港湾波濤

 

序、決戦の朝

 

カスターニェにその日の朝は、胃がひりつくような緊張と共に訪れた。薄い霧が出ているが、作戦を開始することが決定して、更に緊張の度は高まった。

実戦は初めてではない。だが、それでも聖騎士ローラは、自分が参戦しようとしているこの戦いが、とても危険で、なおかつ非常に大きな歴史的意義を持つことを、肌で感じていた。

シグザール王国軍の最新鋭攻撃艦が五隻、港の中で出撃を待っている。一番大きな旗艦「グロウゼル」には、今回の作戦の事実上の指揮官であるシア=ドナースタークが乗っていた。結婚を今年中に控えているというのに、相変わらず自分の家が関係する事に関しては積極的で、最前線に立つことも厭わない。その隣に立ちつくすのは、全ての船に今回の決戦用装備を配置し、必勝の態勢を作り上げたマリー。通称鮮血のマルローネが、獰猛な鷹のような視線を海に投じていた。

ローラは聖騎士として彼女らの護衛に当たる立場だが、シア=ドナースタークの実力は明らかに自分を凌いでいる事を知っていた。マリーも近接戦闘でならともかく、総合的な実力では比較にならないほど上だろう。全身を覆う金色の魔力の凄まじさは、幾らでも強者がいるシグザール王国軍騎士団でも、見たことがないほどのものだった。

停泊中の船には、先ほどから政府の高官や有名人がひっきりなしに出入りしている。そして今。ローラが思わず敬礼した先には、もっともシグザール王国でも有名な武人が歩み来ていた。

「騎士団長!」

「勤めご苦労」

鷹揚に頷いたのは、騎士団長エンデルク。軍の総司令官という訳ではないが、大陸最強を噂される精鋭騎士団の長を十年以上も勤め、今では円熟の域に達し始めている男である。長い黒髪を持つ白い肌の男で、背はかなり高い。典型的な北方人の特徴であり、実際北方の小国出身であるという。

剣で身を立てた人間だから、ローラも強く意識せざるを得ない相手だ。何しろ特殊能力の類がないのに、身体能力と剣技、それに何よりしたたかな頭脳で立身した男である。ただ、最近はどういう心境の変化か、前に見られた焼け付くような野心が消え失せ、寡黙に仕事をこなす有能な武人になっているようだったが。

「久し振りだな。 状況はどうか」

「マリー、報告を」

「はい、長代行。 現在、武装に変更無し。 敵は相変わらず悠々と港を封鎖しつつ泳ぎ続けています。 たまに息継ぎをしに海面に現れますが、それ以外はいつもと変わりありません」

堅苦しい言葉で応えるのは、此処が公式の場だからだ。こういう風なけじめをしっかり付けないと、部下は上司を見誤る。自分のせいでシアが馬鹿にされたりしたら面白くないので、マリーはしっかり上司と部下のけじめを付けているのだと、少し前にローラは聞かされた。

エンデルクは頷くと、辺りを覆いつつある乳白色のヴェールを見つめた。

「この霧は?」

あの大海蛇は、気候を自在に操る。この霧が奴の仕業だとすると、非常に危険な罠を仕込んできている可能性もある。

実際かなり知能が高いことは、今までの戦いで分かりきっている。どれだけの準備をしたとしても、油断だけはしてはならなかった。

「恐らくは、無意識的に防御をし始めているのでしょう。 海を荒らされると面倒ですので、一刻以内に片付けます」

「分かった。 健闘を期待する」

「アデリーとミューは如何なさいましたか?」

「王子殿下の護衛だ。 あの二人なら、並の敵などものともしないだろう」

そうだ。エンデルクもそうなのだが、今カスターニェには、形式上の総司令官としてブレドルフ王子が来ているのだ。

エンデルク騎士団長がいるのも、それが原因の一つである。数少ないシグザール王国の跡継ぎである王子は、お世辞にも武勇が優れている訳ではなく、頭脳もそう大したことはないという。だが、いるだけで国を安定させる重要な存在だ。何があっても守り抜かなければならない相手である。

噂によると、優しすぎる王子に不安を感じているヴィント王が、実戦を知らせるためにもこの場に来させたのだという。流石に船に乗せる訳にはいかないとしても、港で形式上の総指揮を執らせるとなると、兵士達の士気も随分違う。

実際、操船手達の中には、王子の前で手柄を立てようと、張り切っている者達が多いようにローラには思えた。

エンデルクが船から下りると、シアは手を叩いて、周囲を見回した。一件清楚なお嬢様に見える彼女だが、実際に陣頭に立つと、その威圧感は山のようだった。目つきは鋭く、声も凛と遠くまで届く。

若くして今やこの国でももっとも力ある存在になろうとしているドナースターク家を束ねているやり手の人物である。それは当然だとも言えた。

「これから、作戦を開始する! カスターニェを封鎖する忌まわしき怪物に引導を渡し、この国百年の繁栄の礎とするのだ!」

「応っ!」

船上で、喚声が爆発した。

旗艦グロウゼルが碇を引き上げ始めると、他の船もそれに倣う。鎖が海から巻き上げられる音が、嫌に長く響くような気がした。港の桟橋の近くには、住民達が鈴なりになって集まっている。

交易を中心として栄えた街だ。近年治安がある程度悪化したとはいえ、戦争とは長らく縁がなかった土地でもある。無理がないことだとも言えた。

もっとも、指揮官であるシアの話では、あれにも意味があると言うことだが。

碇が、巻き上げられた。

間もなく、他の船も行動開始可能な状態となる。ぴんと引っ張られた綱が、マストを限界まで膨らませた。

風の調子、良し。

場合によっては、すぐにマストを畳むことも出来る。

「進め!」

シアの号令一下、五隻の艦隊が動き始めた。

最初グロウゼルを先頭とした雁行陣だった艦隊は、港を出る頃にはVの字の鶴翼陣へと変わっていた。巨大な大海蛇は悠々と泳ぎ続けていたが、グロウゼルが一定距離まで近付くと、不意に行動パターンを変える。

文字通り蛇行しながら泳いでいた大海蛇が、方向転換したのである。

「敵、距離を保ちつつ後退!」

「予定通りね」

「ええ」

シアとマリーが頷きあう。ローラも聞かされていた。

今までと違い、艦隊が出向くと、敵はほぼ間違いなく行動パターンを切り替える。恐らく効率よく此方を殲滅するため、退路を塞ぐ意味もあって、確実に港からある程度は離れるだろうと。

もちろん、そうでもない可能性も、充分な吟味が行われていた。中には、いきなり大海蛇が港に特攻、街に乱入するというパターンも想定されていたのである。もっともこれは非常に楽なパターンになるが。

如何に大きくても、陸に上がってしまえばただの大きな蛇だからだ。

此方を誘導するように、大海蛇はつかず離れず泳いでいく。生唾を飲み込むローラの前で、シアが右手を挙げ、兵士達が動く。

船上に備え付けられた投石機が、大きくしなり始めた。

マリーがカンテラを掲げ、それを大きく振り回す。他の四隻からも、カンテラを振り返す明かりの輪が見えた。

ウミヘビが、動きを止める。攻撃に転じようというのだろう。

その瞬間、シアの右手が振り下ろされていた。

曳光して空を飛んだのは、フラム数十発だ。いずれもが、敵の退路を断つようにして、海に着弾。

そして、海そのものが吹き飛ぶのではないかと思えるほどの、巨大な水しぶきが上がっていた。

文字通り空中に放り出された大海蛇が、苦痛の絶叫を挙げる。激しく海が揺動し、巨大な波が辺りを打ち据えた。もがく大海蛇に、大量の波を被りながらも、猛然とグロウゼルが突進する。

流石に、猛牛のあだ名で知られた、何代か前のシグザール王の名を冠するだけのことはある。その突撃は凄まじく、腹を見せながら大海蛇がのたうち回っている間に、距離はゼロになっていた。

大量に降り注ぐ水しぶきが、甲板を無理矢理洗浄していく。心なしか生臭い。壁のような大波を船首で突き破ると、グロウゼルは猛然と大海蛇にのしかかった。同時に、甲板に群がっていた逞しい筋肉を持つ兵士達が、マリーの指示の下、一気に縄を引く。縄は船体中央につながっていて、引くことにより、大型のレバーを倒すしかけになっている。

そして、死の罠が発動した。

巨大な鋏が二つ、大海蛇の胴体を掴む。そして船体が揺動するほどの大轟音と共に、船尾に巨大な杭が突き上げた。

水面下で、大海蛇が絶叫する。無理もない。その体を、杭が貫いたのだろうから。

「直撃! しかし……」

「浅いわ」

マリーが冷静に言うと、カンテラを廻す。頷いた兵士達が、汗をとばしながら、杭にとりつく。

マリー式殺戮戦槌。

鋏で挟み込んだ敵に、火薬の破壊力で威力と速度を増した杭を叩き込むという恐ろしい兵器である。杭は船体から見て斜め下についており、その衝撃を殺すために、後方にも同様の杭を放つのだという。

ローラは暴れ狂う大海蛇が、何度も船を揺らすのを感じて、生唾を飲み込んだ。どれだけ激しく揺さぶられても簡単には落ちない自信はある。だが、兵士達までそうではないし、何より船体がいつまで保つか。

汗みずくになりながら、兵士達が第二射に掛かる。船縁から下を覗き込んでいた兵士の一人が、絶叫した。

「敵、暴れています! 鋏が持ちません!」

その時、気付く。

マリーが全身から、黄金の魔力を溢れんばかりに放っているのに。既に詠唱を完了させていたのか。彼女はマントを翻すと、手にしている大型の戦闘杖を振りかざす。それは、いにしえの雷神が、破壊の槌を振り下ろすような光景だった。

空にできあがりつつあった暗雲から、極太の雷撃が何度も走る。印を組み終えたマリーが、最後の一節を完成させる。

「サンダー……!」

「ギャゴオオオオオオッ!」

水面から顔を出した大海蛇。巨大な口を開き、マリーとシアに、それに甲板の兵士達に水か何かをはきかけようとする。その瞬間に、マリーが弧を描くようにして、手を大きく回し、術を発動させた。

「サトゥルヌス・ヴァイパー!」

世界が漂白され、一瞬後に爆音が襲いかかってきた。

思わずローラも、両手を耳に当て、その衝撃から備えた。だが、一瞬遅く、巨人の掌にはり倒されるような衝撃が、したたか鼓膜を打ち据えていた。

「っ……!」

さっきの凄まじい揺れでも横転を免れたローラだが、こればかりは流石に耐えられない。水しぶきが派手に上がったのは、大海蛇が仰向けに水面に倒れたからだろうか。何も聞こえない。海の男達も流石に一瞬手を止めていたが、それでも立ち直ると、杭の再装填を必死に進めている。負けてはいられない。頭を振って耳に指を突っ込み、強引に気圧を変えてどうにか立ち直る。

大海蛇が、その長大な尻尾を振り回しているのが見えた。別の船が、それの直撃を受ける。何名か船員が吹き飛ばされ、一瞬で肉塊になった様子だ。大海蛇の底力は凄まじい。あの雷撃を受けてなお、まだこれだけ暴れる余力があるのか。杭で叩き込まれた毒も、相当に強力だと効いているのだが。

見える。

王国の旗を掲げる軍艦がこっちに来る。あれは、まさか。

「王子が前線に出てきた! 皆、戦功を見せる好機だぞ!」

「おおっ!」

俄然兵士達の目の色が変わる。手が空いている者は船縁に乗りだし、一斉に大海蛇にボウガンの矢を叩き込んだ。次々に突き刺さる矢が、海を真っ赤に染めていく。うねり、もがきながらも、しかし大海蛇はまだ命消えない。

シアが頷くと、彼女の配下の武官が、恐ろしい武器を持ちだした。

一種の変形棍で、先端に多数の打撃部分がついている。噂に聞いている。形状が似ているから、こう呼ばれているという。

はたき。

そのはたきを掲げるシアの全身が、一瞬淡く輝く。

再び、顔を水面から持ち上げる大海蛇。マリーが叫ぶ。

「再装填は!?」

「まもなくです!」

「上等っ!」

大海蛇は、近くで顔を見ると凄まじい形相だった。顔の周囲にはとげとげのような角や襟が多数ついていて、むしろドラゴンに近い顔格好だ。しかし先ほど直撃した極太の雷が影響だろうが、その半分ほどは無惨に折れ、一部では頭蓋骨も露出していた。

ローラがフラムを取り出すのと、殆ど同時。

「時、の! 石版っ!」

シアの姿が、一瞬かき消える。そして、前後左右四方八方から、大海蛇の頭を疾風のごとき打撃が打ち据える。早すぎて見えていないが、多分シアだろう。水面や、時には垂直にそそり立った船の壁面までもを足場として利用し、超高速での攻撃を叩き込んでいる様子だ。凄まじい。

殆ど抵抗も出来ずに、一方的に頭部を殴られていた大海蛇だが、空に向けて叫ぶ。

同時に、見る間に黒雲が辺りを覆い始めた。ローラがフラムに向けて呟く。

「爆裂せよ!」

そして、天に向けて叫んでいる大海蛇の口に、それを投じていた。

水面に大海蛇が沈むのと、杭の再装填が終わるのは同時。したたかに尻尾が別の船に叩きつけられ、マストがへし折れるのが見えた。あれではまた少なくない死者が出ているだろう。もう一撃貰うと、ダメージが竜骨まで行くかも知れない。そうなると撃沈確定だ。最新鋭の戦艦も、あの巨大な尾の前には小舟に等しい。

マリーがカンテラを廻すと、他の船からまたフラムが投じられた。殆ど同時に、ローラが放り込んだらしいフラムが、恐らく大海蛇の体内で炸裂したのだろう。水面から見えている大海蛇の青黒い肌が吹き飛び、大量の鮮血が噴き出した。

