価値等しきもの
序、皆殺しの風
幾つかの拠点が、同時に襲撃を受けた。どうやらシグザール王国の騎士団も、本腰での対応を開始したらしかった。或いは、捕らえられた密偵が、そろって情報を吐かされたのかも知れない。
多分、情報が出たとしたら、ガルティスからだろう。彼の消息は既に途絶えている。ドムハイトの協力者も多くが消えた。殺されたか、捕らえられたか。いずれにしても、もう生きてはいないだろう。
どれだけ残虐な拷問を加えられたのか、わからない。だから、ガルティスを責めるわけにもいかなかった。
セルレンは呼吸を整えながら、石に腰を下ろした。
光が殆ど差し込まない森の中のことである。どうにか追撃を振り切り、退却時の合流地点としていたここにまで逃げ込んだのだ。
おいおい集まってくるのは、怪我人ばかりである。ドムハイトの領内には逃げ込んだが、拠点はあらかた失ってしまった。人員も、本国から補充をしないと、とてもではないが戦線を維持できないだろう。
水を差し出された。
ローウェルだった。
「セルレン様、此方をどうぞ」
「ああ、すまん」
ざっと見た所、三十人も周囲にはいない。兵力の七割は失ったと見て良いだろう。
幸いなのは、フラウ・シュトライトの稼働は間に合ったと言うことだ。カスターニェを封鎖していた1号は死んだが、同等の大きさを持つ2号、3号が、沖合の航路にて動き始めている。
また、急あしらえの4号、5号については、二匹同時に稼働を開始。エル・バドールへの航路を塞ぐようにして配置させていた。
これで、少なくとも海上では、シグザール王国は好き勝手を出来ない。大きな被害は出したが、足止めだけはどうにかなった印象だ。
水を飲み干すと、全身の痛みに呻く。
逃げる途中、噂は聞いた。あの鮮血のマルローネが、前線に出てきていたらしい。盗賊やドムハイトの間諜が恐れるわけである。この有様を見ると、自分たちが如何に危険な敵を相手にしていたのか、ようやくわかった気がする。
ガレットが来た。沈鬱な表情をしていた。
「二つの小隊が全滅しました。 そのほかにも、損害は甚大です。 拠点は全て壊滅と考えてください。 クリーチャーウェポンは、生存ゼロ。 全て捕獲されるか、潰された模様です。 今、残存勢力を二つの小隊に纏めていますが、これでも戦闘能力は以前の小隊の半分以下と見る他無いかと」
「一旦、退却するしか無さそうだな」
「左様で」
ドムハイトも、反撃の準備をしているようだが、いかんせん兵力が足りなさすぎる。首都に入り込んだ牙とはどうにか必死の防戦をこなせているようだが、それ以外の地域では押される一方だ。
ここも、ドムハイト領地だからと言って安心は出来ない。確かここの領主はドムハイト側だが、それも何時宗旨替えするか、知れたものではないのだ。
もう、集まってくる味方はいないと、ガレットは判断したらしい。キャンプを畳むように、周囲に指示を出し始めていた。
「情けない話ですが、海路を通って一度戻りましょう。 既に継戦が可能な状態にはありません」
「ドムハイトはどうしている」
「王女を中心に戦力を再編していますが、何しろ首都にまで牙に潜入されている状況ですし、我らになど構っている余裕はないでしょう。 支援をむしろして欲しいというのが、向こうの本音かと思われます」
「どうやら、もはや選択肢はないか」
報いを受けたのかも知れないと、セルレンは思った。
考えてみれば、シグザールの民には、何も恨みもない。利害関係すら、殆ど存在しない。
それが、恐怖に駆られた本国の長老達の指示で、災厄をばらまいてしまった。むしろ、争いの種を、植え付けてしまったとも言える。
シグザール王国は与しやすい相手などではないが、それでも最初は向こうから手を差し伸べてきたではないか。それなのに、手を払うどころか、相手の顔に泥を塗り、更に民を害するような真似までした。
きっと、シグザールの民は、エル・バドールの長老達を許しはしないだろう。
イングリドやヘルミーナが、向こうに付いたのは仕方がないことだとも、セルレンは思う。幼い頃に散々虐待してくれた上に、今は全く時勢が読めずに愚かなことばかりを繰り返しているのである。
その上、錬金術師としての成果まで鼻で笑われたら、たまったものではないだろう。
「全員の手当をしろ。 それが終わり次第、ハムルの港に出る」
「故郷に戻るのですか」
「そうだ。 ただし、フラウ・シュトライトを避けるために持ってきた薬品類までも失ってしまっているから、再調合しなければならん」
フラウ・シュトライトは人間の見分けなどつかない。
エル・バドールの民が連中を手なづけるために使っているのは、一種の香りだ。水中に投下することで、幾つかの命令をこなさせることが出来る。どうしてそうなるのかは、高度すぎてセルレンには理解できていない。
薬品の調合そのものは、セルレンにも出来る。
それだけが、救いであった。
材料も、集めるのはそう難しくない。
「問題は、シグザール側にそれを嗅ぎつけられないか、ですが」
「それは心配しなくても良いだろう。 拠点に残してきた薬品は数百種類はある。 すぐにどれがどの役割を果たしている、などという解析は出来まい。 例え噂に聞く鮮血のマルローネや、イングリドやヘルミーナが如何に優秀でも、だ」
ましてや、ここで問題にしている薬品は、本国でもトップシークレットだ。シグザールのアカデミーがフラウ・シュトライトの死骸を回収したことからも、技術が漏洩していないのは明らかである。
ただし、それもいつまでもは続かないだろう。
連中は腹立たしいほどに優秀だ。いずれ気付かれる時が来る。その時には、フラウ・シュトライトは無力化されてしまうだろうし、エル・バドールも危機に晒されるだろう。ただし、本国にはまだ多くのクリーチャーウェポンがある。それらを使うか、シグザールとの和平路線に移行するかは、しらない。
長老達が判断することだ。不愉快きわまりないが。
小隊を更に分隊に分けて、港に降りる。それぞれが変装したり、或いは闇に紛れて。
この港の拠点は、流石に潰されてはいないようだった。疲れ果てている部下達を休ませるように指示すると、セルレンは一人、ドムハイトとの連絡を取っている者を連れて外に出た。
「ドムハイトの者達も、怒るだろうな」
「そうですね。 此方の不甲斐なさが、はっきりしてしまいましたから」
「そもそも、根本的な戦略が間違っているとしか思えん」
シグザールのヴィント王は、老齢であると聞いている。しかも最近しっかりしてきたという話もあるとはいえ、跡継ぎのブレドルフは頼りないと噂がある。家臣団が彼を支える態勢が出来つつあるとは言え、対立国の指導者であるアルマン王女が傑物とも言える存在だという現状を考えると、出来るだけ早く問題を解決したいと願っているはずだ。
ならば、エル・バドールが進めるべきは、やはり平和攻勢だったのではないのか。
しかし、本国には逆らえない。逆らえない理由も幾つもある。
嘆息すると、憂鬱な気持ちを引きずって、セルレンは急ぐ。まだ、休むわけにはいかなかった。
港町に出ると、平和な光景がセルレンを出迎える。ドムハイトはシグザールに比べて貧しいし、人心も荒んできているが、辺境にはこういう場所もあるのだ。
勇壮な漁歌が聞こえる。地引き網をしているのだろう。
男女ともに筋骨逞しく、砂浜で網を引いている。非常に卑猥な内容の歌詞だが、リズムは軽妙で、思わず口ずさみたくなる。
こういう猥雑な生命力が、エル・バドールにはない。
長老達は鼻で笑うかも知れない。だが、もはや大型の猛獣さえもいないほど平穏に成り果てたエル・バドールの人間は、強みを何処かで失ってしまったのかも知れない。人間の強みとは、下手をすると他の全てを食い尽くしかねないような、こういった猥雑な強さではないのだろうかと、セルレンは思った。
本国には戻る。だが、長老達だけには、任せておけないかも知れない。
「如何なさいました、セルレン様」
「ローウェルか。 見よ。 大漁を喜ぶ民は、生命力に満ちあふれている。 エル・バドールにはない光景だ」
「発展しすぎた錬金術のせいで、ああやって村が一丸となって何かをなすという事が無くなっていますからね」
「そうだ。 漁一つを取っても、向こうでは薬剤を使っての一網打尽が普通だ。 ああやって全員が団結しないと、何も出来ないという現実はない」
欠点も、もちろんある。
こういう村では、使い物にならない人間は排斥される。村長などが優れている場合は、そもそも全員を巧みに教育して、ドロップアウトする人間を出すことはない。調査によると、セルレン達を壊滅させた鮮血のマルローネが所属しているドナースターク家は、そもそも小さな村の共同体から始まったそうである。
地引き網が終わった。
村の者達は、大漁に湧いている。ガレットが戻ってきた。
「村の者達が、魚を分けてくれるそうです。 ただとはいきませんが」
「そうか。 少し貰った後、今後のことについて考えよう。 長老達だけには、任せておけぬかも知れん」
「確かに、こういった小村の生命力は、エル・バドールにはないものです。 長老達は恐ろしい悪魔でも見るかのようにこの大陸の民を見ているかも知れませんが、前線で現実を見た我らには、違う判断も出来るかも知れませんな」
「お前は、最初の頃からそんな事をいっていたな」
数少ない、エル・バドールでも実戦経験を豊富に積んでいた人間の一人でもあるガレットは、思えば最初から無茶な攪乱作戦には反対していたようにも思える。御意と一礼するガレットを横目に、確保してあるあばら屋に。
酷い怪我をしている部下達のために、治療薬も作らなければならない。
激戦を経て、皆は知った。
この大陸は、故郷とは根本的に違っている。文明があるとか無いとか、そういう問題ではない。
むしろ、文明が発展した結果、失ってしまったものを、ここの民は多く持っているのだろう。
思えば、イングリド達も、そんな報告書を送ってきていたとか聞いた。長老達が少しでもそれを信じていれば、こんな破滅的な状況は避けられたのかも知れない。錬金術が出来る人間は、手分けして薬剤類の調合にはいる。幸い、この辺りは、素材も豊富だ。器具も、以前拠点としてこの辺りで活動していた頃に、持ち込んだものが少しはある。
セルレンも、今回は黙ってはいられなかった。
率先して調合を開始するセルレンを見て、部下達も動き出す。やっと、セルレンと部下達は、集団として一つになることが出来たのかも知れなかった。
1、試験前のひととき
学生になってから毎年受けてきた学年試験。成績に大きく関わる試験であり、一年以来キルキが学年トップである事の要因ともなっているものだ。しかしながら、今年は少しばかりいつもとは勝手が違っていた。
ヴィラント山から下りながら、エルフィールは先に歩いているアイゼルの背中を見つめる。今回同行してくれたハレッシュが、ひそひそと声を掛けてきた。
「ところで、いいのか。 そろそろ試験じゃなかったか」
「それが、今年はちょっと特殊でしてね。 三つある試験の内、一つはもう発表されてるんですよ」
「ほう?」
「まあ、具体的には、自分で錬金術の高度な産物を作り上げて、納品しろってものです」
ただし、材料は全て自分で都合する事という条件もある。モヤシ学生達には、ある程度の資金も渡されてはいる。
しかし、時間があるとはいえ、やはり渡された材料だけで調合をしている連中にとって、今回も試験は厳しい様子だ。
エルフィールはちなみに、既に納品している。納品したのはもちろんチーズケーキである。
別に好きだからではない。現時点でもっとも完成度が高いと考えているからだ。生きている縄は納品してしまうのがあまりにももったいないので、今回は候補から外した。アイゼルも、既に納品しているようだ。大粒のルビーを使ったカフスボタンで、細工と言いデザインと言い、はっきりいってほれぼれした。文句の付けようがない品だ。アイゼルの年代の錬金術師が作れるものとしては、まさに傑作の部類にはいるだろう。
「試験は、厳しいのか。 じゃあ、今回来ているのは何でだ?」
「お仕事があるから」
「なんつーか、お前ならともかく。 あの子も変わったよな」
「逞しくなったよねえ」
荷車ががたんと揺れたので、生きている縄に支えさせる。揺れがかなり激しいのは、積載量が大きいからだ。
荷車に積んでいるのは殆どが鉱石類である。鉱石類は豊富だが、その代わり危険なヴィラント山にアイゼルが行きたいと言いだしたので、今回は手伝っているのである。この間のチーズケーキ製造で随分手伝って貰ったから、今回はエルフィールとしても断れなかった。もう少し、試験に備えて勉強はしておきたかったが、こればかりは仕方がないだろう。アイゼルに義理があると言うよりも、こう言う所で不義理を働くと、後々影響が大きい。
坂道が終わって、平坦な道になる。荷車を引くのも、随分楽になった。
「ふう、やっと平らな所に出たわ」
「まだ、この辺りは危険だよ。 気を引き締めて」
「わかっているわ」
アイゼルが伸びをしていたので、釘を刺しておく。ヴィラント山は非常に強力な猛獣がたくさん棲息していて、かなり戦闘慣れしてきたアイゼルでもまだまだ危ない場所である。今回はエルフィールとハレッシュと、手練れが二人着いているから良かったが、本来なら彼女くらいの実力で来る場所では無いとも聞く。ただし、人間が入りにくいが故に、豊富な資源が残っているというのも、また事実なのであった。
山の裾野は荒野になっていて、ヴィラント山に住む大型獣の縄張りである。鉱石類もそこそこ豊富に散らばっていることもあり、腕に自信がない場合はこの辺りの採集で満足することも多いようだ。
だが、アイゼルは今回、山の中腹で取れる品質が更に高い宝石類の原石を必要とした。それだけ彼女の腕が上がっていることもあるし、何より仕事で求められる商品のレベルも上がっていると言うことだ。
森の中を突っ切って、街道に出て。
其処で、やっとエルフィールも緊張を解いた。
ハレッシュが荷車を押してくれるというので、頼む。少し疲れている様子のアイゼルと列んで、試験のことを軽く話した。やはり彼女も試験は不安に感じているようだが、しかしそれ以上に仕事のことも大事だという。
「大事なお客さんなの?」
「本当は、それほど大口の取引ではないの。 でも、お父様の取引相手でもある方だから」
なるほど。それで合点がいった。
アイゼルはマイスターランクを出た後の進路を明確に決めている。ワイマール家を継いで、傾いた自分の家を建て直すつもりだろう。
そのためには、今から取引先や、仕事の品質を重視しておかなければならない。彼女としても、辛い立場であっただろう。
客にしてみれば、有用な品さえ手に入ればどうでもいいのである。生産している側の都合なぞ、それこそ知ったことではない。それが社会と経済の現実であり、仕事をしていれば嫌でも覚える事であった。
しかしながら、商売には信頼関係も大きく影響している。
例えばアイゼルがこの先更に腕を上げて、唯一無二とも言える品質で商品を作れるようになった場合、立場は逆転することになる。アイゼルがへそを曲げたら品が届かなくなると、今度は客が困ることになるのだ。
それを考えると、アイゼルは早く更に腕を上げるべきなのかも知れない。どうしても他に幾らでも代わりがいる現状を考えると、立場は弱くなる。それを打開するには、一刻も早く一人前になるしかないのであった。
そしてそれは、エルフィールも同じ事だ。
人工レンネットとチーズケーキ以外は、まだまだ二流三流でしかない。今後は腕を上げていくことで、将来を切り開かねばならない。
「そういえば聞いた? 今度、アトリエと寮の中間みたいな施設を、アカデミーの敷地内に作るらしいよ」
「話だけなら聞いたわ。 いきなりアトリエに行くには抵抗があるような生徒を、十人くらいずつ其処で慣らすとか」
「そうそう。 ある程度の設備を整えて、より自活させる方向で行く、らしいね」
「勉強だけしか出来ない学生はかなり厳しい状況が続いているものね。 でも、彼らの反発もわかる気はするわ」
「私には逆によくわからないかなあ」
この間、エルフィールはロブソン村の話をアイゼルとノルディス、それにキルキにした。キルキもあまり良い環境では育ってきていないが、アイゼルもノルディスも、異空間の話でもされたかのような顔をしていた。
エルフィールにしてみれば、アトリエの生活など天国に等しい。寮での生活などしたら、多分心が緩みきって、絶対に駄目になるとさえ思う。
もっと、アトリエを外に作って、希望する学生を住まわせるべきなのではないかと、エルフィールは考えているほどだ。もっとも、二十万都市ザールブルグとはいえ、土地には限界もある。それにアトリエを建てる費用のことも考えると、それほど簡単な話ではないのだろう。
