哀れなる不死者と恋

 

序、天かける獲物

 

森から、木の葉を蹴散らして空に舞い上がる大きな影あり。無数の矢が突き刺さったその巨大な獣は、怯えきっていた。

頭部は鷲、体は獅子。本来はあり得るはずのない生物グリフォンである。それが故に、放たれた地域の住民達の目には、魅力的な獲物に映ったのだ。獣が空中で態勢を崩す。突き刺さった矢には縄がくくりつけられていて、それが引っ張られたからである。

落下した獣が、地面で恐怖の悲鳴を上げた。

わらわらと現れた住民達が、もがく獣に縄を掛け、鞠のように縛り上げてしまった。遠くから錬金術師ガルティスは、歯がみしてそれを見つめるしかなかった。

「この大陸の住民どもは、化け物か。 あれは小隊規模の敵を相手にするために作成した強襲型のクリーチャーウェポンだぞ」

「単に戦い慣れているだけのようにも見えます。 接近して調べてみた所、根本的な身体能力が、我らよりも著しく勝っていると言うこともないようです。 ただし日々の鍛錬や戦慣れの度合いが尋常ではない様子ですので」

「蛮人どもが」

「蛮人が故に、手強いのです」

断末魔の悲鳴が聞こえてきた。グリフォンの運命は明らかだった。耳を塞いだガルティスは、しばらくして手を耳から離すと、大きく嘆息した。

これでは、他の部隊が苦戦するのも当然である。本国から運んできた強襲型のクリーチャーウェポンを、性能実験代わりに何体か辺境の村にけしかけたのだが、ことごとくが返り討ちにされて、軍隊さえ出動してこなかった。見ていると、ヒグマや虎でさえ彼らにとっては格好の獲物に過ぎないのである。ドラゴンさえ撃退する連中に、グリフォンなど敵ではないのかも知れなかった。

錬金術によって、本国は豊かに実った。

しかし同時に、確実に弱くもなった。

人間は平穏な環境に慣らされると、惰弱になる。以前からそれを警告してきたガルティスであったのに、自身がその現実を見て戦慄してしまった。これではいけない。このままでは、故国は滅んでしまうだろう。

「セルレン殿に連絡しろ。 ドムハイトと連携を強めて、事に当たるしかない。 我らだけでどうにか出来る相手ではないぞ」

「分かりました」

部下が去るのを見送ってから、ガルティスはマントを翻す。

まだ若い顔には、強く焦燥が浮かんでいた。

長身のガルティスは、頭をフードで隠している。薄紫の髪の毛に、それに何よりもオッドアイが彼の故郷を知らしめてしまうからである。この大陸には、オッドアイは殆どいない。逆に彼の故郷では、オッドアイが普通なのである。

しばらく歩いて、森の中の隠し砦に。其処に集結していた部下達はいずれも浮かない顔をしていた。

「状況は」

「良くありません。 カスターニェの部隊は、被害が増えるばかりです。 金で雇った盗賊も、敵の名前を聞くと殆どが逃げ散ってしまいます」

「鮮血のマルローネか。 本国では蛮族の多寡が知れた錬金術師だとか言っていたが、或いは本当に賢者の石を作成したのかもしれんな」

「この国の文化レベルで、ですか? 本国でも賢者の石を作れる錬金術師は、そう多くはないというのにですよ」

部下の反応は、無理からぬものである。最初はガルティスも信じてはいなかった。だがしかし、見れば見るほど信じざるを得ない状況が続いている。小さな村の連中でさえあれだ。リリー錬金術アカデミーから上がってきている報告を皆笑い飛ばしていたが、現実は皆報告と一致していたのだ。

そして、それを誰も確かめようともしなかったつけが、今回り回って、本国の脅威になりつつある。

「本国から戦略級のクリーチャーウェポンを呼び出す必要があるな」

「戦略級を、ですか!?」

「そうだ。 そうでもないと、此奴らを止めることは出来ん。 もしもこの国の軍勢がケントニスにでも侵入してみろ。 本国の鈍りきった軍勢で、止めることが出来ると思うか!?」

部下達は青ざめ、首を横に振るばかりだった。

ガルティスは思う。

かって、多くの先人が偉大な研究を残した。それによって、皆が豊かな生活を享受できるようになった。

だが、いつしか誰もが、先人の功績を自分のものだと思いこむようになってしまった。

そして、自分が偉いと、世界の頂点に立つ民族だと錯覚してしまったのである。

だから今、目の前に迫りつつある脅威に、右往左往してしまっている。

「フラウ・シュトライトを動かす。 それしか時間稼ぎの有効手段がない。 敵が此方に対する侵攻手段を喪失している間に、本国で有効性が高いクリーチャーウェポンを大量生産し、迎撃作戦の準備をする。 人間同士の戦いでは勝負にならん」

「フラウ・シュトライトをですか」

「そうだ。 彼奴くらいしか、もう手だてがない」

本国に備蓄されている戦略級クリーチャーウェポンの中でも、もっとも凶暴な一体。それが暴乱の貴婦人と呼ばれるフラウ・シュトライトである。正直制御が出来る存在ではなく、足止め代わりに使うくらいしか手だてがない。

この周辺の住民にも多大な被害を与えるだろうが、本国にシグザール王国が攻撃を仕掛けてきた場合の惨禍を考えると、敵に構ってはいられない。非道だと言うことは分かっている。地獄に堕ちるのも確定事項だろう。

だが、それでも。

ガルティスは故国を守りたいのだ。

「すぐに連絡を」

部下達は頷くと、各々闇に消えていった。

 

ベットに寝転がって、腰を揉ませている老人がいた。既に頭髪は殆ど全てが過去の世界に消え去り、深い皺が刻まれた目は気持ちよさそうに閉じられている。

だが、それは惰眠を貪っているのではない。

少しでも自分が生きる時を延ばすために、力を温存しているのだ。

シグザール王国国王ヴィント=シグザール。既に年は七十に近付き、世間一般では老衰死の足音が聞こえてくる頃である。だが未だその怪物的な頭脳は衰えておらず、大陸の半分を支配するシグザール王国の手綱は、この老人の手に握られ続けていた。

「うむ、もう良い。 ヴァルクレーアを呼べ」

「かしこまりました」

腰を揉んでいた侍女が下がると、代わりに他の侍女達が湯を含ませた布で体を拭き、上着を着せかける。

既に性欲が消滅して時も長い。大体跡継ぎの問題をこじれさせても意味がないので、今後跡継ぎを作る気はなかった。

だが、今いる王子プレドルフは温厚なだけの青年で、兎に角凄みもなければ経験も足りない。体の衰えが目立つ昨今だというのに、まだまだ引退する訳にはいかないのが、ヴィントにとって辛い所であった。一番危険だったカミラの反逆の芽は摘んでおいたし、ドムハイトにも壊滅的な打撃は与えた。しかし頼りない息子に、まだ国政を任せるのはあまりにも早すぎるのである。

だから、まだヴィントが国政を仕切らなければならない。

ヴァルクレーアが来る。良く肥えた、如何にも人畜無害そうな男である。だが何名かいる大臣の中でも、裏の仕事を多く任せている男で、懐刀と呼んでも良い人物である。

「陛下、如何なさいましたか」

「鼠どもの正体は判明したか」

「は。 未だ確証は無いのですが、やはりエル・バドールの勢力かと」

「やはりそうだろうな」

ヴィントは鼻を鳴らした。

一昨年のことである。ドムハイトの諜報勢力をほぼ封じ込め、更に内乱状態を誘発させたヴィントは、カスターニェに集めていた海軍を使って、海を越えて使節を正式にエル・バドールへ送り込んだ。

その長となったのが、かのシア・ドナースタークである。

彼女は大陸一つが一国家になっているエル・バドールに自ら赴くと、現地の視察と友好条約の締結を済ませて、戻ってきた。思いの外巧く行ったようにも思えたのだが、謁見したシアは驚くべき事を言った。

エル・バドールは一枚岩ではない。

まあ、大陸一つを収める国家である。内部には多大な派閥構造があることは予想されていた。だが、問題は、其処ではなかった。

エル・バドールは学術国家という珍しい形態を取っている。国王は最も優れた錬金術師がなるという題目であり、錬金術アカデミーの権力が著しく強いのだという。その中には当然幾つかの派閥があり、ドルニエらシグザール王国に来ている者達は、この抗争から弾き出された可能性が高いと言うことであった。

そして、その最大派閥が、現在シグザール王国について警戒しているのだという。

連れて行った海軍の練度や士気の高さが、彼らに恐怖を抱かせたのかも知れないと、シアは説明してくれた。確かに平和呆けしきった大陸国家の目には、毎年戦乱を積み重ねているシグザール王国の精鋭は、鬼か悪魔に見えることだろう。特に騎士団の精鋭などは、向こうの兵士など束になってもかなわないほどの実力を有している。

表向きは友好条約を結んだにもかかわらず、内部の派閥は敵意を向けてきている。主体性の無い恐怖から。

その上、その派閥は、それこそ一国家に匹敵するほどの強大な実力を内部で有しているのだ。少なくとも技術面では、此方より数百年は進歩していると考えた方が良いと、シアは報告してきていた。

何しろ、動く床や、自動的に上下して別の階層に移動する箱なども存在しているという。街などで売っている水は恐ろしく清潔で、どうやって此処まで綺麗にしたか見当もつかないと言うことだ。

「厄介ですな。 利権などの食い合いなどでは、我々もむしろ対処が容易なのですが」

「蛮族と蔑視してきた我らが、実は技術面以外では圧倒的な力を持っていると気付いたのだから、無理もないことだろう。 外交に関しても準備を進めるとして、とりあえず、鼠どもは国内から駆除せよ。 問題は、幾つかの衛星国家だな」

「御意」

シグザール王国には、そこそこの規模を持つものだけでも、十を超える衛星国家が存在する。

いずれも辺境で、シグザールとドムハイトと勢力が食い合うような箇所に存在していて、形だけの独立をしている国家から、両勢力を上手に渡っている食えない所まで様々だ。

これらでも、どうも鼠が暴れているらしい。

しかも広範囲にわたって、である。

騎士団や牙の精鋭が対処に当たっているのだが、今手が回らない箇所が二つほどある。以前ドムハイトの精鋭竜軍六個師団を屠ったクリーチャーウェポン部隊は既に小規模現状維持状態になっていて、拡大の目処はない。錬金術アカデミーも、これに関しては協力しないことを明言しており、あまり戦力的な余裕はないのが実情だ。

「鼠どもに構っている間に、ドムハイトが態勢を立て直すと面倒だ。 何か良案は?」

「やはり中枢の圧迫かと。 ドムハイトは少ない人材を中枢に集中することで、どうにか回復を開始している状態で、特に新人の不足が際立っています。 つまり、王女を中心とした勢力さえ潰してしまえば、後は混沌が残るのみです」

「だが、もしもドムハイト中枢が崩壊した場合、シグザールとドムハイトという二頭権力によるこの大陸の秩序も終わる。 それは、出来るだけ避けたいと余は考えている」

これは、ヴィントの本音だ。

国政に携わる以上、様々な悪逆にも手を染めなければならない。だが、全体的な成果として望んでいるのは、やはり国家の安寧である。そしてその先に、もしも理想として叶えられるのなら、大陸全土の平和というものもある。

もちろんそんな事は絵空事だ。だから少しずつ、現実に合わせて理想をグレードダウンしていかなければならない。現実と理想を天秤に掛け、場合によってはどれほど手を血に染めようとも引かずに、思ったことを実現する。

それが政である。

権力を維持することしか頭にない三流の政治家では、恐らくヴィントには生涯及ぶことがないだろう。

逆に言えば、それが故に。ヴィントはこの年になっても、化け物じみているのだとも言えた。

「恐らく、ドムハイト中枢とエル・バドールの反シグザール勢力は、背後で結びついておろうな」

「ほぼ、間違いないかと思います」

「戦慣れしていない連中にしては、後方攪乱のやり口がえげつないしな。 まあ良いだろう。 今は後手に回ってやる。 ヴァルクレーア」

「は」

ヴァルクレーアは、名前を呼ばれるときっと表情を引き締めた。

ヴィントはベットに腰掛けたまま、幾つかの指示を出す。そのたびに頷いていた大臣は、やがてきびきびと寝室を出て行った。

「プレドルフを呼べ」

「直ちに」

側に控えている侍女が、ヴァルクレーアに次いで出て行った。彼女は牙の一員であり、対達人用の戦術も身につけている。他にも似たようなスキルの護衛が、ヴィントの側には常時四名以上ついていた。

まだ、死ぬ訳にはいかないのだ。

ヴィント王はアカデミーから届けられた薬湯を飲み干すと、息子に告げる言葉を、頭の中で吟味していく。

そろそろ、息子にも。汚れ仕事の意味と、その経験を積ませておく時機が来ていた。

 

1、吸血鬼

 

アトリエの地下から這いだしたエルフィールは、表情が冴えなかった。

どうもこのアトリエ地下の地脈が衰えてきたらしく、中和剤の魔力充填がどうしても遅いのである。エルフィール自身に魔力がまるで備わっていないから、地脈が衰えるのは当然だ。このままだと、錬金術のもっとも基礎となる重要素材、中和剤の作成に、著しい不都合が生じ始めることだろう。

「エリー、中和剤、駄目?」

「まだしばらく掛かりそう。 こう時間が掛かると、たまったもんじゃないね」

キルキが差し出したハンケチで額の汗を拭いながら、エルフィールはこたえる。井戸水を汲んできて、足を突っ込んでしばし冷を取りながら、エルフィールは天井を見つめた。

もしも中和剤を安定生産できなくなってくると、他のあらゆる錬金術の産物を生産するのに影響が出る。どんなに立派な材料を揃えても、中和剤がないと大したものは作れないのが現実なのだ。

