クロスロード

 

序、クロノヘイズ

 

セプレンセス東北部。セプレンセスで最も時代の流れが遅い場所といわれる其処は、一方で動乱の起爆点でもあった。大した規模でもないのに、大乱の引き金になった事で高名な、〈スルラの乱〉が起こった場所である。

旧時代の名残が根強く残るこの土地は、本格的な戦国乱世に突入したのも遅い。セプレンセス東部に覇を唱えるラグラドール=バルテスと、セプレンセス中央部の覇者鬼王ことカール=ルヴァイトンが最新技術と高度な戦術を駆使して全面戦争していた丁度その頃、ようやく小勢力が中規模勢力に成長し始めていた。無論武器や技術の流入も遅く、旧式の武器がいまだ大手を振って働き、これといって高名な英雄もいなかった。

しかし、それらは過去形になりつつあった。この地方にも、ついに英雄と呼べる存在が出現したのである。

彼は地元の小勢力の領主であったが、若干二十五才にして、周囲の五つの勢力を併呑、一躍大勢力に成長した文字通りの英雄である。治世は巧みで、戦に関しても天才的。二十数度の戦いに、いずれも危なげなく勝利している。幼い頃に病で片目を失ってはいるが、それは彼の活力を奪う要因とはならなかった。

一方で、彼はやり方が厳しく、部下達や敵には畏れられてもいた。とにかく頭が切れる男なのだが、その過剰な厳しさは狂気すら孕んでおり、敵対組織の所属者を虐殺した事も一度や二度ではない。幼い子供や戦に関わりない女性を殺した事もある。ただ、治世が非常に巧みである事や、実際に大きな成果を残し続けている事が、その血なまぐさい事象に蓋をしている状態であった。その辺りは、あの鬼王と、非常によく似ていた。狂気は天才に共通するアキレス腱だが、彼には間違いなくそれが備わっていたのである。

彼の名はコーホール=ユッシェル。ゼダイ地方を根拠地とする、通称セプレンセス東北部の鬼王であった。膨大な覇気と野心を有する若き独裁者は、今日も戦場に立ち、台風の目となり猛威を振るっていたのである。

 

ゼダイの街の一角、そこに静かな闇があった。ゼダイは優れた政策を幾つも取り入れた結果、この地方で最も発達した街であるが、急激な成長は当然軋みも産んでいた。街の周辺部には、掘っ建て小屋が立ち並び、そこはスラムと化していて治安も悪い。ただし、総合的に見てゼダイはこの地方でももっとも治安がいい都市で、弱者への保護政策ももっとも充実していた。それすら追いつかない勢いで、都市が発展しているのだ。闇があったのは、そんなスラムの中に立ち並ぶ、掘っ建て小屋の一つだった。

「……嘘だろ……オイ」

小屋の周囲を、数人の屈強な兵士達が囲んでいる。呆然と呟いたのは、小屋をのぞき込んでいた、彼らの指揮官だった。

小屋の中には死体があった。数は六。それはただの死体ではなく、コーホール軍でも最強の精鋭達のなれの果てだったのだ。小屋の中では、戦った跡があった。戦って、殺されたのだ。しかも、たったの一人を相手に。現場の状況からそれを悟った指揮官は、しばし考え込んだ後、出来るだけ声を落ち着かせて、部下へ言った。

「城へ戻って、すぐに上様にご報告しろ」

「はっ!」

血生臭い世界で生きてきた彼らである。死体など見慣れている。しかし、たった一人に殺された精鋭六人の死体などと言うものは、もはや未知の領域になる。六人はそれぞれ、ナイフで急所を一突きにされていて、殆ど即死状態だった。

こんな事が出来る使い手など、セプレンセスにも数えるほどしかいない。有名どころで言えば、フリーのSPリレイ=オーバーフレイや、シュターイタール家が抱える諜報集団〈ハトリ〉の長ルーフ=ハトリなどがそれに当たるが、彼らは今コーホール家に敵対していないし、何の関係すらもない。今敵対している組織の所属員で、そんな事が出来るものと言えば。

男の背筋に寒気が走った。思い当たる者がいたのである。

セプレンセスで活動している団体に、古代の思想を受け継ぐ集団がいる。〈大国による小国の侵略は悪である〉という信念の元に、最新の科学技術と、様々な独自の戦闘術を抱える技術集団、〈クロノヘイズ〉。

現在コーホール家が圧迫している小国ユインズミィール家に、クロノヘイズが荷担したと、指揮官は聞いていた。クロノヘイズには有名な科学者や技術者が何人も所属しており、その一人、格闘戦闘術に関してはセプレンセス一と噂される暗殺者がいるのだ。殆ど伝説的な存在であるが、もしその者が、コーホール軍に牙を剥いたとしたら。

震えが止まらなくなった。男は頭を振って弱気を追い払うと、部下達を促して城へ戻った。いや、城へと逃げ込んだ。これから彼は、しばし眠れぬ夜を過ごし続ける事となる。

そして、最悪な事に、彼の想像は的中していたのであった。

 

1,若き独裁者

 

「このーうつくしきーはるのそらー、それはーただー、ただすずしくーやさしくー♪」

脳天気で、音程がはずれていて、それでいながら何処か心が温まる歌声。大きな戦が何度も起こり、人々の心が荒みきっている東北部セプレンセスで、それは響いていた。周囲の者は、驚いたように歌声の発生源を辿り、ごく若い娘の姿を発見する。娘、リレイ=オーバーフレイは周囲の反応に全く興味を示さず、ただ歌い続けていた。

セプレンセスで、最強のSPとして知られる彼女は、今ゼダイに向かっていた。今回の雇い主はコーホール=ユッシェル。セプレンセス東北部で、急激に勢力を拡大している、いわゆる一方の雄である。

リレイの後ろについて、黙々と歩いているのはランディ。リレイの弟であり、主に狙撃を担当している。リレイが担当しているのは、接近戦全般と頭脳労働。二人はこのセプレンセスで最強のチームの一つであり、いつも完璧なまでに息が合っていた。

この地方は、セプレンセスでも有数の穀倉地帯であり、周囲には水田と畑が延々と広がっている。馬車の轍が残る道は、それらから孤立した、ただの線のようにも見えた。その細く、他者と隔絶された場所の上を、リレイとランディは行く。ここ数日、ずっとそれを続けていた。呑気に歌いながら、スキップ混じりで歩いていたリレイが、不意に足を止めたのは、その終わりを意味していた。

とぎれていた。牧歌はそこで終わっていた。

畑の海の中に、街という人工物が不意に出現していた。それは人工物でありながら生物であり、今も刻一刻と大きくなり、精力をみなぎらせているのだ。力強く、だが粗野で、侵略者でもある。畑や水田を少しずつ食いつぶしながら、それは声なき咆吼を上げ、見ている今も少しずつ大きくなり続けていた。

「これはまた、随分とまあ厄介そうだわ」

目を細めてリレイが言ったのには、幾つも意味があった。この街を作った人物の、巨大で計り知れぬ人柄を感じ取った事。街自体が複雑で、誰かが潜むにはもってこいだと言う事。そして、そんな場所で、戦わねばならぬ相手の事を考えて。

 

姉について歩いていたランディが、不意に声をかけられた。彼は寡黙であり、自主的に喋る事はほぼ無い。姉に話しかけられて応じるのと、仕事上での会話が、口から出る音声の殆ど全てを占めるほどだ。たまに苦言を言う事もあるが、これは殆ど義務感にかられての事である。

「そういえばランディは、フェンリルと戦った事がないんだっけ?」

「ああ」

「そう。 じゃあ、丁度良いわ。 今からいっとく」

近くの、丁度休むに良い小高い丘へランディを導きながら、リレイは背負っていたリュックを降ろし、座りながら開けて中身を取り出す。

「会ったら速攻で逃げる事。 悪いけど、戦い方に関係無しに、今のあんたじゃ何やっても勝てない」

「それほどに強いのか?」

ランディの言葉に、僅かばかりの畏怖が籠もった。無理もない話である。リレイの名はセプレンセスに轟いているが、それはそれにふさわしい実力を持っているからである。ランディも一対一ではたいていの相手には負けないが、姉にはとても勝てない。その姉が、途轍もなく強いと口にしているのである。畏怖が籠もるのも、無理はない話であった。

銃器が発達したこの時代、今リレイが口にしたことがどれほど凄いかは言うまでもない事である。格闘戦闘術の大家であるリレイでさえ、防御や牽制には積極的に拳銃を用いるのである。そんな情況において、拳とナイフで伝説となった存在。その強さは、確かにどこか、たがが外れていると言っても良い。

リレイは仕事に必要となる荷物を確認すると、続いておもむろに弁当を取りだし、食べ始めた。その旺盛な食欲に呆れつつも、自らも弁当を空け、ランディは言った。

「姉さんは、今まで何度か戦っているのか?」

「仕事で戦ったのは今まで三回。 そのうち、直接対決したのは二回」

「結果は?」

「ん。 一応、仕事の上では三度とも勝ってる。 ただ、直接対決した時は、どっちも決着がつかなかった。 というよりも、かなりやばかったかな。 ランディ、おかわり」

「太るぞ……」

呆れた声で言いながら、ランディはおかわりの弁当を姉にさしだした。見る間におかわりの半分ほどまでを胃に掻き込みながら、リレイは続けた。

「太ってもいいし、てか太らないし」

「……」

「で、今回も交渉は任せる。 出来るだけ良い条件引き出しておいて。 後、言うまでもないけど、城の中の情況は調べ尽くしておいてね」

「姉さんは?」

弁当に入っている卵焼きを箸で突き刺しながら、リレイは弟の問いに応えた。

「街を探ってくる。 多分、二日くらいは城には行かないから、そのつもりでいて」

この言葉だけで、ランディは如何に厳しい戦いが始まろうとしているか、悟っていた。

 

ゼダイ城へ赴いたランディは、雑然とした街の中央に立つ巨大な建造物を見上げ、一瞬だけ息をのんでいた。建物の堅固さといい、構造の理にかなった様といい、周囲の群雄とは比較にならない。兵士達の統率も士気も高く、城の前に現れたランディには、すぐにライフルを持った兵士が誰何してきた。

城主の書状を見せ、城の中に通されたランディは、周囲を念入りに探った。城の作りはごくオーソドックスだが、基本を忠実に守る事により、堅固さを作り出す事に成功していた。屋根にしかれた瓦も良く磨かれており、板張りの床も丁寧に拭かれている。襖は絵よりも頑強さと機能性を優先しており、だが最低限の美しさは維持している。

