異大陸へ

 

序、卒業と進学と

 

錬金術アカデミーは、四年間で通常学年を終える。

面白いのは、大規模な入学式を行うが、卒業式は個別で行う、という事である。イングリド先生かヘルミーナ先生、もしくは他の先生と話をした後、学業が終わりになる。ある者は卒業し、またある者はそのままマイスターランクへと移る。成績が著しく悪かった一部に関しては、留年することになる。

エルフィールは、既に去年の時点で、進路が決まっていた。

通されたのはイングリド先生の研究室である。ヘルミーナ先生も珍しくいる。犬猿の仲だと噂される二人だが、実際にはさほど嫌いあっていない事を、エルフィールは知っている。未だに感情についてはよく分からない部分もあるエルフィールなのだが、好悪については判断が付くのだ。

「エルフィール、良く来ましたね。 掛けなさい」

「はい」

アカデミーを代表する魔人二人に見下ろされて、ちょっと緊張した。少し前に大けがをしたばかりと言うこともあり、若干構えてしまう。

イングリド先生が、先に話し始める。

「貴方はマイスターランクに進学して貰うつもりです。 研究分野については、やはり卒業提出の通り、生きている道具類で進めるつもりですか?」

「はい。 それが一番好きですから」

チーズにしようかと、一時期はかなり悩んだ。

だが人工レンネットという発明を成し遂げた時点で、エルフィールの功績は既に比類無いものとなっている。人工レンネットの改良研究についても興味はあるのだが、しかし最初の功績に比べると、やはりどうも味気ない。

それならば、まだ幾らでも先がある生きている道具類の研究を進めてみたい。ホムンクルスについても、ヘルミーナ先生とは違う方向からアプローチを進めてみるのも面白そうである。

それが、エルフィールの本音だった。

好きというのは、正直まだ分からない。だから、力強く言いはしたが、実際にはそっちのほうに興味があるというのが正しい。いずれにしても、若干贅沢な悩みであるかも知れなかった。

「分かりました。 それでは、貴方の研究室に案内しましょう」

イングリド先生が、てづから案内してくれる。光栄なことである。

マイスターランクの所属年数は基本的に二年。此処で卒業することは、国や大貴族に大々的に売り込めることを意味している。シグザール王国では優秀な錬金術師を幾らでも欲しがっているようだし、エルフィールの場合はマイスターランクを出れば胸を張ってドナースターク家の臣となる事が出来る。もちろん、その後はテクノクラートになるも良し、研究に骨身を捧げるのも良し。道は様々に開けていると言える。

今の時点で、エルフィールの人生は順調だ。

しかし、どこで躓くか分からない。その時に備えて、あらゆる布石を打っておかなければならなかった。

一度棟を出て、図書館の奥に。

其処には開けた土地と、幾つかの建物が並んでいた。

「貴方には、G棟に研究室を用意しました。 ただし、用意するのは研究室だけですから、資材などは自分で用意するように」

「分かりました」

イングリド先生について行く。アイゼルはA棟、ノルディスとフランソワはC棟、キルキはF棟だという。研究室はいずれもさほど大きなものではなく、マイスターランクの学生の中には、倉庫代わりにしかしていない者さえいるという。

ただし、それで咎められることはない。

要は実績だというのだ。

「マイスターランクに入って行うことは、自分の研究を進める事です。 最終的に提出した論文の数と質が、成績に直結します」

階段を上がって、二階に。比較的古い建物で、所々壁がくすんだりもしていた。恐らくアカデミーが作られて、間もなく建設された施設なのだろう。

研究室に到着。

中はがらんとしていた。広さも十二歩四方程度である。様々なものを置くには最適だし、アトリエを持っていない生徒は、此処をそうする事も可能だ。もちろん、住み着いてしまう事だって出来るだろう。

「あの、しばらくは利用しない事も可能でしょうか」

「事情は聞いています。 先ほども言ったとおり、マイスターランクで求められるのは、あくまで実績です。 最終的に論文と成果物さえ出せば、我々としては口出しを一切しません」

つまり、それがなければ、最終的には雷が落ちる、という事だ。

二年という時間は、想像以上に短い。キルキも話によると、牧場の経営を夏から任されると言うことだし、つまりそれまでにエル・バドールでの任務を片付けてこいと言う事になる。

このがらんとした空洞に、何を詰め込むか。

この空洞で、何を造り出すか。

それが、それだけがエルフィールに求められることだった。

 

与えられた研究室を出ると、アトリエに戻る。

優秀な学生といえども、流石に卒業してしまうとアトリエは出なければならないという。もしも継続して研究をしたい場合は、クライス先生のように、優れた実績を残して、先生になるしかない。

その場合はその場合で、色々と煩わしいことも生じてくる。

エルフィールはクライドに言われたことを、事実として実感している。他人にものを教えるには、決定的に向いていない。

だから、教師にはならないつもりだ。ただし、卒業した後も、アカデミーとは何らかの形で関係を持っていきたいとも思っている。

高い実績を上げれば、アトリエをドナースターク家が用意してくれるかも知れない。或いは、稼ぎを使って、自分で建てることも視野に入れる事が可能だ。いずれにしても、今はお金を稼ぐ時だ。

錬金術は、それに適している。高尚な学問としての面もあるが、エルフィールにとっては立身出世に無くてはならないものであった。

アトリエでは、相変わらずクノールが調合にいそしんでいた。イリスはいないが、今日、買い物に出しているからである。

「あ、お帰りなさい。 首尾はどうでしたか」

「マイスターランクに進学が決まったよ」

「それはおめでとうございます」

「ん、ありがと」

もう随分前に内定していたことだから、あまり今更嬉しくはない。それまでに重ねた苦労の結果だ。ただ、アイゼルは無邪気に喜んでいたし、キルキは農場に植える植物について吟味もしていたから、今後は彼らに合わせて楽しいと思えるようになってくるのかも知れない。

クノールの調合を見た後、自身も作業にはいる。

生きている縄達に手伝わせて、作業を出来るだけ円滑かつ効率的に。釜で幾つかの薬品に同時に火を通し、大鍋を使って複数の中間生成物をかき混ぜる。施療院に納める薬を作った後は、アルテナ教会の仕事を終わらせた。

イリスが帰ってくる。

一緒に、面白い人物も連れていた。

「邪魔をするぞ」

「あ、クーゲルさん」

良いとは言っていないのだが。イリスの荷物を持ってくれていたクーゲルは、アトリエにさも当然のように堂々と入ってきた。この辺りのナチュラルに傲慢な所は、ヘルミーナ先生に似ているかも知れない。

別にエルフィールとしても拒む相手ではないし、問題はない。丁度、調合も終わった所であった。露骨に怯えるクノールを一瞥だけすると、クーゲルは無言でイリスが出した席に座った。

クーゲルは既にかなりの高齢の筈だが、全身を覆うはち切れんばかりの筋肉には衰えの欠片も見えず、戦っても勝てる気がまるでしない。イリスも大きめの椅子を出したのだが、クーゲルが座ると、まるで子供用の椅子のように見えてしまった。

「荷物を持っていただいて、有難うございます」

「何、気にすることはない。 それよりも、腕の方は大丈夫か」

「はい。 ノルディスの調合した薬品の効きが良くて、予想よりもずっと早く治療が進みました」

「それは何よりだ」

去年の末、卒業時に納入する品の材料を取りに行ったメディアの森で、エルフィールは強大な生物に襲われた。自然の存在とも思えぬそれらとの戦闘の結果、エルフィールは腕に大きな怪我をしたのだ。

だが、今ではすっかり完治している。元々鍛え方が違うし、ノルディスの薬品もとても出来が良かったからだ。ただ、しばらくの間はイリスと生きている縄に日常生活を頼りっぱなしで、それが面倒ではあった。

クーゲルの話によると、ノルディスの医療品は非常に軍でも評判が良いらしく、独自のラインを確保するべく既に動き出しているという。確かにあれほどの効果がある薬品となると、そういう動きが出てきてもおかしくはない。

錬金術はまだ伸び代が幾らでもある学問だ。しかし、個人の技量に依存する部分がまだまだ途轍もなく大きい。今後、エルフィールが新しい技術を開発することが出来れば、さらなる安定と大きな発展を生み出すことが出来るだろう。

クーゲルは周囲を見回す。恐らく気配を探っているのだろう。そして、気配がないと判断したらしく、咳払いした。

「さて、此処に来たのは他でもない。 第二陣の出発時期が決まってな」

「いつ頃ですか」

「今月の末。 行けるか」

「準備は既に済ませてあります。 私に関しては、いつでも出られます」

むしろ、待っていたという所だ。

クラフト、フラムなどの火器類に加えて、戦場で使えそうな道具類は既に生産を済ませてある。なおかつ、白龍、秋花、冬椿らの杖はメンテナンスも万全だ。もう一つある戦闘用杖も改良を重ねて、使えるように仕上げた。いよいよ、実戦投入が出来る時が来たとも言える。

魔力生成杖に関しても、毎日使って体に馴染ませている。そのおかげかは分からないが、最近中和剤の生成が早く、なおかつ使っていてとても馴染む。

「他の連中も、既に問題ないことを確認している。 その様子であれば、タイムラグを生じることも無さそうだな」

「はい。 以前から、楽しみにしていましたから」

「そうか。 何よりだ」

生きている縄が出した茶を、殆ど熱そうにもせずに飲み干すと、クーゲルは腰を上げる。不要なことは一切喋らない気なのだろう。

もう一度辺りを見回す。エルフィールも、ちょっと気になった。

「どうしたんですか?」

「どうも近頃鼠がいてな」

ドムハイトは今内乱が拡大していて、国家分裂の危機にさえあると聞いている。そんな中、わざわざシグザールの王都であるザールブルグにまで来て、しかも騎士団と関係が深いクーゲルを監視する余裕など無いだろう。

そうなると、何処か別の国の勢力だろうか。

「いや、恐らくお前が想像しているどの勢力とも違うだろうな。 儂の方でも、今調べている所なのだが。 騎士団の精鋭でも監視している方法や人数が全く分からない状態でな」

「それほどの相手ですか」

「だが、今の時点では実害がある様子もない。 ただ、お前も油断はするな」

そういえば。

メディアで襲撃してきたあの大蜥蜴が現れる直前に、イリスが妙な視線を感じると言っていた。

そのイリスはと言うと、奥でクノールと一緒に調合にいそしんでいる。妙な気配を感じている様子はない。そうなると、今監視者とやらはいないのかも知れない。

「割と真面目な話だが、この監視者については、錬金術アカデミーにも対応策を協議している所だ。 近々お前にも話が行くかも知れん」

「それは望む所です。 この間メディアで酷い目に遭わせてくれたあの大蜥蜴どものボスがそいつだとしたら、叩き殺してやりたい所ですし」

「うむ、良い心がけだ。 狂気と殺気を常に保て。 そうすれば、お前はもっと強くなるだろう」

クーゲルに褒めて貰うと、ちょっと嬉しい。当代でも上位に入る使い手である。そのアドバイスが貴重なことなど、言うまでも無いことだからだ。

クーゲルを見送る。お土産にチーズケーキを渡したが、一口で食べてしまうかも知れない。まあ、それはそれで良いことだ。何も甘いお菓子は、女子供だけの食べ物ではないのである。

アトリエに戻る。念のために、イリスに聞いてみる。

「イリス、さっき妙な視線とか感じた?」

「今は特に感じません」

「そう。 それならば良いのだけれど」

壁に掛けてある黒板を見て、仕事の進捗状況を確認。

具体的にクーゲルが期日を指定してきた事で、更にこれから仕事の計画が立てやすくなった。

エル・バドールに出る前に、出来るだけ稼いでおく。

それが、今エルフィールがやっておくべき事であった。

 

1、ドムハイト四分五裂

 

アルマン王女の元に、伝令が飛び込んでくる。

平原で一万八千の兵士達に囲まれ、将軍達から作戦の説明を受けていたアルマンは、着慣れない鎧に身を包んだまま、悲報を聞くことになった。

「カーレッジ将軍が、戦死なさいました。 南部方面派遣軍は撤退を開始しています」

「そう、ですか」

溜息が漏れてしまう。

カーレッジは治安が特に不安定化している南部で、必死の転戦を続けていた将軍だ。豪族達はいずれもが虎視眈々とアルマン政権の隙を狙っていて、頻発する反乱の糸を引いていた節さえある。

頻発する反乱に対して、カーレッジは八千ほどの兵力を用いて、必死の鎮圧活動を続けていた。だが、それも戦況は不利になるばかりだと報告を受けていた矢先であった。撤退するにしても、一体どれだけの戦力が王都まで帰還できるのか。

絶望に掴まれかける心を、必死に立て直す。

今は、眼前にいる敵を葬らなければならなかった。

眼前にいる敵兵力は、およそ二万五千。味方よりもかなり数が多い。味方にはアルマンに早くから従い、各地を転戦してきた歴戦の武将達が揃っているが、それでも苦戦は免れないだろう。

敵は、アルマンが根絶やしにした旧王家の生き残りを標榜する男リムである。此処二ヶ月で、ドムハイト西部の豪族達に担ぎ出され、急速に勢力を拡大した人物であった。彼が王族の生き残りであるかどうかの信憑性など、どうでも良い。問題は、シグザール王国の後ろ楯を得ている豪族達が、旗印として担ぎ出している、という事だ。

豪族達は御しにくいアルマンではなく、案山子として使いやすいリムをドムハイトの王として据えたがっている。もちろん、ドムハイトの存続などどうでも良いのである。シグザール王国に寝返った時、有利な条件を整えるために、リムを王位に就けようとしているのだ。

もちろん表立って、豪族達は出てきていない。

だから敵は兵力ばかり多い烏合の衆だ。問題は味方もそれと大差がないという事であろう。

陣形も乱れがちである。かって竜軍を率いたバフォートが両軍の有様を見たら、大きく溜息をついたことだろう。

ドムハイトの弱体化は、最早どうしようもない所まで進行していたのだ。

「敵軍、前進を開始しました!」

「充分に引きつけてから、射撃を開始。 敵の前進を止めた所で、騎馬隊を突撃させます」

将軍達の指示通り、作戦を展開する。

無秩序に突撃してきた敵軍が、雑多な矢の雨を浴びて、足を止める。だが、味方の騎馬隊も動きが鈍く、敵陣に突入するも一気に斬り割るというような訳にはいかなかった。騎馬隊がもたついている内に敵も態勢を立て直し、次々に味方の陣に取りすがってくる。

