好き好き大好きチーズケーキ

 

序、アルテナ教司祭ミルカッセ

 

暗い空間である。

ザールブルグに幾つかあるアルテナ教会の一室。石造りであり、光も差し込まない。空気もよどんでいる、静かな沈滞した空間。

其処で、ミルカッセは祈りを捧げ続けていた。

アルテナ教は、シグザール王国にもドムハイト王国にも信徒を持つ宗教団体であり、信者でなくても受け容れ悩みを聞いたり、様々な社会奉仕活動を行う事で民の評判を買っている組織である。

元々アルテナとは民間信仰にある癒しと治療の女神であり、薬の中にはこの名を冠するものが少なくない。一方で熱心な信者は少なく、大体の人間が片手間程度に信仰している事でも知られる。

この宗教で、祈りは手を合わせて、拝むことで行う。その間目を閉じて、心を無にすることで、己の精神を一気に集中するのだ。この時に神の声を聞く者もいるという。だが、ミルカッセにはまだその経験はなかった。

義理の父からこのフローベル教会を受け継いでもう二年以上が経つ。まだ幼さが残っていたミルカッセも、少しずつ大人の女性になりつつあった。女性の性的な魅力を悪と談じる宗教もあるが、幸い結婚を認めているアルテナ教でそれはない。ただし、全身を白い独特の宗教衣で隠し、特に髪を人前でさらすことは滅多にない。人前に出るに恥ずかしくない程度の化粧はするが、それくらいだ。

義父の関連で、様々な経験をしたミルカッセは、強くなった。

だが、それでも今でも思う。晩年は軋轢も悲しみもあったが、義父が生きていてくれたらと。

祈りを終えると、一人で掃除を始める。

十年ほど前までは裏手に孤児院があり、其処の子供達に手伝って貰っていたという。しかし今ではその孤児院も余所に統合されており、特に義父の病状が悪化してからは、関係も途絶えていた。

最近は少しずつ交流を戻し始めているが、掃除の手伝いまでは行って貰っていない。だから、秋の冷たくなり始めた空気に手を冷やしながら井戸水を汲み、自分用の質素な食事を済ませて、早朝の内に家事を終わらせる。

それからは人々の悩みを聞く。

一応、信者からの布施も入り、それで生活は出来る。だが宗教団体は基本的にシグザール王国から監視されており、特に大きくなったり経済的に過剰に豊かになったりすると、間違いなく査察の手が入る。アルテナ教会は意図的に大口の布施を断ることで、国との軋轢を避けてきた。その気になれば、宗教団体は幾らでもあくどいやり口で信者を増やすことが出来るし、収入も然り。だが、アルテナ教会はそういう姿勢を排除することで、国と巧くやってきたのだ。戦時には、僧兵として戦場にも赴く。先々代のフローベル教会の司祭は、そうして戦地で命を落としたという。

病を得て心を歪ませた晩年を除き、先代はとても素晴らしい司祭だった。夫婦で此処にいたという先々代は多少堅物であったが、それでも心優しい名物司祭であったという。ミルカッセも、彼らがいたフローベル教会を引き継いだからには、出来る限り多くの人を救いたいと考えていた。司祭としての資格も持っているのだ。だから、今後のことを考えると、なおさら皆のためになるように働かなければならなかった。

何人か、心の悩みを持った人が訪れる。

丁寧に話を聞いていくことで、解決するような事が殆どだ。というよりも、懺悔に来る人の多くは、「人に話したい」という欲求に従っているのである。実際には話しただけで解決してしまうことも多いのだ。

中には、非常に重い悩みを抱えてくる人もいる。そんな人は、救えないことも多い。

ミルカッセは日々自分の未熟を悔やむとともに、現実的な対処もしなければならなかった。

夕刻。教会を閉め、一人外出する。近所の人達は、とても良くしてくれる。数年前まではいろいろあって心を閉ざすほど苦しんだ。だが、先代司祭が最後に皆を説き伏せてくれたことで、今ではすっかり受け容れてくれた。皆に挨拶をしながら、大通りを行く。

最近ミルカッセは、飛翔亭に時々足を運んでいる。目的は酒ではない。依頼をしに行くためだ。

ミルカッセは義父を失った時、信仰だけではどうにもならないものがある事を知った。しかし、信者はそうではない。アルテナの慈悲にすがって、病を治そうと教会を訪れる者は少なくないのである。

彼らを少しでも救えるように、医療品は備蓄しておかなければならないのだ。

だから、特に医薬品のスペシャリストである錬金術師には多く知り合いを作っておかなければならない。それにはアルテナ教会でのネットワークだけでは足りない。飛翔亭などの、多く人が集まる場所へ行かなければならなかった。

幸い、アルテナ教会の人間は、誠意ある行動を主とする姿勢から街の人々にもあまり無碍にはされない。酔っぱらいもミルカッセにはあまり酷い言葉を投げかけたり、絡んでくるようなこともなかった。

飛翔亭にはいると、アルテナ教会とは真逆の世界が広がっている。

強い酒の臭気に、壇上で肌を露わにして踊る女性。そして気難しそうにグラスを磨いているのは、店長のディオだ。

カウンターにつく。最初はルールも知らずに困惑することも多かったが、今ではだいぶ慣れてきた。他のアルテナ教会の司祭には、ミルカッセのやり方に疑念を持つ者もいるという。だが、ミルカッセは信念のままに行動するつもりであった。

「いらっしゃい」

「此方の薬品を、納品していただきたく願います」

気付け薬に解毒剤、それに消毒剤や栄養剤。

専門的な薬剤はあまりにも値がかさばる。だから、生活費を削って、ミルカッセはせめて応急処置が出来るように、様々な医療品を揃えているのだ。そして、施療院にもすぐ手を貸してもらえるように、連絡経路は造ってある。

これだけでも、アルテナ教会本部と掛け合って、許してもらうまで随分苦労した。注文を受け付けたディオは、筆を走らせながら言う。

「少し痩せたな。 無理をして金を作って居るんじゃないのか」

「いえ、大丈夫です」

「あんたの年頃は一番無理が利くとは言え、無茶を続けると寿命を縮めるぞ。 うちから、錬金術師の何人か若いのを紹介してやるから、そいつらと直交渉もしてみな。 薬代だけでも、随分抑えられるはずだ」

はいと返事はしたが、ミルカッセは正直気乗りしなかった。

以前もの凄い腕前の錬金術師と知り合いだったのだが、彼女はそれこそ野生の虎が逃げ出すような恐ろしい強者であり、その養子でありミルカッセの友人ともなったアデリーはいつも悲しそうにしていた。

その人の印象が強すぎて、正直錬金術師は恐ろしいものだという刷り込みがある。

しかし、今後のことを考えると、直交渉は避けられないのかも知れなかった。

ミルカッセも、いずれは婚姻して、子供を作りたいと思っている。亡くなった義父も天国でそれを望んでいるだろうし、何より教会はその子に継がせたいからだ。適性のある人物ならそれでも別に良いのだが、やはり義父の墓前にわが子を連れて行きたいのである。それが本音だ。

そしてお金がないと、婚姻は難しいのが現実だ。確かに、ディオ氏が言うように、無茶はあまり続けられない。今の内に、出来ることはしておかなければならなかった。

ディオ氏にあたまを下げると、すぐに飛翔亭を出る。

教会に戻った時には、既に空に星が瞬いていた。

夜の祈りを済ませると、早めに寝床につく。夜中、急患が運び込まれることが多いのだ。体力はある程度いつも温存しておかないと、いざというときに身動きが出来なくなることを、経験的にミルカッセは知っている。

自分の体さえ、必要に応じて律しないといけない仕事だ。食事が少なくてひもじいと思っても我慢しなくてはならないし、誰かが困っていたら自分がそれ以上に大変でも助けなければならない。

布団の中で、ミルカッセは身じろぎした。

この仕事は、欲の深い人間には勤まらない。むしろ、勤めてはいけない。かならず悪しき思いに身を染め、純粋で善良な人々から搾取することを考えてしまうからだ。それを知っているから、シグザール王国はあらゆる宗教組織を丁寧に監視している。

だが、闇に身をゆだねてしまう者の思いも、ミルカッセは分かる気がするのだ。

いろいろあって、彼女は精神崩壊の寸前まで追い込まれた。最後の最後に正気を取り戻してくれた義父のおかげで、今彼女は無事に司祭を務めていられる。だが、もしあれがなかったら、どうなっていたのだろう。

そして、あの時助けてくれた錬金術師は、見透かしていた。

ミルカッセの中に蠢いていた、醜悪な感情の正体を。今は分かる。あの時、あの錬金術師は、きっとミルカッセの全てを、少し見るだけで理解してしまっていたのだろう。

見透かされる恐怖を味わったのは、あれが初めてだった。

寝返りを布団の中で打つ。

怖くても、頼る者はいない。神に祈る事で少しは気分を鎮めることが出来るが、それでも無理な部分はある。

お酒や、精神を高揚させる薬に頼れば楽になるのだろうか。だが、それは逃避だ。神職者として、してはならないことであった。

いつの間にか眠っていた。

だがぐっすりというわけにはいかず、大量の寝汗を掻いていた。さらさらなことだけが自慢の黒い髪を掻き上げると、ミルカッセは思う。

こんな自分に、神職者たる資格があるのだろうか。

 

1、初の大量依頼

 

施療院に薬品類を納品し、報酬を受け取ったエルフィールは、帰り道を歩きながら嘆息した。間に飛翔亭を介さないから多少手続きが面倒なのは仕方がない。しかし、やはり買いたたかれているようにしか思えないのだ。

当然の話だが、施療院はザールブルグに一つではないし、どの薬品も基本的にどれだけあっても足りないのが現状である。最近は痛み止めを頼まれるようになり、それも納品している。更に専門的な薬も、スキルが上がってきたら頼まれるかも知れない。

エルフィールは最近作る薬品の品質を更に上げてきているし、ザールブルグの医薬品について自分に出来る限りの貢献をしているのだ。それに間違いはない。

それに、約束を守るのは大前提である。一度交わした約束は破るな。破ると信用を無くし、最終的には仕事も来なくなる。

それがアデリーの教えてくれた仕事の鉄則だ。だから大まじめにそれを守ってきた結果、まだ一年経たない内に、ある程度の信用は得られるようになった。実際に効果があることを間近で見ているのだから、エルフィールにやり方を変える気はない。

正しいのだ。だから変えない。

しかし、それが故に不快感が収まらない。

此処はやはり、今更に精度を上げている生きている縄を利用して、近くの森に動物を適当に殺しに行くか。そう思って、アトリエに帰る道を急ぎ始めたエルフィールは。薬品類をたくさん入れた箱を保ち、いそいそと歩いているアイゼルを見つけた。手を振って近付くが、以前のように露骨に警戒した表情を見せることもなく、ある程度柔らかく応じてくれる。

「あら、エリー」

「どうしたの?」

「お仕事よ。 私も、生活費くらいは稼がないとと思っているの」

アイゼルが運んでいる箱はそれほど大きくもなく、瓶も七つくらいしか入っていない。多分授業の合間にせかせか作ったものなのだろう。

ざっと見る限り、止血剤、消毒液など、応急処置に使う薬品類が中心になっている。騎士団にでも納入するつもりだろうか。しかも飛翔亭を始めとして、有名どころの酒場とは方向が違うのだが。

「何処へ行くの?」

「直接納入よ。 この先にあるアルテナ教のフローベル教会に」

「嗚呼、彼処か」

エルフィールにしてみれば、いつも通る場所である。アトリエから朝練に出かけて、道を走る時に、幾つかのルートで通過するのだ。体を鍛えるために朝走るのは毎日続けている事なので、どうしても場所は覚えてしまう。

いつも早朝、感じが良さそうな女司祭が掃除をしている。時々目があって、軽く一礼することもあるが、まだ話したことはない。多分アデリーさんと同年齢くらいで、エルフィールより少し年上だろう。しかし体は小柄で、鍛えている雰囲気もない。魔力があるかは分からないが、確実に戦闘能力は低い。

「知っているの?」

「朝の鍛錬で通るから。 感じの良さそうな司祭さんだよね」

「ええ。 とてもいい人よ。 ただ……」

アイゼルは言う。何だか、妙に影がある人なのだと。

エルフィールも親しく話すようになって気付いたのだが、アイゼルは人間観察に優れた部分があり、一般的な人間に比するエルフィールの著しい危険性や、本物の天才であるが故に心に巨大な間隙を作っているキルキの闇に気付いている。もちろん、ノルディスが秘めた潜在能力にも、本能的に気付いているのだろう。だから、「好き」になったのだろうと、エルフィールは分析している。もっとも、最後の分析に関しては、当たっているかあまり自信がないが。

ただし、不思議とアイゼルは自身の分析能力を自覚していない様子である。それがまた、面白い所なのだ。

「それで、どうして其処でのお仕事を?」

「飛翔亭よ」

「へえ。 アイゼルも、飛翔亭で仕事を受けるようになったんだ」

「キルキや貴方に負けては居られませんからね」

アイゼルみたいなお嬢さんが、足を運ぶのは勇気が必要だっただろう。アイゼルの話によると、授業組の学生の中にも、アイゼルのように酒場に足を運び、依頼を受ける者が出始めているという。この間試験後にイングリド先生に抗議した女生徒も、熱心に依頼を受けてスキル向上を目指していると言うことだ。

話している内に、到着。まだ昼だから、多分居るだろう。

中にはいると、やたら冷たい空気が身を包む。並んだ木の席。前の方には、話を行う台がある。

此処は異空間だと、エルフィールは思った。いつも暮らしている場所とは、根本的に雰囲気が違っている。恐らく、信仰というエルフィールとは無縁のものが主体となって、場が構成されているからだろう。

壇上にあるアルテナ神の彫像。美しい女性を象った姿をしている。もしも現世に降臨したら、それだけで信者が増えそうな美しさだ。もちろんそんな事を口にしたら涜神行為だと言うことで問題になるだろう。

一応、ある程度の知識はある。

アルテナ教会では、普段悩みを聞くサービスを行い、休日には宗教的な思想を信者に説くのだという。ただし、それには軍の監視がつき、数人の兵士が教会の外で見張りを行うそうだ。

周囲を見回していると、件の女司祭が来る。アイゼルがにこりと上品な笑みを浮かべた。

「納品物をお持ちしましたわ」

「ありがとうございます。 アイゼルさん」

満面の笑顔で、女司祭が薬を受け取る。それにしても珍妙な。確かアルテナ教会は、自然治癒や術による癒しを中心に考えていて、施療院のような薬物療法はあまり好ましく思っていないという噂を聞いたのだが。

品質を確認している女司祭が、エルフィールに気付く。

「あら、貴方は確か。 いつも朝の訓練をしている」

「エルフィールです」

「エルフィールさんですね。 貴方も錬金術師ですか?」

「まだ見習いですが」

アイゼルが咳払いした。私の客を取るなと言いたいのだろう。

この辺り、アイゼルはしたたかになってきている。二年弱しか実質生きていないのと同じエルフィールに比べても、かなり世間知らずな部分のある女性だったのだが。急速に色々な知恵を身につけている感触だ。

エルフィールが見た所、アイゼルとエルフィールの調合の腕はたいして変わらない。薬品類では若干エルフィールが凌いでいるようだが、そのほかは総合的にアイゼルが上回っているように見える。つまり、仕事を奪い合うことに意味はない。競合するよりも、互いに得意な分野で稼いでいけば良いだけのことだ。