ザールブルグの南門が見えてきた。ここまで来れば、寮はもう間近だ。
街の中に来れば、流石にもう危険はない。寮の前で、アイゼルは荷物を下ろしながら言った。
「今日は有難う。 とても助かったわ」
「ううん、この間は世話になったから。 また何かあったら、声掛けてね」
「まるで別人みたいに仲が良いな。 最初の頃は見ててはらはらしたもんだが」
ハレッシュが荷物下ろしを手伝ってくれる。鉱石類とはいえ、特に宝石の原石などは下手に壊してしまうと大変なので、ハレッシュも気を使って丁寧に作業をしてくれた。ひそひそと、作業をしているアイゼルを見て、他の学生が陰口をたたいている。
すっかり野生に染まってとか、野蛮になったとか。
エルフィールは気にしない。まあ、アイゼルは以前女子のモヤシ組の筆頭も同然だったから、その変化について行けない連中もいるのだろう。昔はアイゼルも快く思ってはいなかったようだが、今ではすっかり何処吹く風になっている。
だが、流石に今は三年生だ。そろそろ順応して貰わないと困ると先生達も思っているはずだ。今年の試験は更に厳しくなることが疑いなく、ふるいは更に容赦が無くなる事だろう。
「じゃ、試験頑張ろうね」
「ええ。 今年こそは負けないわ」
手を振って、別れる。ハレッシュは荷車に残った素材もあるし、アトリエまで着いてきてくれた。
今回はせっかくヴィラント山まで行ったので、エルフィールもある程度鉱石類を集めてきている。といっても火薬の材料や、或いは鉄の原石、それにヴィラント山の名産であるグラセン鉱石など、アイゼルが欲しがる繊細な生成物とは真逆のものばかりだが。
アトリエに着くと、クノールが出てきて、手伝ってくれる。当然という風情で、ハレッシュも一緒に作業をしてくれた。特に重い鉱物類が入った木箱を率先して運んでくれるので、とても頼もしい。
ハレッシュは頭が悪いかも知れないが、こう言う所ではとても親切だ。というよりも、自分が苦労する事を厭わない、と言うことなのだろう。フレアもこの辺りに惚れたのかも知れない。
「これは、地下室か?」
「お願いします。 クノール、これは裏庭に。 湿気らないように、布を被せておいて」
「わかりました」
生きている縄も使って、細かく素材を分配する。この間のチーズケーキ大量作成の刻に地下倉庫はかなり整理したから、スペース自体は開いている。てきぱきと戦利品を片付けて、作業終了。やっと落ち着いた所で、地下室からチーズケーキを出す。
おやつ用および、来客用にとってあるのだ。既にレシピは完成しているので、今更作成に苦労することもない。しかも砂糖類が多いので、保存も利く。
「ハレッシュさん、お疲れです。 是非食べていってください」
「お、ありがてえ。 美味いんだよな、そのチーズケーキ」
生きている縄を使って、茶も出す。
最近は、チーズケーキに合う茶についても考えていた。チーズケーキはこのチーズの旨味が重要なので、あまり砂糖ばかり入れた茶でもよろしくない。かといって、東方から入ってきたグリーンティが会うかというと、それも否だ。
結果としては、香りを生かした茶が一番で、なおかつ癖のないものが良いと言うことになる。
ミスティカ茶は高級すぎるので、幾つかある茶葉をブレンドしたものを今は使うようにしている。流石にちょっとまだ自信はないのだが、このブレンドについては来た客皆に好評なので、そろそろ飛翔亭に持ち込んでみようかと思い始めていた。
ハレッシュはそんな事は気にしないようで、ただ美味い美味いと平らげてくれる。これくらい豪快に食べてくれると気分が良かった。
「あー、美味かった。 フレアさんに、お土産に持っていきてえな」
「そうですね、あんまりたくさんは私も生活があるから駄目ですけれど、一つだったら良いですよ。 今日も色々手伝ってくれましたし」
「お、そうか。 悪いな。 じゃ、また何かあったら声掛けてくれよ」
チーズケーキを入れたバスケットを片手に、ハレッシュは帰っていく。嘆息すると、エルフィールは生きている縄を使って、地下倉庫から参考書類を出した。
今年の試験は、かなり難しくなることが予想される。例年も工夫を凝らした内容ばかりだが、今回は一つ事前に提出物があると言うこともあって、残り二つが更に厳しくなることが目に見えていた。
今まで学んだことについては、問題ない。だから、弱点について補強していかなければならない。
特にエルフィールが苦手としているのは、豊かな生活に慣れきった二代目以降の貴族が喜ぶような品物。要するに実用性のない、芸術に分類されるようなものだ。
アイゼルが得意にしているこれらは、食料を除くとエルフィールにはどうも理解できないものばかりである。常に実用という事を念頭に置いてしまうエルフィールだから、かも知れない。もちろん、質実剛健を旨とするドナースターク家の風潮もあるだろう。
この間イングリド先生が、面白い話をしてくれた。
彼女の師匠であり、アカデミーの創設者である人は、スポンサーの確保に苦労したという。一代で財を為したような連中は海千山千も同然だから、イングリド先生達の師匠は、貴族の二代目や退屈に死にそうになっている貴族の妻を相手にしたという。しかしながら話はそれでも簡単ではなく、閑に飽き弛みきった貴族の二代目は気紛れでしかも気難しく、気分次第で品物を見る目を変え、どんなに良い品でも場合によっては塵のような値段で買いたたかれたとか言う話だ。
そう言う話を聞くと、芸術とは何だろうと思ってしまう。
だが、一度その良さが認められると、一気に引っ張りだこになるとも言う。アイゼルの場合は、今その過程に自らを置いている所なのだろう。
エルフィールのチーズケーキも、或いはその芸術に分類されるのだろうかと思うと、ちょっと違うとも感じる。このチーズケーキは、膨大な検証の果てに、美味しくなる組み合わせを片っ端から試して作り上げたものだ。緻密な理論と、実戦によってできあがった代物であって、刹那的な感性で善し悪しが決まってしまう芸術とは根本的に違うはず。
しかし、そうやって理詰めで考えるが、そもそも間違いなのかも知れない。
参考書を調べてみると、確かに高い技術が作成に必要となる品物は多い。アイゼルが、細くて白かった指を傷だらけにして苦労の末作ったカフスボタンなどは、細部の細部までに美しい意匠が凝らされていた。
だが、それも、権威とされるような人間が「気に入らない」といえば、途端に二足三文のがらくたと化してしまうのだ。
色々と、作り方は頭に入れておく。もしも本気でやるとすると、反射炉と呼ばれるような特殊な設備を導入する必要があり、かなり金も掛かる。しかし、何より愛着が湧かない以上、無理をするのは禁物かも知れなかった。
作れと言われれば作れる品は、それなりに多い。技術だけではなく、知識もしっかり覚え込んでおく。
しばらく教科書とにらめっこしている内に、昼になっていた。自分で肩を叩きながら、昼食を作りに掛かる。野草類がいくらかあるのと、この間仕留めた鹿の肉がまだ残っているので、それを使って炒め物を作った。
黙々と中和剤を作っていたクノールと、二人で食事にする。
「帰ってきたばかりだって言うのに、勉強熱心ですね。 私だったら、疲れて寝てると思います」
「一応鍛え方が違うからね。 そういえばクノールは、そろそろ昇格できないの?」
「いやあ、私達妖精族は、根本的に人間とは時間の感覚が違いますから。 長老達になると数百年は生きていますし。 パテットのように若手の有望株なんて言われている奴もいますけど、それでも貴方たちの感覚からすると吃驚するほど年寄りです」
「ふうん」
会話しながら、野菜炒めを口に運ぶ。なかなか燻製としては良くできた肉で、充分に楽しめた。サバイバルスキルも向上してきていて、進歩がわかってエルフィールとしても嬉しい所だ。
肉は燻製に限る。煙でしっかり燻すことにより、味に深みも出るし、保存も利くようになるからだ。アデリーさんにならったこれも、すっかり余所で通用するくらいの腕前にはなった。
鹿肉を堪能した後、また勉強を少ししてから、仕事にはいる。
施療院に納品する薬剤類が、まだいくらか残っていた。
テストばかりが、こなさなければならないことではない。もちろん芸術関連の知識を身につけるのも、今後のために必要なことだ。だが、生活費を稼ぐのは、それ以上に重要なことでもある。
前回のチーズケーキ大量作成で、エルフィールはかなりの収入を得たが、いつまた大口の出費が出るかわからない。その時にも備えて、貪欲なほどに金は蓄えて置いた方が良いのである。
作り慣れた薬品は良いのだが、最近はかなり難しいものもリストに載ってくるようになった。ノルディスほど派手に薬品を扱っていないとは言え、何か不具合が起きたら大変である。こういう場合は、錬金術の参考書をしっかり読み込んで対応しないと危険きわまりない。
一通り作業が終わると、昼になっていた。
「じゃ、施療院に出かけてくるわ」
「少しはお休みになられては」
「今日、朝出てくる前に寝たから大丈夫。 今回は三交代で見張りしたからね、二刻半くらい寝られたし」
「はあ、そうでしたか」
そういえば、いつもクノールは四刻くらい眠っている。眠りすぎだろうと思うのだが、まあ体力は人それぞれだ。あくまで助手と言うこともあるし、こき使いすぎて壊れてしまっても仕方がない。
生きている縄達が、勝手にドアを開けてくれたので、快適に外に出られた。うしろでがちがちと音がしているのは、生きている箒とゴミ箱が、それぞれ足を鳴らしているのだ。行ってらっしゃいと言ってくれているのである。まったく可愛い奴らである。
そういえばカトールに調べて貰ったのだが、生きている箒の中身は巨大な毒蜘蛛と蠍と鴉の悪霊が入っており、ゴミ箱の方はシデ虫と百足と六人殺した連続殺人犯だそうである。なかなかに楽しい分析で、エルフィールとしても心が躍る。
施療院に着くと、長い髭のゼークト先生と鉢合わせした。
「エルフィールだったな。 真面目にやっているようでなによりだ」
「此方こそ、お得意様としてこれからもお引き立てよろしくお願いします」
「ふん、そうだな。 最近使うようになったノルディスって子の薬も品質が良いが、お前さんのも悪くない。 これからも頼むぞ」
ちらりと奥が見えた。どうやらこれから結構難しい手術らしい。
回復の術式が使える騎士が来ている様子からして、多分外科手術だろう。ゼークトがしきりに甘いものを口に入れていることから言って、かなり集中力が必要らしいことは見て取れる。
「大変そうですね」
「そうだな。 成功率はあまり高くないが、巧く行けばあの子供は歩けるようになる」
「へえ」
「何でも、お前さんと同じ錬金術アカデミー三年生だとか言ってたな。 ひょっとすると、試験で鉢合わせるかも知れないぞ」
三年生。
そういえば、上位学年から留年した人物で、入院中というのがいるとか聞いた。多分、奥にいる子がそうなのだろう。ゼークトの言い方からして女の子か。まあ、ライバルが増えるのはちょっと歓迎できないが、刺激になるのだとしたらと自分に言い聞かせる。
それにしてもゼークトも医師なのだなと思う。
新しい技術による手術をこれから試す事で、緊張しているのはわかる。だが、それ以上に楽しそうに見えるのだ。
やはり医術が、根本的な所で好きなのだろう。
あるいは、医術で誰かを救うことが、かも知れない。いずれにしても、エルフィールには関係のないことだ。
幾つかの得意先を回って、アトリエに戻ると、再び勉強に没頭する。ある程度補強が出来たのは、夕刻のことだった。
地下室の魔法陣から、クノールが中和剤を持って上がってきた。まだまだ、吸血鬼から強奪した手鏡は機能しているようだ。根本的なハンディキャップである生体魔力の無さだが、今のところはどうにか補助できている。
問題は今、別の部分から噴出し始めていた。
頭をかき回す。図書館から借りてきたヘルミーナ先生の著書を読み進めていて、どうしてもクリアできない問題に直面していたのだ。先生の本が難解なのではない。生体魔力が、どうしても必要な箇所が生じてきたのである。
「どうしたんですか、エルフィールさん。 難しい顔をして」
「うん。 ちょっとホムンクルスの理論を調べてたんだけどね」
「へえ。 ホムンクルスですか」
フィンフは何度かアトリエに来ているし、クノールも知っている存在だ。場合によっては職を奪われるかも知れないのに、脳天気な話であった。
そもそもホムンクルス=人工生命体の作成とは、錬金術の奥義の一つ。生きている縄などの、悪霊をコアに使う道具類とは根本的な次元が違う存在である。何しろ、三つの大きな課題をクリアしなければならないのだ。
一つ、肉体の作成。
一つ、魂の作成。
そして最後に、心の作成である。
まず最初のベースとなる肉体の作成だが、これがそもそも極端に難しい。ここで言う肉体とは、血肉の通う生命体という意味だが、これにはクリアするべき課題が幾つもある。まず第一に、生命を維持するのは、とてつもなく大変だと言うことだ。
殺した動物を放っておくと、あっという間に傷んでいくのがよくわかる。これはそれだけ、肉体を腐らないようにする努力が必要だと言うことだ。死が招く停滞は、肉体を見る間に崩壊させていく。
肉をつなげて、体を作ることはそれほど難しくない。場合によっては墓から新鮮な死体でも盗んでくれば良いことだ。だが、それが動き続けるように維持するのは相当に大変なことなのだ。
ヘルミーナ先生も、最初は生きている道具類の延長線上として、これを実施した。つまり人形などを使うことで、「人に近い姿を持つ動く道具」から開始したそうだ。実際に肉を持つホムンクルスを作成したのは、十代の半ばからだという。それも最初は造った端から肉体が崩壊するようなことも多く、失敗の連続だったそうだ。
この肉体の生成については、ある程度マニュアル化されている。まず人間の情報を持つもの、髪の毛なり精液なり経血なり、どれでもよい。それから人の情報を抽出する。過程は複雑だが、これについての理論は良くわかる。多分、子供を体内で作る過程を、人工的に行っている、と言うだけのことだ。多少技術は複雑ではあるが、理解できない事ではない。
続いてこれを培養する。
人間の子宮に近い環境を造り出し、その中で特殊な状態に温めた情報体を増やす。
そのままだと無秩序に血肉が増えてしまうので、ここで特殊な操作を幾つか加えることにより、人間の肉が出来るようにする。
二月ほどで、人間の形が出来る。もう二ヶ月ほど培養すると、十代前半の子供くらいまで育てることが出来るそうだ。
ヘルミーナ先生の著書によると、様々な工夫の結果、一月半ほどで先生は子供の姿まで肉を育てることが出来るそうである。今後は更に改良を重ねる予定だと、実に楽しそうに書いてある。
さて、これで肉を作ることが出来る。
問題は次だ。
ここまでは、殆どの錬金術師が出来るという。しかし、肉はそのままだと眠るだけであり、一定方向の心を持たないという。理由はよくわからない。
幾つかの例では、肉が何かしらのショックで目を冷まし、そのまま生きたという例もあるという。しかしそれはホムンクルスとしてではなく、ちょっと変わった出自の人間として、であった。実際に人間とはなんら変わることが無く、ホムンクルスとしては失敗例だと記述されている。しかもそのショックを再現できるわけでもなく、確実性がまるで無いため、とても成功例だと強弁は出来ないのだそうだ。
ここで、魂の生成が必要になってくる。
ヘルミーナ先生の著書によると、それは肉体にあうよう調整した一種の宝石によって造り出すという。外科手術によって、命令系統として宝石を埋め込むのだそうだ。それには光石を始めとした材料による複雑な生体魔力伝達機構を埋め込むことにより、中枢的な意識の存在を作成する。
これが、擬似的な魂として働くという。
もちろん外科手術を行うため、肉への負担が大きい。今まで様々な工夫をしてきてはいるものの、未だホムンクルスの寿命が二十年程度なのは、どうしても肉と宝石の反発が働くから、と言うことであった。
ヘルミーナ先生の目標は、様々なデータを取り、この肉体の寿命を最終的には無限大まで増やすことだという。そのためか、この疑似魂となる宝石の作成難易度は最上級のものであり、賢者の石につぐほどになっているという。
確かに、話を聞く限り、難しくなるのも仕方がないと言える。エルフィールも同じように研究を進めていたら、そういう結論に達していたかも知れない。
そして、これは作る過程で、生体魔力を非常に緻密に知り尽くしている必要が生じてくると言う。考えてみれば他の肉体の生体魔力をどうするか設計するわけで、しかもベースに自分の生体魔力を使うとなるとなおさらだ。
