もしもお歌が聴けたなら

 

序、東から来た娘

 

げんなりするナタリエの前で、護衛対象の娘は、脳天気に歌い続けていた。

街道を歩くというのは別に構わない。実際健脚で、旅慣れしている様子だからだ。リュックの中身は旅慣れている事を証明するように最小限。そればかりか、ある程度の自衛能力も持っている。能力者である娘は、大地に働きかけて強力な効果をおこせる数少ない存在なのだ。

だから、護衛に関しては問題ない。

問題なのは、街道を歩きながら歌っている彼女が。とんでもない音痴だという事であろうか。

歌っているのは、ありふれた民謡なのだが。一音もあっていないのである。音程はおかしいし、何もかもが完璧にずれている。普段はどちらかというととても可愛らしい声なので、そのギャップも凄まじい。

黒い髪の彼女は、リアーナという。

ドムハイトから来た、珍しい旅人である。

顔立ちはかなり整っていて、特に少し釣り気味の目は大きく愛らしい。すれ違った男の半分は振り返りそうな美少女だ。ただ、少し肩幅などの体格が良すぎるかも知れない。

「ふう、空気が良いと歌うのも気持ちがよいわ」

「ああ、そうかい」

出来るだけ人がいる所では歌わないようにしてくれと言ってあるのだが、なかなか聞いてはくれないのが悲しい所だ。実際昨日は、安宿で他の客から苦情が来てしまったほどである。もっとも、あまりにも酷い歌の主がとても可愛らしいリアーナだと知って、文句を付けてきた男はばつが悪そうに帰っていったが。

どちらかと言えば長身のリアーナは、護身用も兼ねている長い杖で地面を叩きながら歩いている。リズムを取っているようなのだが、それもかなりばらばらで、歩いていて何度も転びそうになった。

残念だが。

好きであっても、この娘に音楽の才能はないと、言わざるを得ない。

ナタリエは後ろで三つ編みにしている髪に思わず手をやっていた。困惑した時にする癖だ。

最近きな臭い仕事ばかり受けていたので、今回は比較的楽だと思ったのに。それなのにこの状況である。歌以外はとても気だてが良い娘で、修羅場を潜った経験もあり護衛対象としては理想的なのだが。

「もう一曲、歌ってみようかしら」

「勘弁してくれ。 鼓膜が破れる」

「ええ? そんなに大きな声で歌ってはいないわ」

「そうか、そうなのかな」

げんなりしてナタリエは返した。実際には、飛んでいる鳥が落ちてくるほどの音量なので、さっきから体力が削られ通しである。

音痴を直すには、桶を被って歌うと良いとナタリエは聞いたことがある。だから、きのう実際に試して貰った。

結果はこの通りである。多分、自分の声に関する客観性が、完全に欠如しているのだろう。

兎に角、後一日半も歩けばザールブルグにつく。其処の実家に彼女を送り届ければ、任務は終了だ。すぐにザールブルグを発つと言うことだが、復路は別の冒険者に頼んであるという。まあそいつには不幸な話だが、我慢して貰う他無い。

美しいヘーベル湖を西に見ながら、春の路を進む。ナタリエも成人して随分経つ。冒険者としては既に熟練者の域に入っており、多くの実戦も積み重ねてきた。多少の猛獣ならば、片手でいなせるほどに腕も上げた。

だがそれでも、いつも仕事では驚きがある。無能な護衛対象に困らされた事も今までに何度かあった。だが今回の場合、護衛対象は無能ではないしむしろ理解があるというのに、一つの欠点だけで苦労させられるという、レアケースだった。

ナタリエの場合、会話があまり得意ではないと言うことも、状況の悪化に拍車を掛けていた。例えば話が弾めば、この困った騒音発生娘も、その間は歌わずに済むのである。しかし、何を話して良いか、よく分からない。未だに都会の人間とは風習などであわない部分も多いし、ましてやこの娘は異国の民だ。騎士団などにコネクションを作ったナタリエだから敵性国家の民の護衛兼監視を任されている訳だが、今回は豊富な戦闘経験でコネクションを作ったことを後悔さえしてしまった。

またリアーナが歌い始める。すれ違った馬車の御者が、鞭捌きを失敗しかけた。ナタリエは状況が故に耳栓をする訳にもいかず、困り果てながらも、周囲に警戒を続けなければならなかった。

翌日、早朝。

ようやくザールブルグに到着。

流石にげっそりしたナタリエは、護衛対象を家まで送り届けて、其処で納得した。

彼女が良く知る人物の家だったからである。何度も武器や防具の手入れや作成、カスタマイズなどで世話になった。

鍛冶屋ゲルハルト。

ザールブルグでも有名な、腕利きの鍛冶屋である。

筋肉質の肉体を持つ禿頭の大男であり、国にも武具などを納入していることで知られている。気の良い豪放な人物で、誰からも好かれる快人物である。だがしかし、殺人的な音痴としても知られている男なのだ。

何だか納得が行った。可愛らしい娘がいることは初めて知ったが、二人は多分、間違いなく親子だろう。

護衛任務が終了したので、騎士団に赴いて、給金を受け取る。今回はギルドから話は来たが、騎士団の任務だったのだ。ナタリエも騎士にならないかと誘われているのだが、苦労しているハレッシュを隣で見ていることもあるし、何よりどうも宮仕えは性に合わない。ダーティワークが今以上に多くなるのは目に見えているし、当分は冒険者で通したかった。今のままでも、最大の目的である仕送りは、充分にこなせているからである。

疲れ果てたナタリエは、家に戻る前に、飛翔亭に行くことにした。ちょっと酒でも飲んで気晴らしをしたい所である。幸い今回は護衛対象に傷一つ付けておらず、相手が大満足だと言うことで、割り増しで報酬を貰っている。酒くらい飲んでも、罰は当たらないはずであった。

飛翔亭に出向くと、ディオではなくクーゲルがつまらなそうにグラスを磨いていた。多分ディオは用事で出ているのだろう。クーゲルがその巨体でグラスを磨いていると、何だかままごとの道具を壊さないように手入れしているかのようでちょっと微笑ましい。クーゲルがぎろりと此方を見たのは、多分考えを見透かされたからだろう。思わず首をすくめていた。

「ナタリエ」

「え? は、はい」

呼ばれたので、カウンターにつく。カウンターについてしまったからには、ある程度の覚悟を決めなければならなかった。

少し甘めの味付けをしてある肉料理を注文する。奥から出てきたフレアが持ってきてくれたが、残念ながら愚痴る余裕もない。クーゲルがまるで獲物を狙うかのような目つきでナタリエを見ているので、料理も味がしなかった。

「一つ、お前に頼みたい仕事がある」

「は、はい」

「ある人物を、ドムハイトまで護衛して欲しい」

心臓が止まるかと思った。このタイミング、最悪にも程がありすぎる。ナイフとフォークを取り落としかけたナタリエは硬直。クーゲルはそれをどうも思わないようで、淡々とグラスを磨きながら続けた。

ああ。

天には神はいない。きっと、救いの手もない。

「お前も予想できているかも知れないが、ゲルハルトの娘だ。 どうやらお前のことをいたく気に入ったようでな。 最初に予約していた冒険者をキャンセルして、お前をご指名だそうだ」

「ちょっ……!」

「もちろん、儂が直接受けた仕事だと言うことは、分かっているな?」

クーゲルとしては優しい口調のつもりなのだろう。しかし笑っているのは口元だけ。目は全く笑っていなかった。

全身を悪寒が走り抜ける。

もし逆らいでもしたら、殺される。メタモルフォーゼという非常に珍しい能力の持ち主であるナタリエだが、クーゲルにはとてもかなわない。残念ながら、逆らえる状況ではなかった。

「あ、あの。 せめて、今日だけはゆっくりさせてもらえませんか?」

「そうしろ。 今日はゆっくり休んで、明日からの任務に備えることだな」

流石ゲルハルトの娘。健脚なことである。

疲れ果てたナタリエは、全く味がしなかった肉料理をおなかに詰め込むと、ワインをしたたか口に突っ込み、家に帰ってふて寝した。

どうやら、世の中には夢も希望も存在しないらしかった。

 

錬金術アカデミーに足を踏み入れたリアーナは、とろそうな受付の女性に案内されて、イングリドの部屋にまで来ていた。隣の不気味な狂気渦巻く部屋は、多分ヘルミーナの部屋だろう。そちらにも、後で挨拶をするつもりだ。

「イングリド先生、お客様です」

「どうぞ」

部屋にはいる。相変わらず若々しく美しいイングリドは、リアーナを見ると表情を笑みに綻ばせた。

「ああ、お嬢様。 良くおいで為されましたね」

「イングリド先生、いつもお若くて何よりです。 今回は、母からの手紙を預かって参りました」

「リリー先生の?」

イングリドが、リアーナの母リリーのことを実の母以上に慕っていることは良く知っている。幼い頃は年がずっと離れた姉のように思っていた時期もあった。

此処とは別の錬金術学校校長をしているリリーは、今やドムハイトでも隠然たる勢力を築きつつある。このシグザールの錬金術アカデミーとも裏側では連携しており、ドムハイトは最大限の警戒をしているのが現状だ。もっとも、リリーは大陸でも有数の実力者であり、アースシェイカーと呼ばれる強力な能力者である。国力が大幅に弱体化した今のドムハイトでは、迂闊に手出しできないのが現実であった。ただし、リアーナはそうでもないから、こうして護衛を伴って行動しているのである。いつもは母と一緒にザールブルグを訪れるのだが、今回は例外であった。

手紙を読み終えたイングリド先生は、その美しいオッドアイの瞳に、知性の輝きを宿した。

「なるほど、原子論についての概論説明書が欲しいと」

「出来れば理論を作り上げた当人に直接話が聞きたいとも言っていましたが、騎士団から既に説明は受けています。 カスターニェの方で特別な任務に当たっているとか」

「あの子は優秀な分色々と難しいので、その辺りは期待しない方が良いでしょう。 分かりました。 マイスターランク教育用に作成した幾つかの概論説明書がありますから、それをお渡しします。 リリー先生なら苦もなく読み解けるでしょう」

「感謝しています」

不意に、後ろに気配。

むぎゅうと抱きしめられた。

「ああらリアーナお嬢様! お久しぶりねえ!」

「ヘルミーナ先生、痛い、です!」

手加減を知らないヘルミーナ先生は、本当に親愛の意を示すと、全身がばきばきと鳴るほど強くハグしてくる。手加減無しの場合本当に圧搾されてしまうので、適当な所で抗議しないと体が危ない。

もがいていると、やっと離してくれた。骨が折れるかと思った。

呼吸を整えていると、満面の笑みでヘルミーナ先生が顔を覗き込んでくる。顎を掴まれて、ひょいひょいといろんな角度から見られた。

「あら、また綺麗になって。 これなら実験動物用に男をたらし込むのも簡単ね。 人体実験がとてもやりやすそうだわ」

「ははは、光栄です。 ヘルミーナ先生にも、手紙をあず……」

言い終える前に既に手紙はヘルミーナ先生の手に移動していた。いつ奪われたのかも全く分からなかった。

背筋に冷や汗が流れる。

この人は、母を慕ってくれているから、リアーナの味方でいる。イングリド先生もそうだが、それこそ蟻と悪魔くらいの力量差がリアーナとの間にはある。相手がその気になれば、瞬きする間にミンチにされてしまうことを思うと、やはり戦慄してしまう。

「ふうん、リリー先生の手紙ですものね。 六十回繰り返して読んだ後は、気密装置に入れて安全に保管しなければならないわ」

「相変わらずねえ、貴方は」

「お黙り。 それで、手紙以外の言づてとかは無いのかしら?」

ヘルミーナ先生はそう言いつつも、いきなり蜜蝋の封印を爪で切って手紙を読み始める。相も変わらず自分勝手というか、激しくマイペースな人だ。

リアーナはそれを見ていて、少し安心した。いつものこの人だからだ。

「あまり重要なことは教えてはもらえませんでした。 母もドムハイトの諜報部隊を気にしている様子でしたから」

「あんなものはとっくに滅び去ったわ。 ドムハイトの中枢で再興の動きもあるようだけれど、貴方には牙の監視もついているから、其処まで気にしなくても大丈夫よ」

「それは、そうかも知れませんが」

「へえ、流石はリリー先生。 無能どもと出来の悪い弟子しかいないのに、随分成果が上がっているようで素晴らしいわ」

そして、ヘルミーナ先生はいつも通り、自分勝手に会話を切り、自室に引き上げてしまった。イングリド先生が苦笑する。

「ごめんね。 悪気はないから、許して上げて頂戴」

「慣れていますから。 それで、出来るだけ早く返事をいただけますか。 私もすぐに戻らなければなりませんから」

「あら、ゲルハルトさんのところでゆっくり過ごしていったら?」

「父は忙しいですし、邪魔になってはいけませんから」

イングリド先生は残念だと言いつつも、すぐに手紙をしたためてくれた。ヘルミーナ先生は、こう言ったことはイングリド先生に任せっきりだから、別に意向を伺わなくても良いだろう。

蜜蝋で封をして、イングリド先生は手紙を渡してくれた。あまり長くとどまれなくて残念だが、すぐにアカデミーを後にする。

街を歩く。とても気持ちいい風だ。

水路を街中に張り巡らせて、清潔を実現。豊かな物資と堅い守り。後の時代、この国が崩壊することがあったら、多分千年の都として語り継がれるであろう場所。栄華を極める都市、ザールブルグ。

今母がアカデミーで技術開拓している土地は、此処よりもずっと条件が厳しい。

母が目立った盗賊や魔物は根こそぎに潰してしまったから治安はある程度保たれているが、それでも学生は熟練の魔術師や、歴戦の冒険者ばかりだ。子供など危なくてアカデミーに入学させられないのである。

此処のアカデミーも、建設当時は似たような状況だったと聞いている。しかしドムハイトの政情不安は悪化する一方であり、アカデミーがある土地にも干渉の魔の手が近付きつつある可能性は高かった。

平和な街。

出るまでに、この光景を目に焼き付けておこう。そうリアーナは思った。

 

1、春の出来事

 

新年度の学業が始まった。

普段は試験の時以外は学校に出ないエルフィールらアトリエ組も、この時だけはアカデミーに集まる。入学式の時以来と言うこともあり、何処か面白かった。

生徒達の顔ぶれは殆ど変わっていない。

学年度ごとに別で式を行う事もある。それに、最初の一年で留年判定を受けている生徒も、未だいないという話だった。しかしながら、来年、再来年になってくると、上の学年から留年で落ちてきたりする生徒が出てくるという。本人としてもやりづらい事であろう。

影が非常に薄い校長のスピーチを受けて、生徒が居眠りをしかけて。しかしながら、生徒達が一気に緊張する。

イングリド先生と犬猿の仲を噂され、その凄まじい存在感で知られているヘルミーナ先生が、壇上に上がったからである。

日光など気にもしてないその幽鬼のような姿は、都会育ちの軟弱な生徒達を怯えさせるに充分だった。

エルフィールは今総合三位と言うこともあり、最前列で様子を見守っている。声を大きくする装置の前に立ったヘルミーナ先生は、生徒達を見回すと、自信満々に話し始めた。

「一年間の苦労を乗り越えた諸君。 まずはおめでとうといっておきましょう。 しかし錬金術の恐怖は、此処から始まると言っても良い。 これからは更に恐怖で味付けされたスリリングな授業が、皆を待っていると、此処で予言しておきます。 後、今日は午後から雨が降る可能性が高いので、寄り道はしないように」

意味不明すぎるトークを終えると、ヘルミーナ先生は壇上から下がった。生徒達は、青ざめている者と、意味不明な内容に小首を傾げている者が半々となっていた。

続いてイングリド先生が壇上に上がる。

既に殆どの生徒が知っている。イングリド先生こそが、アカデミーの事実上の支配者であると。ドルニエ校長はその錬金術的な業績に関しては非の打ち所がない。しかしながら経営にはまるで興味がない様子で、イングリド先生を中心に全てを丸投げしているのが見え見えだった。

