街猫の輪廻

 

序、原色の世界

 

降り立ったその街は、やたらとマンホールが目だった。

異常な配色の屋根や壁の家が建ち並ぶ街の中には、何とも言えない臭気が漂っている。そして何よりも、人が極端に少ない。というよりも、街を歩いている人の数そのものが、ほとんど無かった。

スペランカーはヘルメットを被り直すと、無線機を入れる。

入り口近くなのに、もうノイズが相当に酷かった。

此処が、重異形化フィールド、それも筋金入りの場所、である証拠だ。或いはフィールドの規模自体がとても小さくて、既にその複雑な構造の中に入り込んでしまっているのかも知れない。

「スペランカーです」

「既に相当に聞き取りづらいな。 中の様子は」

無線の先にいるのは、今回の作戦で協力してくれている軍の将官だ。普通、フィールド探索者には腰が低いことが多いのだが。

この将官は、妙に居丈高だ。

「ええと……」

説明をすると、不快そうに将官は言う。

「もっとはっきり説明できないのか、グズ! 何がフィールド探索者だ、この無能なのろまが!」

一方的な物言いの末に、無線を切る。

困り果てたスペランカーだが、此処には一人で来たのでは無い。様子を見ていたもう一人が、無線を使って、連絡をはじめる。

最初、居丈高だった相手が、どんどん萎縮していくのが分かった。

「次に先輩に失礼なことを言ったら、僕が黙っていませんよ」

「あ、ああ、悪かった。 だから、もう許してくれ」

「次はありません。 覚えておいてください。 もしも何か余計な事したら、例の件を国連軍上層にリークしますからね」

わざと大きな動作で無線を切ったのは。

スペランカーが最も頼りにしている相棒、川背。スペランカーと同じく小柄童顔ながら、高速機動を持ち味としたバリバリの武闘派だ。凄腕の料理人というもう一つの顔を持っている変わり種だが、フィールド探索者としての実力も確かで、近年では次世代最強の肉弾戦タイプという噂まで出てきている。本来、このフィールドに投入される探索者では無かったのだが、今回に関しては事情がある。

「先輩、いいんですよ、はっきり言い返せば。 あの人、自分の立場も分かっていないみたいですから」

「相変わらず手厳しいね」

にこりと一つだけ笑うと、頼れる後輩は、行こうと促す。

スペランカーは、川背が自分の事をとても大事に思ってくれていることを知っている。だから、無線越しの相手に凄く怒ったのだろう。相手の心がへし折れるくらいに。川背はとてもしっかりしているから、あの軍人さんの弱みなどにも、的確に知識があるのだろう。知っていてもスペランカーは活用しようとは思わないが。

他の人に聞いて驚いたのだが、川背自身は、ほとんど笑顔を作らないという。勿論料理人としては接客スマイルを作っている。

だが、スペランカーと喋っているときの優しい笑顔を見て驚いたという声を、一度ならず聞いたことがあるのだ。

どうしてなのだろう。それがよく分からない。

最近は、川背も超一流のフィールド探索者として、単独での任務や、他のフィールド探索者と組んでの仕事を良くしている。だから、他の人達とも仲良くして欲しいなと、スペランカーは思うのだった。

それはさておき、今回のフィールド探索で、彼女が来てくれたのは、とても嬉しい。スペランカーとしても、最も頼りになる相棒だからだ。今回は事前情報では、危険性が少ないとは聞いている。

だが、それでも、何があるか分からない。

それがフィールドというものだからだ。

川背がルアーつきのゴム紐を投擲して、近くにあった家の屋根に上がる。

コンクリの壁はピンク色で、屋根は青。目が痛くなってくるような原色の配色だ。川背は紐の反発と身体能力を駆使して、鳥や猿でも恐れ入るほどの機動力を発揮できるのである。戦闘時にはもう一つ切り札があるのだが、川背はそれが無くても強い。

しばらく辺りを見回していた川背が、降りてくる。

勿論、はしごなんか使わず、そのまま飛び降りるのだ。彼女はそれくらいで、怪我などしない。

「先輩、街の中央に大きな道路が見えます。 車が行き交っているようです」

「他はどんな様子?」

「全体が、同じように原色の町並みですね。 地図を作るのは骨が折れそうです」

作戦前の説明で、聞かされた。

このフィールドは、今までに三回攻略が試みられている。危険度が低いという事で、投入されたのは、いずれもが三流のフィールド探索者だったそうだが。その誰もが、環境に耐えられなくなって出てきたという。

確かに、此処は街としては、致命的に構造がおかしい。

更に、もう一つ大きな問題がある。

二回目に入った攻略者からもたらされた情報だ。このフィールドは、変動し続けているのである。

強力な力は感じない。

だが、とても異質な場所であるのは事実だ。

近年、動きが活発化している異星の邪神に此処が乗っ取られれば、確かに大変なことになる。どれほどの悲劇が生まれるか、見当もつかない。

「川背ちゃん、行こう」

まず、しっかり調査をすることだ。

スペランカーは後輩を促すと、原色に覆われた街を、歩き出したのだった。

 

1、猫たちの街

 

風が優しい街だなと、サヤは思った。

そして、猫がとても多い街でもある。

ただし、繁栄とは無縁の街でもあった。

近代化が一時期は進んだようだが、今はすっかり寂れて、ペンキの禿げた家や、朽ち果てたビルが林立している、F国辺境の街。ニュンベルン。

路上にはホームレスが屯し、どうみても白色人種では無い民も珍しくない。この国が中東やアジアから移民を受け入れていることは知っていたが、それが治安の悪化につながっているのは、悲しい事だ。

所々にはキリスト教の教会だけでは無く、モスクも見受けられる。

夢を抱いて訪れた異国の地でも安息が得られないのでは、信仰が篤くなるのも当然かも知れない。

白色人種の人達は、J国人のサヤを、胡散臭そうに見る。

対立は、決して水面下では無いのだろう。

風はとても優しいし、街路樹はとても緑が濃い。それなのに、ここに住んでいる人達は、穏やかではいられないようである。

サヤの独特の気配を感じ取ったのか、猫たちが寄って来る。

今は、護衛の式神をつれているが。それは、気にならないようだ。威圧的なローブを被った大男の姿をした式神は、あえてそのような恐ろしげな格好にしている。身を守るためには、仕方が無い事だから。

身をかがめて、猫を撫でる。

猫。

ペットとして、犬と並ぶ人気を持つ生物だ。しかし犬が人間の相棒としてずっと歴史の影に日向に存在してきたのに対し、猫は所詮愛玩動物の域を超えていない。狩の手伝いができるわけではないし、やれることは精々鼠退治くらいだ。

近年では、人類は犬を飼うことによって生活に余裕ができ、文明を発展させることができた、などという学説まである。

いずれにしても、人類のペットとして、何故猫は犬と並ぶ存在になることができたのだろうか。

今回、フィールド探索の後方支援用員として連れてこられたサヤは、それを不思議に思っていた。

サヤは現役の巫女だ。式神という特殊な存在を使いこなし、死者と対話する能力を持っている。巫女として、実際にこの能力を持っている人間は数が少なく、フィールド探索者として活動できるレベルで使いこなせる者は更に少ない。

だから、今回F国の片田舎であるニュンベルンにまで連れてこられたのだ。戦いにかり出されることも多いが、今回は純粋な後方支援要員である。フィールドに入った二人が苦戦するようなら、戦場に出なくてはならないだろうが、今の時点ではその危険もなさそうだった。

勿論、仕事できているのだから、無心に街を探索しているのでは無い。

目的があって、街を歩いているのだ。

人々には見えないようにしている式神が、何体か戻ってきた。

いずれもが、サヤにとっては使役する存在であると同時に、幼い頃から心を通わせた友でもある。殆どは妖怪と呼ばれていて、普通の人に害を為す者もいる。害を為さないように、彼らを戒めることも、サヤの仕事の一つ。

偶然、サヤは巫女として訓練を受けられる環境に生まれた。

そうでなければ、嘘つき呼ばわりされて、きっと悲しい人生を送ったことだろう。事実、性根がねじ曲がってしまっているフィールド探索者は、何人も見てきた。

幸い、陽気な妖怪達は、サヤを気に入ってくれている。

「サヤ様、見つけてきました」

「おいらは七人! 雪女は八人!」

「ありがとう。 みんな、基地の方に、案内してあげて」

はーいと応えると、式神達は、みんな霊を連れて行った。

今回は、かなり特殊なフィールド攻略だ。

一度はじめるとなると、普通は籠もりっきりになる。だからサバイバルの装備などを、大量に持ち込むものなのだ。

だが、実戦担当の。スペランカーさんも海腹川背さんも、どちらも何度も戻ってきては、様々な作戦会議をしている。

中では、今の時点では、一切交戦していないという。

街の外れに、ベースがある。

鉄条網に覆われている基地の中には、スパークを繰り返しながら形状を保つ、黒い球。空間の穴だ。

気むずかしそうな国連軍の軍人さん達が、中では行き交っている。様々な国籍を持つ兵隊さん達に、会う度に挨拶。此処の司令官は、とても気が短そうなおじさんだが、川背さんには頭が上がらないようで、いつも妙に腰が低かった。何だか悪いことでもしていて、それを握られているのかも知れない。

基地の奥の方にはプレハブの建物が幾つかあり、その中の一つに入る。

既に中では、先輩達が待っていた。

会議室のようなまるテーブルのあるちいさな部屋。奥にはホワイトボードが有り、軍人さんの姿は無い。

司令官のおじさんは川背さんを避けているようだから、無理も無い事なのだろうか。

昨日までは、サヤが所属しているフィールド探索社、T社の営業さんがいたのだが。長期戦になりそうだということで、本社に戻って協議をしているところだ。

邪神による行動が活発になっている今、フィールドはちいさなものでも対処を急がないと危ない。

それは分かっていても、現実的にコストの問題はある。

一人雇うと、フィールド探索者は相当なお金が掛かるのだ。ましてや今回は、害が無いと言うことでずっと放置されていたものなのである。

スポンサーや株主を説得させるのが、大変なのだろう。

お茶を飲んでいたスペランカーさんが、にっこりと笑顔で出迎えてくれる。童顔の彼女は、サヤよりも倍も年上の筈なのだが。よくて同年代にしか見えない。だが、とても頼れる先輩だ。

「サヤちゃん、お帰り」

「今戻りました」

スペランカー先輩は普段ゆっくりしていて、川背さんがかいがいしく世話を焼いていることが多い。

川背さんが笑顔を見せてくれるのは、スペランカー先輩と一緒にいる時くらい。川背さんが、とてもスペランカー先輩を慕っていることは、二人についてあまり知らないサヤでも分かる。

