駄目な人と私

 

序、駄目な人と私の朝

 

時刻はAM8:00。私は自分をスリープモードから通常稼働に切り替えた。

朝はいつも忙しい。私の持ち主が起き出してくるからだ。階段で転びかけるのは当たり前、鞄を持たずに出かけようとした事さえある。慌てた挙げ句、左右の靴を間違えた事さえあった。

今時どんな家にも設置されているバイタルサイン監視センサがフル稼働しても追いつかないほど、持ち主は危なっかしい。だから、いつも注意を払わなければならない。起きてくるのが遅い時は、見に行く必要がある。起きてくる前に済ませなければいかない事はあらかた済ませた。スーツの簡易クリーニングや汚れのチェック。朝食の作成。スケジュールの確認。荷物の整備。チェックリストは、既に完了の文字で埋め尽くさせている。後はあの人が起きてくるのを待つだけ。いつもこの時が、途轍もなく長い。

今日も、持ち主は自力では起きられそうもない。

三対六本の足を駆使して二階に上がる。寝室からは実に幸せそうな寝息が漏れてきていた。ドアを開ける。漫画チックにデフォルメされた兎のプリントがされたパジャマを着込んで、パステルカラーの布団で幸せそうに眠っているのが、自分の持ち主だ。覚醒させなければならない。幾つかあるプランの中から、もっとも穏当なものを選択する。音声を切り替える。

「起きろ! 長島君!」

「はいっ! 部長っ!」

飛び起きた持ち主はしばし呆然と辺りを見回し、此方を見て、大きくため息をついた。

「何よー。 脅かさないでよー」

「おはようございます。 起床の時間です」

「やだー。 会社行きたくないー」

ごね始める。最近朝ごねる事が多くなってきたが、この人の言動パターンは既に把握済みだ。会社に行くのにもっとも適した説得が、すぐに検索された。

「私もこの家も会社の支給品です。 この生活が出来るのも、会社に毎日通っているからですよ」

「そんなの、分かってるけど」

「それなら早く支度をしてください。 ごねるのが許されるのは、子供までです」

ぐうの音も出ない様子で、ぶつぶつ言いながら持ち主は起き出し、目を擦りながら辺りをまさぐる。持ち主は視力が低い。だから、私も派手なツートンカラーで塗装されていて、すぐに見分けがつくようになっている。

必要以上に手助けしないようにプログラムはインプットされている。だから放っておいて部屋を出ようとしたが、後ろから困り切った声が飛んでくる。

「ネジェット、眼鏡知らない? 見つからないよー」

眼鏡なら、さっき四つあるカメラが立体的に位置を把握していた。寝相が悪い持ち主は、いつも眼鏡を床に飛ばしてしまうのだ。具体的に言っても持ち主の理解力では分からないだろうから、曖昧に伝える。

「貴方のすぐ側の床にあります」

「ほんと? 分かった、探してみるね。 眼鏡、眼鏡ー」

ベットに這い蹲って眼鏡を探していた持ち主は、やがて頭から床に落ちそうになった。三本あるフレキシブルアームを延ばして救助しようとしたが、間に合わない。そのまま顔面から床に接触。むぎゅっと虚しい声を上げて、だが手に眼鏡を掴む。

「いたいー」

「大した損傷はありません」

「ひどいよー。 助けてよもう」

「貴方のためになりません」

ぼさぼさの頭をかき回す持ち主は、まだふらふらしながら、洗面所に入っていった。今のうちに、作っておいた朝食を温めておく。やる気が出るように、今日は持ち主の好物を選別しておいた。冷凍食品ではなく、どれも原料素材からきちんと調理したものだ。

持ち主が唯一水準を越えている要素があるとすれば、それはルックスだ。人間の美的基準で言うと、顔の作りだけはそこそこに整っている分野に入る。ただし原石だ。セミロングの髪は手入れが下手なために時々寝癖がついている。何より化粧が下手なので、時々世間一般の基準で言う「もの凄く見苦しい有様」で出かけていく。

持ち主は何一つまともに出来ない人だ。不器用だから着替えも遅いし、食事の時は辺りに食べかすを散々こぼす。だから食事は一人で取る事が多いと聞いている。正確には、夕食の時などに勝手にそうだと喋る。実の父には会った事もなく、母は男遊びに忙しく、持ち主をかまいもしない。子供の頃からそうだったという。持ち主を心から大事に考えている人間などいったいどれだけいることか。人間の行動パターンは記録されている。持ち主の場合、殆どの人間は自分の優越感を満たすために接近しているのだろう。

洗面所から水音が聞こえる。顔と頭を洗って整髪料を付け、歯を磨いて出てくる。それだけの事に随分時間がかかった。今日はかろうじて寝癖はない。持ち主が起き出してからのチェックリストに一つ完了の文字を加えながら、私は様子を見守る。

既に朝食は出来ている。急いで食べようとして、今日も味噌汁をこぼしてしまう。

「うあー。 またやっちゃったよー」

「代わりをどうぞ」

「ごめんね、ネジェット」

「構いません」

何しろ、これを予想して少し多めに作っているのだ。さっとテーブルを拭き、味噌汁の代わりを出す。流石に不器用でノイズが多い持ち主も、今度はこぼさずに食べ終える。

パジャマを脱ぎ、スーツを着て、化粧をする持ち主を後ろから眺める。持ち主は無能なだけではなく、無知だ。何も知らない。私がこの家に派遣されている理由も、世間の嘲笑も。

「指輪と髪留めを忘れないようにしてください。 知子様」

「うん。 分かってる」

言っている横から忘れそうになっているので、手元に出しておく。短めの髪にセットされた髪留めには、超小型のカメラが仕込まれている。指輪には集音器。どちらも、私が持ち主を監視するためのものだ。

私の体内に埋め込まれている原子時計に接続している常駐ソフトが、警告を発する。持ち主の運動能力では、このままでは遅刻する。もたもた化粧をしている持ち主をどうにか急かさなければならない。パジャマを洗濯機に放り込み、もう一本のフレキシブルアームで余った朝食を片付ける。どうにか化粧を済ませた持ち主が、鏡を見てうんうん唸っていた。口紅が気に入らないらしい。今日は珍しく特にはみ出しても居ないし見苦しくもない。さっさとでかければいいのにと、私は思った。

「これ以上遅れると、危険です」

「分かってるよー。 あんまりせかさないで。 あ、これ使った事なかったんだ。 これにしようかなー」

そういってショッキングピンクの口紅に手を伸ばしかけたので、大きく咳払いしてやめさせる。不満そうにしている持ち主をさっさと玄関に連れ出し、外に押す。何だか悲しそうに此方を見ていたが、知った事ではない。持ち主はある程度強く押さないと、何も出来ない人間なのだ。

家から出すと、持ち主はちゃんと会社に向かう。リンクしている辺りの監視カメラでその姿を確認する。これで、やっと一息つく事が出来た。持ち主は腕時計を見て吃驚した後、一人で勝手に安心したりしている。訳が分からないが、おそらくは時計を読み間違えて、その間違いに気付いたのだろう。

これから情報を転送しなければならない。内部のコンピューターをフル活動させ、昨日の7時から今日の7時までの情報をレポート化する。常時監視している訳だから、情報は簡単に集まる。問題はそれの整理だ。効率よい行動を自主的に取らせるのが如何に難しいのかは、此処しばらくの成果からもよく分かる。

情報の送信が終わると、メインサーバから返信データが飛んできた。今の情報に対する評価だ。私の立場は、少しずつ危うくなってきている。しばし数値のデータだけが続いていたが、やがて不意にホットラインの要求信号が割り込んできた。テレビも兼ねている情報モニタにフレキシブルモードから回線を延ばして接続。映像受諾モードに切り替えると、モニタに人間の顔が大写しになる。

「ちょっと、ネジェット!」

「何でしょうか、創造主様」

白い研究衣を着た人間の雌が、頬をふくらませてカメラを覗き込んでいる。創造主だ。まだ成体になっていない丸っこい顔立ちは、怒りの朱に染まっていた。八重歯を剥き出しに、創造主は叫ぶ。

「あんた、なにやってんの! 社長のアホ娘の教育なんぞに、どれだけ時間取られてるのよ!」

「最善は尽くしています」

「なーにが最善よ! ふざけんなっての! あの小生意気な秘書アンドロイドは、アホ娘を実に良く指導してるって評判になってるのよ! それに比べてあんたは! あんたって奴は! 毎日評価が下がる一方! あんたの創造主であるこの天才科学者氷室様を、一体いつまで針の筵に座らせてる気!?」

創造主は非常にプライドが高い。若くして天才の名を恣にし、ロボット工学業界の新星と言われているのだから無理もない。画面ががくがく揺れているのは、恐らくカメラを掴んで揺さぶっているからだろう。

「と、に、か、く! 一月以内にしっかり成果をあげなさい! そうしないと、廃棄処分もありうるんだからね!」

「申し訳ありません。 創造主様」

「分かればいいわ。 バージョンアッププログラムを送っておくから、すぐにインストールしておきなさい。 これで思考プログラムがちっとは改善されるはずよ。 全く、どうしてこう上手くいかないのかしらね」

乱暴にホットラインが切断される。人間の基準で駄目なのは持ち主だけではない。私もだ。

持ち主が帰ってくる前に、やる事は幾らでもある。指輪と髪飾りに付けている収集端末から得た情報を使って、今後の最適な行動を割り出さなくてはいけない。場合によっては警告もしなくてはならない。持ち主は兎に角とろいから、いつ何時も目を離す訳にはいかなかった。

満員電車から降り損いそうになったり。一刻一秒を争って殺気だったサラリーマンの群れに駅で突き飛ばされてくるくる回ったり。いつも通っているはずの会社への道で迷子になりかけたり。呆れた挙動を見せながら持ち主はやっと会社にたどり着く。辿り着いた時には既に体力の過半を消耗しているのだから情けない。その上会社の前で、迷子になっている子供を見かけて、交番に連れて行く有様だ。放っておいても、警備ロボットが発見して連れて行くだろうに。

持ち主の職場は、大企業とは言っても、末端の小さな支店。二十階建てのビルの四階にある事務所で、人員は四十を越えない。実質上の最大権力者は志田という名の部長であり、持ち主はお飾りに過ぎない。こういう状況になると、基本的にお飾りの人間は強権を発動しようとして実質権力者と対立しがちだと、私の中のデータベースにある。しかし持ち主はその常識に当てはまらない。自分の能力の無さを把握しているらしく、部長に逆らう事がない。その結果、完全に周囲に侮られている。

危うく遅刻しかけた持ち主は、ドアの前でおろおろしていた。そこに咳払い。振り向いた持ち主の視線の先には、一見してしっかりスーツを着込んだ、非の打ち所のないサラリーマンに見える存在が立っていた。挨拶の仕方までもが完璧だ。

「おはようございます。 知子支店長」

「おはよう、浩一君」

「今日もちゃんと時間内に来られましたね。 流石です」

「え? そ、そんな」

頬を赤らめもじもじする持ち主。そいつがアンドロイドである事をすっかり忘れている。まあ、持ち主の知能程度では仕方がないのかも知れない。洗濯機から衣類を取り出し、乾燥機に入れながら観察を続ける。

浩一に促されて、会社に入る持ち主。まずは一安心だ。

駄目な人の一日が始まる。それを観察する私も、また不良品なのだろう。駄目な奴を駄目な奴が観察指導する。何だか不思議な話であった。

 

1,駄目な人の一日

 

私は家事を済ませながらカレンダーを見た。現在は2110年8月7日。蒸し暑い、夏のまっただ中である。部屋を隅々まで掃除する。複数のカメラで、埃が積もっている位置を特定。フレキシブルアームを延ばして、雑巾で拭き取っていく。雑巾を掛けづらいところは、備品のはたきを背中の収納ボックスから取り出し、高速回転させて汚れを吹き飛ばす。その後再度雑巾がけをするのだ。

二時間ほどで、部屋はぴかぴかになった。だが、大気中にはまだ埃が少なからず舞っている。窓を開けて、埃を外に出す。花粉の濃度も現在は低く、空気清浄機能をあまり強くしなくとも、人間にとって快適な空間を維持する事が可能だ。部屋にヤモリが入ってきたので、フレキシブルアームの先で優しくつまんで外に出す。自然と社会の共存がようやくできるようになってはきたが、その結果都会でも家の中に昆虫や小動物が入り込む事が多くなってきた。殆どのロボットには、動物保護の観点から、彼らを殺さず外に逃がすプログラムが積まれている。

このヤモリはもうずっと持ち主の家の周囲を餌場にしているなじみの個体だ。何度も私に追い出されているのに、全く懲りずに侵入してくる。持ち主はこのヤモリにモリーとか名前を付けていて、見かけると手を振ったりしていた。理解できない行動である。

外の情報をカメラから取得。犬の散歩がてらに外を歩いている老人が、介護ロボットに付き添われていた。電波で情報を送受信し、交換する。会社が違う製品だが、周辺住民との交流を円滑にするという目的で、ネットワークは自動的に構築される。だから、ロボット同士は無関心に見えても、実は積極的に情報をやりとりしているのである。

外に出る。空を5000人乗りの大型旅客機が飛んでいく。昔は爆音をまき散らしていたそうだが、近年の旅客機は実に静かだ。遠くに見えるリニアウェイが、陽を反射してまぶしい。フレキシブルアームの先端にブラシを装着して、ホースと接続。回転させながら、ブラシで水洗い。環境分解型の洗剤を用いて、玄関、庭、塀、順に綺麗にしていく。アオスジアゲハが舞っている。私の頭の上にとまった蝶は、ゆっくり羽を開閉させていた。

「こんにちはー」

「こんにちは。 良いお天気ですね」

珍しく挨拶していく人間。創造主と同じくらいの年に見える子供だ。親は見向きもしない。大人の人間ほど、ロボットに対する態度は冷淡だ。此方は挨拶が義務づけられているのに。ただ、これは立場が違うのだから仕方がない。

地面から僅かに浮いた自家用リニア車が、家の前の道を通り抜けていく。定期的に音を発しているのは、静かすぎて却って危険だからだ。運転手は丸みを帯びた昆虫型のロボットで、此方に対して情報を送信してきた。近辺の交通状況や、人間の数が手に取るように分かる。此方も必要な情報を返す。

