東と南の導火線

 

序、ドムハイトの死闘

 

ドムハイト王都は、混乱に包まれていた。フードで顔を隠しているエリアレッテに振り向く民は誰もいない。

否、振り向く余裕がある者が、一人も居ないのだ。

数年前の、アルマン王女によるクーデターで王族は皆殺しになり、多くの貴族も死んだ。反対派も生き残ってはいたが、もう殆どが掃除され、ようやく国民は平穏を取り戻しかけた、その矢先のことである。

ドムハイトの各地で、反抗勢力と、アルマン王女派の小競り合いが起こっていることを、王都の民も知っている。だが、それにしても、誰も信じたくはなかったのだろう。王都に、それが飛び火すると言うことは。

可能性を誰もが理解はしていたのに。

考えたくないから、思考放棄していた。

それが故に、実際にそれが起こってしまうと、誰もが混乱状態に陥るのは避けられなかった。

街の彼方此方で、今だ煙が上がっている。小競り合いも発生し続けており、忙しく兵士達が走り回っていた。それを横目に、エリアレッテは裏道にはいる。点々としている死体が、この地の治安が崩壊していることを、如実に示していた。

前後左右を、囲まれる。

ナイフを持った破落戸達だ。舌なめずりしながら、エリアレッテに歩み寄ってくる。かなり手慣れていると見た。これら死体の幾つかも、此奴らの仕業によるものかもしれない。要するに、容赦も遠慮も必要ない。

正面に走り込みつつ、跳躍。反応が遅れた正面の男に、膝蹴りを叩き込んだ。一撃で首をへし折ると、その頭を掴み、振り回す。左右の二人が吹き飛んだ。

首が引きちぎれた死体がすっぽ抜けて、向こうの大通りに飛んでいく。舌打ち。ドムハイトは武の国だと聞いているのに、竜軍が全滅してからはこの有様だ。一般人の武力も相当高いと思っていたエリアレッテにとって、肩すかしも良い所だった。

唯一生き残った最後の一人に、残像を残しながら走り寄ると、抜き手で顔面を貫通。脳漿をまき散らしながら倒れる男を横目に、手を振って汚れを落とした。

師だったら、どうしただろう。

四匹纏めて肉団子に押しつぶしたかも知れない。それはそれで、また面白そうだった。次に襲われたらそうしよう。焼いて食べたら美味しいか。

歩きながら、もう殺した相手のことは忘れた。それこそどうでも良い相手だし、当然のことである。

隠れ家の一つにはいる。

荒れ果てた酒場のように見えるが、地下部分が下水道に通じているのだ。

ドムハイトも、シグザールと勢力を二分する巨大国家である。王都の地下には広大な地下下水網があり、隠れ家にはもってこいだ。下水道に入ってから、幾つかの路を曲がって、使われていない配水管に潜り込む。

その奥にある空間が、牙の拠点になっていた。

広さは十二歩四方ほど。天井には小さなランタンがついていて、部屋の真ん中には折りたたみ式の机。辺りには、雑然とした生活物資が点々としている。

エリアレッテが姿を見せると、何名かいた牙の者達が顔を上げる。中にはエリアレッテよりも年下どころか、子供にしか見えない女もいる。まあ、たまにいるのだ。こういう発育から見放されたようなのが。聖騎士の中にも、大教騎士カミラという例がいる。

「状況は」

「王都に乱入したカッテージ伯爵の軍勢は、王宮の近くで激しい市街戦を繰り広げています。 アルマン王女は必死の防戦を行って、展開している何名かの将軍が戻ってくるのを待っているようです」

「お前達が扇動したのか」

「いいえ」

牙のこの方面は、アヤメという女性によって指揮されている。

実直な能力の持ち主で、陰謀よりも目の前の敵を確実に始末することに長けている。今回も、彼女からの報告は非常に丁寧で、エンデルクが感心していたと師に聞いたほどだ。つまり、裏があるとは考えにくい。

カッテージは地方豪族にもそれほど太いパイプがある男ではなく、粛正を免れた小物の貴族に過ぎない。シグザールの実利と密接に結びついた貴族と違い、ドムハイトのはただの太った豚だ。

それを考えても、この急襲は不可解だ。しかも、一万八千もの兵力を揃え、再編成中の竜軍や、アルマン王女が頼みにしている将軍達が王都を離れた隙の行動である。明らかに、誰か別の黒幕がいる。

アルマン王女の捨て身の策かという線でも、最初諜報を行った。しかしながら、牙からの報告では、どうもそれもあり得そうにないという。アルマン派の武人がこの戦闘で何名も命を落としており、王都の被害も甚大だ。

「引き続き、情報の収集を」

「わかりました」

「或いは、アルマン王女の配下に、裏切り者がいるという線は。 あまりにも、攻撃のタイミングが、恣意的すぎますので」

「それは考えにくい」

アルマンの配下には、いわゆる憂国の徒が多く集まっている。今まで王女との対立という話も聞こえてきてはいない。改革が急すぎるという点で不満を漏らす家臣は何名かいたようだが、アルマン自身の優れた識見と能力もあり、何より真摯な仕事への態度もあって、暴発にまでは到らないはずだ。

一体、後ろで糸を引いているのは誰なのか。

一度エリアレッテは外に出る。まだ地獄絵図の様相が続いている王都に、新しい年は来そうにない。

廃屋の屋根に上がると、其処から手をかざして王宮の方を見る。王宮に立てこもっている八千ほどが、必死に一万八千の敵に抵抗している状況が見て取れた。あの様子からしても、とても敵を引きつけ、その後に殲滅しようとしているようには見えなかった。

王宮の方で、爆発が一つ。

眼を細める。あれは、火薬兵器によるものだ。そうなると、やはり反乱勢力の後ろには、シグザール王国の勢力が関与しているのか。ドムハイトにも錬金術師はいると聞いているのだが、アルマン派にも反対派にも属していないはずである。それに、威力は随分小さい。既に騎士団で実用化しているフラムやクラフトと比べると、玩具も同然の威力だった。

しばらく戦況を観察してから、アジトに戻る。

黒装束で、口元を布で覆った若い女性が戻って来ていた。アヤメである。

「聖騎士エリアレッテ」

「アヤメか。 何か進展は」

「それが、どうもおかしな事になっています」

アヤメが地図上に指を走らせる。

反対勢力は、カッテージを盟主に、何名かの豪族が指揮を執っていることがわかっている。

ところが、である。

その豪族達の中に、どうも影武者が混じっている様子なのだと、アヤメは言った。

「反乱の立役者の一人であるグラムライは、かって竜軍で連隊の指揮を行ったこともある熟練した軍人で、とてもアルマン王女に反旗を翻すような人物ではありません。 それなのに今回は、反乱勢力の一方の将となっています。 そればかりか、彼の指揮下にありながら、行軍の基本も守れていないような部隊の姿が目立ちました」

「なるほど」

「軍の規律も最悪で、略奪、放火、強姦など、腐敗した軍が行う悪事を丸ごと網羅している有様です。 他の敵将も似たような有様です」

やはり、この反乱を裏で指揮している何かがいる。それはドムハイトを弱体化させる意図があって、やっているのだろう。しかも、豪族達の中には、首まですげ替えられている輩がいると言うことか。

いずれにしても、これではアルマン派の駆除どころではない。しばらく静観するしか、手はなかった。

王都にアルマン派の戦力が戻ってくるまで、一月掛かると分析されている。丁度交代の聖騎士が来るのも、その辺りだ。

しばらくは退屈なことになりそうだと、エリアレッテは思った。

やはり、人を殺していないと、腕が錆び付いてしまう。

あんなカスのような相手ではなく、少しはマシな敵と武芸を競いたい。そう思って、エリアレッテは憂鬱に嘆息したのだった。

 

1、南の街へ

 

クノールと一緒に荷物を片付けていると、キルキが来た。彼女も今回の同行戦力の一人である。

「エリー、こっちは準備終わった」

「本当? 早いね」

「三人だと、片付くのも早い」

ちょっと自慢げに言う。キルキは少し前から、妖精をもう一人多く雇っている。仕事が増えてきたので、それに対応するためだ。エルフィールはカトールと一緒に墓場に行っては、生きている縄を作り、それに対抗していた。別に争っている訳ではないのだが、こう言う時は妙に対抗心が働くのだ。

後は、アイゼルだ。

少し前に、アイゼルがアトリエに移った時は驚いた。と言っても、この近所ではなく、丁度アカデミーを挟んだ反対側だ。丁度良かったので、今回の遠征に彼女も誘うことにした。乗ってくれたのは、とても嬉しかった。

地下室から、クノールが顔を出す。

「此方の整理も終わりました。 痛みそうなものは、全て処分しました」

「お疲れ様。 じゃあ、予定通り行きそうだね」

「私、ザールブルグからあんまり出たことない。 楽しみ」

キルキが顔を上気させている。裏表無く嬉しそうなので、見ていて此方も悪い気はしない。

一旦キルキがアトリエに戻ったので、まだ手を入れていないホムンクルス製造器を見る。これについては、クノールに手入れの方法を教えた。戻ってきた頃には、すぐに使える状態が維持されているだろう。

地下室に降りて、在庫をチェック。

しばらくは納品が出来ないことを、飛翔亭にも伝えてある。しかし施療院についてはそうも行かないので、毎月の納品薬物は既に準備しておいた。クノールには、決まった日時に届けるよう指示をしてある。

これで、躊躇無く出かけることが出来る。

ドアをノックされる。開けてみると、フィンフだった。ホムンクルスらしく相変わらず表情のない彼女は、エルフィールに小首を傾げる。

「此方の準備は整いました。 サー・エルフィールは如何ですか」

「大丈夫、終わったよ。 じゃあ、予定通り昼に南門で集合ね」

「わかりました。 マスター・アイゼルに伝えて参ります」

走り去るフィンフを見送ると、エルフィールは持っていくものの最終確認をした。今回は、二つ目的があって、今までにない遠出をすることになる。

持っていくのは、一番大きい荷車である。これに戦闘用杖を全部積んでいく他、作成した戦闘用兵器は大体持っていく。クノールは留守番として残していくのだが、キルキは一人妖精を連れて行くと言うことだった。アイゼルも、フィンフを連れて行くという。

南門に、大きな荷車を引いていく。

アイゼルは既に待っていた。相変わらず仕立ての良い服を着ているが、見ると微妙に生地が安くなっている。多分全て自作で、しかも他所行き用に破れても平気な生地を使っているのだろう。

フィンフも当然のように控えていた。

「エリー、おはよう。 クノールは連れて行かないの?」

「幾つか、納入物があるからね」

「そう。 私は少し早めに、一括で納入したわ」

そういえば、昨日フローベル教会に多めの納入をしに行くアイゼルを見た。あれがきっとそうだったのだろう。

キルキが少し遅れてくる。彼女は、杖を新調した様子だった。杖の先端部分に、かなり高度な意匠を施したエメラルドがはめ込まれている。熱量操作の能力を持つキルキは、実戦での腕前も上げているし、充分に頼りになるだろう。

後は、護衛の冒険者だ。

少し待っていると、ハレッシュが来た。今回はハレッシュに護衛して貰うことになる。相変わらず角刈りにしているハレッシュは、妙に嬉しそうだった。

「ハレッシュさん、おはようございます」

「おう。 おや、みんなそろいか。  ひょっとして遅れたか?」

「いえ、時間通りですよ」

「そうか、それはよかった」

相変わらずにやけている。まあ、この人が嬉しそうにする理由など、一つしか思い当たらない。多分、フレアさんとの事で、何か進展があったのだろう。

荷車は、今回エルフィールのと、キルキので二つ。大きな荷車で足りると思うが、一応念のためだ。

ハレッシュが小さいキルキの荷車を、エルフィールのに積み込む。ハレッシュは流石の筋力で、危なげなく荷車を引いてくれた。そう言えば、槍が新しくなっているように見える。

南門から出る。これから、一週間ほど掛けて街道を南下。

そして、更に五日掛けて、幾つかの街を経由して向かう先は。

シグザール王国の南端の一つ。カスターニェ。今回の、エルフィールの目的地であった。

カスターニェはシグザール王国南端に存在する港町で、かなり規模が大きい。近年王国が海上経路を開発することに力を入れているが、その中心地となっている街だ。軍の艦隊も常駐しているらしく、治安は近年急激に良くなったという。

この港の周囲は、ザールブルグでは入手できない素材類が幾つもあり、それが今回の目的の一つである。

街道を行きながら、ハレッシュが機嫌良く気前よく言う。

「疲れたら荷車に乗りな。 一人乗せて引くくらい何でもないぜ」

「わかりました。 疲れたらそうさせて貰います」

アイゼルが丁寧に受け答えをしている。そういえば彼女にとって、一回り以上年上の男性だ。ノルディス一筋なのは目に見えているが、接するのが難しい相手なのだろう。しかし、彼女も歩き方などを見ると、長距離の遠征をもうかなり心得ている。既にモヤシ学生とは呼べない存在になっていた。

アイゼルとノルディスが授業組から、希望してアトリエ組に移ると聞いた時には驚いたが、今ではそれが自然な流れだったようにも思える。アイゼルは以前の恋に生きるばかりの小娘ではなくなり、しっかり目的意識を持った大人になりつつある。これは、エルフィールも負けてはいられなかった。

「アイゼルは、南に何をしに行くの? 同行したいって聞いて驚いたんだけど」

「カスターニェの交易品が見たいの。 それと、周辺の貴重な素材も」

「なるほどね」

「貴方こそ、何を見に行くの?」

エルフィールの目的は、主に二つだ。

一つは、この間ゲルハルトから頼まれた薬剤の調合である。報酬として、かなりエルフィールにとって有益なものが出てきているので、今回の依頼を落とすわけにはいかない。成功させるためにも、カスターニェ近辺で取れる貴重な素材類が必要なのだ。

もう一つは、ホムンクルスに関することだ。

色々調べてわかったのだが、現在ホムンクルスを作るには、かなり純度の高い培養液が必要になってくる。

これも、カスターニェ近辺で良い素材が取れる。そのため、今回はわざわざ足を運ぶこととしたのである。

何でも妖精のネットワークは、カスターニェ近辺の素材にはあまり強くないという。特に魚介類の素材はザールブルグ近辺では貴重であることも相まって、今回の遠出には大きな意味が幾つもあった。

キルキは、砂丘にある植物の収集が目当てだという。

「相変わらずちっこいままだなあ。 肩に載せてやろうか?」

「私大丈夫。 それよりも、レロンか、フィンフを乗せてやって欲しい」

「よしきた」

フィンフは不思議そうに小首を傾げた。別に不要という事らしい。

キルキの後ろについてきている、赤い服の妖精レロンは、営業スマイルで応じてくる。

「大丈夫です。 遠出にはなれていますから」

「そうか。 足が痛くなったら、いつでも言うんだぜ」

ご機嫌なハレッシュは、鼻歌交じりに荷車を引いている。ちょっと空気が空回り気味であった。

街道を南下していくと、時々繋ぎ狼煙の備えが見えた。

小さな石塔が幾つもあり、その周囲には厳重に柵が張り巡らされている。兵士達が厳重に警備に当たり、塔の上では見張りらしい人物がいた。

これぞ、シグザール王国に縦横に巡らされた、情報伝達システムである。

何か緊急時には狼煙を上げることにより、馬よりも場合によっては鳥よりも早く、王都ザールブルグに情報を伝達することが出来る。作り上げたのはヴィント王ではないが、毎年改修が行われ、兵士達がしっかり守ることで維持も完璧に為されている。その維持を積極的にヴィント王が行っているのは、有事に備えての事であろう。頼もしい話であった。