錬金術は、もともと混ざりそうもないものを、中和剤を媒介にして親和させる。つまり基礎的な、根本的な部分でエルフィールは錬金術に対するハンディキャップを抱えてしまっているのだ。

戦闘でのハンディキャップは、どうにか補う目処がつき始めている。

しかし、こればかりは正直どうしようもない。時間を掛けて中和剤を作っていく他無い。幸い、魔力はどんな空間にもあるというのが救いだ。時間さえ掛ければ、魔法陣を書いてさえおけば中和剤は出来る。

「日頃から、中和剤を蓄積しておかなきゃ」

「大丈夫。 エリー、凄く計画的」

「そう? ありがと」

紅茶を入れて、二人で飲む。

キルキの側には瓶があるが、それには手を付けない。実験用のアルコールだからだ。しかも相当に強い度数の奴である。

キルキは少し前から、かなり強烈なアルコールを生成するようになってきていた。ロブソンでは殆ど見たことがない蒸留酒という奴である。薄めないと飲めないような危険な酒であり、中毒性も著しく強いと言うことであった。

「お酒嫌い。 でも、どうしてこんな危ないものをみんな飲むのかは、興味ある」

「キルキが大人になったら分かるんじゃないのかな」

「もう大人」

「そうだったね」

薄い胸を張るキルキは、まあ確かに社会的には既に大人だ。だが、肉体的にはまだまだ幼い部分も多い。子供は産めるかも知れないが、しかし相当な難産になるだろう。精神的な発育も、そんなに早いとは言えない。

エルフィールはと言うと、まあ子供はそれほど難産ではなく産めるだろう。一応年相応に体は出来てきているからだ。だが、今は子供を作る気もないし、将来的にも婚姻は考えていない。

まずは地歩の確保だ。

恋愛ごっこをするのは、それからで良い。

ドアがノックされた。この気配はノルディスか。アイゼルもいる様子だ。最近、この程度の気配なら、苦もなく読めるようになってきた。

「エリー、いる?」

「はいはーい」

「ごめんね。 入るよ」

ノルディスが遠慮がちに入ってきたので、さっと生きている縄を動かして、二人分の椅子を空ける。目にも止まらぬ速さで動いた生きている縄に、ノルディスはびくりとなったが、すぐに席に着いた。モヤシ学生も、何時までもひ弱なままではないと言うことなのだろう。

アイゼルは最近はすっかり慣れていて、伸びてきた生きている縄に、マントを預けているほどである。

「冬は暖かいけど、夏場は汗を掻いてしまうわ。 このマント」

「それなら、自作してみる?」

「え?」

キルキが、持ってきていた参考書を見せる。ついでに生徒手帳も。

生徒手帳には制服の細かい規定が載せられており、これに合致するものであれば、着て授業に出て良いのだという。もちろんマントの規定も載っていた。食い入るように見るアイゼル。

「なるほど、この規定に沿ったものなら、自作も良いと言うことなのね」

「そう。 私も、靴、作った」

自慢げに、靴を脱いで机の上で見せてくれる。

最初の頃は貧しい身なりだったキルキも、既に充分な黒字を稼ぎ出しているからか、生活に余裕が出始めている。靴にも、かなり高級な素材を使用している様子だ。貸してもらったが、柔らかい素材を使って、足を痛めないように工夫をしている。

田舎では木靴が普通で、使い始めは足をどうしても痛めてしまうものだった。見ると裏地に柔らかい生地を使っていて、かなり足への負担も小さい。流石に未だノルディスが主席を奪回できないだけの事はある。触ってみると、何重かの階層構造にしていて、靴擦れが出来にくいように非常に細心の注意が払われていた。

「これは凄い。 お店に置いたら、多分貴族にだって売れるよ」

「本当だわ。 私もこんなに良くできている靴ははじめて見る。 作り方を教えてくれないかしら」

「分かった。 アイゼルには世話になってるから、教える」

「ありがとう」

にこにこしているアイゼルに、キルキはまんざらでもない様子でこたえる。良い雰囲気である。かってつんけんしていたアイゼルだが、キルキに対してはもうすっかり親友といって良い仲になっていた。

「マントも、涼しくする工夫をしたいけれど……」

「アイゼル、身の回りのものにかなり執心だね」

「ええ。 ちょっとね」

アイゼルの袖を、ノルディスが引く。そう言えば、目的があって此処に二人は来たはずだ。

咳払いすると、ノルディスが書類を取り出す。

「実は、今日は二人にこれを届けに来たんだ。 イングリド先生からのお達しでね」

「どれどれ。 へえ」

書類にはこう書かれている。

ヘウレンの森、単独では立ち入り禁止。入る場合は、中堅以上の冒険者二人以上を伴うこと。

以前ヘウレンに蜂の巣を取りに行った時、強力な気配を感じたのを思い出した。そう言えば、色々ときな臭い場所ではあった。恐らくは、何か事件があった、という所なのだろうか。

「何かあったの?」

「うちの生徒じゃないけど、森で吸血鬼に襲われた人が出たらしくて。 手当が早かったから良かったけど、このままだと死人が出るのも時間の問題だろうって、イングリド先生は判断して、書類を配ってくれたみたいだよ」

「なるほどね。 あの気配、ついに人を襲い始めたか」

「心当たりがあるの?」

アイゼルがこわごわ聞いてくる。そう言えばこの子は怖がりだ。だいぶ大胆になってきた昨今も、それは変わっていない。

「ほら、前に蝋をたくさん作った時。 変な気配を感じたから、何かいるんだろうとは思ってたけど。 吸血鬼だとはねえ」

「騎士団は、何してる?」

「それが、変なのよ」

アイゼルが言うには、ここに来る前に、飛翔亭に寄ってきたという。

その時、ディオ氏に話を聞くことが出来たらしいのだが。どうも答えが芳しくなかったらしい。

「何だか、今はそれどころじゃないくらい忙しいらしくて。 そうそう、貴方にご執心の聖騎士さんも、国外に出ているらしいわよ」

「それは静かで助かる。 と言いたい所だけど」

エルフィールは、ちょっと良いことを思いついた。巧くすれば、中和剤の問題を、ある程度片付けられるかも知れない。

三人が帰った後、エルフィールはアカデミーの図書館に赴く。

吸血鬼は、分類上は霊体になる。如何に悪意を持っていても実際には何も出来ない殆どの悪霊と、系統上は同じ存在なのだ。例え肉体を持っていたり、物理的な干渉能力を手にしていても、である。

最上級のものになってくると、血を吸った人間を好きなように操るというよう能力を持っている者もいた、ようである。ただそんな危険な存在は、現れるたびに専門家に退治されてしまうのがオチだ。話題になるような強力な吸血鬼になると、多分もっとも最近の出現例が四百年以上も前と資料にはある。強力な人類の敵としての吸血鬼は既に滅亡していると言っても過言ではない。

ヘウレンで感じた気配も確かに強かったが、それでも倒せないほどのものではないだろう。

逆の意味で、あまり時間はないと言える。

吸血鬼の項目を調べる。やはりあった。ほくそ笑むエルフィールは、戦略を素早く頭の中で組み立てる。

吸血鬼だろうが、悪魔だろうが、魔物だろうが。

この世界に現れたことは、不幸であるとしか言いようがない。

此処は、人間の世界。彼らは踏み込む領域を間違えてしまったのだ。

本を閉じると、エルフィールはそれら何冊かを借り、まずアトリエに戻る。この間、ゲルハルト関連の事件を解決したことで、エルフィールは貸し出しに厳しい制限を課せられている本を借りる許可を得た。

これらの本に入っている知識は実に貴重で、戦略を立てるにはうってつけである。

アトリエで、本を紐解く。様々な魔物、大型の肉食動物に混じって、吸血鬼の項目もある。

読み進めていく。単純に、読み物としても面白い。

創作などで良く取り上げられる吸血鬼は、強大な存在だ。夜の貴族のような書かれ方をしていて、豊富な弱点や奇怪なキャラクター性もあって、非常に受けがよい。歴戦の冒険者を手玉に取るような吸血鬼に、怪奇小説好きは喝采を挙げるものだ。中には吸血鬼の魅力がその弱点の多さだと言うことに気付いておらず、何の弱点もない最強の吸血鬼を書いてしまうような作品もあるが、大概読むに耐えない代物である。

だが実際の吸血鬼はそれほど強力な存在ではなく、その中でも最強と謳われた七百年前のドラクル伯爵でさえ、熟練者とはいえわずか三人の冒険者に葬り去られてしまった。強度でさえ、エンシェント級のドラゴンに比べれば著しく脆く。魔術の類は、連中よりも優れた魔物が幾らでもいる。

闇の中に潜まないと、とてもではないが存在できない。それが吸血鬼という人のなれの果てが持つ、哀れなる宿命なのである。

「へえ。 思っていた以上に弱いみたいだね」

呟きながら、ページを捲る。他の生態解説書などは既に読んであるので、これはいわば余技だ。

吸血鬼は、自然発生することはまず無いという。

基本的にどれだけ恨みを持って死んだ悪霊といえども、何百年かすれば恨みは晴れてしまうらしい。仲間で集まって巨大化凶悪化したレギオン体と呼ばれるような強大な悪霊もいるようだが、それも所詮は人間の敵ではない。放棄された遺跡などに住み着けば害になることもあるようだが、専門家が来るとひとたまりもなく狩られてしまう。

さて、その同類の吸血鬼である。吸血鬼は、彼らと同類の存在であっても、製造過程が異なるという。

まず第一が、能力者が死後転じるケース。

死霊を操作するような能力を持っていた人間が、それを死後、自分に使用してしまった場合、吸血鬼が誕生しうるという。この場合、死んでいる以上能力はやはり薄れてしまっているため、さほど強力ではなく、場合によっては自我も残っていないという。あまり強力ではないタイプだ。

もう一つが、能力者によって、吸血鬼にして貰った場合。

つまり魔術を何らかの形で使用した結果、死後吸血鬼になったケースが此方である。

此方は若干厄介で、専門家の生きている魔術師が施した術が吸血鬼を作り上げているといっても良い。つまり、魔術師の人数や腕次第では、とんでもない存在ができあがるというわけだ。

もっとも、それでも多寡が知れてはいるのだが。

今回の吸血鬼だが、ヘウレンで感じた気配がそうだとすると、多分後者だろう。気配はかなり強かったし、実力も相当なもののはずだ。物理攻撃が通用しないなどと言うのは迷信だが、それなりの準備は必要になる。

ざっと、連れて行く人数を頭の中で見繕う。

中和剤を今後安定して作成するためだ。多少の出費は致し方ない。

それにこの間のゲルハルトの一件以降、着実にエルフィールは貯金を増やしている。今回の出費くらいは、別に痛くない。しかし、今回は兵器として作成してきた物資を幾つかつぎ込む予定で、その分の出費も考慮しなければならなかった。

しばらく黒板に筆を走らせる。

やがて、エルフィールは腕組みして唸った。

「まあ、こんな所か」

負けて逃げ帰る場合のことも考慮して、それでも財政が破綻しないようにはしなければならない。まあ、最悪の結果を想定しても、今後の路が閉ざされることはないだろう。だが、かなりの痛手になる。

こんなところで、足踏みしている訳にはいかない。

ドアがノックされる。既に夜中なのだが。気配は、キルキだった。

「エリー、いい?」

「どうぞ。 どうしたの?」

パジャマの上にコートを羽織ったキルキは、黒板に書かれている数式をじっと見つめた。聡明なこの子だから、エルフィールの目的にはすぐ気付いただろう。

「吸血鬼を、退治するの?」

「そうだよ」

「どうして?」

「まあ、色々理由はあるけどね」

名声は、複数の方向から築くべきである。

戦士としての名声が、エルフィールは不足している。冒険者の間ではヒドラなどと呼ばれ始めているらしいが、それでもまだ実績が足りていない。ある程度名が知れた相手を屠っておかなければならない所なのだ。

丁度錬金術師としても、見習いとはいえ二年目である。そろそろ画期的な実績を作っておきたいと、エルフィールは考えていた。

それに、吸血鬼はさっきの研究を見る限り、自律思考して稼働している魔術の塊とも言える存在である。実際にぶち殺してその性質を解析しておけば、今後の研究に必ず役立つ。錬金術師としても、意味のある行動だ。

以上を話すと、キルキはむっと口をつぐんだ。

「何だか、吸血鬼可哀想」

「そう思って放置したら、人が襲われて、多分死人も出るよ? 相手は人間に害を為す存在である以上、人間社会とは共存が出来ないの。 なぜかっていうと、人間はこの世界の霊長であると自称していて、殆どの人もそれを信じ込んでるから。 例えキルキが同情しても、人間の社会っていうもの自体が、相手の存在を許さないんだよ。 である以上、かならずいずれ吸血鬼は殺される。 だから、退治するのに動機なんかあまり関係ないと思うけどね」

「……」

しばらく口をつぐんでいたキルキが顔を上げる。

やがて、彼女は決意とともに言った。

「分かった。 私も行く」

「おや、いいの? 結構派手にぶっ殺すことになると思うけど」

「お墓、ちゃんと作る。 吸血鬼になった人、迷って出てるんだとしたら、ちゃんとお葬式してあげたい」

「そう」

まあ、弔ってくれる人の一人も、いれば吸血鬼も死後楽になれるかも知れない。死んだことがないエルフィールにはよく分からないが、多分それは無駄にはならないだろう。エルフィールは戦力を脳内で計上し、具体的な作戦案を決めた。

行動開始は、一週間後。

これから、その準備を纏めなければならなかった。

 