城の材質は時代と共に様々に変化を続けてはいるが、構造自体は昔も今もあまり変わってはいない。理由は、城の壁を突破出来るほどの火器がまだ無い事、長距離からの正確な狙撃がまだまだ難しい事、などが挙げられる。分厚い城の壁を突破出来るほどの火器や、或いは高空から攻撃する兵器などができはじめたら、話は別になってくるのだが、それはまだまだ先の話であり、現在はまだ城に大きな戦略的価値がある。また、如何に近代兵器を要していても、堅固な城はそれの攻撃に容易に耐え抜くのだ。最近、鬼王の軍が曲射軌道を描く迫撃砲を開発し始めたが、まだまだ実戦投入にはほど遠いし、それがあっても城を簡単に攻略出来るわけではない。

城の内部にある各部屋は、それなりに小綺麗ではあったが、華美さを現実に優先させてはいなかった。実戦をあくまで想定した作りであり、美しさは二の次である。それらを見回しながら城内を案内されたランディは、やがて依頼主の元へと通された。

依頼主は、噂通りまだ若かった。だが全身から発する気迫や、根本的な気配が常人とは全く異なっていた。彼は部屋の中で、籠に入れた小鳥を愛でていたが、部下の言葉と共にランディへ振り向いた。

背は中肉中背。髪は長く、背中で二回束ねて、後は垂れるに任せている。美男子というような顔立ちではないが、精力的で、何より一度見たら忘れない存在感の強い容姿である。隻眼にかかった眼帯も印象的だが、それを全身から滲み出させている威圧感が上回っている。どちらかといえば細面だが、靴音高く歩み寄ってくる様子には、巨漢が走り寄ってくるよりも遙かに大きな威圧感があった。

ランディは、こういった雰囲気の持ち主を他に何名か知っている。高名すぎるあの鬼王、東部セプレンセスの覇者ラグラドール=バルテス。いずれもが、英雄といわれる者達である。依頼主、コーホール=ユッシェルは、ゆっくり口を開いた。まだ若いのに、とても落ち着いた声である。だが同時に、強烈なまでの、爆発的な激しさもそれは内包していた。漏れた言葉は、言語の形をした炎だった。低温ではあったが、確実に炎の性質を内包していた。

「君がリレイ=オーバーフレイか?」

「いえ。 自分は彼女の弟の、ランディ=オーバーフレイです。 何年か前から、姉は自分とコンビを組んで仕事をしています」

「ほう。 それで、何故君だけが来たのだ?」

「姉に、交渉と下調べ、情報収集を任されました」

静かで淀みないランディの返事を受けると、コーホールは笑った。静かに、だが品定めをするように。

「くっくっく、なかなかの女傑と見えるな、その娘は」

「……」

「いや、気を悪くしたら謝ろう。 では、早速部下に現在判明している情報の提示、それに交渉を行わせよう。 余はこれでも忙しいのでな」

後は声を発する事もなく、コーホールは手を一振りし、ランディは別の少し小さな部屋に通された。以前交渉したセヤもある意味手強い相手であったが、今回の相手は若くして英雄と呼ばれる、百戦錬磨の猛者である。この時代の有力者は皆そうだが、特に英雄と呼ばれる者は腹の底が知れず手強い。多少緊張しながら、ランディはコーホールの部下を待った。

やがて現れた部下という男は、コセイロウと名乗った。この男も若いが、コーホールの親衛隊長を務めているのだとも名乗った。ランディも話に聞いてはいたが、この国の幹部は、主君を始めに、本当に若い人間達で構成されているらしい。とすると、その強さと強靱さは想像を絶する。コセイロウはかなりの男伊達で、荒々しい若武者であった。発している気配自体が、何度も修羅場を潜ってきた猛者のものだ。少し長細い顔には、大きな向かい傷が走っており、あまり幅が広くない顔を斜めに横切っていた。

「では、こちらの情報を提示させて貰う。 その前に、貴公の腕が見たい」

「と、いいますと」

「貴公らを呼んだ理由など当然分かっていると思うが、確認させてもらうぜ。 つまり、俺達の手には負えないからだ。 情けねえ話だがな。 要するにだな、最低限でも俺達より有能な事を見せてもらわねえと、殿を護る仕事なんかとてもじゃないけど任せられねえんだよ。 バカたけえ金も払ってる事だしな」

そういって、コセイロウはかあと口を開いて笑った。肉食獣そのものの笑いであった。ランディはこの程度のこけおどしには全く動じないが、無理難題を仕掛けられるのではないかと、多少不安は覚えた。

「何をしてみせればよろしいでしょうか?」

「うちの精鋭をのしてみて欲しい。 方法はとわねえ」

「……いいでしょう」

手持ちの道具を確認して、立ち上がりながらランディは言った。その程度なら、何とでもなる事であったからだ。

「ただし、兵士達には口止めをお願いします」

「そうだな、その方がいいだろう。 分かった、其方は任せろ」

 

城の中庭には、既に兵士が待っていた。当然のように実戦装備で、腰には拳銃をぶら下げ、手にはライフルを持っていた。ライフルの型式は少し古いが、この辺りでは充分に一線級で扱える名銃だ。兵士が腰にぶら下げている拳銃も同じである。兵士は細身ではあるが、一目で歴戦の強者と分かる。ベレー帽を目深に被っていて、性別は分からない。

周囲を一瞥した後、ランディは言った。中庭には木が植えられていて、幾つか身を隠すのに丁度良い茂みもある。無論本格的に隠れるのは無理だが、一瞬だけ隠れるには申し分がない。

「本当に、方法は問わないのですね?」

「ああ、勝てるものならな。 言っておくが、そいつはつええぜ?」

両者の距離は十五メートルほど。合図と同時に、兵士は銃をあげ、発砲してきた。狙いはまさしく正確無比。ランディは姉ほど巧みにではないが、相手の攻撃を見ながら体を横にずらし、第一撃をかわす。兵士はライフルを慎重に構え、即座に第二撃を放とうとしたが、次の一手はランディが早い。彼は更に大きく横にずれ、側にあった茂みの中に逃げ込んだのである。同時に数発の煙玉が場に投げ込まれ、煙が周囲に充満した。

「ほう……」

「ちっ!」

コセイロウが感嘆し、兵士が舌打ちした。兵士は右手でライフルを構えたまま、腰を低くして接近戦に備える。煙は周囲に充満したまま、数秒が過ぎた。兵士の斜め後ろで物音がしたのは、その直後だった。兵士は振り向き、ただ石が転がっているのを見て、舌打ちしてライフルを振り返りざまにぶっ放す。石は陽動で、隙を見せた瞬間正面から来ると考えたのだ。しかし、ランディはその裏をかいた。兵士が発砲した瞬間、彼の後ろの茂みから飛び出し、一息に地面へ組み伏せたのである。ランディの手には既にナイフがあり、兵士ののど元へ突きつけられていた。わずかの間の攻防であった。

「そこまで。 へえ、やるじゃねえか」

コセイロウがにやつきながら拍手をした。兵士が女性である事に気づいたランディは、左手で押さえていた相手の手首を離して、コセイロウに向き直った。

「試験は合格、ということで構いませんね?」

「ああ。 で、貴公の姉貴は、本当に貴公よりも強いんだな?」

「比べものになりません」

「……それは心強い。 正式に仕事を頼むぜ、SPさん」

豪快に笑うコセイロウであったが、地面に倒された兵士は未だ立ち上がらず、半身を起こしたまま、ランディを睨み続けていた。

 

2、緒戦

 

リレイは新しい街に赴くと、まず最初に必ず武器屋へ赴く。今回もその行動に変動はなく、彼女は真っ先に、街で一番大きな武器屋へと足を運んでいた。そして、五分で店を出た。

品揃えが中途半端すぎるのである。確かにこの地方では最良といっていい品揃えをしているのだが、一方でそれはセプレンセス中央部では二線級の品々ばかりなのだ。かといって、リレイ好みの粗悪品など一切存在せず、彼女を退屈で死にそうにさせるには充分であった。もともと自分に正直なリレイは、仕事以外で退屈な事には耐えられない。小さくため息をつくと、リレイは心の中で呟く。

『あーあ。 折角だから、マニアックな武器も揃えればいいのになー』

近くの軽食屋で、パンを山ほど購入すると、それを囓りながらリレイは歩き始めた。粉っぽいパンはとても美味しくて、先ほどのイライラが帳消しになった。そのままリレイは、ゼダイの街を散策し始めた。無論、楽しく歌いながらである。奇異の視線を浴びても全く気にしない。

「よるはー、くらくてー、でもほしのうみー。 つめたくー、でもー、きれいなー」

リレイの下手な歌が響く街は雑然としていた。新しい街という雰囲気が全体から発散されており、十年前の姿が全く想像出来ない。活力と粗野さが入り交じり、作られるモノが古いモノを押しつぶしていく。壊して作り、壊して作り、壊して作り、また壊して作る。

パンを囓りながら、リレイは急ピッチで街の構造を頭に入れていったが、今までのどの街よりも難儀だった。何というか、まだ一貫性が見られないのである。機能性を持たせようとしているのは分かるのだが、それに街自体が追いついていない印象だ。国主の実力が図抜けて高いため、彼が伸ばす国力に、首都たるこの街がついて行けていないのであろうか。いや、或いはこの都市が属する、時代そのものが。

途中で買った地図に目を通しながら、リレイは街の片隅にある公園へ足を踏み入れた。片隅に設置されているベンチに腰を落とし、素早く地図に様々な情報を書き加えつつ、リレイは腕組みしていた。コーホールが立てこもっているゼダイ城の構造は文句なく、今回、街からの狙撃はあまり気にしなくて良い。如何にクロノヘイズが優秀なスナイパーを要していても、城にいるコーホールを狙撃するのはほぼ不可能だ。今リレイは街の各所を見て回り、それを確認した。雑然とはしているが最低限の事は考えられており、城を狙撃出来そうなポイントは街には存在しないのだ。となると、城に侵入してきたフェンリルを迎撃するしかない。相手が狙撃手を要している以上は、まずは如何に城に入れさせないかを考え、そして奴のアジトを叩く事を次に考えねばならない。十三個目のパンを口に入れ、半ばから千切って噛みながら、リレイは顔を上げた。

「こんにちわ。 久しぶりね」

其処にいたのは、均整の取れた肢体を持つ女性。糸目で柳眉な、繊細な印象を受ける存在である。体も細く、とても戦えそうには見えない。更に言えば、リレイはこんな顔の人間など知らない。しかしこの存在が誰かは分かっていた。

「わざわざ挨拶に来るとは、ね。 どういう風の吹き回し?」

「気紛れよ」

「相変わらずねー。 どうせクロノヘイズに入ったのだって、そうなんでしょ?」

「少なくとも大義名分は立つでしょう?」

かっての性質は兎も角、今のクロノヘイズはお世辞にも良い組織とは言えない。大国の小国に対する侵攻にケチをつけるのは結構なのだが、見境無しというのはあまり褒められた姿勢ではない。悪政を敷く小国もあるし、疲弊し民を苦しめるばかりの小国もまたしかりなのだ。しかし彼らの思想は兎に角口当たりが良いので、民衆にも支持者が多いのは事実だ。弱者イコール正義と考える人々のなかに、特に支持者が多かった。

