流れゆく錬金術

 

序、雑草と花

 

錬金術アカデミーの事実上の支配者であるイングリドは、仕事が一段落した暇を見計らい、肩を叩きながら外に出た。

大きくなったものである。このアカデミーも。

今だ、エル・バドールの錬金術師達の間には、このアカデミーの作り上げてきた成果を認めぬ者もいる。だが、それは新しき現実を直視しない老人達の恐怖から来るものだと、イングリドは看破していた。

マルローネによるパラダイムシフトも、凄まじい勢いで錬金術師達の間に広がりつつある。既にマイスターランクには、原子論の解析を進める専門部隊までも作成しているほどだ。

新しい活力は、錬金術を確実に次の舞台へ連れて行ってくれる。

三階の窓から、外を見る。何処までも広がる空。あの下に、まだ伝説の「旅の人」がいるかも知れない。その正体を文献から理解しているイングリドは、それが世迷い言ではないことを知っていた。

錬金術は、謎の存在「旅の人」によって、最初エル・バドール大陸にもたらされた。圧倒的な発展によって人類の覇権を完全なものとした錬金術であったが、しかし致命的な停滞に晒されたのも、その発展が故であった。

人間は基本的に、不便だと思った時でないと、努力しない。

便利な生活になれてしまうと、もう向上をしようとは思わなくなってしまうものなのである。

魔物も猛獣も完全に駆逐されたエル・バドールでの深刻な発展停滞を嘆いた錬金術師は少なくなかった。学閥を作り、サロンの活性化による技術発展を図ったグループもいた。彼らはしかし、数十年で元の理想を忘れ去り、ただの権威にしがみつく老人の集まりになってしまった。

一方で、外に活路を見いだす者達もいた。

それが、シグザール王国に現れた、数名の錬金術師達である。

今だ猛獣や魔物の脅威にさらされ戦乱が絶えないこの大陸の、みずみずしい生命力ならば。きっと錬金術の可能性を開いてくれる。そう力説したドルニエは、今シグザール王国の中枢に様々な意味で食い込む錬金術アカデミーの校長となっている。そして野蛮な土地に逃げたと嘲笑う錬金術の「権威」達の言葉など何処吹く風で、実際大きな成果を上げていた。

だが、錬金術アカデミーを運営してきたのはイングリドだ。それは、今後も変わらない事実である。

しばらく風に当たっていると、気配を感じた。

マイスターランクの中でも、特に優秀な一人。将来の教授職は確定と言われている俊英。イングリドの弟子の一人である、クライス=キュールであった。

クライスは眼鏡を掛けた痩せた青年であり、資産家の息子である。今では錬金術師としてまず一流の段階に達しており、将来的にはかなり優れた成果を確実に上げられるであろう存在だ。

イングリドは、将来を見越し、今回彼にある仕事を任せていたのである。

非力なクライスは、両手に大量の書類を持ち、うんせうんせと辛そうに歩いてきた。マルローネの前では意地を張りがちなクライスだが、今はその余裕もない様子である。

「イングリド先生、書類をお持ちしました」

「ご苦労様。 私の部屋に置いて頂戴」

意味不明の落書きまみれのヘルミーナの部屋を通り過ぎ、クライスがイングリドの部屋に入る。

書類を下ろすと、線が細い青年は、額の汗をため息とともに拭った。

「やれやれ、生徒全員の特徴を把握するというのは、とても大変ですね」

「貴方も教師になるのなら必要な事よ。 優秀な人間だけ選抜するなどというのは言い訳に過ぎないことを今の内に学びなさい」

誰にでも、必ず長所がある。それを様々な方法で伸ばしていくのが優れたやり方だ。例えばエル・バドールの学園であれば、どこであってもマルローネの実力を引き出すことなど出来なかっただろう。

クライスは頷くと、何枚か書類を差し出してきた。現在将来が期待できると思える存在を、ピックアップするように伝えておいたのだ。

一枚目は予想通りノルディスだった。クライスと良く似ているという事もあり、心理的な同調のようなものを感じるのだろう。他にも無難な上位成績者ばかりが、クライスの挙げる期待馬に含まれていた。

「まず、無難な所から攻めてみました。 ご意見を伺いたく」

「相変わらず分かり易いわねえ、貴方は」

「え、そ、そうですか!?」

まずは数値的なデータで、有望だと思える人間を選抜したのが一目で分かる。

例えば、一芸に特化したような人間を、クライスは一人も選んでいない。新入生であっても、三ヶ月が経過した現時点で既に個性は表れ始めているのだが、どうもそれもまだ把握できていないらしい。

錬金術師としてはそれなりにマイスターランクで優秀な成績を収めているクライスだが、教師としてはまだ入り口にも足を踏み入れていない。これから、みっちり鍛えていかなければならない所だ。

「総合力だけが評価点ではありません。 例えばこの生徒」

イングリドがピックアップしたのは、全体的な成績では中の下だが、薬剤加工に関してだけは最上位層と渡り合う成績を収めている者だった。兎に角薬を作るのが好きで、将来は薬剤師になりたいと熱っぽく夢を語るのを見たことがある。

好きこそものの上手なれという言葉通りだ。それにこの娘の場合は、情熱がそれを後押しもしている。

他の成績は残念ながら低空飛行だが、イングリドは高く評価している人物だった。

「この生徒について、貴方はどう思っていますか?」

「総合力は錬金術師にとって重要なことかと思うのですが」

「いいえ。 総合的に何でも出来る人材も重要ですが、特化型の人材も大きな力を出すことが出来ます。 むしろ何かしらの発見をしたり成果を上げるのは、そういった人間の方が多いのです」

「分かりました。 肝に命じておきます」

まだ若干納得していない様子で、クライスは頷いた。だが、この男は線こそ細いが優秀な頭の持ち主だ。いずれ理解できることだろう。

今回正式に実施したアトリエ貸し出し方式は、成果を見て、今後拡大する予定だ。これが成功したら、今度は特化型クラスの作成も行おうとイングリドは考えている。エル・バドールの老人どものように、前例がどうの先人がどうのと口にして現実から目を背けているような連中では出来ない事を、この生命力溢れる土地で行うのだ。それには、様々な試みを、次々に試していかなければならなかった。

幸い様々な理由から、現在はかなり資金に余裕がある。試みを実施するのに必要な資金には事欠かなかった。

クライスを帰らせると、入れ違いに音もなくヘルミーナが来た。連れているのはホムンクルスの女性だ。顔色が悪いのは、そろそろ寿命だからだろうか。もう延命が保たないと、ヘルミーナはこの間ぼそりと呟いていた。

「イングリド、この名簿なのだけれど」

「貴方に任せる人材よ。 好きなように料理しても良いわ」

「それはそうなのだけれど。 あのエルフィールって子はくれないの?」

「あげるもなにも、他の生徒も、貴方の所有物じゃないでしょう」

ちょっと呆れたイングリドは、ざっとリストを見た。今後ヘルミーナが担当したいと言ってきた生徒達の中から、イングリドが許可したメンバー達だ。中には最初からイングリドが任せようと思っていたアイゼルが含まれている。

ヘルミーナはクライスとは真逆で、特化型の人材を好むようだった。それも、特別に癖がある者ばかりである。

昔からヘルミーナは、全体的に優れた知識と能力を持つ錬金術師だったが、好きだと思う事柄があると、他の全てを放棄してそれにのめり込むような所があった。多分、同類にはシンパシィを感じるのだろう。

アイゼルに関しては、ヘルミーナが好みそうな特化型とは真逆で、何でも満遍なく出来る子である。ノルディスほどではないが成績は無難に上位で固まっていて、卒がない。それなのにヘルミーナが教育を快諾した理由が、今の時点ではイングリドにも読めなかった。

「まあ、アカデミーの経営は貴方の仕事だし、生徒の配分については従うわ。 でも、エルフィールって子は欲しいわねえ」

「だから、話を聞きなさい」

「でも惜しいから、時々、勝手に色々教えても良いかしら?」

まるで地獄の底から這い上がってきた死霊のような微笑みをヘルミーナが浮かべる。これは何というか、幼い子供が見たら黙るどころか心臓が止まりそうだ。まあ、昔からこの女はこうだったので、イングリドは慣れているが。

「まあ、私の授業の妨げにならない程度でね」

「ありがとうイングリド。 ところでもう一人、このアイゼルって子なのだけれど」

「それを貴方が受けたのが不思議だった所よ。 どういう風の吹き回し?」

「ああ、それはね。 この子はちょっといじくるととても楽しいことになりそうだって、私の魂が囁いたから」

けたけたとヘルミーナが笑う。

後ろでホムンクルスが苦しそうに咳をした。顔色も悪い。

次の世代のホムンクルスももう完成が近付いていると言うが、起動はさせていないという。今回は記憶の共有も行うためだという話だが、ヘルミーナは笑うのをぴたりと止めると急にそわそわしだした。

「アイゼルの件については、また後で詳しく聞かせて頂戴。 今はその子の治療が先じゃないの?」

「あら、気が利くこと。 クルス、先に研究室に戻って、服を脱いでいなさい。 調整曹に入れるわ」

「はい。 マスター」

人間と見分けがつかないホムンクルスの娘は、そそくさと隣の部屋に戻っていく。

大きくため息をついたヘルミーナは、彼女らしくもなく珍しく真面目に子を思いやる親の表情を浮かべた。

「今のクルスで大きく研究が進んだから、次のクルスは、二十年ほどは生きられると思うけれど」

ヘルミーナが唯一愛している存在がホムンクルスであること。彼女が幼かった頃に遭遇した悲しい事件がその原因であること。

その全てを知っているイングリドは、何も言えなかった。

ヘルミーナが自室に戻ると、イングリドはクライスが持ってきた資料を吟味する。件のエルフィールは順調に成績を上げてきており、ついに満点をこの間取った。三つ設定した試験科目の一つだけだが、素晴らしい成果である。まだまだ総合点では上位に及ばないが、イングリドの読み通り実戦には無類に強い。

総合点ではキルキの追い上げも凄まじく、ノルディスをそろそろ追い越しそうな所まで来ている。ただこの子は暗記が得意なのであって、独創的な道具を作る点に関してはまだまだ未知数だ。神童扱いするのは少しばかり早い。それに大人になると凡人になってしまうケースもあるので、今はまだ油断できない。

アイゼルは相変わらず無難にまとまっている。水準よりもずっと賢いのだが、兎に角器用貧乏な印象を受けてしまうのも事実である。この娘にはヘルミーナにつけて、早めに何かに特化することの強みを教えておかないと、最終的には使い物にならなくなるだろう。早めに対処するべきであった。

生徒達への対処を、イングリドは一人ずつきちんと考えている。それは時に暴力的であったり現実主義に特化しすぎてはいたが。

ある種の愛情であり、細やかな心遣いの結果であることは、疑いのない所であった。

 

1、初めての遠出

 

おろしたての荷車を見て、エルフィールは思わず歓喜の声をあげていた。車軸は新しく、車輪も磨いたように綺麗である。しかも強度に関しても、充分な事を確認済みだ。二ヶ月ほどの稼ぎは全部吹き飛んでしまったが、これで遠出が出来るようになった。実に嬉しいことである。

荷車は手で引くタイプのものであり、車輪は小回りよりも安定を考えて四つ。車の横側に出ている車輪は、何かを巻き込む危険性を排除するために間に板を張っている。非常に全体的によく考えられた作りであり、この出来なら二ヶ月分の稼ぎくらい惜しくない。運搬能力も優れていて、だいたいエルフィールの四倍くらいの重量までは運ぶことが出来る。それ以上も運搬は出来るが。車軸に負担が掛かるので、望ましくないというのが作り手の話であった。

「ゲルハルトさん、有難うございます!」

ぺこんとあたまを下げるエルフィールに、評判の鍛冶屋であるゲルハルトは、逞しい胸を反らして実に嬉しそうに頷く。

彼こそが、この素晴らしい荷車の作り手であった。

「そんなに喜んで貰って俺も鼻が高いぜ。 大事にしてくれよな!」

「はい、もちろん!」

頭部が綺麗にはげ上がったゲルハルトは、近隣でも腕利きとして有名で、国にも武具を納めているという話である。アデリーさんは相当な業物を何本か所有して愛用していたが、そのいくらかはゲルハルトの作だという。そんな訳だから、腕を信用していなかった事はないのだが。しかし実際に自分の目で見ると、予想以上の実力であった。

元は相当な実力の冒険者であったと言うことだが、今は気の良いおじさんである。ただ、やはり修羅場を潜ってきた人間としての凄みを備えているのはエルフィールにはよく分かった。だから、敬意も払う。ゲルハルトもエルフィールを見て、子供扱いするようなことはなかった。

ゲルハルトが精算を済ませて帰ると、エルフィールは荷車に頬ずりして、しばし歓喜に浸る。その後は自分で勝手に考えた喜びの舞を四半刻ほど躍り、飽きると席について今後の計画を練り始めた。

まず、向かうべきなのはヘーベル湖だ。

此処しばらくは中和剤や蒸留水の納入を大量に行い、それで日銭を稼いでいた。燃料の類は近くの森で枯れ木を集め、その際に薬草類も拾い集めては換金していた。だが、やはり近所の水質では、出来る蒸留水にも限界がある事がはっきり分かってきたのである。中和剤もそれは同じ事だ。一口にトーン草と言っても、アカデミーで見せて貰ったサンプルはまるで品質が違っていた。水質が違うと、生えてくる植物もまるでものが違ってくるのである。

ディオ氏は納入には充分な品質だと言ってくれていたのだが、それでも個人的に納得が行かないのだ。それに、今後のことを考えると、可能な限り高品質なものをつくって納品する方が良い。将来的に考えると、早い内に築いた評判は大きくものをいうのである。

呼び鈴が鳴る。キルキだった。

今日、荷車が来ると言うことを告げておいたのだ。彼女は熊のように大きいゲルハルトが苦手らしく、ゲルハルトがいたらどうしようというように、おっかなびっくりアトリエに入ってくる。だが、既に中に入れてあるぴかぴかの荷車を見ると、歓喜の声をあげた。

「わ、素敵な荷車!」

「でしょー?」

思わず自慢するエルフィール。この荷車を傷つける奴がいたら、とりあえず簀巻きにして冬の河に放り込む。

しばらくぴかぴかの荷車を二人で愛でていると、また呼び鈴が鳴った。入ってきたのは、ノルディスだった。

「こ、こんにちは」

「あ、入ってー。 狭い所だけど」

「え、そんな事無いよ」

何だかもじもじしながら、ノルディスはアトリエに入ってくる。だが、荷車を見た時の反応は、随分キルキとは違っていた。

お金持ちだからだろうか。多分良い品物など、見慣れているのだろう。

「これが、エリーが見せたいもの?」

「そうよー。 これがあれば、もっと遠くに、とても効率よく採集に出られるの。 最終的には屋根をつけて風雨に強い仕上がりにしたいところだけれど」

「そ、そうなんだ」

大変だねと、他人事そのものの口調でノルディスは言う。

内心エルフィールは呆れる。だが、仕方がないことなのだと思い直した。

アデリーさんに聞いた。人間は環境によって大きく価値観を変えるのだと。ものをたくさん持っている人間は、失うことをあまり悲しまないそうである。そう言う人間は、新しく何かを得ることも、きっと喜ばないのだろう。

闘争心に欠ける奴だと思ってはいたが、その理由がはっきりした気がする。多分此奴は、あるのが当たり前の環境に育ったのだろう。だから知識を大量に得ることも出来たが、一方で妙に大人しすぎる人間に育ったという訳だ。