イングリド先生は、エルフィールの提出した討伐計画書を丁寧に見てくれた。

「なるほど、効きそうなものは全て持っていくと」

「はい。 まあ、効かなかったら、実力で仕留めるだけです」

「貴方らしい策ね」

今までも、何度か危険地帯に足を運ぶ時には、計画書を提出する機会があった。

エルフィールは基本的に何重にも戦略を練り、相手を殺せなくても次の手を用意できるようにしている。イングリド先生には、それが楽しくて仕方がない様子であった。

「これならば大丈夫でしょう。 吸血鬼の首級……は、持ち帰るのは無理だとして。 何かしら、討ち取った証を忘れないようにしなさい」

「はい!」

意気揚々と、イングリド先生の部屋を出る。

一階まで下りると、その足で飛翔亭に向かう。既にディオ氏には話を通してあり、準備も進めてあった。

ハレッシュは今回一緒に来て貰う。戦闘能力の高さから言って当然だ。ダグラスはなにやら任務らしく、クーゲルの姿も見えない。後、今回心強いのは、久々にナタリエが一緒に来てくれることだろう。

当の本人は、あまり面白くも無さそうに、カウンターで肉料理を頬張っていた。隣に座ると、エリーは笑みを向ける。

「ナタリエさん」

「来たか。 吸血鬼退治とは、また物好きだね」

「色々と、事情があるものでして」

一緒の料理を注文して、もふもふと食べ始める。肉にフォークを突き刺しながら、ナタリエは言う。

「吸血鬼ってのは伝説になるような存在みたいだけど、オレらだけで勝てるのかい?」

「大丈夫です。 実際には、それほどの実力ではないですし、二重三重に予防策は張りますから」

「慎重なこった。 術式が使えない分、行動が慎重になるんだろうかね」

「さあ、それはちょっと分からないですけど。 死者を出さないようにするつもりではいます」

幾つか、戦術的な話をする。

まだ実際には見せて貰っていないのだが、ナタリエはメタモルフォーゼという非常に珍しい能力の持ち主だという。これは一度見た相手に文字通り変身するもので、能力もある程度までならコピーできるそうだ。使い方次第では非常に強力な能力であり、今回も活躍が見込める。

キルキとハレッシュ、ナタリエともう一人でヘウレンに出向くことになる。ちなみにもう一人に関してはほぼ戦闘能力が存在しないので、保険の意味合いが強い。

「それにしても、騎士団はどうして討伐に出てくれないんですか?」

「さてね。 どっちにしても、降りかかる火の粉は払わなきゃ。 まああんたみたいに、火を見てそれを自分の力に換えようなんて逞しい子もいるけど」

「えへへへ、光栄です」

「褒めてない」

ちょっと呆れ気味にナタリエは褒めてくれた。褒めてないと言っているのは恐らく照れ隠しからだろう。アイゼルがいるから、エルフィールはそういう本心を表に出さない相手には慣れている。

話を終えると、飛翔亭を出る。

酒は口にしていないので、次の場所で門前払いを喰うことはないだろう。腹ごしらえもしたし、丁度いい。

次に赴いたのは、フローベル教会である。丁度、懺悔の聞き届けの時間を終了して、休憩に入っているはずである。休憩を潰してしまうのはちょっと気が咎めるが、その分は別で埋め合わせをすればいい。

裏口をノックすると、すぐにミルカッセが出てきた。今日は少し忙しいらしく、顔に疲弊が浮かんでいる。

「貴方は、エルフィールさん」

「お久しぶりです。 話はもう届いていますか」

「ええ。 哀れな不死者が、ヘウレンの森を彷徨っていると。 私が、その退治を任されたと」

「その通りです」

正確には、討伐隊の一人というのが正しいのだが、今回ミルカッセは保険として確保しておきたい必要な存在なので、あえてそう持ち上げて表現しても間違いではない。アルテナ教会としても今回は独自に討伐計画を立てていたらしいので、エルフィールの提案にはすぐに飛びついてきた。

ミルカッセには予定では一週間、教会を開けて貰うことになる。彼女の義理の父と親しかった司祭がしばし代理でフローベル教会の業務を代行してくれると言うことで、留守に関しては心配がなかった。

もちろん報酬も払う。

しかし、ミルカッセの表情は厳しい。笑顔のままのエルフィールに、毅然とした態度で応じてくる。

「私には、確かにこの世に未練を持つ不死者に有利な能力が備わっています。 しかし、哀れな不死者を貶めることだけは許されません。 その点は、大丈夫でしょうか」

「大丈夫ですよ。 だって、貴方も知っているキルキが、きちんと葬ってあげるんだって意気込んでますから」

「キルキちゃんが」

「ええ。 だから、気にしないで仕事に集中してください」

もちろん、生真面目なミルカッセに真実など告げない。そうすることで、みんな幸せになるのだから、それで良いのだ。

だが、多分ミルカッセは、エルフィールの行動の裏に何かあることを見抜いたのだろう。険しい表情を崩さなかった。

「それじゃ、失礼します」

「エルフィールさん。 貴方がとても強いことは認めます。 でも、天なる母を侮辱するようなことだけはしないでください」

「そう言われましても」

「いつか、報いを受けることになります。 私のように」

ミルカッセは丁寧に礼をすると、教会の中に戻っていった。

昔のことは、未だに相当深い心の傷になっているらしい。心の傷という点では、エルフィールも大きいのを抱えているから、ミルカッセの苦悩は分からないでもない。それにしても、ミルカッセは善良な人に育っているものだ。エルフィールなどは、自他共に認める邪悪な現実主義者の路を爆走しているというのに。

自分と違う路を行く人を。少しだけ、エルフィールは羨ましいと思った。

 

出撃の当日は、あっという間に到来した。準備のために幾つかの道具を作っていたため、特に時間の経過が短く感じてしまったと言うこともある。

今回は、荷車は一台だけ。積んでいるのは攻撃用の兵器類と、キャンプ用具だけである。まずアトリエの前でキルキと合流して、他のメンバーとは東門で合流した。ハレッシュは今回唯一の男性となるが、別に緊張した風もない。フレアさんは心配しないのだろうかと一瞬だけ思ったが、考えてみれば仕事でしょっちゅう外出している訳で、男女比がどうこうなど気にもしていないだろう。

ミルカッセは野営が初めての筈だが、意外に落ち着いた風情であった。きちんと旅装を整えつつも、正装である白いベールは被っている。胸元には、アルテナ教の司祭である神のシンボルが掛かっていた。

「ミルカッセさん、結構歩くことになりますが、大丈夫ですか」

「へいきです」

「それじゃ、出発しましょう」

荷車を、ハレッシュが引く。がらがらと車輪が小気味よい音を立てて回り始めた。音からして、車軸が少し古くなり始めている。そろそろメンテナンスが必要な時機かも知れなかった。

街道に出て、北上。ヘーベル湖の側を通る。麦の穂が、そろそろ重くなってくる頃だ。無数の青い麦が、畑に立ち並ぶ姿は、毎年見ているとは言え壮観である。興味深そうに周囲を見回しているミルカッセ。気が紛れるのなら良いことだ。モチベーションは、戦闘の結果を大きく左右する。

「司祭様は、外に出るのは初めてかい?」

「あまり遠出をしたことはありません。 冒険者の方と、一緒に薬草取りくらいならしたことはあるのですが」

「ああ、そういえば新人と外に出てるって話は聞いてるよ。 そんなにお布施があるわけでもないのに、大変だね」

ナタリエが意外に親身になって、ミルカッセと話している。ご機嫌な様子で鼻歌を奏でているハレッシュが、横目で見ながら説明してくれる。

「ギルドでも、新人と話すことは奨励されてるんだよ」

「嗚呼、なるほど。 確かに緊張をほぐす効果がありそうですね」

「そう言うこった。 まあ、司祭様の力が吸血鬼に有効かも知れないって話は俺らも聞いてるから、保険の意味もあるんだけどな。 まあ俺はあんまり女が喜ぶようなことも言えないし、ナタリエに任せておくさ」

「ハレッシュさん、話していて面白いと思いますけどね」

ハレッシュはそうエルフィールが素直に言うと、嬉しそうに笑顔を作った。本当に裏表がない人である。キルキはもうすっかり遠出にも慣れていて、歩き方などにも無理がない。もう肉刺など、どれだけ歩いても作りはしないだろう。

しばらく街道を北上する。何度かミルカッセの様子を見るが、意外に頑張ってついてくる。去年のアイゼルやノルディスよりも、ずっと体力があるかも知れない。教会の仕事は結構激務だと聞いている。それで鍛えられているのだろう。

だが、それでも遠出は結構きついはずだ。今回は強敵を殺すために出かけてきているという事もある。無理は禁物なので、早め早めに休止を取る。そのたびにナタリエがミルカッセの足の状態を見て、問題ないことをエルフィールに教えてくれた。

「思ったより鍛えてるよあの子。 肉弾戦闘面のスキルはあんまり持ち合わせが無いみたいだけど」

「まあ、保険ですから、あまり過度な期待はしていません。 ただ、一度能力は見ておきたいですね」

「そうだな。 いざというときは、オレが代替も出来るし」

もちろんそれが目的である。だがナタリエは、どうしてかそのことには気付いていない様子であった。

野営地で、ミルカッセがお弁当を拡げ始める。保存が利く干し肉類が中心であった。そのまま食べても良いのだが、火で炙るとなお美味しい。しばらく無言で干し肉を囓る。アルテナ教に、肉を食べてはいけないという教義がないのは良いことであった。もっとも推奨はされておらず、自主的に菜食主義をしているアルテナ教信者もいるらしく、エルフィールは最近までアルテナ教では肉食厳禁と勘違いしていた。

腹が膨れた所で、少し休んでから、また街道に。一日でヘウレンの側まで行き、翌日の昼少しすぎくらいに仕掛けたい。予定ではもう少し時間が掛かることを想定していたのだが、前倒しで進めることが出来て悪いことなど無い。ミルカッセも無言でついてきて、弱音一つ漏らさなかった。

ヘウレンの一番近くにある野営地に到着したのは、その日の夜。森の周囲には警戒の屯田兵が多く巡回していて、噂が嘘ではないことを伺わせた。途中、何度か呼び止められて、職務質問も受けた。そのたびにイングリド先生が書いてくれた書状を見せなければならず、かなりの時間をロスした。

だが、結局の所、予定より前倒しで状況を進めることが出来た。まずまず上出来という所であろう。

今回は人数が多いから、見張りはかなり余裕を持ってシフトを組むことが出来る。ミルカッセは流石に旅慣れていないので、エルフィールらで四交代にすることにした。野営地とはいえ、かなりザールブルグから離れている此処では、泥棒の類は出るのである。寝ずの番をする人間は必要になってくる。

最初の見張りになったのはエルフィールである。他にも旅人が何名か野営をしているが、数は少ない。いずれもヘウレンの話は聞いているからだろう。

野営地から西に見えるヘウレンは、確かに禍々しい障気を放っているかのようにも見えた。たき火に薪を追加しながら、エルフィールは持ってきた武具の確認をする。

白龍。

杭を打ち出す、超近接戦を基本とする強力な戦闘杖。今回は撃ち出す杖に、吸血鬼に効果が高いという聖水を塗ってある。もっとも、聖水が効くという話は古い文献には出てこない。正直な話、この杭は対人戦用の武具ではないし、破壊力は人間大の相手を木っ端微塵にするには充分だ。仮に吸血鬼が超常の存在でも、まともに食らってしまえばひとたまりもないだろう。

続いて、秋花。

発火性の強い薬品を詰め込んだ、火炎放射杖。吸血鬼は水にも火にも弱い。これは欠点が非常に多いが故に、実戦投入を最近まで出来なかったものだが、尖った性能の杖はまだ他にもある。生きている縄の駆使によって実戦投入できるようになってからは、エルフィールはこれによって敵を焼き尽くす時の香りが楽しみで仕方が無くなっていた。まさに一撃必殺の威力を持つ、邪神の焔。それがこの杖が生み出す、紅蓮に的確な表現である。

二つの杖の他に、まだ実戦投入していない一つを今回は持ってきている。採集がメインの目的ではないので、その分武具を多めに持ってきたのだ。

見張りをしている間に、杖の最終的な手入れをしておく。体に巻き付けた生きている縄が蠢きながら、杖を丁寧に磨いていく。稼働部品に油を差し、壊れていないかを確認して、最終的に振り回す。

秋花は打撃武器としては使い物にならないが、白龍は充分に耐え抜く。しかし、何度か振り回していると、やはりバランスの悪さが際だってくる。

アデリーさんに渡されたこれらの尖った特性の武器を見つめて、エルフィールはつくづく思う。一体これは、誰が作ったのかと。そして、この手に不思議と馴染む感覚は何なのだろうとも。

妙に、落ち着くのである。使っていると。

他の戦闘用杖も、ゲルハルトに言って貸してもらった。戦場でも振るってみた。

だが、どれもがしっくり来ないのである。これならば徒手空拳で戦った方がマシだと思えるくらいに、である。

分からない。

だが、使えるのなら使う。エルフィールは、愛すべき生きている縄達と、杖を磨きながら、迷いを払う。

空の星が、降るような数だ。美しい夜空だが、一方でヘウレンの方は禍々しい邪気がいつまでも消えない。

「エルフィールさん」

「あれ? 眠れませんでした?」

テントから、ミルカッセが這いだしてきた。外出用の頑丈な服だし、寝間着など持って来る余裕はないことは告げてある。しばらくは着の身着のままだ。だから余計に早めの睡眠を心がける必要があるのだが。旅になれていないと言うこともあり、最初からその水準を満たすのは酷だろう。

