陽の光当たらぬ戦い

 

序、ドムハイト中枢の闇

 

かって、シグザール王国と大陸を二分した武の国、ドムハイト。強力な軍事力を有し、若干古い政治体制でありながらも、一時期その隆盛はシグザール王国を凌ぐほどのものであった。

しかしながら、二十年ほど前の大戦で引き分けて以降、訪れた平和がドムハイトを弱体化させた。

目的意識を失った王族達は、貴族の傀儡となり。各地の領地で実質上の自治権を有していた豪族達は、貴族を裏から争って、壮絶な暗闘を開始した。そうこうしている内に軍も騎士団も弱体化の一途を辿り、そして最強の精鋭竜軍がまるまる全て謎の消滅を遂げた事で、破滅は決定的になった。

幾つかの豪族はドムハイトを離脱。シグザール王国に独自に降伏して、領地と財産を守ろうと画策。王族の権力は、直属の精鋭である竜軍が消滅したことで悲惨なほどに低下し、貴族達は右往左往するばかり。

そんな中、王族の一人アルマン王女が宮廷クーデターを起こし、権力を掌握。どうにか中枢に一つの集中権力を作成したのが、三年と少し前のことであった。

どちらかといえば大人しい人物であったアルマン王女は、その時から笑顔が消えた。どちらかと言えば穏やかで心優しい人物だと国民からも思われていた王女だが、今では親兄弟を皆殺しにした恐ろしい女だと認識されている。事実、無能な親兄弟を皆殺しにしたのだから、何を言われても仕方がない立場であった。

アルマン王女は、今日も寝る暇もないほどの仕事を片付け続けていた。

自分の肩を叩きながら、書類に目を通していく。執務室は殆ど自室と化しており、眠るための寝具まで持ち込んでいる状況である。

「王女、新竜軍の編成について、何名かの将軍が面会を申し出ております」

「通しなさい」

それほど広くもない執務室に、顔中傷だらけの老人と、屈強な肉体を持つ若者、それにでっぷりと太った女将軍が入ってくる。

いずれもが、現在のアルマンの股肱である将軍達だ。

最初に口を開いたのは、老将軍であった。

三人のとりまとめ役をしている彼は、意外にも近年軍中枢に入った人物である。それまでは辺境の豪族に使われていた人物であり、シグザール王国軍との小競り合いの経験が非常に豊富ながら、コネクションがないため中枢では採用されなかった。レオンという名を持つこの男は、優れた剣術の使い手でもあり、武勇の士多きこの大陸でも二十位内には確実にはいると言われている。流石に五十を過ぎてかなり衰えているようだが、それでも充分な実力の持ち主だ。底辺の将軍職で辛酸をなめ続けたこともあり、非常に粘り強い人物でもある。

何名かの老害と行って良い無能な将軍達が引退した後、アルマンが抜擢したのがこのレオンだ。レオンは抜擢にこたえ、中枢での軍整備を短時間で行い、既に二万ほどの直属精鋭を用意している。

「アルマン王女、現在の経済力から考えるに、新竜軍の規模はこれ以上拡張が難しい状況に来ています。 更に言うと、兵士達の練度も未だ高いとは言えず、各地の豪族達に睨みを利かせる事が出来る状態にはありません」

「それで、何か打開策はありますか」

「フォード」

「は。 私めから、提案がございます」

進み出たのは、屈強な肉体を持つ、若々しい男であった。フォード将軍。最近台頭してきた人物で、竜軍の所属経験を持っている。最強を謳われ、竜軍とともに消息を絶った剣豪バフォートの弟子だった人物だ。

フォードも、中央にコネクションがなかったため、出世できなかった人物の一人である。幸いにもと言うべきか、竜軍が消滅したあの悪夢の日、バフォートの命令で地方の豪族の様子を視察に出かけていて、助かった。

彼はバフォートの死にシグザール王国騎士団が関わっていると考えており、激しく憎んでもいた。武芸も優れているが、それ以上に頭がとても良く回る男であり、経済や情報に関する知識も有しているのが心強い。

「現在進めているエル・バドールとの共同作戦計画なのですが、これを利用して、一気に大規模な交易を進めることが可能になるかも知れません」

「と、いいますと」

「実はシグザール王国の中枢港、カスターニェに、エル・バドールが戦略級クリーチャーウェポンを送り込み、海上封鎖を行うという情報が出てきております。 この機に、混乱する流通に裏側からつけ込むことが出来るかも知れません」

「なるほど。 しかし、それだけのことをする人員はありますか?」

それが最大の難点だ。

最近、ドムハイトはシグザールの辺境や衛星国にしきりにちょっかいを出し、混乱を起こさせている。広域でのゲリラ戦であり、若手の指揮官を投入しては作業をさせているのだが、当然のことながら消耗も激しい。

人材がいない事が、ドムハイトの最大の弱点だ。

辺境で混乱を引き起こすことで時間は稼いでいる。しかしながら、優秀な人材が育ち上がるまで、あの英明なヴィント王が待ってくれるとは思えない。向こうもそろそろ、本腰を知れてアルマンを潰しに来る可能性も高かった。

最後に口を開いたのは、ティセラ将軍である。

まるまると太った女将軍である彼女は、その卓越した指揮能力で出世してきた人物だ。先を見る目もあり、クーデターの際には率先してアルマンの指揮下に入った。今でも、各地で軍を指揮して、反抗的な態度を取る豪族を討伐する任務に当たってくれている。

「現在、北東部の混乱が収束しつつあり、其処で活動している諜報部隊を廻すことが出来るかと思います」

「それは結構なのですが、中枢の守りに割く人員はありますか。 そろそろヴィント王も、ドムハイト中枢に直接打撃を与える事を考えてもおかしくありませんよ」

「そちらも、ぬかりなく」

ティセラが提案した兵力を、素早くアルマンは頭の中で計算。どうにか、まかなえる金額であった。

しかしながら、国庫はしばらくすかんぴんの状態が続くだろう。親兄弟の浪費のつけが、こんな所にまで影を落としている。

他にも幾つかの話をすると、激務が祟って軽い目眩を覚えた。将軍達が出て行ってから、アルマンは鈴を鳴らす。

「蜂蜜水を」

「すぐに」

メイドが一礼すると、ぎとぎとに甘い蜂蜜水を持ってきた。美味しいものではない。疲労回復と、思考の鈍化を防ぐための飲み物だ。美味しいとか不味いとか、考えている余裕はない。

今の将軍達の提案を、書類と予算の形で纏めさせるべく、掌握下に置いている文官達に指示を出さなければならない。さっさと書類を書き上げると、近衛兵団を任せているユーリス将軍を呼ぶ。銀髪のポニーテールを揺らしながら将軍は部屋に来たが、アルマンの顔を見て眉をひそめた。

「陛下、すぐにお休みください」

「今は休める状態にありません」

「目の下に隈ができております。 そのままのお姿ですと、陛下を見た臣下に、あらぬ心配を掛ける可能性がございます」

手鏡で自分の顔を覗き込む。

確かに言われたとおり、目の下にくっきりと隈ができてしまっていた。まだ二十歳を僅かに過ぎたばかりだというのに。頭を振ったのは、一気に疲労を感じたからである。

「分かりました。 この作業が終わったら仮眠を取ります」

「ご随意に」

落ちかける意識を引き戻して、書類の作成に取りかかる。

まだ、先は長い。

人材の質、量ともに、今やドムハイトはシグザールにとても太刀打ちできない段階まで落ち込んでしまっている。かって伝説的な間諜である「じい」に率いられていたドムハイト諜報部隊も、既に壊滅状態であり、シグザール王国の情報も殆ど入手できない状況なのだ。

そんな中、必死に頑張っている部下達のためにも。

アルマンは、自分だけ休む訳にはいかなかった。

 

作業が一段落した所で、ようやく一眠りして。目が醒めると、もう夕方になっていた。

風呂にも長いこと入っていない。しかし、入浴はすぐ出来るように、使用人達が手配してくれていた。

ドムハイトの風呂は、湯に直接浸かるのではなく、蒸気を浴びて垢を擦るタイプのものが主体である。昔はアルマンもこれを使っていたのだが。近年シグザール側から入ってきた、湯船に浸かるタイプのものが増えてきており、どうも此方の方が疲労を取る効率が良いようなので、アルマンも使用していた。

部下の中には、シグザール側から来た文化と言うことで、拒絶反応を示す者もいる。

だが、実用的か否かが、今は重要なのだ。アルマンは率先してこういった実用的文化を使ってみせることにより、部下達の意識改革を促さなければならない立場にあった。

湯船はそれほど大きくない。一度焼けた部分もあり、王宮は再建の目処が立っていないのである。そんな王宮の一角を改装しただけなので、結構使用人達の準備の負担も大きかった。

「湯加減は如何ですか?」

「上々です」

外からの声にこたえる。

クーデターを起こす前は、アルマンは王族の中でも下位にいて、自分で何でもしなければならない立場にあった。兄たちの中には数十人単位で愛人を抱え、金銀を満載した屋敷で生活しているような連中もいたが。いずれも、クーデターの中でアルマンが殺した。首実検もした。

その呪いだろうか。

或いは、激しすぎる労務の影響かも知れない。

アルマンは、肌の張りが失われる速度が速いことを自覚していた。貧しい農村などでは、子供を産んだ女性があっという間に老けることがあるという。このまま過剰な労務を続けていくと、アルマンは一気に老婆になってしまうかも知れない。

得体の知れない恐怖を感じたアルマンは、顔をさっと洗うと、湯船に沈んだ。

しばらくお湯の中で目をつぶって息を止め、顔を水面から出す。使用人達が苦労して湧かしてくれた湯だ。じっくり使わないと、彼らに悪い。

茹だる寸前まで風呂に入ってから、出る。さて、リフレッシュした後は、仕事の時間だ。

ユーリス将軍を呼んで、作業進捗を聞く。既にティセラ将軍が動き出している様子で、王宮を守っている部隊の幾つかが引き抜かれ、行動を開始している様子だった。書類が運ばれてくる。決済が必要なものだ。

二十年前に、シグザールと雌雄を決していた頃からも、腐敗の兆候はあったという。アルマンが成人した頃には、既にそれは取り返しがつかない所まで進行していた。今、そのつけを、アルマン一人がどうにかしなければならない所に来ている。

嘆息すると、書類に目を通し、判子を押していく。

幾つかの書類を横に捌けたのは、許可を出せないと判断したからだ。これらは文官達に再度吟味させ、書類を作り直させる。

文官の一人である、タレスが来た。熊のような大柄な男で、文官に転身する前は武人であったという。ただしどこだかの戦いで足を痛め、武人としての活躍が見込めなくなってから文官に転身。相変わらずの剛気で周囲を纏め上げて、国の腐敗を遅らせるべく活動を続けていた男である。クーデターの際にアルマンにいち早く従った人物だが、非常に剛気で、権力者にも媚びようとしない。その剛直さが、アルマンの信頼を得ている所以であった。

もっとも、彼はアルマンにも、媚びを売ることはない。

そしてタレスが他と違うことは一つだけある。アルマンを「王女」ではなく「女王」と呼ぶことだ。これはまだクーデター後のごたごたで、正式にアルマンが即位をしていないから皆が王女と呼んでいるのだが。彼だけは現実に即して、女王とアルマンを呼ぶのであった。

「女王陛下」

「何でしょうか、タレス主席文官」

「また大規模な隠密軍事活動を起こすとか。 現在、豪族達の四割以上が内心で陛下を良く思っておりません。 あまりこれ以上無理をすると、彼らが一斉に反乱を起こす可能性さえあります。 シグザール王国がそれに目を付ければ、可能性は更に高くなるでしょう」

「しかし、シグザール王国の目を余所に向けさせるには、他に作戦がありません。 何か代案がありますか」

タレスは一歩も引かない。

現場を知っているが故に、引く訳にはいかない部分もあるのだろう。

「今はシグザール王国と和平交渉を結ぶべき時です。 我が国の軍事力は、既に往年の三分の一にまで低下しています。 しかも、信頼できる兵力となると更にその半分以下になるでしょう。 再建を進めている軍勢の練度も、数も、かってには遠く及びません。 州の一つか二つかを割譲することになるかも知れませんが、とにかく態勢が整うまでは、シグザールを刺激することだけはお避けください」

「ヴィント王は老獪な人物です。 和平交渉などを受けるとはとても思えません」

「ならば、私が交渉の使者として赴きましょう」

「貴方のような有能な人材を失う訳にはいきません。 ヴィント王の事です。 貴方が赴けば、生かして帰しはしないでしょう」

しばらく会話が続いたが、平行線を辿るばかりである。

アルマンはこういう状況でも攻めの姿勢を取っているのに対し、タレスは守りに移るべきだと考えている。しかもどちらの考えも間違ってはいないので、話していて接点があるわけもなかった。

だが、やがて折れたのは、タレスだった。

「ならば、予算関連を私が見ましょう。 あまりにも無為に、無尽蔵に金を使われてしまうと、今後の再建が立ちゆかなくなります」

「……分かりました」

事実、負担を減らすようにと彼方此方から言われているのである。有能なタレスに権力を負荷分散できれば、かなり疲弊を減らすことが出来る。

タレスはまだ納得していない部分も多かったようだが、書類を受け取ると、執務室を出て行った。

まだ、処理しなければならない問題は多い。

アルマンは自分の肩を叩くと、己が背負うもののために、再び仕事を開始した。

 

1、冬の一幕

 

イングリドは、エルフィールが持ち込んだレポートに目を通して、その内容の有益さに感心していた。

小牛の胃袋から取れるレンネットが、チーズ作成の大きな問題点になっていることは、かなり前から話題になっていた。確かにこれの代替物質を作ることが出来ると、チーズの作成技術は大きく進歩する。今まで手軽に作れなかった故に、色々な村で好き勝手な閉鎖的進歩を遂げていたチーズも、多くの物資と同様に手軽に食べられるものとなるだろう。