女司祭はミルカッセと名乗る。はて、そういえば何処かで聞いた。これもアデリーさんの関連だった気がする。まあ、それは別に良い。

「それにしても、どうしてアルテナ教会で薬品を?」

「やはり、不思議に思われますよね」

少し寂しそうにミルカッセが笑みを浮かべる。アイゼルも少し気になっていたらしく、話に加わってきた。

アイゼルの話によると、応急処置系の薬ばかりが注文の対象になっていたので、気になって依頼を受けたのだという。アイゼルから見ればさほど難しい注文もないし、品質もそれなりのものを提供できる自信もある。だから、という事であった。

少し悩んだ後、ミルカッセはエルフィールに向き直る。

「私は、少し前に錬金術の生み出す薬の実用的な効果を知る機会がありました。 そして、信者さん達の中には、緊急時に施療院に行かず、アルテナ神の加護と奇跡を求めて、此処へ来る人も多いのです」

「なるほど、それで」

「信仰は大事だし、信仰による治癒と術式による癒しを重視するアルテナ教の教えも理解しているつもりです。 しかしそれ以上に、救える人を救えるようにしたいと思っているのです」

難しいことですがと、ミルカッセは言った。

何でも彼女は、最近は暇を見ては施療院で応急処置の手ほどきを受けているという。それは熱心なことだが、他のアルテナ教司祭から反発されないか不安も感じる。

もっとも、信念や考えは人によって異なる。あまり深い所まで突っ込む気は、エルフィールには無かった。もちろん、司祭になって一人で教会を切り盛りしている以上、社会的には大人だ。反発を覚悟でやっているのだとしたら、何が起こっても自己責任であろう。

長話をする意味もないし、一旦その場を後にする。アイゼルはかなり長期的な依頼を受けていると言うことで、二ヶ月に一回、物資の補給を頼まれているそうだ。

「結構膨大な量にならない?」

「意外に少なめよ。 ただ、急患が発生して物資を消耗した場合は、すぐに対応して欲しいって言われているけれど。 今までに、二回あったわ」

だからアイゼルの方でも、少し多めにストックを用意しているのだという。

もちろん彼女は寮住まいだから、実家か、或いは借りている倉庫か何かに、なのだろうが。

アイゼルとアトリエの前で別れる。

数日前から、キルキはハレッシュと一緒にヘーベル湖に行っていていない。ちょっと静かな自分のアトリエに入ると、壁に付けた黒板を見た。今後一月ほどでこなすべき依頼と、やるべき目標が書かれている。

今月はあまり仕事がないが、しかし今までせっせと働いた分貯蓄はあるし、実績もある。後二つか三つ、大きめの仕事を入れることが可能だ。とりあえず、三日後に栄養剤関連の納入が迫っているので、それを片付けなければならない。

材料類を確認して、調合にはいる。

丁度、明日定期試験がある。それを考えると、あまり遅くならないようにしなければならなかった。

 

朝、戻ってきたキルキと一緒に試験に出る。アトリエ組のエルフィール達が受けるものとしては、今回は珍しいペーパー試験であり、重要な錬金術素材の一つである「ぷにぷに玉」に関するものが中心であった。

これは猛獣「ぷにぷに」の体内にある物質であり、大小を問わず基本的に一匹から一つしか取得できない貴重な品である。強い脱水作用を持つため、乾燥剤としての性能が非常に優秀であり、薬剤加工には無くてはならない素材である。しかも、周囲に不純物をばらまく事が殆ど無いため、かなり広域に利用されている。

これの取得のために、ぷにぷにを養殖できないかという話まで持ち上がっているほどなのだ。

もっとも、ぷにぷには軟体を利用して何処にでも入り込む上、サイズによってはかなり凶暴なので、今だ養殖は成功していない。それらの知識は最新の参考書から得たものである。

ぷにぷに玉は少し前から調合に利用するようになった事もあり、かなりストックもしている。何度かヘーベル湖に出かけて、行き帰りで取得しては重要事に備えて蓄えているのだ。

故に、テストは難しくなかった。

キルキもさらさらと書き進めている横で、エルフィールもペーパーテストを終える。ペーパーなので、採点も速い。今回は二人とも百点であった。

「良くできました。 これからもこの調子で頑張りなさい」

「はい!」

「ありがとうございます」

キルキがぺこりとあたまを下げる横で、エルフィールは満面の笑みで応えた。

最近は外に出るのが楽しみで仕方がない。確立した戦闘スタイルの向上も目指せるし、実戦経験も積める。そろそろ遠くの採取地にも出てみたいと思っている所なのだ。何もかも、良いことばかりであった。

教室を出ると、キルキがエルフィールを見上げながら言う。年齢が年齢だけにだいぶ成長が早いが、それでもまだエルフィールの方がずっと背が高い。

「エリー、機嫌いい?」

「うん! ご機嫌!」

「凄く機嫌いい」

「そうだよー。 だって、研究が巧く行ってるからね」

アカデミーを出る。キルキの方も、研究は巧くいっている様子だ。彼女はアルコールについてかなり調べを進めているという。

だが、研究が進んでも、あまり嬉しくはない様子だ。

「アルコール、凄く強い毒。 鼠さんに飲ませてみたら、普段は絶対しないような、とても乱暴なことした」

「何、乱暴な事って」

「友達と殺し合い。 本当にかみ殺しそうだったから、慌てて引き離したけど。 普段はとても大人しいのに、私にまで噛みつきそうだった」

何でこんな危ないものを、大人は喜んで飲むんだろう。そうキルキは少し悲しそうに目を伏せた。

更に、アルコールには常習性があることも、彼女は独自に発見していた。酒を飲む人間からすれば常識だが、子供が単独でそれを発見したのは恐ろしいことだとも言えた。暗記力ばかりだと思っていたが、逆にそれが故に、覚えていることは全て詳細に実施できると言うことなのだろう。参考書が彼女に、どんどん新しい力を与えている。今後は、応用もかなり出来るようになるかも知れない。

テストでもずっと高得点を取っているし、ノルディスは多分、年内には巻き返しがきかないだろう。来年のテストで、キルキがどんな結果を出してくるかが楽しみであった。それ次第では、ノルディスの栄光は完全に過去のものとなるだろう。もちろん、エルフィールも次は負けない。テストでは最近、完全に鍔迫り合いに近い成績を出しているからだ。

一旦アトリエに戻った後、二人で一緒に飛翔亭に寄る。キルキは昨日の夜帰ってから、徹夜で作業を済ませたらしい。体力もつき始めていて、将来が楽しみな子である。

納品を済ませると、のそりとクーゲルが現れた。キルキはクーゲルを見るのが初めてらしく、露骨に真っ青になる。

「こんにちは、クーゲルさん」

「応。 そちらは今噂の、小さな天才か?」

「ええ。 キルキです。 キルキ、挨拶して」

よろしく、とキルキは消え入りそうな声で呟いた。エルフィールの影に隠れて向こうを伺っているのは、本当に怖いからだろう。クーゲルはあまり気にしている様子はない。ディオが咳払いした。

「クーゲル、客が怖がってる。 用事があるなら、早く言え」

「ああ、分かっている。 二人とも、丁度いい所に来た。 ロウは作れるか?」

「はあ、蜜蝋でしたら、作成経験があります」

何か、いやな予感がする。クーゲルはただでさえニッチな作業依頼を請け負っている人物だ。ただの蝋の納入依頼が、彼の下へ行く訳がない。何かしら、途轍もなくうさんくさい依頼の予感がした。

そして、それは適中する。

「実はアルテナ教会から、箱10個分の蜜蝋作成依頼が来ていてな」

「どの大きさの箱ですか」

クーゲルが顎をしゃくった先には、一抱えある大きな箱があった。あれ10個となると、膨大な量の蜜蝋が必要になってくる。クーゲルは蝋燭の形で納入して欲しいと言い出したので、更に絶望は大きくなる。

一体何がどうして、そんな依頼が必要になったのか。蜜蝋そのものであれば、市販でもそれなりの品質のものが出回っているはずだ。しかもそれだけの量となると、長期で複数業者に注文してようやく得られるような代物である。

「現時点で、7箱分の依頼は捌けたが、残り3箱がどうにもならなくてな。 ベテランの錬金術師達はもう手が空いてない状態で、学生に頼むしか無くなっている。 お前達、出来そうか」

今は、仕事が空いている。だが、箱3つ分となると、相当に負担は大きい。

キルキがもし引き受けてくれた上、アイゼルかノルディスに声を掛けるとしても、箱1つ。となると、蝋燭にして50本という所か。かなり厳しい戦いになるだろう。

「どうして、そんなに多くの蝋が?」

「それはフローベル教会の女司祭にでも聞け。 儂は知らん」

「ああ、なるほど。 大体事情は分かりました」

「そうか、ならば良い」

蝋を作るには、的確な火力の調整が必要になる。

蜜蝋は蜜蜂の巣から作成するのだが、火力が高すぎれば焦げてしまうし、低すぎても作業は進まない。更に遠心分離器も必要になってくる。

その代わり、長期的な保存が利くから、重要な物資の一つだ。

「分かりました。 ちょっと友達にも声を掛けてみます」

「信頼できる相手だけにしろ。 品質が落ちるようでは話にならんぞ」

「分かっています」

というか、クーゲル相手にいい加減な仕事をしたら、その場で首をへし折られかねない。エルフィールは己の同類であるクーゲルの力量を見誤るようなことはなかった。

一旦飛翔亭を後にする。キルキはまだ怖いのか、時々飛翔亭の方を振り返っていた。

 

エルフィールは帰路を急ぎながら、冷徹に思考を展開していた。

今回の仕事、報酬自体は悪くない。多分あの女司祭が金を出しているのではない。いずれにしても、キルキにはまだ理解できない話だ。

さっきの様子からして、女司祭ミルカッセは、周囲から反感を買っている。これは周囲の住民ではなく、アルテナ教の司祭達から、という事だ。錬金術師はアルテナ教会の司祭達から見れば、自然の力を歪曲する異端者だ。そんな異端者に力を借りている彼女は、許し難いとまでは行かなくとも、苦々しい存在なのだろう。

だから彼女が信じる錬金術師の力をためし、あわよくば叩きつぶそう。そう言う魂胆なのだ。

馬鹿馬鹿しい事だが、しかしながら挑戦されたからには受けて立つのが筋である。アイゼルにもこの話は通して、出来ればノルディスも引っ張り込む。そうすれば負担を更に減らすことが出来るだろう。

他の学生には話を通さない。実力的に信頼できないからである。アトリエ組の他の学生は、いずれもがエルフィールやキルキより一段劣る評価を飛翔亭からされているというし、あまり信頼できない。まだ優秀な学生はいるが、そいつらはコネクションを構築していない。

さて、問題は現実的に、どう膨大な蝋を作成するかだ。しかも蜜蝋を、である。

一口に蝋と行っても植物素材のものと、蜂の巣から作るもの、他にも色々な種類がある。この中で蜜蝋は比較的高級なもので、火をつけた時の独特な甘い匂いが貴族などに人気である。更に印鑑の封印としても使えるので、貴族は必ずお気に入りの業者を抱えて、蜜蝋を納入させている程だ。

今回は教会に納入すると言うことで、それこそ芸術的な技術で作られる金持ち向けの蜜蝋ではなく、最低限の品でよいはずだ。といっても、手を抜けるという訳ではなく、装飾や香りなどは考慮しなくて良い、という意味である。それで、だいぶ負担を軽減することが出来る。

問題は、材料である。

アトリエに着くと、キルキがぐったりした様子で席にしなだれた。エルフィールは茶を沸かしながら言う。体にいつも付けている生きている縄の一本が、するりと上着をクロゼットに掛けた。

「キルキ、大丈夫そう?」

「私、仕事受けるのは大丈夫。 アルテナ教会の人達、みんないい人。 助けにはなりたい」

「そう」

「さっきあの悪魔みたいな人がいってた女司祭って、ミルカッセさんの事?」

そうよーと応えながら、エルフィールは手際よく茶を入れた。そして腰に巻いている三本の生きている縄達に、キルキの所まで運ばせた。

最初は戦闘での活躍だけを意識した武骨なだけの縄だったが、改良を重ねて、かなり器用にものを掴めるようにした。具体的には突起を幾つか付けることと、柔軟性を高めることで、より確実に動くようにしたのだ。

しかし細かい作業が出来るようになるほど脆弱になるので、今後は戦闘用と生活用で生きている縄を作り分けようと思っている。

生きている縄は見事に茶を搬送した。一滴も零さずに。

最初は吃驚したキルキも、今ではエルフィールの第三第四第五の腕達にすっかり慣れた。茶をすすり始めるキルキの前に、エルフィールも着席する。しばし体の中に熱量を注ぎ込んだ後、ゆっくり和む。

「ミルカッセさんが困ってるなら、私、助けたい」

「そう。 お世話になってるの?」

「前に、お菓子くれた。 多分あんまり自分は食べてないのに。 孤児院の子達にも、とても良くしてくれてる」

なるほど、それは余計に好都合だ。

エルフィールはキルキとは観点が違う。アルテナ教会に恩を売ることよりも、将来的なコネクションを今の内に構築しておきたいのである。ただ、ミルカッセというあの女司教については、この機会にもう少し調べておきたい。

アデリーさんが教えてくれたことに、面白い事があった。

様々な方面から、多種多様な評判を作ると、成功しやすい。彼女の大事な人が、それを地で実行して商売を成功させたのだという。確かに、考えてみれば一方向からだけ築いた名声はあっという間に崩れる。多方向から、多面的な名声を作り上げれば、いざというときに役に立つはずだ。

人間は、世間で考えられているほど単純な生物ではない。

逆に言えば、それを事前に示しておけば、周囲に対する多角的な評価も作ることが出来るという訳だ。

どういう事か、アデリーさんが教えてくれる有用なことは、いつも彼女が悲しげに語るのだった。エルフィールとしては、アデリーさんが悲しそうにしているのはいやだったが、しかし有用なことはそんなときに聞けると学習してしまっていた。

だから今では、素直に人が悲しそうにしているのを見て、心を痛められなくなってしまった。

「エリー、何か怖いこと考えてる?」

「んーん? ちょっと大人な事を考えてるだけ」

「ふーん。 ミルカッセさんに酷いコトしたら怒るからね」

キルキは何か誤解しているらしい。エルフィールは利権の絡んだ相手を、無為に痛めつけたりはしない。

この間会った時も、出来るだけ笑顔を作って、怖くないようにしたのだ。茶を飲み終えると、キルキは言う。

「材料、どうしよう」

「そうだね。 まずは近場で、蜂蜜を扱ってる所に行ってみよう。 それで、ある程度絞り滓は手にはいるはず」

蜂蜜は、蜜蜂の巣を幼虫や成虫ごと圧搾することによって手に入れる。こうすると花粉なども混じり、栄養分が非常に豊富なものができあがるのだ。蜂蜜は甘味が強く、高級な食材の一つであるが、ザールブルグでは取り扱っている業者も複数ある。

また、近年は蜂を飼う技術も発明され始めている。ただし凶暴性が強い野生の蜜蜂の方が断然蜜は甘くて美味しいので、未だ社会的には隙間産業的な扱いを受けているのが実情だ。

