栄枯盛衰の海

 

序、凋落の貴族

 

久し振りに時間が取れたので、アイゼルは自宅へと急いでいた。誰にも後を付けられないように、気をつけながら。

身に纏っているマントは、少し前に作ったものだ。キルキにレシピを教わり、丁寧に縫ったのである。材料を無駄には出来ないから、兎に角緊張した。無事に風通しが良くて涼しいマントが出来た時には感動したものである。

錬金術は、美しい感動をアイゼルに与えてくれる。

少し前に、錬金術アカデミーが専売特許にしている美しい宝石、コメートの作成に成功した。そのほかにも、着々と高額の錬金術生産品を作れるようになってきている。このままなら、目的を果たせる。

ぐっと拳を握り、実家へ。

寮暮らしが長くなり、実家で過ごすことは極端に減った。玄関で振り返り、まわりを確認。

一応貴族の邸宅だから、周囲は塀に覆われ、門扉は鉄柵である。さっと門の中に入り、ようやくアイゼルは一息ついた。

門から逆さにぶら下がって、にこにこしているエルフィールを見るまでは。

「ひいっ!」

「おはよう、アイゼル。 何かこそこそしてるから、後付けちゃった」

「お嬢様?」

もちろんエリーは、生きている縄を駆使して門をこえたのである。しかし、門を逆Uの字に撓んで越えている生きている縄は、どういう構造になっているのか。ますます訳が分からないパワーアップを遂げている様子であった。もはや、本当に触手なのかも知れないと思ってしまう。

そして、そんなエリーを見る、使用人のカレン。アイゼルと同い年で、ずっと仕えてくれている娘だ。使用人と言っても奴隷ではなく、ワイマール家にずっと使えている家系の人間である。

カレンはアイゼルより少し童顔である。しかしその一方でウェーブが掛かった黄金の美しい髪の持ち主であり、男にはもてるようだ。だが、ワイマール家の状況を考えて、言い寄る男は片っ端から振っているという。その忠義に、アイゼルはこたえることが出来ない自分をいつも悔しく思う。

肝が据わったカレンは、縄からぶら下がって笑顔を浮かべているエリーに、ぺこりと挨拶をした。

「お嬢様のご学友ですか?」

「エルフィールです」

「あ、これはご丁寧に。 おもてなしの準備をさせていただきますね」

カレンが何処かうきうきした様子で、屋敷の中に戻っていった。げんなりしたアイゼルの横に、エルフィールが着地。あの高さからとんぼ返りして、きちんと着地してみせる身体能力はどうやっても真似できない。するすると生きている縄が服の中に引っ込んだ。合計で七本も、である。

「此処がアイゼルのおうち? 大きいね」

「貴族としては小規模な方よ」

「そう? 私、ドナースターク家にレポート出しに行ってるから貴族のお屋敷は見たことがあるけど、そんなに変わらない気がするよ」

「彼処は極端な実力主義でしょ? うちは……」

そうだ。

才がない父が、必死に財産の保全を図っているワイマール家は。残念ながら、斜陽の一族である。母も貴族の間で顔が利く程度で、これと言った素質や能力は持っていない。よくしたもので、他の兄弟姉妹もそれは同じだった。

かって伯爵だったワイマール家は、既に子爵になっている。収入を確保できないからだ。しかももう十年もしないうちに、男爵になるのではないかという話もあった。

領地の経営は巧く行っておらず、父は才能がないのを民に見透かされており、完全に足元を見られている。見かねた国が代官を派遣してくれたのでどうにか税収は適切になったが、その一方で代官に金を支払わなければならないので、収入はがた落ちした。商売の方は、様々な商売敵に足下を堀り崩されており、しかもこれといった勝負できる「売り」が存在しない。

色々迷走している父の商売は、どれも長続きせず、新規開拓と撤退を繰り返している状況であった。

だから、家の中にはいると、やはり今回も家具が減っていた。

商才があった先祖達が買い集めた高級な家具は。資金を作るために、真っ先に売らなければならないものであった。

「ふうん、なるほどね」

一緒についてきたエリーが、全てを見透かしたかのようにして、呟く。

いや、実際見抜かれたのだろう。ワイマール家の状況を。そればかりか、恐らくはアイゼルの動機をも。

居間は客を入れるからか、しっかりとした家具類が残っていた。昔だったら、たたき出していただろうエリー。しかし今は数少ない友人の一人である。一緒に死線もくぐったし、様々な仕事で共に働きもした。成績は一進一退を繰り返しており、アイゼルより少し上をキープしているエリーは、ライバルとも言える。それにノルディスはまだエリーのことが好きなようで、それがやきもきする原因でもあった。

茶を出す。

ミスティカ茶を自分で作れるようになってから、家にあったものがどれだけ美味しいのか、分かるようにはなってきた。同時に、どれだけ高級なのかも。エリーも茶をすすって、素直に美味しいと言ってくれたので、それは素直に嬉しかった。

「おお、アイゼル。 良く戻ってきたね」

「ご無沙汰しております。 お父様」

「そちらは、学友かね」

「はい。 エルフィールと申します」

意外に完璧な礼をしてみせるエリー。そういえばドナースターク家がスポンサーについているらしいし、最近は出入りもしているという。そうなれば、厳しく儀礼を仕込まれていてもおかしくはないか。

礼の完璧さを見て取ったアイゼルの父は名乗ると、久し振りに戻ってきたアイゼルに近況を色々聞いてくる。エリーがいるから、差し障りのない話しかできないのが辛い。エリーはにこにこして、色々とアイゼルのことを良く言ってくれる。だが、もう少し込み入った話を、今日中にしておきたいのだ。

「そうか、アイゼルはとても優秀か」

「はい。 マイスターランクへ進むのは確実かと」

「それは凄い。 学生の中でも、一割もいないと聞いているぞ」

錬金術師をあまり快く思っていない父だが、アイゼルの成績について、喜んでくれている。これはとても嬉しいことだった。アイゼルは父と、学業のことで対立することが多かったからだ。

エリーも一通り歓待を受けると、すぐに帰ってくれる。手を振って門から出て行く姿を見て、やっとアイゼルは安心して嘆息した。

「うむ、礼儀正しいご学友だ」

「表向きだけです。 裏ではあの子、凄いんですから」

「そうかね。 しかし、あれはやり手だ。 すぐ側でその手腕を学ぶと良い。 それに、将来蹴落とされないように気をつけなさい」

「はい。 お父様」

アイゼルは知っている。父が親友と呼べる人間に裏切られ、それが原因で大きな負債を抱えていることを。ただでさえ少ない収入は、その借金を返済するために、かなり吸い上げられてしまっている。

だから、アイゼルがやらなければならないのだ。

他の兄弟姉妹は頼りにならない。頭も良くないし、手先も器用ではない。何より豊かな生活に慣れてしまっていて、何も出来ないからだ。

錬金術をしっかり学べば、直接様々なものを造り出すことが出来る。錬金術の産物の中には、エリキシル剤のように貴族が家を傾けないと入手できないような代物もあるのだ。アイゼルがマイスターランクを卒業できれば、一気にワイマール家を立て直せる可能性も高い。

「お父様。 これからは、生活は私一人で行います。 もう家具や食事の手配は大丈夫ですわ」

「どうしたのだ、アイゼル」

「私は既に収入も得ていますし、一人暮らしも慣れました。 私にお金を出すくらいなら、経営に注力してください」

カレンが嫌いな訳ではない。他の使用人達も、むしろみんな好きだ。斜陽のワイマール家に、しっかり仕えてくれている。

だが、今は一人暮らしをしているアイゼルに構っている状況ではないはずだ。父はどうもその辺りが分かっておらず、危なっかしいとしか言いようがない。

「それと、此方。 私が作ったネックレスです。 同じものを三つ納入しておきます」

懐から出したのは、フローベル教会や施療院、それに飛翔亭の依頼をこなしながらお金を貯め、それを元手に作ったネックレスだ。金の鎖に大粒のコメート。いずれも相当な値がつくはずのものだ。

売る価格を指定して、父に握らせる。

だが父は、案の定喜ばなかった。

「アイゼル。 このようなことは、まだしなくても良いのだよ」

「ああ、お父様。 もう、そのような事を言う状況ではありません。 学費だって、私がこれからは自分で稼ぎます。 だから、もう商売にだけ集中してください。 マイスターランクを卒業したら、私がこの家の経営に加わります。 錬金術の産物を商売に投入すれば、一気に家を建て直すことも出来るかも知れませんわ」

「ああ、アイゼル。 お前は幸せになろうとは、思わないのかい」

「それは……」

思う。

側でノルディスが微笑んでくれたら。もっといえば、ノルディスと結婚して、彼がワイマール家に入ってくれれば。医師を目指しているというノルディスだが、キルキと主席を激しく争っているだけあり、錬金術師としての腕前は相当なものである。必ずワイマール家の助けになる。

だがそれ以上に。アイゼルはノルディスに抱いた恋心が成就してくれないかなと思うのである。

だが、家のことには替えられない。

この家が無くなれば、路頭に迷う人が大勢出るのだ。経営に携わっている一族の人間として、彼らの面倒を見る責任がアイゼルにはある。自分の幸せよりも、それは優先しなければならない事だった。

だから、錬金術師になったのだ。

あれだけ怖い思いをした後であっても。

父は善良な人だが、残念ながら才覚が足りない。だったら、アイゼルがその足りない部分を補助しなければならない。それが、多くの人間の生活を背負って産まれて来たアイゼルの責務だ。

昔は随分悩みもした。しかし一人暮らしをして、それ以上に、森に採集にいって。自分で生活物資を作成してみて。

僅かな金銭の大事さや、食事を作るのがどれだけ大変か、生活できる空間がある事がどれだけありがたいか知った今となっては、もはや自分の幸せを、皆の生活に優先させるわけにはいかなかった。

「幸せよりも、家のことが大事です」

きっぱりアイゼルは父に覚悟を告げる。どうものんびり屋の父は、アイゼルの決意に、眉をひそめるばかりだった。

自室に引っ込んだ後、カレンが掃除してくれたベッドに寝転がる。

天井は汚れ一つ無く、窓や家具も綺麗にされていた。

カレンが部屋に入ってくる。焼き菓子を焼いてくれていた。本当はこういう贅沢も避けたいのだが、もう焼いてしまったものは仕方がない。ベッドの上で身を起こして、黙々と食べる。

「お嬢様、無理をなさっておいでではありませんか?」

「大丈夫よ、カレン。 私は、この程度じゃへこたれないから」

「そう、ですか」

「ワイマール家は私が潰させない。 一人前の錬金術師に早くなって、すぐにこの家の借金くらい完済してみせるわ」

自分に言い聞かせるように、アイゼルはそう言った。

そういえば、学年度試験が近付いてきている。今度は、エリーに負ける訳にはいかない。

早めに寮に戻ると、アイゼルは徹底的に、今まで学んだことを復習したのだった。

 

1、試験前のひととき

 

ヘルミーナは自室で、メスを片付けていた。騎士団が提供してきたクリーチャーウェポンを解剖し、内部構造を調べ終えたからである。

手を洗うと、解剖を終えたクリーチャーウェポンの残骸を横目に、メモをしていく。以前騎士団が作ったものにくらべると随分完成度が低い。というよりも、相手にする存在のレベルをかなり低く見積もっているというのが正しいだろう。ただし、細かい所で使われている技術に関しては、瞠目する点が幾つもある。この辺りは、流石は本国、という所であるだろう。

ヘルミーナは、エル・バドール大陸のことを、決して良く思っていない。

彼女とイングリドはある特殊な機関の出身である。孤児達を集めて英才教育を施すと言えば良さそうにも聞こえるが、実際には互いにパンのひとかけらを争って毎日喧嘩が絶えないような、殺伐とした組織だった。テストで点数を取れなければ、どんなに幼くても外に放り出される。悪戯などしようものなら、死ぬよりも恐ろしい罰が待っている。身体検査という名目で、実際に行われるのは人体実験。

そんな組織から抜け出すことが出来たのは、間接的にはドルニエ校長のおかげである。実際に彼は何もしていないが、厄介払いしたいと考えた長老達が性能実験をかねてイングリドとヘルミーナを一緒に付けて放逐した。それが故に、エル・バドールの闇から、二人は解放されたのである。

リリー先生のことで色々恨みはあるのだが、それでもこの学校をもり立てている理由の一つはそれである。そうでなければ、リリー先生を発狂寸前まで精神的に追い詰めた元凶の一人であるドルニエに、ヘルミーナが従う理由など一つもなかった。

メモを終えると、死骸を片付けさせる。

ブルーグリーンの美しい髪を持つ子供が、死体を片付けるべく、辺りをぱたぱたと走り回る。これが、意識を転写した今のクルスだ。彼女が造り出した人工生命体である。何世代かを経て寿命は延びてきている。今後は更に性能を上げ、更にヘルミーナにとって有用な道具として仕上げていきたい所であった。

しかし、そう冷酷な考えとは裏腹に、ヘルミーナはクルスを眼を細めて見つめてしまう。

「マスター。 片付け、終わりました」

「それでは、手を洗ってからミスティカ茶を淹れて頂戴」

「かしこまりました」

以前の記憶も引き継いでいるから、道具として実に使いやすい。

クルスの淹れた茶を飲みながら、ヘルミーナは試験の内容について、考え始めていた。

 

例年、アカデミーでは学年度試験が行われる。学年ごとに数日ずつ日程をずらして行われるこれは、前回からアカデミーの風物詩となりつつあった。去年からペーパー中心だったテストが大幅に変更され、実戦および実践の形式が多く含まれるようになったのである。そのセンセーショナルな大幅変更が、話題性を作り上げたのだ。

これは、マイスターランクに上がってくるような学生の中にも、モヤシ同然の、実践をほとんど知らない連中が混ざっており、これをイングリドが問題視したことがある。

ヘルミーナもイングリドも、実践を重ねて力を付けてきた錬金術師だ。此処の学生と違い、まだ幼い頃だが、それに変わりはない。神童とか言われることもあったが、実際には違う。

