エル・バドールの深淵

 

序、その平和な地

 

緑為す平原が、何処までも広がっていた。風に撫でられて揺れる草花は、蹂躙されることさえ知らない。だからか、ただ地面に植わっているそれらの草は、とても貧弱にマリーには見えたのだった。

以前シアはこの土地に来て、科学文明の発達について凄まじいと言っていた。

だが、人間に害為す猛獣が全く存在しないという事の方が問題のように、マリーには思える。

草原を歩いていても、何だか作り物みたいに思えるのだ。

人間のすぐ側に、全く手の届かない闇が存在している。だから、緊張感が保たれる。そうマリーは常に考えている。

森は資源をもたらす貴重な存在。環境の保護は、最終的に人間のためにもなる。

しかし、森は資源だけではなく、戒めの存在としても重要なのだ。

世界最強の存在は、間違いなく人間。

だが、その人間でも、行動を間違えればすぐにでも死ぬ。だからこそ、世界は面白いのだと、マリーは思っていた。

乗ってきた船は、港に停泊している。

既に文官達が、エル・バドールと交渉を始めていた。海を渡る時にフラウ・シュトライトの存在が危険視もされたが、どういう事か出てこなかったので、スムーズにこの大陸に辿り着くことが出来た。

ぼんやりと眼を細めていたマリーに、義娘のアデリーが歩み寄ってくる。

「母様」

「どうしたの?」

「聖騎士ジュストがお呼びです」

「ああ、もうそんな時間だった。 分かった、今行くわよ」

髪の毛を掻き上げる。

あまりにも平和すぎる草原を一瞥し、後にする。こんな所にいたら、精神が鈍磨しきってしまいそうだった。

歩いて、ケントニスの街に。この大陸国家の首都である。

人口二十万を誇るザールブルグと比べても、格段に巨大な都市だ。城壁に覆われていない所が違っているが、しかし見れば見るほど発展した文明の恩恵にあずかっていることが分かる。

近くに川がないのに、水路が街を縦横に駆けめぐっている。それも、どの水路もとても清潔だ。

街路はとても清潔で、ザールブルグよりも更に丁寧に整備されている。地方都市などでは当然のように街中にいる豚が、全く見受けられない。というよりも、獣の匂いそのものが全くしない。

肉屋などを見ると、加工された肉が前提として売られている。この様子だと、嫁ぐ前に覚えるような、例えば鶏を絞めたり豚を捌いたりと言った技は、此処では無縁のものなのかも知れない。精々魚を捌くくらいか。

眼を細める。

平和すぎる。此処は、マリーの思う理想国家ではない。

確かにとても安定しているし、文明の進歩も極限に達しているだろう。だが、これでは、確実に人間は弱くなる。

実際問題、マリーが片付けたこの国の諜報員達は、どいつもこいつもまるで手応えが無かったのである。

王城へ。

実戦を考慮していないのが、丸わかりの作りだ。

全体的に文化的なものを重視しており、壁も堀も飾り程度にしかついていない。これでは、もしも戦いになった時に、瞬く間に陥落してしまう。周囲を歩いてみるが、作りも堅牢とは言い難い。

錬金術によるトラップの類も仕掛けられてはいない。これでは、連れてきた牙の連中が拍子抜けしてしまうに違いない。

規模はなかなかに凄まじい。この街にしても、人口は恐らく四十万を超えているだろう。城の規模は、その人口に相応しい、巨大なものだ。だが巨大なだけで、なんら実利もなく実戦的な作りでもなく、ただ飾りとして存在しているだけである。

この国では、質実剛健という言葉は、死語なのかも知れない。

だとすれば、この国の民は、本当に幸せだと言えるのだろうか。実際に災厄に直面した場合、対応できるとはとても思えない。

先に城に入っていたジュストが来た。軽く会話を交わしながら、城の中に案内して貰う。もちろん行き交っている者達は、塵でも見るかのように此方を見ていた。野蛮人めと、口にするものもいた。

「気にするな」

「気にしません。 身の程を知らぬ者どもの寝言など」

「うむ。 それで、王との謁見は明後日になった。 それまでは、街に滞在して欲しいとの事だ」

「前回は即日会見をもてたと言うことですが」

これは若干意地悪な言い回しだったかも知れない。ジュストは苦笑すると、宿に案内すると言った。マリーも苦笑いして、後に付いていった。

前回と今回では状況が違う。

そもそもファーストコンタクトに近かった前回では、向こうも此方の様子を確認したいという意図があっただろう。シアもその辺りを上手に考慮して、交渉を進め、しっかり実のある情報を多数得てきた。

それに対して今回は、水面下で激烈な死闘を経た後である。

彼らにとって頼みのフラウ・シュトライトは三体が失われ、一体は逃げていったまま行方も知れない。もう一体はシグザールとエル・バドールの最短航路に縄張りを造ってはいるが、それから出る様子もない。

後は通常の軍隊だが、どう出るか。

いずれにしても、自慢のクリーチャーウェポンが、こうも悲惨な状況に陥った事を考えれば。エル・バドール人に動揺が走らない筈もない。

宿は屋敷のような規模であった。五階建てという凄まじさで、着飾った男女が行き交っている。待っていたミューは、リンゴを囓っていたが、その行為自体が周囲の蔑視を誘う様子だ。

ジュストは先に自室に引き上げた。アデリーも連れて行かれた。マリーもあまりゆっくりはしていられない。牙の報告と、騎士団による視察の結果を聞かなければならないからだ。

「お帰り、マリー」

「どう、そっちは」

「何だか世界が違うね。 この大陸の方が技術的には優れているってのは認めるけど、ものすごく脆弱だなあ」

「同感。 多分あたし達だけで、この街制圧できるんじゃないのかな」

物騒なことを口にしながら、マリーは笑った。

ミューも苦笑しながら、芯だけを残して綺麗にリンゴを食べ終える。ゴミ箱に芯を放り捨てると、一緒に歩き出した。

「それで、そっちの監視は?」

「下手なのが三人だけ。 舐めてくれたものだなあって思う」

「そう。 こっちは同じく四人。 あんまり下手だから、捕まえて説教してやろうかって思っちゃったよ」

わざと聞こえるように言ったので、後ろの柱の影にいた奴が、身を竦ませる。手に取るようにその様子が分かった。はっきり言って、技量が違いすぎるのだ。

部屋にはいる。浴室が当然のように併設されていて、まるで王侯貴族の寝室のような作りである。このような宿が、幾つもあるという。

感心するのを通り越して、呆れてしまう。それだけの物資と技術力を、無駄遣いしているようにしか思えないからだ。

しかしながら、この技術力を、そもそもどう使ったら良いのか分からないのかも知れない。ベットに横になるマリー。もの凄く柔らかくて、だらけきりそうだった。ミューはベットに腰掛けると、大きく溜息をついた。

「何だか、気が進まないなあ」

「ん?」

「少し見ただけで分かったけれど、この国の人達、平和すぎて感覚がおかしくなってるんだよ。 こんな平和な国の人が、化け物の頭目みたいなヴィント王に喧嘩を売るなんて、どうかしてる。 勝ち目がないのは目に見えてるんだから」

「そうだねえ。 だけど、ある程度落とし前は付けて貰わないと、逆に今後、大きな禍根が残るだろうね」

「出来るだけ、血が流れないように終わらせたいね」

ミューは優しい奴だ。マリーは少し表情を崩した。

それにしても、これだけの平和な国、作るのはさぞ苦労しただろうに。その苦労の結果がこれでは、先祖達が報われないのではないか。

長年の平和の結果、緊張感は失われた。動物との間には檻があるのが当たり前になり、魔物もドラゴンも姿を消した。

その結果、魔物よりも恐ろしい最強の怪物の前で、平然と火遊びをするようになってしまったのである。

人間とは業が深い生き物だなと、マリーは思った。

ドアをノックする音。気配からして、文官の一人だ。護衛として、聖騎士ローラも一緒である。

「マリーどの。 街でご指定の器具類を見つけましたので、購入してきました」

「ありがと。 じゃあ、早速搬入してくれるかな」

「分かりました」

部屋に運び込まれてくるのは、錬金術の道具類だ。いずれもが、本国での数分の一の価格で手に入れることが出来たという。作成する技術も全然違っている上に、大陸一つをおさめている国家なのだ。資源も豊富だ。

幾つかの本にも、早速目を通してみる。

どれもこれも興味深い技術の塊だ。これを書いた奴は、どれほどの苦労の末に、これらの技術が造り出されたのか、考えもしないのだろう。

嘆かわしい話である。

「あたし、時間までは、ちょっと器具類とかを弄ってるつもりよ。 ミューはどうするの?」

「アデリーと話してくる。 時間があるなら、組み手でもするかな」

ミューが文官達と、部屋を出て行く。器具類を組み立てているマリーを、興味深そうにローラは見ていたが、やがてミューの後を追って出て行った。

一人だけになった所で、マリーは精神を集中する。

監視の連中には、仕掛ける勇気もなければ、技量もない。放って置いて何ら問題はないだろう。

新しい知識と技術を手に入れたのである。

出来るだけ、試してみないと損であった。

 

聖騎士ジュストのあてがわれている部屋は、マリーが貸し出されたものよりも更に豪華で、大きかった。

幾つか等級のある部屋の内、最大のものであるらしい。

内部は馬鹿馬鹿しいほどの豪華さであり、入ってすぐにマリーはげんなりしてしまった。飾られている花瓶一つからして、考えられないくらい緻密な模様が刻まれ、根本からして技術が違うことが分かる。

焼き方一つにしても、まるで此方とは違う。粘土の質などには多分差がないように見えるのだが、硬度や艶が違っている。この様子では、恐らく釜の技術が数百年は進んでいることだろう。

確かに素晴らしい文化だが、しかしそれを無駄遣いしているようにしか思えない。

そしてそれが驕りを産んでいるのは、今回のフラウ・シュトライトの件から言っても明らかだ。

「素晴らしい花瓶だな。 本国に持ち帰ったら、相当な高値が付きそうだ」

「街ではこの程度の花瓶を幾つも見掛けました。 しかし凄い技術ですね」

文官の一人が感心したように言う。否、実際に感心しているのだろう。

これほど先進的な技術を目にすれば、感覚が麻痺するのも当然である。ただし、人間が作った技術である以上、再現は可能なはずだ。

「一方で、軍関係は信じられぬほど脆弱だ。 見て回った所だと、隙があるとか無いとか言う問題ではない。 牙の面々が城に潜入したが、殆ど此方の気配を感じることが出来る武人さえいなかった」

「ああ、シュワルベもそう思った? あたしもそう感じたわ」

「儂もそう見た。 正直な話、武芸に関する水準は此方の新兵以下と見て間違いない様子だな」

「ただ、武器については問題です」

アデリーが慎重なことを言う。

アデリーが見てきた所によると、警備兵達の中には、見たこともないような武器を持っている連中がかなりの数いたという。

花瓶一つにしても、これだけ進んでいるのだ。

此方の想像も付かない武器を手にしているのは当然のことだ。その展開次第では、かなり面倒なことになるだろう。

「一つか二つ、サンプルが欲しいな。 今回の目的はあくまで敵の戦力調査だ。 早速取りかかって欲しい」

「分かりました」

ジュストに一礼すると、シュワルベは一旦退出する。すぐに任務に取りかかるつもりなのだろう。

牙の何人かも、シュワルベと一緒に退出した。マリーは連れてきている文官の一人が淹れた茶を啜る。茶葉の味に関しては、はっきり言ってシグザールの方が上か。何だか味に妙な違和感がある。

「茶はあまり美味しくないですね」

「ちょっと見てきたのですが、半透明の家みたいなところで、大量に作っているみたいです。 錬金術の産物、と言うことなのではありませんか?」

「ふむ、なるほど」

しかし、ミスティカ茶は此処まで酷い味にならないことを考えると、やはり風土的なものなのかも知れない。

しばらく話をする。途中、牙の一人が、城の見取り図を持ってきた。もうあらかた作ったらしい。まだ若い娘で、人畜無害そうな容姿である。いつもへらへら笑顔を浮かべているので、非常にだましやすい姿格好であるとも言える。

この娘は牙の間でも有名人で、兎に角印象に残らない外見の持ち主であることを最大限に利用して、何処にでも平然と潜り込む。今回もその能力をいかんなく発揮して、潜入諜報を達成した、という訳である。

戦闘能力は決して高くないようだが、評判はマリーも聞いている。なかなか得難い人材だと言えるだろう。

「此方をご覧ください」

「ほう。 流石に細密だな」

「ありがとうございます」

はにかむ娘だが、地図を作る過程で二三人殺しているかも知れない。まあ、それは今回どうでも良い事だが。

「これだと、牙でなくても潜入は難しくないな」

「自動で侵入者に反応する罠が結構ありましたが、それも根本的に平和な土地の人間が考えた作りです。 侵入は造作もないと思います」

「そうか。 いざというときに、城を制圧するのにどれくらい掛かる」

「牙だけだと四刻。 騎士団の皆様に協力していただければ、一刻半というところでしょう」

ジュストは頷くと、飲み干した紅茶のカップを片付けさせた。

まだ謁見までは時間があるが、それまでにやっておくことは幾らでもある。

「文官達は交渉を続けよ。 残りの牙は、街の見取り図の作成。 いざというときには、外に駐留している敵の軍勢がどれだけの速さで城を包囲するかについても調査をしておくように」

「分かりました」

「騎士団の者達は、敵の戦力調査を継続。 クリーチャーウェポンについても、何処にどれだけの数が潜んでいるか分からん。 以前任務に参加していた者は知っているだろうが、あれは侮りがたい実力を持っている。 心して探れ」