今回重要なのは、蝋を作る材料になるのが、その残り滓という事である。しかも蜜蝋の材料は、それが一番適切なのだ。

「養蜂業者の方も、見てこようか。 多分蜜を絞った残り滓があるはずだから」

「分かった。 でも、それだけで足りるかな」

「多分、他の錬金術師も動いてるだろうね。 だから材料を直接採取する必要があるかも知れない」

もしも蜂の巣を取りに行くとしたら森だ。近くの森では、蜂は重要な生態系上の役割を果たしている。あまり多く取りすぎるのは好ましくない。

森の幸を得られることがどれほど意味を持っているか、エルフィールはアデリーさんに体の芯から叩き込まれた。ただでさえ、ザールブルグは二十万という巨大都市が、自然に負担を掛けながら存在しているのだ。森林地帯のもたらす富が素晴らしいといっても、それには限界がある。

知識のある人間には、行動を選択する義務があった。

「行くとしたら、メディアか、ヘウレンかな」

「遠いね」

「分担するとしたら、森に行くグループと、こっちに残るグループを分けなきゃ行けないね」

キルキは遠出をしたいと言う。

彼女は少し前、エルフィールが買ったのと同型の荷車を、ゲルハルトから購入した。ヘーベル湖に行く時も、それを使ったという。

ただし、まだアイゼルとノルディスをこれに引っ張り込めるかが分からない。特にノルディスは、繊細な分立ち直りが遅い。最近はテストもかなり点数が回復してきているようだが、それでもすぐに動けるかどうか。

しばらく大まじめに稼いできたこともあり、この仕事が完全に失敗しても生活くらいは充分に出来る。今は、一つずつ埋めていかなければならなかった。

「とりあえず、事前確認は此処まで。 キルキ、アイゼルとノルディスに、この仕事のことを伝えてくれる? 私は飛翔亭によって仕事を受けてくる。 このアトリエで合流しよう」

「分かった。 すぐに行ってくる」

キルキが、すぐにアトリエを飛び出していった。

エルフィールはその背中を見送ると、順番に行動計画を構築していった。

 

アイゼルとノルディスは、夕刻にはアトリエに来た。

ノルディスは未だ回復しきっていないようにも見える。目には力が無く、頭も少し薄くなったように見えた。

一方アイゼルは、ミルカッセと面識があるからか、少し鼻息が荒い。

「エリー、話は聞いたわ。 一体どういう事?」

「アイゼル?」

ノルディスが露骨に怖がっているので、ちょっと面白かった。それを見たアイゼルは流石に怒りを少し収めて、咳払いして己の感情を鎮める。

「あー、おほんおほん。 エリー、教えて。 何が起こっているの?」

「キルキが聞いてるけど、いいの?」

「大丈夫。 私も、もう大人。 この間、大人になった」

何を勘違いしたか、瞬時に真っ赤になるアイゼル。そういえば、キルキもこの間生理が来たという話をエルフィールは聞いた。確かに田舎の定義では大人である。ノルディスは意味が分からないようで、小首を傾げていた。天才とは、時にアホの事も意味する。

「アイゼル、お赤飯の事よ」

「ああ! そうよね! そうに決まっているわ。 びっくりした……」

「何だか今日のアイゼルは面白いね」

吃驚したり青ざめたり怒ったり赤くなったりする表情豊かなアイゼルを見て、ノルディスが暗い顔を僅かにほころばせる。

もう一度、いや更に一度アイゼルが咳払いをした。

「それで、教えてくれる?」

「教えるも何も、アルテナ教会内で、錬金術を快く思わない連中が、ミルカッセさんを叩きに来たのと同時に、私達の評判を落とそうとしているってだけでしょう? 蜜蝋なんか別に錬金術でなくても作れるものを、わざわざご指名してきているんだから。 それにミルカッセさんの財力を明らかに越えている辺りでも、かなり意図的なものを感じるし」

「……最低。 何なのそいつら」

アイゼルが、目に炎を湛えて呟いた。

アイゼルは仕事に即座に同意。ノルディスも、その勢いに押されて、仕事を受けることにした。

現在、授業もあるアイゼルとノルディスは、それぞれが25本ずつ。アトリエ組のキルキとエルフィールが、50本ずつを担当する割り振りで決定。もう一人引き込めれば更に楽になったのだが、しかし合計蝋燭150本分の蜜蝋材料を集めなければならないことに変わりはない。さっと額をつきあわせて、話し合う。

まず、養蜂業者と、蜂蜜を扱っている業者を、明日一日掛けて回る。今回は予算が潤沢だから、多少足下を見られても大丈夫だ。しかしそれにも限度があるから、まずこれはエルフィールとキルキが行くことにする。

アイゼルとノルディスは、予算の内幾らかを使って、アカデミーから遠心分離器を仕入れる。此処にも最低限のものがあるのだが、少しグレードを上げることで、更に高速かつ確実な分離が出来る。

そして熱量調整の工夫も必要だ。

アイゼルが、皆の顔を見回しながら、最新の知識を披露してくれる。錬金術の授業で、無駄な事は一つもない。

「これは最近授業で習ったのだけど、精度が高い熱量調整を行う場合は、カノーネ岩のような発熱量が大きい物質を使うらしいの」

「ああ、ヴィラント山とかにあるっていう」

「そうよ。 これを砕いて、火力源にすれば、一気に蝋を溶かして、その後固形化できるかも知れないわ」

カノーネ岩は発火性のつよい鉱物資源であり、ザールブルグから南西にあるヴィラント山で幾らでも採取することが出来る。ただし、此処は歴戦の冒険者を連れて行かないと危険な場所だ。水なども少なく、猛獣は数が多く、しかも凶暴性が強い。しかも寒くなり始めている現在、経験の浅い人間が行くのは自殺行為である。

当然のことながら、カノーネ岩の入手は難しくなるし、入手できたとしてもコストが掛かりすぎて赤字になってしまうだろう。今回は四人がかりでもかなり面倒なミッションになる。危険性が高い手段は避けるべきだった。

それらを説明すると、ノルディスが最初に消極的意見を口にする。

「ちょっと、カノーネ岩を使用する方式は止めた方が良いかもしれないね」

「今回ばかりは同感」

「待って。 カノーネ岩は、何もヴィラント山まで足を運ばなくても、手に入れられるという話よ。 元々火山の噴火に伴って出来る物質だというし、山の麓にある小さな洞窟でも、入手は難しくないそうだわ」

「なるほど、そっちでならどうにかなるか」

いずれにしても、北にあるヘウレン森と常緑で知られるメディアの森に、蜂の巣を取りに行こうと考えている状況である。蜂の巣は代替手段が存在せず、逆にカノーネ岩の方は工夫次第でどうにかなる。それを考えると、後に回しても良い話である。

一通り話し合った後、アイゼルが嘆息した。

「それにしても、ミルカッセさんは大丈夫かしら」

「こういう嫌がらせを受けているって言うことは、確かに本人に何かの危険はあるかも知れないね。 ただ、アルテナ教会は基本的に武力もないし、信者もかなり大人しい宗教だから、あまり心配はしなくて良いと思うよ」

アイゼルをなだめると、エルフィールは立ち上がって、黒板にこなすべき事を書いていく。蝋を作成するといっても、量が量だ。アイゼルとノルディスが、後ろから色々と補助してくれるので、書きやすかった。だが、しかし。書き終えると、膨大な行程に少し頭が痛くなった。

これは多分、アカデミーに入学して以来の大仕事となる。

極めて計画的に、事を進めていかなければならなかった。

今回は、如何にして素材を確保するかが課題になる。そしてそれはかなり厳しくなるかも知れない。

そう、エルフィールは懸念していた。

 

2、暗雲の先

 

エルフィールの懸念は適中した。

半日ほどで手近な養蜂業者、それに蜜蝋を扱う業者を回ったのだが。蜂の巣の残骸類は殆どが、ベテランの錬金術師達に買い占められていたのである。僅かな量だけを入手できたが、それも決して安いとは言えなかった。

ただし、どちらにしても蝋の作成依頼の量を満たすには、何処かから供給がなければならないのである。ベテラン達の動きが速いのは当然のことであって、話を聞いた事自体が遅かったエルフィールが先手を取っていたら、むしろおかしいことであった。

この様子だと、近くの森でも既に蜂の巣の採取が行われていると見て良い。足を運ぶだけ時間の無駄だろう。

カノーネ岩の値段を見に行ったアイゼル達も、青い顔で戻ってきた。

「値段が高騰しているわ」

「蜂の巣の残骸は、殆ど売り切れてしまっているかな。 これはヘウレンに様子を見に行って、下手をするとメディアまで行かないと駄目かも」

「仕方がない。 燃料に関しては、代替手段を考えよう。 元々、一定火力を作るには、他にも方法がある」

ノルディスが、少しずつ活力を取り戻し始めている。アイゼルも元気になっていくノルディスを見て、ほっとしている様子だ。

二人は無為に手ぶらで帰ってきた訳ではない。アカデミーで、キルキとエルフィール用に、最新型の遠心分離器を購入してきてくれていた。これは台座の上に円環状の回転機が乗っているもので、手動で廻すことが出来る。中央部分には空洞があり、かなりの熱に耐えることも可能だ。

つまり、熱しながら遠心分離を掛けることが出来る。

エルフィール達も、帰りは冒険者ギルドに寄って、人足を集めてきた。今回は遠出になるので、ベテランとしてハレッシュを雇った。飛翔亭にも寄って声を掛けてみたが、そこで妙な男に支援を持ちかけられた。

「妙な男?」

「ダグラスって言う人。 私達より少し年上くらいなんだけど、聖騎士みたいよ」

「聖騎士! それは頼もしいけど、雇用費は大丈夫?」

「妙に安かった。 お金に、困ってるかもしれない」

キルキがそう言って、契約書を出す。

今回は二週間の雇用および協力計画を取り付けている。ダグラスの提示金額は、中堅どころのハレッシュとあまり変わらなかった。報酬金が大きいので、二人纏めて雇って見たが、タダより安いモノは無いともいう。若干の不安を、エルフィールは感じていた。信頼できそうなナタリエは、今回は仕事で出払っていた。

流石に聖騎士が詐欺を働くようなことはないとは言え、真っ先に協力を申し出てきたのも不安である。実力はそれなりにあるようなので、それだけが救いではある。

もしもメディアまで行くと、往復で一週間少し掛かる。二週間契約で二人の護衛を雇ったので、時間的にはだいぶ余裕があるが、それも最終時間を考えるとあまり悠長にやってはいられない。

「明日の早朝、私とキルキは、すぐヘウレンに向かうね」

「それなら、僕たちは材料が揃った時に備えて、燃料の代替手段を検討しておくよ。 君たちが帰る前に、予算を見ながら出来るだけ準備もしておく。 アイゼル、それで大丈夫?」

「ええ。 貴方たちも、気をつけてね」

頷きあうと、一旦解散。

エルフィールは栄養剤を出すと、ぐっと飲み干した。自分で作ったとはいえ、著しく味は悪い。その代わり、体内から活力が沸き上がっても来る。この栄養剤は、調整を重ねて、自分用にしてあるのだ。当然である。

荷車の状態を確認。車軸も車輪も新品のように磨き抜いている。キルキの荷車もほぼ同じだから、二人合わせれば、巧くすれば一気に充分な量の材料を入手してくることが出来るだろう。今回は蜂の巣だけが目的だ。それ以外の物資は、ことごとく無視する方向で動く。

全てが巧く行った場合、つぎ込んだコストに対して二倍から二倍半の利益が出る。ベテランの錬金術師達がしくじるとは思えないので、エルフィール達の行動が成功か失敗かを分けると言っても良い。最悪の場合、赤字を出してでも成功させなければならない状況である。

ノルディスがどれだけ冷静な判断で燃料類を用意できるかが気になる。アイゼルが一緒にいるから大丈夫だとは思うが、不安は決して小さくない。幾つか、最悪の事態を想定しておく。もしも依頼が失敗した上、全てが赤字になった場合のダメージを考える。その場合、今までの蓄えは全て消し飛ぶことになるだろう。もちろんアイゼルやノルディスへの負担が行かないようにはするつもりだ。

戦闘用の杖を、幾つか見繕う。

白龍はもちろん持っていく。そして、今までどうにも使いこなせなかった秋花を、今回投入する予定だ。整備はきちんとしてあるので、いつでも実戦で使用できる。持ち上げてみる。以前より身体能力は上がっているが、ぐっと重い。元々重い白龍よりも、更に重量がある。

秋花はシンプルな筒に近い形状で、全体を金属で覆っている。それが重くなっている最大の要因だ。しかしこの杖には、金属で覆わなければならない理由がある。

先端部分はくびれていて、しかし最先端に関してだけは少しだけ広がっている。この部分が花弁を思わせるので、秋花という洒落た名前がついている。もっとも、実際の効果は地獄から来た悪夢の花も同然だが。

ガッシュと呼ばれる臭いが強い植物から生産した木炭も、幾らか積んでいく。これは蜂を効率よく処分するために必要な道具だ。ざっと計算して、どうにか必要量を積み込めると判断。エルフィールは隣の様子を見に行った。

キルキは外出している。多分ミルカッセの所に行ったのだろう。

まあ、明日までに帰ってきてくれれば、それでいい。

エルフィールは裏庭で杖を振るって修練をすると、その日は早めに眠ることにした。

 

キルキは小走りで、フローベル教会に急いでいた。

エリーには言っていなかったが、彼女は一時期、教会のミルカッセ司祭に世話になったことがある。お菓子を貰ったのも、その時だ。

父母が飲酒と暴力の悪夢の連鎖に耐えられなくなり、ミルカッセの下にキルキを連れて行ったのが、一年半ほど前のことになる。その頃はまだ泣くばかりで、何も出来ない子供だった。

ミルカッセは短期的に預けられたキルキに、とても良くしてくれた。きっと悲しみを知っている人なのだ。だから、キルキはミルカッセのことを信じた。ミルカッセも、キルキに色々なことを教えてくれた。寝食を共にして、温かい食事もして。貧しいのに、お菓子もくれた。

錬金術の本を入手したのも、その時のことだ。それから、キルキの道は開けたと言っても良かった。

昔は、ただの子供だった。非力で弱くて、泣くばかりだった。

今は、違う。

錬金術で、何歳も年上の子供と渡り合い、ついに主席まで奪取した。自分の強みを生かして頑張ってきたからだ。おっかない人と話も出来るようにはなってきた。まだ怖くて、エリーの背中に隠れたりもしてしまうが、昔だったら確実に逃げ出していただろう。

フローベル教会に着く。

ミルカッセは午前中の仕事を終えて、掃除に出てきていた。ミルカッセは錬金術師の正装をしているキルキを見ると、笑顔を作ってくれた。アルテナ女神のような、とても優しい笑顔を。

「キルキちゃん。 どうしたの、こんな時間に」

「何だか大変なことになってるって聞いた。 私、手伝いに来た」

「……」

ミルカッセが、すっと眼を細めた。

キルキが錬金術師になったのはもう教えた。その時も、ミルカッセは祝福してくれた。だが、ミルカッセが浮かべているのは、今まで見たこともない表情だ。

「大丈夫。 だから、こんな事に関わっちゃ駄目」

「私、もう子供じゃない。 アカデミーでも学年主席取った。 実戦だって経験したし、子供産めるようにもなった」

「そう言う問題ではないのよ」

ミルカッセの表情は晴れない。キルキは、思わず呻いていた。

どうして、喜んでくれない。キルキの背が伸びるのを、誰よりも喜んでくれたミルカッセなのに。

自分がいる場所が、大人だけの場所だと思っていると言うことなのだろうか。

キルキは、錬金術アカデミーで、様々なスキルを取得した。キルキが作ったお薬は、施療院で役に立っているし、自炊もしている。確かに学生だが、社会的な経済にもきちんと噛んでいるのだ。