風が吹き始める中、再び海にフラムの炸裂による波しぶきが吹き上がった。大海蛇の絶叫が聞こえる。もはや海は、血潮で赤黒く染まっていて、それが荒れ始めた天候によるものなのか、そうでないのか、見分けがつかないほどだった。

大波が船体に打ち当たる。既に霧で、全体が水浸しだ。

「何て頑丈な」

「ええ。 エンシェント級ドラゴンなんか、問題にならない相手だわ」

額の汗を武官に拭わせながら、シアが呟く。再装填完了と、後ろで船員達が叫ぶ。マリーが頷き、シアが吠えた。

「撃てっ!」

再び、船が波上を跳躍するほどの衝撃が来る。

今度は、届いた。鋏は外れ掛けていたが、しかしさっき浅く突き刺さった杭は、大海蛇の体を貫通し、反対側に抜けた。それが、ありありと分かった。

杭が前後に激しく軋む。体を貫通されてなお、大海蛇が抵抗しているのだ。マリーがカンテラを八の字に振る。他の船が接近してきて、事前の訓練通り、鎖で互いをつないだ。

逞しい筋肉を剥き出しに、船員達が一斉にオールを動かし始める。接近してきた王国旗艦も、鎖をつないだ。訓練の成果は著しく、作業が終わるまで殆ど掛からない。汗みずくの兵士達は飛びつくようにして、連結作業を終わらせた。シアが叫び、マリーがまたカンテラを廻す。

「よし! 港に引け! 引っ張り込め!」

大粒の雨が、海面を打ち据え始めた。稲光もとどろいている。この短時間で、信じられないほどの天候の変化だ。大海蛇が何度も尻尾を海面に叩きつける。だが、その威力は、確実に弱まりつつあった。

鋏が外れたのが、船の震動から分かった。まだ杭が刺さっているが、これは危ない。同時に、海に飛び込む屈強な兵士達数名。そう言えば水中戦の専門部隊が来ているという話は聞いた。彼らのことだろう。文字通り命がけの任務だが。

しかし、大海蛇は、もう彼らに構う暇はない様子だった。潜ろうとして、ひたすら体をS字に動かしている。多分生存本能から来る、最後のあがきだろう。だが非情にも、その体は港へと引きずられていく。

雨が凄まじい。霧と混ざり合って、周囲はもはや訳が分からない天候だ。そんな中、鎖が水中に引き込まれていく。水中の部隊が、大海蛇と鎖を結びつけているのだろう。オールを動かしている兵士達の顔も、夜叉のように歪んでいた。

水面から、兵士達が次々と上がってくる。縄ばしごが下ろされ、彼らが回収された。あの波だというのに、凄い。

「鎖、結びつけました。 杭にも縛り付けましたので、簡単には外れません」

「ご苦労」

シアが言うと、やはりその声には威厳が含まれていて、この艦隊の指揮を執る人間として相応しい姿に見えた。

船が、港に確実に進んでいく。引きずられながらも、大海蛇は時々尻尾を振り回して暴れる。

王国軍旗艦に、一度尻尾が直撃した時は、流石にローラもひやりとした。だが、余程強力な術者が乗っているのか。現れた光の壁が、尻尾をはじき返す。神の祝福という超レア能力だ。大海蛇が弱る前だったら、多分無理だっただろう。しかし、兎に角旗艦は無事だった。

グロウゼルが、ついに岸壁に停泊する。碇が海に投じられて、鎖が激しい音を立てながら海に沈んでいった。ローラが周囲に指示を出す。

「負傷者をすぐに運び出して! 待機中の部隊は、攻撃を継続! 術式での遠隔攻撃で、大海蛇の頭を狙いなさい! 何隻か、沖合に船を! 海に投げ出された人間がいるかも知れないから、捜索!」

「はっ! 直ちに!」

忙しく兵士達が動く。見れば激しい戦闘と大荒れの天候で、中破した船が二隻。マストをへし折られた船では、三十名以上が戦死したようだった。この様子だと、五隻で五十人以上は戦死しただろう。名誉の戦死だ。みな、カスターニェを守ったのだ。

船縁に出た術者達が、次々に海から見えている大海蛇に、雷を、火球を、叩きつけていく。時々もがく大海蛇が、激しく船体を揺動させる。だが、憎々しげに開かれたその口からは、今や大量の鮮血が流れ出し続けており、目は虚空を睨むばかりであった。うなり声も怒りよりも、恐怖を含んでいるのがありありと見て取れた。

マリーが何か飲み干している。栄養剤か何かだろうか。それにしても、あれほどの大威力魔術を使った後で、身動きできると言うだけでも凄い。

「マリー、とどめを」

「分かりました」

頷くと、マリーが詠唱を開始。ローラも小走りで歩み寄ると、フラムを懐から取りだした。

マリーが放った雷撃が、水面に浮かんで、必死に蛇行しようとしている大海蛇の頭に直撃。同時に、ローラが水中に放り込んだフラムも炸裂する。

大海蛇が全身をしならせ、海が割れるような絶叫を挙げた。

断末魔だった。

同時に、雨が小降りになり始める。

マリーが、額の汗を拭った。そして、腰に手を当てて、もう一度栄養剤を飲み干す。

「ふー。 これだね。 聖騎士ローラ、お疲れ様。 ここぞという時に、良い動きだったよ」

「有難うございます。 本当は剣で戦いたかったのですが」

「何、剣だけが戦いの手段じゃない。 さて、あのでかいウナギを外して引き揚げるのは水中戦部隊に任せて、我々は塵掃除でもしようか」

肩を叩いて、マリーが歩き出す。シアはまだ少し残って、後始末をする様子だった。

彼女が使用した能力は、多分思考の超加速による身体能力の極限強化だろう。凄まじい破壊威力で、なおかつ汎用性が高い。流石に反動も尋常ではない様子で、シアが彼方此方体を庇っているのが、ローラには分かった。確かに大陸でも十指にはいると言われるだけのことはある。

マリーにしてもシアにしても、どちらも驚天の使い手である。ドナースターク家。恐ろしい家だ。確かに事実上の長であるシアを結婚させて、負担を増やそうという国の意図もよく分かる。

マリーに言われてローラは船を下りながら、もう一度船上で指揮を続けるシアのことを見上げた。

 

1、カスターニェ後始末談

 

カスターニェの港に、巨大な怪物が引き上げられる。

のべ150人以上の兵士と、13人の騎士の命と引き替えに滅ぼした敵だ。アカデミーからの連絡で、どうやらフラウ・シュトライトと呼ぶらしい事を、マリーは知った。巨大なウミヘビは、魚市場ではなく、カスターニェの外縁に運ばれる。まずは船で砂浜まで移送し、其処から体にくくりつけた杭と鎖で、引っ張り上げたのだ。

漁師達にとってすれば、散々漁を邪魔してくれた怨敵である。今回の件で参戦した兵力は一万、後方支援戦力もそれに匹敵するという話であったが、民間人の協力者も少なくない。彼らの士気は高く、作業も気合いが入っていた。

既に空は嫌みなほどに青く澄み渡り、さっきまで大嵐だったとはとても思えなかった。

櫓に登って、全体の工程を見るマリーは、友人が来たことに気付いて振り返る。

「マリー。 お疲れ様」

「シアもね」

既に身内しかいないから、敬語ではなく、普段の会話に戻っている。シアは時の石版を使った分かなり疲れている筈だが。エリキシル剤を飲んでからと言うもの、本当に体が強くなったらしい。少し休んだだけで、動くくらいは問題ない様子であった。

「あれ、アカデミーに運ぶの?」

「そうなるかな。 ヘルミーナ先生辺りが、大喜びで調べるんじゃないの」

「あらあら、相変わらずね」

くすくすと笑いながら、改めて獲物に視線を落とす。

全長は見立て通り、マリーの八十倍から八十三倍という所か。海岸に横たえてみると、その巨大さがよく分かる。全体は青みが掛かっていて、腹部は白い。背中には鋭い背びれが、首の辺りから尾までつながっていた。腹びれはなく、胸びれもない。全身の筋肉を使うことによって、無理矢理泳いでいるという感触だ。

牙は一つ一つが子供の胴体ほどもある。舌は人間が二人か三人、上に乗れるほどの大きさだ。眼球は二つだが、改めて陸で見ると、額に第三の目らしき器官があるのが確認できた。

見れば見るほど不自然な生物だ。明らかに無理に様々な特徴をつなぎ合わせている。

「不自然な動物ね」

「魔物以上にね。 ああ、自分の手で解体したいなあ」

「みんな腕利きだから平気よ。 この辺の漁師が逞しいことは、貴方も知っているでしょう?」

「まあ、村人だものね」

くすくすと笑い合ったシアとマリーだが、不意にそれを止めた。理由は、此方に来た人物を、視界の隅に確認したからである。

エンデルクの姿が見えた。アデリーとミュー、それに何より、ブレドルフ王子も一緒にいる。

ちょっと驚いた。これから腑分けが開始されるのだが、気弱なことを噂される王子が、こんな所に現れるとは思わなかったからだ。

櫓を降りて、現場に向かう。シアもついてきた。

「如何なさいましたか。 こんな所に」

「君たちが、今回の作戦を成功させた立役者か」

エンデルクに話し掛けたのだが、返事は王子からである。慌てて跪いたマリーに、王子はにこりと微笑んでみせる。シアが少し前に出て、慇懃に礼をし、口を開いた。

「私がドナースターク家長代行、シア=ドナースタークにございます。 此方は私の腹心であるマルローネ。 ドナースターク家のテクノクラートです。 私の右腕としても活躍している、有為な人材です」

「優秀な家臣のようだな。 君たちのような家臣がいて、父上は幸せだ」

「ありがたきお言葉にございます」

作業を続けろとエンデルクが周囲に叫ぶと、手を止めて跪いていた人足が再び動き始める。

まずフラウ・シュトライトの腹を一文字に切り裂き、内臓を取り出す。同時にある程度の血を研究用に採取した後、他の血を全て捨てる。フラムの再三の爆撃にも耐え抜いた皮膚だが、死んでしまえばかなり脆くなる。人足達が大鋸を使って、腹を切り裂いていく。

どろりと零れた内臓は、青黒い皮膚とは違って、鮮やかな桃色をしていた。

数人がかりで消化器官らしい内臓を取り出すと、防腐剤を撒いてから、馬車に乗せる。騎士達の護衛を付けた馬車が、次々に北へと進発していく。内臓は全てが移送対象だ。奴の死体の中に潜った人足が、また何か内臓を引きずり出す。血管や肉との接続部分で、鋸の歯が動き続けていた。

ある程度手慣れている民なら、誰でも出来ることだ。近辺の村から集まっている民達も多く、いさなの解体経験もある者もいるだろう。手際がよいのは、それが故だ。

解体の様子を見ながら、ブレドルフ王子は自嘲的な笑みを浮かべた。

「私は何も出来なかった。 君たちの戦いを側で見ていて、それをつくづく痛感した」

「殿下が前線に出てこられたおかげで、兵士達は俄然やる気を出しました。 実はかなり危ない場面もありましたが、最後のご英断のおかげで、被害も減らすことが出来たのです」

「そうか。 でも、僕の考えが甘かったことに違いはない」

王子は言う。

平和な世界が理想だと。誰もが他人を憎まず、裏切らず。平穏と緩やかな陽光の中で、静かに暮らしていけるような場所があればいいのだと。

しかし、王子のそんな願いは、フラウ・シュトライトの現実を見て、木っ端微塵に砕かれたのだという。

「既にヘルミーナから聞いている。 あの邪悪な海蛇は、余所の大陸で作られた、生きた兵器だとか」

「その通りにございます」

フラウ・シュトライトの首が外された。鋸で頸骨を切り落としたのである。二十人がかりで梃子とコロを用いて、巨大な口を荷車に乗せた。大量の血が、砂浜の色を赤黒く染めてしまっている。しばらくすると、臭気が凄まじいことになるだろう。

体の方の肉はと言うと、毒が仕込まれているので、廃棄するしかない。研究用の幾らかを除くと、後は焼くだけだ。焼いた燃えかすは、土に埋める。荒野はこの近辺にも幾らでもある。

しばらくは草も生えないだろうが、熟成されれば肥料になる。そうすれば、荒野が沃野に生まれ変わるかも知れない。

砂浜は毒が拡散するまで立ち入り禁止にするのが無難だろう。しばらくは近海での漁も禁止だ。代わりに、漁師達には遠海漁用に旧式軍艦への同乗を許し、補助金も出すことにする。

「あのような恐ろしいものを、民の前に躊躇無く解き放つ者がいる。 どんな戦略的事情があろうと、許されることではない。 その許されぬ悪事を行う者がいて、それが人間の現実だと、僕はようやく知ることが出来た。 遅かったし、それに何より、あまりにも今まで甘すぎた。 理想はあくまで、現実に沿う形でなければ存在してはいけないと言うことを、認識できていなかった」

悔しそうに王子が言うと、護衛の聖騎士達が驚いた顔を向けた。多分、こんなに激しい悲しみを見せる王子を見るのは、初めてだったのだろう。

この人は、覚醒しようとしている。

いや、戦いの中で、覚醒した。元々戦場の雄として知られたヴィント王の息子だ。性格は違えど、素質はあったと言うことなのだろう。

フラウ・シュトライトの解体が進んでいる。爆破された部分の皮膚は、流石に痛んでいた。捨てようとしている人足達に、王子に断ってから、マリーは叫ぶ。

「それはサンプルとして重要だから、馬車に!」

「分かりました!」

咳払いする騎士団長。王子は頷く。

「これから僕は、今までの甘い僕と決別するつもりだ。 父上のやり方はどうしても今まで看過できない部分もあったし、今でもそうだが、昔の僕はそれ以上に愚かだったことがようやく分かった。 僕は到らない王子だが、君たち全員に力を貸して欲しいと、今回初めて思った。 お願いできるだろうか」