荷車を引いて、街道を南下していく。ただずっと歩いていくのもあれだが、変化があって面白い。途中、何カ所かで宿場町がある。旅人用に野営の施設も整えられていて、それぞれ利用は自由だ。ただし、治安は良いとは言えないので、自分の身はしっかり自分で守る必要がある。

ザールブルグ周辺は非常に安全だが、流石にシグザール王国も辺境に行くと治安が維持し切れていない場所がある。そんな場所の一つで育ったエルフィールだからこそ、危険は良く承知していた。

日が暮れ始めた所で、一旦野営所による。

この辺りはまだまだいつも来る範囲内だ。もう少し南に行くと、良い採取地が幾つかあるのだ。

街道の左右は鬱蒼とした森で、豊富な自然と生態系が実に好ましい。ザールブルグ北部の大穀倉地帯も良いが、ここもなかなか趣がある。エルフィールにとっては、アデリーさんと修行した森を思い出して、とても気持ちがよい場所であった。

そろそろ寒くなってくる時期と言うこともある。

荷車から、アイゼルがフィンフと一緒に毛布を降ろす。もう手慣れていて、エルフィールが手を貸す必要もなかった。天幕を黙々と作るだけで良い。キルキも、ハレッシュの手を借りずとも、竈を見事に作り上げている。

全員がてきぱきと動き、瞬く間に野営の準備が終了した。

「じゃ、俺は見張りをしてるわ」

「よろしくお願いします、ハレッシュさん」

「ああ。 適当に交代の順番は決めてくれ」

ハレッシュが、街道の方に行く。多分周辺の地形を確認するためだろう。なかなか手慣れた様子が心憎い。

騎士団からの誘いが来ていると言うが、はてさて。今はどうなっているのか。

いずれにしても、順調なのは間違いないだろう。

「気味が悪いくらい機嫌が良いわね」

「ハレッシュ様は裏表がない方だとお見受けします。 とても良いことがあったのでしょう」

「というか、フレアさん関連でしょ。 ディオさんが結婚を認めてくれたとか」

「いや、だったら遠出は避けるでしょう。 でも、もしそうだったら、とてもおめでたいことだわ」

ぱっとアイゼルが顔を輝かせる。

まあ、ハレッシュくらいの社会的地位になると、恋愛結婚が普通だろう。もう少し社会的地位が上がってくると、政略結婚が普通になってくる。多分これは、何時の時代でも、何処の社会でも、あんまり変わりがないはずだ。

キルキはセット化している調合道具類を取り出すと、なにやら作業を開始する。竈を利用して、酒の元になる物質を煮詰めている様子だ。多分、カスターニェについたら、すぐに素材類を試すつもりなのだろう。

煮沸消毒した硝子のフラスコに、物質を硝子棒を使って注ぐ。その様子は手慣れていて、流石だった。

一番見かけは幼いのに、酒に関する知識と、関連技術の凄まじさは他に類を見ない。この間クライス先生に聞いたのだが、酒に関する分野に関しては、キルキは既にマイスターランクどころか教師を務められるほどだという。

「熱心ね。 私も少し調合しようかしら」

「マスター。 此方でよろしいですか」

「ありがとう、フィンフ」

あうんの呼吸で、フィンフがバックパックから調合道具一式を取り出す。コメートの原石を磨き始めるアイゼル。研磨には、ゼッテルと呼ばれる紙類に、非常に細かく磨り潰したフェストの粉を、膠で貼り付けて作ったヤスリを用いる。宝石加工の手練れについては、既にエルフィールの同期の中でも、トップの腕前だろう。アイゼルはなで回すようにコメートの原石を磨き続けていて、その手練れには驚かされる。

エルフィールは欠伸をすると、天幕に引っ込む。

「エリー、調合はしないの?」

「みんなが寝静まった後にする。 ハレッシュさんに、私は二番目で良いって伝えておいて」

「わかったわ」

天幕の中で横になると、エルフィールは今詰めている理論について思いを馳せながら、目を閉じたのだった。

 

夜の間、特に野営地では何も起こらなかった。

エルフィールも武芸を振るう余地もなく、ただ空いた時間を理論の詰めをするだけで終わった。

今回、エルフィールは調合用の道具類の他に、ヘルミーナ先生の書いた錬金術書を持ってきている。ホムンクルス研究を進めるためである。既に基礎的な理論については理解した自信があるが、応用についてはまだまだだ。二十年以上研究を続けているヘルミーナ先生の著書は、やはり参考になる。

しかも、一人でいるとやはり頭も冴える。

皆が寝静まっている闇の中、星明かりと竈の火だけを頼りに、参考書の内容を頭に叩き込むのは、エルフィールにとって一種の快感でさえあった。

アイゼルやキルキも調合をしているのだから、多分それと同じ事だろう。エルフィールも、今ではすっかり錬金術が好きだった。

一通り、作業を終わらせて。見張りの交代が来て。

目が醒めると、朝食にする。周囲から取ってきた野草をしっかり洗い、火を通して、持ってきた燻製と一緒に食べる。腹ごしらえを終えてから、出発だ。

翌朝から、どうも街道が騒がしくなった。兵士達がかなりの軍団となって、街道を移動している。どれも東に移動しているようで、ドムハイトで何かあったか、或いはドムハイトと何かあったか、どちらかであるのは間違いなさそうだった。

シグザール王国の主力は、半農半兵の屯田兵である。これのシステムはほぼ完成しているとは言え、やはり大軍が動員されると多少なりと混乱は起こる。足りなくなる物資もあるし、早めの備えが必要だった。

「いやだわ、戦争かしら」

「まだわからないけれど、まあ平和的な行進ではないね」

「私、戦争いや」

キルキが素直にそう言ったので、ハレッシュは微妙な顔をした。彼にしてみれば、これから軍人の上位階級とも言える騎士になるかどうかで迷っている所なのである。そう言われると、どう返して良いのかわからないのだろう。

もっとも、軍人の中にも、民を守るために仕事に就いているだけであって、戦争そのものは嫌いだという者は多いという。

「フレアさんも、戦争は嫌いだって言ってたなあ」

「フレアさんらしいですね」

「まあ、フレアさんの場合は、もうちっと込み入った事情があるからな。 ディオさんとクーゲルさんが原因なんだけどよ、わからんでも無いぜ」

そういえば、あの兄弟は昔非常に仲が悪かったとか聞いたことがある。それが、原因なのかも知れなかった。

また別の軍勢が、東に行進している。街道を軍が通る時、優先順位は彼らにある。旅人はしばらく脇にそれて、軍が進むのを待たなければならない。これが大きな時間のロスになる。大部隊になれば、なおさらだった。

狼煙台から、煙が上がっている。

繋ぎ狼煙が使われているのだ。やはり、結構大きな出来事が起こっているのだろう。移動している軍の規模から言って、国境紛争くらいは起きているのかも知れなかった。シグザール王国の兵は精強であり、ドムハイトの軍勢は逆に著しく弱体化が進行している。負けるとは思わないが、それでも簡単に勝てるとは思えなかった。

軍がいなくなったので、やっと街道を進める。心なしか皆の歩調が早まったのは、遅れを取り戻すためだろう。

ハレッシュだけは笑顔のまま、さっきまでと変わらない速度で荷車を引いていた。エルフィールは生きている縄を何本か出すと、指示を出す。

「2番、4番、7番、11番、蜘蛛足走行。 速度中」

するりと荷車に飛びつくと、生きている縄が加速を開始する。ハレッシュは圧力を感じてか、面白そうに笑った。

「おっ!? 何か楽しいことを始めたな」

「速度を上げましょう。 また軍とかち合うと、しばらく身動き取れなくなりますから」

「よし来た! 妖精とホムンクルス、荷車に乗りな。 他も、きつくなったら言うんだぞ!」

ハレッシュが、満面の笑顔で荷車の速度を上げる。アイゼルとキルキが慌てる中、荷車は露骨に巡航速度を超える。生きている縄達も、多分面白いのだろう。更にそれを後押しするように、かさかさ蜘蛛が這うかのような動きで荷車を加速させた。

まあ、行く場所はわかっているからいいか。そう呟くと、エルフィールは小走りで荷車を追う。途中、馬車を追い越す。アイゼルが蒼白になった。

「ちょっと、早すぎます! ハレッシュさん!」

「私の足、あんまり早くない」

キルキも、既に全力疾走状態だ。

戦闘慣れしたし、体力がついているとは言え、本職の冒険者ほどではない。特にアイゼルは、やっとアトリエでの独立生活を始めたような状況である。つんのめりそうになるアイゼルを、荷車から飛び降りたフィンフが支える。

「マスター。 転ばれると危険です」

「ふう、ふう。 わ、わかってるわ」

「おかーをこーえーはしーろうー。 おれーはいーまー、ごきげんー! くもーもはなーもわらってるー、きょうーはいいーひだー」

ついにハレッシュがご機嫌に歌い始めた。エルフィールはぶん殴ってでも停止させるべきかと、ちょっと思った。

仕方がないので、全速力で走る。ハレッシュと併走状態になってから、話し掛ける。ハレッシュはものすごく嬉しそうな笑顔を浮かべて走っていた。多分体を動かすことが、根本的に好きなのだろう。

そういえばギルドの若手に、脳みそまで筋肉で出来てるとか噂されているそうだが、この様子では無理もない。最近では虎を素手で投げ飛ばす位は出来るし、まあ妥当な噂である。

「ハレッシュさん、ちょっと早すぎ。 後ろの二人、ついてきてません」

「ん? ははは、若いのに体力がないなあ。 ちなみに俺は、もっとスピードアップもできるんだぞ」

「お、それは頼もしい。 丁度時間もおしていましたし、じゃ、二人はいっそ荷車に乗せましょうか」

「おお、それはいいな! 二人はそうして、俺達だけで加速しよう!」

生きている縄達が気を効かせて、まるで巨大なジャイアント・スクイッドが触手を伸ばすようにして、二人を捕獲。悲鳴を上げる暇もなく、荷車に詰め込んでしまった。フィンフはと言うと、荷車に自力で追いついて、飛び乗る。

流石ホムンクルス。大した身体能力である。ヘルミーナ先生が以前ものすごく嬉しそうに話していたのだが、この様子だと多少の弱敵相手なら戦闘くらいは出来るかも知れない。ただスキルについては教え込んでいないので、いきなり実戦投入は難しいが。

「よーし、乗ったか!」

「え、エリー! ちょっと、何とかして!」

「……」

アイゼルが荷車にしがみついて、目を回しながら、泡を吹きそうな様子で叫ぶ。キルキはと言うと、無言でぎゅっと荷車の縁にしがみついていた。青ざめているが、弱音を漏らさない辺りが面白い。

「さっき遅れたし、せっかくだから急ごう、アイゼル、キルキ」

「急ごう、って! きゃあああああああ!」

「目、まわりそう」

ハレッシュが加速。馬車をまた追い越した。エルフィールも小刻みに跳躍し、さらに生きている縄の力も利用して、加速加速。通行人を跳ねないように気をつけながら、街道を高速で南下した。

「ミイラ取りがミイラになっているじゃない! いやあああああ!」

「サー、エルフィール。 マスターが怯えております。 少し速度を落としていただけませんか」

「え? アイゼル、怖い?」

「こ、怖くないけど、こ、怖くなんて無いわ! で、でも!」

じゃあ加速だと、ハレッシュがとても素敵な笑顔を浮かべながら言う。目が星空のように輝いている。

きっと、心の底から、スピードを出すのが好きなのだろう。言葉通り、更にハレッシュは、容赦なく加速開始した。

面白いのだが、フレアさんがいる時に同じ事はしない方が良さそうだなと、エルフィールは少し思った。

ハレッシュの体力は底なしで、巨大な荷車を引きながら走っているのに、まるで疲れる様子がない。これは確かに騎士団が欲しがるわけである。エルフィールもある程度体力には自信があるが、がちで真っ正面からハレッシュと勝負したら、ちょっと勝てないかも知れない。

野営地を通り過ぎた。後ろにすっ飛んでいく野営地で、人々がぎょっとした様子で此方を見ているのが見えた。

気分快調である。

このまま昼まで走るのもいいなと思ったのだが、ふと気付くと、フィンフが併走していた。無表情のまま、袖を引かれる。

「サー・エルフィール。 マスターが限界です」

「え?」

振り向くと、アイゼルはもう何も喋る気力がないらしく、ただぶるぶる震えながら荷車にしがみつくばかりだった。仕方がないので、ハレッシュに釘を刺した。

「そろそろ、スピード落としましょう。 充分に走りましたし」

「ん? そうか? 俺はまだ走り足りないんだけどなあ」

と言いつつも、ハレッシュはちゃんと速度を落としてくれた。

ようやく荷車が正常な速度に戻る。頑丈な作りなので壊れる心配はないが、それにしてもちょっと面白かった。

キルキが安心してほっとするのがわかった。

「エリーとハレッシュが荷車を引いている時、乗ったら危ない」

「そ、そうね。 貴方に全面的に同意するわ」

「アイゼル、怖かった?」

「もう、あまり速度を上げないで。 最後の方は、ちょっとだけ本当に怖かったわ」

アイゼルがそんな事を言うからには、本当に怖かったのだろう。元々アイゼルは怖がりだし、今後速度を上げすぎるのは、控えた方が良さそうだった。

ハレッシュはまだ不満そうだった。やはり、スピードを上げる事自体が好きなのだろう。身体能力の高さもあるし、とことん陽気な男だった。

次の野営地が見えてくる。

その次の次くらいで休憩にするかと、エルフィールは決めた。

周囲には、相変わらず深い森が広がっている。既にいつも採取に来る地域を通り過ぎているので、森を見て回るのも楽しそうだ。鹿くらいならいそうだし、仕留めれば燻製にして美味しく食べることが出来る。

ただ、気配を探る限りだと、やはりさっきの軍の行進を感じ取って避けているのか、森の奥の方に逃げ込んでいる様子である。本格的に狩るつもりだと、ちょっと手間暇が掛かるかも知れない。

アイゼルが荷車から降りた。キルキも続く。

まだ、ちょっと怖いらしい。ハレッシュを見るアイゼルの目が、さっきまでとはちょっと変わっていた。

「ハレッシュさん、思った以上に野性的ね」

「牛って、大人しそうに見えるでしょう。 あれって実際は結構気性が荒くて、怒ると手が付けられないんだよ」

「ハレッシュさん、牛に似てる」

「そうね。 貴方の言うとおりだわ」

ハレッシュは相変わらずご機嫌の様子だ。体を動かしたこと自体が、嬉しくて仕方がないのだろう。

右手の森に潜り込むようにして、小さな村が見えた。野営地の中には、村が宿場の一つとして開発しているような場所もある。旅人が金を落とすことを期待できるわけで、当然の選択である。