戦力を集中するように指示を出すが、訓練が不十分な兵では、どうも動きが鈍い。

殆どの兵士達は、ようやく安定させた大陸北東部の反乱勢力の、降伏した者達である。訓練どころか、豪族達に無理矢理駆り出された農民が主で、しかもずっと安定していた地域の民だから、修羅場を潜ったことが殆ど無い。王都にいる戦力は動かせないし、他の地域は豪族達がサボタージュの姿勢を見せており、とてもではないが従うどころではない。南部に到っては、討伐軍の将軍が戦死するほどの有様だ。

そんな状況でも、味方が徐々に敵を押し始める。

と言っても、本当に徐々にだ。団子のようになった戦場で、歴戦の名将達も味方の動きの鈍さに頭を抱えているようだった。騎馬隊も、雑多な装備と質のまばらな軍馬に悩まされながらも、ようやく敵中央を突破成功。

敵に隙が出来た。味方よりも大きな隙、という程度のものに過ぎないが。特に左翼に乱れが大きい。司令部と切り離されたからだろう。

「左翼に戦力を集中してください」

「左翼に兵力を集中! 突撃せよ!」

銅鑼が叩き鳴らされるが、それは敵右翼に突撃を促すものであった。頭を抱えそうになるアルマンの前で、参謀役として着いてきていたクリア将軍が、銅鑼を叩いていた兵士をしかりつけた。

「たわけ! 指示が逆だ!」

だが、もう遅い。混乱しながらも、敵右翼へ攻撃の集中が始まる。アルマンは愛馬に跨る。周囲に、唯一の精鋭とも言える親衛隊五百が集まってきた。

「アルマン王女!」

「私が敵左翼に突入します。 クリア将軍は此処に残り、右翼への攻勢を指揮し続けてください」

「しかし、危険です!」

「このままだと、敵左翼は勢力を盛り返します。 一気に此処で叩いて、戦況を決定づけます。 全員、我に続け! 敵を粉砕する!」

王女に続けと、誰かが叫ぶ。

流石に蒼白になった兵士達が、親衛隊の周囲に集まってきた。そのままアルマンは、混乱から立ち直りかけている敵左翼に、陣頭に立って突入した。

どうにか戦いが終わったのは、開始から三刻後。ずるずると続いた戦闘は、敵将リムの戦死によってようやく片が付いた。敵も味方も大きく兵力を消耗し、逃げ散った連中は夜盗と化すことが容易に想像できる。

味方を纏めると、アルマンは敵の首実検をする前に、布告した。

「敵に降伏を促してください。 特に一兵卒に関しては、降伏するなら罪は問わないと、街道や周辺の村々に布告分を出すように」

「よろしいのですか」

あまりにも処置が甘いと言うのだろう。

だが、仕方がないことだ。今、ドムハイトの実質的な領地は、王都を中心にかっての三分の一以下という所である。その王都も戦乱で半ば焼き払われてしまい、統率力も求心力も目を覆うばかりに低下してしまっている。

此処で、余計な問題を抱え込むわけにはいかないのだ。

「降伏した兵士達は我が軍に取り込み、養えない残りは帰農させます。 そうすることで、ようやく王都を守備できる兵力が整います」

「しかし、此処で甘い処置を行えば、反乱勢力が更に勢いづくのではありませんか」

「兵士達に罪はありません。 指揮官については、既にその通り討ち果たしていますし、今は不問としましょう」

本当の悪は別にある。

しかし、今は討伐している余裕がないのだ。畑に現れる土竜を退治しているようでまるできりがないが、一つずつ片付けていくしかない。

一ヶ月ほどアルマンはその土地に滞在し、降伏してくる兵士達を受け容れた。戦力は将軍達に振り分け、荷駄の部隊と相談して、養えそうも無い戦力は故郷に戻したり、或いは王都周辺に帰農させた。

討伐した豪族から取り上げた兵糧も、残り少なくなってきている。冬の内に南部の反乱勢力を掃討できたとしても、翌年は大規模な遠征を行えない。田畑が荒れ果てている状況で、収穫もそれほど多くが見込めないからだ。

眠る時間も、殆ど確保できない。王家のために作られた頑強な馬車の中で、揺られながら眠ることが出来れば万々歳である。既に王宮の中で決済だけしていれば済む状況は終わってしまっている。

この国は、滅びつつあるのだ。

やっと西部のリムの乱が片付いて、南部へ進撃を開始しようとした矢先である。唯一確保できている北東部に、状況の安定を指示する手紙を送ろうとしたアルマンは、馬車の中で凶報を聞くこととなった。

「伝令です!」

「如何しましたか」

「南部の何名かの豪族、独立を宣言! 南ドムハイト王国として、今後は正式に王女殿下に敵対を表明するとの事です!」

ついに、来た。

南部の反乱勢力が、シグザール王国の支援を受けていることは知っていた。エル・バドールの工作で属国に反乱を起こされて辟易したシグザール王国が、さらなる介入を防ぐために、資金を流入させることで起こさせたのだ。

だが、それが今、明らかにシグザール王国の制御を離れて、一人歩きしている。

複数の反乱勢力が一つにまとまり、豪族達も大兵力を得て慢心したのだろう。そう、アルマンは分析していた。

一度、王都近くの要塞に入り、情報の分析を開始。もちろん、南部に進行できる状態ではなくなった。

南部地域から、複数の伝令が戻ってくる。精強を誇ったドムハイト諜報部隊の血脈は一度耐えたが、歴戦の中で鍛えられた兵士も多い。そう言った兵士が、伝令として各地を駆け回っている。

だから、どんなに絶望的な情報でも。耳を傾けなければならなかった。

「南ドムハイト王国は、総兵力だけで四万! しかもこれは総力戦体制ではなく、豪族達の私兵を合計しただけでこの戦力です」

「総力戦体制になれば、六万を超える兵力を動員可能と思われます! 南部は航路開発も開始しており、兵力を支える経済力は充分にある模様!」

兵士達は青ざめていた。今、アルマンが動かせる戦力は、せいぜい七万というところで、しかも相当に民に負担を強いる事になる。南部から引き上げることが出来た兵力は精々三千で、しかもこれは敗残兵だから、戦力には数えられない。

将軍達も、もはや為す術がないという顔を、軍議で並べていた。アルマンは大きく嘆息すると、言う。

「この戦力は、南部の幾つかの要塞に振り分けましょう。 国境線を守るのです」

「王女殿下!」

「今は、確保できている地域の安定を行うしかありません。 大陸を二分したこのドムハイトも、まだ半分とは言え残っています。 今はただ、この国を守ろうとした戦士達の魂に報いるためにも、絶望してはいけません」

愚かな豪族達だ。国を二分したりすれば、シグザール王国に良いようにされるのは目に見えているというのに。

しかも今、ドムハイトとシグザールでは兵士達の質があまりにも違いすぎる。竜軍が消滅して以降、質実剛健なまま兵士を鍛えに鍛えているシグザール王国は、大陸でも並ぶ者が無き強大な存在と化している。幸いなのは兵力の主体が、防御を得意とする屯田兵だと言うことだろう。それも、錬金術による圧倒的な経済力を考えると、今後はどうなるかが分からない。

幻視できる。各地の牧場で育て上げた軍馬、或いは何か軍用の大型生物に跨った、機動兵団がドムハイトを蹂躙する有様を。

今、混乱のさなかにあるドムハイトは、シグザール王国にとって旨味のある土地ではない、というのがせめてもの救いだろう。逆に侵略してしまえば、負債を抱え込むのも同然になる。

「皆、良くやってくれました。 少し休みなさい」

「殿下……」

「私も少し疲れました。 兵士達を南の要塞地帯に配備したら、交代で故郷に帰らせる案を立てましょう。 西部の安定をしっかり進めた後は、南部の攻略について考えることにしましょう」

何十年単位の計画になる。もちろんシグザール王国の横やりも入るだろう。

ヴィント王はそろそろ年齢的にも引退を考えなければならないはずだが、問題は跡取りであるブレドルフ王子が、ここのところ急速に力を付けている、という事である。今後、シグザールには失策を期待できない。

寝室にはいると、倒れるようにアルマンは眠った。

目が醒めた時、気付く。枕が濡れている。どうやら無念のあまり、泣いていたらしい。泥のように疲れていたから、分からなかった。

メイド達が持ってきた鏡を見ると、目の下に隈ができている。しばらくは、戦場に立つこともないだろうし、ゆっくりするようにと侍医に釘を刺された。ゆっくり等していたら、どうなることか。

もはや、手はない。

一度王都に戻ろう。そう、アルマンは絶望を周囲に見せないようにしながら、決めたのだった。

 

南部の街カスターニェにエルフィールは向かっていた。今回は馬車でも提供してもらえるかと思ったのだが、残念ながらいつもと同じように、荷車を引きながら移動である。目立つ行動は避けるためだと、クーゲルは言っていた。

途中、警備の兵士がやけに多いのを、エルフィールはしっかり見て取った。普段は農作業をしているような、二線級だったり年を取ったりした屯田兵までもが、武装して街道に出てきている。狼煙も、頻繁に情報を交換している様子だ。

「何か起こったのかしら」

「ほぼ間違いなくね」

「多分、ドムハイトが分裂したんじゃないのか」

ぼそりと言ったのは、護衛として着いてきてくれているルーウェンだ。今回は大所帯と言うこともあり、連れてこられるだけの護衛に来て貰っている。ロマージュとダグラス、それにハレッシュとルーウェンである。ハレッシュは、婚前前の最後の大仕事だと、かなり張り切っている様子であった。ダグラスはと言うと、この任務における主要メンバーの一人であるらしい。

そう、エル・バドールで一暴れする任務の、である。

魔物やらと戦いたいだろうに、結局は人間を相手にする事になってしまったダグラス。しかも今回はかなりダーティワークも入ってくるはずだ。気分が良かろう筈もない。だが、いつものように拗ねることもなく、表情は青ざめながらも前は向いていた。

「ドムハイトが分裂?」

「俺の知り合いがドムハイトに潜入して仕事をしてるんだが、どうもきな臭いって話をしてきていてな。 この様子だと、多分それが見事に当たったんだろうな」

「おいおいルーウェン、いいのか、そんな事言って」

「この有様じゃ、馬鹿でも気付くよ。 それにドムハイトが分裂したって、国境付近ならともかく、この辺りで何か起こるって事もまず無いだろうな」

昔とは状況が違う。

強大な軍事国家として、シグザール王国と大陸の覇権を争っていた頃のドムハイトの面影は、既に亡い。今のドムハイトは極限まで弱体化して、巨体をもてあます老いた象に過ぎない。

トチ狂って暴れることがあったとしても、油断無く構えているシグザール王国の国境線を越えることなど、とても出来はしないだろう。

ダグラスはそんな話を聞きながらも、何も喋らなかった。黙々と荷車を引いて、坂を行く。そろそろ、カスターニェとザールブルグの間にある最大の難所、長い長い坂にさしかかる所だが。今回はあまり心配していない。

エルフィールにキルキ、ノルディスにアイゼルに加えて、四人も手練れがいる状態だ。基本的にドラゴンにでも襲われなければ、まず心配はしなくて大丈夫である。その油断が怪我をする元になると自分を戒めながら、エルフィールは辺りを警戒した。イリスとクノール、それにフィンフは荷車に乗って降りないように釘を刺しているし、迷子になるようなこともないだろう。

徐々に、霧が出てきた。

「やあねえ。 何か出そうだわ」

「出ても問題ないだろ」

「ルーウェン」

「分かってる。 しかしハレッシュ、この間から顔つきが変わったな。 何だか凄くどっしりしてて、安心感があるぜ」

霧が濃くなってくる。冗談めかしている冒険者達は放っておいて、荷車の側を黙々と歩いていたアイゼルの側に、エルフィールは移動した。ちょこちょこと歩いて着いてきているキルキは、荷車をしっかり掴んでいるから、問題ないだろう。

「アイゼル、今回の事なんだけれど」

「ただの留学じゃあないんでしょう? 分かっているわ」

アイゼルにも、今回は荒事が予想されることは知らされている、と言うことか。ノルディスやキルキも、その辺りは心配しなくても良いと言うことなのだろう。アイゼルと並んで歩きながら、少し話をする。

「少し前に聞いたのだけれど。 イングリド先生もヘルミーナ先生も、随分故郷では扱いが良くないらしいわね」

「と言うよりも、だから故郷を出たのかも」

「何だかおかしな話だわ。 あの二人が、例え何処であっても通用しないとはとても思えないですもの。 やはり派閥がどうとか、権力階層がどうとか、そう言う問題なのかしら」

アイゼルも、最近鋭くなってきている。昔だったら、こんな事は思いつきもしなかっただろうに。

やはり貴族を相手に商売をして、彼らの世界の歪みや澱みを感じ取ったから、かも知れない。アイゼルは既に温室から外に出ている。それで汚れたりいじけたりするのではなく、強く育っているのだから大したものだ。

何処か歪んでいるエルフィールとは違う。其処が、とても目映く思える。

「アイゼル、エリー。 そろそろ坂がきつくなってくるよ」

「うん、ノルディス。 分かってる」

生きている縄を伸ばして、二つある荷車に取り付ける。自動走行させることで、荷車を引いているダグラスとハレッシュを手伝わせるのだ。これをはじめて見たらしいルーウェンは、ぎょっとした様子で、蜘蛛の足のように蠢く生きている縄を見つめた。

「マリーが似たようなものを使っているのを見たことがあるが、随分奇妙な使い方をするんだな」

「マリーって言うと、あの鮮血のマルローネさんですか?」

「そうだよ。 ただ、本人の前で鮮血とか言うなよ。 悪名として利用はしていても、嬉しくは思ってないようだからな」

かさかさと蠢きながら、生きている縄が荷車を坂の上に押し上げていく。ノルディスも荷車を押そうかと思ったようだが、歩くだけで体力を消耗する現状、余計なことはしない方が良いと思ったらしく、結局止めた。

黙々と、霧の満ちる坂を上がる。

時々、警備兵が松明を廻して、旅人を誘導しているのが見えた。小隊単位で巡回している警備兵が、ダグラスと話をするのも何度かみかける。キルキが、ダグラスの側に行って、見上げた。

「ダグラス」

「何だよ、キルキ」

「何か危険? 備えた方が良い?」

「ああ、心配はいらねえよ。 今の時点で、特に危険になるような事はねえからな」

今の時点で、という事は。やはりさっきルーウェンが言っていた事は本当なのだろう。

ドムハイトと言えば、シグザールと並ぶ大陸最強の国家であったのに。エルフィールが生きている間に、まさか分裂する等という話を聞くことになるとは思わなかった。それによる混乱が巨大なのは言うまでもないことで、下手をするとシグザール王国内でも、盗賊や夜盗などの活動が活発化する可能性もある。