神童にならなければ、死ぬ環境にいたのだ。

だから自分たちの常識を、学生達に押しつけてはならないとも思っている。しかし押しつけて苦しむ姿を見るのは、また楽しくもある。まあ、自分が楽しむばかりではいけない。自分の目的は、あくまで影からこのアカデミーを支えることなのだから。

ドアをノックする音。クライスだった。

相変わらず貧弱なこの青年には、最近外で色々と仕事をするように命じている。これはモヤシ型天才の見本だった此奴を、少しでも育てなければならないと、イングリドが考えたからである。素質があるのは確かなので、ヘルミーナも前からもったいないと思っていた。だから、積極的に考えには乗っている。

「ヘルミーナ先生、よろしいでしょうか」

「入りなさい」

クライスが入ると、さっとクルスが茶を出す。流石に手際が良い。妖精族の手伝いも使ったことがあるが、やはり自分でカスタマイズしたホムンクルスが一番だ。

「今回の試験について、作ってきました。 目を通してください」

「どれ」

ざっと目を通すが、何ともつまらない内容である。

ヘルミーナの眉が見る間に曇るのを見て、クライスが咳払いした。

「じ、実は、イングリド先生にももう少し生徒の自主性を尊重する内容にして欲しいと言われておりまして。 二年時のペーパーなら、これが最適だろうかと思ったのですが」

「面白くない内容ねえ。 教科書に書いてある事だけじゃなくて、もっと応用をテストに入れないと駄目よ」

「は、はい。 しかし、どのような応用問題を入れればいいのか」

嘆息すると、ヘルミーナはサンプルの用紙に、さらさらと筆を走らせ始めた。

「こんな感じにしなさい」

少し読んだだけでクライスが固まる。

これだから此奴は駄目だ。外ではどのような不測の事態が起こるか分からない。だから、重要なのは危機対処能力と、応用力なのだ。それを試せるテストを作らなければ、今後アカデミーは本国の学閥だらけモヤシだらけのものと同じになってしまうだろう。

この大陸に、強い生命力を求めて、四人は渡ってきた。

それを殺すようなテストを作ってしまっては、いけないのだ。

イングリドは今まで、兎に角知識面での充実ばかりを図ってきていた。それは今までの戦略としては正しかった。だが、賢者の石を作成し、独自の理論を作り出すものが出た現在、違う戦略を練らなければならない。

それを、クライスにも理解して貰わなければならなかった。

「これは、またテストが荒れますが、よろしいのですか」

「教科書を丸暗記するのではなく、きちんと内容を理解していれば出来るわよ。 そもそも、丸暗記でどうにか出来るテストがどうかしていると思わない?」

「し、しかし」

「私やイングリドの授業をきちんと理解さえしていれば、解ける問題ばかりよ。 貴方も、こういう問題を考えつきなさい」

クライスを帰すと、ヘルミーナはふと面白いことを思いついた。

この間、クルスの意識を転写した水晶には、バックアップのデータが残っている。これを用いて、クルスを量産することが出来ないだろうか。一杯クルスがいる所を想像して、ヘルミーナは興奮して雄叫びを思わず上げていた。

小首を傾げているクルスを手招きする。

「クルス、此方に」

「はい。 マスター」

「これから、私が目を付けている生徒のリストを作るから、それに載っている本人達をすぐに連れてきなさい。 連中には、私がとても素敵なプレゼントを用意しているから、すぐに来ないと地獄の底まででも追いかけていって生体実験の材料にした挙げ句に八つ裂きにすると告げるのよ」

「分かりました」

瞬く間にリストを作り上げたヘルミーナ。リストを受け取り、ぱたぱたと走っていくクルス。

生徒どもの反応を想像して、わくわくするヘルミーナは、同時並行で早速計画を実行に移すべく、材料を集めるべく頭の中で計算を始めていた。渡されている予算の中で済ませるか、或いは自分が今までため込んできた金を使うか。

どっちにしても、ホムンクルスを作る事自体はそれほど難しい作業ではない。ホムンクルスのデータは、先代のクルス(の肉体)で散々実験を繰り返し、充分なデータが揃っている。材料を集めることも、難なく出来るだろう。今のクルスと同じベースの肉体を作ることくらいなら朝飯前である。

問題は意識の転写だ。こればかりはヘルミーナの熟練と技術をもってしても、成功例が著しく低い。成功例は、今いるクルスだけ。しかし、考えてみれば、これだけで満足するのはヘルミーナらしくない行動であった。

だから、これから量産して、それらから効率よくデータを取りたい。それには、生徒どもを使うのが最適なのだ。

血相を変えた生徒どもが部屋に飛び込んできたのはまもなくのこと。

誰も彼もが、この世の終わりのような表情を浮かべていた。泣きそうになっている者もいる。

だが、気丈に歯を食いしばっている者もいた。かってこの中でもっとも気が弱そうだった、アイゼルという娘である。この中で、ヘルミーナが一番気に入っている生徒だ。色々な意味で。

「意外と早かったわね。 その辺に座りなさい」

「は、はい!」

アイゼルが率先して座る。一応授業を行うことも想定して、席は用意してあるのだ。それ以外は、実験材料と、そうでなければ全て雑然としたものばかりだ。材料の中には、生きた動物も混じっている。

ヘルミーナの異様な気を感じたか、きいきいと大型の実験用鼠が悲鳴を上げた。生徒の何人かが、それにつられて泣き始める。一番最後に入ってきたクルスが、無表情なまま言う。

「マスター。 全員を連れてきました」

「ご苦労様。 後でたっぷりかわいがってあげるから、お風呂に入っておきなさい」

「分かりました」

一礼すると、クルスが部屋を去る。そのやりとりを聞いて青ざめている生徒達の前で、ヘルミーナはにやりと笑った。

「錬金術の究極的成果の一つ、ホムンクルスの事は、皆知っているわね」

「はい。 ヘルミーナ先生が使役しているクルスもその一つだと聞きました」

「アイゼル、理解が早くて素晴らしいわ」

にこりと笑うと、流石のアイゼルも硬直して泣きそうになる。どうもヘルミーナは自分の笑顔が怖いらしいと知っているのだが、それでも敢えて時々笑うことにしている。生徒の反応が面白いからである。

アイゼルの頭を掴むと、わしわしと撫でながら、ヘルミーナは他の生徒達にも笑顔を向ける。

「ちょうど思いついた実験を実行に移します。 貴方たちは私が見込んだ優秀な生徒ですから、問題なくこれをこなせることでしょう」

「こ、これとは、な、なんでしょ、うか」

「アぁああイぃゼルぅ、理解が早いと思った私を、早くも失望させるつもりかしらあぁ?」

少しヘルミーナがアイゼルの頭を握る手に力を込めると、ごぎごぎと、頭蓋骨が面白い音を立てた。

流石に死を間近に感じたらしいアイゼルだが、別に意識が覚醒することもない。どうやらこの程度が限界らしい。まあ、年のこともあるし、修羅場をそれほど潜っていないこともある。

「ひいいっ! ご、ごめんなさい! ゆ、ゆ、ゆるして……!」

「はあ、仕方がないわね」

仕方がないので、手を離して、説明してやる。

全員に、量産型のホムンクルスを貸し出してやる。丁度妖精族の手伝いを使う人間が出始めている時期である。それと性能を比較し、なおかつクルスの変化を纏めてレポートにすること。

以上のことを、ヘルミーナが満足できるレベルで実施できた場合。

問答無用で、年度試験に二十点得点を底上げする。

俄然生徒達の目に生気が戻ってきた。特に今回はどのような恐怖のテストを味あわされるかと思っていたらしいモヤシ学生達は、特にやる気に目を輝かせていた。

「ホムンクルスを貸し出すのは一週間後。 ああ、そうそう。 ホムンクルスは全部女性になるので、男子は劣情を抑える工夫を考えておくように。 私の大事な作品に私以外が手を出したら八つ裂きにするわよ」

「ひいっ! 絶対そんな事しません!」

「ど、どうして女性なんですか?」

「そんなの、私の崇高な趣味に決まっているでしょう」

さらりというと、生徒達が全員固まった。

全員を追い出すと、さっそくホムンクルスの製造にはいる。試験までもうあまり時間がないが、そんな事はヘルミーナには関係ない。一応ペーパーには目を通してアドバイスした。それにその気になれば、テストなんぞ半刻で全学年分作れる。これはイングリドも同じ事だ。

クライスらの若手教員にテストを作らせているのは、彼ら次世代の育成のためである。イングリドもヘルミーナも、いつまでも若い訳ではない。賢者の石のおかげで老化が遅れていると言っても、それには限界もある。

シグザール王国がエル・バドールと全面戦争に突入する可能性が出てきた現状、あまり時間はないと言える。はっきりいって、故国などに思い入れはない。錬金術の発展のためなら、エル・バドールが滅ぼうが知ったことではないとヘルミーナは割り切っている。もしも戦争になったら、シグザール王国に荷担するつもりである。なぜなら、此方の方が有望だからだ。

故に、今後は其方に掛かりっきりになる可能性もある。

だから、余計に次世代を育てておかなければならないのだ。

外に出ると、受付に。業者に材料類を手配させる。そういえば、自分で材料集めに行ったのは何時が最後だったか。今回は精度の高い調合が必要になってくるし、品質面で高度なものを集める必要がある。

しばらく考え込んだ後、ヘルミーナはイングリドの居室に足を運んだ。

外に出る事を、告げるためである。

せっかく外に出るのだから、ついでに騎士団の様子も見てくる事にしよう。ヘルミーナはそう考えていた。

 

外を歩くのは嫌いではない。ずっと旅を続けてきた人生だからだ。一人っきりの旅をすることの方が、多かった。

まだ、十代半ばの頃。

ついにアカデミーの建設が終了し、リリー先生がザールブルグを離れた。それから少しして、イングリドと幾つかのやりとりをした後、ヘルミーナもザールブルグを離れ、大陸の南東部を中心に旅をした。

アカデミーを守るためには、あらゆる情報と知識が必要だった。書物だけで得られた知識では、どうしても限界があった。

だから、自分の足で歩き回った。大陸全土を。

そして、様々な知識を得た。ホムンクルスを製造するに必要なものも、その中には多く含まれていた。エル・バドールに錬金術を伝えた謎の存在、「旅の人」の痕跡は、実はこの大陸にも少なからず残っている。ただ、何かしらの理由で、錬金術は広まらなかった。それだけのことである。

それらは、旅をしなければ、知ることは出来なかっただろう。

各地を旅して、ヘルミーナは貪欲に強くなった。イングリドもアカデミー経営で国と渡り合い、強くなっているだろうと思うと、負けてはいられなかった。自分なりのやりかたで、裏からアカデミーを守れるようにならなければならなかった。

リリー先生を深く愛していたから。これだけは、絶対に譲れなかった。

魔女と畏れられたのはその頃である。

ユーディという優秀な錬金術師と一時期連んでいたが、その彼女もヘルミーナを畏れていた節がある。特にヘルミーナがおもしろがって書いた「日記」を読んでからは、露骨に此方を見る目が変わったのが素敵だった。

あれからだろうか。

自分を見る畏怖の目が、楽しくて仕方が無くなったのは。

子供のような性癖だと、イングリドは時々言う。自分でも自覚している。

だが、愛情が一方的なものだという事は、昔から知っている。何回かのクルスでの失敗で、それを身に刻んでしまっている。

歩いていると、子供連れの親子がすれ違った。

子孫を残すと言うことにも、あまり興味はない。ホムンクルスの研究の過程で、卵子と精子の事などは調べ尽くしているし、別に性交をしなくても子供を作る事は可能であると判断している。最悪の場合は、髪の毛などに入っている生体情報からも卵子を作り出して、適当な精子と混ぜ合わせて子供を作ることも出来るだろう。簡易版のホムンクルスという訳だ。自分の腹を痛めて子供を産むことに、ヘルミーナはどうしても興味を見いだせなかった。

ただ、子供自体は可愛いと思う。それは、生物としての本能からだろう。

クルスをいつも成熟していない女性として作るのも、最初の失敗によるトラウマよりも、それが原因になっていそうだった。

適当な車引きに入る。

ヘルミーナは個性的な味付けが大好きだ。だから、いつも面白そうな車引きを、実用的なものよりも優先する傾向がある。魔女そのものの姿をしたヘルミーナを見て、流石に店主はぎょっとしたようだが、注文すると料理を出してくれた。

料理は皮状の小麦粉を練ったものの中に肉や野菜を詰め、揚げたものである。北方で見られる料理に近いが、かなり辛口に作られていて、なかなかに面白い料理である。食べて気に入ったヘルミーナは、店主ににこりと笑いかける。店主がフライパンを恐怖のあまり落とし掛けた。

「これ、持ち帰りは出来るかしら」

「は、はい! ただちに作ります!」

「では、十個ほど包んで頂戴。 なかなか美味しいわ。 気に入ったから、時々来るわね」

店主が絶望と恐怖を顔中に浮かべた。とてもそそる表情である。しかし、多分探すのは難しくなるだろう。

まあ、それは別に構わない。たまに食べるから、こういう個性的な料理は面白いのである。それにその気になれば、地獄の底まででも追いかけて、店を止めていたとしても作らせるだけのことだ。

ヘルミーナは旅をしていたせいか、食いだめする癖がついている。持ち帰り分を包んで貰うのと同時に、七つほど先に自分の腹に入れておいた。大変美味しかったので、料金は何割か増しで渡しておく。

そのまま、ふらりと街を出た。

それからは、残像を残すほどの速さで走り始める。今回は、品質だけが重要なのであって、それほど量は必要ない。持ってきている小さな袋に少し入れれば、充分な量を確保できる。

街道から外れ、森の中を疾走。木を蹴り跳躍、枝に乗る。そしてそれを弾くようにしてまた跳んだ。

雷光のように森を駆けながら、同時に頭の中で様々な計算をしていく。大量生産するクルスについては面白いのだが、データを取り終えたその後どう活用するか。効率よく遊ぶにはどうするべきか。

軍事利用は可能か。戦闘用ホムンクルスはまだあまり研究を進めていないが、作る事自体は出来る。しかしクリーチャーウェポンをあまり好まないヘルミーナは、あくまで人間をベースに、クルスを強くしたかった。