こればかりはどうにもならない。
エルフィールの肉体をベースにホムンクルスを作るとして、生体魔力がないものが出来てしまったらどうなるのか。少なくとも、まともに動くとはおもえない。あれだけ強大な魔力を備えたヘルミーナ先生でも、ホムンクルスの生成には苦労しているのだ。魔力皆無のエルフィールの場合、どんな怪物が出来てしまうことか。
更に次がある。一番難しいのが最後である、心の作成だ。
ここから、今まで饒舌すぎるほどだったヘルミーナ先生の説明が、急に事務的になっている。色々とろくでもないことがあったことが、明らかすぎるほどである。字までがしおらしくなっているので、余程のことだったのだろう。ヘルミーナ先生はこう言う所が分かり易くて、ある意味可愛い所でもあるような気がする。
心は、魂の役割を果たす宝石に、様々な命令を与えることで作り出すという。放って置いても子供が周囲のことを学習していくように、ホムンクルスも学習を行う。それは魂の性質によってもある程度は意味を成してくるようだが、しかしやはりそれらは、感情と密接な関係を持ってくると言う。
そしてヘルミーナ先生は言う。
感情を、下手に与えようとするなと。
理由は書かれていない。ただし、この様子からすると、ホムンクルスには余程感情と相性が悪い何かがあるのだろう。ちょっと考えてみる。例えば、人間と同じ感情を与えたホムンクルスは、どう行動するのか。
頭がずきりとした。
どうも良くわからない。エルフィールも、感情がそんなに豊かな方ではないからだ。むしろ、感情をシャットアウトしている方が、様々な考え事も巧く行くような気がする。笑顔は全て作ったものだし、他も同じだ。
ヘルミーナ先生は、ホムンクルスに感情を与えず、心を持たせる方法について色々と書いている。その記述の中には、愛情は一方的なもので問題ないと、妙に力強く書かれている箇所もあった。
それには全面的に同意だが、やはり何か不自然なものも感じる。
気になったのは、ヘルミーナ先生が自分の成果を見せびらかしていないと言うことだ。あの性格から言って、どんな風にホムンクルスの研究が進んだのか、嬉々として書きそうなものなのだが。
しかし、この参考書を見る限り、現在の成果に着いてしか触れられていない。やはり、途中経過で大きなトラブルが一度ならずあったと言うことなのだろう。それも、あのヘルミーナ先生が、口をつぐむほどの、である。
やはりこの研究は、一筋縄では行きそうにもなかった。
ドアをノックする音。荷車の音もしたから、多分ゲルハルトだろう。ドアを開けると、やはり禿頭の汗を拭き拭きしているゲルハルトだった。
「よお、注文の品、持ってきたぜ」
「有難うございます。 早速、設置を手伝ってもらえますか」
「おうよ、それも含めて料金分だからな」
以前のど自慢大会で協力してからというもの、ゲルハルトはエルフィールにもう少し柔らかく接してくれるようになった。以前も豪快だが優しいおじさんだなと感じてはいたのだが、多少料金をまけてくれたりするようになってくれたので、とても嬉しい話ではある。荷車などは消耗が激しいし、余所では治せない部品もあるので、重宝していた。
持ってきてもらったのは、そのままヘルミーナ先生が使っているという、ホムンクルスの肉製造器である。といっても、全部自動でやってくれるような便利な品ではない。
一階の隅に設置して、竈から温度を送り込めるように、幾つかの管を床下に通す。この中に培養液を満たして、ホムンクルスの肉を作るのだ。調整は非常に難しく、そのため硝子張りである。全体的には大きな金魚鉢のようにも見えるが、底の辺りから伸びている複雑な管が、それの正体を容易には悟らせない。
「これ、ヘルミーナの先生が使ってるアレだろ。 人間製造器」
「ホムンクルスです」
「俺から言わせれば同じだよ。 多少変わった所はあるようだが、心はあるし、ヘルミーナの先生から愛情も受けてるし、逆に敬愛もしてる。 感情を与えてないみたいだが、それはどうしてなんだろうな」
「ゲルハルトさんは、やっぱりホムンクルスでも愛情があった方が良い、と思うんですか?」
当然だと、親父さんは機器類を設置しながら言う。培養液については流石にエルフィールが調合しなければならないので、今は硝子容器も空だ。不純物が入ると厄介なので、最後に蓋を閉じる。
「やっぱりよ、楽しい時には笑って、悲しい時には泣いて、腹が立ったら怒るのが、自然な姿だと俺は思うぜ。 そうでない奴も時々見るが、大体不幸な生い立ちだったり、生活をしてる奴が多い気がするな」
「そうですか」
「お前さんも優秀な錬金術師だが、人間としては未熟な点も多いからな。 まあ、ヘルミーナの先生くらいになると、やっぱり違う考えも出てきはするんだろうが」
参考になるので、話はしっかり聞いておく。
この人は歴戦の古強者で、様々な事も見てきている存在だ。だから、話していることはしっかり聞いておいて損はない。
まだ同級生達の三分の一以下しか生きていないも同然のエルフィールにとっては、他人の人生は垂涎ものだった。
設置が終わった。多分、ヘルミーナ先生の所に設置を直接行ったのもゲルハルトなのだろう。手際は非常に良かった。それにしても、複雑な機械だ。これを無から設計したであろうヘルミーナ先生の努力には頭が下がる。
これは予感だが、ホムンクルスという点に限定すれば、彼女を凌ぐ存在は世界にもいないのではないだろうか。噂に聞くエル・バドールでも、多くの人の積み重ねた知識を持っているという点でヘルミーナ先生を上回る人材はいるとしても、情熱と苦労において彼女を凌いでいる存在はいないように思える。
「よし、これで行けるはずだ。 だがわかっていると思うが、ホムンクルスだろうが相手は生きた存在だ。 もしも失敗しても、尊厳を忘れたりはするなよ」
「はい。 気をつけます」
清算を済ませる。ゲルハルトはまた少し値引きしてくれた。
銀貨の重みを確かめながら、ゲルハルトは言う。
「それと、この間ちょっと良さそうな杖が手に入ってな。 ちょっと大きめの依頼をしようと思ってるんだが、それをこなせたら譲ろうと思ってる」
「本当ですか?」
「ああ。 お前さん、生体魔力がないって聞いているから、多分有用なはずだぜ。 まあ試験が終わったらだな」
それは楽しみな話だ。ゲルハルトを送ってから、一旦ホムンクルスの育成装置にカバーを掛ける。
これも遊ぶのはテストが終わってからだ。
まずはテスト。
全ては、それを越えてからだった。
2,炎の学年度試験
早朝。アカデミーの正門前に、各生徒の第一次試験結果が張り出された。事前に提出することになった、錬金術による作成品の評価である。
一番は、ノルディスが造り出したアルテナの霊薬だった。これはアルテナと名前がつく秘薬の中では最高難易度を誇る品で、内臓系の病気に強い強力な薬品である。今でも治療法が確立されていない「塊」と呼ばれる難病でも、初期状態では治る可能性が高いとさえ言われている。
しかしながら、今までアカデミー学生で、特に通常学年の四年までに、これを作成した人物は存在しなかったという。これは流石に、ノルディスが一位を取るのも仕方がないことだっただろう。
二位はキルキとエルフィールが同点。
キルキが作ってきたのは、体内にあるアルコールを強力に消し去る独自薬だった。既に効果が判明しており、相当に強い酩酊状態にある人間でも、たちどころにしらふに戻すのだという。
ただし、大きな欠点がある。一度貰ったのだが、兎に角恐ろしく不味い。治療用の薬品として作ったとキルキが言っているとおり、酒を飲んだ後に気軽に口に出来るようなものではなかった。
エルフィールのチーズケーキも高評価だった。これに関しては、徹底的な工夫と努力が認められた、という事だろう。
アイゼルのカフスボタンが六位。その後は、アトリエ組が上位に大体食い込んでいる様子だった。
意外なのは、今までモヤシ軍団だった連中の中に、何名か上位成績者がいることだ。流石に彼らも、二年連続で低い成績を取って懲りたのだろう。外で仕事を受けにいっている者もそれなりに出始めているようだし、今後はうかうかしていられなかった。
「最初は、ノルディスが一番か」
「嬉しいよ。 学年度試験で、初めて一番を取れたかも知れない」
「でも、ここからは通さない。 キルキ、壁。 ノルディスに一位あげない」
胸を張ってキルキが言う。何処か微笑ましかった。
キルキは最近髪が伸びてきて、ツインテールに結い始めている。歩く度にひょこんひょこんと揺れるので、小柄なキルキの体格もあって、妙な層に人気が出始めているようだ。エルフィールにはあまり関係のないことであったが。
しばらく無言で成績表を見つめていたアイゼルが、顔を上げる。何かに気付いたらしい。そういえば、ちょっと前から焦げ臭い。
「見て。 校庭で変なことを始めているわ」
「また、校庭で何か試験をやるんだろうね」
生徒達も騒ぎ始めていた。去年は虎に眠り薬という、予想も想像も出来ない代物だっただけに、もう恐怖を顔に浮かべ始めている者までいた。確かに、虎を見たこともない生徒にとって、あれは悪夢以外の何者でも無かったことだろう。
ただ、エルフィールには楽しみだ。
試験はちゃんと受けてきたし、それでノルディスと二位を激しく争ってきたのだ。今更何を怯えることがあろうか。ずっと一位だったキルキに、ついに勝てる可能性さえもあるのだ。ここで怯える理由など、無い。
校庭にずんずん進むエルフィールに、キルキが着いてきた。ノルディスとアイゼルも。他の生徒も、おいおい着いてくる。
校庭に出た。
其処には、予想を遙かに超える存在が、鎮座していた。
イングリドは、大工達を動員してくみ上げた巨大な積み木の上で、試験に必要な薬品を取りだしていた。フラスコに入れたその薬品は、積み木に垂らすと、煙を挙げ始める。そして、徐々に積み木を伝って、下へ垂れ始めた。
「総員待避」
「よし、全員離れろ!」
大工達が、わらわらと積み木から降りていく。梯子が外れされていく中、イングリドは生身のまま飛び降り、着地した。高さは背丈の七倍を超えていたのだが、もちろん足は折れていない。
大工達が度肝を抜かれて立ちつくす中、イングリドはスカートについた埃を払う。さて、準備は整った。
ヘルミーナが来る。何名かのホムンクルスを連れていた。先頭にいるのはクルスで、残りは彼女の姉妹達だ。
「そちらは順調かしら」
「既に終わったわ。 後は任意のタイミングで着火可能よ」
「ふうん、しかし下品な積み木ね」
「どれも廃屋から取ってきたものばかりだし、誰も困らないわよ。 使用した薬品も、有毒なガスを出さないように私が調合したものだし」
これが、今回の試験である。
大工達は下がらせて、代わりにマイスターランクの学生達に、資材の準備をさせる。積み木の上部から、煙が上がり始めている。そろそろ勘が鋭い生徒は気付くことだろう。
この校庭は、少し前に作った。中庭だけでは試験に手狭だと気付いたので、開いているスペースの草をむしり、生えないように処置を施して作り上げたのだ。広さは三百五十歩四方。時々この広さを見て、騎士団が訓練に使いたいと言ってくる。もちろん小金稼ぎになるので、貸し出している日も多い。
図書館の影になる形で、日陰もあるので、夏にはちょっと過ごしやすい場所でもある。
最初に姿を見せたのは、やはり好奇心満々のエルフィールだった。キルキにノルディス、アイゼルもこれに続く。
カウントする先着二十人。もちろん得点を追加するためだ。今回の試験は、全生徒が正門に来ていることを確認した上で始めた。
全員が揃うまで、四半刻程度。一応出席を取るが、欠席者はいなかった。正門に集まっていた生徒達は、きちんと全員が此処に来たと言うことである。これで、試験をようやく開始できる。
「さて、それでは、今年度の試験を始めます」
イングリドが指を鳴らすと同時に、積み木が着火。盛大に炎を噴きだし始めた。事前にとばしておいたイングリドの術を使用しただけである。なお、これだけ派手に火をあげる作業であるから、騎士団に事前申請はしっかりしてある。
「最初の試験は、この炎を消す事です。 効果がある薬品を作り、使用しなさい。 完全に火が消えたら、試験終了とします」
「試験時間内だったら、何度でも挑戦して良いんですか?」
「その通りです。 しかし材料には限度があるから注意しなさい」
イングリドの説明が終わると同時に、生徒達がばっと散った。ホムンクルス達に合図。
何で今回はホムンクルスを動員しているか、わかっていない生徒が多い様子なので、イングリドはちょっとおかしかった。一昨年も去年も、厄介な内容の試験が連続したのに、学習能力がない子供がかなり多い。
ホムンクルス達が、それぞれ調合を進めている生徒達の所に駆け寄る。主に、調合が進んでいる生徒に、である。しかも無表情で、ぎゅっと抱きついてくるホムンクルスを見て、ぎょっとする者が多かった。
「あ、ええっと?」
「助けてください。 私達の仲間が、火の中に取り残されています」
生徒達も知っている。このホムンクルスが、ヘルミーナの作ったものだと。困惑し、たき火のようになっている積み木に駆け寄る生徒は、その場で減点。
しかし、例外もいる。ホムンクルスと視線を合わせ、話を聞きに掛かるエルフィール。
「落ち着いて。 あの中に仲間がいるの?」
「はい。 逃げ遅れてしまいました」
「……」
しっかり話を聞いてから、まず調合を終えるエルフィール。そしてフラスコを持って、たき火に駆けだした。しっかりホムンクルスの手を引いたまま、である。
最初に飛び出した数人は、猛火の前で右往左往するばかりである。能力を使うことを禁止しているのに、中には消火に使えそうもない能力を慌てて発動しようとする者さえいた。音もなく背後に現れたヘルミーナが、延髄に手刀を叩き込み、その慌て者を気絶させる。
一方、修羅場になれているエルフィールは、流石に冷静だった。
「仲間はどの辺?」
「あの辺りです」
「よし来たっ!」
煙の中に、エルフィールが飛び込む。そして、フラスコの液体をぶちまけた。
エルフィールが作ったのは、強力な消火効果を持つものである。飛散する上に、効果もかなり長続きする。燃えているたき火の中、エルフィールは的確にそれをぶちまけた。そして、冷静に積み木の中から、人形を引っ張り出す。
そして、ホムンクルスに手渡した。
「これかな?」
「ありがとうございます」
ヘルミーナが鼻で笑い、加点した。今回はエルフィールが一番抜けだ。ほとんど間をおかず、キルキも二番に抜けた。
ノルディスはホムンクルスにまとわりつかれて右往左往していた。というよりも、女の子に抱きつかれて懇願された経験がないのだろう。だいぶ逞しくなってきているようだが、まだまだか。
アイゼルがホムンクルスの手を引いて飛び出す。彼女が調合したのは、エルフィールよりもかなり強力な消火剤だった。そう言えば、反射炉を部屋に作っているはずで、火の事故についてはしっかり調査している、と言うことなのか。アイゼルはホムンクルスとかなり良好な関係を築いているとも聞く。そのこともあって、作業はスムーズだったのだろう。いずれにしても良いことだ。ただ、調合の能力の差が、エルフィールよりも遅れた要因であったか。
そろそろ、積み木の中に置いてある人形も、焦げ始めているはずだ。
腕組みするヘルミーナの横を、冷却剤や消火剤をもった生徒達が駆け抜けていく。彼らは、最初のエルフィールの行動を見ていた連中だ。ホムンクルスも忙しく走り回り、生徒達をしっかり邪魔していく。
元々、それほど延焼効果がない薬剤である。生徒達がこぞって消火剤をかけ始めた頃には、鎮火しはじめていた。最後の炎が消えた頃を見計らい、イングリドは手を叩いた。
「はい、ここまで。 一次試験はここで終了とします」
イングリドが思ったよりも、遙かに試験を抜けることが出来た生徒は多かった。
しっかりホムンクルスに話を聞いて、人形や、道具類を取り出せた生徒には加点。また、薬剤の効果なども見て、適切な行動を取れた生徒には更に加点する。もちろん、行動の速さも重要な加点材料だ。
現時点で、トップは僅差でキルキ。エルフィールの方が早かったが、薬品の効果についてはキルキの方が少し上だった。また、この結果によって、最初の試験も含めてキルキが一位を奪取した。
全員を、教室に移動させる。最後の試験は、毎年恒例のペーパー試験だ。今回も、問題はヘルミーナが作成した。
イングリドも目を通したが、現時点での知識をフル活用すれば解ける問題である。しっかり、フル活用できれば、であるが。
生徒達が教室に行った後、ヘルミーナがホムンクルス達を集めていた。
