新たなる伝説の始まり

 

序、月夜の出来事

 

雲一つ無い夜空には、大きな満月が出ていた。

その日の昼、戦があった。

ドムハイト王国の衰退が著しい今大陸最強を噂されるシグザール王国の衛星国家である北部のシャイアット王国と、群小の都市国家の連合であるキラートラール星国の戦争である。両軍ともに動員兵力は三千弱。しかし、シグザール王国から技術提供を受けているシャイアット王国の圧倒的な猛攻の前に、近年内部分裂が噂されるキラートラールの軍は一刻と保たず四分五裂になり敗退。敗走時にも容赦のない追撃が行われ、軍勢は六割近くを失うという壊滅的な打撃を被った。

ドムハイトの支援を受けていたキラートラールは近年海上戦でもシャイアットの後手に回っており、今回その衰退は決定的な形になった。全滅しなかったのは、腐敗した軍の中で唯一士気を保っていた幾つかの部隊が奮戦したからである。

その部隊の一つ。

既に九割が討ち果たされ、生き残りは十六名となってしまったカルペア中隊の面々が、闇夜の中歩いていた。肩に矢を受けている者もいる。司令官である歴戦の武人カラカルも、年老い始めた彫りの深い顔に疲弊の色が隠せず、何度も落馬しそうになっていた。

いずれもが歴戦の武人ばかりだが、誰もが泥のように疲れ果てている。半日も戦い続け、その後はひたすら逃げ回ったのだから、当然だ。

「この辺りは、ドムハイトの国境地帯だ。 油断するな」

カラカルが言うと、生き残った兵士達は皆表情を引き締める。

国境地帯の村に住む連中は、良くも悪くもしたたかだ。状況次第ですぐにつく国を替えるし、戦慣れもしている。戦争で士官が死ぬ場合、戦場であることよりも、敗走時に落ち武者狩りに合っての事が多い位なのだ。疲れ切っている上に、注意散漫になっている敗軍の兵士達は、この手のしたたかな村人達にとって、好餌に過ぎない。

周囲を最大限に警戒しながら進む。だが、やはり皆、もう疲れ切っている。しかし休んでいては、追撃部隊に追いつかれてしまう。斥候を出して、安全な道を探る余裕さえも無い。

そして、懸念は本当になった。

音もなく降ってきたそれに、兵士の一人が地面に叩きつけられる。網だ。同時に、飛来する無数の矢。鎧を貫いた矢に、次々に兵士達が地面に押しつけられ、倒れた。

剣を抜いたカラカルは、矢をたたき落とす。

しかし、闇の中猿のように飛び出してきた村人達は、熊手を装備していた。馬の足を引っかけられ、馬術を披露する暇もなく横転する。立ち上がろうとしたカラカルは、自分の上に網が降ってくるのを見て、呻いていた。

彼らは、殺し慣れている。

網を浴びせられてしまうと、もう抵抗は不可能だ。剣で簡単に切れるようなものでもないし、何より重くて身動きが取れなくなる。余程の達人でもない限りは、この状態からの挽回は出来ない。

そして、槍を突きつけられ、カラカルは絶望の声を漏らした。

人間は、人間の殺し方をもっとも知っている生物である。人間にとって、虎やドラゴンよりも恐ろしい存在。それが、人間という魔の獣なのだ。

「何だ、たった十六匹か」

「おのれ、下郎っ!」

それ以上は言えなかった。矢を受けながらも、地面でもがいていた兵士の首を、無言で村人の一人が、斧でたたき落としていた。

「鎧は傷つけるなよ」

「ああ、分かってる」

村人達の手慣れた動作で、地面で死にきれずもがいていた兵士達はすぐに皆殺しにされた。女達も出てくる。切り落とされた首を持っていくのは、洗うからだろう。洗って整えて、シャイアット軍に提出するという訳だ。彼女らも、なんら殺したことに後悔や憐憫は感じていない様子だ。

優しさとか言う感情は、都市伝説の産物ではないかと、カラカルは思ってしまう。人間は、極限まで合理的になると、こうなるのだ。

カラカルは後ろ手に縛り上げられた。部下達の事を思うと、無念で血を吐きそうだった。

「これはどうする?」

「此奴は中隊長だ。 多分騎士だろう。 殺すよりも、生きたままつきだした方が金になる」

闇夜の中、村人達はドライな会話をしていた。つきだした士官が、情報を絞り出すために拷問に掛けられることなど、彼らは知らない。知っていても、鼻で笑うのがせいぜいであろう。

これは狩りだからだ。

殺された兵士達は、その場で首を切り落とされる。首はすぐにみんな女達が持っていく。

胴体の方はと言うと、その場で逆さに吊され、血抜きが行われる。そして、それが終わると、その場でばらばらに解体された。

内臓類の一部は、非合法な薬品の材料になる。血肉はというと、殆どの場合は肥料にする。希に、食用として燻製にする場合もあるようだ。

狩りの後は屠殺が行われる。当然のことであった。

やがて、辺りに殺戮の痕跡はなくなった。弓矢さえも落ちていない。

血の臭いを嗅ぎつけて出てきた狼や熊も、人間の村人達を見ると、おずおずと逃げていくしかなかった。

戦乱が絶えぬ時代。

魔物が存在する時代。

人間社会の辺縁である小規模集落、村は。決して排他的で非力な弱者達が集う場所ではない。

現実主義にて生きてきた、恐るべき人間そのものが生きる魔の都と化しているのが通例だ。

村人は、弱者ではない。

むしろ、恐るべき存在なのだ。

 

殺戮を物陰から見ていた娘がいる。

粗末な身なりで、足には靴も履いていない。目はうつろで、ぼんやりと狂騒の限りを尽くす村人達を見つめていた。

村人の一人が、それに気付く。

「あれも、そろそろ金に換えるか?」

「そうだな」

応じる声も淡泊である。

娘は、村はずれに住んでいた夫婦の子供であった。名前はエルフィール。村の中では唯一、村長一家以外でトラウムという姓も持っている。色々なことがあって、家族は彼女を残して全滅。心に深い傷を負い、今ではときどきふらふら歩き回っては、ぼんやり村人達の生活を見ていた。

こういう寒村で、弱者を労るという発想を持つ人間はいない。

生活が貧しいから、役立たずを保護している理由はない。もっと厳しく言うならば、村のために金を稼げない存在はいらないのである。収穫が少ない年は子供を間引くことも珍しくないし、間引く場合は食料にすることさえある。トラウム一家は学者の家だそうだが、死んでから調査してみたところ、殆ど財産らしいものも残していなかった。その上村の中では浮いた存在だったこともあって、今や娘に構う者さえいなかった。

ましてや、エルフィールは生来大きなある欠陥を抱えていて、鍛えても使い物にはならないのが目に見えていたのである。

「来月、奴隷商が来るから、売っちまうか」

「シグザールは最近取り締まりがどんどん厳しくなってるらしいじゃねえか。 売れるのか?」

「シグザールで売れなくても、ドムハイトなら売れるだろ。 王女様が改革進めてるらしいけどよ、こっちら辺境じゃ何も変わっちゃいねえしな。 それに、シグザールだって辺境じゃどうだかわかりゃしねえし」

からからと村人達が笑う。

いつの間にか、その場からエルフィールはいなくなっていた。

 

1、襲撃と収穫

 

美しい黄金の髪を持つ女が、小高い丘に腹ばいになり、何か筒のようなものを覗き込んでいた。舌なめずりしているのは、その筒の先に、予定通りのものが見えたからである。

ドムハイトからの、違法奴隷を輸入している業者の隊列。

馬車が三つ。その内一つは覆面馬車である。あの中には、多分子供を中心とした違法奴隷が詰め込まれている。もう二つは、とても分かり易く絹織物や小麦などを積んでいる。そして周辺には、装備や実力のまちまちな護衛達が、二十名ほど。

これが、今回ドナースターク家から、処理を任された獲物だ。

黄金の髪の女、マルローネが立ち上がる。年齢は二十代の半ばで、鋭い目と輝くような強烈ないかづちの魔力を持つ、危険な使い手だ。通称、マリー。裏の業界や冒険者と呼ばれる者達の中では、鮮血の二つ名で知れ渡る人物である。今やどんな犯罪組織の長でも、絶対にドナースターク家の人間には手を出せないとさえ言われているのだ。錬金術師としてここ数年で、多大な業績を上げた存在でもあった。

この土地でもマリーの暴れぶりは凄まじく、僅か一月ほどでこの周辺の、彼女が所属するドナースターク家にとって不都合な人間を全て処理し、「鮮血」の二つ名を更に確固たるものとしている。

まず最初に盗賊団を皆殺しにした。新たにドナースターク家が任されたこのロブソン村周辺地域では、ドムハイトとの国境線と言うこともあり、多くの犯罪者が逃げ込み独自の集落を築いていたのだ。彼らの多くは鮮血のマルローネの名を聞いて逃げ出したが、殆どは逃げ切ることなど出来なかった。

続けて、村の中の不満分子を潰した。

不満分子と言えば聞こえは良いが、ドナースターク家の統治に反対する連中は、殆ど利権の食い合いに文句を言い出した者達に過ぎない。村に乗り込んだマリーは彼らをしらみつぶしに洗い出し、反抗的なものは処分し、抵抗を諦めた連中は捕らえて別の村に移した。

そして、最後に狙いを定めたのが、奴隷商であった。

シグザール王国では、奴隷は法的に保護された存在である。古くから人材を重視してきた上、様々な歴史的経緯もあり、シグザールでは、奴隷法が厳格に整備されている。余程の辺境でもない限り好き勝手な扱いは許されない。奴隷を殺したと言うことで、貴族としての資格を剥奪される者が出ることがあるほどなのだ。

彼らは借金を返すまで働くと、晴れて普通の市民として生活することが許される。マリーの養子であり、今隣で鋭い視線を奴隷商人の隊列に射込んでいるアデリーも、そうやって奴隷から市民権を得た一人だ。市民権を得たばかりか、青い鎧を着ているアデリーは、輝ける現役のシグザール王国軍聖騎士である。

ところが、奴隷の立場は、ドムハイトでは随分シグザールと異なる。現在様々な事情から内乱状態に陥っている隣国ドムハイトは、豪族達が割拠している国であり、領地ごとに奴隷の扱いが違う。中にはものをいう道具として奴隷を扱う領地もある。そう言った所では、盛んに奴隷取引が行われていて、シグザール王国とドムハイト王国を渡り歩く商人の中には、そうやって得た奴隷を売買する者もいるのだ。

そして、法の目が届きにくい辺境になってくると、シグザール王国でも、奴隷が取引されることがある。

法でがちがちに整備された国内の奴隷よりも、買い付けた奴隷の方が使いやすいと考えるものが、どうしてもいるのだ。もちろん、そう言った奴隷の用途には、豪商や貴族の性玩具や妾奴隷も含まれている。

ニーズがあるから、供給が産まれる。だが、その供給を。マリーは、この周辺をシグザール王国から新たに任されたドナースターク侯爵家の臣として、許す訳にはいかない立場だった。

此奴らはドムハイトの領地を上手に通りながら、国境線で取引を行ってきている。今回、取引先の連中は既に押さえてある。別の貴族の家臣達で、既に拷問して口は割らせた。後は、彼奴らを抑えるだけだった。

実は、この辺りはドムハイトの領内である。あまり襲撃に時間を掛けるとドムハイト軍が出てくる可能性がある。もっとも、この近辺の豪族は事なかれ主義の臆病な男で、シグザール王国、強いて言うならドナースターク家と事を構えるような度胸は持ち合わせてはいないが。

進んでいく隊商の前に、既に何人かが伏せた。更に、後方への布陣も完了する。

ドナースターク家の武官が来て、跪いた。ドナースターク家のテクノクラートとして、なおかつドナースターク家ナンバー2として豪腕を振るうシア=ドナースタークの右腕として、マリーは活動を続けている。故にドナースターク家で、マリーの権勢は、並の幹部より大きなものとなりつつあった。

「全員、配置につきました」

「襲撃は秒刻みよ。 全員を取り押さえて、さらには馬車を即座にシグザール王国領に連行する。 作戦は予定通りに」

「はい」

緊張した面持ちで、武官が頷く。マリーは、杖を地面と水平に構える。馬車に向くその先端部分が、淡く輝き、スパークし始めた。

「サンダー……」

詠唱を終える。そして、長距離攻撃用の雷撃術を、言葉とともに、マリーは解き放った。

「カイゼル・ヴァイパー!」

凄まじい光が杖の先端から迸り、稲妻の大蛇となって隊商に躍り掛かる。口を開けた大蛇は、先頭の車両の至近に着弾、側にいた用心棒達を根こそぎに吹き飛ばした。一里先からも小隊を殲滅可能な、マリーの必殺術の一つである。

敵が迎撃態勢を整える前に、包囲を完了していたドナースターク家の武官が飛び出し、用心棒達を引きずり倒し、拘束する。効率的に縄を掛け、抵抗を無闇に試みる者はその場で斬った。死骸はすぐに、新たに持ち出した荷車に乗せて運び出す。

馬車からも御者を、そして商人達を引きずり下ろし、縛り上げ、猿轡を噛ませて連れて行く。そして、新しく御者の代わりに、武官達が馬の鞭を採って、隊列をシグザール領内に入れた。

目撃者無し。

爆発した地面の孔と、それに血痕を、専門のチームが掃除していき、痕跡を消す。後は、戦利品の検分をするだけだった。

ロブソン村の側に、シグザール王国軍の砦がある。その近くに、ドナースターク家が作った、浄化作戦の本部があった。一見すると小型の牧場であり、実際シグザール王国軍に牛馬の提供もしている。だがその実態は、ドナースターク家の汚い仕事を一手に引き受ける場所なのだ。広い牧場と言うこともあり、多少拷問しても周囲に声は漏れない。また、看板には「疫病対策本部」などと書いてある。

馬車の偽装板が引きはがされ、中から違法奴隷が助け出される。今回、此処まで強行的な手段に出たのは、この一帯での取引が著しく非人道的かつ大規模であるという通報が入ったからだ。実際、馬車から引きずり出された奴隷商人は、マルローネも知る大物ばかりだった。

人道に関しては、マルローネは苦笑いするしかない。しかし、規模の大きなものを放置は出来なかった。

「おや、貴方は団子鼻のグライツ」

「まさか、本当に貴様が出てきているとはな、鮮血のマルローネ。 貴様は南にいると思っていたから、偽情報だと思いこんでいたわ。 この俺も、焼きが回ったな」

二つ名にもなっている脂ぎった団子鼻を鳴らしながら、グライツは不快そうに言う。闇世界でも名が知られる奴隷商人が、縛り上げられたまま座らされた。屈辱的な態勢である。マリーに対して不貞不貞しい口を利くグライツだが、既にその表情には絶望が浮かんでいた。

グライツは奴隷に限らず、シグザールとドムハイトの間で非合法となるような物資ばかりを扱っている男で、快楽と肉体の崩壊を呼び起こす邪悪な薬物や、時には生きた魔物までもを扱う。間の抜けた二つ名とは裏腹に、闇商の帝王とさえ言われる男である。最盛期には三千人を超える部下を有しており、辺境地域の隠れた実力者だった。

ドムハイトの間諜狩りが近年進められ、それによって「ついでに」騎士団が大々的に討伐したため勢力を失っていたが、それでも他とは桁違いの勢力を持っていた大物である。まさか、此奴を直接捕らえられるとは、マリーも思ってはいなかった。

ドナースターク家の領地を荒らそうとしていたとは、許し難い相手だ。だが、相手の実力も理解して、マリーも不必要に貶める事はしない。マリーが勝ったのではない。ただ、この男が衰えたのだ。若い頃だったらもっと早く危険を察知して、別の国境地帯に移っていただろう。

「引き際を間違えたわねえ、貴方ほどの男が。 年は取りたくないものだわ」

「是非も無し」

「貴方は騎士団に引き渡すから。 申し開きはそっちでしてね」

指を鳴らすと、武官達が観念したグライツを連れて行った。この男は騎士団から賞金が掛けられており、そのまま殺すよりも引き渡す方が儲かるのである。デッドオアアライブだから此処でリンチにかけてなぶり殺しにするのも良いかもしれないが、あまりシャープなやり方ではない。騎士団としても此奴から情報を引き出したいだろうし、恩を売ることにもなる。

グライツは商売柄、ドムハイトの豪族や商人、時には貴族ともコネクションを作っていたという。つまり、それらの情報を知れば、騎士団も今後更にドムハイトへの密かな干渉をやりやすくなるという訳だ。騎士団がドムハイトに裏側から介入し、紛争を煽っていることくらい、マリーにはお見通しである。だから恩を売っておくのだ。

利益だけではない。親心もある。聖騎士になっているアデリーのことだ。更に騎士団とのパイプを強くしておけば、アデリーは更に騎士団の中で動きやすくなるし、将来も保証される。それにドナースターク家にとって得なのだ。