彼女はずっと険しい顔をしている。そういえば、仕事のことを話に行った時からだ。

「貴方の、今回の本当の目的は何ですか? それを話していただけないのなら、私は此処から帰ります」

「また、急だね」

「お答えください。 私は、天の母に背くような真似はしたくないのです」

「うーむ、ちょっと黒い話になるけど、いいのかな」

ミルカッセは正座して、此方の言葉に耳を傾けている。

この人はまだ若いが、随分苦労を重ねているらしい。まだ強いとまでは言えないが、既に弱さだけの人ではなくなっている。

エルフィールには、まだ信念と呼べるものがない。

現実的に事を消化し、必要とあれば相手が人間だろうと殺す。

もちろん、成し遂げたいことはある。だがそれは漠然とした恐怖と義務感から来ているものだ。自分を助けてくれた錬金術師に会いたいというのもあるが、それも興味以外の事ではあり得ない。

だから、エルフィールは、ミルカッセに興味がある。かって弱くて、大変な時間を過ごしたこの人が、如何にして信念を得るに到ったのかが。

「目的の一つは、害虫駆除。 言葉は悪いかも知れないけど、この世界は人間のもので、それに害を為す吸血鬼は異物でしかないので」

「貴方の考え方には同意しかねますが、それについては理解できるつもりです」

「うん、それでいいですよー。 それでもう一つは、私の名前を挙げること」

「功名心、ですか?」

そう言うことと呟きながら、エルフィールは白龍を側に置いた。しっかり磨き抜かれたそれを生きている縄が持ち上げ、荷車の中に格納する。するすると触手のように自在に蠢く縄からも、ミルカッセは怖いだろうに視線を逸らさない。

エルフィールには、時間がない。

これは普通の人と逆の意味である。生きてきた時間がないのだ。必死に経験を積み重ねてはいるが、名声も技術も何もかもが足りない。本当はキルキの方が年上なのではないかと、思ってしまう事もあるくらいに。

だから、名を挙げなければならない。

既に冒険者の間では、エルフィールをヒドラと呼んでマークしている連中がいるという。何回かの採取活動で、生きている縄と戦闘用杖をを使って猛獣を虐殺したエルフィールの事が、そう伝わったらしい。それは大変結構なことなのだが、まだまだ名声は足りない。もちろん、それは悪名も同じ事だ。

錬金術師としての名声は、こつこつ積んでいくしかない。

しかし、実力主義のドナースターク家で名を挙げ、最終的に幹部になるには、それだけでは足りない。戦士としての名も、挙げていかなければならないのだ。良きにせよ、悪しきにせよ、である。

無関係の市民を殺すような致命的な悪名でなければ、激しいくらいが丁度良い。合法的な殺人であれば、今後は経験しておきたい所であった。

「そのために、彷徨う哀れな死者を滅ぼすと」

「そゆことです。 もっとも、私が殺さなければ、他の誰かが同じ目的で、吸血鬼を殺すでしょうけれど」

「続けて、ください」

見る間に、ミルカッセが眉を曇らせていくのが分かる。この人は、きっと優しい。そして地獄も見てきている。

それがエルフィールには眩しくてならない。その場で組み伏せて服を剥ぎ腸を引きずり出し、内臓を肉を喰らってしまいたいほどに。どんな味をするのか、どんな考えをしているのか、そうでもしないと確かめられない気がする。

だが、しない。

ザールブルグに出てくる資金を用意してくれたことも含めて、ドナースターク家には大恩ある身だ。その顔に泥を塗ることだけは出来ない。それに、エルフィールも記憶が飛ぶ前は、同じくらいの地獄を見てきているだろう予感がある。だから、別に気負うことは無い。

「最後の目的は、そうですね。 どう説明して良いのかちょっと分からないんですけれど、要は私には生体魔力が備わっていませんでして」

「それは、聞いています」

「話が早くて助かります。 最近、私のアトリエの地下室にある地脈が衰えてきたみたいでしてね。 それで、強力な魔力媒体が欲しいんです」

吸血鬼は。

言うならば、負の魔術の強力な結晶体だ。連中を滅ぼすと、ほぼ確実にその心臓部分になっている、強力な媒体を入手できる。それが何かは分からないが、多分連中が生前大事にしていたものだろう。

これは本来ただ魔力が強いだけの物質だが、エルフィールには貴重な道具だ。地下室にこういった媒体をたくさん置いておけば、必ず地脈を活性化することが出来る。魔力が強い人間の場合、いるだけで地脈を活性化できるような事もあるかも知れないが、エルフィールはこういう事をしなければ他の人間に追いつけないのだ。

「……」

「そういうわけで、私としては吸血鬼に死んで貰わないと、今後の人生設計が大きく狂ってしまいます。 お金は払っていますし、協力していただきたいんですが、いけませんか?」

「貴方は、何だか可哀想な人」

ミルカッセは、それだけ呟くと、テントに戻っていった。

これはひょっとすると、帰ってしまうかなとエルフィールは思ったが、翌朝ミルカッセは無言のままついてきた。

どうやら、エルフィールに対する反感よりも、哀れな死者を弔うことの方が、優先順位が高い様子であった。

 

2、闇の森の主

 

ヘウレンは、以前来た時よりも、ずっと禍々しい気配が増していた。

入った途端、ハレッシュとナタリエの雰囲気が露骨に変わった。二人とも眼を細めて、武器に手を掛けている。エルフィールも、杖を構える。この殺気、以前よりかなり露骨になっていた。

「気をつけろ。 何時仕掛けてきてもおかしくないぞ」

「シュテルンビルト伯爵、か」

「何それ」

「ああ、この森の主だった人です。 来る前に少し調べておきました」

ナタリエに、エルフィールは白龍を低く構えたままこたえる。辺りの空気がちりちりするほど、露骨な敵意がむしろ心地よい。

キルキも杖を構えて、得意とする熱量操作の術式をいつでも発動できるように備えていた。ミルカッセは護身用の小さな剣で、パリィの体勢をとっていた。

必然的に、全員が互いの死角をかばい合う形になる。

荷車を中心に、五人が円陣を組んだまま、時間が過ぎていく。遠くから聞こえるのは、何かの鳥の鳴き声か。

真っ昼間だというのに、森はまるで夜のような雰囲気だ。何というか、明かりが全体的に弱い。

思ったよりも手強い相手かも知れないと、エルフィールは敵の実力を上方修正していた。ただし、それでも予想の範囲内である。多分エンシェント級のドラゴンとこの人数で戦うよりも、ずっと楽なはずだ。

誰も、喋らない。それだけ、強烈な威圧感が、辺りを包んでいた。

そして、それは突然来た。

無数の羽音。

鳥にしては静かで、虫にしては大きすぎる。蝙蝠だなとエルフィールが思った瞬間、無数の小さな影が、周囲を飛び交い始めていた。

「きやがったな……!」

「作戦通り行きますよ」

エルフィールの体から、無数の生きている縄が伸びる。

今回の作戦用に、十四本を用意してきた。そして体には八本を巻き付けてある。その八本が一斉に空中で、己の体を振り回し始めた。先端部分には鳥もちを取り付けてある。

蝙蝠取りの技の一つだ。

普通はしなりが良い棒を使う。原理はよく分からないのだが、蝙蝠はこうやって棒を振り回していると、それにぶつかってしまうのである。鳥もちを付けていると、勝手に自分から鳥もちに当たってくるため、簡単に捕らえることが出来る。

蝙蝠達はしばし統率が取れた動きで周囲を飛び回っていたが、露骨に動きが乱れ始めた。

「やるな」

「何、此処の吸血鬼に襲われた人の証言を、アカデミーの協力で閲覧しましたから」

「まとわりつかれてたら、面倒なことになっていたよ。 さて、次はどうでるかな」

エルフィールがクラフトを取り出す。以前よりぐっと威力を上げてある、小型の炸裂弾だ。対人殺傷にも使える強力な武器である。空中に放り投げれば、衝撃波で蝙蝠の群れなど瞬時に爆砕することが可能だ。

蝙蝠の群れは、露骨に統率が乱れている。しかし、まだ吸血鬼本体は姿を見せない。しばし考え込んだ後、エルフィールは周囲を見回した。

「奥へ進みましょう」

「分かった」

「ハレッシュさん、荷車をお願いします。 二番、三番、五番! 行動を継続!」

生きている縄が三本、するすると蛇のように解けて、荷車の上に陣取る。そして先端部分を派手に回転させ続けた。蝙蝠は鳥もちにぶつかってくることさえ無かったが、しかし遠巻きに此方を伺うばかりである。

吸血鬼の中には、理性を喪失している者も多いとか、文献には書かれていた。

だが、この森の主は、少なくとも敵の実力を見極めようとするだけの知性が働いているらしい。

故に手強い。

むしろ怒らせた方が良いだろうと、エルフィールは思っていた。そうなると、方法は一つだ。

以前、この森に来た時。奥で見た、遺跡。

あれを荒らす。

「森の奥に、遺跡があります。 其処まで行きましょう」

「あまり感心しないな」

「吸血鬼! 聞こえてるんでしょう? これから貴方の大事な、庭を焼き払いに行きますよ! 嫌ならさっさと出てくることですね!」

わざと大声で、辺りに吠え猛る。

同時に。

周囲の重力が、倍加したかのような圧迫感が来た。

本体が来る。それを悟り、エルフィールは舌なめずりしていた。これは、アデリーさんと一緒に戦ったどんな獲物よりも、遙かに強力な相手だ。自分で集めた面子で戦うのは若干不安があるほどである。

腐っても人間か。

「私の森を荒らそうとする侵入者よ!」

どこからとも無く、声が響き渡る。生きている縄達が鎌首をもたげ、全周警戒に入った。ハレッシュが引いていた荷車を手から離すと、槍に持ち替える。

「出て行けっ!」

裂帛の気合いとともに、闇が凝縮していく。

そして、それは姿を現した。

 

エリアレッテは、ようやくザールブルグに戻ってきた途端に、師に言われてヘウレンに向かっていた。

今回エルフィールが殺しに行った相手が、面倒な存在だと聞いていたからである。場合によってはエルフィールを助けろ。ただし姿を見せぬようにとも指示されていた。そう言われたからには、エリアレッテは従うだけである。

人手が足りないから、今回はエリアレッテの単独行動だ。しかし、相棒とも言える斬龍剣はしっかり背負っている。巨大なその武具はいつも布でしっかり巻いていて、肩に載せて担ぐようにして持ち歩く。町中では目立って仕方がないので、大概は郊外にある騎士団の拠点に預けてから街にはいるのが恒例となっていた。

森から感じる気配は、かなり強い。

昨今、辺境の小国で得体が知れない生物が大量に発生して、騎士団はその関連を調査するためにかけずり回っていた。エリアレッテも例外ではなく、ここ数ヶ月で数十体は自然にあらざる巨大な生物を斬ってきた。獅子だけにしても、翼が生えた奴もいたし、尾が蠍になっているものもいた。他にも様々な異形が、各地の辺境を荒らし回っていた。

殆どは現地の住民の手によって返り討ちにされてしまっていたが、国力が小さかったり、平和が続いているような国では、それでも被害が出ていた。お家騒動が突然降って湧いたような国もあり、騎士団は手が回らない状態が続いている。牙もそれは同じであり、エリアレッテは一週間寝る暇がない時さえあったのだ。

これも、その関連かも知れない。

そう言われて、エリアレッテは内心興味を抱いていた。あの異形どもを造り出したのが誰かは知らないが、吸血鬼まで造れるとしたら面白い。

どれも単独で戦うにはとても手強く、それでいて面白い連中ばかりだった。手傷を負わせてくれた奴もいる。

思わず、口元が笑みの形に歪んでいた。

森に到着。

爆発が連続して巻き起こる。どうやら既に、戦闘は開始されているらしい。雄叫びが聞こえる。この声は、ハレッシュか。

閃光が森の中を走る。相当に派手に戦っているらしい。森に入り、気配を探る。

一つ、大きいのがいる。これが、吸血鬼だろう。

他は五つ。全てが健在だ。今のところ、手を貸す必要は無さそうだ。斬龍剣を地面に突き刺すと、エリアレッテは気配を完全に消した。

来る前に、師に渡された資料のことを思い出す。吸血鬼の正体はシュテルンビルト伯爵。この森の主だった男だ。

かってこの周辺の土地を私物化していた人物であり、伯爵ではあったが公爵に匹敵する収入を持っていたという。その収入は、隠し銀山によるものではないかという噂が、以前から流れていた。いうまでもないが、これは重大な反国家犯罪である。

いずれにしても、国からマークされていた人物である。貴族であっても土地の私物化はあまり好まれないし、何より彼はやり過ぎた。ただし、蓄財をすると同時に納税も熱心にしていたから、あまり咎められることもなかったのだが。

しかし、騎士団は、幾つか彼を捕縛するに足る情報を掴んでいたのである。

結局捕縛に踏み切らなかったのは、彼がその前に死病でこの世を去ってしまったからである。実に、騎士団が踏み込む予定だった数日前の事であり、肩すかしを食らった国は、彼の領地を封鎖することで、その存在を闇に葬った。

それが、およそ七年前のことである。

それからヘウレンはただ少しだけ危険な森以上でも以下でもない存在として、誰もから忘れ去られ掛けていた。たまに錬金術師や猟師が収入を得るために来るくらいで、それもきちんとした護衛を連れて入ったので、被害が出るようなこともなかったのである。また、伯爵が死ぬと同時にその領地の検査も騎士団が徹底的に行い、跡継ぎがいなかった伯爵の財産も全て差し押さえたため、混乱が生じることもなかった。ちなみに隠し銀山の類は、見つからなかった。徹底した調査の結果であるから、恐らく別の手段で伯爵はその豊富な資金を確保していたのだろうと推察されたのだが。しかし、資金流入の経路が、どうしても見つからなかった。