「御用の際は、何なりと。 微力を尽くさせていただきます」

「ありがとう、シア。 それにマルローネ」

思わず、笑みがこぼれるのを止められなかった。

次期国王直々の懇願である。ドナースターク家にとって、これほどの事はあろうか。もちろん大きくなりすぎれば周囲の権力者は黙っていないだろうが、その辺りはシアが調整していけばよい。

見る間に原型を無くしていくフラウ・シュトライト。既に肉のいくらかは、浜辺で燃やされ始めていた。

「王子、此処は臭気が強くなります。 後は我らにお任せを」

「いや、最後まで見届けさせて欲しい。 この結果は、百名を超す家臣達の命と引き替えに得られたものだ。 私は、最後まで彼らの犠牲の結果の勝利を、見届けなければならない」

王子は、褒美の手配をと、側にいた聖騎士に指示。後は、率先して現場を見て回った。明らかに以前と、顔つきも歩き方も変わっている。人足達に手ずから酒を振る舞ったり、道具の使い方を聞いたりもしていた。

どうやら、これはシグザール王国の未来は明るいらしいと、マリーは思った。王子を遠くから見つめながら、シアは言う。

「これは、とんだ拾いものだわ」

「前祝いに、ちょっと豪華なワイン空けようか。 この間作ってみたんだ」

「あら、熟成されてないんじゃないの?」

「大丈夫。 熟成しなくても美味しいから」

ちょっと前に来たクライスから、面白い情報を得て、ついつい造ってしまった酒だ。水晶と呼ばれる品で、味わいが深く酔いもさっぱりしている。何でも最近アカデミーの学生に、酒に非常に詳しい者が出てきているそうで、彼女から上がった研究成果によるレシピだという。

既に飛翔亭にも置かれているそうだ。ワインとしては信じられないほど透き通っていて、文字通り水晶のようであり、見た目も香りも楽しめる。

それに、もう一つ面白い研究成果が届いている。

此方の研究成果をもう少し詰めると、このような巫山戯た真似をしてくれたエル・バドールに、近く礼に行けるかも知れない。しかも、大艦隊を引き連れて、だ。

今は、ただ酔うことにしよう。マリーはそう思い、シアと一緒に与えられている宿舎に引き上げることとした。

 

2、エルフィールに足りないもの

 

アトリエの二階で目を覚ましたエルフィールは、出窓から外を覗く。そうして、面白いものを見ることになった。

凱旋の行進である。

少し前に、一万近い軍勢が南進していくのを確認した。カスターニェという港町に巨大な敵が出現し、それを討伐に行くという話だった。一万の軍勢が出るほどの相手である。どれほどの存在なのか、見当もつかなかった。少なくともドラゴンなどで無いことは確実である。或いは、ドムハイトの艦隊だったのかも知れない。

その軍勢が、勝利と共に帰ってきた。

ザールブルグの街は歓呼に湧いている。先頭にいるブレドルフ王子の表情が、出撃前とは打って変わっているのに、遠目ながらエルフィールは気付いた。

「へえー。 ほおー」

「どうしたんですか? エルフィールさん」

「クノール、王子様が凄くいい顔してるよ」

「そうですか」

振り向くと、また妖精は眠っていた。昨日は遅くまで徹夜していたのだから無理もない。多分、寝ぼけての行動だったのだろう。

有能だが、この妖精はとてもいい性格をしている。だが、不思議とエルフィールとは気が合うのだった。エルフィールとしても、別に仕事さえしてくれれば、どれだけ憎まれ口を叩こうと気にはしない。

実際、妖精は給料分の仕事は、確実にしてくれていた。だから、別によいのだ。

地下に降りて、チーズの熟成具合を確認。

あれから何度も実験を繰り返して、人工レンネットは完成に近付いている。やはり例のコケからレンネットは取ることが出来るのだ。それから煮たり濾したり色々している内に、品質を高める方法も発見した。

どうもレンネットは、栄養に触れると増えるようなのだ。これは仮説なのだが、或いはある種の生物か、その生成物がそうなのではないかと思える。しかしそんな小さな生物がいるとは、どうも実感できない。いずれにしても、既にかなり美味しいプレーンチーズが作れるようになっている。ここ数ヶ月の苦労の結晶だ。

飛翔亭にも納品してみて、品質に問題ないことは確認済みだ。これからはブルーチーズやクリームチーズ、保存用の極硬チーズなどを、順番に作成していく予定である。

そして、かろうじてチーズが間に合った今。次に作るべきは、貴族が食べても思わず唸るような、チーズケーキの作成だった。

ドナースターク家の長代行であるシアの婚姻はかなり近付いている。既にドナースターク家周辺では大きな動きが幾つもあり、エルフィールも定期連絡の期間を一週間に設定されていた。いずれにしても、予想以上に残り時間はない。既に三年に突入したこともあり、急いで作業を進めなければならなかった。

外を走って朝の鍛錬をする。今朝は凱旋パレードがあるから、出来るだけ大通りは避ける。アルテナ教会の前を通ると、ミルカッセが掃除をしていた。軽く目礼をして行く。時々チーズケーキを持っていって、味見をして貰っているのだが、なかなか彼女の舌は確かだ。

帰ってきた後、裏庭に出て棒を振る。しばらく振るって汗を流した後、今日の日課に移った。

台所に出ると、クノールが起きだしてきた。ボウルの中で卵白と小麦粉、それにチーズをかき混ぜているエルフィールの後ろから、眠そうな声が飛んでくる。

「エルフィールさん、おはようございます。 さっき、何か話し掛けましたか?」

「妖精族の肉って美味しいのかなって聞いたら、どうぞ八つ裂きにしてくださいって応えてくれたよ」

「またまた、ご冗談を」

「それはさておき、お隣さんを起こしてきてくれる? 今日は昼から全校集会だから、チーズケーキ作ったらすぐに出ないとね」

分かりましたと一礼すると、ぱたぱたクノールはアトリエを出て行く。この辺りの楽しい冗談に、あっさり応じられるのはクノールとエルフィールの相性が良いからだろう。仕事上のパートナーシップとは言え、悪くはない気分である。

すぐにキルキは来てくれた。彼女も調合の最中であったらしく、右手にフラスコを、左手に乳鉢を持ったままの登場である。席に着くと、すりすりと何かを磨り潰し始める。クノールには裏庭に出て貰い、ガッシュの枝を木炭にする作業を開始させた。

「おはよう、エリー。 今日もチーズケーキ?」

「そうだよ。 スポンジはもうプロの作るものに遜色ないからね。 後はチーズとトッピングの問題かな」

「楽しみ」

「キルキ、そうだ、ちょっといい?」

キルキはかなり背が伸びてきているが、それでも顔立ちは幼いし、平均よりも小さい。これは多分、産まれもっての特性なのだろう。或いは幼い頃に満足に食べられなかったから、かも知れない。

二人とも動かす手を止めないまま、不思議な会話が続く。生きている縄が数本素早く動いて茶を淹れ、竈に火を入れる。別の生きている縄は、最近作り上げた試作品を二階に取りに体を伸ばしていた。

「どうしたの?」

「キルキの作った水晶ってお酒、ちょっとくれる?」

「この間、採集につきあってくれたから良いよ。 どうするの?」

「チーズケーキに入れる」

少し前から、ケーキ類に酒を入れると、とても味がまろやかになることにエルフィールは気付いた。スポンジに入れるとふんわりと美味しく焼き上がる上に、とても味が香ばしくなる。クリームに入れてもなかなか美味しい。

色々な酒を試しているのだが、不思議と度数が強めの酒は駄目だ。少し抑えめの度数の酒を、控えめに入れるととても美味しくなる傾向がある。

少し前から、何種類かのチーズケーキを飛翔亭に納品している。どれも評判のようだが、酒入りのが一番注文が多いという事だった。

「水晶、ケーキになるの?」

「そう。 それもとても美味しいケーキに」

「……分かった。 用意してみる」

エルフィールは、ボウルの中身を、型に流し込む。

竈の火はもう少し掛かりそうなので、その間に掃除と軽い朝食を済ませるべきだと、エルフィールは判断。二階から降りてきた箱状の道具の上にあるレバーを倒しながら、命令した。

「床掃除。 回転弱」

鋭い音と共に、箱の下についているモップが回転を始めた。

これぞ名付けて、生きているゴミ箱。生きている縄と同じ原理で作成した、勝手に部屋の掃除をしてくれるつわものである。

箱の中には塵を格納するスペースがあり、下部には回転するモップが一対ついている。それは回転しながら塵を後ろに送り出し、箱の中に格納するのだ。そして箱の左右には百足状の足がついており、かさかさ移動しながら床を綺麗にしてくれる。

最初は塵を格納する機構の作成に苦労したが、今ではすっかり実戦で稼働可能な状態である。最初はキルキやアイゼルが不気味がったのだが、ある程度動きを調整することで、気味悪さを緩和することに成功した。

更に、生きている箒も動かす。

これは生きている縄の原理で箒を作成したものである。といっても、木の棒の下にやはり百足状の足を付けたものであり、回転しながら汚れを集めるというものだ。箒の穂の部分には柔らかい植物を使い、時々取り替える必要がある。また、動きに関しては、幽霊蜘蛛を参考にした。

いずれも、今まで散々生きている縄を研究してきたからこそ、出来たものである。

可愛いエルフィールの発明品達は、勝手にかさかさ動き回りながら、部屋を見る間に綺麗にしていった。

「キルキ、どう? うちの子達、可愛い?」

「可愛くないけど、前ほど不気味じゃない」

「そっか、それは良かった」

あまり褒められていない気がするが、まあこのくらいだろう。アイゼルなんか最初見た時は、アトリエの外に飛び出した挙げ句、入り口からこわごわと中をうかがってきた位なのである。節だった足がかさかさ動きながら部屋を掃除する有様が、生理的に受け付けなかったらしい。とても可愛らしいことだ。

そのアイゼルの気配である。茶を一啜りすると、気付いたキルキもドアを見た。

「エリー、いる?」

「はいはい、入って良いよ」

「お邪魔し……うっ」

ドアを開けたアイゼルは、ちりんちりんと鈴の音を鳴らしながら固まった。やはり長い足を蜘蛛や百足のように蠢かせながら歩き回る生きている道具類を見ると、気分がちょっと悪いらしい。

出来るだけ、可愛いエルフィールの子供達から離れるように歩くと、席に着く。しかも相手を見ないようにしながら、ちょっと青ざめて言う。

「あの、お願いがあるのだけれど、良いかしら」

「どうしたの? お仕事の手伝い?」

「ううん。 エリーは今、妖精を使っているのでしょう? 仕事ぶりを見せてもらえないかしら。 もちろん、キルキ。 貴方の妖精も」

「それくらいなら別に構わないけれど」

ちょっと不思議だった。

アイゼルは今、ヘルミーナ先生が量産したホムンクルスを、作業用のサポーターとして活用しているはずだ。この状況で、妖精を新しく雇うというのは考えにくい。しかもアイゼルと同性の女性タイプのホムンクルスであり、居づらいと言うことはないだろう。

「どうしたの? ホムンクルスと巧く行っていないの?」

「それは……。 そんな事は無いわ」

ちょっと悲しそうに、アイゼルは眉をひそめながら、席を立つ。そして掃除中の箒を避けながら、裏庭に。ちょっとドアを開けて、身をもたれさせるようにして、覗き込んだ。

「堂々と見れば?」

「しっ! 自然な状態での動きを見たいの。 静かにしていて」

「アイゼル、何だか面白い」

キルキとエルフィールが頷きあっていることに気付いているのか居ないのか、しばらくアイゼルは裏庭を覗き込んでいた。

竈が丁度良い状態になったので、すっと生きている縄を動かして開け、型に流し込んだスポンジを入れる。後は焼くだけだ。

「ふう、もう良いわ」

「もう少ししたら、チーズケーキが出来るよ。 食べていきなよ」

「ありがとう。 でも、今回は遠慮させて貰うわ。 お父様達、貴方のチーズケーキが毎回とても美味しいって、凄く嬉しそうに手紙に書いてくるんだもの。 それを読んでいるだけでおなかいっぱいよ」

何となく、それは分かる気がする。

アイゼルは結局話を受けてくれたので、時々エルフィールはチーズケーキを持って屋敷を伺っている。マナーなどの勉強にも丁度いい上に、貴族の嗜好を知ることが出来るからだ。

実際とても美味しい美味しいと食べてくれるので、作りがいがある。アイゼルの手紙にも書いてあると言うことは、本音。つまり、裏表のない人達なのだろう。残念だが、この国の貴族としては、致命的だ。

「まだ、貴方としては満足していないんでしょう?」

「今九十三点って所かな」

「何が気に入らないの?」

「食べた後説明するよ」

キルキも話に乗ってきた。そろそろスポンジが焼ける頃だろう。竈の蓋に触れている生きている縄が反応し、何度か動いた。脈拍を測りながら、開けるタイミングを計る。最近は頭の中で数字を数える癖がすっかりついてしまった。

竈を開けると、熱気が部屋に満ちた。まだ初春だが、逆にそれが故にこの蒸気はちょっときつい。ハンカチでとっさに口を押さえながら、アイゼルは言う。

「わ、良い香り」

「飛翔亭で入手したハーブ酒を入れてみたんだ。 本当に食べないの?」

スポンジを取りだし、冷やす。並行してボウルにクリームを用意。単純な生クリームではなく、これにも色々と工夫を凝らしている。ケーキに塗りながら、生きている縄を地下室に伸ばし、コットの実を取らせる。別地方ではベリーとも呼ばれる青くて小さい可愛らしいものだ。

ちょっと酸味があって、恐らくはチーズケーキにもっとも合う実である。ごくりと唾を飲み込むキルキ。アイゼルも女の子だ。甘いものには流石に心が動くようだった。視線がそわそわと左右に動き始める。

部屋に立ちこめるハーブ酒と、焼けたスポンジの臭いに、甘いクリームの香りが混ざり込み、ハーモニーを奏でる。

出来た。

今回の調整で、今までの弱点だったスポンジが汁っぽく柔らかくなる事を、だいぶ解消できたはずだ。さっと切り分けてみるが、クリームとスポンジのなじみ方もほぼ完璧である。