他にも捕らえた連中を引見していく。騎士団が喜びそうなのは、渡す方向で調整。それ以外の内、賞金が掛かっている奴に関しては、冒険者ギルドや役所に引き渡す。人さらいを中心にしていたような奴や、シグザールで密輸の類をしていた連中である。

残りは下っ端ばかりが残った。

「此奴らはどうしますか」

「それはあたしが錬金術の実験台にするから、牢屋に入れておいて」

「ひいっ!」

縛り上げられた雑魚奴隷商人達が悲鳴を上げた。鮮血のマルローネが放つ言葉に顔を恐怖でくしゃくしゃにする彼ら。マリーはもはや逃げる術も持たぬモルモットどもに、にこりと微笑む。

「貴方たちに売り飛ばされた子供や女性が、どういう目にあったか、考えたことはあるのかな?」

「そ、そんな、後生で、後生だから許してくだせえっ!」

「その台詞は、あたしに言うべきじゃないと思うけどね。 あ、そうだ。 地獄に堕ちたら、あたしの作った爆弾や毒薬の破壊力を喧伝できるよ。 良かったじゃん」

「母様」

アデリーが低い声でたしなめてくる。マリーは愛しい我が子を一瞥だけすると、泣きわめきもがく奴隷商人どもを部下に連れて行かせた。

アデリーは責めるような目で見ていた。だが、マリーとしても此処は譲るつもりもない。連中は、何をされても当然のことをしたのである。アデリーは心優しい子だから、あのような連中にも慈悲をとでもいうのだろうが。残念ながら、この世には、殺さなければならない相手というものがいるのだ。まさに連中がそれだった。

そして、ついでに言うならば、騎士団やギルドに渡した連中もどうせ死は免れない。しかも、拷問というおまけがついた上でだ。

見定めに使った小屋を出る。既に馬車は解体されて、中に入れられていた奴隷達が出てきていた。縄も順次切られる。タグのついた首輪が付けられていたので、それも全て外していった。

やはり女子供の奴隷が多い。大人の男性も一部いるが、三人だけだった。これに対して、まだあどけなさが残った女の子の奴隷の姿が目立つ。いずれも、どんどん経済状況が悪化しているドムハイト辺境から、口減らしのために売られたのだろう。

ドムハイト語が使える通訳を呼んできて、彼らに話をさせる。まずは食事を用意し、彼らの警戒を解くことから始めなければならない。

彼らを解放はするが、いきなり故郷に送り届けるようなことはしない。そんな事をしても、向こうで生きてはいけないからだ。どこの親が金がないから奴隷として売り払った子を、もう一度育てようなどと思うだろうか。

解放した奴隷達にはこれから市民としての身分と戸籍を用意し、なおかつドナースターク家の家臣として働いて貰う。子供達には英才教育を施し、将来のドナースターク家を支える柱石となって貰うのだ。当然、以前よりずっと良い生活もさせてやる。それによって、前とのギャップを大きくし、効率よく忠誠も買う。ドナースターク家では昔からやっている事であり、アデリーもそうしてマリーに引き合わされた。

この作業には、専門のスタッフもいる。マリーはアデリーの時に子育ての苦労は思い知ったので、この作業を行うスタッフ、通称グランドマザーズと呼ばれる人達には本心からの敬意を払っている。シアが連れてきたスタッフなのだが、詳しいことは良く知らない。だが、彼女らの育てている孤児や元奴隷の子らがとても明るい顔をしているので、手腕は間違いない所だ。

うつろな目をしている子供が多い中、ふと一人の前でマリーは足を止めた。

膝を抱えて、周囲に全く興味を見せない粗末な身なりの子。年は十二三才という所か。靴も履いておらず、不潔な着衣はストリートチルドレンを思わせた。髪の毛も荒れ放題で、そもそも身なりに気を使う余裕さえ無いように思えた。

親に売られて心が壊れる子供は多い。虐待を受けていたりする場合もある。アデリーが典型例だった。この子もそうかと思う以前に、マリーにはちょっと気になる部分があった。

腰をかがめて、子供の顔を見つめる。手を伸ばして顎を掴み、此方に視線を向けさせた。空洞のような表情。目は合うが、此方を見ていないのは明白だった。

悲惨な境遇に晒された結果、心が壊れてしまった子供は何度も見てきた。しかしそれとは別に、違う所で、実に興味深い所があった。

魔力を、全く感じないのである。

能力者が幾らでもいるこの世界、能力や術式として展開できるかは別として、魔力は誰もが備えているのが普通である。例えばマリーは稲妻の魔力を備えているし、アデリーは周囲の全てを破滅させる魔力を有している。それぞれ特性があるにしても、個人差というレベルであって、魔力がないなどという子供ははじめて見た。

「母様、その子は?」

「見て、アデリー。 この子、魔力を一切感じない」

「……本当ですね」

言葉少なく、アデリーは応じた。奴隷商人に対するマリーの仕打ちを咎めながらも、しかしさっきから酷い扱いを受けていた子供達を見て穏やかではない表情であったアデリーである。自分のかっての境遇もあって、あまり良い気分にはなれないのだろう。

まだ首輪は外していなかったので、タグを見る。押収した帳簿から、素性を確認。

「ふうん。 エルフィール=トラウム。 姓があるのね。 ドムハイト出身で姓があるって言うことは、知識階級や豪族の子供かしら」

「それならば、どうして奴隷に……」

「さてね。 辺境が内乱状態のドムハイトじゃ、豪族が滅ぼされたり没落したりすることも珍しくなくなってるみたいだし」

アデリーは剣を目にもとまらぬ速さで振るい、首輪を切り落とすと、黒に近いダークブラウンの髪を掻き上げる。かってこの子はポニーテールにしていたが、今は肩まで伸ばした髪をそのまま流している状態である。それで、耳の辺りに掛かる髪が時々邪魔らしく、髪を掻き上げる動作が目立つようになっていた。お洒落でもすればいいのにと思うマリーだが、その当人は腰まで伸ばした髪を適当に束ねているので、あまり人のことは言えない。

不器用に笑顔を浮かべて子供に話し掛けるアデリーを見て、マリーは一つ思いつく。そういえば、マリーの錬金術の師であるイングリドが、さらなる錬金術アカデミーの発展を目論んでいた。その過程で、一つクリアしなければならない事があったのである。

魔力がない。

その条件は、絶好の素材だった。

「アデリー。 一年あげるから、その子をこのロブソンで一人前にしなさい」

「どういう、意味ですか?」

「錬金術アカデミーで、ちょっとその子が必要になりそうだから。 まずシグザール語の読み書きを教えて、後は身を守るための武術。 魔力がないみたいだから、能力も使えないだろうし、身を守るための武術は貴方の方が教えるのが適任でしょうしね。 それと、動植物の知識と、キャンプのやり方。 出来れば錬金術の基礎的な知識も必要かな」

アデリーは、騎士団とマリーのコネクションをつなぐ重要な存在である。また、シグザール王国にとっては、マリーという怪物の首に付けた鈴の役割も期待している存在でもあるのだ。

今、マルローネは別の地域、此処とは正反対のシグザール王国南端にて活動を行っている。此処での活動は、上司であり盟友であるシア=ドナースタークに頼まれての事だ。当然アデリーも其処にいるべきであり、北東の端であるこのロブソンに残るというのは、あまり常識的とは言えない判断であった。

「私は異存ありません。 しかし母様、大丈夫なのでしょうか」

「問題ないわよ。 向こうには騎士団との関係がより強いミューがいるし、エンデルク様には私から話を通しておくから。 それにまだまだ政情不安なロブソンだし、父さん一人じゃ不安でしょ。 可愛い孫で、しかも聖騎士のあんたが此処にいれば、きっと喜ぶわよ」

ロブソンの村長に赴任しているのは、マリーの父である。元々ドナースターク家の根拠地であり腕利きが揃っていたグランベル村でも屈指の使い手であるから、当然の話だとも言える。

そしていい加減年老いてきたからか、マリーの父は血がつながってはいないとは言え、初孫とも言えるアデリーを随分可愛いと思っている様子だった。たまに甘やかそうとするので、マリーはそのことで父と喧嘩したことさえあるほどだ。母もその辺りは同じである。年を取ると、人間は子供に深い愛情を注ぐ習性があるとマリーは知っていた。だが、身内でそれを実際に見ることになると、複雑な気分である。

「分かりました。 ただし、騎士団からは母様が話をしておいてください」

「へいへい。 ただ、分かってると思うけど、失敗は許さないわよ。 一年経って見通しが立たないようなら、あたしが直接ドナースターク家の臣になるよう教育するからね」

アデリーは頷く。

一年はあっという間だ。子供の成長はとても早いとは言え、うかうかしていると無駄に過ごしてしまう。しかもこのエリーという子はもう成長期を過ぎていて、二次性徴が出つつある。そんな状態から飛躍的な進歩はかなり難しい。

一年で読み書きをマスターし、武術をある程度身につけ、さらには野山の知識も。如何に似た環境で育ったアデリーがみっちり鍛えるとは言え、壊れた心を取り戻すのと並行でそれを行うのは、ちょっと厳しいかも知れない。少し考え込んだ後、マリーは二年で良いやと訂正。アデリーは出来る限り一年で納めますと、言葉短く応じた。

後は幾つか細かい作業を終えると、一旦マリーは騎士団の作った砦に赴く。今、根本的な所から様々に作り替えているロブソンは、騎士団にとっても有益な場所にすると公約している。具体的には諜報面で協力する予定であり、それについての打ち合わせがあるのだ。

騎士団長エンデルクと個人的な知り合いであり、ともにエンシェント級のドラゴン、フラン・プファイルを殺したマリーは、騎士団のメンバーにも顔が利く。他にも騎士団の幹部には何名か知人や友人がいる。これらは、長年苦労して築き上げた人脈だ。今後も大事にしていかなければならないものである。

如何にドムハイトの脅威が以前とは比較にならないほど低下しているとは言え、此処は前線。屯田兵に混じって当然のように騎士の中でも戦闘向けの人間が多く派遣されていて、虎の子の聖騎士も一人来ている。シグザール王国騎士団の中でもごく一部しか名乗ることを許されない聖騎士である。その実力は高く、決してマリーにも引けを取らない。

砦に赴き、歩哨に用事を告げると、すぐにマリーは奥の応接間に通された。城壁は石造りだが、中はまだ木製の建物が多く、作りかけの施設も目立つ。潤沢な資金を持つシグザール王国も、末端までは予算が行き渡らないのである。ましてやロブソン側の砦は、近年建築が始まったのだ。国境線とはいえ、この辺りの領有権が決まったのは結構最近で、それまでは、この村の近辺はかなり勢力が曖昧だったのである。

応接室も、急あしらえな作りが目立つ手狭な部屋だった。しかしそれが故に、木の新しい匂いがとても心地よい。

マリーは今南の幾つかの街でドナースターク家のために働いており、騎士団には是非アデリーの力になって欲しいのである。故に、ある程度彼らに旨味がある取引を行わなければならなかった。殆ど待たされることもなく、応対に出てきたのは、件の聖騎士である。カッパーフィールドというまだ若い男で、名前通り赤銅色の髪の毛が目立つ、筋肉質で長身の騎士だ。特殊能力は持たず、剣の技術と豊富な実戦経験だけでのし上がった強者である。

丸テーブルに向かい合って座ると、メイドが手際よく茶を出してきた。実はドナースタークから派遣している人材で、一種の公認間諜である。ただ、メイドとしての仕事をさぼらないように、念は押してある。

カッパーフィールドは二人、女性の騎士を護衛に連れている。彼女らが自分の後ろに立つと、ようやく聖騎士は口を開いた。

「これはマルローネどの。 よくお越しくださいましたな。 このたびは国境を騒がす凶賊どもを一網打尽になされたとのことで。 ますますの活躍には、まこと頭が下がる思いです」

「ありがとう。 社交辞令はこのくらいにして、本題に入りましょうか」

茶にまず口を付ける。そしてマリーが茶菓子を口にするのを見て、聖騎士カッパーフィールドはにやりと笑った。

「いつも貴方との駆け引きはスリリングで面白い。 それで、今回は我々に何をしろと?」

「ちょっと面白そうな人材を見つけましてね。 アデリーを丁度いいので、此処に一年、二年くらいになるかも知れませんが、残していきます」

「ほう。 アデリー殿は剣の腕にしても戦術判断能力にしても、聖騎士の名を辱めない使い手。 この近辺の治安を考えると、我らとしては願ったりですが……」

ただほど、高いモノはない。

何を要求されるか、流石にカッパーフィールドが身構える。今回マリーは、ドナースターク家のためという事もあるのだが、奴隷商人どもを一網打尽にし、なおかつ首脳部を騎士団に引き渡して恩を売っている。さらには、凄腕で知られるアデリーを護衛から外し、此処に残すという。聖騎士が二人というのは、非常に分厚い布陣で、殆どの相手にはまず引けを取らない。その状態で、更に頼みがあるなどと腰を低くして言っているのである。騎士団にとっては良いことづくめだ。

マリーが筋金入りの現実主義者であることは、騎士団の面々も良く知っている。だから、却って彼らは警戒する。とんでもない対価を要求される可能性があるからだ。

「無論、此方としても要求はあります。 具体的には、あなた方の騎士団の中から、アデリーの求めに応じて、何人か人材をその都度貸し出してやって欲しいのですが」

「ほう。 その面白そうな人材とやらの育成に使うのですか」

「その通り。 まあ、壊れないように気をつけるよう、娘には言っておきます」

流石にカッパーフィールドが戦士としての表情となる。

まだ若いが、歴戦を積み重ねている人物である。厳しい騎士団の訓練も抜け、戦いの中で技を磨き、そして此処で事実上の指揮官をしている程なのだ。きちんとした計算が出来なければ、とても此処にはいられないのである。

「その人材、余程重要な存在のようですな」

「あたしにとってというよりも、シグザール王国、いや錬金術アカデミーにとって、ですけれど」

「なるほど。 ならば、此方としても協力は惜しみません」

「ありがとう、聖騎士カッパーフィールド」

互いに計算尽くの握手を交わすと、マリーとカッパーフィールドは互いににこりと笑った。相手に対する信頼の意志は互いに欠片もないが、利権がはっきり一致した事による取引成立の瞬間だった。

後は軽く雑談をする。この近辺は原野が広がっており、野生のジャイアントモアがたまに暴れるくらいで、騎士団としても討伐する相手がいないとか、笑いながらカッパーフィールドは言っていた。北側に広がる森には熊や虎がかなりいるのだが、その辺りはいわゆる山賊村が存在しており、村ぐるみで犯罪をしている可能性が高い。しかも一応ドムハイト領なので、手を出すには準備がいるのだそうである。

人間に対処する方法をもっとも詳しく知っているのは、やはり人間だ。少人数で接近するのは自殺行為に近いと言える。

「なるほど。 いずれ、アデリーにも手伝わせましょう」

「実に助かります。 例の奴隷商人どもも、その村を中継地点にしていた可能性がとても高いようですから」

まあ、いずれ皆殺しにでもすれば済む話である。巧く武装解除でも出来ればいいのだが、そう簡単に済む相手ではないだろう。国境線にある村だから、取引にも長けているだろうし、利権で引き込むことが最良だが、そうすぐには出来ないだろう。

茶を飲み干し、菓子を食べ終えると、砦を出る。一応出口まで送ってくれた。

そのまま、ロブソン村に向かう。砦から道一本であり、八半刻も歩けば到着できる。しかも周囲は薄茶色の草が生えた原野が広がっており、奇襲を受ける恐れもない。

ロブソン村も、ドナースターク家の資本が入って、急速に拡大と整備が行われている。今まで木だった外壁は石に作り替えられつつあるし、物見櫓も新調され始めている。今は近くの河の整備が行われ、これが終わると水を引いて、堀と水車が出来る予定だ。

発展を続けるドナースターク家を象徴するような光景である。若く、活力に満ちている。

しかし、不安要素もある。

これ以上大きくなると、シグザール王国に警戒される。ヴィント王は英明の人物であり、下手な動きを見せれば潰しに掛かってくるだろう。規模が違いすぎることも、人材の質があまりにも離れている事もある。シグザール王国と正面から事を構えるようなことがあっては絶対にならない。

流石にシアが現在事実上ドナースターク家の指揮を執っているから、そんなへたを打つようなことはないだろうが、マリーとしても警戒はしておかなければならなかった。

村の一番奥に、村長宅はある。他の発展を優先しているため、ちょっと大きめの、寂れた普通の家だ。だが、流石に手入れはしっかりしている。まだ不穏分子が残っている可能性もあるから、ドナースターク家の腕利きが、何人か周囲を巡回もしていた。

村長宅では、頭に白いものが混じり始めたマリーの父が、久し振りに訪れたアデリーに、ちょっと派手すぎるほどの歓迎会の準備を始めていた。無く子も黙る凶猛な戦士だった父も、随分丸くなったものである。白くなりつつある口ひげの下で、表情も緩みっぱなしだ。