勿論下世話な噂もあるようだが、サヤは信じていない。

テーブルの上には、地図が広げられている。ざっと書かれたもので、隣にはこの町の航空地図。

全く似ていない。

特に、手書きの方は、真ん中にある巨大な車用道路が、妙な存在感を示していた。

二人が最初にフィールドから出てきたとき、口にした言葉がある。

このフィールドは、妙だと。

主らしき存在は見当たらない。

かといって、人間が作ったとも思えない。

誰が作ったのかよく分からない街が、恐らく誰かの思い出に従って、黙々と動き続けている。

廃墟そのものが、ゾンビになって稼働しているかのようだ。

今までこのフィールドの攻略に失敗した三組の探索者達も、失敗したとは言え生還には成功しているのだ。

そればかりか、怪我さえしていない。

たたき出されたわけでも、ない。

サヤは二人に成果を話すと、となりのロッカールームに行き、千早に着替える。そして、髪を下ろした。

外ではスカートにシャツという、普通の人達と同じ格好をしている。髪の毛は、帽子に押し込んで隠している。

目を引かないためだ。

ただでさえ、フィールド探索者が、街に来ていると噂があると言う。

強力な力を持つフィールド探索者は、普通の人達にとっては複雑な視線の先にいる存在なのだ。

無用なトラブルを避けるためにも、格好を工夫するのは、当然のことだ。

靴も履き替えて、巫女としての衣装を身に纏う。

シャワーも浴びておきたいところだが、今は急いでいるから、後回し。それに、どうせ汗は掻くのだ。

部屋に戻ると、神棚に神酒を捧げて、儀式を始める。

まずは、この街にいる霊達に、話を聞く必要がある。勿論二人には霊は見えないから、サヤが媒介するのだ。

最初に意識がつながったのは、くたびれた服を着たお爺さんだ。三十年も前に死んだらしい。

やせぎすで、靴を直す仕事をしていたらしいと、何となく分かった。この、何となく分かる、という事が、霊と接するとき重要なのだ。

「なんだ、J国人が、こんな寂れた街に何用かね。 悪さだけはしないでくれよ」

「私はサヤといいます。 この町のフィールドに対処するために来ました」

「なんだ、そうか。 あのフィールドは、よく分からないが、害が出たって事は、聞いたためしがないなあ」

その辺りについては、フィールド探索者であるサヤ達が此処に来る前に、探索社が徹底的に調べ上げている。

フィールドが発生したのは、およそ五十二年前。

まだ難民や移民が問題化せず、この街が繁栄を謳歌していた頃。一時フィールドの発生に街は騒然としたが、無害と言うことが分かってすぐに問題は沈静化した。

だが、フィールドを攻略するには、その存在を理解しなければならない。

有り体に言えば、フィールドは大体の場合、コアとなる存在がある。その存在を破壊するなり納得させるなりして、自壊させるのである。

そのために、必要な情報は仕入れていたはずだった。

だが、今回は追加で調査が必要になっているのだ。

「何か、噂は聞いていませんか」

挙手したのは川背さん。

スペランカー先輩と同じように小柄で童顔だが、お胸は羨ましいくらいに大きい。非常に優れた戦士で、頭も回ることを、サヤは知っている。

意思を媒介すると、お爺さんの霊は言う。

「そりゃあ退屈な街の連中が、いろいろな噂はしたさ。 聖人が怒ってるとか、悪魔が目覚めたとか、祟りだとか」

「一つずつ、話してくれますか」

「そうだなあ、まず聖人についてだが……」

順番に、話を聞いていく。

どうみても面白半分に作られたらしい噂話もあったのだが、その全てを川背さんは丁寧にメモしていた。

お爺さんと一通り話すと、あの世に行けるように術式を掛けて、次の霊に代わって貰う。霊体の解放概念は各国で違うが、要するに蓄えている怨念を浄化すれば、大体の霊は輪廻の輪に戻ることができる。キリスト教圏では、復活の日を待つ状態になる訳だ。

今度はお花屋さんをやっていた上品な中年の女性だ。比較的新しい、十年ほど前の霊である。彼女のお店は、まだ細々と、子孫が続けているらしい。本人は、残念ながら、難病で亡くなったそうだ。

「フィールドの話、ねえ」

「何か知りませんか」

「そうだ、あのフィールドね、軍の人達の目を盗んで、子供達が何度も忍び込んだことで有名だったのよ」

それも、既に既得の情報だ。

無害である事が分かってから、忍び込もうとするものが続出した。殆どは珍しいもの見たさであったり、無謀な探求心から。

ただ、内部が原色の目に悪い空間で、なおかつ異臭が立ちこめていることが分かると、入りたがる者はいなくなった。行方不明者も出ていない。ただし、けが人は時々出ていたようだ。

スペランカー先輩の話によると、内部では人が乗っていない車が、時々走り回っているという。

それに接触したのかも知れない。

「私もね、一度だけ中に入ったことがあったの。 昔はおてんばだったのよ」

「そうなんですか?」

「そうそう。 でも、二度は入らなかったの」

何故だろうと聞くと、彼女は上品な笑みのまま、言った。

「これは、冗談半分で入って良い場所では無いと思ったから」

「! どういう、ことですか」

「悲しい声を聞いたの。 人の声では無くて、猫の声。 私が思うに、あのフィールドは、猫さんの怨念と悲しみが詰まった場所だわ」

川背さんが、身を乗り出す。

彼女の興味を引いたらしい。スペランカー先輩も、何だか興味を引かれたようで、話に耳をそばだてている。

それから幾つかの話を聞いたが、結局「女の勘」という以上の結論は出なかった。

川背さんが、スペランカー先輩に耳打ち。何か話した後、外に出て、すぐに戻ってきた。サヤの所まで、声は届かず聞こえなかった。

司令官に何か作業を依頼していたらしい。スペランカー先輩はその間、腕組みして小首をかしげていた。

「お待たせしました。 先輩、どう思われますか」

「私も川背ちゃんと同意見。 確かに、おかしいとは思っていたんだよ」

分からないところで話が進んでいくのだが、二人の判断力は確かだ。

川背さんが頭が良いことは知っているが、実はスペランカー先輩は、高い判断力を持っている。

何度か仕事をしてみて、おっとりした人だなと最初は思っていたのだが。

ここぞという時の判断は、殆ど間違わないのだ。

川背さんがスペランカー先輩を慕っているのは、恐らく其処にも原因の一つがあるのだろう。

霊達からの聴取を続けていく。

夕方くらいに、全てが終わった。非常に消耗したが、川背さんは収穫があったと言っていた。

ただし、もちろんだが。

これだけで、決着がつくほど、甘くは無いだろう。

今までにあまり質が高くは無いとは言え、三回も調査が行われているフィールドなのだ。如何に二人が優秀とは言え、すぐに結論が出るとは思えない。

疲れが溜まったので、ゆっくりお風呂に入る。

此方の地方では、お風呂に入る習慣は無いと聞いていたのだが。国連軍の方で、ユニットバスを手配してくれていて、助かった。ひのきのお風呂ほどでは無いが、湯船に浸かると、リラクゼーション効果が大きい。ただし、個人用のプレハブにお風呂は無い。あくまで共用だ。

幼い頃は式神達と入る事も多かったのだが、体が大人になってきてからは、それも恥ずかしい。だから、式神達との感覚共有は、お風呂の時には遮断している。シャワーを浴びる人ばかりのようで、お風呂は殆ど使っている形跡が無かった。それがまた、サヤには有り難かった。

ゆっくり湯船に浸かって、疲れを取る。

髪も洗って、宿舎に。

やはり、この町の環境は本来良い。街の郊外にあるベースであっても、風はとても気持ちよくて、風呂上がりにはとても快適だ。

しかし街の方を見ると、それほど遅い時間でも無いのに、ぎらぎらと嫌な気配がしている。

昼間あれほど多かった猫の気配も、今は殆ど感じられない。普通、猫は夜行性なのに。街の気配が、それだけすさんでいるという事だ。

犬と猫の決定的な違いは、人間との関係性にある。

犬は人間の家族だ。正確に言うと、人間を群れの長として認識し、献身的に付き従う。それが故に、人間と本当の意味で共存できている、殆ど唯一の生物種となっているのである。

猫は、違う。

猫にとって、人間はエサの供給主で有り、それこそどうでもよい存在である。猫にとっては、人間よりも、むしろ住んでいる家の方が大事なのだ。

これは群れで狩りをする犬と、単独で狩りをする猫の違いが、大きな原因なのだ。

猫が飼われるのは、生活的余裕の象徴。これに対して、犬は実利的な意味で、主に飼われるのである。

サヤもそれくらいの知識はある。

あの街は、混沌の最中にある。

元からいる人々と、後から来た人々が対立し、犯罪は多発。人々には、猫を飼う余裕は無くなっている。

猫が寄ってきたのは、サヤの雰囲気が原因だけでは無いだろう。

単に、エサが欲しかったという事も、あるに違いない。

いたたまれなくなって、サヤは宿舎に戻る。自室に戻ろうとすると、スペランカー先輩の部屋から、ひょいと川背さんが顔を出した。

「サヤちゃん、時間は良いですか?」

「はい。 作戦会議ですか?」

応えるまでも無いと言うことからか、川背さんはそのまま部屋に引っ込んだ。

ついて部屋に入ると、テーブルの上に地図と写真が並べられている。他にも、多くの資料が散乱していた。

当然のようにスペランカー先輩もいるが、彼女はパジャマである。パステルブルーの、とても可愛いパジャマだ。一方川背さんは、何時でも出られるようにか、昼間と同じ格好だった。

「さっき、分析結果が来たの。 司令官さんが持ってきた資料が、これだよ」

「ええと」

エスペラントで書かれた、あまり分厚くは無いレポートだ。サヤもエスペラントは勉強しているが、ちょっと読むには難しい。

既に目を通したらしい川背さんが説明してくれる。この人のオツムは、サヤとは出来が違って羨ましい。

フィールド内に充満している異臭の正体だという。分析の結果は、ずばり生ゴミ、という事であった。

「腐りかけの肉、しかも主に魚肉を中心とした匂いです」

「お魚、ですか」

「ええ。 それに、これを見て欲しいのですが」

車の写真。ただし、見た事も無いタイプのものだ。

ざっと見て、ぴんと来ないサヤに。川背さんがまた説明してくれる。

「このラインから下を見て、何か思いませんか?」

「そういえば、妙に此処から下はリアルですね。 ただ、配色がおかしいような……」

いや、待て。

たしか、フィールド内にある街の方も、配色がおかしかったはず。何か、一定のパターンがあるのだろうか。

スペランカー先輩は、ニコニコしている。

この様子からして、もう結論は出ているのだろう。

式神に意見を聞いてみる。優しい妖怪達は小首をかしげていたが。一人だけ、違う反応を示す式神がいた。

最近式神になった、猫又の妖怪である。とはいっても、擬人化しているようなことは無い。単に尻尾が二股に分かれた、喋る黒猫である。少し前に命を落として、猫又になったばかりの新米妖怪だ。

チヨという名前の彼女が、断言した。

「これ、猫の視点だ」

「猫……?」

「式神に聞きましたか? 僕たちも、同じ結論を出しました。 どうも、あのフィールドは、猫の視点から構成された、あの街に違いないと思うんです」

なるほど、そう言うことだったのか。

パズルのピースが、ぱたぱたとあっていく。

妙な配色は、そもそも人間とは見えている色が違うから。車が下だけリアルなのは、猫にとって脅威の存在でも、其処しか主に見えていないから。

そして生ゴミの匂いは。

猫にとって、心地が良いからだろう。

川背さんの会議での反応を思い出す。恐らく、思い当たる節があったのだろう。この辺り、さすがは歴戦のフィールド探索者だ。そして、スペランカー先輩も、そう言われて気付いたに違いない。

「式神さんを、出して貰える?」

「はい、スペランカー先輩。 チヨちゃん、お願い。 力を貸して」

思念を集中。能力をフルに発揮して、式神が形を作る手助けをする。少し汗を掻いてしまうが、これは仕方が無い。

呪文を唱えて、精神を一本化。

本来は形を持たない存在に、形と肉を与えていく。

程なく、サヤの力が、チヨを具現化する。式神を使って限定的な自然干渉を行うよりも、ずっと疲れる。

呼吸を整えて、ハンカチで額を拭った。チヨが心配そうに此方を見るが、大丈夫だと告げた。実際、このくらいなら、命を削るほどでも無い。大入道などの大物式神を具現化して全力で長時間戦わせると、数日は寝込むほどのダメージを受けることもあるが。

机の上にちょこんと具現化したチヨは、前足を舐めながら言う。

「私に何を聞きたいんだ」

「わ、可愛いね」

「先輩」

「っと、ごめん。 ええと、チヨちゃんでいいのかな。 このフィールドについて何だけれど、どう思う」

川背さんにたしなめられて、眉を八の字にするスペランカー先輩。何だか年下のサヤから見ても可愛い人だ。だが、同時にスムーズにネゴシエーションを進める所は、素晴らしいとも思う。

しばらくじっと写真を見ていたチヨだが、小首をかしげる。

「妙な場所だ」

「詳しく聞かせて?」

「こっちの国の猫には、私も分からない事が多いけど。 もし猫が作ったとすると、このフィールドを見る限りは、意図が読めない。 エサが欲しいわけでも無さそうだし、大事な家というわけでも無さそうだ」

