大戦争の先駆け

 

序、イリス

 

ヘルミーナ先生に伴われて、エルフィールが作ったホムンクルスのイリスが帰ってきたのは、真夜中だった。

イリスは見掛け十歳前後だが、しかし表情がそれとは乖離している。ヘルミーナ先生も、他のホムンクルスにごくたまに向けるとても優しい笑顔を、イリスに向けているようには思えなかった。

アトリエにはいると、流石にイリスも欠伸をする。長い髪は殆ど流している状態であり、歩いているだけで風を孕む。ヘルミーナ先生が顎をしゃくったので、エルフィールはやれやれと思いながら、クノールに指示。

「イリスを寝かせておいて」

「ええ、僕がですか?」

「クノール!」

「はいっ! ただいま!」

口が悪い妖精も、流石にエルフィールが若干声を荒げたので、そそくさとイリスの手を引いて二階に行く。ヘルミーナ先生が苦手で、その前では動きが鈍くなることは知っているが、今はちょっとそう言う状況ではない。イリスは若干不満そうだったが、しかし肉体の睡眠欲には勝てないのだろう。二階にとてとてと上がっていった。

立ち上がると、外に。ヘルミーナ先生は、表情を完全に消していた。つまり、それほどの事だという訳である。戸締まりをして、ヘルミーナ先生に続く。

恐らくは、ヘルミーナ先生は適当な車引きを探して歩いているのだろう。聞かれても問題のない所で話すためだ。

春の夜空は、とても澄み渡っている。星がとても綺麗だ。

ヘルミーナ先生は、幾つかどうでもいいような世間話をした後、いきなり核心に踏み込んできた。

「人工レンネットの時も驚いたけど、貴方は努力の結果、最高以上の結果を残してくれるのねえ」

「有難うございます」

「今回に限っては褒めてない」

ヘルミーナ先生の声は冷え切っている。さっきまでけらけら笑ったりしていたことを考えると、やはり感情がとても不安定なのだと分かる。

いずれにしても、はっきりしているのは。

ヘルミーナ先生が今、とても怒っていると言うことだ。多分自分に対して、ではない。偶然が重なった、イリスという存在の誕生についてである。

この人が、ホムンクルスを自分なりに徹底的に愛していることを、エルフィールは知っている。だから、不機嫌なのかも知れない。

今回エルフィールは、ホムンクルスを作ろうとして、古代の人間を蘇らせてしまったに等しい。それは分かっていたが、この先生の様子だと、多分相手がただ者ではない、という事なのだろう。

車引きを見つけた。

挽肉を焼いて固め、それをパンで挟む事によって食べる店だ。パンには野菜類も挟んでいて、肉汁と混じり合ってとても美味しい。しばらく無心で料理を頬張っていたヘルミーナ先生だが、冷えた井戸水を飲み干すと、結論から始めた。

「あの子は、どうやら貴方が肉体との融着に使った素材に潜んでいた霊体が、精神に融合する結果、誕生したようよ」

「なるほど、やっぱりそれが不味かった、ですか」

「自分が作り上げてきた技術を、私の作った技術に混ぜ込んできた事に関しては評価はするけれど。 残念ながら、今回はそれが悪く働いたようね。 店主、これもう一つ。 とても美味しいわ」

「ありがとうよ。 ちょっと待ってくれな」

気が良さそうな髪の毛の少ない店主が、さっと肉を鉄板に載せる。香辛料で味付けている様子だが、それだけでは説明できない部分もある。肉も、何かしらのたれに漬け込んでいるのかも知れない。

肉を焼く臭いの中、ヘルミーナ先生は言う。

「まだ正体は特定できていないけれど、どうもエル・バドールで、錬金術の全盛期だった頃の存在のようね。 今では当然になっている技法を知らなかったり、逆に廃れた技術を知っていたわ」

「なるほど。 それだと、有益かも知れませんね」

まだ学生ではあるが。エルフィールにも、錬金術に対する知識欲はある。図書館に入り浸って本を探すのはとても楽しいし、新しい知識を得た時には是非試したくもなる。ただし、ヘルミーナ先生の様子から言っても、事はそう簡単ではないのだろう。

理由は大体見当が付く。

「何かしらの問題が起こって封印された技術や、或いは未熟な技法を教えられて、それを鵜呑みにする危険がある、という事ですね」

「そうよ。 エルフィィイイル、結構貴方賢いわ。 そうねえ、あのイリスってのが何をほざいても、基本的に知らない技法であれば此方に知らせなさい。 まず吟味してから、使用を許可するわ」

「分かりました」

ヘルミーナ先生は、獲物を目の前にした魔界の大蛇のような目で笑うと、腰を上げた。

「二十人分、包んでもらえるかしら」

「二十人分っ!? へ、へい。 すぐに」

「私は、その。 荷物、持ちましょうか?」

「当然よ」

まあ、こうなるだろうなと思った。多分ホムンクルス達への土産であろう。店の店主は慌ててあるだけの肉を取りだして、鉄板の上で焼き始めた。賢明な判断だが、多分これは年の功だ。ヘルミーナ先生が会話の通じない相手だと、見ていて気付いたのだろう。

やれやれと思いながら、エルフィールは生きている縄達に号令を掛ける。

そして、程なく焼き上がった肉のパン包みの袋を、彼らに持たせた。そのままだと熱いからである。ヘルミーナ先生は、一糸乱れぬ生きている縄達の動きを見て、満足そうに笑った。

「まあ、見事に仕込んでいるのね」

「一心同体ですよ」

「あらそう。 それは素晴らしい」

ヘルミーナ先生は、さっきまでと打って変わって機嫌が良くなる。

だが、それもいつまで続くかは分からない。今だけでも、エルフィールは他の生徒と同じように。理不尽なこの人の感情に、不安を感じていたかも知れない。

アカデミーの入り口で、やっと解放してもらう。ヘルミーナ先生は袋を受け取ると、ご機嫌な様子で自分の研究室に引き上げていった。エルフィールは肩を叩くと、家路につく。その途中で、ゲルハルトの武器屋に寄った。

既に夜だが、今日は別の用事がある。

最近忙しくて顔を出せていなかったのだが、一昨日に武器のメンテで訪れた時、幾つか話をしたのである。

その詳細について、詰めておかなければならなかった。

疲れ切っている時でも、しっかり仕事のことは考えなければならない。

まだ人工レンネットの権利料金は入っていないから、収入を減らすわけにはいかない。そのためには、確実に仕事をこなし、誠実な行動を行うという、社会的信用につながる行為に、手を抜いてはいられなかった。

 

1、武器屋の悩み

 

早朝。エルフィールは目を覚ますと、まずは二階に上がった。最近は一階で寝ることが多く、居間の床がエルフィールの寝床と化していた。もちろん寝具は使っているが。調合中の素材に何かあった時に、対処しやすいからである。更に言えば、ホムンクルスの完成を待つ間、いざというときに対処しやすいよう、一階で寝泊まりしていたことも原因である。すっかり癖になってしまったのだ。

二階では、クノールがベットで幸せそうな寝息を立てていた。床で丸まっているのはイリスである。寝息が一定なのに気付いて、エルフィールは足先でイリスを転がした。

「寝たふりは止めるように」

「……」

目を擦りながら、イリスが半身を起こす。やはり此方を小馬鹿にした半笑いを浮かべていた。

可能性は低くないのだが、この子供、死んだ時には相当な高齢だったのかも知れない。それならば、小娘であるエルフィールの言うことなど、ちゃんちゃらおかしくて聞けはしないだろう。

しかし、此方を見透かしているかのように、イリスは言う。

「私、死んだ時は恐らく十五歳程度でした。 貴方の方が年上ですよ」

「そう。 じゃあ、年上の言うことに従って貰いましょうか」

エルフィールは、クノールが寝ているから、感情を一切顔に作っていない。エルフィールにとって、感情のあるいつもの顔は、よそ行きのものだ。感情を無くした表情の方が自然体であり、こっちの方が断然過ごしやすいのである。

一階に下りると、並んでまずは歯を磨く。

既に、キルキに借りた服は洗濯して返してある。今、イリスが着ているのは、アイゼルが大喜びで作ってくれた子供服だ。絹で仕立てたとても出来がよいもので、青系を基調に、フリルが一杯付いている。スカートもひらひらだ。赤い髪と青い服のコントラストが、とても美しい。

最初は体を動かすからズボンが良いと思ったのだが、アイゼルはスカートだと言い張ったので、根負けした。満面の笑みで幸せそうにイリスを採寸するアイゼルを見ていて、それ以上何も言えなくなったエルフィールは、やるに任せた。

服が出来たのは昨日のことである。アイゼルはイリスがとっても可愛い子供服を着こなしているのを見て、自分のことのように大喜びした。ぎゅうとハグまでしたが、終始イリスは作り笑いだった。別にお洋服を喜ばないのは別にいいのだが、アイゼルを馬鹿にした態度はちょっと頭に来る。まあ、それは来たばかりなのだし、仕方がないかも知れない。

何着かの着替えと、それに寝間着や下着も作ってもらって、ようやく昨日から本格稼働が出来るようになったのだ。値段もいつも一緒に仕事をしているよしみで、だいぶ安くして貰ったし、特にエルフィールは損をしていない。

歯磨きを終えた後、顔を洗う。よく冷えている井戸水で顔を洗うと、気持ちよく目が醒める。それから裏庭に出て、体を動かした。棒を振るって筋肉の動きを確かめるエルフィールの横で、イリスは手足を交差させたり拡げたり、妙な動きを続けていた。

「何、それ」

「私の時代で、体操と呼ばれていたものです」

「いや、私の時代にも体操はあるけど。 それとは随分違うなあ」

「貴方のそれは?」

杖術と返答する。

エルフィールの杖術は、ロブソン村で仕込まれたものだ。アデリーさんには戦い方を習ったが、何も師匠は彼女だけではない。他にもドナースターク家に仕えている優れた使い手は何人もいた。中には達人級の人物もちらほらおり、適性を見ながらエルフィールは色々な戦い方を教わった。特に適性があったのが、杖術と体術である。総合的な戦術戦略と体術はアデリーさんに習い、杖術はクライドという初老の男性に教わった。

クライドは寡黙な人物で、ただひたすらに動きで手本を見せてくれた。村人どころか、ドナースターク家の武官、つまり同僚の中にも、クライドが喋った所を見た者は殆どいなかった。

しかし、杖術に関しては、兎に角とんでもない使い手だった。アデリーさんでさえ、クライドと立ち会う時は本気を出していた位である。それでも組み手では、五回の内三回勝てれば良い方で、負け越すことも多く、しかも勝つにしても容易には行かなかった。聖騎士を相手にこれである。黙して語らない経歴もあって、ドナースターク家内部でも一目置かれる人物であった。

寡黙すぎるクライドは、エルフィールにあれこれ言うことは一切無かった。ただ、動きを真似るように促した。

エルフィールはクライドの真似をすることで、杖の使い方を覚えた。

今も、その動きを精確にトレースしている。我流で腕を磨けば磨くほど、クライドがやっていた動きが如何に合理的で、計算され尽くしていたかがよく分かる。最近は、基本に戻り、棒を振るうことも多かった。

冬椿や秋花、それに白龍などの戦闘用杖も、実はクライドの動きを参考に運用している。杖による打撃と突きには綺麗な流れというものがあり、それを応用することで、敵を効率良く殲滅することが出来るのだ。

もっとも、それには。体を鍛えに鍛えておくことが、何より大事なのだが。

しばらく杖を振るい、体内の力を練り上げる。魔力ではない。力の流れのようなものをコントロールして、体そのものの健康を高めるのだ。もちろんそれにより、筋力も著しい向上を見せる。

しばらくして、エルフィールは杖の先端を地面に向けた。終わったのだ。

「さて、次は走ろうか」

「体力がありあまっていますのね」

「その肉体の年齢くらいは、一番伸びるし、基礎体力も付きやすい。 だから、しっかり鍛えておいて損はないんだよ。 ましてその体は、騎士団の精鋭達の情報をベースに作ってるからね。 今からしっかり鍛えて、どれくらい伸びるのかデータを取っておきたいんだ」

「そうですか」

イリスは逆らわない。

それから、いつも朝走っているコースを行く。

イリスの肉体は、設計上かなり身体能力を上げてはいるのだが、所詮肉体的な年齢が年齢であるし、やはり途中で付いてこられなくなる。髪を流したままでは走りづらいだろうと思って、近くの洋服店でリボンを買って付けさせた。何重かに折り返した髪の毛は、それでも素の出来がよいのか、充分な艶を見せている。

フローベル教会の前を通りかかる。ミルカッセ司祭が、今日も掃除していた。足を止めると、イリスがやっと一休憩かという風情で、へたり込む。

「おはようございます」

「おはようございます、ミルカッセさん。 今日も精が出るねえ」

「貴方も。 そちらの子は?」

イリスを見て、すっとミルカッセが目を非好意的に細めた。奴隷か何かを買い取ったのではないかと思ったのだろう。

奴隷は合法的な存在だが、他の国と違って人権も認められている。奴隷を殺したことで、貴族の地位を剥奪された者もいる。要は国に対する借金を返す間に就く労働職という意味合いが強く、よほど辺境に行かないと違法奴隷は見掛けない。

だが、それについてはエルフィールは何か引っかかる所もある。

「イリス。 私が作ったの」

「イリスです。 ご機嫌麗しゅう」

「私が、作った?」

「ホムンクルスって奴。 でも、もうちょっと事情は複雑なのだけれど」

ミルカッセは完全に掃除の手を止めた。ちょっと混乱している様子だ。錬金術を知らない彼女に、人工人間などと言っても理解の範疇を超えているのだろう。額に指先を当てて、苦悩の表情を浮かべるミルカッセ。

話が長くなるのも何だから、この辺で切り上げるかと思って、マントを翻しかけたエルフィールに、ミルカッセは冷えた声を掛けてきた。

「錬金術は、そんな事まで出来るんですか」

「というか、アイゼルに聞いてなかった? あの子が連れてるフィンフちゃんは、私の先生格の錬金術師が作ったホムンクルスだよ」

今度こそ、完全にミルカッセは停止した。

恐らく彼女は、アイゼルの人格と、フィンフとの微笑ましい関係に、相当に温かいものを感じていたのだろう。

別に部外秘でも何でもないし、固まっている今が好機だ。それに、アイゼルもいずれは話さなければならないことである。それに、人間と出自が違うというからといって、ミルカッセがフィンフにマイナス方面の感情を向けるとは思えない。

イリスを促して、ランニングに戻る。

アトリエに戻った頃、流石にイリスはかなり息が上がってきていた。白い肌をほんのり赤く染めて、荒く息をしている様子は、子供のくせに妙に色っぽかった。造作が良いと、こんな事でも色気を振りまけるのだから、得と言えば得だ。