そしてここからが問題なのだが、チーズは保存食として非常に優秀なのである。

調味料として使えるだけではなく、それ自体がかなり高い栄養素を含んでおり、しかもかさばらない。軍用の食料として、非常に優秀な品なのだ。問題は量産できなかった事なのだが、もしもエルフィールが代替物質の作成に成功したら、これは行軍技術の大幅な革命にもつながり得るのである。

兵糧というものは難儀で、様々な制約がある。チーズはその殆どを軽々とクリアする事が出来るため、今後は大きな利益を生む可能性も高い。

そして、この代替レンネットを大量生産することが出来れば、今まで接点がなかったチーズ作成系の幾つかのギルドを、傘下におさめることが出来る可能性も出てくる。そうなれば、今まで騎士団の兵糧を独占的に生産していた幾つかのペイを奪い取ることも出来ることだろう。

また、アカデミーの収入は増える。

そして収入が増えると言うことは、研究できる分野が広がると言うことだ。

数年前の宝石ギルド殲滅に続く、大規模商談の可能性が出てきた。イングリドはレポートを読み終えると、クライスを呼ぶ。最近便利屋としてこき使われているクライスは、少し焦燥した様子で部屋に現れた。

「イングリド先生、何でしょうか」

「このレポートに目を通しなさい」

「ああ、エルフィールのですね。 他の先生方も、熱心な生徒だと噂をしてはいましたが」

眼鏡を直しながら、クライスはレポートを見ていく。

徐々に、表情が真剣なものに変わっていった。

「これは、本当ですか」

「実によく調べているでしょう。 三回ほどの資料採取で、類似の物質をかなり絞り込んできている。 しかも、実験的にチーズの作成に成功までしている。 品質はかなり落ちるようですが」

エルフィールは、レポートの中でどうやら黴の類が怪しいらしいと分析をしていた。それにしてもこの緻密を通り越して粘着質まで感じる細かさは。本当に、ほんとうにチーズが好きだから出来ることなのだろう。

彼女が此処まで本気になっているのは、恐らく自分にとって重要な存在であるかも知れないと考えているからだろう。マルローネからのレポートは既に受け取っている。エルフィールの精神構造は、それからある程度分析が可能だ。

「このレポートが本当だとすると、チーズを作成している幾つかのギルドとの、太いパイプを作成できるかも知れませんね」

「その先について、何か言うことは?」

「まさか、兵糧としての活用ですか?」

商人の子だけあって、クライスは流石に鋭い。頷くと、イングリドは他言無用と念を押して、まだ経験が浅い弟子に手紙を渡した。

「カスターニェにいるマルローネへ、貴方が直接渡してきなさい」

「は、はい。 僕がですか?」

「現在、カスターニェでフラウ・シュトライトが海上封鎖作戦を開始している事は、貴方も知っていますね。 マルローネによる討伐作戦が何処まで進んでいるか、確認してくるように」

手紙は、あくまでついでだ。

今はテストが終わった直後であり、それほど教師陣も忙しくはない。ヘルミーナに到っては、騎士団と連携して大陸南部の状況を見に行った程である。まあ、あれのことだから、数日で帰っては来るだろうが。

「分かりました。 マルローネさんの事だから、心配はないと思いますが。 すぐに見てまいります」

「報告は出来るだけ、細かく精確に行うように。 簡潔さは必要ありません。 徹底的に細部まで見極めなさい」

「了解しました。 それでは」

一礼して部屋を出るクライスを見送る。

それにしても、二年にもみたぬ時間で、これほどまでに成長するとは。エルフィール、これは想像以上の逸材かも知れない。

チーズの研究は、敢えてそのままエルフィールにやらせておく。もちろん下手な支援は芽を摘むだけだ。イングリドはそのまま、大器の成長を見守る事とした。

 

エルフィールはアトリエに戻ると、まず窓を開けた。篭もった臭いがかなり強くなってきているからだ。晩秋になって気温は低下してきてはいるが、しかしそれでもこれ以上は耐え難い。

クノールは全然気にもしていない様子で、調合を続けていた。エルフィールが後ろに立って、やっと振り向いたくらいである。

「お帰りなさい、エルフィールさん」

「ただいま。 時々換気をしてくれると嬉しいかな」

「分かりました」

怒ることは、しない。悪意があってしている事ではないからだ。だから、気付かせる。それでクノールには充分だった。

基本的に妖精族は人間とは随分違う。繁殖の方法から、感覚まで。様々な感覚が人間よりも鋭い妖精族だが、臭いの快不快は全く違っているらしい。特に人間のところで仕事をしている妖精族は、色々な臭いになれていると言うことだ。

中にはその特性を利用して、糞尿のくみ取りをする妖精もいるという。まあ、水路が縦横に通っている此処ザールブルグでは関係のない話だが。

席に着いたエルフィールが拡げたのは、何種類かのチーズである。食べるためではない。研究するために、買ってきたのだ。

今、研究は大詰めに入っている。チーズを横目に、クノールが言う。

「巧く行きそうですか?」

「あと少し、なんだよねえ」

色々な検査用薬品を出す。そして、細かくチーズを分解して、丁寧に試していく。

様々な研究書を読んだのだが、一つだけ面白いのがあった。それが、様々なチーズの比較分析をして、その中から乳成分との違いを分析してみよう、というものであった。

チーズの中には、ハンマーで叩いても跳ね返るような硬度のものから、グズグズの状態でしかもウジ虫を湧かせている、というようなものまである。それらに共通しているのが、家畜の胃の中にある物質で、乳成分を変質させる、という事だ。

その変質の過程が、どうもよく分からないのである。

作る事自体はとても簡単だ。というか、エルフィールもロブソン村時代に、作ったことがある。完成までの過程が随分異なってくるが、それでも作成自体は、それほど難しくはないのだ。

高級品になってくると、かなり途中に複雑な過程が入ってくるものもある。周囲に黴を生やしたりするのが特に難しい。だがそれも、絶対に出来ない、と言う訳ではない。素になる物質が貴重なので、どうしても製造技術が発展していないのだ。それが故に、さほど難しいものも、例外を除くと存在しない。

しかしながら、代わりになるものがなかなか見つからない。

せわしなく、チーズの成分を分析していく。子山羊の胃から取りだした成分も確認したのだが、共通点が存在しない。

或いは、乳成分と小山羊の胃の中にある物質が混ざり合うと、全く違うものになるのか。確かにその可能性もある。

色々な参考書を読んでみたが、こればかりはどうも手当たり次第に様々な物質で試してみるしかないのかも知れない。

「糸口は、あるのですか?」

「うん。 ちょっとね、試してみようと思ってることはある」

少し前から、シャリオ山羊のミルクを、パテットから購入している。たくさんあっても腐らせてしまうだけだから、毎日少しずつだが、これの一部を飲まずに実験に使用しているのだ。

今までは、総当たりであらゆる関連物質を試していた。牛の胃袋そのものは売っているので、それを切り刻んで使ってみた。しかしながら、子牛の胃袋では若干の効果があったものの、それ以外ではあまり意味がなかった。

要するにこれは、胃袋にチーズを作成する物質が含まれている、というだけのことであろう。

子山羊や子羊の胃袋でも同じ結果が出た。これらでは、はっきり言って意味がない。

同時に進めている総当たりの方法では、今のところ成果がない。一つだけ成果が出そうなものがあるが、まだ改良が必要そうだった。試してみようと思っていることとは、ずばりそれのことだ。

実は、少し前からチーズと黴の関係が気になっていたのである。

色々な種類の黴を、チーズに生やす場合がある。味を付けたり臭いを強くする目的もあるのだが、どうもそれだけでは説明がつかない場合が多いのだ。そこで、子山羊の胃袋を放って置いて、繁殖する黴が出来たら、それを試してみようと思っていた。

実際、わざと温かい場所に胃袋を放置しておいているのである。臭いは、これの由来であった。しかしながらなかなか黴が生えてくれない。腐ってしまうともう駄目なので、何回か既に備蓄分を捨てていた。

今回は、比較的冷えている場所に放置していた胃袋が、良い感じになってきている。実際、ぽつぽつと出てき始めている黴を、今回試してみることにした。新鮮な牛乳に混ぜ込んで、一気にかき混ぜてみる。冷えた所でかき混ぜるのがこつなのだが。

しばらくして、エルフィールは肩を落とした。

「はあ。 やっぱりそう簡単にはいかないか」

「巧く行きませんか」

「少しだけ、成分は変化するんだよねえ。 でも、胃袋から採取してる黴だから、当然って気もするし」

或いは、分量が足りないのかも知れない。

いずれにしても、様々に今後も試していかなければならないだろう。それに、少しでも変化したのは事実なのだ。悲観するには少しばかり早いかも知れない。

気分転換に、外に出る。

仕事のことも、実験のことも忘れる。憂さ晴らしに近くの森に出かけて適当に何か殺そうかと思ったが、やめた。苛々をどうにかするより先に、今はしなければならないことが多いのだ。

しばらく逡巡した後、飛翔亭に足を向ける。

ナタリエがやはり騎士団にスカウトされてしまってから、護衛に雇える冒険者に、これといった目処が立っていない。ディオ氏は喜んでいるようだし、フレアさんにも笑顔が増えた。実際エルフィールも、知り合いが出世したのは嬉しいと思うが、しかし業務にこのままだと支障が出る。

飛翔亭にはいると、ディオ氏が不機嫌そうにグラスを磨いていた。この間まで機嫌が良さそうだったのに、どうしたことか。

カウンターにつくと、注文を聞かれる。適当に肉料理を注文すると、ディオ氏は眉をひそめた。

「おや、チーズ料理にしないのか」

「いやあ、今チーズの研究を進めてまして、毎日飽きるほど食べてるんです。 流石に余所でまで、好物とは言え食べられないです」

「そうか。 好きが高じて、というやつか」

「はい」

奥の厨房から、肉を焼いている美味しそうな匂いが漂ってくる。

そう言えばステージにロマージュがいない。今日は休みか。

「ロマージュさん、いませんね」

「ああ、何だか故郷が偉いことになってるとかで、少し帰省してる。 しばらくしたら戻ってくるだろう」

「あ痛。 ナタリエさんに続いて、ロマージュさんもですか」

「そういえばお前さん、護衛が足りないってぼやいてたな。 すまんが、まだしばらくは手練れが足りない事になるだろうな。 どうにか自分でやりくりしてくれ」

それは困る。

だが、冒険者達も生きた人間だ。彼らにも当然生活があり、危急時にはそれを優先しなければならない。

質は落ちるが、新人を使うしかないか。そう結論せざるを得なかった。

今エルフィールは、別に強敵との死闘が予想される状況にはない。必要なのは採集時の手数と耳目であって、最悪エルフィールが前衛でも何でもすれば良いのである。考えてみれば、今までハレッシュとナタリエというベテランを使えていたこと自体が幸運だったのだとも言える。

肉料理が来た。

奇しくも子山羊の肉を使ったソテーであった。口に入れてみると、とても柔らかくて美味しい。これは牛乳か何かに漬け込んで煮込んでいるのか。田舎では考えられないほど凝った料理である。

「美味しいですね、これ」

「だろう。 フレアの奴、最近どんどん料理の腕を上げていてな。 妻のことを思い出すよ」

多分花嫁修業のつもりなんだろうなとエルフィールは思ったが、少し良くなったディオの機嫌をまた悪くする訳にも行かないので、敢えて黙っていた。

ハレッシュに話を聞いたが、また騎士の試験に落ちてしまったらしい。だがフレアの方がそろそろ待ちきれなくなっているそうである。フレアさんは大人しそうな佇まいだが、あれはあれで結構アクティブな人だ。ひょっとすると駆け落ちでもするつもりかも知れないと、エルフィールは思っていた。

もっとも、駆け落ちなんかして、幸せになったという話なんか、聞いたこともないが。

ディオ氏が何かの用件で引っ込み、代わりにフレアさんが出てくる。彼女はにこにこしていて、それで何となくディオ氏の不機嫌の理由が想像できた。恐らく、ハレッシュとの件で何か進展があったのだろう。

わざわざ聞くのも野暮だし、肉料理を食べ終えると、幾つか仕事の話だけをして、切り上げることにした。実際、ゴシップのことを話している暇があったら、手数を増やした方が良いのである。

この間からキルキは酒を飛翔亭に納品するようになり、著しく評判を上げている。このままチーズの研究に手間取っていると、更に差を付けられる。ノルディスは元々の地力が高いから油断できる相手ではないし、アイゼルも目的意識を持って動き始めている。エルフィールは、まだまだこれと言った社会的な決め手を手にしていない。それではいけない。ドナースターク家も、決していい顔はしないだろう。

飛翔亭を出ると、ダグラスと真っ正面からかち合った。久し振りである。営業スマイルを作るエルフィールに、ダグラスも表情を消した。

「よう。 久し振りだな」

「お久しぶり」

そう言いつつも、剣の間合いから身を引くエルフィール。以前の事は、まだ忘れてはいない。

此奴も護衛の数には考えられるが、ロマージュとの組み合わせを望めない今、連れて行くのは少し危険だ。身を翻しかけるエルフィールに、ダグラスは少しためらった後、声を掛けてきた。

「何処かに出かけるのか?」

「そうだよ? まあ、今すぐじゃないけどね」

「俺が護衛につこうか?」

「悪いけどパス。 一人は信頼できる戦士が一緒にいた方が良いから」

内心エルフィールは自身の言動に苦笑していた。ただ、仮にも聖騎士様に対してずいぶんな言い草だが、それを言うならダグラスにも非がある。しかし、今日の奴は、妙に食い下がってくる。