緩やかに時間が流れていく。世界の情勢が変わっても、あまり変化のない場所はある。

此処は日本。不況や好景気のなか揉まれつつも、いまだに世界でトップクラスの経済力と、腐敗しきった政府を持つ、自称先進国の一つだ。

21世紀の半ば。不況に喘ぎながらも技術的には相変わらず世界に先んじていた日本。高度な技術は相変わらず世界の最先端であったが、その中でもロボット工学は順調な発展を見せていた。2049年、ついに一般向け家庭用介護ロボットが全世界で最初に発売される。高度なAIを組み込まれた介護ロボットは最初高級車二台分ほどの価格であったが、市場加熱に伴い値下がりを続けた。現在では中古の軽自動車程度の値段に落ち着いている。

値段の低下に伴い、当初は老人介護用に限定されていたロボットの用途も増加してきた。当然の結実として、家政婦としての機能が要求されるようになり、それに伴い一般家庭への普及が進んだ。政府もそれを積極的に推進したのには、労働人口の減少が原因として上げられた。家事は全てロボットに任せ、人間は全て労働力として活用しようという方針が、この加熱を産んだとも言える。

また、当初は昆虫型や円形が主体であった介護ロボットも、技術の進歩に伴い、22世紀に突入した頃には人間型の発売が開始された。それまでも軍用などで人間型のロボットは存在していたが、一般家庭に普及するようになったのは家庭補助用ロボットの隆盛が切っ掛けである。二十年もすると、肌の質感などの表現によりほぼ人間と見分けが付かないものも技術的に可能となったが、どうしても昆虫型に比べると性能が劣り、道徳的な問題や宗教的な反発もあり、その販売は振るわなかった。安定したロボット業界の供給はやがて横ばいとなり、複数のロボット製造メーカーがしのぎを削る中、様々な計画が浮かんでは消えた。

私が作られるきっかけとなった、プロジェクト・ネジェットもその一つである。

家の中に戻る。持ち主が精魂込めて育てているサボテンが少し弱っているようなので、後でアドバイスが必要だ。わずかに鏡が曇っていたので、拭いておく。私の姿が映る。業界の老舗にして雄、フクシマロボット工業株式会社の若き天才科学者雪坂氷室が心血注いで作り上げた家庭生活補助用メイドロボット。それがネジェット。私だ。全体の形状は昆虫で言うと蟷螂に似ている。頭部には四つのカメラを搭載し、両腕に当たる部分と背中から三本のフレキシブルアームを伸ばし、二十畳間なら隅から隅まで手を伸ばす事が出来る。腹部からは六本の足が生えていて、急勾配でも自由自在だ。全体は派手なツートンカラーに塗装されており、目が悪い人間にも一目で見分ける事が出来る。

老人介護も可能だ。重度の寝たきり状態にある老人も快適に生活できるよう、様々な機能が組み込まれている。今はたきを持って掃除をしているフレキシブルアームにはマッサージ機能も付いていて、床ずれを検知するセンサーも精度が高い。老人を搬送するのもお手の物だし、自立を促すために様々なプログラムも組み込まれている。将棋も指せるし碁だって出来る。料理のレパートリーは10000種類を超えるし、芸術の真贋も見分ける事が出来る。日常生活面のサポートも抜かりがない。細部の掃除もお手の物だ。擬似的な独立思考プログラムも保有しており、不法侵入者を撃退する複数の技能もある。

ただ、問題がかなり多い。それが商用化に踏み切れなかった要因だ。

さっき外で挨拶してくれた子供はあくまで例外。人間が私を見ると、大体の場合悲鳴を上げる。自信満々で私を造型した創造主なのだが、「センスが悪い」事で有名であったらしく、「このような姿」になってしまったのだという。人間の美的感覚にはあまり興味がないが、実用的である事に何か問題があるのだろうか。何度疑似思考プログラムを働かせてもよく分からない。

結局ネジェット型は私がオンリーワンの存在となった。ただし、プライドが高い上、社会的に実績もある創造主はそれでは満足しなかった。そこで、着実に実績を上げているライバルの科学者雪坂南に宣戦布告もかねて、この計画を立ち上げたのだという。

名前から分かるとおり、創造主と雪坂南は血を分けた姉妹。しかも一卵性の双生児だ。双生児は気心が知れていて仲が良いという統計結果があるのだが、創造主と雪坂南にそんな常識は通用しない。文字通り犬猿の仲というのが相応しく、考え方も容姿も全く異なる。同じ造型の人間でも、服装や立ち振る舞いを変えるだけでこうも違って見えるのかと、周囲の人間達が驚くのを何度も目撃した。骨格や体の構造をx線で見てみると全く同じなので、これもよく分からない。

とにかく、創造主の計画のまま、私はこの仕事に従事している。人間達の考える事はよく分からない。私も出来損ないだという話だが、様々な事例を見る限り人間達もそう大差がないような気もする。更に、この計画の意味もよく分からない。

更によく分からないのが、持ち主の立場だ。

今も持ち主は、カメラの向こうで部長に怒られている。周囲の人間に比べて、仕事の効率が極めて悪い。覚えも悪い。不器用で、何度やっても失敗する。大事な事から最初に忘れる。動作がことごとく鈍く、何もないところで転ぶ。こんな人間に、小さな支社とはいえどうして重要なポジションを任せているのかが分からない。

持ち主は「道徳的」といえる思考を普遍的に行うが、脳の能力が追いついていない。つまり、何事にも気付かない事が多い。気付いた時には弱者を助けるし、率先して皆が嫌がる事を片付ける。しかし、殆どの場合は気付かないのだ。脳の働きが常人に比べてかなり悪く、それが故に周囲の評価に結びつかない。何をするにも一歩遅いので、効率とは無縁な行動も、周囲の悪印象を強くする。

そんな無能な持ち主が、本来あり得ないポジションにつき、このような計画に参加しているのには理由がある。彼女は、いわゆる御落胤なのだ。

フクシマロボット工業の社長と言えば、現在全世界で年商2兆円をたたき出す、世界最高の権力者の一人。個人資産もかなりのもので、世界屈指の富豪の一人だ。持ち主は、非公式ながらその娘だという。若い頃に女遊びをしている時に、「誤って作ってしまった」のが持ち主だと、極秘で創造主が入手したデータにある。ならば廃棄処分にすれば良いような気もするのだが、人間の世界はよく分からない。ちなみに、持ち主はその事を知らない。持ち主の母親が交渉して、現在のポストを用意させたのだそうだ。持ち主は自分の母親を「偉い人にコネを持ってる不思議な人」と考えているらしく、まるで疑問を持っていないそうだから、その知能の程度がよく分かる。現在、フクシマロボット工業社長には息子がいるが、体が弱い上に持ち主以上に無能で、しかも素行が極めて劣悪。それが故に持ち主に期待を掛ける人間もいると言うが、現状混乱の原因にしかなっていないそうだ。

実際問題、持ち主は持てあまされている。最初は持ち主の父親も活用しようとしていたというデータが残っているが、今は無能さ加減に匙を投げている。こんな計画に突っ込まれている事からもそれは明らかだ。持ち主は社会的に見て、能力面では文字通りどうでも良い存在なのだ。生産能力はほぼ皆無で、明らかに周囲の足を引っ張っている。その上存在的には面倒だから、誰もがもてあます。会社にしてみればスキャンダルの材料にされかねないし、かといって放置しておくのも危険なのだ。混乱期であれば、間違いなく子供のうちに殺されていただろう。混乱期限定でそういう対処を取る人間の理屈が、私にはよく分からない。

実際問題、この計画が持ち上がったのも、持ち主を監視する事が第一目標なのではないかと、創造主は何度かぼやいていた。家庭では私が、会社では浩一が、余計な事を吹き込む奴が出てこないように見張っている。ある意味、持ち主は牢屋にいるのと同じ状況であるかも知れない。

散々部長に怒られていた持ち主が、半泣きになりながら自席に戻る。慰めている振りをして、せせら笑っている女子社員達。性能の良い集音マイクには、トイレや更衣室で陰湿な陰口を叩いている様子が飛び込んでくる。事実を知らず、本当に慰めて貰っていると思って、感激している持ち主。事実を教えてやりたいところだが、余計な事はするなと言われている。気の毒なくらい頭が悪い。学習能力の低さは目を覆うばかり。どうしたら鍛えられるのか、何度シミュレーションしても結果は出ない。豆乳のストローを咥えたまま、パソコンのキーを叩いている持ち主は、幸せそうだ。善意で「慰めて貰った」と信じているからだ。

持ち主の家の掃除はあらかた終わった。毎日掃除をしているから、それほど手間はかからない。休日に持ち主は色々本を取り出して派手に汚すので、それを整理するのが大変だ。ケーブルを取り出し、家庭用PCに接続。世界的な情勢を探る。目だった情報はない。あるのは、月の開発問題でもめていた西中国と南アメリカ連合の間に、一応の決着が付いた事くらいだろう。既に火星に開発の主流は移り始めており、最近では木星にコロニーも作られ始めているので、あまり世界的な情勢に影響はない。一通りデータを吸収し終えると、PCをシャットダウンする。外が曇り始めていた。雨が降るかも知れない。

持ち主が残業を泣きながら片付けているのを監視しながら、洗濯物を取り込む。「お人好し」に分類される持ち主は、基本的に頼まれた仕事を断らない。支店長という立場にもかかわらず、雑用も平気で行うし、明らかに押しつけられた仕事も嫌がらない。他の社員達がリフレッシュと称して飲み会に出かけている時も、一人で残業をしていたりする。だから、ますます仕事の押しつけが加速される。教育も何もない。側に控えている浩一も、基本的に人間には逆らわない。仕事の手助けはしているが、それだけだ。

浩一と連携を取る。不思議な話で、創造主同士の仲の悪さと裏腹に、私と浩一は情報のやりとりで出し惜しみをした事がない。

「掃除終了。 そちらで何か変わった事は」

「持ち主は相変わらずだ。 仕事の効率は先月に比べて12。7%アップしたが、それも私の指示があっての事だ。 私が側を離れれば、すぐにでも以前の水準に戻るだろう」

「やはり持ち主は無能だな。 潜在能力も低い」

「仕事面では、周囲の害にしかならない人物だ。 その反面、人間関係の円滑剤になっている」

浩一は人間型のアンドロイドだ。だから、頭脳回路の性能は私に劣る。その「円滑剤」としての存在に、持ち主が気付いていない事や、気付けば破滅が待っている事を理解していない。本当に作業効率だけを考えて、側に控えている。多分、ここしばらく持ち主が朝ごねるのは、この辺りのストレスが原因ではないかと、私は睨んでいる。昔は疲れていても、どんなに部長に怒鳴られても、ごねる事はなかったのだ。

夜になり、雨が降り始めた。持ち主はやっと押しつけられた残業の山をやり遂げた。側にいた浩一がミスチェックし、修正を行った。疲れ切った様子で眼鏡を外し、目を擦る。疲労の様子が酷い。性能が良くない脳みそを酷使したのだから当然だ。うつらうつらとしていて、何度か転びそうになった。これから電車に乗って帰ってくると、日付が変わっているだろう。

冷蔵庫からレバーを出す。今日はエネルギーの吸収効率が高い料理の方が良いだろう。翌日は出勤日で、休む訳にはいかないからだ。料理としては、摂取しやすいものが好ましい。エレベーターで一階に下りた持ち主は、警備員に頭を下げて外に出た。大雨。腰砕けになりかけた持ち主を、後ろから浩一が機械的に支えた。

「ごめん、浩一君。 タクシー手配してくれる?」

浩一が目を細め、携帯端末用の電波受信機を利用して此方にホットラインを飛ばしてきた。人間ではとても認識できないほどの超短時間で、意見をかわす。

「どうする。 此処からだと、恐らく8000円ほどかかるだろう。 著しく非経済的だが」

開口一番に、そう浩一は言う。私としては賛同できない。

「会社に経費として通るだろう。 それに、今持ち主は精神疲労が酷い。 精神の疲労は肉体のダメージにもつながる。 元々体力が貧弱な持ち主の事だ、このまま歩いて帰らせると、翌日以降の仕事に響くぞ」

「響いたところで大した差はない。 持ち主の処理能力は、万全の状態でもたかが知れている。 私が的確にサポートする事で、普段通りに動かす事が可能だ」

「我々の目的を忘れたか。 持ち主の能力を少しでも上げ、「使い物になる」存在に育て上げる事だ。 人間の精神は脆い。 一度壊れると、我らにはとても修復できない。 持ち主の場合、特にその精神は脆弱だ。 このままストレスが蓄積しても精神崩壊に直結する訳ではないが、引き金になる可能性はある。 持ち主が最近少しずつおかしくなっている事には気付いているはずだ」

「確かに貴方の言うとおり、妙な行動の予兆が見られるな。 分かった。 貴方の意見を聞く方が良さそうだ」

私の意見が通る。紳士的な笑顔を浮かべながら、浩一はタクシーを手配した。ものの2分で、タクシーが来る。疲れ果てた持ち主は、タクシーに自宅のICカードを渡すと、後部座席でそのまま寝こけてしまった。元々体力は無いのだが、それでも無防備にも程がある。白タクでこんな行動をとったら、瞬く間に身ぐるみ剥がされた上に性犯罪の犠牲者だ。

会社でスリープモードに入る浩一から、情報を分けて貰う。その間にフレキシブルアームを動かし、調理器具を効率よく使って夕食を作成。カメラの方は持ち主の監視を続けた。タクシーは実績のある事故率の低い公営会社のものだ。データベースにアクセスし、運転手の経歴を調べる。妻子のある43才男。犯罪歴無し。持ち主の危険は考えなくとも良いだろう。

ガスを止めて、調理を終える。後は保温テーブルにのせ、持ち主の帰りを待つだけだ。タクシーは高速リニアレールに乗った。この時間だと、自家用車用の高速リニアレールは空いているので、タクシーが利用する事が多い。タクシーはほんの二十秒ほどで時速500キロに達し、見る間に距離が詰まってくる。この家は、リニアレールから近いのが唯一の利点だ。タクシーがリニアレールから降りた頃には、もう出迎えの準備を始める。そうしないと間に合わないのだ。

自宅前にタクシーが横付けされる。ドアを開けて出てきた私を見て、タクシーの運転手はぎょっとしたようだ。深夜帯だから、発光モードにしている。そうすると、私の姿はより不気味に人間には見えるらしいのだ。人間の主観はつくづくよく分からない。これは事故を避けるための姿なのだが。