良く冷やしておいたシャリオ山羊のミルクを地下から出してきて、飲む。イリスにも渡して飲ませた。

「健康志向ですか?」

「いや、効率の良い体作りのため。 美味しいのもあるけど」

「エリーさん、おはようございます。 て、何をしてるんですか」

二階から、やっとクノールが降りてきた。ねぼすけな妖精は、並んでエルフィールとイリスがミルクを飲んでいるのを見て、呆れたようだった。

 

朝の鍛錬を終えた所で、昨日ゲルハルトに頼まれたものについて考える。イリスとクノールには、中和剤と研磨剤を作ってもらった。どちらも大量に必要で、なおかつ手間が掛かるものだ。

イリスは教えてもいないのに、手慣れた手つきで乳鉢を扱っていた。フェスト鉱石を丁寧に砕き、不純物をピンセットで捨てている。其処だけは注意した。不純物の中にも、使える細かい鉱石が混じっていることがあるからだ。

そう教えるとイリスは相変わらずの醒めた目でエルフィールを見たが、素直に言うことを聞いた。今は話を聞いておかないと生命線が維持できないと、悟っているからだろう。ギブアンドテイクなどと言っても、エルフィールが放り出せばイリスは生きていけないのである。

少なくとも、この世界の情報を、的確に得るまでは、だが。

様々な文献を紐解いていく。

今回は全くのゼロから行わなければならないから、色々と大変だ。素材については大体見当が付いているが、それも構成を失敗すれば台無しである。

ゲルハルトは今回、ちょっと遠出するという。場所は国境付近の小さな村。避暑地として有名な場所で、其処で家族水入らずで過ごすのだそうだ。

とても温かい話だが、ゲルハルトには一つだけ悩みがある。見事なまでの禿頭だという事だ。

年齢から言えば当然の話で、そもそもゲルハルトはディオ氏と同年代であり、二十年前の大戦時代に活躍した元冒険者だ。その頃には超一級の冒険者であったらしく、武器屋と冒険者の、二足のわらじで活躍していたという。聖騎士にも劣らない実力者であったらしく、幾度も武名を上げたそうである。

しかし体質的な問題は、頑健なゲルハルトから、容赦なく壮年の頃までには髪の毛を奪ってしまった。それを今でも気に病んでいるゲルハルトは、たまに髪の毛が恋しくなる、という事なのである。

皮肉な話である。ゲルハルトは多分同年代の誰よりも頑健な体を持っているというのに。髪の毛だけはそうではないのだから。

今回は家族全員で久し振りに過ごすと言うこともあり、ゲルハルトはまた昔のように、緑為す黒髪を頭に蘇らせたいという事であった。一緒に暮らせばいいようにも思うのだが、ゲルハルトの妻は相当なVIPらしく、しかもそれぞれに仕事が違うからどうしても同居は出来ないのだそうだ。会えるのは、良くて年に一度か二度。いつも豪放に笑うゲルハルトは、結構難しい家庭環境にいる。

色々と複雑な事情を抱えているゲルハルトであり、しかもその悩みは通常の手段では回復できないものも多い。以前の音痴の解決(これに関しては、ゲルハルトに直接頼まれたわけではないが)についてもそうだし、今回にしてもそうだ。いずれにしても、はっきりしているのは。錬金術の奇跡的技術だけが、ゲルハルトの苦悩を回復できる、という事である。

そしてエルフィールにしてみれば、ゲルハルトの苦悩を回復することにより、自らにも有益な結果を得ることが出来る。此処が重要なのだった。

「クノール、次は中間薬剤二十七。 出来る?」

「地下室で素材を確認してきます」

「イリスはクリームの泡立て」

「分かりました」

中間素材二十七は、薬剤関係で重要となってくる素材だ。主に三種類の薬品を合成するのに用いるもので、それ自体は無味無臭のただの液体だが、媒介として重要な意味を持ってくる。

今回、施療院に納品する薬に、これを使うのだ。

以前はエルフィールが合成していたが、最近はクノールが腕を上げてきたので、任せるようにしている。実際、品質面でも問題のないものを作れるようになってきていた。

イリスは床に座り込んで、しばらくクリームをかき混ぜていた。混ぜる回数や角度、速度などは全てレシピを見せて指示してある。時々横目に見るが、伊達に錬金術を知っていない。大したものである。ほぼ完璧に指示をこなしている。冷却剤を入れたボウルに重ねるようにしてクリームのボウルを入れ、それを抱えてかき混ぜるイリスは。冷笑的ではなく、ちょっとだけ楽しそうにしていた。

「クリーム上がりました」

「どれどれ」

一舐めするが、問題は無し。エルフィールが作るより若干質は落ちるが、まあこんな所だろう。

次はスポンジを任せる。エルフィールは作業を指示すると、理論の詰めに入った。

問題は、頭皮をどう復帰させるか、なのだ。

いわゆる鬘の類は此処では置いておく。頭皮というものは、調査によるとどうも年々毛を生やす機能が衰えるものらしい。男性にそれは顕著だが、女性も年老いてくると、同じような症状が出てくることがある。

少し前から、髪の毛をいつも結っているような職業の女性を訪ねて、確認をさせて貰った。もちろん禿げている部分が見たいなどという失礼なことは言わない。同じように男性の禿についても確認した。

その結論としては、どうにかして死んだ組織を活性化させないと、髪の毛が生えることはない、であった。

特にゲルハルトは、恐らく男性としての要素が強すぎて、強烈に禿げる速度が速かったのだろうと分析できる。幾つか生命力を取り戻す薬剤はある。竹の類が有名で、特に白鹿竹という素材はかなりの効果を示すそうだ。

しかしながら、ゲルハルトは以前、丁度その白鹿竹を用いた毛生え薬を使ったことがあるという。そうなると、今回は効かない可能性が高い。

その素材の吟味に手こずっていたのだが。

しばらく参考書類を吟味していて、適当な素材を見つけることが出来た。

クノールと入れ替えに、地下に降りる。

この間カスターニェに赴いた時、何種類かの海草を乾物にして持ち帰ってきていた。それらの中に、強力な生体活性効果があるものが存在しているのだ。それこそ海のまわりでは幾らでも取れるものだから、ただ同然で入手できる。

いずれにしても、海中、もしくは海岸線に生えているものである。放って置いても幾らでも生えてくるので、資料的価値として持ち帰ってきたものだったのだが。案外早く役に立ちそうだった。

カスターニェに出かける前に、ゲルハルトには既にこの件を頼まれていた。だからそれもあって、役に立ちそうな素材を集めまくっておいて正解であった。船を廻して彼方此方案内してくれたユーリカは、そんな雑草どうするんだとか言ったが、今になれば勘に従っておいて良かったのだ。

もっとも、適当に混ぜれば出来るというものでもない。

まずは素材のエキスを抽出しなければならない。参考書を見ながら、どの素材も念入りに煮詰める。ただ煮るだけでは駄目で、内部のエキスが的確にしみ出すようにしなければならない。

温度や湿度、それに水自体の性質も重要だ。ものによっては粉々に砕いて、乾燥させてから不意に水に戻したり、或いは特殊な薬品類で構造を破壊することによって、やっと内部の栄養を抽出できるものもある。

参考書を見る分だと、海草の類は、やはり水では簡単に構造崩壊しないという。年がら年中海水に揺られているのだから当然だろう。其処で、温度差を利用する。一気に温めて乾燥させ、また冷やす。そうしている内に、少しずつエキスがしみ出してくるのである。

だから、濾し取った水を捨てるわけにはいかない。ある程度濾し取ったら、別のフラスコに移し、煮詰める。焦げ付かないように、細心の注意を払いながら、というのが面倒だが。

そしてその度に、水を足す。

火力の調節には炭を使うが、それにしてもしばらくは薪が大量に要りようになりそうだ。額の汗を拭っていると、イリスがスポンジが終わったと、ボウルを差し出してくる。さっと味をみるが、問題ない出来である。

焼きだけは自分でやらなければならないから、彼女に任せるのは此処までだ。

「そちらの薬剤、私が見ましょうか」

「どうしようかなあ」

「見たところ、煮沸によるエキス抽出ですね。 任せていただいても大丈夫です」

「……」

別に、使っている薬剤はそれほど貴重なものでもない。燃料に使っている炭も、いつも手が空いている時に裏庭の竈で焼いているものだ。別に一度や二度、失敗しても大丈夫か。だが、失敗には、ある程度の時間的ロスが生じる。

「イリス、貴方の知識を疑う訳じゃないのだけれど。 余計な素材を追加したりとか、作業をしないって誓える?」

「それはもう。 貴方の心証を損ねたら、せっかく得た第二の人生が、此処で終わってしまいますから」

「よく分かってるじゃんか」

クノールが、小さく悲鳴を上げた。多分エルフィールの全身から放たれている殺気を感じ取ったからだろう。

妖精族の強みは、兎に角憎まれず、恨みを買わないという事に尽きる。それが故に、彼らは悪意や殺意には敏感なのだ。

「分かった。 じゃあ、しばらくは煮沸とエキス抽出をやって貰おうかな」

「仰せのままに、マスター」

慇懃に礼をするイリス。

ひらひらの可愛らしい服と、それに少し目は大きいが整った容姿もあって。逆に嫌みな印象を受けてしまう。

エルフィールとイリスの関係は、アイゼルとフィンフの関係とは、真逆の状態になりつつあった。

 

どうも、イリスとエルフィールの仲は巧く行っていないらしい。

その話をフィンフから聞いたアイゼルは、悲しいことだと思った。

実はイリスに関する話は、既にアイゼルもヘルミーナ先生から聞かされている。ホムンクルスを作ろうとしたら、エルフィールはどうも過去の人間を蘇らせてしまったらしいのだと。

それならばなおさらだ。

話を聞いて、すぐにアイゼルはフィンフと一緒に、エルフィールのアトリエに出向いた。丁度最近作ってみた焼き菓子を手みやげに、アトリエに。エルフィールは海草を素材とした何か独自の薬剤を作っているようで、生臭い潮の匂いがアトリエに立ちこめていた。

「ごめんね、今ちょっと匂いがアレだけど、我慢してくれる?」

「ええ。 実はね、金属加工も、結構匂いとかは出るものなの。 自分でアトリエを動かすようになってから、きれい事じゃあ回らない調合もかなりするようになったから、平気よ」

「それは良かった」

エルフィールの対応は、昔と全然違って柔らかい。思えば、明らかに昔はアイゼルを玩具扱いしていた。アイゼルも、ノルディスを巡る思いからか、エルフィールに対して理不尽な嫌悪を抱いていた気がする。

もう、今では、エルフィールにそう言った意味での嫌悪感はない。ただし、今でもライバルだとは思っていた。

それが故に。ライバルが、人間関係で問題を抱えているのは、あまり好ましく無いとも感じる。

イリスとエルフィールは、確かにフィンフが言うとおり、ぎすぎすしていた。

イリスに仕事をさせるエルフィール。それに敬語で応じるイリス。

見た感じは、雇い主と妖精、或いは錬金術師とホムンクルスの関係にも見える。だが、両者共に、相手に壁を作っているのが空気で分かった。イリスは冷笑的に応じているし、エルフィールは明らかにイリスに対して警戒している。きりきりとした緊張感が、アトリエに満ちていて、クノールはげんなりした様子で調合を続けていた。

昔の気弱なアイゼルだったら、空気に耐えかねて逃げ出していたかも知れない。だがアイゼルは、もう昔の軟弱な小娘ではない。修羅場も潜ってきたし、市場の非情な原理も知った。仕留めた動物の捌き方だって覚えた。

温室を出たのだ。だから、友人の問題にも、恐れず対処したかった。

「お茶も御馳走になったし、私も手伝うわ」

「本当? 助かるなあ」

エルフィールは、イリスのしている仕事をやって欲しいという。イリスは一瞬口の端をつり上げたが、場所を変わってくれた。だが、そのまま去ろうとするのを引き留め、引き継ぎを受ける。

アイゼルの見たところ、エルフィールとイリスは、同類嫌悪をしているようにしか思えない。

見れば見るほど、イリスは可愛い。中身が同年代の子供だったとしたら、なおさら損をしてしまっている。そして、はっきり言って、エルフィールは場合によっては殺人だって厭わない性格だ。このままだと、致命的な未来が待っているようにしか、アイゼルには思えなかった。

エルフィールがチーズケーキを焼き始める。それを横目に、アイゼルは出来るだけ優しい笑顔を作る。

「もう少し、貴方の話を聞かせて?」

「退屈ですよ? 私も生きていた時のことを、完璧に記憶している訳でもありませんし」

「それでも良いの。 貴方はどういう風に育ったの? ご両親は?」

「……おいおい、話してさしあげますよ」

さらりと拒否された。だがそれくらいでめげてはいられない。むしろ自分のことから話すべきかと思ったアイゼルは、笑顔を崩さず、イリスに接した。

だがその日は、最後までイリスはアイゼルに心を開いてはくれなかった。

 

一通り作業が終わって、エルフィールは風呂に行くことにした。イリスも伴う。朝練で結構汗を掻いているのを見ていたし、新陳代謝もあることがはっきりしていたからだ。それに、せっかくアイゼルが作ってくれたお洋服を、早速台無しにはしたくなかった。服は早めに着替えて洗濯しないと、痛むことが多い。

エルフィールの着ている服は、激務に耐えるように基本的な点から設計している。だが、イリスのは違う。いずれ野外に出ることを想定した服を買っておこうと思っているが、現時点でそういう服のストックはない。

公衆浴場を見て、イリスは度肝を抜かれた様子だった。初めてこの生意気な小娘が、年齢相応(本人の自己申告が正しければ、だが)に動揺する所を、エルフィールは見た。

「こんなに大勢でお風呂に入るんですか?」

「そうだよ。 まあ、何も基本的には持ち込めないから、暗殺の危険もないしね」

浴場では盗難も発生することがあるので、着替え室では同性の見張りが見まわりをしている。また、受付で鍵を貰い、それぞれの着替えは木箱に入れることとなる。

タオルは貸し出しのものを使い、石鹸も中に据え付けてあるものを利用するのが普通だ。アイゼルも最初は抵抗を示していたが、今では平気で風呂に入っている。やはり人間、慣れが重要である。

湯船は三十歩四方はあり、充分に客の全員が浸かることが出来る。このような公衆浴場がザールブルグの彼方此方に点在しており、自宅に風呂があるような一部貴族を除いて、庶民は皆世話になっている。

