紅い政略結婚

 

序、婚姻の義

 

ドナースターク家にて、婚姻の義が執り行われる事は既に公然の秘密であった。だが、その日取りが正式に発表されたことで、ザールブルグは時ならぬ祭りが来たかのように、一気に活性化した。

質素な婚礼にすることはドナースターク家から事前に広報されていたが、現在もっとも上り調子の貴族である。賄賂などは国に厳しく監視されているが、それでも祝いの言葉を述べなければならないため、多くの取引先の人間や、貴族などが上京してきた。彼らを目当てにした商売も活気づき、ザールブルグは喧噪に包まれたのである。

しかし、それとはまるで関係無しに動いている者もいる。例えばエルフィールは、今日も外の騒ぎなど何処吹く風に、最後の調整に取りかかっていた。

愛情がなければ、料理は完成しない。

その概念は、この間しっかり理解した。そして、愛情というものについても、何となくわかってきた。

世間的に言われている愛情というものは、結局の所錯覚に過ぎない。基本的に好意は共有するものではなく、個人個人が勝手に持つものだ。それが美味く作用すれば、相思相愛というような状態になる。逆に、一方しか愛情をもてない場合は、ストーカーとか呼ばれる場合もあるようだ。

もしも愛情が双方向で成立するのなら、人間社会のすれ違いなど存在しない。

だから、エルフィールは、自分なりの愛情を、ケーキに注ぎ込めば良いのである。

昨晩から仕込んでいたスポンジを、型に流し込む。生きている縄をフル活動させて、竈を開けた。

外ではまた貴族らしい連中が行き交っているようで、何か楽しそうな会話が聞こえてくる。いずれもが、実業家としての側面を持つ連中ばかりだから、ビジネスライクな話も多いようだった。ただ、トラブルも彼方此方で起こっている。ザールブルグの治安は他とは比較にならないほど良好なこともあって、治安悪化を懸念する住民も少なくない様子であった。

竈は、まだちょっと温度が足りない。

「クノール、火力あげて」

「わかりました!」

裏庭にいる妖精クノールが、木炭を竈に注ぎ込む。また蓋を閉じて、じわじわと温度が上がるのを確認しながら、クリームや、トッピングについても確認。

少し前からスポンジを横に切って、間にクリームを挟む手法を試し始めている。この間に入ったクリームが、また味を引き立てるのだ。スポンジが柔らかくならないようにする工夫が結構大変で、クリームの素材は何度も吟味を余儀なくされた。

竈の温度が、充分に高まる。

型を、竈に入れた。脈を測って、時間をしっかり確認する。砂時計を使う手もあるのだが、丁度いい時間は毎回変わるので、結局断念した。

ドアがノックされる。キルキらしい。

「今、焼いてる途中」

「ごめん、出直す」

「入っても良いけど、ちょっと待ってて」

ドアが開く音。キルキが、何か持ってアトリエに入ってきたらしい。頭の中で脈拍を数えているエルフィールは、そちらを見る余裕もなかった。

3,2,1。

竈の蓋を開けて、スポンジを取り出す。生きている縄に手伝って貰って、まだ熱いうちに、上下に切り分けた。

既に作っておいたクリームを塗り込む。偏執的なまでに味付けの改良は重ねた。クリームには、六十種を超える素材を使っている。砂糖だけでも五種類。その配分も、八十三回もの実験で、最良のものを編み出した。

これが、エルフィールの愛情だ。

ヘルミーナ先生は、一方的な愛情だけで、この大陸でも前人未踏なホムンクルス作成を成し遂げ、なおかつその改良を日々実行できている。ミルカッセやアイゼルも、結局の所同じ事だ。ミルカッセの愛情が双方向なのは、たまたま相手との相性がよいからである。エルフィールは、相手のことなんぞどうでもいい。

ただ、自分が徹底的に、偏執的に、完璧なまでに好きであれば良いのだ。

天才ではないエルフィールでも、流石に数百回以上繰り返せば、それなりに進歩もする。既に残り一月を切っているチーズケーキ作成期間だが、時間は充分だった。クリームを塗りおえた後、充分に冷やす。

その冷やす方法も、何回か工夫した方法で行う。井戸水を汲んでおいて、その真ん中に小さな桶を入れる。そしてケーキを入れて、適切な温度まで冷やすのだ。此方でも、冷やす速度が重要になる。あまり早く冷やしすぎると、スポンジの味が落ちるのだ。

「よし、完成っ」

拍手の音。キルキが拍手していた。

それだけではなくて、生きている縄達も、ついでに生きている箒とゴミ箱もであった。

ケーキを桶から出して、切り分ける。生きている縄達はうねうねと蛇のように蠢いていたが、これはきっと味だけでもと思っているのだろう。心配ない。最近エルフィールとの感覚共有が出来るように改良を行った。エルフィールが食べれば、縄達に封じられている悪霊も味を楽しむことが出来るのだ。もっとも、普段や戦闘時などはその感覚は遮断しているが。

箒とゴミ箱についても、縄が連結することで同じ事が可能である。しかも此奴らは、みょうな連帯感を持っているらしく、時々エルフィールがいない所で勝手に掃除を行ったり、塵の片付けなどを行ったりもしているようだった。

生きている縄を使って茶を淹れる。そして、席に着きながら、改めてキルキに朝の挨拶をした。

「おはよう。 さっきはごめんね」

「ううん。 私が急に来たのが悪い。 エリー、ケーキの方は大丈夫?」

「うん。 昨日の時点で99点。 で、今日は味を改良したから、これで多分完成の筈」

もう一度、生きている縄達が拍手をくれた。ちょっと嬉しくて照れる。

しかしながら、完成したとしても、問題はあくまで自分にとっての100点と言うことだ。

客商売をしているエルフィールは、知っている。人間には好みというものがあり、特に料理や芸術の場合は、それが大きく審査に影響してくる。どれほどの技巧を凝らしていたとしても、圧倒的な技術力があったとしても。評価されない芸術はある。というよりも、技術が凝れば凝るほど、一般人の理解からは遠ざかっていくのが普通なのだ。

料理も芸術と同じだ。

愛情が足りないと言われてから、エルフィールは散々色々な高級料理を食べて回った。凄い素材と圧倒的な愛情を注いで作られたとわかる料理も、かなりの数食べた。そして思ったのは、どれもが必ずしも美味しいとは思えない、と言うことであった。逆に、高級な素材を使っていなくても、偏執的なまでにこだわりを見せていたり、熟練の極みの技術の結果、ほっぺたが落ちそうな味を実現しているものもある。実際問題、その辺りの車引きでも、美味しいものは美味しいのである。

特に一部の上級貴族が嗜好するような料理になってくると、料理人の求める究極と食べる側が求める味の差が出る傾向が顕著だった。素材を偏執的なまでにいじくり廻しているのに、肝心の味に関してはさっぱり、というものも少なくはなかったのである。

そこでエルフィールは、味の究極点を、様々なクライエントに吟味して貰っている。キルキもその一人であった。

「これが一段落したら、砂糖や小麦粉も全部作りたいんだけどね。 流石に今は無理だから、これで我慢してるんだ」

「充分」

いただきますと言って、チーズケーキに手を付ける。

うむ。完璧だ。脳内に花畑が広がるような、強烈な美味。市販のチーズケーキよりは確実に、圧倒的なまでに美味い。味覚共有した生きている縄達が体をうねらせて不気味なダンスをしているのは、喜んでいるのだ。

キルキも無言でかつかつとチーズケーキを食べ続ける。

やがて、食べ終えた後、キルキも何度も頷いた。

「凄く美味しい。 何処の料理と比べても美味しい」

「ありがと。 じゃあ、これで完璧かな」

後は、長代行に食べて貰うだけだ。

残りの分は切り分けて、飛翔亭に納品してしまう。一旦飛翔亭に向かい、それから最後の一個を今日は長代行の所に持っていくこととした。

キルキも薬の納品があると言うことで、ついてきてくれた。やはり長期間の旅を行って、体を壊す貴族の類は出るらしい。其処で、飛翔亭でも最近は強壮剤や風邪薬の類を多く募集していたのだ。

飛翔亭の手前で、偶然ノルディスと鉢合わせる。アイゼルも一緒だった。

「あ、みんな。 おはよう」

「おはよう、エリー。 チーズケーキの納品かしら」

「おはよう」

アイゼルもノルディスも、最近は笑顔で挨拶してくれる。ノルディスとは二位争奪レースが激しくなる一方だが、それはそれ、これはこれだ。他の学生達はノルディスをあまり良くは言っていない様子だが、最近はノルディスも強くなってきていて、知っていながらあまり気にしていないのがよくわかった。

「うん。 とうとう、自分の中での究極点まで到達してね」

「それはおめでとう。 僕はケーキの味はよくわからないけど、凄いね」

「後はドナースターク家のあの恐ろしい当主代行様が、気に入ってくれるか、ね」

「大丈夫。 きっと気に入ってくれる」

キルキが太鼓判を押してくれるのは実に心強い。

階段を上がって、飛翔亭に。ハレッシュが丁度出てきた所だった。今日もディオ氏と言い争いをしたらしく、疲れた顔をしている。朝だというのに。

「お、エリー。 それに他の学生どもも」

「おはようございます。 また義理のお父さんと喧嘩ですか?」

「よせやい。 まだ義理のお父さんになってない。 でも、そうなってほしいんだけどな」

駆け落ちのような真似はしたくないと、ハレッシュは言う。ハレッシュにしてみれば、ディオ氏は本当に尊敬している相手だそうだから、まあ当然だろう。

実は、この間彼にも、ついに騎士団からの誘いが来たという。ペーパー試験ではどうにも駄目だと向こうが判断したから、らしい。

しかし今度は、冒険者ギルドの方が待ったを掛けてきたそうだ。

確かにナタリエが騎士団に引っ張られた現状、ハレッシュまで失うと、冒険者ギルドはベテランがかなり手薄になってしまう。何年か前にも、多くのベテランが戦死する事態があったらしく、今冒険者ギルドは若手の育成に大わらわだそうだ。

「それで揉めててな。 ディオさんは元々ギルド寄りなんだけど、何せ娘のことは何より大事だから、騎士試験にも合格できないような奴は、って理屈になっちまう。 フレアさんも、それでディオさんと何度も喧嘩しててな。 フレアさんが大げんかの末に飛翔亭を飛び出して、俺が迎えに行ったことも何度もあった」

だいたい、フレアはクーゲルの屋敷に行くのだという。というのも、ディオ氏の実弟であり、なおかつ非常にクーゲルの娘とフレアが仲良しだからだそうだ。

アイゼルが話を聞いてどん引きしていた。家族ととても仲がよい彼女であるから、他人の家庭がそんな事になっているとは想像だにできないのだろう。絵に描いたような、どろどろの泥沼状態である。幸いなのは、一人の男性や女性を取り合っての修羅場ではない、と言うことだろうか。

このままだと、名物マスターであるディオ氏の名前にも傷がつきかねない。もっとも、あの人は時々恐ろしく頑固だ。多分意固地になってしまっているのだろう。

最近色々な人と会い、話を聞いてわかってきたのだが、ディオ氏くらいの年の男性は、結構面倒なことが多い。変に意固地になってしまうことが多いからで、そう言う意味では男を取り合う女性よりもタチが悪い部分があるのかも知れなかった。

疲れ気味のハレッシュと別れて、飛翔亭にはいる。

予想通りというか案の定というか。ディオ氏はむっつりとしていて、フレアさんは厨房から出てきさえしない。客の方が、店主に気を使ってしまっているような有様だ。堂々とカウンターにエルフィールが進むのを見て、アイゼルとノルディスは真っ青になっていた。

「おはようございます、ディオさん」

「ああ。 で、納品か?」

「はい。 ついに出来ましたよ、自分としては究極のケーキ」

「ほう。 どれ、見せてみろ」

ディオ氏に、籠から出したチーズケーキを見せる。気付いてようやく厨房から出てきたフレアも、ケーキを吟味する。ただ、彼女は営業スマイルを作るのに、かなり苦労している様子だ。

こう言う時、納品より一個多く出すのは当然のことだ。ホールケーキも二つ作ってきてあるし、問題はない。

こう言う時は、フレアとディオ氏は仲良くケーキをスムーズに分ける。早速フォークでケーキを口に運んだディオ氏は、しばらく何も言葉にしなかった。

「む、本当に美味いな」

「これは美味しいわ。 市販のケーキのどれよりも。 対抗できるのは、大貴族の専属パティシエの作るものくらいじゃないかしら」

「そうだな。 これならば、問題はないが……」

ディオ氏はまだ引っかかる所があるようだ。この際だから、しっかり話を聞いておいた方が良いだろう。

「欠点があるなら、何でも遠慮無くどうぞ」

「いや、欠点と呼べるものはない。 まあ、シア嬢もこれなら満足するだろう。 ただ、ちょっとまだ何か足りない気はするな。 充分に合格点ではあるんだが」

「でも、私もこれ以上の愛情を、ケーキに注げませんよ」

もしもこれで駄目だとすると、小麦粉や砂糖から自分で生産するしかない。計量は完璧だし、味付けに関しても徹底的に吟味した。

ディオ氏が不満に感じているのが、好みの範囲内、だったらまだ良いのだが。もしも、それ以上の要素があるとしたら、致命的だ。

とりあえず、意見をこれ以上聞いていても仕方がない。

ディオ氏も最高級品として登録してくれるという。最高級のランクがつくと、貴族や場合によっては王族に納品されることもある。ブランドとしても箔がつく。エリーブランドと呼ばれる日が来たら、色々な意味で独立できるかも知れない。