無表情で計算を続けながら、森を抜けた。

着地。

衝撃波が辺りの地面を叩く。軽くスカートを叩いて埃を払うと、ヘルミーナは顔を上げた。

泉がある。これはアカデミー関係者でも滅多に知らない、非常に純度が高い鉱石が取れる穴場中の穴場だ。アカデミーを外から守るのに、ヘルミーナは周辺地形を徹底的に調べ上げた。その過程で穴場といえる場所を何カ所も見つけたが、その一つである。

驚くべき事に、其処には先客がいた。

姿を見せたヘルミーナを見て、流石に驚きの表情を見せたのは。あの鮮血のマルローネが提供してきた、エルフィールだった。

エルフィールは泉のまわりに自生しているトーン草を漁っていたらしい。確かにこの近辺では品質が高いのが取れるが、まだまだひよっこと言うことか。

「ヘルミーナ先生?」

「エルフィーィイイイル。 このような所で、何をしているのかしらあ?」

「ひいっ! テスト前だって事は分かっています。 すみません。 でも、ちょっと材料が必要になっていまして」

エルフィールが、非常に活発に飛翔亭での依頼を受け、自分の錬金術を確立すべく動いていることを、ヘルミーナは知っている。だが、今はテスト前である。イングリドを利するようで癪だが、ちゃんとこう言う時は怒っておかないとならない。

「仕事を受けるのは重要だけれど、テストを落とすようでは本末転倒よ。 出来るだけ早く戻って、仕事を終わらせて、テスト勉強を行いなさい」

「はいっ!」

怖い者知らずだというエルフィールだが、ヘルミーナの前では流石に子兎も同然だ。あたまを下げてぱたぱたと去っていくエルフィールを見送ると、ヘルミーナは屈んで掌を泉の水面に付ける。

そして、気合いを撃ち込んだ。

水面に波紋が広がり、少し遅れて泉から石が幾つか飛び出してくる。

ホムンクルスの制御中枢に使うものである。そのまま使うのではなく、一度細かく砕いて、溶かして使用する。空中で石をキャッチすると、いそいそとヘルミーナは袋に入れた。これが新しいクルス達の核になる。そう思うと、わくわくでうきうきである。いつも調合は、新鮮な興奮をヘルミーナにもたらしてくれる。

「さて、こんな所かしらね」

陽光に透かして石の品質を確認。充分である。全部を見て、大体の合計品質を見極め、必要である分が揃ったことを確認してから、帰ろうとして、思い出す。そうだ。騎士団にも、顔を出しておく必要があるのだった。

騎士団の隠し砦は、此処から少し南に行った所にある。

こればかりは、気紛れなヘルミーナも、放置する訳にはいかない。ヘルミーナにとって一番大事なことは、リリー錬金術アカデミーを守ることなのである。これだけは、クルスにも優先する最重要事項である。

今でも、リリー先生は、ヘルミーナにとって、一番大事な人なのだ。

ヘルミーナは態勢を低くすると、再び森の中を雷光のように駆け始めた。まだフルパワーではない。しかし、このくらいで充分である。騎士団での用事が長引くようであれば、帰り道はスピードを上げればよいだけのことだ。どっちにしても、そう大した労力は消費しない。

ほどなく、騎士団の隠し砦が見えてきた。スピードを落とす。

歩哨になっているまだ若い騎士がヘルミーナを見てぎょっとしたが、堂々と歩いて中にはいる。周囲を見回し、顔見知りを発見。丁度長旅から戻ってきたらしく疲れ切っている様子だったが、知ったことではない。

「ああら。 あなたはうちのエルフィールを監視しているダフラス」

「ダグラスだ! あ、あんたは」

するりと後ろに回り込むと、頭を掴む。みしりと頭蓋骨が楽しい音を立てた。

ダグラスはヘルミーナの殺気に全身を掴まれていて、身動きできない状態である。にやりと笑うと、舌なめずりしながら言う。

「クーゲル氏か、騎士団長はいるかしら?」

「い、今は副団長しかいない」

「ならばそれでいいわ」

手を離してやると、ダグラスは頭を抑えながら、奥の厩舎を指さす。そういえば、騎士とは馬に乗って戦う戦士の総称だ。森の中の、しかも隠密任務と言っても、馬は重要な存在なのである。

厩舎にはいると、その騎士はいた。

クーゲルのライバルとして有名な聖騎士ジュストと似ているが、違う。もう少し年配で、如何にも騎士という風情の中年男性だ。ジュストの兄、レストラーシュである。

流石に年齢による腕の衰えを自覚して第一線からは遠ざかっているが、その指揮手腕は健在で、エンデルクが前線で戦う補助を確実にこなしてきた人物である。カミラが大教騎士になり、事実上一線を退いてからは、しばらく引退できそうにないとぼやいている。

戦闘能力という点では既にクーゲルらには及ばない。だが、それでも充分に敬意を払うべき人物であった。

レストラーシュは、愛馬らしい栗毛の背中を拭いてやっていた。栗毛は首を下げて、されるがままになっている。深い信頼関係が、人馬の間にある証拠だ。

「ヘルミーナどのか」

「これは副騎士団長。 ご機嫌麗しゅう」

「むさ苦しい所にわざわざ足を運んで貰ってすまないな。 もう少しで馬の世話が終わるから、待って貰えるかな」

そう言って、丁寧にレストラーシュは愛馬を磨き抜いていった。この辺り、馬を大事にしている事が伝わってくる。ヘルミーナもクルスをとても大事にしているから、この辺りの気持ちは理解できる。動物の臭いに拒否反応を示す都会の人間もいるようだが、幼い頃は地獄にいたも同然だし、リリー先生に連れられて歩き回ってすっかり野生の世界にも慣れた。だから、ヘルミーナは動物が嫌いではない。

かといって、愛でるというのともまた違うが。

やがて、馬の世話が終わる。レストラーシュと一緒に、事務棟に移動。といっても、ごく小さい建物だ。

「騎士団の状況は?」

「あまり好ましくはありませんな。 シグザール王国の衛星国で、いくつもの争乱が起こっては消えております。 その都度潰してはいますが、このままだと手が回らなくなるでしょう」

其処までは、ヘルミーナも知っている。

しかしながら、本国の無能な長老達に、其処までの手腕はないだろう。実際に動いている連中にヘルミーナは心当たりがある。

そして、もうリリー錬金術アカデミーは、そろそろ本国と縁を切る頃だった。

まず第一に、連中は此方を馬鹿に仕切っている。

この間マルローネが発表した原子論は、ヘルミーナから見ても実に魅力的な新理論であった。今まで袋小路に来ていた錬金術が、これのおかげで飛躍的に発展しうるのである。客観的に見れば、まだ幾つかの未解決部分はあるにしても、明らかに五大元素論よりも優れている。

しかし、本国はこの報告を黙殺した。そればかりか、嘲弄さえしているらしい。

蛮族の地で作られた、嘘まみれの理論。そう唱えている長老もいるらしかった。

そもそも、ドルニエ校長が、此処に来たのは、島流しも同然の状況であったらしいとは、今では知っている。だが、優れた理論であるのなら、それを認めればいいのである。長老達は、己の権威を守るために、異国で立ち上げられた理屈を黙殺した。それだけで、縁を切るには充分だった。

そして、もう一つ。

今後発展するのは、間違いなくエル・バドールではなくシグザール王国だ。

既にドムハイトをコントロール下に置きつつあるシグザールは、いずれ世界最強の国家となる。国力だけではなく、人材も、そして発展性も。この国を超える国家は、多分世界の何処にも存在しないだろう。

そしてこの国をいずれ内側からコントロールすれば、錬金術はそれこそ世界を支配する技術になる。

権力には、あまり興味がない。

あるのは無制限の資金を引き出せるスポンサーだ。ヘルミーナは比較的裕福な資金で研究を行っているが、それには様々な涙ぐましい努力が必要だったのである。もちろん、それにより研究の時間が割かれたことも一再ではない。

腕組みすると、ヘルミーナは頷く。

「分かりました。 此方からも、協力を強めましょう」

「それは助かります。 ドムハイトからの協力もあるようなのですが、なにやら得体が知れない生物兵器を山と投入してきているようでして、流石のうちの精鋭も苦戦しておりましてな」

「サンプルは拝見しました。 いずれもがエル・バドールで作られたクリーチャーウェポンに間違いありません。 いずれも戦術級ですが、今後は戦略級が出てくることも警戒しなければならないでしょう」

戦略級クリーチャーウェポン。

かって、エル・バドールで開発された二十種類ほどのクリーチャーウェポンがこれに分類される。

定義は簡単で、一個師団以上の戦力を相手にすることを想定していると言うことだ。その実力は言うまでもなく凄まじく、エル・バドールの統一戦争で使われた何体かは、あまりの破壊力を発揮したため、危険視されて戦後に封印されたほどである。

何種類かは現在も国防のために動いているのだが、ヘルミーナが見る所、多分エル・バドールが繰り出してくるクリーチャーウェポンは、その中でも扱いやすい三種類が想定される。

その中の一つ、一番確率が高いものを、まず挙げる。

「フラウ・シュトライト」

「ほう?」

「超大型の海竜です。 いわゆるエンシェント級のドラゴンよりも更に大きく、水中での優れた機動力を有しています。 並の軍艦程度では歯が立たないでしょう。 その上これは、ある厄介な能力を有しています」

戦略級のクリーチャーウェポンの中には、いにしえの神々を思わせる能力を有するものが何匹かいる。フラウ・シュトライトもその一体である。

その能力とは、即ち天候操作。

本国でも秘中の秘とされている技術を使われた、もっとも厄介で、それが故に確実な効果が期待できる一体なのである。これを使えば、不意を突いて艦隊を壊滅させたり、あるいは海上封鎖を行ったりと言うことが自在に出来る。

問題は気性が荒いことで、制御が難しいことだが。しかし、これでも戦略級クリーチャーウェポンの中では扱いやすい方なのだ。

「なるほど、並の軍艦以上の機動力を有し、しかも海上戦では致命的な結果を産みやすい天候を操る怪物、と」

「シグザール王国騎士団の戦力については、かなり充実していると我々でも判断しています。 しかし海上戦で、これとまともにぶつかるのは避けた方がよろしいでしょう。 如何に優れた騎士とはいえども、水上では力を発揮できません。 多くの戦力を、無為に失うことになります」

「留意しておきましょう。 それと、大型の生物を相手に水中で戦う専門部隊の選定にも入っておきます」

他に、幾つかの情報を交換する。

やり口を聞く限り、やはり本国の連中の仕業ではない。本国の一部派閥がドムハイトに戦力を供給しているか、或いは戦術に関する指導を受けている、という所なのだろう。

それにしても本国の連中の馬鹿さ加減には、あきれかえるばかりだ。

「近いうちに、ヴィント王と会えませんか?」

「そうですな。 アカデミーとの我が国の関係を考慮するに、一度腰を入れて話をするのも良いでしょう。 騎士団長に、伝えておきます」

「有難うございます。 それでは、此方はお土産となります。 皆でお食べください」

「ははは、心遣い、ありがたく受けさせていただきます」

相手が貴族だったら、専門の料理店で焼き菓子でも作らせるか、或いはヘルミーナ自身が錬金術で何か作る所だ。

だが騎士団の人間には庶民や、異国の出身者も少なくない。騎士団長であるエンデルクにしてからがそうなのだ。彼らが庶民的な料理を喜ぶことを、ヘルミーナは知っている。まあもっとも、ヘルミーナは自分が好きでもないものを差し入れもしないが。

「おお、これは車引きの。 私も大好物でしてな」

副騎士団長は、喜んでくれた。

ヘルミーナも、自分が好きなものを他人が喜んでくれて、少し嬉しかった。

 

2、二度目の学年度試験

 

異様な光景が、エルフィールの前に広がっていた。

アカデミーの中庭。

鎖を付けられて、吠え猛る虎が一頭。とれたてぴちぴちのフォレストタイガーである。騎士団が取ってきたのかイングリド先生が捕まえてきたのかは知らないが、どっちにしてもこれからぶっ殺されることに変わりはないのだろうし、まあ気の毒な話なのだろう。猛り狂う野生の虎を初めて目の当たりにしてがくがく震えるモヤシ学生達の前に出たイングリド先生が、残像を残して跳躍すると、フォレストタイガーに腰掛けた。あまりの早業に、エルフィールも素直に凄いと思った。

愕然とした虎はロデオさながらに、優雅に座った先生を振り下ろそうとする。

しかし、イングリド先生が一瞬だけ殺気をぶつけると、以降は置物のように大人しくなった。

流石である。虎は完全に恐怖で固まっていて、イングリド先生が強引にぶちぶちと頭の毛を少しむしっても、びくりともしなかった。

虎の毛を吹き散らすと、イングリド先生は、生徒達を見回しながら言った。

「まず、最初の試験は実技試験です。 この虎を眠らせなさい。 ただし、能力の展開による睡眠誘発は反則とします」

これはなかなか難しい試験だ。

相手を眠りに誘う錬金術の道具は何種類かあるが、今回は条件がかなり悪い。虎は恐怖でぎんぎんに目が冴えてしまっており、しかも先生が上に座っていることで、ドラゴンに喰われかけているも同然の緊張下にある。

しかしながら、睡眠導入剤の類ではない、戦闘用の睡眠薬では。殺し合いをしているような精神状態の相手を、一気に意識下に引きずり落とさなければならない。かなりの難事業である。

何種類かこの手の薬剤は存在している。鏃などに塗って相手の体内に直接流し込むもの、気化させて相手に吸引させるものなどなど。いずれにしても取り扱いは簡単ではなく、二年度の試験としては申し分ない内容だ。

相手にとって不足は無し。エルフィールは武者震いした。

道具類は各人数分集められている。今回は材料に関しても、早い者勝ちではない。それを聞いて、ほっとするモヤシ学生達。

甘い。分かっていない。

今回の試験は、実際にどれだけ上手に錬金術の道具を使いこなせるかの、実習試験なのだ。

エルフィールが選ぶのは、気化型の睡眠薬。難易度は適切で、何度か作った事もある。動物の皮を剥いだりする時には、眠らせて捕らえた方が都合がよいことがある。そう言った時の狩りに用いるためだ。