マリーとアデリー、それにミューについては、ジュストと一緒に表からの調査を続けることになる。

文官達が持ってきた資料類を分析し、相手の技術力と、対抗策を割り出すのがマリーの仕事。

そしてそれを補助するのが、アデリーとミューの仕事だ。

部屋に入ってきたのは、見たこともない給仕の女性だった。だが、気配が既知のものである。

「ナタリエ、お疲れ様」

「一目で気付かれるか、やっぱり」

見る間に、給仕の女性が、ナタリエの姿に変化する。

衣服まで変化している所を見ると、昔よりも更にメタモルフォーゼの技術が上がっているという事だろう。

「城に潜り込んできたけど、まるで警戒心がないね。 王様の顔も見てきたよ」

「どんな人だった?」

「苦労知らずの青瓢箪かな。 悪い奴には見えなかったけど、何かの役に立ちそうにも思えなかった。 多分実際に国政を見ているのは、大臣とか長老とか、そういう連中じゃないかな」

ナタリエは紙に、さらさらと国王の顔を描いていく。

別段甘いマスクでもなく、精悍でもない。温室栽培で甘やかされて育った、苦労も恐怖も知らないだろう軟弱そうな若者だった。

しかしそれは、多分彼の責任ではないだろう。

この街を見る限り、多分国全体がそんな状態の筈だ。この国で実戦を知っている人間は、ごく少数だ。

「次は長老連中の顔についてもあらかた探り出して欲しい」

「分かりました」

ジュストに一礼すると、ナタリエは一休みするべく、自分の部屋に戻っていった。彼女の能力は著しく燃費が悪い。騎士団でもそれは理解していて、任務の間には休憩を取ることが許されているのだ。

後はジュストと、マリー達だけが残った。

「さて、根本的な戦略をどうするか、だな」

「締め上げて以降の干渉停止を約束させるというのは難しそうですね」

「同意だな」

マリーの見たところ、この国の上層部は、ちょっと常識外なほどの力を手にしていることを、多分自覚していない。兵力にしても、クリーチャーウェポンにしても、使い方次第では国を二つ三つ瞬く間に蹂躙できるほどのものだ。

この無知に関しては、何も一部の人間だけではない。

国王だけではなく長老達もだ。

おかしなものである。知恵によって発展したエル・バドールであるのに。その結果、国政にも危機にも無知な国ができあがってしまったのだから。

この国は、歪だ。人間が持つにはあまりにも度が過ぎる知識を得てしまったのが原因かも知れない。人間の進歩が、明らかに技術の進歩に追いついていないのだ。技術と知識という鎧を剥がしてしまえば、中から出てくるのは無知でひ弱な哀れな小猿というわけである。

装備と道具さえ揃えばドラゴンさえ狩るのが普通である、シグザールの民から見れば、あまりにも異質だった。

「まずは彼らに、自分たちがしてしまったことを自覚させること。 その上で、落としどころについて向こうから提案させること。 この二つが重要ですね」

「その通りだ。 まずはアレを見せてやるか」

「いいですねえ。 それとアデリー。 あんたにも活躍して貰おうかな」

「……分かりました」

あまり気が進まなそうだが、アデリーも分かっているのだ。フラウ・シュトライトのような危険きわまりないクリーチャーウェポンを玩具にして、数万の人命を脅かした罪は重いと言うことを。

もちろん、騎士団も汚い任務は散々やっている。

万を超える人命を奪うような任務も、今までにあっただろう。

だがそれは、この国の連中がやったような、主体性のない恐怖からの発狂的行動ではない。国同士の駆け引きの間で行われた、極めて理にかなったものだ。もちろんそれに罪も生じるだろうが、根本的にものが違うのである。

それにしても、この無防備さはどうしたことか。

呆れたマリーが目に殺気を湛えて席を立とうとしたので、ミューが代わりに外に飛び出す。そして、潜んでいた間諜を一喝して追い散らしてきた。

戻ってきたミューは、流石にむくれていた。

「信じられない。 ドラゴンを子ネズミが挑発しているようなもんだよ。 あんな技量で、どうしてこの部屋の前に来られるのかな。 死地だって、どうして一発で分からないんだろう」

「それが、今のこの国の姿よ」

マリーはあまり美味しくない茶を、もう一杯啜った。

 

1、魔力の杖

 

エルフィールは、ゲルハルトから渡された杖を手にして、目を輝かせていた。

シンプルな杖だ。飾りもあまり多くはなく、そして頑丈とも言えない。術者が術を発動するための媒体に使うものであり、それ自体は珍しくもないものだ。そして、生体魔力がないエルフィールにとっては、生涯無縁になるもの、のはずだった。

だが、しかし。今、エルフィールは、生まれて初めて打撃用ではない杖を手にしている。

「これは、素晴らしいですね」

「だろう。 限定的だが、あんたの生体的な欠点を補える代物だ」

「はい。 限定的、ですけど。 でも素晴らしい」

エルフィールは、全身を駆けめぐる興奮に、声を弾ませていた。

そう、この杖は。

生きているのだ。杖そのものが、生体魔力を有している。そして、それを発生させさえする。

この杖の仕組みや、魔力の作成メカニズムについて、探るのは後だ。

今は兎に角、自分に流れ込んできている生体魔力の感触を楽しみたかった。そうか、魔力を持っている普通の人間どもは、こんな良い気分を常日頃から味わっているのか。思わず、何か殴り殺したい気分に駆られてしまう。

手の甲で拭って、涎が零れるのを防ぐ。ちょっと精神が暴走しかけていた。

「ちょっとその辺で、何か殺してきても良いですか?」

「あー。 あんまり羽目を外さないようにしろよ」

何だか諦めたようなゲルハルトの口調を背に、店を出る。

そして、夢遊病者のような足取りで、近くの森に向かった。今日は特に用事もない。学年度試験は近いが、まだ二三日は余裕がある。

この杖で何かを殴ったら壊れてしまうので、他の方法を考えなければならない。そうなると、やっぱり素手か。全身に漲るこの殺意を何で発散するか。その辺に適当なのいないか。

四つんばいで森を徘徊しながら、エルフィールは獲物を探す。

やがて、生きている縄がざわめいた。

見つけた。

これは、意外な顔だ。フランソワではないか。

貴族であり、しかも当主だというのに、一人で籠を背負って森の中で採取を続けている。それも、非常にベーシックな素材ばかりを、だ。格好も外を歩きやすいものを厳選しており、意外に外を歩きなれているのが分かる。

茂みに潜んだまま、エルフィールはどうしようか一瞬だけ悩んだ。周囲に満ちる草と土の香りが、エルフィールの狂気に満ちた頭脳に、不思議な冷静さを作り上げていく。

以前から、フランソワの実力が特に戦闘面に関しては大したことがないことは知っていた。動きを見れば一目で分かる。だから、この場で殺して八つ裂きにするのは全く難しくない。

生きている縄で縛り上げて、後は楽しくおかしく臓物を引きずり出して喰うだけだ。

証拠隠滅も難しくない。この辺りに深く埋めてしまえば、まず死体など見つからない。ましてや大体食べてしまえば、なおさらである。

逡巡。

だが、エルフィールは止めた。

それでもリスクがある。今後のことを考えると、そういった醜聞を作ることで、ドナースターク家に迷惑を掛けることは望ましくない。ましてや試験の後くらいには、騎士団による楽しそうな作戦への参加指示もあるのだ。

草むらから、幽鬼のように立ち上がるエルフィールを見たフランソワは、小さな悲鳴を上げて一瞬身を竦ませる。にやりと笑みを浮かべると、エルフィールは二歩、三歩と歩み寄る。

「こんなところで一人? 危ないよ」

「あ、貴方には関係ない!」

「見たところ、外には慣れているようだけれど、自衛能力があるとは思えない。 私が猛獣だったら、フランソワさん。 今頃八つ裂きにされておにくとか臓物とか全部ごはんにされてたよ?」

一瞬前まで実施を悩んだ行動を口にすると、フランソワは見る間に蒼白になる。気丈に振る舞っていても、所詮修羅場を潜った人間とは比較にならない。ましてやエルフィールは。

はて、修羅場は潜ってきたが。他の人間とあまり変わらないはず。何処かで、記憶が混線していた。

さて、フランソワだ。この様子だと、やむにやまれず、という所なのだろう。

今、エルフィールとキルキと激しく首位を争っているこの貴族様については、今情報を色々と集めている。ドナースターク家の筋からも情報は仕入れているのだが、どうも結論としては、そう大した貴族だとは思えない。

そうなると、やはり錬金術をやっているのは、帝王学の一端とか自己研磨とかではなく、もっと切実な理由からなのだろう。

生きている縄が伸びて、フランソワの側にいた蚊を撃墜した。

そういえば生きている縄達、エルフィールに生体魔力が通っても、ついてきてくれている。これはちょっとだけ嬉しいことだった。

「なあに、何もしないよ。 貴方とは、試験で決着を付けたいからね」

「ち、近寄らないでっ!」

「近寄る? その気になれば、そんな事しなくても瞬時に殺せるって分からないのかなあ」

肩をすくめるエルフィール。

いつも気丈に振る舞っている分、動揺した時の混乱は大きいと言うことなのだろう。ちょっと興ざめだ。

此奴は確かに優秀だが、最初の頃のアイゼルやノルディスを思わせる。

もっとも、世間的にはそれが悪いと言うわけでもないだろう。エルフィールはすっかり頭も冷えてしまったので、杖を振り回して感触を確かめながら帰る。この杖から流れ出ている生体魔力を体に馴染ませることが出来れば、ある程度魔力の無さを補えるかも知れない。

ただ、ゲルハルトの話によると、強い魔力を持つ人間とは、流石に比較が出来ないのだという。まあ、この杖を手にしたことで、ようやく人並み、という所なのだろうか。また、生体魔力の放出にも条件があるらしく、分厚い説明書を貰った。少ししたら、目を通さなければならないだろう。

フランソワはと言うと、一定距離を置いてエルフィールに着いてくる。青ざめているが、もう平常心を取り戻している様子だ。さっきは興ざめしたが、ちょっと見直した。短時間での立て直しは、心が根本的に強い証拠だ。

「護衛を雇えばいいじゃない」

「余計なお世話よ」

ついっとフランソワが顔を背ける。

少し前に松葉杖が無くなったことは知っていたが、歩き方はまだ少しぎこちない。それが結構大きめの籠を背負っているのである。下手をすると転びそうだなとエルフィールは思ったが、元からのバランスが良いのか、案外着いてくる。

これはしっかり鍛えれば強くなるのかも知れない。もしそうだとしたら、もったいない話であった。

「フランソワさん。 何だか無理しているように見えるけど、大丈夫? 別に料金なんかいらないから、護衛してあげようか?」

「敵の情けは受けないわ」

「お、誇り高いね。 じゃ、私はさっさと先に行こうかな」

歯を食いしばっている様子を見ると、何だか意地悪したような気分になってきたので、結局歩かざるを得ない。

何だか、これでは生体実験が出来そうにない。ちょっと残念だ。

だが、敵の実情を知ることが出来たのだとすると、かなり有益かも知れない。時間の無駄にはならなかったと言うことで、満足するべきなのだろう。

もうすぐ、森の外縁にさしかかる。丁度外の光が見えてきた辺りで、エルフィールは足を止めた。

「な、何よ」

「いるなあ。 このままだと、追いつかれる。 走れる?」

虎だ。フォレストタイガーである。

多分、フランソワの痕跡に気付かれた。まだ若い個体らしく、かなり自信満々に距離を詰めてきている。

当然走れば向こうも走り出すだろう。

普段だったら逆に仕掛けてミンチにする相手だが、今回はあくまでフランソワについての問題である。

フランソワはしばらく青ざめたまま立ちつくしていたが、不意に詠唱を開始する。全身から、青白い光のようなものが迸るのを、確かにエルフィールは見た。口笛を吹きたくなった。

多分生体魔力を、体に通している影響だろう。他の者が普通に見えていただろう事柄が、やっとエルフィールにも見えるようになった、という事だ。

フランソワが掌を向けた先に、局所的な吹雪が生まれる。冷気を放つ型の術式か、或いは能力か。辺りが見る間に凍り漬けになっていく。だが、それは虎を刺激するのも同じだった。

凍った茂みを砕き散らして、フォレストタイガーが躍り出てくる。

食肉目特有のしなやかな体をフルに活用し、鋭い牙をフランソワに突き立てようと、全力で疾走してくる若き虎。体重はエルフィールの五倍程度という所か。フランソワは青ざめたままながら、冷静に対応した。

冷気の範囲を、虎に収束したのである。

虎が吠え猛る。前足を振り下ろすが、吹雪に視界を遮られ、フランソワが飛び退いたことで、爪は空を切った。しかしそれでも、フランソワの服に二本、赤い筋が入ったが。

普通の人間と虎では筋力が違いすぎる。地面に転がりながら、フランソワは身震いして雪を落とそうとしている虎に、更に冷気を集中。辟易した虎は高々と躍り上がり、フランソワの頭上を取る。

その全身が赤く輝く。

フォレストタイガーに備わっている能力、オーヴァードライブ。身体能力を数段強化するというものであり、若き虎でも当然使いこなす。吹雪が効果を示さず、見る間に距離が詰まっていく中。