「今、手が足りないんだろ? だったら俺がついて行ってやるよ」

「……」

何が目的、とは聞かない。誰にも目的があるのは、当然のことだからだ。

それに、生きている縄の性能実験も兼ねたい。現在同時に十二本まで操作できる自信はついているのだが、まだ防御面で若干甘い面がある。体を鍛えるのと並行して、生きている縄の性能を上げることで、あらゆる危機に対処したいと考えているエルフィールとしては。これは、むしろ好機なのかも知れなかった。

「分かった。 じゃあ、その時は頼むけど、いい?」

「ああ、しばらくは手が空いてるからな」

嘘ばっかりと、エルフィールは内心で呟いた。

エルフィールに騎士団員、しかも生え抜きの聖騎士がつきまとっているのである。何かしら裏に理由があるのは確実だった。

ドナースターク家が背後にいるから、というのは考えにくい。エルフィールなどに貼り付くくらいなら、噂に聞く鮮血のマルローネにでも貼り付けばいいのである。或いは、もっと高位の、一線で働いているドナースターク家の人間とか。若くしてドナースターク家で活躍している人間など幾らでもいる。人材が豊富なドナースターク家には、それこそ綺羅星のごとく英才が揃っているのだ。長代行のシア・ドナースタークを筆頭に、である。

冒険者ギルドに顔も出すが、これと言った使えそうな人物はいなかった。まあ、ハレッシュはどうにか動けそうなので、それで我慢するしかない。そろそろ寒さも本格的になってくる。サバイバル技能の高い人間でないと、この時期外の護衛を任せる訳にはいかないし、難しい所だ。

一旦アトリエに戻ると、シャリオ山羊のミルクを飲み干した。もちろん、腰に手を当てながら一気に、である。

瓶を井戸水に浸けて良く冷やしてあるから、格別の味だ。

「くあー! これだね!」

「本当に乳製品がお好きですね」

「好きだよー。 体も良く育つし」

クノールがエルフィールの胸を一瞥して、視線を逸らした。どういう意味かはよく分からないが、此奴が時々黒い反応をすることを、エルフィールは知っている。まあ、怒るほどのことでもない。

外で採取してきた素材を並べる。地下室に篭もることを告げて、幾つかの作業を指示。頷くと、クノールは黙々と作業に取りかかった。

地下に篭もってからは、延々と実験である。

手に入れてきた様々な材料を、片っ端から試してみる。効果がありそうなものから、無さそうなものまで。

チーズをこれで作れるものなら、安い。

そう思って、エルフィールは牛乳に入れた物質と、その反応をメモし続けたのだった。

 

2、秀才の苦悩

 

キルキがぱたぱたと学校の廊下を歩いていく。とても背が低い彼女だが、すでにアカデミーの有名人だ。二年連続の首位奪取。しかも、それ以降一度も二位に落ちてはいないのである。

歴代でも有数の天才ではないかという声も、既に上がり始めていた。

天才特有の取り巻きは一人も居ない。彼女の側にはエルフィールがいるだけだ。

ノルディスはその後ろ姿を見送ると、自室に戻る。エルフィールが持ち込んできた仕事を、キルキとアイゼルと、分担して行うことにしたのだ。どうも自分はエルフィールのことが好きらしいと、ノルディスも自覚はしている。だから、こういう作業自体は楽しかった。

だが、楽しい気分も自室に戻ると終わりだ。其処では厳しい現実が待っている。

机の上には、両親からの手紙が今日も来ている。必ずしもそれは、好意的なものとは言い難かった。特に最近は、論調が過激になる一方だった。

蜜蝋の封を切って、中を確かめる。

ノルディスの両親は商人で、もう少しで貴族になれるのではないかと言われているほどに豊かである。というよりも、隠し財産がかなり多く、実際には下手な貴族よりも財力があるほどだ。だからこそに、考え方はシビアで、息子にも価値観の共有を求めても来る。

それに、アカデミーにはいるまでは、正確には首位から陥落するまでは気付けなかった。

「また、首位を逃したそうだな」

最初から、厳しい言葉である。父の文字であった。

父はでっぷり太っていて、人前ではいつもにこにこと嬉しそうにしているが、しかし時に別人のように恐ろしい一面を見せる。母も似たようなもので、良くも悪くも似たもの夫婦であった。

妖精族の手伝いと同時に手紙の配達も契約したのだが、その結果がこれだ。父母はノルディスに、いつも厳しい叱責の手紙を送ってくる。

「何歳も年下の小娘にいつも成績で負けて悔しいとは思わないのか。 お前に投資してきたのは、家のためだと言うことを忘れるな。 親不孝をお前はするつもりなのか」

更に激しい口調での説教が、ずっと続いていた。

父母にとって、ノルディスは好成績を挙げることが出来て当然の存在であるらしい。

昔は、良かった。

ノルディスが成果を上げれば上げるほど、父母は良くしてくれた。何でもふんだんにくれたし、いつもにこにことしていた。父母が不機嫌そうにしている所なんて、見たことさえなかった。

しかし、アカデミーに来て、ノルディスはその本性を知ることになったのである。

一位を逃してから、それが顕著になった。あまりにも豹変した両親の様子に、最初はノルディスもショックを受けた。今までノルディスは何一つ不自由ない生活をしてきたからである。

それは、両親の愛という点でも、例外ではなかった。

だがそれは、失われつつある。

「これから、お前への投資を減らす。 生活を切り詰めて反省しろ。 このまま改善が見えない場合は、最終的には学費も止めるからそう思え」

手紙はそう最後に締めくくられていた。

実績を上げられない自分が悪いのは分かっている。実際、弟はノルディスを越えようとずっと必死に努力をしていた。それでノルディスを越えられず、いつも悔しそうにしていた。

今は、その気持ちがようやく分かった。今まではどうしても、ぬるま湯のような環境に浸かっていたから、理解できていなかった。

ベットに転がると、嘆息する。

飛翔亭に出るべきなのかも知れない。それは分かっている。彼処で在野の人とふれあい、仕事を受けて、しっかり将来の自立に向けて動くべきなのだ。エルフィールやキルキはずっとそれをしてきた。アイゼルでさえ、最近は積極的に飛翔亭から仕事を受けている。そうして、社会的な評判を、今の内から築いている。

それなのに、自分はどうしてか、怖くて仕方がない。

エルフィールと何度か外に出て、動物を嬉々として捌くのを見て、彼女と自分では現実が違うことを認識はした。

だが、キルキやアイゼルもそちら側に移行しているのを目の当たりにすると、ノルディスは果てしない恐怖も感じるようになったのだ。平穏だった世界が、侵食されていく。それは、夜の闇のように、いつの間にか。

いずれ自分もああなるのだろうか。そう思うと、震えが止まらない時もあった。

だが、両親がついに痺れを切らした今、もう選択肢は残されていない。今までのようにただ勉強をするだけでは通用しないのは明白だ。今回の学年度試験では、去年のように致命的な成績を取ってしまうことはなかったが、しかし結局キルキとの差を縮めることは出来なかったのである。

共同作業の方は、すぐに終わった。別に腐るような納品物でもないし、納期も遠い。一旦倉庫に片付けておく。

それが済むと、外に出て、あてもなく歩き始める。

闘争心は、湧かない。ずっと自分の先を行っているように思えるキルキやエルフィールの背中を見ても、追い越したいとか、追いつきたいとか思わない。マイペースな思考が、ずっとノルディスの頭の中をたゆたっている。

それが駄目なのだと分かっていても、こればかりはどうしても変えることが出来なかった。

烈火のように猛り狂う虎を、この間の採集で見た。エルフィールが強力な火炎放射杖で、つがいの雌を焼き殺したからである。雄叫びを上げて襲いかかった虎は、エルフィールの全身から伸びた生きている縄に縛り上げられ、そのまま空中で団子のように絞め殺されてしまった。

電光石火の早業で、ノルディスが何も出来なかった。

そして、エルフィールはその虎の皮を剥ぎ、肉や内臓を売って換金したのだった。最近やり方を覚えたといっていたが、その手際は尋常ではなく、熟練の技だとしか思えなかった。

この間、アイゼルにノルディスは言った。汚いことをしてまでも、強くなりたくはないと。

だが手段を選ばないエルフィールは実際に強い。多分今では、普通に学力でもノルディスを凌いでいるはずだ。

道を変えるべきなのか。それとも、このまま己の路を貫くべきなのか。

ノルディスは、ずっと悩み続けていた。

気がつくと、寮を出ていた。ふらふら歩いている内に、此処まで来てしまったらしい。かなり肌寒い。そういえば、外は寒いものだった。ずっと温室で育ってきたから、気付かなかったことだった。

飛翔亭に足を運んでみることにした。

闇に落ちる必要はない。だが、闇がどういう者か知る必要はある。そして、そもそも。温室を出る必要が、今のノルディスにはあった。

アイゼルやエルフィールが受けてくる仕事を、今までは手伝うこともあった。

だが、これからは本格的にやらなければならない。せっかく外に出たのだ。それくらいはしないと、もはや道は開けなかった。

夜道を歩いていると、コートを被った銀髪の女性とすれ違った。何処まで見たことがあると思ったら、ロマージュだ。

ロマージュが振り返る。いつもの妖艶さはなく、むしろ硬質な印象を受けた。表情で、人は随分変わるものである。

「あら? 貴方は確か」

「以前何度かお会いしたかと思います。 ノルディスです」

「ああ、エリーが連れていたあの子ね」

「……」

連れていた。まあ、他人からすれば、そういう認識になるのだろう。結局の所、ノルディスの社会的な認識は、その程度でしかないと言うことだ。ちょっとだけ、悔しいと思った。

しかし、まだ闘争心は湧いてこない。

飛翔亭に歩く。となりをロマージュが歩いた。どうも同じ所を目指しているらしい。何を話して良いか分からないノルディスに、ロマージュは半ば呆れながら言う。

「こんな美人が側にいるのに、何か気が効いたことは言えないの?」

「ごめんなさい」

「はあ。 貴方は優秀な学生だと聞いていたけれど、それ以上ではないのね」

そう言われると、返す言葉もなかった。

飛翔亭に到着。中は別世界のような熱気に満ち、彼方此方で商談らしきものが行われていた。

エルフィールの独壇場である、生命力に満ちた世界。彼女だって、本をかなり読む人間である。その点ではノルディスと同じだ。違うのは、ノルディスとは違う守備範囲も持っている、という事だろう。

そして、それが今は、とても大きな差を呼び始めている。

更に言えば、キルキは。あのまだ幼ささえ残している子供は。ノルディスにはない、全く別の強みを持っているとしか思えなかった。

肩を叩くと、ロマージュは着替えをするのか、奥の控え室に消えていった。何だか勇気を貰った気がする。

カウンターについて、料理を注文。むっつり黙り込んでいるおっかない大柄な男性が、多分ディオ=シェンクだろう。正式にまだ紹介はしてもらっていないが、一年時の試験の時に顔を合わせたし、アイゼルやエルフィールから話は聞いていた。伝説的な冒険者だったというだけ有り、貫禄も迫力も凄まじい。

「何のようかな」

「あ、あの。 仕事を……」

「やれやれ、エリーから話は聞いていたが、本当に脆弱だな。 錬金術関連の仕事が欲しいんだな?」

自分を容赦なく計りに来る目に、ノルディスは圧倒される。

試験の時には、そもそも何をしているか分からないうちに終わってしまった。話をしたのも、確か別の酒場のマスターだった気もする。料理を持ってきてくれたのは、桃色の髪の美しい女性であった。厨房に戻る彼女を一瞥すると、ディオは仕事の話をしてくれる。

「うちでは信用を第一にしていてな。 例えどんなに前評判が良くても、いきなり難しい仕事を任せることはない。 エリーにうちから難しい仕事を廻しているのは、高品質の納品物が、顧客から良い評価を得ているから、だからだ」

「はい。 僕も中和剤からですか?」

「そうだな。 エリーから共同作業なんかの事情は聞いてるが、それでも単独で受けるんならそれがいい。 錬金術アカデミーで幾らでも必要になる中和剤や、ドナースターク家が管理している宝石ギルド用に研磨剤なんかが最初の仕事としては適当だな」

「分かりました。 それでは、どちらも受けさせていただきます」

「期日は守れよ。 学生の本分も疎かにするな」

頷くと、ノルディスは丁寧に料理を食べ終えた。テーブルマナーは両親に叩き込まれて、徹底的に身につけている。

両親はノルディスに、商売を継がせようとは考えていない様子だ。その代わり、別の方法で名前を売り、金が儲かる方法を期待しているように思える。多分錬金術師として、優れた医師にもなることが、それだと思っているのだろう。

いずれにしても、ノルディスには後がない。

今は少しでも温室の外に出て、其処の空気になれなければならなかった。

 

自室に戻る。両親からの手紙はなく、それだけでもちょっとほっとした。

代わりに、部屋の隅でちょこんと座っている影がある。赤い服を着た妖精、カルルである。性別は存在しないようだが、人間の幼児にそっくりな姿をしている。やらせてみると何でも出来るし、覚えも良いし頭も悪くない。課題などをこなす際の助手として、非常に便利だ。

「お帰りなさいませ、ノルディス様」

「ただいま。 早速仕事だけど、いい?」

「何なりと」

少し考えてから、ノルディスは蓄えにある乾燥させたトーン草を、戸棚から出す。中和剤はこっちで良いとして、研磨剤が問題だ。

研磨剤の材料になるフェスト石は結構彼方此方に転がっているが、不純物が大量に混じっているものも多い。純度が高いものになると、なかなか見つからない。ノルディスが見た所、ディオが要求してきている品質は、業者が持ってくるようなものでは駄目で、エルフィールが野生の猛獣と戦って入手しているようなものでないと話にならないだろう。

妖精族のネットワークで入手することは出来るが、今はその時間がない。

幸い、この乾燥させたトーン草に関しては、以前エルフィールと一緒に入手してきたもので、品質面に関しては自信がある。カルルにこれを渡しながら、ノルディスは指示を出す。