「し、仕方がないわね。 出来たのだから、食べていくわ」

「アイゼル、涎」

「ええっ!? 嘘ッ!」

「冗談」

キルキがちょっと意地が悪い冗談を言った。裏庭でくすくすクノールが笑っているのが、聴覚が優れているエルフィールには分かった。

 

チーズケーキをもう一つ作って飛翔亭に納入した後、アカデミーに三人で向かう。アイゼルはキルキの所も見ていったが、感想はあまり変わらない様子だった。

「アイゼル、どうして妖精を見る?」

「それは、ヘルミーナ先生の指示よ。 ホムンクルスに関するレポートを書かないといけないの。 最初の内は良かったのだけれど、最近はちょっとネタに困っていて、比較対象が欲しかったのよ」

「なるほど」

ヘルミーナ先生は凄い人だけど、訳が分からないとアイゼルは言う。この間も立派なレポートを書いてきた生徒に、つまらんと言って絶望させていたそうである。一方で、やけくそ気味にかなり独特の視点から書いたレポートを、大喜びして皆に紹介していたそうだ。兎に角思考回路が独特すぎて採点基準も意味不明な要素が大きく、しかも授業が恐ろしく不気味なので、アイゼルと順位が近い寮組の学生の中には、ノイローゼになりかけている者もいるという。

三年になってから、ついに留年者が同学年からも出始めていた。今まで四位前後を行き来していたモヤシ学生の一人が、去年の試験の痛手から立ち直れず、ついに留年にまで到ってしまったのは大きな事件であった。

イングリド先生は、平等な人だ。

だからこそに、丸暗記では勝てないテストを出してくる。実戦でどうにかしないとならないことに、学生達も気付き始めている。そろそろ、モヤシ学生と呼ばれていたものの中にも、外での仕事で成果を上げる連中が出始めてもおかしくなかった。

アカデミーにはいる。四学年の全てが、中庭に出ていた。マイスターランクの生徒も散見できる。

マイスターランクになると、通常学生と見分けを付けるために、マントに金縁がつくようになる。これも自作可能である。アイゼルは今から、どう金縁を付けるか、考えているらしかった。

ノルディスが来る。

ここのところ飛翔亭からかなりの量の仕事を受けているらしく、目の下に隈ができていた。しかし成績がその影響かじりじりと上がってきているし、外に連れ出すと前より全然良い動きをするようになってきた。体力もついてきているし、ますますうかうかしては居られない。

「やあ、みんな」

「ノルディス、大丈夫? 昨日も徹夜だったの?」

「アイゼル、ありがとう。 僕は平気だから、列ぼうよ」

「そうね」

周囲の生徒達が、主にエルフィールを畏怖の目で見ていた。エルフィールはアイゼル、ノルディス、キルキと合わせて、最近では「野生児軍団」とか言われているらしい。アイゼルやノルディスに関しては、「エルフィールの悪の魔力が感染した」とか言われているとか。失礼な話である。エルフィールにはそもそも生体魔力が存在しないのだが。

生徒達はそれなりの秩序を持って列ぶ。一応一年生が一番右で、四年生が一番左という形だ。二年生には、件の留年学生もいた。また、三年の中にも、ちらほら見たことのない顔が見受けられる。

自信がある人間ほど、前に出ているのが面白い。キルキは真ん中くらいに列ぼうとしたが、エルフィールが一番前に連れて行った。アイゼルとノルディスもついてくる。これは単に、先頭が一番話を聞き取りやすいからである。「野生児軍団」を遮ろうと言う者はおらず、先頭は簡単に確保できた。

キルキの肩を掴んで、一番前に立たせる。ちょっと恥ずかしそうに振り返る。

「エリー、恥ずかしい……」

「堂々としてればいいの。 不動の一番なんだから」

エルフィールはと言うと、ノルディスと絶賛デッドヒート中だ。追い越しては追い越されの繰り返しである。アイゼルは少し下の順位を保ったまま、確実に力を伸ばしている。結局、四人が上位で固まっているという現象に変化はなかった。

イングリド先生が来る。一緒に歩いてきたのは、ドルニエ校長と、ヘルミーナ先生だ。どうしてか、皆嬉しそうだった。

ドルニエ校長が、演説用の台に乗る。あまり声が大きくない上に、人に聞かせようという努力をしない人だ。錬金術師としては超一流だが、学校の先生としては三流以下の人だなと、エルフィールは酷いことを考えていた。

「あー。 今日は重要な発表があって、皆に集まって貰いました。 聞こえておりますかな」

生徒達が顔を見合わせる中、ドルニエ校長は紙に目を落として話し始める。

まず第一に、しばらく先生の数が減るという。国から重要な研究が来たらしく、それにかかり切りになるそうだ。研究にはマイスターランクの学生も繰り出されると言うことで、その重要性がよく分かる。

或いは、この間の出兵の件だろうか。まあ、無関係ではないだろう。

続いてドルニエ校長が、落ち着き無く紙に書かれた事を、棒読みで続けた。

「あー、それと。 今回、実に興味深いレポートを提出した三年生が居る。 エルフィール君、来なさい」

「えっ! 私ですか!?」

周囲の耳目が集まる。

恥ずかしいという感情は、未だよく分からない部分がある。だが、ちょっと困惑してしまったことは分かった。台上に招かれて上がると、多くの視線が、火を噴くほどに集まってきた。

「エルフィール君は、このたびチーズの実用的な研究に大きな成果を残した。 彼女によって、今まで子牛を殺さなければ取り出せなかったチーズの原料物質、レンネットの代替品が、相当な高品質で、しかも量産できるようになった。 既にレポート通りレンネットの代替品が生産できることは確認済みで、言うまでもなくこれは大変な功績だ」

「……」

ちょっと光栄だった。

だが、周囲の生徒達の様子は不快だった。ぴんと来ない様子で、小声で会話し合っている。この件に関しての価値が根本的に分かっていないのだろう。

貴族の子弟も中には多いし、それにザールブルグの温室のような空間で育った連中もたくさんいる。小牛一頭が、どれだけ村にとって大事な財産か分からない以上、エルフィールの功績は理解できないというわけだ。

イングリド先生が拍手を始めたので、エルフィールはちょっと恥ずかしくなって頭を掻いた。というよりも、恥ずかしいという感情が今理解できた気がする。拍手がやがて止むと、イングリド先生が代わりに台上に来て、現実的な話を幾つかした。

「エルフィールには成績を加算します。 言うまでもありませんが、皆さんも功績を挙げれば、同じ処置をします。 それと、研究費用と、これも渡しておきましょう」

「あ、ありがとうございます」

銀貨の袋と、それに一冊の本を預かる。題にはアスクレピオスとあった。どうやら医療関係の本らしい。ちょっと興味深い。

台上から降りると、全校集会は解散となった。

キルキとアイゼルが真っ先に拍手してくれたのを、台の上からエルフィールはしっかり見ていた。ノルディスも、少し遅れて。

今日は少し午後時間があるので、みんなで近くの車引きに行く。アイゼルはもう、車引きに行くことを嫌がらなかった。

「エリー、おめでとう」

「ありがとう」

「今日はおごるわ。 でも、次はおごってもらうわよ」

「わ、ホント? 嬉しいな」

和気藹々と、昼食を取る。今日のは豚の肉を串に刺し、火を通して塩を振りかけただけのものだ。

元々豚肉は美味しいので、ちょっとした調理でもかなり良いものが仕上がる。外では大っぴらにアルコールは飲めないので、店で出してくれるシャリオ山羊のミルクで乾杯する。栄養価は充分だし、とても美味しい。

肉と一緒に、野菜の付け合わせも出してくれる。流石にそのまま生で食べる訳にはいかないので、きちんと水で洗ってくれているかは見て確認済みだ。都会の人間はそのまま畑にある野菜を食べられると思っている場合があるが、とんでもない。おなかに虫が湧くことになる。

しばらく食べた後、アイゼルが言う。

「さっきのケーキ、とても美味しかったけど、何が不満なの?」

「ええとね、ひと味足りてない」

「そうかしら」

「ええと、何の話?」

ノルディスに、キルキが手早く説明する。アイゼルは分かっていないようだが、さっきのチーズケーキは、やはりまだ足りない部分があった。スポンジの柔らかさも完璧だし、しっとり感もチーズの風味も出ている。クリームとの相性も良いし、トッピングのコットの実の品質だって最高の筈だ。

それなのに、どうしてか。後ひと味が足りないのである。

「例えばアイゼル、あれを食べて幸せになれた?」

「えっ?」

「私にも、幸せってのはよく分からないのだけど。 でもね、前にミルカッセさんが作ったのを食べた時は、頭の中がぼんって爆発するような感じが来たの。 で、今作ってるチーズケーキは、技術的にはあれよりずっと高度なはずなのに、どうもああいう感触が来ないんだよね。 思うに、何かひと味が足りてないんだと思う」

実はこの指摘は、ディオ氏からなされたものだ。

お前のチーズケーキは非常に美味いが、ひと味足りていない。だから、評価は最高点ではなく、その一つ下にする。そうディオ氏は言った。実際言われてみると確かにそうだと思ったので、エルフィールは反論しなかった。

「そう言えば、そうね。 とても美味しくて凄いと思ったのだけれど、何処か物足りない感じがしたわ」

「でしょう。 はっきり言ってくれて嬉しいな。 で、私、チーズケーキの最高品質品を用意しないとまずい状況に来ていてね。 どうにかして、後ひと味を見つけなければいけないんだ」

「よく分からないけれど、総当たりじゃ駄目なの?」

「駄目」

ノルディスが脳天気なことを言う。もうとっくにそんな事は試している。まるで成果が出ないから、ぼやいているのだ。

チーズそのものの作成と並行してやっていたと言うこともあるが、兎に角総当たりというのは神経を使う。その上チーズケーキの場合は、一つ作るのに労力もお金も馬鹿にならない。今まで相当数のチーズケーキを作ってきては食べたり販売したりしたが、労力とコストを考えると、決して割が良いとは言えない状況だ。

まあ、エルフィールはチーズケーキが大好きである。いくら食べても飽きないので、それだけは救いではあった。

「お父様達はその辺りの細かい部分は気にしないし、やはり専属の料理人に意見を聞くしかないと思うけれど」

「うーん、それももうやってみたの。 でも、彼らも揃って首を横に振るだけだったんだよねえ。 中には、これは料理失格だ、何てことを言い出す人もいてさ」

「それは困った」

キルキが、自分のことのように頭を抱える。

此処の車引きの主人は、結構前から知り合いだ。エルフィールのことも知っているらしく、時々おまけもしてくれる。今日もお祝いだというのを耳ざとく聞きつけて、肉を一つ、おまけで焼いてくれた。完璧な焼き具合のお肉は、最小限しか味付けしていないのに、とても美味しい。

主人は禿頭の、痩せた老人である。右二の腕には奴隷の黄色リボンを巻いている。どうもこの車引き自体が、誰かから借りているものらしい。かなり前からリボンを巻きっぱなしと言うことは、余程の事情があると言うことなのだろう。この年まで、黄色リボンを巻いている人は滅多にいない。

背負った借金を返すことで、黄色リボンは返上できる。国によってその返済は厳しく法制定されていて、例え貴族と言っても強制は出来ない。余程立ち入った事情があるのは明白であった。

ただ、このお爺さんが周囲から愛されているのは事実である。ゼペットおじいと呼ばれていて、エルフィールもそれに倣っている。

「ゼペットおじい、何か分からない?」

「ああ、この間くれた甘い食い物か。 俺には甘い食い物の事はよくわからねえが、確かにあのままだと、完成じゃねえな」

「困ったなあ。 何が足りないの?」

「そりゃあおめえ、決まってる。 多分技術的には、もう完成の域に近付いているとは思う。 だがな、あの料理には、決定的なもんがねえんだ」

意外な所から、答えが出てきそうである。

いつの間にか、アイゼルやノルディス、キルキも話に耳を傾けていた。

「お前さんが感情に欠点を抱えてるのは分かってる。 なんつーか、妙に希薄なんだよなあ。 まるでうまれたての子供か、一度子供に戻ったみてえに。 隠してても分かる」

「……続けて」

「思うに、お前さんの愛情があの料理には入ってねえ。 だから、どうしても細かい所で、技術に頼りがちになる。 それで細かいミスが積み重なって、最終的にものたりねえ事になるんだな」

考え込んでしまった。

まさか、此処までエルフィールのことを見抜いているとは。流石に年の功という奴である。

言われたとおりだ。実際問題、生きている縄とかを作っている時と、ケーキを作っている時は、身の入れ方が全然違う。チーズケーキは大好物の筈なのだ。それなのに、何処か引いた視点で作ってしまっていた。

「エリー?」

「ん? あ、ああ、大丈夫だよ。 ゼペットおじい、有難う。 ちょっと作り方を変えてみるね」

「おう。 お前さんはまだ若いんだし、幾らでもやり直しは利く。 俺なんかはこの年になっても、ほんとうにちょっとの料理しかできねえからな。 未だにこのリボンが腕から外れねえよ」

からからとゼペットおじいは笑った。

 

解散となったので、キルキと一緒にアトリエに戻る。

キルキも、両親からの愛情はまともな形で貰ったことがない。暴力とセットでしか、彼女は愛情を受けなかった。

「愛情、料理に重要。 驚いた」

「そうだね。 だから私、こんなに歪なんだろうね」

「エリー……。 私も、それ、同じ」

目を乱暴にキルキが擦っている。多分、今更ながらに思い出してしまったのだろう。

時々話してくれる、アルコール中毒の両親が見せた狂乱。もう少し年を重ねていたら、性暴力に発展していたのではないかと思えるほど、それは見境のないものであったという。そして正気に戻ると、彼ら夫婦は、限りない罪悪感に苦しんだそうだ。