今頃、シグザール王国内の至る所で、こういう光景が見られるだろう。

「シグザール王国はまだ良いけれど、ドムハイトの衛星国は大変そうだね」

「そうだね。 早めに鞍替えするにしても、今までのことを考えると、難しいだろうね」

属国にされるか、或いは領土を丸ごと取り込まれるか。いずれにしても、ろくな目には遭わないだろう。

ドムハイトは強力な軍事力で、大陸の半分を支配してきた。しかしそれが過去の存在となった今、各地で小規模な紛争が頻発する可能性もある。そういえば、カスターニェはドムハイトとかなり近い街である。街にはいる時、一悶着あるかも知れない。

坂を上り終える。

前回に比べて、ノルディスもアイゼルも、かなり体力が付いていて、だいぶ余裕を持って歩ききることが出来ていた。アイゼルが笑顔でフィンフに話し掛けている。違和感。フィンフが、どうも喜んでいるようには見えないのだ。

最初の頃はぎくしゃくしていたアイゼルとフィンフの関係だが、ずっと良好に見えていた。それなのに、何だろう。

「エリー、気付いた。 どうもフィンフ、最近様子がおかしい」

「そう。 キルキも気付いたんだ」

「フィンフ、ホムンクルス。 悲しいけど、人間じゃない。 色々違う。 でも、アイゼル、人間として、いやそれ以上に扱ってる。 何か悪いことが起こらないと良いのだけれど」

キルキも、見かけこそ幼いが、結局人外の才能が揃ったエルフィールの学年を主席で卒業した天才児だ。だからこそ、気付ける部分もあるのだろう。

アイゼルは、多分まだ気付いていない。気付いているとしても、どうにかしようとしているはずだ。

荷車を、峠の頂上にある休憩所の駐車場に一旦移動。

街道が封鎖されている。完全封鎖ではなく、身元などが分かれば通ることが出来るようだが、兵士達もかなり多くが警戒に着いていた。事前に知っていたことだから別に構わないのだが、聞いていたよりも警戒が増えている。

ダグラスが戻ってきた。ロマージュがかなり不機嫌そうにしている。兵士に何か言われただろう事が露骨だった。

「良いぜ、通れるってよ。 ただし、お前達、学生証とか、卒業証書とか、そういうのはあるか」

「んー、どうしようか。 マイスターランクの学生だから、そっちの証明書の方がいいかな。 ノルディスはどう思う」

「そうだね、それが良さそうだ。 通常学年の卒業証書もあるけれど、一遍に両方の身分を証明できるマイスターランクの学生証の方が多分いい」

「問題は錬金術アカデミーの知名度だけれど。 こんな所を守っている兵士達に、それが分かるかしら」

アイゼルの疑念に、ダグラスは問題ないという。

元々聖騎士であるダグラスが、検問の兵士達に事情は説明している上、個人的な武勇が知られているエルフィールの事もある。また、錬金術に詳しくない者でも、アカデミーの天才少女としてキルキは名前くらいは知られているのだという。

「そういえば、カスターニェでもキルキの噂を聞いたっけ」

「冒険者ギルドで名前出したら、良い冒険者紹介してくれた。 ロマージュさん、私、名前、知られてた?」

「そうねえ。 確かにそんなに有名ではないけれど、天才児キルキっていうと名前くらいは知っている人も多いわ」

「キルキ、有名」

胸を張って嬉しそうにするキルキ。その動作が、見掛け以上に幼いので、ロマージュがちょっと噴き出していた。

ただし、キルキの場合はアルコールマイスターという事でも知られている。百種以上の酒を改良し、毒性が強かったものを誰でも飲めるようにし、アルコールがない酒までも造り出している。

チーズの革新的改良を行ったエルフィールと、そう言う意味では知られる要素が揃っているとも言えた。

検問に向かう。複数の柵を重ね合わせた頑強な検問であり、櫓までもが設置されていた。兵士達は手練ればかりであり、いずれもが鎧をしっかり着込んで、ハルバードで武装している。こんな山の上だというのに、ご苦労な話である。

エルフィールの学生証を改めたのは、中年の髭を蓄えた兵士である。ダグラスに話を聞いているから、儀礼的な所もあるのだろうが。それでも、おかしな所がないか見張ろうという気迫はしっかりあった。

マイスターランクの学生証は木彫りに特殊なインキで身分が印字されている。それを上から下から見やり、精巧さに感嘆しながら、兵士は言う。

「ほう、お前がヒドラのエリーか」

「はい。 そういう風に呼ぶ人もいるようですね」

「あっちの子供は?」

「私達の連れです。 ホムンクルスって言っても分からないでしょうか。 錬金術で作った人間だと思っていただければ」

そんな事が出来るのかと、少し呆れ気味に兵士は言った。まあ、エルフィールも錬金術を学ぶ前であれば、同じ感想を漏らしただろう。

妖精のクノールは、自分用の通行許可証を持っているらしく、それを提出していた。流石に妖精族である。抜かりがない。

戻ってきたクノールは、満面の笑みであった。

「手続き終了です。 これで南に行けますね」

「それにしてもクノール、別の大陸なんて、良かったの?」

「何を言っているんですか。 現在交通手段がない異大陸に、連れて行ってもらえる好機ですよ。 もしも新しいビジネスを開発できたら、僕の地位は二つは上がること間違いないです。 妖精族の世界にも、競争はあるんですよ、エルフィールさん」

「ふうん、逞しいねえ」

人間に対してはとことん卑屈で敵意を買わないように努めているとしても。妖精族内部には、ちゃんとした階級と競争がある。

まあ、エルフィールとしてみれば、現地でしっかり役に立てばそれで良い。クノールは充分に役立てるはずだ。

検問を抜ける。荷車も調べられたが、元々空だ。すぐに検査は終了した。

後は、ゆっくり坂を下りるだけである。だが、下り坂に入ってから、霧が益々濃くなり、雨まで降り始めた。春だというのに、まるで体を刺すような冷たさである。体を押さえたアイゼルが、可愛らしいくしゃみをした。

「風邪を引いてしまうわ」

「マスター、フィンフは平気ですので、もう一枚お洋服を召してください」

「いや、丁度良い機会だ。 休憩場に移ろう。 雨もしのげるはずだ」

ルーウェンが言うと殆ど同時に、雷が鳴った。視界が最悪の状況で、さらなる不運の上塗りである。

兵士達が霧の中を忙しく行き交っている。この状況では、悪さをしようとする奴が出るのは当然だ。

坂の脇にあった休憩所を発見。既にかなりの人数が、雨を避けに来ていた。小さな小屋は人でごった返しているほどである。全員は入れないかも知れない。

ノルディスとキルキがくしゃみをする。霧雨の中、ルーウェンが腕組みする。問題は、風邪を引くことではない。このままだと、エル・バドール行きの軍船に乗り込む際にも、風邪が継続する。もしくは風邪を治すために、行軍を遅らせる必要が生じてくる。

それを避けようと思うのならば、無理をして進まなければならないだろう。

「まずいな。 このままだと、全員が体力を消耗し尽くすぞ」

「猛獣やらが相手なら、どうにかなるのにねえ」

「ロマージュ、お前さんこそ、そんな格好で平気か?」

「鍛え方が違うわよ。 腹筋隠すのが結構大変なんだから」

現役の踊り子としても活躍しているロマージュが冗談めかして言うが、多分本当だろう。二刀流を使い、紙一重で敵を避けながら戦うロマージュの戦闘技能は、体を軽くすると同時に、筋肉を鍛え抜かなければ成り立たないものなのだ。

この辺りでは、低木しか生えていない。巨木の下にはいることが出来れば、雨もしのげるのだが。

以前来た感触だと、次の休憩所まではかなりある。ダグラスが、いやそうに言う。

「しかたねえな。 俺が言って、兵士達の屯所を貸してもらおうか?」

「それは駄目です、ダグラスさん。 そんな事をしたら、巡回している兵士達が雨に濡れます」

しかし、アイゼルが即座に却下。彼女はフィンフと身を寄せ合うようにして、暖を取っていた。

エルフィールは生きている縄達に号令を掛けて、全員の上で旋回するようにさせる。そうすることである程度雨粒は払えるが、それも焼け石に水である。

「仕方がないな。 危険は大きいが、坂の下に急ごう。 そっちに行けば、森や木もあるしな。 体力のない奴は荷車に。 ござは?」

「あるよ」

「じゃあ、それを被るんだ。 少しはマシになるだろう」

ルーウェンがてきぱきと指示。若手の教育に当たっていただけあって、仕切り癖が着いているようだ。的確なので気にならない。アイゼルに乗るように言うが、拒否。クノールとイリス、フィンフを荷車に乗せると、小走りで坂の下に急ぐ。

途中、兵士達に話を聞く。こんなに霧が深い日は、年に何度もないという。しかも気候が最悪と言って良い状態だ。遠くで稲光。炸裂する音。

「雷神の機嫌が悪いらしいな」

「東方では、雷神のハンマーが落とされたって言うんだっけ?」

「そうだ。 ドムハイトではそう言うらしい。 何度か潜入した時聞いたが、特に北部地域じゃ雷神への信仰が盛んらしくてな。 場合によっては生け贄を捧げることもあるんだそうだ」

ルーウェンが呟く。生け贄を捧げる儀式は、シグザール王国では宗教を問わずに禁止されている。ドムハイトではそういう原始的風習が残っていると言うことか。

坂を下る時、下手に急ぎすぎるのは危険だ。質量が大きい物体は、加速にも減速にもパワーがいる。事故を招かないようにするためにも、雨に耐えながら、出来る限り急ぐという方法を採らなければならない。

アイゼルがまたくしゃみをした。ノルディスがマントを貸そうかと言い出すが、アイゼルは謝絶。まあ、確かにエルフィールから見ても、むしろこの状況、ノルディスの方が心配だった。

坂を下り終える。

休憩所が点在しているが、どれも混んでいた。特に、道がぬかるんでいることもあり、馬車が停泊している場所が多かった。だが流石に、休憩するスペースはあり、荷車も置く場所は確保できた。

全員で天幕を張り、竈に火を入れて暖を取る。

ようやく人心地が付いた。しかし、体が冷え切っていることに代わりはない。全員に強壮剤を配る。ダグラスなどはけろりとしていたが、それでも一応渡しておいた。

「いらねえよ、そんなん。 行軍訓練なんかは、もっと過酷な条件がつきまとうもんだしな」

「だったら、いざというときに備えて持っておいて」

ダグラスもしぶしぶという雰囲気で受け取る。アイゼルはフィンフの服を脱がせると、竈の前で乾かし始めた。下着だけになって毛布を被り、身を寄せ合うアイゼルとフィンフは、仲の良い姉妹と言うよりも、親子のように見えた。

一方イリスは、途中何度かくしゃみをしていたが、今は全然平気な様子である。まあ、騎士団の精鋭の生体情報を掛け合わせて作ったのだ。目に見えて頑丈であっても不思議ではない。

三つめの竈を作り、男性陣にも暖を取れる場所が出来た。エルフィールも其処でようやく、ゆっくり休むことが出来た。

「やれやれだな。 最初からこれだと、先が思いやられるぜ」

ハレッシュがぼやいた。

ロマージュはもう脱ぐ服もないので、髪を乾かしながら、タオルで体を拭いている。それにしても、ずっとザールブルグにいるのに、褐色の肌が白くなることはないらしい。エルフィールにしてみると、興味津々だ。

「南方人って不思議ですね。 雪も降るザールブルグにいるのに、その肌の色、変わらないんですもの」

「あら、これでも焼けたり白くなったりはするのよ。 貴方たちには見分けがつかないかも知れないけれど」

「興味深いです。 髪の毛一本、貰って良いですか?」

「悪用しちゃ駄目よ」

ロマージュが苦笑して、長く美しい銀色の毛を一本くれた。

油紙に包んでいそいそとしまうエルフィールに、呆れたようにイリスが言う。

「それ、まさかホムンクルスの素材にするんですか?」

「そうだよ。 ロマージュさんの頑強な肉体を素材にするのもそうだけれど、南方人の特性も取り入れてみたいかなって思ったから」

「頑強ってねえ……」

「ロマージュさん、顔怖い」

キルキがさっと距離を取った。ロマージュが咳払いしたので、茶を濁してこの話を終わらせる。

雨は、まだ降り続いている。

 

雨が降る中、幾つかの砦に派遣した戦力が、南ドムハイトから侵入してきた兵と交戦を開始したという報告をアルマンは受けていた。

全面戦争の開始だ。しばらくは守勢を保ったまま、国内の安定を一刻も早く図らなければならないだろう。

伝令が来る。執務室で、アルマンは報告を受けた。と言っても、風呂に入る暇も顔を洗う暇もなく、目の下には隈ができたままだ。

「南ドムハイトは、王族の生き残りを自称する女性を国主に立てている模様です。 傀儡のようですが」

「そうでしたか」

「現在、砦の攻防についてはほぼ互角という所です。 増援は今の時点では必要ありませんが、兵士達の士気を高めるためにも、一度軍を率いて視察に来て欲しいと、将軍達が」

アルマンは応えず、幾つかの書類を側にいる侍従に手渡した。

もはやドムハイトの命運は尽きた。このまま南北で激しい戦いを繰り返す内に、衛星国は離れていき、シグザールに併合されるか配下になっていくだろう。海の利権もシグザールの航路開発に出遅れて、独占されることは疑いない。

エル・バドールがちょっかいを出していたから、その尻馬に乗る形で攪乱もさせたが、それもこの時を遅らせただけだった。

大きく嘆息したアルマンは、慌ただしく飛び込んできた伝令に気付く。

「伝令です!」

「何がありましたか」

「シグザール王国からの正式な使者が来ています!」

「……会いましょう。 主な部下達を集めてください」

疲れ切った顔で、アルマンは立ち上がろうとして失敗した。腰が抜けたかのように、椅子に貼り付いている自分に気付く。

慌ててメイド達が駆け寄ってきて、額に冷たい布を当てる。

「お休みください、殿下!」

「今も前線で兵士達が命を賭けて戦っているのに、私だけ休むことなど出来ません。 立たせなさい。 シグザールからの使者とやらに会ってから、少し眠ることにします」

泣き出すメイドが何名かいた。

妙な話だ。どうして役立たずで無能な自分が苦労していることで、泣く者がいるのか。この国はあまりにも長い惰眠を享受しすぎた。王族は惰眠を貪り、あまりにも多くの問題を積み上げてしまった。