もっとも、王都近くの村でなければ、利用するのは避けた方が賢明だが。辺境になると、村ぐるみで盗賊働きをしているような連中も少なくないのだ。

村をそのまま通り過ぎて、南へ南へ。

まだ、日は昇りきっていない。

 

数日南へ進む。

街道の左右は、何処まで行っても森が続いていた。この大陸は、森が非常に多い。それは豊かな土壌資源があるという事も意味している。穀倉地帯になっていない場所は、あらかた草原か森である場合が殆どだ。もっとも、街道がしっかり整備されていること、軍が機能している事で、危険はそれほど大きくはない。ただし、しっかりとある。

最初むきになっていたアイゼルだが、それでもしばらく行くと、やはり荷車に乗って移動することも増え始めていた。キルキは必死に着いてきていたが、五日もすると流石に妖精と一緒に荷車に乗ることも出始めていた。

五日目は、宿場町に着いたので、宿に泊まる。

宿の部屋で、アイゼルとキルキは早々に寝入ってしまった。今のところ、進軍行程は一日ほど前倒ししている。逆に言えば二割程度しか前倒ししていないという事でもあり、今後がちょっと心配になった。ただでさえ、今回は一週間程度の逗留しか考えていないのである。

宿は二階建てのもので、主に冒険者がつかう簡素な作りである。部屋は一階七つずつ。エルフィールらは、二階の一番奥の部屋を借りた。防犯上、ここが一番安全だから、である。

一つ前の部屋はハレッシュに借りて貰ってある。そしてドアの付近には生きている縄を配置し、合い言葉が一致しなければ縛り上げるようにしておいた。

用心しすぎのようにも見えるが、それはザールブルグでの常識だ。

この近辺は、既にザールブルグからかなり距離がある。一応領主はしっかりした人物のようだが、治安は向こうとは全く別物と考えるべきなのだった。

窓から外を見下ろす。

既に夕刻と言うこともあって、繁華街だけが妙に禍々しく明るい。

この街も、当然のように防備の城壁はあり、その辺りも監視のために松明が焚かれていた。しかし、城壁内部にある繁華街は、人間の生命力を象徴するように、明々と空を光で侵略している。

窓から盗賊が侵入する可能性があるから、しっかり生きている縄は仕掛けてあるが。不安は、やはり感じてしまう。

机上に拡げたヘルミーナ先生の本をしまう。

幾つか、わからないことが出てきていた。理論は頭に入れたつもりだったのだが、最後の方。培養液について、妙な部分が見つかったのだ。

嫌に貴重な材料ばかりを利用するだけではなく、妙な成分が混じっているのである。その中には、猛毒として名高い風船魚の毒もあった。ちらりと、アイゼルを団扇で扇ぎ続けているフィンフを見る。

「如何なさいましたか、サー・エルフィール」

「ね、フィンフ。 貴方たちの培養槽に、どうも毒が混じってるみたいなんだけど、理由は聞いていない?」

「私達は、自分の出自についてはよくわかりません。 グランドマスターの命令によって、マスターに従うまでの記憶は、殆どありません」

「そうか。 そう言う意味じゃ、私とあまり変わらないね」

シンパシイを感じる相手だ。

エルフィールも、いつの間にか、気がついたらロブソン村にいたという状況である。アデリーさんと過ごした日々はとても鮮烈に記憶に残っているが、それ以前はもやが掛かったかのようで思い出せない。

思い出そうとすると、記憶が拒絶する感じなのだ。

もっとも、エルフィールとしては別にそれで良い。

孤独ではなくて、未来が約束されていれば。その二つさえあれば、エルフィールにとって、後はどうでも良かった。

ドアがノックされる。ドアの上にある生きている縄が鎌首をもたげたので、エルフィールは相手が誰かわかっていても声を掛ける。

「ハレッシュさん、合い言葉」

「おう、そうだったな。 ええと、ホムンクルスの材料の一つは馬の内臓」

「はい正解」

生きている縄がするすると体を伸ばし、ドアを開ける。頭を掻きながら、ハレッシュが巨体を押し込むようにして、部屋に入ってきた。アイゼルとキルキはまだベットにダウンしているままである。

多分フレアさん以外の女性には興味がないのだろう。ハレッシュは椅子に腰を下ろすと、ぱたぱたと首筋の辺りを扇いだ。

「ふう、疲れたぜ」

「冒険者ギルドの方で、何かあったんですか?」

「何かもなあ。 まず第一に、南の路はちょっと面倒なことになってる。 この辺に駐留している第四屯田兵師団の連隊が、二つ東に移動したらしくてな。 その隙を突いて、盗賊が動き出してるらしい。 今のところ目立った被害は出ていないが、俺も働いて貰えないかって言われたくらいでな」

それは、確かに非常に面倒だ。

ハレッシュはここの冒険者ギルドからすれば、いわばよそ者だ。冒険者ギルドは各地にネットワークのある組織だし、ザールブルグで大きな実績のある人間は、他所でも仕事にありつきやすい。

騎士団からも声が掛かるほどのハレッシュだから、当然ここでも実績を見せれば仕事は来るはずだが。それにしても、いきなり信頼性が問われる盗賊団の討伐などに声が掛かるとは、結構尋常ではない。

この辺りには、街道が幾つかある。旅人も当然安全のために冒険者ギルドに情報を確認するわけで、この件が広まれば宿場町であるここは死活問題だ。それでハレッシュにも声が掛かったのだろう。

「盗賊団の規模は?」

「二十人くらいらしい。 ザールブルグの辺りから逃げ出した連中が集まって作った組織らしくてな。 今までは活動も殆どしていなかったらしいが、最近動き出したそうだ」

「典型的な火事場泥棒ですね。 それで、他には何かあります?」

「ん? そうだな。 これは秘密なんだが、軍が移動している理由が、どうやら国境紛争じゃあないらしい。 話を聞く所だと、どうもドムハイトの王都でとんでもない事が起こっているらしくてな」

なるほど、それでか。エルフィールは納得した。

ドムハイトのことは、ある程度エルフィールでも調べている。というのも、人工レンネットを作成した件で、今後軍や騎士団とパイプを確保する必要が生じてきている可能性があるからだ。

大陸を二分しているシグザールとドムハイトだが、その勢力を詳しく知っておく事は、軍とのパイプを太くするには重要である。だから、しっかり調べた。その結果、ドムハイトの内部が今どのような状況になっているか、ある程度把握はしている。

急激な王女の改革によって、混乱していた国内は秩序を取り戻しつつあるが、しかし燻る反乱も少しずつ増えているのも確かである。恐らくは、クーデターが起こったのだろう。

もしも王女を失うことになったら、ドムハイトは不幸だ。

大戦終結から二十年、積もり積もった腐敗に、竜軍の消滅が重なって、ドムハイトはもはやどうにもならない所まで落ちていた。それを改革し、シグザールに並ぶ強国まで鍛え上げうる唯一の存在がアルマン王女だ。

それを理念だの個人的憎悪だので、引きずり下ろしに掛かる連中は、正直頭の中身が空っぽなのではないかと思えてならない。

「いずれにしても、ちょっとこのまま南下するのは危険だな。 昼間は流石に大丈夫だとは思うが」

「それじゃあ、私達だけで、今から出かけましょうか」

「おいおい、何するつもりだ?」

「小遣い稼ぎに決まっているじゃないですか。 まず冒険者ギルドに出かけて、盗賊どもの手配書を取りに行きましょう」

対人戦の実績があまりない生きている縄の検証をするのに、絶好の機会だ。

話を聞く限り、畜生働きはしていないようだから、あまり派手には殺せないが、それでも二三匹は殺してしまっても問題ないだろう。

「わかってると思うが、畜生働きをした連中じゃねえから、皆殺しにしたりするとお前に手配が掛かるぞ」

「わかってますって。 二三匹くらいまでに抑えますよ」

見張り用を残して、全ての生きている縄を体に巻き付ける。

そして、白龍と秋花を生きている縄に運ばせる。冬椿は対人戦に向いていないし、これで充分だろう。

ハレッシュが呆れたように嘆息する。

そして、冒険者ギルドに、二人で一緒に向かった。

 

2、カスターニェ

 

何が起こったのかわからなかった。盗賊ガットロンは、闇夜の中をひたすらに走っていた。

軍が大規模な移動を開始して、かき入れ時だと思った。護衛が少なそうな隊商や旅人を襲い、荷物を奪って。街の連中の反応が著しく鈍いのを見て、本当にかき入れ時なのだと、誰もが悟った。

二十三人いる仲間は、いずれもがザールブルグや近辺の都市で社会的にドロップアウトした者達ばかりだ。

社会的にドロップアウトしても、様々な救済策があるザールブルグでさえ、暮らしていけない者はいる。ガットロンも、その一人だった。幼い頃から荒んだ生活を繰り返してきた彼は、暴力癖のある父親から逃げ出してから、奴隷になったり、職を転々としてきたが、どうしても社会そのものになじめなかった。

だから、ある時仕事を放棄して逃げ出して。南下して南下して、いつの間にかこの盗賊団の連中と連むようになっていたのだ。

同じような境遇の者達ばかりだから、気はあった。傷をなめ合うのも難しくなかった。

盗賊と言っても、腕が立つような者もいなかったし、しばらくは森の中で獣を飼ったり畑を作ったりして生活していた。ある意味、小さな村に等しかったかも知れない。が、やはりどれも上手には行かなかった。やはり奪うことでしか、豊かな生活が出来ないと、誰もが思いこんでいた。

それが、悲劇の引き金になったのかも知れない。

気がつくと、粗末な砦の入り口が、吹き飛んでいた。

焦げ臭い匂いの中、燃え上がる扉の炎を背負って立ちつくすのは大男。その隣にいるのは、人間だとは思えなかった。

今思い出しても、身震いする。

全身から訳がわからない触手のようなものを伸ばしていたそいつは、周囲の構造物を片っ端から引き倒し、リーダーをしていた男を鞠のように絞め潰し、逃げまどうガットロンの仲間を、人形でも引きちぎるかのようになぎ倒していった。大男も暴れまくっていたが、その触手怪人は更に凄まじい手際で、辺りを灰燼と帰していった。

森の中で、人間のくずに等しい連中が、それでも必死に生きて作り上げた、小さな集落は。

瞬く間に崩壊した。

ガットロンは、逃げた。悔しくて舌を食いちぎりそうだった。だが、それでも逃げた。身に染みついた逃げ癖が、どうしても戦いを避けてしまった。あんな化け物に、勝てるわけがない。そう、自己弁護しながら、必死にガットロンは走った。

街道に出た。肺と心臓が爆発しそうだった。

地面に手をつく。舌打ちしたのは、馬糞のすぐ側に跪いていたことに気付いていたからである。涙を零しながら、地面を拳で殴打する。逃げたことに対する自己嫌悪が沸き上がってきて、自分の体を焼きそうだった。

ふと、顔を上げると。

其処には、中腰で、自分を覗き込んでいる何者かがいた。

「みぃーつけた」

体が震え出す。そうだ、こいつだ。半月のように笑みを作っているその目には、何ら感情が宿っていなかった。近くで見ると、まだ十代半ばの女だ。だが、その狂気は、とてもではないが、ガットロンごときがどうにか出来るものではなかった。

悲鳴を上げて、逃げようとした瞬間。

触手が、ガットロンの全身に絡みついていた。体を持ち上げられる。女は、にこにこと笑みを浮かべ続けたまま、全身から伸ばした触手で、ガットロンを締め上げ始めた。

「ひ、ひぎゃあああああああっ!」

絶叫は、意識と共に途切れた。

 

朝、アイゼルが起きると、すでにエルフィールは部屋の外で出発の準備をしていた。ベットがやたら硬くて、外で寝た方がマシだったのではないかと思えるほどの状況だったのだが。それでも、やっぱり屋根と壁があるのはありがたい。虫に刺される可能性も、著しく減ることだし。

キルキは無邪気な顔のまま、隣で寝息を立てている。起こすのもちょっと気が引けるほど可愛らしい。フィンフも可愛らしいのだが、どうも発育が悪いキルキもそれに負けず劣らずであった。

気付くと、フィンフが自分を見上げていたので、ちょっと吃驚する。

「私が起こしましょうか、マスター」

「え、ええ。 レロンは?」

「もう起きて、妖精の会合に出ると言っていました。 そろそろ戻ってくるはずです」

「へえ、会合、ねえ」

妖精が独自のネットワークを作っていることは知っていたが、そう言う言葉が出てくるとちょっと不思議だ。

目を擦りながら、ベットから出る。女と子供しかいない部屋だし、入り口には生きている縄のトラップがあるから、気兼ねなく着替えられるのが良い。何枚か着替えは持ってきているが、どれも丈夫なことを優先して作っているので、ちょっと肌触りが悪い。ただ、洗濯も出来ない日も続くので、新しい服を洗濯したてで着られるのは少し嬉しかった。

着替えが終わると、フィンフに揺らされて、キルキがむくりと起きだした。大胆に寝間着を脱いで、ごそごそと服を着始める。

手伝う必要もない。ただ、寝癖が酷いのと、まだ目が醒め切っていない様子ではあったが。

「キルキ、おはよう」

「アイゼルも。 エリーは?」

「外よ。 ごそごそ音がするでしょ?」

ドアを開けると、エルフィールがいた。気になるのは、何カ所か服に返り血が飛んでいることだ。

荷物を整理してくれているらしいのはありがたいのだが、何かあったのか。

「おはよう、アイゼル、キルキ」

「おはよう。 どうしたの、その服」

「ああ、昨晩ちょっと小遣い稼ぎをね」

隣の部屋からは、ハレッシュの豪快ないびきが聞こえる。まあ、男性は多少豪快すぎるくらいが良いのだろうとアイゼルは思う。昔だったらヒスを起こして帰っていたかも知れない。今は、いろんなものを許容できるようになってきていた。

外に出る。この街でも、車引きは点在している。ただ、味の方に関しては、競争が激しいからかザールブルグの方がずっと上のようだった。だから、宿屋で食事にする。ちゃんと料金を払っているので、焼いたパンとサラダが出てきたが。これも、鮮度と言い味と言い、ザールブルグの下町にある食堂にさえ及ばないように思えた。

周囲から、色々な声が聞こえてくる。盗賊団が壊滅したとか、賞金は二人組の冒険者が全部持っていったとか、聞こえた。

「盗賊団が出るのかしら」

「正確には、出た、だ。 昨晩の内に全滅したからな」

いつの間にか起きてきたハレッシュが、向かいに座りながら言う。三人分くらいを注文すると、豪快に食べ始める。エルフィールも身繕いをした後、降りてきた。フィンフと戻ってきたレロンも含めて食事にする。

何でそんな事を知っているのかと聞こうとしたが、やめる。ヒドラという単語が聞こえてきたからだ。

なるほど、服が汚れるわけである。ハレッシュも、きっと同行したのだろう。

採集で、冒険者を雇うことも多くなってきているから、知っている。エルフィールはヒドラという名前で恐れられているのだ。冒険者ギルドは情報のネットワークを作っているはずで、当然知られているのだろう。