もっとも、図書館に通っているエルフィールは、ドルニエ校長が冗談抜きに優秀な錬金術師であることを知っている。書く本は非常に緻密で論理的だし、全体的にとても読みやすく作られている。ただ情報の密度があまりにも高すぎるので、一冊読み切るのにまる一晩以上掛かったりするのが玉に瑕か。理論は高度すぎて、今のエルフィールには理解できない部分も多い。

まさに、天才と呼べる人物だ。

ただ、ドルニエ校長に、天は経営者としての才能や、教師としての熱意を与えなかった。それだけのことなのだろう。

イングリド先生は、あるいはドルニエ校長よりも、錬金術の才能は劣るかも知れない。しかし経営者としての才能を兼備し、それ以上に豊富な教師としての熱意を与えた。だから今や、多くの弟子であり幹部でもある人材を率いて、国に無くてはならぬ存在となったこの学校を統率しているのだろう。

しかしそうなると、分からないのがヘルミーナ先生の立ち位置だ。

あの人が、アカデミーで何をしているのか、知っている学生は少ないという。何しろあの姿、あの行動である。筋金入りの変人にて、魔王がごとき存在として畏れられている。畏怖の中にいると、人の実像は歪む。

だが、それも、あの人の計算の内なのではないか。そうエルフィールは思っている。彼女の書いた本を読んだが故の、素直な感想である。

「以上で、新年度の挨拶を終わります」

イングリド先生が一礼し、生徒達がさっとそれに倣った。

肩を叩いていると、ノルディスと一緒にアイゼルが来る。一年前は敵意と拒絶の塊だったアイゼルだが、外に一緒に採集に行ったり、一緒に仕事をしていく内に、だいぶうち解けてきた。

今では、向こうから笑顔で喋り掛けてくれる事さえある。もっとも、未だにライバルだとは思ってくれているようで、妙な対抗意識を時々燃やしてくれるが。

「お疲れ様、エリー」

「お疲れ様。 これから二人はどうするの?」

「私は飛翔亭に行って、適切な仕事がないか見てくるつもりよ」

アイゼルがさらりと言う。他の授業組に比べて、彼女はかなり積極的に外に出ては、採集を行い、錬金術の依頼も受けている様子だ。

キルキに聞いたのだが、男子学生達はそれを「野人に染まった」とか称しているらしい。野人というのはもちろんエルフィールのことである。

エルフィールはアイゼルが大好きなので、それはとても光栄な話だが。それを素直に褒めていると取るほど、脳が花畑ではない。いずれ好き勝手な放言をしている男子どもには相応の礼をするとして、今日は他にすることがある。

実は、上位の学生達何名に、これから特別授業の話が出始めているのだ。

特別優秀な学生は四年の過程の後、マイスターランクと呼ばれる特別学科に編入され、更に二年を過ごすことになる。これに入る事をほぼ確実視されている人材が、今アカデミーの二年には二人いる。一人は言うまでもなく主席のキルキである。そしてもう一人は、今六位まで順位を回復したノルディスだ。

しかし、年度末に話が来た今回の件はそれとは別である。一部の技能に特化している学生や、将来が見込める何人かに、一週間ほどの短期集中で教師陣から特別に授業を持ってもらえる、というものである。

言うならば、飛び級制度の簡易版という所か。

エルフィールは今回これに選ばれた。同じ組にはキルキがいる。これから、イングリド先生の部屋で特別授業だ。

一方でアイゼルとノルディスも別の組に選ばれている。彼女らはイングリド先生の授業が終わった後から、ヘルミーナ先生の部屋で授業を受けることになっていた。

ぱたぱたと足音。

キルキだ。またかなり背が伸びているが、まだ小さいままである。だが、少しずつ顔からは幼さが消え始めていた。喋り方が片言なのは、まだ変わっていないが。

「エリー。 イングリド先生、呼んでた」

「お、いよいよかあ」

「頑張って。 私達はヘルミーナ先生か。 ちょっと憂鬱だわ」

「アイゼル、確かに変わった先生だけれど、実力は確かだ。 だから、むしろこれはあの人を知る良い機会だと思って頑張ろう」

ノルディスが途轍もなく真面目かつ前向きな励ましを行ったので、アイゼルはちょっと頬を染めて頷いていた。

何だか初なことである。

ロブソン村などの辺境では、アイゼルくらいの年の女子は、子供をもう産んでいてもおかしくない。多分アイゼルとノルディスのやりとりを見たロブソン村の民達は、顔を見合わせることだろう。

キルキと連れだって、三階に。他にも何名かの生徒が、三階に向かう。

相変わらず、ヘルミーナ先生の部屋の前の意味不明な落書きは、パワーアップするばかりであった。前は字が中心だったが、最近は絵も多くなってきている。多分図なのだろうが、巨大な目玉が書かれているばかりか、よく分からない専門用語が縦横無尽に書かれており、一緒にイングリド先生の部屋に来た生徒達は皆青ざめていた。下手なことを言おうものなら、殺されかねないからである。

先頭で到着したエルフィールが、戸をノックする。

「エルフィール、ただいま参りました」

「中へ入りなさい」

イングリド先生の声に導かれるようにして、中に。

ヘルミーナ先生の教室が、外の壁からして混沌だとすると、此方は極限まで整頓された秩序である。だが逆にそれが息苦しくもある。今日は試験の時と同じように、机と椅子が用意されていた。座って良いか確認した後、キルキがとてとてと歩いて、いつも座っている窓際に行く。エルフィールはその隣に。

他の生徒達も席に着く。

教室の奥には、ぐつぐつと煮立つ錬金術の大鍋。何かを調合している最中なのだろう。試験の時も稼働していることが多い鍋で、イングリド先生が如何に忙しいかを、端的に示してもいる。

「今日から、皆さんには強化授業を行います。 これは貴方たちが全体的に優れているからと言うこともありますが、それ以上にそろそろそれぞれの独自研究分野を持って欲しいと考えているからです」

「独自の研究、ですか」

「そうです。 もちろん授業のカリキュラムとしては四年度からになりますが、此処に来ている生徒達は、必ずやマイスターランクに進めると私は信じています。 その時になって、研究を一人で進めた経験があると無いとでは大きな違いが出てきます。 今日から、それに役立つ授業を行っていきます」

それはありがたい話である。

キルキは既にアルコールに関する研究を始めている。エルフィールは生きている道具類。しかし、どちらもあくまで我流なので、どうしても独自研究の進め方というのは分からない部分が多いのだ。

挙手したのは、モヤシ学生の一人。とはいっても、アイゼルと同じように、外に出て依頼なども受けている人物だ。順位もかなり回復してきている。

「しかし、どのような研究をすればいいのか。 まだ分からない部分が大きいです」

「それは貴方が見つけることです。 錬金術で何をしたいのか、何を成し遂げたいのか、それを決めるのはアカデミーではなく、貴方たち自身です。 それを認識して貰うためにも、この授業を行います」

教室に入ってきた眼鏡の若い先生が、参考書を配り始める。一年時の教科書は、年度最後に返却した。それとは比較にならないほど分厚い本だった。ちょっと開いて中を見てみるが、なかなかに高度な内容である。

「難しい」

「そうだね。 でもやりがいはありそう」

キルキをそう励ます。

エルフィールは本を閉じると、授業に集中することにした。

 

授業の最初は、本の作り方から始まった。

とはいっても、基本的な体裁だけである。極論すれば、表紙と目次、中身さえあればいいのだという。

そういえば、ヘルミーナ先生のカオスな著書も、この体裁だけは必ず守っていた。彼女は極端な天才肌の人間であり、既存の概念などものともしてない節があるが、それでもこれだけは守る必要があると考えているのだろう。

その体裁について、細かく説明が為される。目次の書き方についての具体的な方法、章立ての分かり易い整理について。

そして、中身に移る。

「錬金術は、実績の学問です。 どれほど完成された理論であっても、時に実績がそれを上回ることがあります。 逆に言うと、未だ実績に理論が追いついていない部分も非常に多くあるのです」

「つまり、何をすれば何が出来るかが重要、と言うことでしょうか」

「その通りです、ライネマン」

飲み込みが早いのがいる。

授業組の生徒なのだが、あまり今までに気にしたことがない相手だ。眼鏡を掛けたお下げ髪の鈍くさそうな女子生徒である。ぐるぐる眼鏡は非常に分厚く、赤毛は所々寝癖が出来ていてぴょんぴょんと飛び跳ねている。此処に来ていると言うことは、成績がよいと言うよりも、特化型なのだろう。

今まで話す機会もない相手だったが、丁度いい。今日、ちょっとコネクションを作っておくとしよう。そうエルフィールは思った。

「もちろん正しい理論であれば大事です。 しかし錬金術の基礎となっていた五大属性論自体が、既に揺らぎ始めている状況です。 今後は今までの実績を支えてきた理論を、全て大幅に書き直す必要が生じる可能性もあるのです」

「ひょっとして、それが噂の原子論ですか?」

「その通り。 貴方たちもマイスターランクに入れば、特設研究室があります。 今から予習しておくのも、損はないでしょう」

なかなかに大きな話だ。エルフィールは興奮が抑えきれないのを感じた。このまま進めば、きっとそれに触れることにもなるのだろう。

そして、噂によると、その原子論は。

件の錬金術師、鮮血のマルローネが賢者の石のお披露目にあわせてぶちあげたものだと言うではないか。

余計に楽しみである。そして、それを視野に入れた事を今教わっていることが、嬉しくてならなかった。

其処からは、具体的な本の書き方に移った。気がつくと、すぐに昼になっていた。

「それでは、残りは午後とします。 各自解散。 半刻後に、此処に集合するように」

「分かりました。 お疲れ様です」

ぺこりとあたまを下げる生徒達の前から、イングリド先生が消える。

キルキが疲れ切った様子で嘆息した。

「イングリド先生、苦手」

「そうなの?」

「とても賢くてとても綺麗。 でもとても怖い」

「そうだね。 私も怖いかな」

怖い者知らずのエルフィールだが、あの人に関しては確かに怖い。感じる力がとても大きいし、何より人間的な経験の量が段違いだからだ。優れた強者達が揃っていたドナースターク家の武人達にも、こんなに強い人はそうそういないだろう。多分、騎士団の精鋭でも、そう簡単に仕留められはしないだろう。

これも噂なのだが。イングリド先生はヘルミーナ先生と一緒に、十代の前半くらいの頃から、アカデミーの創始者に連れられて地獄のような環境で鍛えに鍛えられてきたという。それなら強くなるのも道理である。

弁当を拡げる。キルキもそれにならった。

エルフィールは焼きたてのパンにチーズと野菜類、肉類などを挟んだもの。特にチーズはシャリオ山羊のもので、新鮮で美味しいのを売る店があるので、そこでまとめ買いした。保存が利く上に美味しいチーズは大好きだ。今レシピを解析し、研究を進めているチーズケーキも、思えばチーズが好きだから舌に合うのかも知れない。

ただ、チーズは作成するのに少々面倒な手段が必要なものである。具体的には子牛の胃の中にある特殊な物質が必要。つまりチーズを作るには、子牛を殺さなければならないのだ。

子牛は当然育てれば親牛になるため、村でも貴重な財産だった。ザールブルグ近辺の巨大穀倉地帯には、牛をたくさん買っている場所もあるようだが、しかしそれでもチーズが貴重な品であることに間違いはない。

美味しいチーズを好きなだけ食べるためにも。チーズを合成して作成する方法を、今の内に考えておきたい所であった。

キルキはというと、可愛らしいバスケットの中に、しかし豪快に木の実とナイフだけを入れていた。

「ちょっと食事のバランス悪いね」

「今日、寝坊した。 昨日目が冴えて寝られなかった」

そういって、キルキは木の実の皮をむき始める。見たことがない大振りの実だ。非常に毒々しい色をしていて、食べて大丈夫なのか不安になる。全体的にごつごつしていて、まるで色鮮やかな何かの幼虫が丸まって防御態勢を取っているかのような形である。

しかし毒々しい皮を剥いてみると。

中には更に毒々しい色をした果肉が詰まっていた。紫色を中心に赤で彩りを添えつつ、緑や黄色のしかも原色をぶちまけたような色合いである。何だか触手が生えて蠢き出しそうな木の実だ。

側で弁当箱を空けた学生が、そのままの姿勢で固まっている。青ざめて、そそくさと教室から出て行く学生もいた。幸い、臭いは香しい。

「あまり見た目良くないけど、美味しい」

「ホント?」

「私嘘嫌い。 この間、ナタリエさんに教えて貰った」

ナイフでざくざくと切り裂くキルキ。果汁はあまり零れてこず、ちょっとすっぱい臭いが教室に立ちこめた。

そしてキルキは躊躇無く果肉にかぶりついた。ちょっと固めらしく、咀嚼音が教室に響き渡る。グロテスクきわまりない果肉なので、ついに口を押さえて教室を出て行く学生まで出現した。

隣の学生はまだ固まっているので、エルフィールは率先して行動。

「サンドイッチ少しあげるから、わけてくれない?」

「分かった」

「お、おい。 マジかよ。 流石野人だ……ふぐっ!」

失礼な事をほざいた学生に、後ろから忍び寄らせた生きている縄を拳状にし、げんこつ一発。更に足に引っかけて転ばせた。何が起こったか分からず辺りを見回している学生は無視して、かぶりついてみる。

「いっただっききまーす!」

そのまま、キルキと同じようにかぶりついてみた。

ちょっと酸味が強いが、それでいながら独特の甘みがあり、なかなか美味しい果肉だ。しかも皮にも独特の歯ごたえがあり、結構味わい深い。濡れている所からして、多分ちゃんと洗って出てきたのだろう。

口の中に広がる香りは、何とも言い難い。えもいわれぬ香ばしさで、色々な味が口の中でハーモニーとなる。確かにこれはとても美味しい果実だ。見かけの不気味さで倦厭するのはもったいない。

「美味しいね! これ!」

「私、嘘つかない。 ナタリエさんも、私に本当の事言った」

口の中がグロテスクな色になるのがちょっと難点だが、とても美味しい食事だった。しかしバランスが悪いのは事実である。後でお肉も食べるようにしないと、体を悪くするかも知れない。

食事を終えると、井戸で口をゆすぐ。

鏡で見ると、やっぱり口の中は凄い色になっていた。結構念入りにゆすがないと、イングリド先生に何を言われるか分からない。

じゃぶじゃぶ洗っていると、まだ残っていたか、或いは何か用事があって戻ってきたかしたアイゼルが通りがかり、呆れた。

「二人でなにしてるのよ」

「アイゼルこそ、どうしたの?」

「ちょっ! 口、色凄っ!」

アイゼルが吃驚した所を見るに、まだゆすぎは充分ではないらしい。キルキと一緒に、鏡を見ながら洗う。色も少しずつ落ちてきたが、まだまだ完全とは言い難い。

後ろからアイゼルが話してくれた所によると、ヘルミーナ組の彼女らにも、特別な参考書などが配付されることが通知されているという。飛翔亭での交渉が早めに終わったので、取りに来たのだそうだ。

で、彼女が抱えている、禍々しい紫色の参考書がそれという訳か。

「少し見たけど、これからが憂鬱よ。 非常に文章が分かりづらいんですもの。 挿絵とか内容も不気味だし、ちょっと怖いわ」

「んー、気持ちは分かるけど。 ヘルミーナ先生凄い使い手だから、下手な事言うと、そのまま本人の耳にはいるよ。 少なくともアカデミーの中では控えた方が良いと思うけどなあ」

見る間に真っ青になるアイゼル。そして、どうやらもう遅かったらしい。

ヘルミーナ先生の特徴的な気配が、近くを通り過ぎていった。これはほぼ間違いなく、聞かれていると考えて良いだろう。

いや、それどころではなかった。

「ご、ごめん、なさい」

アイゼルが棒立ちになり、ぽろぽろ涙を零しながら呟く。

彼女の真後ろにはいつの間にかヘルミーナ先生が立っていて、肩に手を置いていたのだった。

「アイゼルと、言ったわね」

「は、はいっ! アイゼル=ワイマールです!」

「その名前、覚えておくわ。 それと私、はっきりものを言う子は大好きよ。 これから特別授業でたっぷりかわいがってあげるわ」

アイゼルの顔に、終わったと書かれていた。ヘルミーナ先生に授業の開始前に気に入られてしまうとは。

がくがく震えているアイゼルの後ろからは、いつの間にかヘルミーナ先生が消えていた。一部始終を目撃したらしい生徒達はみなその場で固まったり、本を落としてしまったりしていた。