目の前にいる女性に、リレイは肩をすくめて見せた。ベンチに座り、荷物を抱えている態勢だが、全く緊張は見せない。

「有名になりすぎるってのは、お互い大変だよね」

「全く同感だわ。 私は楽しく戦う事も出来ないし、貴方だってそうなんじゃないの?」

「残念。 其処は違うかな。 私は戦い自体よりも、自身の道を貫く事に生き甲斐を感じているから」

「うふふふ、相変わらずね。 安心したわ」

理論をくみ上げて戦うリレイに対し、目の前にいるこの女性は、自分の感性のまま戦う存在だった。人間レベルの知性を得た猛獣といっても過言無い。しかもその戦闘能力は、並の猛獣を遙かに凌ぐのだ。

神を飲み込む魔獣の名。天の狼フェンリル。セッカース文明古代神話の、最強最悪の魔物の名。それがこの娘のあだ名だった。本名は彼女と戦って生きている数少ない存在であるリレイも知らない。

空気が爆ぜた。一瞬前とは雰囲気が完全に変わった。鳥が一斉に飛び、公園から離れる。リレイが地図を横にどけると、其処にはハンドガンを握った手があった。セッカース文明の誇る最新式にて現在至高といわれる名銃、PPK1094である。笑顔を崩さないまま、リレイは言った。

「で、任務を諦める気は?」

「あるわけないでしょう?」

全く動じず、フェンリルがにんまりと笑みを浮かべた。次の瞬間、その体は銃口の先から外れていた。同時にリレイも地図をはねのけてベンチから跳ね起き、横っ飛びに跳んだフェンリルを追撃する。だが、再び銃口を合わせるより早く、フェンリルは弾かれたように間を詰め来、リレイの右手を掴んだ。同時にリレイは相手が接近してきた力を利用して鳩尾に膝蹴りを叩き込もうとした。二人が弾かれたのは、ほぼ同時だった。

「腕は衰えてない、みたいね」

「お褒めに預かり光栄だわ」

右手を押さえながら不敵に笑うリレイ。フェンリルは飛び離れる瞬間、筋を切ろうとひねってきたのだが、致命傷は避けた。ただ、痛みは充分に残っていた。一方でフェンリルには、膝蹴りを叩き込もうとしたが、空いている右手でガードされた。しかし敵右掌に膝を痛烈に叩き込んでやりもした。フェンリルは軽く右手を下げて、口の端をつり上げた。

「今回は必ず殺るわよ」

「……させるもんですか」

今フェンリルが立っているのは、公園の入り口を背にした場所で、発砲はまずい。向こうには通行人が何も知らず歩いているからだ。そして相手がこの存在である以上、立ち位置をずらす暇など簡単に与えてくれるはずもなかった。だいたい、右手にしびれが残っている現在の状態で、確実に当てる自信はない。

再びフェンリルが間を詰めてきた。ゆらゆらと掴みづらい動きで距離を詰めると、根本的に違う速度で、首を狩るように左ハイキックをかけてくる。凄まじい負荷に、空気が鳴く。動きは一秒ごとに速度が異なり、兎に角掴みづらい。ハイキックをかわしたリレイは、本能的に、弾かれるように飛び退いた。同時に、彼女がいた地点、しかも頸動脈があった所をナイフが通過していた。ナイフは乾いた音を立てて街路樹に突き刺さる。ハイキックをする瞬間、フェンリルは左手の袖からナイフを出し、手首のスナップだけで、恐ろしいほどまでに、正確に打ち込んできていたのだ。リレイは飛び退いた地点で、バネのように体を弾かせ、今度は自分から間を詰める。そして、低い弾道から滑空するように迫り、足首を狙ってローキックを叩き付けた。一瞬早く体勢を立て直したフェンリルは、間一髪でそれをかわし、一瞬木を背にする。その瞬間を狙っていたリレイのハンドガンが火を噴いた。二発、弾丸が空を斬る。そして、木へと突き刺さっていた。リレイはしびれの残る右手を左手で支え、正確な狙いを可能にしていたのである。

常人、いや並の使い手では想像も出来ない超高速での立ち回りは、それで一旦終わった。銃声が響いたため、周囲で騒ぎが起こったのだ。弾丸が掠めた頬を手の甲で拭うと、フェンリルは笑みを浮かべた。リレイも、右肩を押さえていた。今の瞬間、フェンリルは信じがたい事に、ぎりぎりの回避行動を取りながらナイフを放ってきていたのである。それはリレイの肩を掠めて、浅く服と皮膚を切り裂いていた。死を怖れないと言うより、これはもはや恐怖を超越している。それにしても、戦闘を考慮して丈夫な生地を使っているのに。投げられたナイフは何処にでも有る市販品だというのに。フェンリルの実力が如何に凄まじいか、僅かな事象だけでも嫌みなまでに伝わってくる。

「じゃ、またね。 ごきげんよう」

くすくすと笑うと、フェンリルは公園の外へ飛び退き、見る間に街の中へ消えていった。リレイも自身の損害と、ナイフに毒が塗っていなかった事を確認すると、素早くパンと地図をまとめ、人が集まり始めたその場を後にした。

 

街の何カ所かはスラム街化していた。急速な発展のつけが、その場所には集まっていた。税を納められない者や、孤児やホームレス、それに犯罪者などが住む貧しい地域。ただ、他の国のスラムに比べればまだまだ全然ましで、リレイの視線の先では、どうやらブッディール教によるらしい炊き出しが行われ、子供や老人が群がっていた。ブッディール教特有の、髪の毛をそった頭が陽光を反射している。施しを受けた何人かは、手を合わせてブッディール教の神を称える言葉を唱えていた。多くの流派を持ち、非常にすそ野が広いこの宗教は、一部カルト的な性質を持ってはいるが、政治に関わりさえしなければ、まずまともな宗教だと言える。

炊き出しの横を通り過ぎると、リレイは一旦小高い場所に上がり、再び街の全景を見回した。陽が大分低くなってきており、調査を急ぐ必要があったが、リレイの表情に焦りや逡巡は見えない。草の上に腰を下ろすと、素早く地図にペンを走らせる。その仕事は嫌みなまでに正確であった。

リレイが此処へ足を踏み入れたのも、単純な理由であった。フェンリルが潜むのであれば、高級な宿などではなく、旅人用の安宿でもなく、こういった場所にある犯罪ネットワークに噛んでいるような宿か廃屋だと考えていたからである。実際問題、コーホール軍は有能であるし、普通の宿であればもう見付かっていておかしくない。クロノヘイズのネットワークを利用して、街の裏側にぽつんとあるような宿を利用しているか、或いは廃屋にでも潜んでいるか、どちらかしか考えられないのである。

リレイが顔を上げたのは、近づいてくる人影に気づいたからである。深く笠を被ったその人影は、渋い声で言った。手には小銭が入った、鉢を手にしている。

「喜捨をお願いします」

「ん」

「夜になる前に、此処を離れた方がよいでしょう。 貴方に、ブッディールの加護あらん事を」

鉢に入れたのはほんのはした金であったのに、そのブッディール教徒は律儀に頭を下げ、スラムへ戻ろうとした。彼らは戦場で死者の供養をしたり、スラムで貧民の救済をしたりしていて、そのために肝が据わっている。故に、リレイの言葉にも、動揺することなく振り向いた。

「クロノヘイズって、知らない?」

「貴方のような娘さんが、関わって良い相手ではありません」

「そうか、最近は其処まで先鋭化してるんだ」

「……貴方は?」

髪を掻き上げると、リレイは残っていたパンを口に入れながら、城を指さした。それだけで意味は通じ、ブッディール教徒は小さく苦笑した。

「ただ者ではありませんね、貴方」

「ありがと。 で、そんなに酷いわけ、最近のクロノヘイズ」

「……今の彼らは、ただの狂信者集団です。 一部の技術者達は嫌気が差して、各地の大名家へ自らの技術を売り込んだようです。 心ある者は離れ、愚かで凶暴な者ばかりが残っている。 それが現状のようです」

まあ、頭から信じるわけには行かないが、情報の一つとして聞いておく価値はある。現実の作業を志に優先させるあまり、道を踏み外してしまう者は確かにいる。組織も然り。かっての崇高な志は、もはや露と消えたのやも知れない。リレイはもう少し小銭を鉢に入れると、ごく自然に笑顔を浮かべた。

「貴方の名前は?」

「モスロ、と言います」

「じゃ、モスロさん。 お仕事頑張ってね」

腰を上げると、リレイは再び街へ向けて歩き始めた。まだまだ、することは幾らでも残っていたからである。

 

2,天の狼

 

リレイがゼダイ城に入ったのは、自身の言葉通り、ゼダイに来てから二日目の夜であった。早速コセイロウの元に通されたリレイは、自身を上から下まで見回すコセイロウの、野卑な視線に若干腹を立てたが、口には出さずに街で買ってきたパンを袋から取りだし、口に入れた。凄い勢いでパンを平らげるリレイに、コセイロウは言う。隣に列んで座っているランディは、沈黙を守っていた。

「あんたがリレイ=オーバーフレイか。 噂に聞いてるぜ。 其処の弟さんにも、色々話は聞いた」

「お褒めにあずかり光栄です。 早速ですが、情報を提示して頂けませんか?」

「ああ、こちらで分かっている事については、そっちのレポートにまとめて置いた。 それを見ても分からない事があったら、俺に遠慮無く聞いてくれ」

セヤ=クロスラインもそうであったが、コセイロウの視線もリレイの胸と腰辺りを定期的に行ったり来たりしていた。街でコセイロウの噂は仕入れてきてある。有能な男なのだが、兎に角若い娘に見境がないとかで、色々笑い話を残しているのだとか。曰く敵の女諜報員に殺されかけただの、娼館へ行っていて戦いに遅れただの。この様子では全てが嘘ではないなと思いつつ、リレイは聞いた。

「この様子では、何回か居場所を突き止めているようですね」

「ああ。 うちにも腕利きはいるからな。 だが、見つけるたびに死人が出て、合わせて大事な人材を十人も殺られてる。 一度なんて六人がかりで殺られちまった」

「情報源は?」

「言わなきゃまずいか?」

髪を掻き上げながら、リレイは頷いた。しばし考え込んだ後、コセイロウは言う。

「わーったよ。 こちらとしても、もう打つ手がない情況だからな。 そのかわり、わかってんだろうな」

「此方もプロです。 その辺はご心配なく」

「そう願うぜ。 ……クロノヘイズの中に、スパイを飼ってる。 彼奴らの中は今混乱してて、技術者が何人かうちの国にも流れてきてるんだ。 そのつてを使って、彼奴らの中にスパイを飼ってんだよ。 奴らの情報は正確で、事実何度かフェンリルの居場所を突き止められた。 実は、今も潜伏先を掴んではいる。 手出しはまだしてねえがな。 大勢兵士を送り込めば逃げられるし、精鋭を送り込めば皆殺しにされる。 正直かなわねえよ」