血しぶきが、空中に舞った。

地面に落ちた虎が、前後で真っ二つになっている。下半身の側には、氷で出来た巨大な円盤が突き刺さっていた。

フランソワの至近で、あの円盤が、虎の体を両断したのだ。吹雪を操作しながら、この本命攻撃を準備するのがどれほど難しいかは、言うまでもない。一瞬の出来事であり、エルフィールも思わず口笛を吹いてしまった。思ったよりずっと戦える娘である。虎くらいなら、気付きさえすればどうにか出来ると言うわけだ。

大量の鮮血が流れ、臓物から汚物が零れているのを見て、フランソワはそれでも胃の内容物を吐き戻さなかった。

エルフィールは揶揄の意味無く、感心して拍手していた。

「お見事」

「……」

足を引きずりながら、フランソワが歩き出そうとして。

その場で、倒れた。

 

誰かが、顔を覗き込んでいる。誰だろう。ずっと前から、フランソワは孤独だ。周囲に取り巻きはいるが、いずれも利用し利用される関係である。心配して顔を覗き込んでくるような奴など、いなかった。

家臣達は、自分を慕ってくれる。だがそれは、あくまで上司としてである。間には絶対不可侵の壁があり、どうしても越えられない溝が存在していた。

普段は平気だ。

だが、時々現実に押しつぶされそうになる。

両親の跡を継いで、当主になった。その重責も意味も分かっている。作り上げたものに愛着もある。武具を振るう戦いばかりが、貴族の戦いではない。主に己の心と戦わなければならない事も多いのだ。

だが、負けそうになることもある。そんなときは、歯を食いしばって耐える。誰にも、弱みなど、見せてはならないのだ。

徐々に、視界がはっきりしてくる。

至近に見えたのは、赤い髪の毛の娘だ。

何処かで、見覚えがある。最近、見たような気がした。

「誰……」

「イリスです」

イリス。そういえば、あのエルフィールが、そんなホムンクルスを作ったとかいう話は聞いた。

やがて、不意に意識が覚醒した。

自分の上に跨っていたイリスが、驚いて飛び退く。ちょっと驚かせたようで、ばつが悪かった。

「此処は何処? 見慣れない部屋だけど」

「エルフィール様のアトリエです。 先ほど、運び込んでこられて」

「……我ながら、なんたる醜態」

思わず、顔から火が出そうになった。

あの虎のことだって、エルフィールが警告しなければ気付くことさえなかっただろう。虎の腕力は凄まじい。人間の頭など、一薙ぎで叩きつぶしてしまう。ちゃんと訓練を受けた兵士や、歴戦を積んだ冒険者でなければ、虎と一対一で戦うのは避けた方が無難なのだ。戦略的には、絶対やってはならない判断。それをやってしまったばかりか、意地を張った挙げ句魔力を使い切ってしまった。

「ごめんなさい。 まずは礼を言うべきだったわね」

「いえ。 心中お察しします。 お怒りもごもっともです」

「……本当に貴方ホムンクルス?」

やたらと大人びた口調でそんな事を言うイリスに、少なからずフランソワは面食らっていた。そう言えば噂に聞いた。エルフィールが作ったホムンクルスは、様々な意味で常識外れであり、教師達も注目していると。そういえば、言動だけではなく、仕草や冷笑的な表情までも、何処かが人間くさい。人間だと言われたら、多分そうだと納得してしまうだろう。

フランソワも、少し前からヘルミーナ先生にホムンクルスを借りている。無機質で機械的な娘で、感情の類は一切感じられない。こっちの方が優れているというのではなく、多分ホムンクルスとしてはその方が正しいはずだ。

髪の毛の色や、肌の感触もフランソワの所のホムンクルスとは全く違っている。

興味にかられて、手を伸ばす。

触ってみると、とても柔らかい髪の毛だった。

慌てて、手を引っ込める。色々と、悔しいながらやっておかなければならないことがある。

「家主はいるのかしら」

「今はサー・アイゼルの所に出かけておられます。 貴方が目を覚ましたら、この手紙を渡すようにと言われていました」

イリスが取りだした手紙を受け取る。嫌みなのか、ご丁寧に蜜蝋で封印がされていた。その紋章はドナースターク家のものである。ただし家長が押すものではなく、家臣達が使う略式のものであった。

悔しいが、ドナースターク家の実力はフランソワも認めている。優秀な人材が多く、当主のシア=ドナースタークの力量も確かだ。引退した父から爵位を受け継いだシアは、他の貴族にとって腹立たしいほどに完璧かつ攻撃的なビジネススタイルで、今も右肩上がりの成長を続けている。

フランソワもそうありたい。

いずれは、錬金術を武器に、それに並びたい。そして誰よりも優れた成績を上げることで、父と母の名を辱めない存在にならなければならないのだ。

手紙を見る。

内容は淡々としていて、特におもしろみもない。字もこざっぱりして、よそ行きに変えているのは明白だ。礼などは結構なので、目を覚ましたら適当に引き上げてくださいとだけ書かれている。無機的な一方で、作法などの面で不調法はなかった。

既にドナースターク家で、礼儀作法などは教わっていると言うことだろう。つまり将来の、ポストを見越しての行動となる。短い文面からも、それだけのことは読み取れる。否、読み取れるように、エルフィールは残していったと言うことだろう。

怒りが瞬間的に沸き上がってくる。

エルフィールが苦労していることは知っている。既に調査済みだ。アカデミーに入る一年少し前くらいまでの記憶が無いことも既に判明している。

エルフィールが必死なことも分かる。彼女には土台も歴史もないのだ。たまたまドナースターク家に拾われたと言うだけで、外に出れば何も残らない。だから必死に勉学を続けて、在学中に人工レンネットを造り出すという偉業を達成できたのだろう。酷い状況にある者同士で、シンパシィを感じることだってある。

だが、今の時点では。どうしても、エルフィールのことをフランソワは認めることが出来なかった。多分人間的な相性が最悪なのだろう。

一瞬、もので感謝の形を示そうかと思ったが、止める。これは嫌がられる場合が多々あるからだ。特に草の根から這い上がってきたような相手は、反応が半々に分かれる。嫌う場合は激烈な沸騰を示すことがあるので、あまり実施しない方が良い。

それを経験的に知っていたフランソワは、直接謝るしかないと結論する。

「世話になったわ。 さきは驚かせてごめんなさい」

「何度も謝られなくても大丈夫ですよ」

薄ら笑いを浮かべるイリスを残して、フランソワはエルフィールのアトリエを出る。

一階の台所には、皮を剥いだ鹿の肉が吊されていた。

こういった生活スキルがあるのは羨ましい。もっとなんでも、自分で出来るようにならなければならなかった。

アイゼルのアトリエについては、場所も知っている。以前乗り込んで散々嫌みを吐いたのだから、当然だ。アイゼルは以前は高慢な性格だったというのだが、特にホムンクルスのフィンフをヘルミーナ先生から借り受けた頃から非常に丸くなり、今では男子生徒から慈愛の微笑みとか影で言われているらしい。

此奴も、フランソワとは境遇で被る所がある相手だ。それなのに、どうしてあんなに優しく微笑んでいられるのか、分からない。

だから、此奴は、エルフィール以上に嫌いだった。

「フランソワさん」

不意に声が掛かったので振り返ると、キルキとノルディスだった。キルキは敵意剥き出しのフランソワに対しても普通に接してくるので気味が悪い。多少片言である理由はよく分からないが、しかしやはり体質的に苦手な相手だった。

ノルディスに到っては、男子としての気概がない相手だと考えてるので、もっと嫌いである。頼りがいのある男が良いなどと言うことは言わないが、少なくとも自分よりも強い相手を好みたかった。

「あまり顔色良くない。 どうしたの」

「貴方には、関係ない」

「エリーから聞いた。 森で倒れた。 休むなら、栄養剤とかある」

そうか、此奴はエルフィールのアトリエのお隣さんだ。倒れたという話が伝わっていてもおかしくはなかった。

なんたる醜態、一生の不覚か。歯ぎしりの音が漏れそうだ。

「フランソワさん、僕は医術の心得もあります。 診察だけでもさせてもらえませんか」

「断るわ。 ただの疲労よ」

「疲労を侮ってはいけませんよ。 蓄積した疲労は、大病の元にもなります。 判断力や、決断力の低下にもつながります。 覚えがある、のではありませんか」

「……っ」

瞬間的に頭脳が沸騰しかけた。お前に何が分かると叫ぼうとして、停止する。ノルディスには、普段の柔和な笑みと違う、妙な強い気配があったからだ。

そのまま、エルフィールのアトリエに戻らされる。

もの凄く手際よく、脈を取られた。キルキが片言で教えてくれる。余計なことだが。

「ノルディス、最近は施療院で治療のやり方とか、診察の仕方とかも教わってる。 錬金術も出来るお医者さんに将来はなれる」

「キルキ、ありがとう。 フランソワさん、やはり疲労が蓄積しています。 体のダメージが、こう言う所にも出てきているんです。 無理をしなければ、倒れることもなかったのではないですか?」

「一年の遅れを取り戻すには、必要な事よ」

「貴方は充分に優れた成績を上げているではないですか。 ブランクがあるのに、あのエリーやキルキと渡り合っているなんて、尋常な事じゃありませんよ。 そうか、かなりの無理をして、成績を支えていたんですね。 この肌の様子からすると、無理を続けると、じきにまた倒れることになりますよ。 もう一年、無駄にしてしまっても良いのですか?」

諭すようなノルディスの言葉には、強い心配と、優しさが宿っていた。

それが、分かる。分かるが故に、フランソワは認めるわけにはいかなかった。

「せめて、これを飲んでいって欲しい。 いつもキルキも使ってる栄養剤。 でも、栄養剤じゃ、強い体にはならない。 美味しいご飯食べて、適当に寝ないと駄目」

差し出された栄養剤をひったくると、一気に飲み干す。

脳が痺れそうなほどに不味い。だが、確かに力が湧くようだった。

「礼は、言わないわよ」

「私が好きでしたことだから、必要ない。 今度のテスト、楽しみにしてる」

「でも、その前に適切に休んでください。 ライバルとしての貴方にいなくなられると、学業に張り合いがありませんから」

本気でいっているようには見えなかったが、ノルディスの言葉には強い重みがあった。

少しだけフランソワは、ノルディスに対する評価を内心で上げていた。

 

フランソワが多少びっこを引きながらアトリエを出て行くのを、エルフィールは影から見つめていた。側にはアイゼルとフィンフもいる。

「サー・エルフィール。 どうして私達は隠れているのですか」

「敵情視察」

「敵性勢力とは、サー・フランソワの事でしょうか」

「まあ、潜在的にはね」

もうじきある学年度試験ばかりが目に着いているのだが、フランソワとの戦いはもっと長く続くだろうとエルフィールは思っている。何しろあの娘も、マイスターランクまで行くことはほぼ確実だからだ。

アイゼルが咳払いした。

「あー、おほん。 エリー、こういうのは良くないわ。 フランソワさんも、プライドが傷つくのを覚悟の上で、貴方にお礼を言おうとしているのではないのかしら?」

「うん、誇り高い行動だよね。 多分自分に対する怒りで胃が焼け付きそうだろうに」

「だったら、彼女の意思を汲んであげるべきよ」

「あれだけコケにされたのに、アイゼル、寛容だね」

本当に、最初の頃の余裕の無さが嘘のようである。フィンフの手を引いて歩いているアイゼルを見て、最近男子が噂をしているのを良く目にする。一時期は野生児軍団に入ってしまったとか陰口も多かったのだが、最近は好意的な意見の方が明らかに増え始めていた。

まあ、アイゼルの言うことももっともだ。

大股で歩いているフランソワに、手を振って近付く。

振り返ったフランソワは、表情を消していた。怒りを制御するのは大事なことだ。さぞや壮絶な精神修練を積んできたのだと、消した表情を見るだけでも分かる。エルフィールが近付くと、ぺこりと完璧な角度で礼をしてくる。

「醜態を見せたわ。 介抱してくれて有難う」

「何、困った時はお互い様だよ。 テスト、頑張ろうね」

「ええ。 必ず、全員纏めて叩きのめしてやるわ」

凄絶な笑みを浮かべると、フランソワは歩み去る。

ちなみに、アイゼルを呼びにいったのは本当のことだ。丁度素材を買いに行っていたクノールが、アトリエから去っていくフランソワと、アトリエから出てきたキルキとノルディス、それにエルフィールとアイゼルにフィンフを見て、目を白黒させた。

「え? 全員揃ってるって、何かあったのですか?」

「今度のテスト対策だよ。 まあ、此奴の試運転は出来なかったけど、逆に充分以上の収穫になったし、それでいいかな」

舌なめずりするエルフィールを見て、クノールが一歩後ずさる。

溜息をつくと、アイゼルはフランソワを追おうかと一瞬だけ悩んだ様子だった。

 

魔力の杖を手にして、エルフィールはそれから数日、テスト勉強を行いながら合間に研究を進めた。

まず最初にやったのが、ドナースターク家への報告である。

当主シアへの直接報告はしない。別に其処までの事ではないからだ。何名かいる彼女の部下に話をして、そして適切な術式の師匠を紹介して貰おうと思ったのである。別に師匠自体は冒険者ギルドにでもいけば優れた使い手が幾らでもいるのだが、今回はドナースターク家へ報告する必要もあった。

しばらく居間で待たされて、姿を見せたのは、意外な人物であった。

「クライド先生!?」

老人は、相変わらず寡黙だった。顔を見るのは数年ぶりである。長の結婚式にさえ姿を見せなかったのに、どうして来てくれているのか。粗末な衣服と、鋭い眼光。口元から長く伸びている白い髭は、相変わらずろくに手入れもされていなかった。