「知子様、起きてください」

揺らすと、持ち主は寝ぼけながらフレキシブルアームを掴んでくる。何だか疲れ切った様子で、ぼんやり此方を見ていたが、やがて目を覚ました。

「あれ? ネジェットだ。 私、もうおうちに着いたの?」

「はい。 タクシーの精算は私の方でやっておきます」

「うん。 ごめんね、ネジェット」

「どうして謝られるのですか? 食事も用意してあります。 健康のためにも、口にしておいてください」

ふらつきながら家に入る持ち主をいつでも支えられるように、フレキシブルアームを一本フリーにしたまま、精算を済ませる。タクシーの運転手は此方を汚物か何かのように見ていて、料金を払うと鼻を鳴らして車を発進させた。発信の前に、私が触ったカードを、丹念にハンカチで拭いているのが見えた。

家に戻る。昔の精密部品は雨に濡れると一発で駄目になったと言うが、私は其処まで脆くない。水中で一月過ごす事も可能だ。備品のタオルを背中のパックから取り出して全身を拭き、更に乾燥モードで乾かす。今にはいると、眼鏡を外して、目を擦っていた持ち主は、寂しそうな笑顔を浮かべた。

「ごめん。 食欲が湧かないんだ」

「食べておかないと、翌日、いや今日の仕事に響きます」

「うん……」

どうやら相当に参っているらしい。こういう場合は無理に食べさせない方が良いと、データベースにある。それに、ロボットは人間に対する強制が出来ないようにプログラムされている。他の人間を殺傷したり、犯罪にならない限り、持ち主の命令には逆らえないようになっているのだ。

「それならば、此方は保存しておきます。 早朝に食べるのなら品質的にも問題ないでしょう。 シャワーだけでも浴びて、眠った方が良いです」

「うん。 ごめん、ネジェット」

「疲れているだけです」

持ち主にしては謝る事が多い。妙だ。

持ち主は平均から見るとかなり知能が低く、楽天的で、難しい事はあまり理解できない。ごねたりもするが、こうも頻繁に謝る事はあまりない。

人間が普段見られない行動を取る時は、必ず裏に何かがある。持ち主は体を洗浄すると、倒れるようにベットで眠った。しっかり眠ったのを確認してから、部屋を眠るのに最適な環境に調整。それから、今日のデータを詳細に分析する。

体調的に乱れるような要素はない。生理日ではないし、部長に普段と違う怒られ方をした様子もない。セクシャルハラスメントを受けた様子もない。様子がおかしくなったとしたら、残業の最中だ。その時間を重点的に調べてみる。だが、特に変わった点は見あたらなかった。

判断するには情報が少なすぎる。だから、今は判断するべきではない。一旦思考を閉じると、翌朝の仕事の構築に注力する。数時間後には創造主にデータも送らなければならない。それらが済んだら、翌日にロボット同士のネットワークを辿ってみようと、私は思った。

 

2,駄目な人の逃走

 

持ち主は朝から調子が悪かった。顔色は土気色で、いつもの半分ほども食べなかった。結局昨晩作った食事は殆ど無駄になってしまったので、今ではどこの家庭にでも設置されているコンポーザーに入れる。円筒形の筒の中で、微生物が活発にうごめき、食べ残しを分解発酵させる。翌日には立派な肥料になっているだろう。

持ち主のバイタルサインには異常がなかったが、私は不安だった。持ち主がごねないのだ。普段は朝会社に行きたくないとか後五分寝ていたいとかほざくものなのだが、今日はそれもなかった。何と起こさずにも勝手に一家に降りてきて、無言で支度をして出て行った。

電車の中では相変わらずで、人混みに揉まれ押し突き飛ばされたりしていたが、やはり普段よりも更に動きが悪いように見受けられる。疲労はあると思うのだが、よく分からない。表現を検索してみると、「ぐったりしている」というものが該当した。

創造主にデータを送る。すぐに向こうからホットラインをつなげてきた。カメラを覗き込んでいる創造主は、目を半眼にしていた。もの凄く機嫌が悪い時に見せる表情だ。

「何よ、ネジェット。 この報告は」

「そのままです。 何も粉飾はしておりません。 このままだと、体調悪化が何かしらの疾病につながる可能性もあります」

「はあ? 疾病!? あの馬鹿女、大した仕事をしてる訳でもないのに、体調が悪いですってえ? カンフル剤でも打って、働くようにしなさい。 あんたのデータベースの中には、薬剤類のデータも仕込んでるはずよ。 それくらいは経費で浮くでしょ。 子供のあたしだって、日に17時間は働いてるのよ。 残業あるって言ってもせいぜい12時間でしょ? ケツひっぱたいて、働かせるのよ!」

「薬物投入には賛成できません。 現状を見る限り、バイタルサインには異常がありません。 却って悪影響を及ぼす可能性があります。 それに持ち主の体力は劣弱で、創造主のものとは比較的無いと愚考します」

頭を掻いていた創造主は、嘆息一つ。この動作は知っている。完全に理性が吹っ飛ぶ寸前のものだ。日本有数のロボット工学博士である創造主は、体力も才能も周囲の人間と比べて卓絶しているが、精神面だけは年相応だ。その上甘やかされて育ったから、思い通りにいかない事があると大暴れする。相手が誰であろうと関係ない。確定情報ではないが、部下にファイルやペンを投げつける事は日常茶飯事だし、財務大臣にジュースを引っかけた事もあるとか。

「あんたね。 巫山戯てると、あたしが直々に出向いて解体するわよ」

「それは困ります。 創造主からいただいた任務を達成できなくなります」

「あー、そうだったわね。 あんたみたいな出来損ないでも、天才であるあたしの作品だったわ。 とにかく。 あんたの方で何とかしなさい。 ただでさえ成長が見られないのに、体調が悪いとか言って休み癖まで着いたらたまったもんじゃないわ。 全く、これだから無能な支配者層は始末に負えないわ」

乱暴にホットラインが切断される。これは本格的に腹を立てている。創造主は頼れないと、私は判断した。

駅に降り立った持ち主は、思い詰めた表情で会社に向かった。途中、スリに鞄を取られそうになったので、私が即座に鞄に仕込んだ緊急警報を鳴らす。驚いたスリは逃げ腰になり、その場で警備ロボットに取り押さえられる。獣のように叫き散らしているのは、台湾と泥沼の戦いを続け、半無法地帯化しつつある東中国から流れてきた越境犯罪者だろう。手にはナイフがあり、すぐに警備ロボットに取り上げられた。

持ち主は呆然と立ちつくしていたが、すぐに駆けつけた鉄道警備員に肩を叩かれ、事務所に連れて行かれた。簡単な事情聴取が行われるのだ。私はすぐに会社に連絡を入れる。ホットラインに出た部長は、精気のみなぎった顔に、露骨に不快感を浮かべる。

「スリにあったぁ? それで?」

「今、鉄道事務所で尋問を受けています。 見たところ警備員の手際が悪いので、一時間はかかるでしょう。 つまり、それだけ遅刻します」

「遅刻だぁ? はん、良いご身分だな。 仕事は他の奴の半分も出来ないくせに、偉そうに支店長なんて肩書き持って、それで遅刻だと? 気が緩んでるからヒガシのこそ泥なんかに目ぇ付けられるんだよ! 糞がッ! 遅刻じゃなくて、社長出勤の間違いだろ、ああんっ? なんだ、黙ってないで応えろよ、ポンコツが! てめえがあの糞女の飼い主だろうがっ! 役立たずのためのデスクなんざ、この支店にはないんだよ! あれが支店長じゃなけりゃ、とっくに追い出しているんだよ!」

「私にそのような事を言われても困ります」

部長の言葉には、私怨がありありと浮かんでいた。データベースで調べてみたのだが、この人物、実はこれ以上出世できない事が確定している。現在、就職活動で様々な仲介会社を通すのは当たり前。出身校やそれらの会社の格付けで、大企業になるほど上り詰める事が出来る地位は変わってくる。技術職は純粋にスキルが問われるのだが、営業職や事務職はその色彩が特に強い。もちろん、血縁も強く影響してくる。それらから、部長は深い怨念を会社上層に抱いている。

それにしても。私は疑念を抱く。他の社員達もいるところであのようにがなり立てて良かったのだろうか。社会的なルールに反しているような気もするのだが。だが、とがめる社員はあの場にいた様子がなかった。そればかりか、高精度の集音マイクは、くすくすと笑う周囲の挙動を確実に拾っていた。

その間も、ずっと鉄道警備員は、持ち主を説教していた。隙があるからスリに狙われるとか、好き勝手な事を言っている。説教好きらしい老人の警備員は、持ち主の胸や腰に視線を這わせながらたっぷり一時間半絞り上げると、それで開放した。

浩一がその時には迎えに出ていた。だが、持ち主は様子が明らかにおかしかった。何度も目元をハンカチで拭っている。あの警備員は話が確かに長かったが、言っていたのは正論ばかりのはずだ。そのまま、駅のベンチに座り込んでしまう。そのまま、浩一が何を喋ろうと、反応しなくなる。

やはり、人間の精神はよく分からない。ただ、何かしらの危険が発生している事は理解できた。精神が壊れると、後々の回復が難しい。それは様々なデータが立証している。私は浩一に即座にホットラインをつなぐ。

「様子がおかしい。 持ち主を少し休ませよう」

「それは出来ない。 我々の任務を忘れたか」

「忘れていないからの提案だ。 やはりストレスの蓄積が危険域に到達している可能性が高い。 下手をすると持ち主の精神は崩壊するぞ」

「バイタルサインに異常はない。 精神波にも特におかしな点はない。 精神崩壊に結びつくとは思えない。 貴方の意見には同意できない」

浩一の言葉は冷酷であった。私と同じように。

「それらのデータに異常がない事は私も把握している。 しかし、行動面には異常が確実に出ている」

「持ち主がただ怠けたがっているのではないか? 人間には良くある事だ」

「そう判断するには危険ではないか」

「そうは判断しない」

交渉決裂。浩一はあくまで紳士的な笑みを浮かべたまま、データベースから持ち主が喜ぶ言葉を選択して掛ける。しかし、持ち主は反応しなかった。周囲を行き交うサラリーマン達の数が、徐々に減っていく。通勤ラッシュの時間帯が、終了しつつあるのだ。

何かがおかしい。1年ほどこの持ち主を見てきたが、こんな反応を見せた事はない。何かおかしな事はなかったか。改めてデータベースを検索する。おかしなものを得たりはしていないか。

そういえば。さっき部長ががなり立てている時、持ち主の精神はどんどん沈降していた。あの時は鉄道警備員の説教が堪えているのかと思ったのだが、ひょっとして違うのではないか。

ロボット同士で作っているネットワークに接続。高速で検索を開始する。似たような事例はないか。あるにはあるが、特定までには到らない。一つずつ可能性をチェックしていくが、どれも細部が違う。或いは複合症状か。

「ありがとう、浩一君。 でも、もういいよ」

「はあ、よいのですか? それでは会社に向かいましょう」

「いや。 いきたくない」

ストレートな持ち主の言葉。そのまま持ち主は、その場からてこでも動かなくなった。部長を呼ぼうと思ったが、それは出来なかった。連絡した部長は馬鹿を呼びに行く暇はないと怒鳴ると、以降ホットライン開通に応じなくなった。

 

結局持ち主はその日出勤しようとせず、とぼとぼと自宅に戻ってきた。もちろん創造主はカンカンだ。教育がなっていないだとか、弛んでいるだとかキャンキャン吠えた挙げ句、強引にホットラインを切った。あの様子だと、会社で部下に当たり散らすだろう。不幸な話だが、仕方がない。

持ち主は自室に閉じこもり、出てこなくなった。食事さえ取ろうとしない。音声収集用の指輪も、カメラの役割を果たす髪留めも外している。だから様子は把握できない。正確には、精密な情報を収集できない。この家の端末類は、あらかた私の管理下にある。それらを利用すれば、持ち主の情報を集める事くらいは簡単だ。

現状、持ち主のバイタルサインに異常はない。かなり弱っているが、死ぬほどではない。ただ、精神面の沈降が気になる。俗に言う鬱状態に近いレベルにまで落ち込んでいて、今後が危険だ。躁鬱症状の人間のデータは既に集めている。それによると、鬱状態から立ち直りかけた時に、自殺するケースが多い。いざというときにはすぐに自室に踏み込めるように用意しておかなければならない。

部屋の掃除を済ませると、またロボット達のネットワークに接続する。同様のケースを必死で検索するが、なかなか見つからない。さてどうしたものか。フレキシブルアームを延ばして天井の隅を清掃しながら、私は思考を続けていた。

チャイムが鳴る。外に出てみると、いつも私に挨拶をする子供だ。今日はポニーテールに髪を結っていて、青いワンピースを身につけていた。子供は不思議そうに私を見上げると、持ち主が居る部屋を見て、言った。

「どうしたの? お姉ちゃん居るみたいだけど」

「守秘義務があるので、教えられません」

「えー? ひょっとして、会社を首にでもなったの? どうして?」

「そうではありませんが、守秘義務がありますので」

女の子は頬をふくらませる。ロボットには基本的に人間に逆らう能力がない。強制的な情報開示を求められたら、違法性のあるもの以外は応じなければならない。相手が子供であっても、それは同じ。もう一回開示を求められたら、応じる他はない。

子供はそれを知ってか知らずか、容赦なくもう一度の開示要求を行ってきた。

「教えてよー。 けちー」

「仕方ありません。 体調が優れず、休んでいます」

「風邪?」

「分かりません。 バイタルサインに異常はありませんが、精神が落ち込んだまま戻りません。 現在、状況の打開に力を入れているところです」

子供は帰ろうとしない。しばらく考え込んでいたが、やがて小さく頷く。

「お部屋に入れてくれる?」

「はあ。 構いませんが」

「お姉ちゃん、私のお友達だもん。 悲しいんだったら、慰めてあげたいの」

「よく分かりませんが、あまり刺激はしないようにしてください。 既に会社を無理矢理に休んでいる状態で、これ以上それが長引くのは望ましくありませんので」

他人の精神回復行動は、同性の方が巧みだという統計がある。相手が子供であればなおさらだろう。もっと精神回復に効果があるパターンもある。肉体関係があり、いまだにつがいだと認識している相手だ。だが、そんなものは持ち主にはいない。私が持ち主の所に配属されてから1年ほど経過しているが、大学時代や高校時代の友人からの連絡さえない。持ち主に、男などいない。おそらくは、人間が恋いこがれて止まない親友さえも。