ミルカッセが、なぜキルキを関わらせたがらないのかがよく分からない。

「隣の、エリーも手伝ってくれる。 他の錬金術師達も、動いてる。 キルキも、それをお手伝いするだけ」

「隣って、ひょっとして。 あのエルフィールさんって方?」

「そう。 ときどき怖いけど、凄く頼りになる」

ああと、ミルカッセは嘆くような声を出した。

涙を拭い始めたので、キルキは本当に不安になった。この人は、何をそんなに嘆いているのか。悲しくなってくる。キルキは実戦も経験して、社会で役にも立つようになったのに、そんなに頼りにならないというのか。

「ミルカッセさん、私、絶対やり遂げる。 だから、少し頼って欲しい」

「あんな無茶な話なのに」

「大丈夫。 錬金術、凄い」

胸を張るが、ミルカッセは最後まで表情が晴れなかった。

 

ミルカッセはキルキが小走りで帰っていくのを見送ると、懺悔室に閉じこもった。

良く此処では、義父が人々の悩みを聞いて、その力になっていた。義父の事を感じられるこの場所で、ミルカッセは一人になることが好きだ。ぎゅっと唇を噛んで、ミルカッセは事の顛末を思い出す。

フローベル教会に、司祭数名が訪れたのは、数日前のことだった。

義父が亡くなる時、ミルカッセの事を頼んだ司祭達とは別の人達である。いずれもが敬虔なアルテナ教信者であり、若干硬直化した信仰の持ち主ばかりであった。彼らはミルカッセの、錬金術の産物による薬を使って応急手当をするやり方を、前から快く思っていない様子であった。事実彼らの中には、医療技術にも負けない治癒の能力を持った者もいるのである。

最初に不機嫌そうに言ったのは、中年の女性司祭である。彼女は、非常に優れた治癒能力者であるが故に、施療院の事を敵視していた。

「ミルカッセ司祭。 貴方に、今日は話したいことがあります」

「何でしょうか」

「同格といえど、我らは貴方よりも遙かに経験も豊富な司祭です。 だから、貴方のやり方には、不安を禁じ得ません」

どうして経験が不安を呼ぶのかは、よく分からない。

はっきりしているのは、彼女らはミルカッセに制裁を与えるために来た、と言うことである。

「錬金術によって生成された薬などに頼るやり方は良くありません。 あのおぞましい施療院と、貴方は同じ存在になるつもりですか」

「施療院がおぞましいというのは、偏見だと思います。 多くの怪我人や病人が彼処で助かっているのは事実です」

「そのようなものは、自然の摂理を曲げた結果です」

一刀両断である。実際彼女も、多くの人間を助けてきたという自負があるからこそ、此処までの発言をしているのだろう。

話しても、平行線になるだけだ。他のアルテナ教司祭の中にも、ミルカッセのやり方を好ましいと感じてくれている人もいる。義父が死の間際に後見を任せてくれた人達にも、何人かそういった理解者はいた。

しかし、彼らは此処にはいない。

既に説法も終わっていて、教会にはミルカッセと、押しかけた司祭達だけである。しばしのにらみ合いの末に、司祭の一人が言った。

「それならば、錬金術が信頼できるかどうか、試させて貰おう」

「具体的に、何を私はすればよいのでしょうか」

「今度、合同での孤児院慰問会がある」

思わぬ方向から、話が飛んできた。

アルテナ教会には、孤児院と共同で行っているものも少なくない。このフローベル教会の裏手にも、昔は孤児院があったのだ。既に戦災孤児という存在は少なくなっているが、それでも親がいなくなり、国が支援した施設で面倒を見ている子供は少なくない。奴隷身分になってでも独立したいという子供もいるが、殆どは心に傷を負っていたり、一人で生きていけるような精神状態ではない。

だから、そう言った子供が大人になるまで面倒を見る孤児院は重要だ。そして、そう言った孤児院に対する慰問会が、時々行われるのである。

「其処で、使用される蝋燭が不足している。 錬金術師が優れているというのなら、すぐにでも用意できるだろう?」

「待ってください、どうしてそんなに大量の蝋燭を?」

「半数ほどはアルテナ様のお姿を飾るために用いる」

信者からの布施は、国の厳重な監視を受けているため、少ない。それなのに、そんな事に大量の決して安くはない蝋を買うために用いるというのか。アルテナ神も、決して喜びはしないだろう。

信仰について、時々ミルカッセは疑問を感じてしまう。アルテナ神という中枢を軸にしてまとまるのはいい。だが、個々人によってどうしてもその信仰は違うように思えてならないのである。

「残りの半分は、子供達に振る舞うお菓子を飾り付けるために用います」

「そんな。 いくら何でも、多すぎます」

「使わなかった分は、今後の祭祀の際に用いていくだけのこと。 蜜蝋は保存が利きますし、専門業者に委託すると途轍もなく高くつきます。 かといって、低品質の植物蝋では、子供達やアルテナ様を悲しませることになりかねません。 話によると、錬金術でも蜜蝋は作成が出来るとか。 しかも、かなり安く」

だから、錬金術師の実力を試すためにも、今回は丁度良い機会だと、女司祭は言った。

ミルカッセは唇を噛む。

錬金術が万能などではないことは分かっている。実際問題、彼女が愛した義父は、最後に救われはしたものの、命を取り留めることは出来なかった。応急処置用に揃えている品々も、高品質ではあるが万能ではない。搬送されてきた怪我人を救えなかったことも、何度かある。

だが、はっきり言って、特定の人間にしか扱えない治癒能力や、それに神に奇跡を祈るよりも、ずっと有用だ。一刻を争う怪我人を救うのに、治癒能力持ちがいないアルテナ教会では、結局施療院に助けを用いるしかない現状があるのだ。

確かに今文句を言いに来ている司祭達は、いずれも優れた治癒能力持ちばかりだ。二十年前の大戦で、瀕死の重傷者百人以上を救った実績を持つ者さえいる。

「もしもこれを錬金術師がどうにか出来るのであれば、我らでも今後、応急処置用薬品類の買い付けを検討しましょう」

もしもとは言っているが、拒否は最初から許される空気ではない。

アルテナ教会はどちらかと言えば政治的影響力は小さく、信者の数も少ない。しかしながら、内部ではどうしても軋轢がある。もしも今回の件で失敗したら、ミルカッセは破門され、義父の名に傷を付けることにもなりかねなかった。

それに、彼女らは恐らくこれを利用して、錬金術アカデミーの名を傷つけるつもりだ。相手がどれだけ危険な相手かも考えようとしないで。硬直化した組織の人間達だから、きっと理解していないのだろう。

自分たちが、虎の巣穴の前で無邪気に遊んでいる子供に過ぎないことを。

心を痛めているミルカッセの前で、彼らは既に注文を済ませたことと、買い付けの資金だけを置いていくと、笑いながら教会を出て行った。

そして、数日後には。

話を聞きつけたキルキがやってきて、力になるなどと言い出したのである。

ミルカッセは、もう心の整理がつかなかった。

自分の正しいと思った道を進むと言うだけで、どれだけの苦難があるというのか。分かっていたが、胸が張り裂けそうだった。

神様。どうか私の好きな人達が傷つきませんように。子供達が、幸ある未来を送れますように。

ミルカッセは、ただ。

アルテナ神の像に、祈ることしかできなかった。

ふと気付くと、後ろに幽鬼のような恐ろしい雰囲気の女性が立っていた。

いつ、接近されたかも分からなかった。

「貴方……は」

「ふうん。 見たところ、子ネズミが数匹彷徨いているだけ、という所のようね。 ならば、わざわざ私が駆除する事もないか」

すっと、手を伸ばされた。顔を掴まれ、近づけられる。

良く見ると、造作がとても整った顔立ちの人だ。だからが故に、だろうか。その全身から立ち上る独特の殺気は、全身を竦ませるほどに恐ろしかった。

薄紫の髪の毛は、闇夜にとけるかのようである。その目だけが、爛々と光り続けていた。全身から放出されている凄まじい魔力は、ミルカッセにも見えるほどだった。

「貴方は特に殺す必要も無さそうだし、放って置くけれど。 警告だけは此処でしておくわ。 錬金術アカデミーに不用意に手をだそうとしたら、何が起こるか。 覚悟だけはしておきなさい」

気がつくと、女性は既に姿を消していた。

ミルカッセは自室に戻ると、ベットに涙を吸わせるしかなかった。もはや、事態は彼女がどうにか出来る状況を、遙か昔に通り越していた。

 

3、行軍と共同作業

 

早朝。

エルフィールはキルキと一緒に、荷車を引いてアトリエを出た。キルキは荷車を殆ど空にしているのに対し、エルフィールはいくらかの物資を積んでいる。野営用品だけではなく、武器類、それに蜂を追い払うための木炭もある。

ザールブルグの東門で、ハレッシュと合流。

その隣には、焦げ茶色の髪の毛の青年がいた。着込んでいる鎧は、嫌みのように青い。聖騎士と言うことだ。

飛翔亭で、不意に声を掛けてきた青年である。ダグラスと言うらしい。条件は合っていたし、ディオ氏も身分は保障してくれた。だから一応雇い入れたのだが、まだエルフィールは心底から信用はしていない。

ただ、流石に天下の聖騎士である。エルフィールと一緒に仕事に出たことは大勢の人間が飛翔亭で目撃しているし、馬鹿なことはしないだろう。

「お待たせー。 ハレッシュさん。 それと、ダグラスさん」

「ようっす」

「ああ」

ハレッシュが脳天気な返事をしてくれるのに対して、ダグラスという青年は随分ぶっきらぼうだった。キルキはじっとダグラスを見つめているが、隠れも逃げもしないということは、多分怖いと思わないからだろう。本来の性質が善良、という事なのかも知れない。

今回は現役の聖騎士がいると言うこともある。本来であれば、危険面はほぼない。多少の猛獣や、場合によっては魔物が出ても、苦もなく対処できるだろう。

しかしながら、どうも怪しい部分が多い。エルフィールは備えを怠らなかった。

すぐに荷車を引いて、ヘウレンに向かう。

「これ、野営用の道具か?」

「そうだよ。 二週間分くらい」

「随分多いな」

「今回は必要物資が多いからね。 材料を入手できたらすぐに帰ることも考えてるけど、難しいだろうし。 最悪、メディアの森まで行くことは、事前に伝えてあるよね」

問題ないと、ダグラスは応えた。

元々それほど暗そうな雰囲気はないのに、ダグラスはさっきから口数が少ない。ハレッシュはにこにことし通しなので、逆に違和感が目立った。

既に収穫が終わった穀倉地帯は、穂を失った麦が無数に並び、畑の土が彼方此方で露出して見えている。これから肥料を与えて畑を調整したり、或いは休作植物を植えて土壌を回復させたりする時期に入る。所々緑色が見えるのは、成長が早い休作植物が、既に畑を覆っているからだ。

「良い荷車だな」

「ゲルハルトさんのお店で注文したの。 良い腕をしてるよ、あの人」

「そうか」

「ふーん」

隣で曰くありげに呟いたのは、ハレッシュである。

話によると、ハレッシュとダグラスは腕前もほぼ互角だという。現役の聖騎士と互角であるというハレッシュが凄い一方で、ダグラスも最年少で聖騎士になったという話であり、どちらも相当な使い手だと言える。そう言う意味で、意識し合う仲なのかも知れない。

「ハレッシュさんは、どうですか。 騎士試験」

「ああ、次の試験は受けるつもりだよ。 実技は大丈夫なんだが、どうもペーパーがなあ」

「それは惜しいっすよ。 ハレッシュさんだったら、凄く強い騎士になれるのに。 俺が保証しますよ」

「ああ、どうにかしてなりたいもんだ」

ハレッシュのモチベーションが、フレアにあることは分かっている。どうにも面倒くさがり屋に思えるハレッシュが、努力を続けているだけでも驚嘆に値するというものであろうか。

だが、どちらにしても。ペーパー試験を突破できなければ、騎士の道は閉ざされてしまう。ハレッシュにしてみれば正念場だろう。

ディオ氏も意地悪をしていないで、もう二人の仲を認めて上げれば良いのにと、エルフィールは思う。実際この間フレアと話してみたが、ハレッシュのことは悪く思っていない様子で、結婚できたらいいなあと呟いてもいた。ペーパー試験で、悪い結果が出ないことを、エルフィールも願うばかりである。

というのも、現役の騎士が知り合いに出来れば、それだけコネクションも広がるからだ。仕事も来やすくなるし、何もかも柔軟に行くようになる。ハレッシュのようないい加減な性格の騎士であれば、ちょっとした融通を利かせれば、裏技として、何かあった時に対処が出来るだろう。

もちろんそれを警戒して、シグザール王国も彼に難しいペーパー試験を課しているのだろうが。

何度か休憩を挟みながら、ヘーベル湖の側の街道を迂回して、更に北へ。旅人も北に行くと、かなりまばらになってくる。街道はいくつもの脇道に別れ、それぞれ別の道へ通じるが、時々関所が見えてくる。関所を通るような道へは行かないが、もしも他国へ出たりする場合は、それぞれ面倒な手続きを踏まなければならないだろう。

「ダグラスさん」

「何だ」

「何だか道を知ってるみたいですね。 軍務で通ったからですか?」

「ああ、そんな所だ」

違うなと、エルフィールは判断。そういえば、ダグラスは比較的肌も白く、北方系の人間との混血かも知れない。もしも北方から来た人間だとすれば、道を知っていてもおかしくはないだろう。

別に珍しい話ではない。大陸最強を噂される騎士団長エンデルクも、北方から流れてきた人間だ。未だ小国同士が血で血を洗う戦いを続けている北方から、平穏と豊かな生活を求めてシグザールに流れてくる民は多い。シグザールもそれらの流民を積極的に受け容れ、屯田兵にしたりして、国力の強化に努めているのだ。

ダグラスもそれであれば、モチベーションの高さも理解できる。もしも北に家族を残したりしているのならば、なおさらだろう。

ヘーベル湖を少し過ぎた辺りで、一日目の野営を行う。街道の側だから、野営用の設備が普通に存在していて、ごく普通に休むことが出来た。見張りは三交代で行うことにしたが、キルキも見張りをすると言い出したので、エルフィールと組むこととする。

特に何ら問題は起こらず、夜は明け。次の日も、強行軍が続いた。

「タフだな。 鍛えてるのか」

「これでも、一応は」

「何で錬金術師になったんだ。 その身体能力だったら、軍でも入れるし、場合によっちゃあ騎士にだって」

エルフィールは少し考え込む。

どうもこのダグラスという青年の考えが、未だ読めない部分がある。もちろん錬金術師になったのには当然理由がある。ロブソン村に居場所を確保し、ドナースターク家の家臣として一歩を踏み出すためだ。

ザールブルグに出る半年ほど前に、命を助けて貰った人を探しているという事情もある。だがそれは、二つ目の理由に過ぎない。

結局の所、もう二度と社会的に孤立したくないというのが、エルフィールの動機だ。だが、それを他人に話して理解されるとは思っていないし、同情して貰おうとも考えてはいない。

「まあ、色々と事情があるんです」

「ああ、そうかよ」

やはりダグラスは不機嫌そうだった。ハレッシュが、女の子には優しくしないといけないぞとか、笑いながらその肩を叩いた。

 

ヘウレンはヘーベル湖北に広がる中規模の森で、近隣に村や町が存在せず、結果手つかずの自然が残っている。

周辺には村も希で、それが故に魔物が出ることもあるようだ。もっとも出たら即座に専門家が大挙して訪れ、片っ端から狩り倒し、瞬く間に皆殺しにしてしまう様子だが。何処でも当然のように起こっていることである。