魔物など、人間にとっては狩りの獲物に過ぎない。ドラゴンや悪魔も、それは同じである。

この世で一番恐ろしい生物こそ人間だ。その事実を、エルフィールは至近で目撃することとなったのだった。

 

次の日から、エルフィールはキルキの分も朝ご飯を作って、一緒に出るようになった。というよりも、キルキが料理に不安があるから、教えて欲しいと言い出したのである。と言っても、エルフィールもそんなに上手な訳ではない。動物の捌き方についても、まだまだ修行が足りていない。時々近くの森などで、捕縛した動物を使って練習もしているのだが、こればかりはもっと数をこなさないと駄目だった。

だが、例えばパンに野菜を挟むだけと言ったような料理でも、自分で作ると、随分原価を抑えられるのである。

ザールブルグなどの人間が多い大都会では、料金の殆どが中間に挟まれてくる手間賃ではないかと、エルフィールは思っている。実際それは考えすぎとは言い難い部分が大きい。飛翔亭などに注文してくる客も、中間の手間賃を考慮して代金を出してきている、という事なのだろう。

だが、生活を切り詰めるためには、その中間手間賃を出来る限り減らしていかなければならないのだ。

幸いキルキはお隣さんという事もあり、朝たたき起こしに行くついでに一緒に料理を作ることは大した負担にならない。実際に作ってみると分かるが、料理は一人分作るのも二人分作るのも、あまり手間にはならないのだ。

竈の火を使って、軽く炒め物を作る。その間、キルキはパンにバターを塗った。汁気のある野菜や肉類を挟む場合、必要な処理だ。このバターもロブソン村では結構貴重な品だったのだが、ザールブルグには文字通り売るほどある。

二人で手分けすると、流石に速い。炒め上がった肉と野菜の料理を二人用のパンに挟むと、もうこれでそれなりに食べられるものもできた。残りは朝食として食べてしまう。

「昨日の果実、あれって何処で売ってるの?」

「ちょっと裏道のお店。 ジプシーだった人達が売ってる。 多分、街の外れの自由菜園辺りで作ってるんだと思う」

「そっか。 今度場所、教えてね」

「うん」

キルキもだいぶ上手に食べられるようになっていていて、口のまわりを汚すこともなくなっていた。

成長が目に見えるのは嬉しいが、同時に少し寂しくもある。ただ、キルキは早く大人になりたいと思っているようだし、あまりその思いを阻害するような行動をしてはならないだろう。

食事を終えると、春になって温かくなり始めた街路を行く。

「アルコールの研究、進んでる?」

「うん。 アルコール、やっぱり危険」

キルキの話によると、飲むと目が潰れるようなアルコールもあるのだという。確かそれは、エルフィールも参考書で一読したことがある。実際に作って確認しているとしたら、キルキはかなりアルコールについての専門知識を得ていることになる。

彼女の両親の話は、あまりキルキ本人からは聞かない。

代わりに、時々一緒に外出するカトールから聞けることがある。やはり相当なろくでなしであったようで、夫婦ともに仕事は長続きせず、時々もめ事を起こしては騎士団や軍の兵士に連行されていくことがあったという。キルキはそのたびにカトールと保護者が引き取って、泣いているのを良く慰めたそうだ。

キルキが偉いのは、其処で泣いているばかりではなくて、きちんと立ち直った所だろう。そして今、彼女は学年主席にいる。これを凄いと言わずしてなんといおうか。神童と呼ばれるような、大人になったら普通になってしまうような型の天才ではないことを、祈るばかりである。

アカデミーに到着。

連日アカデミーに出るというのは、やはり妙な気分だ。ただし今日、一般の授業組は殆ど姿がない。代わりにベテランの錬金術師の姿が多く、図書館に向かう姿が特に良く見掛けられた。

「エリー。 私、帰り、ご本借りたい」

「いいよ、手伝って上げる」

「ありがとう。 今度、私からも何かお礼する」

少しずつ、背丈の差も縮まりつつある。

二人は並んで、イングリド先生の部屋に入った。

 

最終日はすぐに来た。何しろ授業の密度が非常に濃かったので、毎日が忙しく、それが故に楽しかったからだ。

意外である。

アトリエ組であるエルフィールは、正直机にかじりついて勉強という柄ではない。まず参考書を読んで実行して、その結果に一喜一憂する、言うなれば実行派の人間だ。だから、授業など無理ではないかとさえ思っていたのである。

だが、イングリド先生の授業は、錬金術の深淵について触れるものである。その内容の緻密さ、高度さ、とてもではないが今まで読んだ参考書の比ではない。錬金術の深淵については、イングリド先生でさえ分かっていない部分が多いのだという。賢者の石による、魂の練成。それによる貴金属の作成。

それが最終目的とされている。イングリド先生、ヘルミーナ先生の他に、このアカデミーでは二人がそれを成し遂げた。

だが、それが本当に最終目的なのか。それさえも、誰もが理解していないのだという。何しろ、錬金術そのものが、外から来たものなのだ。

「旅の人、とケントニスのアカデミーではその存在のことを呼んでいました。 今、錬金術の全てを知っているかのように標榜しているケントニスのアカデミーなど、実際には旅の人に教えられたことを模倣しているだけの幼稚な学問もどきの集積所にすぎません」

イングリド先生の言葉は怜悧である。抉るように、現実を掘り返す。高度な錬金術の調合になってくると、ブラックボックスどころか、後付の理屈がもっともらしく付け加えられているだけ。

此処にいるのは、みな優秀な生徒だ。

だからこそ、今イングリド先生が口にしている事が、どれほど凄まじいことなのかは。皆が理解していた。

連日、時間が過ぎるのが、あまりにも早すぎた。

そして面白いことに、最終日は何かを教える日ではなく、終日レポートの作成に費やすこととなった。内容は、今後行おうと考えている研究について、である。最初に提出した学生は、これは感想文だと言われて突っ返されていた。

エルフィールが今後行いたい研究は、幾つかある。

一つは生きている道具について、である。

もう一つは、チーズの安価な生産と、品質の向上。

どちらも多分、錬金術の深淵には遠い研究だ。だが、エルフィールが興味を持っているのは、この二つである。

もちろんそれは錬金術という点に限ってのこと。

社会という点で考えれば、まず自分の社会的地位の確立を優先したい。やはり、孤独はいやだと今でも強く感じる。理由は分からないが、ドナースターク家に支援を受けている以上、これだけは絶対にこなさなければならなかった。

戦士としては、更に力量を増したいと、強く思っている。

何もかもが足りない。サバイバルの知識も、戦闘経験も、己の体の磨き抜き方も。

魔力がないというハンデを克服できるほどの力量。生きている縄による戦闘スタイルの確立と、さらなる強化。

やりたいことは、方面次第で幾らでもあるのだ。

何度か鉛筆を置いては、書き直す。キルキはさらさらと筆を進め続けていた。まるでその筆には迷いが見えなかった。

キルキにとっては、今でも両親が一番大事なのだろう。

だから、その目的は、アルコールの毒の除去。それしかないに違いなかった。

「出来た」

「おお。 早い」

キルキが立ち上がり、イングリド先生の所にレポートを持っていく。イングリド先生はしばし目を通していたが、頷いた。

「まだレポートとしては未熟ですが、充分な出来です」

イングリド先生はまず皆にこういうレポートを書いて欲しいと、キルキの提出品を細かく解説してくれる。

やはりキルキの目的は、アルコールの中毒に関するメカニズムの解明と、それからの回復の確立だった。

既にキルキはかなりアルコールについて深く調べており、専門用語がレポートにふんだんに盛り込まれていた。飛翔亭でつきあいのために知識も仕入れているエルフィールでは知らない種類の酒なども、レポートには書き込まれていたほどだ。

キルキは不倶戴天の敵であるアルコールを、かなり客観的に分析もしている。これはなかなかできないことだ。

「客観的かつ、目的を持って、結論につなげていく。 これがレポートの正しいあり方です」

「なるほど」

思わずエルフィールは呟いていた。

そうなると、生きている道具類について纏めるべきか。チーズについては、副次的な研究でどうにかなる部分がある。それに、どうしても生きている道具類とは、接点が作りづらい。

しばらく考えた後、今回はチーズについては除外することにした。

エルフィールは戦いが基本的に好きだ。鍛え抜いた戦闘能力をフルに活用して、敵を叩きつぶすのが大好きだ。生きている縄は、魔力が無く、従って能力も有していないエルフィールに、戦闘の快感を与えてくれうる存在として重要である。もちろん今後は、更に副次的、或いは高度な使い方も考えて行けるだろう。

流石に此処に来ている学生は皆頭が良く、キルキの見本を見た後はすらすらと筆を進めている姿が目立った。

エルフィールは考えを纏めると、レポートに猛然と筆を走らせた。

次々に他の学生達がレポートを提出していく。薬品を中心に考えているものや、錬金術で作り出せる不思議な道具を喜ばしいと考えているものが目立った。最後になってしまう。だが、エルフィールは気にせず、一気に最後まで仕上げる。

既に外は暗くなっていた。

キルキがとなりで心配そうに見ている。他の生徒達は、既に帰ってしまった後だ。

イングリド先生は腕組みしたまま待ってくれていた。

起立したエルフィールが、レポートを差し出すと、厳しい目つきのまま全てに目を通してくれる。席に着いたエルフィールと、イングリド先生の間に、沈黙が流れて。それが幾つか砂時計をひっくり返した位の時間を経過させた頃。イングリド先生が、採点をしてくれた。

「八十七点、という所ですね」

「わ、有難うございます」

キルキに比べると少し低いが、それでも充分な点数だ。全員の発表点数をいちいち覚えていないが、多分今回のレポートでは上から二番目だろう。

イングリド先生が、細かい長所と短所を教えてくれる。

「戦闘で活用すると言う点で、生きている道具類に着目したのは斬新です。 もともと暴徒の捕縛用や、獲物の捕獲用、トラップとしては有用な存在ですが、自分の力を強化するために用いるというのはなかなかに面白い。 実戦で使った場合の長所と短所について述べているのも、好感触です」

しかしながら、とイングリド先生は続ける。

「まだ検証例が少ない上に、貴方の特殊体質に頼っている部分についての説明が不足しています。 今後は更に検証を進め、一般人にも利用可能なように、改良を進めて行きなさい」

「はいっ!」

あたまを下げると、満面の笑顔でエルフィールは教室を出た。汗がきらきら輝いているような気がする。

実にすがすがしい。最後まで残ることになったが、あのイングリド先生が、事実上のアカデミーの支配者にしてこの国どころか恐らく大陸でもっとも影響力のある錬金術師が、認めてくれたのである。

これほど嬉しいことがあろうか。

「エリー、嬉しい?」

「うん! すがすがしい気分! これから森に出かけて、早速何か八つ裂きにして内臓引っ張り出したいくらい!」

「出来るだけ、乱暴は止めて」

冷静に止められたが、うずうずして仕方がない。生きている縄はこの間から更に強化を続けていて、今丁度戦闘用のを体に八本身につけている。虎や熊くらいなら、素手でも殺せる。

だが、縄を使ってくびり殺すのも楽しいのだが、やはり一番は素手や打撃武器だ。打撃用の杖で頭蓋骨を砕く時の感触や、内臓を引きずり出す時の音、それに体を引き裂いた時に飛び散る血のしぶきなどは、どうしても他には換え難いものがある。これらを楽しむためならば、多少人倫の道を外れようが、別に構いはしなかった。

しかし、ドナースターク家から放逐されるようなことは困る。だから、ある程度手心を加えなければならないのが面倒くさい。それに、キルキとの関係を今壊すのも望ましくない。

だから、敢えて笑顔を作る。

「大丈夫、冗談冗談」

「良かった。 せっかく授業も終わったし、今日はお祝いしよう」

「そうだね。 二人とも、良い結果だったしね」

「うん。 それに、私やっぱり授業はちょっと苦手。 終わって良かった」

意外である。暗記を一番得意としているキルキだから、授業で詰め込むのはむしろ好きだと思っていたのだが、そうでもないらしい。

問題は明日からアイゼルとノルディスがヘルミーナ先生の授業を受けると言うことで、二人をパーティに誘えないと言うことか。

「エリー、最近良い香りがしてることがある。 お菓子、作ってる?」

「うん。 チーズケーキ」

「この間ミルカッセさんが作ってくれたおいしいやつ?」

「そうそう。 レシピ通りに作ってみたのは出来たんだけど、どうしても上を目指したくてね。 結構奥が深い料理なんだよ。 今日、まだ試作品だけど、一緒に食べようか」

多少の破壊的な欲求はある。

だが、今日はキルキと一緒にチーズケーキを食べる。それで良いではないかと、エルフィールは自分を納得させたのだった。

 

2、武器屋の悩み

 

ザールブルグで評判の武器屋を営んでいるゲルハルトは、筋肉質で禿頭の大男である。国からも仕事の依頼が来るほど確かな腕前であり、豪放磊落な性格や、かっては超一流まで上り詰めた冒険者であったことなどから、周囲からも慕われることの多い人物である。また、彼が錬金術アカデミーの創設者の夫である事は知る人ぞ知る事実であり、時々二人の子供が彼の店を訪れる。

その一人。

長女のリアーナが今日店を訪れていた。

逞しい体を汗みずくにして、ゲルハルトは槌を振るう。ハンケチを頭に巻いたリアーナが、手伝いをてきぱきと行っていた。焼きに使う水や蜜を運んだり、できあがった武具類を並べに行く。また、手が足りない時は、カウンターに立つこともある。

「今日一日だけなんだからよ、別に良いんだぜ、はたらかなくっても」

「いいの。 私、お父さんのお店大好きだから」

「そうか! くうう、嬉しいことを言ってくれるなあ」

ゲルハルトが大げさに涙を拭う。

心温まる光景なのだが、周囲で働いている弟子達は、全員がげっそりとしていた。どうやら自分とリアーナの歌が世間一般からすると、美的観念が微妙にずれている事に、ゲルハルトはうすうす気付いている。さっきも二人で適当に歌ったら、弟子達は全員いつの間にか泡を吹いて倒れていたのだった。

しばらく前の、エアフォルクの塔事件で、多くの熟練した騎士や冒険者が鬼籍に入り、武具類も多くが損傷した。その前後にかなり武器の需要が高まり、忙しい時期が続いたが、最近は比較的仕事は安定していて、特に目立ったことはなかった。

だがここ最近、また忙しくなり始めている。今ゲルハルトが打っている剣も、騎士団から発注があったものだ。材料にミスリル銀を使っているから、一打一打にも緊張する。失敗した、では済まされないからである。

かなり長い剣で、長身の人物が使うことを想定している作りだ。全体的に飾り気が無く、ただ人を斬ることだけを追求した武骨な剣である。

つまり、極端に実用性を重視した、戦争のための道具だ。

ドムハイトとの戦争が近いのかも知れない。或いは、騎士団が何かしらの暗躍を続けていて、それに関連したことなのだろうか。ヴィント王が実際は呆け気味の可愛らしいお爺ちゃんなどではなく、鋭利な剃刀も同然の恐ろしい人物であることを、ゲルハルトは知っている。彼が騎士団に何をさせようとしているのか、気にはなる。

だが、ゲルハルトとしては、様々な武器を作ってみたいという欲求の方が強い。今でも時々冒険者ギルドに請われて、若手に武器の使い方や選び方をレクチュアする事もある日々だ。それくらいゲルハルトは優秀な冒険者であったのだ。だが、それを捨ててまで、武器の道を選んだ。

良くしたもので、妻も似たような人生を送っている。こればかりは譲れないのでお互い遠くに暮らしているが、似たもの同士気持ちはつながっているつもりだ。

「お父さん、この武器はどっちに?」

「ああ、それは特注品だ。 布で巻いて、奥にしまっておいてくれ!」

「分かった!」

リアーナが持っていったのは、キルキに頼まれた杖である。

温度操作の能力を極限まで強化するべく、ゲルハルトの技術をつぎ込んで作り上げたものだ。やはり子供であり、格闘戦が出来ず、しかも能力の燃費が悪い。神童錬金術師にも、外に出る時には不安点が多い。そのため、ゲルハルトが提案したのである。