最近では、ロック鳥という結構強い魔物を惨殺したこともあり、ヒドラの知り合いとアイゼルが見られることもある。だから、嫌でもその名前は耳にすることになっていた。キルキも、それには気付いたようだった。

「エリー、昨日、盗賊団を退治したの?」

「うん。 本当は最初、威力偵察のつもりだったんだけど、備えとかが素人丸出しでさ、仕掛けたの。 で、抵抗が激しかったら何匹か殺そうかと思ってたんだけど、これがとんでもないモヤシでね。 とりあえず全部ふんづかまえて、さっきつきだしてきた。 そうしたら、大の男どもが大泣きして、何でも白状するから命だけは助けてくれとか、あいつのいない所に連れて行ってくれとか、警備兵に泣きついてるの。 情けないよねー」

「そりゃあそうだ。 あんな怖い目に会えばなあ」

ぼそりとハレッシュが、心底盗賊に同情した様子で言う。まあ、無理もない。夜中に、エルフィールが無数の生きている縄を駆使して襲いかかってきたら、多分恐怖でトラウマが残る。アカデミーに入った頃のアイゼルだったら、数年は部屋から出られなかったかも知れない。

食事を早々に済ませて、宿を出る。荷車にも、生きている縄を見張りとして付けていたのだが、泥棒が出るようなことはなかったらしい。清算を済ませたハレッシュが、最後に出てくる。

「あー、まあ暴れたから多少は気持ちよく眠れたかな」

「お礼参りは警戒しなくても大丈夫ですか?」

「心配ねえよ。 最近エリー、俺と同じくらい鋭くなって来てやがる。 盗賊は一人も見逃さなかった」

それは恐ろしい。アイゼルも気配を少しずつ読めるようにはなってきているが、一流の冒険者であるハレッシュがそう太鼓判を押すと言うことは、相当なのだろう。

街を出た後、南に。

街道は静かなものであったが、時々警備兵が行き来しているのが見えた。盗賊が出たと言うことで、警備を増やしたのか。或いは、別の理由かも知れない。

空を白い雲が静かに流れていく。

途中、橋を二回渡った。少しずつ、川が太くなっているのがわかる。ストルデルの支流だろうが、もっと南に行くと更に川幅が広がっていることだろう。

街道は、それに対して、少しずつ細くなっているように思える。手入れも行き届いておらず、時々馬糞を踏みそうになった。

ちょっと乱暴な運転をする馬車が、行き交っている。荷車を引いている此方を煽る馬車もいた。かなりマナーが悪い馬車に煽られて、流石にアイゼルも頭に来た。

「乱暴ね。 紳士のすることではないわ」

「喧嘩売ってきたらぶっつぶせばいいじゃん。 見たところ、貴族でも豪商でもないみたいだし、なんなら今あの馬、挽肉にして見せようか?」

「貴方はもう!」

アイゼルは、罵声を挙げて通り過ぎていった馬車を睨むと、怒りと嘆息を同時に吐き出した。エルフィールの場合、本気で御者を半殺しくらいにはしかねないので、むしろ冷や冷やしてしまうのだ。

盗賊がせっかくいなくなったというのに、エルフィールに感謝する人間は少ないようだった。まあ、彼女の場合、英雄になろうとしたのではなく、単に路傍の小石を他所にどけたくらいの気持ちだったのだろう。

それはそれでちょっと腹立たしい。だがそれ以上に、やはり温室から出てみて、人間社会の酷薄さというのは感じてしまう。いい人もいるのだが、やはりそれ以上に身勝手な人間が目立っているように思えるのだ。

「アイゼル、靴自作?」

「え? どうしたの、キルキ」

「靴擦れしてない?」

「大丈夫よ。 自作するようになってから、どうも木で作る靴は問題が多いって分かってね。 靴擦れもしないように工夫しているの」

キルキは以前のことで懲りたからか、靴については新しめのもので揃えるようにしているようだ。だがそれでも木靴が多いので、今後柔らかい皮で靴をつくってプレゼントしようと思っていた。

また、馬車が通り過ぎていく。エルフィールが言っていたとおり、戦争が近いと睨んだ連中が、かき入れ時だと動いているのかも知れなかった。下劣だと思うが、経済の仕組みの中に身を置いた今となっては、無遠慮に批判も出来ない。

商売の世界は、例えば野生の動物との戦いにも似たスリリングなものだ。一瞬でも油断すれば、全てを失う緊張感がある。彼らにしてみれば、自分が他の店や商売敵に喰われないように、必死なのだろう。

街道を南下していくと、上り坂に出た。途中から、かなり急になってくる。

「これから二日くらい、上り坂が続くぞ。 きついと思ったら、すぐに荷車に乗ってくれよ。 体調崩される方が面倒だからな」

「分かりました」

「ハレッシュさんは、平気?」

「応、俺のことを心配してくれるのか、キルキ。 優しいなあ。 俺はエリーと同じで、鍛え方が違うから心配ねえよ」

豪快にハレッシュが笑った。

そうこうする内に、坂がかなりきつくなってくる。無言で荷車の後ろに回ったエルフィールが、生きている縄も駆使して、押し始める。荷車を引いているハレッシュの腕の筋肉も、露骨に盛り上がりが大きくなっていた。

野営地の間隔は、ずっと広くなってきている。中には宿場町の間に、野営地がない場所も出始めていた。

どんなに豊かで栄えていても、末端までインフラが整っている訳ではない。このシグザール王国でさえそうである。ドムハイトはどんな状況なのか、ちょっと気になった。

日が暮れた頃に、野営地で一泊。坂の途中にあるとはいえ、其処は流石に平らだった。ただし、周囲の森が非常に深くて、夜は本当に真っ暗だったので、少し怖かったが。当然猛獣も出るようで、柵で周囲は覆われ、警備兵がかなり多めに巡回してくれていた。

狼の遠吠えが、一晩中響いていた。それでも眠れたのは、採集地で夜を過ごすことが多くなってきているからだろうか。

翌朝、また延々と坂を上り始めることになる。

路の向こうから来る連中は、坂を下ることになるので、すいすい進んでいるのが腹立たしい。

キルキが荷車の左側についたので、アイゼルは右側に回ることにした。二人で、荷車を押すのを手伝う。フィンフが無言で荷車から降りて、アイゼルの方を手伝おうとしたので、笑顔を向けた。

「こっちは大丈夫だから、キルキを手伝ってあげて」

「了解です、マスター」

「仲が良いねー。 親子みたい」

「エリー、せめてそこは、姉妹って言ってくれないかしら」

実際の姉妹は、其処まで仲が良くないとエルフィールは結構冷酷なことを返してきた。確かに、その通りだ。

ノルディスとこの間話していて、家庭内がグダグダなのを聞いてショックを受けた。何でも家族とは既に断絶状態だと言うことで、弟とは口も聞かない時期が続いているという。アイゼルは両親と良好な関係を続けているが、それもアトリエに移ってからはちょっと揉めている。

両親が、一度アトリエに来たのだ。

そして、どうしてこんな粗末な生活を、好きこのんでしたがるのだと、アイゼルを責めた。アイゼルはしっかり理由を話したのだが、どうしても分かってくれなかった。喧嘩にまではならなかったが、両親はどちらも悲しそうな顔をして帰っていった。

血がつながっていても、意思疎通が出来ないことなど幾らでもある。

フィンフとは、とても心が通じている。寿命は二十年程度しかないと聞いてかなりショックも受けたが、いずれヘルミーナ先生に言って、正式に引き取りたいとさえ考えているほどだ。

だが、感情が皆無なフィンフだからこそ、むしろ意思の疎通は巧く行っているのかも知れない。そう思うと、ちょっとやりきれなかった。

そういえば、社会的上層に移った人は、ペットを飼うことが多い。そして、人間にするように話し掛けて、ストレスを発散するのだという。相手が喋らないからこそ、人間はそれで癒しを感じてしまう。

荷車が石を踏んで、アイゼルは我に返った。

気合いを入れて、荷車を押す。

この日は、坂で荷車を押し続けるだけで、一日が終わってしまった。

 

宿場町で、食料と水を補給。

レロンは、手際よく買い物を済ませてきてくれた。荷車に荷物を積み込むのも上手である。

力仕事は出来ないが、給料分はきちんと働いてくれている。

「キルキ様、他に仕事はありませんか」

「レロン、働き者。 もうすぐ移動だから、荷車の上で休んでいていい」

「本当ですか? 有難うございます」

ひょいと身軽に荷車に乗り込むと、レロンは昼寝を始める。凄い早業だ。

アイゼルが、フィンフと一緒に戻ってくる。アイゼルはフィンフに、時々ものすごく優しい笑顔を向けるので、キルキは驚く。多分アイゼルは、家族に対してはとても優しい良いお姉さんなのだろう。

最初の頃は、冷たくてつんつんしている人だと思ったのだが。仲良くなってくると、違う側面が見えてくるものである。

もっとも、キルキとは男を巡る関係がない、というのもその原因の一つだろう。アイゼルがノルディスを好いているのは、キルキにも分かる。ノルディスがエリーを好いているのも、またしかり。

だから、アイゼルはまだエリーにライバル心を抱いているらしい。だいぶ仲良くなった、今でもだ。

まだ男を好きになったことがないキルキには、よく分からない。もっとも、別に焦らなくても良いとフレアさんなどは言うし、そもそも今はお酒の毒とそれを抜くことに関する研究がキルキの全てだ。

エリーがハレッシュと一緒に戻ってきた。かなり形が残っている、鹿肉の燻製を担いでいる。まるまる子鹿の下半身の形をしているので、流石にアイゼルが青ざめて目を背ける。

「見て、アイゼル。 結構美味しそうなのが手に入ったよー」

「え、ええ。 分かったから、早く積み込んで」

「何だ、自分でも獲物が捌けるようになったのに」

「それとこれとは別よ」

荷車に、鹿の燻製を積み込むと、出発。

今までにない長い旅路と言うこともあって、流石に疲れが溜まり始めている。まだだいぶ先は長いが、この坂さえ越えてしまえば、あと少しだと言い聞かせて、頑張る。

目的意識のない人生は刹那的だとか聞いたことがある。そうなると、自分は今、目的に向けて生きている事を、誇るべきなのだろうか。よく分からないが、全員で兎に角この坂を越えるのだ。

ここは難所として名高いらしい。警備兵が彼方此方についていて、事故を防ぐために周囲に目を光らせている。

左右の森はだいぶ背丈が低くなってきていて、見晴らしが良いのだが、街道の起伏が凄まじいのだ。坂が非常に険しく、もしも荷車から手を離したりすると、とんでもない下まで一気に転がりそうである。

事故を防ぐために、敢えて路は蛇行している。それが街道の長さを水増ししており、疲弊も加速させる。

途中、何カ所か平らになっている場所があったが、殆どが馬車や荷車に占拠されていた。これは降るのも一苦労だろう。帰り道、ここを通らなければならないと思うと、冷や汗が流れた。

「エリー、大丈夫?」

「大丈夫大丈夫。 ここを越えれば、後はスムーズな下り坂で、海が見えるって話だからね」

「本当?」

海は、まだ見たことがない。ちょっと心が躍る。

力が湧いてきた。生きている縄が、さっきから荷車から先端部分を見せてうねうね動いているのは、もしも事故があった時に備えているのだろう。

前の方にいる荷車が、ちょっと不安定で心配である。引いているのはかなり年老いた牛で、お爺さんが側を歩いて励ましながら進んでいる。時々大荷物が揺れるので、見ていて冷や冷やした。

辺りが寒くなってきているのは、高度が上がっているからだろう。

ダグラスにこの間聞いたのだが、山の上の方はとても寒いのだという。

「それにしても、平野で海に到る路は幾らでもあるのに、どうしてこんな山を越えなければならないの」

「ああ、それはね。 ストルデルの支流が二つ、ものすごい荒れ川だから」

この山を迂回するように海に向かっているストルデルの支流が、この近辺ではそれこそ湖のような規模なのだと、エリーはアイゼルに説明していた。そして大雨の旅に洪水も同然の荒れ方をするそうだ。

近年はシグザール王国の治水によって被害は軽減されているそうだが、それでも水運は発展しているとは言い難いという。しかも東側の支流に到っては、ドムハイト領と近接しているために、民間人の立ち入りが禁止されているということだ。

西側の支流を越えるコースもあるのだが、しかしこれは料金がかなり掛かってしまう。そこで、この山越えをする旅人がかなり多いのだと言う。

参考になった。

途中、休憩所で休む。ハレッシュはまだ余裕があるようだが、天幕を張り始めている旅人の姿も目立った。

「はい、ハレッシュさん。 お水」

「おう、サンキュな」

ハレッシュが、エリーが差し出した貴重な水筒の水をがぶがぶと飲み干す。まあ、一番働いているのだから、文句も言えない。

アイゼルが、不安を顔中に湛えながら、エリーに聞く。

「山の向こう側はどんな感じなの?」

「冒険者ギルドで聞いてきた感じだと、こっちよりもずっと楽だって。 元々この辺りはドムハイトと激しい戦いが何度も行われた古戦場で、その関係で街道の整備が為されていないって言う事情もあるらしいよ」

「二十年前の大戦の影響は、こんな所にもあるのね」

「そうだね。 やっぱり一番怖いのは人間だよ」

エリーが嘘をついているとは思えない。キルキは今の内に、靴を脱いで足の裏のマッサージを念入りに進めておいた。こうしておかないと肉刺ができて、潰れやすいのである。

しばらく休んだ所で、また荷車を押して進み始める。キルキの側で頑張っているフィンフは、無言で弱音一つ吐かなかった。無表情で、異様に白い肌、緑色の髪の毛と衆目を集める要素は揃っているのに、誰も注目しないのは。それだけこの山越えが、厳しいという事であろう。

荷車から、生きている縄がものすごい勢いで後ろに飛んだ。

ハレッシュが気合いを入れて踏ん張る。見ると、さっき前にいて休憩所で追い越したお爺さんと牛が、危うく荷車を離してしまう所だった。もしもそのまま坂を転がり落ちていたら、大惨事だっただろう。

駆け寄る。お爺さんは転んでいたが、幸い怪我はなかった。

栄養剤を出して、飲ませる。酷く疲れている様子だ。

「お爺さん、これのむ。 元気出る」

「おう、すまんのう。 危ない所を助けてくれて、礼をいうぞ」

「困った時はお互い様」

栄養剤を支えて、零さないように飲ませると、手を貸して立たせてあげる。医師がいればいいのだが、こんな場所では難しい。一刻も早く安全な場所まで上がって、それからだ。牛もフィンフが見ていたが、特に足を折ったりはしていない様子だ。エリーがつかつかと歩み寄ると、荷車の状態を確認。巡回していた警備兵も状況を見て、走り寄ってきた。

荷車は一部が破損している。ちょっとこのまま坂を越えるのは厳しそうである。元々荷車がかなり古い上に、家財道具一式を積み込んでいるようにも見える。これでは、確かに無理が出る。