「おお、マリー。 用事は終わったか」

「ただいま、父さん。 用事なら全部終わったよ。 アデリーはどうしてる?」

「ああ、エルフィールって子について、何かしとるよ。 それにしても随分酷い環境で育った子のようだな。 あれは苦労するぞ」

「苦労が多いほど、最終的には良い仕上がりになるものよ」

マリーはにやりと笑い、父に応じた。お湯を出してくれたので、玄関で手足を洗う。

母も奥から出てきた。老いが目立つ始めている母も、アデリーが可愛くて仕方がない様子である。随分嬉しそうにしていた。

「今回は、どれくらい此処にとどまれるの?」

「二三日したら南に戻るよ」

「そう。 もっとゆっくりしていってくれると嬉しいのに」

「代わりにアデリー残していくから。 一年以上は此処にいるから、色々仕事を任せてくれていいからね」

居間にはいると、質素だが心のこもったもてなしの用意がされていた。

マリーは父が仕留めてきた野生のジャイアントモアの手羽先焼きが立てる良い匂いを感じながら、上着を脱いで、此処にいる間だけでもリラックスしようと思ったのだった。

 

2、錬金術アカデミーの春

 

人口二十万を越える大陸最大の都市の一つ、シグザール王国首都ザールブルグ。肥沃な土地を周囲に持ち、計画的な発展に支えられ、勇敢な屯田兵と無双の武勇を持つ騎士団に守られたこの街の一角で、ささやかな祝典が開かれていた。

錬金術アカデミー。

その新入生達を歓迎する、祝典であった。

両目の色が違う壮年の女性イングリドは、式典会場で、ほくそ笑むのを隠すのに苦労していた。今年は実に幸先が良く、後の展開が楽しみだったからである。長く美しい青紫の髪が、背中で揺れている。表情は保っているが、時々落ち着き無く体を動かす分、髪も揺れていた。

そもそも、錬金術とは何か。

錬金術とは、エル・バドール大陸から来た、あまりこの大陸で研究の年月を重ねていない新しい技術である。主に物質の変成などに特化した技術であり、薬品類の製造などに関しては既にこの大陸でも大きな成果を上げつつある。個々人の才能に大きく左右される能力や魔術とは異なり、手順さえ間違えなければ誰もが成果を上げる事が出来る。それが、錬金術の強みだ。錬金術アカデミーはそれを教え、広めるための組織である。

リリーと言う名前の開祖を持つこのアカデミーは、現在ようやく二十年以上の歴史を持つに到った。それは平坦な道では決して無く、シグザール王国や他の組織とも様々な利権を巡って火花を散らしながらも、発展を続けてきたのだ。傑物と呼ばれる事実上の経営者イングリドの手腕に支えられてきた側面もあるが、現在は他にもかなり優秀な人材も集まり、彼らの造り出す成果物により、錬金術アカデミーの評判も高まっていた。

それ故に、今年の新入生は実に百五十人を数えるという快挙を達成していたのである。前年度よりも三割り増しであり、どの教師も今年の授業は大変になりそうだと、口では困惑を訴えながらも喜び合っていた。

形式上のアカデミーの長であり、実質的にはただ研究だけに人生を費やしている校長ドルニエが、集まった生徒達の前でごくごく短いスピーチをする。イングリドは相変わらず主体性がないスピーチだと思った。錬金術の技量は天才的だが、この老人はそれ以外の全てを捨てていると言っても良い。だから、イングリドが唯一肉親だと思っている心優しいリリー先生の負担も大きくなった。彼女が一時期心を病みかけたのも、ドルニエ校長が確実に原因の一端だった。

事実、秩序だって並んだ生徒達も、ぴんと来ない顔をしている。校長のスピーチは全く印象に残っていない様子だ。この有様では、早々にドルニエの顔は、彼らの記憶から忘れ去られることだろう。

イングリドもスピーチを行う。

既に生徒達全員の顔は、名前とともに、イングリドの脳に記憶されている。百数十人程度を暗記するくらいは、イングリドにとっては朝飯前だ。既に三十代の後半にさしかかっているイングリドだが、その美貌同様、知性にも衰えは見えない。

新しい生徒達を見回していく。有望な何人かは既に彼女も抑えていた。

最前列にいるのは、主席合格のノルディス=フーバー。お上品な格好をした、少し髪が薄い大人しい少年だ。富豪の息子であり、主席合格の実績からも充分な知性と才能はあるのだが、いかんせん闘争心に欠ける。今後もし成果を上げさせるとしたら、何かしらの方法で絶望を味あわせ、闘争心を体に刻み込むしかないだろう。温室育ちのひ弱な苗では、如何に表面上優秀でも、実際に外に出せば役に立たないのである。

これについては、イングリドが担当するつもりだ。ひ弱なモヤシ少年には、これから少々世の中の厳しさというモノを知って貰うことになる。その体で。

そのほか何名か目をつけている人間を、視線は通り過ぎる。かってはかなりの高齢者も試験を受けることがあったのだが、近年は若者が多くなってきていた。最年少合格者に到っては十一才である。十一才の合格者は、極貧生活層の出身で、キルキ=カレン。物静かな、年齢以上に小柄な女の子であり、最前列でなければ姿を見ることも出来なかっただろう。ちょっと癖の強い亜麻色の髪の持ち主であり、小さな体を更に縮めてスピーチを聞いていた。支給されている錬金術師の正装が、完全につんつるてんである。

ザールブルグ出身だが、父母が性格的に問題があり、いずれも長続きしないような仕事ばかりをしている。稼ぎも殆ど飲んでしまうようだ。ただ、娘にはそれなりに愛情を注いでいるようで、借金まみれの中試験費用と服代だけをどうにか捻出したらしい。キルキは殆ど独学で読み書きを覚え、たまたま手に入れた錬金術の参考書だけで決して簡単ではない入学試験を突破した。成績は並みの下という所であったが、それでも環境を考えればずば抜けているし、とくに暗記系の問題の正答率に関してはほぼ満点であった。これも、イングリドがしっかり面倒を見るつもりである。

続いて、視線を移していく。

主席陣の末端にいるのは、アイゼル=ワイマール。まだ未成年であり敬称である「フォン」をつけていないが、歴とした貴族である。

向こうはイングリドと初対面だと思っているようだが、イングリドは既にその名前も顔も知っている。もっとも優秀な教え子の一人であるマルローネに関連する事で、その存在を知る機会があったのだ。

気が強そうな顔立ちの若い娘だが、実際には臆病者なのが見え見えだ。これに関しては、既に任せる相手を決めている。外見だけ突っ張っている世間知らずには、丁度いい地獄を見せてくれることだろう。

苗は踏むほど強くなる。

恐怖を味わうほど逞しくなる。

愛情は親が与えた。だから、それ以外のことはイングリドが与えていく。それで良いのである。

スピーチを進めながら、最後の一人に視線を向ける。

その娘は、中肉中背。とにかく目立たないことに終始しているようだった。服装も目立たず、顔立ちもぱっとしない。茶色い短髪も、とにかく飾り気が無く、丸い帽子を被って特徴を殺してさえいる。

あれが、マルローネが知らせてきた存在だ。

名前はエルフィール。この間ちょっとした理由から呼び止めて話をしてみたのだが、なるほど確かに面白い体質の持ち主だ。魔力を全く持たない人間など、はじめて見た。

錬金術は、最終的に方法さえ知っていれば誰でも使えるというのを、到達点の一つとしている。それが魔力がなければどうにもならない魔術や特殊能力とは根本的に異なる点なのだ。

しかしながら、現実問題として、現状の錬金術には魔力の素質が大きく関わってきている。中和剤の類はどうしても強い魔力の持ち主が作ると質が上がってくるのがその顕著な一例だ。

だが、もしも。

あの魔力が全くないというハンディキャップを、はね除けることが出来たとしたら。

その時錬金術は、さらなる高みへ一歩を進めることが出来るだろう。マルローネが起こしたパラダイムシフトほどの効果は流石に期待できないが、今まで達成できなかったお題目が現実になるのは非常に大きい。

スピーチが終わる。いい加減四半刻近くが経過しており、体力のない女生徒には倒れる者も出るかも知れない。そんな軟弱ではやっていけないとも教えなければならないのだが、それはおいおいやればいい。

マルローネの成功を見て、はっきりイングリドは確信したことがある。生徒達は、何処に出ても生き残れるぐらいに強く育てるべきである。錬金術アカデミーに反抗したり敵対するような道を選んでも良い。とにかく錬金術をまず広めて、そして競争させて行くには、強さが必要なのだ。

式典が終わり、無邪気な顔で生徒達が拍手している。

さて、此奴らをどう料理しようか。そうイングリドは、内心にて呟いていた。

生徒達はめいめい解散していく。ザールブルグに住んでいる者達は自宅に帰る。遠くから来ていたり、自立を望む者には、寮も貸し出している。格安だが、しかし卒業後に寮費の返済が待っている。

そしてごく一部。

錬金術を実戦形式で学ばせる必要がある生徒達には、幾つか用意したアトリエと一体化した家を貸し出している。

マルローネの成功で、錬金術アカデミーは、実戦形式での育成に大きな可能性を見いだした。このため、アトリエと家を一体化した寮を、実戦での成長が見込める生徒に貸し出す事を始めたのだ。

先ほどイングリドが目をつけた生徒達の中だと、ノルディスとアイゼルは寮住まいとなる。ちなみに男女関係なく、異性を寮に連れ込んだら世にも恐ろしい罰則が待っている。

一方で、キルキとエルフィールはアトリエ組である。まだ十一才という事もあるのだが、実際には殆ど家事を一人でやっていたという事で、キルキは何ら生活に不安がない様子だった。もちろんそれでも子供であることに変わりはないので、時々教師や高学年の生徒が様子を見に行くことになる。

問題は現在十五才になったばかりだというエルフィールだ。此方に関しては、色々と事情をマルローネに聞いている。何でも殆ど心を閉ざしてしまっていたような状態だったのを、一年ちょっとで普通にコミュニケーションが出来、読み書きを覚えるまで鍛え込んだのだという。そう言う状況なので、実際の年齢は分からないのだそうだ。

しかしながらその反動で、殆ど家事の類は身につけていないらしい。一応一人で生活は出来るという事なのだが、その「一応」という部分が非常に気になる。此方も、時々見に行く必要性がある。

一通り用件を済ませ、頭の中で整理も終えた頃だろうか。

自室に戻ろうと、錬金術アカデミーの建物内に戻ると、物陰で腕組みをしている幽霊のような女に出くわすことになった。

「あら、ヘルミーナ。 来ていたの」

「ええ。 式典もずっと覗いていたわ」

「直接見に来れば良かったものを」

にやりと、陰気な女は笑みを浮かべる。

ヘルミーナ。イングリドの終生の宿敵であり、対外的には犬猿の仲だと「思わせている」相手である。

実際気は合わないが、ある事柄から二人は絶対的な同盟を結んでいて、それぞれに仕事を担当しているのである。二人の目的は、恩師であるリリー先生の作った錬金術アカデミーを如何なる手を用いても守ること、に集約される。影からアカデミーの敵を排除するのがヘルミーナの仕事。表からアカデミーをもり立てるのがイングリドの作業だ。そしてこの作業に関しては、互いに絶対の信頼を置いているのである。例え、普段どれだけ悪口を言い合っていても。

今年から、ヘルミーナは一時的にアカデミーに復帰し、教師業を行う。これはアカデミーの周辺がだいぶ静かになってきたという事もあるのだが、彼女自身の錬金術師としての血が騒いだという事もあるのだろう。

マルローネに提言された原子論は、五代元素説に凝り固まった錬金術には、あまりにも革新的なものだった。このパラダイムシフトを見て、何ら興奮を覚えない錬金術師などいはしない。

「ところで、あのマルローネが推薦してきた子がいるんですって?」

「ええ。 見てきたけれど、本当に生体魔力が存在しないわ。 ちょっと解剖して調べてみたいくらいよ」

「本当にねえ。 で、それを使って、魔力が無くても錬金術が大成できるって知らしめたいって事なの?」

「そう言うこと。 もしもこれが達成できれば、お題目だった「誰にでも使える」が、一躍現実味を帯びてくるわ」

けたけたとヘルミーナが笑うので、イングリドもくすくすと笑い返した。

しばし奇怪な感情交流が続くが、ふいにぴたりとヘルミーナは笑い止む。幼い頃から意味不明な部分のあるヘルミーナだったが、壮年になってますますそれに磨きが掛かってきている。

近年では、手紙や書籍の解読が更に難しくなってきていて、封筒の宛先にまでびっしり文字が書かれている事まである。まあ、もっとも。大体の場合、郵送してくるのは彼女が作ったホムンクルスなので問題はないのだが。

「私はしばらく余所から見物させて貰うわ」

「好きになさい」

ヘルミーナはすっと闇に溶けるようにして消えた。

そうすると、もうイングリドにも、彼女が何処へ去ったのか気配を読み取れなかった。

 

やっと、この時が来た。

錬金術アカデミーの修学式を終えたエルフィールは、降り注ぐ日差しに目を細めていた。これで、ロブソン村で、やっと自分も居場所を作ることが出来る。

アデリーさんに世話になりっぱなしだった、役立たずの自分。一年前からの記憶が無い上に、殆ど家事の類も出来ず。迷惑ばかり掛けてしまっていた。その上、半年ほど前には、ある事件からか、村全体を危険にさらしてしまったほどである。

必死に勉強した。それこそ、寝る間も惜しんで。

しかも、アデリーさんはそれにつきあってくれた。聖騎士という忙しい身分にあるのに、である。

返しきれないほどの恩が皆にある。

だから、いつまでも、役立たずの無駄飯食いではいられなかった。錬金術アカデミーで、しっかりスキルを身につけて、村に帰ったらみなのために働けるようになるのだ。

若干退屈だった式典が終わると、後は流れ解散となった。

試験が終わった後、エルフィールはアトリエを借り受けて、其処で勉強を独自にするようにと言われている。一旦アトリエを見に行くのも良いし、どんな学友がいるのか見ておくのも良い。既に教科書類は受け取っているので、自由な行動が許されるのが実に嬉しい所だ。

不安そうに周囲を見回している小さな子供を見つける。受験の時も見掛けた子供だ。一年前より昔のことが分からないと言うことで、自分も子供も同然だから、エルフィールは自然と興味を持った。

周囲の生徒達は、子供に嫉妬の視線を注いでいる。理由はよく分からないが、仲良くなる好機である。

「こんにちはー」

「えっ!? あ、は、はい」

満面の笑みで挨拶してきたエルフィールに、子供は面食らったようだった。周囲の生徒達も、皆ひそひそと小声で話し合っている。何だろうあれとか、意味が分からないとか、そんな会話を聞き取れる。

エルフィールはアデリーさんに生き抜く術を教わったから、小さな音でも判別が良くできる。彼らはきっと、全部聞かれていることに気付いていないのだろう。何だか、哀れな連中であった。

エルフィールにとって、村の中で役に立つ事と、興味を得た相手以外は、それこそどうでもいい存在である。生きようが死のうが知ったことではない。喧嘩を売ってくるようなら叩きつぶして肉塊にするだけだ。

「貴方も新入生? 私もなんだ」

「い、いや、今日は新入生しかいないと思う、のだけど……」

もじもじする子供が妙に可愛らしい。何だかよく分からないが、アデリーさんと一緒に、小さな子供の面倒を見る方法を教わった時のことを思い出す。

子供と話す時は、視線の高さを合わせるのが効果的だと、アデリーさんは言っていた。腰をかがめて、視線の高さを合わせると、若干不安そうにしていた子供が表情を和らげた。

「ごめんね。 私この街に来て数日しかしてなくて、殆ど何も知らないの。 貴方は、この街でもう長いの?」

「え、ええ。 一応、此処出身だから……」

「わ、すごい」

出来るだけ、笑顔を維持する。

この笑顔というのは、エルフィールにはよく分からない。色々鏡を見ながら練習して、やっと半年くらい前に出来るようになった。だが使ってみると効果的に相手の敵意をそげるので、今では重宝していた。重宝はしているのだが、しかし何でこんな表情を他の人間が喜ぶのかが、さっぱり分からないのである。

子供と名乗りあう。安心したのか、キルキと名乗った子供は、色々話してくれた。同じようにアトリエを借りるそうで、エルフィールとは近所に住むことになると言う。それは奇異な縁だ。お隣さんと仲良くできるのは素晴らしい。

準備があるからと言うことで、一足先にキルキは帰る。満面の笑顔で手を振って見送ると、笑顔を止める。まだ作り慣れていないので、続けていると少し疲れるのだ。

これから、何もかもを自分でしなければならないと、イングリド先生は試験の時に言っていた。錬金術を行う際に必要となる道具類、材料類の確保は当然のこととして、生活費まで稼がなければならないという。

キルキは先に帰ってしまったが、学生用の賃金獲得手段を、アカデミーでは用意してくれているとも聞いている。だから、まずはそれを確認だ。まずどういう仕事があるのか確認しておかないと、生活も何もない。

やたらとろそうな受付の女性に学生証を見せて、アカデミーの購買部に。道具類の値段を、ざっと見て覚えておく。何もかもが全く分からない状況になったら、まず全体を把握して、出来る所から手をつけていく。アデリーさんに教わった事だ。