酒は、今でも嫌いだとキルキは言う。

だが、考えも変わり始めているそうだ。特性を知れば知るほど、その傾向は強くなったとも。

「愛情って、どうやったら分かるんだろ」

「分からない。 私にとって、愛情って怖いものだった。 いつも暴力と一緒だったから」

「そっか。 私はそもそも受けたことがないや。 いや、アデリーさんから受けてたのが、そうだったのかな。 よくわからないけど」

最近も手紙をやりとりしているアデリーさんは、此方のことを心配してくれている。虎の捌き方を覚えたとこの間書いたら、無益な殺生はしないようにしなさいと、真摯な口調で返事された。よく分からないが、アデリーさんの言うことなら、聞くしかない。必要なだけ、殺すことにする。虎に関しては。

これが、多分愛情の結果なのだろうか。

アトリエに着いた。中では忙しくクノールが働いている。まだ木炭作りに精を出してくれているのだ。

「私、お酒作るから」

「うん。 水晶、お願いね」

「わかった」

多分、水晶を入れても味は変わらない。

アトリエにはいると、席に着く。ちょっと憂鬱だった。せっかくチーズの研究が認められた上に、道が開け掛けていたというのに。自分に関する致命的な事象の性で、結局また戸が閉ざされてしまった。

頭をかきむしる。

クノールが、ガッシュの枝を運びながら言う。

「お帰りなさい、エルフィールさん。 上機嫌で出て行かれたと思いましたが、何かあったのですか?」

「まあね」

チーズのことは、前進だった。そう思って、諦めるしかないのだろうか。

兎に角、愛情のことがまだよくわかっていないエルフィールに、さっきの話は致命的だった。

愛情など、どんな動物でも備えているはずの感情だ。見ていて、そういうものが存在することは知っている。肉食獣になると、子供を守るために人間に自暴自棄の攻撃を仕掛けてくることもある。あれは本能による恐怖を、愛情が上回るから起こる現象だと言うことは理解できる。

子供でも産んでみればわかるのだろうか。

しかし今は子供など作っている場合ではない。

こればかりは、人に話を聞いてもわからないだろう。悩ましい所だった。

 

3、余波

 

愛情がないからだ。

その指摘は、一晩悩んでも解決の糸口が見えなかった。仕事は無難にこなしているのだが、こればかりはどうにもならなかった。

憂鬱なまま夜が来てしまった。飛翔亭に出ると、早速エルフィールをご指名で、仕事が来ていた。それも、どこから聞きつけたか、実にホットな内容である。

「人工レンネット、ですか?」

「ああ。 聞いたぜ、レンネットを人工で作り出す技術を編み出したそうだな」

ディオ氏がグラスを磨きながら、若干嬉しそうに言う。

まあ、チーズの製法を知る人間なら、百人が百人同じ反応を見せることだろう。誰もが、子牛を殺してレンネットを作ることを、快くは思っていないからだ。チーズの専門業者でさえ、そうだ。

「早速だが、精度が見たいってチーズ関係のギルドが言ってきていてな。 サンプルを納品して欲しい。 出来るか」

「すぐにでも。 一番良いのを持ってきます」

「そうか、有難うな。 これで子牛を無駄に殺さないで済むと思うと、俺も嬉しいよ」

提示された金額は、今までの最高額だった。ちょっと驚いたが、確かにホットな話題のある商品だし、無理もないか。

ディオ氏は、錬金術アカデミーから許可も得ていると、付け加えてくれた。それならば何ら問題はない。

「しかしお前さんも、もう一端だな。 キルキやアイゼルも凄いが、一点突破って点では、お前さんが一番かもしれん。 もうマイスターランクの連中とも張り合えるくらいの実力はあるだろうな」

「へへへ、有難うございます」

「まあ、だからといって特別扱いは出来んがな」

せっかくなので、話を聞いてみることにする。多分、無駄だろうが。

「ディオさん、一つ聞きたいことがあるんですけど」

「何だ」

「どうもチーズケーキに愛情が足りないって言われて、悩んでた所なんです。 どうやれば愛情って理解できますかね」

流石にディオ氏も困り果てた様子で眉根を下げる。

フレアとの関係が益々険悪化しているのは、エルフィールも知っている。ハレッシュは騎士になれないようだが、もう彼女はぞっこんのようで、他の男と結婚することは考えていないようだ。

「難しいな。 俺に愛情はよくわからん。 だが、お前さんの好きな、生きている縄とかを基準に考えてみるといいんじゃないのか」

「……そうですか。 わかりました」

それが出来ないから苦労しているのだ。どうもディオ氏にも、苦手なことがあるとわかって、エルフィールは少し興味深いと思った。歴戦の冒険者であり、多くの人々と接して酸いも甘いも知り尽くした人物なのに。

店を出ると、外でクーゲルが待っていた。

「エルフィール。 少し、話がある」

多分ろくでもない事だろうとは思ったが、興味の方が勝った。

シグザール王国の重鎮であるクーゲルの話である。大きなリスクと、小さくない報酬が約束されているのは確実だった。

店の中では、陽気にロマージュが踊っている。乳房や腰を覆う布は、以前にも増して露出が過剰になっている様子だった。それに背を向け、歩き出す。

闇の中を歩く。いつの間にか、斜め後ろに以前であった聖騎士、エリアレッテが居た。いつ接近されたかもわからなかった。凄い使い手だと言うことは知っていたが、間近で見ると戦慄さえ覚える。

裏道にはいる。小さな酒場が、獲物を狙うグロウワームのように、闇の中に淡い光を放っていた。

酒場にはいると、マスターは此方を一瞥だけした。

席に着く。エリアレッテは、クーゲルの後ろに立った。クーゲルは太い首を軽くなで回しながら、文字通り魔王がごとき視線を向けてくる。

「面白い発明をしたな。 チーズの容易な量産化については、今後兵糧の問題を一気に変えることになるだろう」

「なるほど、軍でも既に確保に動いている、という所ですか」

「そうだ。 其処で、提案がある」

軍の顧問錬金術師にならないかと、クーゲルは言う。ドナースターク家に所属したままでも構わない。軍としては、卒業後のエルフィールを、是非顧問として迎え入れたいというのだ。

魅力的な提案だ。

ドナースターク家にて出世すれば、ロブソン村に居場所が出来る。それだけではない。忙しくはなるが、軍での仕事も受けるようになれば、更に将来は安定するだろう。

軍とドナースターク家はかなり関係が深い。騎士団とのコネクションも重厚に張り巡らされていると聞いている。今後どれほど大きな戦いがあるかはわからないが、この間の出兵の件も考えると、どうも時代は戦乱に向けて動いている可能性が高い。

最悪の場合、ロブソン村に居場所が無くなっても、軍に席を作ることが出来る可能性がある。

それだけではない。

軍とドナースターク家の中間での取り持ち役として、重要な戦略的ポジションに自身を据えることも可能だ。

にやりと、笑みがこぼれるのを、エルフィールは感じた。

最近は色気づいてきた同級生に(ようやくという感じだが)、恋愛の話を聞くことも多い。どう意中の男を得るか、ライバルを蹴落とすか、そう言うえげつない話も結構聞こえてくる。

それと同じだ。この重要な地位を独占することは、エルフィールの未来につながる。子孫を残すとか、そんな事だけではない。もっと大きくて、広い可能性がある未来にだ。

孤独は、無くなる。

「お話はわかりました。 ただ、ドナースターク家との調整がありますので、すぐにはいとは言えませんが、よろしいですか」

「それなら別に構わん。 いざとなったら、儂がどうとでもする。 もちろん、マイスターランクを卒業した後で構わぬからな」

最前線は既に退いているという話だが、凄まじい威圧感である。エリアレッテが顎をしゃくったので、釣られて視線を移す。紅茶を出しに来たのは、カトールだった。

今更ながらにわかる。

「ずっと、監視していたんですか?」

「お前は色々な理由から、ずっと我らとしても見張る必要がある存在だったからな。 それは今後も変わらぬ」

「……なるほど」

合点がいく。今まで、どうも妙なことが多かったからだ。

ダグラスの不審な行動についても、点と線がつながった。別に腹が立つようなことはない。

世の中は利権で作り上げられている。アデリーさんだって、その部分はあったはずだ。愛情というものが、それを凌駕することも、どうやらあるらしいという事は知っている。しかし、利権というものの造り出す力の大きさをエルフィールは、今更ながらに身に刻んでいた。

「これからも頼むぞ。 もしも騎士になりたいというのなら、言え。 今すぐにでも取り立ててやる」

「わかりました」

一礼すると、エルフィールは夜闇に出た。

明かりが減ってきている街を小走りで急ぐ。愛情とは無縁の場所にいて、逆にちょっと頭が冴えた気がする。

むしろ、楽しくなってきた。そうエルフィールは思った。

 

気持ちよく寝た次の日の夕刻、エルフィールはチーズケーキを持ってフローベル教会を訪れていた。

教会の周囲を子供達が駆け回っている。

エルフィールにとって、子供は異質だ。何しろ子供だった頃の経験が、すっぽり頭の中から抜け落ちているからである。何を考えているのか、どうやって動いているのか、さっぱりわからない。

可愛いとは思うが、それは生物としての母性本能が故だろう。それもそんなに強いとは、エルフィールは考えていなかった。

ご機嫌な様子で教会を訪れたエルフィールを見て、ミルカッセはちょっと不安げに眉をひそめた。既に年齢的には子供を産んでいてもおかしくない年だ。最近は冒険者に剣を習っていると言うが、それも恐らく自分に対する不安からだろう。

「こんにちはー。 いや、こんばんわって言うべきかな」

「教会は、来る者を拒みません」

「そう、ありがとう。 これ、お土産。 子供達に分けて上げて」

大きなホールケーキである。ミルカッセが呼ぶと、子供達はすぐに教会に来た。ケーキを無邪気に食べ始める子供達を、ミルカッセは幸せそうに見つめていた。母性本能。この娘は、それがとても強いのだろう。

そして、多分。

もしもエルフィールが生きている縄を使ってこの子供達を引き裂こうとしたら、勝てないとわかっていても立ち向かってくるはずだ。それが愛情だというものの発露だと言うことはわかる。

だが、理解はどうしても出来なかった。

「ありあとう、エリーおねえちゃん」

「おいひかったよ!」

「そう、嬉しいよ」

子供達はまた外に出て行って、元気に遊び始める。

エルフィールと向かい合って座っていたミルカッセが、表情を引き締めた。

「エルフィールさん。 それで、今日は何の御用でしょうか」

「んー、それがね。 ミルカッセさんに聞きたいことがあって。 懺悔とは別で」

「私に、ですか」

「そ。 愛情ってものが存在することは知ってるんだけど、どうしてもそれが理解できなくて」

頭を掻きながらエルフィールが言うと、ミルカッセは見る間に顔を強張らせた。多分、エルフィールが嘘をついていないことに気付いたからだろう。

外にいる子供達。小さくて可愛い。そして柔らかくて脆い。

「さっき多分そうだろうとは思ったけど。 例えばさ、あくまで例えば、だけど。 私があれ、八つ裂きにしようとしたら。 勝てないとわかっていてもミルカッセさん、私に立ち向かうでしょ? あれが逃げる時間を稼ぐためだけに。 殺されるってわかっていても」

「言うまでも、無いことです」

「うん、立派なことだよね。 概念としてはそれが愛情だってわかっているんだ。 でも、どうしても本能の方じゃ理解できない。 子供でも産んでみたらわかるのかなって思ったんだけど、今はそんな相手もいないし、何より時間もないからね」

厳しい表情で、ミルカッセはエルフィールをじっと見つめていたが、やがて立ち上がった。

何をするのかなと思ったのだが、不意にハグされる。

「どうしたの?」

「これが、愛情です。 私は今、利権も何も関係なく、ただこの場にいる哀れな乾いた魂である貴方に愛情を伝えています」

「なるほど、確かにぬくもりは感じるけど」

すっと離れたミルカッセは、相変わらず厳しい表情のままだった。だが、エルフィールを見る目が、若干変わったような気がした。

「貴方に愛情を教えて上げたい。 それが、とても優しい心につながっているのだと、気付かせて上げたい。 それが、宗教家としてではなく、此処にいる一人の人間としての私の願いです。 でも、私では残念ながら力不足です。 だから、これからも時々来てください。 私なんかの愛情で良ければ、いつでも分けて差し上げます」

「それはありがたい。 参考になったよ」

失望は、していない。

愛情についての概念だけではなく、そのぬくもりを伝えてくれようとしたミルカッセに、むしろ感謝している。

だが、まだ理解は出来なかった。

そして、それが故に。チーズケーキの完成は、まだ遠そうだった。

 

木に登ったエルフィールは、鹿の親子を観察していた。別に襲って喰らうためではない。母鹿が、子鹿に精一杯の愛情を注いでいる。しかし、父鹿はまるで見向きもしない。立派な角を頭上に抱いた鹿は、一度産まれた自分の子には興味がない様子だった。

動物によって、愛情の注ぎ方は違う。

父親が、子供に興味を見せない動物は多い。逆に、父親が中心となって子育てをする動物もいる。

昆虫などになってくると、愛情などは存在しない。殆どは産み捨てで、親子殺しも頻繁に起こる。

魚くらいになると、ロマージュの話によると卵を守ったりする種類もいるらしい。

多分、動物は種類によって愛情の形が違うのだ。そして人間の場合、個体によって愛情の形は違ってくるのかも知れない。

生きている縄を使って逆さにぶら下がって、遠くの鹿を見つめているエルフィール。下から、心配したようにキルキが声を掛けてきた。

「エリー、平気? そんな格好で頭に血登らない?」

「大丈夫! 問題ない」

縄を動かして、そのまま地面に降りる。無言でミルカッセが差し出してきたハンカチで、額を拭った。

鹿の母親は、人間とは愛情のベクトルが違う。子鹿が死んだらすぐ発情し、次を産む。

しかしながら、貧困地帯の人間も同じように考える。子供が死んだら、次を産めばいいと考えるのだ。

本能の違いと、環境の違い。それが、鹿と人間の間に溝を作っている。都会の人間と、田舎の人間の間にも。

だから、恐らく愛情の形も違うのだった。

思いつきのまま、キルキをハグしてみた。ちっちゃくて、腕の中にすっぽり収まる。

「んー、こんなもんかなあ。 温かいけど、なんかよくわからない」

「エリー、苦しい」

「ああ、ごめん」

離すと、キルキはちょっと咳き込んだ。丁度息が出来ない所に顔が埋まっていたらしい。愛情は人も殺すらしいと、エルフィールは学んだ。

荷車には、既に採集した素材が満載だ。向こうから来たアイゼルが、籠に一杯木の実の類を詰め込んでいた。ちょっと危なっかしいのは、彼女の可能積載量を超えているからだろう。