「貴方たち、怪我はない?」
「肉体に損傷はありません」
「そう、それは良かった」
多分、生徒には見せられないと思ったのだろう。いずれにしても、ヘルミーナはいつも浮かべないような、優しい笑顔を見せていた。ごくごく希にだが、ヘルミーナはあんな表情を浮かべることがある。
そういえば、可愛らしい子供だった遙か昔には、屈託無く笑う時期もあったような気がする。
いずれにしても、それはリリー先生が、まだいた頃の話だった。
肩を叩くエルフィール。隣に座ったキルキが、心配そうに見つめてくる。
「エリー、大丈夫?」
「問題ないよ。 つい生きている縄を使おうとしちゃったけど」
「また、変わった試験だった」
「そうだね。 ただ、理にはかなっていたかな」
ああいった場所で、冷静に情報を引き出し、きちんと動ける事。それが、錬金術師として世間に出た時、役立つかを見極めるには、確かに適切だ。理論しか知らない人間は、ああいう状況で適切には動けないだろう。
もちろんヘルミーナ先生が側で見張っていたというのもあるだろう。だがそれを差し引いても、かなり多くの生徒が、今回は適切に動いた。今回は例年になく強烈な激戦になると、エルフィールは見ていた。
クライス先生が来る。
最近は授業でも、かなり出てくることが多くなってきているという。それを考えると、ペーパー試験の作成で苦労している様子を見るのは、今年が最後かも知れなかった。
「はい、みなさん。 ペーパー試験を始めますよ」
さっと喧噪が収まる。
毎年地獄絵図になるペーパー試験である。はてさて、何処まで対応が出来るか。クライス先生の何とも言えない表情から言っても、ろくでもない試験なのはほぼ間違いがない所だろうか。
紙が配られたので、中身に目を通す。
殆どの生徒が、同時に噴き出すのがわかった。
今回のペーパーテストは、説明文さえない。中央部になにやら奇怪きわまりない絵がどんと書かれ、下に答えを書く欄があるという、凶悪きわまりない代物であった。しかもこの絵、色つきで、赤や黄色の原色が使われており、目に優しくないことこの上ない。その上、一体何を示している絵なのかさえわからない、カオス過ぎる代物であった。
裏返してみても、これしか問題はない。
狂気の沙汰とは、まさにこのことだ。
稲妻を背負って高笑いするヘルミーナ先生の姿が見えるような、狂気のペーパー試験であった。
流石にノルディスが全員を代表して挙手する。正気を保つのがやっとのようで、ぶるぶると震えている。
「す、すみません。 これは流石に理解の範疇外です」
「気持ちはよくわかります。 でも、見てみなさい」
冷や汗を掻きながらも、クライスが眼鏡をすり上げた。既に、キルキは筆を動かし始めている。これだけで、充分だった。つまり、解けるように、この問題は作られている。他の生徒達が、絶望の悲鳴を上げる中、エルフィールも頷くと、この難問に取りかかり始めた。
全体的に、無秩序に縦線横線が書かれているように見えるのだが、実際は違う。きちんとした秩序が、絵の中に成り立っている。色ごとに絵を分解してみると、その傾向は更に顕著になった。
なるほど。そう言うことか。
色には意味があると見た。幾つかは大げさにデフォルメしてはいるものの、明らかに文字と見えるものが混じっている。形を一つずつ抜き出していくと、文字だけではなく、何かの動物らしき形も見えてきた。抜き出した模様を、並べてみる。
そうすると、少しずつ見えても来る。幾つかの記号はよくわからないが、こうしてみると非常に機能的に配置された絵だ。ヘルミーナ先生が、とても楽しそうに問題を作っているのがよくわかる。
ノルディスは真っ青になったまま、頭をかきむしっていた。アイゼルは口を押さえて、吐きそうな顔をしている。狂気に当てられたのだろう。その通り。この絵には狂気が充ち満ちている。
しかし、その先には、叡智があるのだ。
キルキも、多分同じ所まで辿り着いていると見た。エルフィールは頬を叩いて、神経を研ぎ澄ませる。ノルディスが顔を上げる。気付いたか。これは、追いつかれるかも知れない。だが、やらせはしない。
幾つかの導線に気付く。気付かれにくいように、細かい線が絵の中に張り巡らされているのだ。或いは幾つかの色はフェイクか。そう思うと、更に内容が絞られてきた。これは暗号解読と、錬金術の知識、両方が試される高度な試験だ。
考えていると、頭の中で生きている縄が蠢くようなとても気持ちの良い感触。
閃く。
色の頭文字を抽出し、アルファベット順に並べてみる。
ついに、意味が見えてきた。
文言が浮かび上がってくる。更に、動物らしき絵が、順番に列ぶ。さて、ここからが本番だ。
動物を材料にするのか、或いは別の意味か。それとも、この動物自体が、暗号になっているのか。
刻々と時間が過ぎる中、一つずつ謎を紐解いていく。ヘルミーナ先生は、さぞ楽しそうにこの試験を見守っていることだろう。その難題、必ずや解いてみせる。型にはまった問題しかできないような人間ではないと、見せてやる。
幾つかの仮説を作り出しては、放り出す。アイゼルも思考停止から立ち直ったようで、筆を進めていた。机に突っ伏して泣いている生徒も見えた。冷静になれなければ、この問題は入り口さえ開けてはくれない。
まるで要塞のような問題。今までに培った知識を総動員して、エルフィールは立ち向かっていく。
ノルディスの顔が、ぱっと輝いた。これは、追いつかれたか。
だが、抜かせはしない。生きている縄のイメージ。獲物に巻き付き、絞め殺し、肉を引きちぎり、内臓を引っ張り出し。
エルフィールも、ここで天啓を掴んだ。
キルキが悩み始めている。追いついたか。要塞の門を破城槌で粉砕し、中に突入。降り注ぐ膨大な矢をかいくぐりながら、敵陣を目指す。腕組みして要塞の最深部で待っているのは、間違いなくヘルミーナ先生だ。
鐘が鳴る。
時間は、残り半分。
だが、ここで見えてきた。動物は、恐らく一つ前のアルファベットに対応して、役割が変わっている。素材を使うもの、効果を示すもの、或いはアルファベットの集合体として。底が見えると、後は一気に最後まで押し進むことが出来た。
幻のドアを蹴り開ける。立ち上がるヘルミーナ先生の幻覚。
ヘルミーナ先生の幻覚に、エルフィールは白龍を振るって躍り掛かる。全力での一撃を叩き込み、杭を放った。
それを、素手で軽くいなすヘルミーナ先生。だが、その幻覚は、静かに笑った。
意識下の幻が、途切れた。
薬品を、特定出来たのだ。
回答を書き、立ち上がるエルフィール。キルキもそれに続く。流石だ。ここで、追いついてきたか。
提出は、エルフィールの方が少し早かった。外に出て行くエルフィールとキルキを、恨めしそうに他の生徒達が見つめていた。外のソファに腰掛ける。一気に、全身の力が抜けたようだった。
「はあ、やるね」
「エリー、凄い。 一気に追いつかれて、抜かれた」
「まあね。 これで今回は、ちょっと結果がわからなくなったね」
三番目に、ノルディスが教室から出てくる。
軽く答え合わせをするが、全員の結果は一致していた。ノルディスは、元々広い額がはげ上がりそうなほど、びっしり汗を掻いていた。
「もの凄い問題だったね。 頭が変になりそうだったよ」
「まるで要塞。 ヘルミーナ先生、きっと大喜び」
「そうだね。 ヘルミーナ先生、私達が苦しむの、見るの大好きそうだものね」
ちょっと失礼なことを言ったかも知れないが、しかし間違ってはいないはずだ。汗まみれの生徒が、次々と教室を出てくる。解けた生徒もいるだろうが、大半は途中で諦めたのが明白だった。門にさえ至れなかった生徒もいるかも知れない。
疲れ果てた生徒達の中には、アイゼルも混じっていた。
「解けた?」
「どうにか解けたと思うわ。 でも、合っているか、ちょっと自信がないけれど」
「答え合わせする?」
「怖いから遠慮しておくわね。 ヘルミーナ先生、本当に恐ろしい人だわ」
歩くのもやっとという様子でアイゼルは寮に戻っていく。途中、フィンフが駆け寄るのが見えた。何か話している。アイゼルは疲れ切っていながらも、時々受け答えに笑顔を混ぜていた。フィンフのことを好きになってきているのだろう。
とにかく、これで試験は終わった。
後学年度試験はもう一回。マイスターランクに行けば試験はないという話だし、むしろ今後はやりやすくなる。
キルキも結構つかれていたようで、帰り道は何度か転び掛けた。途中車引きでも寄ろうかと思ったが、今日はそれより早く休みたいというので、アトリエに急ぐ。まあ、頭をフル活用したのだから無理もないか。
眠そうに何度か目を擦るキルキ。こうしてみると、だいぶ幼さが抜けてきたとは言え、全体的に子供っぽい。アトリエが見えてくると、流石に安心したのか、キルキも話題を変えてきた。
「エリー、今日何か器具を運び込んでた。 何?」
「ああ、あれはね。 ホムンクルス製造装置」
「作るの?」
「そうだね。 やってみようかなって思ってる」
キルキが足を止めた。
今の時点で、キルキとエルフィールの目的が被ることはない。だから、互いに食い合うことなく、己の目的に邁進できることだろう。
「エリー、時々凄く残酷。 悲しいから、あまり酷いことしないで」
「そう言われてもなあ」
「何も言わなくたって、叩かれると痛いし悲しい」
それは、わかっている。
どうしてか、わかりすぎるほどに。
キルキがホムンクルス製造に拒否反応を示す理由はよくわからない。フィンフとはむしろうまくやれているように見えたし、嫌いなようにも見えなかった。
あれは、むしろ同年代の子供同士のシンパシィだったのか。
ホムンクルスについての本は、キルキにも請われて廻し読みしている。何か、内容について不快に思う箇所があったのかも知れない。
アトリエに着いた。
キルキは、何も言わずに、自分のアトリエに入った。
翌朝、何も口を利かず、二人でアカデミーに向かった。
キルキは無口だし喋るのもあまり上手ではないが、喋ることには抵抗がないらしく、むしろ色々良く口にする。その片言じみた喋り方が可愛いのだが、今日のキルキはむっつりと黙り込んでいるばかりだった。
正門には、既に人が集まっている。
今回は、人工レンネット製造の加点分もあるから、ある程度有利なはず。だが、どうしてか不安がぬぐえない。ひそひそ声が聞こえるのは、上位を独占している「野生児軍団」が現れたからだろう。
向こうで、アイゼルが手を振っている。隣にはノルディスもいた。歩み寄ると、アイゼルが複雑な顔をした。
「エリー、遅かったわね」
「どうしたの?」
「ちょっと波乱があったんだ。 君やキルキは、普段通りだったんだけれど」
成績表を見に行く。そして、驚いた。
キルキとエルフィールは同点一位。今までにない成績である。これは純粋にとても嬉しい。
問題はそれ以下だ。
ノルディスは四位、そしてアイゼルは六位。大体上位は、いつも成績がよいアトリエ組の生徒か、もしくはモヤシの上位層なのだが、一つだけまるで覚えのない名前があったのだ。
三位に食い込んできているその生徒の名前は、フランソワと言った。
「聞いたこともない名前だわ。 四年からの留年組かしら」
「いや、僕が覚えている限り、少なくとも三年にそんな人はいないはずだよ」
ノルディスは、全校生徒の名前と顔を覚えているという説がある。まあ、ノルディスなら不思議ではない。多分キルキも、同じ状態だろう。エルフィールはある程度出来そうな相手に限り、名前と顔を覚えていた。
そうなってくると、心当たりがある。
あの、手術を受けた子だ。そうか、フランソワという名前であったか。多分一年以上病院にいたとかで、ノルディスも名前を知らない状態になっていたのだろう。しかし、復帰していきなり三位とは。今までの成績の積み重ねがあったのか、或いは。
試験の時は集中していたから、見慣れない奴がいたかどうかは覚えていない。アイゼルもノルディスも同じだったようで、首を横に振る。
キルキが、服の袖を引いた。
どうやら、それらしい人がいた。
名前と裏腹に、随分肌が黒い女性である。多分ザールブルグの出身者ではない。松葉杖をついており、じっと成績表を見つめているその様子は、獲物を狙う鷹を思わせる姿だった。
此方に気付く。
目はコバルトブルーであり、髪の毛は銀。髪の毛や肌の色からして、多分南方民の血が入っていると見た。体型がやたらと大人っぽいのも、それが原因だろう。ロマージュさんほどではないが、相当なプロポーションである。
しばらく此方を見つめていたフランソワさんは、鼻を鳴らすと、人混みの奥に消えていった。あの落ち着いたたたずまい、相当に修羅場を潜ってきていると見た。いきなり頭に手を置かれる。アイゼルが恐怖の吐息を漏らすのがわかった。
「エルフィイイイィイイル」
「あ、ヘルミーナ先生」
流石である。人混みの中、気配も漏らさず後ろを取られ、なおかつ頭も触られた。実戦になったら、間違いなく瞬殺だろう。
ヘルミーナ先生は成績表ではなく、歩き去るフランソワの後ろ姿を見つめていた。にやにやが口の端に浮かんでいる。
これはわかる。
玩具を見る、子供の目だ。
「あの子は、貴方たちの強力なライバルになるわ。 覚えておきなさい」
「はい、楽しみです」
「向上心溢れる返答、大ぉおおいに結構。 キルキ、エルフィール、アイゼル、ノルディス。 貴方たち四人は、例年にはない優秀な生徒よ。 だからこれからも、私がたっぷりかわいがって上げる」
そう言うと、流石にアイゼルが蒼白になって固まる。ただでさえ色々とヘルミーナ先生には恐ろしい目にあわされているだろうに、当然か。
既に、フランソワの姿は見えない。
結果としては、満足できるものが得られた。だがしかし、恐らく今後、波乱が待っているのは間違いない。
エルフィールは、心を引き締める。しかし同時に、楽しそうだとも思ったのだった。
3、巨鳥
フランソワという新星現る。
アイゼルの話によると、寮生活をしている学生達の間で、瞬く間にそれは広がったそうである。
といっても、やはりエルフィールの読み通り、一時期学生としての登録が抹消されていた人物であったらしい。しかも四年生に話を聞くと、殆どの場合口をつぐむという事であった。
結構色々な事があった学生らしいと、それだけでも判断できる。というよりも、そもそも南方系の血が入っている学生自体が珍しい。
ロマージュを例に出すまでもなく、まだまだ南方人の社会的地位はそれほど高くない。中には騎士団に入って頑張ったり、貴族としても地位を得ている人間がいると言うが、シグザールの中枢を担っているのはやはりシグザール人と、一部北方人がいるくらいだ。アカデミーでも、南方系の生徒は滅多に見掛けない。
これは、生徒達の親に、生活的余裕がないことを意味していた。
差別があるのではない。実力主義のシグザール王国では、能力があれば抜擢されるし、出世も出来る。しかし、南方人はそもそも人数が少ない上に、農業や漁業などの基幹産業に従事している者が多く、社会的上層には出づらい状況にある。
それでも、例えば冒険者等や、力仕事がいる仕事などで、生命力が強い南方人は見掛ける。ザールブルグでも数は少ないが、働いている姿は特に注意して探さなくても、見つけることが出来るほどだ。
しかしながら、学生としては非常に珍しい。それが、あの引き結んだ表情に、何か関係しているのかも知れなかった。
図書館で、そんな話をアイゼルとする。アイゼルはアクセサリー関係の書物をたくさん借りているようで、中には強い魔力を持ったものもあるようだ。魔力を持った本などは、普通マイスターランクの学生にしか貸し出されないとも聞いている。如何にアイゼルが高い評価を受けているか、という事をよく示している。
「ひょっとすると、孤立しているのかも知れないね」
「それは可哀想だわ」
「だったら、友達になってあげたら? 私も機会を見て、接近してみようと思ってるけど」
少しためらった後、アイゼルは頷く。かっての素直でないアイゼルはもういない。いろいろあって成長した結果、アイゼルはとても強くなった。エルフィールとしても、最近は可愛いし好きと思うよりも、好ましいし大事だと思えるようになってきていた。
ノルディスが来た。
アイゼルがノルディスを好きなのは相変わらずの様子で、さっと雰囲気が変わる。ノルディスはまるで変わらないので、多分気付いていないのだろう。気の毒な話であった。
「ごめん、お待たせ」
「ううん、大丈夫だよ」
今日は、ノルディスの採集につきあうことになっている。この間のチーズケーキのお礼だ。ついでに、エルフィール自身も用事があった。
向かうのは大岸壁と言われる巨大な崖であり、其処にアードラと呼ばれる大型の猛禽類が多数の巣を作っている。ノルディスはかなり強力な薬を作ろうと今考えており、その鳥の卵や内臓が必要だという。