値段類を物色していると、どんと誰かがぶつかってきた。山野で鍛えているエルフィールと比べると、随分柔い体で、ぶつかってきたにもかかわらず転んだのは相手の方だった。一瞬敵意のある相手かと思ったら、ただ不注意だったらしい。

とりあえず、さっとぶつかりそうになった硝子の器具類をとりあげておいたので、商品が床に落ちて弁償という最悪の事態は避けることが出来た。

「いたた。 ごめん、大丈夫?」

「ええ。 貴方は?」

「僕は平気」

にこにこと無邪気な笑みを浮かべている少年が立ち上がる。年格好は大体同じくらいだろう。妙に頭が薄い印象のある、軟弱そうな男の子だ。

にこりと笑みを浮かべてみせる。すると、向こうはどうしてかちょっと赤くなって、同じように笑みを返してきた。身なりはしっかりしているから、きっとお金持ちの子だろう。その推測が正しかったら、無防備な様子にも説明がつく。

名乗り合う。少年はノルディスといい、やはり金持ちであるらしい。にこにこしていると、将来は医者になりたくてアカデミーに来たとか、聞いてもいない事を喋り出す。まあ、好き勝手にするがいいと、エルフィールは思った。医者なら利権で食い合うこともないし、将来的に敵になることも多分無いからだ。しかしあまり精神的には強そうに見えないし、無害な分、有益な相手でもなさそうだった。

「エルフィール、ええと、エリーって呼んで良いかな」

「どうぞ?」

「じゃ、じゃあ。 あの、エ、エリー?」

ちょっと上目遣いに、恥ずかしそうに言うノルディス。よく分からないので、にこにこしていると、ぼんとか音を立てて真っ赤になった。まあ、悪くは思われていないようだから、良しとするべきなのだろう。

教材の類の値段を一緒に歩きながら確認していく。そうすると、横からノルディスが口を出してきた。

「エリー、それ買うの?」

「いずれは」

「でも、授業で貸してくれるよ」

「それは授業に出る時の話。 私頭もあまり良くないから、家で自習もしっかりしておきたいの」

そういえば、世の中には一回で何でも覚えられる連中がいるという。多分ノルディスはその一人なのだろう。ノルディスはエルフィールの言葉にぴんと来ない様子で、勉強するのは良いことだねとか返してきた。

ふと視線を感じて振り向くと、剣呑な表情でこっちを見ている同年代の女の子を発見。一見すると気が強そうな、顔立ちが整った子だ。だが、エルフィールから見れば、周囲が怖くて突っ張って見せているのが見え見えだった。

アデリーさんに、他人の考えの読み方は散々教わった。戦場で生き残るには、必要な技能だからだ。

此処は戦場ではないが、応用は幾らでも利く。自分にない感情はまるで理解できないのが問題の一つだが、まあそれくらいは工夫でどうにかなる。

あの女の子は、多分ノルディスがエルフィールに好意的な言葉を掛けているのが気に入らないのだろう。状況証拠から考えて、それ以外の結論はあり得ない。これ以上此処にいると、ノルディスの好意を買う代わりに別の人間の大きな敵意を得ることになる。最初からそれはあまり好ましくなかった。

「じゃ、今日はそろそろこの辺で」

「あ、うん。 勉強頑張ってね」

当たり障りのないことを言うノルディスに手を振り、その場を離れる。

ざっと見たが、錬金術アカデミーで斡旋しているアルバイトではとても追いつきそうにない価格の器具類ばかりだ。恐らくこれは、アデリーさんに紹介して貰った飛翔亭に足を運ぶ方が効率がよいだろう。

軽く振り返ると、さっきの女の子が、ノルディスに満面の笑みで話し掛けているのが見えた。何があんなに嬉しいのか、よく分からない。生殖をしたいのだったら、こんな所に来ていないで、他に効率的な方法が幾らでもあるだろうに。

エルフィールには、笑顔ともう一つ、よく分からないことがある。

それは、ロブソン村でたまに同年代の女子達が話していた、恋とか言う感情であった。動物で言う発情期かと聞くと、違うとか言われるので混乱してしまう。動物の発情期ならよく分かるのだが。

アトリエに戻りながら、飛翔亭の位置を確認。

小さな酒場だが、強力な気配が中に複数存在している。まだまだ使い手としては未熟なエルフィールとしては、身が竦む思いだ。

しかしながら、彼処なら危険と引き替えに、効率の良い仕事を得られる可能性も高そうだと、エルフィールはほくそ笑んでいた。

 

2、最初の一歩

 

円柱形の、赤い屋根の建物。

それが、エルフィールが与えられたアトリエだ。二階建てになっていて、もう一人くらいなら住む事が可能である。出る前に少し調べてみたのだが、地下も存在していて、かなり広く場所を確保することが出来る。

荷物を置くと、軽く探検してみる。今朝は本当に少ししか時間が取れなかったので、あまり細かい所までは見られなかったのだ。

裏戸を開けると、庭もついていた。小さなリンゴの木が芽を出していて、何年かすれば実がなりそうである。ただ、今は雑草が酷い。武術の鍛錬もしたいので、まずは雑草取りから始めなければならないだろう。

物干し竿をおくのに良さそうな木の枝も、出る前に発見済みである。草を綺麗に取り除いて、しっかり踏み固めれば。此処に竈を作ったり、棒術の鍛錬を行ったり、或いはひなたぼっこも出来るかも知れなかった。獣の皮を剥いで乾かすのにも適切な空間だ。

井戸は近くのものを共同で使う。浴場は少し離れているが、歩いていくのに不自由はあまりない。水の都とも言われるザールブルグは、水路が縦横に張り巡らされていて、特に排水関係が困らなそうな所が嬉しい。

二階には可愛らしい天窓があり、ちょっとした梯子を置くだけで登ることが出来た。

天窓を開けてみると、夕暮れの空が頭上一杯に広がっている。まるで頭を叩き割った獲物を放り込んで、血をぶちまけた小さな池のような光景だ。

窓を全て開けて、埃を出す。小さなはたきを使って、長年積もったらしい埃を全てはたいていくと、やがて陽も落ちて、暗くなってきた。

竈に火を入れて、窓を閉める。ずんと底冷えするが、しかしロブソンほどではない。この辺りは充分、エルフィールの感覚からすれば温かい。床にごろんと転がると、伸びをしてくつろいだ。

さて、これから、何から手をつけていこう。

エルフィールとキルキらアトリエ組は、何日かに一度進捗状況を確認する試験を行い、それ以外は自由にして良い事になっている。つまりしばらくは家で勉強漬けの日々を送り、近場に繰り出して錬金術の材料を採集し、なおかつ技術を上げていかなければならないと言うことだ。

最低限の準備として、飛翔亭に明日行く前に、まず初歩の錬金術で作れそうなものをしっかり見極めておかなければならない。そうしなければ無駄足になる。

アカデミーの在学期間は四年と決まっている。極端に成績が悪ければ留年もあり得る。それは絶対に避けなければならない。アデリーさんの顔に泥を塗ることになるし、何よりロブソン村に居場所もなくなるからだ。

村に居場所が無くなることだけは、いやだった。どうしてか、全身がそれを拒絶しているのだ。アデリーはエルフィールを庇ってくれるかも知れない。だが、彼女に迷惑を掛けることも嫌だ。

だから、出来るだけのことをしていかなければならない。

最低限の器具類は、幸い用意されている。身を起こして、貰った初歩の教科書類に目を通す。まずは中和剤。これを作れなければ話にならない。

中和剤とは、複数の物質を親和させるために用いる薬剤の総称であり、材料はそれこそ様々なものがある。これに魔力を充填させることにより、本来混ざりにくいモノ同士を混ぜ合わせることが出来るのだ。

これが作れると、ぐっと錬金術で出来ることが広がってくる。

他にも蒸留水や研磨剤などは、単一の材料から、時間と根気さえあれば造り出すことが出来る。ただし、蒸留水は火が生成に必要不可欠なので、思った以上に金と時間が掛かるようだ。また、元にする水の質によっても出来が全く違ってくると言う。中和剤が造れれば、其処から派生して様々なものも造ることが出来る。市販のものより遙かに効果が強い薬も工夫次第で造れると書かれている。

いずれにしても、初歩の錬金術の産物は、材料さえ揃えばどうにかなるものばかりである。ただ、問題が一つだけあった。

中和剤は、魔力を充填しないといけないということだ。

エリーには生体魔力がない。無いので、見ることも出来ない。

地下室には充填用の魔法陣を書くのに丁度いい空間があるのだが、どれくらい充填が為されているか、視覚情報で判断が効かないのである。そのため、何かしらの手段で、それを判断する技術も手に入れなければならなかった。これは大きなハンディキャップである。実際に間近にそれを感じてしまうと、やはり憮然としてしまう。

「うーん、困ったなあ」

ぼやきながらも、基礎的な錬金術の概論部分は読み終える。分厚い参考書だが、その辺りはさほど時間も掛ける事はなかった。事前知識も少しだけはあるし、簡単な薬剤なら、用意された材料から作ったこともあるからだ。

ごろごろと転がって、しばらく考える。

まずは素材集めだ。それについても、知識を得なくてはならない。ロブソン村の周辺だったら、小石が転がっている位置まで把握している自信がある。だがこの周辺となってくると、道とその側にある森林くらいしか分からない。来る途中に見てきたからだ。遠くにストルデル川も見えたが、その行き方さえ分からない状況だ。

転がるのを止めて、一旦荷物に手を伸ばす。

ロブソン村から持ってきた荷物は、結構重くなった。その中の一つである、護身用の杖を引っ張り出す。

明日の早朝、飛翔亭に顔を出したら、その後は一日がかりで街の周辺を見て回ろう。

戦略が二転三転してしまっていてあれだが、それだけは絶対だ。まずは地固めからしていかないと、何も始まらない。

それに、戦略として第一歩が決まると、だいぶ気分も楽になる。杖をしばらく撫でていると、戦士としての本能も落ち着いてくるのを感じた。まずは、明日第一歩を踏み出すことにしよう。

そう、エルフィールは決めていた。

 

早朝。

二階で眠っていたエルフィールは、目が醒めると同時に起き出す。外を見ると、まだ朝日は出ていない。鶏も啼いていない。代わりに、遠くから鐘の音がする。

ザールブルグでは、時刻を知らせる鐘がかなり正確に鳴るとは聞いていた。知識としてあるから、起きることが出来た。流石は都会。便利である。

伸びをして、少しずつ全身の覚醒を促していく。

下に降りると、さっさと着替え。一番重い杖を引っ張り出すと、裏庭に出て、素振りを開始。

エルフィールは、ロブソン村から四本の杖を持ちだしている。うち三本は実戦用で、残り一本がこれだ。訓練用に鉄芯を入れ、わざと重くしてある。殺傷力は充分に高い作りだが、今のエルフィールの腕力では、実戦にはとても適さない。

杖は単純な形状で、握りに豚の皮を巻いてあるだけである。長さは丁度エルフィールの胸の辺りまで。先端部分には、訓練が進む度に、鉄のお守りを追加してきた。今では四つの小さな分銅がぶら下がっている。

裏庭に寝間着かつ裸足のまま出る。柵もあるし、別に見られることもないだろう。

足の裏に直接来る、このひんやりとした土の感触が気持ちよい。ロブソン村では、アデリーさんと並んで、朝の素振りをしたものである。

まずは眼前に、自分をイメージする。鏡で裸体を見て、重さから筋肉のつき具合まで記憶しているから簡単だ。気分次第で狼にしたり熊にしたり虎にしたりもする。今日は自分を案山子に見立てて、それを叩きつぶすつもりで杖を振るう。

大上段に構えて、踏み込みながら、眼前に立つ標的の頭を叩き割る。空想の中で、重い鉄芯を仕込んだ杖は、鋭い音とともに、頭をカボチャのように打ち砕いていた。今度は少し低い軌道から、薙ぎ上げる。頭が吹き飛ぶイメージ。今度は突く。数度、連続して突く。風を切る音が、とても心地よい。

構えを取り直すと、若干握りを短くする。

今度は動きをさっきよりも小さく、しかし動作を速くする。アデリーさんはこの倍くらいの重さの棒を使いながら、残像を残すほどの速さで演舞をして見せた。あれくらいの技を使えるように、いつかはなりたい。

朝の心地よい風には、霧も若干含まれているようだ。水路から立ち上っている霧が、登り始めた朝日の光を反射して美しい。

半刻ほど、棒を振るっただろうか。

呼吸を整え、ゆっくり体内の力の流れを循環させていく。魔力とは若干違うらしいのだが、よく分からない。いずれにしても、戦闘態勢はこれで解除した。目を閉じて、武術に感謝。敵を屠る技は、長年の訓練でやっと身につけることが出来る。それには、常に感謝の心を忘れない事が重要だ。

生物としての構造に感謝。先人の造り出した技に感謝。そして、今生きている事に感謝。

全てを終えると、家にはいる。昨日のうちにくんでおいた冷たい井戸水で足を洗い、顔も洗って気分を引き締める。よそ行きに着替えると、杖を物色。

三つ持ってきている戦闘用の杖の内、一番細いものを選ぶ。今日は軽く外を見て回るくらいだから、これで良い。

訓練用のものと比べると、重さは約四分の一。先端部分を鉄の覆いで強化しているが、それ以外は工夫がない普通の杖である。ただし、軽いので、初速が非常に高くなる。早いことは敵が対応できないことも意味する。先端部分の覆いが、その速度では脅威になり、当たれば人間くらい簡単に無力化できる。大型の肉食獣と戦うのにはかなり力不足だが、それには専用の杖も持ってきているから問題ない。

「よろしくね、紅柳」

愛用の杖にほおずりして話し掛けると、ドアを開ける。

そういえば、店として機能させるには看板がいるなと、エルフィールは思った。まあ、まだしばらくはそれどころではないから、当分必要はないだろう。

まずは生活費を稼ぎながら、基礎的な知識を身につけることだ。

外に出ると、既に日差しが辺りにぽかぽかと注ぎ始めていた。実に麗らかである。着替えに少し手間取ってしまったらしい。化粧の類はしていないのだが、それでもよそ行きを着ると時間のロスが多い。

すぐ近くにも、似たような作りのアトリエがある。ちょっと考え込んだ後に、ドアをノック。返事があったのは、意外だった。多分寝ていると思ったからだ。

顔を出したのは、寝間着のままのキルキである。

「おはようございます、キルキちゃん」

「……。 おはよう、ございます」

眠そうに小さな手で目を擦っている様子が実に可愛らしい。この様子だと、一人暮らしに慣れていないのだろう。

エルフィールもその点は同じだ。

「これから飛翔亭に行って仕事の様子を見て、それが終わったら街の周辺を見て回ろうと思うのだけど、キルキちゃんも一緒にいかない?」

「こんなに朝早くから?」

「私達アトリエ組は時間が他の生徒よりあるけど、それでも一秒だって無駄には出来ないと思うのだけど。 こら、寝るな」

立ったまま落ちそうになるキルキの後ろ襟首を笑顔のまま掴んでぶら下げてみる。うつらうつらしていたキルキは、地面に下ろすとこくこくと頷いていたが、やがてアトリエに戻っていった。

衣擦れの音に混じって、転んだりする音もして、不安になるが、間もなく着替えて出てくる。ただし、素手でだ。

死にに行く気かこの子供はと、エルフィールは笑顔のまま内心で悪態をついた。治安が安定しているザールブルグ周辺でも、肉食の猛獣くらいは当然出る。北にある大耕作地の辺りは屯田兵が多くいるから大丈夫だろうが、西や南はそうもいかない。特に西にあるヴィラント山はかなり危険だとも聞いていた。

更に言えば、これから行く飛翔亭は、決して安全な場所ではない。店長のディオは伝説的な冒険者で、店内でのもめ事は絶対に許さないという話も聞いてはいるが、それでも店の外には屈強な冒険者や、海千山千の裏業界の連中も来ているのだ。そう言う連中は、まず相手が弱いか強いかを判断する。逆に言えば、危険があると判断した場合、子供だって襲うことはない。

「キルキちゃん、能力の類はある?」

「うん。 一応」

「それは戦闘向けのもの?」

眠そうな目のまま、キルキは首を横に振る。

魔力がないという大きなハンディキャップがあるから、逆にエルフィールは能力の存在に敏感だ。敵対した場合、これほど面倒なものはないからである。半分寝ぼけているキルキは気付いているだろうか。今、目の前にいるエルフィールが、獲物を前にした虎も同然の表情を浮かべていることに。

「ううん。 でも、近所の冒険者のお兄ちゃんは、戦闘でも使えるかも知れないって言ってた」

「へえ。 まあ、それは今はいいわ。 とりあえず、杖を替えてくるから待ってて」

「え?」

ぼんやりしたままのキルキを其の場に残して、一旦自宅へ。

一人だったら多少の相手ならいなせる自信があるが、保護対象がいるとそうもいかない。こっちがある程度強いことを先に見せておかないと、面倒な事態になりやすい。もちろん、アデリーさんがいうには、まだまだエルフィールの実力は冒険者のやっと中堅になった程度であり、精鋭がそろうシグザール王国軍騎士の平均には遙かに届かないという。それでも、無為な火の粉を払うくらいは簡単だ。