幸い、キルキはあまりお金が掛かる研究はしておらず、しかも真面目に仕事をしているので、ある程度お金が余っている。分割払いや借金をしなくても、充分に杖を買う事は可能であった。

キルキの隣に暮らしているエルフィールはと言うと、時々珍妙な武器を持ち込んできて、それの手入れを頼んでくる。ゲルハルトでも分解が難しいような武器が多く、一体誰が作ったのが気になる。

ただ、錬金術師は良くも悪くも変わり者が多いので、ゲルハルトは慣れている。

剣を打ち終わった。これから、まだ幾つかの行程を経なくてはならない。装飾は必要ないので多少手間が減るが、それでも全体的に見ればまだまだ中間地点という所だ。汗を拭うと、一旦休憩にはいる。ほっとした様子の弟子達を食事に行かせて、ゲルハルトは娘に声を掛けた。

「リアーナ。 お前も休んで良いぞ」

「父さんは?」

「俺は体力が有り余ってるから大丈夫だ。 店番をしておくよ」

「それなら、私がしておくわ。 今日はそれほど仕事量もこなしていないし、体力には余裕があるもの」

リアーナは今日帰るのだが、そんな事を言う。

娘が健気に仕事をしてくれて、嬉しくないはずもない。だが、これから長い距離を歩いて帰ると思うと、ちょっと眉尻が下がってしまう。

「そういわずに休んでおけよ。 むしろ俺が恐縮しちまうわ」

「お父さん、いつもお仕事で大変でしょ? 私なんか彼方此方歩き回ってるだけだし、お使いばっかりでそんなに大変でもないから」

「とはいってもなあ」

「ちょっといいかい」

不意に、割り込んでくる声。カウンターの方に振り返ると、ナタリエだった。

ナタリエはここ数年ですっかり女らしくなり、粗野な格好がそれを却って目立たせてしまっている。いろいろあって冒険者ギルドとはまだごたごたが続いているようだが、近年はその優れた実績から、騎士団へのスカウトも掛かっているようだ。

雰囲気も落ち着いてきていて、一目でベテランと分かるようになってきていた。ゲルハルトも昔はこんな時期があった事を思い、ふと懐かしくなる。

「どうした。 リアーナの迎えにはまだ早いはずだが」

「使いっ走りだよ。 冒険者ギルドから、新人用の訓練剣を注文してきて欲しいって言われてね。 二十本ほどだそうだが、親父さん、どれくらい掛かる?」

「それなら在庫がある。 せっかくだから、少し安くしておくよ」

「ありがとう。 助かる」

ぶっきらぼうな所と、殆ど笑わない所は治っていないか。まあ、いろいろあって本当に大変だった時期もあったのだし、これは仕方がないだろう。もう少し余裕のある雰囲気を見せるようになれば、少しは男も寄ってくるだろうに。現状は怖いという評判が立ってしまっていて、特に新人冒険者には不必要なほど恐れられているそうだ。

リアーナと一緒に、在庫の訓練剣を出す。短いのから長いのまで、用途に応じて色々だ。槍もつけようかと言うが、ナタリエは要らないと言った。

領収書を書きながら、ナタリエは話してくれる。

「この間、軍との合同訓練で、かなり派手に訓練剣を折ったらしくてね。 馬鹿馬鹿しい話さ」

「誰でも新人はそうやって強くなっていくもんさ。 ナタリエ、お前さんも、心当たりがあるんじゃないのか」

「そうだな。 しかし今回は、訓練のやり方が全体的に拙かったらしくて、色々問題になってる」

「ふうん。 まあ、折れた剣でも持ってきな。 捨てるくらいなら俺が買い取って、打ち直してやるからよ」

頷くと、ナタリエは持ってきていた荷車に剣を積んで、冒険者ギルドに持っていった。

彼女が既に実力では上級の冒険者と肩を並べているのに、未だ評価があまり高くないのは、やはり数年前のデアヒメル事件の主犯格だからだろう。飛翔亭のディオの尽力で既に汚名の払拭は果たせているが、その前のごたごたなどもあり、冒険者ギルドでは彼女をまだそれほど高くは評価していない。もしも評価が変わるとしたら、数年は待たなければならないだろう。

犯した罪が故の禊ぎではあるが、そろそろ許してやって欲しいともゲルハルトは思う。この辺り、政治的に無力な自分の存在が少しばかり煩わしい。

結局、リアーナもゲルハルトも休憩しないまま、時間が過ぎてしまった。

城の方で鐘が鳴る。今度は正真正銘、リアーナの帰る時間だ。支度を始めるリアーナに、ゲルハルトは少し躊躇してから、包みを手渡す。

「そうだ、リアーナ。 母さんにこれを渡してくれるか」

「何? 錬金術の材料?」

「いや、それも考えたんだがな。 まあ、開けてのお楽しみだ」

中身は大粒の真珠を使ったネックレスだ。流石にもうゲルハルトも妻も若くはないが、それでもこういったものは手渡したくもなる。今でもゲルハルトは妻を愛しているし、向こうもそうだという確信があるからだ。

「分かった。 渡しておくね」

「ああ。 お前も元気でな」

娘を見送る。ある程度の力量を身につけてもいるようだし、ナタリエも護衛に付けているから心配はしていない。だが、それでもやはり、家族が一緒に暮らせないのは、寂しいことではあった。

一通り仕事が終わってから、街に出る。

どうやら今年ものど自慢大会が開催されるらしい。少し後の事だ。気持ちよく歌うのは大好きなので、ゲルハルトも是非参加したい所である。多少人と歌声の美的基準がずれていようが、唄うことが好きなことを止められはしないのである。

早速受付に向かう。だが、その姿を見た受付周辺の人々が、蒼白になる。

「ゲルハルトだ! 武器屋の親父が来たぞー!」

「おう、来たぜ。 今年も、参加させて」

「いやああああああっ!」

「逃げろ! 此処は俺が食い止める!」

唖然とするゲルハルトの前で、受付の机が瞬時に何処かに消えてしまった。他の人間も脱兎のごとく散らばり、すぐに誰もいなくなってしまう。一人残っていた若いのも、他が逃げたのを見計らい、さっと消えてしまった。

ゲルハルトの肩を叩いたのは、ディオであった。丁度出てきていたらしい。

「見ていたよ。 頼むから、のど自慢大会への参加だけは止めてくれ。 他のことは、大概相談に乗るから」

「ちょっと待ってくれ。 俺はただ楽しく歌いたいだけなんだが」

「いや、お前の歌は正直言って、破壊兵器の域に達していてな。 のど自慢大会に出る度に、被害者が増えている現状を座して見てはいられん」

「流石にそれは……」

どうなんだと頭にも来たが、しかしさっきの様子を見る限り、あながちゲルハルトの歌声が恐れられているというのも、嘘ではない雰囲気である。破壊兵器というのはあまりにも極端だろうとは思ってしまうが。

流石に考え込んでしまう。ゲルハルトにとって、気持ちよく歌うことは、とても大事なストレス解消手段なのだ。美声は自慢の一つでもあるのだ。リアーナもそれは多分同じ筈である。

「よし、そうだな。 じゃあ、錬金術師に更に俺の美声を強化して貰うとするか。 そうすれば、大丈夫だろう」

「なぜそうなる」

「うむ、それが一番良いぜ! じゃあな、ディオ。 俺はちょっくら錬金術アカデミーまで行ってくらあ」

ディオは追ってこなかった。

そのまま、アカデミーに向かう。手ぶらというのも何なので、途中の車引きで、美味しい肉料理を買っていった。持ち帰るタイプの珍しい車引きで、小さな塊に切った鳥の肉を串に刺し、焼いて出してくれる。たれがまた絶妙で、その香ばしさは特筆に値する美味さなのである。

ゲルハルトは錬金術アカデミーでは大事なお客さん扱いである。護身用の武具類を安くも提供しているし、素材の加工も請け負っている。何より、創設者の夫であるという立場が大きい。

いきなり現れたゲルハルトを見てもイングリドは特に不機嫌そうな様子も見せず応じてくれたが、肉料理の包みを手渡した後、のど自慢大会に出たいと言うと顔色を変えた。

「本気ですか」

「ああ。 何だか俺の歌声を怖がる人もいるみたいだからよ、錬金術の力でぱぱーっと何とかしてくれないか。 謝礼は弾むぜ」

「……。 分かりました、考えてみましょう」

何とも言えないイングリドの引きつった笑顔に妙な違和感を覚えはしたが、ゲルハルトはとりあえず上機嫌のまま店に戻る。あの怖いもの知らずで海千山千のイングリドがあんな表情を浮かべるとは、珍しいことだ。弟子達は既に殆ど引き上げていて、後はさっきの剣を最後まで仕上げるだけになっていた。

残った弟子に応対と後片付けをさせ、自身は作業に戻る。

ゲルハルトは歌うことが好きだ。

武器を作るのも好きだが、やっぱり気分転換に歌うことが大好きだ。剣を打ち、焼きを入れて、汗を流しながら行程を一つずつこなしていく。

この剣を打つリズムも、歌に通じているようで、心地よい。

更にパワーアップした歌声で、人々を酔わせることが出来るかと思うと、なおさらのど自慢大会が楽しみだった。受付が逃げるなら、当日強引に参加すればいい。開催場所も時間も既にさっき覚えた。それに、ゲルハルトの実力なら、実力行使で参加するくらいは簡単なのだった。

 

エルフィールはアトリエに珍しくイングリド先生が来たので緊張したが、話を聞いて今度は蒼白になった。

ゲルハルトの歌声については、エルフィールも知っている。時々ゲルハルトの店から聞こえてくる、悪夢のような破壊音波。何というか、音痴などと言う可愛らしいものではなく、聞いていると命の危険を感じてしまうほどの代物だ。実際鳥が落ちてきたり、犬が怯えて尻尾を巻いて逃げ出すのも見たことがある。

此処だけの話、エルフィールもあまり歌が上手な方ではない。というか、音痴だ。特に高音域はかなり無理をしないと出せない。ただし、楽器に関してはそこそこに自信がある。楽器は使えるのにどうして歌は駄目なのか、その辺は才能の偏りだと思って我慢する他無い。

「貴方も、音痴だと聞いています」

「あ、はははは。 はい。 自覚、してます」

「ならば、少しでもゲルハルトさんによる被害を防ぐ方法を考えなさい」

それだけ言い残すと、イングリド先生は帰ってしまった。しばらく困って小首を捻っていたエルフィールだが、外に出て、のど自慢大会が再来週だと知って顔色をまた変えることになった。

まずい。

今回は、殆ど時間がない。

この間の蝋については、大型プロジェクトではあったが、しかし時間があった。だから戦略を練る事が出来た。

だが今回は、音痴をどうにかするという非常に抽象的かつ前例もない題材であり、しかも事前知識が全くない状態である。

アトリエに戻り、頭を抱えて右往左往していると、生きている縄の一本が黒板に向かい、チョークでなにやら書き始めた。

「大丈夫だ。 俺達がついている」

エルフィールはしばらくそれを見つめていたが、頬を叩いて気合いを入れ直す。

そうだ。生きている縄に入っている(エルフィールにとって)可愛い悪霊達も応援してくれているのである。此処で頑張らなければ錬金術師ではないだろう。

幸い、周囲には話が出来そうな人間も何人かいる。まだ時間は少しあるし、必ずしも絶望という訳ではない。そう信じて、エルフィールは行動を開始したのであった。

まず、声を良くする方法を知らなければならない。それについての本を集めてくる。二年になってから、閲覧可能だったり、借りたり出来る本が一気に増えた。しかし、それでもあまり役に立ちそうな本は見つからなかった。

一旦本を集めた所で、キルキやアイゼル、ノルディスに話を廻してみる。話を聞いて、皆は快く集まってくれた。

状況を知っているキルキは熱心に話を聞いてくれたが、アイゼルとノルディスはどうもぴんと来ない様子である。

「音痴を直す、ねえ。 そんなにあの豪快な親父さん、酷い歌声なの?」

アイゼルがそんな事を言ったので、キルキと顔を見合わせたエルフィールは、二人でアイゼルの手を引いて武器屋の裏手に連れて行く。

丁度風呂の時間であるから、さっそくその凄まじさをアイゼルは体験することが出来た。風呂に入ったゲルハルトがご機嫌に歌っている。このため、この時間帯に武器屋に近付くことは、地元の人間は絶対にしないのである。

少しその破壊的歌声を聞いただけでも真っ青になったアイゼルは、早足でアトリエに戻ると、血相を変えて皆に訴えた。

「これはザールブルグが滅ぶかどうかの瀬戸際だわ!」

「あ、アイゼル? 落ち着いて?」

「ノルディス、貴方もこの危機は理解するべきよ! あの人は確かに善人だけれど、歌声を解き放つことだけは阻止しなければならないわ!」

ノルディスに詰め寄って訴えるアイゼル。好きな男の前でしおらしくしていた一年の頃と違って、最近は時々地が出るようになってきているので面白い。見ていて、ちょっとにやにやしそうになった。

意外にも、ずっと無言でいたキルキがアイゼルを宥めに掛かる。こう言う時に限らず、ノルディスは頭が良いが修羅場では役に立たない。

「アイゼル、落ち着いて。 親父さんいい人。 多分大丈夫」

「それは分かっているけど!」

「それに、今回は知恵を貸してもらうだけのつもりだから。 私が何とかするから、大丈夫だよ」

このままだと、自分も仕事に加わると言い出しかねないアイゼルに、エルフィールもやんわりと釘を刺しておいた。流石に明日からヘルミーナ先生の授業を受ける二人に、そんな酷なことは頼めない。

アイゼルがやっとおちついたので、ノルディスが意見を出してくれる。そういえば、ノルディスはまるで気がないエルフィールのことに、いい加減気付いているのだろうか。その辺りは、人の心の機微に疎いエルフィールはよく分からない。

ノルディスは修羅場では役に立たないが、やっぱり頭はとてもよい。まず最初に、具体的な意見を出してくれた。

「まず、親父さんの歌が恐ろしいのは分かったよ。 それならば対応策として、声を小さくする、声そのものを良くする、声が周囲に届かないようにする、というのが考えられる所だね」

「声を良くする、というのは難しいかな」

「どうして?」

「ええとね、ディオさんに前聞いたんだけど。 前に音痴の治療法を、親父さんに試したことがあるんだって。 ほら、桶を被せて歌わせてみるって奴」

この方法は、エルフィールも試したことがある。

要するに桶の中で、自分の声が反響して、客観的に判断することが出来るようになる、というものだ。

しかしゲルハルトは何度かやってみたそれでも、改善している様子がない。それどころか、自分の声を未だに自慢にしている。つまり、客観的に声の善し悪しを判断する能力が欠如していると言うことだ。多分エルフィールもそれは同じで、ただ声質が危険かどうか位は判断できるという訳なのだ。

かといって、ゲルハルトが残念で危険な人物、と言うことはない。ゲルハルトは戦闘能力も優れているし、武器を作る腕前もまず一流と言って良い人だ。しかし、残念ながら音についての判断力が著しく劣っている。何でも出来る超人などまずいないが、親父さんもそういった人種ではない、というだけのことである。

「そうなると、声を良くしても改善は望めないか。 それなら声を小さくする方法があるかな」

「それも難しいかも。 多分、声が小さくなることに関しては、すぐに親父さんも気付くと思う。 親父さんはあくまで楽しく歌うのが好きみたいだから、声を小さくしたりしたら、がっかりしちゃうんじゃないのかな」

「だとすると、最後か」

周囲に、声が届かないようにする。

口で言うのは簡単だが、実施するにはかなり難しいかも知れない。黒板に今までの事を、さらさらとエルフィールの体に巻きついている生きている縄が書いているのを見て、ノルディスがどん引きした。

「な、なんだかそれ、体の一部みたいだね」

「体の一部同然だけど。 まあ、お風呂の時くらいかな、外すのは。 便利だよ」

「あは、ははははは」

ノルディスの笑みが引きつっている。アイゼルはすっかり慣れっこなので、平気な顔をしていた。最初はノルディス以上に怖がってくれて面白かったのだが。この辺り、女の順応性は男よりも強い。

