスの前でむくれた表情を作ったので、やめておいた。

アイゼルはコネクション的な意味でも、孤独を回避するためにも、エルフィールにとっては大事な存在だ。致命的な機嫌の損ね方をすると、今後が面倒なことになる。

それに、アイゼルがノルディスの前でこんな表情をするというのは、余程のことだ。そういえば、子供が出来た母親は、夫よりも子供を優先するようになると言う話を聞いたことがある。アイゼルにも、そんな心理が働いているのかも知れない。

「イリス、フィンフと一緒に、最後の買い物に行ってきてくれる? 護衛はルーウェンさんに頼んで、クノールを荷物持ちにして」

「分かりました。 フィンフ、行きましょう」

「はい」

二人が船室を出て行く。

あの様子だと、イリスはアイゼルの様子に気付いていたか。まあ、それでも船室を覗くようなことはないだろう。

「もういい、アイゼル」

「エリー、有難う。 でも、私も席を外して構わないかしら」

「アイゼル、もう一度聞いた話なんでしょ? この場に全員揃っているんだから、話を済ませておいた方が良いと思うけれど」

「その通りよ、でもね」

「エリー、アイゼル悲しんでる」

キルキまでそう言いだしたので、エルフィールは折れた。

アイゼルは一旦外に空気を吸いに行き、ノルディスが本を紐解いてみせる。

古代のエル・バドール言語で書かれた本らしい。現在のエル・バドール語は翻訳も通訳も容易な汎用性の高い言語だが、当時は違った。

ノルディスは既に覚えたようだが、エルフィールはまだだ。この辺り、ノルディスの根本的な知能の高さを感じてしまう。

「当時のホムンクルスは、完全に道具の一種として考えられていたらしい。 最初奴隷を使う予定もあったらしいんだけれど、征服民族の抵抗に手を焼いた錬金術師達は、人間の下に最下層の知的生命体を作ることで、それを回避しようとした。 それが、ホムンクルスの始まりだったそうだ」

「なるほど、我々にとっての妖精族に近いのかな」

「妖精族は奴隷と言うよりも、人間が嫌がる仕事を積極的に行うことで稼いでいる、一種の下働きだよ。 此処で言うのは、捨て駒や、場合によっては食料になる事も想定した、本当に最下層中の最下層の存在、らしいね」

まあ、そんな話を聞けば、確かにアイゼルは怒るだろう。ノルディスも、あまり気分は良さそうではない。

技術の発展と、知識の発展は近い所にある。しかし、理性の発展とは全く関係がないのが現実だ。

現在でも、そんな便利な存在を実用化できたら、人間は嬉々として用いていくだろう。それが、人間という「知恵の多い」生物の現実である。エルフィールにとっては周知の事実であり、問題がなければ自身で使っていきたいくらいだ。

「旅の人の技術を生かした当初の計画だと、最初は鉄による人間を作る計画もあったらしいんだ。 しかしそれには、あまりにも技術が足りなかった。 其処で、何人かの錬金術師が成功させていた、人間を作り出す技術を応用して、ホムンクルスを作り出すことに成功したらしい」

「人間を作り出す技術、ね」

ホムンクルスの根幹部分だ。実際、頭脳や精神を制御する措置をせずにそのまま育てれば、普通に人間として生を受けることになる。

ホムンクルスと人間は、交配だってその気になれば出来る。

今はほんの少数が稼働しているだけだから、シグザールでは問題は発生していない。しかし、一家に一人ずつというくらいにホムンクルスが増えてきたら、それは過去の問題となっていくだろう。

実際に。

エル・バドールではそうなった。

「エル・バドールはこうして豊かになった。 人間がいやいやしなければならない仕事をことごとくホムンクルスに押しつけて、その成果はみんな人間が独占していったのだから当然だよね」

「そして、ホムンクルスに愛着を感じた人間と、使うことに慣れた人間の間で、対立が始まった、と」

「そうなるみたい。 その後の展開は、マルローネさんが想像したのと、ほぼ同じみたいだよ」

少なくとも、この書物にはそれを示唆するものが書かれていた。ただしあまりにも内容が抽象的なので、先にマルローネさんが仮説を立ててくれていなければ、そうだとは思えなかっただろうとも、ノルディスは付け加えたのだった。

アイゼルが部屋に戻ってくる。

「アイゼル、機嫌直す。 エリー、チーズケーキ作って。 代わりに次の依頼、手伝う」

「いや、釜がないから、此処じゃ無理かな。 カスターニェに到着したら、みんなが飽きるまで作ってあげるよ」

「うん……」

「大丈夫よ、キルキ。 私も、そこまで子供じゃないわ」

アイゼルが無理に笑顔を作る。そして、目を伏せた。

「奇跡の技術も、世界を作り替える技も、結局人間が使う以上、凶器にしかならないものなのかしら」

「だって、人間だもの」

「そうね。 貴方ならそう言うと思ったわ。 だけど、エリー。 私ね、そこまで冷酷には割り切りたくないの」

この書物に書かれているとおり、ホムンクルスは消耗品として設計された。当然、時には食料にもされたのだろう。労働力としては、文句を言うこともなく、壊れるまで働き、必要なくなったら処分するまでもなく、勝手に消え去る。

理想的な労働力として、エル・バドールの黄金期を支えていたわけだ。

しかしそれは。

頭の中身以外は、人間と同じだったはず。

イリスやフィンフを見ていても、ホムンクルスの根本的な構成が、腹を痛めて産んだ子供と変わらないことはよく分かる。イリスに到っては、憎まれ口まで叩く。エルフィールには、ホムンクルスは面白い存在だと思う。

だが、多分アイゼルは。今後、ホムンクルスを自分で作ることはないだろう。

戻ったら、すぐにクリーチャーウェポンとの決戦と言うこともない。しばらくは静かな日が続くはずだ。騎士団の人達、例えばアデリーさんは忙しくなるだろう。ドナースターク家の重鎮であるマルローネさんもそれは同じの筈だ。

だが、エルフィール達はまだ学生。しばらくは、悩みながら生きることが仕事になる。

特にアイゼルはフィンフを深く愛していることが、今後苦悩に結びつくことになるだろう。

「私、もうエル・バドールの技術力に興味を持たないわ」

「でも、それは錬金術師としては致命的だよ?」

「いいの。 過去の遺産に頼らず、錬金術を極めてみせるんだから」

アイゼルはきっぱりそう言いきる。

後は、細かい打ち合わせに入った。

買い物に行ったホムンクルス達が、夕方に戻ってくる。水に保存食の類を補給。軍としても当然持ち込んでいるが、念のためだ。個人的に災害に備えることは、むしろ軍でも推奨されている。

一旦其処で解散となった。

ハレッシュは騎士達と、奥の方で話している。エルフィール達とはあまり仕事的に絡まなかったのだが、かなり実戦をしたらしい。というのも、牙の面々がクリーチャーウェポンに攻撃されることが多く、護衛が必要だったから、という話だそうだ。

その点はロマージュも同じで、買い物をする暇もなかったと彼女は看板でぼやく。肌荒れも、比較的酷い様子だった。

「ひょっとして、美味しいものを食べる暇もなかったんですか?」

「その通りよ。 エリーちゃん、カスターニェに戻ったら、やけ食いしましょ」

「あ、はい。 アイゼルが多分そんな気分でしょうから、一緒に私も」

「あの子も何かあったの? まあ、噂には聞いているけれど」

フィンフが甲板を走り回って、水夫達に配給された携帯食を配っている。目を細めてその様子を見ていたロマージュだが、少し悲しそうだった。

「あの子、聞いたわ。 酷い話ね」

「フィンフがどう思ってるかが重要なんじゃないですか? それにヘルミーナ先生も、多分愛情を注いでいると思います」

「でも、その結果。 あの子には感情を与えると危険なんでしょ?」

「その通りです。 人間でありながら人間ではなく、いざというときには盾になり道具として造り出された命ですから」

感情を与えると、造った意味がなくなるというだけではない。反逆の可能性が、出てくるのだ。

当然の話で、人間にはさせられない仕事をさせるために、感情を奪って造ったのである。ヘルミーナ先生も、その辺りは相当苦慮をしている様子だ。ホムンクルスへの愛情を常に注ぎまくっている先生も、時々悲しそうな表情をする、事がある。ごくまれにしか見ることが出来ないが。

