「気弱で優しい新世代の『自分探し』」

 

■「自分探し」という言葉がある。考えてみれば奇妙な言い方である。「自分」など、わざわざ「探」さなくてもソコに在るのではないだろうか。また、ここで詳しく理由は説明はしないが、似たカテゴリーと考えられる言葉に「セカイ系」と呼ばれる、ある種の作品群を指す言葉がある。「セカイ」など、わざわざ「探」さなくても周りを取り囲んでいるのではないだろうか。

 

■『白虎戦舞』第一部において、神子相争に参加したヒロイン達はみな、「人類の業(ごう)」と呼べるものによって、悲惨な状況に突き落とされた。そして、そこから抜け出すために自身の考えと行動によって、状況改善を図ろうと「闘い」に身を投じ、その結果の“責任”は自分でとり続けた。それゆえに、結果に責任を持てる「大人」へと成長をとげていく課程については、先に論じた。

 

■無論、これはある種の「綺麗事」に過ぎない。ヒロイン達は戦闘能力と獣性は切っても切れない関係であることを、実戦を通じて熟知している。中でも主人公の零香は白虎神の力を得ていることの反動として、いわゆる「狂戦士化」に代表される「狂気」と一生つき合わざるを得ない。しかし、皆それさえも「自身の選択の“責任”」として引き受け、むしろ獣性や狂気と上手くつき合うことを楽しんでさえいる。

 

■第二部「陽の翼編」は、高校三年生となった零香が神子相争時に修行した地、北海道を訪れるところから語り起こされる。

 

■弱者であることの悲しさをイヤと言うほど知っている故に、零香は神子相争を通じて得た「力」を磨くことに余念がない。しかし一方で「子供時代の遺産に頼っている」とも感じている。そんな折、零香は得体の知れない相手から襲撃を受けているコロボックル達と出会い、コロボックルの保護監察官である少女、真由美と出会う。コロボックル達から相手を退けるよう依頼を受け、これまでの襲撃によって傷ついていながらも奮戦した真由美の働きもあって、零香は依頼を成し遂げる。しかし、真由美は零香が「可哀相なコロボックル達」に対価を要求したことや、襲撃相手が撤退するのを「事情が良く分からない以上、追撃しても損」と判断したことを理解でない。

 

■真由美は自分に「力」が足りなかった故に、“能力”に目覚める前の自分の鏡像ともいえる、気弱で臆病なコロボックル達を守れず、何十人も目の前で死なせてしまったことを悲しむ。悲しむ以上に悔しく思う。また、力量のあまりの差から恐ろしくて身動きさえ出来なかった襲撃相手から「何か言いたいことがあるのなら、最低限の実力は身につけろ。」と言われたことも、悔しく思いながらも反論の余地がないことは理解している。そんな真由美を零香は様々な思惑を秘めながら「弟子」に迎え、神子相争の仲間たちと鍛えることにする。

 

■零香の家に下宿しながら、真由美は零香の仲間たちから途轍もなく厳しく鍛えられ、否応なく実戦を経験させられていく。一方、コロボックルの里を襲撃した相手がM国で島一つを占拠するテロを起こした「陽の翼」と呼ばれる能力者集団であり、日本国内のみならず、世界各地で暗躍を始めていることが徐々に明らかになり、仲間たちとの話し合いから、陽の翼の目的が「百万人規模の大量虐殺」の可能性があると結論づけた零香は「力がある以上、対処する責任がある」故にそれを阻止することを決意する。

 

■やがて、陽の翼と、政府の能力者組織と連携する零香達神子相争組の小競り合いは徐々に熾烈を極めるようになり、その課程で修行途上の真由美も徐々に零香達の闘いの上で「局所的に状況に与する」形で関わっていく。しかしながら零香達は真由美自らの大局的俯瞰力、分析力、判断力で得た事以上のことは真由美に敢えて知らせない。そのため、自分が関わるミッションが陽の翼関連だと気付かず「目の前の悲惨な現実」で手一杯だったり、目の前でコロボックル達を殺した相手を挙げて「ああいう人に好き勝手に弱者を蹂躙させないため力が欲しい」と言ったところを「嘘を言うな。相手が他にしようがなくて殺戮の刃を振るったっと気付いているはずだ」と神子相争組の師の一人から自己矛盾を付かれて落ち込んだりしつつも、真由美は一戦毎に「力」を延ばしていく。

 

■真由美は「力」を身につけつつも、常に闘いにおいて、「悩み」「迷い」から逃れられない。第一部のヒロイン達が、誰もが「悲しみ」や「苦しみ」を抱え、時には涙や咆吼で発散しつつも、闘いにおいては全く躊躇無かったこと、そして陽の翼の能力者達が、時に「自らの誇り」に反するダーティーワークに躊躇無く手を染めるのとは対照的である。この違いは、どこから来るのであろうか。

 