いずれにしても、現時点ではもはやどうしようもない。これから帰り、作っておいたもう一つを持ってドナースターク家にいく。其処で長代行に味見して貰い、それで細部の調整をするしかない。

もう、自分では、欠点の解消法方が見つからないからだ。

キルキに代わる。他の客達は、エルフィールら四人を面白そうに見ていた。彼らの間では「アカデミー野生児軍団」とかこの四人が呼ばれているらしい。まあ、面白い呼称だから、別に顔を真っ赤にして訂正するほどのことでもない。

キルキはお薬とお酒を納品。酒をひとなめしたディオ氏は、目を優しく細めた。

「素晴らしい。 度数を下げてもこれほどの味を再現できるとは。 女性客や、アルコールに弱い奴にも出しやすい酒だ」

「でも、あんまり飲み過ぎないように、工夫した」

「そうだな。 お前さんにとってはそれが大事だったな。 確かに酒は、飲み過ぎると最悪の毒だ」

キルキはこくこくと頷く。

最近、彼女がディオに頼んで、アルコール中毒の患者に接していることを、エルフィールは知っている。既に人体実験の段階にまで入ったと言うことだ。ただ、ここからが全く進展していないらしい。

キルキは時々愚痴をこぼす。

酒によるダメージは、回復できないものなのではないかと。特に心が受けてしまったダメージは、回復するのが著しく難しいらしいとも。多くの医師にも話を聞いているらしいのだが、対処療法しか存在しないというのが、決まった返事なのだそうだ。あのゼークトでさえ、酒の毒は時間を掛けて抜くしかないと言っているそうである。

時々、隣で泣いている声が聞こえる。ちょっと心が痛むが、しかしこの壁を越えられるのはキルキだけだ。エルフィールには、美味しいお菓子を御馳走して上げるくらいしかできないのだった。

キルキに続いて、アイゼルも納品。ごちゃっと色々出した。ビロードの赤が、とても美しいお洋服が目を引いた。

此処の所、アイゼルは洋服や衣服、アクセサリなどを積極的に納品しているらしい。しかもそれらの作業のために、部屋の一部を改装して反射炉という強力な熱源を作ったそうである。

ハンマーや梃子の扱いにもすっかり慣れたと、アイゼルは最近笑いながら言うようになった。以前の針金のような体に比べると、ちょっと逞しくなってきたのも、それが原因だろう。ただ、アクセサリの加工に用いるハンマーは、釘打ちに使うようなサイズだ。たとえは戦闘用具や高い圧力が必要な道具の加工に使うような、巨大な猛獣と戦闘も出来るような代物とは少し違う。

最初の頃は、手を包帯だらけにしていた時期もあった。だが今は、すっかり針の扱いにも慣れたようである。ただ、その結果か、以前の白魚のような指よりは、見るからに頑丈そうになっているのがお茶目である。

「ほう、以前よりも更に細工が凝っているな。 これは鳥を象っているのか」

「求めているのは、親元を独立前の女性だと聞きましたから」

「なるほど、ちょっと安易かも知れないが、モチーフとしては充分だな。 技術力も上がってきているし、報酬を増やそう。 これならアクセサリーを作る店としても、やっていけるぞ」

「ありがとうございます」

アイゼルは少し嬉しそうに頬を綻ばせた。

彼女にしてみれば、苦労して作った子供のように大事な細工である。見ればシルバーで作った上に、宝石もあしらっている。これらは大体どれも、拾い集めた鉱石類から作り上げているものばかりだ。

シグザール王国は銀の価格が安い。多くの銀鉱山があるからだが、それを差し引いても、彼女が作ってきた指輪は市販の価格で見ると相当な高級品となるだろう。飛翔亭としても、大きな儲けが出る上客になる。ただし、オーダーメイドであることや、彼女が寮学生である事を考慮すると、供給が安定しないのがネックか。

洋服については、フレアが見た。

時々ルーペを使っているのは、細部の意匠を見ているからだろう。

「ん、こっちはまだまだだわ。 上乗せは出来ません」

「わかりました、精進します」

フレアは手厳しいが、アイゼルは笑顔のまま頷いた。かっての彼女だったら怒り狂うか、いや相当に落ち込んでいただろう。それを考えると、客商売を経験して、かなり精神的にも鍛えられているという訳だ。

成長が目に見えているのは素晴らしい。

最後に、ノルディスが納品する。ここのところ授業を休んでまで仕事を受けることもあったらしく、追い上げが凄まじい。

ざっと見ただけでも、数十種類の薬品がカウンターに並べられている。一つずつを吟味するディオ氏も大変そうだ。流石にこればかりは飲む訳にも行かないからである。

「不純物はないようだが、わかっているな。 もしも薬に問題があった場合、お前の責任になる」

「わかっています。 覚悟は出来ているつもりです」

「よし。 とりあえず、予定通りの金額を払う。 施寮院からの報告を受けて、その後は報酬を上乗せする。 もちろん問題があった場合は、以降ペナルティがつく」

ノルディスはこの四人の中でも。もっともリスクが高い仕事の受け方をしている。

クレームが来たらペナルティが来るのは誰も同じだが、ノルディスの場合はいつ薬が使用されるかわからないと言うこともあり、何時その爆弾が炸裂するかわからない。もちろん事前に念入りな実験と検証をしているのだろうが、それにしても怖いことに違いはないといえる。

ノルディスはかなり度胸がついてきているが、それにしてもこれだけの薬を納品するとは。退路を敢えて断つことで、自分を奮起させるためかも知れない。

全員が納品を終えた所で、外に出る。皆軽く此処で食事をした訳だが、小腹が空いていることに違いはない。

「車引きで食べていく?」

「ごめん。 これからドナースターク家行かなきゃいけないから」

「あ、そういえばそんな事言っていたわね。 それなら、今度またみんなで食べましょう」

アイゼルが、車引きに誘ってくれるなんて前では考えられないことだ。だから本当に惜しいのだが、我慢して今日は仕事を優先する。

皆と別れた後、急いでアトリエに戻る。アイゼル達は多分食事を済ませてから学校に出る感じだろう。エルフィールも、シア長代行と会ってから、そうするつもりだ。図書館に行って、幾つか調べておきたい本がある。今まではチーズケーキに生活のかなりの比重を割いてきたが、今後は試験なども考慮すると、もっと幅広く知識を身につけなければならないのだ。

いずれにしても、今日が、戦いの刻。

人生を左右する、勝負の日でもあった。

 

1、完璧故の業

 

帰宅したエルフィールは、残しておいたチーズケーキを地下室から出す。

砂糖が大量に入っているので、傷む可能性は低い。だが、高品質を維持できる時間は限られているし、潰れたりしたら見た目も良くない。籠に入れると、寄ったりしないようにしっかり調整。

クノールは言われたとおり研磨剤を作っていたが、視線があった所で新しい指示を出しておく。

「生きている箒とゴミ箱は、床の塵と埃を掃除。 クノールは器具類を駄目にしないように片付けておいて。 その後は、私が帰ってくるまで休憩していて良いよ」

「有難うございます、エルフィールさん」

「ん。 じゃあ、夕方には戻るからね」

さて、ここからが本番だ。どうもディオ氏のあの表情が気になる。

エルフィールなりの、偏執的なまでの愛情を、徹底的にケーキには注いだ。よくわからないのなら、量と執念でカバーすればいいのである。細かい部分まで、行程は徹底的に管理した。材料を粉の一粒まで吟味し、かき混ぜる回数は毎回かならず同じにし、保存時の温度管理も徹底し、切り分ける大きさまで千分の一の精度で実施した。

これぞ、愛情である。

アイゼルにこの話をしたら、どん引きした。そうだ。その反応こそ正しい。他人からみて、愛情など、見ていておかしいと思うくらいが丁度いいのである。

武術の達人よろしく、出来るだけ籠を揺らさないように歩く。重心を一定させ、体を揺らさないように歩く。

歩いていると、横から声を掛けてきた者がいる。ダグラスだった。

「よお。 なにやってんだ」

「お届け物の最中です」

「ほー。 籠の中身は、焼き菓子か何かか?」

「大事なお菓子です。 私の人生掛かってます」

緊張しているので、喋り方が敬語になる。ダグラスはと言うと、こっちが緊張しているからか弱みにつけ込んでいるのか、或いは意図的に雰囲気を読んでいないのか、平然とついてきていた。

ドナースターク家の屋敷はそれほど大きくもない。今回はかなり大きな功績を挙げたという噂もあるのだが、エルフィールの耳には届いていないし、公爵になるという話もないようだ。門扉の前に行くと、ドナースターク家の武官がいつもより多く歩哨に立っていた。エルフィールが挨拶をすると、彼らが怪訝な顔をする。振り返ると、ダグラスがまだ其処にいた。

「あの、忙しいんだけど」

「細かいことは気にすんな」

武官達も困惑した顔を見合わせる。ダグラスは見ての通り聖騎士である。無碍に追い払う訳にも行かない相手だ。

騎士団は基本的に軍の精鋭部隊という以上の存在で、シグザール王国の守護神として庶民から見られている。貴族や軍の高官に転進する人間も少なくないし、その中でも聖騎士は将来のポストが約束されている職業だ。

ダグラスのように気安くその辺を彷徨いている人間もいるが、それは例外だ。子供にヒーローについて聞くと、聖騎士という答えがかなり高い確率で帰ってくる。大陸最強の精鋭の中の、さらなる高みにいる者達。それがシグザール王国の聖騎士だ。

武官達もそれは知っている。だから、皆が困惑しているのだ。

「何、それでどうしたいの?」

「クーゲルさんから聞いた。 もう、お前を監視してるって、堂々と告げて良いってな」

「ふーん」

やはり、此奴も監視要員の一人だったか。

エリアレッテやカトールがそうだという事は知っていたが、なるほど。それに、クーゲルの顔に泥を塗る訳にも行かない。エルフィールは大きく嘆息した。

「わかった。 ただし、これから私が会うのは長代行だから。 マナーとかは大丈夫?」

「聖騎士になった時に叩き込まれてる。 心配するな」

どうだかと、心中で呟く。

何度か護衛を引き受けて貰って、少しずつ警戒心は薄くなってきている。ため口で良いって言われているから、少しずつ口調も柔らかくしてはいる。だが、それでも。この男には、何処か心を許せない。

と言うよりも、向こうも心を許させる気はないのだろう。今回はクーゲルの配下であることを、ついにカミングアウトしてきたこともある。もっとも、この辺りの行動はさっぱりはしている。もともと裏表を作るのが苦手な人間、なのかも知れなかった。

仕方がないので、一緒に屋敷にはいる。マルルが来て、取り次いでくれた。長代行は、結婚まであまり時間がないのに、忙しいことこの上ない。この様子だと、婚約者とベッドで義務を果たす暇もないかも知れない。多分それは、結婚してからもしばらくは続くことだろう。

待合室に案内される。長いすと小さな机が幾つか列んでいるだけの狭い部屋で、光源は窓だけである。長いすには、少し前まで誰か座っていた形跡があった。エルフィールも一応ドナースターク家の家臣の一人であるのに、こんな扱いを受けるのは。一緒に来ているダグラスが原因だろう。

「屋敷の中は質実剛健だな。 家具類も高価なのよりも実用的なのが揃ってて、俺としてはキンキラキンより好感が持てるぜ」

「あら、ありがと」

「俺は此処で待たせて貰う。 シア=ドナースタークって本当に忙しい人らしいからな」

「そうしてくれると助かるよ。 流石にこれ以上立ち入られると迷惑だし」

ダグラスに、籠の中身は何だと聞かれたので、もう面倒くさいから中身を見せる。デコレーションは崩れていないし、埃も被っていない。完璧な、作った時のままの造形で、チーズケーキが其処にあった。

結婚式に、集まる賓客達に出すものだ。貴族、取引相手、それに騎士団の幹部などが中心になる。

結婚式そのものに出席する貴族は限られている。今集まってきている連中は、殆どが上り調子のドナースターク家にお祝いを言いに来ているだけの連中である。結婚式に列席して貰う貴族は、ごく親しい一部だけだ。

それを差し引いても、結婚式で出す料理は、徹底的に吟味する必要がある。このチーズケーキの他にも、贅を尽くした肉料理も出す予定らしいが、そちらは専属の料理人を特別に雇い入れて行うそうだ。マルルが毒味までするそうで、食中毒を防ぐために専門の術者まで呼ぶという。万全には万全を期することになる。

ダグラスも、噂には聞いているはずだ。

だから非常識だと思ったのだが、流石に最後の一線だけは、雰囲気に合わせてくれた。それだけは喜ぶ他無い。

それにしても、どうしてエルフィールを監視するのかは、未だによくわからない。成績だって二位止まりだし、人工レンネット以外はこれと言った業績も上げていない。これについては自慢だが、他の総合得点ではキルキに及ばないし、まだまだブランドの名前だって貧弱だ。

クーゲルと言えば、一部で無く子も黙ると言われている騎士団のダークサイドを代表するような人物だ。或いは、エルフィールの異常な生い立ちに関係していることなのかも知れなかった。