「それが、魔力を宿した杖か」

「はい。 しかし先生、術式の方も使えたんですか!?」

クライドはそれには応えず、二人で裏庭に出る。

ドナースターク家の屋敷の庭には、幾つかの施設と一緒に、訓練場がある。ドナースターク家の武官達は、いつも其処で体を鍛えて汗を流す。特に此処本拠地の屋敷には、生半可な使い手の所属が許されていないこともあり、どうやってついたか分からないような傷が案山子や地面に穿たれていることも珍しくはない。

しばらく先生はエルフィールの周囲を回る。緊張する。

「棒術の腕はかなり上がったな。 既に生半可な使い手では対応できないだろう」

「有難うございます」

「魔術の方は、俺はあまり詳しくない。 だが、呼吸法や、制御方法については知っている。 俺も昔は、術者として名を上げようと思った時期があったからな」

驚いた。まさか、クライドの過去が聞けるとは思わなかった。

そのまま二人で、向き合って座禅を組む。クライド先生は、無言でポーズを取った。両足を組み、棒を足の上に横に載せて、その上で手を左右に広げるようにする。エルフィールもそれに倣ったが、クライド先生はしばらくしてから言う。

「手は杖に直接触れよ。 そうなると、杖は置くのではなく持った方が良いな。 両手で、地面に水平に持て」

「はい」

しばらくすると、体の中が熱くなるのが分かった。

なるほど、これは確かに理にかなっている。これに比べれば、漠然と杖を持っていた時の高揚感など、塵芥に等しい。

半刻ほど、同じ格好を続けた後。杖を、クライド先生に取り上げられた。

「先生?」

「やはり、魔力自体は体に定着しないようだな」

「あ、本当だ。 熱い感触がなくなりました」

「以前から考えていたが、お前は魔力がないのではない。体の方が、魔力を恐らくは消し去っているのだろう。激烈な効果としてではなく、毒物を排除するかのように、ゆっくりと、だ」

先生は淡々と言った。杖を返して貰う。また、体の中に流れ込み始める生体魔力。

魔力があっても、身体能力が上がるわけでもない。ただ、今後、どうしてもクリアしなければならない問題が幾つかある。

それには、生体魔力の生成技術は、絶対に必要不可欠なのだ。

「なるほど。 そうなると、私の体って、一体何なんでしょうね」

「理不尽を、解き明かしたいか」

「正確には、未知なるものを」

「そうか。 それは、必ずしも幸せな路ではないが、良いのだな」

翌日から、直接稽古をつけてくれると、クライド先生は言った。生体魔力の研究にもなる。今、クライド先生と接することは、決して無駄にはならない。

「もう一人、見て貰ってもいいですか」

「イリスという子供か」

「はい」

「良いだろう。 お前は教育には決定的に向いていない。 俺が直接、心身の制御方法を仕込んでやろう」

そうはっきり言われると、少し悲しいものがある。

だが確かに、その通りだ。エルフィールが育てた冒険者など一人も居ない。行動が周囲に影響を与えることがあっても、それは育てる、というのとは違うはずだ。単純な技術を教えることは出来ても、誰かを成長させることは、確かに今まで出来なかった。

それから、イリスと一緒にエルフィールは、暇を見て研究のためにもクライド先生に扱かれた。

生きている縄をフルに使っても、先生には手も足も出なかったが。久し振りの修練は、とても気持ちが良かった。

 

2、最後の学年度試験

 

柔な鍛え方はしていないが、それでも流石に全身が痛い。クライド先生は、兎に角寡黙に訓練を続けた。連日エルフィールの体を棒で打ち据えた。生きている縄がどんな方向から迫ろうが、一瞬後には陽炎のように消えて、エルフィールの間合いを侵略しているのである。最高レベルの使い手とはこういうものかと、ぶちのめされ続けながらも、エルフィールは感動していた。アデリーさんでさえ、五分以上の勝負が出来ないわけである。

ベットから起き上がると、筆記用具だけを鞄に詰める。顔を井戸水で洗ってさっぱりし、軽く棒を振って体を鍛える。

イリスも、自力で起きられるようになった。小さな手で目を擦っている様子は、確かにアイゼルが庇護欲をかき立てられる程度には可愛らしい。可愛らしいとは思うのだが、それ以上どうしようとは全く思えない。

「熱心ですね。 試験日なのに」

「私、どうも本質的には肉弾戦が好きみたいだから。 その好きってのも漠然としか分からないんだけれど、兎に角こうすると、試験の時頭がよく働くんだよね」

「根っからの戦闘狂ですね」

「違いない」

好意的ではない言葉をさらりと流す。

久し振りにクライド先生に叩きのめして貰って、驕りも綺麗に消えた。確かにザールブルグに出てきてから、強敵と戦う機会は減っていた。腕は上がっていたが、何処かで負ける可能性を想定し忘れていたのだ。

勝てない相手とは戦うな。鉄則である。それをこてんぱんに叩きのめして貰うことで、エルフィールはしっかり再確認することが出来たのだ。これもまた、魔力の杖を貰うのと並ぶ、大きな収穫であった。

充分に体を温めたところで、外に。丁度、キルキも外に出てきた所だった。

「おはよう、エリー」

「おはよう。 キルキ、ちょっとお酒の匂いがするよ」

「飲んだ訳じゃない。 昨晩遅くまで、強めの酒を調合してたから」

キルキは普段からの勉強量もそうだが、何しろ暗記力が凄まじい。元からの知識力がものを言う上に、最近はしっかり応用もこなしている。兎に角勉学という点では、非の打ちようがない最強の敵だとも言える。

だがしかし、応用能力に関してはエルフィールの方が上だ。だからこそに、互角に渡り合うことが出来るのだ。

途中、アイゼルと合流。

以前は試験会場に行くまで会うこともなかったのだが、彼女がアトリエに住むようになったので、こういう事も起こるようになった。もっとも、アトリエはアカデミーを挟んでほぼ正反対の位置にあるから、試験会場の直前で、だが。

アイゼルは結構勉強をしてきた様子で、少し眠そうである。もっとも、実際に試験が始まったら、そんなものは消し飛ぶだろうが。

少し遅れて、ノルディスが来る。フランソワはと言うと、取り巻き達を連れて最後に現れた。

アトリエ組の生徒達もちらほら見える。そういえば、最初の頃からアトリエ組だった男子生徒は、最近顔に凄い向かい傷を作った。採取地で名誉の負傷をしたという。何でも旅人の女の子を庇って傷が出来たとかで、自慢だそうである。もっとも、庇った女の子は、礼を言うとさっさと行ってしまったそうだが。世の中、そんなものである。

「今回の試験は、どんな恐ろしい内容なのかしら」

「アイゼル、怖いの?」

「馬鹿言わないで、と言いたい所だけれど。 正直な話をすると、怖いわ。 先生達が戦略を持ってテストを作っているのは分かるの。 でも、やっぱり闇から溢れてくるような理不尽も感じてしまうから」

素直に、アイゼルが思う所を吐露する。だが、それは逃げたいという言葉と同義ではない。

アイゼルを、キルキとノルディスが口々に励ました。エルフィールは、何だか良いものだなと思って、それを見た。

「大丈夫。 今のアイゼル、強い。 だから平気」

「そうだね。 僕もそう思うよ」

「ありがとう。 それでは、試験に備えましょう」

全員で、ぞろぞろと校庭に移動する。今年も、どうせ校庭で最初の試験を行うだろう事は、目に見えていた。

校庭には、十数個、大きな黒い檻が用意されていた。いわゆる檻車という奴で、罪人を運ぶためのものである。ただしどれもこれも妙に古いのを、エルフィールは目ざとく見て取った。それに車輪も外されて、地面に下ろされている。

この様子だと、あの檻車は多分騎士団辺りからの払い下げ品だろう。試験に騎士団が関わっていることは知っていたが、かなり今回は露骨である。さて、どのような試験になるのか。わくわくが止まらない。

イングリド先生が姿を見せると、全員が一気に緊張する。先生やマイスターランクの学生達が、机と素材を並べていく。その中に、火薬の材料となる素材が複数含まれていることを、エルフィールは冷静に分析。

これは多分破壊試験だ。しかしながら、どう破壊するのかが、まだ見えてこない。それに、檻車の間が随分開いているのも気になる。無秩序に並べられているように見えるが、それでいてそれぞれの間にはかなりの距離があった。

「これから、生徒の名前を読み上げます。 班名と担当先生も一緒に読み上げますから、それぞれ先生の所に行き、整列するように。 キルキ、三班、担当クライス先生。 エルフィール、六班。 担当アーノルディ先生。 フランソワ、五班。 担当……」

振り分けがされていく間に、面白いことに気付く。

どうやら上位成績者は、別々の班に分けられているようなのだ。なるほど、これはかなり面倒な試験になる。エルフィール、キルキ、ノルディス、アイゼル、それにフランソワは、それぞれ別のチームに振り分けられた。残りは下位の成績者ばかりである。しかも、色々と面倒なおまけ付きだ。

明らかに生徒ではない面々が、何名か混じっている。それだけではない。

「エルフィールか。 お前もこのチームとはな」

「班ですよ、アライラ先輩」

留年組の中では、比較的高位の成績にいる男が其処にいた。かなり体格の良い男で、巌のような顔をしており、荒い気性で恐れられている。去年様々な理由から最終年度の試験を受け損ね、結果留年した。確かに卒業をするくらいの実力はあるようなのだが、留年してからは成績が徐々に下がっているとか。しかも人望がないので、フランソワと違って取り巻きも出来ない。

このアライラ、留年以来エルフィールを主に目の仇にしているらしい。というのも、ノルディスは基本的に穏やかな気性な上に万年四位。キルキは子供だし、フランソワは喧嘩を売るには鼻っ柱が強すぎる。

故に、アカデミーで会うと毎回喧嘩をふっかけてくる面倒な奴だ。一度素手で叩きのめしてやったのだが、懲りていないらしい。

現在、アライラの学年順位は二十七位。一応の努力を続けてはいるが、マイスターランクに行けるかは微妙な所だ。普段の素行が悪いので、選出は難しいという声もある。ただし、マイスターランクに行けるのは、成績よりも実績を上げた生徒だ。そう言う意味で、この男には二重に昇格の可能性がないかも知れない。

「あの檻に、お前を叩き込めば良いって試験だったら、すぐに……」

黙ったのは、エルフィールが体重移動から立っている位置をずらし、アライラの頸動脈に触れたからだ。

アライラはエルフィールより頭一つ大きいし、体格も優れている。しかし所詮富裕層の子弟であり、実戦もろくに知らない。それに対して、最近クライド先生にしっかり鍛え直されたエルフィールは、実戦という実戦で鍛えに鍛え抜かれてきたのだ。

「試験が始まりますよ。 あんまり五月蠅くするようだと、頸動脈切りますからね?」

「ぐ、くっ……!」

叩き込んでいた殺気を抜く。

同時に、冷や汗まみれになって、アライラが膝を折った。呆れたように、アーノルディ先生が歩み寄ってくる。

細い初老の錬金術師で、専門は植物関連。かっては魔術師であったらしく、錬金術「も」学ぶためにアカデミーに入り、そのまま居着いてしまった人物だ。最初の頃、アカデミーは若者よりも社会的に地位があったり暇があったりする人間が入ることが多く、高齢者が学生をしていることが珍しくもなかったそうである。その頃の人だ。

「アライラ、やめておけ。 お前じゃあ百人がかりでもエルフィールには勝てん」

「し、しかし」

「試験を始めるぞ。 これ以上騒ぐようなら、儂がじきじきにつまみ出すからな」

当然、アーノルディは優れた術者で、生半可な使い手ではない。押し黙ったアライラを無視して、アーノルディは説明を始めた。

「あー、諸君には、これから一人を除いて檻に入って貰う。 檻の外に出るのは、エルフィール。 お前だ。 他は全員が檻に入って貰うぞ」

近くで見ると、檻車は車が外されているだけではなく、地面に固定されている。エルフィールは、なるほどと思った。周囲の状況と、この檻車、それに今の説明。大体、試験の内容が分かったからだ。

渋々といった感じで、檻に入るアライラ。他十数名が檻に入った。素性が知れない者達も、その中に含まれていた。

鍵が、掛けられる。

流石に檻に着いているだけあって、錠前一つだけではなく、鍵を四本も使った頑丈なものだ。針金を使って開けられるようなものではない。まあ当然の話で、屈強であったり狡猾であったりする盗賊を収監するには、これくらいの備えが必要なのだろう。しかもエルフィールが見た所、かなり鍵は錆び付いている。あれでは、下手にいじくったら、その場で壊してしまうだろう。

元々軍で使っていたらしい檻車は大きく、檻に使っている鉄柱も太い。力任せに壊すには、それこそアークベアであっても無理だろう。冷静に檻を観察しているエルフィールの前で、アーノルディが咳払いした。

「さて、今回の第一試験は、如何に冷静に檻の中から脱出するか、となる。 外にいるエルフィールは、脱出させる、だが」

やはりそう来たかと、エルフィールはほくそ笑む。

そして、多分そうなると、ただ檻を壊す程度では済まないはずだ。

アーノルディが言うには、エルフィールは用意された素材の、どれを使っても良いのだという。檻をどのようにこじ開けるかも、自由と言うことだった。つまり爆破しようが溶かそうが構わないと言うことである。