■陽の翼とは、アステカの時代からその戦闘力と「能力」ゆえに為政者達から利用され続けた集団であり、太陽神と呼ばれる強力で有能な指導者に率いられ、過去の経緯やM国とアメリカとが接していることから、アメリカとの因縁も深い。はっきりとした事は明らかにされていないものの、ただただ「故郷に帰ること」と「平穏な生活」を望むだけが、戦闘参加率死亡率が高い故に平均寿命が二十代であるような、過酷な生存環境を脱するために事変を起こしたと見られる。言わば「生きるための闘い」を行っている。

 

■第一部におけるヒロイン達もまた「生きるための闘い」を行っていた。「人類の業(ごう)」と呼べるものによって悲惨な状況に突き落とされ、幾人かは神使達が現れた時点で心中寸前だったり自殺寸前だった程であり、「闘いの放棄」は(社会生活上であれ、精神上であれ)即「死」に繋がる状況であった。それでも闘い続けることにより、「力」を得、結果としての状況改善を得ていき、やがて、「自ら求めるのが助けたい者達の回復“だけ”」なのか、「彼奴らへの復讐“も”」なのか、「闘う快楽“も”」なのか……それぞれの「どうありたいか」≒「生き方」を確立していった。

 

■翻って、真由美はどうであろうか。彼女は能力者として目覚めてはいても、ごく普通の家庭に生を受け、気弱で臆病で目立たない子供として育っち、能力を生かしてかつて自分の鏡像かのようなコロボックル達を守りたいと願う、「ごく普通の娘」であった。零香達のように「生きるための闘い」は必要としてこなかったし、陽の翼との争いにおいても、相手を何が何でも倒さなければ即「死」である、ということもない(もちろん、戦場に立つ以上、力及ばなければ即、肉体的に死ではあるが、「戦場に立つ理由」は「死」をさけるため、ではない)。零香のように「力ある者の責任」を引き受けているわけでもなく、「弱きもの達を蹂躙させたくない」「コロボックル達を殺した相手を許せない」という、言わば「感情的に納得できない」故のことである。

 

■だが、真由美は決して感情的にしか振る舞えない訳ではない。闘いの場においては(経験の無さ故に未熟ではあっても)戦略的に思考できるし、また「立場の違い」も頭では理解できる。師の一人から「防御と回復に特化した力といえど、それは敵から見れば何よりも恐ろしい凶器。そして今学んでいるのは、敵を直接的に傷付ける力。何かを守ると言うことは、守るために脅威を排除するという意味。そして排除される側も何かしらの正義を持っているなんて当たり前のこと。」と説明されれば、感情的納得は別として、それを理解はできる。

 

■真由美の抱える悩みは、「生きるための闘い」を経ずに「どうありたいか」≒「生き方」を確立せんと足掻く上で生じる、「自己矛盾・自己欺瞞をはぎ取ることで“自分のカタチ”を確立する」上で避けられない悩み、とは言えないだろうか。

 

■ここで冒頭の「自分探し」について考えてみる。「どうありたいか」≒「生き方」を確立せんとすることは、広い意味では「自分探し」、と言えるかもしれない。しかし、一般的にイメージされるところの「自分探し」──例えば、今の自分に漠然とした不満や苛立ち、不安があるので、なにかにチャレンジしてみる等──とは随分違った印象を受ける。そもそも真由美が陽の翼との争いに関わり、「闘う」にいたる理由は「漠然と」したものではなく、「弱きもの達を蹂躙させたくない」「コロボックル達を殺した相手を許せない」と至極明確なものだった。

 

■勿論、そもそも真由美がコロボックル達の保護監察官として、「事件」に立ち会う立場に無ければ、そのような動機を持ち得なかっただろう。あるいは「事件」に立ち会わなければ、あるいは、そもそも真由美が「能力」に目覚めることがなければ……ごく普通の家庭に生を受け、気弱で臆病で目立たない子供として育っち、そのまま成人して「自分探し」に彷徨うことになったのかもしれない。あるいは、なにか別の切っ掛けを掴まえ、「漠然と」した自意識を明確に捉え、真剣に「どうありたいか」≒「生き方」を確立せんとしたかもしれない。あるいは、明確な思想や目的意識を「現実」に即して磨くことが出来ず、観念論的な「イデオロギー」にとらわれることとなったかもしれない。それは分からない。

 

■ともあれ、真由美は切っ掛け……チャンスを逃すことなく、自らの矛盾や頑なさ、気弱さから逃げずに見据え続け、ついでにおっかない師匠達のシゴキにも耐え抜き、「どうありたいか」≒「生き方」を確立していく。そしてそれに連れて、徐々に闘いにおいても大きく貢献するようになり、零香から「弟子」ではなく、「仲間の一人」として認められていく。

 

■幾つかの幸運な前提条件や環境条件が揃っていたとはいえ、真由美の「逃げ出さない強さ」、そして「切実な目的意識から来る到達点への疾走」は、表面的な彼女の性格上の気弱さと相対する緊張感を生じ、凄惨な「闘い」の緊張感と干渉しあってハーモーニーを奏でる。第二部は第一部とはまた違った趣のバトル小説である。