で、実績も上げている。鹿を捕らえる時には十分な効果を示し、立派な角を持つ雄が、風上からの薬剤散布でころんと落ちた。

調合に手は抜かない。トップクラスの学生達の中には、もう完成させた者が出始めていた。だが、しかし。

確か現在八位だという学生が、虎の前に出る。

しかし、鎖が千切れそうな勢いで飛び掛かってきた虎に怯えて、しかも強力とは言え睡眠導入剤を放り出して、逃げ出してしまった。虎はぴたりと動きを止め、血走った目で辺りをまた見回し始める。

虎にしてみれば、恐怖で全身が凍りそうなのである。しかも恐怖が背中に座り、いつでも自分を殺せる状態にある。

そんな状態で、近寄ってくる生徒を見たら、どう反応するか。

せめて一匹でも道連れにしてやると思うのが自然だろう。

外に出ないモヤシ達は、それが分かっていない。イングリド先生は、優雅に虎に腰掛けたまま、愚かでひ弱な生徒達の四苦八苦を見つめている。二人目が、虎に追われ、悲鳴を上げて逃げ出す。調合を終えた生徒も、それを見て二の足を踏んでいた。

そこへ進み出たのはキルキだった。

キルキはへの字に口を結んで虎の様子を見ていたが、冷静に歩み寄る。虎の動きを見て、鎖の長さを確認し、攻撃範囲を冷静に確認していたのだ。

指先を舐めて、空にかざす。

風向きを計っている。そういえば、あの子は一度、眠り薬を使った狩りに連れて行ったか。このテストのことだけを考えると、失敗だったかも知れない。もっとも、キルキが手応えのあるライバルになるのは大歓迎だから、総合的に考えると嬉しかった。

歓声が上がる。

吠え猛っていた虎が、キルキが風上から流し込んだ睡眠薬を浴びて、ころんと寝てしまったのである。不思議とイングリド先生には全く通用しないようだった。虎の毛をまたむしって、たたき起こすイングリド先生。

「次、誰か挑戦者は?」

流石に上位にいる学生達は、今のキルキの行動を見て、飲ませる薬では駄目だと気付いたらしい。ノルディスもその一人だったようで、調合を切り替えているのが傍目には見えた。

殆ど同時に終わったのが、エルフィールとアイゼルである。エルフィールの方が、少しだけ早かった。

他の上位陣と比べるとアイゼルは露骨に早かった。虎の方に走りながら、聞いてみる。

「アイゼル、ひょっとしてこのタイプの眠り薬、使ったことあったの?」

「この間、ウズラを生け捕りにしなければならない仕事があったの。 それで四苦八苦して、自作したのよ」

「なるほど」

「貴方はやっぱり狩りで使ったことがあったとか?」

頷いたエルフィールに、アイゼルは呆れた。

先に虎の前に出たのはエルフィールである。虎はかなり興奮していたが、問答無用で顔面に小さなボールを投げつける。

木の実をくりぬいて作った皮の中に、触れるだけで催眠効果を誘発する気化型睡眠薬を詰め込んだものだ。最初は風上から流そうと思ったのが、キルキが先にやったので、方法を変えた。虎が破裂したボールの中の粉を吸って、飛び跳ねて悲鳴を上げるが、見る間に大人しくなり、寝そべって転がった。

虎の頭をはたいて、たたき起こすイングリド先生。

この様子では、試験が終わる頃には、虎は多分死ぬだろう。もちろん死んだあとは毛皮をはいで、内臓類を売り飛ばしてアカデミーの運営資金にするのだ。

アイゼルが次に睡眠薬の散布を始めた。口を押さえて、風上から虎に噴霧する。霧吹きのような道具を使っているのがアイゼルらしい。

虎はつーんと向こうを向いていたが、眠くなってきたからか、突然大声で吠えた。

多分、虎も自分の運命は悟っているのだろう。

意地になって耐えている虎。これは、多分薬が効くのは、上位三十人、巧く行って四十人くらいまでだろうなと、エルフィールは思った。

 

昼前に第一次試験は終わった。やはり予想通り、虎は耐性と警戒心がついてきたからか、後から来た生徒ほど上手に眠らせることが出来なかった。三十七人が成功したが、結局百人以上は駄目だった。

試験が終わった後、ぼろぼろになった虎の鎖を、イングリド先生が引いていく。必死に抵抗しようとする虎だが、片手で引っ張られて行ってしまった。イングリド先生の底知れぬ実力が、これだけでもよく分かる。

早速の強烈な試験に、いつも通常試験で稼いでいるモヤシ学生達は凹んでいるのが横目に見えた。

昼食になる。エルフィールは、ノルディスとアイゼル、キルキを誘って外に出た。車引きで食べることを提案して、アイゼルが受けてくれたのがちょっと意外だったが、安くて美味しいので文句はない。

今日入ったのは、四人並んで食べることが出来る、少し大型の車引きだ。小麦粉を練って油で揚げ、中に具を挟んだ料理で、かなり見た目よりボリュームがある。少し味付けは濃いが、悪くない食感でエルフィールは好きだ。

「困ったなあ。 また上手に出来なかったよ」

「大丈夫よ、ノルディス。 貴方はいつもの成績が良いから、挽回は可能だわ」

どうにかかろうじて合格を貰ったノルディスを、アイゼルが慰めている。しかしながら、今後のペーパー試験も独創的な内容であることは、容易に予想できた。

キルキは最近成長がかなり早いが、それでもまだちっちゃい。でも、最近は自分が小さいことを少し悩み始めたか、少し食べる量を増やしているようだった。

「エリー、ありがとう。 今回、最初に受かったの、エリーのおかげ」

「やっぱり覚えてたか」

「うん。 エリー、勉強は負けない。 でも、もっと色々今後も、お外のことを教えて欲しい」

「分かってるよ」

それにしても意外だったのはアイゼルが凄く早く試験を終わらせたことだと、ノルディスが言う。アイゼルはちょっと恥ずかしそうに言った。

「実は、ウズラを生きたまま捕まえるって仕事があって、それで四苦八苦して作ったのよ」

「そうか。 僕もそろそろ、飛翔亭で仕事を受けることを始めないといけないかな」

「それがいいよ。 ノルディスの頭が良いのは認めるけど、やっぱり引きこもったままだと、出来ることにも覚えられることにも限界があるよ」

「そうだよね。 有難う、エリー。 試験が終わったら、ちょっと考えてみるね」

ノルディスは度重なる苦境でもへこたれず、首位近くを右往左往している。結局キルキには追いつけなかったが、先月からはエルフィールと並んで四位だった。アイゼルも七位まで順位を上げてきており、この四人で上位を争奪している状況だ。キルキは最近安心の一位と言われるようになってきており、他の学生達にも、かなりマークされるようになっていた。

車引きで食べ終わると、アカデミーに戻る。アイゼルが今までと違い、小銭を持ってきているのが印象的だった。そう言えば、少し前から服装のグレードが下がっているような気がする。

「アイゼル、お洋服、少し安くした?」

「これ、全部自作よ」

「へえ……」

自作としては充分に凄い。服もマントも相当な作り込みだ。マントに関しては、以前キルキに作り方を教わっていたようだが、靴も服もなると相当である。

貴族の子弟で、彼女ほどの自立心がある人間は、まずいないのではないのか。そう思うと凄いが、一方で込み入った事情の存在も予感させる。この間アイゼルの家を見てだいたいの事情は理解したが、いずれ本人に直接話して欲しいものだと、エルフィールは考えていた。

次の試験は、教室に入って、ペーパーテストをする。

全員が教室にはいると、げっそりしたクライス先生が姿を見せた。それだけで、大体何が起こったか分かった。多分今年も、ヘルミーナ先生が腕によりを掛けて、訳が分からないテストを作ったのだろう。

エルフィールはあの暗号を解読しなければならないようなテストはむしろ好きなのだが、他の学生達はみんな苦手なようである。アイゼルはヘルミーナ先生をまるで魔王のごとく畏れている事もあって、クライスが疲れ切っている様子を見ただけで震えだしていた。

「あ、アイゼル、落ち着きなさい、落ち着くのよ、大丈夫、大丈夫、逃げちゃ駄目、逃げちゃ駄目なんだから」

うつろな目でぶつぶつ呟き、自己暗示を掛けるアイゼル。見ていてとても微笑ましい。思わず笑みがこぼれてしまう。

試験開始が告げられ、用紙を捲る。

真っ先に目に飛び込んできたのは、意味不明のイラストだった。象形文字のような人間が、フラスコらしきものを持っている。辺りにはシュールなタッチの動物らしきものが並んで書かれており、血らしきものが噴き出している絵もあった。

「これらのヒントから、現在行っている錬金術の調合と、それによる成果物を予想してこたえなさい」

早速とばしているのが素敵だ。今回のペーパーテストも大荒れの予感である。

動物らしきものの特徴から、まず見ていく。大体どれも明確な特徴がデフォルメして書かれているので、すぐに特定は出来た。

問題は血が噴き出している絵があることだ。これはこの動物にダメージを与える効果があるのか、或いは材料にしているのかも知れない。考えるだけで結構面白いテストだ。周囲の、固まっている他の生徒が気の毒でならない。

しばらく考え込んでいたキルキが、さらさらと筆を走らせ始める。

かってこの子は応用が非常に苦手で、それが弱点だった。しかし抜群の記憶力を駆使して膨大な情報を蓄えることにより、その弱点を見事に克服した。前回のテストからまる一年、ノルディスから首位を守っている実績は伊達ではないのだ。

さてさて、エルフィールも負けてはいられない。

幾つかの仮説を立てて、順番に検証していく。割り出した動物のリストを加味してみるが、やはり材料の線が濃そうである。問題は何を材料にするかだが、それについては大体見当がついた。

回答を記入。

一問目からなかなかに面白いテストであった。

二問目は、これまた強烈な内容である。今度はイラストではないのだが、暗号文のような文面になっていた。要するに、ある人物が過労で倒れて、それを救助するようにという内容なのだが。

ヘルミーナ先生の地文らしく、強烈な個性を放つ文字で、実に楽しそうに書かれていた。しかもあの人の文章は、文面があっちにこっちに右往左往するのが特徴である。自分が楽しいことを書く気はあっても、相手が理解する事に対してはあまり優しくない。

参考書で先生の文章に何度も触れているから、エルフィールは解読をすらすら進めることが出来た。

二問目を解き終えて、周囲を見る。

案の定、辺りは地獄絵図とかしていた。アイゼルはどうにかついて行っている様子だが、モヤシ学生達の何名かは、発狂しそうな顔色である。ノルディスもあまり結果が好ましくない様子で、呆然と答案用紙を見つめているばかりだった。

普段良くできる子だからこそ、この手の非常識な設問には対抗できないのだろう。

幾つかの問題には、少し自信がないものもあった。

だが、どれも解いていて面白いものばかりである。どうしてまわりが青ざめるのか、よく分からない。

キルキは時々派手に顔色を変えて、への字口を作って悩んだりもしているようだが。それでも順調に書き進めている。これだと、どちらが先に終わるかはかなり際どい所だろう。

最初の脱力状態から立ち直ったノルディスも猛追を掛けてきている。流石は秀才君である。この辺りは、結構怖い所だ。

最後の問題は、何と計算問題である。それだけなら別に難しくもないのだが、内容が内容であった。

現在の中和剤の底値を起点としたかけ算である。ただし、これに関しては、店によって相場が違ってくる。そのためか、七種類の数値が用意されていた。エルフィールは即座にその中から正解を導き出したが、未だ飛翔亭などに足を運んでいない連中には、まるでヒントがない地獄のような内容になるだろう。かけ算自体はさほど難しくもなく、そう言う意味ではサービス問題であった。

エルフィールが最初に立ち上がり、答案を提出しに行く。

次がキルキ。何人か間に挟んで、ノルディス。更にその倍ほどの人数を間に挟んで、アイゼルが答案を提出した。

試験が終わったので、外に。休憩室で、ゆっくり頭をほぐす。

「面白い問題だったね!」

「ええっ!?」

エルフィールが満面の笑顔で言うと、露骨にノルディスが予想通りの反応をしたので、噴き出すのをこらえるのに苦労しなければならなかった。アイゼルは相当な汗をかいていて、ハンカチで額をしきりに拭っていた。

「もう、貴方たちの感性にはついて行けないわ。 キルキ、貴方は?」

「幾つか、ちょっと自信ない。 でも出来ていることは出来ている、と思う」

「最初の問題がもう。 頭が撹拌されるかと思ったよ」

「まさか絵を使った暗号解読なんて。 私はこの間からヘルミーナ先生に教科書を借りて勉強しているから良いけれど、他の生徒達は気の毒だわ」

アイゼルがしみじみ面白いことを言った。

どうやらアイゼルがヘルミーナ先生に気に入られているらしいことは知っていたが、教科書を貸し出されているとは意外だ。それにしても、アイゼルは一体どういう錬金術師になりたいのだろう。

「アイゼル、お洋服とか作る錬金術師になりたいの?」

「それもあるけれど、純粋にお金を稼げるようになりたいわ」

「現実的だね。 僕は最近、医者への路を進みたいと強く思えるようになってきたよ」

「なるほど、薬剤の作成に長じたお医者さん、か。 もしもなれたら、結構凄い事だろうね」

エルフィールが言うと、ノルディスはほんのり赤くなって、恥ずかしそうに頭を掻く。キルキは相変わらずだと思うので、敢えて聞かなかった。この子にとっては、アルコールの分析と根絶以外に、やりたいことなど無いだろう。

エルフィールも、少しずつ将来の夢が固まりつつある。ドナースターク家の重臣になるとか、美味しいチーズケーキを好きな時に好きなだけ作るとか、生きている道具類についてあらゆる意味で極めたいとか、その辺りは変わらない。だが、それらを統合した先に、何かが見えつつあるのだ。