「どうしたの、そんなにたくさん」

「半分は依頼用よ。 残り半分は、来月の、お父様の誕生日のお祝い用」

生きている縄がするすると動いて、籠を持ってあげる。汗を拭い拭いするアイゼルは、荒く呼吸をつきながら、へたり込んでしまった。一回だけではない。もう七回往復しているのである。

彼女は、頑張っている。つい最近、ついに学業上の成績でも五位にまで上がった。

ただしホムンクルスとはあまり巧く行っていない様子で、それでストレスを感じているようだった。

「ミルカッセさん、見張り有難うございます。 さあ、戻りましょう」

「あ、はい。 すぐに」

ミルカッセはどこか上の空だったが、アイゼルに言われて我に返ると、荷車にとりついた。

街から半日ほどかかる小さな森だ。街の南に広がるものではなく、ヘーベル湖近辺に点在する幾つかの森の一つである。だが、それでもミルカッセには結構重労働なのである。今回は危険度は小さく、単に手数が欲しかったので誘ったのだった。エルフィールとしては、やはり愛情を本能から知っていそうなミルカッセを観察したいというのもあった。

「アイゼル、後でホムンクルス見せてよ」

「良いわよ。 あまり面白くはないと思うけれど」

「どうして?」

「貴方と違って、作り笑いさえしないからよ。 ヘルミーナ先生ってば、自分が愛情さえ注げればそれで良いみたいで、本当だったら作れるような感情とかも作っていないんだって。 何だかちょっと歪んでいるわ」

アイゼルが少しふて腐れ気味に言う。エルフィールはちょっとそれに疑念を持った。

ああ見えてヘルミーナ先生は、難解な暗号の奥に結構豊かな情緒を隠し持っている人だ。仮にホムンクルスを娘のように愛しているのだったら、きっと感情を交換したり、難しい話をしたりと言うことをしたがる可能性も高い。エルフィールが言うのも説得力がないが。

だとすると、意図的に感情を与えないでいる可能性もある。何か、過去にそれで不都合が生じたのかも知れない。

愛情は難しい。

自分より年下のキルキでさえ、歪んだ形での愛情に限定なら理解している。アイゼルは惜しみない愛情を家族に注いでいるし、ミルカッセは博愛主義の見本だ。何しろエルフィールにまで愛情を向けてくれるのだから。

自分だけが、愛情を理解していない。

「まだ、完成は遠いなあ」

エルフィールのぼやきは、空に流れる。

荷車を引いて、帰路につく。すぐに街道に出た。ミルカッセも、荷車を押してくれる。家事で鍛えているとは言え、やはり華奢だった。

「大丈夫、ミルカッセさん」

「平気です。 それよりも、エルフィールさん。 何か、切っ掛けのようなものは掴めませんか?」

「難しいなあ、それは。 ミルカッセさんもキルキもアイゼルもわかってるのに、私だけはどうにもわからないってのは少し癪だけど」

ミルカッセは悲しそうな顔をする。そんな顔をされても困る。

子供達と接してみてはどうかと、彼女は言う。しっかり守らないと死んでしまう子供達と接することで、何か得られるものがあるのではないかと。

エルフィールはパスと一言。

「私、ロブソン村で、子供の世話はさせてもらえませんでしたから。 覚えるにしても、今は時間がないので無理です」

「何事も経験です。 貴方には、その方面の経験が致命的に足りていません。 訓練するのは、悪いことではないと思います」

「エリー、私もミルカッセさんに賛成だわ」

アイゼルもそんな事を言う。

しかし、どうも気が進まない。子供は見ている分には可愛い。静かな子供も嫌いではない。

だが、殆どの子供は違う。自我の塊であり、原初的な欲求を隠そうともせず、己を過大に主張する。それは本能だから仕方がないのだが、どうしてか不快なのである。耳元でぎゃあぎゃあ騒がれたりまとわりつかれたりすると、首をコキャッとやりたくなってきたりもするのだ。

実際、何度かあった。アデリーさんが一緒にいて、エルフィールが切れる前に対処はしてくれたが。しかし、それ以来彼女に、子供には近付くなと言われた。作り笑顔が保てなくなるくらい不快感を感じることもある。理由はわからない。

エルフィールは。

子供が、潜在的に嫌いなのかも知れない。

キルキは好きだし、騒がしい子供だって遠くで見ている分には嫌ではない。しかし、どうしてか。騒がしい子供に触られることに、不快感がどうしてもある。

子供を殺したりすれば、エルフィールは終わりだ。

もしそんな事になれば、未来は閉ざされてしまう。

「エルフィールさん、貴方は」

ミルカッセの声に、おびえが走るのに気付く。アイゼルも、いつの間にか口を閉ざしていた。

いつの間にか、作り笑顔を忘れていた。

「あ。 今、素に戻ってた?」

「うん。 猛獣殺してる時も笑顔なのに、すごく無表情で怖かった」

素直に言ってくれるキルキの頭を撫でると、空を見る。どうやら、予想以上に、自分の愛情に対する理解不足は深刻なようだった。

「エルフィールさん、貴方は一体、どのような環境で育ったのですか」

「知らない」

「えっ?」

「私ね、実際は四歳半くらいなの」

別に話しても良いかと思ったので、三人に言う。ノルディスになら言っても良いと、付け加えた上で。

「エリー貴方、四歳半って、一体……」

「その前の記憶が綺麗さっぱりないんだわ。 だから、実質四歳半くらいかな。 保護者をしてくれた人に一生懸命色々教わって、やっと普通の人の振りしてるけど、色々とハンデがおっきいんだよねー。 愛情がわからないってのも多分それが原因かな」

別に気にしてはいないが、時々それで困ることはある。

人間の感情についても、最近はだいぶわかるようにはなってきた。だが、まだまだわからないものも多い。

魔力が一切無いという不可解な体質も相まって、エルフィールはハンデの塊だ。だからこそ、人一倍の努力をしなければならない。

しばらく、会話が止まった。

荷車を引いている内に、ザールブルグが見えてくる。

「アイゼル、さっきの約束、お願いね」

「え、ええ」

何だか、皆がエルフィールを見る目が変わった気がする。

ちょっと失敗だったかなと、エルフィールは思った。

 

アイゼルの部屋に出向いたのは、三日後のこと。テストを一つ終えて、幾つかの仕事をこなした後である。この日、キルキは酒の材料を取りに出かけていたので、一緒には行けなかった。

一緒に行ったノルディスは既にアイゼルから話を聞いていたらしく、余計なことばかり言う。

「何か辛いことがあったら、僕に相談して。 力になれるかもしれないから」

「ありがとう。 でも、大丈夫だから」

ハンデはハンデだが、それに不自由を感じることはあっても、不快感を覚えたり、悲しいと思ったことはない。だから同情されても面倒なだけだ。同情するくらいなら、いっそのことスポンサーにでもなってくれる方が嬉しい。

と言っても、普通の人間ならば此処で愛情を感じるのかも知れない。

それを思うと、ノルディスの発言をそれほど無碍にも出来ないと思えてくるのだ。色々と、悩みは尽きない。

「ノルディスは、ホムンクルスを見せて貰ったことはあるの?」

「うん。 小さくて可愛い子だよ」

「ノルディスはロリコン、と」

「ち、違うよっ! そう言う意味じゃなくて!」

顔を真っ赤にして反論するノルディス。恥ずかしがる様子が実に面白い。

「ちなみに私は同性の子供を可愛いって思うからロリコンだけどなあ。 あ、同性の子供をかわいがるのはショタ言うんだっけ。 でもそれをいうなら、子供を可愛いって言う妙齢の女性はみんな私の同類?」

「エリー、何もかも、色々間違ってるよ」

「え? 何処がどう違うの?」

「……ごめん、それは僕からは説明しづらいから、アイゼルに聞いて」

今度はげんなりするノルディス。ちょっと面白い。

ちなみにこういった知識は、都会に出てきてから小耳に挟んだので、あんまり自信がない。具体的な性行為のやり方とかはロブソンで学んで詳しく知っているが、隠語や独自用語の類には弱い。これもエルフィールの弱みの一つだろう。

エルフィールにとって子供が可愛いのは離れてみている時だけだが。それも、わざわざ告げることではないので、黙っておく。アイゼルの部屋につく。入ると、彼女はちくちくとマントを縫っている所だった。

「いらっしゃい。 窮屈な所だけど、入って」

「アイゼル、ベッドは?」

以前、この部屋には天蓋つきのお姫様のようなベッドがあった。ドナースターク家にあるのはどれもこれも質素なものなので、余計に印象に残っていたのだが。

今あるのは、小さな簡易寝台だ。一応枕と布団はあるし、高級な作りだが、以前との落差が大きすぎる。

「あれは屋敷に戻させたわ。 贅沢なだけで、維持費がかさむんだもの。 大きすぎるし、お父様とお母様で使ってくださいって手紙も添えたし、大丈夫よ」

「でも、いいのかい? 素敵なベッドだったのに」

「いいの。 これから生活は切り詰めなければならないし、調合のスペースは少しでも欲しいくらいだから」

そう言うと、ノルディスがさっと顔を引き締めた。

来る前に、ノルディスの部屋も見た。非常にものが多くなっていて、片っ端から仕事を受けてはこなしているようだった。技術もかなり上がってきているようで、デッドヒートになるのも無理はない。

キルキはもう少し先を独走しているが、いずれ三人で主席を争うことになるかも知れなかった。

「アイゼル、苦労してるんだね」

「今までが楽しすぎていただけよ。 それと、ホムンクルスだけれど。 フィンフ、お客さんに挨拶して」

「フィンフ?」

それは確か、この近辺の言葉で5という意味の筈だ。それで合点がいく。ヘルミーナ先生は、たくさんのクルスに、識別コードを付けたのだろう。

ゆっくり歩いて現れたのは、蝋のように白い肌の子供だった。髪は緑色。確かに、以前見掛けたクルスにうり二つである。ぶらりと手を足らし、全く重心がぶれない動きをしているのは、合理性の極みだった。目にも感情が一切宿っていないのが、エルフィールには面白い。

「はじめまして。 フィンフです。 アイゼル様の下僕として活動しております」

挨拶の礼も完璧だ。ただ、口調に抑揚が全くない。

最初の頃の自分みたいだなあとエルフィールは思った。アデリーさんに教わりながら、喋り方のこつを覚えるのは大変だった。喋り方に抑揚がないと、人間はみんな変な顔をするのだ。

「フィンフ、作業の進展は」

「中和剤は既に作成済みです。 現在は研磨剤の作成に移行しています」

「そう、ならばそれが終わったら、カノーネ岩を砕いて燃える砂を作成して」

「わかりました。 マスター」

音もなく歩いて、フィンフが奥に消える。大きくアイゼルが嘆息した。

苦手だというのが一目でわかる。アイゼルは愛情深く情緒豊かだから、余計に馴染まないのだろう。

「悪い子じゃないじゃん」

「それはわかってるわ。 でも、どうしても怖いの。 最初は仲良くしようと思って努力したわ。 でもあの子、どれだけ話し掛けても感情が見えてこないし、目にもまるで考えが宿らないんだもの。 全く笑わないし、逆に怒ったりもしない」

アイゼルは吐露すると、顔を両手で覆った。本気で嘆いているのが見て取れて、ちょっと意外だ。ノルディスがマントを脱ぐと、部屋着のままの彼女に掛ける。

「アイゼル、落ち着いて」

「私、子供が生まれても、こんな酷い接し方しか出来ないのかしら。 これじゃあ、親になる資格無いわ」

「大げさだなあ。 それに、何となくわかったけど。 アイゼルって、私と逆なんだね」

「えっ?」

エルフィールは愛情の注ぎ方がわからない。

アイゼルは愛情を注いでいるのに、相手の反応がおかしいから困惑している。二人は見事に反対だった。

しかしながら、それでちょっとエルフィールも、思いついたことがあった。

作業を進めているフィンフの後ろに立つと、いつもの作り笑いを消す。

振り返ったフィンフは、動きを止めて、エルフィールを見上げた。

「エルフィール様、ですか。 先ほどとあまりに印象が違うので驚きました」

「あれは作った表情。 素の私はこんな感じ」

「少し私にとっては話しやすくなりました」

「そう。 それはありがたいね」

アイゼルには、今の表情を見せない。ノルディスにもだ。あまり怖がらせるのは嫌だから。理由はよくわからないが、キルキも含めて、兎に角彼らがこれ以上自分から離れるのは嫌だ。だから、もう作り笑顔以外の素の顔は、彼らの前では見せない。

本当は声の抑揚も消えるのだが、其処まですると彼らをもっと怖がらせるし、背中を向けていてもわかってしまう。

何でかわからないが、最初の頃と違い、アイゼルを怖がらせるのが嫌になってきていた。

「アイゼルから愛情を受けて、どう思う?」

「困惑しています」

「というと」

「アイゼル様は、私を人間として扱おうとしてくださっています。 しかし私には最初から感情が設定されておらず、対応方法がありません」

しかし、アイゼルに感謝していると、フィンフは言う。

彼女は作られてから、ヘルミーナ先生に基礎的な生活知識しか教わらなかったという。多分ヘルミーナ先生はそれを意図して行ったのだろうが、彼女らにとっては最初大変だっただろう。