「ほーら、さっさと風呂に入る」

「ちょ、ちょっと! ひゃあっ!」

そわそわしているイリスの肩を掴んで、一気に湯船に沈める。熱いお湯に可愛い悲鳴を上げたので、ようやくこの生意気な相手に、エルフィールは親近感を感じた。

「な、何をするんですか!」

「むしろそんな風にしてる方が、注目を集めるよ。 ザールブルグじゃ、はいはいを卒業した頃から、みんな公衆浴場使うんだから」

料金も、とても安い。

何しろ刑務所にさえ公衆浴場がある位なのだ。誰もが使うから、安くても採算が取れる。縦横に水路が張り巡らされたザールブルグでは水もそれほど貴重ではないし、穀倉地帯の中には生活用の薪を作っている人工林もある。何より街の南に広がっている森林地帯からは、無尽蔵の木材を入手できる。

いずれ庶民の生活がもっと向上してきて、どの家にも風呂が出来るようになると、公衆浴場も衰退するかも知れない。だがそれは、ずっとずっと未来の話になるだろう。

湯船の中でもじもじしていたイリスは、大きく溜息をついた。もう、胸の手術跡は無い。生育が早いだけあった。

「アイゼルがねえ、貴方と仲良くするようにって言ってね」

「あのお嬢様がですか」

「不思議だって顔をしてるね。 あれでもアイゼルは、もう自立している立派な社会人だよ。 稼ぎだって充分に得て、アトリエを切り盛りしながら学生してるんだから。 前は不慣れなことも多かったけど、今じゃあ教えられることも多いよ」

「……」

少しずつ、イリスが表情を見せてくれる。

エルフィールにしてみれば不思議なことに、アイゼルは社会を知っても、冷酷にはならないのである。動物の捌き方は覚えたし、冷徹な市場原理に揉まれているはずなのに、むしろずっと丸くなり、優しくなってきているようにさえ思える。

其処が可愛いのだが、しかしエルフィールにとってはたまに異質な存在に思えてしまうことも多い。だが、それで恐怖するのは凡百のすることだと、最近は考えるようになった。むしろ学ぶようにしないと、先はない。

湯船の縁に背中を預けて、エルフィールは体内の血行が良くなるのを感じながら、イリスに言う。

「アイゼルは私にとって大事な存在だね。 だから、ある程度は言うことも聞こうって思う」

「それで、どうするつもりですか?」

「何か要望があれば聞くよ。 仕事の成果次第だけれど」

一瞬イリスの目に、苛烈な光が宿るのを、エルフィールは見逃さなかった。

考えておきますと言って、イリスは一足先に湯を出た。

イリスは、どうもアイゼルが嫌いらしい。雰囲気から言うと、余程抑圧された人生を送ったのだろう。確かに不幸な人生を送れば、幸せに過ごし、他人にも愛を振りまくアイゼルを見て、不機嫌になるのも仕方がない事なのかも知れなかった。

少し遅れてエルフィールも湯船から上がる。

まだ、イリスとの、的確な距離感は、掴めては来なかった。

 

2、エル・バドールへ

 

カスターニェに来ていたマリーは、軍司令部にあるアトリエで、安楽椅子に揺られながら書状に目を通していた。茶を持ってきたアデリーに、話があると言って呼び止める。書状は複数有り、その全てにアデリ−が関係していたからだ。ミューも関係しているのだが、あっちは後で話せばいい。

「話とは、何ですか?」

「まず、エルフィールのこと。 どうもとうとうホムンクルスを完成させたらしくてね」

「ホムンクルス……」

アデリーにもその存在のことは教えている。

以前シアが全権大使としてエル・バドールに出向いた時に、現地の優れた錬金術については、様々な情報が得られた。部分的でしかなかったが、その中には人工の人間である、ホムンクルスのものもあった。

ホムンクルスは賢者の石と並び称される事さえある、錬金術の秘儀の一つだ。まだマリーは実物をクルスでしか見たことがないが、エル・バドールではそれなりの数が存在しているという。

ただし、数は存在しているが、かのエル・バドールでさえ、未発達な技術の一つだと言うことだ。この辺りは賢者の石と同じである。

マリーの作り上げた原子論は向こうで物笑いの種にされたとか言う話だ。そんな状況だから、まさか学生のエルフィールがホムンクルスを作成したなどと言う話が簡単に受けいられる訳もない。しかも現在エル・バドールの暴走により、シグザール王国との国交は断絶状態にある。

マリーにしてみても、本場の錬金術は非常に魅力的だ。だがしかし、体制が硬直化し、権威に縛り上げられて、身動きできなくなっていることも知っている。そんな事だから、イングリド先生やヘルミーナ先生に見限られるのである。

いずれにしても、このホムンクルスは良い口実になる。いずれ現地に連れ込んで、向こうの錬金術師達をぎゃふんと言わせるには最適の素材だろう。

「エルフィールのことは、心配です」

「会いに行ってきたら?」

アデリーは首を横に振る。

アデリーの話によると、エルフィールの実力はまだ中途半端で、精神的にも問題が大きいという。手紙でやりとりはしているそうなのだが、兎に角危なっかしいので、今会いに行くと逆効果なのだと、アデリーはぼやいていた。

「あの子は老成しているように見えて、所々がとんでもなく子供です。 周囲に学べると理解して、それをしっかり実践できるようになるまでは、会わない方が良いと私は思います」

「そう。 まあ、その辺は任せるよ」

実際エルフィールは、学生でありながら既にいくつもの大きな成果を上げている。人工レンネットは既にレシピが届いて、カスターニェでも量産を開始しており、軍の携帯食料としてのチーズが大量生産に向けて動き出した。乳製品を扱うギルドは増産に次ぐ増産でてんてこ舞いであり、プラスの意味で大きな経済的ショックが市場を覆っている。畜産業者にも、子牛を殺さなくても良い人工レンネットは好意的に受け容れられつつあった。

それに加えて、この若さでホムンクルスの完成である。それを考えると、技術面では末恐ろしいとしか言いようがない。だがその一方で、確かにアデリーが言うように、危なっかしい部分があるのかも知れない。

まだエルフィールが忘我の縁に沈んでいた頃、マリーは何度か様子を見た。確かにアデリーが心配するように、極めて不安定な存在だと感じさせられた。元々、出自はマリーにさえもまだ分からないのである。時々牙が調査してくれてはいるのだが、それでもたどり着けてはいなかった。ドムハイトの辺境出身であると言うことはほぼ間違いなさそうなのだが、未だにどんな家庭環境にいて、そして壊れてしまったのかがよく分からない。

「もう一つの話とは、何でしょうか」

「ん。 近々あたしとアデリー、それにミューと何人か精鋭で、エル・バドールに直接乗り込むよ」

アデリーが、さっと緊張した。

マリーにしてみれば、望む所だ。馬鹿なことをしでかしてくれたエル・バドールの長老達がどんな連中なのかは、一度お目に掛かってみたいと思っていた。それに向こうの戦力が具体的にどれくらいあるのかも、自分の目で確かめたい。

大陸一つを支配している巨大国家と言うこともある。イングリド先生達の話によると、兵力は最低でも三十五万とかいう事だが、兵士の質は高いはずもない。問題になってくるのは、兵器である。

マリーが作ったフラムは近年フラウ・シュトライト討伐で大きな成果を上げたが、しかし簡単に潰すことが出来なかったのも事実である。あの巨怪は戦略級クリーチャーウェポンというそうだが、当然あれ以外にも、エル・バドール本土には何体か同様の存在がいることだろう。

兵士達が装備している武器についても調べておく必要がある。シアも報告書を出してきていたが、その具体的な性能をもっと調べておきたい。兵器の性能次第では、数十年鍛えた兵士が、子供にも殺されるかも知れない。

あくまで使い方の問題だが、そう言ったこともあり得る。念入りな調査が必要であった。

向こうで調査することは、幾らでもある。

「もう、戦争は避けられないのでしょうか」

「アデリー、それは違う。 もう、戦争は始まってる。 死者も大勢出てる」

カスターニェの戦いは一例に過ぎない。各地で行われた小競り合いで、騎士団や牙、民間人にも死者は少なからず出ているのだ。既にエル・バドール許すべからずという声も、軍を中心に挙がり始めている。

一応、シアを通して、エンデルクや軍上層の連中とも話はしている。現時点で、エル・バドールに侵攻する計画はない。というのも、ドムハイトが自滅に向かっている今でも、シグザールが大陸を制圧したわけではない。シグザール王国の軍事力は、ドムハイトと事を構えるのには充分だが、エル・バドールを追加で相手にするほどのものではないからだ。

もしもエル・バドールと全面戦争をするのであれば、後二十万の兵力を用意し、なおかつドムハイトを完全に制圧しなければ無理だと、試算が出ているという。ドムハイトは混乱状態に落ちているが、しかしそれでも大陸のほぼ半分を版図におさめる大国家である。制圧するのはまだ数十年は掛かる。無理に侵攻して膝下に入れても、反乱などが頻発して、逆に国力低下につながりかねない。その隙をエル・バドールに突かれたら最悪だ。

現在はドムハイト中枢に造反する豪族などを取り込んで、少しずつ領土を拡げながら、敵を更に弱体化させている状況である。王の戦略は、強いては事をし損じるという言葉を守るものらしい。今後も、これを変える気はないだろう。

つまり逆に言えば、エル・バドールとの戦闘は、常に水面下で実施されることになる。出来れば外交戦に持ち込んで、経済的な面から相手の力を削り、或いは内乱を起こさせて勢力を削れないかと、王は考えている様子だ。それについてはマリーも同意であり。腐敗した巨大国家となれば、付けいる隙は幾らでもあるだろう。何も真正面から喧嘩をして、大きな被害を双方共に出すこともないのである。

以上の理由から、まずはマリーが精鋭と共にエル・バドールに乗り込み、その情報をしっかり入手してくる。これが重要なのだ。

「一応国使という形で出向くけれど、場合によってはかなり厳しい戦いも予想されるからね。 準備はしておいて」

「母様、本当に全面戦争にはならないんですか」

「相手次第だね。 もっとも、全面戦争になっても、二年や三年でこのシグザール王国が傾くことはないだろうけれど」

ドムハイトとの戦いをわざわざ例に挙げることもない。大陸規模の国家同士の戦闘は、一度や二度の会戦で決着が付くようなものではない。何十年も掛けて、じわじわと相手の力を削り合うものになる。

シグザール王国は豊富に物資を備蓄し、社会的矛盾も的確に解決し、なおかつ人材も多い。文字通り上り坂にある国家であり、斜陽のドムハイトや、沈滞しているエル・バドールとは根本的に違う、

むしろ総力戦になれば、不利になるのはエル・バドールの方だ。

もっとも、向こうにその程度のことが理解できない輩がいれば、大戦争になるかも知れないが。

マリーもある程度、何を持っていくか、道具類のリストを見繕う。

軽く寝て、早朝の内から体を動かす。軍基地の中とは言え、走るスペースは幾らでもあるし、新人兵士達に武芸を教えるのは結構面白い。精鋭で知られるシグザール軍でも、新人はいる。彼らには可能な限りしっかり武芸を教え込まなければ、戦場で敢えなく命を散らせてしまうことになる。ただでさえ、戦場では運も大きな要素になるのだ。最低でも技術くらいは身につけさせないと、危なくて現場には出せない。

準備運動をした後、自室で座禅を組み、瞑想して魔力を練る。

賢者の石を作成してから魔力の上限値が上がったことが明らかであったが、それでも天井はある。マリーは忙しい中訓練をしっかりしていたが、それでももう上限は近い所まで来ていた。

もう一つ賢者の石を作りたい。

しかし残念ながら、材料が手に入らない。鍛錬を終えた後、宿舎になっている東の棟を出て、会議室などがある中央の要塞に移動。このカスターニェ要塞は、小規模だが星形の凝った構造をしていて、中央部分で全てを統括しているのだ。中央部に入るにはかなりセキュリティが厳しい上、本当の重要施設は地下にあるという凝りようである。

といっても、この施設、二年ほど前に急いで作り上げたものだ。マリーは最近までは、粗末な普通の砦で、軍の連中と折衝したり、或いは訓練を見たりしていたのである。ドナースターク家の施設も、この古い方の砦の近くにある。

兵士達の敬礼を受けながら、地下に。

会議室には、既に見知った面子が集まっていた。

牙からの参加メンバーの一人はシュワルベだ。かってマリーが皆殺しにした盗賊団の用心棒をしていた男で、その後牙に入った。現在は感情らしいものを一切見せない、機械的な戦闘兵器と化している。腕前の方は充分に信頼に値し、以前は共同戦線を張ったこともある。

騎士団からは、養子のアデリーだけではなく、かなりの人数が参加する。マリーの側で護衛兼監視役をしているミューは当然のこと、若手の精鋭が何名か。そして、クーゲルの愛弟子であるエリアレッテも、その中に含まれていた。

エリアレッテはショートカットに髪を切りそろえている娘で、吃驚するほど冷たい目がマリー好みだ。ばかでかい剣を常に持ち歩いているが、それはマリーが作成に協力した強力な武具である。手入れに専属の鍛冶師が必要なほどの面倒な武具だが、破壊力は折り紙付きで、エリアレッテは戦場に必ずこれを持って行っているようだった。とても良いことである。

この娘を見ると、どうしてかアデリーが悲しそうに眉をひそめるのだが、それは別にどうでも良いことである。

騎士達の中には、他にも見知った顔がいる。ナタリエが、その一人だ。相も変わらず三つ編みにしていて、似合いもしない赤い鎧を窮屈そうに着込んでいる。その鎧も、動きやすいように極限まで軽量化している様子だ。

マリーの知人であるナタリエは、騎士に転向してから、そのメタモルフォーゼの能力を利用して一線で活躍していた。言うまでもなく、容姿から術式までもコピーする彼女の能力は、潜入作戦に最適だ。マリーの旧知と言うこともあって、今回の任務の参加者として白羽の矢を立てられたのは間違いのない所だった。

マリーが席に着くと、アデリーもそれに倣う。

今回の作戦の総指揮は、聖騎士ジュストが取る。これは表向きは外交使節なので、聖騎士の中でも如何にもそれらしい容姿の人間が出る必要があるからだ。実際にはクーゲルと長年血みどろの喧嘩をするほど激しい気性の人物なのだが、その気になれば好々爺としても振る舞えるので、今回は適任である。

文官として参加する人物にも、マリーは見覚えがあった。いずれも結構後ろ暗い仕事もしてきている者達であり、今回親書を携える役割の人物は、ドムハイトの豪族を何名か寝返らせた実績を持っている。かなりえげつない人事であり、確かに高い効果が期待できそうだった。

他にも歴戦の兵士ばかりを厳選して、最新鋭の高速艦でエル・バドールに向かう。

いずれもが猛者ばかりだが、その中で例外的にナタリエはマリーの顔を見ると露骨に眉をひそめた。ジュストが作戦について説明し始めても、その表情は変わらなかった。彼女は結局の所、多少突っ張っていても、今でも心優しい娘のままだ。