他の生徒達も、ぞろぞろと試験を終えて休憩室に来た。

今日の夕刻に、最後の試験が来る。これは最初と同じくサプライズ式で、何が来るかさっぱり分からないという。しかしながら、今回ノルディスは最初の試験と違って、かなり食いついてきている。

本人が飛翔亭に出なくても、エルフィールがアイゼルと一緒に受けている仕事を手伝ったりしていたから、かも知れない。それに何度か、一緒に外に連れ出してもいる。それが要因であろうか。

鐘が鳴る。最後の試験開始だ。

背伸びして体をほぐすと、エルフィールは休憩室を出る。何が来るのか、楽しみで仕方がなかった。

 

自室の窓から、気配を消して、ヘルミーナは生徒どもの様子を見つめていた。四苦八苦している様子が実に面白い。阿鼻叫喚の地獄が眼下にあり、それがまた彼女の嗜虐心を刺激するのだった。

生徒を四苦八苦させるのもそれはそれで楽しいのだが、個人的にヘルミーナが一番面白いと感じているのは、苦労を乗り越える様子である。エルフィールなどは、目の前の困難を露骨におもしろがっている。アイゼルやノルディスは怖がりながらも必死に立ち向かっている。キルキは極端にマイペースで、今後が実に楽しみである。

試験の内容は、イングリドが作った薬品類を調合して、一番効果が強い栄養剤を作る、というものだ。

無色透明の液体が入ったフラスコがただ並べられているだけで、其処から何が入っているかをまず特定しなければならない。生の材料であればまだ判断が難しくない所を、一番面倒な中間素材類を見分ける目が必要になってくるのである。

今までの試験は、いずれも全て戦略がある。

最初の試験に関しては、実戦において有効な錬金術を使えるかどうか。虎という野生の恐怖を前にして、きちんと的確に動けるようでなければ、いずれ独り立ちした後、錬金術師としてはやっていけない。

そして二つ目。

錬金術を行う以上、顧客との取引が必要になってくる。そして、顧客は。いつも提供者に比べて、優しい存在ではない。意味不明の発言をする顧客もいる。その意図を読み取りもしなければならないのである。

だから、理解力が重要なのだ。

そして最後。これは錬金術をやるようになると分かるが、どうしても同時多数の調合をこなすことが、今後出てくる。そうなると、中間生成物を見て、すぐにこれが何かと判断できないと危険なのである。

いずれも、イングリドと相談して決めたテストである。

今までの学生どもが、いずれも工夫のないペーパーばかりしていた反動もあるだろう。ヘルミーナは、生徒達から魔王と呼ばれているらしい。実に光栄な話であった。

クルスの気配がした。振り返ると、少し息を弾ませているクルスの姿があった。

「マスター。 ドルニエ校長がお呼びです」

「どうしたの、そんなに急ぎで」

「シグザール王国からの急使だそうです。 詳しいことは分かりません」

一瞬で事態を悟ったヘルミーナは、後のことはクライスらに採点させるように言い残すと、すぐにその場を後にした。

このタイミング出来たとなると、やはりフラウ・シュトライトによる海洋封鎖作戦か、それに類する事態の可能性が高い。そうなってくると、対処はマルローネにでもやらせるとして、他に幾つか手を打っておく必要が生じてくる。

本国のクリーチャーウェポンは、やはりそれなりに高い技術が使用されている。戦略級になってくると、構築技術の中にはこのリリー錬金術アカデミーではまだ再現できていないものもある。今の腐敗した無能なエル・バドールの錬金術師どもではなく、旅の人が鍛え上げた世代によって作られた技術なのだから当然だ。

それは、是非欲しい所である。

また、如何に精鋭の騎士団を有するシグザール王国とは言え、戦略級クリーチャーウェポンとの正面決戦だけは避けたい所であろう。少数精鋭として、具体的にはドナースターク家にマルローネの貸し出しを申請する必要が生じてくる。賢者の石を作成した今のあの娘ならば、戦略級のクリーチャーウェポンに対して充分な有効打を与えることが出来るはずだ。

幾つかの可能性を想定しながら、ヘルミーナは騎士団の屯所に急ぐ。

今後のことを考えると、いずれの事態にしても、一刻も早い対応が必要なのだった。

 

試験が終わり、エルフィールは背伸びしていた。

今回は手応えがある。三つの試験で、いずれもキルキとかなり良い勝負をすることが出来た。

それだけではない。アイゼルもノルディスも、以前に比べるとかなりテストに対応してきている。こうでなければ面白くない。特にアイゼルは、ペーパー試験で相当に善戦した様子であった。

流石にノルディスは体力の不足が目立っているようで、そのまま寮の自室に直行。アイゼルはキルキと一緒に、飛翔亭に向かった。二人とも、仕事の件でディオ氏と相談があるのだという。

エルフィールはというと、試験が終わったら来るようにと、イングリド先生に呼び出しを受けている。だから、まっすぐ三階へ向かった。

ヘルミーナ先生の部屋の前で、ブルーグリーンの髪の毛を持つ、美しい顔立ちの子供とすれ違う。ちょっと人間離れした美貌だ。クルスか。以前見掛けた時よりも、少し成長している様子だった。

ホムンクルスの研究自体がもともとかなり高度だと、エルフィールは聞いたことがある。クルスは成長までする上、一定まで育てば人間との間に子孫を残すことも出来ると、ヘルミーナ先生は時々自慢しているという。もしそれが本当だとすると、大変なことだ。

ぱたぱたと走り去るクルスを見送ると、イングリド先生の部屋に。

先生は今日も、片手間に調合をしていた。

「その辺に座りなさい」

「はい」

「今日は、今後の効率を考えて、彼を紹介しておきます」

先生の影から現れた、緑の服を着た子供が、丁寧に一礼する。この特徴、噂に聞く妖精族か。

妖精族は、人間の社会にもっともとけ込んでいる亜人種として知られている。人間社会の下部構成員として積極的に媚びを売ることで生き延びている種族で、独自のネットワークと技術力で人間にひたすら尽くし、その見返りとして身の安全と殲滅を免れている存在だ。

エルフ族などが森を守るために有用だから生かされているのと対照的に、彼らは人間に対し、自分たちが無害で有用であることを必死にアピールすることで、滅ぼされるのを避けてきた。特に錬金術師との関係は深く、上級の錬金術師でも彼らを使用人として使っている例が珍しくないという。調合の手伝いをさせる例もあるし、何より彼らによる物資の配達ルートが非常に便利なのだ。

「初めまして、パテットです。 ザールブルグにおける妖精族の営業を全般的に行っております」

「エルフィールです」

「貴方の評判は、イングリド様から聞いています。 将来がとても楽しみな錬金術師であるとか」

あどけない顔立ちだが、やり手である。早速エルフィールを不自然ではない程度に褒めに掛かってくる。この辺り、人間の扱い方をとても良く心得ている。もし人間がその気になったら、自分たちなどひとたまりもなく滅ぼされてしまうことを、良く知っているのだろう。

確か緑色は、妖精の中でもかなり上位に入るはずで、だとするとこのパテットは相当に力のある営業だ。イングリド先生は横目に、やりとりを見守っていた。

「早速ですが、此方をまず差し上げましょう。 我らがとても優秀だと認めた方々に、独占的に渡させていただいているものです」

「ありがとう。 契約に関しては、明日にでも具体的な話を聞きたいのだけれど」

「分かりました。 流石に此処での長話も問題でしょうし、今日はここまでと言うことで」

お近づきの印にと、パテットが手渡してくれたのは、結構貴重な大粒のルビー原石だった。ルビーの作成はまだやったことがない。だがこれだけの大粒の原石だと、加工次第で相当な金に化けるだろう。もう一つ渡されたのは、小さな腕輪であった。人間用に作られている。ナンバーが掘ってあり、これが契約を行える人間の証だと言うことは、すぐに分かった。

妖精族は錬金術アカデミーとは関連が深いと聞いているが、これだけでも相当にエルフィールに彼らが期待していることが分かる。パテットがイングリド先生の部屋を出て行くのを見送ると、エルフィールは調合中の先生にあたまを下げた。

「有難うございます。 わざわざ紹介していただいて」

「そろそろ貴方も単独での作業では無理が生じてきていたでしょうから。 そうそう、キルキには少し前に同じ腕輪を渡してあります。 アイゼルはヘルミーナ先生がどうにかすると言っていたので何もしていませんが、ノルディスにも近々同じように妖精族の営業を接触させる予定です」

つまり現時点で、エルフィールの方がノルディスよりも評価が高いと言うことだ。これはとても嬉しいことである。

試験の結果も好ましかったし、これは今後期待されていると言うことでもある。

今まで抱えていた漠然とした不安も、どうにか払拭できそうだ。エルフィールは少しだけ、何だか嬉しいように思った。

 

翌日、試験の結果が張り出された。

一位はキルキが死守。エルフィールは二位。ノルディスは五位で、アイゼルは八位であった。

モヤシ学生組の中では、ノルディスは出色の出来である。ペーパーで善戦したこともそうなのだが、最後の試験で的確な調合を行ったことが大きかったらしい。この辺りは元々の地力が大きい事が原因だろう。キルキも一位であるが、アイゼルとそう大きな差がある訳でもない。四人の中での差は、一年時に比べるとずっと小さかった。

アトリエ組の他の学生も善戦している。男子生徒達も上位に食い込んできているのは、彼らが飛翔亭でしっかり仕事をこなし、勉学を怠らなかったことを示していた。

だが、十位までとそれ以降の差が、かなり大きくなっている。

特にモヤシ学生組の中で、かなりの凋落を見せている生徒が目立った。エルフィールも知っている、何人かの上位常連が、真ん中以下にまで成績を下げている。最初の虎の試験で巧く行かなかった上、ペーパーでもあの強烈な内容について行けなかったのだろうなと言う想像は、何となくついた。

兎に角、二位という成績は、エルフィールとしては今までで一番である。キルキには全体的に競り負けた感触だが、これは今年の細かい定期テストでの成績差が響いてきているのだろうと思う。今回のテストに関しては、決して負けていないはずだ。

アトリエに帰ると、ベッドに転がって天井をぼんやり見つめた。

ドアがノックされる。キルキでもアイゼルでも、ノルディスでもない気配だ。お客様かなと思って出てみるが、違った。

ドナースターク家のメイド長の一人である、マルルである。昔はとにかく可愛らしく、頭の出来を買われてメイド長になっていたそうなのだが。最近はぐんぐん貫禄がついて、背丈が足りない分を補っていると評判だ。

見知った仲であるし、アトリエに入って貰う。同年代と言うこともあり、意識せざるを得ない相手だ。生きている縄を使って茶を出させる。もう、驚かれはしなかった。

「エルフィールさん。 早速ですが、ドナースターク家から貴方に正式な仕事の依頼が来ています」

「ええっ!」

思わず身を乗り出す。

形式的には、エルフィールはドナースターク家の家臣と言うことになっている。しかしながら学生という事もあり、なんら成果も上げていないので、正確には家臣見習いという所が正しい。

出来れば学生の内には見習いを外し、マイスターランクに上がる頃には幹部候補の坂道に掛かりたいと思ってはいた。だから、こういった話は願ったりなのだが。

しかしどうしてか、怖い者知らずのエルフィールだというのに、どきどきしてしまった。これは恐怖からだろうか。それもよく分からない。

「つ、続けてください」

「現在、長代行のシア様が、婚約なさっていることは知っているかと思います」

「はい。 結婚も近いとか」

「其処で貴方には、幾つか必要な道具類の作成をして貰います」

来た。

ドナースターク家が、質素な婚礼をあげるつもりらしいと言う話は聞いていた。国から目を付けられ始めている上に、幾つかの件で資金についても査察が入る可能性があるから、らしい。

優秀な人材を多数有していることが、警戒を呼ぶ原因となっている。

しかしながら、流石に事実上の当主であるシアの婚姻である。ドナースターク家の人間としては、資金を抑えて、しかしながら心がこもった事をしたいと思っているのが普通であった。特に若い使用人の仲には、シアに世話になった者も多いのだ。おっかない人ではあるが、出身に構わず評価してくれるのがありがたいのである。

エルフィールも、それは同じだ。アデリーさんがそもそもそう言う状況だとも聞いているし、ドナースターク家が後ろ楯になってくれなければ、とてもアカデミーにはいることなど出来なかっただろう。

具体的な品々がリストとして上げられる。化粧品類と、後は演出用の幾つかの道具。そして、デザート。

「チーズケーキですか?」

「最近造り出されたお菓子と言うことで、結婚式に出すのは類例がありませんが。 しかし、常に先端の技術にこだわるドナースターク家の結婚式に出す品としては、味としても風格としても悪くはないと判断されました」

「分かりました。 腕によりを掛けて。 それで、期日は」

期日は即ち、シアの結婚式の日取りと言うことになる。そんなに近いという話は聞いていなかったのだが。

「来年の初旬から中旬に掛けて。 そうですね、夏までずれ込むことはないでしょう」

「なるほど、それなら充分な準備が出来そうです」

「ただし、この予定の品が、追加される可能性があります。 日持ちするものに関しては、出来るだけ早めに納品しておくことをお勧めします。 なお、貴族の、それも今や国に目を付けられるほどの貴族に成長したドナースターク家の使う品として恥ずかしくない品質に仕上げていない場合は、どうなるかは分かっていますね?」

「それはもちろん」

これは出世の好機である。

だが同時に、奈落の底への入り口でもあった。

誰が、エルフィールにこの重要な役目を廻したかは分からない。或いは、噂に聞く鮮血のマルローネだろうか。彼女がドナースターク家の顧問であり、テクノクラートであり、シアの右腕であることは誰もが知っていることだ。幼なじみの竹馬の友で、戦闘能力においても比肩する数少ない存在でもあるらしい。

錬金術師であると言うこと。

ひょっとしたら、あの事件に関わっているかも知れないと言うこと。

それしか分からない人だが、消去法で言うと、彼女の存在は浮き上がって見えてくる。そして、その後ろ姿も。

エルフィールには。

この戦いから、引くことは。選択肢としてあり得なかった。

「分かりました。 この依頼、身命に変えても。 ドナースターク家のためにも、必ずや成し遂げて見せます」

「……」

マルルが一瞬だけ笑みを浮かべた。だが、それもすぐに消えた。

この人は貫禄こそついてきているが、戦闘員ではない。怖いことは苦手なはずだ。だが、それでもしっかり交渉事はこなせるだけの経験を積んできている。

それが、エルフィールには好ましく。羨ましくもあった。

何も歴史がないが故に。

 