船に一晩体を慣らして。

翌日、出航した。

これほど離れていく港を名残惜しいと思わなかったのは初めてかも知れない。アイゼルに到っては、港を振り仰ごうとさえしなかった。

 

ユーリカはマストに登って、海原をじっと見つめている。彼女の側に上がっていくと、振り返りもしなかった。

「確か、キルキだったな」

「そう。 ユーリカさん、何を見てる」

「海は気紛れで気分屋だ。 だからいつへそを曲げるか分からない。 風を読むためにも、安全に渡るためにも、いつも見ていないといけないんだ」

そう、ユーリカは振り返りもせずに言う。

彼女は既に成人しているはずで、時々下で大人達と一緒に酒を飲んでいる。ただし、隅の方でちびちびとやるだけで、豪快に煽るような飲み方はしない。かといって、キルキが女性向けに作っているライスや仙人掌の甘い酒ではなく、船乗りの屈強な男が飲むような強い酒を平然と口にしているが。その後、二日酔いになっている様子もない。

酒の強さには個人差がある。彼女は相当に生まれついて酒に強い人種であるのだろう。

マストを降りる。ユーリカは、微動だにせず海を見つめていた。

船室に帰る途中、水兵に話し掛けられた。酒がとても美味しかったと言われたので、一礼した。酔って暴れなければ、酒は皆を幸せにしてくれる。それなのに、どうして皆暴れて、頭がおかしくなるまで飲んでしまうのだろう。

まだ、エルフィール達には言っていないのだが。

出航する少し前、父が死んだ。

アルコールで脳が完全にやられてしまっていて、ゼークト先生もどうにもできなかった。治療のための薬を工夫して持っていったが、それでも対処療法しかできなかった。最後の言葉は、酒が飲みたい、だった。まるで砂漠にでも迷い込んだ旅人が水を欲しがるかのように、体が酒を欲していたそうだ。

ベットに縛り付けられた父は、獲物を襲う虎のような形相で、荒れ狂っていた。口から漏れるのは呪いの言葉。正気を保った父を見たのは、もう随分前になる。

キルキが手を尽くさなければ、寿命は三年縮んだだろうと、ゼークト先生は言っていた。多分脳が穴だらけになるほど痛んでいるだろう、とも。

途中、一時期改善はしていた。

しかし、アルコールの毒に、ついに父は勝てなかった。やがて精神が負け、そして肉体も負けた。

母も似たような状況だ。既にベットから離れられなくなっている。酒を求めて暴れる頻度も増している。

一緒にいてあげたいとも思った。

だが、一緒にいると、恨み言しか言われない。かっては、殴ったことを謝罪したり、一緒に泣いてくれたりもした。だが、もはやキルキは、酒を奪う悪魔にしか見えていない様子だった。

急激な悪化の原因は分からない。

キルキのせいではないと、ゼークト先生は言っていた。だが、キルキの力が足りなかったのも事実だ。

幸い、錬金術師として蓄えはある。国に借金しなくても、施療院で母を診て貰うことは問題なかった。

キルキは、だから文官達と話して、資料を集めて貰った。

アルコールに関するものと、その毒を癒す方法をだ。

その代わり、キルキは約束した。シグザールの顧問錬金術師になると。酒造りの特許に関しても国に譲渡するし、兵器開発に関しても尽力する。その代わり、入手した貴重な書物を、優先的に廻して欲しいと。

提案は受け容れられた。アカデミーを、歴代最高の激戦と呼ばれる世代を主席卒業したキルキの名声と実力は、国にとっても魅力的だったのだろう。高い買い物にはなった。だが、キルキは後悔していなかった。どのみち錬金術師としての仕事に就くつもりであったし、それが国家であっても他と代わりはない。

アイゼルには悪いが、キルキはある程度諦めている。錬金術師の仕事には、どうしても非人道的な側面がつきまとう。それならば、少しでも条件が良い仕事先に就きたい。それが、両親の悲劇を目の当たりにして、それでもどうにも出来なかったキルキの結論だった。

揺れる船。廊下を歩いて、与えられている部屋に。

本を出して、さっと目を通す。流石にエル・バドールの文献である。確かに、アルコールに関する考察も、シグザールにあるものとは根本的に緻密さも深さも違っていた。

これなら、きっとアルコールの毒を体から取り除く方法が作れるかも知れない。

錬金術師として、これを生涯の研究に出来ればとは思う。だが、それは難しいだろう。だから、せめて今の内に。理論だけでも、頭の中でくみ上げておきたかった。

しばらく無心に知識を貪る。

船はずっと揺れ続けていた。途中、かなり激しく揺れたが、多分雨でも降っていたのだろう。

ユーリカの操船は信頼できるし、何より大型の戦艦が艦隊を組んでいる状態だ。フラウ・シュトライトが沈んだ今、危険はない。

しばらくして。

不意に、外が静かになった。

何だかいやな予感がしてきたので、外に出る。

既に真夜中になっていた。辺りは漆黒の海であり、無言で水兵達が行き交っている。どうして何も音がしないのか。波の音さえもしない状況であった。

エリーがいた。甲板で、空を見上げている。

星が全く見えない空であり、うっすらと雲間に月が浮かんでいる。その月も、殆ど光を放っていない。

駆け寄る。

エリーの側には、イリスが倒れていた。死んでいる様子はない。体を縮めて、苦しんでいるようではあるのだが。

「エリー、何があった」

「今のところ、様子見。 イリスを診て上げてくれる?」

「分かった」

気付く。

エリーは魔力の杖ではなく、秋花を手にしている。遠距離に火炎を放つこの杖を手にしていると言うことは、臨戦態勢と言うことだ。

イリスはと言うと、発熱しているが、命には別状無さそうである。心拍などを見た後、丁寧に汗を拭いてやる。ぐったりしているが、意識はあった。

「イリス、大丈夫」

「サー・キルキ。 早く、船室に戻った方が、よろしいです」

「どういう事?」

「雲間に、何かいます。 定距離を保ったまま、此方を伺っている様子で」

今の時点で、何かをしてくる様子はないという。だが、イリスは倒れた。船員達は既に騎士達に連絡を取りながら、相手の出方をうかがっている状況だと言うことだ。

確かに不気味な相手である。

イリスを抱き上げる。これでも鍛えているのだ。イリスを担いで、船室に。どうして倒れたかは聞かない。エリーが放って置いたのは、なぜかも。

自室に入って、ベットに横たえる。水を出して口に含ませると、イリスは飲んでくれた。船員を一人捕まえて、イリスの様子を見て欲しいと頼む。船医に連絡だけしておくと返された。

実際問題、薬品を作ることは出来ても、診療はまだ難しいのだ。

甲板に出る。既に、アイゼルもノルディスも甲板に出ていた。フィンフの姿はない。

「アイゼル、フィンフは」

「イリスと同じよ。 命に別状は無いようなのだけれど、心配だわ」

「……一体、空にいるのは何?」

キルキには、見えない。アイゼルは逆に、雲間の一点をじっと見つめている。その視線は真剣で、茶化せる雰囲気ではなかった。

「巨大なドラゴンよ。 エンシェント級でも、彼処まで大きいとは思えないわ」

「ドラゴン?」

「ええ。 ひょっとして、大空の王というのは、あれのことじゃないのかしら」

「待って、いくら何でもその結論は急だよ」

ノルディスがアイゼルをたしなめる。

話によると、件の大空の王はドムハイトのしかも辺境に眠っているという話であったはず。

超戦略級クリーチャーウェポンとでも言うべきその存在は、組織的抵抗を潰すために作られたという。そんなものがどうして、こんな所に来ている。確かに、ノルディスの発言はもっともだった。

マストからユーリカが降りてくる。

此方に気付いた彼女は、途轍もなく不機嫌だった。

「船員に伝えて。 嵐が来る」

「え……」

「あまり大きな嵐じゃないが、其処をあの化け物に襲われたら艦隊でもひとたまりも無いだろうね。 だから、一旦迂回する。 一日くらい到着が遅れるかも知れないけれど、仕方がない」