「これを全て中和剤に変えておいて」

「分かりました。 ノルディス様は?」

「僕はこれから、出かけてくる」

まずはイングリド先生の部屋に行って、外出の許可を貰ってくる必要がある。それが終わったらエルフィールに声を掛けてみる。彼女に用事があるようだったら、冒険者ギルドに行かなければならないだろう。

外に出て気付く。

そういえば、今は夜だった。

嘆息すると、一旦部屋に戻る。すぐに作業を始めていたカルルが、不思議そうにノルディスを見つめた。

「もう夜だって忘れてた。 君も適当な所で切り上げていいよ。 そんなに急がなくても大丈夫だから」

そう言うのが、どうしてか、何処か気恥ずかしかった。

ベッドに潜り込む。新しいことを始めたからか、どうしてか目が醒めて、夜中まで眠ることが出来なかった。

 

翌朝、ノルディスはかなり早くに目が醒めた。夜更かしをしたというのに、不思議な話である。

食事を終えて、顔を洗って。カルルが仕事を始めたのを横目に、部屋を出る。早朝と言うこともあり、寮の学生達もあまり動き回っていない。廊下ですれ違う生徒も、あまり多くはなかった。

三階に上がる。途中で、ウェーブの掛かった髪を持つとろそうな女性が、ヘルミーナ先生と何か話をしているのを見た。彼女はおどおどするばかりで、ヘルミーナ先生は子ネズミをもてあそぶ虎のように何か楽しんでいるように見えた。あの人は途轍もなくおっかないが、酷いことはあまりしないはずだと思い、側を通り過ぎる。

おぞましい絵が一杯描かれたヘルミーナ先生の研究室を通り過ぎて、イングリド先生の部屋に。先生はもう調合を始めていて、部屋にはもうもうと煙が立ちこめていた。

「おや? おはよう、ノルディス。 このような早朝から珍しいですね」

「イングリド先生、おはようございます。 実は外出許可をいただきたいのですが」

「理由は?」

「僕も、仕事を外で受けてみることにしました。 それで」

イングリド先生は、あっさり許可をくれた。ちょっと拍子抜けしながら、部屋に戻る。途中、もうヘルミーナ先生はいなかった。

寮に戻ってから、気が変わった。アイゼルの部屋に向かう。

考えてみれば、彼女も既に単独で外に何回か出ているはずで、アドバイスを貰うことは出来るはずだった。

アイゼルは授業に出る準備をしているようだったが、ノルディスが顔を見せると、嫌そうな顔もせずに応じてくれた。話を聞くと、すぐにアドバイスを幾つかくれる。

「フェストならストルデル川の上流がいいわ。 ただ、あの辺りは一人で出かけるとちょっと危ないみたい」

「やっぱり、猛獣が出るの?」

「それもあるのだけれど。 以前一緒に出かけた冒険者の話によると、魔物が数年前まで住み着いていたんだって」

魔物。聞いたことはある。自然の摂理に反した謎の生物で、悪魔などもこの範疇に含まれるという。

この辺りでは専門の業者にほとんど刈り尽くされて殆ど生き残りはいないと言うことだが、辺境ではまだ生息地域があるという。彼らは人間を天敵として認識しているため、攻撃は容赦ないものになるとも聞いている。ノルディスでは、出会い頭に八つ裂きにされてしまうだろう。

「それなら、冒険者を雇った方が良いかな」

「エリーに聞いてみるのも良いかもしれないわ。 私も何人か知り合いの冒険者はいるけれど、あの子ほど顔は広くないから」

「分かった。 有難う、アイゼル」

礼を言うと、ほんのり頬を赤く染めて、アイゼルは頷いた。

エルフィールのアトリエに、そのまま向かう。いなければそれまでだ。冒険者ギルドにも足を運ぶしかない。

エルフィールのアトリエの前で、看板が営業中になっていることを確認。ほっとしている自分に気付いて、ノルディスは情けないと思った。ドアをノックする。エルフィールが、ひょこんと顔を出した。

「おはよう、エリー」

「どうしたの? 授業は?」

「実は、ちょっと外に出ようと思うんだ。 フェストが手元に足りなくて」

「お、飛翔亭の依頼を受けたの?」

瞬時に見破られた。ちょっと悔しいような、恐ろしいような、不思議な気分だった。

アトリエにはいる。何かの痛烈な発酵臭がした。かなりきつくて、眉をひそめたノルディスに、エルフィールは笑いながら言う。

「ごめんねー。 チーズを作成する実験が、大詰めで」

「ああ、レンネットを自作しようって言うあれだね」

「そうそう。 レンネットって言う地方もあるんだっけ」

エルフィールの話によると、小牛の胃袋にある物質は、地方によって様々な呼ばれ方をするという。ノルディスが言うように、レンネットという地方もあるのだと、彼女は笑った。

この間イングリド先生に聞いて、レポートも見た。非常に緻密で、むしろ偏執的な部分さえ感じられるほどだった。凄いレポートだと思ったが、同時に薄ら寒さも感じた。どうして、これほどまでに熱心に動けるのか、どうしても理解できなかったからである。

エルフィールの強さとは、何だろう。

「それで、お出かけするのに、私のアドバイスを受けに来たの?」

「そうなんだよ。 無理を言ってごめんね、エリー」

ストルデル川の上流でフェストを採取したいというと、彼女は快諾してくれた。良かったと内心で思ったのは、彼女はノルディスを信頼してくれていると感じたからだ。もっとも、道具程度にしか思われていない可能性も高い。

世間で言う情とか道義とかが、エルフィールには無いようだと、ノルディスは感じている。多分アイゼルやノルディスも、エルフィールにとっては便利な道具の一つ、に過ぎないのだろう。アイゼルに対して甘い部分があるようだが、それもお気に入りの道具だから、なのかも知れない。

今は、別にそれで良い。ノルディスは、エルフィールの心が、どうもちぐはぐなように思えて仕方がないのだ。その歪みがどうにかならない限り、彼女がまともになることはないだろう。それは怒ったり怒鳴ったりして、どうにかなることではない。ノルディスがどうにかできることでもない。

「別にいいよ。 うーん、そうだね。 私もちょっと他の実験素材が欲しかった所だし、丁度いいかな。 キルキも誘ってみるけど、いい?」

「うん」

エルフィールと二人きりで出かけられるかと一瞬だけ期待はしたが、流石にそれは危ないだろうとも思い直す。

すぐに隣のアトリエに行って、エルフィールはキルキを連れてきた。キルキはノルディスを一瞥すると、頷く。

「分かった。 前にノルディスには何度かお世話になったから、いいよ」

「じゃ、早速出かけようか。 荷車は一個だけで大丈夫だね」

「うん。 二日くらいなら、空けても平気」

「ごめん。 今度、お礼するね」

すぐに動き始める二人を見て、ノルディスは、羨ましいと思うと同時に、凄いなと敬服していた。

せめて荷車は引こうかとノルディスは思ったのだが。エルフィールの生きている縄が平然と引いているのを見て、言い出せなくて悔しかった。

 

3、それぞれの思惑

 

久し振りの近場への採集であり、エルフィールは気分転換のつもりであった。それに、今は片っ端から実験素材を集めたい状況である。珍しくノルディスから外出したいというのは面白かったと言う理由もある。

案外キルキが義理堅いことは知っていたが、嫌な顔一つ見せずに同行してくれたのは面白かった。二人きりで出かけると色々知らない側面を見ることが出来たりして、楽しいことも多い。

「それにしても、どうして急に飛翔亭で仕事受ける気になったの?」

「うん。 いろいろあってね」

「ふうん」

「ノルディス、今のままでも充分賢い。 私、きっと追い越される」

キルキがそう言って、ノルディスは少し悔しそうにしながらも、有難うと応えていた。この様子では、まだ闘争心とか、そういうものは持ち合わせていなさそうである。多分何かしらの必要に迫られて、外に出たのだろう。

それならば、まだまだ畏れるには足りない。

この間の試験以降、順位は全く変動していない。モヤシ学生組の中には、成績を挽回できずに心がへし折られてしまった者もいるようだが、それはそれである。上位陣が安定してきたという言い方も出来るだろう。

いずれにしても、来年も学年度試験はあり、予想の立てようがない事だけは、誰もが認識していた。丸暗記など何の役にも立たない。しっかり理解した上で、応用が出来るほど実践を重ねていくしかない。

そうすれば、一人前になった時も、恐らく困惑することが無くなるだろう。先生達の愛の鞭という奴だ。愛がよく分からない現状、言葉でしか意味は分からないが。

荷車の車輪が、がたがたと規則的に音を立てる。

「フェスト以外は、私が貰っていい?」

「エリー、私も欲しい」

「冗談だよ。 というわけで、フェスト以外は私とキルキで分けちゃっていいかな?」

「トーン草の良いのがあったら欲しいんだけど、だめかな」

意外なことをノルディスが言い出す。とにかく満たされているのがよく分かるノルディスは、以前は無給での労働でさえ嫌な顔をしなかったものだが。意識は少しずつ変わってきていると言うことなのだろうか。

まあ、それは別にエルフィールとしても、異存はない。むしろ、今までより手強くなってくれたくらいのほうが、楽しいほどだ。

「意外だね。 ノルディス、無欲だって思ってたけど」

「ごめん。 でも、今回僕も、色々要りようになっていて」

「私は平気。 それで大丈夫」

キルキが代わると言い出したが、ノルディスが僕がと割って入った。ちょっと心配したが、特に苦労することもなく、荷車を引き始める。まあ、空なのだから当然だが。エルフィールは生きている縄を使って微細な調整をしていただけで、別に引くだけならキルキでも充分な代物である。

問題はこれに積載量ぎりぎりの物資を詰め込んだ場合だ。つまり、帰りはモヤシではどうにもならないし、ましてや童女に任せる訳にも行かないので、エルフィールが運ぶことになる。

今、生きている縄が抱えている課題は二つ。

微細な調整と、攻撃からの防御。その二つの内、一つを今回解決したいと思っていた。

だから、声は掛けて置いたのだが、登場は遅い。苛々してきた辺りで、後ろから足音が追いついてきた。

「すまん、遅れた」

「あ。 ダグラス」

キルキが呟いて、少し距離を取る。

其処には、青い鎧を着た聖騎士ダグラスがいた。腰にはしっかり剣をぶら下げている。

今回はロマージュがいないことで、不安だとキルキも思っているのだろう。エルフィールにしがみつくキルキに、ダグラスは嘆息した。

「何もしねーよ。 護衛に呼ばれただけだ」

「本当? エリー」

「本当だよ。 まあ、何かあっても大丈夫だから、信用して」

キルキは頷くと、ダグラスを一瞥して、また歩き始めた。

ダグラスは舌打ちすると、少し遅れて歩き始める。ノルディスを見て、不安げに眼を細めた。

ノルディスのことは伝えてある。だが、此処まで細いとは思わなかったのだろう。

以降は、沈黙が続いた。

 

夕刻、ヘーベル湖の側でキャンプをする。既にキルキも何回か外泊を経験しているので、天幕の設営はお手の物だ。エルフィールは生きている縄で天幕の設営を行いながら、自身は並行で、見掛け次第、材料になりそうなものを片っ端から油紙で包んで荷車に積んでいく。

ダグラスが不思議そうにそんなエルフィールに声を掛けてくる。

「何だ、そんな雑草をどうするんだ?」

「今の研究って総当たりでね。 こうやって何でも調べて行かなきゃいけないの。 もっとも、これは雑草じゃなくて、フロアレーベンって名前の香草だけど」

「ああ、そうか。 悪いな」

「普通食べないから、知らないのは仕方がないよ。 ただね、秋になると白い小さな花を付けるんだよ」

ダグラスが意外そうな顔をしたので、それが面白かった。多分エルフィールのことを血も涙もない存在だと思っていたのだろう。

残念だがエルフィールには大事な人もいるし、好きなものだってある。

前者はアデリーさんで、好きなものはチーズケーキ。それだけかと思えるかも知れないが、実際に具体的な自分を知覚している人間なんかあまりいないことを、エルフィールは最近何となく悟り始めていた。

まあ、ダグラスの認識ももっともである。だからといって消されたりする気はさらさらないが。

生きている縄を使って、天幕の細かい部分を調整しながら、並行で辺りの草花を採取する。ダグラスはそれを、呆れてみていた。

ノルディスが近付いてくる。そして、どこから見つけたのか、質が良さそうなトーン草を荷車に詰め込んだ。

「ごめんね。 少しくらいなら良いよね」

「いいよ。 意外と良い質のを見つけてくるね」

「本で囓った知識だけど、どういう所に質が良いのがあるかは把握しているから」

「なるほど」

本で囓った知識と言うが、アデリーさんに教わったもの以外は、エルフィールも本を読んだり、人づてに聞いて学んだものばかりだ。動物の捌き方の幾つかも、実は本でやり方を調べて、実践で四苦八苦して覚えたものなのである。

だから、ノルディスのことを、エルフィールは馬鹿にしなかった。

男子の天幕と、女子の天幕は当然別々にする。これはダグラスを警戒していることもあるが、もちろん実用的な意味もある。若干男子と女子では生活リズムが違うから、こうすることで効率化を図るのである。

見張りの順番を決めると、エルフィールは幾つかの生きている縄に指示を出す。それらは密かに地面の下に、地中生活性の蛇のように潜り込んでいった。もしもという時に備えての保険である。性能実験用に幾つかの暗示を強くした特性のものであり、今回が初投入になる。

以前感じた防御の甘さを克服するのに、今回は良い機会だ。

ダグラスが血迷わなくても、何か機会があった時には、即座に動けるようにしておかなければならない。

キルキは流石に長距離を歩いても、簡単には疲弊しなくなってきていた。以前はこてんと落ちてしまったのだが、今日は寝袋にいそいそと潜り込むと、参考書を取りだして読み始める。