「お待たせ」

「うん。 ……えっ!?」

キルキが、眠気もぶっ飛んだようで、目を丸くしてエルフィールが持ってきた杖を見る。

対猛獣などを想定して設計した杖だ。アデリーさんがくれたものの一つで、エルフィールの宝である。名前は白龍。

名前の通り、先端部分にドラゴンの頭部を象った意匠がついている。杖の中間部分には、ぴんと左右に棒が張り出しており、先端にワイヤーが伸びている。この仕掛けが、白龍の胆である。大型の戦闘杖であり、長さはエルフィールの背丈を三割ほど超えている。

この杖は重く、生まれたての子供くらいもある。手入れも非常に大変なのだが、逆にそれが故に愛着もあった。この杖を持ち歩いているのを見せるだけで、基本的に蠅は寄ってこない。技量が低めの人間にとって、腕力が強いと言うことは、それだけで充分な脅威になるからだ。

「ど、何処へ行くの?」

「だから、飛翔亭。 それが終わったら、外に下見」

「そ、外って、何処へ行くつもり!?」

「んー、野宿はしない範囲で歩き回ろうかなって思っているよ。 この辺りの森って結構地形も複雑そうだし、猛獣との交戦も予想されるからね。 で、キルキちゃんがある程度の戦闘経験があるようなら、もっと軽装で出られたんだけど」

真っ青になり、回れ右をしかけるキルキの襟首を掴んで、自分にむき直させる。半瞬も掛からない。

逃がす訳がなかった。

「どうせ外には出なきゃ行けないんだから、早めが良いよ?」

「も、猛獣が、いるの!?」

「いるよ? この辺りだと熊やフォレストタイガーなんかは結構多いみたいだし、後はヒュージ・スクイッドなんかも出ることがあるみたいだね」

見るも哀れに震え上がるキルキ。一体今までどういう環境で育ってきたのか。或いは、都会者は皆こうなのか。

飛翔亭は有名な店だが、主要街路からちょっと奥まった所にあり、向かうには狭めの階段を上っていく必要がある。大した坂ではないのだが、他人とすれ違うと少し面倒くさい。途中、茶色い髪の屈強な男とすれ違う。彼はエルフィールの持つ杖を見て、一瞬だけ瞠目していた。

階段を上りきって振り返ると、キルキは息を乱していた。

まあ、それも良いだろう。お隣さんと仲良くして行くには、相手の欠点を把握することだ。キルキは幼いし、伸び代もある。出発点が一年前の上、既に成長期を過ぎているエルフィールに比べれば、ずっと強くなる可能性も否定できない。

飛翔亭は少し前から改装工事を行っている。前に発生した、エアフォルクの塔事件と呼ばれる大規模な混乱が原因だ。その時人材の手配だけではなく、相当な活躍を店長のディオ氏がしたため、総合してかなりの報奨金が出たらしい。それによって店を改装し、今では小規模な楽団までもが雇われている。大きくはなったが、ただ、冒険者にとって重要な店であるという点で今も変わりはない。

そして、エルフィールのような、見習い錬金術師にとっても、それは同じだ。

店にはいると、右手にカウンターがあり、気難しそうな中年男性がグラスを磨いている。多分あれがディオ氏だろう。奥には、キッチンで料理をしている桃色の髪の女性が見えた。左手には丸テーブルが多く並んでおり、如何にも一癖二癖ありそうな人物達が席について、食事をしていた。殆どが複数で、小声で情報交換している者も少なくない。

カウンターにも、数名が並んでいた。いずれも何か料理を注文し、店主のディオ氏と二言三言話すと、丸テーブルの方へ移動していく。エルフィールもカウンターにつく。隣に、不安そうにキルキが座った。

「初めまして」

「ん。 その格好からして、錬金術師か」

「見習いですけど」

「そうか」

ディオ氏は軽く自己紹介と、店の仕組みについて話してくれる。アデリーの紹介状を出すと、一瞬だけ眉をひそめ、手紙を読んでから頷いた。

「そうか、聖騎士として立派にやっているようだな」

「はい。 私の、育ての親も同然です」

「そうか」

ディオ氏は孫でも見るかのように眼を細めると、リストを出してくれた。冒険者の鏡と言われたこの人は、非常に面倒見が良いことでも知られているそうで、人望も厚いという。

昨日のうちに、教科書には目を通してあるので、用語は理解できる。やはり薬剤類が相当に多い。殆どは、現在とても手が出せないようなものばかりだ。キルキは首を伸ばしてリストを覗き込んでいたが、どうもぴんと来ない様子である。

流石に十一才では、金銭感覚が備わっている訳もない。如何に最年少合格者といっても、過度な期待は禁物という所だ。

「錬金術アカデミーも、仕事を出しているんですね」

「中和剤や研磨剤なんかの大量に使う薬剤類は、授業や実験でも使うらしいから、彼方此方に購入の声が掛かるらしいな。 他にも専門の業者だけでは足りないような素材類も、此処で仕事依頼がはいることがあるぞ」

薬剤類だけではなく、植物類や鉱石類なども並んでいるのは、それが故か。ただ、鉱石類は特殊な場所でないと見つけづらい。とりあえず、保留として置いた方が良いだろう。

一方、ねらい目は植物だ。

植物類は、生息地域と時期さえ把握しておけば、穴場を作れるし、場合によっては栽培することも可能だ。エルフィールは植物や動物の知識に関しては、ロブソン村周辺で徹底的に学んだ自信がある。

今回、周辺の森を探りに行くのも、穴場をしっかり抑えるためだ。鉱物類はロブソン村周辺には殆ど無かったので、これから勉強しなければならない。今は少しでも長所を生かして、生活費を稼ぐ必要があった。

「どうだ、やれそうなものはあるか」

「今日、近場の森を下見に行ってきます。 その状況で判断したい所です」

「慎重で結構。 この下線が引いてある依頼は常時応募だから、条件が整った時に、いつでも来ると良い。 それだけ大量に使う品だって言うことでもあるな」

喚声が上がった。

後ろにステージがあるのだが、其処に胸と腰のみ薄布で覆っている女が出てきたのだ。浅黒い肌をしていて、しかしながら髪の毛は銀髪という、典型的な南方の出身の特徴を備えている。むやみやたらに発達した胸や、くびれた腰なんかも、恐らくは南方出身者の特徴だろう。アデリーさんにも南方出身の友達がいたそうだが、聞いているその人の容姿と通じる所がある。

男性客の口笛などを受けながら、女は踊り始める。やたらエロティックで、ぽかんと見ているキルキの頭を掴んで、カウンターに視線を戻させた。よく分からないが、子供に性行為関連の知識を与える時は工夫が必要なのだとアデリーさんに聞いている。意味がよく分からないが、アデリーさんの言うことなら事実だ。

「あの人、南方人ですね」

「ああ、うちの看板娘とは違う方向で潤いが欲しいって意見が多くてな。 此処に仕事を探しに来るのは基本的に荒くればかりだし、ああいう奴も必要って事よ。 まあ店の中で体を売るような事はしないように言い聞かせてはあるが」

「必要な職業ではありますね」

「ふん、まあそう言うことだ。 プライベートで何をしようと、こっちでは何も制限は出来んしな」

親爺さんと声がして、ディオ氏が振り向く。釣られて視線を移すと、短髪の如何にもベテランという風情の女冒険者が立っていた。目つきは比較的鋭く、三つ編みにした焦げ茶色い髪の毛が背中で揺れている。年は恐らく二十歳前後。肌が良く焼けてはいるが、ステージで踊っている女に比べると随分白い。腰に下げている大振りのナイフと、帯びている少し長めの剣からいって、近接戦闘型か、或いはそれに類する冒険者だろう。

女冒険者はナタリエと呼ばれていて、なにやら仕事から戻ってきた所らしい。気が短そうな雰囲気通りの性格のようで、二言三言仕事についての話をすると、その場からすぐに離れようとする。ディオ氏はそれを引き留めると、言う。

「ナタリエ、その子ら、新人錬金術師らしい。 帰ったばかりで悪いが、ちょっと近くの森を案内してやってくれるか」

「え? 悪いですよ、そんな」

「あー、オレは構わないよ。 親爺さんには世話になってるしね。 どうせ今日は暇だし、体が鈍るのも良くない」

見た感じ、ナタリエというこの女、エルフィールよりだいぶ格上の使い手だ。身体能力も相当に高そうだし、一緒に来てくれればかなり助かる。エルフィールは笑顔のままあたまを下げて、言葉に甘えることにした。

それにしても、オレという一人称を使う女性ははじめて見た。ぐっと田舎に行くといるという話は聞いたことがあるのだが。

「有難うございます。 お世話になります」

「ああ。 いい加減な仕事さえしなければ、いつでも大歓迎だ」

ディオ氏は彼らしい釘を刺すと、次の客の応対に移る。流石人徳の人らしく、老若男女様々な層の冒険者に顔が利き、仕事も斡旋している様子だ。冒険者ギルドに行くよりも、此処の方が仕事が見つかるかも知れない。

ナタリエはキルキとエルフィールを鋭い目つきで頭の上からつま先まで眺めていたが、店を出ると呟くようにいった。

「エルフィールって言ったな。 お前、本当に錬金術師か? 魔力は感じないし、体の方を相当に鍛えているように見えるが」

「あ、私、魔力が全くないんです。 ちょっとハンデとしては大きいですよね」

「……そうか、それは悪かった。 そっちの子は、見掛け通りか。 その年で錬金術師とは、なんていうか大変だな」

何だか、色々と錬金術師を知っているようである。ディオ氏はひょっとすると、錬金術師に詳しいという理由で、ナタリエを護衛に付けてくれたのかも知れない。料金についての話をするが、ナタリエは謝絶した。

「今回はタダだ。 次からは、こっちの言い値で雇ってくれると嬉しいな」

なるほど、お試し料という訳だ。此方はこれから、四年、場合によってはもっと多くの年月、錬金術師として冒険者の世話になる。それを考えると、むしろ当然のことなのかも知れなかった。

キルキは倍も年が離れた相手がちょっと怖いようで、少し離れてついてくる。大通りに出る少し前に、ナタリエは足を止めた。

「ええと、キルキだったな」

「あ、はいっ」

「此処は別に良いけど、門から外に出たらあまりオレから離れるなよ。 聞いてるかも知れないが、門の外には普通に猛獣が出るからな。 この時期は冬眠から醒めたばっかりの熊とか、子育ての時期の虎とかもいるから、安全だって言われるような場所でも、人が襲われることもあるんだ。 そう言う事件が起こる度に、オレ達は駆除で大忙しさ」

ますます青ざめたキルキは、歩調を早めて、ナタリエのすぐ側に並んだ。冷たい口調だが、側で見ていると、案外キルキを見る目は柔らかい。ナタリエは或いは、感情表現が不器用なだけで、実際には子供好きなのかも知れない。

大通りに出てから、西門へ向かう旨を告げる。東門の方は安全な場所が多いので、あまり気にすることもない。ナタリエは頷くと、行き方をキルキに説明していた。もう眠気もすっかり吹っ飛んでいるらしいキルキは、こくこくと素直に頷いている。多分この真面目で素直な所が、試験に受かる原動力になったのだろう。

「じゃあ、その年で一人暮らしなのか。 二人とも」

「ええ。 私は色々と師匠に教わってますし、三ヶ月くらい前から実質一人暮らしでしたけれど。 キルキちゃんは大変そうだね」

「私も、何年か前から、おうちではひとりぼっちでしたし、家事もしてました」

「やれやれ、困ったもんだな。 実のところ、オレもこっちに来た頃は、随分色々大変なことがあってな。 一歩間違うと、もう墓の下にいたかも知れないんだ。 何か困ったことがあったら、いつでも言ってくれよ。 オレで良ければ、力になるからさ」

門を出る。特に門番に咎められることはなかった。

外に出てもしばらくは舗装道が続いていたが、すぐに土が剥き出しになる。また、馬車の轍がくっきりと刻まれ、処理されていない馬糞が点々としていた。

左右はすぐに鬱蒼とした森となる。

こう言う所は、エルフィールのホームグラウンドだ。見ていて随分落ち着く。落ち着くだけではなく、植生も思ったよりずっと豊富だ。

「奥に入ってみても大丈夫ですか?」

「良いけど、もうしばらくすると正午になるから、手短にな。 それと、森の中ではあまり大声を出すなよ。 それとさっきも言ったとおり、絶対にオレから離れるな」

「分かりました!」

森の中に、適当な所で入る。いわゆるブッシュになっている箇所もあるが、大体は歩きやすい感触である。

ナタリエが色々と話をしてくれる。北の方には、メディアと呼ばれる原生林があるという。噂には聞いている。年中常夏であり、大型の鰐やもっと強力な猛獣が棲息しているという。其処に行けば、もっと豊富な植物系の材料が手にはいるそうだ。

主に木から順番に見ていく。どんな木が生えているかが、森の性質を決定づけるからだ。中には、ロブソン村の周辺では見ることが出来なかった種類の木もあった。やはりロブソン村よりかなり南にあるだけあって、植生も違っている。

しばらく歩き回る。小川の類もあったが、ザールブルグからの排水も流れ込んでいるらしく、若干水質は良くない。地形は起伏に富んでいて、たまに見える倒木は、菌類の苗床になっていた。

猛獣の足跡も見つける。キルキが無遠慮に踏み込もうとしたので、ナタリエが肩を掴んで止めた。

「おっと、キルキ、待ちな。 そこはフォレストタイガーの獣道だ。 無遠慮に踏み込むと、後が面倒だよ」

「ええっ!?」

「滅多な事じゃ仕掛けては来ないと思うけどね。 ほら、其処の木にマーキングの跡があるだろ。 虎は獣道を大事にしていて、それに沿って獲物を狩るんだ。 もしも虎に勝てる護衛と一緒にいない時にこれを見つけたら、すぐにその場を離れるんだぞ」

てきぱきと、周囲の危険を、ナタリエはキルキに教えていく。これは相当に優れた師匠か先輩がいたものと見える。冒険者ギルドでも、この様子だと重宝されているのではないのか。

朽ち木をひっくり返すと、良い感じで貴重なシロテングダケが密生していた。鼻歌交じりに採取する。他にも、さっき採取の依頼に乗せられていた薬草類が点々と群生していたが、こっちは取らない。というのも、全体的な量がまだ把握できていないからだ。全体的な量が分からないと、下手な採取は種の絶滅を招く。そうなると、後進に迷惑を掛けるだけではなく、森自体もかなり荒れさせてしまうことになるだろう。

「はい、キルキちゃんの分。 乾かしておくと、後で錬金術の素材に使えるよ」

「うん。 ありがとう」

「それ、食べられるのか?」

「あ、いえ。 そのままじゃ無理です。 エキスを抽出して、薬品の素材にする感じですね」

どきりとした様子で、キルキが周囲を見回していた。ひょっとしたら、そのまま食べようとしていたのだろうか。確か貰った教科書には書かれていたはずだったのだが。しかも、かなり最初の方の頁に。

歩いていると、少し開けた場所に出る。

かなり一度荒れた様子だ。だが、今はその傷跡も、生命力逞しい緑によって覆い隠されている。

「気付いたか。 少し前に、此処で大きな戦いがあったんだ。 大勢死んだ」

「一度、森が手ひどく傷ついたようにも見えますが……」

「大したもんだ。 この様子だと、オレはエルフィールには何も教えなくて良いかもしれないな」

「あ、いえ。 実際に見てみないと何も分からないので、どんどん教えてください」

そうかと、ナタリエは表情を綻ばせる。

どうも誰かとエルフィールを比べているようにも見える。その誰かの影が、どうしてもエルフィールには見えなかった。

正午を過ぎた辺りで、一旦ザールブルグに戻る。車引きを見掛けたので、其処で食事にする事にした。手で引く車と一体化した出店を車引きと言い、土地代が掛からないためか、結構数を見掛ける。

車引きという形態の店がザールブルグにあることは、ロブソン村でも聞いていた。安くて美味しい庶民の味方だと言うことだったが、実際に足を運んでみるとその通りだった。ナタリエがお勧めだと教えてくれたのは、さっぱりした味の肉料理店である。小麦で作ったらしいパンに、柔らかい何かの肉を挟んでいる。兎かと思ったのだが、ナタリエによると豚らしい。

豚の肉なんか、ロブソン村では滅多に食べられなかった。そうかこれが豚かと、口に運びながらエルフィールは思った。流石にザールブルグである。みんな良いものを食べているものだ。家畜の肉らしく、素朴な兎なんかと比べると、随分味も良い。