四半刻ほど待たされる。その間、ダグラスに色々と聞かれた。

前よりは態度が柔らかくなっているが、やっぱり若干尋問じみている。エルフィールもそれに対して、前よりは薄いながらも、壁を作って接するしかなかった。

マルルが来た時、ちょっとほっとしてしまった。これ以上この空気にさらされたら、ケーキが駄目になりそうだ。

「長代行がお待ちです」

「良し、来た。 マルルさん、ケーキカッターをお願いします。 マルルさんにも、味見していただきたいので」

「わかりました」

籠を手に、長代行の部屋に。そういえば、長であるトール氏はどうしているのだろう。最近は健康が特に優れないという話も聞く。死ぬとかそういうわけではないのだが、車いすが必要になると言う噂もあるそうだ。

長代行の部屋にはいる。さっきまで、誰かと話していたらしい。執務机に向かって書類を片付けている長代行の前には椅子があり、マルルがさっと椅子の皺を伸ばした。

今まで、何度かしか、長代行には会ったことがない。社会的な地位が根本的に違うし、戦闘に関してもエルフィールとは次元が異なる実力の持ち主と言うこともあって、相対すると緊張する。ぺこりと礼をするエルフィールを、手を止めて長代行は見た。

清楚なお嬢様という風情の長代行は、以前はお下げ髪にしていたという。今では髪をそのまま下ろしていて、艶が目立つようになっていた。もっとも、戦士としてのこの人の実績を知る人間なら、そんな事は言っていられないだろうが。

「良く来ましたね、エルフィール。 ケーキが、出来たと言うことだけれど、本当かしら」

「はい。 やっと何処に出しても恥ずかしくない出来になったと思います」

「それは楽しみね。 マルル、切り分けなさい」

言葉の一つ一つにも、逆らいがたい威厳が篭もっている。この辺りは、武人としても長年前線に立ってきた、強者が故の貫禄だろう。

マルルに籠を渡す。ホールケーキが、マルルの熟練の技で、八分の一にするりと切り分けられた。まず最初に食べるのはマルルだ。スプーンを動かして、毒味。しばらくしてから、マルルは言う。

「大変に美味しいケーキです。 というよりも、今まで長代行について色々なものを食べましたが、これは様々な甘味の中でも最上級に美味しいと断言できます。 これならば、長代行も満足していただけそうです」

「貴方がそこまでいうとは珍しい。 私も、少し楽しみになってきたわ」

シアの手にも、皿に載せられたケーキが配られる。書類をどけると、シアは完璧なテーブルマナーを守ったままケーキを口に運ぶ。口のまわりがクリームで汚れるようなこともない。ほれぼれとするような食器捌きだ。フォークを使って見事にケーキを崩していく様子は芸術的だった。最後までケーキがバランスを失って倒れることもなかった。

食べ終えた後、シアはしばらく無言だった。

いやな予感がする。さっきのディオ氏も、こういう沈黙を作っていた後、妙に歯切れが悪くなったように思えたからだ。

「ふうむ、確かに完璧に近い、いや完璧なチーズケーキと言って良いでしょう。 しかし、このケーキは美味しい反面、大きな欠点があります」

「えっ……」

やはり、あるのか。欠点が。

これだけ愛情を注いでも、ついに欠点を消し去ることが出来なかったのか。シアはしばらく考えた後に、言う。

「このケーキは、あまりにも緻密すぎる計算と管理の上に成り立っているため、味が完成されすぎていて、広がりがないのです。 確かに一度は至上の、まさに天上の美味として味わえるでしょうが、次は確実に飽きるでしょう。 へたをすると、他のチーズケーキを食べる気がしなくなるかも知れませんよ」

「そ、そんな」

「貴方は飽きないでしょうね。 なぜなら、貴方の味覚に合わせて、完璧に調整されているケーキなのだから」

思わず、くらっと来た。

確かにその通りだ。流石は長代行である。ディオ氏でさえわからなかったこの料理の、恐らくエルフィールも不安点として感じていた部分を、的確に、一刀両断してくれた。

生きている縄が何本か反射的に伸びて、倒れかかったエルフィールを支える。まさか、これでだめ出しをもらうとは。しかも、根本的な所から、である。

ぐるうりと音を立てて前周りに一回転し、重力を無視した動きで、エルフィールは態勢を立て直す。というのも、生きている縄が協力してくれたので出来た技だ。無意味きわまりない技でもあるが。

しばらくカオスの極みだった思考も、長代行が咳払いをしたせいか、ある程度落ち着きを取り戻してきた。マルルはまるで異世界から来た怪生物でも見るかのように、エルフィールの不気味な挙動を見つめていた。

態勢を立て直す。そして、まだ困惑が残る声で、反論を試みる。

「わ、わかりました。 味を再調整、してきます」

「調整する必要はありません。 このケーキは既に完成していると言ったでしょう。 これはこれとして充分ですから、メニューの一つとして出しなさい。 ただし、これだけではなくもう二つ。 味の指向を変えたチーズケーキを、私の結婚式までに用意してくることを命じます。 味の広がりが期待できない所まで完成度を上げるとは、流石に私も思っていませんでした。 ならば、数で稼ぎなさい。 貴方にはそれが出来るはずです」

気がつくと、さらなる難題が二つ追加されてしまった。

思わず生きている縄を使って屋敷の天井を逆さに這って歩きたい気分に駆られたが、どうにか床を歩いて待合室にまで戻る。ダグラスがエルフィールを見て、度肝を抜かれた様子で言った。

「な、何だお前。 死刑でも宣告されたのかよ」

「あー。 死刑か。 素敵な響きー」

目の前にいる此奴を八つ裂きにしたら、血とか内臓とかが飛び散ってさぞや面白いことだろう。

そうだ。人肉をチーズケーキの隠し味とするのはどうだろう。死刑囚とかその辺を適当に八つ裂きにして、血を絞って肉を刻んで、そしてチーズケーキに入れるのだ。とても美味しそうである。

我に返る。味から言って、それはあまり好ましくない。

それに、長代行は、今日のケーキを完璧な品だと認めてくれたではないか。完璧すぎるのが問題だから、別の方向性で完璧に到達したチーズケーキを二つ完成させろと言ってくれたのである。

今までの失敗作の中には、突き詰めれば完成度を上げられるものが幾らでもある。例えばチーズの苦みと旨味を、そもそも違う方向に調整する方法はないのか。ベリーがベストだと思っていたのだが、これ以外の付け合わせはないのか。

「お、おい?」

「ああ、監視役。 丁度いいから、ケーキ御馳走してあげよっか?」

「ケーキか? あれだろ、すっごく甘い高級菓子だろ? 嬉しいけど、人肉とか入ってないだろうな」

「今のところ、入れる予定はないよ」

どうせ入れるんなら、お前を切り刻んで入れてやると内心呟きながら、エルフィールはドナースターク家を後にする。マルルには礼を言い、次は別のケーキをしっかり持ってくると約束した。

まだ、全てが終わった訳ではない。

確かに難易度は高いが、絶対できない訳でもない。一度究極に到達できたのである。もう二回くらいだったら、何とかなるはずであった。

ダグラスをアトリエに入れるのは初めてだったが、あまり抵抗はなかった。ケーキを御馳走してやると、とても無邪気な笑顔で頬張ったので、ダグラスに対する悪いイメージが少し緩和されたのだった。

「何だ、凄く美味しいケーキじゃないか」

「そう?」

「ああ。 故郷の妹にも、こんな美味いもんくわせてやりてえよ。 体が弱い奴でな、ろくに外にも出られねえんだ」

若干寂しそうにダグラスが言う。

これも、きっと人間的な弱みなのだろうと、エルフィールは思った。

 

2、婚姻の日

 

シア長代行の結婚式日程が発表されたのは、半月前のことだった。流石に王族は直接姿を見せないようだが、来る客はいずれもがVIP待遇ばかりである。騎士団長も、姿を見せるという話が来ていた。このほかにも、関係が深いギルドの要人や、錬金術アカデミーの上層部何名かも顔を出すことが決まっている。

総力戦の始まりだ。

ケーキには日持ちする材料と、そうでないものがある。日持ちはかなりコントロールできるのだが、それも最高品質を維持するためには、幾つかの制約が生じてくる。

前日から、ノルディスとアイゼル、それにキルキにも声を掛けた。

大量のケーキを作るには、生きている縄をフル活動させ、なおかつ妖精を五人か六人くらい吐血するまでこき使ってもなお足りないと、エルフィールは判断したからである。味の調整は、どうにか出来た。出来たからこそ、今エルフィールは、戦いのゴングを鳴らすべく、膨大な材料をアトリエに集めたのである。

料理と共通する部分も多い。

しかし、チーズは全てエルフィールが作った人工レンネットによって作成されている。しかも今回は万全を期するべく、クリームと小麦粉は全て自分の手で作成した。この製作過程でも、錬金術の技法が応用されている。

また、ケーキ作成の最終部分と味見に関しては、エルフィールが全部担当する。逆に言えば、そのほかは全部他人に任せることとなる。

最初にアトリエに到着したアイゼルは、地下室の様子を見て声を失ったようだった。

「エリー、ちょっと、これ全て材料!? 何人分のケーキを作るつもりなの」

「二百六十人分。 ホールケーキで」

結婚式で出すものは最高品質で統一する。このほかにも、記念として近くの住民に配るものを作成するのだ。結婚式には内外の五十人ほどが出て、近所の住民が合計六十人ほど。更に日頃苦労している家臣達にも配付するが、これは基本的にザールブルグの屋敷にいる者達だけで、四十人ほど。後は見物に来る人間に、早い者勝ちで百人分ほどを用意する。合計で二百五十。十人分はあまりだ。

これも最初は予定になかったことだ。だがかなりの数の貴族が押しかけたことで、住民への情報が広がりすぎている。元々新興の貴族としてドナースターク家は庶民でも知る存在となっており、周辺への配慮も繰り返しているため、今回の結婚式を好意的に取る者も少なくなかった。だから今回は、彼らに感謝する意味も込める。これはマルルが提案したことだ。

そして、エルフィールはそれに乗った。

エルフィールのブランドは、まだ大きな名声を確保していない。施寮院などでは名前が知られているし、一部の酪農業者の間では人工レンネットの件で名前が知られ始めているが、一般的にはまだまだだ。

近所づきあいではどうにかやっているが、これは一気にブランドの名前を高める好機である。だから、多少の苦労は厭わなかった。

ドナースターク家からの補助予算は、結婚式の後に出る。

逆に言うと、これだけのケーキの材料は、全て自前で用意した。今までの貯金をかなり浪費してしまった。ケーキは今でも高級なお菓子で、貧乏な人間はそう簡単に入手できるものではないのだ。

材料だけでも、失敗する分を考慮して、相当量を確保している。もちろん、二度にわたって外に自分で採集にいったものもあった。

「ごめんね、アイゼル。 結構厳しい仕事になるから、報酬ははずむよ」

「貴方には世話になっているから別に構わないけれど、ちょっと驚いたわ。 フィンフを連れてきて正解だったかも」

「あ。 連れてきてるんだ」

「マスター。 これは何処へ置きましょうか」

件の人物の声。ホムンクルスのフィンフは、寝袋を背負っていた。ちょっと調べてみたのだが、調合の補助用に作られているフィンフは、非常に体力も耐久力も高く設定されている。自分より大きなものを運ぶくらい、朝飯前の様子である。

それより、アイゼルが寝袋を用意してきていることも驚きである。この子も随分逞しくなったものだ。

続いてノルディスが来る。ノルディスは非常に丁寧に殺菌した自分専用の調合用具を、たくさん持参していた。妖精も連れている。非常によい判断だ。

「おはよう、エリー。 ちょっと話には聞いていたけど、凄い量の材料だね」

「おはよ。 妖精を連れてきてくれたんだ。 助かるよ」

「細かい作業もさせているから、期待して大丈夫だよ。 僕は何をすればいい」

「まずは日持ちするホールケーキを仕上げていく所から。 出来た分から、丁寧にドナースターク家に搬送していく感じかな」

搬送には、荷車を使う。しかし何しろデリケートなお菓子である。一度に多くは運べない。

搬送はキルキに手伝って貰い、幾つかの生きている縄も貸し出す。これは荷車の揺れを緩和するために使用するのだ。

品質を最優先するため、結婚式に出すものは、保存が利くケーキでも最後だ。保存が利くケーキで、配るためのものを最初に作成。これがおよそ三十セット。保存が利かないケーキで、配るものを次に作成。これもおよそ二十五セット。そして最後に、結婚式で使うものを、残りの分量作成することになる。

既に作業の工程表は書かれている。作業開始前に、アイゼルと、ノルディス。それに最後に到着したキルキと一緒に、会議を行う。こう言う時、一番的確な意見を言えるのはノルディスだ。元々頭脳がとても緻密なので、エルフィールのように偏執的な愛情を注がなくても、ものごとを丁寧に構成できるからだ。

「衛生管理とかは問題無さそうだね。 後は、やっぱり搬送するタイミングと、経路じゃないかな」

「ドナースターク家、少し前にエリーと一緒に行った。 路、わかる」

「キルキ、そうじゃないんだ。 結婚式が近付くと、この間のパレードみたいに、使えない路が出てくるかも知れない。 その時を考えると、不味いかも知れない」

今は、日の当たらない経路を進むことで、ケーキへのダメージを緩和している。多めに甘味を使っているから痛みにくいが、それでも最高品質品となると、やはり気温や湿度による品質劣化は問題になってくるのだ。