牙も暗躍したのだが、結果は同じ。結局半年ほどの調査の結果、伯爵が行っていた裏の仕事のルートを幾つか潰したところで、騎士団の仕事は終わった。その中の一つは違法奴隷のドムハイトからの流入ルートであり、これを潰せただけでも成果は大きいと、騎士団は判断したためである。伯爵の膨大な資金を構成するには、これだけではとても足りなかったのだが。

もちろん以上の情報は公開されることなく、この事件は終わったように思えた。

しかし、数年前から、不意に吸血鬼の噂が流れ始めたのである。

そして騎士団でも、吸血鬼の存在を確認したのが二年前。ただしこの時点では、強力な悪霊程度の実力しか無く、人間に害をなせる存在ではなかった。貴族による犯罪は別に珍しくもないが、シュテルンビルド伯爵関連ほど大規模なものは殆ど無いこともあり、シグザール王国の恥部を晒すこともない。だからしばらくは様子見が続けられた。

害をなせる存在になったのは、つい半年ほど前。

一旦は封鎖することで様子を見たが、つい一週間ほど前に、とうとうヘウレンから伯爵は出て活動をするようになった。此処に来て騎士団でも伯爵のなれの果てを討伐することが決定されたのだが。

その前に、アカデミーから、件の「ヒドラ」エルフィールが、吸血鬼の討伐を買って出たのである。

騎士団は今猫の手も借りたい状態であり、兎に角人手がない。クーゲルの指示もあって、エリアレッテは単独で事の次第の終末を見届けるべく、此処に来ていた。もちろんエルフィールが吸血鬼を仕留め損なったら、エリアレッテが倒さなければならない。

また、閃光がまたたいた。かなり派手に戦っているエルフィールだが、戦況は五分という所だ。

気配を消したまま、森の中を進む。適当な木を見つけたので、地面に斬龍剣を突き刺し、はい登る。ある種のは虫類のように木に密着して枝まで登ると、眼を細めて実際の敵の姿を視認する。

いた。

手配書で見ていたのだが、シュテルンビルドはどちらかと言えば痩身の人物であった。だが彼処まで痩せていただろうか。吸血鬼と化したから、かも知れない。黒いタキシードのような衣服を身に纏い、マントを翻して、空中を滑るようにして戦っている。手から次々火球を放ち、それをエルフィールが雇ったらしい前衛の戦士二人が、必死に捌いていた。時々子供の錬金術師が熱量操作らしい能力を展開しているが、伯爵の動きが速すぎて当たらない。文字通り物理法則を無視した動きをしている。

「私の森から、出て行け!」

また、伯爵が叫んだ。

伯爵は死んだ時、まだ四十代半ばで、いわゆる男盛りだった。だからからか、趣味としていた庭園造りも、相当な力の入れようだったという。たった数年で此処まで荒れ果てたのは自然の力の凄まじさが故だろうが、それにしてもこの執着はいかなる事か。

或いは。

伯爵が闇に手を染めたのも、この森そのものに対する執着が故だったのかも知れない。

いずれにしても、エリアレッテには関係のない話である。青白い肌をした伯爵は鋭い一対の牙を剥き出しにして、その手から火球を生み出す。

それを放とうとした瞬間。

状況に、変化が起こった。

 

伯爵は、無尽蔵に火球を造り出しては投擲してきた。中距離を保ち、此方の体力を削ることだけを考えている様子だ。意外に頭が回る。思った以上に手強い相手だ。

時々、ハレッシュとナタリエが処理しきれない火球を生きている縄ではじき返しながら、エルフィールは敵の分析を続けていた。

闇から解けるように現れた伯爵は、日光を避けるようにして動いている。森の木の葉の影から差し込んでくる日光くらいなら、どうにか耐えられるらしい。だが、流石に露骨に木々の間から入り込んできている日光には触れたくないようだ。

一方で、光そのものは全く平気らしい。時々キルキが発動している熱量操作の術式による焔が放つ光を浴びても平然と動き回っている。熱そのものを畏れている様子も全くない。多分日光と、それ以外の光は、全く別のものなのだろう。

ニンニクを何度か投げつけたが、これも効果無し。多少は嫌がっている様子だが、動きが止まる事はない。

聖水に関しては、見せると露骨に距離とを取ったことから、かなり効果がありそうだ。一方でアルテナ教のシンボルについては、見ても何ら興味は示さなかった。こちらについては効きそうもない。

何が効果を示すか、エルフィールは激しく動き回り、慎重に伯爵との間合いを調整しながら、見極めていく。伯爵は無尽蔵の魔力をフル活用し、空中から大量の火球をばらまきつつ、此方の体力を削りに掛かってくる。不思議と、彼が放つ火球は森の木々にぶつかっても、燃え上がることはないのだった。

伯爵が、空中を横滑りし、跳躍して斬りつけたナタリエの剣を避ける。本当に自然の法則を無視した動きであり、着地したナタリエが舌打ちした。

「気持ち悪い動きだな」

「私の森から出て行け!」

ナタリエが着地した瞬間、横殴りに伯爵が投擲した火球の群れが、彼女を襲う。全ては回避しきれず、ナタリエは横っ飛びに逃れながらも、全身から煙を引いて舌打ちした。

その隙にハレッシュが木を蹴ってジグザグに跳躍、真上から強襲を仕掛ける。だが、やはり伯爵は奇怪に滑るような動きを見せ、痛烈な一撃を紙一重でかわしてみせるのだった。

再び地面に降りてきた伯爵の頭上に、数十に達する火球が生じる。

ナタリエもハレッシュも、確実に怪我が増えてきていた。キルキの所にも、何発か防ぎきれなかった弾が来ている。エルフィールは平気だが、これはこのままだと、拙いかも知れない。

エルフィールは、相手の実力を、頭の中で上方修正した。ひょっとすると、今まで現れていたという吸血鬼とは、まるで別物かも知れない。

「シュテルンビルト伯爵!」

不意に、凛と響いたのは、ミルカッセの声だった。最後衛で邪魔にならないように控えていた彼女が、不意に動いたのはなぜか。邪魔だけはしないでくれよとエルフィールは思う。しかし、元々彼女は吸血鬼に効果があると思われる能力の持ち主である。きちんと動いてくれさえすれば、邪魔にはならないだろう。

彼女は真剣に唇を引き結んでおり、吸血鬼を見据えていた。火球を放とうとしていた吸血鬼も、ミルカッセに視線を向ける。

清浄な衣服に身を纏ったミルカッセは、手を伸ばし、語りかける。

「どうして貴方は、闇に落ちたのですか。 貴方は既に命を失っています。 この森も、もはや貴方の手を離れ、自然のままに生き物たちのものとなっています。 悲しいことですが、もうこの森は貴方のものではないのです。 それなのに、どうして、この森に執着するのですか」

「こ、この、この森は」

「誰か、愛する方の思い出があるのですか?」

何を根拠にとエルフィールは思ったのだが、ぴたりと吸血鬼の動きが止まる。

次の瞬間、天を切り裂くような悲鳴が轟き渡った。

絶叫する吸血鬼に、態勢を低くしたハレッシュが全力でのチャージを仕掛けるのは同時。凄まじい圧力を伴った槍での突撃は、かろうじて直撃を避けた伯爵を、その余波だけで痛烈にはじき飛ばしていた。

元々細身の伯爵である。地面に叩きつけられると、全身から黒い障気を噴き出しつつ立ち上がるも、弱っているのは露骨だった。さっきの吸血鬼の様子からして、ミルカッセの問いかけは恐らく図星だったのだろう。

ミルカッセが吸血鬼に歩み寄る。ナタリエが止めようとしたが、エルフィールが制止した。生きている縄全てにスタンバイを掛けて、一緒に歩み寄る。

「大丈夫?」

「しっ」

キルキに、エルフィールは笑顔のまま静かにするように、口の前に指を立てて見せた。興味がある。ミルカッセがその能力を展開する前に、或いは。

頭を抱えて呻く吸血鬼を哀れむように、ミルカッセは見つめている。

だが、彼女が更に何か語りかけようとした瞬間。

第二の異変が、吸血鬼に起こった。

全身が、ふくれあがり始める。人の形をしていた吸血鬼が、弾け、爆ぜ割れ、巨大な肉の塊になっていく。おぞましい臭気が周囲に漂い、巨大な肉塊は思いのままに膨張を開始し、無数の触手が生え始めていた。

「わ、私は、こ、この、森、を!」

「伯爵!」

「守らなければ、な、なら、ない、の、だ!」

肉塊から飛び出してきたのは、巨大な蛇を思わせる、無数の触手だった。それらには鋭い牙が生えた口が備わっており、ミルカッセの柔らかい体を引き裂こうと、空間を蹂躙する。

エルフィールが生きている縄のスタンバイを解除。同時に割り込んだナタリエが、ミルカッセの体を抱え上げ、飛び退いた。反応しきれなかったミルカッセは剣を取り落としてしまう。回転しながら空中を舞う小さな剣を、触手が襲って粉々に折り砕いた。

何かあったなとエルフィールが思うより先に、膨張を開始した肉塊が、辺りに無差別に触手を伸ばし始める。蝙蝠を片っ端から襲い、喰らい始めていた。

飛び退いたハレッシュが、流石に冷や汗を拭う。

「お、おい! エリー!」

「面白い。 ここからが本番という訳か」

「ワタシノモリハ、ワタシダケノモノダ! ダカラ、イッソ、スベテワタシニシテクレル!」

絶叫が、森の全てを覆う。

こんな形態を取る吸血鬼は、図鑑にもなかった。だが、どういう現象かは容易に想像がつく。

別に驚くには値しない。術式が暴走したと言うだけのことだろう。元々無茶な術式で、無理矢理自然界の法則を歪めているのである。何かしらのきっけかでそれが壊れてしまえば、破滅的な暴走が始まるのは自明の理だ。

舌なめずりしたエルフィールは、全力での攻撃を、周囲に指示していた。

森を、丸ごと喰らい尽くそうと、一瞬ごとに肉塊が膨張していく。中心部にある巨大な肉塊には、数十もの口が生じており、もはや逃げまどう哀れな獣と化した蝙蝠達を、捕らえた触手ごと噛み砕き、潰し始めていた。そしてそれを己の体に替え、更に巨大化していくのだ。

其処へ、投じられた球体。

エルフィールとキルキが、二人で荷車から引っ張り出したクラフト弾である。内部に釘やガラス片などを詰めた、殺傷力の高い爆発物だ。

「炸裂せよ!」

キーワードを唱えると同時に、ハレッシュとナタリエが距離を取る。多分クラフト弾を以前見たことがあったのだろう。

閃光が怪物の全身を見たし、次の瞬間、空間そのものが弾けたかのような爆発が巻き起こされていた。

木の陰に隠れたエルフィールが、耳から手を離す。

怪物は。

濛々たる煙の中、苦痛の絶叫を挙げていた。肉は大きく抉れているが、無事だ。再生能力が、打撃を上回り始めている。

触手が伸びてくる。

無言でハレッシュが、槍で切り伏せ、踏みつぶした。時間を稼いでくれている。無数の触手が、ハレッシュを次々叩き、噛みつく。だが意に介さないように、ハレッシュはそれらの全てを引きちぎり、切り裂き、時間を作ってくれる。

ナタリエが印を組み、その全身が淡く光る。見る間に髪の毛が伸び、肌が白くなっていった。

赤い髪。朱を引いたような唇。背も、一瞬でかなり伸びていた。ナタリエの顔が整っていない訳ではないが、メタモルフォーゼの展開後に現れた姿は、残念ながら比較にもならないもの凄い美人である。だが、その唇から漏れたのは、やはりナタリエの、無理に粗野にしている言葉だった。

「キルキ、オレの術式にあわせて!」

「はいっ!」

させじと、触手が数本伸びてくる。だがエルフィールも、同時に動いていた。

杖で一本を叩きつぶし、処理しきれなかった二本を、空中で生きている縄が迎撃。生きている縄の先端にはそれぞれ武器が取り付けてある。いずれも安く買った古い武器ばかりだが、命を考慮しない生きている縄が捨て身でぶつかっていけば、充分な殺傷力を持つ。

ナイフが無数に触手に食いつき、切り裂く。剣が四方八方から触手を切り千切った。エルフィール自身は秋花を抱えると、生きている縄に態勢補助をさせ、キルキと、ナタリエにあわせて、一気に引き金を引く準備を整えた。

ナタリエが術式を発動。

同時に、肉塊の足下から、紅蓮の柱が出現していた。

とんでもない熱量の火炎である。この背が高い美しい人は、或いは聖騎士かも知れなかった。ナタリエの知り合いなのだろう。

更にキルキが、全力で熱量加速の術式を展開。印を組み終えた彼女が杖の先を向けると、吹き上がった火柱が、真っ赤から青に切り替わる。熱量が更に上がった証拠である。二人がかりの熱量展開に、流石に肉塊が悲鳴を上げる。ほぼ正円形だった肉塊の形が、灼熱地獄の中解け崩れていく。

其処に、エルフィールの秋花が、全火力を叩き込む。

灼熱の柱が更に巨大さを増す。

もはや其処にあるのは、地上に具現化した、地獄の釜であった。

ミルカッセを背後に庇い、時々奇声を上げて飛んでくる蝙蝠を槍で蹴散らしながら、ハレッシュが感嘆の声を挙げる。

「スゲエな!」

「とどめ、行きますよ!」

紅蓮の巨怪が、内側からはじけ飛ぶ。まだ生々しい桃色に塗れた肉塊はさっきよりだいぶ小さくなっているが、その中心部にある巨大な目の周囲には、無秩序に口が並んでいる。触手が何本か伸びてきた。ハレッシュが槍ではじき返す。だが、大技を放ったばかりのナタリエが、その肉の腕に捕らえられた。メタモルフォーゼが解除された彼女の動きが止まった隙を狙われたのである。