いやな予感が加速していくのを、キルキは感じた。

 

朝まで、結局一睡も出来なかった。

イリスとフィンフは同じベットに休ませて、じっとアイゼルが側に着いていた。エルフィールは、イリスが倒れた時、心配がないことだけを確認して医務室に運ぼうとはしなかった。

イリスの容体が落ち着いたことを見計らい、アイゼルが抗議の声を挙げてきたのは、当然であったかも知れない。エルフィールが部屋に戻るやいなや、アイゼルは怒りの声を挙げた。関係が改善してきた近年、これほどアイゼルが露骨な怒りを向けてきた例は無い。

「エリー! 貴方の行動が、考えての結論だと言うことは分かっているわ。 でも、あまりにも酷いと思わないの?」

「あの時は、敵の監視が急務だったから」

「敵って、まだ敵対行動も見せていなかったでしょう?」

艦隊は、嵐を避けて、ゆっくりと蛇行するように移動した。ずっと方角を見据えていたユーリカは徹夜だったようで、嵐を回避し朝が来るまで姿を見せなかった。今はイリスとフィンフの隣のベットで寝転けている。エルフィールもそれに従って、徹夜した。

化け物は、いつの間にかいなくなっていた。

エルフィールも、魔力の杖がなければ見えなかった。体を特殊なフィールドで覆っているらしく、肉眼では見えない人間も多い様子だ。キルキでさえ見えなかったのだから、多分相当強い魔力を持たないと駄目なのだろう。

「今はもう危険もない。 だからイリスの所に来てるでしょ」

「エリー!」

「ああ、もう。 怒っているのは分かるから、少し落ち着いて」

合理的な判断をした。間違ったことはしていない。

船員達でさえ、化け物を刺激しないように最小限の会話で動いていた状況なのだ。アイゼルは、倒れたフィンフの側に着いていて、船医が来るまで動かなかったという。つまり、索敵すべき相手を放置していた。

だが、アイゼルはそれでも怒る。

多分、ホムンクルスの史実が、彼女の心に怒りと、それ以上の悲しみを育てているからだろう。

咳払い。

いつの間にか、部屋の入り口にマルローネさんと、アデリーさんがいた。いつ来たのか、全く分からなかった。と言うよりも、確か二人は旗艦で聖騎士ジュストと対応を協議していたはずだが。

「早速で悪いのだけれど、これから貴方たち四人に、仕事を割り振るわよ」

「仕事、ですか」

「ザールブルグに帰還してから、だけどね」

アイゼルが震えながら、視線をエルフィールから逸らす。怒りと恐怖、悲しみと当惑がない交ぜになった表情であった。アイゼルのこの豊かな感情はとても羨ましい限りだが、しかし今は非合理的な争いの元になっている。

エルフィールとしても、感情が少しずつ豊かになり始めているので、アイゼルの考えている事は、分からないでもないと思えるようになってきた。しかしながら、それにも限界がある。

「まず、アイゼル。 貴方はノルディスと一緒に、この薬品を生成して」

「はい。 こ、これは!?」

「そう、エリキシル剤」

エリキシル剤。錬金術の究極の一つ。

回復薬としては最上位の存在で、体内の全てを凄まじいまでに活性化させ、場合によっては医師が匙を投げるような難病でも回復させる。その上、他にも様々な副次効果があると、噂を聞いたことがある。

ノルディスは確か材料さえ揃えば作ることが出来るという話だが、エルフィールはやってみないと何とも言えない。ただ、いずれ挑戦してみたいとは思っている錬金術成果の一つだ。

アイゼルは、どうか。

少しレシピを見せて貰った。それで驚く。これは、エリキシル剤ではあるが、一方で違うとも言える。

「これは、マイナスのエリキシル剤?」

「そう言うこと。 大空の王を撃退するために生成するには、少ない資料からもこれが一番かと判断したの」

マルローネさんが言うには、大空の王という存在は、普段は土の中でゆっくり眠っており、特定の刺激を受けると目覚め、戦略級の攻撃を開始するのだという。それは得られた少ない資料からも確定されている。

問題は奴が長期間の冬眠を行う習性がある、と言うことだ。

「冬眠中の動物を掘り返して狩った事はある?」

「いえ、流石に」

「教えておけば良かったかな。 まあそれは良いとして、冬眠すると、動物は非常に深い眠りに入るのと同時に、体の機能を極限まで低下させるの。 体温とかも、死んでいる寸前くらいまで下がるのよ」

それで、分かった。

エリキシル剤の作用を逆転させることによって、冬眠と同じ状態を強制的に起こさせる、という事か。

アイゼルも理屈はすぐに理解して、頷く。

キルキは、これからある特殊な薬品を作るという。それについては、教えてもらえなかった。そして、エルフィールである。

「貴方はこれから、フラムと呼ばれる爆弾の、最上位の存在を開発してもらうわ」

「爆発物の、最上位ですか」

「コードネームはテラフラム。 戦略級のクリーチャーウェポンでも仕留めるために作成する、文字通り究極の爆発物よ」

テラと言えば、確か相当大きな単位であったはず。メガ、ギガと来て、その上か。

そういえば、フラウ・シュトライトを葬るために樽に詰め込んだフラムを使用したはず。しかもそれを四方向から同時爆破することにより、巨大な敵を殺戮したのだ。

しかしながら、考えてみればそれは熟練の技が必要な戦術である。

水夫達の一糸乱れぬ統率に、投石機の精度、更に前線との連携にくわえ、指揮官としての判断力まで必要になってくる。

今の艦隊なら出来る。

しかし、何処でも誰でも出来るというわけではない。

錬金術の究極は、手順さえ間違わなければ誰にでも出来ると言うことにある。それが魔術との決定的な違いだ。

しかし、やはりその手順を踏むのに、今は高度な技術が必要なのだ。

だから、少しでもその現実と理想の差を、埋めていかなければならない。

「分かりました。 考察してみます」

「来年までに作成、行ける?」

「優先的に、エル・バドールの資料を廻していただければ」

「良いわよ。 フラムに関しては、あたしが作ったのを廻して上げるけど、取り扱いには気をつけてね。 爆発したらただじゃ済まないから」

そういえば。

この人の作る爆弾や薬品はマリーブランドと言われ、騎士団でも重宝されていると聞く。しかし、それならばこの人がテラフラムを開発すれば良いような気もする。他に、何か重要な仕事があると言うことか。

話合いを終えると、マルローネさんは部屋を出て行った。しかし、アデリーさんは残る。

「何か言い争いをしていたようですが?」

「何でも……ありません」

アイゼルが悔しそうに言うが、腰を落としたアデリーさんは、彼女を抱きしめた。

無言でしばらく抱擁を続けていたアデリーさん。彼女が手を離すと、アイゼルは涙を零し始める。

視線で、外に出て行くようにと促された。

何だか、例えようもないほど不愉快だった。アデリーさんが、アイゼルにあのようなことをするとは。

確かに、アイゼルの心を乱したのは自分だ。だが、論理的に自分は間違っていないと、エルフィールは断言できる。それなのに、どうしてアデリーさんはアイゼルの味方をする。

外に出ると、杖を振るった。

抜けるような青空の下、無心に鍛錬をする。そうでもしていないと、頭が沸騰して、目につく生物全てを殺しかねなかった。生きている縄が蠢き、獲物を探す。だが、たしなめて、止めさせた。

呼吸を整える。

何だか、少しずつ、皆との溝が顕在化し始めているように思えていた。

 

カスターニェに到着。艦隊はその場で解体され、大型の戦艦はどれもそれぞれの任務に就くべく船を別方向に出て行った。小型の船については、カスターニェに残るものも多いようであった。

水夫達も、それぞれ船と一緒に港を離れたり、或いは別の部隊に配属されるらしく、散っていった。各地で集められた精鋭だったのだろうし、当然のことである。エルフィール達に就いていた護衛の冒険者達も、めいめい勝手に帰っていくこととなった。