キルキは素直な子である。ノルディスの話をきちんと聞くと、路が使えなくなった時に備えて、色々な路を見てくると、アトリエを飛び出していった。

これなら搬送はキルキに任せても大丈夫だろう。

後は、工程管理について、細かい話を幾つかしておく。アイゼルはそもそも、できあがるケーキについて興味があるようだ。

「三種類用意するって事だけれど、味の方は大丈夫? 今回はVIPだけを招待するのでしょう? 色物だとお客さんも怒るかも知れないわ」

「念のために、三種類とも長代行に味見はして貰ってあるよ」

ちなみに、それが終わったのは昨日のことだ。結果と言っては何だが、此処二週間ほどまともに寝ていない。殆どの場合、作業工程の合間で一刻、二刻という感じで小刻みに寝る日々が続いていた。

キルキが戻ってきてから、皆にも残してある保存品を振る舞うと言うと、アイゼルは一瞬だけ嬉しそうに目を輝かせた。チーズケーキを愛好するエルフィールだが、それだけではなく、一般的な女子は甘味を好むことに、最近気付き始めた。まあ、アイゼルの場合はここのところ節約を断行しているために、その傾向が更に強いようだが。

会議が一段落すると、アイゼルがちょっと憂鬱そうに言う。

「それにしても、ドナースターク家のシア様と言えば、有名なやり手の若手実業家だというのにね。 この時期に結婚というのは、ちょっと驚いたわ」

「そうだね」

「幸せになれると良いのだけれど」

アイゼルがそんな事を言うとは意外だった。

貴族同士に限らず、ある程度金と地位がある場合、殆どは政略結婚となる。ドナースターク家の場合それが顕著で、今回は露骨に長代行であるシアの負担を増やすための結婚だ。

婚姻相手は非常に善良で真面目な男だ。これについてはエルフィールも事前に顔を確認している。しかしながら、非常に無能な人物であることも知れ渡っている。本人はシアを気に入っているようだし、何より支えていくことを悪く思っていないようだが。長代行としてのシアはどうなのだろう。

子供を作る事自体は、必要だ。既に長であるトール氏は、車いす生活という噂もあるほど衰えきっていて、しかも子供はシアしかいない状態である。もしもシアが死んだら、巨大なドナースターク家という組織は空中分解してしまう。優秀な部下がどれだけいても、その中核になる人物がいなければ、意味がないのだ。

そう言う意味で、シアは婚姻に同意した。

しかし、幸せというのは、未だよくわからない。エルフィールがチーズケーキを食べている時の感覚がそうだとすると。

シアがそれを味わえるとは、思えなかった。

「そんなに、幸せって大事なのかな」

「大事よ。 出来れば、幸せになれる相手と結婚したいわ」

力説するアイゼルだが。エルフィールはどうもぴんと来なかった。

 

早速手分けしての作業を開始する。これから数日は、ほぼ寝る暇もないと考えて良い状況である。だが、此処にいる全員がそれに慣れている。

エルフィールは作業前に最悪の結果に終わった場合の支出額を計算していたが、アイゼルやノルディス、キルキに払う手間賃を考慮すると、殆ど何も残らない。黒字の場合は一気に貯蓄を倍以上に殖やすことが出来るが、正直な話、崖っぷちだ。

流石にアイゼルやノルディス、ましてやキルキにまで徹夜をさせる訳にはいかない。キルキはともかく、二人は今回授業を前倒ししてまで手伝ってくれているのだ。今までかなり二人の仕事を手伝ったとはいえ、今回の借りは大きい。無賃で護衛をするくらいのことはしないとならないだろう。

とはいっても、ノルディスもアイゼルも、最近は非常に外に出る機会が増えている様子である。意外と借りを返す機会は、多いのかも知れなかった。

「クリーム上がったわ」

「ありがとう。 地下室に」

「フィンフ。 地下室に運んで。 次は?」

「クリーム。 クリームクリームクリーム」

「わ、わかったわ。 怖いから連呼しないで」

単純にクリームと言っても、泡立て器でかき混ぜるだけで出来るような、素人こしらえのものではない。

レシピ通りに複数の素材を混ぜ、なおかつ混ぜる回数などを指定し、そして錬金術の産物である冷却剤を使用している。この冷却剤はかなり重いのが難点なのだが、氷と同じ程度強力に冷やすことが出来る。

樹氷石というかなり入手が難しい石を使っており、失敗はかなり痛い。アイゼルはかなり慣れてきたようで、ケーキごとに用途が異なるクリームを素早く作り上げていく。

ノルディスはスポンジの作成だ。小麦粉と卵白を中心に、様々な素材を作る。妖精達には小麦粉の作成をさせる。臼を使って、小麦をひくのだ。ノルディスもボウルと格闘していたが、流石に薬剤類の調合に相当に知識があるだけのことはある。作業は正確で、殆どミスがなかった。

エルフィールは全体の工程管理をしながら、一つずつケーキを仕上げていく。冷却剤を詰めた桶に、できあがった一つ目を投入。クノールに、地下に運ばせた。地下と地上を行き来しているフィンフだが、疲労は見えない。相変わらずの無表情だ。感情がないのだから当然か。

「ダメージは」

「稼働には支障ありません。 マスターの方が少し心配ですが」

「大丈夫。 倒れそうになったら休ませる」

「お願いします、サー・エルフィール」

フィンフとは感情が希薄な者同士、とても話しやすい。持ってきて貰ったクリームを、焼き上げたスポンジに塗る。ベリーを使って完成だ。十個目が出来た所で、外に。

「じゃあ、これをドナースターク家に。 経路の確認もよろしく。 ドナースターク家についたら、マルルにこの手紙を渡して。 氷室が用意されているはずだから、其処に搬入する」

「わかった。 頑張る」

「有難う。 後でキルキの仕事も手伝うからね。 三番、四番、五番。 キルキについていって、姿勢制御。 荷車が揺れすぎないよう気を配れ」

頷くと、キルキは荷車に巻き付いた生きている縄と一緒に、ドナースターク家に向かう。からからと音を立てて進んでいく荷車を見送る暇もなく、エルフィールはアトリエに戻った。

この間も、脈は数えている。複数のスポンジを一気に焼くやり方は採用しない。

「氷室って、かなり高級な設備の筈よ。 わざわざ準備したの?」

「それが、元からあったんだって。 凄く優秀な錬金術師のテクノクラートがいるらしくてね。 よし、焼けた」

竈からケーキを引っ張り出す。ノルディスはかなり参ってきているようなので、先に三角巾を額に巻かせた。これによって、汗が落ちるのを防ぐ。更にマスクもそろそろ新しいのを着用する。

「小麦粉、新しいの上がりました」

「四半刻休憩。 その後作業再開。 小麦粉はノルディスに」

「はい」

「アイゼル、クリーム代わって。 焼き方教えるから、生きている縄と作業お願い」

負担を小さくするために、ローテーションを組んで作業。こうすることで、作業を誰でも出来るようにする。流石に精度が高い作業についてはエルフィールが担当するが、既にアイゼルもノルディスも一端の錬金術師並みの腕前だ。エルフィールも充分安心して背中を預けることが出来る。

脈拍の速さには個人差があることを、エルフィールは知っている。最初に砂時計を使って互いの脈拍の速度を測る。アイゼルは若干エルフィールよりも脈が遅いようなので、すぐに計算して誤差を出す。

そして、焼く時間を伝えた。

「細かいわね。 砂時計じゃ駄目なの?」

「駄目。 焼く長さは都度指示するから、お願いね」

クリームに取りかかる。

さっきまで使っていたから、アイゼルの手際についてはわかっている。徹底的にマニュアル化して管理した状態だから、彼女でも作れる。このマニュアル整備に、恐ろしい時間と材料を無駄にしてきた。

キルキが戻ってきた。すぐに追加のケーキを渡す。だが、今度出るのはキルキでは無い。

「キルキ、ノルディスと交代。 生きている縄、継続して手伝い。 道案内も」

「わかった。 行ってくるよ」

「くれぐれもわかっているでしょうけど、揺らしたら駄目よ」

「わかってる」

ノルディスがやっていたスポンジを、今度はキルキにやって貰う。順番に、一人ずつ習熟度を上げていく。

大量にある材料も、ケーキを作れば作るほど減っていく。特に保ちが利かない素材については、その都度集めるしかない。加工してしまえば保ちについてはかなり良くなるのだが、それにも限界がある。

「クノール、材料の4と7を、30セットずつ」

「わかりました」

クノールを使い走りにやらせながら、次のケーキを確認。アイゼルはほぼ完璧に焼き上げた。外に出すケーキとしては充分な代物だ。

しかし、アイゼルは竈の扱いに慣れきっていなかった。それが致命的な結果を招く。

「熱っ!」

熱さに驚いたアイゼルの繊細な指先が、盆を取り落としかける。するりと伸びた生きている縄が、落ちかけたスポンジを受け止めた。盆が相当熱くなっているのだから仕方ない。型を外しながら、エルフィールはスポンジのダメージを確認。ちょっと歪んだだけだ。フォークを使って成形し、事なきを得た。

「気をつけて」

「ごめんなさい。 それにしても、この竈だけではなくて、アトリエ全体が暑いわね」

「脱ぐ?」

「それなら私がお手伝いをいたしましょうか」

真っ赤になったアイゼルが、脱ぎませんと外に届きそうな声で言った。

 

夜になっても作業は終了しない。流石にドナースターク家の婚礼と言うだけで、街全体が大騒ぎになるわけでもない。昼間は遊びに来た貴族達が騒いだりもしていたが、それも夜になると若干静かになった。

ただし、アトリエでの修羅場に終わりはなかった。

アイゼルが、こくりこくりとしている。ノルディスも、何度も手が止まっていた。六刻近くフル稼働したのだから当然か。むしろ、良く動いた方である。

「アイゼル、ノルディス。 もう休んで。 手が必要な時は起こすから」

「うん。 アイゼル、いこう」

「ええ。 エリー、貴方、いつもこんなハードな調合してるの?」

「このくらいなら毎日。 ただ、これが連日続くのは初めて」

生きている縄を二本貸して、二人を二階に送らせる。明日の状況次第では、寮に戻って貰おうかと思ったのだが。現在では、進行に遅れは無いが、かといって余剰もない。二人に抜けられるのは非常に痛かった。

キルキはというと、黙々とクリームをかき混ぜている。焼き上げは妖精には任せられないので、ここは考えどころだ。スポンジをある程度作ったら、一気に焼き上げていくか。流れ作業が止まってしまう分、遅れが出るのをどうカバーするのかが課題になってくる。

キルキが、手を止めた。

「エリー、そろそろ休む。 知ってる。 エリー、何日も前から、調合してる」

「大丈夫だよ。 鍛え方が違うから」

「でも、限界ある」

キルキの言葉は正しい。エルフィールの体力も無限大ではない。というか、アデリーさんでさえ、限界はあると言っていた。多分二日や三日くらいは、戦いどおしでも平気だろうというあの人も、である。

そして疲弊がピークに達すると、人間は思いも寄らぬところでミスをする。

そう言われると、休むべきなのかも知れなかった。

「わかった。 竈も少し冷やすべきかな」

「聞いてくれて嬉しい」

一旦、竈の火を落とす。妖精達に休んで良いと言うと、嬉しそうに二階に上がっていった。

エルフィールは床の開いているスペースに横になる。キルキは、壁を背中にしてちょこんと座って膝を抱えた。

「ねえ、キルキ。 さっきのケーキ、美味しかった?」

「ほっぺが落ちるかと思った。 幸せだった」

「そう。 嬉しいな」

「エリー、嬉しそうだけど、幸せそうじゃない。 エリーの心、今でもとても乾いてるように見える」

相変わらずキルキは面白いことを言う。心が渇いているというのは何だろう。エルフィールは、ケーキ作りをしている時は、何だか楽しいように思えていたのだが。

さっきの、幸せと何か関係しているのだろうか。

気付くと、キルキはもう落ちかけていた。

生きている縄を使って、もう目を閉じて眠りかけているキルキに、毛布を掛けてやる。

床はひんやりしていて気持ちいい。フィンフが毛布を持ってきてくれたが、謝絶した。

「いい。 それは自分で使って」

「サー・エルフィールは、それでよろしいのですか」

「むしろ冷えている所が心地良い」

「わかりました」

フィンフが、隅で小さく丸くなった。アイゼルは多分同じベットで休むか、寝床を用意するくらいのことはしてくれているのだろうが。元々ヘルミーナ先生の事だから、作成時にそんな柔な環境でなくても休めるようにしているはずだ。

二刻休む。そう決めて、目を閉じる。

目を開けた。二刻、精確に経っていた。かなり勘のさえが戻っているのがわかる。相当に疲れていたのだろう。キルキの観察眼は素晴らしい。

自分で、竈に火を入れる。他の皆が起きてくるまでに、作業出来るくらいの素材のストックはある。作業を初めて、最初に目を覚ましたのはフィンフだった。人形みたいに寝ていたフィンフは、同じように何の前触れもなく起きだした。

「おはようございます、サー・エルフィール」

「おはよう、フィンフ。 妖精よりもだいぶ頑丈だね」

「マスターを起こして参ります」

「いや、大丈夫。 アイゼルが自分で起きてくるまで待とう。 それよりも、小麦粉作ってくれる?」

頷くと、フィンフは作業に取りかかる。それにしても高性能な人工生命体だ。感情がないという事も合わせて、エルフィールとしても非常に使いやすい。

或いは。

ヘルミーナ先生と同じように、ホムンクルスの研究をしてみるのも面白いかも知れなかった。

作業をしていると、順番に起きてくる。最初に起きてきたのは、キルキだった。次に妖精達が。アイゼルが起きてくると、あまり時間をおかずにノルディスも起きてきた。それぞれ、エルフィールが作業をしている分を、少しずつ担当していく。