キルキは残しそうな勢いだったので、もったいないなあと思う。それにしっかり食べるようでないと、大きくなれない。

キルキも今でさえ十一才だが、アカデミーを定年齢で卒業するとしても、その時は十五才になっているのだ。もしも噂に聞くエリート集団であるマイスターランクに入るとなると、更に二年を掛けることになるから、十七才か。その時も小さいままだと困るだろう。もっとも、エルフィールもあまり人の心配をしている場合ではないかも知れないが。

ナタリエは丸呑みの類をすることもなく、しっかり噛んで、なおかつ手早く飲み込んでいる。恐らく冒険者として鍛える過程で身につけた技だろう。健康を損なうことなく、食事を素早く済ませることで、他の作業に注力するという訳だ。

エルフィールも少しナタリエに遅れて食べ終える。口のまわりを店が出してくれたナプキンで拭いていると、遅れてキルキがパンを飲み込んだ。何度か咳き込んでいたのは、まだ慣れていないからだろう。

この様子だと、遠出した時などにも、竈の組み方なんかは全部一から教えなければならないかも知れない。まあ、エルフィールもまだまだ未熟の身だ。竈なんかは、アデリーさんの倍くらい時間が掛かって、なおかつ精度が劣るものしか作れない。だから、偉そうにどうこうと他人に講釈する資格など無い。

「さて、次はどっちへ行く?」

「質の良い水は何処で手に入りますか?」

「オレはあんまりそういうのは詳しくないが、最高品質のだったらストルデル川の上流で手に入る。 後、北にあるヘーベル湖も、錬金術師が良く行くそうだ。 ただどっちも、一日じゃ往復は出来ないぞ」

「それでは、ストルデル川に下見に行きたいんですが。 上流はまた今度で大丈夫ですから」

それなら東門から出る必要があると、ナタリエは腰を上げた。

ザールブルグに最初に入ったのが東門だから、ちょっと興味深い。キルキは胸焼けしたらしく、しばらく気持ち悪そうにしていたが、歩いているとその内顔色も良くなってきた。ただ、少し疲れが見え始めている。

「今の内に体力を付けておきな。 錬金術師って、結構体力勝負らしいぞ」

「錬金術師が?」

「そうだ。 オレは前に錬金術師から何度も仕事を受けたし、そいつの手伝いもしたことがあるから知ってるが、兎に角信じられないような仕事量をこなしてた。 何日も徹夜するのも普通だったし、本気で極めようと思ったら死ぬ覚悟がいるだろうな。 だから、体力を付けておく方がいい」

まだ脅かされて青ざめるキルキだが、それでも逃げようとしないのは流石だ。

何だか、この子はとても強くなる。そう思った。

水路が縦横に走っているザールブルグを抜けると、一面の畑が見えてくる。五万に達する屯田兵が常駐する、シグザール王国の一大穀物生産拠点だ。東にある大河ストルデルの水を引くことで成立している穀倉地帯で、様々な作物が作られている。秋などは、黄金の麦が何処までも穂を並べる、幻想的かつ美しい光景を見ることが出来るという。

「うわ、何度見ても凄い規模」

「そうだよな。 オレも田舎から出てきた時は、感動したよ」

穀倉地帯と言っても、全てが全て畑という訳でもない。中央には北に延びる街道があるし、そのほかにも様々な街へ向けて伸びる道が少なくない。立て札も立てられており、東へしばらくそれに沿って歩く。やがて、何回かストルデル川の支流が見えてくるが、やはり穀倉地帯を通っているからか、水質はあまり良くない。支流に掛かる橋を渡って渡って、東に。

随分歩いて、ようやく穀倉地帯を抜ける。点々と畑にいた労働中の屯田兵も、この辺に来ると殆ど姿を見掛けない。たまに、槍を持った歩哨が歩いていたり、屯所に出入りしているのを見掛けるくらいだ。屯所の数も街道の側に定間隔で存在しているだけになり、最後に畑の隣に小さな砦があるのを見掛けていらい、ぐっと数が減る。

放射状に警戒網を敷いているんだなと、エルフィールは思った。この警戒網だと、内側で何が起きても対処できるようにしている反面、外側からの集中戦力による攻撃に、若干対処が遅れるかも知れない。

しかし、ドムハイトが内乱状態である今、シグザール王国に大規模な攻撃を掛けられる国家は存在しない。国境地帯にはいくつもの要塞があり、つなぎ狼煙による情報伝達が行われているし、実質上奇襲は不可能だ。それに屯田兵達の目を盗んで接近できたとしても、三重の城壁を持つ上に豊富な食料を蓄えたザールブルグを一朝一夕で抜くのは更に難しいだろう。

現在の技術と情勢では不可能だから、こういう防衛体制が敷かれている。

分析を終えたエルフィールは、にこりとナタリエにほほえみかけた。

「そろそろですか?」

「ああ。 幾つか支流はあるが、この辺からは綺麗になってくる。 ただ、水を直接取るには、もっと上流に行った方が良いみたいだけどな。 或いは北のヘーベル湖あたりが良いって話だ」

「随分、詳しいですね」

「ああ、まあちょっとな」

キルキに無邪気な尊敬を向けられて、若干ぶっきらぼうにナタリエは応えていた。

道から外れて、砂利だらけの河原に降りる。

やはり土地が肥えているからか、この辺りの水は若干濁りが強い。少し掬ってみて、蒸留水にするにはもう少し透明度が高い方が良さそうだと思った。そうなると、まずは荷車が欲しい所だ。

もっと多くに出て、材料を効率的に集めてくるには、アカデミーが提供している籠では小さすぎるし、何より効率も悪い。如何に豊かなシグザール王国といえども、都会の間近となってしまうと、こんな所だろう。

今日は大体の状況が分かっただけで充分である。

「あ、フェスト」

嬉々として、キルキが小石を拾い始めた。頭の中で情報を検索して、結論を出す。

研磨剤などの素材になる、粒子が細かい石フェスト。まずは乳鉢で磨り潰して、細かい不純物を取り除く。

この作業が著しく手間で、故に錬金術アカデミーは仕事をいつも飛翔亭に出して、少しでも軽減を図っているらしい。

研磨する際に不純物が入っていると、そのままひっかき傷などが出来る原因となってしまうのだと、キルキが喋る。どうもこの子、鉱物関係に関しては、既にある程度の知識があるらしい。動植物の知識はあっても、エルフィールはそっち方面はまだ本で囓った知識しかないので、素直に羨ましいと思った。

「オレが見張ってるから、採集や調査の類は好きにしな。 ただ、時間が掛かりすぎると、夜になっちまうからな。 見てるとキャンプ用品は持ってきてないみたいだし、急げよ」

「はい。 有難うございます」

ぺこりと、キルキがあたまを下げたので、その隣でエルフィールも同じように礼をする。

ナタリエは周囲を見回せる石に腰掛けると、剣を外して鞘から抜き、磨き始めた。遠目に見ても、多分かなりの逸品だ。そして側を歩いている時に確認したのだが、露出している二の腕や腿にも、細かい古傷が結構ある。やはり見せかけだけではなく、相当な修羅場も潜ってきた人なのだろう。若くしてディオ氏が新米錬金術師につけるくらいだから実力は凄いのだろうと判断していたが、やはり疑う余地もなかったという事になる。

キルキは無邪気に笑顔を浮かべて、いろんな石を触ってみている。頬を染めて目を輝かせている様子からして、きっと石そのものが好きなのだろう。

故郷で、アデリーさんが言っていた。

何かが好きって言うのは、大きな力になる。それによって意識を刺激されて、極めるための重要な足がかりになる。

だから、好きになるものを見つけると、後がとても大きいと。

エルフィールには、今。何も好きなモノがない。

ロブソン村の一員として、ドナースターク家の末端として、将来を得たいとは思っている。また、自分を地獄から救い出してくれた謎の錬金術師マルローネについて、情報を得たいとも思っている。

だが、それは目的に過ぎない。

好きと性愛は随分違うと、アデリーさんは言っていた。動物的な性愛については、肉体年齢的に二次性徴を過ぎている現在は理解できる。しかし、好きという言葉は、他人の行動を見ていると何となく分かるが。しかし自分のこととしては、どうしても理解できない部分が大きかった。

「それくらいにしておいたら? そろそろ、持って歩けなくなるよ」

「えっ!? あ、ホントだ」

籠を持ち上げようとして、うんうんキルキが唸り始める。

だから、苦笑してエルフィールが持ってあげた。申し訳なさそうにキルキがごめんなさいというのを見ると、少し捨てろとは言い出せなかった。合理的に考えて、そう言う方が正しいはずなのに。

今後、お隣さんとしてやって行くには、「好き」を阻害するのは好ましくないという理由もある。

だが、それ以上に。不思議と、この小さなお隣さんが本気で悲しむ姿をあまり見たくないなあと思ったのも事実なのだった。

まだ少し発現が早いが、母性本能という奴なのかも知れない。

剣を砥石で磨き抜いたナタリエが顔を上げる。此方の気配に気付いたらしい。

「大丈夫か、結構重そうだが」

「鍛えていますから、平気です」

「そうか」

白龍を手に、流石に石を満載した籠を背負うと、少し重い。

やはり最初の稼ぎは荷車を購入するのに使おうと、エルフィールは思い始めていた。

 

アトリエに帰り着いたのは夕刻だった。

今日の様子で、大体周辺の状況は分かった。猛獣のテリトリーについても理解できたし、植生についても。別の季節に関しては、実際足を運ばなければならないだろうが、飛翔亭の依頼の内小遣い稼ぎに使えそうなものも大体理解できた。

キルキのアトリエの前で石を下ろすと、キルキは小さな手で幾つか原石を掴んで、差し出してきた。

「今日はごめんね。 あげる」

「え? いいの?」

「うん。 あげる」

一見すると、ただの小石にしか見えないが、多分大事にしまっていた所を見ると、結構貴重なものなのだろう。

正体は後で調べればいい。初級の錬金術を記した書物に載っていなければ、アカデミーが誇る大図書館にでも足を運べばいいことだ。

「じゃあ、オレはこの辺で。 手が必要な時は、冒険者ギルドより飛翔亭に声を掛けた方が早いかも知れない」

「有難うございます。 次もお願いします」

「ああ。 キルキっていったか。 あんたもな。 二人一緒に探索に出れば、折半で護衛も出来るから、話し合いはしっかりしておきな」

やっぱりまだ少し怖いらしく、キルキはナタリエに若干ぎこちなく礼を言っていた。

ナタリエも悪くは思っていないようで、幾つかアドバイスをすると、帰っていく。冒険者として熟練の彼女のことだから、多分宿は既に確保しているのだろう。

初日としては悪くなかった。後は、数日後の初試験が楽しみではある。

それに、石の重みも、悪くない感触だった。

 

3、初調合試験

 

初のテストの日がやってきた。前日は出来る限りの事は試してみたし、勉強もした。とりあえず、問題はないだろう。

早朝、裏庭で顔を洗う。洗濯物もしっかり干してあるし、昨日飛翔亭では、薬草類を思ったよりも良い値で買い取ってくれた。荷車を買うにはまだ幾らかお金を貯める必要があるが、この分なら生活費に問題は恐らく出ないだろう。

まだ、本格的な調合をしていないこともあり、時間はある。最低限とはいえ、これからも使うことになるだろう器具類を全部チェックした後、裏庭で軽く素振りをして、エルフィールはアトリエを出た。そういえば、少し実力がついてきたら、看板でも出したい所である。

お隣さんに声を掛けたが、もう出た後だった。まだ子供なのに、随分頑張っているものである。これは負けてはいられない。他にも幾つかアトリエはあるようなのだが、アカデミーとは反対方向だったり、知り合いでもないので、わざわざ寄る必要もない。

アカデミーに歩いていくと、同じように錬金術師としての正装を着込んでいる青少年を少なからず見掛けた。生徒数は全学年で数百もいると聞いているが、なるほどこれならと頷ける。アカデミーに近付くにつれて、生徒の数は多くなり、道に広がって歩いている仲の良さそうな生徒達も見掛けた。

ノルディスを見掛けたので、声を掛けてみる。

「おはよう」

「あ、エリー。 おはよう」

「おはよう、ノルディス」

にこにこしながら、割り込んできた声の主。ワインレッドの髪を持つ、同年代の女の子だ。そういえば見覚えがある。数日前、ノルディスと一緒にいるエルフィールに、敵意の熱視線を送ってきていた。

「アイゼル、おはよう」

「知り合い?」

「うん。 数日前に知り合ったんだ。 アイゼル、此方はエリー。 アトリエで生活しているんだ」

「へえ。 よろしく」

素っ気ない口調で、握手を求めてくる。敵意を視線に含ませているが、何とも可愛らしいか細い敵意である。何だか、何も農具も武具をも握ったことが無さそうな、如何にも柔らかそうな手だ。

こういう手の持ち主がいるとは聞いていたが、都会には実在している訳だ。感心していると、アイゼルは眉をひそめた。

「な、何?」

「綺麗な手だね。 武術の心得は無さそう」

「あ、あるわけないでしょう、そんな野蛮なもの!」

「でも、それじゃあ自分で錬金術の素材とか、取りに行けないよ。 あ、やっぱり足も細いね。 怪我したらすぐ折れそう。 蹴り技も難しいかなあ」

ひょいとスカートを捲ると、ノルディスが真っ赤になり、アイゼルが石になって固まった。

なんだこの免疫の無さは。ロブソン村では、祭りの前後なんかは年頃の男女が性的な話で盛り上がることは珍しくもなかったし、実際に事に及んでいる姿もたまに見掛けた。基本的に何処の村でもそうだが、貢献度が低い人間ほど早めに結婚して、跡継ぎを作ることを要求される。逆に特殊技能持ちなどは婚期が遅れる傾向にあり、武術師範などは特にその傾向が強い。エルフィールはそう言う意味ではエリートとも言えるが、しかし環境がちょっと特殊なので、あまり嬉しくない。

やっと硬直していた思考が戻ったアイゼルは、顔を真っ赤にして抗議してくる。目が回っていて、思考が巧く動いていない様子がありありと分かった。

「あ、ああああ、あなたは、な、なな、何なのっ!?」

「それより、早く行かないと遅れちゃうよ?」

鐘が鳴る。此処からは少し上り坂を行かなければならないのである。しかも時間的に、そろそろ小走りで行かないと遅刻の危険性がある。

アイゼルは鐘の音を聞いても目を白黒させて、自分でも何を言っているか分からない様子なので、仕方がない。エルフィールはすっと彼女の後ろに回ると、首に腕を絡ませ、チョークスリーパーで締め落とした。こんな細い首、二秒もあれば充分である。

ひょいと意識を失ったアイゼルを背負うと、真っ青になって固まっているノルディスに、笑顔のまま振り返る。

「遅刻するよ?」

「う、うん」

しかし担いでみると分かるが、軽い。多分体型を維持するために、筋肉とかそういうものをことごとくそぎ落としているのだろう。それはご令嬢としては正しい姿の一つなのかも知れないが、錬金術師としては微妙である。まともに調合の現物も取りに行けないようでは、現場知らずの無能な上司と同じになってしまう。

アイゼルを担いだまま走るエルフィールを見て、先行していた学生達が何事かと振り返る。ノルディスはぜいぜい息を吐きながら必死に着いてきた。勉強よりも体を鍛える方が先の気がしてならない。

講堂に走り込む。並んでいる机が、彼らが連日此処で授業を受けていることを示していた。

「アイゼルさんの席は?」

「その後ろだけど」

「じゃあ、ほい」

席に座らせる。頬を叩いて、意識を戻させると、なにやら呻いたアイゼルは、ぼんやりと辺りを見回した。

しばらくして、何が起こったのか気付いたらしい。上から覗き込むエルフィールに、アイゼルは。小さく声を漏らしていた。

「ひっ!?」

「いやー、急に気を失っちゃって、びっくりしたよ」

「……? え? そう、だったっけ?」

「じゃ、また」

ノルディスに軽く片手を上げて挨拶すると、さっさと教室を出る。

エルフィールが試験を受けるのは、これとは違う階だ。事前に聞いていたとおり、三階に向かう。

行く途中小走りで周囲を確認。なるほど、聞いていたとおり、内部で戦闘があった時のことを想定している作りだ。柱なんかは障害物を置けば敵の侵攻を阻害しやすいように作られているし、内側からは外が丸見え、外からは内側が全く見えないようになっている。更に言えば、おそらく茂みの類には、例外なくトラップが仕掛けられていることだろう。

二階に上がると、マイスターランクの学生達が忙しく行き交っていた。マイスターランク。名前の通り、通常の学生よりも良い成績を収めた者達が昇格する。四年間の通常授業を終えて成績がよいと、二年間のこのマイスターランク昇格の話が来るという。

眼鏡をかけた、銀髪の痩せた男の人とすれ違う。一瞬だけ視線をやったが、特に興味もないので、そのまま三階の階段に。

三階は、教授達の個室が並んでいる。特に一番奥にあるイングリド先生の個室周辺では、静かにするようにと、入学の時念を押して説明されていた。かなり神経質な人なのだという。また、その隣にあるヘルミーナ先生の個室側では、何を見ても驚かないようにと入学の時に教えられた。きっと人体実験とか生体実験とかが中心となっているのだろう。