チヨがいうには、もしも大事な家が、というのであれば。もっとずっと狭いフィールドになるし、脅威である車だって存在させる意味が無いという。

それにエサが欲しいのなら、良い香りだけを充満させるのでは無くて、何かしらの実利的なエサを用意しているのでは無いのか。

「正直な話、猫がこのフィールドを作ったとは思えない。 作ったとしても、少なくとも私には、意図が見えない」

「猫が関係しているのは間違いないでしょう?」

「それは同意だ」

「分かった。 ありがとう」

チヨの具現化を解く。

サヤの疲労が一気にピークに来た。お風呂に入ったばかりで、これはきつい。凄く眠くなってくる。

気がつくと、ベッドで寝かされていた。

多分川背さんが運んでくれたのだろう。

申し訳ないと感じる。早く強くならないといけないと、サヤは思った。

 

2、猫の世界

 

既に四度目のフィールド潜入だ。スペランカーはヘルメットを被り直すと、川背と頷きあって、フィールドに足を踏み入れた。

昨日はサヤに大きな負担を掛けてしまった。

だからこそに、今日は成果を上げたい。どうも何かしらの形で、このフィールドの形成に猫が関わっているのは、間違いなさそうなのだ。

そこで、今日は。幾つかの秘密兵器を持ってきた。

人間もそうだが、動物には何かしら好む物質がある。猫でもそれは同じである。この動物には毒になる、というパターンや、酩酊させる、という場合もある。

有名なのはマタタビだ。

他にも何種類か、猫を恍惚とさせる物質はあるが、これが手近で簡単に手に入る。今回使うのは、昨日N社の営業に連絡して取り寄せてもらった、いぶして使うタイプのものだ。

フィールドに入ると、最初に川背が目を細める。

「どうしたの?」

「地形が変わっていますね。 先輩、恐らく我々は察知されています。 可能性は低いですが、攻撃があるかも知れません。 気をつけてください」

「うん。 川背ちゃんも」

川背が屋根に飛び移り、低い態勢で辺りを観察しはじめる。

やはり中央に大きな道路があって、車がびゅんびゅんと行き交っているらしい。それ以外は、昨日見た部分と、あまり変わりが無い様子だ。ただし、地形が違う。どうもスペランカーと川背を、閉じ込めるような形状になっている様子である。

「家の一つや二つ、壊すのは簡単ですが」

「ううん、やめておこう」

フィールドの主には、会話ができる相手もいる。満足させることで、フィールドが消えることだってある。

要は、フィールドを作らせるほどの強力な術式や執念を、解除すれば良いのだ。

今、世界中で活発に動いている異星の邪神達に、つけ込まれる前に。

川背の戦闘力は、スペランカーもよく知っている。確かに小さな家くらい、瞬く間に粉砕して見せるだろう。

だが、今は、このフィールドの主を、暴力という形で刺激したくないのだ。

風向きをはかる川背。

しばらく風の流れを読んでいた彼女は、まもなく携帯式の着火装置を使って、マタタビを彼方此方でいぶしはじめた。

独特の匂いが、漂いはじめる。

もしも此処に猫が大きな関与をしているのなら、動きがある筈だ。

今まで、フィールドは隅から隅まで探した。無表情な人達がいる家の中も調べたし、売れそうも無いがらくたが並べられているお店の中も見た。

二手に分かれて調べ、道路もしっかり隅々まで確認したし、マンホールを開けると真っ黒な闇が広がっているのも理解した。

普通に探すだけでは、もう駄目なのだ。

かといって、力尽くで破壊するようなやり方は取りたくない。幸い資金は潤沢なので、時間はそれなりにある。

しばらく、川背と一緒に彼方此方を廻る。

猫の鳴き声。

今までは、全く聞こえなかった、どちらかといえば甘えるような声だ。

川背が、顔を上げた。何かを察知したらしい。

屋根から降りてきた彼女が、スペランカーの背後を見る。其処には、エプロンを着けて、二本足で立っている猫がいた。

大きさはスペランカーよりも少し小さいくらい。

猫なので、文字通りの猫背だ。前傾姿勢で、そもそも二本足で立つにはかなり無理がある体勢である。

「良いにおいだにゃあ」

「はじめまして、猫さん。 私はスペランカー。 此方は川背ちゃん。 貴方の名前は?」

「礼儀正しい人間さん、こちらこそはじめまして。 わたしはミルキーと言いますにゃあ」

エプロンの端をつまんで、ちょこんと挨拶するミルキー。

とても可愛らしいが、毛並みは残念ながら良くない。多分雑種で、茶色っぽい毛皮だ。左耳は欠けていて、尻尾も少し短い。食いちぎられたような跡もある。また、左目には大きな傷があって、灰色の眼球も少し濁っていた。

身勝手と思われる猫だが、その代わり大きなリスクをもって生きている。家で飼われていない場合、エサの確保も難しいし、縄張り争いも熾烈だ。何より冬を越すのが相当なハイリスクになる。J国でも野良猫の寿命は平均二年程度と聞いたことがある。

ましてや治安の悪化が目立っているこの国では、一年半もあるだろうか。猫をかわいがってくれる人は、相当に少ないだろう。むしろ、乱暴に追い払おうとする人の方が、多いはずだ。

上品に振る舞っているこのミルキーも、耳や尻尾を見る限り、アニメに出てくるような愛されて育っている猫とは違う。獲物を巡って他の猫と争い、カラスや犬と戦って生き延びてきた存在なのだろう。

だが、それにしては、このゆったりした態度は、アンバランスだ。

「貴方が、この世界の主?」

「意味がよく分からないですにゃあ。 それよりも貴方たちこそ、どうしてこの場所に、何度も足を踏み入れるにゃあ」

「それは、この世界の事を、よく知りたいからだよ」

最初から、フィールドを終わらせるため、とはいえない。

腰を下ろして、視線を合わせて、ゆっくり話をしていく。十中八九、この猫が、フィールド攻略の鍵だ。

どちらかと言えばネゴシエーションが苦手な川背よりも、他の人と仲良くするのが得意なスペランカーが、こういうときは動かなければならない。

ふんふんと、ミルキーが鼻を鳴らす。

近くで見ると、エプロンはどうみても縫い目が存在していない。やはり、この奇妙な街と、関係の深い存在なのだろう。

しかし、猫又のチヨが話していた事も気になる。

川背が、無線で外と話し始めた。恐らくは、サヤをこっちに呼ぶつもりだろう。

「お友達になるには、どうしたらいい?」

「私の子供を探してくれたら、お友達になってあげるにゃあ」

話をしていた川背が、一瞬だけ此方を見た。

それには気付かないふりをして、スペランカーは笑顔を保つ。

「ミルキーちゃんの子供の名前は?」

「探しているのは、マイケルという名前にゃ。 やんちゃ盛りの、ピンクの毛並みの子猫なのだにゃあ」

 

ミルキーについて、街の中を歩く。

川背は話を終えると、ずっと無言のまま、一定距離を置いてついてきた。ミルキーは、どうも川背を警戒しているらしく、その方が良いとスペランカーも思った。元々川背は、かなり警戒心が強い。誰とでも仲良くなれるというタイプでは無い。

ただ、神経質なところがある彼女は、料理人としても優秀だ。良いところを伸ばしていけば良いのであって、苦手なところだけを見て人を判断するような真似を、スペランカーはしたくなかった。

ミルキーはやはり、二本足でずっと歩いている。

ちょこちょこ、という風情で歩いているのだが、見ていて気付く。歩幅が一定していない。普通だったら重心がぶれて転びそうな歩き方なのに、彼女は平気な様子だ。ふりふりと尻尾が揺れているが、それだけで重心を保てるとは、とても思えない。

多分、とっくに川背は気付いている。

この世界のおかしな部分は、何も街だけでは無い、という事だ。

「礼儀正しい人間さんは、滅多に見ないにゃあ。 だいたいは自己満足でエサをくれるか、酷い事をするにゃあ」

「ありがとう。 それで、マイケルちゃんは、どこにいるの」

「分からないにゃあ。 遊びに出かけたまま、帰ってこないにゃあ」

ミルキーは、それほどの老猫には見えない。

来る前に川背に猫の知識を色々聞かされたのだが、猫は生まれて一年もすれば充分に子供を作る事が出来る。もっと早く作る事も出来るが、それはかなり母体に危険を伴うのだという。

一方で、年を取るのはかなり早い。

野良で十年も生きればかなりの長寿だ。家猫でも、十五年が限界だろう。記録では二十年以上生きた猫がいるようだが、それは例外的な話だそうである。

そうなると、二歳から三歳、多くても五歳くらい、という所だろうか。

去勢していない野生の猫となると、毎年発情期に子供を作るはず。それも、一度に何匹も産む。

そうなると、一匹しか子供を産んでいないとは考えにくい。

歩き回れる子供となると、せいぜい三ヶ月から半年。それ以上になってくると、「やんちゃざかり」ではなくなるだろう。

いや、それも何だかおかしい。

川背の無線が鳴る。

もうこの辺りだと通話は無理だから、何度鳴らすか、で合図を決めているらしい。警戒しているミルキーの手を引く。肉球がふかふかだが、毛並みは決して柔らかくない。野生で生きてきた猫の毛だ。

「先輩、サヤさんが来ました。 合流します」

「うん。 よろしく」

「何の話だにゃあ」

「すぐに分かるよ」

川背に話を聞く。サヤはそのまま式神を展開して、追ってくるそうだ。今の時点で危険は無いが、既に戦闘態勢に入った方が良いかもしれないと、川背は伝えてくれている。事前に合図を色々と決めていて、それで出来た事だ。

足を止めたのは、今の時点で判明している唯一の危険地帯に当たったからだ。

このフィールドの中央を通っている道路には、露骨に無人の車が、びゅんびゅんと飛び交っている。

標識の類は見当たらず、それがカオスに拍車を掛けていた。

何度か渡ったのだが、車は減速する気配が無い。二度、ひき殺されそうになった。色もおかしくて、公道で見たら思わず見返してしまうだろう。

「マイケルは、きっとこの先だにゃあ」

「どうしてそう思うの?」

「あの子はスリルが大好きだったにゃあ」

ぴんと来る事があったが、あえて黙っている。

そして、スペランカーは。車が通っている場合の、路の渡り方を教えた。

 

二足歩行するミルキーは、何にも興味津々という様子だ。

猫も犬も、子供を産むと性格が落ち着くと、川背は言っていた。だが、この天真爛漫な性格はどうだろう。

可愛らしいと言えば、確かに可愛らしい。

しかし、時々川背が意味ありげな視線を送ってくるのである。笑顔を保って話しながらも、スペランカーは油断しないで歩く。

車が通る危険な路を通り終えた後は、全く変わらない町並みが続く。

無表情な人が時々通り過ぎるが、声を掛けても触っても反応しない。ただし、ミルキーに対しては、反応が違った。

紳士然とした格好の男が、いきなりミルキーに蹴りを見舞ったのである。

無表情な男の足が、まるで鞭のようにしなったときは、流石にスペランカーも愕然とした。

ミルキーは避ける。

猫背の態勢から、ひらりと。エプロンを掠ることも無く、非常に美しい軌跡を描いて、ミルキーは着地。

川背が介入する暇も無かった。

男はその場を無言で去って行く。無言だけでは無い。終始、無表情を保ち続けていた。

あれが、このフィールドの怪物だろうか。しかしそれならば、どうしてスペランカーと川背は、今まで攻撃を受けなかった。

それだけではない。

ミルキーは、攻撃を受けて反撃するでも無く、毛を逆立てることも無かった。

「失礼な人間だにゃあ」

「川背ちゃん」

「はい」

ミルキーの至近に川背が着地。油断無く周囲を見張る。

ミルキーよりも更に身軽な動きに、二本足で歩く猫は驚いたようだが。正直、此方の方がもっと驚かされている。

「今のような人間は、珍しくないの?」

「しょっちゅう会うにゃ。 ミルキーを散々ぶとうとするにゃあ」

「……」

猫嫌いはいる。

糞などで家を汚したり、鼠の死骸などを置いていったりすることを、好まない場合だ。飼っているペットに、攻撃をされることを警戒している人もいるだろう。

だが、今の人は、露骨に攻撃だけを目的にミルキーに近づいてきていた。ああいう例も無いとは言えないが、あまりにもおかしい。えせ紳士を装った狂人というのもいるだろうが、それにしてもちぐはぐだ。