ミューとルーウェンは終始ぎくしゃくしていたが、どうも接し方が本格的に分からなくなって当惑しているだけらしい。動きを見ていると息はとてもあっているし、互いのことも良く理解しているように思える。

二人の不和については、多分二人で解決できることなのだろう。

だが、アイゼルは、あれからもホムンクルスの話題については、一切しないようになった。会話自体は問題なくするし、フィンフもイリスもとても可愛がる。だが、クノールが言う。

丁度、峠を通り越し、休憩所を過ぎた頃であった。

「喧嘩為されましたか?」

「分かる?」

「何というか、壁があります」

帰り道、四人は一緒だった。カスターニェに残るというルーウェンを置いて、ハレッシュとロマージュに護衛を頼んだ。騎士団の面々や、マルローネさんは別ルートから帰ると言うことだから、必然的にこの面子で戻るしかない。

ハレッシュは帰れるのが嬉しい様子だった。大過なく任務をこなせた上に、帰ればフレアさんと結婚だ。嬉しくないわけがないだろう。一方、ロマージュは体が全治はしたものの、まだ足を気にしている。

鮫に噛まれた腿は、傷も残っていない。だが、彼女の戦闘スタイルは紙一重での回避が主体。僅かな筋肉のダメージでも、大きな傷につながりかねない。それを気にしているのだろう。

イリスは黙々と歩いていた。朱槍をぎゅっと握りしめているのは、どうしてだろう。

そのイリスの頭に、ハレッシュが手を置いた。大きな手は、イリスの頭を丸ごと包んでしまうほどだ。

「お、そうだ。 イリス、俺歌を覚えてな。 エル・バドールで、酒場の姉ちゃん達が教えてくれたんだ」

「浮気ですか?」

「違う違う。 結婚するんだって言ったらお祝いにってな。 ちょっと高い酒を飲まされたが、まあよい土産になったぜ」

そうして、ハレッシュは歌い始める。

上手ではないが、声の量が大きいので、遠くまで響き渡る。旋律と言い歌詞と言い、不思議な内容だ。ノルディスは笑顔で聞いていたが、やがて最後まで歌が終わると、訳してくれた。

「遠い所に旅だった恋人を懐かしむ歌ですね。 とても繊細な歌詞が、非常に精巧です」

「でも、豪快な歌に聞こえた」

「それは歌い手が原因かな」

キルキの言葉に、ノルディスがちょっと茶目っ気を含めて返した。面白い。ノルディスには成長が見られないと思っていたのだが、こんなところで変化が生じているとは。これは、負けてはいられない。

何度か野営地を通る。やはり獣の気配や、自然の香りが心地よい。アイゼルはしばらく無言でいたが、ザールブルグまで三日というところで、不意にエルフィールに話し掛けてきた。夜、見張り中で、周りに誰もいない時を見計らって、である。

「エリー。 話があるの」

「何?」

「色々あったけれど、私、貴方のことを親友だと思っているわ」

「うん。 私もそう思ってる」

それに関しては、代わりはない。多少喧嘩をしたくらいで、コネクションが揺らぐとも思えない。ある程度の配慮は必要だとも思っているが。

だが、アイゼルは続ける。

「でも、はっきりさせておくわ。 貴方の、ホムンクルスに対する冷酷な考え方には、同意できない。 今後、何があっても」

「そうだね。 其処で同意を取り付けるのは、きっと無理だろうね」

そもそもアイゼルとエルフィールでは、冷酷な現実主義と理想主義という大きな壁がある。合理と感情という、行動原理の差もある。

アイゼルは結局の所、感情を大きな行動の原因としている。これはエルフィールには考えられないことだ。

多くの死線を一緒にくぐることで、親友となった事に違いはない。

だが、アイゼルははっきりという。その点だけは、今後も絶対に同意できないと。

「ね、アイゼル。 私、その内賢者の石を作ろうと思ってるの」

「錬金術師なら、当然のことでしょ?」

「そうだけれど、ちょっと欲しくなってきたんだ。 叡智と力って奴がね」

騎士団上位の戦士達の力は知っているつもりだった。

だが、マルローネさんの実力は、更に予想の上を行っていた。アデリーさんもである。久しぶりに会ってみて、以前とは違って精確に力がはかれるようになって、分かったのだ。騎士団長エンデルクは更に強いとも、アデリーさんは明言していた。

少しずつ、欲しくなってきた。そんな力が。

そしてエルフィールがその力を得るには、錬金術が最上だった。

アイゼルは。むしろ自分ではなく、家と家臣達を守るために、錬金術を用いるだろう。使い方が根本的に異なるのだ。

「互いに、刃を交えることがない事を祈ろう」

「そうね。 以降、二人の間でも、ホムンクルスの扱いに関する話は禁止よ」

「同意。 多分話しても、喧嘩になるだけだものね」

エルフィールにとって、イリスは自分だけのためにいる、好きなように殺せる相手。

そしてアイゼルにとって、フィンフはかけがえのない愛しい相手なのだ。

かって、ホムンクルスを作った者達に、エルフィールは近い。そんな存在の所に、イリスの魂が来てしまったのは何の因果か。

後は、もう言葉も要らなかった。同意は出来ないことと、互いに存在を許せないことは同義ではないからだ。

帰り道、アイゼルとエルフィールの間にあった壁は、ザールブルグにつく頃にはもう存在しなかった。

 

4、動き出す巨怪

 

イングリド先生が、エルフィールの研究室に来た。イリスは調合中の手を止めて、一旦研究室を出ようかとしたが、先生が止める。

戻ってきて、最初にしたことは、レポートの提出。それに、マルローネさんから預かった手紙の受け渡しだった。

すぐにイングリド先生が来ることは分かっていた。

だから、席も茶菓子も用意してあったのだ。此方に来て、最初に作ったチーズケーキを出すと、イングリド先生は柔らかく微笑んだ。何か企んでいる証拠だ。

「レポートを見ました。 なかなか興味深く、そして逼迫した危機を告げていますね」

「はい。 三つの超戦略級クリーチャーウェポンの内二つが、この大陸に眠っているというのは、由々しき事態です」

更に言えば、向こうで発生した不可解すぎる暗殺事件を考えても、何かとんでもない存在が裏で動いているとしか思えない。そいつが、いつクリーチャーウェポンを目覚めさせるか、知れたものではないのだ。

海上で此方を監視していた巨大なドラゴンが、大空の王だとしたら。

もう一つは蘇っていることになる。後の一つまでシグザール王国を急襲してきたら、勝てないとまでは言わないが、被害は大きくなるだろう。

「マルローネの言うとおり、貴方にはテラフラムを開発して貰いましょう。 ただし、この研究室でそのまま作業を行うことは禁止します」

「事故が起こったら、取り返しが付かないことになるから、ですか」

「そうです。 軍には既に話を付けてあります。 実際に研究を行うのは、郊外の小さな廃屋を使いなさい。 一ヶ月ほどで、其処に防爆構造を施します」

防爆構造とは、内部で爆発が起こった場合、自壊することで周囲へのダメージを防ぐ構造のことだ。もちろん、中にいた奴はひとたまりもない。非常に危険度が大きい実験を行う場合、こういう措置を部屋に施すことがあるという。

イングリド先生が、わざわざ作ってくれる防爆設備。実に楽しみであった。

「すごく嬉しいです。 工事が終わるまでには、基礎理論は固めておきます」

「いいのですか、そんな安請け合いをして」

「実は、エル・バドールから良い資料を結構貰ってるんですよ。 それに、向こうで色々ヒントも得ましたから」

「そうですか。 それならば、大言壮語を実行できるように、努力を重ねなさい」

イングリド先生が、期待してくれている。それがよく分かって、エルフィールはちょっと嬉しかった。

ノルディスはまず質が高いエリキシル剤を作る。そしてアイゼルが、その性質を反対に転化させる。

エルフィールは、テラフラムで眠っているか、もしくは眠らせた相手を確実に爆殺する。それが、この作戦の骨子だ。イングリド先生やヘルミーナ先生は、別の方向で動くという。今頃、マルローネさんと結構重要な部分での話し合いが始まっているのは、間違いがなかった。