歩行速度を落とし、イングリド先生の部屋の前に。ヘルミーナ先生の部屋の前は、なにやらびっしり様々な文字が落書きされていて、記号らしきものもふんだんに書き殴られていた。しかも文字は横に進んだり縦に進んだりしていて、とても個性的である。

一回見たら忘れられない壁を通り過ぎて、イングリド先生の部屋の前に。こっちは逆に、真っ白すぎて埃一つ無い。咳なんかしたらげんこつを貰いそうな雰囲気であった。

出来るだけ音を立てないように戸を開けて、中に。

既にキルキを始め、三人の生徒が集まっていた。他の二人は男子生徒である。用意されている小さな席に着く。どうやらエルフィールが最後らしかった。

まだ、遅刻ではない。だが、入り口側に立てられていた砂時計はもう残り少なくなっている。筆記用具類を出していると、部屋にイングリド先生が入ってきた。

長身の美しい女性である。目の色は左右が違うオッドアイ。髪の毛は薄い紫色と、雰囲気が人間とは思えない。雰囲気は磨いだ刃のようで、相当な実戦経験も積んでいることが、エルフィールにはすぐ理解できた。

「全員揃っていますね。 それでは、本日の試験を開始します」

イングリド先生と一緒に入ってきた、マイスターランクの学生らしい生徒が、素材を配り始める。なるほど、筆記ではなくて実戦訓練か。

材料は薬草が幾つかと、ボウルに入れられた水。道具類は乳鉢に始まり、基本的なものがひとそろい、ビーカーとアルコールランプもある。着火道具や、皿の類も。見たところ、少し古いが、支給品と同じモノだ。

「まず貴方たちには、蒸留水と、中和剤を作ってもらいます。 中和剤に関しては、部屋の中央にある魔法陣の使用を許可します。 試験時間はこの砂時計が落ちきるまで」

イングリド先生が手を叩く。筆記だったら少してこずったかも知れないと思っていたので、エルフィールは内心胸をなで下ろしていた。

「始め」

全員が、即座に動き出す。

ビーカーを見る限り、洗う必要はないだろう。

まずはビーカーを二つ組み合わせ、アルコールランプに着火。キルキを見ると、手から出した淡い色の炎で、直接着火していた。なるほど、これが彼女の能力か。

エルフィールは普通にマッチを使い、アルコールランプに点火。台座の上にビーカーを載せ、水を入れると、蒸気が入るようにもう一つを被せ置く。そして、水滴が垂れるようにわざと傾け、下に紙を引いた。

これは最初のうち幾分かは、汚れを含んでいるので、捨てるためだ。ある程度水が流れたら、下にもう一つビーカーを置く。そして蒸留水を受けるのだ。

火力が高くなりすぎると、沸騰の勢いが強くなりすぎて、巧く蒸留水が作れない事態になる。つまり、台座を選んだり、ビーカーに入れる水の量も重要なのだ。教科書を何度か読んでいたが、すぐには上手にやれない。だから、予習はしてある。

男子生徒が、あっと短く叫ぶ。ビーカーは頑丈な特殊硝子製らしく割れなかったが、組んでいた蒸留水受けが崩れてしまった。最初はみんなこんなものである。エルフィールも、アトリエで試してみた時、二度失敗した。

やがて、ビーカーの内側に蒸気が水滴を作り始めた。ぽたり、ぽたりと水滴が落ちてくる。最初の幾らかを捨てた後、ビーカーを設置。この時が一番緊張する。もしもビーカーをうっかり倒してしまうと、火傷する可能性もある。

精神を集中して、ビーカーを移動。ランプの灯が、息を受けて揺れる。何度か深呼吸して置き直す。

巧く行った。

あとは見ているだけだ。

意外に器用なキルキは、もう乳鉢に向かっている。エルフィールはそれを一瞥すると、薬草を吟味。

今回使用するのは、トーンと呼ばれる野草だ。これは普通の野草なのだが、非常に魔力充填率が高く、中和剤として重宝される。初心者から上級者まで愛好される中和剤の決定版と言えばこれと言うことだ。これ以上の中和剤を使う場合は、余程レアリティの高いものを厳選するか、或いは自分で工夫するしかないと、教科書にはあった。

他にも幾つか中和剤に適している薬草類はあるのだが、今回はトーンのみを用いることにした。

まず茎を取り除く。次は葉から葉脈を剥がす。

溜まり始めた蒸留水を少し乳鉢に入れると、葉を磨り潰す。額に汗が浮かんできたので、何度かハンカチで拭き取った。力を入れすぎないように、逆に抜けすぎないように。何度も乳鉢の上で、葉を磨り潰す。

練習では何回か失敗した。乳鉢から零しもしたし、すりすぎて駄目にしてしまったのもあった。緊張する。同じ失敗は、出来るだけ繰り返さないようにしないと。汗を垂らしても台無しだ。何度か神経質なほどに汗を拭いながら、葉を磨る。

やがて、充分な量を磨り終えた。

これは広めの皿に移して、魔法陣に。問題は、此処からだ。

エルフィールは魔力が一切見えないのである。だから、中和剤にどれくらい魔力が入ったか、全く判断できないのだ。

昨日一日教科書を読んで、解決策は幾つか見つけた。

まずは熱いままの蒸留水を数滴使って、指先を拭く。少し熱いけど、まあこれくらいならどうにかなる。水をビーカーに足し直すと、ハンカチで少し赤くなった指先を拭いた。

そして、魔法陣に置いた皿に、指先を突っ込む。

徐々に温度が上がっているのが分かる。もしも魔力を充填しすぎると、スパークを発したり、突沸することがあるという。人肌より少し熱いくらいになったら引き上げないと危険だと、参考書にはあった。

中腰で、キルキは自分の皿をじっと見つめている。

エルフィールも、その隣で指を皿に突っ込んだまま、真剣に温度の上昇を図っていた。もう少し的確に温度を測れる方法もあるらしいのだが、道具がいる。そして此処に、それはない。

一番遅れていた男の子も、中和剤の方に合流してきた。後ろで、こぽこぽとビーカーの水が煮だつ音がしている。キルキが立ち上がった。流石にイングリド先生の部屋だ。魔法陣に籠もっている魔力も、尋常ではないと言うことなのだろう。

「出来ました」

「よろしい。 吟味しますから、教室から出ていなさい」

安心したように、キルキは部屋を出て行く。流石は最年少合格者。負けてはいられない。

エルフィールの指先が、じんわりと熱くなってくる。隣の男子生徒が、先に中和剤を持っていった。部屋を出て行く後ろ姿を見て、目を閉じて呟く。平常心平常心。実戦訓練の時に、アデリーさんに何度も教わったコツだ。

この辺か。そう思って、エルフィールは中和剤を魔法陣から取り上げた。じんわり皿が熱くなっている。これなら、大丈夫の筈だ。

部屋を出る。キルキは汗をびっしりかいていて、見ていて気の毒なほどだった。

「お疲れ様」

「お疲れ様です、エルフィールさん」

「エリーで良いよ」

「じゃ、じゃあ。 エ、エリーさん?」

もじもじしながら言うキルキを見て、何だかノルディスのことを思い出す。此奴ら、夫婦になったら良い感じかも知れない。

もう一人の男子生徒は気の毒なくらいにおろおろしていて、エルフィールに不意に話し掛けてくる。

「な、なあ。 エリー。 俺の中和剤、大丈夫だったかな」

「さあ。 ちょっと私も、他人のを見てる余裕はなかったから」

「そ、そうだよな」

いきなりあだ名で呼ばれてちょっとむっとしたが、別にそれは大したことではないので、笑顔で返す。

最後の生徒が出てきた。何だか真っ青になっていた。

少しして、全員が呼ばれる。配付された黒板に、それぞれの点数が書かれていた。

エルフィールは、蒸留水が77、中和剤が87だった。最高得点はキルキで、蒸留水が94、中和剤が76。他の二人も、合計点は150を越えていた。

それから、何処が駄目だったのかそれぞれ説明を受ける。

エルフィールは中和剤の引き上げのタイミングが早すぎた。もう少し魔力充填が多ければ、90点まで行っていたという。指先の感触を、エルフィールは記憶に刻みつける。逆にキルキは、中和剤の作り方が雑だと怒られていた。取り切れていない葉脈が、質を落としていたそうだ。

蒸留水に関しては、キルキがほぼ完璧と言うことで、彼女のを基本に説明される。要するに、エルフィールのは最初の蒸気洗浄が足りていなかったらしい。もっと派手に最初は流すくらいで良いのだそうだ。

「今回は全員が合格です。 此処での評価が90点を超える品であれば、お客様も大いに満足してくださると、考えてもらって結構です。 今後は学習の状況に応じて、試験の期間も変わります。 大掛かりな作業がある場合は、試験の日付変更も受け付けますので、三日前までに申し出るように。 では、解散!」

「有難うございました!」

あたまを下げて、部屋を出る。肩を回しながら先に行く男子生徒達の背中を見送った。二人は既に友人らしく、なにやら軽口をたたき合っている。

キルキは蒸留水が100点でなかったことに不満がある様子だ。むくれて、ぶつぶつ呟いていた。

「もうちょっと時間があれば、完璧に出来たのに」

「次に100点取ればいいよ。 それに、90点以上なら、飛翔亭で買い取ってくれるから、充分財源に出来るよ」

「むー」

「むくれない。 そうだ、せっかくだから外に採集に行こうか。 今回プロの手で欠点もはっきりしたし、飛翔亭でお金に換えれば生活費くらいなら作れるよ」

生活費は今日の試験ではっきり稼げる目処が立った。中和剤や蒸留水なら、どうにでもなる。次に作れば、充分なものでも作れる自信がある。

そして、ある程度お金が貯まったら、荷車を買うのだ。そうすれば、遠くへ効率よく材料採集に出られる。キャンプ用品はロブソン村から持ってきたものがあるし、現地である程度工夫もつくから、最初から心配はしていない。

「でも、近くの森でも虎とか、熊とか出るんでしょ?」

「大丈夫だって。 ここ数日で、大体猛獣の縄張りは理解したから」

ここ数日調べて回ったが、近辺で良さそうな採集場の近くに、フォレストタイガーと大型の熊の縄張りが近接している。ただし、彼らも人間の恐ろしさは良く理解しているので、よほど此方が挑発的な行動を取らない限りは襲ってこない。この近辺にはいないが狼は更に紳士的で、縄張りに近付けば必ず警戒の遠吠えを聞かせて威嚇してくる。ヒュージ・スクイッドに到っては、産卵期に近付かなければ向こうから逃げていく。

問題は人間の恐ろしさを知らない若い個体だが、そう言う連中は近辺にはいない。少なくとも、昨日まではいなかった。また、ある種の毒蛇も危険だが、この近辺では一度も見掛けていない。

後は大型の蜂だが、それも駆除が済んでいてもういない様子である。結論から言えば、しばらくの間は余程無茶しなければ、猛獣に襲われることもない。この近辺に限ればと言葉が続くが。

「本当?」

「本当」

「じゃあ、いく」

錬金術が楽しくなっているらしいキルキが、目を輝かせる。話ながら廊下を歩いていると、咳払いの音。

誰かは分かってはいたが、振り向く。

アイゼルが廊下の壁に背中を預けて、優雅に髪を掻き上げて見せた。さらさらの髪の毛がふわりと風にながれて、キルキが感嘆の呟きを上げる。手入れに何刻も掛けていそうだ。今後あれが錬金術にかまけて荒れてくると思うと、ちょっと楽しみだ。

「面白そうな話をしているようね、エルフィールさん。 私もご一緒させていただいてよろしいかしら」

「あら、アイゼルさん。 別に良いけど、ノルディスは?」

「ノ、ノルディスは関係ないでしょ! な、な、何でノルディスの名前が出てくるのよっ!」

何だかいつもひっついているイメージがあるから聞いてみると、なぜか真っ赤になって怒った。別に性的関係があるわけでも、いわゆる婚約を結んでいるわけでもあるまいし。何を動揺しているのかよく分からない。

大げさに何度か咳払いすると、アイゼルは動揺を殺しきれず、少し頬を染めたまま言う。

「あー、おほんごほん。 これから採集に行くのでしょう? 私、これでも、なんと能力者よ。 貴方よりは役に立つはずよ」

「へえ」

「な、何よその気がない答えは」

「うん。 それで、一旦私アトリエに道具を取りに戻るけど。 今日は野宿はしないから、籠と、後は戦闘用の道具類はアイゼルさんも用意してね。 まあ今日は近場にしか行かないから、冒険者は雇わないつもりだけれど、アイゼルさんはそれでいい?」

「構わないわ」

西門で待っていると言い捨てると、アイゼルは大股でずかずか歩き去っていった。

何か変な見栄か闘争心かを刺激したらしい。

「エリーさん、綺麗な人だけど、知り合い?」

「うん。 今日チョークスリーパーホールドで締め落とした仲」

笑顔のまま言うと、キルキは吃驚して手にしていた教科書を床にぶちまけた。

 

4、戦士エルフィール

 

西門に待っていたアイゼルは、通行人の注目を集めていた。

なにやら引っ越しでもするような荷物である。細い体だというのに、無理をしてやたら重そうなリュックを背負ってきている。そのくせ、変に手にしている籠は小さいのだった。右手には能力展開用の杖も持っているが、どうみても装飾過多で、実戦向きの品物ではない。

このちぐはぐな格好、どう見ても素人だ。

手に白龍だけを持ち、籠と近接戦闘用杖の紅柳を始めとした最小限の荷物を背負っているエルフィールと、同じく籠を手にして、最小限の荷物を背負い、腰にナイフをぶら下げているだけのキルキとは大違いである。もっとも、キルキはキルキで、とても場慣れしているとは言い難いが。

「お、遅かったわね、エルフィールさん。 待ちくたびれてしまったわ!」

「何その大荷物。 行くの、すぐ其処だよ?」

「わ、分かっているわ! でも、外に出るの、久し振り、だから」

アイゼルの語尾が小声になる。というよりも、外に出る事自体に何かトラウマでもあるかのようだ。

エルフィールには生体魔力は見えないので、隣にいるキルキにこっそり聞いてみる。

「キルキちゃん、アイゼルさんの魔力、どんな感じ?」

「ええと、それなり。 私と同じくらい」

「そう」

あのへっぴり腰では、ある程度戦闘向けの能力を有していても、実戦では使い物にはならないだろう。エルフィールに対する何かよく分からないライバル心か何かに後押しされて出てきたは良いが、門から実際に外を見たらトラウマを刺激されて足が竦んでいる、という所か。

念のためと思って白龍を持ってきたが、使うことにならないことを祈るばかりである。

「そ、それで、何処まで行くつもりなのかしら」

「少し南に小川があるから、其処で採集。 トーン草と、後はブララの実が採れれば」

「あら、いいのそんな近場で」

「それ以上南に行くと、虎が出るかも知れないよ? 今日は冒険者も雇っていないし、このくらいが適当だと思うけれど」

虎という言葉に露骨にひるんだアイゼルは、何か言おうとしたが、しかし黙り込んでしまう。

エルフィールが杖の石突きでどんと地面を叩くと、びくりと全身を振るわせた。

「さ、行こうか」

「さ、指図しないで! 私が先頭で行くんだから、いいわね!」

無理矢理勇気を奮い立たせて、アイゼルが西門から出る。不安そうにそれを警備兵のおじさんが見つめていた。

しばらく街道を行く。時々落ちている馬糞は、新しいものから古いものまで様々だ。当然古いものには蛆が湧いている。

それらを見て露骨に顔をしかめるアイゼル。多分農業の類はやったことがないのだろう。こういった糞類は、貴重な肥料になる。肥だめに入れて寝かせておいて使うのだが、はっきりいって薬剤の類よりずっと逞しく野菜は育つ。

「何処まで行くのよ、もう」

「もう少し先を右」

「はあ。 ようやく?」

「疲れた?」

疲れる訳がないと、アイゼルはなぜか強がる。そういえば、アイゼルの足元を見ると、履いている靴はおろしたてである。この様子だと帰った頃には肉刺だらけだろう。多分涙が出るほど痛いはずだ。

でも、頑張っている姿勢には好感が持てる。例え気が弱くても、何かに一生懸命取り組む姿は、エルフィールも大好きだ。エルフィール自身が寝る間も惜しんで勉学をして読み書きを覚え、野外での生活を習得し、野良仕事の苦労を身につけたから、かも知れない。