他の荷車が、続々と此方を追い越していく。生きている縄を引っ込めると、エリーは警備兵と交渉し始める。警備兵としても、お爺さんを放置するのは気が引けるようだった。

「じゃあ、私達が手伝いますから、一旦山頂まで行きましょう。 下りはそれほど大変じゃあないって事ですよね」

「そうするしか無さそうだな。 それにしてもあんた、その触手みたいなの。 噂に聞くヒドラのエリーか?」

「あら、私の名前が知られているなんて、光栄です」

「あ、ああ。 何だかおっそろしい奴だって聞いてたけど、とりあえず安心したよ」

まだ若い兵士は、仲間を何人か呼び集めて、それで荷車を押すのを手伝ってくれた。

牛もちょっと限界近い様子である。山頂の野営地には牧草もある程度あると言うことで、其処まで行けばお爺さんも一息付けるだろう。

また苦労が増えたが、疲れているのは自分だけではない。

そう言い聞かせて、荷車を押す。エリーの提案で、生きている縄を数本、お爺さんの荷車に付けた。蜘蛛のように足を伸ばしてかさかさ進む縄を見て、警備兵達も流石におののいたが、しかし負担が減ったのも事実であった。

あと少し。

あと少しと言い聞かせ、厳しい坂を登る。

辺りはとても涼しいのに、額から吹き出る汗が滝のようである。アイゼルはしきりにハンカチで額を拭っていたが、もうその余裕もないようで、げっそりしていた。平然としているのはハレッシュとエリーだが、それでも疲れが見え始めている。キルキも、手も足も痛くてちょっと困っていた。

こう言う時、自分の発育が悪いことが、気になってしまう。どうしてか同年代の子供に比べて、背も伸びるのが遅いし、二次性徴もあまり出ていない。体力に関しては自信があるが、それも鍛えているからであって、基礎的な能力が勝っているわけではないだろう。むしろ小さい分、劣っているはずだ。

山の頂上が見えてきた。アイゼルがかなりへばっているようだが、どうにか気力で荷車を押している。ハレッシュはどうだろう。かなり腕の筋肉は盛り上がっている所からして、恐らくは相当に力が入っているはずだ。

後ろでは、警備兵が何人か手伝って、お爺さんの荷車を押してくれている。キルキも、子供みたいな体型だからと言って、負けてはいられない。お爺さんは牛に跨って、ぼんやりと向こうを見ているようだった。

不意に、傾斜が緩くなる。

霧の中で、気付く。どうやら、山頂に到達したようだった。

「よーし、峠を越えたあ!」

ハレッシュが陽気に宣言して、野営地にまっすぐ向かう。かなりの数の旅人が、其処にはいるようだった。

警備兵が、医師を捜しに行ってくれる。お爺さんはぐったりしていたが、呼吸などに乱れはない様子だ。

アイゼルは言葉を喋る気力もないようで、荷車にもたれかかって死んでいる。キルキも疲弊が酷いが、何とかまだ歩ける。

「アイゼル、キルキ。 場合によっては薬を調合しなければならないから、準備しておいて」

ぼんやりとした目でアイゼルが顔を上げる。そういえば、そうだ。医師がいても、薬がなければ意味がないのである。

警備兵が戻ってきた。まだ若い、福福しい医師を連れていた。ちょっと心配になったが、白衣を着たその医師は治療系の能力者のようである。淡い光を手から放ち、お爺さんの体の何カ所かを触っているが、あまり真面目にやっているようには見えなかった。金にもならないのに、面倒なことだと、顔中に書いてある。

「ふむ、疲労から来るもののようですな。 無理はしないように、ゆっくり峠を越えてください」

「すまんのう」

「お爺さん、倒れた。 もう少し真面目に見て欲しい」

キルキが抗議するが、医師は鼻を鳴らしただけだった。貧乏人には用がないとでも言う訳か。

いや、ちょっと違う。キルキが付けているマントを見て、鼻を鳴らした。と言うことは、錬金術師を商売敵か何かだと思っているのだろう。もう一言言おうとしたが、お爺さんの方が遮った。

「いや、ここまでしてくれただけで充分じゃよ。 すまなかったな」

「お爺さん、結構無理してる。 どうして」

「この先の街にな、孫夫婦が暮らしておる。 戦災で難民になって、かれこれ二十年、やっと帰れる目星がついてのう」

それは、きっと幸せな帰還ではない。

もしも孫夫婦がお爺さんを大事に思っているのなら、迎えに来るはずだ。少なくとも、こんな険しい山道を、一人で越えさせるわけがない。キルキも、両親から暴力を受けて育った。家族の情なんてものが、世間一般で言われているほど温かくも優しくもないことは良く知っている。

きっとお爺さんは、実家に戻っても平穏な生活など出来はしない。良くて邪魔者扱い、悪ければホームレスになってしまうかも知れない。

それを思うと、何だか、涙が出てきた。

「大丈夫じゃ。 此処まで来たし、もう後は儂とこの牛だけでどうにかなる」

「お爺さん」

「迷惑を掛けて、色々とすまなかったな。 儂は正直な話、故郷に帰れるだけで、もう何の未練も無い。 多分此奴もそれは同じじゃ。 ありがとう」

お爺さんは、キルキだけではなく、皆にあたまを下げてくれた。

医師はちょっとばつが悪そうな顔をしていたが、それでも視線を逸らすと、そそくさと立ち去ってしまった。

お爺さんが天幕を張るのを遠くから見ながら、キルキはエリーに聞いてみる。

「お爺さん心配。 ああいってるけど、おうちまで送ってあげたい」

「そうだね。 途中までは様子を見よう」

恐らく、エリーはこんな時まで、利益のことを考えているはずだ。そして、途中まで見送るというのが、恐らく利益になると判断しているのだろう。

情がないエリーの、そんな冷徹さが。こんな時には、少しだけありがたかった。

 

結局、街道沿いにお爺さんの村まで、エルフィールは若干の行軍遅れを余儀なくされた。キルキやアイゼルがどうしてもと言ったのもあるが、何より名前を売るには丁度いいと思ったからである。

それに逆に言えば、お爺さんが坂の途中で倒れたりしたら、それだけでアカデミーの名を落とすことになる。そうなれば、ドナースターク家に恥を掻かせることにもつながり、エルフィールの立場は著しく悪くなりかねない。

冷酷な計算は、まだ続いている。

キルキも気付いているようだが、お爺さんはきっと孫夫婦と巧く行っていない。正確には、向こう側に邪魔者扱いされているのだろう。そうでなければ、こんな厳しい峠越えに、手伝いもしに来ない説明がつかない。

ごく低確率で、何かしらの理由があるのかも知れないと、強弁は出来る。だが、そんな事をしても、虚しいだけだろう。

村の入り口で、あたまを下げるお爺さんに手を振って、そのまま街道を南下。大きく嘆息したのは、ハレッシュだった。

「良かったな、お前の魂胆が見抜かれなくて」

「ん? どういうこと?」

「なんか下心があったんだろ? 冷酷なお前が、わざわざお爺さんを助けたのには」

「んー、下心と言うよりも、計算かな。 お爺さんに途中で倒れられたら、アカデミー全体の信用低下につながりかねないから。 でも、助けておいて美談にでもなれば、むしろ得になるし」

敢えてドナースターク家の名前は出さなかったが、それはあくまで体面上の問題だ。エルフィールの発言は、多分誰にも受け容れられないだろう。冷血だとか言われても不思議ではない。

しかし、このくらいの計算が出来なければ、社会ではやっていけないのも事実の筈だ。

しばらくは、また起伏が続く。南への街道は、もう少しで終わりだ。だが、まだ油断は出来ない。

アイゼルもキルキも、もう余裕が無くなってきていた。峠越えの体力消耗が、それだけ激しかったと言うことである。少し休憩を多めにして対応するが、お爺さんの件も含めて、時間のロスがかなり大きい。今まで稼いでおいた分の時間的貯蓄が、全て食いつぶされてしまった。

二日過ぎて、カスターニェの文字が看板に見えた時には、内心歓喜の声を挙げたほどである。

もう少しだ。

そして、南に大きな海が広がっているのを見た時には、全員が感動の声を挙げていた。この中で、海を実際に見たことがあるのはハレッシュくらいだろうから、無理もない話である。

地平線が水平線に切り替わった時、その劇的な変化には驚かされた。海はきらきらと輝いていて、巨大な獲物の存在を予感させる。空の色までもが若干違うのは、不思議なことであった。

「あれが、海?」

「ああ、そうだぜ。 船乗りに聞いた話だと、陸より海の方がずっと広くて大きいんだそうだ」

「ちょっと、信じられないわ。 でも、あの光景を見ると、納得してしまうのも事実ね」

「だよな。 俺も前に三回だけ見たことはあったが、しかし何度見ても圧倒されるよ」

アイゼルもキルキも、俄然元気が出てきた様子だ。飛んでいる鳥も、こっちのとは若干違う。ミャアミャアと猫のような鳴き声を上げているアレが、ウミネコと呼ばれる鳥なのだろう。

港町が見えてくる。

シグザール王国の艦隊が駐留しているのが見えた。ザールブルグには劣るものの、相当な規模の都市だ。城壁は分厚いし、港をまるまる街の中に抱え込んでいる。見ると、周囲は砂浜ではなく、崖状になっていた。

以前聞いたのだが、大型の艦船は砂浜には停泊するのに向いていないという。多分この街は、崖だった海岸を削って作り上げたのだろう。何世代も掛けて、だ。

街に入り、宿へ。宿も大きなものがあって、かなり充実していた。周囲に充満しているのは、多分磯の香りだろう。ちょっと生臭いが、それくらいがエルフィール好みであった。

宿の一室で、四人集まる。今後のことを話さなくてはならないからだ。

「じゃあ、ここからは予定通りに、各自行動ね。 集合は一週間後と言うことで」

「分かったわ。 護衛については、各自が冒険者ギルドに雇いに行くか、ハレッシュさんが空いているようなら声を掛けると」

「おう、任せておきな。 その分の料金も貰ってるわけだから、しっかり働くぜ」

「じゃあ、早速」

キルキが、ハレッシュを借りたいらしい。エルフィールとしては、ちょっと海に出たいので、別にキルキと行動を共にする気はない。キルキが近辺の砂漠に出て、仙人掌と呼ばれる植物を採取したがっていることは知っていた。

アイゼルはと言うと、近くの市場に行って、まず交易品を直接みたいと言う事だ。珍しい宝石類などもあるかも知れないし、素材類にも貴重なものが多いだろう。得に珊瑚と呼ばれる海中にある不思議な石については、内陸よりもずっと安いはずだ。

塩や魚介類もちらっと見たが、此方よりも遙かに安い。得に魚介類については、訳が分からない種類も数多くあった。これはしばらく知識的好奇心を満たすのに、絶好の環境が続くことだろう。

「それじゃあ、一旦解散」

頷くと、全員がその部屋を離れた。

一週間は、想像以上に短い。今まで様々な調合をしてきてそれを思い知っている皆の行動は、早かった。

エルフィールも生きている縄を部屋に幾つかトラップとして仕掛ける。荷車については、各自持ち回りと言うことで話がついているので、逆に言えば早い者勝ちだ。キルキが早速小さいのを借りていったので、エルフィールは大きいのを持っていこうかと思ったが、今は別に必要もない。

街に出る。

知らない街は、いつ来ても新鮮だった。

 

3、漁師ユーリカ

 

港は、活気を通り越した熱気に包まれていた。

人間よりも大きいような魚がごろごろと並べられ、値札を付けて商売されている。見る間に切り身にされたり、或いはその場で売られていく大型の魚。それに混じって、小型の魚類は、一桶幾らという感じで売られているようだった。

これほどの規模の漁港ははじめて見ることもあり、エルフィールは全てが珍しくて仕方がなかった。だから、スリに気をつけなくてはいけなかった。お上りさんだと一目で分かるようだと、まさに格好の餌食になるからである。

参考書を取りだして、幾つかの魚を物色する。最初に声を掛けたのは、筋骨逞しいおじさんであった。如何にも海の男という風情であり、二の腕には髑髏をあしらったタトゥーがある。

「へい、何にするね」

「風船魚って扱ってます?」

「おや、嬢ちゃん、玄人かね。 あれは危ないけど、わかってるかい?」

「猛毒があるんでしたね」

風船魚。魚の中でも、とくに強力な毒を持つ種類である。怒らせたりすると、風船のように膨らむことからその名がある。

非常に美味しいらしいのだが、調理には熟練の技が必要で、失敗すれば命は無いという。しかし、それでも高級料亭には定番のメニューとして並ぶほどの味なのだとか。参考書には他にも色々な情報が書かれていたが、とりあえずそれはどうでも良い。

おじさんが見せてくれたのは、小型の何種類かだった。図鑑に載っているものが二種類ほど。さっき、同じものが並んでいるのと、それの値札をしっかりエルフィールは暗記していた。

「これ、三尾いただきます」

「あいよ。 分かってると思うが、調理は免許のある奴にやらせるんだぞ」

「ありがとう」

幸い、玄人と見られたからか。ふっかけられるようなことはなかった。

魚はすぐに傷むから、そのまま持ち帰ることはない。とりあえず宿に運んで、其処で調理して貰う。宿には大きな水槽を置いていて、魚料理には自信があるという事だったから、多分できるだろう。

それで、毒袋は別に分けて貰う。本当に欲しいのは、此方だけだ。

毒袋の保存方法も、参考書には書かれている。間違って口に入ろうものなら即死と言うことだから、注意には注意を重ねないと危ない。

他の店も幾つか見て、素材を購入していく。資金はある程度余裕があるが、あまり無駄遣いしているとあっという間になくなってしまうから、気をつけないと危険だ。ふと、妙に生きが良い魚ばかり扱っている店の前に出た。

店主と目が会う。

多分同年代くらいの女の子だ。南方人らしい黒い肌と、三つ編みにしている髪、ちょっと世間に対して拗ねている目が印象的だった。とても痩せていて、グラマラスなことが基本の南方人らしくない。

「何? お客?」

「わ、新鮮な魚。 風船魚はある?」

「その年であんた、随分マニアックだね。 ひょっとして食道楽の貴族様かい?」

辛辣なことを言われるが、エルフィールは笑顔を崩さない。

見たところ、この娘は相当な凄腕の漁師だ。置いている魚も、鮮度といい大きさと言い、他の店とは完全に格が違っている。品質が良い素材を、入手できる可能性が非常に高い。だから、ある程度の非礼は我慢する。

「ちょっと違うけど。 風船魚の毒袋が必要でね」

「またそりゃあよく分からない話だね。 理由は聞かないでおいてあげるよ」

奥に引っ込むと、女漁師は桶を一つ抱えて出てきた。

中には、まだ生きている魚が入っている。その中に、虎縞模様が荒々しい、大きな風船魚が入っていた。

「こいつは風船魚の中でも一番大きな種類で、通称海虎。 味は良いけど、毒ももの凄くてね。 この界隈でも、料理できる奴は殆どいない。 料理人も紹介してやろうか?」

「本当? 助かるなあ」

食べるのが目的ではないのだが、まあそれでも良いだろう。或いは、肉はそのまま料理人に売ってしまっても良いかも知れなかった。エルフィールにとって、欲しいのはこの魚の毒なのだ。