そのツケが、一気にアルマンの両肩に掛かっている。新しく国主にされたという、南ドムハイトの女王とやらもそれは同じ事だろう。

乾いた笑いが漏れる。

この国の運命は、最早変えられない。そう、アルマンは思い始めていた。

 

2、異大陸へ

 

長雨を抜けてカスターニェに出る。実に一年ぶり以上だ。

相変わらず港には海軍の大型戦艦が停泊しているが、その他に民間の商船の姿が目立つ。雨で海が荒れているため、恐らく避難するために停泊しているのだろう。元々カスターニェは航路開発の過程で大型化した港だという話であるし、ごく自然なことである。

遠くに見える防波堤に、大きな波がぶつかっているのが見えた。その巨大さは、まるで小さな丘ほどである。

「ひええ。 恐ろしいなあ」

「僕は海を見るのは初めてなんだけれど、いつもこんななの?」

「今日は特別よ。 いつもは穏やかで、とても美しいんだから」

ノルディスに、ロマージュが若干不機嫌そうに言う。まあ、確かに海を愛する人間からすれば、こんな状態がいつもだと思われたら気分が悪いことだろう。

雨はずっと続いている。小降りになってきてはいるが、当分天候は不安定だろうと、途中寄った村にいた予知系の能力者に話を聞いた。そうなってくると、エル・バドールに渡るのは、延期しなければならないかも知れない。

宿に到着。以前も泊まった宿である。

中にはいると、水槽が増えていた。硝子製の高級なもので、中で魚を飼っている。もっとも、ただ水を入れただけでは海水魚は長く生きられないので、捌いて客に出すまでの展示用が主な用途だろう。

部屋を割り振って貰い、暖炉に当たって人心地着く。この街にも大型の公衆浴場があるそうで、後で皆で行くこととした。ずっと仏頂面を作っていたダグラスが、声を掛けてくる。

「俺は軍の本部に出向いてくる。 休むなら、今の内にしておけよ」

「分かってるよ。 ねえアイゼル、風船魚を美味しく食べさせてくれるお店があるんだけど、行ってみる?」

「大丈夫なの? あれって猛毒よね」

「それが、部位によっては毒が無くて、熟練の料理人ならきちんと捌けるんだよ」

ちょっと躊躇しているアイゼルに変わって、ロマージュが話に乗ってくる。彼女も南の漁村で産まれた人間だ。魚には目がないのだろう。

「あら、何処のお店?」

「ちょっと裏路地にある店なんですけれど」

ロマージュがぴたりと店を当てたので、エルフィールは驚いた。ロマージュからもアイゼルにお勧めをして、結局公衆浴場に行った後、皆で向かうことになった。

宿の外に出ると、まだ雨が降り続いている。フィンフはクノールと一緒に店番に残りたいと言った。アイゼルが一緒に行こうと誘っているのに、首を横に振っている。一方で、イリスは平然と着いてくる。

イリスが、意外と美味しいものに目がないことを、エルフィールは知っている。だから、着いてくることを止めはしなかった。

ルーウェンはハレッシュと連れだって、酒場に飲みに出かけた。もちろん飲むだけではなく、情報収集が主な目的だろう。ロマージュは一緒に着いてきてくれる。護衛という名目だが、風船魚の美味しい肉が食べたいだけだろうと、エルフィールは看破していた。

歩きながら、キルキが時々布で頭を拭う。アイゼルが横に来た時を見計らい、キルキは言った。

「フィンフ、少し様子がおかしい。 アイゼル、大丈夫?」

「ええ、気付いてはいるわ。 どうも最近私から距離を取ろうとしているみたいなの」

「反抗期かな」

「そんなものだったら良いのだけれど。 この間、ヘルミーナ先生に警告されたの」

ホムンクルスに入れ込みすぎると、いずれ痛い目に会う。そう、先生は言ったのだという。

ヘルミーナ先生はホムンクルスに異常な愛情を注いでいるが、その一方で感情を与えないなど、歪な部分がある。フィンフも、感情を与えないように意図的に設計されているのだと、アイゼルは言う。

「最近思うの。 ホムンクルスも、結局人間が作っている以上、人間の影響を受けるんだって。 そうなると、人間とホムンクルスの差は、接していればいるほど無くなっていくと思うのよ」

一理ある。それに、その気になれば人間と全く変わらないホムンクルスを作ることは、そう難しくない。実際にホムンクルスの失敗例としては、そのようなものが幾らでも存在しているのだ。

倫理的な問題もあって、人間を直接作ることは、出来るだけしないようにと暗黙の了解が作られている。だが、アイゼルは言う。ホムンクルスを実験用に作り出すとしても、彼らの意志を出来るだけ尊重してあげたいと。

「ホムンクルスが人間の代用品で、どうしても人間には出来ない実験を行うために必要だって意見は私も理解できるわ。 実際、人体実験を行わないと、医薬品だけに限らず進歩しないものは幾らでもあるもの。 でも、だからといって、彼らの尊厳を踏みにじるのは、おかしいと思うの」

「そうだね。 アイゼルなら、そう考えそうだね」

ノルディスが同調した。キルキは無言で、隣を歩いている。

イリスが一瞬凄絶な表情を浮かべたが、すぐに平静を取り繕う。この間イリスの過去について知ったエルフィールにしてみれば、分からないでもない。キルキにも、話はしてある。だから、無言で歩いていたのだろう。

公衆浴場についた。今日は雨と言うこともあって、かなり繁盛している様子だ。誰もが体を温めたいのである。

酒の一種も幾らか売っている。車引きはカスターニェでは滅多に見掛けないが、露天はある。スープを中心とした、熱々の食品類を主に売っている様子だ。しかも飛ぶように売れている。

「あっちも良いかもしれないわねえ」

「駄目ですよ、ロマージュさん。 あのお店、いつもやってるわけじゃないんですから」

釘を刺してから、男女別れて、風呂に向かった。

風呂は多少狭かったが、それでも湯温は適切で、充分にリラックスすることが出来た。ひとしきり湯船に浸かった後、長旅の汚れを落とす。これからさらなる長旅が待っているのだから、中間点でしっかり体を洗っておくのは悪くない。

イリスは最近クライド先生に鍛えて貰っているのだが、体に傷の類はない。すべすべの肌のままだ。

「イリス、肌綺麗なままだね」

「み、見ないでください」

「クライド先生、手加減してるのかな。 私なんか、結構細かい傷増えてるんだけどなあ」

それは野外に出ているアイゼルやキルキも同じだ。アイゼルはおなかの辺りに、ちょっと大きめの傷がある。

この間、強力な大蜥蜴に襲われた時に出来たものだ。

いつも冷笑的なイリスが、この時ばかりはとても動揺するので、からかいがいがある。しばらくイリスで遊んだ後、髪の毛を洗ってさっぱりする。湯船に浸かってゆっくり体を癒していると、イリスとキルキが湯船の隅で話をしているのが聞こえてきた。艶っぽい話でもしていたら面白いと思ったのだが、違う。純粋に、錬金術の話だ。

「なるほど、参考になった」

キルキはまた、新しい酒でも造るつもりだろうか。それはそれで、面白いことである。そろそろエルフィールも酒を堂々と飲める年だ。ちょっと恥ずかしそうにしているイリスと違って、キルキは開けっぴろげである。発育が悪いとは言え、そろそろ恥じらいくらい覚えた方が良さそうなのだが。こればかりは、男でも出来ないと無理か。

開けっぴろげと言えば、ロマージュは奥の方で堂々と湯を浴びている。此方は開けっぴろげでありながら、女の武器の使い方を良く心得ている。この間フレアに聞いた所によると、最近男関係が結構派手らしく、ついに男同士が刃傷沙汰になりかける事件まで発生し、ディオ氏が頭を抱えていると言うことだった。

ただ、そろそろロマージュも適齢期だ。冒険者としてかなり稼げているとは言え、一歩間違えると子供どころか結婚も出来なくなる。ロマージュも焦っているのかも知れない。

特に戦士をやっていたような女性は、体内への負担も大きいので、戦いから身を引くと一気に老けることがあるという。特に体型が崩れて太る人物が多いそうで、元戦士とはとても思えない豚のような姿になってしまうこともあるらしい。必ずしも全員がそうというわけではないのだが、ロマージュは多分老けるという点では当てはまるだろう。

よく見ると、艶めいた彼女の体は、実戦的な筋肉によって構成されている。食肉目と同じである。元は漁村の出身だという話だし、結婚を急ぐのも無理はない。この世界、エリートは婚期が遅れる傾向にある。冒険者としてはかなり優秀な彼女だが、それが今は逆に足かせになってしまっていると言うことか。

エルフィールも他人事ではない。

結婚なんぞする気はないが、今の時点では、覚えておいて損はないことであった。

 

風船魚の料理を堪能した後、宿に戻ると、ダグラスが帰ってきていた。ルーウェンとハレッシュは、まだ酒場から戻ってきていない。多分、冒険者として、話をしておく事があるのだろう。

「さっぱりしたようで、何よりだな」

「それで?」

「……」

ダグラスは何か言いたそうにしていたが、エルフィールにはあまり興味がないことだ。そういえば、ダグラスはエルフィールがイリスを作ってからまた態度を硬化させたような気がする。

席について、アイゼルとノルディス、キルキも呼ぶ。イリスとフィンフは、一緒に荷物の整理。クノールは買い出しに出て貰った。

「今、ちょっと船の方で問題が起こっている」

「船というと、エル・バドールに向かう船のこと?」

「そうだ。 お前らを乗せて、エル・バドールに行く船のことだ」

ダグラスが少し不機嫌そうに言うので、アイゼルとノルディスが顔を見合わせる。

ダグラスの言う所によると、実際には船そのものではなく、航路の方に問題が発生しているのだという。

「ちょっと厄介な奴が住み着いているみたいでな。 偵察に出た軍艦が、狼煙を上げて知らせてきた。 エル・バドールに行くには、そいつを大きく迂回するか、或いは叩きつぶして行くしかないって事だ」

「叩きつぶせば良いでしょ」

今回の任務、出向くのはもちろんエルフィール達だけではない。

騎士団からも精鋭が出る他、兵士達の中からも手練れが選抜されると聞いている。生半可な魔物など、それこそ束になっても鎧袖一触である。その上、出される船は恐らく新型の戦艦だ。ドラゴンでも容易には近づけないだろう。

「それでも対処が難しい相手だって事ですか?」

「そう言うことだよ。 一応対抗戦術はあるが、それが出来る部隊は今手近にいないし、養成するのに時間が掛かる。 だから、ちょっと無理をしてでも、強引に突破するしかない」

忌々しげに言うダグラス。此奴が不機嫌な理由については、だいたい想像が付いた。

「それで、私達に、戦術に必要な道具を作れって言うこと?」

「そうだ。 少し前まで、この街には俺も知ってる有名な錬金術師がいてな。 そいつがいたなら、何もお前達に頼むこともなかったんだが。 軍の備蓄品だけだと、ちょっと足りないみたいでな」

材料は、あるという。此処にいたという錬金術師、余程軍との関係が深かったのだろう。砦の中にアトリエを構えて、材料を揃えては色々と調合をしていたらしい。材料の調達はほとんど自分でやっていたようだが、たまに騎士団も手伝うことがあったのだとか。

羨ましいなと、エルフィールは呟く。そんな立場になることが出来れば、資金を気にせず、好きに研究が出来るだろう。生きている縄もたくさん作れるし、そのほかの道具類も作成し放題だ。

強力なスポンサーがいるというのは、錬金術師にとってこれ以上もないほどの利点になる。

舌なめずりすると、皆を見回す。

「私は構わないけれど、どうする?」

「私は、そうね。 構わないわ」

道中話したのだが、アイゼルはエル・バドールの技術に興味があると言っていた。それはノルディスも同じだろう。

ザールブルグのアカデミーでも得られる知識は非常に多いし、まだ学んでいないことは幾らでもある。

それに、イリスと話して感じたのだが、エル・バドールの錬金術は、ザールブルグで学んだものと方向性が違う可能性が高い。どうやらエル・バドールでは、一度技術発展が頂点に達した後、退化した形跡があるからだ。

「私も構わない。 ただ……」

「ん? キルキ?」

「出来れば、戦いは避けたい」

キルキは言う。

知的好奇心のために、別大陸に行くことは構わない。しかしそのために、避けられる戦いを避けないのはあまり好ましいことではないと。

ノルディスもそれに賛成した。

それを見ていて、ダグラスは少し表情を和らげる。

「気持ちは分かるが、どうやら道をふさいでいる奴の行動はかなり活発化しているらしくてな。 一応迂回路を通るが、遭遇しないとは言い切れない状況だ。 もしも遭遇してしまうと、そいつを殺す戦力がない場合は、引き上げるしかない。 物資と時間を、大幅にロスすることになる」

今回の航海は、国家的なプロジェクトだと、ダグラスは言う。

ならば、失敗は許されない。しばらく考え込んだ後、キルキはレシピを見せて欲しいと言った。

 

石造りの砦の中はひんやりとしていて、通路は長く、兵士達が行き交っていた。ダグラスが彼らに事情を説明しているのを横目に、辺りを観察。攻撃することになっても、簡単には落とせそうにないなと、エルフィールは判断していた。

通されたアトリエは、がらんとしていた。此処を使っていた錬金術師が、移動する際に道具をあらかた持っていったらしい。逆に言うと、それだけの輸送能力を有していると言うことである。幾つか置かれている長机と、空っぽになっている竈、それに錬金術に使う釜。

あるのは、それだけだ。窓もない。天井からぶら下がっているランプには、油も入っていなかった。

スポンサーが大きいと、色々と便利だ。だが、それが手を引くと、こうも寂しくなるものか。

アトリエ自体は広く、四人+助手三人で充分に使える。更に言えば、荷車に積んで持ってきた道具類を使えば、レシピの品は作成可能だ。

隣には倉庫が併設されている。覗いてみると、かなりひんやりとしていた。熱が外から入りにくいようになっているのだろう。

それにしても、このレシピを、此処で見ることになるとは思わなかった。

以前ヘルミーナ先生に、改良するには何処が良いかと言われて、返答したレシピである。その海上にいる奴を倒すために作り上げたものだったのだろう。エルフィールには見たことのあるレシピである一方、細部はだいぶ違っていた。恐らくは実戦投入した後、細かい部分を改良したのだろう。

「私が鉱物加工を担当するわ」

「それならば、僕は薬品の調合をするよ」

「それなら私は、生きている部品の製造かな」

カトールは此処にいないが、代わりに魔力の杖を持ってきている。これで魔力を通すと、うっすら悪霊の姿が見えるのだ。どちらにしても此処は大都市。墓場に行けば、幾らでも悪霊くらいは捕まる。