それが悪いことだとは思わない。

ただ、別の世界に住んでいるのだなとだけ思った。

「ノルディスさん、お車、綺麗だと思わない?」

「え? う、うん。 おろしたてだね」

「エリー、ここのところ、一生懸命お仕事して稼いでた。 それで、このお車買えたのに」

ちょっと責めるような口調でキルキが言うので、ますます眉を下げてノルディスは困惑した。エルフィールは咳払いして、キルキを宥める。

呼び鈴が鳴る。多分アイゼルだろう。ノルディスが来ると言ったら、絶対に行くとか叫んでいたから、むしろ遅かったくらいだ。

アトリエにはいると、アイゼルは如何にも狭そうに周囲を見回した。だがノルディスの手前、嫌みも言えないのだろう。

「アイゼルさん、ようこそ。 狭いけど、上がって」

「え、ええ。 それで……この荷車が、それなの?」

「うん。 よく見て、この細かい作り。 それでいて頑強なこの完成度。 まさに職人の作った逸品! 二ヶ月分の稼ぎが吹っ飛んだけど、惜しくないよこれなら」

「へ、へえ」

アイゼルはうんうん頷いているキルキにも押されたか、困惑しきって形だけ同意した。もっと困り果てているノルディスと顔を合わせて、ちょっと嬉しそうにしたのは、多分この自分が全く知らない異空間で同じ感想を持つ人間に出会えたからだろう。

「それで、遠出に行くっていっていたけど、何処まで行くの?」

「まずはヘーベル湖まで試運転。  その後はストルデル川の上流や、ちょっと遠いけど北のヘウレン。 最終的にはメディアの森まで足を運びたいかな」

ノルディスに、指折り数えながらエルフィールは応える。一緒に行っても良いかとキルキに聞かれたので、もちろんと即答。

積極的なキルキに比べて、消極的なのはノルディスだった。

「お、女の子二人だけでそんなに遠くまで行くの? 危なくない?」

「護衛をもちろん雇うよ。 今の私の実力じゃあ、単独での行動はちょっと危険だもの」

「で、でも、君たちはたしか定期的に試験を受けているんだよね」

「それは大丈夫。 事前申請をして、試験の時期はずらせるんだよ」

ノルディスはそうなんだと呟くと、それ以上疑念を口にはしなかった。

アイゼルは何だか穏やかならぬ顔である。多分ノルディスが心配しているのが気に入らないのだろう。分かり易い事である。

ただ、アイゼルのことをエルフィールはそんなに嫌いではない。今後仲良くなりたいとも思っている相手だ。いっそのこと、一緒に遠出したい所だが。

「ノルディスも一緒に行く? 確か授業の方も、申請すれば最長で一ヶ月くらいは出なくても良かったはずだよ」

「え? ええっ!」

真っ赤になるノルディス。そして、獲物が針に掛かった。

「の、ノルディスが行くなら私も行くわ!」

「え? そう? 来てくれるの?」

「ふ、ふふ、ふたりっきりなんて出来る訳ないでしょ! 不、不潔だわ!」

「私もいる」

キルキが挙手するが、アイゼルには聞こえていない様子だった。これで、四人か。まあ、近場だったら、一人くらい冒険者を雇えば充分だろう。弱めの猛獣くらいなら、エルフィールと二人で十分対処できる。アイゼルもキルキも思ったより根性があるし、多分足手まといにはならないだろう。

問題はノルディスだが、今回見極めればいい。それに、まだエルフィールは動植物以外の知識には疎い所がある。授業をきっちり受けている二人は学習をみっちり進めているはずで、その点でも実地での知識向上が期待できた。

ヘーベル湖に行くとなると、往復に二日。現在の稼ぎを考えると、一週間以上は滞在できないだろう。得られるのが予想される素材類を考慮には入れない。ロブソン村でアデリーさんに言われたのだが、期待値というのはあくまで期待値であって、それを最初から計算に入れると痛い目にあうのだそうだ。

だから、今まで蓄えてきたお金だけで考える。最悪の事態、例えば荷車を取られてしまうとか、そう言う時のことも考えて、採取に出なければならなかった。

まあ、人数が五人になれば、そう簡単に襲ってくる猛獣もいないだろう。ただ、素人冒険者ではなく、それなりに腕が立つ人間を雇わないと危なくはあった。アイゼルはともかく、ノルディスがはぐれた場合、助けられる自信はない。流石に同級生を死なせたら、相当に立場は悪くなるだろう。

「じゃあ、三日後から、一週間ほど探索に行くから、アカデミーには申請しておいてね」

「う、うん。 本当に大丈夫なの?」

「後、キャンプ用品とかは自前で。 冒険者を雇うお金は折半しよう」

「……手慣れてるね」

ノルディスがぼやいた。

まあ、秀才のノルディスのことだ。二度か三度採取に行けば、すぐに何をすればいいか分かるようになることだろう。エルフィールも最初アデリーさんに連れられて山ごもりをした時には、随分苦労したものだ。それを思い出す。

三人を帰すと、エルフィールはアカデミーから借りだしてきた新しい教科書に目を通しておく。事前知識類は幾らあっても困ることはない。

後は冒険者ギルドか飛翔亭に行って、手伝いを見繕わないとならない。ベテランとまでは行かなくても、中堅どころくらいは雇いたい所だ。ナタリエさんがいれば良いのだが、無理なら他の中堅どころをディオ氏に見繕って貰うことにしようと、エルフィールは思った。

他には保存食類が必要だ。干し肉の類は、一応蓄えがある。何度か探索に行った時、兎を見つけて絞めておいたのだ。肉はしっかり煙を通して燻製にしてあるから、一週間程度なら傷む心配は全くない。後は穀物として、少し前から干し飯を作ってある。

干し飯はお湯で戻すことが出来るもので、東方から来た携帯食料である。軍では一部の部隊で使用されているらしく、騎士団では作成が必須項目の一つだそうである。エルフィールはアデリーさんに作り方を教わり、今では寝てても作れるようにはなっていた。

他には野菜類である。

都会病と良く言われる、野菜不足から起こる病気が幾つかある。アデリーさんに気をつけるように言われているので、これについては対策も考えている。現地で野草を取るようにする他、幾つか乾燥させて湯で戻すものを用意してある。現地で収穫した野草類にしても鍋にすればかなりの時間保つし、寄生虫も防げるので、探索の間くらいはどうにでもなるはずだった。

食料の類は大丈夫である。

後は装備品だ。今回は武具として、紅柳と白龍をもっていく。残りの戦闘用杖に視線をやるが、まだちょっと使いこなせる自信がない。もちろん何度か実戦以外で試したことはあるのだが、流石にその辺りで試運転してからでないと危ないだろう。

後は、腐りそうなものは早めに処分をしておく必要もある。

保存が利かない食べ物の類はあまり置いていないが、そういえばと裏庭に出ると、この間取ってきた木の実類が放置したままだった。これも出る前に食べきってしまうことにしようと、エルフィールは考える。

準備が一通り済むと、飛翔亭に。

蒸留水と中和剤を納品して、少しでもお金を稼いでおく必要があったからだ。

出来れば、ついでに冒険者も見繕っておきたかった。

 

飛翔亭にはいると、なにやら剣呑な雰囲気となっていた。

カウンターにいるディオ氏が、露骨にへそを曲げている。カウンターの前で困惑しているのは、角刈りにしている筋肉質の大男であった。

ナタリエが、呆れた様子でそれを見ていたが、エルフィールに気付く。話し掛けようとしたら、黙るように指示されたので、様子を見守ることとした。多分、この様子だと、家庭に関係する事だろう。

「ディオさん、それは無いですよー。 俺、誠意のない行動はしていないのに」

「巫山戯るな。 娘につく悪い虫は取るのが当然だろう」

「わ、悪い虫って。 俺、ディオさんの顔に泥を塗るような仕事、一度だってしちゃあいませんでしょ」

「それとこれとは別問題だ」

困り果てている様子の男に、ディオ氏はまるで思春期の娘を持つ父親のように接している。確か何度かみかけたディオ氏の娘は、もうかなりいい年の筈だ。当然結婚して子供がいても良い頃である。

なるほど、冒険者としては見本のような人物であっても、ちょっと父親としては問題がある人なのだなと、エルフィールは失礼な分析をした。

ナタリエに促されて、店の外に出る。この様子だと、納品も時間をおいて来た方が良いだろう。

「仕事の納品か?」

「ええ。 一通り終わりましたから」

「相変わらず手堅いな。 オレが知る錬金術師なんて、けっこうかつかつの仕事を平気で受けてたもんだが」

ナタリエは苦笑いする。最初かなり厳しい人だと思っていたのだが、飛翔亭で見掛けて何度か話してみると、意外に面白い人だと分かってきた。同じように田舎から出てきたもの同士というよしみもある。

だが、残念なことに、今回の護衛は引き受けてもらえないという事であった。

「残念だけど、ちょっと大きめの仕事の先約が入ってるんだ。 悪いな」

「大きめ、ですか」

「何でもドムハイトの方の内乱が酷くなってきているらしくてな。 特に辺境の方は、滅茶苦茶な状況らしい。 シグザール側は表だって手は出してないが、裏ではオレ達や騎士団を使って、引っかき回すことに余念がないってわけさ」

ふうんと気がない返事をしたエルフィールだが、内心ではこれは好機かもと思っていた。

以前飛翔亭で小耳に挟んだのだが、騎士団も錬金術アカデミーとはかなり関係が深いらしい。そして戦闘関連の任務が騎士団で多くこなされるようになれば、医薬品や武具類の、しかも高品質なものほど需要が高くなってくる。

つまり、かき入れ時になる可能性が高い。その時にスキルを付けておけば、一気に躍進できる可能性もある。

ただし、これは言うまでもなく極めてデリケートな問題であるし、人間関係を壊す発端にもなりやすい。だから、敢えて本音は言わない。

露骨に戦乱を望むような騎士は白眼視されるということわざもある。あれほど強いのに、アデリーさんも自分の武芸を栄達に使おうとは全くしていない。本音をある程度隠すのは処世術だし、何より意見が対立するのは必ずしも望ましい場合だけではない。何でもかんでも本音を開けっぴろげにするのではなく、影で成果を上げていくのも賢いやり方に違いなかった。

飛翔亭での修羅場終了を待っていても仕方がないので、ナタリエに礼を言って別れて、冒険者ギルドにも足を運ぶ。途中、小走りで道を行くアルテナ教のシスターらしき人物とすれ違った。一瞬見ただけだが、司祭の資格をきちんと持っているらしく、衣服には医療の神を象った模様がついていた。まだ若いのに、大したものである。或いは、親から引き継いだ地位であろうか。

ゆっくりと坂を下っていく。美しい石畳と、水路に覆われた街。時々殺気を感じることもあるが、おおむね平和だ。体が鈍ってしまうほどに。

欠伸さえしながら、冒険者ギルドに。

流石に中には腕利きの冒険者が揃っている様子だ。驚いたのは、騎士団員らしい人間がちらほらいることか。

既に一月ほど前に、受付自体はすませてある。入り口でカードを見せて、相談窓口に。そのまま、雇いたい相手のリストを出して貰う。モノクルを掛けた中年男性の受付は、エルフィールの話を聞きながら、十人ほどリストアップしてくれた。

まだあまり知識がないので何とも言えないのだが、無難な所ばかりである。値段にしても実力評価にしても中堅どころの冒険者が多く、いずれも安心して冒険者ギルドが奨められる人材の様子だ。

まあ、今回は手堅い採取をしたいのだから、あまりかさばる人材でも困る。目にとまったのは、ハレッシュという男であった。

「ハレッシュという人は、どういう人ですか?」

「腕は非常に立つ男で、騎士にしたら中堅から上位まで食い込めるだろう。 この間のエアフォルク事件でもかなりの活躍をしているな」

「その割には、少し料金が安いような気がしますが」

「此処に問題があってな」

おじさんは人の悪い笑みを浮かべると、頭を何度か指先でつついた。

頭が悪いとか性格に問題があるのではなく、兎に角考え方とかが雑なのだという。金離れなども良いのだが、見ていて非常に不安になることが多いのだそうだ。

しかも本人も、その欠点を笑って受け容れてしまっている所があり、周囲も困っているという。特に冒険者ギルドの長老達は、もう少し性格が改善されればと、いつも嘆いているのだとか。

ただし、腕前に関しては折り紙付きであるし、客とのトラブルも目立って少ない。戦士としては充分に一流以上で、キャンプなどの知識もしっかり備えているという。

それならば、エルフィールとしても問題ない。此方は非戦闘員を三人連れて行くのである。戦闘のプロフェッショナルが一人居るくらいで、丁度釣り合いが取れるというものだ。

「それならば、ハレッシュさんで」

「いいのかい? 何度も言うけど、とても雑な男だよ」

「今回は非戦闘員が多いので、戦闘能力が高い護衛が欲しい所だったんです。 雑な性格とかは、まあ私がある程度カバーすれば良いことですから」

そうかとおじさんは呟くと、手続きを進めてくれた。二日後にアトリエに出向くように手配をしてくれると言うことであった。

これで、準備は整った。

後は、湖へ出かけるだけであった。

 

青々と茂る小麦の畑。遙か遠くまで続く畝には、ただひたすら風に揺れる麦穂が続いている。

ザールブルグ二十万の住民ばかりか、国の多くを支える巨大穀倉地帯である。その規模は尋常ではなかった。

土の匂いが心地よい。ハレッシュと一緒に荷車を引きながら、エルフィールは既に青い顔をしている後ろの二人に振り返った。とてとてとキルキでさえついてきているのに、体力がないことである。

「二人とも、大丈夫ー?」

「ちょ、ちょっと、エリー。 もっとゆっくり、行こう、よ」

「へ、平気に、決まってる、でしょう!」

本音を吐露するノルディスと、肩で息をつきながらそれでも強がってみせるアイゼル。ノルディスはそれが限界だったらしく、以降一言も喋らなくなった。

実は最初、荷車をハレッシュとエルフィールで交代しながら引くといった時、アイゼルが自分も引くと宣ったのだ。

キャンプ用品、エルフィールの戦闘用杖を含めて、軽いとは言っても荷物はキルキの体重くらいはある。実際に引かせてみたら、最初はうんうん唸りながら一生懸命頑張ったが、八半刻も保たなかった。以降はまだ引けたのにとか次はもっと長く引くのだとか言いながら、ついてきている。

キルキはと言うと、育ち盛りにエルフィールと一緒に時々採集に出ているためか、みるみる逞しくなっている。二次性徴も始まっているし、手足が伸びきる頃にはしっかり体力がつくことだろう。

虎との実戦でも見たが、キルキの能力は熱操作だ。非常にオーソドックスな能力の一つであり、研究も盛んに行われている。キルキは温めることも冷やすことも出来るのだが、しかしながら燃費が極めて悪い。故にあまり実戦的ではないと本人は思っている様子であった。

アイゼルはあの時ちらりと見ただけだから何とも言えないが、瞬間的な爆発力だけは充分にある能力である。今後実戦で何度か使って貰って、見極めたい所だ。

「はっはっは、賑やかでいいな。 おい、そっちのひょろっこい坊主。 俺が背負っていってやろうか?」

青い顔でノルディスはハレッシュを見たが、応える元気もない様子であった。

ハレッシュは、意外なことに。飛翔亭で見掛けた、あの角刈りの大男であった。アトリエの前で顔を合わせた時、びっくりしたものである。実際軽く棒を使って組み手をしてみたのだが、格闘戦の実力はエルフィールよりも数段上だ。これならば、充分に護衛として役に立ってくれるだろう。

性格は雑だと言われていたが、確かにその通りである。アイゼルが火が出そうな顔でハレッシュを睨んでいるのに、気付いてもいない。多分アイゼルはノルディスが恥を掻かないように、気を使っているのだろう。

むしろ、気が回ったのは、キルキの方だった。ノルディスとアイゼルの様子を見て、助け船を出す。自分を犠牲にする形で、だ。

「エリー、疲れた。 休みたい」

「そう?」

「何だ、嬢ちゃんも疲れたか。 何なら肩に載せて行ってやろうか? 高いぞ。 眺めも良いぞ」

「やだ」

キルキに断られて、からからとハレッシュは豪快に笑った。何だか、ディオ氏がやきもきする理由が分からないでもない。この人は悪い人ではないが、娘の恋人となったのだったら、確かに気が気ではないかも知れなかった。