キルキが挙手する。

「周囲に、壁作る」

「親父さんに中に入って貰うって事?」

「それだとすぐばれる。 多分、親父さんには見えない壁にする必要ある」

「面白い発想だね」

壁を作る、とチョークで生きている縄が黒板に意見を書き留める。とてもフレキシブルに動いてくれて頼もしい。

他の生きている縄もせかせか動いていて、茶を入れ終わった一つが全員に出す。動きは以前よりも更にスムーズになっていた。アイゼルが少し考えた後に言う。

「念のために、周囲の人達に耳栓を配った方が良いかも」

「そうだね。 それも作っておくよ」

「そうなると、何か見えない壁を作る道具と、それに耳栓か。 音が中で反響しないように、上に逃がす工夫もいるね」

「鳥さんが落ちてきそう」

キルキが少し心配そうに言った。実際、ゲルハルトの歌で鳥が落ちてくるのを見たことがあるエルフィールは、あまりそれについてコメントは出来なかった。

相談に乗ってくれた学友達に、チーズケーキを振る舞う。

まだ未完成品だが、ヨーグルトも載せてみた試作品のこれは、前のレシピのものよりも美味しくなっている自信がある。

三人とも、食べて凄く満足してくれた。それが、エルフィールには何より嬉しかった。

 

翌日早朝、エルフィールはゲルハルトの武器屋を訪れてみた。

キルキの武器ができあがるという話も聞いていたので、ついでに来てみたのである。キルキもついてきたが、彼女もゲルハルトの歌声をどうにかすることについては、興味がある様子であった。

ゲルハルトは、のど自慢大会をもの凄く楽しみにしているようで、それを話題に出した瞬間、もの凄く嬉しそうな顔をした。喜怒哀楽が激しい人だけあって、喜ぶとなると本当に嬉しそうに破顔するのである。きっと奥さんは、こういう裏表がない所に惚れたのだろう。

もっとも、それが今回は悪い方向に働いているが。

「おお、二人とも見に来てくれるか!」

「ええ、まあ」

それは当然である。自分で道具を作る以上、責任を取るのは当たり前だ。

街の人々が死に絶える時は、エルフィールも一緒だと言うことでもある。というか、其処で逃げて助かっても、後の人生の路は断たれてしまうだろう。ある程度は実力を付けてきた自信はあるが、もしも此処でへたを打てばあの恐ろしいドナースターク家の事実上の支配者、シア=ドナースタークの顔に泥を塗ることになる。ドナースターク家に刺客を差し向けられて生き残る自信など無い。結局の所、逃げた所で同じ事であった。

キルキは無邪気に背伸びして、カウンターの下からゲルハルトの顔を覗き込む。

「親父さん、歌、好き?」

「ああ、大好きだぜ。 歌ってると気持ちが良いし、何よりこれで周囲のみんなが楽しくなれると思うと、最高だな!」

「そうですよねえ」

「早速歌いたくなってきたな! だが、今は仕事中だし、後にしておくぜ!」

一瞬、奥で働いている弟子達が真っ青になるのが見えた。多分、時々歌を聴かされているのだろう。

拷問に等しいことだった。

とりあえず、ゲルハルトがのど自慢大会に、実力行使で出るつもりなのはよく分かった。このままだと、地獄絵図がザールブルグに顕現する事だろう。

帰り道、キルキは悲しそうに目を伏せた。

「どうして、親父さん音痴なんだろう。 あんなに歌が大好きなのに」

「悲しい話だね」

「私、手伝えることがあったら手伝う。 親父さん大好きだし、悲しむ姿、見たくない」

「分かった。 有難うね」

キルキと別れると裏通りに。この間、皆と話してヒントになったことがある。それは、見えない壁を、ゲルハルトに分からないように作ればいい、という事だ。

最初はまるでどうして良いか見当がつかなかったのだが。この間、酒場でロマージュと話して、面白い事を耳にしたのを思い出したのである。

ロマージュは飛翔亭の常連には何かしら声を掛けているらしく、エルフィールにも興味を持って近付いてきた。やはり蠱惑的な全身の持ち主で、女性であるエルフィールでさえ木っ恥ずかしくなる程である。その惜しげもなく晒された小麦色の肌は、吸い付くように男達の視線を独占してしまう。

南方人は基本的にザールブルグの人間から見ると色っぽいと言われているが、彼女は筋金入りだ。男にしか興味がないのだろうかと思って見ていたエルフィールだったが、実際にロマージュと話してみると、意外にまともで驚いた。水商売じみたことをしているのも、将来の事を考えて、お金を蓄えているのだとか。

最終的には、安定した収入のある男と結婚したいと、ロマージュは言う。今までろくでもない男は散々見てきた。危うく貢がされそうになったこともあったという。だから、嘘つきは見抜けるようになったのだとか。

結構壮絶な人生を送ってきている。エルフィールは話してみて、イメージが変わるのを感じた。だからそれからは友達になって、時々話すようになった。ロマージュは冒険者としての登録もしていて、一応剣も使えると言うことなので、今後は予備の護衛要員として考えるのも良さそうであった。

で。ロマージュと話していて聞かされたのだが、彼女は華やかな町の出ではなく、むしろ貧しい漁村から出てきたのだそうである。

「私の村はね、漁業で生計を立ててて、殆どの人間が魚も同然なの。 私も幼い頃から暇さえあれば漁の手伝いをして、何回か外洋にも出かけたものよ」

「へえ、面白いね」

「それで、いさなを見たのだけれど」

いさな。

聞いたことがある。鯨とも言われる、世界最大を噂される生き物だ。錬金術アカデミーでもその巨大な体から取れる幾つかの素材については珍重しており、高度な道具類の材料として使うことが時々ある。

エルフィールも一度仕留めてみたい相手だが、何しろ大きすぎる。エンシェント級のドラゴン並のものもいるらしい上に、水の中で生活している以上手出しが出来ない。つまるところ、今の実力ではどうしようもない。

「いさなはね、泡を使って狩りをするの」

「へえ?」

「魚を泡の網で囲んで、一気に追い込んで、群れごと食べてしまうのよ。 あの光景は、一度見てしまうと忘れられないわ」

それは見てみたいものだと、エルフィールは思った。

そう、その時はそれだけだったのだ。

実際に考えてみると、それはとても有用なヒントであった。見えない壁。つまり、流れを持つ空気というものは、充分に何かに対する阻害効果を持つのである。

恐らくそれは、音に対しても例外ではない。

ちょっと実験をしてみることにした。エルフィールはこの辺りの裏場的なものに詳しい、カトールの所へ赴く。今日もよく分からない仕事で生計を立てていたらしいカトールは、また住居を変えていたが。案外あっさり見つかった。

カトールは道ばたに茣蓙を拡げて、タロットを切っていた。占いに使う商売品だけ合って、相当に凝った作りになっている。カトールはエルフィールを見つけると、満面の笑顔で手を振ってきた。何度か悪霊を探すのを手伝って貰い、給金を払った仲だ。以前よりも、ずっと腹の底を知り合った間柄でもある。

「エリー。 良く来てくれたね。 私に何の用事?」

「この辺りで、断崖絶壁になってて、風が噴き上げてくるような場所知らない?」

「へ?」

きょとんとしたカトールの前で、腰をかがめるエルフィール。さわさわと、護身用に巻き付けてある生きている縄がさざめいた。知っているのだ。このカトールが、悪霊を感じることが出来ると。

だから、縄に入っている悪霊も騒ぐ。

「また、錬金術に必要なこと?」

「そう。 正確には、ちょっと違うけれど。 私としては、是非実験してみたいことなんだ。 心当たり無い?」

「あるよ。 此処から西に少し行くとエルフィン洞窟ってのがあるんだけど」

其処なら知っている。

危険すぎるヴィラント山と違い、かなり足を運びやすい採集地だ。中には地底湖や、珍しい動植物もいると聞いている。一度行ってみたいとは思っているのだが、今まではなかなか行く機会がなかった。

「其処の近くに、ドナーン岩ってのがあってね」

「ドナーン?」

「下等な龍族とか言われてるけど、実際はただの大蜥蜴だね。 まあ、種類によってはドラゴンみたいに火を吐けるみたいだけど。 それに似た形の岩があって、其処はかなり下から風が噴き上げてるみたいだよ」

「それは面白い」

銀貨を一枚放る。毎度ありと呟いて、カトールがそれを空中でキャッチした。流石に金は地面に落とさない。

指をカトールが一本立てる。もう一枚で、追加情報有り、という事だ。

金があるという事は、示さないのがこういう場所で生き残るこつである。幼くても、カトールはそれを知っている。

エルフィールは笑顔のまま、首を横に振る。

「駄目。 もう一声」

「ええ? エリー、それは無いよ。 私貧乏なんだよ。 情報を無償提供してたら、干上がっちゃうよ」

「それでも駄目。 私も、生活掛かってるから」

しばらく考え込んだ後、カトールはタロットを見せた。死神が其処には書かれている。ただし、全体的に色がくすんでいるようにも見えた。

「タロットは消耗が激しくてね。 品質の良い裏紙を時々仕入れる必要があるの。 でも、これが高くてね」

「安く売れと?」

「そうすれば、もうちょっと多めに情報あげる」

「ふふ、面白いことを言うね。 分かった、多少は考えて上げる」

ギブアンドテイクという奴だ。

カトールは咳払いをすると、その追加情報とやらを教えてくれた。やはりこの辺り、幼くても人生の裏街道を歩いているだけあり、有用な情報は集めているという事だ。

「あの辺りは、前はそれほど危険じゃなかったんだけれど、最近変な動物が出るようになっているらしいよ」

「具体的にはどんな?」

「昔は一時期、超大型の蟷螂が繁殖したことがあるんだって。 今は大型の肉食性蝙蝠が増え始めているらしいよ」

「蝙蝠、ねえ」

元々、空を飛ぶ生物は、ドラゴンなどの一部を除いて人間の害にはならない。なったとしても、個人の害どまりであって集団としての人間の敵ではない。

空を飛ぶには、巨大な力が必要だからだ。

鳥などを解剖してみると分かるが、連中は空を飛ぶために、体の機能を大幅に犠牲にしている。逆に言うと、地上性の鳥であるジャイアントモアなどはその反動か、体をとても逞しく強靱に作り上げている。

そして、体のつくりを犠牲にして空を飛んでいるため、基本的に戦闘能力はさほど高くない。小型の虫や動物には脅威になっても、人間にまで害を及ぼせる例は滅多にないのだ。特に蝙蝠は羽が薄いせいかその傾向が強く、最大種でもさほどの戦闘能力は有していないのが実情だ。

だが、カトールがわざわざ教えてくれたのだ。何かしら危険な要素がある可能性も否定は出来ない。

例えば病気を有しているとか。これならば、充分な脅威になる。

「分かった。 有難う」

「出かけるつもり?」

「そうだね。 ちょっと様子を見てから、になるけど」

幾つか、先にこなしておかなければならない事がある。大きな音を出すような道具も用意しておかなければならないし、それにそもそも、どうやって風を起こすかという最大の問題がある。

それに目星を付けてから、出るべきだ。そうエルフィールは考えていた。

カトールに礼を言ってアトリエに戻った後、早速参考になりそうな書物を一つずつ紐解いていく。

面白いのは、近年の参考書と昔の参考書で、まるで風に対する考え方が違ってきていると言うことだ。

かっての参考書では、風を魔術的な存在として捉えていた。実際能力者の中にも、風を扱えるものが少なからずいるのである。まず昔の錬金術師達は、彼らを研究することで、風について知ろうとした節がある。

しかし近年では、風を現象として捉えている。

この方が、エルフィールには都合がよい。最悪、冒険者ギルドに風を起こせる能力者の手配を頼むという手もあるが、それは錬金術師としては出来るだけやりたくないことである。

幾つかの参考書を一晩掛けて読む。

確実に時間は減りつつあるが、しかし。確実にエルフィールは目的に向けて前進を続けていた。

 

3、風の壁

 

ダグラスは、今度こそ余計なことをしないようにと、クーゲルに無言の圧力を受けた。分かってはいる。だが、あのエルフィールという女、根に秘めているのは鮮血のマルローネと同じ残虐性だ。彼処まで酷いかは分からないにしても、行動次第では理性がもちそうになかった。

浮かない顔をしている所を、ディオ氏に咎められる。

「何の任務だかは知らんがな。 客に手を出すことだけはするなよ。 飛翔亭からそんな奴が出たとなると、俺の沽券にもかかわるからな」

「分かっています」

ダグラスも聖騎士だ。屯田兵から初めて、騎士の試験に合格もして。

それから、やっと此処まで上り詰めた。天才だと周囲は褒め称えてくれたが、実感はない。周囲にはもっと強い奴が幾らでもいるし、才能に関してもそれは同じだからだ。

飛翔亭を出る。

エルフィールが、今回軽く出かけるというので、クーゲルがダグラスを護衛にと推薦したのだ。だから、本人の所に行って、軽く挨拶をしなければならない。気は進まないが、これも仕事だ。

アトリエの前まで到着。最近は生意気にも、エリーのアトリエなどと看板を付けている。実際商売はかなり巧く行っているようで、このまま行くと最近では入手が難しくなっているマリーブランドの再来かと言われ始めていた。

奇しくも、残虐であることはあのマルローネと共通している。ダグラスはどうしても、認めることが出来ない相手だった。

戸をノックする。いるらしく、返事。

「はーい、どなたー?」

「俺だ」

少しためらった後にダグラスがこたえると、扉が勝手に開いた。流石に驚いたダグラスは、エルフィールの腰の辺りから伸びている縄に気付く。どうやら服の下から出ているようで、体に直接巻き付けているのだろう。

エルフィールは此方に振り向きもせず、なにやら調合を続けている。流石に少しいらついたが、相手は何処吹く風である。ただ、これには仕方がない部分もある。ダグラスは以前、とんでもないことをしたわけなのだから。

「何だ、ダグラスさんか。 それで何? 仕事?」

「いや、今度護衛任務に就くことになったから。 挨拶だけはしておこうと思ってな」

「ふーん、そう」

エルフィールは気のない返事をして、硝子瓶から何か液体を注ぎ、合わせていた。ぼこぼこと、気味の悪い沸騰音がする。

何を作っているのか、問いただしたくなる。人を苦しめるような薬ではないのか。だったら許せない。ダグラスの故郷は貧しく、民はずっと苦しみに喘いでいた。国政がどうのという問題ではなく、単純に土地が貧しいのだ。

苛立ちを鎮める。何をしているか分からない以上、勝手に怒っても仕方がない。

「そ、それで。 今度はエルフィン洞窟に行くんだって?」

「そうだよ。 滞在一日、往復一日ずつで、合計三日。 貴方の他にも、念のためにもう一人雇うから」

「そうか」

ハレッシュは今忙しいと言うから、多分別の奴だろう。見たところ、エルフィールはまだダグラスを警戒している。その証拠に、その体から伸びた生きている縄が、威嚇する毒蛇のようにダグラスの周囲で揺らめいていた。

エルフィール自身もかなり腕を上げてきている。元々ヒラの騎士並みの戦闘能力を有していたようだが、たゆまぬ努力を続けているようで、更に体術も身体能力も向上している。うかうかしていると、身体能力だけでもいずれ追いつかれかねなかった。

一旦引き上げる。日にちは聞いたし、もう此処に用はないからだ。

騎士団の屯所に出ると、少しどたばたしていた。訓練中の新人騎士達まで、なにやら忙しそうにしている。

奥の方で指示を出しているのはカミラだ。大教騎士となった今は一線を退いているが、まだまだダグラスが勝てる相手ではない。眼鏡を掛けたとても小柄な女性だが、その能力は身体強化で、腕力も身体能力もダグラスを大きく凌いでいる。頭もずば抜けて良く、その気になれば軍師にでも参謀にでもなれるマルチな人材だ。以前は非常に険しい表情ばかりしていたが、最近は軟らかい表情を、特に新人に向けることが出始めている。理由は分からないが、何か大きな事があったのは間違いないだろう。

カミラはダグラスに気付くと、手招きした。非常に不機嫌そうに、である。

「はい、大教騎士」

「何処に行っていた」

「仕事の下調べに」

「そうか。 実はな、少し面倒なことになっている。 今はエリアレッテが対処に向かっているが、いずれお前も行くことになるかも知れん」

カミラは大教騎士になった今は、殆ど国家的プロジェクトからは外されていると聞いている。だから知らないのかと一瞬思ったが、しかしそうなるとエリアレッテが対処に向かったことの説明がつかない。