コセイロウはそう言ったが、リレイは疑念を抱いた。確かにフェンリルの居場所を見つけられはしたが、いずれも襲撃は失敗しているのだ。スパイが意図的に嘘の情報を流したのか、或いはフェンリルがスパイと知っていて情報を流したか、そういう可能性もある。まあ、もっとも。フェンリルの事だから、並の使い手では接近した所を気取られ、不意を逆につかれてしまうのがおちだ。

「城に侵入された事は?」

「最低でも、一度は入られた。 幸い殿は守り切れたが、な」

レポートをめくると、その部分に関して詳細な記録が残っていた。しばし考え込むと、リレイは言う。

「城に出入りする人間のデータは?」

「ちょっとまってな。 それなら、此処にあるぜ」

コセイロウが棚から出してきたのは、分厚い帳簿だった。ざっと目を通してみると、兵士達の他、弁当屋や武器業者などが名を連ねている。老若男女様々で、当然のように一貫性がない。他にも幾つかの質問をすると、リレイは暗殺未遂の現場に向かった。現場は長く続く廊下の半ばにある部屋で、さほど広くはない。外からは中が見えないようになっていて、特に家具の類は見あたらない。

レポートによると、此処に私用で籠もったコーホールが、不意に現れたフェンリルらしき者に襲われた。コーホールはナイフを肩に受けたが、何とか部下達が間に合い、フェンリルは窓から屋根におり、そのまま屋根づたいに城の外へ逃げていった。窓を開けてみると、確かに屋根がすぐ下にある。瓦がずっと続いている屋根で、確かに上手く伝っていけば、外まで出られる。ただし、途中で邪魔が入るのもまた必至であったが。

一旦小休止にはいる事を告げると、リレイは指定された客室へ歩きながら、ランディに言った。

「で、そっちの首尾はどう?」

「予想進入経路は大体当たっておいた。 地図もまとめておいた」

「ん、ご苦労さん。 で、感想は?」

「良く作られた隙のない城だ。 だが、それが故に、奴が入り込んだ時は危険だ」

なまじハードウェアが優れていると、それを使う人間が油断しやすい。古くからの歴史的鉄則である。小さく頷くと、リレイは言った。

「やはり、間違いないね」

「ああ。 多分内通者がいる」

 

今回の依頼主は大分物わかりが良かった。指示通りに生活行動を変化させて欲しいという旨を伝えると快諾、実際にそれに基づいて生活するようになった。また、見張りは三人一組で常に行うようにし、互いの死角をカバーしあい、いざというときはすぐに周囲の人間が駆けつけられる態勢も作り上げた。同時に、一旦兵士達の持ち場も無作為に変更した。これらは、内通者対策である。内通者が単数で有れば、これで行動をある程度は抑制出来る。同時に、城の内部に入られたときのことを考慮し、生活スケジュールを毎度変えるのと同時に、敵にスナイパーがいる事を考慮し、狙撃に適当なポイントに巡回を派遣する事にした。

机の上に山と積んだ菓子パンを頬張りながら、リレイは城の図面を見、一つずつ死角を潰していった。良く出来た城であるのだが、人間が使う以上どうしても隙はできてしまうのだ。その隙を一つずつ確実に潰しながら、リレイは城の窓を開け、外を見た。窓の外には、まだまだ大きくなりつつある、ゼダイの街が景色として広がっていた。それをしばし見やって後に、リレイは言う。ランディはいつものように、コーホールにぴったりくっついて、護衛に当たっていた。

「さて、どうしたものかな、と」

机を指先で軽く小突くと、リレイは今日のスケジュールに目を通した。そして目を細め、素早く菓子パンを複数掴むと、口へ運んだ。リレイの戦い方は、敵を出来るだけ殺さず捕縛する事にある。そのためには、ランディに守備を任せ、自身は攻勢に出る事が多い。それを成功させるには、頭を働かせ、事前に充分な準備をしておく必要がある。充分な糖分の摂取と、入念な情報収集が、それには必須であった。

フェンリルは確かに戦いが好きだが、一方で無駄な殺しはしないプロでもある。快楽殺人者とかだったらむしろ対応しやすいのだが、奴は純粋に高度な戦いを楽しむ戦闘愛好者で、それが故に質が悪い。要するに駆け引きの段階から戦いを楽しんでいるのであり、そもそも単純なトリックにはまず乗ってこない。ただし、それは敵がフェンリルだけの時の話である。もし、フェンリルが部下を連れていたら、話はその限りではない。まずは様子見をしたい所だが、なかなか難しい。フェンリルが相手の場合、様子見のつもりで敵を覗いたら、そのまま頭を食いちぎられる可能性がある。しばし考え込んだ後、リレイは指を鳴らした。

「ねえ、ちょっといい?」

「はっ。 何用でしょうか」

部屋に入ってきた兵士に、リレイはにんまりと笑みを浮かべた。

 

今回フェンリルは、任務の監視役兼補助役として、大柄なスナイパーを連れてきていた。この男はフェンリルから見ても充分な腕の持ち主で、少なくとも今まで一度も足を引っ張る事はなかった。仕事が終わると酒ばかり飲んでいたが、コミュニケーションが取れないと言うほどでもなく、今までは上手く任務を進めてきていた。

フェンリルは組織から信用されていない。これはどういう事かというと、裏切りを危惧されているのではなく、純粋に怖がられているのだ。実際この存在は、今まで幾つもの組織を渡り歩いてきており、その全てで名をはせてきた。それは尊敬と同時に、畏怖をも産んでいたのである。単純に戦いが好きで、それを楽しんでいるフェンリルにしては少し煩わしい事ではあったが、一方で人は頂上に登れば風当たりも強くなるし足下も見えなくなるのだから仕方が無いとも割り切っていた。極端な話、フェンリルは非常に過激な戦闘愛好者であり、それ以上でも以下でもなかった。戦いは楽しむものである、それ以外のポリシーを一つも持ってはいなかった。戦いこそが全てであり、それさえ出来れば他には何もいらなかったのだ。戦いを何のためにするかに意義を見いだすタイプではなく、戦いそのものに快楽を感じていたのである。そう言った意味では、リレイと正反対のタイプであった。

戦いが好き、と言う事に関して、フェンリルは先天的な事だと分析している。セプレンセス最南端には多の地域で傭兵を務めるほど勇敢で戦に長けた者達が住む、ハフツマと呼ばれる地域がある。ここでも皆から畏怖を受ける一族に産まれたフェンリルは、子供の頃から天才的な戦闘センスを持っており、物心ついた頃には各地を傭兵として駆け回っていた。後で知るのだが、その強すぎる戦闘本能に恐れを抱いた父によって、戦場へ放り出されたのである。確かにフェンリルの強すぎる戦いへの欲求は、家を保ったり、政務を執るには危険である。ただ、家の名を上げるには充分であったから、フェンリルの父の判断は正しかったのである。

そのうち独立して動けるほどに識見と自我を発達させたフェンリルは、戦場で雑魚をたくさん捻り潰すよりも、少ない強敵と知略と技の限りを尽くして戦う事により強い喜びを覚えるようになった。文字通り父の元から独立したフェンリルは、家伝である変装や暗殺技術などの特殊スキルを生かして、暗殺任務をするようになった。暗殺の場合、実際に行う戦い自体はそれほど楽しくもなかったのだが、敵の警護をかいくぐるという作業が実に面白かった。無論此処の仕事では失敗もあったが、最終的な作戦遂行率は実に九割を超え、リレイとの戦い以外で不覚を取った事はほとんど無かった。いつしかフェンリルの名は、勝手にセプレンセスに轟いていた。

フェンリルは今、干し肉を囓りながら、ゼダイ最東部の廃屋に潜んで、城を見やっていた。彼女が知る限り最強の使い手が護る城であり、如何に其処に攻め込むか、考えるだけで精神が高揚した。

ドアが開いて、スナイパーが帰ってきた。彼は城を見ているフェンリルに咳払いすると、報告に入った。

「城は厳重に守られている。 今までと比べて、隙がほとんど無い」

「御苦労様。 少し休んで良いわよ」

「了承。 何かあったら、声をかけて欲しい」

仕事上必要な会話だけをすると、男は床板を上げ、地下室へ入っていった。何でも闇夜の方が落ち着くだとかで、暇な時は闇の中へ入っているのだ。小さく欠伸をすると、フェンリルは遠めがねを取りだし、それで城をのぞき込んだ。そして、すぐに下げた。

「カロン!」

フェンリルの呼びかけに、スナイパーであるカロンがすぐに床板をあげて現れた。多少不機嫌そうなカロンに、立ち上がって準備をしながら、フェンリルは言った。

「どうやら、また仕掛けて来るみたいだわ。 準備しなさい」

「了承」

城から、十人強の兵士達が出てきた。そして彼らは、まっすぐ此方へ向かってくる。そして、間違いなくこの廃屋を目指して迫ってくる。丁度少し前に、ここに潜伏して一週間を越えた。今までの情報漏洩サイクルから考えて、無理はない行動である。

「カロン、貴方は兵士達を見張りなさい。 イエローゾーンまで近づいたら、待避用意」

頷くカロン。此処で言うイエローゾーンとは、警戒区域と言う事だ。また、レッドゾーンとは危険区域の事になる。この二人くらいの実力になると、目視だけでそれが判断出来る。フェンリルは移動し、となりの部屋へ移った。あのリレイが敵についた以上、兵士が普通に攻めてくるわけがない。遠めがねを取りだし、周囲を見回したフェンリルは、近くの少し高い建物の二階に、一瞬だけ光と、殺気を見た。

「カロンっ!」

「ちいっ!」

焦りの声を上げ、伏せるカロンと、ライフル弾が炸裂する音は同時であった。今の光の位置から判断して、最新式ライフルだとしても通常有効射程のぎりぎりにいるのに、異常に正確な射撃を見舞ってきていた。これは並の使い手ではない。殺気はすぐに消え、消える寸前に移動した。素早く考え込むと、フェンリルは廃屋の壁に背を預け、目を閉じて周囲の気配を探る。カロンは体を低くし、兵士達を見張りつつ、スナイパーの挙動を伺っていた。

この辺りは人通りが少なく、狙撃がさほど難しくない。あの兵士達全員と、更にリレイにでも踏み込まれるとかなり厄介である。今だイエローゾーンに注意すべき存在の気配はないし、此方に向かってきている兵士はさほど多くはないのだが、一斉に襲いかかられれば厄介だ。フェンリルは大丈夫だが、カロンは……。