キルキはと言うと、他の雑多な部品を全て担当すると言ってくれた。どちらにしても、植物性の部品が多いレシピである。生体爆雷とでも言うべきこの魚のような兵器は、皆の力を結集すれば、作るのはそう難しいものでもなかった。

フィンフはアイゼルに。イリスはキルキの手伝いをして貰う。クノールには、買い物をしてもらうことにした。

「買い物ですか?」

「採集するよりも、買ってきた方が早い品が幾つかあるの。 クノールには、ひとっ走り行ってきて欲しいと思ってね」

「分かりました。 すぐにでも」

元々大きいアトリエだ。全員がすぐに作業を開始しても、充分なスペースが余っていた。エルフィールはクノールと一緒に砦を出る。兵士達は、急いで飛び出して行くエルフィール達に、好奇の視線を向けていた。

まずは、墓場に。

雑多に行き交う人々が、噂をしているのが聞こえる。やはりドムハイト関連の噂が中心のようだった。ましてや此処は交易で栄える都市だ。海上の安全に関する情報に関しては特に注意しているのだろう。

あまり大っぴらには出来ないが、ドムハイトとの密貿易をしている商船もあるはずだ。そう言った連中からすればかき入れ時に違いない。武器は幾らでも売れるだろうし、秘密裏に脱出したがる人間も数多に登るはずだ。それらを捌くだけで、簡単に一財産を築き上げることができるだろう。

兵士に聞いたとおりに路地を進んで、墓場に到着。

結構新しい墓場だ。墓石は古いものと新しいものが雑多に並んでいて、街の拡大に応じて拡張されたのが一目で分かる。

魔力の杖を手にして、全身に魔力を通す。呼吸を整えると、うっすら見えてくる。特に質が悪いのは少ない。そういうのは、無縁墓にでもいけば手に入れやすいのだが、此処ではその当てもない。

しばらく見繕った後、適当なものを、木材に定着させる。

定着用の薬剤は、常に持ち歩いているから簡単だ。墓の管理人に、定着させる木材を盗まれないように一言告げてから、一旦戻る。魔力の杖から手を離すと、体内を流れる魔力が、目に見えて減っていくのが分かるようになっていた。

やはり、よく分からない体質だ。

戻りつつある記憶と合わせても、意味が分からない。今後これがどうエルフィールの運命を左右していくのかも、あまり予想が付かなかった。

兵士達に学生証を見せて、砦の中のアトリエに。

既に、アイゼルは作業をかなり進めていた。クノールも一足先に戻って、ノルディスに購入した薬品類を渡している。キルキはと言うと、てきぱきと組み立てるべき部品を揃え始めていた。

エルフィールは墓場に木材をおいてきたことを告げると、まずはキルキの手伝いにはいる。辺りに並べられている木材を調べて、規格があっているか、組み合わせる時に問題がないが、入念にチェック。

だが、流石にキルキの加工した部品だ。何ら問題のない出来に仕上がっていた。

次はアイゼルである。アイゼルの作業は、兎に角手間が掛かる。鉱物の加工や裁縫に関しては、同学年でもアイゼルの右に出る学生はいなかったが、それでも、である。

ざっと見た所、やはり研磨関連の作業が滞っている様子だ。アイゼルの隣に座ると、手伝いを開始。作業をしている内に、ノルディスが小首を傾げた。

「これは、本当に役に立つのかなあ」

「どうしたの?」

「うん。 薬剤のレシピを見る限り、毒でもないし、誘引物でもないんだ。 ひょっとすると、この生物にだけ効くものなのかも」

「……」

形状から見るに、これは巨大な生物に突き刺すための道具と見た。ならば即死させる毒が適切の筈だが、何かしらの理由で通用しないのかも知れない。

人間には全く害にならない薬品や食品が、別の動物には猛毒になるというのは、良くある事例だ。犬や猫などでも結構そう言う例がある。確かに、ノルディスの推理は、的を得ていると言えた。

それにしても全員で一緒に調合をするのは久し振りだ。学年が低い頃は、依頼をこなすためにこんな事をしたが、四年くらいになってからは、各自が相当量の仕事を捌けるようになってきて、無理をしなくても大丈夫になった。

「これを四つか。 一体どんな相手なんだろうね」

「さあ。 でも、出来れば殺したくはないわ」

アイゼルが言う。

イリスはずっと浮かない顔をしていた。

 

一つ目が仕上がった時点で、仮眠を取る。他のものも、既に完成の目処がついていた。

イリスは端っこで壁に背中を預けて、膝を抱えていた。隣に座ると、エルフィールは火力を下げているランプを見上げる。

「どうしたの?」

「今回、作っている道具。 恐らくは、クリーチャーウェポンを殺すための道具です」

「ふうん」

それで浮かない顔をしていたか。

生物兵器とホムンクルスは、確かにかなり近しい存在だ。人類の文明を発展させるため、人間でありながら人間でない、使い捨て可能な道具として作られたホムンクルス。自然の法則を歪めて、人間の戦争を円滑に進めるために作り上げられたと思われるクリーチャーウェポン。

だが、軍用馬や軍用犬、場合によっては伝書鳩も、一種のクリーチャーウェポンとも言える。ある意味、軍人もそうではないのだろうか。

「私は、何なのでしょうか。 結局、クリーチャーウェポンの心臓部にするために、人間と同じ精神を与えられたとは言え、ホムンクルスには代わりありません。 ただ残忍に使い潰されるのを待つための、肉の人形なのでしょうか」

「まあ、錬金術師にとってはそうなるね」

しかし、エルフィールとしては、同じ事をしようとは思わなかった。

イリスは人間と何ら変わらない精神を持っていて、それが明らかにホムンクルスとしてはマイナスに作用している。

人間には逆らえないように予防措置はされているようだが、同じ精神を与えている限り、突破口はあるはずだ。逆に言えば、そんなものをどうしてクリーチャーウェポンの中核として作り上げたのか。それが、気になる所だった。

アカデミーで、エル・バドールの歴史については読んできた。シグザール王国と同じく、人間が殺し合い、奪い合い、作り上げてきた歴史だった。問題は技術の発展史だが、これについてはどうも腑に落ちない点が幾つもある。

「ねえ、旅の人については、何か知らない?」

「急になんですか」

「ホムンクルスを始めとする高度な錬金術は、大体が旅の人によってもたらされたんでしょ? 旅の人とやらは謎の存在らしいけれど、ホムンクルスについてはどう考えていたのかな」

「分かりません。 私も、錬金術の歴史については学びました。 しかし、いずれも人間にとって都合がよい部分しか教えられませんでしたから」

自分を生み出した錬金術とは、何なのだろう。

そう、イリスは膝を抱えたまま言う。エルフィールには、一つだけ、確信めいた事があった。

「多分、イリスを作った錬金術師達は、文字通り神になろうと思ったんだろうね」

「神に、ですか」

「そう。 人を超え、神になるための技術。 だから、わざわざ人としての精神を持つイリスを作って、それをクリーチャーウェポンの中核にするような真似をした。 でも、きっと巧くは行かなかったと思う」

もし巧く行っていたら、今頃世界はエル・バドールによって支配されていただろう。

だが現実はそうではない。むしろエル・バドールでは技術の空洞化が発生し、失われた技術まで出始めている様子だ。

何か、大きな事件があったのだ。

或いは、イリスがそれに関係しているのかも知れなかった。

いつの間にか疲れ果てたイリスは眠っていた。毛布を掛けてやると、エルフィールは自身も考える。

もしも、自分が実験動物だったのだとしたら。

少しずつ戻り始めている記憶を照合する限り、どうもエルフィールは、大好きな誰かのために、自ら実験動物になった節がある。

だから、それについては後悔もない。だが、流石に実験動物であることを強制されるのはいやだった。

イリスは気の毒な生を送った。そしてどういう訳か、その生を送った記憶を持ったまま、またホムンクルスとして生を受けてしまった。

一度記憶を全て失い、真っ白な状態で拾われたエルフィールと、似ている。それは分かっていたが、どうしてか今までは受け容れることが出来なかった。

しかし、無防備に、悲しげに眠っているイリスを見ていると、少しずつ沸き上がってくるものもある。

自分も甘くなったなと、エルフィールは天井を見つめて自嘲した。

 

レシピの道具を四機完成させた後、作戦会議が行われた。今回、エル・バドールに向かう船は、全部で五隻。ただし、軍艦は全て護衛の役割としてしか同行せず、途中で引き返すのだという。

そして、エルフィール達は、大型の漁船に乗って、エル・バドールへ向かうことになると言う。

「漁船ですか?」

「漁船とは言っても、大型で、軍による改装も受けている。 船足も速いし、充分な自衛能力もあるから心配はするな」

そう、今回引率の役割をするという聖騎士が説明してくれた。引率などと言っても、作戦の総指揮を取ることは間違いない。エルフィールにしてみれば、これから上官になる人物、というわけだ。

船長が紹介される。軍船四隻の船長は、いずれも充分な訓練を受けた海軍の士官で、皆逞しい筋肉質の男達だった。しかしながら、エルフィール達が乗る漁船の船長については、違った。

あっと声が出たのは、知っている人物であったからだ。

部屋に入ってきた彼女を見て、最初に声を挙げたのは、アイゼルだった。

「ユーリカさん」

「あんたら、そろい踏みで何してるんだ」

相変わらずの、三つ編みの髪と、良く焼けた肌。そして貧弱な体つき。

ユーリカは以前と殆ど変わらない姿であった。

なるほど、それで合点がいく。以前この街に来た時、ユーリカの船には採集の過程で乗せて貰ったのだが、漁船にしては異常に立派で、改装の余地も様々にあるように見受けられた。

軍が目を付けるのも無理はない。ユーリカは操船技術も優れているし、確かに適任であろう。

軽く事情を説明された後、ユーリカは席に着く。窮屈な会議は苦手そうだが、我慢して貰うしかない。

まず、航海のスケジュールについて説明。エル・バドールまで辿り着くには、大体二週間くらい掛かるという。問題はその四日目から七日目。その辺りで、「邪魔者」と遭遇する可能性が高いそうだ。

聖騎士の側にいる若い士官が解説してくれる。

「以前は、縄張りをこの辺りに限定していたので、此処だけを避ければ問題ありませんでした。 しかし此処一月ほど、不自然に縄張りを移動する行動が見えています」

「で、その邪魔者って、具体的には何なのですか?」

「フラウ・シュトライト。 我らの百倍に達する体長を持つ海竜です。 今生き残っているものは、だいぶ小型で、我々の四十五倍程度の体長ですが。 それでも、容易な相手ではありません。 覚悟してください」

「もっとも、我らは既に奴らを三匹仕留めている。 此奴を滅ぼせば、もはや海路に邪魔は存在しないがな」

自信深げに聖騎士は言う。

そういえば、以前ヘルミーナ先生の依頼で設計図を改良したが、多分その討伐の時に使ったのだろう。

ならば、あの道具は充分に実績がある、と言うことだ。

遭遇は避けるように航行をするが、遭遇した場合にはもちろん撃破のために動く。そのための戦術が、説明された。

まず、魚型の道具を海に放す。これは自動でフラウ・シュトライトを追尾して、毒を注入する。

だが、何しろあの鋭い角を相手に突き刺すのである。フラウ・シュトライトが大人しく毒を注入されるはずもなく、その間気を引かなければならない。

そのために、これを使うと、聖騎士が板のようなものを用意させた。板の後部には、見覚えのある石が着いている。

「エアドロップだね。 もの凄く圧縮されているみたいだけれど」

「本当だわ」

「そうなると、アレを推進力に使うのかな」

ノルディスがずばりと言う。言われてみれば、確かにそうやって使えば、水上を華麗に進むことが出来そうだ。

「四つ用意してある。 接近戦が得意な人間が、ヒットアンドアウェイで、海竜の気を引く。 出来るか」

「それなら、私がやります」

「俺もやる」

エルフィールが言うと、ルーウェンが挙手。ダグラスと、ハレッシュも立ち上がった。近接戦闘を行うのであれば、理想的な面子だ。アイゼルは腕を上げてきているが、能力がそもそも近接戦闘に向いていない。キルキは支援型で、遠距離での戦闘で猛威を振るうタイプである。ノルディスは決定的に経験が足りない上に、どちらかと言えば中距離型である。。

ロマージュはと言うと、タフネスが必要になる今回の戦闘には向いていない。華麗な回避技術は確かに美味しい所だが、しかし今回は海竜の猛攻をある程度の時間凌がなければならないのだ。

「今回相手にするのは、今まで撃破したものと比べるとかなり小型だが、それでも体長は通常のドラゴンとは比較にならないほどだ。 ちょっとしたミスが即座に命取りにつながるから、気をつけて欲しい」

「分かりました」

「ある程度相手を引きつけて、毒が敵の体内に回ったら、離れて欲しい。 一気に全艦からの攻撃を加えて、とどめを刺す」

使用するのは樽一杯に詰め込んだフラム、しかもそれを四セットだという。

フラムは戦略火器で、場合によっては山などに仕掛けて、土砂崩れなどを発生させることが可能な破壊力を持つ。言うまでもなくクラフトとは違って本来戦略的に使用するものであり、まさかこれほど派手な使い方をすることになるとは。驚きである。

相手がそれだけ強大だという事もあるのだが、若干戦慄してしまう。

まさか、この生物。いや、ほぼ間違いないだろう。

エル・バドールが作った生物兵器だ。そして、以前からヘルミーナ先生とイングリド先生は、それとの戦いに駆り出されていたのだろう。

色々と、思う所が深い。

ただ、先生達が後悔しているようには見えなかった。逆にすっとしているようにも見えなかった。もう、故国については、それこそどうでも良いと思っている、と言うことなのだろう。

「流石に上位の聖騎士などは、作戦を一度でこなして見せたが、君たちに其処までの期待はしていない。 何度か模擬戦をして貰い、訓練をしてからエル・バドールに向かうこととする」

「分かりました。 それでは、明日からでも」

「意欲的で結構なことだ」

聖騎士は嬉しそうに口ひげを蓄えた頬を歪めたが、実際には時間がもったいないから、というのが真相である。

会議が解散になる。

会議室の外で、ユーリカを捕まえた。

「お久しぶり」

「ああ。 元気にしてたか?」

「うん。 みんな揃って、錬金術アカデミーを卒業したよ。 今は上位学年にあるマイスターランクに通ってる」

「そうかい。 よく分からないけど、夢に向かって頑張ってるんだな」

ユーリカはあまり成長していないように見えたが、近くで見ると、やはり若干時の流れを感じる。僅かに背も伸びたようだし、逞しくもなっていた。ばりばり漁をして、腕を磨き抜いているのだろう。