小高い丘に登り、緑の絨毯にも等しい森を見下ろす。

美しい光景だ。ロブソンの周辺の森も、こんなだった。アデリーさんと一緒に、食べられる木の実の見分け方を勉強した時が特に楽しかった。アデリーさんは甘いのより辛いのが好きらしいので、エルフィールはこの時だけは変な優越感を感じたものだ。

どうもこの辺りは、かなり前に一族断絶した大貴族の私有地であったらしく、それで軍も民間人の侵入を近年まで許さなかった、らしい。だがしかし、今では一般への開放も行われ、有用な素材が取れることから錬金術アカデミーでも有用な採取場として生徒達にその存在を教えているほどだ。

しかし、一瞥した所、どうもきな臭いとエルフィールは思った。

シグザール王国で貴族は資格の一つである。それを維持するにはある程度の収入が絶対不可欠で、しかも国に厳重に監視される。隣の国ドムハイトでは豪族達が半ば独立王国のように領地を切り盛りし、彼らの上に乗っかった貴族達が好き勝手をしているのが有名だ。もっとも、ドムハイトの新しい女王の方針で、それも過去の話になりつつあるようだが。

いずれにしても、貴族が野放図な悪行三昧を行ったり、土地や金を蓄えることは、シグザール王国では難しい。国にある程度の利益をもたらしながら勢力を拡大することは出来るが、それでもかなりの監視がつく。

ロブソン村の支配者であるドナースターク家が良い例である。辣腕過ぎる女当主を警戒しているシグザール王国から、今散々嫌がらせを受けているという話もある。とにかく、大貴族であっても、軍事と経済の中枢を抑えている国には逆らえない。それがこのシグザールという国の特色なのだ。

それが故に、一貴族の所有物と噂されるこの森には、違和感がぬぐえない。

「いやー、綺麗な場所だなあ」

「綺麗。 動物さん、たくさんいそう」

ハレッシュに肩車して貰ったキルキが、手をかざして辺りを見回している。自称大人にしては、随分子供っぽい行動である。

もっとも、子供を産めるようになったからと言って、環境によっては子供そのものの人間もいる。田舎のように、社会の歯車として存在することを要求されるような厳しい環境では、強制的に大人にならざるを得ない。しかしながら、豊かな物資と穏やかな生活に恵まれた都会では、比較的精神の老成化は緩やかなように、エルフィールには思える。

「いいのか、のんびりしてて」

「予想よりだいぶ早く着いたし、キルキも結構疲れてるから。 少し休んで気分を切り替えてから、採集を行うよ」

「何だ、少しは優しい所もあるんじゃねえか」

「はあ?」

妙なことを言われたので、ぽかんとしてしまう。

エルフィールは合理的な事を言っただけなのだが。根を詰めるよりも、時々気晴らしを入れた方が、効率が上がるのは当然だ。この辺を理解していない経営者などが、時々人材を使い潰してしまうという。

確か騎士団でも、時々気晴らしに休暇を入れることを義務づけているとかアデリーさんは言っていた気がする。そういえば、エルフィールを育てていた頃、騎士としてアデリーさんは何の仕事をしていたのか。未だに分からない。

エルフィール自身は、せっせと木炭を用意する。体に巻き付けておいた生きている縄は、まだどれも使わない。

使うのは、これからだ。

無数の鳥が、群れを成して空を飛んでいく。青い羽根を持つ、美しい鳥たちだ。猛禽に襲われることもなく、悠々と飛んでいる姿は優雅でさえある。

下を見れば、細かく砕かれた腐葉土が豊かな土を造り出し、多くの植物が生き生きと葉を伸ばしている。昔は庭園だったとしても、今はもう面影もない。ただし、自然の造り出す美しさがあるのは、間違いない所だ。

エルフィール自身も、自然の臭いを嗅いでいると落ち着く。

深呼吸。そして、じっくり心を切り替えた所で、仕事に取りかかった。

まず、手近な木に登る。花を探すのだ。

時期によって、咲く花は違う。当然蜂も生きるためには花の蜜が必要になる。肉食の種類もいるが、蜜蜂は花の花粉と蜜を主に食べているので、結局生きるためには植物の花が必要になってくるのだ。

つまり、冬を除いて、大体森には花がある。

そして、其処を狙えば、蜜蜂を探すことが可能だ。そして見つければ、追跡して、巣を奪うことが出来る。

ただし、危険もある。森に住んでいる蜜蜂には天敵が多いので、攻撃性が高い。巣に蓄える蜜もあまり多くはないが、これに関しては今回別に気にしなくても良い所だ。ただ、腐敗を避けるため、巣に入っている幼虫や蛹は全て捨てていき、さらには燻して行くことになる。

幸い秋の涼しい気候が故に、巣の蜜が腐るのはしばらく防止できる。更に言えば、アカデミーの教科書によると、蜂の巣には腐敗を防ぐ成分もあるという。それでも、早めに行動しなければいけない。

するすると木に登るエルフィールを見て、ダグラスが呆れたように言った。

「ずいぶんと木登りが達者だな」

「故郷で散々やったからね。 ダグラスさんは?」

「俺だってやったさ。 でも、そこまでじゃねえよ」

ハレッシュも戻ってきて、周囲の警戒に当たってくれている。エルフィールは遠くまで見回して、一旦木から下りた。

次の木に登る。そうやって、少しずつ探査範囲を拡げていく。

キルキには木炭を使って蜂の巣を燻すと伝えてある。既に彼女は準備を始めていて、いつでも動けるようにスタンバイしている。

ほどなく、エルフィールは花畑を見つけた。

花畑と言っても、もちろん天然のものである。森の斜面に出来たものであり、規模としてもそれほど大きくはない。冬になりかけている時期だというのに、植物のたくましさには感心させられるが、どちらにしてもあまり蜂は来そうになかった。

だが、蜂が冬眠するにはまだ早い事を鑑みるに、見に行くのは無駄ではないはずだ。

さっと木から下りると、荷物ごと移動。影の方向などから、花畑の方角は既に把握済みである。

黙って荷物を引いてくれる男二人。ハレッシュは斜面の少し上くらいに、案外器用に荷車を止めた。

「花畑に来て、蜂を探すのか?」

「蜂も食べなきゃ生きていけないからね。 其処で、働き蜂が巣に蜜を持ち帰るのを、追いかけるの」

「ひでえ話だな」

「流石に巣を全部持って行きはしないよ。 半分ぐらいは取っちゃうけど」

全部巣を取ってしまうと、今度は蜂自体が絶滅する恐れがある。

ザールブルグなどで試験的に行われている養蜂業者でさえ、自分の飼っている蜂に其処までの事はしないだろう。ましてや、自然に暮らしている蜂に壊滅的な被害を与えてしまうと、あとの生態系に多大な迷惑を掛けることになる。

既に人間が入ることが許可されている以上、生態系は乱れている。それを加速しないように、動かなければならなかった。

蜂を見つけた。だが蜜蜂ではなく、大型の丸花蜂だ。これは巣の質が良くないため、放っておく。

雀蜂も来た。これは蜜蜂を獲物とするためである。同じく針を持っているが、頑強で蜜蜂などでは歯が立たない。あっという間に引き裂いて、肉団子にしてしまう。もちろん人間にとっても危険な種類だ。

雀蜂が近付いてきたので、生きている縄が反応。目にもとまらぬ速さでしなり、たたき落とした。地面でもがいている雀蜂は、しきりに針を出し入れしていたが、何度かしなって上から捻り潰す。すぐに動かなくなる。

「よーし生きている縄三号、良くやった」

「おい、それなんだ」

「生きている縄。 擬似的に縄に生命を与えて、私好みに調教してあるの」

生きている縄も、調整を続けている。例えば今動いた奴は先端部分を金属で覆い、さらにはとげとげを付けてある。

流石に剛胆なハレッシュも驚いたようだが、気にせず作業を続ける。雀蜂は死ぬ際に、攻撃を誘発するように、何かしらの手段で周囲に知らせていると聞く。あまりもたもたは出来なかった。

「エリー、あれは?」

「どれどれ、ええとね。 それは駄目。 蜜蜂に似てるけど、アブの仲間」

「詳しいな」

「森で生活するには必要な知識だったからね。 仲間に似せた姿で近付いて、蜜蜂を襲う凶暴な奴だよ」

なかなか見つからない蜜蜂。今度は大型のクマバチが来た。相手にせず作業を続けていくうちに、花畑の一角で、ついに見つけた。

他の種類の蜂もいるので、見失わないようにするのが大変だ。

「いた?」

「いた。 あれ、見失なわないようにね」

「分かった」

キルキが真面目に頷く。

ハレッシュには荷車の側に残って貰い、代わりにダグラスに来て貰う。ダグラスが剣を振るい、近くを飛んでいた雀蜂を一刀両断にした。見事な剣の技だが、無駄使いのような気もした。もっとも、それはエルフィールも人の事は言えないが。

大量の花の蜜を混ぜた花粉団子を抱えた蜜蜂は、若干蛇行しながらも飛んでいく。やがて、木のうろに入っていくのを確認。

頷く。

キルキが目をつぶり、彼女の手の中にある木炭が発火。大量の煙を出し始める。熱操作の能力だ。キルキはこれを、以前より遙かに上手に使いこなせるようになっている。

するりと生きている縄が伸びてそれを掴み、木のうろに投じた。

大量の煙が出始める。蜜蜂が何事かと飛び出してくるのが見えた。かなり興奮しているので、一旦距離を取る。

「よし、2号、1号、協力して蜂の巣を引っ張り出せ」

「便利だね、それ。 私も研究してみようかなあ」

「結構難しいよ。 基本的に悪霊が入ってる訳だし、生者に攻撃しないように、攻撃するように、命令を切り分けるのが結構大変」

ダグラスが剣呑な表情を浮かべているのに気付くが、無視。

やはり此奴、何か目的があって近付いてきていたか。

木のうろから、蜂の巣の欠片が引っ張り出される。何層にも重なった立派なものだ。用意してきた麻袋に入れる前に、巣の入り口で何度も叩きつけるようにして、幼虫や蛹を全て落とす。

凶暴なようにも見えるが、必要なことだ。

巣の一つ目を、麻袋に入れる。ざっと確認。とりあえず、腐りそうなものは残っていない。

二つ目の巣を取り出す。中にはまだ巣が残っているようだが、このくらいにしておかないと、この巣の蜜蜂は全滅する。再建も出来なくなるだろう。

情けを掛けるのではなく、自然の生態系に影響を与えないための措置だ。後で燻す必要もあるが、それは次に野営をする時で大丈夫だ。

「よし、次の巣、行ってみよう」

「おーし。 意外にすんなりいったな。 それでどれくらいの蝋燭が作れるんだ?」

「これなら七〜八本って所かな」

まだ、先は長い。キルキの分、それにアイゼルやノルディスに任せる分も考えると、もっと大きな巣を、急いで探さなければならなかった。現在、養蜂業者などから集められたのは精々十数本分。これからアイゼルが彼方此方駆け回ったとしても、大して量に変化はないだろう。

蝋を作るのは初めてではないから、失敗する事を考えても、必要な分量はさほど水増ししなくて大丈夫だ。

荷車に蜂の巣を積み終えるのと、ダグラスが剣に手を伸ばすのはほぼ同時。

眼を細めたエルフィールが飛び下がる。既に、八本仕込んでいる生きている縄は、全てが臨戦態勢になっていた。

キルキを抱えて、飛び退くハレッシュ。良い判断である。

近接戦闘では、勝負にならないほど力量差がある。だがエルフィールはダグラスを怪しいと思っていたから、それなりに準備をしていた。生きている縄は周囲に蠢き、無数のトラップを作り上げている。更に懐には、幾つか試作品の殺傷力が高い兵器群を仕込んでいる。

そして、縄の一つが手元に秋花を持ってきた。手札にある武器の中では、中距離戦にはこれが一番だろう。

「お、おい!」

「一つ聞かせろ。 その縄、どうやって人間に攻撃しないように設定した。 まさか、人体実験したんじゃないだろうな」

「悪いけど。 応える義務はないよ。 貴方こそ、聖騎士だからといって、雇い主に剣を向けて良いと思ってるの?」

「ダグラス、エリーの言うとおりだ。 これ以上馬鹿なことをするようなら、俺もエリーに加勢するぞ」

ハレッシュの力量は、ほぼダグラスに拮抗している。それでもダグラスは、剣を収めようとはしなかった。

面倒な奴だ。多分己の信念を、現実処理に優先させてくる型の連中だろう。それ自体は悪いことではないが、敵対すると色々面倒な相手である。

キルキは突如の修羅場に、困惑してエリーとダグラスを交互に見つめるばかりだった。ハレッシュは覚悟を決めて、ゆっくり槍を構えると、突撃技の態勢にはいる。以前何度か見たが、凄まじい破壊力だ。ダグラスは見たところ相当な剣の使い手だが、エルフィールに注意を取られた瞬間、ハレッシュの槍で体を貫通されるだろう。

エルフィールは、ダグラスが構えを解かないのを見て、指を鳴らす。

途端に、四本の触手が、エルフィールを高々と空に抱え上げた。長い足四本を使って、いきなり背伸びしたような感触だ。

戦闘に置いて、重要なこと。それは自分の得意な距離を取ること。そして何より、相手の頭上を取ることだ。しかも周囲は鬱蒼とした森で、触手を一二本切られた所で高度を維持できるし、立体的な挙動も可能だ。

流石に唖然としたダグラスに、更にエルフィールは懐から、卵大の物体を取りだしてみせる。

クラフト。

最近、アカデミーで改良が重ねられた小型の爆薬である。エルフィールが作ったこれは、火力はさほど高くないが、相手の戦闘能力を沈黙させるには充分な破壊力だ。

ダグラスは呻いて、二歩飛び下がる。つまり、遠距離攻撃の手段を持たないと言うことだ。

勝った。

さて、どう料理してやるか。そう思った瞬間、ダグラスは全身を何かに掴まれたかのように、硬直させた。

全身から脂汗を流しているのが分かる。

エルフィールには察知できないが、何かがピンポイントでダグラスに殺気を叩きつけているのだろうか。或いは、戦闘続行が著しく拙い状況に陥ったのかも知れない。

今なら、聖騎士を簡単に殺せる。

証人もいる。ハレッシュは、エルフィールのために証言してくれるだろう。よりにもよって、聖騎士が外の仕事で、雇い主に剣を向けたと。もちろん騎士団はもみ消しに掛かるだろう。そこからが、問題だった。

さて、どうするか。

めまぐるしく思考を巡らせるエルフィールの前で。

ダグラスが、剣を捨てた。

「す、すまん。 頭に血が上りすぎた」

「……」

ハレッシュがため息をつき、ダグラスの剣を取り上げた。何か、自分がとても大きな事に関わっている。

エルフィールはこの時、それを強く実感した。

そうでもなければ、今ダグラスが見せた信念が、へし折られるようなことはあり得ない。まだ若い、それこそどんな無茶でもやらかす年代のダグラスが、己の誇りを放り捨てるような行動を取ったのである。

彼が、とんでもない存在の怒りを感じ取ったのは、間違いがなかった。

「悪いけど、しばらくは丸腰でいて貰うわよ」

「……」

「しゃあないな。 俺が二人分働くか」

キルキはやっと修羅場が収まったことでほっと一息ついていた。

エルフィールもどうしてか、キルキの前で人間を殺さず済んで、ほっとしている自分に気付いていた。

此処に来て、いきなりのハプニングだ。まあ、最悪の予想までは達していない。戦力が削られることは、最初から想定していた。後は、キルキとエルフィールが無事で生きて帰ることを最優先にすればいい。