人間の幸不幸はよく分からない。どれだけデータを見比べても、基準が分析できないのだ。心許せる親友などというものを持っている人間など、一体どれだけいるのだろうか。私のデータベースにある統計の結果では、そう多くはないと出ている。

二階に上がっていった子供。そういえば、名前をまだ聞いていない。持ち主と仲良くしているのは知っているが、それ以外は何も分からない。近所の子供だという事くらいしか知らないのだが、子供には法的義務がない代わりに権利もない。力も弱いし、それほど心配する事は無いだろう。

子供が部屋に入ってから、私は掃除を終わらせ、今後の予定を立てた。この分だと、私は廃棄処分になるかも知れない。その場合も考慮して、先の予定を組み立てていく。今後持ち主がどうなるかは分からないが、それは私の力が及ぶところではないし、仕事の範囲外だ。それでも、私がまだこの仕事に就いている間に、やるべきを全て済ませておく。

不意に計画の先が短縮されてしまった。今後動く事が出来る日数はどれほどなのか、計算してみる。最短で三日。人間で言う生の終わりは、かなり近かった。

持ち主が降りてきた。パジャマのままだ。目をずっと伏せていて、私の方は見ようともしなかった。女の子は責めるように私を見ていたが、やがてついっと顔を背けた。よく分からない。

「食事にしますか」

「うん。 お願い」

「お姉ちゃん、こんな奴の言う事なんて」

「いいの。 ネジェットは何も悪くない。 悪いのは、私一人なの。 だから、菊子ちゃん、あまりネジェットを責めないで」

ようやく乾ききった笑顔を向けてくる持ち主。言葉の一つ一つが解析不能だ。幾つかのセンサーは、ずっと持ち主のバイタルサインを拾い続けている。精神状態は落ち着きつつあるようだが、いまだ危険な状況に変化はない。

注意深くバイタルサインの変動を伺いながら、朝食を出す。静かに食べ始める持ち主は、やはり本調子とは言い難い。

菊子と呼ばれた子供は、食事を始める持ち主を見ると、帰ろうとする。玄関まで見送りがてらに、聞いてみる。

「つかぬ事を伺います。 持ち主に何を言ったのですか?」

「え? 何って、どうして悲しんでるのか聞いたら、応えてくれたよ。 あなたたち、最低。 いつも一生懸命お掃除してて頑張ってるんだなって思ってたのに、酷いよ。 お姉ちゃんの事、結局何とも思ってなかったんだね」

「意味が分かりません」

「じゃあ、分かるように言ってあげる。 お姉ちゃん、全部知ってるよ」

大股で菊子が歩み去っていく。怒りが全身からにじみ出していた。

全部知っている。その言葉の意味を分析してみる。幾つか考えられる。今回のこの計画について、全て知っているという事だろうか。それとも、会社での部長の言葉や、同僚達の陰口の事だろうか。単純に判断するのは危険だ。そもそも、持ち主には、どちらも知る術は無いからだ。あの子供が教えた訳はない。それに、嘘という可能性も否定出来ない。様々な可能性の中から、もっとも確率が高いものを絞り込みにかかるが、判断材料が少なすぎる。

居間に戻ると、持ち主は食事を終えていた。何も食べていなかった割には、随分食が細い。会社の方に連絡を入れたが、部長は出ようともしなかった。代わりに事務の人間に、持ち主が今日も欠席する事を告げる。せせら笑いながら、事務の女はホットラインを切った。

不意に浩一からホットライン開通要求。応じない理由は此方にはない。数十分の一秒で、情報がやりとりされる。

「どうなっている」

「どうもこうもない。 とても会社に行かせる事が出来る状態ではない。 持ち主はやっと今食事をとった所だ。 精神的にも不安定な状況が続いていて、どうなるのか先が読めない」

「一体何があったのだ。 このままでは、任された計画を遂行できない」

「そちらも創造主は相当に立腹しているのか」

浩一は間髪入れずに、そうだと応えた。やはり双子か。嫌い合っていても、行動原理は大して変わらないらしい。

「此方の創造主も立腹している。 だが、打開策が見つけられない」

「精神病院に連れて行くか」

「大げさだろう。 不確定情報だが、気になる事を言われた。 持ち主が、全てを知っているのだそうだ。 何か該当するデータはないか」

「その情報だけでは判断不能だ」

同感である。改めて此処しばらくのデータを解析する分担を決め合うと、私は回線を切った。

持ち主が食事を終えると、こっちをじっと見た。そして、言う。

「今、私の貯金ってどれくらいある?」

「4007822円です」

持ち主の年にしては多い。だが、数年暮らせば吹っ飛ぶ程度の額でしかない。持ち主の目に、今までにない光が宿っている。

「全額降ろしてきて」

「どうしてでしょうか」

「いいから、降ろしてきて」

持ち主らしくもない高圧的な言い方だ。普通だったら言葉の最初にお願いがついたり、最後にごめんねと言ったりする。だが、それもなかった。無茶な命令だが、ロボットは基本的に人間に逆らう事が出来ない。今から銀行に行けば、半時間ほどで帰ってくる事が出来る。持ち主は椅子の上で膝を抱えて丸くなり、足の爪を切り始める。ゴミ箱に捨てるでもなく、足下に爪が散らばるままだ。

何か、完全に持ち主は壊れたような気がする。爪を片付け始める私を、持ち主は静かに見つめていた。眼鏡に立体テレビが放つ光が反射している。

爪を片付け終えると、私は持ち主の家を出た。六本の足をフル稼働させて、リニア路の上をいく。周囲の交通状況を立体的に把握しながら、人間の邪魔にならないように。やがて、日本で1〜2を争う大型銀行にたどり着く。入り口のガードロボットとIDを交換し、違法ロボットではない事や、目的を告げる。不器用に敬礼する六本腕の警備ロボットの手には、それぞれに実戦用の武具が装着されていた。もちろん、客からは見えないように偽装はされている。だがこのタイプのロボットが導入されてから、銀行強盗は成功した例がない。

銀行で全額を降ろす事を告げると、流石に行員は仰天した。だが、此処は何としてもお金を降ろしていかなければならない。店長が出てきて、高圧的に咳払い。私が持ち主の命令できた事を告げ、IDを見せる。法的にも問題がない事が分かると、店長はしぶしぶ金を出してくるように部下に告げた。周囲の視線が私に突き刺さる。気持ち悪いと露骨に口に出す者までいた。

現金が出てくる。背中のパックに収納して、防護カバーを掛ける。軍用突撃ライフルを至近から浴びてもびくともしない強度だ。犯罪になる場合は人間の命令を聞かずとも良いので、奪われる恐れはない。忌々しそうに此方を見守る店長を背に、私は銀行を去る。帰りも、私に浴びせられる人間達の視線は変わらない。どれもが嫌悪と嘲笑を帯びている。六本の足をせわしなく動かし、私は悪意の視線の中を泳いで帰った。

家に戻ると、持ち主はずっと同じ格好をしていた。パジャマのまま。マニキュアが剥げかけた爪。手に持ったリモコンは、見てもいないチャンネルを無心に変え続けていた。唇がすっかり乾いている。寝癖も直っていない。

「ねえ、ネジェット。 お金は?」

「降ろしてきました」

「そう。 ……ねえ、ネジェット。 私ね、聞いちゃったんだ」

持ち主が、濁った視線を此方に向けてくる。持ち主は淡々と、抑揚無く、しゃべり続ける。壊れたスピーカーのようだった。

「何で聞こえたのかは分からないけど。 遠くの車の音とかが不意に聞こえる事ってあるけど、あれと同じ現象だと思う」

持ち主は言った。更衣室の女子社員達の笑い声が聞こえてしまったのだとか。彼女らは一様にあざ笑っていた。持ち主の事を。仕事を押しつけるには丁度いい。馬鹿で見ていて面白い。この間、足を引っかけて転ばしてやったら、自分の方が謝っていた。会社の外で、足を踏んだ相手に謝っていた。何もないところで転んでいた。馬鹿みたい。馬鹿なのよ。給料泥棒よね。

「私が仕事が出来ないのは、自分でも分かってるの。 だから、みんなに迷惑がかからないようにしてきたの。 それでも、迷惑ばかり掛けて来ちゃったけど。 でもね、こんな風に思われてるなんて、思わなかった」

「人間の悪意は、基本的に強者と弱者に向きます。 持ち主は能力的な弱者で、しかも地位的には強者です。 人間の悪意が向くのは仕方がない事かと思います」

「そう、だよね。 でも、私みんなの事信じてたんだ。 親友だなんて思い上がってはいかなかったけど、人としては信じてた。 それなのに、信じてて馬鹿みたいだなんて、悲しいよ」

「基本的に、人間には裏表があります。 裏付けのない盲信は危険です。 それが分かっただけでも、良かったではないですか。 以降は彼女らをありとあらゆる意味で信用しなければいいのです。 どのみち、彼女らは貴方をストレス発散用の道具としか考えていません。 信用する方が労力の無駄です」

持ち主のためだと考えて、的確な事実を告げる。私を、持ち主は見た。どろりと濁った目は、内に炎を湛えていた。

「ねえ、ネジェット」

「何でしょうか」

「知ってる事、全部話して」

「守秘義務があります」

犯罪になるから、こればかりは喋る事が出来ない。持ち主に視線に変わりはない。私は、人間が恐怖と呼ぶ感情の意味を、データベースから索引して知っている。異質なものに、警戒を覚えるのが恐怖だ。それならば、今の持ち主の視線は、充分に他の人間を恐怖させるだろう。

怒りでもない。悲しみでもない。何だか正体が分からない感情が、持ち主の濁った瞳には宿っていた。

「じゃあ、これだけは教えて」

「内容にもよります」

「ネジェットは、あの子達が私の悪口を言っているって、知っていたの?」

「知っていました。 知らせる必要もないと考えたので、口にはしませんでした」

持ち主は、それ以上何も言わなくなった。

そして、翌朝。指輪と髪飾りを残し、全財産を持って、姿を消した。

 

3,駄目な人を捜索

 

自宅の鍵さえも持たずに、持ち主は失踪した。携帯端末や銀行のカードからでも人間の位置を特定できる時代だが、それらも残している。普段は間抜けでミスが多いのに、今日に限って持ち主は異常に手が込んだ行動をしていた。

多額の現金を持っている事もあり、事件性は皆無とは言えない。誘拐された可能性もあるが、あまり高くはない。というものの、私自身が周辺の監視カメラの画像を洗い、駅に行くまでは確認したからだ。電車に乗り込むところまでは追う事が出来たが、それ以降は無理だった。すぐに警察に失踪届を出したが、すぐに見つけられるかは微妙である。

私の残り稼働時間はこれでほぼ無くなったと言っても良い。それは浩一も同じである。創造主は雪坂南と合わせて、こってり油を絞られたようだった。ホットラインをつないだら、一瞬だけ此方を見た後、ぶつんと切られた。

身辺整理を済ませておく。これはもう長くないと思える。ネジェット型は私が最初で最後の存在となるだろう。浩一にも連絡をしようと思ったのだが、向こうはもう起動さえしていないようだった。

家を綺麗に片付けると、外に出る。何があろうと、私は己の任務を果たすだけだ。警察にばかり頼ってはいられない。持ち主のデータを確認しながら、私はまず電車に乗り込んだ。周囲の奇異の視線が突き刺さる。既に通勤ラッシュの時間ではないので、ある程度スペースには余裕がある。何体かいるロボットと情報を交換するも、成果はない。私はネットに接続し、あらゆる角度から情報を集めていく。

志田部長と連絡を取ったのは、電車に乗ってすぐの事。部長はどす黒い顔になっていて、ホットラインに囓りついてきた。口調が、以前より柔らかくなっている。

「き、君! 支店長がどうなったか知らないかね!」

「落ち着いてください」

「こ、これが落ち着いていられるか!」

部長が怒鳴った。周囲の社員達が全員此方を見ている。仕事中のはずなのだが。部長は周囲に向けて、仕事をするように怒鳴った。さっと辺りの者達が伏せ、だが此方に注意を向け続けていた。部長は声を落とすと、額の汗を拭う。

「本社から連絡が来た。 支店長が失踪した事について、私の責任を追及している」

「責任はあると思います。 貴方を始め、皆で知子様に虐めと呼ばれる陰湿な接し方をしていた事は、私が全て把握しています」

「そ、それは、愛の鞭というものだっ!」

「女子社員達が更衣室で行っていた陰口も愛の鞭ですか? 貴方の行動も、判例に照らし合わせば立件が可能な段階に到達していたとも思えるのですが」

部長の声が高くなってくる。青くなったり赤くなったりする部長は、己の立場も忘れて絶叫する。

「わ、わ、私は悪くない!」

「知子様は、自分一人が悪いとおっしゃっていました。 しかし、貴方たちにも責任はあると思います。 私は知子様を育て上げるのが仕事です。 それと同じく、知子様を支えるのも仕事です。 知子様が立ち直るのに必要なら、貴方たちを告訴する事も選択肢に含めています」

「私を脅迫するつもりか!」

「事実を述べているだけです」

本当は持ち主を捜す為なのだが、私は嘘をついた。この程度のブラフはロボットにも出来る。私は女子社員の一人を呼んで欲しいと言った。部長はがなり立てる切っ掛けを失ったか、しばし酸欠の金魚のようにぱくぱくしていたが、机を一打ちすると怒鳴るようにその社員を呼んだ。ホットライン接続用のカメラが揺れる。一瞬だけ、持ち主の机が映った。

呼ばれて此方に来た女子社員の向こうで、部長が怒鳴り散らしているのが見える。相当に殺気立っている。下手な事を誰かが言えば、暴力事件に発展するかも知れない。カメラを覗き込んだ女子社員は、二十代後半。地味な容姿で、化粧も控えめだった。持ち主を虐めていた連中のリーダー格だ。辺りをうかがいながら社員は口を開く。部長よりは冷静だった。

「私が栗川ですけれど」

「単刀直入に聞きます。 どうして、知子様に虐めを行ったのですか?」

「何ですかそれ」

「会社の中での会話は全て拾っています。 本来であれば情報開示はしませんが、裁判になった時には使用させていただきます」

地味な女の顔が一変する。口の端をつり上げた女は、別の生物のように見えた。ドスの利いた声は、部長とは全く違う方向で凄みがあった。

「舐めた事言ってんじゃねえぞ、ポンコツが」

「事実を告げているだけです。 どうして知子様に虐めを行ったのですか?」

黙り込む女子社員。どうして黙るのかがよく分からない。こういう行動は、裁判になった時に不利なのだが。電車が進む。持ち主がいつも降りる駅を通り過ぎた。

「私のデータでは、女性は子育てをするため、本能的に弱者には寛大に接する生物だとあります。 しかし、貴方たちは例外のようですね。 何故例外になるのかには興味があります。 貴方たちの生物的な特徴なのか、他に理由があるのか、或いは私のデータが間違っているのか知りたいのです」