まあ、そのために、わざわざ廃棄予定の檻車を大量に払い下げて貰ったのだろう。

「今回の試験は、一蓮托生だ。 怪我させても、怪我をしてもいけない。 その意味をかみしめて、作業をするように」

「はい。 すぐに取りかかります」

「蛇だ!」

エルフィールが身を翻しかけた瞬間、絶叫が上がった。

彼方此方から同時に、である。檻の中で、禍々しい体色をした中型の蛇が、鎌首をもたげるのが見えた。ちろちろと舌を出している蛇の頭は三角形をしていて、見るからに警戒色の全身は目に優しくない。

見る間に、檻の中はパニックに陥った。

蛇は複数である。しかもかなり活動的な種類らしく、人間どもに対して警戒音を立てている。ざっと見た所、エルフィールも見たことのない体色の蛇だ。あんな蛇は、この辺にいたか分からない。しかし、何処かで見たような気もするのである。

「エ、エルフィール! 何とかしろ!」

アライラが情けない声を挙げた。

なるほど、そう来たかとエルフィールは感心する。檻の中を走り回って逃げ回る生徒どもを見ていると、簡単にはいかないことがよく分かる。これでは、爆破にしても融解にしても、作業中の地点から生徒達を冷静に引きはがすことが至難だ。

「落ち着いて。 興奮するほど、蛇も驚いて攻撃してくるよ」

「ふ、ふふ、巫山戯るなあっ!」

胆の小ささを露呈したアライラが、脂汗を垂れ流しながら喚き散らす。他の生徒の中には、怖がって泣き出す者までいた。いくら何でも情けなさ過ぎる。気の弱そうな女子が突き飛ばされて、蛇の至近につんのめる。蛇もびっくりして、口を開けて必死に逃れようとした。

エルフィールは身を翻すと、材料を確認。

最初は爆弾を使うかと思ったが、これは或いは酸の方が良いかもしれない。他に手があるとすると、生きている道具類などもいい。例えば針金に生命を与えて、鍵穴を開けさせるのである。

しかし、その場合、まず悪霊を用意しなければならない。魔力の杖を今日は持ってきているが、カトールのように適切な悪霊を見ることにはまだ成功していない。これは避けるべきだなと、エルフィールは思った。

「エルフィール! 助けてくれ、助けてー!」

「そうよ、早くしてー!」

「殺される! 死にたくない!」

後ろの悲痛な訴えは無視。

他の班も、阿鼻叫喚の有様だ。多分同じように、蛇の恐怖に逃げまどう中の生徒達を宥めながら、外の生徒が調合を行っているのだろう。

エルフィールは決める。

最近やり方を覚えた、成形型の爆薬を使う。ある程度爆発を制御できるので、これを使えば怪我をさせる可能性も減る。まずは粘土を取りだして、こねる。それから火薬の素材となる幾つかを調合し、混ぜ合わせた。

中和剤をそれと並行して作る。魔法陣は用意してあるので、それを利用した。魔力の杖の影響で、ある程度は魔力が見えるようになっているので、これも若干だがスムーズに実施することが出来た。

アライラは完全にべそを掻いているらしく、他の生徒達も絶望しきっている様子だ。まあ、今までの試験内容からしても、何が起きても不思議ではない。怪我人が出なかったことが奇跡のような内容の学年度試験も数多くあったし、ましてや今回は最上級生による試験なのだ。

エルフィールは、敢えて後ろの阿鼻叫喚を無視する。いちいちつきあっていたら、冷静な調合が出来ないからだ。

檻ががたがた揺らされている。多分アライラ辺りが、恐怖に駆られてやっているのだろう。しかし奴程度の腕力で、屈強な破落戸を捕らえるべく作られた檻がどうにかなるはずもない。

そういえば、蛇はなぜ檻から逃げ出さない。

「早くしてくれ! 何ちんたらやってんだ!」

「黙れ。 騒ぐほど、完成が遅くなるよ」

「主席なんだろ! 早くしてくれ!」

「今の主席は、キルキなんだけど」

三日前に、また奪還されたのである。激しいデッドヒートで、キルキとエルフィールはここのところずっと互角の死闘を繰り広げていた。といっても、首位にいる時間は、キルキの方がいつも長い。

徐々に、後ろの絶望的な喧噪に釣られて、エルフィールも苛立ちが募らされてきた。これではいけない。一度深呼吸すると、集中。丁寧に作業をする。

中和剤を使って、本来は混ざることがない素材を、幾つか混ぜ合わせる。異臭がし始める中、フラスコに入れた火薬の元がぼこぼこと泡だった。一瞬でも気を抜くと、此処からは爆発の危険性がある。

今回はこの辺りで取れるカノーネ岩を用いない。というのも、用意されている材料にないからだ。だから合成爆薬を用いる。四年になって教わった調合だが、多少手間さえ掛ければかなり強力なものが作れる。ただし、今回は、威力を不本意なことに落とさなければならないが。

粘土をじっくり練り上げる内に、フラスコの中の液体が赤から黄色、黄色から緑と、変わっていく。

安定するまで、気が抜けない。

やがて、反応が収まった。

粘土にフラスコを傾けて、馴染ませる。そして混ぜ合わせた後、丁寧に手を井戸水で洗った。これで、完成だ。導火線を刺して、幾つかの爆薬を成形する。この導火線も並行で作っていたものだ。

この爆薬は、特定の燃焼に反応して起爆する。

本来は粘土ではなく珪藻土というものを使うのだが、今回は威力を抑えるためにもこれを用いるのだ。

檻の中は腰を抜かしている奴やら、めそめそへたり込んで泣いている奴やらで、地獄絵図だった。アライラは蛇を凝視したまま固まっている。エルフィールが檻を大きな音を立てて拳で叩くと、一斉に視線が集まった。

「これから、錠前を爆破するよ。 全員錠前から離れて」

「だって、蛇が、蛇が……!」

「蛇を刺激しないように、ゆっくり錠前から離れて。 顔が吹き飛ぶよ?」

泣きながら、生徒が這うようにして錠前から離れ始める。

やはり、そうか。

エルフィールは蛇の様子を見て一つ確信する。だが、それは別に此処で言わなくても良いだろう。パニックに陥った連中は気付いていないが、蛇はずっと人間を避けるように動いていた。

一部の熱を探知して襲いかかるタイプの蛇を除くと、基本的に彼らは臆病な生物だ。攻撃性の強い毒蛇もたまにはいるが、それはあくまで例外である。人間は殆どの蛇よりもずっと大きいことが多く、生物としては避けようとするのが普通だという事もある。

ましてや、その蛇が、実際には無毒であればなおさらだ。

おそるおそる逃げる生徒達を見計らい、まず鉄格子に油を掛ける。これは爆薬の副産物として出たものである。油を掛けた所で、調合に使ったヤスリを振るう。鉄の表面で散った火花が、油に着火。

瞬時に激しく燃焼し、驚いた蛇が此方に口を向けた。噛みつこうとする動作と言うよりも、威嚇して遠ざけるための行動だ。

油があまり多くないから、すぐに鎮火する。これで充分に鉄格子は脆くなった。そのまま押し広げられるかと思ったが、それだと多分全員は脱出できない。しばらく構造を見ていたから、大体脆い箇所は分かる。

鉄格子の根本と、天井付近に爆薬を仕掛ける。これは、油を掛けたのと同じ位置だ。

粘土をこねるようにして爆弾を設置した所で、導火線を埋め込む。爪の間などに爆薬が入っていないことを確認した後、今度は適当な石を使って、すりあわせて着火。こつがいるが、知ってさえいれば子供にでも出来る。

蛇が動く度に、生徒達がきゃあきゃあ悲鳴を上げる。そう言えば大型の類人猿である猩々も、蛇を非常に恐れるとかいう話をエルフィールは聞いたことがある。蛇嫌いは、類人猿に共通する事なのかも知れない。

一人、鋭い悲鳴を上げた女生徒がいた。蛇が足に触れてしまったのだ。驚いた蛇も鎌首をもたげて威嚇し、彼女はもう一つ悲鳴を上げようとして失敗。そのまま失神してしまった。

また、パニックが爆発しかける瞬間、エルフィールは檻の中に声を掛けた。

「その蛇、毒無いから」

「なっ!? う、嘘をつくなあっ!」

「本当だよ。 もっとも、毒蛇に噛まれるのと、爆弾で体の一部を失うのと、どっちがましだろうね?」

泣き出す女生徒。それだけではなく、限界らしい男子生徒の何人かも、泣きそうな顔をしている。

何匹かいる蛇も、既に疲れ切っている。

生徒達は知らないだろうが、蛇は瞬発力こそ高いが、持久力はほぼ無い生物なのだ。さっきから人間どもに散々驚かされて、どの蛇も疲れ果てているのである。今なら簡単に捕らえて蒲焼きに出来るが、まあそれは後で考えれば良い。

導火線の炎が、爆弾に到達した。

爆発音は、それほど派手に上がらない。これで先生達は、生徒の安全を結構考えてくれているのだ。理想的な調合を行った自信はあるが、それでも多少破裂して、炎を巻き上げた位である。

ただし、それで鉄格子にはとどめが刺された。

何本かの鉄柱が、内外に倒れる。下敷きになりかけた蛇が、慌てて逃げ出した。エルフィールは倒れきっていない何本かを引き抜いて捨てながら、恐怖に固まっている生徒達を呼ぶ。

「もう大丈夫。 早くこっちに出て」

感極まったか。

そう告げると、更に二名の生徒が泣き出してしまった。

 

試験の結果が、続々と出てくる。最初に終わったエルフィールは、ちょっとこれは拙かったかなと思って結果に目を通していた。

今回は波乱の幕開けとなった。

採点の基準が、如何にパニックを抑えて、的確に中の人間達を助け出すか、だったからである。中の人間は、如何に冷静に動き、危険を回避するかというのが採点の主体となっていた。

しかも後で分かったのだが、何名か事故を避けるため、檻の中に騎士団の人間が入っていた。素性が知れない連中がそうだったのである。彼らは最初にパニックを煽った後は、事故で怪我人が出ないよう、じっと見張っていたのだという。

中の人間でも、外に的確なアドバイスが出来たり、蛇が無毒だと気付けた生徒は高得点を得ていた。野外に出ていれば、これくらいは判別が着くものなのである。エルフィールは、調合や誘導に関しては良かったが、パニック回避に熱心でなかった所がかなり減点された。

結果として、試験の中間考査で、エルフィールは十三位となった。上位五名の中で、トップは何とアイゼルである。誘導が下手だったキルキや、手段が乱暴すぎたフランソワ、それにどうしても作業が遅れたノルディスと比べると、誘導も調合も檻の解体も、さらにはパニック回避もほぼ的確にこなして見せたのである。

アイゼルは優しく語りかけることで中の生徒達を落ち着かせ、なおかつ蛇にも優しく接して捕らえ、隅に確保することに成功した。多分毒蛇だと分かっていても、対処を成功させていただろう。

そうした上で、全員の協力を取り付け、最小限の爆薬で錠を破壊。もっとも美しく檻から全員を、しかも怪我一つさせず脱出させることに成功したのである。

エルフィールとしても、文句の付けようがない。この時点でトップは間違いなくアイゼルであった。

「おめでとう、アイゼル。 見せて貰ったけど、あまりにも見事すぎて、感動したよ」

「あ、ありがとう、ノルディス」

嬉しそうにはにかむアイゼルだが、ノルディスはいつものようにのほほんと微笑んでいるだけである。何だかアイゼルが気の毒になってきたが、まあこれは仕方がないだろう。くっつくまであと五年くらいかかるかも知れない。都会の人間は悠長なことである。まあ、生活に余裕があるのだから、悠長にもなるだろう。

今日は三つの試験が執り行われると言うことで、移動する。

次の試験は、最近作られた体育館で行う。先生達も、生徒の自主的な戦闘訓練だけではなく、実戦をしっかり教え込む必要があると考え始めたらしい。時々騎士団の精鋭が来て、モヤシ達に愛の鞭を振るいまくっている。参加させて貰ったことが何回かあるが、剣の訓練中に泣き出してしまう男子もいるようだ。

騎士団の精鋭と言えば、この大陸でも最強の猛者達である。そんな恵まれた環境で武芸を教わることが出来るなんて、滅多にないことなのに。もったいなすぎて、エルフィールからすれば残念でならない。

訓練を見たのはつい一週間ほど前。今までは試験が忙しくてそれどころではなかったので、本格的に参加するのはこの先だ。試験が終わり、なおかつエル・バドールの遠征のスケジュールが確定したら、イリスを連れて来て一緒に参加しようと、エルフィールは考えていた。

「ノルディスも、鍛えて貰いなよ」

「うん、そうするつもりだよ。 君たちを見ていると、僕が如何にひ弱で、採取先でも迷惑を掛けているかよく分かったから。 でも、僕は戦うのにはあまり向いていないから、如何に上手に支援をするか、考えられるようになりたいな」

「ノルディス、頭はとても良い。 司令塔になってくれると、助かる」

「頑張ってみるよ」

キルキのフォローにも、ノルディスは自然に破顔した。

体育館に着く。眉をひそめたのは、恐らくエルフィールが最初だろう。やがて、他の生徒も騒ぎ始める。

「何だろ、臭うよ」

「本当だわ。 黄金色の岩かしら」

黄金色の岩とは、ヴィラント山などで採取できる黄色い物質である。名前と裏腹に非常に柔らかく、毒性もある。火薬の素材としては適切だが、保存方法にいつも苦労させられる物質だ。