他にも幾つかの、特徴的な魚を言う。女漁師は半分ほどを用意してくれたが、怪訝そうに眉をひそめる。

「なあ、あんた、一体何者だい。 海虎も、毒を目当てにするんだろう?」

「錬金術師って言って分かるかな」

さっと、女の顔色が変わるのが分かった。

この辺りで、錬金術師は畏怖の対象なのだと、エルフィールはこの瞬間悟ることとなった。

 

紹介された料理人は、宿の側に住んでいる老人だった。非常に気難しそうな人物で、額に刻まれた皺はその性格を示しているように深い。髪の毛はすっかり無くなっており、眉毛も髭も真っ白だが、喋り方はろれつがしっかり回っていて、老いは感じない。

住んでいる家も、高級料亭とは言い難い、小さな寂れた食堂だった。ただし、客の中には、妙に仕立ての良い服を着ている者が散見された。これは恐らく、いわゆる「隠れた名店」という奴なのだろう。

持っていった風船魚を一瞥すると、老料理人は早速料理を始める。厨房には行って良いかと聞くと、ぎょろりとした目で睨まれた。

「悪いが、この厨房はおらあだけの場所だ。 他の誰も入れる気はねえ」

「あー。 調理方法を教えて欲しい、と言っても駄目ですか」

「駄目だ。 これは門外不出、秘伝中の秘伝だからな」

そう言われると残念だ。引き下がる他無い。ただ、毒袋は捨てずに欲しいと言うと、了承してくれた。

実は参考書にも、毒袋の上手な取り方は書かれていない。肉は諦めて、丸ごと毒としてつかえというような乱暴な記述さえあるほどなのだ。

それだけ風船魚の調理には難しい技が必要だと言うことである。

「ちわーっす」

「おう。 ユーリカか」

聞き覚えのある声に振り向くと、さっきの女漁師だった。そういえば、あんなぞんざいな態度だったのに、結構売り上げは良かったようだし、もう手持ちの魚は全部捌いたのかも知れない。

エルフィールを見つけると、あまり好意的ではない視線を向けてくる。しかし、向かいに座るかと言うと、あっさり腰を下ろした。

「店に、来たんだな」

「さっきも言ったとおり、目的は毒袋だから」

「何に使うつもりだよ。 あれ、象だって殺せるような毒なんだぞ」

「毒の中にはね、転じて薬になるものもあるの。 逆に薬も、効果が強すぎると毒になるものもある」

相手は錬金術師ではないから、分かり易く軽く説明する。

ユーリカと呼ばれた女漁師は、説明をしらけた目で聞いていたが、やがてぼそりと口を開く。

「でも、あんたが薬を作ろうとしているようには思えない」

「どうして?」

「あんたの目は、野獣のそれと同じだ」

結構的を得た指摘だったので、思わずエルフィールはくすくすと笑ってしまった。このユーリカ、エルフィールに視線ほどの敵意を向けてきているわけではない。ただ、此方に興味を持って、挑発するために計るような台詞を言ってきている。それが、どうしてか分かった。

はぐれ者だから、かも知れない。

この娘、明らかに他の漁師に煙たがられていた。理由は良く分からないが、少なくとも他の漁師と連むような性格には見えなかった。強気な言動には、他人に踏み込まれたくないという、無言の強迫観念が影響していたのかも知れない。

「おあいにくだけど、これは本当。 別に暗殺なんかには使わないよ」

「……なら、いい」

「それより貴方、一人で漁って出来るものなの?」

「あたしは特別。 親父から船も譲り受けてるし、何より漁場だって教えられてるからな」

ユーリカという女の言葉に、親父という単語が混ざる時。

妙に嬉しそうな、いや湿っぽい響きがあることを、エルフィールは見逃さなかった。或いは、幼い頃に死別したのかも知れない。そうなると、家族に夢を持っているのかも知れなかった。

ちょっと頭の奥がもやもやする。

店主が料理を持ってきた。ユーリカが、魚を渡しているのが見えた。料理を注文する様子はない。

「食べないの?」

「ここの料理が食べられるほど、金持ちじゃない」

「そう。 じゃあ、おごってあげようか?」

「遠慮しておく。 あんたに借りを作ったら、どんだけ後で酷い目に会うか分からない」

ずいぶんな言いようだが、結構鋭い所がある。

この辺り、エルフィールは嫌いではなかった。

料理は生の魚肉を薄く切ったものや、鍋類が中心だった。黒いソースも興味深い。確かこれは、東方、ドムハイトのしかも辺境で使われると資料にあったソイソースか。魚肉は透き通るような薄さで、口に入れるととけるように甘かった。しかも、殆ど抵抗がないのに、独特の舌触りが素晴らしい。

これは、確かに美味い。金持ちが忍びで来るだけのことはある。

「美味しいね、これ!」

「だろう。 ここの爺さんは、頑固者だが腕は超一級だよ。 噂だと、王族もたまにお忍びで来るそうだ」

「へえー」

確かに多少料金は高かったが、これなら納得の行く値段である。

ユーリカは、余程自制心が強いのか、エルフィールががつがつと食べている間、何も言わずにその様子を見ていた。

「川魚を、この調理で食べられないのかな」

「そりゃあ無理だね。 川魚は基本的に、生食に向いていないって聞いたことがある」

「ふうん、専門家じゃないから理由は分からないけれど。 しかしこれは、再現が難しそうだ」

「何代も掛けて作られた技法だ。 簡単に真似なんか出来るもんか。 あんたが錬金術師だって、同じ事だよ」

食べ終えた。多分、チーズケーキの次くらいに美味しいと感じたかも知れない。店の場所は覚えておく。カスターニェには今後何度も来るだろうし、そのたびにここに来ると、今決めた。次はアイゼルやキルキ、ノルディスも誘ってくるとしよう。

店主のところで、毒袋を受け取る。ユーリカは、エルフィールの後に付いてきた。理由は聞かない。何だか、見ていて面白かったからである。

「あんた、北から来たのか?」

「あんたじゃなくて、エルフィール。 ユーリカさん」

「……エルフィールか。 分かった。 覚えたよ」

「漁師だったら、ちょっと頼みたいことがあるんだけどなあ」

宿に向けて歩きながら、エルフィールは調合の内容を頭の中で再整理する。持ってきた籠は結構重くなっているが、どの素材も保ちは良くない。錬金術で使うためには、これから加工しなければならないのだ。

宿の前についた。

「錬金術、見る?」

エルフィールが言うと、ユーリカは興味をそそられたようで、少し迷った後頷いたのだった。

 

商売は信用から成り立つ。

これは、相手の精神やらを信用するという意味ではない。需要と供給の間で、確実性が尊重される、という意味である。信用という言葉は、人間性に対するものではなく、確実にものが届けられる、という点に尽きるのだ。

アイゼルは飛翔亭で仕事を受けるようになってから、それを痛感した。

信用は、必ずしも精神に対するものではないのである。

客は、商品さえ届けば、何も気にすることはない。それがどれだけ血塗られた経緯で作られようが、どれほどの涙を吸っていようが、知ったことではないのである。逆に言えば作り手も、客に対して、相手の要求する品質での商品さえ届ければ良い。それが、商売という行為の現実だ。

この間ノルディスが、苦悩していた。

何人かを救うために、殺さなければならない命があったと。アイゼルが気の毒に思ってしまうほど、真面目な青年は苦しんでいた。しかし、それで却って強くもなったようで、アイゼルがカスターニェに来る少し前に、アトリエに移ることを決意していた。

アイゼルはどうか。

客との取引を通じて、商売とはドライなものだと言うことは思い知り始めてはいる。実際、一見の客に対しては、信用関係が極めて薄い。だから如何にぼったくるかという駆け引きが、平然と行われている。

バザーで、アイゼルはまずフィンフに出て貰った。優秀な聴覚を持つホムンクルスは、あらかた情報を仕入れてきてくれる。まず、常連客との取引価格をそれで算定。それから、アイゼルは宿を出た。

すりに気をつけないと危ない。この街は栄えているが、治安はザールブルグほど良くないのだ。フィンフも何回か、人さらいらしき人物を見掛けたという。アイゼルも一応修羅場を潜ってきているから、未知の場所で油断しないという大前提だけはしっかり身につけていた。

向かったのは、貿易商である。幾つかある店の内、ザールブルグでも商品を仕入れている有名店からまず見て回る。

硝子張りのウィンドウケースがあったりするザールブルグの有名店に比べると、流石に規模は小さいし、展示も洒落ていない。しかし、中の喧噪はそれなりだ。かなりの豪商や、それのお着きらしい人物も散見される。

ぶつかってきた人がいたので、即座に財布を確認。何もすられてはいない。相手はアイゼルを一瞥すると、すぐに人混みに消えた。貴重品類は、すられにくい場所にいれてあるとはいえ、緊張する。今のも下見かも知れないからだ。

店の中の商品は、かなり魅力的だった。

珊瑚の類は、やはりザールブルグよりもかなり安い。真珠も相当な数が出そろっている。一つ二つ見せて貰うが、艶と言い、輝きと言い、まるでものが違った。時々ザールブルグに入ってくる品の多くが、ここを経由しているのだ。

行き交っている人々の服装も様々で、中にはドムハイトから来たらしい人物さえも散見される。はるばる此処まで来た、北方人の商人らしい人も見掛けた。

「マスター。 気をつけてください。 先ほどから、複数の視線が集中しています」

「有難う、フィンフ。 貴方も私の手を離さないで」

受付に進む。既に、購入する品については、頭に入れていた。感じの良い老紳士が受付で作業をしていたが、アイゼルはあまり好感を持てなかった。ワイマール家の使用人達には優しい人が多かったが、どうも裏を感じてしまうからだ。

「初めまして、フラウ。 何をご所望でしょうか」

「世辞は良いわ。 着払い式で買い物をしたいのだけれど」

着払いは、手数料が掛かるが、しかし届けられた品物の品質が悪い場合は、その場で突っ返せるという暗黙の了解がある。それが有効なのは、先ほど先客が着払い式で買い物をしているのを見て確認済みである。

さっと左右に視線をやる受付。やはり此奴、腹に二物も三物も抱えているような輩だ。

「お客様がお気に入りになられた品を、この場で持ち帰るのが最善かと思いますが。 手数料も掛かってしまいますよ」

「心配は無用よ。 この店のザールブルグの本店とは、取引もあるから、割引も利くし」

「しょ、少々お待ちください」

受付が、カードを見せると引っ込んだ。このカードは木製だが、割り符の役割を果たしていて、特殊なインキで店のマークが刻み込まれている。金属のプレートで縁取りもしてあり、一部の客しか持っていない。

ちなみに、ワイマール家と取引があるわけではない。取引があるのは、あくまでアイゼルと、である。装飾品類を作成するために、時々利用しているのだ。真珠やルビーなどをあしらう品が多いが、最近は珊瑚の需要があり、この店に目を着けていた。原価を何倍にも出来るので、ぼろい商売ではあるが。しかし取引先の気分次第で値段は何倍も上下するため、気が抜けない仕事でもある。

奥から、初老の受付に代わり、恰幅の良い男性が出てきた。カードを確認し、帳簿を見る。どうやら、ザールブルグの店と此方で、同期を取っているらしい。

「錬金術師のアイゼル様ですな。 アイゼングリーブカスターニェ支店へようこそいらっしゃいました」

「話が早くて助かるわ」

周囲で、どよめきが起こった。錬金術師という言葉が、畏怖を呼んだのは確実であった。

アイゼルはかなりの額の商売をしている上客だ。もしも礼を失することがあったら、店の信用にも関わってくる。ここで、信用を出すことにより、届く品物の品質を上げる。それが、アイゼルの戦略であった。

ざっと必要な品を挙げてから、着払いで話を纏める。かなりの大口取引になったが、せかせかため込んでいるアイゼルの資金力は、エルフィール以上だ。単純なお金の保持量だったら、ノルディスにもキルキにも負けていない自信がある。

商売を終えると、店を出る。フィンフが袖を引いた。

「三人、此方を見ていました。 付けてきています」

「そう。 寄り道をしないで帰りましょう」

そう口にしてから、敢えて冒険者ギルドに寄る。追跡者が、気配を消すのが分かった。冒険者ギルドでアイゼルが護衛を雇った場合、面倒なことになるからだ。

カスターニェに来ている間だけでも、専属契約する冒険者が一人欲しい。フィンフは勘が鋭いし、アイゼルもそれなりに修羅場は潜ってきているが、それでも油断すれば危ないからだ。

この街をしっかり知るまでは、護衛は必要不可欠だった。

ギルドにはいると、じめっとした視線がアイゼルを出迎えた。ザールブルグでも荒くれが揃っていたが、こっちは更にその傾向が強い。明らかに出自を聞かれたくないような、強面の男や、脳みそまで筋肉で出来ていそうな男もいた。顔に向かい傷のある女や、明らかに精神に欠陥がありそうな人物もいた。

ギルド内部は、ちょっと閑散とした酒場と言った内容である。待っている冒険者に、酒も出しているらしい。キルキが見たら怒るだろうなと、アイゼルは思いながら、受付に進んだ。

受付にいたのは、恰幅の良い女性である。ただし葉巻をくわえており、煙をくゆらせている。

「一週間ほど、ベテランの護衛が欲しいのだけれど」

「ベテランねえ。 腕が良い奴は高いよ」

リストを見せて貰う。ザールブルグにも登録されている人物が、ちらほらと散見できた。やはり、冒険者は流れ者だ。彼方此方を縄張りにしないと、仕事にありつけないことも多いのだろう。

ルーウェンという名前を見つけた。確か最近までザールブルグにいたベテランである。腕前も人格も優れていたが、どういうわけかカスターニェに移ったという噂は聞いていた。未だにギルドで名前が出るくらいだから、相当な強者だと見て良いだろう。

「ルーウェンはいるかしら」

「ああ、彼奴か。 明日にはここに来ると思うから、用事は聞いておくよ。 それにしても、ルーウェンを雇うってあんた、フラウ・シュトライトとでも戦うのかい?」

「フラウ・シュトライト?」

「知らないのかい。 まあザールブルグの人間じゃ、知らなくても無理はないか」

おばさんが言うには、この港はしばらくその化け物に封鎖されていたのだという。騎士団と錬金術師の活躍で化け物は殺されたと言うことだが、激しい戦いで、死者も少なからず出たと言うことだ。

ルーウェンという冒険者、既に並の騎士よりも戦闘力が上という評判らしい。ハレッシュのことを考えて、同じような扱いなのだろうかと、アイゼルは思った。

他にも二三人、ルーウェンが駄目だった時のために、人員を見繕っておく。にやにやとアイゼルの尻を見ている男が何人かいたが、無視。冒険者をやっている以上、クライアントに手を出すことがどういう意味を持っているか、分かってはいるだろう。

外に出る。

とても爽やかな港の風。それなのに、住んでいる人間は、どうも一癖以上あるように思える。

「はあ、窮屈だったわ」

「マスター、次はどうしましょうか」

「キルキと合流して、素材集めね。 エリーも来てくれると心強いのだけれど。 どっちにしても、明日以降だわ」

ルーウェンという冒険者は名が知られているようだが、一人だけに全てを預けるのは危険すぎる。

宿に戻る路の途中。

ふと、全身を悪寒が通り抜けた。

振り返るも、誰もいない。何だか、トラウマを刺激されたようで、気分が悪かった。

宿へ急ぐ。

どうしてか、怖くて振り返れなかった。

 