「キルキ、アルコールの研究はどう?」

「順調。 でも、やっぱり中毒の仕組みは、まだよく分からない」

「中毒にした鼠を解剖してみた?」

「それは最後の手にしたい」

エルフィールだったら、酒の毒にやられて死んだ人間を解剖してみる所だ。もっとも、それには普通の人間の死体を解剖してみて、差異が分かるくらいにはなっておかないと意味がないだろうが。

キルキは優しい子だ。決して弱い子ではない。年相応というべきなのか、怖がりな部分もあるが、アイゼルほどではない。

必要となれば、多分解剖だってするだろう。だがそれは最終手段としたいし、死者の尊厳だって守りたいのだ。だから、解剖を躊躇する。エルフィールとは、違う強さの結果、導かれる結論。

だから、エルフィールは、キルキの判断を笑わない。

「エリーは、研究どう?」

「あらゆる物質を試してるんだけど、なかなかね。 早くチーズの代替物質を見つけないと、首がなくなっちゃうよ」

「頑張って」

キルキの言葉に、嫌みな要素は全くない。というよりも、多分嘘をついたりするような概念自体が、この子にはないはずだ。

結局、この子は両親の扱いで酷く深い心の傷を負い、そして今、同年代がいない環境で認められようと必死に背伸びしてあがいている。強い目的意識はあるものの、その行動は周囲にいる平均的な、例えば嘘をつける女の子とはまるで違ってきて当然である。

だが、その歪みこそが、大いなる成果を生むのだろう。

アデリーさんも言っていた。

普通では、出来ることにもどうしても限界があると。だから、如何に異常なことをしていても、時には止めてはならないのだと。

しかし、こうも言っていた。

だが、時には命を賭けても、止める勇気も必要だと。

まだ、エルフィールには意味が分からない部分も多い。だが、キルキを今止めて、「普通」にしては駄目だと言うことくらいは分かる。

流石にしばらくすると、遅くもなってきたからか、キルキが可愛い欠伸をした。

エルフィールは順番通り天幕の外に出ると、見張りに立つ。最初に見張りに出ていたダグラスと、正面からかちあった。

「もう交代の時間か?」

「うん」

「そうか。 悪いが、先に休ませて貰うぜ」

男子の天幕に、ダグラスが潜り込む。その様子から、彼が本当に疲弊していることを、エルフィールは敏感に感じ取っていた。騎士団は妙な動きをしているようだが、多分それとは無関係ではないだろう。

振り向いたらいきなり後ろからばっさりという可能性もある。ダグラスは特にこれと言った能力はないようだが、それでも伊達に聖騎士をやっている訳ではない。今のエルフィールとは、近接戦闘の手腕で大きな差がある。間合いに入られたらかなり危ない。

だから、背中にも目を付けておく訓練をするには、丁度良かった。

空は、降るような星空。ザールブルグから遠いからか、まるで宝石箱をぶちまけたような美しさであった。そして何よりも、明るい。このくらいだと、もう明かりが必要ないほどだ。

美しいとは思うが、しかし感動という感情も、よく分からない。やはりチーズケーキが美味しく出来た時の、あれと同じなのだろうか。

伸びをすると、エルフィールは、今後どんな実験をしていくべきか、頭の中で構築を続けた。

 

天幕にはいると、ダグラスは外の気配を伺い、そして舌打ちした。

相当に腕を上げている。前も並の騎士を凌ぐ程度の実力はあったが、更にそれを遙かに上回る所まで強くなっている。

毎朝相当な訓練をしていることは知っていた。生きている縄を毎度かなり上手に使いこなし、その技量もどんどん上がっていることも。

しかしながら、これ以上強くなられると、ダグラスでは手に負えなくなってくるかも知れない。

若くして聖騎士になったことで、ダグラスは希望の若手などと言われている。多少生意気な行動を取っても許されるし、時には小隊長としての仕事をすることも出てくる。今まで、仕事上で大きなミスをしたことは一度だってない。

だが、知っている。

エリアレッテやクーゲルはもっと上の使い手だし、カミラやエンデルクには今の実力では逆立ちしても勝てないと。それに何より、もしもあまりにも邪魔だと思われたら、牙が殺しに掛かってくるだろう。そうなったら、ダグラスなんか一巻の終わりだ。万が一にも助かりはしないだろう。

外のエルフィールは、周囲に満遍なく警戒の網の目を這わせていて、とてもではないが隙は付けそうにない。いや、本人だけならつくことは可能だろう。流石にエルフィール単独の戦闘能力であれば、ダグラスの方が上回っている。だが、あの生きている縄が、まるで蛇のように潜んでいるのは間違いない。手足を取られたら最後、奴が持っている意味の分からない機構を秘めた杖で、焼き殺されるか貫かれるか、どちらかの選択肢しかあり得ない。

監視せよ。それが受けている命令だ。

だから猫の手も借りたい今の状況で、ダグラスはこんな温い仕事をしていられる。何日も眠らないのが当然のような、騎士団の現状を知っているから、歯がみもする。だが錬金術アカデミーが期待しているエルフィールの監視は、騎士団にとっても急務なのだ。

騎士団には色々汚い部分もある。邪悪と行って良い存在だと、言い切って良い側面だってある。

だがそれでも、この多くの人が暮らす大国を守るには必要な存在であり、腐敗も許容できる範囲なのも事実だ。

かって、宮仕えというのは、物笑いの種でしかなかった。どんなことがあっても、自分は腐らないぞと思ってもいた。

しかし小国の民であるという現実、家族の貧困という過酷。それに実際に働いてみて、給金を貰う難しさを知った今は、もはやダグラスにとって、過去の思考は文字通り忘れ去られたものでしかない。

汚れ仕事だって経験した。殺した間諜の中には、子供だっていた。妹と同じくらいの年頃の子供だった。吐いて、泣いた。だが、自分が行った現実に、変わりは無かった。そうやって汚い社会の、邪悪な部分に入り込んで。それで貰ったお給金を家族に送ったのだ。そして、誰もがそうしてお金を稼いでいることに、今は気付いている。

大きく嘆息した。

いつの間にか、すっかり自分は大人になっていた。子供な部分は今でもある。それなのに、どうしてか、闇や悪に妥協できるようになっていた。

幼い頃に馬鹿にしながらも実は憧れていた騎士の現実が、泥と血にまみれていた事は、もういい。しかし、現実の騎士と、自分がいつの間にか同じになっていることに気付いた時。ダグラスは流石にじっと手を見ざるを得なかった。

もちろん、度が過ぎた邪悪は、今でも見過ごす気はない。もしもあまりにも酷すぎるダーティワークを命じられたら、騎士団を抜けるつもりだ。誇りは今でもある。

だが、あのエルフィールが。手段を一再選ばない恐ろしい女が順当に力を伸ばし、社会的な地位も上げているのを見ていると、ダグラスの心は揺らぐ。エルフィールのやり方が正しいとは絶対に思わない。

しかし、否定もしきれないのだ。

何度か浅い眠りを取っている間に、見張りの交代の時間が来た。キルキが起こしに来たので、外に出る。たき火はまだ残っていた。

兵糧袋から干し肉を取りだして、たき火で炙る。カチカチに乾いている肉も、火を通すと結構美味しく食べられるものなのだ。しばらく炙ってから口に入れて、じっくり味わいながら食べる。

ごそごそと音がしたので、思わず剣に手を掛けていた。

「ごめん、起こしちゃった?」

「何だ、あんたか」

天幕から、ノルディスが這いだしてきた音だった。神経過敏になっていたらしいと、自身に苦笑する。

ノルディスは平穏な世界で平穏に生きてきたのだろう。小国で血で血を洗う競争の中、必死に技を磨いたダグラスとは根本的に違う人種に思えた。柔い骨格や鈍い動き、それに温そうな頭。とても勉強は出来るのだろうが、社会で役に立つとは思えない人間だ。だが、別に侮蔑はしない。平和な世界で生きてきたというのは結構なことだし、何より善良そうだ。

だいたい、こういう民を守るのが、本来の騎士団の仕事である。エルフィールと同じにはなりたくないという無意識の歯止めが、ダグラスの思考をある程度制御しているのは間違いのない所であった。

「見張りは俺がやっておくから、今の内に休んでおくんだな。 そんな細い体じゃ、今日歩いてきただけでも、結構辛かっただろ?」

「うん。 でも、大丈夫」

「大丈夫なもんか。 明日死んでもしらねえぞ」

ノルディスは平気だと言った。そういえば、何か覚悟のようなものが感じられる。それに、見たところ故郷でとっくに大人として認められる年齢だ。それである以上、本人の意志は尊重するのが筋だった。

近くにノルディスが座る。別に嫌でもないので、放って置いた。

「ええと、ダグラスって呼んでいい?」

「ああ。 あんたはノルディスさんだったよな」

「呼び捨ててでいいよ」

「分かった。 そうさせて貰う」

その年で聖騎士は凄いねと言われたので、頭を掻く。実は同時期に聖騎士になった人間に、もっと年下のアデリーがいる。すっかり今では会うことも出来なくなってしまった、初恋の相手。魔王の手から救い出せなかった、悲しい女の子だ。

だから、ダグラスは若くして聖騎士になったと言うことを、喜べない。

「僕はまだ学生だから、自立している人から色々話を聞きたくて。 やっぱり一人暮らしをすると、大人になるものなのかい?」

「そんなのは迷信だな」

ダグラスも最初はそう思っていた。自分で何でもするようになるから、人間として成長するのではないかと。

現実は違う。実際に一人暮らしを初めてよく分かった。他の騎士達の生活を見ていても、理解は難しくない。

「一人暮らしなんかしたって、人間は大人になんかなりゃしねえよ。 好き勝手が出来るようになるから、却って駄目になる奴も少なくねえ。 特に酒が好きだったりするような奴は、本当に歯止めが利かない飲み方をしたりして、気がつくと誰も知らないうちに死んでたりする事もある。 異臭騒ぎで駆けつけて、一人暮らしで不摂生な生活してた奴の死体を見つけたことも何度かある」

「そう、なんだ。 何事も難しいね」

「守る者が出来たってそうだ。 成長する奴だっているが、そうなったって何も代わらない奴だっている。 この間保護した子供なんか、酒浸りの母親から酷い暴力を受け続けていたらしくってな」

そういった現実を見続けると、やはり変わる。

ダグラスは今や、何にも夢を見てはいなかった。己の誇りを軸に生きてはいるが、それも何時折れるか分からない。折れてしまったら、やはり酒か何かに逃避するしかないのかも知れなかった。

「それでも、君は逃げないんだね」

「生活もあるし、故郷にいる家族に仕送りもしなきゃいけないからな。 弱音なんか吐いていられねえよ」

「やっぱり、僕は子供だな」

「そうだ、子供だ。 でも、その年で子供でいられるってのは幸せなこと何じゃねえのかな。 話には聞いているが、学生の中じゃトップクラスの頭脳の持ち主なんだろ? その頭脳を生かして、将来社会に貢献して、この世を便利にしてくれよ」

この干し肉一つをとっても、末端の兵士達はもっと酷いものを食べている。作成技術が進歩すれば、これくらいのものが下々まで行き渡るだろう。そうすれば、みんな幸せになれる。幸せになるだけではなく、行軍時の士気だって保てるし、糧食の不備が原因で広まるような疫病だって予防できるだろう。

ノルディスは寂しそうに頷くと、天幕に戻っていった。

空の星が美しい。そろそろ、夜明けになるだろう。

寒いが、耐えきれないほどではない。たき火はあるし、食料もある。それだけで、天国も同じだった。

しばらくすると、エルフィールが天幕から出てきた。目を擦りながら、ダグラスに遠慮無く欠伸を見せつける。

「おはろう。 ふああ」

「何だよ、寝不足か?」

「うん。 ちょっとチーズについて考えててね」

「暢気な奴だな」

多分、恐らくは物騒な意味なのだろうと知った上で、ダグラスは敢えてそう言った。エルフィールは薄ら笑いだけでそれに応えた。それで、物騒な意味だと言うことがよく分かった。

小型の甲虫が空を飛んでいた。目にも止まらぬ速さでエルフィールの生きている縄がそれを捕獲し、火で炙り始める。軽く洗った後、良く焼けた虫を食べ始めるエルフィール。昆虫食はレンジャー訓練などでも行うが、流石に此処まで息が合っていると凄い。

「食べる?」

「遠慮しとく」

出身地が田舎だからやったことはあるが、積極的に食べたいとは思わない。これは単純に嗜好上の問題だ。

ノルディスが起きてきた。キルキはとっくに起きていたようで、着替えた状態で天幕から出てくる。ノルディスよりもよっぽどしっかりしているように見えるのは、エルフィールと同じようにアトリエ生活をして鍛え抜かれているからだろう。

「お昼までに、目的地に行こう。 ノルディス、大丈夫? ついてこれる?」

「何とか」

「分かった。 じゃあ、頑張ってみようか」

エルフィールに肩を叩かれると、ノルディスはちょっと嬉しそうにした。

だが、これはひょっとしたら、特に帰りは背負って行くことになるかも知れないと、ダグラスは思った。

 

キルキの少し前を、荒い息をつきながらノルディスが歩いている。相当苦しいだろうに、なかなか言い出せない様子は、ちょっと可哀想だった。

その気持ちは分かるので、なおさらだ。キルキも両親が酒に酔って狂乱している時は、じっと身を縮めているしかなかった。何か言えば殴られるし、目についただけで蹴られたからだ。

いつのまにか、喋るのがとても下手になった。

でも、強い目的意識で、恐怖は抑えるようにしていた。あんなに酔っている時は怖くても、そうでない時はとても優しいお父さんとお母さんだからだ。二人をあの悪魔のような飲み物から救うまでは、へこたれてなどいられなかった。

今、酒を頼まれて製造販売しているが、実はこれにはからくりがある。酒を飲み過ぎると害が出ることは既にキルキも知っているので、ある程度飲むと食欲と渇きに押さえが掛かるように少し薬を混ぜているのだ。これの味を消すのに随分苦労したが、今は有効に機能している。実際、キルキの酒は途中ですっきり止められると評判になっていた。