だが、エルフィールの鋭敏な嗅覚は、否と結論を弾き出していた。

「違うねこれは。 複数の腐臭が混ざり合ってる」

「お、おい、冗談じゃねえぞ!」

怒声を張り上げたのはアライラである。さっきのテストでの結果も案の定散々であったらしく、さっきから非常に不機嫌そうだった。この男は、イングリド先生やヘルミーナ先生の恐ろしさを知らないという点で幸運である。ずば抜けて出来が良いというわけでもなく、逆に出来が悪いこともなく。それが故に、二人があまり気にすることがなかったため、怒りに接することがなかったのだ。

だが、それもこの瞬間、過去のものとなった。

「私の考えた試験にケチを付けようというのは、だぁあれかしらぁ?」

いきなり天井から落ちてきたその人が、目を爛々と光らせて、周囲を睥睨。残念だが、アライラは死んだと、エルフィールは思った。

あまりの恐怖に、アライラは呼吸さえ出来ずに、震えていた。それはそうである。井戸の中で最強を気取っていた蛙が、いきなり自分を踏みつぶそうとする大蜥蜴を目の当たりにしたも同然だからだ。

「す、すす、すみ、ま、せん」

「……まあいいわ。 試験に戻りなさい」

アライラが失禁するのを見届けると、残像を残してヘルミーナ先生が消える。まあ、生き残ることは出来たが、この醜態、周囲の誰もが忘れはしないだろう。暴君は、此処に終わった。

さて、腐臭だが、正体はすぐに分かる。

並べられる調合机。そして、素材。色々なものがある。自然素材が中心で、植物も肉もあった。

問題は、その全てが腐り果てている、という事であろうか。

実際に素材が出てくると、生徒達の中には真っ青になって固まるものも出始めた。ヘルミーナ先生が、何時の間にか体育館の前段に上がり、ちょっとパフォーマンスがかった動きで皆を見回した。

「さあて、次のお楽しみは、貴方たちが大好きな、そして私は貴方たちの三百倍ほど好きな、調合よ!」

言われなくても分かる。

そして、ヘルミーナ先生は、高笑いと共に言った。

「それらの劣悪な素材を使い、可能な限り高度な錬金術による、高度な産物を造り出すこと! 単純に技量と知識だけではない! 腐臭に耐え抜く精神力もが必要になる! それがこの試験!」

素晴らしいと、ヘルミーナ先生はとても優しい笑顔で自分に拍手した。その少し後ろでは、最初の試験を考えたらしいイングリド先生が、仏頂面で立ちつくしている。ドルニエ校長はいないが、まあ別にそれはどうでもいい。

いつもヘルミーナ先生の試験は気が狂っているが、今日はいつもにもまして凄まじい。エルフィールはさっそくエプロンをして、腕まくり。混乱しきっている生徒の中には、肉に湧いているウジ虫を見て吐く者まで出始めていた。

「無理! これ無理!」

如何にも柔そうな、隣の調合机にいた女子生徒が口を押さえて叫ぶ。だが、キルキは既に調合に取りかかっていた。エルフィールも鼻で笑うとそれに続く。

いつも、高級な素材が手にはいるとは限らない。

劣悪な素材を使ったとしても、お客様に満足していただける品を造り出す。それが本職の錬金術師というものだ。

最終学年の試験だけあって、流石に手強い。

まずは、全体的な素材について目を通す。普通だったらまず腐らないようなものまで、よく腐らせている。それだけではなく、選択されている素材は、よく見ると、教科書に載っているような道具を作るのには微妙に種類が足りていない。

つまり、創意工夫が試される、という事だ。

この悪臭の中、創意工夫をしっかりこなさなければならないというのは、なかなか面白い試験である。

キルキは既に始めている。多分腐敗を逆利用して、何かの酒を造っていると見た。彼女にとってはもっとも得意とする分野だ。エルフィールも少し悩んだ後、茶色く変色してしまっている幾つかの葉を手に取り、乳鉢で砕く。腐敗した葉を磨り潰すと、今まで以上の臭気が辺りにまき散らされた。

阿鼻叫喚の中、エルフィールは心を氷にする。

そして、幾つかの方程式を、頭の中で静かに組み上げていった。

腐敗する際に問題になるのは、毒だ。どういう理屈かは分からないのだが、ものは腐ると毒が出る。つまり、発酵食品は、毒が出ないように腐らせたものだ、と結論することが出来る。

今回の素材は、どれも明らかに悪い腐り方をしている。

キルキはその毒の除き方を知っているから、技術を駆使して酒に変える。ノルディスやアイゼル、それにフランソワも作業を始めていた。特にフランソワは早い。調合をする所をはじめて見たが、手つきがかなり堂に入っている。相当な苦労を積み重ねてきたのは、間違いない所だ。

だが、苦労の量なら、エルフィールだって負けてはいない。

乳鉢で、複数の葉を混ぜ合わせ終えた。此処から熱を通す。そして次は水の処理に移行する。

水も、かなり腐敗している。だからまずは蒸留して、なおかつ濾す。それが終わったら、もう一度蒸留してから、中に軽石を入れて、煮る。こうすることで、細かい汚れを吸着させることが出来るのだ。

更にもう一度蒸留。

三回の蒸留を経ると、水はかなり減りはしたものの、相当に毒性を薄れさせることが出来た。

そして、今度は肉の処理に掛かる。

となりで薬品を煮立てながら、肉を薄く切る。ウジ虫はそのまま除去。肉は中まで綺麗に腐っており、そのまま食べるとかなり危ないだろう。

世の中には、腐肉を専門に食べる動物もいる。いわゆるスカベンジャーと呼ばれる連中だが、こういう連中は基本的に消化器官が特別製で、食物が腐っていても平然と消火することが出来るのだ。人間には、そんなに強力な消化器官は備わっていない。

だから、知恵で克服する。

まずは火を通して水分を飛ばし、刻んで細かく。

そして、最初に作っておいた、腐った薬草類の中に投入。これは元々強力な毒消しの効果があるものなので、充分な効果を示すことが出来る。

最後に、水を中和剤に変換。

用意されていた魔法陣はがら空きだった。これだけ悪条件だと、どの生徒もまず調合にまでたどり着けないらしい。

中和剤の充填をする間に、また水を蒸留しておく。

それにしても、これは作業が終わった後風呂に入りたい所だ。下手をすると、異臭が肌に染みついてしまうだろう。それだけではない。指先などにも、毒が残っている可能性がある。

だから、蒸留水のいくらかは、消毒用に手指をゆすぐのにも使っておいた。

中和剤の充填が終わる頃には、他の生徒も何とか涙を拭いながら動き始めていた。今日の試験は修羅場続きだ。この様子だと、最後のペーパーテストも、いつもにもまして狂気に満ちたものなのだろう。

だが、それが面白い。

中和剤を投入して、肉と薬草のエキスを混ぜ合わせる。毒消しが作用しているから、これで巧く行くはずだ。

中和剤によって、何種類かの薬効成分が混ざり合っていく。温度を保ち、反応を促進。しばらく泡立っていた何種類かの成分が、程なく落ち着いた。火を止めて冷やし、そして瓶に入れる。

これで完成だ。

此処にある材料からは、これが精一杯だろう。一種の強壮剤である。元々この手の精力剤は、腐敗しているも同然のものや、匂いが強烈な素材を使うことが珍しくない。つまり、相性は悪くないのだ。

問題は毒性である。

口にしてみると、まだある程度の不快感は残っている。だが、それも気にならない程度だ。お客様に出しても、特に苦情は来ないだろう。強壮剤とは酷い匂いと味だという認識もあるのだから。

むしろ今エルフィールが作ったものは、匂いにしても味にしても、まだまだ我慢できる程度のものだ。

早速提出しに行く。

今回もエルフィールが一番だ。続いてキルキ。緑色に泡立つ酒を造ったらしい。二人は僅差だった。少しだけ遅れてフランソワ。驚いたのは、口にするタイプのものではなく、塗る薬剤を作ってきたと言うことだ。

薬剤の品質を確認しながら、イングリド先生がフランソワに聞く。

「これは?」

「肌荒れを防ぐための薬効クリームです」

「へえ、考えたわね」

確かにこれならば、毒性があってもあまり関係はない。そもそも化粧品の中には、口に入れると危険なものも少なくないのである。

アイゼルとノルディスはほぼ同着。

アイゼルはフランソワと同じく化粧品。ただし塗るタイプではなく、香水だ。しかも、先ほどの腐敗臭は全く残っていない。ここのところ、アイゼルの腕はかなり上がってきている。このままだと、ノルディスは追い越されるかも知れない。

ノルディスはエルフィールと同じく薬品。

ただし、人間が口にするものではない。植物用の栄養剤だった。確かに植物は腐敗物に強い。そのまま自分の栄養にするたくましさを持っている。ノルディスとしても、医学を志しているからか、人間に対する危険性をどうしても考慮せざるを得なかったのだろう。

いずれにしても、皆なかなか手強い作品だ。

昼をかなり過ぎた頃、第二次試験も終わった。生徒の中には、ぐったりしている者も珍しくない。

少し遅くなったが、此処で食事にする。学校の側の車引きは間違いなく混むので、今回は弁当を作って持ってきた。ノルディスは弁当そのものは持ってきていたが、明らかに主食が無い栄養だけを重視したものだったので、アイゼルが分けていた。といっても、アイゼルは最初からそのつもりだったらしく、一人で食べるにはかなり量が多かった。

「凄い匂いだったね」

「ええ。 しばらくはお鼻に残ってしまいそう」

「キルキは慣れてる。 あれくらいは平気」

エルフィールは笑顔で会話を聞きながらも、ちょっとまずかったかと思った。

今回、エルフィールにとって決して有利とは言えない試験が続いている。今までに積み上げてきたものがあるから、簡単に下に落ちるようなことはないだろうが、このままだとキルキから一位をほぼ確実に奪取できない。フランソワの方はと言うと、エルフィールとどっこいどっこいだ。今の時点では、抜かれる危険性について考えなくても良いだろう。アイゼルとノルディスに関しては、今までの差が大きい。次の試験で大幅な差でも付けられない限りは、多分大丈夫だ。

結論としては、次で立て直すしかない。しかし、巧く行くか。

今回は四年間の学生生活で、最後の学年度試験である。これが終わると、卒業時に成果物を提出する事のみが残る。もちろん小テストは日常的に行われるが、それでも、キルキに一気に追いつけるかは微妙だ。

人工レンネットの件があるから、マイスターランクには確実に行ける。しかし個別の研究室を持つようになるマイスターランクでは、今後はこのような競争は発生しない。正直言って、エルフィールは今の環境を心地よいと思っている。何だか、孤独な心に、光が差し込むような気がするからだ。しかも、本来の性質である闇を虐げない程度に、である。

校庭の一角に茣蓙を引いて、弁当にする。

皆の弁当を出すが、差が目立った。アイゼルは基本的に小食だが、兎に角凝っている。エルフィールに連れられて結構ワイルドな食生活もしているはずなのだが、それでも小綺麗で一つ一つに手間暇が掛かっているものを作ってくるのは、多分地金に染みついたもののせいなのだろう。

「うわー。 アイゼルのお弁当、お花畑みたいだね」

「ありがとう、エリー。 でも、給仕の人達が作ってくれていたものには、未だに味で及ばないの。 自分で作った調味料で誤魔化しているけれど、いつか子供にお弁当を持たせる時が来たら、栄養と味もしっかりしたものを作りたいわ」

「しっかりしてるね。 流石だ」

一方、ノルディスは栄養だけを考え、見た目は完全に度外視しているのが丸わかりの弁当を出してきた。色は土留め色で、しかも異臭までする。その上少ない。多分栄養さえ取られれば、後はどうでも良いと考えているのだろう。アイゼルはそれを見越していた、というわけだ。

キルキはと言うと、ニギリメシと東方で呼ばれるものを作ってきた。以前カスターニェに行ってから、キルキは東方の文化に興味を持ち始めたらしく、特に最近はライスの栽培を始めている。

テンサイとサトウキビが実験的とはいえ少しだけ栽培できたので、今度はライスを、というのがキルキの目的らしい。ただし今のところ、味が落ちるいわゆる陸稲で作っているので、あまり美味しくはないようだが。

「キルキ、それはなあに?」

「東方の携帯食料。 中に具を入れると美味しい」

「面白そうね」

「うん。 でも、本来はもっと美味しいって聞いてる。 ちょっとまだ美味しく作れないから、教えられない。 もうちょっと美味しく作られるようになったら、アイゼルにも教える」

とはいいつつ、ぱくぱく幸せそうに食べているので、あまり不味そうには見えない。

キルキは最近はもう、両親を恋しそうなそぶりは、少なくとも人前では見せない。ただし、今でも目的は変わっていないという。

病院に通って酒の中毒をどうにかしようとしているという両親も、キルキの頑張りを見て少しは思う所があればよいのだが。

さて、エルフィールの弁当だ。

昨日森に出かけて捕まえた兎の丸焼きである。最近は身体能力が向上して、坂に追い込んだり生きている縄を使わなくても、そのまま兎を捕まえられるようになったので便利だ。

骨や肉は取って食べやすいようにしてあるが、もろに兎の形をしているので、モヤシ組の生徒達は悲鳴を上げるかも知れない。エルフィールはこの兎焼きに、自作のソースを搦めて来た。クリームを主体に、ソイソースなどを混ぜて作ったソースで、焼く時にも体の中に入れて、蒸すことで肉に染みこませてもいる。

丸焼きは豪快な料理だが、味付けと工夫次第でどれだけでも美味しく作れる。この兎焼きは、飛翔亭に持ち込んでそのまま採用されたほどの味だ。実際に、時々飛翔亭でも、強面の冒険者がぱくぱくしているのを時々見る。