また、人間が来た。

いや、違う。

今度は、二足歩行の犬だ。それも、舌をだらりと垂らして、やはり猫背で此方に近づいてきている。

ミルキーよりも、だいぶ大きい。

川背が、ルアー付きゴム紐を手から垂らす。スペランカーが、それを制止した。

「先輩?」

「みて」

犬の視線は、ミルキーだけに向いていた。

スペランカーが、間に入る。それなのに、ずっとミルキーだけを、犬人間は見ている。間に入ったスペランカーの方が、自分より大きいのに、だ。

「何をするつもり。 乱暴をするなら、やめて」

犬人間が唸る。

それも、スペランカーに対してでは無い。明らかに、ミルキーに対してだ。手を広げて、ミルキーを庇う。

不意に、犬人間が飛びかかってきた。

だが、スペランカーの至近で、ぴたりと止まる。そのまま左右にステップして、ミルキーだけを狙おうとしているようだ。

「先輩! 後ろにも!」

後ろからも、犬が来た。

ブルドッグみたいな、凶悪な顔つきの奴だ。足が短くて、やはり無茶な二足歩行で近づいてくる。

無言でミルキーを抱えた川背が跳躍して、屋根の上に上がる。

犬は、その動きだけを追っていた。視線は川背を見てもいない。一番邪魔になっているのは、目に見えているのに。

「邪魔っ気な犬だにゃあ」

ミルキーが、前足と言うべきか、手と言うべきかを、すっと持ち上げる。

犬が、消えた。

マンホールが動いたのだ。触ってもいないのに。そして、犬は暗闇に吸い込まれていった。

いわゆるサイコキネシスの一種だろうか。

フィールドの中では、理不尽が頻繁に起こる。猫がサイコキネシスを使うことがあっても、不思議では無い。

ぼとぼとと、犬がマンホールの中に落ちていく。

他のマンホールも、次々に開き始めた。犬は悲鳴一つあげずに、暗闇の中に消えていくのだった。

程なく、数匹いた犬は、全て闇に消えた。

同時に、マンホールが無音でずれはじめ、元に戻っていく。

川背が先に降りてきて、耳打ちしてくる。屋根の上で、ミルキーは前足をぺろぺろと舐めていた。

「気付いていましたか、先輩」

「うん。 犬たち、私達には目もくれていなかったね」

「ほぼ確信できました。 あの猫がこのフィールドの主か、もしくはこのフィールドがあの猫のためだけに作られているか、どちらかです」

全面的に同意だ。

ミルキーは身軽に屋根から降りてくる。二足歩行であっても、其処は猫だ。着地に、全く危なげは無い。

「いつも犬たちは酷いにゃあ。 ミルキーを、散々追いかけ回すにゃあ」

「今の力は?」

「何のことだにゃあ」

違和感が、どんどん大きくなっていく。

このフィールドは、一体何だ。どうも、とてつもなく嫌な予感がする。本当に此処は、危険性がない場所なのだろうか。

川背もおそらくは、違和感を感じ始めている。

頭脳労働を、頼れる後輩に任せっきりでは駄目だ。スペランカーは、自分の頭があまり良くない事は理解できているが、それでも使わなければならないだろう。

「川背ちゃん。 私がミルキーちゃんについてるから、行ってきて欲しいんだけれど」

「……」

耳打ちして、説明する。

頷いた川背は、ルアー付きゴム紐を振るうと、猿のように屋根の上に跳ね上がり、そして飛んでいった。

見る間にいなくなる川背のことを、ミルキーは気にもしていない様子だった。勿論、助けられたなんて、思ってもいないことだろう。

「さあ、マイケルを探すにゃあ」

そればかりか、スペランカーにも感謝している様子は無い。

いくら猫が群れを作らない生物であるからとは言っても。少し反応がおかしかった。勿論、ミルキーのせいだとは思っていない。スペランカー自身も、不快感は感じていない。

一つずつ、パズルのピースが合わさっていく。

だが、まだ絵になるには、早い。

 

サヤが追いついてこない。そればかりか、いつも使っている式神も、来る様子が無い。時々声が聞こえないか耳を澄ますのだが、それも反応が無い。

ミルキーは、何かの確信があるのか、ずんずん歩いて行く。

動物的勘、という奴だろうか。

路地が細くなってくる。

昨日来たときと若干地形が違っているが、このフィールドは、辺縁に行けば行くほど、路が狭くなる。

昨日は、それでも、危険は感じなかった。

今はどんどん、嫌な予感が膨らんできている。

おかしな事に、フィールド自体が変わったとは思えないのだ。ミルキーが現れたことで、眠っていたフィールドが起き始めた。そんな気はするのだが。

「この間は、この辺で見つけたのにゃあ」

ミルキーがゴミ箱を漁りはじめる。ゴミ箱と言っても、J国のものとは違い、コンテナ式の大きな奴だ。

短くなっている尻尾を振り振りしながら、ゴミ箱に頭を突っ込んで、がさがさやっているのを見て。

周囲の人間は、何も言わない。

川背に言われたことがある。食事中の動物には触らないように、と。だから、後ろから話しかける。

「ね、ミルキーちゃん。 マイケルちゃんはいいの?」

「その前に、腹ごしらえにゃあ」

「……」

ゴミ箱を、側から覗き込んでみる。

そして、ぞっとした。

中には、魚の頭ばかりが、無数に入っているのだ。それも、どれもこれもが適切に腐敗しているのである。

一心不乱に、ミルキーが食べ続けるのも、何となく分かる。

これは、彼女にとっての、ごちそうそのものだ。

空を、蛇行する光。

何度か見た事がある。サヤの式神だ。やっと追いついてきたらしい。手を振るうと、此方に気付いた。

そして、すぐにサヤが姿を見せる。

ぱたぱたと可愛らしく走ってきたサヤは、スペランカーの手前で、肩で息をついて、呼吸を整えると、ミルキーをじっと見た。ミルキーは相変わらず、魚の頭しか入っていないゴミ箱を、一心不乱に漁っていた。

頷く。

「あの子が、フィールドの……」

「多分間違いないよ。 でも、乱暴はしないで」

「分かりました」

「それよりも、どうしたの? 随分追いつくまで、時間が掛かったけれど」

サヤが不意に口をつぐむ。

彼女は言いづらそうに、ゴミ箱を漁るミルキーの後ろ姿を見つめながら、言った。

「子猫を見かけたんです」

「!」

「どうも様子がおかしくて、調べていたら、時間が掛かってしまいました。 ごめんなさい」

こんな異様な空間で、子猫を見かけたとなると、マイケルである可能性が高い。

そしてそれは、極めて高い確率で、この空間を攻略する鍵である。

しかし、どういう意味で、なのだろう。

「それで、子猫はどうしたの?」

「壁をすり抜けて行ってしまいました」

「……!」

「人も犬も、子猫には見向きもしないんです。 壁をすり抜けて、車さえ通り抜けて、我が物顔に歩き回っているのに」

震えが来ているからか、サヤが自分の肩を抱く。

幽霊なんて見慣れているだろうサヤが、これほど怖がるのだ。よほどに異常な光景だった、という事だろう。

川背には、今調べに行ってもらっている。

彼女なら、きっと確実な成果を上げてくれるはず。

一つだけ、スペランカーには、今結論が出ている。

この子は。ミルキーは、ほぼ間違いなくこのフィールドのコアだ。

しかし、造り主では無い。

このフィールドを作った存在は、多分人間。だが、まだ意図や人間的肖像が見えてこない。その意図さえ、掴めれば。

或いは、不幸な終わりは回避できるかも知れない。

「子猫の追跡は、できている?」

「式神が三交代で張り付いています。 でも、何だか気味が悪くて。 もの凄く嫌な予感がするんです。 危険な、というのとは違うんです。 でも、この場にいてはいけないって、体の奥からびりびり来るんです」

顔を上げたミルキー。

魚の頭をたらふく食べたからか、油まみれだった。上機嫌に手足を舐めはじめる。二足歩行していても、こういうときは猫らしい。

「……何となく、分かるかも知れない」

スペランカーは慣れている。

今、スペランカーの第二の故郷となっているアトランティスには、意識を失ったまま眠り続けていたり、戦う意欲をなくした邪神も何柱かいる。

其処では、狂気は当たり前のように存在するものだ。

だが、普通の人にとって、狂気は侵食してくる悪夢なのだ。サヤのようにまともで優しい子には、なおつらいだろう。

この空間は、狂気に満ちている。

邪神に囚われる前で良かったと思う。異星の邪神にとって、此処ほど心地よい環境は、そうそうにないだろう。

「さ、マイケルを探すにゃあ。 おや、知らない人間が増えてるにゃあ」

「サヤです。 よろしくお願いします」

手を揃えて、ぺこりと挨拶するサヤ。角度は凄く美しくて、スペランカーはすごいなあと思った。

この子はちょっと臆病だけれど、礼儀正しくて優しくて、きっと良いお母さんになるだろう。

「スペランカー、あんたの友達かにゃあ?」

「そうだよ。 怖い人じゃ無いから、安心して。 ミルキーちゃん、おなかも一杯になったでしょ? マイケルを探そうか」

「分かったにゃあ」

上機嫌で歩き出すミルキー。

ふらふら揺れる尻尾を横目に、スペランカーは、サヤにマイケルをロストしないように、小声で告げた。

 

既に時刻は夜の十一時。

体力がある方では無いスペランカーは、何度もあくびをしながら、眠気を抑えるのに苦労した。

異常な配色の街なのに、全く景色に変化が無いので、歩いていて催眠効果さえ感じてしまうのである。

サヤは露骨にそわそわしていて、何か物音があると、スペランカーの後ろに隠れる始末だった。彼女の方が背は少し高いのだが。

途中で、休憩を申し入れると、ミルキーは了承してくれた。

ぺろぺろ前足を舐める彼女と、色々と話をする。

何が好きか、どんなことをして過ごしていることが多いか。マイケルという名前は、どうやって付けたのか。自分が好きな者や、被保護者であるコットンについても話してあげる。

自分で産んだわけでは無いが、スペランカーにとってコットンは大事な存在だ。だから、違和感がある。

ミルキーがマイケルについて語るとき、その論調は、ほとんど人間が子供を愛するのと同じなのだ。

やれ何が好きで、どういう子で、とても自分にとって大事で、その他その他。話しているときは嬉しそうで、自慢げで、この子のためなら命だって惜しくないと、言葉の端に臭わせている。

笑顔で話をしながら、おかしいと思う。

スペランカーも、知っている。

人間でさえ、環境や時代によっては、子供を大事に思わない。「子供はまた産めば良い」というような言葉が、古い時代の物語などに出てくると言うが。それは子供の致死率がとても高い上に、命が軽い時代が存在したからだと、以前川背が話してくれた。

動物にとっても、子供の価値は様々だ。

命を賭けて守ろうとする動物もいる。

しかし、子供をかなりたくさん産む動物にとって、出来の悪い子供は見捨てる程度の存在に過ぎない。

雑食の動物はさらに徹底していて、ブタなどの場合、子供だろうが兄弟だろうが、死んだらエサに早変わりだ。

人間でさえ、子供は時代や環境にとって保護のレベルが変わるのである。ましてや動物であれば、人間と違う観念が働いていて当然だ。

猫なども、子供を大事には守る。

だが、雄猫は、しばし雌猫の子供を殺す。酷い話だとスペランカーは最初聞いたときに思ったが、後に一緒に戦った戦士と雑談したときに聞かされた。それには、遺伝子保存の上での意味があるのだ。子供が死ぬと、雌猫はすぐに発情して、子供を産める状態になる。自分の子を殺した相手に対して、憎しみを抱くようなことも無い。だから、雄猫は、他の猫の血を引く子猫を殺す事を躊躇しない。雌猫も、守りきれなかった子供など、一顧だにしない。

要は、血を継いだ子供であれば、それでいいのだ。

猫の子供の愛し方は、所詮そのようなもの。それは決して悪いわけでも卑屈なわけでも無い。動物としては、理にかなっているものなのだ。

人間が同じようなことをしたら、スペランカーは許さないと思う。その人のことを、憎むことができる。自分をネグレクトして飢餓地獄に叩き落とした母親と称する存在と、同じように思えるからだ。