まだ荷物も失われていないし、作戦も続行可能。充分な状況である。

エルフィールは怒りを収めると、再び蜂の巣探しに戻る。今日中に、後四つは同規模以上の巣を見つけておきたい所であった。

 

夕刻。

黙々と野営の準備にはいる。ダグラスは一人離れた所に座り、ハレッシュとエルフィール、それにキルキの三人で交代の見張りをすることとなった。もちろん、ダグラスの剣は取り上げてある。

ハレッシュが一度、ダグラスの所に行った。

エルフィールはかなり耳が良い方なのだが、二人の会話は聞き取れなかった。ハレッシュはどうやら諭している様子なのだが、ダグラスがそれに妙な応じ方をしているようなのだ。

やがて、寝る前の天幕に、ハレッシュが戻ってきた。

「すまん。 後で言っておくから、許してやって欲しい」

「今はそう言う状況じゃないよ、ハレッシュさん。 安全を図るためには、殺すのが一番良いくらい」

「頼むから、そういう冗談は止めてくれ」

「分かってる」

キルキが怖がっているのを見て、ハレッシュが若干語尾を強めた。

だいぶタフになってきたキルキだが、やはり人間同士の修羅場を見ると、流石に怯えもする。ましてや、キルキは前々からエルフィールのことを信頼しつつも何処かで怖がっている節がある。

「ダグラスは、どうも錬金術師に偏見があるようでな。 その、あまり言いたくはないんだが。 その縄で、無為に人を殺したりしてないよな」

「必要がないから、そんな事はしていません。 人体実験はちなみにしましたが、自分の体でやってます」

もしも毒物や、それに近い激烈な効果のある薬物の場合、実験は動物で行う。残念ながら、そうしないと技術は進歩しないのだ。もちろん、人間に対する実験が必要になってくるものもある。

それに関しては、可能な限り自分で実験を行うつもりだ。

そうでない場合は、犯罪者などを用いる。例えば国からサーチアンドキルの指令が掛かっている凶悪犯などである。そういうと、ハレッシュは大きく嘆息した。

「ああ、何だかお前をダグラスが危険視する理由が、分かった気がするよ。 実は俺が良く知っている錬金術師も、そう言って大規模な兵器の実験を凶悪な山賊に対して行ったことがあってな。 あれは地獄絵図だった」

「具体的にそれが誰かは分かりませんが、ダグラスさんはその地獄絵図を見たんですか?」

「いや、その場に彼奴はいなかった。 あんたの師匠、確かアデリーだったな」

「はあ、そうですけれど」

そう言われて、ぴんと来る。

まさか、噂に聞く鮮血のマルローネか。

錬金術師をしていれば、どうしてもその名前は耳にする。どうもロブソン村を救ってくれたのも、その人らしいと言うことも。アカデミーに入学するおよそ半年前の悲劇も、彼女が回避してくれたと聞いている。

しかしそうなると、ダグラスも恐れ畏れる錬金術師と、初めて関わりがもてたのかも知れない。それは、とても嬉しいことであった。

「何だよ、どうして嬉しそうにしてるんだよ」

「いえ、続けてください」

「ああ、そのアデリーの関連だろうな、ダグラスが怒ってるのは。 だが、彼奴には彼奴なりの色々な事情があるんだ。 二度と馬鹿なことはしないように言い聞かせておくから、頼むから許してやってくれ」

剛胆なハレッシュが平身低頭しているのをみると、何だか気の毒になってくる。それにこの人は大雑把だが、信頼性自体はとても高い。大きく嘆息すると、エルフィールは多少無理して笑顔を作った。

「分かりました。 一度だけ、信じましょう。 剣も返して上げてください」

「すまんな、助かる」

「ただし、もしもこれ以上馬鹿なことをするようなら、ドナースターク家を通じて、今回の件を正式に騎士団に報告します」

これは、脅しと同時に、様子見でもある。

もしもダグラスが不穏なことを考えているのなら、多分此処でしかけに来るだろう。その場合は、今度こそ、殺すだけだ。

ハレッシュが天幕を出てくると、今までずっと黙っていたキルキが、悲しげに目を伏せた。

「エリー。 何だか分からない。 どうして、あんな事になったの?」

「大丈夫。 多分、もうダグラスさんも、乱暴なことはしないよ」

「本当?」

「私は少なくとも、自分からはしかけない。 キルキから、後でダグラスさんを怒っておいてよ」

分かったと、キルキは大まじめに頷いていた。

これで良い。元が善良なだけに、子供に言われれば何よりもこたえるはずだ。そう言う意味で、今回はキルキを有効に活用させて貰うことにした。

錬金術の方は主席を取れても、キルキはまだ精神的には親が恋しい年頃だ。そう言う意味で、何処か様子がおかしいダグラスの態度を計るには、丁度いい相手でもあった。

 

翌朝から、ヘウレンをもう少し探索することにした。既にうち捨てられた蜂の巣も発見。多少古いが、蝋を取るには問題がない。これに関しては崩して木のうろからだし、全てを回収する。

ぽっかりと木に開く大きな孔。

キルキはそれを見て、次は自分もやってみたいと言った。

キルキはサバイバルで少しずつ鍛えてはいるが、まだまだ木登りも走るのもそれほど早くはない。しかし、キルキが戦力になれば、より収穫は早くなる。ダグラスと組ませて、広域で採取させるのも手だろう。

まず、木登りについて、丁寧に教え込む。木の上に体を引っ張り上げるのではなく、一体になって這い上がる感触であると、手取り足取り教え込んだ。やはりキルキは飲み込みが早いが、しかし体を動かす方は、一度で成功とは行かない。

四回目で、やっと古い巣がある所まで行けた。生きている縄の内、三本がいざというときに備えて待機している。太めの枝に跨ったキルキは、渡しておいた小さなナイフで、もう誰も主がいない蜂の巣を取りだし始める。欠片が一つ。小さな虫が、突然の光に驚き、飛んで逃げていった。

「びっくりした!」

「蝙蝠も住んでるかも知れないよ。 びっくりして、落ちないでね!」

「分かってるー!」

キルキが大まじめにこたえながらも、おっかなびっくり作業を続ける。

その様子を、少し離れて見つめるダグラス。ハレッシュは周囲に何がいるか分からないからか、相当に緊張している様子だった。

ダグラスは今朝、謝ってはくれた。

しかし、どうしてあんな強硬な態度に出たかは、話してはくれなかった。

まあ仕方がない。もしも噂に聞く鮮血のマルローネに何かされたのなら、相当な恐怖がその体に残っているだろう。ロブソン村での事や、業績を聞いて、かの人のようになりたいと思っているエルフィールである。いずれダグラスとは、戦うことになるのかも知れなかった。

キルキが可愛い悲鳴を上げたので、視線を戻す。

やはり蝙蝠だ。びっくりして飛び出してきたのを一匹、生きている縄が捕獲。エルフィールの手元に持ってきた。小型の蝙蝠で、特に食べても美味しくない種類である。そのまま放り投げて、逃がしてやる。

「気をつけてー!」

「へいき! もう終わる!」

両足でしっかり木の枝を挟んで、キルキが下に叫んだ。

取り出される蜂の巣を、生きている縄が次々下に持ち出す。やがて、本当に一つ残らず搬出は終わった。

肩を叩きながら、キルキが顔中に疲労を浮かべている。頭を撫で撫でしたい衝動に駆られるが、一人前の大人として扱って欲しがるキルキには侮辱になるから、別の方法で労う。

「お疲れさまー」

「うん。 次はもっと早くできる」

「そっか。 頼もしいよ」

荷車の方を見る。これでざっと蝋燭100個分という所か。

まだヘウレンの周辺だし、奥に入れば更に大型の巣も発見が見込める。その代わり、かなり手強い猛獣も出現が予想されるだろう。此方は聖騎士にそれに匹敵する実力者が一人という強力な布陣だが、その半分の戦力に信頼性がない。残念な話である。

「このペースなら、メディアまで行かなくても済みそうだな」

「噂には聞いてますが、大変な所なんですか?」

「ああ、常緑なだけあって、植物も動物も桁外れに大きくてな。 熊や鰐なんかも、この辺に住んでる奴とは大きさが全然違う。 中堅以上の冒険者じゃないと、危なくて入れやしない」

多分足を運んだことがあるからだろう。ハレッシュはそんな事を言った。

そのまま、森の奥へ。

木々の背が伸びてきて、逆にブッシュが減って歩きやすくなる。その代わり、木のうろが非常に高い位置に散見され、登るのが大変になってきた。

適当な木に登り、周囲を観察。

花畑を探すよりも、花を咲かせている木を探す方が早い。もちろんそれは樹冠付近にあるから、木を登らないと見つけられない。

街などに生えている街路樹ならともかく、こう言った背が高い森にある木は、人の目に見える所には花など咲かせない。咲かせた場合は、真っ先に草食獣の餌にされてしまう。もちろんそれも植物は計算に入れているのだろう。木の実などが不必要に美味しいのは、それが原因だろう。もちろん、花の中に蜜が入っているのも。

森の上の方を、類人猿が通っていくのが見えた。中型の類人猿で、手がとても長い。人間と良く似ていることから、人間の先祖なのではないかと言われている動物たちだ。多分人間に似ているからだろう。食用としない地域も多い様子である。

「エリー、糞がある」

「どれどれ。 おっと、猪だねこれは。 この大きさだと、不意を打たれると怪我しそうだね」

「警戒はしておくさ」

荷車を引きながら、森の中を移動。

途中、一つ二つと蜂の巣を見つける。蜜蜂の巣ばかりではなく、攻撃性が強いアシナガバチの巣もあり、また雀蜂のもあった。こういう種類の蜂は、巣の作り方が根本的に蜜蜂とは違うことが多く、蝋には大きな品質の差が出る。危険性も高いし、迂闊には近寄れなかった。

ダグラスは少し距離を置いて、周囲を警戒している。

胃を痛めそうな表情だった。

「さっきより、明らかにペースが落ちてないか?」

「木の背が高いですからね。 蜜蜂を見つけるのも大変ですし」

ハレッシュにこたえながら、更に森の奥に。

キルキが不意に、エルフィールの服の袖にしがみついてきた。彼女の表情に、あまり好意的ではない存在を感じ取った時に見せる、畏怖が浮かんでいた。

生きている縄達も、皆警戒している。ざわついているのが分かるのだ。

エルフィールは彼らに、自身が死霊であるかのように暗示を与えている。生体魔力がないから出来る錯覚だ。だから、より高位の死霊に、連中は警戒を促している訳だ。眼を細めて、辺りを警戒。

そして、周囲に散らばる大理石の欠片。これは、件の貴族の庭園の跡地という奴か。そういえば、不意に森の植生が変わった。辺りには、さっきよりも背が低い木が、無数に林立している。

地面が凹んでいる。これは、川の跡か。川にしては少し水深が浅いし、庭園の美観として作られた水路かも知れない。

こっちの木は、大理石の柱に絡みつくようにして建っている。

奥の方を見る。

焼けただれた地面の跡。そして、その周囲には、無数の地面が抉れた跡や、木々が傷ついた残骸である炭が散らばっていた。

「ここで、何かがあったんだな」

ダグラスは無言で、剣に手を掛けたまま、辺りを見回していた。この男、多分事情を知っている。

だが、それを今指摘しても仕方がない。エルフィールより格上の存在が、此方を狙っているという事実に、今は対処しなければならないのだ。

「気配が強いぞ。 離れた方が良さそうだ」

「分かりました。 この近辺は避けて、蜂の巣の探索を続けましょう」

「それが良さそうだ」

森の中心部。何らかの悲劇があったのは間違いなく、それによる怨念が渦巻いていると見て良かった。

生きている縄には、悪霊が封じ込んである。

連中の恐怖を直接に喚起する、より高位の悪霊であろうか。もしそうであれば、色々と面倒ではある。人間にとって、悪霊はそれほど強大な天敵にはなり得ないが、しかし今は人数が少ない。交戦を避けるのは、正しい判断であった。

森の辺縁にまで引き返すと、強い気配は消えた。ハレッシュが額の汗を拭う。キルキはぐっと握りしめていた杖を、ようやく手放して荷車に収めた。

「怖かった……」

「さて、採集を続けようか」

エルフィールは周囲を見回すと、あくまで静かに。現実的に言った。

トラブルは起こっている。

だが、まだ致命的ではなかった。

 

4、蝋を巡り

 

結局メディアまで足を運ぶことなく、必要量の蜂の巣は収穫できた。古いものはそのままアトリエに運ぶ。新しいものは、蜂蜜を扱っている業者の所に持ち込み、蜜を売りさばいて残骸だけ受け取った。

蜂蜜を作る時、その作業は凄惨そのものだ。

袋に突っ込んだ蜂の巣を、そのまま叩きつぶし、幼虫も蛹も成虫も卵も花粉もまとめて関係無しに絞り尽くす。結果取り出されるのが濃厚な蜂蜜なのである。蜂の巣を持ち込んだお婆さんは、顔色一つ変えず、綿棒を振るって袋の中の巣を叩きつぶし、臼で蜂蜜を取りだし続けた。

三日ほど時間が余ったが、これは前倒しと見るべきである。

キルキにアカデミーに行ってもらい、エルフィールはアトリエに蜂の巣を運び込む。失敗する事を想定した分も含めて、既に必要量は揃っていた。

授業が終わったアイゼルとノルディスが駆けつけてきたのは、夕刻である。二人とも、一応成果はあったらしく、それなりに表情は明るかった。

「凄いよ、エリー。 本当に蜂の巣を集められたんだね」

「結構大変だったけどね」

「護衛の人が、途中エリーの生きてる縄を見て、凄く怒った。 でも、エリーもっと怒った。 それで、凄く怖かった」

「そう。 事情はよく分からないけれど。 兎に角、無事で良かったわ」

アイゼルが不安そうにしていたキルキを抱き寄せた。肩の力が抜けてから、彼女はどうもとても優しい人らしいと言うことが分かってきたが、それは良いことなのだろう。少なくとも、エルフィールにはどうしても真似できない事ではある。

なぜなら、優しいというのがどういうことか、よく分からないからだ。

笑顔だって作れるようになったのは最近で、しかも他の人間がどういう感情の下作っているか未だに理解できていないのである。

「それで、蜜蝋の作成だけど」

「あ、うん。 作り方は、授業とかで習ったのかな」

「独学で」

「同じく」

アイゼルに抱きしめられたままのキルキが挙手。ノルディスは頷くと、持ってきたらしい本を出す。

どんどん気力が戻っているからだろう。エルフィールが読んだこともない、難しい本であった。こういうのを見ると、地力の違いを感じてしまう。元々頭の違いはあるのだろうが、気を抜くと一瞬で追い抜き返されるなと悟らされる。

「この本によると、燃える砂に頼らなくても、恒温で安定した発火物質は比較的容易に作れるみたいだ。 僕とアイゼルで、試作品も作ってみた」

そう言ってノルディスが机上に出したのは、木炭に似た塊だった。大きさは小指の先ほどである。

フラムと呼ばれる戦略火器がある。近年ある錬金術師によって長足の進歩を遂げた爆弾なのだが、これはそれの中枢に使われる火薬を改良したものだという。フラムは完成度が高い火器だが、火薬にはまだまだ改良の余地があり、それがその例だという。