ただ火に放り込めば良いのではない。蒸し焼きにするだけでもぐっと味わいが良くなるし、肉汁を逃がさないようにすると更に味の深みが増す。血は好みだ。普通は抜くが、抜かないとそれで美味しく作れる場合もある。

「相変わらず豪快だね」

「でも美味しいよ。 兎さんの足、食べる?」

「いただくわ」

アイゼルがしっかり形が残っている兎の足を受け取る。それを目撃したモヤシ組の男子生徒が、青ざめて固まるのをエルフィールは見たが、気にしない。アイゼルも、外で動物を捌いたり燻製を作ったりしているのだ。これくらいは普通である。

和気藹々と昼食が続き、最後の試験が来る。

此処からは敵同士だ。だが、それはスポーツに近いものであり、実際の殺し合いではない。

「さ、行こうか。 負けないよ」

「僕も、最後で一気に盛り返してみせるよ」

「キルキも」

「私も負けないわ」

四人で小さな輪を作り、軽く気合いを入れる。

皆、実戦経験者だ。そうなると、顔つきが露骨に変わった。アトリエ組の生徒も、ちらほら見掛ける。皆、実戦経験者であるし、誰もが顔つきからして変わっていた。これは、いつも手強いヘルミーナ先生のペーパー試験でも、今年は生徒達を簡単には苦しめられないかも知れない。

教室にはいる。

フランソワが、泣いている取り巻きを慰めている所を見掛けた。

「大丈夫よ、まだ盛り返せるから」

「でも、フランソワ様、最後はあのペーパー試験です! どんな恐ろしい狂気が待っている事か」

狂気には全面的に同意だが、前半分には同意できない。

ヘルミーナ先生の暗号混じりの試験は、とても楽しいからだ。実際先生の参考書を「解読」してその難解かつ高度な知識を理解した時の喜びは、筆舌に尽くしがたいものがある。それが分からないというのは、もったいない話である。

げっそりと痩せこけたクライス先生が現れると、悲鳴を上げる女子生徒までいた。多分クライス先生に驚いたのではない。テストの内容を大体予想してしまったからだろう。

先生が持ってきたのは、妙に分厚い試験用紙である。ちょっとわくわくだ。

「ええ、それでは皆さん、四年生時の締めくくりとなる試験を始めます。 いいですか、ちゃんと解けるように作られていますから、くれぐれも、くれぐれもです。 絶望に飲まれずに、最後まで思考する努力をしましょう」

クライスの訴えを聞いて、気絶しかける生徒までいた。つまり、今までの狂気よりも、更に数段上の試験と言うことだ。

これはどきどきものだ。エルフィールは涎が口の中に一杯湧くのを感じてしまった。

試験用紙が配られる。

他の教室でも、この分厚い試験用紙が、二つ折りにされている事にそろそろ生徒達が気付くことだろう。

試験開始の鈴が鳴った。エルフィールはまずその用紙を開いてみて、流石に驚きに声を漏らしていた。

「わ!? 凄い!」

そう。

分厚い試験用紙を開くと、立体的に意味の分からない形と、それにびっしり書かれた文字が浮き出したのだ。

子供向きの高級玩具本に、こういうものがある。いわゆる「飛び出す絵本」である。それにしても、飛び出す絵本で試験が作られたのなど、史上初ではないのか。ヘルミーナ先生の発想力には驚かされる。

しかもこの「試験用紙」には、回答を書く場所さえ無かった。しかも、一頁ではなく、明らかにもう一枚がのり付けされている。剥がしてくれと言わんばかりに、である。そして当然のように、問題文などは書かれていなかった。

問題文は書かれておらず、回答欄さえ無い。

これは多分、回答を書く場所についても問題の一部になっている。何という凶悪な試験か。わくわくぞくぞくして来るではないか。

エルフィールは舌なめずりをすると、周囲の絶望の気配を心地よいと思いながら、早速試験に取りかかったのであった。

 

3、学年度試験終わりて

 

クライス先生が、机の上に巨大な砂時計を置く。いつもよりも更に大きい。そのまま人を撲殺できそうなサイズである。銀縁の上品な作りで、殴ったら砂時計も壊れてしまいそうだが。

クライス先生は何も言わないが、試験の制限時間を示す砂時計であろう。まあ、この難易度だ。あれだけ大きいのも当然の話だ。

流石にあの砂時計が試験の一部と言うこともないだろうし、一瞥だけすると、エルフィールは最後のペーパー試験に集中する。

立体的に浮かび上がる物体は、何だろう。紙で組まれている、飛び出す絵本の造型。どんな生物にも似ていないどころか、自然界に存在する何にも似てはいなかった。強いて言うならば、山などで風雨にさらされた結果出来あがった奇岩という所であろうか。

もちろん飛び出す絵本であるから、曲の部分は極端に少ない。いずれもがかくかくしているが、それでいながら不自然ではないのだった。

言うならば、理不尽である。

しかも凶悪難易度が生み出すものと、謎の生み出すものが適切な量で混ざり合っていて、心地よい理不尽だ。

まず、くるくると回して、ざっと全体の外観を把握。書かれている文字も、見ていく。やはり、何処かで規則性が存在している。多分テストの問題につながるヒントであろう。ヘルミーナ先生は、暗号の中に、必ず独自の規則性を、此方に分かるように記してくれるのである。

それが理解できないと、苦労することになる。

この錬金術アカデミーでは、学年の違う学生同士の交流は、不思議なことに殆ど無い。たまに顔の良い先輩などの話が持ち上がることもあるが、恋愛沙汰になることはまず無い様子だ。

だから、ヘルミーナ先生の著書に関する暗号解読法は、自力で見つけられない場合、上からの情報ではなく、横からの情報で得なければならない。それが、また苦労の元なのだった。多分、おおかたの生徒が苦労しているのは、其処に原因があるのだろう。

もっとも、エルフィールのように、暗号解読を楽しむ少数派には、これはまたとない娯楽なのであったが。

さて、一通り見回した所で、解読に掛かる。まずは形状、高さ、方角、様々な方向からアプローチに掛かる。見たところ、文字に使われている染料は全て同じだ。ただ気になる点があるとすると、わざと最初の色から変色させている可能性がある、という所だろう。使ったインクの種類までエルフィールは特定し、なぜ変色させているのか考え込む。此処が重要だと思ったからだ。

変色に使用しているのは、何か。他の素材を使っているのか。或いは、単に風雨にさらしているのか。

匂いを嗅いでみるが、別の薬品の香りはしない。

そうなると、恐らくは、これを作ってからしばらく悪環境に放置して、わざわざ色を変えたのだ。

ヘルミーナ先生の作る暗号には、基本的に無駄がない。これは大きなヒントである。

突破口を見つけたと思ったエルフィールは、更に思考を進めていった。

 

ノルディスは、髪の毛が抜けるようだと思いながらも、目の前の難題に取り組んでいた。

ヘルミーナ先生は、敢えて口にしないが、ノルディスにとってもっとも苦手な人の一人である。役に立たないと判断するや本性を現し交流が途絶した両親も苦手だが、それとは別種。存在そのものが理不尽なかの人は、論理性を求めるノルディスには、兎に角相性が悪かった。

だが、エリーに話を聞いて、どうも考えを改める必要があるかも知れないと、最近は思い始めている。

確かに最初ヘルミーナ先生の著書を読んだ時、あまりにも凄まじい内容に頭がくらくらした。どうしてこんな人が、アカデミーの双璧と呼ばれているのだろうとさえ、本気で思った。

だが、エリーに解読法を聞いて著書を読み進めてみると、何とも奥深い内容が充ち満ちていることに気付いたのである。

それからは、苦労しながらも、ヘルミーナ先生の造り出す難題や本には取り組めるようになってきた。

ちらりとアイゼルを見る。

アイゼルも、ヘルミーナ先生に気に入られて、最初の頃はストレスが相当に溜まっていたらしい。女性同士は反目する根が深いという話も聞くし、無理もないことなのだろう。だが今では、フィンフという存在が間に入っていることもあって、すっかりヘルミーナ先生に対する苦手意識は消えているようだ。もっとも、フレンドリーに接しているわけでも無い様子だが。

アイゼルは既に何かに気付いたらしく、一緒に配られた計算用紙にさらさらと筆を進めている。カンニングになるから、これ以上見たら不味いと思い、ノルディスは思索に戻った。

どうもインクに何かあるらしいことには気付いた。だが、インクを風化させることに、どのような意味があるのか。しばらく腕組みして考えて、ふと気付く。

確かこのインク、素材は赤岩と呼ばれる粒子の細かい柔らかい岩だ。カノーネ岩に似ているが、発火能力が無く、完全に顔料としてしか使い道がない。それを劣化させることで、色を変えている。

しばらく見つめて、あっと気付いた。

これは、恐らく、飛び出す絵本自体が、赤岩、それも時間を掛けて風化させた場合のそれを模しているのだ。赤岩は風化させると、孔が彼方此方に開いて、非常に不格好になる。

つまり、今回は赤岩を起点として暗号が解けると言うことなのだろう。

少しずつ、ノルディスも面白くなってきた。

まだ、何処に回答を書くかまでは分からない。問題文についても、理解は出来ていない。しかし、光明は見えた気がした。

 

キルキはすぐに赤岩が暗号の主点に置かれていることに気付いた。だが、其処から少し詰まってしまった。

色々と覚えるのは、キルキの得意なことだ。だがしかしながら、やはり今の年になっても、応用は苦手である。豊富な知識の中から選択肢を引っ張り出して、結果応用に見せているだけで、実際には未だに新しいものを無から造り出すのは本当に駄目なのだった。

だから、ヒントを一杯用意してくれているヘルミーナ先生の試験は、本当にありがたかったのだが。

今回は詰まっている。

多分、何処かに見落としている場所があるのだろう。

しっかりテスト用紙を吟味する。

わざわざ立体にしてきているというのには、それに相応しい理由があると言うことだ。今までのどのペーパー試験の問題にも、無駄は存在しなかった。一見すると文字や線だけの塊に見えても、解き明かしてみると美しい形式美が存在したのだ。

立体部分を覗き込んでみて、気付く。

内側にも、かなりの分量、文字や線が書き込まれているのだ。

なるほど、これか。下手に分解すると、多分組み立てが出来なくなる。そうなってしまうと、テストは絶望的だ。慎重に考えて行動しなければならない。

既にエリーは中を覗き込んでいるようだから、気付いていると言うことだろう。どうしてもエリーには発想力と応用力で勝てない。だが、その代わり、キルキには記憶力という武器がある。

見ただけで、キルキは内部に刻まれている文字を全部暗記した。記号類はちょっと難しいが、それも大体は覚え込んだ。

一旦視界を天井に向け、暗号の解読に掛かる。

これなら、解ける可能性も高い。後は、のり付けされているもう一枚をどう対処する蚊だが。

まずは行き詰まるまで考えてみよう。

そうキルキは決めた。

 

一つ目のテストで、巧く行きすぎたのかも知れない。アイゼルは何度かこめかみを親指で押さえながらそう思う。良い考えが浮かばないので、気持ちを切り替え続けていたのだが。時間ばかりが過ぎていく。

アイゼルは、エリーにも、キルキにも、ノルディスにも及ばない。

エリーには図抜けた発想力と、異常なまでの集中力と執念が備わっている。キルキは記憶力が常人離れしていて、何より人生の目的がはっきりしているから、勉学に対する熱意も強い。ノルディスはおっとりしているが、緻密で整理された頭脳の持ち主である。

アイゼルには、その全てがない。

人生の目的意識はある。だが、それはワイマール家次期当主としての目的意識であり、自分自身のとは微妙に違う気がする。しかし、もう悩みはない。

頭が悪いのなら、手数で補う。

不器用なのなら、時間を掛けて丁寧に対処する。

何も思いつかないのなら、気分転換する。

そうやって、アイゼルは信じがたい能力を持つ化け物達と渡り合ってきたのだ。そして今回、最後の試験、彼らの至近まで迫った。最初の試験では、凌駕さえした。

四人の中で、最後が定位置だったアイゼルは。今度こそ、それを脱出したいと思っていた。

意地ではない。誇りでもない。

仲間達は、化け物じみているとしても、それとは関係なく皆好きだ。だからこそ、最後だけでも勝ちたい。多分アイゼルは見たいだけなのだ。

自分が、凡人でしかない存在が。怪物に、一矢報いることが出来るのかを。

もちろん負けても、更に言えば勝っても何もない。だが此処で、一つだけ気持ちの整理を付けておきたいのだ。一年の時の、屈辱的な試験結果は、今でも忘れていない。ただし、恨んではいない。今はただ、一度だけでも良いから越えたかった。

内部に書かれている文字に、規則性を見つけた。どうも方角らしきものを示している様子なのだ。試験用紙の向きを変えて、のぞき込み直す。そして、もう一つ気付く。

地下、とは何だ。

方角をしっかり見極めて、文字を吟味し始めたら、そういう内容が浮かび上がってきたのである。

とっさに思いつくのは、のり付けされている次のページだろうか。だが、これを剥がすと、後が少し面倒くさい展開になるかも知れない。しばらくこめかみを親指で押して考え込む。

気付く。

文字の浮かび上がり方に、パターンがあるのだ。

光を調整してみて、確信した。方角を調整した際に、この季節に差し込む陽光を再現すると、文章が照らされて浮き上がってくるのである。

なるほど、外にしっかり出て、採集の知識を得ていないと、全く真相に辿り着くことさえ出来ないという作りというわけだ。だがアイゼルも、今では自力で護衛の冒険者を雇い、彼らと共に危険地帯に出向くことも珍しくない。昔の自分とは違う。