振り回され、地面に叩きつけられるナタリエだが、同時に剣を投げつけてもいた。ただではやられない。投げつけられた剣が、肉塊の目に突き刺さる。おぞましい悲鳴の中、エルフィールとハレッシュが、同時に地を蹴る。エルフィールの体から伸びている何本かの生きている縄が、それにあわせて地面を強打。身体能力を数倍に強化し、文字通り生きた弾丸となって、エルフィールは跳んだ。

隣で、ハレッシュが肺の空気を全て絞り出しながら、吠え猛った。

「おおおおおおおっ! とめて、みやがれえええええっ!」

エルフィールは生きている縄の力を借り、身体能力を文字通り倍加している。だが全身の魔力を一気に爆発させ、槍そのものになったハレッシュの方が、爆発力では上だ。チャージが地面を爆砕しながら肉塊に迫り、防ごうと飛んでくるまだ熱い触手を切り裂き吹き飛ばしながら、ハレッシュが敵本体に迫る。

そして、敵の本体を、真ん中から貫通し、吹き飛ばした。

風穴を体の中心に開けられた敵だが、一瞬でまとまる。孔の中に小さな触手が無数に生じ、互いに絡み合って、存在を補完。より小さくまとまったのである。

だが、エルフィールが其処で敵に到達。

白龍を敵に密着させていた。

「吠えろ……」

地面を踏みしめる。

そして、引き金を掴み、一息に引いた。

「白龍っ!」

以前よりも、更に内部機構を強化してある。だから爆発的な破壊力とともに撃ち出された杭は、肉塊をまるではじき飛ばすようにして、爆砕していた。

肩に掛かる負担も尋常ではない。

だが、肉塊は今度こそ再生の能力を無くしたようで、周囲に飛び散り、後は晴れた日に地面に出てきてしまったミミズのように、蠢くばかりであった。

「はあ、はあっ。 お、終わったか!?」

ハレッシュが片膝をついたまま、大きく呼吸している。全身から煙が上がっていて、しかも傷だらけで痛々しい。

エルフィールは素早く吸血鬼の残骸から飛び離れると、生きている縄を伸ばして、肉塊をまさぐる。多分コアになっている道具か何かがあるはず。それを取り上げてしまえば、吸血鬼は再生できない。

だが、キルキが鋭く警告の声を発するのを聞いて、即座に生きている縄を引っ込める。

「駄目! まだ生きてる!」

「しぶとい奴だね」

「ナタリエさん、これ!」

投げ渡したのは、即効性の強壮剤である。後への負担も大きいのだが、あのメタモルフォーゼを何度も使えるとは思えない。敵が態勢を立て直す前に、ナタリエの体力を回復しておく必要がある。

エルフィールはまだ残していたクラフトを懐から取り出すと、まだ蠢いている伯爵の残骸に投げつける。ちょっともったいないが、魔力の媒介になるような物質は大概頑丈で、少し壊したくらいなら充分に役立つはずだ。

見れば、肉塊が盛り上がり始めている。それがクラフトを内部に取り込むのを見届けてから、エルフィールは発動ワードをとなえ、生きている縄を引っ込める。今のは生きている縄に触れている状態でワードを言うと炸裂するタイプのクラフトだ。

「炸裂せよ!」

外から駄目なら、内側からならどうだ。

森が、轟音と、爆焔に包まれる。エルフィールは、次の手を頭の中で確認しつつ、煙が収まるのを待った。

 

私は、誰だ。

激しい苦痛の中で、その存在は思った。

そもそも私は、此処で何をしている。この森を守らなければならないとは思っている。だが、それ以上でも以下でもない。

なぜ、守らなければならないのか。

思い出せない。誰かの笑顔が、浮かぶ。しかし、それは森を守る動機にはなっていないように思えるのだ。

痛みが、全身に亀裂を入れていく。

光がしみ出してきて、ふと思い出す。

そうだ。私は。一人の女性に恋をした。

浮かび上がってくる、褐色の肌の女性。まだ十代半ば。シグザール人でさえない。

中年にもなって、妻に先立たれてから。恋をしたのは、まだ愛も知らないような子供に対してだった。妻が完全な政略結婚だったから、余計に「愛情」に飢えていたのかも知れない。妻はとても良くしてくれた賢母だったから、非常に身勝手なことだとは分かっていた。

だが、心内にあった欲求は、どうしても彼に分別のある行動を取らせなかった。

しかし、思う。

それは、本当に愛だったのだろうか。

ゆっくり、周囲の光景が像を結んでくる。焼けただれた森。激しい戦いで、傷つき、なおも被害が拡大しつつある。

守らなければ。己の全てに替えても。

守れないのであれば、喰らってしまいたい。己の罪とともに。何もかも、全てを。

晴れてくる煙。体を起こしながら、彼は。

吸血鬼、シュテルンビルト伯爵は、マントを翻していた。

「私は、如何なる姿になろうとも。 この森を、守り抜く覚悟だ」

「……いい加減、しぶといなあ」

苛立ちを含む声が飛んできた。

不思議と、その敵に。敵意は、湧かなかった。

 

3、悲しき妄執の恋

 

森の外から戦況を見ていたエリアレッテは気付く。監視している者がいるという事に。

数は四ないし五。いずれもが、人間ではなかった。

気配を消したまま、まずはそれの排除にはいる。エルフィールの監視は、エリアレッテにとっての重要任務だ。これを邪魔するものは、何であろうと消す。もちろん人間であっても、である。ましてや相手は人間ではないのだ。

見つける。

一匹目を、無造作に刺し貫いた。

人間の赤子ほどある異形の生物だった。以前ダグラスが報告に挙げてきた、ガーゴイルというクリーチャーウェポンに酷似している。

さっと気配が散ろうとするが、逃がさない。放り投げたナイフが、一体の首を後ろから刺し貫き、同時に走ったエリアレッテが、前方にいたもう一匹を斬り倒す。真っ二つになったガーゴイルを跳び越しながら木の幹を蹴り、更にナイフを投げて、高く飛ぼうとしていた三匹目を撃墜した。

残るは一匹。

着地したエリアレッテは、全身のバネを生かして、走り出す。地面に刺していた斬龍剣を通り抜け様に引き抜く。ガーゴイルが奇声を上げながら、高々と舞い上がった。早い、だが捕らえられないほどではない。

エリアレッテは前に振り下ろした斬龍剣の柄を踏みながら、跳躍。

斬龍剣は、爆発力を利用して小隊単位の敵を一撃粉砕するための武器であるが、その巨大さを利用すれば、跳躍台としても有用なのである。

エリアレッテが、空中で敵に追いつく。

最後の一匹の、尻尾を掴み、ともに地面に落ちていた。

もがいて爪を振るってくるガーゴイルの首を軽く捻って気絶させる。これは丁度良い研究材料になるだろう。

師の話によると、このクリーチャーウェポンどもをばらまき、各地で混乱を引き起こしているのは、かなりの確率でエル・バドール大陸の人間どもだという。錬金術アカデミーの教師達が、エル・バドールのお偉方を良く言わないことは有名であったが。もしガーゴイルどもの散布主がエル・バドールの人間だとすると、今後は錬金術アカデミーにより強固な協力を求めなければならなくなってくることだろう。

こんな雑魚どもでさえ、結構完成度が高いのである。もしも本格的な戦闘用クリーチャーウェポンが投入されると、以前シグザール王国騎士団が葬った竜軍の運命を、今度は此方が辿ることになりかねない。

とにかく、解析用の素体が手に入ったのは僥倖だ。暴れられないように縛り上げ、口にも猿轡を噛ませる。手際よく全てを終えると、エリアレッテは振り返った。

さて、エルフィールはどうなったか。

気配は、既に減っていた。どうやら勝負はついていたらしい。

決着の瞬間を確認できなかったのは残念だが、勝者が分かっただけで、充分であった。

再び気配を消すと、エリアレッテは報告書をどう纏めるか、考え始めていた。

 

クラフトの爆風が収まった後には、さっきまでの如何にも怪物然とした吸血鬼ではなく。若干窶れてはいたが、人間の形をした存在が立っていた。爆発で大きく抉れた森の一角に立ちつくす、上品に口ひげを蓄えた紳士。ある意味滑稽な光景ではあるが、しかし相手が吸血鬼だと思うと、そうもいってはいられない。

それにしても、あの内部からのクラフトに耐え抜くとは。いい加減苛立ってきたエルフィールだが、冷静に観察すると、相手が仕掛けてこない事にすぐ気付く。否、これは違う。恐らくは、仕掛けては来られないのだ。

隣を、ミルカッセが通り過ぎる。

既に剣を失って素手だが。しかし、決意を固めた彼女は、有無を言わせぬ迫力を身に纏っていた。

気のせいか。淡い燐光に包まれているようにも見える。

「この森は、もう貴方のものではなく、誰のものでもありません」

「知っている。 だが、私はそれを認める訳には行かぬ」

ゆっくり、吸血鬼が構えを取る。

しかし、これはどういう事か。あれほど酷い暴走をした後だというのに、どうして人間としての自我を取り戻している。

ナタリエとハレッシュが目配せをしてきた。仕掛けられるという意味だ。

エルフィールは制止する。キルキも、術式を発動する機会を待ち、印を組んだまま固まっている。いつでも熱量操作の術式で吸血鬼を焼き尽くせる態勢だ。

だが、それでは多分死なない。泥仕合になるだけだ。

聖水も結局は効かなかった。白龍に仕込んでいた杭にはたっぷりと聖水を塗り込んであったのに、吸血鬼はそれによって倒れたのではない。内部から爆破しても人間の形を取り戻せるほどの輩である。

多分、効いてはいる。

だが、倒しきる前に、此方が倒れる可能性が高くなってきている。

ミルカッセの能力に、今は期待するしかなかった。駄目だったら、次はもはや欠片も残さぬ勢いで、総攻撃をするだけである。

戦略火器であるフラムを一つだけ、積んできてある。クラフトとは桁違いの破壊力を持つ兵器であり、もちろん対人用ではない。土木工事や、超大型の猛獣と戦うために使用する道具だ。

ミルカッセが失敗したら、これを即座に投入する。森ごと吹き飛ぶだろうが、それはもう仕方がない。そしてその爆発が起これば、騎士団と屯田兵も駆けつけてくる。失敗した事でイングリド先生に大目玉を食わされるだろうが、吸血鬼を屠ることは出来るから、致命傷にはならない。これで多分片付くだろう。

最後まで読み切ったエルフィールの前で、ミルカッセは厳しい表情のままだった。

「貴方のお墓を私が管理する。 それで満足していただけないでしょうか」

「否。 我は、この森を、守らなければならない」

「そうですか。 ならば、仕方がありません」

ミルカッセの全身からの燐光が、更に強くなった気がする。

生きている縄達がざわめいているのに、エルフィールは気付いた。これは、恐怖からのものだ。

まずいと思ったエルフィールは、生きている縄全てに指示を飛ばす。

「スリープモード! 合図あるまで冬眠せよ! 音声遮断!」

途端に、今までエルフィールを守るように動いていた生きている縄が、全て命を失ったように、くたりと地面に倒れる。再起動させるには面倒な手続きが必要だが、完全に内部の悪霊を消滅させられるよりはマシだ。

ミルカッセの能力については知っていた。

だが、この全身に走る悪寒は。彼女が本気になった場合、予想以上の効果があることを、警告しているのだった。

吸血鬼は、動かない。

否、動けないのだ。奴の全身のダメージは、形を保つだけで精一杯の段階にまで到達している。壊しても再生は出来るだろうが、動ける状態ではない、というのが本当のところだ。

伯爵を吸血鬼にした奴が一体何を考えているのかは、よく分からない。多分再生能力だけを極限まで高めたのだろう。不死者としてはかなり特異な形質であり、散々調べた資料にも載ってはいなかった。

多分、それが故なのかも知れない。作った奴はかなりの吸血鬼マニアで、今までにないタイプを作ろうとした結果、この伯爵が完成したのかも知れなかった。

ミルカッセが手を胸の前で合わせ、目を閉じた。

澄んだ歌声が、周囲に響き渡り始める。辺りの木々や、草花にまで、それは浸透していく。

周囲の生命力が、無理矢理活性化されていくような歌声であった。

神と世界に対する賛歌。恐らくは、地獄を潜ってきたミルカッセだからこそ、真の意味で歌える内容。エルフィールも、それを聞いて理解は出来る。だが、どうしても感動は出来ない曲。

「ぐうっ!?」

エルフィールはどうしてか、凄まじい不快感を感じて、耳を思わず押さえる。周囲の全てが歓喜の感情を示しているのが分かるというのに、どうしてかエルフィールだけは、体内が焼き尽くされるような不快感を覚えていた。

キルキが走り寄ってくる。見ると、乱戦の中で火球の直撃を受けていたらしく、服が焦げ、手足に火傷が何カ所かできていた。

「エリー、大丈夫?」

「平気。 でも、どうしてだろう」

耳を押さえていれば、どうにか体が焼き尽くされるような不快感は緩和できる。しかし、ミルカッセの口から流れ出ているのは、間違いなく聖歌。それも儀式的なものだったり、民衆を洗脳支配するために使用するような、単調なリズムの籠もったものではない。辺り一帯を神の名の下に浄化するような、強烈な効果を伴ったものだ。