休憩は、有効に機能した。

 

何度かの休憩を挟みながら、ついに前日が到来した。

既に190個のホールケーキをドナースターク家に搬送し、30を作成済みである。ラストスパートを、開始するべき刻だった。

失敗したり出来が悪かったものは、その場で皆に振る舞ってしまっている。クリームは甘さを抑えめとはいえ、それでも非常に糖分が多いので疲労回復に良い。ケーキにもチーズをベースに使っているスポンジのため、栄養価が多く含まれていてなかなかだ。

もちろんそれだけでは栄養が偏るから、時々クノールに使い走りをさせて、野菜類を中心に買ってこさせる。

湯がいた野菜類をそのまま囓るエルフィールを見て、アイゼルはちょっと呆れた。呆れながらも手を動かして調合をし続けている辺り、かなり慣れてきているのがわかって面白い。

「何で貴方はそう野性的なの?」

「そうはいっても、ロブソンで暮らしていた頃には、野戦食を中心に勉強したから、むしろこれが普通なんだけどなあ」

「一体どんな村……」

「ええとね、元は村ぐるみで山賊とか人身売買とかやってたところらしいよ。 ドナースターク家の人が赴任して、そう言うことをやってた人を根こそぎ捕まえて、それ以降は国境近いことを利用して、若手の人材を育てる村に変えたみたい」

アイゼルとノルディスが揃って手を止めていた。だが、エルフィールは笑顔を崩さない。キルキだけが、反応する。

「何だか、納得した。 だからエリー、いろんな意味で強い」

「まだ四年ちょっとしか生きてないも同じだけどね」

「ねえ、エリー。 やっぱりシア様が結婚して、子供が生まれたとして、その子もそのロブソンで育てられることになるの?」

「それは当然、そうなるだろうね。 長代行の子供って事は、次の世代を担う大事な存在だし、甘やかして駄目にしたらおしまいだもの」

むしろ、もっと厳しい環境で、野獣のように育てられるかも知れない。あの厳しい長代行の事だ。自分の子供だからと言って、特別扱いなど絶対にしないだろう。そして物心つく頃には、何処でも生き抜けるような強さを持った二世が誕生しているという訳だ。

わくわくする。そんな存在だったら、もしも養育係にでもなれたら。この大陸で、エルフィールが孤独に漂うことはなくなるだろう。むしろ同じ環境で育った者同士、ある程度志を共有できるかも知れなかった。

孤独は、やはり今でも怖い。

また次のケーキが焼けた。違う種類だから、匂いも違う。

「何だか、不幸の連鎖のような気がするわ」

「ごめん、それについてはよくわからない」

作業を続ける。もうすぐ、夜明けが来る。

妖精達が戻ってきた。荷車で運ぶのも、あと二回ほどで終了だ。既に大事なお客様達に出す、重要なケーキの作成に入っている。一番最後のケーキについては、全員で運ぶことになる。

一番最後のケーキは、複数のスポンジを使った大型のものだ。構成についてもかなり凝っていて、式場の真ん中に置くことになる。チーズケーキという、まだ作成方法が確立されたばかりの菓子を、これだけ、しかも高品質で用意できるドナースターク家の実力を示すと共に、やはり皆にも味を楽しんで貰い、結婚式の印象を脳裏に焼き付けて貰わなければならない。それを考えると、非常に重要な料理だ。

何回かに分けて、ちょっと変則的な形でスポンジを焼き上げる。

クリームを丁寧に練り込んでいく作業で、流石に冷や汗が流れた。こればかりはマニュアルはないし、エルフィールにしかできない。他の皆には、少し休んで貰っている。妖精達には、片付けをしてもらった。

飾り付けを終えた。

台を皆で運ぶ。生きている縄達には補助をして貰う。ドアを開けるのも、台を支えるのも、彼らの手伝いがあると何倍もスムーズに行く。荷車に乗せ終えた時は、流石にほっとした。

「後は、これを運ぶだけだね」

「もう設営は始まっているから、会場に直接持っていくよ」

「ようやくだわ」

アイゼルの顔に、疲労が色濃い。終わった後、皆で公衆浴場に行こうというと、アイゼルはそれが良さそうだわと呟いた。彼女の美しい髪には、小麦粉やらスポンジやらがこびりついていて、かなり丁寧に洗わないと落ちそうにないように見えた。それでもかなり美しいのだから、アイゼルが如何に普段から「女を磨く」作業をしているのか、よくわかる。素材が良いだけでは、こうはいかないだろう。

荷車を運ぶ。着替えなどしている暇はないから、そのままだ。戸締まりを妖精達にさせて、何人かは留守番。フィンフも、荷車を運ぶ手伝いをさせた。

「貴方たち、地下室に二つホールケーキが用意してあるから、一つは食べてもいいよ」

「ほ、本当ですか!?」

じゅるりと、クノールが涎を流す。全員目が血走っているのは、極限の疲労にさらされているからだろう。

「もう一個は私達の分だから、手を付けたらぶっ殺すよ」

「わ、わかっています! い、行って良いですか!」

「うひょお! もう我慢できねえ! 行くぞ!」

「待て! ずるいぞ! 一個だけだぞ!」

我先に、妖精達が地下室に入っていくのが見えた。意地汚くて結構。むしろ意地汚いくらいの方が、操作しやすい。

普段格好を気にするアイゼルも、外に平然と出ているのは、感覚が麻痺しているからだろう。

荷車を、残り全員で揺らさないように運び始める。既に空は白み始めていた。ようやく終わると思うと、気が抜けかける。

「フィンフ、アイゼルの側について」

「えっ? 大丈夫、よ?」

「いいから。 フィンフに手伝ってもらえると、嬉しいでしょ?」

「それは、そうだけれど」

生きている縄も、全てを配備。揺れたり急な衝撃が来た時に、緩和剤として動いて貰うことになる。

ドナースターク家への路を行く。ふと気付く。キルキの鼻の頭に、乾いたクリームがついていた。そう言えばエルフィールも似たような状況の筈である。まあ、入り口で謝れば良いだけのことだ。

いつもはすぐ着く道が、遠く感じてしまう。ノルディスはへばりかけているが、歯を食いしばって頑張ってくれた。

「ノルディス、体力着いてきたね」

「でも、足を引っ張ってないかな」

「体力は微妙だったけど、調合の精度は凄かったよ。 次の学年度試験は、かなり上まで行けるんじゃないのかな」

「それは、楽しみだね」

石畳の状態を見ながら、進む。

ドナースターク家の、決して大きくない屋敷が見えてきた。そういえばアイゼルはさっきまでケーキの輸送を手伝って貰ったが、中に入れてはいないはずだ。

さっきマルルに聞いたのだが、ここにいる全員を、賓客として礼遇してくれるという。もちろん結婚式そのものには出られないが、その後の歓談には出席を許してくれるそうだ。これは好機である。ドナースターク家の重臣や、賓客として招かれる高官に、顔を売ることが出来る。

もちろんこの汚い格好では出られない。一旦ケーキを届けて設営を終わらせ、風呂に入ってアトリエに戻り、着替えてから、になる。もちろんその間に、眠って疲れを取っておく必要もある。

どうにか、揺らさずに到着。

三段のケーキを見て、入り口で待っていたマルルは目を丸くした。

「これは、大きい」

「運びます。 手伝ってください」

「家臣達をすぐに集めて。 武官達にも声を掛けて」

マルルがてきぱきと指示を出し、すぐに十人以上の使用人が集まってきた。荷車を、屋敷の中に入れる。丁寧に整備された芝生を踏んでしまうのは気が引けたが、それは修繕が利く。

中庭に出た。

既に結婚式の準備は、殆ど整っていた。

ケーキ以外にも、様々な料理が列んでいる。いずれも手間暇が掛かった事が一目でわかるものばかりだ。一番奥にある祭壇。彼処で、婚姻を誓うことになる。

五十人が入るには、少し手狭だ。実際に料理も、かなり少ないように見えた。ちらりと奥に視線をやり、納得。左手の方に歓談スペースが用意してある。屋根の下になっている事もあって、涼しくて過ごしやすそうだ。いたみやすい料理も、そちらに並べられている様子であった。

真ん中に、メインディッシュをおく皿がある。子供がそのまま上に乗れそうな大きさだ。皿の縁には、絡み合う二匹の蛇を象った模様が描かれている。婚姻の際に使われる、儀礼的な皿である。

ノルディスが、周囲の様子に度肝を抜かれていた。

「これで、質素なのかい?」

「もしもドナースターク家が豪華にやるとなったら、この倍の規模でも足りないと思うよ」

「今、ドナースターク家の上り調子を知らない者はいないものね。 この規模だったら、うちでも出来そうだけれど」

「アイゼルも、お金持ち」

キルキの言葉に、アイゼルは咳払いした。

ドナースターク家と違い、ワイマール家がこれをやろうとしたら、相当無理をしないと出来ないだろう。それくらい経済状況が悪いのだ。

それに対して、ドナースターク家は最小限の規模で、儀礼として済ませようとしている。その差は非常に大きかった。

「揺らさないように持ち上げますよ! 3,2,1!」

「ようしっ!」

逞しい筋肉を持つ武官達と協力して、ケーキを皿に乗せあげる。台座に使っている硬い部分も、実は食べることが可能だ。

かなり重いので皿に傷がつくのではないかと思ったが、流石に家宝である。相当にいい焼きをしているらしく、傷の一つも付かなかった。

佇立したケーキ。最後の仕上げに、エルフィールは生きている縄に命じて、体を持ち上げた。ケーキの高さは、エルフィールの半分ほど。しかし、大皿に乗せられて、しかも皿は台に乗っていることもあって、手が届かない。

其処で、生きている縄を使うのだ。

念のため、靴は脱いだ。右手にはクリームを入れた皿。左手にはパテ。生きている縄の動きを見て、流石の武官達も度肝を抜かれたようだ。生きている縄はかさかさとケーキの周囲を回るようにして動き、それで体を支えたエルフィールは、運ぶ途中に崩れた部分を丁寧に補修した。

こっちでは、出来ない。

竈の精度も、アトリエにあるものには及ばない。他にも、色々アトリエでないと出来ないことがある。

だから不便なのを承知で、ケーキをピストン輸送した。その最後の一つが、今仕上がった。

縄を操作して、ケーキの斜め上から地面に降りる。

嘆息。

「終わったー!」

アイゼルに抱きつき、キルキも脇に強引にロック。おろおろしているノルディスは背中をばんばん叩いた。咳き込むノルディスを見て、武官達が笑った。

「何だ、ほそっこい兄ちゃんだな。 でも、このケーキを作るの、手伝ってくれたんだろ?」

「ええ。 凄く頼りになりました」

「有難う。 家臣一同、礼を言う。 これは政略結婚かも知れないが、ドナースターク家にとっては大事な行事だ。 シア様の旦那はちいとたよりねえが、俺達が支えればいいし、それにここで恥を掻かせる訳にはいかねえ。 これを一生の晴れ舞台にするためなら、俺達は何だってする」

武官達も、文官達も。

結婚式で一番大事な役割を果たすケーキを作り上げたエルフィールと、三人の見習い錬金術師達に。

最敬礼をしてくれたのだった。

 

エルフィールは屋敷から出る。武官達が、芝生を直しているのを、横目に見ながら、荷車と一緒に。

自分の仕事は終わった。後は設営の仕事だ。

「帰ったら、どうする?」

「まずはみんなでお風呂に行こう。 それから作っておいたケーキを食べて、一眠りして、それからドナースターク家に行こう」

「そうだね。 楽しみだよ」

結婚式自体は、真っ昼間に行われる。

今の疲弊度から言って、参加できるのは夕刻の懇親会からくらいだろう。

庶民の婚姻式になるとそのまま新婚初夜という流れになることもあるが(つまり新郎新婦が最初の務めのために退場し、以降は無礼講)、これはドナースターク家の婚姻式でもあるし、シアは多分翌日まで自由には出来ないかと思われる。更に田舎に行って、土着の儀礼と結びついているような結婚式になると、更に泥臭くエロティックな展開になることもあるが、シグザールでそういった結婚式は喜ばれないだろう。ここでドナースターク家が行うべきは、万人が楽しめる儀礼だ。

アトリエに荷車を置いて、大浴場に向かうことにする。妖精達はみんな満腹になって地下室で寝転けていた。ケーキがきちんと一個残っていることを確認してから、外に。

その時、長い金髪を持つ女性とすれ違った。

一瞬だけ視線が噛み合ったが、気がつくともうその人はいなかった。

「エリー、どうしたの?」

「何でもない」

綺麗と言うよりも、印象的な人だった。というよりも、今のエルフィールでは逆立ちしても勝てないだろう。あの人、相当に出来る。

そして、何処かで見たような気がする。まあ、それは別にどうでも良いことではあったが。

アイゼルが、ぐったりした様子で嘆息した。

「大浴場って、皆で裸になって同じお風呂にはいるの?」

「エリーとキルキ、良く一緒に行く。 大丈夫。 怖い人いない」

なぜか真っ赤になっているノルディス。全員で風呂に入っている様子を想像したのだとしたら、可愛らしい話だ。

風呂と言っても、大まかに二種類がある。一つは蒸気で汗を流すタイプのもの。これは田舎に行くほど多く見られる。また、ドムハイトではこれが主流であり、今でも貴族や王族が使っていると言うことだ。

もう一つは湯船に浸かるものだ。これはシグザール王国では普遍的に広がっているが、何しろ場所を取る上にお湯をたくさん使うので、庶民は毎度毎度はいることが出来るものではない。