いい加減ノルディスが倒れそうな顔色になってきたので、一度休むことにした。

穀倉地帯と言っても、ずっと畑ばかり続いている訳ではない。伝令や旅人のために、時々街道の側に休憩所が設けられている。

その一つを見つけたので、エルフィールは皆に宣言して、休むことにした。アイゼルも、ノルディスの様子を心底心配していたようで、今度ばかりは強がりを言わなかった。多分これ以上は、ノルディスに恥を掻かせると思ったからだろう。

休憩所と言っても、小さな小屋がある他は、だだっ広い野営地になっている。小屋は基本的に伝令などの急を要する人間が用いるのが暗黙の了解となっているし、旅慣れている人間は野営をするのが普通である。その上此処には常備兵もいる。

むっつりと黙り込んでいる屯田兵に一礼して、奥に。

小さいが、井戸もある。水質は一応飲めるレベルであった。試運転のために野営用の天幕を拡げ出すと、ハレッシュが手伝ってくれる。隅っこから野営するのがこう言う所での礼儀であると、ザールブルグに来る時アデリーさんが教えてくれた。その時のことを思い出しながら、几帳面なまでに野営場の隅っこに天幕を張った。

二張り作っても良いのだが、別に寝る訳でもないし、これでいい。天幕の調子は良く、久し振りに張ってみたが全く不安要素はなかった。これなら、実際運用時の、ヘーベル湖でも大丈夫だろう。

「キルキ、そっち持って」

「うん」

キルキに手伝って貰う。手が空いたハレッシュは、アイゼルとノルディスに竈の作り方を教えていた。今回は前の客が作り残した竈があるので、それを見本に石の組み方を講義している。ノルディスは若干気がない様子だったが、アイゼルはエルフィールは簡単にこなすとハレッシュが言った途端に、食い入るように講義に聴き入り始めていた。

せっかく竈があるので、持ってきた兎肉を炙って食べる。今回はそんなに長く滞在するつもりではないが、干し肉の出来を確認しておくのも悪くない。

火を通すと、ぽたぽたと油が滴り始める。良い匂いだ。

「お、良い匂いだな。 兎か?」

「ええ。 近くの森で何匹か仕留めたので、捌いて干し肉にしておきました」

「食べていい?」

「ちょっとだけだよ」

念を押しながら、キルキに渡す。ノルディスは案の定足が肉刺だらけになったらしく、靴を脱いで状態を確認していた。生白い足である。ただ、感心したのは、自分で作った薬を使って、肉刺の治療に入っていることか。

「ノルディス、大丈夫? 痛くない?」

「痛いけど、まだ大丈夫」

アイゼルが眉をひそめ、本当に肉刺だらけになっているノルディスの足の裏を見つめていた。

アイゼルの時もそうだったが、恵まれた環境にいると人間はこうもひ弱で軟弱になるものなのか。エルフィールはまだ子供を作る予定も婚姻する相手もいないが、もしも子供を作った時には、社会的に成功していても楽はさせないようにしようと思った。

脳裏に、何かが掠める。

酷い記憶のような気がする。だが、思い出せない。漠然としていて、思い出すのを拒否していると言っても良い。

一つ分かるのは、自分の子供に、そんな苦労はさせたくないと言うことだ。しかし苦労そのものはさせないと駄目になるとも思う。此処が実に難しい。

ノルディスは足の裏の治療を終えると、時々顔をしかめながらも、エルフィールの所に歩いてくる。アイゼルはこの間から少し鍛えているからか、まだ余裕がある様子だ。

「エリー、食事にするの?」

「はい。 どうぞ」

串に刺し、炙っただけの兎肉を渡されて、ノルディスは不安そうにまた表情を曇らせる。アイゼルにも渡す。

「エルフィールさん、これ何の肉?」

「兎だよ」

ぶうと二人同時に噴き出すのが面白い。兎肉はザールブルグでも食べると聞いていたのだが、二人は上流階級の出身だろうし、多分経験がないのだろう。

アイゼルはそのままの姿勢で固まっている。ノルディスは青ざめて、黙々と食べているキルキに視線を移し、すがるような目でハレッシュを見た。

「何だ、坊主。 兎肉は初めてか」

「た、食べられる、んですか」

「野外じゃあむしろ御馳走だな。 兎が手に入らない時は蛇を捕ったり、或いは野ねずみを捕ることもある。 今回のはきちんと加工されて燻製されてるから、かなり美味いぞ」

ハレッシュはそう言って、ちょっと物足りなさそうに串を竈の中に捨てた。

竈の中で串がぱちぱちと燃える。それを見つめながら、ハレッシュは少し真面目な表情になる。

「抵抗はあるかもしれんが、野外に出る時は腹にものを入れて置いた方がいいぞ。 俺はもちろん全力を尽くして護衛するが、錬金術師って事は、今後もっと危ない所に出る事も増えてくるだろう? そう言う時、生き残るには図太い生命力が必要なんだ。 遭難した時には、それこそ動物を生で喰うくらいの事はしなきゃならなくなる。 それを考えれば、この燻製肉はそれこそ、天上の御馳走も同じだ」

同感である。

少し油がついた指先を舐めると、天幕の中に戻る。ハレッシュがいるから、今日はあまり気を張らなくても大丈夫だろう。

アイゼルが意を決して肉を口にするのが、視界の隅で見えた。

 

野営場の側。

まるで誰もいないかのように気配を完全に消し、其処に潜んでいたのはエリアレッテだった。

かって貴族の令嬢であったエリアレッテは、挫折と無縁だった。たっぷりの愛情に包まれて育ち、自分に出来ないことなど無いとさえ思っていた。跡継ぎの資格はなかったが、騎士の試験にも合格して、何ら未来にかげりはないと思っていた。

あの日、完膚無きまでの敗北を喫するまでは。

プライドを粉みじんに砕かれたエリアレッテは、それまで伸ばしていた美しい髪をばっさりと切った。そして人間破城槌の異名を持つクーゲルに弟子入りし、今までの全てを捨てた。部下も家族も、みんな捨てた。

家も。友人も。

それまでの戦闘スタイルまでも、である。

戦闘時には、一切感情が出ず、必要とあれば子供でも惨殺できるように精神も整えた。

悔しかったのが一番の理由だ。だが、捨ててみてはっきり分かったこともあった。自分は温室に守られて育ち、今まで世間など何一つ見てはいなかったと言うことを。世界の中で、社会という籠に守られながら、自分は偉いと勘違いしていた滑稽な小動物。それが、エリアレッテの現実だったのである。友人と思っていた連中も、エリアレッテが気前よく金を撒かなくなった途端、寄りつきもしなくなった。つまりそんな連中ばかりが、エリアレッテの周囲にいた人間どもの現実だったのである。

だから、それに気付いた時。全てを捨ててみて、さっぱりした事に納得してしまった。

今では、家族のことなど何とも思っていない。家など別の兄弟姉妹が継げば良いことだし、何より財産にも地位にも興味がない。

興味が今あるのは、暴力と殺戮だけだった。

クーゲルは自分を認めてくれた。戦闘スタイルの改変を手伝ってくれたし、あらゆる技を仕込んでくれた。だから聖騎士にもなれた。そして、気付いたのだ。今まで、本当の意味で自分を人間として見てくれた者など、いなかったと言うことに。クーゲルは己の後継者として、エリアレッテを認めてくれた。それだけで、本当に嬉しかった。

故に、クーゲルが認めた逸材、鮮血のマルローネには興味がある。その関連で見張っているエルフィールというあの娘にも、実に興味がそそられた。

今のところ、時々気配を薄く見せているのだが、向こうが気付く気配はない。むしろ護衛についている冒険者の方が、こっちに気付いて警戒しているほどだ。軽く失望を覚える度に、自分に言い聞かせる。

昔は、自分もああだったではないかと。

別の気配に振り向く。聖騎士ダグラスだった。クーゲルに言われてエルフィールを監視しているメンバーの一人である。

「交代の時間だ。 それと、クーゲルさんが呼んでたよ」

「そう」

短く答えると、その場を離れる。ダグラスは何か言いたそうにしていたが、最初から聞くつもりなど無い。

クーゲルが呼んでいると言うことは、何か任務があると言うことだ。それが楽しみで仕方がなかった。

風を切って走る。今は身を隠している訳でもないから、普通に街道を行く。左右に揺れている無数の麦穂。まるで緑の海の中を走っているようで気持ちが良い。感情を極端に制御するようになった今でも、綺麗なものを見ればそれなりに心が動く。

ザールブルグを迂回して、隠し砦に。半刻も掛からず辿り着く。呼吸を整えて、砦にはいると。クーゲルは巨大な穂先を持つ槍を構えて、演舞を行っている所だった。若手の騎士の中にはクーゲルを怖がる者が多い。実際怖いのだが、その実エリアレッテの師の訓練で怪我をする人間は極端に少ない。

「今のように、いつでも相手を殺せるように構えることが重要だ。 まず相手は殺すことを考え、余裕があるなら生かして捕らえることを考えても良いかもしれん」

クーゲルは最近随分丸くなったと言われているが、エリアレッテは違うと考えている。騎士達の隅に混じり、話を聞く。最近騎士になったという何人かの若手も隠し砦に来ていた。若いと言っても、エリアレッテとは同年代か年上だが。

「相手に情けを掛けるのは、自殺行為だ。 潰せる時に徹底的に潰すことを考えてこそ、戦いの中では生き残れる。 守るだの信念だのは、まず相手を殺せる腕になってから口にするように」

「分かりました!」

騎士達がクーゲルに唱和する。納得していない顔もいるが、それ以上にクーゲルの実戦的な戦闘訓練で強くなっている事を実感する者の方が多い様子だ。弟子として、ただそれが誇らしかった。

騎士達が解散すると、クーゲルは鎧を脱ぎ、上半身裸になって汗を拭き始めた。既に老年に片足を踏み込んでいるのに、その屈強な肉体は衰えを知らない。その気になれば素手で虎を八つ裂きに出来る筋肉は、極限まで磨き抜かれていた。

「エリアレッテか」

「はい。 師匠」

「お前に仕事を授ける。 西にある小さな国家、リダートコール王国が、今きな臭い動きをしていると、牙から連絡が入った」

リダートコール。聞いたことがある。

大陸の西半分をほぼ支配しているシグザール王国の、二十以上ある衛星国家の一つである。一応独立国となっているが、内政はかなり深い所までシグザールに掴まれており、人材の派遣も活発だ。海運に強いため、今後海軍を強化しようとしているシグザールに積極的に戦略的価値をアピールしており、ヴィント王も注意深く制御している。実際、造船関連の技術に関しては、大陸でも指折りだという話である。

一方で国力は脆弱で、実質的な領土は著しく狭い上、人口も六十万程度しかいない。とてもではないが単独でシグザールに対抗できるような実力は備えていない国だ。きな臭い動きとはどういう事なのだろうか。

「ドムハイトはとてもではないですが、大陸の反対側にある、しかも小国のリダートコールにまで手を出せる余裕はないはずです。 かつてならともかく、今では彼らの諜報集団も長を失い、著しく弱体化していると聞いています」

「ああ、ドムハイトはどうも今回の件には関係ないらしい。 だが、どうも数十人単位で、得体が知れない連中が動いているようでな」

既に牙の数名が現地入りし、援軍を待っているという。それほど本格的な任務となると、エリアレッテもしばらく監視対象から離れざるを得ない。

「しかしよろしいのですか? 監視が疎かになってしまいますが」

「別に問題ない。 儂が代わりに見張りにつく」

背中を戦慄が駆け抜けた。それならば、確かに何ら問題はない。

それにしても、あの鮮血のマルローネの秘蔵っ子という事は、それだけの意味を持っているというのか。まだ未熟なあの女に、エリアレッテも俄然興味が湧いてくる。今までも興味はあったが、クーゲルの行動が心に火をつけたと言っても良い。

「それほどの、相手ですか」

「実際には、あの鮮血のマルローネが育て上げたわけではないらしい。 だが、奴が推薦し、錬金術アカデミーが裏で本格的に動いている程の輩だ。 騎士団としても、監視して損はない」

「興味が出てきました」

「それは良いことだ。 良いか、エリアレッテよ。 育ち盛りの若者を、欲望に任せて殺そうとは思うな。 それは、まだ青い内に果実をもいでしまうのと同じ愚行だ。 良い腕にまで育ち上がってから収穫することを心がけよ」

頷くと、エリアレッテは砦を出る。

途中、幽霊のような暗い雰囲気の女とすれ違う。以前何度か見掛けたことがある。錬金術アカデミーの教師をしているヘルミーナだ。もの凄い使い手で、騎士団でも確実に上位に食い込むカミラ=ブランシェと互角以上の戦いをしたという。

奴は恐らく、騎士団に釘を刺しに来たのだろう。それだけ、エルフィールという女の周囲で蠢く監視網が凄まじいと言うことだ。錬金術アカデミーも、相当に着目しているという事である。

騎士団のメンバー何名かと、街道を歩きながら合流。そのまま、リダートコールに向かう。

敵は全部殺したいが、口を割らせなければならないから、何匹か残さなければならないのがもどかしかった。血が見たくて、仕方がなかった。

 

2、ヘーベル湖での出来事

 

日が暮れても、まだヘーベル湖には着かなかった。この辺りは屯田兵が巡回しているとはいえ、街道を外れると何が起こるか分からない。ハレッシュも笑顔が減ってきているのが分かった。

途中、休みすぎた。ノルディスとアイゼルに合わせて歩いていたら、予想よりもずっと時間が掛かってしまったのだ。キルキも、少し疲れが見え始めている。エルフィールはまだ平気だが、この状態で格闘戦をやれと言われたら、少し厳しそうだった。

「もう少しだ、頑張れ」

「……」

うつろな目で、ノルディスがハレッシュを見た。アイゼルはノルディスを気遣う様子をずっと見せていたが、彼女ももう口を利く余裕がない様子である。二人とも星明かりでしか顔を判別できないが、疲れているのは一目瞭然だ。そろそろ、松明を付けた方が良いかもしれない。周囲を巡回する屯田兵の数が減ってきていたし、何より道も確実に狭くなってきているからだ。

街道が終わり、暗い森が姿を見せる。

此処から、湖まで直線的に森を突っ切ることになる。一瞬後ろの二人のことを考えて、一泊してからにするかとエルフィールは思ったが、ハレッシュが意外な所で引っ張ってくれた。

「俺から離れるなよ。 迷子になったら死ぬぞ」

「二人とも、荷車に掴まって。 キルキちゃん、私の服を掴んでいて」

死ぬとはっきり言われて、流石にノルディスとアイゼルも青ざめる。形のいい唇を振るわせて、アイゼルが言う。

「と、虎とか、怖い人とか、出るの?」

「怖い人? 盗賊のことか?」

「い、いえ。 何でもないわ」

「この辺りには虎は出ないが、夜の森ではぐれるって事自体が致命的なことなんだ。 捕食性の動物も多くいるし、嬢ちゃんや坊主みたいなのがはぐれたら、一晩で骨だって残らないぞ」

この世界は、人間のものだ。

だが、人間が目を届かせていない部分は確かにある。そう言う部分では、特に単独の人間は、決して無敵でも支配者でもない。

「心配だったら、ほら、これを使え。 手首か何かを、荷車に縛っておけ。 文字通りの命綱だ」

「あ、明日にしても」

「その分料金がかさむんだぞ。 お前達は金なんか余ってるかも知れないが、前の二人は毎日かつかつの生活をしているって、忘れていないか? 今回の探索だって、失敗したら当分ろくな食い物だって手に入らないかも知れないんだぞ?」

俺がいるから、一緒にいる間は大丈夫だと、ハレッシュは力強く言う。

最初に、アイゼルが無言で作業を始めた。手首にいささか乱暴に縄を結び、ノルディスに手渡す。躊躇していたノルディスだが、流石にそれを見て意を決した。自身は、腰に縄を結んでいた。確かにその方が賢い。