顔を上げたフェンリルが、リレイの狙いに気づいた。奴は、糸を断つ気だ。叫びかけたフェンリルの前で、窓から飛び込んできた人影があった。リレイである。今の一瞬の隙をつき、一挙にイエローゾーンからレッドゾーンへ突破してきたのだ。

「チャーオ、フェンリル!」

「リレイっ!」

先手を打たれたフェンリルは、忌々しげに叫ぶと、逆光を背負ったリレイの回し蹴りをガードし、朽ちた床を蹴って跳び下がった。そのまま間髪入れずに間を詰めて拳を繰り出してくるリレイに対し、バックステップして距離を取り、壁を背にした所で反撃に転ずる。もうこの廃屋の構造は、完璧に、立体的に把握している。壁の穴の一つに手を入れ壁を掴み、下段の蹴りをかわし跳躍、その勢いを殺さずに壁を蹴り、斜め上からリレイの頭目掛けて斜め上から抉り混むような蹴りを叩き込む。低い態勢のまま、前周りして受け身を取るリレイ。そのまま突っこみ、床板を蹴り砕いたフェンリルは、ゆっくり足を朽ちた木材から引き抜いた。両雄は一瞬の間をおいて、再び激突するかに見えたが、フェンリルはそのままバックステップし、リレイから更に距離を取った。そしてカロンに呼びかける。

「引くわよ!」

「了承!」

だが同時に、再びライフル弾が廃屋へ飛び込んできた。それはカロンのすぐ頭上を掠め、朽ちた壁を派手に砕いた。舌打ちしてフェンリルはカロンから跳び下がった。

 

まずは兵士をこれ見よがしに接近させる。イエローゾーンにはいると同時に、ランディに狙撃させる。更にその隙をついて、自身が接近、敵の懐へ飛び込む。二重の伏兵で敵の懐へ飛び込んだリレイだが、流石にフェンリル、一筋縄でいく相手ではなかった。

今回の目的は、敵の戦力を確認する事である。レポートにあった死体の状態から言って、フェンリルが部下を連れている事を、リレイは既に洞察していた。一人か、もしくは二人。そしてその部下こそが、おそらくはクロノヘイズがつけた助手兼監視役であろうと言う事も。元々フェンリルはプロではあるが、組織の論理よりも自己のやり方を優先するタイプで、それが故に〈狼〉の異名も持つのである。ただこれは人間の勝手な思いこみだから、狼の性質を的確に表している呼び名ではない。

フェンリルは歴戦の勇士であるし、十人以上の銃器で武装した兵士とリレイを同時に相手にして勝てる等と考えるはずもない。腕に自身があるという事と、無謀で破滅的であると言う事は同義ではないのだ。戦場で現実的な理論を身につけてきた者ならなおさらである。奴は高確率で引く事を考える。そこでフェンリルではなく、奴の部下を叩く。そうすればクロノヘイズとのパイプが一時的に断線し、城にいる内通者も、フェンリル自身も動きづらくなるのである。まあ、ある程度の話ではあるが、戦力を大きく削ぐ事が出来るのは事実である。

ランディは上手くフェンリルの部下を逃がさないように狙撃を続けている。リレイはそれを見ながら、巧妙に立ち回って、フェンリルと部下を引きはがした。今此処で、フェンリルを撃破しなくても良い。まずは少しずつ戦果を積み重ね、最終的に敵を屠ればよいのである。フェンリルを本気で倒すつもりなら、正直この戦力でも心許ないほどだ。

リレイの目の前で、フェンリルは舌打ちし、通用口を開けて逃げていった。追う必要はない。今は戦力を確実に削ぐ事だ。リレイは態勢を低くし、低い弾道からフェンリルの部下の狙撃手に躍りかかった。ランディが狙撃するのと、フェンリルの部下が打ち返すのは同時。振り向き、対応しようとしたフェンリルの部下の肩が打ち抜かれる。次の瞬間、リレイの蹴りが、フェンリルの部下の側頭部を捕らえていた。

 

「大丈夫?」

「問題ない。 ……だが、しばらく戦いは無理だ」

最後の瞬間、敵と相討ちになる形で、ランディは右腕を打ち抜かれていた。流石フェンリルが連れてきていた部下である。ランディと狙撃で互角に戦うとは、なかなかにして出来る事ではない。上手く挟み撃ちに出来たから良かったが、正面から戦っていたら大きな被害を受けた事は間違いない。とりあえず、幸い比較的楽に敵の戦力を削れた。それが故に、城で手当を受けながらランディは特に苦しそうな様子も見せず、姉に若干の余裕を持って応じていた。

フェンリルの部下は捕らえられ、牢に入れられたが、流石に口は堅く何も喋らない。内通者がいるとなると、救出に向かう可能性があるので、特に厳重な警護を敷いた。来て早速成果を示してみた事で、リレイには皆が敬意を払うようになった。これで仕事がやりやすくなるとリレイが考えたすぐ後。医務室の戸が開き、医療スタッフが恐縮した体で敬礼した。コーホールが、自ら現れたのである。

後ろにコセイロウを従えたコーホールは、包帯を弟に巻くリレイを上から下まで見回しながら言う。

「流石だな、リレイ=オーバーフレイ」

「いえいえ」

「早速で悪いのだが、明日も護衛を頼む」

目を細めたリレイに、コーホールは極めて厄介な事を言った。

「何、いよいよ敵領地への出陣が決まったのでな。 今回は余が自ら出陣することもあり、何度か城の外に出て演習の指揮も執らねばならぬ。 明日もその日の一つになる。 気合いを入れて、護衛を頼むぞ」

 

3,咆吼

 

流石にセプレンセス東北部最強の軍隊。規律は良く取れており、士気も高い。戦術も高レベルで、なかなかどうして、セプレンセス中央部で覇を競う英雄達の指揮にも劣らない。

演習を見ながら、リレイはそう思った。今回、ランディは城に残してきている。牢に放り込んでおいた、フェンリルの部下を監視するためである。右腕が使えない状態であるが、そのくらいなら特に問題はない。

演習が行われたのは、城から九キロほど東に出た丘であり、遙か遠くに海が見える。近くには鬱蒼とした森もあり、訓練には最適な場所であった。リレイという護衛がついているとは言え、こういった所に自ら出てくるのだから、なかなかにコーホールの勇気は大したものである。君主は慎重さを兼ね備えねばならないが、それは臆病と同義ではない。静かなまでに慎重でありながら、いざというときは勇気を持って行動するのがもっとも好ましいのである。

「かかれええええっ!」

さながら烈火のようなコーホールの叫びと共に、部下達が一斉に動く。そして隊形を整え、一斉射撃を敵役の部隊に見舞う。敵も黙ってはおらず、混乱から立ち直ると、冷静に反撃に転じた。訓練用の空砲が激しく撃ち放され、戦場特有の熱気と狂気が場を包む。本陣に座しているコーホールの側には、コセイロウと護衛達がしっかりついており、その側の木上で、リレイが周囲を見回していた。

敵役の指揮を執っている指揮官も、かなりの熟練者である。コーホールの猛攻を凌ぎ、的確に反撃を行っている。確かにこの国には、有能な人材が集まっているのだと、これだけでもよく分かる。歩兵同士の距離はやがて縮まり、白兵戦に転じていた。前線は複雑に絡み合い、遠ざかったり近づいたりしていた。

フェンリルは狙撃をあまり得意とはしていないが、だからといって決して油断は出来ない。奴の事である、如何なる手を使ってコーホールに近づいてくるか分からない。無論本陣の場所は明かされてはいないが、それでも安心は出来ない。コーホールはしばし腕組みして考えていたが、やがて側の伝令に命じた。

「第三部隊を敵左翼に向かわせろ。 第二部隊はそれに少し遅れて行動し、第三部隊を狙う敵に集中攻撃させろ」

「はっ!」

伝令が走り去ると、すぐに命令は実行された。左翼を狙って動き出した第三部隊に、敵が側面攻撃をかけようとし、その側面を第二部隊が突く。じりじりと敵は押され始め、コーホールが指揮杖を振ると、全面攻勢が開始された。前線はじりじりと押され、兵士達は歓声を上げて突撃した。リレイが目を細める。本陣もそれに合わせて移動し、猛攻に更に弾みをつけた。

コーホールの用兵は、全体的にバランスが良く取れているが、特に攻撃のタイミングに見るべき所がある。矢継ぎ早に幾つかの指示を出しながら、コーホールは陣を出て、馬に跨ろうとした。自ら前線に出て、勝負を決めようと言うのだ。次の瞬間。飛び出したリレイが、影から滑るように近づき、馬に乗ろうとしたコーホールにタックルをかけ、地面に押し倒した。同時に、銃声が響き渡った。

銃弾は、コーホールの鎧に当たり、大きな金属音を周囲に響かせた。

 

犯人はすぐに取り押さえられた。陣の外にいた男で、少し旧式のライフルでコーホールを撃ったのである。縛られ、地面に倒された男の背中を踏みつけながら、コセイロウは言った。

「誰に頼まれた。 言えば命だけは助けてやらんこともないんだがな」

「嘘を付くな虐殺者め! 逆らった者は、女子供まで皆殺しにする悪鬼の化身が!」

「ほざくなっ! 我が軍がそんな事をするわけなかろう!」

「フルフトハイルの虐殺をわすれたとは言わせぬぞ! 悪鬼め! 地獄へ落ちるがいい!」

コセイロウが顔を歪め、男は逆に勝ち誇って狂気の笑みを浮かべた。コーホールは男を冷然と見つめ続けていた。やり方の厳しさから、セプレンセス東北部の鬼王といわれるコーホールである。その手は当然血にまみれていた。

この地方は元々、深い血縁にて領主達が結ばれており、故に争いは根深かった。コーホールは味方に優しくする一方で、敵対勢力に残虐な処置を行う事で、戦いを早く終わらせようとする事が多々あった。その一つがフルフトハイルの虐殺である。長く抵抗を続けたフルフトハイル家の一族を、老若男女かまわず皆殺しにした事件で、殺された者の中には五歳の女の子もいた。その残虐さは、恐れよりもむしろ怒りを産み、フルフトハイル家の残党は熱狂的にコーホールに抵抗、むしろ大きな損害を出す事になったのである。

舌打ちするコセイロウ。リレイは埃を払って立ち上がると、コーホールに言う。訓練が熱を帯びていた間も、ずっと冷静だったリレイは、今も当然のように自然体を保っていた。

「この人には、まだ聞きたい事があります。 処刑は待って貰えませんか?」

「ならん。 余を暗殺しようとした以上、死刑にせねば示しがつかぬ」

コーホールの言葉に苦笑すると、リレイは不意に暗殺者へ話を振った。

「……貴方、旧フルフトハイル領の人でしょ。 訛りで分かるよ」

「……」

縛り上げられている男は、リレイの言葉に俯いた。リレイはコーホールと男の間にはいると、腰をかがめて少し寂しい笑みを浮かべた。

「確かにこの人は残虐な事をしたよね。 でも、フルフトハイル家も、似たような事をしていたのは覚えてる? 戦いを先に仕掛けて、幾つかの村を焼き討ちして、民を虐殺したのを忘れてない?」