「火力を落として、安定性を高めたものだ。 かなり継続的に、安定した火力を実現できる。 調合も難しくないから、アイゼルと二人で必要量を作っておいた」

実際に、燃焼実験をしてみる。確かに安定してかなりの火力を出すことが出来る。

小さな破片が明々と燃え上がる様は、独特で、不気味でさえあった。一旦燃料の火を消すと、今度はアイゼルが持ってきたものを取りだした。

「それで、これが作成してみた蝋よ」

机の上に置かれた蝋燭は、確かに蜜蝋の美しさがあり、実験的に火をつけてみると香しい煙が辺りに立ちこめた。

出来としては悪くない。納品する品としては、充分な出来だろう。

「良し、この品質で量産できれば、仕事としては充分だね」

「既に僕とアイゼルで、三つずつ仕上げてる。 二人の作業が大変なようなら、僕たちの方で手伝うから、どんどん廻して欲しい」

「分かった。 必ず、仕上げよう」

奥の方に積んである蜂の巣の残骸を分ける。キルキの荷車に積んで、アイゼルとキルキが、二人でアカデミーの寮に戻った。

まずは、五十を目標とする。

期日は、着実に近付きつつあった。しかし、予定量は確保できたし、前倒しで作業も進んでいる。

最悪の事態にはほど遠い。むしろ、希望が見えてきてさえいた。

 

エルフィールは、ダグラスにもきちんと給金を払ってくれた。仕事量に応じてと言うことだが、ハレッシュより目減りしたのは仕方がないにしても、最初の契約料通りの賃金である。

剣を向けた相手だというのに。

ダグラスは、エルフィールに鮮血のマルローネと同じ臭いを感じた。話は既に聞いている。奴はアデリーの弟子であり、鮮血のマルローネが何らかの目的をもってアカデミーに送り込んだ存在だと。アカデミーも奴に何かしらのことを期待しており、騎士団はそれを警戒しかつ牽制するために監視をしているのだと。

アカデミーの方でも既に大物が動いていて、かなりの大型プロジェクトになっているという。

だが、それが何だとダグラスは思う。

キルキという幼い娘も側にいたが、あの冷厳そうなエルフィールの犠牲になっているのではないかと思ってしまうと、腸が煮えくりかえりそうだった。そして如何にも危険そうな錬金術の道具をエルフィールが使っているのを見て、ダグラスは頭が沸騰して、つい剣に手を掛けてしまった。

自分を犠牲にして耐えていたアデリーのことを思い出したから、かも知れない。

幸い、血は見ずに済んだ。だが、見られてはならない相手に見られてもしまった。今後、厳しい展開が待っているのは、想像に難くない。

憮然として、一旦自宅にしている騎士団の寮に戻ろうとしたダグラスは、足を止める。

ヘウレンで、彼に殺気を叩きつけた存在。

今や若手最強の名も高い聖騎士、エリアレッテが。向こうから歩いてきているのが見えたからである。

人食い薔薇の異名を持ち、巨大な斬龍剣なる武器を使いこなす聖騎士。今日はお得意の武器は手にしていない様子だが、それでもダグラスでは勝てるかどうか。エリアレッテは無言で顎をしゃくる。そして、路地裏に、ともに移動した。

「貴様、どういうつもりだ」

エリアレッテは、開口一番にそう言った。声には怒りも何もなく、感情がまるでこもっていない。

かってこの女は頭が悪く、豪華な衣服を身に纏い、使用人上がりの取り巻き騎士達をつれて闊歩していたという。それがある事件からまるで人格が変わったようになり、今では立派な生ける戦闘兵器という訳だ。

クーゲルの愛弟子と言うこともあり、師匠のことを言う時だけは何か嬉しそうにするという。それが却って不気味である。息を呑むダグラスに、エリアレッテは顔を近づけてくる。

「師匠は今回の貴様の行動を問題視している。 仲良くなれと命じたはずなのに、なぜいきなり命のやりとりをしようとした」

「そ、それは」

「相手の印象は最悪だ。 錬金術アカデミーも、貴様の行動を良くは思っていない。 錬金術アカデミーは騎士団にとっても有為な相手になりつつある。 貴様は聖騎士でありながら、それを理解できていないのか」

エリアレッテの機械的な台詞には、やはり批判の意図は籠もっていない。ただ単純に、ダグラスの反応を見ているだけだ。

それが余計にダグラスの不安と恐怖を煽る。

ダグラスも、若くして聖騎士になった人間だ。騎士団の闇は既に目にしている。

騎士団長のエンデルクからして、強いえぐみを持った人間なのだ。クーゲルのような人間も動いているこの事件は、はっきりいってとてもまともなものとは言い難い。シグザール王国の暗部そのものである、牙の者達さえ動いているほどのプロジェクトなのだ。それに、ダグラスはいきなり石を投じてしまったに等しい。

いきなり、胸ぐらを掴まれ、つり上げられた。凄まじい腕力だ。

「ぐっ、うっ!」

「お前の意図が読めない。 私は別にお前などどうなろうと構わないが、師匠が迷惑を被るのであれば許さない。 殺す」

「……師匠、師匠って、お前。 変わったんだな、本当に」

「そうだ。 私にとって今大事なのは、師匠と、己の技を極め挙げることだけだ」

不意に手を離された。

咳き込むダグラスは、信じがたいことを聞く。

「今回の件は不問に決まった。 だが、今回だけだ」

「何、だって……」

「師匠がじきじきに貴様の便宜を図ってくれた。 だが、次にもし同じ事をしたら」

師匠が直接、お前を殺しに行くだろうと、エリアレッテは言葉を紡いだ。

戦慄するダグラスを置いて、エリアレッテは何処かに消える。立ち上がったダグラスは、己の感情に伴う突発的な行動を悔いるよりも、今動いている闇の大きさに戦慄してしまった。

そして、唇を噛む。

俺には、何も出来ないのか。

あの時と同じように。アデリーは結局、ダグラスにはどうすることも出来なかった。今は聖騎士になっているが、あの凶暴な鮮血のマルローネの手の内だ。

故郷を逃げ出した時と、同じように、無力感が全身を包む。

今、ダグラスは己の無力をかみしめていた。

 

遠心分離器を使う作業は、かなりの重労働である。

ずっと回し続けなければならないからだ。中で熱せられた蜂の巣が、液状とそうでない部分で分かれているのが分かる。一通り廻した所で、円環状のふたの部分を取り去る。そうすると、むっとする熱気が内側からあふれ出てくる。

遠心分離器の内側には、残骸がこびりついていた。蜂の幼虫や、蛹などの残骸である。それをへらを使って取り去る。外側にみっしりとついているのは、まだ柔らかい蝋である。これを熱いうちに、転がす。

中に芯をいれて、ゆっくり転がしている内に、形になってくる。其処で型に入れて、上下から圧迫。この型は借りてきたものだ。壊したら弁償である。

型に入れると、後は冷えるのを待つだけだ。

もちろんその間に、新しい蜂の巣を遠心分離器に入れ、燃料を中央の孔に投下。点火して、次の蝋を作りに掛かる。蜂の巣を構成していた物質が溶け出し、それが遠心分離器の中で、不純物とより分けられていく。取っ手を使って無心に遠心分離器を回転させながら、エルフィールは欠伸さえしていた。

とにかく、重労働である反面、徹底的に単純労働なのだ。

手応えの覚え方とか、温める時間とか、重要な部分は幾つもある。だがそれも、致命的な失敗を招くほどではない。熱量に関しては事前にノルディスとアイゼルが実験してくれていたし、この程度の単純作業は、故郷で散々こなしてきた。稲穂を叩いて籾殻を砕く作業の方が、余程重労働だった位である。

だがしかし、まだ膨大な作業量が残っていることもあり、油断は禁物だ。

十五個を作り終えた所で、一旦休憩を入れる。

さて、重労働と言うことで、キルキが心配になってきた。型から蝋燭を出し、箱に入れながら、エルフィールは隣での物音に耳を澄ませる。定期的に遠心分離器を廻す音がしているので、特に心配はないように思えるのだが、一応念のためだ。音がとまった所を見計らい、見に行くことにする。

しばらく手を井戸水で冷やしていると、音が止んだ。

様子を見に行くと、キルキは遠心分離器の前でぼんやり突っ立っていた。かなりの汗を掻いており、調子が悪そうである。

「ちょっと、大丈夫?」

「気持ち悪い」

声を掛けると同時にぱたんと倒れそうになったので、後ろから支える。

症状を見るが、特に毒物を吸ったとか、そう言うことではない様子だ。多分働きづめで疲労が溜まったのだろう。

担いで二階に。構造は同じなので、何処に何があるかはよく分かる。

寝台に寝かせると、キルキはうっすらと目を開いた。

「何だか、蜂さん可哀想。 死骸を一杯捨てて、さっきお祈りしたの」

「そうだね。 だからせめて無駄にしないようにしてあげようね」

「でも、ミルカッセさんに話聞いた。 あの蝋、何だかあまり良くないことに使われるらしい。 私、酷いコトしてるのかも知れない」

キルキを宥める。

やはり相当疲れていたのだろう。その上心労も重なって、さっきのようなことになったという訳だ。

念のため、栄養剤を飲ませる。何度か噎せながらも、キルキはちゃんと飲みにくい上に不味い栄養剤を飲み干した。

アイゼルとノルディスはどうなっているか。夕方に一度来るので、その時に話をしておいた方が良いだろう。

再び作業に取りかかる。遠心分離器を廻しながら参考書を開き、次の試験に備えた。最近は試験の間隔が開いているが、その代わり難しいものも多くなってきている。男子のアトリエ組は、既に八十点を下回ることもあるようになってきていた。既にノルディスは二十五位まで追い上げてきているようだし、すぐに追い抜かれるだろう。

参考書を復習した後は、無心に遠心分離器を廻す。

そして、夕刻までに、二十を仕上げていた。

夕刻来たのはアイゼルだけだった。どうも頬が痩けているような印象である。

「こんばんは、アイゼル」

聞き取れないほど小さい声で、返事。どうもかなり調子が悪い様子である。これはひょっとすると、キルキと同じ症状か。

しかし、どうも話してみると、若干違う様子である。

「どうしても、あの虫の死骸は気味が悪くて仕方がないわ」

「ああ、それで」

「ノルディスも同じよ。 最初は気にならなかったみたいだけど、新しいのになってくるとどうしても混じってくるでしょ? どうにかならないのかしら」

「無理だね。 蜂蜜を絞り出す時に、お店の人が徹底的に潰して絞ってるんだもん」

むしろこれ以外の方法で、死骸と蝋を分離することは出来ない位である。

とにかく、アイゼルに進捗状況を聞く。

二人合わせて二十七と返事があった。これは授業を受けながらの数値だから、かなり早い方だと言える。

さっきキルキの所を見に行ったが、既に十九に達している。今日中に、半分を超えることが出来そうであった。

「ふう、あと少しだね」

「そうね。 材料があるのだし、後はミスさえしなければ、どうにかなりそうだわ」

「アイゼル、明日は調合休んで」

「何よ、私は大丈夫よ」

大丈夫じゃないから言っているのである。実際問題、アイゼルは髪の毛の手入れも若干疎かになっている。

しかし、アイゼルは優しい反面、妙に意地っ張りだ。大丈夫だと言っても多分駄目だと思ったので、手紙をしたためる。ノルディス当てだ。

「これ、ノルディスに渡して」

「ちょ、ちょっと、何書いたの今!」

「恋文とかそう言うのじゃないから大丈夫だよ。 それに私、ノルディスの事、別に好きじゃないし」

半信半疑の様子で疑いの目を向けているアイゼルに、エルフィールは一応念を入れて話しておいた。

ちなみに手紙の中身は、アイゼルに休むように言って欲しいというだけの、短い文章である。

ノルディスの言うことなら、アイゼルも聞くはずであった。

 

アイゼルが帰った後、エルフィールは深夜まで作業を続けた。夜半からキルキもまた作業を開始した様子で、朝方まで二つのアトリエでは遠心分離器を廻す音が響き続けていた。体力的に厳しくないかと不安になったが、翌日テストに出るためアトリエを出てきたキルキは、案外しっかりした歩調だった。

並んで歩きながら、現在の状況を確認。

エルフィールは二十八。キルキは二十七。途中、一気に追い上げてきたと言うことだ。大したものである。

試験は二人ともあまり結果が良くなかった。男子達が帰った後、イングリド先生に二人が残された程である。ただし、それはいつもに比べての事であって、八十点以上はそれぞれの科目で取得はしている。

「二人とも、かなり大きなプロジェクトを行っているそうですね。 報告は受けています」

「あ、はい」

「ごめんなさい。 報告、してません、でした」

「あまりスケジュール的に厳しいようなら、試験を休みなさい。 延期の申請があれば、受け付けます」

思ったよりも優しい反応で、ほっとしてしまった。

イングリド先生に礼をして、教室を後にする。キルキは明らかに疲れが見えるので、少しだけ口調を和らげた。

「一眠りしてから、続けようね」

「分かった。 でも、私の方が、先に仕上げる」

「そっか、競争だね」

キルキが明らかに無理をしていったので、ちょっと微笑ましかった。だが、体を壊しては元も子もない。体が丈夫になってきていると言っても、ものには限度がある。どうもキルキはまだ自分がどれだけ無理できるか理解できていない節があるので、エルフィールが気をつけて見ていなければならなかった。

そして一旦戻ってからは三刻ほど眠り、それから一気に追い上げに掛かる。気がつくと夜中。

作り上げた蝋は、四十を超えていた。

栄養剤を飲み干して、頬を叩く。ここからが気合いの入れどころだ。

エルフィールは鍛え方が違うから、多少の無理は何でもない。夜明けまでに仕上げきるつもりで、一気にペースを上げる。

遠心分離器を廻し、燃料を投下。燃え上がる焔。

蜂が精魂込めて作り上げた巣を溶かし、人間の宗教的祭儀に用いるため、加工する。それはとても罪深い行動なのかも知れないが、エルフィールには知ったことではない。

スキルを上げて、社会的地位を上げて、やがてはドナースターク家に足場を確保する。

それで、やっとエルフィールは人並みになれるのだ。

居場所を、失わずに済むのだ。

「三番、追加の蜂の巣」

指示を出すと、すぐに生きている縄が動く。籠をまさぐり、取りだしてくる比較的大きめの塊。

遠心分離器を開けて、どろりとした蝋を取りだし、こねる。その間に、もう二本の生きている縄に、遠心分離器を冷やさせる。あまりにも連続稼働させると、壊れるのも早いからだ。

「七番、ハンカチ」

額の汗を、せかせかと七番の生きている縄が拭う。

エルフィールはその間に、三番が取ってきた蜂の巣を砕いて、大きめの不純物を捨てていた。八番の生きている縄が下に籠を出して残骸を受け止める。後で纏めて、裏庭に埋めて肥料にするのだ。

何一つ、無駄にはしないつもりで生きている。

逆に言えば、それくらいでなければ安心できないのが本当なのかも知れなかった。

また、遠心分離器に蜂の巣を入れ、火をつけた。

ゆっくり廻していく内に、少し眠くなってきたので、栄養剤を生きている縄に取らせた。もうエルフィールの体の一部も同然である。遠心分離器から取りだした蝋を、型に突っ込む。これで四十七。

後三本というところで、朝日が見えてしまった。

舌打ちする。もう少しだったのに。

少し寝るかと思い、エルフィールは火を落とさせた。この辺り、生きている縄は所詮縄だ。対火処置をしているとはいえ、火には弱い。そろそろ、フレキシブルに使える使用人か、何かが欲しい所だった。