「本当に、すぐにつくのね」

「このヘーベル湖は錬金術師にとっても有名な場所でな、俺も来るのは初めてじゃない」

「そう。 信用させて貰うわ」

アイゼルはもう余裕もない様子で、だが頷いた。

きっと気付いたのだ。いつもエルフィールや、何よりキルキが、このくらいのかつかつの生活をしているのだと。ノルディスはまだ多分気付いていない。

恐らく、ノルディスの方が、ずっとアイゼルより恵まれた生活をしているからだろう。

森に、踏み入る。

頼りになるのは、星明かりだけだ。殺気は、今のところ周囲からは感じない。ハレッシュが、いきなり槍で近くの木を叩いたので、全員が足を止めた。アイゼルが、上擦った声をあげる。

「な、何」

「こうやって、動物に俺達が此処にいるって示しているんだよ。 しかも大人数だってな」

「襲ってこない?」

「余程頭の悪い若い個体じゃなければ大丈夫だ。 そんなのは、俺が潰してやるから心配するな」

後は、ただ歩いた。

時々振り返り、脱落している者がいないか、確認する。ノルディスもアイゼルも、もう意地になっている部分があるのだろう。必死に足を交互に動かしていた。木の根を踏む時は、ハレッシュが頼りになった。荷車を苦もなく進めてくれる。

キルキが転びそうになったので、抱き留める。小さくて痩せた体だ。

「大丈夫?」

「へいき」

「よし、水の香りがしてきた」

ハレッシュが言うのと、森が開けるのは、ほとんど同時だった。

目の前に、一面の黒が広がる。星明かりだけをただ写して、夜の湖はただ其処に傲然と存在していた。

まずは天幕を張る。それから、見張りの順番を決める。

今回はハレッシュとエルフィールで二交代にしようかと思ったのだが、アイゼルが手をおずおずと挙げた。

「見張りはどうするの。 私、やるわ」

「無理すんな。 もう立ってるのがやっとなんだろ」

「疲れてるのは貴方たちも同じでしょ? だったら、私もする」

「……」

ハレッシュは無言でノルディスを見た。少年はもう前も見えていない様子だったので、キルキが挙手する。

「じゃあ、私がアイゼルさんと一緒に見張る」

「そうか、それが無難だな」

会話を横目で見ながら、エルフィールはせかせかと天幕を張った。

竈を作っている間に、ハレッシュがノルディスを中に運び込む。ぱたんと倒れたノルディスは、そのまま寝込んでしまった様子であった。アイゼルも見張ると言っていたが、殆ど同じ状況である。

「じゃあ、最初に私が見張ります。 ハレッシュさんは、後でお願いします」

「おうよ」

あえてアイゼル達の話をしなかったのは、多分起きてこないだろうと思ったからである。キルキは起きられるかも知れないが、無理をさせては悪いともエルフィールは思った。

竈を背中に、一人夜の湖で、エルフィールは膝を抱えて座る。

此処は、いい。周囲に壁もないし、何より空気が開放的だ。だが、時々エルフィールは、壁に囲まれた場所がとても怖くなることがある。

一年前より昔の記憶が殆ど無いことと、関係しているのかも知れなかった。

 

朝起きると、意外なことにアイゼルがうつろな目で見張りをしていた。キルキは欠伸をしながらも、多少は余裕がある様子である。ノルディスはと言うと、完全に毛布にくるまって死んでいるように寝ていた。

また一つ、アイゼルを見直したエルフィールは、出来るだけ爽やかに挨拶する。

「おはよう、アイゼルさん」

死人のような目でアイゼルはこっちを見たが、何も返事をせず、ぱたんと横に倒れた。キルキが頭を撫で撫でしているが、限界だったのか、死んでいる。正確には、死んだように眠っている。ぐったりしているアイゼルを天幕の中に運び込む。ハレッシュが、欠伸をしながら起きだしてきた。

「お、嬢ちゃんは今まで起きてたのか」

「なんか、稲妻をまとった恐ろしい人が来る、とか呟いて、きゃーとか叫んで飛び起きた」

「何だろそれ」

「でも、アイゼルさん、自分で起きた」

凄いねというと、キルキも頷く。多分キルキも、アイゼルとノルディスは、自分とは根本的に違う環境で生きていることには気付いているのだろう。だから、素直に凄いと思える。人間は温い環境で生きると、幾らでも鈍るのだ。

籠を引っ張り出す。

昨日の午後には到着するつもりだったので、滞在日数は既にかなり削り込まれている。今回は二人でハレッシュの雇用費を折半する話をしていたのだが、あまり長引くようでは二人にも金を出すことを考えて貰う必要があるかも知れない。

まず、湖に。

大きな湖だけあって、小さな波が寄せては返している。覗き込んでみるが、水質は恐ろしく良い。かなり深い所まで、肉眼で見えるほどだ。逆に水質が良すぎるためか、あまり魚の類は見受けられなかった。

まず最初に、植生を確認する。どれだけ取っても大丈夫か、どこに質が良い薬草が生えているか。いずれも重要なことだ。

寝転こけている二人はハレッシュに見張りを任せて、キルキと一緒に行く。最初出会った頃は早朝眠そうにしていたキルキだが、何回か森に採取に行くことを繰り返した結果、ちゃんと起きられるようになってきている。ただ、今日は流石に若干の疲れが見えるようだ。

「エリーは大丈夫?」

「私は平気ー。 まあ、ちょっとは鍛えてるからね。 あー、トーンの群生だ」

「あっちにはズスタフ草もある」

「あれは微妙かな。 ちょっと育ちすぎて、トウが立ってる」

石の類も拾ってみる。返す波に洗われて、完璧なほどに丸いものが多かった。ただ、どれもこれも普通の石ばかりである。キルキもちらりと見て興味を失ってしまったようで、薬草類を集めることにばかり終始していた。

あっと声をあげたキルキに釣られて視線を向ける。

石の影に、ゴーストフラワーと呼ばれる非常に珍しい草が生えていたのである。ただし、群生にはなっていない。

この花、茎も葉も真っ白で、幽霊が手招きしているかのような姿をしていることから名がついている。薬草としてもなかなか効果が高く、主に解熱作用が見込める。

しかし兎に角デリケートなので、持ち運びには注意しなければならない。傷でも付けたらあっという間にいたんでしまう。

「取るの、駄目だね」

「デリケートな花だしね。 もしもやるなら、この場で調合するくらいの気持ちじゃないと駄目かな」

それに、此処で取ってしまうと、絶滅の危険性もある。将来的にそうなってしまうと、非常に面倒なことになる。犯人としてばれたりでもしたら、エルフィールの不利益だけではなく、アカデミーの不評を招きかねない。

そうなれば、どのような仕置きをされるか。考えるだけでも恐ろしかった。

他にも彼方此方を探してみるが、ありきたりの薬草類しか見つからない。ただし量がかなりあるので、此処に来た意味は充分にあった。調合にも使えるし、何よりそのまま売り払っても換金できるものがかなりある。

軽く採集を済ませて、一旦荷車に。籠の中身を荷車に移していると、陽が高くなってきた。荷車を物陰に移して、痛む速度を緩和する。薬草類の中には乾燥させてしまうとよいものもあるが、いずれにしても根を切った後直射日光を浴びせるのは好ましいことではなかった。

続いて、持ってきた桶を運び出す。

ヘーベル湖と言っても、水の質は随分差が出てくる。波打ち際には汚れが溜まっているから、安易にその辺りでざばざば汲むのは好ましくない。川のように流れがあり、なおかつそれが早すぎない辺りが穴場だ。

適当な辺りで汲んでみて、水質を調べてから、本格的に集める。それが利口なやり方なのだと、教科書には書いてあった。実際に試してみると事実と違うことも書いてあることがあるが、おおむねは合っているので、今回も教科書通りにする。

まだ、二人は起きてこない。

起きてきた所で、足の激痛は相当だろうし、役には立たないだろう。

「一応、捕食性の肉食動物も出るからな。 単独行動だけは避けろよ」

「はーい。 有難うございます」

ハレッシュに釘を刺されたので、笑顔で礼を言う。

しかし見張りをしているハレッシュはと言うと、大あくびをしていた。まああれくらいの腕なら、この辺りで危険を感じることはまず無いのだろう。

「そろそろ、お昼にしたい」

「あ、おなか空いた?」

「うん」

「じゃあ、お水の良さそうな場所を見つけてからにしよう」

薬草だけではなく、食用の野草も幾らかみつけてきてある。これを煮込んで鍋にして、干し肉で味を付ければ充分である。

そして、何なら此処で狩りをしてもいい。

一通り水場を見て回る。丁度良さそうな場所で水を汲んだ後その話をすると、キルキは食いついてきた。

「狩り?」

「鹿とかになると結構準備がいるけど、兎だったら素手でも捕まえられるよ。 やってみる?」

何度か互いの家に出入りしている内に、兎の絞め方は見せている。捌き方もである。最初は怖がっていたキルキだが、持ち前の記憶力の良さを生かして、今ではすっかり慣れっこである。

後は捕らえ方だが、これだけは機会がなかった。

「うん。 やってみたい」

「じゃあ、坂を探そう」

「坂をどうするの?」

「兎は後ろ足が長くて、坂を下るのが苦手なの。 其処を捕まえればいい」

こくこくと頷いていたキルキ。湖のまわりを歩いていると、適当な坂を見つけた。後は兎を探して、此処に追い込めばいい。

周囲は森ばかりだが、それなりに草原もある。下にキルキを残して、エルフィールは坂の上に。ざっと見回すが、兎はいる。ただし、ちょっと走ることになりそうだ。

野兎は繁殖力がとても強く、定期的に駆除しなければあっという間に生態系を破壊し尽くす危険な生物である。弱々しい生物ではあるが、動きが速く、繁殖力が高いという点だけで、危険な生物になっている珍しい例だ。人間と同じく一年中生殖可能だという点も、危険性を後押ししている。ただし、実際には野生の猛獣たちの貴重な栄養源であり、彼らがじゃんじゃん刈り取るので、そんな危険性はまず無い。

危険なのは、現実を知らない都会の人間が、兎を猛獣から守るとか愚かな事をした場合である。人間にはそれだけの力があり、その気になれば一瞬で生態系を破壊することが可能なのだ。

アイゼルやノルディス、それにキルキが兎肉と聞いて最初噴き出したのを見て、それが現実になりうることを、エルフィールは実感していた。確かに人間の感覚で兎は可愛いかも知れないが、実際には虎や熊にも勝る危険な生物であるのだ。それを忘れてはならないのである。

アデリーさんに、こういう事は色々教わった。

彼女も兎は可愛いと思っているようだが、しかし。それと、現実で生きることは話が別なのである。

適当な兎を見つけた。草原の中、ぴんと耳を立てて、周囲を伺っている。エルフィールは低い態勢になると、後ろに回り込む。そして、突然紅柳で地面を叩きつけた。

文字通り飛び上がる兎。そのまま加速し、後ろにぴたりとつく。兎は右左に跳躍して逃げようとするが、エルフィールはその動きをことごとく読んで、坂に誘導した。急に左に飛んだ時はひやりとしたが、行く手を紅柳で叩いてやると、兎は跳ね飛ぶようにして坂に逃げ込む。

下ではキルキが待っていた。

坂では、後ろ足が大きい兎は上手に動けない。

兎がもたついている所を、取り押さえようとする。だが、恐慌状態になった兎が大きく跳ねとび、勢い余って湖に入ってしまった。ぼちゃんと、意外に大きな音がする。追いかけたエルフィールが、膝まで水に濡れながら、兎を取り押さえる。

もがいていた野兎を、キルキに渡す。

「絞めてみて」

「うん」

キルキは目をつぶって、一気に兎の首を捻った。なかなか巧く行かず、兎が何度もキルキの腕の中で大暴れする。死にたくないのだから当然だ。だが、敢えてエルフィールは手出しをしなかった。

下手に手を出す事自体が、キルキの自主性にケチを付けることだと知っているからだ。ただでさえ、捕らえる所はエルフィールがやってしまっているのである。

ぐっと、どうにかキルキが野兎の首を捻り折った。一度大きく体を痙攣させると、野兎は動かなくなる。大量の糞が一度に出て、びっくりしたキルキは獲物を取り落としてしまった。

「汚い」

「そう。 死んだから出る、汚いのだね」

まだ温かい野兎の死体を、しばらくぼんやりキルキは見つめていた。

もう一羽やってみようかと問うと、頷く。流石に強い子だ。もう、心に踏ん切りがついたらしい。

また坂の上に登る。此処からだと、キルキが待ち伏せしているのがよく見える。つまり、普通だったら兎はそっちへ行かない。エルフィールが上手に追い立ててやらなければならない。

兎は極端に臆病な生物で、それが生存率を上げるのに一役買っている。多分、人間が絶滅させようとしても、簡単にはいかないだろう。それくらい危険な生物なのだ。だが、此処ではその性質を逆手に取る。結局、人間の方が、一枚上手と言うことである。

また、見つける。

草原で、後ろ足で立ち上がり、周囲を見回している。

兎は臆病だが、此方を捕捉した途端逃げることはない。敵が危険域に入ったら、逃げ始めるのだ。

その性質も、利用する。

エルフィールは、アデリーさんに仕込まれた狩りの技を使う。兎を、追い詰めていく。

再び高々と飛び上がった兎。紅柳を振るい、坂の下に追い込む。キルキが今度は、上手に取り押さえた。流石だ。もう成功している。エルフィールは三回目くらいにやっと巧く行ったのだが。

もがく兎を、若干ぶきっちょながら、キルキは絞めた。首をへし折ると、再び大きく痙攣して、動かなくなる。

「出来た」

「凄いね。 私、上手に捕まえられるようになるまで、三回掛かったよ。 キルキは腕が良い狩人にもなれるよ」

「いずれ、私一人で、お外に出られるようになるかな」

「もうちょっと年を取ればね。 後、格闘戦の技術と、猛獣の知識がないと危ないかなあ」

もう一羽兎を捕ると、皆の所に戻る。

やっと起きだしたアイゼルは目を擦っていたが、得意満面でキルキが差し出した兎の亡骸を見て、ひいっと小さく悲鳴を上げた。

「見て、アイゼルさん。 私が絞めた」

「し、絞めた!? こ、こ、殺しちゃった、って、事!?」

「おおー、良くできたなあ。 キルキちゃん、将来いい錬金術師になれるぜ」

「錬金術は関係ないでしょーっ!」

アイゼルが混乱しきって叫ぶ。

ノルディスは起きているにもかかわらず、がくがく震えながら兎の死体を見つめていた。相変わらずの軟弱ぶりであった。

「じゃ、捌いて鍋にしようか」

「分かった。 やってみる」

「ちょっと、よそでやってよっ! ざ、ざ、残酷なもの、見せないでえっ!」

「何言ってるの。 アイゼルさんがいつも食べてるお肉だって、こうやって動物を絞めて捌いて、食べられるようにしてるんだよ」

捌く方は、キルキも初挑戦ではない。ただし、前はあまり上手に出来なかった。

手渡しした兎を、四苦八苦しながら捌くキルキ。表情は真剣そのものであり、しかも上達も早い。

その内教えることなんか無くなるだろうなと、エルフィールは思った。エルフィール自身も、今後どんどん自分を磨き上げなければならないだろう。ただでさえ錬金術に関しては、キルキの方が腕前が上なのだ。

逆さに吊して、血抜き。首を切って、大量の血を流した。本当は血にも使い道があるのだが、今回は捨てる。手を血みどろにしながら、まずキルキが兎の腹を割く。消化器を取りだして、骨と肉を切り離していく。毛皮も剥ぐと、肉だけが残った。

肉だけにすると、兎は結構少ない。それを棒に突き刺して、火で炙る。わざと多めに枯れ草を入れて、煙で盛大に燻すことによって、保存性を高めるのだ。ハレッシュは何も口を出さない。キルキが上達するのを、眼を細めて見つめていた。