幾つか打ち合わせをした後、イングリド先生が帰っていく。

そうだ。一つ忘れていたことがあった。帰り道の船で、キルキが見つけてきたことがあったのだ。

だが、それはキルキの方から言っているはず。敢えてエルフィールから言うまでもないことであった。

「イリス、この本と、この本、それにこれを図書館から取ってきて」

「分かりました」

イリスが研究室を飛び出していく。学生を使っても良いのだが、はっきり言ってイリスの方が良く働く。だから、そのまま活用する。

イリスが戻ってきた時には、エルフィールは古今の優秀な爆発物について、設計図を並べていた。近年強化されたフラムの他、昔開発されたものまで様々に。金属片を中に入れることで破壊力を上げたマグネフラムというものや、中には悪霊を憑依させることで自立稼働するフラムというものまであった。

だが、やはり傑作といえるのは、近年造り出されたマリーブランドフラムである。これを改良したものが、今では公式レシピとなっている。繊細な爆発の制御、単純な破壊力も含め、戦略級火器としては決定版としても良い存在だ。

これらの図面を並べて、更に其処へエル・バドールで見つけた使えそうな書物の図面を加える。

腕組みして、唸る。

爆発とは、実に奥が深い。単純に火力を上げれば良いというものではない。爆発の際に、衝撃波がどのように動くのか、どうすれば敵により大きな打撃を効率よく与えられるのか。いずれにも、緻密な計算が働いているのだ。

「イリス、意見を聞きたいんだけれど」

「何でしょうか」

「今回、テラフラムに求められる用件は二つ。 一つは、戦略級のクリーチャーウェポンを一撃で屠る火力。 そして、爆発を、此方の意志通り、指定通りに行う精密な挙動」

「爆発物としては当然かと思いますが」

イリスの反応はもっともである。

現在入手できる火薬の性能だと、やはり破壊力を上げるには、大きさを変えていくしかない。しかし、戦略級クリーチャーウェポンを爆殺するとなると、どれほどの重さが必要なのか。

相手が完全に止まっていると言うことを前提とするならば、樽四つに詰め込んだフラムを、四方から同時爆発させることで、あのフラウ・シュトライトを仕留めることが出来た。だが今度の相手は、更に大きい可能性が高い。

アイゼルとノルディスの仕事を信じるとしても、馬車で悠長に運んでいる暇はないだろう。

「そうなると、やはり火力を根本的に底上げすることを考えないと駄目か」

「山でも崩す気ですか」

「それなら、既存のフラムでも可能だよ。 今回は、急所が何処にあるか分からない相手を、的確に仕留めなければならないのが難しいの」

いずれにしても、話してみてまとまったが、やはり火薬の火力を上げるしかない。芸術とも言って良い現状のフラムの構造に関しては、恐らく改良点はない。戦術兵器のクラフトではないのである。今回は非常識なまでに大きい相手を、如何にして崩壊させるかという話なのだ。

「後は火薬の素材を吟味するか。 何か心当たりは」

「専門外です。 知りません」

「本当?」

「少なくとも、こっちで使っているカノーネ岩は、エル・バドールのどの素材と比較しても遜色のない品物です。 しかも、マリーブランドと言われるこのフラム、天才が設計した完璧に近い代物です。 これ以上のものを作れるアイディアなんて、簡単には出せません」

先進的な武器を使っているのに、究極まで到達しているものに関してはやはり凌駕は出来ないか。

エル・バドールの文明に限界を感じたと同時に、少し嬉しくもある。マリーブランドのフラム、つまり世界に通用すると言うことではないか。

「ま、時間はある。 少し考えてみようか」

「そんなアイディア、すぐに出てくるはずないです」

「あれほどエル・バドールの文明を憎んでいただろうに、出し抜いてやろうとか、見返してやろうとか、考えないの?」

イリスに言うと、むっとした様子で頬を膨らませる。つくづくホムンクルスにしておくには惜しい。

研究室を出て、アトリエに戻る。掃除に二日くらいかかったが、今では既に平常運転だ。戻ると、クノールが下ごしらえを終えていた。そのまま、チーズケーキを焼きに掛かる。薬品類も幾らか作っておいて、納品作業を進めた。

魔力の杖を手にして、地下の魔法陣を見に行く。

魔力の流れは安定していて、中和剤の出来はなかなかだ。最近作った生きている鋏や、生きているまち針にも、魔力が充填し始めている。これらは悪霊を入れるだけでは動かないので、まず順調だと言えた。

ドアをノックする音。あまり覚えのない気配だ。

客かと思って開けてみたら、違った。腕組みしているのは、眼鏡を掛けた小柄な女性の聖騎士である。確か、エル・バドールの港に来ていた人だ。

「邪魔をします」

「あ、はい。 どうぞ」

髪は赤い。イリスとおそろいだなと思って、席を勧める。それにしても小柄な人である。しかし身体能力の凄まじさは、一目で分かった。使い手としても、多分シグザール王国軍聖騎士の中でも上位に入る強者の中の強者であろう。

女性騎士はカミラと名乗る。

聞いたことがある。今、騎士団長などの実質的最上位職を除くともっとも名誉ある騎士である、大教騎士の座にいる人物だ。知勇兼備でなければ就けない職で、若手の騎士達を指導し教育する仕事である。ただし彼女の場合色々と後ろ暗い噂もあり、名誉職に祭り上げられたとも言われているが。

その割に、この人からあまり野心のようなものは感じなかった。

「貴方の話は、鮮血のマルローネから聞いています。 実に将来有望な錬金術師であるとか」

「えっ!? い、いやあ、それほどでも」

ちょっと本気で嬉しかった。というよりも、嬉しいという感情がこれなのかと、今初めて知った気がするほどだ。

でれでれしてしまうエルフィールに、カミラは大きく嘆息した。

「本当にヒドラの二つ名で恐れられ、人工レンネットを完成させたのですか、貴方が」

「はい。 それに関しては、私です」

「まあいいでしょう。 今回は、ちょっと大きめの、公には出来ない仕事をしてもらおうと思ってやってきました」

これは、また急な話だ。

しかも大教騎士カミラとなると、それは相当に大掛かりな国家的プロジェクトだろう。その上彼女は、カスターニェまでわざわざ足を運んできている。つまり、今回の一件も、全て知っていると言うことだ。

緊張するエルフィールの前に、二人分の茶を並べさせる。作ったばかりのチーズケーキも出した。

「ほう。 これは確かシア=ドナースターク卿の婚姻式で出たチーズケーキ」

「あれから更に種類を増やしました。 どうぞ」

「いただきましょうか」

完璧すぎて発展性が無いと言われたから、チーズケーキは種類を増やすことで対応し続けてきた。今や十種類のチーズケーキをエルフィールは納品している。あまりにも味が調いすぎているという評価故か、毎回同じ品を頼むクライアントは殆どいない。

カミラはしばし歓待用の茶とケーキを、完璧なテーブルマナーを守りながら口にした。どうやら満足してくれている様子で、エルフィールは胸をなで下ろす。

食べ終えると、カミラは書状を出す。裏紙にしても字体にしてもとても綺麗なものだ。これは下手をすると、王室レベルの依頼か。

「人間を、作る、ですか?」

「人間の情報については用意します。 ホムンクルスを作る要領で、人間を一人作ってもらいたいのです」

「構いませんが……」

人間を作るというと、厄介だ。

まずホムンクルスのように、知恵を最初から仕込めないのが大きい。つまり大人などで作ってしまうと、反射行動さえ知らない図体の大きな赤ん坊が出来てしまう。ホムンクルスは制御系に命令を仕込むので、そう言った事は起こらない。