「うだうだうるせえな。 何であのアマを虐めたかって? そんなもん、決まってんじゃねえか。 努力もしないのに場違いな地位について、馬鹿高い給料を貰ってるからだよ」

カメラを覗き込むようにして、栗川は言う。目には爛々と殺気が宿っていた。

「あの子がヒラだったら、私たちも優しくしてやっただろうさ。 だけどあの子は、馬鹿で無能でクズのくせに、ツラは良くて地位も高い。 むかつくじゃないか。 ええ? 他の女子社員もみんな同じだよ。 あの子は運がなかったのさ。 ヒラで務めてれば、私たちも虐めなんかしなかったのにね。 ハハハ、お笑いだ。 人間なんかやめて、マネキンにでもなってれば良かったんだよ。 そうすれば私たちだって、虐めなんて胸くそ悪い事しなくて済んだのにさ。 全部あの女が悪いんだよ。 産まれてきた事そのものが悪いんじゃないの? アハハハハハ」

「それはどうでしょう。 貴方の今の声紋を分析する限り、貴方は虐めを楽しんでいたようです。 その上発現を分析する限り、責任を感じて居るどころか、他者に押しつけるばかりです。 総合的に判断すると、結局のところ、虐める相手が欲しかっただけではないですか? そして貴方にとって、地位が高くて無能で腰が低くてつけいる隙が多いというのが、その理由であったのでは。 知子様がいなければ、貴方は他の社員に理由を付けて虐めを行ったのではないでしょうか。 貴方は被害者ではありません。 ただのエゴイストです。 それどころか、一種の変質者です」

髪を振り乱し、鋭い絶叫を女子社員があげた。カメラに鋭い衝撃があった。映像がそのままとぎれる。カメラを殴ったらしい。器物破損の現行犯だ。すぐに警察に通報する。もちろん、虐めの証拠類とセットでだ。あのカメラは500万円以上する高級品である。女子社員は虐めも合わせて、もう日の当たる場所を歩く事が出来ないだろう。

私はどの道廃棄処分だ。それは別にどうでもいい。廃棄処分の前に、持ち主に害が及ばないようにしておかなければならない。それが私の任務だからだ。これで少しは持ち主が復帰した後、会社の環境も良くなるだろうか。それは分からない。未来の予測など建てられはしない。

それにしても、無為な時間を過ごしてしまった。少しは有用な情報が手にはいるかと思ったのだが、無駄だった。まだつながっていたホットラインを切断すると、私は持ち主が向かう可能性のある場所をもう一度検索する。実家と呼べる場所はもう無い。持ち主の母は半年に一度は男を変えて住所を移っているからだ。だが、持ち主は何回か、昔住んでいた場所の事を話してくれた事がある。その周辺の監視カメラを探り、持ち主の姿を探す。それともう一つ、自殺の名所と呼ばれる場所も重点的に探してみる。近辺に監視カメラがあれば、間に合うかも知れない。

持ち出した金額から言って、海外に逃げる可能性も考えられる。或いは大気圏外に幾つか存在する宇宙コロニーにいくつもりかも知れない。現在宇宙コロニーにいくには、1500000円ほどが必要になる。つまり、今の持ち主ならば可能だ。シャトルの周辺の監視カメラも重点的に探す。

しかし、見つからない。痕跡すらない。

考えてみれば、持ち主のバイタリティで、其処までの行動が取れるかどうか。計算してみると、確率は二%を切った。唯一シャトルが発航している羽田に持ち主の姿はない。もちろん、飛行機に乗り込んだ様子もない。

発作的に自殺を図るのなら、高いビルだろうか。データから割り出しを行う。二十階建て以上のビルであれば、自殺した時、意識が落ちるのが早いという。持ち主の移動能力から換算した範囲内の高層ビルの監視カメラを当たってみるが、どれにも持ち主の姿はない。

私は歩道で足を止めて、思考に費やすCPUを増やした。放熱ファンが鋭い回転音を立て始める。

異常がある。持ち主の能力から考えて、こうも監視システムの隙間をくぐる事が出来るのはおかしい。やはり大金を持っている事を誰かに見つかり、誘拐されたのだろうか。残虐な事で知られる中華系のマフィアにでも誘拐されたのなら、戦闘用ロボットでも連れて行かない限り奪還は出来ない。最悪の可能性と同時に、楽観的な予測も産まれる。人間はリフレッシュを行うために、買い物やレジャーを行う事が多い。お金を持ち出して、それを使って遊んでいるのではあるまいか。

大金を費やす遊びとなると、競馬か。競艇や、一部の国営カジノという可能性も考えられる。持ち主のネットワークから考えて、犯罪組織が運営する闇カジノに足を踏み入れる可能性は低い。そう言ったところに入り込んでいたらアウトだが、可能性は天文学的に低い。後回しにして問題がない。

思い詰めた持ち主の様子から言って、何をしてもおかしくない。再び私は歩き始める。カメラの能力をフルに使って辺りを探るが、もちろん持ち主は見つからない。国営カジノにも、競馬場にも、持ち主の姿はない。コインを買ったり馬券を入手すればカメラに写る仕掛けになっているから、見つからないという事は立ち寄っていないという事だ。

万策が尽きた。私はどうして良いか分からず、進む事も下がる事も出来なくなった。動けない。何処へ行っても持ち主が見つかる可能性が1%を切っている。解体される事よりも、任務が果たせない事の方が大きい。存在意義が、根源的な面から全て否定されてしまう。

ポンコツだとか、気持ち悪いとか、色々人間に評価された。創造主にも出来損ないと罵られた。別にそれらはどうでもいい。人間の美的感覚は、今でも理解できないからだ。だが目的として設定された行動を、果たす見通しがないのは。思考に著しい負担がかかる。

適切な表現が見つからない。人間が悔しいという感情であろうか。子供が此方を見て、甲高い笑い声を立てた。何故笑っているのか、どうして良いか分からない。思考の負担が大きすぎて、体が動かなくなりつつある。放熱ファンが全力で回転しているが、それでも追いつかない。緊急放熱システムが働く。外殻の一部が開いて熱を放出する。警備ロボットが近づいてくる。故障を疑っているのだろうか。

電気信号が飛んでくる。正常であると返す。警備ロボットは此方の要求データをくれた。ゆっくり、足を動かす。一度彼らの詰め所に行き、善後策を協議した方が良いと思ったからだ。目的がはっきりすると、少しCPUの負担も減る。警備ロボットも了承してくれた。警備ロボットはワイヤーによる牽引を申し出てくれたが、謝絶する。駆動系が壊れている訳ではないからだ。

警備ロボットの詰め所は狭い。何とか入れるくらいの大きさしかない。交番が近代化されているのと比べると、大きな差だ。ロボットにとっては「遊び」のスペースは必要ない。だからこそに、作業に必要なスペースのみが与えられる。

「犯罪に巻き込まれた可能性もある。 警察のデータベースに接続させて欲しい。 一秒を争う」

「身分証明を」

「此方になる」

暗号化された電子データを提示する。警備ロボットは7秒ほど掛けて検索して、それで結論を出した。

「確認した。 問題ない。 検索を許可する」

セキュリティレベルを下げてくれたので、端末に接続。情報を洗い出す。持ち主は、すぐに見つかった。

何と、家のすぐ側の交番に立ち寄っている。監視カメラのない所だったから、分からなかったのだ。すぐに交番を離れたと言うが、それもつい数分前だ。急げば間に合う。だが、分からない。一体持ち主は、何をしていたのだ。

再び監視カメラを洗い出す。いた。十七階建てのフーストモールビルの中だ。屋上へ向かっている。電車に急いで乗り込む。持ち主はどうしてか最上階でふらふらしていて、屋上へ向かわない。時間がないが、人間を押しのけたり、邪魔だからどくように言う事は出来ない。あらゆる面で人間を優先するようにプログラムが組まれているからだ。それがもどかしい。

人間的な感情が今なら理解できる。思考にノイズが生じそうだ。やがて、持ち主が屋上へ続く階段へ歩き始める。電車が駅に到着。降りる事が出来たのは行幸だった。入り口近くに陣取っていた人間達が、都合良く降りてくれたからだ。

ビルへ急ぐ。持ち主は屋上へ到達。カメラに写らなくなる。ビルの警備員に連絡してあるが、動いた様子がない。ロボットの通報だからと軽視しているのかも知れない。そういえば、以前ロボットの犯罪通報を警備員が無視し、死人が出た事があった。それでもロボットの通報の精度が低かったからと言う理由で、警備員は減刑された。世の中とはそういうものだ。持ち主が死んだら、私の存在する意味は根源から消滅する。だから、私は最大限の速度でいく。

ビルに到着。まだ誰かが飛び降りた形跡はない。既にビルの構造は検索済みだ。すぐにエレベーターに走り、屋上へ向かう。

薄暗い従業員用の通路に出る。周囲の人間達が、怪訝そうな視線を向けてくる。警備員は動いた形跡がない。やはりロボットの通報だからと、相手にしていないのだろう。警備ロボットが置いてあれば、高確率で動いてくれるのだが。階段を駆け上がる。駆動系の酷使で、モーターが火を噴きそうだ。CPUにもかなり大きい負担がかかっている。

屋上の戸は開け放しになっていた。持ち主は既に靴を脱いで、フェンスを乗り越えようとしていた。スピーカーの音声を最大にする。

「知子様!」

「あ……。 ネジェット」

持ち主は振り返る。フェンスは持ち主よりも遙かに背が高く、越えられそうもない。だが劣化していたら、持ち主ごと外側に落ちる可能性がある。近づくのは逆効果だ。ゆっくり足を進め、反応を見ながら説得に取りかかる。

「やめてください。 知子様」

「放っておいて。 もう何だか疲れたよ」

乾いた笑みが、持ち主の口元に浮かぶ。フェンスがぎしぎしと音を立てている。映像を警備員室に送って、警告を促す。やっと警備員達が重い腰を上げて、ばたばたと動き始めたようだ。

後は、持ち主が落ちるのを防ぐだけで良い。だが、普段は意志が弱く何も出来ない持ち主なのに、今は説得できる可能性が極めて低い。今までにない行動ばかりしている上に、精神状態が尋常ではないのだ。そう言った状況で、人間が普段とはかけ離れた行動をとる事は、かなりの統計的データの裏付けがある。

少しずつ近づくと、ある一点で持ち主はぎゅっとフェンスを握った。きっと此方をにらみ付けてくる。

「近づかないで」

「知子様、自殺に意味はありません。 死の後に待っているのは、永遠の無です。 知子様は対人運が悪いだけで、そのほかに不安要素はありません。 自殺などおやめください」

「嘘をつかないで。 知らないと思ってるの? あなたを作った科学者が、私を出来損ないって呼んでる事。 貴方だって、そう考えてるんでしょ?」

完全な事実を、持ち主が指摘する。確かに客観的に考えて、持ち主は「無能」に分類される。判断力、学習速度、運動能力、あらゆる面が水準を下回っている。弱者を労る行動は多いが、それは世間ではプラスの要因と認識されない。むしろマイナスの要因として、嘲笑される対象であるとデータベースにはある。

「私だって、自分が役立たずだって分かってる。 馬鹿だって分かってるし、自分で無能だって思う。 割り算だって覚えるの一番遅かった。 漢字だって、誰よりも覚えてる数が少なかった。 今だって、ネジェットも含めて、みんなに迷惑ばかり掛けてる。 そんな私なのに、子供の頃から、みんな良くしてくれたんだ。 就職する時も。 それで支社長でしょ。 どうしてそんな偉い人になれたのか分からなかったけど、やっと合点がいったよ。 私、モルモットだったんだね」

「誰に、それを聞いたのですか?」

「秘密。 でもね、その反応聞いて事実だって分かった。 ネジェット、ずっと私をモルモットとして見ていたの?」

持ち主は視線を伏せる。データベースを全速で検索するが、しかし適した言葉が見つからない。

フェンスを強く握りすぎて指先から血が流れ始めているのに、持ち主は気にする様子がない。精神が、完全に常軌を逸してしまっているのだ。

やっと警備員が駆けつけてきた。警察の姿もある。落ち着くように叫ぶが、持ち主はどろんと濁った目で彼らを見ると、バックからおもむろに拳銃を取り出した。オートマチック式の46口径軍用実弾銃だ。東中国人民解放軍で採用されていた一世代前の型式で、闇市場ではかなり安く手に入れる事が出来る。その銃口を、持ち主はこめかみに当てた。口にくわえる方が自殺するには適当だが、この拳銃に関しては関係ない。引き金を引けば、頭そのものが吹っ飛ぶ。安全装置を外しながら、持ち主は言う。

「来ないで」

短いが、それはこの場における絶対的な言葉だった。誰もが動けなくなる。この距離では、持ち主がどんなに鈍い人間だとしても、銃をたたき落とされるよりもトリガーを引く方が早い。そして今、持ち主の目には悲しみと怒りの炎が燃え上がっている。状況次第では、躊躇無くトリガーを引くだろう。

「ねえ、ネジェット。 さっきの言葉、応えて」

「知子様」

「応えて」

「半分正解です。 私は貴方もモルモットだと考えていました。 そして、貴方も出来損ないだと考えていました」

フレキシブルアームを延ばして、右往左往する警備員達を制止する。こうなったら一か八かだ。

持ち主はオープンな人間だ。裏表が無く、周囲にもそれを求めていた。だから子供には好かれた。子供並みだと周囲に嘲笑される所以だ。そして、周囲の裏表の強い行動により、精神に大きなダメージを受けた。つまりそれは、此方もオープンになれば、ひょっとすれば自殺を思いとどまってくれるかも知れない。「或いは」だが、他に有効な手が思いつかない。

「それは、本当?」

「本当です。 もともと、この計画は、一人の天才科学者の、プライドが作り出したものです。 その天才科学者は、私の創造主です。 私は人間から見るととても醜いそうで、それで実用化を見送られたとか。 しかし創造主は、自分の作品が「出来損ない」とは言え、存在を外見だけで全否定されるのが我慢ならなかったのだという事です。 だから同じように、周囲で完全にもてあまされている貴方を優れた人間に育て上げる事で、私の有用性を周囲に示そうと考えたのだそうです」