「アイゼルさんもやってみる?」

「む、無理ッ!」

ノルディスはと見ると、固まったままだった。

肉が良い感じに焼けてきたので、鍋の様子を確認。野草類も煮えてきていた。其処へ肉を加えて、火をじっくり通していく。良い香りが、辺りに漂い始めた。ハレッシュが一瞬だけ、遠くを見た。視線が妙に鋭かったのは、何かを感じたからかも知れない。

「ちょっと食べててくれ」

「どうしたんですか?」

「食事前に言いたくない事だよ」

ノルディスに応じると、ハレッシュは野営地から離れて、森の方へ歩いていった。

エルフィールはその背中を一瞥する。もっと鍛えなければならないなと思いながら。

何かがいるにしても、エルフィールにはついぞ察知できなかったからである。

 

ドナースターク家。

その屋敷は、シグザール王国首都、ザールブルグの一角に建造されている。質実剛健を旨としているが、近年は改装も進み、小さな砦と言えるほど防御施設も充実していた。

ドナースタークはグランベルという小さな村からのし上がり、ついに侯爵の地位まで手に入れた、近年まれに見る伸び代を誇る貴族である。地位を得るには収入が必要であるというこの国らしく、多くの富を誇り、アカデミーや騎士団とも密接に連携している。先代の当主であったトール=ドナースタークは近年体調を崩しており、代わりに家を切り盛りしているのは、彼の一人娘であるシアだ。

シアは一見すると清楚なお嬢様に見えるが、実際には大型の変形棍である「はたき」を縦横無尽に振り回し、身体強化の術式を使って巧みに戦う優れた戦士である。見かけと能力のギャップをシアは最大限に利用しており、他の貴族と交渉する時に武器とすることさえあった。

そんなシアには、右腕と呼べる部下であり盟友でもある人間がいる。ドナースターク家のテクノクラートであり、アカデミーや騎士団とも深い関係がある女。彼女の竹馬の友でもある、錬金術師マルローネ。

闇の世界で悪鬼のごとく恐れられる、通称鮮血のマルローネであった。

シアの元に、マルローネが訪れるのは、実に数ヶ月ぶりとなる。南へ走り北に赴き、実に忙しい生活をしているからだ。旅装のマルローネと護衛兼監視役も兼ねている二人の騎士、マルローネの養子である聖騎士アデリーと、友人であり元冒険者である騎士ミュー。三人が訪れると、すぐにメイド長であるマルルが、歓待の準備を始める。シア自身も、すぐに自室から応接室に降りてきた。

「マリー、良く来てくれたわね」

「おやすい御用よ」

マリーは柔らかく微笑む。彼女がこんな優しい笑みを浮かべるのは、身内の前だけだ。いつもは営業スマイルしか浮かべない。もっとも、修羅場を潜っていない人間には、そう判別はさせないが。

マリーは闇だけに人脈を作っているのではない。光とも言える表側にも人脈を持っており、そう言った点ではごく親切に振る舞うこともある。ただし、それは心底からマリーが優しいことを示しているのではなく、必要だからそうしている、と言うだけのことだ。そして相手の多くも、それで満足している。

応接間のテーブルに、茶と焼き菓子が並べられる。今回は客と主人という関係ではないので、まずシアから茶を口にし、それを見たマリーが。最後にアデリーとミューが順番に茶を口にした。

一段落した所で、まずシアから用件を口にする。

「早速だけど、私に縁談が来ているの」

「相手は?」

シアが口にしたのは、中堅どころだが、最近落ち目でどんどん勢力が落ちている貴族の嫡男であった。経歴を聞いたことはあるが、特にこれといって目立つ所のない、善良な男である。

シグザール王国では、貴族は一種の資格として存在している。収入が地位の維持には必要不可欠であり、なおかつ国から念入りに監視されているため、余所の国のような横暴もしづらい。

それは、国が貴族にたびたびちょっかいを掛けることも意味していた。

「貴方が思っての通り、シグザール王国が仲介しての縁談よ。 ドナースターク家の勢力拡大が、いい加減危険に見えてきたのでしょうね」

「こちとら、結構気を使っているのにね。 まあ仕方がないか」

「本当にね」

くすくすと笑い合う。別に悲壮感などどちらにも無い。

ドナースターク家は、実質上シアが仕切るようになってからも、勢力を着実に拡大している。幾つかの無理難題も無事に乗り切ったし、既に宝石ギルドの再編と再生も完了、収入も軌道に乗っていた。

だからこそに、シグザール王国としては看過できない部分があるのだろう。

シアの話によると、縁談相手は噂通りのごく善良な男で、なんら能力はないが、婚姻相手として不安はないという。これが辣腕を振るうシアの能力を制限するための結婚だと言うことは分かりきっている。女性にとって子供を産むというのはそれだけ負担になることであり、育てるのもまたしかり。

ただし、ドナースターク家には既に跡継ぎがシアしかいない状況である。筋金入りの辣腕と言うこともあって婚期が遅れては来たが、そろそろシアも結婚をして跡継ぎを残さなければならない時機でもあった。

シグザール王国は、もちろんそれも見越して、縁談を進めてきたのだろう。ドナースターク家にとっても、悪い話ばかりではなかった。

「じゃあ、シアとしては別に不満はないのね」

「欲を言えば、もっと強い人が夫だと良かったのだけれど、高望みしていても仕方がないわ。 それに、お父様は最近呆けが始まっていて、そろそろ孫の顔も見せて上げたいところなの」

「長が……」

マリーは眉をひそめ、言葉を失った。

以前、会議で居眠りするのを見てしまって愕然としたこともある。それらからも、衰えてきているのは実感している。しかし幼い頃から、マリーを鍛え上げてきたトール=ドナースタークは、幼心には無敵の達人に思えたものだ。

そんなトール氏も、呆ける。老いによる衰えとは、恐ろしいとマリーは思った。

今、老化を防ぐ研究は進めている。実際に賢者の石を作ったことにより、マリー自身の肉体は老化がかなり遅れているのは実感している。だが、これでもまだたりない。更に賢者の石を作るか、或いは若返りを促進する薬を開発できないかと思っているくらいなのである。

だが、今は残念ながら、そんな時間は無さそうだった。

「分かった。 シアのためだものね。 貴方が結婚してからしばらくは、あたしが仕事の補助をするわ」

「ありがとう。 カスターニェの方には、遠隔で指示を出すことになるけれど、大丈夫?」

「数ヶ月くらいならね。 根を張ってた盗賊団は皆殺しにしたし、ドムハイトの連中も迂闊には足を踏み入れないようにしておいた。 だけど、あたしがあんまり長いこと留守にすると、陰に隠れてた連中も表にはいだしてくるからね。 それに……」

「貴方の様子だと、若返りの研究をもっと進めたい、でしょう?」

にやりと、マリーは微笑む。聡明なる友は、これだからありがたい。

シアも老化は遅い。以前瀕死になった時に摂取したエリキシル剤で、肉体が活性化した時。何か体に変化があったのだろう。実際にはそろそろ衰えが出始める年なのに、つややかで若々しいままだ。

「カスターニェの方には、丁度その時期に合わせて文官と武官を何名か派遣するように手配するわ。 婚姻はそうね、半年後くらいかしら。 その時に合わせてくれる?」

「分かった。 じゃあ、こっちとしても、半年くらいは時間が取れるように、準備を進めておくわね。 代わりと言っては何なのだけれど」

マリーは茶を一気に飲み干した。

そう言えば、さっきからミューが面白く無さそうな表情をしている。だが、話を聞くのはまた後だ。

「シアが落ち着いた後で、エル・バドール大陸に渡ってみたいんだけれど、いい?」

「研究を進めたいの?」

「そう。 ドナースターク家の百年の計もあるし、あたし自身の知識欲もある」

「まあ良いでしょう。 ただし、可能な限り危険がないようにしてね」

頷くと、マリーは立ち上がった。

二三日此方に滞在して、世話になった人達にみやげを配った後は、すぐに南にとんぼ返りである。マリー自身、シグザール王国に重度の警戒を受けている身だ。国家に対する貢献度が大きいだけに、その動きは様々な変革をもたらす。それだけに、シグザール王国としても自由に動かす訳にはいかない存在になってきているのである。

故に、何処へ行くにもある程度の手続きがいる。面倒な話であった。

マリー用に小さな屋敷が用意されているので、そちらへ。中も綺麗に掃除されていた。

無言で食事を作り始めるアデリーを横目に見ながら、ミューがマリーに、声を落として言う。

グラマラスなスタイルと褐色の肌、銀髪を持つ彼女は、南の出身だ。様々な事情からザールブルグに流れてきているが、その事情を詳しくマリーは知らない。だが剣呑な様子から言って、今回の縁談を面白く思っていないのは確実だった。

「マリー。 シアって、好きな人とかいないの?」

「何? いきなり」

「だって、今回の件って、政略結婚でしょ? そんなの、気分悪いよ」

「ミュー。 世の中はね、誰かがある程度我慢しないと回らないようになってるの。 人間の社会ってのはかつかつに動いているから、どうしても大きな事があると彼方此方にしわ寄せが来る。 それは貴方も分かっているんじゃないの?」

ミューは引かない。むしろ、更に怒りを募らせている様子だ。

元々陽気なミューだが、時々すごく愁いを帯びた顔をすることがある。大人になったと言うこともあるのだが、それ以上に過去のトラウマが関係しているのは明白だった。その一端を覗いていることに、マリーは気付く。

「私の母さんも、政略結婚だったけど……。 凄く優しい人だったのに、「あいつ」に酷い扱いを受け続けて、壊れちゃって。 そんなのが目の前で起こるのは、もうたくさんだよ」

「なるほど、シアの旦那が、そう言う扱いを受けるんじゃないかって事ね。 前から気にはなっていたけど、貴方の背景にはそんな事があったの」

「……あんまり話したい事じゃないけど」

「シアを信用して。 あの子は筋金入りの現実主義者よ。 私怨に基づいたり欲望に従って、立場が弱い相手を虐待したりはしないわよ」

政略結婚そのものに拒絶反応を示しているミューの気持ちも分からないでもない。例えば十代前半の内に三十も年上の脂ぎった男と結婚させられ、毎晩おぞましい性行為を強要されたりしたら、それは確かに悲劇だろう。

しかし今回のシアの場合は、同年代の相手で、性格的に問題もない。確かに政略結婚ではあるが、なんら悲劇にはつながらない条件である。愛情は確かに存在しない相手かも知れないが、そんなものが現実に存在しているかは疑問である。第一、愛情の認識自体が、個人個人で違うのではないのか。

「じゃあ、マリーは政略結婚の話が出たら、受けるの?」

「条件次第ではね。 そしてシアは、今回その条件が良いと思ったから、受けた。 それだけよ」

「マリーは、強いね。 でも、きっとみんながそうじゃない」

「少し、頭を冷やしてきなさい、ミュー。 貴方の気持ちも分からないでもないけど、世の中は気持ちじゃ回らないのよ」

ミューはその言葉を聞くと、言葉短に外に出ると言い残し、部屋を出て行った。

アデリーはじっとそれを聞いていたが、多分ミューの方に同情したのだろう。終始機嫌が悪そうだった。

「母様」

「分かってる。 後で適当に埋め合わせはしておくわ」

面倒なことだと、マリーは思いながらも。ミューの辿ってきた悲劇と、陽気な笑顔の裏にある悲しみを知って、あまり良い気分はしなかった。

 

桶にたっぷり汲んだ水を、荷車まで運ぶ。二人がかりでもかなり時間が掛かった。指先を真っ赤にして桶を運ぶキルキを見て、ノルディスが手伝ってくれたが、根本的に腕力がないので、あまり役には立たなかった。アイゼルはエリーが運んでいるのを見て桶を一人で運ぶと言い張ったが、いざ持たせてみると腰を抜かしそうになった。

それでも、顔を真っ赤にしながらも、アイゼルは運搬を手伝ってくれた。この辺り、早々に諦めに入ったノルディスよりも、現時点では闘争心も根性もある。ただし白魚のような指先は血だらけになってしまっていたので、見かねたノルディスが傷薬を出していた。ノルディスが手ずから傷薬を塗るのを見て真っ赤になるアイゼル。キルキはそれを少し離れた所から見て、小首を傾げていた。

「アイゼルさん、真っ赤」

「そうだね」

「風邪?」

「さあ、何だろうね。 風邪じゃあ無さそうだけど」

キルキは多分、同年代の友達も今までいなかったことだろう。貧乏暇無しという言葉もある。

話に聞くと、両親は酒ばかり飲んでは、稼ぎをことごとく使い込んでしまうろくでなしだという。そんな状態だから家事も殆ど一人でこなしていたと言うし、相当な苦労をしていたのは確実だ。

だから、吃驚するほどキルキは暗記力がある反面、極端にものを知らない点も多い。エルフィールも同じ部分があるので、一緒にいて心地よい相手だ。だが、見た感じ、若干キルキの方が、人間の本能的な部分に鈍い点があるので、見ていて愛らしいと思えるのだった。

最後の桶を荷車に載せる。額の汗をハンカチで拭っていると、アイゼルが言った。

「もう終わりかしら」

「うん。 荷車の積載量の限界だからね。 運んでくれて有難う」

「当然よ。 これくらいは楽なものだわ」

さっき手を傷だらけにして運んだというのに、この意地のはりっぷり。

やはりエルフィールは、アイゼルを嫌いにはなれそうにもなかった。

荷車の様子を確認。やっぱりずっしりと重くなっている。だが作りが非常にしっかりしている上、安定性が高い四輪式なので、全く問題はない。何度か押してみたが、これならば今よりも三割り増しくらいの積載は可能だろう。

「二人にはどう分配しようか」

「え? 何の話」

「素材。 アカデミーから提供された奴だけじゃ味気ないでしょ。 それに、手伝ってくれたし」

ノルディスはあまり興味がない表情で、僕はいいやと一言だけ。それに対して、アイゼルは処置の跡が痛々しい指先で、ちょっと荒れ始めているワインレッドの髪を掻き上げて言った。

「じゃあ、その薬草類を少し分けて貰おうかしら」

「こっちでいいの?」

「ええ。 ちょっと復習もしたい所だったしね」

キルキは荷車の側にちょこんと座ってやりとりを見つめていて、終始会話には加わらなかった。

ハレッシュが森から出てくる。何かと戦ったような様子はなく、にこにこしていた。

「おう、待たせたな」

「そろそろ帰りますよ。 護衛、お願いできますか」

「任せとけ。 帰りも俺とあんたで荷車を引く形でいこうや」

アイゼルは、何も言わなかった。

多分、ついていくのがやっとだと思ったからだろう。だが、それを口にするのは野暮だった。

「よーし、行くぞ」

「はい」

腕まくりして、荷車を並んでハレッシュと一緒に引く。

最初の少しが動くと、後は車輪の特性もあって、ぐんぐん進む。無言でついてきていたアイゼルは、時々押して手伝ってくれようかとしたようだが、ノルディスが疲れ果てているようなので、止めた。

多分思いやりから来る行動だろうが、好きというのはこうも細やかに気配りが出来るのかと、ちょっと感心する。ハレッシュは相変わらず筋肉と巨体を生かし、ぐんぐんと荷車を引いていた。

「そういえば、森に何かいたんですか?」

「ああ、あれはな。 俺の勘違いだったわ」

がははははとハレッシュが笑う。嘘が見え見えなので、エルフィールも釣られて一緒に笑った。

何度か石を踏んだが、ハレッシュの腕力は尋常ではなく、苦もなく乗り越える。盛り上がる筋肉は実戦で鍛え抜かれたもので、大型の猛獣とも平然と渡り合えそうだった。

ぴたりと、ハレッシュが足を止めたのは、森の半ば。

エルフィールも僅かに遅れて、気配に気付く。荷車から白龍を引っ張り出すエルフィールを見て、キルキがそれに続いて自分用のかなり古い杖を手に取った。

「結構いるな。 七、八……十一か」

「これ、相性悪いかも知れませんね」

まだ使いこなせない幾つかの戦闘杖を、念のために持ってくれば良かったと内心エルフィールは思った。

アイゼルは事態が分かっていないらしいが、ノルディスは結構魔力が強いようで、周囲を慌てて見回している。

茂みをかき分け、やがてそれが現れた。

蠢く触手が、ずるり、ずるりと辺りをまさぐっている。本体は赤い巨大な塊で、内部には消化しかけの兎の死骸が見えた。ゼラチンのような質感だが、その重苦しい動きが、案外な耐久力を示している。