本当に、何か大きな事があったのかも知れなかった。

「俺は別口の任務がありますが、一週間くらいすれば手が空きます」

「それなら、多分クーゲル先生から話があるだろう。 私にはもう、あまり関係のない話だが」

「いえ、教えていただいて、助かりました」

一礼。

かってのカミラは正直大嫌いだった。野心ばかり先行して、自分のことだけしか考えていないような女だった。

だが、今のカミラは正直尊敬できる。新人騎士達にも真面目に剣術のイロハを教えているし、何よりとても熱心だ。かってこの人は、途轍もなく深い闇の中心にいたのかも知れない。その報いも、いずれ受ける可能性も高い。

それでも。ダグラスにとっては、今は尊敬できる上司であった。

一旦自宅に戻る。聖騎士には使用人を雇える程度の収入と住居が与えられるのだが、ダグラスは一人暮らしだ。殆どの収入は、故郷に送ってしまう。贅沢をしたり、使用人を雇うくらいなら、銀貨一枚でも故郷に送りたい。それがダグラスの本音だった。

手段を選ばなければ、もっと稼ぐ方法はある。例えば騎士出身の貴族や、地方領主は幾らでもいる。そうなれば収入は飛躍的に増し、更に効率よく故郷に送金することだって可能だろう。

だが、ダグラスは故郷の家族に顔向けが出来なくなることだけはしたくなかった。特に病気がちで体が弱かった妹が悲しそうな顔をすることだけは耐えられなかった。

思えば。

アデリーに心引かれたのも、妹の面影があったからかも知れない。

ダグラスは、救えないなと、自嘲した。

 

朝、早くにアトリエを出たエルフィールは、アカデミーの南門でアイゼルと合流した。今回はキルキとではない。キルキはアルコール関連の材料収集のため、ハレッシュともう一人熟練の冒険者をやとって、遠くメディアの森まで出かけて来る予定だ。

アイゼルはやはり宝石や服飾関連の錬金術に興味があるらしく、今回もその目的でついてくると言う。ノルディスはと言うと、今回はパスだと言っていた。試験に備えて、勉強に集中するという。

「外に出るのも勉強の一つだと思うんだけどな」

「そうかもね。 それで、今回はどんな人を雇ったの?」

「一人はダグラスって騎士。 現役の聖騎士だよ」

「それは凄いわね。 お父様のコネでも、聖騎士なんてあまり会えないわ」

確かに、シグザール王国の聖騎士と言えば、大陸最強も名高い集団である。そしてその質の高い実力を見込んで、ヴィント王も大いに後押ししている。中規模程度の勢力しかない貴族では、なかなか会うこともかなわないだろう。

考えてみれば、聖騎士の複数や、それに騎士団長にコネを作っているドナースターク家は凄い、という事になる。

ただ、ダグラスである。

エルフィールは、以前ダグラスが取った行動のことを忘れていない。いきなり剣を向けられて、頭に来ない訳もないのだ。

もちろん、その時のことの分析も済ませている。ダグラスは極めて真面目で、平均的な倫理観の持ち主であり、過去錬金術師と何かあった。これは複数の証言から明らかだ。あまり周囲の人間は語りたがらなかったが、件の鮮血のマルローネとひともめあった事も、裏付けが取れている。

そこで、今回は如何にもダグラスが苦手そうな相手を連れてくることで、ある程度行動を制御することを、エルフィールは考えていた。

ダグラスはザールブルグの西門で待っていた。荷車を引いてエルフィールが現れると、無言で近付いてくる。アイゼルが礼をすると、少しぶっきらぼうに応じた。

「アイゼル=ワイマールよ。 よろしく」

「ああ。 ダグラスだ。 今日はよろしく頼む」

もう一人はと、ダグラスが呟いて、辺りを見回す。その間も、エルフィールとは一度も目を合わせなかった。

やはり此奴は、何かしら信用できない。

もう一人については、とっくの昔に此処に来ている。エルフィールに気付いたので、小走りで来た。

ロマージュである。

ぎょっとした表情を、アイゼルとダグラスが同時に浮かべる。ロマージュは旅装とはいえ、かなり露出度が高い服装であり、エルフィールでも目のやり場に時々困る。胸と腰を覆う布きれでさえ控え気味で、巨大と言って良い乳が歩く度に揺れていた。

「エリー、おはよう。 時間通りね」

「はい。 すぐに出られますか、ロマージュさん」

「エリー、この人?」

「ああ、初対面だったっけ?」

アイゼルが首を横に振る。ただ、話したことはないという所か。そう言えば、アイゼルも飛翔亭に足を運んでいるのである。蠱惑的な躍りを見せているロマージュについては、知っているのが当然か。

ただ、いくら何でも、護衛として同行してくるとは思っていなかったのだろう。

ダグラスはもっと初な反応を見せていて、目を逸らそうとしているのに、本能がそっちを向こうとして必死になっている。何を馬鹿な。エルフィールよりも年上と言うことは、田舎では子供が二人いてもおかしくないというのに。

「確かあんた、飛翔亭でいつも踊ってる」

「ロマージュよ。 話すのは初めてだったっけ? 聖騎士ダグラスちゃん」

「お、俺の名を!?」

ダグラスは驚いていたが、別に不思議なことでも何でもない。水商売紛いのことをしているのだ。人脈は広くないと、とてもではないがやっていけないだろう。

そのまま、四人で街から南に出る。一応念のために五日分の契約を取っている。また、アイゼルは自身でも籠を背負ってきていた。荷車を買う気にはまだならない様子なのだが、それでもかなり手慣れてきている。

かってはエンシェント級ドラゴン、フラン・プファイルが縄張りにしていたというヴィラント山を右手に見ながら、森の中の街道を行く。半日ほど歩いた所で、左に曲がり、ヴィラント山の麓に出る。其処でちょっとわかりにくい岩の影に、エルフィン洞窟が存在しているのだ。

この近辺にはエルフ族の集落があり、虎や狼よりも連中の方が厄介だ。それをアイゼルに説明しておく。アイゼルは何度か頷いていたが、もちろん彼女らしく疑問を呈してくる。

「エルフ族は、知能もかなり高いと聞いているわ」

「普通の人間よりも高い奴もいるくらいだからね。 ただ、色々な事情から、彼らは人間を良く思っていないの。 縄張りの中で遭遇したら、まず間違いなく、問答無用で仕掛けてくるよ」

エルフィールも、アデリーさんに連れられて森の中を歩いている時に、一度遭遇したことがある。

彼らの敵意は尋常ではなく、縄張りに足を踏み入れそうになった瞬間、足下に矢を放ってきた。あのまま進んでいたら、まず間違いなく戦闘になっていただろう。

彼らは森を守るが故に、人間とは相容れない。排除してしまうべきなのかも知れないとエルフィールは思ったこともあった。だが、森の幸を享受するには、彼らのような存在は必要不可欠だ。熊や虎とその点では同じであり、無為に殺してはいけない。

元々エルフ族は長命な分繁殖力も低いという話だし、いざ人間と本気で衝突したらひとたまりもなく滅ぼされてしまう。彼らが警戒して人間に敵意を向けてくるのも、それが要因だろう。

「とても美しいと聞いているのに。 対話も出来ないというのは、残念だわ」

「まあ、その辺りは仕方がないね」

街道を歩いていると、時々馬車とすれ違う。人々をいずれもが満載していて、如何にザールブルグが栄えているかよく分かる。何カ所かある屯所を通り過ぎて、森は益々深くなっていく。

この辺りには小さな村も点在しているが、それはさながら森という海の中に浮かぶ島だ。だが、これくらい森深い方が、エルフィールには心地が良い。アデリーさんと一緒に鍛えた時のことを思い出してしまう。

一度休憩した後、歩く。ロマージュさんは流石に冒険者登録しているだけ合って、弱音一つ零さない。アイゼルもかなり体力がついてきているが、荷車を引いているエルフィールよりも、消耗が露骨に早いのが見て取れた。

「大丈夫?」

「ぜんっぜん大丈夫よ。 早く先に行きましょう」

「うん」

明らかに汗をだらだら流しているアイゼルは、そう言い張った。だから、その意志を尊重する。

今晩とまるのは、ヴィラント山の麓にある小さな空き地だ。事前に調べてあるのだが、騎士団や錬金術師がこの近辺で活動する時に使うことがある場所であり、暗黙の了解として野営所として機能している。どうして空き地になっているのかはよく分かっていないが、利用できるものは利用する。

ようやく野営所に到着したのは、夕暮れの少し前のことであった。

「ダグラスちゃん、どうしてこっちを見ないの?」

「うるせ。 ほっといてくれ」

「ま、初なこと」

ロマージュが、ダグラスをからかっている。案の定いつもの調子が出ないようで、ダグラスはずっとどぎまぎしていた。何しろロマージュの方を見るだけで、濃厚すぎて漏出している色気がどうしても目にはいるのである。ダグラスのような人種には、これ以上もないほどの天敵といえる相手だ。

これでいい。下手に考え込む時間を作ると、馬鹿なことをしでかしかねない。

天幕を張り終えると、中で休む。今日は三交代にすることに決めた。最初の見張りはロマージュで、二番目がアイゼルとダグラス。最後がエルフィールという順番である。一応念のため、十二本連れてきている生きている縄に、ダグラスは常時監視させる。

天幕の中で、酷使した足を揉みほぐしながら、アイゼルが言う。

「ところでエリー。 さっきの話の続きなのだけれど」

「ん? ああ、風の壁のこと?」

「そうよ。 原理は理解できたのだけれど、どうやってそんなもの造り出すの?」

「今、幾つか案があるんだけどね」

一つは、団扇の類を使用すること。

これなら、特別なことはしなくてもいい。ただ団扇を力強く動かすための動力だけが必要になってくる。大型のものを用意するにしても、団扇程度では、それほど原価は掛からないだろう。

だが、ゲルハルトは確実に不審に思うはずだ。

ゲルハルトはまず一級の実力者であり、冒険者だった時期も長いと聞いている。少なくとも今のエルフィールよりは段違いに強い。下手な小細工をしても、すぐに見抜かれてしまうだろう。

つまり、露骨な風の壁を作るのでは駄目で、演出の類と思わせるくらいでなければならない。

「なるほどね。 他の案はどうなっているの?」

「アイゼル、足の指まで綺麗だねえ。 ノルディスが欲しいんだったら、腿でもちらっと見せれば簡単に悩殺できるのに」

「ちょっ、何言ってるのっ!?」

真っ赤になったアイゼルが慌てて揉んでいた足を隠す。くすくすと多少意地悪く笑うと、エルフィールは続けた。

「まあ、とりあえず団扇を使う案は置いておいて。 次は薬品で空気そのものを発生させる方法があるんだけれど」

「ああ、聞いたことがあるわ。 例えばエアドロップでしょう?」

エアドロップ。その名の通り、空気を発生させる飴だ。錬金術の産物だが、比較的彼方此方で出回っているポピュラーな品だという。

品質が良いと水中で呼吸が出来る程の空気が出るようだが、逆に言えばその程度が限界だと言うことである。普通の品は、ただ少し美味しい程度の飴に過ぎず、口の中で空気が出る様子を楽しむだけのものである。元の材料のせいか味も良くないため、一部の物好きがものの試しに買う程度の品に過ぎない。

「ちょっとだけ試しに作ってみたんだけれど、これもあまり使えるかどうかは微妙な所だね。 少なくとも、爆発的な風の壁を作れるほどじゃない」

「そうね。 エアドロップでそんなに空気を出せるのなら、兵器転用も可能でしょうし」

「あら、アイゼル、兵器に興味があるの?」

「……そういう訳じゃないけれど」

少し話しにくそうなので、此処は敢えて話を変える。興味本位につついて、せっかく好転しかけている人間関係が壊れては意味がないからだ。

「最後は、風そのものを操作すること。 元からある風を集めたりとか、逆に拡散したりとか」

「それは一番難しいんじゃないの? 風を操作する能力者でも、人を傷つけるほどの風になってくると、長時間は展開できないって聞いているわよ」

「そんな大げさなものじゃなくて、例えば鞴のような装置を使ってみたりとか、或いはさっき言った団扇の形状を変えてみたりとか。 それで工夫してみるつもり」

ただ、そのどれもが実用的ではないと、エルフィールは本音を吐露した。

団扇は目立ちすぎるし、空気を造り出すには力が足りない。最後はかなり大掛かりになってしまう可能性があり、その時には大幅な赤字を出してしまうだろう。今回、イングリド先生はある程度資金を出してくれているのだが、それはさほど多くもない。無理をすれば、あっという間に予算は尽きる。

「他には何か無いの?」

「それが何も。 時間もないし、とりあえず出来ることから始めようと思って、此処に来たの」

「何だか大変ね」

「ま、そうだね」

アイゼルの方も、結構人ごとではない。

ヘルミーナ先生の授業が凄まじい代物であるらしく、噂が既に流れてきている。話によると、恐怖のあまり泣き出す生徒までいるという。しかも内容については、出席した誰もが口をつぐんで話したがらない。アイゼルもそのことになると口を閉ざすことからしても、よほど恐ろしい事が行われているのだろう。嬉々として生徒達を怖がらせるヘルミーナ先生の姿は、実際に目撃しなくても容易に想像できる。

色々と錬金術の話をしている内に、日が暮れた。

既に二人とも、初陣の小僧ではない。すぐに寝袋に潜り込んで寝始める。外で見張りをしているロマージュが、艶っぽい全身に、月光を浴びているのが見えた。

 

エルフィールが目覚めたのは。アイゼルが起こしに来たからではない。露骨な殺気を感じたからだ。

隣でロマージュも飛び起きる。いつも色気を重視して動きからして計算している彼女だが、本質は戦士だとエルフィールは見抜いていた。事実、殺気を感じる取るのはかなり早かった。

生きている縄が蠢き始める。

秋花を手に、外に飛び出す。剣を抜いたダグラスと、杖を構えたアイゼルが、背中合わせにたっているのが見えた。アイゼルは既に術式を唱え終えており、いつでも展開できるように印を結んでいた。

「敵は?」

「まだ仕掛けてきてはいないわ」

野営しているのは、エルフィール達だけである。そう言う状況である以上、襲撃者の存在は仕方が無いとも言える。

森の中、光る目が複数。目の高さからして、野犬や狼の類ではないなと、エルフィールは判断。ロマージュを見ると、ククリを逆手に持つ不思議な構えを取っていた。かなり特殊な剣術を使う様子である。

「何だろう。 かなり高い位置に目があるけど、その割には数が多いね」

「貴方でも分からないの? 野生の動物じゃ無いのかしら」

「大型の猛獣にしては目が小さいし、その割には数が多いんだよねえ。 とりあえず、気を逸らさないで。 来るよ!」

エルフィールが叫ぶと同時に、広場に突入してきた。星明かりの下、その姿が浮かび上がる。

それは背中に翼を持ち、一見すると蝙蝠に見える。しかし手足を備えていて、頭に角を持つ、奇怪な生物だった。乳児が翼を持ち、凶暴化したかのような姿と言えば、近いかも知れない。

低空から突っ込んでくるそいつの目はやたら大きく、動きも速い。数本の生きている縄が迎撃に出るが、巧みに空中制御してかわす。そして高々と躍り上がると、口から緑色の煙を吐き出したのである。

ダグラスが跳躍。一刀に斬り伏せる。

だが、周囲に緑色の煙が満ちて、アイゼルが激しく咳き込んだ。

「な、何、これっ!」

同時に、一斉に飛び掛かってくる奇怪な生物。数は二十前後だろう。

催涙効果のある煙を散布して、混乱した所を一気に叩きに掛かる。狩りの基本をわきまえている動きだ。エルフィールは無言で生きている縄を展開、一気に空中へ自身を押し出した。そして、その動きに釣られた数匹に、秋花を向ける。