線のようなものも、そうすると意図が見えてくる。多分光の流れをそちらに傾けてみると、何かしらの意味が見えてくる、という事なのだろう。ビンゴだった。次々に、意味のある文章が浮かび上がってきた。

行ける。

アイゼルは、昂揚に包まれながら、一気に解読を進める。

 

何をしているのか、周囲に出来るだけ悟らせないようにしながら、フランソワは既に解読をかなり進めていた。

今までの学年でも、フランソワはヘルミーナ先生の著書の解読には、さほど苦労しなかった。単純に頭を使うことに関しては、苦でも何でもなかったのである。むしろもっとも得意な分野の一つであった。

今対応しているものもさほど手強いとは思わない。

しかも、今は一人でいるわけではない。

フランソワが時々心が折れそうになるのは、自分が一人でいると実感する時だけだ。今は周囲に愚かな取り巻き達もいるし、脆弱な弱者どももいる。連中に比べれば、どれだけ自分がマシか実感するだけでも、フランソワはがんばれる。

考えれば下劣な事なのかも知れない。しかし、フランソワにとっては、それが全てなのだ。上に立つことを自分に課している以上、どうしてもつきまとう事なのかも知れなかった。

大体の内容については、解読できた。

やはり、のり付けを剥がす必要がある。ふと見ると、試験用紙を廻して内容についてほぼ理解したらしいエルフィールも、のり付けを剥がしに掛かっていた。

奴にだけは、負けられない。

慎重に、のり付けを剥がす。そして、更に其処に飛び出す絵本が仕込まれているのに気付いて、苦笑せざるを得なかった。

今までの暗号を忘れた訳ではないが、此方も同様の暗号であるわけがない。ヘルミーナ先生のことだ。更に複雑な暗号を仕込んでいても、おかしくはなかった。

ついて行けていない生徒達は、呆然としているだけの者も多い。

さて、真相にたどり着ける生徒が、どれだけの数いるのか。フランソワは舌なめずりすると、上に立つ者としての実力を周囲に示すべく、解読を更に進めていった。

 

席を立つのは、三人がほぼ同時だった。

エルフィールとアイゼル、それにキルキ。フランソワとノルディスが、それに僅かだけ遅れて起立する。そして、つかつかと教壇に歩み寄り、試験用紙を差し出した。

主にアトリエ組の生徒を中心に、ばらばらとそれに続いていく。完全に絶望してしまった何名かは、もうどうしようもないという様子で、飛び出す絵本式の試験用紙を見つめている。回答に辿り着くどころではない。問題が何かさえ、理解できないというのは、どのような気分なのだろう。

決して努力が不足していないという訳ではないはずだ。

此処まで来ているからには、モヤシ同然とは言え、彼らも授業の内容はしっかりこなしている。彼らに不足していたのは、応用力。そして、発展した思考をする能力なのだ。

さっと試験用紙を見るが、間違っている生徒は殆どいない。

クライスは、感心した。

イングリド先生とヘルミーナ先生の方針があまりにも厳しすぎるのではないかと、特に近年は思っていた。自分が学生の時、これらの試験をクリアできたかと言われたら、多分無理だったのではないかとさえ思う。

だがしかし、今の学生達は。厳しい環境で鍛えに鍛えられた結果、無事に無理難題をこなせるようになった。それが出来ない生徒も、以前に比べれば比較にならないほどに実力の水準が上がっている。

やはり、必要なのは応用力なのか。

砂時計の砂が墜ちきる。絶望に満ちているのは、全体の四割ほどの生徒達である。二割ほどは試験用紙を提出し、四割は諦めて先に教室を出て行った。クライスは、泣いている者さえいる彼らを見回した。

「よく頑張りましたね。 この超難題は、かっての学年の学生達であれば、手も足も出なかったでしょう。 貴方たちが決して劣っているわけではありません」

「で、でも、クライス先生」

「まだ、時間はあります。 卒業の日まで努力をしてください。 そして卒業試験で、優秀な成果物を提出さえ出来れば、充分に卒業は可能です。 良いですか、絶望に押しつぶされる前に、努力さえすれば。 まだ光は見えます」

試験用紙を回収する。

回収した試験用紙には、ただ名前が書かれているだけのものも多かった。

この試験用紙は、作るのに大変な苦労を要したのである。だから、例え二割でも、解ける生徒がいたのは、クライスとしても嬉しかった。

外に出ると、既に夜になっていた。

野生児軍団と揶揄されているエルフィールら四人は、いずれも今までの学年では考えられないほどの成績を残している。秀才と呼ばれたクライスでも、同じ学年に当たっていたら、かなり手強いと感じていただろう。これほどの環境にて鍛え抜かれたのである。強くなるのも当然だった。フランソワだって、この学年に留年して配属されなければ、天才として名を馳せていただろうに。どうしても、エルフィールらがいるので、そうはなれなかった。

錬金術師は、いずれ世界をリードする技術者集団となる。

そして、この学年こそは、その中心となるだろう。

クライスは、星が瞬く空を見上げた。いずれ人類があの星空に届く力を得る時が来たら。それは錬金術を基礎にした力に違いないと、クライスは思った。

 

4、鍛え抜かれた力と……

 

恐らく数百歩四方。とんでもない規模の、謁見の間だ。赤い絨毯が敷かれており、左右にはずらりと武装した武官と豪奢な服を身に纏った文官が控えている。

聖騎士ジュストの右後ろで、マリーは国王ハイネルに拝謁していた。エル・バドール大陸は、そのままエル・バドール国とも言い換えられる。国王は、名目上この国最高の錬金術師という事だが、とてもそうとは思えなかった。

「以前シグザールの使者が来たことがあったな。 あの時はシアという美しい女性であったが、今回は貴殿であるか」

「御意」

「しかして、今回は何用か。 以前から連絡が何もなかったから、余も不思議であると思っていたのだが」

言葉に嘘は無し。

やはり、この男はただの傀儡か。

玉座に着く人形は、穏和な笑みを浮かべ続けている。恐らくは、自分が如何に危険な存在を相手にしているか、理解さえ出来ていないのだろう。

後ろに黒幕と思われる長老連中がいるのを見た上で、ジュストは指を鳴らした。荷車が、謁見の間に運び込まれてくる。

それには、巨大な牙が積まれていた。

フラウ・シュトライトの牙である。ヘルミーナ先生とイングリド先生が殺した個体のものだ。

「これは、フラウ・シュトライトと呼ばれる海竜の牙です。 既に三体を討伐し、一体がどこぞへと逃走。 もう一体は今だ貴国と我が国の間の海域で縄張りを張っております」

「ほう。 そのような巨大な牙と言うことは、この謁見室を埋め尽くすほどの巨体か」

「御意」

「そのような恐ろしき怪物がいたとは、とんとしらなんだ。 そなたらは知っていたか」

ハイネルが振り返ると、長老達は言葉を濁す。知っていたのに、知らせていなかったのは丸わかりだ。

溜息をつくハイネル。

「そうか、すまぬ。 我が国では感知していなかった。 しかも、そのような巨大な怪物を三体も討伐したというのか。 被害はさぞ甚大であったであろう」

「いえ、緒戦以外は、死者を出しておりません」

見る間に青ざめた長老何名かの顔を、マリーはしっかり記憶した。

「まことか。 噂には聞いていたが、そなたらの武芸は凄まじいな。 我が国にも騎士はいるが、これほどの怪物は、とても倒せないだろう。 是非、その実力を拝見したいものだ」

「それならば、交流試合を持っては如何でしょうか。 丁度我が国の優秀な若手騎士を今何名か連れてきています。 ローラ、アデリー」

後ろに控えていたアデリーとローラが立ち上がる。どっちも近接戦闘の実力は相当なものである。どちらかと言えば長柄が得意なアデリーに対して、剣術が得意なローラ。同世代と言うこともあって、ローラはかなりアデリーのことを意識している様子だ。もっとも、ローラは剣術の腕に関しては凄まじいものがあるが、他のことは大体苦手な様子である。指揮手腕は、並の少し上というところで、本職の軍人にはもっと優れた者が幾らでもいる。ただし、温厚な性格は評判が良く、地方軍の司令官としては適任かも知れない。

ハイネルが頷くと、向こうの騎士団長が出てくる。大柄で長身の男であり、見た目だけは十二分に強そうである。確かにこの国の人間としては鍛えているようだが、しかしマリーの見たところ、精々下っ端の騎士程度だ。シグザールの水準では、だが。

「アデリーは長柄の達人で、ローラは剣術を得意としています。 どちらと一手交えますか?」

「ローエングリン、そなたはどうする」

「先ほどの話を聞く限り、シグザール王国には猛者揃いと見えますが、しかしまだ年若い女性と立ち会うというのは」

「構いません。 何なら、素手でも」

アデリーが前に出たので、流石に自尊心を刺激されたらしい。ローエングリンという騎士は、こめかみに青筋を浮き上がらせたまま、言い放つ。

「怪我をしても知らぬぞ。 武具を取れ」

「では、一手所望します」

アデリーが、三つ叉の槍であるトライデントを構える。最近騎士団から支給された、ミスリルを要所に使った強力な武具だ。普段は愛用のサスマタを使っているのだが、こういう場所では流石に支給品を持ち込む。

構えた瞬間、流石にローエングリンが青ざめる。だが、気合いと共に、上段から撃ち込んだ。

アデリーが剣をかわしつつ、前に。

そして、槍の穂先を上に向けると、ローエングリンは膝を折った。

交錯の瞬間、アデリーが石突きで脇腹の急所を突いたのである。内臓にまで衝撃は到達しているはずだ。根本的な修練と、潜った修羅場の数が違いすぎる。才能はかなりあるようだが、残念だが暮らしてきた環境が悪すぎたのだ。

「ぐ、うっ……!?」

「む、ふむ。 ローエングリン、苦労であったな。 下がれ」

「はっ。 しゅ、醜態をお見せいたしました」

脇腹を押さえながら、騎士団長ローエングリンが退出する。

長老達は、おびえを視線に含ませて交わし合っていた。

 

アデリーは報償として受け取った槍を、宿所の自室で振り回していた。だが、どうもしっくり来ない様子である。

細工は素晴らしい。

槍の素材もまたしかり。

「素晴らしい槍ですが、儀礼的な作りです。 芸術品としては価値がありますが、実戦には耐えません」

「そう。 でも王様に褒美を直接もらえるなんて、滅多にない事だよ。 大事にしなね」

「はい」

アデリーが槍の穂先に覆いを掛ける。確かにアデリーの子が出来たら、家宝として継ぐべき槍となるだろう。

ローラもあの後、別の騎士と立ち会い、余裕で勝利。報償として剣を受け取っていた。もっとも、そちらも芸術品としては優れていても、実用には耐えない様子であったが。

戦いの後、親書を提出して、一度退出。親書の中には、かなりの時間議論が必要になるものが含まれていたので、しばらくジュストはこの街に滞在することになる。もちろん、それは表向きのこと。

実際には、ヴィント王が時間稼ぎのために、そういう案件を選んでくれたのだ。

ノック音。ソファの上で身じろぎしたマリーは、相手の気配を察してほくそ笑む。

「どうぞ?」

「入ります」

部屋に入ってきたのは、エリアレッテだった。

此方に来てから、ずっと姿が見えなかったが。僅かにする血の臭いからして、何か斬ってきたのだろう。

「聖騎士ジュストから、貴方にも知らせるようにと言うことでしたので来ました」

「それで?」

「クリーチャーウェポンの繁殖場を確認しました。 戦略級も何体かいる様子です」

よし来た。

人間の敵に手応えが無くても、戦略級のクリーチャーウェポンであれば、相手にとって不足無し。

もちろん今戦うことはない。いずれ決戦の時に備えて、データを集めておくのだ。

「そちらの首尾は如何でしたか」

「洗い出しは順調よ。 しっかり脅迫もしてきたし」

「そうでしたか。 それでは、任務に戻りますので」

必要最小限の会話だけをすると、エリアレッテは部屋を出て行く。

アデリーが引き留めようとしたが、気にせずに。

「あの子、昔はアホ貴族の馬鹿子弟って有名だったのに。 クーゲルさんも、凄い鍛え方するなあ」

「母様は、それが良いことだと思いますか」

「当人次第でしょ? 当人が選んだ道よ」

エリアレッテは自分から進んでクーゲルの弟子になったと聞いている。それならば、既に社会的な大人であったことも加味すれば、自己責任だ。

それに、あれだけの強さを得たのである。

騎士としては本望であろう。

さて、人間は弱いとしても、クリーチャーウェポンはそうではあるまい。戦略級の実力はフラウ・シュトライトとの戦いで充分に見ることが出来た。これから楽しみである。

またノックの音。

今度入ってきたのは、牙の一人だった。

「マルローネ様、聖騎士アデリー。 聖騎士ジュストがお呼びです」

「ん、すぐ行く。 で、何?」

「それが、セルレンなる者がどうも我らと接触を図ってきた様子でして。 一気に事態が動く可能性が出てきました」

そういえば。

拷問して根こそぎ情報を引きずり出したガルティスという男が、そんな名前を口にした。エル・バドールの諜報員を纏めていた元締めの筈だ。

それが接触してきたとなると、なかなか面白い事態が想定される。

「分かった、すぐ行く」

実に面白い。

異国での時間は、あまりにもマリーとって楽しかった。

 

(続)