たくさん飲むと、悪魔の毒。しかし、少し飲むだけなら、心の痛みを和らげる優しい水。

最初は全てを憎んでいたキルキも、研究するにつれてそう考えるようになっていた。だからこそ、悪魔の毒にしないように、今後も調べなければならないのだ。

河原に降りると、荷車の負担が倍増する。

エリーの荷車は兎に角稼働が激しいから、車軸も傷みが早い。非常に頑丈な荷車であるのにもかかわらず、である。

ダグラスと、エリーの生きている縄が共同して、荷車を引き始める。大きな岩とかがあると一大事だ。周囲の小石が車輪に弾かれて、ばちんと大きな音を立てた。となりではあんなに穏やかにストルデル川が歌っているのに、こっちはとんだ修羅場だ。

「エリー、私も手伝う」

「ぼ、僕も」

ノルディスがふらふらなのにそう言う。生きている縄を触手のように伸ばして、邪魔な小石をひょいひょいと避けながら、エリーは此方を見ずに応えた。

「じゃ、キルキは見張り。 ノルディスは体力温存してて」

「ええっ!?」

「平たく言うと、邪魔。 体力がないんだから、無理な時はそう言って貰わないと困るんだけどな。 特にお外では」

「お、おい」

ダグラスが流石にノルディスを気の毒だと思ったのか、そんな風にたしなめ掛かる。だが、そもそもエリーは、ノルディスの様子に興味がないようだった。或いは、体力を早めに回復した状態のことだけを、計算に入れているのかも知れない。

ちょっと凹んだ様子で、とぼとぼとノルディスがついてくる。キルキは精一杯背を伸ばして、彼方此方を見回した。

外に何度も出ている内に、冒険者のおじさんやおねえさんから、気配の読み方は教わった。ある程度は出来るようになってきた。

例えば、今少し河原の上の奥に行った所には、何匹か鹿がいる。エルフィールが興味を見せていないと言うことは、狩る気がないのだろう。まだ森のことについての知識はあまりないから、その辺の理由は推察でしか分からない。食料が足りているか、或いは森の動物の個体数が安定しているからかも知れない。

「僕、何だか情けないよ」

「そう思うなら、何度も外に出て、体力を付けると良いよ。 後はお肉をたくさん食べて、筋力を上げるとか」

エリーの言い分は、まるきり機能的なことだけを考慮したもので、殆ど感情には触れていないように、キルキには思えた。

いつも感情をぐっと押し殺しているキルキにも、その気持ちは少し分かる。だが、ノルディスの受けている悲痛なストレスにも、気付いていた。

でも、エリーはどうしてか、心が分からない。だから、キルキは、エリーに言うのではなく、とぼとぼついてくるノルディスに告げた。

「ノルディス、私より頭良い。 だから、それを生かせばいい」

「……」

そういえば、一年の学年試験以来、ノルディスがキルキを成績で上回ったことは一度もないのだった。

しまったと思った時には、もう遅かった。失敗したが、掛ける言葉はもう見つからなかった。ノルディスはさらにどよんと沈み込んで、とぼとぼと歩いていた。

採取地に到着する。

川が大きくうねっている場所で、何重にも堤防が作られている。かってシグザール王国の初期に、此処では何度も大規模な水害が起こったのだという。そのためある程度川の勢いを殺すために、こういう地形を敢えて作り、水害の場合は水の勢いを殺す工夫をしたのだとか。

その影響で、この近辺には他と違う鉱石類が多数流れ着く。特にフェスト系の軽い石は多く転がっており、穴場中の穴場だ。

「それじゃあ、ダグラスは見張りよろしく。 全員散開。 ノルディス、フェストの採集が終わったら教えてね」

「うん……」

やっぱりノルディスは悲しそうだった。

エリーは何一つ間違ったことを言ってはいない。ただ、心が言葉に入っていなかったというだけだ。

むしろとどめを刺したのはキルキの言葉であり、それを考えると胸が痛む。

しかし、既にノルディスは一人でフェストを拾いに行ってしまった。どうしようかと思って途方に暮れたキルキだったが、頭を振って、採集に集中する。今は、お酒の研究が先だ。帰り道にでも、ノルディスはどうにかして慰めればいい。或いはアイゼルに謝って、慰めてあげてほしいとでも頼むべきかも知れなかった。

頭を切り換える。

もうキルキも、二年間アトリエで過ごしているのだ。仕事に関しては、とっくにプロとしての意識だって持っている。まだ学生だが、仕事を受けてそれで生活している以上、当然のことだった。

そしてプロとは、失敗をリカバーできる人間のことだ。

だから、この失敗もリカバーしよう。そうキルキは思った。

 

エリーが連れてきてくれた穴場だけあり、品質がよいフェスト石がごろごろしていた。額の汗を拭いながら作業をしたノルディスは、半刻もしないうちに必要量を集めることが出来ていた。

軽いフェスト石とは言え、量が揃えば重くなる。荷車に積むのは少し不安だったが、全部積み込んでも頑丈な荷車は平気だった。エルフィールは雑多な材料類をどかっと積み込んでくる。キルキはと言うと、何かの植物をたくさん摘んできていた。まだ見たことがない素材である。

「キルキ、それは?」

「お酒の材料。 お酒の毒が、体の中で中和されやすくなるように、隠し味で入れてる」

「へえ。 本当にお酒の研究を進めてるんだね」

「ノルディスも凄い。 お薬を一杯作れる」

そう言われると、ちょっと嬉しい。

確かに此処にいる全員の中で、ノルディスが一番薬学には通じているだろう。既に病院に納品しているというエルフィールに聞いてみて、ほっとしたことがただ一つだけある。それが、彼女が作れる薬のバリエーションが、自分よりずっと少ないことだった。

「何だ、強み、あるんじゃねえか」

「ダグラス?」

「だったらそれをのばしゃいいんじゃねえのか? 俺も剣くらいしか取り柄がないからよ、それを伸ばして聖騎士になったんだぜ」

ダグラスも、そう言ってくれた。ちょっとだけ、心が楽になった。

兎に角今は、一刻も早く一人前にならないといけない。トーン草も、蓄えをこれで作ることが出来る。研磨剤の素材となるフェスト石はどれだけあっても足りないし、今後のことを考えると今回の成果は非常に貴重だ。

帰り道は、体力を温存しながら歩く。行きと違って、帰りはかなりスムーズにいくことが出来た。路をある程度覚えていたからだろう。

だが、それも僅かながら成長していることだと思うと、嬉しかった。

がこんと大きな音がして、河原から荷車を引き上げる。後は路を行くだけだ。轍もあるし、それほど苦労はしない。

「僕も荷車を引いてみたいな」

「もう少し体力がついたらお願いするよ」

「手厳しいなあ、エリーは」

笑みを向けると、エルフィールは笑い返してきた。しかし、相変わらず、笑顔には何ら感情がこもっていなかった。

それは少し寂しい。少なくとも、ダグラスには敵意を向けている。ノルディスはどうでも良い相手なのだと、内心で暴露しているも同然の事だ。いつか、自分に好意を向けてくれたらなと、ノルディスは思う。だが、その日は来ないのかも知れない共、半ばあきらめを感じ始めてもいた。

帰り道はペースを上げ、その日の夜には寮に到着した。

アイゼルが待っていてくれたので、彼女とエルフィールと、キルキとカルルで、一緒にフェスト石を部屋に運び込む。寮にはコンテナ室がそれぞれ用意されていて、まだまだ充分な余裕があった。

「ありがとう、後は僕でやるよ」

「うん、頑張ってね」

さっさと切り上げるエルフィール。ダグラスは少し先に引き上げていた。予想していたようなエルフィールとの衝突もなく、給金もノルディスが払うと、何度か頷いていた。雇い主としては、合格というような意味であったらしい。

キルキはノルディスの部屋を物珍しそうに見つめていたが、ぼそりと呟く。

「綺麗すぎる」

「え?」

「うん。 何だか、苦労の後の汚れがないなあって思った」

「キルキ」

アイゼルが咳払いしたので、キルキは何だかちょっと挙動不審に視線を逸らした。そういえばさっき、帰ってきてから、二人で何か話をしていたような気がする。女の子同士の会話に割り込むほど、ノルディスは野暮ではないが、ちょっと気にはなった。

キルキも帰ったあと、ひたすら調合に励んだ。カルルは既に予定の中和剤を全て仕上げてくれていたので、研磨剤だけで大丈夫だったのは大きかった。二人で黙々と乳鉢に向かい、フェスト石を砕き、ピンセットで不純物を取り除き、潰して砕いて廻し続けた。

早朝まで、作業は掛かった。

やっと仕上がって、それから飛翔亭に。今日はこれから授業もあるのだが、出られるだろうか。ちょっと不安だが、それよりも、初仕事の方が大事だ。早朝でも、飛翔亭はきちんとやっていた。

ディオ氏はノルディスを見ると、すぐに商品の鑑定に掛かってくれた。不安に、喉が鳴る。一応、授業で満点はもらえる品質に仕上げては来たつもりだ。しばし虫眼鏡で納品物を除いていたディオ氏は、目尻の皺を増やしながら言った。

「ふむ、流石に上位常連だけはあるな。 大した品質だ」

「あ、ありがとうございます」

「まだ結論は言っていない。 まあ、合格だ。 これからは、少しランクが高い仕事も任せてみても良いだろう」

その答えを聞くと同時に、腰が抜けた。

呆れたようにディオ氏は、カウンターに突っ伏すノルディスの頭をなで回した。

「まだ修行が必要だな、坊主」

照れ笑いしか、ノルディスは返せなかった。

その日、授業で、初めてノルディスは居眠りした。

 

4、影からの声

 

沖合を、ゆっくり泳ぐ巨大な影。船はいずれもが港に戻り、碇を降ろして不測の事態に備えていた。

沖合に連ねられた繋ぎ狼煙は、いつでも臨戦態勢である。それも当然で、あのウミヘビが恐るべき存在だと分かったからである。軍艦も遠巻きにしているだけで、今では手をだそうとしていなかった。

軍に供与されている石塔に腰掛けて、相手の様子を見ていたマリーは、双眼鏡を下ろした。少し前にあっさり最新鋭の軍艦を沈められてから、騎士団は表向きの攻撃を控えている。

「なるほど、海にいる相手、ね」

頭を掻いたのは、対処に困ったからだ。

人間は、基本的に自分のテリトリーで最強の力を発揮する。だが、幾つか、どうしても力が出し切れない場所が存在する。

例えば、頭上。

頭上は人間にとっての死角であり、どうしても対処が難しい。それが故に、ドラゴンへの対抗戦術はあっという間に世界に広まった。ただしそれは集団戦術としてであって、個人個人は未だ頭上に死角を抱えたままだ。

続いて、水中である。

海辺などで暮らしている人間には水練が得意な者もいるが、それはそれ、これはこれである。水中で棲息している生物と、水にも入れ泳げる人間とでは、あまりにも差が大きすぎるのだ。

今、沖合を悠々と泳いでいるあの巨大なウミヘビが我が物顔に振る舞えているのも、それが要因だ。海上戦が集団戦の中でも非常に特殊な位置づけであるように、攻撃は水中でかわし、一方的に人間の死角から襲える相手に、人間はあまりにも無力である。元々耐久性に問題がありすぎる種族なのだ。

だから、戦術を確立して欲しい。

そう、マリーは依頼されたのだ。

一旦石塔の中に戻り、螺旋階段を下りる。此処は軍事基地なので、下では騎士団の面々が、忙しく動き回っていた。既に騎士だけで死者が十人に達しているのだから当然だ。かなり偉い聖騎士が出張ってくることも珍しくない。

歩み寄ってきた若い騎士が敬礼してくる。敬礼を返しながら、マリーは自分の愛娘を捜したが、視界の中にも、気配を探れる範囲内にもいなかった。

「状況は?」

「相変わらず難しいです。 港から離れようとする船があると、確実に対応してきますので、下手に動けません。 水中戦を知り尽くしている相手で、しかし動きからして完全に此方を舐めきっています」

「好機ね。 ただし、対応策があれば、だけど」

自室へ向かう。既に何処のアトリエにも負けない設備類を持ち込んでおり、材料類も豊富なので、だいたいのものは作れる。フラムも既に幾らか生産しているのだが、このままでは駄目だ。

当初予定していた機雷での攻撃が、まるで効果を示さなかったからである。水中で活動しているにもかかわらず、あのウミヘビは著しい耐熱能力を持ち、爆破に対する耐性も恐ろしく高い。

倒すなら一点突破の攻撃しかないだろうと、現時点でマリーは推察していた。

シグザール王国の高官何名かが、難しい顔をして会議をしていた。痩せた中年男性がリーダーであり、主導的に話を進めていた。その左右にいる太った中年男性と、まだ若いが非常に細いイメージのある女性が、時々気難しそうにリーダーを補助している。マリーが現れると、彼らは一斉に、不機嫌そうな顔で振り向いた。口を最初に開いたのは、リーダー格。カスターニェを任されているカレント伯爵である。カスターニェはドナースターク家の領地なのだが、この男はシグザールから派遣されてきて居座った代官だ。実戦で実績を上げてきたたたき上げであり、中年になった今でも小型のドラゴンのような威圧感を放っている。腕前もマリーがなかなかに凄いと認められるほどの代物だ。

マリーが席に着くと、此処の警備を任されている聖騎士ローラも着席する。まだ若干頼りないが、剣の腕は確かな人物だ。

「ようやく来たかね」

「敵の視察をしていましたので、遅れました」

「そうか。 まあ座りたまえ」

遅れたマリーにそれでも一応の敬意は払ってくれるのは、このカスターニェ近辺におけるマリーの壮烈な掃討作戦を評価してくれているからだろう。エル・バドールの間諜数十名を殺した他、彼らの息が掛かった盗賊団も根こそぎ叩きつぶした実績は、他の誰にも真似できない。マリーが大暴れしていたからこそ、騎士団は好き勝手に此処を拠点として活動できていたのである。だが、現状では、それも過去の話となっていた。