目に浮かぶようである。

無表情なフィンフに必死に笑顔を浮かべて、どうにかコミュニケーションを取ろうとするアイゼルの姿が。

イメージは、出来た。

それに、何だか少し、理解も出来た気がする。

「ありがとう、フィンフ。 お礼に、作り笑いの仕方を教えてあげる」

「作り笑い、ですか」

「人間はね、見かけで殆どの相手を判断するの。 特に笑顔ってのは重要で、これでころっと騙せる相手もいる。 非常に便利だから、習得しておいて損はないよ」

此処の筋肉を、こう動かすと、技術的に指導する。

飲み込みが早い。意味など理解していなくても、表情を作ること自体は出来る。そして、殆どの人間は、それで騙せる。

それは、決して悪い意味だけではない。そういうものなのだ。人間という生物は。

「エリー、何を話しているの?」

「おいしいチーズケーキの作り方!」

「私はそのような話をした覚えはありませんが」

「いずれわかる。 ああ、そうそう。 出来たらフィンフにも分けて上げる」

ホムンクルスの頭を撫で撫ですると、エリーはアイゼルの所に戻る。

ミルカッセの行動と、それにアイゼルの動きを見ていて、ついに掴むことが出来た。これで、恐らく期日までに最高のチーズケーキを作り上げることが出来る。

手応えは、あった。

エリーは、無表情の中に、笑みが浮かぶのを感じていた。自然に笑みが浮かぶ時もたまにはある。

人間になってきた証拠だ。そう思うと、嬉しかった。

アデリーさんが、喜んでくれるだろうから。

 

4、南船北馬

 

既に、フラウ・シュトライト1は跡形も無かった。砂浜の痕跡は、赤黒く染まった砂だけである。

遠くからその惨状を確認したセルレン=ドルクマンは舌打ちしていた。

監視対象の実力から言って、いつかは倒されるだろうと言うことは覚悟していた。しかし、まさかこの短期間で葬り去られるとは。本国の老人達が、これでは発狂しかねない。保有している戦略級クリーチャーウェポンを全て動員するとか言い出しかねなかった。

セルレンは、イングリドやヘルミーナを輩出した、天才育成機関の出身である。彼処の出身者は女性が九に男性が一という偏った比率となっている。理由は女児の方が男児よりも病気や薬品への耐性が強いからで、幼い頃に殆どの子供が駆逐されてしまう。異常な環境だが、それが故に生き残ると、将来が保証される。

エル・バドールの全てが腐っている訳ではない。だが、一部はこのような機関を堂々と立ち上げているなど、腐食が酷い。だが大陸一つを膝下におさめている大国の力は強大で、今はとても対抗できるものではなかった。

セルレンも他の多くの出身者同様女性で、淡い紫色の髪は、薬品によって変質したものだ。顔立ちは端正だが、大きな向かい傷が二つと、火傷の痕が頬から鼻筋に掛けてある。どちらも、生き残るためには避けられない傷だった。ただこの特徴のため、普段は仮面を付けて、周囲には性別も悟られないように声も変えている。自分の配偶者になる人物以外に、顔を見せる気は無かった。

側には、部下達が揃っている。

北部でゲリラ戦を続けていたガルティス=ブランド。長身の男で、戦闘訓練をきちんと受けた軍人だ。クリーチャーウェポンを使ってのゲリラ戦を続けていたが、それも厳しくなり始めていた。何度か本国から増援を送らせたのだが、それも投入するだけ消耗するという状況になり始めている。

ガルティスは爆薬類を使った戦闘を得意としていて、術者としての能力も低くはない。だが、この大陸の上位実力者と比較するのは気の毒だろう。

フラウ・シュトライトを呼ぶことを提案したのは、このガルティスだった。

その隣にいるのは、赤い髭を豊富に蓄えた禿頭の男。見るからに精力的な彼の名はガレットと言う。

此方は主にシグザール軍の戦力調査を担当していた人物であり、盗賊や山賊の類を手なづけては戦力にしていた。

当然仕事にはカスターニェにいるターゲット「M」、鮮血のマルローネの抑えもあったのだが、もはやそれが出来る状態にない。一万の軍勢が駐屯している間に、シグザール軍は周囲の防備を手厚く固め、ついでに盗賊や山賊も根こそぎ処理してしまった。

ザールブルグにいる錬金術ギルドの要監視対象「E」、エルフィール=トラウムの監視もガレットの仕事であったが、抑えられているとは言い難い。しかし、無能だと彼を責めるのは酷だろう。むしろ此処まで粘ったことを、評価するべきであった。

この二人は考え方も違う。

どちらかと言えばガルティスは保守主義で、本国の長老達にしっかり手綱を握られている。それに対してガレットは現実主義者であり、むしろシグザール王国との和平を結び、共に栄えるべきなのではないかと何度となく提案してきていた。

しかし、既に時は遅い。

長老達は、この結果を聞けば、恐れおののくことだろう。

まさかの事態だった。文明的に劣ったこの国が、本国の一個師団を正面から相手に出来る戦略級クリーチャーウェポンを撃砕したのである。しかも、大した損害も出さずに、だ。百数十の被害は出したようだが、主力級の人物はただの一人も戦死していないし、既に港の機能も回復しつつある。しかも動員されたのはたったの一万で、それで全て決着がついてしまった。無理にあれを倒そうというのなら、最低でも千五百は戦死者が出ると推定していた味方参謀は、砂浜に引き上げられたフラウ・シュトライトを見て、文字通り口を閉じる術を失った。

もはや、長老達を狂気に走らせるには充分すぎる材料が揃っていた。彼らを冷静にさせ、まともな指揮をさせるのは不可能に近かった。

セルレンはしばらくドムハイトとの調整を行っていたのだが、そちらも難しくなりつつある。

一時期押されまくっていたドムハイトは、急速に中央集権化が再構築され、態勢を立て直しつつある。首都に侵入したシグザール王国軍の牙との死闘が開始されているようだが、それでも王女の首まで牙の刃は届いていない。

その影響で、ドムハイトの諜報部隊と連絡が著しく取りづらくなってきている。元々ドムハイトの部隊も弱体化が著しかったが、多分首都防衛で戦力を相当取られているのだろう。

それに、フラウ・シュトライトの撃滅情報は、王女の下にまで既に届いているはずだ。

ドムハイトは、エル・バドールを共闘するべき相手ではないと見なした可能性も、否定できなかった。

八方ふさがりだ。

「セルレンどの」

「何か」

セルレンは部下の一人をにらみ付けた。ガレットの配下で、なかなか優れたクリーチャーウェポン研究の成果を残している人物である。長身の体躯は逞しく、短く刈り込んでいる髪もあって、精悍な印象が強い。ガレットは部下に慕われており、忠誠度も篤かった。セルレンに対する忠義はどうだか知らないが。

「フラウ・シュトライトの運用を変えれば、活路はあると思います」

「ほう?」

「恐らくシグザール王国は、今回の一件で、フラウ・シュトライトへの対抗戦術を編み出してきます。 リリー錬金術アカデミーはシグザールに全面協力すると見て間違いなく、死体がザールブルグに運ばれた時点で、技術の流出は決定的です。 しかし、対抗戦術が出来たとしても、連中がどうにも出来ない場所があります」

言われずとも、セルレンは理解した。

なるほど。遠洋か。

港の封鎖が無理なら、航路がある遠洋を巡回させることで、通商に打撃を与えるという手もある。この方法なら、遠路を来て疲弊している敵を、余裕を持って迎え撃つことにもつながる。

エル・バドールとシグザールの間の距離は、充分に防壁になりうる。使節団は一度来たが、それも簡単な旅路ではなかった。シグザール王国がどれほど大規模な艦隊を用意し、なおかつ対抗戦術を用意したとしても、途中でフラウ・シュトライト数匹に襲われれば、ひとたまりもないだろう。

「お前、なかなか使えそうだ。 名前は」

「ローウェルです。 貴方と同じ、特殊機関の出身です」

「ほう。 そうか」

此奴を参謀にした方が使えそうだと、セルレンは判断。

砂浜の様子を一瞥すると、本国にすぐ今の話を伝えるように、部下達に指示を出した。

本国には、まだ四匹のフラウ・シュトライトがいる。二年前から突貫工事で作成したのが二匹。以前から飼っていたのが二匹だ。

どれも動かす事自体は可能である。まだ、シグザール王国に一泡吹かせることは、可能だった。

 

セルレンが解散指示を出したので、ガルティスは不快感を隠せないまま、ドムハイトの国境近辺に以前構築した施設へ向かっていた。一旦街道を外れ、後は山の中をひたすら歩く。ここ何年も続けてきたから、すっかり慣れたが。しかし、今は地形以外の要素が、疲弊を容易に蓄積させていく。

ひたすら続くブッシュと、闇の中を歩く。辺りは草の臭いばかり。苛立ちが、不快感を更に高めた。

彼の任務は一旦凍結されたのである。クリーチャーウェポンの消耗が激しすぎる、というのが理由であった。だが、セルレンが、ガレットの部下を気に入ったのが理由ではないかと、ガルティスは邪推していた。

不快にも程がある。

ガレットは所詮戦争屋だ。優れた戦闘に関する技術を持っているかも知れないが、判断力や知識で自分に及ぶ訳がないと、ガルティスは確信している。クリーチャーウェポン作成の大家であるガルティスは、自分こそもっとも価値のある諜報員だと確信していた。

この辺りは気候にも恵まれているからか、山の中も緑が多い。一旦紛れ込めば、まず追跡に引っかかることはない。レンジャー部隊がすぐ側を徘徊していても、気付くことはないくらいである。

そんな中をどうして平気で歩けるかというと、ドムハイトで開発した特殊な液体が原因だ。

これは雨にも流されることなくしつこく付着し、特殊なレンズを通してのみ見ることが出来る。これのおかげで、部下もガルティスも全員が眼鏡を掛けて、山の中を迷うことなく歩ける。未だ液体は強い蛍光色をレンズの中では放っており、夜にも存在感は衰えない。

「ガルティス様、我々はどうなるのでしょう」

「さてな。 とりあえず、ドムハイトの状況が落ち着いたら連中に協力して、クリーチャーウェポン部隊でも作らせるべきなのだろうが。 おい、犬をまくための消臭剤を忘れるなよ」

「わかってい……」

部下の声が、かき消えた。

疾風のように、何かが奔る。閃光。剣撃の音。追いつかれた。そう気付いた時には、仰向けに地面に押し倒され、胸を踏まれた上、剣を鼻先に突きつけられていた。

一瞬の早業でガルティスを無力化したのは、まだ若い娘だ。黒に近いダークブラウンの髪の毛をポニーテールにしている。青い鎧を着ていると言うことは、シグザールの誇る聖騎士か。

その後ろには、白い鎧を着た南方人らしい銀髪の娘が、カタナと呼ばれる剣を鞘に収めていた。一瞬で部下達を倒したのは此奴か。不意を打たれたとは言え、圧倒的な実力差だ。こんな化け物が二人もいるのでは、どうにもならない。

「アデリー、良かったね。 マリーが来る前に見つかって」

「ええ、ミューさん。 母様だったら、多分この人だけを生かして、後は丸焼きだったでしょうから」

恐怖に歯が鳴るのがわかる。此奴らがマリーと呼んでいるのは、間違いなくあの鮮血のマルローネだ。技術力におごり、シグザール人の生物的な実力をすっかり失念していた。多分、街道から外れる前に、捕捉されていたか。或いは、能力者の手によるものか。

思わず舌を噛もうとした瞬間、アデリーの足が喉を強かに踏みつけていた。舌を噛むどころではなくなった所に、猿轡を噛まされる。他にもわらわらと現れる騎士や兵士どもが、部下を片っ端から縛り上げていく。

終わった。

油断が招いた、破滅だった。

本縄に縛り上げられたガルティスが目を剥いたのは、痛いからではない。絶望の権化がこの場に現れたからである。

ブッシュをかき分け、姿を見せたのは、鮮血のマルローネ。最大監視対象であり、今やエル・バドール諜報部隊にとって、死の神に等しい相手だった。

既に此奴に気配を察知されて、生き残った者はいないとまで言われている。何名もの諜報員が殺され、捕らえられた。その凄惨な死体から、受けた凄まじい拷問が知れ渡り、部下達も心からこの怪物的な女を畏れていた。本国では考えられない力を持った稲妻系能力の使い手であり、今では賢者の石を作り上げたのが確実視されている。かって長老達があり得ないと笑い飛ばしていた事実が、悪夢となってガルティスを襲っていた。

黄金の髪を掻き上げると、マルローネは縛り上げた部下達を見て、口だけで笑った。目は獰猛な嗜虐心に揺れている。

駄目だ。殺される。今でなくても、後で。確実に。

全ての破滅を、ガルティスは悟っていた。

「おおー。 流石」

「母様。 全員既に捕らえました。 尋問以外の暴力は振るわないであげてください」

「わかってる。 とりあえず全員軍基地に連行。 後は自白剤飲ませて、全部の情報引き出した後は切り刻んで魚の餌かな」

「母様っ!」

アデリーの抗議など、何処吹く風である。この様子だと、ガレットの部隊も大きな打撃を受けているのだろうか。いずれにしても、ただでは済むまい。

兵士達が縛り上げた部下達の身体検査をする。錬金術師がついているようで、危なそうなものはことごとく取り上げていた。歯がみさえ出来ないガルティスは、二本足で歩く鳥の背中に押し上げられる。騎乗用に訓練されたジャイアントモアの一種か。