「では、今回の作戦について説明する。 細かい打ち合わせについては、出航してから船の中で行う。 大まかな話だけを、此処でしておく」

ジュストは何度か咳払いすると、淡々と話を進めていく。

要するに、親書を提出して、外交の手続きを行う。内容は、交易についてが主体だという。

その外交の手続きをしている間に、マリーを始めとする潜入部隊が、今回フラウ・シュトライトを始めとするクリーチャーウェポンを送り込んできたり、国内で様々な暗躍をしてくれた連中を指揮していた一派を洗い出す。

場合によっては、消す。

「それは、下手をすると生きて帰れないのでは?」

「だから、生還能力と潜入能力に長けた面子を厳選している。 幾多の戦いで歴戦を重ねてきた諸君であれば、必ずや生き残り、この土地に戻ってくることが出来ると、私は信じている」

まあ、流石に騎士団長を出すわけには行かないという事もよく分かる。聖騎士ジュストは、他の国なら騎士団長が充分務まるほどの戦歴と実力を持つ人物でもあるし、それでありながら正直な話死んだとしても替わりが効く人材だ。

そして、それは此処にいる全員が、共通していることである。

ドナースターク家の力を削いでおきたいという意図も透けて見えるが、まあそれは別に構わない。ヴィント王の豪腕と、そのしたたかな考えが、よく分かる人事であった。

考え込んだ後、マリーは挙手した。

「ちょっとよろしいですか?」

「何かな」

「今回、せっかくエル・バドールに行くのだから、現地の知識を取得したいです。 任務の合間に、図書館とかを漁っても良いですか?」

「余裕があるなら好きにすると良い」

そうじゃない。流石に歴戦で鍛え抜いてきたジュストも、分からないことはあるらしい。

どういえば伝わるかちょっと考えてから、マリーは言い直す。

「言い直しましょう。 外交使節のバックアップによって、正式な形で貴重な文献を入手するか、目を通す機会を作って欲しい、と言うことです」

「どういう意味かね」

「エル・バドールの強みは、その圧倒的な技術力です。 しかしその根幹を成している錬金術は、あたしにとっても得意分野でもあります。 しっかり此処で調査を進めておけば、いずれ何かあった場合、大きな意味を持ってくると思うのですが」

「そういえば、君はエル・バドールでさえ作成例が少ない、賢者の石とやらの作成に成功しているそうだな。 なるほど、或いは君であれば、現地の技術を高い精度で解析することも可能か」

ジュストは頷くと、文官達に話を振る。

最初難色を示していた文官達も、マリーの先ほどの説明に魅力を感じたか、やがて頷いてくれた。

「分かりました。 ただしそうなると、此方も増員が必要です。 現状では、相手の耳目を引きつける程度しか人員がおりませんので」

「分かった。 それについては、私が直接王に申請しておく」

「もしも、平和裏に事を進めることが出来るとしたら、どうしますか」

挙手し、発言したのはアデリーだ。ミューもそれに賛同する。

アデリーはまがりなりにも、実績を上げている聖騎士である。戦闘能力に関しては、風の術式を操るジュストよりも既に上だろうとマリーは見ている。今なら、全力で殺し合っても勝てるかどうか分からないほどの腕前だ。

騎士団は実力主義の組織で、アデリーの発言をジュストも無視できない。何より、アデリーの言葉は、夢想家の小娘のものではない。聖騎士になるような人間は、基本的に誰も彼もが泥水の中をはい回り、地獄を見てきているものなのだ。その上で、アデリーはそう言っているのである。

だから、一見すると甘いような言葉でも、それには重みがある。

激しく親子としてぶつかり合ったこともあるマリーも、今はその発言を嘲笑おうとは思わない。それだけ、アデリーは重いものを背負った上で、発言しているからだ。だから、最大限尊重しようと考えている。

ただし、その意見に賛同しようとも思わないが。

「それは調査次第だな。 王も、今回の事態の裏で暗躍していた連中を必ず殺せとは言っていない。 場合によっては、和平の道が開けるかも知れない」

「最大の努力をお願いします」

「分かった。 オレとしても、血なまぐさい展開になるよりは、めでたしめでたしの方が好みだしな」

話を振られた一人であるナタリエは、大きく頷いた。

アデリーが幼い頃から知っているだけあり、発言にシンパシィを感じるのだろう。

それから、幾つか話を詰める。マリーは途中で、持っていく錬金術の道具類と、その使い道について説明。牙の面々は、潜入作戦において、ナタリエを借りたいと言い、ジュストもそれを了承していた。

会議が終わったのは、昼過ぎである。

大体のことは決まった。

旧知の面子も多いから、そのままほぼ全員で食堂に向かう。ナタリエはしきりにアデリーの背が伸びたことを喜んでいた。

「もう追い越されたなあ。 戦闘技術でも勝てそうにない」

「いえ、私なんて」

「謙遜しない。 今のあんたに勝てる可能性がある若手の騎士なんか、そこのエリアレッテと、後はザールブルグにいるダグラスくらいじゃないのかな」

マリー自身はと言うと、勝てるとは思うが、戦いたいとも思わない。

壮絶な死闘を経た後で、義理の娘との間には不思議な関係が作られた。それは居心地が良いので、壊そうとも思わないものであった。

或いは。

やっとあの時を経て、マリーとアデリーは本当の意味で親子になれたのかも知れない。

騎士団の食堂は手狭だが、兎に角美味しそうな匂いがしてくる場所だ。肉類が非常に多いのは、訓練で体を鍛え抜いているからであろう。肉を食うことで強くなることは、理論的に説明しなくても分かる単純な事実だ。

ずっと無言だったシュワルベの横に、ジュストが座る。多分牙と騎士団との間で、詰めておくことがあるのだろう。わざわざ割り込むこともないので、放っておく。

マリーの隣にミュー、その隣にナタリエが座った。アデリーとは向かいだ。

それぞれ肉料理やらチーズ料理やらを注文。シンプルながら、十種類以上のメニューが常時用意されている。中でも大型の魚の切り身を焼いたものは、豚や牛などの肉と殆ど変わらないほどの満腹感を得られる。

シュワルベとジュストは、同じ穀類のスープを頼んだ。穀類はスープに入れると膨らむので、見掛け以上に満腹感が得られる。一方、港暮らしが長くなってきたからか、ミューはいつも食べている魚を避け、山羊の肉を焼いてチーズを掛けたものを注文していた。

出てくる料理の量は、兎に角多い。ただし、味の方はそれなりだ。出来たてなのでかなり誤魔化されてはいるが、はっきりいって飛翔亭の料理の方が十倍は美味しい。フレアが如何に腕の良い料理人だったのか、こう言う所で食べてみるとよく分かる。

ただし、皆粗食には慣れているし、文句を言う者はいなかった。

ミューが、ふうふうと肉を冷ましながら言う。

「そういえば、話に聞いたんだけど。 とても腕が良い女漁師がいるんだって」

「ユーリカって娘の事?」

「そうそう、ユーリカ。 一人で大きな漁船を操って、遠洋で確実に大きな魚を捕ってくるんだって。 世の中には腕利きがいるものだね」

「ふうん……」

マリーは、注文した魚の切り身焼きにナイフを入れる。

切り身と言っても、マリーの掌ほどもあるものが、二きれ熱々で出てきているものである。ただし、ぶつ切りにして焼いただけというのが一目で分かる代物で、味に工夫がない。素朴だが、荒々しいだけともいえる。

今回の任務で、船は重要だ。

まず全員を下ろした後は、小舟で行き来した方が良いだろう。今回は水中戦での訓練を受けた部隊も付けて貰っているので、水中から奇襲を受けて全滅という事はないだろうが、それでも用心に越したことはない。

つまり、水に慣れた人材は、一人でも欲しい。民間から調達できるのなら、なおのことだ。

「聖騎士ジュスト、スカウトを掛けてみては」

「実はもうスカウトしたのだが、袖にされてしまってな。 若い娘は、儂のような老人には興味がないらしい」

からからとジュストが笑う。それを、ガラス玉のような目でシュワルベが見つめていた。

まあ、駄目だったのなら仕方がない。いずれにしても、腕の良い漁師や水夫は幾らでも必要である。

それにしても、食べても食べても無くならない。味はともかく、確実に満腹になれるという点で、意味のある食堂だ。ただし、やはり味が味なので、特に慣れない兵士などは、残している場合も多いようだった。

一番最後に食べ終えたのは、意外にもナタリエだった。騎士になってからもスリムな彼女だが、最近は少し食べる量を減らしているらしい。ミューはと言うと、旺盛な食欲で、真っ先に食べ終えているのだから面白い。

「アデリー、私買い物行くけど、どうする?」

「お供します」

「あ、そうだ。 海草類があったら、適当に買ってきて。 研究用の素材にするから」

銀貨を幾らかアデリーに握らせる。ちょっと多めに渡したのは、小遣いのつもりだ。頷くと、アデリーはミューと連れだって、街の方に出かけていった。ナタリエはこういう慣れ合いは好きではないらしく、騎士になってからもあまり同僚とわいわい出かけるようなことは無い様子であった。

そのまま宿舎に引き上げるナタリエ。無言で、エリアレッテは訓練場に。見たところ、エリアレッテの才覚はアデリーとほぼ五分だが、鍛錬に関する熱心さは凌いでいる。しかもクーゲルの手で豊富な実戦も経験しているので、今後はエリアレッテの方が、アデリーを追い越す可能性も高い。

マリー自身も席を立つ。とりあえず、出かける前にフラムの改良と、後は身を守るための道具類を幾つか調合するのに加え、ドナースターク家に今回の会議についての報告書を纏めなければならない。あくまでマリーはドナースターク家から貸し出されている人材という扱いなので、これは軍からも認められている行動だ。もちろん、何から何まで全部書くわけにはいかないが。

ジュストは、まだシュワルベと話をしている。

「じゃあ、あたしは先に上がります」

「おっと、そうだ。 マルローネ君、一つ忘れていた」

ジュストが部下を呼んで、何かを持ってこさせる。ジュストはアデリーの師匠の一人であり、以前から交流のある相手だ。クーゲルに比べて社交的な人物であるから、一度知り合ってからは様々な面でもののやりとりをすることも多かった。

ヒラの騎士が恭しく持ってきたのは、禍々しい血の色をした宝石であった。ものすごい魔力を感じる。どうも錬金術によって作成した宝石らしく、形状が整いすぎている。ルビーとは違うし、その他の宝石とも、形状は一致しなかった。

「これは?」

「エル・バドールの間諜どもが残していったものだ。 連中のアジトを家捜ししていて見つけた。 タチが悪い魔力が篭もっているようだが、我らには解析できんでな。 君に調べてみて欲しいと思うのだが」

「分かりました。 エル・バドール侵入作戦までに、どうにかしましょう」

「頼むぞ」

借りを作る作らないという話の前に、マリー自身もこれには興味を引かれる。それにしてもエル・バドールの技術力は大したものだ。

自室に引き上げる。早速宝石を転がしてみて、色々な角度から見る。

込められている魔力は尋常な量ではなく、賢者の石の原材料になるアロママテリアにもなかなか劣らないほどだ。というよりも、この魔力量であれば、かなり大掛かりなことが出来るだろう。

例えば。

強力なクリーチャーウェポンの心臓部分に使うとか。

ドアをノックする音。気配からしてエリアレッテか。定期的に彼女の武器の手入れをしているのだが、その関係かも知れない。

「どうぞ?」

「入ります」

相変わらず、エリアレッテは無表情だった。

宝石をピンセットで摘んで覗き込んでいるマリーに、人食い薔薇の異名を持つ聖騎士は、手紙を差し出す。

「エルフィールの研究成果です。 師から、貴方にと」

「ありがと。 クーゲルさんは、元気にしてる?」

「特に問題なく。 この間はアークベアを素手で解体していました」

「衰えてないねえ」

けらけらとマリーが笑う。だが、エリアレッテは、表情を全く動かさなかった。マリーが手紙を開くと、一礼して部屋を出て行く。どうやら、返事を聞くまで待つ時間も惜しい様子だ。

多分戦闘が根本的に好きか、そうではないかの違いだろう。あの熱心さを、アデリーも見習って欲しいものである。もっとも、アデリーはアデリーで、考えあって訓練する時間を減らしているのだろうが。

ざっと目を通した所、エルフィールはホムンクルスの件以外にも、ここのところ十分な成長をしている。推薦したマリーとしても鼻が高い。

エル・バドール侵入作戦まで、まだ少しある。しかし、時間は幾らあっても、多いとは言えなかった。

イングリド先生に手紙を書く。

エルフィールについて、幾つか自分が知っていることを、そろそろ開示する時が来ていると、マリーは思ったからだ。

 

3、金色の毛

 

エルフィールが手にしているフラスコ内で揺れる液体は、無色無臭である。

だが、そろそろ凝縮されたエキスが、十分な効果を示すはずだった。何度か失敗しながらも、中和剤を使って海草のエキスを混ぜ合わせ、凝縮したからである。動物実験を実施した後は、人体実験もしてみたい所であった。

フェスト鉱石を乳鉢で潰しながら、イリスが言う。

「たかが毛生え薬でしょう? そんなに精度が高いものを作ってどうするんですか?」

「お客様にとっては、大事なものなんだよ」

「はあ」

「髪の毛が薄くなることが多い男性にとって、確実に毛が生えるって薬は垂涎の的なの」

イリスにはどうもぴんと来ないらしい。もっとも、ぴんと来ないことに関しては、クノールも同じようだが、

「妖精族は、髪が薄くなったりはしないの?」

「そうですね、長老でさえ、髪は白くなっても減ったりはしていませんね」

「それは多分、人間の嫉妬を買うだろうね」

「分かりました。 注意を促しておきます」

妖精族にとって、人間に憎悪されるというのは致命的なことだ。一見戯けてはいるが、クノールは結構真剣に頷いていた。

ビジネスとしても、毛生え薬は魅力的な市場だ。もしも継続的に毛髪を復活できる薬が出来たら、主に好事家や富裕層が相手になるだろうが、新しい市場を確実に開発することが出来る。

それに今回の件に関しては、客であるゲルハルトの示している報酬が、エルフィールにとっては著しく魅力的なものなのだ。今後の仕事のためにも、此処で手を抜くわけにはいかなかった。

裏庭への戸を開ける。

つないでおいた悲しい目をした野犬と野良猫が、エルフィールを見ると絶望に満ちた悲鳴を上げた。生きている縄がまるで獲物を襲う大蛇のように伸びると、二匹とも捕まえて、アトリエの中に引っ張り込む。ドアが無情な音を立てて閉まった。

まずは犬から。エルフィールの殺気を浴びた犬は、もはや悲鳴を上げることさえ出来ずに、ぶるぶる震えるばかりである。そしてエルフィールが剃刀を取り出すと、ただ世の無情にあえぎ声を上げた。