これは予想だが、マリーの凄まじい大暴れに業を煮やしたエル・バドールの諜報部隊が、押さえとしてあのウミヘビを送り込んできた可能性もある。当然騎士団もそれを推察していて、それで厳しく当たっているのかも知れなかった。

「分かっていると思うが、敵は我々を侮っている。 つまり打ち倒す好機だと思うのだが、君はどう考える」

「全く同感です。 しかしながら、何回かの実験の結果、現在所有しているフラムで奴を倒すのは難しいでしょう」

「そうだな。 密着した状態で爆発させればダメージを与えられるだろうが。 水中班が持ち帰ったデータによると、奴の耳には遮音板のような機能もついているようだ。 水中での爆破が通じにくいのは、それも原因の一つだろう」

「なるほど」

大海蛇と仮称される此奴が現れたのは、およそ三ヶ月ほど前。

最初に襲われた商船はどうにか逃げ帰ったが、カスターニェの港沖に堂々と居座るようになると、被害が増え始めた。天候を自在に操る他、好き勝手に波風を操作し、なおかつ桁外れに頑丈な肉体を持つ。何隻か商船が沈められ、死人も多く出た。騎士団の軍艦でも、討伐は出来なかった。

その体躯も巨大で、最新鋭の軍艦を三割ほども上回っている。人間の背丈八十人分から百人分くらいの長さはあることだろう。

その一方で、大量の餌を必要としているようには見受けられない。しかも港にいる人間を襲いに来るようなこともなく、港を封鎖することにしか興味がない様子だ。ただひたすら港から定距離を取り、近付いてくる船には容赦のない攻撃を仕掛けてくるのだった。

生物としてはあり得ないほど、戦闘に特化した存在だ。その上、生存とも繁殖とも関係ない行動をとり続けている。多分これは、明らかに以前シグザール王国騎士団が作っていたのと同じ存在だろう。戦闘用生物兵器、で間違いあるまい。もしもこんな生物が繁殖能力を持っていたら、海は滅ぶ。此奴一匹で全ての生態系を破壊し尽くし、その果てに勝手に此奴らも消え去ることだろう。

だが、実際にはそうならない。

そして、あんな生物が、自発的に発生するはずもなかった。

「騎士団の上層は、何か知っているんじゃないですか?」

痩せた女性が若干ヒステリックに言うと、同席していたローラは、幼さが残る顔に困惑を浮かべた。剣の腕だけは凄いし、持っている能力も地位に相応しいものなのだが。いかんせん黙々と戦うことだけが得意で、対人交渉は苦手らしい。小柄な彼女はちんまりと身を縮めて、ブルネットの髪の毛をいじくったりしながら、卑屈そうに上目遣いで相手をこわごわ見つめた。

保護意欲をかき立てる可愛らしい動作だが、相手が女性では通じない。

「ご、ごめんなさい。 分かりません。 分かっていても、話せません」

「どうしてですか? 騎士団は我らに、協力しないというのですか? カスターニェの封鎖がどれだけ大きな経済的影響を与えているか分かりますか? あのウミヘビをどうにか出来ないだけではなく、我らに情報まで出せないというのなら、一体何のための騎士団なのですか!?」

激烈な口調で攻め立てる女性に、マリーは咳払いした。それだけで、女性は押し黙る。戦闘経験もない小娘なんぞ、威圧だけで充分である。

マリーは皆を見回すと、意見を述べる。

「経済的な話とかは、専門家に任せます。 軍事的な話に関しては、近々ドナースターク家から増援を出します。 それに合わせて、一気に片付ける予定です」

「ほう。 増援とは」

「ドナースターク家当主代行、シア=ドナースターク」

おおと、周囲から声が漏れた。

シアは近接戦闘系の戦士としては、大陸でも十指に入る使い手として知られている。それだけではない。シアは長年ドナースターク家を指導し、多くの貴族と渡り合い、勢力を伸ばしてきた古強者でもある。

彼女の緻密な頭脳が加われば、マリーの大雑把な作戦も、成功に近付くのだ。

マリー自身も、秘密兵器を披露する。

「水中では、どうしてもフラムの破壊力は減退します。 大量の水がクッションになるからです。 普通は衝撃波でたたきつぶせるのですが、あの蛇にはそれも通じないようですし、其処で一点突破を狙います」

「一点突破」

「これを使用します」

設計図を見せる。

それは、杖のような物体だが、先端部分は筒状になっている。そして、巨大な杭が、其処からはみ出していた。

武器としては異形と行って良い。これは戦艦の下部に取り付けることで使用する。

「これは?」

「名付けて、マリー式殺戮戦槌。 以前ある筋から入手した武器と、現役で働いているある聖騎士の武器から着想を得て作りました。 これを叩き込めば、相手が大海蛇だろうが世界最強の騎士だろうが、確実にぶち殺すことが出来ます」

「しかしこれを直接叩き込むのは難しく思えるのですが」

そこで、フラムを使う。

水中で爆発させることを意図したフラムを使うことで、相手の行動範囲を狭める。ただでさえこの蛇は、自分の装甲に過剰な自信を抱いていることもあって、其処が明確な弱点ともなる。

そして、其処に小型の戦艦で接近して、一撃で仕留めるのである。

「先端部分には毒も仕込みます。 一種類では倒せるか分からないので、最低三種類以上を仕込む予定です」

「なるほど、確かに興味深いが……」

「明後日にシアが到着します。 それからは戦術の詰めに入りながら、突貫工事でこの兵器を完成させます。 後は、騎士団には何隻かの軍船を準備して欲しいのですが」

問題は、フラムの攻撃をまるでウミヘビが意に介さなかった場合だ。今回使用するフラムは意図的に火力を上げており、ウミヘビにも相当な打撃を与えることが可能である。つまり、狂乱状態になったウミヘビが、得意とする天候操作を利用して大暴れし始める可能性があるのだ。

港の入り口で戦うとは言え、荒れた海に投げ出されたらまず助からないだろう。その場合は、船に乗っている者達に、大きな犠牲が出る。騎士団の中には、犠牲が出てもあのウミヘビを葬るべきだと言い出しているものもいる。実際カスターニェが封鎖されていることで出ている経済的打撃はとても大きいのだ。

「分かった。 しかしくれぐれも戦略家としても名高いシア殿にも意見を聞いてから、作戦を実行に移して欲しい」

「分かっています。 それにあたしはあくまで参謀ですので、決定権は皆様にあると思いますが」

「そう、だな」

マリーが皮肉を言うと、カレント伯爵はほおひげを歪めて凄惨に笑った。彼らも知っているのだろう。マリーが今いないと、ウミヘビをどうこうする以前の問題、つまり倒す手だてが一つもなくなると言うことを。

彼らは強欲だが無能ではない。マリーとしてはだからやりやすい部分もある。自分という存在を、最高のカードと出来るからだ。

一旦会議を止めて、部屋を出る。作成中の殺戮戦槌について、頭の中で設計を詰める。ゲルハルトほどではないが腕の良い鍛冶屋はカスターニェにも少なくないので、作る事自体はそう難しくない。基本的な駆体部分はとっくに出来ていて、後は部品を組み合わせるだけなのだ。

ただしそれは外装部分だけである。実際に実戦で試してみたい所は山ほどある。組み立ててから実験などを考慮すると、実際には一月くらいは時間が欲しい。シアの発言力を考慮すると、多分それくらいは稼げるはずだが。しかしシア自身が、それを喜ばないかも知れない。

シアとマリーは親友だが、今此処では上司と部下である。マリーはドナースターク家の重鎮として、このカスターニェを実質上任されているも同じであり、エル・バドールが本気で対応に乗り出してきたと思われる現在とは言え、此処までウミヘビ一匹に好き勝手されているのは良いことではない。

シアはシビアな考えの持ち主だ。場合によっては、マリーを更迭するかも知れない。その場合は、また苦労して這い上がらなければならないだろう。自室に引き上げると、憂鬱になってマリーは嘆息した。机に突っ伏して、頬ですりすりする。

「あーもう、何年か前のアデリーを捕まえて、嫌がる所をすりすり頬ずりしたいなあ」

もちろんそんな事が出来る訳もない。今ではアデリーはマリーには及ばないにしても超一流の使い手で、シグザール王国騎士団の中でもトップクラスである。そう育てたのはマリーだとはいえ、やっぱり育ちきってしまうと退屈な部分も多い。

幼い女の子に嗜虐的な愛情を押しつけるのが好きなのだと、こう言う時マリーはふと自分の性癖を悟ってしまう。まあ、それはそれで別に良いことだ。

気晴らしに動物でも盗賊でも八つ裂きにしてくるか。そう考えて、マリーはしばらく無言でいた。

咳払いに顔を上げると、ローラだった。

「マリーさん。 難しい顔をしていましたが、技術上の問題点でもあるのですか?」

「いや、それは大丈夫」

あるとしたら稼働上の問題点だが、それを素人に説明しても仕方がない。

しかし、軍事の話であれば、意味があるかも知れない。このローラも、聖騎士をしているだけあって相当な使い手である。当然軍事のイロハも体に叩き込んでいることだろう。

にしても、少し前のアデリーを思い起こさせるローラは、マリーにとってとても面白い玩具である。若干発育の悪い体を上から下まで見下ろすと、ちょっと引き気味のローラに、聞いてみる。

「やっぱり体が長い動物をぶち殺すには、頭が一番かな」

「はい。 基本的には。 しかしどんな動物も、口や目を頭に集中させている場合が多く、あのウミヘビも例外だとは思えません。 そうなると、やはり相当に頑丈であることが予想されます」

「となると、首か」

「それが一番だと私も思いますけど、ただそれも巧く行かないかと思います」

ローラが言うには、遠目から確認した所、ウミヘビの体にはかなり強い粘液がまとわりついているという。これがクッションの役割を果たして、今まで行われてきた攻撃を緩和しているのだとか。

マリーの視力でそれは確認できなかったが、しかし優れた身体能力を持ち、しかも正直なローラの言葉は信用できる。マリーは思わず考え込んでしまった。

ヘルミーナ先生が事前に準備してくれている水中戦部隊も既に来ているのだが、彼らは揃って現在の練度ではウミヘビに肉薄するのは難しいと言ってきている。何しろ天候操作の力を持っているので、好き勝手に海を荒らすことが出来るのである。荒れた海に潜って生き残れる人間など存在しない。奴は其処を自由に泳ぎ回れる。

しばらく考え込んだ後、マリーは決めた。

一撃必殺を意図した今の形状だと、多分殺せない。傷つけることは出来るが、恐らくは逃げられる。

シアに土下座してでも時間を作ってもらって、武具の形状を広めに変えるしかない。そして、確実に効く毒を仕込むのである。

或いは、海に毒を散布する手もある。しかしそれでは、魚が住めなくなってしまう。というわけで、それは却下。いずれにしても、相手に傷を確実に付けられる形状に、殺戮戦槌を変える必要があるだろう。

「有難う。 参考になったよ」

「いえ。 マリーさんって怖い人だと思っていたんですけど、案外気さくで話しやすいですね。 故郷にいるお姉ちゃんにどこか似ています」

「へえ。 それで、そのお姉ちゃんってのは、やっぱりローラよりも強いの?」

「武芸では私の方がもう上だと思いますけど、やっぱり頭が上がりません。 幼い頃、散々怖い目に会わされましたから」

くすくすと笑う。それで、悟る。

なるほど、アデリーに似ている訳だと。

もう何度か会議をして、夜になってから。マリーは作業を進めている鍛冶師達を集めて、新しい部品の発注を言い渡す。

いきなりこの時期になって新しい部品と言うことに難色を示す者達もいたが、いずれもマリーが説得して、作業を開始させた。

不夜城のような城の中で、マリーは用意した水槽に泳がせている海中の生物たちを吟味していく。

此奴らに、確実に効く毒とは何か。研究を進めている今も、まだ確実に殺せるという毒は見つけていない。どうも水中由来の毒だと効きにくいようなので、色々工夫はしているのだが。

我が物顔に、一番大きな水槽で泳いでいるのは、港にいるほどのものではないが、大型のウミヘビの一種である。長さはマリーの背丈の倍ほど。猛毒の牙を持ち、鮫も避けて通る非常に危険な種類だ。調べてみた所、元々ウミヘビは凄まじい破壊力の毒を持つそうで、生物兵器としてはうってつけの存在、と言う訳だ。

海で泳いでいるあのウミヘビは、此奴と形状が酷似している。恐らくベースになったのは、この種類なのだろう。

かといって、此奴に効く毒が、あのウミヘビに通じるかどうかは分からない。弱点があるのなら、エル・バドールの技術で克服している可能性も決して低くはないからだ。ただ、生態を観察することは、無駄にはならないはずである。

水槽を覗き込むマリーにウミヘビが気付くが、距離を取るだけで仕掛けては来ない。分かっているのだろう。攻撃を仕掛けても、勝ち目がないことくらいは。

今泳いでいるウミヘビを観察しても、粘液を纏っているようなことはない。ウナギの特性を取り入れているのかも知れない。そうなると、色々と面倒だ。ウナギは雨が降ると陸上を移動することがある。あのウミヘビも、同じ事が出来ないとどうして言い切れようか。

しかも観察の結果、あのウミヘビは呼吸も相当な長時間行わずにすませている。いさな等も常識外の長時間水面下に潜っていることがあるそうだが、それに近い能力を有しているのかも知れなかった。

水面に手をつき、雷撃を叩き込んでみる。

相当に拡散してしまうが、それでも小ウミヘビは吃驚して躍り上がった。マリーを憎々しげに睨むが、距離をもう少し取るだけで、攻撃は仕掛けてこない。案外頭の良い奴だ。別に代わりは他にもいるし、仕掛けてきたら蒲焼きにしてやろうと思っていたのだが。