ぷにぷにと呼ばれる肉食性の捕食動物だ。

青いの、緑の、赤いのと、色々な種類がいる。数はハレッシュが言ったとおり、十一体。猛獣の中ではそれほど強い方ではない。皮膚を破ると結構簡単に死ぬし、炎を浴びせても撃退は難しくない。

しかし、その柔軟性で狭い場所にも平然と潜り込むことや、触手を使ってフレキシブルに狩りを行えることから生息域は広く、水場がある所には大抵いる。ただし肉食性なので、人間が多く住んでいるような河の側には本能的に降りてこないようである。

ごく希に、超巨大な個体が現れることもあるという噂も聞く。

「キルキちゃん、火を使える? 近付いた奴に浴びせて」

「分かった」

「俺が散らすから、あんたは中距離で支援な。 後ろの二人! 荷車を背にして、キルキちゃんの目になれ!」

茂みをかき分け、次々にぷにぷにが現れる。

ハレッシュの見立て通り、数は十一。後ろにもいる。ハレッシュは槍を低く構えると、穂先を地面すれすれにまで下げた。同時に、息を吐きながら、態勢を野良犬のように低くする。

そして、前方に飛んだ。

ハレッシュの全身が、まるで一つの弾丸と化したようであった。真っ正面にいたぷにぷにが、大量の触手をとばすが、ハレッシュは巨大な槍が突進するようにその全てを爆砕し、そしてぷにぷにの本体も貫いていた。

一瞬後、派手に消し飛ぶぷにぷに。

だが、残りの個体が、一斉にハレッシュに触手を伸ばす。ハレッシュの足に腕に、そして首にも、様々な色の触手が絡みつく。しかしながら、ハレッシュはものともしない。槍が一閃すると、絡みついた触手は綺麗に消し飛んでいた。

キルキが詠唱を続け、杖の先に熱量が集まっていく。アイゼルも頷くと、詠唱を開始する。ノルディスも能力者だと聞いているが、詠唱しようともせず、術を放とうとしているようには見えない。

「キルキちゃん、あっち!」

どうやら、ハレッシュの言葉を守っていたらしい。ちょっとだけ安心しつつ、エルフィールも飛び出す。荷車に接近している一匹を見つけたからだ。

視界の隅で、盛大に炎が上がる。触手をアイゼルに伸ばしかけた一匹に、キルキが総力で熱量を叩き込んだのだ。鋭い悲鳴が上がり、見る間に触手が炎の束になる。ばたん、ばたんと辺りを叩いてもがいていたぷにぷには、すぐに動かなくなった。

エルフィールは無言で跳躍。

白龍を打撃用の杖として使用し、そのまま相手に叩き込む。触手の防御網をそのまま打ち抜き、相手本体に直撃する龍の意匠だが、しかし破りきれない。踏みとどまり、もう一度と振り上げる。両足に触手が絡みついてきた。かなり気持ち悪いが、無視。そのまま、白龍を振り下ろした。

盛大にぷにぷにの皮が破れ、赤黒い体液がまき散らされる。未消化らしい動物の残骸が、辺りに飛び散った。

まだもがいている足の触手を踏みつぶすと、振り返る。今度はキルキに変わって、アイゼルが術式を発動していた。この間見た光の波のようなものを相手に放ち、それを浴びたぷにぷにが悲痛な絶叫をあげながらもがき、溶けていく。高熱の放出かと思ったが、どうもあの目映い光、何かが違う。

激しくぷにぷにの本体が発火し、もがきながら縮んでいく。やがて、後には消し炭だけが残った。

大きく肩を振るわせて息をしているアイゼルの脇を駆け抜け、触手を伸ばそうとしているもう一匹に突撃。踏み込みながら、渾身の突きを叩き込んだ。ハレッシュが後ろで魔神のごとく暴れ回っており、戦意をなくした敵は逃げ始めてさえいる。

突いてみると、液状の体を持ちながら、相当な質量を持った相手だと言うことが分かる。全身に絡みついてくる触手。残りも少ないし、使うか。そう思った瞬間、ぷにぷにの頭上から、紫色の光の槍が降り注ぎ、貫通していた。

「エリー!」

ノルディスだった。どうやら、渾身の一撃だったらしく、膝を突いてしまう。エルフィールが体に絡みついた触手を引きはがしながら、槍を更に踏みつける。ぶちゅりと音がして、ぷにぷにが破裂した。

大きな音と残骸が飛んでくる。ハレッシュが力任せにぶん投げたものらしい。元々傷ついていた瀕死のぷにぷには、地面に直撃すると、そのまま水風船のように吹き飛び破裂して果てた。

既に、周囲に敵影無し。エルフィールと他三人が四匹をどうにか仕留めている間に、ハレッシュは七匹を仕留めるかもしくは撤退に追い込んだことになる。圧倒的な戦闘能力が、彼が歴戦の戦士であることを証明していた。

槍を振るったハレッシュが、周囲を油断無く見回している。大雑把でいい加減な普段の雰囲気はなく、戦場で生き抜いてきた戦士としての表情だけが其処にはあった。

「片付いたぞ。 そっちは、怪我はないか」

「大丈夫です。 ちょっと触手に絡みつかれて気持ち悪かったですけど」

「見た目より此奴ら頑丈だからなあ。 まあ虎にぶん殴られるよりマシだけどな」

げらげらとハレッシュが笑う。この人なら、確かに虎に殴られても平気そうだ。

絡みついてくる触手はかなり力が強かったが、それでも骨が折れるようなことはない。森で迷子になった子供とかが襲われることはあるようだが、滅多に死人が出ないのは、人間に比べて脆弱だからである。もっとも、今回のように数が揃うと、それなりに脅威になることはある。

「アイゼルさん、ノルディス、どう? 怪我はない?」

「大丈夫。 敵に触られてもいないよ」

どうしてか、悔しそうにノルディスが言う。

ハレッシュがこっちに来ながら、腕に絡みついていた触手の残骸を放り捨てた。そして、戦闘の疲弊などまるで無いように、荷車の取っ手を掴んだ。

「さ、帰るぞ。 森を出れば街道に着く。 休むのは、其処でな」

 

結局、アトリエにたどり着いたのは湖を出た翌日の昼となった。予定より半日ほど到着時間が遅れたが、まあ収穫量に関しては充分に満足できた。ただしアイゼルもノルディスも疲弊の極みにあり、特にノルディスに到ってはその場で昏倒しかねない有様だった。

「ハレッシュさん。 二人をアカデミーの寮まで送っていってくれる?」

「おう、任せておきな。 よし、坊主、行くぞ。 あとちょっとだからな、わはははは」

死にかけている二人とは対照的に、走ってヘーベル湖までもう一周し、更に途中で虎と交戦しても体力がありあまっていそうなハレッシュが、笑ってノルディスの背中をばんばんと叩いた。

ノルディスは倒れなかったが、その場で立ったまま気絶していた。白目を剥いているノルディスだが、アイゼルも半分立ったまま死んだようになっていたので、それに意識を向ける余裕がなかったらしい。ノルディスを肩に担いだハレッシュが大股で歩き出すと、夢遊病者のような足取りで、その後をついていった。

キルキもかなり疲れている様子で、何度も小さな手で目を擦っていた。一旦エルフィールのアトリエに持ち帰った物資類を全て運び込んだ後、キルキのアトリエに配分量を輸送する。後はアイゼルが、薬草が欲しいと言っていたから、届けなければならないだろう。あの様子では、覚えているかも疑わしいが。

その分を纏めていると、アトリエの外に気配があった。ハレッシュが戻ってきたのだ。外で誰かと話しているようだが、よく分からない。割り込むのもあれなので、放って置いた。

少しして、薬草を纏め終えると、ノックの音。顔を出すと、ハレッシュだけだった。話していたらしい人は何処にもいない。友好的な口調だったが、誰だったのだろう。

「おーう。 戻ったぞ」

「ノルディスとアイゼルさんは、届けてくれました?」

「ああ。 アカデミーの先生に俺を知っている人が何人かいるから、預けてきた」

「それじゃあ、これで仕事はおしまいです。 とても頼りになりました。 また声を掛けさせていただきますね」

奥の棚にしまってある銀貨を取り出すと、ハレッシュに手渡す。折半分は明日にでも取りに行けばいい。

ハレッシュは銀貨を数えようともしなかったので、流石にちょっと焦った。

「い、良いんですか?」

「ん? ああ、俺はあんたがごまかしとかをしないって信じてるよ。 いちおう帰ってから数えるけど」

ハレッシュは豪快に笑うと、アトリエを出て行った。

ちょっとエルフィールも疲れたので、荷車に積んでいた水を地下に移し、薬草類もそれに準じて処置を済ませると、ベットに転がった。

まだまだ、貧弱だ。体力が根本的に足りていない。

今後はもっと鍛えていかないと駄目だなと、薄れ行く意識の中で、エルフィールは思っていた。

 

ハレッシュはエルフィールのアトリエを後にすると、まっすぐねぐらにしている安宿に向かった。冒険者の中でも、あまり裕福でなかったり、駆け出しの連中が使うような宿だ。少し前まではもう少し高い所にとまっていたのだが、引き払ったのである。

今はお金がいる。騎士の試験に合格するには、体力や技術面では問題がない。

問題があるのはペーパーテスト関連だ。世間的にはあまり難しくないという話なのだが、ハレッシュにはかなり手強い内容だった。その上、フレアとの事もある。もしも騎士になることが出来たら、フレアとの関係を認めてくれると、ディオ氏は言った。男には二言はないと言っているあの人のことだから、それに嘘はないだろう。

宿の狭い部屋に戻ると、ごろんと横になる。

人生に目標が出来ても、雑な性格に変化はない。今も、報酬の銀貨を数える気にはならなかった。

フレアとのなれそめは数年前。輝くような美貌を持つあの人に、飛翔亭に行く男の殆どは懸想していた。その中で、腕は立つが雑でがさつなハレッシュが一歩ぬきんでたのは、幸運が積み重なったが故である。

交際などはしていない。ただ、いつの間にか好きになっていた。

好きだと理解できるまで随分時間が掛かったが、それでも感情に嘘はなかった。一生懸命仕事もこなしたし、まめに飛翔亭にも顔を出した。フレアが店に出る日は完璧に把握したし、彼女の顔に泥を塗らないように、自分なりに努力もした。

その内、運良く二人きりになれる機会があったので、思い切って告白してみた。フレアはまんざらでもない様子だった。

その時は嬉しかった。

しかし、ディオ氏は関係を認めてはくれなかった。

侠気があり、どんなときでも相談に乗ってくれる人だったのに。この時ばかりは、別人のように意固地になってしまった。ちょっと衝撃を受けたが、しかし自分の娘がこんな雑でがさつな男の妻になると思えば、誰でも心配になるのかも知れなかった。

だから、交換条件を持ちかけたのだ。

騎士の試験に合格することが出来たら、フレアを妻にしたいと。

ディオ氏はどうにか話を飲んでくれた。飛翔亭に集まる冒険者達は皆ハレッシュを囃したが、フレアが恥ずかしげに微笑んでくれているだけで充分だった。

だが、現実は厳しい。今年の騎士試験はもう近い。実技であれば充分に合格の線に到達していると、騎士になって活躍中の友人ミューは太鼓判を押してくれている。だが、どうしてもペーパーテストが駄目なのだ。

こうなってしまうと、数年前のエアフォルク事件で声が掛かった時、騎士になっておかなかったことが痛恨に思える。あの時は、騎士の頭数が減り、それほど頭が良くない人間も何人か騎士になった。そいつらは主に前線で活躍することを要求され、今でも獅子奮迅の活動をしているという。

ハレッシュも、彼らと同じ方法で、騎士になっておけば良かったのだ。

気力を振り絞って、エルフィールのアトリエの前で、ミューに教わった書籍を紐解いてみる。いずれも読むだけで気力が削られるような代物ばかりで、とても覚える気にはなれなかった。

だが、フレアとの未来を得たい。そう思って、ハレッシュは読書に打ち込んだのだった。

例え、人の何倍も、覚えるのに時間が掛かると分かっていても。

 

3、解毒剤

 

朝、早くにアカデミーの寮を訪れて、アイゼルの部屋に行くと。彼女はベッドで、死んだように寝転けていた。年配の女性である寮長はあまりいい顔をしなかったので、調合に必要な材料を届けに来たのだと、配分の薬草を渡しておく。寮長もアカデミーの関係者であるし、野外での採取の苦労や、薬草がどれだけ貴重なものかは知っているのだろう。頷くと、渡すと約束してくれた。

これで、後はキルキから折半分の料金を受け取るだけだった。

アカデミーを出ると、キルキのアトリエに向かう。早朝の空気が気持ちいい。道ばたにいる小鳥が、無防備な様子で面白い。捕まえるのは簡単だが、それはいざというときのために取っておくべきである。小鳥は案外賢く、一度人間に攻撃を受けると近寄るべきではないと学習する。今は都会の人間に慣れているが、エルフィールが何匹か捕まえれば、すぐに逃げるようになってしまうだろう。いざというとき、例えばお金が無くなって身動きが取れなくなった時に、それでは困る。

キルキは意外にも起きていた。

だが、どうもちょっと様子がおかしい。右足を引きずっている。

「おはよう、キルキちゃん。 足、捻ったりした?」

「ううん。 ちょっと痛い。 痛くて目が醒めた」

「見せてみて」

椅子に腰掛けさせて、靴を脱がせる。その時気付く。

かなり古い靴だ。しかも穴が開いている。慣れた靴を使うのは良いことなのだが、これはちょっと古すぎる。しかも、サイズが合っていない様子だ。

痛恨であった。結構慣れてきているから、このくらいのことは自己判断できるだろうと思っていたのだ。貧しい生活をしてきて、ものを過剰に大事にする癖が、却って徒になったのである。

その上、穴が開いた辺りをすりむいている。傷口は腫れており、毒が入ったのは明らかだった。

まずは施療院だ。

キルキの足に応急処置をする。まず蒸留水の予備を取ってくると、傷口を洗う。消毒用の薬剤が幾つかあったので、それで傷口を処置。包帯で巻いて、応急処置を済ませた。この辺りは、山の中を走り回った時に散々怪我をして、体で覚えたことだ。小さなキルキの足に処置をするのは、ちょっと痛ましかったが。

「歩ける?」

「ちょっと痛い」

じゃあと、エルフィールはキルキを担ぎ上げた。小さい割にちょっと重めなのは、体を鍛え始めているからだ。ちょっと痛いとキルキは言ったが、多分相当に酷いはずだ。傷口は腫れ上がっていて、放置するとあくまで最悪の場合だが、足を切断することになりかねない。

施寮院から医師を呼ぶと高くつくので、そのままアルテナ教会の側にある近場に、キルキを運び込む。朝から結構病人や怪我人が並んでいたが、傷の様子を見てすぐにただごとではないことに気付いたのだろう。看護師は医師をすぐ呼んでくれた。

医師は山羊のように髭が長いゼークトという老人で、キルキの傷を見て鼻を鳴らす。

「これは、傷口に毒が入ったな。 古い靴を使って遠出をしたのだろう」

「だって、大事な靴」

「大事でも、道具には寿命というものがある。 寿命が尽きた道具は、静かに眠らせてやるのが情けというものなのだ。 そうしないと、その道具も悲しむような結果を産むことがある。 お前さんが大事にしている靴なら、きっとお前さんのことを心配しているはずだ。 こんな事を繰り返す前に、眠らせてやりなさい」