海岸線で、大きな亀を見た。

甲羅だけで、キルキが乗ってもおつりが来るくらいである。手足はひれのようになっていて、ゆっくり砂浜を移動している。

図鑑で紐解くと、千年亀という品種であった。

この図鑑によると、千年亀と呼ばれる種類は、確認されているだけで三種類いるという。要するに長生きの亀を、昔の人はそう呼んで、定着していると言うことだ。アカデミーでは分類することを検討しているようだが、未だに着手できていないらしい。ちなみに陸上性もいるそうだが、此方は絶滅寸前だと言うことである。また、性格も様々で、大人しい種類から獰猛な捕食者まで様々だそうだ。

生物の世界は、奥が深い。

アルコールを色々と造ってみて知ったのだが、同じ種類のアルコールでも、動物の種類によって効きが強い場合とそうでないことがある。当然これに個体差も入ってくるので、動物実験をやり始めるときりがない。

逆に、人間は一つの種類だけで、同じようにかなりの個体差を出してしまっている。この全てに効く、アルコールの毒素を排除する薬剤など、本当に作れるのだろうかと、時々心配になる。

ハレッシュと、レロンと一緒に、海を左手にひたすら歩く。もう二刻は歩いたかと思うのだが、全く周囲の光景は変わらなかった。

ここは多くの千年亀が繁殖に使うことから千年亀砂丘というらしいのだが、恐ろしい場所だ。大陸の東の方には、途轍もなく広い砂丘もあるという。

砂丘に点々と見えているのが、キルキが探している植物、仙人掌だ。しかし、砂丘の内側に生えているものが多く、しかもどれもあまり採取に適しているとは言い難い大きさばかりだった。

知らない場所を歩く楽しさも手伝って、ついこんな奥まで来てしまった。レロンが、舌を出してひいひい言っているのは、熱くて辛いからだろうか。

「おーい、キルキ。 そろそろ戻ろうぜ」

「うん」

「うんって、さっっきからそう言って、ずっと進んでるじゃねえか」

「もうちょっと」

ハレッシュが流石に文句を言い出したが、我慢して貰う。

砂丘の中、ぽつんと大きな仙人掌が見えた。丸い本体から、団扇型の枝がたくさん出ている。或いは葉かも知れない。解析してみないと分からないが、興味深い植物だ。とりあえず、もうアレで良いだろう。この時のために、大型の水筒を、幾つか持ってきた。それをバックパックから出しながら、指示。

「ハレッシュ、あれの枝を一つ取って欲しい」

「やれやれ、やっと出番か」

「棘が多いから気をつけて」

「分かってるよ」

ハレッシュが槍を突き刺すが、仙人掌は想定外に硬い。何度かハレッシュが槍で斬りつける度に、汗が飛んだ。

まるで巨人のように立ちふさがる仙人掌の枝をめがけて、ハレッシュが何度か槍を繰り出す。少しずつ、分厚い表皮にも傷がついていった。槍は鋭く、繰り出される度に飛沫が飛ぶ。

やがて、はじけ飛ぶようにして、枝が千切れ落ちた。

槍に突き刺して、ハレッシュが持ってきたそれは、子供の頭ほどもある塊だった。鋭い棘が一杯ついている上に、重い。

「これは籠に入れると危ないな」

「棘、今落とそう」

「そうだな、それが良さそうだ」

キルキが鋏を出して、レロンにも渡す。へばりかけていたレロンも作業に加わったのは、早く宿で休みたいからだろう。

棘は放射状についていて、かなり硬い。一つ一つを落とすのにも、骨が折れた。キルキは手をかざして、詠唱。温めた後、不意に冷やしてみる。だが、棘は平然と、凍った後の冷たい滴を纏ったまま、生えている。

「全然平気」

「頑丈だなあ」

思い出す。砂丘は昼間熱く、夜は非常に寒いという。過酷な環境で育っているからこそ、これほど頑丈なのだろう。

仙人掌の傷口から、水が垂れ落ちている。これも水筒に入れておく。四苦八苦しながら、ハレッシュがどうにか棘を取ってくれた。レロンはもう、目がうつろである。

「終わったぞ」

「じゃ、帰ろう」

「やれやれ、お前さん、最近どんどん冒険者の酷使が酷くなってきたな」

「ハレッシュさん、ちゃんと最後まで仕事してくれるから好き。 フレアさんも、其処が好きなんだと思う」

褒めても何も出ないぞと言いながら、ハレッシュが籠を担いだ。片手であの重い仙人掌の枝が入った籠を持ち上げてしまうのだから、大したものだ。一応担ぐ前に傾けて、水筒に全て水分は移した。

「そういえば、俺のダチがこの辺で活動しててな。 もしも見掛けることがあったら、雇ってやってくれ。 かなり腕の立つ奴で、今は若手の育成に力を入れているそうだ」

「凄い」

「名前はルーウェンって言ってな。 まあ、冒険者ギルドで見掛けたらで良いから、覚えておいてくれな」

「大丈夫。 私、記憶力だけはいい」

砂丘を歩いて帰る。

不思議なことに、来た時の足跡は、殆ど残っていなかった。これでは、海岸線を辿って歩いていたのではなければ、かなり危なかっただろう。

砂漠では蜃気楼という現象が発生して、入った人間に実際には其処にないものを見せたりもすると言う。

ここは思ったよりもずっと恐ろしい場所だなと、キルキは帰りながら思った。

当然来た距離を帰りも歩く必要があるわけで、砂丘をどうにか抜けた時には、昼を少し過ぎていた。

靴の中は砂だらけで、痛いと言うよりもむしろ熱い。ぐったりしたレロンは、途中からハレッシュが背負った。籠も背負っているのに、まるで苦にしていないのは、ハレッシュが如何に力持ちかよく示していただろう。

以前大失敗してから、靴についてはかなり気を使うようにしている。足のダメージも、である。

幸い足を痛めるようなこともなく、砂丘の出口当たりで靴の砂を捨てるだけで済んだが、次に来る時には、これにも対策が必要だろうと、キルキは思った。靴に砂が入りにくいように工夫しないと、何かの切っ掛けで怪我をすることになりかねない。

そして、あの砂丘の環境では、怪我をすることは致命的だ。

宿に戻る。

借りている部屋にはいると、アイゼルとエルフィールは既に戻っていた。ハレッシュは荷物を下ろすと、もう一人客がいるのを見て、席を外してくれる。お客は女性で、三つ編みにして浅黒い肌をした人物だった。

南方人だというのは一目で分かるのだが、その割に体の凹凸が少ない。ちょっとその辺り、発育が悪くて悩んでいたキルキは、好感を持った。

三人で円座を組んで、作業を見守っている。キルキは邪魔してはいけないと思って、側で見守る。

エルフィールは魚を捌いて、その身を乾燥させ、なおかつ内臓類をフラスコで煮立てていた。その上には、蒸留水を作るようにフラスコを逆さにして、水分を受け取っている。いや、これは。

そういえば、エルフィールは旅の途中で言っていた。今回の目的は、半分くらいはそれだと。

「ひょっとして、風船魚の毒を抽出してる?」

「そうだよー。 今は煮立てて、毒の密度を上げてる所。 これから、保存作業に入るの」

「妙な道具だな。 こんなもので、そんな事が出来るのか」

「触っては駄目よ!」

お客が触ろうと手を伸ばしたので、アイゼルが慌てて制止する。もしも風船魚の毒の抽出だとすると、触るのは危険すぎる。

慌てて手を引っ込めたお客の隣に座る。

「あんたも錬金術師か? 随分ちっこいな」

「その子は、アカデミーでも随一の俊英よ。 成績は、三年連続でトップなんだから」

「へえ、小さいのに凄いな」

「私は、キルキ。 よろしく」

褒めて貰って、ちょっと気分が良い。

アイゼルとエリー、それにノルディス以外のアカデミー学生は、キルキに良い視線を向けない。それどころか、どんなに頑張って成績を維持しても、ひいきされているのではないかと陰口をたたく者までいる。

そんな連中は相手にするなと、エリーは時々言ってくれる。だが、それが普通のことになってしまっているので、最初から好意的な視線を向けてくれる相手は、とても貴重だった。

ユーリカと名乗った女は、見ると体も良く締まっている。漁師か、或いは冒険者なのだろう。エリーは不思議だ。時々凄く怖いのに、するりと人の心に滑り込んで、友達を増やす術を持っている。

フィンフが部屋に入ってきた。錬金術の道具や、素材類を持ってきてくれたのだ。そういえば、さっき宿に戻る時、大きな荷車のところでごそごそやっていた。あれはフィンフだったか。

「サー・エルフィール。 持って参りました」

「ありがと。 其処において」

「かしこまりました」

蒸留が終わった。毒の成分が、蒸留されていないか、エリーが何種類かの薬品を使って検査する。いずれも透明な液体が色変わることもなく、安全性が実証される。しかし、これはあくまで実証試験だ。水は捨てる。

濃縮された液体は、どす黒く、見るからに危険である。

まずこれを拳大の海綿に含ませる。ピンセットを使って海綿に触れているのは、直接触るには毒の濃度が高すぎて危険だからだ。しみこませたところで、海綿を固化する液体をたらす。これは液体を海綿に含ませた後コーティングする素材で、蝋と何種類かの薬剤を混ぜることで造り出している。一旦これで海綿の外側を固め、中の毒が外に抜けるのを防いだ後、更に上から別の薬剤を使ってコーティングする。

これは最初の硬化蝋だけでは、毒物の浸透を防げない可能性があるからだ。

海綿は最初から下部に硬化蝋を塗ってあり、下に漏れる心配はない。蝋を使って蓋をするような感触だ。エリーの作業は恐ろしくて慣れていて、瞬く間に終わった。

フラスコは丁寧に洗浄して、洗浄水は別の海綿に含ませる。これは後で、砂丘に捨てに行く。

一通りが終わると、胡座を組んで作業を見守っていたユーリカは、感嘆の声を挙げた。

「凄いな。 なんていうか、魔術みたいだ」

「魔術や能力の類とは違うわ。 練習さえすれば、誰にでも出来る技術よ」

「それは益々凄い。 どうやってそんな技術を身につけるのか、想像も出来ないよ」

素直な人柄らしく、ユーリカは素直に凄いと言うことを認めていた。羨ましい話である。ザールブルグには、そんな人柄の人間は殆どいない。

廃棄する方の海綿も蝋でコーティングすると、エルフィールはフィンフに渡した。フィンフはレロンと連れだって、砂丘に行く。それを見送ると、アイゼルは伸びをした。

「ふう、緊張したわ。 念のために、換気もしておきましょう」

「そうだね」

「なあ、あの毒が、本当に薬になるのか?」

「方法によってはね」

エリーが言葉を濁す。

そういえば、エリーは今回、あの毒を薬ではなく、ホムンクルスを育てるための培養液として使うはずだ。薬と言っては薬だが、人間に対するものではない。それを考えると、複雑な気分ではあった。

最初は厳しい顔をしていたユーリカだが、随分うち解けている。笑顔も話していて交えるようになっていた。

良い友達になれるかも知れない。そう、キルキは思った。

 

4、東の陰謀劇

 

ドムハイトから帰還したエリアレッテは、まっすぐ師であるクーゲルの下に向かった。これは、そうするよう、途中で指示があったからである。普段は自主的に顔を出すことが多いだけに、何かあったのかとエリアレッテも悟る事となった。

案の定、クーゲルの屋敷を訪れると、驚くべき賓客が、護衛を伴って来ていたのである。

シグザール王国王子、ブレドルフ。

少し前から、積極的に活動をしている人物だ。以前は暗愚の噂が絶えなかったのだが、フラウ・シュトライト討伐の後くらいから、急激に精力的になり、騎士団と軍、それに文官達の間を走り回って活動を続けている。

エリアレッテもそのことは聞いていたが、直接顔を合わせるのは初めてであった。

応接室で、護衛数人と一緒に、ブレドルフはエリアレッテの向かいに座った。育ちが良いだけあって、ソファに腰掛ける動作の一つを取っても優雅である。

「君が、聖騎士エリアレッテか」

「はい。 陛下にはご機嫌麗しゅう」

「いや、君のことはクーゲルに聞いている。 かしこまらなくても良い」

クーゲルの方を見ると、頷いたので、エリアレッテはよそ行きの顔を崩すことにした。そのまま、冷徹な戦闘兵器としての自分に戻る。相手がそう望んでいるのだから、そうするべきであろう。

無表情に戻ったエリアレッテを見ても、王子は何ら態度を変えない。机の上に、書類を出してみせる。

「私も、ドムハイトで起こった異変については聞いている。 君は直接現場に居合わせたと言うことだが、書類に間違いがないか見て貰いたい」

「分かりました。 失礼いたします」

ざっと、目を通す。

流石は牙だ。よく調べているという他無い。

一月ほど前。ドムハイト王都で、カッテージ伯爵が反乱を起こした。一万を超える軍勢が王都になだれ込み、守備隊を蹴散らして王宮にまで迫ったのは、エリアレッテも見た。軍勢はモラルが低い軍隊特有の凶暴性を見せつけ、略奪暴行の限りを尽くし、わずか二週間ほどで大陸の半分を支配するドムハイトの王都は三割方が焦土と化した。

王宮に立てこもり、必死の防戦を続けたアルマン王女だが、援軍もなかなか来ず、ついに死を覚悟する所まで行ったらしい。

ようやく何名かの将軍が、援軍を伴って到着したのは、その後のことだった。元々烏合の衆に過ぎなかったカッテージの軍勢は蹴散らされ、王都には治安が戻った。戻ったのだが、焼き払われた王都は元に戻ることもなく、民も多くが犠牲になった。

一連の事件は、牙の仕業ではないことが既にエリアレッテには分かっていた。しかし、誰が一連の事件の糸を引いていたのかは、未だによく分かっていない。エル・バドールの勢力は一旦本拠に戻り、態勢を立て直しに掛かっていることが分かっている。それを考慮すると、まだ未知の勢力が大陸には存在しているとしか思えない。

「ほぼ、内容には間違いがありません」

「そうか。 現場を見てきた君の言うことだ。 信用に足る」

そう言うと、王子は次の書類を出してきた。

「此方は?」

「見て欲しい。 君ならば、この書類の重要性を理解できることだろう」

言われるまま、書類に目を通す。

かなり古い書物であるらしく、一部黄ばんでいる。書庫の相当奥深くから引っ張り出してきたらしいことは間違いない。

それは、レポートだった。

「旅の人……?」

「そうだ。 エル・バドールの錬金術の基礎をもたらした存在が、そう呼ばれていると聞いている」

レポートに目を通す。

以前何度か、小耳に挟んだことはあった。だが、話半分であり、そもそもそんな存在がいてどうなるとも思っていなかった。

だが、しかし。このレポートの内容を見る限り、今後はそのようなことも言ってはいられなくなるだろう。

あのドムハイト王都の混乱は、かなり根が深い所から主導されていた可能性が高い。カッテージはやはり小物に過ぎず、後ろでとんでもない存在が糸を引いていた可能性が、出てきた。