しかし相手が動物なら、話は違う。

人間には人間の理屈があるし、猿にも猫にも、犬にも蛇にも、それぞれの理屈がある。

だが、ミルキーの話を聞くと、その理から彼女は明らかに外れている。変わり者、というわけでもないはずだ。

猫としての行動に不足はないし、マタタビにも反応する。

気分が悪そうにしているサヤを、物陰に移動させる。リュックからござを出してしいて、横になってもらう。

この空間の狂気に当てられたのだろう。

とにかく、脈絡が無いのだ。

時々、不意にミルキーに攻撃がある。人間がいきなり襲いかかって通り過ぎていくこともあるし、犬が物陰からかぶりついてくることもある。

いずれもを、ミルキーは華麗なジャンプでかわし、遠隔地のマンホールを手も触れずに動かし、撃退していく。そしてそれら襲撃者は、やはりスペランカーもサヤも、絶対襲わない。

狂気の本質は、理不尽だ。

スペランカーは幼い頃から、人生そのものが理不尽だったし、狂気には触れ慣れている。

「何だか、疲れたみたいだにゃあ」

「眠る?」

「何のことだにゃあ」

「ううん、何でも無いよ」

眠るという概念も無いらしい。

此処は、一度撤退だ。これ以上はサヤが保たないだろう。

「ミルキーちゃん、ごめんね。 一度私達、外に出るわ」

「にゃ? マイケルを探してくれないの?」

「私達、この世界の住人じゃ無いから、とても疲れるの。 元気になったら、また戻ってくるよ」

小首をかしげているミルキーに背中を向けて、歩き出す。式神を呼び出して、サヤに肩を貸させる。一緒に歩きながら、振り返っては駄目と告げた。ミルキーの様子が、何かおかしかったからだ。

サヤが、ひっと小さな声を漏らした。

何かを見てしまったらしい。振り返るなと言ったから、却って少し後ろを見てしまったようなのだ。

吐きそうになっているサヤを、もう式神に抱えさせる。

一応、出口がある方向は分かっている。というよりもこのフィールド、出ようと思えばいつでも出られるのだ。

小走りで行くと、星明かりが見えた。

フィールドを飛び出す。

サヤはぐったりしていて、汗が滴るような勢いで出ていた。ハンカチで拭ってあげる。式神が、心配そうに呟いた。

「もう、サヤを彼処には行かせたくない」

「何が見えたか、聞いても良い?」

式神も振り返っていた。

鬼と呼ばれる妖怪である彼は、何度かためらった後、言う。

「目をらんらんと光らせた、猫とも人ともつかぬものだ。 怨念を蓄えた猫神はあのようになる事もあると聞いているが。 あのミルキーなる猫の化生、怨念を蓄えている様には見えなかった」

「同感だね……。 サヤちゃん、もう少し我慢して」

手足を失った人を励ましながら、撤退したことだってある。

スペランカーはひ弱で脆弱で、頭だって良くない。記憶力だって、非常に容量の上限が低い。

それでも死線をいやというほどくぐれば、少しは進歩する。けが人や、弱っている人の励まし方くらい、分かっている。

むしろサヤは運が良かったかも知れない。露骨な狂気にまともに当てられて、体調を崩す程度で済んだのだから。

宿舎まで運んで、寝かせる。

しばらくうなされていたサヤだが、やがて眠りはじめた。念のため医師を呼んで、見てもらう。

当然のことながら、フィールド探索には負傷がつきものだ。監視のためにくる国連軍は、軍医を連れてくることが暗黙の了解となっている。多くの場合は外科が専門の人が多いのだが、近年は異星の邪神の侵攻が激しいこともあって、精神科の医師を連れてきてくれている事も珍しくない。

ただし、今回に限っては、外科だった。

街の方へ医者を探しに行ってもらう手もあったのだが、とりあえずスペランカーが気付いていないような怪我をしていないか、診察してもらう。まだ若い女性の医師は、触診したり脈を測ったりしていたが、眉をひそめた。

「一体何があったんです?」

「濃厚な狂気に当てられて、体調を崩したみたいなの」

「貴方は平気なのに?」

「私は、慣れてるから」

怪訝そうに小首をかしげた医師だが、幾つか説明してくれた。

まず、サヤは妙に脈が弱っている。女医はフィールド探索者の中でも、いわゆる魔術師の診察をしたことがあるので、ある程度対処法は分かるという。

サヤは言うならば、東洋系の魔術師の一種だ。

お医者さんの言うことは、聞いていて間違いが無いだろう。

「しばらく、本人をフィールドに入れない方が良いですね。 能力で遠隔の調査ができるのなら、それを使った方が良いです。 入れるにしても、短時間で、確実に仕事を終わらせるようにしてください」

医師なのに、尊大さがない人物で、スペランカーは好感を持った。彼女は、暖かくして栄養のある食べ物をしっかり食べていれば、命に別状は無いと保証してくれた。逆に言うと、サヤはもうフィールド内にはそうそう連れて行けないだろう。ドクターストップが掛かったと言って良い。最後に必要なときだけ、連れて行くほか無い。

それにしても、だ。以前異星の邪神の作ったフィールド内に入った事があるサヤが、こうもたやすく体調を崩すとは。

あのフィールドは、予想以上に厄介だ。

今後も戦闘があるとは思えない。だが、攻略には、想像以上に骨が折れるかも知れなかった。

 

3、行き交う闇

 

翌朝、川背が戻ってきた。

彼女には、幾つか調べものと、それにアドバイスをもらってくることを頼んでいたのである。

眠っているサヤを一瞥すると、川背は部屋を移すように言った。サヤの式神は、彼女に大きな影響を受ける。眠っている間は、あまり役に立たない。サヤの身を守ることはできても、伝言を正確に伝えることは難しいだろう。

むしろ今は、サヤにはゆっくり休んでいて欲しい。

「川背ちゃん、お疲れ様。 何か成果はあった?」

「はい。 まずは、これを見てください」

川背が連絡を取ってくれたのは、ダーナ。

以前数度フィールド攻略を共にした、若き魔術師だ。ある身体的特徴がある人物で、そのせいもあってか、非常に若々しく容姿が細い。

ダーナは最近めきめき力を付けていて、魔術に関しては相当に詳しくなっている。ましてや、西欧系の魔術師だ。話を聞いて、快くアドバイスをくれたようだった。

川背が街の地図を広げる。そして、指先を、地図上で動かした。

「この町には、東洋で言う地脈のようなものがあるとかで、ちょうどこう流れて、フィールドに力が流れ込んでいるようです」

「うん。 続けて」

「つまり、このフィールドは、街であった何かしらの出来事なり、意図的な行動により、誕生した可能性が高い」

やはり、そうか。

スペランカーの方でも、豹変したミルキーの様子について告げる。

川背は、驚かなかった。

「これはあくまで僕の意見ですが、あの世界は、人間の主観によって作られていると思います」

「ううん、私も同感だよ」

「有り難うございます。 そうなると、コアになっているあのミルキーという猫が、全ての事象の中心にいるはず」

スペランカーは、無意識でブラスターに手をやっていた。

神的存在、霊的存在に必殺の威力を見せる、スペランカーの切り札だ。海神の呪いと並んで、スペランカーが神殺しと呼ばれる最大の要因である。

あのフィールドを壊す方法は、ある。

スペランカーが、ブラスターをミルキーに叩き込めば良い。一日くらいは身動きが取れなくなるだろうが、確実にフィールドをつぶせるだろう。お仕事は終了。もちろん、異星の邪神につけ込まれる可能性も無くなる。

だが、今の時点では、まだ時間がある。

「川背ちゃん。 此処からは、二手に分かれよう」

「僕が調査で、先輩がミルキーについて回る、という事ですか」

「うん。 サヤちゃんの式神に聞いたんだけれど」

異様な動きを見せるマイケルという名前の子猫は、どうもフィールド内で、ミルキーから一定距離を取るようにして歩いている、と言うのだ。

恐らくミルキーが単独では、永久にマイケルにはたどり着けないだろう。

仮にたどり着けたとしても、一つ妙なことがある。ひょっとすると、マイケルの存在自体を、認識できないかも知れない。

試してみる必要はある。

「分かりました。 あのフィールドは危険性が小さいと思いますけれど、くれぐれも気をつけてください」

「大丈夫、任せて。 サヤちゃんが起きたら、事情を話して、式神を回してもらって、それで支援してもらうつもり」

仮に危険があるとしても、それでどうにかなるだろう。

問題は、あくまでその先だ。

朝食を済ませてから、フィールドに入る。店で買ってきてもらった、キャットフードを手土産にする。

これも、大事な調査の一環だ。

 

マタタビを焚くと、まもなくミルキーが姿を見せる。

既にサヤの式神は、周囲に展開して、マイケルを発見できていた。ただし、やはりミルキーとは、定距離を置いているようなのだ。

「来てくれて嬉しいにゃあ」

「昨日は途中で離れてごめんね。 はい、お土産」

「……」

キャットフードを見ると、ミルキーの表情が露骨に変わった。カリカリのタイプでは無く、J国で大々的に宣伝されているような、とても高級な品だ。それこそ血統書付きの猫が食べるような品なのだが。

ミルキーはそれを知っている。

知った上で、喜んでいるのでは無い。

「そんなの、いらないにゃあ」

「ごめんね。 もっと別のお土産が良かったね」

「物わかりが良くて嬉しいにゃあ」

機嫌をすぐに直してはくれないが、それでも話をしてくれる気にはなった様子だ。

側にいる大入道の式神は、側で護衛を担当してくれる。サヤの式神の中でも、鬼に並んで強い戦闘力を持つ妖怪だ。体格は非常に優れていて、頭は屋根の上まで到達している。

ただし、頼むのは、あくまで拘束系の攻撃に対する防御。

単純な攻撃は一切防がなくていいと、事前に告げてある。腕力が無い上に機動力も無いスペランカーは、確かに単純な暴力に対してはほぼ無敵を誇る。その代わり身の動きを封じるような攻撃に対しては完全に無力だ。

ましてや、このフィールドである。

何かあるとしたら、むしろトリッキーな攻撃を警戒するべきだろう。

何より、今はサヤの消耗が酷い。できるだけ戦闘は避けたい。

「マイケルを、探していたの?」

「ずっと探していたにゃあ」

「じゃあ、今日も探そうか」

スペランカーは、隣で首を横に振る式神に、一度だけ頷くと。

笑顔を保ったまま、ミルキーと歩き始めた。

ちいさな飛行妖怪の式神は、周囲を探し回り、ミルキーが活動していないことを確信して、スペランカーに連絡してきたのだ。

その上、マタタビを焚いているときも、周囲を徹底的に見張っていた。

断言される。

ミルキーは、突然沸いて出たと。

しかし、マイケルの方はというと、不可解な動きをずっと続けているのだという。こうしている今も、監視している式神が、報告を送ってきている。

交代で、空を飛ぶちいさな式神が来る。

マイケルの居場所を告げてきている。ミルキーは悠々自適に歩き回っているが、もしもマイケルとかち合うようにしてみたら。

しかし、それはまだリスクが大きい。

大入道に手を貸してもらって、少し高めの塀に登った。バランス感覚の無いスペランカーには、怖くて仕方が無い場所だ。

「あちらです」

式神に告げられる。

スペランカーにも見えた。ピンク色の毛並みで、やはり二足歩行で歩いている猫だ。そして報告通り、壁の中に消えてしまった。

「何をしているにゃあ」

少しずつ、情報を集めなければならない。

曖昧に返事をすると、やはり手を貸してもらって塀を降りる。

川背達は、どこまで調査を進展させただろう。

式神達が、情報を少しずつ、だが徹底的に集めてくれているはずだ。

それを、外の皆が生かしてくれる事を、まずは期待する。

「今日は、あっちに行ってみるにゃあ」

嬉しそうにミルキーが指さしたのは、歓楽街らしい雰囲気の町並みだった。無表情な人々が行き交っている。

だが異様なことに、殆ど会話は聞こえてこない。

また、人々に混じって、犬が相当数いる。

このF国は犬が多いことで知られてはいるが、それでも人間と距離がある。人間の服と同じようなものを着た二足歩行の犬が、人に交じって多数歩き回っているというのは、異様極まりない。

しかも、天敵のはずの犬の群れの中に行くことを、ミルキーは怖れていない。

「大丈夫でしょうか」

「行ってみよう。 いざというときは、よろしく」

大入道は、スペランカーの言葉に、寡黙に頷いた。

 