「だ、だまれっ!」

「それに長年の失政が国力を低下させて、この人に逆侵攻される隙を作ったんじゃないのかな? 確かに最後の虐殺で、この人は問題を起こしたけど、大多数の民衆はこの人を支持してる。 それが何を意味するか、分からない訳じゃあないよね」

「俺は……俺は……!」

青ざめているコーホールの前で、リレイは男と向き合っていた。

「暗殺なんてしたって、死んだ人は帰ってこない。 そればかりか、国を乱して、悪い方向へ持っていくばかりだよ」

「俺は……其奴の軍に、兄を殺されたんだ!」

「それはみんな同じ事だよ。 戦場では多くの人が死ぬ。 混乱の時代は、それが悲しいけど当たり前の事なんだよ。 だから、死を出来るだけ無駄にしないようにしなければならない。 ……本当は、知っていたんでしょ、それくらい」

「く……くくっ……」

男が大粒の涙をこぼし、泣き始めた。リレイの言葉は論理的に正しい。だが一方で、男の気持ちが分からないわけでもないのだ。肉親を失った悲しみを、こういった形でしか張らす事が出来ない切なさ。もしランディを失ったら、自分だって復讐鬼になるかもしれないのだ。

「コーホール殿下。 この人を私の管理下に置かして貰えませんか? 暗殺未遂だって事を伏せとけばいいじゃないですか。 それに、暗殺されかけたなんて、イメージ低下につながりますよ」

「……好きにしろ」

リレイの言葉に、ぷいと顔を背けて、コーホールは馬に乗った。まだまだ若いその横顔には、僅かながら、後悔と逡巡が張り付いていた。演習はそれから、夕方まで続いた。後は大した障害もなく、コーホールは若干精彩を欠くまま、城へ引き上げていった。

 

4,前夜祭

 

演習から四日が過ぎた。それからは特に事件もなく、城の中の緊張は徐々に薄れつつあった。

牢に入れられた男は、それなりの待遇をされ、ずっと沈黙を続けていた。先に捕らえたフェンリルの部下も、特に暴れるでもなく、牢の中で静かにしている。現在、コーホールの周囲は分厚く護衛が固めているから、心配はない。心配なのは、今ではなく、後々の事である。そう、侍女だの妻だのと二人きりになりたいとか、一人きりになりたいとか言い出したら、其処が一番危ない。

牢は地下に作られていて、入り口でランディが見張りに当たっていた。出口は一カ所しかなく、護衛兵の詰め所を通らないと行けないため、脱走される恐れはまず無い。詰め所の兵士が全員敵と内通でもしていれば話は別だが、無作為に昨日入れ替えたばかりだから、その怖れもまず無い。その上、ランディが入り口で、油断無く目を光らせているのである。もしフェンリルが牢屋に現れても、ランディならリレイがたどり着くまで何とか出来る。その信頼感があるからこそ、リレイはこの重要地点を、弟に任せていた。

牢をリレイが訪れると、ランディは顔を上げた。隣では機嫌の悪そうな女兵士がいて、ランディの腕の包帯を見てくどくどと文句を言っていたが、リレイを見てしばし沈黙した後、やはり機嫌悪そうに去っていった。リレイはパンを口に入れながら、懐から菓子パンを出し、ランディに向け差しだした。

「ほら、差し入れ」

「すまない。 姉さん、其方の様子はどうだ?」

「ん、そうだね。 暗殺者を一人捕まえたけど、アレは多分フェンリルとは無関係じゃないのかな。 後は、彼奴を早めに見つけて、行動する前に叩きたい所だけど」

「……どういう事だ?」

「どういう事だって、多分彼奴、もう城の中にいるよ。 確率は九割以上かな」

黙り込んだランディ。まだまだ、彼は姉には及ばない。

「どうして、そう思う?」

「演習の後、或いは演習の最中。 城の中にはいるチャンスは幾らでもあった。 最中は城を守る人員が少なくなっていたし、中に私がいなかった。 後は兵士達が皆疲れてたから、彼らに紛れて城に入る隙が幾らでもあった。 そんな機会、彼奴が逃すわけがないよ」

「……なら、なんでそんなに冷静でいるんだ」

「彼奴だって、殿様が兵士に護られている間は、倒せない事くらい分かってるよ。 多分動くのは明け方。 それも、殿様が一人か二人でいて、しかも疲れ切ってる時を狙うだろうね。 それが一番確実だから。 今は大丈夫。 大丈夫なうちに、城の中に潜んでる彼奴を捜し出す。 それが駄目なら、彼奴が拠点にしている場所の見当をつけて、暗殺を防いだ後に追いつめる」

唇を噛むランディを見やると、リレイは苦笑していた。ランディはまだまだ伸び盛りで、リレイだってそうだ。まだまだ成長の余地は幾らでもある。ならば、今劣っていても、後で取り返せばよいのである。

リレイは不意にいたずらっ子な表情を浮かべると、ランディに顔を近づけた。

「でさ、ランディ」

「な、なんだ」

「だれ? さっきの子」

「よく分からないが、俺に文句を言いに来る。 城に最初に来た時、腕試しの相手として戦わされた、キナツという兵士だ。 コテンパンに伸したから、嫌われたのかも知れない」

真顔でそんな事を言うランディに、リレイは遠慮無く大笑いした。さっきのリレイを見た反応からして、女兵士の感情は明らかだったからである。そして、もう一つの目的も。

「姉さん、何がおかしいんだ」

「別に。 ……ま、邪険にはしてあげない事だね」

少し寂しげに言うリレイに、ランディはもう一つ小首を傾げた。

 

夕方。兵士は団体で行動している。それをきちんと確認した後、リレイは少し仮眠を取り、その後コーホールの元へ向かった。現在の状態の確認と、警備状態の再確認のためである。警備状態は問題なかったが、別の問題はあった。コーホールとコセイロウが、酒を飲み始めていたのである。少し酔いが入った目で、リレイに気づいたコーホールは言った。

「すまぬな、リレイ=オーバーフレイ。 君が指定した場所からは出ないから、飲ませてくれ」

「俺からも頼む。 てか、おめえも飲まねえか?」

「飲みません。 ま、話にならつき合いますよ」

「おー、そうしてくれ。 やっぱりこういう場所には花がねえとな」

三流の護衛ではあるまいし、リレイは仕事中に酒を飲むようなバカはしない。ただ、護衛対象には色々な事もあったし、多少の気晴らしを許す度量は必要であった。リレイは部屋の構造を見直し、狙撃の恐れがない事、進入経路が少なく警戒しやすい事を再確認すると、二人がついている丸テーブルに、椅子を借りて座った。そして護衛の兵士に頼んで、果実を搾ったジュースを持ってきて貰った。適量の糖分を含んだこれは、思考の補助にも丁度良いのである。

井戸か何かで冷やしたらしく、のどごし良いジュースを飲みながら、リレイは二人の話を分析していた。大名家では、将来の側近にする目的で、子供の頃から家臣の子供と接する習慣がある。この二人は典型的なその関係で、下手な兄弟よりも強き絆で結ばれた間柄だった。

コーホールがまだ子供の頃、ユッシェル家は文字通りの弱小大名で、周囲の大勢力については離れを繰り返す、惰弱なコバンザメだった。戦の度にかり出されて、一方的に傷つき、国はますます貧しくなった。その上、コーホールの父は、殆ど横死のような形で暗殺されてしまったのである。

若き天才武将として名をはせていたコーホールは、責任を両肩に乗せられると、手始めにそれを使って独裁権力を握った。国内にいる不穏分子や反対勢力を或いは味方に引き込み、或いは力で排除して、強固な組織を作り上げた。そして卓越した外交手腕で、周囲の強国を手玉に取りながら、火のような勢いで領土を広げていったのである。

「なあ、リレイさんよぉ」

「はい、なんですか?」

「俺達がガキだった頃の気持ち、あんたに分かるか?」

「大体は、分かりますよ」

これは本当である。リレイは権力階級の出身ではないが、護衛をしながら権力の暗部を嫌と言うほど見てきたからである。権力の暗部とは言っても、それは人間の本質が露出したもので、政治そのものに責任はない。

「ほんとうかあー? あっちこっちに頭下げて、くだらねえ戦いにかり出されて、ダチを何人も失ってきたんだぜ、俺らはよぉー」

「……そうだな、あんな時代は二度とごめんだ。 余は戦のない国を作ろうとして、こうして戦っているのだがな、どうしてもあの頃の悔しさが、表に出てしまうな」

「そうでしょうね、見れば見るほどそう思います」

ジュースを飲み干すと、リレイは適当に相づちを打ちながら、部屋の構造を頭に入れていった。おそらくフェンリルは今晩、いや来早朝に来る。来るからには、この部屋の地理を頭に入れておき、戦略を先に練っておく必要がある。げらげら笑いながら、セプレンセス東北部を代表する名将二人は、昔語りに華を咲かせていた。リレイはこういった連中を上手くあしらう術を良く知っていたから、適当に流しつつ、話を耳に入れていた。

元々リレイは、コーホールを悪人だとは思っていない。野望多き男であり、欠点も多い男だが、確実に次の時代を背負う男でもある。現に今も、リレイに聞かせても差し障りがない程度の話を選んで、コセイロウと話している。きちんと場をわきまえ、行動する事が出来る時点で、並の人間ではない。口で分かってはいても、並の人間ならどうしても襤褸を出してしまうのだ。

数々の残虐行為は、いずれ歴史が裁く。それに本人がこのままやり方を改めなければ、ある程度勢力を広げた所で、確実に背中から刺される。少なくとも今のままでは、鬼王の足元にも及ばない。冷静にそう分析するリレイに、再びコーホールが声をかけてきた。

「リレイ、余をどう思う?」

「正直、まだまだ、という所でしょう」

「はっはっは、言われてしまったな」

「仕事ですから、必ず護ります。 それ以上の事は、期待されても困ります」

豪快に笑うコーホールは、若干寂しそうであった。リレイに全く脈がないのを、この男は敏感に悟った、それに間違いない。リレイにしても、依頼主と戯れるほど暇でもバカでもないのだ。

リレイも年頃の女性であるから、いい男には自然に心が動く。しかしそれは当然の事ながら客ではないし、無論コーホールでもない。公私の区別をつけられる事がプロの強みであり、リレイの長所の一つでもあった。