3、準備開始と立ちこめる暗雲

 

村全体が、死んだように静まりかえっていた。

闇の中、エルフィールは呻く。恐怖が、身を包んでいた。

アデリーさんはいない。村がこの状態になると同時に、すぐに出かけていった。何名かの手練れが、村の門を固めている。いずれもが、ドナースターク家自慢の武官達であり、騎士だったものや、騎士に引けを取らない実力者ばかりであった。

そして、重苦しい沈黙の中、エルフィールを始めとした数名が、村の中心。村長の宅に軟禁されていた。

流行病。

それも、未知のものが村を襲ったのだ。

最初、病気を持ち込んだのは旅人だった。旅人が病気を持っている可能性があることは常識でもあるし、対処が行われない筈もない。

しかし、どうしたのか。

何が間違ったのか。

病気が、一瞬で村全土を襲ったのである。

誰も知らない病気であり、少なくとも風土病ではなかった。まだ施療院もない小さな村であり、常駐の医師もいなかった。それでも、ドナースターク家が派遣している村長は、迅速に動いた。

まず汚物の焼却。食物類の一旦廃棄と、家畜の隔離。それに、病人の隔離である。

いずれもが流行病には効果的であることが知られている。当時のエルフィールはそれを知らなかったが、やたらとてきぱきと動いている村長の事は印象に残っていた。そういえば、娘がすぐに助けに来るとか言っていたような気がする。

医師が駆けつけたのが、最初の病人が出てから半日後。護衛によって連れてこられた医師は年配の男性で、しかし病名を特定できなかった。次の医師が来たのが、更に四刻後。此方で、病名が特定された。

確か、聞いていた名前は赤死病。

致死率が実に三割を越えるという、恐ろしい病だと言うことだった。

既に感染していた村人は十五人に達し、感染している可能性がある村人はその倍近くいた。ドナースターク家の文官も武官も、その中に含まれていた。

すぐに村が封鎖されて、出入りが厳重に管理されるようになった。

その後からは、熱っぽくなって、何が起こったのかあまり良く覚えていない。ぼんやりとエルフィールは、死ぬのかなと思った。熱の中、誰かが見えた。それは男性だった。誰かは分からないが、エルフィールに冷たい目を向けていたような気がする。

しかしながら、熱い目を向けているものもあった。

無数に並ぶ、謎の道具。

そういえば、その中に秋花と、白龍が混じっていたような気がする。どうしてなのだろう。

エルフィールは、ぼんやりとして、やがて気がつく。

びっしり全身に汗を掻いていた。どうやら眠っていたらしい。

体を起こそうとして、違和感。全身に出来物があった。体を起こすだけで違和感を感じるほどにびっしりと、である。

気持ち悪くて、呻く。周囲には、同じように出来物だらけになった人間が、たくさん転がされていた。

「最初に目が醒めたね」

「……アデリーさん」

自分がもっとも親しいと感じる人が、側で見下ろしていた。

病気は平気なのか。移るのではないのか。

しかし、彼女は首を横に振る。

「大丈夫。 もう病気は、駆逐されたから」

「え……?」

アデリーさんがいうには、エルフィールの全身の発疹は、病気が治る過程で出るものだという。

処置が迅速だったため、死者は出なかったと言うことだった。村から出た人間も足取りが掴めており、二次感染の拡大も防ぐことが出来たという。初期消火が成功したので、どうにかなったとアデリーさんは珍しく微笑を湛えていた。

彼女が言うとおり、数日で、ゆっくり発疹は消えていった。

肌に跡が残るのではないかと心配したが、それもなく。ただ、自分が助かった理由と、助けてくれた人のことだけが分からなかった。

一週間ほどで、外を歩けるようになった。

まだ、記憶が出来始めてから半年ほどしか経っていない。

だから、殆ど人間としての実感もないのに、このようなことに巻き込まれて。決して幸福とは言えないはずだ。

だが、エルフィールは不思議と、こう思っていた。

どうにか生き延びることが出来て、とても良かったと。

そう笑顔で言うエルフィールだったが、周囲の反応は違った。他の村人達は、皆おかしなものを見るような目で、エルフィールに接したのだった。

思えば、この頃からかも知れない。

阻害される恐怖が、身近になってきたのは。

その恐怖は、錬金術アカデミーへの入学の話が出た頃には。エルフィールの心の深奥に巣くい、恐怖となって根付いていたのだった。

 

目が醒める。

また、昔の夢を見てしまった。といっても、つい二年ちょっと前の話に過ぎないが。

エルフィールには歴史がない。だから、こんな最近の夢であっても、かなり昔のように思えてしまうのかも知れない。今までかけ足で生きてきた。アカデミーにきて、如何に自分の人生が密度の濃いものか、エルフィールは悟ることになった。

最近は、そう言う意味で、昔という概念が理解できるようにもなっては来た。

しかし、まだ理解できない事も数多い。普通の人間が普通のこととして知っていることも、時々全く知らないことに気付かされる。

アデリーさんは色々教えてくれた。

しかし、実質生きてきた時間があまりにも足りなさすぎる。そう言う意味で、エルフィールはやっと立って歩けるようになった子供と大差がないのかも知れない。ただ、知恵ばかりが発達した子供。

考えてみれば、それは異形と言うべき存在なのかも知れなかった。

頭をかき回しながら、一階に下りる。

鍋の状態を確認。飛翔亭と、それに施療院から受けている薬の仕事の進捗状態は悪くない。弱火で温めていた薬は、大体予定通りの煮詰まり方をしていた。もう一刻もすれば、次の段階に進めるだろう。

地下室に降りる。

中和剤の魔法陣は淡く光を放っており、中央に置いているボウルの中の液体に指を突っ込むと、ほんのり温かい。仕上がりは上々だ。

この間殺した吸血鬼から取りだした手鏡をセットしたことにより、中和剤の作成効率は著しく上昇した。予想通り、いやそれ以上の成果である。ただし、いつまでも手鏡の魔力が残っているかは分からない。大きく欠伸をしながら、一階に戻る。そして汲み置いた井戸水で、顔を洗った。

裏庭に出ると、棒を手に取る。

最近、重りをまた少し増やした。身体能力が上がってきたからか、今までの棒では手応えが無くなってきたからである。

しばらくは型のままに体を動かす。

うっすら汗を掻いてきた辺りで、棒を壁に立てかけた。それから、外を軽く走ってくる。朝のこの時間は、人間も少ないので、ジョギングをするには丁度良かった。それでも早起きの人間はいて、例えばフローベル教会の前を通ると、掃除しているミルカッセをよく見掛ける。

ミルカッセは、エルフィールに対して警戒を隠さない。だが、それでも丁寧に礼をしてくる。お得意様であるし、エルフィールもにこりと笑顔を浮かべる。だが、やはりこの間の森での出来事が関係しているのだろう。ミルカッセの表情に敵意はない。だが、何か妙な感情がこもっているのだった。

あれは多分哀れみという奴だ。

なぜミルカッセに哀れまれるのかはよく分からないが、別にそれはどうでも良いことなので、ジョギングを続ける。

騎士団の居住区画の側を通り過ぎる。若い騎士が何人か、エルフィールと同じようにジョギングをしていた。一礼をして通り過ぎる。エルフィールよりも実力が劣る騎士も、何人かいるようだった。

アトリエに戻った頃には、気持ちよく目も醒めていた。

ここからが、今日の本番である。

火加減を調整した後、薬剤類の調合にはいる。早速出来た中和剤を使って、自然には交わることのない薬どうしを混ぜ合わせる。媒介にして、薬品どうしの反応を促進させる。重さを天秤を使って計りながら、丁寧に調べ上げていく。

栄養剤から初めて、徐々に今では専門的な薬も作れるようになってきた。最近は、かなりの高額になる薬品も作れるようになってきており、報酬の金額を聞いてびっくりすることもある。

だが、自分で採集に行ってばかりもいられない。

ドアをノックする音。帰ってきたか。

「はーい。 誰ですかー?」

「ぼくです」

「はいはい、お帰りなさい」

ドアを開けると、満面の笑顔の子供。否。妖精族のクノールだ。

クノールは茶色い服を着ていて、妖精族としては地位も年齢も下から数えた方が早い、まだ若い存在である。と言っても、実年齢はエルフィールとあまり変わらないという事だ。妖精族が長寿であり、なおかつあまり見かけが成長しても変わらないと言うことは聞いてはいた。しかし実例を見ると、実に興味深い。

今、エルフィールは妖精族と三つ契約をしている。

一つは、クノールの雇用だ。クノールには簡単な調合と、外での材料採取を頼んでいる。以前にも錬金術師に雇われていたというクノールは、多少仕事は遅いが、大体の事は知っているので、安心して採集を任せることが出来る。

もう一つは、希少素材の宅配サービスである。

これは妖精族が扱っており、人間の業者では入手が難しい素材類を宅配して貰うものであり、多くの錬金術師が世話になっているという。中には人間が養殖技術を確立していない動植物の素材もあり、実際に使ってみるとその便利さは他に代え難いものがある。

そして最後が、郵便配達。

手紙類を定期的に取りに来るので、時々アデリーさんに手紙を書いている。殆どは業務上の進展報告なのだが、書いていてとても心が躍るのは事実だ。やっぱり、エルフィールにとって、アデリーさんは姉以上の存在なのだろう。手紙を書いていて思うことは良くある。アデリーさんはいつもきちんと返事も書いてくれる。だから、手紙を出すのは、とても楽しみなことだった。

クノールの籠を見て、必要な素材があることを確認。幾つかを取りだした後、指示を出しておく。

「それじゃあ、中和剤の作成をお願い」

「分かりました。 すぐに取りかかります」

「うん。 じゃあ、此処にある魔法の草を中和剤にしたら、休憩をしていいからね」

妖精族は結構見掛けに反して体力があるが、それでも限界はある。

頷くと、ちょっと動きは遅いながらも、クノールは作業を始めた。

エルフィールは一通りを終わらせると、生きている縄に火力を調整させつつ、台所に。冷やしておいた卵を割ってボウルに開けると、かき混ぜ始めた。

朝食を作るのではない。

長代行の結婚式に備えて、チーズケーキを作っておくのだ。もちろん、来年の結婚式に、今作ったチーズケーキを持っていく訳ではない。長代行が食べても満足できる味になるように、レシピを詰めておくのだ。

卵が味わった所で、隠し味を幾つか加える。蜂蜜が効率的に甘みを引き出せることは知っているが、分量次第では泡立ちを阻害したり、逆に甘すぎてチーズの味を阻害してしまったりする。

何度か失敗した後、お菓子作りは計量が全てだと気付いたエルフィールは、小型の容器を独自に削りだしていた。いずれも其処に材料を注ぐだけで、適量を計ることが出来るものである。

時間の短縮のためには、こういう細かい工夫が必要不可欠なのだ。

買ってきたチーズを一口して、品質を確認。さほど堅くないタイプであり、チーズケーキの主体となる重要なものだ。眉をひそめたのは、やはりまだまだ上が目指せそうだからだ。決して不味くはない。だが、もっと美味しく出来そうなのである。

まだチーズは自作できない。

と言うよりも、素材が手に入らない。乳類は別に問題ないのだが、それを固定化させる物質は、子牛の胃袋の中にしかないのである。もちろん入手は可能だが、農家にとっても牛は非常に大事な財産だ。ましてや屯田兵が国の大きな経済力を担っているこの国では、農業は社会に深く根ざしている。

肉は多く生産されているが、一部の物資については、かなり厳しい制限が掛かっている。子牛の胃袋の中にある物質もその一つだ。無駄を避けるために、基本的に、チーズを専門に作っている業者にしか下ろされないのである。

それ以外は、法外な税金が掛けられてしまう。

実のところ、これを良く思っている人間は一人としていない。

チーズ製造業者にも、直接話を聞きにいった。それで分かったのだが、材料のことを知っているからか、誰もが代替材料があればと口にしていた。

農家もこれは同じである。

子牛は肉が軟らかいので超高級な食材にはなるが、しかし何しろ取れる肉が少なすぎる。だから殆どの農業関係者は、子牛を売ることを良く思っていない。その頃にも、代替材料があればと時々村の人達が口にしているのを、エルフィールは聞いていた。

つまり、である。

代替材料の量産化に成功すれば、一気に莫大な富を手に入れられる可能性がある。チーズ業界も一気に発展を遂げるかも知れない。

しかしながら、当然こういったニッチには、様々な先人が手を入れているものである。チーズを崩してかき混ぜながら、エルフィールは生きている縄を何本か使い、視線の先に本を拡げさせていた。

やはり、チーズの研究は、結構昔から行われてきている。

ある人物は、山羊の胃袋での代用を試みている。実際、山羊の胃袋の中にも、チーズを作るのに似た物質があるという。

しかしながら、できあがったチーズはどうしても品質が劣ってくる。その上、どのみち山羊を殺さなければならないことに変わりはないのである。牛よりもだいぶ小型とは言え、山羊も大事な家畜である。特に山で放牧できる事が非常に大きいので、これらを代替材料とする事を、農家の皆は良しとしないだろう。

山羊は多産の象徴になるくらい簡単に増えるが、品質が劣るようでは駄目だ。品質はそのまま、しかし量産が出来るようでなければ意味がないのである。それに、最大の問題として、山羊は都会では非常に飼いづらい。流通ルートとコストという、恐るべき壁がこの方法の前には立ちはだかってくる。

ほどよく溶けたチーズと卵黄、それに小麦粉などを混ぜ、蜂蜜を加えながら、エルフィールは他の本も持ってこさせる。

やがて生地として練り上がったチーズケーキを、型に入れた。計量をしっかりしているから、予定通りの水位まで型の中でチーズケーキの元がせり上がる。鉄板に乗せて、これから一気に焼く。