恐怖に呻くガルティスは、もはや為す術無く、軍基地に運ばれていくばかりだった。

基地は街道沿いにあり、山を下りるとすぐだった。途中目隠しをされたので具体的な経路はわからなかったが、多分屯所の一つを改造したのだろう。

中は地上部分よりも地下が大きく作られており、牢も多数あった。アデリーというあの聖騎士が牢の前に来ると、縛られて転がされたままのガルティスに言う。

「貴方が、エル・バドールの間諜だと言うことはわかっています。 今まで捕らえた間諜から、母様が聞き出していますから。 名前は、ガルティス=ブランド。 間違いありませんね?」

額の汗が伝う。それだけで、アデリーは真実を見極めたようだった。

この女、まだ若いのに、とんでもない修羅場を潜ってきている。地獄を見た回数も、二度や三度ではないのだろう。ガレットは相当な使い手だが、多分片手で余裕を持ってあしらえるに違いない。

「母様の拷問は非常に厳しいです。 自白剤や、飲めば助からないような薬も容赦なく使います。 だから、出来るだけ尋問の段階で、質問には答えてしまってください。 そうなれば、私が生きて故郷に帰れるように、或いはそうでなくても生き残れるように取りはからいますから」

全身から汗が流れる。そんな言葉、信じられる訳がない。

また、誰かが運ばれてきた。見たこともない奴だ。或いは、ドムハイトの諜報員かも知れない。

たくさん地下に作られている牢は満杯の様子だ。ガレットやセルレンが生き延びていればよいのだが。この様子では、正直厳しい。この死の蟻の巣は、エル・バドール諜報部隊の墓場になるのかも知れない。

「アデリー、もう行くよ。 次の任務が来てる」

「ミューさん……」

「私達をご指名だそうだよ。 さあ、待たせちゃ行けない」

苦しそうに頭を振ったアデリーが、牢の前から歩き去る。代わりに、来たのは。鮮血のマルローネだった。

目を必死に閉じるガルティスに、鮮血のマルローネは牢を掴むと、言う。その手からは、黄金の電撃が迸り続けていた。

「知ってる? 人肉って、とっても不味いって事」

「……っ! んー、んーっ!」

ああ、終わりだ。

恐怖の中、今までこなしてきた任務のことを、ガルティスは思い出していた。そうすることで、栄光に身を包むことで。恐怖から逃れるために。

 

楽しく拷問を終えたあと、マルローネはカスターニェの軍基地に戻った。やっぱりイングリド先生やヘルミーナ先生などの一部を除くと、エル・バドール人はひ弱だ。そんなに苦労しないままで、かなりの情報を引き出すことが出来た。

ガルティスというあの男は流石に頑強で、主要な事は殆ど喋らなかった。だが明確にわかったことがある。

フラウ・シュトライトは一匹ではない。

自室に戻って、ワインを開ける。対抗戦術に関してはアカデミーの研究成果を待つとして、今後敵が遠洋での航路遮断策に出てくると面倒だ。これはシアが指摘したのだが、言われてみれば確かにその方が効果的である。

ワイングラスに琥珀色のアルコールを注ぎながら、人工レンネットで作られたチーズを口にする。柔らかいチーズの一種で、香りがとても上品である。味は天然物と全く遜色なく、低品質なものよりずっと美味しいくらいだ。その上、アカデミーの検査によると変な毒素が検出されるようなこともない。とても立派な栄養価を持つチーズである。アカデミーから送られてきた試供品であり、既に試食も済ませた。今回は本食である。

「ん、おいし」

呟きながら、もう一切れ口に。ワインと絶妙に合う。

レシピはそう難しくもないが、兎に角とんでもない執念で人工レンネットを造り出したことは特筆に値する。エルフィールの成長は素晴らしいなと、マリーは思った。

今回の掃討作戦は、随分前から準備していたが、なかなか実施に移せなかった。だが、フラウ・シュトライトの撃滅で敵が尻尾を出した瞬間に、ついに成功させることが出来たのである。

敵将の右腕は、既に奪った。後の幹部も、そう苦労せずに葬ることが出来るだろう。問題は、ドムハイトがエル・バドールと完璧に結びつき、なおかつ勢力を拡大することだが。そこまでは、マリーの力の及ぶ所ではない。

いずれにしても、敵から情報を引き出している内に、わかったことがある。エル・バドールの中の敵対勢力は、大きな力を持ってはいるが、現実感覚のない子供のような存在だ。だから戦うのは、今後は現実的な処理能力を持つアルマン王女が中心になるかも知れない。アルマンは話を聞くだけでも、相当な大器だ。ただ力が強いだけの愚かで哀れな頭でっかちの老人達とは、訳が違う。

ドアがノックされた。気配からしてクライスか。

「はーい、どなたー?」

「僕です」

「ああ、クライスか。 どうぞ」

無駄な演技だが、クライスはイングリド先生の重要な伝令だ。無碍にも出来ない。テーブルの上のワインとチーズを見て、クライスはちょっと呆れ気味に眼鏡を直す。

「チーズの試食ですか?」

「んーん。 それはもう済ませたから。 クライスもどう?」

「……今は仕事中ですので、またの機会に」

何だかものすごく切なそうな沈黙の後、クライスはそう言った。差し出されたレポートを受け取り、目を通す。

チーズのレポートも興味深かったのだが、今度のも面白い。ただ、書いたのはエルフィールではない。

「ふうん、なるほどね。 チーズの兵糧への利用と、様々な種類作成の可能性、か」

「これに基づいて、カスターニェに大規模な遠征基地を作ることは可能かと、イングリド先生は仰っていました」

「可能よ。 ただし、一ヶ月や二ヶ月じゃ出来ないけどね」

チーズが栄養豊富で、長距離遠征用の兵糧として有効なのは、マリーも知っている。

しかしながら、人間の体は様々な栄養を必要とする。チーズだけでは、栄養の不足から、必ず害が出る。それでも現状の兵糧よりは作りやすく、栄養価も高いことから、かさばることはないだろう。

荷駄隊の苦労をだいぶ減らすことが出来るのは確実だ。しかも痛みにくいというもっとも大きな利点が意味を持ってもいる。

「人工レンネットの件もあるし、最初からこの件を睨んでいたとしか思えない。 先生達はエル・バドールを本格的に潰すつもりなのかな。 自分たちの故郷だっていうのに」

「さあ、僕には其処までは」

「まあいいわ。 ねえ、クライス。 あたしとしても、エル・バドールが憎い訳じゃないし、その技術力にも興味はある。 でも、ドナースターク家が任されたこのカスターニェの近辺で色々巫山戯たことをやらかしてくれた上に、あんな海蛇まで送り込んでくれたことは、万死に値すると思ってる。 必ず落とし前は付けさせるつもりよ」

実行犯には、既に相応の報いはくれてやった。アデリーは酷いと抗議してきたが、聞く耳など持たなかった。

もっとも、マリーは自分が利己的なことも十分承知している。必ずとは口で言ったが、もしできれば報復する、くらいにしか考えていない。シアも、無理な報復や、出来もしないことは望みはしないだろう。

「あんたも商人の息子だし、このビジネスチャンスには乗るつもり?」

「僕は遠慮しておきます。 正直な話、戦争で人を殺し合わせて、その血を啜ろうとは思いません。 商売の世界が生き馬の目を抜くものだってことは知っています。 でも、どうしてか、長年貴方のやり方を見ていると、それが本当に正しいのか疑問に思えてきましてね」

甘い奴だと、マリーは内心思った。

だが、それも考え方の一つ。人間には様々な考え方がある。相互理解は、とても難しい。それを娘の件で思い知っているマリーは、敢えて何も言わなかった。まあ、愛娘が理解してくれないのは、苦痛ではあるのだが。

ローラが部屋に来た。クライスは一礼すると、部屋を出て行く。

「お邪魔でしたか?」

「ビジネス上の話よ。 それで?」

「お客様が来ています。 貴方に世話になった冒険者とか」

「ひょっとして、ルーウェンかな?」

最近ルーウェンが此方に来ていることは、マリーも知っている。若手の冒険者達のリーダーとして、かなりの活躍をしているらしいとも。そういえば、ルーウェンもそろそろ妻を娶っても良い頃である。

ひょっとして、ミューのことだろうか。

最近は接点もないだろうし、そろそろ気持ちの整理もついている頃かも知れない。騎士団の中でも、ミューを妻にしたいと考えている者は少なくないようだし、その話をしてみるのも良いか。最近ミューもダーティワークの連続で落ち込んでいるようだし、丁度いい気分転換になるだろう。

「良いわよ、通して」

「わかりました。 直ちに」

ローラはワインとチーズを一瞥すると、すぐに外に出て行った。しばらくしてから、ローラに伴われてルーウェンが来る。以前最後に見た時よりも、だいぶ顔立ちが精悍になっている。

「おひさ。 元気にしてた?」

「あんたもな。 元気そうで何よりだ」

「座って座って」

無言で、ルーウェンは向かいに座った。ワインを注ぐと、無言で飲み干す。

精悍になっただけではなく、以前よりずっと落ち着いているのは、風格に近いものを得たからだろう。

若手の育成をして、ルーウェンが大きく成長したのは間違いない所だ。

「ご両親は見つかりそう?」

「いいや、難しいな。 それらしい人を見たって話は時々聞くが、何しろずっと昔の話だ」

「そっか。 でも諦めないで頑張りなさいよ」

しばらく、黙々と食べ続ける。ミューのことを聞いてくるかと思ったのだが、用件は違ったらしい。

ルーウェンは、二杯ほどワインを開けると言う。

「戦争になるって、本当か」

「まだわからないかな。 ただ、準備は進んでる」

「あのでかい海蛇が、何処かの国から送り込まれたんじゃないかって噂は聞いてる。 俺の仲間や後輩も、何人も彼奴に殺された。 俺だって、不愉快だけど」

でも、戦争だけは嫌だと、ルーウェンは言う。

彼は戦災孤児だ。その主張はよくわかる。実際、二十年前の大戦がなければ、彼は家族と離ればなれになることも、孤独なまま放浪することもなかったのだから。

「悪いけど、あたしにはどうにも出来ない。 あたしは単なるテクノクラートで、戦略はもっと上の人間が決める。 ただ、一つ言うなら」

「何だよ」

「今回は総力戦という形の戦争じゃなくて、多分機動力を駆使しての一撃離脱、という形になる可能性が高いわよ。 それに、敵国の戦力はまだつきてない。 近いうちにあの海蛇への対抗戦術を開発するから、その時にはギルド内で広めて欲しい。 よろしく頼めるかな」

「ああ、そっちは、任せてくれ」

落胆が見て取れる。だが、マリーにはどうしようもないのも事実だった。内心で、戦争にむしろ賛成なのは黙っておく。

ルーウェンが席を立とうとした。

「おっと、ミューのことは良いの?」

「仕事で忙しいんだろ」

「その仕事で結構苦労してるから、会っていってあげなよ。 あんたには不本意かも知れないけど、あの子、あんたを性別を超えた本当の親友だって思ってる。 一緒に酒でも飲んで上げると、喜ぶと思うわよ」

ちょっと残酷な話だ。

しかしながら、ミューはそう言う娘だ。ルーウェンを男だと思っていない一方で、とても大事な友人だと考えている。

要するに、絆はあるかも知れないが、愛情はない。

それがミューからルーウェンへの、不思議な友情の形だった。

「ああ、わかったよ。 ミューが悲しんでるのを見るのは、俺も気分が悪い。 俺で気晴らしになるなら、幾らでも会うさ」

「そ、ありがと。 じゃあミューにも声を掛けて置くから、ギルドに戻ってなさい」

「そうさせて貰う」

少し寂しそうなルーウェンの背中を見送ると、マリーはほくそ笑む。

しょせん愛情など一方向的なものだと、マリーは考えている。相思相愛という場合もあるが、それは同じ愛情を両者が共有している訳ではなく、単純にそれぞれが好き勝手に愛情を向け合っているだけだ。

さて、戦争が始まる前に、シアの結婚がある。

一度ザールブルグに戻り、その時エルフィールの様子でも見ておくことにするか。マリーはもう一つチーズを口に放り込むと、その時を楽しみに思い、くつくつと一人笑った。

 

5、見たかったもの

 

 ベットの上で、パジャマを着たままアイゼルはぼんやりしていた。何もする気が起きない。勉強も、仕事もしなければならないのに。一押しする気力が出てこないのだ。

原因はわかっていた。自分自身の不甲斐なさだ。

どうしてもフィンフと仲良くできないアイゼルは、自分の拒否反応にも、歩み寄りを見せてくれない相手にも、深く傷ついていた。それには、主に自分自身が悪いのだと、アイゼルは思っていた。

ベットの上で膝を抱えて静かに泣いたこともある。

エリーに吐露したのは、本音だ。このままだと、自分は子供を虐待するような最低の母親になるのではないか。そんな恐怖が、アイゼルの全身を包んでいた。エリーを見ていてつくづく思ったが、愛情は一方的なものだ。自分が愛情を注いだからと言って、子供が応えてくれるとは限らない。

「アイゼル様」

「どうしたの?」

顔を上げる。

そして、思わずアイゼルはそのまま固まっていた。

フィンフが笑っている。

「ご指示のあった調合、全て終了しました。 次の命令をいただけますか」

「あ、あなた、顔、顔っ!」

「笑顔の作り方を、エルフィール様に教わりました。 アイゼル様にいつも感謝の意志を示すことが出来ず、心苦しい思いをしておりましたから、配慮してくださったのだと思います。 アイゼル様、笑顔で少しは意志が伝わりますでしょうか」

「うん、うんっ!」

涙がこぼれるのを、止められなかった。

作り笑顔かも知れない。だが、感謝してくれていると言ってくれた。どんなに自分が愛情を注いでも理解してくれているとは思えない相手がだ。

アイゼルは、フィンフを抱きしめたまま、しばし泣いた。

作り笑顔でもいい。どうして、そんな事に、今まで気付けなかったのか。きっとフィンフは、ずっとアイゼルに感謝してくれていたのに。

報われた。

そう感じて、アイゼルはその夜、涙を流し続けた。

 

(続)