「大丈夫だよー。 殺しはしないから。 まずは毛を剃る、と」

薬が巧く行っていれば、言葉は事実になる。まあ、もっとも失敗した所で、多分死ぬようなことはないだろうが。

剃刀を動かし、恐怖のあまり身動きできない犬の毛を剃る。痩せていてあまり美味しそうではない。何だか剃りがいがないなあとエルフィールは思った。毛を剃ったら美味しそうに見えるくらいが面白いのだが。

生きている縄に捕らえられたままの猫は、この世の終わりが来たような目をして、毛を剃られる犬を見つめていた。多分捕まっていた間に、共感のようなものを得ていたのだろう。

犬の毛をすっかり剃り終える。クノールが手際よく床を掃除した。

意外なのは、イリスの反応だ。あれだけ冷笑的な普段の言動とは裏腹に、口を引き結んで、じっと犬の毛を剃る様子を見つめていた。

「意外だね。 情の欠片もないような雰囲気だったのに」

「……」

目に涙をためてイリスが視線を逸らしたので、エルフィールはちょっと本気で吃驚した。錬金術師なら、多少の冷酷な実験くらい日常茶飯事の筈だ。もしもイリスが、錬金術師の悪霊がホムンクルスに憑依した存在だったとしたのなら。どうしてこの程度で、感情を露骨に乱すのか。

「あの、エルフィールさん。 僕がイリスさんを」

「ん、そうだね」

クノールが、裏庭にイリスを連れて行く。

しばらくして、嘔吐の音がし始めた。ちょっとげんなりしたが、まあいい。犬の恐怖と猫の恐怖、どちらもエルフィールにはとても心地の良いものであった。実験動物が恐怖のあまり絶息してしまわないように気をつけながら、注意深く適量の殺気をぶつけ、毛を剃っていく。やがて、完全に毛を剃り終えた。

フラスコに入れている、完成品の育毛剤を、少し犬に垂らしてみる。

じゅっとか凄い音がして、犬が思わず弓なりに体を反らした。悲鳴を必死に飲み込んでいるのが分かる。

「ふうん、ちょっと濃度を下げる必要があるかな」

毛のない犬の肌はかなり敏感とは言え、この反応は激烈すぎる。見たところ、七倍から十倍くらいに希釈しなければならないだろう。

犬の背中、育毛剤を垂らした地点から、見る間に毛が生えてきた。しかも、犬の全身を覆うほどの量である。泡を吹いて固まる犬。猫は毛を逆立てて、目を剥いて悲鳴を上げた。

アトリエにイリスが飛び込んでくる。

クノールが止めようとしたが、赤い髪のホムンクルスは、必死の形相で猫とエルフィールの間に割り込んで、手を広げた。

「や、やめてください!」

「ますます意外」

犬の毛は、まだ伸び続けている。結構な効力だ。後は自分を素材にして、人体実験を使用と思っていたのだが。犬は己の体の異変に、もう何もかもが終わったような表情で、唖然としていた。猫はひたすら怖がって、イリスの影でがくがく震えている。

猫を実験材料にする代わりに、イリスを使うのもありかも知れなかった。

元々ホムンクルスは、そう言う用途で造り出すものだ。愛情で接しているアイゼルやヘルミーナ先生がむしろ異質なのであって、普通は人間の代替品として使用する事の方が多い。

これは文献で見た話なのだが。逆に言えば、ホムンクルスに魂を与えようとせず、肉の塊として育てるだけで、満足してしまう錬金術師も多いのだ。人体実験の代用品として、それでも充分に使えるからである。

「どうして実験用の動物を庇うの? しかもそんなに感情を剥き出しにして」

「分かりません。 でも、何だか胸がずきずきします」

「ふうん。 そうだね、猫を使う代わりに、イリス。 貴方を実験台にするけど、いいかな」

見る間にイリスが蒼白になる。

それを見て失望感を覚えるのと同時に、エルフィールの中である仮説が組み上がる。

普段の強気で冷徹な言動と、しっかりした知識。それなのに、この覚悟の定まらなさ加減。動物実験という言葉に、これほどまでに過剰反応し、なおかつ自分がそれに抵触しそうになった途端の、この状況。

生きている縄が大蛇のように襲いかかり、イリスを縛り上げ、空中に持ち上げる。

ついでに、陰に隠れていた猫も、捕まえて至近に持ってきた。

「其処で見てると良い。 そして自分の無力を、思い知るんだね」

哀れな猫に、剃刀を持ってエルフィールは近付く。猫の恐怖が、とても心地よい。嗜虐心をそそる。

猫は白目を剥いて失神した。

イリスは目をぎゅっと閉じて、悲惨な動物実験から、目も心も逸らした。

 

アイゼルがお土産の焼き菓子を持ってエルフィールのアトリエを訪れると、最初に視界に入ったのは、右往左往するクノールの姿だった。

そして、床で困惑した様子で舌を出している、犬種も分からない犬。なぜか金色の毛が背中の、しかも一点からのみぼうぼうと生えている。その犬を舐めて多分慰めているのは、頭の一点から訳が分からないほどやはり金色の毛が伸びまくった猫だった。

どちらの動物も、他の部分は丸裸に毛を剃られている。

そして、アトリエの隅で、膝を抱えて泣いているのは、イリスだった。

「おはよう、アイゼル」

「う、うん。 ええと、その。 エリー、この状況は一体何? 私、頭がどうかなりそうなのだけれど」

「驚くのは無理もないね。 ちょっと凄い発見をしたかも」

焼き菓子を机に置くと、アイゼルは座るように促された。エルフィールは右往左往しているクノールに、イリスを連れて二階に上がるように言う。クノールはイリスを促して、二階に上がっていった。

イリスが泣いているのは、あまり気分が良いものではない。ただ、あまりにも異質すぎる状況と、何より機嫌良くつやつやになっているエルフィールを見ると、まず事情を知りたいと思う気分が先に立った。

生きている縄が、お茶くみのスキルを益々上昇させている。この様子だと、結構な貴族にも満足してもらえるかも知れない。

「ん、殆ど完璧ね。 貴方、ワイマール家で執事が出来るわよ」

うねうねと蠢いていた生きている縄は、黒板に、チョークを使って文字を書く。

「俺はエルフィール様だけの下僕だ。 どの貴族にも仕える気はない」

「わ、嬉しい」

「羨ましいわ。 でも、配下の者達は、そうあるべきよね」

袖にされはしたが、不快感はない。

ワイマール家の家臣達にも、忠誠度が高い者は多い。斜陽の一族だというのに、それでもついてきてくれているのだから、とてもありがたい話だ。だからこそ、アイゼルは一刻も早く錬金術を極めて、実家を救わなければならないのである。

茶を飲んで、ひとしきりお菓子を食べた後。エルフィールがいきなりもの凄いことを言い出した。

「ね、アイゼル。 人間には魂があるんだよね」

「私には見えないのだけれど、状況証拠を揃えて分析する限りは、どうやらそうらしいわね。 実際生きている縄には、それを込めているんでしょう?」

「うん。 カトールに手伝って貰ってはいるけれど。 でも、ホムンクルスにも、魂を人工的に作って与えているんだよね」

「ヘルミーナ先生はそう言っておられる様子ね。 確かにクルスちゃんを見ている限り、それが嘘とは思えないけれど」

アイゼルには分からない。なぜ、エルフィールがこんな事を言い出すのか。

そもそも、魂とは何なのだろう。人間だけに存在するものではないとも聞いている。ちょっと気持ち悪いが、エルフィールが使っている生きている道具類に封入されているのは、蜘蛛やら何やらの魂だともいう。

参考書も読んだことがある。しかし、どうも曖昧な書き方しか為されていない。ひょっとすると、いわゆる魂や悪霊が見える存在にとっても、感じ取ることは出来ても、理解することは出来ないのかも知れない。

「あのイリス、ひょっとすると生きていた時も、ホムンクルスだったのかも」

「……え?」

「あの子、動物実験を始めた途端にとても動揺してね。 見ていて気の毒なくらい取り乱して、普段の冷静な言動が吹っ飛んで、あの有様よ。 それに、幾つもおかしな点は今までにあった」

錬金術の知識があるのに、ホムンクルスになったことに対して、それほど悲観的な言動を見せなかった。恐らく寿命もそう長くはないと、分かりきっているだろうに。人間がホムンクルスになったら、絶望さえ覚えるはずである。

それに、おかしな点はまだある。

「アイゼルも、動物実験はするでしょ?」

「ええ。 お薬の類は、どうしてもそうしないと危険ですもの」

「あの子も、もしも錬金術師だったのなら、別に動物実験くらい何とも思わないはずなんだけどね。 あの取り乱しようから考えても、それに知識とのアンバランスな言動からしても、多分元々錬金術師じゃない」

それなのに、豊富すぎるくらいの錬金術師としての知識がある。

なおかつ、エルフィールが見た所、むしろ主体的に事を進めるよりも、手伝いに手慣れているように見えた。

「そうね。 錬金術師だったら動物実験を何とも思わない、という点については同意しかねるけれど。 確かにイリスちゃんの普段の冷静な言動と、あの取り乱しぶりは大きな落差があるわね」

「でしょ。 まあ、おいおい聞き出そうとは思うけれど」

「あまり罪作りなことはしないでね。 貴方はただでさえ、危なっかしい部分が多いのだから」

「気をつけるよ」

魂か。

アイゼルの所にいるフィンフは、そうなると更に異質な存在なのかも知れない。聞く限り、ヘルミーナ先生の所にいるクルスちゃんの知識をかなり引き継いでいるようだからだ。或いは、魂も同じものを使っているのかも知れない。

もしそうなると、その存在は不思議の一言だ。

階段を下りる音。イリスが泣きはらした目のまま、降りてきた。

「申し訳ありません。 取り乱しました」

「今後も錬金術をやる限り、動物実験はしなければならないよ。 大丈夫?」

「大丈夫、です」

「そう。 ならいいよ」

エルフィールの目に、一瞬だけ嗜虐の光が浮かんだが、しかしそれもすぐに消えた。アイゼルは心底気の毒だと思った。

エルフィールは天才的な素質と、何より凄まじい努力の人だ。アイゼルも努力を続けているが、同一分野にエルフィールが来たらまず勝てないだろうと今では諦めている部分もある。

しかし天才である反面、エルフィールには危険な部分も多い。この子は、殺戮を楽しむことも出来るし、嗜虐的な資質も持っている。イリスが見かけほど冷酷で残酷な性格ではないことはアイゼルも最初から気付いていた。だが、それが故に。アイゼルが、此処で補助をしなければならない。

「ねえ、エリー」

「ん?」

流石に、本人の目の前でそれを言い出すのはためらわれた。

もしも適性がないとエルフィールが判断するのなら、この子は自分で引き取ろう。そうアイゼルは決めた。

エルフィールは、要らないと思ったら殺して捨てかねないからだ。

「クノール、イリスと一緒に買い物をしてきてくれないかしら」

「ええと、その。 分かりました、サー・アイゼル」

この嫌な空気に耐え難いと思ったからだろう。クノールはすぐに外に出て行った。イリスとは背格好も近いし、仲の良い姉弟みたいである。互いに敬語で話す、奇怪な姉弟だが。エルフィールは笑顔を保ったままである。

「それで、あの子らがいない所で、何を話したいの?」

「もしもイリスと巧くいかないのなら、私が引き取りたいの」

「へえ。 ひょっとして、要らないと思ったら私があの子を処分すると思ってる?」

「そうよ。 貴方なら、そうするんじゃないかと思ったから」

アイゼルの言葉に、責める要素はない。

流石に四年つきあってきて、結構互いのことを知り合った仲である。悪いことに関しても、ある程度はあきらめが付いている。それ以上に良い所を学ぼうと思うことはあっても、今更悪い所を糾弾しようとは思わなかった。

頭を掻いたエルフィールは、しばらく考え込む。

「あの子を捨てる気は、今のところ無いよ」

「そう」

「あの子ね、作った後ヘルミーナ先生とイングリド先生に調査を受けたでしょ。 その時に、ヘルミーナ先生に釘を刺されたから。 まあ、適当にストレスは与えてみようとは思ってるけど、今後殺すつもりはないかな」

その「適当」が怖いのだが、もうそれに関しては諦めるしかない。

エルフィールが、小首を捻る。

「それにしてもさ、アイゼル。 私ね、どうもあの子の反応を見てると、頭の奥がちりちりするんだよね。 あの子そのものというよりも、むしろその境遇が、原因なんだろうけれど」

「少しは他人に優しくしてあげることを覚えたら? 貴方は、合理的にものを考えすぎのような気がするわ」

「そうだねえ。 アイゼルがそうやってフィンフと巧くやってるのを見ると、たまにはそれもいいかなって思えてくるよ」

 

アイゼルは、愛情を豊富に持っている。それを注ぐことを、エルフィールにも求めてくる。でも、それは難しい。

以前愛とは何かと調べてみたことがある。それを専門的に扱っているミルカッセに、詳しく聞いたことだってある。

だが、未だに愛は何かと言われても、理解できない。自分なりに愛とは何かという結論は出ている。それは一方的に、偏執的に相手のことを好くことだ。そうやってエルフィールは、チーズケーキを究極的な品質にまで高めた。エルフィールのやり方に文句があるのなら、それ以上の実績を上げてみろ、という所である。

しかしながら、実際問題、アイゼルは確かに違う愛の形を、フィンフに示しているような気もするのだ。

その違う愛が、どうしても理解できなかった。

 

釘は刺した。

そう判断したアイゼルは、席を立つ。

「今日は帰るわ。 でも、出来るだけあの子を虐待したりしないで。 生意気かも知れないけど、あの子には心があるわ」

「そうだね。 心があるのは確かだね」

そう言うと、エルフィールの表情に一瞬だけ影が差した。

その理由を推察できないことを、アイゼルは腹立たしく思った。自分自身の無力さが、こう言う時身につまされる。

アトリエを出ると、帰ってきたキルキに出くわした。かなりの大荷物を抱えている。二人いる妖精に、かなり分けて持たせているが。それでも視界が塞がれるほどの荷物である。

「大丈夫? 手伝いましょうか?」

「有難う、アイゼル。 でも大丈夫」

キルキは一時期苦労を重ねていたが、もう立派に自分で立って歩ける大人だ。まだ発育はしきっていないが、多分アカデミーの学生達の誰にも負けないほどに。

アイゼルは自身のアトリエに戻る。

今日は色々なことがあったが、それぞれに考えてのことなのだ。だから、アイゼルも、これからのことをしっかり見据えて、実力を伸ばしていかなければならない。

この残酷な世界の中で、生きていくためにも。

 