アードラは実際に飛べる大きさではなく、魔力によって飛行している存在だという。ドラゴンなどと同じく、魔物に近い存在、或いは根本的な面では魔物と同一の存在、なのかも知れない。それが故か、中には真空による刃をとばしてくる種類などがおり、オーヴァードライブ能力を有しているフォレストタイガーなどと列ぶ危険な猛獣の一つだ。
「冒険者は僕の方で雇ったけど、ごめん。 危険な採集につきあって貰うことになりそうだから、今の内に謝っておくね」
「何、私としても前からアードラとは交戦してみたかったから」
「好戦的ね、相変わらず」
「へへへ」
褒めてないと、アイゼルは言う。ちょっと呆れたのかも知れない。
図書館を出る。入り口で、件のフランソワとすれ違った。松葉杖をついて器用に歩いているが、やっぱりかなり大変そうである。あの試験を松葉杖で突破したとすると、相当な調合の腕前を持っている、と言うことだろう。かなり興味深い。
ノルディスと列んでアカデミーを出る。
外では、ダグラスとロマージュが待っていた。ロマージュは久し振りに外に出るのが楽しみらしく、うきうきとしているのがよくわかる。色々とろくでもないことがあったようだし、無理もないか。
「今回は北だって?」
「うん。 アードラって大きな鳥の卵と羽を取りに行くんだ。 凶暴な鳥らしいから、気をつけて」
「あら、あれなら時々護衛として交戦するわよ。 確かに空から来るし風を操るから面倒だけれど、それほど危険な印象はないけれどねえ」
「いや、大岸壁に行くって聞いたぞ。 あの辺りは固有種の、普通の奴の二倍以上大きなのが出るはずだ。 気をつけろよ。 猛禽は元々爪の力がとても強いから、下手に掴まれると一瞬で腕ぐらいもがれるぞ」
ダグラスが面白いことを言ったので、ロマージュが眼を細める。この若造が、聖騎士だからって知ったような口を利くなとでも言う風情である。
ダグラスはと言うと、ロマージュの豊満な肉体からは巧みに視線を逸らしつつも、一歩も引いていない。何か心境の変化でもあったのだろうか。成熟した女性に対する苦手意識が少し消えているようだ。
エルフィールはしばらく二人の様子を見ていたが、ノルディスに咳払い。
「で、荷車は? そもそも準備もあるから、一旦戻ろうとは思っていたけど」
「あ、ごめん。 エリーに貸してもらおうと思っていたんだけど、駄目かな。 僕の、少し前に壊れちゃって」
「安物買うからだよ。 少し値段が張っても、ゲルハルトさんに作ってもらうのが一番だよ」
「その通りだね。 次からは気をつけるよ」
今回は借りの件もあるから、何も文句は言わず、小言だけにする。実際ノルディスは、頭が良い分、こう言う時に妙に抜けていることがある。初めてではないので、別に驚くことはなかった。一旦アトリエに戻って、荷車を取ってくる。ロマージュが手伝おうかと言ってくれたが、謝絶。特に手間もないからである。
ノルディスはダグラスと妙に仲がよいらしいと、そういえばアイゼルに聞いた。監視役だと言ってきてから、接近した、というのとはどうも違うらしい。前に酒場で話し合ってから妙に意気投合し、護衛には二回に一度くらいの割合でついているらしい。あの二人にどういう接点があったのかはよくわからない。だが、まあ仲がよいのは良いことだ。
キャンプ用品については、ノルディスが用意していた。だが念のために、ある程度の天幕や保存食なども持っていく。大岸壁は片道で四日半ほど掛かる。大森林として知られるメディアの近くにあるので、気候もかなり厳しい。
これほど遠い所に出かけるのは、ノルディスにとって重要な仕事と言うことだ。また、この辺りは危険度が高いこともあって、そこそこ良い素材も入手が期待できる。ホムンクルスを作るのは少しお預けになるが、それはまた後でも良い。受けた恩はしっかり返しておかないと、気分が悪い。
そして、生きている縄。今回は体に十四本潜ませた。
白龍に、秋花。それに今回は、冬椿を持っていく。これは今までは生きている縄の操作技量が足りなくて、どうしても使いこなせなかったものだ。これを作ったのは誰かはわからない。
しかし、アデリーさんに渡された時、とても安心した。
今まで、ただ持っていくだけの事も多かった戦闘杖。今回こそは、全て使いこなしたいものであった。
荷車を引いて、東門で合流。今回持っていくのは、この間新調した一番大きい奴だ。
ダグラスは一杯積んである戦闘杖を見て、不快そうに眉をひそめた。
「何だか、物騒なのが増えてやがるな」
「私には大事なものなんだけど。 そう言うことは言わないでくれる?」
エルフィールの声が低くなったのを見て、すぐに不味いと悟ったのだろう。ロマージュが割り込んでくれる。
「さ、行きましょう。 道中は長いんだから」
「ああ、そうだな」
ノルディスはおろおろするばかりだったが、ロマージュがウィンクをしたので、意図を悟ったらしい。荷車を引いて、歩こうとし始める。しかし、まだまだひ弱だ。荷車の車輪は、あまり力強く回らない。
ダグラスが押して、やっと動き始める。
街道の車輪跡に車輪が入り込むと、やっとスムーズに動き出した。エルフィールは生きている縄を四本、両腕の服の袖から出して、それぞれで荷車を押させる。推進力と言うよりも、安定のためだ。
「相変わらずね、それ」
「便利ですよ。 作り方、教えて上げましょうか?」
「遠慮しておくわ」
ロマージュがにこりと笑み一つ。ダグラスがうんざりした様子で、うねうねと可愛らしく蠢く生きている縄を見つめた。
街道を北上する。途中、馬車と何度かすれ違った。中には軍用の移送用馬車もある。
遙か昔に戦場で主力を務めたというチャリオットではない。兵士達を満載して、戦地に効率よく連れて行くためのものだ。チャリオットは装甲と機動力のかねあいから運用が難しく、馬を二頭も使うという不便さもあって、結局衰退した。
この移送用馬車は分厚い装甲を備えている以外は、乗り合いとあまり変わらない。御者だけは戦時の武装だったが、それを除けばちょっとごつい乗り合いだ。
「どれも北に行くね」
「さあな。 何かあるんだろ」
「ふうん」
眼を細めて見つめると、ダグラスは咳払いした。視線を合わせることもしない。
話はしないというアピールだろう。ただ、ダグラスの場合、嘘がつけるような性格ではないのか、目を合わせることを避けていた。本音を見抜かれるのを避けるためだろう。可愛らしい行動だが、これの効果は結構大きい。
荷車の速度が落ちてきた。ダグラスが前を歩いているノルディスに言う。
「おい、ノルディス。 俺が引こうか」
「いや、もう少し頑張ってみるよ」
「じゃ、スピード挙げてみる? 七番、八番、十番、十一番。 蜘蛛足走行」
腹に巻いていた生きている縄が、するりと荷車の前後に巻き付く。
そして、蜘蛛の足のように体をくの字に曲げると、大地を蹴って荷車の速度を加速し始めたのだ。これにはノルディスも驚いたようで、うわっと小さな悲鳴を漏らした。
「え、エリー! 何それ!」
「荷車に足を四本増やしてみたの。 可愛いでしょう」
「そ、そうなんだ! うわ!」
可愛いと言われて気分が良くなったらしい四本が、張り切って速度を上げる。ちょっと小走りくらいになってきたので、命令変更。速度を低下するように指示を出して、やっとまともな速度に戻った。
中身が魂だけあって、やはり扱いは難しい。反射的に命令をこなすようになっているのだが、それでも時々感情が表に出てくる。
そういえば、ヘルミーナ先生は、ホムンクルスに感情を与えるなと著書に書いていた。
何だか少しだけ、理由がわかった気がした。
ヘーベル湖の側を抜けて、街道を更に北上していく。いつの間にか穀倉地帯を抜けて、周囲には起伏のある地形が広がるようになっていた。
北にはかなり高い山々が連なっている。その間に広がる小規模な平野。典型的な台地であり、かっては幾つかの小国が点在していたという。小さな湖も、所々で見える。崖には、美しい滝の姿も散見された。
まだ存在している小国もあるが、いずれもがシグザールの衛星国だ。シグザールの圧倒的軍事力による結果だが、それでこの辺りの秩序は保たれている。戦乱が起こることもなければ、秩序が失われて苦しむ者が出る事もない。
北の空を、白い雲が流れていく。
もっとずっと北に行くと、この時期でも雪がちらつくようになると聞いたことがある。気候風土が厳しくなるから、人々の心も更に荒む。ちなみに、ロブソンはもうしばらく北に行った辺りだ。
「やだ、寒そうね」
「この辺は護衛で通らないのか」
「通るけど、山越えは流石にしないわ。 というよりも、何生き生きしてるのよ」
「俺の出身は、そもそもああいう山深い郷だ。 シグザールでさえない、小さな村だよ」
ダグラスは以前のようなロマージュへの苦手意識が消えたからか、態度が多少大きくなっている。また、ロマージュもそんなダグラスを可愛くないと感じるからか、多少態度が冷たくなっていた。
空気がぎすぎすしている。エルフィールにとってはどうでも良いことだが、ノルディスはおどおどするばかりだった。だいぶ逞しくなってきてはいるが、ダグラスもロマージュも、ノルディスに比べれば犬と虎くらいの違いがある。やっと温室から出てきて、外の歩き方を学び始めたノルディスに対して、この二人はそれこそ草の根から始め、今では百戦を経た強者達だ。
「そ、その。 仲良くしてくれると嬉しいな」
つーんと二人が視線を背けた。エルフィールは笑顔を崩さない。
前と違い、今回は充分な準備をしている。それに、監視役だと明言した以上、ダグラスが仕掛けてくる可能性は小さい。
仕掛けてきても、どうにか出来る自信があるからこそ、エルフィールは落ち着いていた。
この三年で、エルフィールは膨大な実戦経験を積んだ。もちろんダグラスも良質な実戦で腕を上げているはずだが、大体の見切りは出来る。近接戦闘に限ればまだダグラスが上だが、今なら戦っても勝てるとエルフィールは考えていた。
街道が、徐々に坂になってくる。
また、街道の左右にある森の背丈が、徐々に低くなってきていた。この辺りまで、ノルディスは多分来たことがないだろう。西の方には、文字通りの原生林が広がっている。あれが、名高いメディアだ。
かってメディア王国という小国が存在し、シグザールとの戦いの果てに敗れた。そう言う意味では、歴史的にも意義がある森だという。多くの鉱物資源が森の中にはあり、噂によると国の隠し鉱山が存在するとか。
それとは関係なく、あのメディアは常緑の森としても名高く、いつも夏の気候が保たれた不思議な場所だという。ノルディスが中に入るにはちょっと危険な場所だ。超大型の猛獣も多く棲息していると言うし、生きては帰れないだろう。
丘を越えた辺りで、野営地を見つける。
旅人も他に何組かいた。行商が多いようで、中には家族づれもいた。旅慣れた様子の家族で、まず最初に両親らしい夫婦が近付いてきた。天幕を黙々とはるエルフィールは、ノルディスを横目で見つめる。
「ザールブルグからこんな遠くまで大変だっただろう。 何をしている人なんだい? 軍人さんか?」
「いえ、僕は錬金術師でして」
「錬金術。 はて、聞いたことがないなあ」
「まあ、聖騎士さんが護衛しているんだから、立派な人なんだろう」
人が良さそうな顔をして、この夫婦、しっかりノルディスを見極めている。ロマージュが、杭を打ち込み、天幕用の縄を張っているエルフィールに、耳打ちしてくる。
「助けて上げなくて良いの? 彼じゃないの?」
「カレ? それがいわゆる恋人だって言うことだったら、いいえです。 友人ではありますけど」
「あら、その様子じゃ本当に気が無さそうね。 何だか惜しいわ」
「意味はよくわかりませんが、あの程度切り抜けられないようじゃ、今後社会に出ても死ぬだけでしょう」
ましてやノルディスは、人間の業に触れる職業の一つである、医師を目指しているはずだ。医師は直接我が儘な患者と話し合い、刻には彼らに嘘もついて、様々な治療をほどこさなければならない。直接人とふれあうという段階で、温室栽培のままでは不可能だ。あれくらいの事はさらりと流せないと、話にならないだろう。
設営を終える。
ノルディスは、商人の夫婦に、何か売りつけられそうになっていた。あのままだと子供まで出てきて、一緒に懇願されるかも知れない。錬金術師だろうが魔術師だろうが、特に辺境の人間には関係ない。儲かる相手なら味方で、そうでなければ敵だ。金の亡者と言うことではなく、そう言う考えでなければ、喰っていけないのだ。喰っていけなければ死ぬ。自分だけではなく、家族も。
だから、みなしたたかになる。
ノルディスがやっと商人の夫婦から逃げてきた。
「俺に言ってくれれば、話を付けてやったのに」
「ありがとう、ダグラス。 でも、どうにか出来たから」
「ああいう手合いは、生きるのに必死な分質が悪いからな。 もたついた対応してると、ケツの毛まで毟り倒されるぞ。 はっきりいいえっていう度胸を付けろよな」
「うん。 頑張ってみるよ」
ダグラスとノルディスは、何か妙な友情関係を築いている。ああしてみると、ダグラスは利害関係さえなければ、結構面倒見が良い存在なのかも知れない。或いは単に正義感が強いだけなのかも知れないが。
既に夕刻である。辺りが闇に閉ざされていく。
ノルディスと一緒に、竈を組み立てる。最近のノルディスは、サバイバル技能も身につけ始めていて、教えることはあまりない。まだ手際の方はあまり良くはなかったが。それでも、充分な実力だ。
竈はしっかり組まれていて、隙間も特にない。火を入れて、その辺りで採取した食草をいため、串に刺して干し肉を炙る。
「何の肉?」
「こっちは鹿。 これはアークベア」
「ま、しとめたの?」
「この間、近くの森で採集している時に出てきましたので。 私の体重の七倍くらいある大きな奴でしたから、たっぷり肉が取れました」
ちなみにキルキと採集をしている時だった。
対応はキルキも早く、熱量を叩き込んで吃驚した所に、エルフィールが白龍を撃ち込んだ。頭を杭で吹き飛ばして即死させ、それで勝負がついた。
野生の熊としては大きめだったが、頭の悪い個体だった。ある程度頭が回る熊だったら、絶対に人間の側には姿を見せない。種族として勝てないことが分かりきっているからだ。例えば森の奥とかに、単独で迷い込んできた子供とかを襲った場合でも。後で大人が集団で報復に来るのは目に見えており、そうなれば小回りが利かない熊は確実に殺される。人間に対してある程度の距離を保とうとしない熊は淘汰されてきて、今ではああいう頭が悪い個体は少ない、ということであった。
「ちょっと硬いね」
「肉食の獣は、肉が硬くて不味い場合が多いよ。 虎もそうだし、熊もだね」
「確かに、訓練で時々喰うが、あんまり美味いもんでもねえな」
「そこで、これを使います」
エルフィールが取り出すのは、持ってきたチーズである。もちろん自家製だ。
ほどよく焼けた肉に掛けると、どろりととけて表面を覆う。香ばしい香りが、肉全体を包む。
口に入れる。
一気に食べやすくなる。
「さ、どうぞ。 これで美味しくなるよ」
「これ、そういえばお前が量産化に成功したんだって? レンネットだったか、材料を人工的に造り出したんだろ」
「そうだよ。 今じゃアカデミーが量産して、チーズギルドに配ってる。 多分二三年以内に、もっと大規模に生産されるようになるだろうね」
「ふうん。 まあ、子牛を殺さなくてもチーズが造れるようになったんだから、いいことだよな」
美味しいなら、いちいち引っかかる言い方をしなくても、そのまま食べればいいものを。ダグラスには、こういう点でどうしても好意は持てない。ただ、以前のように、いきなり攻撃を仕掛けてくるかのような雰囲気は最近多少緩和されたが。
ノルディスは結構旺盛に肉を食べた。
以前より、こういう点でも逞しくなっていた。
「見張りは四交代で廻そう」
「別にかまわねえけど、お前一人で大丈夫か」
「大丈夫だよ。 心配してくれて嬉しいけど、いい加減外に出るようになったんだから慣れないとね」
まあ、この野営地で、見張りがこなせないようなら、採取地に行っても時間の無駄だろう。
ノルディスの判断は正しい。そう思ったから、エルフィールは反対しなかった。
三番目の見張りになった。だから、ロマージュに起こされた時には、夜中だった。最初の見張りのノルディスは、既にもう一つの天幕で高いびきである。もっとも、豪快にいびきを掻くようなこともなく、静かに寝転けている雰囲気だが。
外に出る。商人の家族や、他の旅人も既に眠りこけている様子だ。だが、気配がある。目が醒めたのも、それに気付いたからだ。
「出てきたら?」
「気付いたか」