砦の外に歩きながら、幾つか状況を確認する。

「お船を良く改造する気になったね」

「どうも前々から商売敵が多くてね。 それに、航路がドンドン開発されて、隠し漁場も一つか二つ、場所が知られちゃってさ。 結構頭にも来てたんだ。 で、せっかく持ってる船だし、色々活用したいと思って所に、軍からお呼ばれが掛かったんだよ」

「へえ。 でも、前向きに考えてるのは偉いね」

「前向きなもんか。 結局船には手を色々入れられちゃったし、それに、何だか分からない化け物と戦うことになるわけだろ」

名前は売れるかも知れないが、船が壊されないか心配だと、ユーリカは言った。

彼女によると、その怪物については、周知の事実であったという。騎士団が最初退治した時には、文字通り血みどろの死闘になったらしく、港が血の海になったそうだ。しばらくは酷い匂いが港から抜けなかったと言うことである。

「結局あれが四匹以上もいたとはね。 死体も遠巻きに見たけど、そりゃあ大きかったよ」

「羨ましいなあ。 私も見たかった」

「気分が良いもんじゃなかったよ」

呆れ気味に、ユーリカが苦笑した。

宿屋に戻る皆と別れてそのまま港に出て、ユーリカの船を見せて貰う。前に乗せて貰った時同様、とても大きくて、個人所有の船とはとても思えなかった。

色々複雑な事情があるだろうその船は、軍船が停泊している一角に碇を降ろしており、兵士が何名か警備に当たっている。先ほどの会議で確認した、護衛の船を見ておく。船上に投石機があるのを確認。あれで樽を放るのだろう。

「ユーリカさんの船、船足早くなったんじゃない?」

「ああ。 でも、水夫を乗せることになるから、ちょっと煩わしいね。 帆を張って、一人で動かしてる方が気楽で良いよ」

「そっか。 じゃあ、明日また。 訓練ではいい動きを見せてよ」

「そっちもな」

激励を交わし合い、宿に戻る。

もうすぐ、エル・バドールに行く。豊富な知識と、未来が待っている。それらを得るためには、こんなところで、足止めなど受けてはいられなかった。

 

3、最後の海竜

 

小型の快速船が、情報を運んできた。

現在、フラウ・シュトライトが巣くっている海域を大きく迂回して来ている船である。時間は掛かるが、確実に人員の交代と情報の伝達をすることが出来るので、そうするよう聖騎士ジュストが手配したのだ。

さっそくマリーを含む、作戦の主要メンバーが集められる。

「情報によると、フラウ・シュトライトの動きが活発化しているらしい。 近くを通りかかる船に、見境なく威嚇しているそうだ」

「へえ。 恐らくは長老派の仕業ですね」

「多分な。 此方が幾つかの施設に潜入して、情報を奪い取ったのに気付いたのかも知れん」

セルレンらの降伏を受け容れ、情報を得たことで、俄然活動は楽になった。牙が集めてきた幾つかの施設の情報をそれらとすりあわせ、特別編成した精鋭部隊で潜入を行ったのだ。

結果、色々なことが分かってきた。

現在、エル・バドールは兵員三十七万。人口はおよそ千五百万。純粋な兵力はシグザール王国の倍近いが、兵士の質は極めて低い上、海軍は七千ほどしかいないため、シグザールに兵力を送り込むのは極めて難しい。

兵士達が装備している武器についても調査は進んだ。彼らが使っている武器は、クロスボウよりも更に射程が長い武器であり、しかも手入れが簡単である。その代わり、練度が著しく低い。まともに使いこなせる兵士はあまり多くないようで、内部の腐敗も酷い。既に武器については幾らかを入手し、本国へ後送済みだ。量産は今の時点では難しいが、しかし錬金術アカデミーで、対抗策を考えさせることくらいは難しくはないだろう。

結論として、人間同士の戦争になっても、負けることはない。ただし、此方から攻め込んだ場合、勝つことも難しいと試算が出ていた。

一方クリーチャーウェポンに関しては、弱い者から強い者まで全て合わせて、およそ一万八千が存在しているという。その内戦略級と呼ばれるものは十七体。殆どはエル・バドール国内での戦闘を想定して作られているものばかりで、他所の国に出して戦わせることが出来るものは少ないと言うことであった。

いずれにしても、敵の兵力が大雑把にでも把握できたことは大いに収穫となった。

だから、戦略についても、比較的余裕を持って組むことが出来る。

「それで、今回はいっそのこと、第二陣でフラウ・シュトライトを潰すこととした」

「確かに彼処に陣取っていられると、色々と面倒なんですよね。 良い判断だと思います」

気楽にマリーは応えたが、実際にはそう簡単ではないことも分かっている。緒戦での大きな被害や、苦戦のことを忘れてはいない。エンシェント級のドラゴンを遙かに凌ぐ耐久力を持ち、天候を操作するというとんでもない能力を持つフラウ・シュトライトである。尋常な攻撃で潰せる当てではない。

対抗戦術も既に組み上がってはいるが、しかしそれをこなせるクーゲルは、今ドムハイト方面の諜報を中心に行っていると聞いている。イングリド先生達にこれ以上借りを作ることを騎士団は好まないだろうし、そうなってくると第二陣の若干未熟な面子だけで、フラウ・シュトライトを潰さなければならなくなるのだ。

つまり、対抗戦術の威力が、此処ではっきり示される。戦略級クリーチャーウェポンの戦闘力は、一個師団を相手にすることを想定していると言うことだが。あっさりそれが未熟な第二陣の手で陥落すれば、エル・バドールの長老派の心理に、大きな楔を打ち込むことが出来るだろう。

まあ、お手並み拝見、という所だ。

いくらかのクリーチャーウェポンの情報が、順番に提示されていく。弱めのものは、それこそ数が揃わなければ何の脅威にもならないようなものばかりだ。一方、強力なものは、油断するとかなり危ない。

「このグリフォンと呼ばれるものは面白いですね」

「獅子と鷹のいいとこ取りと言うわけだな。 これについては、シグザール王国にも持ち込まれた形跡がある。 もっとも、けしかけた村ではことごとく返り討ちにしている様子だが」

「まあ、そうでしょうね」

面白いが、強そうだとはマリーも言っていない。グリフォンとは鷲と獅子を足して二で割ったような生物であり、話だけを聞くと強そうではある。陸の王者と空の王者を合わせたというのだから。

しかしながら、足して強さが二倍になるかというと、そうはならないだろう。むしろ、互いの長所を消しあってしまうように思える。というよりも、もしもグリフォンのような生物が最強であるというのなら、自然界にとっくに誕生しているはずだ。

脅威になるクリーチャーウェポンは四分の一ほどだと、マリーは判断した。いずれにしても、情報を更に吟味して、場合によっては対抗戦術を準備しておく必要がありそうだ。

会議が終わると、マリーは肩を叩きながら自室に戻った。

戦いたいが、最近どうもその機会がない。体が鈍るのを防ぐのは、予想よりもずっと面倒だった。

 

四隻の護衛艦と共に、ユーリカの船が出航する。既に実際に海竜と接触した場合の戦術については吟味を尽くし、勝てない場合の対処策についても徹底的に議論を尽くした後だ。昨日はエルフィールもたっぷり眠りを取り、英気を養った。もっとも、フラウ・シュトライトにいきなり遭遇することはないだろうが。

奴が棲息する海域まで、三日か四日と推察されている。迂回して進むのだが、それでも遭遇する可能性は否定できないという。

船縁に出る。

抜けるような空を、鳥が舞っている。ミャア、ミャアという鳴き声が聞こえた。

かなり大きな鳥であり、撃ち落として食べたら美味しいかも知れない。見つめていると、ユーリカが来る。

「帆を張ったから、しばらくは何もしなくても進むよ。 舵についても、今の時点で調整はいらない」

「お疲れ様。 船のことは分からないから、万事よろしくね」

「ああ」

ユーリカが少し嬉しそうにした。

そういえば、会議の際は、ずっと不機嫌そうだった。自分の船なのに、思うように動かせないという状況が、彼女を不機嫌にさせていたのだろう。隅々まで磨き抜かれている事から言っても、彼女がどれだけこの船を大事にしているかは一目瞭然だ。

船が揺れる。

ユーリカが使っているこの船は、漁船にしてはかなり大きい。見たところ、交易船を改良したようにも思える。居住スペースまで確保されていて、中には十人程度が住むことが可能だ。食料も、三ヶ月分は積み込む事が出来る。

だが、その巨大な船であっても、海に出ると木の葉のようである。今も押し寄せる波に、大きく揺らされている。沈没するとは思わないが、自然の力は凄まじいなとも感じさせられる。

「凄いね、波の力」

「そうだな。 私の父さんも、同じ事を言ってたよ」

隣の船縁に、ユーリカが座り込む。膝を抱えて、ちょっと孤独そうに。

エルフィールは孤独が未だに怖い。記憶が少しずつ戻り始めた今でもだ。だから、何となくユーリカの恐怖は理解できる。

世界に自分しかいないような恐怖は、多分一度経験しないと分からない。そしてそれがもたらす、心の傷も。

ユーリカはこれだけの船を、必死に守り抜いてきたはずだ。荒事をこなすことだってあっただろう。散々怖い目にもあってきたのは疑いない。だから、ユーリカにとって、この船は自分自身も同然。何があっても、守り抜かなければならなかった。

「エリーのお父さんは、どういう人だったの?」

「私、家族の記憶は一切無くてね。 六年以上前の記憶は曖昧で、殆ど無いんだ」

「そ、そう。 ごめん」

「いいよ、今更だし。 ユーリカさんは?」

呼び捨てで良いと、ユーリカは言う。

少し、距離が縮まった。

「私の父さんは、腕利きの商人でね。 交易交易で毎日を過ごしてて、物心ついた時には、ずっと世界中を飛び回ってたよ。 この船は父さんの財産の一つで、私に残された唯一のものだよ」

何か、違和感がある。ユーリカは今の言葉を疑っていない様子だが、どうも騎士団の報告を途中で聞いたものとは食い違っている。

或いは。

だが、それはいわないほうが花という奴だろう。

「父さんの事が好き?」

「ううん、今は好きだし、恨んでもいる。 でも、この船を残してくれたことだけは、感謝してる」

愛憎混じった相手と言うことか。そう言う感情を、人間が時に抱くことを、エルフィールは知っている。

それ以上、ユーリカは何も言わなかった。ただ、隣で、膝を抱えて座っていた。

しばらくすると、風向きが変わったので、ユーリカが帆を調整しに行った。良く方角が分かるものだなと、感心してしまう。まあ、エルフィールにも、太陽の位置と、影の向きで、大体判断は出来るが。

幾つかの島を通り過ぎていく。小さな集落があるもの、或いは無人のもの、様々だ。マストに登っていたアイゼルが降りてきた。見張りをユーリカに頼まれていたのである。

マストには小さな梯子が着いており、上に見張り台がある。と言っても、一歩四方くらいしか広さが無く、風が吹くとかなり揺れる危ない場所だ。しかし、自分を鍛え上げ、実戦もしっかり経験しているアイゼルは、その位の困難はもうものともしない。降りてきたアイゼルが、フィンフからタオルを受け取り、顔を拭く。

「アイゼル、どうだった?」

「今の時点では、敵影は無しよ。 微風で、雲も無し。 凄く日焼けしそうな天気だわ」

「そうだな、もう少し季節が夏に近付けば、気をつけないと火傷することもある」

「そんなに。 でも、頷ける話だわ」

同じお日様の筈なのに、ザールブルグでは起こらないことも、此方ではある。しかも、この暑さで、誰もが薄着をしているのだ。今後更に熱くなると、もっと服を薄くする必要が生じてくる。その時、日焼けで火傷などしたら大変だ。

アイゼルが少し考え込んだ後に、フィンフに言う。日焼けを防ぐ薬を作れないだろうか、と。

イリスが、船倉から上がってきた。日焼けを止める薬云々を聞いて、小首を傾げる。エルフィールはちょっと興味本位で聞いてみた。

「そんな薬、かってのエル・バドールにもあったの?」

「さあ。 私が作った薬の中には、用途が分からないものもありましたから。  ただ、薬用クリームの類はかなりあったように記憶しています」

「じゃ、せっかくだから、向こうに着いたら調べてみるかな」

新しい目的が、また一つ出来る。

エルフィールはこの後の戦いで、自分が敗れることなど考えてもいない。必ずや、孤独ではない場所を作るのだ。そのためには、新しいスキルを身につけ、知識を習得し、そしてコネクションを強くしていかなければならない。

この作戦で活躍すれば、軍だけではなく騎士団にも大きなパイプを作ることが出来る。そうすれば、必ずや。

膝を抱えて、暗い部屋の隅で蹲っている、痩せた自分の姿が、鮮烈にフラッシュバックした。

イリスに何でもないと呟くと、エルフィールは一旦船底に降りる。

キルキが船底にいて、何か調合をしていた。ちょっと誰かと喋らないと、怖くて仕方がなかった。この弱みは、特にアイゼルにだけは、見せられなかった。

最近、記憶が戻るようになってきてから、時々孤独に対する不安が、今までの比ではないレベルで顕在化する。怖いのではない。本能のレベルで、体が拒否するのだ。そうなると、調合も思考も手に着かなくなり、誰かと喋らないと発狂しそうになる。

歴戦を積み重ね、着実に未来へ向けて歩いているのに。

エルフィールは、新しい弱みを抱えてしまい始めていた。

「キルキ、何の調合してるの?」

「エリー。 腐った果実があったから、貰って発酵させて、お酒にしてる」

「そっか」

以前の試験で、如何に腐った素材から、まともなものを造り出すかというものがあった。キルキもそれはかなり上手にこなして見せた。

長旅をするので、どうしても腐ってしまう食料は出る。壊血病という、栄養を偏った取り方をした時にかかる病気があり、それを防ぐためにもどうしても野菜果物類が必要になるのだ。

当然のことながら、それらは腐りやすい。

「お酒、兵士の人達に喜んでもらえると嬉しい」

「いいの? お酒のませても」

「酔っぱらって乱暴しなければいい。 お酒の毒で、頭がおかしくならないように、工夫いっぱいしてる」

とっさに造る酒でも、手は抜かないと言うことだ。

借りている樽に、酒の元を注ぐキルキ。エルフィールは無言で生きている縄に指示して、手伝わせた。

最後に、樽の中に、汚れを吸着させるための蒸留石を幾つか入れる。軽石の一種であり、細かい孔が多数開いているために、非常に効率よく汚れを吸着することが出来るのだ。精度が高い蒸留水などを作る時には、これを用いる。