街道からずれると、急に人間社会の音がしなくなる。

木漏れ日も少なくなり、辺りは野生の音だけになる。虫が草の葉を蹴って跳びだつ音、空を舞う鳥。そして、茂みの影から獲物を伺う小型の肉食獣。

アイゼルは露骨に真っ青になっているが、冷や汗を掻きながらも、泣き言は言わない。やっぱり、根本的には根性のある奴なのかも知れなかった。

向こうは一方的に敵視しているようだが、エルフィールはアイゼルのことが嫌いではなくなりつつあるのを感じる。

「お、小川って、どの辺り?」

「もう少し先。 あ、少し先に獣道があるから気をつけて。 大きな糞が落ちてるかも」

「な、なんて汚らしいのっ!」

「動物にとっては、迷わないようにする大事な目印だよ?」

アイゼルは頭を抱えて、いやいやと被りを振る。先に行こうかとエルフィールが提案するが、それでも意地を張って先頭で行くと主張するのだった。

そんなアイゼルの様子を見ていたキルキが、不意に足を止める。

エルフィールも、ほぼ同時に足を止めていた。

いる。

失敗したかも知れない。ちょっと大きめの気配だ。時間と状況から行って、人間の前には出てこないだろうと思っていたのだが。

いや、ちょっと違うと、判断を変える。

あの獣道を利用しているのとは別のだ。恐らくは親離れしたばかりの若虎で、縄張りにするべき土地を探して彷徨っている個体だ。

アイゼルはずかずか前に進んでおり、それが獣の気配を乱している。多分まだ若い虎なのだが、自分に気付いているのと気付いていないのが混じっていることに混乱しているのだろう。

ぎゅっと、キルキがエルフィールの服の袖を掴んでくる。真っ青になっているのは、多分猛獣の気配を浴びるのが初めてだからだろう。判断が甘かった事を悔やむしかない。アデリーさんなら、きっと此処は避けようと言うか、或いはもっと早くに気配を察知して、接近を避けたに違いない。

アイゼルよりは多少マシとは言え、未熟者であることに間違いはないのだ。

殺気。

虎が、獲物と此方を判断したのだ。

「キルキちゃん、右側から来るよ。 アイゼルさんを狙って来ると思うから、一瞬だけでいいから足を止められる?」

「わ、分かった。 やってみる」

「ちょっと、何してるの? 早く来てよ、此処暗くて怖……いやなんだから!」

脳天気にアイゼルが叫ぶ。虎はそれを未熟と判断したか、気配を移動させる。エルフィールは手持ちのカードを頭の中で整理しながら、気配を消した。

アイゼルが、足を止める。

多分、何が起こったのか理解できなかったのだろう。

彼女の至近、右側面の茂みをかき分け、虎が現れたのである。まだ若い個体で、体重は多分エルフィールの四倍くらい。フォレストタイガーという種族は、種族の特性としてオーヴァードライブと呼ばれる身体強化能力を有しているが、多分それも上手には使えないだろう。

ゼンマイ仕掛けの人形のように、ぎこちない動きで、虎に振り向くアイゼル。

全身から冷や汗を流している彼女は、引きつった笑みを、獲物に襲いかかろうとしている虎に向けた。

もちろん、虎に柔らかい肉を得る機会を、見過ごす理由はない。瞬時に戦闘態勢に入った虎が、アイゼルに躍り掛かる。

アイゼルが、ついに精根尽き果てて、悲鳴を上げ。

その瞬間、虎の眼前に、閃光が炸裂した。

「ギャオウッ!」

飛び退く虎。タイミングを完璧に合わせたキルキが、火球を放ったのだ。結構大きな火球である。ただし、それで魔力の大半を使い果たしてしまったのか、へなへなと崩れる。飛び退いた虎はぶっとい前足で顔の炎を払うと、凄まじい怒りを顔中にはりつけ、とどろくような咆吼をあげた。

今度はキルキに向けて、突進してくる虎。その速度は、人間の倍を軽く超えている。前足の一撃は、この森最強の狩人である事を誇示するように、一撃で人間の体など襤褸雑巾にしてしまう。もちろん即死だ。

逃げようとするキルキだが、間に合うはずもない。虎が瞬時に間合いを詰める間に、木の根にすっころんで、枯葉を巻き上げる。頭を抱えて震えるキルキに、人間の背丈以上の高さを軽々跳躍しながら、虎は鋭い爪がついた前足を振り上げる。

割ってはいるエルフィール。奇襲を仕掛けるには、ちょっと時間が足りなかった。

地面をてこにして、愛杖紅柳の一撃を顎の下に叩き込む。激しくしなった紅柳に虎は一瞬だけ動きを止めたが、それも一瞬でしかない。前足を振るって、紅柳ごとエルフィールをはじき飛ばす。横転して枯葉を巻き上げたエルフィールは、跳ね起きつつ、躍り掛かってくる虎を至近で見た。紅柳を放り捨て、代わりに背中から引き抜いた白龍を冷静に構えようとした瞬間に、再び閃光が虎に炸裂。今度は脇腹に、淡い光を放つ何かの波動が直撃したのである。そしてそれは直撃すると同時に、虎の毛皮で発火した。

虎が、唸りを上げて飛び下がる。あの様子では、毛皮は売り物にならないだろう。不愉快そうに転がり回る虎が、地面に腹を押しつけて、やっと炎を消す。術式を放ったのは、どうやらアイゼルだった。腰を抜かしながらも、攻撃を精確に放ったのだ。

やはり根性のある奴だ。

ただの平和呆けした令嬢かと最初は思っていたが、認識を完全に改める。

火を消した虎が、ぎろりとアイゼルを見る。涙を流しながら肩で息をしているアイゼルが、這いながら後ろに下がるが、すぐに木にぶつかって、逃げられなくなった。キルキは必死に詠唱しているが、二発目は多分間に合わないだろうし、一発目ほどの威力も期待できないだろう。

エルフィールは跳躍した。虎が気付き、紅柳の一撃を避ける。二度、三度振るうが、虎は身軽に後退し、掠りもしない。流石に根本的な身体能力が違う。震えているアイゼルを背中に庇うと、エルフィールは言った。

「もうちょっと頑張って」

「な、何を頑張れっていうのよっ!」

「これだけの騒ぎになれば、すぐに警備兵も駆けつけてくる。 そうなれば虎なんか、ひとたまりもないよ」

それは事実だ。

余程平和呆けした地域に住んでいる人間ならともかく、この近辺では猛獣も珍しくなく、時にはドラゴン狩りも行われる。兵士達は虎くらいなら狩り慣れているのだ。エルフィールの故郷であるロブソン村は其処まで手練れ揃いではなかったが、ドナースターク家から派遣されている家臣や側に駐屯している騎士団達は常識外の手練ればかりで、兵士達の実力もそれから推察できる。

虎が吠え猛る。エルフィールは紅柳を捨て、白龍を構える。

龍の先端部分を虎に向けたまま、低く構えを取った。キルキとアイゼルはよくやってくれた。ただでさえ若い虎は頭に血を上らせており、勝機はエルフィールにある。熟練した虎だったら、勝機はなかっただろう。

此処からは、エルフィールの仕事だ。

虎は本能で理解しているはずだ。エルフィールが簡単に勝てる相手ではないことを。だが、同時に怒りが虎の全身を覆っており、若いが故に制御が効かない。

二度、虎は吠えた。

どけ、とエルフィールに脅しを掛けているのだ。

だが、屈しないエルフィールを見て、ついに虎は勝負に出る。後ろに飛び下がると、短い助走距離で最大限に加速、未熟ながらオーヴァードライブを発動。燃えるような赤い全身を繰って、低木なら跳び越えるほどの高さから躍り掛かってきたのだ。

だがその瞬間、エルフィールも動いていた。

飛んだのは真横。だが無理矢理体を捻ると、木を蹴って空に躍り上がる。

タイミングは完璧だ。虎がどの時点でどう動くか、読み切っていたのだから。空中で回転して、虎を見下ろす。真っ赤に燃え上がったその体も、真下に見下ろすと、もはや。手頃な獲物にしか見えない。

虎は、気付いただろうか。

己が、詰んだことに。

虎の背中に跨ったエルフィールは、白龍を相手の首筋に向け、更に腿で体を固定した。地面に大きな孔を抉り開けた虎は、エルフィールの白龍の危険性を本能で察したか、逃れようとする。

だがそれより先に。エルフィールが杖についている安全装置を外し、引き金を引く。

「貫け……」

言葉は、あくまで短く。

そして、爆音も。

「白龍っ!」

腹の底に響く轟音が、森を蹂躙していた。

 

白龍の先端部、ドラゴンを象った口から、杭が伸びて虎の頭部を貫通していた。杭は太さが腿ほどもあり、引き抜くのにいつも苦労する。

これが戦闘用大型杖、白龍のギミックである。

杖の先端部分から、杭を常識外の速度で発射するのだ。大型のボウガンと同じ機構を杖の中に仕込んでいるのだが、反動が凄まじいので、発射と同時に後方から分銅を射出するようになっている。これでかなり反動を緩和しているのだが、それでも腕と足に掛かる負担が尋常ではなく、最初使った時は肩を脱臼した。

虎はもちろん即死だ。

杭を引き抜くと、一旦ねじを廻して杭を外す。洗って血を落とし、油を差しておかないと、次の戦いで動いてくれない。この機構を組み込んだため、この杖は見かけよりもぐっと重くなってしまっているのだ。

アイゼルは、最後の虎の一撃に巻き込まれ、クレーターの縁で腐葉土まみれになって気絶している。キルキは不安そうにおろおろしていたが、虎が完全に死んだのを見ると、腰が抜けてしまったようだった。

「大丈夫? 頭とかおなかとかは打ってない?」

「平気」

気丈な子だ。だが、やっぱりそれでも立てないらしく、四苦八苦していた。

そういえば虎の捌き方はまだ教わっていない。殺した虎は、遺棄していくしかない。まあ、毛皮もこれでは売り物にはならないだろうし、仕方がないだろう。それにしてももったいない話だ。熊だったら、ついこの間捌き方を聞いたのだが。

小川まではすぐ側である。それにしても、これでは採集どころではない。鼻歌まじりに、小川で虎の血を杭から落とす。脳漿もこびりついていたので、口に入れてみると、ちょっと苦くて癖になる味だった。ただあんまり食べるとおなかに虫が湧くかも知れないから、気をつける必要があるが。

辺りを見回ると、トーン草が結構生えている。白龍のメンテナンスを終えた後、紅柳を拾ってきて、それで人心地ついた。ちょっと疲れたが、しかし側に武器を置いておくと安心する。籠にトーン草を摘めていると、後ろで悲鳴がした。

目を覚ましたアイゼルが、白目を剥いて脳みそを露出させている虎の死骸を至近で見たかららしい。

「きゃああああーっ! いやあーっ!」

「あんまり騒ぐと、また虎が出るよー?」

むぎゅっとか音がしたのは、どうやらキルキがアイゼルの口を塞いだかららしい。

川沿いを少し歩いてみるが、トーン草は渓流に沿うような形でかなりの数が生えており、しかも以前摘んだ所でもまた枝葉が伸びている。思ったよりもかなり成長が早い。ただ、この辺りは水が綺麗だとは言えないので、もっと質が良い草を取るには、少なくともザールブルグから上流に行かなければならないだろう。

一通り素材を集めて戻る。キルキやアイゼルの籠の分もトーンを取ってきたが、アイゼルはエルフィールの顔を見てひいっと悲鳴を上げた。顔に返り血が飛んでいたらしい。まあ、虎の頭を至近で打ち砕いたから当然か。ごしごしと顔を擦りながら、笑顔を作って応じる。

「おおげさだなあ。 でも、さっきは助かったよ」

「ふ、ふん。 当然よ。 それに私の方が、貴方より成績も上なんですからね」

なぜ此処で成績の自慢が出るのかよく分からないが、精一杯の強がりだと言うことは理解できる。だから手を貸して、助け起こす。

アイゼルはまだ震えが止まらない様子だったが、それでももう強がりを言えるようになっているのなら大丈夫だろう。

キルキはもう自力で立ち上がっている。逞しい子である。ただ、それでも虎は出来るだけ見ないようにしていたが。

「これじゃあ毛皮も取れないし、だいたい捌き方知らないから、肉を取ってたら夜になっちゃうね。 帰ろうか」

「まって、あれだけちょっと欲しい」

キルキに袖を引かれて、指さす方を見上げる。

ウニの実が、たくさん実っていた。色々な方法で加工できる上、中身も美味しく食べられる植物だ。実は普通に食べるとまずいのだが、工夫次第で色々と味を変えられる。これは最近知られた事実で、エルフィールも知ったのはついこの間だ。やはり逞しい子である。こんな状況で、冷静に結構辺りを見ている。

「分かった。 それだけ取ったら帰ろうか」

アイゼルの面白い一面も見られたし、今日は良い日だ。エルフィールは、掛け値無しにそう思った。

そういえば、アイゼルは授業組だった筈だが、どうしてエルフィールを待ち伏せできたのだろう。不思議だったが、敢えてそれは追求しないことにした。

帰り道、ぐったり疲れ切った様子ながらも、先頭を歩くのだと主張するアイゼルを、エルフィールは益々好きになった。

 

5、蠢く影

 

森の中に、幾つかの人影があった。その内の一つは、黒髪のまだ幼さが顔に残る青年である。名前はダグラス=マクレイン。シグザール王国が誇る最精鋭、聖騎士の一人だ。しかも彼だけではなく、他のメンバーも、シグザール王国が誇る錚々たる面々であった。騎士であったり、精鋭間諜部隊「牙」の一員であったりする。

そんな彼らは、じっと一人の戦闘を見つめていた。それが、今回の任務であったからだ。

戦闘を行っていたのは、まだ未熟な錬金術師。ダグラスはエルフィールという名前だと聞いている。昔、ダグラスが淡い恋心を抱いた女の弟子だという事もあるし、他の理由もある。いずれにしても、仕事で見張っていたのだ。

エルフィールは、虎に勝った。ため息をついたのは、なぜだろう。結構危ない勝負だったようにも、エルフィールの組んだとおりに展開が動いたようにも見えた。彼女らが引き上げていくのまでを見送る。そうしてから、ダグラス達も移動した。

街道に出て、其処から西へ。ザールブルグとはちょっと離れているが、騎士団の作った隠し砦があるのだ。

砦は森の中に完璧に隠蔽されていて、外からはまず気付けない。中に入って、木々の間にある小屋にはいる。地下に降りると広い空間があり、その奥で今回の作戦を国から任されている人物が待っていた。

既に引退した騎士でありながら、圧倒的な強さと凶暴性を恐れられ、様々な方面にも人脈を持つ男。通称人間破城槌。クーゲル=リヒターであった。

既に髪には白いものが混じり始めているが、その屈強な肉体にはまるで衰えがない。戦場で五百人以上の敵を殺してきたというその伝説は、桁外れの実力によって証明されている。ダグラスでは勝てない。聖騎士になった今でもだ。

クーゲルは引退騎士という身分を上手に使って、市井と騎士団の間に位置し、フレキシブルな仕事をしている。今回もそんな任務の一つだった。

「報告を聞こうか」

クーゲルが皆を見回す。牙の一人である、黒髪の女が最初に発言した。アヤメという名前であるらしいが、詳しい素性はダグラスも知らない。

「見たところ、実力はまだ発展途上です。 身体能力は高めですが、それほど優れた人材とは思えません」

「次」

「俺は、まだ未熟な割には結構使えると思いました。 あの武器、かなり使いづらそうなのに、見事に使いこなして虎を仕留めていたのには驚きましたし」

アヤメと反対の意見をダグラスが述べる。クーゲルは特に感じ入る様子もなく、続けるように言った。

何人かの意見が出るが、見事に割れる。

未熟だからまだまだだという意見と、これから伸びるかも知れないというもの。ダグラスの他にも、何名かの騎士はその意見を支持した。

最後に発言したのは、うつろな目をした女である。

エリアレッテという名前であり、ダグラスの少し前に聖騎士になった。クーゲルの愛弟子だけあってその実力は凄まじく、ダグラスではちょっと勝てそうにない。だが裏の仕事ばかりしているらしく、最近では牙に異動する話も出てきているそうだ。

通称、人食い薔薇。今、若手の騎士の中では最強を謳われ、同時に最凶も噂されている女である。ドムハイト国境で活動をしていることが多い此奴を見掛けた時、ダグラスはエルフィールというあの女の子が、とんでもないバックヤードを背負っていることを直感した。

「彼奴、強くなると思う。 師匠と同じ匂いを感じた」

「ふむ、お前が言うなら、楽しみではあるな」

クーゲルは満足げに頷くと、その場で全員を解散させた。

ダグラスはこの国の民ではない。生活のために北から来て、腕を磨いてようやく騎士になった。聖騎士になれたのも、色々な事件を経て、必死の努力を重ねた末だ。その過程で、嫌でも大人にならざるをえなかった。守るというのがどれほど大変なことかは、今は良く知っている。国というのが、きれい事では動かないと言うこともだ。

これほどの人材が投入されているのである。あのエルフィールという女に何があるのかは知らない。だが、気の毒だなとも思う。どうせ、ろくでもないことなのは分かりきっているからだ。

砦を出て、街道に。ちょっと酒でも飲みたい所だと、ダグラスは思った。

今聖騎士になっているという初恋の相手を思い出して、ダグラスはため息をつく。どうしてか、ダグラスが心配する相手は、いつも苦難の道を歩んでいるように思えるのだった。

 

(続)