闇の中から、浮かび上がるようにして現れる。
短髪に髪を切りそろえ、ばかでかい剣を肩に担ぐようにして歩いてくる。聖騎士、エリアレッテ。クーゲルの愛弟子の筈だ。
久し振りに姿を見たという事は、最近は忙しくて彼方此方を出歩いていた、と言うことなのだろう。もちろん任務でだ。
「座れば? 少しは肉もありますよ」
「遠慮しておく」
と言いつつも座ることは座る。音もなく剣を地面に突き刺した。特殊な材質か、それとも腕がずば抜けているか。その両方か。
エリアレッテはちょっとエルフィールよりも背が高いくらいで、体格もあまりごつい方ではない。それにしては使っている武器は著しく大きいので、ちょっとアンバランスさが目立った。
「クーゲルさんからの伝言?」
「そうだ。 貪欲に強くなる努力をしているようで、感心している。 このまま腕を磨けと、我が師は仰っていた」
「ふうん」
クーゲルは文字通り煮ても焼いても食えない御仁だが、恐らく嘘は言っていないだろう。強さに関する純粋な貪欲さだけは、エルフィールも疑っていない。
エリアレッテの目には、感情が存在しない。後天的に感情を消すことに成功したのだろう。珍しい例、ではないはずだ。何かの切っ掛けで感情や言葉を無くすのは、良くあることだと聞いたことがある。
「大岸壁に行くつもりか」
「ええ」
「何のためだ。 アードラは好戦的な動物だが、殺して面白いほど強い相手でもない」
「単に将来のためです」
竈の中で、炭がはじけた。
アードラが人間に害を為す生物なのに、なぜ生存しているか。それは、単純に実害が少ないからである。
人間としても、数が増えすぎないように駆除を行ってきた。生態系への関与もあまり大きくないアードラを狩ることに、人間は躊躇しない。なぜ大岸壁にアードラが多数棲息しているかというと、もう近辺では其処にしか営巣地がないからだ。人間が大岸壁に足を踏み入れると言うことは、アードラにとっての最後の生命線を踏みにじると言うことも意味している。
だから、必死に抵抗する。故に、戦う意味もある。
アードラの肉は味は悪くないが別にたくさんとれるわけでもなく、卵も大きいだけで美味しいとは言い難い。もしもある程度美味しい獲物であったら、とっくの昔に刈り尽くされて滅びていただろう。
しかし、錬金術の素材としては、それなりに意味がある。
風を操る力を持つ翼には高い魔力が篭もっている。これはエルフィールにはとても貴重な素材だ。粉々にして中和剤に入れれば精度も上がるし、何より生きている道具類に様々な付加価値も与えることが出来るだろう。
爪や嘴も大きな価値がある。
そして、ノルディスが今回求めている卵には、どうやらかなり貴重な薬効成分があるらしい。そのままでは取り出せないのだが、何種類かの薬剤で煮込むことによって、それを抽出することが出来る。
心臓の病に良く効く薬らしく、しかし扱いが難しいとも言う。
ノルディスの作業を、是非拝見したいものである。後学のためにも。
「そうか。 やはり理詰めか」
「それ以外に、何があります?」
「いや、その通りだ。 少し安心した」
エリアレッテは立ち上がると、やはり音もなく剣を抜く。
そして、闇に消えていった。
竈に火を足しながら、エルフィールは後ろに声を掛ける。しばらく前から、其処に潜んでいる奴がいることは知っていた。
「ダグラス、もうエリアレッテさん、帰ったよ」
「ちっ……」
闇の中から出てきたダグラスは、あまり好意的ではない表情だった。むしろ、最初に、剣を向けられた時のような憤怒の形相だった。
エルフィールは笑みを崩さない。
「少しでも、てめえが変わったかと思った俺が馬鹿だったよ」
「で? 気に入らないから私を殺す?」
「……」
ダグラスは、しばらく剣に手を掛けていたが、やがて嘆息して力を抜いた。剣から手を離し、座り込む。
エルフィールは眼を細めた。此奴のもくろみと狙いが、今でもよくわからないからだ。
「ねえ、そもそもさ。 どうして最初に私に剣を向けたのかな。 最初から監視役だったんでしょ? それがどんな結果を招くか、知らないわけでも無かっただろうに」
「お前から、あいつと同じ匂いがしたからだ」
「あいつ?」
「錬金術師だ。 俺が、どうしても彼奴の手から、救い出せなかった奴がいた。 それを考えると、今でも俺は何もかもが許せねえ」
ダグラスがそれほど絶望的な相手と呼ぶのは、一体誰か。イングリド先生か。ヘルミーナ先生か。
わからないが、多分違うだろうとエルフィールは判断。
それにしてもダグラスの怒りの矛先は、よくわからない。それに本気でエルフィールを殺す気だったら、もっと他に手段もあるはずだ。騎士団は綺麗な戦い方をするばかりの組織ではない。あらゆる手で殺しに来たら、エルフィールも相応の対応をせざるをえない、と思っていたのだが。
ダグラスはあくまでフェアな行動にこだわっているように見える。
その理由が、エルフィールにはわからない。この若さで聖騎士にまで上り詰めたほどの武人が、現実主義より理想を大事にしているというのか。それこそ、意味不明の事態だった。
「もう寝る」
「お好きなように。 私は今回ノルディスの護衛だし、アードラの素材を入手できればそれで満足だから。 ダグラスが普通に給料分働いてくれれば、ノルディスも文句はないだろうし。 それに、ノルディスが雇った人間が死のうが生きようが関係ないしね」
「一つだけ言っておく。 俺は例え八つ裂きにされようとも、お前が絶対視してる過剰すぎる現実主義は認めねえ」
「……」
ダグラスが天幕に戻っていく。
多分、ノルディスは修羅場に気付かず、眠っていたままだろう。それが良いかもしれない。
エルフィールの学問上のライバルは、まだ温室からやっと外に出たばかりの状態だ。外で、こんな修羅の争いが日常的に行われていると知ったら、きっと恐怖に竦んでしまう事だろう。
それでは、張り合いがなかった。
メディアを貫いている大河の支流が、左手を流れ続けている。向こう岸は密林なのに、此方は草原だという異常な光景が、メディアという土地が如何に自然としておかしな場所なのか、如実に物語っていた。
草原は広く、もう少し大きければ地平線が見えていたかも知れない。しかし起伏が激しい地形の上、山脈が向こうに見えている状態では、それも無い。この辺りはかって遊牧民が多かったと言うことだが、シグザール王国によって農民に帰化させられ、今ではすっかり各地の村に分散している。
それでも、いくらかの草原は牧場化され、軍用馬が飼われている様子だ。今回通ってきた路の左右でも、二つ三つ、そんな牧場が見掛けられた。軍用だけではなく民間用の牧場もあるそうなのだが、それは見ていない。
北に延々と続く山脈。その一角に、大きな崖が見える。草原が途切れ、荒野に。荷車を押すダグラスが、足を止めた。
空を舞うアードラの群れが、エルフィールにも見えていた。
「いるねえ。 三百か四百か。 もっといるかも」
「凄い鳴き声だね」
「警告してるんだよ。 これ以上近付いたら、攻撃するってね」
旋回しているアードラは、エルフィールが知っている最大級の猛禽である大鷲よりも、三倍から四倍は大きいように見えた。数が多かった頃は、幼児が襲われて餌になることもあったという。まあ、そう言った衝突の結果、片っ端から駆除されたわけだが。
大型の動物は基本的に小回りが利かないため、人間を本気で敵に回すとあっという間に絶滅させられる。特に鳥の場合、繁殖までの間隔が長いことが多い上に、巣を攻撃されるとひとたまりもない。親鳥にしても、空を攻撃できる能力者など幾らでもいるし、鳥を捕らえる手段など他にも幾らでもある。
今の時点でアードラはかろうじて滅ぼされるのを避けている。だが、もしも人間がその気になったら、数年で滅ぼされてしまうだろう。
しかし、現在それとは関係なく。この人数で、一斉にアードラに襲われたら脅威になる。アードラだって、人間との接触は避けているにしても。巣まで攻撃されたら、流石に黙ってはいられないのだ。
「じゃ、夜を待とうか」
「すぐに行かないの?」
「流石にあの数に襲われたら、其処にいる聖騎士様だってどうにも出来ないよ。 ロマージュさん、天幕張ろう」
「そうね。 手伝うわ」
小首を傾げているノルディスに、ダグラスが教える。鳥は夜を苦手としていて、殆どの種類は行動を避ける。梟のような特殊な種類を除くと、全く周囲が見えなくなってしまうからだ。
明らかに既存の生命体の範疇に収まらないアードラも、それに関しては例外ではない。
ノルディスが、ゼッテルを拡げる。其処には緻密に書き込まれていた、必要物資のリストがあった。
まず卵が幾つか。アードラの卵は、抱えるほどの大きさだ。これに関しては巣を攻撃して、親鳥を追い払わなければならないだろう。途中、羽は幾らでも拾える。
他にアードラの肉なども必要になって来るという。これは、アードラを殺さないと駄目だ。巣を一つ襲撃して、眠っている親鳥を殺して持って帰る、という感じになるだろう。
天幕の外で、ダグラスが見張る。しばらく説明をしたノルディスに、ロマージュが言う。
「それで坊やは、どうしてあの鳥さんを殺したいの?」
「実は、ある難病の特効薬が作れるんです。 今、施療院で治療を待っている患者が何名かいて、その薬さえあれば、ひょっとすれば命が助かるかも知れないと言われています」
「ふうん」
ロマージュはあまり気分が良くは無さそうだ。ダグラスについては、心を閉じて任務に集中する、ただそれだけのつもりだろう。モチベーションを落とさないためにも。
アードラは警戒飛行を続けているが、思うつぼだ。空を飛ぶというのはかなりの体力を消耗する行為で、大形の鳥になるとなおさらそれが顕著になる。アードラの場合はそれに加えて魔力まで飛行に使用しているはずで、消耗が小さいわけがない。
不思議な話、アードラはそれほど多く食べずとも生きていけるようだが、それにも限界がある。勝手に此方に警戒して、飛び回って体力を消耗すれば良いのである。夜になったら、簡単に仕留めることが可能だ。
「エリー、アードラについてもっと詳しく知らない?」
「そうだね。 急所とかについては聞いたことがないけど、首を落とせば流石に即死するでしょ。 何だったら、白龍を脳天に叩き込んでみようか? まず間違いなく一撃で殺せるよ」
「う、うん。 出来れば、苦しまずに死なせてあげたいんだ。 アードラは僕が調べてみた所でも、生態系にあまり噛んでいない魔物に近い存在らしいけれど、それでも生き物には変わらない。 誰かを救うためにも、生き物を殺すのはそれなりに罪深い事だと、僕は思うから。 少しでも早く楽にさせてあげたくて」
「坊や、貴方いい子だわ」
ロマージュが本気で感心したように頷く。エルフィールは笑顔を保ったまま、モヤシがと内心で呟いていた。
別に失望したわけではない。ただ、そのようなことを言い出すと、狩りに制約がつく場合がある。それは思わぬ事故を招きかねない。
経験の浅い馬鹿な若鳥を仕留めるのが手っ取り早いが、ノルディスはやはり年老いた個体を狙いたいと言い出す。それも、出来るだけ苦しまない方法で、仕留めて上げたいというのだ。
年老いたアードラは体が大きい。今回荷車を持ってきてはいるが、運ぶのにも骨が折れるだろう。もちろんザールブルグまで死体を全部持っていくのではなく、安全な場所まで行ったら解体して残りは捨てるのだが。
それにしても、やはりミッションが難しくなることは、避けられなかった。
年老いた個体は、基本的に崖の出入りが難しい地点に巣を作っている事も、狩りを困難にする要因である。
これらの情報を、エルフィールは書物で得たのではない。
ロブソンの近くに、小さなアードラの集落があったのだ。其処で一度、近くの旅人が襲われたので、駆除に出向いたことがある。三匹のアードラを殺して戻ったのだが、その際にアデリーさんに教わった知識である。
「探し回るのも何だから言っておくけれど、ノルディスが狙いたいような個体は、がけの上の方に巣を作っているし、卵も持たない可能性が高いよ」
「そうなの?」
「もしも狩るつもりだったら、覚悟は決めた方が良いかもね。 崖から下ろす労力も合わせて、結構大変だから」
一応釘を刺す。
だが、ノルディスは、考えを変えるつもりはないと言った。
事前に崖の方を見て、登る経路、死体を下ろす経路を決めておく。かなり切り立った崖だが、縄を使えば登るのはさほど難しくない。今夜は星も多そうだし、快晴だと予想できるから、ある程度の明るさも確保できるだろう。
アードラの巣は、崖の中層から上層に固まっている。崖の上側に回り込めば楽なのだが、それは簡単にできることではない。周囲は正面の、アードラが住んでいる崖よりも更に厳しい地形になっていて、登るだけで夜が終わってしまいそうである。もちろん落下する可能性も低くない。
縄を確認する。ザイルも。
一応、がけの上まで上がるだけの量は用意してある。資材についてはノルディスが準備したのだが、一応この辺りは流石優等生であった。生きている縄を一人二本貸し出す事にする。落ちた時に、これが即応すれば、生き残れる可能性が出てくるからだ。
ダグラスにももちろん貸し出す。嫌そうな顔をしたが、拒否権はない。
「それじゃあ、陽が落ちるのを待って、まず荷車を崖に着ける。 崖を登って、アードラを仕留めに行く。 その際、巣に残っている卵を回収する。 アードラの死体は崖から縄で下ろして、荷車で輸送し、それで縄張りの外で解体する」
「わかった。 それで良いけれど、崖から死体を落とすわけにはいかないの?」
「結構デリケートな調合が必要になるんだ。 幾つかの内臓は無事なまま取りだして欲しいから、出来るだけ慎重に扱って欲しいな」
「やれやれ、仕方がない坊やね」
そう言いながらも、ロマージュはやはりノルディスに好意を持ったからか、表情が軟らかかった。
そのまま、夜を待つ。
外で剣を振っていたダグラスが、天幕に入ってくる。話は聞こえていたようである。
「俺は鎧だから、下で待機する。 上がるのはあんたらでやってくれ」
「じゃあ、私が上がる。 ロマージュさんは?」
「そうね、私の方が相性が良さそうね。 ノルディス、貴方は?」
「僕も行くよ。 何かを殺して材料を得ようとしているのに、残るには卑怯な気がするから」
天幕を出る。
まだ空を舞っているアードラもいるが、夜になると身動きが出来なくなると言う事は、彼らにとってどうしようもないハンデだ。
鳥を何度か解剖したことがあるが、特に猛禽は、視力を武器にして狩りをする。つまり目が頼りな訳で、それが使えないと言うことがどれほど彼らにとって不利に働くか、言うまでもないことだ。
ましてやアードラは大型な分飛行に小回りが利かない。普通では飛べずに、魔力を使ってやっと飛翔しているような状況である。彼らにしてみれば、人間に襲われる恐怖よりも、崖や枝に激突して身動き取れなくなる方が、よほど致死率が高いのだ。
荷車から白龍を引っ張り出し、もう一つを出す。
ちょっと悩んだ末に、持っていくことにした。恐らく実戦投入の機会はないだろうが。その異常な形状を見て、ロマージュがぎょっとした様子である。
「何それ。 そんなごついの担いで、大丈夫?」
「平気です。 この子達が補助してくれますから」
白龍は背中に直接担ぐ。もう一本は、生きている縄に重心を取らせつつ、背中に担いだ。二本を左右に担ぐことで、多少はバランスが取れる。かなり重いが。
崖下まで来る。
まず、エルフィールがカンテラに着火。既に陽は落ちており、崖は黒々と聳え立つ魔界の壁とかしていた。生きている縄でカンテラを掲げさせ、足場を確認しながら、登る。ノルディスに登りやすいように、比較的難易度の低いクライミングコースを使う。
ノルディスは二番目で。殿軍を、ロマージュに任せる。
カンテラの炎が、頼りになる。星明かりよりも強い光で、足場をしっかり照らしてくれた。
四半刻ほど登ると、ノルディスがかなりへばってきた。生きている縄に補助されているとは言え、所詮はノルディスだ。むしろこの旅路の途中、へばることがなかっただけでも、かってのノルディスから考えると驚異的だ。
「大丈夫?」
「うん、もう少しは行ける」
「少し上に、棚になってる場所がある。 其処で休もう」
「わかった」
まだ、崖の四分の一も来ていない。
周囲は酷い匂いだ。アードラの排泄物が、辺りにこびりついている。それ自体は古くなってくると、上質の肥料になってくるのだが。真新しい場合は、ただの汚物以外の何者でもない。
「やあだ。 体に匂いが染みつきそう」
「この辺りは火山帯だから、近くの村に温泉があるはずです。 帰りに寄っていきましょう」
「エリーちゃん、気がきくわ」
「有難うございます」