キルキが酒造りの時に使うのは、事前に様々な加工を施した特殊な品だ。レシピはエルフィールも見せて貰ったが、良くも此処までの工夫が出来るものだと、感心した。

兵士達に、キルキが指示している。暗がりに四日ほどおいておけば、飲めるようになると。

兵士達も喜んでいる。キルキは、あまり飲み過ぎないようにと、釘を刺していた。

ノルディスが船倉の奥から出てくる。

「エリー、鼠が少しいるみたいだから、退治を手伝ってくれないかな」

「よっしゃ。 いいよ。 三番、二番、五番。 鼠退治」

エルフィールが袖から生きている縄を垂らし、木床に下ろす。

見る間に蛇のように動き始めるそれを見て、兵士達が恐怖の声を挙げた。それもまた、心地よかった。

あれほど、人恋しかったというのに。

 

出航後、七日目。

ついに、順調だった旅に、壁が立ちはだかった。

露骨に天候が悪くなり、船が激しく揺れ始めたのである。今まで空は青く澄み渡っていたというのに、あまりにも異常すぎる変化だった。

マストに這い上ったユーリカが、すぐに降りてきた。

「普通の嵐?」

「違うね。 見たけれど、雲の動きや、大きくなりかた、風の吹き方が異常すぎる。 明らかに魔術によるものだ」

「となると」

「十中八九間違いない。 大きく住処を迂回してやったっていうのに、喧嘩を売ってきたって事さ」

ユーリカはそう言うが、エルフィールはどうもおかしいと感じている。

事前に説明された航路については覚えていたが、北への移動が少なかったように思えるのだ。

或いは。

この船、いや艦隊は、敵の縄張りの真ん中に最初から突入したのかも知れない。

波が大きくなってくる。複数の方向から来た波が、三角波と呼ばれる状態になっているものだ。まるで小山のような大きさで、凄まじい雷雨と合わさって、まるで滝に打たれているような有様になった。

海に墜ちたら即死である。

「爆雷用意!」

兵士達が声を張り上げ、エルフィール達が作った魚型の爆雷を、海に下ろした。まるで本物の魚のように、爆雷が海に飛び込み、泳いで消え去る。ユーリカは舵を必死に動かしながら叫ぶ。

「頼むよ! どうやら相手はお怒りらしいからね!」

「分かってる!」

ハレッシュとダグラス、それにルーウェンが上がってくる。ルーウェンは眼を細めて、雷雨の向こうを見つめた。

何か呟くのを、エルフィールは見た。唇を読んだ所、もうすぐだとか言っていた。

この男、やはり何か目的があってアイゼルに近付き、この船に乗り込んできたか。まあ、それがプラスに働くのなら、何ら問題はない。

兵士達が、水上移動用のボードを用意してくる。

既に練習を重ねて、荒波の上でも乗りこなせるようになっていた。

生きている縄を、全員に配る。いざというとき、命綱になる。生きている縄に命令を与えた後、ルーウェンがする指示を聞いた。

「良いか、俺達の任務は、あくまで時間稼ぎだ。 遠距離、中距離組の支援を受けながら、海竜の気を逸らすのが目的になる。 無理はするなよ。 特に、エルフィール。 あんただ」

「私が?」

「そうだ。 お前の戦歴をアイゼルやキルキから聞いたが、命を粗末にする傾向があるらしいな。 普段戦っているような雑魚ならともかく、今回戦うのは、一撃クリーンヒットが入れば即死確定の難敵だ。 くれぐれも、無意味な特攻は仕掛けるなよ」

さもなくば、この場にいる数百人全員の命が危険にさらされることになると、ルーウェンは釘を刺してくる。

言われるまでもないことだ。

だが、しかし、同時に。そんな風に思われていたのかと、ちょっと驚いた。或いは、それは正しいのかも知れない。

不思議なことに、今はアイゼルが自分に偏見を抱いていたり、敵意を持っているとは思っていない。つまり、アイゼルにしてもキルキにしても、エルフィールのことを思ってそう言ってくれているのだ。

それならば、素直に従うのが吉だろう。

「分かりました。 いつもよりも、更に気をつけることにします」

生きている縄には、白龍と、悩んだ末に冬椿だけを持たせた。白龍は目などを狙わないと効果を発揮できないだろう。一方冬椿は、直撃を入れればかなりのダメージを期待できる。例え相手が、小山のような巨体を誇る存在であっても、である。

ただし、ここぞという時の切り札用だ。そもそもフラウ・シュトライトを潰すのは、艦船からのフラムによる集中爆撃だ。エルフィールがやらなければならないのは、あくまで時間稼ぎ。

それに今回、白龍にしても冬椿にしても、弾は使い捨て無ければならないだろう。それぞれ一発がかなり馬鹿にならない値段なのである。ゲルハルトに金型は作ってもらったとはいえ、何発も使い捨ては出来ない。

「アイゼル、ノルディス、キルキ。 支援は頼むぞ。 ロマージュ、お前は、若者達を視力でサポートしてくれ」

「分かったわ」

紙一重での回避を得意としていることからも分かるように、ロマージュは視力も優れている。今回は前線に出ないのだとすれば、若干経験に劣る学生組の支援が適切であるだろう。

海の荒れが、更に酷くなってくる。

遠くで響き渡る雷鳴が、徐々に近付いても来ていた。

マストの上から、警告の声。熟練した水兵が叫ぶ。見えた、と声が轟いた。

甲板にいる兵士達が、カンテラを廻して、通信を始める。艦隊が隊形を整えて、逆V字型の陣を取り始めた。

いよいよ、来る。

海上に、巨大な背びれが見えた。あれでも小さいのかと、エルフィールは呆れてしまう。見えている背びれの一部だけでも、とんでもない長さだ。今から戦うのは、想像したこともない超巨大生物。

そして、それを殺すのだと思うと、わくわくしてきた。

舵にしがみついていたユーリカが叫ぶ。

「来るなって警告してる。 引き返すなら、今だよ」

「冗談」

エルフィールは水上移動用の板を手にすると、生きている縄達をフル稼働させつつ、海に躍り込んだ。

荒れた海の上に、着水。他の三人も、次々来た。全員鎧は脱いで、海兵が着る水上戦用の服を着込んでいた。

舌なめずりする。

大荒れの海の上、潮が体中に掛かる。後で洗うのが大変だが、別に構わない。これから、潮などよりも更に甘美な、大量の鮮血を浴びるのだから。

全力を出すエルフィールを見るのが初めてであるルーウェンが、若干声に戦慄を含ませる。

「噂通りの禍々しい姿だな、ヒドラのエリー」

「有難うございます」

「前よりも凄くなってやがるな」

呆れたように呟いたのはダグラスである。

ダグラスの実力も更に向上しているのが分かる。ボードの後部から勢いよく泡が噴きだし、高速で海上を進み始めた。苦もなくボードを操り、波を蹴散らしながら、ダグラスは言う。

「最初の予定通り、俺が先頭だ。 お前は最後衛。 分かってるな」

「分かってるよ」

速度を落とす。

海上をゆっくり蛇行していた海竜は、人間が四人、菱形の陣形を保ったまま迫ってくるのを見て、ついに戦闘を避けられないと悟ったらしい。

一度潜ると、雄叫びと共に海上に浮かび上がってきた。

ダグラスが加速。大量の波と水しぶきを蹴散らすかのようにして進むと、波を跳躍台に空へ躍り上がる。

なぜ、もっとも頑丈で突破力が高いハレッシュを先陣にしなかったか。

それは、ダグラスが、聖騎士としてもかなり上位にまで、剣の腕をここ数年で高め上げたからである。

海上に顔を出したフラウ・シュトライトを両断するように、ダグラスが剣を振るう。

鱗が数枚、真っ二つに斬られ、フラウ・シュトライトの体に薄い線が一つ走る。これが、突破口になる。

着水したダグラスにせせら笑うようにして、海竜が巨体を海に叩きつける。

巨大な水柱が上がった。

 

ロマージュが、細かい指示を出してくれる。詠唱を続けていたキルキは、既にノルディスとアイゼルも準備が整っていることを確認すると、頷いた。

前方では大嵐のような天候の中、次々巨大な水柱が上がっている。凄まじい戦闘が繰り広げられている証拠だ。ロマージュは裸眼で見えているらしく、敵の動きと、味方の動きを、逐一知らせてくれていた。

「第一撃、成功。 ダグラス君、着水。 海竜が押しつぶしに掛かった所で、今度はハレッシュさんが突撃」

「効果は?」

「充分。 更に傷口を拡げた。 其処に、ルーウェンさんも畳み掛ける」

ロマージュも普段はおちゃらけた言動を崩さないが、今はかなり硬い喋り方をしている。それだけ戦況が厳しく、一瞬の油断が死につながると言うことだ。

エリーはまだ仕掛けていないという。既に陣形は崩れて、三人が激しい攻撃を入れ替わり立ち替わり加えている状態だが。しかし、やはり途轍もなく巨大な海竜はさほどこらえていない様子で、軽くいなしながら戦力を計っていると言うことだ。

「そろそろ行ける?」

「任せて」

まずは、キルキからだ。

詠唱が完了。印も組み終わった。

手を回すようにして、術式発動前の構えにはいる。全力での冷気を叩きつける術式であり、今キルキが使えるものとしては、最大級のものだ。

「ルーウェンさんが離れた。 3、2、1」

「射っ!」

周囲の兵士達が、事前の指示通り耳を塞ぐ。投石機は既に巻き上げられており、いつでも樽を放てるように準備が為されていた。

キルキが両手を前に突き出し、ロマージュが指示するとおりの方向に、魔力の塊を掃射する。それはさながら一本の白い巨大な縄のように、或いは長く獰猛な大蛇のように、うねりながら海の彼方に飛んでいく。

そして、鎌首をもたげた海竜の首筋に直撃した。

海竜が苦痛に吠え猛るのが分かった。

魔力をコントロールしたままのキルキに、ロマージュが次の指示。

「次は溶かして! すぐに!」

「分かった!」

白い魔力の帯は、海竜とつながったままだ。瞬時に凍結させた海竜の首の傷を凍らせ、そして今度は一気に灼熱に変化させる。手応えあり。鱗が何枚か吹っ飛び、肉が焼かれて海竜が悲鳴を上げる。

だが、それも、ちょっと傷口が火傷した、程度のことに過ぎない。

巨体があまりにも、桁外れ過ぎるのだ。

次、アイゼル。ロマージュが指示すると、アイゼルは愛用の杖を海上に向けた。彼女の能力は光の操作。光による熱量操作もできるが、むしろ得意なのは。

「海竜が暴れて、ダグラスを狙ってる。 光、発射準備」

「はい!」

「行くわよ。 発射、3,2,1!」

「射っ!」

アイゼルの杖が凄まじい閃光を放つ。

同時に、雲間から、さながら何か得体が知れないものが降臨するかのようにして、光の束が降り注いだ。

アイゼルが最近覚えた秘術だ。

頭上から、とんでもない量の光の束を、相手に叩きつける。海竜は光の束に直撃され、当然視力を瞬間的に失い、絶叫しながら首を振る。巨体が海上で荒れ狂い、尻尾を滅茶苦茶に辺りに叩きつけた。

ノルディスは、此処で出番だ。

既に、詠唱は終わっている。キルキは次の術式を放つべく、準備を整えているが。しかし、潜られたらおしまいだ。船の下にでも入られたら、こんな小舟、即座にひっくり返されてしまうだろう。

突然、はり倒されたかと思った。

辺りに、極太の雷が落ちたのだと気付く。耳が聞こえない。

海上の凄まじい荒れ狂いぶりだけが、まるで別の世界のことのように見えていた。

 

光に包まれた海竜が、雷を辺りに大量に落とした。エルフィールは、無言で敵との距離を詰める。

海上で、鎌首をもたげていた海竜は、遠距離からの精確極まる狙撃に、相当頭に血が上っているのだろう。うなり声を上げながら、潜ろうとしていた。そうはさせない。

「ハレッシュさん、合わせて!」

「応ッ!」

ハレッシュが、全力で加速してくる。

海竜は、己の進路を塞ごうとしてくる人間を視認し、鼻で笑ったようだった。だが、それも一瞬のことである。

更に加速して、海竜の顎の下まで入り込んだエルフィールは、生きている縄を総動員して、跳躍。

「おおおおおおおおおおっ! 吹き飛ばせ、冬椿っ!」

巨大な、それこそ家何個分もある海竜の顎に、至近から、しかも真下から、冬椿の一撃を叩き込む。

閃光が、海上を蹂躙したかと思った。

海に叩きつけられるエルフィール。躍り掛かったハレッシュが、全身を真っ赤に燃え上がらせた。槍と一体化して、エルフィールが穿った傷に、全力でのチャージを浴びせかける。どうにかボードにしがみついたエルフィールは、見る。

海竜の顎の下から、相当量の鮮血が噴き出すのを。

海竜が身を捻って暴れる。吠え猛る。

大量の波が、辺りを打ち据える。エルフィールを飲み込もうと、大粒の雨粒と一緒に、三角波が飛来する。それはまさに、飛来するというような有様だった。

ただ、その場にいるだけで、体力が猛烈に削り取られていく。一瞬、海竜に掠っただけで、激しくはじき飛ばされて、海上で態勢を整え直さなければならなかった。

海竜が巨大な口を開け、エルフィールに躍り掛かってくる。ルーウェンが一瞬早くエルフィールを掴んで、飛び退く。そして、海竜の傷口を、無言で接近したダグラスが、更に深く切り裂いた。

四方八方からの猛攻に、海竜も流石に頭に来たのだろう。人間を本気で排除するつもりになったらしい。

その口に、光が集まっていく。

だが、次の瞬間。

海竜の左目に、巨大な紫色の槍が、直撃していた。

ノルディスの術式だ。

海竜はまぶたを閉じたようだが、それでも目に精確きわまりない攻撃を受けたのは、流石に衝撃だったのだろう。暴れ、海上に体を叩きつける。巨大な波が、まるで水上に小石を投じた時のように生じる。

とんでもなく巨大なミルククラウンにも、それは思えた。

だが、次の瞬間、海竜の術式が発動。辺りに雷が無数に降り注ぐ。衝撃波だけで吹き飛ばされ、海上で何度かバウンドした。高速で叩きつけられると、海の水もとても硬くなるのだと、エルフィールは知った。