既に竈は充分に温まっていた。耐火性能を上げている何本かの縄に、温度計を中に入れさせる。頷いたのは、満遍なく竈の中に熱が加わっているからだ。

煙突を伸ばし、蓋を付けた今の竈は、パンも焼けるように工夫を凝らした。ゲルハルトに改良して貰ったのである。これにより、どうしても熱が上手に回らなかったチーズケーキを、更に玄人仕様に焼き上げることが可能になった。

蓋を開けて、すっと中に型を入れた。円筒形の型の半分ほどしか生地は入っていないが、これが膨らむのである。熱が逃げないように、素早く戸を閉じる。焼けるように熱くなっている戸だが、生きている縄の補助もあって、火傷はまず無い。

時々、生きている縄を蓋に触らせて、内部の温度を測る。十回ほど失敗してこつを掴んだエルフィールは、今では生きている縄の微細な動きだけで、内部の状態を把握できるようになってきていた。

「良し、開封!」

竈の戸が前に倒されて、生きている縄がすっとチーズケーキを鉄板ごと取りだした。裏庭に出て、外気で一気に冷やす。竈の熱も放出して、他の作業を行うため、適温まで下げた。外に出て、薪を確認。竈を使うには、どうしても必要だからだ。幸い、蓄えは充分にある。

失敗するごとに、薪をかなり無駄にする。

火力を安定させるためには炭を使わなければならず、その分の手間もある。まだ大丈夫かと安堵の息を漏らしたエルフィールの後ろから、ひょこりとクノールが顔を出した。

「エルフィールさん。 中和剤の素できあがりました。 魔法陣にセット済みです」

「お疲れ様」

チーズが充分に冷えるのを待って、切り分ける。

最初は自分で食べる。これは味見のためだ。あまりにも不味い料理が出来てしまった場合、他人の口に入れてはならない。まず自分を実験台にして、他者に被害が出るのを防ぐのである。

これには実用的な意味合いがある。

評判の低下を避けるためだ。

こういう商売をしている以上、様々な評価が必要になってくる。その中で一番避けなければならないのは、彼奴が作る商品は品質が低い、というものだ。これが来てしまうと、如何に名声を築いていても、一瞬で根本から崩れ去る可能性がある。だから、真剣にもなるのだ。

口に入れてみて、咀嚼して。エルフィールは74点と自己採点した。さくさくとした生地と、チーズの濃厚な味わいは良く混ざり合っている。しかし、甘みが良くない。蜂蜜が熱で変質したのかも知れなかった。

同じ乳製品のヨーグルトとはかなり相性が良いことは分かっている。だがそれは、生地を焼き上げてからトッピングするものであって、この時点での味見にはあまり関係がない。クノールが物欲しそうに見ていたので、一切れ与えてみる。

お行儀良くスプーンでケーキを口にしたクノールは、大げさすぎるくらいに言った。

「うわ、おいし!」

「そう。 そう言ってくれると嬉しいなあ」

「でも、エルフィールさんはあまり満足していないようですね」

「まだまだ上を目指せるからね。 それに、目指さないといけない」

残ったホールケーキは、三分の一をキルキの所にお裾分けした。キルキのアトリエにはいると、ここのところつんとしたアルコール臭が凄い。臭いが強いアルコールを作成しては、色々実験をしているらしい。

そういえば少し前に武器屋に出かけた時、ゲルハルトがキルキのお酒がとても素晴らしいのだと、子供のように喜んでいた。キルキは皮肉にも、とても美味しいお酒を造るらしいのである。これは局所的な話題ではなく、飛翔亭でもメニューに出来ないかという話が上がり始めているほどだ。

大きな釜をゆっくりかき回していたキルキは振り返る。

「エリー?」

「おやつにしよう?」

「うん。 ありがと」

このチーズケーキは失敗作だ。だから分けることは惜しくないし、商品としては出せない。ただし、クリームとヨーグルトでトッピングして、一応その辺の店で出せる程度の味には仕上げた。

露骨に涎を流して目を輝かせているのは、キルキの妖精であるグラン。黒い服を着ていて、生意気な言葉遣いをする。何でもクノールの実弟であるらしい。

「おお、ねーちゃん。 今日もうまそうなケーキだなあ」

「グラン」

「兄貴ぃ、堅いことはいいっこなしだぜ。 こんなうまそうなケーキを褒めないのは、男の名折れだ」

「ふふ、ありがとう」

まだケーキはたくさんあるから、グランにも分けてやる。本当に美味しそうに食べてくれるので、エルフィールとしても作りがいはあった。

キルキは無表情だが、美味しいか不味いかはかなりはっきり言う。だから、こう言う時には参考になる。

「本当。 美味しい」

「ありがとう。 でも、本音を言うと、まだまだかなあ。 生地は美味しく焼けるようになってきたんだけど、甘みがどうも引き出せないんだよねえ。 チーズの旨味と殺し合わないように引き出すのが、難しくって」

「でも、ミルカッセさんのケーキと、あんまり変わらないくらい美味しい」

「そっか。 もう彼処までは行ったか」

ミルカッセのケーキは、兎に角食べていて丁寧に作られたことが分かる品だった。要するに、世間で「愛情が籠もっている」という奴だったのだろう。子供達に食べさせることもあり、それに彼女自身が料理が好きだと言うこともあるのかも知れない。

外で捕らえ屠った獣をその場で食べられるようにする、野戦料理とは根本的に違うのだと、ケーキを焼いていてエルフィールは思う。

だが、実際に愛情が未だよく分からないエルフィールにとっては、どうもぴんと来ない部分も多かった。

「やっぱりもう少し細かい部分の調整がついたら、専門家にも聞くべきかな」

「お菓子職人ってこと?」

「それもあるけど」

貴族などの富裕層を相手に、お菓子だけを専門に作る人間がいる。

いわゆるパティシエと呼ばれる職業である。しかしながら、当然のことながら在野ではとても生活できないので、特定の金持ちに専属で雇われているのが普通だ。ドナースターク家には、残念ながら存在していない。

今回、エルフィールが問題にしているのは、そのお菓子職人ではない。

実際にそのお菓子を評価するほうの人間だ。

「まさか長代行に直接食べて貰う訳にはいかないしなあ。 長代行の好みはマルルさんにでも聞くとして、他に貴族は」

「アイゼルは?」

「……そう、だね」

実は、アイゼルについては、少し前に調べた。そして、ちょっと興味深いことが分かったのである。

だから、今回はターゲットからは外す。

もしも、食べて貰って評価をして貰うとしたら。アイゼルの両親が妥当だろうと、エルフィールは考えていた。

ケーキが尽きたので、戻る。材料も無限にある訳ではない。

今回の失敗についても、レシピにしっかり記載しておかなければならない。この間よりも若干改善しているから、今までの失敗例とつきあわせて、更に改善を計っていく必要があるのだ。

キルキはお礼にと、度数がとても低い疲労回復用のワインをくれた。一応学生の身分でも、飲むことは許されている。

帰ってから、エルフィールはワインを口に入れる。

確かに、とても美味しいワインだった。

 

翌朝。

アカデミーの寮にエルフィールは出向く。バスケットには土産代わりのチーズケーキと、後はパン類を少し詰め込んでいた。

ノルディスに相談する分もあるし、何よりアイゼルに頼む必要がある。流石に、アイゼルの友人だと相手は認知していたとしても、いきなり出向くのは失礼に当たるだろうからだ。

最近はマルルに聞いて、貴族との交渉について学び始めている。連中は兎に角儀礼と前例の塊だ。極端な能力主義実績主義を採用しているシグザール王国でも、それは同じ事だ。

だから、連中に話を聞かなければならない時には、その作られているルールに会わせなければならない。

ノルディスはいた。

テストで一位を取れなかったことで焦燥しているようだが、それでも前回よりも落ち込みは酷くない様子であった。アイゼルはと言うと、すっかり平常運転である。むしろ別の理由で疲れているように見えた。

三人で、アイゼルの部屋に集まる。

持ってきたチーズケーキを一口食べると、アイゼルは素直に褒めてくれた。

「とても美味しいわ」

「ありがとう。 でも、ひと味まだ足りないんだよね」

「何処が気に入らないの?」

「甘さと旨味が上手に混じり合っていないの。 色々と材料を替えてみたり試してみてはいるんだけど、どうしてもね」

アイゼルはもう一口ケーキをスプーンで掬って食べると、なるほどと呟いた。言われてみれば気付くレベル、という事なのだろう。

だが、舌が肥えた国賓達が来る可能性が高い状況で、アイゼルが「言われてみれば気付く」レベルで欠点を認識する料理を出すことは、自殺行為である。ドナースターク家に恥を掻かせることにもなるし、そう言う場合は料理を作った人間が直接責任を負うことになるのだ。

まあ、間違いなく首が飛ぶことになるだろう。

「それで、アイゼルにお願いがあるの」

「お父様達に、試食を頼みたいという訳?」

「どういう事?」

「ああ、それはね。 実際に貴族している人から見て、どうかなと思って」

アイゼルは焦燥が色濃く出ている顔に、更に疲労を募らせた。彼女が苦悩している理由は、何となく分かる。

この間の調査で、ワイマール家が著しく困窮している事を、エルフィールは知った。恐らくはそれが原因だろう。

考えてみれば、貴族のお嬢である彼女が、儲かる錬金術をしようとしている事や、節約がどうのこうのと言い出していることがそもそも解せなかったのである。しかしながら、貴族としての体裁を保つのが難しくなるほどの状況である事が前提にすえられると、なるほどと納得も出来る。

逆に言えば、其処につけ込む隙もある、と言うことであった。

「ちょっとビジネスの話になるけれど。 今、私、チーズケーキのかなり美味しいのを作る必要が生じてて。 巧く行けば、私のスポンサーであるドナースターク家で、将来的に幹部の座が掴めるかも知れないの」

「……」

「アイゼル?」

「分かっているわ、貴方がそう言う人だって言うことは。 今の内に、私が家を守るためにネゴシエーションのスキルを身につけて、さらには現実的な判断能力を養う必要があると知っていて、そう言っていることは。 分かってはいるのよ、でもね」

今日は帰って欲しいと、アイゼルは言う。

何だか、その表情は、とても悲しそうだった。

 

アイゼルはエルフィールを見送ると、大きく嘆息した。

蝶よ花よと育てられたアイゼルだが、もう無知な子供ではない。貴族の子弟が集まるような所では、大人顔負けの権力闘争と暗闘が行われることもあると、聞いたことがある。シグザール王国でさえそうだ。大貴族が国政を左右し、民を虐げているような国では、更に状況は酷いことが容易に想像できる。

エルフィールは、恐ろしいほどに現実的な娘だ。それは知っていた。

だが、今日のような交渉事を、直接持ちかけてくるとは、思ってはいなかった。分かってはいたからこそ、ついにこの時が来たと思ってしまったのである。

エルフィールにしては悪気はないだろう。対等の立場でのビジネスだと思って、話をしてきたはずだ。しかも金だの権力だのという話ではなく。単に糧食のアドバイスが欲しい、という内容に過ぎなかった。

実際この話を受けた所で、アイゼルはおろか、ワイマール家にも何ら損はない。そればかりか、確かに彼女が言うとおり、ドナースターク家とのコネクションを将来的に作ることが出来るかも知れない。

しかし、それは何というか。不清潔に思えるのだ。

不清潔な事を、アイゼルは嫌っている。心優しい父母が、血で血を洗う経済界で散々苦労して、酷い目に遭っているから、というのももちろん理由にあるだろう。実際、アイゼルは責任さえなければ、その辺りで平穏に、或いは好き勝手に錬金術師として過ごしたいと思ってさえいる。それは出来ないしやる気もないが、夢としては時々思うことはあるのだ。しかしそれとは無関係に、不清潔な事柄には嫌悪感を感じるのである。

あの時のことが、影響しているのだろうか。

闇を凝縮したような、恐ろしいあの人との出会い。確か後で、鮮血のマルローネとか呼ばれていると聞いた気がする。

父の病を治して貰った恩人である。だが、錬金術が儲かるのだと教えてくれた反面、それが秘める底知れない闇を伺わせる人物でもあった。

あの時、濃すぎる闇に触れて、それを感じさせるものが苦手になった。

だから、アイゼルは、エルフィールに帰って貰った。

こんな事では駄目だと、アイゼルは思っている。いずれアイゼルは、場合によっては父母の代わりにワイマール家を背負って立ちたいとさえ考えていた。それには、汚れ仕事の一つや二つ、こなさなければならなくなるだろう。動物を絞めて捌いた時、断末魔の悲鳴を聞いて眠れなくなるようでは駄目なのだ。

布団に潜り込んで、ぼんやりとする。

強くなりたい。

しかし、強さの源泉が闇であることを理解してしまっている今。どうしても、強さに嫌悪感を感じてしまうのだ。

ドアをノックする音。

「アイゼル、いる?」

「ノルディス!?」

飛び起きたアイゼルは、慌てて居住まいを直した。男女二人きりで部屋にいることは禁じられているので、慌てて部屋を飛び出す。ノルディスは不安そうに、アイゼルを見つめた。

「どうしたの? さっきは急に」

「な、何でもないのよ」

「エリーって時々凄く怖いからね。 僕もぞくぞくさせられたことが、何回かあったし」

二人で、休憩室に歩く途中で、ノルディスはそんな事を言った。

ノルディスは阿呆ではないのだと、こう言う時にも悟る。しっかり事の核心を、すぐに掴んでくるのだ。

アイゼルは俯くと、歩みを止めた。

「ノルディス、聞きたいことがあるの」

「なに?」

「もしも闇に落ちなければ力を得られないのなら。 貴方はそれでも、力が欲しい?」

「どうしたんだい、急に」

ノルディスは微笑んだが、アイゼルの表情が晴れないのを見て、冗談の類ではないと悟ってくれたのだろう。

実際、冗談のつもりではない。

怖い思いをしてヘルミーナ先生の授業に出ているのも。積極的に飛翔亭で仕事を受けて、外に出ているのだって。それに、時には一人で動物を捌いて野戦料理を作ってみたりしているのも。