ぎゅうとハグされたので苦笑い。ノルディスは棚の上で、真っ赤になって顔を背けていた。女同士でなぜ顔を真っ赤にするのか、よくわからない。それにしてもロマージュの肉体は良く発達しているものだ。エルフィールはついに胸があまり大きくなることがなかった。栄養が戦闘方面に全部行ってしまったからだろう。
「ノルディス、指の運動をしておいて。 ここから、もう少しきつくなるよ」
「わかった。 こう?」
「うん。 じゃ。カンテラを消して、少し休もうか」
ダグラスに、一度カンテラを消す旨の合図を送ってから、火を消す。
しばらく三人で、闇の中身を寄せ合って休む。周囲は酷い匂いでムードも何も無い。所々に落ちている羽を拾い集めて、持ってきたポシェットに入れていく。汚れがついているのもあるが、まあ仕方がないだろう。
ロマージュは魔力が見えるというので、聞いてみる。
「ロマージュさん、この羽、魔力を纏ってる?」
「ええ。 闇夜で輝いて見える程よ」
「ふうん……」
「どうしたの?」
妙な話である。
フォレストタイガーが種族全体としてオーヴァードライヴを使いこなすことは良く知られているように、動物も普通に生体魔力を持っているものだ。そうなると、二つ疑問がわき上がってくる。
まずエルフィール自身は、どうして生体魔力がないのか。
ロマージュに聞いたのだが、生体魔力が全くないという人間には、エルフィールで初めて会ったという。それくらいまずあり得ない現象であり、何かの病気かと思ったほどなのだそうだ。
こんな羽ッころにさえ魔力が篭もっているというのに。
どうして、エルフィールには生体魔力がないのか。高度な錬金術になると、魔力を封入する作業が多く出てくる。そう言う時にはキルキに頼んで、状況を見て貰うことが良くある。
不便で仕方がない。
次に、魔物という存在についてだ。
アードラは最下級とはいえ、魔物に近い存在である。いや恐らくは、分類的には魔物だろう。
此奴らの生体魔力は異常だ。明らかに生存するのに不要な量を体にため込んでいる。それも不可解だった。動物は様々な種族を見ていると、存在がつながっているのがよくわかる。
それなのに、魔物については。それがどうしても、見えてこないのだ。
休憩を終了して、また登り始める。
下を見ないように、ノルディスに言った。既にノルディスの腕力ではかなり厳しい局面も出始めていて、ザイルを使って引き上げる場面もあった。下を見て、気絶でもされたら面倒だ。
「風が凄いね」
「うん。 だから下を見ちゃ駄目だよ」
「だ、大丈夫。 怖くて見られないから」
ロマージュがくすくすと笑う。暗闇なのに、ノルディスが赤面しているのが、どうしてかわかった。
生きている縄に、崖に杭を打たせる。
時々若いアードラの巣のすぐ側を横切る。卵を抱いている個体もいて、此奴らをぶっ殺せばすぐなのにと、エルフィールは残念に思う。だがノルディスとのつきあいは今後長くなる可能性が高いし、関係を維持して損はない。ここは多少の危険を考慮しても、言うことは聞いて置いた方が良かった。無理なことではないのだから。
何度かの休憩を挟みつつ、崖を登る。
星の位置を見て、現在の時間を確認。そろそろ、ノルディスが本格的にへばってきていた。
「エリー、い、今、どれくらい?」
「そろそろ目的地かな。 あと少し上がれば平らな所に出るから、頑張って」
「う、うん」
これは最悪、帰りは背負って降りることも考慮する必要があるかも知れないと、エルフィールは覚悟を決めた。
岩を掴んで、体を引っ張り上げる。
丁度大きな岩が屋根のように張り出している、絶好の地形だ。なるほど、これなら年老いたアードラ達が独占することだろう。
ざっと見るが、狭い中に幾つかの巣が密集している。
巣の中で、体をぎゅっと縮めているアードラを発見。夜に鳥が無力なのは、自然界の常識だ。梟などのごく一部を除くと、夜の鳥は空の覇者どころか格好の獲物に過ぎない。それは最大級の体格を持つアードラでも例外ではない。
ノルディスがひいひい言いながら登ってきたので、手を伸ばして引っ張り上げる。
「ふ、ふう。 はあ。 や、やっとこれで、辿り着いた?」
「うん。 ロマージュさん?」
「今上がるわ」
ロマージュは手を貸すまでもなく、自力で上がってきた。埃を払う彼女が、頷く。
アードラの老齢個体は、若い個体よりも二回り以上も大きい。闇の中で、ロマージュの目にはかなり巨大な魔力の光が写り込んでいることだろう。
下に合図を送ってから、カンテラの火を消す。
辺りは真っ暗になった。岩がキノコのかさのように張り出している下だから、なおさらだ。辺りには獣の匂いが充満し、その糞が散らばっていることで、カオスな状況を造り出していた。
蠅が飛び回っている。もちろん餌はアードラの糞だ。あまりにも大量にあるので、蠅としてもかき入れ時なのだろう。踏むとウジ虫が潰れる感触がある。糞を避ける場所など、何処にもない。
アードラの巣の中は清潔だが、逆にそれ以外は非常に不清潔だ。面白いことに、木々を編んで作られているアードラの巣には、蟻のような虫が一杯住んでいる。多分蠅やウジ虫を殺して、巣を清潔に保つのだろう。その代わりアードラは巨体にいる寄生虫などを、その虫に喰わせてやるというわけだ。もちろん途中で餓死した雛なども御馳走になるに違いない。
徐々に、星明かりに目が慣れてくる。歩いていると、異臭も平気になってきた。目を閉じているアードラが、極限の緊張状態にあるのがよくわかる。巣を少しでも揺らすと、びくりと体を震わせる。わかっているのだ。恐るべき捕食者が、すぐ側にいることを。
無数に点在している巣の間を抜けていく。多分最高齢の個体は、もっと奥だ。
岩が洞窟状にくりぬかれているのが、エルフィールにはわかった。これはアードラが、まるで人間のように住みやすい場所を作ったのか。しかし、それ以外には考えられない。何百年も掛けて、少しずつ嘴で削ったり岩を運び出したりしたのだろうか。
最深部は、妙に静かだった。
蠅も飛んでいない。糞も落ちていない。
星明かりも、殆ど届かなかった。
ロマージュが、手探りで前に出ようとしたノルディスの襟首を掴んで止めた。
「うわっ!?」
「それ以上進むと、ちょっと命の保証が出来ないよ」
エルフィールの体に巻き付いている生きている縄達が、一斉に鎌首をもたげた。それぞれに刃がつき牙が植え込まれ棘が生えている。いずれも、獲物に食らいついて、取り押さえるための工夫だ。
闇の中に、ひときわ巨大な巣がある。あまりにも巨大すぎて、それがアードラのものとは、一瞬判断できなかった。
「ロック鳥?」
「ノルディス、知っているの?」
「文献でだけど。 アードラが特に大きくなると、希に寿命が延びて、もっともっと大きくなることがあるんだって。 小型のドラゴンくらいまで大きくなる事があるとか聞いたことがあるけど」
「……」
流石は博識だ。というよりも、エルフィールはアードラの実用的な知識しか知らなかったから、そんな常識離れした個体のことは最初から眼中になかった。魔物というのは基本的に自然の法則から外れているという話だが、どうやらアードラでもそれは例外ではなかったらしい。
巣の中で、大きな影が動く。
他の老齢個体の、高さだけでも倍はあるだろう。闇の中で、爛々と光る双眸は、この鳥が常識の外にある存在だと雄弁に告げていた。さて、これを下ろすのは骨が折れるぞとエルフィールは思う。
「他のにする?」
「いいや、可哀想だけど、彼にしよう」
「あら、勇気があるのね」
「……そうじゃ、ないんです」
悔しそうに、ノルディスが唇を噛んだ。生きている縄に、白龍を任せる。もう一本を背中から抜くと、エルフィールは翼を拡げるロック鳥を見据えた。
「吸血鬼以来名を挙げるに丁度いい獲物になかなか出会えず、退屈していた所よ。 私の名前はエルフィールッ! お前を今から殺す者だ!」
ロック鳥は、翼長がエルフィールの背丈の五倍はあった。サイズから考えると、むしろ翼が短い方かも知れない。ロマージュが、囁くように言う。
「凄い魔力よ。 飛ばせてしまったら、多分勝ち目はないわ」
「わかっています」
さっき外でこれが飛んでいる姿は見掛けなかった。恐らく人間を畏れ、こんな所に引きこもっていたからだろう。
たまに外に出る時は真夜中、しかも天候が悪い時を選ぶのではないか。
元々餌は殆ど必要としない。場合によっては、周囲にいる老齢個体に取って来させればいい。
いや、辺りを見回す限り。
そもそも、他のアードラを餌にしていた可能性も、否定は出来なかった。
猛禽は非常に体つきが逞しい。恐らく胸の筋肉が発達しているからだろう。ゆっくりと、太く逞しい足で歩み寄ってくる姿は、爛々と輝く目もあって、迫力が凄まじい。ロマージュが腰から剣を抜く。ノルディスはためらいつつも、杖を構え、詠唱を開始した。
エルフィールが、両手をぶらんと垂らしたまま、まず前に飛ぶ。
大きいと言ってもアードラだ。突進してきたエルフィールを見ると、少しだけ体を引くと見せかけ、間合いに入った瞬間、残像が残るほどの速さで躍り掛かってきた。引いたのは、体に力を充填するため、バネを押し込むのと同じ意味だ。
嘴が、地面を抉り込む。
やはり強い魔力を含んでいるからか、轟音がとどろいた。
エルフィールは激突の瞬間、生きている縄二本を使って跳躍、天井部分に一瞬だけ貼り付いた。大きな体を旋回させるロック鳥。頭上から襲撃してやろうかと思ったが、止める。そのまま、天井を蹴って後退。次の瞬間、巨大なロック鳥の翼が、エルフィールの鼻先を掠めていた。
こんな風に翼を使う鳥ははじめて見た。
そう言えば、翼で囲い込むことで影を作り、魚を捕る鳥がいるとか、この間調べた図鑑に載っていた。翼は空を舞うための繊細な装置だが、魔力を使って飛んでいるだろうロック鳥にとっては、失うことはさほどの痛手ではないのかも知れない。
飛び退いたエルフィールから視線を外さないまま、左足を挙げるロック鳥。そして、詠唱を終えようとしていたノルディスに振り下ろす。距離はまだだいぶ離れていたが、とっさにロマージュがノルディスにタックルして弾かなければ危険だった。
地面が爆砕され、饐えた臭いとともに大量の土砂が舞い上がったからである。
ロック鳥が踏んだ辺りの地面ではない。
その光景を見て、エルフィールは眼を細める。ある仮説が、頭の中で組み上がりつつある。
飛び散った土砂が、ぱらぱらと落ちてくる。星明かりでは詳しく確認できないが、掘り返すと匂いがあると言うことは、やっぱりここはロック鳥の寝床兼食堂でもあるのだろう。こんな大物がここにいるとは聞いたこともなかったから、やはり一箇所にとどまっているのではないのだろう。今回姿を見せたのも、エルフィールらが少人数で、なおかつ感じる気配が小さかったからに違いない。
しかし、もっと老獪な生物だったら、ほぼ確実に最初から逃げに徹するはずだ。そうなると、何か逃げられない理由があったのか。
仮説が、徐々に組み上がっていく。もしもそれが正しいとなると、実に簡単に勝てる可能性もある。だが、今は兎に角、判断材料を集めることだ。
ロック鳥が、徐々に押し込んでくる。確かに飛ばせてしまうと勝ち目がない可能性が高い。エルフィールは右に回り込みながら、走る。ノルディスとロマージュを、相手の死角に入れるためだ。
ノルディスは正体はよくわからないが、兎に角相手を貫く紫色の光を放つ術式を持っている。槍で刺すとでもいう風情だが、兎に角破壊力自体は決して小さくない。キルキの熱量操作や、アイゼルの光の術式に比べると地味な部分もあるが、ロック鳥に打撃くらいは与えられるはずだ。
エルフィールが跳ぶのを見て、ロック鳥が今度は右足を振り上げる。外の星明かりが強く届いているせいか、妙に禍々しくそれが見えた。
風の壁が、エルフィールを叩きのめす。
嵐に翻弄される木の葉のように、地面に叩きつけられ、数度バウンドして、転がった。
生きている縄で緩和したが、しかし痛い。そうか、最初のも、風の術式だったのか。詠唱しているようには見えなかったが、なかなかやるじゃないか。エルフィールは頭から血を流しながらも、くつくつと笑った。
これは、いよいよこの杖を実戦投入するに相応しい時が来たと言える。
ノルディスの詠唱はもう少しかかるか。ロマージュが前に出ると、二つの剣を振るう。華麗なだけでなくしっかり剣筋も鋭い。だが、ロック鳥が僅かに体を傾け、それだけで受け止めて見せた。
剣にしても何でもそうだが、相手が斜めになっていると、それだけでかなり切りづらくなる。それを、この鳥は知っている。
ますます面白くなってきた。
星明かりの下で、ロック鳥の顔が見える。無数の向かい傷を受けていて、左目は白く濁っているようだ。多分体もこんな様子だろう。
鋭い声。
周囲で、アードラの老齢個体達が怯えているのが、肌でわかった。
エルフィールら人間が、夜身動きが取れないアードラの側にいると言うこともあるだろう。だがそれ以上に、ロック鳥のこの叫びを畏れているのは明白だった。
打撃用の紅柳を持ってくるべきだったかと、一瞬だけ後悔する。
だが相手は体格においても虎を上回り、多分最大級のアークベアをも凌いでいるだろう。そんな輩に、如何に使い慣れているとは言え、打撃杖が通じるかと言われれば微妙な所だ。ジグザグに走りながら、右回りにロック鳥の後ろに回り込む。ノルディスも機転を利かせて、相手を軸に同じように右回りに走って敵の死角に入り込んだ。
鋭い鳴き声。鬱陶しいとでも言うのだろう。
翼を拡げ、ロマージュをはじき飛ばす。まるで人形が放り投げたかのように、彼女の体は吹っ飛んで、地面に叩きつけられた。足を振り上げた瞬間、エルフィールが間合いを詰める。
二度受けてみてわかった。
あの攻撃は、足を地面に叩きつけた音を、簡易の詠唱にしている。
「今だよ!」
「わかった!」
ノルディスが、紫色の、光の槍を中空に出現させる。ロック鳥が驚くほどの速さで振り返ると、ノルディスに対して、風の壁を叩きつけた。動きも、今までよりもずっと速い。だが。それこそが、エルフィールの待っていた瞬間だった。今、ロック鳥は余裕が無くなり、全速力で動いた。だからこそに、付けいる最大の隙が出来る。
吹っ飛ぶノルディスが、天井に叩きつけられ、ゆっくり地面に落ちる。
飛来した剣が、ロック鳥の左目に突き刺さる。ロマージュが、今の瞬間投擲したダークと呼ばれる短刀だ。
まるで粘つく水を落としたかのように、ゆっくり時間が流れていく。極限までの集中が、そう錯覚させているのだ。
翼を拡げたロック鳥が、旋回しながら跳んだエルフィールをはじき飛ばそうとする。だが、生きている縄を天井に伸ばして、無理矢理に回避。
剣が突き刺さり、絶叫するロック鳥の頭上を、ついに取った。
背中に着地。
そして、白龍の引き金を引く。分厚い肉を、射出された杭が貫いていた。
飛び散る鮮血。雄叫びを上げながら、横倒しになるロック鳥。地響きが、辺りを圧する。飛び退かなければ、エルフィールは押しつぶされていただろう。視界の隅で、必死に立ち上がろうとしているノルディスと、肩で息をついているロマージュが見えた。
もう一つの杖を構える。
先端にごつい塊がついた、その杖は。あまりにも反動が大きいが故、今までは使う機会もなく、相手もいない武具だった。
後ろに跳んだのは、地面で放つには反動が大きすぎるからだ。ロック鳥は背中から盛大に鮮血を噴き出しつつも、まだ戦う意欲を捨てていない。実際、これくらいの傷なら致命傷にはほど遠いからだろう。
だが、ここで逃亡を選ばなかったのが、彼の限界だった。
わかった。エルフィールは、仮説を推論から確信に変えていた。三方から囲む形になった巨鳥の向こうにいるノルディスに、叫ぶ。
「ノルディス、アレ、見えてない。 恐れないで、中距離のまま攻撃を続けて! 気は私が引く!」
「えっ!?」
「この鳥、こっちが見えてないんだよ。 だから、こんな狭い所に引きこもってた。 こういう狭い所なら、風の動きをこれ以上もないほど細かく分析できるからね」
それにこれはエルフィールの予想だが、此奴は飛ぶことも出来ない。
もしも飛べるのなら、こんな危ない場所に引きこもらず、洋上の孤島や、大高度の山脈に巣でも作り、それを使い廻せばいいのである。人間に襲われる可能性を、それで著しく減らすことが出来る。
全て、桁外れの大きさを目の前に、勘違いしていた。
此奴は恐らく、重病か、寿命が近いのだろう。態勢を低くして、鋭い威嚇の声を挙げるロック鳥。エルフィールは、生きている縄に、指示を飛ばす。
「全縄、発射態勢に入れ!」
ロック鳥がエルフィールに向き直る。ロマージュが再びダークを投げつけ、足に刺さった。巨大な足とは言え、血飛沫が飛ぶ。元々鳥の足は翼の次にデリケートであり、猛禽でもそれに変わりはない。立ち上がったばかりの巨体が、再び揺らぐ。