そこで、大浴場というサービスが人気を博している。

ちなみにアカデミーの寮では、個室に浴室が着いていたりと、かなり豪勢だ。これはそれだけアカデミーが儲かっている事を意味する。アイゼルの部屋に入った時驚いたのは、天蓋つきのベットと、この個室浴場だった。

浴場に着く。

大理石とは行かないが、それなりに綺麗な浴場だ。湯船で泳ぐことは出来ないが、全員が入るくらいは難しくない。

男女混浴をする場所もあるが、今日来たのは違うタイプである。というよりも、男女混浴の場合は事故や犯罪が起こりやすいので、都会では近年男女別の風呂が増える傾向にある様子だと、この間マルルに聞いた。彼女はシアについて彼方此方の街を回っているので、その辺りの事情には詳しい。

服を脱ぐと、さっさと風呂に。アイゼルはやっぱり体に殆ど傷もなく、随分綺麗だった。キルキの平坦な体は見慣れている。まだ、大きな傷が幾つか残っていた。エルフィールの体にも、傷は幾つかある。山で鍛錬している時に、ついたものが多い。ザールブルグに来てから受けた傷も、幾つかはある。

最初は抵抗を見せていたアイゼルだが、キルキが平気で入るのを見て、意を決して湯船に体を沈めた。フィンフは最初迷っていたようだが、アイゼルが手を引いて、風呂に入れる。本当に人間と同じに扱っているのだなと思って、ちょっとエルフィールは感心した。今後ホムンクルスの技術が発展しても、彼女のように扱う存在は恐らく希になるだろう。妖精族と同じく、人間より一段階下の存在とされるのは明白であった。

湯船の縁は階段状になっていて、徐々に深い所に体を沈めることが出来る。ちょっと熱いかなとエルフィールは思ったが、まあこんな所だろう。さっと入ってさっと流す。そういえばノルディスは男湯で寝ていないか、ちょっと心配になった。

髪を束ねて湯船に入ったアイゼルは、もう一つ大きなため息をついた。湯船の最大の利点は、疲れを効率よく取ることが出来る点にある。贅沢と言えば贅沢なのだが、今回ばかりはそれを堪能することにする。

後は、納品したチーズケーキの品質に問題さえなければ、行けるはずだ。

アイゼルが一旦湯船を出る。頭を洗いながら、隣で髪を洗うエルフィールに頼み込んでくる。

「今度、ちょっと難しい調合があるの。 材料が大変なんだけど、手伝ってくれるかしら」

「荒事は任せて」

「ありがとう。 ベテランの冒険者が出そろっているって言うから、心配していたのだけれど、貴方が来てくれれば平気そうだわ」

今回の件もあるし、二度や三度くらい、無料で同行しても構わない。彼女はヴィラント山に行きたいそうだが、今のエルフィールに、後一人くらい中堅がいれば、どうにかなることだろう。

「しっかし綺麗な肌だね」

「先に言っておくけど、男の人の気を引くために磨いているんじゃないわよ。 あくまで、自分が好きだからしていることなの」

「ふーん。 本能って奴?」

「そうよ。 むしろ、殆ど手入れしていないのに、きちんと女の子の肌をしている貴方の方が驚異的かもしれないわ」

そう言われると、ちょっと不思議だ。

キルキも髪を洗い始める。もう一度湯船に浸かって、それから出た。着替え場でミルクを、腰に手を当てて飲み干す。

「かー! これだね!」

「やだ。 下品ねもう」

そう言いながらも、アイゼルもミルクを飲み干す。自分の分だけではなく、フィンフの分もきちんと買って与えている辺り、この娘は本当にいい子だ。貴族の二代目というと大概苦労知らずの阿呆と相場が決まっているが、シア長代行のような例外もいる。そしてこの子も、きっと優れた二代目としてワイマール家を立て直すことだろう。

キルキが出てきたので、一緒に外に。既にノルディスは、風呂から上がって待ってくれていた。男子は風呂が短くなる傾向が強いとエルフィールは知っている。ロブソンでも、それは同じだった。

「ごめんね、待たせた?」

「ううん、大丈夫だよ。 疲れは取れた?」

「むしろノルディスにそれは聞きたいけど、大丈夫そうだね」

アトリエに、皆で戻る。寮まで戻る体力は、ノルディスは特に無さそうだった。

後は、一階に毛布を敷いて、皆で雑魚寝した。普段はこういうのに抵抗がありそうなアイゼルだったが、今日は余程疲れていたのか。横になると、すぐに落ちて寝息を立て始めていた。

フィンフはエルフィールと一緒に最後まで起きていて、皆に毛布を掛けて回っている。妖精達にまできちんと毛布を掛けている優しさは、多分アイゼルの影響だろう。

「サー・エルフィールはお休みになられないのですか」

「私はもうちょっと起きてる。 頭の中で作業を確認して、まずいのが無かったのか整理してから」

「クレーム対策ですか」

「全員でチェックしてからケーキは出しているけれど、万が一もあるからね」

誰もいないから、エルフィールは表情を消している。

感情がない、わけではない。しかしながら、自然体になると、どうしても表情は消えてしまう。

この方が、存在として楽なのかも知れない。

「アイゼルとは仲良くやれているようだね」

「はい。 グランドマスターにも、興味深い事例だと言われました。 他のホムンクルス達はあまりマスターと巧く行っていないようですので」

「そう」

「はい。 感情がないと言うことを、不気味に思われることが多いようです。 フィンフは表情をサー・エルフィールに教わりましたので、マスターにも喜んでいただいております」

他のホムンクルスにも表情を教えてやると良いかもしれないとアドバイスする。ホムンクルスは同族間でネットワークを持っているようなので、一旦浸透すればどの個体も同じ技を使えるようになるだろう。

ただし、決定的に違う点が一つある。アイゼルはフィンフを人間として扱っていた、という事だ。他のホムンクルスが同じ扱いを受けているとはとても思えないし、機能するかは何とも言えないというのが本音であった。実際エルフィールも、表情を作れるようになってから、すぐに周囲との関係が改善した訳でもないのだ。

「大体行程の確認は終了したかな。 じゃあ寝るよ。 フィンフも適当な所で寝なさい」

既に、他の皆は例外なく幸せそうな寝息を立てていた。

頷くと、フィンフはアイゼルの側で横になる。しかも本能的な判断か、ノルディスとの間に割り込むように、である。本当にアイゼルが好きなんだなと思って、エルフィールは複雑な気分になった。

一方向的だった愛情が、双方向に結びつこうとしている。

少なくとも、アイゼルとフィンフの間では。

その事例は興味深くもあり、何処かでもやもやするものも感じさせた。

 

3、宴

 

結婚式が始まった。

早朝から、既に屋敷は蜂の巣をつついたような騒ぎであった。それを全て取り仕切ったマルルは、これからだと思って気を引き締める。

記憶力だけが良い、どじでグズだったマルルを、この屋敷のメイド長に抜擢してくれたのはシアだ。その期待に応えるべく、マルルは全力で今まで仕えてきた。後ろ暗いこともあるドナースターク家である。怖い思いをしたことだってあるし、黒い噂だって聞こえてきた。

だが、それでも。マルルにとって、自分を評価してくれたシアへの忠義は揺らぐことがなかった。

昔に比べて、背筋も伸びた。しゃんとして歩いていると、周囲の同僚達も褒めてくれる。額の汗を拭うと、長を起こしに行く。

長は最近、朝がとても早くなっている。しかし、もう歩くことは出来ないし、頭脳の衰えも酷くなってきていて、殆ど判断をすることもない。シアがしっかり働いているのを時々見て、満足そうに微笑むだけだった。

ドアをノックして、部屋の中に呼びかける。

「長。 おはようございます」

「うむ」

鷹揚な声。昔はもっと気さくだった。だが、今では、気さくには思えないほど、声が間延びしている。声に威厳を保たせることが出来なくなりつつあるのだ。

中にはいると、長はもう起きていた。ゆっくり、車いすに移ろうとしている。手を叩いて他のメイドを呼び、一緒に車いすに乗せた。二階より上に行く時は、武官が車いすを担ぐか、或いは長を背負うことになる。

医師の話によると、目立って悪い臓器などはないという。代わりに、兎に角衰えている。今まで体を酷使してきた反動が、一気に来ている感触だという。

長はまだ五十代だが、七十代と同じくらい衰えているという話だ。常人だったら、とっくに墓に入っていても不思議ではない。

「すまんな。 すっかり私も衰えてしまった」

「長は今まで、ドナースターク家やグランベル村のために、全力で働いてきました。 それを感謝しない者などおりません」

「そうか、嬉しいことだ」

今日は騒がしいと言われた。悲しくなる。シアの結婚式だと言うことを、忘れてしまっているらしい。

指摘すると、そうかと大きく嘆息した。

「若い頃に無理をしすぎたようだな。 初孫の顔が見られるまで、私の命が保てばよいのだが」

「まだ長は若こうございます。 そのような、弱気にはなられますな」

それが気休めに過ぎないことは、マルルが一番よくわかっている。最近は、小便を漏らしたりもすることがあるようだ。しかも、気付かない内にである。あれほど闊達だった長なのに。

人が衰えるのは早い。シアが結婚してすぐに妊娠しても、長が孫の顔を見られるかはわからない。それが、マルルには悲しかった。

外に出る。

結婚式に集まっている人達は、衰えきった長を見て、驚いたようだ。流石に外に出ると、ある程度の威厳は戻ってくる。

結婚式だから、装束は正装である。シアは貴族としての正装として、かなり大掛かりなドレスを着込んでいた。新しくこしらえたのではない。以前にこんな時が来ればと、用意させたものだ。

大きく膨らんだスカートは、シアの足をすっかり隠している。威厳に満ちた花嫁は、丁寧に作り込まれた衣装もあって、女王のように目映かった。長の両目から涙が流れる。まずは、ここだ。

「すっかり美しくなったな、シア」

「お父様のおかげにございます」

さて、新郎は。

此方も貴族だから、正装としてオーダーメイドらしいスーツを着込んでいる。カトラール家の嫡男である彼だが、シアに対して入り婿することとなる。善良なだけが取り柄の男だが、本人がそれを認識しているので、シアも今のところ気に入っているようだ。

見栄えも、それほど悪くはない。人が多い場所で取り乱すようなこともなく、穏和に周囲に応じているようだ。

シアは行動の人だ。貴族のサロンなどで名前を売り、のし上がってきたのではない。現実的な行動組織である騎士団や宝石ギルドなどと関わり、膨大な利益を上げ、国に恩を売り、それで地位を勝ち取ってきた。

長が咳き込んだので、一旦部屋に戻る。暖炉に薪をくべた。

「マルローネは、来ているか」

「少し遅れるそうにございます」

「私の、遺言を渡して欲しい」

「何を言われます」

流石に寒気が走った。だが、長は静かに笑う。

「いや、今すぐ死ぬようなことは流石にないだろう。 だが、シアの右腕になれるのは、あの娘しかおらん。 シアの夫になるあの男は穏和な寄木としては及第点だろうが、ドナースターク家百年の計を練るにはあまりにも足りぬ。 私は意識がまだはっきりしている内に、二人に遺言を残して起きたいのだ」

マルルは、涙がこぼれるのを止められなかった。

これは、もう今年を越えることは出来ないかも知れない。逆にシアは、反比例するかのように異常に若い。それが父の生命力を吸い取ってしまっているかのように、思えてしまった。恐らく、以前の瀕死になった時に飲んだエリキシル剤。それが原因の一つなのだろうか。

言われたまま箪笥を探ると、蜜蝋で封がされた遺言状があった。シア用のものと、マリー用のものの二つがある。

「エリキシル剤……」

「ん?」

「シア様を救った、あの薬さえ、あれば」

「無用」

ぴしゃりと、長が言う。

外では、今まさに、儀式が最高潮に達しようとしていた。

様々な結婚式のやり方がある。ザールブルグでは、アルテナ神の前で誓いをかわすやり方が、庶民の間では有名だ。安上がりになる上に、何しろ医療の神である。無病息災が期待できると言うことで、普段は信者でも何でもない人間が婚姻を挙げに教会を訪れたりするものである。

貴族になると、これが随分違ってくる。

決まった様式というようなものはなく、逆に言えば貴族の数だけやり方があるとも言える。

武門の貴族であれば、武の神に対して誓いを立てたりする。子供がとにかく強くなれるような祈りを捧げたり、魔物やドラゴンの肉が饗されたりもする。どちらも途轍もない高級品で、毒もある場合が多いので、特殊な料理法が必要になる。故に、特殊料理法を身につけた調理人は、貴族の結婚式で引っ張りだこになると言う。

一方で、商業を中心にのし上がった貴族になると、繁栄をいわう儀式になる場合が多い。この場合はストレートに子作りをイメージさせる器具類を持ち出したり、極端な例としては参加者全員が乱交同然の行為をするようなものもある。もっとも、あまりにも品がないものに関しては、シグザール王国から禁止する通達が出ているので、近年では余程の地方での変わった貴族でもない限り、実行はしないようだが。

ドナースターク家は、どちらかと言えば前者だ。

夫になるカールは後者の出身だが、しかし典型的な没落貴族と言うこともあり、しかも国の「推薦」でなおかつ借金をドナースターク家からの圧力で帳消しにして貰うという立場にある。