イリスのように悪霊を憑依させる手もあるが、余程巧く行かないと、邪悪な存在として暴れ狂うことになるだろう。イリスはイレギュラーケース中のイレギュラーケースなのだ。

「貴方が今大きな案件を抱えているのは分かっています。 しかし、これも出来れば今年中に」

「急、ですね」

「出来ますか?」

「材料自体はあります。 器具も」

しかし問題がある。

人間の情報から、同じ存在を作ることは可能だ。ただし、持っている記憶や経験については全く別になってしまう。

つまり、偽物や影武者としては、役に立たないと言うことだ。

「もし大人として作るとなると、専門の教師や養育係をつきっきりで付けて、まともにするまで数年は軽く掛かるかと。 それでもよろしいですか?」

「その程度のリスクであれば。 報酬は四回に分けて払いますが、失敗したら全額回収します」

かなり厳しい条件だ。というか、失敗したら金の回収どころか、多分首から上が永久になくなるだろう。

作業についても、此処ではなく別の場所で進めて欲しいのだという。頷いて、話自体は受けた。そのホムンクルスもどきをどうするかは、エルフィールには分からない。まあ、正直な話、ホムンクルスよりは寿命も長いだろうし、子供だって作れるし産める。これほど高位のクライアントが持ち込んだ依頼だ。詮索は、しない方が身のためであった。

カミラは満足すると、アトリエを出て行った。

あれほどの人物が使い走りをするのだ。顧客は恐らくヴィント王かブレドルフ王子。流石にエルフィールほどドナースターク家に噛んでいる人間を使い捨てにはしないだろうから、失敗をした時以外の事を考えなくても良い。

むしろ、これは飛躍の好機であった。

ただ、アイゼルには話すことが出来ない事ではあった。

さて、これから忙しくなる。腕まくりすると、エルフィールは気合いを入れて、どう爆発物の火力を上げるか、火薬そのものの改良にはどうしたら良いか、思考を巡らし始めたのだった。

 

カミラが小さな屋敷に戻ると、お忍びでブレドルフ王子が来ていた。牙の精鋭数名が護衛しており、その中にはアヤメの姿もある。此方に戻ってきていたらしい。

メイド達が失礼をしていなかったか聞くと、ブレドルフ王子は静かに微笑む。

「君の所の使用人達は、みなしっかり教育されているよ。 僕は一度も不快感を覚えなかった」

「それは何よりです」

この屋敷は。

カミラが大教騎士になった祝いとして、去年貰ったものである。

言うまでもないが、大教騎士になったのはもっともっとずっと昔のことだ。つまり、理由は建前に過ぎない。

表向きは別荘として利用しているこの屋敷に、かって王宮にいたこともある優秀な使用人を集めて、隅々まで磨かせている理由は。カミラ自身が管理し、ブレドルフ王子が策略を部下達に発信するために用いているからだ。

何名かが遅れてくる。

いずれもが、ブレドルフ王子の飼っている間諜や、文官、武官達だった。最後にクーゲル師が来て、カミラは目礼した。階級や立場は様々で、ブレドルフ王子は此処にいる間だけは平等な議論を許していた。クーゲルは先に来ていたエリアレッテと目礼して、何か確認し合っていた。多分、影の任務があったのだろう。

屈託のない意見の交換。

それが、様々な建設的な意見を引き出してきたことを、ブレドルフ王子は知っている。カミラがいちいち口出ししなくても、もう何時ヴィント王が引退しても対応できるほどに、王子は器を大きくしている。

「それでは、カミラ。 君から発表して欲しい」

「はい。 陛下」

まず、幾つかの資料を配る。不公平がないように、この場にいる全員にだ。内容は三つ。エル・バドールで判明した超戦略級クリーチャーウェポンの件。そしてドムハイトの事が二件だ。

「まず、差し迫った危機についてです。 エル・バドールでは、三百五十年前に、百万に達する軍勢でこの大陸に侵攻する計画を立てていました」

「百万、だと」

「はい。 今ではその計画は立ち消えになっていますが、その遺産とも言うべき邪悪が、この大陸に埋伏させられていることが分かっています」

そしてその一つは、既に目覚めている可能性が高いのだ。

クーゲルが腕組みをする。楽しそうなのは、それと死力を尽くして戦うことを、既に夢想しているからだろう。

「それは、何処にいる」

「確認された数は三つ。 一つはエル・バドールの辺境に。 これは反撃を受けた時に、防御用として起動させるのが目的であったかと思われます。 これについては拠点防衛用と言うこともあり、気にせずとも良いでしょう」

問題は、大空の王と影の鏡だ。

大空の王については、エル・バドールからの帰還時、巨大すぎるほどのドラゴンが、艦隊の上空を我が物顔に旋回していた事をカミラは告げる。エンシェント級よりも更に数段大きい、とんでもない怪物だ。どうやって空を飛んでいるかさえも分からないほどである。

もしもあれが大空の王だったとすると、対処はかなり面倒だろう。

国が滅ぶと言うほどの存在だとは思えない。だが、優秀な騎士達が多く倒されることは覚悟しなければならない。

我が物顔に国土を飛び回られたら、国中に混乱も強いられるだろう。様子を見ながら、一刻も早く撃墜しなければならなかった。

「ふむ、なるほどな」

「しかし百万の軍勢とは。 そのような兵力をかって動員できたというのは、凄まじい事であるな」

「人間をどうやってそれほど増やしたのだろう。 動乱期になれば人間は減るし、平和になれば繁殖率が落ちるのは周知の事実だというのに」

咳払いして、周囲の雑談をブレドルフ王子が止めさせた。

王子の行動一つで、部下達がぴたりと動きを止める。威厳が備わりつつあるのだ。そろそろ王子は見かけの威厳として、口ひげ辺りは生やしてみるのも良いかも知れない。虚仮威しであっても、ある程度の威厳にはつながるのだ。

「カミラ、続けてくれ」

「はい。 もう一つの存在、影の鏡についてなのですが、此方については目下正体を解析中です。 ただ……」

「ただ、何かね」

文官の一人が、まどろっこしそうに言う。

だが、カミラとしても確証を持てない部分なのだ。言葉を濁すのは仕方がないのである。

「エル・バドールは三百五十年前に、謎の文化大収縮を起こしています。 その時に大規模な軍縮も行われました。 いくらかは解明もされてきているパラダイムシフトなのですが、一つ分からないことがございまして。 その時に、暗躍していた存在として、ドッペルゲンガーなるものがいるのだそうです」

「ドッペルゲンガー。 それは民間伝承に出てくる、いわゆるお化けではないのかね」

「それにしては質が悪すぎます。 或いはこれが、影の鏡ではないのだろうかと、錬金術師達は推察しているようです」

不安を交わし合う部下達。

確かに、姿形をそっくり真似られる相手がいたら、厄介この上ない。その上見たら死ぬとなると、なおさらだ。

ちなみにこれらの情報は、いずれもヴィント王に展開を許されているものばかりだ。アカデミーではもう少し踏み込んだ所まで情報を解析し終えているようなのだが、まだ王子には話してはいけないことになっている。

王子が、少し冷ややかに瞳を光らせた。

「エル・バドールの方に、何か対処策は伝わっていなかったのか」

「何しろ、文化大収縮の後でしたから。 今も調査は続けさせてはいますが、身のある答えが出るかは微妙な所でしょう」

「そうか。 そうなると、我らだけで対処する他無さそうだな」

無責任だなと、呟きあう声。

だが、その事件がなければ、今頃この大陸はエル・バドールの支配下にあっただろう。三百五十年前にはさほど大きな国家もなかったし、軍事力も技術力も、何より人間の数もたかが知れていたのだ。

個々の戦士は敵に勝っていたとしても、物量が違いすぎて、勝負にならなかったのは目に見えている。

頭を切り換えて、次の報告にはいる。

ドムハイトでは、南北ドムハイトの対立が激しくなってきていた。今の時点では、北は国土の復興を掲げて、国境線に兵力を集中して守勢に徹している。これに対して南はというと、豪族達が互いの足下をすくう機会を狙いつつ、北へ小規模な侵攻を繰り返すという日々だった。

言うまでもないことだが、北の方が明らかに戦略的に優れている。ドムハイト全体で言うと、既に兵力は十五万程度しかいない。経済力の低下によって、その程度しか養えなくなっているのだ。かっての半分であり、更にそれが南北での内戦によって二国家に分けられて半減しているのである。