「Fire!」

叫んだのは景気づけである。特徴的な、くびれた形の秋花の下にある引き金を引きつつ、生きている縄で固定しながら上のレバーを押し込んだ。これを作った人間は、顎と肩で挟みながら以上の動作をすることを想定していたようなのだが、杖が長いため、エルフィールの体格ではとても出来るものではない。生きている縄が、運用を可能にしたのだ。

夜空に、明々と炎が吹き上がる。

放射状に放出された火炎が、躍り掛かってきた数匹の怪生物を、瞬時になぎ払った。

これぞ、エルフィールが持ち込んだ武器の一つ、火炎放射杖秋花である。

内部の燃料が少ないためそう何度も一度の戦闘で使える代物ではないが、その破壊力は上級の火炎系術者が唱えた術式に匹敵する。内部に蓄えた発火性の強い液体を噴出しつつ着火することにより、さながら自在に火炎系術者のごとく炎を操ることが出来るのだ。しかし、欠点の方が多いため、今まではなかなか実戦投入する事が出来なかった。

その最大の一つが、杖自体が凄まじい発熱をする事だ。燃料も弱点の一つなのだが、一度放つとしばらくはとても手に出来なくなる。

一旦秋花から手を離し、別の生きている縄が持ってきた白龍に切り替える。秋花は、耐火性能を高くしてある生きている縄が受け取り、空中で振って空冷を始めた。

炎の渦から生き残った怪生物は、奇声を上げながら次々煙の中に突入してくる。閃光が瞬いたのは、アイゼルが術式を展開したからだろう。生きている縄がしなり、真上からエルフィールを煙の中に突入させる。無言のままエルフィールは、いきなり目の前に敵が現れてぎょっとする怪生物の頭を、白龍で叩き割っていた。

着地。激しい剣戟の音が、周囲には響いている。

真後ろに殺気。鋭い爪の一撃が、腕を掠める。アイゼルが悲鳴を上げたのは、同じように手傷を受けたからだろう。煙はますます濃くなってくる。後続の怪生物どもが、次々に吐いているからだ。

それにしても、これは何者か。危険性は大型の蝙蝠どころではない。

杖を廻して、引き金を引く。杭が真後ろに射出され、後ろから躍り掛かってきた怪生物の顔面を貫通、吹き飛ばす。生きている縄を束ねて衝撃を殺させたが、再装填には時間が掛かる。通常の戦闘杖に持ち帰ると、エルフィールは跳躍。生きている縄が、その手伝いをした。

煙の上に躍り出て、上で指揮を執っていたらしい個体と至近で顔を合わせる。他は乳児くらいの大きさだが、此奴はそのままの形状でヤギくらいはある。顔面に杖を振り下ろすのと、そいつが爪を繰り出すのは同時。

腹をえぐられたエルフィールが呻くのと、頭蓋骨を砕かれたそいつが地面に落下するのも、また同時だった。

着地。

ロマージュがぎりぎりまで敵の爪を引きつけ、首を掻ききるのが見えた。紙一重まで敵を引きつけ、斬り伏せる剣術であるらしい。もう一度飛ぶかと思った瞬間、鼻先をアイゼルの放った閃光が掠める。翼を切り落とされた怪生物が悲鳴を上げ、地面に転がった。

腹を押さえながら、手近な一匹を、正面から打ち据える。しかし、力が入らなくなってきている。見た。すぐ側。斜め上から、アイゼルを狙って躍り掛かる一匹。煙の中で数匹を相手に交戦しているダグラスと、遊撃しつつ敵を斬り伏せているロマージュは、どちらも間に合わない。力を使いすぎてアイゼルはへたり込んでいるようで、避けられる可能性はゼロだった。

無言で、杖を投げつける。

不意を打たれた怪生物は、回転しながら飛んできた杖に顔面を強か打ち据えられ、悲鳴を上げる。アイゼルが最後の力を振り絞り、閃光を叩きつけた。真っ二つになる怪生物。呼吸を整えるエルフィールは、激しく咳き込んでしまった。疲弊が酷く、あまり考えてはいられない。

脇腹に灼熱。

この隙に、一匹が躍り掛かってきたのだ。

激しい戦いの中、多くを失った敵は戦意をなくし、退きつつある。だが、それでも行きがけの駄賃にと考えたのだろう。丈夫な旅装の上から爪は肌を切り裂き、鮮血をしぶかせる。無言でエルフィールはその首根っこを捕まえると、大地を踏みつつ力を掛けて、一気にへし折った。

煙が、徐々に晴れてくる。敵が継続的に吐いていた煙が無くなったからだ。

口を押さえていたロマージュが、アイゼルの惨状に気付いて駆け出す。顔には傷を受けていない様子だったが、三四度は爪で切り裂かれたらしく、腕にも足にも血が滲んでいた。早めに処置をしないと跡が残るかも知れない。

エルフィールも意識が薄れるのを感じていた。特に敵の指揮個体に貰った傷が痛い。腹腔にまでは届いていないが、それでもかなり深い。大きさの割には異常に強力な爪だった。だが、それにしても、腹筋で止められなかったのは、まだまだ修練が足りない証拠だ。

「ちょっと、エリー! 貴方は大丈夫!?」

「大丈夫。 だから、アイゼルの手当をお願いします」

もう何も言う余力が残っていないアイゼルは、蒼白なまま咳き込んでいる。こんな痛みは感じたことがなかったのだろう。涙を零しながら、激しく咳き込んでいる様子は哀れだった。

ダグラスが手当を始めているのが、見えた。エルフィールは天幕に戻ると、応急処置用の薬剤を取りだし、何度かぐらつく頭を拳で叩きながら、まず上着を脱ぐ。消毒用の少し粘性が強い薬剤を傷口に塗ると、焼きごてを押し当てたような痛みが走る。

一気に意識が覚醒すると同時に、疑念が湧いてくる。

焼きごてなんか、押し当てられた事があったか?

包帯を巻く。ロマージュが天幕に飛び込んできたので、薬剤を手渡す。自身は包帯をまき、傷薬を傷口に塗り込んだ。止血剤については自信がある。多分、すぐに止血出来るだろう。

咳もだんだん収まってきた。

「アイゼルは?」

「大丈夫。 命に別状はないわ」

「そう、良かった」

ころんと横になると、意識が飛ぶのが分かった。

曖昧な意識が、幻覚を見せる。

誰か分からない人達。手を伸ばしてくる。口元は愉悦の笑みに歪んでいる。逃げる。でも、逃げられない。

縛られる。取り押さえられ、猿轡を噛まされた。

助けて。誰か、助けて。

必死に祈る。

だが、その祈りは、誰にも届かなかった。

 

意識がはっきりしてきた時には、既に昼になっていた。横ではアイゼルが静かな寝息を立てている。鎮痛剤も投与したのだろう。まだ、動かない方が良いはずだ。

エルフィールは上半身を起こすと、冷静に傷の状態を確認。流石にまだ塞がってはいないが、歩くくらいは大丈夫だ。外では、ロマージュが見張りをしていた。エルフィールが出てくるのを見て、流石に青ざめる。

「もう大丈夫なの?」

「戦闘は無理ですが、歩くくらいなら」

生きている縄は充分に活躍したが、今回は弱点も見えた。エルフィールを補助すべく動くのだが、しかしながら保護には意識が回っていない。多分エルフィールを同類だと考えているのが徒になっていると思って良いだろう。

ダグラスも起きていた。下着の上から毛布だけを被っているエルフィールを見て、流石に視線を逸らす。

「ふ、服くらい着ろ」

「あー、そうだね」

「……悪かった。 俺の力が足りないばかりに、二人とも怪我させた」

「何、あれは敵の戦術が優れていただけだよ」

煙での攪乱。戦力を集中しての各個撃破。近接戦闘能力が高い相手を攪乱しつつ、後方支援型のアイゼルを的確に狙ってきたあの生物どもの手練れは尋常ではない。

まるで人間のような戦術だった。あの小さな生き物は一体何だったのか。死骸はあらかた広場の隅に片付けられていた。少し調べてみるが、やはり蝙蝠とはほど遠い。背中に生えている翼は蝙蝠に似ているが、顔立ちなどは全く別だ。どちらかというと、ほ乳類よりはは虫類に近い。

ひっくり返してみると、小さな尻尾と、背中に無数に並んだ細かい棘が見えた。体色は赤いのや茶色いの、黒いのなど様々である。ただ、一番大きい指揮個体は、禍々しい土留め色で、他とは明らかに違っていた。

口を開けてみると、鋭い牙がずらりと並んでいる。どうみても食性は肉食だ。それにしてもこの形で空を飛べていたのは、やはり魔力によるものか。ドラゴンなども翼よりもむしろ魔力で飛行すると聞いているが、そうなるとやはりこれは尋常な動物ではないのだろう。

首を動かしてみる。かなり可動性が高い。草食動物は視界を広くする事で敵を察知するが、肉食動物は視界を狭くしかし立体的にすることで、獲物を見つける。これは明らかに後者の特徴だ。

面白いコンセプトの生物だが、しかし自然界にはあり得ない。

一旦荷車の方に行くと、持ってきた保存剤を出す。比較的状態が良い死体の一つに振りかけて、荷車に積み込む。研究したいからだ。

「何してるの。 寝てなさい」

「ああ、すみません」

ロマージュが珍しく心配しきった表情でそう言った。いつも艶然と微笑んでばかりのこの人も、子供が出来たら怪我をした時こんな表情を浮かべられるのかも知れないと、エルフィールは思った。

「ロマージュさん、手伝って。 一匹は持って帰るにしても、爪や牙は剥いでおきたいですから」

「何でそんな事を?」

「研究もそうですが、どうみてもこれは尋常な生物じゃありません。 魔物の知識はあまり無いですが、もしそうだったらかなり稼げますから」

「逞しいわねえ」

呆れたようにロマージュが肩をすくめた。

牛刀を荷馬車から出すと、一匹ずつ手足を切り落とす。骨にぶつかる度に、ぎいんと鋭い音がした。やはり尋常な骨格ではない。小さい割には手強い訳だ。

爪を剥がし、顔を踏みつけて歯を折り取る。血液も瓶に入れ、内臓類はその場で燻製にした。何、気にすることはない。

負けたら、此奴らの馳走にされていたのだから。

一通り作業が終わった所で寝る。そういえば連中の腹の中には、こなれた蛙や蜥蜴の姿が目立った。だとすると、なぜ人間を襲ってきたのか。それがよく分からない。

ゆっくり休んで、夕方に起き出す。アイゼルもとなりで目を覚ましていて、痛みに眉をしかめていた。

「助かったの?」

「何とかね。 立てる?」

頷くと、アイゼルはエルフィールの手を取った。

丸一日ロスしたが、これ以上あまり時間を掛けられない。ドナーン岩とやらまでそれほど距離もない。それに、アイゼルも採集は出来るだけ多めにしたい所だろう。そうでなければ割に合わないからだ。

しかしながら、夜中にこの近辺の森を少人数で歩くのは好ましくない。さっきのようなのは例外として、大型の猛獣が動き回る時間だからだ。聖騎士であるダグラスがいるにしても、今はそれほど無理が出来ない状況である。

無言でエルフィールは秋花の燃料を補充。更に白龍のメンテナンスも行った。この撃ち出す杭は、破壊力が大きい分、手入れが難しく面倒なのだ。アイゼルは自分の傷の様子を確認しながら、どれだけ歩けるのか、自分で確認していた。

「どうにか、大丈夫そう。 でも、荷物は出来れば持ってもらえるかしら」

「おやすい御用」

エルフィールは、白龍に杭を収めた。

翌日は早朝から出る。野営を畳むと、森の中に。聳え立つヴィラント山に向けて歩く。周囲に岩が多くなってきて、代わりに木が減ってきた。荷車を引くダグラスが、時々眉をひそめた。

「何、ダグラスさん。 怪我したの?」

「うるせえ」

「ふうん。 聖騎士といっても、ピンキリねえ」

ロマージュがかなり冷酷なことを言った。どうも彼女、ダグラスのことがあまり好きではないらしい。最初はからかっていたのだが、戦闘の直後辺りからどうも露骨に態度が変わっている。

理由はエルフィールには分からない。

だが、多分彼女なりに、何か思う所があるのだろう。其処を否定する気も、踏み込む気も、エルフィールにはない。

異臭。黄色い岩がある。硫黄を多く含んだ岩だ。触ってみると柔らかく、非常に臭いが強い。アイゼルが持ってきた袋に、手袋をして硫黄を詰め込んだ。多分何かしらの調合に使うのだろう。エルフィールも少し拾っていく。

途中から、ヴィラント山を左手に、方角を変える。エルフィン洞窟とも微妙に離れた位置だ。ただ、途中で寄ることは難しくもない。今回はエルフィールの都合で来ているので、こっちが優先である。

見えた。

確かに、大型は虫類の顔に似ている大岩だ。一旦荷車を止めて、側まで寄る。風が吹き込んでいるのが分かった。

「凄い風」

帽子がとばされそうになったので、エルフィールは慌てて抑えた。アイゼルはその長くて美しいワインレッドの髪を抑える。ダグラスは短髪なので、特にすることもないらしく、辺りを見回していた。

「なるほど、あそこからか」

「どういう事?」

ダグラスが、指さす先には谷。ヴィラント山から流れた水が作っただろう、かなり大掛かりな峡谷だ。赤錆色の土に覆われていて、植物も殆ど無い。昔はともかく、今は水も枯れ果てている様子だ。

其処から、風が吹き込んでいる。

谷風という奴だ。谷には、風のながれ路が出来ることがある。安定した風が常に吹き続けるため、蹈鞴とも呼んだ遙か昔の製鉄では、それを利用して自然の鞴としていたとも言う。

まだ体は少し痛いが、時間の方が大事だ。

「ちょっと見てくる。 声を掛けるから、聞こえたら手を振って」

「分かったわ。 無理はしないで」

ドナーン岩は、正面から見ると三角錐に近い形状で、あまりドナーンには似ていなかった。下から見るとそれは更に顕著で、まるで出来が悪い取っ手のついた鍋のようであった。しかし、これが遠くから見ると、大型は虫類に見えるのだから不思議だ。

傾斜はさほどきつくなく、とっかかりも多いので、登るのは難しくない。

しかし、風がやはり強い。谷風を真正面から浴びる位置にあるからだろう。気付く。風はこれに当たって左右に分かれている。この岩は非常に頑丈であり、それが故にずっと長い間立ちつくしていた。しかしながら、逆に言えば、それでもこれだけ削られてしまったと言うことだ。

風の力は凄まじい。

岩の裏手に回っても、やはり風の影響はある。風は岩を包み込むようにして動いており、さながら水が流れているようだ。

帽子をとばされないように気をつけながら、登る。岩を掴み、体を押し上げる。時々やはり体が痛むが、耐えられないほどではない。

ほどなく。

ドナーン岩の頂点に辿り着いた。高さは、エルフィールの背丈に比して五倍から六倍という所だろう。風をあまり感じない。しかし、杖を伸ばしてみると、下から押し上げる圧力を強く受けた。

下でアイゼルが此方を見つめているのが見えた。周囲に危険な生物の影は無し。まず、じょうごを取り出す。アカデミーで作成している、超簡易式の拡声装置だ。

叫んでみる。

アイゼルは、何もせず、立ちつくしたままだ。

なるほど、これは思った以上に効果が絶大かも知れない。音も流れる以上、上に向けて進み続ける風の壁の前に、その殆どを吸収されてしまう、という訳だ。

エルフィールは勇んで、色々な方法を試してみることにする。

苦労して此処まで来たのだ。あらゆる方法を試さなければ損であった。

 

ローウェル=アルンは舌打ちすると、その場を離れた。

うす紫色の短髪を刈り込んだ長身の彼は、わざわざ遠い所から、このザールブルグに派遣された偵察隊の一人である。優れた錬金術の技量を見込まれたローウェルは、その特徴的なオッドアイに、強い憎悪の光を滾らせていた。

自分の芸術作品を、粉々に砕かれたからだ。

ガーゴイルと彼が呼んでいる生物兵器は、予定通りターゲット「E」を襲撃。しかしどうしたことか、見事に返り討ちにされてしまった。小型のクリーチャーウェポンとはいえ、魔力も持たないような輩にこうもあっさり返り討ちになるとは思ってもいなかった。