動物実験は順調に進んだ。

やはり育毛剤は希釈すると、効果をかなり的確に調整することが出来る。十三倍前後に希釈することで、ようやく意図通りの効果を発揮することが出来た。

犬も猫も、すっかり毛が戻っている。

ただし、その全てが金色であったが。全身が金色の野良犬と野良猫は、ある意味見ていて不気味であった。ためしに野良犬に鏡を見せてみると、怖がってキャンキャン鳴いた。もっとも、猿でも鏡に映った相手を自分だとは認識できないそうだから、これは不思議な反応ではないだろう。

それにしても面白い実験であった。

「さて、その犬と猫、どうしようかなあ」

「人体実験は、どうするつもりですか?」

「ああ、それならもう試したよ」

エルフィールが、後ろ手で首筋を撫でる。合わせ鏡で確認したが、普段は髪が生えない部分にも、しっかり毛が根付いていた。

元々髪の毛が生えない部分にも生えてくるほどの強力な育毛剤である。これならば、ゲルハルトの頑強な禿にも確実に効果があるだろう。

ただし、恐らく効果は一回だけか、良くても二三回、と言う所だろう。

既にゲルハルトの髪の毛は死んでいる。其処に無理矢理髪の毛を生やすわけだから、どうしても異物を植えるのと同じ事になる。そうなると、拒絶反応が出るのは自明の理である。

しかもそれは、何もゲルハルトに限った話ではなかった。

イリスは無言でエルフィールが瓶詰めしている薬剤を見つめる。

一度しか効果を発揮できないだろうこの薬剤のために、彼女が泣いた意味はあるのだろうかとでも思っているのか。或いはそれとも、別の理由か。

この薬は一回しか効果がないという点で、大きな欠陥を抱えている。それでも髪の毛を戻したいという人はいるだろうが、やはりそれも限定的な商品にしかならないだろう。継続的に求める人間が出るとは思えない。ただし、飛翔亭に登録しておけば、損はしないだろう。ある程度ストックを作っておけば、それなりの売り上げは期待できそうだった。

いずれにしても、ゲルハルトが気に入るかが問題だ。かの人物のコネは結構馬鹿にならないのである。

「クノール、適当に逃がしてきて。 街の外に出すと目立ってイチコロだろうから、その辺の空き地にでも」

「分かりました」

「イリスは一緒に出かけるよ。 ゲルハルトさんの所に、納品がてらちょっと武器とかの適性を見て貰おう」

「はい」

イリスが嘆息するのが分かった。

そのまま、外に出る。ゲルハルトの武器屋にはいつも杖の手入れで世話になっているし、目をつぶってでもたどり着ける。イリスも連れて行くのは、今後外での採集を手伝わせるためだ。武器の適性を見るのにも、ゲルハルトは長けている。元々冒険者として超一流まで上り詰めた人物なのだ。

「ゲルハルトって言うのは、どういう人なんですか?」

「気の良いおじさんだよ。 見事な禿で音痴なんだけど、武器を作る腕前に関しては超一流でね。 町の人みんなから愛されてる名物おじさんかな」

「……へえ」

「私も武器の手入れなんかでは世話になってる。 さて、イリスはどんな武器が合うかなあ」

エルフィールを後ろから刺そうというのなら、それも構わない。最近緊張感が無くなっていて困っていた所だから、それくらいの方が張り合いがある。

しかもイリスの素体になっているのは、騎士団の優秀な戦士達の生体情報だ。鍛えればどれほど強くなるか、見当もつかない。もっとも、この娘はどう見ても戦闘に興味があるとは思えなかったが。

ゲルハルトの店は、今日も開いていた。もうじき国境の村まで出かけると言うことで、安売りをやっている。冒険者が何名か詰めかけていて、その中には見覚えのある顔もちらほら見えた。

ハレッシュがいた。かなり大きな鉾を手にしている。軽々と振り回しているのは、流石だ。

「おお、エリー。 久し振りだな。 そっちの子は?」

「私が錬金術で作りました。 イリスです」

「初めまして、イリスです」

「おおー、こりゃあ可愛い子だ。 錬金術ってのは、そんな事も出来るんだな。 俺もそんな可愛い子が欲しいぜ」

無邪気な笑顔を浮かべて、イリスの頭を大きな手で撫で撫でするハレッシュ。明らかにありがた迷惑な様子のイリスだが、助けないで放っておく。何回か護衛に雇った冒険者の姿も見える。軽く挨拶して回っている内に、意外な人物を見つけた。

ダグラスである。

壁際に掛かった、大きな剣を見ている。

「ダグラス、久し振りだね」

「エリーか」

「ふうん、その剣が欲しいの? 聖騎士の給金なら、買えるんじゃないの?」

聖騎士の中でも、将来有望なダグラスは、若くして屋敷も持っている。当然若い娘の間では、結構人気があるそうだ。当然の話である。こういう有望馬の嫁になれば、後は楽に生活できるからだ。

裕福な生活をしているダグラスだから(かなりの額を仕送りしているとも聞いているが、それくらいでは生活基盤は崩れないだろう)、剣の一本や二本、買うことは簡単なはずである。例え高級品でもだ。

「この剣は、今の俺じゃあ使いこなせねえ。 今回の安売りで出てきたから見たんだが、ちょっと振るっただけで使えないって分かってな。 悔しいけど、見送りだ」

「買っておいて、使えるようになったら振るえば?」

「そういう訳にはいかねえんだよ。 もしもこの剣を使える奴が先に出てきたら、そいつが使うべきなんだ。 使えもしない俺が持っているんじゃ、それは剣に対する侮辱になるんだよ。 俺にとって剣ってのは神聖なもんなんだ。 お前も、錬金術を馬鹿にされたら気分が悪いだろ?」

珍しく理知的なことを言い出すダグラスに、ちょっと感心してしまった。

腕組みしてじっと剣を見つめていたダグラスは、イリスを無理矢理可愛がっているハレッシュを一瞥すると、つかつかと店を出て行った。

やっとハレッシュから逃れてきたイリスの髪留めがかなり乱れている。エルフィールは短髪に切りそろえているが、それは手入れが簡単で外でも悪く見られにくいからだ。髪が長い上に柔らかいと、ちょっと手入れを怠るだけで途端に見苦しくなる。

客商売で、見苦しい格好は致命的だ。人間とは、まず見かけで相手を判断する生物だからである。

「後で、髪直しておいて。 そういうの、結構外で見られるから」

「分かりました」

カウンターで談笑しているゲルハルトを見つけた。相手は見たことがない女聖騎士だ。相当な腕前らしく、小柄ながら手にしている武具も巨大なバトルアックスである。眼鏡をしているが、決してインドア派の能力にだけ頼るタイプの騎士ではないだろう。

小柄な女騎士は話を切り上げると、さっさと出て行った。一瞬だけ視線が交錯するが、此方には見覚えがない。あの女騎士は名のある人物だろうが、正体は知らない。もっとドナースターク家内で早く地位を確保して、軍や騎士団とのコネクションを作り上げたいものだ。

禿頭をなで回しているゲルハルトに、歩み寄る。

「お、来たか」

「此方、例の薬です。 遅くなって申し訳ありませんでした」

「何、いいって事よ。 有難うな」

いそいそと、しかも大事そうに育毛剤をしまい込むゲルハルト。今日は相当に忙しいだろうに、まるで疲れが見えないのは、若い頃徹底的に鍛えたからだろう。

ゲルハルトはイリスをじっと見つめる。無表情を作って視線を受け止めるイリス。視線が交錯したのは数秒だが、それで充分のようだった。

「で、この子か」

「はい。 何が適していると思いますか?」

「見た所、身体能力は充分だな。 同じ年頃のアデリーほど鍛えてはないようだが、潜在能力が高いから補えてる印象か」

ためらいなく、ゲルハルトは重量武器を取り出す。いきなり刃が付いているものは渡さないが、それでも殴れば人を殺せる充分な破壊力があるものばかりである。

周囲の客や冒険者達が、イリスに注目しているのが分かった。

エルフィールは、既にヒドラの二つ名で知られ始めている。猛獣狩りを行ったこともあるし、吸血鬼を殺したことや、この間の巨大ロック鳥の抹殺が武名につながったのである。それ以外でも、武という点では悪名に近いものを周囲に拡げていて、既に一目置かれる存在になっている。

そのエルフィールが連れている子供である。

しかも、ゲルハルトが取りだしたのは、どれもこれも体格に優れた大人の戦士が使うような重量武器ばかり。注目されない方がおかしかった。

「まずはこれだ。 基本的に剣ってのは、実戦ではサブウェポンになることが多い。 理由はポールウェポンの性能が圧倒的に優れているからだ。 剣が有利なのは、屋内だとか、或いは入り組んだ地形だとか、そういう場所くらいだな。 だから、最初はポールウェポンから始めるのが合理的なんだ。 イリス、振ってみろ」

イリスが渡されたのは、戟と呼ばれる大型の槍であった。

槍の穂先には三日月状の刃物が付けられていて、ハルバードに似ている。しかしこの戟は、よりスマートで、なおかつ刃が鋭い。

何度か振り回すイリスを見て、ゲルハルトは眉をひそめる。

「身体能力は高いが、実戦経験は無いようだな。 そう言う点も、最初の頃のアデリーに似ているな」

「あのアデリー先生が、ですか?」

普段滅多に驚くこともないエルフィールも、それだけは吃驚した。ゲルハルトが彼女を知っていることは、以前の会話で把握していたが。まさかあの鬼神がごとき実力を持つアデリーさんが、最初はそんなだったとは。

ゲルハルトは嬉しそうに、昔のアデリーさんについて教えてくれる。

「おうよ。 彼奴は最初武芸の才能の欠片も無くてな。 でも、才能を努力で補ったんだよ。 兎に角、普通の女の子が男の子とかお洒落とかの話をしている間中、あのマリーについて戦場を駆け回って、剣の腕を磨いていたんだ。 強くなるに決まってるだろ」

「へえー。 誰もが最初は無力だった、ですね」

「彼奴の場合は、保護者が兎に角異常だったからな。 一念発起して、自分から強くなろうって思ったのが大きかったんだろうよ。 まあ、そういう親子関係も、たまにはあるって事だな」

イリスはしばらく戟を振るっていたが、適当な所でゲルハルトが止めさせる。どうもゲルハルトの目から見て、戟は駄目らしい。

代わりに違うポールウェポンを、武器屋の親父は出してくる。ゲルハルトにとっては、微調整くらいの感覚に過ぎないのだろう。薙刀と呼ばれる、東方から来た大型の刃が先頭に着いたポールウェポンも、どうも見込みがない様子だった。

鉾と呼ばれるものも駄目。ゲルハルトはしばらく考え込んだ後に、非常にシンプルな槍を出してきた。ただし柄が真っ赤で、刃の部分もある種の魚のように非常に細く鋭いものである。

「繊細そうな武器ですね」

「朱槍って言ってな。 東方で名誉ある武人が持つものだそうだ。 それを俺なりに再現してみた。 普通の槍に見えるが、かなり刃には工夫を凝らしてある。 強力な術者に魔力も付与して貰っているから、切れ味も相当上がっている。 腕次第じゃ、熊の心臓を一突きに出来るぞ」

「へえ。 私にも一つもらえますか?」

「お前さんの触手じゃなくて、生きている縄に持たせるのか? それだったら、普通の槍にしておけよ。 あれはな、名誉ある武人が、魂の篭もった一撃を放つための武器なんだよ。 手数で勝負する時の武器じゃねえ」

そう言われると、返す言葉がない。

それに、イリスは一応今のエルフィールにとって被保護者になるわけで、雇用関係ではないのだ。その様子は、しっかりエルフィールが監督するべきで、間違っても武器を取り上げるなどと言うことはしてはならないのだった。

イリスは手にしっくり来るのか、朱槍を楽しそうに振るっている。動きも、最初に比べると随分良くなってきていた。体に流れる戦士の血が、そうさせているのかも知れない。この国でももっとも名誉ある武人達の情報が、イリスの肉体を形作っているからだ。

「ふむ、これが良さそうだな。 ちょっと高いが、大丈夫か?」

「先行投資って奴です。 幾らになります?」

ゲルハルトが耳打ちしてきた額は、確かにちょっとぎょっとするものだった。槍にしてはかなり高い。

だが、ゲルハルトが言うには、普通相当な武勲を上げた部下に、主君が手渡しするものなのだそうで、それも仕方がないことだった。商品を受け取って、自分でも少し振り回してみる。

なるほど、確かに素晴らしい槍だった。これなら、価格分の価値はある。流石にゲルハルトが、優れた武人のために作っただけのことはあった。

「イリス、大事にしてよ」

「……分かりました」

まんざらでもない様子で、イリスは槍を撫でる。ちょっと頬を赤く染めているのが見ていて面白い。元々錬金術漬けの生活だったのは見ていて分かっていたが、それが故に、動かすときちんと応えてくれるこの体は新鮮なのかも知れない。

真っ赤なイリスの髪と、朱槍は赤同士とても見ていて親和性が高い。周囲の猛者達も、なかなか面白そうな子供だと、イリスに興味を持った様子だった。初産の女性が子供を公園に連れて行くことを公園デビューとか言うそうだが、それに近い行動であったかも知れない。

とりあえず、エルフィールの目当てにしている報酬は、ゲルハルトが効果を確かめてからだ。後払いになる訳だが、今回は何よりも効果が重要視される仕事だから、まあ当然のことだろう。

朱槍の穂先には、きちんと刃を格納する鞘が付けられている。しかしながら槍は棒による打撃の効果も高いので、そのまま振り回すだけでも充分な脅威になる。もっとも、素は同年代だと言っているイリスである。そんな子供みたいな事はしないだろう。

ずっと頬を槍に寄せて、無言で歩くイリス。

まるでぬいぐるみを買って貰った童女みたいだなと、エルフィールは思った。

 

4、温かい宴

 

店は弟子達に任せて、ゲルハルトは久し振りにザールブルグから出た。妻と娘達に会うためである。今回は色々と事情が重なって、それぞれ相手側の家に行けないことになってしまった。だから、こんな形で会う。家族だというのに、難儀な話である。

年に何回もない機会だ。向こうはどうなっているのか聞いて、そして此方の話もする。御馳走も食べて、家族水入らずの生活を送るのだ。その時のために、エルフィールにはこの薬剤を作ってもらった。

歩いても充分たどり着けるのだが、今回は時間が惜しい。だから、金を払ってまで馬車を使った。しかもちょっと奮発して、一人乗りのを頼んだ。

馬車に揺られながら、ゲルハルトは瓶を取り出す。

一人乗りの馬車だから、誰に見られる恐れもない。しばらく瓶に詰められた無色透明の液剤を見つめていたゲルハルトは、息を飲み込むと、見事な禿頭にそれを振りかけた。

注意事項は既に聞いている。

非常に強力な育毛剤であるが、しかし効果期間は決して長くはない。数日で、毛は抜け落ちてしまう。それに、手で塗りたくるのも良くない。掌にまで毛が生えてくる可能性が高いという。