だが、全身を沈めたロック鳥が、翼を一気に開く。
かまいたちが、辺りを徹底的に蹂躙したのは、次の瞬間だった。
まだ、発射態勢に入り切れていなかったエルフィールは、ガードポーズを取るのが精一杯だった。数メートルを吹き飛ばされ、受け身を取って転がり起きる。
ノルディスは跳ね飛ばされたか、返事もない。ロマージュも俯せに転がったまま、身動きしなかった。
辺りは阿鼻叫喚である。巣を作っているアードラも体中切り刻まれたようで、悲鳴を上げてもがいている。立ち上がると、エルフィールは額の血を乱暴に拭い、発射態勢の継続を指示。
生きている縄が、次々に地面に突き刺さる。
目標を見失っていたロック鳥が、エルフィールに向き直った。杖を構えたエルフィールが、まるで巨大な蜘蛛が、獲物に襲いかかるような影を、長く長く伸ばす。
構え挙げた杖の先には、巨大な鉄拳にもにた構造体がある。太い杖の中には、鎖が収納されており、兎に角反動がものすごい。だから、これだけ大掛かりな準備をしないと、撃てないのだ。
これを作った奴は、エルフィールの三倍くらい体重がある筋骨隆々とした男が使用することを想定していたのだろう。
ロック鳥が、恐らくここが勝負所と見たのだろう。全力で、狭い空間の中跳躍し、爪で此方を引き裂こうと飛び掛かってきた。目から大量の血を流し、背中からも鮮血を噴き出しながらも、まだ諦めないその姿は尊敬できる。
だが、ただの獲物でもあった。
二の腕ほどもある巨大な引き金は、杖に対して十字状に、左右についている。これを、横にずらすことで発射する。再装填までは、専用の道具を使って二日掛かる。だが、それに見合う破壊力があるのだ。
この杖、冬椿には。
「根を張り、花咲け!」
「ケエエエエエエエッ!」
ロック鳥の爪が、エルフィールを引き裂こうとした寸前に。エルフィールは、杖の引き金を、全力で右にずらしていた。
「冬椿っ!」
閃光が、天に昇るかと思った。
衝撃が、あまりにも凄まじすぎた。発射音はまるで指向性でも持っているかのように、辺りを叩きのめす。一気にロック鳥との距離が開いたのは錯覚でも何でもない。本当のことだった。
ばらばらと、土が落ちてくる。
両腕が引きちぎられるような痛みの中、何が起こったのか、少しずつ見えてきた。舌なめずりする。少しでもタイミングがずれていたり、或いは鍛錬が足りなかったら、両腕が無くなる所だった。
発射された巨大鉄拳が、ロック鳥の胸の中央を直撃。その巨体を押し返したばかりか、天井に叩きつけたのである。
虎を持ち上げ絞め殺すほどの力を持った縄が、全力で撓み、巨大な力を空に逃がしてこれだ。今更のように、鎖が杖から無理矢理引っ張り出されるじゃらじゃらという凄い音が、しばらく耳の奥で鳴りやまなかった。
巨大な鉄拳を打ち出す戦闘用杖、冬椿。
初の実戦投入で、素晴らしい効果を上げた。天井から剥がれ、落下したロック鳥に、拳は突き刺さっている。無理矢理引き抜くと、目を剥いて巨鳥は嘴の間から大量の血を吐いた。
天井には、巨大な穴が開いている。そんなに脆い地盤でもないというのに。どれほど今の一撃が凄まじかったか、よくわかる結果だった。
じっと冬椿を見つめるエルフィール。本当にこれを作った奴は、何を考えていたのだろう。よくわからない。だが、手に馴染むのは、間違いなかった。
「エリー。 だいじょう、ぶ?」
「こっちは大丈夫だよ」
真空の刃によってずたずただが、まあ死ぬようなこともないだろう。痛みから、傷の位置を冷静に分析。致命傷は一つもない。適当に手当てしておけば大丈夫だ。
生きている縄を何本かロック鳥に向かわせ、縛り上げさせる。此奴は、もう放って置いても死ぬ。だが、目を離した隙に攻撃でもされると厄介だ。だから、締め上げておく。他の面子を助けた後にとどめを刺すにしても、身動きが出来ないようにはしておかないといけなかった。
ロック鳥が、生きている縄に全身を締め上げられて、哀れっぽい悲鳴を上げる。蛇に締め上げられる小鳥のような無様だ。放って置いて、ノルディスを助け起こす。酷い傷だが、どうにか骨は折れていなかった。
「ほら、強壮剤」
「ごめん、エリー。 あまり役に立てなくて」
「ううん、非常に役に立ったよ」
囮として、だが。
自力で立ち上がったノルディスと一緒に、ロマージュを助け起こす。元々露出の多い服装は、土まみれになっていた。
「消毒しておきましょう。 ちょっと傷口が汚れている箇所が何個かあります」
「ああ、任せるわ」
「ちょっと痛みますよ」
ノルディスがバックパックから取りだした脱脂綿に、消毒液を含ませる。
真空の刃による一撃は、かなり鋭利な傷を作っていた。ロマージュの商売ものの肌に傷が残ると面倒だ。丁寧に消毒した後、止血剤を塗り、包帯を巻く。ロマージュが終わった後、ノルディスにも同じ処置をして、エルフィールも自分で作業を済ませた。
ようやく一息ついてから、ロック鳥を見る。
もう身動きできない巨大な鳥は、口から泡を吹き、呼吸する度に生きている縄に締め上げられていた。
毒蛇に噛みつかれ、毒が全身に回った鳥のような様子である。背中に刺さった白龍を力任せに引き抜く。曲がってはいない。だが、部品の幾つかは、交換が必要そうだった。
どうしてか、言いようのない不快感が全身を駆けめぐる。
道具が揃っていたら、拷問してから息の根を止めてやりたい所である。だが、もう此奴は充分に苦しんだか。笑顔を保つのに多少苦労しながら、エルフィールは鳥に向き直った。
「さて、とどめを刺しますか」
「まって、エリー」
「どうしたの?」
「僕が、とどめを刺すよ」
しばらくノルディスを見つめる。決意は固いようだし、このひ弱な青年は、結構意思力が強い。きっと、けじめのつもりなのだろう。
ロマージュが止めようとしたが、制止する。
「エリーちゃん?」
「あの鳥から取れる成分で、今施療院で苦しんでいる人が、何名か助かります。 その中には、まだ七歳の女の子もいます」
「でも、あの鳥の生命を絶つことには変わりないんです」
ノルディスは傷だらけの顔で苦しそうに微笑むと、詠唱を開始した。
まあ、これくらいは譲ってやっても良いだろう。冬椿の実戦投入は出来たし、何より今は疲れている。
もたもたしていて朝にでもなったら、まず助からない。
ノルディスが詠唱を終えた。
青年は涙を拭くと、ロック鳥に謝罪し、その頭に紫色の槍を打ち下ろしていた。
崖から鳥を下ろすのは難儀だった。放り落とそうと何度も思ったほどである。だが、持ってきた縄を全て使って、多少乱暴だが下ろすことは出来た。途中で二本縄が切れたのは、ロック鳥の怨念かも知れない。自然の理から外れた存在である。死んでもそれくらいはやりかねなかった。
巣の中には、卵があった。明らかに無精卵だろうとエルフィールは思ったが、大事そうに撫でるノルディスの前では何も言わなかった。ロック鳥の卵は意外に小さく、赤子の頭くらいしかなかった。多分卵は、アードラの産むものの大きさに近いのだろう。
まだ夜明けまでは時間があるが、それでも急がないと危ない。急いで降りる。行きに設置したザイルがあったので、それを利用して滑り降りる。真ん中にノルディスを配置して、生きている縄の力も借りて出来るだけ急いで降りる。
「エリーちゃん、元気ねえ」
「まだまだ若い者には負けませんよ」
「ま。 おばあちゃんじゃないんだから」
冗談めかして言うと、ロマージュが笑った。そういえば、多分実際に記憶があり生きていると言えるのはもう五年弱になるか。
何度か岩棚で休む。ロマージュはしっかりザイルを回収しながら降りてきてくれているので、安心だ。ノルディスは降りるので精一杯だが、少し顔つきがさっきまでと変わっている気がする。
自分の手で、しっかり命を奪ったからだろう。
下につく。まだ、ここは安心できない。アードラの勢力範囲内だからだ。ダグラスが待っていて、既に梃子を利用してロック鳥を荷車に乗せてくれていた。と言っても、全部が乗るわけではない。特にその巨大な翼は、だらんと左右にぶら下がっていた。
その気になれば虎をそのまま乗せられるほど大きい荷車でこれだ。普段は置き場所が無くて、近くの馬車を置く駐車場を借りて置いているほどなのに、である。これから出来るだけ急いで解体して、残りは放置するとしても、かなり苦労が残っていると言える。
「死闘だったみてえだな」
「まあね。 有意義だったけど」
ノルディスがふらりと倒れかけるので、ダグラスが支えた。そのまま肩を貸して歩き出す。
空が白みかけてきた。
荷車を引いて、急ぐ。ある程度離れれば、もうアードラは人間に対する敵対行動を起こさない。否、起こせないのだ。起こそうものなら、この営巣地ごと滅ぼされるのが目に見えているからである。
空を舞っているアードラが見える。リーダーの死を悲しんでいるのだろうか。
アデリーさんに言われたことがある。人間が世界の頂点にいるのは、最強だからだ、と。だから逆に言えば、人間より強い存在が現れれば、そのものにより瞬く間に駆逐されてしまうだろう、とも。
近くの河原で、一旦下ろす。
ここで解体する。血は川に流れ込むから、丁度良い。鋸を取りだし、牛刀も。生きている縄をフル活用して、解体に取りかかった。
逆さに吊すことが出来ればいいのだが、流石にそれは出来ない。まずはかさを減らす必要がある。
翼の根本を、鋸で切断。生きている縄を駆使して、体ごとひく。何度も往復している内に、大量の血が川に流れ込んでいった。かなり硬い。下の方を生きている縄に支えさせているのだが、それでもなかなか切れない。
「うーん、軟骨の位置が違うのかなあ」
「エリーちゃん、寝てていい?」
「どうぞ?」
ロマージュが青い顔をして、天幕に引っ込んだ。ダグラスはノルディスの介抱をしていたが。意外にも、ノルディスは天幕に引っ込まず、その場にいる。
「いいよ、材料だけ取れたら教えるから」
「ううん、ここで見させて。 身動き取れないほど疲れてるから、教えてとは言えないけど、せめて見届けさせて欲しい」
「ノルディス、お前」
「いいんだ。 僕の決断の結果を、見届けたいんだ」
好きにすれば良いと思い、エルフィールは鋸をひく。骨が削れて、徐々に歯が食い込んでいった。無数に生えている羽が、想像以上に頑丈である。何度か汗が傷口に入って、眼を細めた。
ある程度切断したところで、生きている縄と力を合わせ、力任せに翼を引きちぎる。もう一方も、急ぐ。あまりもたもたしていると、素材が痛んでしまう。
翼の次は、首を落とす。今度は比較的簡単に軟骨の位置を特定できた。しかし大木のような太さである。鋸を数本使って、一気に切り落としに掛かるが、半ばまで行くまで半刻かかった。
メディアの近くだから、川には鰐もいる。恨めしそうに、こっちを見つめていた。
「ダグラス、羽をむしってくれる?」
「わかった。 どういうのを取ればいい」
「大きいのを幾らか」
骨を、軟骨に沿って切り落とす。巨大な頭が、ごとりと落ちた。
次は死体をひっくり返して、腹を割く。内臓を入れる桶は二重になっていて、間に冷却剤を詰めている。つまり準備は万端であり、ただ取り出すだけで良いのがいい。
牛刀を使い、腹に密生している白い毛を一気に切り払う。生きている縄四本と共同し、五刀流でざくざくと毛を刈る。ダグラスは黙々と、翼から羽を引き抜き続けていた。
腹の皮膚が剥き出しになった所で、おもむろに鋸を当て、縦に割く。今度は比較的簡単だった。
腹を一文字に割いた所で、体を横に。用意しておいた木でつっかえをして、体を固定。割いた腹から手を突っ込んで、内臓を引っ張り出す。
「はい、ご開帳」
幾つかの内臓を、順番に引っ張り出していく。その中に、一つ。金属塊のように見えるものがあった。
そういえば、アデリーさんに聞いた。悪魔とかの上級の魔物になってくると、体内に不可解な物質を蓄えていたりする事があるとか。これは研究すると面白いかも知れない。
「ノルディス、これくれる?」
「いいよ。 僕は薬を作るための内臓類しか興味がないから」
「ありがと」
内臓を引っ張り出し、全て桶に格納。空っぽになった胴体はうち捨て、今度は頭を二つに割る。
頭蓋骨が兎に角硬いので、皮を剥いだ後、頭蓋骨の継ぎ目を砕いていくのだ。そして、巨体の割にはあまり大きくない内臓を出した。
後は肉類だ。
足や首、胸から筋肉を剥ぐ。
事前に調べてあるが、毒もなく食べられると言うことだから、そのままいただくことにする。ただこの量は食べきれないから、殆どは燻製にして持ち帰ることになるが。
一通り処理が終わって、竈に火を入れる。流石に疲れた。
煙で肉を燻しながら、皆で肉を分ける。ノルディスはいつもからは考えられないほど、がつがつと肉を食べた。
自分で殺した相手なのだから。
せめて責任を取りたい。そう言うことなのだろう。
肉は少し筋っぽいが、充分に美味しい。満腹するまで食べると、エルフィールは骨を一箇所に纏めた。そして油を掛けて、火をつける。
これだけ大きい残骸だから、放置すると異臭騒ぎになるかも知れない。だから燃やしてかさを減らし、しっかり埋めておくのだ。こうすることで、周囲の植物も実にたくましく育つことは疑いがない。
「おいしいね」
「そう、だね」
ロマージュはさっきから一言も喋らないで、肉を口にしている。それだけ美味しいと言うことだ。
ダグラスは何か言いたそうにしていたが、結局最後まで文句を一つも言うことはなかった。
それから、帰宅するまで。
ノルディスは、何も言わなかった。
4、死闘の末に
施療院の前で、お下げ髪の幼い女の子が、両親らしい大人二人と歩いている。両親と手をつないで幸せそうに微笑みながら。
それを見送るノルディスの肩を、古株の医師であるゼークトが叩いた。
「どうした、坊主。 元気がないな」
「あの子を治すことが出来て、嬉しいです。 でも、その過程を知ってしまっているから、素直には喜べなくて」
「ほう」
あの子は、ノルディスが作った薬で病を克服した。そのほかにも二人が既に退院し、四人が回復に向かっている。
しかし、ノルディスは、知っている。
あのロック鳥が、恐らく生で最後の卵を守るために、敢えて逃げなかったことを。目も見えず、満足にも動かない体で、必死に立ち向かってきたことを。
それを容赦なく殺して、卵も奪って。得られた薬で、あの子は助かった。
正しいことをしたのか。そう、自問自答してしまう。人間の社会では、正しいことをした。しかし、世界全体ではどうだったのだろうか。
エリーは言うだろう。
そんな事を言うなら、人間という存在自体が、世界に対する異物だと。確かにその通りでもある。だから、生きるためには、歪みを容認しなければならない部分もある。
しかし、あの鳥を殺すのを決めたのは、ノルディスだ。
それに関しては、何も言い訳できなかった。
「酒を飲めるようになったら、適量を口にするといい」
「そうですね。 そうさせて貰います」
「お前さんはアイゼルと一緒で、いい錬金術師だ。 錬金術師自体は気に入らんが、お前さんもアイゼルも儂は気に入っているつもりだ。 いずれ、一緒に酒を飲もう。 どうにもならん世の中に対する苦しみも、少しは分かち合えるかも知れん」
肩を叩くと、ゼークトは施療院に戻っていった。気難しい人だとばかり思っていたが、優しい所もあるのだと、ノルディスは知った。
今回の件で、ノルディスは一つ決めたことがある。
もう、両親からの仕送りは当てにしない。
そして、そのためにも、寮は出る。
少し早いが、決意は固い。アカデミーに出ると、ノルディスは三階に上がり、イングリド先生の部屋に向かった。
なにやら難しい調合をしていたらしいイングリド先生だが、ノルディスが戸をノックすると、すぐに出てくれた。
「今日は休みだと言うことでしたが?」
「はい。 重要なお話があります」
「なんでしょう。 言ってごらんなさい」
「はい。 僕にも、アトリエをください。 寮を出て、自活します」
くつくつと、イングリド先生は笑う。
そして、驚くべき事を言った。
「少し前に、アイゼルが同じ事をヘルミーナ先生に言ったそうです」
「えっ……?」
「良いでしょう。 貴方たちは、外で自活することで、更に成績を上げられると私は見ています。 アトリエなら、まだ空の住居が幾つかありますし、何より好成績を挙げている貴方たち二人が、将来残す業績を考えれば安いものです。 二ヶ月ほどで用意しましょう」
あたまを下げると、ノルディスは先生の部屋を出た。
世界は、残酷だ。
だからこそ、強く生きなければならなかった。
(続)
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