どちらが優先されるかなど、言うまでもないことだった。

新郎の父母も結婚式には来ている。しかし、微塵の隙もなく武装した武官達の威容に押されて、隅っこで小さくなるばかりだった。ただし、多くの貴族や重要な客は、ドナースターク家同様武門関連が多いので、全体的に好評のようだ。シアは、父が殆ど引退状態なのに、一人で堂々と式を取り仕切っている。武官達も、雑談している間でもシアが近付くと必ず姿勢を正し、命令を受けるとすぐに何処へでもすっ飛んでいくのだった。

その様子を見て、長は安心して頷く。何度も、何度も。

マルルは、すっかり小さくなった長の様子を見て、涙が止まらなかった。

「あれなら、ドナースターク家は安心だ。 ひ孫が出来る頃には、更に大きくなっていることだろうな」

「長……」

「マルローネはまだ来ないか」

長が呟いた。

結婚式の会場には、騎士団の重鎮も何名かいる。引退した後も重鎮であるクーゲルや、そのライバルとも言われるジュスト。更に団長のエンデルクに加え、国一番の知勇兼備とも言われる大教騎士のカミラまで来ていた。いずれもが錚々たる国を代表する武人ばかりである。

これでも、かなり人数は絞っているのである。

如何に、これが国にとっても注目度が高い儀式か、明らかだった。

シアが、一番奥に刺さっている剣を抜く。非常に重い両手剣であり、これを新郎新婦二人で天に掲げるのが、婚姻の誓いとなるのだ。

細いながらも、カールは一生懸命剣を握り、シアと二人で天に掲げた。

歓声と、拍手が巻き起こった。

武官達が左右に立ち並び、松明を掲げる。えいえいおう、えいえいおうと歓声が上がった。

「ドナースターク家に栄光あれ!」

「グランベル村に繁栄あれ!」

その叫びが、三回繰り返された。列席者も全員が、或いは感心して、或いは楽しげに眼を細めて、息のあった儀式を見守る。

まだ、料理には誰も手を付けることが許されない。

シアは掲げた剣を武官に手渡すと、腰に下げていた武具を取る。はたきだ。そして、真ん中にある一番大きなテーブルへと歩み寄っていった。

これは、狩りを行う村人達をイメージしている。先頭に立つシアは、彼らを指揮する長という訳だ。今回は結婚式だけではなく、ドナースターク家当主の就任式も兼ねている。

テーブルの前には、良くできた虎の模型が置いてある。これが、獲物だ。

「獲物を屠れ!」

「獲物を仕留めよ!」

「シア様に続いて、獲物を倒せ!」

武官の声はぴったり合っている。大地を揺動させるかのようだ。

結婚式と言うには勇壮すぎる。カールはシアの少し後に続いて、ゆっくり虎の模型に近付いていく。

これは、家の中での地位が、シアに及ばないことを、如実に、周囲に示しているのだった。

シアが、身を沈める。

ドレスに身を包んでいても、その戦闘能力に衰えはない。雷光のように動いたシアが、愛用のはたきを振り下ろす。複数の打撃部分が着いた変形棍は、容赦なく虎の模型に振り下ろされた。そしてはたきは小さなクレーターを作りつつ、哀れな獲物を爆砕した。

ケーキを載せた台が揺れる。傾いてケーキが台無しにならないか、マルルは見ていてちょっと心配になった。だが、頑丈に作られている台と皿は耐え抜いたので、ほっと一安心である。

しかし、安心ばかりもしてはいられない。

手を叩く。いそいそと遺言状を懐に入れながら、集まってきたメイド達に指示。

「そろそろ出番です。 準備をしてください」

一礼すると、メイド達が散る。今日が終わるまでは、まだシアは長ではない。まだ、安心は出来ない。

気を揉むマルルを見て、長が、嬉しいことを言ってくれた。

「おう。 マルルよ、お前もだいぶ頼もしくなってきたな」

「有難うございます、長」

シアが、敵を屠ったはたきを天に掲げると、拍手がまた巻き起こった。破壊する模型は、最初はドラゴンの予定だった。だが、それだと経費が掛かりすぎる。細かい部分で、結構経費を削減しているのだ。国に余計な目を付けられないようにするために。

「シア様の獲物を! 分け与えよう!」

「さあ、宴だ!」

「ドナースターク家の宴だ! 村の者達は、集え! 酒だ! 祝い酒だ!」

ここで、儀式は終わりだ。

メイド達が散らばって、客に酒と料理を配り始める。シアとカールはそれぞれが主賓席に戻り、以降は接客に注力することとなった。

マルルは、ここを離れられない。一応、医療の心得がある人間が、何かあったらすぐ駆けつけるようにはなっている。だが、今の長は、満足してしまっている。そう言う精神状態の刻が、一番危ないのだと、マルルは知っていた。

シアも毎日長の所に来ては、体調はどうだとか、昨日は何が巧く行ったとか、色々話し掛けている。そのたびに長はうんうんと頷き、そして殆どをすぐに忘れてしまうのだ。

「マルローネは、まだか」

長が、咳き込む。

部屋の戸が開けられた。小走りで来たのは、間違いない。翻る腰まである黄金の髪。マリーだった。

「長!」

「おお、マルローネ。 来てくれたか」

車いすの上で、すっかり衰えきった長。その手を取って、マリーが跪く。

話によると、マリーもシアも、長が鍛え上げたも同然だという。それならば、第二の父と言っても過言ではない存在なのだろう。

「また、衰えられましたね」

「情けない話だが、もう長くは無さそうだ。 若い頃に無理をしたツケが、こんな形で来てしまっている」

長が笑う。それにも、力が殆ど籠もっていなかった。

マルルが、預かった遺言状を手渡す。マリーはその場で中身を見て、何度か頷いていた。これなら、絶対に実行してくれるだろう。

「わかりました。 長、必ずや」

「頼むぞ。 私も、初孫が可愛くないわけではないのだ。 その辺りを、多くの家臣達に納得させて欲しい」

「逆らう者は許しません」

胸に手を当てて、マリーが言う。

見れば、余程の強行軍で来たのだろう。あのマリーが、着衣はぼろぼろで、顔にも髪にも汚れがついている状態だ。長の事を考えて、さぞや無理をしたのだろう。部屋を出ると、マリーは大きく嘆息した。マルルが、シアの分の手紙も渡そうとすると、かぶりを振る。

「いや、それはあたしと後で一緒に渡そうね」

「はい」

「お風呂貸して。 シアの晴れ舞台に、汚れた格好で出られないから。 確か、あたしの錬金術師の服、あったわよね」

すぐに用意するべく、メイドを手配する。頷くと、マリーは風呂場に消えた。ドナースターク家の屋敷内にある、家臣以外には使用を禁じられている場所だ。もっとも、今のマリーであれば、使用してめくじらを立てる者などいないだろう。

メイドがマリーの正装を出してきた。若干皺が出来ている。

「アイロンを」

「はい、直ちに」

宴は、まだ始まったばかりだ。

長は、居眠りし始めていた。静かにベッドに移動する。かって、力強くドナースターク家を引っ張ってくれた長。

その人生の終わりは、安らかでなければならなかった。

 

風呂で体を清めてから、マリーは錬金術師としての正装に身を包む。マントまでしっかり身につけて、それで完成だ。

ドナースターク家の家臣と言っても、マリーの本業は今でも錬金術師だ。テクノクラートというのは、技術力で貢献する者のことを意味する。もしもマリーが建築家だったら、建築家としての正装をしなければならなかっただろう。マリーは錬金術によって、ドナースターク家を支えている。だから、錬金術師としての正装を選ぶ。

中庭に出る。

有名な人間や、重要な顧客が目白押しだ。エンデルク騎士団長が、ケーキを黙々と頬張っていた。

「騎士団長、お久しぶりです」

「君か。 このケーキは素晴らしいな」

「ええ。 例の子が作ったものです」

既に、報告は来ている。

一つはスポンジにクリームを練り込んだ、オーソドックスなチーズケーキ。牙の人間から既にレシピについても聞いているが、想像以上の細かさだ。これほどのものを短時間で仕上げるとは。驚くべき集中力である。

皿を取り、一つ早速食べてみる。確かに素晴らしい出来だ。だが、完成度がちょっととんがった方向に高すぎる。このケーキは完成している。誰であろうとこれ以上の改良は無理だなとマリーは思った。

もう二つ、チーズケーキがある。

一つはベイクドチーズケーキとでもいうべきか。生地を少しかために焼き上げて、その硬さを楽しむものだ。焦げないように良く調節しているばかりか、相当火加減を工夫しているのだろう。中はとても柔らかく焼けている。クリームを殆ど使っていないケーキというのも、斬新だ。

最後のはレアチーズケーキとでも呼ぶべきか。チーズの部分を大きく出したスポンジを使っており、兎に角しっとりしていて柔らかい。クリームも出しゃばらない程度に使われており、兎に角口の中での食感が素晴らしい。

どれも共通しているのは、これ以上手の入れようがないと言うことだ。多分現時点で存在する材料を使い、これ以上美味しいチーズケーキを作るのは不可能だろう。もっと美味しいチーズケーキを作りたいのならば、新しい技術の登場を待つしかない。

「どれもが実に工夫されている。 王宮でも、これほどのものはなかなか食べられないだろう」

「光栄です。 今後、何かあったらあの子を引き立てて上げてください」

「ああ。 戦士としても優れているようだし、何かあったら力になろう」

一礼すると、騎士団長の前から離れる。接点はなかったが、大教騎士になったカミラも、結構嬉しそうにケーキを頬張っていた。

かなり偏執的な研究で作られたケーキなのだろうなと、マリーは少し食べただけで判断した。味の組み合わせや焼き加減が、尋常ではない計算の上で成り立っている。恐らく、何百回という失敗の積み重ねの上に、一番美味しくなる組み合わせを論理的に編み出していったのだろう。

本気で好きでないと出来ないことだ。エルフィールの事はアデリーから報告を受けているが、やはり感情の欠落が著しいという。普通の人間とは、だいぶ感情の構造が違っているとも。

彼女は、人間が一度死んで、そのままホムンクルスにでもなったかのような状態だ。というのも、記憶が一度綺麗に消えて、其処から全てを再構成したからである。かってのアデリーもトラウマに苦しんだが、エルフィールの場合はそれさえもない、ゼロからの出発だった。

そして、それが今回はたまたま良い方向に作用した。

興味深い実験対象である。今後、どんな風に成長していくのか、楽しみで仕方がない。ドナースターク家としても有意な人材になるのは間違いない。後は、手綱の引き方さえ間違わないようにしていけば、大丈夫の筈だった。少なくとも今、魔力がないというハンデを、エルフィールは苦にしているようには見えない。

クーゲルがいた。挨拶する。騎士団の鎧を着込んでいる巨漢は、黙々とケーキを頬張っていた。

「おお、鮮血のマルローネか」

「クーゲルさん、相変わらずですね」

髭にクリームを付けずに食べているクーゲルを見て、案外器用だなとマリーは思った。手づかみで食べかねないイメージがあったのだが、実際にはエンデルクよりもテーブルマナーが達者かも知れない。

これは恐らく、あれだろう。騎士団の頃から目を付けられていたので、面倒な事で文句を言われないように自分で技を磨いたのだろう。多分そうに違いない。失礼なマリーの想像を見透かしたか、クーゲルは鼻で笑った。だが、すぐに表情を歓喜に改める。

クーゲルが歓喜する時は、理由は一つしかない。

「このケーキの味は素晴らしいな。 偏執的な愛情が充ち満ちている。 後でエリアレッテとダグラスにも食べさせてみるつもりだ」

「そうですね、ご指摘の通りです」

やはり其処に着目したか。

この偏執的な愛情は、一種の狂気に通じるものがある。エルフィールがこのケーキを作り出すまでの過程で費やした努力を聞いて、多分普通の人間は真っ青になって固まることだろう。

天才は、執念と極めて相性がよい。

このケーキは、エルフィールの執念の結果生み出された、闇の産物だ。それが評価されているのは、結局の所、人間の愛情が一方向的なものにすぎないからだろう。美味しいお菓子が、狂気と偏執の結果生み出されていると知った時、万人の反応がどうなるか。それはマリーにとってもとても楽しみなことである。

シアが気付いて、視線を交わす。

接待をしながら、ゆっくりシアの所に近付いていった。何人かと歓談しつつ、ようやく新婚夫婦の所に辿り着いた時には、ちょっと疲れを感じていた。

「お疲れ様、マリー。 良く来てくれたわ」

「この間の、カスターニェでの戦い以来よね。 そちらが旦那さん?」

「ええ。 カールよ」

頼りなさそうな男だ。まあ、ドナースターク家にしてみれば、気ばかり強くて干渉してくるような夫は不要である。正直な話、シア一人居ればどうにかなるのだから。問題はシアが妊娠して身動き取れなくなった後の事だが。それは、家臣団でどうにか支えていくしかない。

女性にとっての最大のネックがそれだ。術式や能力が男性に比べて強力な者が多い分、出産時の負担が極めて大きい。このネックばかりは、女傑と言ってよいシアでも克服はなかなか出来ないだろう。

カールの注意がそれた瞬間、マルルに目配せ。彼女の手から遺言状を渡させておく。シアは頷くと、隙を見て奥に一旦消えた。休むという題目だが、誰も疑いはしないだろう。彼女は昨日の昼くらいから、式の指揮をとっていたのだから。

カールは感じの良い青年だ。シアと同じ年だというが、修羅場を潜ったことは多分一度もないだろう。ドナースターク家を弱体化させるために、国が組んだ縁談だ。とはいっても、ドナースターク家の顔も立てなければならないから、こういう男で落ち着いた。