猫が鍵になっていて、人間が形成源となっている。

フィールドとしては珍しい形式では無い。執念や狂気が因果をねじ曲げ、この世ならざる空間を作り上げてしまうことは珍しくも無いのだ。

川背はまず、街の屋根の上を走り回る。

この町が、フィールドの発生に関与していることは、ほぼ間違いない。というか、はっきり言って、このフィールドに挑んだ探索者は、皆其処までは突き止めていただろう。

中が怪物だらけで、凶悪な首魁がいて。そいつを倒せば、フィールドを全て破壊できる、というようなものは、むしろ対処が簡単だ。実際問題、こうやって長年放置されているフィールドは、危険性もそうだが、攻略の手間暇が著しく掛かる事が原因であるケースが多いのである。

街の写真を、順番に取っていく。しばらく写真が溜まったら、ダーナの所に送る。

ダーナも街とフィールドの関与を突き止めてから、更に詳細な情報を送って欲しいと言ってきたのだ。

フィールドと違って、こっちは本物の人間が暮らす、寂れた田舎町。住んでいる人達の邪魔にならないように、できるだけ民家には入らないよう、主にビルの屋根を伝って飛び回る。

時々川背に気付いた住民が、唖然と視線を向けてくるのが分かった。

だが、殆どの場合、視線でさえ姿を拾わせない。

程なく、街を様々な角度から、百枚以上撮影した。一旦ベースに戻ると、ダーナに確認。これくらいなら、まるで消耗しない。

サヤはと言うと、己の式神操作能力を上げるべく、地面に何か模様を描いて、その中でヒラヒラ舞っている。多分神楽という奴だろう。汗を飛ばしながら舞うサヤを横目に、ダーナの分析を聞く。

「場所については、特定できました」

ダーナは物腰が丁寧だ。

川背も基本的に相手には丁寧な言葉で(もっともそれはしゃべり方だけで、けんかっ早い事は川背も自覚はしている)、敬語で喋りあうことになる。

「何か問題が?」

「はい。 どうも時間がおかしいんです。 魔力の流れをたどると、恐らく発生源は、既に消滅していると思います」

つまり、過去の存在が、何かしらの理由であのフィールドを作ったという事か。

それは想定の範囲内だ。

フィールドができたのは、実に50年以上も前の事。中年女性の霊体が、子供の頃忍び込んだと言っていたほどなのだ。

フィールドの作成者が既に鬼籍に入っていても、何ら不思議では無い。

だが、ダーナが言っているのは、もっと厄介なことだろうくらい、川背にも想像がつく。

「具体的に言うと、既に消滅したはずの発生源から、時間を飛び越えて魔力がフィールドに供給されている、と思います」

「そんなことが、可能なんですか?」

「高度な魔術と言うよりも、おそらくはそれに特化した、執念や妄執の結果の出来事じゃないでしょうか」

確かにあのフィールドは、配色と言い光景と言い狂気じみている。

魔術の理不尽さは、嫌と言うほど知っている。

何度も交戦してきた異星の邪神達は、それぞれとんでも無い次元の魔術を行使してきた。以前の交戦で川背を一蹴したダゴンに至っては、後に聞いた話によるとマイクロブラックホールやアカシックレコードに対する操作まで実行したとか。スペランカー先輩が倒し今はアトランティスで弱体化した状態で生きているアトラク=ナクアという邪神に至っては、星そのものを生け贄にして、怨敵を倒すつもりだったというではないか。

勿論、川背達フィールド探索者の能力が無茶苦茶なのも、理不尽なのも同じ事。

どちらも、普通の人間にとっては、あまりにも異質すぎる力なのだ。

「フィールドの危険性については?」

「分析がまだ足りないので、何とも言えないですが……」

ダーナは言葉を濁した後、言う。

「無理に破壊すると、大爆発するかも。 いや、します。 行き場が無くなった力が、暴走すると思います」

「……」

実のところ、川背は。

攻撃に特化したタイプのフィールド探索者を要請しようと思っていたのだ。

異星の邪神にこのフィールドが乗っ取られると、相当な脅威になる。これだけの狂気、邪神のエサになると、相当に面倒な事態になるだろう。アーサーやMといった連中を連れてきても、対処が難しいかも知れない。

勿論先輩は嫌がるだろうが、分かってくれるはず。

だが、それもできなくなった。どうにかあの狂気じみた世界を解析しなければならない、という事か。

サヤがへたり込んで、式神に支えられながら、栄養ドリンクを口にしている。肩で息をしていて、相当につらそうだ。汗まみれでセクシーというとそうでもない。先輩ほどじゃないが、かなり子供っぽいからである。

「情報収集は進展していますか?」

「はい。 げほげほっ!」

ストローで飲んでいた栄養ドリンクを派手にむせるサヤ。

見ていて不安になるレベルだ。魔術師は身体能力が低いものが多い。だから仕方が無い部分もあるが、この娘は筋金入りだ。

先輩のように理由があって身体能力が弱体化しているのなら兎も角。鍛えようと思えばできるのに、そうしないのを、川背には理解できない。

「はー、はー。 す、すみません。 ええと、肉眼でマイケルを視認できる所まで、接近しました」

「動きのパターンが読めてきた?」

「いいえ、ちょっと違います」

スペランカー先輩が、うまくミルキーの方を誘導しているのだという。

ミルキーが行きたがる方向から離れるように、マイケルが動いているのがほぼ確実だとか。

そこで、あえてそれをずらしているのだ。

既に地図自体はできている。先輩は頭脳労働はさほど得意ではないが、側には将棋を趣味にしている式神も付けてある。

何より、判断力が信頼出来る。

「それで、これからどうします」

「力尽くで壊すと、大爆発する可能性が高いことが分かりました」

話を聞いてしまったらしい国連軍の兵士達が、真っ青になるのが見えた。放っておく。フィールド探索は、危険と隣り合わせなのだ。それくらいで逃げられては困る。

「フィールドの解析に全力を尽くします。 それから、先輩と一緒に、コアを砕いて、全てを終わらせる」

もしも、残酷な結末になるようなら。

川背が手を下す。

それだけだ。

スペランカー先輩は、川背をはじめて認めてくれた人。彼女が悲しむような姿を、川背は見たくなかった。

だが、それ以上に、スペランカーが勝ち残れるのなら。

川背は、自分自身を捨てるつもりさえあった。

ともかく、今は解析だ。

「これから、かってフィールド発生に関わったらしい場所に、行ってきます。 貴方は先輩に、途中経過を連絡してください」

「分かりました、すぐに」

頷くと、川背は愛用のルアー付きゴム紐をふるって、すぐに跳ぶ。

同時に、バックアップに当たっているチームに携帯で連絡を入れ、調査を依頼した。

ダーナが指定してきた場所は、街の郊外。

どちらかと言えば、貧民街に近い場所だ。粗末な格好のホームレスがうろついていて、着地した川背を見ても、虚ろな目でぼんやりするばかりだった。

西洋では、犬は非常に大事な存在だ。

だというのに、恐らく他に食べるものもないのだろう。犬の残骸らしきものが、散乱している。路上にである。

この様子では、危険すぎて普通の人間など近づけないだろう。

ホームレス達を見る限り、武装しているわけではない。ただし、川背が隙を見せれば、即座に攻撃してくるだろう。

見たところ、移民の成れの果て、というような人々が中心のようだ。

この国で、彼らともとの住民との対立は、既に危険な段階にまで突入してしまっている。川背が口を出せることではないし、手を出せば却って状況が悪化しかねない問題でもある。いずれにしても、今は、放置するしか無い。

ダーナが指定してきた場所は、空き地になっていた。

雑然と並べられている資材と、ぼうぼうに生えた雑草が、新しく何かを作る予定が無い事を示している。

あのぐずなサヤを連れてくるのは、危険すぎるだろう。

場所をメモして、更に何度か写真を撮る。そしてダーナに連絡し、更に写真を転送した。すぐに返事が来る。

「此処ですね、間違いないです」

「何か分かりますか」

「やはり、フィールドの造り主は存在しません。 此処そのものではなくて、過去から力が流れ込んでいるのは確実です」

「……」

此方をうかがっているホームレスが数名。

手には工具らしいものを持っている。川背がフィールド探索者だというのは、一目で分かるだろうに。

ゴム紐を投擲しつつ、跳躍。

反発力を駆使して、近くのビルの壁に跳び、それを蹴って三角飛びの要領で高度を上げる。二度の蹴りで屋上に到達。

呆然と此方を見つめるホームレス達を尻目に、川背は話を続けた。

「他には」

「……そうですね。 どちらかというと、怨念と言うよりは執念のような気がします」

「怨念では、ない?」

「はい。 怨念は、周囲全てを恨んだり、呪ったりする傾向がありますけれど。 どうも、そういった思念は感じ取られません」

しかし、そうなると、あれほどの狂気じみた空間を作り出す原動力は、一体何なのだろう。

バックアップチームから連絡があった。

どうもこの辺りは、以前にはちいさな病院があったらしい。区画整理などで移動したようなのだが。

そうなると、更に厄介だ。

不特定多数の人間が出入りしていたわけだし、怨念も溜まりやすいだろう。いや、怨念では無いと言うことか。

病院の図面と、入院患者のリストの取り寄せを依頼。

恐らく、フィールド形成の原因は、その中にある。ひょっとしたら医師かも知れないが、まずは患者を当たるのが確実だ。

何があったのかは、まだ見当もつかない。

しかし怨念では無いとすると、あれほどの狂気を産んだ原動力は何だろう。精神的なパワーというのは、無から生まれる事は無い。必ず、何かしらの切っ掛けが存在するものなのだ。

そして、切っ掛けさえ掴むことができれば。

文字通りの意味での、過去からの闇を断ち切ることができるだろう。

人間の社会は、過去も現在も、世界のどこでも、問題だらけだ。

川背にとっては、スペランカー先輩さえ幸せであれば、それでいい。自分の幸せなんて、二の次だ。

妙な話で、スペランカー先輩は、周囲の皆に幸せであって欲しいと思っているようだ。人間ばかりか、自分が打ち倒して従えた邪神に対してまで、そう思っているらしい。だから、かも知れない。

スペランカー先輩本人が、幸薄いのは。

辺りを撮影して、写真をダーナに送った後、再びベースに戻る。

撮った写真は、まだ手元にある。

サヤに見せれば、新しい情報も、出てくるかも知れない。

 

川背からの情報を聞き取り終えると、スペランカーはミルキーに対して、休憩を申し出る。

やはり二足歩行の猫は、全く休む気配が無い。

驚くほどの数の犬に襲われたのである。人間が大勢いるのに、犬たちはミルキーを視認するや否や、まるで親の敵のように、一心不乱に襲いかかってきた。その上、人間達まで、ミルキーを見つめ、棒を投げつけたり、靴を投げてきたりしたのだ。

あまりにも偏執的すぎる攻撃だった。

慌ててスペランカーが間に入ると、ぴたりとものが飛んでこなくなる。

犬たちは、スペランカーを避けてミルキーを襲おうとしたが、ひらりひらりと飛び越えるミルキーに手も足も出ず、そうこうするうちにマンホールに落とされてしまうのだった。一瞬だけ、マンホールの中から何かが覗いているのが見えた。だが、蓋が閉じられると、気配も消えてしまう。

犬が全部消えると、人間達はミルキーに興味を失ったように、またふらふらと歩き始める。

まるで、昔のRPGの登場人物達のようだ。

式神達が、戻ってくる。そして、情報をくれた。

不思議な話だが。

ミルキーが動きを止めると、マイケルも動くのを止める。文字通り、固まったように動かなくなるのだ。

何度か式神にためさせてみたのだが、やはり、マイケルにはそもそも触ることもできない。かといって立体映像という事も無く、実体は存在している様子なのだ。

散々ミルキーを庇って走り回った。

体力が無いから、転びもする。その度に死ぬ。

怪物が跋扈するフィールドに比べればマシだが、スペランカーはさっきから通算七回死んだ。

その度に蘇生するのは、スペランカーの身を覆う海神の呪いの効果だ。不老不死を実現する代わり、著しくスペックを引き下げるこの呪いは、スペランカーにとってはもはや腐れ縁の存在で有り、仕事の道具でもある。攻撃的な活用もできるのだが、今の時点でその必要は無さそうだ。