「はあ。 やっぱり策は他にないか」

道具類は、どうにか新しい戦略の下作り上げるしかない。

後はシアに補助して貰って、作戦の穴を埋めていくしかなかった。

 

シグザール王国軍の艦隊は、完全にカスターニェに封じ込まれた。何度かの小規模攻撃の末、連中は全く身動きが取れなくなった。

それを小高い丘の上から、遠めがねで覗き込んだ確認したドムハイトの新生諜報部隊の長ミカヅキは悩んだ。混乱している今が攻勢に出るべき好機なのか。或いは、もう少し慎重に調べて、不安要素を取り除くべきなのか。

現在、正面での戦闘は、エル・バドールの連中が引き受けてくれている。各地から引き上げてきた残存勢力をかき集めて作られた新生部隊では、すでにシグザール王国の誇る牙に対抗できる戦力はなかったからである。

人員も、補充できる状況にはない。マルローネに追い払われた盗賊や、ならず者の類に金を渡して使い走りにしてはいるが、それも数に限りがある。今や盗賊達の間では、カスターニェは地獄も同然という噂が流れているらしく、どれだけ金を積まれても近付きたがらない者も少なくはないのだった。

ミカヅキは長い髪を掻き上げる。無駄に艶っぽい黒い髪は、任務の時は邪魔になりそうだが、実際は一度もそうなったことはない。これが彼女の能力に関係していると言うこともある。

しかしながら、強敵と戦う時には、やっぱりこれは邪魔になるだろう。

ミカヅキは、本来はそもそも長を務められるような実力の持ち主ではない。上にいた者達が皆引退したり本国に戻ってアルマン王女の補助に当たったりしているから、此処にいるだけの存在だ。

それをよくわきまえているから、慎重にいつも行動する。ただでさえ無能な若造だと自嘲している彼女である。蛮勇の結果、死に至った盗賊達をたくさん見てもいるから、敵に対して迂闊に仕掛けられないという事情も、もちろんあった。

部下が一人、戻ってくる。熟練した間諜であり、しかし戦闘能力は殆ど有していない男だ。

「長。 戻りました」

「何か進展は」

「騎士団が活発に動いています。 増援を呼ぶことはもちろんとして、カスターニェにいる鍛冶師を大勢集めて、何か作らせているようでして」

「邪魔は出来そうか」

無理だと、部下は断言した。

仕事場の周囲には聖騎士を含む複数の手練れがついており、とてもではないが忍び込む事は不可能だという。遠隔感知の能力を駆使して、どうにか鍛冶師らしい連中が集まっている事だけは確認できたが、それも命がけであったそうだ。

「とにかく、あの鮮血のマルローネが厄介です。 全く行動パターンが読めません。 いきなり真夜中に起きだしてきて、辺りをふらつくことも珍しくなく、それで何名か部下がやられもしました。 散歩するコースもカスターニェの全域にわたっていて、時には外にも出てきます。 護衛についているアデリーという聖騎士やミューという騎士も凄まじい手練れで、とてもではないが現状の戦力では」

「分かった。 少し休め」

部下を下がらせると、腹ばいにカスターニェを覗き込んでいたミカヅキは、立ち上がった。

敵は混乱していると言っても、戦力が衰えた訳ではない。むしろ今後は、更に増強されていくことだろう。エル・バドールの錬金術師どもは自信満々にフラウ・シュトライトの戦力を自慢していたが、それもいつまで保つか。あのウミヘビは確かに強力な戦力を持っているようだが、鮮血のマルローネを前にして、本当に勝ち続けられるのか。そう聞かれると、疑問をどうしても持ってしまうのだ。

やがて、ミカヅキは決めた。

一旦野営地に戻る。十五名いる部下達が、ミカヅキを見た。

「当分は、監視だけにとどめる。 人員の確保と、訓練だけを続ける」

「しかし、エル・バドールの者達に任せきりでよいのですか」

「今、これ以上の戦力を失う訳にはいかない。 それに、あのウミヘビも、いつまで我が物顔に泳いでいられるかは分からない」

「しかし、あの強力なフラウ・シュトライトを、倒す方法があるのでしょうか」

部下の一人に、ミカヅキは首を振った。

あれが生物である以上、どんなに桁外れであっても、一時的にどれだけの猛威を振るっても、多分最終的に人間には勝てない。ましてや、相手はあの鮮血のマルローネ。フラウ・シュトライトが勝利におごってしまっている現状、更に状況は厳しくなっているとも言えた。

「鍛冶師の状況から言って、敵が動き出すのは一月前後の先だと思われる。 それまでに、我々はひたすら戦力を強化する。 雇い入れた盗賊どもを洗脳して、戦闘訓練をしっかりしておくのだ」

「分かりました。 しかし長、本国には何と連絡しますか」

「敵の戦力が予想以上に強大で、封鎖作戦には成功しているが、それもいつ潰えるか分からない。 それだけでいい」

「分かりました。 直ちに」

意見を纏めると、すぐに野営地を畳む。偽装している天幕を荷車に包み、水を撒いて此処にいた痕跡を消していく。犬に追跡されるのを防ぐための処置だ。本当は魔術的な防御処置もしたいのだが、そんな腕の奴はもう残っていない。皆殺しにされてしまった。

ドムハイトの諜報部隊は、まだまだ再建どころではない状況にある。少しでも、ほんの僅かでも。交戦は避けていかなければならなかった。見つかったら、ひとたまりもなく叩きつぶされてしまうのだ。

商人に変装して、東にある小さな漁村へ移動。そこで、ミカヅキは妙な光景を見た。

個人所有にしては大きすぎる漁船を、たった一人の小娘が操っているのだ。帆船で、型式はかなり新しい。女はとても嬉しそうに船を操っている。どうみても、十人は操船に必要そうな大型帆船なのに、である。

「なんだあれは」

「軍人には見えません。 一般人かと思いますが……」

「一般人にも、あれだけの人材を遊ばせておく余裕があるのか。 シグザール王国の底力は計り知れん」

漁船が波止場に停泊。商人達が呆然と見守る中、手際よく魚を卸し始める彼女。今、カスターニェは封鎖状態にある事もあって、魚は飛ぶように売れている様子だった。ミカズキの部下が、すぐに情報を集めてくる。

「分かりました。 この辺りでも知られている、ユーリカという女漁師です。 あの船は父の形見だとか」

「没落した資産家の娘か? その割には腕の良い漁師のようだが」

「複雑な経緯があるらしく、正確な情報収集には時間が掛かりそうです」

「いや、其処までの人員を割く余裕はない。 だが、あのような操船技術の持ち主が何人かいたら。 あのエル・バドール自慢の大海蛇も、そう長くは生きられぬかも知れんな」

近くで見ると、南方人にしては貧弱な体の持ち主だ。良く鍛えているようなのだが、南方人特有の鞠のような乳房や良く発達した腰を持たない。特に胸は洗濯板に等しい有様のようであった。

或いは北方人との混血か、シグザール人の血が濃いのかも知れない。その辺りは、実際に調べてみないと分からないことであった。

気には掛かったが、今は戦力の再編成が重要だ。後は特に娘のことを考えるでもなく、ミカヅキは新しいアジトにしている、小さな廃屋へと向かった。

 

ミューはカスターニェ近辺出身の騎士を何名か連れて、周辺の町や村を歩き回っていた。目的は幾つかある。どうもほぼ確定的らしいエル・バドールの間諜を洗い出すことが一つ。彼らには両目の色が違うという決定的な特徴があるので、見掛けた場合は騎士団事務所に来て貰うようにと布告を出してある。もちろん、この辺りにはごくまれだが個人的な理由で訪れているエル・バドール人もいる。彼らについては、軽めに監視を付けるだけで済ませている状況だ。

正直、この近辺は大嫌いだ。

優しかった母を踏みにじったあいつの臭いがするようだからだ。兄弟達とも、絶対に顔を合わせたくはない。もっとも、出くわす可能性は絶無に近いが。

騎士団の中でも、ミューの地位はかなり高くなってきている。若い騎士達の教育を行う時もあるし、屯田兵の実戦訓練にはしょっちゅう呼び出される。

マリーのやり方には全面的に賛同できない部分も多い。アデリーを見ていると、特にそう思う。

だが、一方で。今の、両の足で立てる自分がいるのも、マリーのおかげだと思うのだ。

カスターニェ近辺は封鎖されているが、あの大海蛇はそう何匹もいる訳ではない。船は港に何隻も入っているし、その中にはカスターニェに陸路で物資を運ぶべく騎士団が手配したものもある。

当てもなく三人を連れて港沿いを歩いていたミューは、短く刈った白に近い銀髪を風が洗うのを感じながら振り返る。牙から付けられている密偵が、跪いていた。

「ミュー隊長」

「どうしたの?」

「実は、密告がございまして」

密偵は表情が見えない男で、多分三十代だろう。全く経歴が分からない人物は、若干不気味である。

彼の話によると、なにやら他の漁師達から恨まれている娘がいるという。ユーリカと言うそうなのだが、何か怪しげな連中ともつきあいがあるとかで、牙でもマークを始めているという。

もしも何もやましい所がない相手だったらどうするつもりだとミューは言いかけたが、止める。既に汚れ仕事は幾つもこなした。殺した相手には、直接的に敵に味方はしていなかった者だっていた。

この国は、腐った部分だってある。

だが、それ以上に多くの人達が笑顔で生きられる強い国だと思う。だから、汚いことをしなければならないのなら。ミューは自分がそれであろうと思っていた。

「分かった。 私が直接接触してみるから、皆はそれまで手を出さないように」

「分かりました」

部下が散っていく。

風にもてあそばれた髪をなでつけると、ミューは旧友の名前を呟いていた。何でも話せる、性別の壁を越えた友達だった相手だ。

「ルーウェン。 今の私を見て、どう思う?」

遠くを見つめる。何処までも、綺麗な海が広がっていた。

「きっと軽蔑されるんだろうな」

ため息をつくと、ミューは港へと歩き出す。

相手の特徴は既に聞いている。場合によっては斬る。

ただ、それだけの事であった。

 

5、手がかり

 

寝ぼけ眼を擦りながらミルクの入った桶をかき回していたエルフィールは。ある一点で、眠気が吹っ飛ぶのを感じた。

ミルクが。

凝結し始めたのである。

チーズが出来る前兆だ。こうしてミルクをかき混ぜていくと、やがて薄い水状の部分と、固体へと別れていく。固体の部分に様々な処置を加えて、チーズはできあがるのだ。

流石のエルフィールも、心臓が胸郭から飛び出しそうだと思った。その場で外に飛び出して適当に辺りの生物を片っ端からぶっ殺したくなるのをこらえ、慎重に、ゆっくり、棒を廻していく。

何呼吸かの短い時間が、何年にも思えた。

やがてできあがったチーズの素を口に入れてみる。味は中の下という所だ。だが、これは間違いない。偶然ではないのだ。

おお、おおおおおおおっ! おああああああああーっ!

絶叫したエルフィールは、手づかみでチーズの素を口に入れ、そのまま噛み砕いて飲み込んでしまった。ミルクまみれになりながら、一階へ飛び出す。蒼白になったクノールが、視界の隅で尻餅をついているのが見えた。

裏庭に飛び出す。

そのまま、棒を百八十回振るった。兎に角今何か生物を見ると、確実に殴り殺す。抑えなければならない。抑えなければならなかった。涎を拭い、飛び散った牛乳を犬のように身震いして弾き、そして棒を振るう。

しばし、経ってから。

やっと落ち着いてきたエルフィールは、汗を拭いながら、アトリエに戻る。そして、井戸水で冷やしておいた牛乳を、腰に手を当てて一気飲みした。

「くあー! これだねっ!」

「……あの?」

「ああ、クノール。 聞いてよ! ていうか聞け!」

「命令形ですか。 まあ、吝かではありませんが」

いそいそと正座をするクノールに、エルフィールは自身も正座をすると、満面の笑顔を近づけた。

「行ける。 人工レンネット、完成するかも知れない」

「そうでしたか。 大暴れしている様子から、そうかとは思いました」

「何だ、感動が薄いなあ」

苦笑するクノール。エルフィールは腕組みして誰とこの感動を共有しようかと思ったが、別に今ではなくても良いし、何より仕事上の重要なパートナーであるクノールに情報を展開する必要性に思い当たる。

「まあいっか。 とりあえず、情報を共有しておこうか」

図面を引っ張り出す。今まで試してみた、無数の材料について書かれたものだ。

あらゆる種類の黴を試したが、駄目だった。しかし根本的に違うとも思えなかったので、類するものは片っ端から調べていた。

今回エルフィールが着目したのは汚れである。

チーズの中には、黴を使うことで意図的に品質を上げたり、味や香りを高めるものがある。其処から類推して、汚れの中にチーズを造り出す成分に近いものがあるのではないかと思ったのである。

あらゆる材料を試した。糞尿以外のあらゆる汚れに当たった。

その結果、ある種のコケの中に、どうもそれらしい成分があったのだ。しかもこのコケ、簡単に量産が可能な種類である。もう少しレンネットの品質を上げることに成功し、なおかつこれが偶然ではないと証明することが出来れば。

美味しいチーズケーキを好き勝手に作るというエルフィールの夢の一つはかなうのだ。

もとい、シア長代理の結婚式にて、何処の貴族も目を剥くような美味なるケーキを提供し、一気に未来の礎とする事が出来るのである。

「さ、いよいよ実験は終盤だ。 偶然掴んだこの奇跡だけど、一回だけの顕現にはさせないよ」

「分かりました」

二人で、地下に降りる。多寡がチーズといえど、その量産が完全化されれば、世界に与える影響は計り知れない。

エルフィールは舌なめずりしながら、今回実験が成功したサンプルを、慎重に吟味する作業に入り始めたのだった。

 

(続)