多少口調はきついが、論理的な説得である。キルキはその時、初めて涙の粒を零した。多分、相当大事な靴だったのだろう。

実質、一年ちょっとしか生きていないも同然のエルフィールには、よく分からない事だ。ものが大事という人がいることは知っている。だが、それがどうして起こるのかが、理解できないのである。

だから、悲しむキルキを見て、エルフィールはむしろ興味をそそられていた。

ゼークトが治療を開始する。まず消毒の様子を見て、それから毒膿を器具を使って吸いだし、代わりに薬を綿棒で塗り込む。手際の良さはまさに神業である。ロブソン村にいたドナースターク家の医師も悪くない腕前だったが、此処までではなかった。

「応急処置がいいな。 見習い錬金術師、あんたの技か?」

「いえ、師匠に教わりました。 師匠の倍も時間が掛かりましたけど」

「いや、これだけ出来れば立派だ。 包帯」

看護師が真っ白い特殊加工したらしい布を持ってくる。

傷口に特殊なガーゼを当てると、ゼークトはキルキを寝台に寝かせた。キルキは口を引き結んでいたが、呟く。

「私、死ぬの?」

「あのまま放っておいて、しかも栄養失調だったら死んだ可能性もあるな。 だがシグザール王国の誇る施寮院で、しかも儂の患者を、こんなちゃちな怪我で死なせるかい。 格好からして、錬金術師見習いなんだろう? 儂は正直錬金術師は好きじゃあないが、それでも夢に向かう子供を邪魔するような腐った大人ではないでな。 今は馬鹿なことを考えとらんで、ゆっくり寝て直すことだけに専念せい」

ゼークトが言うと、頷いたキルキは、やっぱり悲しそうに目を伏せた。どうして悲しそうなのか、エルフィールにはよく分からなかった。

さて、受付に戻ると、現実的な問題も浮上してくる。

キルキは恐らく七日程度で退院できるという事であったが、治療費、薬代、あわせて結構な額が請求されるという。施療院は分割払いを取り入れているので、庶民でも払いやすい金額の請求になることが多いのだが、それでも比較的厳しい生活をしているエルフィールやキルキでは払うのが若干難しい。

キルキは既に上位陣に匹敵するほど成績を追い上げているという話を、この間イングリド先生に聞いた。それが、こんなところで躓いてしまうと言うのか。それに、その躓きには、エルフィールも原因の一つになっている。

「一つ、提案があります」

看護師が、にやりと笑みを浮かべた。それは医療に携わる者と言うよりは、経営を行う人間の表情だった。

アデリーさんに教わらなかったことの一つに、商売上でのネゴシエイトがある。飛翔亭でディオ氏にも何度か忠告されたのだが、フリーで仕事をするようになったら、値段の設定だけは気をつけるようにと言われている。今回は恐らく、その初めての機会だろうと、エルフィールは本能的に感じていた。

「貴方は見習いとはいえ錬金術師ですね。 それならば、この施療院に、優先的に薬を納品していただきたいのです」

「条件にもよります」

「今回の治療費だけではなく、今後は治療費を全般的に値下げします。 貴方と、条件を呑めばあのキルキという子も。 その代わり、薬剤類の内、貴方が生産可能な幾らかを此方の指定値で納品していただけませんか」

「指定値次第では此方としての負担が大きすぎます。 そうですね、飛翔亭で指定される定価の二割引きでしたら考えますが」

さっと計算するが、現在の状況からそれがぎりぎりの妥協点だ。それを口にした途端、エルフィールはしまったと内心で思った。

確かディオ氏に言われていたのだ。最初に底値を口にするなと。

看護師は検討しますと返答すると、一旦其処で交渉を打ち切った。多分ゼークトとかとも相談しなければならないからだろう。いずれにしても、最初のネゴシエイトとしては失敗だ。経験を積んでいかなければ、もっと失敗するだろう。

ディオ氏にしっかり話を聞いて、今後は失敗しないように練習もしていかなければならない。今回は痛恨の失敗として、胸に留め置くべき事であった。

最初の分割払い料金を支払う。キルキは清算が出来る状態ではないので、立て替えておく。それに一週間となると、キルキの所にある資材類もどうにかする必要が生じてくるだろう。保存が利くものはそれでいいのだが、そうでないものは早めに処分しておかないと無駄になってしまう。

この辺り、対等に話せる人間がいないので、相談できないのが少し辛い。残念ながらエルフィールは、全てを自己判断できるほど経験を積んでいる訳ではない。今回のキルキの件だって、エルフィールの観察不足が原因の一つだった。

帰ろうとすると、これを作れるかと、いきなり指定された。

「今回の治療費を安くする方法として、この型の解毒剤を納品して貰う方法があります」

「……分かりました。 やってみます」

治療に使う薬を、此方で生産して納品すれば、確かにそれだけ安くはなるだろう。

早くも向こうの思惑通りに動かされているようで少し気分が悪いが、医療機関も国の補助を受けているとは言え、金銭のやりとりをして成り立っている場所だ。ある程度金のことを考えなければ、やってはいけないのだろう。

別にそれを不快だとは、エルフィールも思わなかった。

 

アトリエに戻ると、エルフィールは作ることが出来るようになった栄養剤を口にした。これから徹夜が予想されたからだ。

アカデミーにまず赴き、キルキの怪我と次のテストの延期を申し出る。イングリド先生は冷たい目でエルフィールを見ていたが、結構あっさり受理してくれた。多分気付いたのだろう。エルフィールが原因の一つになっていることに。

「分かりましたが、施寮院には既に行きましたか?」

「はい。 入院して、ゼークトという医者に診せています」

「それならば大丈夫でしょう。 素人判断ではなく、玄人に任せたのは間違っていません」

イングリドもあの医師のことは知っているらしい。確かに良い腕をしていたし、アカデミーでもマークしている人物なのかも知れなかった。

ついでに、解毒剤の相談もする。

解毒剤と言っても、何種類か存在している。飲んで体内の毒を輩出する型。この型にはいわゆる虫下しも含まれる。胃腸に巣くった寄生虫を殺すものなのだが、内容に関しては毒一歩手前だ。参考書で読んだが、非常に危険な薬剤類を混ぜ合わせることになる。

一方で、塗る型もある。これは強力な消毒薬であったり、或いは蛇毒などの中和作用を要求される。

今回は、こっちの型が、医師に指定された。まあ、毒が入った部分をどうにかしなければならないので、それは当然だろう。

幾つかのアドバイスは的確で、薬剤生成の助けに多いになった。持っていった参考書だけでは分からない部分も丁寧に教えて貰ったので、随分助かってしまった。だが、それが終わった後、イングリド先生はあまり優しくない表情を浮かべた。

「貴方も多少は野外行動について手慣れているようですが、それでも今回のことは重く受け止めることですよ」

「はい。 反省しています」

「ならばよろしい。 私も暇を見て、一度キルキの事は見に行きます」

ぺこりとあたまを下げて、イングリド先生の研究室を後にする。

隣の研究室の壁は益々パワーアップした意味不明の落書きに満たされていて、元の落書きの上から更に記号や文字が書き殴られていた。よく分からないが、これを書いた人がとても嬉しそうに作業したであろう事を、エルフィールは容易に想像できた。

一度アトリエに戻ると、材料を整理する。

今回使用するのは、キノコ類を何種か。これのエキスを抽出し、中和剤で混ぜ合わせる。本来は混ざる事がない物質同士を中和剤で混ぜ合わせなければならないのが、難しい調合だ。

今までの栄養剤や何かとは、難易度も比較にならない。一発で成功するとは考えずに、二度、三度失敗することも念頭に置いた方が良いだろう。

キノコ類は殆ど手元にあるが、二種類だけ手に入りづらいものがあった。一つは非常に毒性が強いものであり、エルフィール自身も二度しか見たことがない。確かこっちはアカデミーで販売していた。ざっと治療費を頭の中で計算して、解毒剤の配分を考える。どうにか、赤字は避けられそうだった。

もう一つは、どうにか入手済みである。キルキがこの間のヘーベル湖で、朽ち木をひっくり返したら群生していたのだ。それを幾らか摘んできた。

こっちは乾燥させて保存しているので、使用に問題はない。

作成上の戦略を幾つか練り上げた後、頬を叩く。これからやることは幾らでもあった。まず、時間的な制限が多いものから、片付けていかなければならない。

施療院に最初に向かう。面会したキルキは、丁度白衣に着替えて、半身を起こしてスープを口にしている所だった。

かなり凹んでいるようなので、あまり下手な慰めは口にしない。後で、キルキがそう思った時にでも相談した方がいいはずだ。なぜかは分からない。何回かアデリーさんに聞いた話から総合するに、適切な判断だと思われるのがその行動だった。

保存が利かない物資の売却と、それに治療費の代払いを申し出ると、キルキはこくりと頷いた。幼くとももう一人暮らしをしているのである。それくらいの判断はできるだろうとは思っていたが、これに関しては期待を裏切られることがなかった。金に関わることなので、さっと契約書を書く。どっちも損をしない契約だから、多分後でトラブルの基にはならないだろう。

次に、キルキのアトリエに。借りた鍵で中に入り、物資類を確認。保存状態はどれも想像以上に良く、目が醒めてから痛む足を引きずってキルキが適切な処置をしたのが伺えた。

鉱石類がアトリエの奥に並べられていた。本当に大事にされているのがよく分かるし、痛むこともないので手は付けない。その代わり薬草類の内、保ちが良くない幾つかは全て持ち出す。飛翔亭に持ち込むと、ディオ氏は急ぎだと察したらしく、すぐに計算して金に換えてくれた。領収書を受け取り、銀貨を数え終わると、飛翔亭もでる。

ここからが、本番だ。

アトリエに戻ると、作業開始。いや、戦闘開始。

器具類をまず蒸留水で洗浄する。今回は今までにない精度が要求されるのだ。さらに、洗浄後、煮沸消毒する。これは参考書で見たのだが、薬剤類を作る時の基本的な初動だった。

器具類が立てる突沸の音。アトリエに据えられた竈はフル回転だ。

燃料類の備蓄をチェックした後、今度は中和剤の在庫を確認。暗がりに置いてある中和剤の品質は問題がないものばかりである。いざというときにと思って、質が良いのは換金せずとって置いたのだ。一旦安定すると中和剤はほぼ痛むことがないので、非常に便利な貯蓄手段でもある。

素材類は揃った。失敗がかさむと赤字になるから、気は抜けない。まずは薬草類を磨り潰し、濾紙を三角形に丸めて漏斗にセット。薬草のエキスを濾し取る。これがかなり難しい作業で、濾紙を多くしすぎても少なくしすぎても駄目なのである。消毒した砂を使う方法もあるようだが、これは恐ろしく手間が掛かるので、おいそれとは出来ない。

エキスが硝子の筒を通り落ちていくのを横目に、他の薬草類を磨り潰す。叩いて潰さなければならないものや、いちいち繊維を取り除く必要があるものも少なくない。参考書を片手に、処理を実施。時々失敗するが、めげてもいられない。

薬草の在庫が減っていく中、途中過程の液体が徐々に増えていく。

アルコールランプや竈を使い、熱する。こぽこぽと音を立て、緑色の液体の温度が上がっていく。温度を上げすぎると栄養が壊れてしまったり、全く別の性質に変化してしまうこともあるという。

今後は、そういった微細な調合が増えていくとも聞いている。参考書は何百回読み込んでも足りないくらいだ。

時間は、すっ飛ぶようにして流れていく。

試験もあるのだが、それより今はこっちが優先だ。アカデミーに合間を見て顔を出し、事情を告げる。イングリドは許可を出してくれたが、あまりいい顔はしなかった。

「貴方の様子は時々見に行っているから、さぼっていないのは知っています。 しかし、実践理論だけではなく、知識も適切に身につけるようにしないと駄目だと言うことは理解しておきなさい」

「はい、イングリド先生」

「キルキと一緒に、次の試験には必ず出るのですよ。 難しい試験を用意しておきます」

イングリドの事だから、さぞや恐ろしい試験が待っているのだろう。

怖い者知らずのエルフィールも、流石にこれはちょっとだけ怖かった。そういえば、怖いという感情は危険回避のために重要だとアデリーさんに聞いている。今後はこの感覚を磨いて、役に立てたかった。

アトリエに戻ると、後はひたすら調合だ。

エキスを計りながら、参考書の分量に沿って混ぜ合わせていく。蒸留水や中和剤よりも、遙かに細かい過程の結果、生み出される奇跡の薬剤類。場合によっては死病さえも癒し、時には寿命さえも延ばすという。卑金属を貴金属に変えることさえも、可能な技術。それにエルフィールは挑んでいる。

流石に疲れてくる。

煮える薬剤の音が、時々意識を奪いそうになる。そのたびに頬を叩いて意識を戻す。それでも足りなくなってきたので、ハンマーで軽く指先を叩いた。もの凄く痛くて、良く目が醒めた。

もう一がんばりだと、自分に言い聞かせる。事実、後一工程の所まで来ている。

二つのボウルの中に、それぞれ別種の薬剤ができあがっていた。参考書によると、一つは毒性を弱めるもの。もう一つは、人体に浸透しやすくなるものだ。

薬剤によっては、体に入れた瞬間、一気に全身を駆けめぐるように効果が出るものもある。そう言った効果を持たせてある薬剤だという。それに体内に入った毒を弱めるものを加えることにより、即効性を持たせる意味があると言うことだ。

少し前に技術が確立された新型の薬剤であり、故にあまり出回っていないという。ゼークトという人物は頑固そうな老人に見えたが、その分良いと思ったものは積極的に取り入れていく性格なのかも知れない。

毒性を弱める薬を、此処から一気に冷やす。

硝子の瓶に移し、地下室で良く冷やした井戸水の桶に漬ける。温度差がありすぎると硝子が割れることもあるのだが、それはどうにか大丈夫だった。

逆に、浸透性の薬剤は、火に掛けて、熱いままを保つ。

用意しておいた中和剤を、同じ温度まで温める。これがきっかり同じ温度でなければならないというのが難しい。幾つか作っておいた中和剤だが、一番魔力充填率が高いものを選ばなければならないのがちょっと惜しいか。

だが、今後のことを考えると。スキルを上げておいて損はないはずだった。

汗が落ちそうになったので、慌てて顔を上げて、額を拭う。汗など入ったら全て台無しだ。

それに、今後は部屋の中の埃を減らす工夫も必要になってくる。作成中、埃が入ってしまって薬が駄目になるケースが何度かあったのだ。この失敗を減らすためには、例えば埃が全くないような環境を作成する工夫が必要になってくる。ただ掃除をする、というような事だけでは解決はしないだろう。

部屋の中に立ちこめる薬剤の臭いが凄まじい。如何に医療に役立つとは言え、このまま吸い続けると自分が体調を崩す可能性もある。それも、今後の課題になりそうだった。部屋の中に風が吹き込んできたら本末転倒だから、どうにかして臭いだけを排気する工夫が必要になってくるだろう。

様々な事を考えつつも、ついに中和剤と薬剤の温度が一緒になる。

流石に煮えた薬剤に指を入れる訳にはいかないので、アカデミーで購入してきた簡単な温度計測の道具を使っている。具体的にどれくらいの温度かは分からないのだが、棒の中に水を入れているものである。棒には無数の線が引いてあり、それが同じ線まで来たら、同一の温度と判断して良いというものであった。

あまり高い精度は発揮できないし、何より硝子に対する緻密な加工技術が必要なので値がかさばる。だが、高温の物質を操うにはどうしても必要だし、今回の必要経費の一つとして我慢した。

中和剤と、薬剤を混ぜ合わせる。

巧く混ざって欲しいなと、呟きながら。

どろりとした中和剤は、ゆっくり煮えるボウルの中で、じっくりと溶けていく。そして、此処で最後の調合だ。

中和剤が効果を失う前に、一気に火からボウルを下ろす。

そして、冷やしておいたものと、温かいままのものを、一気に混ぜ合わせた。

緊張の一瞬だ。どちらも丸一日以上の時間が掛かっている薬剤である。失敗したら一からやり直しになる部分もある。もちろん途中経過のものは幾つか保存しているが、それもそう分量は多くない。