しかし、南側が自信満々に侵攻を繰り返すのには、理由がある。

シグザールの後ろ楯を得ていると、確信しているからだ。

「今年中に、南側はまた三万程度の兵力での侵攻を目論んでいる模様です」

「あの北の要塞地帯を、たった三万で抜けると、本気で思っているというのか」

「我らの援軍を当てにしている上、内通者が出ると思っているようでして」

南の豪族達は、アルマン王女に反発が強い。今までの特権を次々に取り上げたばかりか、腐敗の中貴族達と結託して吸っていた甘い汁をことごとく奪われたからである。それらは貧困に苦しむ民に還元されたのだが、豪族達にとっては知ったことではない、という事なのだろう。

傲慢きわまりない考えだが、長年の腐敗で衰えきったのは何も王族だけではなかったと言うことだ。豪族達も、かっての豪壮さは既に微塵もない。彼らは欲望のままに利権を貪る豚以外の何者でもなかった。

「援軍など、出す必要はない」

「今しばらく、南と北は争って貰う必要があります」

聖騎士の一人に、カミラは説明した。敬語なのは、王子の御前であるからだ。

そもそも、王子がこの対立を煽る案を考え出したのだ。ドムハイトの分裂が避けられないと悟った時、王子は決めた。

二つのドムハイトにそれぞれ裏側から荷担することにより、政治的な感覚の鈍磨を防ぐと。更に若手の騎士や屯田兵を派遣することにより、実戦経験も積ませることが出来る。有能な騎士は厳しい訓練で育て上げてはいるが、いつか平和に倦むことが必ず出てくる。だから、こういう場を作っておくのだと。

仮想敵国という点に関しては、その都度南北どちらかのドムハイトを想定すればいい。負けそうになれば、それぞれ裏側から支援してやる。そして南北の力を適切に削りつつ、味方の力を衰えないように維持していけば良いのである。

「本来なら、分裂する前であれば、仮想敵国はドムハイトだけで良かった。 アルマン王女は優秀すぎるきらいがあったが、内乱のコントロールはある程度出来ていたし、あの過重労働の中にいれば寿命を縮めたのは間違いなかったのだ。 しかしこうなった以上、その状況を最大限利用する。 援軍については、検討してやれ。 しかし、あまり大きな犠牲を出さないように、しかし実戦はきちんと経験してくるように、最大限の注意を払え」

「分かりました」

「それにしてもこの分裂劇、一体何があったというのか」

聖騎士の一人が呟くと、皆が困惑した顔を合わせ合った。

分裂の兆候はあった。しかし此処まで急に、なおかつ徹底的な南北の破断は、どの軍事的専門家も予想はしていなかった。殆どのものが、泥沼の内戦でドムハイトは国力を減少させていくだろうと考えていたのだ。

実はカミラもその一人である。

だから、いきなり南北に分裂した聞いた時には、驚いたものであった。

これも、歴史の影で蠢いている何者かの仕業かも知れない。しかしもしそうなると、確実に排除しないと危険であろう。

奴らの牙がシグザールに向いていないとは言い切れない。

いや、向いているはずだ。ドムハイトの長老派暗殺の一件にも絡んでいるとすると、今後何が起こるか、知れたものではなかった。

ある程度話し合いが落ち着いた所で、最後の報告に入った。資料を配り終えると、騎士達が驚きの声を挙げた。

「王子の婚姻? しかもドムハイトのリューネ王女と!?」

「驚くことではない。 南ドムハイトの愚かな豪族達に夢を見せておくには、この手が一番だ」

何ら感情を表に出さず、ブレドルフ王子はそう言った。

いや、ヴィント王が近々引退するとなると、ブレドルフ王だ。しかも、王子はこの件で、更に驚くべき案を一つひねり出している。錬金術に関する知識を以前披露した時、それを覚えていて、利用してきたのだ。

案を説明し終えると、その場にいる誰もが唾を飲み込む。王子は立ち上がると、部下達の顔を見回した。

「この国は、このままだと状況に驕り、駄目になるだろう。 確かに今は勝っているが、ドムハイトの現状を見ると分かるように、いつまでも蜜月などは続かないし、それによって生じる腐敗は恐るべきものだ。 腐敗による弱体は、主に弱者に負担を掛け、国の基盤を揺るがしていく。 それを避けるためにも、様々な火種は残しておく必要がある。 その一方で、排除すべき危険については、しっかりと芽を摘んでおかなければならない」

「はっ! 殿下の仰せのままに!」

「うむ。 それでは皆、今後も厳しい状況が続くが、それぞれに励んで欲しい。 私は、皆によって支えられている。 今後もシグザールを繁栄させるために、頼むぞ」

王子の言葉によって、会は締められた。

皆が出て行く。最後まで残ったカミラが、小さく嘆息した。

「それにしても、思い切ったことを考えられましたね」

「どのみち婚姻はしなければならないのだ。 その上、国内の貴族と婚姻はしないと、法で定められている。 消去法の結果さ」

「そうではありません」

「それについても、君がしっかりやってくれると、私は信じている。 頼むぞ」

頼むと言われると、カミラは弱い。

それに、王子の案を、実用レベルで練り直したのはカミラなのだ。謀略を久し振りに練るのは確かに楽しかった。

だが、しかし。

かってのような野心は、もう沸き上がってこない。今の生活に、明らかにカミラは満足していた。

王子が護衛を伴って帰ると、来客があった。イングリドである。

しかも、この別荘ではなく、本邸の方だ。今後のことを考えると、無碍には出来ない上客である。カミラは急いで本邸に戻ることとした。

 

大股に歩いているクーゲルの側に、いつの間にかエリアレッテがいた。

牙と一緒に、エル・バドールで影働きに徹していた彼女は、多くの敵を討ち取ったという。クリーチャーウェポンに関しても、かなりの数を仕留めて、情報を集めてくることに成功した。

騎士団の若手に戦闘のイロハを叩き込んできたクーゲルだが、直弟子はあまり取ったことがない。直接的に指導した人数は二十人を超えない。その中でも、アデリーとエリアレッテは、対照的でありながら、もっとも強く育ち上がった二人であった。

特にエリアレッテは、クーゲルの強さの中核である狂気を引き継ぐことが出来た弟子として、思い入れも深い。

クーゲルは、近年衰えを感じている。

今までは肉体的な面で、衰えは感じなかった。だが、どれだけ鍛えても、ついに衰えが目立つようになってきたのだ。流石に年齢が年齢である。最早、最終的な到達点は見えていた。

だからかも知れない。弟子の成長を、好ましく思えるようになってきていた。

「師。 報告がございます」

「ほう。 何か」

エリアレッテがこう言う時、独自のラインでの報告だという事だ。滅多にあることではない。

どうもエリアレッテはクーゲルに個人的な忠誠を誓ってくれているらしく、感情を亡くした今も、それに揺らぎは見えない。髪を掻き上げながら、エリアレッテは言う。

「どうやら例の監視者が、また動きを開始した様子です」

「どうしてそれが分かった」

「どうしたも何も」

エリアレッテが顎をしゃくる。

確かに、ずっと付けてきている気配がある。しかもクーゲルでも探知できるかどうかと言う巧妙さだ。

力は衰え始めていると言っても、感覚は逆に鋭くなっている部分もある。

むしろ近年は、気付いてしまえば何処に相手がいるのか、かって以上の精度で把握できるようにもなっていた。

帰ろうかと考えていたクーゲルだが、考えを改める。そのまま、エリアレッテを連れてエンデルクの元へ赴くことにした。監視者はついてくる。エンデルクの家に行こうが、お構いなしというわけだ。

多分、相手が誰であっても。

人間である以上、逃げ切る自信があるのだろう。

実際牙の精鋭が血眼になっているのに、謎の監視者は今だ一人も捕まっていない。ひょっとしたら、いやひょっとしなくとも、人間ではない可能性もある。クーゲルの見たところ、魔物、ではないだろう。最上級の悪魔でも、これほどの力は無いはずだ。

そうなると、今まで人類が接したことがないほどの力の持ち主か。

血がたぎるではないか。どうして十年前に、此奴らがクーゲルの前に姿を見せなかったのかと、本当に悔しく思ってしまう。

エンデルクの屋敷に着いた。

丁度エンデルクも、王宮から戻った所だった。

既に三十路に入ったエンデルクは、以前の経験もあってか、すっかり円熟した男の雰囲気を纏い始めている。かっては剣腕と野望だけの男だったが、今では何処に出しても恥ずかしくない騎士団長だ。結婚の噂もある。