全部、今の弱い自分では駄目だと思っているからだ。

しかし、エルフィールのようになるのには、やはり抵抗を感じる。全てを理詰めで考えて、必要とあれば人でも殺す。其処まで吹っ切らなければ、強くなれないのであれば。一体、アイゼルはどうすればいいのか。

「僕、は」

ノルディスは、一旦言葉を句切った。

そして、休憩室に入りながら言った。

「汚いことをして強くなるよりも、しっかり積み上げた強さで勝負したいかな」

「……そう」

ああ、やはりこの人は。アイゼルにとっては眩しい存在だ。

だが、同時にこの時悟る。頼りには、ならない人なのだとも。休憩室で適当に話した後、自室でアイゼルはぼんやりと天井を見つめて、そして決めた。

これからは。

いかなる手を用いてでも、力を得ると。

天井の染みが怖くて泣いたのは何時の頃だったか。ぎゅっと布団を握りしめる。闇の中、血まみれの怪物が迫ってくる光景を、アイゼルは幻視したが。

畏れず、そのまま眠りについた。

 

4、路の先

 

カスターニェ。

シグザール王国南端の都市の一つ。現在海軍の大規模な艦隊が駐留している其処は、交易の新たなる拠点として、シグザール王国がもっとも重点的に警備している場所であった。

しかしながら、大都市である以上、単独では成り立ち得ず、それを支える周辺物資供給地域も必要になってくる。北部には大規模な穀倉地帯があるが、これだけでは足りない。東部には幾つかの漁村があり、これらが水揚げする魚も、重要な物資としてカスターニェを潤していた。

漁師の殆どは貧民一歩手前の者達であり、多くは小さな船しか持っていない。これらを用いて、近海で漁を行うのだ。しかしながら、一部の地主だけは、大型の帆船を所有し、遠海での漁を行ったり、時には交易、場合によっては海賊のまねごとまでもする。

船の大きさと財力が比例する。それが、漁師の基本的な法則なのだが。

一人だけ、それとは全く合わないものがいた。

港に停泊している、寂れた漁村には不釣り合いなほどに立派な船。その船自体で寝泊まりしている娘がいるのである。

名前は、ユーリカ。イェーガーという名字まで所有している。

漁師らしく良く焼けた肌を持つ彼女は、典型的な南方民らしい姿格好をしていた。しかしながら、グラマラスであることが基本の南方民にしては妙に体型が貧弱であり、色気は皆無である。既に成人しているのに、この辺りの要素は、南方民としては希有であった。眠そうな目つきと言い、短く合理的に切りそろえている黒髪と言い、女性であることを忘れているかのような格好である。身につけている衣服にも、男性との性差があまりない。

村の漁師達は、彼女のことを決して良くは思っていなかった。だが、不釣り合いすぎるほどの大船を取り上げようとはしなかった。

彼女の父には、誰もが世話になっていたからである。それに、ユーリカは漁師としても充分な腕利きで、一人で船を廻して遠海に出かけていき、毎回大量の魚を満載して帰っても来る。

村に貢献している以上、苦々しくはあっても、認めざるを得ない。それが漁師達の本音であっただろう。

大あくびして、ユーリカが甲板で上半身を起こした。

彼女には、目的と呼べるものがない。

一つだけあるが、それは現在宙ぶらりんの状態であり、何をしてもどうにかなる事ではなかった。

ただ、蓄えばかりが増えていく。

船を目当てに、口説きに掛かって来る男もいる。だが、ユーリカは鼻で笑うばかりで、相手にもしなかった。

空を見つめているユーリカは、待っている。ひたすらに、時が来るのを。

漁に最適な天気が来ることを、予想できる。これは幼い頃から、父に叩き込まれて身につけた技能だ。

一見晴れ渡っていても、海に出てはいけない場合も事前に分かる。だが、それこそが、ユーリカが待ち望む天候であった。

だが、それは来ない。

もう一つ欠伸をすると、ユーリカは甲板に寝転がった。

不意に現れ、彼女の父を惨殺した仇を殺すまでは、結婚など出来ない。もちろん死ぬ訳にもいかない。

今はただ、雌伏の時であった。

現れ次第、必ず殺してやる。

そう、ユーリカは心に秘めながら。その時を待ち続けていた。

 

山の中をはいずり回っていたエルフィールは、見つけた。

シャリオ山羊だ。丁度いいことに、この辺りに羊飼いはいない。つまり、野生の山羊である。

山羊は放牧する家畜だから、たまに野性に返る個体が出てくるのだ。殆どは肉食獣に襲われてそのまま餌食になってしまうのだが、まれに環境に適応し、生き延びる者がいる。それらが子孫を作ると、ある程度まで大きな群れが出来る事があるのだ。

ちなみに増えすぎた場合は駆除対象になる。野山の植物を食い荒らして、大きな被害を出すからである。

今回、エルフィールは素材集めのついでに、山まで出てきていた。山と言っても危険度が高いヴィラントではなく、その側にある背の低いカーラントである。鉱物資源はちょっと少なめだが、幾つかの材料に関しては、特に苦労もせず入手できる。強力な野生動物も殆どいない。

「エリー、ちょっと、待って」

やっと追いついてきたアイゼルが、げっそりした様子で言った。護衛として雇ったナタリエが、あきれ顔で見つめていた。

「大丈夫かい、あんた」

「こ、こんな崖くらい、平気、なんだか、ら」

崖とアイゼルは言うが、荷車を運べる程度の坂である。まあ、かなり長く勾配が続いたから、きつかったのだろう。

「しっ。 静かに」

エルフィールが、アイゼルの頭を掴んで、引き下げる。

ナタリエも腰を落として、少し後ろにある荷車を一瞥した後、眼を細めた。

「野生の山羊か?」

「うん。 子山羊を探してるんだけど、いるかな」

「子山羊をどうするの」

「食べるのと、後は胃袋が欲しい」

アイゼルに振り返ると、青ざめてはいたが、しかし唇を引き結んでいた。泣くか拒絶反応を示すと一瞬思ったのだが、意外にも彼女はこらえてみせる。

山羊は此方には気付いていない。否、気付いてはいるが、攻撃射程範囲外だと思っているから、逃げようとはしていない。その証拠に、群れのボスらしい立派な角を持った雄山羊は、じっと此方を見つめていた。

「聞かせて。 どうして、わざわざ可哀想な子山羊にそんな事をするの?」

「チーズの材料はね。 現在、子牛の胃袋の中にある物質がどうしても必要なの。 これを研究するには、類似の物質を入手するしかない。 農家にとっては貴重な物質だし、畜産業者は売ってくれないから、野生の子山羊を絞めるしかない」

「えっ……!?」

「将来、大事な財産になる子牛を殺さなきゃ行けない事を、誰もが喜んでいないの。 だから、巧く行くとアカデミーに大きな貢献が出来るかも知れない。 だから、品質は劣るけど、類似の効果を示す物質を取りに来た、ってわけ」

やっぱり知らなかったのだろう。アイゼルは蒼白になり、恐ろしい現実を前に立ちつくしていた。

結構な数の研究資料を読んだのだが、やはりチーズそのものを調査しているものが多く、作成に必要な胃袋について調べているものはあまりない。入手できないのだ。だから、エルフィールは、ある程度の量を実際に入手して、調べてみるしかないと考えていた。

エルフィールにしても、容易に用意できる物質で代替できる方が、絶対的に有利である。美味しいチーズケーキを作るにも、絶対に必要不可欠なことなのだ。

チーズ自体も、材料が希少なことから、村によって存在が著しく異なっている。保存食として活用している所はガチガチに堅いものを生産するし、ある程度の嗜好品としている所は柔らかく味や臭いが強いものを作っている。色々なチーズを食べ比べたエルフィールの感想は、やはり技術的に未熟、というものだった。まだまだチーズは美味しくなる。

だが、それには、手軽に作れるようになることが、絶対に必要なのだ。

「必要な、残酷というわけ?」

「そういうこと。 この研究が最高の形で巧く行けば、代替物質を用意して、子牛をずっと殺し続けなくても良くなる」

「……分かった。 それなら、私にやらせてくれるかしら」

アイゼルが、詠唱を開始する。

エルフィールはちょっとだけ驚いたが、彼女が何か心に強く秘めるものがある事は実感している。頷くと、既に見つけていた子山羊を指さす。草むらで口を動かしている子山羊は、ぴったりと母らしい個体に寄り添っていた。

「ナタリエさん、もしも私が仕留め損なったら、とどめをお願いできますか」

「分かった。 出来るだけ苦しまないように、だな」

「お願いします」

アイゼルは、詠唱を完了すると、印を切る。彼女が手にしている、如何にも高級そうな杖は、攻撃の瞬間を待って淡く光り続けていた。

四足の草食獣は、産まれてすぐに立って歩けるようになる。子山羊もそれは同じだ。大型の肉食獣から逃げるためである。肉食獣にしても、獲物として捕獲しやすい子供は良く狙うからだ。

エルフィールは生きている縄を、何本か先行させる。命を持たない縄が、山羊の群れに後ろから忍び寄っていく。

だが、流石に野生の草食動物だ。ほどなく、気付いた。群れのボスが、けたたましい声を挙げた。

「アイゼル!」

「分かったわ!」

跳ね起きたアイゼルが、杖の先から閃光を放つ。

それは、光の矢となって、さっきまで幸せそうに母山羊に寄り添って、草を噛んでいた子山羊を、貫いていた。

首筋から大量の鮮血をばらまいて、子山羊が横転する。母山羊は一瞬だけ悲しそうな声を挙げたが、すぐに他の群れの山羊と一緒に逃げていった。

子山羊は首が半ば千切れて、即死状態だった。アイゼルの光は、密度を上げると皮を切り裂き肉を焼ききる。大型の肉食獣でも撃退するほどの火力であり、子山羊などそれこそひとたまりもない。

木の枝に死体を逆さにぶら下げると、血抜きをして、解体を開始。

アイゼルは頷くと、歩み寄ってきた。

「捌いてみたいわ。 教えてくれるかしら」

「お、最近、積極的だね」

「何時までも、私も弱いままではいられないもの」

兎の捌き方は、前に教えた。鹿も。そして今度は山羊という訳だ。

既に命を無くした山羊の首筋からは、血が滴り続けている。子山羊は子牛と同じく、肉が軟らかくてとても美味しい。

まずは、肉切り包丁を持たせる。まだ温かい腹を一気に縦に割くと内臓を取り出した。内臓の中身を洗い流すのだが、今回は胃だけを切り取って、内容物を捨てる。未消化の草などは必要ない。ただし、内部の粘膜や粘液は重要になってくる。

腸から下は洗って中身も捨ててしまう。肛門や大腸に関しては、食べるのも止めた方が良い。どんな寄生虫がいるか、知れたものではないからだ。

あらゆる内臓を切り分けて、火を通す。アイゼルは何度か吐きそうになりながらも、丁寧にエルフィールが言うとおり山羊を捌いていった。

「上手だね。 飲み込みが早いよ」

「ありがとう。 これで、どうにか一人でも私、生きて行けそうね」

「一人で生きていくの?」

「そう言う可能性も想定しているって事よ」

手を洗いながら、アイゼルは言う。青ざめてはいるが、既に吐き気は収まっている様子だ。

強くなることが出来るのは、羨ましい。

アイゼルはエルフィールよりも、ずっと多くの人生を積み重ねてきた。その結果、臆病だけど頑張って、強くなろうと思ったのだ。

エルフィールのように、歴史が無くて、それが欲しくてあがいている人間とは、根本的に違う。

羨ましい。

荷車に、冷やした井戸水を入れた桶を入れてある。その中には更に小さな桶が入っており、低温を保てるようになっていた。入手した胃袋を、其処に入れておく。あまり日持ちはしないから、帰ったらすぐに研究をしなければならない。

もちろん一度の研究で、全て巧くは行かないだろう。

これからも、時々山羊を殺して、胃袋を取らなければならなかった。

火を熾して、肉を燻製にする。早速保ちが悪い部分を食べる。油が良く乗っていて、とても美味しかった。

「美味しいね」

「命の味だわ」

アイゼルは、積極的にもも肉にかぶりついていた。以前は食器を探すような動作も見せていたのだが、今ではすっかり野戦食をこなせるようになっている。

無言でもくもくと口を動かしていたナタリエが、エルフィールに言う。

「オレ、しばらく、護衛できないかもしれない」

「どうしたんですか?」

「どうやらとうとう騎士にならざるを得ないらしくてな。 騎士団から、両親にかなりの額の仕送りをしてくれるって話が来たんだ。 オレもそろそろいい年だし、結婚するにしても働くにしても、安定がないとな。 だから、話を受けることにした」

宮仕えは窮屈だけど、仕方がないと、ナタリエはぼやく。

彼女の実力なら、確かに騎士団からスカウトが来てもおかしくはない。しかしハレッシュはどうなのだろうか。現在冒険者ギルドにいる手練れの中では、多分上位に食い込んでくるはずだが。

もしもハレッシュまで引き抜かれると、今後はかなり面倒なことになる。優秀な冒険者の知り合いは、やっぱり何名か確保しておきたいからである。

「ナタリエさん、今まで有難うございました。 そして出来れば、今後もよろしくお願いいたしますわ」

「ああ、此方こそ、今後もよろしくな」

アイゼルとナタリエが、丁寧に挨拶を交わしている横で、エルフィールは出立の準備を整え終えていた。

「それじゃ、私からは騎士就任祝いを、用意させて貰いますね」

「有難う」

荷車を引いて、急な坂を下りる。後ろ向きに下がりながらだから、かなり手間暇は掛かるが、仕方がない。

ナタリエのことは残念だが、今後のために、チーズについてもっと熟考しておかなければならない。

まだまだ、エルフィールは生きてきた実績が足りないのだから。

「なあ、エルフィール」

「はい?」

「いや、何でもない。 多分それは、オレがどうこういうもんじゃないだろうからな」

ナタリエの顔に浮かんだのは、いつかミルカッセが見せたのと同じ哀れみの表情だった。

理由はよく分からない。

だが、エルフィールは、それを別に不快だとは思わなかった。

 

(続)