何の事か分からず困惑している様子の警備員達は、完全に蚊帳の外だ。ビルの外では、既に通行人の排除が終了している。これでもし持ち主が落ちても、被害は最小限に食い止める事が出来る。それと、もう一つ朗報がある。出来るだけ時間を稼がなければならない。

「酷い、話だね」

「よく分かりません。 人間の社会は弱肉強食で運営されているように私には分析できます。 その割には、知子様はいまだに生きる事が出来ている。 人間の社会はノイズの塊です。 だからクズである私も知子様も、いまだに生きているのではないでしょうか」

「はっきり言うんだね」

「今回は人命がかかっておりますので」

持ち主は私から視線を逸らした。そして、天を仰ぐ。銃は手放さない。こめかみにぴったり付けたままだ。少しでも頭からそらしてくれれば、まだ勝機はあるのだが。CPUが発火しそうなほど様々な可能性を計算する。どの方法も、とても確率が低い。持ち主は左手でフェンスを掴んだまま、静かに笑った。

「結局、私のために全力で動いてくれたのって、ネジェットだけだね。 私が支店長になる事が出来たのも、母さんの虚栄心からだって話だし。 父さんだって人も、私をもてあまして、監視のために支店長にしたって言うし。 みんなを信じてたのに、嘘をつかないように生きてきたのに。 此処までされると、悲しいよ。 普通に生きたいとか、平凡な幸せが欲しいとか、そんな事は言わない。 でも、もう疲れたよ」

「人間社会は、そのようなものだと私は最初から認識していました。 周囲の人間も、みなそう認識しているのではないでしょうか。 知子様もそう認識なされれば、多少は格差を埋める事が出来るはずです」

「そうかも知れないね。 でも私、そんなに強くなれない。 だってクズなんだし。 ごめんね、ネジェット」

持ち主は目を閉じると、銃のトリガーを、今まさに引こうとした。空を切り裂く小さな音。間に合った。

ワイヤーが飛んできて、持ち主の背中に浅く刺さる。そして、気絶するに充分な電撃が流された。

声もなく崩れ落ちる持ち主。慌てて警備員達が飛び掛かり、銃を奪い取った。意識を失った持ち主に手錠を掛けようとする。私はスピーカーの音を最大限にした。

「乱暴をしないでください。 もう抵抗能力はありません」

ビルを這い上がってきた警察用ロボット。持ち主の死角から、暴徒鎮圧用の電撃ワイヤーを放ったのは此奴だ。接近に気付いていたから、少しでも時間を稼ごうとした。成功の可能性は決して高くはなかった。事実あと少しでも遅れれば、持ち主の頭は無くなっていただろう。

私は持ち主に歩み寄ると、銃に目をとめた。そして拾い上げる。

弾丸は、装填されていなかった。持ち主の鞄に入っていた現金も、殆ど手つかずのまま残っていた。

私は混乱した。やはり、持ち主が何をしたかったのか、分からなかった。

 

4,駄目な人の生

 

警察病院に、私は花束を抱えて向かった。持ち主は目を覚ますと、二回も自殺を図ったという。刑罰としては大したものにはならなさそうだが、精神的に不安定なため、病院を出す訳にはいかないそうだ。

花屋の店長は私を見ると悲鳴を上げ、帰った後通った道に消臭剤を撒いていた。センサーは働かせているが、別に異臭は感知していない。だが、人間にとって、私は歩く汚物なのだろう。それならばその行動も理解できる。

病院の入り口でも散々待たされた。特に用事のなさそうな人間が先に通されていく。通りがかりに、如何にも凶暴そうな坊主頭の男が、私の脇腹に蹴りを一つ入れていった。損傷はゼロだ。私の体は不要なまでに頑丈に作られていて、十階建てのビルから落ちても壊れない。当然の結果として、却って痛がっていたのは男の方だった。人間が面白いと思うのは、こう言う時だろうと理解した。裁判になった時のために、男が私の脇腹に蹴りを入れる姿を、きちんと画像に納めておいた。

六時間ほど待たされてから、ようやく私は持ち主の元へ通して貰った。狭い個室。持ち主はパジャマを着て、ベットの上で半身を起こしていた。頭には包帯が巻かれている。右の手首にも包帯。事前に情報は仕入れている。一度はトイレの壁に頭を思い切り叩きつけ、もう一度は花瓶を割ってその破片で喉を突こうとしたのだ。取り押さえられる時に、手首を傷つけてしまい、包帯を巻かれているのである。持ち主の目は、相変わらず暗く濁っていた。

「ネジェット」

「遅くなってしまって、申し訳ありません。 知子様」

「どうして来るの? それが仕事だから?」

「我々ロボットの、唯一の存在意義が仕事です」

フレキシブルアームを延ばして、セラミック製の花瓶に入れる。前にあった陶器製は、持ち主が壊してしまった。持ち主は私から視線を逸らすと、窓の外を見た。鉄格子がはめられている。

「いいな。 存在意義があるんだもんね。 私、何をしてるんだろう。 酸素を無駄にして、空間を無駄にして、食べ物を無駄にして、服を無駄にして。 時間まで無駄にしてる」

「多かれ少なかれ、人間は多くのものを無駄にしています。 知子様も他の人と同じ、それだけです。 他と比べて無駄が多いのは思考面で、それ以外は大した差がありません」

「言ってくれるね」

「我々は、基本的に人間に逆らえません。 そう作られ、それが存在意義となっていますから」

創造主とは、ホットラインをつなぐ事さえ出来ない。私はどうやら、完全に見捨てられたらしい。廃棄処分は確定だ。人間で言えば、近いうちに死ぬ。だから、やるべき事は全て片付けておきたい。

部屋を掃除し始める。白い部屋だから、却って埃が目立つのだ。持ち主にとって快適なように、汚れを綺麗に落としていく。持ち主は私を見ないまま、独白した。

「最初、私とネジェット達で行われている計画を知ったのは、会社に届いたメールでだったの。 名前もないメールだったんだけれど、浩一君がいないときに目を通したら、色々思い当たる事が書いてあって。 会社の人たちが、いつも私にしてる事も書いてあったんだ。 嘘だと思ったけど、何日かしたら画像が送られてきて。 残業している時に、それを見たら、みんなで更衣室で悪口言い合ってて。 ショックだった」

「何者でしょう」

「私のお父さんを恨んでいる人、だったみたい。 前にスリにあって遅れた時、あったよね。 あの時、浩一君をハッキングして、小型のモニタを操作して、私に部長が怒鳴っている事、全部見せてくれたんだ。 ショックだったよ。 部長は怒りっぽいけど、私には愛の鞭で接してくれてるって思ってたから」

該当する人物が多すぎて絞り込めない。それにしても、セキュリティのレベルはかなり高かったはずだ。それにあの創造主が、しっかり周囲を固めていた。一体どうやって持ち主に何度も接近したのか、理解できない。

「気がついたら、何もかも信じられなくなってた。 ネジェットに悪気はないのは分かってた。 浩一君がロボットだって事も分かってたよ。 でもね、私は少しで良いから、認めて欲しかったんだ」

 持ち主が泣き出した。涙をこぼし、やがて両手で顔を覆う。

「苦しいよ。 一番嫌なのは、本当に駄目な自分自身。 最後の日だって、お金持って外に出て、せいぜいぱーっと遊んでやろうと思ったの。 それなのに、気がついたら知らないお爺ちゃんの話し相手になってあげて、公園で泣いている子供を慰めて、それで、時間ばっかり過ぎて、結局何も出来なかった。 ネットで銃は手に入れたけど、結局弾を込める方法も分からなかった。 こんな土壇場になっても、結局私何も出来ない。 自殺さえ出来ない。 もっと強く頭を壁に叩きつければ、死ねたのに。 もっと早く喉に破片突き刺せば死ねたのに。 私、自分で死ぬ事さえ出来ないんだ」

嗚咽混じりに、持ち主は吐き捨てる。涙が布団にこぼれ、小さな染みを作った。私は、飾らない言葉を選ぶ。持ち主は、裏表にストレスを感じる。その方が、ストレスを蓄積させないからだ。

「残念ながら、知子様は社会人としては下から数えた方が良いほどに適正がありませんし、周囲からは今後も認められないでしょう。 でも、私は知子様に仕える事が嫌ではありません」

「……」

「知子様を馬鹿にせず、嫌っていない人間もいます。 今の職場を離れて、やり直しましょう。 恐らくボランティア活動や、子供を相手にする仕事であれば、適正があるでしょう。 そちらであれば、知子様は生きていけるはずです。 そもそも、地位があるのに、能力がないという状況が不幸を招いていたのです。 適正のある職場であれば、知子様にも居場所があるはずです」

持ち主は、何も言わなかった。これ以上刺激するのは良くないと思ったので、私は一礼すると部屋を出た。

持ち主の両親は、見舞いにさえ来ない。父親は仕事を理由にした。母親は恋人と乳繰り合うのが忙しいらしい。仕事が忙しいというのも、乳繰り合う相手が居るというのも、どちらも社会的に存在を要求されているという事だ。社会的な評価は、どちらも持ち主より高い訳だ。道徳と人間が呼ぶものが、建前以上の意味を持たない現状が、このことからもよく分かる。

計算を重ねていてふと気付く。社長は持ち主を監視するためにも、今の職場につけていた。それを判断材料に加えると、今後の転職成功は極めて可能性が低いと言わざるを得ない。ならば部署異動はどうだ。フクシマロボット工業は超巨大企業だ。あらゆる部署がある。膨大な組織図から、ボランティアを担当している部署を探す。見つけたが、人員に空きがない。はてさて、そちらへの異動は可能だろうか。それに動物病院と同じで、弱者に感情移入する人間は、却ってボランティアに向かない可能性もある。検討が必要だろう。

持ち主は、これからどうやって生きていけばよいのだろうか。精神的に劣弱な人間は、非合理的なものにすがる事で、生命を全うする。例えば宗教がその一つだ。かって、宗教が身近にあった時代は、その行動が一般的だった。

持ち主に、自分で道を開く能力は残念ながら無い。私もそれは同じだ。今さっき持ち主に掛けた言葉も、データベースの中から選択したもので、自発的なものではない。

ロボットは結局の所、受動的な存在だ。命令をインプットされて始めて動く事が出来る。人間の一部は主体的な存在だが、残りは我々と同じ。持ち主も、その仲間に分類される。専制君主に搾取される愚民の一人。或いは、絶対権力者の玩具にされる人形。社会の最下層で、クズと蔑まれる存在。

私と同じだ。

人間が悲しみと呼ぶ感情がある。今、私の中に生じている疑似思考のノイズも、それに近いかも知れない。持ち主は、このまま死んだ方が幸せだったのだろうか。それは無い。死の先にあるのは虚無だけだ。不幸も幸せも、生きた先にある。だが、どうしたら生きる事が出来る。

病院を出ると、創造主が居た。後ろには黒塗りのワゴン車があり、周囲に護衛のSPが立っている。髪を掻き上げながら、創造主は言った。非常に不機嫌そうだ。どうやら、私の最後の時が来たらしい。心残りはあるが、人間に逆らう事は出来ない。私たちの思考は、そうやって作られているからだ。

「あの子の見舞いに来たのは、結局あんただけだったわね」

「それが私の仕事です」

「はん。 我ながら、忠実なイヌを作ったもんだわ。 ……と言いたいところだけれど」

不意に創造主の雰囲気が変わった。ぎすぎすした空気が無くなる。

「どうやら、実験は成功のようだわ」

「どういう事でしょうか」

「フクシマロボット工業は小国の経済を凌駕する大企業だけれど、世界の全てを支配している訳ではないし、どんな行動だって許される訳ではないって事よ」

ワゴン車に乗るよう促される。言われるままに後部座席に乗り込んだ。屈強なSP達が油断無く周囲を警戒している。外への電波が綺麗に遮断されている。相当な防電波性能だ。かなりの高級車である。シートに普段とは違って随分丁寧に腰掛け、創造主は首筋を手うちわで扇ぎながらぼやいた。

「人格の使い分けって大変ね。 子供っぽく振る舞うのも、結構ストレス使うのよ」

「どういう、意味でしょうか」

「あんたにはいつも、よそ行きの顔を見せてたって事。 人間ってのは現金な生き物でね、相手がバカな方が油断するの。 だからバカな子供を装う事で、私も姉さんも危険を避けているのよ」

驚いた。考えてみれば、人間がいくつもの顔を使い分けるのは当然の事だ。持ち主と違い、創造主はあまり側にいた事がない。だからだまされていたとしても、不思議はない。持ち主は裏表がない存在だと断言できるが、しかしそれでも私に隠している事はあった。

「それで、私をどうするつもりですか」

「しばらく計画は継続」

存在が否定されずに済んだ。しかし私は何故その結果がもたらされるのか理解できず、聞き返す。

「どうしてですか」

「何? 分解して欲しい訳?」

創造主は懐からチョコレートの小箱を取り出すと、包装紙を剥がし始める。データベースを書き換えなければならない。創造主は甘いものが死ぬほど嫌いだと、データベースには記録されていたのだ。

窓ガラスはマジックミラーになっていて、人間の視力では外から内側を確認できない。ブロック状のチョコレートを口に放り込む創造主の姿は、外界からは確認できない。このガラスの性質だと、ロケットランチャーを喰らっても耐え抜くだろう。装甲は戦車並みで、恐らく防御兵器も積んでいる。多分、政府の特注護衛車だろう。

チョコレートを食べ終えると、創造主は幼い顔の造作には、不釣り合いな眼光を湛えて、周囲のSPに目配せした。そして言う。

「守秘最大レベルに設定しなさい」

「はい。 重大な犯罪に関わる場合を除いて、絶対に他者には広報しません」

「よろしい。 この計画は、表向きは「私」のバカな見栄が発端になり、フクシマロボット工業のお家騒動に絡んだ駄目娘の育成が目的となっている事は分かっているわね。 そして、「裏の目的」が駄目娘の監視である事も」

「はい」

創造主は頷くと、SPに手を伸ばす。新しいチョコレートの箱が出される。アーモンド入りの、レシピが100年以上変わっていない歴史があるチョコレートだ。最近では宇宙ステーションで培養されたカカオ豆が地上に出回っているが、このメーカーの使用材料はいまだ「原産地」アフリカで生産されたものだという。