これは、認識を改める必要があるかも知れない。

本国の老人達は、ザールブルグの人間を猿呼ばわりして、とことん舐めてかかっていた。上がってくる報告や成果も鼻で笑うばかりで相手にしていなかったし、ドルニエの事を敗北者呼ばわりしている者さえいた。

しかしあのターゲットEは。下等な錬金術の産物である生きている縄を自在に使いこなして立体的な挙動を見せ、更に様々な武具を利用して変幻自在の戦闘を行っていた。護衛についていたらしい連中も尋常ではない手練ればかりである。本当に本国の人間と同じ生物かと疑ってしまうほどだ。

風に対する実験を行っているらしい四人の様子を確認した後、すぐにその場を離れる。これは、作戦の抜本的な見直しが必要であった。

近くにあるキャンプに戻る。周囲を様々な錬金術の道具で偽装しており、人間はおろか動物にさえ気付かれない。擬装用の布を捲って中にはいると、地下空間には砦が構築されており、三十人を超える先遣部隊の人間が仕事に従事していた。

いずれもがオッドアイの持ち主。

そう。全員が、エル・バドール大陸の人間達だ。

隊長を務めているのは、平和呆けしきったエル・バドールの辺境で、おもに海から来る猛獣や魔物の処理に当たり、武勲を積み続けた男である。錬金術師としてよりも、剣士として本国では著名な人物であった。

赤い髭を豊富に蓄えた禿頭の男であり、ガレットという名前を持っている。腰に帯びている巨大な剣を自在に振り回す、豪腕の持ち主だ。

「ガレット隊長」

「ローウェルか。 状況を報告せよ」

「は。 ターゲット「E」は、他の部隊の報告通り、いやそれ以上の戦闘能力を発揮しています。 私のガーゴイル部隊が、手も足も出ずに捻り殺されました。 多少の手傷は負わせたようですが」

「たったあれだけの人数で、二十匹の強化ガーゴイルが、か?」

頷く。

強化ガーゴイルは、優れた戦術を本能に焼き付けてあるクリーチャーウェポンだ。特にローウェルが作りだした連中に関しては、本国で偵察用に生産されている標準個体よりも、かなり優れた戦闘能力を実現していたのだ。

「やはりこの大陸の人間は、戦闘能力が著しく高いようだな」

「それだけではなく、創意工夫も恐ろしいものがあります。 ターゲット「E」も、下等な道具を手足のように使いこなして、凄まじい効果を発揮させていました。 我らはやはりドルニエの報告を信じ、彼らとの積極交流を行うべきなのでは無いでしょうか」

「それを決めるのは我らではない。 本国の老人達だ」

残念な話だが、とガレットは呟く。

ガレットが本国の爛熟し腐敗した状況を憂いていることを、ローウェルは良く知っている。孤児であるローウェルは、ドルニエが連れて行ったイングリドやヘルミーナと同じ、国営の英才教育機関の出身である。其処も今や腐敗の渦に飲み込まれ、幼い子供を利権漁りの材料に使う大人達の魔窟と化していた。

幸い、ガレットはとても物わかりがよい人物だ。

「いずれにしても、戦略の転換が必要だ。 少なくとも、我らがあっさり何かを成せるような状況ではない。 戦力の強化も必要だし、ドムハイトに出向いている連中との連携も強化していかなければならん」

「はい。 そう思います」

「一旦この砦を引き払い、カスターニェの部隊と合流する。 あっちもターゲット「M」の実力に驚嘆の声を挙げているそうだ。 本国の錬金術師には、あれほどの手練れは存在しないという報告が上がってきてる」

「そちらもですか」

やはり、この大陸の人間は、凄まじい実力を持っていると判断する他無い。元から「M」はエンシェント級のドラゴンを三人程度で倒したという噂があったが、それも格下である「E」の実力を見る限り、本当なのだろう。

すぐに部下や同僚達が動き出し、砦の片付けにはいる。

此処は慎重に動かないと行けない。捕捉されたら、全滅する覚悟をしなければならなかった。

 

4、殺人歌

 

のど自慢大会の当日、エルフィールは満足して自分が作ったものを見つめていた。

そもそも、会場が当初の予定とは変わっている。最初広場で行うはずだったのど自慢大会なのだが、イングリド先生を通じて開催者に話をして、城壁の近く。ザールブルグの大通りの出口にしてもらった。

此処は、谷風に近いものがずっと吹き続けているという、理想的な条件を満たした場所なのである。

其処に、時々使っている移動式の攻城塔を運んで貰った。これは旧式の上に廃棄する予定の代物であり、騎士団にコネクションがあるイングリド先生はすぐに実施してくれた。元々廃棄予定のものだったので、タダ同然というか、引き取ったことで騎士団は喜んでさえくれた。更に言えばゲルハルトの殺戮音波を防ぐことが出来たら、のど自慢大会の運営が片付けてくれる約束も取り付けた。

後は、エルフィールが少し手を加えたものを、下に配置するだけでいい。

生きている縄を総動員して作業効率を上げ、それこそ腕が十本あるかのような勢いで作業を終えると、エルフィールはゲルハルトの店に向かう。案の定、今日は休業の札が掛かっていた。

ノックすると、ゲルハルトが出てくる。なにやら一杯ひらひらがついた絹の服を着て、非常にめかし込んでいるではないか。如何に今日を楽しみにしていたかが一目瞭然である。胸の部分は大胆に開けていて、はち切れんばかりに発達した大胸筋を見せつけまくっている。思春期の娘が見たらトラウマになるかも知れない。エルフィールは一応思春期かも知れないが、別に関係ない。

「おお、エリーか。 どうしたい」

「おはようございます。 ちょっと運営委員からの連絡を伝えに来まして」

「おう?」

「おじさんのために、特設のステージを用意しました。 其処で最後に歌って欲しい、との事です」

そう言うと、感動屋のゲルハルトは見る間に涙を止めて、大げさにそれを拭った。この人は、いちいち行動に悪意がない。この人の奥さんは、きっと其処を好きになったのだろう。エルフィールも親父さんは好きだ。便利な存在という意味でだが。

「くあー! 嬉しいねえ! 男としてはこれ以上の晴れ舞台はねえ! 俺はこの国一の幸せもんだぜ! 後はせめて、この髪の毛が戻ってくれたらなあ!」

エルフィールは笑顔のまま、ゲルハルトと会場に向かう。ちなみに、エルフィールも出演する予定だ。

現れたゲルハルトを見て、周囲の運営委員がさっと緊張を顔に走らせる。エルフィールが咳払いしたので、不安そうに顔を見合わせながらも、彼らは引き下がってくれた。特設ステージはあのドナーン岩に良く似た姿を、城門の前に晒している。

会場の前、特設ステージの前にあるステージでは、風に苦労しながらフレアが丁度歌っている所だった。実に渋い選曲である。別れた夫を故郷でひたすら待つ初老の女性を主人公とした歌であり、聞いているだけで気が滅入ってくる。それなのに、フレアは陶酔して涙まで浮かべている有様だ。

ディオ氏と並んで最前列で聞いているハレッシュを発見。げんなりしているディオ氏と裏腹に、ハレッシュはフレアの歌なら何でも良い様子だ。多分フレアも、その辺りが好きなのだろう。

やっぱり好きは人それぞれだ。

「フレアさんの、報われぬ淡き雲でした! 次はフローベル教会のミルカッセ司祭です!」

「どうも、よろしくお願いいたします」

ぺこりとあたまを下げたミルカッセ。フードの中から、綺麗な黒髪が覗いている。しかし、彼女が歌い始めたのは、聖歌でも民謡でもなく、何と軍勢の行進を題材にした勇ましい曲であった。何でこんな曲を選んだのか理解に苦しんだが、一瞬後に疑念は晴れた。

応援している子供達の姿。多分この間、チーズケーキを振る舞われた子供達だろう。

子供は勇壮な曲が大好きだ。多分、子供達に頼まれたに違いない。僧兵という兵種があるように、元々僧侶と戦は関係が近い。医療の神アルテナといえど、それは変わらないのかも知れなかった。

ステージに次に上がったのはキルキである。片言で喋る彼女のことは結構知られているらしく、どんな珍妙な歌が飛び出すかと周囲は期待しているのが分かったが。キルキが歌い始めたのは、実に明るい良い曲であった。山羊と一緒に暮らすおっとりした牧畜少女の日常を題材にした曲で、聞いているだけで気分が乗ってくる。

キルキがあたまを下げて台から降りると、惜しみない拍手が送られた。

「いいねえ、なかなか俺の未来のライバルとしては優秀だぜ」

「そうですねー」

笑顔のまま応じる。

男性陣も頑張っている。ナンパもので知られる若い貴族が、如何にも甘いラブソングを歌うが。しかし、反応は薄かった。あまりにもそのままだからかも知れない。

エルフィールの番が来る。

せっかくなので、この間自作した楽器を片手にの登場である。四本の弦を持つ箱状の楽器であり、ネックの部分を調整しながらつま弾くことで様々な音を出すことが出来る。ぺこりと一礼すると、顎でネックを押さえながら、エルフィールは引き始めた。美しい音色に、観客が沸く。これでも、楽器の演奏には自信があるのだ。

しかしエルフィールが一緒に歌い出すと、ぴたりと観客の歓声が止まった。

演奏を終えて台から降りる。ダンスを題材にした明るめの曲なのだが、やはりエルフィールは歌わない方が良いかもしれない。観客達は、微妙なものを聞いたという顔で、エルフィールを見ていた。

「楽器は巧いのに、歌は駄目だな」

「ははは、仰るとおりで」

音痴はお互い様である。だが、流石にそれをゲルハルトに言うと凹むか怒る。真実を告げると全てが台無しになってしまうので、此処は我慢のしどころである。

壇上に次に上がったのはハレッシュである。意外な美声で、フレアが黄色い歓声を上げているのが見えた。歌っているのは童謡なのだが、実に朗々と、遠くまで響く声である。ゲルハルトのような破壊的低音ではなく、耳に心地よい所が素晴らしい。ハレッシュに黄色い声を挙げる娘を見て、額に青筋を浮かべていたいたディオ氏が続いて壇上に。此方も意外や意外、相当に巧い。特に技術的な面では、多分今までの男性陣の中では一番巧いのではないか。

「ディオの奴、若いことは吟遊詩人に歌を教わった事もあったらしいからな。 大したもんだ」

「なるほど、プロ仕込みですか」

「フレアの母さんとの仲を作るためだったらしいぜ。 あいつも、今は厳しい奴だけど、昔は情熱的だったんだよ」

ゲルハルトが楽しそうに笑う。

陽気で楽しい人である。何でこの人が、ああも破壊的な音痴なのか。楽しく歌っていて欲しいなあとは、エルフィールも思う。だが、それが許されないのが、この世の悲しい所だ。

さて、いよいよ来る。

キルキには事前に耳栓を渡したが、断られた。エルフィールのことを信頼していると、キルキは言ってくれた。嬉しいことだった。だから故に、絶対に成功させなければならない。

呼ばれたゲルハルトが、攻城塔を改造した特設ステージに登る。同時にエルフィールが旗を揚げて指示。のど自慢大会運営の人達が飛びついたのは棒。古い車軸を改造したものであり、上には車輪が幾つか付けてある。

風は良い具合に吹いている。旗を降ろすと同時に、運営の人達が、棒を廻し始めた。

ゲルハルトの姿を見た住民が騒ぎ始める前に、エルフィールはステージの下に出て、ぱっと紙吹雪を撒いた。

風に巻き上げられた紙が、一気に躍り上がる。巧く風が動いてくれている。

ゲルハルトが大いに感動してくれて、なおかつ歌い始めた。

思わず耳を塞ぐ住民達。確かに、凄まじい大音量だが。エルフィールは必死の形相で棒を廻している運営の人達に、小声で言う。

「もっと廻してください!」

「無茶言うな! これが精一杯だ!」

「しょうがないなあ」

エルフィールが服の下から生きている縄を七本繰り出し、一気に棒に巻き付け、引っ張る。強烈に回転速度を上げた棒は、上についている車輪を回転させた。

元から、このステージに風はぶつかり、上昇しているのだ。それを、この回転車輪で後押ししてやる。そうすると、ゲルハルトの周囲に、上に向けた風の流れが出来る。あの殺戮音波は、風に乗って上向きになり、人々の耳を襲うことはないのである。

不思議そうに、人々がゲルハルトを見上げている。

いつもの、魔王が歌うかのようなあの凶悪な歌声はない。確かに下手だが、音量はかなり抑えられているからか、逃げなければ危ないほどのものではなかった。

ゲルハルトが、歌い終える。

ほっとした様子で、人々が拍手を送った。

エルフィールはどっと疲れて、大きく嘆息した。若い運営委員が、驚いたように言う。

「錬金術ってのは、凄いな」

「でしょう。 私にとっても、誇りです」

これで、エルフィールはイングリド先生の出してきた難題を突破したことになる。しかも、極めて抽象的で面倒な、である。

今回のことは、大きく未来を切り開くことになるはずだ。ゲルハルトを見上げる。無邪気に喜んで手を振っている巨漢は、きっとエルフィールのもくろみなど知りもしないだろう。

だが、それでよいのだ。

仕事は無事、黒字に終わった。誰もが幸せになれる、仕事の結果だった。

 

カスターニェ。

南国の蒸し暑い気候を持つ、シグザール王国の南端の一つ。一つというのは、大陸の南端を自称する街が幾つもあるからである。実際、入り組んだ海岸線の地形が故に、諸説がある状態である。

この辺りは住んでいる人種も違う。肌が白いマリーやアデリーはむしろ目立つほどで、ミューは逆にかなりとけ込んでいる。もっとも、マリーを親愛なる隣人と思う者は殆どいないのも事実だが。

この街では、マリーは徹底的に畏れられることに決めている。

様々な理由から此処に来た。一つはドナースターク家の家臣として。もう一つは、アカデミーからの目付役として。シグザール王国からも密かに任務を受けている。それだけ、今やマリーという存在は大きくなっていると言うことだ。

伸びをして、起きだしたマリーは、欠伸をしながら自室を出る。其処はすぐに屋根がない開放的な空間。左手には、何処までも広がる青すぎる海。浮かんでいるのは、シグザール王国海軍の戦艦だ。もちろん交易を行う商船も、多数浮かんでいる。

雨が降れば天然のシャワーになる。蒸し暑いが、すぐに涼しくも成り、そしてまた気候は戻る。夜には降るような星空が広がり、月が出ている時には明かりが必要ないこともある。

実に過ごしやすい環境だ。

「母様。 手紙が届きました」

「ん」

アデリーの声に、短く応答。家の外側に着いている階段を下りると、其処には見慣れた妖精がいた。パテットである。郵便配達には非常に信頼性が高いので、こっちに来てからも使っているのだ。

「久し振りです。 此方がお届け物になります」

「ありがと。 来月はクヌート絹を三割増やしてくれる?」

「分かりました。 そのように手配します」

子供のように駆けていったパテットが、行き交う人々の目を引きつける。腕組みしてその後ろ姿を見守ったマリーの後ろに、アデリーが降りてくる。聖騎士の鎧がすっかり板についた愛娘は、やはり厳しい表情だった。

「あの子に、何か進展が?」

「鋭いなあ。 その通りよ」

エルフィールは、見事難題をクリアしたという。内容自体はゲルハルトの歌をどうにかするというしょうもないものであったが、創意工夫が実に見事で、手紙の主であるイングリド先生は大喜びしていた。

魔力が全くない錬金術師。しかも大成する可能性あり。

なかなか素晴らしいことだ。マリーが起こしたパラダイムシフトよりも、更に大きな変革が産まれるやも知れない。

「さて、これはあたしも負けてはいられないかな」

丁度、そろそろなにやら動き回っている連中の正体に、見当がつき始めた所だ。纏めて片付けて、シアに良い報告を持っていきたい。アデリーは悲しむかも知れないが、これも仕事だ。

それに、ドナースターク家が存続するために、必要なことでもある。

マリーにとって、グランベル村と、村そのものであるドナースターク家は、最優先事項なのだ。今になっても。

「ミューにも待機命令を出しておいて。 近いうちに仕掛ける」

「分かりました」

アデリーが消えると、マリーは舌なめずりをした。

ここからが面白くなる。

戦いは、いつもマリーを楽しませてくれるのだった。

 

(続)