やがてリレイは断って退席し、外で待っている兵士を呼び集めた。いぶかしむ十人ほどの護衛に、リレイは言う。

「恐らく、今晩、いや早朝に来るよ。 最低でも三人一組で、眠らないように互いをカバーして。 そして、彼奴は私が叩くから、合図するまで動かない事」

 

コーホールとコセイロウが話し込む部屋の隣に陣取ると、リレイは気配を消し、目をつぶった。今までの情況は、大体予想通りに推移していた。

まずフェンリルの部下を削る事によって、敵の連絡線を断つ。更にわざと隙を作る事で、城へと誘い込む。これは此方が予測出来る範囲内で、相手に動かれた方が得だからである。最後は、相手の潜伏先を調べ上げる事である。ただし、此処までは確実にフェンリルにも読まれている。つまりである、勝負は如何に早くフェンリルの潜伏先を掴むかにかかっているのだ。

城の中で数日間潜める場所といえば、かなり限られては来る。協力者と接触しているとしても、である。屋根裏だとか床下だとかでは難しい。最初にフェンリルが暗殺を行おうとした時、彼奴は兵士達の追跡から逃れ、逃げ切った。しかしそれは、本当にそうなのであろうか。リレイはそうではないと思う。要は城の中に確保してある拠点に逃げ込み、そこでほとぼりが冷めるのを待ってから、一度城から出たのである。フェンリルにしてみれば、逃げたという感覚もないはずだ。単に威力偵察を行って、敵が案外手強い事を的確に知って戻っただけの事であろう。そして、今回も同じ事を行うのは間違いない。

ただ、その拠点をあまりあからさまに囲むと、確実に気づかれる。そして逃げられる。逃げられるにしても、ある程度の打撃は与えておかねば、また攻め込んでくるのは確実だ。つまり、相手に勝てると思わせる戦力で近づき、おびき出さねばならない。必然的に、自分一人で近づくほかに道はない。フェンリルほどの手練れになると、途中で増援を呼べば確実に気づく。戦いは確実に厳しいものになる。

リレイはリュックを漁り、さび色の使い込まれた手甲を取りだした。本気で戦う時にのみつける武具である。いわゆる勝負着に近い。手甲を撫で、静かに頬ずりすると、リレイは左手にそれをはめた。そして小さく頷き、呼吸を整えたのだった。夜はただ静かに過ぎゆき、時間は流れ落ち続けていた。

 

5,竜虎激突

 

壁にもたれかかり、腕組みをしていたリレイが、ゆっくり目を開けた。来た。気配は一切無いが、間違いなく来た。それにしても恐ろしい手練れである。窓の外から来たのは間違いないのだが、普通の使い手には無理である。何しろ窓の外に広がる屋根の上には、人間よりずっと敏感な家鴨を何羽もつないでおいたのだ。下手な使い手で有れば、家鴨に気づかれて、があがあと鳴かれている所である。家鴨が気づく前に仕留めたか、それとも全く気づかれずに影のように動いたか、どちらにしても凄い。

リレイも気配を消し、一旦廊下に出て、コーホールが飲んでいた部屋をのぞき込んだ。机に突っ伏して寝ている独裁者には、毛布が掛けられている。流石にナイフを叩き落とすほどのハンドガンの腕はないから、勝負は一瞬になる。フェンリルの姿はない。しかし、リレイには大体居場所の見当がついていた。窓の外側、多分上に張り付いている。やがて、それを裏付ける動きがあった。

ほんの一瞬、硝子がはまっている窓に光が走った。金具の側が円状に切り取られ、消えて無くなる。その部分を切り取り、音もなく外したのだ。勝負は一瞬になる。ナイフが早いか、リレイが早いか。当然フェンリルも、もうリレイがいる事には気づいているはず。両者分かった上での、一瞬の勝負であった。

金属音が響いた。二本のナイフが、床と壁に突き刺さった。

コーホールの側に立ちつくしたリレイは、逆さまになってぶら下がり部屋をのぞき込むフェンリルと、相対していた。ナイフを弾き落としたのは、手甲をはめた左手によってである。多少のしびれが残る左手を軽く上下しながら、リレイは静かに言った。

「やらせはしない……!」

フェンリルは笑った。口をかあと開き、笑った。そして、分厚い幅広のナイフを懐から抜き出した。市販品だが、一部の軍でも使用されている強力なアーミーナイフである。リレイがハンドガンを抜き、構える。フェンリルの姿が消えた。体を窓の上に引き上げたのだ。そしてそのまま奴は、屋根の上に飛び降りつつ、幅広のナイフを投擲した。

「はあっ!」

渾身の力を込めて、リレイはナイフに向かう。ナイフは恐ろしい速さで、まだ眠っているコーホールへ向かい飛んだ。リレイは全身の神経を集中し、叫びと共に、分厚いナイフを叩き落とした。左手に強烈なしびれが走る。そして、脇腹に鈍痛が走った。今のナイフの影になるような形で、小さなナイフが投擲されていたのだ。気づき、身をそらすよりも、ナイフの方が早かった。急所を外すのが精一杯であった。膝をリレイが折るのと、家鴨たちが騒ぎ出すのは同時だった。

「撃てっ!」

リレイの叫びと同時に、銃声が響き渡った。舌打ちしたフェンリルが、屋根を駆け下りていく。隣の二つの部屋に潜ませておいた兵士達が、狙撃銃でフェンリルを一斉に撃ったのは間違いない。瓦がはじけ、怯えた家鴨たちが逃げまどい、羽毛が舞い散る。直線的に逃げるのではなく、ゆらゆらと曲線的に走りながら、フェンリルは走り、屋根の下へと飛び込んだ。場所的に、その下の部屋には兵士達がいるはずなのだが、何も騒ぎは起きない。兵士の数から言って、倒されていると言う事はない。部屋に入らずに、壁にヤモリのように張り付き、下へ這って逃げ去ったのであろう。尋常な肉体能力で出来る技ではない。腹部に突き刺さったナイフを引き抜くと、毒が塗られていない事を確認して、リレイは立ち上がる。額に脂汗が浮かんでいた。

「リレイ……!」

「大丈夫、此処にいて下さい」

起き出していたコーホールが、リレイを不安げに見やる。剛なる若き独裁者らしくもなく、若干の動揺が見て取れた。部屋に駆け込んできた警備兵達に、素早く指示を飛ばすと、リレイは部屋を飛び出した。

今の攻防で、フェンリルは一撃、狙撃銃の弾を喰らっていた。リレイに必殺の一撃を見舞った直後、流石に隙ができたのだ。しかし、致命傷ではない。右手二の腕を、浅く貫いただけである。しかし、今が好機である。

今の逃走経路から、潜伏先が絞り込めた。ランディを呼んで、最終的なフェンリルの予測逃走経路に狙撃兵十名と伏せさせると、牢屋にも十名強の兵士を派遣し、リレイは単身駆けた。脇腹はかなり痛むが、今を逃しては、また最初から策の練り直しになる。殺気だった護衛の兵士が時々指示を求めてきて、それに多少時間のロスを受けながらも、やがてリレイは大きな倉庫の前に立ちつくしていた。ゆっくり呼吸を整えながら、リレイは不安げに彼女を見ている倉庫番に向き直った。

「半刻」

「え、半刻、ですか?」

「そう。 半刻経っても私が出てこなかったら、最低二十人兵士を呼んで。 それまでは、誰にも私が此処へ入った事を言わないで」

「は、はい」

重い戸を開けて、リレイは倉庫へ踏み込む。据えたような臭いが立ちこめる食糧倉庫には、山と保存食がため込まれていた。遮蔽物が多く、隠れやすいこの場所は、フェンリルにとって絶好の隠れ家といえた。戸を閉めると、倉庫の中は、殆ど光のない闇の空間とかした。一歩、二歩、リレイは足を進めた。そして倉庫の半ばにて、口の端をつり上げた。

「決着を、つけましょうか」

リレイが首を軽く右に倒す。一瞬前まで頭があった地点を、ナイフが通過していた。竜虎の戦いは、今此処に幕を開けたのである。

 

弾かれたように飛んだリレイが、気配を消し、ナイフの投擲地点から考えられる敵の居場所から見て、死角になる地点へと隠れる。しかし間髪入れずナイフが再び襲ってくる。しかも、真上からである。おそらく斜め上に投げ上げて、相手の上から落とせるよう、重心を工夫した特殊ナイフであろう。だが、それにしても、こうも正確に投げてくるのは流石であった。連続して三つ降ってきたナイフを、全速力で走ってかわすと、リレイはハンドガンの引き金を、数度連続して引いた。闇の中に光の華が咲き、保存食を詰めた袋に着弾、鈍い音が響く。どうやら穀物を詰めていた袋らしく、無数の粒が流れ落ちる音が響いた。リレイが再び遮蔽物の影に走り込むのと、ナイフの飛来が止むのは同時であった。呼吸を整えると、リレイはハンドガンに弾を最装填し、目をつぶった。

決戦場になる事を予想していたのだから、当然この倉庫の構造は調べてある。切り札もある。しかし、それを使うのはまだまだ早い。まずは接近戦に持ち込ませるためにも、相手の飛び道具を使いきらせる必要があった。

地面を蹴り、リレイは走る。気配を出しているわけでもないのに、即座にナイフが飛んで来る。一本を弾き落とし、もう一本を、態勢を低くしてかわす。三本目が頬を掠めて切り裂いたが、違和感はない。毒は塗られていない。暗殺者の中には、ナイフに毒を塗る者も多いが、どういうわけかフェンリルはそうしない。戦いを楽しむためか、美学なのかは分からないが、その分必殺性は無くなり、同時に手数が増えるのは確かだった。敵の居場所を探りつつ、後ろに回り込まれないように巧妙に移動し、戦いは続く。

何度目の事か、再び膠着状態になり、リレイは額の汗を拭った。闇の中での射撃戦は、既に四半刻に達している。フェンリルを相手に、この時間の戦いは、流石に途轍もなく厳しい。その上、脇腹の傷は酷く痛む。目が慣れてきたリレイは、ゆっくり天井に視線をやった。例のものは、報告通りの構造で存在している。後は、フェンリルを、天の狼を、誘い込むだけであった。やるしかない、やるしかないのだ。困難なのは分かり切っている。しかし勝負をつけるには、これしかない。

再びハンドガンに弾を装填する。ふと視線を床に移すと、おあつらえ向きのものがあった。多少痛いのは確実だったが、仕方がない。リレイは地を蹴り、走る。ナイフが一本だけ飛来し、それをかわしてリレイは弾丸を連続して叩き込む。反撃が来ない。次の瞬間、リレイは床に落ちていた小さな袋を踏み、態勢を僅かに崩していた。次の瞬間、飛んできたナイフが、リレイの左二の腕に、深々と突き立っていた。

 