最初の方で、何度か失敗したこともあり、余剰物資はほぼ無いと言っても良い状態だ。失敗したら、赤字は決定だろう。

硝子の棒を使って、ゆっくりボウルの中の薬剤を混ぜ合わせる。

一気に温度差で結び合わされた薬剤同士が、中和剤を媒介にして、混ざり合っていく。色が青くなれば完成だ。まだ中和剤の緑色が強く出ている。さあ、巧く行くか。

また、額を拭う。

火が出るほどの視線を、エルフィールはボウルに注ぎ続けた。

参考書を見る。混ぜ合わせた後は室温で大丈夫とあるから、このままで良いはずだ。巧く行くか。行かないなら何が原因か。

まだ、変わらない。やきもきさせられる。

しかし、それはどうしてもコストの関連だ。好きという感情がさっぱり分からないエルフィールにとって、誰かを助けようという感覚はない。最終的には全てが自分のためである。今回も取引として有用か見極めるために全力で調合に挑んでいる。

そして最終的には、ロブソン村に受け容れられ、ドナースターク家の幹部候補となる。村八分にされるのだけは絶対に嫌だ。

その恐怖を感じて、エルフィールは硝子棒を取り落としてしまった。

乱れる呼吸を整える。

彼女を嘲笑うように。

ボウルの中の薬剤は、いつの間にかさながら宝石のような、澄んだ青色になっていた。

 

一旦解毒剤をイングリドの所に持ち込んだのは、品質確認のためである。瓶に分けて入れた青い薬は、もう完全に安定して、澄んだ青の存在感を示していた。

「ふうん、なるほど」

「どう、でしょうか」

「充分な品質です。 薬剤としては売り物になります」

胸をなで下ろすエルフィール。だが、イングリドはそれだけではなく、言葉を続けた。

「ただし、まだ上を目指すことが出来るでしょう。 貴方も分かっているとおり、部屋の中にある埃や、温度の微細な調整、それに中和剤中の不純物などが、薬の品質を落としています。 更に効果が高い薬を作ろうと思うのならば、アトリエの改良や、更に温度調整が上手に出来る竈の使い方を工夫しなさい」

「はいっ!」

「施寮院にも行ってきましたが、キルキの回復は順調です。 この出来であれば、投与すればすぐにでも出られるでしょう。 もっとも、同じ薬剤が今施寮院では品切れになっている様子でしたから、相手側はかなりの儲けになるでしょうけれど」

ぴくりと、エルフィールは頬を引きつらせた。

まさか、そんなギリギリの状態で、施寮院は運営されていたのか。もちろん、こんな薬、一人前の錬金術師なら誰でも作れるだろう。しかし、これは完全に足下を見られた上に、相手に有利な交渉をしてしまったことになる。

今回は、錬金術は成功した。

しかし、ネゴシエイトは完全に失敗したと見て良かった。

エルフィールの頭の中に、人を助けるという発想はない。お隣さんであるキルキでさえも、である。長期的に見て自分に有利になるから、結果的に助ける行動を取っているだけのことだ。

それが故に、今回の失敗は痛かった。

失敗はしたが、これから安定した収入を得られるのは確実である。それだけは良しとするべきなのかも知れない。

だが、正直な話、気分はあまり良くなかった。

イングリドの部屋を出て、外に。途中、アイゼルに呼び止められた。

「エルフィール、貴方、キルキも一緒に試験出てないって聞いたわよ。 何をしてるの!?」

「ああ、アイゼルさん。 みて、これを作っていたの」

「これ、かなりランクが高い薬剤じゃない! 貴方が一人で!?」

「殆ど徹夜だったし、もっと上を目指せるってイングリド先生に言われちゃったけどね」

髪の毛を掻き上げるアイゼル。流石に日にちも経っているし、疲れも取れている様子だ。髪にもつややかな輝きが戻っている。

「まさか、キルキに何かあったの?」

「ええ。 ちょっと怪我をしていたみたいで、傷口に毒が入ったの。 でも、もう退院できるよ」

「そんな……」

「古い靴を履いていて、それが失敗だったみたい。 で、この薬は施療院に頼まれたから作ったんだ」

もう施療院に行くからとその場を離れようとすると、また呼び止められる。ちょっと苛立ちが募る。笑顔を出来るだけ保ったまま振り向くと、少し申し訳なさそうに、アイゼルは言う。

「ま、また暇だったら。 採集、一緒に行って上げても良くってよ」

「ほんと? 嬉しいな」

「貴方やキルキだけじゃあ、危なっかしくて見てられないからよ!」

ついとアイゼルは視線を背けたが、どうしてか恥ずかしがって顔を真っ赤にしていた。

何にしても、少し向こうが態度を柔らかくしてくれたのは良いことだ。何を勘違いしたのか知らないが、ネゴシエイトは失敗しても、全てが悪い方向に動いた訳では無い様子であった。

施療院では、だめ出しは出なかった。

その二日後、キルキは退院した。

 

4、大事なもの

 

退院したキルキと、合同試験勉強をかねて軽く打ち上げをしたエルフィールは。いきなりお金の話題に触れることは避けた。

今のキルキに全額返済能力はある。だが、いきなり全額を要求しても、関係を壊すだけだ。しっかり払ってくれれば、分割で全く構わない。足の様子はすっかり良いようで、キルキは何の心境変化か、新しい靴を自分で買っていた。

それにも、触れない。

アデリーさんに言われたのだが、人間は基本的に自分のテリトリーに土足で踏み込まれることを嫌うという。そのテリトリーの形は人によって異なるので、慎重に見極めなければならないとも。

キルキにとって、靴の話題は間違いなくそれだ。

「試験、頑張ろうね」

「うん」

二人で買ってきたブララの果実を摘みながら、試験の対策勉強をする。一通り勉強をした所で、ぼそりとキルキが言った。

「ゼークトさん、お酒を飲まないんだって」

「へえ」

「そんな大人がいるって、初めて知った」

不思議なことを言う子だと思ったが、都会と田舎の常識の違いを思い直す。

田舎で酒は貴重品であることが多く、ロブソン村でもそれは同じだった。祭りの日などには盛大に飲まれるが、普段の消耗はかなり少ない。

それに対して都会では、酒を普段から飲む習慣があるという。

あの飛翔亭も、元は酒を飲ませることを主題にした店だと知って、驚いたくらいである。

ましてや、キルキは確か両親がどちらも飲んだくれのろくでなしだという話である。他の大人の普段生活を知らなかったとしても無理はない。

「お父さんもお母さんも、いつもお酒ばっかり飲んで、ぶつの。 でも、お酒が抜けると、ごめんねごめんねって、涙流して、私を抱きしめてくれるの。 それで傷ついて、またお酒飲むの。 私、それが悲しい。 でも、最初からお酒を飲まない大人も、いる」

キルキは、肩を振るわせていた。

涙がこぼれているのが見えた。どうして泣いているのかは、エルフィールには理解できなかった。

「お酒って、飲み始めると、毒が体の中に残って、またお酒を飲みたくなるんだって、ゼークトさん言ってた。 きっと、お父さんとお母さんも、そうなんだと思う。 私、その毒を取り除く研究、してみたい」

「お、研究テーマがもう決まったんだ。 羨ましいな」

「エリーは、どうしたい?」

「私は、まだ好きなことも、やりたいこともないよ」

ふと、正直に口にしていた。

ロブソン村の一員となり、ドナースターク家の優秀な家臣になるというのは、今後しなければならないことである。

今、キルキが言っていたのは、それとは違う。

そしてエルフィールに、今だ目的意識と呼べるものは存在していなかった。

涙を乱暴に拭うと、キルキが勉強を進めていく。その効率が、以前より明らかに上がっているのを見て、エルフィールは実感する。

早く、「好き」を見つけないと。

自分に未来は無いのかも知れないと。

後ろが崩れていく感触は、エルフィールを焦らせる。それは、破滅へ直結しているかのようだったからだ。

結局、二人ともその日は夜中まで勉強を続けて。

翌日の試験では、どちらも200点満点の180点以上をマークしたのだった。

 

港町の一角。小さな倉庫が燃えていた。

周囲には、死屍累々。胴体から真っ二つにされて内臓をぶちまけた死体、文字通りの唐竹割にされて左右泣き別れに転がっている死体。無数の屍の中立ちつくす一人の女は、自分の手の甲に飛んだ返り血と脳漿を舐め取っていた。

此処は、リダートコール王国首都、リリアライル。

そして、周囲に転がっているのは、どうやら何処かの国から資金援助を受けた、反シグザール王国を目的とした反政府組織の集団であった。

劫火の中に立ち尽くすエリアレッテが人口二万ほどのこの街を訪れて、わずか数日。牙数名では対処が難しくなっていた反政府組織は、だがしかし鬼神の到来により、既に壊滅状態に陥っていた。殆どは、エリアレッテが殺した。残りは、彼女とともに派遣された、シグザール王国軍騎士の手によるものであった。

「後は、あの倉庫に逃げ込んだ連中だけですかな」

そう言ったのは、牙の一人。シグザール王国の衛星国として長年蜜月を築いてきたリダートコールに常駐し続けていた、ハンスという男である。弱小国家でシグザールに寄生しないと独立さえ保てないリダートコールの性質上、戦闘能力よりもネゴシエーションや情報収集の方を要求される立場だったこともあり、彼は元々荒事は苦手である。しかし、それでも。エリアレッテがこの街を訪れて、すぐに壊滅作戦に従事できたのは、この男が苦労の中集めていた敵の情報があってのことだった。

ただし、どうもこの国に長く居すぎて情が移ったらしい。出来るだけ被害が出ないようにして欲しいなどと言い出したので、エリアレッテは危うく首を掴み潰す所だった。それ以降は言うことを聞いてくれているので、エリアレッテとしても「無駄な犠牲」を出さずに済んでいる。

クーゲル師以外の人間に命令を出されるのは大嫌いだ。戦士として尊敬できる大教騎士であるカミラ(もっとも、権限上の問題で命令を受ける可能性はないが)や、騎士団長であるエンデルクだったらまだ考える。だがエリアレッテにとって、人間は敵か味方かの二種類しかおらず、味方でない相手はどうすれば容易に殺せるか考える相手でしかない。

既に、何匹か苦労してわざと生きたまま捕らえてあるし、残りを生かしておく必要などない。

「駆除は進んだが、多分まだ生き残りはいる。 だから、見せしめのために、あの倉庫ごと叩きつぶす」

「なんと。 もう、逃げ道もないし、放っておけばよいではありませんか」

ハンスが呆れたように言う横で、エリアレッテは師に貰った武器を、配下にしている騎士から受け取った。

倉庫の戸が内側から吹き飛び、ひときわ体格のいい男が出てくる。どうやら、反政府組織のリーダー格らしかった。全身逞しい筋肉に包み込んだ大男で、赤銅色の髪の毛が炎に照らされ燃えているようである。

上半身を剥き出しにした男は、槍を構えると叫ぶ。目には怒りと絶望の炎が燃えていた。

「こうなったら、せめて一矢は報いてやる! シグザール王国の女聖騎士、てめえをぶっ殺して、冥土の道連れだ!」

「別に我らは君らを奴隷にしていた訳でもなければ、自由を奪っていたわけでもないだろう! どうしてこんな無茶をした、キニック!」

「うるせえ、ハンス! 知らないとでも思ってるのか! シグザール王国は、この国の海運技術を利用して、ドムハイトの中枢に精鋭を送り込むつもりなんだろっ! それだけじゃねえ、余所の大陸にも戦争を仕掛けようとしてるとか聞いたぞ! そうなれば、弾避けにされて傷つくのは俺達だ! 冗談じゃねえんだよ!」

くだらない問答だ。そんな話があるとは聞いていないし、何よりドムハイトに対しての戦略は自滅の推進で決まっている。今の状態で、ドムハイト中枢に軍勢を送り込む計画など無い。

キニックという男はどうやらハンスの知り合いらしい。あの体格や隙のない構えから言って、軍関係者だろう。騎士かも知れない。いずれにしても、見つけた以上、許す訳にはいかない。

武器の布を取り去る。

現れたモノを見て、キニックは息を呑んだ。

それは巨大な槍の穂先のようにも見えた。ただし、それを槍として扱う存在が居たら、大型の悪魔くらいだろう。三角錐の武骨すぎる鉄塊に、長い棒がついている。鉄塊はかろうじて刃物らしい部分もあるが、むしろ巨大なドラゴンの牙のような形状である。

その刃物の部分だけで、身の丈大。更に、棒を含めると、身の丈三倍という所だ。

棒には掴む部分がついていて、エリアレッテはそれを手に、ぐっと体をしならせつつ構える。刃は天上よりも、ややエリアレッテの後ろ斜め上を向いて構えられた。振り下ろし、叩きつぶす構えである。

「来い。 冥土の土産が欲しければ、くれてやる。 この人食い薔薇エリアレッテの、斬龍剣が威力、冥土で喧伝せよ」

「こ、虚仮威しをっ!」

キニックの考えは、手に取るように読める。こんな非実用的な武器、使える訳がないというのだろう。

その通りだ。そのままでは、使えない。

槍を構え、全身からオーラを噴き上げるキニック。師に比べると何ともか細い。しかし、失笑だけはしない。

敵を潰す時には、絶対に油断しないようにと、師に言われている。相手の牙が、どれだけか細かろうと、だ。

一つの闘気の塊となり、突撃してきた敵に向けて、エリアレッテは叫んだ。

「打ち砕け、斬龍剣!」

次の瞬間。

過程を切り取ったように。

エリアレッテの武具が、敵のいた地点に着弾していた。

戦闘終了。

敵の残骸など、欠片も残っていない。巨大なクレーターは辺りを粉々に消し飛ばし、眼前の倉庫も例外ではなかった。倉庫の中に逃げ込んでいた敵は全滅である。全身の痺れを感じながらも、エリアレッテは微笑んでいた。

素晴らしい。

剣の背中からは、煙が上がっている。

そう。剣の背中に、マリーブランドの火薬を仕込むことにより、剣の振り下ろす威力と速度を跳ね上げたのだ。それで、エリアレッテでもこの常識外の武具を扱えているのである。

一回振るうだけで一個小隊を纏めて叩きつぶすが、自身も大きな打撃を受ける。ドラゴンでさえ切り倒せる、まさに必殺の武器であった。

師は言ったものだ。

絶対に、他人に負けないものを一つで良いから作れと。作り上げたら、己の極限まで、それを磨き上げろと。

師はチャージを極めた。それによって人間破城槌の二つ名を得て、今でもこの大陸で上位の実力を保っている。

師に教えを受けながら、エリアレッテは様々に戦闘スタイルを試してきた。そして、この斬龍剣をある事柄から思いついたのだ。

今までの給料を全てつぎ込んで、作り上げた己の分身。最強の破壊武器。

注文はザールブルグのゲルハルトに行い、騎士団のつてを使って鮮血のマルローネにも相談をした。南の街カスターニェで活動中の彼女の下をわざわざ訪れて話をしたのだ。火薬の新しい使い方だと、大喜びして彼女は時間を割いて機構を考えてくれた。

そしてできあがったこの剣は、三度の実戦でいずれも敵を一撃の下消し飛ばしたのであった。もちろん、この破壊力は火薬だけで実現しているのではない。鍛練を重ねたエリアレッテのチャージ能力を、いわば下に叩きつけた結果、達成できたのだ。

何より嬉しかったのは。師がそれを見て、エリアレッテを褒めてくれたことだろう。

剣を地面から引き抜く。

エリアレッテは法悦の笑みを浮かべると、部下達に、これから帰る旨を伝える。

師は、また褒めてくれるだろう。

それが楽しみでならなかった。

敵を殺すこと。影も形も残らないほど、粉々に叩きつぶすこと。

エリアレッテの「好き」な事は、ただそれだけ。

既にその心身に、闇は刻み込まれていた。

 

(続)