だから、わざわざ専門の革手袋まで作っておいたのだ。

手袋越しに、禿頭に液剤を塗る。しばらくすると、ぎょっとするほどの勢いで、金髪が生え始めた。かっては黒髪だったのだが、まあこれでもいい。ゲルハルトは眼を細めて、手鏡に映る禿頭ではない自分を見つめていた。

錬金術は、確かに凄い。

妻が自分と一緒に暮らせないとしても、錬金術に全てを捧げる訳である。今ではドムハイト辺境で錬金術の学校を営む彼女は、錬金術を拡げることに強い使命感と誇りを持っている。

それも無理のない話だ。

マリーも凄かったが、エルフィールもなかなか大したものだ。

これから妻と娘達に話を聞かせてやろう。そして、大いに未来を語り合うとしよう。

そう、かってよりも伸びたくらいの自分の髪を見て、ゲルハルトは思った。

馬車が止まる。どうやら、着いたらしかった。

ゲルハルトが馬車から降りると、御者はぎょっとした様子である。人相がまるで変わっているのだから当然だろう。禿頭が美しい金髪に覆われるだけで、随分人相とは変わるものなのである。

「だ、旦那。 それはその……」

「鬘じゃねえよ。 快適な旅、有難うな」

「ええ、まあ」

料金を手渡す。御者は狐に摘まれたような顔をして、馬車を出した。

馬車が遠ざかるのを見送ると、ゲルハルトは風に揺れる髪の毛の感触を楽しみながら、小さな国境の村にはいる。既に妻と娘達は来ているはずだ。

蘇った髪の毛を見て、どんな反応をするだろうか。

喜んでくれると嬉しいのだが。

ゲルハルトは、そう思いながら、愛しい者達が待つ宿に向けて、静かに歩き始めたのだった。

 

大仕事が終わったとはいえ、エルフィールの仕事は常に継続的作業を強いられるものである。

材料が尽きたので、これから近場に採集に出なければならない。イリスはクノールと一緒に留守番させるとして、誘うとしたらキルキとノルディスか。アイゼルは少し前に、丁度出かける所だと言っていた。

在庫をチェックした後、改めてアトリエの中を見る。

イリスは朱槍を貰ってから妙に機嫌が良くなった。クノールも接しやすくなったと、影で言ってきているくらいである。この間までのぎすぎすした空気も、綺麗に消えている。基本的に、全てが良い方向に動いたと言って良い。

後はゲルハルトが帰ってきたら、あの報酬を受け取るだけだ。

「じゃ、出かけてくる。 クノール、その子の面倒よろしくね」

「分かりました」

いきなり出るのではない。打ち合わせをするのである。

アトリエのドアを閉めると、営業中の札をひっくり返す。それを見て、立ち止まった男がいた。

確か、アイゼルが雇ったという冒険者。名前はルーウェンとか言ったか。

既に若者と言うには無理のある年になり始めている。しかし、壮年と言うには少し若いか。ただし雰囲気が落ち着いていて貫禄があり、腰に帯びている剣の使い込まれた様子や、身につけている皮鎧の無数の傷から言っても、なかなかの歴戦を経た使い手であることが一目で分かった。

どちらかと言えば体格は小柄だが、筋肉は良く練られているし、動きにも隙がない。近接戦闘に限定すれば、エルフィールよりだいぶ上の実力者だ。

「お前、そのアトリエの錬金術師か」

「ええ。 貴方は?」

「俺はルーウェン。 最近アイゼルって錬金術師に護衛として雇われて、此処に戻ってきた」

「私はエルフィール。 錬金術アカデミー四年生です」

やはりルーウェンか。

この男、冒険者の中では数少ないベテランで、最近は若手の育成に力を注いでいるとか。ベテランと言うには少し若すぎるが、これには理由がある。数年前にベテランの冒険者がかなりの数命を落とし、騎士に引き抜かれた事件があったとかで、そういう処置にならざるを得ない、状況であるらしいとは聞いている。

「噂には聞いていました。 アイゼルからも」

「知り合いか」

「親友です」

そうかと、ルーウェンはちょっと寂しそうに微笑んだ。何だか影のある笑い方である。親友という言葉に、何か含みでもあるのかも知れない。

「護衛を雇うつもりなら、いつでも受けるぜ」

「有難うございます」

その場は、そのまま別れる。とりあえず、まずはキルキからだ。

最近のキルキは腕を上げていて、生半可な冒険者よりずっと採集のパートナーとして信頼できる。ノルディスよりも多分数段は実力が上だろう。

アトリエの戸をノックすると、パジャマを着たキルキが、目を擦りながら出てきた。もの凄く眠そうである。

「おはよう。 どうしたの?」

「明日から、採集に出ようと思ってね。 今回はメディアまで行こうと思ってる」

「……うん。 私も、ちょっと欲しいのあった」

「そっか。 じゃあ、一緒に行こうね」

キルキとの約束は出来た。アトリエに上がって、軽く話していく。大きな蒸留装置が最近キルキのアトリエには設置され、常時強烈なアルコール臭がしていた。口にしなくても酔いそうである。

カスターニェで入手した仙人掌を使った酒だ。兎に角非常に強烈なアルコールを含む蒸留酒であり、相当な酒好きでも危険視するほどのものである。キルキも少し調べてみて、危ないと何度も連呼していた。

ただし、味は悪くないのだという。

問題は強烈な中毒性であり、これで身持ちを崩した者が何人もいるのだそうだ。

「相変わらずアルコールの匂いが凄いね」

「度数、60を越えてる。 毒性も中毒性も強い」

「キルキがそこまでいうって事は、余程なんだね」

「うん。 アルコールに弱い人が飲んだら、助からないかも知れない」

奥で衣擦れの音がしている。キルキが寝ぼけ眼のまま、着替えているのだ。

丁度ノルディスが訪ねてくる気配。生きている縄がエルフィールの代わりに動き、戸を開ける。入ってきたノルディスは、生きている縄の動きを見て、流石にぎょっとした様子だった。

「おはよう、エリー。 ええと、キルキは?」

「奥で着替え中。 覗いちゃ駄目だよ」

「そ、そんなことしないよ!」

見る間に真っ赤になる純朴青年。この様子だと、まだアイゼルには指一本触れていないか。相変わらず奥手なことである。

出てきたキルキは、しっかり正装になっていた。髪も下ろしているのだが、相も変わらず色気は欠片もない。この子はこのまま、子供そのものの姿のまま、成人してしまうかも知れなかった。気の毒なことである。

「おはよう、ノルディス」

「おはよう。 これ、返しに来たよ」

「ん」

キルキが受け取っているのは、分厚い装丁の本だ。見覚えがある本だ。これは、確か。

「キルキが書いた本だっけ?」

「ん。 書いたけど、ヘルミーナ先生が、つまんないって言った」

「ヘルミーナ先生は、いつもそうだよ。 ちょっと変わっているから。 でも、内容はとても興味深いって言ってくれてもいたよ。 イングリド先生は、とても面白いとも言ってくれていたし」

そう。

キルキは、アカデミー史上初、学生で本を執筆するという快挙を成し遂げたのである。内容はアルコールの毒性について纏めたもので、中毒からの復帰方法についても、史上例がないほど細かく記されている。

エルフィールとしては先を越された形になる。人工レンネットについてのレポートは貴重視されているが、まだ本にはしていなかったからだ。

「ノルディスはどう思った」

「僕はまだお酒が飲めないから、ちょっと分からない部分もあったけれど。 でも、とても勉強になる本だったよ。 先生達が書いた本に比べても、遜色が無いと思うよ」

「ありがとう。 エリーは」

「そうだね。 私も同意見かな」

エルフィールも、少し前にこの本は読んだ。もちろん、友情だのの以前に、自分の研究に応用するためだ。

結論から言うと、キルキの研究については結構深い部分まで理解させて貰った。才能あるキルキが学生時代を殆ど費やしただけあって、非常に価値のあるものだ。

面白いのは、中の文章までもが片言である事だろう。キルキは結局、学生が終わるまで感覚の人であり、言葉とは相性が悪いのかも知れない。

キルキは素直に感想を言うと、眼を細めて喜んでくれた。せっかくノルディスが来ているから、ついでに話も振っておく。

「ノルディス、今度メディアに出かけるんだけど、どうする?」

「僕は構わないよ。 僕も、幾つか材料も欲しかったから」

「お、今日は幸先が良いなあ」

これで、一緒に出る分の人数は確保できた。大幅に時間が節約できた事になる。

最近は問題が色々と多かったが、今回はとても解決が早かった。今後も、こんな感触で手早く事態が進んでくれれば嬉しいのだが。

軽く談笑した後、アトリエに戻る。

そして、アトリエの前で待っていたクーゲルを見て、一気に今までの僥倖が消える予感を覚えていた。

「クーゲルさん、どうしたんですか」

「お前に、少し大きめの仕事を持ってきた」

クーゲルが、口の端をつり上げる。

この時点で、今までの幸運を帳消しにするほどの大乱があることは、明らかだった。

そのまま、近くの公園に移動する。子供達が遊んでいるのどかな空気の中、クーゲルは持ってきてくれた食べ物をくれる。車引きで作っている、持ち帰りが出来るパンだ。間に野菜類と、かなり辛く味付けした肉が入っている。硬く焼いている肉の感触が、食べていて面白い。

「儂にはよく分からんが、ホムンクルスとやらを完成させたそうだな。 錬金術師としては大した成果だそうではないか」

「有難うございます。 でも、完成にはかなり運が絡んでいまして。 私の実力だけではないのも事実です」

「運も実力の内だ。 それに、力量が足りなければ、その運さえ引き寄せられないような難しい生成物だと聞いている」

クーゲルは相変わらず、若者を彷彿とさせる食欲だ。全身を覆う筋肉には力が漲り、この大陸でも最強の部類に入る実力者だと一目で分かる。多分、今のエルフィールでは、まだまだ勝てないだろう。

クーゲルが手渡してくれたのは、分厚い本だった。血の臭いがかすかにする。

「これは?」

「ある伝手から手に入れたものだ。 アカデミーの許可は得ている。 お前にくれてやろう」

「へえ、有難うございます」

「その代わり、今度大きな仕事があるから、それに参加して貰うぞ。 現在第一次作戦が進行中で、お前には第二次作戦から参加して貰うことになる」

第一次作戦と来たか。

クーゲルは、顔を上げたエルフィールと視線を合わせ、言う。

「内容は、エル・バドール大陸への侵入と調査、状況によっては攻撃だ」

「!」

「アカデミーからも精鋭が何名か出ることになっている。 お前の友人達にも、参加して貰うことになるだろうな」

ちょっとわくわくする。

ひょっとすると、この血の臭いがする本も、その関連なのかも知れない。或いは、エル・バドールとシグザール王国は、既に水面下で激烈な衝突を経験していたのか。もしそうならば、これは敵からの奪取物だろうか。

「報酬は、現地で入手することになるだろう技術書だ。 お前が好きなものを、何冊か選んでいい」

「それはそれは。 とても嬉しいです」

「そうか。 まあ、今年の秋から冬くらいになるだろう。 準備は、念入りにしておけ」

クーゲルは豪快に肉の塊を食べ終えると、腰を上げた。

エルフィールは、体内で躍り回る興奮を抑えるのに苦労した。これは、これから出かけるメディアの森で、大暴れしないと発散できないかも知れない。常緑常夏のメディアでは、大型化した肉食獣が山と生存している。さぞや楽しく戦いをする事が出来るだろう。

大型の鰐を生きている縄で縛り上げ、白龍を叩き込む。

育ちきった熊を秋花で焼き殺し、猛り狂う大獅子を、冬椿で吹き飛ばす。

そそる。この血肉の香り。今から、殺戮を思い起こさせるようではないか。

エルフィールは、クーゲルの差し入れを口に突っ込むと、無理矢理飲み込んで咀嚼した。

大蛇のように。

舌なめずりして立ち上がる。エルフィールの目の奥には、狂気が炎となって、燃え上がり始めていた。

さあ、これから殺そう。たくさん殺そう。

それが、エルフィールの存在意義だ。

 

5、愛情の形

 

公園を去るエルフィールの足下はかなり危なっかしくふらついていた。狂気に酔っているのは明白である。

拳を固めて、それを見つめていたのは。ミルカッセだった。

あの人は、愛情を理解しようとしない。否、出来ないのではないのか。

もしそうだとすると、原因は何か。

ミルカッセは、自分の母の話を聞いている。異常な愛情に対する欲求から、淫売と呼ばれ疎まれた女性だったという。それが原因で、彼女は疎まれた。

そして、あながち疎まれたのが、理不尽ではなかった事も、今では感じている。確かに魔性と呼ばれる魅力が、ミルカッセの体にはあるのだ。

清潔な宗教衣に身を包んでなお、時々感じる肉欲の視線。彼女の体を見ることを目当てに、フローベル教会に来る男性が時々いることを、ミルカッセは知っている。何よりも、自分を育ててくれた司祭様に対する、おぞましい思いのことを、ミルカッセは忘れていない。一生自分が背負う十字架として考えてもいる。

愛情が万能ではないことくらい、ミルカッセだって知っている。

それは時に肉欲につながり、暴力的な性欲は尊厳を踏みにじる。

しかし、愛情は否定すべきものではない。事実、彼女の育ての親は、最後に正気を取り戻し、ミルカッセの路を拓いてくれたのだ。

だから、せめて。愛情で救える人がいるのなら。そう感じてもしまうのだ。

託されたから、だけではない。今後もミルカッセは、愛情で人を救う仕事をしていきたいと考えている。だから、エルフィールのような人は、救わなければならない。

咳払いの声。振り返ると、ルーウェンだった。以前何度か世話になった冒険者である。今ではすっかりベテランになり、若い冒険者達の導き手となっている様子だ。

「調べてきたぜ、あんたの母さんのこと」

「結果は、どうでしたか」

「……ちょっと込み入った話になる。 誰もいない所が良いな。 教会にするか」

頷き、ルーウェンに着いていく。

教会の隣には、居住用の小さな建物がある。ただし、今回話を聞くのは、アルテナ神の御許が良いと思ったミルカッセは、誰もいない礼拝所に入った。

ルーウェンも、色々と面倒な問題を抱えていることは知っている。だからか、憂いの表情が、いつも顔の何処かに貼り付いていた。

礼拝所には、無数の席と机がある。それに向かいに座る。ルーウェンが出してきたのは、いくらかの調査資料だった。

「イルマさんって腕の良い占い師がいてな。 魔術的な占いで実に的確に路を示してくれるもんだから、俺らの間じゃ伝説になってる人だ。 色々調べてからその人の所に行ったんだが、それが意外にも当たりだった。 占いをするまでもなく、当人を知ってたよ」