骨は、どうにか折れてはいない。

「そろそろ限界だぞ!」

ルーウェンが叫んだ。離して貰ったエルフィールは、痺れる手で、白龍に持ち替えた。海竜の左目には、大きな傷がある。ノルディスは、戦闘経験値は低いが、魔力だけはそれなりに立派だ。まぶたの上には、一応の大きさの傷が穿たれていた。

「もう一発叩き込む。 援護して!」

「おい、腕は大丈夫なのか!」

「大丈夫!」

既に、対策はしてある。というよりも、今回は腕を使わない。

腕に、生きている縄が巻き付く。つまり、外付けの筋肉として、生きている縄を使用するのである。

生きている縄と最大限の同調をして、初めて成せる技。前回の大規模戦闘で、両腕を負傷してから考え出した策だ。いずれ、生きている道具をもっと活用して、寝たきりの老人を自由に移動させたり、子供でも力を発揮できるようにしたい。

クリアしなければならない問題は幾らでもある。

だが、今は。

目の前の巨獣を、屠り去るのだ。

「分かった。 無理はするなよ!」

「はい!」

ルーウェンが離れる。

ダグラスと、ハレッシュが、板に跨り、側を通り抜けていく。

海竜が雄叫びを上げると同時に、辺りに巨大な稲妻が次々着弾した。炸裂する稲妻の轟音が、さながら天地を揺らすかのように、辺りを圧迫する。

ダグラスの全身が、青く燃え上がるようだった。

魔力を放出しているのだ。来る前に、魔力の杖で、生体魔力を蓄えてきたから見える。どうやら、最大限の技を放つらしい。

「シュベート……」

ボードの上で、大上段に振りかぶる。

それはあまりにもシンプルで、基本的で。それが故に、美しくさえあった。

「ストライーク!」

青い光の束が、戦場を駆け抜ける。一撃は確かに、先ほどまでに散々穿ち、傷つけてきた海竜の首筋に吸い込まれ、嵐を蹴散らすかのように爆散した。

ハレッシュが、その飛び散る血しぶきの中に飛び込み、全力でのチャージを浴びせかける。更に、もがいて逃げようとする海竜の眼前に躍り出たルーウェンが、全身を真っ赤に燃え上がるほどの魔力で包み込む。

身体能力強化。オーヴァードライブと呼ばれる固有技術だ。自然界では、フォレストタイガーなどが使うことが多い。

人間の中でも使い手が多いスキルだが、ルーウェンの練度は尋常ではない。海竜の視界を跳び越えて、雲間まで行くかと思えるほどに跳躍した後、流星雨がごとき爆撃を仕掛ける。

一刀にて、海竜の鱗が数十枚吹き飛ばされ、大量の鮮血が吹き上がった。

海竜が、溜まらずに逃げようとする。だが、既にその時。

視界の死角に潜り込んだエルフィールは、生きている縄を海竜に巻き付け、そして頭上に躍り出ていたのである。

両腕に太々と巻き付いた生きている縄が、撓る。

そして、海竜が傷ついたまぶたを閉じた瞬間。その上に、白龍を当てた。

「その左目、貰ったっ!」

白龍を、発動する。

生きている縄で衝撃を緩和したとはいえ、全身が引きちぎられるほどの衝撃が襲いかかってきた。

打撃を叩き込む瞬間に呼吸を整えておかなかったら、背骨がへし折れていたかも知れない。

海竜の目玉が、破裂する音が確かに聞こえた。

振り返る。カンテラが廻されている。待避の合図だ。

「よし、此処までだ! 引け、引けっ!」

海竜は苦痛に絶叫することもなく、ただ空を見つめ、海上で呆然と口を開けている。

動けないのだ。

突き刺さった魚型爆雷が、毒を注入したのである。エルフィールは生きている縄を全力で動かし、板に乗ると、その場から逃げに掛かる。水車のように生きている縄を回転させて海上を叩かせているのは、少しでも推進力を上げるためだ。

海竜が、遠ざかっていく。

勝った。

そう、エルフィールは確信した。

 

海上に、巨大な火柱が上がる。耳を思わず押さえたのは、それが海竜の断末魔に思えたからだ。

何かに掴まれと、兵士達が叫んだ。アイゼルはフィンフを抱きしめると、必死に船縁に自分を縛り付ける。キルキも、ノルディスも、同じように行動していた。

船室の戸が閉じられる。

イリスは。探すが、見あたらない。無言でロマージュが走る。

さっきまでもの凄い大荒れの海上で、兵士達を手伝って走り回っていたのだ。波が甲板まで来ることも珍しくなく、筋骨隆々とした海兵達でさえ、バランスを取るのに苦労していた状況である。

海に、墜ちたら。

まず、助からない。

全身に寒気が走る中、ロマージュが叫ぶ。

「いた!」

さっき、海竜が激しく暴れた時、ひときわ大きな波が来た。ノルディスが海竜の目を撃ち抜いた直後である。その時から、思えば姿が見えなかったのだ。

ロマージュが海に飛び込む。

殆ど同時に。

まるで、山のような波が、船に襲いかかってきた。

全力でフィンフを抱きしめるしかなかった。凄まじい量の海水が、怒濤のように船に襲いかかり、洗い流していく。マストはどうにか耐え抜いたか。流れる水の破壊力は、全身が引きちぎられるかと思えるほどだ。

波が、去る。

潮が痛くて、目が開けられない。それでも、周囲を見回した。

「二人、流されました!」

「分かった! すぐに向かう!」

周囲では点呼が始まっていた。

フィンフの震えが伝わってくる。アイゼルは、ただ無言で、愛しい相手を抱きしめるしかなかった。

「終わったわ。 もう、大丈夫よ」

「イリスが、流されたようでした」

「海辺で暮らしてきたロマージュさんが向かったから平気よ。 絶対に帰ってくるわ」

それに、この船には、水上戦の専門部隊も乗り込んでいるという。今、海に飛び込んでいった、筋骨逞しい老人がその一人だろう。髭も髪も白いのに、筋肉は鉄のようで、黒々と焼けた肌は巨人を思わせた。

縄がいきなり飛んできて、甲板の縁に巻き付いた。エルフィールが上がってくる。

縄が、ダグラスと、ハレッシュ、最後にルーウェンも一緒に引っ張り上げた。便利な縄である。

「お疲れ。 イリスは?」

流されて、ロマージュが探しに行ったと言うと。

無言でエルフィールは、海にもう一度飛び込んだ。呼ぶ声も、既に届かなかった。

 

5、飛躍と不安

 

何で飛び込んだのか、エルフィールは自分でも分からなかった。

まだ波間に浮かべていたボードを掴むと、加速。ロマージュが一緒に飛び込んだとなると、多分もう水上にはいるはずだ。

というよりも、水上戦専門の部隊が向かっているはず。自分など、足手まといになるのではないかと、一瞬思った。

だが、どうしてかは分からない。

意識は、イリスに向かっている。

あれは、最初に作ったホムンクルスで、今後人体実験をいろいろする大事な道具だ。そうも思う。

しかし、実験動物として育てられ、地獄を見てきたという経緯に、どうもシンパシィを感じてしまいもするのだ。

少なくとも、自分以外に殺させはしない。そう決めてはいる。

ボードはあれだけ水上を走り回った後だというのに、出力がまるで衰えていない。多分海竜を、さっきの戦術で最初に仕留めたのは、あらゆる状況証拠からもイングリド先生とヘルミーナ先生だ。

しかし、あんな化け物と、多分二人だけで戦ったのだろうと思うと。

エルフィールはわくわくした。

人は、何処まで強くなれるのか。その限界が、見えない気がしたからだ。

イリス。呼ぶ。

返事はない。不意に、人影が見えた。凄まじい速度で泳ぐ老人だった。近付く。多分何かの能力を使っているのだろうと思ったが、とんでもない手練れで、水車のように腕を回しながら泳いでいるのだと、近付くと分かった。

「何をしに来た。 戻れ」

「私の子ですから」

「む?」

「え、ええとっ! 流されたのは、生意気だけど、私にとって大事な玩具なんです! あ、あれを殺す権利は、私にしかないんですからっ!」

言い換える。複雑な事情を感じ取ったらしい老人は、波を蹴立てて泳ぎながら、鼻を鳴らした。

「ならば、水上を行け。 儂は海中の流れを追う。 もしも海上を流されたのだとすれば、儂の泳いでいる向きにいるはずだ」

「承知っ!」

無言で、老人が潜る。その姿は、すぐに見えなくなった。

身を低くして、加速。生きている縄も、エルフィールに合わせるように回転して、波を蹴立てる。しかしあの老人、凄い速さだった。こつを教わりたいものである。

腕がもげそうなほどに痛い。さっき生きている縄の力を借りたとは言え、やはり衝撃は相当なものだったからだ。白龍の杭は最装填したが、予備も無限にあるわけではないのだ。あまり派手にこう言う所で使い捨てていると、エル・バドールで使えなくなってしまう。

体中に浴びた潮が、少しずつ乾いてきた。髪がぱりぱりになりそうである。

周囲は嘘のように晴れ始めている。海竜が死んだという良い証拠だった。

見える。

海上に、銀色の何か。ロマージュの髪だ。

赤い髪も見える。イリスに間違いなかった。

呼ぶ。弱々しい返事。ロマージュだった。イリスは意識がないのだろう。

「ロマージュさん! イリスは!」

「まさかあんたがこの子を助けに来るとはね。 水は飲んでないよ。 水中で鮫に食われ掛けてたから、どうにかやっつけて追っ払ったけど。 でも、私も噛まれてね」

ロマージュの周囲には、赤い水が見える。体を食いちぎられてはいないようだが。

しかし、早く手当をしないと危ないだろう。

ボードから一旦飛び降り、生きている縄で回収。側に泳ぎ寄って、イリスを背負った。後は、ボードを浮遊板のように使って、船まで戻ることになる。イリスは意識こそ無いが、呼吸は安定している様子で、ちょっと安心した。

ロマージュは、左足に噛みつかれていた。腿に生々しい噛み傷が残っている。

「この子、戻ったら褒めてやりなよ。 兵士達の手伝いして、弾道計算までやってたんだから。 最後の一撃の前に、投石機がちょっと歪んでね、てんてこ舞いだったんだ。 そこをしっかり立て直せたのは、この子のおかげさ」

「分かって、います」

「あーあ、商売もんの足だってのに、容赦なく噛みやがって、あの鮫。 まあ、腸垂れ流して泳いでたから、多分助からないだろうけど」

ロマージュがいつもの色っぽい声ではなく、どすの効いた低い声で呟いた。

近くに、浮き上がってきたのは老人だ。肩に抱えているのは、多分水兵だろう。イリスを救うためだけに来たわけではないと言うことだ。

「無事だったようだな」

「どうにか」

「此奴も連れて行ってくれ。 もう一人、行方が分からなくなっている。 儂はそいつを助けてから戻る。 その子が早く見つかったから、どうにか間に合いそうだ」

意識を失っている水兵を、生きている縄が絡め取る。

老人は右手を挙げると、再び魚のように潜っていった。

「流石だわ。 あの爺さん」

「知り合い?」

「知り合いも何も。 故郷で、魚人間って呼ばれてた伝説の素潜り名人よ。 船に乗ってる時は、昔の恥ずかしい話をばらされないか、冷や冷やしてたわ」

ちょっとだけ、場が和む。

背中で、イリスが身じろぎした。

お前を殺すのは、私だけの権利だ。そうエルフィールは内心で呟くと、影の方向を頼りに、船へ急ぐのだった。

 

戦死者は無し。流された兵士も、全員が救出された。老人は他の船の要救助者まで助けた挙げ句、けろりとしていた。クーゲルといい、世の中には元気な老人がいるものである。人間離れしているにも程がある。

一旦戦列を整えて、被害を確認。戦闘用の物資は無事だが、火薬類が幾らか水を被ってしまっていた。

「それなら、向こうで調合し直します」

「そうか、助かる」

指揮官である聖騎士は嬉しそうだった。戦死者も出なかったし、最小限の被害で海竜を滅ぼすことが出来たからだろう。

軍艦四隻で、焦げた海竜の死骸を引っ張っていく。アイゼルが眉をひそめたが、エルフィールには大体目的が読めていた。

「あれは、多分示威行動だね」

「どういう事?」

「んー。 あの海竜さ、多分わざと殺したんだよ。 縄張りに踏み込んで」

そして、この船団の目的を考えると。

幾つかのピースが組み合わさっていく。アイゼルも、大体の事情は把握したようだった。

手すりに手を突いたまま、アイゼルは嘆息した。

「何だか、酷い話だわ。 あの海竜が、何をしたって言うの」

「錬金術は便利だけど、業が深いね」

「……」

アイゼルも気付いているはずだ。あんな生物が、自然界に存在するわけがないという事に。

だが、アイゼルは錬金術を止めはしないだろう。

そう、エルフィールは信じていた。

海竜を殺してから、一週間後。

ついに、別の大陸の姿が見えてきた。

いよいよ、此処からだ。此処から、エルフィールの飛躍の時が始まる。

野心が、エルフィールの中で煮えたぎっていた。

 

船室で、イリスは膝を抱えて座っていた。

分からないのだ。

あの冷酷なエリーが、自分が流されたと聞いた時、なりふり構わず助けに来てくれたという。

エリーは野心的で、残虐で、あの施設にいた錬金術師よりも更に上を行く悪党だと、イリスは思っている。いずれ、目を覆うばかりの悲惨な実験によって、惨殺されるのだろうとも。覚悟はしていた。思い残すこともないようにと、考えていた。

それなのに。

どうしてか、最近はエリーの側にいると安心する自分がいることに、気付き始めている。

船の速度が落ち始めた。

エル・バドールが見えてきたという。まずは港に停泊し、先陣と合流。その後、本格的な作戦行動にはいる、と言うことであった。俄に船が活気を帯び始める中、エリーが船室に入ってくる。

「イリス、体の方は大丈夫?」

「……平気です」

「それは良かった。 これから色々な実験したりするには、ある程度体が健康じゃないとね」

見下ろすエリーの目は冷たい。

だが、何処かに、暖かさも感じるのだ。

「貴方は……」

「ん?」

「マスター・エルフィール。 貴方は一体、何を求めているのですか?」

イリスの問に、エリーは答えなかった。

船が、止まる。

ついに、エル・バドールに着いたのだ。これから地獄のような戦いが始まることは、疑いない。

気持ちを切り替えると、エルフィールに続く。

まずは、此処で繰り広げられる地獄の中。イリスは、生き残らなければならなかった。

 

(続)