「貴方は、妻の大親友だと聞きました。 ドナースターク家でも、指折りの武勇の持ち主だとも」

「有難うございます」

「僕は、経営でも武芸でも妻を支えることが出来ません。 妻をこれからも、支えてください」

「言われるまでもありません。 あたしの心は、例え別の大陸にあったとしても、ドナースターク家と共にあります」

少し話してみても、あまり悪い印象は受けない。文字通り、人畜無害な男だ。シアの相手としては、これで良いのかも知れなかった。

そういえば、賢者の石の影響で若いとはいえ、マリーにも限界がある。もう一つ賢者の石を作れれば話は違いそうだが、しかし材料が手に入らない。エンシェント級のドラゴンなど、その辺にほいほいいるわけではないのだ。

歓談しながら、屋敷の中に。

シアは長と何か話していた。頷いている所を見ると、彼女にとっても辛い話だったのだろう。

部屋に入らなくても、気配でどちらも互いを察知できる。廊下で落ち合って、軽く話をした。

「とりあえず、問題無さそうな男ね」

「ええ。 それよりも問題は、お父様の遺言だわ。 貴方のは何が書かれていたの」

「シアの子供が出来たら、娘でも息子でも、ロブソン村で育てろ、だって」

「なるほど、お父様らしいわ」

くすくすと笑いあう。

現在、グランベル村はドナースターク家の中心地として、様々な整備が行われている。逆に言うと、それは拠点整備であり、昔のように子供達を逞しく育てるにはあまり向いていない場所になりつつあるという事も意味している。

だから、子供を育てるなら、かってのグランベルのような環境が望ましいと、トール氏は考えていると言うことだ。次代を、スポイルしないためにも。

ロブソン村はマリーの父が整備していて、現在も若手の育成施設として機能している。国境に近い、周辺の環境が厳しい、きな臭い情勢が続いていると、何拍子も揃ってかってのグランベルよりも更に悪い環境になっていると言える。

エルフィールが短時間であれだけ育ち上がったのも、伊達ではないと言うことだ。

「シア、貴方の手紙は」

「貴方を頼りなさいと書かれているわ。 とくに、私が身動き取れない間はね」

「わかってる。 任せて」

「この遺言だったら、必ず守らなければね」

二人の間には、並の夫婦よりも強い信頼がある。トール氏は恐らく、それを確認したかっただけなのだろう。

それならば、大丈夫だ。

「じゃあ、あたし、カスターニェに戻るわ」

「そちらはよろしく。 こちらも、何かあったらすぐに連絡するわ」

「お願いね」

頷きあうと、マリーは屋敷を出た。

長の事は心配だ。だが、すぐにどうなるというものでもない。何より、長が今の状況に満足している。

きっと無理にエリキシル剤を飲ませたりして回復を促しても、長は喜ばないだろう。これが自分の運命だとして、受け容れてしまっているからだ。

マリーは目を閉じると、頭を切り換える。

そして、騎士団が用意してくれた馬車に乗り、未だ予断を許さぬ状況が続いているカスターニェへ、とんぼ返りしたのだった。

 

4、名、知られる刻

 

全員の目が醒めたのは、夕刻になってからだった。一番疲労が酷そうなノルディスも、きちんと夕刻には起きられたので、全員で揃ってドナースターク家に向かうことにする。軽く腹ごしらえをした後、妖精達とフィンフは残して、全員でアトリエを出た。既に昼間の喧噪も静まりつつある。

フローベル教会の前を通ると、子供達が手を振ってきた。ミルカッセもいる。

「エリーおねーちゃん! ケーキ、すっごくおいしかったよー!」

「ありがとー!」

手を振り返す。悪い気分はしない。子供は幼い分直接的で、良い意味で言えば正直だ。彼らの本音は、しっかり受け取った。

ミルカッセは複雑な表情だったが、それでも嘘をついているようには見えなかった。この周囲の住人には、ちょっとずつケーキがお裾分けされた。それが、エリーの作ったものだと、知っている者は少なくない。

これは、後に必ず強みになる。

「不思議ね」

「アイゼル、どうしたの?」

「政略結婚なのに。 それの影響で、幸せになる人達もいるんだなと思って」

「そうだね。 子供達は、あの美味しいケーキを食べられて、例えいつも寂しくても、一瞬でも幸せになれたんだろうね」

ミルカッセが時々遊んで上げているのは、間違いなく孤児院の子供達だ。それを考えると、少し不思議な気分にもなる。

ドナースターク家に着く。全員が、錬金術師としての正装をしていた。門で番をしていたのは、ドナースターク家の武官でも、エルフィールが知る指折りの人物だった。ちょっと蛙みたいな顔をしているが、シアの側近として長く仕えている生え抜きの男だ。

「エルフィールか。 ケーキはお客様の皆が満足しておられた。 大変な仕事だっただろうに、良くこなしてくれたな」

「いえ、それほどでも」

「奥にいるVIP達には会わせられないが、屋敷の中に歓談室を用意している。 一緒に仕事をしてくれたご学友達と一緒に、ささやかな料理を楽しんでいってくれ」

「有難うございます」

ぺこりと一礼。アイゼルは貴族のお嬢らしく、隣で完璧な礼をしてみせた。ノルディスは飲み込みが早く、アイゼルの真似をほぼ精確にしてみせる。キルキも、結構礼が上手だった。

屋敷の中に向かう。横目で、中庭の様子を見た。

ちらりと、シアと列んで立つ新郎の姿が見えた。カールという人物で、没落貴族の出身である。善良なだけが取り柄の人物だと聞いているが、見たところその前評判に嘘は無さそうである。

屋敷の中では、ドナースターク家の家臣達が、長机について料理を食べていた。メイド達も、時々それに加わっているようだ。酒ももちろん出されている。ただし、酔っぱらいが中庭に出ないように、武官が何名か監視に着いていた。

部屋の壁に触ってみるが、防音構造だ。それも、最近アカデミーで開発された最新式の、である。間に空気を含む幾つかの層を挟むことで、音が非常に外に漏れづらくなっている。しかもこれば、保温効果も抜群なのだ。

ノルディスもそれに気付く。

「ドナースターク家には、とても腕が良い錬金術師がテクノクラートとして就いていると聞いていたけれど、本当みたいだね」

「うん。 長代行の幼なじみで、右腕だって話だよ」

「シア様って方も凄いようだけれど、その人も凄いのね。 屋敷の彼方此方に、高度な錬金術でないと実現できないものばかりが置かれていたわ」

「外の噴水も凄かった」

アイゼルとキルキが、口々に感心する。

用意された席に着くと、もう準備されていた食事にありつくことにする。今日は無礼講だ。多少のアルコールも良いだろう。だが、現れたマルルが、さっとアルコールを取り上げてしまった。

「ああん、マルルさん」

「駄目です。 対外的に示しがつきません」

代わりに、グリーンサイダーが出てくる。

これは最近アカデミーが売り出した飲料で、仙人掌の一種のエキスと炭酸を混ぜ、非常に面白いのどごしを再現したものだ。アカデミーで買うと結構な高値だが、それでもかなりの量が売られているという。

惜しみもなく出てくると言うことは、やはり噂に聞く鮮血のマルローネが作ったのだろう。しかも簡単に。恐ろしいスキルだ。

アカデミーでも、教師くらいは簡単にできるのではないか。こうぽんぽん高度な錬金術の産物が出てくると、そう思ってしまう。

「それでは、いただきます」

全員で、手を合わせて、食事を始めた。

アイゼルは飛翔亭よりも更に雑然としているこういう場所は苦手なのか、ちょっと縮こまっていた。

彼女は容姿からして目立つから、武官の中には目を付けているものもいるようだ。酒を飲むと人は気が大きくなるし、それが切っ掛けで交際を開始するパターンも少なくない。だが、側でエルフィールが食事をしていること、何よりその衣服を見て、諦める者が多い。錬金術師は、ドナースターク家でも重要な顧客であり、上司としても大きな存在感を持っているのだ。

だが、それでも、一人。まだ若い武官が、アイゼルの側に座る。

「君、今回のケーキを作った人?」

「手伝いをしただけです」

口調も、アイゼルはいつもより丁寧だ。まあ、必要になったら助けて上げるとしよう。エルフィールはケーキを心ゆくまで堪能すると、肉料理も口に入れる。味付けからして、どれもかなりハイレベルである。ケーキに触発されたと言うことはないだろうが、料理人達も皆腕によりを掛けたのだ。素材も、きっと武官達が新鮮なのを集めてきたのだろう。

「実際に作ったのは、その子です。 エリー、こちらの方が、貴方に興味があるそうよ」

「おお、貴殿はヒドラのエルフィール! そうか、錬金術師としても腕を上げてると聞いていたが、ケーキを作ったのはそなたであったか」

「ども。 ちなみにその子、私の親友なので。 手出したらどうなるかわかってますよね?」

「ははは、大丈夫だ。 そうとわかれば、間違っても手だしたりはせん」

エルフィールの悪名は、ドナースターク家でも広まりつつあるらしい。男はそそくさと離れていった。ちょっと背中が寂しい。

ふと気付くと、アイゼルの顔が赤い。

これは、雰囲気だけで酔ったか。手元も、少しずつ怪しくなり始めていた。こてんと机に突っ伏してしまう彼女の背中を、ノルディスが揺する。

「アイゼル、大丈夫?」

「平気よ、エリー。 さっきの人が、ノルディスだったら、嬉しかったのに」

「え?」

「何でもない」

どうやら、ノルディスとエリーを勘違いしているらしかった。キルキが懐から小瓶を取り出すと、アイゼルが飲んでいたグリーンサイダーに入れる。

「アイゼル、これ飲んで」

「ん……」

無言で飲み干したアイゼルは、眼がとろんとしていたが。しかし、徐々に目が醒めてきた様子だ。

強力な酔い止めだろう。念のために、用意してきたに違いなかった。

「私、アトリエから酔い覚まし取ってくる。 酷い飲み方してるひと、一杯いる」

「いいの。 もしも倒れるような人が出たら助けてあげて」

「でも」

「ドナースターク家じゃ、お酒は滅多に出ないの。 まして今日はシア様のお祝いの日だしね。 みんな嬉しいの。 少しくらい、羽目を外させてあげてよ」

田舎の風習を色濃く引きずるドナースターク家では、公式行事を滅多にやらないし、やっても酒は出ない。

だから、みんな羽目を外している。酒が好きな人間は仕事が終わったら外で飲むことも多いだろうが、やはり公式行事での酒はだいぶ意味合いが違ってくるのだ。

キルキは頬を膨らませたが、しかし。みんなが本当に嬉しそうにしているので、結局黙り込んだ。

一応念のために明日アイゼルやノルディスは休みを取っているし、エルフィールやキルキは、試験ももう少し先にしてもらっている。ノルディスが席を立った。

「エリー、今日は招いてくれて有難う。 そろそろアイゼルと帰るよ」

「そう。 じゃ、私もまわりに挨拶してくるから、ちょっと待ってくれる?」

「うん。 そう、だね」

アイゼルが心配らしく、ノルディスの言葉は歯切れが悪い。

アイゼルはまだ意識がはっきりしていない様子で、時々ぼんやりとサイダーを口にしていた。

宴は深夜まで続いた。だが、エルフィールはアイゼルやノルディスの事もあったので、早めに辞退させて貰った。

この日はめでたい席と言うこともあり、この勢いで婚約したドナースターク家の家臣が六組も出たそうだが。

エルフィールには、あまり関係のないことだった。

 

数日後。

アカデミーの入り口で、エルフィールは張り出された成績を見て、唖然としていた。

試験でしっかり成績を取ってきたノルディスと、ついに同点に列ばれた。

エルフィールの試験も決して悪くはなかったのだが、ちょっと苦手な金属加工だったのが、減点の要因となった。そして今回、学年度試験でも、ノルディスは成果を出してくるだろう。

最近は冒険者と少人数で調合素材を取りに行くことも増えているという。厳しい仕事もこなせるようになってきているし、見違えるほどに逞しくなってきていた。

今回、チーズケーキのことでエルフィールは大きな名声を稼いだ。少し前のレンネットの件も併せて、巧く行けばついにキルキを抜けるかとさえ思っていたのだが。しかし、これでは駄目だ。ノルディスに追いつかれたと言うよりも、昨今チーズケーキに何もかも注力しすぎていた、というのが正しいのだろう。

頬を叩いて、気合いを入れ直す。

今回は名声を稼げた。それで充分だ。学生としての本分を怠って良いわけではない。最近はアイゼルも成績を上げてきているし、このままでは彼女にさえ追いつかれるかも知れない。

図書館によって、本を借りる。

今年中に、もう一つか二つ、大きな成果を上げたい。チーズケーキについては、既に幾つかの分野で極めたとも言える。それについての名声も稼いだし、今後は継続的に収入が見込める。

だから、次にやるとしたら、生きている道具類についてだろう。

ホムンクルスは、生きている道具類の究極と言っても良い存在であり、最終的には作成を目標にするのもありだ。図書館で、参考文献を借りだしていく。

アトリエに戻る最中、仲むつまじく同じ馬車に乗るシアとその夫を目撃。視線が一瞬だけ合ったので、目礼する。

エルフィールを信頼して、最大限の晴れ舞台を、ある意味作ってくれたシア。

今後、更に忠誠を尽くさなければならないだろう。

そのためにも。

エルフィールは今後、更に成績を上げていかなければならなかった。

 

(続)