ミルキーは、スペランカーが都度死んでいる事に、気がついていない。

また、犬が襲ってきた。軽々と飛び越えると、手も触れていないマンホールを操作して、落とす。

ミルキーは、犬を恐れる事も無ければ、消すことに罪悪感も感じていない様子だ。

「人間はひ弱だにゃあ。 休んでばかりだにゃあ」

「他の人間も、そうだったの?」

「そうだったにゃあ。 ……もそうだったにゃあ」

名前を、聞き取れなかった。

眉をひそめたスペランカーに、大入道が耳打ちしてくる。

「私にも聞き取れませんでした。 というよりも、言霊の形成が邪魔されている感じですね」

「……」

つまり、その名前が出ると、このフィールドに対して、著しくまずい、ということなのだろう。

そして、一つ分かった。

その名前の主は、ほぼ確実にミルキーの知り合いだ。そして、このフィールドの造り主に、高確率で一致するはずだ。

あまり頭が良くないスペランカーでも、それくらいはわかる。もっとも、こういう論理的思考は、川背の影響で少しずつ覚えたのだが。

歓楽街だからか、ゴミ箱もある。ボックス式の、大きなものだ。

またゴミ箱に頭を突っ込んで、食事をはじめるミルキー。

むしゃむしゃと、凄い音がする。多分、魚の頭を、また貪り食べているのだろう。あまり見たくは無い図である。スペランカーも腰を下ろすと、食事にさせてもらう。リュックを開けると、レーションが出てきた。かに缶が良かったのだが、こればかりは文句も言えない。

まずいレーションも多いが、今日のは川背が選んでくれた、そこそこまともな奴だ。

式神達は、食事を必要としないと聞いている。

正確には、サヤの力を食べているので、実体物は口に入れなくてもいいそうだ。式神を働かせると、サヤが消耗する理由は、其処にある。

式神達は、マイケルの監視を続けながら、ひっきりなしに情報を川背に流してくれていた。

サヤの消耗が早いと、式神が告げてくる。

車と同じだ。

ガソリンが無ければ、車は動けない。

式神も、サヤの力が無ければ、満足に動けなくなる。戦闘の時、それは危険な事態を招きやすい。

だが、このフィールドが時限爆弾に等しいと分かった今、短慮に走るのはまずい。

一度、引き上げるか。

そう思った瞬間、ミルキーが顔を上げた。

「また、いなくなるのかにゃあ」

「ごめんね。 少し、消耗が早くて」

「……ひどいにゃあ」

最初にミルキーとあったときと、同じ悪寒。

少しずつ、ピースが合わさっていく。この空間が何のために存在していて、そしてミルキーとは何なのか。

だが、まだ、形にならない。

スペランカーは、ミルキーを抱きしめた。

相手の敵意が、和らぐのを感じる。それに、ミルキーのふかふかの毛皮は、暖かかった。

「気持ちいいにゃあ」

「暖かい毛皮だね」

「あたいは耳も尻尾も傷物だけど、この毛皮だけは自慢だにゃあ。 ……も、この毛皮を抱きしめるとき、嬉しそうにしてたにゃあ」

やはり、ミルキーがその声を口に出しても、聞き取れない。このフィールドは、とても悲しい狂気を土台にしている。

それが、何となく分かってきている。だが、放置するわけにはいかない。ミルキーを話すと、スペランカーはフィールドを後にするべく、背を彼女に向ける。

この間ほど酷い狂気は、後ろから追ってこなかった。

フィールドを出ると、既に明け方近かった。

 

軽く一眠りして、プレハブの会議室に出ると、川背が資料を用意して待っていてくれた。スペランカーが話をした後、ずっと作業をしていたらしい。

「大丈夫? 寝てないんじゃ無いの?」

「二日や三日の徹夜、僕には何でもありませんよ」

そうはいうが、徹夜は能率が落ちると以前川背が言っていたのだ。つまり、何かあるという事なのだろう。

戦闘タイプの川背とはいえ、限界はある。

だが、彼女は本物のプロだ。無理をしているのは、それなりの理由がある、という事だろう。

「まず第一に、フィールド生成原因の候補を三十人にまで絞り込めました」

「すごいね!」

「ありがとうございます、先輩。 この写真を見てください」

まず最初に出されたのは、寂れた病院。赤十字のマークを掲げてはいるが、規模はそれほどでもない。

J国のちいさな総合病院程度だろうか。階数も二階建てとかなり小ぶりだ。

「かって、街に存在した病院です。 フィールドの発生主は、恐らく此処で命を落とした人間でしょう」

リストが出される。

その中に、一つ気になる名前があった。

「マイケル=フラウン?」

「気付きましたか。 名前からして、米国系でしょうね」

死んだのは、ぴったりフィールド発生の時期と重なっている。

かわいそうに、まだ十三歳であった様子だ。見ると、はかなげな少年で、骨と皮だけしか無い。

どうして異国の田舎で命を落としたのだろう。

空気が良い場所で療養、と言う奴だろうか。

いずれにしても、この子は有力候補の一人だ。他にも資料を見てみるが、不幸な生い立ちだったり、最後が気の毒な人が目だった。川背が絞り込んでくれた三十人の中の、誰がフィールドの形成に関与していても、驚かない。

既に軍が警察と協力して聞き込みをはじめているようだが、芳しくない様子だ。そもそもこの病院があった場所が、今は貧民窟になっている。しかも病院が潰れてから二十年以上も経過していて、当時のスタッフの行方も知れない状態なのだ。

またサヤに頼むしか無いか。

そこで、不意に川背の携帯が鳴る。無骨なバイブ音だけだ。

「はい、川背です。 ……分かりました、有り難うございます」

「どうしたの?」

「ダーナさんが、重要な法則を見つけてくれました。 おそらくはこれで、一気に真実に肉薄できると思います」

図を書いて、川背が説明してくれる。

資料などとの関連がとても分かり易い。川背は現役引退したら、フィールド探索者の教師や軍の訓練教官として、大活躍できるだろう。スペランカーみたいに頭があまり良くない人間でも、的確に教えられる、よい先生だ。

確かに、川背の説明は、納得がいく。ただし、それが好ましい話かというと、違う。

いろいろな悲劇を見てきた。

発展途上国で、地獄のような内戦が行われている地域に足を運んだことだってある。狂気も散々味わってきた。

だが、理不尽な悲劇は、何度見ても慣れない。

許せないとも思う。

悔しいのは、今その場にいないこと。そして、どうしようも無い、という事だ。

「サヤちゃんを呼んで、それからだね」

「消耗が酷いようですし、夕方以降でしょうか」

「うん。 私も仮眠取るよ。 危ない場所だって言うから、軍の人達に、警備を頼んでおいてくれる?」

頷くと、会議室を出ようとする川背。

一つ、スペランカーは付け加えた。

「川背ちゃんも、できるだけ早く休んで。 いざというときは、川背ちゃんが頼りなんだから」

「分かりました。 善処します」

優しい笑顔を、川背は見せてくれた。

スペランカーも、夜通しミルキーと歩いて、疲れ果てている。シャワーを浴びると、仮眠を取る。

きっと、此処で決定打が見つかるだろう。

ベッドに潜り込むと、今までの情報を自分なりに整理してみる。川背が出した結論が、正しいという答え以外は見当たらない。

だが、それでも、もう少しは優しい現実があるかも知れない。

それを信じて、スペランカーは今は休むことにした。

 

4、偽りの楽園

 

川背とサヤを伴って、スペランカーは三人でフィールドに降り立つ。

サヤを連れてきたのは、これが最後になるからだ。

マタタビを焚く。だが、今日は中々、ミルキーは現れなかった。何か不穏な気配を感じているのかも知れない。川背は何も言わず、彼方此方にマタタビの枝を仕掛けていった。煙が濃厚に充満していく。

一時間も、した頃だろうか。

濃厚な煙の中から現れるようにして、ミルキーが姿を見せた。腰を落として視線を合わせるスペランカーに、鼻を鳴らす。

「来てくれて嬉しいけど、後ろの二人は?」

「今日は、本気でマイケルを捕まえようと思って」

「……」

ミルキーの目に、見る間に警戒の色が宿っていくのが分かる。

残念ながら、その理由も。

今のスペランカーには分かっていた。

昨日、サヤが呼び出した証人が、全てを話してくれたのだ。今こそ、この偽りの楽園に、優しい眠りを造り出さなければならない。

「マイケルを、捕まえてくれる、のかにゃあ」

「うん。 約束するよ」

「本当、かにゃあ」

やはりミルキーは、かなり警戒している。スペランカーの話は聞いてくれてはいるが、川背とサヤのことは嫌ってしまっているようだ。

猫が気まぐれ、というのとは違うだろう。

理由は、フィールドの形成原因にある。

そして、全てを終わらせるには、悲劇を乗り越えるしか無い。

「先輩、はじめます」

「お願い」

「何を、する気かにゃあ」

川背が、ひょいとミルキーを抱え上げる。

そして、跳躍した。

マイケルの動きは、既に現時点で、完全に捕らえている。そして、理解できている。このフィールドは、そもそも、「状態を維持する」ための存在なのだと。

猫の鋭い悲鳴が上がった。

ミルキーのものだ。嫌いな人間に抱え上げられれば、猫は抵抗する。川背は上手に引っかかれるのを避けながら、ミルキーを抱えて、跳ぶ。

川背が道路を飛び越えるのが見えた。

式神と話しながら、サヤがスペランカーの手を引く。こっちだという声に従って、小走りで行く。

全力疾走などできない身が、こういうときはもどかしい。

「まずは、ミルキーの動きをコントロールして、マイケルを此方に追い込む」

ピンクの子猫マイケルは、このフィールドの特異点だ。

それは、何故か。

ミルキーの子供だから、ではない。

道路を越えると、サヤが足を止める。後ろでは、車がびゅんびゅん飛び交うように奔っていた。

いつもよりも、更に加速が酷い気がする。

鋭い猫の声。ミルキーが、川背に抵抗しているのだ。マイケルが、来たのが分かった。二足歩行のピンクの猫。

サヤが、息を呑むのが分かった。

間近で見ると、やはり間違いない。サヤにも、資料は見せている。だから、一目で理解できたのだろう。

口を押さえて、涙を流しはじめるサヤ。

多分川背だったら、叱咤するのだろう。だが、スペランカーは、違うやり方を取る。

「大丈夫だから、落ち着いて。 深呼吸して」

背中をさすりながら、ゆっくり諭していく。

マイケルは構わない様子で、マイペースで歩いて行こうとする。そこで、スペランカーは。事前の予定通り、取り出す。

この世界にとって、致命的な事象となる、それを。

川背が、至近に着地。ミルキーを離して、飛び退く。

鋭い声と共に爪を振るうミルキー。

だが、川背がひっかかれることも無く、残像を残して避けていた。

「何をするにゃあっ!」

「マイケルだよ」

「え……?」

ミルキーが振り返る。

その視線の先には。

ピンクの毛並みの子猫。

いや、違う。

それは、二足歩行をしている、と言う点を差し引いても、子猫では無い。その顔は、一見すると猫に見える。

だが、違う。

特に目が、決定的に違っている。

海外のアニメなどを見ると、こういった描写がある。動物のキャラクターの、顔だけを人間にする。もしくは似せる。

「マイケル……!?」

「その子は、貴方の子供じゃ無いんだよ、ミルキーちゃん」

マイケルは、既に止まって、スペランカーが出した写真を、じっと見つめている。

そう。

この世界を作った人間、マイケル=フラウンを。

びしりと、大きな音がした。世界に、ひびが入ったのだ。

「マイケル君、もう、やめよう。 此処は貴方の主観だと楽園みたいだけど、結局ミルキーちゃんを縛ってるだけなんだよ」

「チガウ……ボクハ……」

マイケルの口が、ぎこちなく動く。

声には、悲しみと、絶望が宿っていた。

「僕の代わりに、せめてミルキーには、幸せになって欲しい、でしょう。 でも、単純な楽園じゃ、すぐにミルキーは飽きてしまう事に、君は気付いたんだね」

マイケルが、ぐっと声を詰まらせる。

全ての悲劇の始まりは、米国からこの国の片田舎に、マイケル=フラウンという体の弱い少年が越してきたことだった。

病気療養のため空気が良い田舎に来た少年は孤独だった。入退院を繰り返す彼は、学校にも満足に通うことができなかった。両親も実のところ彼を腫れ物扱いしており、ずっと孤独感に幼い心は包まれていた。