メイド達にマントを渡すと、応接室に。エリアレッテも聖騎士だから、クーゲルと合わせて重鎮二人の訪問と言うことになる。慌ただしく走り回る使用人達を横目に、出された茶を啜った。

アデリーの茶が如何に旨かったかよく分かる。茶葉は良いのだが、まだまだ味を引き出し切れていない。

エンデルクが来た。剣を帯びてはいるが、既に鎧を脱いで私服だ。軽く社交辞令をかわした後、エンデルクは切り出す。

「二人とも、急に如何したか」

「例の監視者がついてきています」

「ほう」

エリアレッテの指摘に、エンデルクが目を光らせる。すぐに彼も敵の存在に気付いた様子だった。

何しろ、これほど巧妙に聖騎士二人を追尾する相手である。ひょっとすると会話も全部拾われているかも知れない。だが、敢えて続けた。

「そろそろ、本格的な対処を考慮する時期かと思いますが」

「うむ。 報告についてはカミラから聞いている。 歴史の裏で蠢いている影が実際に存在するとなると、確かにこの監視者の可能性が高いな」

「この世界は、人間のもの。 余計な勢力には退場願いましょう」

クーゲルはそう言うが。

実際には、残しておいても良いかも知れないと、内心では思っている。人間相手としては、あらゆる戦闘を楽しんできたクーゲルだ。数百人の敵を殺し、哀願を踏みにじり、絶望を蹴散らして、今の自分を作り上げてきた。

根本的に、殺しが好きだ。

楽しいと感じている。

だが、弱い相手を殺すことを面白いとは思わない。

力が衰え始めた今、最強の敵と最後に戦っておきたい。それはクーゲルにとって、静かな願いではあった。

それで死ぬことは全く怖くない。むしろ望む所だ。

エンデルクは、まだ衰える年ではない。だから、クーゲルのこういった苦悩は理解できないかも知れない。

「今、大空の王および影の鏡なる強大な敵を滅ぼす作戦も開始する所に入っている。 それを考えると、これ以上同時に敵を探して倒すのは難しいかも知れぬな」

「それならば、我々が引き受けましょうか」

「そうさな、頼めるだろうか」

エリアレッテがそんな事を言い出したので、少しクーゲルは驚いた。

交渉は殆ど弟子に任せて、クーゲルは茶を啜る。部下として、牙を何名か廻してもらえることになった。それは余計な気もしたが、しかし今まで捕まえることさえ出来なかった相手である。

戦力は幾らあっても、足りない。そう考えると、エリアレッテの判断は正しかった。

エンデルクの屋敷を出ると、いつの間にか監視者の気配は消えていた。

「小賢しい奴らよ」

「やはり複数でしょうか」

「ほぼ間違いなかろう。 いずれにしても、実際交戦するとなると、相当な苦戦が予想される。 心しておけ」

「はい」

少し驚いたように、エリアレッテはクーゲルを見た。

それで気付く。自分らしくもない弱気な発言であったことに。

やはり年老いた。クーゲルはそう自嘲していた。

 

好機だった。

ヘルミーナ先生が、アカデミーを少しの間離れることになったのだ。確実な時間は三日程度だが、それでも確実に帰ってこないという点が大きい。

フランソワは、預けられたホムンクルスをまず眠り薬で落とすと、研究室に運ぶ。

そして、眠っている間に裸にして、制御装置をしっかり調べることにした。

前々から疑問だった。それに、技術を盗まないといけないとも思っていた。

マイスターランクに入って痛感したのだが、イングリド先生とヘルミーナ先生は、あまりにも化け物じみている。知識の量もそうだが、基本的に人間だとはとても思えないほど、生物としての性能が高いのだ。

賢者の石を作成したからだという話もある。

だが、それは強さに結びつくものであって、知識に関係するとは思えない。一体何が、彼女らに其処まで力を与えているのか。

ヘルミーナ先生と言えば、ホムンクルス。

そして中核となっているのは、制御装置だ。だから、危険を冒してでも、技術を盗むためにこんな行動を始めた。いずれ家を発展させるには、生半可な錬金術の腕では駄目だ。悔しいが、今の同じ世代には、化け物じみた錬金術師が多すぎる。エルフィールとキルキの影に隠れて見えないが、アイゼルでさえ正直何年に一度出るかでないかという才媛なのである。悔しいが、今のフランソワでは、彼らにぬきんでることは出来ない。

だから、ダーティな手を使ってでも、力を付けるのだ。

しばらく無心で制御装置を調べ上げる。ホムンクルスを殺さないように、細心の注意を払いながら。

一見すると、それは宝石に見える。背中に埋め込まれた宝石は、見事に体と一体化して、様々な命令を伝えている。

だが、実際には宝石だけが凄いのではない。とんでもなく微細な糸が無数に宝石の中に織り込まれ、光石と組み合わされて制御系の中枢になっている。細かく調べていけば行くほど、あまりにも凄まじい技術力に、戦慄さえ覚えてしまう。

これは一体、何だ。

既存のアカデミーにある技術を、明らかに越えている。ヘルミーナ先生が生涯を掛けて作ってきた技術だと言うことは分かるが、それにしてもあまりにもぶっ飛びすぎているのだ。

天才だというのは、説明にならない。

これはまるで、異界から持ってきた技術を、惜しみなくぶち込んでいるかのようであった。

しばらく調査をした後、額の汗を拭う。

そろそろ眠り薬も切れるはずだ。元通りホムンクルスに服を着せて、一つ嘆息。

幾つか分かったことがある。制御装置の異常な技術はともかくとして、一つ気になる成分があるのだ。

それは恐らく、拒絶反応を避けるために使われているもの。制御装置の周辺に油のように塗られており、肌とも半ば一体化していた。少しサンプルを取ったが、解析するのにはばれないようにやらなければならない。

時々、ホムンクルスはヘルミーナ先生に返す必要がある。メンテナンスのためもあるのだろうが、或いはこの油のようなものを補給しているのかも知れない。逆に言えば、これがホムンクルス達にとって、生命線になるものなのだろうか。

研究室を出る。

ヘルミーナ先生が実は部屋の外に控えていて、出た瞬間に捕まるようなことはなかった。もしそんな事になっていたら、恐怖のあまり魂が口から飛び出していただろう。意味もなく辺りをうかがってから、外に。途中、イングリド先生に出会った。少し緊張したが、マイスターランクの学生が資料を持っているのは当然なので、あまり不自然ではないように応対だけした。

「ところで、フランソワ」

「はい」

「貴方に、一つ課題を与えようと思います。 エルフィール達が今難しい課題に取り組んでいるのは知っていると思いますが、その関連です」

背筋に、一気に緊張が走った。

異大陸に行って、様々な任務を彼女らがこなしたことは知っている。もちろん荒事もあり、命も奪ったと聞いている。人の命かは分からないが、まだ足が若干不安なフランソワには、そんな強行軍は無理だっただろう。

家臣達のためにも、冒険は避けなければならない身だ。危険に飛び込んでいくアイゼルがその辺り愚かしく思えるのだが、その一方であの娘が着実に成長しているのも知っている。

だから、追いつくためにも。

せめて、同じ場所にはいなければならない。

「後で、資料を渡します。 素材は自分で揃えなさい」

「分かりました。 すぐに取りかかります」

「よろしい。 それと、ヘルミーナに隠れて何かするのなら、もう少し上手にやるようにね。 尻尾を出すと、そのまま食いちぎられますよ」

全身が凍り付くかと思った。

イングリド先生は小さく笑うと、身を翻して自室に戻っていく。全身から冷や汗が滝のように流れ落ちていた。

やはり。

此処は化け物の巣窟だ。

逆らったら殺される。出し抜くなど、とんでもないことだ。

だが、それでも。傾きつつある自分の家を建て直すためには、せめて化け物達と渡り合える程度にはならなければならない。

今、この国では、何か巨大な存在が蠢き始めている。

それは、フランソワも、肌で感じていた。

 

(続)