「えっ……?」

「結論から言うと、あんたの両親は、あんたが思っているのとは違う人物だった。 この教会の先々代の司祭で、クルトって人と、その奥さんだ」

思考が、まとまらない。

何を、ルーウェンは言っているのか。自分は、愛情も何もなく、産み捨てられた子供ではなかったのか。

髪の毛をかき回しながら、ルーウェンは言う。

「二十年くらい前の大戦の時のことだ。 あんたも知ってるだろう。 騎士や兵士だけでなく、アルテナ教会の司祭にも、多く戦場に向かった者がいた。 僧兵として戦うだけではなく、その癒しの力で救える者がいるって考えてな。 あんたの両親も、その中に混じってた」

その時、先代の司祭、ミルカッセの育ての親が、この教会を引き継いだのだという。

戦いは激烈を極め、多くの死者が出た。ルーウェンの家族もこの時の戦いで、村を焼かれて行方不明になっているという。

話は続く。

「クルト神父は優れた使い手だったらしくてな。 最前線で戦闘を恐れず、医療活動に従事していたらしい。 イルマさんも戦場では肩を並べて戦ったそうだ。 だが、それが故に、最前線である時敵中に孤立した」

およそ二千のシグザール軍が、二万を越えるドムハイト軍、しかも最精鋭である竜軍に包囲されたのだという。

絶体絶命の窮地の中、クルト神父は妻と一緒に戦い抜いた。

やがて援軍が到着。激烈な死闘の末、騎士団長を失いながらもシグザール王国軍はドムハイト竜軍に致命的な打撃を与えて、追い払うことに成功したという。これがドムハイト軍が以降守勢に回る要因になった、第二次バッケイリュート峡谷会戦である。竜軍は八千以上の損害を出し、以降再編成のために後退を余儀なくされ、シグザール軍は逆に全戦線で攻勢に出たという。

だが、当然のことながら、被害も激烈なものとなった。二千の兵士達の内、七百が戦死し、残りも全てが負傷していた。

そして、此処で問題になったのが、クルト神父の医療に対する姿勢である。クルト神父と妻は、この時、敵も味方も分け隔て無く負傷者を治療するという行動を取っていたのである。これが、激戦の中殺気立っていた騎士や兵士達の反感を買った。

「多分、その時はみんな頭に血が上っていたんだろうな。 神父を裏切り者呼ばわりする者まで出た。 彼らはドムハイトの負傷兵の引き渡しを要求して神父に詰め寄り、神父はそれを拒否した」

「そして、悲劇が起こったのですね」

ルーウェンは、頷いた。

激高した兵士達は剣を抜き、最後まで言葉での解決を試みたクルト神父はその場で凶刃に倒れた。神父の妻はイルマに伴われてどうにか脱出したが、しばらくは身を隠さざるを得なくなった。すぐに暴動事件は騎士団が鎮圧したが、それからも激戦は泥沼化し、とてもではないが出頭できる状況にはなかった、という。

やがて戦況はシグザール軍がやや有利のまま、講和の話が持ち上がった。丁度それに合わせて、イルマも潜伏を止めて、軍に保護を求めようと出頭したという。

この時、ミルカッセの母は身重であったという。

大戦と呼ばれる時機は、第二次バッケイリュート峡谷会戦の前後までとされている。だが実際には、それから数年は小競り合いが続いていた。この悲劇は、その間に起きたことなのだという。

平和が来たように見えた時機であっても、実際には火の粉が燻っていたのだ。

そして、第二の悲劇が起こる。

どうにかイルマの主張は受け容れられ、ミルカッセの母も軍営に保護された。だが長年の逃亡生活および疲弊から、彼女はミルカッセを産むとすぐに命を落としてしまったのだという。

更に、保護が認められたとは言え、軍の中には今だ偏見からクルト神父に個人的な恨みを持つ兵士も少なくなかった。イルマは悩んだ末に、戦場から引き揚げる事を決めていた女性の負傷兵に、産まれたばかりのミルカッセを託したのだそうだ。

そしてイルマ自身は、最後まで責任を持ち、戦場の最前線に残ったと言うことである。

「そうなると、私の母だと言われていた方は」

「戦場に出た人間は、心の方に大きな傷を負うことがあるらしくてな。 多分それが原因で、過剰に男性に対する依存が深まったんだろう。 帰ってから醜聞を積み重ねたようだが、許してやって欲しい」

更に言えば、戦場と前線ではない場所の温度差も原因としてあったらしい。

イルマがミルカッセをザールブルグに戻させた頃は、既に前線では講和に傾き、平和が規定の未来として見え始めていたという。

それに対して、ザールブルグの特に一般市民は、まだそれを知らない者が多かった。戦死者の情報が、遅れて届いたと言うこともある。誰もが戦争の恐怖を、身近に感じている時機だったのだ。

それが故に、「不埒な行為」に対する反感はより大きくなった。素の経歴や悲しみを知るよりも、「不快な行為をしている淫売」に対する怒りの方が大きくなったのだ。

だから、「どこから来たかも分からない淫売」として、女兵士は周囲から見られたのである。

「ミルカッセって名前を聞いて、すぐにイルマさんはぴんと来た。 そこからはとんとん拍子に調査が進んだよ。 まさかフローベル教会にいるなんて、イルマさんも思ってはいなかったらしくてな。 これが、イルマさんの占いも使って、探し当てた手紙だ。 別のアルテナ教会に、無縁仏として葬られていた彼女の遺品だな。 結局、今回は殆ど足だけで全部見つけることが出来た。 占いで探し当てたのは、これだけ。 でも、この手紙の内容で、全ての糸がつながった」

震える手で、手紙を開く。

淫売と呼ばれた女性は、ずっと罪悪感に悩まされていたらしかった。幼いミルカッセを託されて、母性を刺激されながらも。戦場で受けた心の傷と恐怖に苦しめられ、男に依存しないと生きていられない自分を嘆き続けていた。

ミルカッセが悪評に曝されるだろう事を、彼女は理解していた。しかし理解してもどうにもならない恐怖に、狂気に陥りながらも苦しんでいた。そして最後には、ミルカッセをクルト神父の教会だったフローベル教会に置き捨て、自身は別の地域まで足を運び、首をくくったのだという。

首をくくろうと決めた時の凄絶な心理状態が、手紙には踊っていた。何もかもを呪い、許さないと血を吐くような文字が書かれている。そして一番許せないのは、自分だという言葉は、ミルカッセの胸を打った。

それはあまりにも悲しい狂気だった。

そして、クルト神父と、その妻の遺品も渡される。クルト神父の使っていた細身の剣。あまり体格の良い人ではなかったらしく、ミルカッセにも充分振るうことが出来る重さだった。

そして母の遺品。それはアルテナ教の宗教衣だった。使い込んでいたらしく、かなり痛みが酷い。しかし修繕すれば、まだ着ることが出来るだろう。

今も、父は自分を育ててくれた先代司祭のことだと思っている。

だが、クルト神父と母の愛情で、そして此処まで自分を連れてきてくれた女性兵士のおかげで、ミルカッセは此処にいる。そして両親は、最後まで人の狂気に、愛情で立ち向かったのだ。女性兵士は狂気の中、最後の愛情を振り絞って自分を此処に残してくれた。そう思うと、ミルカッセは涙がこぼれるのを止められなかった。

「この剣は、今でも使えるのでしょうか」

「少し軽いが、切れ味は充分だ。 剣の修行もしているんだろう? 身を守るくらいは、どうにでもなるはずだ」

「分かりました。 この剣を、今後使っていくことにします」

「それがいい。 親父さんも、それで守ってくれるだろう」

ルーウェンは報酬を受け取ると、後は何も言わず教会を出て行った。

頭を下げると、ミルカッセは今日だけは泣こうと決める。そして、明日からはもっと強くなろうとも。

もう、愛情の力を疑わない。どうにもならないものは確かにある。だが、愛情によって救えるものも、確かにあるはずだ。もう、その信念は、揺らぐことがないだろう。

剣には、人を斬った跡もあった。戦場で、誰かを守るために、誰かを斬ったと言うことだ。

ミルカッセは誓う。

もう、愛情そのものを、疑わないと。

 

フローベル教会を出たルーウェンは、自己嫌悪に陥っていた。

カスターニェで腕を磨いて、ミューに会おうと決めていた。ミューがカスターニェに、マリーの護衛騎士として来ていると知った時には歓喜したものである。しかしすれ違いが続き、とうとう会うことが出来ずに、結局ザールブルグに戻ってきてしまった。

ミューはと言うと、既にカスターニェどころか、この大陸にもいない。

冒険者としての実力は付いた。

だが、結局人間としては何ら成長できていないようにも思えるのだ。

一旦距離を置いてはっきり理解できたのは、ミューの事が好きだと言うことくらいである。

同時に、相手がこっちを親友だとしてしか見ていないことも分かる。

だから、会って気持ちを伝えようと思ったのに。結局、何も出来ずに時間だけが過ぎてしまった。

そして今、ルーウェンはかなり強引な方法で、ミューに再会しようとしている。

アイゼルの護衛を引き受けて、こっちに戻ってきたのも。それが理由であった。

闇の中から浮かび上がる気配。振り返ると、クーゲルだった。

「ほう。 久し振りに見る顔だな」

「嘘をつかないで欲しいですね。 クーゲルさん」

「ふん、まあ事情くらいは知っているか」

武装していないにもかかわらず、クーゲルの圧倒的な威圧には、まるで衰えが見えない。既に年齢は四十後半を通り越しているはずなのだが、未だに戦っても勝てる気はまるでしない。

素手でも、熊を解体できる男なのだ。

「第二次作戦に参加するつもりか、ルーウェン」

「ああ」

「どこから聞きつけたかは分からんが、まあいい。 アカデミーからの供出人員には素人も多いからな。 腕利きの護衛が必要だと思っていた所だ。 丁度いい所に現れたお前を、使うことは吝かではない」

震えを殺すのが難しい。クーゲルがその気になれば、いつでもルーウェンを八つ裂きに出来るのだ。此方が剣を持っていても関係ない。

「お前は何を求めて、エル・バドールに行こうと願う」

「好きな女に、思いを伝えたい」

「ほう、女が目当てか」

「……」

クーゲルには、分からないことかも知れない。だが、ルーウェンにとって、今はそれが大事だ。

家族の行方も全く分からない現状からすれば、ミューに思いを告げず逝くことだけは嫌だ。

やっぱり友達が良いと言われても構わない。それはそれで、仕方がないことだから、である。実際、友人関係がとても心地よいのも、また事実なのだ。

しかし、男として決着を付けたいのである。

もう二人とも、若いとは言い難い年になっている。そろそろ家庭を作って、子供を育て始めていてもいい年だ。

この世界で、エリートは婚期が遅れる傾向にある。騎士団で順調に力を付けているミューも、冒険者としてベテランとなり若手育成に力を注いでいるルーウェンも、それには該当している。事情を考慮すれば、まだ仕方が無いとも言えるのだが。

やはり、そろそろ自分にけじめを付けたかった。

「まあいい。 戦いに手さえ抜かなければ、それでも構わん」

「……」

クーゲルが闇に消える。

結局若い世代を利用して、惚れた相手に会いに行こうとしている自分の情けなさを嘆いたルーウェンは、闇に向け、自身もまた消えた。

後には、静寂のみが残った。

 

イングリドの研究室を後にしたフランソワは、疲労感に膝を折り掛けた。

ここのところ、キルキとエルフィールに追いつくため、かなり無理をした。やっと松葉杖無しで歩けるようになったばかりなのに、体力を限界まで絞っている気がする。

勉学を重ねてみて分かったのは、前年の同級生達と、エルフィールとキルキがまるで別次元の存在だと言うことだ。去年度は敵無しだったフランソワも、今では通用するかどうか分からない。

下手をすると、ノルディスやアイゼルにも追い越されるかも知れなかった。

だから、努力量でカバーすると決めた。色々な成果を提出して、イングリドにしっかり自分を認識して貰う。それだけではない。あらゆる知識を徹底的に頭に叩き込み、錬金術の調合技量を上げて、敵に対抗しなければならなかった。

彼女の家は、とても小さい。

当主を小娘がしている事からも分かるように、逆に言えばその程度しか規模が無い貴族なのだ。最下位の貴族の中でも、特に小さな家。やっと貴族と認められるだけの収入をおさめている、本当に小さな貴族。

それがフランソワの実家だ。

だから、一刻も早くマイスターランクに入り、実家を立て直す事が出来る錬金術師にならなければならない。南方民でありながら一代で貴族にまでのし上がり、過労死した父と。父を支えて献身的な人生を送った母を、侮辱しないためにも。

両親の遺産でどうにか支えられている収入を、これ以上減らさせはしない。

そして、窮状を、周囲に悟らせるわけにもいかなかった。

何にも分からない取り巻き達が、黄色い声でフランソワに近付いてくる。今日は何をしたの、何が美味しいのと、無邪気な小鳥どもは囀る。笑顔で適当に流しながら、内心フランソワは唇を噛んだ。

この一年の空白はまさに痛恨、しかし必ずや取り返す。

いかなる手段を用いても、だ。

ふと、窓から外を見下ろす。アカデミーの外の街路を、ついにホムンクルスを作り上げたというエルフィールと、学生でありながら本を出したというキルキが、並んで歩いているのが見えた。荷車を引いていると言うことは、これから出かけると言うことだろう。

この体が満足に動くようになったら。

その前に、学年度試験で、絶対に主席を取ってやる。あらゆる手を用いても。そしてマイスターランクに入った後も、研究で差を付けて、錬金術師としての名を内外に轟かせるのだ。

ふと、周囲の小鳥たちが散った。振り返ると、肩を叩かれる。

視線の先にいたのは。

満面の笑みを浮かべた、ヘルミーナ先生だった。

「フラァアアアンソワァ、丁度いい所に」

「何でしょうか、プロフェッサー・ヘルミーナ」

「貴方に、ちょっと良いプレゼントがあるの。 受け取りなさい。 もっとも、貸し出すだけだけど」

ヘルミーナの影から、表情無き子供が姿を見せる。緑色の髪の毛を持つそれが、ホムンクルスであることを、フランソワは知っていた。

「ありがたく、借り受けます」

奴らを出し抜くには、ヘルミーナ先生も味方に付ける必要がある。

それには。ホムンクルスの研究で、エルフィールの先を行く必要があった。多少ダーティな手を使っても良い。ばれさえしなければ、良いのだ。

天国で見ている父母のためにも。

フランソワは、負けるわけにはいかなかった。

 

(続)