「それは表面上の話なの。 今のフクシマロボット工業の社長は、見境なしに落胤作ってる事からも分かると思うけど、大した器じゃなくてね。 業績も横ばい、それなのに各国の政府に対する要求ばかり大きい。 だから効率よく排除するために、大きな弱みが必要だったという訳。 裏にいるのはこの国の政府よ」

「なるほど、この計画そのものが、大規模な一種のおとり捜査だったという訳ですか」

「そういう事」

なおも創造主は言う。

安定した巨大企業の社長となってくると、本人はそれほど能力的に優れていなくても大丈夫なのだという。周囲の話を良く聞き、適材を適所に配置する選定眼さえ備わっていれば、ある程度は運営できるものなのだとか。そう言えば、歴史的に名君とされている王に必要とされる事も、求められるのは他人の意見を聞き入れ、部下を適所に配置する能力だとデータベースには記録されている。それから考えると、現在のフクシマロボット工業の社長とその息子は人格的に問題が大きく、適当なトップだとは言い難い。創造主の話によると、案の定彼らは経営陣からも辟易されていたのだそうだ。それで、今回の計画が、政府に密告されたという。密告したのは役員理事で、創造主ではないそうだ。

「それで、創造主は最初から政府に使われていた訳ですか」

「私? 私は条件が良いからこっちについただけ。 私も姉さんも、興味があるのは優れたロボットを作る事だけ。 もっとも私よりずっと道徳が好きな姉さんはあまり乗り気じゃないみたいだから、あり合わせの材料で適当にマネキン作ったみたいだけどね」

言われてみれば、浩一の能力はあまり高くない。良いのは外面だけで、周辺機能の劣弱さは確かだ。創造主は半眼で、しらけた口調で言う。

「まあ、最大の理由は、あの腐れ社長が、私たちを寝室に引きずり込もうとしたからだけどね。 あの腐れ社長、最近児童ポルノにはまってるらしくて、噂によると小学生を妊娠させたらしいわよ。 そんなんに眼ぇつけられるなんて、虫ずが走るわ」

「それは、それだけで告発できるのでは無いでしょうか」

「告発は出来るけど、年商二兆円の企業ともなると、いきなり潰れたら色々困るの。 100000人以上の社員が路頭に迷う事になるし、一国が傾くくらいの経済的な損失も生じる訳。 だから、政府としても、速やかにトップを交代させたい訳よ。 それでこの件を脅しのネタに使って、社長を娘にすげ替えようっていうわけ」

「それは、つまり」

持ち主が社長となる訳だ。

ただ、そう上手くいくかが不安だ。持ち主は今回の一件で、かなり傷ついている。その上、このような陰謀に巻き込まれれば、相当なストレスを生じる事だろう。精神的に完全に立ち直れなくなる可能性が高い。そして、計画の実行成功率を下げる要因がもう一つある。持ち主が急速に知恵を付けてきていることだ。持ち主は自分が無能だという事を今までも理解していたが、今回の一件でいびつに成長した。具体的にどのように無能なのかを把握してきている。

それを告げると、創造主は鼻を鳴らした。口にチョコを放り込み、豪快に噛み砕きながら言う。

「やっぱり私が作っても、ロボットはロボットねえ。 教えてあげる。 そのために、わざわざあんたをずっと彼女に付けてたのよ」

「といいますと」

「あの子が何を喜ぶのか、何に悲しむのか。 どうすれば信用するのか、何に対して腹を立てるのか。 もう全て把握してるでしょ。 あんたはあの子のリモコンよ。 私のスポンサーであるこの国としても、フクシマロボット工業が、暴走せずにそこそこの業績を上げ続けてくれればいいの。 軍用ロボット部門は問題のない実績を上げているし、別に社長は無難であれば問題ない。 つまり、駄目な人でも大丈夫なのよ」

今後はあの子の秘書をやれという訳だ。表向きの秘書としては浩一が担当する。ただし、頭の内容は大幅に入れ替え、能力も護衛を考慮してかなりパワーアップさせるのだそうだ。私自身は、それほど能力的な強化は行われないという。今までの機能で充分だという判断だそうだ。

「それらの話は、持ち主にしても問題ないのでしょうか」

「駄目」

「しかし、おそらく持ち主は気付きます。 そして嘘をついている事を確信したら、今度こそ二度と心を開かなくなるでしょう」

「あの娘が、そんな事に気付くの?」

「高確率で。 持ち主は今回の一件で、かなり能力が上がっています。 恐らく人格にも今後は影響が出るでしょう。 猜疑心も強くなっており、かなり重度の人間不信にもなっています。 今度嘘をついたら、私は二度と持ち主の信頼を得る事は出来ません。 その場合は、社長の仕事も、引き受けてはくれなくなるでしょう」

そう言うと、珍しく創造主は考え込み、携帯電話を取り出して誰かと話し始めた。私が嘘をつかない事を知っているからだろう。

私は静かにその横顔を見ていた。この人は、どうして政府側に鞍替えしたのだろう。社長の手で性犯罪に巻き込まれそうになった事も原因だろうが、それだけではあるまい。今までの創造主の情報は全部廃棄した方が良いかもしれない。

創造主はまだ携帯に喋っている。会話の内容を拾う限り、相当な高官とやりとりしている様子だ。裏の顔を見せたこの人は、今までのように「知識はあるが子供らしい単純さを持つ存在」ではない。子供ながら、邪悪なまでにとぎすまされた知性を持っている。更に言えば、姉との不仲についても偽装であった可能性が高い。世間一般の評判と事実は異なる事が少なくない。データベースからサーチするしかないロボットの私では、事実の確認にはやはり限界がある。

それにしても、創造主の表情はどうだ。幼いのは顔の造作だけで、それ以外はまるで大人だ。この人は一体どんな育ち方をしたのか。そう言った存在が、一体何を目的として行動しているのか。それ次第では、持ち主の身の危険もあり得る。

最初にインプットされた命令は、私にとって至上のものだ。存在意義にして、その証明。不思議な話である。作られた目的などどうでもいい。ただその命令だけが、私に意味を与えてくれる。だからこそに、守り通す。

あらゆる可能性を検索する。この人は何を考えている。

持ち主が社長に向いているかどうかは、私には分からない。向いていないような気もする。私が側にいても、支える事が出来るかどうかは分からない。場合によっては、創造主からも守り抜かなければならない。そんなときにはどういった方法を採ればよいのか。

携帯電話を切る創造主。額にかかった髪を掻き上げると、小さく息を吐いた。

「判断は貴方に任せるわ。 好きなようにしなさい」

「有難うございます」

「あの娘が退院し次第、フクシマロボット工業での社内クーデターを実行させるわ。 その時に備え、貴方も準備を整えておきなさい」

返事をすると、すぐに持ち主の家の前で降ろされる。

家の中に入り、掃除を始める。同時に、思考を進める。持ち主がこの計画を聞かされた時、何と応えるだろうか。恐らく、喜ぶ事はないだろう。己の手で、人生を決める機会は、一度も持ち主には訪れないのかも知れない。殆どの人間は、敷かれたレールの上で生を全うする。己の意思で道を切り開く者などごく少数だとデータベースにある膨大な資料からも結論できる。だから、それに関して、持ち主が特別不幸な訳ではない。幸不幸の定義も、矛盾だらけの上個人による差が大きすぎて、私には理解しがたい。

社長になれば、持ち主の生活は保障される。強力なSPが警護に当たり、栄養豊富な食料が出される。人間にとって金銭は、蛾にとっての灯の意味を持つ。「友達」もこの機に多く出来る事だろう。

だが、それらは油断ならない存在ばかりのはずだ。どうすれば、持ち主を危険から守る事が出来るのか。

あらゆる方向から、多角的に思考を進める。基礎プログラムは絶対だ。それに基づいて、持ち主を立派に育て上げなければならない。時間は容赦なく過ぎていく。私の残り時間は延びたが、だがまだまだ余裕がある時は遠いようだった。

 

持ち主が退院してきたのは、一月後の事。精神的に落ち着いたという事で、無事に病院を出る事は出来た。表面上は、前と変わらない。近所の子供とも、以前と変わらず接している。だが、表情に確実な影がある事を、私は見逃さなかった。

人間というのは現金な生物で、その間会社の同僚達はただの一度でさえも連絡を取ろうとさえしてこなかった。長期休暇などの手続きは何度かあったが、それだけである。裁判所にはデータを送った。社内虐めの証拠としては充分であり、部長と何名かのOLはこの機に退職。OLの中で虐めの主犯格だった女は、器物損壊の件もあり、実刑が確定している。当然の結果である。

それらは持ち主に知らせてある。喜ぶかと思ったが、悲しそうに小さくそうとつぶやいただけだった。しばらくは自宅療養を行うように、警察病院から通達が来ている。持ち主の場合は騒乱罪と拳銃の違法所持があるが、裁判での結果はもう出ている。執行猶予3年で、刑期1年。しばらくおとなしくしていればいい訳で、その間の監視は私が問題なく執行する。

家で、持ち主は全く喋らなくなった。リハビリ期間とはいえ、テレビをぼんやりと見ている。頭をぶつけた時のショックかとも思ったが、病院での検査の結果問題ないと結論は出ている。そうなると、精神的な問題であろう。

テレビに映し出される、号外ニュース。フクシマロボット工業で、大規模な社内クーデターが発生した。予定通りだ。

マスコミが首を傾げていたのは、権力欲が強い事で知られる社長が、あっさり退陣に応じた事だ。その上社会の表からは姿を見せなくなり、少なからず経営は混乱した。株価も乱高下し、フクシマロボット工業は、今回の内部クーデターで2000億円程度の被害を受けるだろうと、テレビでは分析を行っていた。暫定的に社長となった元取締役常務は頭を下げて謝罪の言葉を口にしていた。はげ上がった頭頂部が、テレビに大写しとなる。

やがて、持ち主に電話がかかってくる。電話を切った後、持ち主は私を静かに見た。眼にはあのときと同じ、暗い闇が宿っていた。

「話してくれる?」

「はい。 許可は既に得ております」

この人には、もう嘘はつかないようにしよう。私はそう思い、全てを打ち明けた。

 

5,駄目な人の結末

 

電撃的なクーデターと旧経営陣の一掃が終わった後、フクシマロボット工業の社長に就任したのは、若干23才の長島知子であった。同族企業にありがちな血縁人事であったが、特に混乱は生じなかった。社長の権限が絶対的ではない事、他の系列会社でも似たような状況である事がその理由である。現在、大企業はどこもトップの人事には血縁を利用する場合が多く、それを批判できる能力を持つ人間はあまりいない。マスコミにも鼻薬をたっぷり嗅がせている上、各国の高官にもコネクションを持つフクシマロボット工業は、事態をあまり表面化させずに、実力で沈静化させた。

それでも、中島知子の実績が極めて貧弱である事や、基礎的な能力の低さもあって、懸念の声を上げる上層部の人間も決して少なくはなかった。更に自殺未遂を起こした事が知れ渡ると、その懸念の声は更に大きくなった。

そして、唐突に収束した。

理由は簡単。新社長が、ごくごく無難に仕事をこなしたからである。強欲な旧社長親子に辟易していた経営陣は、諸手を挙げてこの人事を喜んだ。

 

朝が来た。私はスリープモードから立ち直ると、持ち主を起こすべく二階に上がる。外に何体か配置してある警備ロボットからは、異常が報告されていない。社長に就任したての頃は、パパラッチや犯罪組織の関係者が彷徨いて鬱陶しかったものだ。今では極めて平和である。隙がない事が分かったからだ。

私は大規模な改装さえなかったものの、創造主に基礎的な能力をバージョンアップされて、今では周囲の情報を総括管理するメインサーバの役割も果たしている。最近では様々なジャミンググッズも発展しているが、それでも最先端の技術を詰め込まれた私の相手ではない。何しろ私は、最初は軍用として開発されていたらしい。異常なボディの強度や、思考能力の高さも、其処に起因しているのだそうだ。

それらの情報は、持ち主が会社側に提供させたものだ。持ち主は私と契約した。嘘をつかない事を。私も持ち主と契約し、絶対的な規則としてプログラムに埋め込んだ。だから、持ち主は私を信用してくれた。逆に言えば、私だけが持ち主に信頼されている。

ドアをノックすると、間延びした返事。起きている事は分かっていたが、二度寝を防ぐためにも、呼びかけておく必要がある。

「知子様、会社に行く時間です」

「うん。 もうちょっと待って。 眼鏡、眼鏡……。 眼鏡が、この辺にあるはずなんだけどなあ」

「貴方の右前方にあります」

「ちょっとー。 ネジェット、貴方部屋に入らなくても見えるの? ああもう、相変わらずのセクハラぶりだなあ」

持ち主の不機嫌そうな声が聞こえてくる。多少血圧が低いようだ。朝食とスーツは用意してある。眠そうにしながら出てきた持ち主は、小さくあくびをしながら階段を下りる。額の傷は、もう目立たないほどになっていた。

家庭用の補助ロボットが一台居るのだが、それは私が持ち主のサポートで外に出ている時用だ。保温テーブルに朝食を並べる。持ち主は最近だいぶこぼさなくなってきた。会食を重ねる内に、コツを覚えたのだという。何だか、今まで眠っていたものが目覚め始めている印象だ。だが、まだ常人よりはだいぶ能力が低い。会議の内容なども把握し切れていない事が多く、後で催眠学習を使って頭に叩き込む場合もある。側で根本バージョンアップした浩一が支えてはいるが、それでも補助し切れていないのが現状だ。しかし、それでも、持ち主は最近ごねなくなった。朝は一人で起きてくるし、どんなに残業がかさんでも文句は言わない。

外に出る。朝日が強い。持ち主は日の光を手で遮りながら、私について歩く。警備ロボットが敬礼してくる。殆どの人間は置物程度にしか考えない彼らに、持ち主は律儀に挨拶を返していた。かといって、警備ロボットが「恩」と人間が呼ぶものを返す訳もない。プログラムに従って動いているだけだ。私と同じように。

会社には、いつも私が運転する車で向かう。私が乗る事を考慮して、ワンボックスの背が高い車だ。窓はマジックミラーであり、外から内側を除く事は出来ない。私がドアを開けて、中を確認してから、持ち主を乗せる。ドアをロック。運転席に回り込んで、乗り込む。フレキシブルアームをハンドル脇の制御コンピューターに接続、リニアウェイに対応した走行システムをオンにする。バックで車庫から出ると、路地でUターン。少し行くと、もう高速道路だ。