噂に聞くホムンクルスはエルフィールには高度すぎる。

そうなると、妖精の使用人が妥当だろうか。

一旦ベットに潜り込む。とりあえず、今日中にエルフィールはノルマを達成できそうだ。残りの三人がどんな状況かで今後の行動が決まってくる。まさかベテラン達がしくじるようなこともないだろうし、多分これでアルテナ教会のくだらないもくろみは木っ端微塵に粉砕できるだろう。

妖精を雇うには、コネクションを作るか、或いはそれなりに名前を売って向こうから接触させるしかないという。そうなると、まだまだ仕事の量が足りないという事である。今後は薬品だけではなく、若干苦手としている火器類にも手を広げて、商品のバリエーションを増やしていかなければならないだろう。

寝間着に着替えても、エルフィールは生きている縄を、体から外さなかった。

しばらく寝床でごろごろしていたが、いつの間にか眠っていたのは。

恐らく信頼できる第三から第十までの腕があるから、なのだろう。

起き出す。夕刻のミーティングが、この大量生産作戦の、締めとなるはずだった。

 

四人で受けた、全百五十の蝋燭が、その場に揃っていた。

面白いのは、それぞれに各人の個性が出ていること、であろう。

ノルディスはまるで定規で測ったかのように、完璧な質の蝋燭である。遠心分離器を独自の理論で廻したのか、蝋にまるで模様が出ていない。シンプルで、なおかつ完璧なる蝋燭であった。

一方アイゼルは模様が蝋燭に非常に強く出ている。しかしムラがあるという訳ではなく、それが蝋燭に美しい個性を作り上げている。芸術と言うほどではないが、手にしてみるとその美しさに目が引きつけられる。

これは多分、彼女の繊細な作り方が影響しているのだろう。

キルキはと言うと、雰囲気的に何というか、粒が細かい。模様も浮いているのだが、全体的には非常に細かい所まで目が行き届いた作りだ。ただ、細かい所で欠けている部分があったりするのは、キルキが未だに片言で喋ったりするのと無関係ではないだろう。

エルフィールの蝋は素朴かつ豪快。蝋の模様もまるで巨木の木目がごとし。

全体的には、品質が一番高いのはノルディスだろう。しかしそれは見た目の話であり、実用性であればエルフィールのが一番だという自信がある。兎に角頑丈に作ったので、多少の衝撃なら余裕で耐え抜く。

「よし、納品しよう。 みんなで一緒に行こう」

「分かった」

「僕は、どうしよう」

「ノルディスも行きましょう。 私達の、初めて成し遂げた大仕事よ」

引っ込み思案のノルディスに、アイゼルが暖かで前向きな言葉を掛けた。こんなモヤシの何処が良いのかエルフィールにはよく分からない。だが、アイゼルがノルマ分をこなせたのは。好きがあったから、なのだろう。

トラブルもあった。

前倒しで進めていたのに、納品となった今日は、実は期限前日である。

ノルディスとアイゼルに大きめの課題が入った上に、キルキが熱を出したのだ。エルフィールが肩代わりしようかと行ったのだが、彼らは揃って拒否。結局、エルフィールは熱を出したキルキを介抱しつつ、二人の所に栄養剤や強壮剤を差し入れしたのだった。

エルフィールの所でも、問題が起きた。

幾つかの蝋燭に、不自然な空洞が出来ていることが分かったのである。これはどうやら蝋を固める際に、空気が入ってしまったのが原因であったらしい。兎に角一度溶かし直して、事なきは得た。しかしエルフィールとしては、かなり時間をロスしてしまう痛恨のミスであった。

しかし、結局今日の日を迎えることが出来た。

資金はかなり消耗したが、充分に黒字である。アカデミーにまだ飲酒はしてはいけないと言われているので、蜂蜜を入れた飲み物で祝うことにしようと、エルフィールは思った。甘味そのものが、田舎では最上級の御馳走になる。アイゼルやノルディスがどれくらい喜んでくれるかは分からないが。

荷車を引いて、飛翔亭に向かう。直接フローベル教会に行くということも考えたのだが、今回はその方が面白そうだった。クーゲルに、アイゼルとノルディスを紹介しておきたいと言うこともある。

二人にクーゲルをきちんと紹介しておくことは、今後無駄にはならないはずだ。二人にとっては、或いは不幸なことかも知れないが。

「しかし、改めてみると、凄い量だね」

「何だか蜂が可哀想だわ」

「文句はアルテナ教会に言えばいいよ。 もっとも、彼らにとってはとても重要な行事、みたいだけれど」

「……」

キルキは黙りこくっていた。

彼女の中では、アルテナ教の信者はいい人であると、単純なイコールで結ばれているのだろう。それが故に、蜂の命を無為に奪うような今回の依頼については、疑問もあったに違いない。

アイゼルやノルディスには、廃棄しなければならなかった蜂の残骸はショックだっただろう。それも含めて、自然とは何か、人間とは何か、考えて貰うには良い機会だったのかも知れなかった。

飛翔亭の前の階段につく。

一旦此処で待って貰い、クーゲルとディオを呼びに行く。二人とも今の時間帯はいることを、今朝作業が終わった段階で確認済みである。

エルフィールが行くと、酒場にはハレッシュがいて、ディオが冷たい目でにらみ付けていた。そういえば騎士の試験が近々あると聞いていた。あの様子では、落ちたのだろう。実技では文句なしに合格だというのに、もったいない話である。

「こんにちはー!」

「応、良く来たな」

「蝋、出来ました! 納入の手伝い、お願いします」

「本当か。 フレア、此処を頼む。 クーゲル、行くぞ」

ディオ氏がてきぱきと周囲をしきり、クーゲルがのそりと店の奥から出てくる。何だか人食い熊が、平然と店で仕事をしているかのような雰囲気だ。

二人を伴って、店の前の階段を下りる。

「この階段、ちょっと不便ですよね。 荷物が多い場合、運び込むことも出来ないですし」

「そうだな。 だが、今更店を引っ越す訳にもいかん」

ディオ氏に聞いたのだが、飛翔亭の周囲には色々と訳ありの冒険者の家などが点在しているのだという。

例えばナタリエである。彼女は今でこそ別の所に住んでいるが、いろいろあって、飛翔亭の側で暮らしていた期間も長かったそうだ。ハレッシュも、もしフレアと結婚することになったら、同じ事になるだろうという。

「蝋の品質は大丈夫だろうな」

「イングリド先生に確認して貰ってあります」

「それは結構。 錬金術だと、やっぱり中和剤とか使うのか」

「今回のは、火薬に特殊なのを使います。 熱量を維持するのに火薬を使うことで、普通に蝋を作るよりずっと早く精確に、品質が揃った蝋が作れます」

話ながら階段を下りる。クーゲルは終始無言だった。

下で荷車の側にて、三人が待っていた。アイゼルは流石に、クーゲルを見てぎょっとした様子だった。ノルディスに到っては、蒼白になって固まっている。

「良し、品質を確認する。 エリー、悪いが上にいるナタリエとハレッシュを呼んできてもらえるか。 鑑定作業が終わった後、顧客に届けなきゃならないからな」

「分かりました」

最近、ディオ氏にもエリーと呼んでもらえるようになってきた。これはちょっと嬉しい。それだけ、品物の品質を信頼してもらっているという事だからだ。

「私も行く」

「じゃ、一緒に行こうか」

キルキと、二人で再び狭い階段を上る。

どうやら、ミッションは無事成功した様子であった。

 

夕刻。

フローベル教会を、窶れた様子の司祭達が訪れた。ミルカッセは不安で眠れない日々を過ごしていたが、それでどうにかなったのだろうと推察することが出来た。長老格の司祭などは、露骨に周囲に恐怖を感じてさえいる様子であった。

「ミルカッセ司祭」

「はい」

「我らの負けだ。 応急措置用の薬品や材料などを備蓄することを許す。 錬金術アカデミーとは、今後良い関係を続けていくようにな」

もうそれ以上、この件には触れたくもないようで、司祭達はぞろぞろと戻っていった。

それと入れ替わりに、フローベル教会に入ってきたのは。今回仕事を発注してしまった相手。飛翔亭のマスターであるディオ氏であった。

近年はだいぶ衰えたと言うが、伝説の冒険者であったことはその屈強な肉体が証明していると言っても良い。

「ふん、過去の栄光にしがみつく老人どもが。 ああ年は取りたくないものだな。 アルテナ神もお嘆きだろうて」

「ディオさん。 このたびは、本当に申し訳ありませんでした」

「何、仕事をしっかりこなした錬金術師達に礼は言ってくれ。 あの老人どもには錬金術アカデミーが仕置きをしたようだし、しばらくは心配しなくても良いだろう」

何の仕置きがあったかは分からないが、あの様子では確かにもう心配は要らないだろう。老人達は喧嘩を売る相手を間違えたのだ。

茶を出そうと思ったが、謝絶される。どうも忙しいらしい。

「茶はいらん。 それよりも、感謝祭は、幾つかの教会で行うんだろう?」

「はい。 この教会でも、近くの孤児院の子供達に、お菓子を振る舞う予定です」

「なら、今回一番よく頑張ってくれた若手の錬金術師四人を招待してやって欲しい。 少しは労ってやりたいからな」

「分かりました」

ならば、ケーキをもう一つ焼くかと、ミルカッセは思った。

喜捨してもらったもののなかに、新鮮なチーズや小麦粉など、ケーキを焼ける素材が一通り揃っている。苦しい生活をしている子供達に振る舞う予定だったが、それを少し多く作るだけだ。

蝋燭も、運び込まれてくる。

これは多分、キルキのだろうと思った。繊細な作りで、見ていてとても心が温まった。

自分の手が及ばない災厄の中。

どうにか、一筋だけ光が見えた。

 

5、小さなご褒美

 

キルキとアイゼル、ノルディスと一緒に、フローベル教会に赴く。ノルディスは良い所の坊ちゃんであるが、アルテナ教会とはあまり縁がなかったらしく、道中でかなり緊張していた。

「お布施を払わないといけないとか、無いよね。 僕、あまり今持ち合わせがないんだけど」

「大丈夫だって。 だいたいそのささやかな持ち合わせでも、一般人から見たら充分に大金なんだけどね」

「そうなの?」

ノルディスがほざいたので、エルフィールは内心呆れた。

何でも、ノルディスは親から試験のことをかなりきつく責められて、それが落ち込む原因の一つにもなっていたらしい。主席を奪取したキルキが三才も年下だと言うことも、その要因の一つであったという。

しかしながら、最近は授業でも見る間に成績を回復していて、もう少しで十位に食い込んでくると言う。エルフィールも三位まで順位を上げているが、近々追いつかれるだろう事は、目に見えていた。

フローベル教会の周囲には、子供が大勢走り回っていた。アイゼルが眼を細めて、その様子を見つめている。子供が好きなのかも知れない。最近はぐっとしっかりもしてきているようだし、多分良い母親になれることだろう。

「そういえば、アイゼルはどうして錬金術師になろうと思ったの?」

「秘密」

まだ、教えてはくれないか。

だが、秘密といった時、彼女の顔に影が差した。多分、あまり好ましくはない理由であったのだろう。

「今回は、授業というハンデがあったけど、それでも私の方が少し早く蝋を作ったわ」

「そうだね。 私は最後の方でちょっとミスしちゃったし」

「次も負けないわよ」

アイゼルが少しだけ、以前より力強く言った。

教会にはいる。

子供達が大勢いた。十五人くらいはいるだろうか。みな孤児ばかりの筈だ。国が支援している孤児院の者達だから、大人になったら国が指定している場所で働くか、それが嫌なら奴隷身分になって今までの負債分を返さなければならない。

親の愛情を知らないという点で、エルフィールも彼らに近いかも知れない。

アルテナ神の像の周囲には、何本か蝋燭が立てられ、淡い光を放っていた。見たところ、多分キルキの作った蝋燭だろう。

ミルカッセが出てくる。フードの奥にある黒い髪が見えた。忙しくて、手入れがしきれないのだろう。

「良くおいでくださいました」

「手伝おうか? 忙しいでしょ」

「大丈夫。 近所のおばさま達が手伝ってくれています。 皆、状況は知っていますから」

ならば、手伝っても邪魔になるだけだ。力仕事がいるなら呼んでと言い残して、エルフィール達は周囲に散った。

ノルディスは机や椅子の材質が気になる様子だ。神像の前にまで出ると、様式がどうのとか、学術的なことをぶつぶつ呟き始める。その側でアイゼルが何か難しい話をしていた。エルフィールにはよく分からない話だ。

子供達は元気に走り回ったり、或いは遊んだりしている。

ミルカッセが台座に乗せて、ケーキとやらを運んでくる。小麦粉を使って作ったスポンジに乳製品のクリームを塗りたくった料理だと記憶しているが、見た目がだいぶ違う。まず黄色っぽいし、デコレーションもあまり多くない。

多分、乗せられているのは蜂蜜系の甘味だ。

アイゼルがそれを見て呟く。

「あら、チーズケーキ」

「知ってるの?」

「最近製法が確立された料理よ。 お父様と一緒に接待に出た時に、食べたことがあるけれど。 まさか此処で目にするとは思わなかったわ。 とても美味しいわよ」

キルキを見ると、二三才年下の子供達にまとわりつかれて、遊びをせがまれている様子であった。

その様子を眼を細めて見つめながら、ミルカッセは言う。

「他では厳粛に儀式なども行うのですが、今日は軽くアルテナ様に感謝して、貧しい子供達と、それと功労者である貴方たちに馳走を振る舞うのみにしようと思っています」

「そう。 それが良いかもしれないね」

「はい、みんな、御馳走が出るわよ。 席に着かないと、食べられないわよ」

手を叩いてアイゼルが言うと、子供達はすぐに席に着いた。なかなかの統率力である。なるほど、こうすると子供は扱いやすいのかと、エルフィールは感心した。もちろん、普段あまり良いものを子供達が食べられていないという事もあるのだろう。

まだ幼くて、状況が分かっていない子供もいる。キルキがエルフィールと手分けして座らせた。エルフィールも生きている縄を使おうかと思ったが、止めておく。安全実験は充分にしているが、中に悪霊を突っ込んでいることに変わりはないのである。

チーズケーキが切り分けられる。

円筒状のホールケーキにナイフが入れられ、一皿ずつ皆に分けられた。フォークを使って器用に食べ始めるアイゼルを見て、エルフィールも習う。

一口入れてみて、戦慄が全身を駆け抜けた。

なるほど。

これは、美味い。

舌が肥えているだろうアイゼルが、美味しいという訳である。多分チーズを主体にして構成しているのだろう。レシピはあまり理解できないが、兎に角美味い。子供達もきゃっきゃっと喜んでいる。

「良かった。 皆さん、喜んでくれていますね」

「ミルカッセさん」

がしりと、無意識の内に近くに来ていたミルカッセの腕を掴んでいた。生きている縄も自然に動き、逃がさないように足を掴む。

流石に笑顔を引きつらせたミルカッセに、出来る限りの笑顔を浮かべて、エルフィールは言った。

「レシピ、教えて。 自分で作ってみたいです」

これは、美味い。

そして、多分この味、好きという奴だ。

極めてみたい。

それには、知らなければならなかった。

「分かりました。 後で、教えて差し上げます」

「絶対ですよ?」

手を離すと、ミルカッセはほっとした様子だった。

しばらくはこの味、舌に残りそうだ。

エルフィールは舌なめずりすると、錬金術で作成する料理も店のメニューに加えるかと、考え始めていた。

 

(続)