「……」

最後の投擲用ナイフを使い終えたフェンリルが、違和感を覚えて目を細めた。今のは確かに不自然ではないヒットであった。リレイは体勢を崩し、其処を狙った一撃が直撃した。そして、とどめを刺すのは今しかない。しかし、本能的なレベルで、フェンリルは何かきな臭いものを感じていたのである。

だが、体は動いていた。きな臭いが、チャンスである事には疑いない。総合的には今攻めるべきだと、頭の方が判断したのだ。懐から抜き出すのは、接近専用の分厚いナイフである。今までいずれの戦いでも、彼女と共にあった、戦友。必殺の気合いを込めて彼女がこれを繰り出せば、立っている敵などいなかった。躍り出たフェンリルは、一気に間合いを詰め、正しく獣が如き勢いでリレイに迫った。リレイが右手を天井に向ける。そして、三発、素早く発砲した。その意味を悟ったフェンリルであったが、対応は一瞬遅れる。

「しまっ……!」

フェンリルの目に、強烈な光が飛び込んできた。闇に慣れた目には、それはあまりにも強烈すぎた。

 

倉庫の天井には、天窓がある。それは空気の入れ替え用で、普段はロープで縛られている。立て付けは悪く、ロープをほどくとかなり勢いよく開くから、いつも気をつけて扱っている。

決戦前、倉庫を事前調査した時に、それらの事情を知ったリレイが思いついたのが、この陳腐な作戦だった。無論一発でロープに命中させる自信はないから、三発撃ったのである。丁度フェンリルが飛び出してくる位置、ロープが切れる時間、全てを計算しての行動であった。そしてそれは、図に当たったのである。リレイが目を閉じ、天窓は開き、光の束はフェンリルを直撃、視界を一時的に潰す事に成功した。わざとこけ、わざとナイフを喰らったのは、それ位しないと敵は乗ってこないからである。

それからは、殆どコマ送りのような光景となった。顔に強烈な光の束をぶつけられたフェンリルに向け、弾が切れたハンドガンを放り出し、踏み込む。目は開けない。気配だけを頼りに、一撃を繰り出す。脇腹に走る激痛を無視し、全身の力を込め、渾身の右拳を叩き込む。だがその瞬間、フェンリルも動いていた。後ろにはじき飛ばされながらも、恐ろしい手練れで、ナイフを振るっていたのである。斜めに斬りつける形になり、傷は浅いが、長くリレイの体を傷つけた。

「ぐあっ!」

悲鳴はフェンリルがあげた物だった。背中から思いっきり食料袋の山に叩き付けられた最強の暗殺者は、吐血した。同時にリレイも、力を使い果たして床にへたり込む。今の手応えから言って、リレイの一撃は、肋骨を数本砕き、内臓にも打撃を与えていた。にもかかわらず、フェンリルは薄ら笑いを浮かべた。

「ねえ、一つ聞いても良いかしら?」

「なに……?」

「貴方、これからも、ずっとSP続けるわけ?」

「無論よ」

左腕にさっき刺さったナイフを引き抜くと、蒼白な顔でリレイがフェンリルをにらみ返した。天狼は目に狂気を湛え、更に言う。

「じゃあ、やめられないわね、この仕事。 うふ、うふふふ、うふふ、ふふふふふふ」

「……フェンリル、私は何度でも、壁になる。 壁になって、立ち塞がる」

「楽しみだわあ。 今回はまた貴方の勝ちね。 でも、次は、こうはいかないわよ」

腹を押さえて立ち上がると、フェンリルは体を引きずって、闇の中へ消えていった。リレイは床に崩れ、冷たい地面を抱擁しながら、意識が遠のくのを感じていた。

 

6,世界の明度

 

結局伏せておいたランディもフェンリルを逃がしてしまった事、しかし更に手傷を負わせもした事は、後でリレイの元へも届いた。しかし、奴の傷はどう考えても全治一ヶ月以上はかかる。もう当分、暗殺の恐れはない。クロノヘイズがコーホール暗殺を行うにしても、態勢を立て直してからであり、立て直した頃にはもう状況は確実に変わっている。戦いは一段落ついた。リレイは報酬を受け取り、捕虜も引き取って、帰る事にした。周囲では、ついにユインズミィール家への大規模な出兵の準備が整い、慌ただしく軍が動いていた。兵士の何人かは、リレイに敬礼し、リレイもそれに応えていた。

今回も帰りは馬車を使う。黙り込んでいるクロノヘイズのスナイパーと、コーホールを暗殺しようとした男、さらにもう一人が縛られ、乗っている。荷物を幾つか馬車に積むリレイが、咳払いに気づいて振り返る。其処には、コーホールとコセイロウがいた。

「今回は助かった。 感謝する」

「いざというときは、また頼むぜ」

「はい」

偉そうに彼らのやり方に口を出す程、リレイは野暮ではない。そのまま帰りかけるリレイは、ふと気づいて笑みを浮かべた。

「それにしても、彼女を引き取る事を許していただいて、感謝しています」

「何、気にするな。 それに、君は余の命の恩人だ。 これくらいは軽いものだ」

「では、また。 これで失礼します」

ランディを促して、リレイは馬車を引き、歩き出した。怪我人とも思えぬ、力強い歩調で。セプレンセス東北部の鬼王といわれたコーホールが、今後やり方を少しずつ柔軟にしていくのは、歴史的な事実である。

 

ゼダイの街が遠くへ離れていく。馬車の操作はランディに任せて、リレイは荷台の方へ回った。荷台の中では、縛られたキナツが、沈鬱な表情で黙り込んでいた。馬車に後ろから飛び乗り、荷物に腰掛けながら、リレイは言う。

「大丈夫?」

「何故助けた……同情のつもりか!」

憎々しげに、キナツがリレイを睨んだ。この娘がクロノヘイズに内通している事を、リレイはとっくの昔に気づいていた。ランディに会いに来てたのは、隙あらば牢の中を確認しようとするためだとも。ただ、ランディをそう嫌っていなかったのもまた確かであったのであろうが。

事実、フェンリルを退けた後彼女の荷物を調べたら、クロノヘイズと内通している証拠が山と出てきた。すぐに彼女は取り押さえられた。

「別に? 私はただ、敵を出来るだけ殺さないようにしているだけだよ」

「……はん、甘いな」

「そうだね。 甘いついでに、ユッシェル家の領土を離れて暫くしたら、開放してあげるから、好きな所へ行っていいよ」

キナツは呆然とした後、ぎりぎりと歯を噛んだ。

「……開放したら、すぐにお前を殺してやる」

「その時は仕方がないね。 私も容赦しない。 悪いけど、返り討ちにしてあげる」

リレイの言葉には、同情など欠片も含まれていない。くわえて、左腕は不完全だが、多少腹に傷も残っているが、それでもキナツ程度の使い手なら全く問題なく十秒以内で殺せる。出来ればしたくはないが、必要であれば殺す。それが戦いの中を生きてきた、リレイにとって当然のやり方だった。甘ったるい理想論に酔うような真似は、リレイはしない。なぜなら、それでは生きていけないからである。現実を処理しながら、それでも理想を見ていく。リレイはそうやって、今まで生きてきた。護衛対象を守ってきた。ある程度やり方は甘いが、強いから生き残ってはこれた。だからこそ、彼女は自分のやり方を誇ったり、他者に押しつけたりはしない。誰にも出来る事ではないと良く知っていたからである。

俯き、黙り込んでしまったキナツ。圧倒的な実力差と死の臭いを前にして、自暴自棄の戦意を喪失してしまったのである。リレイは、ずっと沈黙しているスナイパーに、今度は語りかけた。

「貴方はどうするの?」

「開放には感謝する。 すぐに組織に戻る」

「……」

「今回は不覚を取ったが、次は負けぬ。 全力での戦いで、恥をそそぎ、今回の恩返しとする」

典型的な武人としての返答に、リレイは小さく頷いた。蒼白なまま、馬車にゆられているもう一人は、リレイが声をかける前に口を開いた。

「俺は……兄の分も、生きたい」

「手を貸すよ」

「すまない……彼奴は……コーホールは許せないが……でも生きたいんだ……」

「生きたいと思うのは、恥ずかしい事でも何でもないと思うよ」

リレイの言葉は遮るもの無く、男の耳へと届いていた。唇を噛み、ぎょっと身を縮めるキナツに、リレイはもう一度言った。

「まだ時間はあるよ。 じっくり考えて」

馬車を降りると、リレイは列んで歩きながら、歌い始める。周囲の者達が苦笑いを浮かべ、その下手な歌声を聞き送る。陽気で、音程が外れていて、でも心が温かくなる歌を。

 

クロノヘイズのアジトは、セプレンセス中央部の山奥にある。組織の変質が著しい此処は、最近は今回の事件に代表されるように、暗殺業にまで手を染め、カルト教団に近い性質さえ持ち始めている。高潔な理想を奉じる人間が、高潔なわけではないと言う良い証拠である。しかし、創設者が見たら嘆くであろう事態であることは、間違いなかった。

山深く、森深い。その奥にひっそりと立つ建物こそが、クロノヘイズの本部だ。幹部級の人員しか、場所は知らない。其処を訪れたものが一人。厳重なボディチェックを受け、奥に通されたその男は、ブッディール教徒のように禿頭であった。

「ただいま戻りました」

「ご苦労」

しわがれた声が、禿頭に被さった。顔を上げた男は、生真面目な表情を崩さぬまま言う。

「コーホールの暗殺には失敗しました。 奴は一万五千の兵を動員、ユインズミィール家へ侵攻を開始しました」

「愚か者めが。 地獄へ落ちるが良いわ」

「……」

「奴からは目を離すな。 これ以上暴挙を行うようなら、今度こそ暗殺してくれる」

少し驚いたように、禿頭の男は顔を上げる。

「私どもの罪は問わないのですか?」

「いちいちそんな些細な事で重要な人材を失っておれぬわ。 ただし口外は無用だ」

「はっ……」

感謝したように頭を下げながら、禿頭の男は、甘いなと心中で呟いた。それを個人で行うなら良いが、組織で行うのは頂けない。特に、こういった性質の組織で行うのは。

下がるように言われ、禿頭の男は組織本拠を後にした。編み笠を被って日差しを避け、山道を歩きながら、男は呟く。

「あの娘、リレイ=オーバーフレイと言ったか。 この国一のSPだというのは本当のようだな……」

日差しが一瞬、男の顔を照らした。リレイとゼダイで会い、モスロと名乗った男の顔を。

「今後、障害になる可能性が高いな。 覚えておくとしよう」

不敵な笑みを浮かべ、男は山道を下っていった。リレイとこの男が再会するまで、そう長い時間は掛からなかった。

セプレンセスの動乱は、いまだ終わらない。まだまだ、戦いの時代は続くのである。

 

(終)