正直、これほどのものだとは思っていなかった。ミルカッセの全身から迸っている燐光は凄まじく、まるで太陽がもう一つ、その場に現れたようである。魔力がないエルフィールにも分かるくらいだから、他の人間にはどう見えているのか、気になる所だ。

邪悪に包まれた森が、全て溶けるように構造が置き換わっていく。ねじくれていた木々が、ただの植物に代わっていった。差し込んでいた陽光も、温かく柔らかいものへと変化していく。

森の空気自体が、変わっているからだ。今まで禍々しく見えていたものが、全て普通に戻っていくように見えているのだ。

「おお……」

吸血鬼が、涙を流し始めていた。

天を仰いだ伯爵の、全身が溶けるように崩れ始めている。再生能力を、聖なる力による浄化が上回り始めた、と言う所だろう。エルフィールは、自身から煙のようなものが上がっているのを感じた。なんだこれは。

そういえば、なぜエルフィールには生体魔力がない。特異体質だとイングリド先生は言っていたが、それは本当なのだろうか。

「やっと、私は楽になれるのか」

吸血鬼の手が落ちた。そのまま灰になって、溶けて消えていく。

美しい燕尾服も、見る間に色を失っていった。だが、吸血鬼は消えゆく最後の時まで、歓喜の表情を浮かべ続けていた。

ミルカッセが歌を止める。

昼であるのにも関わらず、闇に満ち暗かったヘウレンの森だというのに。

今はとても清浄な気に満ちあふれていた。今までの暗さが嘘のように、陽の光も差し込んでいる。立ち上がったナタリエが、歩み寄ってくる。

「無事かい、エルフィール」

「何とか。 ナタリエさん、途中でもろに喰らってませんでした?」

「何、あんなのはかすり傷さ」

仕事納めの時に貰った傷に比べれば、痛くもかゆくもないと、ナタリエは自嘲的に微笑む。ハレッシュが、膝から崩れたミルカッセを助け起こす。本当に全力で歌ったらしく、意識を失ってしまっていた。

ミルカッセの能力は、歌。

幾つか効果があるものを覚えているそうだが、破壊力は見ての通りである。エルフィールも、正直これほどだとは思っていなかった。破壊力の反面、欠点も大きい。戦闘行動中には実行できない。歌っている間は動けない。そして何より、能力の手加減が出来ない。

吸血鬼が身動きできない状態になっているのを確認したから、エルフィールも能力の発動を黙って見守ったのだが。しかし、自分まで内部から焼き尽くされるような打撃を受けるとは、思っていなかった。

栄養剤を取り出すと、飲み干す。

体内が焼けてしまっていないか、少し不安になった。筋肉や骨の状態を確認するが、一応大丈夫そうだ。内臓についても、触診する分には特に異常も感じられない。

さて、やるべき事がある。

辺りを探すと、あった。

小さな手鏡だ。キルキに見て貰うと、ものすごい魔力を感じるという。いそいそと懐にしまうと、周囲に死んだ蛇のように伸びている生きている縄を丸めて、荷車に積んでいく。もしもスリープモードにしておかなかったら、此奴らも全部浄化されて、ただの縄に戻ってしまっていただろう。

蝙蝠も、既に行動は停止している。なぜ此処にいるのか分からない様子で、各々巣に戻ろうとしているようだった。

「終わったか。 何だか、込み入った事情があったみたいだな。 それにしても、しんどかったなあ」

「ハレッシュさん、オレがミルカッセの手当、代わるよ」

「ああ、そうか。 すまん。 何処を抱えていいもんか分からなくて、困ってた所だったんだ」

「そうか」

一瞬意外そうな顔をしたナタリエ。多分、フレアとの仲を知っているからだろう。ディオがあの様子だから、まだハレッシュは、フレアには指一本触れられていないのかも知れなかった。それはそれで気の毒な話である。エルフィールも、男の欲望がどういうものかは、村で生態を見てある程度は知っている。

ミルカッセを背負ったナタリエが、荷車から戦闘用杖を取りだしたエルフィールに声を掛けてくる。

「エルフィール、一旦キャンプに戻るかい?」

「ナタリエさんは、ハレッシュさんと一緒に戻っていてください。 医療品は好きに使ってしまって構いません。 私はもう少し、森の調査をしていきます」

「そうかい。 その触手みたいな縄も動けないみたいだし、無理はするんじゃないよ」

「有難うございます。 キルキ、いこ」

もう、辺りに危険はない。

猛獣の類が出ると面倒だが、まだ余力のあるキルキがいるし、エルフィールも打撃戦ならまだこなせる。

森の奥には、伯爵の住んでいた屋敷の残骸がある。まだ探し切れていない其処には、エルフィールの助けになるものが転がっているかも知れない。不安そうについてきたキルキが、見上げてくる。

「エリー、休まないの?」

「伯爵の形見を探しに行くの」

「その手鏡じゃなくて?」

「多分骨とかがあると思うから。 葬ってあげるんでしょ?」

キルキは頷くと、後は何も言わなかった。

鋭い子だから、ひょっとするとエルフィールの嘘に気付いているのかも知れない。エルフィールにとって、伯爵の供養など二の次だ。だが、骨かなにかみつけたら、拾ってやろうとも思ってはいる。

前、引き返した辺りまで歩く。もうこの辺りも、禍々しい気配は全くなかった。周辺には猛獣の縄張りを示すマーキングや、糞の類も無い。獣道さえ無い様子であり、吸血鬼の気配を畏れて逃げてしまったのは明白であった。

生きている縄があると便利なのだが、再起動まではしばらく時間が掛かる。此処は、手作業で地道に探していくしかない。

キルキが辺りをぱたぱたと走り回り、辺りを見ている。遺跡のようになっている周辺だが、不意に彼女の足が止まった。

「エリー。 強い魔力感じる」

「どれどれ、どの辺り?」

「この下」

キルキが指さした辺りには、石柱と、それに絡みつく大量の蔦があった。周囲は草だらけで、まるで緑の海である。既に陽が差し込んでいることもありあまり幻想的な光景ではなく、ただ荒れ果てているようにだけ見えた。

周囲を回って、様子を確認。

石柱は傾くこともない。様式はよく分からないが、非常に細かく彫刻が為されていて、触ってみると石も高級品だ。足下も石が敷き詰められていて、触ってみるとかなりしっかり安定している。

しばらく押したり引いたりしてみた後、結論。

これは地面のかなり深くに埋められている柱の先頭部分だ。

「床、調べてみて。 多分何かある」

「分かった」

キルキと一緒に、まずは辺りの草を抜いて捨てる。石畳の間からしぶとく生えている草だが、悪いが探索の邪魔だ。しばらく草むしりをした後、石柱の根本を調べる。キルキが魔力が強いと言った辺りは、特に念入りに調べた。

激しい戦いのあとだから、疲れも溜まるのが早い。額の汗を拭うエルフィールの横で、キルキはへたり込んでぜいぜい言っていた。最近はかなり持久力がついているが、まだまだである。

急がないと、後から来た連中に全て持って行かれる可能性がある。多少無理してでも、作業はさっさと済まさなければならない。

石柱に絡みついている蔦をむしり取ってみると、奥にレバーがある。かなり堅いが、全力で押し込んでみると、やはり床石がずれた。しかし、やはり経年劣化と植物によるダメージの影響か、ある程度までだった。

隙間が出来たので、戦闘用杖を差し込んで、てこにして一気に引き開ける。

大きめの空間が、中には広がっていた。隠し部屋だったのかも知れない。この柱の大きさから言って、かなり大きな部屋の中に作られていたのだろう。石畳の上には絨毯が引かれていて、或いは家具もあったのかも知れない。もちろん壁や窓もあり、天井からは明かりがぶら下がっていたのだろう。

何もかもが跡形もなくなり、そして柱だけが残った。

諸行無常とはこのことだ。多分伯爵が死んで、しかも相続が出来なくなった後、国が邪魔なものを纏めて処理。そして残りは後から来た連中がみんな持って行ってしまったのだろう。

ポータブルのカンテラに火を入れ、中に。遅れてついてきたキルキは、流石に少し怖いようだった。

「もう吸血鬼いないのに、怖い?」

「うん。 中の魔力、異常」

「そっかあ。 私には見えないから、よく分からないや。 危なくなったら、すぐに言ってよ」

「分かった」

マントを小さな手で後ろから掴まれる。悪い気分はしない。

隙間の中は下り階段になっていて、かなり下まで降りることが出来た。この様子だと、地下室として頻繁に使っていたのだろう。中に人が入った形跡は無いが、それはあくまで最近のことだ。

奥へ、降りていく。

やがて、階段が終わった。

不意に、人の気配。振り返ると、腰に剣をつけた、青い胸鎧を身につけた短髪の女性がいた。短髪と言っても、肩くらいまでは髪がある。カンテラの明かりに照らされたその表情は、まるで人形も同然。感情の類は、まるで読み取ることが出来なかった。

「貴方は?」

「聖騎士エリアレッテ」

敵意はないから、エルフィールも構えは取らない。

そして、聖騎士がいると言うことは、だいたいその意図も読めた。

「国にとって、邪魔なものを消しに来た、ですか?」

「そうだ。 ただし、見るだけなら構わない。 金目のものも、お前達にくれてやろう」

「それは剛腹ですね」

ぎゅっと自分にしがみついているキルキの頭を撫でると、エルフィールは内心で呟く。どうやら自分は、予想以上に危険な山に首を突っ込んでいるらしいと。

 

エリアレッテという女騎士は、名乗るだけ名乗ると、後は階段の入り口で腕組みしてじっと此方を見つめていた。何だかこの視線、覚えがある。ひょっとすると、何処かで見られていたのかも知れない。

部屋の中は雑然とものが積み上がっていた。金製品も少しある。懐に入れ、キルキにも分けた。宝石類もあったが、どれも小粒なものばかりだ。宝石箱は半ば朽ちていて、鉱石寿命が尽きたらしい真珠が少し箱の底に入り、蜘蛛の巣が掛かっていた。

瓶があった。多分酒だろう。

そして、奥にある寝台には、どうやら女性ものの下着らしい布きれの残骸が残っていた。生々しい痕跡である。

前に下調べした時、伯爵は愛妻家だったという話であった。かなり後ろ暗い噂もある人物であったらしいのだが、妻のことはかなり深く愛していたとか。しかし、これらの証拠は、伯爵に愛人がいたことを痛烈に示唆している。貴族でも、この国では重婚を認めていない。だから、時々いるのである。こういう大掛かりな施設を作ってでも、女を囲ったりする人物が。

ざっと部屋を見て回る。

生活用の設備が、一式整っている。骨の類は無いから、多分此処で暮らしていた人物は、少なくともこの地下で果てることはなかったのだろう。キルキはそんな事には気付かないようで、ベットの上の布きれを不思議そうに見つめていた。

本棚には、幾つかの本。ドムハイト語だ。

埃が分厚く積もっているが、ざっと見る限りそれほど貴重な本でもないらしい。そうなってくると、伯爵が此処に匿っていた人物の娯楽用として集めたものなのだろう。

印刷は今でもかなり金が掛かる。錬金術アカデミーが高品質の紙を大量生産するようになり、なおかつ印刷の技術を広めたため本はかなり安価になっているが、それでも庶民が娯楽に買うには少し高いのが現実である。

この本棚には、ざっと百冊以上の本がある。

一つ、他とは雰囲気が違うものに目が止まる。

妙に手垢のついた小さな日記を発見。鍵はついていたが、既にぼろぼろに崩れていて、少し押すだけで壊れた。眼を細めたエルフィールは、開いてみる。

中には、流ちょうなシグザール語で、びっしりと文字が書き込まれていた。

内容は予想よりも、もう少し複雑な事情を雄弁に語っていた。

 

日記は、実に十年にわたって書き連ねられていた。

若い頃のシュテルンビルド伯爵は、成り上がりと言うことに過剰なコンプレックスを抱いていたようだ。どうやらかなりあくどい稼ぎをしてもうけた商人の子息であったらしく、幼い頃から父母の汚いやり口での金集めを見ていたらしい。それがコンプレックスにつながっていた。

だから、貴族としての実績を欲しがった。皮肉にもそれは彼を父母以上の外道に落とす事になった。

金を集めた。土地も買いあさった。

汚い仕事にも、散々手を染めた。そして、闇の中で、隠然たる地位を築いていった。やがて、伯爵が手を貸していた組織が騎士団に根こそぎ潰された。何と、彼らを売ったのは伯爵だった。そして彼は騎士団の汚い仕事の一部を任されるようになったのである。

騎士団は表向き伯爵と対立し、踏み込もうとしているそぶりを見せていた。だが、実際には、裏で結託していたのだった。そして伯爵は己のその悪評さえ利用し、騎士団が表沙汰に出来ない裏側の仕事を処理していた。違法奴隷の摘発なども、伯爵が裏から探り、騎士団に定期的に報告していたようである。

まさに闇の怪物。生きている時の方が、正直よほど化け物じみた人物であったらしい。そして皮肉なことに、彼が下劣で邪悪だった両親の血を引き継いでいることを、痛切に示してもいたのだった。

そんな彼の唯一の癒しが、妻であった。

伯爵の妻は政略結婚で嫁いできた没落貴族の娘で、既に貴族号も剥奪されていたという。しかしながら、伯爵はそんな過去の貴族号でも必要とするほど、深く心に闇を抱えていたようだ。コンプレックスを解消するには、かっての名門を膝元にねじ伏せるしかない。それが、伯爵が妻を得た理由だった。