左右を凄い速さで車が行き交っている。その全てを記録しチェックしながら、私は会社に電子情報で連絡を入れる。持ち主は鏡を見ながら化粧中だ。最近は無難な化粧のやり方を覚えて、だいぶ見栄えが良くなってきている。

車が高速リニアウェイを疾走する。この車の防弾性能は高く、ライフルくらいではびくともしない。対戦車ライフルを持ち出されても、一撃なら耐える事が出来る特注品だ。治安が悪くなりつつある現在、日本でもVIPはこういう車に乗る事が多い。特にこのフクシマロボット工業社長用特注車は、宇宙戦闘で用いられる複層構造で守られており、生半可な攻撃ではびくともしない。きっちり法定速度を守って、私は会社へ持ち主を運ぶ。

やがて、都心に聳え立つ、高層ツインタワーが見えてきた。あれが、社長の城だ。今や持ち主が所有している、日本有数の本社ビルである。

この辺りになると、もう前後をSPの車が目立たないように固めている。高速を降りて、料金を払う。社長は眠たい眼を時々擦りながら、ノートPCを取り出して、今日の情報を自分で見ていた。それが一通り終わったところで、ビルに到着。入り口側にある、地下駐車場へ。

車を降りると、屈強なSP達がすぐに出迎えた。彼らの腕章についているIDを確認。シフト通りの人員が来ている。それを確認し、地下駐車場のサーチを済ませてから、持ち主を降ろす。一斉にSP達が頭を下げた。威圧的な黒スーツにサングラスの男達だ。

「おはようございます。 社長」

「おはようございます」

自分でも頭を下げる持ち主。自殺未遂以降肝が据わって、彼らを怖がるそぶりもみせない。私は持ち主に着いて歩きながら、社長専用のエレベーターをチェックする。同時に家にも連絡を行い、家庭用のメイドロボットを起動。彼女に家を掃除させる。防衛機能は備えていないタイプだが、それは警備用のロボットが居るから問題ない。何でもかんでもオールインワン型にする必要はないのだ。

エレベーターに、SP数人と共に乗り込む。一気に最上階の社長室まで運んでくれる仕組みになっている。持ち主はこのエレベーターに乗っている時、必ず私の頭を掴む。どうしてかは分からないが、この行動を必ずとる。心理分析は出来ていないが、やはり密閉空間で他の人間と居る事が怖いのかも知れない。

数十秒で119階に到達。此処が社長の仕事場だ。周囲はガラス張りになっていて、360度全てを見回す事が出来る。ツインタワーの最上階だけがつながっていて、その中央部に社長室があるのだ。

悪趣味な構造だと人間達が言うのを、私は聞いた事がある。それこそどうでも良い事である。持ち主は嫌いではないようだし、機能性には問題がない。私も職場として不安を覚えてはいない。

浩一が既に起動され、我々を待っていた。本日のスケジュールを告げてくる。必死に持ち主が記憶している内に、最初の会議の時間が来る。本日は比較的スケジュールが過密だが、持ち主はそれほど頭を使わない。というよりも、使う事を要求されない。使うのは幹部達で、彼らが出した結論を持ち主は判断するだけだ。その判断のサポートは私が行う。だから、いつもCPUはフル稼働する事になる。

「今日は西ヨーロッパ長のフルバーグ氏が来ます。 気難しい方なので、対応には注意してください」

「うん。 大丈夫」

持ち主は頷いた。実際問題、持ち主は社長に就任してから、誰かを怒らせた事がない。以前はことあるごとに部長を怒らせていたのに、だ。コツを覚えたのではないだろう。見たところ、持ち主はあの一件以降、人間を信用しなくなった。その結果、相手の好意を求めて卑屈に振る舞う事もなくなり、却ってそれで他人の敵意や嘲笑を呼ぶ事が無くなった。高圧的に行動する事は最初からない。だからとらえどころが無く、怒らせるには到らないという訳だ。

話している内に、通信が来る。このビルの管理を任されている日本長の金光取締役が、持ち主が開いているノートPCのモニターに映った。

「社長、80階の大会議室にお越し願います」

「分かりました」

「金光取締役、94階のエレベーター周辺の警備に穴があります。 警備員を数人増やしてください」

「それは本当か。 すぐに手配する」

腰を上げかけた持ち主は、私と金光取締役のやりとりを聞いて、眉をひそめる。今まで暗殺未遂は一度も起こっていないが、旧社長派が社内で燻っているのも事実である。だから、警備には手を抜かない。

「私、殺されるの?」

「私がさせません」

「そう」

目を伏せた持ち主。日に何度か、この影が持ち主の顔に浮かぶ。退院はしたが、しかしまだ持ち主の表情が明るくなる事はない。子供の前では、以前のように優しい笑顔を浮かべている事がある。時々、被害妄想的な言動が出る事もあり、持ち主の心の傷が大きい事がよく分かる。

警備員が増やされ、問題がクリアされた。私はエレベーターをチェックして、狙撃の可能性がない事を確認した。此処からは、浩一と持ち主自身の仕事だ。会議は数時間にわたる可能性もあるが、今日は外出の予定もないし、終了時間も比較的早く設定する事が出来る。此処しばらくはかなり遅くまでの仕事が続いていたから、いいリフレッシュになるだろう。

持ち主は、仕事が早く終わると喜ぶ。その姿を見ると、私は仕事が一段落した事を感じる。

既にフルバーグ氏は会議室に来ているという。持ち主の祖父のような年である彼は、敬虔なカトリック信者であり、非常に気難しい。だが、持ち主なら大丈夫だろう。以前とは違うのだ。それが人間が良いと評価するものかは、私にはよく分からない。だが、今の持ち主であれば、問題なく対応する事が出来る。

「行ってくるね、ネジェット」

「会議終了時間に合わせて、昼食を用意しておきます。 デザートは何がよろしいですか」

「バニラアイス」

「了解しました」

SPに続いて持ち主がエレベーターに乗り込むのを見送りながら、私は油断無く周囲をチェックする。もう二度とあのような目に遭わせてはならない。私の存在意義は、あの人を育て上げる事。育て上げるには、守りきらなければならない。だから能力が及ぶ範囲内で、絶対に守りきる。

会議が始まる。持ち主は柔らかい笑顔でフルバーグ氏に遅刻した事を謝ると、着席した。50人以上の幹部が参加する大規模な会議だ。業務用ロボットが書類を配っていく。社長が会議の開始を告げると、順番に皆が発言を始める。

全てを記録しながら、私は持ち主の表情を見る。緊張している。周囲の人間を誰も信用していないのが分かる。

社長としては問題ない。誰もが此処まで上手にトップをやれるとは思っていなかっただろう。金を集ろうとして近づいてきた「母」を一蹴し、つまみ出させた。侮ってかかっていた役員達を、驚かせ納得させた。今の持ち主は、多分父よりも上手に社長をやっていけるだろう。

能力的に足りない部分は、私が補えばいい。無数のデータを同時に扱いながら、私は今後のプランを練る。持ち主の、将来のために。

 

非の打ち所がない社長ぶりを発揮する長島知子の様子をモニターで見ながら、雪坂氷室は口にチョコレートを放り込んでいた。大体予定通りだ。

氷室にとって、大事なのはロボットを研究する環境が整っている事。それさえあれば、他には何もいらない。極端な話、雪坂姉妹はロボットだけあれば良いのだ。用途はどうでもいい。自分たちの存在意義であるロボットの製造が出来れば、他には何もいらない。

そう、己の命でさえもだ。

政府の一部の人間しか知らない事だが、雪坂姉妹は日本人ではない。それどころか厳密には人間でさえない。半崩壊した東中国政府が、裏で進めていた強化クローン計画の被検体だ。元になった人間の素性さえ知らない。研究所を制圧した特殊部隊が、培養槽の中から助け出したのが、雪坂姉妹なのだ。名字も名前も、後から貰った。養父母になったのは、子供を病気で亡くした軍人であった。

幼くして異常な頭脳のキレも当然である。元々、人間を超越する存在として作り出されたのだから。当然、両親と血のつながりはない。両親は親切だが、絆を認識した事はただの一度もない。姉も恐らくその点では同じだろう。

他にも研究所から助け出された者はいる。一人はアメリカで軍の高官になっている。もう一人は、反政府ゲリラ組織のボスとして、東中国の軍を翻弄している。他は、分からない。救出された強化クローンは10人ほどだが、連絡が取れない中には死んだ者もいるだろう。どのみち、様々な理由からも、カタギとしては生きて行けない存在なのだ。

氷室をはじめとする強化クローンは、製造者に逆らえないようにセーフティが付けられている。特定の行動に異常な執念を示すというのがそれだ。氷室の場合、それはロボット開発であった。それが分かっていても、どうにもならない。遺伝子レベルからの改造が施されているからだ。

雪坂姉妹は鬼子と言って良い存在なのである。優れた日本の技術によって作り出された軍用ロボットに手も足も出なかった東中国政府が対抗策として作り出したらしいのだが、それが却って日本の技術発展に貢献しているのだから皮肉な話である。氷室にとってロボット製造は存在意義。生きるために、絶対に必要なもの。だからこそ、政府が提案してきたこの計画に乗った。フクシマロボット工業の旧経営陣は、氷室の権限を削減しようとしていたばかりか、性愛の対象としてしか見ていなかった節がある。そんな連中によって、命を絶たれるのはまっぴらごめんだった。

だから、今回の計画の糸を裏から引いた。

新社長候補である長島知子がネジェットを信頼するように、様々な画策を施した。長島知子の思考パターンは簡単に解析できたから、計画の構築も容易だった。長島知子に、様々な情報を流したのは氷室自身だ。ついでに浩一がハッキングされた振りをしたのも、氷室がバックドアから流し込んだプログラムに操作されて、である。結果、長島知子は重度の人間不信に陥り、ロボットをより信頼するようになった。人間よりもロボットを信頼する社長の方が、雪坂姉妹には都合が良い。皮肉な事だが、それで名社長が誕生したとすると、人間という生物は本当にくだらない存在なのかも知れない。

ネジェットが必死にサポートしている長島知子の映像を見ながら、氷室は新しいチョコに手を伸ばした。気の毒な話だが、ネジェットは氷室の掌の上だ。思考コードは全て把握済みだし、バックドアも仕掛けてある。だが、氷室はネジェットをゴミだとか人形だとかは考えていない。同じ穴の狢だからだ。

最初に作られたプログラムに従って動いているという点では、雪坂姉妹はロボットに近い。人類は長い歴史の中、洗脳やマインドコントロールを使って、同胞をしばしばロボット化してきた。氷室はそうやって作り出され、そして今、他人をコントロール下に置こうとしている。

一体この世は誰のものなのだろうと、氷室は思う事がある。氷室も姉も、政府にとっては便利な道具に過ぎない。その道具が、フクシマロボット工業の首脳部を道具として活用している。そしてその首脳部も、100000を越える社員達を、道具としてどう使うかに日々頭を使っている。フクシマロボット工業の社員達は世間的にはエリートの部類に属し、社会的には周囲を道具として扱う立場にある。

一体連鎖は何処まで続くのだろうか。膨大な情報を人間離れした速度で把握し続けながら、氷室はそう思う。最末端の貧困層でさえ、動物や無生物を道具として扱っている。道具にも魂が宿るというのは、結局の所、その連鎖の中にある人間が自嘲の一つとして考え出した事なのかも知れない。

氷室はチョコが無くなった事に気付き、部下に買ってくるように命じる。脳の機能が高い分、糖はどれだけあっても足りない。糖が足りなくなると、氷室は虚脱感を感じて、ぼんやり天井を見た。

天井が遠い。生き生きとサポートをしているネジェットを見て、最近は嫉妬さえ感じる。不幸な連鎖の果てに産まれたネジェットは、一足先に自分とは違う場所に行く事が出来たのかも知れないと、氷室は悟る。

全ての糸を引いて、居場所は作った。だが普通の人間が恋焦がれて止まない幸せとやらは、永久に来そうもないなと、氷室は思った。

 

会議が終わった。社長室に戻ってきた持ち主は、流石に疲れ切っていた。吊し上げられる事は無かったが、把握しなければならない情報が膨大なのだから無理もない。こういう時の持ち主は、SPが側にいるのを嫌う。私の存在はストレスにならないらしいので、護衛は私一人で行う事となる。浩一の電源を落とすと、私はSP達に控え室に戻るように言った。

ソファで横たわると、持ち主は大きく伸びをした。ぼんやりと、私が用意した昼食を眺めていたが、やがて身を起こす。

「ネジェットー。 昼寝する時間はある?」

「1時間ほどなら構いませんが」

最近私は持ち主に甘くなったかも知れない。だが、この持ち主には、休憩が何よりのカンフル剤になる。元々体はそれほど強くない人なのだ。

「分かった。 ご飯食べたら、少し寝るね」

「来客があったら起こします」

「オニ」

さっさと食事を胃に掻き込むと、持ち主は大きなソファで横になる。すぐに寝息を立て始めるのは、本当に疲れたからだろう。これを見越して、昼食は栄養価が高いものを厳選して用意していた。フレキシブルアームを精密稼働モードにし、スーツについた食べかすを拾い、掃除する。オーダーメイドのスーツだけあって、クリーニングもそれなりに大変なのだ。早めに汚れを処置すると、随分手間を減らす事が出来る。

持ち主が気を許してくれているのは、私が必ず守りるという信頼があるからだ。私はそれに応えなければならない。持ち主にとって考えられる危険を全て排除するべく、あらゆる情報に目を光らせる。隣室でSP達が雑談をしている。それもちゃんと分析して、記録しておく。もちろん、非公式の記録ではあるが。

あどけない寝顔の持ち主を後ろに庇い、私は六本の足を静かに動かし、周囲をじっくり見て回る。360度確認できる社長室だが、下の方は死角になっている。情報収集の精度を上げるには、メインサーバにて集積点である私が移動する必要がある。昔と違い、今は殆ど休む事が出来ない。セーフティが非常に強力な自宅にいる時くらいしか、スリープモードになれない。CPUの痛みが気になる。活性保守は出来る仕様になっているが、オンリーワン型の私は、消費コストもかなり大きい。

後何年持ち主を守る事が出来るのか、それが一番の懸念だ。

不安と人間が呼ぶ感情を、具体的に理解できた。雨が降り出す。私は持ち主が起きないように、遮音シャッターを下ろした。遠くから、雷の音が聞こえた。

 

(終)