もしもその存在が本格的に活動を開始すると、シグザールも危ないかも知れない。いや、危機は既に目前に迫っているのかも知れなかった。

「エリアレッテ。 君はクーゲルと同じく好戦的な人間と聞く。 しかし、それでもこの秩序が崩壊し、大陸が殺し合いで満ちることを望みはしまい? 君の望む環境が整えられているのも、騎士団というバックボーンが存在し、そのさらに背後にはシグザール王国があるからだ」

「その通りです。 私は質の高い戦いを楽しみたいとは思いますが、有象無象を蠅のように叩くことは好みません」

「それならば、なおさらだ。 私の指揮下、これから幾つかの任務を受けて欲しいのだが、構わないだろうか」

クーゲルをもう一度見るが、頷かれる。

つまり、クーゲルも納得する内容だ、という事だろう。

すっかり牙を抜かれたカミラ=ブランシェや、騎士団長として無難な武人に成長してしまったエンデルクは、ダーティワークには適さない存在となってしまっている。実のところ、今回の一連の事件は、ブレドルフが主導していたのではないかとエリアレッテは思っていた。だが、先ほど見せられた資料の内容を吟味する限り、予想は出来ない状態に戻ってしまった。

「分かりました。 元より私は聖騎士です。 殿下のご随意のままに」

「心強い言葉だ。 では早速だが、牙の何名かと共同して、ドムハイト北東部に向かって欲しい」

それはよく分からない。

ドムハイト北東部は、既にアルマン王女の手で統一されて、治安も回復しつつある地域の筈だ。今更牙が向かった所で、益があるとは思えない。まして戦闘以外に取り柄がないエリアレッテがわざわざ行くことに、意味があるのだろうか。

書状を渡される。蜜蝋で封をされていた。しかも、シグザール王国の玉爾で、である。

これは国家機密級の文書だ。

流石に気を引き締めるエリアレッテに、王子はこれから会うべき人間の名前を告げたのだった。

 

アカデミーの地下から、何名かの教師が上がってくる。いずれもが錬金術師として熟練の技を持つ者達であり、ここ数ヶ月、生徒の教育よりも本業の方に力を注いでいた。その内容とは、以前カスターニェで撃破された、フラウ・シュトライトの解析である。

その最終的な結果が出たので、彼らは辛気くさい腑分け場から解放されたのだった。

彼らの中には、蒼白な顔をしたクライスも混ざっている。クライスは途中から解析に加わったのだが、兎に角凄惨な職場で働き続けたため、精神を摩耗しきっていた。家に戻って吐いたことも一再ではない。

兎に角、血と臓物だけをここしばらく見ていた気がする。クライスは一般学生の学年度試験が終わった頃から加わったとはいえ、とてもではないが正気を保てる職場ではなかった。

「はあ、やっと終わったな」

「これで、次はどうにかなるだろう。 それにしてもしんどい仕事だった」

前を歩いている老齢の錬金術師達が、やれやれと言った風情で話をしている。クライスも同感だったが、話に加わるほど気力が残っていなかった。

やがて、全員はイングリドの部屋に入る。

それぞれの手には、血と油に塗れたレポートがあった。

イングリドは魔法陣の中央に置いた中和剤を、丁度取り上げている所であった。禍々しい色をしており、相当な魔力が充填されていることがよく分かる。複雑な器具類の中では、複数の調合が同時進行しており、かなり難しい実験が行われているのは間違いない所だった。

ただし、部屋に不気味な薬剤の臭いは殆どしない。見れば、幾つか天井から伸びている器具類に、部屋の空気が吸い込まれている様子だ。イングリドはあまり知られていないが、生きている道具類の発明に関する大家でもある。恐らく、あの配管は、発明品の一つなのだろう。

「報告を聞きましょうか」

「はい。 それでは」

一番年配の錬金術師が、まずレポートを読み始める。彼が担当したのは、もっとも重要性が高い、フラウ・シュトライトの外皮に対するものであった。

実際にクライスは戦場に行ったわけではないのだが、フラウ・シュトライトはあのマリーブランドの、しかも戦略兵器であるフラムの火力に何度となく耐え抜いたばかりか、術や能力による猛攻にもびくともしなかったという。

術式の威力を半減させるドラゴンの鱗に匹敵する外皮を持っているのではないかと推察されていたが、結論はそれに近いものであった。

「確認した所、フラウ・シュトライトの表皮は四重の構造を持っていました」

「ほう」

「一番外側は、粘液に覆われています。 この粘液の成分は、沼地に棲息している何種類かの生物に近く、非常に強力な免疫を持っています。 正直な話、毒や病気でフラウ・シュトライトを仕留めるのは難しいでしょう」

「続けていただきましょう」

老錬金術師は、報告を続ける。

元々彼は、高名な魔術師だった人物である。錬金術師になってからも、その実力は変化していない、はずなのだが。

娘のような年のイングリドに低姿勢を貫き続けているのは、相手の怪物性を嫌と言うほど知っているからだろう。クライスだって、この老錬金術師と同じ年だったとして、イングリドに対抗できるかと言われたらどうするか。多分否と応えざるを得ない。

教師として経験を積まされて、それで嫌と言うほど悟った。

天才というのは、常識的な概念でははかれない才能の持ち主のことを言うのである。恐らくイングリドやヘルミーナは、間違いなくそれだ。クライスも天才とか学生の間は言われたが、どうしてどうして。クライスが蝋燭の火だったら、目の前にいるイングリドやヘルミーナは、ドラゴンの吐く火球だ。

「二層目は解析して分かったのですが、ドラゴンの鱗に近い性質を持っています。 というよりも、微細すぎて確認は難しいのですが、そのまんまドラゴンの鱗と同じもの、と考えて良さそうです。 しかもこの二層目、一枚だけ生えているドラゴンの鱗と違い、実に子供の足の長さほども厚さがあります。 生半可な術式では、そのまま跳ね返してしまうことでしょう」

「ふむ、なるほど。 三層目は?」

「正確には違うと思うのですが、脂肪に近い構造です。 これは衝撃緩和剤として、非常に強力な効果を持っています。 耐熱効果も高いように見受けられます」

話を聞けば聞くほど、フラウ・シュトライトという存在が、自然界にはあり得ない怪物だと言うことが分かってくる。

クリーチャーウェポンとは良くいったものである。

四層目の説明も、老錬金術師は行う。彼の話によると、四層目は複雑な器官が血管とともに縦横に張り巡らされており、傷を受けた時に修復するための機能があるのだという。レポートを見れば見るほど、生きた要塞という風情の生物であった。

他の錬金術師達も、順番にレポートを読み上げていく。

あるレポートでは、フラウ・シュトライトの食性について触れられていた。やはりこの巨大な怪物は、ドラゴンに似て、殆ど餌を必要としていない。胃袋は非常に貧弱で、しかも中にはほぼ何も入っていなかったという。

クライスの順番も来た。

クライスは神経の調査を担当した。その結果は、クライスも未だに信じられないものであった。

「これは信じがたいことなのですが、フラウ・シュトライトの体内には、人間の頭ほどもある巨大な神経の塊が数十個存在していました。 発見できただけでもそれで、全体の体長から考えると、百を遙かに超えていると思われます」

「それで、貴方の結論は? クライス=キュール」

「は、はい。 この神経は、脳を補助する役割があったものだと思われます。 同じような構造の生物は、私はあまり詳しくないのですが、例えば昆虫などがそれに当たるのでは無いでしょうか」

腕組みしたイングリドは、付け加える。

「いいえ、実は他にも類例があります。 近年、ドラゴンの化石とされていたものが、恐竜という別種の古代生物だと判明しています。 彼らはドラゴン並の巨体を持つ生物だったのですが、巨体を制御する工夫として、同じようなものを体内に持っていました」

「なるほど」

「クライス、有用な研究でした。 そして、恐らくは。 フラウ・シュトライトを仕留める工夫も、それで構想できました」

いまいちぴんと来ないのだが、イングリドが言うからにはそうなのだろう。これに関しては、絶対的な信頼がある。

この信頼は、実績に基づくものだ。

この人はいちいち化け物じみていて、発明の精度も錬金術の研究成果も、並の人間では想像できない次元に到達している。

とりあえず、発表が終わったことで、これからは通常の教師業に戻ることになる。クライスは肩を叩きながら、部屋を出た。

「やれやれ、これで血脂に塗れずに生活できるな」

「クライス先生。 貴方もどうですか、一献」

「いただきましょう。 僕も今日はとことん飲みたい気分です」

誘ってくれた錬金術師は、フラウ・シュトライトの巨大な眼球についての研究をしていた人物であった。

巨大な眼球は人間のものに近いほど精度が高く、しかも水中を立体的に、なおかつほぼ全角度を網羅できるほど視界が広かった様子である。興味深い素材ではあるが、それに暗い研究室でずっと向かい合っていては気も滅入る。

それにしても凄まじいのは、この怪物を実際に仕留めて見せた鮮血のマルローネことマリーだろう。クライスだったら、腰が引けてしまって、とても戦える相手ではない。死んでいると分かっていても、化け物の凄まじい身体構造には、何度も戦慄させられた。

この化け物を送り込んできたのが、エル・バドールだという事は分かっている。だが、目的がクライスにはよく分からない。ドムハイトの弱体化で上り調子のシグザール王国と、今するべきは紛争ではなく協調に思える。これでは、長期的に見てエル・バドールにも不利益になるのではないのか。

或いは、その程度も判断できないのが、エル・バドールの本当の姿なのかも知れない。これほどの怪物を造り出す技術がありながら、いやだからこそ、著しい弱体化が、その内面を蝕んでいるのかも知れなかった。

飛翔亭に出向く。

ディオ氏が、皆に酒を振る舞ってくれた。多分イングリドが手を回してくれていたのだろう。看板娘のフレアが料理を運んでくる。クライスが学生になったばかりの頃はまだ幼さも残っていたが、今ではすっかり艶然とした大人の女性だ。彼女はクライスの姉の友人で、色々と世話になることも多かった。

そういえば、昔のクライスは性悪だとか言われたこともあった。だが、更に獰猛なマリーの気に当てられたか、今ではすっかり丸くなってしまった。思えば、あのような存在には対抗できないと、本能的に悟ったのかも知れない。

マリーのことは、気になる。

だが、今は勝てるとはあまり思えない。それでも良いと思え始めているのが、大人になったが故のことなのかも知れない。

気を効かせてくれたのか、野菜類を中心とした料理が多かった。ジョッキのビールで乾杯する。かなり度数が強い酒であり、先にクライスは懐から錠剤を出した。

「おお、クライス先生。 それは?」

「三年のキルキが開発した悪酔いを止める薬ですよ。 学生が作った薬の中では、抜群の効能でしてね。 僕はアルコールにあまり耐性がないので、愛用しています」

「そうでしたか。 しかし、今回の三年生は優秀ですなあ。 ヒドラとか言われているあのエルフィールも、相当にいいものを作ってくると聞いています。 チーズケーキは確かにほっぺが落ちるようでしたよ」

「いやいや、ノルディスも忘れてはなりませんぞ。 若干杓子定規な所がありますが、なかなかに良い薬を作ると言うことで、評判です。 施療院から、将来うちにくれないか、何て話しも来ているそうでして」

クライスが錠剤を口にしている横で、話が、三年生達のことで盛り上がる。

現在の最上級学年である四年生が無能なのではない。三年生が異常に優秀なのだ。同学年の生徒達から野生児軍団とか陰口をたたかれている、キルキを筆頭とする四人が、兎に角例年にない成果を上げている。

中でも、その中では二番手のエルフィールは凄まじい。いつも笑顔を作って歩いているが、クライスは肌で感じている。あれはマリーの同類だ。噂に聞いただけだが、そのままずばりマリーの秘蔵っ子という噂もある。出所が出所だから、かなり確度の高い噂だ。

所詮はしがない一教師。アカデミーの闇については、詳しく立場にはない。まあ、そうでも驚くことはないと、クライスは考えていた。

「アイゼルもなかなか。 最初は貴族のお嬢かと思いましたが、最近はすっかり自活して、作るものも目に見えて良くなってきているとか」

「マントから靴に到るまで、全て自作だそうですよ。 あれはなかなか。 実家はのんびりした二代目のせいで傾いているとかいう話もありますが、彼女が当主になればすぐに持ち直すことでしょうな」

「新入生の時は気の毒なほど突っ張った哀れな子供だったのに、本当に若い人の成長は早いですなあ」

からからと、皆自分のことのように笑う。

誰もが、生徒達のことを好ましく思っている。理由は簡単なことで、彼らが受けている試験や試練の厳しさを、知っているからだ。そんな中でも目立ったドロップアウトをすることもなく、食いついてきているのである。若人よ、頑張れと言いたくなるのもクライスにはよく分かる。

優秀な生徒達の話で、華が咲く。クライスは話には積極的に加わらず、話が振られた時だけ適当に応じていた。

やがて、錬金術師達がめいめい引き上げていく。クライスは、ふと孤独を感じた。

酒場は喧噪に包まれているのに、いつの間にかクライスは守りに入った人生を送っているような気がする。

自分の力量を、もう見極めてしまったからだろうか。

そう思うと、薄ら寒い。このまま老いて朽ちていくような気分に、クライスは包まれていた。

身震いをすると、酒を飲み直す。

しかしこの不快感は、醒めることがなかった。

 

闇の中に、幾つかの人影があった。

深い森の中である。原生林と言って良い其処で、長身の人影は、全身を隠すフードを被って傅いていた。

「なるほど、そう言うことか」

「ブレドルフの覚醒により、シグザール王国の成長は当分止まることがありません。 それに対して、ドムハイトは全体に罅が入っている状況です。 アルマンが如何に優秀でも、食い止めることは難しいでしょう」

「それに関して、daoshfpoadnfuihoiugから興味深い報告がある様子です」

影の一つが顔を上げる。

まだ若い、中性的な顔立ちが、外気に晒された。原生林だというのに、汗一つ掻いていない。肌は生白く、まるで人形のようである。

そして、両目は、それぞれ色が違っていた。左は黄色、右は黒。

髪の毛は緑色。

あまりにも、人間としては異常な配色であった。

「どうやらブレドルフは、父王とは違う未来を模索している模様です。 そのまま行動させると、我らにとって邪魔な存在になりうるかも知れません」

「それは、現状の戦略を否定するという意味でか」

「御意」

「それは、我らにとって邪魔になるとは言わない。 学習せよ」

人間には発音しがたい名前で呼ばれたその奇怪な人のような者は、あたまを下げると、フードを被り直した。

彼らが傅いている先には。

何者の姿も、無かった。しかし、彼らは、その声を確実に聞いていた。

「今回の件について、使った道具は全て処分。 今度はシグザール側に圧力を掛けて、様子を見る。 準備は出来ているか」

「出来ております」

「すぐに実行に移せ。 シグザール王国側の対応能力を試し、戦略を微調整する」

声が止む。

フードを被った影達は、いつの間にかその場から姿を消していた。

 

(続)