庭を弄って美しい花を咲かせる妻を、最初伯爵は馬鹿にしきっていた。まるで庭師のようなはしためだと、嘲弄混じりに書いている箇所さえもある。

しかし、徐々に論調は代わっていった。ひたむきで優しい妻に対し、伯爵はやがて思春期の少年のような純粋な愛情を見せるようになる。邪悪でひねくれきった伯爵が、此処だけはとても優しい論調で日記をつづっているのだ。文字までもが優しく丸くなっているようにさえ思えた。

恐らく、愛情は本物だったのだろう。

羨ましいなと、エルフィールは時々埃を払いながら思う。好きというものがまだ殆ど無く、まして人間に対して向けたことさえもない自分には、到底理解できない感情である。分析さえも出来ない。

アデリーさんには色々良くして貰った。だが、それも愛情だなと理解はしていても、良くは分からないのだ。きっと愛情というのは、一方的なものなのだろう。この伯爵の場合は、きっと双方が愛情を通じていた。それはとても幸せな事なのかも知れない。だが、幸せというのもあまり良くは分からない。好きな事を達成すると得られるあの感覚が、幸せなのだろうか。それとも少し違う気がする。多分チーズケーキを食べている時のあれが一番近そうだが、それも微妙に違う気がしてならない。

ページを捲る。しかし、幸せな時も、長くは続かなかった。

伯爵は、妻を失った。流行病によるものであったそうだ。儚い伯爵夫人は、それこそ蕾が落ちるようにして逝ってしまったと、日記にある。

それからは伯爵は抜け殻になった。

殆どの土地も手放してしまったらしい。金だけはあったから、伯爵は庭師を雇って、妻が作り上げた庭を維持させた。そして、それを見つめるだけの日々が続いた。

それからは、事務的に闇の仕事を処理する様子が書かれている。

伯爵は抜け殻になっても有能に仕事を処理し続けた。以降は殆ど日記は仕事のメモ帳と化し、以前であれば毎日付けられていたにもかかわらず、良くて数ヶ月に一度つけばいいというような状態が続いた。内容も雑多になり、明らかに日記としての意義を失っていった。

やがて、日記の後半。急激な変化が訪れる。

彼が引き取ったドムハイト人の女性が、その変化を起こしたのだった。

妻に生き写しだと、驚愕とともに日記に文字が躍っている。その文字は、かって妻のことを書いていたのと同じように丸っこかった。

良くは分からないが、騎士団から預けられた人間のようだった。奴隷か何かと言うよりも、ドムハイトの政治犯だったのかも知れない。或いは本人が政治犯なのではなく、その子息だったのだろうか。

いずれにしても、伯爵は屋敷に彼女を住まわせると同時に、日記に深い苦悩を書き込むようになった。

妻に似ている。

しかし肌の色も言葉も違う。性格だって違う。何より、自分を最後まで信じてくれていた妻に、申し訳が立たない。

それはよく分からない理由だ。妻に対する愛情が、彼女が死んだ後も継続し続けていたと言うことなのか。よく分からないが、伯爵の苦悩は痛いほどに伝わってくる。

伯爵が彼女を引き取ってからほどなく肉体関係が出来た。それから伯爵の日記は、狂乱というも生やさしい有様に突入していく。本当に狂乱していたのだろう。

この地下室を作ったのも、その時期らしい。

そして、伯爵は彼女を、この薄暗い地下室に閉じこめたのだ。妻に対する罪悪感から、屋敷を歩かせたくなかったらしい。

そして時々この地下室を訪れては、関係を結んだ。そしてそのたびに、激しい後悔と苦悩に見舞われ、正気も失っていったようだった。

破滅的な日々が終わったのは、彼女が現れてから一年ほどしての、ある秋の日のこと。

騎士団の特務部隊が屋敷を訪れ、彼女を引き取っていったそうだ。国には逆らえないことを知っている伯爵は、為す術もなかった。何よりも、妻への罪悪感が、強引な行動を取れない原因となったようだ。

エルフィールは眼を細めると、最後のページに移った。

伯爵は、既に発狂していた。

妻に申し訳が立たない。彼女にも申し訳が立たない。

血が滲むような言葉が、日記に踊っていた。伯爵は、最後にこうつづっている。

私はこの罪を、永遠に背負い、この庭を守り続けなければならない。妻への贖罪のためにも。

「なるほど。 妄執の恋、だったんだねえ」

「妄執?」

「伯爵はね、奥さんと死別した後、浮気しちゃったの。 その罪悪感にずっと苦しんでたみたい」

キルキがベットの上の布きれを見て、ようやく意味を悟ったらしかった。

見る間に真っ赤になる。

羨ましい話だ。そのみずみずしい感性が。

アイゼルだったら、多分真っ赤になって卒倒しているかも知れない。それはそれで、とても微笑ましかった。

「奥さんが残した庭園を、闇に落ちてでも守ろうとしたんだね。 それで、吸血鬼になったんだよ」

「……可哀想」

「そうだね。 でも、もう死んだ人の話だよ」

「でも、もう辱めないであげて」

キルキにそうじっと見つめられると、嘆息せざるを得ない。部屋の入り口でじっと見張っているエリアレッテは、終始無反応だった。

その無反応な聖騎士に、エルフィールは日記を渡す。

「これ、騎士団で預かってください」

「どうしてだ?」

「機密資料にもなりますから、処分はしないでしょう? 此処において朽ちさせるよりは、その方が良さそうですから」

「良いだろう。 しかし二人とも、事情は他言無用だ。 宝石類は換金してしまっても構わない」

本の持ち出しは、駄目と言われてしまった。それが少し残念だった。

外に出ると、エリアレッテが地面に刺していたばかでかい剣を引き抜く。キルキの手を引いて飛び退くと、エリアレッテは、その剣を地面に叩きつけていた。

元々しかけがあることで、若干地盤が弱かったと言うこともあるのだろう。

だが、しかし、それでも凄まじいことが起こった。瞬時に地面が粉々になり、地盤崩落を起こして伯爵の秘密の部屋は埋まってしまったのである。

流石は聖騎士。それに、今の剣。地面に叩きつけられる寸前、爆発を伴ったような気がする。見ていて、色々と面白い技だった。

「流石ですねー!」

「……」

気がつくと、もうエリアレッテは其処にはいなかった。

同じ聖騎士でも、ダグラスより二枚は格上に思える。まだまだ精進が必要だなと、エルフィールは思った。

 

キャンプに戻る。もうミルカッセは目を覚ましていた。

彼女に手渡したのは、屋敷の跡地をふらついて見つけた古びたロケットである。中には美しい女性の肖像画が収められていた。

「これが、形見ですか」

「手厚く葬ってあげてくれますか?」

「……はい」

ミルカッセが、ぎゅっとロケットを握りしめる。キルキはずっとそのロケットを見つめていた。

事情に関しては他言無用と、エリアレッテに念を押されていた。だから、何も喋ることはない。

ハレッシュが立ち上がると、荷車を引き始める。エルフィールは歩きながら生きている縄を一つずつ再起動するべく、準備を始めた。帰る頃には、全部再起動できていることだろう。

「何だか、気の毒な吸血鬼だったな」

「そうなの?」

「……」

エルフィールは言う。確かに気の毒な部分はあるかも知れないが、あの伯爵が不幸にしてきた存在の方がずっと多いのではないのか。それを考えれば、伯爵の悲劇は悲劇であるが、その一方で自業自得にも思える。

ナタリエが一瞬、何か危険なものでも見るかのように、エルフィールを見つめた。だが、頭を掻きながら、応じてくる。

「何だかあんたはある錬金術師を思い出させるよ。 でも、何処か違う所もある。 別人だから、当然か」

「その錬金術師って、優秀だったんですか?」

「ああ、滅茶苦茶にな。 最初は落ち零れだったらしいから、その点でもあんたに似ているかも知れないぜ」

「ふうん。 有難うございます」

もはや危険のない街道を歩く。

ミルカッセはかなり辛そうだったが。それでも最後まで、脱落することなく、ついてきたのだった。

 

4、妄執の終焉

 

エリアレッテの持ち帰った日記を読み終えたクーゲルは、鼻を鳴らす。巨大な手に包まれた小さな日記は、少し乱暴に扱われても平気な、頑丈な品だ。だがクーゲルが少し力を入れたら、木っ端微塵になってしまうだろう。

「なるほど、つまりシュテルンビルドに恐ろしく高度かつ異常な死霊術を施した奴がいる、という事か」

「死霊術であったのでしょうか」

「ふむ……」

腕組みするクーゲルは、弟子の慧眼を喜んだ。だが、もちろん表には出さない。エリアレッテを褒めるのは、もっと大きな成果を上げた時だけ。このくらいはいつもやってみせるので、却って褒めることは毒になる。

シュテルンビルドとの戦闘展開は、既に聞いている。いずれにしてもがまともな吸血鬼とはかけ離れた能力である。

本来不死者が嫌がる火の術式を平然と使い、異常な再生能力を見せつけ、さらには人間としての姿と人格を今際に再構成したという。

それは一体、どれだけの技量があれば出来ることなのか。

吸血鬼の現実を、クーゲルは知っている。あれは伝説が先走っている典型例の存在であり、実際にはそれほどの戦闘能力はないし、弱点も多い。クーゲルだったら、一人で捻り殺せる程度の相手だ。

しかし、森に出た奴は、果たしてどうか。

シュテルンビルドの怨念が桁違いだったという事もあるだろう。

だがそれを加味しても、少し異常すぎる。

「錬金術アカデミーに資料を廻せ」

「分かりました。 直ちに」

「分析結果は真っ先に儂の元へ届けさせよ。 ふん、脆弱なクリーチャーウェポンどもだけでは、退屈だった所よ。 本場の錬金術の力、是非見せて貰おうではないか」

一礼すると、エリアレッテは消えた。

腰を上げると、クーゲルは部屋を出る。

其処は、飛翔亭の一室。休憩用に解放されている場所だ。時々クーゲルは、此処で弟子と情報のやりとりをしていた。狭い部屋だが、音が外に漏れにくいので、重宝している。

店に出る途中、仕事を上がるロマージュとすれ違う。

ロマージュは艶然たる笑みをクーゲルにも向けてきたが、心はまるで動かない。生物として子孫を残すという義務については、既に果たしている。今更成熟した異性など、興味の範疇外だった。

今、クーゲルが楽しみなのは。

己の思想を引き継ぐ弟子の成長。

そして、その成長がもたらす、破壊と殺戮と混沌だけであった。

 

フローベル教会で、正式に弔いが行われていた。

伯爵の晩年は消息が分かっておらず、死体も使用人が発見、そのまま簡素に葬られておしまいであったそうである。まあ、吸血鬼になっていたことを考えると、その死体も掘り返されたのだろう。

キルキがどうしても出たいと言うから、エルフィールも葬儀に出た。

正直退屈だったが、それでも心づくしの死人送りである事は感じられた。ミルカッセの祈る姿は、真摯であり、キルキは殺し合いをした相手だというのに、心から伯爵のことを悼んでいるようすだった。

やはり分からない。

伯爵は不幸だったかも知れないが、その周囲で傷ついた人間も多いのではないのか。

それに、消息が消えている愛人はどうなったのか。

良くも悪くも、伯爵の心には色々と羨ましい部分も、エルフィールは感じている。愛については本当によく分からないし、あれだけ誰かを好きになり、その罪悪感で壊れてしまうと言うのも何だかもの悲しくはある。

だが、伯爵をぶち殺した事については、後悔はない。

また、あの森を荒らしたことについても、だ。

やがて、どれほど罪深い魂も、神の御許では救われるのだと、ミルカッセが説いて葬式は終わった。

今回は遺品だけを墓に収めることになる。それほど大きな墓も作ることは出来なかったが、キルキが持ち帰った宝石の一部を寄付したので、一応墓碑はある。墓碑には、悲しみの愛とだけ刻まれていた。

一応、花も供える。

一通り終わった時には、昼になっていた。

冒険者ギルドからも懸賞金を受け取り、充分な黒字を今回は稼ぐことが出来た。フラムの実戦投入が出来なかったのは残念だが、クラフトについては充分な戦果を上げることも出来ている。

生きている縄も帰る途中に全て再起動が終わり、今ではいつも通りに稼働していた。だが、連中はどうしてか、ミルカッセに恐怖を感じるようになっている様子だ。それはそれでまた、面白い。

墓地を出ると、ミルカッセが語りかけてくる。

「エルフィールさん。 詳しい事情は話せないと言うことですが、これだけは教えていただけませんか。 伯爵は悲しい愛をずっと抱えて、あの森に縛られていたのですか」

「そうですよ。 まあ、あんな風に人を好きになるってのがどんな気分なのか、知ってみたいとは思いました。 でも、愛が人を幸せにするとは、限らないんですね」

「悲しいことですが、その通りです。 でも、愛はとても崇高なものです」

断言するミルカッセ。エルフィールは肩をすくめた。

まあ、男女間の発情は動物にも起こることであるし、それがなければ生物としての人類は種を維持できない。ミルカッセの言葉も、あながち間違ってはいないはずだ。だが、エルフィールにはまだ理解できないことであった。

キルキがミルカッセとお薬の話をし始めたので、エルフィールは先にアトリエに戻る。

そして、あの吸血鬼のことを、メモに起こした。

あの再生能力。生きている縄に適応できたら、かなりの力になる。今でさえ、既に手数を数倍に計上できる状態だ。このまま鍛錬を続けた上で、生きている縄を更に強化して、その上で秘蔵の武具類を使いこなすことが出来たなら。

エルフィールはドナースターク家で、将来の幹部候補として扱われることになるだろう。

それはとても素晴らしいことだ。

権力を得れば出来ることも多くなる。今後、あの孤独の闇にまた舞い戻らないようにするためにも。

エルフィールは、更に先に進まなければならなかった。

 

(続)