だから、はじめてできた友達。

ミルキーと名付けた野良猫に、マイケルは強い愛情を抱いたのだ。ミルキーも良くしてくれるマイケルに、とても良く懐いた。

猫という種族は、基本的に人間などどうでも良いと思っている事が多い。だが、ミルキーの様子からして。きっと、マイケルを本当に慕っていたのだろう。エサをくれるだけの関係、では無かったに違いない。

「マイケルを、虐めるなにゃあっ!」

ひゅんと鋭い音がして、スペランカーのヘルメットが吹っ飛んだ。

息を荒らしながら、憎悪の籠もった目で、ミルキーがスペランカーをにらんでいる。マンホールを動かしたのと、同じ力か。だが、マイケルが、ぎこちなく、間に入る。

「ヤメテ、ミルキー」

「マイケル!」

ミルキーの顔が、くしゃくしゃに歪む。猫にも感情はある事くらい、知っている。悲しみと怒り、心配と不安、ごちゃごちゃに混ざった心が、顔に出ていた。

だから、いたたまれない気持ちになる。

だが、スペランカーは止めない。此処で止めては、いけないのだ。

やがて、病院でマイケルは宣告される。

余命がほとんどないと。

両親が明らかにほっとするのを見て、マイケルは絶望した。両親が、明らかに自分を邪魔だと思っているのが、分かったからだ。長期の闘病生活で疲れ果てていることは知っていたが、それでも期待していたのかも知れない。二人が何処かで、マイケルを愛してくれていると。

病院のベッドで、マイケルは涙を枕に吸わせた。

遊びに来てくれたミルキーを撫でながら、マイケルはこう思ったのだ。

せめて、君だけでも、幸せになってくれたら嬉しいと。

しかし、ミルキーが飼い猫になるのは無理だった。元々傷物の猫だったし、引き取り手が見つかるわけが無い。そもそもマイケルの両親はミルキーを毛嫌いしていて、マイケルが死んだら家に近づけないようにするのが目に見えていた。というよりも、殺処分さえしたかも知れない。

それに、飼い猫が、猫という種族にとって幸せな環境かというと、違うことを、マイケルは知っていた。恐らく猫の存在に立って、ものを考えられたからだろう。

この国にも、保健所はある。

野良猫は駆除の対象であることを、マイケルは知っていた。人間がいない、猫のための楽園が欲しい。そう、マイケルは願った。

ただの楽園ではだめだろう。

まず、猫にとって、すみやすい環境である事。配色からして、猫の目には優しい方がいい。

敵はいても、ミルキーには叶わない。

でも、人間にミルキーが勝てるのもおかしい。勝てる相手は、マイケルが嫌っていた野良犬だけで良いだろう。後の攻撃は、かわせればいい。

そして、その世界には、ある程度のリアリティが必要だった。

街の中央を走る車は、きっとミルキーにとって、恐怖の象徴だったのだ。だから、街にはどうしても、車が必要だった。

「作られた楽園には、変化が必要だった。 だから、ミルキーを飽きさせない工夫として、捕まらない「子猫」が必要だったんだね」

「……ソウダヨ。 ドウシテ、ワカッタノ」

「死んだ人と会話できる力が手持ちにあるの」

サヤに一瞬だけ視線を送る。

マイケルに同情的だった人もいた。病院の看護師を務めていた妙齢の女性の霊を呼び出せたのは幸運だった。

十五人目で、その人に当たった。サヤは倒れる寸前だったが、頑張ってくれた。看護師の霊に話を聞くと、マイケルのことを覚えていた。

ずっと心残りだったのだという。

「思い出した、にゃあ」

ミルキーが、うめき声を上げる。

「子猫なんて、何匹も何匹も産んだのに。 みんな、雄猫に食い殺されたにゃあ。 目を離した、ほんのちょっとの隙だったにゃあ」

「ミルキー!」

「ま、マイケルが、かわいがってくれて、嬉しかったにゃあ。 こ、この世界で、発情もしなくていいし、雄猫から子猫を守らなくても殺されないし。 い、い、いつから、だったにゃあ。 こんな平和で、良い世界が、当たり前だって、思い始めたのは」

鋭い絶叫。

同時に、とんでもない巨大な負の力が、空に噴き上がる。まるで巨大な化け猫か、悪魔のような姿。サヤが見たのは、きっとこれだったのだろう。サヤを背中に庇う大入道。

黒い猫の力が触れた箇所が、歪み、色が変わり。輪郭も、曖昧になっていく。

この空間は、五十年以上も同じ事を繰り返し続けて、更に狂気が濃くなっていったのだ。

ミルキーは今や、どす黒い力に包まれていた。

目からは黒い涙が溢れ続け、体もふくれあがったように思える。二足歩行もいつの間にか止めていて、服も消えていた。

もう、終わりにしたいと、ミルキーは言う。

マイケルが、はらはらと落涙するのが分かった。

マイケルも、何時からか、分かっていたはずだ。

ミルキーが、内心どれだけの負担を抱えているかは。

だが、それでも。二人とも、この狂った遊びを、止めるわけにはいかなかった。きっとマイケルは願っていたからだ。

ミルキーが、本気で幸せであってほしいと。

ミルキーも、知っていたに違いない。

止めなかったのは、マイケルの事を、本当に好きだったから。

自分も、子供に対して、強いコンプレックスがあったから。単産タイプのほ乳類に比べて、単独の子供への愛情が薄い猫でも。

その子供を、ことごとく殺され続ければ。きっと、悲しみは蓄積したのだろう。

空間が、ひび割れはじめる。

もしも、此処で。

我を忘れたミルキーかマイケルが襲いかかってきたら、スペランカーと川背で対処するつもりだった。

スペランカーは、無言でミルキーを抱きしめる。ミルキーが泣いていたから。マイケルも、泣いていた。

うめき声を上げ続ける猫の悲しみは、嫌と言うほど伝わってきた。

世界に愛されなかった子供の願いは、狂気を生み出しただけだった。どれだけ悲しくても、それが現実だったのだ。

「サヤちゃん、マイケル君を」

「はい……」

マイケルを、この世の理から解き放てば、全てが終わる。そして、死者を優しく救うことができるのは、この場ではサヤだけだった。

「苦しいにゃあ。 マイケルは、このままだと、どうなるんだにゃあ」

あえて言わない。

あらゆる状況証拠から言っても、もうミルキーが生きていないことは。

事故にあったのか、保健所に処分されたのかは分からない。或いはマイケルの両親に殺処分されたのかも知れない。

此処は、偽りの楽園。

死者達が傷をなめ合う、天国。

サヤが、死者を黄泉へと送る儀式を始める。

徐々に、フィールドが崩れていく。罅が決定的なものになり、世界が壊れていくのが分かった。

それに伴って、マイケルの言葉が、しっかり聞こえるようになる。

おそらくは、「装置」から、「霊体」に戻りはじめたからだろう。

「僕は……ミルキーに、できるだけ猫の観点からの幸せをあげたいと思った。 でも、猫と人間がわかり合うのは、結局無理なのかな……」

何か、ミルキーが叫ぶのが分かった。

スペランカーの腕の中で、猫がもがく。

だが、行かせるわけにはいかなかった。

「次は……あるのかな」

輪廻転生があるのかは、スペランカーにも分からない。

きっと、死者と接することが日常的なサヤにも分からないだろう。一つ、分かっている事は。

二人のことは、きっと理解されない。

だから、せめて。

スペランカーだけでも、この悲しい物語を、覚えておかなければならなかった。

 

フィールドが消滅。基地に戻ったスペランカーは、早くも撤収をはじめている国連軍を見て、げんなりした。

気持ちは分からないでも無いが、あまりにも気が早すぎる。

それに、何よりだ。

このフィールドを厄介もの扱いしているのが、一目で分かる。確かに主観によってはそうなる。

他人の事情なんて、知ったことじゃあ無い。

大半の人間の考え方がそうだったと思い出して、スペランカーは疲れがどっと出るのを感じた。

形だけ敬礼をして、司令官も撤収していく。

「なんだか、ひどいにゃあ」

ぼやいたのは、ピンク色の子猫。

きちんと実体を保っている存在だ。

サヤの肩に掴まっている猫は、露骨な不信感を目に宿して、撤収していく人間達を見つめていた。

「あたいが何をしたんだにゃあ」

「今は、何も気にしないで」

喉を撫でてあげると、ごろごろと音を出す子猫。

ミルキーでは無い。姿はマイケルだが、勿論中身は違っている。

五十年以上もフィールドのコアだった存在だ。既に普通の猫とは比べものにならないほど、存在的な経験を積み上げていた。

だからか、マイケルというフィールドの発生源が消滅した後も、ミルキーは残ったのだ。マイケルの要素を、体に取り込んだまま。

サヤが言うのは、今のミルキーは、猫又に近い存在だという。そればかりか、マイケルの意識もあるかも知れない、という事だ。勿論さまよえる魂はきちんとあの世に送り届けたが、記憶などの一部が、ずっと友達だったミルキーに残ったかも知れない、という事であった。

自然の猫の霊体にしては力が強すぎるし、かといって神霊と言うには少し及ばない。この町に残るかと聞いてみるが、ミルキーは首を横に振った。

「マイケルもいないし、それに思い出したにゃあ。 マイケルがいなくなって、病院に行ったら、怖い顔をした人間に捕まえられて、ガスを嗅がされて。 あの時、あたいは死んだんだにゃあ」

もう、この町に未練も無いし、用も無い。

ミルキーの断言を聞いて、スペランカーは思う。人がいうコミュニケーションとは、どれだけ身勝手なのだろうと。

結局猫は玩具動物に過ぎないのだ。邪魔になれば殺されてしまう。犬との関係が深い西洋でも、猫の扱いは、同じなのだ。

スペランカーは、際だって猫が好きなわけでは無い。だが、それでも。その悲しみは理解できる。

アトランティスに連れて行こうかと思ったが、サヤが提案する。

「私が引き取ります。 うちには、猫又もいますし、霊体には環境が良いはずです。 この子は完全な霊体ではないですけれど、それでも」

「ミルキーは、どうする」

「行くところも無いし、それでいいにゃあ」

フィールドが消滅してからその場を離れていた川背が、戻ってくる。

彼女の表情は、緊張していた。

そもそも彼女が今回呼ばれたのは、異星の邪神との交戦が予想されたため。フィールドでの交戦は避けられたが、様子からして、起きたことは想像できた。

「あまり良くない知らせです」

「どうしたの」

「風の邪神ハスターがR国に出現したようです。 恐らく、私達にも、招集が掛かるでしょう」

ハスターと言えば、以前交戦したクトゥグアと同格の邪神と聞いている。あの時はアーサーが必死に時間を稼いでくれて、非常に苦戦しながら、やっとコアに肉薄した。クトゥグアは狂気を好んで食べる以外は、真面目で信念もある神格だったが。確か、ハスターは違うはずだ。

今まで何度か話は聞いているし、被害の惨状は見ているが、極めて残虐な存在である。急がないと危険だろう。どれだけ被害が出るか分からない。以前も、大勢が凍死したのだ。

R国がある東の空を見上げる。

世界は狂気に満ちている。

ハスターは確かにどうしようもなく凶暴な存在だが。何故、それがこの世界に留まっているのか。

それを、考えてしまう。

「いきましょう、先輩」

今回は頭脳労働に廻ってもらった川背に促されて、頷く。

スペランカーにとって、世界は決して優しくもないし、光に満ちているわけでも無い。周りの人達にも、それは同じだ。悲しい事も多いし、矛盾にもまみれている。

だが、愛するものと、大事な者達と、故郷がある限り。

戦い続けよう。

どれほど、世界が闇にまみれていても。邪神達にとって、心地よい餌場である理由が、人間だとしても。

そう、今は決めていた。

 

(終)